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422号 1月発行 - 東京慈恵会医科大学同窓会

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422号 1月発行 - 東京慈恵会医科大学同窓会
﹁説 明 と 同 意 ﹂
正 和
話 (3−25−8
431)6971
編 集 発 行 人 南 雲 今 朝 雄
意﹂︵イン フ ォー ムド ・コン
部
の 推進を
学長 阿
電
第 二は、本年を ﹁説明と同
一九九〇年の輝かしい新年
を、同窓の皆様と共に迎えま
いま、患者と医師の信頼 関
係が薄くな ってきたと、世 の
人たちが言 っております 。も
作の ﹁
白 い航跡﹂ ︵
高 木兼寛
さらに又、小説家吉村昭氏
年であります 。
なる高木兼寛伝の刊行される
しそうであるなら、それを 一 ます。また松田誠教授 の手 に
日も早く回復 しなければなり
ません。私は、そのひと つの
契機として ﹁
説明と同意﹂の
推進を 考えました。医療に携
年 頭 に 当 って
さて私は、二年目の父兄会
礼申し上げます。
援 を受 け 感謝 致 して おり ま
一杯勤めさせ ていただく決意
本年も残された任期を、力
でおりますの で、何卒、倍旧
明けましておめでとう ござ
運用され、ま た全学生を対象
会や奨学金貸与制度も有効に た先輩の歴代会長に改めて御
していただきまし た。互助部 の財政基盤をつくってこられ
の皆様には、あたたかいご声
ております。又 ﹁もより会﹂
建
一
ようお 願い申し上げます。
病院長 小 林
案の医療費の当月請求を完了
れこんで処置し、 一方では懸
られた スペースで午後までず
昨年十 二月某日、外来患者
皆様ご健勝のうちに新年を られることである。
迎えられたこととお慶び申し
す。
りますが、常に大学、同窓会
長を勤めさせていただいてお
の方々のご指導を受け、会員
でもあります。母校 ・慈恵医
います。平成二年の新年を迎
慶 三
大を創設された方々のことを
に学生教育 研究災害傷害保険
父兄会長 宇 野
であります。勿論、非言語的
知る又となくよい年でも あり え、慈恵医大の大いなる発 展
わる者 は﹁言葉を使う専門職﹂ の伝記︶の連載が完結する年
コミ ュニケーシ ョンも重要で
ます。ここでもう 一度、建 学 と共に、父兄会も今まで以上
に加入し、不慮の傷害時に役
各位のご支援ご協力を賜わ っ のご指 導ご支援を賜わります
あります。私たちの日頃の立
の精神に立ち戻 って精進すべ に、その主旨と使命を全う出
来年 の七月より八月にかけ
て、本学が主管し第 三十四回
︵
東医体︶夏期大会が行われ
年 頭 に 当 って
ち振舞は充分に気を つけるべ
このような立場から、本年を よう祈念致します。
りません 。
しかしそれ以上に、 き意義深い年でもあります。 来るような良き年であります 立 っております。
き である ことは言うまでもあ
来るべき 二十 一世紀 への良き
昨年は会員各位のご支援の
葉の重 要性を忘れ てはなりま
意 思の伝達の方法としての言
ることを皆様とともにおぼえ を得て、父兄会年間事業も大
せん。病人に、分かりやすく、 準備のための意義深い年であ もとに、幹事、役員のご協力 東日本医科大学総合体育大会
やさしい言葉 で語りかけるこ
ておきたいと思います。
された教職員の方々に敬意と
は 三六〇〇名に達した。また
昨年は ﹁病院は患者のため これま での医療収入の予算達
あげます。
とし、学生会運営委員会より
きたいと思う。そして慈恵大
めに何をすべきか、何 ができ
持 っていることも承知してい
か。本年は今 一度、患 者のた にと ってそれが重要な意味を
て願い通りにい ったであろう
病院が多くの患者の皆様の支
るかを考えつつ事を進めてい る。いずれにしろ、本学附属
いことはもちろんだが、私学
念頭に日を送 ってきた。果し 多寡が大学病院のすべてでな
はそう容易 ではなく、大学と
持を受けていることを喜びた ら の通知があ った。この対応
らの実施 についての所轄省か
物の適正処理﹂ の本年 四月か
れる。昨年末には ﹁
医療廃棄
患者側とのトラブルも 予想さ
る。残念ながら医療をめぐる
は 年ご と に厳 しく な って い
医療のあり方 への社会の眼
感謝を払うものである。
資金援助を要望されました。
学病院らしく振舞 っていきた
し ての支出も予想される。し
百%をこえている。患者数の
昨秋、幹事会並びに父兄会総
いと願 っている。
らしくとは、 い。そして今後もこの期待に
かし新しい医療環境の中で、
益に優先するものはない﹂を
易いように規約の 一部を改正 の主管であり、大学、同窓会、 のもの﹂、﹁病院では患者の利 成率は順調に推移し、幸いに
と益々の御発展を祈ります。 の意見を取り入れて、利用し にとりましては 二十三年ぶり
同窓の皆様の本年の御健勝 した。学生談話室も学生諸君 されてきておりますが、本学
過なく運営することが出来ま ます。学生の自主運営で開催
とを大 切にし ていきたいと願
今年は、学祖高木兼寛先生
ってお ります。
の銅像が建立される年 であり
父兄会にと っても、極めて名
すので多数参加して下さい。 掲載中の吉村昭筆の ﹁白い航
会の賛同を得て、学生の要望
応えなければと思う。またこ
年 頭 所 感
恰も来年 一九九 一年が数え 跡﹂を 一人 でも多く の会員に
通りの援助をすることが決り
他から何故そうし ているかと
のような増加する患者を、限
ク ︵主幹・
仁木京滋奈支部長︶ になるようで、今年から来年 誉な重要な大会であります。
大同窓懇親会を開催して、全 に向か っては慈大発展の ロマ しかしながら、本年度よりの
国よ り医学総 会参加 の会員 ・ ンを宿し ている如く思われま 準備運営に多大の資金を必要
読んでいただきた いと思 って
ました。会員各位のご厚情に
問われた時、胸を張 って答え
歴史と伝統のある慈恵医大こ にありますが、地方同窓には
支える経済も 一応順 調な 足取
一致協力 の実をあげるととも
本 学も内 平らぎ外成るべく、
最後にいま産経新聞夕刊に
て理事会に図り、現八家会長の提
唱で、特に地方の支部の会員の目
減りや老令化等を考慮に入れて、
昭和六十 一年来検討された後、公
考え る
表された。爾来、東北ブロックを えによ って結成されるもので、特
初め、九州、中国四国、東海等、 に定款に縛られるものでな いこと
次々と結成され、それぞれに活動
は
明らかである。
し、会員相互の親睦を深めるのに
他方、関東地区の様 に概し て会
で、大学棟 に続く病院棟建設
らない。
が尊重されるべきことは言うまで より出席出来ぬとあれば、代理者
もない。
の出席によ って大学或は同窓会本
部の意向を支部会員へ伝えること
により、更に同窓会への関心を高
なるような、充実した年とな
年も祝 って乾杯 した後、歓談
音頭で出席会員約 七十名が新
続いて大平 一郎 名誉会長 の
語られた。
ら新年の挨拶と本 年の抱負が
拶に始まり、阿部 正和学長か
会は八家正俊 同窓会長 の挨
会館で行わ れた。
催の新年名刺交換 会が、同窓
り、恒例の同窓会と父兄会共
一月 十 三 日出 午後 三 時よ
新年名 刺交換会
ることを心から願 っている。
恵大学病院建設 への 一里塚と
年が来るべき 二十 一世紀の慈
への光も 見え てきた。この 一
カルセンター構想 の進捗 の中
百年事業委員会でのメデ ィ
めることが出来ると考えられる。
同窓会振興基金は約九年前に大
学の百年祭記念事業を機会に始め
られ、会員各位の協力により、漸
員の多い支部では、東京でいくつ 名取理事長、阿部学長以下、多数
かのブ ロックの活動 は行われ てい の教授の出席の下に開催される。
に移り、 一同定刻ま での和や
るが、支部内での活動 に重きを置 各支部長 ・学術連絡委員も多忙な
いている所もあり、それぞれ に当 日程の中を遣り繰りして出席され
かな 一刻を過ごした。
然至極のことであり 、支部 の意志 るところであるが、万 一の支障に であると考える。
る。我々同窓会としても、自分達
の学生時代を思い起こし、或は近
い将来に同窓会員となる彼らの為
に、立派にその役目を果し、成功
する様に物心両面より援助すべき
︵S︶
一方、同窓会の定款によると、 の有効利用、学生との交流の活性 く軌道に乗ることが出来たが、今
支部迄が規定されており、即ち支 化等によって、更に同窓会の輪が 後は同窓の為の有効且つ、合目的
部が単位となり、現在82支部が公 拡がり 一
段と強固なものにな って の活用が最大の課題であろう。そ
認され存在している。従 ってブ ロ いくものと期待される。
れにより、会員の更なる理解が得
ックはこの支部の単位の上にあ っ
常日頃、阿部学長が大学と同窓 られ、基金の増大へ繋がることに
て更に自由に、支部闇の相互の考 会は車の両輪であると強調される
な
ると考えられる。
ところであるが、その大学と同窓
平成三年にはわが大学の学生会
会の最大の行事であり、接点でも が東医体の主管校となり、大学の
ある支部長会議は毎年秋に行われ 運営に当たることが決定してい
ており、大学でもこれを重視して
日頃の支部やブロック単位での
同窓会に加え、過去に大学主催の
創立百年記念祭、同窓会主催の卒
最近、同窓会のブ ロック活動が 或は発展の為にも、このブ ロック 業生 一万名突破記念同窓会等が行
漸く定着して来た感がある。誠に 活動は重要な役目を担 っていると われたが、今後共これら 一連の記
同慶の至りである。
考えられる。
念行事への参加、同窓会振興基金
ブロック制の考え方は、大平前
会長が同窓会活動の活性化を考え
同窓会 活 動を
研修﹂ への貢献を期していま
家族ら約 二百余名の ﹁親睦 と す。
そい つまでも全国規模のスケ よ き研 修 のチ ャンス に乏 し れば慈大創立 一一一年 ︵いい
おります。いささか所感を述
感謝致しますと共に、父兄会
正 俊
一の年︶に当り、同窓会も そ
べ新 年のご挨拶とします。
同窓会長 八 家
ールをもつ医科大学であ るべ く、ましてや長寿社会に於 け
の "源流"を辿れば 一〇〇 年
るべき時代であろうと思 って
こと であります。このために
因みに来春 ︵一九九 一年︶
の形成は概ね出来上り、事あ
わる責務に ついては、先見性
を重視し、着実工夫、的確な
こせば、独善こそ衰退の根源
りを示している。しかし、例
役立 っている。
阿部学長の入学者に対する ﹁地
方性の回復﹂の構想が効を奏する
としても数年先のことになるわけ
で、それまでの同窓会活動の継続
これに応えていかなければな
る中央と地方ともどもの同窓
同 窓会 は 母校 慈 恵医 大 の きであり、この意味 では中央
"片翼
"として常に団結を固 は勿論のこと、地方 ブロ ック
め、相互の意志の疎通を図り からも優秀な子弟らを受験さ
おり、認定医の獲得などの問
全 国八 十の医育機関の代表大
せてもらいパスす るそれらの
題も含まれて来ましよう。
会員の生涯教育を真剣に考え
つつ、力を養うべきであろう
人材が隆盛 への道を進む 母校
学とす るべく尽力し つづける
は、い つも教育の内容を見直
と思います。
るごと に県 ・
地区を 越え ての ていま す。
日 ︵土︶には京都 駅隣り の新
積極的に取り入れること、高
く評価されるような研究成果
そ もそも ﹁同窓会 の目的﹂
に京都を中心に開催され る、
を挙げること。そして 一般の
よき コミ ュニケーシ ョンも進
都ホテルに於て、近畿ブ ロ ッ
て育 ってもら いた いと祈念し
方々から信頼され、愛される
は会員 相互の ﹁親睦・研修﹂
元 旦 思案
判断の下に為すべきことを為
さ ねば な らぬ と自 戒 して い
る。この自戒を本年の心組みと
希望ではあるが、
アジア、ヨー
であり、このような国際情勢
に、本年が私 の危惧を払拭す
理事長 名 取
ロッパ等世界の情勢 はまだ真
下では本日の 一歩の遅れは明 えば医療収入は行政の影響を
し、
平成の御代にふさわしく、
の平和には程 遠い。吾 国も経
ら祈念している。
る豊 かな年 であることを心か
禮 二
新春の祈りは吾国の安泰、 ぬとは限らない。
本学は教育 ・研究 ・診療 に 惰性的 に仕事をし ていればよ
本学の繁栄であるが、本年は
昨年は私には全く予想外の それぞれ懸命な努力を重ね て いと いう 状 況 ではな いと 思
とくにその願望が強い。
東欧諸国の相次ぐ変革に驚か おり、医科大学としての使命 う。
世界の平和は素より最大の されたが、歴史の訓を思い起 達成には自信もあり、それを
従 って、少くとも自己が関
第23回医学会総会 中の四月六
病院にすることが重要であり
み つつあります。そして私は
さて全国各地の"
ブ ロ ック" 及び同窓の若 い "
駿馬"とし
し、新たに導入すべきことは
そのひとつは、慈恵医大を、 すことを大慶に存じます。
ております。
目標として、次のことを願 っ
る年として、私自身 は本年 の
世紀 への新しいスタートを 切
一九九〇年を迎え、二十 一
ります。
きたことを心から感謝してお
援のおかげで順調に進展して
会医科大学は、皆様方の御支
年が改まりました。東京慈恵
史の大きなうねりをみる中で お願いいたします。
にも、激動の 一年でした。歴 方 々の御協力と御支持を切に
ございます。
の気持 で努力し てくれている セント︶を推進する年にした
昨年は、国内的にも国際的 と 信 じ てお り ます。 同窓 の いという願いです。
新年明けましておめでとう ま しょう。教職員も学生もそ
発行京
所 都
慈港
恵区
医西
大新同橋窓 会東
も安閑とはしていられない。
〒105 東 京 都 港 区愛 宕1−6−6
会 費 年 額 6,000円
(購 読 料 1,200円
含 )
日の百歩の遅れを齎らしかね 受けることが大きく、必ずし
ない。
宿 泊 予 約 担 当 小 林 明 美 ・
清 水卓
愛宕山 東 急イ ン
03-431-OlO9
慈 恵 医 大 ま で 歩 い て3分
。 東 京
で の ご宿 泊 は お ま か せ 下 さ い 。
毎 月1回 25日 発 行
購 読 料 一 部 100円
済 的優 位に酔 っていると、何
時何 のような難路 に迷いこま
論 説
第422号
昭 和32年9月12日
(
第 三 種 郵便 物 認可 )
聞
新
大
慈
平 成2年1月25日
(1)
ボ スト ンか ら
に満 ち 溢れ た 研究 部門だ。
臨床部門においては、土曜
日を除く毎日、朝七時 三十分
生 涯 教 育 セ ンタ ー だ よ り
サチ ューセ ッツ総合病院を凌
在では、NIHの予算ではマ
全米のその道 の 一任者が招か
の勉強会があ り、講師とし て
スピタルと当 院の三病院合同
スピタル、ベスイスラエルホ
日の早朝には、チルド レンホ
教育 センターのあることは 神経科の森温理教授が決ま 健康相談と指導、医療の継
ご承知と思う。しかしお越 っている。主題は未定であ 続性、総合的、包括医療の
ます。
えられたことを願 っており 盆は避けたほうがよいとの とカリキ ュラム作成作業を
現在家庭医機能の概念作り
ニック、感染症のチ ャン ニン
ぐとも言われている。お産が
ご健勝のうちに新年を迎 の開催が決ま っている。お
ニ ュー ヨーク か ら 一時 間
グラボラトリ ー、白血病のダ
年間 一万例近くもあるのもこ
しいただ いてない方も多い るが、長寿社会、高度の文 実践、人間関係、医療の社
読者 の皆様は大学に生涯 る。また今回の担当は精神
患者 への対応、
患者の紹介、
る。研究部門は、バイオメカ
ズホ ス ピタ ルが 群 棲し てい の スレ ッジ教授が総括してい
れ、スレ ッジ教授の助言のも
の論文︶が各々に割 り振りさ
科の雑誌 一冊分 ︵二〇編程度
一月曜日の夕方より、整形外
ルクラブ〟といわれ、毎月第
えて是非施設を見学 してい
が、地方の方 々も機会を捉
されるクラスも増え ている
ターを含め大学施設を見学
最近は同級会の際にセン
ミナーも軌道にのり、 一年
加を期待している。月例セ そのための自 己の能力の向
くことと思う。多数のご参
く、多くの方々の関心を 引
ことはむずか しいし、また
これらを 一人 で全うする
の 精神 科 領域 の 話題 は多 するも のと予想される。
明社会の現在、医療の場で 会性 の七項目の内容に対応
ニクスと生化学に大別され、
クール の教育機関として存在
バイオ メカニク スラボでは、
さ れ、臨床に還元されている。 とに、レジデントが試練を受
ただきたい。
分の記録の刊行も定期化さ
い。周辺の教育媒体 は積極
上も 座 し ては 期待 で きな
ンな高層ビルが建ち並び、こ
な い。また 一方、現代のモダ
ろうとするあらわれかも知れ
離れた人の、より祖国的であ
るよう に思う。それは祖国を
ギリ スよりもイギリス的であ
いているとい った具合だ。イ
れたピータベントブリガムホ
は古く、 一九一三年に創立さ
ウーメンズ ホスピタルの歴史
御紹介頂いたブリガムアンド
この度、室 田景久教授より
カルスクールを支えている。
だけでも七人 の教授がメデ ィ
ンが兼 任し ている。整形外科
関連病院、研究所のチ ェア マ
微形態の研究などが盛 んであ
究、免疫組織化学の研究 、超
ラボでは、培養系における軟
ナーも月 一回開かれる生化学
ーセ ッツ工科大学︶とのセミ
と思 っていた私は、非常に驚
カ人は 一般によく休みをとる
働き、よく勉強する。アメリ
また、ここの人達は、よく
ても極 め て近 似し た所 が多
用い て の人 口関 節 のデ ザイ 臨床においても、研究にお い
コンピ ューターグラ フィクを
働き、残業もどんどんするの
われており、MIT︵マサチ ュ く、非常に親しみを感 じる。
ン、動物実験、 工学実験が行
である。い つも自分は働き過
ロイキ ンー 1 や TN Fの 研 かされた。土曜日はもちろん
骨細胞や滑膜細胞のインター
ぎだと 思 っている諸兄、働き
態は、我が整形外科教室と 、
ける。以上のような当科の形
に代り、八月十八日 ︵土︶
慣例とな っていた第 二土曜
が、今年の夏季セミナーは
度新聞でお知らせしていく
ーの催しに ついてはその都
待したい。生涯教育センタ
は、より 一層のご利用を期
れ る先 生 も 年々増 え て い
名であり、定期的に利用さ
ホンサービス利用者は百七
の利用者は 一九七名、テレ
セミナールームA
場所 大学2号館10階
日時 2月10日︵土︶
れる。
午後4時 ∼6時
シリーズとして七回実施さ
ある。本年は二月から痛み
力によ って生涯教育の実が
いと願 っている。相互の努
ンターはその期待 に応えた
ここボ ストンの ロングウ ッ る。外来、救急部門の他、七
ドメデ ィカル エリアには、 エ 二〇床の入院 設備、 二千人の
地 である。
臨床医、五百人 のフ ェロー、
〇年に統合 した総合病院であ
界中から研究者が訪れ、活気
意見が交換される。常 に、世
ゼンテーシ ョンでは、活発な
一度開催されるスタ ッフプレ
ドの研究を行な っている 。月
細胞のアラキドン酸カスケー
ます。︵昭52 ︶
授に深甚なる謝意を申し上げ
あたえて下さ った室 田景久教
このような素晴らしい機会を
いう事を付け加え、最後に、
過ぎは 日本人だけではないと
信
︵小 林
建 一︶
テーマ 頭部の痛み
講師 渡辺礼次郎助教授
︵
第1内科︶
生涯教育センター月例セミナー
参加費 無料
通
常 に重要なものである。準備 ればよいのである。
であるが、万全な準備とは非 年﹂に、手を少し貸してくれ
生
る。しかしセンターとして 医の生涯教育委員会では、
学
●準備 の年
昨年十二月に、大学二階 ・
を怠る ことによ って思うよう ●教育施設拡充委員会より
な結果を得ることができなか
しいものに交換された。以前
ったと いう経験は誰にもある。三階講堂の机と椅子が全て新
しかし東医体には、このよ
うな ﹁失敗﹂は許されない。 のものは歴史を感じさせる風
来年に迫 った東医体の準備は 格をも ったものではあ った
が、近年傷みがひどく、学生
今年中にその殆どを終わらせ
からは改善の要求が多数寄せ
られていた。
本委員会が、学生会の諮問
機関として発足したのは昭和
六十二年である。その後学習
環境の整備を大学側に要望し
︵学生委員長 井上荘 一郎︶
続けているわけだが、その成
果がこのように着実に現れて
いることに喜びを感じると共
に、学生からの要望に耳を傾
けて下さる大学側の教育施設
拡充委員会に感謝している。
手 足 のしび れ の診断 と治 療
第 三内科 持 尾 聰 一郎
日常診療上、 常知覚が最も多くみられる
とく に内科領域 ・その診断の第 一歩は自覚
では ﹁
手足のし 的な知覚異常のほかに他覚
長
部
︵
昭 11︶
和
︵
昭 14︶
春頌
副会長
︵昭 20 ︶
今 野 享 彦
正
晴
︵
昭30︶
薫
副会長・
父兄会副会長 ︵
昭27︶
︵
飯岡︶
諸 川
田
理事 ・
父兄会会 長 ︵
昭 26 ︶
宇 野 慶 三
南
名
原
中
雲
倉
益 子
事
田
盛
良
市
樹
和
雄
人
雄
︵
昭35︶
望
︵
昭37︶
博
︵
昭 45 ︶
弓
︵
昭29︶
吉
︵
昭27︶
直
︵
昭28︶
敬
︵
昭24︶
忠
︵
昭 34︶
小 田 泰 治
事
川
理 事
北
︵昭 3 ︶
田
雄
︵昭15︶ 理 事
今 朝雄
︵
昭5︶ 理 事
耕
一
保
︵
昭3︶ 理 事
治
︵大14︶ 理
烈
神奈川横浜支部長
︵
大 8 ︶ 理事・
︵昭 28 ︶
一 郎
岩
︵
昭2︶ 理 事
正
︵
昭 17︶
名 取 禮二
理事長 ・
名誉学長
学
阿
平
曾根田 義 男
名誉会長
顧 問
問
川
西 井
問
大
名 誉会長
顧 問
顧
顧
石
いられる。最近では末梢血
南 雲
管拡張および血小板凝集抑
制作用の点からprostag顧 問
製剤が使
l用
aさ
ndinE1
道
︵昭 6 ︶ 理
村 繁 雄
田
て総合的に判断することが
大切である。そのしびれの
原因は多岐にわたるが上肢
の場合は頸椎変形症による
脊髄神経根障害が、下肢で
内
問
re本
-
また神経細胞内のsorbiの産
t生
ol
・蓄積を抑制
顧
し、神経障害を予防かつ治
れている。
療する目的でaldose
る。
発されてきている。さ
dらu
にc
、tas顧e 問
inhib︵
i
torが開
昭 27 ︶ 理 事
次に当科でよくみられる 神経細胞の再生・
分化・
新生
精尿病性神経障害による の作用を有しているといわ
三 浦 長 英
山 崎
﹁
しびれ
れて いるganglipsides
﹂
の
診
断
と
治
療
に
ついて述べる。
製剤の使用も試みられてい
会 長
︵昭 16後 ︶ 理 事
糖尿病による神経障害で る。
は両下肢のビリビリする異
八 家 正 俊
渡 辺
謝疾患の検索が必要であ
は代謝異常による末梢神経
障害が多い。従 ってこのよ
うなしびれの場合には、頸
椎X線撮影または尿 ・血液
検査による糖尿病などの代
顧 問
いわゆる知覚障害は末梢神 前述したような診察および
経に限らず、脊髄から大脳 検査を行っておくのが望ま
柿 本
の障害によっても生ずる。 しい。
﹁しびれ﹂の訴えの内容 糖尿病性神経障害の治療
顧 問
からみると自発性異常知覚 の基本は血糖のコントロー
が最も多い。しかし診察の
ル
で
あ
る
。
そ
の
上
で
ビ
タ
ミ
安 田
際には知覚のみならず、運 ン製剤やtyptaな
nど
ol
動機能、深部反射なども診 の抗うつ剤、tegrな
etol
顧 問
どの抗痙攣剤がしばしば用
知覚障害を指している場合 量的に検査することであ
である。その中にも知覚鈍 る。なお、しびれなどの自
麻の場合と、正座後にみら 覚症状の出現する以前から
れるようなビリビリする自 他覚的機能異常のみられる
発性異常知覚を意味してい ことも多いので、糖尿病の
る場合がある。このような 診断のついた時点で 一度は
れは大脳から脊髄までの錐 が多い。さらに、四肢の末
体路障害やそれ以下の末梢 梢神経伝導速度を測定し、
神経および筋肉の障害によ 運動 ・知覚神経の機能障害
るものである。もう 一つは の程度を客観的にしかも定
ある。
射をみるのである。 一般に
﹁
しびれ﹂の意味のひと 表在 ・深部知覚が障害さ
つとして四肢の運動障害を れ、しかも深部反射が減弱
指している場合がある。こ ないしは消失していること
びれ﹂を訴える 的な知覚障害の有無を確か
患者 は多 い。そ めることである。触覚、温
の診断の際、患 痛覚などの表在知覚に加え
者のいう ﹁しびれ﹂がどの て、振動覚などの深部知覚
ような内容のものかを先ず についても調べる。
そして、
よく問診することが重要で アキレス腱反射など深部反
診療 メモ
より手術が行われる。毎水曜
程、空路を北上するとボスト
ナフ ァーバーキ ャンサーイン
れ、最近のトピ ック スが講演
直 良
ンに到着する。ボストンは人
ステ ィテ ュート、チルドレン
の病院の特長かもしれない。
整形外科 名 倉
口六十万の マサチ ューセ ッツ
ホスピタルメデ ィカルセ ンタ
のではな いだろうか。
ご 指摘 に 沿 った もの であ 行な っている。それは初診
州の州都である。
される。抄読会は〝ジ ャー ナ
建物は、十七世紀の植民地
アルが多く、中世の名残りイ
る。これらの病院、研究所は
各 々指導者のもとに研究がな
時代の様式、すなわち コロニ ル、ブリガムアンドウーメン
ギリ ス本土の様式を引き継い
各々が独立した形をとりなが
している。従 ってメデ ィカル
瓦の煙突、そして上 ら、 ハー バードメデ ィカルス
げ下げ窓、窓ガラスの数は上
れら新旧が巧みに取り混ぜら
スピタルとボ スト ンホスピタ
に切り妻の小さなポーチが つ スクールの臨床の教授は、各
れ てる。町の至る所に、学問
ルフ ォーウ ーメンを、 一九八
ンド デ ィー コネ スホ スピ タ 四千五百人 のパラメデ ィカル
イズ で有名な ニ ューイングラ
の職員で構成され ている。現
ル、糖尿病のジ ョスリンクリ
第 一二三 五 回 成 医会 例 会 開 催
床研修
福井次矢 ︵佐賀医大︶
卒後臨
︵床
2研
︶修における救
急医療
平成二年を迎えて我々が本
1、パネル
腰を入れなければならないの
国立大
︵学
1に
︶おける卒後臨 は、来年七月下旬に本学が主
管校として開催する夏季東医
体の準備である。本大会は三
十五大学、 一万二千人が参加
に対し 、早急に対応を講じる
するというスポーツの大会で
開く こと と な った。 臨床 の
換 期にある卒後臨床研修﹂を
ネ ル ・デ ィスカ ッシ ョン ﹁転
このような状況の下で、パ
必 要があるとしている。
転換 期 にあ る卒後 臨床 研修
専門化した医療が行われてい
ることもあり、現状では、日
常的、包括的医療の場として
は必ずしも十分に機能してい
るとは言えない。今後、改善
に努めていく必要があるとし
は国体に次ぐ規模である。
大塚敏文 ︵日医大︶
なくてはならない。大規模な
慈恵医
︵大
3に
︶おける総合診
現在この準備は、開催時に 大会であるから準備も大規模
療方式の導入
専三となる現専 一の構成する である。我々の手で、我々が
前川喜平 ︵慈恵医大︶ 東医体実行委員会が中心とな か つて参加してきた他校主管
り、グランドの確保は各クラ の東医体に劣ることのない東
ブが分担して行な っている。 医体を準備していかなくては
学生会現執行部は、スタート ならない。慈恵の東医体は三
した昨年九月より、東医体実 十五年に 一回である。ここに
行委員会への協力を最も重要 学生会より学生に対して東医
な活動のひとつと考え、開催 体準備 への協力を要請する。
に必要となる大学内の問題に ﹁俺 は関係 ない﹂﹁私は引 退
し ている﹂という言葉は屁理
ついて対応してきている。
何についても当てはまる事 屈である。今年 一年 ﹁準備の
卒後臨
︵床
4研
︶修の改善につ
討小委員会 ︵
委員長 前川喜 ている。また医療関係者審議 方 々は勿論、基礎医学の方々
いて
平教授︶を設け、制度変更の 会臨床研修部会小委員会報告 の御参加も期待している。︵成
緒方剛 ︵厚生省︶
準備を進めてきた。
でも、良き臨床医の在り方と 医会運営委員長 岡村哲夫︶
2、予定発言
現在、研修医の約八割が大 して、専門性を高めることも
学附属病院で卒後臨床研修を 必要ではあるが、それには幅 日時 平成2年2月14日︵水︶ ω研修修了者 中村純太
ω研修医 福本正勝
行っているが ﹁
医学教育の改 広い臨床経験を基本とした病
3・
P
00M
より
3、討論
善に関する調査研究協力者会 人を全人的に診る能力を前提 場所 高木会館7階講堂
4、特別発言とまとめ
議﹂の最終まとめでも、大学
と
し
、
性
急
に
専
門
的
な
高
度
技
司
会
小
林
建
一 ︵病院長︶
阿部正和学長
附属病院は総合的かつ高度に 術を身につけようとする傾向
岡村〃
哲 夫︵研修委員長︶
本学附属病院では、すでに
御承知のように、平成元年度
から、卒後臨床研修に ﹁
総合
診療方式﹂を導入した。この
ために、昭和六二年から研修
委員会のなかに、研修制度検
筆者も委員をしている 日 上ることを願 っている。
ングラ ンド、アメリカ開拓の
と芸術の薫りが漂う ニューイ
る。因みに小生は、培 養滑膜
昨年四月から十 一月ま で れ、現在昨年分を作成中 で 的に利用すべきであ り、 セ
が六枚、下が六枚、家の正面
の上に
だものが多い。どの家も屋根
門と臨床部門にわかれ、当科
その中、整形外科は研究部
留学生
だより
ー、ベスイスラエル ホスピタ
(2)
平 成2年1月25日
聞
新
大
慈
(
第 三 種郵 便 物認 可 )
第422号
第422号
私 の 中 国 観
郷
自
慢
さめて大事にもち帰 っ
た。当時強い印象を受
けたのは、生命と対決
している医師の卵とし
平 川
代所長に就任されてから平成 時中の旧制須坂中学時代の 一
元年で五十周年になります。 年、国立松本病院勤務の五年
長療OB会が長野で開かれ、 半、当院勤務の七年を加えま
三十名近い先生が集ま って昔 すと、十余年を信州で暮した
話に花が咲いたのはつい二年 ことになります。︵
今のとこ
ろ第二の故郷は広島で、中国
前でありました。
さてわが慈恵大学には矢崎 労災病院勤務十七年︶
故
寛
ると従来使われたなじみのグ
れそうだが、その説明図を見
を云う方がおかしいと反論 さ
作られたルールで今さら文句
て横断面が概ね同型﹂と云え も 文句 は出 な いと 思う の だ
る。﹁グリ ップ全体 にわた っ ート コンペならピンを使 って
ピンパターは殆どが落第 であ
さらに厳密に云えば大流行の
ーを卑 怯と云えるのだろう。
を 認め ておい て誰がこのパタ
一層理解に苦しむ。プライ ベ
かも縁だけの問題であるから
している。これは細い溝のし
ドルの損害賠償の訴訟を起こ
ゴルフ最大 の目的が失われる
知れない。健康と親善という
ルフをしな い方が良いのかも
たくない、いやそんな人とゴ
せる位ならそ のクラブは使い
る﹂﹁球はあ るがまま の状態
に入れることによ って成立す
ムは球をスト ロークでホール
のであ ってはならな い﹂﹁
ゲー
に反する形状 または構造 のも
れるからである。それに近 い リ ップが描 かれている。厳格
法 三章 の世 界
直 樹
のが漢の高祖の法三章の世界 に解釈すると私の愛刀ジ ョー
にし ても近頃、法律がやたら
てならない。倫理の法制化も
と作られているような気がし
で プレ ーし な けれ ばな らな
すら 見られる。今年から ﹁途
別 の例がゴル フ ・ルールに
いるからである。しかしメタ
ストル型のグリ ップが ついて
ブ なのかも知れない。古いピ
ンスト ンのパターは違反クラ
禁止を宣告さ れた ことで 一億
ないとアメリ カゴル フ協会に
ンの打 球面の溝が規定に合わ
ピ ンと云えば、そのアイア
に日本ゴルフ協会に問い合わ
出ないとは限らない。その度
コレートを返せとか云う人が
えさせるの である。カラヤン
る。︵
昭28 ・大学専任理事︶
らせ て もら い たい もの であ
は伝統に従 って伸び伸びとや
が、凝り性の日本人のことだ、 い﹂これがゴルフの法 三章 で
中 に膨 らみもしくはくびれの
ルウ ッドやカーボ ンアイアン
がる。 一九七五年、ウ ィーン ・ ドでは、何か 醒め ていてもう
ないではないか。
えなく なる。 これは六年前に
あ る﹂グリ ップのクラブは使
うか。聞き手の趣向を汲み取
ほど前 に 指揮 者 の ヘルベ ル ることに意の多くを割き 、初
の、あの充実した命溢れる音
フ ィル を率 い て来 日 した 時
ヤンなら、聴衆のいな いスタ
一つ感動がな い。これがカラ
方 向は、他の専門分野ばかり
と べームに代表される 二つの
到な演奏である。 一方、ベー
ブラームスの第 一交響曲が終
楽を忘れることができない。
粗 っぽい対比 ではあるが、
隙なく仕上げるに違いない。
ジオでも、演奏会と殆ど同様
ヤ ンほど の 天才 な らと もか
もしばしば 見出される。カラ
でなく、我々の瑣末な日常に
人に受けようと行動したとこ
ろで所詮馬脚が現われるばか
て、平成 元年 二月から 二か月 奈川県横浜市に存在する大塚 地区に隣接し中川町にある。
生 活を 守 るた め の濠 であ ろ 育委員会の説明書が 二個ある
始ま ったため、他集団からの
三年 間 の発 掘 調査 を終 え つい先日見学したばかりの神 遺跡は港北 ニュータウン第 一 農耕時代となり、米の備蓄が
化をおそれ、埋め尽くされ教
共 同墓地であろう。現在は風
カ ラヤ ンと べ ー ム
り。無心に取り組んだとき初
め て周 り の人々 は心 を動 か
す。二人の音楽は、趣味の観点
からは好き好 きがあ って 一向
に差し支えな いだ ろう。ただ
し、人間の生 き方と いう視点
から光を当 てるとき、別の感
概を催 すのである。︵昭38・
臨
詠んだ俳 句は千八百首、 一茶
余り 一般公 開された吉野ケ里 遺跡のことである。大塚遺跡 昭和四十七年から四年間発掘
床検査医学助教授︶
は二万首といわれ、芭蕉が芥
という、日本古代史の根本 に
居住地であ ったかも知れな い
を訪れた。結論は学者先生 た
港北区の茅ケ崎城址を見学
勝土 周溝墓があり、方型の溝
この村の東 一〇〇米には歳
ものであろう。
大 滝 紀 雄
つか った。村は瓢単型で長径
この村を 二重の濠が巡らされ
深さ 二米、全長六五〇米に及
た。高貴な人や大塚人たちの
周囲に二五基の墓が発掘され
ている ︵環濠︶
。濠は巾四米、 の中央土盛の中に 一体、その
ぶ。狩猟と漁貝の時代が終り
︵
昭17 ・横浜市︶
は五十年位先であろうか。
ように、世間 でさわがれるの
大 塚遺跡が吉野ケ里遺跡の
たい。
た。当時 の医療の状態も知り
説 明 を聞 い て感 無量 であ っ
き 、墓あと、空濠あとなどの
直 接 現地 へ連 れ て行 って頂
こう会会長の清水銀造先生に
教育研究会副会長、さがむ歩
幸なことに、私は横浜郷土
だけ である。
う。鉄器発現以前で、すき、
のもこの遺跡 の発掘 で邪馬台
ふわ りかな﹂﹁やせ蛙 まける
吉 野ケ 里 遺 跡 と 大 塚 遺 跡
遺跡は、空前 の考古学ブーム は規模はやや小さいが、吉野 調査が行われた結果、二千年
国九州説が裏 づけられ、吉野
川賞作家なら 一茶は直木賞作
が、信州 の自然や小動物との
ケ里遺跡が ﹁魏志倭人伝﹂記
くわもなく、石や木で掘 った
会話を そのまま詠 った句は、
家の よ うに 量 産?し まし た を巻き起こした。それという ケ里遺跡と大変よく似た全国 前の堅穴式住居跡九十戸が見
大人にも子供 にも愛されるも
ては女王卑弥呼 ︵ヒミコ︶の
な 一茶 これ にあり﹂﹁ねがえ
メスを入れる大問題に発展し でも珍らしい弥生時代 の環濠
し ょうか。
したのち、早渕川を渡 って大
私がここで言いたいのは、 塚遺跡のある丘陵 へ向 った。
ちにお委せしたい。
野病院長︶
︵昭和25専 ・国立療養 所東長
けお馬が通る﹂など いかが で 人以上の人々がわざわざ佐賀 ている。
す﹂﹁
雀 の子 そこのけ そこ の たからである。その結果百万 集落で、国の指定史蹟とな っ 二〇〇米、
横最大径 一二〇米。
りをするそそこのけきりぎり
載の 一国であり、場合によ っ
のが沢山あります。
﹁うまそうな雪が ふうわり
道で有名な松尾芭蕉が生涯に
く、我々凡人 にあ っては、他
った瞬間の聴衆の感動と興奮
真 柄 直 郎
その 音楽 は壺 を 心得 てお り ムはこれとは対照的で、その
﹁
うま い
﹂と表現できる質の 音楽はあくまでも彼自分のも
ものだ ったように思う。現代
った。豊かな天分に恵まれ、
ト・
フ ォン・
カラヤンが亡くな めから結果を計算した用意 周
お前の優勝は無効だとかチ ョ あろう。紳士的な スポー ツ位
やや旧聞に属するが、半年
その例 である。
田 中
からである。
﹁クラブは伝統および慣習
豊富になれば法律が複雑にな
であろう。文明が進み知識が
もともと法律は、悪人を想
人などの戦後の問題を考えて
も、戦時の困難の中で役にも 定して作られた。世 の中が善
立たない赤子をよくぞ拾いあ 人ばかりなら法律は不要であ
げて育てて下さったと感謝に った。公序良俗が自然に生ま
絶えない。私の病院で引上げ
孤児の何人かをみている。中
国の両親の気持ちをおしはか
写真の中央に小さな窓があ ったとき、いったい中国の庶
浅 井 利 勇
東欧諸国は、バタバタと音 界に背を向けた歩みをどう続
て来ている。
ルー マニアのチ ャウシ ェス
ク大統領も銃殺され、多く の
犠牲の下に、救国戦線 側は新
しい方向でクリス マスを迎え
ている。
い関係をつづけて来ている。
隣大国、中国 ・北 朝鮮等わ 専門医師、看護者の教育を半
ずかの国が依然として頑強に 年或いは 一年間つづけて来て
現体制を堅く守 っている。世 いる。
交流も短期の研修生も含む
炉辺談話
信濃の国﹂は本当に良い歌
縮ですが、私も長野県には大 ﹁
当院は昭和十四年傷痍軍人 変縁が深く第三の故郷といっ だと思います。この歌が他の
長野療養所が開設され、慈恵 てもよい所になりました。東 県の人達に羨ましがられるの
大学より林直敬名誉教授が初 京生まれではありますが、戦 は、六番まである歌詞に信州
の美しい気候風土や偉人がも
りこまれているからでしょ
う。人物としては旭将軍義
仲 ・仁科五郎信盛 ・春台大宰
先生 ・象山佐久間先生と四人
が挙げられていますが、この
他にも立派な方が大勢おいで
という時代のあらゆるメデ ィ
昭和十 一年夏青島同仁会病院 てではなく、人間・生
をはじめ済南、北京、大連、 命の尊厳にふれたから
アを 駆使し高 い人気を維持し
新京、哈尓浜、万州里と廻っ である。
た。これに対 し、地味ではあ
て三ヵ月余り研修し帰って来
るが 心 にし みる 演奏 を 聞か
残留孤児
た旅の中での印象である。
せ、確実な支 持を 得ていた指
戦争中に中国に残さ
奉天の同善堂を訪ねた時の
揮者もいる。カラヤンとほぼ
同世代 のカー ル・
べ ームも そ のであり、それでいて作意が ぶり。心から満足した笑顔 で この二人に関する事象は人間
ことである。救生門と書いた れた残留孤児、残留婦
感じられない。では、聴衆を 拍手に答えるべーム。と ころ の営みとして大変興味をそそ
の 一人であろう。
ところで県歌のある県をあ になります。私はその中で 一 カラヤンの音楽を 一言で表 必要としないかというとむし が面白いことに、彼が帰 国後 る。周囲の思惑に左右されず
芳夫名誉教授、新井正治名誉
教授、上田泰名誉教授をはじ まり知りませんが、明治三十 番 に ﹁信濃 では月と仏とおら わせば、常に大向うを意識 し ろ反対で、熱心な聞き手があ 間もなく同じ曲を同じメンバ 当面の対象にのみ集中した。
め長野県出身の先生方が大勢 年頃長野師範学校の浅井洌先 が 蕎麦﹂ で有名な小林 一茶を た音楽であるといえないだろ るとその演奏は非常に盛り上 ーでスタジオ録画したレ コー 虚心な行為の意味を改めて考
おいでになります。私事で恐 生が作詞されたという県歌 挙げたいと思います。奥の細
五三名に及んでいる。
中国人に対する私の基本的
な考え方は、実は五四年も前
にさかのぼる大学の医学部三
年の時代のことである。同仁
会の支那研学派遣学生として
金杉学長先生の御指導により
あ った。社会福祉など
という言葉もない時代
であった。カメラにお
題である。
窓である。捨児の親の顔は見 どんな人生観なのか。
られない。捨児が皿にのると、 私の中国人観は現政治体制
私 と中 国
中に鈴で報らされる。この小 下での中国庶民活動の下にお
私の病院は、中国衛生部と さい空間は、生命の空間です。 いても庶民の持っている人間
十年に及び覚書を交わして深 左右の壁には立派な文字が書 性を深く察するとき強い親近
いてあ ったが、この写真では 感をもつものである。
読む術がないのは残念です。
中国との長い交流 ・文化の
私のみた当時の中国の庶民の きずながあるのだ。
生活は楽どころではない。ひ
︵昭12 ・千葉支部長︶
どいとい った方がよい生活で
をたてて社会主義体制は崩れ けていくのか気になる重大問 る。捨児を受ける皿のついた 民は、どんな宗教観なのか、 るのは必然と云えるが、それ
(
第 三種 郵 便物 認 可)
聞
新
大
慈
平 成2年1月25日
3)
(
監 事
本
監 事
横
間
山
︵
昭10︶
滋
爾
夫
口
春頌
評議員
川
︵
昭 21 ︶
博
︵
昭33︶
︵昭 24 ︶
国府 田 守 雄
︵
昭19︶ 評議員
知
可
︵昭 16 後 ︶
斎 藤 昭 三郎
︵昭 25 専 ︶
近 藤 孝 則
評 議 員 ︵議 長 ︶ ︵昭 28 ︶ 評 議 員
坂 詰 正 巳
郷
評議員︵副議長︶︵昭 27︶ 評 議 員
本
雄
渋
︵
昭29︶ 評議員
俊
︵
昭 34︶ 評 議 員
友
︵
昭39︶
幸
︵
昭 29 ︶
須 田 富 士雄
田
宮
木
武
︵昭 27︶
豊
︵昭31 ︶
鈴 木 泰 雄
鈴
︵
昭18︶ 評議貝
武
︵昭 41 ︶ 評議員・埼玉支部長 ︵昭 19 ︶
俊
谷
佐 藤 英 夫
評議員・
神奈川横浜学術連絡
評議員
委員
︵
昭 27 ︶
立
山
司
會 澤 五 美
評議員
赤
評議貝
秋
評議員
足
評議員
︵昭 20 ︶
元
正
︵
昭 16後 ︶
高 橋 千 晃
屋
那 須 元 信
評議貝・
千代田学術連絡委貝
︵
昭 30 ︶
土
︵
昭 36︶ 評議貝
修
︵昭 25専 ︶ 評議員・
中央支部長 ︵
昭 28 ︶
稔
︵昭 26︶ 評議 員
小田原 利 光
評議 員
小 田原
評議 員
畑
大井 田
評議員
大
評議員
加 藤 信 吾
(4)
新
年
偶
感
行 和
眼は日本に強く注がれ始めた
る迄にな った。そして世界の
にも有数の経済大国といわれ
学分野に於て顕著で、国際的
の舞台とな った。い つもなが 会の騒乱など など、若々しい
参加 であり、そしてまた最後
︵日本武道館︶の興奮 、二次
寮 歌祭 は、本学第 二十回目の 練習 ︵大学 ・解剖教室 ︶当 日
公 会堂 における第 二九回日本 初回参加百名の大群、祭前 の
平成 元年十月七日、日比谷 思い出が次々に湧いてくる。
など は、寮歌祭が終ると次回
えた。帽 子 ・マント ・手拭い
と、蛮カラの中 に色どりをそ
赤いタスキ ・ピンクのしごき
生不良性貧血で、寮歌祭壇上
富田竜夫先輩 ︵
昭20︶は再
27︶は、日常あの衣裳で家の
中を闊歩していた。
嬉しいやら羨ましいやらホ ッ
が、今年八五歳で健康なのは
旗を振る鈴木義礼先輩︵
昭10︶
吉 和
そ の 一年 間 の長 か った こ た。あの先輩 ・あの友、多数
えて彼の登壇を強いた。南雲
た。家内の熱望に打たれ、あ
員 ・同窓会顧問︶も病み老い
われた 三浦長英 ︵前大学評議
私と 一卵性他人双生児とい
﹁ありがとう﹂といいたい。
してくれた飯岡君にも心から
に 倒 れる こと を 悔い なか っ トする。多大の貢献を黙 って
もいる。壇上最前列で優雅に
が、次は経済的協力の軌範を
ら の館内の熱気と雑踏をよそ 顔が 一杯いて、大声 で歌 って
までの 一年間風雨に晒した。
脱して、国際政治 ・外交 ・科
に、窓のは冷たい雨が降り続
き人影もなか った。
覚悟していた。終熄のないも
南 雲
さ よ う な ら〝寮 歌 祭〟
学 ・文化等 へ参入、助勢が考
て維新後現代に至り、その固 慮されるべきである。この様
水 野
昨年正月の炉辺談話に、近 に女 子学生を含む大学生層の
U ・Iなる言葉を取り上げ、 会 への対応 で、学生の勉学 ・ 仏教 ・儒教文化をその時代毎 な信頼度を高める所以でもあ
のはない。そうわか っていて
い つかこの日が来ることは
る。挙げたくないことだが 、
も 人間 な んて おか し いも の
な姿勢が却 って日本 への確か
に使い分け、日本の風土に合
現に最近の新聞、雑誌の報道
有神道 ・土俗信仰更には大陸
その意味する大学 ・大学生の 生活等もますます多様化の傾
うように吸収 ・消化して、独
の名 コンビ復活が、渾身の熱
アイデンテ ィテ ィについて少 向 になり大学生のアイデンテ
と。何かあれば ﹁寮歌連﹂が の同志が幽明境を異にし、ま
の歌と三浦の太鼓という往年
し、特異な自立のアイデンテ 部で日本特殊論 ︵リビジ ョニ はピンと来ない。いや、遭遇 乱舞していた。競 って、白線
記事には、昨今米国々内 の 一 で、その瞬間に遭遇するまで
な い。がその在り方の是非に
二十年間の ﹁青春回帰﹂に別
演でラストステージを飾り、
特の日本文化生活圏を造り出
記してみたいと思う。
集 ま って高 歌放 吟 ・杯盤 狼 た重き病にその活動を奪われ
は理念を込めて存立、自律か
なく、人間或は社会の摂理或
は、今更新しいいい回しでは
代は経済文化社会の発展と共 う。アイデンテ ィテ ィなる語
トの学生生活であり、逆に現 んとの矜持はあ ってよいと思
の時代は、いわば少数 エリー の時代 でも、社会の指標たら
ならない。そのような過去は 様な際 にこそ、所謂経済大国
アイデンテ ィテ ィの発露に他 し ないであろう。しかしこの
の差し迫 った国家の屈折した 内 事情が絡ん で容易には解消
非は措くとして時代の為政者 で、日本 、米国おのおのの国
防止の排他的手段で、その是 渉の経緯から端を発した議論
は、外からの侵入と外来信仰 外貨、経済、貿易面 での諸交
まる 二百五十年にわたる鎖国 り、これは主 とし て日米間の
その 一例として徳川家光に始
が、講師として出席して患者
のは、春と秋の年二回である
様にな った。この集いに出る
という難病の集いに関係 する
き っかけで ﹁タンポポ の会﹂
数年前から、ちょ っとした
だ。今にな ってこの二十年の
別離 の 悲し みが 胸 に迫 るの したり、刀を差したり負 った 何 か に つけ て着 用し 熱狂 し 山中英夫君、食道ガン手術二
のだ。時を終えてはじめ て、
いな い、と言うのが実情であ
し てのシステムはまだ出来て
ィテ ィを保ち得たのである。 ズム︶即ち日本は欧米と違う
してもすぐにはピンと来ない 帽や衣裳に凝りに凝 った。帽
らの主体性と節度という意見
さておき、現時代は昭和二十 日本の責任と精神的思考で、
や その 家族 に 助言 する こ と
分り難い国だという論 調があ
ともとれるので、抽象化する
ティテ ィの立場から、充分に
年を境に 一時期 の占領下、日 正当な国家と個人のアイデン
私共のすごした戦前、戦中 かかわらず、基本的には何時
のは止むを得ない。要はそれ
本のアイデンテ ィテ ィも暫く
であ った。しかし、現実には
昭和 五十九年に設立したもの
難しい問題もあるからまだ時
テムが出来上がるまで、大変
く言われる。現在健康な者と
者の痛みが理解出来る、とよ
自分が病気にな って初めて患
がある。トータルケアのシス ンパクトであ った。医者は、
色々な事情で失敗に終 った例 は痛棒を食ら った程強烈なイ
と言う現実を冷徹に認識する
要である。難痛は治らな い、
して精神面での支援が 是非必
論をまたないが、それにも増
にすべきか。医薬での治療は
︵
昭27 ・同窓会理事︶
バラバラで、トータルケアと
間が必要であろう。
十四才でクル病に罹患し た子
事から出発すべきである 。五
難病患者の悩みは肉体的な
求が ﹁何と偉大な こと であろ
う。変化を生み出す存在は、
ついに私を こんな 風にくに ゃ
と言 っている様に、病気を健
くに ゃにし てしま った よ。
﹂
康 からの変化と考え、病気と
タ ンポ ポ の会
る。 四十数年前米国の ニ ュー
言えども、い ついかなる時に
り、剣道の胴を着用したり 、 た。亡くな った鈴木 昭次君︵昭 回の会沢五美君 ︵
共に昭27︶
を自覚し、具現するか否かの
に対して答えることを仕事と
や、彼等から出る色々な質問
姿勢が問われる事である。
来四十余年現在は国民の叡智 きであろう。
さて、日本 は四海 に囲まれ、 は影をひそめたけれども 、以 主体制の維持確立に努めるべ
侵略の恐れもあまりなく、奈
している。藤沢市では、とも
っている患者や家族相互に交
見做せば 、悩みは幾らかでも
︵
昭18 ・渋谷学術連絡委員︶
流の場を提供し、お互いの情
薄らぐ のではないかと思うの
良、平安朝以後、武家時代下 っ と勤勉 ・努力は、特に経済科
ったような錯 覚が生じ、大変
ものは当然であるが、精神的 所謂難病にかかるかも知れな
正 見
に気持よくな ることだ。これ
なそれ もまた 大であ る。﹁
医 いのである。明日は我が身で
神 谷
とはその曲に以合う発声法で は いわないが、この場合はダ
看護婦、
ケー
報交換によ って、諸々の困難 ヨークで医師や 、
すれば孤立して疎外感を味わ
終 始適 確 に声 を出 す のを い メなんだ。君たちの声を聞く
な問題を自力で解決させる力 スワーカー等所 謂パラメデ ィ
いプ ロに日当を払 って応援を
。と 声色 に内緒で、二期 会あたりの若
そこで色んな指導者が登場 と 同じ なんだ よな﹂
必要な援助を与える目的で、 ケアをする病院が出来たが、
係機関 ・職種の協力を得て、 くり、在宅患者をトータルで
を身に つけさせ、又同時に関 カルを 巻き込んだチームを つ
の痛切な叫 びは、僕にと って を少しでも解消するにはいか
てくれない﹂と言う難病患者
師は患者の気持ちま で治療し ある。
である。
だが実は主催者が当 日吾々
一種の感動だ ろうか。
求め、吾々の間にちりばめ て
が凄 い剣幕 で人を威してるの
だ けでなく格好ま でマネして
並ばせたものとわ か った。そ
るのが、カマツカと いう川魚
の先には、もう晩秋の早くも
を さげていた。その川の流れ
リ 目釣り、五目医者。そうだ家
りです 。﹂
﹁
なるほど、では六 嫌 なこ とを聞く もんだ。 ﹁
そういいながら考えた。五 他で、 一応親切に診て相談し
らこれ程の難曲をまともに唱
ホメを受けるのだ。
す。﹂
う場合、その労苦は並大低で
るんですか﹂どうも直ぐまた
︵昭35 ・藤沢市︶
う。吾々素人はそれができな と何だか街のチンピラヤクザ
し、色んな方法で吾々の声を
一同を爆笑させた。また ﹁第
です。だから今 の所、五目釣
くて苦労する。
鍛えてくれる。例えばこんな
川 原 一面のススキは、川下
このような難病患者の悩み
こと をいう 人もい た。﹁
君 た 九 を唱 って感動する人はまじ
して終幕後の打ち上げ会 では
へ風のなびきと共 に何回も頭
第九を唱う会に入 って約三 ね。誤 ったことをいくら 一生
なくやたら安 っぽく感動など
目以外だと嫌うのはも っての
いつも吾々アマチ ュアが ベタ
尺以上ありますね 。食べられ
ち 一生懸命なのはわかるけど め に唱 ってな い証拠、なぜな
懸命や ってもだめなんだよ。
て上げて、然るべき専門医に
発声のポジシ ョンがまずい。
しかし例のチンピラヤクザ
年の間に五回ほど演奏会に出
が喜 ぶように、紹介状をもら
って専門医や大学病院の専門
科 を訪 れる患者さんの姿が目
ければならな い釣竿だ。晩秋
五目を釣 ったから よしとしな
が、バラしてしま った。もう
り
させてもら った。おかげで合
ここは狩 野川と大場川の合
の夕陽にススキ の白は赤く染
釣
再放流︶するんです 庭医は五目医でなければな ら 紹介してあげるのが家庭医の
目めは何が釣れるでし ょう。
﹂ リ ース ︵
﹁
さあねえ、この手竿にはあ よ。食べ てやれば成仏すると ない。よくヤ マベ釣 り大会 で 本領だろう。再放流された魚
雪をいただ いた富士がうかん
流点 の川堤 である。私が竿を
でいた。
すれば、何ともくすぐ った い
た秘密などを知 ってる者から
できる 筈がな い。
﹂と 大変に の経緯やら、プ ロをち りばめ
話であり、いわば飴をなめさ
が 釣れ るので すか﹂﹁五目で
ハヤがかかると これを外道と
ま り、富士 の白雪の姿もあか
目
手きびしい。
さて、演奏会の当 日よく起
すよ﹂﹁え っ! 五目 って、五
して嫌うものだ 。家庭医もそ
ね色 の雲にわずかなべ ニの色
五
この曲はクラシ ックのポジシ
ョンでこう発声するんだ。
︵先
きる現象。それは練習 でつい
域だけは何とか唱えるように
な った。いや待て! ﹁唱える﹂ 生唱う。さすが名門の音大出
如聞こえて来て、 一緒 に唱 っ ポーツ選手が堂々と試合に勝
目め し でな いど ん な魚 です
うだ。自分の診療標榜以外の
に浮ぶ。風が止んだ。ま た脈
って味わう感動とは全く異質
った方が功徳 ですよ。い つも
いうんですが、川に返してや
患者さんを敬遠しがちだ。せ
小 熊
嘉 夫
釣りの竿に手ごたえがあ った
である。こんなことでいいの
か﹂﹁
魚 籠みせ て下さ い。こ とは マルタか油パヤなどがく
はビクを 下さない のですが、
を 反映し ていた。 ︵
昭 17 ・千
一
かなと、絶えず疑いながら も
網︶です くう。﹁これ は鯉 に 今 日は何 目釣れるかという五
れ何です か。
食べられますか﹂ るかな。﹂
﹁リンが鳴 ってま す
﹁鮒は分 るでし ょう。けれど よ。
﹂リールを巻き、タモ ︵玉
っかく頼りにし てかか ってく
寿
やめるにやめられず、チンピ
幅の広いのは半 ベラです。あ
目釣りのダイゴ味を味わう つ
ている自分も急に声が よくな
ラヤクザ同然の私が今日もま
似てますが ニゴイというので
ぞ聴かなか った立派な声が突 せられたも同然で、例えば ス 振 った 背後で声 がした。 ﹁
何
などと迂闊にいう と専門家に 身。立 派な声 だ。
︶と ころが
﹁ガミ!
﹂と叱られる。唱え 君たちのは演歌のポジシ ョン
ち ゃいない。ただ節回 しを 一 だ。︵先生、演 歌調を マネ し
て唱 う。
︶演 歌自体 が悪い と
た、第九の練習場 へと足を 運
とヤマベ、ハヤ、カワム ツと
代田支部長︶
チ ン ピ ラ ヤ ク ザ 第九を唱 う
応覚え ただ けだ。﹁唱える﹂
ぶのである。
す。
﹂﹁随分大きいですね。 一 もり で、 ビク を 下げ た ので る患者 さんが 、自分の診療科
︵昭30 ・大宮市︶
それに ハゼの様 で十五糎位あ
杉 本
唱のバス声部という自分 の領
炉辺談話
れを告げたのであ った。
子も脱いで鉢巻︵
校章手拭い︶ 籍、寮歌祭の コスチ ュームを た。心臓の弁置換手術三回の
し述べた点を、更に敷衍して ィテ ィとは 一言ではいい尽せ
頃雑誌諸本に折々散見される 膨脹 で、戦後夫々の時代の社
平 成2年1月25日
聞
新
大
慈
(
第三 種 郵便 物 認 可)
第422号
評議貝
中
評議貝
並
評議員
林
評議員
原
評議員
林
木
木
司
︵
昭2
4専︶
繁
春頌
港支部長
鈴 木
︵
昭 14 ︶
黄
︵
昭16前︶
河 野 久米雄
︵昭30 ︶ 渋谷支部長
宏
︵
昭3
0︶ 新宿支部長 ︵
昭16前︶
男
徳
成
修
誠
爾
︵昭 14︶
皿 井 長 四郎
文京 支部長
栄 太郎
︵昭45︶
柴
寿
義
一
宇
野
佐 々木
竹
松
内
尾
目黒支部長
青 柳
安
井
久志 本
︵
昭 17︶ 板橋支部長
武
一
幸
︵昭15︶
隆
孝
︵
昭 16前 ︶
幸
三
︵
昭 14︶
貞
︵
昭 13 ︶
茂
︵
昭14︶
雄
浩
︵
昭24︶
輝
︵
昭 17︶ 豊島練馬支部長 ︵
昭21︶
宇 佐 美 七 三郎
中野支部長
︵昭13︶
鈴 鹿 順
台 東 下 谷 支 部 長 ︵昭 18 ︶
田
夫
貞
︵
昭 28 ︶
冨
︵昭 32︶ 大 田支部長
孝
︵
昭26︶ 品川支部長
一
︵昭 37 ︶ 江東支部長
信
︵
昭 30︶ 墨 田支部 長
前 澤 伯 彦
評議員
三
評議 員
口
瀬
森 田
評議員
柳
評議貝
山
田
評議貝・
杉並支部長 ︵昭 23 ︶
山
評議貝・
世田谷支部長 ︵
昭14︶
山
大 和 正 夫
評議員
横
本
千代 田支部長
杉
人 生 途 上 の大 転 換
敬
に﹂とか言われるが、それを
本位﹂とか ﹁患者さんを大切
来る もの であり、〝後継者 を
間が競争し自然に後継者が出
してその組織に属している人
織にあ っては、ト ップをめざ
しいと考える。このような組
入はないじ、ないことが望ま
がない限り他からのト ップ導
組織にあ っては、よほどの事
一般に 一つのし っかりした
言葉のもつ重みを感じる。
と考えるよう になると、この
けないうちに引き際は美しく
た。まわりの職員に迷惑をか
聞 か され るよ う にな ってき
ておいて下さい﹂という声を
か、周囲から ﹁
後継者を育て
停 年 が近 づ いて き たた め
をも った人が ﹁
求めよさらば
件となろう。このような条件
ない事も欠かせぬト ップの条
いうか家庭をかえりみる要の
然 であるが、家庭の円満性と
と は心身共に頑健なことは当
者 ・八が適当な歴年令 ︵人生
に耐えられる術を知 っている
断性 ・六が指導力 ・七は孤独
スマ性 ・四は先見性 ・五に決
二にバイタリテ ィ ・三がカリ
く にふさわしい人間でない限
てようという人 と育とうと思
要はな いと いえよう。
者に求められる条件には色々 が 、その組織の幸せと発展性
最近の心境である。
︵昭和32 ・
ことを願 った方がよいと 思う
度であ り、〝
後 継者は 育 つ〟
ようにみえても〝後継者を育
と発達がある限り、無責任の
継者は育てる〟より〝後継者
のと思考される。やはり〝後
のであ り、〝
後継者を育てる〟 役立ちたいと考え、何人か の
らば後継者は自然に生じるも
都 立北 療育 医 療セ ンタ ー院
切なことであろう。しかし特 は育 つ〟である。後進の成長
う人との気があること﹂は大
長 ・小児科客員教授︶
が誰がみてもト ップの座に つ てる〟ということは驕りの態
あろうが、私は ﹁一に健康 ・ を 願 ってト ップの座を競うな
つ〟ということになる。後継
り、育 てる側も育てられる側
は 最 低必 要条 件 と考 えら れ 定 の人物を意識して後継者を
経 験とも 置換され よう︶・九
も反発をくい、うまく行かな
る。そしてその 一つの〝健康〟 育 てる場合、育てられる人物
がその組織で生活した年数﹂
いものである。やはり後継者
おかれた鍋 にうかぶ湯豆腐の
過ぎ宿 へともどる。畳に厚い 樽 源特製 の桶、そして火鉢に
は自然 に育 つ事がのぞましい
味は格別 である。
医になる人は多く、極く普通
の話だが私は八年前、二十四
年間の開業医の生活から、全
く突然に病床三〇〇床の総合
病院の院長の椅子に坐らせら
れることにな った。
しかもその時のわが衣笠病
ならば、いつかはその組織 に
あるが、前述したような人間
習わぬ経を読 む﹂と いう諺が
といえる。ま た ﹁
門前の小僧
い感銘を与えるであろう。そ
して患者 さん の ﹁
くち コミ﹂
は住民の噂となり、日ならず
決し て自慢していうのではな
機器、
デ ラ ック スな病室設備、
実力ある医師、高度 の医療
の 間に二倍強とな った。私は
の 退職金すら十年間全く支払
満足させる要因となるではあ
のう ち に急 激 に立ち 直 った それらもおおいに患者さんを
いが、何故 このように短期聞
ろ うが、﹁心のこ も った医 療
ちがいないであ ろう。
っていない等 々⋮⋮。取り敢
か、それ は私 の二十 四年間の
月滞納、そして退職した職員
えず私の住ん でいる家、土地
開業医生活と無関係ではない
とケア﹂と ﹁温かく明るい雰
囲気﹂こそが、患者さんが先
った時、
先ず目に ついたのが、 ず求めるものではないであろ
﹁面会時間○○、時間厳守
﹂ うか。
とか﹁
関係者以外の入室厳禁﹂ そ の実現 のため、具体的に
﹁⋮ ⋮堅 く お断 り しま す﹂
行 った数々の方策をここに書
私が初めて病院 の玄関を入
と思う。
その他そ っく り担保 にし て二
億円を借りて、差し迫 った未
払金を整理することから私の
取り、病院建物と全く別に人
等々の貼紙である。これらの
院の状態は、まさに倒産寸前 仕事は始ま った。
しかし以後三年で完全に黒
もう薬屋さんも納品辞退、毎
月の職員の給料から天引きし 字となり、その後は国有地 で
間ド ックのための健康管理セ
文 句 に囲ま れ た従 業員 たち
すべて、私の開業医時代の考 が見事に映えている。そこか
けた土鍋にもられた雑炊がま
あ った敷地三七〇〇坪を買い
ンターを新築し、旧くな った
が、﹁病院 は患者さ んのた め
え方がヒントにな っている こ ら奥ま った旅荘井雪 へと辿り 山をぶらぶらと今夕の食事処
鳥 の声に目をさまし、窓ご
興である。寂光院、竹寺 、嵐
るが、肌寒いお寺参りが又 一
の辺りをぶら つきながら四條
山 へと夕刻まで過し、高瀬川
しに見える紅葉の美しさは何
一杯機嫌で大変 不謹慎 であ
後継者を 育 てる場合、 ﹁
育 自然に後継者は育 ってくるも
与 えられん﹂の言葉ではない
本当に実行したら、病院の雰
育てる〟でなく〝後継者は育
ンに生姜 のきいた煮 つけ。次
布 団、ぼんぼりの枕燈、何と
囲気は 一変し、患者さんに強
今回も真京発 一時二四分で てこれにくむ湯の感じは都人
が鍋となるがこの味が日本酒
も いえぬ夢ごこちの 一夜がす
三病棟増改築等、矢継ぎ早や
に ある﹂と 考える より、﹁診
たうまく、酒の酔いも程よく
日も西に傾き夕闇せまる円
に実現し、又前述の 二億円も
着く。藁葺 屋根 の門を入ると、 千本上る〝大市〟 へと向う。
︵
昭24 ・鎌倉市︶ 女将の出迎に会う。階下の 一
てほし い人は来なさい﹂式に
考 える のは当然であろう。今
室に収り﹁
長 い事 でしたなあ﹂
河原町近くの ﹁しす幸﹂ へと
る。朝風呂につかり、朝食 に
物 にも 変 えら れぬ ほど であ
癒やしてくれる のである。
の旅は日頃の疲れを最大限に
の
向う。利久弁当を 一つと、あ
と は鯨の酢味噌、鯛の塩から、
そして名物の味噌汁料理を満
期待し つつ部屋にもどると、
弓 雄
朝餉の支度は早々とととのえ
喫 して、私の京の旅も終りと
て﹁
先斗町﹂へと向う。時に﹁
上
り、丁場を越えて奥 の小室 へ ひたる。あ とは気分にまかせ
古び た 格 子を 開け 土間 を上
土軒﹂ へと紅燈のちまたをさ
京
旅
返済 できて、私も住む家を失
わ なく て済む こと にな った。
ではど この病院も ﹁
患者さん
は足が向く。最近では ﹁コー
名 倉
とは確かである。
年間収支の規模も、外来患者
﹁ア ニーよ銃をとれ﹂
や﹁イー
ラ スライ ン﹂﹁コ ットンク ラ みに得られる楽しさか。まず
の愛相と 一緒に美味なる菓子
スタ ーパレ ード﹂﹁シ ョウほ
ブ﹂﹁バー ド﹂ などを 見て い 旅の疲れを癒すべく風呂 へ入
のもてなしは、やはり旅館の
いえる世界を見せ てくれた。
ど素敵な商売はない﹂など数
の頃の私達にと って願望とも
なかでも音楽映画 は華やかさ
と入る。床間に掛けられた掛
楽しさ で魅力 にあふれ、 ﹁
ア 多くの名作を書いたアービン るが、ストーリーに麻薬、人 る。この風呂がまた格別であ
軸とその部屋との調和は見事
半旗が風に流れていました。
生家 のある故カラヤンの為に
ツアルト記念広場は 一七世紀
欠いていました。
しかし、モー
音楽祭の季節で、街の所々 に、 がなされていましたが生彩を
ター湖のほとりはあの ﹁サウ センバ ッハの町を通りぬけ、
イ ッシ ェルそ してワイ
とその間に点在する湖、ア ッ ード ・
じられないような見事な山々 ールを流しこみ、再び車 でバ
から三十分のドライブで、信 デンパラソルの下でライトビ
祥の地、フ ッシ ェル湖をまわ た。あのサウンドオブミ ュー
モント ー ゼの 町 に着き ま し
∼ 一八世紀に拡張され、大聖
ト リ ッヒ大 司教 が愛 人サ ロ の鐘楼からは七、十 一、十八
代をわたる澄んだ音色を響か ラで 一七 一米のホー エルツ ィ た。中の荘厳さは寧ろ雄大に
に車を停め、ここからゴンド きく湖畔にそびえて居りまし
われ、庭園は フランス調で花
り、ウ ォル フガング湖の近く ジ ックのモントーゼ教会が大
の芸術そのものでした。静か
せていました。広場の後の 一 ンケン山に登りました。紫色 ふさわしく、キリストの歴史
が、ドナウの流れを越えて時
な街を歩いて マカルト橋を渡
二〇米の岩山に立つホー エン の高山植物の花畑と起状に富 が壁面 にそそり立 つ幾多の彫
術 の店が連なり世界のブラン
広が っていました。ザルツブ を着けた茶色の牛の群をはる
ッシ ョン・
プデ ィック・
民族芸 の眺望は、息をのむ美しさが にも女性美を告げ、カウベル
う。ごきげんよう。︵昭27・
聖
っていました。又書きまし ょ
深くそ して冷た い静寂を つく
渓谷 にホルク スワーゲンのレ させました。下りて湖畔の コ
マリ医大薬理学教授︶
ルグ大学での講演の折に聞い かに見下していると、スイス
ブ ルトハウ スは、ビル風の建
マデウ ス・
モー ツアルト のゲ た ザルツ ・
カン マーグート の のイ ンターラーケンを彷彿と
ド が軒を並べ ていました。ア
し て、ゲトライデ通りはフ ァ ザルツブルグ城塞からの眼下 んだ緑の平原は、きびしい中 刻 とし てあやなす原色の中に
り旧市街のグリー ス通り、そ
メ・
アル トの為 に建てた と云 時の三回、三十五のベルの音
一六〇六 年ウ ォル フ・
デ ィー 堂や グ ロ ッケ ン・シ ュビー ル ンドオブミ ュージ ック﹂の発
宿 の裏手のミラベル宮殿は、
ッテージ風レストランのガー
へ昭29 ・同窓会理事︶
私にと って年 に何回かの京
なるの である。
コール ・ポーター、ジ ェロー 苦 しい。﹁バード﹂ でも 三十 桶に体をのばして つかる気分
京でなければ味わ えぬ気分に
ム ・カーン、リチ ャード ・ロ 四歳で夭折した天才サキソフ は何物にもかえがたい。そし
ジ ャー スなどによる楽しさあ
メリカ人﹂﹁回転木馬﹂﹁
南太
ば﹂ など記憶 に残る作品が多
ーランド でのジ ャムセ ッシ ョ
ふれた音楽映画も﹁
上流社会﹂ ーの伝記映画とあ って期待し
﹁マイ フ ェアレデ ィー﹂の後 て見に行 ったが、彼の拠点パ
平洋﹂﹁王様と私﹂﹁
雨に唄え
い。昨 年の暮れもホ ワイトク
あたりからベトナム戦争や人
ンの再現など素晴らしい場面
てある。まずビールで 一杯 、
リ ス マスの 曲が ちま た に流
種問題、豊かさのかげりなど
はあ ったものの全体として差
まようのも 一興 である。夜半
れ 、ク ロスビー、ダ ニーケイ
の影響でアメリカ映画全体が
別と麻薬につぶれた黒人の悲
である。食事はまず、ス ッポ
主演 の同名 の映画をテレビで
変わりはじめ 、移民と ハーレ
ォン奏者チ ャーリー ・パーカ て樽源で作られた手桶、そし
放映し ていたが、この映画は
ム問題が少し からんだ ﹁
ウ エ しいサクセスストーリーで見
ンタカーで出かけました。街
昭和 二十九年 の師走に築地の
ストサイド物 語﹂を最後に エ ていて心が重か った。
物で 二階に旅人のために展示
昔 の東劇 で見たもので、家族
ンジ ョイできるも のが姿を消
見終わ って外に出 て歩きな
Y君、ザルツブルグは夏の
で銀座 でささやかなクリ スマ
してしま ったよう に思う。
高校生の頃はテレビがまだ
街頭や喫茶店で見るような時
代だ ったから映画が娯楽の花
形であ った。親も映画好きで
あまり文句を言わないのを幸
スが出来るようにな った時代
がら同じ伝記映画 でも エデ ィ
カ の音楽映画を懐かしく思 っ
ら出 てきた、あの頃のアメリ
に心暖ま った気持で映画館か
ニーグ ッド マン物語﹂のよう
銅貨﹂
﹁グレンミラー物語 ﹂
﹁ベ
レ ッド ・ニコルスの ﹁
5 つの
ほとんど映 画を 見なくな っ ー ・デ ューチンの﹁愛情物語﹂
た私だが、や はり音楽映画に
この曲 の作曲者は戦前に ﹁頬
寄せあ って﹂や戦後に先述の
背景と重な って思い出深い。
いに、私は学生時代に映画ば
かり見ていた。とくにアメリ
カ映画は自由や夢や、愛や希
望に満みあふれ、戦後まだ民
主化に馴れず豊かさもないそ
音 楽 映 画 昨今
赤 羽 紀 武
た。︵昭37 ・第 一外科講師︶
ザ ル ツ ブル グ に旅 して
ニーよ銃をと れ﹂﹁虹の女王﹂ グ ・バーリンで昨年百 一歳で 種差別、ホモなど今日的な問 る。特製の朴 ︵ほお︶の木で
﹁
我 心に 歌えば
﹂﹁パリ のア 亡くな った。このバーリンや 題がからんで内容がどこか息 作られた長方形の白木の風呂
ト ップの姿をみてくるうちに
く紙数がないのがま ことに残 京都 へ発 った。駅から高台寺 の味か。湯上がりのビールの
によく合いこの世の天国とさ
世の中には勤務医から開業 て預かる所得税もなんと七 ヵ 数も、常勤医師数もすべてこ して患者さんは増え てくるに
山 本
念である。しかしそ の方策は を通り円山公園に入ると紅葉 味はまた格別である。
え 思えるようだ。次に赤く焼
ごせそうだ。
重 信
廿 楽
正 直
平 井
炉辺談話
後 継者 は育 つ
カ ラヤ ンの 故 郷
第422号
(
第 三種 郵 便 物認 可 )
聞
新
大
慈
平 成2年1月25日
(5)
北支部長
今
井
荒 川支部長
郎
︵昭19 ︶
男
孝
︵昭 15 ︶
嘉
春頌
郷
杉 田
秋 田支 部 長
本
︵
昭 20︶ 宮城支部 長
三
︵昭 16後 ︶
近 藤 市 雄
長谷川源 次郎
︵昭 20︶ 山形内陸支部長 ︵
昭7︶
豊
山形荘 内支部長 ︵
昭 16後 ︶
足立支部長
花
︵
昭20︶
崎
葛飾支部長
千
中 目 俊 男
崎
星
︵昭 29︶ 福島支部長
清
通
大
森
︵
昭 22︶ 茨城支部長
正
三
梅
園
︵昭16前 ︶ 栃木支部長
駿
二
井
一 雄
吉
︵
昭 16前 ︶
正
男
︵
昭 31︶
昌
︵
昭 26 ︶
勇
今 井 波 吉
︵昭 4 ︶
利
︵昭12 ︶
佐 藤 繁 三郎
︵昭26 ︶ 群 馬 支 部 長
浩
浅
︵昭 25︶ 千葉支部長
裕
雄
︵昭 21︶ 神奈川県支部
連 合 会 々長
潤
雄
吉
越川忠 夫
︵
昭 19 ︶
井 口 善 二郎
鈴 木 隆 道
︵昭19 ︶ 神奈川逗葉支部長 ︵昭 16後 ︶
裕
︵
昭 24専 ︶ 神奈川鎌倉支部長
徳
︵
昭 19︶ 神奈川川崎支部長 ︵昭 23 ︶
政
︵
昭 29︶
秋
岩
田
江戸 川支部長
蓮
谷
武蔵野支部長
森
口
調布 支部長
木
永
北多摩支部 長
水
村
南多摩 支部長
田
瀬
西多摩 支部長
百
武
北海道支部長
則
青森支部長
佐 藤
沢
岩手支部 長
宮
繁 雄
た か が蝮 、 さ れ ど マ ム シ
吉 葉
ねた氷枕の間に患部を挟んで
安静臥床。夜には栂指球から
小指球ま で倍の厚みに腫れて
きたが、翌日はピークを去 っ
て腕 はほとんど腫れないので
遇、三頭とも難 なく生捕 った
月三、十 月 一日︶マムシと遭
地点で三度も ︵
八月十七、九
巳年の平成 元年、外房の同
いておくと咬まれずに便利だ
験には口囲をセ ロテープ で巻
付いて掴まえた。マムシの実
シが足元から逃げ出すのに気
に踏み入 って間もなく、 マム
の在庫も確かめてから私の車
病院に電話、セ ファランチン
設したと聞く鴨川の亀田総合
いを辞退、救急センターを開
救急車をというY氏の心遣
創傷よりは日数を要したがほ
一の異常値で、局所も通常の
受咬翌日の出血時 間八分が唯
クしたが腎機能も侵されず、
尿や潜血 反応は慈恵でチ ェッ
数 日後 に起こりうる血色素
生が、自動車事故による若者
つもりで﹂と云われ、二個重
で腫れる筈。五日位入院す る
感に察知して排除しようと働
人の組織を移植した場合、敏
メリカでのカレンさんの事件
あ っても、血液型の違いはい
以外 にはたとえ親子、兄弟で
心停止が関与します。またア
が思い出されます。
るのも如何なものでしよう。
の投与によ ってのみ延命を計
私も親しか った故榊 原■先
子供さんがアメリカで肝移
うま でもなく、おのおの異な
った体質をも っています。他
植をされた先生のお話をうか
創造主によ って造られた人
子の結合から始まり、総 ての
存在。単細胞である精子と 卵
時間の経過と共に再び消 えて
ゆく存在を考える時、臓器移
植を通して人類に共通する思
考・
倫理が なんと しても必 要
であると思います。
︵昭18・
世田谷区︶
就 いて
とい う こ と
看護婦諸姉 に驚かれ、十九日
の朝九時 退院、 一六五キ ロの
が、最初の 一頭に咬まれたの
が、ビ ニテープしか携えな か
の ハンドルを握 って三時に病
道程を運転し て帰宅した。
は私らしから ぬ不覚だ った。
ったので、左手に掴んだ頭部
院着、咬まれたのが 二時二十
を傷に押し当てた。
其処はイモガイ採集 で永年
にそれを巻いた。だがビ ニー
爪の変形に触覚鈍麻と圧痛過
お邪魔している千葉大学小湊
五分、吾ながら迅か った。
ぼ完治した。
ほぼとしたのは、
ルは巻いたあとで縮み、三角
小切開、吸引、洗浄をされな
︵同窓︶の御好意 による海景
臨海実験場裏 の山林 で、その
がら担当医から ﹁将来抗毒素
の素晴らしい病室も、吉 田竜
待 つこともなく、処置室で
け、 可哀想だから巻き直すた
血清が必要な事態もありそう
介医師の迅速な処置手順も心
形 であるべき頭を細く締めつ
め に解き始めた右示指を咬ま
だから セフ ァランチンでやり
それにしても亀田俊忠院長
敏が残るからであ る。
れ たのであ る。 スズメバチに
まし ょうか﹂と云わ れた。私
日は海での採 集を午前中 に済
ませ、昼食後にヤマビル調査
刺 れたような痛み で、末節中
地よか った。記してお 二人に
節 関節の掌側に二孔の牙痕が
もその心算で来たのでそう願
のー
御発展を祈念 した い。
深謝申し上げ、同救急 センタ
の脳死者があれば、喜んで心
くのも、個性をも つ生体の神
い、局注と点滴とで四時 に終
ある。至急ビ ニテープを巻い
臓移植をや っても良 いと申し
秘な 一面であり、親から子 へ
た獲物を容器に収め、我が指
ておられました。現在私の関
と受け継がれながらも夫々の
了し た。﹁
し かし明 日は肩ま
︵昭30 ・衛生学教授︶
痕を口で吸いながら実験室に
係している病 院では、賢透析
個性をも つ個体の違いがなぜ
の基節にもテープを巻き、咬
戻り、ヒル用のタン ニン酸綿
の患者さんが 多く 、賢移植を
存在するのかよく考えてほし
考案するに、 一卵性双生児
考えるのも当然 とは思います
いものです。従に免疫抑制剤
聞 いております。
ーストラリアまでわざわざ出
かけて、多額のお金を払い移
植を受けた方もあり、すでに
アメリカ、西欧では心臓移植
が 一万例を超すといわれます
が、我国で難しいのは如何な
が、なかなか出来な いのが現
えるべきでしよう。これには
る理由によるものでしよう。
アメリカでの臓器提供者
は、自動車事故による若者の
脳死状態のものが主であると
状です。
の事ですが、これにも本人や
家族の前も っての同意が必要
と思われ、生死における日本
人の発想を考える時、西欧諸
国とは甚だ異なり、この基本
が ったことがあり、写真を拝
が、顔が丸くステ ロイドを使
見 しま す と元 気そ う でし た 間、それも異なる個性をも つ
用しているとの事でした。ま
昊昌
より各自特色ある個性を もち
た台湾ではよくや っていると 組織 が造ら れ、出産 ・
発育 に
岡 田
臓 器 移 植 と 生 命 倫 理 に つ いて
札幌医大で和田寿郎先生が日
は
宗教観の相違によるものと
本で初めて心臓移植を実施さ
思
われます。
れ既に二十二年になります。
英国では脳死と脳幹死を区
先日、島根医大での子供の 別していますが、これも 一考
肝移植が父親から与えられ行 案であり、問題点として心臓
われました。又アメリカやオ 及び他臓器の移植は分けて考
プされてきました。医学の長
足な進歩によるものですが、
最近我国でも臓器移植の問
題が再び大きくクローズアッ
炉辺談話
勝 也
一 宮
国府田 守 雄
清
蓮 田
世 界 患 者 カ ー ド協 議 会 に
ハ ム の 話
「病 人 を 診 る 」
(6)
平 成2年1月25日
聞
新
大
慈
(
第 三 種 郵便 物 認可 )
第422号
ンキホーテのようなセミナー
君であり、彼がこのまるでド
総合病院長で教授の久慈直志
ーの代表者は我が慈恵の大宮
いるかが判 った。このセミナ
に多くの人々の関心を集めて
い程の盛況で光力ードが如何
拘らず、会場は座る椅子も無
され、当初危惧していたにも
などからも飛入りの発言がな
あり、サウジアラビヤ、台湾
ロンド ン大学等からの発表が
渋谷 フ ォーラム8に第 一回医
平成 元年十月 二八日、東京
第 二回患者力ード国際会議 に
カのキ ャンサス市 で行われる
る平成 二年三月十 四日アメリ
る処で、三者が発足すれば来
韓国支 部設立を働きかけてい
部設立 の了承を得た。次いで
ア支部 の設立を考え、台湾支
果、日本支部だけでなくアジ
して来 た。有志 一同協議の結
早急に日本支部設立をと要請
アメリ カ支部が既に在るから
反響が あり、世界患者力ード
開催され、東京医科歯科大学、 の研究 機関に送 った処、早速
療 用光カード国際セミナーが
アジア支部として臨む 予定。
梨県、旭川市など地方自治体、 協議会からヨー ロ ッパ支部と
小 田原医師会、香川大学、山
光カードを医療界に導入す
のセミナーのテキ ストを世界
を守るためであ る。事実、こ
と、それは日本の知的所有権
なる ものと 思う。
組んでいる医師の強い味方 と
を 一掃し、真剣に治療に取り
で、悪徳医の征伐や不勉強 医
判 など はお 笑 い草 とな る 筈
のか患者のものかで争 った裁
う。かつてカルテは医師 のも
師 の監 視役 に もな る であ ろ
界に於いて自浄作用のな い医
らである。また、現代の医療
も つ事ができるようにな るか
人間的に過去からと繋が りを
持 つ事によ って医師と患者は
あろう。患者がこのカードを
くまでも患者のためが第 一で
るメリ ットは何か?これ はあ
︵昭和28 ・渋谷区︶
を 一人 で計 画 した かと 言う
ハムの自動車修理屋さんが来
終戦後少しして許可にな っ れないものである。ア マチ ュ てしま った時には、たまたま
アマチ ュア無線を聞いていた
の コールサイ ンは全世界に 一
かわいい坊主が ﹁FFさん い
FFだが、時には中学生位 の
私の コールサインはJAl
てく れて 助か ったこ とが あ
たア マチ ュア無線の免許をと ア無線局の呼出し符号 ︵コー
ってから約四十年になる。ア ルサイ ン︶は国家試験を受け
つしかな いので、皆自分のも
マチ ュア無線家のことを ﹁ハ て免許をとり局の開設を申請
があ っては っきりしない。交
のを大切にする。荷物、旅行
る。
流の音をきくとブーンと聞え
ム﹂と俗称するが、色々な説 し て国からもらうのだが、こ
る。これが雑音としてラジオ
ますか﹂
と玄関に入 ってくる。
にくいので、Hをつけてハム
短縮して呼ぶときアムと云い
人もあり、ア マチ ュア無線を
う。これが語源であると云う
たりする。水戸でエンジ ンを
で 一面識もない人が寄 って来
り つけてあるが、時に駐車場
内はいやがる。自動車にもは
ルサインを大きく書くので家
だといわれるが、彼女達は入
シアル ロールからの緊急避難
ある。
手との出合いは ミステリーで
いモールス信 号による交信相
Fは私だよ﹂ と。声の聞えな
私が出て行くと ﹁オジサンじ
と呼んだと云う人もいる。と
かけたままドアーを ロックし
院でもソシアル ロールを引き
に 入る と ハム が 入 ったと 云 カバンなど に名前 でなく コー
﹁としをとる
﹂というのは 産 の付き添いにきたおばあち
大先生は親切な人だ
不思議なものである。先日、 ゃんが ﹁
もかく ハムは ハムでも食べら
った﹂という。病気を直すに
のである。従 って何かの疾病
つ って行かなければならない
薬棚にあ った懐かしい薬名が
った。学生の頃、狭い薬局の
にま で立 ち 入る こと は難 し
ている。しかし、個人の生活
に組 み込 まな け れば なら な
が出たとき、療養を生活の中
ど下町にはいない。入院は ソ
︵昭33 ・江戸川区︶
ゃなくてFFさんを ⋮⋮﹂﹁F
きた。驚いたことに、処方 の は、患者の生活にまで立ち入
昔の父の書いたカルテが出て
この ﹁
とし﹂にな って実感し
書き癖が小生とそ っくりであ らなければならないことを、
並んでいることもあ って、ひ
い。 ﹁
食 うため には仕方が な
高 木 兼 寛先 生 の言 われ た
い﹂と いう言葉は主治医に対
﹁病気を診ず して、病人を診
い。昔ならどなり つけてすん
よ﹂というお言葉 には色々の
っくりかえして見ているうち
下町の婦人はよく働く。家
に関しては恐る恐るである。
意味があるように思う。その
に、診療の癖もよく似ている だ ことも 、プライバシーの侵
り、小児科と婦人科という診
族の世話から近所付き合い、
する絶対的な拒否になるので
療の違いもあるが、患者の不
さらに殆どの人がパートに出
色々な意味が近頃少しづ つ分
ある。
真面目な服薬、だらしない生
か ってきて、益々良いお言葉
ことに気が ついた。無論三十 害 だといわれる。イン フォー
活を叱 っていた父の大声を思
一部な のである。絶対安静を
ているし、遊ぶことも生活の
年 と いう 年月 の隔 た りも あ ムドコンセントも、こと生活
い出し た。 ﹁
ま た先生 に叱 ら
要 す るよ うな 重 症で ない 限 だと思 っている昨今である。
れ た﹂といいながら、通い続
けた患者を思い出す。今その
り、療養に専念できる婦人な
︵昭29 ・江戸川支部長︶
娘や嫁たちを診ているが、お
谷
三重支部長
頌春
神奈 川横 須賀三浦 支部長
︵昭 14 ︶
山
大阪支部長
平
秋
田
高知支部長
松
宇都宮
︵
昭13︶ 福 岡支部長
千
村
長崎支部長
中
︵
昭 20︶
村堯
中
熊本支部長
三 筈
大 分支部長
郎
和 歌 山 支 部 長 ︵昭 16 後 ︶
八
︵
昭23︶
雅
生
仁 木 偉 瑳夫
京滋奈支部長︵ 昭22︶ 佐賀支部 長
本
大 久保 正 道
神奈川湘南 支部長 ︵
昭 21︶
高 崎 信 三郎
神奈 川湘北支 部長 ︵
昭 22︶
清
兵庫支部長
児 玉
神奈 川西湘支部 長 ︵
昭 21︶
小
︵
昭15︶
岡
鳥取支部長
︵昭19 ︶
宮崎支 部長
田
原
鹿児島支部 長
沖縄支部長
小田原
︵
昭 24︶
幸
司
︵
昭 22︶
岩
雄
嶋
遠 藤 香 苗
︵
昭 26︶
田
桑
村
島根支部長
中
宏
︵
昭 20︶
一 義
一
︵昭 21︶
英
直
︵昭14 ︶
正
︵昭15 ︶
︵
昭 16 後 ︶
映
弼
︵
昭 19︶
大
︵昭 14︶
正
二
︵昭19 ︶
得
二
︵昭30︶
昭
関 野 順也
二
晋
洋
港 学術連絡委員 ︵昭 33︶
堀
︵昭24 ︶
地
北
︵昭 19︶
玉
山
専
広島 支部長
︵
昭14︶ 岡山支部長
一 朗
︵
昭 39 ︶
勝
治
道
隆
寺
山 近 勝 美
室
新潟支部長
川
水
富山支部長
清
石川支部長
岡
福井支部長
久津見
︵昭18 ︶
児
︵
昭20︶ 山 口支部 長
田
浩
司
保
生
︵昭18︶
渋谷 学術連絡委 員 ︵昭 18︶
徳島支部長
水 野 行 和
︵
昭 14︶
茂
田
新宿学 術連絡委 員 ︵
昭24 ︶
藤
︵
昭 22︶
深 沢 甲 子雄
斉
正
武
川
正
白
友 成
文京学術 連絡委貝 ︵昭20︶
隆
︵
大10︶
井
久
愛媛支部長
菅
︵
昭19︶ 香川支部長
彦
︵昭 16 前 ︶
冬
山韶
山梨支部長
許
塚
長野支部長
飯
田
岐阜 支部長
村
本
静岡支部長
柳
愛知支 部長
加 藤 敏 夫
頌
わ
ら
根 本 泰 昌
もすたれた。だが最近、ふる 深大寺管長はこの機会に寺の
馬
今年はウ マ年なのでわら馬
をとりあげてみた。むかし農 さ と復 活 運動 が おこ って き 記念品をつくろうとして、知
家では、神社の祭礼、初午、 て、 すげ 馬 ︵新潟︶、信州 わ 人の横山嘉市に相談をした。
蚕の種 つけ、お盆の精霊馬、
道祖神 への豊年祈願などの土
地の行事のときに、稲わらで
二十 センチ大のわら馬を つく
昭和 三十年 ごろから耕運機
り、色々な祈りを託した。
の時代 にな って農家 に馬がな
くなると共 に、わら馬の風習
まれた万葉歌をえらび浄書し
てさずけられた。
して母校から招宴を受け、心
昨年十月卒後五十年記念と
毎日や っていた。ある時青山 ら流れる讃美歌の美しさ等々
ル等に入れて、戦争ゴ ッコを 劇をや ったこと、オルガンか
火薬や癇癪丸、玩具のピ スト と、クリ スマス ・イブの子供
部 学長 の お祝 い の言 葉を 頂 善光寺の裏 から火事が出 て、 が 私の脳裏を横切る。
から感激をした。この際、阿
き、話が青山学院の事 に及び、 私の母から﹁火薬は火事の元﹂
赤駒を荒野 に放ち捕りかね
て 多摩 の横山徒歩ゆかやら
この時私は子供の頃を想い出
と説教され、私 の大切な紙火
るが、こう言う子供 の頃の環
曲などを趣味と してや ってい
ゼントであり、ある年貯金箱
い思い出はクリスマスのプレ
女学院 で洗礼を受けた。楽し
の日曜学校 に通い、姉は青山
のけで談笑し、私も青山学院
父は相当泥懇 で診療はそ っち
り、学長先生 のお父様と私の
ホバは我が牧者なり﹂を聞く
一つであり、あの有名な ﹁エ
してしま った当時 も思い出の
私は青山学院を受験し、棄権
く、その都度青山学院 の生徒
また当時青山 には火事が多
感謝する気持で 一杯である。
頂いた光景を思い出す。また、 と素晴しいものだと先ず神に
さん達が我が家に応援 に来て
︵
昭14 ・港支部長︶
康で迎える事が出来るとは何
を抱いて平成 二年の元日を健
う。小学生頃の楽しい想い出
境が 影 響さ れ てい る様 に 思
薬は水没の憂き目を 見、泣い
を頂いた。そしてこの箱に紙
当 時 私 は青 山六 丁 目に お てしま った事を 思い出す。
した。
現在 私は医芸 で管弦楽の編
む
横 山は丘陵 のこと で、また
嘉市の名字でもあ る。
徒歩︵
か
ち︶
を嘉市と読みかえている。
こののち嘉市が 木曽路 に移
り住んでから、深大寺境内 の
ら馬 ︵
諏訪︶、藁馬 ︵
桐原︶、 嘉市は子供のころ習い憶えた ﹁しぐれ茶屋﹂が嘉市 の馬を
カヤカ マウ マ ︵
茂原︶などの わら馬を寺のために苦心して もとにしてわら馬をつく り、
わら馬の復原をみるようにな 立派なものに作りあげた。こ 万葉歌の赤駒の防人の妻 が夫
った。また別に、観光土産と れを深大寺から売り出したと の出陣のときに馬の用意 がで
し て新作も つくられ、なかな ころ美事なわら馬として評判 きず徒歩 ︵とほ︶で行かして
か趣きのあるものもできた。 になった。当時の馬の鞍の布 しま った嘆きのうたを縁起と
花巻 の忍び駒
には ﹁深大寺﹂の寺印がおさ して、赤駒を売りだした。
昔から花巻温泉にある観音 れていた。
管長はたいそう喜び、多摩
さま は願 いごとをよく叶えて
願いのしかたは、わら馬を秘
と い う報 告を 聞 くこ とが あ あろう。この傾斜と平面の境 る。この第 一級の古墳には駿
泉 の患者が最も多か ったなど ている。根方はそこの名称で ら中頃のものと推定されてい
東西にあり、これは前方後円
塚 ・西求女塚が処女塚を中に
富士市救急医療協会の委員 いが美しい。根方街道は富士 八米の前方後方墳︶がある。 戸市東灘区にある処女塚で前
︵
昭19 ・大学参与︶
会 に出席していると、今月の 山の傾斜が正に終了して平地 昭和三二年に国の指定史蹟に 方後方墳である。菟原処女を
救急医療センター受診者は今 に移行したばかりの所を通 っ 認定された。五世紀の初頭か 求めた 二人の男の墓 ・東求女
かに供えて祈り、願 いの成就
の排水が入 ってきて、その透
した水は少し流れると、工場
浦港 へと流れてゆく。湧き出
いは田宿川に集 って、田子の
出した水は、和田川に、あ る
根方街道のあちこちに湧き
墳である。
道
今 泉 忠 芳
街
る。富士市にはどうして今泉 目には至る所に泉が湧き出て 河の女王が眠っているのでは
方
のときに美しく飾 ったわら馬
根
と い う地 名が あ るの かと 思
その昔旧東海道が通る以前
う。
は沼津から別の道が入 ってい
の 一体を奉納す る。この伝説
布の鞍をきらびや かにつけた
た。この道を根方街道と呼ぶ。
にもとついて、赤 ・黒 ・黄の
わら馬が街で売ら れている。
富士市今泉は根方街道の起点
根方街道の至る所に湧く泉
名も忍び駒というひびき のよ
の様に、様 々なイメージが絶
さと縁結びの ロマンによ って
根方街道のあたりは、いわ いる。富士山に浸み込んだ水 な いかと思う。私見によれば
明度を失う様である。
ば富士市のオールド ・タウン がここに姿を現わすのであ 前方後 円墳は男王の墳墓、前
でもあり終点でもあ った。
昭和 二十六年、深大寺公園
深大寺の赤駒
全国に有名にな った。
一首の 会を 開 くこ とも あ っ ガールフレンドを呼んだ。熱
中してゲームをや っている時
く れたので評判 であ った。お 丘陵と馬と嘉市の名のおりこ
出
い
いは豆タンのこともあ ったが ントラルヒーテ ィングも無か よか った。十才以上も年の離
﹁
子供は風の子
ったし、そんな贅沢は許され れた姉 の主催 である。大人に
﹂ということ
混 じ って奮戦するほうに関心
にな っていたから、普段のう なか ったのであろう。
なかにはタドンが 一つ、ある うが機能的である。戦前はセ
ったからそんなことどうでも
するのはお正月だけだ った。 で、部屋それ自身を暖めるほ づであるが当時の私は超若か
ないが、戦前はその恩恵に浴 入ると何も出来なくなるから なるから嬌声に満ちていたは
昔から炬燵はあ ったに違い 現在も殆ど入らない。炬燵に が聞こえたりした。大熱戦 に
か ったとしか言い様がない。 しく、ろうろうと歌を 詠む声
徴として出だすと途中で止ま
チビリとや ったが、女性の特
を開けるなと誰かがわめく。
子はなにやらモゾモゾしだし
けなくな った。そのうち女 の
う。そのため誰もトイレ へ行
ものだから戸を開けるなと い
はよか ったが、な にしろ寒 い
ついに限界を越えた彼女は、
ってしま った。
百 年の恋も水とともに去 っ
てしま ったそう である。そこ
で友人は、どんなに寒くても
戸はときど きは開けるべきだ
という教訓を得た。
︵
昭28 ・湘北学術連絡委員︶
味噌、麹など多岐であるが、
要はないのだが、日にちが た
入れている。芥子は入れる必
法は様々あり、酢、塩 、醤油、 本舗田丸屋では僅 かに芥 子を
奥の有東木に ﹁わさび﹂が栽
だ。その昔、今の静岡市安倍
伝とされるが、良質な ﹁わさ
法は業者により特徴があり秘
さび 漬であ るわけ で、﹁
わさ
子の量が少ないほど 良質なわ
ので入れると云う。入れる芥
つと ﹁わさび﹂の味が落ち る
出すと云う。静岡のわさび漬
﹁わさび
﹂の野生品種は全
国各地に見られるし、この頃
静岡では酒糟に漬ける。製造
培され ていて武田武士の薬草
び﹂と良質新鮮な酒糟でない
べたべたしたものは 一般に低
武 士 の秘 薬 とさ れ たよ うだ た、酒糟のよいものを見分 け、
い静菌 ・殺菌作用があり武田
品質 である。今頃はわさび漬
と美味しい物はできない。高
れる。有東木 から盗んだ人は
が、最近は塗料にその成分を
の美味しい頃、わさび漬なら
秘薬として珍重され門外不出
殺されたが ﹁
わさび﹂は今で
利用されるとか、大変な様変
ぬ ﹁
わさび﹂の芥子漬は正月
とされ ていたとか、この秘薬
は伊豆の名産 である。栽培品
わりであ る。わさび漬の善し
び﹂の味と芥 子の味を見分け、
種の原産地有 東木 でも現在な
悪しは好き嫌 いで決まるが、
︵昭27 ・静 岡学術連絡委員︶
には いただけない。
いわさび漬と安いのがある由
お優秀な ﹁わさび﹂を数多く
欧米人は殆ど食べられない。
縁 であ る。 ﹁
わ さび﹂に は強 芥子の味の出来るだけ少ない
産出しているが、何分 にも需
ち ょっと口にしただけ で吐き
れ、 日本全国 に広が ったとさ
要に追いつかず、わさび漬製
ものを賞味すべきであり、ま
造業者は各地の ﹁わさび﹂を
が或人 により伊豆に持ち出さ
買い求める。わさび漬の製造
は何処でも栽培が盛んだそう
である。富士市の文化財や天 る。今泉の地名は至る所に湧 方後方墳は女王の墳墓で、そ
が東京都指定公園にな った。
え
ず湧き出 て来る様な時が、
然記念物はすべて根方街道に き出る泉に由来しているので の理由は次のことによる。
私
の最も楽 しい時 である。
万葉集巻九 ・高橋連虫麿の
少なくとも正月にしかそのよ 昼で、 一月二日か三日の夜 に か った。友人 でやはりそのよ 沿 って点在している。この辺 あろう。
︵昭34 ・第三病院内科第2助
根方街道の中程、富士市神 ﹁菟原処女の墓を見る歌 ︵一 教授 ・富士市立中央病院 ︶
うな記憶がない。気温は今よ は近所の若い娘を招いて百人 うな会を開いて、日頃親しい り の民家は戦前に建てられた
家が多く残 っており、その佇 谷の高台に浅間古墳 ︵
東西九 八〇 九︶﹂ に相当す るのが 神
り低か ったらしいが特別寒い
正月は大人も用はやらない が い っていた。若い男のほう
とも思わなか った。大いに若 た。他の家でもや っているら
のうと入 っているわけにいか
たが、そのたびに寒いから扉
なか った。ま た、炬燵に入ろ から炬燵を囲んで家族でトラ は 招かなか ったようで、だか
重 樹
らな いので、 ついに洪水にな
燵
鴇 田
ンプを や ったりする。これは ら金色夜 又のようにはならな
うとも思わな か ったらし い。
炬
黄
鈴 木
益 人
福 地
炉辺談話
思
静 岡名産 わ さび漬
第422号
(
第 三 種 郵便 物 認可 )
聞
新
大
慈
平 成2年1月25日
(7)
隆
信
輝
一
五
山形内陸 学術連絡委員
︵昭26 ︶
信
山形荘内学 術連絡委員
︵昭22︶
澤
松 井 達 明
松
荒川学術連絡委 員
︵
昭 20︶
宣
美
昇
浩
邦
郎
岡
田
岡
野
弘
実
延 一郎
靖
一
功
神奈川西湘学術連絡委員
︵昭 23 ︶
坪 井 栄
神奈 川湘南学術 連絡委 員
︵昭 29 ︶
高 宮
神奈 川逗葉学術 連絡委員
︵昭 28 ︶
西
神奈川川崎学術連絡委員
︵昭28 ︶
田那村
千葉学術連絡 委員
︵昭 24 ︶
小 林 輝 夫
埼玉学術 連絡委員
︵昭27 ︶
高 島 正 敏
群馬学術連 絡委員
︵昭29 ︶
添
栃木学術連絡委 員
︵昭35︶
平 山 牧 彦
茨城学術連絡委 員
︵
昭 35︶
一
鈴 木 庄 三郎
儀 一郎
明
益
昭
秀
穴 沢 養
福島学術連絡 委員
︵昭2︶
井
田
崎
野
島
北 海道学術連絡委 員
︵昭 25専 ︶
田 中 穂 積
西多 摩学術連絡委 貝
︵
昭 42︶
平
南 多摩学術連絡委 員
︵
昭 33︶
荻 野
北多 摩学術連絡委 員
︵
昭 26︶
中 村
調布 学術 連絡 委員
︵昭33 ︶
岩
武蔵野学術連絡委員
︵
昭27︶
岸
江戸 川学術連絡委員
︵昭26専 ︶
本
葛飾 学術連絡委員
︵昭25専 ︶
高 田渙
足立学術連絡委員
︵昭 21︶
頌春
光太郎
台東浅草学術連絡委員
︵
昭20︶
大 澤
忠 行
台東下谷学術 連絡委員
︵
昭 24︶
森
嶋
墨田学術連絡委 員
︵
昭 26専 ︶
小
江東学術連絡委員
︵
昭 24︶
福 田 定 助
品川学術連絡委貝
︵昭 24︶
籾 木 茂 穂
大田学術連絡委員
︵昭 19︶
安 田 義 雄
目黒学術 連絡委員
︵昭26 ︶
青 木 茂 正
立
世田谷学術連絡委員
︵昭 32︶
足
進
杉並学 術連絡委員
︵昭 35︶
宮 本
中野学術連絡委 員
︵
昭 23︶
鍋
青森学術連 絡委員
︵昭40 ︶
川 勝 稔 雄
豊島 練馬学術連絡委 員
︵
昭 22︶
斎 藤 文 彦
富山学術連絡 委員
︵昭37︶
一 朗
鈴 木 鍾 美
高 橋
一郎
石川学術連絡委員
︵昭 38 ︶
大 木 陽 太郎
明
宮城学術連 絡委員
︵昭36 ︶
岩手学術連 絡委員
︵昭25 ︶
田
︵昭 21 ︶
西 野 哲 夫
板橋学術連絡委 員
︵
昭 25専︶
島
北学術連絡委 員
山 形 成 徳
加 藤 俊 治
頌
雅 生
五 十 年 前 の思 い出
幻 の五十回 忌
平 山
適切な指示があり、てきぱき
たが 、普段は元気で何事にも
これと気にし、﹁
どうしたの﹂ 刺 され たよう に、ドキ ッとし
誰でも歳をとる。そして老
ますと 、暫くすると皮膚呼吸
りして よ。
﹂と の言葉 を、不
が出 来な く なる 程苦 しく な い、自分の意志にかかわらず
老 いたるよ、若き日ごと、聡
と言 っているにちがいない。 て我 にかえる 。病床の母に何
﹁子よ、母を呵るな、母は 度 かはげます意味 で ﹁
し っか
ボケてくる。その訪れが早 い と処理し、五人の子供を育て
り、熱 のため馬肉の蒸し焼き
か遅いかは、
その人の生き方、 た 母とし て、開業医の妻とし
のようになります。鯉の生血
るのか、少し情けなくいろい
当に生き方が映し出され てい
こんな母を看 ていると、本
用意 になげかけていた。
老 いとボ ケ
て、祖母を世話するという大
くはなきよ﹂
昨年、私は母を亡くした。
反映されるのだという。
生活状況、真剣な態度などに
助 かると先生に いわれた父
にも弱りました。
は帰阪しまし たが、私は母を
ろと話しかけ たのだが間違 っ
訪ずれる。そ の時の覚悟が出
ていたのだ。
来ている人はどれ程であろう
支那事変が不拡大から泥沼 で私の人生もきまり、このこ 日間程高熱があ ったらしい 独占しました 。五人の弟妹を 七十二歳であ った。逝くま で
に入り、険悪な時勢になりつ とが私の人生を大きく変えて が、体温計もなくとうとう下 女中にまかせ、母は栄養にと の数週間の母は、若き日の私
つあ った昭和十四年の春でし くれたのです。
宿で苦しくなり、隣りの菊地 気を つけてくれ、また寝床の のイメージの中 の母ではなか
先生に受診しました。久ケ原 上に坐 る練習、立 つ練習、ト った。肝硬変が ベー スにはあ
ったが、徐々 に身の廻りのこ
の予科正面通りで、美人の獨
イ
レ
ま
で
の
伝
い
歩
き
が
は
じ
ま
逸人の奥様がよく犬の散歩を りまし た。栄養が つきすぎて とが できなくな って、多分意 家族を 一人 で八面六腎の活躍
あ
る雑誌でみた歌である。
させていました。先生は私の パンツを汚し内緒で洗うのに 味 のあることを喋 っているの で、しかしあまり表に出ずに
痛いほど自分の身体が思う
だ ろうが、私達には脈絡のな き り もり し てい たよ う に思 ように動かない腑甲斐なさを
紀 正
う。い つも心配ばかりかけ っ 悲しんでいる母親の姿と心が
か。 (昭41 ・第 一外科講師)
岡 部
年 の暮も迫り、帰阪の許し いことが多いように思えた。
ぱなし で、黄泉の国でもあれ 伝わってくる。私は胸に針を
が出 て、十 二月 二七日に夜行
寝台 で母とい っし ょに帰りま
て作成し 一応の作品が出来る ルの間違い、複写しようとし
連続で、や っと自分で企画し の違い であ ったり、チ ャンネ
の場合もこの 一年間は失敗の る。AM(午前)とPM (
午後)
誰 にでも老 いと死は確実に
今 、気ずい ても遅い。
った。
そう ﹁
聡くはなきよ﹂であ
二度の開腹術を受けてはい
た。
頑張りと無謀に驚かれ、チフ 大弱りしたものです。
平成 元年 の十大事件の中に
新し い機械の出現は常に改
ようにな った。機械は正直 で て どう や って も映 像 がで な
した。生まれ て初めての寝台
車 でそれも母が上で私が下段 必 らず Mのビデオの問題が出
良された物であり、価格も安
スかも知れぬが恐らく肺炎だ
ろうから明日から往診するか
ら絶対安静だと宣言をされま
した。
当時肺炎と聞いただけで顔
先輩達は背の高いのが入 って
くなる ので、その買う時期を
空 っ風、それに炭のな い火鉢 ああ私は死ぬかも知れぬと、
あ ったでし ょう。それから現
行 っていたら多分五十回忌で の で、ビデオがそれに変 った
年になります。もし北海道に
8 ミ リビ デ オ
い、自分の間違いを機械の故
障と思 って恥をかいたり、半
日近くもいじくりまわし てし
ま ったり、そんな時 には最初
からやり直し てみるか、少し
休んで頭の方 の切り換えをや
や っており、年齢的な限界か
高 橋 千 晃
抱強く待 ってみたが去年とう
と 不安を感じている。おかし う もこ の8ミリビデオは私の
った方が良い事が多い。
ィル ムより テープが安いから
とう購入してしま った。
(昭20 ・大阪支部長) 影機を使用する事は、私の年
予約 取 りを す る事 さえ 面倒 の影響か、良い医学番組を予 のためにも欠かせない物とな
機械に弱い人は、ビデオの たドジは 二十四時間的な教育 老後の趣味として、頭の運動
色々な事を経験したが、ど
と い って、あの重い大きな撮
のを気づ いた。しかし8ミリ
い、配線やスイ ッチの入れ違
てく るだ ろう。そんな時に﹁
ビ
で風邪を引きました。火鉢を 涙を隠したものです。父は薬
あり今でもつまらないドジを
でした。母は命をとりとめた
買い灰も入れて、さて炭はと 局で 一服五円だと高価な薬を
在迄健康で働いています。全 ビデオ になるまではいくらフ
決めることはむずかしく、辛
きたと大喜びでした。運動 場 色を変える時代でしたので、
いうと8 ミリ映画の事を意味
少し前ま では ﹁
8ミリ﹂と
で輝くように美しい三九才の な い気もするのだが⋮
この昔話を語り合う父母は
いうと私など学生には入手 困 買い、母は不案内な蒲田の市
ミリ映画の趣味を持 っていた
難で、何とかする才 覚も 闇物 場まで毎日馬肉と鯉の生血を
ぶ って勉強していました 。三 部を桜色した馬肉で包み込み
に踏切 ったFは、突然推薦に
受験本番あけくれの孫五
明治 ・大正 ・昭和 ・平成と
くら替えしたこの友人にも 一 人、嘗て筆者の長男が、国立 巡り、今年は 一入感概無量の
言の愚痴もこぼさず、信義を 医学部入試の際吐いた言葉。 ものがある。現在の若人を見
﹁この講堂の受験生の中で るに つけ自分の学生時代を思
云々することなく 、孤軍奮闘
の背水の陣を敷 いた。私は彼 数名の合格者しか出ないのだ い出し、大方の諸兄には理解
を骨のある立派な 男だと 見直 よ。自分以外は全部敵と思わ し難い事とは思うが、年寄の
した。国立大学医学部進学を なくては。生易しい気持でい 冷水とでも見てほしい。
思
い
出
菅 井 久 隆
生 に菓子を山盛りテーブルに た同級生と語り学長及諸々の
長は父兼寛閣下の銅像前の芝 を些か己惚れ残り少なくな っ
居坂 の邸宅 へ押しかけた。学 として世に処して行かれる事
へよく押しかけたものだ。思
い出はつきない。研修時代随
分と思師を困らせたものだが
年を経て現在、国を治せざる
も名医とならず良医の端くれ
八幡川面凡児先生)を納め帰 と親許 へ無心した所、馬は田
等ー
教えられた。
京の夕、精養軒に招待せられ 舎 から送るとの返事が大学の
木枯の頃芝の鋤焼屋で柔道
高木御 一家も参列された。席 耳 に入り、兼寛学長は中隊を 部の忘年会を催すに当り、加
上ある学生が密かにビールを 召集。大目玉を頂戴。
藤義雄 (第 一内科部長)部長
頼んだ時、学長は何も言わな
喜寛学長にな って或日、予 に案内する。会費五十銭。先
いで給仕に本校の学生は酒を 約し てアルバム委員数名が鳥 生他用で欠席されしが、五円
札を頂き 一同しめしめ。
其他諸用を作って教授の処
て、塾に通っている小学五年 同じくし、同じく推薦が決ま である。五名は正に受験戦線 いも のであり、8ミリビデオ で、子供さんや奥さんに頼む 約した つもりが、再生してみ ってしまいそうだ。(昭和28 ・
のC児。名門高校にいながら りながら T大を志した唯 一好 上にあって生涯を託する大学 の 出 現を 心待 ち に待 ってい 人も少なくないと思うが、私 ると テ レビ 体操 が映 ってい 中央支部長)
父親出身のT大以外を考え 個 の友人があ った。推薦辞退 入学を夢みている。
齢とし てはと ても耐えられな
資もなく、頭からマントをか 買いに行ってくれました。胸 でし ょう。
く人生 って何て素晴しいもの
父母の顔を見た時、 既になく、丁度半世紀、五十 し ていた。私も若い頃から8
京の寒さと予科の赤土混り の かけられ、
も馴れた 二学期の終り頃 、東 してくれました。酸素吸入が
どうやら東京の予科生活 に 母が炭俵を 一
俵かついで上京 女性でありました。
を抱えて練習に励みま した。 阪に電話したらしく、翌日父
の隅みの コートで、毎日空腹 驚いた下宿の女主人は早速大 長男を連れて帰阪できる喜び デオ﹂と いう言葉を用いたく
勧誘で入部しました。その時
父が久ケ原に下宿を深して
た。予科合格通知と、また北
大予科補欠入学許可の官報も くれ、また日本橋 "西川"で
入手し、どちらに行くべきか 布団を買 ってくれました。こ
迷い、父が阪大出の若手の医 の布団がこれからの主題の伏
師に相談したところ、慈大な 線となる程の代物で、 一学期
ら私学日本 一で北海道の田舎 で団子のようになりました。
せ瘠
ていましたが 一八〇セン
より大都会の方が医学の勉強
によいのではないかとのこと チの長身だ ったので籠球 部の
受験戦線上にいる。強引に進
学塾に入れられ、幼児期の遊
びたい盛りの時間を奪われ
ず、入学プランに熱中してい
るD少年。母親の医業を継ぐ
七人の孫を持つ筆者。最年 可き宿命を感じてか、県立の
名門高校に入学し医大進学を
志す寡黙頑健のE女。某有名
私大の無試験推薦入学が決定
したF少年。山男の彼には愚
長のA女は、アメリカのカレ
ッジに留学中。B男は国立大
学医学部合格を蹴 って、至近
の大学に挑戦しようとした
が、国立大学の評価を云々す
る愚を諭された。他の五名は
炉辺談話
七 人 の 孫 ・受 験 戦 線
出し、志満子夫人のサービス 思師の御薫陶を偲び墓前に脆
(
大10 ・愛媛支部長)
でコー ヒーを頂き、学長自ら き精 一
杯の感謝を捧げます。
まり白金の鍋と馬を買うから 範を示され、自然の中に マナ
﹂ 思師に甘える事も慈恵イズ
痴と弱音がなかった。負けじ 志し、続いて失敗したG少年。 られる筈がないじゃないか。
私は現在、国私立大学各学 ムであり、又生涯教育の 一端
魂と、登頂精神の横溢のみが 彼は世話ずきで人好きのする
彼の身上であり、高二からの 好青年 であ った。今年こそは 部の入学希望がどの位充足さ でもある。酷しい許りではな
二十四時はT大入学準備のた 彼 の出番になると信じて疑わ れているか知らない。
現実は、 く、他校に見られぬ慈恵の精
めにのみ存在した。Fと志を な い。以上が七人の孫の寸描 希望に近い入学者が出なけれ 神がある。学祖高木兼寛閣下
ば、受験という人生に課せら は集団 (学生は総て大隊 ・中
れた重荷を降すことが出来ず 隊 ・小隊に編成されていた) 飲ませないのだからと丁度参
列していた新聞記者にすす
め、その席は無事済んだ。流
石海軍式外交と感服した。
学生の中に細菌の実習が始
平 井 静 夫
永い冬は終らないのだ。先ず に対してはとても酷しい躾で
身内の孫の五人に栄冠をと願 あ ったが、分隊 (五、六人)
うのは老いさらばえたじじば や個人に対しては順次軟化し
ばの勝手な欣求なのであろう 全く慈父の如きであ った。且
か?
(昭9・
我孫子市) てっ
片瀬海岸に正月禊 (宇佐
川
繁
保
益
明
寛
人
下
徹
徳島 学術連絡委 員
(
昭 32)
木
川
省
香 川学 術連絡委員
(昭 35)
今
清
人
愛媛学術 連絡 委員
(昭23 )
丹
森
沢
弘
高 知学術連絡委 員
(
昭 37)
頌春
次
福井学術連絡委 員
(昭23)
安
田
山梨学術連絡委貝
(
昭 26)
長
川
長野学術 連絡委貝
(昭25専 )
平
地
静岡学術連絡委 員
(昭27)
福
東
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雄
加
納
和
雄
山
義
雄
父兄会常任幹事 (昭30 )
森
岡
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一
父兄会常任幹事 (
昭 39)
村
竹
将
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父兄会常任幹事 (
昭 37)
上
本
昇
父兄会常任幹事 (昭 27)
山
父兄会常任幹事 (昭34)
有 廣 忠 雅
柴
孝
也
愛知学術連絡委員
福 岡学術連絡委貝
父兄会常任幹事 (
昭42)
(
昭19)
(昭 25専 )
伊
橋
浩
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五十 嵐 信
隆
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孝
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三
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寺
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大
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熊本学術連絡委 員
(
昭 22)
永 田 忠 寿
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大分学術連絡委 員
(
昭 23)
御 手洗 東
森
山
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春
真
鹿児島 学術連絡委員
(昭 23)
高 岡
(昭37)
章
(昭 35)
澤
父兄会副会長
岩
父兄会 副会 長
塩 塚 幸 彦
山
慈大新聞
純
編 集 局
男
一同
編 集 委 員 一同
慈大新聞
井 上 荘 一郎
学生会委員長
佐 々木 宏 明
父兄会常任幹事 (
昭28)
野 木 村 友 一郎
父兄会常任幹事 (
昭25専)
丸
父兄会常任幹事 (
昭27)
井 上 荘 三郎
一
京滋奈学術連絡委員
佐賀学 術連絡委員
父兄会常任幹事 (
昭27)
(
昭2
4)
(昭 20)
高
崎
兵庫学術連絡委貝
長崎学術連絡 委員
父兄会常任幹事
(昭32 )
(
昭37)
鶴
田
和歌山学術連絡 委員
(
昭 26)
福
良
鳥 取学術連絡委員
(
昭 24専 )
岸
村
島 根学術連絡委員
宮崎学術連絡委員
(昭 41)
(
昭16後)
木
本
岡山学術連絡 委貝
(昭29)
橋
尾
広島 学術連絡委員
(昭25専 )
山
公
山 口学術連絡委員
(
昭 24)
高 本
頌
炉辺談話
(8)
平 成2年1月25日
聞
新
大
慈
(第三 種 郵 便 物 認 可)
第422号
あ るいは麻薬常習者の注射針 疫能が低下するといわれてい たT細胞数が減少している病
る。AIDSはHIVが輸血
このような機会を与えていた
意を含めて発表した。最後 に
た結果をもとにして、報告 の
DS研究に関わり実際調べ得
長英
吉 和画
慈恵狂一代︵2︶
三浦
南雲
予科三年の七月、この夏休みのバイトは何をしようか
それぞれの舟で運びこんだ魚介類を、競場 (
せりば)に
た。出席者は左の通り。
日は徳島市中徳島町の新聞放
大櫛弘篤 (
昭44)松島興夫 (
昭
午前四時半に、横浜卸売市場 の魚市場に行く。漁師が
うところ で、﹁キ ャンデ ー屋!﹂と声が掛か り、キ ャン
当時、小豆は元値 三円五十鏡 で五円売り。メ ロン ・ス
デーは飛ぶように売れた。
ト ロベ リー ・カル ピス等 は元が 三円で五 円売りだ った
が、よく売れたのは小 豆だ った。利は薄いが、朝は九割
方小豆を仕入れ四十分 足らず で完売。急ぎ仕入屋にと っ
て返しまた満杯。今度 は青果市場 へ行く。郊外の農民が
大八車を曳いて集ま ってくる。野菜を競場に降ろして汗
東 京 ・文 京 ・本 郷
振 替 東 京7-96693
主要内容
れるべき分野であ る。等々米
である CD4タンパク (膜タ のみを集めて抗原認識能を調 の数は非常に少なく、HIV
八万人がAIDSにて死亡し 等 から 体内 に浸入し、受容体 るが、実際に患者よりT細胞 期でも実際感染している細胞
だいた感染症研究会の皆様に
国での 二年間の留学中、 AI
ンパク)を通して感染する。 べてみたところ、細胞数の減 そのものにより細胞が死滅す
(
46 )
ている。癌死を追越す いきお
その後、種々の免疾不全状態 少による免疫能低下はともか るとは考えられずいまだ不明
最 近 の学内 カ ン フ ァレンス から
集めている感染症の 一つであ
いである。AIDSは 一九八
が、いまだそ の治療法は見い 等の日和見感染、あるいはカ 認識能は、感染早期では低下
出 されていな いのが現状であ ボジ肉腫等で死亡する。従来 しておらず、発病してから低
HIV感染初期より細胞性免 下することが確められた。ま
る。特にアメリカ、フランス
〇 年代に同性愛者 の間 で、免
感 謝の 意を 表 する 次第 で あ
で患者数が急増している。日
る。
疫 不全状態がおこるとの報告
を引き起こし、カリー 二肺炎 く、細胞そのものが持つ抗原 なところである。今後解明さ
本においても増加傾向にある
﹁エイ ズ 患 者 の免 疫 能 に つ いて﹂
第二四回学内感染症研究会
が去る十二月十三日、西講堂
で行われた。今回は第 一外科
学の池内健二助手による左記
どんどん積み上げる。荷揚げが全部終 ってさて 一服とい
自転車屋で ﹁山口の経済3号﹂と いう自転車を注文。
と迷 った揚旬、アイ スキ ャンデーを売ることにした。
学的なよりどころとなる体力 了後、同窓会員との懇談会を
生 活 に影 響を 与 えそ うで あ
IV ト レト ロウ イル ス であ る。
日本体力医学会の第 二十四
医学 への期待は益々高ま って 別室 で和気藹々のうちに行 っ
原因が解明された。それはH
がさ れた後、 三∼四年でその
が、日本では患者全体数が少
る。か つてこれほどまでに早
方の参加も多か ったが、最高
回四国地方会が十 二月 二日か
第 一外科 池内健 二
の話題が発表され、活発な討
ないため、まだなじめない疾
齢者は昭八卒の寺田先生であ
ら 二日間の日程 で始まり、 二 いくだろう﹂と述べた。
恵ならではのなごやかな雰囲
四年日本体力医学会発足時か
46)門家純 一 (
昭50)吉川照
欧米で発展したスポー ツ医学
タイヤを荷車用の太いものに、荷台も大きいのにして貰
った。満載すると十 二貫 (
48㎏)の冷凍ケースが運べた。
論がなされた。要旨は次の如
患かもしれない。しかしアメ く原因究明がなされた疾患は
った。講演後の懇親会では 、
名取 理事長御 来徳
くである。
リカにおいては 一九八七年に 無い。だが確かにAIDS研
仏教の話が飛び出すなど、慈
徳島 支部 で懇 親会 開 く
AIDS (
後天性免疫不全
約 四万人、 一九八八年には約 究 は大 変 進歩 し てき てい る
気の中でおこなわれた。次 回 送 会館で、体力 ・スポーツ医
ら理事に就任 しており、世界
集まるもの 二十 二名で若い
症候群)は、現在最も注目を
授による ﹁腎炎−ネ フローゼ
学関係者や医師、教師など約
に、人体 の形態や機能研究と
藤 田茂(昭18)
木下徹(昭32)
の治療の進歩﹂と題し て学術
は水戸で開催の予定である。
31)平山 牧彦(昭35)
山中章(昭
精神面を加味し て、日本で初
名 取名誉会長は、昭和 二十
講演が行われ、基礎的なこと
雄 (準)
。
39)石川清人 (昭42)園部昌
(
藤 田記)
的にもこの分 野の第 一人者で
同会当番会長 ・小川新吉鳴
野恒男 (昭11)加藤正 (
昭14) けた。
百人が、名 取禮 二体力医学会
門教育大学教授 (
昭20)のあ
当日の参加者は、寺田義雄
石川寿彦 (昭15)大森正吉 (昭
から最近のトピ ック スに至る
なかなか説得力 のある講演で
16前)宮本貴文 (昭22)本橋
ある。名取会長の特別講演終
尿沈検査中 の赤血球の変形の
寛 (
昭22)丸山泰 一 (昭24)
(
昭8)小原芳郎 (昭11)大 名 誉会長の特別講演に耳を傾
仕方で病変 の部位が推定し得
迄、興味 深いお話を伺 った。
ること、尿蛋白 一日量の新し
いさつの後、名 取名誉会長が
﹁体力医学の生 い立ち
﹂と題
して講演された。体力医学は
た。とりわけネ フローゼの治
彦 (
昭43)大平征 二 (昭44)
ひと休みしてから、天王町駅前の南京袋工場 の十時から
国立病院医療セ ンター消化器内科
い計測法 、ステロイドパル ス 青木力雄 (昭27)安達芳雄 (昭
療に高蛋白食は悪く、低蛋白
十五分間の休憩時間を目指す。残りはチリ ンチリ ンと鈴
を鳴らし乍ら売り歩く。空 (から)にな ったらまた仕入
れ て、今度はビール工場通用門に三時到着 。十五分 の休
み時間で八割方売り、少し街を流して四時半頃また仕入
東京都 済生会 中央病院内科医長
27)湯原昭(昭28)
川田道弥(昭
食 のほうが 予後がいいこと、
宮本滋 (昭46)鈴木守 (
昭48) めて確立 された領域であるこ
振り返 った上 で ﹁二十 一世紀
に向けて、スポーツ振興の科
れる。夕方の街を流して完売すると 一日が終 る。祭や縁
四十日間この連続で、自転車代は三日で払 ったし、 二
この時の自転車は、今でも ﹁青春 の友﹂とし て大切に
学期のバイトが大変楽にな った。
保存している。
東京 大学教授 ・第三 内科
療 法など 、会員に感銘を与え
更に蛋白 の摂りすぎは、高齢
佐藤哲夫 (昭51)梅里義博 (昭
となど、これま でのあゆみを
者 の糸球体硬化を促進すると
54)
(平山記)
の知見は、明日からの診療に
役立 つだけでなく、会員の食
で、昭和五年十二月に第 一回
の会が開催され、今日まで大
きく発展し、昨年は四百回を
迎え、記念大会と記念行事が
日のある時はもう 一度仕入れて、夜八時頃終り明日に備
三十分足らず で完売。今度はゆ っくり帰 って三回目の仕
行われ、四百回記念号が慈眼
会報第二十六号として発行さ
れた。
教室の方針としては、医局
だらけ で 一服、という所で ﹁キ ャンデー﹂と声が掛かり、
以下臨床、研究、教育、学会 た研究班に加え、視覚生理、 い知識の習得と診療面での反
入れ。小豆は少なめにする。そこから自宅に戻り朝食、
に忙しい日々を送 っている。 眼運動系、電気生理、視神経、 省点について討論するととも 員が眼科学の発展のための研
えて帰り、自転車の手入れをす るのである。
覚、斜視弱視、
緑内障、糖尿病 、 教室 の記念すべき百年祭を迎 会という慈大眼科先輩の先生 療では患者のための眼科であ
硝 子体 、網膜、ぶどう膜、 コ える事となり、現在行事を企 方を含む会の会員により支え るよう努力することを掲げて
(河合 記︶
ンタク トレ ンズ外来と幅広い 画中である。現有医局員数は られている。現在、慈眼会の いる。
外来を行 っており、神経、視 班が存在する。来年は眼科学 行 っている。眼科医局は慈眼 雰囲気を維持することと、診
眼科学 教室
臨床面 におい ては多くの特殊 生化学、眼循環、病理、形態 に学生教育に対しても努力を 究が自由に行うことのできる
教室の横顔
慈恵の眼科学の講義は、明 らに、 一昨年は当教室主催に 診療活動の下に多くの患者 に 六十名を 超え、本院、第三病 学会は専門医制度に認定され
治十四年五月成医会講習所の て日本臨床眼科学会を開催 対し専門的な検査 ・治療を行 院、青戸病院 、柏病院の他に ており、公的な発表機関であ
設立と同時に始められた。本 し、国内外の著名な専門家を っており、国際的に高いレベ 大学関連病院等 の出張病院は り、
会報の発行を行っている。
教室は明治二四年に宮下俊吉 多く招待するとともに、学会 ルと評価されている。また 、 十病院ある。毎週、医局会と 慈眼会は、もともと教室の図
初代教授が就任され、
日高昂、 出席者は四千名を超えた。そ 研究活動も幅広く活発に行わ その中での抄読、クリ ニカル 書を購入して研究を相互に援
村上俊泰、大橋孝平、舩橋知 ういう環境の下で、松崎教授 れており、特殊外来に対応し カンフ ァレンスを行い、新し 助する目的で出来た互助会
也教授と受け継がれ、現在は
松崎浩教授が主任教授であ
る。舩橋知也教授は眼病理学
を専門とし、視器生体染色を
重要研究テーマとし、そのテ
ーマに沿って特別講演を行 っ
た。松崎浩教授は神経眼科学
を専門とし、その中で視神経
を重要研究テーマとし、視神
経障害について、とくに外傷
性視神経症を含め、宿題報告
と特別講演を行った。松崎浩
教授は現在までに日本神経眼
科学を二回主催している。さ
定 価4,120円(税 込) 〒300
1990
頁912
●B6
虎の 門病院循環器セ ンター内科部長
関
顕
松枝 啓
三井記念病 院内分泌代謝科部長
編集
菊池方利
北原光夫
国立 病院医療 センター院長
織田敏次
高久史麿
秋晴れの土浦市で、去る十 誉会長が病気をされたが、今
一月十八日(茨
土城
)支部総会が は大分お元気になられたとの
土浦第 一ホテルで行われた。 ことで、支部よりお見舞を差
湯原昭幹事司会のもと、大 し上げたい旨を会計担当の青
森正吉支部長の挨拶で総会が 木力雄幹事から提案され、全
始まった。大学の近況報告の 員 一致で承認した。
後、郷土の先輩である大平名
その後第二内科の酒井紀教
同 窓会・同門会予 告
神奈川湘南支部同窓会
日時 2 月24日(土)
3p
・
00
.∼
m.町田豊平教授
7・
00
(泌尿器科)
﹁尿からみる身体異常﹂
場所 平塚農協ビル (JR
平塚駅南口前)
世
話
人
代表
学術講演
支部長 高崎信三郎
抗 ウイルス薬
寄 生虫 ・原 虫用薬
化 学療法剤
抗癌 剤
眼 科用薬
耳鼻 咽喉科用 薬
口腔 用薬
泌尿 器(生 殖 器)用 薬
痔 治療薬
皮膚 外用薬
酵素 製剤
生物 学的製剤
麻薬
麻酔 薬
その 他の治療 薬
漢方 薬
補遺
重要 疾患の処 方例
マニュアル
酒井教授 をお招 きして
解熱 ・
鎮痛 ・抗炎症 薬(非
ステ ロイ ド系)
痛風 ・高 尿酸血 症治療薬
精神科用 薬
神経科用 薬
ア レルギ ー性疾 患治療薬
循 環器用 薬
呼吸器用 薬
消化器用 薬
糖 尿病用 薬
ホルモ ン製剤
ビタミ ン製剤
造 血と血 液凝固関 係製剤
輸 液 ・栄養 ・電解 質製剤
灌流用剤
中毒治療薬
抗 生物質
抗 真菌薬
新刊 監修
■本書の特色
用量・
用 法は大
1 活字。見や すい2色 刷 り。
"付録"に重 要疾 患の 〈処方 例〉を
2
。
主 要な 市販薬 を網羅 。臨床 に有用3な分類で 。
〈
適 応症〉〈禁 忌〉〈
慎重 投 与〉〈相互 作用 〉〈
副4
作用 〉は添 付文書 の全 データ を収 録。
〈注意事項 〉も重 要な もの は,もれ5
な く記載。
〈
注 射剤〉の用 法は,調 整 法な どまで含 め詳6
述。
7血
中濃度 ・代謝 ・排 泄な どの体内 動態値 も
記載。
各8
薬効別 に 〈
選 び方 ・使い方 〉の指 針 とな る
実用 的な解 説を つけた。
治療薬
茨城支部総会開かる
医学書院
医師・
薬剤 師 ・
看護婦のための“
くすり"のデータブック
豊 富な 情報をコンパクトに収載!!
第422号
(第三 種 郵 便 物 認 可)
聞
新
大
慈
平 成2年1月25日
(9)
︵
昭 二 十 一年 、千 鳥 会
沖 縄 に 開く
を癒すには十分な景観であ っ
南国の海を象徴し、旅の疲れ
灯が美しく映 え、われわれを
んだ。
を強くし、空港 への旅を楽し
翌日の沖縄 南部 の戦跡巡り
土井、三村、河井、酒井、同
小坂、渡辺、土屋、高 橋 ︵敬︶
、
森 教授の御講演は ﹁
高齢者
う 一期支部長を続 けられるこ
とにな った。
にみられる精神症状とその対
慈恵俳壇
策﹂ という演題で、う つ症状
長岡 青柳薫也
を中心 にし て実際的な面でも 雪原に電柱続き吹雪けり
大変有意義な内容 であ った。 初鏡中風いよいよ呆けの顔
高齢者 の多い岡山県では直ち 去年今年なく関門の船灯
に役 に立 つと出席者 一同深く
感銘し た。
岩国 村井 一露
一昨 年秋 に岡山市 で中国四 四方枯れて鳰の湖鏡なす
国ブ ロック同窓会の発足会を 百千の墓に大寒いたりけり
開いてから初め ての総会であ 寒菊にまたたきしげき雨後の
ったが 、隣県兵庫県姫路市よ 燭
り八家会長並びに鶴崎隆 一兵
庫支部学術連絡委員の御臨席
た。
を得 て盛り上が った会にな っ
南雲今朝雄
南雲 吉和
坪田 修三
赤羽 紀武
医薬 品を通 じみ なさ まに ご奉 仕 す る スズケ ングル ー プ
ト地の発展は目を瞠るものが
あ った。豊かな マリン施設を
持 つラ マダ ・ルネ ッサンスリ
ゾートは、思い出に残る夜と
に誓い合 った。那覇随 一の景
た。楽園とはかくものぞと感
な った。
恩納村山田の入江は、
勝の地にあ るホテルの窓から
た。総勢 三十名、この中には
は、東支那海を バ ックに街の
平成元年度、千鳥 会は部坂
れ までの千鳥会幹事は、毎年
正弘君の御世話で沖縄二泊 三 八 組のカ ップルがあ った。こ
生憎の雨であ ったが、沖縄 御 夫 人 同伴 を熱 望し て きた
平和通の二次会に誘 い出させ
日の遠出とな った。
グランド ・キ ャッスルは、わ が 、今回ほどそ の目的を達し
当日の参加者は、菱田、安
会は富士の間で部 坂君の開会 や かさと華やかさ で盛りあが
は、か つての激戦をしのび、
夫人、高田、同夫人、部坂、
井、小川、百瀬、同夫人、上沼、
った。酔 うほど に、それぞれ
心深く涙した。沖縄 は訪れる
同夫人、
丸毛、同夫人、
宇部宮、
た。
挨拶で幕を開けた。会 の初め
度毎に開発 の手が延び驚かさ
たことはなく、会は 一段と和
に、今夏病没の故稲葉博君 の の語るスピーチには卒業 四+
れ、市街地の交通量 は、沖縄
れら 一同を迎えてく れ、千鳥
霊に黙祷を捧げ、続 いて慶事 余 年の重みと共 に、まだまだ
︵酒井記︶
人の時間感覚を変 えたとも い 同夫人、森久保、同夫 人。
う。
就中、海洋博以来 のリゾー
当 日は他に多くの会合があ
った ので出席者は多くはなか
︵
昭29︶も倉敷市で昭和 二十
った。橋本浩倉敷市医師会長
九卒のクラ ス会を主催された
飯岡
薫
岩澤
章
伊坪喜八郎
内田
豊
笑 顔 の集 ま る
舞 台 で す。
おふた り ら し さで 彩 る ご婚 礼 を は じめ、
ゼミや サ ークルのお集 ま り、
同 窓 会 や クラス会 、
記念 のパーティ、ご会 食 な ど 。
心に残る、印 象 的 な 舞 台 づく り を
お手 伝 いさせていた だき ま す。
帝 国 ホ テル
報告 に は渡 部泰 和 君の 平和 青 春 の 意気 が ただ よ ってい
た。お互いに健康を祝し、明
去る十 一月十 一日 ︵
土︶に
とり、翌日は倉敷の美しい街 を 開催した。
昨年十 一月十 一日、我々昭 は山村幹事の御配慮で個室に 母校より精神科の森温理教授
二十 九卒 ク ラ スの 面々は 当 していただき、充分に睡眠を を 迎えて総会ならびに講演会
並散策と大原美術館をゆ っく
始めるにあたり、本年度逝
地、倉敷市医師会長、橋本浩
去された会員平野茂武︵
大14︶ ので欠席された。
藤 ︵昭30 ︶吉岡︵昭48︶杉山︵昭
の霊に黙祷を捧げた。総会の
︵赤司記︶ 決議として、北山宏先生がも
佐藤泰 雄の諸 兄であ る。
その他の出席者は、名倉 、 美甘守︵昭10︶
当日 の出席者は、赤木 ︵昭
坪田立也︵昭13︶
小林、榎本、磯 貝、根本、山田、 森棟隆幸 ︵
昭16前︶の諸先生 16後︶鴨井 ︵
昭17︶杉生 ︵
昭21︶
北山 ︵
昭24︶小川 ︵
昭26︶斎
り観賞して帰路についた 。
兄 設営 の岡山に出かけた。
出席者は十人と 一寸寂しか
ったが、会場のせとうち児島
ホテルは部屋からあの素晴ら
しい瀬 戸大橋が満喫できて、
夜 更ま で歓談した。そのあと
大畠
嚢
川田 忠良
貴島 政邑
黒坂 公正
嶋田甚五郎
鈴木
敬
弓雄
恒良
厚徳
益人
博
盛雄
田中 直樹
高橋 恒夫
鳥海
純
戸澤満智子
名倉
新津
額賀
福地
益子
渡辺
野木村 健
〒100 東 京都千代田区内幸町1-1-1
賞、並びに上岡輝方 君の日本
医師 会 最高 優功 賞 受賞 に対 日 への希望と充実を無音 の中
し、 一同心からよ ろこびを分
ちあ った。
会 場には、御当地出身の金
城綱 一君が 予め用意 した、慈
恵同 窓 会沖 縄支 部 旗が 飾ら
れ、寮歌、逍遥歌等がバ ック
ミ ュージ ックとし て流され、
クラス会の雰 囲気がたかめら
れた。昨年 の千鳥会には、遠
路遥 々金城夫妻が上京され、
50︶木村 ︵
昭56︶笠井 ︵
昭57︶
︵斎藤記︶
辻村軍左右︵昭13 ・滋賀︶
矢崎俊政 ︵
昭13 ・東京︶
新間善三郎 ︵
準 ・東京︶
物 故 者 御 氏 名
お 招きし、﹁スポ ーツ障 害﹂
愛 知支 部 総 会 ・学 術 講演 名が参集して開催された。
御教示を賜り出席者全員が多
演していただき、更に多くの
と題して広範な研究結果を講
学術講演には、最近特に脚
会 ・懇親会が去る十 一月五日
大の感銘を受けた。先生は当
日夕刻には巨人軍祝勝会出席
熊木栄 一︵昭17 ・新潟︶
尾田芳三 ︵昭19 ・滋賀︶
清 ︵昭17 ・東京︶
出羽誠司︵
昭24 ・神奈川︶
森山
毅︵
昭16前 ・埼玉︶
田中英夫︵
昭16前 ・栃木︶
・先月号 一面下段 の ﹁
振興基 高優功賞を受賞されたことに
前島
金四名を表彰﹂ の記事の中で 対しての表彰であることを補
四 志 一
セ ー ル ス 部 遠 山
岡山支部総 会 開か る
午後 二
︵
時日
半︶
より名古屋駅前 光を浴びた巨人軍チームドク
﹁名鉄グラドホテル
﹂にて、 ター である スポーツ外来担当
の白旗敏克助教授を母校より
加藤敏夫支部長はじめ、三十
のため、記念撮影後直ちに帰
続いて支部の旗の下に各種
京された。
報告、決議も全員の賛同を得
て無事終了した。
六時より会場を移し懇親会
介更に知人、関係者の消息等
武田躬行氏が 一昨年の日医最 記いたします。
いていただく目的で設け
たものです。読者の積極
的な参加をお願いします。
討論があり、基本方針が
確認されました。
★最近〝
うしお〟
欄の投稿
が絶えています。
御意見、
建設的な批判を自由に書
窓会発会式を名 取理事長、阿 ★新年おめでとう乙ざいま ★今回は論説の内容について
なお昨年は東海 ブロ ック同
会した。
和気藷々のうちに時のたつの
頌春
を忘れて又の再会を約し て散
に入り、乾杯に始まり自 己紹
頌春編 集 委 員 一 同
TEL(03)504−1111
〒201 東京都狛江 市和泉本 町4−11−1
三和化学研究所
スズケ ン
医薬 品製造販 売
株式
会社
医薬品総合商社
株式
会社
金城 君を中心とする懐旧談の
輪が広がり、誰いうとなく、
次 回ク ラス会は沖縄までとい
計 画は勤 労感謝 の日、︵十
うこと に決めた。
一月 二十 三日︶の夜を千鳥会
総会とし、翌日は百花繚乱の
南国 の地 での友情を噛みしめ
部長、学術連絡委員の会に出
席され た本庄政美先生︵昭53 ︶
から詳細な報告を受けた。
白幡助教授の講演 に耳 を傾 ける
またはアシスタントの越 後、玉盛 、
笹 木 まて
どうぞお気軽 にお問 合せ、ご相談 くたさい。
■募集 人 員 50名
■修 業年 限 3年
■ 出願 期 間 平 成2年2月13日 (
火)
まで
■試験 期 日 1次 平成2年2月18日 (
日)
2次 平成2年2月20日 (
火)
る バス観光 ツアーが試みられ
岩手支 部総会 開催
らも、教授を 中心 に深夜まで
愛知支部 総会 開催 さる
東 京 慈 恵 会 医 科 大 学 担 当
希 望 者 は 郵 便 為 替500円 分 で
請 求 して 下 さ い 。(
税込)
03・480・1151内3573
三年課程
看護学科
慈恵第三看護専門学校
講演 は大 野教授による ﹁エ
岩手支部平成元年度総会 美先生 ︵昭25︶から、会計報 イズの基礎と臨床﹂と題し、
は、大学より第 一細菌学教室 告が菅野恒治︵昭40︶からあ っ エイズウイル スの特性、発症
の大野典也教授をお招きし、 た。又本年九月秋田市で開催 機序、検査法、治療そして予
ら辞任の申し出 がかね てより
母校の近況など話題 はつきず
部学長、大平同窓会名誉会長 す。新春 一
月十三日︵、
土︶
他多くの諸先生 の御来賓のも 新年名刺交換会に引き続
とに、加藤支部長 の絶大なる き平成二年度初の編集会
御尽力により大成功をおさめ 議が開かれました。
た年でもあり、更 に充実した ★南雲今朝雄御大もお元
雰囲 気 が会 場を 満 たし てい 気で出席され、委員 一
同
た。
今年も良き新聞づくりに
︵
風野記︶ と気持をあらためました。
・願 書 配 布 中
●募 集 要 項
昨年十 一月十八日︵夕
土方︶四時 された同窓会第四回東北地区 防 について難しい内容を平易
より盛岡グランドホテルアネ 大会の報告がなされた。次 い にお話を いただき、大変理解
ックスにて、青森支部の須藤 で高橋惇先生 ︵昭37 ︶の議長 し易く、全出席者に多大の感
あ ったが、会 員 一同今迄の御
旧交を温め た。
︵
菅野記︶
苦労を 謝し承認し、新支部長
には宮 沢潤吉先生 にお願いす
ること にした。
次 に十 月七日に催された支
学校 見 学 希 望 者 は 電 話 で 受 け付 け ます。
慈 恵 の看 護 教育 は 、明 治18年 高 木
兼 寛 に よ り、有 志共 立 東 京病 院 に お
いて ナ イ チ ンゲ ー ル看 護 婦 学校 を範
と した 、 わが 国 最初 の看 護婦 養 成 所
を開 設 した こ とに始 ま ります 。
以 来 、今 日 に至 る まて 、 人 間愛 の
精 神 に基 づ いた 人 間性 豊 か な人 材 教
育 をめ ざ して まい り ま した 。
本 校 は 、 その教 育理 念 を受 け継 い
で二 年 課程 を設 置 い た しま した が 、
時 代 の 流 れ に対 応 す べ く、 平 成2年
度 よ り二 年課 程 の 募集 を中 止 し、 あ
らた に 三 年課 程 を開設 いた し ます 。
健 康 で 意欲 に富 む優 秀 な 方 の応 募
を お待 ち して お り ます。
入学願書受付中
岡 山 で開 催
建先生 ︵昭40︶の特別参加を のもとに、健康上の御都合 で 銘を与 えた。
得て開催された。
山 田林 市支部 長 ︵
昭16前︶か
そ の後懇親会は小人数なが
宮沢潤吉先生 ︵昭19︶の開
会の挨拶に引き続き、本年度
に逝去された関根 一男先生、
斗ケ沢照雄先生への黙祷が行
われた。
総会では庶務報告が鈴木鍾
編 集局 だよ り
昭29年 卒 ク ラ ス会
(10)
平 成2年1月25日
聞
新
大
慈
(
第三 種 郵便 物 認 可)
第422号
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