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二木会・「勉強会」レジュメ 「クリント・イーストウッドについて語ろう

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二木会・「勉強会」レジュメ 「クリント・イーストウッドについて語ろう
二木会・「勉強会」レジュメ
「クリント・イーストウッドについて語ろう」
(レポーター・宮原安春)
(1) 青春時代の感性を育んだ銀幕世界
上田高校に入ってから、個人的に一番変わったのは、喫茶店で時間をつぶし、映画館
に頻繁に行くことだった。上田という市街で、羽を伸ばして、少し背伸びしていたかも
しれないが、映画館の暗がりを好んだ。今だから打ち明けると、時には授業をサボって
映画を見に行ったこともある。ちょうど、世界的に第二次世界大戦の戦後復興期だった
ので、上質な映画が多く作られていた。映画は貧しい学生にとっては比較的安く楽しめ
るエンターテインメントだった。何よりも銀幕のなかの世界は眩しいほど華やかで、楽
しさに満ちていた。海外旅行などまだ夢だった時代に世界が目の前に輝いていた。
ジェームス・ディーンの「エデンの東」
「理由なき反抗」
、ブリジット・バルドーの「素
直な悪女」、マリリン・モンローの「帰らざる河」、西部劇の「シェーン」、ジュリエッ
タ・マシーナの「道」、ルネ・クレマン監督の「禁じられた遊び}など映画の中の名曲
と一緒に思い起こす。不思議と洋画が多かったのは、当時の映画誌「スクリーン」がシ
ナリオを載せていたので英語の生きた教材になると思ったのと同時に、ニュー・パレス
座という映画館が洋画 3 本立てで名画座的に上映していてくれたからだ。
テレビは 1957 年の皇太子・美智子妃の結婚パレードで各家庭に普及して行った。そ
のころ、まだ番組制作の能力が弱かった日本のテレビ局はアメリカ製ドラマを流してい
た。1959 年からは「ローレン・ローレン」という主題歌で始まる西部劇「ローハイド」
が放映されていた。これは 1965 年まで放送された長寿番組で、その後リバイバル放送
もされた。これに出演していたのがクリント・イーストウッドである。
(2) マカロニ・ウエスタンの男の美学
クリントが再び私らの前に登場したときも衝撃的だった。イタリアに招かれた彼は、
黒沢明の「用心棒」を下敷きにした「「荒野の用心棒」
(1964 年)
「夕陽のガンマン」
「続・
夕陽のガンマン」で、寡黙なガンマンに扮し、虚無的に、クールに迫ってきた。これら
は低予算の映画ながら全米でも高収入を挙げたという。荒野のなかを一匹狼としてさす
らう孤独な反逆者の姿に、哀愁のメロディーとともに男の美学を感じた。
(3)ハリウッド映画の救世主(主演俳優から監督へ)
ハリウッドに戻ったクリントは、
「恐怖のメロディ」で初監督をした後、刑事映画に
新着想点を刻んだ「ダーディハリー」シリーズを送りだす。そして、西部劇「ペイルラ
イダー」に続いた「許されざる者」
(1992 年)でアカデミー賞監督賞、作品賞を受賞。
文芸作「マディソン郡の橋」
「ミスティック・リバー」も質が高かった。さらに、
「ミリ
オンダラー・ベイビー」で 2 度目のアカデミー賞監督賞、作品賞を。
太平洋戦争をアメリカ側から描いた「父親たちの星条旗」、日本側から見た「硫黄島
からの手紙」で、2 つの視点で歴史をみるという離れ業を成し遂げた。⇒この意味合い。
(4) 政治的活動
1986 年、カリフォルニア州の西海岸にある郊外都市カーメル市長選に立候補して当
選。但し、一期 2 年だけを務めただけである。支持政党は共和党だが、イラク戦争には
反対の立場を表明していた。
(5) 私生活
ジャズには造詣が深く、チャーリー・パーカーを題材にした「バード」を監督した。
また、「ミリオンダラー・ベイビー」などでは音楽も担当している。長男・カイルはジ
ャズ・ベース奏者として自らのバンドを組んで多くのジャズ・フェスに出演している。
結婚は 2 回している、初婚はロサンゼルス市大在学中に、女子大生でモデルだった
マギー・ジョンソン。長男・カイル、長女・アリソンが生まれている。だが、1984 年
に離婚した。
2 度目の結婚は、65 歳で 35 歳年下のディナ・ルイスと再婚。ディナはテレビのキャ
スターで、「許されざる者」でインタビューしたときに親しくなって「正式な結婚相手
に選ばれて幸せ」とディナ。彼女の父親は日系アメリカ人とアフリカ系の混血。二人の
間に娘が生まれている。
それ以外に共演した女優やスチュワーデスとの間に 4 人の子どもがいる。合計 7 人の
子どもだ。こういう派手な女性関係に、カイルは「他人の靴の履き心地を訊くようなも
のなので、何とも言えません」という名言を口にしている。
(6) ぼくらの世代のエンターテインメントは?
何事にも億劫になりがちだが、好奇心は旺盛でありたい。私個人としては、コンサー
トに頻繁に行く。CDで聴く音楽とナマで聴くことは大違いだ。ただ、最近は入場料が
高くなっていて、トップクラスのロックスターは 15,000~20,000 円。ジャズクラブに
大物の演奏を聴きに行くと、10,000~15,000 円。
それに比較すると、映画館はシニア料金が 1,000 円。Tsutaya などのレンタル店では
DVD4 枚 1,000 円という時代になっている。クリント作品などはぼくらの人生の節目ご
とに話題作を提供してくれたので、ぜひ、映画館で見ていきたい。
追加配布資料、
「クリント 67 本のフィルモグラフィー」
(月刊誌「Cut」2011 年 1 月号)
「家族のかたち~カイル・イーストウッド」
(週刊誌「読売ウィークリー」
2006 年 11 月 12 日号)
財魃瘍
ノンフィクション作家
宮原安春
仕 事 のた めに米 ロサ ンゼルスの父 の仕
部
務 める話 題 の映 画 ﹁
硫黄島 旨 一
いま手 がけるのは、父 が監 督 を
8 o
︵
NOW﹂を 9
3︶ ジ ヤズのCD ﹁
月末 に発表 した。
.
音 楽 を 担 当 し た︵
ジ を 、﹁
︱ ︱ 手 紙 ﹂で は、す べて の
︱ ︱ ﹂で は 父 の 作 った 曲 の アレン
側 から描 いた ﹁
硫 黄 島 からの手 紙 ﹂
の2作 品 で、カ イルは、﹁父 親 た ち
僕 は普 段 、パリ に住 んでいま す が、
事 場 か ら スタジオ に 通 っていま t 母
アカデ ミー賞 作 品 賞 およ び 2度
ベイビー﹂で
作 .﹁
ミ リオンダ ラー・
とさ れ る硫 黄 島 の熾 烈 な 激 戦 の
モンタ レー半 島 にあ る カ ーメル市
で育 った。
たい﹂と夢 を持 っていた 土地 です︶太 平
カーメルは、父 が ﹁いつかここに住 み
アメリ カ 側 から 硫 黄 島 を 描 い
洋 に突 き 出 た 絶 壁 、そ の下 に自 い砂
● 一 ●■一 一
一
一
た ﹁父 親 たち の星 条 旗 ﹂と 、日本
映 画化 に取 り組 んだ。
カ イルはサンタ モニカ で生 ま れ、
は︵
サンフラィ ンスコ近 く の︶カーメルの
家 にいま す。ロサ ンゼルスのハリウッド、
僕 にとっての家 族 の距 離感 とよく似 て
いま す ね c
ント ・
米 大 物 俳 優 で監 督 、ク リ ヽ
6︶を 父 に持 つべ
イ ースト ウ Z A 7
︱ス寒︿
者 のカ イル・
イースト ウ ッド
目 と な る監 督 賞 を 受 賞 し た 父
は、太 平 洋 戦 争 の勝 敗 を 決 し た
カーメルの家 。この両 者 は ち ょ つど 、
自 宅ビーチで泳ぎを教えてくれた父
両 親 の離婚後 も音楽 でつながって
かたち
I
251:Ⅲ
連載
・イーストウッドの長男として米カリフォルニア州サンタモニカに生まれ、カーメル市で育つ。大学を中退して、名ベース奏者バニー・ブルネルに師事。94
Eastwood 1968年 、クリント
・カルテットを結成し、98年 、CDデ ビュー。クリントの映画「ミスティック・リバー」などの音楽を担当。最新盤「NOW」 (ビ デオアーツ・ミュージック 11月 3・ 4日 、
年に、カイル・イーストウッド
ギンザインターナショナル・ジャズ・フェスティバルなどで初来日公演。映画「父親たちの星条旗」は10月 28日 公開され、
「硫黄島からの手紙Jは 12月 9日 公開予定。
Kゾ e
)。
請置定ウ子クリー20061112 38
■ 家族のかたち
撮影 鷹見安浩
浜 が 広 が るc森 が あ って 緑 が 多 く 、
花 々が咲 き 乱 れている。父 が 徴 兵 さ
れて兵 役 についていた ころ、近 く の基
地 にいて、風光 明媚 な ところを 気 に入
ったよヽ
間、
つです。1986年 から2年︲
カーメル市長も 務 めていまt
父 は自 分 で設 計 して海 に突 き出 て
いる感 じ の家 を 建 てま し た 。敷 地 は
当初 300エーカーでしたが、のちに数
千 エーカーに買 い増 した よう です︶敷
恐 怖 のメЦ石Lとい つ映 画 を
地内 で ﹁
作 ってもいます よ。
ビーチな の
海 岸 線 がプライベート ・
で、そヽ
で父 に水 泳 を 教 え ても らつた
﹂
り、森 の中 を 乗 馬 で楽 し んだ り し ま
し た 。隣 の家 と も か な り 離 れ ている
環境 はよいです︶
父はすごく 優しく 、家 庭 思いでした。
0年 、サ ンフラ ンシ
ク リ ント は 3
三 呂校 卒 業 後 に 米 陸
スコ生 ま れ ´
ノゼ
軍 に徴 兵 さ れ、除 隊 後 、ロサ ヽ
ルス市 大 在 学 中 に、女 子 大 生 兼
モデ ルの マギ ー ・ジ F ノソ ンと 結
婚 。TVシ リ ーズ ﹁ローハイ ド ﹂に
ア映 画 喜 ん野 の用 心 棒 ﹂で 世 界 的
出 演 し て 人 気 を 獲 得 し、イ タ リ
な ブ ームを 巻 き 起 こし た。
奴ら
アメリ カ に帰 国 後 も 映 画 ﹁
を 高 く 吊 る せ ︱ ﹂で ト ップ スター
に 登 り 詰 め た 。カ イ ルが 生 ま れ
5年 が た
た のはこの時 期 で 、結 婚 1
っていた。4歳 下 に妹 も いる。
子 ど も の頃 は父 によく 叱 られま し
た。いたず らを したときや妹 をいじめ
言
売売ウ子クリー20061112
39
たと き な ど、ほかの親 子 と違 わないで
婚 し た。
ンャズを演奏 す るよう
で弾 きだして、い
小 さい頃 か らピラ
′ノを 習 っていま し
たが、エレキ ベ ースを自 然 な成 り行 き
両 親 の別 居 と 離 婚 を みるのは、子
とぃ2
慰 謝 料 は2800万 ドル
妻 でカ イルの母 、マギ ーに支 払 った
ゴシップ 誌 によれば 、クリントが
映 画 に出 演 す ること にな った のも
ま した。僕 がベースを 選 んだのではな
ま で オ ープ ンカ ーで 走 る ロード ・
ムービーだ 。
連 れ ら れて、父 の仕事 場 のスタジオに
自 然 でし た。撮 影 初 日 は緊 張 し ま し
たが、知 っている人 ばかり な ので、すぐ
ど も にと って気 分 のよいも のではな い
違 っていたのは、4歳ぐ らいから母 に
﹂
とです ね。父 は多
よく 遊 びに行 ったヽ
く 、ベースに選 ばれたとい つ感 じです︶
t
く の映 画 で同 じ スタッフを 使 う ので、
に慣 れま した。
だった のです︶仕 事 場 は、油 が よく 回
ツク ・
つれし
カーを 運 転 でき るのも 、ヽ
が楽 しか ったし、子 ども な のにクラシ
映 画 のな かでニワトリを 盗 むシーン
ンフランシスコのコンサートな どによく
ジヤズ ・
フエステ4ヴァルやサ
モンタレー ・
父 はカーメルのすぐ そばで開 かれる
に 入 ると 1か 月 以 上 も 家 に帰 ってき
2 撮影
ど、情 熱 を映 画 に注 いでしまヽ
です ね 。父 は家 族 を 愛 していた け れ
イック ・
にな ってアコーる ア
ベースも 始 め
彼 ら と は家 族 の延 長 みたいな 雰 囲 気
った 機 械 のよう にいつも スムーズに進
父 がカーメルの家 を 出 て行 き、僕 と
んでいま した。
妹 はマギーと 一緒 に家 に残 った。慰 謝
ま せん。両 親 の間 に行 き 違 いが 生 じ
ていること は、子 ども の僕 も 認 識 して
核 にかかっているアルコール依存 症 の中
カ イ ルは 映 画 出 演 の 際 、女 優
ソンド ラ ・ロック か ら 演 技 指 導 を
連 れて行 ってくれましたね。
スノを 弾
年 歌 手 に扮 して、ギ ターやピラ
受 け た 。彼 女 は ク リ ント と 恋 愛
料 の金 額 です か? それは父 に訊 か
か った 。父 はご ﹂の映 画 のな かで、結
“歳 で 、カ イ ルは 父 と 映 画 ﹁セ
いて歌 う。彼 の音 楽 好 き の側 面 が 出
関 係 に あ り、そ の 愛 人 関 係 が 原
4年 に 離
因 で 父 と 母 は別 居 し て 8
ないと、本 当 のことは分かり ませんよ。
いま した。
ンチメンタ ル・アドベンチャー﹂で 共
ていて、しみじみした作品 でt
ッシ ュヴィルの祭 典 に 出 演 し よ う
この年 、ベースを 弾 き 始 めた。
0年 代 を 背 景
演 し た 。大 恐 慌 の 3
に、酔 いど れ カ ント リ ー歌 手 が ナ
と 、カ リ フォルニアから テ ヽ
不シー州
)
父とカナダのバンフでスキーを楽しんで (22歳
O Ron Galella/W relmage com
)
父と
「センチメンタル・アドベチャーJで 共演した(14歳
訪置麺ウ子クリー20061112 40
■ 家族のかたち
でも、父はその後も車で5分ぐらい
のところに住 んでいたので、よく 会 い
ま したし、仕事 場 へも 訪 ねて行 き ま
した。母 は離婚 後 、スポーツスタジオ
ュ一
スと の間 に生 ま れ て いた 娘 の
チ
ハイド﹂時 代 に女 優 ロクサーヌ ・
シャーと の間 に娘 を も う け、﹁ロー
許 さ れざ る者 ﹂
そ の後 、父 は ﹁
存 在 が 暴 露 さ れ た。元 スチ ュワー
を開き、ヨガを教えていました。
7ンセスちィッ
に出演 した女優 フ一
デ スの 女 性 と の 間 にも 、息 子 と
ことを知 るよう にな ると、いい奴 でね、
よく 付 き合 う よう にな り ま し た。つ
い3週間前 にも会 ったばかりで寃
カ イ ルは 父 に対 し、同 じ ミ ュー
し て 娘 を も う け た。デイナ は テレ
り こんだ よう な 音 楽 はつけ るな ﹂と 。
父 は自 分 の映 画 の音 楽 に ついて僕
に、こう リクエストし ま す〓 あ ま り 作
ジ シ● /と い つ意 識 を 持 っている。
レポーターだ った 時 にク リ ント
ビ。
確 かに彼 の映 画 は派 手 な音 楽 が似 合
娘 が 1人ず ついる。
6年 、5歳 で 5歳 年
さ らに父 は9
3
6
下 のディナ ・ルイ スと 正 式 に 再 婚
と 知 り合 い、祖 先 には 日本 人 も い
う 作 品 ではな いです か ら ね 。父 は 俳
優 にな る前 はミュージシャンにな ろう
と 思 っていて、特 にジャズ好 き な のでい
ご近 所 付 き合 いとい つか、古 い戦友
わ け ではな いと い 2
父 と 母 は いま 決 し て 仲 が 悪 い
す ると、とても喜 んでいま した。
僕 が 一流 Q ンャズ奏 者 をバックに演 奏
ト か ら 父 が 功 労 賞 を 受 賞 し たと き 、
フィルム・
アメリカン・
インステイチュー
的 です︶
がシンプルでと ても 効 果
楽 は、メЦ石︲
共 感 す ると ころは多 い。父 の映 画 音
ると い 2 つま リク リ ント には、カ
2歳 から 9歳 ま での
イルを 含 めて4
2男 5女 の7人 の子 ど も が いる。
父 は僕 の知 る 限 り、子 ど も た ち と
は対等 に接 していますヵどの子 とも会
う 機会 を作 って、機 会 があれば娘 たち
を映 画 に出演 させていま t
父 は、ゝ
﹂
う 言 っていま t
つ
﹁
すべての子 どもに会 え るな んて、ヽ
れしいね。すば らしい奥 さ んのおかげ
だ。デ4ナは私 が望 むすべてを兼 ね備
え た女 性 だ﹂と。
ナな んです よ。クリントの
ワ︲
るのが、一
。
笑︶
とい つか ︵
クリスマスには、母の家 に父 と彼 の子
父 を 中 心 と し た家 族 を ま と めてい
母 の誕 生 日 に、孫 た ち と そ の母 親 た
どもたちがみんな来 てデ・
ナーを食べる
んでt 僕 もパリから駆けつけますよ。
ち を 招 く 。クリント が何 かを 受 賞 し
ども たちも集 めてお祝 いす る。
靴 の履 き 心 地を 訊 かれるよう なも の。
た と き には、自 分 の子 ど も 以 外 の子
父とデ4
ナの再婚 のときは、僕が花婿
の介 添 え 人 の役 割 を 務 めま した。妹
一
言 えま せん。 W
︿次 回はスポーツキャスターの荻原次晴 さん ﹀
文中敬称略 ︶
︵
父 と い えど も 他 人 で沈。僕 には 何 も
父 の女 性 関係 については⋮⋮他 人 の
人 の結 婚 を 祝 福 しま
も 出 席 して、一一
した。だって、僕 たちの父 です からね。
弟 とは6年 前 に初 めて会 いま した。
4歳 でし た。お互 いの
そのと き 、弟 は1
請置売ウ子クリー20061112
41
)
左から義母ディ大 妹アリソス 母 マギー、カイル、父クリント。妹のブティック開店祝いに集まつて(2002年
◎ Mike Guastella/W relmage com
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