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異世界交流の間違った手順

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異世界交流の間違った手順
異世界交流の間違った手順
青木史郎
!18禁要素を含みます。本作品は18歳未満の方が閲覧してはいけません!
タテ書き小説ネット[R18指定] Byナイトランタン
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁ノクターンノベルズ﹂﹁ムーンライトノ
ベルズ﹂﹁ミッドナイトノベルズ﹂で掲載中の小説を﹁タテ書き小
説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は当社に無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範囲を超え
る形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致します。小
説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
異世界交流の間違った手順
︻Nコード︼
N2292CF
︻作者名︼
青木史郎
︻あらすじ︼
突然現れた穴を落ちた先は異世界だった。運良く気のいいイケメ
ンなお兄さんに拾われたはいいけれど、本当に運が良かったのかは、
果たして不明。ゲイってこの世界の文化なんでしょうか、俺には少
し刺激が強すぎる。イケメンマッチョ×ノンケ
︻番外編更新中︼
1
登場人物一覧のようなメモ ︵随時更新︶
ヘンウェル王国騎士団
第五番隊
隊長:ポラル・ド・ネイ︵65︶
副隊長:カイル・エッケナ︵28︶
シモン・ココルズ︵22︶
ラシュ︵︶
ジュリアン・ド・ネイ︵17︶
グスタフ・ド・ネイ︵17︶
第六番隊
隊長:ナウマン︵57︶
第七番隊
副隊長:バチェラー・イザル︵54︶
エッケナ家
父ハロルド・エッケナ︵14年前に死亡/享年43︶
長男エメット・エッケナ︵32︶
長女バーバラ・シバレ︵29︶︱︱︱︱︱︱娘ヴィヴィアン
次男カイル・エッケナ︵28︶
次女キャロライン・エッケナ︵21︶
三男チャールズ・エッケナ︵18︶
2
︻14年前︼
第四番隊
筆頭研究員:キョースケ・ツティア・ローラン︵50︶︵﹁転移術
式﹂初代術者︶
ケネス・ツティア・ローラン︵23︶
第五番隊
隊長:ポラル・ド・ネイ︵50︶
副隊長:ハロルド・エッケナ︵43︶︱︱︱︱次男カイル︵14︶
第六番隊
副隊長:ナウマン︵43︶
第七番隊
バチェラー・イザル︵40︶
ツティア・ローラン家
父キョースケ・ツティア・ローラン︵50︶
長男ケネス・ツティア・ローラン︵23︶
次男スグル・ツティア・ローラン︵19︶
三男ラシュ・ツティア・ローラン︵13︶
3
拾われた先は
突然現れた穴を落ちた先は異世界だった。
というのはよくある話で、まさにそれを体感してしまった俺は、
絶賛リバース中だ。汚い話で申し訳ないが、三半規管は通常運転な
のだからこうなることはご理解頂きたい。俺にとって唯一幸運だっ
たのは、着ていたものが勝負スーツでなかったことだ。アルマーニ
は無事。そのことに俺は言いようもないほどの安心感を覚えながら、
半ばやけっぱちで胃の中身を吐き出していた。
もうあの15万のアルマーニには会えないのかな、と悲しさに涙
がにじむ。俺の名誉のために一応言っておくが、背中を優しくさす
ってくれる固い手のひらは決してその理由を、まるで、一端も、担
っていない。
﹁もう大丈夫か﹂
男たるもの、人に涙は見せてはならぬ。
俺は取り出したハンカチで口を拭うついでに、目元をさっと親指
で払った。そして立ち上がり、スーツの砂埃を簡単に払う。よかっ
た、吐瀉物で汚れた形跡は見当たらない。
﹁あ。はい、もう大丈夫です⋮っと、わお、イケメン﹂
振り返ったすぐ先にいたのは、心配そうな顔で眉根を寄せている
美丈夫だ。顔がぶつかりそうになって、俺は背中から反り返った。
彫りの深い顔立ちはお約束通りだが、それより目を引いたのは服の
上からでもわかる鍛え上げられた肉体。身長は175cmの俺より
4
もだいぶ高い。金茶の髪は短めで、がっしりとした首筋が女性の方
々には目に毒だと思った。
﹁イケメェン⋮?俺の名はカイルと言う。誰かと間違えているので
はないだろうか﹂
申し訳なさそうに言う男に、へらりと笑ったこちらが申し訳なく
なってきて俺は曖昧に誤魔化した。
それにしたって、ここは異世界だ。服装だって違う。往来の人々
はスーツ姿の東洋人をじろじろと無遠慮に見てくるし、とても居心
地が悪い。町の様相だけ見れば中世ヨーロッパにタイムスリップし
たのかとでも思いそうだが、店の看板に見たことのない文字列が記
されているのはトリップ後間もなく、確認済みだ。
あーあ、これは現実だ。
めまいがして、右腕が掴まるものを探して空を切る。
﹁まだ体調が思わしくないようだな。家はどこだ?送って行ってや
ろう﹂
俺の右手を捕まえ体を支えてくれた彼は、本当に親切な男らしい。
﹁あ、いえ﹂
とっさに出たのは日本人らしい謙虚さだ。慌てて断ってから、コ
ンマ1秒で後悔した。断るんじゃなかった。こんなに親切なお兄さ
ん、めったにいねーぞ。
﹁しかし、顔色が本当に悪い。君は第一郭内の住民だろう、従者は
どうした?﹂
﹁じゅ⋮?いま、せんが﹂
5
従者?
助かった、見捨てないでくれた。俺は情けないことだがまた泣き
そうになっていた。顔をうつむけて、涙が引くのを、唇を噛んで待
つ。鼻水まで垂れてきて、本当に情けない。
﹁それは危ないな。一人でここまで来たのか。第五郭は貴族が一人
でうろついていい場所ではないぞ。何を考えているんだ﹂
俺は鼻をすすりあげた。
﹁すみませ﹂
﹁あ、いや。怒っているわけではない。泣くな。俺が送って行って
やるからもう泣くな﹂
﹁泣いてません、ちょっと鼻水が﹂
くそ、いい歳した男が泣くなんて。恥さらしな。自分で自分が腹
立たしい。たかが異世界トリップじゃないか、たかが異世界⋮、た
かが⋮。
くっそう⋮⋮
俺がなけなしのプライドを保とうとしているのを察してくれたの
だろう、男は黙って待っていてくれる。
﹁家はどこだ?﹂
俺が大きく息を吐き落ち着いたところで、男は優しく尋ねた。
﹁ありません﹂
﹁⋮家出少年か﹂
6
納得したように片手を額に当て、男は上を仰いだ。しかし家出で
はないし、少年でもない。それで納得されちゃ困る。もっと、同情
できるような、悲惨な境遇でなくては。
﹁違います﹂
﹁むきになるな﹂
なってません。俺は口の端を無理に上げて見せた。
﹁本当に、違います。⋮家族は死にましたから﹂
これは本当だ。ただし7年ほど前のことになるが。嘘は、ついて
いない。男は微かに目をみはり、沈痛な面持ちで俺の頭をなでる。
﹁それは、悪かったな﹂
﹁いえ、いいんです。でも、俺やっぱり帰りたくなくて﹂
﹁ほら、やっぱり家出じゃないか。保護者の方が心配しておられる
ぞ﹂
﹁保護者なんていませんよ﹂
だってもうとっくに成人済みだからな!
﹁困ったな﹂
心底困ったように男は眉根を寄せた。面倒なモンを拾っちまった
ぞ、という後悔が透けて見えるようだ。だがここで臆するな、日本
人。謙虚さは今のところ封印だ。
俺はそっと唇をかみしめ、思い詰めた青年を装う。不幸オーラを
ひねり出すのは、営業技能の基本である。この手の技は、俺の十八
番だった。
7
﹁わかった。か、えります﹂
乾いた目元を親指の付け根で拭う。良い感じにか細い声が出た。
右足、左足、と踏み出していく。行く当てもない、慣れない街道を
ふらふらと。その背中に、男の手がかかったのは実にたった十数秒
後のことだった。
﹁待て﹂
引っかかった。瞳を揺らし、振り返った俺は男を見上げる。この
時本当にまたも泣きそうになっていたのだから、しょうもない。
﹁なんですか﹂
﹁お前、帰らないつもりだろう﹂
無言で返す。帰れるもんなら帰っているが、とは言えず視線を逸
らせた。過去に経験した唯一の劇では音響の係であったが、取り敢
えずは出来る限り演技派を気取ることにしよう。
﹁帰りますよ﹂
﹁嘘吐け﹂
﹁だとしても、あなたには関係ないでしょう?﹂
﹁関係ある。そっちは遊郭だ、喰われるぞ﹂
男は俺が向かおうとしていた方向を指さして言う。
くわれる。その言わんとしているところを俺は正確に理解し、そ
の瞬間びくりと肩を震わせた。これは演技ではない。もちろん演技
ではない。ラブホ街にも足を踏み入れたことのない俺には刺激が強
すぎる。彼女とのお楽しみも、健全と言える範囲から出てみようと
8
試みたことさえない。一般男性が襲われるという状況は、明らかに
健全を超越している。俺は蒼白な顔をしながらも、ぷいと横を向い
た。
﹁そんなの知りません﹂
去勢を張ったのはバレバレだろう。さあ、お兄さん引き留めてく
れ。俺の重い事情︵そんなものありはしないが︶に勘づいてくれ。
予想通り、怖いくらいに予想通りに、親切な男は大きくあきらめ
の息を吐いた。
﹁⋮わかった、わかったよ。今夜は俺のところに泊まれ。身体を売
ろうなんて、簡単に思うな﹂
﹁でも﹂
﹁何か事情があるんだろう?﹂
﹁は、い﹂
﹁むさ苦しい男の一人暮らしだし、貴族の子息の暮らしも知らない
が、それでいいなら俺の部屋に来い。衣食住くらいは面倒を見てや
る﹂
俺は歓喜のあまり踊りだしそうだった。よかった、よかった。こ
れで当分は食い繋げるぞ。
﹁ほんとうに?﹂
﹁信用ならないか?騎士団に入っているから、身元は確かだ。剣が
扱えるなら騎士団に推薦⋮、悪い﹂
うるせえな。どうせ営業の外回りで汗だくになる以上の運動らし
い運動はしてねえよ。悪かったな。現代日本で剣なんか振り回して
たら銃刀法違反で捕まるっつの。
9
﹁よろしく、お願いします﹂
これで騙されていたとしても俺は後悔すまい。
男が住んでいるのは、小さなアパートだった。アパートと言って
も日本のものとは違い、中庭のついた共同宿泊施設のようなもので
ある。赤い屋根を頭に頂く、緑のツタの絡まる木造の建物。二階建
てのそれは、古びてはいるもののよく手入れされ、ここが日本であ
れば観光客がこぞって泊まりたがっただろう。ただこれがこの国の
庶民向けの一般のアパートらしく、俺が物珍しそうにあちこちを覗
いていると、男は﹁お前の住んでいた第一郭内の屋敷とは随分違う
だろうが﹂と恐縮していた。
恐らく第一郭というのは貴族の住むところなのだろうと推測する。
俺がひとりで着替えられると言ったら、たいそう驚いていた。男の
無骨な手がスーツの釦に伸びてきたときはどこまでガキに見られて
いるのかと思ったがそうではなく、貴族というものは身の回りのこ
とは近侍にすべてお任せだからと手伝ってくれようとしただけらし
い。本当に甲斐甲斐しい男である。
﹁悪い。俺ので我慢してくれ、洗濯はしてあるから﹂
ほんとかよ。
袖の釦を留めながら、すこぶる乱雑に散らかりに散らかった部屋
を見回す。泊めてくれるのはありがたいが、潔癖症でもない一般男
性の俺の掃除欲をも、激しく刺激してくる部屋であることは言及し
ておかねばなるまい。
10
﹁片付けるのが苦手なんですね﹂
﹁あー、というよりも忙しくて片づける暇がない﹂
﹁って、片付けが苦手な人は揃ってそう言うんですよ﹂
﹁⋮面目ない﹂
取りあえず寝るところを確保しなければと思うが、この2DKの
男の部屋で安眠できる場所と言えばベッドの上くらいだ。日はこの
部屋に来るまでにとうに落ちて、今は月明かりのみで動いている。
その黄色い光はほっとするくらい元の世界と同じで、寝間着を貸し
てもらった俺はすでに眠くなっていた。自分でも肝が太いと思う。
﹁そこで寝ていいですか﹂
指さしたのは一部屋を占領するほどに無駄に大きいベッドである。
縦に大きければ横にも大きい。男の体の大きさに合わせたのだろう、
しかしそれにしてもデカい。しわくちゃの洗濯物や本が散らばって
いるが、床に落とせば良かろう。二人は寝れる。
﹁構わない。だがもう寝る気か?飯は﹂
﹁いりません、なんかすごい眠くて⋮﹂
この眠気は異常だと身体のどこかが訴えている。異世界トリップ
の弊害だろうか。瞼が重い。俺は部屋主の許可を確認し、そこから
記憶がない。
だから、どうしてこのようなことになっているのかについて、誰
かに切実にご説明願いたい。
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俺は、今現在、裸だ。そして、さらに重要なことに、俺の横にハ
リウッド俳優もびっくりの美しい男の裸体が横たわっている。そう。
もちろん、この部屋の主である。横たわっているという記述は、し
かし、正確ではない。俺の腰に絡みついている、のほうがより正確
に伝わるのではと思う。男のたくましい腕が、俺の、何も履いてい
ない腰に、絡みついている。
あーあ、やっちゃった。
腰が重い。腕のせいではなく、性的な意味で。もしここで隣に眠
りあそばされているのが麗しき女性の方だったら、俺はそれほど衝
撃を受けなかっただろう。動揺はしただろうが、少なくとも今ほど
ではない。俺は、激しく動揺していた。
﹁ん、おはよう﹂
そのため、男が目を覚ましたとき俺は不覚を取った。死ねと罵倒
することも出来ず、ベッドから男を蹴り落とすこともできず、ただ
硬直していた。それもそうだろう、男と同衾なぞ初体験だからだ。
そしてその経緯を覚えていないというのも初めてだった。
﹁身体はどうだ。辛くないか﹂
身体は辛くないが、心が辛い。俺は一体、どうなってしまったの
か。とうとう、橋を渡ってしまったのだろうか。言葉など出るはず
もなく、俺は口を半開きにして男の褐色の双眸を凝視していた。さ
ぞ間抜けな面に見えただろう。
﹁リョウ、お前まさか覚えてないのか﹂
12
覚えてねーよ。しかも何で俺の名前知ってんだ、こいつ。つーか、
どっちにしろ喰われちまったじゃねえか。ちくしょう。
﹁ちょっと、どいて﹂
うわ、最悪。布団がびがびじゃん。後始末くらいしろよ。
恥ずかしいやら、気持ち悪いやら、情けないやらで、俺は怒る気
力さえ失くしてしまう。本当は怒鳴りつけてやりたいのだが。
﹁おいリョウ﹂
男の腕を抜け出しベッドを降りた俺を、男が呼んだ。なんとも悲
壮な声ではないか。笑える。
﹁風呂、どこ。すげえ気持ち悪い﹂
﹁あ、そこの右の扉の⋮そう、そこ﹂
﹁先に借りる。布団、ひっぺがして洗剤と一緒に持って来い、洗う
から﹂
丁寧な言葉遣いなんてしてられるかってんだ。男は少し驚いた顔
をしていたが、もう構うものか。化けの皮が剥がれてたってもはや
気にはしない。元の世界に戻るまで責任は取ってもらうつもりだ。
﹁お湯!おい、お湯どうやって出すんだよ。もしかして水しかない
わけ?﹂
水が張られている風呂桶の前に立った俺は、上半身を扉の外から
覗かせ、男に訊いた。シャワーらしきものがある。いや、らしきで
はない。まるっきり、シャワーだ。銀のヘッドが壁に固定されてい
るタイプのそれだ。一方、そのコックは見当たらない。これは飾り
13
なのか。穴のぶつぶつ開いた銀の、シャワーを期待させるようなヘ
ッドは、もしかして飾りなのか。浴室の主役は、この風呂桶に入っ
た水なのか。
﹁魔導石はそっちだ﹂
﹁まどうせき、ってなに。どれ﹂
﹁それ﹂
言いつけ通り布団を豪快に引っぺがしていた全裸の男は、シーツ
を抱えたまま浴室までやってきて、俺と扉の間に体を割り込ませて
説明した。
﹁これ?この紫色のスイッチらしき﹂
﹁スイ⋮、まあそれだ。それに手をかざす﹂
それこそ飾りだと思っていた紫色の宝石に俺は目を向け、言われ
たとおりにしてみる。しかし、出ない。お湯は、一滴も落ちてこな
い。
﹁どういうこと﹂
男が中に入ってきた。そして筋張った左手を、シーツを抱えてい
ないほうの手を、宝石にかざす。
﹁ぅわっぷ﹂
﹁出ただろうが。あー、じゃあ出たら言ってくれ。布団はそのまま
でいい﹂
驚いた。お湯だ。やっぱり、シャワーヘッドは飾り物ではなかっ
たのだ。しかし俺のその喜びは再びお湯を出そうと手をかざしたと
14
ころで、潰えてしまった。出ない。
﹁出ないんだけど﹂
湯は手をかざしている間しか出ないらしい。男が手を外した途端
にお湯は出るのをやめた。さらに俺がいくら手をかざしても、お湯
は一向にその姿を現す気配がない。つまるところ、俺がシャワーを
トラップ
浴びている間はずっと男に手をかざしていてもらわないといけない
というわけだ。なんたる仕打ち。なんたる罠。
これにはさすがの男も黙ってしまった。浴室に入ってきてから男
はやけに不愛想だったが、そのとげとげしい雰囲気が俺には少し、
ほんの少し、怖い。
﹁手早く済ませてくれ﹂
﹁⋮りょーかい﹂
浴室は狭い。大の大人が横に二人並ぶスペースはない。男は俺に
覆いかぶさるようにして右腕を伸ばし、わきにある紫色を手で覆い
隠した。すると少しぬるめのお湯がシャワーヘッドから吹き出す。
俺はその恩恵に目を細めた。
﹁お湯止めて。ねえ、石鹸ある?﹂
﹁ん﹂
面倒臭いのであろう男の態度に気付かないふりで接する。そうし
ないと、何故だか心が折れてしまうような気がしたのだ。
こうしてみると、男の身体の大きさが身に染みてわかる。密着に
近い体勢であるがゆえに、男の口許が俺の耳のあたりにある。耳た
ぶをねぶられるような錯覚を起こして、俺は心臓が早い脈拍を刻む
のを聞いていた。
15
拾ったものは愛しくて※
青年を保護した。
歳のくらいは二十歳前というところだろうか。縫製のしっかりし
た上質な服を身に着け、力仕事などしたこともありませんというよ
うな華奢な体つきをしていた。そんな上流階級の青年が第五郭の西
地区で従者も連れず所在なさげにしていたら、ヘンウェル王国騎士
団の一員としては声をかけずにはいられなかった。その庇護欲をそ
そる容貌がカイルの好みのど真ん中だったからという、不純な動機
では決してない。
拾ったはいいものの、どうしたら良いものやら。カイルの住む騎
士団の独身寮までは第五郭からは少し距離がある。歩いているうち
に夜の帳が降り、疲れてしまったのか青年は眠たげな目をしている。
異国の血が入っているのか真っ黒に見紛うほどの焦げ茶の瞳が瞼の
下に隠れてしまうのがなんとも惜しく、月明かりの下でカイルは青
年に話しかけ続けた。こんなに長いこと歩いたことはないのではな
いだろうか。青年は、部屋に着くころには思考力の半分は睡魔に奪
われているようで、彼はすっかり警戒を解きふわふわと楽しそうに
言葉を紡いだ。
驚いたことに従者を付けたことがないと言う。華奢ではあるが、
背はそこそこある。仕草や言葉遣いから貴人であることは間違いな
さそうだが、どうやら訳ありらしい。
このとき、カイルは、この青年が高級男娼なのではないかと疑っ
ていた。なんとも上流階級が好みそうな風貌であるからだ。身請け
話とかから逃げ出して来たのだろうか。だとしたら不憫でならない。
16
﹁おやすみ、おにーさん﹂
青年はベッドで寝てもいいかと訊いたが結局横たわるまではでき
ず、ベッドの端に額を付けうずくまるようにして動かなくなった。
そして蚊の鳴くような声でなんとかそれだけ囁いて、力尽きたよう
に目を閉じた。慌てたのはカイルである。
﹁な、なあ。口だけでもゆすがないか?気持ち悪いだろう、吐いた
後で眠るのは﹂
青年は顔を傾け、まつ毛を震わせながら切れ長の目を少しだけ開
く。確かに、と聞こえたような気がする。青年の声は深みのある少
し掠れたような声で、声だけ聞けば歳不相応な感じがしてそれもま
たカイルを惹きつけた。
﹁水、くれる。そこの﹂
﹁これは水じゃないが﹂
度数は限りなく低い食用だが白葡萄酒だ。ベッドの脇に置いてあ
った瓶が、ないよりましかと青年の手に渡る。慣れた手つきで栓を
開けそのままあおる。青年の喉首が月の淡い光に照らされた。ぐび
りぐびりと飲んだ後は、ぷふぅと気の抜けた可愛らしい声が唇から
洩れる。突き返された瓶は空で、飲みかけではあったが、かなりの
量を青年が一気にあけてしまったのがわかった。
﹁なんか風呂入りたいな﹂
﹁駄目だ。酒がまわるぞ﹂
﹁でも今日は金橋物産と三洋んとこも行って、お得意様のとこにも
行って、汗だくなんだぜ﹂
17
急に口調が砕けたのに驚きながらも、カイルは青年の警戒がすべ
お得意様
なんて言うからには、やはりただの貴族階級
て解けてなくなったのを嬉しく思う。言っている内容はよくわから
ないが、
の青年ではないことは確かだった。逃亡中の高級娼婦の可能性が一
番高い。
﹁じゃあ身体拭くもの持ってきてやるから、今夜はそれで我慢しろ
よ。明日になったら風呂入っていいから﹂
﹁んー、りょうかい﹂
青年はおどけて敬礼の真似事をした。それがなんとも可愛らしく、
ともすれば緩みそうになる表情筋を引き締める。
布を濡らして戻ってくると、青年はすうすうと寝息を立てていた。
乱れた胸元がとてつもない破壊力をもって、カイルの理性を打ち壊
さんとする。立ち上がりかける息子をどうにか宥め、青年の腰と首
の下に腕を差し入れ持ち上げた。ベッドの中央にそっとおろす。カ
イルの片膝がベッドに沈む。このまま隣に行けば、この無防備な青
年は自分の手の中に落ちてくる。
カイルは逡巡した。手に持っている濡れ布巾を握りしめ自分が何
をすべきかを考えたが、青年の希望通り身体を拭いてやるべきだと
いう考えに至った。
﹁すまん、服脱がせるぞ﹂
一応かけた声を免罪符のようにして、カイルは青年の着ている自
分の寝間着を剥ぐ。青年は腕から袖が抜かれた瞬間、その口を少し
開けた。ぺとりと肌に沿わせた濡れ布巾が冷たかったのだろうか。
その口から悩まし気なうめき声が漏れる。
青年の身体には薄いながらもしっかりとしなやかな筋肉がついて
いた。胸部が浅く上下する。そのたびに色の薄い胸の飾りがカイル
18
を惑わせた。青年をうつぶせにして背中から臀部にかけて布を滑ら
せる。下衣も剥いてしまえば、青年の身体を覆うものはもう何もな
い。
﹁んぅ﹂
ああ、もう口を塞いでしまいたい。心を乱す青年の声はいっその
こと聞こえないほうが、どんなに楽だろうか。立ち上がろうとする
息子を宥めすかすのが段々むずかしくなってきている。
青年の足の間を布がくぐったとき、彼が目を開けた。
﹁なに、してんの﹂
熱に浮かされたような声が頭上から降ってくる。青年が上半身を
立てたのだ。見上げると、青年は後ろ手についた肘で体を支え、股
の間にいるカイルをぼんやりと見下ろしていた。
﹁拭いている。まだ寝てていいぞ﹂
寝ぼけているのだろう青年は素直にうなずいて、再び枕に頭を付
ける。カイルはそのまま作業を淡々と続けたが、その実、青年を乱
れさせたくて仕方がなかった。その手が青年のものにかかると、青
年はぴくりと身体を震わせた。一瞬のことだったが、見上げると青
年が唇を噛んでいる。
そっと扱くと、青年は逃げるように腰をずり上げようとする。身
体はますます大きく震え、少しずつ彼自身が大きくなり始める。
﹁んっ⋮⋮ふ﹂
先端からあふれ出る蜜を親指に絡めなぶるように擦ると、青年の
19
声に甘さが滲んだ。くぐもった声に耳をそばだてる。青年は唇に手
の甲を当てて声を抑えているようだ。どうやら目が覚めているらし
い。
﹁なあ、名前を教えてくれ﹂
﹁ッ⋮ぁう。あ﹂
鈴口に爪を軽く立てる。腰が大きく揺れ、カイルの手を抱え込む
ように、仰向けだった青年が耐え切れず、右肩を下にして横向きに
身を縮める。カイルは一度腕を腿の間から抜き、青年の背中に腹を
付けて抱きこんだ。青年の腹に回った左手で、中心を荒っぽく握る。
﹁んぅっ﹂
﹁ほら、いい子だから。名前﹂
﹁⋮は、んん﹂
﹁こういうときに名前知らないのって、寂しいだろう﹂
緩くまるく撫でるようにしてやれば、切なそうな声が唇に触れた。
こちらの声が届いていないのかと思いきや、そうではない。
﹁俺の名前は知ってるか?一度名乗ったんだが﹂
青年が微かに首を横に振った。
﹁し、らな⋮あうっ﹂
ぐりっと爪で押しつぶされたのは、右の胸の突起だ。かたく芯を
持ったそれは、カイルの指先から逃げていく。それを追いかけ潰し、
捻り、引っ張りを続ければ、やがて青年は痛みよりも快感を捉えは
じめる。
20
﹁あ、ん⋮い、やだ。それ﹂
﹁どれ?⋮これ?﹂
羽毛を指で触るように、一本の指でくるくると鈴口を撫でてみる。
青年は首を振った。
﹁ちがっ﹂
﹁これ?﹂
﹁そ。それ、っひゃん⋮ぇう、や⋮あっ﹂
右の粒をこね回すと、いらえがある。次の瞬間に思い切り摘み捻
り上げると、泣きそうな悲鳴があがった。その声にカイル自身がぐ
んと熱さを増す。その熱源を青年の股間に押し付けたくなるのを必
死で耐える。
﹁そうか。これが好きか﹂
﹁んっ⋮み、ぎばっか﹂
﹁こっちもほしいのか﹂
﹁ひぁ﹂
期待にかたくしこった左の乳首を指先でつんと突くと、青年はの
どを逸らし甲高く啼いた。カイルは脱力しきった青年の左肩を引き
仰向けに戻した。そして鎖骨に唇を這わせる。筋肉の隆起をたどっ
て、赤く立ち上がった右の乳首をざらりと舐める。
﹁うあ、やめ⋮あっ、いやだ﹂
息を吹きかける。背中がしなやかに反った。しかしそれは逆に胸
を押し付けるような結果になり、青年はいよいよ苦しそうに喘ぐ。
そこに中心を握られたものだから青年にとってはたまったものでは
21
ない。青年の吐き出した白濁液がカイルの腹を濡らした。
﹁ああ⋮﹂
﹁いい子だ。やはり乳首が好きなんだな。左もっておねだりしてご
らん﹂
言いながら手は休めない。左の桃色に色が変わる境目のあたりを
指先でなぞり、蜜を蕩けさせている中心をゆっくり扱いている。思
考力を溶かされた青年は、喘ぎながら言われるがままに言葉を口に
する。
﹁ひだっ、りも﹂
﹁乳首を﹂
﹁⋮ぅびを﹂
﹁虐めてください﹂
﹁いじめ、んくっ⋮てくだ、ぁさ︱︱ぃああああ!!!!﹂
鈴口と左の突起を同時に強く捻られたのだ。青年の声には快感の
色しかなかった。絶頂を迎え、大きく肩で息をしている青年自身か
らはとろとろと液体が漏れている。
﹁なあ、そろそろ教えてくれないか。名前﹂
青年は辛そうに眉根を寄せるだけで、荒い息のうちに言葉を紛ら
せる様子はない。カイルは意地の悪い笑みを浮かべた。
﹁そうか。じゃあ、言いたくなるようにしてやる﹂
﹁え﹂
左の指先で蜜を掬い取り、足を広げさせたその先の窄まりにそれ
22
を塗り付ける。何度もそれを繰り返し、後口周りの皺をのばすよう
に愛撫する。
﹁ちょ、おい⋮まてっうあ﹂
﹁名前﹂
﹁言うっ、言うから︱ま、ちょっ﹂
青年は焦燥にカイルの手からに逃れようとするが、剣の鍛錬で培
われた筋肉はぴくりとすることもない。簡単に青年の腰を固定し、
窄まりの中に指を突き入れた。
﹁早く言わないと﹂
﹁りょう、︱︱ぃっ﹂
﹁リョウ?﹂
﹁そうだよ、言ったんだ、から⋮︱︱はうっ﹂
早く抜け、そう青年が口にする前にカイルは指を中で蠢かす。屹
立から液体はとめどなく流れ、奥の孔がぐちゅぐちゅにほぐされる。
今や後口には二本の指が入りバラバラに動いているせいで、青年は
腰をくねらせ声をあげることしかできなくなっていた。
﹁リョウ、いい子だ﹂
﹁はや、く⋮ぬけって︱ああぁ⋮んっ、ふあ、わ⋮⋮いや、いや﹂
カイルが青年の弱いところを見つけたのだ。意地悪をするごとく
やわやわと確認することしかしない。まるで、青年の言葉をまって
いるかのように。
﹁俺の名前を呼べよ。カイルだ﹂
﹁かぃるっ、はやく、⋮そこっ、もっと強く﹂
23
﹁お願いしますは?﹂
﹁お、ねが⋮ッあ、うああ︱おね⋮しま、すぅあああああ﹂
奥孔内の突起を押しつぶされ、青年は背中を反らせて悲鳴をあげ
た。そして彼はそのまま息を失い、カイルは彼から離れると、よう
やくひとりで自身の昂りを慰めることを自分に許した。
空は白み始めている。
24
昨夜までは※
無視だ、無視。ガン無視。反応してなるものか。
俺は、くそ忌々しい後ろの男の凶器に気づかないふりを選んだ自
分を、痛烈に呪った。選択肢は三つあった。一つ、それとなく当た
っていることを指摘する。二つ、シャワーを諦め、男を蹴り倒して
再起不能にしてやる。三つ、気づかないふりで安息のシャワータイ
ムを堪能する。
ちなみに俺は、朝シャンはしっかり浴びる派だ。身体中の皮とい
う皮が剥けるまで徹底的に洗いたい気持ちになっていた愚かな数分
前の俺は、苦渋の決断を下し、背に腹は代えられぬと選択肢三を選
んだ。
まさかこんなことになるなんて。俺は、ノーマルだったはずだ。
ノーマルもどノーマル、SMにもロリにもショタにも興味はない。
グラマラスな女性が大好き︵大⋮までは行かないかもしれないが︶
な普通の男だ。男にだって興味なんてこれっっぽっちも、抱いてい
昨夜までは
。
ない。はずだった。そう、昨夜までは。なんて不吉な言葉なんだろ
う、
俺はどうやら後ろの男と、昨夜しっかりとお楽しみになったらし
い。愕然である。そして何故だか、男の裸に興奮するホルモンか何
かの分泌が、昨夜から開始されたらしい。酷いタイミングだ。これ
はあれか?異世界トリップの副作用か?昨日の凄まじい眠気は、ホ
ルモン分泌開始のスターター合図だったってわけか?
無言のままシャンプーを洗い流す。無視だ、無視だ。男の熱い吐
息なんて、誰得だよ。おい、大人しくしていろ息子。
25
男が不意に湯を止めた。
﹁リョウ、﹂
﹁言うな、絶対言うな﹂
俺の名誉のために、言ってくれるな。くそ。何が忌々しいって、
後ろに男に立たれたくらいで欲情している、自分が何より忌々しい
のだ。悔しい。男が左腕をも壁につき、俺を囲った。
﹁でも辛いだろう﹂
﹁自分で抜く。から早くどけよ、そこ。長らくご協力下さいまして
ありがとうございました。どうぞご自分のシャワータイムをお楽し
み下さい俺は出る、おらどけ﹂
﹁抜いてやる﹂
﹁いらねーよ!それが親切行為なんだと思ってるなら大間違いなん
だからな!大きなお世話だっつんだよ。ったく信じらんねぇ﹂
肘で男の胸板を押しのける。が、びくともしない。鉄壁の防御、
なんて言葉が頭をちらついた。
﹁ッどこ触ってんだよ﹂
不穏な雰囲気。ここが浴室だからだろう、俺の低い声が下のほう
から響く。ゆるく立ち上がった俺の息子に、男はあろうことか右手
を伸ばして来た。本能的に、これが初めてではないことを、感じ取
ってしまう。身体が勝手に、男の動きに期待したようにひくつくの
だ。
﹁任せていてくれればいい。ただ感じていろ﹂
﹁っじょーだん﹂
26
﹁ほら、前に手をつけ﹂
男が俺のうまく動かない両腕を誘導し、浴室の壁につかせる。男
の左腕が俺の鳩尾のあたりに回り、気づけば俺は腰を突き出したよ
うな体勢にさせられていた。
﹁ゃめ、ろ⋮﹂
頭がぼうっとして、目の前がまわるような気分だ。歯を食いしば
り、ややもすれば飛び出しそうな嬌声を喉奥に閉じ込める。少しで
も動けば、あまりの快感にその場に崩れ落ちてしまいそうで、俺は
男の腕の中で動くことができない。
﹁聞いてもいいか?﹂
﹁手、とめろ⋮よ⋮⋮あう、ぁ、くっそ﹂
次から次へと溢れ出てくる先走りを、一滴も逃すものかと大きな
固い手が俺の中心を握りこむ。ぐちゅぐちゅと卑猥な音が耳を犯す。
男の手の平にはいくつも固いたこがあって、男が手を動かすたびに
それが神経をごりごりと刺激した。口の端から出た自分の喘ぎ声に、
俺は悪態をつく。
﹁お前は貴族の血が流れているのか﹂
﹁は⋮きぞく?なっぅ、がれて⋮あぁ、ん⋮ねえ、よ。くそ、まと
もに喋らせっ、ろ!﹂
﹁そうか、じゃあやはり逃げてきたのか﹂
﹁⋮手、とめろってば︱︱あ、ふ。は、ぁッあ、んゃ﹂
だんだんと動きが加速し、それに比例して俺は声も出せずただ喘
いでいた。
27
ふっと、男の手が静止する。絶頂寸前まで登り詰めていた俺は、
気が狂いそうになるのを、熱い息を逃がすことでようやく耐える。
限界、だった。気持ちの上ではもう既にいっぱいいっぱいで、耳の
そばで囁かれる声のそのいちいちに俺は異常に反応してしまう。
﹁イキたいか﹂
﹁ッ決まってんだろ、この鬼畜!﹂
﹁そうか、そういう口の利き方をするか。昨日までの礼儀正しいリ
ョウはどこいったんだろうな﹂
﹁てめえに、敬語なんか使えるかってんだ。変態﹂
﹁ほう、俺が変態なら⋮﹂
﹁ぅあ﹂
﹁乳首弄られて興奮しているリョウも、変態だろ?こんなコリコリ
にして﹂
ウソだろ。俺は驚きのあまり、自分の胸を思わず見下ろした。そ
してすぐさま見なきゃ良かったと後悔する。
赤く色づき、女のそれのようにぷっくりと腫れて存在を主張して
いる二つの突起は、無骨な指先で弄繰り回されている。厚く固い皮
で覆われた親指で表面をさわさわと撫でられると乳首が揺れ、くす
ぐったいような、もっととねだりたくなるような気持ちになる。
﹁いや、だ。それ、ヤだ﹂
ゾクゾクする。
﹁おねだりしてみろよ、礼儀正しく、な﹂
後ろに首をひねり、男をきっと睨みつける。羞恥に顔に朱がのぼ
る。こいつ、爽やかな顔してとんでもなく意地悪だ。絶対屈するも
のかと罵倒してやろうと口を開いたその瞬間だった。下半身から頭
のてっぺんまで、快感が走り抜けた。
28
﹁んっぁああッ!﹂
﹁今、口汚く罵るつもりだったろう。ん?﹂
それ
じゃわからんな﹂
﹁そッ、それっ⋮やめ、やめて⋮んゃぁ﹂
﹁
﹁くぅッ⋮!!﹂
乳首への愛撫でガチガチになっていた俺自身に、男はつぅっと指
を這わせたのだ。さっき男が下半身への愛撫をやめてから、物欲し
げにひくついていた俺のそこは、そんなわずかな刺激にさえも敏感
に反応する。俺はもどかしさに泣きそうになりながら、背中を丸め
た。その間も男は乳首をさわさわと勿体ぶった仕草で遊んでいる。
腰が揺れてしまう。
﹁ほら、お願いしろよ。きちんと俺にわかるようにな﹂
﹁ッく⋮ぉ、ねがぃしま⋮す﹂
﹁ん?聞こえんな﹂
クソが。
死にそうなほど恥ずかしい。俺は壁についた両手を握り、そこに
額を当てた。目をつぶる。
﹁もっと︱ちゃんと、触ってください⋮﹂
﹁イカせて下さい、お願いします﹂
﹁ィかせてください、おねがいします﹂
最低だ。男としての矜持が砕かれた。俺は今、ほとんど知らない
男の手で、達しようとしている。その手が、腹や腿を撫でさするそ
の固い手が、どうしようもなく気持ちイイ。男の手はひとつの意図
をもって動き始めた。俺を昂らせようと、その意図をもって。
29
﹁いい子だ﹂
男が囁く。その言葉に、俺は誘うように腰を揺らした。男は苦笑
して腕を伸ばし中心を、陰嚢を巻き込むようにして握った。温かい
はずのその手がひんやりしていると感じるほど、そこに熱が溜まっ
ている。俺はすぐに達した。いままでのもどかしさが嘘のように、
本当にあっけなく。
﹁⋮ッ!!!!﹂
ねばつく感触が、性器を覆う。息を荒げていた俺は、射精後の気
怠い気分のまま脈拍が整うまで、男に抱きしめられたその恰好でぼ
んやりとしていた。すると男が腕の中で俺を、向き合うように反転
させた。驚いた俺は、顔を上げ男と顔をむき合わせる。
﹁リョウ﹂
男が熱っぽく俺を見つめる。その明褐色の瞳の奥に、燃え盛る焔
を見る。これで終わりだと思っていた俺は、そういえばコイツはイ
ってないんだったなと今更ながら思い出した。男のアレはまだ血管
を浮き上がらせ天を向いている。
﹁なに、すんの﹂
﹁キスしていいか﹂
何故だかあれだけ翻弄されたというのに、これからが本番だとい
う気がしてならない。男は俺の答えを待たずに、俺の唇にむしゃぶ
りついた。俺はこのとき初めて、口も性感帯のひとつなのだと知る。
30
﹁⋮ん、ぅむ﹂
﹁は﹂
﹁ッふ、ぁ﹂
唇をやわらかくはみ、表面をざらざらとした舌先で舐める。そし
て男は分厚い舌を、俺が息継ぎをしようと口を開いたタイミングで
滑り込ませてくる。苦しい。舌はまるでひとつの生き物のように口
腔内を蹂躙した。俺の舌に絡みつき、くちゅくちゅと音を立てて舐
めまわす。時折男が舌を吸うと、たまらなく腰に痺れが走った。
﹁キス、好きなのか。気持ちよさそうな顔してる﹂
﹁ん⋮﹂
キスは好きだった。感情が、ダイレクトに伝わってくる気がして。
ただ、愛撫としてのキスは知らなかった。男が唇をそのまま耳朶か
ら首筋に這わせていったとき、唇の端から唾液が垂れ、鎖骨に落ち
る。男の唇はそれを回収し、乳首の周りをぐるりと吐息でくすぐり
ながらそうっと、触れるか触れないかの位置で触れた。高い鼻の頭
で、乳首を下から押し上げるように潰されるともう堪らなくて、そ
れだけで俺は小さく達した。男には気づかれなかったと思う。しか
しその余韻の中で、一方の手で中心を扱かれ一方の手で乳首をクリ
クリと触られると再び絶頂寸前に追いやられる。
﹁あゃぁ、ふは⋮も、むりっ⋮⋮うあ﹂
男は触れていなかった方の乳首におもむろに顔を近づけ、ちゅう
っと強く吸い付いた。それが合図となって、俺は派手に絶頂を迎え
る。
﹁すご。たくさん出てるぞ、リョウ。淫乱め﹂
31
﹁んあああ﹂
﹁なあ。お前、後ろの経験は?﹂
﹁うし、ろ?﹂
一瞬意味が取れなかった。しかしすぐにわかることとなる。男は
俺の白濁液をすくい、尻を割ったその奥にたっぷりとなすりつけた。
﹁ないか。きつかったもんな、昨夜も﹂
﹁え⋮⋮ちょ、どこ触ってん、の﹂
排泄器官を触られて戸惑わない人間はいない。そうか男同士だと
そこを使うのか、などと納得している余裕はすぐに取り去られた。
男は明らかに、うしろの孔に指を入れようとしている。そしてぞっ
とした。男の目的をしっかりと理解したのだ。
﹁怖いか﹂
﹁まっ⋮、冗談だろ。あんたそこに、⋮ジョーダンだろ﹂
俺は太くて固い、彼の中心を見下ろして、顔を引き攣らせる。こ
れが、そこに入るのか?入らないだろ。裂ける。不可能だ。
﹁大丈夫だ、しっかりほぐすから﹂
いやいやいや。ああだから指突っ込もうとしてんのねって、チガ
ウそうじゃない。その凶悪な棒、指何本分あるんだよ。やめてくれ、
そんなの入ったら人類の神秘だ。
俺の息子はすっかり大人しくなってしまった。俺もすっかり逃げ
腰だ。この男に付き合ってやる義理もない。そう思うが、この筋骨
隆々の男に力で勝てるはずもなく、俺は子羊のように犯されるのを
待つよりほか、選択肢はないようだった。
32
﹁いやだ、ほんとに⋮嫌だ﹂
﹁気持ち良くしてやるから安心しろ﹂
﹁嘘、ぜってえウソ!んなとこ、気持ちいいわけないだろうが⋮う
っ﹂
男は左手で萎えてしまった俺自身を撫でさすり、右手で前からす
くってきた精液を潤滑液がわりにして、奥の孔に指先を入れる。奇
妙な感覚だった。前からは断続的な快楽が与えられ、後ろは孔の入
り口を撫でられるだけできゅっと窄まりが指を締め付ける。気持ち
悪くはない。むしろ、それは快感と呼んでもいいかもしれない。
﹁昨晩は二本入った﹂
﹁⋮はふ、ふぁ﹂
﹁まずは一本﹂
﹁んっ﹂
浅いところを行き来していた指が、奥のほうに潜った。ぞわりと
鳥肌が立つ。排泄感なのか何なのか、とにかく気持ちが良いことに
は変わりがない。俺はぎゅっと目をつむり必死にそれに耐えていた。
﹁顔上げろ、リョウ。唇を噛むなよ﹂
端麗な顔が近づいてきて、下から顔を持ち上げるように横向きに
唇が重ねられる。男の鼻が俺の頬骨に当たる。キスだけで安心して
しまう俺はなんて容易なんだろう。
﹁ふ⋮﹂
﹁っ﹂
ぴちゃぴちゃと淫猥な水音が響くが、どこから聞こえているのか
33
はわからなかった。
﹁︱︱︱ッ!?ぁ﹂
﹁はむ﹂
﹁んー!﹂
優しく動いていた後孔内の指が何かに触れたとき、びくんと身体
が大きく振れた。その拍子に二本目が入り込む。離れかけた唇を、
男は逃がさずまた塞いだ。悲鳴が口腔内に消える。ちゅっとリップ
音をたて、ようやく男は唇を離す。赤い舌がちろりとのぞき唇を舐
めた。
﹁二本目。どう、気持ち良いだろ﹂
﹁んん。ぁあ、そこなんか変﹂
﹁ここだな?﹂
﹁ん、もっと﹂
言ってから、俺は目を見開き、同じように驚いている男と見合わ
せた。男の顔に笑みが浮かぶ。
﹁へえ﹂
﹁⋮ちが﹂
﹁何が違うんだ?⋮もっと、だろっ﹂
﹁んゃあああ!﹂
さっきまでゆったりと屹立を握っていた手も加速し、後ろ手は重
点的に俺の弱いところを突き攻める。びくんびくんと白濁を垂れ流
し、背がしなった。しかしそれに構うことなく男は俺を休ませてく
れない。きゅうと締まった孔が緩むや否や三本目の指を力づくで突
っ込む。もうそこは多量の精液で濡れそぼっていたので、ぐちゅり
34
と音を立てたほかはたいした痛みもない。
このまま、俺は犯されてしまうのだろうか。霞のかかった頭の中
で、俺はそう思った。
35
本日より※
俺の体内に四本の指が呑み込まれたときだった。
﹁カイルさーん!﹂
乱れに乱れた俺は忙しなく胸を上下させ、目の前に立つ男が腰を
支えてくれていなかったらその場に座り込んでしまっていただろう。
突然浴室の外から聞こえてきた知らない男の呼び声に、俺の後孔の
中に入っていた指が一気に抜かれる。
﹁ふぁッ﹂
﹁シー⋮﹂
男は俺の口を片手で覆い、背後の扉に視線を走らせた。
﹁カイルさん、いるんでしょー。入ってもいいですかぁ?﹂
声の主は玄関にいるようだ。もしこのまま返事をしなかったら、
ここまで探しに来る可能性だってある。俺は男の胸をこづいて、行
けと浴室の扉を指さした。男は一瞬ためらったが、魔導石に手をか
ざし降ってきた湯で白濁液を適当に流した。
﹁ここで待ってろ、すぐ戻る﹂
﹁ん﹂
俺を床にそっと座らせ、男は浴室を出る。扉が閉まる。外で﹁風
呂だ、ちょっと待っていろ﹂と男が声の主に向かって叫ぶのが聞こ
36
えた。
助かったと思う半面で、あいつギンギンに勃起させてたけど大丈
夫かな、なんていつのまにか心配している自分に気が付いて悶えた
くなる。俺のほうもしっかり育っているが、自分で慰めようという
気になれない。この短時間で、ホルモンが変な方向へ作用してしま
ったらしい。恐るべきことだ。俺はもう、女の子が大好きなかつて
の俺には戻れないのかもしれない。
日本へはまず戻れないと考えて行動したほうがいいだろう。戻れ
たとすれば全く問題ないが、戻れないことを前提で動くほうが後々
のことを考えると得策だ。新たな人物設定を作らねばなるまい。異
世界トリップがこの世界ではあり得るのだとすれば正直に語ればい
い。だがそれまでは、当たり障りのない、言っても怪しまれないよ
うな人物設定が必要だ。
そういえば、行為の最中に、お前は貴族かって訊かれたっけ。逃
げてきたのか、とも。あれはどういう意味だったんだろう。俺が貴
族に見える?どこから逃げてきたっていうんだろう。
俺が悶々と考えていると、男が戻ってきた。腰に布を巻いている。
裸のままで床に座っている俺を見て、男は少し驚いた様子ながらも
どこか嬉し気だ。
﹁なんだ、本当に大人しく待ってたんだな。てっきりもう服を着て
いるかと思ったが﹂
﹁こんなドロドロで服なんか着れるか﹂
﹁それもそうか﹂
﹁帰った?あの人﹂
﹁ああ、心配ない﹂
﹁そう﹂
﹁あー⋮ところで、その、なんだ﹂
﹁なに﹂
37
男は言いにくそうに頬を指で掻いた。分かりにくいが顔をわずか
に赤くして、俺から目を逸らす。
﹁今なら逃がしてやれる、嫌ならそう言え﹂
どうやらこの男、本当に根が善良らしい。身体目当てで拾ったわ
けではないのか。逃がしてやれるという言葉は、腰の布を持ち上げ
ている屹立で説得力はないが。
﹁それって、本番は勘弁してやるってこと?据え膳だけど、いいの﹂
﹁嫌がっているのに無理やりするのは強姦だろう⋮とさっき頭を冷
やした﹂
﹁これからの待遇に変化は?﹂
﹁馬鹿にするな、変わらん。面倒は見てやる﹂
しかし親切だけで言っているわけではないだろう。見ず知らずの
男を保護するなんて、何か思惑があるに違いない。何を考えている
んだ?
﹁じゃあ、嫌だ﹂
自分で言い出したことなのに、俺の言葉に男はこちらを向き傷つ
いたような顔をした。それは一瞬のことで、俺が男の表情をよく観
察していなかったら気付かなかったかもしれない。男は上手く表情
を取り繕った。何もなかったかのように頷く。
﹁わかった﹂
﹁でも、まあ﹂
俺はこのときどうかしていたに違いない。その気持ちは男に対す
38
る憐憫か同情か。庇護者たる男に捨てられまいと媚びを売ろうと考
えたのかもしれない。もしくはそれは単純に⋮
﹁なんだ﹂
﹁抜くくらいだったら、手伝ってやるよ。尻は貸せないけど﹂
﹁大きなお世話、なんじゃなかったか。もし謝礼のつもりなんだっ
たら無用だ。もちろん、気持ちよくしてくれてありがとうって意味
なら話は違ってくるが﹂
﹁別に⋮辛いだろうなと思っただけだよ。いらないんなら別に﹂
﹁いらないわけじゃない﹂
男は間髪入れず力強く言った。その勢いに俺は面食らい、目を瞬
かせる。たちまち上ってきた気恥ずかしさを隠すように、手を伸ば
し乱暴に男の腕を引っ張った。
﹁めんどくせえな。いるんなら早く来いよ﹂
﹁ちょ、おいリョウ﹂
﹁そこ。腰かけろ﹂
膝立ちになりながら男を風呂桶のふちに座らせる。布を取り去る
と期待からか、眼前に迫る雄がどくどくと脈を打っていた。俺がこ
うさせているんだと思ったら、そう悪くはない。他人のモノをどう
にかするなんて、普通に考えたら気持ちが悪いと思う。しかし欲情
した男の熱い視線に俺はどこか興奮していた。
﹁経験、は?﹂
﹁ないよ。けど、造りはどれも一緒だろ。何とかなる﹂
要は、自分がしてもらいたいことをしてやればいいということだ。
俺にも、彼女にやってもらいたかったけど言い出せなかったあれや
39
これやが、ないわけではない。
﹁あまり、無理はするな﹂
そう言う男のほうが余裕はなさそうだ。
俺はちらりと男を見上げ、そしてまた視線を落とした。ゆっくり
と触ってみる。熱い。ピクリと雄が動いた気がする。男がふーと息
を漏らした。
﹁触られただけなのに、気持ちイイんだ﹂
﹁当たり前だろう。朝から触ってないんだぞ、あの状況下で﹂
律儀なことだ。適当に抜くということができないのか、この男は。
俺の顔は、ちょうど男の腰を少し上から見下ろすくらいの高さに
あった。柔く撫でていると液が飛ぶ。それを顔にかからないように
親指で鈴口を押さえる。次第にぬるぬるとしてくる手の平を側面に
擦りつけるように、強く握った。
﹁気持ちい?﹂
﹁⋮たまらない﹂
男は眉根を寄せて押し寄せる快感に耐えていた。見事に鍛えた筋
肉がぐっと盛り上がって、その言葉に真実味を添える。俺が乱暴に
扱いても、男はひたすらに耐えている。これはむしろ辛いだけなの
ではと思う。
我慢大会じゃねーんだから、解放すりゃいいのに。それがこの生
真面目な男にはできないのだろうと、半ば呆れながらも俺は好感を
持てた。
﹁我慢すんなよ﹂
40
俺がぱくりと亀頭をくわえると、男は慌てた声で俺の名を呼ぶ。
そこまでするとは思っていなかったのだろうか。しかしその声もす
ぐにとろけてしまって、静止の意を持たなくなる。
﹁⋮っ﹂
﹁ん⋮、ん﹂
は、はと吐き出される熱い吐息が俺の耳をくすぐり、男が前かが
みになっているのがわかった。男の長い指が俺の髪に絡まる。ぐっ
と無意識の内か、男は俺の頭を腰に引き寄せる。男の側面を食んで
いた俺の身体を足の間に閉じ込めるように、男は全身で俺を抱きし
めた。
﹁くッ⋮⋮りょ、ぅ﹂
﹁⋮は、んむ﹂
﹁⋮⋮ッ!﹂
舌で愛撫し、唇で強く扱く。俺の口淫はつたないものだったが、
男は俺にしがみつくようにして、イった。
そのまま男は俺に覆いかぶさったまま、肩で息をしている。その
重さが心地いい。そして何よりイかせてやった、という妙な達成感
が俺の中にはあった。
﹁よかった?﹂
﹁⋮それはもう﹂
﹁そ。ならいいけど﹂
折り曲げていた半身をもとに戻した男に笑って見せると、彼はつ
かのま切なそうに眉を寄せ、はあと短く息を吐いた。手が俺の頬を
41
撫でる。男はきれいに笑った。
﹁ありがとな﹂
﹁礼を言われるほどじゃない。それより、お湯出して。べとべとす
る。あんたも身体洗えよ﹂
﹁困ったな。風呂のたびに劣情を催しそうだ﹂
言いつつも男は湯を出してくれ、俺が再び体を流している間、指
の一本も触ってこようとはしなかった。先に出た俺は身体を拭き、
男の服を着た。だぼだぼではあるが、捲れば着れないこともない。
シャツとパンツという素朴なもので、素材は綿に似ているが定かで
なはい。違和感はなかった。
水が体を打つ音を聞きながら脱衣所を出る。そこからはもう無法
地帯だ。散らかり放題の部屋を見て、俺は何をすべきかを悟った。
男が着替えて出て来たときに、は、足の踏み場くらいは作ること
が出来ていた。
﹁ごめん、色々適当にしまったけど、平気だった?﹂
﹁⋮ん、ああ。構わない。ありがとう﹂
﹁なんか言いたげだな﹂
﹁いや、本当に貴族じゃないんだなと﹂
男の中で、貴族とは何もできない人種として概念づけられている
らしい。なめられているとしか思えない。
これで俺が飯とか作ったら、おったまげるんだろうな。それも見
てみたくないではない。俺はもともとサプライズとかが大好きな人
間だ。仕掛けたいたずらは数知れず。それで険悪になった関係も数
知れず、とこれはいらない情報だ。
42
﹁そもそも何で貴族だと思うのさ﹂
これは訊いておいたほうがいいだろう。場合によっては貴族のふ
りで切り抜けられる状況があるかもしれない。俺は、努力によって
座面を現した椅子に腰をかける。
﹁服装や容姿もそうだが、ほら、そういう動作だ。雑じゃない。歩
き方ひとつを取ってみても歩き慣れた感じには見えないし、明らか
に乗り物による移動のほうに慣れた歩き方だ﹂
﹁へー、そんなのわかるもんなのか﹂
﹁俺の隊は人の特徴を細かく観察することが求められる仕事ばかり
でな。だからわかったのかもしれん。⋮その答え方からすると、あ
ながち間違いではないのか?﹂
﹁まあ、当たってるかな。俺自身は結構歩いているつもりだったか
ら不本意だけど、⋮確かに乗り物なしで遠くには行ったことないな﹂
筋肉も頼りがいがありそうなほどはないしな、と思う。細マッチ
ョとは聞こえはいいものの、肉が付きにくい体質で、男から見たら
マッチョと呼べるほどの筋肉はない。ちなみにエスカレーターがあ
れば、無理に階段は登らないくらいの運動嫌いではある。高校時代
の部活はサッカー部だったが、やっていたことはほぼマネージャー
業と化していた。入部したのも女子マネの佐々木さんが可愛かった
からだ。
﹁だが、お前は貴族ではないと言う。俺にはいまいちお前が掴み切
れん。上流階級のような話し方をするかと思えば、普段はそういう
口調が普通のようだし﹂
﹁変?庶民だって敬語くらい使うだろ﹂
﹁いや、お前のは庶民が使う言葉とは違うぞ。発音がしっかりして
いるだろう。階級か何かがばれたくないのなら、あまり丁寧に話さ
43
ないことだな﹂
階級か何かってなんだよ。わけわかんねえの。敬語は、初対面は
デフォルトだ。今更やめるなんて、上下関係に敏感な日本人として
は受け入れがたいものがある。
﹁別にばれたくないわけじゃないけどさ。まずいかな。話し方なん
てほとんど癖みたいなもんだろ﹂
﹁詮索はされるだろうな。だがばれてもいいなら、別に構わんだろ
う。第三郭以上の騎士団は、ほとんどが貴族だからそんなに目立た
ないとは思うが。目立ちたくないなら出来るだけ部屋にいろよ﹂
﹁うん。あ、でも現実的な話、いつまでなら置いてくれるの。仕事
探さなきゃ﹂
﹁ずっといてくれて構わないが、仕事が欲しいならギルドの斡旋所
に行くか?﹂
﹁え、そんなのあんのか。行く行く﹂
いつまでもただ飯喰らいは嫌だし、この男の思惑もまだわからな
いのだ。自立の道を模索する必要はどうしたってある。
勢いよく立ち上がった拍子に、俺の腹の虫が大きく鳴く。男の唇
が大きく笑みの形をかたどり、飯にするか、と言った。
44
謝罪の言葉は切なくて
結局料理をするには台所の片付けから始めなければならなそうだ
ったし、食材もたいして残っていなかったことから、家での食事は
早々に諦めた。男の行きつけの店があると言うので、二人でそこに
向かうことにする。
﹁途中でお前の服やもろもろも買おう﹂
﹁出世払いでお願い。俺、金ないから﹂
﹁知っている、別に身体で払ってくれてもいいけど⋮⋮おい、冗談
だ。そんな顔をするな﹂
俺は、自分が感情の起伏が激しいタイプだと自覚している。本気
ではないとはわかっても、無遠慮に投げられた言葉から咄嗟に柔ら
かい心を守ることが昔から苦手だ。そのぶん、取り繕うのは得意に
なった。気の抜けた愛想笑いは、一種の防衛反応でもある。なのに、
この男の前では、それが上手くいかない。
﹁そんな、慌てんなよ﹂
同情を誘えるだけ得だと思えばいいだけの話だ。ラッキーだろ、
この状況下で泣きたいときにすぐに泣けるのは。俺は自分にそう言
い聞かせる。
﹁悪い﹂
俺たち、玄関で何やってるんだろ。男が泣きそうな男を抱きしめ
て慰めるなんて、ちょっと普通じゃない。その大きな胸板に安心し
45
てしまう俺も、変だ。
﹁先に出てる。鍵、早く見つけろよ﹂
そもそも、今は家の鍵を探していたのだ。店に行こうと言いだし
てから、まともな服を引っ張り出したり鍵を捜索したりしていて、
結構な時間が経っている。いい加減、空腹も限界だ。
﹁ああ﹂
いつもは鍵なんてかけないんだが、などと鍵を探しながらぶつぶ
つ文句を垂れていた男と同一人物とは思えないほど、男は素直に応
じて俺を解放した。俺は外に出る。
男の住む部屋は二階の右の角部屋だ。隣は空き家だと言う。外廊
下の手すりから縄が、中庭を三方から囲むようにして建てられてい
る建物の向かいの建物へと渡され、洗濯ものがはためいている。風
が強い。
気温は、上着を着るほどではないが少し肌寒い。俺は男のシャツ
の釦を上まで留めた。
﹁あれ、あんた﹂
聞き覚えのある声に、俺は右を向いた。階段の最上段に足をかけ、
若い男がこちらを見ている。あちこち寝癖を立たせた、ひょろりと
した男である。俺は失礼にならないように、少し目線を下げ微笑ん
だ。挨拶は社会の節度を守る、重要なコミュニケーション手段だ。
俺は常々、初めて人と挨拶を交わそうとした人物を偉大だと思って
いる。
﹁こんにちは﹂
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﹁あ、どうも。あれ?今、あんたカイルさんの部屋から出て来た?﹂
﹁え、はい﹂
﹁へえ⋮そりゃ珍しいこともあるもんだ。あんたカイルさんの友達
か何か?﹂
﹁いえ、友人ではありません﹂
﹁だよなあ﹂
カイル。あの男のことだろうか。俺はそう言えば、あの男の名を
知らない。知っていたつもりになっていた。そこで俺は気が付いた。
﹁あ﹂
この男、風呂に入っているときに、あいつを呼びに来た若い男だ。
声に聞き覚えがあると思ったのもそのせいだ。
﹁カイルさんは中?﹂
﹁ええ。部屋の鍵を探しています、なかなか見つからなくて﹂
﹁鍵?ふうん、あの人施錠なんかしてたんだ。意外。大事なものな
んて持ってなさそうなのにねえ﹂
寝癖の男はそう言って明るく笑う。笑うとさらに若く見える。せ
いぜい二十代前半だろう。西洋人らしい彫りの深い顔立ちは、年齢
をいくらでも誤魔化すからあまり自信はないが。
﹁いつもはかけないそうなんですが﹂
﹁はは、やっぱりそうなんじゃん。︱そうだ。俺、ココルズ。シモ
ン・ココルズ。よろしく﹂
﹁リョウです、よろしくお願いします。ココルズさん﹂
﹁ココでいいよ。皆そう呼ぶから﹂
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ココルズは鷹揚に手をひらひらと振って、軽い足取りで近づいて
くる。右手に空のかごを下げている。ココルズの部屋は四つ先だっ
た。
﹁じゃなー﹂
﹁あ、はい。また﹂
手を振り返すことはせず、頭を下げる。ココルズが扉を閉めたタ
イミングで、男が扉を開けた。
﹁リョウ。悪い、見つからん﹂
その手には、剣らしきものが握られている。剣身を包む飴色に使
い込まれた革の、細工も何もない滑らかな表面が目を引いた。鍵は
見つからなかったようだ。男らしい太い眉の尻が、下がっている。
﹁遅い﹂
﹁鍵が見つからないんだ。かけなくていいだろう?﹂
﹁ったく、仕方ねえな。帰ったら大掃除だぞ。あの部屋片付くの、
一日はかかるぜ。鍵なんて大切なものは、他と紛れないようにちゃ
んと管理しておくものだろうが。自分の片付け能力の低さ、わかっ
てんのか﹂
﹁わかったわかった﹂
﹁返事は一回って親に習わなかったのか⋮、よ﹂
歩き出そうとした俺は、口の中で舌が空回りするのを、つぶさに
感じた。次に声に出そうとした言葉を忘れる。視線を向けた先に、
呆然とした寝癖の男を見たからだ。俺はその不可解な表情に、ひと
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つゆっくり瞬きをする。
ココルズは自室の扉に手をかけ、あり得ないものを見たといった
表情で、俺と、その隣に立つ男を見比べていた。
俺は、被っていた猫を、脱いだところを見られた居心地の悪さを
感じて身じろぎする。
﹁えっとぉ⋮、カイルさん。弟か、何かですか﹂
そっちの、と随分な言いぐさである。すると俺の隣に立つ男は戸
惑ったように、言葉をまごつかせた。
﹁いや、こいつは俺の、そうだな⋮︱なんだろう?﹂
俺に訊くな。
俺は後に、このときココルズをぶん殴れば良かったと後悔するこ
とになる。事の発端は、こいつのこの考えなしの発言なのだから。
ココルズはとんでもないことを言ってくれた。
﹁ひょっとして恋人ですか﹂
﹁あー⋮まあ、そん、な感じか?﹂
⋮適当に言うな、馬鹿野郎が。恋人じゃねえだろうが。
俺は、隣の男の脇腹に肘鉄を食らわせる。ココルズはごく真面目
な顔で訊いているので始末に負えない。俺は、出来るだけ明確に伝
わるように、笑みを浮かべつつ、隣の役立たずの代わりに答えた。
﹁弟ではありませんが、恋人でもありません。単に身寄りのない俺
を一時的に家に置いてくれているだけでして。おい、あんたちゃん
と否定しろよ。ほんといい加減なやつだな﹂
﹁と、本人がこう言っているから、そっとしておいてくれ。ラシュ
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には言うなよ﹂
﹁はあ、じゃあカイルさんの片思いってことでいいんですかね。な
るほどなあ。ラシュには言えませんね、あいつ怒り狂いますよお﹂
﹁ああ、殺されそうだ﹂
﹁ラシュって﹂
﹁団の同僚だよ。カイルさんのことを神同然に崇めてんだ。不敬虔
だろ?多分、もし俺がカイルさんに、今の君みたいな態度で接した
ら、俺、次の日には川に沈んでんね。そんでラシュが縄かけられて
るわ、殺人容疑で。あいつ、きっとカイルさんの食事の内容まで知
ってるよ﹂
ぞわりと背中が粟立つ。
それを、日本だとなんて言うか知っているか。ストーカーだ。犯
罪だ。俺はよっぽど言いたかった。それは立派な犯罪だと。
﹁そんな人が同僚って⋮いいの、騎士団なのに﹂
俺の真っ当極まりない発言は、誠に遺憾ながら、隣の変態の存在
を思い出して撤回せざるを得なかった。この場合ストーカーするほ
うもするほうだが、されるほうも変態であった。この騎士団は、入
団面接をもっと真剣に行うべきだと思う。
﹁俺たちの隊には、変なやつが特別多いんだ。気を付けろ﹂
隣の変態は自分の存在を棚に上げ、そうのたまう。このずうずう
しさは見習うくらいの気概でいたほうがいいのかもしれない。
﹁カイルさん、しっかり所有権主張しておいたほうがいいですよ。
ラシュの件は別として﹂
﹁それもそうだな。虫除けに何か必要か⋮﹂
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ウブ
俺もそこまで初心じゃない。女性に関して言えば、経験は豊富な
ほうだ。自分が軽口のネタに上げられているのはわかる。他人に自
分のプライベートについて語られるのは不快だった。腹の下がぞわ
ぞわして、やたらと喉が渇く。
親指で咽頭のあたりを擦ってみる。俺は、隣の男を横目に見上げ
た。
﹁それより俺、腹減ったんだけど﹂
隣に向けられた俺の不機嫌な声に、ココルズが敏感に反応する。
敵意がないことを表すかのようにぱっと両手の平を見せる。
﹁ごめん。引き留めちゃって﹂
﹁あー、いえ。俺たち朝食も摂ってないもので。すみません﹂
﹁そうだ。そんなら俺の部屋で食べる?適当に作れるけど。カイル
さんも良かったら﹂
﹁え、本当?いいんですか!︱やった﹂
現金なものである。俺はすぐにその提案に飛びついた。すっかり
機嫌を直した俺を、ココルズはにっこりと笑って扉の内側に招き入
れる。足を踏み入れ、すん、と香るのは人の家の匂い。あっちの部
屋では匂わなかったそれに、俺は何故だろうかと思う。
﹁リョウ﹂
腕が引かれ、咄嗟に左足を後ろに戻さなければ尻から転んでいた
だろう。俺は気が付けば、あの男の腕の中にいた。身体を包むのは、
嗅ぎ慣れた男の匂い。
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﹁なっ⋮に、すんだよ、いきなり!﹂
俺は身体を捻り、男の腕の中から抜け出した。真向から見つめる
と、褐色の瞳がじっと見返してくる。俺はそのまっすぐな視線に少
々たじろいだ。彼は、俺の目を覗き込めるようにと片腕を肩に置き、
もう片腕で抵抗する俺の腰を引き寄せた。意外なほどに真摯な光が、
彼の瞳に宿っている。
俺は何も言えなくなってしまった。
﹁ココルズ﹂
﹁はいはい﹂
﹁色々と揃えるものがあるから、食事はまたの機会に﹂
﹁︱⋮りょーかい﹂
どことなく、その声が苦笑を含んだような気がした。
背後で扉が閉まる音がする。俺たちは今、必要な栄養を手早く摂
取する機会を失ってしまったのだ。俺は男を睨み上げる。
﹁何なんだよ、一体﹂
﹁お前のその小憎たらしい物言いは、どうにかならないものかな。
口を塞ぎたくなる﹂
﹁質問に答えろよ、変態﹂
﹁ほら、また煽る﹂
﹁ばか﹂
本当に、何を馬鹿なことばかり言っているんだ。
わずかのぶれもないその視線が、今は直視に堪えない。ふいと横
を向いて、俺は構わず階段を降りる。木の板でできたギシギシと音
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の鳴る階段は、後ろから男が追ってきていることを俺に教えた。
﹁リョウ﹂
﹁忘れているみたいだから言っておくけど﹂
自分がこんな女みたいなことを言うようになるなんて、日本にい
た頃の俺がどうして想像できただろう。
﹁うん﹂
﹁俺たちが会ったのはつい昨日なんだぞ。まだ一日も経っちゃいな
い。お前が同性愛者だってのはわかった。だけど、ケツに突っ込み
たいってそれだけで俺の恋人面をするのはやめてくれ。他の奴を探
せよ。あんたならよみどりみどりだろうが﹂
﹁リョウ、ちょっと待て。俺は身体だけを求めているわけじゃ﹂
﹁俺はッ!︱⋮俺は、他に行くところがない。だから、あんたに求
められたら、応じるほかないんだよ⋮﹂
傷つけるようなことを言っている。自分のかすれた声と震える語
尾を聞きながら、そう思った。
この男が、俺に好意を寄せてくれているのはわかっている。信じ
られないことではあるが、昨日会ったばかりの俺が、好きらしい。
かわいそうな奴。俺は、その好意に応じることができない。
﹁酷いな﹂
男がぽつりと言って、唇を歪めた。笑おうと思って失敗したよう
な、そんな歪な笑みだった。途端に謝りたくなって、俺はこみ上げ
る情動を必死で喉の奥に押し込み続けなければならなくなる。その
せいで、俺は近づいてくる男の唇を拒めない。
やわらかくも熱い感触に俺はうめいた。だめだとわかっていなが
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らも、その先を求めて動く舌に応じずにはいられない。
誰かが見ているかもしれないなど、考えている余裕はなかった。
俺は腕を持ち上げ、男の首にかける。掴めるほどはない短い金茶の
髪に、どうにか指を通す。愛しさがこみ上げる。俺はこの男が好き
なわけではない。なのに身体は勝手に反応し、男の身体にぴったり
と寄り添った。
﹁ごめん﹂
熱い息にそっと謝罪の言葉を紛れ込ませる。キスに夢中で、彼が
気づいていないといい。
﹁リョウ、好きだ﹂
長い、長いキスが終わって、溶けたチョコレートのような瞳を潤
ませ、男が言う。俺と顔の高さを合わせるためにかがんでいた腰を
まっすぐに戻すと、寂しいくらいに距離があった。
﹁ごめん、できるだけ早く出ていくから﹂
﹁そんなことを言うな、リョウ﹂
大丈夫。まだ手遅れにはなっていないはずだ。彼は傷つくかもし
れないが、恋に落ちたのと同じくらい短い時間で、立ち直ることが
できるだろう。
もう、この背の高い男が、打算をもって俺を拾ったわけではない
ことは、わかっている。それは純粋なる、好意と善意だ。俺はそれ
をできるだけ壊したくなかった。そう思うほどには、俺はこの男が
好きだった。
﹁ごめんな、カイル﹂
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残してきた想いは今、
秋塚先輩が会社に来なくなったのは、今年の10月の初めのこと
だった。
いつもは真面目で無断欠勤なんて絶対しないような人だったのに、
ある日突然にぱたりと出社するのをやめた。詳しくは知らされなか
ったが、親族の方から行方不明届が提出されたらしい。このことは
横浜支社を大きく揺るがせた。失踪する社員はいまどきそれほど珍
しくはないが、まさか秋塚さんが⋮という具合である。
﹁あぎづがさーん﹂
﹁もー泣くなよ、いい加減﹂
俺が丸まった背中を撫でてやると、カウンターに突っ伏した中山
はさらに激しく泣きだした。こいつ、中山 かおると俺、菅谷 幸
一は同期あり、親友でもある。恋人に間違えられそうなほどの仲の
良さだが、それにはちゃんと理由がある。俺たちはいわゆる、同志
なのだ。
﹁スガは悲しくないの!?﹂
﹁悲しくないわけないだろ、こちとら毎晩枕を涙で濡らしてるわ。
でも人目のあるところでは泣けないのが俺なのー﹂
﹁あんたの、こんな時でさえそういうまったく外と中混同しないと
こ、私だいっきらい。そんでもって私と飲んでるときでさえ外だと
思ってるとこも、ほんとムカつく!それでもあんた、秋塚の子ぉか
ね!悲愴感が全然足りないわ!﹂
﹁何言ってんの。俺、秋塚先輩がいなくなってからというもの、仕
事失敗続きなの知ってんでしょ﹂
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﹁あー、この前のは酷かった。あれは私でもないわ﹂
﹁なに、その目﹂
﹁憐れんでんの。あれは下手すると昇進遠のいたわね﹂
﹁⋮かなあ﹂
秋塚 遼先輩に一年教育してもらった俺たちは、入社二年目の今
でも、秋塚先輩にいろいろと助けてもらっていた。主に精神面にお
いて。
ひそかに落ち込んでいるときにもすぐに気がついて、飲みに連れ
て行ってくれたりしたのが秋塚先輩だ。もう教育係としての任は外
れているというのに、仕事のフォローを嫌な顔ひとつせず⋮いや、
嫌な顔はするが、してくれるのが秋塚先輩である。
﹁あーあ、ちゃんと告白しておけば良かったなあ﹂
中山がぼやいた。
先輩は俺たちの二歳上だが、仕事は鬼のようにできた。彼の開拓
した顧客ルートは大口でも数多く、営業部企画営業課の営業利益に
多大なる貢献をしている。そのかわり教育方法もスパルタだが、飴
と鞭の使い方が恐ろしく上手かった。そのため俺たち二人は、彼の
手腕に見事に陥落してしまったのだ。
出来上がったのは、二人の先輩大好き人間である。
﹁俺も、ダメ元でも告っときゃよかったなあ﹂
俺たちが恋に落ちたのは当然と言えようか。
そう、俺たち二人は同志だ。ライバルとも言えた。それは恋愛面
においても。
﹁先輩どこ行っちゃったんだろおぉぉ﹂
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びえええ、と中山が空のグラスを握りしめ発作のように泣き声を
上げる。
﹁もう泣くなよ、メイクぐずぐずだぞ﹂
﹁うるせー菅谷、黙ってろ!﹂
﹁⋮うわあ、その言い方秋塚先輩そっくり﹂
﹁かぁわいいよねえ、先輩﹂
鼻をずびずび言わせながらひとりごちる中山に、俺は苦笑した。
秋塚先輩は、普段はその怜悧な美貌に似合う言葉遣いなのだが、
ひとたび酒が入ると途端に下町のガキ大将のような口調になる。元
々が童顔なので、それがやけに似合う。俺たちは、それでやられた。
ギャップ萌えの極地である。つまり、気を許した秋塚 遼は恐ろし
く可愛いのだ。
﹁よく今まで無事でいられたな、と俺は本気で思う。先輩は実は誘
拐されていて、今頃どっかのエロおやじに囲われているんじゃない
かとか不安なんだよね﹂
﹁あんたも酒が入ってきたわね、そんなファンタジー。あんたの願
望が顕れてんじゃないの﹂
﹁かも。ちょっと設定、AVっぽいよな﹂
こんな軽口を叩けるのは、心の底にはびこった不安に蓋をして、
見ないようにしているからだ。俺たちはこの間、有休をとって先輩
の実家を訪ねたところで自分たちの無力を思い知らされたばかりだ
った。
俺たちは今も、どこで先輩の死体が見つかるのかとびくついてい
る。
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失踪人で、無事に戻ってきたケースはごく稀らしい。社会的に成
功している人物であれば尚更だ。秋塚先輩の両親はもう亡く、彼の
祖母だけが実家に残っていたが、彼女は俺たちと話しながら、諦め
たように笑っていた。警察であまり期待しないようにと散々言われ
たのよ、とそう言って笑った。その笑顔が先輩にどこか重なって、
中山が泣きだしたのは仕方がない。
自殺をするような人ではない。そう思うのが限界だった。
初老のバーテンダーにアレキサンダーを注文すると、中山が鼻を
鳴らす。
﹁随分ロマンチストですこと﹂
俺の中で、クリスマスと言えばアレキサンダーという固定概念が
あった。他にもオーダーしている客は多い。その中で、中山はミモ
ザとファジーネーブルだけを浴びるように飲んでいる。二か月前か
ら、ずっとそうだ。その二つは秋塚先輩のお気に入りで、彼はいつ
もそればかり飲んでいた。
﹁お前こそ。秋塚先輩のオレンジジュース狂いをいつも馬鹿にして
いたくせに。そんなのじゃ全然酔えないだろ﹂
ミモザもファジーネーブルも、度数はかなり低い。秋塚先輩と違
って中山は酒豪を地でいくような女だ。酔っているような素振りは
していても、実際には頭は冴えたままだろう。
﹁いいのよ。ここでスクリュードライバーなんて飲んだら、台無し
になるような気がするもの﹂
﹁わかんねえなあ、お前の感性﹂
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﹁先輩が帰ってくる頃には、私だってオレンジジュースで酔えるよ
うになってるわよ﹂
﹁そんで俺がお前を送るんでしょ、勘弁してよ﹂
﹁抜け駆けはなしよ。次の日会社行ったらあんたと先輩が揃って休
みだった、なんてことは絶対許さないから﹂
﹁根に持つなー。あの日は何もなかったんだって、ほんと﹂
キスはしたが、それ以上は本当になかった。それも先輩は無意識
も同然だったから、虚しさは半端じゃなかった。次の日は、熱をだ
した先輩を病院に連れて行ったりするのに半休をもらったのだ。
﹁私だって男だったら先輩に部屋に泊まってもらって、全力で介抱
したのに!﹂
中山が吼える。
秋塚先輩は自他ともに認めるフェミニストである一方で、女性関
係はきっちりしていた。恐らく淡泊なほうであったのだろうと思う。
いくら女性社員にモーションをかけられようとも、同僚部下には決
して手を出そうとはしなかったからだ。
﹁全然意識されてないっていう点では、男のほうが辛いんだけどな
あ﹂
﹁押し倒す隙があるだけマシじゃない!こっちが女ってだけで、鉄
壁の防御なのよ、あの人﹂
﹁ま、確かに。隙はありありだったね、危ないくらいに。ゲイには
恰好の餌食﹂
手を出そうという思いに駆られたことは数知れず。ノンケでさえ
もくらっとくるようなあの可愛さをどうしてやろうかと、頭を悩ま
せることがなくなったこの二か月は、そういう意味では楽だった。
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﹁そういえば、総務部の後藤主任、先輩がいなくなってからすごい
やつれたわよね﹂
﹁ああ、後藤主任は先輩と仲良かったからなあ﹂
﹁え、そうなの?なんだ。彼もあんたと同じなのかと思ってたわ﹂
﹁なんだよ、中山。下世話だなあ﹂
﹁そんなんじゃなくて。私たちみたいに骨身にこたえるほど悲しん
でいる人を見るだけで、共感しちゃうっていうか、ああこの人も先
輩が好きだったんだなあって思えて、仲間みたいな気がしてくるの
よね﹂
﹁まあ、多分後藤主任はノーマルだけど、秋塚先輩のことが好きだ
ったんだと思うよ﹂
﹁それってつまり、ゲイでしょ?﹂
中山はきょとんとした目で、小首を傾げる。わかってないな、と
俺はスツールに座り直し、中山と向かい合う。
﹁違うよ。ゲイっていうのは、元から恋愛対象が同性のことを言う
の。わかる?﹂
﹁ふうん、だからあんたはゲイだけど、後藤主任はノーマルってわ
けね﹂
﹁そういうこと﹂
﹁だからあんたは、秋塚先輩がゲイじゃなくても諦めないのね﹂
﹁んー、先輩は多分そういうのいけるタイプだと思ったから﹂
秋塚先輩は、そこまでセクシュアルにこだわらない人だ。
もちろん、俺の希望的観測であることは否めない。が、気持ち悪
いと一刀両断するような人ではないことだけは、俺は本能的に感じ
取っていた。
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たまに考える。あの夜。先輩が俺の部屋に泊まった日。無理やり
にでも押し倒していたらどうなっていただろう、と。キスしたとき
に、先輩に意識があったらどうなっていただろうと。酒の勢いで、
なんてよくある話だ。
俺たちの関係は崩れていただろうか。
あの少し火照ったような、押し付けただけの唇の感触を、ずっと
覚えていたいとあのとき俺は願った。しかし今、もう感触は忘れて
しまった。柔らかかったという月並みな感想しか残されていない。
﹁ゲイって人種は、なんだか不憫ねえ﹂
﹁そう?﹂
俺たちには、これが現実だ。
﹁でも私、あんたがゲイじゃなかったらここまで仲良くなれなかっ
たと思うから、あんたがゲイで良かったと思う﹂
﹁中山はさー、男が嫌いとか言ってないで、もっと色んな男を見る
べきだと思うよ。それだけの美人だから苦労するのはわかるけど﹂
﹁⋮いいの。私は秋塚先輩が帰ってくるの、待つんだから﹂
﹁帰ってこなかったら?﹂
﹁スガ!!﹂
そんな悲痛な顔するなよ。
中山の、むき出しの感情が、俺には痛い。
俺たちゲイは、諦めることに慣れている。先輩のことも今まで好
きになった男たちみたいに諦められる。その考え方はあまりに自虐
的で、その一方で甘美なほどに楽な考え方だった。
﹁冗談だよ、ごめん﹂
﹁冗談でもそういうこと言うな!﹂
61
﹁ごめんって﹂
空々しい笑みを浮かべて、俺は中山の目じりを指で拭ってやった。
思ったより、酒が回っているのかもしれない。中山も、俺も。
そんな、クリスマス。
62
ずるい俺とやさしいあいつは
足りない⋮足りない、あれが足りない、不足している。禁断症状
がもうすぐ出る。このまま行くと俺は、⋮あれがないと、俺は︱⋮
﹁こうないえんこうないえんこうないえんこうないえん⋮﹂
﹁おい、何をぶつぶつ言ってんだ﹂
﹁カイル、俺に構うな。俺は今迫りくる苦痛を回避するべく、自分
に足りない要素を取り入れようとだな⋮﹂
ここにあの黄金の果汁があれば文句はないのだが、あいにく今は、
かの液体を生み出す果実が生る季節からどんどんと遠のいている時
分だ。他で補うしか、道は残されていない。俺は三日と空けて、あ
の液体を摂取しなかったことはない。いや、あったかもしれないが、
覚えていない。
まあとにかく、だ。俺が懸念しているのはビタミンCの不足で大
変な事態に陥るのではないかということだ。恐怖。あの痛みはとて
も忘れることはできない。
﹁で、お前はどこに向かっているんだ﹂
﹁市場﹂
﹁何を買うつもりだ﹂
﹁あんたの部屋になくて、人間には一般的に必要だと思われている
もの。なんだかわかる?﹂
﹁いや、さっぱり﹂
俺たちが今いるのは第四郭の大通りである。
デートをしよう。
63
そう言ったのはカイルだった。表面的には上手くやれていたが、
それでも気まずい生活を送っていた俺たちの関係を、修復しようと
しての提案だというのはすぐにわかった。
彼は冗談めかしてデートというふうな言葉を使った。俺が気負わ
ないように。警戒しないように。その気遣いの下の、断られたらど
うしようと不安気な表情を彼は隠しきれていなかった。そんな表情
を見せられて、どうして俺が断れるだろう。
って、野菜なのか?なにか、もっと、
﹁野菜だよ。あんた、よくあれで体調崩さないよな。主食、肉じゃ
俺にも買うものがある
ん﹂
﹁
こう⋮﹂
プレゼントしようとしてくれたのだろう。俄然張り切って家を出
たカイルは、今は肩を落とし少し微妙な顔だ。それでも、なんだか
なあなんて言いつつも一緒に歩いているだけで嬉しいという様子で、
たまに頬を緩ませているのを俺は知っている。
カイルはかなり背が高い。こちらの世界ではそれが普通なのかと
思いきや、日本よりは少し高めだが平均身長はそれほど変わらなそ
うだ。俺くらいの男も、多く見られる。そうと言えば、容姿も多彩
だが白人めいた人種が多いものの、肌が黒かったり、アジアっぽい
雰囲気の顔をしている人も多い。俺はそこまでこの世界に違和を抱
かせないだろうと、少し安心する。
ただ、俺単体ではあまり目立たなかっただろうが、カイルと一緒
に歩いているせいで注目を浴びている気はした。加えて言うならば
時折、カイルの知り合いらしき人たちが話しかけようとしてくるが、
俺に気が付いてフェードアウトしてしまうことだろうか。俺とカイ
ルを見比べて仲間内で何やら言い合っている。
﹁おい、いいのかよ。あの人たち﹂
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何度目かのそれに、俺が目線で彼らを指すと、上の空という言葉
がぴったりくるようなカイルは、機嫌よく俺を見下ろした。
﹁うん?ああ悪い、聞いてなかった。なんだって?﹂
あれ
?⋮ああ。なんだ、あれが食いたいのか﹂
﹁いや、あれ﹂
﹁
俺が示したのとは全然違う場所の屋台に目を留めて、知り合いら
しき人たちには気が付きもしない。俺はつい苦笑を漏らした。
﹁いや、うんまあいいや、それで、もう﹂
﹁そこに座って待っていてくれ。買ってくるから﹂
人ごみというほどでもないが、大通りにはそれなりに人通りがあ
る。馬車やなんかも通りの中央を通ったりして、往来の中を立ち止
まるのは難しい。俺は通りの脇の、噴水の縁石に腰かけた。
ああ、いい天気。
俺はこんな昼下がりが無性に好きだ。風は少し冷たいがカイルの
お下がりのマントは大きくてとても温かく、木枯らしをしっかり防
いでくれている。マントなんてファンタジーの産物だと考えていた
が、これがなかなかどうして使えるのだ。俺は足首ではためいてい
るマントの裾を体に巻き付ける。縁石の冷たさは伝わってこない。
﹁君、今ひとり?﹂
うん?
見ると、若い女性の二人組がにこやかに、座った俺を見下ろして
いる。
なんだ、ナンパか。暇そうにしているのに目をつけられたか。
65
﹁いえ、連れがおります﹂
これは早々に逃亡するに限る。誰から見ても男前なカイルが戻っ
てきたら、人数的にもひと悶着ありそうだ。女性には常に優しくあ
れと信条にしている。愛想笑いとすぐにわかるように、一瞬だけ頬
から唇の両端を持ち上げる。
﹁えー、じゃあその人は放っておいてさ、お姉さんたちと遊ばない
?﹂
可愛いな。えー、だと。
明らかに、俺のほうが年上だ。俺を年下だと思い込んでいるらし
い女性の背伸びした感じはなんとも愛らしく、微笑ましい。男を誘
うのに慣れた風を装ってはいるがその実、緊張しているのが丸見え
だ。
﹁すみませんが、嫉妬深い恋人に手綱を握られているので、他を当
たってください。お姉さんたちなら、ナンパなんかしなくても男は
寄ってきますよ﹂
﹁あ、ちょっと、君!﹂
退散、退散っと。口早に言って立ち上がり、頭を下げ通りの反対
側へ向かう。カイルが屋台の前で並んでいるのを横目に気にしつつ、
そこをそっと離れた。このまま合流するのもまずいだろう。
俺は少し迂回して、屋台の向かいの路地に入った。ここからなら
カイルがよく見える。
それにしても、少し安心した。俺はまだ、女性にとっても恋愛対
象に入るらしい。カイルの一件で、この世界では俺は男にばかりモ
テるようになるのではないかとあらぬ不安を抱いていた。日本では
66
煩わしいだけだったナンパの声も、女性に興味を持たれている証拠
だと考えれば貴重なものだ。
﹁やべ﹂
そんな不埒なことを考えていると、やっと物を買えたカイルが振
り返り俺の不在に気が付いた。
見る見るうちに顔が強張り、唇が俺の名前を呼んだのが見える。
きょろきょろと辺りを見回すが、こっちには気づかない。俺は駆け
寄ろうとしたが、カイルの本当に泣いてしまいそうな横顔に思わず
足を止めてしまった。
﹁カイル!﹂
叫ぶ。
俺なんかのために、泣くな。
もし俺があの部屋を出て行ったら、そう考えてしまうほどだ。俺
はずるい。カイルのためには、今日だって絶対に誘いに乗っちゃい
けなかったんだ。脈はないと、はっきり示してやるほうが彼のため
なのだとわかっている。
だけど、彼の安心したような笑顔が見たいと、そう思ってしまっ
たのだから俺はずるい。
﹁リョウ!勝手にどこかに行くな、心配しただろう!﹂
﹁うん、ごめん﹂
初めて聞く怒った声。俺はへらりと笑った。そうでもしないと、
俺はどうにかなってしまう気がした。
本当に、これはまずい。
67
﹁本当に、お前はもう⋮。心臓に悪い。いいか。俺が言うのもなん
だが、知らない人にはついて行っては駄目だ﹂
いや、ほんとにあんたが言うな、あんたが。俺たちの馴れ初めは、
ずばりそれだろう。俺が幼少からのその教えに従っていたならば、
今こうしてカイルと話していることはなかっただろう。
あれ?そうしたらカイルが俺に惚れるなんて珍事も起こらずに済
み⋮︱︱
嗚呼。今、ようやくわかった。知らない人について行ってはいけ
ないとは、正しい教えだったのだ。ごめん、母さん。今頃になって
俺、心底後悔してる。
﹁ナンパされたから、逃げてたんだよ﹂
﹁⋮男に?﹂
﹁ちっげーよ!!女だよ!馬鹿にすんな、こんちくしょう!﹂
﹁そ、そうか。悪い﹂
どうしてこれが激昂せずにいられまいか。
ったく、
﹁変な心配すんな、ばーか﹂
﹁⋮⋮﹂
カイルが上を向く。そうすると、彼がどんな顔をしているのか俺
にはわからない。しかし心なしか、耳が一刷毛赤いような。俺はそ
れを見なかったことにしてやった。罵倒されて照れるなんて、率先
して人に知られたい性癖ではないだろう。
﹁なあ。早くそれくれよ﹂
さっきから、ほくほくと湯気をたてて良い匂いを発しているそれ
68
が、俺の唾液腺を刺激してやまないのだ。俺の身体は来たる栄養に
既に臨戦状態である。顔を戻したカイルが持っていたものを俺のほ
うに傾ける。その表情には努めて何も窺わせない。
﹁そうだった。どっちがいい?二種類買ってきた﹂
﹁うわ、本当だ。美味そう。じゃあ俺こっち﹂
クレープの、パンに近いようなふんわりしたものに、色々と惣菜
が挟まっている。これは屋台効果だろうか。恐ろしく魅力的だ。俺
は野菜がたくさん挟まっているほうを選んだ。カイルが肉を食べた
いだろうなと思ったからではない。単に、口内炎との戦いに一石を
投じただけだ。
﹁こっちも、一口いるか?﹂
﹁いらねーよ。気にしないで食ってろ﹂
誰がそんな恋人イベントに乗るかっつの。
﹁歩きながらでいいか。行儀は悪いが﹂
﹁うん﹂
俺たちはそれぞれ思い思いの方向を向いているのに、二人の間の
今朝まであった気まずい空気は霧散していた。ほっと、息を吐きた
くなるような、そんな空気。それが今の俺たちを包んでいる。
﹁リョウはどんな家庭で育ったんだ?﹂
﹁んー、両親はあまり家にいない人だったから、ほとんど祖母の家
で育ったなあ﹂
おいしいものを食べながら、互いのことを話す。ただそれだけで、
69
なんだか幸福だった。それは俺の育った家庭に欠けていたものだっ
たからかもしれない。
﹁兄弟は?﹂
﹁一人っ子だよ。カイルは?﹂
﹁俺は兄姉と妹と弟がひとりずついる。弟は、ちょうどリョウと同
じくらいだな﹂
﹁ふうん、カイルって何歳なの﹂
﹁28だ﹂
なんだ。案外近い。
﹁俺と一個違いだね。弟さん今何してんの?やっぱり騎士団?﹂
﹁まだ家に⋮って、ちょっと待ってくれ。すまん、空耳だとは思う
んだが﹂
カイルが立ち止まってしまったので、俺は手に持ったパンを齧り
ながら、どうしたのかと首だけで振り返る。彼は腰に片手を当て上
半身を折った姿勢のまま固まっていた。
﹁どうしたんだよ﹂
﹁27?リョウ、お前27歳なのか。いや、頼むから29歳なんて
言わないでくれよ﹂
﹁27だけど。何歳だと思ってたのさ﹂
実際若く見られているだろうなとは感じていた。アジア系ってい
うのもあるだろうが、俺が甘い顔立ちだというのもあるだろう。俺
は母親に似たのだ。身長は父親に似たのは、不幸中の幸いだった。
辛うじて顧客に舐められない程度の身長はある。
俺は言葉遣いや動作にも余裕が感じられるように心がけてはいる
70
が、元々は一人っ子らしい甘えたな性格だ。カイルの前では全く隠
していないから子供っぽく見えていたのかもとも思え、少し恥ずか
しい。
﹁⋮20歳は越していないかなと、﹂
﹁はああ?あんた、それ犯罪!﹂
口から食べかすが飛ばなかっただけマシだと思う。俺は叫んだ拍
子にむせて、カイルに背中をさすられるはめになった。
﹁大丈夫か﹂
ああ、なんか既視感。
しかし、そこまで下に見られていたとは。え、じゃあこの人なに、
未成年にあんなことやこんなことをしてくれちゃっていたわけです
か。
﹁大丈夫じゃないよ。HPはもう残り少ないよ。ポケモンセンター
行かなきゃ﹂
﹁?﹂
﹁や、こっちの話。それにしても、よくも俺に手を出してくれたな。
もし本当に未成年だったら、心の傷が残っているところだぞ﹂
﹁本当に未成年だったらって、つまり未成年じゃなかったリョウは
心に傷を負わなかったってことか﹂
﹁そういう解釈もできるけど、今はその話はしていない﹂
﹁へえ、じゃあ何の話をしているんだっけ﹂
意地が悪いな。にやにやするんじゃないよ、いい大人が。やめな
さい。仮にも年上でしょうが。
71
﹁そう、どんな家庭で育ったか、だ。弟は何をしてるって?﹂
﹁学府で学んでいるところだ。姉はもう嫁いだが、妹は家に残って
いる。父親を随分昔に亡くして兄が家を継いだ﹂
﹁お兄さんは今﹂
﹁32歳だ。新婚なんだが、あれだな。新婚っていうのは、本人た
ちは幸せなんだろうが、周りには迷惑でしかないんだな﹂
カイルは饒舌なほうではないが、その落ち着いた喋り方はどこか
人を安心させる。愛されて育ってきたんだと、それがすぐに伝わっ
てくる。
﹁いいなあ、兄弟が多くて﹂
﹁ああ。⋮いやしかし、27歳か⋮﹂
カイルは俺の年齢に何か思うことがあったらしい。難しい顔をし
ている。その表情に俺が何も思うところがなかったと言えば、そう
ではない。
市場まで俺たちは言葉を交わさなかった。
カイルは、俺が今抱いている感情を、理解することができないだ
ろう。好きなものは好きと言える純粋さをこの年齢までまもってこ
れたということは、ある意味で貴重なことだ。それは自分の世界を
失ったことがないというだけでなく、自分の世界の中にいてなお自
分というものをまもってこれた強さでもある。
本当に頼れるものが自分一人になってしまったとき、その自分さ
えもが頼りにならないと知ってしまった人間が、手を差し伸べられ
ればその手を無条件に頼ってしまう。その怖さ。危うさ。
彼を失ってしまったら、そう考えた俺は彼の差し伸べた手を握る
ことを躊躇してしまった。そしてその手を取らないことを選んだ。
なのに、
72
俺は、ずるい。
73
あんたに触れたくて堪らなくて※
﹁ただいまー﹂
昔からの鍵っ子で大学進学から一人暮らしを始めた俺は、ただい
まという言葉をあまり使ったことがない。祖母の家では終始黙って
いたようなものだから、俺はこの言葉の温かさに気が付かないでい
た。
台所に立っていたカイルが顔をのぞかせる。今日は、彼の数少な
い非番の日である。このところ、俺が慣れるまでと取っていた休暇
の分を、取り戻すかのような忙しさだったのだ。
﹁おかえり﹂
﹁さっき、そこでココルズに会った。あいつまた別の女連れてたぞ、
青二才のくせして﹂
﹁ひがむな。それより昨日の飯の礼伝えておいてくれたか﹂
﹁うん。近所に料理が上手いのが住んでると便利だな。ちゃんと女
の子のほうは誘惑しておいたから、当分、ここらは平和なままだ。
安心しとけ﹂
﹁そんなことばかりしているとココに恨まれるぞ﹂
﹁この神聖なる男所帯に、女を連れ込もうとするあいつが悪い。し
かも毎回美人でムカつく﹂
大人気ないと言うなかれ。俺は周囲の暴挙を見逃せるほど大人で
はない。まだ二十代だ。
リーマン時代も、後輩の菅谷というイケメンに群がる女性には片
端から優しくご指導し申し上げた。俺の遺憾なく発揮された先輩風
に、彼は為す術もなかったというわけである。俺は社内恋愛反対派
74
だから、周りでいちゃいちゃされることには我慢ならない。大人気
ないと言うなかれ。
﹁もうすぐココが来るな﹂
﹁文句を言いに?﹂
﹁女を見送った後で﹂
﹁いやあ、紳士だなあ。ココルズくん﹂
彼は少し後輩の菅谷に似ている。だからついからかいたくなって
しまうというのが、本音である。
手を拭いつつカイルは台所を離れ、窓辺のソファーに腰かける。
訊くと、今は肉から血が抜けるのを待っていると言う。
﹁あんまり酷くしてやるなよ﹂
﹁わーかってるって﹂
﹁どうだかな﹂
俺の本当の年齢を知ってから、カイルはどこか吹っ切れたようだ。
恐らく、未成年に手を出しているという罪悪感がなくなったせいだ
ろう。俺に対する扱いも、俺にとってはいい意味で雑になった。言
い方を変えれば、ざっくばらんになったと言える。
シャワーで気まずくなることもない。彼は相当に我慢強い。それ
を俺は感謝しかできないのだが、彼はそれでいいと言う。
﹁あ、来た﹂
どんどんどんどん、と激しく扉が叩かれた。殴られていると言っ
たほうが正確かもしれない。哀れな扉。
ルンルンと笑み崩れている俺をみて、カイルがため息を吐く。あ
んただって少し愉快なくせに、とは言わないでおこう。俺は深呼吸
75
して、いやらしい笑みを引っ込めた。
﹁どうかしましたか、ココルズくん﹂
なんで彼が怒っているのかまったく理解できません、というよう
な無垢な気持ちで、扉を開いてシモン・ココルズを迎え入れる。
﹁あんたねえ!いちいち人の彼女に色気振りまくの、いい加減やめ
てくださいよ!﹂
﹁い、色気ですか?﹂
﹁あーもう!こっちはわかってんですからね、猫被ってんの!聞け
ば30歳だっていうじゃないですか、何ですかそれ。若者の恋人取
り上げて遊ぶのそんな楽しいですか。ていうかその顔で30歳って
詐欺!﹂
﹁ああ、だから敬語なんですね﹂
﹁まあ今更ですけどね。最初、俺あんたのこと年下か同い年くらい
かと思ってましたもん﹂
﹁でも俺、27歳ですよ、まだ﹂
﹁同じようなもんでしょ。つまりは俺より5歳は年上ってこと。道
理であのフェロモンって納得しちゃったじゃないですか﹂
なんだ、腹立つな。30代と20代はまったく別物だ。つまりは、
なんて言葉で一緒くたにしてくれるな。
﹁はあ。それは、ご納得頂けて良かったとは思いますが、申し訳な
いんですけど、仰っている意味がよくわからなくって。すみません﹂
﹁しかも、彼女にはあの人誰なんて聞かれるし、散々ですよ。なん
て説明したらいいのかもわかんないし﹂
﹁一緒に住んでいる人、とかどうでしょうか﹂
76
俺が発案すると、ココルズは面白いくらいに真っ赤になった。そ
の赤さに少し溜飲が下がる。
﹁誤解を生むでしょ!一緒のアパートに住んでるってだけでしょう
が。まったく、あんたの態度見てるとカイルさんが可哀そうになっ
てきますよ、本当に﹂
﹁まあ、そう言ってやるな。リョウも就職が決まって浮かれている
んだ﹂
﹁でもねえ、リョウさんはわかってないわけでしょ、カイルさんと
住むっていうのがどういうことなのか。あれ、ってか働くとこ決ま
ったんですか。おめでとうございます﹂
俺を庇ったカイルに、今なにか言わなかったか。
俺がわかってない?どういうことなのかって、どういう意味だ。
﹁リョウ?﹂
﹁何か、俺に隠してることないか。カイル。俺がなにをわかってな
いって?﹂
﹁何でもない﹂
﹁んなわけあるか。ココルズくん、どういう意味?﹂
﹁ココ﹂
カイルが止めようと鋭い声を発する。ココルズは挑戦的な目を俺
に向けた。
﹁カイルさん、リョウさんに触れてないでしょ﹂
﹁ん、触れてないね。見りゃわかる﹂
﹁そうじゃなくて﹂
﹁ココ﹂
﹁セックス、してないでしょって意味﹂
77
﹁⋮セックス?﹂
肩を竦め、後輩に似た寝癖の青年は、ほらわかってないと言わん
ばかりに笑う。それが勘に触る。自分を抜かして秘密があったこと
が、堪らなく不愉快だった。
﹁もういい、ココ。リョウも、知らなくていい﹂
﹁うるさいよ、ちょっと黙って。ココルズくん、続けて﹂
立ち上がりかけたカイルは、諦めて再び腰を落とす。ココルズは
それを確認して口を開いた。
﹁魔力っていうのは毎日少しずつ減っているのは知っているでしょ
う?日常生活くらいなら、寝るだけで回復するのですが、俺ら騎士
となるとそうはいかない。毎日訓練で膨大な魔力を消費してますか
らねえ﹂
﹁それを回復するのがセックスってこと?﹂
﹁まあ簡単に言っちゃえばそういうことですかね。カイルさんは相
当我慢してると思いますよ、ムラムラしちゃってどうしようもない
でしょうに﹂
思い当たる節がある。カイルは訓練から帰ってきたばかりの時は
あまり近づかないようにと俺に言い含めた。体臭を気にしているの
かなどと思っていたが、事態はもう少し深刻だった。欲情してしま
うから、というのが理由だったとは。
﹁今も、してんの﹂
﹁している﹂
俺の質問に、カイルは端的に答える。
78
﹁魔力が切れるとどうなるの﹂
﹁切れることはありませんよ、ただ身体が辛いだけです﹂
﹁そんなに心配するな。ココはこう言っているが、実際自分で慰め
ることもできるから。お前が悩む必要はない﹂
カイルお得意の、強がりなのだろう。この数週間で俺はカイルの
大体のことがわかってきていた。
﹁そんなこと言って、いい加減に魔力補充しないとラシュが襲いに
来ますよ。あいつはリョウさんより慣れてるからそっちのほうがい
いのかもしれませんが﹂
﹁ココルズくん、ありがとう。貴重な意見だった。悪いんだけど、
ご退出願ってもいいかな﹂
﹁これに懲りたら、俺の彼女追い払うのやめてくださいよ。俺にと
っても死活問題なんすから﹂
﹁善処する﹂
ココルズが部屋を出て行ったあと、俺たちは二人に戻ったが、コ
コルズが来る前と同じ雰囲気にはなりそうもない。カイルは俺と目
を合わせようとしなかった。
﹁するか、なんて言うなよ﹂
﹁なんで﹂
ぼそりと落とされた声は、不満気でさえある。その声が自分のも
のだと気づくのに、ほんの一瞬だが、時を要した。
俺は望んでいるのか、この先を。
﹁あんまり俺を馬鹿にするな。逃げ道を塞がれたお前をどうこうす
79
るつもりはない。別に相手がいなくたって時間をかければ魔力は回
復するんだ﹂
﹁でも、十分じゃないんだろ﹂
﹁リョウが気にすることじゃない﹂
﹁もう、気にしてる。なんでかわからないけど、お前とそのラシュ
ってやつが絡んでるところを想像するのも嫌だ。これじゃ理由にな
らないかな﹂
数週間前の、自分が発した言葉のひとつひとつを覚えている。毎
夜、どれだけカイルを傷つけたのかを思い出しているからだ。
あの日と同じ空気、間合い。
﹁酷いな﹂
カイルは唇を捻じ曲げしわがれた声で、あのときと同じように言
った。
その言葉は同じでも、意味合いは全く正反対といってもいい。
﹁あんたのことが好きなのかは、まだわからない。けどちゃんと考
えるから﹂
﹁⋮どこまで俺を翻弄すれば気が済むんだ、お前は﹂
﹁それに、いつかこうなるだろうとは思ってたんだ﹂
﹁俺が強制するだろうって?﹂
﹁いや。俺の問題﹂
手を取らないことを選んだつもりだった。だがその手に惹かれて
いく自分がいて、俺はその自分に逆らえないということをわかって
いたのだ。
男との行為のための準備は、同僚に訊いた。この世界ではゲイは
ゲイとしてほかと同様に扱われている。それでも人にそんなことを
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訊くことに抵抗がなかったと言えば嘘になる。俺を既に友人として
認めてくれたカイルの友人は、我が事のように喜んだ。そのときは
不思議に思ったが、なるほどそういう事情があったからなのか、と
今では頷ける。
﹁しよう﹂
窓辺のソファーから、カイルは動かない。俺は逆光で読み取りに
くい彼の目の中に、猛々しい激情を見る。彼は考え込んで口をつぐ
んでいた。俺の率直な誘いに、たじろいでもいる。
﹁いいのか﹂
﹁いいよ﹂
﹁この線を超えたら、俺たちはもう元には戻れない。それでもいい
のか﹂
﹁いい。そのかわりちゃんと責任取れよ﹂
未だに俺は、責任という言葉に縛られる関係への道を恐れている。
気持ちがなくなっても、責任という言葉で相手を縛り付けることが
できる関係を恐れていると言ってもいい。
﹁もちろん。だからリョウどこへも行くな﹂
切ないまでの声に、俺は見えない力に引き寄せられるように彼に
近づいて行った。彼の前に立つと、カイルがソファーに深く腰を沈
めたまま俺の手を引く。あっけなく彼の腕の中に迎え入れられ、そ
の匂いに、俺はこれを望んでいたのだと、ようやく気が付いた。
カイルの手が、俺のうなじを撫でる。欲望が血管を流れ出て、ぞ
くぞくと身体を疼かせる。鳥肌を立たせた俺の目を、カイルは額を
81
合わせ覗き込む。
﹁興奮してる﹂
カイルがいつもの穏やかさを捨て、凶暴に笑った。耳に口を寄せ、
ふっと息を吹きかけるものだから堪らない。俺はびくんと身体を震
わせ、カイルの首筋にしがみついた。
﹁ん﹂
ねとり、と耳に熱く湿ったものが触れた。舌だ。耳の穴をこじ開
けるようにして、ぴちゃぴちゃという卑猥な音が流れ込んでくる。
俺はカイルが誘導するままに、彼の腰に跨った。ちょうど彼の怒
張が俺の尻の下に当たる位置で体がずり落ちるのをやめる。それだ
けで大した刺激だったのに、カイルは時折腰を揺らして赤面した俺
をからかう。
﹁恥ずかしいな、この恰好﹂
﹁言うなよ﹂
かあああっと顔に血が上り、俺は耐え切れずカイルの肩口に顔を
埋めた。
﹁今から油を取りに行くが、俺が戻るまでに下衣を全部脱いでおく
こと。できるか?﹂
﹁う、えは﹂
﹁着たまま﹂
﹁できる﹂
何でもないさ、下を脱ぐだけだろう。全裸だって散々見せて来た
んだ。そう思ったのは最初だけで、いざ脱いでしまうと、上だけき
っちり着ていることがとてつもなく恥ずかしい。カイルが油の瓶片
手に戻ってきたときには、俺は息も絶え絶えだった。
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﹁いい子だ﹂
彼が優しくそう言うと、俺は不覚にも泣きたくなってしまった。
﹁カイル。キスして﹂
抱きしめて。
彼は要望通りにしてくれた。息苦しいまでの淫靡ななまめかしさ
が不意に俺を襲う。待ってと言うことも出来ず、俺はただ唇が近づ
いてくるのを、固唾を飲んで待っている。
早くちょうだい、そう叫びたくなる。カイルはなかなか唇にキス
をくれない。俺は唇をひくつかせて塞がれるのを待った。
﹁リョウ﹂
乱暴に割入ってくる舌をどうにか受け止め、その要求に応える。
角度を変え、高さを変え、色々なキスを味わう。カイルはキスをし
ている最中にも、指先で首から鎖骨にかけてを愛撫している。俺は
深く息を吸う。すると途端に悪寒に似た快感がのぼってきて、俺は
耐え切れず腰を静かに揺らした。
カイルは再びソファーに深く座り、足元に蓋の空いた香油の瓶を
置く。そして俺にさっきと反対向きに跨らせる。カイルの息遣いを
うなじに感じる。固いズボンの生地にむき出しの尻が擦れた。
﹁んっ﹂
カイルが腕を脇腹から伸ばし、彼の長い指が服の上から俺の胸の
突起を探し当てる。すぐさま固くなったそれを、クリクリと人差し
指で捏ね回す。俺は思わず声を上げた。
﹁気持ちいいか﹂
83
﹁ぅん、いい﹂
﹁直接触ってほしい?﹂
﹁ん﹂
﹁駄目だ﹂
予想外に拒絶されて、俺は瞳を揺らした。なんで、酷い。
﹁んんっ﹂
抗議の声を上げようとしたときに、カイルが乳首を強く押しつぶ
した。ぎゅっと目を瞑る。耳の中をなぶられ、甘く耳朶を噛まれる。
くちゃくちゃと、脳髄まで響きそうな音がいっそう胸の小さな飾り
を固くする。
﹁敏感だな。まだ乳首しか触ってないけど?﹂
﹁う、るさいな﹂
﹁こっちはもう固くて涎垂らしてるし﹂
俺は思わず腰を浮かした。すると、尻のしたで張りつめていたカ
イルの中心が、どくりと脈動する。くすぐるように布越しに乳首を
触られるが、もどかしいばかりだ。カイルの顔が見れないというの
ももどかしさに拍車をかける。
おもむろに、カイルが姿勢を変えた。俺をソファーの座面にその
まま座らせ、両足も座面に上げる。どんな体勢になるのかにすぐに
気が付いた俺は、慌てて足を閉じようとしたがもう遅い。背後に、
おれと同じように座ったカイルが、両足を俺の脚に絡ませるように
して固定してしまった。
﹁カイル⋮⋮俺、これやだ﹂
いわゆるМ字開脚の俺は、張りつめた怒張を後ろから覗き込まれ
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恥ずかしさに悲鳴を上げる。
﹁リョウ、これ咥えてて。自分でちゃんと直接触れるようにして﹂
そう言って口に持ってこられたのは、俺のシャツの裾だ。腹から
胸に外気が当たる。その冷たさと羞恥で乳首がじんじんと熱を持っ
た。自分でシャツを上げているというだけで興奮して、愛撫を求め
て身体が燃えるようだ。
﹁口、放すなよ﹂
そう低く囁くと、さっきまでわざと避けるようにしていた俺の熱
源を、カイルは急に握り扱き始めた。スパークするように背中を走
る快感が収まらないままで、摘まんでくれと言わんばかりに主張し
ていた胸の突起になぶるような刺激が与えられ、俺は大きく喘いだ。
85
臆病な俺と※
あれ。俺、ココルズが出て行ったあと、玄関の鍵、かけたっけ。
気になりだすともう駄目だった。
この騎士団のアパートの部屋の間取りは、玄関から今いるダイニ
ングまでが見渡せるようになっている。誰か今人が入ってきたら、
俺たちの痴態はその人の視界に否応なしに入ってしまう。
﹁何を考えている﹂
想像するだけでぞっとする。しかしそれはどういうわけか、一種
の興奮をもたらした。俺は玄関扉の銀色の把手から目が離せなくな
る。あれが動いたとき、俺はどうなってしまうのだろう。俺の速度
を増した鼓動を、後ろから抱きしめているこの男は感じ取っただろ
うか。
﹁⋮カイル、ここ、は嫌だ。鍵が﹂
﹁何だ、お前はいつも鍵、鍵だな﹂
﹁うるさい﹂
﹁見られるかもしれないと思って、大きくしているのか。これは⋮
とんだ変態だ﹂
くくく、と笑うカイルの頭を、腹を立てた俺は後ろ手にぐいと押
しやる。
﹁いいから早くベッドに連れて行けよ﹂
﹁ココが戻ってくるかもしれないな。もしくは隊の招集がかかって、
誰かが呼びに来るかも﹂
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﹁カイル!﹂
﹁掃除する場所はひとつにしておきたい。我慢できるか?﹂
﹁ッん、あぁ⋮﹂
カイルが、指先で固くしこった左の突起をはじいた。俺は腹筋に
力を入れどうにか押し寄せる波に耐える。
﹁それじゃあ、どこまで我慢できるか測ってみようか。出すなよ。
ソファを汚したら、寝室には行かない﹂
﹁今、連れて行けば、いいだろ!ッ変態はどっち﹂
﹁今移動したら気が削がれる﹂
﹁削がれるくらいの気しかないんだったら、やめろよ!﹂
こっちは世界を失くしてもいいくらいの気概でやってるってのに。
むかつく野郎。
余裕さえ感じられるカイルに、腹が立って仕方がない。俺はどち
らかというと相手より優位に立ちたい人間だ。服従させ、泣いて乞
われたいのだ。なのに、
﹁あんまり可愛いこと言うものじゃない。加減してやれなくなる﹂
﹁すんな、そんなもん﹂
乱れろ。俺のために、乱れろ。
﹁後悔するなよ﹂
﹁ぐッ﹂
押し入る異物。中を抉って、乱暴なまでに荒々しく動く。ぐちぐ
ちと、狭い入口を無理やりに広げる指が気持ち良いのは何故だろう。
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自分で指を突っ込んでみても得られなかった逸楽を、カイルの指だ
というだけでいとも簡単に得られるのは何故なんだ。
﹁涎、出てる﹂
ぽたりぽたりと落ちる滴は、口からではない。俺が感じている証
拠を突きつけるように、中心の先端からソファの皮に落ちて、汚す。
﹁⋮っ、あ﹂
﹁汚しちまったな。残念﹂
﹁ぅ、く﹂
カイルの指がくい、と中で折れ曲がり、俺はそのとき襲ってきた
強烈なめまいに目を閉じて世界を遮蔽した。瞼の裏で指のうごめく
さまを捉える。一本一本が感じられた。次から次へと快楽の波が押
し寄せ、引いて押し寄せ、俺は息もできない。
﹁わかっている、気持ちいいんだよな。イきそうか?ん?﹂
﹁っは⋮、ぁあ﹂
そう言うと、カイルは、俺の口の中に左の手の指を滑り込ませて
きた。俺は口を閉じることが出来ず、喉奥から漏れた甘い声が室内
にくぐもって聞こえる。
噛みついてやろうという気にならないのは、この指が気持ちいい
ことをしてくれるのだと、本能的に悟っているからだろうか。それ
ともこの指の主を、愛しいと思っているからだろうか。
﹁リョウ、舐めて﹂
俺は言われたとおりに、指に舌を這わせた。飴をしゃぶるように
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指先を吸い、唾液を絡ませる。指が二本、三本と増やされると、長
いそれらは口腔内におさめているのが難しく、口から抜けそうにな
る指を俺は気づけば必死で追っていた。
右の手は絶え間なく、尻を割りその奥をほぐしている。そちらの
ほうの指が良いところをかすめるたび、俺はきゅっとそれを締め付
けてしまう。
﹁ふっ、ん⋮ぅ﹂
﹁そろそろ、いいか﹂
﹁!ッん、ふ﹂
後孔を犯している指は、そのとき四本になっていた。前と同じ。
ちゅぽ、と水音とともに口から指が抜かれる。唇から抜かれた指
まで銀の糸が引く。
﹁リョウ﹂
横を向かされた俺の唇を、背後からカイルが低く名を呼びながら、
その名を閉じ込めるようにそっと唇を重ねた。
﹁ん﹂
﹁⋮は。なあ、いいのか。本当に﹂
顔を離し、褐色の目がこちらを覗き込んだ。
﹁あんた、それ。そろそろまぬけだぞ。いいって言ってるだろ﹂
俺の尻の下では、もうずっと、固いものが存在を主張している。
この男の頭の中は一体どういう構造をしているのか。この状況を、
なにか修行のようなものだと勘違いしているに違いない。
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﹁すまない﹂
このとき、謝罪の言葉を聞いて頭の中が怒りに沸騰したのを、俺
は確かに感じた。
右の腕をカイルの首に回し引き寄せ、唇に噛みつく。歯と歯がぶ
つかるような荒々しいキスに、カイルが目を瞠る。俺は片時も彼の
瞳から眼を離さなかった。
﹁俺は、あんたのためにこんなことをしてるんじゃない!履き違え
まだ手遅れにはなっていないはずだ。彼は傷つくかもしれない
るな﹂
が、恋に落ちたのと同じくらい短い時間で、立ち直ることができる
だろう。
笑える。かつてそう思った自分が、滑稽だった。
手遅れになっていないはずだ。そう自分に言い聞かせたのは、そ
のとき自分がすでに落ち始めていたからだ。立ち直ることが出来る
だろうなんて、何という傲慢、何という偽善。
自分がたった一日で人を本気で好きになってしまったという事実
を、見たくなかったからだ。駄目になってしまったときに立ち直れ
ないだろう自分を、見たくなかったからだ。
俺はずるいばかりではなく、臆病だ。臆病で、ずるい。
﹁愛している。力を抜け、リョウ﹂
カイルは俺の太腿を押さえつけていた両足を解き、俺の上体をソ
ファに倒した。腹の下にクッションを入れたのは、俺の腰を持ち上
90
げるためだろうか。
大きな手が尻を割り開き、ぐじゅぐじゅになっている窄まりに外
気が触れた。
﹁ッつ﹂
つめたい。とろりとした液体が谷間をつたって後孔に入り込む。
しかしその窄まりに、固いものの先端を感じてからは一瞬だった。
﹁はいるぞ﹂
﹁ぅぐ⋮、ぁっ、は、あああぅぐあ﹂
押し戻そうとする肉壁を、今までが前戯に過ぎなかったのだとわ
かるほどの、熱く大きいものが広げ、奥へ奥へと少しずつ進む。め
りめりと音をたて、拒絶する身体が開かれていく。痛みはそれほど
なかったというのに、圧倒的な敗北感、従わされている屈辱感に、
俺は涙を流した。
嫌だ、と思った。生理的な嫌悪感が、胃を突き上げる。
﹁くっ﹂
背中に冷たいものが落ちて、伝った。汗だ。カイルは苦し気な荒
い息を吐いていた。相当きついのだろう。なかなか先へ進まないも
どかしさに、焦れているのは俺だけではない。カイルは無理やりに
でも進みたいはずだ。それを、ゆっくり慣らしながら、時に引いた
りしながら進んでいく。すべては俺を傷つけないためである。
﹁カイ、ル⋮⋮︱︱あ、ぅあ、おっき、くすんな﹂
﹁仕方が、ないだろう。こんなときだけっ、名を呼ぶな﹂
﹁ぃた、いってば!くっそ、ぅ﹂
91
﹁悪い、止まらない﹂
﹁っ︱︱︱⋮!!!!﹂
ずっ、と一番太い部分が一気に入り、そのときに脳裏にはじけた
星に俺は声なき悲鳴を上げた。
﹁もう、すこし。力を抜いてくれ、きつい﹂
﹁っは、ムリ、ぜったい⋮ぃんあああ﹂
﹁︱⋮は、いった﹂
﹁うそ﹂
どさりと、俺の背中にカイルが倒れこむ。二人とも、肩で息をし
ていた。二人の拍動が、境目がわからなくなるくらいに乱れ、もつ
れ合う。
入ってる。その形を、俺は直に感じることができる。
そのとき湿ったリップ音がして、ちりりと背中に痛みが走る。最
中にも感じていた痛みだ。
﹁⋮見えるところにはつけんなよ﹂
﹁見えなきゃ意味がない﹂
﹁ちょっ、馬鹿!首筋まで跡つけたんじゃないだろうな!︱︱っう
あ﹂
﹁く、急に動くな﹂
確認しようとして身を起こすと、後孔の中にぎちぎちにおさまっ
ている怒張がずるりと抜けそうになる。カイルに慌てて押し込まれ
たそれが、俺の弱いところを擦った。その感触は、まさに燃えるよ
うな快感となって、俺の中心を熱くする。股間から駆け上がってく
る震えに、俺は歯を食いしばり耐える。
92
﹁ゃば﹂
﹁いいぞ、イって﹂
﹁い⋮やだ、絶対﹂
それを聞いたカイルが、ソファに腹を付けていた俺の上半身を持
ち上げた。変動した体位によって当たる角度が絶妙に変わり、俺は
思わず喉を鳴らした。
﹁だ⋮め、っふか、い﹂
﹁イけよ﹂
﹁一緒にこいよ!﹂
一人で達するなんてごめんだ。その余裕がムカつく。
﹁悪い﹂
背中にそっと落とされたキスにいとも簡単にカイルは俺の腰を持
ち上げ、自分の膝の上に乗せる。俺は屹立を飲み込んだままで座ら
され、腹の奥が裂けてしまいそうな恐怖に駆られた。恐慌に陥った
俺は、間断なく訪れる悦楽にさえ怯えた。
﹁いやだいやだ、カイルッ降ろして!おく、んゃァアア﹂
ずっと放っておかれていた赤く色づいた胸の粒をこねられたその
ときには、もう絶頂は始まっていた。オルガズムに背中がしなり、
後ろに捕まるものを探して回された両手がカイルの頭にすがりつく。
﹁リョ⋮ゥ、締め付けるな︱ッぐ﹂
間もなく、奥の奥のほう、裂けるのではと思ったその先に熱いも
93
のが当たって、後孔内に溢れる。どぷりと、ほんの少し身体を動か
しただけで、白濁液が結合部から流れ出た。
俺は上半身を捻り、後ろのカイルにしがみついた。どちらともな
く唇が重なり、満足気な吐息が目じりを濡らした涙を乾かす。
﹁カイル﹂
﹁うん、愛してる﹂
俺はその言葉ににっこり笑うと、答えた。
﹁取りあえず、鍵かけて﹂
94
不穏な影※
セックスは行為そのものも好きだが、事後の雰囲気も嫌いではな
い。と、カイルは思う。
突然やってきた可愛い闖入者は、カイルの心の中に居心地良さそ
うにとぐろを巻いて居座ったまま、出ていってくれそうもない。
特段弱々しいというわけでもなく、むしろ身長も平均以上はある
細身の肉体は夜闇に生きる猫のように健康的だ。するりするりと、
こちらをくすぐっては、からかうように足の間をすり抜けていく。
未だにその姿は捉えきれず、リョウが一体どういう男なのかは謎の
ままだ。
﹁ばかやろう!降ろせ!殺す気か﹂
情事を終えた後、繋がったまま浴室まで行こうかと言えば期待す
るように震えたくせに、いざとなると切れ長の綺麗な目をこれでも
かというほど険悪にして喚く。その端麗な顔を歪ませ、振動で前立
腺が刺激されるのだろう、甘い声が出そうになるのを必死で耐えて
いる。
﹁それぐらいじゃ死なん。いいから、ただ喘いでいろ﹂
﹁ば、カイル⋮んく﹂
カイルより一つ下だという彼は、気品の感じられる上品さも、年
相応な落ち着きもカイルと話すときだけかなぐり捨てて全力で向か
ってくる。
それが、庇護者への甘えなのか、情人に向けての甘えなのかは判
断がついていない。彼の態度は曖昧だ。どちらともとれる。何より、
95
情事を交わした中でも、彼からはついに、愛を語る言葉を聞くこと
はできなかったのだ。
﹁痛くないか?﹂
向かい合うように抱きあげているせいで、快楽に溺れている顔は
見下ろすだけで確認できた。両腕をカイルの首に、両足を腰に巻き
付け、自分の体重を支えているリョウは、カイルがゆっくり足を運
ぶたびに、ふーっふーっ、と猫が毛を逆立てているような息を、食
いしばった歯の隙間から漏らしている。
痛みなどほとんどあるまい。それでも敢えて訊いたのは、リョウ
の怒る顔が見たかったからだ。
彼の怒る顔は、こう言ってはなんだが、何より綺麗だ。泣き顔も
そそる、と言えばリョウの怒る顔が見られるのだろうが。
﹁ぉ、ろせ﹂
﹁段差﹂
﹁んん!﹂
肩に走った鋭い痛みに顔を顰めそうになるところを、カイルは眉
ひとつ動かさなかった。
﹁ご⋮ごめ、噛んじゃった﹂
﹁大丈夫だ、痛くない。それ、舐めてくれるか﹂
右肩に現れた手加減なしの噛み跡は、痣になりそうだ。だがここ
で痛がったりしたら、優しいリョウは委縮してしまうに違いない。
﹁⋮へんたい﹂
﹁さ、着いた。ここからどうするかな。その変態と何かするか﹂
96
腰を軽く揺すってやると、浴室の壁にリョウのこぼれた声が反響
して淫猥だ。
後孔にカイルの屹立が呑み込まれているせいで、リョウは足を降
ろそうにも降ろせないのだろう。ぎゅっとしがみついてくるリョウ
の、控えめに勃ち上がった彼自身が、カイルの腹に当たる。
﹁しっ、ねぇよ!一人で風呂入る、降ろせ!﹂
﹁へえ、自分の後ろの恥ずかしい穴に指突っ込んで、一人でちゃん
と掻きだせるのか。それは⋮︱見てみたいな、是非﹂
﹁あほ、見せるか!﹂
﹁だが湯、出せないだろう﹂
ぐっと言葉に詰まった彼の顔は、羞恥やら何やらで、リンゴのよ
うに真っ赤だ。今までは手を出さずに来たが、浴室での我慢大会は
終わりだ。恥ずかしいのを我慢してカイルの腕の中でシャワーを浴
びる彼に、欲情する自分を律するのは至難の業であった。
﹁とにかく降ろして、鍵閉めてこい!このばか!﹂
遠回しな了承の意を嗅ぎ取って、カイルは頬の筋肉がだらしなく
緩むのをまざまざと感じた。
これだから、こいつって男は。
リョウは情に厚い。頼まれると弱いのだろう。実際身体を許して
くれたのは、魔力切れを心配したのが主な理由だろう。それでもこ
うして応えてくれるのだから、その一端にでも恋情が含まれていて
くれればと願ってしまうのは仕方がない。
洗濯槽としてしか機能していない浴槽の縁に彼の尻を乗せる。冷
たさからか、きゅっと中が収縮してやたらと気持ちが良い。ずるり
とそこから抜けば、ひときわ甘ったるい吐息が肩の噛み跡にかかっ
97
てピリピリした。すべてが抜けると、疲労困憊状態のリョウはカイ
ルの肩に額を乗せて、荒い息を吐いている。その身体を抱えて、浴
槽の横に下ろした。
﹁いい子で待ってろよ﹂
﹁⋮︱死ね﹂
くたりと前に倒れこみそうなリョウをどうにか一人で座らせ、壁
に凭れかけさせる。息をするのも辛そうなのに、彼は伏せた目から
眼光を飛ばし小さく悪態をついた。その様子に少し安心しつつ、カ
イルは浴室を出る。鍵をかけ、二人でお楽しみに耽られるように。
部屋に違和を感じたのは、鍵をかけリョウの許へ帰ろうとしたと
きだった。何か、異質な空気が部屋の中を漂っている。そんな気が
した。この部屋には、リョウ以外他人には踏み込ませたことは、一
度もない。部下であっても、入れて玄関までだ。
それはカイルの魔力の特性上人の気配に敏感で、安らぐ場所を必
要としているからだった。
この数分間で?まさか。
違和感と言うほどの違和感ではない。きっと気のせいだ。束の間
脳裏をよぎった馬鹿な考えを一蹴し、カイルは愛する青年の許へ帰
る。
戻る途中、後ろを振り返ってみたが、そこには何もいなかった。
﹁リョウ﹂
ぬばたま
じろりと射干玉の瞳が、切れ長の瞼の縁をなぞるように睨み上げ
る。掠れた声が早く湯を出せと言った。
﹁カイル﹂
98
﹁立ち上がれるか?﹂
﹁手ぇ貸せ﹂
﹁ん﹂
引っ張り上げると、意外にずっしりとした重さが伝わってくる。
本来ならば女の子を抱き上げるのだろう、しっかりとした、筋張
った腕は確かに男のそれだ。男として、この青年には魅力がある。
今まで女性経験も多かろう。それなのに、受け身を取らされて今、
男の手を借りている。リョウという男の器の広さを、それだけで十
分に表しているような気がした。
ぬるいくらいの湯が心地いいのか、立ち上がったリョウは目を細
めて落ちてくる湯を受けた。
﹁今、俺が何考えているか。わかる?﹂
湯煙の中、カイルに背を向けたままでリョウが訊いていた。
﹁いや⋮なんだろう、俺を殺したい、かな﹂
﹁はずれ。今あんたが死んだら、困るのは全裸の俺だよ。同じく全
裸の男の死体を前にどうしろっていうんだ。ほかは?﹂
﹁さっぱりわからん﹂
早々に匙を投げる。こういう謎かけみたいなのは苦手だ、とカイ
ルは思う。
﹁なんだよ、諦めるの早いな。俺にも魔法が使えたらなって考えて
たんだよ。簡単だろ﹂
﹁それだったら練習すれば使えるぞ。恐らく魔力放出の方法がわか
っていないんだろう﹂
99
そう。リョウは簡単な魔導具でさえ使えないのである。それだけ
でもう、彼がどれだけ高貴な育ちをしてきたのかが窺えるというも
のだ。
﹁そうなの?﹂
﹁使えるようになっても、シャワーは付き合う﹂
﹁いらない﹂
間髪入れぬ即答に、少々の寂しさを感じる。
﹁中、洗えよ。腹壊すぞ﹂
だから少し意地悪をしたくなったのだと思う。俺は羞恥と混乱の
狭間で固まっているリョウを薄く笑いながら眺めた。湯を出してい
る俺は、リョウのすぐ後ろから動かない。湯を浴びているからでは
ないだろう、赤い耳が黒髪の下からのぞいている。その耳を指先で
突きたくてひくついている手を、カイルは抑えた。
﹁目、つぶってろよ﹂
﹁守れない約束はできない性分なんだ﹂
﹁ああっ、もう!﹂
﹁あ、そんな乱暴にしちゃ﹂
﹁ぃっつ⋮﹂
色気もなにもあったものではない。彼の性格をそのまま表したよ
うに粗雑に自分の後孔に指を突っ込むのを見て、カイルは慌ててそ
の手首を掴んで止める。
﹁もっと優しく。自分の身体だろう﹂
﹁っ、できるかよ。か、感じちゃうかも⋮﹂
100
しれないだろ、と語尾が水音に消える。
リョウは、可愛いという言葉を素直に褒め言葉として受け取るよ
うな男ではない。ともに過ごすにつれて、しかし、カイルはその言
葉を口にするのを耐えことが難しくなってきている。
﹁そんなもの、ただの生理現象だ﹂
﹁う、ん﹂
﹁大丈夫だから、洗え﹂
しばらく間があって、ぎこちなく、それはもうぎこちなく、リョ
ウは指をくちゅくちゅと動かし始める。湿っぽい息が、リョウの息
遣いに混じるのはそれからすぐのことだった。
﹁んっ⋮、ふ﹂
悩まし気に顰められているのだろう可愛らしい顔を見られないの
が残念だが、背を向けた格好もそれはそれで、結構な眼福である。
少し落とした腰に、股間から通した手の先が、いやらしい孔に飲
み込まれているさま。空いた片手で、白い小ぶりな尻を割り開いて
いるさま。それは、後ろのカイルに見せつけるようでさえある。と
ろとろと孔から流れ出る精液は、卑猥以外のなにものでもなかった。
これは自慰を見せてもらうようで興奮すると思ったが、とカイル
は思う。実際の所、興奮しすぎてむしろ拷問のようだ、と。
﹁終わり?﹂
それは長いようで、短い時間だった。最後は、早く終わってくれ
とさえ思った。
101
﹁多分。もう出て来ないし﹂
何が、とは言わない。カイルは耐え切った自分を盛大に讃える。
手伝ってやっても良かったが、我慢が利かなくなることは明白だっ
たのでやめておいた。ここで致したら、今度こそ嫌われるだろう。
自分の欲望を叶えるよりも、相手の気持ちをできるだけ尊重したい。
カイルは強くそう思った。
やはり、おかしい。
浴室から出たとき今度こそ、カイルは匂った魔力の残滓に疑いを
確信にまで深める。使われた魔導具が古く、その使われた種類に見
当がつかないことも気にかかる。王国製ではないというのだろうか。
外国生まれの魔導士はこの国にはさほど珍しくはない。ただ、半年
前からの旧ビテ王国出身の不穏分子の動きは特筆するべき事柄であ
ろう。カイルの所属する隊の担っている仕事内容は、不穏分子の発
見と処理だ。
﹁まさか、な﹂
﹁何が﹂
﹁いや、何でもない﹂
怪訝な顔で見上げてくるリョウの濡れた頭をタオルで擦り、カイ
ルは首を振る。
そんなことはあるまい。荒唐無稽な考えをしてしまった自分を笑
う。しかして、知らない魔力の存在もまた確かである。
警戒しておくにこしたことはない。
102
俺たちの愉快な一日︵1︶
遼、また泣いてるの。男の子なんだから泣いたらみっともないよ。
すぐに泣き止みなさい。まったく奈津子さんは、どんな躾をしてる
んだか。仕事なんてやめてしまえばいいのに。哲史も哲史だよ。も
っと家庭的なお嬢さんを嫁にすりゃあよかったのよ。
くそばばあ。
俺に触れようともしない、皺だらけの手。両親が仕事の夜に、寂
しいだろうと預けられる祖母の家が大嫌いだった。絶対に口をきい
てやるものか。子供心にそう決めてからは、祖母とは一言も口をき
いていない。恐らく母よりも長く一緒の時間を過ごしたはずなのに、
祖母との記憶は母とのものより稀薄で意味がない。
仕事ばかりしている母は子供の扱いが下手くそで、ものを与える
ことしかコミュニケーションの方法を知らない人だったが、戸惑い
ながらも俺を愛してくれていた。仕事をしてお金を稼いでくること
が何よりの愛情だと思っていたふしも、今になるとあったのだと思
う。
父は大学病院の勤務医で、いつも無精ひげを生やし、目の下に隈
を作っていた。会社に戻ると決めた母を責めないのは彼だけで、そ
んな父に憧れて、俺は大人になったら白衣を着こなす医師になるの
だと心に決めたものだ。
さと
頭は母に似たのか理系科目はからっきしで結局医学部へは進めな
かったが、父が医者なんてやめておけと苦笑しながら諭してくるも
のだから、俺は素直にそれに従った。無理に医学部になんて進んで
いたら、恐ろしいことが起きていたと思う。父の助言らしい助言は、
それが最初で最後だ。
103
誰が何と言おうとも彼らが俺にとって最高の両親で、二人とも家
にいるときは寝てばかりで相手なんかしてはくれなかったが、両親
のいるベッドに潜り込んでいるときが一番幸せだった。
﹁おはよう、リョウ﹂
体温を求めて、俺は目の前にあったものに顔をこすりつける。温
かい。耳元に囁かれた言葉に少し笑みを漏らす。柔らかな金色の胸
毛が鼻先をくすぐった。
﹁ん︱︱⋮﹂
﹁起きろ、遅刻する﹂
﹁⋮眠い﹂
睡眠時間が圧倒的に足りていない。腰はだるいし、股関節が痛い。
恥ずかしい話だが、その理由は察してくれとしか言えない。
﹁早く起きないと襲うぞ﹂
わざと声を低くするカイルに俺はふふと笑った。
﹁ばーか、あんたも今日は仕事だろうが﹂
﹁だから二人とも遅刻だな﹂
﹁言ってろ﹂
もそもそと起き上がり大きく伸びをする。俺たちは一切の衣服を
身に着けていない。布団を抜けると冷気が忍び寄ってきて、俺はぶ
るりと震えた。
104
﹁身体はどうだ﹂
﹁どこもかしこも痛い。尻の中に、まだなんか入っている気がする。
かぱかぱして気持ち悪い﹂
﹁帰ったらまた入れてやる﹂
﹁ばか、いらねえよ﹂
カイルはその爽やかな顔に似合わず、下品なことも平気で口にす
る。それも面白いなんて思ってしまう俺も大概だ。徐々におっさん
化が進んでいる証拠だとしたら、それは嫌だ。アラサーは男も女も
色んな意味で必死である。
﹁今朝は冷え込むな。俺の上着、着ていけ﹂
﹁やだよ。でかいじゃん、っていうかキスマーク!つけたろ!しか
も見えるところに!あーもう、絶対グスタフにからかわれる﹂
﹁虫除けだ。見えるところじゃないと意味がない﹂
そうぼうきん
後から起き出してきたカイルが袖に腕を通しながら言う。ベッド
の反対側に、俺に背を向けて座るカイルの、盛り上がる僧帽筋を俺
はぼんやりと眺めた。そうしていたら、唇が勝手に言葉を紡いだ。
﹁俺も⋮つけていい、キスマーク。やっぱり、困る?﹂
騎士団の訓練ともなると、上を脱ぐことも多かろう。
カイルが驚いたように俺を振り返り、目を二、三度瞬く。そして、
甘く微笑んだ。魅力的な大きな口が弧を描き、目元に皺が寄る。
﹁構わない﹂
﹁⋮そ﹂
105
俺はそれでもう照れてしまって、ふいと目線を逸らした。手早く
服を着てしまう。口を開いたらまた何か変なことを口走ってしまい
そうで、口をきかないまま靴を履く。小走りに洗面所へ向かい、顔
を洗い口をゆすぐ。そのまま家を出ようと玄関に向かったら、追い
かけて来たカイルが俺の腕を掴んで捕まえた。俺は頑なに、カイル
に背を向けている。
﹁飯は﹂
﹁︱いらない。もう出る﹂
ああ、今俺ぜったい、顔まっかだ。耳が熱い。
﹁仕事終わったら、待ってろ。迎えに行くから﹂
﹁うん﹂
﹁それで飯食いに行こう﹂
﹁う、ん﹂
時間、勿体ないな。無意識にそう言おうとしてから、俺ははっと
口をつぐんだ。
何だ。今、俺なんて言おうとした。なんて、思った⋮?
﹁どうした?﹂
﹁何でもない﹂
﹁おい、リョウ﹂
﹁ッ何でもないったら!行ってきます﹂
﹁リョウ!﹂
急いで玄関扉を後ろでに閉め、背中をつけて寄り掛かる。腹から
息を吐いた。
106
覚悟は決めたと思っていた。実際身体は繋げたし、その快楽に溺
れもした。だが、本当にそれで良かったのか。このまま、なし崩し
に関係を続けてしまっていいのだろうか。
仕事に行こう。
静かに続く動揺を押し殺し、俺はその場を立ち去った。
俺の仕事場は、ヘンウェル王国騎士団第三修練所の目と鼻の先だ。
なんてことはない料亭の従業員なのだが、これがなかなかどうして
以前の営業職に似ているところがあって楽しいのだ。材料のコスト
カットのために出先を走り回ることも、大口の注文先へのあいさつ
回りも、慣れているせいか苦ではない。
﹁リョウ!騎士団の昼休憩までに、お前さんも休んどけ﹂
﹁はあい﹂
﹁午後から気合入れろー﹂
俺は店主のトレントに言われ、店舗裏に引っ込んだ。騎士団御用
達のこの﹃金のうま亭﹄での基本的な仕事は、ウェイターだ。特に
正午の鐘が鳴るくらいの時間になると、午前の訓練を終えた騎士団
の連中相手に店は多忙を極める。
﹁やべ、腰にくる⋮﹂
厨房から出られる裏道は、俺の取りあえずの休憩所になっている。
コーヒーの湯気をくゆらせ、ほっと息をついた。重力負荷に耐え切
れず、俺はずるずると壁際に座り込む。だるい腰をさすったり叩い
たりして励ましたが、依然として不安は残る。いつか、俺、椎間板
ヘルニアとかになるんじゃなかろうか。
107
真っ青で透明感のある空に、眩しいくらいの白い雲が群れてゆっ
くりと流れている。それを目で追いつつ、俺はこのまま空に溶けて
しまいたいと、そう思った。
悩んでいることも何もかもすべて、考えるのを止めて、溶けてし
まえたらどんなに楽だろう。日本に帰りたいとは、もう今更思わな
い。しかし、この世界で一生暮らしていけるのかと思ったら、そん
な自信はまるでひとかけらも湧いてこなかった。
﹁なんでこんなとこにいんだよ!﹂
はじめ、その声を聞いたとき、俺は自分が話しかけられているの
かと思ってきょろきょろと辺りを見回した。
﹁声を落とせ。⋮潜り込む。任務だ﹂
もうひとつの声が答える。俺はそっと息を詰めた。聞いてはいけ
ない会話を聞いているような、そんな気がして、心臓がやけに早く
拍を打ちはじめる。
﹁まだ連中と付き合ってるのか、兄さん﹂
﹁同郷だ。見捨てるに見捨てられない﹂
﹁ヘンウェル語は?話せるようになったの﹂
﹁それなりにはな。だがお前にも手伝ってもらうぞ﹂
﹁嫌だよ︱け︱⋮ぃさ︱﹂
﹁︱ゎ⋮⋮﹂
﹁⋮﹂
﹁⋮﹂
男の声が二人分。小声で言い争っている。俺はわずかに身を固く
し、耳をそばだてる。風で木々が揺れ木の葉がずれる音でさえ、今
108
はうるさく思えた。内容がよく聞き取れない。声はだんだんと遠ざ
かり雑音の内に、消えた。
︱︱なんだったんだ?
俺はしばらくの間、その場で動けないままだった。なんだか嫌に
犯罪臭が漂ってくるような、そんな感じ。コーヒーなんて飲めたも
んじゃない。これは誰かに話すべき?いや、でも何かの勘違いかも。
ああ、頭の中がぐるぐるする。
﹁リョウ!﹂
﹁うわ﹂
突然開いた裏口の扉に、俺は息が止まるほど驚いた。扉を開けた
のは厨房スタッフの一人のギルである。
﹁入ってくれ、客が来た﹂
﹁え、も⋮もう?今日は早いですね﹂
﹁騎士団の休憩が早まったんだと。勘弁してくれよって感じだよ、
全く﹂
時間が経てば、人間と言うものはおかしなもので、その時に抱い
た強烈な印象は薄れ、そんなに大騒ぎするようなことでもないのか
もと思い始める。
何か機会があればそのときに話せばいいか。そんなふうに思って
しまった俺は、ついにこのことを誰にも話さずに頭の隅っこに追い
やって忘れた。これを俺は後に、痛烈に悔やむことになる。
店内に入ると、ホールには死屍累々たる有様であった。人数こそ
いつもより少なかったが、青い顔をして今にも倒れてしまいそうな
109
男たちが、店の所々で地の底を這うような呻き声を上げている。俺
は注文を聞きにテーブルを回る。
﹁一体何事です?﹂
﹁ああ、リョウ﹂
その中に顔なじみの客を見つけ揺り動かすと、ぼんやりしていた
彼の眼が焦点を結び俺を認識した。
﹁ちょ、ちょっと、大丈夫ですか。死にそうじゃないですか﹂
﹁いや。もう腹が減りすぎて⋮﹂
﹁リョウさーん、何でもいいから食べれるもん持ってきて﹂
﹁承知致しました、すぐにご用意します﹂
俺は即座に厨房に引き返し、出来上がった料理を片っ端から運ぶ。
すると客の食べること食べること。俺を含め三人のウェイターでは
かかわ
とても賄いきれないほどの忙しさだ。こちらとしては、すぐに料理
を運ばなければ下手すると人命に係りそうで必死である。
﹁うわ、グスタフまで。どうしたんですか、本当に﹂
﹁魔力切れ。体力もたなかった奴らは、ここまで辿りつけず修練所
で死んでるよ﹂
かっくらう、という表現が最も似合いそうな食べ方で次々と皿を
空けているのは、ごわごわの白金色の髪をした少年だ。その小さな
身体のどこにそんなに入るんだと心配になるくらい、大量の食べ物
が彼の口の中に飲み込まれていく。もうちょっとよく噛めよ。俺は
日本人らしい気遣いで、そう言いたくなる。
﹁今日の訓練が半端なくきつかったんすよ﹂
110
フォークを振りかざし、口いっぱいの料理を食べこぼしながらそ
う言ったのはココルズである。ココルズとグスタフは、騎士見習い
の頃からの知り合いなのだという。
﹁そうそ。五番隊の副隊長が、朝からかっとばしてねー。俺たちは
鬼を見た。なんなのあれ﹂
﹁五番隊﹂
﹁カイルさんのことですよ、リョウさん﹂
﹁副隊長なんですか、彼﹂
﹁なんだよ、リョウ。知り合いだったの?﹂
かっとばした
なんて言葉使うと違和感あんな。
﹁ええ、まあ。それで、かっとばした、って訓練ですか?﹂
﹁はは、リョウが
そ。あれは軽く頭イッてたね。俺たちを半殺しにしながら笑ってな
かった?あの人﹂
グスタフがけらけらと笑いながら、ココルズに同意を求める。
﹁やけに機嫌が良かったんすよねえ、魔力ばっちし回復してるし。
なんか心あたりがあるんだけど、俺﹂
﹁遊郭でも行ったんかね﹂
誠に下世話な二人である。ココルズの意味ありげな視線を無視し
て、俺は仕事に戻った。グスタフは、背を向ける俺に追加の注文を
つけることを忘れない。
金をちゃんと払えるんだろうか、こいつら。
扉のベルが鳴るたびに店全体がげんなりし始めた頃、またチリン
チリンと涼し気な音が鳴り、俺は殺気立った視線を扉のほうに投げ
111
た。
﹁うぇ、副隊長﹂
誰かが呟く。心底嫌そうな声だったことに、俺は少し爽快な気分
になった。もはや、このような惨事を引き起こしたあの男は、皆の
敵であり、俺の敵だ。
﹁リョウ﹂
俺の名を呼ぶな、この馬鹿。
﹁あああ、俺たちの癒しの空間が副隊長に穢されるぅ﹂
﹁ばか、黙ってろよ﹂
ココルズに殴られてもなおげらげらと笑い続けるグスタフは、神
童と呼ばれるほどの剣豪らしいが、なるほど天才というのはどこか
頭のネジが飛んでしまっているらしい。
﹁おひとり様ですか?﹂
俺はそう訊くしかなかった。
112
俺たちの愉快な一日︵2︶
﹁おひとり様ですか?﹂
殺人レベルのクソ忙しさの中、俺は引き攣った笑顔をその元凶に
向けた。客の前でなかったら、張り倒していたところだ。
﹁うちのが随分世話になっているみたいだな﹂
カイルは答えながら無表情のまま、ざわついた店内をぐるりと鋭
い目で見渡した。
てめえのせいでな!俺は頭の中で、カイルをフルボッコだ。ああ、
手がうずうずしてくるぜ。帰ったら妄想を現実にするのもいいかも
しれない。
カイルと視線を合わせないように、従業員含めほとんどの男たち
がそろそろと下を向いた。さっきまでうるさいくらいの騒々しさだ
ったというのに、やつが現れた途端張りつめた緊張が、店内の笑い
声の一切を消してしまったようである。
﹁リョウさんっ!﹂
そんな中弾けた、伸びやかな純真無垢な明るい少年の声に、俺は
ささくれだった心を和ませた。それと同時に、混乱した。動揺を押
し隠して、俺は微笑む。
﹁やあ、ジュリー。いらっしゃい﹂
ぴょこんとカイルの後ろから顔を出したのは、ジュリアンである。
113
白金色のさらさらの長い髪が肩を流れ落ち、小憎たらしいグスタフ
とそっくりの顔が天使のような笑顔になった。
﹁あ。ジュリアン、やっと来たのか。もう俺たち食い終っちまうぞ﹂
グスタフが席から叫んだ。途端にジュリアンの笑顔が歪む。
﹁ジュリアンって呼ばないでよ、クズ﹂
・・・
桃色の唇から吐き出された低い声に、俺はもう慣れてしまってい
る。この少女然とした少年は紛うことなき男だが、ついているよう
にはまったく見えない。もちろん、そこには多大なる努力が積み重
ねられているのであって、彼の前では本当の名は禁句である。彼は、
ジュリアナであり、ジュリアンではないということだ。それを、彼
の双子の兄は心底愉快に思っているらしい。
﹁リョウさん、今日も格好いいですね。制服がよく似合っていらっ
しゃいます﹂
カイルがふっとこちらを見た。そういえば、制服姿を見せるのは
初めてだっけ。
料理油の匂いが染みつき、暑さから袖を乱雑に捲られ、よれよれ
になった制服。ジュリアンは仕立ての良いきちんとアイロンのかか
った水色のブラウスに、濃い色の家紋入りの上着を合わせている。
俺はどうしてだか、捲っていた袖を下ろしてきちんと釦を留めた
くなった。筋肉のしっかりとついた腕を隠したくなる。
﹁ありがとう。ジュリーも可愛いですよ。着替えて来たの?お兄さ
んは訓練着のままで来たみたいだけど﹂
114
腕をさりげなく後ろに回す。
﹁はいっ、あんな恰好のままでリョウさんの前に出るわけにはまい
りません。私は恥じらいというものを持ち合わせておりますから、
グスタフとは違って﹂
﹁恥じらいってなんだよ、食えんのか?﹂
けけけ、とグスタフが笑い声を立てる。それをココルズが殴る。
すばやい動きだった。そして、すました顔で手を上げる。
﹁ジュリアナ、こっちにおいで。リョウさん、追加でなんか持って
きてください﹂
﹁承知しました。ジュリー、ココルズくんたちの所に行っておいで。
すぐ料理を持っていきますから﹂
﹁はい。副隊長はどうしますか?﹂
﹁俺は、﹂
俺をじろじろ眺めていたカイルは、ジュリアンに問いかけられて、
少し驚いたようだった。何回か瞬く。チョコレート色の瞳が、俺以
外を映した。
﹁副隊長?大丈夫ですか﹂
そういえば、カイルは何をしに来たんだろう。ジュリアンの手が、
カイルの腕にかかる。もやもやとした、嫌な感じがした。
﹁あ、いや。大丈夫だ﹂
﹁今朝からちょっと変ですよ。訓練のときも﹂
話しながら、ジュリアンが親密そうにカイルの手を引いてココル
115
ズとグスタフの席へと向かう。俺はそれからさっと目を逸らした。
自分の手を、さりげなく見下ろす。筋張って血管の浮いた浅黒い手。
対してジュリアンの手は、小さく、男性的というよりは女性的で可
愛らしかった。
﹁リョウさん、お勘定﹂
﹁はい、ただいま﹂
客たちはなぜか俺を指名してくることが多い。男に人気になった
ところで忙しいだけで嬉しくもなんともないが、今だけは助かった
と思った。
﹁お待たせしました﹂
厨房とホールを行ったり来たりで、俺はなかなかカイルたちのい
るテーブルに給仕することがなかった。それは幸いとも言えたし、
幸いではないとも言える。
﹁あの、リョウさん。あの⋮上がりって何時になりますか?﹂
筋肉達磨たちが俺に顔を赤らめるのは、客だから耐えられる。だ
が、自尊心が傷つけられないと言えば嘘だった。むしろズタズタだ。
きれいとか可愛いとか、そんな単語は女性に向かって口にしろ。そ
んなだから結婚できないんだぞ。
﹁申し訳ありません、日によって違うので、何時とまでは⋮﹂
困ったように笑みを浮べてやると、そうですよね、としょげかえ
る。かわいそうだなんて思わない。かわいそうなのは俺だ。泣きた
いのは俺だ。
116
椅子を引く音が聞こえた。
﹁カイルさん、どこ行くんすか﹂
﹁熱っぽい視線、陶然とした吐息、熱に浮かされたみたいな表情﹂
﹁グスタフ、うるさい。副隊長どうされたんですか﹂
﹁初心だなあ、ジュリアンくんは。これは恋だよ。我らが副隊長に
もついに春が訪れたんだ。喜ぼうじゃないか、酒だ酒だ、酒を持っ
てこーい﹂
﹁馬鹿、昼間っから飲むやつがいるか。この後、訓練なんだぞ﹂
﹁ジュリアンって呼ばないで﹂
ほんと、あいつら、うるさいな。
俺は苛々しっぱなしだった。仕事が、楽しくない。
﹁リョウ、少しいいか﹂
振り返らず盆を抱えて厨房に戻る俺を、カイルが追ってくる。
﹁ふざけんなよ﹂
他の客から見えなくなったところで、俺は怒りを爆発させた。
﹁リョウ?﹂
﹁なんだよ、あれ。あの態度!俺たちになんかあるってバレるだろ
うが!バレてもお前はいいのかもしれないけどな、俺は嫌だ。こそ
こそ噂されるなんて、まっぴらごめんだ﹂
ちがう、こんなことを言いたいんじゃない。むしろ、おまえが俺
以外を見ているのも嫌だ。俺以外と楽しそうにしているのも嫌だ。
117
本当に思っていることを口にするのは、なんて難しいのだろう。
ああ、八つ当たりだ。俺ってこんな嫌な奴だったっけ。
カイルが、俺の就業中にここに来るのは初めてだった。誰かと一
緒に来るのも。いつだってここに来るときは、俺を迎えに来るため
で。
﹁落ち着け﹂
﹁落ち着いていられるかよ﹂
俺は床に視線を落とした。
﹁どうした?﹂
﹁⋮何しに来たんだよ﹂
ジュリアンと。
﹁リョウ?﹂
﹁悪い、何でもない。もう戻れよ、俺も忙しい﹂
頭の中はぐちゃぐちゃだった。
﹁すまない、今日迎えに来れなくなったんだ。それを伝えるために﹂
﹁っ!好きにしろよ﹂
もう嫌だ。そう思った。
﹁もし疲れていなかったら、仕事が終わった後修練所まで来てくれ
るか。門番には話しておく。仕事で疲れていたら、先に帰っていて
くれて構わないが﹂
118
団の中に入っていったら、俺の知らないカイルがたくさんいるん
だろう。現に、カイルが副隊長だったことを、今日になって聞いた
じゃないか。何もかもを知っていたいとは思わない。だが、他が知
っているのに自分だけが知らないというのは、不愉快だ。極めて。
なんでこう上手くいかないんだろう。
俺は、人の愛し方を学んでこなかった。しかし、思うようにしか
生きられない。甘え方も、どう気持ちを整理すればいいのかも、そ
の気持ちの伝え方も、知らなかった。
助けてほしい。だれか、どうか助けてほしい。
******
﹁なんか副隊長、変だったね﹂
﹁朝から変だったけどな。更年期かな﹂
双子が囁き合う。ココルズは、その向かいに座って、黙々と仕事
をこなす青年の姿をなんとはなしに目で追っていた。
カイル副隊長は厨房から一人で戻ってきた後、今朝の上機嫌とは
打って変わった様子だった。カイル副隊長が店を出るまで、リョウ
は厨房から出て来なかった。顔を合わせないつもりなのだろう。喧
嘩でもしたのだろうか。
﹁怒ってた、ね?﹂
﹁あーあ。この後の訓練は、今朝とは別の意味でハードになりそう
だ⋮うえ、吐く。今日五番隊と合同訓練の奴ら、泣くだろうなあ﹂
﹁何に怒っていたんだろう﹂
怒っていた?いや、違う。あれは、困った顔だ。
119
﹁さて、俺たちももう戻るか。遅刻でもしてみろ、鬼副隊長に潰さ
れるぞぉ﹂
至極楽しそうにグスタフが立ち上がる。こいつは、どんなときも
楽しそうだ。うらやましい。戦闘中が一番楽しいという、気持ち悪
いやつであるが。
強くなるためには、やはりどこか狂っていないといけないのだろ
うか。そういえば、双子といい副隊長といいラシュといい、どっか
おかしいのばっかだ、強いやつは。おかしいから強いのか。強いか
らおかしくなっちまったのか。
すらりと伸びた長身を、今日は少し猫背気味にして、黒髪の青年
は店の外ばかりを気にしている。まるで、怒ったように出て行った
男が戻ってくるのを期待するように。自分よりもだいぶ年上だとは
まるで信じられないほど、儚く頼りなげな顔をした彼は、親に捨て
られた幼子のようだった。
﹁リョウさん、お勘定お願いします﹂
呼びかけられると、完璧に近い笑顔を浮かべ、慣れた手つきで流
れるように作業の工程をなぞる。優美としか言えない笑みをかたど
った唇から、料理名やら値段やらが早口に飛び出てきて、こちらは
それを音楽のように聞いているしかできないのだが、よく覚えてい
るなとは思った。
まさか、暗算で計算しているわけではあるまいとは思っても、す
らすらと一人当たりの金額が告げられれば、それも疑わしくなる。
彼は不思議な人だ。突然カイル副隊長の部屋から現れたと思えば、
いつの間にか旧知の仲だったような気がしている。ココルズは、そ
んな彼の名前と年齢しか知らなかった。
120
﹁ジュリアン、払っといてー﹂
グスタフはそそくさとリョウの脇を通り、通り過ぎる瞬間ちらり
と横目で彼を見る。グスタフがこの店に、ココルズについてやって
くるようになったのはリョウが務めるようになってからだ。またお
気に入りのおもちゃを見つけたのかと思いきや、自分の身長や髪の
色を気にしだした辺り、いつもとは少し違うような気がする。
﹁またお越しくださいね、グスタフ﹂
﹁おう。首筋のキスマーク、ちゃんと隠しておいたほうがいいぜ。
まったくお盛んなこって。情熱的な姉ちゃんと遊ぶのもいい加減に
しとけよ﹂
﹁余計なお世話です﹂
ココルズは、リョウの耳から首筋がさあっと紅色に染まるのを見
・・・・
逃さなかった。けけけ、と笑い声を立てグスタフは軽やかに店を出
て行った。
カイル副隊長とリョウの関係はいまいち掴めない。そういう関係
にはあるようだが、恋人ではないという。頻繁にヤるほうでもなさ
そう⋮おっと失礼。
リョウが勤めだしてからというもの、﹃金のうま亭﹄は大儲けだ。
異国めいた顔立ちと、ゆったりとした上流貴族のような口調。骨
格自体が薄いのか、袖から覗く腕や首筋にはなめらかな筋肉が成人
男性には充分なほどついているのに、華奢な印象を抱く。
そんな男が、まるで仕えている主人に対するように丁寧に給仕を
してくれるのだ。独り身の、寂しい男たちが、もちろん騎士団の数
少ない女性たちも、その首を揃えて出頭してくるのは当然と言えば
当然だ。あわよくばという思いは、誰しもが抱いている。
121
たまに首筋に散らされた紅い跡が淫靡な色気を立ち昇らせ、ただ
美しいだけの男ではないのだと、その差が数々の人間の心を乱れさ
せる。その跡をつけるのが、浮いた話のひとつも聞かない真面目一
徹で訓練狂の五番隊副隊長だというのだから、現実は面白い。誰が
そんなことを想像するだろう。
グスタフが、さっき恋だなんだと騒いだときも、誰も相手にしな
かった。
しかしてココルズは、あの唐変木の副隊長に春が来ていることを
偶然か否か、知っているのだ。
122
俺たちの愉快な一日︵3︶
いまいましいことだが、俺は門のところでまさに門前払いを食ら
おうとしていた。俺の鉄壁の営業スマイルも段々とぼろが出始めて
いる。だってそうだろ。門番には話が通っていると聞いて当然のよ
うに入れると思ったら、思い上がったお貴族坊ちゃんに対するみた
いな対応を取られるんだ。だから、俺は本当に関係者だっつの!
途中で、もう帰ろうかと思わなかったわけじゃない。でもこのヘ
ラヘラした、どう見ても俺よりも年下の門番に、大人の道理という
ものを教えてやらねば気が済まない。
﹁あのねえ、きみ。そこで粘られても、許可証がない限り入れるわ
けにはいかないんだって﹂
門番の青年の一人が呆れたように腰に手を当てる。
くっそ、俺より背も低いくせに。
俺はさらに言いつのった。笑みを浮かべて、わざと腰を折って目
線を合わせてやる。
﹁もっと話のわかる方を呼んできてくださるまで、ここを離れませ
ん。第一、門番ってそのための二人組でしょう。片方がトラブルに
対処し、もう片方が援軍を呼ぶ。上の方を呼んでいただきたい。私
の頼みは実に理に適っていると思うのですが﹂
二人目の門番が腕を組み、小さく呟いた。
﹁面倒くさいなあ、これだから美人は⋮何でも頼めば何とかなると
思っていやがる⋮﹂
123
おい、聞こえてんぞ。
俺の言い分がめちゃくちゃなのはわかっている。ここは懇切丁寧
王国の日本じゃないんだ。日本企業の受付応対技術を求めるのは、
酷というよりも非常識だろう。だけど、このなめくさった態度、ム
カつかないか?
﹁さっきから申し上げている通り、私は自らの権威をかざす貴族で
はありませんし、頼めば何とかなると思っているような人間でもあ
りません。何かの手違いだと思うので、ご確認願いたいとまっとう
に要請しているだけです﹂
﹁そうやって、手違いだ手違いだって中入るつもりなんでしょ?こ
っちだって慣れてるの。その手には乗らないよ﹂
﹁ちっ、がいます!本当に私はっ﹂
ちきしょお誰だよ、門番に変な経験値積ませたやつ!
とそのとき、頼もしい年かさの渋い声が聞こえて、門番の二人が
音に反応した草食獣のように、ぱっと顔を上げた。
﹁どうした。ローベルが心配して呼びに来たぞ﹂
﹁隊長!﹂
現れたのは銀髪の壮年の騎士で、ラフな格好ながらもその風格か
らその地位が窺えるというものだ。小物感が全くない。背丈はそれ
ほどないが、鍛え上げられた太い腕が、その腰にさがる大ぶりのく
たびれた剣を自在に操るところを想像できる。
そのナイスミドルは、門番の青年二人を目で舐め上げ、力強い足
取りでこちらにまっすぐ向かってきた。
﹁お初にお目にかかる。警備を任されている第六番隊隊長、ナウマ
124
ンだ﹂
﹁金のうま亭で働いております、リョウです﹂
一瞬だが、ナウマン隊長の額に、浅く皺が寄る。
﹁⋮ほう。事情を聞かせてもらえるか﹂
﹁第五番隊副隊長との約束を取り付けていたのですが門番に連絡が
通っていないようでして。許可証の存在を知らなかったこちらが悪
いと言えば悪いのですが、中に入る許可は既に副隊長から口頭で頂
いております﹂
﹁五番隊⋮カイルか。⋮そうか、わかった、確認しよう。すまない
な、敷地内では副隊長未満の通信機の使用は、緊急時以外許可され
ていないのだ。少し待ってくれたまえ﹂
かっこいい。
守衛所に入って行ったナウマン隊長は、今まで会ったどんな男よ
り、最も騎士っぽかった。正直に告白しよう、俺だってチャンバラ
ごっこに燃えた幼少期がなかったわけではない。RPGではナイト
職が一番好きだった。ナウマン隊長は、俺の理想を具現化したよう
な男だ。もちろん助けて貰って、美化しているところもあろうが。
俺は門番の青年二人に、流し目をくれた。
ここで俺の正当性が証明されれば、お前たち、謝罪のひとつでも
あるんだろうなあ?
﹁証明書は既に発行されているということだ。守衛所にないという
ことは、恐らく何か手違いがあったのだろう。すまない、不快な思
いをさせた﹂
しばらくして守衛所から出て来たナウマン隊長は、眉間にしわを
よせ厳しい顔でそう言った。次いで話が罰則だのどれくらいで怒り
125
を納めてくれるかなどという話題に移ったので、俺は慌ててそこま
で怒っていないと告げる。すると、とても不思議そうな顔をされた
ので、居心地が悪いのはこちらである。
文化の違いか!これがカルチャーショックなのか。
門番の青年たちも殊勝な面持ちをしていて、むしろ大事にしてし
まったようで申し訳なくなってきた。厄介な国民性だ。
﹁ときに、﹃金のうま亭﹄と言ったかな?﹂
﹁あ、はい﹂
証明書、というわけでもないが。と、ナウマン隊長は直筆で事情
を書いた紙を渡してくれる。受け取り、俺は彼の言葉に眉を動かし
た。
﹁そうか。最近、うちの隊内でも食べに行く者が増えているようだ。
話題になっている。私はそういった話題に疎いのだがね。きっと迷
惑をかけているのだろうと思うが、根は良い者ばかりだ。どうか気
を悪くしないでほしい﹂
﹁もちろんです﹂
﹁会えてよかった。⋮カイルをよろしく頼む。あれはあれで、不安
定なところがあるから﹂
ナウマン隊長は意味ありげな笑みを残して去り、俺は最後の言葉
にしばし思考が停止する。しきりにまばたきをして、ようやく思考
が呪縛から解けその意味を訊こうと思ったときには、既に彼は立ち
去ったあとだった。
どういう意味だろう。カイルと俺の関係を知っているような、そ
んな口調だった。
126
口ぐちに門番の二人が謝ってくれるのを上の空で聞きながら、修
練所の中へと足を踏み入れる。第三郭と第四郭の間にある一区画を
費やした、巨大なヘンウェル王国騎士団第三修練所は、一つの村を
飲み込むくらいの大きさがあるらしい。
門を抜けると、想像していたよりもはるかに大きな圧迫感をもっ
て、訓練中の音が俺を包んだ。体育館の中に入ったときに感じる、
その熱気と騒音に似ているかもしれない。男たちの上げる野太い、
規律だった掛け声。ガキンガキンと激しくぶつかり合う、金属音。
話し声、吼え、猛る叫び声。聞き間違いでなければ、発砲音すらあ
る。火薬の爆ぜる爆音。
やべえ、ダンジョンみたい。
四階くらいの高さまでの石造りの建造物の壁が眼前に迫り、馬が
三頭ほど並べば埋まってしまうほどの狭さの小路が、それを取り囲
むように左右に伸びている。段々と傾斜をもって伸びるこの路はど
こへ続いているのだろうか。俺は俄然わくわくしてきた。冒険って、
男のロマンだろ?
丁寧に案内板のような金属板が掲げられているが、残念だが俺は
こちらの世界の文字が読めない。非常に不本意である。言語チート
は不完全。
﹁まあ、とにかく行ってみるか﹂
真っ赤な夕日が白い石壁を、濃い橙色に染め、影が細く長く伸び
た。
許可は貰っている。外国とは違って、言葉は通じるのだ。わから
なくなったら、人に訊ねればいい。怖がる必要はない。暗くなるま
でに、着けばいいのだ。
路は途中で何度も分岐した。初めこそ、どこをどう曲がったのか
を記憶しておこうと思ったが、分岐の数が多すぎて15を数えたと
127
ころで覚えることを放棄した。たくさんの馬や兵士とすれ違い、時
には羊の群れを追い立てる羊飼いにも遭遇する。
その中で感じたことがある。
俺は、﹃金のうま亭﹄で多くの団員と知り合いになったように思
っていた。しかし、それ思い込みだったようだ。俺は、まだ知り合
いにひとりも会えていない。
いつからか頭上に陽を遮る石造りの屋根があり、いつの間にか俺
は建物の中に入ってしまっていたらしい。いくつもの重厚な扉が次
々と現れる。そしてそこを抜けたところに、吹き抜けの広い五百メ
ートル四方はあろうかというほどの、広い外庭が姿を見せた。
俺は息を飲んだ。
視界を遮るような強い西日に、手をかざす。俺は気づかないうち
という表現のほうが正しいかもしれない。
いた
に地上から離れた高さにいたらしい。見下ろせば視界に映るのは、
あった
一面に広がる草原。外庭には、二つの部隊がいた。いや、
と言うよりは
銀色の鉄塊で包まれたそれらは、まるで物のようであった。
思い甲冑を着た個人個人が槍と盾を巧みに捌き、それはふたつの
巨大な塊のように平地を蠢いている。ほら笛と太鼓のリズムの違い
を聞き分け、びしりとした統制のもと一歩も遅れを取らずに動くこ
とが、どれだけ難しいだろう。
甲冑と銀の大盾が、目をつぶしかねないほどの強い夕日を反射し
て光を散らす様子。それは幻想的でさえあった。
﹁すごいな﹂
無意識に、賞賛の言葉が口からこぼれ出る。
カイルは、毎日来る日も来る日も、こんなことをしているのか。
これが、死なないための生きて帰るための訓練なのだと思えば、ひ
128
とつひとつの動きもが大切に思えてくる。
俺はしばらく、その光景から目を離せないでいた。
いつまでそうしていただろう。
我に返ったのは、聞き慣れない音が遠くから聞こえたからだ。い
や、聞き慣れないというわけではない、俺に縁がなかったというだ
けで、それをある音としては知っていた。
子供の泣き声だ。
一度意識してしまえば、火がついたように激しく泣くその高い声
は、助けを求めているようにしか聞こえない。これを放置するなん
てもはや虐待だと思えるほどに、激しく泣いている。面倒事は勘弁
と思う俺の良心を、ぐりぐりと抉ってきて痛いことこの上ない。
俺はその声が聞こえてくる方向へ、耳を澄ませながら足を運ぶ。
案外遠くない。下か?階段をそろそろと降りると、兵たちが訓練を
する音とともに、子供の泣き声も大きくなった。もうすぐ近くだ。
すると、不意に泣き声が止んだ。その不自然なまでの止み方に、
俺は内心びくりとする。場所はもうわかっていた。石造りの階段の
裏手だ。
﹁⋮ちちうえ?﹂
石壁と、石壁の狭い暗がりから、細く震えた呼び声が聞こえた。
それは、少女か少年かはわからないが小さな子供の声には違いなく、
不安がっている。
どうしよう、こういうときどうしたらいいんだろう。
手に汗握るとはこのことだ。どうしよう、俺は子供と接したこと
なんか一度もないぞ。あ、いや、自分が子供だった頃は抜かしてだ
が。そう言えば、幼稚園児だった頃、好きだった絵美ちゃんが泣い
ていたのを慰めようとしたけど、さらに泣かせた覚えがある。なん
129
で女の子ってカマキリ、嫌いなんだろうな。⋮いや、今は関係ない。
絵美ちゃんも関係ない。カマキリ、関係ない。俺、動揺してる。
﹁えーと、父上ではない。ごめん﹂
なんで俺、謝ってんだ。
見つけた。石造りの階段は包み込むようにして、その小さな子供
を隠していた。スカート⋮ということは女。少女は服が汚れるのも
構わず、埃っぽい三角形の階段と壁の作る窪に座り込んでいる。
﹁そこ、怖くない?﹂
ちなみに、俺は怖い。少しばかり閉所恐怖症のきらいがあるのだ。
くそばばあにお仕置きと称して、納戸に何度も閉じ込められたから
に違いないと思っている。なんどになんども。ダジャレではないが。
暗い、冷えた納戸は、今でも夢に思い出す。お腹が空いてひもじ
くて。でも助けを求めることだけは絶対にしたくなかった。固い木
の床にずっと座っていると痛覚が麻痺していく。辛くて、涙が出る。
もうこんなところは嫌だと何度思っただろう。物音がするたびに、
祖母がやってきたのではないかとびくついて、それが鼠の這いまわ
る音だと気が付いたときに、心臓を縛り付けた恐怖。今でも思い出
す。
それ以来、鼠が嫌いだ。暗いところも嫌い。
俺はその暗がりの前で、片膝をついて座った。
﹁俺の名前はリョウ。俺もひとを探してるんだ。出ておいでよ、君
の父上も一緒に探そう﹂
﹁ほんと?﹂
130
﹁ああ、本当だ﹂
﹁一緒に探してくれるの﹂
俺は暗闇に手を伸ばした。その手に巻き付くようにして、確かな
感触があった。冷たい。しかし、その冷え切った手から伝わるぬく
もり。子どもは、そんな暗いところにいちゃだめだ。もっと、
﹁ああ。明るいところにおいで﹂
現れた少女は明るい金髪をしていて、きれいな水色のワンピース
を着ていた。そしてかわいそうなほどに、汚れていた。
﹁さあ、もう大丈夫﹂
怖かったろうに。こんなところで一人で。
大きな音が外庭から響くと、少女はびくっと身体を縮こまらせる。
恐らく、なんらかの理由で大人とはぐれた少女は、目の前で行われ
る壮絶な訓練の光景に怯えて、音の伝わりにくい場所へ逃げ込んだ
のだろう。
少女は小さかった。
﹁もう大丈夫﹂
俺が何よりも欲しかった言葉だ。
もしかすると、俺は今もまだこの言葉を探し求めているのかもし
れない。もう大丈夫だと言って欲しい。そう思い続けているのかも
しれない。
彼女の目は海を映したような緑色だった。その目から涙が、ふっ
くらとした頬に痛々しく跡を付けている。しゃがみ込んだまま少女
131
を抱き寄せると、少しあって彼女は身体の力を抜いた。
﹁怖かったな﹂
なかなか気付けなくて、ごめんな。俺は少女の頭に手の平を添わ
せた。肩口が、温かく濡れる。震える小さな身体を、俺はかつての
自分のように感じていた。
132
俺たちの愉快な一日︵4︶
﹁全結界、展開完了。耐魔法室の結界も展開を完了しました。術式
の持続時間は一刻半です﹂
﹁わかった。中央から戻ってきたところをすまなかったな。明日よ
り任務はココルズが引き継ぐ。貴官は通常業務に戻れ。ご苦労だっ
た﹂
﹁は。副隊長の御用とあらば、この身体に鞭を打ってでも馳せ参じ
ます﹂
﹁ありがとう﹂
﹁他に何か、自分にできることはございますか﹂
﹁探知は俺がする。貴官はもう休め。魔力の補充に一週間の休暇を
やる﹂
﹁ありがとうございます。⋮⋮あの、カイル副隊長﹂
第五隊室には、カイルとその目の前で直立する男のほかは誰もい
ない。
﹁なんだ、ラシュ﹂
炒った紅茶葉のような褐色の肌の男は、名を呼ばれて、その琥珀
色の目をわずかに揺り動かした。
﹁ひとつ、個人的なことでお尋ねしたいことがございます﹂
﹁許す﹂
﹁大変失礼ながら、貴方から慣れない魔力が感じられます﹂
133
・・
﹁ああ、そうか。お前も感知ができたんだったな﹂
﹁副隊長には遠く及びませんが、多少﹂
カイルはどうしたものかと、つかの間逡巡した。男は動かない。
上司の目が不躾に自分を見つめているのは感じているだろうに、思
うところをひとつも見せずひたすらに上司の言葉を待っている。
気味が悪い。そう揶揄したのは、グスタフだっただろうか。
﹁心配するな。お前がいない間に、猫を飼い始めた、それだけだ。
だがそれ以上立ち入ることは許さない﹂
﹁了解しました﹂
興味は引いてしまっただろう。しかし、この男は命令には必ず従
う男だ。これまでも、一線を越えたことはない。
﹁ところでラシュ﹂
﹁は﹂
﹁お前の兄には、会えたのか﹂
﹁⋮は﹂
﹁今、中央にいるんだろう?会ってこなかったのか﹂
﹁いえ、会いませんでした﹂
返答が不自然なほど速かったのは、気のせいだといいが。
﹁そうか。悪い、こっちが立ち入ったな﹂
﹁は﹂
追及しなかったのは、第五隊室の外から隊員の話し声が近づいて
くるのを聞いたからだ。もし邪魔が入らなければどこまで問い詰め
ていたのかと、自分の仕事に吐き気さえしてくる。従順な部下を前
134
に、カイルは自己嫌悪に胃がよじれるような思いだった。
﹁あれ、ラシュ。帰ってたんだね。お疲れ﹂
ジュリアン・ド・ネイが扉を開けて、微笑んだ。訓練を終えて暑
かろうに、頑なに麻のシャツを脱がないのは彼の矜持だ。その後ろ
からなだれ込むようにして入ってきた、双子の兄のグスタフは上半
身を剥きだしにして汗を滴らせている。
﹁ふくたいちょーの鬼ぃ⋮、何ひとりで先に帰ってんすかー。言い
つけといて、ほったらかして行かないでくださいよぉ﹂
﹁罰則は終わったのか﹂
﹁も、散々!﹂
午後の訓練に遅刻した罰則として、訓練項目を二、三増やしたの
だ。
入ってくるなり、グスタフは叫んでソファに体を投げ出した。白
金色のごわついた髪が、今は元気もなくぺっとりと汗で頭に張り付
いている。後からその隣に座ったシモン・ココルズが、げんなりし
た顔で説明を加える。
﹁通りかかったネイ隊長が、カイルさんがいないからって、魔力負
荷を勝手に追加してったんですよ﹂
﹁あの腐れオヤジ。絶対面白がってた!﹂
グスタフが革張りの座面に向かって吼えた。第五隊の隊長、ポラ
ル・ド・ネイは、家名からもわかるように双子の父親である。性格
はどちらかと言えば双子の兄寄りだ、と表現すればそのふざけた具
合が少しは伝わるだろうか。
余談だが、ネイ家はヘンウェル王国の三大軍門のひとつで、優秀
135
な軍人を数多く輩出している。家督を一番上の子息に継がせ隠居し
たポラルが、団入りしたことでも有名な武家だ。
﹁副隊長、探知に出るんですか?﹂
﹁ああ﹂
探知術式の起動を確認しているカイルの手元を、ジュリアンが覗
き込む。術式の展開媒体となる魔導石は、カイルが原石から丁寧に
削り文様を彫った手製のものだ。
組み込まれた探知術式を見たジュリアンが、怪訝な声で呟く。
﹁⋮二人の、子供?﹂
﹁どちらも正式な探索依頼は出ていない。気にするな、すぐに片付
く﹂
﹁手伝いましょうか、カイルさん﹂
子供は魔力放出の制御を知らない。訓練を受けていないからだ。
カイルのような人間には、子供からふわふわと漂う魔力は、魔導石
の使用残滓と同様に光の軌跡のように感じることが出来る。出口の
ない結界内であれば、その軌跡を辿って探知するのは簡単だ。
﹁いや、いい。⋮もう見つかった﹂
来てくれたのか。
愛しい人の、硬質の美しさを持った魔力を、結界内の中からカイ
ルはすぐに見つけ出した。まるでその魔力から糸が引かれていたか
のように、カイルの魔力が引き寄せられたのだ。彼は、思わず笑み
をこぼした。
探していた二人分の魔力が重なって、柔らかく光っている。
136
﹁ちょっ、副隊長!﹂
西区の練武場の近く。あそこは確か今日は、第二隊が使用してい
るはずだ。子どもが一人でうろつくには危険すぎる場所だが、幸運
なことに何の偶然か彼が一緒にいてくれている。迎えに行かなくて
は。そう思ったカイルはもう、居ても立っても居られない。
魔導具の片付けもそこそこに副官席を立ったカイルは、静止の声
も聞かず部屋を飛び出した。
リョウは明らかに、魔力放出の制御訓練を受けたことがない人間
だ。魔導具を自分で使うこともない環境で育ったのだろう。どれだ
け高貴な育ちをすればそうなるのか。カイルにはわからない。
ただ、リョウが動くたびに揺らめき空気に混じり合って煌めく彼
の魔力は、子供同然に無垢で、また深みのある濃い色をしている。
その中に包まれていると、不思議と深呼吸をしたくなるような、そ
んな平安を感じることができた。
本当に、お前は甘い。
カイルは廊下を進みながら、笑みを深める。
絶対に行くものか、とまで言ってカイルを拒んだのに、待てばこ
うして来てくれる。
仕事場を訪ねて行ったのは間違いだっただろうか、何故怒らせて
しまったのだろうと、ずっと考えていた。答えは出ないままだが、
リョウが自分の何かに向かって苛立ち、腹を立てたことだけはわか
った。自分たちの関係を周りに知られたくないとは、カイルは実際
の所思っていない。知られるなら、知られてしまえとも思う。
しかしリョウは反対なのだ。まだ彼は決め切れていない。それで
137
もそばにいてくれるのは情だろうか。それが恋情であればいいと、
カイルは祈るように思っている。
﹃俺はッ!︱⋮俺は、他に行くところがない。だから、あんたに求
められたら、応じるほかないんだよ⋮﹄
あの日の言葉を今もまざまざと思い出す。そのたびに腹の奥が熱
く、苦しくなる。
できるだけ早く出て行くと辛そうに笑うリョウを、引き留めたの
はカイルだ。触れないから、頼むから出て行ってくれるなと。触れ
られないことより、そばにいられないことの方が耐えがたく辛い。
なのに、
何故お前が辛そうにするのだ。リョウが笑うたび、その笑みが辛
そうで、幾度もカイルはそう問おうとした。
リョウは、頼まれたら断れない性格をしている。
本当に、お前は甘いよ。リョウ。だから、俺なんかに弱みに付け
込まれるんだぞ。俺はこのまま、なし崩しにずっとリョウが俺と一
緒にいてくれないかと、ずっとそう考えている。
遠くに愛しい青年の姿を見つけて、カイルは頬を緩ませた。
格別だ。これほど美しい人を、今までに見たことがない。そう思
う。初めて会ったときよりも、その思いは強く激しくなっている。
怖いほどだ。
彼は少女の手を引き、外では見せない優しくふわりとした微笑を
浮かべて、何事かを少女と話している。驚いたことに、なかなか人
138
に懐かない彼女は、彼に信頼しきった表情を向け、熱心に言葉を選
び一生懸命に唇を動かした。時折、笑い声が上がる。
はじめは、彼らのそんな姿に驚きつつもおかしいとは思わなかっ
た。変だと感じたのは、彼らの声が耳に届く距離に近づいてからだ。
空耳かとも思った。耳に心地のいい、低く、落ち着いた声が、ヘ
ンウェル語でない言葉を喋っていると気が付いたときは。音楽的と
称賛されるエクスィーダ語の、語尾が少し伸びる発音が、リョウの
声で耳を打つ。
少女と話している姿を見たときに、すぐに気づくべきだった。
彼女は、エクスィーダ語しか話さない。
﹁あ、カイルおじさま!﹂
姪が、カイルに気が付いた。義兄によく似た明るい金の髪が、白
磁の肌を掠め風に揺らぐ。リョウの右手を離した彼女は、たたたと
軽い足音をたててカイルのほうへ一直線に走ってくる。その歩みを
速めぬままゆったりとこちらに近づきつつ、その様子をリョウは愛
おし気に眺めていた。
﹁義兄上が探してるぞ、ヴィヴィアン⋮⋮リョウ﹂
﹁よ。来てやったぞ﹂
﹁ああ﹂
﹁んだよ、もっと歓迎の言葉とかないのかよ﹂
リョウは、カイルの戸惑いに気付かぬまま、眉を顰めた。
﹁あ、いや﹂
139
﹁なんだよ。もしかして怒ってんのか?悪かったよ、中で迷ってた
んだ。別にわざと遅れたわけじゃない⋮⋮って、どうした?﹂
﹁⋮リョウ﹂
﹁なに、変な顔して﹂
﹁お前、エクスィーダ語を話せたんだな﹂
﹁は?﹂
リョウは先からずっと、エクスィーダ語しか話していない。エク
スィーダ王国育ちのヴィヴィアンに合わせているのだろうか。母国
語を話しているような流暢な話し方を聞いていると、これまでのふ
とした彼の異邦人らしい物言いや、ふるまいも頷ける。
﹁そうか、リョウはエクスィーダ人だったのか﹂
﹁何言ってんの?﹂
﹁それにしてはヘンウェル語も達者だったな﹂
﹁⋮俺いま、違う言葉で話してた?﹂
﹁?ヴィヴィアンがわかるように、エクスィーダ語で話しているん
だろう?構わない、俺も会話程度は話せる。気を遣うな﹂
そう言うと、リョウは奇妙に顔を歪ませた。彼の黒い瞳の中に恐
怖の片鱗を見たような気がした。カイルは、馬鹿な、と一瞬浮かん
だ思いつきを即座に捨てる。
リョウが、そうだとでも言うのか?馬鹿げている。だが、しかし⋮
捨てるに捨てきれぬ疑惑を抱いたままの自分を、カイルはかつて
ないほどに強烈に殺したいと思った。体のすべてが震える。自分は
リョウを、疑っているのか。
﹁おじさま。なぜ、そんな怖い顔しているの﹂
はっと、カイルは我に返った。目の前に視線を移せば、眉をハの
140
字にして困惑しきった黒髪の青年の姿がある。腿に纏わりついてく
る少女の頭に手の平をのせたままの恰好で、カイルはリョウの戸惑
ったような視線を受けていた。その見つめてくる目が、一歩引いた
用心深いものになってしまっていることに、カイルが気づかないは
ずがなかった。
﹁いや、なんでもない﹂
自分の浮かべた笑顔は今、傾いでいないだろうか。カイルは顔を
少しうつむけた。それはまるで、リョウから顔を隠すように。
だからカイルは気が付かなかった。その横顔を、悲しげな闇色の
瞳が見つめていたことを。
141
そうして一日が終わる※
夜になって、ぱらぱらと雨が降り出した。
カイルが俺を修練所に呼び出したのは、俺に魔力放出の制御を教
えるためだったという。俺たちはあの後耐魔法室に向かい、ひたす
らに魔力放出の訓練をした。聞けば、ヘンウェル王国の一定水準以
上の大抵の子供は、学校のようなところで制御法を学ぶらしい。
耐魔法室という名の密閉空間は、閉所恐怖症の俺に呼吸を制限す
るがごとく圧迫感を与えた。逃げたいと正直に言えば思った。しか
し、脳裏にちらつく、少し前に見たカイルの表情がそうさせてはく
れなかった。
中途半端な、言語チート。それは俺に苦しみしか与えなかった。
俺は今自分が何語で話しているのかも、何語で思考しているのかさ
えわからない。日本語の文法事項や何かを考えてみても、頭がこん
がらがってわからなくなるだけだ。
日本語を、忘れてしまったのだ。
故国の言葉の忘却は純然たる恐怖で、俺は今立っている地面が消
えてしまったような思いをした。このまま記憶が消されていくので
はないかという、自分が自分でなくなってしまうような恐ろしさ。
あのときカイルとの間に垂れこめた重い不信感を、つかの間のも
のであったとは言え、俺は忘れることができないだろう。
142
異世界から来たのだと言って、誰が信じてくれる?俺自身でも、
・
この世界がなんなのかわかっていないというのに。カイルは信じて
くれるだろうか。しかし少なくともこれで、カイルが俺という存在
を不審に思ったことは明白だ。
俺はここに来て、ふりだしに戻ったのだろうか。
﹁何を考えている﹂
夕食を終えてテーブルに突っ伏していると、向かいの椅子を引い
てくる音があって、左隣にカイルが座る気配があった。カイルは人
の頭を弄るのが好きだ。頭に心地よい重さが乗る。そこからじわり
と体の芯まで温まるような愛情が滲んでくるような気がして、少々
の緊張状態だった俺は、情けなくも涙腺が緩むのを感じた。
﹁⋮んでもねーよ﹂
俺が突っ伏しているこの食卓は、二人用の揃いの椅子がついた赤
樫製の一点ものだ。カイルと二人で、家具屋で選んだのだ。二人で
生活してきたそうした記憶が腕の中から零れ落ちていくような気が
して、必死にそれを掻き集める。
﹁そうか﹂
﹁うん。だからちょっとほっとけよ﹂
もう少ししたら、元通りになるから。そうしたら、ちゃんと笑え
るようになってるよ。
俺はカイルといるうちに、笑い方を忘れてしまっていたらしい。
143
何故って、笑い方なんて意識しなくても自然と笑顔が溢れたからだ。
目尻からつうっと潮が溢れたとき、カイルが俺の耳に、唇を寄せ
た。
﹁⋮いやだ﹂
それはひそやかな、静かな主張だった。声は穏やかだったが、そ
の主張は揺るぎない。熱くさえある。いや、その主張に込められた
のは、熱さ以外の何物でもなかった。
﹁カイ︱︱﹂
﹁お前とせっかく縮めた距離が、開いていくのをただ見ているなん
て耐えられない﹂
﹁カイル﹂
﹁距離を取るな。好きなんだ、リョウが好きだ。初めて会った頃は
お前が何者なのかが気になって仕方がなかった。お前が俺の手の届
かないような身分の人だったらどうしようかと本気で悩んだ。でも
今はもうどうだっていい。お前が誰でも、俺はお前を捕まえる。リ
ョウが好きだから﹂
いつの間にか右頬に添えられた大きな手が、俺に左を向かせる。
緩く閉じられた瞼に、柔らかいものが当たった。温かく湿った吐息
が、涙の痕跡を消していく。俺は目を開けた。
高い頬骨と滑らかな鼻梁。そして男らしい眉の下に収まる、湯気
を立てるホットチョコレートの瞳。吸い込まれそうだ。
俺はおずおずと指を伸ばし、片手でその顔を包む。咽頭が震え、
今にも消え入りそうな声だったが、この男なら聞いてくれると思っ
た。
記憶がいつの間にか消えてしまっていたという事実と、これから
144
さらにその領域が広がっていくかもしれない可能性は、怖い。でも、
﹁⋮⋮俺、あんたに嫌われるのが⋮いちばんこわい、みたい﹂
﹁嫌うものか!﹂
カイルの喉から荒々しいうなり声が響いた。俺の髪に指を絡ませ
引き寄せる。そして強く抱きしめられた。カイルの首筋に顔をうず
めると、彼の体温と鼓動が、胸板を通して伝わってくる。俺はただ
それを感じていた。
カイルが苦し気に小声で俺の耳に叫ぶ。もう一度。
﹁嫌うもんか。何があったって、お前のことが好きだ﹂
﹁カイル﹂
﹁︱⋮お前が誰でもいい。俺と出会った、リョウが好きだ。だから
もう、泣くな﹂
﹁ばか、⋮泣いてねえよ﹂
たとえふりだしに戻ったのだとしても、確かにコマを進めたのだ
という事実は変わらない。コマを進めたぶんの時間は、無駄にはな
らない。
カイルはたっぷり十秒ほど黙って俺の体を抱いていた。俺がベッ
ドに行こうと囁くと、彼はゆっくりと体を離し、慎重に椅子から滑
らせるように俺を抱き上げる。その抱き方があまりに愛おし気で、
俺は文句を言うのも忘れてその首に両手を回した。
﹁リョウ。キス﹂
ん、と移動しながら目を閉じるカイルがかわいくて、俺はつい笑
ってしまった。笑いながら唇を重ねる。戯れのような、無垢な、重
145
ねるだけのキス。唇を離す瞬間に、俺は低く囁いた。
﹁カイルはやく、つれてって﹂
﹁お望みのままに﹂
妖しく誘う腕の中の男に、カイルが喉を鳴らしてくつくつと笑っ
た。
﹁俺ね、言わないといけないことがあるんだ﹂
ベッドにどさりと落とされて仰向けになった俺は、カイルを見上
げて告げる。彼はそれを聞いて、眼を狭めた。
窓に視線をやると、月が雨雲の影に隠れてなおその光を、地上に
向けて淡く放っていた。カイルはその光を受けて、彫刻のように固
まっている。その整った顔の造作をなぞりたくて、俺は腕を伸ばす。
その手を、カイルが捕まえた。
﹁聞いている﹂
﹁︱︱うん﹂ 一枚ずつ服を脱がせてもらいながら、俺はカイルの肩越しに窓の
外の空を見ていた。雨は降りやまない。窓ガラスに当たって砕ける
雨粒が、薄い月明かりを受けてほのかに光る。その光の中で、暗い
はずの曇り空は少し明るく見えた。
﹁空は、変わらないんだ﹂
﹁うん?﹂
小さく呟いた声を、カイルは聞き取れなかったのだろう。その目
146
は曇りなく俺を見つめている。
﹁︱︱︱俺の出身国は、日本っていう島国だ﹂
言葉は意外なほどにするりと出て来た。カイルは口を挟まずに耳
を傾けている。その手が止まったので、俺は自分でシャツから腕を
抜いた。そして先を続ける。
﹁なかなか裕福な国だよ。魔法はないけど同じくらい便利なものが
たくさんある。あと、ご飯も美味い。良い国だ。⋮⋮家族は、いな
い。祖母を除いて。帰ろうとは思わないけど、ときどき帰りたくな
ることもある﹂
﹁帰れないのか﹂
﹁帰れないよ、多分な。︱⋮日本はこの世界には存在しないんだと
思う。つまり⋮つまり俺は異世界の人間なんだ。荒唐無稽な話だと
笑ってくれ。でも、﹂
﹁本当の話なんだろう?﹂
いつの間にか上半身を裸にして、カイルはそっと俺を抱き寄せた。
スパイシーな香り。俺は気づかれないようにそれを胸いっぱいに吸
い込んで、ゆっくりと吐いた。安心する匂い。
﹁⋮ああ、本当だ。驚かないのか﹂
﹁正直、かなり驚いている。だがそれで頷けることも多い。お前は
魔導具を使ったことがないんではなくて、魔法自体見たことがなか
ったんだな。ようやく、納得がいった﹂
﹁言葉は、勝手に喋れるようになってた。俺にはヘンウェル語もエ
クスィーダ語も聞き分けられないし、話し分けるのも無理だ﹂
﹁それでもうらやましいぞ。俺がエクスィーダ語をまともに喋れる
ようになるのに、どれだけかかったと思うんだ﹂
147
﹁うらやむな。俺はその代わり、母国語を失った﹂
カイルが身を離し、俺の目を覗き込んだ。
なあ、その目に映る俺は、ちゃんと人間の形をしているか。
﹁⋮なんだって︱⋮?﹂
﹁俺はもう、日本語を覚えていないんだ。今日、気が付いた﹂
この忘却に俺は身を委ねるしかない。少しずつ忘れていく中で、
俺は忘れたことにも気付かずに生きていくしかないのだろう。
必死なほどに強く、カイルの両腕が俺を包んだ。肩が震えている。
なんだ、お前、謝ってるのか。雨音に混じって落とされる囁きは、
謝罪の言葉の形をしている。俺はされるがままに、その湿った声を
聞いていた。
﹁俺は、⋮なんてことを﹂
﹁もう謝んなよ。あんたが泣いてくれるなら、そんなに辛くない。
それに、それでカイルと話すことができるようになったんだと考え
たら、そこまで悪くないよ。日本語じゃ、あんたわからないもんな﹂
俺はそれ以上話すことはできなかった。言葉を閉じ込めるように、
唇が塞がれたからだ。
濃密になる空気。徐々に激しくなる鼓動。余計なことを考えるこ
ともできず、俺たちはキスに夢中になる。
﹁⋮は﹂
銀色の糸が、互いの唇から伸びて途切れた。カイルの濃い色のま
つ毛は濡れている。髪の色とまつ毛の色は違うんだな、と俺は靄の
かかった頭でぼんやりと考えた。その色は瞳の色によく似ている。
148
﹁俺、あんたの目、好きだよ﹂
冬の色だ。俺は知っている。チョコレートを溶かした暗褐色の中
に、散らばるごく僅かな緑を。暗いところでは見えない。光の下で、
ようく覗き込んでようやくわかるその変色。それは情事の間は滑ら
かな焦げ茶に飲み込まれている。
﹁目、だけか?﹂
﹁ふ。どうだろうな、それ以外も好きにさせてみろよ﹂
カイルは俺の挑発に、不敵に笑う。大きな魅力的な口の片端が上
がって、俺の唇にむしゃぶりついた。俺は自分で誘ったこととは言
え、思わずうめく。気持ち良いっていうのは、こういうことを言う
のだと知ったのは、カイルと出会ったからだ。
俺はその虜になっている、今も。
﹁リョウ﹂
﹁んんっ⋮ああ、あ﹂
キスの合間に名前を呼ばれるのが好きだ。それを知ってか知らず
か、俺の名前を呼びながらカイルは肌を撫でさする。その手の平が
胸の飾りに触れたときに走った、甘い痺れに俺は高く声を上げる。
﹁ん?なんだ、なんか引っかかる﹂
﹁ぃや、あう⋮だめ、カイルッ﹂
カリカリと指先で引っかかれて喘いだ。赤い果実を中心に広がる
じんわりとした熱さ。
149
﹁何が駄目なんだ?﹂
﹁ひ、ッひっかい、ちゃ⋮や、だ︱︱んああ﹂
ガリッと痛みが弾ける。そしてその痛みが広がる前にすぐさま、
濡れた温かいものが傷ついた果実を包み込んだ。喉を反らして細く
悲鳴を漏らす。息が、できない。
﹁こっちの方が好きか。そうだよなあ、痛いのは嫌だよな﹂
無言で何度も頷く俺に、カイルはひどく優しく囁く。じゃあ、優
しいのも嫌になるくらいにぐちゅぐちゅにしてやるよ、と。
俺が期待に息を詰まらせると、股間にズボンの上から軽く圧力が
かかった。完全に勃ちあがっているソレは、それだけでとろとろと
布地を濡らす。
﹁ふ、ンぁ⋮あ﹂
﹁はは、堪え性がないな﹂
﹁⋮うるっさい﹂
俺の乳首を弄り倒しているカイルの愉快そうな笑い顔に、ムカつ
く。余裕のある顔がムカつくんだよ。
﹁ちょ、リョウ﹂
その澄ました顔を崩したくて俺は反撃に出る。案の定、カイルは
焦って笑みを消した。
﹁お前だって、触ってねーのに勃ってるじゃん。堪え性がないな﹂
﹁リョウっ﹂
150
腹筋を使って上半身を持ち上げ、顔をカイルの耳に近づける。
﹁へんたい﹂
ぐっとカイルの喉が鳴って、あ、やばいかも、と思ったときはも
う遅かった。表情を消したカイルが俺を押し倒し、下半身を剥きに
かかる。
﹁そんな俺を煽って、覚悟はできているんだろうな﹂
﹁あ、煽ってねえよ﹂
﹁逃げんな﹂
﹁カイ⋮待てって、カイル!﹂
﹁じっとしてろ﹂
﹁ッん、ぁ﹂
逃げ腰になりながらどこかで、その先を望んでいる自分がいる。
矛盾した感情を俺は持て余してばかりだ。
﹁びしょびしょ﹂
俺は赤面して目を逸らした。しかしすぐにカイルの指に前を向か
される。そして否応なしに思い知らされる、欲情した自分を。カイ
ルの長く力強い指が俺の太腿にかかって、大きく開かされる。視線
になぶられるような錯覚に陥った。俺は腕で自分の目を覆う。
﹁見、んなよ﹂
﹁恥ずかしい?﹂
﹁ばか﹂
屹立の先端からは透明な蜜がとめどなく流れ出して、下生えを濡
151
らしている。ズボンは下着と一緒にすっかり脱がされて、どこかに
追いやられていた。
とぷとぷとぷと、カイルが潤滑剤を自分の手の上に落としている。
冬の寝室は寒い。まるで冷蔵庫の中のようだ。冷え切ったそれを体
温に馴染ませて、俺が冷たくないようにするためなのだと、そのさ
り気ない優しさがとてつもなく好きだと思う。
﹁寒くないか﹂
﹁へいき。⋮んっ﹂
ギッとベッドのスプリングが軋む。カイルが上体を伏せ、俺の胸
に舌を這わせた。ぷっくりと腫れた乳首を、ざらついた感触が舐め
上げる。
﹁⋮ッ︱く﹂
﹁声を我慢するな。お前の声が好きだ。前に言ったか?﹂
﹁んなの⋮知ら、ねえよ︱ッああ﹂
さらに大きく足を開かされる。これ以上は無理ってくらいに開か
れた足の間には、カイルが大きな身体を割り込ませている。
後ろの窄まりを、潤滑剤でぬめる指先が触れた。我慢という言葉
を知らぬ身体が、その先を欲しがってひくつく。
﹁すごいな。食いついてくる﹂
﹁っくそ、⋮ざけん、な、﹂
面白がるように、カイルの指がくぷくぷと浅く入口に挿入を繰り
返す。俺は快感から逃れたくて身体をくねらせた。でもそれも許さ
れない。カイルは右の乳首を弄っていた左手を俺の腰に移して、逃
げられないように押さえつけてくる。
152
俺はその快感をもろに受けるしかなくて、カイルに縋りついた。
夜はまだまだ終わる気配がない。外は相変わらず、雨だ。
153
一日は終われど夜は続く※
思考はドロドロに溶けて、俺は目の前の快楽を追うことしかでき
ないでいた。
﹁あ⋮っん⋮ふ、っはあ、ん⋮ぃあ﹂
後孔に根本まで埋められた数本の指が、卑猥な音をたてて動いて
いる。それが何本なのかはわからない。ただ、気持ちが良すぎて苦
しいくらいだ。
﹁抵抗しなくていいのか?﹂
おちょくってんのか、くそやろう。
俺は閉じていた瞼をどうにか押し上げて、視界に映る男を睨んだ。
口からは荒い息が吐かれるだけで、意味のある声は出ない。出せな
い。
光の絞られたランプの明かりのせいで、天井に黒い影が落ちてい
る。よく見えないからと、カイルが点灯したのだ。雨はますます激
しくなり、厚い雲のどこかに月は完全に消えた。
﹁っぅ、ぐッ﹂
前立腺をいやというほど擦り上げられ、俺は痺れる背中をしなら
せ顔をシーツに押し付ける。
明かりを消せと何度も言ったが、この男は聞きゃしない。快感に
歪む表情をつぶさに観察されていると思っただけで、羞恥に目が眩
む。なのにこの男は、むしろ、嫌がる俺を見て嬉しがっているよう
154
でもあった。基本が変態なのだ。優しいの意味を取り違えている。
﹁やはり月の光だけとはまったく違うな。見え方が。すごく、いや
らしい﹂
﹁ッ消せ!⋮ぐぅっ⋮﹂
﹁表情だけで抜けそうだな、これは﹂
﹁!あほっ﹂
﹁冗談だ。リョウがいるのに一人で抜いたりはしない﹂
﹁ばかちげえよ!そういう意味じゃね⋮え、このくそエロ魔人!う、
︱︱あ、ひあ⋮アん﹂
少し緩んだ責め苦が、無慈悲に再開する。触ってもらえずにいた
屹立を扱かれ、俺は声高く啼いた。
﹁イイ声﹂
﹁ぃっ⋮な、ん⋮ひゃン⋮⋮あ、いや、ヤだ見るな⋮だめ、ぁあン
ッ﹂
一際大きな波が来て、俺は身体をぴんと張る。ぎゅうっと目を瞑
りソレをやり過ごす。堪え切れなかった快感が大粒の涙となって、
零れるようにこめかみを伝いシーツに落ちた。
﹁リョウ、かわいい﹂
まだ荒い息が整わない俺は、ただ涙目で男を睨むしかできない。
目尻の涙を指ですくわれて、胃がよじれるようにむかつく。
パシッと乾いた音が響いた。手を振り払われたカイルが目を軽く
見開く。俺は全身の筋肉にありったけの力を込めて、カイルの右腕
を引き、バランスを崩したところを右足で巻き込むように横に突き
飛ばした。
155
ベッドが広かったからできたことだ。ベッドに背中をつけて俺を
見上げているカイルは、予想外って顔でしきりに瞬きをしている。
いいざまだ。
﹁形勢逆転﹂
顎を持ち上げて見下ろすと、カイルは困ったように苦笑した。
カイルはまだ下衣さえ下ろしていない。だが、尻の下に感じる熱
源は確かに存在している。俺は膨らんだそこに身体を擦りつけた。
双丘が割られ後ろの孔のところに熱いものが当たって、ひどく気持
ちが良い。
カイルが眉根を寄せてその悦楽を味わっているのを見て、充足感
を覚えた。
﹁⋮リョウ﹂
﹁なに?﹂
切羽詰まった男の渋面を見るのがとても楽しい。騎乗位なんてし
たのは初めてだけど、割と好きかもしれない。
俺は自分の唇を誘うように舐めて、カイルの下衣に手をかける。
布を下ろせば、生々しいまでの屹立が姿を現す。それを緩く握ると、
カイルは息を詰めて眉間のしわをさらに深くした。
﹁っ﹂
﹁余裕、あるふりだったんだな﹂
﹁⋮は、⋮く﹂
﹁駄目、さわんな﹂
俺自身に伸ばしてくるカイルの手を、掴んで止める。不満そうに
俺の名前を呼ぶ男が愛おしくてたまらない。仕方がないなと、カイ
156
ルが大きくため息を吐き、諦めて両手を自分の頭の後ろに敷いた。
﹁わかった好きにしろ。だが早くしてくれよ、頼むから﹂
俺は膝立ちになって、位置を調整する。このまま腰を下ろせばす
るりと入ってしまいそうな怒張に、ぞくりと背中が粟立った。先端
が尻をつつく。双丘を右手で割り裂き、左手で支えた屹立の切っ先
を後孔にあてがった。
﹁んッ⋮﹂
﹁⋮く﹂
右手を離すと尻たぶが屹立を包み込んで、その感触だけで気持ち
良くなってしまう。後孔の入り口に少しだけ先端が入り込んだ。と
思ったら潤滑剤や何やらで、ヌルヌルにぬめっているそこを滑って
上手くいかない。
﹁リョ⋮ウ、勘弁してくれ、拷問だぞ⋮こんなの﹂
見れば、カイルが両手で目を覆っていた。指の隙間から見える頬
や耳が赤く染まっている。
今度は両手で、ひくついた後孔にソレをしっかりと当てた。膝が
震える。くぷん、と屹立を飲み込んだ。
﹁⋮動くなよ﹂
﹁わかってる、けど⋮本当に、コレは⋮ああ﹂
﹁ンん⋮ぁ﹂
ゆっくり、ゆっくりと腰を落としていく。身体がそこから開かれ
ていくような感覚に、俺は陶然と息を吐いた。手をカイルの腹筋の
157
上について、一番太いところに、後ろが馴染むのを待つ。
﹁リョウ、動きたい﹂
﹁動くな⋮つったろ﹂
﹁なら最後までちゃんと入れてくれ、生殺しだ⋮﹂
カイルの綺麗に割れた腹から胸にかけての筋肉が、耐えているの
だろう、ぴくぴく動いている。俺は手加減してやろうと思って出来
るだけ力を抜いているのだが、身体は素直で、きゅうっと中のモノ
を締め付けてしまう。
﹁⋮ぅん⋮ふ﹂
﹁あぁ⋮良い眺め、だな。エロ﹂
﹁しゃべんな﹂
入りやすい角度を探しながら徐々に挿れていく。しかしどんなふ
うに挿れても、俺の弱いところに当たってしまってそのたびに体が
震える。
カイルは苦しそうに額に汗を浮かべ、その光景を下から眺めて笑
った。その振動が腹から伝わって、無意識の内に腰が揺れてしまう。
かげ
それも中の屹立に伝わったのだろう。カイルが切なく眉を寄せた。
額の汗が流れる。暗褐色に翳った眼が、ひたと俺を見つめた。
﹁リョウ悪い。我慢できない、限界だ﹂
好きにさせてやろうと思ったんだがな、と俺がその言葉の意味を
測れないうちに、カイルが俺の手首を乱暴に掴んで引いていた。
﹁んゃぁ、あア⋮ッ!!﹂
﹁うっく⋮﹂
158
脚はほとんど力が入らない状態だったのに俺は身体を支えていた
ものを失くし、肉壁を擦りながら一気に打ち込まれた杭に悲鳴を迸
らせた。襲い掛かる最大質量の快感に総毛立つ。ぞわぞわとそれは
中々治まらない。
﹁はいった⋮?﹂
﹁動かすぞ﹂
﹁え、ちょッ⋮ゃん、だめっ﹂
上体を浮かせたカイルが両手で俺の腰を掴んだ。カイルの肩の筋
肉が盛り上がり、いとも簡単に持ち上げられる。ずりゅ、と屹立が
中を抜けていく。浮遊感に次が容易に予想できて、俺は焦って静止
の声をかけた。
﹁だめ⋮だめだめ、手離さないで⋮⋮んぁあアっ﹂
その声も虚しくカイルは空中で腰から手を離し、俺は自重で下に
落ちた。ずずずと絡む肉ひだを巻き込み、響く衝撃。重く腰を打つ
快感と、中から脳天まで走り抜ける甘いざわめきに俺はたまらず背
中をしならせる。蛇口が壊れてしまったかのように、俺のモノは蜜
を垂れ流した。
﹁腫れている﹂
興奮も冷めやらぬまま、カイルは俺に指を伸ばし、じんじんと疼
きを訴えている乳首をきゅっと摘む。
﹁ぅあ﹂
159
俺は前に回っていた手を握り締め、背中を丸めた。ムカデが背中
を走るような錯覚。
﹁お前ココ好きだもんな﹂
さわりさわりと優しく愛撫され、力なくうめく。もっと、と口か
らとんでもない言葉が飛び出しそうになった。俺は慌てて口を片手
で押さえる。
﹁ふ⋮ん、む⋮っ﹂
手の平でさすられるように撫でられ、おかしくなりそうなほどの
もどかしさにぎゅうっと目をつぶった。唇から涎が落ち、カイルの
腹にパタリと水溜まりを作る。すると突然にカイルが腰を突き上げ
る。
﹁ん、やァッ!﹂
丸くカイルの上でうずくまる俺の尻には、カイル自身が嵌まって
いる。最奥にぶつかって弾けた熱波に、涙声になった。
﹁⋮あ、うあ﹂
﹁わかるか?ココを⋮こうすると、⋮中が締まる﹂
コリコリとした胸の飾りをカイルが捻ると、それに連動して何か
を欲しがるように尻が締まった。俺は意志とは別に快楽を追い求め
る自分の身体に、恥じらいも何もかもが失せ消え、無我夢中にそれ
に従う。
﹁もっと、⋮カイル、もっと﹂
160
ただ無我夢中で、自分が何を口走っているのかもわからない。
﹁何が?﹂
﹁意地悪っ、ばか、もっとってば﹂
﹁わかったわかった﹂
カイルが頭の上で苦笑するのを気配で感じた。自分も苦しいに違
いないのに余裕のあるふりをするのは、なんだコイツの癖か。
俺はカイルの固い腹に爪を立てて、先をねだる。
﹁はやく﹂
﹁痛て、︱⋮奔放だな、本当にお前は﹂
﹁ずん、てして﹂
すると空気が止まった。俺は焦らされているような感じしかしな
くて、はやく、と囁いた。はー、と吐かれたのは溜息だ。髪に指が
差し込まれ、頭を撫でられる。悪くない。
﹁もう、どうなっても知らんぞ﹂
﹁いいから来て﹂
なんだお前。今、舌打ちしたな。
霞む頭でも、腹が立つことはわかる。文句を垂れようとしたが、
すぐにそれも忘れてしまった。
﹁あ、あ、ソレ⋮んぁあ、カイ、る﹂
﹁⋮くそっ、⋮ココか?﹂
﹁そう、そこ。もっと﹂
161
激しい抽挿の中でも、カイルは俺のイイところを探してくれる。
従順なカイルは大好きだ。
敏感なところを擦られて、それと同時に乳首を捻り、潰し、逃げ
るそれを折檻するように根元からこじられる。
﹁うあ、あ﹂
びくんびくんと体が跳ね、逃がすまいと最奥がカイルを締め付け
る。アレが近いことを予感した。
﹁リョウ﹂
カイルの声もそろそろ限界だ。
﹁カイル⋮顔、こっち向けろ﹂
キスがしたい。さっきからほとんどしていない。不満だった。最
後くらいは、と思ってもいいだろう?勘付いたのかカイルも顔を近
づける。それほど息はあがっていない。さすがは日頃鍛えているだ
けある、か。
俺は浅く息をしながら、身体を伸ばして口づけた。カイルの頭を
抱きしめて、短い髪に指を通す。それからは貪るように舌を絡めた。
﹁んは、ぁむ﹂
﹁は⋮ん、む、む⋮﹂
ぴちゃぴちゃといかがわしい水音が耳を汚す。
カイルが俺自身に指を這わせそっと握った。息を飲んだ俺は無意
識にきつく、中を絞る。止まらない。カイルは薄く開いた俺の目に
目で合図をした。唇への甘噛み。先端をぐりっと指先で掘られ、俺
162
は唇を離した。
﹁んッあ、アあ⋮あ!﹂
熱い液体が二人の間に流れるのを感じた。カイルもそれを追うよ
うに呻き声を喉奥に詰まらせて、苦し気な声を出しながら達する。
秘孔の奥で熱くてとろけるようなものが弾けた。
全部を搾り取らんとする身体は、達した後もしばらくはカイルを
締め付けて離さなかった。
ゆっくりと身を起こし孔から屹立を抜くと、コプリと白濁が流れ
た。達した後で敏感になっている俺はそれだけでも刺激に顔を歪ま
せるほどだったが、今はそれよりも疲労が先に立つ。なんにもせず
に、このままシーツにくるまっていたいと思う。
﹁リョウ、そのまま寝て良いぞ。処理はしておく﹂
﹁そ、か。わるい﹂
処理とか身も蓋もねえな、と思ったが、指一本持ち上げるのもだ
るい俺は、それに素直に頷いた。恥ずかしいとか思っている気力も
ない。そりゃそうだ、昨日もヤったのに、また激しくヤっちまった
んだから。
俺はカイルの横に寝転がって、そのまま泥のように眠りについた。
愛してる、なんて呟きながら。
163
嵐のような来訪者
ここのところ、カイルの機嫌がずっと良い。
段々と俺の魔力の制御が上達しているのが、嬉しいのだろうか。
と思う
と驚く気持ちが一緒にある。ただ季節
もう
それとも日々寒くなっていくこの季節が好きなのだろうか。だとし
たらおかしなやつ。俺は寒いのが嫌いだ。
まだそれしか
俺がこの世界に来て数か月が経っていた。それを
気持ちと、
だけは、その過ぎていった時間を切々と俺に訴えた。冬が訪れてい
る。
この前の雨の日以来、外はめっきり冷え込んだ。ヘンウェル王国
の王都であるらしいこの街は、冬支度に忙しい。店頭には酢漬けや
ら燻製やらが所狭しと並べられ、古ぼけたカイルのお下がりで街を
歩く俺は、愛想の良い露天商からやたらと冬服を勧められる。みす
ぼらしく見えるのだろうか。結構ですという言葉は、そのうち言わ
なくなった。渋谷の客引きだと思えば、無視するのも苦ではなくな
る。
﹁リョウさんは明らかに第四郭の人間じゃないんですもん、仕方な
いですよ﹂
第三修練所の南門まで迎えに来てくれたジュリアンが、俺の少し
先を歩きながら言った。
・
ちなみに、彼の呼び名はジュリーで固定した。訓練中の彼を見た
らもうジュリアナとは呼べない。勇ましすぎる。戦闘本能丸出しっ
て感じで、他の兵の意識を刈り取っていく姿は凄まじかった。しか
164
も超笑顔。俺に訓練を見られたと知ったときの彼の落ち込みようは
少し可哀そうになるくらいだった。
でもそれからは、ジュリーが言葉の硬さを和らげたので、俺は結
局それで良かったのかなと思っている。
﹁そうですか?まだ馴染めてないのかな﹂
﹁歩き方がまずいんだとおもいますよ。リョウさんみたいに優雅に
歩く人なんて、第四郭にはいませんね。スって下さいって言ってる
ようなものです﹂
﹁歩く速度が遅いってことですか﹂
﹁はい。病人だってもう少し速く歩きますよ。あ、僕は好きですけ
ど。リョウさんの歩き方﹂
だけど結構言うんだよなあ、この子。言い方オブラートだけど、
ちんたら歩くなってことだろう、要するに。
﹁確かに、カイルと一緒に歩いているときはあまり声かけられない
かも。彼に合わせて歩いているからですかね﹂
﹁⋮へえ、副隊長と街歩きなんて、するんですね。副隊長あんまり
喋らないでしょう。楽しいんですか?﹂
﹁ときどきですが、楽しいですよ﹂
俺は少しだけ、ほんの少しだけむっとして言う。
あいつは、別につまらない人間なんかじゃない。そんな俺に、ジ
ュリアンは面白くなさそうに桃色の唇を尖らせた。
﹁ふうん、妬けちゃうな。そうだ、今度僕ともデートして下さいよ﹂
﹁デ⋮デート?﹂
﹁あれ、そういうことなんでしょ。副隊長と﹂
165
最近の若い子って怖い。俺は突然の言葉に目を白黒させた。それ
がおかしかったのか、振り返ったジュリアンがクスリと笑う。笑う
とえくぼができて天使みたいなのに、柔らかく笑んだ追及の目は容
赦がない。
﹁カイルはただの同居人です﹂
﹁そうなんですか?でもココが﹂
﹁⋮ココルズ﹂
﹁大丈夫です。ラシュには言わないって約束しましたから﹂
あんの、馬鹿!!ただでさえ同居ってだけで怪しまれそうな状況
なのに、わざわざそんな情報を周りに流して、どうしてくれるんだ。
ラシュにだけ知られなければいいって、そういう問題ではない。
﹁恋人ではありませんよ﹂
﹁まあ、そういうことにしておきます。僕にとっても好都合ですし﹂
﹁ココルズ君にも、余計なことを言わないように言っておいて下さ
い﹂
﹁そう言えばリョウさん。ココの弱みでも握ってるんですか?﹂
﹁え、すみません、聞こえませんでした。なんですって?﹂
騎士団第三修練所内は、何度訪れても道順を覚えるのが難しい。
特徴のない壁が続くばかりだからだ。ジュリアンはその道を、迷う
ことなく進んでいく。
ちょうど角を曲がったジュリアンの声が聞き取れなかった。ジュ
リアンは、俺が追いつくまでその場で待っていてくれた。
﹁ココと何かあったんですか?ほら、ずっとココ、リョウさんに丁
寧に話すから﹂
166
俺は首を傾げた。まだ十代後半の少年は、真摯とも言えるような
瞳で俺を見つめている。
﹁そうですねえ。⋮特に何があったってわけでもないのですが、強
いて言うなら上下関係、でしょうか﹂
﹁上下関係って?﹂
﹁さあ?﹂
笑ってごまかす。あまり歳も変わらないと思っていた青年がじつ
はずっと年上のオニイサンだと知ったら、この少年はどう反応する
だろうか。
ちょっとリョウさん!なんて不満そうに叫ぶ少年が、かわいくて、
俺は素知らぬ顔で笑った。
第五隊室の前に立つと、扉の中から言い争う声が聞こえて、俺と
ジュリアンは目を見合わせた。
﹁入っていいのでしょうか?﹂
﹁どうだろう⋮副隊長と、あの人か⋮入りたくないな﹂
ジュリアンがげんなりした顔をする。
女性の声、のように聞こえる。裏返ってほとんどヒステリックで
さえあるのは、女性の声ではなくカイルの声だが。なに、そんなに
興奮してんだ、あいつ。くんっと好奇心が首をもたげる。
﹁入ってみましょうか﹂
﹁えー、リョウさんやめましょうよ﹂
167
﹁いいからいいから﹂
俺はカイルの顔が見たかった。まさに怒り狂っているカイル。き
っと今入ったらおもしろい。知りませんよ、と言うジュリアンの声
は聞かなかったことにして、扉をゆっくりと音を立てずに開けた。
﹁⋮︱れよ!姉上が見たがるようなものは何もない、早く出て行け
!﹂
﹁えーでもぉ﹂
最初に目に入ったのは、ゴージャスな巻き髪の美人。ソファーの
背もたれに腰かけ、長い脚を無造作に投げ出している。シルバーの
星が煌めいたみたいなドレスが太腿の半ばまでを覆って、その肌の
白さを際立たせている。
その前に仁王立ちしているのが、カイルだ。肩を怒らせ、首筋に
血管が浮いている。金茶の髪が、かきむしったように乱れていた。
白いシャツの首元は彼には珍しいほどに大きくくつろげられ、たく
ましい胸筋が覗いている。俺はもう末期らしい。非常に不本意でも、
その姿を色っぽいと称してしまうほどには。
﹁リョウ!﹂
嬉しそうに少女の声が俺を呼んだ。
その声に、大人二人の視線がこちらを向く。
﹁あらあ﹂
女性が大きく笑みを浮かべた。どこかで見たことがあるな、この
笑い方。
少女がジュースのグラスをテーブルに置き、手を振る。今日は銀
168
とピンクを混ぜたような色のワンピースだ。埃にも何にも汚されて
いないそれは、清潔できらきらしている。俺の名前を覚えていてく
れたのかと感動してしまった。手を振り返す。
﹁やあ、ヴィヴィアン。元気?﹂
﹁うん。ママ、リョウよ﹂
この前は、少女を迎えに来た明るい金髪の男を見て父親似だと思
ったが、こうしてみると母親のほうの血を色濃く残している。
﹁先日は娘がお世話になりまして感謝しておりますわ。わたくし、
カイルの姉のバーバラ・シバレと申します。ご挨拶が遅れてしまっ
て申し訳ございません﹂
﹁いえ、こちらこそ。お会いできて光栄です、リョウ・アキヅカで
す﹂
﹁ほんっと、綺麗なエクスィーダ語!﹂
立ち上がったカイルの姉は、俺の手を握ったかと思えば、くるっ
と弟のほうを向いて目を輝かせて手を組んだ。でしょ?とヴィヴィ
アンが、母親に我が意を得たりと大きく頷いた。
﹁おい、バーバラ!﹂
﹁夫と娘からお聞きましてね、是非お会いしたかったのよ。なのに
カイルったら、出し惜しみするみたいに中々会わせてくれないし﹂
だから押しかけちゃった、と明るく言い放つバーバラにカイルが
頭を押さえる。
﹁ありがとうございます。ですがそう仰るバーバラ様には適いませ
ん。たくさんお勉強されたのでしょうね?﹂
169
﹁あら、バーバラ様だなんて他人行儀な呼び方はよして。⋮⋮そう
ね、でも⋮悪くないかも﹂
バーバラ様バーバラ様、と何度かその呼称を口の中で転がした彼
女は、ぱっと顔を上げて、やっぱりバーバラ様って呼んで!と大変
嬉しそうでいらっしゃる。
﹁顔を合わせたんだから満足しただろう?早く帰ってくれ﹂
カイルの姉というのだから俺よりも年上のはずだが、無邪気な彼
女を見て、熟女もいいななんて思ってしまった俺である。いけない
いけない。そんな姉に、弟は食傷気味の様子だ。
﹁それにしても、なんて綺麗な方なのかしら。エクスィーダ語も完
璧で、エキゾチックな容姿。きっと神様が出逢わせてくれたのだわ。
ね、リョウさん、うちの商会で働く気はございませんこと?﹂
﹁バーバラ!﹂
﹁ご出身はどちらになりますの?不勉強でお恥ずかしいのですけれ
ど、アキヅカってあまり聞かない家名ですわね。やっぱりエクスィ
ーダのご出身?﹂
﹁いえ、遠い遠い東の島国です。ご存じなくて当然です﹂
﹁リョウも相手にしなくていい。姉上は消えてください﹂
﹁カイルが私のことを姉上って呼ぶときは本気で怒っているときだ
けなのよ。面白いでしょう?﹂
﹁姉上!!義兄上を呼ぶぞ﹂
﹁わかったわよ、ケチくさい弟ね。⋮リョウさん、真面目に考えて
下さらないかしら。シバレ商会は今ヘンウェルでの事業展開を進め
ているの。あなたの語学力はきっと大きな戦力になるわ﹂
﹁姉上、リョウを変な道に引き込むな。そのままエクスィーダに連
れ帰るつもりだろう﹂
170
んもー口出ししないでちょうだい!とバーバラが弟をひっぱたい
た。バチン、といい音が鳴る。多分この人、口より先に手が出る人
だ。
﹁また来るわ。リョウさん、前向きに考えておき下さいね!﹂
﹁ばいばい、リョウ﹂
夫を呼ばれちゃ大変と退散する間際に、シバレ夫人は熱烈に俺の
手を握って頬にキスをした。ヴィヴィアンもとろけるような笑みを
浮かべ、手をでたらめに振る。その人を魅了する笑顔が、母親ゆず
りであることは間違いない。
そうして秋の嵐のように色々なものを巻き上げて、二人は帰って
行った。
﹁ヴィヴィアンは俺の大事なものを盗んでいきました。それは俺の
心です﹂
就学前くらいの子供って、どうしてあんなに可愛いのだろう。
姉に、莫大な量の気力と体力を取られたらしいカイルは、ふらふ
らと歩いて行ってぐったりとソファーに座った。
﹁いなくなりましたか?﹂
そう言って続き部屋からジュリアンが顔を出した。そこに避難し
ていたようだ。その後ろからぞろぞろとグスタフとココルズが出て
くる。嵐の恐ろしさを前に逃亡したのはジュリアンだけではなかっ
たらしい。カイルが唸る。
171
﹁どこへ行ったのかと思ったら、ジュリー。隠れていないで助けろ。
彼女の扱いは、お前が一番上手いだろう﹂
﹁嫌ですよ、副隊長が僕を頼りにしてくれるのは嬉しいですけど、
シバレ夫人は僕の専門外です﹂
﹁リョウ、何やってんだ?胸が痛いのか﹂
﹁⋮間違ってない﹂
心臓のあたりを押さえたままで固まる俺に、グスタフが心配そう
に声をかけてくる。⋮ありがとう。でもちょっと放っておいてほし
かった。宮崎監督作品の中でもカリオストロが一番好きな俺である。
﹁ラシュはどこへ行った?さっきまでいただろう﹂
カイルが背もたれにあずけていた頭を持ち上げ、辺りを見回す。
それにココルズが肩をすくめて答える。
﹁わかりません。気がついたらいませんでした﹂
﹁俺ってやっぱりあの人に嫌われてるのかな﹂
だって、俺が来るといつもいない。俺は少々気落ちして、カイル
の隣に腰を沈めた。
話を聞いて勝手にストーカーっぽい印象を受けていたが、実際に
会った彼は実に真っ当そうな男だった。実はこの隊の中で一番まと
もなんじゃないかと、今では疑ってもいる。カイルの私生活に何故
か詳しいらしいことは不気味であるが、今のところ俺に実害はない。
﹁あの人って、ラシュ?﹂
﹁あー⋮せいぜい避けられている間は関わらないでおけ﹂
172
ぽすぽす、と頭に乗せられたカイルの手を乱暴に押しのけた。そ
の様子にグスタフが陽気にきゃらきゃらと笑う。
﹁気にしない、気にしなーい﹂
﹁そうですよ、リョウさんが気にしても仕方がないことです。その
うち何かしてきますって。心配いりません﹂
﹁なんか全然、慰められている気にならないんですけど﹂
カイルの大きな手が、めげずに頭に乗ってくる。公衆の面前でこ
ういうことは恥ずかしいので控えて頂きたいと思ったが、そもそも
隣に座ったのがいけなかったのだと、反省する。しかし反省しなが
らも、その手を振り払うことは忘れない。
あれ、そう言えばどうして俺、カイルの隣になんか座ったんだ。
癖か?いつもの癖で隣に座ったのか?⋮いや、まったく⋮⋮信じら
れん。
﹁どうしたんすか、リョウさん。今度は頭が痛いんですか、大丈夫
ですか﹂
﹁ありがとう、ココルズ君。でも違います。人間の順応能力の、予
想外までの高さに眩暈を覚えているんです。⋮ちょっとカイル。触
らないでください﹂
﹁髪が乱れていた。直している﹂
﹁はい、嘘吐かない﹂
﹁副隊長こそ、髪ぐちゃぐちゃですよ﹂
﹁え、そうか?﹂
初めて会ったときよりも伸びて、やっと掴めるくらいの長さにな
った柔らかい金茶の髪は、かき乱したままに所々派手に跳ねている。
もちろん、直してなんかやらない。それくらい自分で直せ。
﹁ここと、ここですよ﹂
173
ガタンッと、大きな物音がしてソファーが揺れた。俺は眼球だけ
を動かして、震源を見下ろす。俺の横に座っていたカイルが床に落
ちて、俺に向かって間抜けな顔を晒していた。
カイルの髪を直そうと手を伸ばしたジュリアンが、その恰好のま
まで、突然の出来事に驚いた表情で固まっている。
﹁⋮⋮リョウ?﹂
気に入らない。何もかも。︱︱何より、動揺し腹を立てている俺
自身が。
*******
﹁どうしたんだ、リョウのやつ﹂
グスタフが呆然として呟いた声が、リョウの去った第五隊室にぽ
つりと落とされる。誰もが思っていた。
﹁大丈夫ですか、カイルさん﹂
﹁⋮ああ﹂
カイルは、リョウに掴まれたときの鈍い痛みの残る右手首に、左
手でそっと触れた。思わぬ強い力だった。鍛えていないとは言え、
体格の良い成人男性の握力だ。驚くことはない。
部屋を立ち去るときに見せた、瞳の奥の凶暴な光。懐いていた獣
が突然に見せた牙に、カイルは当惑していた。
カイルをソファーから引き摺り下ろしたリョウは、その顔に怒り
の色を浮かべていた。この前と同じだ。突然に向けられた憤怒。憎
174
悪にも似た、激しい感情。
カイルは答えを見つけつつあった。あれは、まさか、
﹁⋮嫉妬?﹂
右手首には、赤く指の跡が残っている。
175
歯車はゆっくりと
やっちまった。
あれからのことを、俺はよく覚えていない。
一瞬あとに思考がついてきて、俺何やってんだと我に返った。そ
れからしどろもどろに誤魔化して、慌てて第五隊室を飛び出して来
た。
ジュリアンの白い手がカイルの髪に触ろうとしている光景を思い
出すだけで、こめかみがギュッと圧されたように痛くなって鳩尾の
上のあたりが重くなる。
反射、に近かったと思う。あ、避けさせなきゃって、それしか頭
の中になかったのだ。
騎士団第三修練所は、村一つを飲み込むほどの敷地面積を持って
いる。俺はこの迷宮からひとりで楽に抜け出せるとは思っていなか
った。とは言え第五隊室に戻って案内を頼むのは、絶対に嫌だ。し
かし、そうして当てもなく歩いているうちに、幸いにも﹃金のうま
亭﹄で馴染みの客に会った。
彼の名はテオドールといった。第八部隊に所属する文官らしく、
涼しげな目元に眼鏡がよく似合っている。ちょうど帰還するところ
だったというので、便乗させてもらった。神は実に助け手を与えた
もう。
﹁確かにわかりにくいよね、ここ﹂
176
俺が、道を未だに覚えられないのだとこぼせば、この眼鏡の文官
は同意して快活に笑った。面食らう。なんと爽やかな男ではないか。
﹁迷子になる新米騎士の方とかも、いらっしゃるのではないですか
?﹂
﹁うん、いるね。だから入隊時期は迷子対応で第六番隊が大忙しな
んだよ﹂
﹁第六番隊って、警備の?隊長は、ナウマンさんでしたっけ﹂
﹁そうそう。よく知ってるじゃない﹂
﹁ええ。門番と少し揉めたことがありまして、そのときにお世話に
なりました﹂
﹃カイルをよろしく頼む。あれはあれで、不安定なところがある
から﹄
ナウマン隊長が口にしたあの言葉が、今も引っかかっている。
﹁ナウマン隊長は、隊長職の中でも特にフットワークが軽い人だか
らね。小さなことでも、すぐに飛んで行って丁寧に対応してくれる
んで、人気があるんだ﹂
﹁しかも、あの容貌﹂
・・
﹁格好いいよねえ。僕は文官だけど、やっぱり憧れちゃうな。僕は、
騎士ってあああるべきだと思う﹂
﹁すっ⋮ごくわかります!﹂
男の子だもんね!憧れるよね!
気の合う友達になれそうな予感に、俺は嬉しくなる。
﹁生まれたときから、体を動かすより頭を働かせるほうが得意でね。
中央まで上り詰めてやろうって文官への道を選んだけど、騎士への
憧憬はなくならないな。リョウくんはどうして﹃金のうま亭﹄で働
177
いているの?﹂
﹁それは︱︱︱
思えば俺は、こちらの世界での友人を求めていたのかもしれない。
恋人でも同僚でもなく、対等に扱ってくれる、そんな存在を。元の
世界には、こんな俺にも、そういう親しい人間が幾人かいた。
後藤たち、今頃どうしてるかな。思い出さないようにしているが、
一晩中酔いつぶれるまで飲み明かして馬鹿話に付き合ってくれる友
人が、酷く懐かしかった。
﹁え、じゃあリョウくん、僕と同い年なの!?見えないよ!﹂
﹁こっちじゃ、みーんな顔老けてるもんな﹂
﹁あはは、老けてるは酷いよ。じゃあ、リョウくんの故郷では、み
・・
んなそうなの?﹂
﹁そう、って童顔かってこと?まあ、俺は特に若く見えるって言わ
れるほうだけど、全体的にも日本人は若く見られるね。︱︱あ、す
みません。もう一杯同じのを﹂
俺たちは今、二人で﹃アントッシュ﹄という酒場に来ている。魔
導石の光をそのままにしたような、色のくすんだほの昏い明かりが、
店内の雰囲気を柔らかく変えている。
テオドールが王都に上京してきたときに、初めて入ったのだとい
うこの店は、第四郭の中心部にあれどもその様相はあまり目立つも
のではない。
知る人ぞ知るって店なんだ、とテオドールは少し誇らし気でもあ
る。﹃アントッシュ﹄で何杯かグラスを空ける頃には、言葉遣いは
すっかりフランクに砕けていた。
178
カウンターにテオドールと並んで座った俺は、ほぼ初対面を相手
にしているには少し早いペースでグラスを空けている。実感はあっ
た。
﹁まだ帰らなくて大丈夫?恋人、家で待ってるんじゃない?﹂
﹁いいんだよ、あんな奴。待たせときゃ﹂
﹁あんな奴って、男?﹂
﹁そ。いけ好かないくらい、良い男﹂
﹁へえ。めろめろじゃん。いいの?本当に﹂
﹁いいんだって言ったろ。俺だって自由に飲みたい夜だってある。
それに⋮⋮俺のことも、少しくらい心配すればいいんだ﹂
白い手が、目を閉じれば瞼裏に容易に浮かんで、離れない。俺は
多分相当に酔っているようだ。しかし、心地のいいはずの酩酊感は、
思考を嫌な方へ嫌な方へと誘うだけ。
﹁それにしても、﹂
少しかさついた大きな手が、俺の拳の上に重ねられた。静かに絡
められた指は、カイルのそれよりも細く頼りなく、しかしジュリア
ンのものよりはしっかりして見える。俺は驚いて眼鏡の文官を見た。
眼鏡の奥の目が、妖しげに光る。
﹁テオ?﹂
﹁本当の君は、ずいぶんと乱暴な口を利くんだね。恋人は冷たいの
?だからこうやって、ひとりで飲んでるんだ?かわいそうに﹂
﹁あ、あいつは別に冷たくないよ。ただ⋮⋮なんだか、俺ばっかり﹂
﹁ふうん。彼はあまり、君を大事にしてくれないのかな。君を、不
安にさせてる﹂
179
﹁⋮不安?﹂
そうなんだろうか。大事にしてもらっていないわけではない、と
思う。だけど振り回されるのは、いつだって俺なんだ。だから、少
しでもあいつを振り回せたらいいなって。それだけ。
俺はうつむいて、空のグラスにうつる自分のひしゃげた顔を、ぼ
んやりと眺める。その視界が、インクに水を垂らしたみたいに滲ん
で、水滴が目の縁を越えた。
﹁そっか。俺、不安なのか﹂
手の中にある暖かな指を、無意識に握り込む。ぽとりと落ちる水
滴が、ひとつふたつ。
﹁リョウく⋮﹂
みっつ。
﹁リョウ!よ、かった⋮﹂
ベルベットのような滑らかに響く声は、決して静かではない店内
にあっても、俺の耳にまっすぐに届く。
あれ、なんであんた、ここに。
ゴツゴツと鋲の打たれた軍靴が床に鳴らす、重い音。その足音の、
いつもより少し短い間隔は聞き慣れた歩き方で。見上げた俺は、ぼ
うっとした照明の中に一際背の高い男を見つけた。
﹁⋮え︱︱⋮エッケナ副隊長⋮?﹂
﹁カイル、なん、で﹂
茶色に混じるくすんだブロンドは、暗い店内にあっては光を反射
しようとはしない。濃褐色の瞳が窪んだ眼窩の底に沈み、厚みのあ
180
る頑固そうな唇は固く引き絞られている。しかし、どうしてだろう
か。汗をかいたカイルの顔に、安堵が浮かんだ気がするのは。
﹁帰るぞ﹂
俺の隣にいるテオドールには目もくれず、射抜くように俺だけを
見ている。しかし気づいていないわけではない。決してカイルは俺
の隣の男を見ようとはしなかった。迎えに来たとは聞こえが良い。
取り返しに来たのだ、所有物を。
﹁何で?俺はあんたと一つしか違わない、大人の男だ。俺が何をし
ようと、俺の自由だろ﹂
湧き上がる満足感と、それでも足りないと感じる心。
俺はグラスに目を落とし、髪に隠れたうなじを擦った。そこには
刻まれているはずだ、紅い所有印が。
﹁リョウ、飲みすぎだ。顔が赤い﹂
﹁別にあんたの知ったことじゃない。放っとけ﹂
﹁リョウ﹂
そう。そういう声が欲しいんだよ、俺は。
はざま
獲物を捕らえることしか考えていないような、熱く荒ぶる声だ。
情事の狭間で囁かれるみたいな、俺のことだけを求める声が、俺は
欲しかった。
くすりと、笑いがこぼれた。腹から込み上げてくる、不可思議な
感情。
﹁いいよ。帰ってやるよ﹂
181
﹁リョウくん⋮﹂
﹁ごめん。テオ、俺帰るわ。良い店教えてくれてありがと﹂
また飲もうと言い置き、カウンターに金とグラスを残してスツー
ルを下りる。カイルはそれを、護衛のように黙って見ていた。突然
に笑いだした俺に戸惑いもせず、ただひたすらに安堵を噛みしめて
いる様子だった。
﹁何でここがわかった﹂
﹃アントッシュ﹄を出ると、狭い路地に出る。路地の先の大通り
から、賑やかな夜の街の音が、煩く混じり合って遠く聞こえる。古
びたアパートのような建物の、高い壁に囲まれたその空間は静寂に
包まれていた。
冬の夜の厳然とした寒さに、身を縮める。息が白い。
﹁⋮ラシュに聞いた﹂
﹁ラシュ?﹂
予想外の応えだった。
﹁この街に慣れていない様子が見受けられましたので、報告いたし
ました﹂
﹁!﹂
今までそこにはなかった物質が突然姿を現せば、誰だって腰を抜
かすだろう。本当に驚いたときは、声も出ない。
夜を纏ったような痩身の男が、壁に身を這わすようにひっそりと
立っていた。いつからそこにいたのだろう。一度会っただけのその
男は凡庸な外見をしていて、俺に初対面のような印象を与える。た
だ、その夜行性の獣のように光る黄色い眼は、暗闇の中によく映え
182
た。
カイルが緊張を解き、溜息を吐く。腰の剣柄に手を当て、腰を低
く落としてもいる。随分仰々しい驚き方だ。
﹁普通に出て来い。俺まで驚くだろうが﹂
﹁申し訳ありません、副隊長﹂
﹁⋮カイル。あんた、俺を尾行させてたわけ?﹂
﹁あ、いやそれは、﹂
﹁副隊長に命じられたことではありません、個人的な興味です﹂
ぬるりとした感触を、首元に感じた気がした。黄色⋮いや橙色に
近い。琥珀色だ。ラシュという男の琥珀色の眼が、俺を向く。平坦
な感情のこもらない声がくぐもって聞こえる。暗がりで良く見えな
いが、布のようなもので口のあたりを隠しているようだ。
﹁興味、個人的な⋮﹂
・・
﹁はい。副隊長にそのようなぞんざいな口を利き、副隊長を自分に
都合の良い何かとしか捉えていない男に興味がわきました。いえ⋮
というよりも、そんな男に副隊長が思いを寄せられているというこ
の状況に、というべきでしょうか﹂
﹁︱︱⋮なんだと﹂
酒に酔った俺の頭に、簡単なほどに血がのぼる。
﹁ラシュ、今は挑発するのはよせ﹂
﹁節制、忍耐、辛坊、自制、我慢。いま貴方が学ぶべくは魔力制御
ではなく、それかと﹂
図星を指されて言い返す言葉が見つからず、俺は唇を噛みしめた。
きりりと握った拳は爪が食い込んで痛いほどだ。
183
短気なのは俺の悪いところだとは、自覚していた。我が儘と捉え
られてもおかしくはないとも、分かるくらいに自覚はある。感情の
起伏が激しいのは昔からで、それでも大人になって隠すのは上手く
なったと思う。︱︱だけど、
﹁⋮うるせえな。そんなの俺が一番、⋮いちばんわかってんだよ﹂
・・
だけど、駄目なのだ。一度心を許した相手には、感情の振り幅を
そのままにぶつけてしまう。カイルを都合の良い何かとしか捉えて
いない?そうだ。俺はカイルにただ甘えているだけだ。ずるくて、
臆病な俺。
殴りかかってくるとでも思っていたのか、ラシュが意外そうにそ
の琥珀色の目を瞬いた。
﹁俺の⋮ばか﹂
まるで、ガキじゃねえか。
﹁もう泣くなリョウ﹂
苦笑交じりに近づいてきたカイルが、ぼろぼろと泣きだした俺を
腕の中に閉じ込める。その温かい脈動を感じると、涙はますます溢
れてくる。えぐえぐと、しゃくりあげる俺の背中をゆっくりさすっ
てくれる。
こっちに来てからと言うもの、俺、泣いてばっかだ。
﹁俺の、こと、⋮ッき、きらいに、なる?﹂
﹁嫌いにならないって言っただろう﹂
小さく、しゃっくりの間に挟んだ言葉に、カイルは耳元を撫でる
184
ように、俺にしか聞こえないくらいの音量で答えた。どんなことが
あっても好きだと、まっすぐに伝えられた言葉を信じたくても、ど
うして俺なんかをという気持ちがそれを覆ってしまう。
そこに生真面目な声がかかる。どこか、戸惑っているようにさえ
聞こえた。
﹁副隊長﹂
﹁な?やたら、可愛いだろう﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁疲れて酒が回りきると、ばかみたいに素直になるんだ︱︱いてて、
﹂
カイルが誰かと親し気に話しているだけで湧き上がる不安と苛立
ちに、俺は両腕でその首を引き戻す。鼻をすすりながら、カイルの
肩口に濡れた頬と目元を擦りつける。
﹁副隊長、指示を﹂
﹁まだ隊室にいる連中には、確保したと伝えてくれ。それと現場以
外にもナウマンが警邏を配備してくれたが、五番隊はそれぞれ用心
するように。追悼式については追って連絡する﹂
﹁は、了解しました﹂
﹁ラシュ﹂
﹁は﹂
﹁ありがとう、感謝している﹂
﹁副隊長が悲しむ御姿は、見たくありませんから。当然です。⋮失
礼します﹂
追悼式。誰か亡くなったのだろうか。
懸命に考えようとしたけれど、体を回る酒精が、それをさせてく
れない。
185
﹁︱︱本当に、よかった。無事で﹂
ラシュの気配がなくなった二人きりの空間で、俺を抱き直したカ
イルが頭に鼻先を埋め、声を震わせる。
俺の詰まっていた鼻は、カイルのシャツから薫る鉄錆の不穏な匂
いを嗅ぐことはなかった。
事はこのとき既に、動き始めていたのだ。俺がそれを知るまで、
まだ幾ばくかの時がある。
186
喪に服す
要人警護の任務に就いていた第五番隊騎士が一人、二人と続けざ
まに無残な姿となって発見されて一週間。悲しみはまだ晴れない。
亡くなった二人には遺族がなく、そのふたつの遺体は火葬され静
かに騎士団共同墓地に眠った。ポラル・ド・ネイ隊長率いる隊の大
半は警護任務から離れることができず、納棺は第五番隊の多くの面
々を欠いた参列者の中で行われた。その日はめずらしく晴天であっ
たという。
﹁早いな。⋮仕事?﹂
﹁悪い、起こしたか﹂
未明。冬の寒さに、太陽はなかなか姿を見せようとしない。
続き部屋から洩れるランプの明かりが、ベッド脇に細く伸びてい
る。絨毯敷きの床は、いつもの木の床とは違って暖かだ。カイルと
リョウは今、第四郭中心部の宿に仮住まいをしていた。
カイルは半身を折り曲げ、布団にくるまる青年の顔に頬を寄せた。
立ち昇るあたたかな体温が恋しい。寝起きのとろりとした声を聞く
と、その隣に潜り込みたくなる。リョウがそっと指をカイルの顔に
走らせ、心配そうに眠たげな目を細めた。
﹁俺は平気だけど。だいじょうぶ?顔色が悪い﹂
﹁んー、ただの寝不足﹂
﹁倒れるなよ﹂
﹁倒れたら介抱してくれよ、リョウ﹂
﹁⋮本当に大丈夫かよ。少し休ませてもらえば﹂
187
リョウはカイルがろくに眠っていないことに気が付いている。
一週間前に見た血の惨劇が、駆り立てるようにカイルを突き動か
していた。あれがリョウの身に起こったことだとしたらと考えると、
いても立ってもいられない。起こる可能性は大いにあり得るのだ。
だとすれば、解決は一刻を争う。睡眠や食事をカイルは極限にまで
削っていた。
﹁それよりリョウが足りない﹂
唇を唇で塞げば、鼻に抜けるような吐息を青年が漏らす。腕を布
団の中に滑り込ませ、しなやかな身体を腕の中に感じた。
あの夜。家にリョウが帰っていないとわかったときの底抜けの恐
怖を、カイルはあれから度々思い出す。休憩の度、彼の職場へ向か
った。確かめなければ、何も手につかない。彼の生存をこの目で確
かめなければ。その一心で。
﹁なにか、俺に出来ることがあったら言えよな﹂
何も言わないカイルに、リョウも何も言わない。ただ待ってくれ
ている。信じ、支えようとしてくれている。それがどんなに嬉しい
か。どれだけの労いになっているのか、この青年にだけは伝えたか
った。いつか、時が来たら。
﹁ありがとう。すまん、心配かけて﹂
﹁いいよ。俺には心配するくらいしかできないから﹂
﹁じゃあ⋮行ってくる﹂
﹁今日も帰り、﹃金のうま亭﹄で待ってればいい?﹂
﹁ああ。絶対、俺が迎えに行くまで店出るなよ﹂
﹁出ねえよ﹂
188
リョウはわざとらしく目玉をぐるりと回して見せる。
立ち上がったカイルを見送ろうとベッドを下りようとしたリョウ
を、布団の中に押し戻した。不満そうに尖る唇にちゅっとリップ音
を響かせる。
﹁これ以上は名残惜しくて出られなくなるから、見送りはいい﹂
そろそろ、部屋の外で待たせてある五番隊の隊士がやきもきし始
める頃だ。陽も昇らぬうちに呼びに来たのにはきっと大きな理由が
ある。また、誰かが殺されたのか。
仲間がひとりひとり嬲り殺されていく。迫りくる見えぬ刃に、第
五番隊の誰もが怯えている。次に殺されるのは誰だ、と。
﹁カイル﹂
呼ぶ声が、引き留める。
﹁ん?﹂
﹁気を付けろよ﹂
﹁ああ﹂
﹁いってらっしゃい﹂
伝令として遣わされたのは、若い兵士だった。ネイ家の双子ほど
ではないが、ココルズよりも若い。騎士見習いを終えたばかりでは
ないだろうか。それでも隊服に着られているような印象を受けない
のは、ポラル・ド・ネイ隊長の下に生半可ではない訓練を受けてい
るからだ。
189
部屋から出て来たカイルに敬礼した隊士は、しかし明らかにほっ
として、きつく結んでいた口を緩めた。
﹁ご苦労﹂
﹁は﹂
﹁行くぞ﹂
街は例え太陽が沈もうとも眠らない。夜には夜の街が、昼とは違
う顔を見せる。
街道には明るいうちには決して見ることはない店が窓に明かりを
灯した。彼らは夜の住民だ。酒、煙草、賭博、麻薬。ありとあらゆ
る逸楽にふけり歓楽に溺れる人間を、淫らに誘惑する。それは太陽
がわずかでも顔を見せる、その瞬間まで続く。その中を、カイルと
伝令の騎士は馬を走らせた。
未明。街はまだ起きている。
第三郭と第四郭の壁の間に挟まれるように位置する騎士団第三修
練所は、王都にあって最もおおきな修練所である。ぐるりと周りを
囲む石壁と掘りに、外から見れば城のようにも見えた。等間隔で並
ぶ街路灯が魔導石の明かりを携え、番をしているかのようだ。
門にはラシュが迎えに来ていた。浅黒い肌の、このリーアン系ビ
デ人は、団服ではなく機動力の高い軽装をしている。カイルは馬を
下り、強固な鉄門をくぐった。前髪を濡らす額の汗をぬぐう。吐く
息は白く、視界を曇らせた。
﹁副隊長﹂
﹁後で聞く。ここでは誰に聞かれているかもわからん﹂
﹁は﹂
190
頷くとすぐにラシュはカイルに背を向け、走り出す。切らした息
を整えることもせず無言でカイルもそれを追った。
第五番隊室の扉を開けると、このところ閑散としていたその部屋
はいつもの姿を取り戻していた。人物を探すことも難しいほどに出
入りの激しい、人とモノでごった返した室内。
どうやら要人警護で留守にしていた隊長以下五番隊大隊が任務を
解かれ、戻ってきているようだ。いくつもの簡易のテーブルが部屋
を占拠していた。卓上一杯に広げられた資料を斜め読みする隊士た
ちの眼は、度重なる任務の疲労で血走っている。次から次へと運び
込まれる資料は卓上をとうに溢れ、床にうずたかく積み上げられて
いる。それが崩れ、時折悲痛な声や怒声が上がった。
話しをするには少々声を張り上げねばならなかった。
﹁何が起こっている?﹂
﹁旧ビデ王国地区の総督府が襲撃を受けました。魔導石発掘調査中
の第四番隊、護衛の第五番隊、第二十⋮﹂
﹁何?今なんと言った、ラシュ﹂
突然立ち止まったカイルを予想していたがごとく自然に、ラシュ
は足を止め浅く顎を引いた。
﹁はい。旧ビデ王国地区には第五番小隊が確かに派遣されています。
ご存知ありませんでしたか﹂
﹁それも引っかかるが、⋮その前だ。第四番隊、だと?﹂
心臓が打っている。動揺を隠すことができない。
﹁は。第四番隊も一個小隊が派遣されています。続けます。第二十
三番隊および総督府職員のうち、生存者は七十八名。そのうち十九
191
名は未だ館内で拘束を受けている模様。第五番隊にも捜査命令が下
りました。中央に捜査本部が設置されています、招集を受けたのは
第五、七、二十四の計三隊です﹂
部屋を進むと、久しぶりに顔を見る隊士がカイルに気付き慌て姿
勢を正し敬礼する。それに目線で応える余裕もなくラシュの報告を
聞く。がやがやと騒がしい中を通り抜け隊長席まで辿りつくのに、
やけに時間がかかったような気がした。
﹁参上しました﹂
ポラル・ド・ネイ隊長が会話を途中で切り上げ、振り向いた。敬
礼の影でカイルは、窓枠に腰かけ腕を組んだ長身の男に片眉を上げ
る。四十代前半。前髪を後ろに撫でつけ団服を着崩した姿がどこか
軟派な雰囲気の男だ。右腕にはで七本の銀糸の刺繍線。第五番隊騎
士ではない。しかし、カイルはその男のことを知っていた。
﹁おおカイル。疲れているところ朝早くにすまんね﹂
﹁いえ、それは隊長も同じでしょう。任務お疲れ様です。無事のお
帰りをお待ちしておりました﹂
﹁まあ三日に一度は息子たちを見に、内緒で戻ってきていたのだが
ね。バチェラー、紹介しよう。第五番隊副隊長のカイルだ﹂
ポラルはつるりとした禿頭を撫で上げ、いかつい顔をほころばせ
る。
一方で隣に立つ第七番隊の男は、興味深そうにカイルを眺めた。
こめかみに白髪が混じる艶やかな茶髪と大きな鷲鼻も相まって猛禽
によく似ている。黒めがちな眼がやけに愛らしいのは、その表情故
か。
192
﹁若いな。副隊長に若いのを置くのは貴様の趣味か、ポラル?﹂
親し気なその声にからかいが含まれている。二十代で副隊長職に
就いているカイルを悪しざまに言うものも多い。だがこの男の言葉
は軽く、好意的なものに思えた。
﹁いまや第五は不人気だからね。常に人手不足。若いのを発掘して
くるしかないって寸法さ﹂
﹁七番隊にも若者の一人や二人、寄越して欲しいものだ。こっちは
年寄り臭くていけない。どうだ、君。第七に来ないか﹂
﹁おいおい。いくら寂しいからって、うちの将来株を引っこ抜かな
いでくれるかい。逸材なんだ﹂
﹁それなら尚更だ。第五なら魔導具に関しちゃ一等だろう。ますま
す欲しい﹂
﹁人のものを欲しがるのは、君の悪い癖だよ﹂
﹁ふん、何とでも言え。ええと、君、名前は何と言ったかな﹂
﹁第五番隊副隊長カイル・エッケナです。恐れ入りますが、副隊長
の椅子は座り心地が良いもので。この歳で引き立てて頂いた席を、
他の者に譲り渡す勇気だけは持てません。バチェラー第七番隊副隊
長﹂
立場上ではカイルと同じ椅子に座っている男は、一瞬込められた
皮肉にきょとんとしたものの、すぐにその意味に気が付いて声を立
てて笑った。
﹁ポラル!やっぱり欲しいぞ。いや、失礼した。自己紹介もせずに。
第七番隊副隊長を任されている、バチェラーだ。よろしく。ええと、
﹂
﹁エッケナです﹂
193
バチェラーがその陽気な笑顔を崩すまで、しばしの時間があった。
しかし徐々に固まったように頬の筋肉をこわばらせる。その表情が
曇り、ゆっくりと上げられた片手がショックを受けたことを隠すよ
うに口を覆う。
ポラルが頷いて見せる。表情は凪いでいた。
﹁ハロルド・エッケナの遺児だよ﹂
﹁エッケナ⋮、そうか君が。二番目の息子だな?ハロルドの息子が
騎士になっているとは話には聞いていたが、⋮そうか。父親と同じ
五番隊に配属されたのだな。それは君の意志か?﹂
﹁はい﹂
十四年前のあの事件以来、カイルの父、第五番隊副隊長ハロルド・
エッケナのことが話題にされることはあまりなくなった。彼のこと
になると誰しもが沈痛な面持ちで、口を閉ざす。かつて稀代の天才
と呼ばれた男の末路が、あまりにむごかったからだ。
第五番隊と言えば、一昔前は騎士を志すものであれば誰もが憧れ
たものだ。文官の四番隊と並び、武官の五番隊と称されていた。
﹁そうか。それなら怒りもひとしおだな。私も今回のことはとても
残念に思っている。父上の死を踏みにじるような決定に、君も不本
意だろう﹂
バチェラーの言っていることがわからない。だがその大体は容易
に想像がついた。
﹁⋮ネイ隊長﹂
カイルは自分でも感情の抜け落ちたような顔をしているのがわか
194
った。思いのほか、声は震えていなかった。思考することを放棄し
た頭が、断片から導き出した結果を受け入れるのを拒む。
父を死の谷に追いやったおぞましい出来事を、思い出せと言うの
だろうか。目に焼き付く血の記憶を、また。
カイルの表情にはっとなったバチェラーは、愕然とした面持ちで
ポラル・ド・ネイを振り向いた。
﹁︱︱まさか。ポラル、話していないのか!?﹂
﹁すまない﹂
﹁ポラル!﹂
﹁おかしいとは思っていました。第五番隊に課された任務が要人警
護なんて﹂
。第五番隊の本来の存在意義を全うせよとの命令だっ
﹁すまないカイル、あれは嘘だ。中央から課せられた本当の任務は
資料警護
た。君には辛いだけだろうと任務から外したのだ﹂
憎悪が、幼い頃に必死で飲み込んだ憎悪は、簡単に喉の縁を越え
る。それは、父の死を最も近くで見たであろうポラル・ド・ネイに
までも及ぶ。自分をも飲み込んでしまうような深く強い感情にどう
にかなりそうだった。怒り。悲しみ。諦め。
・・・・
という夢を追う第四番隊と、その夢を護るため
﹁あの計画は凍結されていないのですね。四番隊はまだあの実験を
転移術式開発
続けていたんだ﹂
に闘う第五番隊。十四年前。第五番隊副隊長の死をもって、夢は倒
壊した。そして得られたのは、夢は夢のままで終わらせるべきだっ
たのだという結論だけだった。だけだった、はずなのに。
ポラルの表情は凪いでいる。
195
﹁国王陛下の命の下、秘密裏に進められていたようだ。そしてつい
に二か月ほど前、完成に近い転移術式が考案された。だが、⋮ああ、
カイル。わかってくれ。我々は命令には従わなければならない﹂
ポラルがそこで、彼にしては珍しい事務的な口調を崩した。上司
としての言葉ではない。ただ、十四歳から面倒を見続けている後見
人としての言葉だった。喉が乾いて痛いほどだ。
﹁⋮父を殺した術式を、私は護らねばならないのですか﹂
﹁我々は護れと言われれば、それを憎んでいたとしても護らなけれ
ばならない。そう誓ったからだ。個人の感情は関係ない﹂
それを聞いてバチェラーが肩をすくめた。思うところがあるのだ
ろうか。しかし口を開き、説明を継いだ彼は淡々と続ける。猛禽の
射抜くような目が、カイルを突き刺した。
・・
﹁ビデ平和国軍にことが露呈したのだ。それで第五番隊の出番とい
うわけだ。国内の不穏分子にかけては君たちの右に出るものはいな
いからな﹂
﹁ビデ平和国軍⋮﹂
カイルは思うところがありすぎるその名を、噛みしめるように呟
いてみた。いつか家で感じたわずかな魔力が思い出される。めぐる
思考の中で嫌な結論が具体的に形になってしまうのを、予感として
知っていた。
﹁ビデ平和国軍から、転移術式に関する一切の資料を護ることが君
たちの任務になる
﹁十四年前と同じ、第五番隊の本来の任務に戻されるわけですね﹂
196
父が就いていた任務を、こんな形で知ろうとは。自分がしたかっ
たことと全く逆の方向へ自分が進んでいく未来がはっきりと見えて、
吐き気がする。
俺は父のような犠牲者をもう出さないためにこの椅子に座ったは
ずだったのに。
﹁我々第七番隊はビデ平和国軍の基地の探索を任務としている。な
お、今も情報漏洩は続いていると見ていいだろう。一刻も早い間諜
の発見が第一優先事項とされる。第七番隊の今までの捜査情報の開
示権を預かってきた﹂
﹁合同捜査ということになりそうだな﹂
﹁ああ。五番隊の隊士を何人か貸してもらうぞ﹂
﹁それは構わない。が﹂
﹁が?﹂
﹁捜査は一日空けた、明日の朝からとする﹂
抗議しようと口を開けたバチェラーが、ポラルの目線の先に気付
いて黙り込む。
﹁そうだな。休息が必要、か﹂
第五番隊全隊士のそれぞれの左腕には黒い喪章が付けられ、仲間
二人の死を痛烈に思い出させてくれた。
﹁今夜、追悼式を行う﹂
197
酒に酔えば
その日、ようやく追悼式が行われたという。
何と言われてきたのか、追悼式が終わってすぐに﹃金のうま亭﹄
に駆け付けたカイルは、愉快なくらいに慌てふためいていた。
俺の包帯でぐるぐる巻きの右手を見てそれがたいしたけがではな
いと聞いて床にへたりこんだあいつを、第五番隊の隊士らしき男た
ちがそれはもうびっくり眼で見つめているのが面白かった。普段の
カイルの勤務態度が非常に気になるものだ。
今夜の﹃金のうま亭﹄は第五番隊で貸し切りにしたらしい。つか
の間の休息に、飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎ。俺とカイルは部屋
の隅の床に座り込んで、俺はカイルが広げた脚の間に身体をおさめ
て胸に寄り掛かり、遠巻きにそれを見ていた。
﹁お前、酔っているのか﹂
カイルが身に着けている黒い腕章をぴろりぴろりと弄っていると、
呆れたような吐息が頭をくすぐった。客が騒ぐ乾杯の音頭や食器の
ぶつかる音に混じって、そうでもなきゃ人前で抱かれて大人しくし
ているわけがないか、とカイルの独白めいたものが聞こえる。
馬鹿言え。大人しくしているんじゃない、お前が動けなくしてい
るんだろうが。
身じろぎすれば、動くなと膝と腕で後ろから強く抱きしめられる
ものだから、俺は首を動かすことすら適わない。五番隊の隊士たち
がちらちらと、壁に凭れて座っている俺たち二人を気にしているの
198
がわかるが、俺はそれにじっと視線を返すことしかできず少しばか
り退屈だ。
﹁まだ終わんねーの?﹂
カイルは小刀を手に、俺の右手指の爪を削っている。男の手を捕
まえて何が楽しいんだと思うが、当の本人はきっと世話をするのが
すきなのだろう、相好を崩しかけている。他の連中から見ればただ
の仏頂面だろう。しかし何か月も同じ部屋で暮らしている俺にはわ
かる。実に楽しそうだ。きもちわるい。
﹁リョウは案外不器用なんだな﹂
﹁ちげえよばか。名誉毀損で訴えるぞ。日本には、爪切りばさみと
いう素晴らしい文明の利器があったんだ。小刀で爪を削ぐなんて、
二十七年間の生涯で一度もやったことがねえんだよ。てめえと一緒
にすんな原始人﹂
﹁そうかそうか。だが次からは意地を張らず、人にやってもらえよ。
今度こそ指がなくなるぞ﹂
﹁ちょっと指切ったくらいで、店長もお前も大げさ﹂
﹁しかし結構ざっくりいっただろう﹂
﹁大袈裟だっつの。心配性め﹂
実際、カイルという男はひどい心配性だ。何が起こっているのか
はわからないが、急に家を引き払って宿に住まいを変えたと思えば、
職場と宿の往復も一人では絶対にさせてくれなくなった。昼の休憩
にもこまめに﹃金のうま亭﹄まで様子を見に来るし、入園させたば
かりの母親でももう少し落ち着きがある。最近のカイルは、ちょっ
と異常だ。
﹁痛くないのか?﹂
199
﹁んん、今は麻酔が利いてるから痛くない﹂
それどころか気分爽快だ。すこぶる体調が良い。
カイルに促されるままに靴を脱ぎ、伸びあがって両手をカイルの
首に回す。手の方は終わって、今度は足らしい。
温かいお湯に濡らした布巾が、足を拭いてくれる。あまりの心地
よさに俺は目を閉じた。んふう、と満足気な声を漏らす俺にカイル
はゆるく笑う。周りが息を飲むような気配がしたから片目を開けて
みると皆が目を逸らす。わけがわからない。
﹁やはり酔ってるな、リョウ﹂
﹁酔ってねえよ。酒も飲んでない。あんたがいなかったし。自分が
いないところであまり酒は飲むなと言ってきたのは、あんただろ﹂
﹁そうだな、いい子だ﹂
﹁ふふん﹂
俺は機嫌良く唇の片端を上げる。その唇をむにとつままれて目を
開く。見上げるとカイルがにんまりしていたので、むかついて額を
叩いてやった。ごん、と後頭部を壁にぶつけたようだが自業自得だ。
﹁痛いな﹂
﹁早くしろよ。腹減ったんだってば﹂
﹁はいはい。リョウ、じっとしていろ﹂
長い指が足の指股を通り、指を手繰った。くすぐったい。硬い手
の平が足を包み、冷たい刃先が指先に触れる。
カイルの小刀は何でも切れる。肉を捌くのも果物を切るのも、爪
を削ぐのだってすべてこの小刀で事足りてしまう。さすがに食べ物
は包丁で切ってもらうようにしたが。
持ち手は柔らかい布で滑り止めがしてあって、柄には綺麗な彫細
200
工が施してある。鈍く光る刃は長年使い込まれているのがわからな
いほどに、光沢があって恐ろしいくらいに美しい。父親の形見なの
だと、いつだったかカイルが言っていた。
﹁なあ。なんか、あった?﹂
俺からは訊くまいと決めていた。話してくれるまで、いくらでも
待とうと。
この一週間、カイルはほとんど休まず働き詰めだった。俺がテオ
ドールと飲みに出掛けた晩のカイルの心配の仕方は尋常ではなかっ
た。それから段々と消耗していく彼を俺はずっと見ていたが、今日
はそれとも少し様子が違う。朝早く宿を出て行ってから、何かがあ
ったことは間違いがない。
何もないとカイルが言うなら、これ以上は訊くまい。しかし、も
しそうでないなら
﹁いや。大丈夫だ﹂
﹁⋮そう。ならいいけど﹂
カイルが話せるようになるまで、俺は何年でも待つつもりだ。そ
れがこの男と一緒にいることを決めた、俺なりの覚悟だった。
﹃カイルをよろしく頼む。あれはあれで、不安定なところがあるか
ら﹄
ナウマン隊長は、どういうつもりであの言葉を口にしたのだろう。
そう言えば、俺だってカイルのことを何も知らないのだ。兄弟が
多いことは知っている。騎士団で第五番隊の副隊長をしていること
も知っている。甘やかしたがりで心配性でちょっとばかし意地悪な
ことも知っている。野菜は嫌いで肉が好き、寝るのは好きだけどセ
201
ックスはもっと好き。セックスは好きだけど、ピロートークもふざ
けるのも好き。ふざけると言えば幼少の頃に真剣でチャンバラごっ
こをして肩に怪我をして跡がまだ残っていることだとかも知ってい
る。
あれ、なんだ。結構知ってるじゃん。なんて自分を誤魔化すのは、
そろそろ難しくなってきたようだ。
﹁さ、終わったぞ﹂
﹁うん﹂
﹁なんだ、難しい顔して﹂
﹁カイル。そう言えば名字なんだっけ﹂
﹁俺のか?エッケナだが﹂
﹁そうだそうだ、エッケナだ。テオが言ってたな。エッケナ、エッ
ケナ﹂
でも取り敢えずは、俺の知っているカイルが好き。俺と出会った
カイルが好き。それでいい。いつかの夜にカイルが言った言い回し
を、俺はなかなか気に入っていた。
﹁何か、食べるものを持って来よう﹂
﹁さんきゅ﹂
﹁少し待ってろ﹂
立ち上がったカイルが俺を跨ぎ越していく。客の波に消えるその
背中を見送って、俺はずりずりと壁際に寄った。
見ていると第五番隊と言っても、知らない男ばかりなのに気が付
く。ココルズや双子、ラシュも見かけていない。たまに﹃金のうま
亭﹄の客がいて会釈してくれるがそれくらいだ。第五番隊は俺が思
っていたよりも、ずっと大所帯だったのだと今更ながらに思った。
カイルがいなくなった途端、若い男たちが数人で近づいてくる。
202
上司に爪を切られていた男に興味津々のようだ。そりゃそうだ、俺
でも異様な光景だったと思う。俺が彼らでもとても気になるだろう。
﹁君名前、何て言うの?﹂
﹁副隊長の恋人?﹂
﹁ばっか、ねえよ。副隊長に限って﹂
﹁だよなあ﹂
﹁弟さんじゃない。弟いるんだよね、副隊長﹂
﹁いやでも、さっきの雰囲気は⋮﹂
﹁名前教えてよ。こっちで飲まない?﹂
ただ酒片手の彼らは大体既に出来上がっていて、訊いてくること
が少々下世話だ。そして馴れ馴れしい。馴れ馴れしいのは結構だが、
カイルまで貶められるのは気に食わない。副隊長に限って?
じゃあ少しだけ、という俺に酒を注いでくれる。
﹁俺たちの中で最も勇敢だった二人に!﹂
俺を怖がらせないようにか、乾杯を繰り返したあと男たちは車座
になって陽気に話しかけてくる。客が床に座りだしても気にならな
いくらいには宴もたけなわである。
﹁それで副隊長とどういう関係なの﹂
﹁だからおとうとだっていってんだろぉ﹂
なんとも勝手な連中である。答えようとした俺は、口空きにグラ
スをあおった。
﹁さっきはびっくりしちゃったぜ、俺。あの冷静沈着なカイルさん
が泡食って君のとこ駆け寄っていくの見て、別の人かと思ったもん﹂
203
﹁俺たち、副隊長と再会するの久しぶりなのよ﹂
﹁そうなんですか﹂
﹁別の任務に就いていて、やっと昨日その任務が終わってなー﹂
﹁ってか名前なんて言うの?﹂
話題があっちこっちに飛ぶのは、酔っぱらいのご愛嬌だ。だがそ
れに付き合う気も起きず、俺はカイルを探しに行こうと空になった
瓶を持って腰を上げた。
﹁名前はリョウ・アキヅカ﹂
﹁へ、弟じゃねえの﹂
何故
?﹂
苛々する。いや、ぐらぐらする。
﹁⋮何故です?﹂
﹁えっと⋮なにが、
男たちが目を瞬いて首を傾げる。
あの男は恋人の一人も作れないような甲斐性なしだと思われてい
るのだろうか。そんな男に俺が惚れた?ノーマルの俺がわざわざ男
に惚れなきゃいけない理由があるとすれば、女の子と比較検討する
副隊長に限って
なんですかって聞いてんの﹂
べくもなくあいつが良い男だったからだ。それ以外の理由は認めな
い。
﹁なんで
﹁え、あれリョウさん?ちょちょちょ、リョウさん!なに喧嘩売っ
てんの!﹂
﹁うるせえ、ココルズ黙ってろ﹂
俺は今機嫌が悪い。いや、気持ちが悪い。
204
副隊長に限って
な
﹁あ!リョウさん酒飲みました!?うわ、一瓶空けてる。麻酔薬と
酒は一緒に飲んじゃ絶対駄目ですって﹂
﹁あんたらの副隊長は、俺のだから。勝手に
んてぬかしてんじゃねえぞ﹂
﹁あーあー、ちょっと夢崩れるからその喋り方やめてくださいって。
金のうま亭のお客たちビビってんでしょー﹂
﹁ココルズ。そういやお前も俺のことカイルの弟かとか言ってたよ
な﹂
﹁ちょっと、グスタフ。固まってないでカイルさん呼んでこい﹂
﹁あ⋮うん﹂
あれ、おかしいな。世界が回っている気がする。この世界も自転
公転が存在したんだな。ってことはやっぱり地球は丸かったのか。
あれ、ここって地球で合ってるんだっけ。
*******
リョウは酔っぱらい相手に何やら小難しい話を滔々と垂れていた。
回転がどうの、磁力がどうの、星がどうのとよくはわからないが眉
を顰め真剣に語っているものだから、周囲はその可愛らしい酔い方
に小さく笑いながら眺めていたようだ。部屋の隅に固まった人ごみ
からときおり失笑が漏れる。
﹁リョウ﹂
呼ぶと、獣が飼い主の匂いを嗅ぎ分けたようにくるりと振り返っ
205
た。床に胡坐をかいて座ったリョウの周りには、空の瓶やグラスが
散乱している。白い首筋がうっすらと紅く染まって、くつろげられ
た襟から覗いている。潤んだ目はとろんとしていて、上気した目元
が破壊的に淫靡だ。
﹁カイル、遅い﹂
精悍と言ってもいい青年だが、唇を尖らせた姿はどこか幼げで愛
らしい。男たちが彼に目を奪われるのを責めても詮無いことだ。
酒に酔ったリョウは、泣いたり笑ったり怒ったりと感情の変化が
忙しい。しかしそれのどれもが甚だ烈しく、どこにそんな感情を秘
めていたのかと不思議になるくらいに、放つ激情は深く重い。その
激情をまっすぐにぶつけてくるリョウが、カイルは可愛くて仕方が
ない。
﹁飯食べるだろう?﹂
﹁ばか、お前を待っていたんだぞ﹂
手を貸すまでもなく自分でさっと立ち上がり、すたすたと寄って
くる。手の中の酒瓶とカイルの厳しい顔を見比べて逡巡したようだ
が、ちっと舌を鳴らし、床に置き両手を広げて見せた。どうだ、と
誇らしげな顔を浮かべて。それに頷いてやりながら、丸テーブルに
料理を置いた。
﹁麻酔が抜けたら、部屋で飲めばいい﹂
﹁ふふん、それはいいな﹂
自分が酒屋で柑橘系に絞って買い揃えた、酒瓶を思い浮かべたのか
﹁意外でした。リョウさんって意外と喧嘩っ早いんですね﹂
206
シモン・ココルズがどさりと椅子に座る。大きな丸テーブルまで
自分で椅子を引きずって来て、リョウはわき目もふらず料理の方に
取り掛かった。この青年、見た目に寄らずよく食べる。綺麗な食べ
方は貴族的とも思えるほどだが、貴族のように食事中に喋ったりは
しない。次から次へと皿を平らげていく勢いは、見ていて気持ちが
よいほどだ。
﹁意外か?結構気が短いほうだと思うが﹂
ちらっと、リョウが目線を上げて眉を動かした。勝手に自分の話
をするんじゃないとでも言いたげな表情である。
﹁でも喧嘩はしないタイプだと思っていました﹂
﹁酒のせいじゃないか﹂
﹁ああ、そうかもしれませんね﹂
和やかとも言えそうな空気を、テーブルを叩く鈍い音が裂いた。
ココルズとカイル。リョウまでももぐもぐと口を動かしながら前を
見た。叩いた本人は予想外に響いた音が大きく、たじろいだ様子だ。
﹁どうしたんだ、グスタフ﹂
﹁あの!リョウっていつもあんななの﹂
﹁リョウ。訊かれているぞ﹂
しかし黒髪の青年は、少年を見つめたまま喋らない。カイルが仕
方ないなと大きく息を吐いて、答える。
﹁家では大抵ああいう態度だな﹂
﹁リョウさんを一言で言うなら傲岸不遜。夢見ない方がいいって言
207
っただろ﹂
たおやかな年上の青年に憧憬を抱いていた少年は、少しばかり現
実を見たようである。ショックを受けた少年に、口の中のものを飲
み込んだその青年がニタリと悪い笑顔を浮かべ一言で打ちのめす。
﹁ばーか﹂
ココルズなどは、あちゃーと言わんばかりである。片手で痛むこ
めかみをさすった。本当に、この男はたちが悪い。
リョウはそんなグスタフを尻目に、にまにまと笑いながら新しい
皿に手をつけた。
208
星と雪の降る夜に※
この街では星は綺麗に見えない。煌々と光るはずの星々は、魔導
石の人工的な明かりに敗北を喫し名残惜し気に光を散らすだけだ。
俺はそんな儚いだけの光を、美しいとは思えない。それは奇しくも
東京の空に感じていたことと同じだった。
﹁今年は雪が遅かったな﹂
外套の襟をきっちり合わせ、隙あらば侵入してくる冷気と雪を防
ぐ。カイルはそうしながら天を仰ぎ、無精ひげの生えた喉元を晒し
た。
﹁明日、積もるかな﹂
﹁さあ、この寒さなら積もるかも。家から色々、早めに持ち出して
おいて正解だったな﹂
﹁それに食料はたくさん買い込んだし﹂
俺は踏みつぶされていない白い場所を選んで、大股で足を置いて
いく。滑るなよ、と後ろから声がかかる。緩やかな下がり勾配にな
った街道を、人々は寒さを避けるように行き来していた。まだ日付
は変わっていない。
足を止め、カイルを待った。
﹁どうした?﹂
すぐに追いついたカイルに左手を差し出す。手袋を嵌めていない
209
剥きだしの手は冷えている。二人で並んで歩き出すと、人の行き交
う狭い街路で不思議と身体は寄り添った。
﹁この世界の良いところは﹂
﹁酒が美味い?﹂
﹁飲みすぎるから駄目﹂
﹁んん⋮俺がいる?﹂
﹁それもある、けど⋮ってばか﹂
空いている右手は負傷中なので、肘で隣の男を小突く。俺も大概
酔っている。くくく、と笑うカイルが少し嬉しいと感じるくらい。
皺の寄りがちだった眉間が、滑らかになっているのに安心する。
﹁リョウ?﹂
﹁やっぱ、あんた。笑ってるほうがいいよ﹂
﹁最近はたまにジュリーとかに、にやけ面がうるさいとか言われる
んだが﹂
﹁俺の前で他の男の話すんな﹂
﹁ラシュとか、ココのもか?お前が過剰に反応するのはジュリーだ
けだよな﹂
鼻を鳴らす俺に、カイルが顔を覗き込む。邪魔だとそれを退けて
顔を背けた。確かににやけ面がうるさい。
﹁⋮なんかジュリーって、絶対あんたのこと好きじゃん﹂
迷った挙句口を開けば、言葉は案外素直に口に出せた。
﹁本気で言っているのか?﹂
﹁だってやたらカイルに構うし、⋮触るし﹂
210
﹁これは、鈍感なのか⋮﹂
俺はさらに言い募る。ジュリアンが俺に向けてくれている好意に
は気が付いている。
﹁あれは一種の憧れみたいなものじゃんか。グスタフとかと同じ。
でもカイルに対するのはちょっと違うじゃん﹂
信愛というか、恋慕というか。見ていて心がざわざわするような。
﹁そうか?﹂
﹁わかんないならいい﹂
多分これは俺の問題だから。カイルが気付いていないなら、いい。
変に意識されるのも嫌だ。俺はきっと、独占欲が少し人より強すぎ
る。そういうのを思うままにぶつけていたら、関係は少しずつおか
しくなっていく。正常では、なくなっていく。
﹁さ、着いたぞ。家が職場から近いというのはいいな﹂
宿は第四郭の中心街にある。そこそこに上等だが目立つほどでは
ない。人の出入りが多い宿を選んだというのは、俺にもわかってい
た。宿の入り口をくぐるとき、カイルが鋭く辺りに警戒の視線を走
らせることも。
﹁んッ⋮﹂
部屋に入り扉を閉めるなり、俺は突き上げる欲求をそのままに性
急に接吻を交わした。
下唇を食み、開いた歯と歯の間に舌を潜り込ませる。上顎の裏の
211
凹凸を丁寧に舐める。それを追うようにおざなりにカイルが舌を絡
ませてくる。外から帰って来て冷え切った身体は、考えずとも互い
の熱を求めた。
かじかむ指で苦労しながら釦を外し、外套を床に落とす。その間
も唇は離さない。角度を変え、擦れ合う鼻先をさらに擦りつけ、吐
息を混じり合わせた。
やわ
瞼を閉じ何かに集中している様子のカイルの邪魔をしたつもりは
ない。これくらいで切れるような、軟な集中力しかない男ではない。
以前なら、彼が何をしているのかもわからなかっただろう。しか
し、魔力制御の訓練を受けている今なら少しはわかる。
﹁カイル、問題は⋮﹂
﹁ない﹂
濃い褐色の双眸が緩む。
部屋に危険はない。
﹁じゃあ、今度はこっちに集中しろ⋮よ﹂
﹁魔力探知は、結構神経使うんだぞ﹂
苦く笑ったカイルが、引き寄せられるままに俺を抱きしめる。背
中に回った腕がシャツを引っ張り上げ、現れた隙間から指が入って
くる。
﹁ココルズが、お前にかかっちゃ片手間で済むって⋮冷てッ︱︱言
っていたぞ。得意技なんだって?﹂
﹁それは少し過大評価だな。第五番隊なら皆、得意だ﹂
﹁その中でも上手いってことなんだろ。まあ、あんまり探知が得意
技ってあんまりぱっとしないけど。ん⋮いいんじゃないの﹂
212
﹁リョウの魔力は見つけられる。その点は得意で良かった﹂
﹁聞いた。俺って魔力垂れ流してたんだって?かっこわりい。早く
教えてくれよ﹂
少し訓練を受けた者なら子供でも出来ることをできていないと聞
いて、俺がどれだけ恥ずかしかったことか。今は俺も、魔力を外に
出さずにいられるようになっている。油断すると制御が利かなくな
ってしまうときはあるが、大抵は。しかしまだ完璧じゃない。
﹁どこにいるかすぐにわかっていいじゃないか﹂
﹁今もまだわかる?魔力は、多少は隠せるようになったんだけど﹂
﹁結界内ならな。俺は微量な魔力も感じることができるんだ﹂
﹁ちぇ、慰めてんのかよ⋮あ、あ駄目。風呂﹂
下衣に侵入してこようとした不埒な手を阻む。カイルが不満気に
唸った。
﹁寒いぞ﹂
﹁いい。右手使えないから手伝って﹂
﹁じゃあ、ちゃっちゃと入ってしまおう﹂
﹁明日も朝早いのか?﹂
﹁ああ。だから風呂でのいちゃつきは省略だ。期待していたか?﹂
﹁してねーよ、ばか﹂
大体、酒入ってるだろうが。ぶつぶつと言いながら体を離した俺
を、カイルが笑う。また今度な、とからかう男を俺はどうしてやろ
うかと思った。
213
身体を洗いながらくすぐってくるカイルに応戦しつつ、風呂の戸
を開ける。
﹁あ、戻って戻って。尋常じゃなく寒い﹂
タオルをひっつかんで、湯気の煙る温かい浴室に戻る。浴室も寒
いと思ったが脱衣所の寒さよりはましだった。もたもたと髪を拭い
ていると、簡単に自分の体を拭ったカイルが手伝ってくれる。
﹁せーの、で出て、ベッドまで走るぞ﹂
﹁全裸で?馬鹿みてえ﹂
笑い声を上げる俺をひょいと担ぎ上げたカイルの首に、慌てて腕
を回す。
﹁せーの﹂
﹁いや、せーの、いらねえだろ。あほか。︱︱うわ﹂
勢いよく戸を開け向かった先は寝室。二間続きの部屋の構造は独
身寮とさして変わらない。広さも。変わったとすれば木の床が絨毯
敷きになったということと、
﹁よ﹂
﹁うおっ﹂
ベッドのスプリングが、やたらきいているということ。
ベッドメイクや掃除などの従業員の立ち入りは断っている。ベッ
ドは、俺が朝簡単に整えたままで、シーツなどは皺くちゃなままだ。
そこに背中から放り出された俺は、跳ねるベッドに舌を噛みそうに
なった。
214
﹁リョウ⋮﹂
﹁あぶねえだろ⋮が︱︱ん﹂
起き上がろうと腕に入れた力が抜けていく。仰向けになった俺に
覆いかぶさったカイルが唇を塞いだからだ。寒いと訴える前にシー
ツや布団を巻き込んで、カイルは自分の体で俺を包み込んだ。俺の
下から布団を引っ張り出した際に、ついでとばかりに俺をうつぶせ
に反転させる。
﹁この恰好嫌か?﹂
﹁いやだ﹂
﹁そうかそうか﹂
俺の腰を持ち上げ、中心を緩く握った。喉を詰まらせた俺に、カ
イルは嫌かと訊いてきたくせに止める気配はない。膝を曲げさせ突
っ支い棒のように両脚を立たせる。
あれ、おかしいな。最初はちょっとした違和感。だがそれは触ら
れていると段々と大きくなっていく。感じる刺激が、いつもより強
い。
酔った身体が暖められて、どこかおかしくなっているのだろうか。
﹁あっく、ぁ﹂
﹁聞けよ。音がこもっていやらしい﹂
その言葉に少し意識を傾ければ、くちゅくちゅと淫猥な水音が耳
までダイレクトに伝わってきた。鈴口から染み出す先走りを塗り付
けるように丸く撫でられる。親指と人差し指で太いところを押さえ
つけられると、たらりと蜜が落ちた。
215
﹁んん!﹂
力を込められれば、敏感な屹立は容易にその力の中に快感を見つ
け出す。は、は、と断続的に吐かれる息は、自分のものとは思えな
いほど蕩けきっている。
﹁本当に嫌?﹂
﹁⋮い、やだ︱︱ぁん﹂
﹁嫌じゃない、だろう?﹂
後ろから獣のように屈服されるのは好きじゃない。受け入れる側
に回ってやったが、主導権を握られた覚えはない。
もう片方の手で太腿から尻を撫で上げられぞわつく感覚に、俺は
上がりそうになる嬌声を必死に抑えた。俺は、屈しない。声を上げ
たら負けだと、考えもせずに思った。
﹁⋮ッ﹂
尻の間に指が触れた。びくりと身体が跳ね、腹に力が入る。視覚
的に不自由な状態で、感覚はさらに鋭くなっている。拘束されてい
るわけではないのに、体をガチガチに縛られているような錯覚に陥
る。身体は上手く動いてくれなかった。
﹁大丈夫だ﹂
シーと宥めるように背後から囁かれて、俺が安心するとでも思っ
たのだろうか。正常位では、暗闇の中でも目を凝らせば影は見えた。
だがシーツに額を付けている今は、後ろでカイルが何をしようとし
ているのかもわからない。原始的な恐怖が体を強張らせる。
俺は衣擦れの音とカイルの息遣いに必死に集中した。
216
パチンと蓋が開けられる音。尻が割られ、今か今かと思っていた
が、ぬるりと液体が窄まりに触れるとそれでもびっくりする。自然
と腰が引けた。
﹁こらリョウ、逃げるな﹂
﹁ふっ⋮!んぅう﹂
ぬちゅり。菊座に触れるのと同時に、中心をさわっと撫でられる。
力がふと抜けた瞬間に、つぷりと指が入ってきた。
﹁やめ⋮ろ﹂
﹁慣らさないと辛いだけだろう﹂
﹁自分でやる﹂
﹁⋮自分で?﹂
興味を引かれたようだ。指が抜かれる。その感触だけでも脳みそ
が溶け出しそうだった。酒気の回った脳を介して、感覚は何倍にも
膨れ上がってしまっているような感じがする。
﹁あんたは、自分の何回か抜いとけ﹂
凶悪な大きさのソレを、放っておいていいはずがない。一週間分
の溜まった性欲をぶつけられちゃ、こっちはたまったものではない。
こっちだって明日も仕事なんだ。抱き潰されては困る。
カイルの下から這い出し、ベッドの脇に落ちていたクッションを
いくつか拾い上げた。背中が痛くないように枕を配置する。
﹁見ていていいのか﹂
﹁それちょうだい﹂
217
潤滑油のボトルを指さす。カイルの喉が上下する。
手に持つと中でメープルシロップのような液体が躍った。蓋を開
けると、甘い香りが薫る。前使っていたのは無色無臭のものだった
はずだが、変えたのだろうか。まあいい。
ヘッドボードに怪我している方の右腕を回し凭れかかる。腰の下
にはクッションを置いた。
﹁おい﹂
﹁だから、おかずになってやってんだろ。ぼっと見てないで、早く
抜け。それとも何だ。俺じゃ不服か﹂
﹁いや⋮﹂
﹁ならいいだろ﹂
腹の上に液体を落とす。うえ、本当にメープルシロップみたいだ
な。食材をダメにするみたいな背徳感。蓋を閉めた瓶を脇に転がし、
手に潤滑油を馴染ませる。少し遊んでいる意識をカイルに向けてみ
ると、苦悶の表情を浮かべているのが見えた。
俺は目を閉じ、自分で後孔に左手を伸ばした。
﹁ん⋮⋮﹂
自分で触ることに慣れてしまっている自分が怖くないでもないが、
後処理や準備で確実に経験値が上がっていることは確かだった。自
分でやってもちっとも気持ち良くならないのが、唯一の救いだと言
ってもいいかもしれない。
苦しいだけの行為は、この恰好だとさらに苦しかった。煽情的に
見えればいいと思ったのだが、まずったかもしれない。もういいか
と、面倒くさくなった俺はヘッドボードにかけていた腕を外し、ベ
ッドに横たわった。
左腕を脚の間に挟んで突っ込む方が、奥まで届いて解しやすい。
218
﹁⋮ん⋮⋮っぅ﹂
どうにか三本までは入ったが、これ以上は無理だ。
﹁リョウ﹂
﹁ごめん、あんまエロくなかったかも﹂
﹁いや、⋮充分。交代しよう﹂
﹁うん。あ、舐めてやろうか、それくらいだったら俺でも﹂
言いかけて、自分の言い方に色気もへったくれもないなと思い直
して口を閉じた。カイルはそんな俺を抱き寄せ、入ったままの指を
抜いた。
﹁リョウ。いつになく積極的なのは嬉しいんだが﹂
﹁ご奉仕、しましょうか﹂
﹁⋮⋮﹂
ぐっとカイルの喉が鳴る。眉間に皺が寄って、カイルは苦し気な
息を吐いた。無精ひげのせいか、一つ年上とは思えないくらい大人
の男って感じがして色っぽい。ハンサムな顔は、どんなときもハン
サムだ。羨ましい。
﹁ン﹂
べろりと、舌が俺の額を舐める。ざらりとした濡れた感触に、思
わず目をつぶっていた。
やっぱりこっちの体勢の方が好きだ。向かい合って相手の鼓動の
音を聞いていると安心する。
さっきまで俺の指が入っていたからか、後孔は容易すぎるほど簡
219
単にカイルの指を飲み込んだ。息を詰めると、カイルがさらに抱き
寄せ、背中を撫でてくれた。
﹁力を抜け﹂
額から下りて来た唇が耳殻を食む。熱い吐息が耳の穴にこじ入っ
てきて、俺はぞくりと震えた。カイルの腰に回した右脚がピクリと
反応する。頭の芯が、じん⋮と痺れた。
﹁ゃ⋮ん、うう﹂
やはり三本では足りないのか、くるりと回された三本の指の脇か
ら四本目が入ってきた。入り口が広げられる感覚に眉根を顰める。
鼻で呼吸しながら、甘く上がりそうになる悲鳴をかみ殺した。全身
から汗が噴き出す。
﹁こっち。触ってろ﹂
空いた左手を導かれたのは、胸の突起。触りもしないのに、固く
しこっている。腰が逃げないように、カイルの腰にかけた脚を引か
ないように意識しているのも大変なのに、さらに自分で弄っていろ
と言うのだろうか。
﹁⋮カイル﹂
﹁そんな目しても駄目だ。おかずになってくれるんだろう?﹂
おずおずと動かす指に、乳首が揺れる。カイルはいい子だ、と頷
いてくれる。目をきつく閉じ唇を噛んで荒い息を鼻から逃がした。
自由気ままに動く後孔の四本の指も、俺を追い詰めていく。引っ張
って。次は摘まんで、捻って⋮と囁かれる指示を追うのに必死で、
220
自分が泣いていることすらわからなかった。
﹁ぅあ、⋮っく、ん﹂
﹁ココか﹂
﹁ぁ、だめ、ぇ⋮あ⋮んん!だ、め﹂
内側の粒を捏ねられて、きゅうっと臀部がカイルの手首を締めつ
ける。リョウ、手。と言われて乳首を弄る指が止まっていることに
ようやく気が付いた。泣きながら乳輪をなぞるように触り始めると、
褒めるように軽くキスをしてくれる。でも俺はそれだけでは我慢で
きない。
はやく、はやくとぐずる俺に、しかしカイルはゆるゆるとぬかる
んだ後孔をかき回すだけだ。
﹁もうちょっと我慢しような﹂
﹁ぃや、ん⋮カイル、もうやだ⋮⋮ん⋮かいる⋮ッ!﹂
カイルの首に右腕を回し、耐え切れず腰を擦りつけた。
﹁リョウ﹂
﹁でちゃう⋮ってば、カイル⋮ぅく⋮⋮だ⋮め﹂
我慢しろと言い、なのに中では前立腺を捏ね続ける。発狂しそう
な気持ち良さに俺は身体を震わせて、白濁を吐き出した。右手はカ
イルの少し伸びた髪を強く握り、左手は自分の腹を引っ掻いて赤い
爪痕をつける。
達した後の余韻を引きずる身体にお構いなく、後孔内の指がぬら
りと動く。最後とばかりに大きく掻き混ぜた後、じゅぽと指が抜か
れる。俺は走る戦慄に、目を見開いた。
眼窩の底でぎろりと俺を見上げたチョコレート色の瞳は、劣情に
221
火を灯し、濡れたように光っていた。
﹁え、ちょ⋮カイル︱だめ。だめ、たんま⋮ッばかふざけんな﹂
﹁悪い、待てない﹂
膨れ上がった欲望が窄まりに宛がわれ、熱い液体を入り口に感じ
た。そう思った次の瞬間に、楔が一気に肉壁を穿った。
﹁ばかばか⋮っあぅぁあ、⋮⋮ッ!!ん!﹂
俺は連続でイかされ、脳の電極が焼き切れるような快感とも痛み
とも取れない感覚を味わう。長引くそれは、カイルの抽挿に後押し
されるように益々快感を増し、何もかもを焼き尽くしていく。
何度目かの抽挿のあとカイルも達し、奥に熱いものが散った。
222
犠牲者
カイルは、凍てつくようなキンとした空気の中で目を覚ました。
息を吸えば臓腑の底まで冷気が満たすような、そんな寒い朝だった。
朝日が昇っている。珍しく晴れた空は、窓に白い光を落としていた。
真っ青な寒空が目に心地いい。
隣で眠る、愛する青年を起こそうと寝返りを打って、はたと気が
付いた。左腕が、消えてしまった身体を探すようにシーツの上を這
う。
がばりと起き上がる。まさかと布団を剥いだそこには、自分のほ
かに誰もいなかった。
﹁リョウ!﹂
背筋が今度こそ凍った。寒さのせいではなく、恐怖のせいで。
もつれる足になんとか言うことを聞かせ、続き部屋に駆け込むが、
その部屋も無人だ。浴室もキッチンにもいない。玄関にはカイルの
軍靴と並んで、リョウの短靴が脱ぎ捨てられていた。
攫われた。
カイルの周囲の一切の音が、消えた。しかし茫然とその場に立っ
ていたのはしばしの間だけだった。急速に回転を始めた脳はあらゆ
る可能性をはじき出し、今すべきことを次々と並べていく。手早く
服と外套を羽織り、靴に足を突っ込んだ。
そうしている間にもリョウの身に危険が迫っている。
焦る気持ちをどうにか抑え込み、集中する。結界も張っていない
223
街中で、魔力を辿ることは不可能に近い。探知用魔導具もここには
ない、だが出来るはずだ。リョウの魔力なら。
部屋を飛び出し廊下を駆けながら、魔力の視野を広げる。少しず
つ精緻に、見落としがあってはならない。
あった。
近い。すぐ近くだ。
カイルは階段を駆け下り、どくんどくんとまるで心臓の音に呼応
するかのように揺らぐリョウの魔力を感じて焦燥を深くした。魔力
は努めて制御しなければ感情のままに動くのだ。リョウのそれには、
激しい動揺が読み取れた。位置は移動していない。罠だろうかと懸
念がカイルの横を過ぎ去り、消えていく。
もうほんのすぐそこだ。宿の中庭に続く玄関扉を開けると、遠慮
なく降り注ぐ陽光が目を刺した。ぶわりと風が服の裾をあおり、一
面に積もった雪の表面を撫でる。待った雪の粉末がきらきらと輝い
た。思わず顔に腕をかざす。そしてその中庭に、カイルは信じられ
ない光景を見た。
*******
黒い。ここは水の中だろうか。黒くて底のない水の中に頭まで浸
かって、どこが上でどこを目指せば水面なのかもわからず、とにか
く手足を動かした。足が何かに掴まれている。ごぼりと口から貴重
な空気が逃げて行く。苦しい。水が体内へとどんどん流れ込み、息
ができない。足を掴んだ何かは異様な強さで、俺を暗い水の奥へ奥
へと引きずり込む。刻々と死に近づいている。もう駄目だ。そう思
224
うのに、苦しさに俺は首をかきむしった。そんなことしてもどうに
もならないとわかっているのに。目から溢れるのは涙だろうか。い
や、水の中でそんなものを感じるはずがない。苦しい、苦しい。死
にたくない。俺はまだ、死ねない︱︱︱︱
しばらくの間、身体は硬直して動かなかった。ただ胸が上下し、
じとりとした脂汗が額を濡らしていた。たった今見ていた夢が本当
にあったことのように、心臓はまだ苦しさに喘ぎ、酸素を求め拍動
を速めている。白塗りの天井が、眩しく感じられた。
夢だったのだと確信するまでいくらかの時間を要した。隣に眠る
男の規則正しい寝息が、寝室に穏やかなリズムを刻む。こめかみを
どくどく流れる血を鎮めようと、その音だけを聞いた。すると次第
に落ち着いてくる。息を吐くと、ずきりと咽頭壁が痛んだ。
喉が渇いている。
カイルを起こさないように、俺は静かにベッドを下りる。スプリ
ングがしなって、小さな音を立てた。椅子に掛けてあった外套を肩
に掛けるとその冷たさに震えが走る。東京ではあまり経験しない寒
さだ。真冬と呼ぶにはまだ暖かいのだろうが、それでも東京の最も
寒い日よりも寒いと感じる。空気は寒いというよりも痛い。外套を
きつく身体に巻き付けても、歯の根は合わない。
寝室の続き間にはテーブルとイス、暗赤褐色を基調とした部屋の
造りに合わせたソファがある。壁には油絵がかけられ、本棚には分
厚い本が立てられている。しっかりとした装丁と金箔の飾りから、
それが読むことを目的としているわけではなく、宿のインテリアと
して置かれていることがうかがえた。しかしいずれにしろ、俺には
読める文字はひとつもない。
カタン。
225
わずかな音であったが、歯の鳴る音とはまったく別の音に気付か
ぬはずもない。俺は硬直した身体をさらに固くした。
バルコニーへのガラス戸から、明かりが差し込んでいる。月の光
であろうそれは、月の光と呼べないほどに弱い。だが床は発光して
いるようにも見える。そこに人影がひとつ。
﹁寒そうだね﹂
声は、確かにそう言った。
赤い。俺は立っている。一人、白い景色の中で。完全に白に塗り
つぶされているわけではない。朝日が昇っている。太陽が衒うこと
なく、そのままの光を放っている。その光の強さに、見上げた俺は
一瞬目が眩んだ。
風が強く吹き、木々の間を吹き抜け、髪をかき乱す。そとだ。俺
は外にいる、どういうことだろう、さっきまで確かに部屋にいたは
ずなのに。
風に煽られた枝から、雪の落ちる音が聞こえる。俺はこの音が嫌
いではない。幸せな朝だった。空気は凛と澄んで、雪化粧の美しさ
を際立たせている。幸せな朝だった。吐き気を催すような嫌な臭い
が、鼻をつかなければ。
静々とした穏やかな朝にひとつ異質な空気が紛れ込み、その朝を
まったく別のものへと変えてしまう。
赤い。鉄錆の匂い。
見下ろせば、白い雪に伸びた真っ白な脚と、点々と続く赤い斑点
がある。その赤は白に薄められて鮮やかなピンク色にも見える。血
の気の失せた白い脚は、降り積もった雪に埋もれている。確かに俺
の脚だ。感覚がない。
226
気付くと、ぱた、ぱた、と液体が足元に落下を続けている。それ
は赤い斑点となって、すねの横のあたりに模様を描いた。手に濡れ
た感触があるのは気がついていた。両手を持ち上げ開いてみると、
まだ温かい赤い液体がどろりと手首を伝い、袖を濡らす。
後ろに気配を感じて、俺は両手を開いたまま振り向いた。
*******
声を出そうと思った。名を呼ぼうと思ったが上手く声が出ない。
雪の中、ひとりの愛する青年が立ち尽くしている。その顔は不安
そうだ。どうしたんだカイル、と黒く濡れたような大きな瞳が尋ね
るように瞬いた。
だがやはり声は出ないままだ。
﹁カイル﹂
リョウの唇は真っ青だ。寒さに震える体を早く抱き上げ、温めて
やらなければと思う。
だが目に映る血が、そうさせてくれない。
振り返った体勢のリョウの後ろには、黒っぽく染まった団服と、
切り刻まれた身体。そこから赤を辿れば寝間着姿のリョウが、手を
血みどろにしてぽつねんと立っている。彼は何が起こっているのか
わからない様子であった。柳眉を顰め、状況を全く飲み込めていな
いようだった。落ち着かないように再度カイルの名を震える唇で呼
び、戸惑ったように自分の手を見下ろした。
三人目。拷問の末に殺されたと見られる、見るも無残な死体が手
227
足を投げ出して雪に転がっている。
カイルは個人的に言葉を交わしたことはなかったが、ココルズと
親しくしていた若い隊士だった。純朴で、貴族出身でないことを恥
じて顔を赤くすることが多かった。第五番隊にあって出身など関係
ないのだと、ポラル・ド・ネイ隊長によく叱られていたものだ。し
かし、それのどれもが過去形である。苦悶に顔を歪ませたその身体
は、生前の姿を留めていない。
三人目の犠牲者もやはり、第五番隊の隊服を着ていた。
228
好きじゃなくなる方法を、俺は知らない
その冷たい石の壁で囲まれた殺風景な空間を、部屋と呼ぶか牢獄
と呼ぶかは人それぞれであろう。そこは第八番隊の管轄である。
凍えるほどの寒さで、地下に造られたその空間は地上よりも寒い
かとも思われた。もう少し気温が高かった頃に来訪者や監視兵の鼻
を捻じ曲げた悪臭が、まったくないのが逆に恐ろしい。体臭はとも
かくとして、糞尿が凍結し、匂いを発していないのだ。
・
不気味な、としか言えない奇声や唸り声、さらには低く呟く呪術
のような声がひっきりなしに聞こえてくる。彼は鉄格子で分けられ
た区間の中を速足に歩く。後ろで閉められた扉から、施錠音が重く
響いた。
鉄格子から自由を求め、手を伸ばしてくる者はもうほとんどいな
い。少しでも分別のあるものは淘汰され、厳しい環境に耐え切れず
死んでいったのだ。
﹁ケネス﹂
彼は、ある一区画の格子越しに囁いた。そして後ろを振り返って
誰もいないのを確認し、もう一度、今度はもう少し大きな声で中の
男を呼ばう。
﹁兄さん。ケネス兄さん﹂
中の男は、しかしその声には少しも応答しなかった。ただ頭を膝
の間に抱え込み、貧相な寝台の横にうずくまって、体を揺らしてい
る。
229
﹁兄さん﹂
彼の声は、もうほとんど泣きそうであった。何度も男を呼び、鉄
格子の中に手を伸ばした。その手は空を掠めるばかりであったが。
その手を引っ込めた彼は、ふところから取り出した食事の包みを急
く指先で開く。焦るばかりに、包みから小さなパンがいくつか石床
に転げ落ちた。
﹁ケネス兄さん、食べてください。このままでは死んでしまう、ね
えお願いだから﹂
めいっぱい伸ばした彼の手が、男にパンをぶつける。それは音も
なく男の足元に転がった。だが男は、弟の必死の声に気づきもしな
い。正気を失っているからだ。男の心はもうすでに地上を離れてし
まっている。これが、魔力を失った人間の成れ果てなのだ。
男の足は飢餓浮腫と凍傷でひどくむくんでいる。その脇に転がっ
たパンを見つめながら、彼は自分の無力感に打ちのめされ、虚しさ
を味わわずにいられなかった。彼は兄と、兄をこんなにしてしまっ
たすべてを憎んで、慟哭した。
*******
俺は話し声に目を覚ました。見慣れない天蓋に、起きたばかりの
脳が混乱する。
えっと、俺、どうしたんだっけ。
起き上がると身体が鉛を含んだように重かった。上体を腕でどう
にか支えるが、それだけで息が上がり、頭痛が増す。話し声は扉の
外でしているようだ。複数の人間が激しく言い争っている。そのと
230
き俺は急に、ひどい既視感に襲われた。
それは既視感と言うには強烈過ぎた。思い出せ、思い出せと、何
かが頭の中で叫び声を上げる。
﹃なんでこんなとこにいんだよ!﹄
﹃声を落とせ。⋮潜り込む。任務だ﹄
割れるような痛みに俺は頭を膝の間に抱え込み、うずくまって寝
台の上で体をくねらせる。脳髄を蟲が喰らっているようなおぞまし
い感覚に、耐え切れず、喉からくぐもった声が飛び出る。
扉が開く大きな音を、どこか遠くに聞く。その俺を呼んでいる声
は、誰だ。
﹃まだ連中と付き合ってるのか、兄さん﹄
﹃同郷だ。見捨てるに見捨てられない﹄
﹃ヘンウェル語は?話せるようになったの﹄
﹃それなりにはな。だがお前にも手伝ってもらうぞ﹄
﹃嫌だよ︱け︱⋮ぃさ︱﹄
あそこは、どこだったろう。小さな道だった。人ひとりほどしか
通れない裏道だ。木の葉のずれる音が大きくて、上手く聞き取るこ
とができなかった。
﹃寒そうだね﹄
いや、夜だった。あの声は妙に懐かしくて、泣きたくなるような
気持ちがしたのだ。彼を見たとき、とても嬉しくて⋮︱︱、見たと
き⋮?俺は彼を、見たのだったっけ。
231
﹁リョウ!﹂
﹃ぃさ⋮、ケネ︱︱﹄
俺を呼ぶのは、誰だ。
涙が零れる。潮と一緒に目玉まで零れてしまいそうだ。溶けて、
なくなっていく。体からあたたかい何かが、光のようなものが、流
れ出て、なくなってしまう。俺が、俺でなくなっていく。
﹁リョウ、リョウ﹂
がたがたと震える俺の身体を包み込むように押さえる男が、俺が
誰であるのかを知らしめるように名前を低い声で刻む。その声で名
前を呼ばれるのが好きだったと、おもむろに思い出した。
いっぱいに見開かれた目が焦点を合わせ、過度に空気を吸い込も
うと動いていた胸が吐くことを思い出し、だんだんと落ち着いてい
く。どれだけそうしていただろうか。
背中に当てられた大きな手が、ゆっくりとさすってくれている。
俺は彼の首に腕を回し、鎖骨のくぼみに鼻を押し付けた。首筋に額
を当てる。少し早い脈を瞼に感じた。彼のスパイシーな香りを胸い
っぱいに吸い込んで、まだ震える身体をどうにか鎮めようと思った。
﹁もう大丈夫か⋮?﹂
ああ、大丈夫。そう答えようと声を発して、俺は激しく咳き込ん
だ。咳を抑え込み、息をしようと喉を押さえる。焦れば焦るほど、
咳はますます込み上げてきた。
さすっていた手が、今度は落ち着かせようと一定のリズムで叩き
始める。
﹁おどきなさい。だからまだ寝かせておかなければだめだと言った
でしょう﹂
232
離れた手を残念に思う余裕は、そのとき俺には残されていなかっ
た。しわがれた女性の声を聞きながら、促されるままにベッドに横
になる。そうして体を丸め、咳をやり過ごす。
口に流し込まれる水を少しずつ嚥下していくのでさえ、喉が焼け
付くように痛む。だがそうしていると、確かに体は楽だった。
﹁⋮ここは﹂
﹁俺の実家だ、彼女は﹂
﹁カイルの母親よ。さ、これを飲んで﹂
唇に白い器を押し付けられる。とてつもなく酷い匂いがした。顔
を歪めた俺に、カイルの母親だという女性はそれを取り上げると、
横に立っていた息子に渡した。飲ませてあげなさいと言い、彼女は
ベッドサイドのたらいと布を持って部屋を出て行く。気を利かせて
くれたのだとわかった。空気がカイルによく似ている。気の遣い方
も、カイルは母親の細やかさを受け継いでいるようだった。
彼女が出て行ったとき、部屋の外から男の声が聞こえたような気
がした。
﹁肺炎になりかけていたから、連れて来たんだ﹂
カイルは憔悴して、黒ずんだ目元が影になっている。いくらか痩
せたようでもあった。頬がこけ、その首にかけての輪郭を濃い髭が
覆っている。ベッドに腰掛けると、カイルは疲れたように背中を丸
めた。
﹁俺、﹂
233
﹁五日間、意識が戻らなかった。起きても高熱で朦朧としていて、
・・
このまま⋮目覚めないんじゃないかとも、思った﹂
﹁あれから、五日も?﹂
﹁正確には今日が六日目だ﹂
﹁ごめん、心配かけたな﹂
声は掠れてみっともなく聞こえたが、俺は声を出すのを止めなか
った。俺には話さなければならないことがある。あの日から五日。
あまりに長い時間を無駄にしてしまった。
﹁リョウが眠っている間、色々と考えようと思ったんだ。だがやは
り駄目だった。悪い方へと流れてしまって、まともに考えることも
出来やしない。⋮教えてくれ、あのとき何があったんだ?お前は、
あそこで何を﹂
﹁信じてくれ。わからない、カイル。そのことはあまりよく覚えて
いないんだ。けど俺、その夜に男を部屋で見たんだ。鍵が締まって
いたのに部屋の中に男がいた。あいつの声、前に聞いたことがある﹂
独特の喋り方だった。跳ねるようなリズムに、粘っこい撥音。軽
い調子でもあり重苦しくもある。しかし聴いたことがないものでは
なかった。俺はあの発音の仕方を、経験ではなく、体の奥に染みつ
いた自分の一部として知っている。
﹁どこで聞いたか覚えているか?﹂
俺は頷いた。話そうと思って忘れていたのだ。あの日は、あまり
にたくさんのことが起こりすぎた。しかし逆に考えれば、だからこ
そ記憶の片隅に置いておけたのかもしれない。
﹁魔力制御の訓練を始めた日だ。ヴィヴィアンと初めて会った日﹂
234
﹁あの日か﹂
﹁﹃金のうま亭﹄がその昼、すごく混んだんだ。その昼休みに、店
の裏で確かに聞いた。二人組で何か言い争っていた﹂
﹁二人?﹂
﹁ああ。よく聞こえなかったけど、任務がどうの、ヘンウェル語が
どうのって⋮同郷だから見捨てられないとも言っていた。そうか、
あれはヘンウェル語じゃなかったんだ﹂
何故だかはわからない。懐かしいと思う。まさか、あれは日本語
だったのだろうか。俺はかつて自分が話していた言葉を既に忘れて
しまっている身だが、あれが母国語のような気がしてならなかった。
﹁ビデ語かもしれないな﹂
﹁ビデ?﹂
﹁14年前にヘンウェル王国の属国となった国だ。半年前からビデ
平和国軍という犯罪組織が独立を求めて活発になっていて、俺たち
はその動きを追っていたんだ。今回の一連の事件も、ビデ平和国軍
が行った疑いがもたれている﹂
﹁一連の事件って﹂
﹁旧ビデ王国地区総督府の爆破事件を皮切りに、上質な魔導石が採
れるビデ山採掘場の占拠。他にも色々なところで襲撃を受けている。
ヘンウェル国内では、うちの隊の三人が拷問の末に殺された﹂
拷問。
俺は全身を恐怖と名状しがたい感情が突き抜けるのを感じた。
﹁あれは﹂
﹁そうだ。その三人のうちの一人は、五日前に見つかった。本当に、
お前は何も覚えていないんだな?何故お前が血まみれであそこにい
たのかも?﹂
235
﹁⋮わからない﹂
夜から朝までの記憶がすっぽり抜け落ちているようだった。気づ
いたら雪の中で、血を握って立っていた。忘却は故国のことだけに
とどまらないのだろうか。俺は知らず知らずに記憶を取りこぼしな
がら、生活してきたのか。
﹁お前には、殺人と諜報の疑いがかけられている﹂
カイルはぐっと奥歯を噛みしめて言った。その表情にはどこかは
ねつけるような暗さがあった。淡々とした口調。
今彼は第五番隊の副隊長として、仕事として話しているのだと、
俺はふいに悟った。不思議なものだ。途端に心のどこかにすとんと
何かが落ち着いて、頭が冴え渡ったような錯覚が起きる。
﹁諜報。俺が?何を﹂
﹁わからない﹂
﹁そう。俺に話してしまって良かったの?﹂
俺は酷薄に笑った。どっちつかずの感情を持て余すように、カイ
ルは目を泳がせる。まだ彼の中には、仕事と割り切れない部分が多
く存在しているのだろう。
しかし俺たちの間にはすでに、かつて一瞬現れた不信感が、再び
色濃く渦巻いている。本当に微かなひびであっても、それも割れ目
には変わりないのだ。どんなに上手く塞いでも圧倒的な力が加われ
236
ば、そのひびから割れ目はめりめりとその深さと距離を増していく。
﹁駄目だろうな。ばれたら、重刑だ﹂
それでもそのひびを、俺たちは必死で繕うのだ。カイルは第五番
隊副隊長の仮面をひとたび取り去り、その下から苦い笑みを見せた。
﹁じゃあ話すなよ﹂
﹁いい。聞け。⋮俺は八年ほど前から、騎士団内の諜報員探索とい
う特別任務に就いている﹂
﹁いいの﹂
俺に話してしまっていいのか。カイルは葛藤しているようだった。
口を閉ざし、なにがしかを考え込んでいるのかしばらく押し黙った
が、やがてゆっくりと口を開いた。
﹁誰にも知られてはいけないと言われた。誰をも信用せず、まず疑
ってかかれと。中央に呼び出されたときのことは今でも覚えている。
八年前と言えばまだビデ平和国軍が組織化されていない頃だが、諜
報員はヘンウェル国内にもうじゃうじゃといたものだ﹂
﹁まだ任務は解かれてないんだな﹂
苦悩の刻まれた皺が一層深くなる。彼の今まで見せて来なかった
一面が、このときになってようやく俺の前に姿を現したのだ。それ
は想像していたよりもずっと重く、暗いものだった。
﹁俺は諜報員と思われる人物のリストを持っている。その中には赤
の他人から友人までの名前がずらりと並んでいるんだ。その中に俺
は数か月前、リョウの名前を記した﹂
﹁あの日だろう、それも﹂
237
﹁ああ。初めに疑惑が生じたのはリョウがエクスィーダ語を話せる
と分かったときだ。言語解析魔法は、旧ビデ王国の諜報員が昔よく
使っていた手口だったから﹂
﹁しまいには異世界から来たとか言い始めるしな﹂
﹁そうだな﹂
カイルは小さく頬の筋肉を緩める。
喉が話しているうちに痛みをほとんど感じなくなったのを確認し、
俺はけだるい身体を動かした。心配そうな表情を見せたカイルを見
て、心臓が切なく哭くのを感じる。俺は彼の隣に行きたかった。
﹁カイル、手貸して﹂
持っていた器をベッドサイドに置き、カイルが腕を伸ばしてくる。
それを掴むと、感じたカイルの体温は依然として変わらない。変わ
らず、温かい。
﹁怒らないのか﹂
﹁怒ってるよ。殴ってやりたいくらいだ。結局あんたは俺を信じて
ねえってことだろ。俺を諜報員だと思ってる﹂
﹁あのときはお前を信じていたが、今は⋮そうだな、正直に言うと
疑っている﹂
﹁はは。そうか﹂
俺にはわからない。どうして疑われているのに、好きだという気
持ちは全く薄れないのか。どうして疑われているのに、信用されて
いると感じるのか。
﹁それでもリョウが好きだ﹂
﹁ほんと、めちゃくちゃだよな﹂
238
俺はずたずたに引き裂かれる心の痛みを感じながら、笑った。
239
だって好きじゃなくなるのが嫌だから※
相手がどんな人なのか、長年一緒にいる家族はおろか、自分でも
ほとんどわからない。それなのに、俺はカイルの人と為りは大体知
ったような気でいた。カイルのことをよく知らない自覚はありなが
ら、それでも持っている少ない情報を掻き集め俺の思うカイルを作
り上げて、知った気でいたのだ。それに限界が来ていることはわか
っていたのに、俺は馬鹿だ。
まだ病み上がりだからと止めるカイルを振り切って、毎日風呂に
入らないと気が済まない俺は、シャワーで五日分の汚れを落とした。
髪があぶらで汚れて重くなっているのも嫌だったし、歯も磨きたか
った。
キスを交わす直前で気が付いて、本当に良かった。あのままキス
をしていたらと思うと怖気をふるう。すっかり綺麗になった俺は、
ふかふかのタオルで頭を拭いてもらっている。暖炉の前の絨毯に直
に三角座りをして、炎が薪を食う音を聞いていた。
夜が訪れている。ずっと眠っていたせいで時間の感覚がまったく
ないが、どうやらもう深夜を回っているらしい。気温はさっきより
もぐんぐんと下がって、外は吹雪いているようだ。時折、強風が窓
を揺らした。
カイルは下衣だけ身に着けていた。その長い脚で俺を捕まえてい
る。気持ち良さと温かさで、何度か意識が飛ぶ。シャワーを浴びる
だけで、随分と体力を使ってしまったらしい。目をつむって夢の中
への誘いをどう断るか思案していると、手が止まり耳に熱い息がか
かった。
240
﹁⋮キス、していいか﹂
カイルの声は熱を帯びていたが、怯えと躊躇いは隠せていない。
きっとあの話をしたことで、自分には俺にキスする権利がなくなっ
たとか考えているんだろう。馬鹿な奴。頭を拭く手もためらいがち
だった。
俺は顔を傾けて、後ろに座るカイルがキスしやすいようにしてや
った。上から被さるようにして重ねられた唇を味わう。は、と息を
合間に吐いて目を開けると、俺の視線とカイルのそれがすぐ近くで
混じり合う。
﹁目、閉じてろよ。悪趣味﹂
キスの時に目を閉じるのは、マナーだろ。俺は渋面を作ってうん
ざりと言う。今更恥ずかしいとは思わないが、キスで感じている顔
を観察されているのは楽しいものではない。
﹁怒ってないのか?﹂
カイルはそれには答えず、再びそう訊いてきた。俺はそれに目を
細める。
﹁怒ってないように見える?﹂
﹁いや、見えない﹂
﹁だろうな。ここで見えるって言われたら、本当に泣くぞ。俺は怒
ってるし、傷ついてる﹂
﹁⋮傷ついている?﹂
﹁当たり前だろ。馬鹿か、おまえ。恋人に諜報だとか殺人だとかで
疑われてて、なのに好きだとか言われて、どんな気持ちがすると思
241
ってんだ。ほんと、馬鹿かお前﹂
言いながら泣きそうになってくるのだから世話はない。俺はカイ
ルから顔を背け、ぐっと涙を堪えた。
俺の知っているカイルと知らないカイル。どちらが偽物というわ
けではなく、どちらも本物なのだ。俺はその一部しか知ろうとせず、
見たいものだけに目を向けて来た。その代償がこれだ。知らないカ
イルの一面を受け入れることが出来ない。作り上げて来た幻想を、
壊す勇気が未だ出ない。
それを壊してしまえば、好きでなくなってしまうような気がして。
﹁すまん﹂
けれどカイルはいつだって誠実だ。疑っていないと嘘をつくこと
も、信じていると虚言を吐くこともしなかった。そうしてくれれば、
俺ははるかに楽だったのに。
﹁あんたを嫌いになれたら楽だったのに﹂
﹁俺はお前を信じきれたらよかったのにと、思っている﹂
﹁信じろよ﹂
﹁信じたいさ、だが無理だ。疑うことしか教えられてこなかった﹂
俺たちは、両方が両方、間違っている。
﹁きっと俺たち、恋に落ちるのが早すぎたんだ﹂
信頼を築く過程とか、相手を知る過程とかを一気にすっ飛ばして
しまった結果は、中途半端な関係と相互信頼の欠如だ。信頼の意味
を穿き違え、ただ互いに寄り掛かっている。
242
﹁そうかもしれないな﹂
﹁けど、仕方ないよな。落ちちゃったんだから﹂
﹁怖いくらいに突然に﹂
笑い合ったのは互いを憐れんでか。
セックスは気持ちを伝えあうためにあるのだと思う。だとしたら、
俺たちが伝え合うのは一体何だろう。愛だろうか、それとも別の何
かなのだろうか。
すんでのところで、俺はここがどこだかを思い出した。
﹁あっおい、やめろって。誰か来るかもしれないだろ﹂
さっき、扉の外で言い争う声で目を覚ましたのだ。突然扉が開い
てもおかしくはない。
﹁来ない。リョウが風呂に入っている間に、全員帰らせた。母もも
う寝ているだろう﹂
﹁でも、カイルの実家だ﹂
膝を割って下衣に入り込もうとするカイルの手を、三角座りのま
ま、膝で挟んで阻む。
﹁この部屋は防音がしっかりしているから大丈夫だ。よほど大きな
声を上げない限り﹂
﹁そういう問題じゃ、ない!﹂
日本人の貞操観念の問題だ。
﹁ここは元気だぞ﹂
243
さわりと触れられて、俺は息を詰まらせた。息子はどうやら日本
人ではないらしい。正直に涎を垂らしている。
﹁ばか、さわんな﹂
﹁なあ、リョウ﹂
甘い重低音が脳を揺らす。鳥肌が立つ。耳が熱い。耳を塞いでし
まいたい衝動に駆られた。
﹁⋮んだよ﹂
﹁セックスしよう﹂
﹁俺、まだ病み上がりだけど﹂
ついさっき、病み上がりだからと、俺のシャワーへの道を頑なに
閉ざそうとしたのは、どこのどいつだったか、この鳥頭は忘れてし
まったらしい。仕方のない男である。
﹁無理はさせない。さっき薬も飲んだろう﹂
あの不味いやつな。ごみ溜めから汲んできたんですかと、思わず
聞きたくなるような悪臭から抱いたイメージに、味覚も大いに同意
した。不味いし臭いし、これがあまり効かないとなれば、クーデタ
ーが起きてもおかしくない。
﹁エロ魔人。おい、この五日間まさか抜いてないなんて言うんじゃ
ないだろうな。付き合いきれねえぞ﹂
﹁リョウの身体を拭いているときに、勃ってきたから仕方なく﹂
﹁⋮は?﹂
244
俺はそのトンデモナイ発言に、膝に入れていた力を抜いてしまっ
た。するりと、すかさずカイルが手を進める。
﹁へ、変態、ばか⋮っん!⋮ッ﹂
そうなるともう抑えは利かない。俺も、カイルも。
﹁リョウ、脚開け﹂
﹁誰が!手、抜け︱⋮んゃ、や﹂
上から下まで、袋までも揉みこまれ、俺は膝に力を入れようにも
へろへろになってしまう。カイルは、先端を撫でるのが好きだ。そ
の感触が良いのだと言うが、その発言自体がもう変態である。しつ
こいくらいに指先で鈴口を弄られると、んっんっ、と甘い声が押さ
えた両手の隙間から漏れ出した。
﹁俺以外の誰かに、体を触られたかったか?尻の穴、股間、乳首、
足の指⋮﹂
﹁ぃ、いやだ﹂
﹁大丈夫だ、誰にも触らせていない﹂
恥ずかしくて、憤死しそうだった。もし俺を羞恥に追い込もうと
する作戦なのだとしたら大成功だ。きっとカイルの家族にも、俺た
ちの関係が赤裸々に晒されたのだ。もうまともに目を合わせられな
い。
手が身体中をまさぐる。脇腹から胸へと、腹筋を辿るようにして
上ってきた左手に、どくりと心臓が跳ねた。その鼓動を聞いたのだ
ろうか。カイルが後ろで笑ったような気がする。一物を握ったまま
の右手に裏筋をなぞられて、俺はびくぅっと体を震わせた。
245
﹁は、ぁんんッ﹂
﹁気持ちがいいか。次はどこを触ってほしい?﹂
﹁⋮ッばかしね﹂
次々に襲い来る快感の波紋を、絨毯に爪を立てて耐えた。びりび
りと足先まで走るそれは、まともに受け止めると気が狂いそうだ。
解放された屹立は、だらだらとカウパーを垂れ流している。
﹁乳首は布で拭くだけで立ってきて、見ているのが辛かった。わか
るか?ここだ﹂
カイルが両手の指の腹で乳首の周りを、くすぐるように撫でまわ
す。決定的なところに一切触れてくれないもどかしさが、頭を麻痺
させた。
シャツの釦を中途半端に胸の辺りだけ開けくつろげた格好は、見
ていて淫猥だろう。カイルは第三、第四釦だけを開いて、そこから
赤い乳首をわざと俺から見えるように晒した。
顎を俺の頭の上に乗せて、下をうつむかせる。他より若干ぷっく
りとした乳輪をなぶるカイルの指の動きから、堪らず目を逸らした。
﹁カイ⋮ぅ﹂
目を閉じればその感触は、残酷までに強烈になる。ピィンっと弾
かれた両の乳首に、俺は悲鳴を上げて背中を反らした。快感が収ま
らぬまま、乳首を摘ままれ引っ張られる。
﹁あうぅッ⋮︱︱︱ッゃん、んぁぅ﹂
引っ張られたと思ったら今度はぐりぐりと押し込められて、固く
なった乳首が豆粒のように指先から逃げる。それを追いかけて指は
246
右へ左へとまた押しつぶした。
﹁どろどろ﹂
回ってきた血液がどくどくと、屹立を押し上げる。そこから出る
透明な液体を見て、カイルが嬉しそうに笑う。
﹁ッく、そ⋮も、そこ、さわん⋮な!﹂
﹁どこ?﹂
﹁しね﹂
﹁言わないと分からない﹂
カイルは意地悪く言って、腫れてじんじんする突起をさわさわと
くすぐった。側面をくるくると撫で、天辺を爪でこじる。
﹁ぐっ、⋮ぁぅ、ゃん⋮だめ、だつったろ、ちくび、ひっかくな⋮
ぁんんッ﹂
﹁じゃあ、⋮こっちは?﹂
﹁んんんんんッ︱︱︱⋮!!!﹂
神経の集中している一番敏感なそこを、引っ掻く馬鹿がいるだろ
うか。蜜を爪ですくうように鈴口に爪を立てられて、痛みと快感に
俺はぶわりと全身に汗を噴き出させた。
﹁ほら、脚﹂
閉じるなと、小さく身体を丸めた俺の脚を開きにかかる。鍛え上
げられた筋力に逆らえるはずもなく、俺はカイルにたやすく屈した。
腿の内側をカイルの手の平が何度も往復する。その感触を楽しむ
かのような手つきに抵抗を感じるが、力はもう入らない。むしろそ
247
の固くてかさついた手の平に、だんだんと自分が蕩けていくのを感
じる。
﹁⋮ん、ん、⋮ぅ﹂
﹁だいぶ良くなってきたな。リョウ、こっち向け。膝立てて、俺の
肩につかまって﹂
﹁ん﹂
言われる通りに膝立ちで、カイルの首に抱き付いた。膝に力が入
らないせいでカイルに全体重をかける形になってしまったが、カイ
ルはものともせずにそれを支えている。
﹁腹に、リョウのが当たってる﹂
﹁うるさい﹂
﹁潤滑油がないから、油でいいな?﹂
﹁いい﹂
早くと囁くとカイルが、ふ、と笑みに息を漏らした。
カイルが片腕で俺の腰を支えながら、オイルを手にたっぷりと落
とす。ちらと見れば、それは料理用油だった。
﹁広げるぞ﹂
双丘が割られ、カイルの指がオイルをその間に塗り込める。
﹁んッ﹂
﹁もう少し腰上げろ、油が垂れる﹂
温かい手がオイルをすくっては塗りを繰り返し、あっという間に
248
そこがねとねとになる。後孔の入り口の皺を伸ばすように丹念にな
ぞられて、俺は熱い吐息をそっとカイルの背中に吐き出した。勝手
に腰が揺れて、屹立をカイルのむき出しの腹に擦りつける。
カイルが満足そうに笑うのを、ぼうっとした俺はどこかで聞いて
いた。
249
あいしてる※
ぷちゅ、ぐちょ⋮ぐちゅん、と卑猥に響く水音を聞きたくなくて、
自分の肩とカイルの胸板で両耳を挟んで塞いだ。それでもその音は
阻まれることなく耳の中に流れ込んできて、全身に反響するように
熱を煽っていく。
カイルが体を少し後ろに傾けてくれているせいで辛うじて俺は膝
立ちの恰好を保てているが、体力はとっくに限界値を超え、いつ崩
れ落ちてもおかしくなかった。カイルは俺の腰に両腕を回し、両手
の十本の指を使って後孔を解している。その指先の動きに一切の容
赦はなく、息もつかせてくれない。
﹁⋮は、ッは⋮︱︱ん!⋮は﹂
カイルは俺のイイ所を知っているからこそ、もてあそぶように時
折そこに触れては俺の反応を見て、寸前で止める。なんで!と心の
中では叫んでいるのに、俺の口から出るのは苦し気な呼気だけだ。
﹁苦しいか?﹂
カイルはわかりきっていることを、わざわざ口にさせたがる。俺
が苦しいと言葉を吐けば、ハンサムな顔立ちをいっそう輝かせて爽
やかに笑うから、この男はたちが悪い。俺は、かなしいかな、愛し
い男を笑わせたくて仕方がないのだから。
﹁あんたって、性格⋮悪いよな、実は﹂
悔し紛れに怨み言を呼吸の間に胸に呟くと、カイルは一度手を止
250
めて身体を離した。そして、さも心外だというふうに眉を上げて見
せる。
﹁それが好きなんだろう?﹂
﹁⋮ばかじゃねーの﹂
﹁でも、ほら。こっちは素直だぞ、ん?﹂
どう思う?と、固くそそり立った俺自身を思い出させるように、
カイルは腹を押し付ける。思わず腰を引くが、逃げを許してくれる
ような男ではない。後孔に突っ込んだままの両手で俺の腰を抱き寄
せる。ずりゅりゅと、鍛えられた硬い腹筋の凹凸を、屹立の先端が
滑る。俺は堪らず喘いだ。
鼻先を俺の肩口に潜り込ませ、カイルは鼻から深く息を吸った。
それはまるで匂いを確認しているようにも見えて、その獣じみた愛
撫に頭ではなくてもっと深い場所が疼く。
﹁ぃ⋮︱﹂
ちろりと、ざらついた舌が首を舐めた。そして走る痛み。人間の
急所である首に歯を立てられ、食い殺されると、ほんのいっとき感
じた。
だけどこいつになら食われてもいいと思うのは、心が寒いから。
﹁この五日間、ずっと考えていた﹂
カイルは歯型が付いているであろう肌を、舌先でなぞる。ぴりっ
とした痛みが表面を焼く。
﹁なにを﹂
﹁お前を自分の中に取り込んで、安全で心配のないところに匿って
251
やりたいと﹂
﹁何から⋮守るってんだよ﹂
﹁この世界のぜんぶから﹂
俺を最もひどく傷つけ苦しめる男が、俺を守りたいと言う。
怒りなのか、哀しみなのか。俺は腹の底に渦巻くこの感情を、ど
うしたらいいのだろう。
﹁ぅあ﹂
﹁腰、落として⋮力抜いて⋮︱そう﹂
カイルは俺の二の腕を掴み、腰を支え、取り出した太く血管の浮
くそれを後孔にあてがった。両脚でカイルの腰を挟み込むように膝
を落とし、俺は対面座位の恰好で中立ちになっている。
解されて柔らかくなった孔は怒張を、導かれるままに少しずつ、
ずぷずぷと飲み込む。一番太いところでさえ、痛みはなかった。そ
れどころか貫かれる快感がつぶさに感じられて、夢中でそれを追っ
た。
﹁ぅぐ、⋮く⋮んッは、は⋮ぅくるし⋮﹂
内臓が圧迫される苦しさは、いつになっても慣れない。すべてが
収まったときに感じるのは安堵だけではない。だが苦しさだけでも
なくて、とてつもない愛おしさがこみ上げる。
俺はぐったりと、重たい頭をカイルの胸に預けた。
鼓膜に伝わる心拍は、息を荒げているのが俺だけでないことを教
えた。俺は肩で息をしながら、それを聞いて少しばかり安心する。
唾を飲み込み、呼吸を整えようとするが、なかなか心臓は静かにな
ってくれない。
252
﹁ふ、⋮は、はっ⋮⋮、は﹂
﹁ほら、腕回せ﹂
﹁むり⋮力、はいんな⋮い﹂
リョウ、リョウと唸る声に求められて、凍える心はわずかな充足
を覚える。俺はブロンドの混じる茶色の髪を撫で彼を慰める。指に
絡む柔らかい髪を引っ張り、肌を擦った。俺たちは互いの熱を求め、
体を寄せ合っていた。傍から見れば歪な関係だろうに、俺たちはそ
の歪さをひた隠しにして、自分たちの心を守っている。その歪さを
誰よりも知っているのは、俺たち自身だ。
﹁このまま、ずっと繋がっていられればいいのに﹂
自分の口から零れた言葉かと思えば、そうではなかった。顔を上
げると、カイルが切なそうに眉を下げて、唇を結んだままに静かに
ほころばせる。俺は驚きに目を瞠った。
﹁俺も、今そう思ってた⋮﹂
﹁偶然だな﹂
﹁繋がって⋮︱︱そのままぐじゅぐじゅに溶けるように混じり合っ
て、⋮同じになれればいいのにって﹂
﹁リョウ﹂
﹁そしたらさ、信じてくれるだろ、俺のこと﹂
信じてほしい、信じたい。二人の思いは一致しているのに、亀裂
が絶対的な壁のように俺たちの間に横たわっている。すぐそこにい
るのに、その距離はどうしようもなく遠い。
カイルが顔を寄せて来た気配があって、湿った熱風が耳の孔に吹
253
き込まれる。真っ白に輝く歯に齧られる、桜色に染まった耳朶を想
像して何故だか淫靡な気持ちになった。
こりこりと噛まれると、体がばらばらになってしまいそうな快感
が、潮が満ちるように指先までを包む。暴力的なまでの情であるの
に、その中にずっと包まれていたいような気がした。
﹁カイル、も、いいよ。うごいて﹂
身体の最奥で努めてじっとしている凶悪な熱は、膨張して今にも
弾けそうだ。カイルがうねる内壁に表情を硬くするのを見て、俺は
そう言った。異物に馴染んでいない身体はまだ苦しさを訴えている
が、気持ちが疼いているのは俺も同じだった。
﹁お前がなんであれ、﹂
﹁すき?﹂
この間はあんなに嬉しかった言葉が、今は突き上げるような悲し
みをもたらすのは何故だろう。俺はどんどん贅沢になる。
﹁愛している﹂
その言葉だけで十分じゃないか。でも心は満足してくれやしない。
﹁⋮ァんっ︱カイルっ、﹂
根本までくわえこんだ孔から、脈打つ怒張がずるりと抜け出し、
ゆっくり激しく少しずつ速く奥を打った。逃すまいと絡みつき柔ら
かく圧迫する肉を、何度もごりごりと擦り上げる。
俺は、や、もっと、いい、そこ、などとうわ言のように小さく叫
んだ。カイルはその一つ一つの要求をすくい上げ、丁寧に乱暴に応
254
えてくれる。
﹁好きだ、リョウが﹂
﹁お、れも。カイルが、すき。あいしてる﹂
冷たくて、苦しい。心は悲鳴を上げている。もう嫌だ、許してく
れと、制御できない愛しいという思いに、涙が流れる。ナイフで胸
を裂かれるような痛みに、俺は嗚咽した。
﹁泣くな、リョウ。⋮泣くなよ﹂
お前に泣かれると、どうしていいのかわからないんだ。そう、ど
こかで聞いたような台詞を吐き、カイルは不器用に俺の肩をかき抱
いた。
﹁好きなのが、苦痛なんだ﹂
こんなまで好きになるなんて、誰が予想できただろう。しかし予
感はしていた。ひた向きなまでの愛にほだされて、好きになって、
好きになりすぎて辛くなることを、予感だけはしていた。
﹁リョウ⋮すまない、すまない﹂
俺たちは獣のように交わる。人間らしく思考することを放棄して、
ただ感情に突き動かされるまま、相手を貪った。
好きという感情にしがみついていたい俺と、信じたくても疑念を
捨てきれないカイル。俺は現実を見たくなくて、カイルは目の前の
現実に縛られて一歩も動けない。ただ立って、一陣の風が吹くのを
待っている。俺たちはなんて愚かで、なんて哀しいんだろう。
255
﹁んぁ⋮ぃゃだ、そこ⋮んっんっッ﹂
﹁っリョ、ぅ、っく﹂
動きが加速し、イイところもそうでないところもごちゃごちゃに
掻き混ぜ、俺たちは同時に高みに昇った。体内の熱が質量をぐんと
増し、俺は気持ち良さに腰を浮かせた。天を向いた屹立を二つの身
体で挟み込み、そこから得られる快感と、後ろに注がれる熱くて濃
厚な精につま先を丸める。やがてどろりとした白濁が先端から溢れ
だし、尻肉の間と結合部を伝って、はだけただけのカイルの下衣を
濡らした。
﹁ぁ、はぁ﹂
﹁は、は﹂
息の整わないままに、同じように肩を震わせ大きく息をしている
カイルを見上げる。するとカイルの柔和な、薄暗い部屋のせいで濡
れたようにも見える瞳が見返して来た。情を交わした後の、艶を帯
びて昏く輝くその瞳は、何よりも美しいと感じる。
甘く苦いチョコレートのそれを、俺は一番忘れたくないと、切実
に願った。
次に目を覚ましたのは、日が昇ってからだった。分厚い布の覆い
の隙間から、眩しい光が一筋ベッドに伸びている。重いが頭に痛み
を感じないのを確認して、ゆっくりと慎重に身を起こした。
今朝はあの記憶の奔流を見なかったことに、落胆と安堵を感じほ
256
うっと息を吐いた。自分を失ってしまうようなあの恐怖は、忘れよ
うにも忘れられない。しかし記憶が戻らないことに失望も覚えた。
あの夜の記憶が重要な意味を持っていることは、想像に難くなかっ
た。何故、よりによってあの夜の記憶を失くしてしまったのかと歯
がゆく思う。それに、最後に底のない穴に引きずりこまれる寸前に
聞こえたあの声。
﹃ぃさ⋮、ケネ︱︱﹄
確かにあれは俺を呼んでいた。
思い出したい。俺は自分が何を忘れているのか、知りたい。何か
重要なことを忘れてしまっているような感覚はずっと前からあった
が、今ほどそれを感じることはなかった。
背中を炙るように燃え盛っていた暖炉の炎は、今は小さい。部屋
の中は寒かった。あのあともう一度風呂に入って、髪を乾かさない
でベッドに潜り込んだからだろう。後ろの髪が派手に跳ねている。
それを押さえながら、俺はベッドを下りた。
カイルの実家だと言っていた。ここは客間なのだろうか。寝台と
棚と丸テーブルだけがある質素な部屋は、古くはあるが小奇麗に片
付けられている。
窓の覆いを開けると、冬らしい灰色の明るい空がこちらを見下ろ
していた。
寝間着にしているシャツの上から、寒さが染み込んでくる。俺は
ベッドの上に畳まれて置かれていた自分の服に着替え靴を履いた。
部屋から出るのには勇気がいった。廊下には古びた深い青色の絨
毯が敷かれ、白い壁紙はよく手入れされているようだったが、その
257
経て来た年月は隠せていない。しかし、漂う匂いと雰囲気は俺を深
く安心させた。ああ、ここはカイルが住んでいた場所なのだと、よ
うやく思う。
﹁カイルの子供の頃か。想像もつかないな﹂
くすりと笑みを零して、自分が思うより落ち着いていることに驚
く。
この世界に来て、図太くなったなあ。傷つくのが怖くて殻の中に
隠れてばかりいたかつての自分は、この世界に来て、少し変われた
だろうか。
そのときだった。若い女性の声が後ろからかかったのは。
258
濡れ羽色の髪をした、青年
︱︱︱その人と初めて会ったとき、直感的に、自分を隠すのが上
手い人だと思った。
もちろんキャロラインにとって、兄が恋人を実家に連れて来たこ
とに戸惑いがないわけではない。それも、男。鼻息が荒くなるとい
うものである。
つまるところ彼女は、まだ顔も見ぬ次兄の男の恋人に興味津々な
のであった。
﹁だって部屋に連れ込んでから六日。挙句相手は一歩も出て来ない
のよ!カイル兄様は家に戻るなり、客間に直行だし﹂
あの狭い客間の中でめくるめく世界が広がっているのかと思うだ
けで、想像と妄想が膨らむ、膨らむ。
﹁病気なんだろ﹂
﹁なによ、水差すわね﹂
醒めた顔で読書を続行する弟チャールズに、キャロラインは唇を
尖らせた。チャールズは眼鏡を押し上げ、姉にちらりとも目もくれ
ず、至って冷静に言う。
﹁キャルがはしゃぎすぎなんだよ。兄さんだってもう大人なんだか
259
ら、恋なんて珍しくもないだろ。やることもやってるだろうし﹂
﹁そうよねえ、28だものねえ﹂
チャールズの文字を追っていた目が止まった。
﹁⋮でも、まあ、ちょっとは気になるよね﹂
﹁でしょ!﹂
﹁知ってる人だったらどうする?﹂
﹁騎士団の人かしら。兄様より背が高かったらどうしよう⋮﹂
下に敷かれる兄なんて想像したくない。だけどそれもちょっとド
キドキするかも。
妄想がはしたない世界の入り口に差し掛かるにあたり、彼女は慌
ててそれを打ち消した。
キャロラインにとって、七歳上の次兄は自慢の兄であった。長兄
のようには華々しくないが整った面差しと、騎士団で鋼のように鍛
えられた長身を持つ次兄は、妹の贔屓目なしでも美男子の部類に推
薦枠で合格である。女学校まで次兄が迎えに来た翌日などは、友人
たちに誰だ誰だと厳しく問い詰められたものだ。
女学校という場所柄、彼の性癖がばれたところで人気が絶えるこ
とはなかった。変な方向へと向かうだけで。キャロラインも幸か不
幸か、その影響を真っ当に受けている。今の状況を、当時の友人ら
に事細かに報告したいと思うのはもはや仕方がない。
﹃恋人だ。そのうち紹介する﹄
次兄はそれだけ言って、巣穴に大事なものを隠すかのように、母
と医者以外の誰も客間に立ち入らせようとはしなかった。中を覗く
ことも許されなかった。母もすぐに部屋を追い出され、怒ったよう
260
な、困ったような顔をしていた。初めて見る次兄の独占欲の発露に
鼻血が出そうになったのを、友人ならわかってくれる。
意識の無い恋人とナニをやっているのかなんて、キャロラインは
まったく想像もしていない。というのはまったくの嘘である。
﹁気になると言えば、この六日間の家の周りの警護のほうが、僕に
は気になるけど﹂
﹁⋮もしかして、兄様の恋人って貴人なのかしら!?わかったわ。
危害を加えられたことを病気だと偽って、家で保護しているのね!
きっとなにもかも秘密で、それで兄様は身分違いの恋に苦しめられ、
あのようにやつれておしまいになったのだわ。騎士団に密かに周り
を護らせ、敵の侵入を防いで⋮﹂
﹁キャル﹂
気づけば、チャールズが胡乱気な目で見つめていた。
キャロラインは弟の、こういう変に分別臭い人間ぶるところが好
きではない。読んでいる本は恋愛小説のくせして!と、弟の手の中
の、きちんとブックカバーをかけられた本を弾き飛ばしたくなる。
本棚にずらりと並ぶ学術書の、裏にしまい込まれた彼の愛読書の存
在は、姉のバーバラとキャロラインしか知らない。
キャロラインは、弟の転じて真剣な顔に肩をすくめた。
﹁わかってるわ、冗談よ。何か、事件に巻き込まれているって言う
んでしょ。私だって気付いてるわ。︱︱︱︱あれが警護って雰囲気
じゃないのは﹂
﹁家の周りをうろついてる騎士たちが、どこの隊なのか気付いた?﹂
﹁第五番隊と、六と七。変よね﹂
﹁兄さんの隊である五番隊と、警備の六番隊はわかるけど。第七番
隊がいるんだ﹂
261
第七番隊。彼らは猟犬だ。ビデ平和国軍の基地の所在を見つける
ことが、彼らの任務である。テロリストグループの根を断絶するこ
とに、第七番隊は手段を選ばない。
﹁七番隊の人たちとはあまり関わりたくないわ。なんだか怖いし﹂
近くに行けば噛み殺されてしまいそうで。しかし剣呑な空気を纏
っているのは、なにも第七番隊の騎士に限ったことではなかった。
チャールズが姉を気遣うように訊ねる。
﹁ココも警護の中にいるの、知ってる?﹂
﹁⋮知ってるわ﹂
キャロラインは、弟の恐る恐るというような訊ね方に薄く笑って、
答えた。
家の玄関先で立っていた兄の部下を、はじめは別人かと思った。
よく知っているはずの明るく温和な騎士は、鋭い眼で、客間のあた
りの窓をじっと見つめていた。その厳しい表情が忘れられず、キャ
ロラインはシモン・ココルズを見かけても、声をかけられないでい
る。かつてより抱いている気持ちとは別に今は、彼を見ると心がざ
わついた。
もしかしたら兄さんの恋人、とんでもない罪人なのかもしれない
よ。チャールズが呟いた言葉を、キャロラインは笑って打ち消すこ
とができない。
262
とん、⋮とん、と、壁を手でなぞりながら階段を上る。階段には
絨毯が敷かれておらず、靴音が高い天井に吸い込まれて消えた。キ
ャロラインはできるだけ音を立てないように、ゆっくりと足を次の
段へと足をかける。
好奇心と、うしろめたさと、少しばかりの不安を胸に、キャロラ
インは足を止め上の階を窺う。
彼女がこうしているのは、つい先程一階の階段口の前を通った時
に、二階から微かに扉の開く音が聞こえたからだ。二階には客間が
ある。そして今、家にはキャロラインと弟のチャールズ、そして客
人の三人しかいない。母は使用人と出掛けているし、長兄夫婦や次
兄は仕事に出ている。二階には、次兄の恋人しかいないはずだった。
﹁カイルの子供の頃か。想像もつかないな﹂
階段の陰にいるキャロラインの耳に、男の声が届く。独り言のよ
うだった。風の吹くように掠れた、しかし深く響く低音に、キャロ
ラインは相応の年齢の男を想像していたのだが、目に映った横顔は
意外に相当若い。自分と同じくらい、それかもっと下だろうか。も
しかすると、18歳のチャールズとそう変わらないかもしれない。
柔らかそうな黒髪が、うなじでぴょんと跳ねている。寝癖のせい
でどこか無防備な、少年のような雰囲気を持った、不思議な青年だ
った。
﹁あの⋮﹂
ほのかに笑みの色が浮かんでいた口もとが、さっと強張る。慈愛
と穏やかさが一瞬にして消えてしまったのを見て、キャロラインは
声をかけなければ良かったと、後悔のような念を覚えた。
263
﹁ここの人ですか?﹂
青年は取り繕うように、ゆったりと微笑みを顔に貼り付ける。そ
の微笑みは一見するととても自然な、裏の無いものに見えたが、明
らかに先ほどのそれとは、似て非なるものだと感じる。驚きや警戒
など、ほんの一瞬間噴き出たものは、その作り物めいた柔らかい笑
顔の下に隠れてしまった。
﹁あ、はい。そうです﹂
﹁カイルの妹さん、かな﹂
﹁あ⋮はい﹂
上手く受け答えもできない自分に焦り、汗だけが出てくる。キャ
ロラインはスカートの後ろのひだを訳もなく引っ張った。
﹁初めまして。リョウです。リョウ・アキヅカ﹂
﹁キャ、キャロライン・エッケナです、初めまして﹂
﹁ずっとお世話になっていたのにご挨拶にも参らず、申し訳ありま
せん。お邪魔しています﹂
﹁あっいえ、そんな。えと、ごめんなさい、今兄は外に出ていて⋮﹂
﹁そうですか﹂
それじゃあ部屋で待っていたほうが良さそうですねと言う青年を、
キャロラインは上擦った声で遮った。
﹁あああの、お腹⋮空いてないですか﹂
﹁え﹂
﹁簡単なもので良かったらありますけど、どうですか?あっ、兄は
もうすぐ帰って来ると思います。なんだか今朝は慌ただしく出て行
っちゃって、朝ごはんも食べずに⋮あの、だから食事の用意はして
264
あるんです﹂
﹁いいんですか?﹂
﹁もちろん無理にとは言わないですけど、兄によろしくって言われ
⋮へ?﹂
﹁お願いします﹂
射かける視線が必死にも見えて、キャロラインは瞬きを繰り返し
た。
﹁あ⋮じゃあ、食べます?﹂
﹁ご馳走になります。すみません、厚かましく。ずっとろくな物を
口にしていなかったものだから、飢え死にしそうなんです﹂
﹁そ、うなんですか﹂
哀愁さえ漂ってきそうな半笑いに、おずおずと笑みを返す。
ふとすると惹きつけられていた。目にしたことのない顔立ちはそ
れとして、目を引くのはその寂し気な表情だ。貴族的な発音のせい
か、青年に漂うみやびさがそれに加えて、下界に降りてきて惑い途
方に暮れた異国の王子を思わせた。
﹁戸惑ってらっしゃるでしょう﹂
へ?誰が?と心の中で聞き返して、自分のことを言われたのだと
思い当たる。こっちです、と案内の手で指しながら振り返ってみる
と、大人しく後をついてきていた青年は曖昧に首を傾げた。
﹁大丈夫です、よ﹂
気づけば答えている。気を遣わせてはいけないと、それだけが頭
265
にあった。
﹁⋮そうですか?﹂
﹁そうです。大丈夫、心配しないでください。兄の⋮性癖は知って
いますし、性格も知っています。兄が選ぶ人に間違いがないことも、
わかります。だからそんなに緊張しなくて、大丈夫﹂
﹁はは、ばれてました?緊張してたの﹂
﹁ええ。⋮私も緊張してたから﹂
キャロラインは息を吐いた。この人は罪人なんかではないと思う。
だけれどこの屈託のない明るい顔も、照射する光の向きが違えば、
つくりものに見えるのだろうか。掴みどころのない人だと思う。ど
こからどこまでが薄布の向こう側なのか、距離が掴めない。
緊張していたと言いながら、きっとまだこの青年はその緊張を解
いていない。
﹁キャロラインさんは優しいですね﹂
どきまぎしてしまう。キャロラインは赤くなった頬を、照れ隠し
に人差し指で擦ってみる。
きっと優しいのは彼のほうだ。自分だって緊張しているくせに、
さり気ない言葉や所作で、キャロラインの緊張をほぐそうとしてい
る。
たいした歳の差はないはずだが、随分と大人びている。
﹁アキヅカさんってちょっとだけ、一番上の兄に似てる﹂
﹁リョウでいいですよ﹂
﹁なら私もキャルでいいわ﹂
兄が惚れたのか、この青年が兄に惚れたのか。それはわからない
266
が、きっと前者だろうと思う。両方であってほしいとは思うけれど。
﹁似てます?﹂
﹁え?﹂
﹁ほら、一番上のお兄さんに似てるって﹂
﹁うん、ほんの少し。⋮⋮エメット兄上は優しすぎるの。優しすぎ
て、気付いてもらえない。損な役回り﹂
﹁結婚されたんですよね?カイルから聞きました﹂
﹁そう。やっと兄上だけを見てくれる人と出会ったの﹂
この青年にとって、次兄がそんな存在なのだろうか。そうだとい
い。
自分の恋はきっと叶わないから。だから兄弟の恋は上手くいって
ほしいと、そう思う。自分はこのまま変わらず、母と二人で静かに
暮らしていく。
玄関を通るときに、青年がはたりと足を止めた。
﹁⋮⋮これは?﹂
玄関扉の上の嵌め殺しの窓から落ちる光が、青年の目線の先の壁
に落ちている。キャロラインは、青年に倣って壁に掛けられた小さ
な絵を眺めやった。
﹁父よ。十四年前に亡くなったの。父も騎士団でね、殉職したわ。
ひどい事故だったらしいけど、私はその頃まだ小さかったからよく
覚えていないの﹂
﹁五番隊⋮?﹂
絵の中に写る父は騎士団の正装をしている。腕の銀糸は五本。
当時武官職の中でも誉れ高いと言われていた第五番隊の副隊長に
267
若くして就任し、もともとが商家であるエッケナ家の中でも随分と
もてはやされたらしい。今となっては昔のことだが、父ハロルド・
エッケナの死を惜しむ者は未だに多い。
﹁カイル兄様と同じ、第五番隊の副隊長だったの。この頃は第五番
隊と言えば、配属されるだけでエリートだったのよ﹂
﹁⋮聞いたこと、なかったな。お父さんのこと、何も﹂
青年はどこか沈痛な面持ちで、声には自嘲のような響きがあった。
﹁多分言いにくかったのだと思うわ﹂
慌てて言う。
﹁カイルが?﹂
﹁ええ。第五番隊は国家機密を護る仕事をしていたのだけれど、十
四年前に父の事故が起きて、中央の管轄になってしまったの。今で
は任務内容がまるっきり変わってしまったから、以前の第五番隊と
はまったく違うのよ。同じ隊を継いでいるとは言いにくいわ﹂
﹁そうなんですか﹂
気のない返答だった。消すことも出来ないで、微笑は頬の上のあ
たりに固まっている。キャロラインはなおも言い募った。
﹁カイル兄様は父のことをとても尊敬していたわ。十四年前に父が
壮絶な死に方をしてから、兄様は父のことを口にしなくなったの。
リョウさんにだけじゃないわ﹂
励まそうとしていることがわかったのだろう、青年は切なげな笑
いで唇を歪め、やっと暗い色調で描かれた絵から目を離した。
268
もっと聞きたいなら兄様に聞けばいいわと言いかけて、キャロラ
インは口を閉じる。
そういう問題ではないのだ、きっと。彼は兄に、自分から話して
欲しかったのだ。
﹁今第五番隊は何をしているのですか?﹂
﹁国内の犯罪組織を取り締まっていると聞いているけれど、詳しく
は教えてくれないの。カイル兄様はあまり仕事のことを口にする人
ではないから﹂
こっち
それに最近は実家に帰って来ることもほとんどなかった。
それなのに久しぶりに顔を合わせた次兄は、何かに憑りつかれた
ようにげっそりと暗い顔をしていた。何が彼をそこまで追い詰めて
いるのか、キャロラインにはわからない。
この青年には、わかっているのだろうか。しかし彼の表情からは、
何も窺い知ることはできなかった。
269
離れてしまう前に、どうか
俺は一人っ子だったから、幼い頃はよく兄弟のいる家庭に憧れた。
エッケナ邸の広い居間には、暖炉が明々と燃え、コチコチと時計
の針が動く音が静かな部屋に大きく聞こえる。穏やかな時間が流れ
ていた。
遅めの昼食を摂ってひと心地ついたあと、キャロラインが孤児院
へ持っていくお菓子を作ると言うので、その手伝いをしている。彼
女はひとしきり恐縮していたが、厄介になっている礼をしたいと言
えば、それならと了承してくれた。
﹁その代わり、もう遠慮はしないこと﹂
﹁⋮はい。わかりました﹂
人差し指を立て腰に片手を当てるキャロラインに、恋人の家族を
前に緊張していた俺も微笑まずにはいられない。どことなく兄のカ
イルに似ていると思う。笑った顔の、大きく崩れる目元だとかは、
そっくりだった。
﹁これは?﹂
﹁見たことない?ラクザの実。ちょっと見た目気持ち悪いけど、美
味しいのよ。ヘタの部分に棘があるから気を付けて﹂
﹁あ、中は綺麗な色ですね﹂
一枚板の大きなテーブルの角に、カイルの妹キャロラインと差し
向かいで座っている。目の前にはこんもりと盛られた、見慣れない
270
果物の山。
俺のことを何かおうちに事情がある少年と勘違いしてしまったら
しく、キャロラインはときどき慈愛のこもった視線を寄越してくる。
例に漏れず実年齢より随分下に見られているようだ。可哀そうでも
なんでもない三十路一歩手前の俺は、騙しているような、今まで感
じたことのないような罪悪感に陥っていた。
﹃大丈夫、心配しないでください。兄の⋮性癖は知っていますし、
性格も知っています。兄が選ぶ人に間違いがないことも、わかりま
す。だからそんなに緊張しなくて、大丈夫﹄
彼女が口にした言葉は、俺を救った。元の世界ではストレートだ
った俺は、ゲイに対する人間の態度がいちいち気になった。この世
界では日本などよりも自由度が高いらしいことはわかっていたが、
体に染みついた文化や考え方はなかなか抜けてはくれない。
もし彼女がまったくの赤の他人だったら、いくらかは拒まれても
耐えられただろう。しかし恋人の家族。嫌われたくはなかった。気
づけば、俺はまた、曖昧な愛想笑いを浮かべていた。
﹁リョウは器用なのね。ラクザの実は剥くのが難しいのよ﹂
﹁確かに、女性にはこれは負担でしょうね﹂
俺が今ナイフ片手に剥いているのは、毒々しい紫色をした、手の
平から少し余るくらいの大きさの果物である。硬い皮を取り除くの
は結構な力が必要で、いつも剥くのに苦労しているらしい。
﹁そうなの。だから男手のあるときにまとめて剥いてもらって、砂
糖漬けにするの。カイル兄様はお忙しそうだし、リョウが手伝って
271
くれて助かったわ﹂
﹁それなら良かったです﹂
俺はこういう作業は苦ではない。むしろ比較的得意でもあった。
小学生の時から、親の帰りが遅い日は夕食を自分で作っていたため、
俺の自炊歴は長い。祖母に頼るのが嫌で、必死に料理を覚えたのだ。
﹁でも驚いたわ。ナイフが使えるなんて。リョウみたいな人にこん
な使用人がするようなことを手伝わせるのは、なんだか申し訳ない
気持ちになってくるわね﹂
﹁あ、の⋮そのことですが︱︱
友達の家に遊びに行ったときに、優しそうな母親が小さな男の子
を脚に巻き付けさせ部屋までお菓子を持ってきてくれた。煩わしそ
うに母親と弟を追い払う友達が、ひどく羨ましかったのを覚えてい
る。
テレビのリモコンや、扇風機、トイレは兄弟で争奪戦だと聞いた
ときには、それは一人で独占していると、わけもない優越感に浸っ
てみた。しかし夕方、誰もいない家に一人で帰ると、決まって侘し
いような悲しい気持ちになるのだ。整然と片付いた広い家は、埃っ
ぽい、人の気配のない匂いがする。友達の家はなんだか温かい匂い
がした。
エッケナ邸も、友達の家と同じような匂いだ。
﹁貴族じゃない?﹂
俺の言葉をオウム返しに繰り返し、ぱちくりとキャロラインが大
きな目をゆっくりと瞬いた。
今まで。今までこそ、丁寧な話し方が貴族に間違われると教えら
272
れて以来、俺は自分の都合の良いように口調を変えてきたが、この
家の中では、⋮カイルの家族に対してだけは、自分を偽ってはいけ
ないと思う。
異世界というむちゃくちゃな環境の中で、生き延びるためならな
んでもするつもりだ。その意志は今でも変わらない。しかしこの家
族に対しては誠実でありたいと、そう思う。
﹁誤解させてしまってすみません﹂
﹁そうだったの。⋮ですって、チャーリー。良かったじゃない﹂
キャロラインの視線を辿って振り向くと、窓辺のソファーでずっ
と黙って本を読んでいた青年が気まずそうにこちらを見ていた。
最初に挨拶をしたときも彼は不愛想に頷いただけだったので、俺
はてっきり拒絶されているのかと思っていたのだが、それは少し違
ったらしい。絡まっていた視線をほどき、ぱたんと本を閉じたかと
思うと、とたりとたりと寄って来る。俺は慌てて隣の椅子を引いて、
座れるように場所を作った。
椅子に座った俺を、緑色の眼が見下ろした。
﹁⋮僕の名前、言ったっけ?﹂
﹁え﹂
﹁チャールズ。チャーリーって呼んでくれていいよ﹂
眼鏡が冷たい印象を与えるが、近くで見れば甘い顔立ちをしてい
る。まだ幼さの残る輪郭線と、そばかすの散った頬はあどけない。
こちらに来て、俺は大体の年齢なら予想できるようになっていた。
まだ二十にもなっていないだろう。学府に通っていると聞いたこと
がある。確かにカイルにはない、生真面目な雰囲気を漂わせている。
﹁チャーリーは貴人が苦手なの﹂
273
﹁キャル、ちょっと黙って﹂
﹁あら、ごめんあそばせ﹂
チャールズはむすりとして、一瞬の逡巡のあと、俺の隣に座った。
彼は照れたように首の後ろに手をやって、顔を少し俯ける。襟元か
ら見える白い首が、がっしりとしたカイルの首筋と比べあまりに細
く、兄弟でこうも違うのかと思う。体格も俺と同等か少し細いくら
いで、背は俺とあまり変わらない。
﹁⋮学府では、平民は馬鹿にされるから﹂
それで俺にも見下されていると感じたのだろうか。そう言って真
っ赤になってしまったチャールズは、どうやら相当な照れ屋らしい。
﹁実力で学府に合格したチャールズを僻んでるだけよ﹂
﹁俺もそう思いますね﹂
キャロラインが鼻を鳴らすのに俺は深く同意したが、チャールズ
は肩をわずかにすくめただけだった。少しの気まずい沈黙があって、
視線を迷わせ、チャールズが果物をひとつ手に取る。﹁これ、剥け
ばいいの?﹂とその声は、どこか嬉しそうで、俺とキャロラインは
互いに目を合わせ、思わず相好を崩した。
それから夕方も近くなった頃、居間の扉が開いた。外気が入り込
み、扉近くのテーブルについていた俺たちの足元を吹き抜ける。斜
向かいに座っていた俺とチャールズは、早く閉めろと、揃って扉の
方に目線を投げた。
274
﹁なんだ、随分仲良くなったんだな﹂
その二人分の目線を受け止め、カイルが意外そうに言う。しかし、
俺たちの様子を見て、その顔は目に見えて安らいだ。どうやら俺が
上手くやれているか、心配してくれていたらしい。
﹁あ、カイル兄様。お帰りなさい。遅かったのね﹂
﹁ああ。何をやっているんだ?﹂
外套から腕を抜きながら、カイルが俺の肩口から手元を覗き込む。
ひんやりとした冷気が首をくすぐる。俺はさりげなく身体をずらし
た。
﹁お帰り、兄さん﹂
﹁チャーリーに字、教えてもらってる﹂
﹁教えたって言ったって、読み方教えただけだけど⋮﹂
﹁いいんですよ、それで﹂
チャールズは不思議そうな顔で首を傾げたが、ふうん、と言って
本の中に再び目を落とした。
人間、習うより慣れろだ。
俺はいくつかの簡単な単語を、ガリガリと何度も書き写していた。
ひたすらに、音と文字の羅列を対応させる。覚えられるかは果たし
て不明だが、街路の看板くらいは読めるようになりたかった。不思
議言語脳のせいで、読んでいるうちにわけがわからなくなるのだが、
諦めたくはない。
カイルが卓上に溜まった紙の束を拾い上げる。俺のつたない字で、
同じ単語がつづられている。
﹁文字くらい俺が教えてやるのに﹂
275
﹁カイルはいつも忙しいじゃないですか﹂
﹁寂しかった?﹂
﹁⋮別に﹂
カイルが耳に囁いてくるのに、照れから低くぼそぼそと返す。あ、
今の言い方ちょっと不満っぽかったかもと、言い繕おうと顔を上げ
ると、逃げるように耳のすぐそばでリップ音が響いた。
おい、何すんだ。首を押さえ、そう言おうとした口を、ちゅ、と
柔らかいものが掠める。
﹁俺はお前がなかなか起きなくて、寂しかったがな﹂
﹁あ、あほか。人がいないところで言えよな、そんなこと。⋮⋮︱
ああ、そうだ。俺、いったん宿に戻ります。仕事服持ってきてない
し﹂
﹁それは、駄目だ﹂
カイルが立ち上がりかけた俺を押し止める。何でだよ、という理
由を問う言葉は発音しないうちに、喉の奥に戻される。
︱︱︱俺はこのとき、カイルのおかしなまでの強引さに気が付い
ていた。いつもならカイルは本気で嫌がっている俺に、何かを強い
ることなどなかった。なのに、
こじ開けるようにして、熱い舌が歯列を割る。唾液を流し込まれ、
飲み込めなくて溢れた分が唇を濡らした。離れようとする俺の頭を、
手の平が押さえつけてくる。
﹁!﹂
﹁リョウ⋮﹂
276
おいおい、こんなこと普通妹弟の前でやるか、⋮信じらんねえこ
いつ⋮!!
﹁⋮ぅんん、ふッぁイル⋮ぅ︱︱︱はな、せ⋮ん⋮ん﹂
手に持っていたペンが床に落ちて、かつんと音を立てた。
おとがいを持ち上げられ、天井を向く。向きを変えまさぐられる
腔内の粘膜が、淫らな摩擦に化学反応を起こす。のしかかって来る
男を押しのけようと腕に力を入れて、無我夢中で突っ張る。
﹁んー!んー!!﹂
﹁兄さん!﹂
弟チャールズの制止の声にようやく離れたカイルから、一目散に
距離を取る。慌てすぎてテーブルに肘をしたたかに打ち付け、俺は
走った激痛に悶絶した。
﹁痛ッくそ⋮カイル!﹂
﹁リョウがこっちを向かないのが悪い﹂
俺の動きを予測して殴られないよう、薄く笑いながらカイルが頭
を引く。
﹁ほんっと、おまえの思考回路、わかんない!なんなの、お前、⋮
ほんとに﹂
﹁キスくらいで大袈裟だな﹂
﹁おお、げさ?﹂
大袈裟なんかじゃない。いたいけな青少年の精神衛生上、良くな
い。そういうの、本当に良くないと思う。耳が、熱い。チャールズ
277
とキャロラインの反応が怖くて、顔が上げられない。やばい、涙出
て来た。
肘の骨からじんじんと広がる痛みに耐えつつ、にやけたカイルに
腹が立ったので脛を蹴り飛ばした。
﹁お、おい泣いてるのか?﹂
﹁⋮!馬鹿野郎!出てくる!﹂
この世界のオープンな文化は、確かに居心地がいい。一目を気に
せず男同士が外で手を握っていられる。それが認められているこの
世界は、貴重だとは思う。だが、こんなことまで普通だと言うのだ
ろうか。だとしたら、俺には手に負えない。
だがそれ以上に、嫌がっているのにやめてくれなかったカイルに、
俺は思うよりショックを受けていた。
キャパ、オーバー。
﹁駄目だと、言ったはずだ﹂
﹁放せ。この手を、放せ!﹂
俺はもしかしてという思いを強くした。カイルは俺を家の外に出
すまいとしているのだろうか。その可能性は高い。このカイルらし
からぬ強引さが、外に出ようとする俺を止めるためなのだとしたら。
﹁⋮まだ本調子じゃないだろう。外は酷い寒さだ、また肺炎になる
ぞ﹂
本当に?本当に、それだけなのか。俺を外に出すまいとしている
理由は、それだけなのか。
278
﹁なっ⋮おいっ、降ろせよ、カイル!降ろせって﹂
カイルが俺を椅子からすくい上げた。その風圧ではらりと、単語
の綴られた紙がはらりと落ちる。
﹁キャル、チャールズ。誰が来ても家に入れるな。何か訊かれたら、
俺はまだ意識の戻らない客人の看病をしていると言え。いいか、リ
ョウはまだ意識を失っている。間違っても、話せる状態だなんてこ
とは言うなよ﹂
﹁わ⋮わかった﹂
﹁リョウ、部屋に戻ろう﹂
分からないことが多すぎる。カイルは他に、俺に何を話していな
いのだろう。
﹁カイル、降ろせったら。なんだよ、何の話だよ。ちゃんと説明し
ろ!﹂
一体何が起きているんだ。
父親のことも、俺は全く何も聞いたことがなかった。亡父の形見
だという小刀を、カイルが大切にしているのを俺は知っている。そ
れはつまり、父親を大切に思っていたということで。それなのに父
親の話題が、今まで一緒にいてひとつも出なかったというのは、考
えてみればおかしな話だった。
俺が祖母のことを話題にしたくないみたいに、カイルにも自分の
中にしまっておきたい過去があるのだろうか。
やはり俺たちは、もっと話す必要があるのだろう。お互いについ
て。それはどんなに避けたくとも、避けられないところなのだ。
279
︱︱でないと、俺たちはバラバラになってしまう。
280
信じるために※
﹁こんの、脳筋!むっつりスケベ!どこ触ってんだ、やめろ腰をさ
するな撫でるな﹂
﹁危ないから暴れるな。こら、髪引っ張るなって、痛いだろう﹂
カイルは俺を軽々と肩に担いで、苦を感じさせることもない足取
りで二階へと上がっていく。長身のカイルに後ろ向きに担がれてい
るせいで、一階の床がかなり下に見える。目が眩む。どくん、と心
臓が大きく鳴って、体が揺れるたびに拍動が速くなっていく。
俺は高いところが苦手だ。ブランコでさえ怖い。カイルの階段を
上る歩みに危なげはないが、踏み外したらなどと嫌な想像ばかりが
頭の中を巡る。
﹁カイル!まじで降ろせ、落ちたら洒落にならないぞ。おいったら、
﹂
パニックになった俺は、恐怖に声を引き攣らせながら喚いた。力
なく暴れるのだが、騎士相手である。自分が175cmあるとは言
え、相手はそれよりさらに高く、体格だってがっしりしている。強
張った手をめちゃくちゃに振り回す俺を、しっかりと抱えて離さな
い。
二階の床板が視界にうつり、俺は金茶色の髪を握りしめていた拳
から力を抜いた。
そして階段を上りきったところで、俺は安堵に任せて怒鳴る。怒
鳴りついでに目についた髪の毛を、わしゃわしゃと乱暴にかき回す。
281
﹁はげちまえ!ふさふさしやがって、このっ、この!﹂
﹁降ろすから髪を放せ﹂
﹁はっ。絡まった髪が抜けないよう、せいぜいそっと降ろすんだな。
つーか早く降ろせ﹂
筋肉に覆われた立派な体躯をしているからと言って、男で毛髪を
大事にしない奴はいない。
﹁ほら﹂
﹁最初から大人しくそうしてればいいんだよ﹂
地面に足がついて、俺は不安の残滓が体から抜けていくのを感じ
た。まだ心臓がどきどきしている。短く嘆息する。カイルが俺の髪
を混ぜかえした。見ると彼は、柔和な表情でこちらを見下ろしてい
た。
﹁リョウの思わぬ苦手を発見﹂
﹁なに笑ってんだ、嫌な奴だな。人の苦手見つけてそんな楽しいか
よ﹂
そういうわけじゃないと言いつつ、またカイルが俺のうなじの辺
りの髪をくしゃくしゃにする。
﹁猫みたいな性格してるのに高い場所が苦手とは、意外だなと思っ
てな﹂
﹁俺、犬派だもん。猫ってわがままであんまり好きじゃない﹂
﹁俺は猫のほうが好きだな。天真爛漫で見ていて飽きない﹂
﹁カイルは犬っぽいよな。大型のやつ。躾は行き届いてない﹂
べろべろと顔中舐めまわして来たり、所構わず押し倒して来たり。
282
だけど愛嬌があって、憎めない。俺が好きなのは、飼い主に忠実で
利口な犬だが。
﹁躾⋮してみるか?﹂
まあ、こういう犬も、悪くない。
﹁その前に話な。きちんと説明してもらうからな﹂
﹁後じゃ、駄目か﹂
何も話し合わずに、セックスでなし崩しにしてしまうのは嫌だっ
た。けれどカイルに触れられれば、身体は訪れる淫蕩への予感で高
鳴り、思考は鈍る。
つくづく男とは、快楽に弱い生物である。
﹁躾してみるかとか言ってさ、全然そんな気ないじゃん。待てとか
言ったら、待つのかよ﹂
﹁待てないな﹂
俺はベッドに仰向けに寝転がりながら、カイルが服を脱がせてい
るのをただ見ていた。カイルは変な奴だ。何が楽しいのか、釦をひ
とつひとつ外していくのもやけに楽しそうにしているから、俺は頭
の後ろに手を組んで出来るだけ手を出さないようにしている。
283
﹁ま、俺も躾られるとは思ってないから良いけどさ。あんたを躾け
られるのって、よほどの猛獣使いだよな﹂
楽しそうにしているのを止めるのもなんだしなあ、と俺は飼い主
として相当甘い。
﹁寒くないか?﹂
﹁寒いっつうの。鳥肌立ってんの見えない?ったく、突っ込むのに
上脱がす必要あんのか﹂
﹁すぐ暖めてやる﹂
﹁⋮そういう問題じゃねえの﹂
じゃあどういう問題だと、いぶかし気に止まる手を、顎で止まる
なと先を促す。
﹁別にあんたが楽しいんなら良いんだけど、俺には何が楽しいのか
さっぱりわかんねえの﹂
﹁リョウの裸が見たいんだよ。背中の筋肉の間を汗が流れるところ
とか、乳首が尖ってくるところとか、﹂
﹁あーわかったわかった悪かった、俺が悪かった﹂
つまりはカイルの嗜好ね。
仕方がない。男は視覚情報から興奮する生き物だ。男の裸見て興
奮できるのも、言ってみれば生産的かと、俺は自分の思考が斜め上
に飛んでいるのは気づいている。
﹁敢えて言うなら、﹂
﹁言わなくていいよ﹂
﹁裸を見られて、もう少し恥じらってくれたらもっと楽しいんだが﹂
﹁だから言わなくていーって。上裸で恥ずかしがる男って、どうよ。
284
想像するこっちが恥ずかしいわ﹂
﹁ふりでもいいぞ﹂
かつてないほどしつこく積極的なカイルの要望に、俺は片眉を上
げた。なんかやっぱり、今日はカイルの様子がおかしい。
﹁なに考えてんの。なんかあった?﹂
カイルは釦を全部外し終わって、今度は下衣のベルト部分を緩め
ている。カイルの指が時折掠めるように俺自身に触れると、否応な
しにそれは反応し始める。カイルはしばらく黙り込んだままだった
が、迷いながら、口を開いた。それが俺にはひとつの決心のように
思えた。
﹁漠然と、だが﹂
﹁うん﹂
﹁お前を疑いの目で見始めてから、俺はどこかで線引きをしている。
⋮⋮だからその線を消してしまえば、お前を信じられるのではない
かと思ったんだ﹂
予想もしていなかった言葉だった。
﹁⋮そ、っか﹂
目を何度となく瞬かせる。不覚にも俺はこのとき、じわりと落ち
て、一面に染みわたるような喜びを感じた。﹁そっか﹂もう一度言
った言葉は、震えていた。心が躍る。そっと頭の下に敷いた腕を抜
いて、顔を隠した。そうでないと湧き上がる感情を抑えておけない
と思ったからだ。
285
﹁リョウは、本当に泣き虫だなあ﹂
うるさいという言葉は嗚咽に変わって、俺は静かに、雨がしとり
しとりと降り始めるように本格的に泣き始めた。
泣き虫というのは、俺にとっては忌々しい記憶を引き出す言葉だ。
憎々し気に投げつけられるその言葉に、幼い頃の俺の柔らかい心は
斬りつけられ、投げつけられた威力をそのまま受けた。成長して心
を護る術を身に着け、泣かなくなれば、可愛げがないと言われる。
そうして人当たりの良い笑顔と、丁寧な物腰を自然とするようにな
った。
思えば、人に指摘される俺の顕著な二面性は、幼少期に形成され
たものだ。俺はあの頃から、まったく変わっていない。言い換えれ
ば、俺は未だあの女に縛られている。
﹁もう、いいよ﹂
カイルは俺を包み込むように抱いて、背中を撫でている。照れ臭
さが勝って、可愛くない声が出た。
﹁落ち着いたか﹂
﹁うん﹂
﹁こっちも落ち着いたな﹂
さわりと下肢の間に収まったものを触られる。俺はぎろりとカイ
ルを睨んだ。
286
﹁スケベ﹂
﹁お、ピクンってしたぞ﹂
﹁そりゃ触られたらそうなるっつうの。やーめろ﹂
﹁スケベで結構﹂
﹁ちょ、やめろ。⋮⋮なにあんた、本性隠してたの?なんかいつも
に増してエロ臭いんだけど。いやあんたがエロいのは前からだけど、
なんつうか⋮﹂
オヤジだ。ものすごくオヤジっぽい、エロさが。
﹁好きにすることにした﹂
﹁ばか、嘘吐け。今までだって好き勝手やってきたじゃねえか、⋮
ぅわ、ちょ、さわさわすんな﹂
カイルの顔が近い。カイルは俺の耳のすぐ隣に肘をつき、覆いか
ぶさるようにして見下ろし、俺の反応を見ている。俺が感じている
ところを観察するつもりなのか、手の動きは緩慢で、服越しの接触
が一歩快感までに足りない。俺は耐え切れず快感を得ようと自分の
手を伸ばす。駄目だとその手が阻まれ、俺は眉間を歪ませ喘いだ。
﹁良い顔﹂
﹁ふざけんな、⋮ぁあくそ﹂
﹁気持ち良い?﹂
﹁︱︱︱⋮ッい、いから⋮直接、シて﹂
尻すぼみになったそれに、カイルは唇の片端を引き上げるように
して満悦そうにする。
﹁風呂は?﹂
287
﹁一回、抜いてから﹂
じゃないと、頭がおかしくなりそうだ。
﹁了解。リョウ、右脚。膝曲げて立てろ﹂
大人しくそれに従って、立てた右脚をわずかに開いた。左の脚の
上にはカイルが、俺に体重をかけないよう身体を浮かせて被さって
いる。カイルは片手で俺の下衣を器用に引き下げた。
﹁ん⋮﹂
﹁すごいことになってるぞ﹂
﹁うるさいな。あんたがそうしたんだろうが﹂
不機嫌に言うと、そうだった悪かった、と宥めるような声が降っ
て来る。ゆるゆると触られていると、すぐに臨界値は見えてくる。
腹の筋肉がうねり、ひっきりなしに漏れる声が震えた。
しかし臨界値は見えるのに、中々達せない。もっと強くだとか、
速くだとかそんなことは、まだ理性の残っている脳が口にすること
を許してくれなかった。自分の荒い呼吸音を遠くでとらえながら、
俺は目を閉じる。
﹁とろっとろだぞ。尻のほうまで垂れてる﹂
﹁実況すんな﹂
屹立の擦り上げられる感触に集中しようにも、額に感じるカイル
の熱い息と耳が細かく拾う声のざらつきが、気になって仕方がない。
もういい自分でやる、と苛立った声で言おうとしたとき、カイル
が体を動かした。目を開けると、鼻歌を歌い出しそうなほど上機嫌
288
なカイルがにんまりと笑っているのが視界の遠くにうつる。
﹁ちょっと待ってろよ﹂
耳朶にかかるその声に、俺は息を詰めた。
カイルはそのまま自分の身体を下げていって床に降りた。ぎいっ
と音がする。ベッドのマットレスがカイルの重さを失って、わずか
に高さを変える。足の間に見えるカイルがこれからしようとしてい
ることを、俺はもうすでにわかっていた。
﹁ぁ﹂
カイルの手が俺の右膝にかかり、さらに大きく広げる。左の脚は
投げ出したままで、ベッドから落ちて、マットレスの形に沿って膝
を曲げていた。
床にひざまずいているカイルから目を離すまいと、俺は肘で上半
身を持ち上げ、支えた。カイルが蠱惑的な目線で俺の身体を、下か
ら舐めるように眺める。俺は思わず身体を震わせた。
﹁蹴るなよ﹂
そう前置いたのは、俺の脚癖が悪いことを知っているからだ。
﹁ッ﹂
ゆっくりと屹立に強く押し当てられた濡れた舌に、俺は息を飲む。
手の平とはまったく異なる感触はざらりとしているが滑らかで、何
の感触にも似ていない。根元から先端までを丁寧に舐められる。と
きおり唇でキスをされるのが堪らないほど気持ちがよかった。カリ
と先端を丹念に責められ、支えていた肘から力が抜け、上半身は力
289
なくマットレスに落ちる。
﹁は⋮ん﹂
予感はしていたが、続けざまに充血した雄が口に含まれると、温
かい粘膜がそれを迎え入れ、奇しくも久しく感じていなかった種類
の快感が俺を襲った。俺は両手を口に当て、甲高く上がってしまい
そうな声をどうにか殺す。
﹁んんっ!﹂
強く吸われ、背中がしなる。臨界値までぎゅんっと飛んで、意識
も一緒に持っていかれそうになるような感覚が脳をかき乱す。
吐いた息の中にカイルの名を呼んだような気がした。
290
信じるために※︵後書き︶
2014/11/04 加筆訂正あり
291
ただ互いを求め※
そうだ。何が悪いって、暇さえあれば盛っている猿のようにセッ
クスばかりしているのが悪い。俺もなんだかんだ言って流されやす
いタイプである。
﹁ちゃんと話をするって、決めたはずだったのになあ﹂
風呂から戻ってきたカイルが、ベッドに薄着姿で寝転がっている
俺を視界に入れると、呆れたというふうに肩を落とした。暖炉の火
の具合をしゃがみ込んで確かめ、近くに転がっていた掛け布を拾う。
﹁湯冷めするぞ﹂
﹁あーうん。さんきゅ﹂
カイルは俺の上に掛け布を落とし、その横に腰を掛けた。
﹁で?話って、何のだ﹂
目を合わそうと視線を傾けてくるカイルに、唇を尖らせる。
﹁そりゃあ、色々だよ。何で外に出ちゃいけないのかとか、俺の意
識が戻ったことを誰かに知られちゃ何でまずいのかとか、⋮色々あ
るだろ﹂
﹁その話は後にしようって言わなかったか。今話したいことではな
いな﹂
﹁さっきの後は、今じゃないの?﹂
292
カイルは長く生えそろったまつ毛を伏せた。決して豊かではない
表情が、研ぎ澄まされた刀のように凪ぐ。感情を表さないその表情
は、不機嫌なときのものだ。
﹁⋮長くなる﹂
﹁いいよ﹂
俺がそういうと、カイルがじろりと、苛立った目で俺を横目に見
下ろした。
﹁俺にまだ我慢していろと?﹂
見下ろしてくるチョコレート色の瞳は、欲求不満を訴え、吹き荒
待て
れる嵐をどうにか抑え込んでいる状態だった。風呂の前に俺は一度
欲望を吐き出しているが、カイルはそうではない。それこそ
のままで、飼い主の許しを求めている犬のようだ。
﹁躾か﹂
結構いけるかも、と呟いた俺にカイルが目を剥く。焦ったように
口を開く。
﹁おい、リョウ。俺は待てないぞ﹂
﹁ってさっきも言ってたけど、現に待てている。これは、﹂
﹁やめてくれ﹂
﹁いやいや、エッケナくん、聞きたまえ。いい機会だよ。これを機
に、セックスの回数を減らそう。君も少し忍耐というものを覚えな
くてはな。空いた時間に話をしよう、そうだ、それがいい﹂
﹁リョウ⋮!﹂
293
おかしい。愉快な気持ちだった。気づけば声をたてて笑っていた。
﹁ばっかじゃねえの﹂
セックスごときで必死になっちゃって。俺とのセックスごときで。
俺は本当に嬉しかったのだ。俺を信じるために行動を起こそうと
してくれたことが。俺を信じたいと言った言葉が、口先だけでなか
ったことが。嬉しくて、嬉しくて、今なら何でもできそうな気がし
た。
カイルの腕を引っ張って顔を近づけさせる。唇を合わせようと伸
びあがると、カイルのほうから迎えに来た。始まるのは、濃密で情
熱的な接吻。
﹁⋮笑うな、リョウ﹂
唇の隙間から、くふくふと気の抜けた音が聞こえてくる。ムード
を壊すから笑うなと言われても、恋慕が煽るように心をくすぐった。
﹁むり。ふふふ﹂
﹁リョーウ﹂
カイルの無骨な剣士の手が、俺の額からこめかみを羽毛のように
優しくなぞる。注がれるまなざしが温かく、俺は口もとを緩ませた。
両手でカイルの手を取り、その手の平に口づけを落とす。
﹁いいよ﹂
俺って、なんて甘い飼い主。
でも俺に好きにやらせてくれるカイルが、誰よりも俺に甘いのか
もしれない。
294
﹁ゆっくりやる﹂
﹁うん﹂
顔中にキスが降って来る。触れるだけの可愛いキスだ。首筋にそ
れが降りてくると、俺はそのくすぐったさに首をすくめた。
﹁こら、リョウ。顔上げて﹂
﹁んっ﹂
俺のわんこは我慢強い。つくづくそう思う。太ももに押し当てら
れている熱いものが、カイルの張りつめた欲情を伝えている。しか
しカイルは愛撫をおざなりにしようともせず、俺を一段、一段と少
しずつ丁寧に昂らせようとする。
ぬるりと耳の中に舌が入り込み、ぞくぞくとしたものが腰から上
がって来た。
﹁こんな薄着して。なあ、誘ってたのか?﹂
ぴちゃぴちゃと淫猥な水音とともに、低く欲情した声が流れ込ん
でくる。それだけで、くんっと、息子が緩く勃ちあがり寝間着代わ
りのシャツの裾を押し上げた。
﹁誘ってた⋮って言ったら、どうする﹂
仰向けになっていた俺は脚でカイルの腰を挟み込み、彼の身体の
上にうつぶせに乗り上げる。尻の間にカイルの屹立を宛がって、に
やりと笑って見せた。双丘の溝に埋まった熱量が、ぐんと体積を増
す。カイルは股間での感触にある事実を見つけ、欲望に掠れた声を
出した。
295
﹁リョウ⋮おまえ、下着⋮﹂
﹁穿いてない﹂
カイルの喉仏が上下する。引き締まった首に、筋が浮いた。
﹁ちなみに、あんたが風呂入ってる間、自分の指突っ込んでほぐし
てた﹂
どこをとは言わない。だからもうヤれるよ、と囁けば、カイルは
痺れるほど熱く濡れた瞳で俺を見据える。
﹁お前はそんなことを、どこで覚えて来たんだ﹂
﹁なにそれ、しっつれー。あんたが興奮するように一生懸命考えた
のに﹂
興奮しない?と訊くと、しないわけがないだろうと、渋面を作っ
て唸るようにカイルが答えた。その苦み走った顔がとんでもなく格
好良くて、頬が紅潮する。自然と腰が揺れて、カイルを誘えるほど
気分が乗っていた。
﹁頼みがあるんだが﹂
﹁好きにしろよ。どうせエッロエロなことしたいんだろ﹂
﹁したいな﹂
﹁ならどうぞ﹂
俺がそう言うやいなや、カイルの腕が肩に伸びてくる。何をする
気かと身構える。期待半分、怖いの半分。服を脱がせたいだけだと
言われ、動揺したことを悟られまいと平然とした顔を作った。
296
﹁ああ、そうだ﹂
﹁な、なに﹂
どくん、と心臓が一際大きく脈打つ。
﹁自分で脱いで見せてくれるか﹂
﹁⋮別にいいけど﹂
そんなことかと思いつつも改めて言われると、なにやら気恥ずか
しいものがある。いったん身体を離しベッドに起き上がって釦を外
す。一方カイルは上の服とベルトだけをさっさと取っ払ってしまっ
て、もたもたと服を脱いでいる俺にじっと視線を注いだ。
指先が何故だか焦って、小さな釦を外す作業にやたらと時間がか
かる。
﹁その下は﹂
﹁なんも着てないよ﹂
﹁へえ、それはそれは﹂
よくよく考えてみれば、俺、結構恥ずかしいことしてるな。ちょ
っと前の自分の勇気というか考えなし加減を、けなしたい気分でも
あった。
﹁恥ずかしいから、あんま見んな⋮⋮⋮あっ﹂
﹁どうした﹂
﹁カイル、あんた。これか!﹂
手を止めてしまった俺をカイルが怪訝な顔で見る。
﹁これ?﹂
297
﹁これ、あんたわざとだろ。うわあぁ⋮裸見られて恥じらうって⋮
こういうこと?うーわ⋮あんた、ほんと、変態な﹂
恥ずかしい。確かにこれは恥ずかしい。この空気感というか、こ
こで俺、全裸になんの?みたいな。
﹁好きにしていいんだろう?﹂
﹁言った⋮言ったけど﹂
﹁ほら。顔隠すな﹂
﹁うわああ⋮﹂
俺、今、絶対耳まで真っ赤になってる。カイルが両手で顔を覆っ
て悶えている俺を抱き起こす。続けて、と耳の中に囁かれて心臓が
ばくばくする。
覚悟を決め大きく息を吐いた俺は、服を頭からばさりと抜き取っ
た。カイルと目なんか合わせられることがあろうはずもない。
﹁リョウ、脚、開いて﹂
﹁⋮﹂
手を後ろにつき、両足をおずおずと広げる。カイルの言うことに
逆らうこともできた。だがそうしなかったのは、俺もどこかで楽し
んでいるからだ。それと、カイルが望むことをしてあげたいという
浅薄な理由もあった。
﹁恥ずかしい恰好。自分でもわかってるか?﹂
﹁ッあんたがやらせたんだろ!﹂
﹁顔、真っ赤。恥ずかしいか﹂
﹁変態⋮﹂
﹁勃ってるぞ﹂
298
﹁なあ、もういいよ、そういうの。早く挿れろよ。じれったい﹂
後孔が疼いて仕方がない。それにこれ以上の羞恥に耐えられそう
もなかった。視線を遠くにさまよわせ、早くカイルの気が済まない
かとそればかり考えている。見られているだけで、俺自身、先端か
らとろとろと先走りが垂れているのがわかってなおさら恥ずかしい。
ぎっとベッドが軋んで俺は目を上げた。見るとカイルがベッドか
ら降りている。カイルと正面から向き合った俺は、きっと間抜けな
かおをしていただろう。
﹁脚、ベッドからこっちに下ろして﹂
﹁え、あうん﹂
あんまり動くと、後孔に入った潤滑油が外に垂れそうになる。俺
は括約筋に力を入れながらそうっと足を床につけた。
﹁ちょっと﹂
﹁え?ぇ、うわっ﹂
ぐりんとひっくり返され、俺はマットレスに顔をぶつけた。うつ
ぶせにされた俺はベッドに上半身を投げ出し、床にひざまずく体勢
にされる。気を抜いた瞬間に、体温に温められた液体が、たらりと
太腿を伝っていた。
﹁大丈夫か?﹂
﹁ッつー⋮鼻ぶつけた。何すんだいきな、りッ﹂
潤滑油の垂れた跡をカイルの指先がつ、となぞった。驚いて語尾
が跳ねあがる。
299
﹁あ、悪い﹂
﹁びっくりする、アんん⋮ぅ﹂
指が太腿を上って来て、双丘まで辿りつくのに時間はかからなか
った。足を開いて膝をついているために、奥の窄まりは隠れられて
いない。指が入り口に触れると甘い溜息が零れた。
﹁本当だ。やわらかいな﹂
﹁んっ、だ⋮から、そう⋮言った、ろ。はやく、おく⋮⋮んんんッ
!ぇ、ちょ、なんで﹂
﹁垂れてくるから﹂
湿った熱い、しかし屹立とは違う、やわらかいものが孔の入り口
にべとりと張り付いた。舌だ。カイルが鼻先を双丘の間に潜り込ま
せ、後孔と屹立の間の敏感な肌を、皺のひとつひとつを広げるよう
に、舌で擦り上げている。腰砕けになった俺の尻に、カイルの両手
指が食い込む。
﹁な、めんな⋮んんあ⋮んなとこ、き、ふぅんっ﹂
汚い。恥ずかしい。︱︱気持ちいい。
舌をすぼめるようにして孔の中を舐められ、唇で吸われ、俺はス
パークする快感にぎゅっと目を閉じマットレスに押し付けた。
﹁こっち、自分でできる?﹂
はあっはあっと荒い呼気をマットレスに吸い込ませている俺が、
カイルに両手を導かれた先は、硬くなった俺自身だった。床はあま
り汚したくないから押さえててと言われて、霞みがかった頭で何度
も頷く。もう何でもいいから、孔の奥をぐちゃぐちゃにして、疼き
300
を取ってほしかった。
﹁⋮も、カイル!﹂
﹁我慢できないのは、リョウのほうだったな﹂
からかうように言われて俺のほうの欲求不満が爆発する。はやく
ってば!と叫ぶと、背後でカイルがひそやかに笑った。
しかし訪れた快感は期待していたものとは違って。
﹁ぃや⋮ちがぅ、っぅうんッそっちじゃ、ない⋮ァあ﹂
男の柔らかくもない胸をカイルの手が覆う。それでも、とうに尖
っていた乳首は敏感に刺激をとらえ、脳を揺らした。
﹁さきっぽ、くりくりされるの、好きだろう?﹂
﹁す、き⋮ゃァん⋮ん、ん、ちくび、だめ⋮⋮ふぁ、くりくりしち
ゃ、んんぅ﹂
﹁強いのより、くすぐるくらいのが好きなんだよな﹂
﹁は⋮ん、ァ、たりない、よ⋮カイル、もっと、つよく﹂
﹁本当に?﹂
ぐりっと両乳首を捻られ、腰が魚のように跳ねた。
﹁い、ああァんっ⋮ぃや、ちがぅ、ちがくて⋮⋮ああ﹂
何か違う。強く?いや強弱の問題ではない。ああ、そうだ。疼い
ているのは腹の底だ。
後孔に熱い先端が触れたとき、えもいわれぬ期待にぶるりと体が
震えた。貪欲な孔が、屹立を飲みこもうとひくひくと動いている。
301
﹁吸い込まれそうだ⋮﹂
しっかりとほぐし潤滑油で濡らしたそこに、今にもするりと入っ
てしまいそうなモノを感じていた。
﹁カイル、カイル﹂
ぐっと押し込まれ、少しずつ入ってくる。ともすれば乱暴に押し
込めたくなるだろうそれを、ゆっくりと進めてくれるカイルは、い
つも挿入するときは苦し気な顔をしている。後背位だと、その恋人
の顔が見えない。それだけが不安で、中に感じる男を締め付けた。
﹁っく﹂
﹁ん、ぁぁアあ、もっと、おく⋮ぁ、も、はやくっぅ﹂
切ないような疼きを収めてほしくて、俺は泣き言を漏らす。
﹁だめだ、リョウ動くな⋮ッ﹂
カイルの声も切羽詰まっている。俺はしかし、そんなことは聞い
ていられない。自分のもどかしさを解消することしか頭になかった。
腰は勝手に動き、中を満たしている屹立でイイところを探る。
﹁はっはっぁぅ、カイル、もっと﹂
﹁リョウっ⋮くそ﹂
﹁んゃあああああッん!!﹂
グリッと擦られた一点に、俺は悲鳴を上げた。
﹁ここか﹂
302
﹁んっん、ぁう、あんぁああ、ぃゃだ、あたま、おかしくなりそっ﹂
﹁ちゃんと、前押さえてろ⋮⋮ぐッ﹂
一点を重点的に擦られ、突き上げられる。ベッドはぎしぎしと激
しく揺らされ、それに合わせて俺の身体も揺れた。腰と腰がぶつか
る音と、ぐちゅん、ぶちゅん、という聞いていられないほどの卑猥
な音が混ざって耳を犯す。
俺は必死にベッドのカバーに爪を立て、しがみついて、おちてい
きそうな自分をなんとか支える。
﹁イく⋮カイ、⋮⋮ルっ⋮んぁあ﹂
﹁ッ﹂
途端に全身の肌が粟立ち、肉壁が激しく波打ち、きゅうっと収縮
した。瞼の裏に浮かんだのは真っ白い光で、その眩しさを遮るもの
は何もなかった。俺のすぐ後に中に熱いものが飛び散り、達した後
の敏感な身体に追い打ちをかける。
全力疾走で駆け抜けたあとのような心地の良い疲労と達成感で、
俺たちは二人で重なり合いながら、しばらく床に転がっていた。
そのあと、どちらともなく始まったキスは言葉もなく、ただ獣の
ように互いを求めた。暖炉の火が燃えている間は、互いの体温で寒
さを感じることはない。
まだ時間はあるようだ。
303
︻過去︼14年前︱事の起こり
︱︱︱︱14年前。
その年、ビデ王国は長く続いたヘンウェル王国との国交断絶宣言
を撤回し、条約を結んだ。ビデ王国がヘンウェル王国の管理的指揮
下に置かれ、実質は属国のような扱いになるその条約内容に、反発
を覚えるものは今なお多い。
しかしその恩恵が多いのも、また確かだった。
ヘンウェル王国は、彼の故郷ビデ王国とは違って寒暖差が緩やか
だ。
青年は中央庁の外廊下を夏の暑さをものともせず、鼻歌まじりに
走っていた。捲られた袖の下から見える、剥きだしの褐色の肌が汗
に濡れ、艶やかに光る。大きくうねる黒い髪が風に揺れ、ふわふわ
と上下した。その長めの前髪の下から、悪戯っぽい黒い瞳がのぞい
ている。
捲られた袖には、四本の線が刺繍されていた。
﹁親父!﹂
廊下の先の空中テラスに幾人かの男たちを見つけ、彼は笑顔を顔
いっぱいに広げ叫んだ。父親の姿はすぐに分かった。明るい色彩を
持つ他のヘンウェル人の男たちとは明らかに、父は容姿が異なって
いるからだ。
息子に気が付いた父は無言で頷いて見せ、少し待っていろという
ように手の平を見せた。そして話しかけられるまま、話に戻る。
彼は、それ以上は声を出さず、父親たちの邪魔にならないように
304
そっとテラスに足を踏み入れる。すると、父が彼を振り向いた。
﹁ケネスくーん﹂
呼ばれて見ると、父の隣の男が手をこっちへ来いと振っている。
ケネスはその大柄な男を知っていた。
﹁あ、ポラルさん!﹂
﹁おいでおいで、菓子があるよ﹂
﹁ポラル。ケネスはもう23なんだが﹂
父キョースケ・ツティア・ローランがポラル・ド・ネイに片眉を
上げた。ポラルは驚いて禿頭に手をやり、ついでに、かつての髪を
思うように撫でつける。彼がついこの間、後退を始めた髪を剃り上
げたことは記憶に新しい。潔さを良しとするポラルらしいといえば
らしかった。
﹁それは、私もキョースケも年を取るわけだなあ。今年で50歳だ
もんなあ⋮。そうだキョースケ。お前さん、少し腹が出て来たかい
?﹂
﹁それはお前のほうだろう。そろそろ武闘派気取りはやめて、現場
に出るのはやめたほうがいい。五番隊もお前みたいなぼけじじいの
お守りばかりはやってられんだろう﹂
﹁ほーう。私の記憶によると、お前さんも私と同じ歳だと思ってい
たが、ねッ﹂
ポラルの方も負けてはいない。キョースケの若く見える顔を、ぺ
ーんと叩く。一瞬で空気が凍りついた。
﹁ちょ、ちょっと、キョースケさん!駄目ですよ、喧嘩で魔導具は
305
持ち出さないでください!隊長も、挑発しない!﹂
﹁もー親父!﹂
慌てて止めに入ったのは、第五番隊副隊長のハロルド・エッケナ
だ。
まるで子供の喧嘩である。50にもなって、第四番隊の筆頭研究
員である父キョースケと第五番隊長ポラル・ド・ネイはやたらと仲
が良い。仕事だけでなく、プライベートでも相棒のように一緒に動
いている。そのため家族ぐるみで仲が良く、ネイ家には父と二人で
よく招かれた。三年前にネイ家に生まれた双子も、ケネスにはよく
懐いている。
しかし喧嘩が始まるのが早ければ、終わるのも早い。すぐにケロ
リとして二人して、これから行われる術式実験について話し始める。
疲れた様子で、ハロルド・エッケナがケネスに微笑みかけた。
﹁やあ、ケネス。元気だった?久しぶりだね﹂
・・
ケネスはその穏やかな口調に誘われるように、笑顔を浮かべる。
はいっ、と元気に答え、ハロルドに笑われる。
ハロルド・エッケナは優秀な人で、齢26にして、あの第五番隊
副隊長の座に就いたのだと言う。配属されるのも難しいと言われる
第五番隊ゆえに、それは前代未聞の事態だったらしい。容姿も整っ
ており、43歳の今なお、その容色は衰えていない。しかし非常な
愛妻家で、今や五児の父である。
﹁ハロルドさんは、今日は非番ですか?私服は初めて見ました﹂
﹁そうなんだよ。しかし今日は一応ね、非常の事態に備えて配置に
就くことになっているんだ。後で団服に着替えるよ。ケネスも今日
は、仕事は休みかい?﹂
306
﹁はい。第四番隊員と言っても下っ端ですからね、僕は。本当は立
ち入り禁止されている身分です﹂
﹁でもこうして来ているってことは、やっぱり?﹂
﹁ええ、世紀の大発見の瞬間を見逃すわけにはいきませんから。家
族枠でこっそり﹂
ケネスは照れて頭をかいた。
﹁実は私も、息子をひとり連れてきているんだよ。家族枠で入れて
くれってね。副隊長権限で無理やり押し込んでしまったよ﹂
小さな声でそう言って、ハロルドがウインクをする。
﹁うちなんか、ラシュ以外は一家総出で来てますよ。ちょっと恥ず
かしいです﹂
﹁いいじゃないか、お父上の術式実験だ。見る権利がある。ラシュ
は来ないのかい?﹂
﹁昨夜父と口喧嘩したみたいで。絶対行かないって。⋮最近、あい
つ反抗期なんですよ。ハロルドさんのところはどうでした?﹂
﹁うーん、エメットのときは反抗期らしい反抗期があったが、カイ
ルはないなあ﹂
幸いなことにね、と破顔一笑。エッケナ家次男のカイルは、ちょ
うどケネスの末の弟と同年代なのだ。
﹁今日来てるのって﹂
﹁うん。カイルだよ。何でも、五番隊に入りたいらしくてね。仕事
ぶりを見たいんだと﹂
﹁ラシュもカイルが来るって知っていたら、来たがったかもしれな
いなあ﹂
307
父親の後を追うように才能を発揮し始めたカイル・エッケナを、
ケネスの末弟のラシュは敬愛しているのだ。カイル・エッケナは今
14歳。騎士学校入学が許される年齢には達していないが、既に騎
士見習いとして訓練を開始したらしい。ラシュが興奮して、我が事
のように自慢していたのを覚えている。
﹁やはりここにいたか﹂
﹁ハロルド!﹂
野太い声がハロルド・エッケナを呼ばわった。第六番隊副隊長ナ
ウマン。その後ろから悠然と歩いてくるのは、団服を肩にひっかけ
襟元を崩した長身の男だ。そこまで身長がない、がっちりとした体
型のナウマンが隣にいるからか、男の特異な身長は目立った。
﹁どうした、ナウマン。バチェラーまで﹂
﹁配置確認会議に、第五番隊の隊長も副隊長もいないのでな。仕方
がなく迎えに来たというわけだ﹂
非難の色をちらりとのぞかせ、警備を担う第六番隊副隊長ナウマ
ンは肩をすくめる。
﹁バチェラーは?珍しいじゃないか、お前が中央まで来るなんて﹂
﹁隊長殿のお命じなのだから仕方あるまい。今日は可愛い恋人とベ
ッドの中で睦み合っている予定だったのだがな。おかげで逃げられ
てしまったよ﹂
﹁それは残念だったな﹂
﹁まあ今日は今日で、新しい恋人を探すさ﹂
308
ゆっくりと唇の端を持ち上げ、バチェラーと呼ばれた長身の男は、
ケネスに意味ありげな視線を向けた。高い鼻梁の脇から、鋭い猛禽
の目が獲物に狙いを定めたようでもある。
﹁ビデ人か﹂
ナウマンが口もとをきゅっと引き締める。第六番副隊長のビデ人
嫌いは有名であった。ナウマンが近づいてきたときに、ケネスは思
わずハロルドの後ろに隠れていた。
二人の男の、決して気持ちのいいわけではない視線を浴び、ケネ
スは既に帰りたい気持ちになっていた。苦い味が口に広がる。
ハロルドはそんな二人の態度にむっとして、鋭く言った。ハロル
ド・エッケナは親ビデ派でもある。ビデ人を軽んじる文化が許せな
いのだろう。
﹁控えろ。キョースケ・ツティア・ローランのご子息だ﹂
﹁ほう、あまり似ていないな。ビデ人の色が濃く出ている﹂
容姿から言えば確かに、ケネスは父には似ていなかった。
三人兄弟の内真ん中の弟以外はビデ人の母似で、濃褐色の肌を持
っていた。真ん中の弟スグルは父に似て、黄味がかったクリーム色
の肌をしている。
﹁いや、目は確かに似ている。彼の目だな﹂
バチェラーの声に色香が混じる。吸い込まれそうだ。そう囁く彼
の鋭利な視線に、ケネスは串刺しにされたような気がした。
﹁確かにな。その団服⋮第四番隊か。頭の出来も父親に似たらしい﹂
309
﹁名前は?﹂
ケネスはたじたじとなって、小さな声で答える。
﹁ケネス⋮ケネス・ツティア・ローランです﹂
﹁覚えておこう。私の名はバチェラー・イザルだ﹂
バチェラー・イザル。
鋭い目は微笑むと途端に柔らかくなり、愛らしい雰囲気をたたえ
る。ケネスはとくりと心臓から血流が押し出されるのを感じた。
﹁私はナウマンだ。そう小動物のように怯えられると、さしもの私
も心が痛む。緊張するな﹂
﹁ナウマンは反ビデ派だが、実際の所、彼の奥方は生粋のビデ人だ。
完全に尻に敷かれているがな﹂
っくく、と笑いをもらすバチェラーを、そこはかとなく顔を赤く
したナウマンが蹴飛ばして言う。
﹁貴殿こそ、私の前で純粋な青年をたらしこむのはやめて頂こうか。
捕縛するぞ﹂
第六番隊の腕章を誇示するナウマンに、バチェラーがすくりと腰
を伸ばした。その身長差、歴然である。
﹁捕縛してその後、尋問、監禁は我ら第七番隊の仕事だということ
をお忘れか?ナウマン第六番隊副隊長﹂
﹁現行処罰は我々第六番隊に任されている。貴殿らの任務は、犯罪
・・
組織員に限定されるだろうに。まさか、それこそ、己が任務範囲を
忘れていたとは言うまいな?第七番隊次期副隊長殿﹂
310
ケネスがバチェラーとナウマンの応酬を、目を白黒させて見てい
ると、その脇でハロルド・エッケナが疲労を感じさせる溜息を吐い
た。しかし、その表情は、数時間後に行われる﹁転移術式﹂最終実
験への期待で、どこか明るく輝いている。
彼ら第五番隊は、第四番隊に常に寄り添ってきた。そのため、喜
びもひとしおなのだろう。
誰もが期待していた。
夢とさえ思われていた﹁転移術式﹂の最終実験は、ヘンウェル国
内外で耳目を集めている。その中でも、筆頭術者がビデ王国出身者
であるということは、失われたビデ人の誉れと尊厳を取り戻すも同
然であった。
ヘンウェル王国の技術力と、ビデ王国の豊かな魔導石産出が合わ
さって、初めてできる技だ。この共同実験が成功すれば、両国の良
好な関係に大きな影響を与えることだろう。
そう、思っていた。誰もが。
誰が予想しただろう、このようなことになろうとは。
311
︻過去︼14年前︱惨劇︱
ヘンウェル王国内で最も高度な術式実験を行っている、ヘンウェ
ル王国騎士団﹃第四番隊﹄には秘密が多い。国内外から優秀な研究
員が集う、﹃中央庁実験棟﹄。そこに集められた膨大な量の術式と
資料は国家機密であり、その警備を担うのが特殊部隊とも呼ばれる
﹃第五番隊﹄である。
﹃第四番隊﹄と﹃第五番隊﹄。彼らの関係は密接だ。﹃第五番隊﹄
の卓越した魔力制御能力に人々は、﹃中央庁実験棟﹄では人体実験
も行われているのだと噂した。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−
﹁これは⋮でかいな⋮⋮⋮﹂
バチェラー・イザルが感嘆の声を上げるのを、ケネスは少し誇ら
しい気持ちで聞く。採光のために、高い天井と壁の一部はガラス張
りになっていた。そしてその広間の中央にワイヤーで吊られ、空中
に浮いた巨大な魔導石が、透明な光を一面に注いでいる。
中央庁実験棟13階。二人はその中二階のケネスはこれほどに美
しい光景を見たことがない。
ビデ山の上質な大量の魔導石を炉で溶かし固めた、この天然の魔
導石は、全長5mほどもある。
﹁バチェラーさんは第七番隊ですよね。何かの任務なんですか?﹂
カンカンと金属製の階段に靴音を響かせながら体をひねり、ケネ
312
スは後ろのバチェラーを見上げた。しかし
﹁あー、まあ⋮な﹂
と、バチェラーの歯切れは悪い。
それもそうか、とケネスは思う。バチェラーの所属する第七番隊
は、つい数か月前まで対立関係にあったビデ王国の、対外戦力とし
ての位置づけだ。言ってみれば、ヘンウェル王国に仇するビデ王国
至上主義者を、片っ端から牢屋にぶちこむための隊である。
ケネスはビデ人だ。気に障ると思ったのだろう。ケネスは努めて、
何でもないふうな様子を装った。
﹁何か、起こるんですか?﹂
この実験は、両国の友好を象徴するかのような、初の共同実験だ。
両国の友好を望まない組織に狙われる可能性は十分にあった。
﹁わからない。待機したまま終わるのが一番良いのだがな⋮﹂
出動する機会がなければ良い。
好戦的な第七番隊の中で、バチェラーは穏健派らしい。
﹁あ、父です。あそこ!﹂
巨大な魔導石の下に、術式陣の文様が細かく描きこまれている。
黒い文字にも見えるが、その実、文様の文字は血によるものだ。
キョースケ・ツティア・ローランはその術式陣の中央に、第五番
隊の隊長と副隊長、それにナウマンを伴って立っていた。
﹁おっと、危ないぞ﹂
313
興奮して階段を踏み外しそうになったケネスの腕を、上段に立っ
ていたバチェラーが捕まえた。
﹁す、すいません﹂
﹁いや。それにしても軽いな。ちゃんと食べているのか?研究に没
頭するのも良いが、きちんと食べないと大きくなれないぞ﹂
﹁⋮ちゃんと食べてますよ﹂
子どもを扱うような言葉にいささかむっとして、バチェラーの上
背のある男らしい体をねめつける。バチェラーが頭上でふっと笑み
を漏らした。
﹁そうか、すまん。自分が無駄に大きいせいで、周りが小さく見え
てしまってな。許せ、悪気はない﹂
﹁え、あ⋮いえ﹂
﹁ああ、ほら。ハロルドの倅がいる。知り合いではなかったかな?﹂
視線を階下に戻すと、金茶の髪をした少年が父親に駆け寄るとこ
ろであった。カイル・エッケナはその年頃の少年よりも、いくらか
背が高い。ひょっとすると、隣に立てばケネスと同じくらいの身長
はあるだろうか。
﹁ええ。きっと観覧席でじっとしていられなかったんでしょうね﹂
﹁それはそうだろう。14歳の少年にガラスの向こうで大人しくし
ていろだなんて、土台無理な話だ。君でさえ大人しく座っていられ
ないのだから﹂
﹁からかわないで下さいよ﹂
からかうバチェラーから、むすりとして顔を背ける。バチェラー
314
はにやにやと、なおもその鷲鼻をケネスに差し向けてくる。
﹁いいのか?戻らなくても、ん?﹂
﹁僕はいいんですよ。見てください、あの術式陣の文様﹂
巨大魔導石下の術式を指さすと、バチェラーが高い鼻に不快気に
皺を寄せた。
﹁血文字なんだろう?しかもハロルドまで血を提供したって言うじ
ゃないか。ああいう気持ちの悪いことをするから、私は中央が嫌い
なんだ﹂
﹁展開媒体である魔導石に直接術式を刻めないから、仕方がないん
ですよ。ハロルドさんは魔力保有値が抜群に高いから、父が頼み込
んだらしいです﹂
﹁あれだけのものを描くんだ。相当量が必要だったろうな﹂
血を抜き取るのにどれだけの時間がかかったのか、と怖気を奮っ
たように二の腕をさする。ケネスは苦笑した。第四番隊にいるから
もう何も感じないが、一般の人の反応としてはこれが当たり前なの
かもしれない。
﹁話を戻しますけど、あの術式陣、古代ビデ語なんです。あれを解
読できるのは、もうグロクツ地方の古い村長と父しかいません﹂
﹁そうなのか﹂
﹁僕はその継承のために、近くまで寄っていいとお許しが出たんで
すよ。だから、僕はいいんですよ、大人しくしていなくっても﹂
言いたかったのは最後の部分だけだったのだが、思うよりバチェ
ラーは感心しているようだった。それが、ケネスにはなんだかくす
ぐったい。
315
少しは認めてくれただろうか。そう考えて、その思考に至った自
分にケネスは赤面した。
﹁始まるみたいだぞ﹂
ハロルドの息子が追い払われているな、とバチェラーがおかしそ
うに言った。
慌て見ると、その通りだった。ついに、﹁転移術式﹂の最終実験
が始まろうとしている。カイル・エッケナがポラル・ド・ネイに抱
えられて文様の外に追い払われていた。ハロルドは息子に手を振り、
術式の傍らに立つ。術式陣からは術者キョースケ・ツティア・ロー
ラン以外の研究員が退き、そこはまるで、父キョースケのひとり舞
台だった。
成功すれば、キョースケの姿は術式陣内から消え、任意の転移座
標に現れるはずだ。
今まで、犬や牛などが転移したところは何度か見たことがあった。
もちろん、父のお蔭で見ることが出来たのだが。しかし人体での実
験はこれが初めてだ。計算上は、何の問題もない。上手くいかない
はずがない。
︱︱︱︱だからこその最終実験だった。
父と、ハロルド、他にも魔力保有値の高い協力者たちの血で練ら
れた術式が、発動する。術式発動の際の微かな空気の震えや緊張が、
その場にいるすべてに伝わる。
︱︱︱︱︱︱︱ついに。
皆が息を飲む。
︱︱︱何の問題もなかった。上手くいかないはずがなかった。
316
なのに、何故。
そこで何が起きたのか、すぐに把握できた者は誰一人としていな
かった。凄まじい爆音と、建物を、大地を震わせ破壊する、莫大な
量の魔力の一瞬の放出。それが波動となって、ガラスを木端微塵に
吹き飛ばす。第五、六番隊の物理結界がなければ、その場にいた全
員の命はなかっただろう。
悲鳴、怒号、そして苦悶の声。
目に映るのは、赤、赤、赤。そして、赤だ。
自分の声が聞こえなかった。
視界が曇るのは、粉塵か、それとも止めどなく溢れる涙か。
父の名を叫んだ。しかし声は返ってこない。血に濡れた魔導石か
ら赤が滴る。その下で術式を発動した術者の姿は、消えていた。否、
その表現は正確ではない。
第四番隊に配属されるほどの知識があることを、この時ほど悔や
んだことはない。
ケネスの脳は簡単に答えをはじき出した。
﹁父上っ!ちちうえ⋮ッ!うわぁあああああああああああああああ
ああッ!!!﹂
吐しゃ物と血とで汚れた床に、金茶の髪の少年が崩れるのを、視
界の端にとらえる。
術式に編み込まれた魔力だけでは、発動した魔力の放出量に間に
合わなかったのだ。そしてさらなる魔力を欲した転移術式は、魔力
317
のつながりを辿り、血の持ち主に魔力の源泉を貪欲に求め、︱︱︱
︱︱︱
魔力がこの世に形を留めるには器がいる。
しかしいらなくなった器は、器でしかない。
血と肉と、それからなんだ。
術式の文様は、はじめからなかったかのように舞台の上から消え
ていた。そう思ったのは、その術式をおびただしい量の血と肉が覆
っていたからだ。
胃の中身がせり上がる。
かつて父だったモノは、かつてハロルド・エッケナであったモノ
は、もはや原型を留めていない。
ケネスは力なくその場に膝をついた。血の、海の中に。
ああ、人の、むせび泣く声が聞こえる。
確かに全員にわかるのは、﹁転移術式﹂が転移すべきものを失い、
術者、血の提供者もろともに、死に失せた。この簡単な答えだけだ
った。
天から血が降った。これは必ずしも単なる憶測から来る誇張表現
ではない。中央庁実験棟の13階から、ガラスと血が、地に降り注
いだところを目撃した人々は、確かにいる。その凄惨な光景に、彼
らが言葉を失った。ただそれだけだ。
以来、13階は封鎖されている。﹁転移術式﹂は禁忌とされ、研
究は中止された。有能な魔力保持者のことごとくが命を落としたこ
318
の事件は、ヘンウェル王国に大きな傷をもたらした。第四番隊は事
実上力を失い、それに伴い第五番隊も第四番隊とともに歩む道から
その足を下ろし、そうして事件は幕を閉じたのだ。
14年後。この事件をなぞるかのように第五番隊の高魔力保有者
が殺される事件が起こり、幕が再び開けたとき、怒りと悲しみがも
う一度溢れだす。
舌を切り取られ喉の動脈から血が抜き取られた拷問の跡の残る死
体を見て、彼らが14年前のあの事件を思い出すのは容易かった。
しかし14年前とは明らかに違うことがある。
それは、人の意志によって幕が開けられたということだ。
事件は再び起こった。しかし今度は、起こした人物がいる。
幕はまだ開いたまま、その惨劇の跡を隠そうとはしない。
319
前夜※
段々と、カイルが荒れていくのがわかった。
追い詰められた獣のように、すさんだ眼を血走らせ、部屋の中を
うろうろと歩き回る。魔力探知をするときのように、集中するため
に何時間でも目を閉じ、思わぬ結果に怒りを爆発させた。誰に向か
うでもない罵り声には、絶望が、焦燥が、見え隠れする。そういう
日は決まって、失うことを恐れるかのように、俺をかき抱いた。
俺が雪の中で血に手を濡らしたあの夜から、とうに一週間が過ぎ
ている。
﹁ァっぅうん⋮も、⋮やめ、んんッ⋮⋮はぁんッ!カ、ィる⋮ぅ⋮
ぁ﹂
カイルは何も語ろうとしない。﹁後で﹂﹁また今度﹂と話をさら
に先延ばしにする様子を見て、俺はようやく、カイルが俺に何も語
る気がないのだということを悟った。
執拗なまでの愛撫に、嫌と言うほど啼かされる。異常。そう。最
近のカイルの様子は異常だ。逃がしはしないとでも言うかのように、
俺が気を失うまで攻めたてる。気が付けばまた始まるセックス。
許してと、何度請うただろう。
ベッドに縛り付けられるような生活は、ここ数日続いている。
﹁いなくなるな、俺の前から⋮もうあんな気持ちは嫌なんだ﹂
﹁いなく、ならねえよ。ここに⋮ぁんン⋮俺はここ、に⋮いるだろ﹂
320
俺はエッケナ邸を外から眺めたことがない。俺はあの夜からずっ
と、エッケナ邸の外には出ていないからだ。
﹁目が覚めたらお前がベッドにいなくて、靴はあるのに、お前の魔
力は部屋の中にすらなかった﹂
カイルの肉棒が俺の中を占領している。どちらのともわからない
白濁が内腿を汚し、ゆるゆるとカイルが腰を動かす度に、赤面する
ような水音が客室を満たした。
﹁⋮っ、ぁ⋮ぅ、は﹂
まぶたの縁を乗り越えた潮がこめかみを濡らし、シーツにはたは
たと落ちる。与えられる絶え間ない快楽から逃れようと、捻った上
半身がマットレスにしがみつき、シーツは乱れ俺の顔の横で布地が
たまっている。俺はそこに額を押し付けて、熱い息を逃がす。
﹁宿の階段を駆け下りる途中、何度も馬鹿な自分を罵った。何で五
階なんかに部屋を取ったのか、何でもっと部屋に結界をしっかり張
っていなかったのか⋮⋮ッぐ﹂
カイルの、俺の脇についた腕がかくんと折れ、汗に濡れた髪先か
ら滴が飛んだ。そして腹の奥で放たれる精。その熱さにまた絶頂の
兆しが訪れ、俺は悲鳴を上げた。
﹁ああっ⋮カ、イル⋮!もう、無理⋮くるし⋮⋮ぬいて﹂
﹁⋮何故、もっとしっかり、お前を抱いていなかったのか﹂
﹁だめ⋮イく⋮⋮ぅあ、あ⋮ふッあン﹂
321
ぎゅうっと体を丸め、足の間にあるカイルの腰を両足で締め付け
た。屹立がカイルの腹を滑り先端が擦られて、鈍痛のようなぐずぐ
ずとした快感が腹にはじける。呼吸もままならず苦しさにシーツを
両指で掻いた。
﹁いなくなるな、俺のそばにずっといろ﹂
頬や額、耳の中に落とされるキスが降りてきて、唇が赤く立ち上
がった胸の突起を含む。赤く腫れあがったそれは神経そのまま剥き
出しになってしまっているかのように、刺激を幾倍にもして脳に伝
えた。スパークする刺激が、痛いほど気持ちが良い。
しかし、なかなか終わらない絶頂の最中にそれをやられると、息
を吐く間もなく押し寄せる快楽の波は苦しいだけだ。
﹁やめっ⋮やめ⋮ァアッ!ひ、ぅ、なめんな⋮⋮ひッ⋮くっぅ⋮﹂
唾液にまみれた乳首がぬるりぬるりと、カイルの合わさった唇か
ら逃れるたび、嗚咽とも喘ぎ声とも定まらぬ、子犬が泣くような声
が飛び出た。
ちゅぱちゅぱとわざと卑猥な音を立てて、カイルが俺を昂らせよ
うとしているのはわかっている。なのに俺はそんなカイルの策にま
んまと嵌まって、恥ずかしいやら悔しいやらで頬を火照らせる。
﹁気持ちいいか?リョウは本当に、ここが好きだな﹂
﹁も、ゆるして⋮ひゃン⋮ぅ、ぁん、あ、は⋮ン﹂
﹁中がひくひく締め付けてくるぞ﹂
﹁ぁあア、だ、め⋮だめだ⋮歯、たてんな⋮ぇ、やめろ、ひっぱん
⋮ンああっ!﹂
おもむろに歯で挟まれた乳首が強く引っ張られ、俺は痛みに混じ
322
る圧倒的な快感に腰を跳ね上げた。
そして同時に始まる、もう一方の乳首への愛撫。交互にぎゅ、ぎ
ゅ、と引っ張られ、強く噛みつかれて、ぞわぞわとまたあの感じが
腹の中をくすぐる。
﹁リョウ﹂
切羽詰まったような声でカイルが呼ぶ。
俺はこの声に、弱い。
朦朧とした頭の中がさらに揺れた。中を固いものが抉る。そして
それきり、カイルの動きが止まった。口から唾液が零れる。気づけ
ば腹の底の熱を取ってほしくて、自分から腰を押し付け揺すってい
た。はしたない声がとめどなく溢れる。
泣いていた。カイルは恍惚と目を閉じ、俺に覆いかぶさる姿勢の
まま動きを止めている。自分から快感を取りいかないといけない状
況に、俺は涙を流して強請る。頭の中はパニック状態だ。
﹁うごけ、よぉ⋮⋮はやくっ⋮カイルッ﹂
なんで動かないんだ。
﹁っ﹂
﹁タイミングっわりぃんだ⋮よ⋮﹂
俺が動いてほしくないときには執拗に中を擦り上げるくせに、絶
頂の一歩手前で、もどかしくて仕方がないときに限って、カイルは
動いてくれない。
﹁は﹂
323
目を閉じていたカイルが唇を歪ませ、耐え切れず鮮やかに笑うの
を見て、こいつは意地悪をしているのだとわかった。
ムカつくムカつくムカつく!
﹁っくそ⋮⋮﹂
仕方なく腰を持ち上げる。背中と足の裏の三点で体重を支え、尻
に力を入れそのまま腰を引いた。全く萎えていない怒張が肉壁にず
ぞぞっと擦れて、その気持ち良さに首を反らして息を吐く。ついで
にキュンと尻を締め、中の怒張を可愛がる。すると笑みに弧を描い
ていたカイルの唇が一文字に引かれる。その唇から苦しそうな声が
漏れた。
﹁リョ、ウ⋮﹂
﹁は⋮ざまあ、みや⋮がれ﹂
二人とも息も絶え絶えだ。
するとカイルが瞼を上げ、俺を鋭く睨んだ。ひくっと息を飲む。
﹁覚悟しろよ﹂と耳元で囁かれ、ぬぷっと屹立が浅いところまで抜
かれたと思ったら、視界が反転していた。
ちょうどイイところに太い部分が当たっていて、ひっくり返され
た身体の重さでずりりりっと擦られる感触に、俺は身体をわななか
せた。
ぐちゅんっと一際大きな音が響き、肉棒が奥まで押し込まれた。
うつぶせにされた俺は悲鳴を上げた。
﹁その、強気な顔を見ると、⋮屈服させたくなる⋮⋮あんまり、煽
るなっ﹂
﹁く、っそ⋮このへんたい⋮っ﹂
﹁煽るなと、言っているだろう!﹂
324
ぐんと怒張の質量が増し、奥を抉り打ち付ける腰が速くなる。背
中にぽたぽたと落ちてくるのはカイルの汗だ。
俺も自分の好きなところに当たるように位置を調節し、組んだ腕
に頭を乗せて、揺すられる身体をその場に押し止める。
﹁ぅ、⋮ふ、⋮ふ、ん⋮ぅ﹂
伸びあがったカイルが唇を重ね、舌で口内をまさぐった。上顎の
凹凸を厚い舌がぬるりと舐め、俺の舌に絡まる。
﹁⋮リョウ⋮い、け﹂
欲情しきったカイルの濡れた目が俺を捉え、俺に命ずる。
﹁ッぁあ﹂
﹁⋮は⋮﹂
果てたのは同時だった。
背中にカイルが倒れ込む。ずしりとした重さで息が上手くできな
い。呼吸を乱しながらどうにかその下から抜け出すと、カイルの長
い腕が巻き付いてくる。引き寄せられて腕の中に閉じ込められて、
俺はしばらくのつもりで瞼を下ろした。
少しの間うとうとしていたが、動きたくない身体に鞭打って身体
を起こす。見るとカイルは眠っていた。男らしい凛とした眉が顰め
られ、濃い無精ひげが顎のラインを覆っている。頬ずりされるとち
くちくして痛いだけだが、見ているぶんには格好いいと思う。
﹁ちゃんと、俺を見ろよ﹂
325
指先で滑らかな頬をなぞる。
愛しい。この男が愛しい。だから頑なに口を閉ざされて、心まで
閉ざされたようで、ただ悲しかった。俺の手は、どうしたらこの男
の心に届くのだろうか。俺はどうしたらいい。
あんたは何をそんなに焦っているんだ。
思う。ひょっとして俺たちには、それほど時間が残されていない
のか。
その懸念は間もなく、現実のものとなる。
未明。冬のしんとした暗さが、えもいわれぬ不安を掻き立てた。
︱︱︱︱朝が近い。
326
行くなと引きとめる声は
﹁帰ってちょうだい。家の中には誰も入れるなと言われているの﹂
﹁それは俺もなの?キャロライン﹂
﹁⋮誰でもよ﹂
曇り空を背景にして、背の高いシモン・ココルズがキャロライン
を見下ろす。
エッケナ邸の玄関先だった。次兄の部下であるココルズを無下に
することもできず、キャロラインは玄関扉を閉めることができない
でいた。
﹁キャロライン⋮﹂
﹁そんな声を出しても駄目よ、ココ﹂
否。強く言うことができないのは、ココルズが次兄カイルの部下
だからというだけではない。キャロラインはこの自分と歳の近い騎
士のことが好きだった。優しくて、いつも見かけると明るく挨拶を
してくれる。男慣れしていないキャロラインが恋に落ちるには、そ
れで十分だった。
﹁知っているんだ、あの人はもう意識が戻っているんだろう?﹂
﹁いいえ﹂
﹁頑固だね﹂
﹁だって本当のことだもの﹂
﹁隠したって無駄だよ。今日付けで逮捕状が出されたんだ。第七番
隊が来て、あの人は連行されることになるだろうな。カイルさんだ
ってどうかなあ、庇っていたってことが分かれば罪に問われること
327
になるよ﹂
﹁じゃあ、あなたはそれを待っていればいいじゃないの。⋮もう帰
って﹂
時間はまだ早い。街が起き始める時間帯だ。ココルズの声は誰に
聞かせたいのか次第に大きくなり、近所の目も気になった。
無理やりにでも扉を閉めようとすると、ココルズの大きな手がそ
れを阻む。
﹁あの人と話さえさせてくれればいいんだ、キャロライン。頼むよ﹂
﹁ココ。やめて、扉から手を離して﹂
﹁俺の仲間が、あの人の前で死んでたんだよ!﹂
とどろくような大声に、キャロラインはびくりと体を震わせた。
意識せずとも、頑なに扉を引いていた手から力が抜ける。
﹁⋮何よ、それ﹂
もしかしたら兄さんの恋人、とんでもない罪人なのかもしれない
よ。
弟のチャールズが何気なく言った言葉は、もう自分の中で否定で
きていた。あんな人が、犯罪者なわけがない。
﹁殺されたのは第五番隊の隊員だ。目玉や内臓、舌、それに身体中
の血液が抜かれていたんだ。その前であの人が、体中を血で濡らし
て立ってたって﹂
﹁⋮何かの間違いでしょう。ねえ、お願いだから帰ってちょうだい。
朝の支度で忙しいの、仕事にも行かないといけないし﹂
﹁少しだけでいい。キャロラインたちには迷惑はかけないよ、二三
質問したら帰るから﹂
328
軍靴の先が扉の間にねじ込まれる。キャロラインは帰ってと叫び
ながら、ココルズの胸を押した。同時に湧き上がる感情に動揺する。
こんなときなのに、初めてこんなにも彼の近くにいられることが
嬉しいなんて。
﹁ちょっと、何やってるんですか⋮!﹂
家の中で誰かが叫んだ。階段を慌てたように駆け下り走り寄って
来る足音が近づいてきて、キャロラインは乱暴に手を引かれる。そ
して視界を覆った広い背中。香るかんきつ類の匂い。黒髪がさらり
と揺れる。
後ろに庇われて、キャロラインは安心している自分を見つけた。
﹁やっぱり⋮⋮意識戻ってたんですね、リョウさん﹂
﹁女の子相手に取る態度じゃないでしょう!何を考えているんです
か、ココルズ君ともあろう男が!君らしくもない﹂
﹁俺らしくない?ああ、そうですよね。あんたは初めっから猫を被
るのが上手かったですよね。今だってそんな清廉潔白みたいな顔し
て、俺に説教垂れるんですか﹂
かげ
ふっと曇り空が太陽の光を閉ざし、薄暗かった外がさらに翳った。
家の外から玄関に入る光が弱くなり、少しなりとも光沢を放ってい
た黒い髪が暗黒を含む。
﹁⋮⋮んだと?﹂
低い声が地を這った。
リョウという青年は、普段出す声も顔に似合わず低い声をしてい
る。女性を腰砕けにするような低音だ。それが剣呑に尖り、緊張が
329
場に走る。
﹁あんたが殺したんですか﹂
﹁⋮何言ってんだ、おまえ﹂
﹁あの雪の中で見つかった死体、あんたがやったのか﹂
今にも破られそうな脆弱な沈黙が、緊張した空気を包む。二呼吸
ほどの間があって、リョウが肩から力を抜いた。
﹁あれか﹂
ココルズがいきり立って口を開いたときに被せて、﹁やってねえ
よ﹂とリョウが答えた。その声はなんの抑揚もなかったが、なんの
飾りもなかった。作り物めいた笑みもなければ、怒りもない。愛想
も素っ気もない返答だったが、キャロラインには本当のことだと直
感的にわかった。しかしそう感じたのは、キャロラインだけではな
い。
﹁あんたじゃないのか﹂
﹁ああ。俺じゃない。どうしてあそこにいたのかは覚えちゃいない
が、俺じゃないことは確かだ。スプラッタは苦手なんだ﹂
力の入っていた眼光が、ふっと弱まる。
そっか。ココルズはそう囁くように呟いて、安堵や混乱の入り混
じったほんの小さな声で、小さく小さく吐息に混じり合わせるよう
に、良かったと言った。
ココルズはリョウの言葉を信じたのだ。信じることができた。そ
れは彼にとって、とても幸運なことだ。信じることができることの
尊さを、キャロラインはこのとき初めて知った。
泣き笑いのような表情を隠すように、ココルズが片手で顔を覆う。
330
震える声がくぐもる。
﹁あんたじゃなくて⋮ほんと⋮良かった⋮。俺、あんたがやったん
だったらどうしようって、それ⋮そればっかり⋮疑心暗鬼になっち
ゃっ、て﹂
﹁あの男はおまえの友達だったんだな﹂
﹁⋮うん﹂
﹁残念だったな。親しい人が死ぬのは辛い﹂
﹁うん﹂
ココルズの声に湿ったものが混じり、キャロラインは聞いてはい
けないものを聞いてしまったような居心地の悪さを覚える。リョウ
の背中の陰から、ココルズがぽたりぽたりと涙を流すのを、息をひ
そめて見ていた。
リョウが自然な動作で腕を伸ばし、少し高い位置にあるココルズ
の肩をそっと抱き寄せた。とん、とん、とゆっくりとしたリズムで、
すすり泣く青年の背中を叩く。
﹁キャル、扉を閉めて。何か温かいものをもらえますか?﹂
首を傾けるようにして後ろを振り向いたリョウが、動けずにいた
キャロラインに穏やかに頼んだ。聞き慣れた、たくさんの配慮を含
んだその口調に、キャロラインはすぐさま頷き、玄関扉を閉めその
場を離れる。
きっとキャロラインがいるところでは、ココルズは思うように泣
くことが出来ない。だからキャロラインをその場から逃がしたのだ。
食堂の戸を閉めたところでその向こうから、耐えた末の呻き声と
もとれるような声が上がるのが聞こえた。
331
ココルズがここに来るのは初めてだ。
食堂の高い木椅子に腰かけ、落ち着かない様子で視線をテーブル
に落としている。目元は赤く、くゆる珈琲の湯気がそれをちらちら
と隠す。
キャロラインは、流し台に寄り掛かるリョウの隣に椅子を引っ張
って来て座っていた。
﹁そうか。それなら、もうすぐ第七番隊が俺を捕まえに来るってこ
とか﹂
﹁ええ。カイルさんは何も?﹂
﹁あいつは何も言わねえよ﹂
苦くリョウが笑う。
リョウの聞き慣れない口調には戸惑ったが、これが本来の話し方
なのだろう。慣れてしまえば違和感はなかった。
﹁カイルさんは今、﹂
﹁上でまだ寝てる。無理してたんだろ、ここ数日様子が変だったし
な﹂
﹁七番隊がリョウさんの逮捕状申請をしてからでしょうね。例え第
五番隊副隊長と言えど、あれは覆せませんから﹂
﹁⋮犯人の目途はついてるのか﹂
ココルズがちらりとキャロラインを見る。その視線をリョウが追
う。
﹁部外者は出て行けなんて、聞かないわよ。よくわからないけど、
リョウさんの問題はうちの問題でもあるんだから﹂
﹁まー⋮それもそっか﹂
332
﹁おいおい、口軽いな、ココルズ君。それでいいのか﹂
くっくっく、と愉快そうに笑うリョウに、ココルズが不満気に片
頬をくいっと上げて見せる。
﹁リョウさん、その﹃ココルズ君﹄ってのやめてくれませんかね。
馬鹿にされてるような気がするんですよ﹂
﹁いいじゃねえの、ココルズくん。で?犯人の目途は﹂
﹁ついてませんよ。わかっていることも、恐らくビデ平和国軍の仕
業だってことくらいしか。だから七番隊もこんなにしゃかりきにな
ってるんでしょ﹂
魔力を失
った方がい
﹁第七番隊っていうのは、ココルズ君の話を聞いている限りだと、
ずいぶんと乱暴な部隊らしいな﹂
﹁ええ。奴らの審問にかかるくらいなら、
くらかましですよ﹂
ココルズの口にした品のない軽口に、キャロラインは額に皺を寄
せた。魔力の無いことについての冗談は、最近は獣人などの人権問
題もあってタブーになっている。しかし魔力の多さがものをいう面
が大きいヘンウェル王国では他国に比べ、未だ魔力を持たない者へ
の差別はなくなっていない。
﹁ココ﹂
﹁⋮ごめんなさい﹂
謝るココルズを見てリョウが首を傾げる。きっとリョウの郷里で
は魔力を持たない者への理解があるのだろう。
ことりとリョウが空になったマグを流し台に置き、さて、と言っ
てキャロラインとココルズを見る。見返した二人に、リョウは覚悟
を決めたようなすっきりとした顔で笑いかけた。嫌な予感がする。
333
黒い双眸は、呆れるほどに明るかった。
﹁俺は騎士団のほうに行ってくる﹂
愕然とした二人がリョウを見つめる。
﹁い⋮やいやいや、今七番隊は恐ろしいよねって話をしたばかりで
すよね!?﹂
﹁どうしてそうなるの?﹂
嫣然と笑むリョウは唇を引き結び、目を細めただけだった。光の
裏には影があるように。その笑顔が今まで見たよりもはるかに切な
げで、哀しげで、この青年が深い悲しみの縁にいることが、手に取
るようにわかる。キャロラインとココルズは何も言えず、口をつぐ
んだ。
﹁ココルズ君。カイルのことは頼む。平気だよ。俺は殺してないん
だし、何も関係がないんだから。そう酷くないさ﹂
﹁でも⋮﹂
﹁キャル。チャールズによろしく伝えてください。まだ文字を全部
教えてもらってないんですよ。戻ってきたらそのときに、また教え
てくれって伝えてくれる?﹂
﹁わかっ⋮たわ。﹂
そのとき。食堂の戸が開き、ココルズがその先を見て﹁カイルさ
ん⋮﹂と動揺した声で名を呟く。リョウの背後に現れた、ひどく冷
たい目をした兄を、キャロラインは緩慢に見上げた。
﹁どこへ行くつもりだ、リョウ﹂
334
兄の髭で覆われた喉が上下する。リョウは一瞬で表情を消し、そ
れこそ不自然なほどゆっくりと後ろに立った男を振り返った。
︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱
起き抜けのカイルは髭も伸びっぱなしでシャツもよれよれで、少
し息を切らしていた。
﹁騎士団﹂
俺は手短に答えた。
見下ろすカイルの虚無感を感じさせる視線にたじろぎそうになる
のを隠し、強く睨み上げる。
﹁ココ﹂
﹁ココルズ君は関係ない。これは俺の問題だ﹂
﹁お前の?﹂
﹁ああ、そうだな。俺と、あんたの問題だ﹂
﹁違うな﹂
カイルの指が俺の顎をすくった。まるでキスでもするような距離
感に、後ろの若い二人が息を詰めて見守っているのが感じられる。
その手を払うとあっけないほど簡単に離れた。
﹁何が違うんだ﹂
335
﹁俺の問題だ。リョウはまだ意識が戻らない、尋問のできる状態じ
ゃない。そうだな、ココルズ?﹂
﹁え⋮﹂
﹁おふざけも大概にしろよ、カイル﹂
﹁俺は至って真面目だ。お前はここで待っていればいい。俺がすべ
て終わらせてくる﹂
﹁あんたが代わりに尋問を受けるってのかよ。馬鹿じゃねえの、そ
れじゃあ何の解決にもならないってことがわからないのか﹂
馬鹿らしい。話にならない。
第七番隊が俺を尋問したいならすればいい。それで事件が解決へ
と進むのなら、何だってしてやる。事件が解決することが、結末へ
の一番の近道に思えてならないのだ。
︱︱︱︱そうすれば、カイルとの関係だって⋮
﹁リョウ、駄目だ﹂
﹁そこをどけよ﹂
俺が望むのはただひとつだけだ。
﹁行かせない。大丈夫なんだ、お前が尋問なんて受けなくても。犯
人はもうすぐ捕まる⋮﹂
﹁適当なこと言うな。俺は、﹂
﹁ビデ王国内の騒動が沈静化してきている。犯人グループも割り出
せてきているんだ﹂
﹁俺が目にしたことを、話さないと。何かの助けに、﹂
﹁ならない。お前の正義感は高く買うが﹂
﹁違うって言ってんだろ!聞けよ。誤魔化すな、俺の話をちゃんと
聞けってば!﹂
336
押し倒し、胸ぐらを掴む。釦がはじけ飛んだ。カイルの身体を扉
枠に押し付ける。ガンッと肉を固い木で打つ鈍い音がした。
﹁俺はあんたに向き合った。ちゃんとあんたが話してくれるまで待
ってただろ。なのに、なんで何も話してくれないんだ。俺のこと⋮
信じるんじゃ、なかったのかよ﹂
﹁信じる﹂
﹁なら何で!﹂
﹁リョウ﹂
﹁︱ならッ!この距離はなんだよ。このやるせなさは、何なんだ。
この寂しさは何なんだよッ⋮!!﹂
﹁⋮わからない﹂
﹁何で⋮距離が埋まらないんだ﹂
どうしようもなく、あんたが遠い。寂しいと心が泣いている。チ
ョコレート色の瞳からはもう何も伝わってこない。
﹁お前を、守りたいだけなんだ﹂
﹁余計なお世話だ。守りたい守りたいって、あんたいつもそればっ
か。俺が欲しいのは保護者なんかじゃねえよ、俺が欲しいのはあん
た自身なのに﹂
どうしてわかってくれないんだ。
﹁お前に周りの全部を疑う苦しみはわからない。俺はお前だけでも
信じたい。だから、安全なところにいてくれ。俺がお前を疑わなく
てすむように﹂
﹁そんなの、信じるって言わねえよ⋮﹂
337
待っていてもカイルは俺に何も語ろうとはしないと、いつから気
が付いたのだろう。前は一緒にいるだけで満ち足りたのに。
﹁頼むから!﹂カイルが叫んだ。
﹁頼むから、俺がかたをつけてくるまでここで待っていてくれない
か⋮﹂
﹁わけわかんねえよ。信じろっていうのか。あんたは俺を信じない
くせに、俺にはただ信じていろと?ばっかじゃねえの、それじゃあ
今までの二の舞だろうが﹂
﹁リョウ⋮頼む﹂
俺はどうして、この男の信じると言う言葉を信じられたのだろう。
高く高く舞い上がった分だけ、地に堕ちたときの衝撃と痛みは壮
絶なるものだった。血が心から流れている。強い圧に押しつぶされ
そうになる。
﹁泣くなカイル。大丈夫、俺は帰って来るよ。あんたを置いて行っ
たりしない﹂
あんたも俺も、臆病でずるいんだな。
だけど俺は行く。広がりつつある二人の間のヒビを埋めるために。
俺たちの、これからのために。
338
既視感
空には翳りがあったが、久しぶりに外に足を踏み出すと、その明
るさに俺は目が眩むような思いがした。目を閉じ、息を吸い込むと
枯葉の濡れた匂いが、冷たい冬の空気と一緒に鼻腔を通り、体の隅
々に染みわたる。
﹁さみ⋮﹂
しかし身震いしたのは、寒さのせいだけではない。これから起こ
る、予想もつかないすべてのことが俺を怯えさせている。その通り。
俺は怖かった。何の後ろ盾もない、それこそ戸籍も何もない俺は、
この世界から見れば完全なる異物だ。どこから来たのかなんて説明
できるはずがない。ビデ王国の諜報員ではないと証明する手立ても
全くなかった。
﹁リョウ・アキヅカ殿ですね﹂
エッケナ邸の前庭の雪は、軍靴に散々に踏みつぶされ、泥と雪の
溶けた水でぬかるんでいる。
そこに物々しい雰囲気で、泥を撥ね散らかし踏み込んできたのは、
二人組の屈強な騎士だった。その腕に刺繍された銀糸は七本。第七
番隊である。他にも幾人かの騎士たちが、エッケナ邸をまばらに取
り囲んでいた。
﹁そうですが﹂
俺はその騎士たちの足元に何気なく視線を移し、思わず顔を顰め
339
た。
心臓が肋骨を叩く。俺はゆっくりと息を吐いた。頭が冴える。
震えは止まっていた。
﹁逮捕状が出ています。ご同行願えますか﹂
若い、士官と思われる二人の騎士。怯えることはない。俺が怯え
るべきは、こいつらではない。毅然としていろ。
顔を上げる。そして俺は二人の足元を指さした。
﹁足を﹂
﹁⋮足?﹂
キャロラインが来年の春に向けて植えたと言う球根や、一年草。
ささやかな家庭菜園。冬の銀化粧によく映えただろう、わずかな、
しかし鮮やかな色が、泥で汚れていた。
それらが無残に踏みにじられるのを見て、大事なものを失うよう
な気持ちに俺がなるのは傲慢だろうか。
﹁その足をどけてください﹂
泥の中から顔を出している白い花を、騎士が無造作に踏んづけて
いた。
﹁は?﹂
﹁あなたがたには、敷かれた石の上を歩くくらいの分別もないので
すか。そこは花壇ですよ﹂
﹁え?ああ⋮すみません﹂
俺をかばったせいだ。
340
キャロラインは何も言わなかったが、よく庭に出掛けて行っては
手を泥で汚して帰って来ていた。ぐちゃぐちゃにされた庭をもとに
戻そうとしていたのだろう。
俺がこの家に匿われて迷惑を被るのは、エッケナ家の人たちだ。
そこに思い至らなかった自分が、ひどく腹立たしかった。
﹁行きましょう﹂
太陽に向かって咲く小さな白い花を気付かずに踏んでいたのは、
この俺だ。
公道に停められていたのは、馬車と言うにも困るような、それ自
体が牢であるかのような鉄製の護送車だった。壁には赤さびが浮き、
目の前で開けられた扉はぎい、と重たく軋む声を上げる。
﹁乗って下さい﹂
言葉こそ丁寧だが、有無を言わせぬ口調。
俺が大人しくその入り口に足をかけたとき、耳を打った声に俺は
後ろを振り返った。
﹁⋮カイル﹂
﹁リョウ!﹂
﹁いけません副隊長!止まって下さい!﹂
﹁放せ、⋮リョウ!﹂
雪の上を上手く走れず転びそうになって体勢を崩しながらも、カ
イルは俺だけを必死な目で見つめている。制止する五番隊の騎士の
手を振り払い、駆けてくる。
341
俺は七番隊の騎士二人に目で確認を取った。渋々という様子で頷
いた騎士は、同僚に肩をすくめて見せる。俺に逃げる気がないこと
はわかっているのだろう。
﹁第五番隊副隊長、カイル・エッケナだ﹂
カイルは少し息を荒立て、険しい表情で走るのを止め、足早に歩
いてくる。俺の前で止まったカイルは俺の隣の七番隊の騎士に唸る
ように名乗った。騎士は溜息を吐き、俺に警告する。
﹁少しだけですよ﹂
﹁ありがとうございます﹂
唇に浮かべた笑みに、騎士が一瞬瞠目した。肩にかかっていた手
の力が緩む。あ、いや、どういたしましてなどと、しどろもどろに
口の中で呟いた騎士を背に、俺はカイルと向き合った。
﹁迎えに行く﹂
﹁⋮うん﹂
﹁すまない。俺はやはり、ただ信じるということができないらしい。
疑いを捨てることは出来ない。だから俺は事件を解決しに行く。そ
れでもしお前が無実でなかったとしても、俺はお前を迎えに行く﹂
﹁わかった。待ってる。⋮大丈夫だよ、俺は無実だ。そんなに不安
そうな顔をするな﹂
俺が咳込みながら笑って見せると、憔悴し落ちくぼんで黒い影に
なった瞳が揺れていた。その目を見て俺は、簡単に拭えない人間の
不信感というものを、やはりという思いで受け止めた。
そんな俺の耳にカイルが口を寄せる。
342
﹁第七番隊と言えど、貴族には下手な尋問はできないはずだ。丁寧
な言葉を崩すな、少なくとも暴力は振るってこないはずだ。いざと
いうときは、シバレの名前を出せ﹂
﹁シバレ?カイルのお姉さん?﹂
﹁の、旦那だ。義兄はエクスィーダ王国の準男爵位を持っている。
頼りにしていい。⋮それと、第七番隊の副隊長バチェラーに気をつ
けろ。奴はこの事件に執着している﹂
理由を聞きたかったが、それは適わなかった。
もういいだろうと、七番隊の騎士が俺の肩を引く。幾分乱暴な手
つきだった。バチェラーの名前が聞こえたのかもしれない。
名残惜しくカイルが手を握り、俺の唇に軽く接吻を落とした。耳
を掠めた﹁愛してる﹂の言葉に俺は頷き、護送車に乗り込む。
扉が後ろで閉まり、そこは暗闇に支配される。そこには音も風も
届かない。自分の鼻先さえ見ることは出来ない。暗い、暗い、闇の
中。俺はこの暗闇を、この匂いを知っている。
︱︱︱俺はこの車に、乗ったことがある。
既視感が、時間が経つにつれて強くなる。
******
極悪人と罵られようと、どうでもいい。やはりビデ人かと、軽蔑
されても構わなかった。自分はどうなっても良い。幼い二人の弟が
343
幸せであるならば。
父が故郷に帰りたがっていたことはなんとなく気が付いていた。
この世界を憎んでいたことも。父の心が、故郷に︱この世界には存
在しない故郷に囚われたままであることも。
それでも、僕たちは︱この世界は、父を愛していた。
黒い護送車の傍ら、ナウマン夫婦と弟たちが僕を見送りに来てく
れていた。
不覚にも涙が出そうになって、腰を折り、深く頭を下げる。
﹁弟を⋮スグルとラシュを、よろしくお願いします﹂
父の弱さが、ビデに再び苦難を強いた。ビデ王国はヘンウェル王
国の完全なる属国として扱われるようになるだろう。
僕たちの家族は、もうビデには戻れない。
﹁ケネス兄さんは悪くない!頭を下げないでよ⋮悪いのは、父さん
だ⋮﹂
﹁そんなことは言っちゃだめだ、スグ。それとラシュ。スグとナウ
マン夫人の言うことをよく聞くんだよ﹂
﹁やだよぉ⋮﹂
﹁もう十三歳だろう?な?兄さんのお願いだ。⋮スグ、ラシュを頼
むな﹂
腰に張り付いてくるラシュに顔を合わせてしゃがみ込む。その隣
に立ったもう一人の弟を見上げると、父によく似た顔が僕を見下ろ
していた。
﹁わかってる。⋮ケネス兄さん、本当にもう戻って来れないのかよ﹂
344
涙に濡れた黒い睫毛が瞬き、クリームがかった色の頬に、透明な
筋が盛り上がる。僕は堪らなくなって、その頭を引き寄せ、弟の父
親譲りの黒髪を撫ぜた。
﹁⋮ごめんな。できるだけ早く研究を終わらせるから﹂
この研究に終わりがないことなど、わかっている。
口先の約束しか出来ないが、口先だけでも、弟たちを安心させて
やりたかった。それが、僕が弟たちにできる、最後のことだ。
︱︱︱二ホンになど帰すものか。
そう言わんばかりにこの世界は父の悲願をにべもなく撥ねつけ、
あまつさえ父だけでなく多くの命までも奪った。
そうまでして父を失いたくなかったのか、この世界は。
父はもう、狂っていた。気が付かなかったのは僕たちだ。否。気
が付かないふりをしていた。
もしあのとき僕がよく注意していたら、転移術式の転移先が父の
故郷に設定されていたことに気付くことができただろうか。もし気
付くとしたら、古代ビデ語がわかる僕しかいなかったのだ。
僕にも、罪がある。僕はその罪を償わなければならない。身を賭
して。
******
345
固く冷たい護送車に身ひとつで放り込まれた俺は、体に直接響く
振動にじっと座っていることも立っていることも出来なかった。身
体中をあちこちにぶつけても、ただ、ただ痛みと寒さに耐える。
﹁⋮ラシュ、スグ、ル﹂
永遠に続くかと思われた車の揺れは長い時間を経てようやく止ま
った。俺は鉄製の床に横たわっていた。しばらくの間意識を失って
いたらしい。
半身を起こしただけで体の節々が、骨に針を差し込まれたように
痛む。体は完全に冷え切っていた。掠れた細い息が白く視界を曇ら
せる。
﹁降りなさい﹂
扉が開いて、護送車の中に一条の光が射した。そのわずかな光で
さえ暖かい。壁に寄り掛かるようにして、どうにか立ち上がる。足
は萎え、簡単によろめいた。しかし日の下に行きたい。暖かい場所
へ行きたかった。
﹁ここは、﹂
﹁ヘンウェル王国中央庁だ﹂
第七番隊の騎士が支えてくれる。
見上げると、高層ビルを思わせる高い、高い建造物が、どこまで
も空高く伸びている。
懐かしいような、苦しいような、胸を締め付けるような気持ちが
346
湧き上がり、喉から心臓を吐きだしそうになる。気持ちが悪い。
俺はここに来たことがないのに、心が拒否をする。ここが嫌いだ。
﹁おい、どうした﹂
焦った騎士の声を上の空で聞きながら、俺は呻きつつその場にう
ずくまった。立っていられない。
この場所は、血の匂いがする。俺はこの場所に来たことがある。
ここで血を嗅いだ。
頭を揺らすような既視感は、次第に、強くなっている。
347
︻過去︼1年前︱
渡り人
︱
︱︱︱︱︱そして一年前。リョウ・アキヅカが現れるまであと1
80日。
十三年前のあの事件以来、第四番隊が表舞台へ立つことはなくな
った。しかし第四番隊が未だ機能していることを、一部の者は知っ
ている。そしてこの十三年間、実験棟の最上階に、ひとりの術者が
囚われたままであることを。
もしも、ここを出られたら。
ケネス・ツティア・ローランは最近になって、恋人のバチェラー
もし
だなんて、出られ
にだけ、ごく、たまにその話をするようになった。
バチェラーはそれが心配でならない。
ないと思っているようではないか。
中央庁実験棟13階。ヘンウェル王国の中で最も天に近いその場
所で、ガラス張りの壁から遠くの街並みを見下ろし、ケネス・ツテ
ィア・ローランは長い間会っていない弟たちや昔のことなどをとり
とめもなく喋る。
﹁第四郭の西区に、レントダールって菓子屋があるんですよ。知っ
てます?ポラルさんが好きで、よく家にお土産を買ってきてくれた
っけ。美味しかったなあ﹂
348
ケネスに与えられた一室は、筆頭研究員にふさわしいだけの高価
な調度品が並び、居心地が良い。陽の光が部屋に差し込んでいる。
彼の熟成したコーヒー色の肌が、その光を柔らかく跳ね返す。ビデ
人を母親に持つ彼は、ひと目でそうと分かる外見をしていた。
﹁知っているよ。あの店は、実は私がポラルに薦めたんだ﹂
﹁え!ほんと?﹂
ケネスが、くるんと振り返る。真ん丸に見開いた目から、目玉が
落っこちそうだ。真っ黒の瞳がきらきらとしている。
出会ってから十三年。彼も歳をとり三十代も半ばになったが、時
々見せる仕草は変わらない。
﹁まあ、私もハロルドに教えてもらったのだが﹂
﹁へええ。あれ?でもハロルドさんって、甘いもの苦手じゃありま
せんでした?﹂
﹁子どもたち用だろう﹂
﹁⋮そっか﹂
ケネスの笑顔が、ほんの少し翳る。
まだ彼は、あの事件に責任を感じているのだ。特に父親をその場
で亡くしたエッケナ家の次男カイルに対しては、心を痛めている。
自分たちが、彼らの父親を奪ったのだと思っているのである。
しかしバチェラーに言わせてみれば、ケネスも立派な被害者の一
人だった。こんな場所に閉じ込められ、囚われて。
﹁今度、買ってくるよ﹂
バチェラーはケネスの腰に回した腕に力を入れ、頭のてっぺんに
349
唇を寄せた。これほどまでに素晴らしい息子がいて、どうしてキョ
ースケはそこまでして故郷に帰りたかったのだろう。バチェラーに
は、皆目見当がつかない。
﹁ありがとう﹂
ケネスはわずかに笑い、背後に立って自分を抱きしめる恋人の胸
に頭を預ける。
ケネスが甘えるような態度を取るようになったのは、ほんの数年
前だ。バチェラーが同情からそばにいるわけではないことを彼に納
得させるのに、随分と長い時間がかかった。
﹁君が望むことならば何でも叶えよう﹂
ふざけて芝居がかった声で言えば、ケネスが笑い声をたてる。鈴
を鳴らすようなその笑い声を聞くためなら、バチェラーは何でもで
きる気さえした。
﹁じゃあ、もし僕がここを出られたら、レントダールの近くに一緒
に住んで下さい。それで好きなだけ買って食べるんです。気が向く
ままに﹂
﹁太るぞ?﹂
﹁いいんですよ。それとも、バチェラーは僕が太ったら気にします
か?﹂
バチェラーはケネスの細い腰を確かめるように触ってみる。実験
室にこもったときには寝食も忘れるくらいなのだから、少しくらい
肉をつけたほうがいいと思っているバチェラーだったが、健康のた
めには運動も必要なのであって。
350
﹁んー、私は気にはしないが。夜はいっそう励まなくてはならない
な﹂
長躯を腰から曲げ、自分の肩ほどしかないケネスの耳元に、鼻を
擦りつけて囁く。くすぐったそうに身をよじったケネスは、恥ずか
しそうにしながらも小さく頷いた。
﹁あっ、バチェラーは、次のお休みはいつですか?僕もそれに合わ
せてもらおうかな﹂
﹁分かったらすぐに知らせる。任務でビデ王国に行かなければなら
なくなった。次に会えるのは少し先になるかもしれん。できるだけ
早く片付けて帰って来るが﹂
実験室とこの与えられた居住区の行き来しか許されていないケネ
スの世界は狭く閉鎖的である。会う人の顔ぶれと言ったら、第四番
隊の部下たちと使用人、会いに来るバチェラーくらいしかいない。
第四番隊は解体されたも同然と世間では思われているが、第四番
隊の筆頭研究員は、中央庁が用意した鳥籠の中で確かに息づいてい
る。
﹁ありがとうございます﹂
﹁私も可能なだけ長い時間、君と会いたいから。礼を言うようなこ
とではない﹂
﹁うん﹂
貴重な、王国に一羽しかいない黒い小鳥が、死んでしまわないよ
うに。しかし故郷の国へと逃げてしまわないように。中央庁は手を
尽くした。豪華な居心地の良い鳥籠。鳥籠を訪れる、野鳥。
﹁あなたに会いたいとき、勝手に会いに行けたらいいのに﹂
351
小鳥は籠の外を眺めては、寂し気な表情でそう言う。
しかしその小鳥は、もし籠の入り口が開いていても、逃げはしな
いだろう。
弟たちがヘンウェル王国で暮らしていける市民権と引き換えに、
彼は自由を売ったのだから。帰る場所を失った兄弟が明日を生きら
れるように、彼は迷うことなく決断した。
﹁転移術式が完成したら、それこそ、私のところへ好きな時に転移
してくればいい﹂
﹁うん﹂
﹁そもそも、そのための術式だろう?﹂
中央庁が兵を遠隔地に送る方法として﹃転移術式﹄を軍事利用し
ようと画策したことから、すべてがおかしくなったのだ。本来は、
もっと夢のある術式であったはずなのに。
﹁⋮そうですよね﹂
﹁キョースケは、逃げたかったのかもしれないな。夢を戦争に使う、
現実から﹂
﹁それに⋮父は、分かっていたのかもしれません﹂
﹁何を?﹂
﹁転移術式が完成しないことを﹂
﹁そんなことを言うな。完成するさ﹂
モノ
は時空を超えることができるが、魔力を
実験は行き詰まり始めていた。
魔力を持たない
持つ人間は超えられないのだと判明してからというもの、実験は進
展を見せない。諦めを見せ始めているのはケネスだけではない。
352
﹁研究に終わりが来ないことなんか、僕も分かっていたんです。国
の要求は尽きるということを知らない。もっと効率を良くしろだの
なんだのって要求し続けるんだ﹂
ケネスが喉を震わせ、息を詰まらせた。
﹁ケネス⋮﹂
﹁でも⋮まさか、転移術式を完成させることさえできないなんて﹂
﹁完成する。今は、人から一時的に魔力を剥離させる方法を試して
いるんだろう?﹂
﹁そんなの無理に決まってる。魔力を失った人間は、まともじゃい
られない。魔力を剥離なんかしたら、その人は正気を保てない﹂
十数年続いた転移術式開発は、ここに来て大きな壁に行く先を遮
られている。人は、それでもその壁の果てを探すのだ。ずっと続い
渡り人
の例があるだろう。キョースケは、元々は魔力を持っ
ているように見える壁にも、終わりがあると信じて。
﹁
ていなかったらしいじゃないか﹂
バチェラーがそう言うと、ケネスはきょとりと彼を見上げ、黒い
渡り人
。異世界から召喚された彼らは、この世界に来る前は
父親似の瞳を瞬かせる。
魔力を持たなかった人間だ。古代ビデ王国では、頻繁に﹃召喚術﹄
を行っていたらしい。
︱︱そしてその、渡り人の最後の一人の名を、キョースケ・ツテ
ィア・ローランと言う。
353
﹃転移術式﹄は、古代ビデ王国の﹃召喚術﹄を元にした術式であ
る。だからこそ、古代ビデ語を解するケネスが、﹃転移術式﹄開発
には必要とされたのだ。
渡り人
の存在を知っている者は、もうほとんどいないだろう。
﹁確かに渡り人の魔力は、召喚術師の魔力を寄せ集めたものですが﹂
もし知ったとしても、人々は世迷言だと鼻で笑う。バチェラーでさ
異世界
渡って
来た人
など。時空を超えた先に知らない世界がある
えその事実をケネスから聞いたとき、耳を疑ったのだ。
︱︱︱︱
など、誰が信じられよう。だが、そこから実際に
が、召喚された人物がいる。
﹁なら、魔力をまた身体に戻すことは可能なのではないか?﹂
ケネスはそれを聞いて、なんだそんなことかと、がっかりしたよ
うだった。がっかりついでに腹まで立ったようで、ぷりぷりしなが
ら矢継ぎ早に唇を動かす。
﹁剥離した魔力を、どこにしまっておくんです?人間はいわば、魔
力の器だ。器に入っていない魔力は、霧散してしまう。ひとところ
に留まってはくれないんです﹂
ね、どう考えたって、無理でしょう?もういいんです、諦めまし
た。ここにいても、あなたと会うことはできるわけだし。衣食住も
保障されている。
そう言うケネスは、そう言いながらも、決して諦めきれないのだ
ろう。眼下に広がる街並みを眺めては、もしここから解放されたら
と、熱に浮かされたように口走る。
354
ケネスが中央庁と交わした契約は、
転移術式が完成するまで
それまで、ケネスはこの鳥籠から出ることは適わない。
いくら願おうとも。
。
そうして鳥は、届かない自由に、手を伸ばすことをやめてしまう
のだ。
︱︱︱︱︱それから七日余り経った頃、ヘンウェル王国首都から
遠く離れた任務先でバチェラーは、小鳥が鳥籠の中で小さな心臓の
動きを止めたことを、一枚の紙によって知らされた。
355
︻過去︼数日前︱犠牲
それから十か月の年月が過ぎた。
︱︱︱︱︱︱リョウ・アキヅカの逮捕状が発行される、数日前。
中央庁地下。そこに人間らしい魔力のうねりは、まったく感じら
れない。
鉄格子の向こうの愛しい男の変わり果てた姿に、バチェラー・イ
ザルはいささかの言葉を紡ぐことは出来なかった。
団服を着込んでいても恐ろしいほどの寒さを感じるこの石牢の中
に、この人はずっと一人でいたのだろうか。
ケネス。
バチェラーは信じられない思いで、記憶よりはるかに小さくなっ
てしまったかつての恋人を見下ろし、その名を唇でかたどった。
死んだと思っていた。その訃報を受けてバチェラーが神を呪った
のは、花が生の喜びを謳う季節だ。あれからもう、十か月ほどが経
つ。
﹁去年の春にケネス兄さんも、あなたが死んだって報せを受けたん
です。中央庁に囚われた兄さんは、あなたを探しには行けなかった。
だから、死んだと聞いたのにあなたを待ったそうです。でもいくら
待てども、あなたは帰ってこなかった﹂
356
偶然ではない。
﹁私はその頃⋮急な要請を受けて、ビデ王国で任務に就いていた﹂
バチェラーが恋人ケネスの死亡通知を受け取ったのは、ビデ王国
に入国して一週間ほどのことだった。
﹁中央の計画のもとに、すべてが動いていたんですよ﹂
理不尽すぎる。あまりに理不尽な仕打ちに、彼は何も言うことが
出来ない。互いが互いを、死んでしまったのだと思い込み、理不尽
な悲しみを背負わされていたなんて。
﹁こんなところにいたのか⋮ケネス﹂
絞り出した声は、自分の声でないような気さえするほど、頼りな
く揺れている。鉄格子を握り締める手に力が入る。渦巻く悲しみと
怒りに呼応して、魔力が暴走しないのが不思議だった。
﹁絶望が魔力の剥離に繋がるってことを、中央庁が発見したんです﹂
﹁ケネスは、俺たちは⋮中央庁の実験台だったというわけか﹂
﹁もともと魔力のない渡り人を父親に持つ俺たちの魔力は、特に剥
離しやすい。性質が渡り人に似ているから﹂
ケネスの弟、スグル・ツティア・ローランの、若く見える貌には
皮肉めいた笑顔が浮かんでいる。この世界すべてを敵に取っている
とでも言うような、退廃的な暗い笑みだ。
﹁ここから出してやれないのか﹂
357
スグルはまだ三十そこそこの年齢のはず。それなのに容貌はそれ
よりはるかに若く、表情は人生の辛酸を舐めて来た男のそれだ。
﹁不可能ですよ。第五番隊が結界を張っている。出来るのは、体の
世話をしてやることくらい。それも他の監視兵に見つかれば、やっ
かいなことになる﹂
スグル・ツティア・ローランは第八番隊の団服を着ている。魔力
・・・・・・
を持たない者を収容する地下牢の警護は、第八番隊の管轄に当たる。
詳しくは聞いていないが、ケネスの身体を生かすために潜り込ん
だのだろう。
﹁私をここに連れて来て、真実を教えてどうするつもりだ。何か目
的があるのだろう。目的もなしに七番隊を巻き込む道理はないはず
だ。私に何をしてほしい﹂
それを聞いてスグルが薄い唇の端をさらに吊り上げる。白い歯の
間から、赤い舌が覗く。その笑みはひどく歪で、バチェラーはこの
男の異常性をすぐさま見て取った。
﹁さすが、話が早い。第七番隊副隊長サマにやってもらいたいこと
があるんです。ある男をここに連れてきてほしい﹂
﹁ある男?﹂
﹁今もぬくぬくと、ケネス兄さんの魔力で生きながらえている盗人
ですよ﹂
﹁何をする気だ﹂
途端にスグルがケタケタと不気味な笑い声を立てる。バチェラー
はぞっとした。
358
・・
﹁魔力をその盗人から引きずり出してやる。今度は誰にも邪魔はさ
せない。元は兄さんの魔力なんだ、持ち主に戻してやるのが道理、
でしょう?﹂
それはとてつもなく甘く、魅惑的な言葉だった。
ぞっとしながらも、恋人の心が戻って来るならばと、それに従っ
てしまいそうになる。警報を盛んに鳴らす良心を黙らせ、考えるこ
とを止めて、従ってしまいたくなる。
﹃いいんですよ、バチェラー。僕はこれでいい﹄
この十四年間、ケネスは中央庁に囚われていながら、ひとつも文
句は言わなかった。実験室と居住区の行き来しか許されない。そん
な生活をしながらも、彼の笑顔は絶えなかった。そんなケネスの自
己犠牲の態度に、誰より腹を立てていたのは、他でもない自分だ。
バチェラーは、頭を抱えて幼子のように身体を揺らすケネスを見
下ろす。
かわいそうで、不憫で、苦しいほどに愛しかった。
﹁魔力がもとに戻れば、ケネスはここから出れるんだな?﹂
出してやりたい。
もうこの人はいい加減、幸せにならないといけないのだ。辛いだ
けの人生など、この優しい人には似合わない。
﹃僕はどうなってもいいんだ。あなたと、スグとラシュが幸せな
ら、僕も幸せだから﹄
それならば、今度は自分が犠牲になろう。
359
現実と夢の狭間で︵前書き︶
※残酷描写があります
360
現実と夢の狭間で
自分がどんなに馬鹿な考え方をしていたのかを思い知る。法と秩
序が護られ人権思想の確立している日本が、どれほど恵まれた国だ
ったのかを、思い知る。︱︱︱︱ここが異世界であることを、思い
知らされる。
四日だ。俺が中央庁の第七番隊勾留所の独房に入れられて、もう
まる四日が経つ。陽が昇り、夜が来た。しかし俺はその間、肝心な
ことは何一つ喋らせてもらえていない。
﹁っ⋮ぐぅうッ﹂
・・・
囚人が自分から本当のことを喋りたくなるまで、彼らはまともに
話を聞こうともしない。痛めつけ、恐怖を植え付け、従順に飼いな
らすのである。囚人の心を完全に折るまで、彼らは尋問を始める気
すらないのだと、思った。
﹁腰上げて。ほら、もっと高く⋮はは、可愛いじゃないか﹂
﹁そう、おりこうさんだな。初めからそうしていればいいんだよ﹂
床に跪いた俺は頭を後ろから強く押さえつけられ、犬畜生の餌の
ような、どろりとした豆雑煮を口に含むしかなかった。顔面から突
っ込んだその皿の中は、腐った魚のような嫌な臭いがして、吐き気
がする。
﹁ぅえ、⋮﹂
361
打たれた背中が、寒さに凍る頭が、痛い。体が重い。
しかし朦朧とする意識の中で、人間らしい何かが失われていくこ
とに、俺はどこかほっとしていた。これで何も考えずに済む。これ
で、尊厳が傷つけられる痛みを、味わわなくて済む。
﹁よしよし、綺麗に食べられたな。よく頑張った、いい子だぞ﹂
命じられるままに皿の中身を、最後まで残さず舐め取る。良い子
にして言うことをきちんと聞けば、痛いことは何もなしだ。最後ま
で邪魔をしていたプライドは、ことごとく打ち据えられ、あっけな
く崩折れた。
﹁もう鞭で打たれるのは嫌だろう?﹂
﹁⋮い、やです﹂
﹁殴られるのも、恥ずかしいことをされるのも、嫌だよなあ?﹂
体力は限界を迎えていた。圧倒的に睡眠時間も足りておらず、す
ぐに意識が間遠になる。看守の下卑た笑い声に、もう憤ることも、
ちゃんと話を聞けと怒鳴ることもなかった。
﹁見ろよ、あんなに強がってたわんちゃんが、こんなになっちゃっ
てよぉ﹂
﹁かーわいい。綺麗な肌が台無しだな﹂
﹁あーあー。副隊長に禁止されてなきゃ、あっちのほうでも可愛が
ってやったのに。残念﹂
﹁おら、起きろ﹂
水に濡れてしなる革の音を聞くだけで、体は硬直する。背中の鞭
の跡は冷気に触れて、体を動かせば焼けるように痛んだ。
看守の気は短い。俺は起きろと言われて、鉛のように重たい身体
362
をどうにか起こそうとする。血が、したたる汗と一緒に剥き出しの
上半身を伝い、木の床にぱたぱたと落ちる。
﹁遅い!﹂
振るわれた革製の太い紐が風を切り、唸った。
﹁かッ⋮は﹂
息が止まる。見開いた目の縁から、涙が溢れた。額に玉のように
汗が噴き出て、滝のようにこめかみを滑り落ちた。
貴族だと言えば、シバレの名前を出せば乱暴はされない?甘かっ
た。ろくに話せもしないそんな状況で、身分立場を弁明することな
どできまい。俺は事件を解決するひとつの歯車になれればいいと、
希望さえ持ってここへやってきたというのに。
何をすればいい。俺は、ここで何をすればいい。
苦しくて、ここから逃げ出したい。そう思い始めてから、どうい
うわけか意識が飛び始めた。自分の中に俺以外の誰かがいる感じは
前からしていたが、ここまで強烈なのは初めてだった。俺もそいつ
もここから逃げたくて、出口を求めてもがいている。
﹁⋮カイル﹂
希望がない。体が持っていかれる、そんな感じ。俺の中の何かが、
俺から離れ、元あるところへ帰りたがっている。
俺は誘われるままに、意識を飛ばした。このまま眠ってしまえば
二度と目覚めることはないんじゃないかと、どこかで思いながら。
363
﹁リョウ、起きろって。もう昼だぞ﹂
俺は耳に馴染んだ心地よい低音に目を覚ました。
ふわりと霞んだ視界に、愛しい男の姿を見つける。陽の光が窓か
ら惜しげもなく注がれ、暖かな日差しが体を包んでいた。どうやら
ソファでうたたねをしていたらしい。
﹁んんー﹂
大きく伸びをして、辺りを見回す。こじんまりとした、居間と寝
室の二間続きの部屋。白い壁と明るい木の床。
そうだ、俺たちはかつて二人で過ごした、騎士団の独身寮に戻っ
てきたのだ。
﹁飯作ったぞ、簡単で悪いが﹂
﹁うん⋮良い匂い﹂
ベーコンと卵のじゅうじゅうと焼ける音。黒いフライパンを持っ
たカイルを見て、俺は不思議と心が休まるのを感じた。足を木の床
に滑らせ、食卓につく。
﹁パンは?卵はふたつでいいか?﹂
﹁いる。卵は三つにして。なんか腹減った﹂
364
﹁どうした、珍しいな。全部食えるのか?﹂
目玉焼きを三つ分皿に移しながら、カイルがからかうように柔ら
かく笑った。確かにいつもだったら二つに留めている。さすがに三
十まであと少し、コレステロール値が気になる年頃である。
﹁いいの。なんか、食べたい気分なの。あ、でも食えなかったら、
残り食って﹂
﹁はいはい﹂
騎士団の運動量から行くと、奴はメタボリックからは無縁だろう。
夜も運動してるし。
あれ?と、ここで俺はこのくだりに何故か漠然と既視感を覚えた
のだがそれだけで、さして気にもしなかった。大事なことのように
は思えなかったからだ。
首を傾げた俺を、カイルが不思議そうに見る。どうかしたか、と
問うチョコレート色の目に、首を振って見せる。
﹁何でもない⋮﹂
﹁そうか?早く食べろ、冷めるぞ﹂
﹁⋮ああ、うん﹂
目玉焼きは醤油派だが、致し方ない。アツアツの塩の利いたベー
コンに、とろとろの黄味を絡めて食べるのもまた乙なものだ。
幸せだな、と思う。窓から見える真っ青な空には綿菓子のような
雲がのんびりと浮かんでいる。その空には既に太陽が高くに昇って
いて、寝坊して昼頃になってから朝食をカイルと食べている。これ
が幸せの形でなかったとしたら、何が幸せだろう。
365
﹁おい、どうした﹂
そう思ったら、何故か涙が溢れてきたのだ。もちろん、ほんのち
ょっと滲んだだけだ。焦ったカイルがガタンと音を立て、テーブル
を回って寄って来る。大袈裟な奴だ。フォークが床に落ちるのも構
わずカイルは布巾を手にした。
身を引いて、カイルが伸ばしてくる手を避け、自分で目を擦る。
曖昧に笑いながら。
﹁いいよ。⋮おかしいな、俺、別に泣くつもりなんか⋮あれ、ほん
と俺おかしい﹂
﹁お前は、本当によく泣く。いいから擦るな﹂
呆れたように言いつつ涙を拭ってくれるカイルが、俺はたまらな
く好きで。
﹁だって、勝手に出てくるんだ﹂
﹁仕方がないな、ほら、こっちを向け。擦るから赤くなってるぞ。
何でそう、すぐ泣くんだ﹂
大人しく顔を拭かれるままにする。
俺はきっと、初めてカイルに涙を拭ってもらったときには既に、
こいつを自分の領域に入れていた。だって俺が泣き虫なのは、こい
つの前だけなんだ。慰めてほしいのはカイルにだけ。愛してほしい
のは、カイルにだけ。
﹁なんだよ、ちょっとだけだろ。それに他の奴の前で泣くかよ⋮あ
んたの前だけだ、そんくらい許せ﹂
366
頭の上で嘆息される。
﹁うっかりそういうこと言うと、酷いことになるって学習しなかっ
たのか?⋮⋮ああ、分かっている、無自覚なんだよな﹂
﹁は?んだよ、それ﹂
今度は、カイルが﹁何でもない﹂と言う。訳が分からないと首を
捻っているといつの間にか涙も止まっていて、ついでに布巾で鼻も
噛んだ。
すると、急にカイルがふと顔を上げた。虚空を見つめ、顔を顰め
る。そして溜息を吐いた。
﹁ここには、﹂
﹁うん?﹂
﹁せめてここだけは、リョウと二人だけでいたかったんだが。呼ば
れているみたいだ﹂
何の脈絡もない言葉だったが、俺にはカイルが何を言わんとして
いるのかが分かった。
﹁俺も﹂
何故って、ここが夢の世界だと分かっているからだ。夢の中には、
苦しいことは何も持ち込みたくない。幸せの形を、噛みしめていた
かった。
﹁だけど、そろそろ戻らなければな。本物のリョウを迎えに行かな
ければ﹂
﹁うん﹂
367
俺の幸せは、カイルとともにある。
忘れるところだ。俺は大切なことを、忘れるところだった。
俺はまだ戦わなければならないのだ、幸せを手に入れるために。
俺たちのこれからのために。
俺の中の、俺ではない誰かの力が段々と増している。危うく明け
渡しそうになる。均衡はとうに破られ、戦おうとする俺の意志に反
して、俺に残されたものは僅かだった。
368
覚醒
ごめんね、遼。今、まだ神戸なのよ。お母さん、今夜中に帰れそ
うにないの。本当にごめんなさい。今日はおばあさまの家に、その
まま泊まらせてもらいなさい。ね、遼。
俺は携帯を耳に当て、そこから流れてくる母の声に唇を噛んだ。
いつものことだ。平気。俺は平気。なんでもない。だが思ってし
まう、⋮︱︱なんで誕生日くらい、と。
わかった。ううん、大丈夫。仕事がんばってね。そう言う俺の声
は湿っていなかっただろうか。
父が幼少期に過ごしていた部屋は十二畳間の和室だ。いやになる
ほど綺麗に片付いていて、机と箪笥の他には何もない。祖母はまだ
午後九時にもなっていないというのに、既に就寝している。
別にあの女に、誕生日を祝ってもらいたいなんて思っちゃいない。
けれど、この広い部屋に、いつも以上に俺は一人だった。
無性に、家に帰りたいと思う。蛍光灯の無機質な光のせいで、床
に転がった、見慣れているはずのランドセルが見たことのない物体
のように見える。そう。この家全体が俺を拒絶しているような、そ
の感じはいつまでたってもなくならない。
祖母の態度をそっくり表したような、冷たくて暗い屋敷だった。
名前を呼ぶ声に目を覚ます。
︱︱︱帰ろう。ごめんな、遅くなって。
369
父さん、と眠たい目を擦る。仕事だったんじゃないの。きゅうか
んでしょ。
布団にも入らず、携帯を握り締め、いつのまにか畳の上で眠って
いたようだ。父親の体温が温かい。
仕事なんていいんだよ。お誕生日おめでとう、遼。その声にほど
なく、どうしようもなく涙が出た。
お母さん、今日は連れて帰ります。預かっていただいてありがと
うございました。
父の声は怒っているみたいだった。
寝間着姿の祖母は、親子共々可愛げのないこと、などとぶつぶつ
と呟き、泣いている俺を憎たらしそうに見ている。俺はまた泣き虫
と罵られるのかと思い、ありがとうございましたと早口で言って、
父親の首に顔を寄せる。つうちょうに振り込んでおきましたから。
父がそう言うと、しかし祖母はそれ以上何も言わなかった。
父は俺にとってはヒーローだった。
母さんが明日、お前の好きなオレンジを箱で持って帰って来るっ
て。あの人はいつも、どこかずれてるんだよなあ。
車へ向かいながら、オレンジのようにまん丸い月を見上げて父が
笑う。父はそんなことを言いながら、母のことが大好きなのだ。そ
して俺は、そんな両親が大好きだった。
なのに、どうしてだろう。両親の顔がひどくぼやけている。思い
出せない。ここまで、なのか。まさか忘却の波は、もうここまで押
し寄せているのか。
370
取り去らないでくれ、どうか。俺から、秋塚遼を取り去らないで
くれ。
誰に懇願すればいいのかわからないまま、嗚咽に織り交じる叫び
を、慟哭にのせた。耐えられない。一体、俺はどれだけのことを忘
れているんだ?既にどれくらいのことを置いてきたのだろう。俺は
誰だ、俺を俺たるものとするすべてが、消え去っていく。その感覚
に耐えられない。
俺はあいつを、覚えていたいのに⋮⋮︱︱︱︱
頭が、痛い。
絶えず、いくつもの鐘が音を鳴らし合い、反響し合う。わずかに
残された俺の意識が、呼び覚まされる記憶を食い止めているが、も
うその奔流は止められない。奥深くに意識が沈み、
声が聞こえる。よく知っている声だ。ゆっくり黒い水底から浮上
するように、意識が覚醒する。
﹁⋮バ、ちぇらー﹂
・
自分の声ではない声が、僕の鼓膜を震わせた。
371
︱召喚、転移術式の説明︵画像︶︱
<i135260|13498>
表示画像が小さいので、見にくいときは、画像をクリックしてみ
てください。
︵注意︶別のサイト︵なろう公認画像サイト﹁みてみん﹂︶に飛
びます。そしてさらにそこに現れる画像をクリックすると、原本と
同サイズで表示されると思います。
PC以外で閲覧してくださっている方には、申し訳ありません。
この画像は説明補助的なものなので、見なくても差し支えありま
せん。興味のある方のみご覧になってください。
372
︻過去︼1年前︱召喚︱
一か八かの賭けだった。
去年の冬。バチェラー・イザルが死んだと聞かされたときに、中
央庁に自由を売り渡した僕は初めてそのことを後悔した。
﹁嘘、⋮うそだ﹂
かつん、と音を立てて一枚の折りたたまれた黄色の紙が落ちる。
そこには、﹁バチェラー・イザル死亡﹂とだけ書かれていた。
﹁嘘ですよね、ねえ⋮嘘だって言って下さい⋮こんなの⋮﹂
いや俺はそれを持っていけって言われただけで、と中央庁の役人
がおろおろと答える。
﹁⋮⋮僕が絶望すれば、実験体に使えるって、魔力が剥離するって
⋮そう⋮おもったんでしょう?⋮⋮どうせ、中央庁のたくらみなん
だ。しんだなんて、うそ⋮うそばっかり﹂
﹁⋮あの、すみません﹂
放してください俺もう行かなきゃ。すがりつく僕を振り払って、
訃報を知らせた中央庁の役人は慌てた様子で居住区の扉を外から閉
めた。
嘘とも本当ともわからない。
373
僕のもとに届けられるのは、中央庁からの限られた情報だけだか
らだ。彼のところへ行きたいとどんなに願っても、囚われたままの
僕には全くの不可能でしかない。その情報を確かめるすべは僕には
なかった。
﹁⋮あるじゃないか﹂
否、ひとつだけある。しかしそれはあまりに危険で、罪深い術式。
召喚術が頻繁に行われていた古代ビデ王国でさえ、その危険性故に
禁忌とした術式だ。
一か八かの賭けだった。
成功する確率は極めて低い。成功すれば僕はこの鳥籠から逃げら
れる。誰にも気付かれずに。しかしその代償に、この術式は多くの
人を巻き込む。
﹁試してみるしか、ない﹂
器
を召喚するために。禁忌を犯
僕はゆっくりとその足で13階の実験室に向かった。14年前の
事件で血塗られたその部屋へ。
すために。
﹁⋮ごめんね﹂
誰にともなく呟かれた謝罪の言葉は、ひどく虚しく聞こえた。
未明。太陽が街の地平線に現れる前。13階の中央の、かつて父
が立ったところへ立ち、僕は身体に刻んだ術式に魔力を沿わせ、丁
寧に術式を発動させる。そして無事に発動できたことを確認し、魔
力の流れに身を任せた。
それから、あの雪の夜まで僕の記憶はおぼろげだ。
374
375
︻過去︼数か月前︱空白の夜に︱
あれから、どれくらいの年月が経ったのだろう。
雪の夜だった。その夜降り出した雪は翌朝まで降り続き、世界を
真っ白に覆い尽くした。赤の映える、真っ白に。
リョウ・アキヅカが数日間昏睡状態に陥った原因となる夜。この
夜初めて、ようやく僕は目を覚ました。
リョウ・アキヅカの意識は深く眠りにつくと、魔力の締め付けが
緩くなる。そのことを知っていた僕は暗く苦しい水底から抜け出し、
やっとの思いで僕とリョウの境界をこじ開けたのだ。
・・
僕たちは喉の渇きを覚え、目を覚ました。今では、それが偶然で
なかったことを知っている。ごく微弱の心理操作術式だったが、か
けた術者の魔力を僕は知っていた。
微弱な月の光が、ぼうっと独身寮の居間の床を光らせていた。し
んとした冬の始まりの気配。
リョウの意識は寝ぼけてはいるがしっかりしている。しかし境界
の穴が広がった今、僕がその意識を刈り取るのは容易にさえ思えた。
危険な行為だった。リョウの意志は強く、逆に僕の意識が消えて
しまう可能性だってあったのだ。しかし近くにあいつの魔力を感じ
て、僕は危険を承知で踏み切った。この機会を逃せば、もう駄目か
もしれない。そう思って。
﹃寒そうだね﹄
376
窓の外に目をやると、そいつが笑っていた。
﹃⋮あんた、日本人?﹄
誰何するより先に、リョウは自分によく似た容姿をしたその男に
訊ねずにいられなかったようだ。スグルは、僕たち兄弟の中で、最
も父に似ているから。
﹃ちがうよ。親父は渡り人だけどな。だから、なんつーんだっけ⋮
ハーフ?﹄
スグルは魔力の感知も何もかも、術式のことに関しては昔からピ
カイチだった。ビデ人でさえなければ、カイル・エッケナと同様に
器
騎士団にだって入れたはずなのに。そんなスグルが、リョウ・アキ
ヅカの中の僕の魔力に気が付かないはずがない。
僕の算段通りだ。
﹃⋮渡り人って﹄
﹃親父は二ホンから輸入されてきたの。魔力をしまっておく
器
のことを、昔ビデ王国の連中は渡り人って呼んでた﹄
としてね。チキュウ人は魔力がないからな、丁度いいのよ。召喚さ
れた
﹃⋮なんだよ、それ﹄
﹃あんたもそうだ。お勤めご苦労さん。もういらないから、兄さん
の魔力を返せよ⋮なあ、兄さん。気づいてんだろ?早く出て来いよ﹄
最後の言葉は、僕への言葉だ。沸き立つ訳の分からない恐怖を抑
え、リョウは低く声を轟かす。
﹃ふざけたことぬかしてんじゃねえぞ﹄
377
﹃ふざけてないよ。⋮ああ、頭がおかしく見える?そうだな、俺も
そう思う。きっと父親がおかしかったせいだな⋮俺たち家族は、み
んなくるってんだ。唯一まともそうに思えた兄さんも、大概だった
なぁ。恋人の生死を確かめるためだけに、禁忌犯しちまうなんて。
あんたも可哀そうな奴だよな、こんなことに巻き込まれちゃって﹄
スグルは父に似ている。記憶にあるより、さらに似ていた。姿か
たちではなく、性質が。悲しいほどに似ていた。
べらべらと楽しそうに喋る弟を見ていられず、僕は声をかけた。
﹃スグ﹄
﹃⋮ああ兄さん?起きたんだ、遅いじゃん﹄
リョウの意識が衝撃を受けた隙を狙って、魔力で押さえつけるよ
うにして強制的に眠らせる。スグルがへらりと笑った。
記憶は恐らくスグルが消すだろう。それが望ましい。リョウには、
僕からすべてを話したい。許されることではないが、彼を巻き込ん
だ張本人として僕には説明する責務がある。
﹃久しぶりだね﹄
﹃うん迎えに来た。あ、大丈夫だよ。兄さんの身体は俺が面倒見て
る。結構痩せちゃったけど﹄
﹃バチェラーは﹄
﹃生きてるよ﹄
安堵と、やはりという思い。
すべて中央庁の企みだったのだ。
﹃そっか。⋮よかった﹄
﹃早く戻ろうぜ。術式で使う血も、大体溜まったんだ。あと一人分
378
くらいかなあ、⋮って、ちょっと兄さん泣くなよ。もう少しで会え
るだろ﹄
顔をうつむかせ、自分のものではない手でわななく唇を押さえる。
胸が熱い。
器
となる渡り人。器に魔力をす
﹃ああ。あとは僕の魔力を、僕の身体に戻すだけだね﹄
一か八かの賭けだ。賭け金は
べて移した前例はない。理論上は可能だ。上手くいけば、意識は魔
力と一緒に、身体の受けている拘束を受けない場所に移動できる。
僕は、その可能性に懸けるしかなかった。それが過ちだと、禁忌だ
と知っていても。
どうしてそのとき僕が、過ちと知っていながらその道を選んだの
か。それは、父がかつて過ちを犯したときと同じ理由だったのだろ
う。僕は、僕たちは自由を欲した。愛する人に、ひと目会いたくて。
僕たちは、狂っている。
379
︱人物相関図︵画像︶ネタバレを盛大に含みます︱︵前書き︶
ネタバレ注意!!!
380
︱人物相関図︵画像︶ネタバレを盛大に含みます︱
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遼︶
・リョウ・アキヅカ︵27︶
︵秋塚
175cm 黒目黒髪、甘さの混じる精悍な顔立ち、切れ長の目
元がどこか色っぽい。
顔に似合わず、声は低め。初対面の人には緊張してしまって敬語が
デフォルト。慣れると途端に下町の悪ガキのごとくに口が悪くなる。
ツンデレ。脚癖が悪い。ギャップが酷い。
好きな食べ物:オレンジ
苦手なもの:祖母、高所、暗く狭い場所︵納戸等︶、酒
・カイル・エッケナ︵28︶
187cm 金茶色の髪、濃褐色の目。筋肉質でがっしりとした体
格。気の良いお兄さん。
第五番隊副隊長。すこぶる優秀。魔力保有値が高く、感知が得意。
バーバラ・シバレ
好きな食べ物:肉
苦手なもの:姉、掃除
エッケナ家
・父:ハロルド・エッケナ︵14年前に死亡/享年43︶
稀代の天才と呼ばれた。全第五番隊副隊長。穏やかな人で、隊長ポ
ラルを御すのが恐ろしく上手い。
魔力保有値が高く、14年前の﹃転移術式﹄の血の提供者。
・兄:エメット・エッケナ︵32︶
381
新婚
・姉:バーバラ・シバレ︵29︶
ゴージャスな巻き髪の美人。エクスィーダ王国のシバレ準男爵に嫁
ぎ、シバレ商会を仕切っている。
リョウをなんとかシバレ商会に雇用できないかと模索中。
・妹:キャロライン・エッケナ︵21︶
女学校出身。未婚。立派な腐女子。シモン・ココルズに恋をしてい
る。
・弟:チャールズ・エッケナ︵18︶
学府の寮に住む。はにかみや。平民であることを気にしている。
第五番隊
・ポラル・ド・ネイ︵65︶
183cm家督を長男に譲って、なお五番隊に居座る古だぬき。
第五番隊隊長。人工つるっぱげ。潔さが信条。ふざけた性格。
苦手なもの:ハロルド・エッケナの叱責
・シモン・ココルズ︵22︶
178cmひょろりとした、寝癖が特徴の若者。本人は気にしてい
ない。
たまに頭が刈られているのは、寝癖を見かねたポラルの意向。
・ジュリアン・ド・ネイ︵16︶
166cm女装癖有。ジュリーと頑なに呼ばせたがる。白金の長い
髪も相まって、天使のような中性的な雰囲気。
父親のポラルが嫌い。なぜって、かわいくないから。足を削ってで
も今の身長をキープしたい。
戦闘中はアマゾネス。グスタフの双子の弟。
・グスタフ・ド・ネイ︵16︶
165cm腕白坊主。短い白金の髪。双子の弟ジュリアンと同様、
戦闘狂。五番隊きっての武闘派。
382
・ラシュ・ツティア・ローラン︵27︶
180cm琥珀色の目黒髪。褐色の肌。三兄弟の末っ子で、最もビ
デ人らしい容姿。しなやかな長身。
副隊長カイル・エッケナを崇拝している。どこからともなく現れる
ので第五番隊の同僚にも恐れられているが、大抵は副隊長の生活を
観察し強さの秘訣を探って︵ストーカーして︶いる。
・ケネス・ツティア・ローラン︵37︶
177cm黒目黒髪、褐色の肌。母にビデ人を持ち、外見はビデ人
のそれ。眼の色は日本人の父親譲り。
第四番隊筆頭研究員。古代ビデ語が読める。頭が良い。
14年前に、弟たちのヘンウェル王国市民権と引き換えに中央庁に
身を売る。それ以来実験棟を出たことはない。
・バチェラー・イザル︵54︶
196cm鉤鼻、猛禽のような鋭い雰囲気。
第七番隊副隊長。普段は軟派な態度を取っているが、第七番隊の副
隊長なだけあって残酷なことも平気でする。ケネス一筋の可哀そう
な人。
・スグル・ツティア・ローラン︵33︶
173cm琥珀色の目黒髪、黄色人種らしい容姿。日本人でも通じ
そう。三兄弟の次男。
皮肉屋。お兄ちゃん子。父親に反発しているが、実は一番の甘えた。
カイルの兄エメットの学友。
カイルに肩を並べるくらいに優秀な術者。オールラウンダー。ビデ
平和国軍の幹部。
・キョースケ・ツティア・ローラン︵14年前に死亡/享年50︶
383
︵土屋
恭介︶
﹁転移術式﹂初代術者。第四番隊筆頭研究員。
過去にビデ王国にて召喚されたと思われる日本人。
最後まで帰郷を諦められず、日本に転移先を設定し術式を発動。キ
ョースケの体内の魔力から、術式が暴発。失敗に終わる。
・ナウマン︵57︶
164cm第六番隊隊長。バチェラーの友人。
強く面倒見が良い市民の味方、騎士中の騎士。ちょっとばかし身長
は低めだが、そこもチャーミング。皆に慕われる。細君はビデ人。
尻に敷かれていることを、誰にも知られていないと思っている。が、
そこもチャーミング。
14年前、幼いスグル、ラシュを引き取り育てた。
384
あなたにずっと会いたかった
﹁バ、ちぇらー⋮﹂
声が僕の意志を表すのを聞いて、僕は運命との賭けに勝ったこと
を知った。
二度目にして、完全なる覚醒。今まで断片的にしか得られなかっ
た世界のかけらが、色鮮やかに意識にのぼる。しかしそれと同時に
襲ってきた、体の鮮烈な痛みに呻いた。リョウの意識を通じて間接
的に感じていた苦しみの比ではない。
僕は泣きたい気持ちになった。
何故、と思う。なぜ、リョウ・アキヅカがこんな拷問のような仕
打ちを受けているんだ。なんでこんなことになっている。
﹁副隊長﹂
身じろぎすると、後ろに回された両腕の手首の縄がぎしりと鳴っ
た。意識を取り戻した僕に気づき、隊士が誰かを呼ぶ。
僕は椅子に座った状態で、縛り付けられているようだった。ある
部屋の中央にいるらしいが、久しぶりの視界の刺激に目がくらむ。
﹁なかなかしぶといですよ、こいつ。噛みついてくるので気を付け
てください﹂
こいつ、というのはきっと、リョウのことだ。
そうか、戦ったんだね。最後まで。
この体の主の青年の意思は驚くほど、強い。僕の魔力の下で眠り
385
についた青年の存在を感じながら、しばらく眠っていてくれと願う。
今だけは。心に受けた傷を癒すために。
そして、あと少し、僕に身体を貸してほしい。あと、ほんの少し。
勝手だと、分かってはいるが。
﹁しかし、わかんないもんですね。こんな綺麗な顔してるのに、あ
の第五番隊の隊士を殺しちゃうんですもんね。犯人って聞いてどん
ないかつい男かと思いきや﹂
﹁諜報員だっていうのは頷けますけどねえ﹂
副隊長
と呼ばれた男が眺めている。
﹁この顔で﹃教えて﹄、なんて言われたらつい教えたくなっちゃう
もん、俺も﹂
﹁違いねえ﹂
格子の嵌まった窓の外を、
その大柄な男の後ろ姿を見て、僕は込み上げる歓喜と、それに相反
する悲しさに震えた。
︱︱バチェラー・イザル。顔を見なくてもわかる。ずっと、ずっ
と会いたかったから。
﹁黙れ﹂
上司の低く這う声に、隊士たちはひっと息を飲み、ぺらぺらと軽
口を叩いていた口をすぐさま閉ざす。
バチェラー・イザル第七番隊副隊長が、ふとこちらを見た。目が
合う。彼は顎をしゃくり、黙って他の隊士を部屋から出した。従わ
ない者は、誰一人としていない。隊士たちは転がるように部屋を出
て行った。
部屋は冷えていた。それはバチェラーが放つ冷気のごとき空気の
386
せいかもしれない。
施錠音がかちりと鳴る。僕とバチェラーは部屋に二人きりだった。
なのに、何故かバチェラーの不審そうな目は変わらないままだ。嫌
な予感がした。
﹁確かに、綺麗な顔をしている。これでエッケナを誑し込んだか﹂
︱︱︱︱︱え? 耳を疑う。
冷酷なまでの視線が僕を差し貫く。唇が動き、懐かしい声が耳を
打つ。しかしその響きは、聞いたことがないくらいに冷たかった。
﹁⋮っ﹂
説明しなければ。そう思うのに、苦痛に叫んだ喉は枯れ、ひゅう
ひゅうと息を漏らすばかりでまともな言葉が出て来ない。
︱︱︱僕だよ、バチェラー⋮
苦しみを受けたリョウの身体は疲弊し、つけられた多くの傷が、
僕に生身の痛覚を思い出させる。そしてそれは、僕に自分の罪深さ
を思い出させた。遠くなる喜び。代わりに潮が満ちるように、心に
押し寄せたのは羞恥心だった。
﹁ここまでしろとは、私は言っていないが⋮まあいい。話が聞きや
すいことに変わりはない﹂
舌を打って、汚いものでも見るかのようにバチェラーが僕を見下
ろす。
387
その目が過ちを犯した僕を断罪しているようで、瞬間、心臓が止
まってしまったような気がした。
﹁私は第七番隊の副隊長だ。君は三人の隊士の拷問、少なくともそ
の内一人の殺害。及び諜報活動に関わったとして疑いがかけられて
いる。初めに言っておく。嘘を吐いたら、今までの苦痛の何倍もの
苦しみを味わうことになるぞ﹂
︱︱︱︱ちがう。
今度こそ、内臓という内臓がすべてその働きを止めた。衝撃に、
息が詰まる。
ちがう、そうじゃない。彼じゃない、断罪されるべきはリョウで
はない⋮!
なんてことだろう。バチェラーはスグルから何も聞いていないの
だ。リョウが全くの無罪であることを、知らないでいる。
計画違い。その言葉が、ガンガンと頭に響いて割れる。
自分の犯した罪がケネスの予想もしていなかったところまで影響
を及ぼし、人を苦しめていることが、恐ろしいほどに胸に迫ってき
た。
﹁まず教えてもらおうか。貴様、どこの犬だ?ビデ平和国軍か?そ
れとも中央庁﹂
バチェラーは、僕を⋮リョウを助けに来たわけじゃないのか。
﹁ち、が﹂
受けた拷問に吠え猛ったせいで、リョウの喉はつぶれている。
388
﹁どうした、声が出ないのか。それともそういう演技か?ああ。同
情を引こうと、そういう算段だな﹂
強く首を振る。違う、違う。何もかもが、違う!縛られた腕では、
手振りで説明することもできない。僕は目で、必死に彼に訴えた。
解放してほしいと。
﹁なんだ⋮縄?﹂
バチェラーは片眉を上げ訝し気に僕を見たが、縄を解いたところ
で僕が逃げられないのは分かっているのだろう。躊躇があって、待
っていろと言うのを、僕は安堵の思いで聞いた。
しかしバチェラーが部屋の入り口へと踵を返したとき、見せた背
中に冷えたように安堵が消え去り、僕は表現しがたい恐怖のような
冷たい感覚が全身を支配するのを感じた。
︱︱いやだ。
体が痛むのも構わず、椅子を揺らす。衝撃で傷が開いたのか、ぱ
たたっと血が床に散る。そのとき僕の頭にあったのは唯一、実験棟
の居住区を出て行くバチェラーの背中だけだった。
﹁ば、ちぇら⋮ッ﹂
必死の思いで名を呼ぶ。掠れきって、ほとんど音にならない。そ
れでも声の限りに、叫んだ。
僕を置いて行かないで。もう見送るだけは、嫌だ。置いて行かれ
るのは、もう嫌だ。
389
するとその呼び声に何を感じ取ったのだろうか。扉の外の部下に
何事かを申し付けていたバチェラーが一瞬止まり、次いで驚いたよ
うにばっと振り向いた。目を瞠り、愕然とした面持ちで僕と目を合
わせる。バチェラーが唾を嚥下する。無精ひげに覆われた喉仏が、
ゆっくりと上下した。
﹁今、﹂
﹁バチェラー⋮ぼくだ⋮﹂
僕は引き攣れる喉の粘膜に構わず、声を振り絞った。
吹いた風が窓を揺らす、そんな音さえ聴こえた。部屋に静寂が訪
れる。体が硬直したように、バチェラーは動かない。
﹁⋮ケネス?﹂
囁くような、聞き洩らしそうになるような小さな声だったが、僕
はそれを聞き取った。バチェラーの声は心にまっすぐ飛び込んで来
たように、僕にははっきりと聞こえる。僕は今度こそ、大きく頷い
た。
﹁水!水と傷薬!それと清潔な湯を持ってこい、大至急!⋮⋮当た
り前だ、医者も連れてこい馬鹿者!﹂
乾いた静寂をバチェラーの鋭い声が破る。そして僕は、駆け寄っ
て来るバチェラーを見た。
390
敬愛と思慕を捧ぐ
ヘンウェル王国騎士団第三修練所。
その広大な敷地の南側に、無機質なガラスで造られた巨大な建造
物が長く続いている区画がある。中央庁の実験棟を模して建てられ
たその棟は、白壁に統一された第三修練所の中にあって異質な空気
をかもしている。第五番隊結界部である。
﹁⋮副隊長、そろそろ少し休まれたらいかがですか﹂
五本の銀糸が刻まれた団服が、無造作に床に打ち捨てられている。
それを拾い上げたのは、結界班のラシュ・ツティア・ローランだっ
た。彼は感知室の窓際に、胡坐をかいて座っている男に視線を転じ
た。他の感知術士の中でも圧倒的な魔力処理速度を見せつける、第
五番隊副隊長カイル・エッケナである。
﹁カイル副隊長﹂
魔導石に手を当てたままぴくりとも動かない彼に、ラシュはさら
に声をかけようかと迷い、その迫力に押され結局その口を閉じた。
﹁第六郭北区三番三丁目、クリアッ⋮!﹂
ひとりの術士が、息を切らしつつ叫ぶ。そのすぐあとに、カイル
の静かな声が落とされる。
﹁北区五番から十番、クリア﹂
391
極限まで集中した彼は、必要なことのみを告げ、再び一人魔力の
海へ分け入る。さらに深く、深く。こめかみにさらに一本、血管が
浮いた。
ぼたぼたと顎を伝い落ちる汗が床を濃い色に変色させている。脱
ぐのも手間だったのだろうか、腕にくしゃりと絡んだ白いシャツは
大量の汗に濡れ、肌に張り付いていた。
﹁⋮第六郭北区三番四丁目、クリア!﹂
また一人、術士が叫ぶ。
王都に張り巡らされた結界内に魔力感知の輪を押し広げる。
些末な魔力反応のひとつひとつを選別し、特定の術式残滓を見つ
けるのは容易なことではない。それこそ砂の海から一粒の宝石を探
し出すようなものだった。
残された区画を一気に五番単位で潰していく、カイル・エッケナ
の鬼神のごときその姿に、結界班の隊士は揃って息をひそめる。
そして。
﹁⋮見つけた﹂
カイルがゆっくりと、伏せていた目を上げる。﹁第六郭北区二十
一番﹂。その濃褐色の眼光はガラス窓の向こうを指していた。
第五番隊は14年前の事件に身を血に濡らすまで、常に第四番隊
392
と歩みをともにしてきた。しかし当時の五番隊副隊長ハロルド・エ
ッケナをはじめとする、7人の高魔力保持者の死によって、第五番
隊は大きな痛手を負ったと言っても良い。第四番隊解体に伴い、彼
らの担う任務から、術式開発に関する軍事機密の警護を外した。
かつて第零番隊や七番隊に並ぶ戦闘能力の高さを誇っていた第五
番隊は、今や防諜専門機関としての性格を現わしつつある。
威力よりも精度を。統率の取れた機動力よりも、互いを補い合う
特殊性を。
かつての戦闘能力は失われたが、今や対国外における情報収集能
力において第五番隊に勝る隊はない。
﹁知らせます!第六郭北区二十一の結界内に、騎士団汎用型術式魔
力残滓感知!﹂
喜色満面で五番隊室に飛び込んで来たのは、結界班の連絡役であ
った。勢いよく開かれた扉が反動で壁にぶつかり、大きな音を立て
る。
先日持ち上がったある作戦のもとに、結界班はこの数日、ヘンウ
ェル王都全体を覆う大規模結界の連続展開を行っていた。
﹁第六郭北区二十一!地理班、敵の潜伏しそうな建築物はあるか!﹂
作戦の失敗を予感していた頃である。隊長ポラル・ド・ネイの声
が、一瞬呆けた隊士の背筋を伸ばす。
隊室に所狭しと積み上げられた資料の海をかき分け、地理班が目
当ての地図を探し出す。その拍子に卓上に広げられていた資料がば
らばらと落ちたが、資料が一ミリ動いただけで発狂する隊士も、こ
393
のときばかりは気にもしない。
﹁はい!⋮あります、ありました。条件に合うのは⋮二棟。特定は
できません﹂
﹁構わん!ネイ大隊実動班α、β、γ。及びエッケナ小隊出動準備。
誰か、結界部で死んでる副隊長殿を呼んで来い!﹂
﹁カイル・エッケナ。参上しています﹂
ポラルは驚いて、五番隊室の入口に目をやり、その丸顔から鷹揚
な表情を消した。それはこの男にとっては非常に珍しいことであっ
たのだが、それに気が付いた者はいないようだ。
﹁結構﹂
取り澄ました表情の下で、ポラルは舌を巻いていた。
ハロルドもそうだったがあの家の男は、頭の血管が切れたときに
真の力を発揮するらしい。
太い首筋には幾筋にも汗が伝い団服を濡らしている。厚い胸は忙
しなく上下し、しかしその膨大な量の魔力には一糸の乱れもない。
﹁どうなってんだ、あの人﹂
﹁どんな魔力量してんだよ⋮﹂
ココルズとグスタフを初め、若い隊士は驚きを通り越して呆れす
ら見せる。しかし十四年前以前からの古参の隊士は懐かしそうに目
を細め苦笑した
﹁稀代の天才⋮再来だな﹂
﹁さすが親子。ハロルドさんを見てるみたいだ。あの人は隊長と魔
力の扱いには誰にも引けをとらなかったからな﹂
394
君たちを護るのが私の仕事だからね。
そう言って笑う、かつての副隊長を想う。あれほど穏やかに笑う
人を、彼らは他に知らなかった。その人の息子だ。父親にはあらゆ
る点でまだ遠く及ばないが、その才の限界は計り知れない。
﹁俺はやりますよ、ハロルドさん﹂
﹁貴方のときように、目の前でむざむざ死なせたりはしません﹂
かつては自分たちが護ってもらう側だった。しかし今、自分たち
は当時の副隊長の歳とそう変わらない年齢にまで及んでいる。
十四年前だ。ハロルド・エッケナの死について口に出すことはな
くなった。しかし彼の存在と彼の言葉は、今も彼のかつての部下た
ちの心に残っている。
長い時がすぎた。だがその長さをもってしても、ハロルドへの思
慕と敬愛は消えることがない。十四年前。父を喪った絶望に、苦悶
の声で泣き叫ぶしかできなかった金茶の髪の少年はもういない。
﹁総員傾注、これより状況確認を行う﹂
ポラルの隣に立つ、長身の青年。彼は第五番隊副隊長カイル・エ
ッケナ。彼の全てを射抜くような濃褐色の暗い目は、ただひとり、
彼の愛する人の平安のみを見ていた。
守るべき人を持ったその時、人は強くなる。
395
これが終わったらすぐに、
第六郭北区二十一地区。夜と朝の狭間。空はまだ暗い。
ビデ平和国軍ヘンウェル王国支部のアジトとして候補に挙がった
のは、その区画内で二棟の建物である。
そのうちの一棟は、ただの古ぼけたアパルトメントに見えた。そ
の外観からはまるで想像もつかない。どちらかが当たり。二手に分
かれた第五番隊は、ポラル・ド・ネイ隊長総指揮のもと戦闘準備態
勢に入っている。
﹁⋮くそ﹂
二部隊のその距離、約1km。第六郭の入り組んだ街の構造上、
の場合も考慮しなければならなかった。
即座にもう一方に駆けつけるのは困難と見られたが、その両方が
当たり
﹁なーに、緊張してんのさ﹂
汗で手が滑る。術式展開準備は気が急いてなかなか上手くいかな
い。ココルズはアパルトメントの裏手の赤茶けたレンガ塀に背をつ
け、地面にしゃがみこんでいた。そんなココルズの頭を叩いたのは、
グスタフだ。見れば、少年は笑みさえ浮かべている。ココルズは魔
導石に再び目を落とす。
﹁緊張もするさ⋮⋮突撃ったって、それにしちゃ人数少なすぎるだ
ろ⋮﹂
396
アパルトメントの裏路地にて突撃命令を待つのは、第五番隊大隊
γ班、エッケナ小隊のみである。少数精鋭と言う言葉面は心地良け
れど、その人数はあまりに頼りなく見えた。
それとも摘発って普通こんなものなのかよ⋮と、口を開けば弱音
ばかりが出てくる。
﹁確かに少ないけどさ、その分恩賞はデカいぜ?﹂
﹁そんなふうには、とてもじゃないけど考えられない。第七番隊が
いてくれれば⋮くそ、こういうときのための猟犬だろうが﹂
本来、直接の摘発は猟犬こと、第七番隊の任務だ。
﹁仕方ないじゃん、その第七番隊がビデと繋がってる疑惑があんだ
から﹂
﹁⋮くそ﹂
﹁秘密任務って、ちょっと興奮しねえ?﹂
﹁この戦闘狂が⋮﹂
グスタフの傍らで、双子の弟のジュリアンは黙々と大量の術式と
火器の準備をしている。一言も喋りはしないが、それがむしろ今は
恐ろしいばかりだ。この双子は、こういうところでよく似ている。
﹁ココは後衛だろ?前衛は俺たちに任せてさ。それに後ろにはカイ
ルさんがいるからまったく、なぁんも、心配する必要ねえじゃん﹂
﹁そうだけどさ⋮﹂
﹁後衛は、俺たちの命を護ることだけ考えてくれればいいよ。お前
たちの命は俺たちが護る。って、これ親父の言葉だけど。たまーに、
いいこと言うんだよな。隊長なだけあって﹂
397
とかなんとか続くんだ。前副隊長の口
。と、そ
前衛は敵の
うんうん、と自分で頷いているグスタフに、一人の古参の隊士が
声をかけた。
﹁グスタフ。それ、ちょっと違うぞ﹂
﹁えー、何が違うんすか?﹂
ネイ大隊γ班の班長をしている男だ。
﹁それは、前副隊長の言葉だ。それにちょっと違う。
それが私の仕事だ
ことだけ考えていればいい。君たちの命は私が護るから
れから
癖みたいなもんだ﹂
十四年前に殉職したという、前副隊長を慕う隊士は、五番隊内外
問わず驚くほど多い。しかし、ココルズにはその理由が分かったよ
うな気がした。
﹁かっけー⋮。なんだよ親父、マネっこかよ﹂
﹁カイルさんのお父上ですよね。確か、第四番隊の警備中に亡くな
ったとか﹂
﹁正確に言えば、四番隊主導の転移術式実験に協力したせいでな﹂
γ班の班長は憎々し気に吐き捨てる。
﹁⋮その﹃転移術式﹄が最近完成されたって、本当ですか﹂
ココルズは、自分の手がもう震えていないことに気が付いた。
﹁ああ、俺たちには知らされていなかったが、中央庁が秘密裏に進
めていたらしい。それを知ったビデ平和国軍がその術式の所有権を
398
主張しているのも、俺なんかからしたら当然のことだと思うぜ﹂
その暗い声にぎょっとしたのはココルズだけではない。その言葉
の表面の意味だけを捉えれば、犯罪組織であるビデ平和国軍を認め
ているも同然だ。
﹁は、班長⋮﹂
﹁元はと言えば、ビデとの共同実験だったからな。初期資料のほと
んどと、魔導石産出はビデ王国からの出資なんだ﹂
﹁しかし⋮﹂
﹁誰もビデ平和国軍の正当性を認めていると言ってはいねえよ。や
り方は問題だらけだ。でも少なくとも、中央庁にも非があるってい
うことだ。こんなこと言ったら喚問されそうだが﹂
﹁強者が正しいとは、このことですね﹂
﹁カイル副隊長もよく耐えていると思うぜ﹂
突然のその名前に、グスタフが﹁何で?﹂と首を傾げる。
γ班長は視線を上げ、結界班に指示を飛ばすカイル・エッケナを
見た。
空は曇っている。吹きすさぶ風が路地裏の雪を空気に含ませ、視
界を曇らせる。第五番隊副隊長の表情はここからではよく見えなか
った。
﹁あの人からしたら父親を殺した﹃転移術式﹄に関しちゃ、ビデも
中央庁も同罪なんだよ。関わることも嫌だろうに、その一方の側に
ついて戦うなんて⋮⋮どんな気持ちがするんだろうな﹂
突撃号令は未だ、かからない。
399
******
﹁ラシュ﹂
突撃準備の号令がかかった。突入まであとほんの少し。
カイルは後ろにつく、ビデ人の青年を呼んだ。
﹁⋮は﹂
ラシュ・ツティア・ローランは、敢えて動揺を隠さなかった。そ
れは罪悪感から来るものだろうか。
﹁俺は、お前を許すことができないかもしれない﹂
﹁⋮はい﹂
幼少からずっと、憧憬の目を向けられてきた。それはくすぐった
くも、嬉しかったのだ。裏切られたと思う自分の心が、今は嫌だっ
た。
﹁だが、何故黙っていたとお前を糾弾することは、俺にはできない。
兄への思いと良心の間で悩み苦しんだお前の気持ちが少しはわかる
からだ。俺も、リョウを諜報員だと疑ったときは、自分の良心なぞ
どうでもよくなりかけた﹂
﹁いえ⋮でも、話すべきでした﹂
スグル・ツティア・ローランと、第七番隊副隊長バチェラー・イ
ザルとの繋がり。ラシュがそれをカイルに話したのは、リョウが第
七番隊に連行されたその翌日だった。
400
﹁そうだな。もっと早くに話して欲しかった。そうしたら俺は彼を
疑わずに済んだ⋮⋮︱︱いや、違うか。それは俺の弱さだな﹂
はじめからリョウの言葉を信じることはできたはずだ。それがで
きなかったのは、ひとえに自分の弱さだ。
﹁バチェラー第七番隊副隊長は、自分が情報漏洩をしているとは気
が付いていません。ただ、恋人の、ケネス・ツティア・ローランの
命を助けるためだと思っています﹂
カイルは無言で魔導石の術式を書き換え、術式のセーフティを外
す。使用する術式は、汎用術式よりも威力のあるものだ。一気に殲
滅するつもりだった。一刻の猶予も許されない。じわじわと丁寧に
攻めている時間はなかった。
﹁早くしなければ、リョウの身が危ないということだけは頭に入れ
ておく。俺は何も知らなかったとはいえ、リョウに何かあればバチ
ェラーにも容赦はせん。お前の長兄にもだ﹂
正気でいられる自信がない。
あの術式に関わったことで、父に続き愛する男を失うことなど、
到底考えられなかった。
﹁咎めは受けるつもりです﹂
何故だか顔を上げることができない。カイルは原石から削った魔
導石の輪郭を、親指でなぞってみる。
﹁⋮⋮お前の進言がなければ、騎士団汎用術式の使用残滓からこの
401
場所を割り出すことは思いつかなかった。その点だけは、感謝して
いる。まさか騎士団の術式の漏洩までしているとは、思いもよらな
かった﹂
だからと言ってラシュの罪が軽くなるわけではないが、彼の罪を
認めたくないと思っている自分もいた。恩赦という言葉が頭をよぎ
る。それが、今は本当に嫌だと思う。
余計な感情を失くしたいと、思った。責任も立場も余計な感情も
何もかも捨てて、リョウへの思いだけで心を満たすことができたら、
どんなに楽だろう。
﹁騎士団内部には多くのひずみがあると、スグルが言っていました﹂
﹁どうしたら、いいのだろうな。⋮俺にはわからん。それをどうに
かするのが、第五番隊の仕事なのにな﹂
﹁カイルさん﹂
﹁俺は、第五番隊を辞めたいと、今ほど思ったことはないよ﹂
自分がこの立場にいなければ、今すぐリョウを救いに行けた。自
分がこの立場にいなければ、リョウを疑うこともなかった。信じた
かった。純粋に、彼の言う言葉だけを。
﹁⋮辞めては、いけないのですか﹂
﹁俺には、責任がある。それはできない﹂
でも、もし
﹁カイルさ︱︱︱︱﹂
402
耳に着けた通信機が微弱な音を発するのを、鼓膜が捉える。そし
て、聞こえてくる。本隊からの号令。
これが終わったら、すぐに向かおう。
﹁総員、位置につけ。︱︱︱︱突入だ﹂
403
これが終わったらすぐに、︵後書き︶
クリスマス番外編﹁残された想いはそれから。﹂は小説の形を整え
るために、別のお話として投稿致しました。閲覧下さった方、あり
がとうございました。お楽しみ頂けたなら幸いです。
404
逃げられない
流れ込むケネスの記憶。ごうごうと唸りを上げて何もかもを飲み
込んでいく。激しい奔流の中で俺は思わず目を閉じた。
強制的に意識をシャットダウンするような、この感じは初めてで
はなかった。覚えがある。考えてみれば、この世界にやってきた夜
に強烈な眠気に襲われた。
︱︱︱︱これが、あんたの望みか。ケネス。
ちんけな後ろめたさでも感じているのだろう。ケネスは俺を眠ら
せて、その間にすべて終わらせる気だ。
﹁ごめんね、リョウ。あと少し、僕に身体を貸していて﹂
顔に打ち付ける泡と冷たい水の中で、ふっと意識が遠くなる。闇
は俺を静かな平安に導く。もういいか、俺はそう思った。安寧に身
を任せそうになる。そのときだった。
﹃リョウ!﹄
外側ではない、柔らかな内側を掴まれるような心地がして俺は目
を開けた。俺を必死なまでに呼ぶ声は、そう、あいつの声だ。そし
てケネスの記憶に混じり、俺は失くしたはずの自分の記憶を見つけ
た。途端に蘇る数々の記憶。
︱︱︱なんだ、これは。身体を⋮⋮貸す?
405
﹁君が目覚めたら、僕の魔力は君の身体からもう出て行っている。
それまでの辛坊だから、どうかそれまで、眠って﹂
ふざけるな、やめろ。今すぐ俺から出て行け。怒り、憤怒。俺は
体中の血が沸き立つほどの強い衝動が、むしろ頭を急速に冷やすの
を感じた。その怒りの熱が脳を冴え渡らせ、動くことのない確固た
る事実を浮き上がらせる。
俺は目を細めた。開いた唇の合わせ目から、細い吐息が漏れる。
・・
﹁ああ、そうか﹂
ケネスの思考の流路を辿ることは、もはや難しいことではなくな
っていた。俺はついにこの世界にやってきた訳を、連れて来られた
理由と経緯を、知ったのだ。すとん、と何かが腑に落ちるような音
を聞いた。
︱︱︱︱そういうことだったのか
気付くと、俺は暗い闇の中にいた。いつだったか、俺はここにい
たことがある。そして同じ空間に、別の男がいることに気が付いた。
その男は俺から顔を背け、明るい場所へ行こうとしている。
俺は瞬間、行かせてはならないと、本能的に悟った。
﹁バチェラー⋮ぼくだ⋮﹂
男が光に向かって微笑む。
﹁待て、ケネス・ツティア・ローラン!﹂
406
身体が重い。鉛のようだ。その身体を持ち上げるだけで、息が切
れた。動くこともままならない自分の身体に苛立ち、俺は激しく舌
を打った。
重い拳を振り上げる。そして声に驚き振り返った男の頬を、思い
っきり殴り飛ばした。
どたん、と大きな音を立て、俺と男は黒い地面に転がり、重なる
様に倒れ伏した。その男は驚きに顔を歪ませ、目をみはる。大きな
黒い瞳が俺を見上げた。
﹁ど、どうして﹂
目の前の男がケネス・ツティア・ローランであると、俺は何故か
知っていた。
﹁俺の記憶を隠していたのは、あんただな﹂
﹁なぜ?⋮⋮なぜ、眠らないの、リョウ﹂
﹁眠るものか。やっと会えたな、くそったれ﹂
頭が痛い。俺の意識を封じ込めんとする、強い力を感じる。その
力に抗って、俺は悠然と笑って見せる。乾いた笑い声が、現実とも
思えぬ暗い空間に響いた。
﹁もしかして、思い出したの?﹂
﹁ああ。生憎だったな、あんたの計算違いだ。思い出した﹂
すべて。あの夜から朝にかけての空白の時間も。どうしてあの日、
俺が血にまみれて雪の中に立っていたのかも。
﹁後は僕の魔力を、僕の身体に戻すだけなんだ。お願い、もう少し
だけだから﹂
407
辛うじて保たれていたケネスと俺の間の記憶の境界は、ケネスが
表層に出て来たことで失われた。ケネスが俺の身体の支配権を掌握
しようとしたことが反対に、俺の記憶を完全なものとしたのだ。
流れを堰き止めていた堤は打ち壊されていた。二つの意識は濁流
となり、互いの流路に流れ込む。しかし水と油が混じり合わないよ
うに、俺たちの意識は完全に別だった。
﹁そうだよな。戻れなきゃ、せっかくスグルが集めた血が無駄にな
ってしまう﹂
﹁それはッ⋮⋮﹂
ケネスが言葉を失う。罪のない子供をいたぶるような、暗い悦び
が俺の心をくすぐった。
﹁俺の中の魔力をあんたの身体に戻すために、弟が人を殺すのを黙
って見ていた感想はどう?ケネスさん﹂
﹁止めようとしたよ!記憶を取り戻したなら、君も見ただろう?﹂
これはケネスの予定にはなかったはず。俺に責められ時間を食う
など、予想もしていなかったはず。ケネスの焦りが、手に取るよう
にわかった。
現実の俺の身体はどうなっているのだろう。意識を失っているの
だろうか。
﹁そう?おざなりだったように俺には見えたけどね。本気で止めて
いたなら、死んだ隊士の遺体を抱き上げて、弟が血を抜くのを見る
のはさぞかし辛かっただろう﹂
俺の嘲弄にケネスは言葉を返さない。眉根を寄せ黙り込み、唇の
408
端を噛んでいる。この男が自分よりも十近くも年上だとは、どうに
も信じられなかった。
﹁辛かった。自分が本当の馬鹿だと思ったよ。スグルにあんなこと
までさせて﹂
﹁でも血がなくちゃ、術式の文様は描けないから耐えたと?﹂
﹁⋮⋮そうだよね。結果的には、そうなんだ﹂
切なく笑みするケネスを見て、俺は自分の中で憤りが天井にぶつ
かってくすぶるのを感じた。
独り善がりで、自分勝手なケネス。俺の馬鹿で哀れな召喚主。
俺を眠らせて、その間にすべて終わらせる?迷惑はかけないと、
そういうつもりか。
そんなもの、くそくらえだ。俺は眠らない。他の人間に俺の身体
を支配などさせない。俺の身体だ。これ以上、俺の人生を狂わせる
ことは、許さない。
﹁悪いけど、俺はあんたに身体を明け渡すつもりはない。俺の身体
で恋人との再会を喜ばせる気は、毛頭ないよ。俺の身体は、俺のも
のだ﹂
秋塚遼は俺一人のものだ。お前たちの思い通りには、させない。
409
寝覚めはすがすがしいものではなかった。そうだった、と俺はそ
れまでの尋問のことを思い出し、身体を痛みに縮める。
﹁ケネス﹂
肺から昇り迫った空気が気道を掠め、湿った咳が飛び出る。身体
・・
を折り曲げて咳き込む俺を、心配そうに見つめる顔がある。
﹁⋮⋮バチェラー﹂
・・・・・・・
見たことはないが、覚えはあった。俺は声を発することでずきり
と痛む喉を押さえる。
﹁よかった﹂
心底ほっとしたような顔をしたその男は、俺の脇腹に脱力して顔
を伏せる。俺が無意識に身を引いたことには気付かれなかったよう
だ。どうやらこの男、俺がケネスだとまだ勘違いしているらしい。
好都合だ。俺はここを脱するつもりだった。第七番隊が正当な権
威の下に動いているわけではないのなら、事件の解決など望むべく
もない。
﹁ここって﹂
先ほどまで尋問を受けていた部屋ではない。ベッドと椅子、それ
と木棚があるだけの小さな部屋だった。つんとする薬品の匂いが鼻
をつく。俺が寝ているのは冷たく硬い木の床ではなく、暖かく柔ら
かで清潔なベッドだ。
﹁救護室だ。すまない、君の意識がこの男の中にあるとは知らなか
410
ったのだ。酷いことをしたな﹂
この男?ああ、俺のことか、と思い当たった。何とも腹の立つ言
い草である。俺はぴくりと眉を動かしただけで、つい殴ってしまい
そうになるのを耐える。それはさすがにまずい。
﹁⋮⋮っ﹂
ゴッ、と鈍い音がして、バチェラーが口を押さえて悶えた。
クリーンヒット。拳はまずい。しかしまあ不注意で当たってしま
ったのが肘なら、問題はないだろう。会心の一撃だった。満足がい
くわけではないが。
その間に俺はすばやく入口の扉を確認する。鍵はない。バチェラ
ーが顔を上げるのに合わせ、殊勝な顔を作った。
﹁ご、ごめんなさい﹂
﹁大丈夫。ちょっと当たっただけだ﹂
何?聞き捨てならんな。振り方が足りなかったか。
次はもっと力を込めてなどと考えていると、呟きのような呼び声
が聞こえた。
﹁兄さん?﹂
その瞬間、ぞわりと背筋に悪寒が走る。顔を向けた先には、ドア
ノブに手をかけた一人の男の姿があった。
﹃寒そうだね﹄
411
この声は嫌な記憶に直結する。血で塗れた手の感触や、現実に目
にした死体を俺は今でも目の裏に思い浮かべることができる。手の
平を汚す赤い液体は白い雪に点々と散り、それを辿って行けば、生
気を失った瞳と目が合うのだ。
﹃さあ、これで使う分の血は集まったよ。兄さん﹄
宿を抜け出そうとしたスグルとケネスに行き合ったばかりに殺さ
れてしまった、第五番隊の青年だった。俺とカイルの泊まる宿を警
備していたのだろう。
その青年の息絶えた身体から、最後の血を抜き取るスグル・ツテ
ィア・ローランの笑い顔。
﹁スグ﹂
俺は乾いた舌の根を動かし声を出した。そうして発した言葉は、
幸いなことにケネスの言葉に聞こえないこともない。
男は初めぼんやりとした顔つきであったが、俺と脇に膝立つバチ
ェラーの姿を視界に納めると親しみらしいものを表情に浮かべた。
﹁もう身体は大丈夫なの?﹂
首を横に振り、俺はぎこちなく笑んだ。手に脂汗が滲む。俺がケ
ネスではないと、今この男に気付かれるのはまずい。
﹁まだ声が出ないらしい﹂
﹁そっか。でも魔力と身体が回復するまで、ゆっくりしている暇は
ないみたいだよ﹂
スグル・ツティア・ローランが疑いを抱いている様子はない。俺
412
の心配は杞憂だったのかもしれないが緊張は解けない。この男の気
味悪さは、脅威を感じさせる。
スグルがベッドに近づいてくる。救護室の入り口の扉はスグルの
背に隠され、俺の視界から消えた。
﹁何かあったのか﹂
バチェラーの問いに、スグルは転じて苦々しい面持ちで頷いた。
﹁ええ。ラシュがどうやら、俺たちのことを告げ口したようです﹂
﹁ラシュ?﹂
﹁僕らの末の弟ですよ。あいつは兄弟故郷よりも保身を取ったらし
いですね。まあ、あいつは昔からエッケナの次男に入れ込んでいた
から、予想はしていましたが﹂
﹁まずいな﹂
バチェラーが顔を顰める。鷲鼻の付け根に皺が寄って、鋭い目つ
きが凶悪だ。
﹁というわけで、悪いけど兄さん。魔力が最低限回復したら、術に
取り掛かろう﹂
﹁大丈夫、なのか﹂
俺は努めて平然と尋ねる。
﹁喋らなくていいよ。成功率は少し下がるかもしれないけど多分平
気。第五番隊の隊士から採った血液には、予想以上の魔力量が含ま
れていたから﹂
血。それを聞いただけで気分が悪くなるが、俺は何でもないふう
413
を装う。バチェラーが重ねて問うた。
﹁いつから始められる?術式準備はもう出来ているのか﹂
﹁実験棟の十三階は厳重な警備が敷かれていますが、あなたがいれ
ば入室の許可は下りると思います。兄さんの身体には文様は刻まれ
ているし、出来る準備は整っていますよ﹂
﹁そうか。それじゃあ、俺たちが十三階に移動すれば始められるな﹂
﹁すぐにでも﹂
︱︱︱︱逃げられない。
そう思った俺の脳裏に浮かんだのはカイルの声だった。俺はお前
を迎えに行く、彼はそう言った。当てにしないつもりだったのに、
俺はいつもあいつの声に助けられてばかりだ。
早く来てくれ、カイル。俺は祈るような思いで目を閉じた。
414
夜を待つ。
日本にいた頃は、自分の生きている意味なんて考えたこともなか
った。この世界に来てからだ。生きなくちゃいけない理由を必死に
探したのは。
俺がこの世界に召喚されたのは、竜や魔王を討伐するためでもな
かった。王様になるためでも、救世主になるためでもなかった。一
時的に魔力を移しておくだけの、器としての役割。たったそれだけ。
﹁眠っているケネスの身体をこうして見ていると、なんだか変な感
じがするな。待ちきれないよ、早く君の声が聞きたい﹂
バチェラーが明るい声で言った。暗い顔をしている俺を励まそう
としているのだ。
部屋の中央に置かれた寝椅子に、ケネスの身体が横たわっている。
俺は運ばれてきたその身体を直視することができず、少し離れた窓
辺に立っていた。
﹁そうですね。僕も楽しみだ﹂
顔を上気させたバチェラーが、俺に向かって笑いかける。その目
にはケネスへの想いが溢れている。俺の胸がうっかり、ぎゅっと痛
くなってしまったほどに。俺はケネスじゃない。
俺たちのやりとりをどう聞いていたのだろう。スグルが床の血文
字の文様から視線を上げた。俺をまっすぐ差す視線に、わずかにた
じろいでしまう。
﹁もうすぐ日が暮れる。そうしたら、始めるよ﹂
415
ここまでなのか。
俺が目を覚ましてから二日と半分が過ぎた。夕方だ。厚ぼったく
膨れる黒い雲を、まだらに明るくしていた太陽が沈む。この巨大な
一面ガラスの窓から見下ろせる街は、闇の中へと消えるだろう。
ヘンウェル王都の最も高い場所。それがここ、中央庁実験棟の十
三階だ。ここからは街のほとんどが見渡せるが、それはすなわちこ
の場所が目立つということでもある。だからスグル・ツティア・ロ
ーランは夜を待っていた。
・・・・・・
﹁明日の夜までは⋮⋮待てないんだよね、スグ﹂
﹁何を言ってるの、ケネス兄さん﹂
兄と呼ぶその所だけ声がわずかに大きくなり、赤い唇が不気味に
吊り上がる。スグルは俺がケネスではないことに、気付き始めてい
るのだろうか。
﹁今日じゃなくてもいいんじゃないかな。魔力はまだ回復していな
いし﹂
﹁あのねえ。一日も無駄にしちゃったんだよ。本当は昨夜始めるつ
もりだったのに﹂
俺は歩いてくるスグルから目を逸らした。
・・・・
﹁でも﹂
﹁兄さん。どうして先延ばしにしようとするの?昨日は肝が冷えた
狂ってる
。こ
よ。まさか兄さんが逃げようとするなんて思わなかった。どこへ行
くつもりだったの、ねえ﹂
この男は⋮なんて言っていたっけ⋮⋮そうだ、
416
の男は狂っている。
幼い頃に失くした家族を今度こそ失くすまいと、それだけしか考
えていないのだ。
昨夜。逃亡に失敗した俺をベッドに縛り付け、﹁愛してるんだよ、
兄さん﹂とスグルが笑った。俺はそのとき、この男が心底怖いと思
った。深い愛情から来る狂気が怖かった。
﹁術式が失敗する危険性は、できるだけ減らしたいんだ。魔力は完
全に回復していない﹂
単なる時間稼ぎではない。
これは俺の命に関わる問題だ。信用ならない術式に身を任せる覚
悟なんて、そう簡単につくものではない。愛する人のいないこの場
所でひとり死んでいく自分を想像すると、固かったはずの決意は粉
々に崩れた。
﹁失敗するのは困る。ケネスを失いたくはない﹂
﹁失敗なんかしないったら!﹂
そのスグルの言葉に根拠があるのかないのか、俺とバチェラーに
は判断がつかなかった。恐らくはケネスなら分かったのだろうが。
﹁どうなんだ、ケネス﹂
バチェラーが問う。
俺に訊くな。一番それを知りたいのは、俺なんだから。術式が失
敗する確率は、
﹁⋮半々ってところだと思います﹂
417
俺の唇が、何かに操られたように、動いた。口を思わず両手で押
さえる。
︱︱︱ケネス⋮⋮ッ!
﹁二つに一つは、失敗するということか﹂
バチェラーが苦渋を飲んだように黙り込んだ。
﹁魔力の受け渡しは、受け渡す側渡される側双方に危険があります。
最悪、僕の身体とリョウ・アキヅカの身体がどちらも機能しなくな
る可能性だってなくはない﹂
俺の声が、俺の意思ではない言葉を紡ぐ。胃の中のものが逆流す
るようだった。気分が悪くなる。俺の声を借りたケネスの言葉に逆
上し、スグルがキッと俺を睨み上げた。
﹁そんなのわかってる!でもね、時間がないんだよ!わかってる?
兄さんの身体を地下牢から出したってことは、第五番隊の結界を破
ったことになるんだよ!すぐにでも五番隊が追って来てもおかしく
ない。それに、﹂
言いかけた途中で、さっとスグルの顔が強張る。来た、という微
かなスグルの呟きを耳が捉えた。その言葉にバチェラーが泣き笑い
のようなものを浮かべる。
﹁ああ、来た。⋮⋮終わりだな﹂
﹁まだ終わってない﹂
バチェラーの諦めの混じった声に、スグルが頑なに言い返す。
418
﹁あっ、ちょっとおい!﹂
強い力で手を引かれ、俺はスグルに引きずられるようにして部屋
の中央へと連れていかれる。凄まじい力だった。手首に食い込んだ
指が痛い。
﹁バチェラーさん。できるだけ奴らを止めていて﹂
﹁無理難題を吹っ掛ける⋮⋮奴は怒り狂っているぞ。あの魔力、ハ
ロルドを思い出す。あの人に私は、結局一度も勝てたことがないの
だがな﹂
ごきりと肩の関節が鳴る。バチェラーが腰からおもむろに取り出
したのは、拳銃によく似た形状の武器のようだった。台座の所が透
・・
明で、幾何学模様が刻まれている。入り口の観音扉に向き直ったバ
チェラーは、それを掲げ、来たる何かに備え腰を落とす。
﹁兄さん、もうつべこべ言ってる暇はないよ。術式を始める﹂
俺は無理やりにケネスの身体の横に座らせられた。
結界の張られた地下牢から出されたせいだと言う。ケネスの身体
の顔色は悪く、ピクリとも動かない。仮死状態だとしても状態は良
くなかった。漂う死臭は、気のせいではない。
﹁スグ、無茶だ。展開準備時間が足りない﹂
・・・
ケネスが冷静に告げる。俺の声であって俺の言葉でないそれは、
落ち着いていて、この場所にいる誰よりも穏やかだった。
﹁二人とも、来るぞ﹂
419
魔力感知など出来ない俺でも、肌がちりちりと焼けこげるような
錯覚を起こした。体の中のケネスの魔力が、警報を鳴らした。何か
大きなものが、すぐそこに来ている。
それは怒っている。焦っている。そして、⋮⋮怯えている?
頭上の巨大な石の結晶が、ヴン⋮⋮と唸りを上げた。見ればスグ
ルが、ケネスのシャツを片手ではだけながら口元を動かしている。
床に丸く描かれた血の文様が、嫌な色の輝きを放つ。
術式に魔力が通い始める瞬間を綺麗だと思ったことは、あの時以
来一度もない。そう思ったのは俺ではなく、ケネス。
ドォォォォオオン⋮⋮︱︱︱
﹁詠唱強制終了。術式解除、セーフティを展開する。結界用意!三、
二、一、展開ッ!!﹂
突然に爆発した音に地面が揺らぐなか、凛とした声が広間に響く。
それは俺が恋焦がれて待ち望んでいた声で。
﹁くそッ、⋮くそ!何故だ!なぜ展開しない、やめろ、結界を解け
!﹂
文様に走った魔力の光が収束していく。それを食い止めようとす
るスグルが、血を吐きそうな声を絞り出した。
﹁諦めろ、その術式は既に掌握している。結界内では何もできまい﹂
﹁第七番隊バチェラー・イザル副隊長。武器を下ろし投降してくだ
さい﹂
420
物理結界の壁がゆらりと光を反射し、バチェラーを取り囲む。広
間に隊列を開いた第五番隊に彼は首を傾げる。その表情は、諦めと
は少し異なっているように見えた。
﹁そうしたいのはやまやまだが、そういうわけにもいかないようだ﹂
すくりと立ったバチェラーの背筋は、後ろから見ていると針金が
一本通っているようにまっすぐだった。このときにまで、バチェラ
ーは第七番隊の団服を脱いでいない。彼の横顔は犯罪者よりも、騎
士のそれであった。
彼は振り向かず、武器を持った左腕をゆっくりと持ち上げると、
﹁よせ!﹂
その武器を、俺に向けた。
﹁結界を解いてもらおう﹂
421
なあ、カイル
﹁結界を解いてもらおう﹂
ドクン、と心臓がひとつ脈を打った。その音は緊張の走る広間に
よく聞こえた。俺に合わせられた武器の照準。凍り付いたカイルが
視界に入る。
﹁バチェラー・イザル⋮!﹂
﹁私が撃つのが速いか、貴君らの方が速いか。賭けてみるか?﹂
バチェラーが俺を撃つはずがない。なぜなら、奴は俺をケネスだ
と思っているから。だがカイルはそれを知らない。
﹁賭けられるわけがない﹂
﹁私に従ったほうが賢明だと思うがな。心配はいらん。この青年の
中のケネスの魔力を、元の身体に戻すだけだ﹂
カイルのぎりりと歯噛みする音が、ここまで聞こえてきそうだ。
甘いチョコレート色の瞳は怒りに燃え、高い鼻梁の根本に深いしわ
が寄った。
ケネスの力なく横たわる身体から、カイルが露骨に顔を背ける。
俺があのようになったらと想像でもしたのだろうか。
﹁人間が魔力を失えば、正気ではいられない。そんな当たり前のこ
とを俺が忘れたとでも思うか。馬鹿にするな、バチェラー・イザル﹂
﹁なるほどな。だがもともと魔力を持たない、渡り人の場合は別だ。
獣人のようなものだと思ってもらっていい。魔法が使えなくなるだ
422
けだ。悪いようにはしない﹂
バチェラーの言葉はいやに真実味を持って聞こえた。カイルの目
が人質となった俺と、ケネスの身体をさまよった。嘘か本当か。バ
チェラーの言葉を信じていいものかどうか、カイルが迷っている。
決然としていた意志が、揺らぐ。
﹁⋮カイルさんッ。結界術式、持続時間が足りません!指示を!﹂
カイル達が話している間も、五番隊の結界班とスグルの力比べは
続いている。俺の横でスグルは汗で黒髪を濡らしながら、それでも
消えぬ眼光を敵に向けていた。足元の術式文様が明滅する。今や、
どちらが優勢なのかわからないほどだった。
︱︱︱︱︱︱ 一瞬。ほんの数秒、カイルの集中が切れる。
その隙を、百戦錬磨のバチェラーが見逃すはずがなかった。目を
すがめたバチェラーが身をひるがえし、狙いをカイルに向けるのを
俺は見た。だめだ、だめだ⋮駄目だ!
﹁兄さんやめろッ!﹂
バチェラーは俺に背を向けていた。スグルの叫ぶ声を聞いて振り
返った彼の顔は、驚きと困惑に固まっている。無我夢中だった。俺
は檀上になっている中央の階段を駆け下り、その勢いをそのままに、
カイルと武器の間に身を割り込ませるようにして、バチェラーを突
き飛ばした。
途端に肩に弾ける鮮烈な痛み。目から火花が散る。
423
人ひとりにぶつかっただけでは勢いを殺しきれず、俺は硬い床に
ぶつかり、ごろごろと転がった。衝撃に肺が機能を停止したような
錯覚を受けた。カラカラと音をたてて、バチェラーの取り落とした
武器が床を滑って行く。
﹁⋮ケネス⋮⋮﹂
横に倒れたバチェラーが身を起こし、わけが分からないとこちら
を見る。俺をケネスと呼んだそれを打ち消すかのように、カイルの
打ちのめされた悲痛な叫びが、奪われたものを求めて虚しく響く。
﹁リョウ!﹂
そのとき、俺の目にバチェラーの武器がうつった。バチェラーか
ら、ほど遠くない。
﹁ばかやろう、指揮官がこっち来んじゃねえ!﹂
顔を蒼ざめさせた俺は、部隊の指揮も何もかも打ち捨て走ってこ
ようとするカイルに怒鳴った。びくりとして止まったカイルのその
表情は、いつかの雪の朝と同じ。血にまみれて立つ俺を見つめた、
あのときのカイルの表情とまったく同じに見えた。
肩に濡れた感触があって熱い液体が床に落ちる。心臓が早鐘を打
つのに合わせ、痛みは増すようだった。
﹁だが⋮リョウ、血が﹂
十四年前に父親を亡くしたこの場所に散った血が、カイルに植え
付けられた恐怖をよみがえらせたのだ。ごめん、カイル。
424
﹁ッくそ﹂
上体を起こそうと腕をつくと、右肩に激痛が走った。傾いだ俺に
誰かが悲鳴を上げる。
﹁リョウさん!﹂
﹁何やってる、てめえら!捕縛だ、急げ﹂
それを聞いた五番隊の面々がはっとして動き出す。バチェラーが
武器を探したが、俺はやつの手が届く前に、それを蹴り飛ばした。
しかし肩を押さえた指の間から血はどんどん溢れて来て、思わず痛
みに片膝をつく。
そのせいで一瞬反応が遅れたのだと思う。﹁後ろ!﹂振り向き、
バチェラーが新たな武器を取り出すのに目を留めたその瞬間、
響く雷鳴が耳奥までとどろき、白い閃光が目を刺した。
﹁ぐぅうっ﹂
肉を焦がした雷撃に苦悶の声が上がる。バチェラーの右手を撃っ
たのはカイルだった。雷の強い光の中で俺が最後に目にしたのは、
俺を見つめる強い眼差し。俺の大好きな、カイルの力強い瞳だった。
425
ぐわんぐわんと、世界が回っているような感じがしている。どれ
くらいの時間が経ったろうか。
﹁大丈夫か、リョウ﹂
終わった。気が付くと俺は床にぺたりと座って、呆然としていた。
笑いたいのか泣きたいのか、自分でもよくわからなかった。
﹁⋮⋮来るのおせえよ、ばかやろぉ﹂
﹁待たせたな﹂
その声を聞いて肩の力が抜け、安心ついでに腹が立ってくる。
﹁目、まだ見えねえんだぞ。なんで雷、手から出てくんだ。どうい
う仕組みだちくしょう。雷は直接見ちゃいけないんだ。ああいう危
ないことするときは、周りに人がいないか確認しろばか﹂
未だ白い視界に影が差し、暖かい身体が俺を包み込んだ。肩を強
く縛られる。頬を潮が伝うのは目が痛いからで、別にほっとしたか
らじゃない。でも周りに見られるのは少々気恥ずかしく、俺はカイ
ルのシャツに顔を埋める。
﹁悪かった﹂
その謝罪は何に対してのつもりなのか知らないが、色々な意味が
含まれているような気がした。
﹁詫びも込めて一生俺に仕えろ。そしたら許す﹂
426
ぐずぐずに融けた涙声がくぐもった。
﹁わかった﹂
﹁一生だぞ。あんたが必要なときには、すぐに来いよ﹂
﹁ああ﹂
﹁それと魔力がなくても生活できる家に引っ越せ﹂
シャワーに毎日付き合ってもらうなんて、俺はごめんだからな。
﹁⋮⋮リョウ﹂
﹁あと、日本語覚えろ。教えてやっから﹂
﹁リョウ、お前﹂
﹁俺は魔法使えなくなるからな。あーあ、言語チートもこれでお終
いか﹂
﹁あいつらに協力するつもりなのか﹂
カイルに両肩を掴まれ、身体を離される。まだ視界はぼやけてい
る。カイルの表情が読み取れないが、なんとなく途方に暮れたよう
な顔をしているんじゃないかと思う。
俺はぐいっと袖で顔を拭い、カイルの顔の辺りに毅然とした視線
を送った。
﹁借りたもんは、返さないと男が廃る。それに俺、あいつらの気持
ちもわからないでもないから﹂
するとカイルが苦笑する。
﹁こんなときまで、男前なんだな﹂
﹁好きな子の前では、格好つけたがる男の子です﹂
﹁守られているだけは嫌なんだろう。わかってるよ、嫌と言うほど﹂
427
だから俺だってヘンウェル語を一から覚えるさ。それにあんたに
一生仕えてやる。それでおあいこには、ならないかもしれないけど。
﹁最後にあんたに頼みがある。あんたにとっちゃ、一番嫌なことだ
と思うけど﹂
﹁なんでも聞く﹂
食い気味の返答に、なんだか懐かしい感じがして笑ってしまう。
﹁カイル。あんたの血を分けてくれ。魔力が足りない﹂
父親をそれで亡くしたあんたには、酷な頼みだとわかっている。
だけど、
﹁必要なんだろう﹂
﹁⋮いいの﹂
﹁構わない。それにリョウの初めての頼みごとなんか、断れるはず
がないだろう﹂
﹁そうか⋮⋮ありがとう。恩に着る﹂
﹁恩に着なくていいから、﹂
カイルが耳元に囁く。魔力の回復は、頼んだぞ。
俺がこの男を容赦なく殴ったのは、言うまでもない。
︱︱︱そういうハッピーエンドなら、俺たちらしいと思わないか。
なあ、カイル。
428
終幕
澄み渡る水面のような碧い空を仰ぐ。雲はまるでなく、空は高く
続いている。息を吸い込むと、まだ少し冷たい空気が胸をいっぱい
に満たした。そろそろ硬い蕾がほころび始めるだろう。
﹁リョウ﹂
風が緩く辺りを舞い、煽られた黒いネクタイが裏返って肩に留ま
った。それをきちんと戻しながら、俺は生え始めた緑を踏みしめ振
り向く。正式な団服に喪章を付けた男が、他の男たちから離れたと
ころで俺に手招きをしている。
﹁来い﹂
俺は片手に持っていた花束を両手で抱え、走り寄った。今日のた
めに整えられたカイルの金茶の髪が風に少し乱されている。しかし
彼はそれを気にする素振りも見せず、俺の髪へと手を伸ばした。
﹁カイル。終わり?俺、いい?﹂
﹁ん?⋮ああ。構わないそうだ。ご遺族から許可が出たよ﹂
カイルの話す言葉の半分もまだ俺にはわからないが、カイルが優
しく頷いたので彼のうしろについて行く。柔らかく落ちる陽だまり
を横切り、彼は足早に歩いた。
ヘンウェル騎士団の集団墓地は、修練場内の小高い丘の上にあっ
た。今日葬られたのは、スグルに殺された三人目の被害者だ。その
友人だったと言うココルズは、自分も一緒に宿の警備を任されてい
429
ればと言って泣いていた。
棺を囲んでいた数多くの隊士たちが道を開けてくれる。その先に
濃い木目の棺が姿を現した。あまたの色とりどりの花に覆われたそ
れは、俺の目には非常に美しく映る。
俺がその横で足を止めると、しんとした空気が一層静けさを増す。
葬送の場にいる誰もが俺の挙動を見守っている。
そっと口を開き、俺は異国の言葉を口にした。
﹁ロウロタール・ビシェン・ル・マイラ﹂
ヘンウェルの古代語だ。もう使われていない。失われた言語だ。
教えてくれたのは、ビデ人でありながらビデとヘンウェル両国の古
代語を解するケネスだった。
空気に触れたその言葉は溶けて、渦巻く風に連れられて消えた。
美しい響きと謳われる言語は数多くあれども、この死者を悼む言葉
は重く尊く、心を深く打った。
﹃安らかな眠りを。護ってくれてありがとう﹄
最後は日本語で呟き、花を手向ける。
ケネスが俺に献花を頼んだのは、彼にはそれが叶わないからだ。
中央庁の実験棟に彼は今も囚われている。元第七番隊副隊長である、
バチェラー・イザルとともに。主犯であるスグル・ツティア・ロー
ランは、第七番隊直轄の牢に入った。彼が牢を出てくることは、恐
らくもうないだろう。
春先の山風が吹きおろし、花弁が舞う。
カイルに促され、俺は踵を返した。視線を上げると、西の空に陽
430
光を浴びたガラスの塔が微かに光った。
これで本当に事件の幕は完全に下りたのだ。長く苦しかった舞台
が、今、終わる。
431
1
︱︱︱︱︱︱三年後。春。
正午の時刻を知らせる教会の鐘が、風が大気を切る音に紛れて耳
元にこだました。空気が澄んで青々とした空を、真っ白な群雲がゆ
っくりとよぎる。
王都郊外にあるこの一画は獣人が多く住む地域である。魔力を持
たない彼らは、魔導仕掛けの時計を使うことがない。しかしそのか
わり彼らの生活はのんびりとしていて、急ぐことを知らない。
﹁あいつ、待ってるかな﹂
ブドウ園の石垣が続く坂道を、ゆったりとした足取りで下る。舗
装されていない地面は足に柔らかい。その感触を楽しむかのように、
歩く足音も穏やかだ。しかし道で行き交うのは獣人だけではない。
﹁あ、リョウだ。やっほー﹂
家畜の群れに道を塞がれることもしばしば。ベエエ、ンベエエと
可愛くない声を上げながら坂を上って来る羊御一行様に道を譲る。
もこもこの白い獣の中にひょこひょこと頭が揺れ、顔を上げた少年
が俺を見つけて手を振った。
﹁やあ、こんにちは。精が出るね﹂
﹁どっか行くの?﹂
432
﹁まあね﹂
少年のズボンから突き出した尻尾が好奇心を示す。もちろん彼も
獣人であり、羊を追うときは獣型を取るのだ。髪色と同色の獣耳が
ぴくぴくっと動く。
﹁あ、わかった。あの人に会うんだろ?あんまり遅くなんなよ、う
ちの母さんが心配してたぞ。あんまり人間にのめり込まなきゃいい
けどって。最後に痛い目見るのは俺たちなんだし﹂
この村はヘンウェル王都の中にありながら、まるで別の場所にい
るようだった。獣人の村、ベスティラン。悪意を知らず、他人との
距離の取り方も独特だ。だがこの世界に来て三度目の春を迎え、俺
はようやく自分の居場所を見つけつつある。
カイルを王都内に残し、俺は一人、ベスティランに移り住んでい
た。ベスティランでの春は二度目である。村の獣人たちは当然のよ
うに、俺のことを獣人の仲間と思っているらしかった。
﹁村の入り口まで行くだけだよ﹂
のめり込むって、俺は小娘かっつーの。俺が自分も人間だと言っ
てもなかなか信じてくれない、近所の犬型獣人の一家である。
﹁それと、姉貴がリョウのこと格好いいって言ってたぜ。参考まで
に!﹂
﹁いらない情報をどうも!﹂
叫び返すと、少年が大口を開けて高らかに笑った。
433
坂を下り、
下町
と呼ばれる民家や商店の立ち並ぶ界隈を抜け
る。山と王都に挟まれたベスティランの面積はそれほど大きくはな
い。村を囲む石壁の、王都郭内へ接する入り口は一つだけだ。獣人
に対する蔑視は未だ根強く、その門は固く閉ざされている。
守衛所の代わりでもある入口門の酒屋の前に、大きな幌馬車が止
められていた。しかしその周りには、持ち主らしき人影は見えない。
まさかとは思ったが、そのまさかである。
﹁らっしゃい!﹂
俺は酒屋の扉を開けて、中に男どもに目をくれた。つい先程、朝
から一生懸命に働く牧童の少年と行き交ったからだろう。昼間から
酒を飲む自堕落な大人たちの姿に、俺の視線も冷ややかになるとい
うものだ。
入ってすぐのテーブルに案の定見知った顔がある。その中に恋人
がいないのを見て怪訝に思う。だが﹁カイルはどうしたの﹂と訊く
のはなんとなく憚られ、口からは全く別の言葉が出た。
﹁一体ここで、なにやってんだ?それ何﹂
談笑していた三人の男が揃ってびくりと肩を跳ねさせた。口をつ
けようとしていたジョッキをそっと静かに下ろす。
﹁リョウを待っている間、有名だという地酒を⋮⋮⋮えっと、リョ
ウも飲む?﹂
縦にばかり伸びすぎたような、痩せた青年だ。雰囲気ががらりと
変わっているが、邪気のない物言いに覚えがあった。ネイ家の双子
の片割れ、兄の方のグスタフだ。
434
﹁ちょっと時間があるからって酒を飲み始める。これだからヘンウ
ェル人は⋮⋮。快活な少年ぶりがすっかり消えて、だらしない大人
への第一歩を確実に踏み出せている様子に安心したよ。久しぶりだ
なグスタフ﹂
﹁え、そうかあ?昔から結構飲んでたろ、むしろ酒量は減ったんだ
ぜ。そう言うあんたも随分、なんていうか⋮⋮逞しくなったな。そ
の言葉遣いも慣れねー⋮﹂
﹁畑仕事なんかも手伝うようになったからな。格好良いだろ﹂
腹筋なんかもうっすら割れて、焼けにくい白い肌も小麦色くらい
にはなった。髪は邪魔だから短く切っているし、二十代後半には見
られるようになった。ようやく年齢に外見が追いついてきたのだと
思う。
﹁種類が変わっただけで、色気は相変わらずだだ漏れですね。まっ
たく⋮リョウさんのことだから、村の女の子とか誑かして遊んでる
んでしょ﹂
俺はその呆れたような非難の声に、ぐるりと目玉を回した。
﹁人聞きが悪いこと言わないでくれる?ココルズ君。俺はただ身の
回りの環境を整えているだけ。右向いても左向いても、いちゃいち
ゃされてちゃ平穏な日々を暮らせないからな﹂
﹁それで人の彼女に色気振りまいて、破局させるってわけね。その
うち恨み買いますよ﹂
﹁うん。でも、俺のことを魅力的に感じてくれるのは女の子だけじ
ゃ、ないみたいなんだよな﹂
﹁それって男もってことですか。なんか⋮リョウさん、色々成長し
ちゃったんですね⋮⋮あれでもまだ可愛いほうだったのか⋮﹂
435
進歩的な考え方を持とうじゃないか。破局にも色々ある。ぎょっ
としつつも顔を赤らめたココルズが愉快だった。
﹁さ!リョウさんも来たことだし、早く行きましょう﹂
慌てた様子で立ち上がった青年は、恐らくジュリアンだ。身長は
・・・・・
彼がかつて懸念していた通りの結果になったわけだが、むしろ男装
の麗人といった雰囲気で女性らしさに磨きをかけているようだった。
﹁リョウ﹂
返事をする間もなく腕を引かれ、唇に柔らかいものが当たった。
瞼を下ろさない俺を、嫉妬の焔を散らした瞳が覗き込む。
﹁あーもう!だから早く行こうって言ったのに。カイルさん、僕ら、
そんなに時間ないんですよ。わかってます?﹂
視線をぶつけ合う俺たちにジュリアンがうんざりと手を上げた。
﹁ジュリー、ココ。先に出てろ、すぐ行く。馬車の用意をしていて
くれるか﹂
﹁わかりました。早く来てくださいね、僕たちが手伝えるのは夕方
までなんですから。あ、お勘定ありがとうございました。ごちそう
さまです﹂
﹁わかっている﹂
斜め五十度。目算をつけ、距離を測る。
俺は顔を傾け目の前の、なおも言葉を発そうとしている唇に噛み
ついた。攻守交代のお知らせだ。驚いて黙ったカイルに機嫌を良く
436
して、舌でちろりと彼の唇を舐めた。少し開いたその隙間に舌をね
じ込ませる。引かれていた腕を持ち上げカイルの首に回す。さらに
深くなるキス。カイルが呻いた。
﹁⋮ん⋮⋮降参?﹂
口の端の唾液を掬い、舐め取る。まだ飲んでいなかったのか酒の
匂いはしなかった。
﹁ああ、負けた﹂
俺たちのキスはたまにこうして喧嘩のように始まる。主導権を巡
って戦うことは以前よりも頻繁になっている。
﹁ふふん。俺に勝てると思うなよ﹂
﹁それはどうかな﹂
チョコレート色の瞳で燃え盛っていたさっきまでの火焔は鎮まっ
ている。満足そうな表情をしているが、それは俺も同じだろう。
﹁行こう。あいつらが待ってる﹂
それに、俺たちの家も。
437
﹁げぇっ、ここ上るの!?﹂
長い石造りの階段を前に背を反らし、グスタフが絶句する。暗い
路地から見上げる階段の先は、眩しいまでの青空だ。
﹁そ。馬車が使えるのはここまで。ここからは歩き。期待している
ぞ、五番隊の諸君﹂
﹁リョウ、そりゃねえよ。引っ越しの手伝いって言ってたけど、こ
れ絶対訓練よりきついって!﹂
上町
と呼ばれる。いわゆる、王都
ブドウ園への坂道を上った先のなだらかな丘の上は、ベスティラ
ン村の中心である下町に対し
に取り込まれる以前の旧市街である。古い街並みには、苔むした石
が横たわり、大きく茂った木々やツタ植物が好き勝手に枝を伸ばし
ている。
﹁いやあ、魔法って便利だなあ。使えなくてほんと、残念﹂
馬車の幌を捲り、中を覗く。なつかしい家具たちが俺を迎える。
騎士団の独身寮に置いてあった家具はそのまま持ってきたのだ。
﹁家具を運ぶのに、魔法ほとんど関係ないですから!ったく、誰か
雇ってやってくださいよ。金はたくさんあるんでしょ?﹂
﹁獣人の村にまで来てくれる業者さんなんていねーよ。ご近所さん
に手伝わせるわけにもいかないし。君たちが頼り。⋮⋮そうだな、
こっちのベッドとか大きいのから運ぼうか﹂
﹁うわー。この大きさ、あからさまで照れるんですけど﹂
﹁ベッドは新調したからな。傷つけるなよ﹂
キングサイズのベッドは、引っ越すにあたり二人で選びに行った。
438
﹁前の一人用のやつは、ギシギシ鳴って困ってたんだよな。なー、
カイル﹂
﹁以前は一人用を二人で使ってたとか、聞きたくないんですけど。
ベッドが軋むときのことなんて俺は想像しーてーなーいー﹂
﹁ギシギシぎしぎし﹂
ココルズが耳を塞ぎ、奇声を上げながら頭を振る。純朴な青年を
からかう俺の頭をカイルがはたいてきたので、はたきかえしてやっ
た。
俺たちの新居となる家は少しばかり見晴らしが良すぎる場所にあ
る。高いところが好きではない俺は初めこの家を買うときに躊躇し
たのだが、もとは人間が使っていた家だということもあり、魔法の
便があったのでここに決めた。別にカイルを思いやったわけではな
い。単純に、魔法が多少は使えた方が便利だからだ。
﹁へえ、綺麗になったな﹂
﹁まあね。結構頑張った﹂
﹁手伝えなくてすまなかった﹂
はじめの頃は、朽ちた石造りのこの家はとても人の住めた状態で
はなかったのだ。人間の太腿ほどもあるツタが壁を覆い、石畳の隙
間からは雑草が伸び放題だった。
﹁こっち。来いよ。この間ツタを片付けてたら、びっくり、階段が
出てきてさ。屋根の上に登れるんだ﹂
439
俺はブドウ園近くの下宿に仮住まいをしながら、この家の手入れ
を続けていた。毎日が発見ばかりだ。
急な三角屋根の上をどうにか移動しながら、カイルが吹き付ける
突風に顔の前で手をかざす。
﹁風がすごいな。リョウ、飛ばされるなよ﹂
﹁飛ばされねーよ。馬鹿か。早く!こっち!﹂
﹁気を付けろ、落ちるぞ。そう興奮する⋮⋮、な⋮﹂
家を締め付けるように育った木を俺は、すべては取り除かなかっ
た。生命の喜びが石に染み込んでいるような気がしたからだ。
端まで来たカイルが、そこから見えた眺望に言葉を失った。俺は
誇らしい気分だった。
峡谷を彩る緑が圧倒的な質感を持って、春の青空を押し上げてい
る。風の音が微かに、静謐な谷に響いていた。視線を右にやると、
王都の街並みが第六から第一郭までその輪郭を現す。
﹁すげえだろ﹂
唾を飲み込んだカイルが、ああ、とやっとそれだけを言った。
﹁すごい﹂
﹁俺さ、思うんだ。この二年初めて、あんたと離れて暮らしてみた
だろう?それで、やっとわかったんだ﹂
この二年。苦しくてたまらなかった。カイルと離れていることが。
言葉もろくにわからない場所に一人置かれ、でも弱音は吐かなかっ
た。
440
﹁何がわかった﹂
﹁俺、あんたがいないと駄目だ﹂
﹁それはこっちの台詞だと思ったが﹂
﹁うん。俺もあんたも、どっちも欠けちゃならないんだよ。俺たち
はもう、一個なんだ﹂
陽光の中でカイルが、とろけるような優しい笑顔を浮かべた。
﹁そうだな﹂
﹁手順は間違えた。たくさん間違えた﹂
﹁リョウにはじめて会った時からどうしようもなく、惹かれたんだ。
手順などどうでも良いと思うほどに、自分の良識や良心などどうで
もいいから、この人を手に入れたいと思った﹂
いつだって俺たちは必死に愛し合っていた。すっとばしてきたも
のをひとつひとつ拾って、どうにか自分たちの隙間を埋めようと、
それだけしか考えていなかったのだ。
﹁俺たち、もう十分頑張ったよな﹂
﹁ああ。急ぐ必要は、もうなくなったんだ﹂
ああ、このときの俺の気持ちを誰か代弁してくれ。カイルの背中
に回した腕に愛おしさを込め、額を胸につけた。言葉にならない想
いを彼の心臓に伝えたくて。
﹁もう⋮⋮頑張らなくて、いいかな﹂
いいよ。ずっと愛してるから。
聞こえたその声は、何故か母国の言葉の響きを帯び、内腑に、指
441
先から身体に、心に染みわたっていく。
﹃あいしている﹄
六音。俺が愛してやまない男は日本語で、もういちど六音の愛の
言葉を紡ぎ、そっと涙の味のキスをする。
﹁カイルさーん、リョウさん!何やってんですかー?これは、どこ
に置けばいいですかーあ﹂
下からココルズの声が聞こえてきて、俺とカイルは目を見合わせ
一緒に笑みを零した。
442
2※
空になった幌馬車を連れた、ココルズと双子の三人を村の入り口
まで見送る。この門をくぐれば、その先は人間の世界。魔力がなけ
れば生きていくことが難しい世界。
﹁それじゃ、三人とも元気で。手伝うだけ手伝わせてごめんな﹂
茜色が透明な碧に流れ込む空を背に、彼らは自分たちの世界に帰
っていく。俺の傍らにはカイルがいる。馬車の幌の端紐を結び直し、
俺たちの別れの瞬間を黙って見守っている。それがどんなに俺に平
安をもたらすか、あんたは知らないんだろう。
﹁なに殊勝なこと言ってんだ。リョウらしくもねえ﹂
﹁ええ?俺はもともとこういう人間ですけど?﹂
﹁⋮⋮もう俺は騙されねえぞ。でっけー猫被りやがって﹂
馬車の荷台からグスタフが腕を伸ばし、俺の肩を小突いた。その
隣ではジュリアンが大きく頷く。
﹁冗談はさておき、僕らで良かったらいつでも手伝いますから。そ
うでもしないとリョウさん、僕らと連絡断つでしょう。この二年間
も僕らだってあなたに会いたかったのに、副隊長の惚気話を聞くし
かなかった僕らの気持ちも考えてください。﹂
この世界に来て良かったと思うことのひとつに、人との出会いが
ある。
443
﹁そうですよ、俺たちだって助けになりたかったんすよ。ヘンウェ
ル語の習得も少しは頼ってくれても良かったじゃないですか。大体
あんたは、ちょっと格好よすぎなんですよ。少しくらい弱いところ
見せてくれないと、俺たちが霞んで見えるっつーか、追いつけねぇ
っつーか﹂
日本の友人が今の俺を見たら、少しは感心してくれるんじゃない
か。俺が、格好良いんだって。信じられるか?その手放しの賛辞は
俺にはこそばゆくもあり、嬉しくもあった。
﹁がんばれ青年。麗しのキャロライン嬢に、愛想尽かされないよう
にな﹂
﹁ぎゃー!なんてこと言うんすか!しーっ、しぃーッ!﹂
カイルの妹のキャロラインとココルズは、最近いい感じらしい。
耳まで血を上らせた青年は絶賛はじめての恋愛中である。ちなみに
ココルズはこの交際をカイルに知られていないと思っているようだ
が、キャロライン当人も相談された俺もそれほど口は堅くない。
口を塞がんと俺に掴みかかろうとするココルズの両手を避ける。
そうしながら、俺は笑っていた。
﹁君たちがいて、良かったよ﹂
これは口先ではない。心からの言葉だ。
今なら、この世界に来て本当に良かったと思えるんだ。戸惑った
ようにココルズがその手を止めた。
﹁リョウさん、あんた⋮泣いて﹂
﹁ありがとう﹂
444
感謝を表す言葉の限りを尽くして語っても、どの言語を使っても
伝わらないものもある。それでも俺たちを繋げる言葉があるという
ことは得難いことだ。その貴重さを俺は噛みしめている。
歪む視界を暗く覆うものがある。
﹁見るな﹂
威嚇のようなその低い声を聞いて、縁まで溜まった涙が溢れた。
滝のように落ちてくる熱いしずくを右の手の平で受け止め、俺は息
を殺し静かに泣いた。
﹁悪い⋮さんきゅ﹂
涙を流す格好悪い俺を隠してくれた、カイルだけにかすれ声で囁
く。
受け止めきれない。どうして俺はすぐに泣いてしまうのだろう。
俺は泣き虫という言葉が嫌いだ。泣き虫な自分が嫌いだった。泣い
ている自分がひどく醜く、卑しく思えたからだった。
﹁泣いているこいつは見せてやらん。俺のものだ﹂
だが今はそんな自分も受け入れられる。この男がそんな俺も好き
だと言ってくれるから。もう一人ベッドの中で、夜に布団をかぶっ
て泣くことはない。人の前で泣くことを厭うことはすまい。
﹃泣き虫ね、くだらない。こんなことで泣くんじゃないよ。男の子
でしょう﹄
憎々し気に俺を見下ろす、たった一人の肉親。俺はあんたに好き
445
になってほしかった。愛していると、一度でいいから感じさせてほ
しかっただけなんだ。最後までそれは適わなかったけれど。
祖母が幼少の俺を縛った呪縛から逃がしてくれたのは、間違いな
くあんただよ。カイル。
﹁行っちゃったね﹂
﹁ああ⋮行ったな﹂
に未練もあるだろうに。俺は少しだけ怖くて、
門が閉まる。その隙間から最後に、白い幌が紅の街に沈んでいく
のを見た。
向こう側
﹁本当にいいの?﹂
きっと
横に並んで立つ男の顔を見上げることが出来ないでいる。しかし二
人の繋いだ手に力が込められ、触れた肩から熱が伝わり合った。
﹁お前がいるところが俺のいるところだ。俺たちは一個。離れては
いけないって言ったのは誰だ?お前だろう。揺らぐな﹂
力強い返答。
﹁うん﹂
446
俺が弱いとき、あんたは強い。あんたが弱いときに俺が強くあれ
るように。俺たちは互いに支え合って生きていくんだと、そう決め
た。
﹁帰るぞ﹂
﹁うん、帰ろう﹂
カイルは第五番隊副隊長の座を捨てた。自分の生きて来た魔法の
生きる世界を捨て、獣人の世界で生きていくと決めたのだ。
﹁眩しいな﹂
西日が雲の切れ間からこの地上に光をそうっと当てている。新居
の大きな掃き出し窓のカーテンを何気なく開けて、立ち尽くしたカ
イルはその場に腰を下ろした。俺は光に目を伏せ、眉の上に手を翳
す。
﹁どうしたの、カイル﹂
﹁うん。いつだったかリョウが言っていただろう。空は自分の世界
と変わらないと。今ならその気持ちがわかるような気がして﹂
﹁言ったっけ、そんなこと﹂
﹁言っていたぞ﹂
こまごまとしたものを片付けようとした手を止め、俺はカイルの
ところに行った。
﹁どうしたの﹂
447
﹁いや⋮⋮この村は、寂しいな﹂
窓から見えるベスティランの旧市街は退廃的で、夕闇に佇む家々
は確かに少し寂し気だ。
﹁人口が少ないからな。活気という面では王都の中心とは異なるさ﹂
﹁ん、そういう意味じゃない。そうじゃなくて、王都郭内の人間は、
郊外のこの村のことなんて忘れて生活しているだろう。そういう意
味では寂しいなと思ったんだ﹂
﹁嫌?﹂
﹁リョウとのこれからには、ぴったりの場所だと思う。好きになれ
そうだ﹂
﹁俺もそう思う﹂
紅茶のようなオレンジの光に照らされ、カイルの瞳が明るさを取
り戻す。彼の投げ出された長い脚の間に身体を割り込ませ、向かい
合わせに座った。カイルの胴を挟み込むようにして足を絡ませ、両
手を後ろにつく。
カイルは相変わらず窓の外にぼんやりと視線を投げている。その
顔は何か言いたげで、言うか言うまいか迷っているようだったが、
歯切れ悪くその口を開く。
﹁ケネス・ツティア・ローランから引っ越し祝いを預かっているん
だが﹂
﹁何?﹂
あの事件から三年。ケネスは今も、あの塔で騎士団の監督下にあ
る。しかし彼は制限された自由の中で俺のヘンウェル語の習得に、
言語翻訳術式を使い積極的に協力をしてくれた。彼にとってはせめ
てもの償いなのだろうか。
448
﹁俺たちにはもう必要ないかもしれないと言っていた﹂
﹁何だよ、早く言えよ﹂
カイルはまだ少し迷う素振りを見せたが、おもむろにシャツの釦
を一つ二つ外し、首元から首飾りのようなものを取り出した。
﹁魔導石のペンダント?﹂
ペンダントトップの紫がかった結晶には、複雑な模様が細かく刻
まれている。後ろの両手にあった重心を前に移す。両手でそれを包
み込む。それが術式であることを俺はすぐに見て取った。
﹁簡易言語翻訳術式の展開媒体だ﹂
﹁え、何それ。すげえじゃん﹂
古代ビデ語でしか残っていないその術式を使える術者は、もうほ
とんどいない。
﹁魔導石には本来馴染まない術式だから、使えるのは一日に数時間
らしい。それ以上は魔導石がもたない﹂
﹁それでもすげえよ!革命児ケネス。いや児って歳じゃねえか﹂
古代ビデの術式は体を媒体とする。だから彼らの身体には、びっ
しりと術式が彫り込まれているのである。
﹁リョウはほとんどヘンウェル語が扱えるようになったから、いら
ないかもしれないと心配していた﹂
﹁いるいる。あんたは日本語まだ使えないし、超便利。あんたそれ、
いつもつけてろよ。セックスのときまでヘンウェル語使うの面倒だ
449
ったんだよな。うわー、ケネスに礼言わなきゃ﹂
﹁そうか、面倒だったんだな。⋮そうだよな、当たり前か﹂
心なしかしょげてしまったカイルの頭を、乱暴に撫でまわしてや
る。
﹁ばか。そういうんじゃねえよ。⋮あっ、セックスのときにまで魔
法使うのはそれこそ面倒くさいか?﹂
﹁無意識で展開できる程度の魔力量だから、大丈夫﹂
﹁そっか﹂
にかっと笑うと、カイルもちょっとだけ元気を取り戻す。至近距
離で目を合わせると、チョコレート色の底に煌めくピスタチオのよ
うな緑がよく見える。
﹁リョウ﹂
瞼にカイルの指が触れ、俺の目を閉じさせる。大人しくそれに従
いつつ、カイルの瞳の色が見えなくなるのを少し残念に思った。綺
麗なのに、俺はその色をよく観察したことがない。
﹁ん﹂
キスは気持ちを伝えるのに、一番簡単で手っ取り早い方法だと思
う。
﹁すまない﹂
﹁なに﹂
囁く。互いの額をつけ上目遣いで見つめると、カイルの瞼が上下
450
し、視線が落ちた。
﹁俺はまたお前を見くびった﹂
﹁俺がまだケネスのことを気にしてると思った?﹂
﹁ああ。駄目だな、俺は﹂
﹁あんたは?まだ許せてないの﹂
苦い笑みが言葉の代わりに返答する。
﹁俺の心はお前ほど広くない﹂
するりとカイルの手がシャツの裾から入り込んで来た。小さく声
を漏らす。その冷たさに身じろぎをして、目の前のカイルの肩に縋
りついた。
﹁⋮カイル﹂
可哀相で可愛い俺の恋人。
﹁これを見るたびに、あのときに引き戻されるんだ﹂
もうその大部分が治癒した、尋問という名の拷問の跡。背中にの
たくりうつ蛇のような傷痕。俺はそれを直接見たことはないが、俺
の背中を見て唇を噛みしめるカイルはこの三年間に何度も見て来た。
﹁もう忘れろって、言ったろうが⋮んッ、痛い。爪立てんな﹂
﹁消したい。上書きして全部全部﹂
あんたがそうしたいと言うなら、そうすればいい。さらにそれよ
りも大きな傷をつけたいと言うなら、好きにしろ。
451
そう言っても、カイルが俺を傷つけることは決してなかった。心
底悔しそうに俺の肩に鼻を押し当て、その傷のあたりを睨み、執拗
なほどに跡をなぞるだけだった。
﹁もうだいぶ薄くなったんじゃないか?見てみろよ﹂
シャツの釦を半分ほどまで開け、肩からはだける。
﹁いい﹂
﹁いいってこたないだろうが。ちゃんと見ろ。ほら﹂
﹁⋮リョウ、お前。面白がってないか﹂
﹁面白がる?馬鹿言うな、あんたが嫌がることなんて滅多にないん
だ。たまには楽しませろ﹂
﹁この﹃エス﹄﹂
冗談にして笑い飛ばすのが一番だ。
﹁そうそう、その使い方で正解。しっかし変な単語ばっか覚えるよ
な、あんた。そうだ、さっきのやつ使ってよ。俺も日本語喋りたい﹂
﹁﹃セックス﹄?﹂
﹁やろうぜ﹂
愛し合って、頭まっしろにして、何もかも忘れてしまえばいい。
452
3※
冗談や遊びのように始まった行為は次第に熱くなる。いつもは秘
められているものが漏れ出し、立ち込め、俺たちを包み込む。それ
は情欲とも、愛とも呼ぶことが出来る何かだ。
﹁あー⋮しくじったな﹂
﹁何が﹂
俺は重ねられた唇を離した。カイルが不満そうに唸る。
考えてみれば、まだ引っ越し作業は終わっていないのだ。家具を
配置しただけの部屋には、生活品が詰め込まれた木箱がいくつも積
まれている。雑然とした新居には、まだ人のぬくもりがない。これ
からセックスをしようとするのに相応しい環境だとは、とてもでは
ないが言い難い。
﹁寝具を先に出しておくんだった。しくじった﹂
﹁いまさらお預けにする気か?おさまらないぞ﹂
切迫した欲望を滾らせ、もう一度唇を攫う。それにおざなりに応
える俺に、カイルはついに呆れて大きく息を吐き出した。向かい合
わせに床に座り込んでいると、俺が座高の高いカイルを見上げる形
になる。
﹁それに潤滑剤とか、色々と必要なものが揃ってない。この荷物の
山から探し出すのは、うんざりするくらい時間がかかりそうだけど﹂
﹁それならあっちの小箱に別にしてある。煽っておいて途中でやめ
てくれるな、頼むから﹂
453
噛みつくような声はかすれ、切ない響きがあった。
﹁⋮へえ。別にしてあんの﹂湧き上がる照れくささから、咄嗟に茶
化してしまう。﹁準備万端じゃん。そんなに俺とやりたかった?﹂
﹁当たり前だろう、前回会ったのは一か月も前だぞ。リョウに触れ
たくて愛し合いたくて、日々悶々と過ごしていたんだからな﹂
返ってきたのは明け透けで、素直な感情。
作った笑みが一瞬で取り去られる。ぼっと一気に顔が熱くなる。
どうしたらいいのかわからなくなって、俺は意味もなく指で眉を掻
いた。
﹁ふうん﹂
﹁リョウ﹂
﹁何だよ﹂
顔を隠す手をどけられ、大きな手で両頬を包まれる。優しい仕草
で頬骨を親指がなぞる。カイルは俺を上向かせると眉をハの字にし
て、いっそう甘く笑んだ。見慣れているはずなのにそれを直視でき
ない。
﹁照れてるのか?耳まで真っ赤だぞ﹂
﹁うるさい、黙れ。そんなまじまじ見つめるな、何が楽しいんだ、
くそ﹂
両手を合わせてカイルの目に押し付ける。顔が熱い。カイルが密
やかに笑った。顔をずらし視界を塞ぐ俺の手の平に口づける。
﹁わかってないんだな。お前がかわいすぎて、閉じ込めて誰の目に
454
も触れさせたくないと思う自分が少し怖いくらいだよ﹂
それはきっと本心だ。こいつはいつだって内にそういった凶暴性
を秘めている。それが発露するのは二人の間だけ。だけどそれを嬉
しいと思ってしまう自分もいるわけで。
﹁ベッド行くんなら早く行こうぜ。新居の初エッチが床でとか、絶
対嫌だからな﹂
こんな男が愛しくて仕方がない。
寝室は大きなベッドでほとんど占領されている。新品の赤樫材の
二人用ベッド。嫌だ嫌だとごねる俺を、家具屋へ引き摺って行くカ
イルの笑顔は記憶に新しい。あいつ一人で買いに行けばいいのに﹃
二人で選ぶことに意義がある﹄とかなんとか言って、実際は恥ずか
しがる俺の様子を楽しんでいただけだ。
だってそうだろ。男二人で、二人用のベッドなんて買ってみろ。
ツインじゃなく、ダブルだぞ。用途丸見えじゃないか。俺たちの関
係を知っている人ならともかく、見ず知らずの相手にそういうこと
を知られるのは、どうにも恥ずかしい。
﹁どうだ、寝心地は﹂
何も敷いていないマットレスの中心に大の字で寝転がると、眠気
が襲ってくる。昨夜、ろくに眠れなかったからだろう。俺は目を擦
455
りながら、んーと声を発した。
﹁良い。すげえ良い。カイル、枕ある?﹂
﹁そのまま寝る気じゃないだろうな﹂
﹁寝ないよ。今から致すんでしょうが﹂
枕がポイと放られる。それを抱き込むと、懐かしい匂いがする。
安心するなあと思いつつ枕に顔を埋める。ふと脱力した身体に、よ
うやく今まで肩の力を張っていたのだと気付かされる。
﹁シーツ敷くから身体起こせ﹂
俺はベッドの端に、枕を抱えたまま三角座りをする。靴を脱いで
ベッドに上がったカイルは、カバーをかけていないその枕にちらり
と目をやったが、取り上げずにいてくれた。
﹁なあ、カイル﹂
カイルは大きく逞しい長躯を伸ばして、シーツをかけている。四
つん這いになった彼はこっちを見向きもしない。
こっちを向いて俺を見てと、幼児じみた欲求に突き動かされる。
なあ、カイルと何度も呼びかける。
﹁ちょっと待ってろ。すぐ敷いてしまうから﹂
俺はあんたと出会って、とんだ駄目人間になってしまったみたい
だ。一人暮らしは慣れていたはずなのに、この二年間、あんたがい
ない生活が寂しくてどうしようもなかった。
枕をその場に残し、もそもそとカイルのところまで這っていく。
456
﹁なあってば﹂
﹁どうした﹂
背中にのしかかってきた俺に、カイルは苦笑交じりに訊ねる。背
中に回ってきた右腕が、俺の髪をくしゃりと撫でた。
﹁適当でいいよ。すぐぐちゃぐちゃになるんだし。なあ、シーツは
いいからこっち見て﹂
﹁こら、じゃれつくな﹂
﹁さみしかった﹂
筋肉が発達した硬い背中に縋りつく。すんすんとカイルの匂いを
嗅いでぐりぐりと額を擦りつける。
ずっと封印していた言葉だった。第五番隊副隊長を辞すのは簡単
なことではない。こうして長い時間がかかった。果たすべき責任を
負うカイルを、困らせてはいけない。寂しいなどと言って困らせて
はいけないのだと、カイルが俺に会いに村に来るたびに、自分を戒
めていた。
﹁眠いのか。随分甘えただな﹂
低く笑ったカイルが背中に張り付いた俺を引き剥がす。そのまま
優しく抱きしめてくれるから、ぎゅ、と抱きついた。
でもずっと言いたかった。
﹁カイルがいなくて、さびしかった﹂
やっと言える。
﹁俺もだよ。俺も寂しかった﹂
457
前髪をかき上げ、俺の額に口づける。
﹁そこじゃないだろ﹂
文句を一つ言ってカイルの長身をかがませる。俺はカイルの膝に
乗っているのに、彼のほうが僅かではあるが唇の位置が高い。伸び
あがった俺は唇を付けて、べろりと舌でカイルの口を舐めた。
開かれた唇の間に舌を突っ込んで、唾液まみれにする。柔らかな
唇を甘噛みし、引っ張り、角度を変えてキスを繰り返す。
﹁ん⋮﹂
カイルは目を閉じ、俺が満足するまでしたいようにさせてくれる。
愛しいと言う気持ちが溢れて止まらない。この二年間は苦しくはあ
ったが、必要な時間でもあった。離れてこそ、失ってこそ、その大
切さがわかると、初めに誰が言ったのだろうか。実に正しい言葉だ
と、誰もが知っている。
﹁夜にベッドに入るだろ?そのときにベッドの中が冷たくて、知ら
ない場所に一人だけでいるみたいな気持ちになるんだ。眠れなくて、
酒を飲んだ。ごめん、あんたがいないところでは飲まないって約束
したのにな﹂
そしてあんたを想って、胸を焦がす。気付かないうちに胸の奥に
育った感情を、人は愛と呼ぶのだろう。
﹁もう、眠れそうか?﹂
﹁うん。もうずっと一緒だろ?﹂
﹁ああ。ずっと一緒だ﹂
458
責任。義務。俺たちを邪魔するものをすべて捨て、二人だけにな
れる世界へとやってきた。召喚によって半ば強制的に捨てさせられ
た俺とは違い、カイルは自らこの世界を選び取ったのだ。どれほど
の勇気が要っただろう。どれほどの犠牲を払ったのだろう。
﹁ごめんな﹂
﹁謝るな。得たものは何よりも大きいんだ、俺は満足している﹂
﹁だって﹂
﹁それ以上言ったら怒るぞ、リョウ。お前さえいれば、俺は何でも
いいんだ。裏切りや疑いの世界には、十分すぎるほど生きた。お前
を疑って失うなんて、もう金輪際二度と嫌だから﹂
信じるという行為は難しく、だからこそ尊い。一つだけ言えるこ
と。信じるという行為は、信じると決めることから始まるのだ。
そのことを俺たちはあの事件で、嫌と言うほど学んできた。
﹁あんたは気づいてないんだろうから言うけどな。俺の心があんた
から離れたことは、たったの一度もないんだぜ﹂
そのとき、沈みかけた太陽が照り輝き、一際眩しい光を放った。
その光に照らされ、時に取り残されたようなカイルの横顔がブロン
ズ色に染まる。その顔が驚きと喜びに満たされるのに、そう時間は
かからなかった。
﹁いや、しかし⋮俺は﹂
信じられないと呟き、今告げられた言葉の意味を確認するように、
俺の顔を何度も覗き込んだ。
459
﹁あんたが気にするようなことは、何もねえよ。愛してるって言っ
たろ。終わり良ければ総て良し、だ﹂
﹁リョウ⋮リョウ、愛している。お前だけを愛してる﹂
カイルの身体は震えていた。瞳に浮かんでいた怯えと焦りに似た
感情は、どこかへ消え去った。この上なく満ち足りたような大きな
笑みが、俺までを幸せにする。
﹁うん。知ってるよ﹂
カイルに愛されているという確信が俺を救ったのだから。
﹁そうか⋮⋮知ってたか﹂
伝わっていたか。そう独白してカイルは、俺の背中を慈しむよう
に手の平でさすった。その手つきには全くいやらしいものはなかっ
たが、触られたところから順に火がついていくようで、俺は身をよ
じった。
﹁カイル、キス。キスして﹂
切望感が腹から燃え上がり、喉奥を焔が舐める。夜が訪れる。
﹁ああ、本当だ。筋肉がついてきてるな﹂
カイルがそう言ったのは、俺のシャツをはだけて腹をさわさわと
触ってだった。俺はくすぐったくて、小さく息を漏らす。
﹁⋮ン﹂
460
﹁腕も少し太くなったか?腰回りは⋮⋮細いのは変わらず、か﹂
﹁ちょっ、⋮や、め﹂
ズボンを脱がされ、辛うじてシャツの裾に隠れた俺の尻をカイル
の指が揉みこむ。ぞわぞわとした感覚が上ってくる。
﹁柔らかい。すこし安心した。ここまで硬くなっていたらどうしよ
うかと﹂
﹁ばか、変なこと言うな﹂
指が窄まりを掠めるたび、ひくんとそこが収縮した。息を詰まら
せながら、俺は耐え切れず噴き出した。おかしいのと、断続的に与
えられる刺激に呼吸が上手くできない。とぎれとぎれに笑い声を上
げるが、それもすぐに喘ぎ声に変わってしまう。
﹁髪が短くなったのは惜しかったな﹂
﹁カイルは、⋮ん、長いほうが好き?﹂
﹁前くらいが丁度よかった。この耳に、少しかかるくらいの﹂
カイルが俺の頭に顔を寄せ、耳を齧った。
﹁ゃ、だめ⋮耳、は﹂
﹁ん?聞こえない。なんだって?﹂
絶対聞こえているくせに、意地悪く聞こえないふりをする。文句
を言おうにも俺が言葉を発しようとすると、ここぞとばかりに耳に
息を吹きかけたり、ねっとり舐めてみたりと散々邪魔をする。
﹁ぁあ⋮だ、め﹂
﹁こら、耳を肩で押さえるな﹂
461
﹁だって⋮ぅ、﹂
耳に気を取られている間に、俺はほとんど全裸に剥かれていた。
シャツを羽織っているだけの身体に、窓からの光がエロティックに
影を落とす。うわ、と心の中で叫ぶ。反射的に顔を背けるとその首
筋をカイルに吸い付かれ、俺は呻きつつ身体を強張らせた。
﹁腕、首に回せ。脚ももっと開いて⋮そう、上手﹂
こわごわカイルの命ずるままに従う。そうすると、さっきよりも
密着度が増し、体温ばかりか心音さえ伝わってきそうなほどの距離
で向き合う体勢になった。
﹁服、脱げよ。邪魔﹂
﹁そうだな。すぐに汚れそうだからな﹂
指先で先端を嬲られた俺の中心は、既に硬さを持ち始めている。
人のこと言えないくせに、と手を差し込み膨らんだズボンの前に触
れると、カイルがぴくりと眉間に皺を寄せた。
﹁あんたも、限界なんじゃないの﹂
﹁耐えられないほどではない。心配してくれたのか、ありがとう﹂
﹁あほか﹂
皮肉気な笑みを浮かべるカイルの両頬を摘まんで、力任せに引っ
張る。いひゃいいひゃい、と痛みを訴えるカイルも、込み上げる笑
い声は抑えられず、肩を震わせて笑う。
﹁リョウ、自分で広げられるか﹂
462
どこをとは言わず、カイルは挑むように片眉を吊り上げた。久し
ぶりのセックスに対する俺の緊張は見抜かれていたらしい。カイル
は俺の気持ちを拾うのが、驚くほど上手い。
﹁できる。俺だってそれくらい﹂
﹁そうむきになるな﹂
なぜり、と俺の頭に手の平を載せ、苦笑した。そうしながら後ろ
手に潤滑剤を手に取って、背に両腕を回す。胸と胸がくっつき、心
臓の拍動が急に速足になったのを気付かれただろうか。
﹁冷たいけど、少し我慢な﹂
尻たぶを押さえつつ、息をひそめる。さっきカイルに弄られてい
たせいで、後孔は期待を隠そうともしない。
﹁っ﹂
やがてぺちょり、と冷たい液体を纏った指が尾てい骨の辺りに触
れた。そこは、一際大きな傷跡が凹凸を残しているあたりだ。そこ
から指が降りてきて、割り割かれた双丘の間へと入って来る。
﹁さっき触ったとき固く閉じていたから、ほぐすのに時間がかかる
と思う。頑張れよ﹂
痛いだけなら良い。まだ耐えられる。しかし決定打に欠ける淫蕩
な刺激がこれから嫌というほど与えられるのかと思うと、泣きたい
気持ちになってくる。励ましを受けて強張った身体から力を抜こう
としたが上手くいかない。
463
﹁あんま、酷くしないで。⋮できるだけ、はやく⋮⋮頼む﹂
腰を持ち上げ、窄まりに指が触れるのを待った。
464
4※
カイルが指を先へと進め、中を傷つけないように後孔を慎重に広
げている。それでも、収縮した状態に慣れた筋肉はその動きを嫌が
り、ぎゅうぎゅうと指を締め付けた。俺が息を吐き身体が弛緩した
ところを、カイルが三本の指を開きぐっと押し広げる。
﹁⋮ぁっ、は﹂
吐き出す空気を失くした身体が苦しさを訴える。そのタイミング
で、カイルの指が前立腺を押した。目の前に火花が散る。
手足を強張らせ、快楽の波に押し流されそうな自分を見失うまい
と、俺はカイルの逞しい身体に縋りついた。カイルは俺の背中をさ
すり、いかにも優しそうな声で囁く。
﹁力、抜いていろ。でないと、いつまでもこのままだぞ﹂
声は亜麻布のように優しくとも、その指は悪戯をやめようとはし
ない。
﹁っじゃ、そこ弄るの⋮ッやめろよ﹂
﹁どこ?﹂
再び一点を指で捏ねられ、甘い悲鳴が上がった。
﹁ゃ、だ﹂
﹁うーん、ここか?﹂
465
﹁ひゃっん﹂
﹁ここを触るのを、やめればいいんだな?﹂
﹁だっから、そう言ってるだろ⋮ぅ、あ⋮︱︱﹂
指が増える。
熱いのは俺だけ?二人の間には体温で熱された空気がこもり、暑
いくらいだ。汗の粒が顎まで伝いおりる。カイルの肩に思わず爪を
立て、身体を浮かす。
﹁こら、逃げるな﹂
﹁も、いやだ。まだ終わんないの⋮カイルしつこい。酷くしないで
って、頼んだだろ﹂
俺は泣き言を漏らす。鼻水をすすりあげた。
﹁泣くなよ﹂
﹁泣いてない⋮⋮けど、中がムズムズすんだよ。どうにか、しろよ﹂
﹁どうにかしろ、とは﹂
﹁⋮︱︱ッ、ばか⋮挿れろって、言ってんの﹂
言ってしまった。あまりの恥ずかしさに、俺はカイルの肩に顔を
伏せた。顔を見ないでも、カイルが愉悦の表情を浮かべているのが
わかる。
﹁了解﹂
ぐちゅん、と指が抜かれる。寂し気にひくつく自分の後孔が、さ
らに羞恥を煽る。栓を失い、とろりと中の潤滑液が垂れてベッドと
カイルの脚を汚した。
俺は腹の底から息を吐き出した。ぐでっと、カイルに寄り掛かる。
466
﹁なんか、あんたとのセックス⋮⋮疲れる。精神的にも肉体的にも﹂
﹁そうか?﹂
﹁そうだよ。明日、マルセルに畑手伝うって約束したのに⋮こんな
の、絶対、無理じゃん﹂
身体の位置を調節するために、カイルが俺の腰を持ち上げる。協
力しようとしたが、脱力しきった身体は有効な動きを見せようとは
しなかった。
﹁ほら、膝立たせろ﹂
﹁う、ん﹂
返事はしたものの、動けない。仕方がないなと笑い混じりの嘆息
を落とし、カイルが俺の脇に手を通し支えてくれる。
﹁大丈夫か﹂
﹁悪い。今度は力、はいんなくなっちゃった﹂
﹁もっとしっかり抱きつけ。一気に入ったら辛いだけだろう、久し
ぶりなんだから﹂
﹁いいってば。それより早く﹂
どうしようもないほどの疼きを、どうにかしてほしい。奥を抉っ
て、掻き混ぜて、擦って。原始的な欲求が、俺にそれしか考えられ
なくする。
﹁手加減できないぞ﹂
後孔に触れられた先端は欲望に濡れそぼち、堪らなく俺を興奮さ
せる。ああ、と俺は言った。やっと、彼のものになれる。
467
﹁カイル﹂
彼はできるだけゆっくりやろうと、できるだけの努力しているよ
うだった。険悪な皺を眼間に寄せ、剛直を包み込む、湿って暖かい
内壁に必死で耐えている。この瞬間だけは、受け入れる方が優勢な
立場に立つ。
﹁っこらリョウ、締めるな⋮ッくぅ﹂
腰を揺らめかせ、身をくねらせ、少しずつ入れていく。そうしな
がらカイルを虐めた。
﹁⋮はは、ざまあ⋮⋮ぅあ、は、⋮ぅんッ﹂
もちろん、自分が気持ち良くなって蕩けてしまう危険性もあるわ
けだが。図らずも自分の弱いところを突いてしまい、俺は子犬のよ
うに哭いた。背筋に寒気にも似た快感がぞぞぞと走る。身体はびく
びくと震え、内壁が揃って蠢いた。
﹁クっ﹂
﹁だめだ⋮気持ち、い⋮﹂
尻がカイルの胡坐をかいた太腿の付け根に当たった。根元まで飲
み込んだ後孔の縁は限界まで開いている。
﹁全部、入ったな。⋮⋮平気か?﹂
﹁動くなよ、そのまま﹂
俺は快感を快感と、冷静に感じられるかどうかの瀬戸際に立たさ
468
れていた。もっと奥を擦ってもらいたい気持ちもあったが、頭を沸
騰させるような淫楽に飲み込まれて前後不覚になるのはあまり好き
ではなかった。
﹁こうしてくっついていると、リョウが戻ってきたって感じがよう
やくしてくるな﹂
﹁戻って来たって⋮⋮おい。なに、平然と乳首弄ってんだ﹂
脇の下から手が差し込まれ、カイルの親指が胸の突起をするりと
撫でる。円を描くように浮き出た乳輪を繰り返しなぞられると、そ
の刺激が下半身に響く。
﹁もう一回言って﹂
﹁⋮何を﹂
﹁乳首﹂
ばっと顔を上げると、カイルがにやにやと見下ろしていた。
﹁⋮⋮変態!﹂
﹁変態で結構。ほら、言えって﹂
俺は長嘆した。
﹁あんたって、ほんと﹂
カイルをよく知らない初めの頃だったらわからなかったかもしれ
ない。しかし今なら、わかる。
﹁早く言わないと、動かすぞ。いい加減我慢も限界だ﹂
469
脅すように軽く突き上げられて、俺は一瞬考えるのを放棄しそう
になった。喘ぎ声を飲み込みなんとか息を整える。整えるともう一
度身体を離し、右手でぱこんと金茶色の頭をはたいた。
﹁ったく⋮誤魔化すのもいい加減にしろよ、カイル。なーにが、よ
うやく俺が戻ってきた感じがするって?﹂
驚いたカイルは目を見開き、次に切ない笑みを零した。
﹁もう誤魔化されてはくれない、か﹂
この男はなかなか本音を明かさない。もはや癖になっているよう
だった。隠せるものはすべて自分の中にしまい込んで、一人で解決
しようとしてしまう。
﹁俺は徐々に、あんたのエキスパートになりつつあんの。何でも隠
せると思うなよ。で?今度は何に不安になってんだ?﹂
﹁はは、適わないな。本当にリョウには、適わない﹂
﹁どうしてあんたは、いつも守勢に回ろうとするかな。話せ、あん
たはもう一人で秘密を抱える必要はないんだから。俺が一緒だ﹂
第五番隊での仕事は、辞した今もカイルの心をがんじがらめにし
ている。俺は心底五番隊が憎かった。誰かが汚れ仕事をしなければ
ならないのは分かっている。しかしカイルを愛してしまった今は、
何もカイルでなくたってと思ってしまうのだ。
﹁二年前、お前は俺の保護下にいるのが嫌だと言ったろう。一人で
暮らしたいと﹂
﹁ン⋮まあ、言ったな。それで?﹂
470
カイルが苦し気に顔を歪める。
﹁捨てられたような、気がした⋮⋮ああ、くそ。なんでこんなとき
に⋮﹂
ぐっと中のモノが怒張する。
﹁は、え、ちょっ﹂
﹁悪い。限界⋮一回イカせてくれ﹂
もたげていた兆しが、再び訪れる。律動を始めたカイルに、まあ
それもそうかと思う。最中にまともな話をしろというほうが無茶だ。
男は本能だけで生きているに等しい。
余裕を失くしたカイルが行為に没頭する。その苦み走った渋面を、
俺は愛おしいと思った。
﹁んッ、は⋮⋮む﹂
カイルの首に腕を巻きつけ、唇をぴったりと重ねた。俺が舌を誘
い出すと荒々しく応じてくる。
﹁リョウ﹂
﹁ぁ⋮そこ⋮いい。奥のとこ﹂
余裕のないカイルは、俺がねだる通りに腰を動かしてくれる。そ
の従順さを好きだと思う。身に纏った邪魔なものをすべて取り除く
と、従順なカイルが現れる。その姿を俺にしか見せないのだと思う
と、優越感に心が躍った。
﹁リョウ⋮いけるか﹂
471
﹁ぅん⋮うん、いく﹂
達するときは一緒に。俺の好みを、この男は決して忘れない。
俺の身体を優しく仰向けに倒し、長い手足で俺を囲い込む。片脚
を肩に担ぎ上げ、さらに結合を深めた。
もっと
は、腰に⋮クるな﹂
﹁あぁ⋮カイル⋮、頼む⋮もっと﹂
﹁お前の
互いの唇を貪り合いながら切迫した欲望をぶつけた。相手のタイ
ミングを計りつつ、時に訪れる絶頂への予感をなんとしても食い止
める。
我慢が出来なくなったのは俺が最初だった。
﹁カイル⋮ごめ、イっちゃ⋮っく、ぅ﹂
﹁っ、は⋮⋮︱︱﹂
収縮を始めた中に、カイルも眉間に皺を寄せ飲み込まれるままに
身を任せた。脈打つ硬く熱い屹立が白濁を放る。内壁に勢いよく当
たるその刺激に、俺はまた身体をおののかせた。
溢れた白濁が流れ落ち、その熱さに火傷しそうだ。
圧倒されるほどの全身を焼き尽くすような快感が、足先から脳髄
までを震撼させていた。
﹁だめ、まだ離れんな﹂
俺はカイルの腰にきつく脚を絡ませ、荒ぶる心臓が落ち着きを取
り戻すのをじっと待つ。
頭上でカイルが深く息を吐いた。満足げな吐息だった。
472
﹁⋮⋮別に、お前に捨てられたわけじゃないことくらいわかってい
たんだ﹂
カイルは俺を抱きかかえると、怒張をずるりと抜き出し、どろど
ろのまま俺を上に乗せてベッドに寝転がった。
﹁俺、その⋮捨てる、みたいな言い方してたか?﹂
﹁いや、まったく﹂
事後の気だるげな笑みが、魅力的なカイルの唇に弧を引かせる。
彼は手を伸ばし、汗で額に張り付いた俺の髪をかきあげた。
﹁距離を置こうと言ったのは、本当に物理的な距離であってだな﹂
﹁あのままだと、俺が五番隊を辞められないとわかっていたんだろ
う?俺との距離を取ろうとしたのではなく、俺と五番隊を引き離そ
うとした?﹂
カイルが驚くほど俺の意図するところを正確に捉えているので、
俺は少々たじろいでしまう。
﹁五番隊での仕事があんたの誇りになっていることは知っていたけ
ど、﹂
﹁いいんだ。リョウが正しかった﹂
俺のせいでカイルが誇りを犠牲にしたのではないかと思うと、今
でもまだほんの少しだけ怖い。
﹁だって、親父さんのことだってあるだろ?﹂
﹁父上の形見は俺の手元にあるわけだし。第五番隊を形見にする必
要はない﹂
473
心配してくれてた?と囁き、嬉しそうにぎゅっと俺を抱き締める。
その両腕に大人しくおさまりながら俺は、それならどうして、と考
えた。
﹁じゃあ、俺に捨てられた気がしたのは﹂
﹁単純に、俺が第五番隊を辞めるまでそばで見守ってくれると勝手
に勘違いしてたから。怒られそうだから、黙ってた﹂
なんだよ、それ。
唖然としたが、次第に笑いがこみ上げてくる。罰が悪そうな表情
を浮かべているカイルに、堪らず俺は噴き出した。
﹁⋮ばっかじゃねえの⋮はは⋮⋮あんた、まじ⋮あほだろ﹂
﹁そう言うと思ったよ。何はともあれ、俺はリョウとの物理的距離
には耐えられないとわかったので、早々に五番隊を逃げ出してきま
した。お前を取り戻せて良かった﹂
﹁めでたしめでたしってか?﹂
睫毛の端の涙を拭い、カイルの瞳を覗き込む。
﹁めでたしじゃなければ何だ。幸い俺は仕事を失ったわけではない
し、恋人も失わなかった。すべてが順風満帆で怖いくらいだよ﹂
そう。カイルは騎士団を抜けたわけではなかった。第十五番隊の
外縁部隊に配属され、この春からは王都外縁の警備にあたる。そし
めでたし
の範疇に収まりそうだ﹂
てその外縁には、この獣人の村も含まれているのだった。
﹁確かに、そりゃ
﹁しかし、懸念がないわけでは﹂
474
ふと怖い顔を作ったカイルに、俺はぱちくりと目を瞬かせる。
﹁なに﹂
﹁マルセルって誰だ﹂
そしてまた、大いに笑った。マルセルとは、下宿していた先のご
老人である。嫉妬もいい加減にしろと、ばこばこカイルの腹を殴る。
﹁この調子だとあんたの悩みは尽きないぜ。俺がいかに獣人の方々
にモテモテか、思い知るがいい﹂
﹁それは何も、獣人だけじゃなかったがな。前からだ、前から﹂
﹁ま、いいじゃん。俺の恋人はあんただけなんだから。どっしり構
えてろよ﹂
ちゅ、とキスをして、ベッドを下りた。
あーあ、どろどろじゃねえか。こりゃ早くシャワーを浴びるに限
るわ。ぶつぶつと呟き、着替えとタオルを取りに居間に戻る。
セックスの後の妙に現実に引き戻された感じは、いつまでたって
も恥ずかしいままだろう。
﹁リョウ一緒に、﹂
﹁入らねえよ、ばーか﹂
背中にかけられる言葉も、きっといつまでも変わらない。
︱︱︱︱︱俺たちの愛だって、いつまでも。
475
END
476
あとがきとお礼︵画像有︶
最後までお読みくださり、ありがとうございました!
﹁異世界交流の間違った手順﹂完結といたします。
閲覧、ましてブックマーク、評価、感想を下さった方には本当に
いくら感謝してもしきれない思いです。日々のアクセス状況や評価
をどきどきしながら見つつ、一喜一憂していたお馬鹿さんは、ここ
におります。
作者魂見せろや!と殴り飛ばしてくださって結構でございます。
痛いのは嫌だけど。
むつかしいことなんてこれっぽっちもわからないくせに難しいこ
と書こうとして皆様に伝わらなかった箇所が、多々あると思います
が、最後までおつきあいくださいましてありがとうございました。
以降は、たまに需要がありましたら番外編等あげていこうかと思
っております。またお目にかかれることがあれば幸いでございます。
さて、ここまで読んでもらってからのよ・こ・く!!!!でござ
います。どんどんぱふぱふ。予告とかいらねーよな方にはご容赦く
ださいませ。
とか言って題名と予告画像だけですが⋮⋮
﹁あなたの獣はすぐそばに﹂
副題﹁僕を探さないで﹂
まあ、よくあるドラゴンものでございますね。騎士×ドラゴン︵
竜型獣人︶。2カップル並行で物語進んでいきますので、2タイプ
の主従がご覧いただけると思います。あーるとじゅうはちで、びー
477
とえるです。
今作品のリョウ、カイルにも出演依頼を送付いたしましたが、恋
人をできるだけ人前に出したくない彼が二通とも握りつぶしている
かもしれません。嫉妬って怖いですね。でもおいしいですね。
それでは、また。
青木史郎。
以下、スクロールしていただけるとイラストございます。﹁異世
界交流の間違った手順﹂のお礼画像と、﹁あなたの獣はすぐそばに﹂
の予告画像です。イメージ壊しちゃうとあれなんで、見たくない方
はブラウザバックぷりーず。
478
予告﹁あなたの獣はすぐそばに﹂
<i140369|13498>
ありがとうございました!
<i158602|13498>
クリックで原寸大、だそうです。
479
480
ベスティランにて※
忙しいという言葉は、どうしたって人に、文句を言えなくする。
寝汗で湿ったシャツが身にまとわりついて気持ちが悪い。蝉の声
に起こされた俺は上体を起こし、苛々とシャツを脱ぎ捨て髪をかき
上げた。ブランケットの下、膝を立てたその間で、熱がこもってい
る。
﹁⋮⋮マジかよ﹂
勘弁してくれ。
持て余されて溜まった欲は、生理現象として表出する。重たく張
った下腹部がじんじんと熱さを訴える。俺は大きく息を吐いた。
右手をブランケットの隙間に滑り込ませ、熱源に触れる。
﹁ああ、クソ﹂
腕を緩慢に動かしつつ、目線を遠くに移す。
空いた方の手でカイルが留守にしている日数を指折り、薬指まで
達して、むなしくなってやめた。そんなん、数えてどうする。それ
であいつが帰ってくるわけでもないのに。
瞼を下ろすと眼裏に浮かんでくるのは、どうしたってあいつの顔
で。残像を掻き消すように強く眉間に力を入れる。
︱︱︱イけよ、リョウ
﹁ッ﹂
481
手の中にどろりとした液体が吐き出され、強い快感が全身を震え
となって駆けめぐった。びくびくと痙攣する腹筋に、収縮する腿の
筋肉。今にも止まりそうな息を小さく出して、波が引くのをじっと
待つ。
サイアクだ。粘つく手の中のそれが、とてつもない罪悪感とむな
しさを呼び込んだ。
﹁何やってんだ、俺⋮﹂
とりあえず風呂か、と寝床にしていたソファを降りる。その拍子
に、シャツとブランケットが一緒になって滑り落ちた。
家に通信機は備え付けられているが、あれは生憎と魔力を介さな
ければ息をしない。つまり、魔力を持たぬ俺や獣人には無用の長物
である。カイルと話をしたければ、彼が帰ってくるのを待つほか、
手段はなかった。
風呂から上がってきて、頭を拭きつつ、書斎に戻る。寝室にはど
デカいキングサイズのベッドが鎮座ましましているのだが、一人寝
をするにはどうにも具合が悪く、今のところ書斎のソファに落ち着
いている。
︱︱︱ヴィーンヴィーンヴィンヴィンヴィー
机の前の窓は、普段は書類が飛ぶのを恐れて閉めたままにしてあ
る。その窓を開けると、うるさいくらいの蝉の声が、三割り増しく
らいで部屋に入ってきた。
机上に広げられた紙に視線を落とし、ため息を吐く。だるい身体
に重い頭。その原因の一端は、間違いなくこの手紙だった。
482
一通の封書を受け取り、その高級そうな手触りからカイル宛てだ
ろうと、書斎の机に宛名も見ず置いたのが二日前。その封の表に、
流麗な手で書かれた自分の名前を見つけたのが、昨夜のことだ。
﹁ったく。どうすんだよ、これ﹂
慇懃かつ古めかしいヘンウェル語にはあまり馴染みがない。辞書
を引きつつ読んだ内容に、俺は頭を悩ませた。
濡れた髪からぽたりと落ちた水滴が、書面のインクを滲ませる。
暗赤褐色の封蝋に捺された刻印は、ヘンウェル王国の公式印。
それはヘンウェル王国最高学府からの、俺宛の喚問状だった。そ
して俺は、学府なんざに呼び出される理由に、まったくなんの見当
もつかないのだった。
﹁っだああああああ!!!﹂
突然大声を出した俺に、びくりと、向かいに座ったアーサーが飛
び上がった。
﹁ど、どしたの?﹂
犬耳が前に傾けられ、テーブルの中央に置かれたボウルの上で、
さやいんげんを持った手がフリーズしている。犬型だったら全身の
毛が逆立っているのが見えただろう。それを見た俺も我に返ってフ
483
リーズした。
﹁リョウちゃん、どっか調子でも悪いね?﹂
のんびりと声がかかる。
﹁ちげぇよお、こんなチマチマした仕事に飽きちまったんだべよ﹂
﹁男の子だもんなあ、夕食のさやいんげんの筋ば取れなんて、つま
んねえよなあ﹂
皺くちゃの顔をさらにくしゃくしゃにして、ベスティラン村の三
人のオールドなレディたちはにこにこと笑った。椅子からユラユラ
と揺れる三本の形状様々な尻尾に、チビたちが床に転がりながらじ
ゃれている。
﹁リョウくん、疲れてるなら休んでいてもいいわよ。夕食が出来た
らアーサーに呼びに行かせるし。ちょっと帰って寝たら?﹂
鍋をかき混ぜていたアーサーの母親が、心配そうな顔をして提案
した。
﹁大丈夫。疲れてはない、です﹂
﹁母さん、俺も飽きたぁ。夕飯まで遊びに行っていい?リョウん家
行きたーい﹂
﹁だめよ、アーサー。リョウくんだって疲れてるんだから﹂
﹁えー、いいよね、リョウ?今、家にあの人いないんでしょ?﹂
﹁い、あ⋮うん、いないけど﹂
あの人、というのはカイルのことである。アーサーは人間である
カイルをとても警戒しているのだ。ちなみに俺も人間だと何度も言
484
っているのだが、一向に信じてもらえないのは、俺から魔力が感じ
られないかららしい。カイルはアーサーからすると、俺をたぶらか
した、イケナイ男なのだ。笑える。
﹁ちょっと待ってて、手ぇ洗ってくる!﹂
ロドニー家の人々は基本的に、あまり人の言うことを聞かない。
手が豆臭いと笑いながら駆け出して行ったアーサーを見て、弟たち
が鞠のように弾みながら兄の後をついて行く。
﹁こら!服を着なさい!⋮⋮ごめんなさいねえ、リョウくん。ちょ
っとの間、子守を頼んでもいいかしら?﹂と、ロドニー夫人。
﹁構いませんよ。すみません、下ごしらえが途中になっちゃいます
けど﹂
﹁残りはおばあちゃんたちがやってくれるわよ。ありがとう、助か
ったわ﹂
チビどもはしょっちゅう犬型になったり人型になったりと姿を変
えるので、俺もいつの間にか、裸の幼児がそこらを駆け回っている
状況に慣れてしまっている。
ロドニー家の日常は喧騒と驚きと笑いに満ち満ちている。
﹁お待たせ。リョウ、行こうぜ﹂
イコーゼー、とチビたちの合唱が続く。キラキラと四対の目が見
上げた。
我が家はベスティラン村の旧市街の、ブドウ園沿いの坂道を上が
485
ったところにある。少年たちは俺を置いて、元気に坂を駆け上がっ
ていく。﹁リョウーはやくぅう﹂と彼らは時々坂の上から俺を振り
返って思い出したように叫んだ。
﹁転ぶなよー﹂
高い壁に囲まれていないベスティランから見える夏の夕焼けは、
はっとするほど美しい。空に滲むような朱色の夕日は、石畳に落ち
る人影を黒く長く伸ばす。日本で聴くより間遠なひぐらしの声の中
で、砂利を踏む自分の足音が聞こえている。
ゆっくりと勾配を上っていた俺は、少年たちの笑い声が急に途絶
えたことに気がついた。
﹁リョウ!﹂
転がるように坂道を駆け下りてきた、アーサーと弟たちの顔が緊
張と警戒に強張っている。駆けてきた勢いそのままに体当たりを食
らい、俺はたたらを踏む。弟たちは下衣から飛び出た尾を股ぐらに
丸め、俺の脚に手足を巻き付けて後ろに隠れた。
﹁どうした﹂
﹁にんげんが﹂
にんげん!とチビの一人がアーサーの言葉を繰り返す。
﹁にんげんがいた、知らない奴﹂
﹁さんにんも!﹂
興奮して目をまん丸にしたチビを落ち着かせるために、腰を下ろ
し腕の中に囲ってやる。触れ合う面積を増やしてやれば、安心して
486
か、首や背中に手を回してくる。
﹁先に帰ってるか?﹂
チビたちはそろって首を振る。アーサーは少し帰りたそうな素振
りを見せたが、弟たちの前で逃げ帰ることは、彼の兄としての矜持
が許さなかったらしい。
俺の後ろにぴたりと張り付いて、耳をピンと高く立て、俺に一歩
でも遅れられないと小股で足早についてくる。
﹁リョウの知り合いじゃない?﹂
﹁だといいんだけどな﹂
あの手紙に関係がないといい。しかしこういう場合は、悪い予感
というものは大抵当たるものだ。坂を上がっていくと、熱せられた
地面から立ち昇る揺らめきの向こうに、三人の男と三頭の馬の脚が
見えてくる。
﹁あの人たちだよ﹂
チビの一人が囁く。
カイルが作った不格好なブランコに、見知らぬ男たちが座ってい
るのを見て、俺は唇を引き結んだ。別に座っちゃいけないとは言わ
ないが、自分の領土に土足で踏み込まれたようで、あまり良い気持
ちはしない。子どもたちも同じなのだろう、怒ったように小さくこ
ぼす。
﹁あれ、ぼくたちのなのに﹂
487
カイルの結界は強力だ。ヘンウェル王都のどこを見ても、これほ
どまでに強い結界を見ることはできないだろう。幾重にも厳重に張
られた警戒心そのままの魔力の壁は、術者がその場におらずとも、
護りの任を果たしている。
彼らは、家の前の階段より向こう、結界の中には入れないようだ
った。しかしそれが逆に徒となったらしい。家への唯一の道でもあ
る、階段の入り口を完全に塞がれてしまった状況である。
﹁カイルの馬鹿⋮﹂
俺は彼らの着ている服に見覚えがあった。
朱色の刺繍が施された白き衣。旅装なのか、地面を今にも引きず
りそうな長い裾は簡略化されたようだが、彼らが身に纏う純白は﹁
白紙﹂。胸の紋章は真理の文字とペン、平和のオリーブを模したも
ので、それはつまり彼らが学府に属する人間であることを意味する。
﹁リョウ、知ってる人?﹂
﹁いや。でも大丈夫だよ、怪しい人じゃなさそうだ﹂
男たちは灌木の下で、思い思いの恰好で言葉少なに会話を交わし
ていたが、そのうちの一人、こちらを向いた男が、俺に目を留めた。
俺の腰に巻き付いた獣人の仔を見て男は凶悪な笑みを浮かべ、ヒュ
ウと掠れた口笛を吹いた。瞬間、ぞわりと鳥肌が立つ。
その男は学府の上衣を腰に巻き、鍛えられた上半身には薄手のシ
ャツしか身につけていない。顔に刻まれた傷も相まって、学者には、
とてもではないが見えなかった。
その視線を追って、残りの二人が俺を見て慌てた様子で立ち上が
り、会釈ともとれるような仕草をした。
﹁餓鬼ども、よくわかってんなあ。なかなかの美人を連れてきたぜ﹂
488
低くしゃがれた声は、傷の男のものだった。
﹁ロイ、聞こえるぞ。印象が悪くなるようなことを言うな﹂
強めに小突かれても、傷の男はにやつき笑いをやめない。俺はさ
りげなく、アーサーと弟たちを近くに寄せた。
﹁獣人しかいねえっつうから期待してなかったけど、まあ、獣臭い
のは我慢するとして、悪くねえな。予想外の美人ちゃん﹂
﹁ロイ!﹂
こちらに聞こえていないとでも思っているのだろうか。俺はアー
サーが一歩前に出ようとするのを止める。頭を振ってみせると、憤
った少年は唇を強く噛んだ。
﹁あの、すみません。少しお尋ねしても?﹂
﹁はい﹂
小走りに近づいてきた男に、俺は愛想の良い顔を向ける。男はそ
ばかすの浮いた頬を、ほっと緩めた。そうして見ると、彼らが思っ
たよりも若いのがわかる。
﹁この家の人をご存じありませんか、アキヅカという人なんですけ
れども﹂
﹁アキヅカ?さあ、知りませんね﹂
人当たりのいい笑顔のまま、首を傾げる。
﹁魔力をお持ちでないので、獣人と見分けがつかな﹂
489
﹁知りませんね﹂
﹁えっ⋮と、﹂
ここで俺の揺るぎのない笑顔に不穏なものを感じたのか、男の顔
がひきつった。
﹁それだけですか?申し訳ありませんが、そこを通していただけま
すか。通行の邪魔になってるので﹂
﹁あっ、は、はい。すみません⋮⋮⋮って、え?﹂
子どもたちを先に行かせ、階段を上るよう促す。結界内は安全だ。
学府の男たちが、はっと気がついたときには、俺も彼らの手の届か
ない、元第五番隊副隊長仕様の結界の中である。
﹁ああ、そうだ。ひとつ言い忘れた﹂
階段の上から男たちを振り向き、見下ろした。主に、あの態度の
悪い傷の男を。
﹁人の家の前でたむろってんじゃねーぞ、餓鬼どもが。獣臭いとか
言う前に、自分の乳臭さをなんとかしやがれ﹂
﹁⋮⋮へえ﹂
おもしろい、唇がそう動いた、気がする。俺は目をすがめた。
﹁カイルのいないとき狙いすましたように来やがって、気分悪い。
もっぺん礼儀を教わってから来るんだな﹂
﹁アキヅカ殿!﹂
﹁ロイ!お前のせいで怒らせたじゃないか!って、アキヅカさん、
ちょっと待って﹂
490
﹁ほら、謝れ﹂
﹁やだね﹂
﹁ローイィィィ!!!﹂
少しだけ、名も知らぬ二人の男が気の毒に思えたが、これもそれ
も、俺が積極的に関わるべきではないことである。関わり合いにな
らないのが、一番だ。
俺は我が家の扉を閉め、外のことは忘れることにした。
491
ところ変わって、第六郭のスラム街より
**********
第六郭のこのあたりでまともなコーヒーが飲める店と言えば、こ
こしかない。
﹁コーヒー、いつもの。ふたつ﹂
早朝、店内に人はまばらだ。店員がコーヒーを淹れている間、ダ
ン・ノーマはカウンターに寄りかかって、小さな籠の中から飴玉を
指でいくつか拾い上げた。
﹁あいよ﹂
不愛想な太った店員が、カップと銀のポットの乗ったトレイを差
し出す。かぐわしい豆の香りがたちのまち、ダンの鼻と心をくすぐ
った。飴玉を下衣のポケットに滑り込ませ、銅貨を四枚支払い、カ
ウンターを離れる。少しばかり高いが、本物のコーヒーのためなら
ば痛くない出費である。
爽やか、というには少々暑いかもしれないが、汗ばむ肌に開け放
された窓からの風が心地いい。新しい一週間を始めるにはふさわし
い、夏の朝。
﹁先輩、コーヒーですよ﹂
492
一番気持ちよく光が当たる窓際のテーブルに、今にも眠りそうな
のを我慢している猫のように、ひとりの男が体を丸めていた。テー
ブルには新聞が大きく広げられ、男はその記事の文章を目で追いな
がら、ときどき思い出したようにもそもそと挽肉パイのかけらを口
に入れる。
﹁うん﹂
﹁ちょっと新聞どけて﹂
﹁うん、あとちょい﹂
﹁ルイゼ先輩。新聞﹂
﹁あっ馬鹿、今まだ⋮、ダン!まだ読んでるってば!﹂
片手で新聞を脇に除けると、ルイゼ・クエンシーはパイの油で汚
れた指を舐めながら、綺麗な方の手で、ダンの手から新聞を奪い取
った。
﹁なんか面白い記事ありました?﹂
﹁今読んでるとこだっての﹂
﹁怒んないでくださいよ。ね。はい、コーヒー﹂
﹁うん﹂
コーヒーを注ぎ、カップを持たせてやる。
﹁熱いので気を付けて﹂
昔から世話好きの傾向があったのは自覚しているが、長い間特定
の女がいなかったからか、ルイゼと同居し始めてからというものの、
世話焼きの対象はすっかりルイゼに移ってしまっている。
ダンがテーブルの上の食べかすを集めたり、卵の殻を剥いたりと
493
しているうちにゆったりと時間は流れ、やがてルイゼが新聞から顔
を上げた。
﹁きみさ、たまに女と間違われるだろ﹂
十五番隊いち不真面目であると自他ともに認められるルイゼは、
そう言ってから小さくひとつ欠伸をした。
﹁女ですか?まさか。俺、大抵の男より背高いんですよ。こんなデ
カい女いたら化けもんじゃないですか﹂
﹁おい、今世界のビッグな女が傷ついたぞ。謝罪を求める﹂
﹁なんで先輩が求めてるんですか。あなた男でしょうに﹂
﹁そうだけどって、そうじゃなくてさ。このテーブル見ろよ﹂
くちゃくちゃっと丸めて折りたたまれそうになった新聞を無意識
で受け取り、丁寧に畳んで隣の席に置く。示されたテーブルには、
ふたつのカップと皿、銀のポットのほかには特におかしなものは置
かれていない。
﹁なんもないですけど。どうしたんです﹂
﹁じゃーなーくーて!見てよ、綺麗でしょ﹂
﹁はい﹂
﹁その新聞も!﹂
﹁新聞?﹂
﹁俺、結構部屋汚くするタイプなの。でも、きみと一緒に住み始め
てどう?この三か月!床が見える!驚きだよ﹂
﹁いいことじゃないですか﹂
﹁そうだね!いいことだ﹂
ルイゼが両手で顔を覆う。漏れ聞こえてくるわざとらしい泣き声
494
に、ダンは首を傾げた。
﹁で、何が言いたかったんです﹂
﹁⋮⋮卵、剥いてくれてありがとう﹂
﹁あ、はい。どういたしまして?なに怒ってんですか﹂
俺は甘えとわがままの境地で方向性を失いそうだ、とかなんとか
呟いて、ルイゼは破れかぶれに卵を頬張った。
ダンが、ルイゼ・クエンシーと同居を始めたと言うと、友人たち
は例外なくぎょっとした顔をして、ダンの正気を疑った。五年も一
緒にいると、感覚が麻痺してくるのだろうとも言った。しかしなが
ら、ルイゼの私生活は堕落しきっていたが、想像していたほどでは
なかったというのがダンの本音である。
﹁休日にこんな早起きしたの、初めてなんだよね。実は﹂
﹁そうなんですか?﹂
休日の早朝に、コーヒーを飲みにこの店に来るのはダンの日課だ
った。一方ルイゼは、休日はお昼過ぎに起き出すのだが、今朝は何
を思ってか自分も一緒に行くと言う。驚いたが、嬉しくもあった。
眠そうなのを必死で我慢してついてくるルイゼを、無性に可愛いと
思う自分は、やはりどこかおかしいのだろうか。
店を出たところで、ルイゼはううん、と大きく伸びをした。皺く
ちゃのシャツの裾下から、白い腹がのぞく。
﹁あーあ。しかし眠いな﹂
﹁そりゃ、あんな時間に寝れば眠いはずですよ。この機会に昼夜逆
転生活直したらどうです?﹂
495
﹁それって、昼間っからヤれってこと?ダン君ったらもぉエッチな
んだから﹂
腰をくねらせ、ルイゼが睫毛をぱちぱちさせる。
﹁そんなこと言ってないですけど﹂
﹁怒んなって、冗談だよじょーだん﹂
ルイゼと五年一緒にいて、感覚が麻痺してきたわけではない。彼
の扱いに慣れたのだ。
﹁そんなにいいもんですかねえ、セックスって﹂
﹁え、興味出てきちゃった?﹂
﹁目ぇキラキラさせんといてください。先輩、エロ親父っぽいです﹂
﹁ピチピチの27歳捕まえて、何を失礼な﹂
﹁ヨレヨレの27歳、の間違いでしょ﹂
無精ひげに寝癖付き放題の髪。ちゃんとしていれば美形の類に入
るというのに、本人はまるで頓着しない。
﹁まあ、ギャンブル、博打、酒とただれた生活に似合う言葉は数多
くあれど、その中では一番好きかな。セックスって骨の髄まで快楽
に溺れられるから﹂
﹁とんだ快楽主義者ですね﹂
﹁とは言え、最近ご無沙汰でねえ。右手の存在意義を思い返してる
よ﹂
確かにここ最近、ルイゼは夕食の時間までに帰宅する日が多かっ
た。今日の飯なに、と帰ってくるなり開口一番に訊いてくる。それ
がまた少し、こそばゆいような、うれしいような。気持ちはさしず
496
め、鳥のヒナに餌をやる飼い主のそれだ。
﹁そういや、なんで最近、帰りが早いんですか?﹂
﹁きみの作る飯が美味いからに決まっておろうが﹂
﹁へえ、それはどうも﹂
﹁俺は、自分がこのまま健康人間になっていまいそうで、本気で怖
いよ﹂
﹁健康、結構じゃないですか。朝日と一緒に目覚めるのも気持ちい
いでしょ﹂
﹁うへえ、きみねえ。ここが第六郭なの分かって言ってる?﹂
ヘンウェル王国の最外郭、第六郭は魔獣が入り込みやすい最も危
険な地区である。中流階級以上の人間はめったに寄り付かず、第六
郭に留まる行商人は、正式な入国証を持たぬ者ばかり。ヘンウェル
語を話すことさえできない人間も少なくない。
空気はどこか砂っぽく、死骸や酒気、馬糞や汚物のせいで、夏に
なると異臭があたりを充満する。逃げるように空を仰いでも、連な
る古臭いチタン屋根のせいで、広いはずの空は狭かった。
﹁俺たち、一生ここにいるんですかね﹂
俺たちはいつも、休日の自分を持てあましている。何もやること
がなくて、早く仕事がしたくて、この壁の向こうに行きたくて、ど
うしようもない。
﹁出ちゃおっか、壁の外﹂
ルイゼが目を糸のように細め、にいと笑った。
ヘンウェル王国騎士団第十五番隊。
497
歪な同心円状に六つの壁を連ねた城壁都市ヘンウェル王都。その
最外郭外には魔獣や山賊がうようよしている。外縁部隊はその郭外
の村々の警護を担う。そのため隊員の死亡率は、二桁の番隊の中で
も、特に高い。それが、十五番隊が﹃墓場﹄と呼ばれる所以である。
﹁また大隊長に怒られますね﹂
﹁ばれなきゃいいのさ﹂
﹁うわあ、なんて心強い言葉だろう﹂
﹁魔獣に殺されるか、大隊長に殺されるか。どっちが先かねえ﹂
﹁俺も、自分よくまだ死んでないよなって、思いますよ﹂
17歳で十五番隊に配属になって早五年が経つ。それに加え、こ
の先輩と一緒にいるせいで、郭外に出る回数は十五番隊の中でもダ
ントツに多い。それでも未だに息ができているのは、
﹁それは俺さまのおっかげー﹂
﹁先輩のせいで、郭外の味しめちゃったんだから、差し引きゼロで
す。胸張んないでください﹂
壁の外の空は、とてつもなく広くて、美しいのだ。
︱︱︱﹁十五番隊外縁部隊、第一師団二班。ダン・ノーマ。国家に
忠実かつ真面目な性格だが、切られた赤切符の枚数は百を軽く超す。
同じく第一師団二班、班長、ルイゼ・クエンシー。能力としては隊
長職クラス。非常に優秀。切られた赤切符の枚数は、騎士団最多。﹂
498
そして赤字で強調された一文が続く。
﹁両人とも王都壁外への逃亡癖、有り。憂慮すべし。﹂︱︱︱︱
瀟洒な風景画が壁に当たってカタカタと音を立てはじめ、机の上
に置かれたマグの茶に、波紋が生じる。地面が、というよりも隣の
部屋が揺れている。
﹁ああ、またあいつらか。大隊長、怒ってんなー﹂
﹁ルイゼさんたち、今度は何やったの﹂
﹁また壁外に無断で出たんだろ、懲りねえやつら。今回は死にかけ
たらしいぜ﹂
震源は第四修練所、十五番隊室の奥、大隊長室。今日も今日とて、
大隊長、カイル・エッケナの静かなる怒りが、魔力の振動となって
建物を震わせているのだ。
室内で唸るような音を発しているのは、高さが大人の男ほどの、
数台の大型魔導具である。明らかに、軽量化に失敗した旧型だ。そ
の術式をいじくっている長身の男は、時折難しそうに顔を顰め、机
に戻って紙に何かを書き込む、という作業を続けている。
499
﹁これ以上の性能は期待できない、か﹂
男が自分の言葉に頷き、片手を上げる。
そうして術式が解かれると、脳みそをズタズタにされるような痛
みとも呼べない激痛が消え、ダンは声なき悲鳴を上げるのをようや
くやめた。ぐったりと壁に背をもたれかけ、食いしばっていた歯か
ら力を抜く。力を入れすぎてもはや感覚がない。
隣でルイゼが荒く胸を上下させ、大粒の汗の玉を床に落としてい
る。
﹁懲りたか?さすがに﹂
男、つまりこの部屋の主であるところの、十五番隊外縁部隊大隊
長は、抑揚のない軽い調子で二人に訊ねた。正統派の騎士と言えそ
うなその風体は、ごろつきや獣人が多い十五番隊では珍しい部類に
入る。ただし、彼の醸し出す雰囲気は、並外れて物騒だった。
﹁残念ながら、あんまり﹂
ルイゼがニヘラと力なく、人を小馬鹿にしたような薄笑いを浮か
べる。
﹁ダン・ノーマ。貴官はどうだ﹂
﹁⋮⋮懲りたとは、申し上げられません﹂
﹁お前たちはもうしません、という簡単な言葉がどうして言えない
んだろうな﹂
本当に不思議だ、と大隊長は首を傾げた。
500
﹁正直な人間なんですよ﹂
﹁ほおう?意外だな、まだ人間の一人に数えられているとでも思っ
ていたのか。犬でももう少し賢いぞ。こうでもしないと、お前たち
は反省しないらしいからな﹂
その声は見る者をぞっとさせるような冷ややかなものだったが、
彼をよく知る人なら、暖かな褐色の瞳におかしそうに笑みがきらり
と光るのを見てとっただろう。ただし、二年前に新しく赴任してき
たばかりの大隊長、カイル・エッケナを知らないダンは、その光が
憤怒の兆候を示しているようにしか見えない。
﹁大隊長⋮⋮!﹂
痛みに恐怖しながら訴えたダンを哀れに思ったのか、ただ単に満
足したのか。多分後者だと思うが、大隊長は尊大に鼻を鳴らした。
﹁まあ、いいだろう。今回はこの辺にしておいてやる。次はないと
思えよ﹂
赴任してくる前は、なんと第五番隊の副隊長をしていたという。
その配属の経緯はよくは知らないが、彼がエリート中のエリートで
あることには間違いない。りゅうとした長身も自信に満ちた佇まい
も、何より彼を中心に渦巻く黄金の魔力が、ここにいるべき男では
ないということを物語っている。
﹁それにしたって、なんであなたみたいなのが、十五番隊に来てる
んですかね。郭内警備でもしてればいいんじゃないですか﹂
﹁どうしてお前みたいなのが騎士になれたのかが、俺にはわからん
がな﹂
501
大隊長の結界術式の展開範囲は今まで見たどの術式よりも広く、
また魔力感知は王国一の冠も頷ける腕前だ。彼が来たことにより、
魔獣の討伐は格段に楽になり、殉職者も激減した。結界内であれば
魔獣の位置がつぶさに把握できるので、迅速な対応が可能になった
のだ。
ということはつまり、今や、隊員の命運を彼が握っているとも言
える。他の隊員からすれば、カイル・エッケナに反抗するなど、狂
気の沙汰ではなかった。
﹁ダン・ノーマ。騎士団規律の三条一項、言ってみろ﹂
唐突にエッケナ大隊長に水を向けられ、ダンはやっとのことで背
筋を戻し、唾を飲み込んでから、乾きで粘つく口を動かす。
﹁⋮⋮騎士たるもの、君に忠義を示す如く、命には従うべし﹂
﹁十五番隊規範、二十一条﹂
﹁十五番隊外縁部隊規範。外縁部隊に属する隊員は、任務の外にお
いて、許可なくして王都壁外に出することを禁ず﹂
幾度となく復唱させられた規範である。
﹁自分には壁の外でも生きていけるだけの力がある。そう勘違いす
る馬鹿どもが後を絶えないせいで、わざわざ作られた条項だそうだ﹂
馬鹿、に力を入れてエッケナ大隊長が言った。鋭い眼光が、二人
の推定馬鹿を串刺しにする。ルイゼが反論した。
﹁俺たちのことじゃありませんよ。俺たちの真似をしたがる馬鹿が
多いってだけです。いくら俺たちでも、外で生きていけるとは思っ
てません。さすがにそこまで馬鹿じゃないのでね﹂
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エッケナ大隊長の眉がつり上がる。ダンは心の中でヒィと悲鳴を
上げた。
﹁今回はたまたまちょっと危なかっただけだと、そう言うつもりか、
ルイゼ・クエンシー。助けてもらっておいて、良い度胸だ﹂
﹁別に、大隊長が結界張って助けてくれるほどのことでもありませ
んでしたよ。あれくらいの魔獣だったら、何度も鉢合わせしてます
し。なあ、ダンくん﹂
ルイゼの口は一寸たりとも減らない。ルイゼは人を食ったような
男だが、器として大隊長の方が一枚上手だ。大隊長の何がそうさせ
るのか、ルイゼは彼を前にすると少しばかり頑なになるようだった。
初めて光が当てられたルイゼのその柔らかな感情に、ダンは無意
識に、気づくと手を伸ばしかけている。
むずむずする胸のあたりを、ダンは左の手でさすった。
﹁ダン、おいダン。聞いてるかい?﹂
﹁は、はいっ!﹂
ルイゼが訝しんでダンを見つめている。不可解なバツの悪さがダ
ンを襲った。
﹁大丈夫か?﹂
﹁はい、ちょっと⋮考え事を。考え事をしてました、すみません﹂
﹁いや、いいけど﹂
ルイゼのハシバミ色の目は、まだじっと探るようにダンを見てい
たが、ゆっくりと視線が逸らされる。その逸らした先には大隊長が
いる。
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﹁お前たちの沙汰は後ほど、追って下す。それまで家で大人しく謹
慎していろ。くれぐれも大人しく、だぞ。それと、ダン・ノーマ﹂
﹁ッは!﹂
﹁ルイゼに話がある。悪いが、少しの間部屋の外に出ていてもらえ
るか﹂
一体何の話なのか、ルイゼのほうを見てもそっぽを向かれたまま
だった。その顔は、わざとこちらを見ないようにしているようにも、
見えなくもない。
大隊長室を辞すときに扉の隙間から最後に見えたのは、大隊長と
言葉を交わすルイゼ・クエンシーの姿だった。
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第六郭、十五番隊本部にて
カイル・エッケナは唾を飛ばして怒鳴っている目の前の男を、冷
めた目で見つめた。
十五番隊の総隊長を名乗るこの男には、そう名乗るだけの実力は
ない。しかしこの十五番隊において、昇格するのに実力など必要と
されてはいない。必要なのは金と権力だ。は虫類のようにぎょろぎ
ょろとした目を血走らせ、総隊長は、理不尽な言いがかりとしか言
えない叱責を、なおも続けた。カイルがまったく身じろぎさえしな
いので、総隊長はますます興奮して顔を真っ赤にする。
﹁聞いているのかね!エッケナ、そのなめくさった顔つきをやめた
まえ!﹂
妬み嫉み。カイルが生きてきた場所で、それが存在しない場所な
どない。総隊長のような人間に、カイルは慣れていた。
たとえそれが隊員にとって最悪の環境であったとしても、十五番
隊は総隊長にとっては、長い間安寧を保ってきた自分の王国である。
隊員の命を守るための新体制をつぎつぎと敷いていくカイルは、王
国の平和を乱す害悪でしかなかった。
鼻を膨らませて息継ぎをし、総隊長が次の言葉を発しようとした
そのタイミングで、ノックが響く。出鼻を挫かれた総隊長は、やや
勢いを失い﹁なんだね!﹂とキーキー声を出した。
﹁失礼します。エッケナ大隊長、南門近くの村にレベル5の魔狼の
群れが発生したとの報告が来ています。早急にお戻りください﹂
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カイルは前を歩く自分の副官の、小さな背中に声をかけた。
﹁ストーム﹂
それが彼女の名前だった。キビキビと細い脚を動かすが、それは
カイルの一歩が彼女の一歩に比べてはるかに大きいからだ。本来は
のんびりとした性格で、カイルは彼女を副官として持って以来、ど
んな危機的状況においても、彼女が一般的に速いとされる速度で話
すのをあまり聞いたことがない。
﹁報告の件は嘘ではありません。先ほど、ルイゼ・クエンシー及び
ダン・ノーマが対処に向かいました﹂
﹁ありがとう、助かった。あのまま話を聞いていたら、夜になって
いた﹂
﹁副官として、報告の義務を果たしたまでです。そう何度も助けら
れるとは、お思いになりませんよう。それより、﹂
﹁治安警備の任務なら、俺は行かないぞ﹂
﹁⋮⋮ご察しの良いようで﹂
間髪入れずに宣言したカイルに、ストームが陰気な声で言う。
﹁第一、俺に行く暇があると思うか。明夜祭の間の治安警備なんて、
緊急性を要しているとは到底思えない。他の者が行けばいいだろう﹂
﹁そう言って、去年の夏もさぼっていらしたじゃありませんか。中
央は、エッケナ大隊長を名指しで召喚しているのですよ。昔は、第
五番隊で就いていた任務なのでしょう?﹂
﹁ああ、王都全体を監視するだけの、一年で一番疲れる上につまら
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ない任務だ﹂
この時期は憂鬱だったものだ、と数年前までを思い出す。十五番
隊に来て、あの退屈な任務からも解放されたと思ったが、それは思
い違いも甚だしかったようだ。
﹃きみがいてくれると便利だからね﹄
第五番隊隊長、ポラル・ド・ネイが悪びれもせずに、そう言うの
が想像できる。
﹁たまの息抜きだと思って、行けばよろしいじゃありませんか。第
四郭より上には久しく戻っていないのでは?﹂
﹁ポラルにこき使われに行けと?﹂
﹁それでも、一瞬一瞬に、気の抜けない任務ではないでしょう。今
のエッケナ大隊長の働きぶりには感心しません。確かにそれで何人
もの隊員の命が救われましたが、このままではそのうちあなたが倒
れます﹂
カイルは冬眠前の熊のように唸った。
﹁それなら、休暇をくれ。第四郭より、ベスティランの家に帰りた
い。何日あいつの顔を見ていないか、忘れたぞ﹂
欲求不満を自分で慰めるのも、そろそろ限界だ。数日間、あいつ
と寝室にこもる必要がある。カイルは自分の状態を理解していた。
﹁人事の問題が片付いてからでしたら、いくらでも。何なら、私が
背中に乗せてベスティラン村までお連れしましょう﹂
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ストームは馬型の獣人だ。持久力では本物の馬には劣るが、速さ
に限って言えば、ストームは馬を駆けさせるより速い。
﹁申し出はありがたいが、獣人を馬替わりに扱うという考え方が、
俺は気に入らない﹂
﹁それでは、早いことルイゼ・クエンシーを説得するんですね。そ
・・・
れか他を当たるか。人事部が早くしろと急かしてきていますよ。よ
っぽどあちらは人手が足りないらしい﹂
﹁ああ、そうだな。そろそろルイゼも承知してくれるといいのだが。
どうするかな﹂
ルイゼを説得することが正しいことなのか、カイルはどうもわか
らないでいた。
十五番隊へと移ってきてから、もう二年だ。五番隊の副隊長とし
て働いていた時には当たり前だと思っていた何もかもが、ここには
ない。隊員の命は造作もなく捨てられ、同じ人だというのに、五番
隊と十五番隊では命の重さがまるで違う。
﹃幾人もの命を背負うのは苦しかっただろう﹄
三年前に騎士団を辞すと決め、物心がついてから三十年近く握り
続けていた、騎士への想いを置いた。ポラル・ド・ネイ五番隊長は
団服を脱いだカイルを、五番隊に引き留めようとはしなかった。
命を背負うのは苦しかっただろう。
ポラルの労りの言葉に、カイルは十四の少年に戻ったかのように、
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顎を引いて頷いた。
﹃はい﹄
顔を俯かせる。父のように慕ってきたポラルの顔を見ることがで
きなかった。見れば自制心を失ってしまうとわかっていたからだ。
亡き実父が背負ってきたものは、あまりに大きく、重たかった。
命の重さだ。
大切ゆえに重い、その荷を、捨ててしまうのかと責める自分もい
た。しかし、第五番隊にいる以上、第五番隊の正義に生きようとす
る以上、自分が大切にしたい人は守れない。だから、騎士を辞めよ
うと思った。彼を守ると、決めたのだ。
﹃︱︱その重さがわかっているお前さんに頼みたいことがある﹄
顔を上げた先に見えたポラルは、いつもと変わらず禿頭の丸顔に
微笑みを浮かべていた。
気づくと山間に夕日が沈むところだった。焔のように黄金の光を
従え、その下半分が隠れているというのにその力強さが減ずること
はない。カイルはペンを置き、肩から力を抜いた。
やるべきことが山のようにある。十五番隊において見失われた、
命の価値の均衡を取り戻すためには、長い時間と労力が必要となる
だろう。
﹁正義が必要とされている場所は、いくらでもある﹂
ポラルが言った言葉を、呟いてみる。奥歯で噛み締める。十五番
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隊への配属を承諾してから二年、カイルはこの言葉を何度も噛み締
めている。
ヘンウェル王国騎士団十五番隊外縁部隊大隊長。その長ったらし
くも尊大な肩書きは、十五番隊の複雑な組織形態において驚くほど
の力を発揮する。権威主義が横行しているのだ。上が太り、下が痩
せ細る仕組みは、見事なまでに完成されていた。
正義
正義
が、今
。カイルの疑念と不信に閉じられた目でも見つ
十五番隊で必要とされているのは、まぎれもなく、そうと断言で
きる明白な
けられる正義だ。
五番隊にいたときは、体を縛りつけるだけだった
は指針となっている。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://novel18.syosetu.com/n2292cf/
異世界交流の間違った手順
2016年7月22日15時55分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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