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518号 1月発行 - 東京慈恵会医科大学同窓会

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518号 1月発行 - 東京慈恵会医科大学同窓会
新 年 に あ た って
岡
村
哲
夫
発 行 所 慈 恵 医 大 同 窓 会
東 京都 港区西新橋
3 − 25− 8
電 話 03(
3431)6 9 7 1
編 集 発 行 人 諸川 薫
どからの三次元画像、さら
諸
来世紀に大きく発展の可能
性を秘めたもので、手術支
援、遠隔医療、教育などに
大きな効 果が期待 出来ま
す。本学のこの分野の研究
は、今までME研究室で行
われてきましたが、国際的
新年明けましておめでと れていると言えます。平均
診紹介予約受付も四月実施 の育成が望まれます。この さまが求める良質な医療、
第 6回理事会報 告
うございます。
在院日数は、昨年末三カ月 を目指し準備中です。その 方策の 一つとして、昨年四 サービスを最大限に提供で
昨年は、財政構造改革法 間の平均で念願であ った二 節には是非ご利用下さい。 月には初期 臨床研修 につ きるよう、健全な病院運営
平成十年度の事業計画案
新しい診療体制での病院 ぐ、専門習得 ︵レジデント︶ に教職員 一致団結し、鋭意 について検討、主に医師の
の成立にともなう医療費国 十日を切り、医療法紹介率
に高次元医用画像工学研究
総合医科学研究センター内
学内掲示1月1日付
予想以上に厳しいものがあ
教授 高津光洋
最近の医療経済の状況も 所を設置する
い申し上げます。
い申し上げます。
庫負 担四千 二百億円の削 も50%まであと 一歩の49% 機能 を将来と も十分に維 コースが新たに発足しまし 努力する所存です。同窓諸 研修、振興基金の事業内容、
減、医療保険制度、老人医 台に達しています。ひとえ 持、発揮するには、百年記 た。また、新棟 ︵H2棟︶ 先輩の 一層のご支援、ご協 会員名簿の発行等について
療制度、臓器移植法の成立 に同窓緒先生方の変わらぬ 念事業委員会答中の 一大目 建築は予定通り順調に進行 力、ご助言を賜りたくお願 審議した。
など医療における変化はめ ご支援の賜と感謝申し上げ 標にあるように、全人的医 しています。
社会情勢を見据え、患者
特 に、 互助会 の基 金は
て病人を診よ。
﹄という学
ります。
実践して欲しいと願 ってお 高次元医用画像工学研究所
講師 鈴木直樹
最高の 一九〇名のご父兄が て検討中で、今年中に実現
祖高木兼寛の建学の精神を
参加され、学生の教育につ する予定でおります。更に
本年も慈恵大学にとりま
して飛躍の年でありますよ
講師 溝呂木ふみ
︵
解剖学第2︶
講師 橋本尚詞
副所長を委嘱する
いて大変関心が深いことを 近い将来、留学生の援助も
う、また、皆様方のご健勝 助教授を委嘱する
を心よりお祈り申し上げま
再確認するとともに責任の 検討課題としていきたいと
数 年前より 教育の 大綱
す。
助教授︵定員外︶を委嘱する
平成九年度秋の叙勲で、
︵第三病院内科第1︶
千葉県市原市在住の酒枝次
勲
れますよう努力して参りま ますが、大学 の教職員 の
した。
微力ではありますが、 方々にも今まで以上の負担
郎君 ︵昭23 ・警察医︶に勲 教授を委嘱する
叙
皆様のご期待に少しでもお をおかけしております。こ
ことがわか った。
平成九年十二月九日に介護保
三宅正夫 ︵昭29︶10万円
橋本朋子 ︵平9︶15万円
大口寄附は次の通り。
〇円と会の資料の寄附があ
った。このほか振興基金の
28 ・一宮勝也︶より振興基
金に会の残金 一二七、五二
のたび 同会 ︵
代 表者 :昭
を閉じることにな った。こ
員の賛同を得て昨年末で会
﹁慈大蛙会﹂の解散につい
てのお知らせをしたが、会
昨年慈大新聞十 一月号に
大口 の寄 附
振 興基 金 に
慈大蛙会より
︵
放射線医学講座担当︶
講師 福田国彦
答えできますよう、役員の の学生教育は慈恵大学の将
方々と力を合わせて父兄会 来を左右する大変重要な問
ていく 一方、経済や産業構造の 度の抜本的改革案を発表した。 りかえの煩わしさ等の問題があ
急速な人口の高齢化、高度医療 平成九年八月に与党協が厚生省 診していたためのトラブルや、 医療サービスについて考え、今 十分に論議され検討されて、少
の発達に伴 って医療費が増大し 案の提示を受けて、医療保険制 急性増悪の場合の出来高 への切 こそインフ ォームド ・コンセン なくとも改悪にならぬことを強
トにつとめ、お互いの信頼関係 く望むものである。 ︵S︶
たものであることは、誰もが認 協議会︵与党協︶
と厚生省の抜本 療機関も多いと聞くが、患者が えられる。
明な部分も多く、前途多難を思
めるところであろう。しかし、 改革に向けた検討が本格化し、 二つの医療機関で同 一疾病を受
医師も常に、患者側からみた わせる平成十年の幕が開いた。
民皆保険を実施してきたことに から、医療保険および医療供給 人や健保本人の負担増も受診者 らいたいという点で、遠慮めい 健制度改革、医療提供体制の効
ある。
体制の両面にわた っての抜本的 にかなり影響を与えた。
た気持があろうし、不満が多け 率化、保険の運営主体の見直し
現在の国民の平均寿命の高さ な改革が必要とされてきた。与
老人慢性疾患外来総合診療科 れば、他の医師を探して、転医 などが挙げられている。
は、この国民皆保険のもたらし 党三党による医療保険制度改革 いわゆる外総診 へ切りかえた医 しているだろうということも考
まだいろいろと先行きの不透
をうけることができるという国 制が崩壊しかねないということ と混乱をもたらした。さらに老 気を治してもらう、よく診ても 性疾患の定額払い導入、老人保
わが国の医療保険制度の特徴 変化により、医療保険財政が危 の中、外来薬剤費の 一部負担は
最近、患者満足度が言われる た。 一方、今年からの実施を目
は、すべての国民が医療保険に うくな っている。
患者の経済的な負担増加は勿論 が、これを測るのはなかなか難 指して医療制度抜本改革案が発
このままでは国民皆保険の体 のこと、医師にも事務的な負担 しい。ともすれば患者側には病 表され、薬価基準制度廃止、慢
われ、九月から実施された。こ た様で後味のわるさが残 った。 からの実施を目指すことにな っ
する健康保険法の 一部改正が行 医師と患者が徒に振りまわされ 険法案が可決され、二〇〇〇年
に患者の 一部負担の増大を柱と 率制に落ち着きそうであるが、
これに先立 って平成九年六月 る。薬剤費に批判が多く結局定 を保 っていく必要があろう。
五等瑞宝章の受章があ った
事業を具体化していきたい 題ですので何卒宜しくお願
下で充実した学生生活を送 学生も勉学が大変だと思い
お子様方がより良い環境の リキ ュラムが大幅に変わり
は大学に全面的に協力し、 化 ・講座の再編成によりカ
従来より、私ども父兄会
重さを痛感しております。 思 っております。
昨年の秋期総会には過去 ラクターの購入計画につい
おります。
学生が大変お世話にな って ます。 一例として、現在、 立ち戻り、﹃病気を診ずし 長を委嘱する
国領校のグランド整備用ト
びに同窓の皆様には日頃、 効利用していく所存でおり そ、謙虚に ﹃医﹄の原点に 高次元医用画像工学研究所
の教職員の方々 ・ご父兄並 で、これからは積極的に有 ります。この様な時代にこ
岡村哲夫学長はじめ大学 年々蓄積されてきましたの
ざいます。
明けましておめでとうご と思 っております。
まぐるしく、四月には診療 ます。ファックスによる初 療を駆使できる良い臨床医
報酬改正が予定され、さら
に二年後には急性期入院医
療診断群分類定額払い ︵D
RG︶導入も取り沙汰され
ており、医療情勢は極めて
厳しい実情に置かれており
慈恵大学の機構改革にと
ます。
もない、附属病院の機構、
改革、改善がなされてきま
業務についてもさまざまな
した。中でも専門診療科編
成を基本とした診療部門、
中央診療部門の再構築と診
療部科長制度により、特定
機能病院として型、内容も
徐々に整い、順調に運営さ
どよろしくお願い申し上げ
医 療 環 境 の 変 化
本年も親睦と協調を基に ます。
万全を期しております。
ります。同窓会名簿も本年 績を伸ばしてゆきたいと念
発行しますが、その準備に じております。御協力のほ
分果し親しみ愛されるわれ 一層の団結を固め、強力な
われの新聞にと心掛けてお 大学の支援団体としての実
良 い臨床医 の育成 を
加入し、必要なときに保険診療
父兄会 事業 の推進 を
にも注目を集めている高水
外来で始ま った診療部方
︵金︶高木2号館南講堂で の努力を傾注し、責務を十
新 年 に あ た って
大 石 幸 彦
附属病院長
準のものであります。
式は本年度には病棟にも及
び、本格的に整備されてき
ました。また昨年初めて、
幹部職員の米国病院視察 ・
研修が行われ、予想以上の
川
逆 境 に屈 せず 着 実 な 前 進 を
同窓会長
な努力の蓄積の結果と思わ あ ったインターネ ットの参
慈恵が主管校の 一つで準 き頂き頼もしい運営情況を
世情の変転甚だしく、不況 日本医学総会のプレシンポ す。同窓会機関紙である慈
にのりました。この 一年、 備に当 っている第 二十五回 拝見し心強く感じておりま
務ができるようになり軌道
きましたが、新事務所にお の竣工に期待が寄せられて
支部活動の活性化も順調
きましても漸次能率よく業 おります。
で、総会にもしばしばお招
館十階に移し業務を行 って も順調に進捗、新世紀初頭 開始します。
同窓会事務所を大学二号 れます。H2棟建設の工程 入も今年は本格的な活動を
し上げます。
を前進中であります。これ 功 させたい と願 っていま
謹んで新年のお慶びを申 も大学当局のたゆまぬ鋭意 す。また、昨年来の懸案で
も、慈恵は全国の私立医大 名 のシンポ ジストも決 ま
の中で安定した着実な路線 り、多くの同窓の参加で成
のような 不況下にあ って をめぐ って﹂のテー マで五
安感も膨らんでいます。こ ております。﹁終末期医療
に対する不透明感も強く不 授が登録委員長に任命され
境は混迷を益々深め、将来 開かれます。酒井紀名誉教
薫
次元画像の構築、またバー を下さいますようお願い申
チ ャル ・リアリティなど、 し上げます。
にこれに時間軸を加えた四 は、本年も変わらぬ御支援
病院も活用するよう変更に ここで行わ れる研究 はC に応じて修正をしなければ
T、MRI、超音波画像な なりません。
同窓各位におかれまして
究所で着々進行している成
研究面ではDNA医学研
なりました。
る効果を発揮出来るよう、 ターに高次元医用画像工学 成果を上げて来ております
本院だけでなく他の附属三 研究所を新設致しました。 が、本年は総点検し、必要
す。またこれに伴 って試験 として、遺伝子治療審査委 成果を上げました。
以上のように改革はその
制度も 一部変更になりまし 員会を発足させました。
また総合医科学研究セン 設定目標に向けて、着々と
た。臨床実習は小人数によ
学 長 ・理 事 長
総 点 検 を し修 正 を す る年
新年明けましておめでと
あらためて申し上げるま 果を臨床応用すべく、医学
うございます。
会 費 年 額 6,000円
(購 読 料 1,200円 含 )
の奔流止まるところを知ら ジウ ムが、今年十 月 二日 大新聞の編集にはより 一層
ない状態です。まわりの環
夫
貞
原
父兄会長
毎 月 1回 25日 発 行
購 読 料 一 部 100円
新春 を 迎え て
でもなく、ここ数年来この 研究審査委員会の下部組織
紙面をお借りして、大学改
革の必要性と進捗状況につ
いて報告させて頂き、同窓
の御理解と御支援をお願い
してきました。
教育面ではカリキ ュラム
は移行期にあり、新旧のそ
れ らが同時進 行し ていま
迎春
新年 にあ た って
論説
第 5 18号
昭 和 32年 9月 12日
(
第 三種 郵便 物 認可 )
聞
新
大
慈
(
平 成 1 0 年 ) 1月 2 5 日
19 9 8年
(1 )
リス クマ ネ ジ メ ン ト」
講師 :鮎 澤 純 子 氏
東 京 海 上 メ デ ィカ ル サ ー ビス㈱
課長 (
メ デ ィ カル リス ク マ ネ ジ メ ン ト担 当 )
日時 :平 成 10年 2月 12日(木)
午 後 6時 ∼ 8時
礼を述べ、互助部会の資金
をより有効利用できるよう
昨年の総会で会則を改めた
第 12 回 外 科 グ ラ ン ド ラ ウ ン ド
まず内科4の田辺修助手 としては、ブラの見逃しや
喉科疾 患の 診か た ︵
40 心 にお話を いただ きま
︵65分+十6
3分︶﹂﹁
感染防 は流産しやすいのが特長
止テク ニック ︵60分︶
﹂ のようです。これらの疾
﹁内科医のための耳鼻咽 患の治療と妊娠管理を中
急蘇生法の実際 ︵1
分1
︶﹂
1 SLEや抗リン脂質抗体
﹁内科 救急 マ ニ ュアル 症候群などがあり、後者
診断と治療 ︵40分︶﹂
﹁救 す。代表的な疾患として、
生 涯 教 育 セ ンタ ー だ よ り
ことを報告し、新年度には 呼 吸 器 外 科 担 当 、テ ー マは ﹁
自 然 気 胸 の臨 床 ﹂
この度、生涯教育セン
国領校のグランド整備用ト
ターでは ﹁日経メディカ
第十二回外科グランドラ が、胸腔鏡下手術は低侵襲 な っている。この予防法と
ラクターの購入を実現化す
ル ・ビデオシリーズ﹂の
る予定で、この他にも要望 ウ ンド は呼吸 器外科担当 であることから急速に広ま してフィブリン糊や吸収性
うち次のタイトルのもの
があれば全面的に協力する で、平成九年十二月十六日 った。しかし、後者は再発 合成メ ッシ ュの使用、胸膜
を購入いたしました。ど
︵火︶高木会館K会議室で 率が10%前後と比較的高い 切除が強調された。これに
と挨拶した。
うぞご利用ください。
自 ことが問題とな っている。 対しブラの術前診断、胸腔
次いで岡村哲夫学長はH 開催された。テーマは ﹁
﹁内科医のための眼疾
2棟新築工事は現在地下工 然気胸の臨床﹂であ った。 胸腔鏡下手術の再発の原因 鏡下手術の適応、day s
事なるも順調に進んでいる
論i
さn
れた。
より、内科からみた自然気 ブラの新生やstaple 討l
第十八回内科グランドカ
ンフ ァレンスは、去る 一月
十二日 ︵月︶東京大学医学
部第 二外科 ︵臓器病態外科
学︶幕内雅敏教授を演者に
お招きし、﹁生体肝移植の
現況﹂と題する特別講演と
して開催された。当日は降
りしきる 雪にもか かわら
ず、外科系の先生を含む多
ための心エコー図検査入 免疫疾患﹂というテーマ ます。これらの点も含め
門 ︵1
分0
︶﹂
8﹁日常診療の でお話いただきます。自 て最新の話題が提供され
ための痛みの診断と治療 己免疫疾患は若い女性に ることと思います。奮 っ
︵森山 寛︶
︵82分︶﹂﹁症例に学ぶ神 発症しやすく、妊娠に合 てご参加お願いします。
2月 14日 ︵土 ︶
疾患﹂
テー マ ﹁妊娠と自己免疫
生 涯 教 育 セ ンター 月 例 セ ミ ナ ー
経症状の診かた ︵
73分︶﹂ 併することもままありま
﹁安全な運動療法のため
のメデ ィカルチ ェックの
実際 ︵55分︶﹂﹁スポーツ
日時
午後 4時 より
医学から診る肩、頸、肘
の痛 み診断 と治療 ︵
38
講師 田中忠夫教授
気 道 異物 に つ いて
耳鼻咽喉科
部 坂 弘彦
は、局所麻酔下にフレキ
成人の気道異物の摘出
気道異物の発 用である。
高くはないが、
生頻度は決して
耳鼻咽喉科領域 シブルフ ァイバースコー
の中でも緊急度 プ ︵FF︶を利用して摘
の高い救急疾患である。 出することも可能である
である。小児の場合は、
場合によ っては突発的な が、小児の場合は不可能
窒息や気道の完全閉塞が
おこり致死的な状態に陥 麻酔科との連携によ って
ることがあり、正確かつ 全身麻酔下に行う。気管
い、バイタルサインが安
迅速な診断、治療が要求 内挿管にて麻酔導入を行
される。
昭和五十五年より平成 定したところをみはから
って抜管し、速やかに耳
九年までの当教室の統計
レーションプロンコスコ
によると、過去十八年間 鼻咽喉科医によりベンチ
で二十七例の気道異物が
あ った。異物の種類は、 ープ ︵VB︶を挿入する。
小児の場合はピーナ ッツ VBは麻酔医による換気
等の豆類、老人は食物、 と同時に硬性内視鏡、C
ビデオモニター下に拡大
義歯などが多く、二つの CDカメラの接続により
大学 2号 館10 階
年齢層にピークがある。
視しながら摘出操作する
︵産婦人科︶
れ、幕内教授を中心に行わ
小児では口の中へものを
セミ ナー ルー ムA
れた我が国の生体肝移植に
ことができる。
分︶﹂﹁スポーツ医学から 場所
ついて、その理念、適応、 され つつあり、われわれ内
入れる習性がめばえる生
日 時 平成10年2月9日︵午
月後
︶6時∼7時30分
があり、X線透過性の異 摘出する報告もある。長
異物の既往が不明なこと 麻酔下にFFを使用して
また最近はラリンギア
後六 ヶ月頃から三才頃ま
場 所 慈恵医大西新橋校 ・中央講堂
炎、肺炎、喘息などの治 管粘膜の浮腫や腫脹が生
︵神経内科︶
診断にあた っては詳細 能性がある。摘出前の診
ないでいることもある。 ても粘膜損傷が起きる可
物 ︵豆類︶の場合気管支 時間異物が停留すると気
担 当 神経内科
﹁
原発性副甲状腺機能低下症による神経症状
療をして異物に気づかれ じ、また摘出操作によ っ
本田英比古
テー マ
が治療で改善している5
1歳男性例﹂
第19回内科グランドカンファレンス
術式、術後管理や長期予後 科医も今後は内科的治療で
での間に圧倒的に多い。 ルマスクを利用し、全身
る救命の可能性につき家族
生体肝移植では、全く病
が不足しているため、今後 れ肝臓の 一部を取り出すと
X線検査がまず必要とな る肺炎の発症に対しての
な問診、
胸部理学的所見、 断、異物により起こりう
︵神経内科︶
る。X線透過性異物では、 全身管理、術中の全身状
気時に心縦隔陰影がどち とはいうまでもないが、
深呼気時と比較して深吸 態の把握が大切であるこ
疋田美穂︵痛風・
リウ マチ・膠原病科︶
長谷川節
第2回目入院時担当
らかの方向 へ移動する所 これに加えて異物摘出後
東條克能 ︵糖尿病 ・代謝 ・内分泌科︶
また99mTC−MをA
用A 啓蒙することによりその
側の気管支異物を疑う。 り特に小児の場合、親を
︶が
gあ
nれば、移動した る。気道異物は事故であ
見 ︵Holzknの
es
ci
hの
t全 身管理も 重要 であ
︵神経内科︶
井上聖啓
神経内科全員
︵放射線科︶
︵神経内科︶
︵神経内科︶
1 症例 第1回目入院時担当
栗 田 正
おもに胆道閉鎖などの先天 移植以外では救命されなか
った患 者さんの 元気な姿
られていたが、最近では成 や、小児が順調に成長して
片山 晃
畑 雄一
2画像所見の経時的変化
4総合討論
3内分泌学的見知から
5まとめ
いた肺血流シンチグラフ 予防を期待することがで
ィー、CT、MRIも有 きる。
て議論します。
※今回は内分泌疾患に伴う二次性の神経障害につい
ことであ った。またウイル に努めていら っし ゃる先生
剤の進歩により適応が拡大 ︵
消化器肝臓内科 ・相澤記︶
ス性の末期肝不全や急性肝 の努力に頭が下がる思いで
不全に対しても抗ウイルス あ った。
80%を越え小児に対する肝 するとともに、その陰で日
移植の成績と遜色ないとの 夜懸命に努力され成績向上
人に対しても適応が可能と いる姿を拝見すると、人命
な り、そ の成績 は生存率 の尊さとその力強さに感激
性肝胆道疾患の小児例に限
る。生体肝移植の適応は、 まな問題点はあるものの、
行わ れること が予想さ れ 経費の負担問題などさまざ
は生体肝移植がより広範に いう倫理上の問題や、その
にも臓器の提供者︵ドナー︶ 気のないドナーにメスを入
て困難である。また国際的
成立後も死体肝移植は極め ると実感した。
わが国では臓器移植法の に知らせることが必要であ
だいた。
を中心に、症例に即し多数 回復の望めない肝不全症例
診る腰痛、膝関節障害の
診療メモ
のスライドで説明していた について、生体肝移植によ
数の先生 が熱心に 参加さ
ル ︵1分3
︶し
3﹁日常診療の 願いして、﹁妊娠と自己 厳重な管理が必要となり
す。また自己抗体が新生
の適応とすu
るr
かg
がery患の診かた ︵55分︶﹂﹁日 分︶﹂。
常診療のための皮膚の基
今回の月例セミナーは 児に移行し障害を及ぼす
本診療最新治療 マニュア 産婦人科の田中教授にお 危険性も大であるため、
との報告があり、それに対
るメカニズムや手術や癒着
東大 の幕 内教授 が特別講演
第18回
︵
秋葉直志記︶
胸という題で、自然気胸の
場 所 :高 木 2号 館 地 下 南 講 堂
かe
らの空気漏れが問題に
して同窓の絶大なる協力を
呼びかけた。また新年 一月 疫学、様々な続発性気胸の
七日NHK教育テレビにて 紹介、自然気胸に対する治
﹁医療と教育
﹂について、 療つまり脱気や癒着術や気
文化勲章受賞の宇澤弘文氏 管支塞栓術について解説さ
と対談し大学にと って大変 れた。続いて続発性自然気
に有意義 であ ったと述 べ 胸を起こした比較的稀なび
た。次いで名取禮二名誉学 まん性過誤腫性肺脈管筋腫
続いて原貞夫父兄会長は を上げて和やかな集いの輪
療法の適応について討論が
治療とし て行われ ていた
術は以前から再発率が低い
らの発表があ った。外科手
で外科1の鈴木英之助手か
における再発予防という題
徹講師から、また胸腔鏡下
防という題で外科2の永田
次に手術における再発予
館十階中ホールにおいて行 日頃の学生教育に対する御 が広が った。
寒く、足もとの悪い中にも
かかわらず約七十名の出席
のもとに本郷可夫理事の司
会にて会が始められた。
諸川薫同窓会長がまず新
年の賀詞に続いて、大学に
講演
「医療 機 関 にお け る
内 科 グ ラ ン ドカ ン フ ァ レ ン ス
今 回 は 「医 療 機 関 に お け る リス ク マ ネ ジメ
ン ト」 を と りあ げ 、外 部 講 師 に よ る 講 演 を 予
定 して い る 。 医 療 訴 訟 対 策 を 始 め とす る 各 種
の医療機 関で の危機 管理 につ いては 、それぞ
れ の 立 場 で そ の 必 要 性 を 実 感 し、 対 応 を 考 え
て お られ る こ と と 思 わ れ る が 、 単 に how to
的 な も の で は な く 、 病 院 管 理 学 に お け る リス
クマ ネ ジ メ ン トの位 置 付 け 、 医療 の 質 の 確 保
が 経 済 的 不 利 益 か ら組 織 を 守 り、 社 会 的 信 用
の 低 下 か ら組 織 を守 る と い う立 場 か ら、 日 本
に お け る リス ク マ ネ ジ メ ン トの 構 築 に 奮 闘 さ
れ て お られ る 鮎 澤 純 子 氏 を 講 師 と して お 迎 え
す る 。 同 氏 は 、東 京 理 科 大 学 薬 学 部 の ご 出 身
で 、 米 国 ニ ュ ー ヨー ク の ベ ス イ ス ラ エ ル メ デ
ィカ ル セ ン タ ー で メ デ ィ カ ル リス ク マ ネ ジ メ
ン トの ご経 験 を 積 ま れ 、 現 在 東 京 海 上 メ デ ィ
カ ル サ ー ビス (
株)の 課長で ある 。
各 医 療 機 関 に て 、 指 導 的 な 立 場 で ご活 躍 な
さ れ て い る 同 窓 の 先 生 の 数 多 くの ご 参 加 を 期
待 して い る 。
成 医 会 運 営 委 員 長 田 中 照 二
五 ㎝の大雪の影響で大変に
行われた。
名取 名誉学長 に よる乾杯
われた。 一昨日の積雪量十
新年名刺交換会が大学2号
平成十年 一月十日 ︵
土︶ 改革を援助支援し、ますま
症と肺血管肉腫の転移症例
長
が
同
窓
各
位
の
健
康
と
さ
ら
これに対し、
午後四時より、恒例の慈大 すの大学の発展に対しての なる大学の発展を祝して乾 が呈示された。
同窓会 ・慈大父兄会共催の 協力を呼びかけた。
杯の音頭をとり、全員で杯 各疾患の続発性気胸の起き
新年名刺交換会開催さる
おける新築工事とさらなる
演題 は「
生体 肝移植 の現況 」
※当 日は 会 場 に 軽 食 を 用 意 し ま す 。
大雪の影響 にもかかわ らず 多数同窓 が出席
第1243回成医会例会開催
(2 )
(
平 成 1 0 年 ) 1月 2 5 日
19 9 8年
聞
新
大
慈
(
第 三種 郵便 物 認 可)
第 5 18号
椿 と〃珍 研 究〃
ことを想い出す。
町
田
豊
平
正
と文学の両眼で捕えようと
そして彼は自然現象を科学
むこうの国からいろいろ であ って、決して初めから 寧 に診察し てよく話 し合 任せします。よろしく。﹂
したのである。
ツァイスとアツベのサク
セスロードがなければ今日
の進歩をとげている映像写
真の世界はなか ったろう。
︵昭24 ・大田区︶
減少は間違い無かろう。か
医療費は増大し、患者数の
は日本人の悪いくせだ。
むこうのものを有難がるの
それにしても、なんでも
あろう。
リカで医事裁判から発展し ば経営が成り立たないとさ ても、多くの患者は迷 って
たものである。人権の国ア れている。いわゆる三分診 即答などできまい。私が患
I
メリカの医者が、患者から 療 である。 こんな 現状で 者なら ﹁先生、おすすめ品
・Cなどができるはずは
ミス ︵?︶を指摘されて訴
はないのですか。﹂と尋ね
えられても負けないように あるまい。外来で初診患者 たい。またその時の気分に
との考えから生まれたもの には二十 ∼三十分かけて丁 よ っては ﹁一切を先生にお
にあり、医療費ことに老人
濫している。後期高齢者と 前後になると種々の障害が に個人差があり、鎌倉の養
つて、日本の健康保険医療
る。超高齢者とは九十ない 整脈、眼、耳の障害、前立 ば、六十歳ですでに自立で 制度は、何時でも、何処で
し百歳以上を言い、後期高 腺肥大、さらには痴呆症、 きない人もいる。したが っ も、誰でも高度の医療が低
齢者とは七十五歳を境とし う つ病など高齢者に起こり て医師の定年制を定めるこ 医療費で受けられるとい っ
ているようである。
が ちな病気 にかかりや す とには慎重でなければなら た美しい言葉に飾られてい
い。日本人男子の平均寿命 ない。医療費の増大に伴 っ たが、知らないうちに死語
とな ってしま った。準難破
どう な ってい るのだろう
航路船厚生省丸のゆくえは
たことに気がついた。後期
あるという認識も 一面では
︵昭17 ・神奈川県連会長︶
か。
かと思 った。現在、高カ ロ は考えられないことである
に派生した出来事と脚気が
高木先生の提唱なさ った
はるかに低か ったのではな おはなしによると、昔のひ あ ったようである。
︵昭41 ・徴生 物学第 2教
いかと想像した。成人する とのカ ロリー摂取量は必ず
脚気などは過去の病気で 授︶
カ ロリーは現在にくらべて
いた明治年間、 一般に摂取 である。
め含有させてないというこ の業績の偉大さを感じさせ
ところが松田名誉教授の とが今回の出来事の遠因で られた。
大きな社会的問題とな って であ ったろうと思 ったわけ にビタミンBlをあらかじ 出来事を通じて改めて学祖
が、脚気が多発することが カ ロリーの状態にあ った人 性の問題で輸液製剤のなか まま生きているが、今回の
は学生のときに講義で聴い リー輸液を与えられる患者 という感想を述べておられ 調和の取れた食事というも
たもの以上のものではない も、やはり大なり小なり低 た。ところが実際には安定 のの重要さは現在でもその
者のビタミンに関する知識
ているという記事を読んだ られた結果、この高カロリ べきであるとのことであ っ とすれば、今回の事件は温
が、直感的にこれは昔脚気 ーの状態に適応できなくな た。また同教授は、高カロ 故知新という格言がまさに
衝心といわれたものの現代 ったのが脚気衝心といわれ リー輸液を行う場合、ビタ 当てはまる例ではないかと
版ではないかと思 った。筆 ていたものではなかったの ミンBlを投与しないこと 思われる。
があり、大きな問題にな っ う高カロリーの食事を与え いる状態であ ったと考える どこかで関連をも っている
ないと患者が死亡すること 役に服し、突然、兵食とい ら調和の取れた栄養を得て
ロリー輸液を行 った場合、 粗食に順応し、それなりに く、当時の粗食というのは 正しいのだろうが、高カ ロ
ビタミンB1を 一緒に与え 健康を保 ってきた若者が軍 むしろ多くの種類の食品か リー輸液という最新の技術
最近、新聞や雑誌で高カ まで長い間で低カ ロリーの しも 低か ったわ けではな
高齢者になるまでは、介護 師の定年と定めているよう
昨年九月の患者負担金増
も必要としないで自立生活 だが、これにも 一理がある。 額は今後ますます進む傾向
在、いつの間にか私自身も も七十五歳を少し過ぎたと て、保険財政が逼迫してお
後期高齢者にな ってしま っ ころにある。
り、年金の財源もまず期待
ドイツでは六十八歳を医 できない。
高齢化 社会とな った現
か、超高齢者という言葉も 起こ ってくる。腰痛症、関 老先生のように百歳までも
馴染 みのうす い言葉 であ 節痛のほか、血圧上昇、不 診療を続けられる人もいれ
新語、造語が世の中に氾
ができる。しかし七十五歳 しかし年齢と活力とは非常
るのが本当の医者の仕事で
れているが、そもそもアメ 以上の患者を診療しなけれ などと患者に説明したとし ーターにできないことをや
どはその最たるものだ。こ のか。我々第 一線の臨床医 かく、第三はしかじか、ど 見て法を説け﹂というみご
れは ﹁説明と同意﹂と訳さ は、 一日に数十名から百名 れをお選びになりますか。﹂ とな言葉がある。コンピ ュ
からだが、I ・Cことイン 漂 っている。ところで、日 つの治療法があります。第 るのが医者というものでは
フォームド ・コンセントな 本で果たしてこれができる 一はこれこれ、第二はかく ないのか。日本には ﹁人を
者が少なくない。
いどころかお先棒をかつぐ のI ・Cを取り入れようと などとは比較にならないの ストだというものがあるは
している。取り入れなけれ である。もし仮にやれたと ずである。ベストを選び、
最近とい ってもかなり前 ばならないようなムードが して ﹁あなたの病気には三 自信を持 って患者にすすめ
される。医者も例外ではな
なものが入 ってくると、日 患者のためを思 ってしたこ い、 一日に五∼二十名の患 と答えるであろう。
考えれば、三つの選択肢
本人はすぐにそれらに踊ら とではなか ったのだ。
者をみていれば立派に医業
いま、日本の医療ではこ が成り立 っているアメリカ の中、この人にはこれがベ
この珍研究の物理学者は
寺田寅彦、そして俳人は文
学と科学の間に立つ思想家
といわれ る夏目漱 石であ
こんなことを家人と語り
そして ﹁空中落下する特殊 ようとした二人である。
を、
自ら﹁珍研究﹂ る。自然の美しさと人間の
北風に吹かれながら路地 ごろごろと転が っているた つむきか︶
裏を歩いていると、紅色の くさんの椿の花を見つけた と称して観察をはじめた。 心の真なるものを両眼で見
花びらが 一枚ひらりと地上
椿は古来長寿の樹といわ な物体︱椿の花︱の運動﹂
紀
元
正
口
樋
雄
に落ちてきた。そばの生垣
にはこの寒さのなか凛とし れ、その鮮やかな花木の性 として英文論文に仕上げ発 ながら庭の椿はと眺めてい
ると、後から ﹁あの生垣の
た緑の葉の間に、鮮やかな 質から文人に愛されてきた 表した。
この論文は当時の物理学 花は椿 ではなくさ ざん花
紅色の花を つけた寒椿と思 が、その花が突然ぽとりと
花びらが散 っ
われる花木が植 っている。 地上に落ちるため何か不吉 の潮流から離れていたため よ﹂と声あり、
ふと幼い頃育 った南国には なことを予感させ、とくに 殆んど注目を集めなか った て落ちるのはさざん花と諭
椿林があり、その小径には 病を持つ人は忌み嫌う植物 が、実はこの珍研究を始め された。よくみればわが家
る動機とな ったのは師と仰 にも今咲きほこ っているさ
落ちざまに 虻 ざん花や侘助などがあり、
このぽとりと落ちる椿の ぐ俳人の ﹁
でもある。
この歳にな ってもなお知
つけて敷きつめている。
花に特別な好奇心をも った を伏せたる 椿かな﹂とい 木の下は花びらが色模様を
一人の物理学者がいる。彼 う句をめぐ っての友人との
は落椿の様子を花をつけた 論争からである。虻がどの
形、重心 ︵
花芯︶の位置、 ように花の中に伏せられた 識の至らざるを知り、また
︵昭31 ・慈大名誉教授︶
落下の軌道、そして地上で か、句の成立ちの可能性を 愚を重ねる新春である。
の花の向き ︵仰むきか、う めぐ っての論議であ った。
れている。
イ スターのツ ァイス五十
インプ ットされたのだ。
しかし、第二次大戦後は 歳、アツベ二十五歳の時に
一九九六年はカール ・ツ
ァイス創業 一五〇年だそう アメリカや ロシアに頭脳が 出会 っている。イ エナの大
で、 一八四六年に彼はかつ 大量に流出し、さらに東ド 学で教鞭をと っていたアツ
ての東ドイツ ・イエナの地 イツにな ってからはまさに ベが、ガラス工学の理論を
に工場を設け顕微鏡を作り 壊滅的であ った。日本のカ 吹き込むチ ャンスがあ って
はじめ、次いで望遠鏡、双 メラのように新しい操作性 も不思議なことではない。
眼鏡、カメラ ・レンズなど ばかり追究しないで旧来か ここに二人三脚の歩みが始
の分解能、双眼鏡のプリズ
ツァイス軍団がこれほど ム論などの発見をみごとに
部
ズ はフ ァージ ーさがな く ビデオカメラやデジタルカ エルンスト ・アツベが居た そして世界に冠たる企業に
重々しくシ ャープな道具と メラにも搭載されて注目さ からに他ならない。職人 マ 押しあげてい った努力は実
にみあげたものと思う。
スと白文字で書かれたレン れ、ごく最近ではソ ニーの までの企業に成長したのは 光学器械に応用していき、
真鍮の沈筒が輝き、ツ ァイ もちろんツァイスが装着さ
われた。
実に印象的だ った。 同開発の コンタ ックスにも したのである。
デモンストレーシ ョンが行 カR8や本家と京セラと共 は消えない。みごとに復活 正弦サインの条件や顕微鏡
うに取り出された顕微鏡を 人々に愛された。昨年 ニュ らしい。そのかたくなさと くべきことに経営学にも精
おもむろに教授がのぞき、 ーモデルチ ェンジしたライ 磨かれた技術はそう簡単に 通していたのだ。レンズの
組織学の実習の時で、古色 った。その製品は確実さを とする精神は、ドイツ文化 理学はもちろんのこと哲学
とした ニスの箱から大切そ 売り物に全世界に広がり、 そのものをみるようですば 神学も理解し、さらには驚
ま っさきに思い出すのは の光学器械を産み出してい らのシステムで勝負しよう まるのだ。アツベは数学物
炉辺談話
ァツ
イ ス の レ ンズ
岡
︵
昭41 ・神奈川県衛生看護
専門学校付属病院外科部長︶
できごとか ら学祖 の業績 を想 う
滝 紀
大
吾
昭
田
益
で き る の か 1・C
後 期 高 齢 者
高 カ ロ リー 輸 液 に 関 連 した
第 5 1 8号
(
第 三種 郵便 物 認 可)
聞
新
大
慈
(平 成 1 0 年 ) 1 月 2 5 日
19 9 8年
(3 )
長
頌春
︵
昭 30 ︶
︵
昭3︶
保
︵昭 2
7︶
︵
昭1
0︶
滋
︵
昭 20 ︶
︵
昭 28︶
薫
︵
昭 27︶
今 野 享 彦
問
本 間
問
三 浦 長 英
問
柿 本
問
岡 村 哲 夫
理事 長 ・学 長
顧
顧
顧
顧
会
諸 川
副会長
︵
昭 35︶
小 田 泰 治
事
︵
昭 30︶
理
理
事
︵
昭 30︶
栄太郎
︵
昭 30 ︶
那 須 元 信
事
林
事
原
︵昭 27 ︶
貞 夫
︵
昭 45 ︶
理事 ・父兄 会 会 長
理
本 郷 可 夫
事
博
︵
昭4
5︶
︵
昭3
7︶
一
︵昭 19 ︵
昭 27︶
鈴 木 泰 雄
事
森 田
事
松 井 道 彦
事
益 子
︵昭45︶
理 事 ・父兄 会 常 任 監 事
理
理
監
監
評議員 ︵
議長︶ ︵
昭 28︶
南 雲 吉 和
︵
昭 36︶
坂 詰 正 巳
︵
昭 37︶
礼次郎
︵
昭 37︶
足 立
評議員
足 立 信
評議員
村 岡 伸
武
︵
昭 41︶
一
︵
昭 32︶
一
評議員 ︵
副 議 長 ︶︵
昭 39︶
元
岩 田 正 晴
事
渡 辺 盛 雄
副会長
理
理
大 畑
事
霜
事
川 田 忠 良
︵
昭 34︶
理事 ・神 奈 川横 浜 支 部
長
理
理
坪 田 修 三
小
烏
丸
田
中
直
樹
津正宗﹂等に美しい樋が見
一文字﹂、蒲 生氏郷の ﹁会
真﹂、上杉兼 信の ﹁山鳥毛
参道の両側にある鬱蒼とし
という 日蓮宗の お寺があ 人の 一人であ ったが、北条
る。頼朝が藤原氏を滅ぼし
らず、参拝客は大変少ない。 れ、無念の最後を遂げた。 う ことは容 易に想像 でき
る。駅から近いにもかかわ 時政の館でだまし打ちにさ
ても中尊寺を残し、藤原氏
分に喰い込んでいたであろ
人の精神構造のかなりの部
この事件を機に北条氏は頼
られるが、いずれも身巾が
た樹木が光をさえぎり、日 家と能員の娘 ・若狭の局と
広く重そうな造りの刀であ
の菩提を弔 っていることか
堂の正面は鍵のかか った厚
近づいて目をこらすと、本
ぐると本堂がみえてくる。
弔うために、妙本寺が建立
のようであ った﹂と述べた。
本寺の本堂は、まるで牢獄
残 った能員の末子 ・比企大 て鎌倉時代 一、二を争う規
学三郎能本が 一族の菩提を 模の寺院である。冒頭で﹁妙
のである。かろうじて生き
これはその時の私の偽らざ
妙本寺は木造建築におい
くてごつい格子戸がはめら
古来日本人は霊の存在を
されたと伝えられている。
うであ った。
る心象であ った。比企 一族
﹁崇﹂
を非常に恐れてきた。 の ﹁タタリ﹂を最も恐れた
無念の死を遂げた霊は怨霊 人物は北条氏であ ったはず
今からさかのぼること八
である。比企 一族の菩提を
百年前の鎌倉時代、頼朝の
死後間もなくここで壮絶な
となり、幽界から現世にで
弔うために北条氏は能本に
信じ、その霊 の復讐 即ち
れており、まるで牢獄のよ
い。坂をのぼ って総門をく 比企 一族とともに滅ぼした らみてもうなずけるのだ。
中 でもジメジ メして薄暗
の間に生まれた 一幡丸をも
る。
樋を見ていたら、これを
近頃の超尺クラブに応用す
昨秋、約 ニケ月間、上野 しぶりに刀に酔 った様な思 じ得なか った。
この刀の上半部は両刃、 ることを思いついた。先頃
の国立博物館で ﹁日本のか いがした。
中でも圧観だ ったのは御 下半部に後世の薙刀樋が掻 伸ばした五十吋のドライバ
たな﹂展が開かれた。約三
〇〇点の名刀が五十年ぶり 物の小烏丸である。殆どの き流されている。さらに鎬 ーが振り切れなくな ったの
に勢揃いした。国宝、重文 刀はどこかで見た憶えがあ 部分に全体に掻き流された で二吋切 って四十八吋で使
はもとより、国宝に指定出 るのだが、御物のためか、 細い樋がある。樋は血流し っているが、このソールに
来ない御物等、名物として これだけは見た憶えがなか とも呼ばれ血走りをよくす 四本 の樋を彫 ったの であ
人間ドラマが展開されたの
てきて天災や飢饉、疫病と
怨霊を封じ込めるために牢
一族の ﹁タタリ﹂を恐れ、
ような 科学万能 の時代で
獄のような造り方を条件に
したと考えるならば、私の
よる寺の建立を許したが、
も、この御霊思想は日本人
推測もあながち的外れでは
な って ﹁タタリ﹂をすると
の魂から完全に姿を消した
信じたからである。現代の
だ。即ち頼朝の後継者をめ
れているが、その形は特異 方が分かり易い。デザイン たし、ダブ っても ﹁芝走り﹂
ぐる御家人の権力闘争であ
であり真に美しい。烏が伊 的につけられた短刀の樋を がよいようだ。本当は三〇
勢から運んで来て桓武天皇 別として、大刀の場合は重 〇CCで二〇〇g以下のヘ
日曜や祭日の鎌倉の小町 る。第 一幕は侍所別当 ・梶
に捧げたのが由来とされ、 厚長大なものに見られるの ッドが欲しいが、ジ ュラル 通は、大方鎌倉八幡宮 へ向 原景時の粛清で、第二幕が
わけではない。いわんや八
ないと思うのである。
︵昭3
5 ・湘南支部長︶
百年も前の鎌倉時代におい
ては、御霊思想からの脱皮
平家重代の宝として伝えら が普通だからである。この ミ ンでないと ダメだろう かう人で賑わうが、観光 コ この寺の主人公である比企
れたものだが、日本刀の過 展覧会中の名物にも、前田 し、それは素人の細工の範 ースをはずれ駅から西の方 一族の悲劇であ った。この
囲を越えている。
渡期にこれ程の名刀が作ら
家
の
重
宝
﹁
大
典
太
光
世
﹂
、
角に歩いて行くと、人の数 辺り 一帯は比企が谷と呼ば
れたということに驚きを禁 徳川 家康 の愛刀 ﹁日光助
︵昭28 ・大学専任理事︶ はめ っきり少なくなる。鎌 れ、比企 一族が住んでいた。
はできるわけがなく、日本
ルコイドーシスをどう見た 何回も加算される。微少循 生じた事件から始まるが、
らよいのであろうか。成書 環障害に対して生体は毛細 毛細血管内皮細胞の増生反
を繙いてもそのイメージが 血管の増生反応を起こす。 応は肺ばかりでなく、全身
先頃、同期の山岳部仲間 が歩いていたのどかな昔の ヒンズー教の聖地ムクチナ チンボーイ扮する女形の絶
面影はなく、日本ではお目 ート ︵三七九八メートル︶ 妙な身のこなしと腰つきに
への登りは馬を使うことに 抱腹絶倒、メンバーも踊り
は っきりしない。﹁群盲象 加算が閾値に達すると生体 の各臓器に現れることがあ 三名を含む十 一名でネパー
を撫でる﹂という諺がある は自律的に毛細血管内皮細 る。多彩な病像とな って見 ルを訪れた。全員が六十歳
イドーシスという象﹂を撫
が、群盲の 一人が ﹁サル コ
サルコイドーシスの始ま
でてみることにする。
る場所は肺である。肺に症
スの肉芽腫とは異質のもの
である。
群盲の 一人が ﹁
サルコイ
ドーシスという象﹂を撫で
てみたイメージを記してみ
た。 ︵昭34 ・杉並区︶
︵シ ェルパ頭︶の進言で、 歌と踊りの披露では、キ ッ 形外科客員教授︶
の実力を見抜いたサーダー
し トレ ッキ ングを開始 し に男女混浴︵但し水着着用︶ でカトマンズに帰着し楽し
た。初日にいち早くわが隊 の露天の温泉で疲れを癒す か ったヒマラヤの旅を終え
一幕や、シ ェルパ達による た。︵昭29 ・聖マリ医大整
経て空路ジ ョムソンに移動
った荘厳なヒマラヤの山々 続け、時には地酒のチ ャン アンナプルナ、ダウラギリ
が迎えてくれる。
や ロキシーを賞味し、途中 等の八千メートル峰を間近
私達は、景勝地ポカラを のタトパ ニでは欧米のトレ に望む至福の時を過ごした
ッカーや現地の人達と 一緒 後、飛来したヘリコプター
れれば昔と変わらぬ澄みき ン、グルン、マガール、タ 彩 る景観は実 に素晴ら し
った青空、善良で人懐 っこ カリーと民族が変わ ってい い。ここで 一日滞在して真
い人達、そして氷雪をまと く様子を観察しながら旅を 紅の石楠花に囲まれながら
なるノスタルジアではすま のポーターを帯同して周囲 花である石楠花の名所、日
されない問題であろう。し の素晴しい山々を眺め、通 本では見られない巨木の石
かし、 一歩カト マンズを離 過す る村落 ではチベ ッタ 楠花の群落が斜面を 一面に
胞の増生反応を起こしてし られる。肺が主病変のこと 以上のシルバートレッキン 車がまき散らす騒音ともの なり、十 一頭の馬を連ねて だすし近くで幕営していた
まう。増生した内皮細胞が が多く肺サルコイドーシス グ隊である。私にと っては す ごい排気ガ スに辟易 し の豪勢なトレ ッキングにな トレ ッカーが楽しそうだか
集塊となり変性を来たすと
が
み
ら
れ
るが、眼病変、皮 五年ぶり七回目のネパール た。経済的には豊かにな っ った。その後も四頭の馬を ら仲間に入れてくれと飛び
類上皮細胞肉芽腫となる。 膚病変、
表在リンパ節病変、 である。首都カトマンズは ていることを実感させられ 同行させ、交替で騎乗して 入り参加する楽しい 一幕な
肺毛細血管内皮細胞は、ア 肝病変、心病変、腎病変、 目抜き通りでさえ悠然と牛 るもののなんともやりきれ 体 力の温存を はかりな が どがあり、八日目に無事最
ない気持ちになる。ネパー ら、シ ェルパ、 コックを含 終目的地ゴラパニに着いた。
ルに好意を持つ外来者の単 め七名のスタ ッフと十 二名
ゴラパニはネパールの国
を訴えて眼科受診。ぶどう 状としては現れない微少循 ンギオテンシン変換酵素A 筋肉病変、骨関節病変など
膜炎がみられサルコイドー 環障害が生じた時が始まり CEを産生する特徴を有し が合併することがある。心
シスを疑われ内科紹介。胸 である。寒冷刺激による場 ている。肺毛細血管内皮細 病変が主症状であれば心サ
部X線写真で肺サル コイド 合があるかもしれない。寒 胞の増生は血中ACEの上 ル コイドー シスと呼ば れ
忠
芳
ーシスの所見がみられた。 冷に触れて肺毛細血管に血 昇とな って観察される。こ る。
肺結核においても類上皮
サル コイドーシスとはど 球凝集が生じ微少循環障害 の様な生体反応が進行する
ういう疾患だろうか。類上 を形成する。これは治癒し とサルコイドーシスという 細胞肉芽腫がみられるが、
これはマク ロファージの変
皮細胞肉芽腫が形成される てしま うがメ モリ ーとな 疾患とな って発症する。
サルコイドーシスは肺に 性によ って形成されると仮
という。生体反応としてサ る。この障害のメモリーが
定すると、サル コイドーシ
泉
サ ル コイ ド ー シ ス と いう 象
今
にかかれぬ時代ものの自動
倉郵便局の前を通り閑静な 一族の棟領である比企能員
住宅街を抜けると、妙本寺 は、頼朝を支えた有力御家
歴史に名を残している名品 った。正倉院宝物の両刃造 るものとされていたが、む る。バランスは二ポイント
ばかりであ った。短時間で りの直刀から平安時代の太 しろ重量を軽減してバラン しか軽くならなか ったが実
見ざるを得なか ったが、久 刀に変 った頃のものと云わ スをよくするものと考えた 用の範囲では充分軽く感じ
見
正
谷
神
夫
悌
尾
長
炉辺談話
三十四才男性。眼の症状
奇 妙 な 寺 院
シル バ ー隊
ネパ ール の 旅
(4 )
(平 成 1 0 年 ) 1 月 2 5 日
19 9 8年
聞
新
大
慈
(
第 三種 郵便 物 認 可 )
第 5 18 号
評議員
安 部
評議員
︵
昭 35︶
匡
︵
昭 26︶
石 井 嘉 男
石 井 義 之
︵
昭 26︶
評 議 員 ・武 蔵 野 学術 連
絡委員
︵
昭 52︶
評議員
︵
昭 27
修
︵
昭 25専 ︶
宇 野 慶 三
評議員
大井田
評議員
︵
昭 18︶
小 沢 禎 治
評議員
稔
︵
昭 26︶
小 田原 利光
評議員
小 田原
評 議 員 ・世田 谷 支 部 長
︵
昭 26 ︶
︵
昭 26専 ︶
亀 井 邦 倫
評議員
︵
昭 24 ︶
岸 田 明 宜
評議員
一
︵
昭 33 ︶
北 原 敬 市
評議 員
北 村 洋
評 議 員 ・江 戸 川 支 部 長
︵
昭 33 ︶
︵
昭 30 ︶
国府田 守雄
評議員
小 林 重 高
評議員
︵
昭 25専 ︶
︵
昭 32 ︶
斎 藤 昭 三郎
評議員
︵
昭 29 ︶
猿 谷 文 男
評議員
︵
昭 50 ︶
須 田 富 士雄
評議員
須 田 健 夫
豊
評 議 員 ・埼 玉 支 部 長
︵
昭 31 ︶
鈴 木
評 議 員 ・杉 並 支 部 長
︵
昭 26 ︶
鈴 木 直 純
評 議 員 ・岩 手 支 部 長
︵
昭 25 ︶
鈴 木 鍾 美
評議 員 ・中 央 支 部 長
︵
昭 28 ︶
︵
昭 45 ︶
高 橋 千 晃
評議 員
︵
昭 48 ︶
高橋 紀久雄
評議 員
︵
昭 29 ︶
富 井 純 子
評議員
︵
昭 40︶
富 田 利 夫
評議員
︵
昭 24 専 ︶
富 田 有 祐
評議 員
︵
昭 62 ︶
中 林 繁 司
評議員
並 木 敦 也
評議員
浜 野
︵
昭2
7専 ︶
巖
︵
昭 30 ︶
一
︵
昭 48 ︶
平 野 昭 邦
評 議員 ・南 多 摩 学 術 連
絡 委員
︵
昭 33 ︶
評 議員
松 尾 敏
評 議員
︵
昭 37 ︶
三 木 信 男
評 議員
︵
昭 23︶
山 崎 望 人
評議 員
︵
昭 19︶
山 本 真 澄
評議 員
︵
昭 17︶
横 山 知 爾
千代田支部長
一
︵
昭 14︶
黄
︵
昭 24専 ︶
杉 本 寿
港支部長
鈴 木
渋谷支部長
︵
昭 24︶
鈴 木 重 弘
新宿支部長
︵
昭 14︶
深沢 甲 子 雄
文京支部長
柴 田 誠 爾
台 東 浅 草 支部 長 ︵
昭 20︶
大澤 光太郎
忠行
台 東 下 谷 支部 長 ︵
昭 24︶
森
御
所
鴇
田
重
樹
のは蛤御門の変だけだろう
から幕末時代の想像は出来
るわけである。ま っ、いろ
いろあ ったさ。
ところでこの御所でもそ
の後訪れた竜安寺の石庭で
も、観光客は自分がそこに
テレビのCMに、﹁そう もんで、見るべき建物、通 なる。其の中で平安朝から いるという証拠を残すため
だ、京都行こう﹂というの るべき道が沢山あるが行 っ 明治にな って東京に遷座す の写真撮りに忙しくてその
がある。古都というのはそ てない所がかなりある。た るまでのさまざまな物語、 景色というか構造物をあま
んな発作的な訪れ方をして またま御所を 一般に見学さ 愛、怒り、嫉み、ありとあ り見ないんですね。立 った
もそれに答えてくれる何者 せると 新聞に でていたの らゆる人間の業が詰ま って り座 ったり大笑いしたり、
かがあるようである。
で、それを最優先にした。 いるのかと想うと息苦しく そのせわしない事。そんな
私も先日、京都と奈良 へ 本当はそのようなことは出 さえな ったけれど、今見て 物、ちら っと見ればそれで
行 って来た。京都には 一昨 かける前まで知らなか った。 いる御所は平安時代のもの 判るんだよと言われればそ
御所の敷地が広いのには ではないと気付いた。焼け うかもしれないが、それで
年も行 ったし、その以前に
も学会で何度も行 っている ホホーとな ったが、建物が たり壊れたりして、ついで はなんだか少々寂しいんで
が意外に観光はや ってない 小さいのにも驚いた。なに に場所も変わ って里内裏が はないだろうか。
二年坂のそばの石塀の小
から空間だけが広くみえて
見さんお断りらしいので遠
も
全
く
の
見
当
違
い
で
も
な
い
昭28 ・神奈川湘
一体どうしてこれで生活で だろう。江戸時代以後に御 慮し た。︵
北学術連絡委員︶
きたんだろうということに 所の近所が騒がしくな った
で、はけ口を求めた陰湿な いじめがどういうものかを
キ大将がいて、幼い子の面 ち溢れた子供らしい姿はな る。いじめ っ子もいじめら
倒をみていた。彼は遊びの い。ストレスはたまる 一方 れ っ子も、ノンポリ っ子も
達人であり、子供たちの憧
れの的であ ったので、彼の いじめが大手を振 って俳徊 理解することになる。この
する。家族は崩壊しており、 時点で、いじめ防止の標語
手にかかれば、大方の喧嘩
もいじめも立ちどころに解 子供の姿が見えない学校で 作りをさせる。優秀作でカ
決したのである。
は、いくら大所高所からい ルタを作るのもよい。遊び
それにひきかえ、現在は じめ対策が出されても、受 の中から思い遣りが育 って
少産少子化で、群れて遊べ け皿がないのだからどうに ゆく。次にロール ・プレイ。
弘
︵昭23 ・中野 学術連 絡委
ただきたい。
ことは小児科医にきいてい
のことは魚にきけ、子供の
る。
空のことは鳥にきけ、海
に追い込むような陰湿ない
じめは 無くなる はずであ
になれば、少なくとも自殺
いじめは学校の大小に関 る子供がいない。彼等を善 もなるまい。となれば、子 いじめの主従を交互に替え
そのあと、デ ィ
係なく、都会や田舎の別な 導するガキ大将の存在は無 供の自浄作用を喚起するし て疑似体験。
く起こ っている。ただ、以 くな った。就学前から偏差 か対策はないとみた。子供 ベートによ っていじめは絶
前は 一時 的いざ こざであ 値に尻を叩かれ、親はテス を育てるのは子供の原点に 対や ってはいけない犯罪と
り、誰も気に止めなか った。 トの結果に 一喜 一憂。これ 立ち 戻るしかな いのであ いう考えを植え つけること
藤
子供たちは路地や広場に を受けて学校も 一に智育二 る。
学年相当のいじめアンケ
群れて日がな 一日遊んでい に智育、徳育抜きで三、四
た。その中心には年嵩のガ に体育。そこには希望に満 ートを用意して回答を求め
究 極 の いじめ 対策
須
員︶
っているが、無錫旅情 って 入り、これが繰り返し流さ 費は年十五元である。学会
開催の費用は総て製薬メー
翌朝、大湖の畔にある公 カーや乳製品、育児製品の
どんな曲だ っけ﹂と考えた れていた。
途端、スピーカーから日本
語の無錫旅情の歌が流れて 園を見物した。入り口を入 メーカーのスポンサーによ
って直ぐの大湖との間に太 り賄われている。その代わ
た御 一行様か、カラオケバ 鼓橋が架か っている見晴ら り中国では、総ての希望者
ーの雰囲気である。同じ思 しのよい池の畔に、なんと が学会に参加できるわけで
きた。温泉街駅前に到着し
いか、K大のM教授と思わ 無錫旅情の碑が建 っている はない。北京児童院 ︵小児
ず顔を 見合わせ てしま っ ではないか。無錫旅情が流 病院︶には約六〇〇名の医
た。それは南京空港から学 行してから日本人の観光客 師が勤務しているが、学会
会開催地の無錫へ向かう迎 が増え、皆この碑の前で写 に参加しているのは二十五
一回しか開催されない。そ
えのマイクロバスの車内で 真を撮るそうである。ガイ 名である。分科会は毎年開
の出来事である。南京と上 ドの景色の説明もあれが無 催されるが、総会は四年に
海を結ぶ高速道路は十月末 錫旅情 にでてく る⋮です
に開通したばかりで、四車 と、無錫旅情に結びつけて のためか、会場は満員で立
っている人も多い。内容も
墨田支部長
南
江東支部長
︵
昭 39︶
孝明
︵
昭 27︶
︵
昭 29︶
吉 村 昭 一郎
品川支部長
︵
昭 19︶
中 安 国 裕
大田支部長
︵
昭 22︶
茂
︵
昭 13︶
安 田 義 雄
目黒支部長
青 柳
線、制限時速 一二〇㎞の本 のものである。日本人は総
格的 ハイウ ェイで、車も殆 て無錫旅情を知 っていると 最初に較べ著しく進歩して
﹁日本の皆様、ようこそ ど走 っておらずマイク ロバ いう感じで、それを知らな いる。勉強しようという熱
中野支部長
豊 島 練 馬 支部 長
︵
昭 25専 ︶
半 田 輝 夫
中 村 浩 之
無錫 にいら っし ゃいまし スは暗闇の中を快適に飛ば い我々は日本人として仲間 気が非常に感じられた。今
年の忘年会にはとても無理
であるが、来年の医局旅行
までには無錫旅情が覚えら
れたらと願 っている。
︵昭34 ・小児科学教授︶
︶
s
﹂ の原則 を確 認し、唯
荒川支部長
高 田渙
︵
昭 20︶
︵
昭 21︶
︵
昭 29︶
︵
昭 25︶
︵
昭 22︶
薄 井 敏 夫
調布支部長
山 手 慎 吾
武 蔵 野 支 部長
岡 本 龍 男
葛飾支部長
雄
︵
昭 16後 ︶
今 井 三 郎
北支部長
北 多 摩支 部 長
︵
昭 25︶
南 多 摩支 部 長
裕
︵
昭2
5︶
廣 野 恵 三
田 村
大 滝 紀 雄
神 奈 川県 支 部 連 合 会会
長
︵
昭 17 ︶
︵
昭 16 後 ︶
神 奈川 川 崎 支 部 長
松田 文太郎
淳
井口 善 二郎
神 奈 川鎌 倉 支 部 長
︵
昭 19 ︶
進 藤
︵
昭 30︶
西 多 摩 支部 長 ︵
昭 26専 ︶
北 海 道 支部 長
靖
神 奈 川逗 葉 支 部 長
︵
昭 28 ︶
徳 田
実
︵
昭 21 ︶
神 谷 正 見
︵
昭 37 ︶
︵
昭 26 ︶
︵
昭 39 ︶
一朗
︵
昭 23 ︶
︵
昭 26︶
︵
昭 30 ︶
江波戸 靖 二
長 野支 部 長
長 田 保 明
山梨 支 部 長
安 川 繁 次
福井支部長
岡
石 川支 部 長
清 水 勝 治
富 山支 部 長
池 田 和 夫
新 潟支 部 長
中 村 敦 典
神 奈川 西 湘 支 部 長
︵
昭 26 ︶
真 島 良 秋
神 奈 川湘 北 支 部 長
︵
昭 23 ︶
長
神 奈 川横 須 賀 三 浦 支 部
高 宮
登
︵
昭 19 ︶
裕
︵
昭 24専 ︶
斎 藤
青 森 支部 長
佐 藤
宮 城 支部 長
博
︵
昭 38 ︶
本 郷 嘉 男
秋 田 支部 長
東海林
晋
︵
昭 31 ︶
︵
昭 27 ︶
︵
昭3
5︶
弘
︵
昭 27 ︶
︵
昭 12 ︶
浅 井 利 勇
千 葉 支部 長
針 谷 嘉 夫
群 馬 支部 長
添 田
栃 木 支部 長
青 木 力 雄
茨 城 支部 長
中 山 元 二
福 島 支部 長
上 野
山 形 荘内 支 部 長 ︵
昭 26 ︶
予科時代には生物学の井 ﹁耐えること
ーン下のバンカーは雨飛沫 い然の光景を見かけるが、
﹂
を
は
じ
め
諸
上清恒教授から〃Study
事万端多くを学びました。 のたつ大きな泥池に化けて ゴルフの基本理念 ﹁あるが
板橋支部長
︵
昭 33︶
山 形 内陸 支 部 長 ︵
昭 26 ︶
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yl
the ball as it lie
森羅万象、緑春 ・朱夏 ・金 目の前に・・・第三打ピン ままの状態でプレー ︵
安 田 栄 一
松 澤 信 五
と習い、医者にな っては学 秋 ・
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るや斜面を
祖から阿部学長に伝承され 中、思わぬ 一粒の小石が運 流れる水の勢いで二mも転
二年連続優勝︵通算三回目︶ れた自然に対して謙虚な祈
た ﹁病気を診ずして病人を 不運を左右する意外性、コ がり落ちる好運も束の間、 一審判のいない自己申告の
診よ﹂と教えられた私に、 ース設計者の意図的な罠、 第 一パ ットは無情にもカ ッ スポーツといわれるゴルフ
自然と人間の架け橋は三十 そして自分なりの技術と頭 プの上を泳いで 一m下にの を心豊かに楽しみ、そして
年の慢性 ゴル フ依 存症で 脳を駆使してパーに挑戦で 悪戦苦闘。上が って初めて ゴルフ場造成により破壊さ
きるゴルフの奥の深さと寛
容さはいつも﹁レバとタラ﹂ を知らされたが、私には悪 り︵Pray to t︶
he E
近
ar藤
th市
の試行錯誤を繰り返す私に 条件下でNo Touch をP
捧l
げるのは、生命を尊重
閑話休題 自然と人間の
は、ア マ・ゴルフの信条﹁楽
に終a始yした自己との戦 するDoctor’s
の 真Gol
足f
立支部長
しく真 っすぐ飛ばす﹂の宿 いに勝 ったことがはるかに の在り方と考える。
一五〇〇万にのぼる大衆化 ルフから体得した私の貴重
いまや日本のゴルフ人口 接点 ﹁
あるがままに﹂はゴ
題を永遠の課題に残してく 意義ある快挙でした。
某年四月恒例の県医師会
れます。
主催 コンペ、この日は朝か の時代、バブル絶頂期某新 な ﹁宝﹂であり、夕陽傾く
ら花曇り途中から小雨、I 聞社のアンケートに ﹁ゴル 最終ホールのグリーン上に
Nでは突風交じりの本降り フはスポーツかギ ャンブル 停む時、病理学の恩師木村
となり頭の先から靴の中ま か?﹂の設問∼都会地では 哲 二先生の ﹁視て見抜いた
曲〃
がるも楽し〃の愉快だ
った亡きゴルフ仲間を追想
でずぶ濡れ、シ ョットのた 大金を賭けての勝負とか、 かね中村君﹂の厳しくもや
びに泥水と草の切れはしが やんぬるかなゴルフ!その さしか った言葉を反省に、
コース内で、イン ・プレー
顔にはね返る難渋さ。それ 風潮のためか昨今なにかと
に終わり三ホールは霧靄の
︵昭22 ・島根支部長︶
中、最終ホールの第二打着 のボールを触り動かす米つ する今日この頃です。
地点を探しあてれば、グリ きバ ッタかミレーの落穂拾
湘
南
支
部(昭35)
平
どではない。本当はこの他 たんだ っけ。でも大体構造 道がよか った。観光客もだ た。無錫は大湖の畔にある していく。無錫旅情はいつ 外れの感じを受けた。
に位の低い使用人達の長屋 は同じだから紫式部がみた れも通らず、時代劇の中を 風光明媚な人口三〇〇万、 か、中国の女性歌手の中国
小児科学会は地元の江南
だの台所や馬小屋その他も 光景と我々が今見ている状 行くようであ った。その小 無錫旅情で知られた有名な 語の 無錫旅情と な って い 大学講堂で七〇〇名以上が
ろもろの生活必需施設があ 況はさほど違 っていないと 道に開いている小料理屋。 街です﹂、日本語のガイド た。その合間に日本でも馴 参加 して盛大 に開催され
ったはずだが、現在はない 思うからそんな想像をして 入 ってみたか ったけれど 一 の説明を聴いて ﹁名前は知 染みの胡弓のメ ロデ ィーが た。参加費は無料で、学会
しろ平屋だから容量はさほ 今の場所の今の建物にな っ
中華医 学会小 児科 学会総 会
“PLAY THE BALL AS I
T LI
ES”
神
奈川
喜
川
前
司
村
中
炉辺談話
無錫 旅 情 と
ゴル フ随 想 ∼ あ る が ま まに
第 5 1 8号
(
第 三種 郵 便物 認 可 )
聞
新
大
慈
(平 成 1 0 年 ) 1 月 2 5 日
19 9 8年
(5 )
醫
(
意 )外 史
︵
意︶外という文字に興味 ﹁高木岬﹂は慈恵医大創始 り、その経緯が詳しく記さ
をひかれ、早速購入して読 者高木兼寛の名前をつけた れている。この頃 ﹁日本橋
名医高木兼 寛の から南にドイツ風ふかず﹂
んだ。第 一章∼第 二章は江 とある。〃
戸時代から明治時代に亘る 輝く業績を世界の医学界が と言われていたらしい。日
日本医学の夜明けの事が書 認めた地名〃であり、地球 本橋から北はドイツ医学の
かれている。我々が歴史で 上の日本領土以外で日本人 本郷を指し、南は成医会講
習 った史実とは少し異なり の名の ついた地名は、間宮 習所 ︵慈恵医大 ・当時は銀
医学 には鎖 国が無か った 林蔵の間宮海峡と高木岬の 座︶を指している。〃
南〃
には肩で風を斬 って歩く様
国の南極地名委員会で命名
で、脚気病細菌説を打ち破
ったように優秀な医学的成
高木岬は 一九五七年に英 な医者はいないが精鋭揃い
事、蘭学からドイツ医学に 二つだけである。
転換した経緯、参勤交代が
医学の伝播に如何に重要な
生い立ちから経歴が詳細に 果をあげたとも書かれてい
役割を果たしたかが記され された。そして高木兼寛の
ている。
第三章では、医業以外で 書かれている。第五章では、 る。また日清戦争の勝因の
名を 遺した人 が載 ってい 明治時代の医学界の常識に 一つに脚気の撲滅があ った
允
野
永
紀久雄
高 橋
身近 な と ころか ら
努 力 しよ う !
慈 恵 を特 に
有 難 い と思 っ た こ と
思う機会はありましょう。
私は仕事の関係で接する医
師は殆ど国立卒なので、慈
大卒業後五十年を迎えた今
日までに母校をなつかしく いると思いますが、この祝
しているためであろう。
のC排
O出
2である。排気ガス
カーは、〃アイドリングは 電気の節約にと って大変良
来ていたものと考える。
る電気器 具が出回 ってい
しかし日本の自動車メー る。これは、火災の防止と
一定時間経つと自然に消え
分以前からアイドリングな である。最近消し忘れると、
まず最も身近にあるもの ど不要の良い エンジンが出
はCの
Oみ
2ならず、硫酸 ・窒
しないで下さい〃と云わな い。しかし 一般の家庭やオ
は、自動車のエンジンから
素化合物と公害発生の代表
る処置をしていない。この る時にonにしたスイ ッチ
的な選手である。自動車メ いし、政府もこれを禁止す フィスの階段や廊下で、通
ーカーは排気ガス規制をク
リアーすべく努力をしてい ため町中 では運転 手の休 が通過し終わると offに
るが、売 ってしま った車の 憩、睡眠中のタクシー、ミ なるような電力節約スイッ
キサー車、宅配便のトラッ チは我が国ではほとんどな
ことはもう知 ったことがな
い態度である。その代表的
クを始め、新聞配達、そば い。
ドイツの話にな って恐縮
なものは、車のアイドリン 屋のスクーターまでエンジ
を節約したり、節電するこ
ず排気ガス規制とガソリン
ている。アイドリングをせ
えるスイ ッチが日常使われ
して通り終わると自然に消
大学病院などでも、 onに
グである。私が 一九六〇年 ンをかけ っぱなしで駐車し であるが、半世紀以上にわ
ている。ドイツではタクシ たりドイツでは家庭を始め
にドイツに留学していたと
方々にお勧めしたい。︵著 大きな問題にな っている。 ていた。その頃は日本のエ 位であろう。
アイドリングはC規
O制
2に と、日本人とドイツ人のも
者小池猪 一・日本小児医事 我が国は議 長国と 云うの ンジンは欧州車に比し性能
出版社 ・■五三八八︱五 一 に、充分C規
O制
2が出来ない が劣るから仕方がないとさ と って身近な 問題である のの考え方教育が、全く異
九五 ・二、四八〇円︶
のは国民 の関心が薄 いの れていた。しかしその後日 が、それより大きいのは無 な っているとしか考えられ
︵昭45 ・評議員︶ と、規制をすると自分の利 本車は、アイドリング禁止 人のビルが夜中もこうこう ない。
益を損なうから知らん顔を の国に輸出されていた。随 と電気が点されていること
︵昭28 ・慈大名誉教授︶
大部分は戦時中にドイツ語 演習中に三人の兵士が穴に し、また地元の畜産農家で
思う機会 は多々 ありまし 文の文章は大層素晴らしい の教育を受けたので、それ 落ちて、﹁ガス﹂中毒で死 はこの穴のことを ﹁毒穴﹂
に合格する人が少なくて、 亡するという珍しい事件が といって怖れ、動物がそこ
大学公衆衛生学部に留学す
テルで開かれました。これ 大同窓会にも厚く御礼申し すすめられて、 ハーバード
年記念会が東京プリンスホ ました。この稿をかりて慈 英会話学校にも行くことを
日は大学招待で卒業五十周
一、昨年秋の十 一月十八 の心温まる祝文にな ったも 人による二次面接はおまけ
のと信じて強く心をうたれ してくれたようで留学中に
には自分の母校を有難いと ます。
秀
湯 浅
については同月の慈大新聞 上げます。
に掲載されている通り、素
最近の慈恵卒業生の多く
三、昭和三十五年に私は ることができました。
晴しいものでした。同期生 ア メリカに 留学できま し
一同が喜び合い、非常に盛 た。当時、勤めていた国立 は会話に達者で経済的に恵
男
信
木
三
り上 った雰囲気でした。他 公衆衛生院の斉藤潔院長に まれていることで、私の如
校に卒先して、この心温ま 呼ばれて ﹁アメリカ留学の き他の恩恵は不要かと考え
る招待会を御計画下さ った 試 験がある から受けな い られますが、当時としては
﹁
慈 恵だか ら英語 ができ
母校に深く感謝する次第で か。慈恵は英語ができるか
ら君は通るかもしれない。
﹂ る﹂という言葉は非常に有
︵昭22 ・藤沢市︶
二、平成五年に私は幸運 と言われました。この国費 難いものでした。
す。
にも叙勲を受け、慈大同窓 留学は戦前では国立大学卒
情 報 化 時代 に
思 うこ と
ような自衛隊で、ほんとう ら三人や って来て、三十分
本陸軍の歩兵第五連隊が、 などいろいろあります。私 あ っても私にと って必要な
強行した雪中行軍に参加し 自身が余程し っかりとこの のは最新の医学情報ではな
波を受けとめないと、ただ く、何処に行 ったら美味し
それとは比べものにならな
前ともなりますと、古い情 この頃です。
うに学校を出たのが四十年 を豊かにしてくれると思う
れ替えが必要です。私のよ な情報が私の残された人生
︵昭30 ・評議 員︶
い位お粗末なことは分かり
点では日本陸軍の体質は何 報の入 っている引き出しも
ますが、情報を重視しない
日本の気象予報は、今日の 個人の持 つ情報も絶えず入 生活の情報でした。この様
が凍死するという大惨事を 情報の波間に流されること いものを食べさせる店があ
おこした因縁の場所でもあ になります。今日のように るとか、今年の紅葉は何処
ったのです。 一〇〇年前の 技術革新の早い時代では、 が美しいとかい った楽しい
た兵士 二 一〇人中 一九九人
とにあるのです。その附近 情報の種類もテレビ、
新聞、 様な説明は手遅れです。結
は 一九〇二年に青森の旧日 雑誌、フ ァックス、口コミ 局今日の様な情報化時代に
中の ﹁ガス﹂の存在を情報 晩まで多くの情報が怒濤の が、パソコンを自由に使う
として持 っていなか ったこ ように押し寄せています。 ことの出来ない私にはこの
だからこそ特に良か った﹂ 会長名であり、文章は恐ら 私にチャンスがまわ ってき ありました。あとから分か に落ちると死ぬことを昔か にこの国の守りが出来るの 間 の説明を聞 かされま し
どこの医大でも卒業後長 と母校に感謝することがあ く長い間に磨き上げられた たわけでした。私は英会話 ったことですが、穴の中の ら知 っていました。
か心配になります。
た。確かにEメールやイン
い間、医師として働いた人 りますので三例をあげてみ ものと察しますが、良い伝 はだめでしたが 一次の筆記
濃度は
C地O上2の八〇〇倍も
この事件で問題にな った
さて話は変わりますが、 ターネ ットが利用出来れば
統が続いているからこそこ 試験が良か ったらしく、外 あ ったとのことです。この ことは、自衛隊がこの穴の 今日我々の周囲には朝から 便利 なことは分 かります
た。その中でも ﹁慈恵卒業 もので寄贈者は当時の同窓
況もし っかり把握出来ない してもらいたいとNTTか
会から高価な銀盃と丁寧な 業生のものであ って、戦後
祝文をいただきました。慈 でも当時では殆ど国大卒に
去 年の七 月のこと です ﹁ガス
年た ってもあまり変わ って 動きが悪く入れ替えるのが
﹂
の
存
在
に
つ
い
て
は
恵卒業生で叙勲を受けた人 占められていました。私と が、八甲田山の田代平高原 すでに何年か前に弘前大学 いないと思うのです。毎年
困
難なのが現状です。
は同様なものを受け取 って 同じくらいの年齢の医師の で陸上自衛隊の第九師団が の調査の報告がありました 巨額な防衛予算を使いなが
先日もコンピ ュータネ ッ
ら地元の演習地の自然の状 トワークを医師会にも利用
名に遺 った名医の名前が出 医学派を差し置いて高木兼
てくる。人形町 ﹁玄冶店﹂ 寛が登用されたのは、既に
の岡本玄冶、京都 ﹁玄琢町﹂ ﹁高木兼寛伝﹂や小説 ﹁白
の野間玄琢、近年では新潟 い航跡﹂に書かれているが、
﹁オギノ通り﹂の荻野久作 ﹃命がけの脚気撲滅作戦﹄
などあり、ここで南極大陸 が天皇に認められた為であ
る。本居宣長は伊勢の小児 はない話題として、明治天 ことを記し、ここでも高木
き、ドイツでは既にアイド ーが駅前などでお客を待つ
皇が悩まされた脚気の問題 兼寛の功績を取り上げてい
一昨年秋に或る医学雑誌
リングは禁止されていた。 ときは、夏でも冬でもアイ
科
医
、
大
村
益
二
郎
は
蘭
学
医
、
の広告に ﹁醫︵
意︶外史﹂ 後藤新平は洋方外科医だ っ を取り上げている。当時の る。
当時日本の車は エンジンを ドリングはしていないし、
という本が紹介された。醫 た⋮である。第四章に、地 医学の主流であ ったドイツ
この本は、私が偶然出会
温暖化防止法国際会議を 暖めないと故障すると云 っ 車が寒いからとか暑いから
ったものであるが、同窓の 機会に、炭酸ガスの規制が て、アイドリングが行われ とか文句を云う人は日本人
−学祖 高木兼寛の業績−
炉辺談話
(6 )
(
平 成 1 0 年 ) 1月 2 5 日
19 9 8年
聞
新
大
慈
(
第三 種 郵便 物 認 可)
第 5 18号
岐阜 支 部 長
丸 山
静 岡支 部 長
︵
昭 19 ︶
一郎
︵
昭 19 ︶
︵
昭 28 ︶
柳 本 冬 彦
愛知 支 部 長
︵
昭 24︶
河辺 寿太郎
京滋 奈 支 部 長
︵
昭 30︶
高 橋 浩 昭
大阪支部長
︵
昭 34︶
一
︵
昭 37︶
為 永 清 吾
兵庫支部長
鶴 崎 隆
和歌 山 支 部 長
︵
昭 19︶
小 幡 淳 美
鳥取支部長
愛媛支部長
︵
昭 19︶
︵
昭 21︶
篤
︵
昭 37︶
石 川 益 男
高知支部長
伊 藤
福岡支部長
︵
昭 32︶
一秀
︵
昭 20︶
宇都宮 英 一
佐賀支部長
東
長崎支部長
︵
昭 22︶
寺 井 大 八
熊本支部長
︵
昭 23︶
永 田 忠 寿
大分支部長
︵
昭 19︶
一
︵
昭 55︶
御手洗 東洋
宮崎支部長
近 藤 宏
鹿 児 島 支部 長
小田原 得 二
︵
昭 30︶
幸 地 昭 二
沖縄支部長
浩
︵
昭 25専 ︶
台 東 浅草 学術 連 絡 委 員
大 橋 政 明
台 東 下 谷 学術 連 絡 委 員
︵
昭 45︶
内 藤 裕 郎
︵
昭 46︶
墨 田 学 術 連絡 委 員
横 山 誠 之
江 東 学 術 連絡 委 員
︵
昭 27︶
篠 宮 昌 衛
品 川 学 術 連絡 委 員
︵
昭 37︶
上 竹 将 夫
︵
昭 43 ︶
大 田 学 術連 絡 委 員
鏑 木 公 夫
目 黒 学 術連 絡 委 員
︵
昭 26 ︶
青 木 茂 正
毅
世 田 谷学 術連 絡 委 員
︵
昭 42 ︶
小板橋
杉 並学 術 連 絡 委 員
︵
昭 33 ︶
笠 原 行 喜
弘
中 野学 術 連 絡 委 員
︵
昭 23 ︶
須 藤
野 木 村友 一郎
豊 島練 馬 学 術 連 絡 委 員
︵
昭2
5専 ︶
前 田 立 雄
︵
昭 19︶
晋
保
港 学 術連 絡 委 員 ︵
昭 33 ︶
水 川
︵
昭 37︶
中 央 学術 連 絡 委 員
︵
昭 27︶
︵
昭 29︶
司
︵
昭 22︶
桑 田 岩 雄
島根支部長
中 村
岡山支部長
橋 本
広島支部長
児 玉
山 口支 部 長
洋 二
板 橋学 術 連 絡 委 員
︵
昭 36 ︶
堀
北 学術 連 絡 委 員 ︵
昭 29 ︶
岸 田 博 公
新 宿 学術 連 絡 委 員
︵
昭 26 ︶
稔
松 井 元 司
西 松
茂
正
︵
昭 22︶
友 成
荒 川学 術 連 絡 委 員
︵
昭 24専 ︶
武
文 京 学 術連 絡 委 員
︵
昭 20︶
︵
昭 18︶
山 田 正 克
徳島支部長
藤 田
香川支部長
白 川
式を導入する、②薬価制度
酬体系に大幅な定額払い方
る。このDRG/PPSは /PPSは急性疾患 ︵
約一
ヶ月以内︶の入院治療につ
︶な の
eで
nあ
t 定
Sがyあs
るt
がe
、m
日本版DRG
る、④高齢者の患者負担に されているという。開発の
る独立の医療保険を創設す 韓国でも検討あるいは試行
る、③高齢者全員が加入す オーストラリア、カナダ、
り、また手術料 ・麻酔料は
疾患は高 頻度のも のに限
うとしている。取りあげる
いてマルメの点数を決めよ
に参照価格制 度を導入す 米国で開発され今や欧州、
定率制を導入する等を柱と 経緯は米国政府が病院にお
いずれ にしても 今年度
中に 国立系十病 院でテ ス
一
欣
口
した ﹁二十 一世紀の国民医 ける効率的な生産管理の手 別途加算とするが、医師技
療∼良質な医療と皆保険制 法 ︵トヨタの生産管理のよ 術料は含めたものとな って
度確保への指針∼﹂なる抜 うな︶の研究委託を行い、 いる ︵米国ではメディケア
本的改革案を示した。厚生 DRG/PPSはエール大 ーのパートAについてのみ
省はこれを受け ﹁医療保険 学が 一九六八年から十年か DRG/PPSを行いドク
医療経済学の実証的研究で
福祉審議会﹂を設置し順次 けて開発したもので、四九 ター フ ィーは入 っていな
。
関係法案を国会に提出する 五の診断群にまとめられた い︶
こととな っている。
トラ ンを始める としてい
る。日医は患者選択の危険
性や医療の質の確保 ・向上
ているが、DRG/PPS
コ ミュニ ケ ー シ ョン
はこの 一品を図案化したも い。実子の隆元、元春、隆
利氏の家紋﹁一つ三つ星﹂ い決断であ ったに違 いな
︵一品親王︶の落胤音人で毛 したことは元就の最も悲し
月の秘密の儀式があ った。
﹁もはや ︵徳川討代の︶準
から続けられた毛利家の正
であ った。江戸時代の初め
徳川家の怨念は非常なもの
当初バイオア ッセイ ︵
生物 検定も可能であ った。内分 ロイド解析を試みた。詳細 後、エスト ロゲンの心 ・血
学的検定法︶が盛んであ っ 泌薬理学を標榜する教室で は別として投与したエスト 管系副作用が欧米で問題と
た微量定量法の出現前は、 ては10-オ8ーダーの微量
て隔月に 一本の割で自己デ ストステロン ︵DHT︶産 ゴニストによる内科的去勢
ータ中心の論文を公にし御 生を促進することを報告し 術、② エスト ロゲン剤、③
抗アンド ロゲン剤に三大別
次に、前立腺癌担癌ラ ッ される。これら理論に基づ
た。
米では癌死の上位を占め、 トを去勢した。宿主のアン いて併用療法が試みられ良
クリントン大統領も ﹁米国 ド ロゲン量 は有意低 下し 好な成績をみたとする報告
ところで、前立腺癌は欧
批判を仰いでいる。
癌死の第二位で、今や前立 ﹁エスト ロゲン優位﹂環境 もあるが、やはり再燃率を
腺癌は社会問題である﹂と が惹起された。ところが前 大幅に減少させるまでには
力説した ︵第九十二回米国 立腺癌自体の発育 ・成長は 至 っていない様である。前
清
葛 飾 学 術 連絡 委 員
︵
昭 25専 ︶
栃 木 学術 連 絡 委 員
︵
昭 47︶
中 山 信 彦
群 馬 学術 連 絡 委 員
︵
昭 29 ︶
高 島 正 敏
埼 玉 学 術連 絡 委 員
福井 学 術 連 絡 委 員
︵
昭 37 ︶
田 中 広 昌
山梨 学 術 連 絡 委 員
︵
昭 38 ︶
島 田 和 哉
長 野学 術 連 絡 委 員
︵
昭 40 ︶
中 島 万 方
︵
昭 27︶
浜 田 雅 之
神 奈 川鎌 倉 学 術 連 絡 委
員
︵
昭 40 ︶
神 奈 川 逗葉 学 術 連 絡 委
︵
昭 31 ︶
信明
天 野 文 武
南
神 奈 川横 須 賀 三浦 学 術
連絡委員
︵
昭4
5︶
鴇 田 重 樹
神 奈 川湘 北 学 術 連 絡 委
員
︵
昭 28 ︶
神 奈 川西 湘 学 術 連 絡 委
静 岡学 術 連 絡 委 員
︵
昭 27 ︶
福 地 益 人
須 知
寛
仁
愛 知学 術 連 絡 委 員
︵
昭 28 ︶
永 井
隆
京 滋奈 学 術 連 絡 委 員
︵
昭 46 ︶
三 重学 術 連 絡 委 員
︵
昭 23 ︶
大 前
大 阪学 術 連 絡 委 員
︵
昭 37 ︶
大 谷 周 三
坦
兵 庫学 術 連 絡 委 員
︵
昭 45 ︶
足 立
和 歌山 学 術 連 絡 委 員
︵
昭 42 ︶
榎 本 光 男
︵
昭 31 ︶
鈴 木 善 郎
員
一彦
小 林 輝 夫
宮 城 学 術 連絡 委 員
︵
昭 42︶
松 田 直 樹
︵昭46︶
秋田学術連絡委員
杉田 多 喜男
山 形 内 陸 学術 連 絡 委 員
︵
昭 42︶
伊 藤 義 彦
鳥 取学 術 連 絡 委 員
︵
昭 24 専 ︶
良 尚
景 山 浩 次
岡 山学 術 連 絡 委 員
︵
昭 52 ︶
木 村 晃 三
島 根学 術 連 絡 委 員
︵
昭 41 ︶
岸
新 潟 学術 連 絡 委 員
︵
昭 39 ︶
入 倉 英 雄
山 形 荘 内 学術 連 絡 委 員
︵
昭 47︶
長 島 義 弘
一朗
石 川 学 術連 絡 委 員
︵
昭 39︶
高橋 謙太 郎
高 橋
富 山 学術 連 絡 委 員
︵
昭3
7︶
健
福 島 学 術 連絡 委 員
︵
昭 35︶
瓶
茨城学術連絡委員
︵
昭 44︶
加 納
徳 久 靖 高
今 井 健 郎
神 奈 川横 浜 学 術 連 絡 委
員
︵
昭 48 ︶
栗 原 宣 夫
岐 阜学 術 連 絡 委 員
︵
昭 27 ︶
昇
千 葉 学術 連 絡 委 員
︵
昭 36 ︶
中 村
陽
北 多 摩 学 術連 絡委 員
︵
昭 43︶
山口
調 布 学 術 連絡 委 員
︵
昭 33︶
江 戸 川 学 術連 絡委 員
︵
昭 55︶
本 井 儀 一郎
kuma/ganesh.html︶
伊 藤
る。メールアドレスが書い れを見たお母さん方の評判 る。 これ が浜 口欣 一の W e
a20.mbn.or.j
p/−siro
a立
z 学 術 連絡 委 員
てあ ったので、コマーシ ャ が良か ったという。第二段、 b 病 理 学 ︵http://pl足
︵
昭 24︶
ルを利用して電脳賀状を送 今度 は彼の専 門領域 であ
った。早速先生から電脳賀 る、喘息 ・アレルギーにつ
状の返信を頂いた。以来 一 いて、病理画像を使 っての である。この情報は恰も独
年間で約二百八十通近いメ 説明。この画像は病理の仲 立したページのようである
間の協力を得た。協力して が、実は彼のホームページ
先生は既にホームページ くれた仲間にホームページ の 一隅に存在する。情報を
ール交換があ った。
ムページを見ても、患者側 ハー フオンライ ンとすれ
に理解しやすいこの様なペ ば、オンラインでも意志の
症症候群を電顕像を使用し ン︶、後はメールの交換 ︵オ
ての解説、各種関連のホー ンライン︶である。電話を
この間に彼と会 ったのは
段、 一昨年話題とな ったO
1︱
75による溶血性尿毒 た ったの 二回 ︵オ フライ
を公開し、患者さんに医療 を見せたら、こんな事も出 発信すると言うことは、他
情報を提供している。その 来るのですか、すごい情報 人の批判を仰ぐと言うこと
情報を少しでも分かり易く の世の中にな ったものです であり、進歩のためには大
理解して頂くために病理画 ね、との感想。続いて第三 変重要なことと考える。
像の添付を提案し実現の運
びとな った。まず第 一段は
学校検尿である。小児科専
門医である彼にと って、避
けて通れない日常診療で重
要な項目である。小生が学
い習慣とな っている。貰 っ 上が ったホームページを見 重くな ってしまい、小生の
てこれは誰だろう、なるほ ると、予想以上にアカデミ 提供分を別ページにするこ
ックな仕上がりである。彼 とにした。つまり家の家財
ど彼らしい凝 ったものだと
彦
岩 手 学 術 連絡 委 員
n理
h学
.第
g2
o助
.教
jp︶ 感心させられた 一枚があ っ の待合い室にはインターネ 道具が多くなり、別棟を建 ︵昭 45 ・病
齋 藤 文
ットが公開されており、こ てることにな った次第であ 授︶
た。後輩のS先生からであ
のである。音人の八世の孫 景の三人の結束をうながし
備万端ととのいましてござ
た。男性ホルモン検定には 育ち米国ステロイドメ ッカ ロゲンがアンド ロゲン受容 な って作用機序が異なる薬
ラ ットを去勢し萎縮した前 に草鞋をぬいだ筆者は、副 体を修飾し、その数と感受 物が開発された。
薬理学の分野ではアイソ 射で有意に重量増加の検定 前立腺重量は有意に増加す よる前立腺癌の併用療法を
︵
昭 40︶
員
菅 野 恒 治
トープや高速液ク ロとい っ 結果が現れた。方法によ っ ることを見出した。そこで 確立したHuggi
博n
士s
は
でステ ノーベル賞を受けたi
nの
vivo,in vitro
。そ
あり、源義家に江家伝来の と思われる。元綱に従 った
います。いかが致しますの
に有名な軍学者大江匡房が た教えもこの事によるもの
渡辺勝、桂広澄も生命を失
こし戌辰戦争に勝利し明治
四代藩主に就任、明治十七
二十六年元徳の長男元昭が
前 立 腺 癌 とホ ル モ ン
まだ時期にあらず﹂と返答
の祖となる。その孫時親は 年 ︵一五五四︶に巌島で陶
と養嗣子元徳が明治 二年十
一生を得た。又天文二十三 藩と連合して討幕の軍を起
安芸毛利の初代であり楠木 晴賢と戦 っ時、広澄の子元
正成に江家軍略を伝授した 澄が晴賢に謀略をしかけ、
年に公爵を授けられ、明治
が毛利姓を名乗り毛利 一族
という。この軍略は家伝と 元就を晴賢とで挾み打ちに
して安芸毛利当主に伝えら すると晴賢に信じこませた
家督を嗣いでいる。明治四
ズ ・一九九七︱四︶。正常
るe
が、臨床治療上の
の活性亢進と
oい
maせ
tて
aいs
ラ ットを精巣摘除すると前
立腺は萎縮する。ところが う性質に変化することを証 実用化には更に時間を必要
これに適量の エストロゲン 明した。約五十五年前に外 とする。︵昭27 ・聖マリ医
投与で去勢のみに比較し、 科的去勢とエスト ロゲンに 大名誉教授︶
大 平 征 二
5 立
α腺
-癌
rの
e研
d究uはc
分t
子a
生s
物e
学とar−
泌尿器学会 ・ニューオリン 抑制されず、その癌組織は
三
利用の上で急速な展開をみ
直
政府を樹立する。敬親のあ
れ、弘元から元就も之を学 のも勝利の 一因であ った。
び西国の桶狭間といわれて 自分が殺した家臣の息子が
いる有田合戦に役立て初陣
十年に設立された社団法人
元
就を助けたのである。
の勝利を飾 ったのである。
毛利氏は戦国時代十国、 東京慈恵会の評議員ととし
毛利元就が本家を継ぐに 百 二十万石を領有したが、 て公爵母堂毛利安子とある
当た って、尼子に唆かされ 関ケ原の戦いに敗れ家康に のは元徳氏令室で元昭氏の
謀反をはか った異母弟の相 より長門、周防 二国の三十 母堂であると推定する。
合元綱を機先を制して誅殺 六万石におとされ、家中の
︵昭21 ・足立支部長︶
正
井
平
田渙
高
や﹂と言上すると、﹁いや
兵法を伝授したという。
したという。毛利宗家十三
の つ な が りに 就 い て
立腺 ・精のう ・凝固腺 ・肛 腎 ・卵巣 ・精巣及び近縁臓 性を増加させ前立腺におけ
現在使用されている内分
門挙筋などがアンド ロゲン 器とは四十年来のつき合い るステロイド生合成 ・代謝 泌療法は作用機序から①外
含有の組織や血液抽出物注 で、今も恩師の遺訓に従 っ は盛んとなり、デヒド ロテ 科的去勢術とLH︱RHア
毛利の名は匡房の曽孫広 うのだが、勝の息子通は天
毛利元就は大江氏の末裔
である。始祖は五十 一代平 元が相模国下毛利荘 ︵現在 文十 一年 ︵一五四 一︶に尼
城天皇の第 一皇子阿保親王 の神奈川県厚木市愛川町附 子攻めに失敗した元就の身
毛 利 元 就 と東 京 慈 恵 会
青森学術連絡委員
︵
昭 40︶
校検尿の経緯と病理画像お ージは見あたらない。だん 確認は充分出来、ネ ットワ
学術連絡委員
神 奈 川 川崎 学 術 連 絡 委
年賀状の交換は儀礼的と よび簡単な説明を付け、彼 だん内容が充 実し てく る ークの何たるかを学んだ 一
︵昭 42 ︶
員
︵
昭 31 ︶
はといえ、避けては通れな が総合的にまとめた。出来 と、 一つの枠組みの中では 年であ った。
穂ak積
田 辺 裕 文
op中
s.s
ura
︵メール ・アドレa
スg
hu
at
mi@h田
オ ン ラ イ ン ・オ フ ラ イ ン 、
代藩主毛利敬親の時、薩摩
︵Prospective P
なa
どy
にm
所−謂マルメの点数設
︶/ Pl
Pa
St人
e慢
d性
疾
G患
r外
o来
u総p合診療料 授 ・東京厚生年金病院︶
の 一項がある。これがつま
現行点数表では入院で老 そのものについての詳述は
り﹁診断群別包括支払方式﹂ 人保健施設療養費、また外 次の機会に譲りたい。
DRG ︵Diagnosi来
sで
小
R児
e科
−外来診療料や老 ︵昭34 ・形成 外科客 員教
め、その導入を検討する] 開催されている。
いに ついて基礎調 査を進 され、すでに数回検討会が が困難などの問題点を挙げ
この四本柱の 一つ ﹁
診療 ある。これを参考に日本版
与党医療保険制度改革協
議会は昨年八月二十九日、 報酬体系に大幅に定額払い DRG/PPSの本格的試
二〇〇〇年度から①診療報 方式を導入する﹂のなかに 行を行うべく ﹁診断群別調
[
入院患者の疾患別定額払 査研究班﹂が厚生省に設置
DRG / PPS
近︶を与えられ、四男李光 代りとなり、元就は九死に
炉辺談話
浜
次
純
村
中
第 5 1 8号
(
第 三種 郵 便物 認 可)
聞
新
大
慈
(平 成 1 0 年 ) 1 月 2 5 日
19 9 8年
(7 )
西
吉
村
昭 一郎
な喜びと な ってき ていま ていたのでしたが、諸先生
す。心からお礼を申し上げ 方によつてカルテ本来のア
て、何かあるごとに ﹁
どう ました。この年齢にして私
るのではないかと心配され す思いがしてこの話を聞き
十年以上も前にラジオ番 知らぬ人物が学術用語を自 え変わる﹂と述べた。時に いる成虫は、肺吸虫類 ︵
種
だヨシムラ、や っているか﹂ は初めて町医者になること
とお会いする度に所かまわ の厳しさを教えられたので
ずに大声で問いかけられま した。今更ながらに堀口正
た。
交代して若い力士に出て来 A←B⋮と交互に繰返され
越しを報じつつ、﹁
世代を する二型の世代がA←B←
するので幼生生殖とも呼ば
個ず つ生じて無性的に増殖
カリア ︵有尾幼虫︶を複数
中嘆くうち、地球温暖化を
体内で有性世代 ︵成虫︶へ
セルカリアとな って終宿主
しがたいもの、つまりは普
遍的でないものとして定義 く少数の人をのぞいてはま
意味で交通信号は文明であ な っています。
このように有性と無性と
あ る国であ るともい いま
いうことは世界に通じるも リカだけでなく世界各地か う文化の累積というアン コ
のであ って、普遍的と言う らの医師の雑多な集まりと のうえに皮のように文明が
しています。青信号が進め ずありませんから、レジデ やすらぎのための不合理な
で赤信号が止まれであると ントというのはつねにアメ かずかずの習慣と、そうい
ンジ ュウにたとえ、精神の
民族︶においてのみ通用す は医学校を卒業したあと、 むものには安堵感をあたえ
る特殊なもので、他に及ぼ おなじ大学の付属病院でず るものであると司馬遼太郎
っと研修を続けることはご は言います。また日本をマ
む しろ不合理 なもの であ に文明というべきもののよ は不合理で普遍的でないも
り、特定の集団 ︵たとえば うです。アメリカ合衆国で のであるが、そのなかに住
程遠か った。本来の意味を は世代交代して別の種と生 であろう。人畜に寄生して ︵昭30 ・戸板女子短大教授︶
が遺伝する生物学用語とは 移動するが、動けない植物 吸虫 ︵
ジスト マ︶類が好例 と表現して貰いたくない。
変えたかとの低俗な話題を ﹁百年間で気温が2度も上
世代の交代を営む生物は が交互せずに、子の代にな
識者気取りで喋 ったに過ぎ 昇することは凄く急速な変 動物にも植物にもあるが、 るとか、後輩と役目交代を
ず、遺伝子が変異して形質 化で、動物は北方や高地へ 医学畑に関与する動物では するなどを安易に世代交代
小出五郎 NH K解 説員は たに違いない。
のデメリ ットを質問された ならば誤用は横行しなか っ と成長する。
嘆く話題となり、温室効果 いか?。世代の交番のまま
し囃
て改称した弊害ではな
こんな時にも使われてと心 同じ発想で平易な語を持て れるが、セルカリアはメタ
て貰いたい﹂と云うので、 ることだから、漢字制限と
担当評論家が小錦関の負け とではない。生殖法を異に るレジア、その体内にセル
前々 日で、﹁この 一番﹂の C←D⋮︶と代が変わるこ に変態し、その体内に生ず
大相撲九州場所千秋楽の ることで、単にA←B ︵
←
︵代わりばんこ︶に入れ替 ︵有毛幼生︶は無性世代で、
中間宿主内でスポ ロシスト
去る十 一月 二十 一日だ っ 無性世代とがかわるがわる ら泳ぎ出 るミラシジ ウム
ジオで好機に遭遇したのは れていた通り、有性世代と シジウムを内在する。卵か
ずにいたところ通勤車内ラ くは ﹁世代の交番﹂と称さ 合卵で、種によ ってはミラ
誤用され て耳障り な語は
生物学で云う世代の交代 よる︶受精卵を産む。この
﹁世代の交代
卵
は
一
個
の
胚
細
胞
と複数個
は
A
l
t
e
r
n
a
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n
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f
g
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﹂
で
あ
る
。
忠
の卵
告的発言の切 っ掛けを掴め
の和訳 で、古 n
e黄
r細
a胞
tと
iを
o含
n有sする複
組で某タレントが ﹁貴方は 己流解釈で得意気に使うの は学者よりも博識で、鋭い に よ っては 単 為 ∼処 女 生
突然変異をしたことがあり を聞くと、用語の混乱を招 論評を業とする科学評論家 殖?︶も肝吸虫 ︵前者とと
ますか?﹂と云うので謹聴 くのを危惧する以前に苦々 がこの程度の素人並みの理 もに雌雄同体︶も住血吸虫
すると、単に化粧や服装を しさを覚えるが、昨今の教 解度かと知ると、俄然執筆 類 ︵雌雄異体︶も有性世代
養ある人々から濫用気味に 慾に駆られた次第である。 だから ︵原則として交尾に
晴先生の ︵オマエヤ ッテイ
今回の病気を通して患者 ルカ︶が、こたえました。
す。
と医師は 一心同体とい った この年ではもう私には無関
ところがあるという経験を 係だと思 っていた生涯研修
聞けば私が倒れたその日か ミナーに出席しました。案
ら歩けなくなり、所謂寝た の上、刮目すべき収穫があ
れられてや って来ました。 ことのなか った大学夏季セ
ころがありましたが、今で ち私のカルテも当時多忙に 致しました。私の再起した の意味が更めて私の心を刺
は診療の出来ることは大き まかせて乱雑なものにな っ 時、 一人の老婆が息子に連 激します。今まで出席した
でした。当初、患者に会う です。このことは更に私に
のはオ ッカナビ ックリのと 幸せをもたらせました。即
病 後 通 信
予後の悪いと考えていた
クモ膜下出血を 一致協力し
て癒して頂きました。新し
い医学を習得された若き同
窓の先生方によ って私は何
の後遺症もなく、再起させ
カデミ ックな姿に生まれ変
私が倒れた後、私の患者 わりました。また、 一人の きり老人にな ってしま った りました。私の場合、やや
達は青戸病院内科野間健司 患者に複数の先生が関与さ とのことでした。カルテは 遅きに失しましたが、これ
て頂きました。医師にと っ ます。
に素晴らしいことであ った
先生が中心となり ︵石木先 れることもあ ったので連絡 その間、空白にな っており からということにいたしま
て患者に会うことはこの様
のかと改めて知らされたの
生他十五名︶の大勢の先生 上いろいろの考えが記載さ 私 が再起す ることを知 っ す。
この度、図らずも青戸病
方が交互に分担して診て下 れるわけで、大変によい勉 て、や って来たとのことで
さいました。今にして思う 強になりました。場合によ 私は言うべき言葉を失くし 院の内科の先生方にそれぞ
とこれは大変なこと︵
人事︶ って新しい検査もなされて てしまいました。やがて彼 れの先生方の字でテ コ入れ
であ ったと存じます。病院、 おり新たに診断学の本、正 女はその年の暑い夏の日、 をして頂いたカルテを毎日
医局の暖かい御理解がなけ 常値 ハンドブ ックの書物を 衰弱のため他界してゆきま の勉強の友として、何とか
れば出来ないことであり、 用意しなければならず再起 した。私さえ元気でいれば、 私なりに美しきカルテを作
単に同窓ということだけで する折のよき医学的リハビ まだまだ彼女は元気で家人 り上げてみたいと思う今日
︵昭27 ・江東支部長︶
出来るものではなく今更な リに役立ちました。恩師堀 の世話などをしていただろ この頃であります。
がらに感謝致している次第 口正晴先生は病後私がボケ うと思います。私は襟を正
ント ッシ ュのデ ィスプレー ある定期支部長会議の掲載 が 出来 上 が った。ETP 得た。このような試みが今
を見ながらふと ﹁
本当に夢 されている第五 一五号 ︵平 ソフトでサイトにアップ ロ 後どのような展開をたどる
を見ているようだ﹂と思わ 成九年十月二十五日︶に決 ード、ネ ットスケープでブ かは、同窓諸氏の意識がい
司馬遼太 郎はそ の著作
ずつぶやいてしま った。
めた。食事、入浴、睡眠、 ラウジングする。母校中興 ずれ決めることになろう。 ﹁アメリカ素描﹂で、文明
一に歴史と伝統、二に母 それにトイレの時間も切り の祖樋口 一成先生の二十三 一人でも多くの方がご覧に を ﹁だれもが参加できる普
校への愛着、三に同窓の強 詰め、強まる家族のひんし 回忌、そして慈恵医大百年 なり、率直なご意見をお寄
ゅくの嵐に耐えつつ約 一週 史を編纂された久志本常孝 せ下されば幸いである。﹁慈
初夢が正夢となるか、慈
の三つの宝であろう。この 間パソコンに没頭した。
﹁慈 先生への追憶も透明感のあ 大新聞デジタル化の試み﹂
一富士二鷹三茄子、これ
るディスプレーを通してピ のURLは下記の通りであ
三
つ
を
デ
ジ
タ
ル
化
し
て
イ
ン
恵
精
神
の
デ
ジ
タ
ル
化
﹂
で
あ
慈恵 るが、現在のところ慈恵同
が古来縁起の良い初夢の定 ターネ ットのWWW ︵い る。これほど集中力を出し ュアな感慨を呼ぶ。﹁
番である。昨年の ﹃
炉辺談 わゆるホームページ︶に載 き ったのは慈恵受験の浪人 の息吹き﹂を感じる。
窓限定公開とお考え頂きた
p
:
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原
慈 大 新 聞デ ジ タ ル化 の試 み
篠
健
たところ、海外留学中の方
事の方々に御供覧の機会も
クターの迫力ある大画面ネ
ットサーフィンで同窓会理
nounce.html 価値観を共有出来るような
工でできあが った国であ っ れと対照的に、大学卒業後
ンジ ュウだとすればその皮
また我が母校がひとつのマ
べきものなのでし ょうか。
︵昭47 ・父兄会常任幹事︶
うか。
の厚みはどんなものでしょ
て他の国とはちがうと評し も同じところでず っとその
ています。
カ合衆国のレジデント制度 文化とよぶにふさわしいの
さてこのような司馬遼太 先輩、後輩と過ごすという
遍的な もの ・合理的 なも 郎の定義によれば、アメリ わが国の大学病院の形態は
とし、それに対して文化は はわたしの経験ではまこと ではないでし ょうか。文化
︵昭48 ・父 兄
s会
i副
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会@
長c
︶a.
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機n能.的
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を含め三分の 一の方々から
﹁感動と共感
﹂のメールを
頂いた。
また、液晶プ ロジ ェ メー ル ・アド レ ス
ob−spc−jdsi−ds−an−
∼sirokuma/jk−
米 国卒後 教育 事情
ムページ発、慈恵同窓サイ いついたのは昨年十月下旬 ト作成技術の全てを傾注し
恵を取り巻く広い意味での
るとたとえています。そし
ここの教育では普遍的、 す。
ト﹂などと書き、インター のある夜のことであ った。
\p∼sirokuma/jkob
てアメリカ合衆国はいろい 合理的、機能的なものの考
た
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慈
大
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さてここで問題です。現
http://plaza20.mbろ
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.人種、民族が集まりま え方が要求され慣習的なや 代の医学部の卒後教育とは
ネ ットに現を抜かしている
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大
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慈
大
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聞
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成
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期
待
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私は、ある日愛用のマッキ しかも同窓会活動の根幹で デジタルソリ ューシ ョン﹂ 名の同窓諸氏にお知らせし
じりあ って、文明という人 り方は認められません。こ アン コと皮のどちらにある
話﹄に ﹁インターネ ットで せること ︵Web
パブリ ッ 中以来久しぶりのことだ。
初詣﹂﹃緑蔭随想﹄に ﹁ホー シング︶が出来たら⋮と思 自らの持 つハイパーテキス
炉辺談話
雄
葉 繁
吉
平
草
香
川
い絆、これが我が慈恵医大
世 代 の交 代 が
誤 用 され て る
「ア メ リカ素 描 」また は
(8 )
(平 成 1 0 年 ) 1 月 2 5 日
19 98年
聞
新
大
慈
(
第三 種 郵便 物 認可 )
第 5 18号
広島学術連絡委員
︵
昭 27︶
大 谷 俊 彦
山 口学 術 連 絡委 員
︵
昭 45︶
宇都宮 陽 一
徹
︵
昭 32︶
徳 島 学 術 連 絡委 員
木 下
省
香 川 学 術 連絡 委 員
︵
昭 35︶
今 川
美 昌
︵
昭 31 ︶
愛 媛 学術 連 絡 委 員
丹
吉 彦
︵
昭 46 ︶
高 知学 術 連 絡 委 員
谷
福 岡学 術 連 絡 委 員
︵
昭 37 ︶
丸 岡 和 也
研 介
︵
昭 23︶
佐賀学術連絡委員
森
理
熊本学術連絡委員
︵
昭 51︶
橋 本晏
大 分 学 術 連絡 委 員
︵
昭 31︶
酒 井 巖 海
真
︵
昭 23︶
鹿 児 島 学 術連 絡 委 員
高 岡
父 兄会 副 会 長
健
︵
昭 48 ︶
沖 縄 学 術連 絡 委 員
︵
昭 31 ︶
篠 原
︵
昭 38 ︶
大 城 正 義
父 兄会 副会 長
木 村 宣 夫
父兄会副会長
︵
昭 46︶
名 越 温 古
父 兄 会 常任 幹 事 ︵
昭 47︶
香 川 草 平
一
父 兄 会 常任 幹 事 ︵
昭 48︶
上 出 良
崇
父 兄会 常任 幹 事 ︵
昭4
7︶
町 田
父 兄会 常 任 幹 事 ︵
昭 49 ︶
石 氏 道 夫
父 兄会 常 任 幹 事 ︵
昭 47
山︶崎 洋次
父兄会常任幹事 ︵
昭 42︶
赤 司 俊 二
父兄会常任幹事 ︵
昭 38︶
松 平 敬 充
父 兄 会 常 任幹 事 ︵
昭 37︶
︵
昭 42︶
太 田 正 治
父 兄 会 幹事
︵
昭4
7︶
河 合 邦 生
父 兄会 監事
一
徳 田 政 道
学生委 員長
田 中 寿
編集 局 一同
事 務 局 一同
o
アク ラ か ら の 手 紙
名
越
温
古
プ ロジ ェクト チー ムの チー の乳児死亡率21、五歳未満
ムリ ーダ ーと して の赴任 と 死亡率1。
3死
0因は書いてな
中での彼の奮闘ぶりが目に
な って い た。 正 式 名 称 は か ったが、前とあまり変わ
っていないようだ。そんな
Training
﹁Health In−Service
﹂。
家族はどうしたのだろう
ガーナのみならず母子保 浮かぶ。
健はアフリカ全体の大問題
ロからジ ュネーブ へ発つと 気ですか。ひょんなことか り、これに交通事故が四大 した写真が載 っていた第三
アクラ。なつかしい響き さに湾岸戦争ま っただ中。 いた。差出人はD君。中身 である。私たちが巡回した と思 っていたら、回答が送
である。今から七年前、外 アメリカ大統領ブ ッシ ュも は ﹁ガーナだより﹂、添え 当時の子供の三大疾病はポ られてきた。奥さんがフォ
務省巡回医療団 ﹁北西アフ 我々の出発と同じ日にカイ 書きが 一行だけあ った。﹁元 リオ、マラリア、結核であ スターチ ャイルドを抱 っこ
リカチーム﹂団長として滞
在し たガーナの 首都であ いう事で、空港は大変な厳 ら今ガーナにいます。二、 死因を為していた。野口英 号が 届いたのである。﹁家
る。ガーナに行く前は エジ 戒態勢であ った。その上、 三年はこの仕事を続けたい 世の最後の地となり、OD 族 一時呼び寄せ制度﹂で 一
プトだ った。ガーナへの直 大統領 一人に飛行機九機で と思います﹂
。彼はがんセ Aのバ ックア ップで野口研 か月滞在したという。
現在、
行便はなく、スイスを経由 アメリカから飛来し、その ンター時代の友人である。 が建てられ、当時、日本か 便りは五号を数えた。封を
するという優雅?な旅であ うち七機はダミーとして 一 なかなかの頑張りやで佐久 らポリオのワクチンがせ っ 切るとき、アクラの匂いが
った。時は 一九九〇年、ま 緒にスイスへ飛ばすのだか 病院で骨髄移植をや ってい せと運ばれた。だが、数日 する気がして思わず鼻を近
らアメリカは途方もない国 たが、最近はAIDSでタ 後にはただの生ゴミとな っ づける。楽しみがしばらく
イに行 ったりもしていた。 た。予期せぬ停電 ︵アフリ 続きそうだ。単身赴任がん
はJICAオフィス。母子 冷庫をおそ ったのが原因で
︵昭46 ・父兄会副会長︶
夏から突然の冬。ジ ュネ その彼がガーナ へ?!住所 カでは日常茶飯事の︶が保 ばれ。
である。
ーブではその年の初雪に出
会い ︵
日本を出発したとき 保健医療サービス向上計画 あ った。彼の便りでは現在
富士宮の秋照らす富士山は や︶寂か眺めも嬉れし
はまだ秋 であ った︶
、ふた
たび夏。着いたアクラは気
高く美し祭りも熱く
にて葉摘み説く女人︵ひど︶
頬︵ほほ︶
も綻︵ほころ︶
び
葉を摘めば陽︵ひ︶こだます
ごと 紅さ増す リンゴ 四粒
ごと輝き匂う紫の花
ひそやかな秋の陽溜り雲の
会、十 一月四日開催︶
︵
富士宮にて慈友会クラス 紅き実のたわわに稔る信濃
温三十度、湿度の八十%。
思考能力の中断を余儀なく
させられる気候につつまれ
た。最悪の体調でガーナ第
一日目を迎えた記憶がよみ
そのアクラから手紙が届
︵
昭25 ・大田区︶
満智子
澤
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ロックホームズ全
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ある。アーサー ・コナン ・ どはど こにも見当 たらな けで、﹁犬も歩けば棒にあ
ドイル卿が名探偵シ ャー ロ い。帰りがけに片隅のガラ たる﹂ではないけれど、予
ックホームズの生みの親だ スケースの中に古い装丁の 期せぬ発見と言うのが大げ
と言う知識くらいを持ち合 本とピンセ ットやフラスコ さであれば思いがけぬ出会
わせているだけで、世に言 が目についたので覗きこん いと言 ってもよいが、これ
うシ ャーロッキアンとは縁 でみると、製本された背表 はい つにしろ、何にあれ、
もゆ かりもな いのだけれ 紙にLANCET︵
註 一︶ 格別に知的好奇心をかきた
ど、午後い っぱい街はずれ の文字が見えた。この時点 ててくれるものだとあらた
まで歩きまわ った後だ った でいささ か興奮し たもの めて感に い った次第 であ
夕方とは言え明るい日差し ソン博士 は医師だ った っ
エディンバラ大学医学部
註 一 コナン ・ドイルが
のでのどがかわいていた。 の、まだ ﹁そう言えばワト る。
のなか店のなかはまだ閑散 け﹂などと考えていた。
に学んだのは 一八八〇年
その店を出て通りを渡 っ
としていて静かだ った。地
代の前半のはずである。
ころであ ったが、ランセ
ットの創刊は 一八〇〇年
このあたりのスコットラン カー ︵鹿狩り帽︶をかぶ っ
ドのビターを注文してから てインバネスケープ︵註二︶
の河口にある町。インバ
ビールと言えるのかどうか た先の歩道にデ ィアストー
そのパブはエディンバラ 椅子に腰を落ち着けて店の を羽織 った紳士の像があ っ
のウエーバリー駅から北に なかを見渡した。何処とい た。ふと気が ついてその銘
って変わ ったところのない 板を読んでみると、これが
ネスケープはケープ状の
袖がついたコートで、い
註二 インバネスはスコ
ットランド高地のネス河
ところのクイーン通りとリ パブだが、ふと気が つくと シ ャー ロックホームズの像
わゆる二重まわしはこれ
向か って坂を下 って行 った
ース通りの合流する角にあ すぐわきの棚のうえに古び で、建立したのはエデ ィン
った。看板には八の字の髭 た本が並べてある。何気な バラ大学医学部の外科学の
︵特 ・横浜市︶
に似ている。
最初にホーム ・ページを かも、
刻々と膨張している。 生が ﹃本紙が五五〇∼六〇
を蓄えた立派な老紳士が描 く手にと ってみればこれが 某教授とある。ここでや っ
かれており、その店の名は 人体の解剖図であ って、シ とコナン ・ドイルと当地の
私は、昨年の三月パソ コ
ンを購入し、初心者として 見たときは感動的であ った インターネ ットの情報も、 〇号 ︵四∼八年後︶の頃に
遭遇した戸惑いというか、 が、少し慣れてきて無作為 ゴ ミでしかな いダイレク は多分いま喧伝されている
いくつかのトラブルについ にいろいろなページを開い ト ・メールに類似したもの インターネ ットに、慈大新
ことが出来ないのがひどく
つけ出す事をしなければ利 も!と思うと、それを見る
て ﹃緑蔭随想﹄に書いたが てみた。しかし、これだけ が大変 多いのも事 実であ 聞のホームページが開設さ
今回はその後の展開につい では役に立たない。もう 一 り、このゴミの山の中から れて、全世界に居る同窓生
歩踏み込んで本当に必要と 本当に必要なものだけを見 に ニュースを流しているか
て述べる。
する情報を検索し利用出来
機能的にはFAXと殆ど なければパソ コンを使用す 用する価値が無い。
︽E.
メールに ついて︾
変わりがないが私の場合パ る意味がないのである。
我が慈恵大学もイントラ 残念である。﹄と書かれて
文献の ﹁
孫引き﹂の ﹁孫 ネ ット ・インターネ ット環 いたが将来を見据えた卓見
ソ コン本体が自宅に置いて
あるのでメールを見るのは 引き﹂⋮⋮の方法で根気良 境を平成九年度中に本格的 である。
早朝か家に帰 ってからなの く探せば何とか見つける事 に整備することを明言して
しかし現状ではまだ初心
と思われる。最大の利点は ば情報に詳しいパソ コン使 広く同窓の情報交換を図れ
深夜であろうとメールを瞬 用者からホームページ ・ア
る
ようになる予定である。
検索記号︶を教え
時に送る事ができ、そのメ ドレス ︵
情報公開に伴うある種の
ーネ ットは新し い時代の
﹃
郵便﹄﹃書籍﹄ であ り、
対応に期待したい。インタ
︶ r.jp
︵sadao@ea.mbn.o−
電子メール ・アドレス
日常生活に欠かせないもの
う今後メーカー側の迅速な
に操作出来る機器となるよ
ールの受け手も都合の良い てもらうのが良い。このよ 規制もしくは監視機構は必
時間に随時開封することが うなことは考えて見れば当 要になろうが、今後、慈大
とな って行くと思われる。
で仕事場の診療所にもう 一 もできるが、自分でこの壁 おり、これに便乗して同窓 者にと ってパソコン自体大
台置いてあると 一層便利か を突破できないようであれ 会もホームページを開き、 変使いにくい。誰もが簡単
出来る。あとはワープ ロと たり前の事であるが、なか 新聞のデジタル化など積極
同じで慣れるしかないので なか面倒で途中で投げ出し 的な利用法についても是非
とにかく毎日使うことが上 てしまうユーザーが多いの 検討して欲しい。
ではないでし ょうか。
達の早道のようである。
慈大新聞五〇〇号のト ッ
︵昭45 ・同 窓会 理事 ︶
佐藤 正規
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われも椀ぎたり
てふと見たる東屋 ︵あずま
達の努力とその実現を目の
あたりに見て快哉を覚えた。
慈恵精神は脈々と拡大し
つつある。本学の弥栄と指
導する者達に満腔の感謝を
捧げたい。
現代の社会には洪水のよ プ記事に長年編集発行人を
うに情報が溢れており、し されていた故南雲今朝雄先
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番を呼ぶ受付嬢の語調には
私がいたのは丁度クリス し付けて下さいとある。何
い、何か用事があ ったら申
このたびふとした事で慈 らかに白衣に聴診器を首に
マスの頃だ った。 二十三日 とやさ しい人々であ ろう
張りとやさしさがある。待
っている人々の前を靴音高 感じられぬ。
恵医大病院に入院した。小 通りすぎる 女医さんが い
野寺助教授始め先生方に大 る。もう少し静かにやさし の夜七時頃、各病室で消燈 か。こうした心根で日頃看
変お世話にな った。ロビー く通 ってゆけぬものかと思 してくれとの言い伝えがあ 護にいそしんでいるのかと
には患者があふれていて番 う。診察に呼ぶ看護婦さん り、やがて白衣の天使達が 感服した。これぞ慈恵精神
待ちが大変と思 ったが、皆 や色々診療の世話をする看 讃美歌を歌いながら各室を の発路である。私は私の病
素直に自分が呼ばれるのを 護婦さん達はさすがに物や 慰問し、サンタに扮した天 気を早く治してもらいたい
待 っている昔変わらぬ外来 さしく親切である。次に検 使から贈物が手渡される。 が、それよりもこんなやさ
風景だ。診る人も診られる 査室の事務員は大体事務的 添えてあるカードには患者 しい慈恵精神に直面して感
佐■一
夫
貞
また は ア シス タントの 武 田 、富 沢 まで 、
ど うぞ お気 軽 に お問 い 合 わ せ ・ご相談 くだ さい 。
皇居 二重橋 前
人々も御苦労様である。順 でそ っけない。慈恵精神が 名と早く 快くな って下さ 激を覚えた。慈恵大指導者
慈 恵 精 神 の 再昂 揚
岩
︵昭6 ・台東区︶
続 ・パ ソ コ ン 体 験 記
印 象 深 いご宴 会 と快 適 なご宿 泊 の 場 を
皆 様 の ご要 望 にあわせて
心 を込 めてご用 意 いたします。
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飲 物 5% 割 引
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歌
短
ご婚 礼 、記 念 式 典 、同 窓 会 、ご会 食 など
味 とサービスひと
すじに…ご婚 礼 は東 京 會 舘 で
二
口
愛
山
原
炉辺談話
戸
第 5 18号
(
第 三種 郵 便物 認 可 )
聞
新
大
慈
(平 成 1 0 年 ) 1 月 2 5 日
19 9 8年
(9 )
かに執り行われた。
兆住職の読経の下、しめや
研究の活性化は臨床の活性
である。大学において基礎
参列者の焼香の後、岡村 化に結びつくことも事実で
学長より ﹁
科学技術の発達 ある。このように基礎およ
により、医学分野において び臨床医学の発展に寄与し
も生物の共通言語であるD てく れる動物 たちに感謝
NAを中心とした分子レベ し、モラルに気を配りつつ
ルでの研究が増えてきた。 今後の研究に励んでもらい
しかしながら、医学を含め たい。﹂と挨拶され、この
生体に関する研究において あと医学発展に大いなる力
最終的な結論を与えてくれ を与えてくれた実験動物た
るのは動物たちであり、古 ちの霊に対して献杯が行わ
また、今回の慰霊祭で配
くから医学の発展に寄与し れた。
てくれている実験動物たち
に対して常に感謝の気持ち 布された資料には、研究者
を忘れな いで欲しい。﹂と に役立つ疾患モデル動物や
挨拶があ った。
ロンド ン大 学 精 神 医 学 研 究 所
中
山
和
彦
社会精 神医学部 門よ り
精神 医学
人病棟だけとし、精神障害 再発リスクとなる高い感情
者の持続的かつ慢性的な治 表出の要素を低下させる研
療や社会復帰活動はそれぞ 究が進んでいる。現在のそ
れの地方自治体を中心とし の中心 的存在の ジ ュリア
たコミ ュニテ ィ・ケアで行 ン ・レフ教授のもとで指導
うという理念のもとに大改 を受ける機会を得たことは
革が行われたのである。そ 好運である。とかく薬物療
私は平成九年四月よりロ 創立された僧院を起源とす にはそのほかKing’s れに
H伴 って長期入院生活を 法や生物学的見地からの研
もあり、南西oロ
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ンpi
送t
っa
てい
lた数多くの精神分 究に片寄りがちな昨今、む
ベn
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レo
ムn
・ローヤル病院と ドンの精神医療の中核をな 裂病者がさまざまな形で地 しろ私には古くて新しい興
︶精神
o医
f学 研Lo
ンドン大学 ︵Univerる
s世
i界
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y古精神病院である
究所 ︵Institude合
同
oの
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Pa
slth T
をrす
u巨
s大
tな組織を形成してい 域生活を始めることにな っ 味深いテー マであり、これ
以下IOP︶ 構
y成
cし
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rめy、:
ち ょう る。現在精神医学のほか心 たわけである。
からの予防医学の 一端を担
cial Psychiatry Sect
の社会精神医学部門 ︵So ど平成九年は創立七五〇年 理学、神経学、神経病理学、 SPSではこの社会現象 うことは間違いないこの分
さて私は多くの英国留学
祭としてさまざまな催しや 神経科学、生理学、児童 ・ に注目して退院後の分裂病 野の最先端で刺激的な毎日
:以i
下o
Sn
PS︶に留学、 記念講演などが 一年間にわ 青年期精神医学、司法精神 患者の予後追跡調査を行 っ を過ごしている。
研修に来ている。IOPは た って行われていた。IO 医学などの機関がある。精 た。その結果予想に反して、
であ った。これは 一九五八 分かるし、英語の勉強にも
も再発しやすいというもの 方がイギリスのことが良く
弟のもとに戻 った場合より ムステイをしている。その
へ戻 った場合は、下宿や兄 英国ファミリーの家にホー
遺伝子導入など、実験動物 大英博物館のすぐそばにあ Pのもう 一つの起源は 一九 神医学のなかはさらに 一〇 患者が両親や配偶者のもと 生とは違 って南 ロンドンで
された。米国テキサス大教
とな ったのは残念であ った げ議事に入 った。在学の藍
何時も我々にと って幸せ
のご冥福を祈 って黙祷を捧 な った。
精神科医療、特に精神障 いることをつきとめた。そ いような貴重な時間が過ご
ことは有名である。
の物故会員十五名の朋友 本記念集会は無事お開きと ら留学生を受け入れている した感情、敵意、支配性な かなり大変であ った。しか
どの程度に大きく関連して し多分通常では体験出来な
らと河野が担当、さる十 一 宣言、まず本会を待ちなが 祈念しながら、恒例のスク して精神科医、看護者、そ 中から注目された。その後 のは倹約ができると考えた
月二十二日母校に近いホテ ら前月逝去された幹事 ・故 ラムで学生歌を斉唱、固い の他精神科関連 コメディカ さらに調査を進め、患者の からである。結果はこの年
ル ・オークラにおいて開催 木内啓之君をはじめ卒業以来握手を交して再会を約して ル ・スタ ッフを世界各国か 臨床経過はその家族の表出 齢でホームステイするのは
一四年に創立されたモーズ の部門に分かれ私が所属し
つづいて 大川施設 長よ 学に関するインターネ ット る ロンドン大学本部から約
年Lancに
e報t告され世界 なる。も っとも意味がある
この節目の時期を記念し
は大学や国公立機関に職す する医療、経済、社会のな がたい時期である。
卒業四十周年という時期 りに、そうでなくても激動 張から解放されたとは言い 授の萩野信義君が急遽欠席
三二会卒業四十周年記念クラス会
第三十六回実験動物慰霊 長、大川清施設長をはじめ り、﹁分子生物学が発展す ホームページのアドレスが 五㎞離れた ロンドンの南東 レイ病院の医学 ・教育部門 ているSPSはその 一つで
祭が去る十 一月二十 二日
およそ 一二〇名の教職員の る現在、それでも医学の進 掲載されたことが岡村学長 部 に位置する ところにあ として活動し、 一九四八年 ある。このような総合的な
る。IOPは 一二四七年に 現在の名称とな った。ここ 精神医学の研究のほか、特
午後三
︵時土よ︶
り、岡村哲夫学 参列のなか、栄立院福西賢 歩に実験動物は必要不可欠 より紹介された。
に精神医学卒後教育機関と
実験動物への感謝 の気持述べ られ る
るものは定年前後でそれな かにあ ってはなお片時も緊
てクラス会を盛大に開こう
の病理学講座第2の現教授
と、本年の当番幹事は在京
藍沢︵君
茂は
︶じめ児島、
伊藤、
学
生
通
信
の性格の変化は否めない。
ないとしても、集団として
個人の能力に時代差は余り
が、昔懐かしい顔ぶれは北 沢教授が変革した母校の現 なことは、三二会の運営に 害者の社会復帰、保健衛生 れを感情表出 ︵Expres
せs
てd
いると確信している。
は新潟、福島から、南は徳 状 と将来像 について ハー 対し積極的に推進役を果た 活動では先進国と言われて
︶とE
しm
てo
半構
t造
ion今私にイギリスを語らせ
島、長崎からも集い三十六 ド ・ソフトの概要を紹介し す橋本名幹事の存在で、本 いる英国では、 一九五〇年 的な調査方法を確立し、こ たら終わりがありません。
名とな った。
た。諸報告と審議後、乾杯 稿を借りて感謝の意を表す の当初より多くの公的、私 の分野の世界的に指導的な 興味のある方は個別に連絡
久しぶりにホテルでの集 と続き定評あるオークラの
的精神病院が閉鎖され続け 立場を築いた。さらに現在
る
次
第
で
あ
る
。
し
て
く
だ
さ
い
。
︵
河野三郎記︶ た。すなわち精神科の病床 は家族教育、家族療法およ
︵昭52︶
は 一年以内の急性病棟と老 び家族グループ療法により
近況報告、祝い歌、渡辺あ
けみさんのピアノにのせて
のご自慢の喉の披露など、
和やかで楽しげな雰囲気の
なかで談笑の輪が此処彼処
しかしその溝は相互理解で
B6−−−−
定 価 (本 体 14,
500円 + 税 ) 〒400
[
I
SBN4−
260−10925−1
]
埋められる。そのためにも
[ポ ケ ッ ト 判 ]
い、講義に積極的に参加す のない中で、その替わりと
[ISB
N4−
260−10924−
3]
学生 から みて
部活において、幹部が部員
B5 頁 1536 定 価 (本 体 1
8,
000円 + 税 ) 〒 700
に展開、仕事も時間も忘れ
んばかりの時をもつことが
年が明け、正月には駅伝、 る学生の数が大幅に減 った もいえる秋の公式戦でのア
できた。厳しい世の中にあ サ ッカー、ラグビーなど数 ことなどはその 一つの表れ メフト部の躍進やラグビー
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って自分流にそれぞれの場 多くの スポーツを楽 しめ ともいえよう。こうした傾 部の最後の最後での底力に の個性を生かせるチームを
で ハングリーに生き、自己 る。その中には学生による 向 は本学の学 生のみなら は大いに魅せられた。レベ 作るように、大学には学生
ず、我々の世代を説明する ルの差こそあれ、どの部を を 一面的に評価するだけで
のたゆまぬ対話をも ってす
れば、必ずやそれは実現し
医学 書 院
実現に向か って努力してき ものも数多くある。
見ても部活に対する真摯な はなく、さまざまな個性を
一方で私自身、現在の学
面だけを言い当てたもので と信じている。
態度は、正月スポーツの学 引き出せる環境を設定して
しかし、それらはある側 生達のそれに匹敵するもの いただきたい。大学と学生
たクラスメートの諸兄姉の
最近、様々な方面から我 場合常に引き合いに出され
姿に接することができた。 が校の運動部の不振を指摘 る言葉である。
お互いに健康で次の節目で されることが多い。また、
ある五十周年記念集会に元 それに付随し今時の学生の
気で参加しようと意気高ら 活力のなさや消極性が嘆か はない正当な評価であろう
かに母校慈恵医大の発展と れている。昨年の四月に導 か。本学においても東医体 生の状況をただ楽観視して よう。
参加者各位の健康 ・繁栄を 入された出席制度廃止に伴 の結果でしか語られること いるだけでもない。学生個 ︵学生委員長 田中寿 一︶
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997年 12月 1
2日付薬 価 基準 収載 薬 ま で収 録 。
■ 重要 疾 患の 『
処方 例 』も掲 載 。
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毎年全面改訂
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560
定 価 (本 体 5,
000円 + 税 ) 〒400
識別コード索引
後発品名
■ 臨床 医 が 日常 遭遇 す る疾患 を 網羅 し,日本 の 保険 診 療 に沿
った現 時点におけ る最新 ・
最高 の治 療法 を収 録した治療 年鑑
■ 正 常CT・MRI
解剖 と肺 ・
肝 の 区域 図 ,胸 部 ・腹 部 リンパ 節 の
部位 ,基準 値一 覧 ,急性 中 毒 漢方 製剤 ,抗 生物 質 皮 膚外 用
薬 ,薬 物の 副作 用 と相 互 作用 ,治療 薬使 用 の手 引 を収録
■ 事典 として も使 えるよう,疾病 の概 念 ,診 断 のポ イントまでを
記載
■ 各系 統疾 患 における最 近 の動 向 を解説
■ 各疾 患ごとに病 態 病 期 ,重症 度 に応 じた具 体 的な治 療方 針
処方 例 を呈 示
[デ ス ク 判 ]
待 望 の 二大情報 一挙 に掲 載!
監 修 =高久 史 麿 ・鴨下 重 彦
編 集 =菊池 方 利 ・北原 光 夫
関
顕 ・松 枝 啓
■ 935専門医が 972疾患 項 目の治 療の実際 を紹 介
■各 項目はすべて新 執筆者 によ り全 面新訂
■増 加する新薬 に対応 /誌 面を刷新
監 修 =日野原重明 阿部正和
総編集 =多賀須幸男 尾形悦郎
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今 日の 治 療 指 針 1
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第36回実験 動 物 慰 霊祭
昭 和 32年 卒 業 生 36名 が全 国 よ り集 ま る
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平 成 1 0 年 ) 1月 2 5 日
19 9 8年
聞
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(
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第 5 18 号
山幸 一君が平成八年心筋梗
塞で急逝されたため、卒業
つ出し、会費は今まで死亡
法はどんどんとり入れて、
時に香典を 二万円、生花代 来年もまた全員元気で再会
小唄の名取軽飛行機の操
縦士ドクターたちの余技
は多彩で
一人 一人の健康法の発表
慈 心 会 ︵昭 26 専 ・昭 27 専 ︶開 催
興 味 、仕 事 の こ と な ど 思 い 思 い に 語 る
平成九年十 一月二十三日 して徴用された、旧満洲︵中 よりはじまり、司会進行を
女史は加齢と共に診療意欲
が増加 している 旨を述べ
た。明年の会を横浜で開催
するか否かを楽しく論議し
ながら、三時間をすごし会
出 席者は 次の通 りであ
を閉じた。
︵日︶に東京都中央区の ロ 国東北部︶の医大などより 永井 ・浜 野の両 君が行 っ る。
浜野、小嶋、鎌田、
友成 ・
イヤルパークホテルで、慈 の師国転入学者の全国的な た。事務的な報告を足川が 令夫人、飯塚 ・令夫人、井
会近況報告の中に折りま
ぜ
競技終了後、添田弘先輩
会の動きについて、同窓会
会は 閉じられ 解散とな っ
発展を祈り再開を念じ つつ
で決定し、両母校の更なる
97/11.
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5㎜ .
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五十周年の祝賀会後しばら 一万円を送 ってきたので、 できることを誓 って午後七
くブランクが続いた。温泉 終身会費として三万円を徴 時すぎに散会した。当日の
同夫人、
地で 一泊して名所旧跡巡り 収 ︵残金が少ないため︶、 出席者は天野道夫、
をする今までのスタイルで 通信費その他の雑費は総会 井口善二郎、伊藤伊三、稲
博、垣
魵元
沢玄造、翁振徳、
は出席者が少なくなり、観 時の残金と個人の善意によ
る自発的カンパに頼ること 篠原広、司馬速、嶋田 一雄、
さすがさすが八十路を生
冨山君が在世中提案され、
会は丸山君の開会の辞に 患の闘病記をかたり、高梨
には雨も止み絶好のゴルフ
平成九年十 二月七日、埼 合した。幸いテ ィーオ フ時
玉県大宮ゴルフコースに於
フコンペが開催された。慈 よる ハンデ戦および舌戦に
いて第 一回慈恵開成会ゴル 日和となりダブルペリアに
恵開成会会員は現在百数十 よる熱戦が 繰り広げ られ
名に なり学内最 多のよう た。各参加者はほとんどが
で、さらに毎年数名の新入 ネ ット七十台と好スコアー
ハンデにも恵まれた稲葉義
生を迎え春に歓迎会を兼ね で熾烈な争いとな ったが、
た会食を行 っている。今年
開催の機運が高まり、宮崎
︵
昭35︶のご好意で差し入
春の会合にて鈴木昭男元教 方君がベストグ ロス ︵78︶
授らを中心にゴルフコンペ を出し優勝した。
日出海、上竹大二郎両君を
幹事とし第 一回慈恵開成会 れされた各自の名前入り益
うに運用するのか、どのよ ゴルフコンペが開催される 子焼き湯飲み茶碗を手にし
評議員としてのお考えを含 生部長、教学委員長のご経
た。
参加者は鈴木昭男︵昭27︶
に開催することを全員 一致
めて説明いただいた。さら 験談から慈恵を愛し、学生
赤羽紀武 ︵昭3
7︶佐久間龍
雨の中、十四名の有志が集
うな効果を期待するのかに 運びとな った。
ながら会食がなごやかに行
当日は朝からあいにくの われた。今後は毎年十 二月
つい てお話しを いただい
に平成九年度慈恵医大同窓 を我が子のように信じ、接
金高正樹 ︵昭45︶高橋紀久
Yamanouchi
心 にのこるや すらぎのひととき
光バスなどが割高となり参
その後宴会に入り、最も 不三男、則武徳雄、藤井三
きた医師たちの健康法は
心会 ︵昭和 二十六 ・二十七 集まり が大津市 で開催さ 行い、飯塚君の音頭で乾杯 之川、久保田、馬越、小林 ・
年の専門部卒の合同級会︶ れ、会員の数名が欠席した をしたのち、食事を楽しみ 令夫人、足川 ・令夫人、後
を開催した。この会は故樋 ので通常よりは集まりが少 ながら全員が近況、所感な 藤 ︵敬︶、永井 ・令夫人、
口 一成学長 ・佐藤重 一名誉 なか った。平成九年には長 どに ついて スピ ーチをし 益野、日高、岸田、小出 ・
鈴木泰雄、角田浩 一、中目
遠隔地の山形から参加され 郎、本郷嘉男、本間棗、安
科学的なり
にな った。
今回東京駅ステーシ ョンホ
た中目君が乾杯の音頭をと 田義雄、矢部 一郎、山県淳、
り、咽頭がなめらかになり 横山知繭、吉村不 二夫
加者の負担が増えるため、
テルで開催することになり
短歌 嬉し懐かしクラス会
けでわれはしも嬉し懐か
し生きている証し
クラスメートの顔みるだ
二十二名の出席者を得るこ
腹もふくれた六時頃から各
八十路近いクラスメート
中健在者は五十 一名で、当
日の出席者は会員十九名 ・
当日は、昭和二十年の敗
戦後に中共軍などに軍医と
﹁最上川船下り﹂のあと、
昼食は庄内の魚料理で有名
﹁
高
曰砂
くや、以外なま っ の ﹁
出羽三山神社﹂参拝と
︵
稲恒元博記︶
と汽車で自宅 へ
いたクラス会終ればさ っ 夫人七名の計 二十六名であ
った。
ステーシ ョンホテルで開
教授 ・新井正治名誉教授の 島元重君が逝去したので、 た。岸田君が音楽が本業と 令夫人、丸山、矢崎 ・令夫
御指示で合同級会としたの 開会にさきだち黙祷を行 っ なり眼科が副業とな ってき 人、高梨。
である。卒業時の七十 一名 た。
︵足川力雄記︶
たと笑わせ、小嶋君は肺疾
ととな った。
午後四時集合、 一時間自 自順番に近況報告と各自の
由に歓談し五時開会、安田 健康法について語 ってもら
テーシ ョンホテル
り
一点内助の功の模範生な
が二二名よくぞ集 へるス
平成九年十 一月八日︵、
土︶幹事の挨拶の中で今後の会 った。さすがドクターで、
東京駅ステーションホテル の持ち方と、幹事と会費を 八十路まで生き抜いて現在
安田義雄君と共に永年幹 があり、結論として幹事は 人 一人の発言が大変貴重な
予科時代の各組から 一名ず 勉強とな った。有効な健康
催した。
夫人同伴も 一名ありて紅
幹 事 は 各 組 よ り一 名 ず つ 選 出
において昭十九会総会を開 どうするかという提案があ なお矍鑠として総会に出席
った。多くの方々から発言 できる猛者だけあ って、 一
昭十九会クラス会開催
事として活躍してくれた冨
平成九年九月二十日午後 道を歩んだのかを訥々とし
四時より、山形県鶴岡市の た語り口で会員 へ感銘を与 てい て全くわか らなか っ
第 一ホテル鶴岡において岡 えた。そのあと、国指定無 た。
﹂
に去る十月四日大学で開催
主に庶務報告を行 った。次
村哲夫学長および諸川薫同 形文化財黒川能 ﹁高砂﹂が
懇親会、二次会はあ っと な三瀬 ﹁坂本屋﹂︵女将は
窓会会長の御臨席のもと、 演じられた。その能の所作 いう間に時間がたち、午後 慈恵大看護学院出身︶でく
東北六県七支部 ︵
青森、秋 は確かに ﹁国宝﹂に値する 十 一時でお開きとな った。 つろぎ、午後に名残惜しみ
田、岩手、宮城、福島、山
ながら散会とな った。
も
の
で
あ
っ
た
が
、
地
元
の
演
翌
二
十
一
日
は
貸
し
切
り
バ
ス
︵長島義弘記︶
形内陸、山形庄内︶の同窓 者の方々の謡は、岡村学長 で観光が行われた。羽黒山
会員および令夫人合計二十
九名が参集して東北地区総
会が開催された。
された第五十 一回定期支部
長会議の資料に基づき同窓 た。
︵
於酒田市︶の報告と、今 ら溢れ出ているものを参加
会第十 二回東北地 区大会 しているお気持ちが全身か
雄 ︵昭45︶高山誠 ︵昭51︶
会食の席では、先生の学
後の開催予定について説明 者全員︵十 一名︶が感じ取 っ
があ った。その後会計報告 た。当支部は全国の支部の
橋本雄幸 ︵
昭57︶稲葉義方
良︵
昭42︶赤羽清彬 ︵昭45︶
中でも会員数が少ない支部
講演は解剖学講座第1の であります。しかし、少な
︵
昭59︶村中秀人 ︵
昭61︶
があ った。
山下廣教授をお迎えし、
﹁本 い会員であればこそ出来る
清水歩 ︵昭63︶宮崎日出海
︵
平5︶薄葉輝之 ︵平6︶
学の新カリキ ュラムについ ことを模索しながら、常に
︵稲葉義方記︶
上竹大二郎 ︵平7︶
1)注 意−医 師等 の処 方 せ ん ・
指 示 に より使 用 す ること。
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)
慈恵医大担 当
得意先課 冨永 郁雄
はじめに、上野晋山形庄
内支部長が開会の挨拶を述
べ、続いて岡村学長が ﹁大
学の現況﹂を、諸川同窓会
いて詳しく御報告いただい
長が ﹁同窓会の現況﹂につ
最後に次期開催県は、総
た。
会に先立 って行われた支部
長学術連絡委員会議にて宮
城県と決定したことが報告
され、本郷嘉男宮城支部長
の受託する旨の御挨拶があ
った。
解剖学第 1の山下廣教授 が講演
つづいて講演会に入り、
総会は同支部関連の物故 て﹂と題し、最近はじま っ 大学が近距離にあるように
平成九年十 一月二十 二日
講師の ︵
最後の鷹匠︶松原 ︵土︶、岩手支部総会が盛 者 に対する黙 祷に引き続 た新しいカリキ ュラムにつ 心がけて支部を運営してお
英 俊氏の鷹狩 りのビデ オ 岡グランドホテルアネ ック き、鈴木鍾美支部長 ︵昭25︶ いて、なぜ今このカリキ ュ ります。
と、なぜ慶大卒後鷹匠への スにおいて開催された。
が挨拶並びに会員の動向を ラムが必要なのか、どのよ
︵
菅野恒治記︶
岩 手 支部総 会 を開催
慈恵開成会ゴルフコンペ開催
第 5 18号
(
第 三種 郵 便物 認 可 )
聞
新
大
慈
(
平 成 1 0年 ) 1月 2 5 日
19 9 8年
(1 1 )
おいしい料 理 とゆ きとどいたサ ー ビスで皆様 をお待 ちいたしてお ります。
東 京 都 千 代 田区 丸の 内 1−1−1
しながら小児の急性腹症の
診断法、治療法を簡潔に歯
切れよく講演していただき
会員 一堂感銘を受けた。
終わり、そのため ﹁天勾践 理学︶斎藤泰 一 ︵昭30︶中 浩次 ︵昭52︶神尾裕 ︵昭55︶
︵爲房計友記︶
空しうするなかれ、時に氾 井靖典 ︵
昭43︶西川聖人 ︵昭 片山文二 ︵
昭51︶
な蠡
きしにもあらず﹂の詩 42︶杉生正直 ︵
昭21︶橋本
を書きとどめて去 ったとい 浩 ︵昭29︶後列右より景山
う美作院庄 ︵みまさくいん
のし ょう︶という地がある。
元気をつくる
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小田 泰治
坪田 修 二
益子
博
南雲 吉和
福地 益人
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川田 忠良
渡辺 盛雄
岡部 紀正
衛藤 義勝
梅沢 祐 二
高橋紀久雄
原
貞夫
松井 道彦
久保 政勝
堀越 茂樹
坂井 春男
多田 紀夫
須田 健夫
落合 和彦
伊藤 顕彦
田中 寿 一
岩国 村井 一露
慈恵俳壇
しきる
海に日が没るより鵯の鳴き
岡山 藤本剛平
寒椿川の流れの如く生き
真向いの顔をゆがめてとん
どの火
ご用 命 をお待 ち申 しあ げてお ります。
杯 の音頭 で懇 親会が始 ま
林 泰助 ︵
昭 27 ︶著
﹁番 町 鍋 割 坂
薫
千鳥 ヶ渕 西辺 地 の今 昔 ﹂
川
の心中に昔の記憶が断片的
︵
昭 27︶ 諸
理学科︶により ﹁過換気症
千鳥ケ渕は北の丸公園を
候群と拒食症の病理﹂につ 北より西方に囲む長大な濠
にも甦り懐旧の念が募り、
版販売 ・一五〇〇円︶
物 故者御 氏名
植木 肇 ︵昭18 ・高 知︶
山 田修 ︵昭23 ・東 京︶
太 田寿 一 ︵昭 21 ・千葉 ︶
高取 利雄 ︵昭 5 ・山 口︶
岸本 正義 ︵昭 11 ・東京 ︶
斎藤 肇 ︵昭25 専 ・東京 ︶
大原 甫 ︵昭11 ・福 島︶
うございます。今年も多く 内容の原稿をいただき、炉
日常の準備がいかに重
た。緊急時に際しては
り定着してしまいまし
京のイメージがす っか
態となり、雪に弱い東
た。交通機関は麻痺状
は大雪にみまわれまし
★ところで新年早々東京で
の同 窓の方々 に大学の 近 辺談話を構成いたしました。
★今 月号 では 岡村学
長、諸川会長、大石院
長、原会長に新年の抱
負を語 っていただきま
した。同窓の諸兄も母校の 要かを痛感しました。今年
東 京都千 代田区 内神 田 1−1−14 日立鎌倉 橋別館
当日は橋本支部長の音頭
で始まり、その後浜松医科
大学精神科の大原健士郎前
教授のもとで活躍された石
である。慶長年闇に普請さ
である。還暦を越した著者
いての講演があり、その治
れてより約四百年を経てき 千鳥ケ渕と西の町の沿革に
川元教授 ︵香川医科大学心
療である教授が専門の ﹁
家
旧幕府時代には旗本屋敷が 資料を集め、綿密な沿革調
族療法﹂について説明をい た。この濠の西側が西町で、 特殊な興味を感じ、膨大な
ただいた。また同時に川崎
立ち並んでいたところであ 査を続けてきた。七十余の
文 献や史料を 渉猟する 一
学園斎藤泰 一教授 ︵
川崎医
寒さが滲みる季節、平成 る支部総会 へは出席出来な 科大学薬理学前教授︶も参 る。
辺地域に来遊する人達 への
頌春
編 集 委 員 一 同
るが、 一読 一興の価値は十 梅咲いて日輪波を輝やかす
分である。︵土曜美術社出 行く鴫の遠嶺を越ゆる渓こ
だま
案内書になればと述べてい
頌
さらなる発展を心より期待 は準備を怠らず素晴らしい
している事と思います。さ 一年となりますように。
東 京 慈 恵 会 医 科 大 学担 当
り、会員 一人 一人が近況を
報告し和やかな雰囲気の中
で総会もお開きとな った。
また山崎教授には総会後も
御多忙の所を二次会、三次
会までお付合いいただき、
慈恵医大の将来像などのお
話を伺い、非常に楽しい 一
︵昭23︶島田 ︵昭24専︶吉
日であ った。出席者は金子
川 ︵
昭29︶日野原 ︵昭30︶
梅園 ︵昭31︶土谷 ︵昭32︶
添田 ︵昭3
5︶金谷、高柳 ︵昭
著者は二 ・二六事件 ︵昭 方、直接面談し貴重な情報
36︶皆藤 ︵昭38︶、小菅 ︵昭 九年十 一月八日 ︵土︶その か ったので、久方ぶりに県 加され医学的なファジーの
40︶上野 ︵昭41︶森 ︵
昭42︶ 日は温かい日和であ った県 北 で開催す ることと な っ 説明を頂いた。久方ぶりの 和十 一年︶をはさむ五年ほ を集収した長年にわたる根
太田、田中 ︵昭45︶高橋、 北の津山市にある津山国際 た。津山市は漢方医宇田川
によ邂
り逅
慈大の懐かしさ ど この西 の町に住ん でい 気のいるたゆまぬ努力を高
っと続いた。その後この勤
り、顔をのぞかせているの 親睦との会を作ろうという
私がクリスチ ャンだという い、あるいは適切ではない し、 一九九七年遠野で行 っ
のことは云えない。これは ではないかと。喩は良くな ことで名前は ﹁岩手会﹂と
にはその場限りの出まかせ
うことになりにくいのは私 どうなのだ。そこにこそ、 務の経験のあ った連中はこ
の心情のせいだろうか。私 医療の本質やその原点があ の機会に是非とも思い出と
まうとただ断れば良いとい ない有り様の実際の効果は
59︶
中列右より西島博明︵生
科第1の山崎洋次教授をお 部長会議の報告があり、次 53︶所 ︵
当日の参加者は向 って写
昭55︶池田、佐野︵
昭 橋本浩支部長を囲み総勢十 随を輩出した地である。近
三名であ った。
昭
招きし開催された。当日は いで山崎教授の学術講演に
郊には ﹃
大平記﹄に出展さ 真前列右より片山循之 ︵
56
︶
林
田
、
大
橋
︵
昭
59
︶
河
毎年県南で開催していた
国立療養所東宇都宮病院に 移 った。大学の新しい講座 野 ︵昭60︶笹屋 ︵昭63︶大
れ
て
い
る
後
醍
醐
天
皇
と
ゆ
か
︶
1
石
0
川
元
教
授
︵
昭
51
︶
藤
が、日々多忙な県北の会員 りのある児島高徳が、天皇 本剛平 ︵昭19︶爲房計友 ︵
昭
良
︵中山信彦記︶ はなかなか県南で開催され を奪還しようとして失敗に
出張中の外科第1の三人の 制や新病棟建設状況の説明 森 ︵平2︶。
先生も参加され、出席者は の後、多くのスライドを示
愛 宕 こ ぼ れ 話
橋
愛 宕 こ ぼ れ 話
いたのでお願いにあがりま 事でや って来たというだけ うが、その面々を考えると クワイ頭の漢方医が、当惑 親睦の密度は昂ま ってゆく
した﹂という。朴訥だが心 のものではなさそうだ。﹁
良 肯定の答えが多いとは思え しながらも洋方医に真摯に ようであるが、考えてみる
況、各支部の活動など多く
うど油が乗 ってきた頃、と が山国で開業医も居つきま
いうことは教室員も充実し せん。従 って県内の要所要
と勤務された方々は今殆ど
の情報を正確にお伝え
の思い出を若気の至りだ っ できるようにしたいと
中年となり、在りし若き日
臨床成績も研究成果も挙が 所に県立病院を設けざるを
り始め、私の創刊になる専 得ないため県立病院の数だ
で断られたらもう何処 へも
わが思い遠野にあれよと
たのだとか、またレクイエ 考えております。
誌の出版や、日本鼻科学会 すが、そこに勤務して下さ
門雑誌 ﹁耳鼻咽喉科展望﹂ けは日本で有数に多いので
のあたたかそうな誠意のあ いお答えが出きるかどうか ない。それなら断 ってしま 対応してい った心情や様相
る申し入れである。そして は判りませんが、 一両日考 えば事はそれでおしまいだ と多少とも似ていないだろ
最後に ﹁もし先生のところ えさせて下さい﹂と答えた。 から、何のことはないはず うか、とも考えてみた。
﹁
それでは東京の宿に数日 だ。
結局、その後数年の間に
の創立も軌道に乗り始めた る医師がいつも不足してい
頃、岩手県庁の医務課長さ ます。特に耳鼻科の先生が
く、来てもすぐやめてしま
んが突然のように私の教授 居 ついてくれた ことがな
室を訪れてきた。
て断る のは簡単 だと思 っ だけの知識や勉強、意志や ことにな って、この派遣は
ゆくところがないのです。 おりますので﹂ということ
ところが何か心の奥の方 岩手県の各地数 ヶ所の県立 ム ︵鎮魂歌︶として省みら
先生、ためしでもよいです で退席されたのだが、さて で叫ぶ声がする。医療とい 病院の耳鼻科に当教室員が れている方もあるようだ。
から 一度お医者様を出して 大変な ことにな ってきた うものの本質を考えてみな 赴任してゆくことになり、
鳴呼、わが心の中の岩手
いただけませんか﹂という ゾ!!
さい。派遣された教室員の 私自身も年に 一∼二回難症 へのレクイ エムよ!静かに
ここで適当な理由をつけ 一乃至二年間の何でも自ら の診療や難手術に出かける 眠れ。
つき つめた膝づめ談判であ
聞くところによると日本で る。
初対面の挨拶がすむと課 うのです。先生の耳鼻科は
長は 早速用件を 切り出し
私の主任教授時代の間、ず 北の空 ︵慈大名誉教授︶
国 内 セ ール ス 課
書評
まず添田弘支部長の開会 神前、黒須、中山 ︵昭47︶ ホテルにおいて、岡山支部 道 紀が津山 藩の侍医 とな と今後の展望につき歓談し た。西町と千鳥ケ渕濠端を く評価し敬服する次第であ
結ぶ小さな坂道が﹁鍋割坂﹂ る。また著者は千鳥ケ渕周
平成九年十 二月六日栃木 三十 一名であ った。
香川 医科大の石川教授の講演 を拝聴
テルニューイタヤで母校外 の挨拶と第五十 一回定期支 秋山 ︵昭49︶村山、屋代 ︵昭 総会を開催した。参加者は り、その子蘭学者宇田川玄 楽しい 一夜を過した。
支部総会が、宇都宮市のホ
津 山市 で岡山支部 総会 を開催
この課長さんの朴訥な真 た。しかし実状を知 ってし 行動だけで処理せねばなら
一番教室員が多いという評
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当 日は派 遣 中の外 科 第 1の先 生 も出席
た。﹁ご存知かも知れませ
編集局だよ り
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山崎教授を迎え栃木支部総会開催
表題の中の岩手会は、私 んが、岩手県は四国に近い 判で、あそこへお願いした 剣さには参 った。実状の真 だけのことでは勿論ないだ かもしれぬが、初めて西洋 た岩手会が十 二回目とな っ
八十の齢を迎えて懐手
が慈恵医大耳鼻科学教室の 位の日本で 一番大きいと云 ら何とかなるのではという 相が彼を語らしめているの ろう。教室のスタ ッフに相 医学 ︵蘭学︶が長崎より日 た。
主任教授をしていて、ち ょ われる県ですが、もともと 特別なアドバイスをいただ だと思 った。医務課長の仕 談するのも 一つの方法だろ 本に入 ってきた時の日本の
思うにかくして年々才々 ★新年あけましておめでと らに多数の同窓より様々な
︵
昭 9︶高
鎮 魂 歌 と し て の 慈 耳 ・岩 手 会
161
(1 2 )
(平 成 1 0 年 ) 1 月 2 5 日
19 9 8年
聞
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大
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(
第 三種 郵 便物 認 可 )
第 5 18 号
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