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なぜ日本人は、 助け合いができないのか?

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なぜ日本人は、 助け合いができないのか?
なぜ日本人
なぜ日本人は
日本人は、
助け合いができないのか
できないのか?
住民流福祉総合研究所<代表・木原孝久>
木原 孝太郎
〒350-0451 埼玉入間郡毛呂山町毛呂本郷1476-1
電話・049-294-8284 FAX・049-294-8283
Eメール [email protected]
ホームページ http://www5a.biglobe.ne.jp/~wakaru/
⒈日本には「助け合いの文化」がない?
「災害は忘れた頃にやって来る」-懐かしい言葉です。そんな悠長なことが言える時代は
とっくの昔に終わってしまいました。今は「日々災害」と言ってもいいでしょう。その時
何よりも大事なのは、ご近所で助け合えるかということです。
まだレスキュー隊も来ない。しかしお互いが被災者だ。それでも、向こう三軒で助け合
わねばならない。災害報道を丁寧にみていくと、確かに被災者たちによる助け合いが細々
と行われていることがわかります。普段から助け合いを実践していれば、災害時にもっと
効率よく行動できるはずです。
考えて、振り返ってみると、私たちにはその助け合いができなくなっていることに気づ
きます。もしかしたら、日本には「助け合いの文化」が存在しないのではないか、と疑い
始めています。最近起きている社会問題がなかなか解決しない理由を探っていくと、大抵
はこの事実に突き当たるのです。認知症の徘徊死、孤立死、介護殺人、児童虐待などなど。
関係者はこの事実の深刻さに気づいておらず、
「気になる家が見つかったら通報を」と
言うばかり。それがなぜできないのかを探る努力をしていません。そろそろ本質的な部分
にまでメスを入れる必要があります。
⒉あなたの「おつき合い」の流儀は?
まず自分のおつき合いの流儀を確認するテストをやってみてください。以下の項目で
「私もそう思う」というものに○印を、
「そうは思わない」に×印をつけます。ここでは
○か×かのどちらかに決めてください。さて、あなたは○がいくつ、つきますか。
➊自分や自分の家族のことは隠しておきたい
➋自分のことがご近所で噂されるのはイヤ
➌人に助けを求めるのは苦手だ
➍人に迷惑をかけることだけは絶対にしたくない
せんさく
➎人のことはなるべく詮索しないようにしている
➏誰かが認知症だと気づいても、誰にも言わないようにしている
➐困っている人にはお節介と言われない程度に関わる
➑引きこもるのにも事情があるから、無理にこじあけるべきでない
➒お互いのプライバシーは十分に尊重し合うべきだと思う
➓隣人とはあまり深入りせず、ほどほどのおつき合いを心がけている
⒊要するに「助け合いはしたくない」?
上記のテスト。各地の講演会で手を上げてもらうと、多くの人は10個のうち7つから
9つほどに○が付くようです。それもそのはず、これらは日本人のおつき合いの常識なの
ですから。
しかしこれでは助け合いはできません。○印が多い人は、
「助け合いはしたくない」と
言っているのと同じなのです。なぜそうなるのかを、これから解説していきましょう。
➊から➍までは、あなたが困ったときどうするかを問うています。これに全部○がつけ
ば、
「私が困っても放っておいて」ということ。次いで➎から➑までは、あなたが困った
人を見つけたときどうするか、を問うています。これに全部、○がつけば、結果としては
「困った人がいても放っておこう」と言っているのと同じなのです。そして➒と➓はご近
所づきあい。これもまた「助け合いはやめましょう」
。
そんなひどいおつき合いをなぜ日本人は「習慣」として守ってきているのか。私たちの
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おつき合いは、双方に困り事が生じないという前提で成り立っているのです。おつき合い
はおつき合い、助け合いはまた別の場で、ということでしょう。たしかに何事も起こらな
ければ、こんなつき合い方で問題はないのです。
しかしひとたびなにか困り事が生じたら、アウトです。私たちが習慣的に守ってきたお
つき合いが、助け合いに無力であるどころか、助け合いを阻む障害物になってしまうので
す。
あなたが助けられる立場になった時 (➊~➍)
10項目を一つ一つ、見ていきましょう。まず「助けられる側」から見ると、以下の4
項目が該当します。これに○がつけば、どういうことになるのか、→印で示してあります。
要するに「私のことは放っておいて」と言っているのです。これでは周りも、助けの手を
出せない。
➊自分や自分の家族のことは隠しておきたい
→困り事が周りに気づかれない。
➋自分のことがご近所で噂されるのはイヤ
→困り事の情報が周りに伝わらない。
➌人に助けを求めるのは苦手だ
→「頼まれたら助ける」のが日本人。これでは手が出せない。
➍人に迷惑をかけることだけは絶対にしたくない
→迷惑をかけたくないと思えば「助けて!」とは言えなくなる。
⑴「夫は認知症です」と周りに言えるか?
夫が認知症になってもご近所には隠し通すのが日本人でしょう。しかし、知らなければ
助けようがありません。➊に○がつけば、この一点で、もはや助け合いのまちはつくれな
いことになるのです。
「いや、家族は隠しても、周りの者は薄々知っているよ」と言う人もいます。しかし、
「知
っていること」に何の意味があるでしょうか。知っているからと言って、手は出せないで
しょう。中には「夫が認知症だとどうして知ったのか、訴える!」と迫る人もいます。
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若い主婦からこんな話を打ち明けられました。
「舅が認知症になって、毎日、バケツを
頭にかぶり、子供用の自転車に跨がって近隣を歩き回っています。遠くまで行ってしまう
こともあるので、夫に言いました。
『ご町内の人に打ち明けましょうよ』と。夫も、隠す
のももう限界と分かり、班長会議で打ち明けることにしました」
。
その日、
「じつはうちの父親が…」と言い出したら、
「知ってるよ!」 そこで「よろし
くお願いします」と頭を下げたら、皆さんで舅に気をかけてくれるだけでなく、
「○○辺
りを歩いていたので、連れ戻したよ」などと行動を起こしてくれるようになったそうです。
⑵親が徘徊を始めたら噂の種にしてもらわねば…
➋わが家のことがご近所の噂に上るのも嫌う。それでは情報が周りに広がりません。認
知症で徘徊を始めたら、たくさんの人に知ってもらわねばならないのに、それが阻まれる
のです。家族を救いたければ、むしろわが家のことを井戸端会議で話題にしてもらうぐら
いでないと駄目なのです。
私どもが開発した支え合いマップは、ご近所の人たちの関わり合いを住宅地図に載せて
いくものです。これをテレビ番組で取り上げたことがあります。その時、スタジオに招か
れた評論家が、
「私のことがあれこれ話題にされるのは気持が悪い」と発言していました。
たしかに気持ちのいいものではありません。しかしマップづくりの場で何が行われている
のか。心配な人を探し出して、どうやってお世話したらいいのかを皆で考えているのです。
一種のケア会議なのです。気持はよくないけれど、助けてもらうにはそうしてもらうより
仕方がないのです。
⑶副作用はあっても、この薬を服用する
こういう疑問が出されたこともあります。
「本当は私もそういう状況になれば(身内が認
知症になれば)、噂に流してもらいたいところなのですが、人によっては意図的に悪い噂
を流すような人もいますでしょ。だから、○か×か、迷っているのです」
。私はこう答え
ました。
「そういう人も必ずいることも含めて考えてください」
。そういう人もいるだろう
けど、それでもやっぱり認知症のことを周りに流してもらったほうが、最終的にはいいの
だと納得するということなのです。
この後に出てくる詮索やお節介なども、これを悪用する人が必ずいるものです。それで
もやっぱり、詮索はした方がいい、お節介も必要なのだと、自分に納得させること、これ
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が大切なのです。副作用はあっても薬の効用の方を取るのです。
⑷「助けて!」と言われなければ動けない
➌日本人は「助けて!」が言えない人種のようです。講演会場で「困った時に『助けて!』
と言える人は?」と聞くと、
「言える」と答えるのは、3%から5%。ほとんどの人が言
えないのです。では日本人の善意はどの程度なのか。長野県須坂市が、住民に「あなたは
足元に困った人がいたらどうしますか?」と聞いてみました。①「頼まれなくても助ける」
が23%。②「頼まれたら助ける」が72%。
「断る」が5%。
足元で困った人がいたら?
断る
頼まれなくても助ける
5%
言える (3~5%)
23%
頼まれたら助ける
言えない
72%
困ったとき「助けて!」と言えるか?
驚くべし、日本人の95%の人が、困った人がいたら助ける、と言っているのです。こ
れではボランティア講座なんぞ開かなくてもいいぐらいです。助け合いというと、私たち
が思い浮かぶ言葉は何か。
「やさしさ」
「思いやり」
「愛」といったところでしょう。担い
手にやさしさがあれば助け合いは始まるはずだと日本人は考えているのです。しかし実際
にはそうなっていません。一体、どういうことなのか。
鍵は「頼まれたら助ける」の72%にあります。日本人の善意は受け身型なのです。
ところが、先ほどの調査結果にある通り、困った時に「助けて!」と言える人が3~5%
では、
「頼まれたら助ける」の72%は手の出しようがありません。日本人が助け合いが
できない最大の原因は、やさしさの欠如ではなく、だれも助けを求めることができない点
にあったのです。
特に問題なのは男性です。介護殺人が社会問題になっています。介護に行き詰って、相
手を殺してしまったというケースが、この十年で400件起きたと、ある新聞が報じてい
ました。しかもその中の75% は男性が女性を殺した事例でした。夫が妻を、息子が母
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親を。先日、息子が認知症の母親を殺して裁判になりました。裁判長が彼にこう尋ねまし
た。
「介護で行き詰った時、地域に支援を求めることをしなかったの?」 彼はこう答え
たのです。
「そういうことは、夢にも考えませんでした」
。人に助けを求めるという選択肢
がそもそも彼の頭の中になかったのです。
⑸助けを求めることは、迷惑をかけることなのだ
そして➍、助けを求めるとなると、相手にああしてこうしてと頼むのですから、迷惑を
かけることになります。それは仕方のないことなのです。ところが日本人はこれができま
せん。読者の皆様もおそらく、
「何をしてもいいけれど、人様に迷惑をかけることだけは
しないでおくれ」と母親にくどくどと諭されたはずです。この伝統を打ち破らない限り、
助け合いは始まりません。
「助け合い」というと口当たりがいいけれど、あまり実体がないような気がします。それ
よりは「迷惑かけ合い」と言った方が、より実体に近いのではないか。
あなたが助ける立場になった時
(➎~➑)
今度は「助ける側」から見てみましょう。関連しているのは、以下の4項目です。
➎人のことはなるべく詮索しないようにしている
→詮索するほどの積極性がないと、人々の困り事は見えない。
➏誰かが認知症と気付いても、だれにも言わないようにしている
→それでは困り事の情報が周りに伝わらない。
➐困っている人には、お節介と言われない程度に関わる
→そんなに消極的な姿勢では、人は助けられない。
➑引きこもるのにも事情があるから無理にこじあけるべきではない
→だから、孤立死が生まれるのだ。
⑹詮索しなければ相手の困り事は見えない
➎「人のことは詮索しない」は、一見、良いことのように見えます。そもそも「詮索」す
るという言葉自体が「よくない行為」と見られています。
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しかし「詮索しない」を助け合いの観点から見たら、
「困った人がどこにいるか知ろう
としない」ことと同じなのです。相手は、自分のことを知られたくない、だから隠そう隠
そうとしているのですから、対抗上、こちらが積極的に詮索しようとしなければ、相手の
困り事に気づきようがないのです。
今全国で一人暮らし高齢者等への見守り活動が盛んですが、これらは厳密に言えば、た
だ「見ている」に過ぎないとも言えます。その人が本当に大丈夫なのか、何か問題を抱え
ていないかを探ろうとしないで、ただ見守っている。見守りネットワークではなく、詮索
ネットワークこそ、本当に人を助けたい人たちのつくる輪なのです。
こうなると女性の詮索好きは、助け合いを広げるためには貴重な資質で、むしろ「人の
ことを詮索するな」と奥さんを叱るご主人こそ、助け合いに不向きなのです。
うちのカミさんがあるとき、
「ご近所の田中さんのガレージにずっと車がないよ」と言
い出しました。私も田中さんちにガレージがあるのは知っていましたが、そこに車がある
かないか確かめたことはありません。関心がなかったのです。
「ガレージに車がない」と
結論するには、一定期間、継続的に観察していなければなりません。
彼女の詮索は、まだ続きます。ではなぜ車がなくなったのか。そうか、田中さんは80
歳になったはずだ。だから車を手放したのか。では車がなくなって困ることはないのか。
そうだ、最近彼は手術をしたはずだ。通院はどうするのか。というわけで、詮索の結果、
彼の困り事が見えてきました。
⑺認知症の人を知ったら、皆に言いふらしましょう
➏「誰かが認知症と気づいても、だれにも言わない」のは、いかにも紳士的に見えます
が、これでは困った人の情報が広まりません。徘徊する認知症の人を地域で見つけ出すに
は、この情報をみんなで共有しなければだめなのですから。
「私は口が堅い」と自慢する
のは、助け合いの観点からは、好ましいとは言えないのです。むしろ「口が軽い」人が好
まれるのです。
ある男性がこんなことを言い出しました。
「俺の足元に鬱の女性がいる。しかしそのこ
とを周りの誰にも言わないようにしている。
『言わない』ことが俺の彼女に対する福祉活
動だと思うよ」
。私は尋ねてみました。
「もし鬱が原因で何か問題が生じても、誰もそのこ
とをわかりませんよね、どうするんですか」
。彼はただ黙するのみ。要するに彼女を助け
る気はない、ということなのです。そこで、正解はこうなります。
「誰かが認知症だと気
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が付いたら、みんなに言いふらしましょう」
。
⑻お節介、こじあけを容認する風土づくりを
➐元々日本人は助けを求めることができないのですから、「お節介」と言われようが強
引に関わらないとどうしようもありません。先ほどの調査で「頼まれなくても関わる」と
答えた人が23%いました。この人こそが助け合いには貴重な存在なのです。
「お節介と
言われない程度に関わる」と言えば聞こえはいいが、
「私は本気で人を助けたいとは思っ
ていません」
、と告白しているようなものです。今求められているのは、どんなに嫌われ
ようが、困った人がいたら果敢に助けの手を差し伸べる、その強引さなのです。
➑引きこもりの人がいても、その人なりの事情があるのだから無理にこじあけるな、と
いえば、
「それはそうだ」と納得しそうですが、これもまた、本気でその人を助けたいと
は思っていないということです。だから孤立死が生まれるのです。
こんな話がインターネットに載っていました。アパートに住む若夫婦。隣室から子供の
泣き声が聞こえる。暴力を受けてうめき声を出しているといった感じ。そのあと、何やら
ゴロゴロという音がして、子供のくぐもった声がその中から。電気洗濯機に入れられてい
た!
意を決して、夫が妻に言った。
「これから隣に突入するから、警察沙汰になったらごめ
んね」
。こうやって、宣言通り突入して、無事子供を洗濯機から救い出した。
子供を救出しようというときにも、わざわざ妻に「書き置き」ならぬ「言い置き」をして
いかねばならない日本という国は、一体どうなっているのか…
あなたのご近所づき合いの流儀は?
(➒~➓)
最後は、私たちのご近所づき合いのあり方です。
➒お互いのプライバシーは十分に尊重し合うべきだと思う
→「あなたのことは放っておきます(助けない)
」ということ
➓隣人とはあまり深入りせず、ほどほどのおつき合いを心がけている
→困り事は言い合わない、つまり助け合いをしないご近所関係
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⑼いのちよりプライバシーの方が大切なのか?
➒「私はプライバシーを尊重する主義だ」と言えば、良識人に聞こえます。しかしこれは、
相手のことをなるべく知らないようにしてあげる、そして他の人にも知られないようにし
てあげる配慮でしょう。そう配慮すれば、その人が困っても、だれもそのことを知らない
のですから、結果としては助けないのと同じことになります。
「俺はプライバシーは尊重
する主義なんだよ」と男性が胸を張って言いますが、言い換えれば「俺は人を助ける気は
ないんだよ」と言っているのと同じなのです。
私は全国でたくさんの世話焼きさんと出会っていますが、彼女らは「プライバシー」な
どとは絶対に言いません。相手を助けたくてうずうずしているくらいですから、
「プライ
バシーなんて知ったことか」
、と思っているに違いありません。
公の席で私はこの話をしました。すると、ある自治会長さんが「足元に引きこもりの人
がいたので、助けてあげようと思って踏み込んだら、
『プライバシーの侵害だ、訴えるぞ』
と凄まれたので、仕方なく引き上げたんだけど、その後彼に孤独死されてしまったよ。こ
んなことなら踏み込んでおけばよかった」と自分の頭を叩いていました。
私のこんな話を聞いた評論家の一人がこう言ったのです。
「孤独死されただなんて、人
間、孤独死する権利だってあるんですからね」
。こういう評論がそもそも成り立つこと自
体、今の時代の実態を反映している気がしました。いのちよりもプライバシーを尊重する
というあり方がまかりとおっているのです。
⑽「ずぶずぶ関係」は助け合いが始まる絶好の条件
➓都会の主婦がよく言います。「ぬかみその中まで見せ合う関係はイヤーね。お互いの
プライバシーまで踏み込まない、スマートなおつきあいをしましょう」と。実質は「なに
か困ったことがある?」と仲間に聞かれても、
「べつに」と答える関係、困り事は打ち明
けない関係です。互いに相手の懐深くには入らない、浅い関係を維持しようというのです。
私たちの体には、戦前の向こう三軒両隣での「ずぶずぶの関係」に対するアレルギーが
染み込んでいるのでしょう。お互いの家に入り合い、食事をごちそうになり、お風呂まで
入り合う、あの関係はとてもじゃないが耐えられないと、誰もが考えるに違いありません。
しかし、です。助け合いが始まるには、お互いの困り事がオープンになるというのが前
提になります。とにかく我が家の問題を必死に隠したがる日本人です。それでも相手の困
り事を見つけるためには、相手の家に入り込むよりほかに方法がないのです。いったん家
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に入り込めば、相手がいくら隠そうとしても隠しきれない部分が現れてきます。
しかも、それを見た以上、放置できず「私がやったげる」とかなんとか言いながら、強
引に関わってしまう。そういうことが可能になるのです。否応なく助け合いが始まってし
まう環境ができるということなのです。
だから、いくら嫌だと言っても、やはり戦前の「ずぶずぶ関係」は否定できないのです。
ただそれをもっとスマートにやる方法はあるだろうし、工夫の余地はあるはずです。
⑾助け合いはきれいごとではない、ということ
私たちはもしかしたら、助け合いをできればスマートにやりたいと思っているのかもし
れません。しかし残念ながら、今はないものねだりです。助け合いというものはもともと
「スマート」とは最もかけ離れた、ドロドロの営みなのです。人のことを詮索し、困った
人が見つかればお節介を焼く、相手がひきこもるとなれば、押しかけてドアをこじあける。
一方で身内に困り事が起きれば、恥も外聞もなく「助けてー!」と叫び、周りの人のお世
話になる。そういう世界なのです。
そこで日本人は普段のおつき合いと助け合いを分けようと考えたのでしょうか。しかし
その「おつき合い」のあり方では助け合いはできない、どころか助け合いからますます遠
ざかる。打開策は一つしかありません。普段のおつき合いの中で、いつでも必要が出てき
たら助け合いもやれるようにしておくことです。
⑿「仮想被災者宅に踏み込む」訓練をしてこそ
今は、毎日のように「災害」が起きています。雨が降れば洪水、雪が降れば大雪で鉄道
や道路は寸断され、孤立集落ができる。風が吹けば暴風といった状態です。
「平穏無事」
な日が1年でどのくらいあるだろうかと、つい指折り数えてみたくなります。
これまでの「おつき合い」は、その平穏無事な日々を想定したものでした。しかし現実
は日々が異常な状態になっている。そういう時代に対応するためには、
「もし災害が起き
たら」ということではなく、
「日々災害」を頭に入れた、
「日々防災」の体制をつくってい
かねばなりません。今述べてきた、息が詰まるような「ずぶずぶ関係」を向こう三軒につ
くることが、その「日々防災」の最も具体的な実践なのです。
弱い動物たちは、敵に備え、守りを固めるために似たような隊形をつくります。お互い
の体をくっつけ合って、隙を見せません。同じように人間も、強力な災害に対し、守りを
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固める必要があるのです。ご近所という小さな圏域の中で身を寄せ合い、助け合う。その
時に「息が詰まる」などと悠長なことは言っていられないのです。
地震が起きたとします。どの家が壊れるか、家人のだれが被災をするか分かりません。
その時やるべきことは、勝手にそういう家に押しかけて、強引に助け出すことでしょう。
実際に神戸の大地震のとき、家の下敷きになった人の85%が、そういう経緯で助け出さ
れているのです。東京・杉並区だったと思いますが、洪水があった時に孤立してしまった
1人の高齢の女性が、恥も外聞もなく「助けて!」と叫び続けた結果、それを聞いたご近
所の人によって助け出されたといいます。
こうした押しかけ、こじあけやSOSの積極的発信は、普段の「おつき合い」の流儀か
らは「はしたない」と言われるでしょう。だからそれは、現実に災害が起きた時だけに適
用しようというのでは、おそらく間に合わないでしょう。普段からそうした助け合いをし
ておけば、自然に体が動いていくはずなのです。
本当に役立つ「防災訓練」をしたければ、隣人が予告なしに要援護者の家へ踏み込むぐ
らいのことをメニューに組み込むべきです。訓練日を決めて集合し、
「避難支援」の対象
として立候補した障害者を皆で車椅子に乗せて避難所まで連れて行く程度では「おざな
り」と言われても仕方ありません。
⒋これでは社会問題は解決しない
13頁に最近話題に上っている「福祉問題」を並べてみました。その両脇に、私共が今
問題にしている5項目を位置付けてあります。①から⑦までのケースについて、この5項
目のどれとどれが課題なのかを点線で結んでみました。
⑴おつき合いの常識が解決を阻んでいる
線が錯綜して見づらいと思いますが、要するに社会問題の解決を阻んでいるのが、これ
らの課題だということを表しているのです。おつき合いの流儀を変えないことには、これ
らの問題の根本的な解決は期待できないのです。
徘徊死の問題にしても、道すがらそれらしい人物を見つけたとして、その人に気軽に声
をかけられるか、または本人の意思に反して警察なり役所に連れて行けるか。それができ
る環境ができていないと、とてもその勇気は出ないでしょう。そういう議論はまったくし
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ないままに、
「お互いに気を付けてあげましょう」などと言っても、本気で解決しようと
考えているのか疑問だと言わざるを得ません。
孤立死の危険があるかどうかは、隣人は何となく察知しています。ただ、本人の意思に
反して強引にドアを開けて踏み込む勇気がないだけのことです。児童虐待の危険があるの
に踏み込めなかったケースも、隣人はその家庭内の状況は大体はわかっています。しかし
それで踏み込んで間違いであったことが分かれば、大事になります。社会に「それでも踏
み込んで構わない」という暗黙の了解ができていれば、それが後押ししてくれるはずです。
踏み込みたくてうずうずしているお節介さんは必ず1人や2人はいるはずなのですから。
そろそろマスコミもその一線を踏み出したらどうでしょうか。
「お節介をしましょう」
と公言してみるのです。勇気をもって踏み込んだ人を「勇者」としてテレビで紹介するの
です。
ある自治体の見守り関連のチラシを見ていたら、
「以下のことに気がついたら、通報を」
と呼びかけていました。その項目の中に「いつも同じ洗濯物が干してある」というのがあ
りました。もし私がこのことを通報したとして、不審者と勘繰られないか、つい心配して
しまいます。そういうものをジロジロ見るものではないというのが社会常識なのですから。
⑵引きこもりで助けられ下手は男性だった
④⑤⑦は男性介護者に多い事件です。この人がオープンにしたがらないし、他人が入っ
てくるのを拒みます。彼らに求められているのは、周囲に助けを求める勇気です。しかし
コトはそう簡単ではありません。
地域に支援を求めることも「自助」の一環なのだということを私どもは言っているので
すが、マスコミも関係者もなぜかそういう視点は提起していません。
それに、地域にはそれなりのルールがあります。介護を手伝ってもらいたいのなら、そ
れ以前から地域に貢献していなければならないのです。若いうちから自治会活動にも参加
し、いくつかの役員を経験することで、知己も増えるし、その中から、介護を手伝ってく
れる人も出てくるというのが、地域ルールと言えば言えるのです。そういう下地がないま
まに、妻を介護しなければならなくなったからと突然、地域に支援を求めても、難しいで
しょう。
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❶
身元不明者
(認知症)
警察
自治体
❷
家族
施設
徘徊死
接点の人・通行人
家族
詮索しよう
隣人
家族
隠さない
❸
孤立死
(高齢者・男性)
家族
隣人
隣人
隣人
隣人
知人
本人
❹
隣人
お節介
しよう
介護殺人
介護者
「助けて!」
と言おう
隣人
❺
介護者
隣人
男性介護
関係者
親
隣人
❻
こじあけよう
関係者
育児放棄・虐待
夫
夫
隣人
❼
老々介護
⒌すべては「助けて!」から始まる
ここからは、日本の社会でどのようにしたら助け合いが始まるのかを考えていきます。
これにはいくつかの視点があります。まずは、
「入口(突破口)はどこだ?」です。なにし
ろ取り組むべき課題は10個あります。そのすべてに一挙に取り組むというのは、ちょっ
と荷が重すぎます。しかしこれらのどこか一つから入ったら、ついでに他の課題も容易に
クリアできるというものが、もしあれば、それを探す価値はあります。
⑴カギを握るのは❷「オープンにする」だった
次に示したのは、10個の課題のうち、6つに絞って、並べてみたものです。
「助けら
れる側」からいえば、❷と❸と❹をそれぞれあるべき姿にひっくり返したものです。そし
て助ける側では、❺と❼と❽を同じようにしてひっくり返したものです。
私は講演の中で、この図を示し、助け合いができるおつき合いにするには、この中のど
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れがそのカギを握っているのか、と聴衆に聞いてみることにしています。すると、ほとん
どの場合、彼らが指し示すのは❷であることがわかりました。とにかく各自が自分(身内)
の抱えた問題をオープンにすれば、最も容易に助け合いに発展できる、というのです。
たしかに、オープンにすれば、それはとりもなおさず SOS を発信することになります。
すると、
「助ける側」の三つの行為が事実上、必要でなくなるのです。この3つが必要に
なるのは、問題を抱えた人がそれを隠すからでしょう。オープンにされれば、詮索もお節
介もこじ開けも不要になるのです。
助けられる側
❷オープンにする
❸助けを求める
❹迷惑をかける
❽こじあける
❼お節介をする
❺詮索する
助ける側
⑵助け合いをリードするのは助けられる側
これはどういうことなのか。意外なことですが、助け合いをリードするのは、助けられ
る側だったのです。
ちなみに、
「助け合いをどう思いますか?」と尋ねると、ほぼ 100 パーセントの人がこう
答えます。①「それはいいことですね。私も大賛成」
。そう言った後、こう続けます。②
「困った人がいたら助けてあげるわよ」
。それでおしまい。助け合いを厳密に考えれば、
そのあと、こう続けるべきなのです。③「その代り、私が困ったら助けてもらうからね」
。
これまでたくさんの人にこの問いをぶつけてきましたが、③を言う人は一人もいません
でした。私が助けてもらうということは、ほとんど考えの外にあるのです。私は担い手に
はなるが、受け手になることはあり得ない、と。
だから日本で助け合いが始まらないのです。人を助けたいという人は95%もいるのに、
助けてほしいと言える人は3~5%程度しかいないのですから。ならば私たち日本人がな
すべきことは、
「助けて!」と言える人種になることです。
助け合いを起こすために福祉関係者がしていることは「ボランティア講座」に代表され
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るように、担い手の育成です。
「やさしさ」を普及させることです。しかし先ほどのアン
ケート結果からもわかるように、95%の人は「困った人がいたら助ける」と言っている
のです。
「ボランティア講座」は不要とは言いませんが、私たちの目指す方向がそれとは
逆であることは知っておかねばなりません。
⑶「助けられ上手さん」がいた!
支え合いマップづくりをしてきて、
「助けられ上手さん」と称すべき人物が社会に一定
数存在していることがわかってきました。
広島市内のある高齢者夫婦。車椅子生活の夫を妻が介護していました。その妻が見事な
「助けられ上手」ぶりを発揮していたのです。夫を病院に連れていく時は、町内会長さん
に車で運んでもらう。自分は介護のために外へ出られないのでと、何人かのご近所さんに
「家に遊びに来てね」
。車椅子を押すのに苦労する時は、あなたとあなた、車いすを押し
てねとお願いする。介護生活でストレスがたまると、趣味グループに「私も入れてね」
。
こうやって、自分の困り事をすべて、ご近所の人の手で解決してもらっていたのでした。
皆さん、喜んでやってあげていました。
日本人の72%の人は「頼まれたら助ける」ことが調査でわかっています。ご近所にた
った1人でも「助けられ上手さん」がいると、周りの善意が一斉に働き始めるのです。
車イスを
押して!
●印が、助けられ上手さん(★印)が支援をお願いしている相手
車で運んで!
助けられ上手さん
家に来てね
グループに
入れて!
車いす生活のUさんは毎日、買い物に出かけるたびに、周りの人に車いすを押すなどの
お手伝いをお願いしています。彼はこの行為で、市の助け合い推進大会で表彰されました。
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表彰状にはこうありました。
「助け合い推進貢献賞」
。ただ助けてもらっているのに、なぜ
表彰されるのか?
⑷担い手と受け手が協働することで成り立つ
助け合いがうまくいくには、助ける側と助けられる側の双方が協力し合う必要があるの
です。担い手の人には、対象者が気難し屋で、やりにくくて仕方がない、といった経験が
少なくありません。民生委員も引きこもりの要援護者にてこずっているはずです。人を助
けようとした人が困っているのは、相手が助けられ下手だからなのです。
となると、助け合いという言葉はなかなか意味深長だとわかってきます。助ける側と助
けられる側がどのように協調していくか。つまり福祉活動は 2 種類あると考えるべきです。
人を助けることが一つ。もう一つは人に助けてもらうために、あれこれ努力をすること。
前掲のマップを見ていただくと、どちらが重要な役割を担っているかが一目瞭然です。
助け合い、すなわち福祉の営みは本来は、助けられる側がリードしていくものなのです。
自分の問題を意識し、その解決策を考え、それをどのように解決したらいいかを考え、担
い手を掘り起し、活用していく。マップに登場した女性は、そんな努力をしたということ
でしょう。どうやら住民は福祉をそのように捉えているようなのです。
⑸助けられ上手でないと、助け上手にはなれない
活動家に「助けられ上手」になることを提案すると、私はまだ元気だから、その機会は
ないけど、いずれ要介護にでもなったら、助けてもらうかもねと言われます。
最近有償の介護サービスグループが各地に生まれています。彼女らは、将来自分が要介
護になったら本当に助けを求めているだろうかと思い、最も歴史のあるグループに聞いて
みました。長い間活動してきた担い手(協力会員)が要介護になり、亡くなっている事例は
ないのかと。何人かはいることがわかりました。彼女らはそのとき仲間に助けを求めてい
たであろうか。事務局が調べた限りでは、一人もいませんでした。やっぱり担い手意識に
固まっている人は、自分が助けられる立場になることは認めたくなかったのでしょう。
有償サービスグループの多くは「助け合い」を理念に標榜する場合が多いのですが、そ
んなグループのリーダーS子さんに尋ねてみました。
「あなた自身、メンバーに助けても
らったことはないの?」彼女はすかさず答えました。
「あるわよ。私たちのグループはリ
ーダーは率先して助けられ体験をすること、という不文律があるのよ」
。なるほど、それ
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でSさん自身はそんな体験をしたことがあるのか。
「先日、仲間に頼んでみたのよ。うち
へ来て、お掃除をして、母の世話をしてね、と。ところが彼女、部屋中を見渡してこう言
うのよ。
『まあ、S子さんちって汚いのね』
。私、これにはカチンときた」
。
そのあとが面白いのです。
「カチンときたとき、私も対象者宅を訪れて、同じことを言
っていたのを思い出したのよ。
『まあ、ちらかっていますね』って。自分では悪気はない
のだからいいだろうと思っていたけど。実際に私がそうされたとき不愉快だなって思った
の」
。これからはそういうことは言うまいとS子さんは心に決めたのだと。
お分かりのように、私たちは当面は担い手として助けの技術だけを磨けばいいと思って
いるかもしれませんが、これは間違いだったのです。助けの技術を磨かねばならないから
こそ助けられの体験もしなければならないのです。
人間は、相手の立場がわからないものです。相手の心を推測しますが、それにも限界が
あります。やはり自ら助けられ体験をしなければならないのです。優秀なS子さんだって、
自分がその仕打ちをされて初めて、自分が相手を不愉快にしていたことが分かったのです。
福祉や助け合いは「両刀遣いで免許皆伝」なのです。
先程の 6 つの行為のすべてを体験しマスターしないと、福祉や助け合いが分かったとは
言えないのです。このいずれもが「福祉」
「助け合い」を構成する不可欠の要素なのです。
⒍「助け合いの文化」をどうつくる?
助け合いのできるおつき合いをどうやって実現させるのか。住民は住民なりに、一定の
努力はしているはずですから、それを下地にして、助け合いの文化づくりのヒントを提示
していくことにしましょう。
⑴「ご近所」での助け合いを普及させよう
住民が助け合いをしている場によく出会うのは「ご近所」です。住民はおよそ50世帯
の小さな圏域でふれ合い、助け合っているのです。それ以上大きな圏域では、助け合うど
ころか、お互いのことを知ることさえ難しくなります。
私たちが困ったとき本当に助け合えるのは、わずか数名の仲間とだけなのです。向こう
三軒両隣の人たちです。それより広い圏域では、
「助け合い」と言うよりは「助け活動」
になってしまいます。だから五十世帯のご近所は助け合いの限界圏域と言った方がいいで
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しょう。ご近所が、助け合いをするためにどのように有利であるかは、この後の叙述の中
にもいろいろ出てきます。
今は「地域で助け合い」と言う場合、その「地域」とは自治区か校区でしょう。こんな
広い圏域では、助け合うどころではなく、お互いを知り合うのさえ不可能です。これから
はご近所という小さな圏域での助け合いを推進していく必要があるのです。
⑵同じ問題を抱えた人のグループを広げれば
既に助け合いが実践されているグループがあります。同じ問題を抱えた人たちの組織、
当事者グループです。ここでは当たり前のように助け合いが行われています。全員、自分
の抱えた問題をオープンにすることでグループに加入するのですから、あとは一気に助け
合いが進んでいきます。
不思議なことに最近、このグループ作りがわが国でブレークした感じで、今は(メーリ
ングリストも含めれば)
、およそ人間の悩みに関わるグループがことごとくできていると
言ってもいいぐらいです。若い人たちも、ボランティア活動に参加するよりは、自分の抱
えた問題を共有する人たちと仲間づくりをするのを好むようになってきています。
ならば日本の助け合いはこのルートから広げていけばいいではないかという考え方も
成り立ちます。この当事者グループがご近所圏域にできれば、助け合いはさらに確固とし
たものになります。というのは、市町村圏域でメンバーが出会っても、日常の助け合いに
までは広がりません。同じご近所のメンバー同士なら、生活の中で困り事を解決し合うこ
とが可能になるからです。
⑶「ひらいた人」が先導役を担う
地域には生まれもって「ひらいた人」がいます。身内が認知症になったことを、まわり
の人に言ってしまっているのです。世話焼きさんの多くはこの資質を持っています。この
人を有効に生かせば、助け合いへの最大のハードルをクリアできます。どうやら、一人が
オープンにすると周りの人もこれにならう、という傾向があるのです。ご近所に一人こう
いう人がいれば、域内に広がるのはそうむずかしくありません。
愛知県安城市の城南町内会長の藤野さんから、こんな話を聞きました。副会長の北川さ
んのお母さんの徘徊が激しくなってきたので、彼女の写真入りのチラシを作って2人で配
り歩いたら、なんと10軒もの人が「じつはウチにも認知症の家族が…」と言い出したの
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です。
同じ安城市で老人クラブの会長をしている女性は、どこへ出かけるにも認知症の母親を
連れて行きます。むろん老人クラブの会合や旅行などにも。彼女の行動を見ている周囲の
人たちにどういう影響をもたらすか、明らかでしょう。
当事者グループの中に「ひらいた人」が必ずいます。そういう人がこうしたグループを
作っていくのですから。従って、初めは隠したがる人も、グループに入ることで「ひらい
た人」の影響で自身もひらき始めるはずです。そういう面でもこの種のグループのメリッ
トは大きいのです。当事者ご近所内で「ひらき」を主導すれば、その問題の解決はさらに
容易になるかもしれません。
⑷子どもの頃から「助けて!」の練習を
助け合いが始まるための近道は、だれもが気軽に「助けて!」と言えるようになること
です。
「助けて!」という練習をすればいいことです。助けてもらうことに慣れるのです。
NHKテレビを見ていたら、ある小学校のクラスが出てきました。女の先生が「セー
ノ!」と言うと、児童全員が一斉に「助けて-」と叫んだのです。同じくこんな映像も出
てきました。あるNPOが小学生を集めて、一人ひとりに「助けて!」と叫ばせ、
「ハイ、
君は75点」
「君は90点」と点数が書かれた札を掲げていました。
横浜市の町内会の役員会に招かれた時、おつき合いのやり方を変えようと訴えました。
講演が終わると会長が、
「皆で試しに『助けて!』と叫んでみよう」と提案。私が音頭を
取ってのシュプレヒコールとなったのですが、一人の参加者が「私、一度これを叫んでみ
たかった」と目を輝かしていたのが印象的でした。
「それじゃあ、これから役員会を開く
ときは、最後にこれを叫ぼう」と会長も大乗り気でした。
⑸「ボランティア講座」よりも「助けられ上手講座」
前述のように、
今まで福祉機関が開いていたのは
「ボ
ランティア講座」でしたが、それに代わって開くべき
は「助けられ上手講座」です。私どもは町内ごとに「助
けられ上手講座」を開くよう提案しています。
介護中の主婦や一人暮らし高齢者、障害者などの助
けられ上手さんに登場してもらい、それぞれの体験を
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発表してもらうだけでも、効果はあります。前頁の写真は愛知県安城市の南町内会が主催
して開いたものです。右の三人が助けられ体験の発表者です。
⑹マップ作りで要援護者が見込んだ相手を探し出す
誰彼かまわずにでも助けを求めるのはたしかにむずかしいでしょうが、
「あの人にだけ
は言える」という一人をつくっておけばいいのです。長い人生でそういう人を1人や2人、
確保するのはそんなに難しいことではないはずです。
マップづくりの中で孤独死のケースを見つけました(次のマップのAさん)
。一人暮ら
しの女性で、死後一週間でした。人との交流を拒んで家に引きこもっていました。ご近所
の人に聞くと、彼女と接点のある人は皆無だと言います。民生委員が訪れても、ドアを開
けなかったそうです。それでも誰か居るのではと食い下がったら、斜向いのB子さん(右
側)には心を許していたと。
では、なぜ孤独死してしまったのか。じつは、B子さんは少し前に、引越していたので
す。その他に親しい人はいなかったかとさらに聞いていくと、同じご近所内に住むC子さ
ん(左端)が、彼女と料理ボランティアの仲間だったようです。
このように、引きこもりと言われる人
も、1人か2人の「助けてと言える相
料理ボランティア
仲間
Aさんに見込まれた人
(最近引越していた)
手」を持っていることがマップづくり
で分かって来ました。その1人か2人
の接点の人が自身の役割を自覚すれば、
孤立死を防ぐこともできるのです。
Aさん(孤独死した女性)
(油絵の趣味あり)
そこでご近所ごとに支え合いマップ
作りをして、要援護者を含めた住民が
それぞれ困った時にだれを頼りにしているのかを探し出し、①頼られた人にそのことを自
覚してもらい、その人なりに対応してもらう、②頼られた人が活動しやすいように側面・
後方支援をする、③この「側面・後方支援」をご近所ごとに組織的に進めていくのです。
⑺ご近所やグループ内の助け合いを応援するコーディネーター
次のマップは、都内の団地で作ったものですが一人暮らしの人がどのように見守られて
いるかが見えてきました。Aケースは70代の男性。自分は誰にも見守られていないと思
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っていたのですが、団地の人たちに聞いたらこのように、右隣と左隣、それに階下の人の
3人がそれとなく見守っていることがわかりました。Bケースは80代の女性で、出かけ
るときは必ずお隣に行き先を伝えるとともに、鍵を預けていきます。Cケースは、たまた
ま3人の一人暮らしの女性が隣り合っていました。一緒に買い物に行き、鍵も預け合って
いました。Dケースは大型世話焼きさんで、彼女一人で4人の一人暮らし老人の見守りを
しており、5人の小型世話焼きと、
(見守りの)ネットワークを作っていました。
このように、
「助け合いの社会作り」と大上段に振りかぶるのでなく、それぞれが足元
で自分なりの助け合いをするというのなら、可能ですし、助け合い社会とはそうした個々
の小さな助け合いの集積なのです。
問題はこうした助け合いの関係を築けない人がたくさんいることです。この団地の中に
もたくさんいます。しかしその人なりにもう一歩で助け合いの関係になれる相手を見つけ
ているのは間違いないでしょう。その「もう一歩」を後押しする人材が足元にいれば、そ
こを踏み越えられるかもしれません。助け合いコーディネーターと言ったらどうでしょう
か。そういう資質がない人には勤まりませんが、少なくともご近所ごとに配置されれば、
今以上に助け合いが進んでいくことは間違いありません。
この人の活躍の場はご近所に限りません。老人会や子ども会、生協、趣味グループ、企
業など、あらゆる地域組織の中でも助け合いが始まるよう仕掛けていくコーディネーター
が配置されなければなりません。
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⑻迷惑をかけられることに寛容な社会へ
異文化に接した人が痛感するのが、迷惑をかけることに対する寛容な社会であり、わが
国は逆に不寛容な社会であるということのようです。私たちが親から叩き込まれるのは
「人に迷惑をかけるな」ということです。そのためにだれもが、神経質なほど人に迷惑を
かけないよう心掛けています。しかし人に助けてもらうには迷惑をかけざるを得ません。
その矛盾を解決できないままになっています。
ところが欧米やアジアの社会では、人々は迷惑をかけることにあまり神経を使っていな
いことに気づきます。だから、自身が人に迷惑をかけられても気にしません。
「お互い様」
と思うからです。一方日本人は、困ったことがあってもギリギリまで我慢して、どうしよ
うもなくなってはじめて助けを求めるのですが、結果として必要以上に迷惑をかけてしま
っているようです。迷惑をかけない文化から敢えて迷惑をかけ合う文化に転換していかな
ければ、助け合いが始まりようがないのです。
⑼世話焼きさんにお墨付きを与えれば…
天性の世話焼きさんは、
「お節介」と言われても関わってしまいます。こういうことは、
教えられてできるものではなく、やはり生まれ持っての資質なのです。
現に一つのご近所に、数名の世話焼きさんが存在しており、彼らが連携すれば、ご近所
内の助け合いはそれで足りるはずです。既に紹介したように、長野県須坂市の調査で、
「あ
なたは足元に困った人がいたらどうしますか?」の質問に、
「頼まれなくても関わる(つ
まりお節介さん)
」が23%もいました。住民の4分の1です。
世話焼きなら、引きこもりの人もこじあけてしまいます。正確に言えば、すべての世話
焼きさんがこじあけられるのでなく、世話焼きの一部にこじあけ屋がいるということです。
「こじあけ」というとなにやら荒っぽい行動を想像しますが、彼女らのやり方はそんな粗
雑なものではありません。基本はさりげなく、結果としてこじあけたかたちになる、とい
った自然体が一般的です。つまり相手もこじあけられたとは思わないのです。
問題はこの世話焼きさんが動き出すと「お節介」とか「でしゃばり」などと陰口を言わ
れることです。
そこで彼女らが動きやすい環境を作ってあげる必要があります。その一つが「お墨付きを
与える」ことです。例えば自治会長になれば堂々と世話を焼けます。福祉推進員とか見守
り協力員など、とにかくそうした肩書きが与えられれば、動きやすいことは間違いありま
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せん。逆にそういう役に世話焼きさんが就任していないために、活動がうまくいっていな
いケースが多いのです。
⑽「自分のことが知られる」ことにもっと鈍感になろう
意外なことですが、助け合いの舞台であるご近所ではすでにプライバシーは存在しない
も同然なのです。あなたの家庭のこともご近所には相当知られているとみていいでしょう。
それが気になるでしょうか。
「知らぬが仏」と言いますが、プライバシーが存在しないと
いうのは、気にしなければほとんど問題はないのです。
たしかに個人情報が漏れたために犯罪に遭遇したという事例がないこともないのです
が、数的にみてそれはごくわずかで、それよりは個人情報がオープンになったために困っ
た時に助けられるケースの方が圧倒的に多いはずなのです。日本人ももっと「知られるこ
と」に鈍感な国民になる必要があります。
だから助け合いはご近所単位でやればいいのです。お互いのプライバシーがないに等し
いご近所は、人々の困り事がオープンになるし、助け合いや福祉活動をするのに最適な条
件を備えているのです。
「ずぶずぶの関係」なんて御免だと言いたいところですが、都内
のマンションでマップ作りをすると、同じ階の人同士とか、隣り合った人同士で、極めて
濃密な関係ができているケースが、いくつでも見つかります。助け合いはもともと、そう
いう関係でないとできないのです。
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