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464号 7月発行 - 東京慈恵会医科大学同窓会

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464号 7月発行 - 東京慈恵会医科大学同窓会
健康医学センター独立
新 た な 飛 躍 を めざ し て
3− 25− 8
昭和六十年五月教授会に ンタ ー長 には大畠襄
とな った。
かの指針を与えてくれるこ
兼寛
高木
先生 業 績 集 とになれば、編者として望
本書は銅像建立の残金を
外の喜びである﹂とある。
以上の高齢者の割合は、将来の
ある。全人口に対する六十五才
大塚志保 ︵平5︶15 万 円
古谷 徹 ︵平5︶15 万円
大学に
︵貢
2献︶のあ った阿部
一名に奨学金を贈る件。
理事長、富井顧問に表彰状
と銀盃を贈る件。
学内掲示7月1日付
助教授 池田義雄
教授 ︵定員外︶を委嘱する
︵健康医学科︶
長 野 敬 氏 ︵自 治 医 大 ︶=鼻 と いう キ ー ・ コ ン セ
プ ト に こ だ わ り な が ら 狭 さ に陥 らず 、解 剖 学 、
進 化 論 、 臨 床 医 学 、 文 化 ま で 幅 広 く 論ず る 。
◎ 2 刷 定 価 4 6 3 5 円 ︵税 込 ︶
鼻はなぜあるのか
脳 ・顔 と 病 気
鼻 に対す る様 々な問 いかけ に答 え る鼻 の百科
全書。 定価 2 98 7円 ︵
税込 ︶
鼻はなにを語りたいのか
な や む患者 と な やま さ れ る医 師
様 々な病 態 や診断 、治療 のあ り方 や考え 方を 、
具 体 的 に解説 す る。定 価 1 854 円 ︵
税込 ︶
鼻の相談室
◎新 刊 定 価 3 80 0円︵税込 ︶
初代 ﹁
学 長﹂金 杉英 五郎 先生 によ る開講 百周年
の年 に描 いた 画文集 。 ﹁
額帯 鏡﹂﹁ヒト化現 象﹂
﹁
梅 ぼ しと新 皮質 ﹂など 、医科 学者 とし て の視
点と 、たし かな描 写力で 、対象 物 の外形 と ﹁
内
部な るも の﹂ の結 び つきを 見事 に表 現 す る。
自 然と人 間 を 謳 う
ーボルペ ン画 と詩 文
高 橋 良 の本 5 冊
東京慈恵 会医科大 学名誉教授 ・国 際鼻科 学会会 長
ご商 談 に 、お打 合 せ に 、明 るい 雰 囲 気 の レ ス トラ ン
松 田誠 教 授 の編 集 によ り 刊行
限定 ・非売品である。銅像
振興基 金大口 寄附
20 万円
10 万円
本郷元夫 ︵昭26︶10 万円
埼玉支部
このたび振興基金に対し
発足、都内で戦前開校の八 行い、平成 二年 二月より全 て、平成五年度卒業生一一
群馬支部
7月8日開催
第 2回理事 会報告
校が参加、平成 二年六月ま 国大会が持たれるようにな 六名のうち七十 一名より寄
でに九回の会を持ち、更に り、本年十 一月には第五回 附があ った。又恒例により
参加を新設校まで拡げ、名 目の会が予定されている。 埼玉 ・群馬支部から、生涯
点等を総 論的に発 表し合 古屋を境に東西をブ ロック 各大学 の同窓会 相互の連 教育センター百回利用を記
い、意見の交換も活発で盛 化し、平成三年二月より東 絡、共通の問題に対する情 念して本郷元夫君 ︵昭26︶
新たに﹁救急基幹センター﹂
〇%を越え、 二〇 二五年には二 迫られている。
なく、華やかな脚光を浴びるこ 用の緩和ケア病棟の設置など、
とはなか った。どちらかという 快適な環境を備えた病院づくり
講師 司馬 立
︵整形外科︶
助教授を委嘱する
講師 ︵但し無給︶羽生信義
助教授 ︵
但し派遣中︶を委
03−
3431−010
9
基金︵一部振興基金を充当︶
先年多くの同窓からの基 った事である。・・・・本 として出版されたもので、
対する信頼と評価がこの指
おいて当時新築中であ った 授、健康医学科 ︵旧相談部︶ 病院 長 には内 田 豊教 授 論文である︶全論文を掲載
参加十八大学、五十三名
前副院長︶、副 院長には できず、かなりの部分を目 が出席した。﹁同窓会と大
病院E棟内に健康医学セン 科長には池田義雄教授、ス ︵
旧スポーツ 渡辺禮 次郎教授 が就任。 録だけにせざるを得なくな 学の相互関係﹂
をテーマに、
ターを 設置す ることが 決 ポーツ医学科 ︵
基本的な姿勢や特筆すべき
附属柏病院
昭和六十 二年の病院開設 定に つな が った ものであ
以来、三次救急に準ずる 二 る。救急基幹センター指定
会であ った。本学同窓会よ 部会が発足、十八校が参加、 報交換、親睦等が主目的で より左記の通り大口の寄附 1第46回支部長会議の日程
りは今野会長、諸川 ・小田 平成五年七月までに通算十 運営されている。
があ った。
担当者を検討、承認した。
につき検討、承認した。
井上立州 ︵
平5︶15万円 2第14回夏季セミナーの件
3振興基金委員会より以下
副会長、岩田 ・渡辺両理事 六回開催され、今回は慈大
につき報告があり承認。
として指定し強化すること
ンター﹂は二次救急はもと
十七 ・三%とこれも世界最高水
と医療の中で取り残されていた に配慮して欲しい。
大学よ
︵り
1推︶薦された学生
るためにも、いわゆる ﹁寝たき なるわけで、厚生省は 一九八九 有の疾患について専門的な研究
でにその達成を 予定している
終わりに、大学病院であ って
﹁高齢者保険福祉推進十ヵ年戦 も老人医療は当然避けられない
り﹂にするような入院を排除し、 年に在宅福祉対策と施設の整備 を進め ていかなければな らな
自立を助けるリ ハビリの重要性 について策定し、 一九九九年ま い。
ここでも患者中心の、全人的
が強く叫ばれるのである。
とな った。
より三次医療機関の補完的
準になると予測される。しかも 族化がすすみ、家庭での介護が しもが抱く。しかし、現実には
新設された ﹁
救急基幹セ
な役割を果たすよう求めら
しかるに、近年日本では核家 で介護したいという気持ちは誰
れており、附属柏病院は名
実ともに東葛北部五市二町
出 席 ご希 望 の 方 は ハ ガ キ に 住 所 、 氏 名 を 記 入 し 、 7月
31日 まで に 下 記 へ お 申 し 込 み 下 さ い 。
ま た 、 「生 涯 教 育 講 座 参 加 証 (
シ ー ル )」 も 交 付 致 し
ます。
〒 105 東 京 都 港 区 西 新 橋 3−25− 8
東 京 慈 恵 会 医 科 大 学 生 涯 教 育 セ ン タ ー
嘱する ︵第二外科︶
愛宕山 東急イン
金によ って宮崎県の穆園広 学では高木先生にたいする
同窓に送付した他、医学情
場に兼寛先生の銅像が建立 尊敬の念が強いが、先生の 建立に協力 ︵寄附︶された
された。この時の残金を基 実際の業績に触れる人は案
午 後 2時 ∼ 5時 30分
慈 恵 医 大 高 木 会 館 7階 講 堂
糖 尿 病− 最 近 の トピ ッ ク ス を 中心 に
司 会 :磯 貝 行 秀 (
第 3内 科 ・教 授 )
しかかからない。ドイツでは六 で深刻な問題とな っている。増
そのため、これらを援助する 要な位置を占める事になるのは ついても検討していかなければ
十二年、スウ ェーデンでは六十 大する医療費にブレーキをかけ 公的な制度が是が非でも必要に 確かである。その為にも老人特 ならないと思う。 ︵L︶
〒 105 東 京 都 港 区 愛 宕 1− 6− 6
。
「シ ャ ン グ リ ・ラ」をぜ ひ ご利 用 下 さい
(
第 2内 科 ・助 教 授 )
(
眼 科 ・教 授 )
(
産 婦 人 科 ・講 師 )
(
第 3内 科 ・助 教 授 )
川口 良 人
北原 健二
北川 道弘
池 田義雄
(
第 三病院 代謝 科
・教 授 )
小 山勝一
糖 尿病 とは 最近 の話題
に何か兼寛先生にちなむ事 外少ない。この書の刊行が 報センター図書館、
史料室、
れからの新しい仕事に何ら るのでご 一読頂きたい。
第十六回全国私立医科大学同窓会
連絡会東部会慈
、大同窓会当番で開催
(日本医師会生涯教育講座)
六 ・○才、女子八二 ・一才とな 年もかか っているのである。
医療が必要とされることは言う 略﹂︵通称ゴールドプラン︶に 大きな問題であり、新たに病棟
り男女ともに世界 一の長寿国で
このように諸外国に比べ日本 までもないが、キ ュアからケア 期待したい。これは高齢者が安 の建設をする場合にも、高齢者
の高齢化は予想以上の猛スピー ということも、老人医療におい 心して過ごせる社会作りの足掛 に対する医療サービスが十分で
ドで進んでおり、社会における て欠かせない基本理念である。 かりとなろう。
きるよう、広い病室、患者と家
我が国の平均寿命は、男子七 六年、フランスでは実に九十九
高 齢 化 社 会 の医 療
救 急 基 幹 セ ン タ ー に 指 定 さ る 十四時間全科救急体制を堅 を機に附属柏病院の更なる
附属柏病院は、去る四月 設、二次救急基幹病院六施 持し続けてきた診療実績に 発展を期待したい。
一日付けで千葉県から救急 設の計十二施設により県内
基幹センターの指定を受け の高次救急医療に対応して
た。人口約五百七十三万人 きたが、県民の高まる救急
を抱える千葉県では、これ 医療充実の要求に対して本
基幹病院システム廃止し、
まで救急救命センター六施 年三月をも って従前の救急
二次医療圏 ︵
八地域︶にお
田嶼 尚 子 (
第 3 内 科 ・講 師 )
持尾 聰一 郎 (
第 3内 科 ・講 師 )
疫学 と診 断
糖尿病 と神 経障害
糖尿 病性 腎不全
糖尿 病 と眼
糖尿 病 と妊娠
治療
業をと考えられたのがこの 先生の業績に直接触れ、こ 生涯教育センターにも備え
予てより ﹁
脚気をなくし
業績集の刊行である。
独立した健康医学センタ 授︵昭28 ・本学医化学教室︶
︵
兼任︶が決定した。
歴史に造詣の深い松田誠教
いた健康医学センターあり 年が経過した。当初から附
第 14 回
慈恵 医大 夏 季 セ ミナ ー
五月教授会で審議の上承認 二附属病院長をはじめ代々 多くの健康医学およびスポ の運びとな った。編者のま
去る七月八日︵午
木後
︶六時 が出席、七時半よりの懇親
され、六月 一日をも って健 の附属病院長が兼任するこ ーツ医学 への貢献を期待さ えがきには ﹁
編集にあた っ より、丸の内パレスホテル 会には岡村学長も出席し挨
康医学センターが附属病院 とにな っていた。しかし、 れる。今後とも担当者の 一 て予想しなか った苦労は、 で第十六回全国私立医科大 拶、各大学同窓会幹部と交 同窓会が二回目の当番であ
った。
から独立した。
今回の独立にともない、セ 層の努力を期待したい。な 先生の論文があまりにも多 学同窓会連絡会東部会 ︵
慈 流し親睦を深めた。
教 お大畠教授の異動に伴い柏 いため ︵
しかもすべて単著 大同窓会当番︶
が開かれた。 本連絡会は昭和六十二年
一方全国的な呼びかけも
教授︶は答申を学長に提出、 け、センター長には丸毛英 ーにはこれまで以上、より に編集を依頼しこの度刊行
方委員会 ︵委員長磯貝行秀 属病院の 一分野と 位置づ
た男 ・高木兼寛伝﹂︵講談
かねてより検討を続けて 定、業務開始以来早くも七 外来部︶科長には大畠教授 社︶の執筆をはじめ慈恵の
電話
03(
3431)6 9 7 1
編 集 発 行 人 南 雲 今 朝 雄
出生率によ っても変わるが、早 高齢者の増加は、医療は勿論の
家庭での介護は、治療の 一部
また、老人医療は、今まで高 族がゆ っくりとくつろげるスペ
ければ二〇〇七年で全人口の二 こと福祉の面でも早急な対応に となる場合もあり、自分の親が 度先端医療とあまりかかわりが ース、個室を主とした末期患者
寝たきりにな った時、家族の手
いて実績を有する八施設を
日
卓
宿泊予約担当小林明美 ・
清水
発 行 所 慈 恵 医 大 同窓 会
東京 都港区西 新橋
この高齢者 率は 一〇%から 二 難しくな ってきており、老人医 経済的理由、住宅事情、人手の 分野と言える。しかし、これか
更に、老人医学専門の講座を
〇%になるのにわずか 二十 二年 療問題は私達にと って大変身近 問題などにより大変に難しい。 らの高齢化社会に於いては、重 新設するなどの積極的な対応に
︵人口約百 二十四万人︶に
おける救急医療の中核施設
として位置づけられること
〒 104 東 京都 中 央 区 築地 2−10−1
2 ■03−3542−3731 FAX03−3541−5799
振 替 東 京 1−19057 ◎ 総 合 図 書 目録 進 呈 。 ご請 求 は 上 記 宛 先 まで !
朝 日新聞 評=鼻 の しく みを進化 と発 育成 長 の
面 から説 いた ユニークな洞 穴探検 記 。巧 みな
話術 が 理解 を助 け てくれ る。
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鼻 のしく みと 子 ども の成 長
築地書館
毎 月 1回 25日発 行
購 読 料 一 部 100円
会 費 年 額 6,000円
(
購 読 料 1,
200円 含 )
論説
場
所
ー テ
マ
平 成 5年 8月 21日 (
土)
時
第 4 6 4号
昭 和 32年 9月 12日
(
第 三 種郵 便 物認 可 )
聞
新
大
慈
(
平 成 5年 ) 7月 2 5 日
19 9 3年
(1 )
第14回慈恵医大夏季セミナー
8月21日︵土︶午後2時∼5時半
行
秀
あるが、成因的にheter−
て
い
る
。
が非常 に高く、
oge
e季
iセ
tミ
yナーでは、
こn
の夏
﹃糖尿病 最近のトピックスを中心に﹄
司 会 の ことば
貝
脳血管障害、腎疾患の順で
良
人
二
生 涯 教 育 セ ン タ ーだ よ り
とを目的として、医療施
た年々増加の傾向にある 提供されることと思いま
百万人とも言われて、ま より新しい知識、情報が
た。名科の専門の先生に
設を体系的に整備し、患
ようです。糖尿病はいろ す。たくさんの先生方の
総医療費を抑制するこ 尿病をも っている人は数
者の流れを無駄のないよ
うにする制度がかなり具 いろな合併症を呈するこ 御参加を期待しておりま
体化してきました。つま とから内科系のみならず す。また参加者には、例
り療養型病床群と高度医 外科系の科においても術 年のごとく日本医師会生
療を提供する特定機能病 後の治癒状態などより考 涯教育講座の参加証が交
院とに分類する医療施設 え見逃せない疾患です。 付されます。
ついてその病態をいろい
︵
森山 寛︶
一〇〇回となり表彰され
ろな領域の立場より検討 ました。
の機能の体系化でありま そのようなわけで今年の
なお本郷元夫先生は生
す。この制度により必然 夏季セミナーは糖尿病に 涯教育センターの利用が
マリーケアーを担当する
的に地域に密着しプライ
してみ ること にしま し
以上に必要とな ってきま 場所
り、生涯学習がいままで 日時
大 学2 号館 10階
9 月 11日︵土︶p
時.m
テ4
ーマ
理の進歩﹂
﹁最近の生殖生
生涯 教育 センタ ー月例 セミナ ー
す。
ールの重要性に ついて報告 これによる効果が不十分な
︵産婦人科︶
寺島芳輝教授
する。また糖尿病合併妊娠 段階においては、経口血糖
講師
セ ミ ナール ーム A
る最近の治療法として、糖
現在、本邦において糖 参加費 無料
尿病黄斑症に対する光凝固
ご 婚 礼 か らパ ー ティ、同 窓 会 、そ してご 会 食 まで
いのち、ふくらまそう
。
先 医薬営業 第二部 (
〒103)
の有用性等についても述べ 梗塞を生ずることが多いの
︵
第三内科学講師︶
で、その発症機序などにつ
ることとする。
最後に糖尿病患者では、 いても触れることにする。
脳血栓あるいは無症候性脳
口
糖 尿病 性腎 症 の診 断 と治 療
川
わが国において慢性腎不 時点で腎臓病専門医に紹介
診断:典型的な症状があ 全のために透析療法を必要 すべきか、︵治
4療
︶法の四点
健
ある。 一方、インスリン依 る症例では、問診と診察で とする疾患のなかで、糖尿 について述べる。
存 型糖尿病 の年間 発症率 糖 尿病かど うかめ どが つ 病性腎不全の占める割合は
︵第二内科学助教授︶
原
に於て妊娠初期の血糖コン 降下薬を適用する。更に血
ト ロール不良例では胎児奇 糖 コント ロール不良が続く
形の発生頻度が高く、計画 場合にはインスリン注射療
存状態への対応を工夫し、
妊娠の重要性についても言 法を導入し、インスリン依
及する。
︶の解s
消e
を Toxicity
産 科医の 立場か ら見れ ブドウ糖中毒症 ︵Gluco−
ば、妊娠時における糖代謝
のdynamis
はm
、より はかる。この際、重要なコ
安全な周産期医療を確立す ント ロール指標は、体重、
東京都
中央区日本 橋三丁目1
4番 1
0号
Tar
ivid’
Tab. (オフロキサ シン錠 )
磯
早期診断が可能となり的確
また血管障害、神経障害お 本学における糖尿病臨床の
糖尿病による腎障害は、
慢
性糸球体腎炎についで多
よび感染症に対する防御機
エ
キ
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方
々
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登
場
糖
尿
病
合
併
症
の
な
か
で
網
膜
く、 全腎不 全患者 の約 三
〇%である。近年糖尿病の
構の低減など解決すべき点 をいただき、上述の事項と 症、神経障害とならぶ重大
医学 ・科学の歴史におい 依然として先進国では糖尿 が多い。いずれにしても糖 の関連を踏まえて、いま最 なものであり、糖尿病患者
て糖尿病は有史以前より存 病は激増し、また糖尿病合 尿病の発症の機序と合併症 も ハイライトを浴びている を診察したならば第 一に考 な治療が実施されているに
在感のある病気として、ま 併症により社会的活動の制 の進展阻止は、基礎および 領域 と話題 につい て平易 えなければならない合併症 もかかわらず、糖尿性腎不
た臨床および基礎研究者を 約を余儀なくされ、悲運を 臨床研究者にと って解決を に、か つ明快に解説をされ である。インスリン依存性 全患者増 加は極著 である。
医師 への比重が高くなる
求されることは増え医師
惹き付ける不思議な魅力を かこつ患者数は減るどころ 要す べき大 きな課題 であ ることにな っている。恐ら 糖尿病 ︵IDDM
は︶
三〇ー
本講演では︵糖
1尿
︶病患者
備え、関心がもたれてきた。 か増えている。糖尿病治療 る。いま糖尿病者を正常の く充実した深い内容の、興 五〇%の患者が、またイン はどのようにして腎不全に
の責任はますます重くな
一
糖 尿病 と 眼
北
ことが予想されます。要
歴史の流れの中、研究者の の進歩による寿命の延長の 代謝状態 へ誘導するための 味あるセミナーになるもの スリン非 依存性糖 尿病十 至るのか、さらにこの過程
関心の赴くところが次々と 関連している。
あらゆる努力が行われ、患 と確信している。
五%が末期腎不全 ︵
糖尿病 を増悪させる因子、︵糖
2尿
︶
糖尿病はインスリン作用 者の教育指導、および協力
︵第三内科学教授︶ 性腎不全︶に至ると報告さ 病の経過中に腎臓の障害を
レベルの高いものへと転移
勝
れている。
示す所見はなにか、︵ど
3の
︶
山
最 近 の話 題
していくが、しかしながら 不足によ って生ずる疾病で を要請し、医療が進められ
糖 尿病 とは
小
は、○ ∼十五歳人口 一〇万 く。しかし、診断には臨床
し ていると いう証拠 はな ある。
症状が明らかでなく、
糖尿病はインスリン作用 合併が多い。高インスリン 人当り約二人と低く、増加 検査値のうらづけが必要で
不足に基づく慢性高血糖な 血症が高血圧を招来する。
術、牽引性網膜剥離に対す
近年、糖尿病の増加に加 ても盛んに行われている。 る硝子体手術、および眼科
い。発症年齢のピークは思 糖 尿病が疑 われる 場合に
春期 で、女性にやや多い。 は、OGTT を施行する。
弘
どの代謝異常、細小血管症 インスリン抵抗症候群、肥
などの特有の合併症で特徴 満、高血圧、インスリン非
北
﹃妊娠は糖尿病スクリー を招く恐れがある。本セミ る上で重要な位置を占め、 血糖、HbAlc
で あ る。
ニングにおける鋭敏な負荷 ナーではGDM を中心に 糖代謝異常妊婦に対しては 適 正体重はBMI で24以
道
づけられる。その成因は不 依存型糖尿病の相互関連、
障、虚血性視神経症をはじ
め網膜症に続発する糖尿病
黄斑症、硝子体出血、牽引
妊 娠と 糖 尿 病
ている。罹病歴 二〇年を超 ばその病型、重症度そして 面、糖尿病に起因した網膜 ともに、当教室で行 ってい
聰 一郎
︵第三内科学講師︶ いる。このほか糖尿病白内
えるとほぼ全例に網膜症が 合併症の程度についても診 症の頻度は急速に増加し、
出現し、死因は急性合併症 断する。
失明原因の第 一位を占めて
と腎症が大多数を占める。
糖 尿病 と 神 経障 害
尾
川
ウイルス感染や、人口栄養 また、糖尿病があるかない えて全身管理や治療の進歩
そこで今回は、これら眼 レンズ手術を中心に紹介し
の発症 への関与が示唆され かのみでなく、あるとすれ によ り延命化 が進んだ 反 合併症について概説すると たい。
︵眼科学教授︶
均 一であるが、代謝異常に 骨減少症 が注目 されてい
があり、インスリン非依存
成因から糖尿病は二病型
基づく症状 ︵口渇、多尿、 る。
体重減少︶と合併症は共通
している。
高血糖の毒性 ︵インスリ 型糖尿病では、グルコキネ
ン不足とインスリン抵抗︶ ーゼ遺伝子異常、ミト コン
と糖尿病性合併症 ︵
ポリオ ドリア遺伝子異常、膵島ア
持
以下、そして 160mg/dl
の正常 上H限b値A+lc
1%以内を目指す。以上を
踏まえて、食事療法におけ
★効能・効果、用法・用量、使用上の注意等につきましては、
製品添付文書をご参照ください。
第一製薬株式会社
加 藤 義幸
セ ー ル ス部
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ール代謝亢進、タンパクの リン過剰が、インスリン依
雄
︵産婦人科学講師︶
義
として 思 い 出 して い た だ け るよ うな … 。私 た ち は 、
タ
リビッド錠
〒 100 東 京 都 千 代 田 区 内 幸 町 1−1−1
グリケ ーシ ョン 促進が関 存型糖尿病では、生後三ヶ
療
田
性網膜剥離、血管新生緑内 テストである﹄と言われる いかに早期発見するかを当 糖尿病専門医、新生児専門 下を、血糖 コント ロールは
糖 尿病性神 経障害 の診 なかでもソルビトール蓄積 障など、いずれも視機能に ように、妊娠と糖代謝には 科のマニュアルに沿い概説 医を含めたチーム管理の重 空 腹 時 血 糖120mg/dl
すると共に、血糖 コント ロ 要性を強調したい。
以 下、 食 後 二時間 血 糖
治
池
きめ 細 か な 心 くば りとともに、い つ も心 地 よ い 記 憶
またはアシスタント
の栗原、山 口、中村 までどう
お気 軽 にお問い合 わせ、ご
相 談 ください。
ぞ
TEL (
03)3504−ll11
与︶への影響、リポ蛋白︵a︶ 月以内に人工栄養児のミル
は糖尿病、網膜症、腎症で ク蛋白の関与、抗膵64K−断、成因および治療のトピ や糖化蛋白などの代謝障害 重篤な影響を及ぼす眼合併 深い関わりがあることは良
ックスを中心に述べ、最後 によるものがトピ ックスで 症が惹起される。
く知られた事実である。糖
蛋D
白抗体が注目されて
子
を ご 用 意 い た し ます。
皆 様 の た め に 格 別 の 空間
高く、動脈硬化に関与し、
糖尿病に本態性高血圧症の いる。
︵
第 三病院代謝科教授︶ に糖尿病と脳血管障害の合 ある。治療では従来自覚症
一方これらの眼病変に対 代謝異常妊娠のうち我が国
併について述べる。糖尿病 状に対する対症療法にとど する治療は、種々の波長の で最も多く遭遇する妊娠糖
性神経障害の診断では、臨 ま っていた。しかし最近ア レーザー光凝固装置の開発 尿病 ︵GDM︶は、糖 尿
疫学と診断
尚
指
資料請求
田嶼
床の実際の立場での早期発 ルドース還元酵素阻害薬や や硝子体手術装置の改良に 病合併妊娠と同様に産科合
糖尿病の治療目的は、① ールを達成する、④糖尿病 る食物繊維の有用性と、新
しい経口血糖降下薬ならび
見のための問診 ・診察 ・検 プロスタグランジン製剤な 伴い、飛躍的に進歩した。 併症を発症し易く、その発 代謝失調による急性症状を
の
合
併
症
を
予
防
す
る
、
こ
と
人工︶レンズ 見の遅れや見逃しによるコ
疫学:わが国の四〇歳以 ○○万人を超える。発症の 査とその評価などについて ど治療法の開発に伴い、早 さらに眼内 ︵
回
避
し
生
命
を
維
持
す
る
、
②
に
あ
る
。︵WHO・19︶
85にⅡ型糖尿病におけるイン
上人口のインスリン非依存 危険因子は、耐糖能低下、 述べることとする。
期治療開始によ って、自覚 の普及により、眼内レンズ ント ロール不良例では母体 できる限り健常人と同じよ
型Ⅱ
糖尿病におけるこれ スリン注射療法について解
型糖 尿病 の有病率 は約 一 肥満、インスリン反応低値
成因では代謝障害と血管 症状の改善が期待できるよ 挿入術は白内障手術の主流 のリスクを高めるばかりで うな社会的活動を可能にす ら治療目標の達成には、食 説する。 ︵健康医学センタ
うにな ってきた。その薬剤 として、糖尿病患者に対し なく児の予後に重篤な結果 る、③良好な血糖コント ロ 事、運動療法を基本とし、 ー ・健康 医学科教授︶
〇%で、推定総患者数は五 などである。
死因は心疾患、 障害が主たるものであり、
さり気 なく、印象 深 い、
お もてなし。
(2 )
(
平 成 5 年 ) 7 月 2 5日
19 9 3年
聞
新
大
慈
(
第 三 種郵 便 物認 可 )
第 4 6 4号
第 4 6 4号
本 泰
狸 のやき も の
根
昌
り衰退してしま って 一軒し ことに、それは私が戦前暮
田
江戸 資 料館
鴇
重
樹
戸今
に瓦をやく窯がひらか 食べてきた。このところ大 バーになるかしら。電灯、 戦直後以外は薪で飯を炊く
が開発され、各家庭は争う 下町にはもう縁台将棋も浴
の技術を駆使した電気製品 という次第である。現在の
テレビを始めとして最先端 ようにたまげて帰 ってきた
抜いたという事になる。
江戸時代の資料をみにい
この十年ないし三十年で って逆に最近の激しい変り
寄りでもないのに、遥かに えてビルばかりにな ってし
隔た った 二つの時代を生き ま った。
ことになる。私は大した年 上げで昔の建物はみんな消
カラオケ狸など 一千種類の
各種狸製品をあげていて
先日、国技館うらに出来 面して廊下があ って、その 現在どの家庭でも置いてあ ということは江戸時代も、 ことなのであ った。コンピ
狸がつくられている。
こころ楽しい ︵図 一︶
。
た江戸資料館をみてきた。 左の奥に便所、手洗いのお る数々の電気器具が無いこ 戦前の東京の下町あるいは ュータ、ファック ス、ビデ
今戸 ︵いまど︶の狸
先年には深川の江戸資料館 いてある具合い、調度、寸 とによるらしい。台所には 郊外の民家もあまり違いは オに至 ってはこの数年であ
江戸初期に隅田川西岸の をみて、帰りに深川めしを 分変わらぬとい ったらオー 都市ガスが入 っていて、終 ない生活をしていたという る。下町自体もバブルと地
新庄東山の狸
こ この狸 は酒田市 の同
窓、松井達明君から頂いた
もので、お っとりとした上 れ、天保から安政年間 ︵一 分下町ついている。どちら
品さがあり置物としてもり 八三〇∼五九︶に全盛期を の館も江戸時代あるいは明
昔、第三病院に勤務して くらとした丸顔、つぶらな っぱである。出羽の雪のか むかえた。その頃は瓦のほ 治時代の庶民の住宅を原寸
う︶で、
昭和十年に﹁狸百態﹂ て、可憐である。
きやきの/たぬきをみれば まこ﹂という特有な青味の いる。今戸特色の群青の色
月かか ってしま った。ゴル
フは 一日である。ゴルフの
楽しさは色々あるが、私は
力に関係なく球が飛ぶ事と
偶然性 にあると 思 ってい
る。シ ョート コースで1オ
須
田
富 士雄
初 老 ︵? ︶の
ゴ ル フ の楽 し み
の御製により、にわかに あるうわぐすりを、民芸の 付けも、古くな ったので黒
六十を過ぎると楽しめる ある。
あ ってよいように思う。特
全国から注目されてきた。 柳宗悦が激賞している。今 ずみ、 一層の重みをみせて 運動はゴルフ位にな ってし
私は以前東先生から余り に組んだ二人の内どちらか
今では親子狸、夫婦狸、 は五代目弥瓶が日常雑器や いる ︵図二︶。
まう。先日主都圏医師テニ 負担のないベットがゴルフ 良いスコアを取る友達が好
女狸などのほか、ゴルフ狸、 民芸品をやきそのカタ ログに
︵昭19 ・大学参与︶ ス大会に出席し四試合した を楽しくすると教えられた きである。偶然に上手な人
が、疲れがとれるのに 一ヶ 事がある。 ハンデはこれ以 と組んだコースは勝ちにな
▼ 図 (2)
ました。しかし、レ ニング の東、丘に広がるアルハン 勇敢な王たちの讃歌が聞こ の中の暗渠の中を駈け下り はじめ中国、韓国、シンガ
は間
サルタンを取り巻く女 中にあやなす噴水の芸術を り、名を先にするのは欧米
ラード上空を越えて北欧バ ブラはグラナダのシンボル えてくるようでした。王の て、ヘネラリーフ ェ庭園の ポールなどアジア各国であ
ルト海にさしかか ったあた でしょうか。地上の楽園を
正 直
インの勇士との恋物語りの
での懇親会は友人の事、仕
時の夕食は相手の食欲と料 合の後、万平ホテルのバー
理の美味が恨めしい。
先日第五回の同級生のゴ 事、それに終りは健康管理
ル フの会が、名倉君の紹介 の話しになり、奥様の中に
で軽井沢ゴルフクラブで行 はメモをする方もいた。結
われた。この コースは入場 局御主人は医師であるのに
者を制限するのでスタート 奥様方には全く信用されて
も自由、何番コースからの いない処が嬉しい。眼科、
スタートでもよく、又キ ャ 精神科、耳鼻科、整形外科、
デ ィーさんもあまり干渉し 内科、外科と話題には事欠
ない。自分のことは自分で かない。明日からの奥様の
自分の名前を書くのに普 式を欧米諸国の出版社の多 から新規に作るパスポート
部
紀
逆 転 姓名 表 記
岡
が、明治時代以後、先様に その点は判からないが押し 明快に記している。日本人
︵昭27 ・聖 マリ名誉教授︶ 合わせて、主に欧米人に対 進めたのであ ったと思う。 の名前を姓名の順に書く方
美女と、捕虜にな ったスペ 又書きます。
人もいるとしている。そし 戻 ったのである。日本のよ
てローマ字の時に逆転する うな 二通りの表記をと って
ならば、日本語の中ではウ いるのは、世界広しといえ
ィリアム ・シ ェークスピア ども日本だけで中国も韓国
はシ ェークスピア ・ウィリ も自分流を堂々と通してい
︵昭41神奈川県衛生看護 専
昨年 ︵平成四年︶十 一月 門学校付属病院外科部長︶
続ける。
た。アービングの〃アルハ に色彩々の花壇が造形され いう。私達日本人は、姓名 ことが西洋流でハイカラで 声人語氏は、紙上で二回に 元に戻せば混乱する。との
と書け
Aる
Sよ
Aうにな
ンブラ物語〃のアラビアの ていました。ごきげんよう の順で普 通に用 いてきた あると思 ったのかどうか、 亘 って、このことについて 賛否両論の手紙を頂いたと ったのは、実に喜こばしい。
長
理
︵大14︶ 理
事
岩
事
大
事
理 事
川
︵
昭 3︶
霜
雄
原
理 事
本
理 事
渡
田
田
畑
田
治
︵
昭28︶
泰
晴
︵
昭 30︶
正
︵
昭 36︶
元
良
︵昭3
4︶
忠
郎
︵
昭37︶
元
和
信
︵
昭30︶
吉
︵
昭27︶
礼 次
雲
須
辺
森 田
事
貞 夫
夫
︵
昭2
7︶
可
博
︵
昭 45 ︶
盛
雄
︵
昭35︶
一
︵
昭3
7︶
松 井 道 彦
事
益 子
理事 ・
父 兄会常 任幹事
︵
昭 45︶
郷
理事 ・父兄会副会長 ︵
昭45︶
那
︵昭15 ︶ 理 事
道
雄
︵
昭6︶
繁
︵昭 27 ︶
隆
︵
大10︶
久
俊
薫
理
︵昭16後 ︶ 理
正
彦
︵
昭20︶
享
南
︵
昭5︶ 理 事
保
治
小
副会長
暑中御見舞
︵
昭 17 ︶
︵
昭 30 ︶
阿 部 正 和
理事長
学
︵昭 2︶ 理
岡 村 哲 夫
問
石
問
川
曾根田 義 男
名誉会長
顧 問
顧
顧
柿 本
問
村
田
南 雲 今朝 雄
顧 問
顧
内
問
菅
問
野
家
井
三 浦 長 英
問
本
顧 問
顧
顧
顧
八
長
今
諸 川
副会長 ・父兄会会長 ︵
昭27︶
会
こにアラビアンナイトさな の木々で大小無数のアーケ 名を加える場合があるが、
アムにすべきだ。名姓の書 る。漢字でも、 ローマ字で
がらの場面が想像されまし ードが造られ、そのあい間 徐々に廃たれてきていると る従来の書き方を逆転する 感じていた。つい先頃、天 き方が定着しているので、 もOKABE NORIM−
りにくると、かつての〃白 この地 へと思いた ったアラ 性たちがその美を競 った所 創りあげていました。庭園 で、さらに詳しくはミドル
と云われ、眼を閉じるとそ はイブキ類と杉に似た常緑 ネームで父系家名、母系家
シ エ ラ ・ネ バ ダ の 雪 ど け 水
井
グ−
ラナ ダ の旅情−
平
正
見た限りでは、〃アムール〃 の沃野に発展した文化の香 どりながら角を曲 っている ネバタの山脈の雪どけ水を 順 へとの二通りがある。
る人達のなかに、本邦にあ 使用しているのを不思議に 日本を知らない人はどちら 転方式から正式なというよ
の冷たい厳しさのみを感じ りからかも知れません。町 と、聖典 コーランの詩や、 巧みに利用した石の手すり
姓を先にするのは日本を
が姓でどちらが名だか迷う り元来の日本での書き方に
連上空で丁度アムール河が た。イスラム文明が中国、 の部分を容した広大な石造 やかなそして急流の瀬音が の姓から小さい方の名前 へ あるいはカタカナ文字で表 段と違う順序に書くという く が取り入 れてき ている 旅券の姓名表記は姓名の順
凍土の人影のない沈黙の大 インドそしてギリシ ャ文明 りの館と云えまし ょう。壁 どこからともなく身近に伝 の書き方と、反対に名を重 記してきたのである。
のも、それも英語をはじめ が、まだ名姓の順も依然に にな っていることを御存知
地をはうように流れるのを をも吸収し、アンダルシア 面装飾のアラビア文字をた わ ってきました。シ ェル ・ んじ、先にして次いで姓の
百年も前の近代化を進め 欧米語の論文などに、主に 多いと書いている。さらに であ ったろうか。従来の逆
姓名表記は、大きな範囲 してだが、名姓を ローマ字
グ〃
ラナダ〃は何となく わる趣があります。アルハ 彼がこの物語りを書いた 一 スからミスシ ョットして山 の方面の楽しみを持つよう 夕食を勝者に御馳走する事 しないので、アプ ローチと 色々の会合があるが、同級
日本人に親しみをあたえま ンブラは小さな山ひとつに 室が〃休息の間〃
と〃大浴場〃 にあたり、斜面を転がり落 にしている。その中で友達 にしている。勝 った時の夕 パ ットでスコアが良くも悪 生のゴルフが 一番楽しいよ
した。それはあながち赤い アルカサバ城塞、アルカサ の入口のあいだに残されて ちた球がピンに寄れば3で なるベ ットが 一番偶然性が 食は美味であるが、敗れた くもなるのが喜ばしい。試 うに思う。︵昭29 ・評議員︶
夜の旅〃を想い出して心も ビア人達が注いだ情熱は、 舞台がこんなところであ っ ンしても、3パ ットでは4
処 理しろと いう理由 であ 健康管理が厳しくなる事間
ここを訪れる人々の心に伝 たのか、とうなずけました。 である。ところが隣の コー 上望めなくな って、最近こ る。午前中は昼食、午後は る。コースも長くパーオン 違 いなし と思う。お よそ
なごんできました。
▲ 図 (1)
城アル ハンブラ宮殿のため ール、
カル ロス五世の宮殿、 いました。石造りの昇降の
Y君、お元気ですか?ソ ばか りではな いよう でし ヘネラリーフェ庭園と四つ 階段を歩いていると、さわ
緑蔭随想
ここの狸は日本中どこにで
おさなどき/あつめしか 井弥兵衛が弥瓶窯をひらい 組頭の印半天をきて、ふて は隣家との間に庭と称する うが、たいして目立たない。 いた。横にガスこんろで、 またそれを我々はなんとも く最近の変化なのである。
もゆきわた っている。ふ っ らに/なつかしも/しがら た。三代目弥瓶の ﹁新庄な ぶてしいつらがまえをして ほんの僅かな空地、それに 電気は確かにきていたが、 ガス炊飯器など無か った。 思わずに暮しているという ︵昭28湘北学術連絡委員︶
信楽 ︵しがらき︶の狸
を世にだした。
新庄東山焼は天保十 二年 か残 っていない。
らしていた普通の家と同じ 水道の無いこと、鏡が昭和 ことはなか ったが、ガス台 ようにそれらを買 って、ひ 衣の生活、蚊やりの煙、更
狸といえば滋賀県信楽と
その後昭和 二十六年、昭 ︵一八 四 一︶
今戸の狸は骨董市でみつ なのであ った。部屋の広さ、 の時代にはガラスに水銀メ に 二升炊きの釜がかか って たすら省力に励んだおかげ に蚊やも無いであろう。な
、戸 田藩御 用
いうほど有名で、そのうえ 和天皇が信楽に行幸されて 瀬戸師として扶持を頂く涌 けたもので、火消し 一番組 明るさ、間取り、更に裏に ッキであ ったことだけが違 いて厚い蓋がデンと乗 って で生活が 一変してしまい、 んでもないように思うが極
めてみた。
を機会に狸のやきものを集 狸庵こと藤原銕造 ︵てつぞ くびをいくぶん左にかしげ もつく ったが、今はす っか に座る事もできる。驚いた
いたころ、タヌキという仇 黒い瞳のあいらしい狸をう げりを持つという色付きの かに伏見人形の流れをくん 丈で展示しており、特に深
名をち ょうだいした。それ みだしたのは、信楽の陶工、 黄土色もおちついて渋く、 だ、福助、招き猫、狐など 川の方は上が って部屋の中
(
第三 種 郵便 物 認 可 )
聞
新
大
慈
(平 成 5年 ) 7 月 2 5 日
19 9 3年
(3 )
島
政
邑
定しなければ臓器移植は進
議論されている。これを肯
前が日本人にも分かるのは い。﹁脳死は人の死か﹂が
この木のお陰である。
同園内にはプラタナスの
他に大き な桜の木 もあ っ まない。しかし生命観が 一
て、桜に関する石碑まであ 致しなければ議論自体が進
二年三月二十八日第 一回会
る。桜と言えば、憲政の父 まない。脳死臨調は、平成
と称せられ、東京市長でも
誤
診
浅 井
利
勇
供もなく、妻も病人と環境 剰診療とか無駄な検査など
も悪く老人のぼけるのもや とまことしやかな意見が多
むを得ないと 一応割り切 っ い。このような急速な痴呆
てしま ったが、入院したこ に疑問を持 ったことから、
の老人についてCT、MR 検査で ﹁老人痴呆﹂と診断
Iと検査をしてみたところ されているものの中に、脳
脳の所見が驚くべき変化を 腫瘍が発 見され たのであ
同三十 一日には、 必要なことは申すまでもな 四十四年十 一月 二十三日生 師とも相談してみた。脳梁 経験を味い大きな示唆を与
世に医聖と崇められる 一つ 碑が建 っているそうである ト マック河畔に咲きほこる 終わ った。
性腫瘍 えられたことも感謝し誤診
の理由は、ヒポクラテス全 ︵そんな写真を出している 日本の桜が有名である。碑 その答申の対策方針が閣議 いことです。
まれの 一歳の私を背負 った のSpleri、u悪m
外 来の婦 長より の電話 思い出を淡々と述べてし っ であることを発見したので をお詫びしたい。
集など詳しい史料があるか 教科書がある︶。これを信 文によるとこの桜は輸出の 決定されている。会合での
あ った。正に誤診である。
らであろう。彼が弟子に医 ずるには躊躇もあるが、三 前の幼苗の時、この農園で 審議は当然のことながら難 で、私の生後間もない時代 かりした応答であ った。
︵昭12 ・千葉支部長︶
を講じたのは、エーゲ海コ 保の松原の羽衣の松とは少 育てられたものであ った。 行し、異論を併記すること を知 っている東京両国の生
それから四ヵ月本年二月
老人医療に関しては、過
誤診をさけるには、診療 忘れません。三番目なので 呈していることを見た。旭 る。くしくも私に関係のあ
紀元前四∼五世紀という の?︶プラタナスの巨木が あ った尾崎行雄によ って贈 合をもち、平成四年 一月二
大昔のヒポクラテスが、後 生い茂り、ヒポクラテスの られ、首都ワシントンのポ 十 二日、第三十三回会合で 技術、特に正確な諸検査が 朝三と名付けられたと明治 中央病院の脳外科の譲原医 るこの老人によ って貴重な
貴
プ ラタ ナ スの緑蔭
(4 )
(平成 5 年 ) 7 月 2 5 日
論及したか った委員もいた よく知 っている。この老人 の家に入りこんで、保護を
大木が立並ぶ 一角がある。 られた。
説明によると、今世紀初頭
今世紀後半、ヴ ェジタブ らしい。しかし泥沼に入る は老年期幻覚妄想状態の妻 うける状態にな っていた。
に輸入されたもので、街路 ル ︵植物状態︶なる新しい ことは避けたのであろう。 君を つれて来たのである。
全く別人の顔貌である。
樹として広く日本中で親し 生命用語が登場し、死生観 生命のことを協議するのに 付添いで来院した。妻君の 同じことをくりかえしてい
まれている全てのプラタナ までがゆさ振られている。 会合する委員もまた同じ生 病 状 は C T でcorticるa
。l
父親が酒をのむと ﹁お
の著名 な所 見A前
tは
r兄
o貴
pが
hい
iる
eので奉公に
スの元祖であるとのことで ICU等では使い易い大変 命である。しかし他に方法
の老人痴呆である。この夫 出るんだ﹂﹁家は貧乏だ か
ある。曽 って紀元前に医聖 便利な言葉であるが、植物 がない。
の塾に緑蔭をかした木の名 愛好者 には聞か せたくな ︵昭33 ・第二外科客員教授︶ である九十三歳の老人は、 ら学校も中途で奉公に出る
非常には っきりしたはなし のだ﹂﹁貧民 ︵ひんみん︶
があ っても 不思議 でない
し、尖り刃に箱がか ってい
る のは両方 の特徴 でもあ けるわけにもいかなくな っ
そう 思 って見 ると 益々
﹁銘有り﹂即ち偽物で片づ
地域医療従事者になる以外
﹁村正﹂は室町時代に伊 た。しかし尾張徳川家の蔵 りの小脇差で初代、二代の 体ではない。要するに刀工
殆ど 道がな か ったと いえ
る。国分先生についたおか 勢地方で鍛刀をした刀工の 刀の中には村正の大刀があ 村正とは大部異なり、むし には必ずしも字は上手でも
げで勤務医の道を進みえた 名で四代にわた っていると る。 一方、徳川に対抗しよ ろ美濃風である。しかし伊 なく彫りも器用でない者が
勢と美濃は近く、互に交流 いるのである。
から心身障害児者の類総合 続いたことも還暦を過ぎる 時、我々が卒業した頃は学 ぶりで生年月日も明治三十 なんだ﹂と。
病院〃都立北療育医療セン と思い感じるものがある。 位をいただくと開業という 三年三月三日で三の連続で
年齢も高齢である上に子
ター〃と東京都衛生局に職
我々が医師にな った頃よ
を得た事は大変運のよか っ り現在では医科大学も二倍
たことと思 っている。これ になり、毎年国家試験合格
も百有余年の歴史を有する 者は我々の頃の二倍以上に
楽
重
ジ ッツを と る
廿
信
﹁
障害児小児保健学﹂と勝
忍〃
耐〃と〃努力〃を続け
手に名づけたものの確立を えたと思う。二十九年間に
夢みて二十九年間、肢体不 五回入院し患者としての体
自由児施設〃
都立北療育園〃 験もしたが、何とか健康が
田
中
直
樹
わが愛 刀 は村 正
﹁と 銘 有 り ﹂
す場合大学ならば研究班長 己の考えの促進は難しい。 れ妖刀の名が益々高められ
以上、
病院ならば医長以上、 母校もそろそろ生家が医家
研究所ならば室長以上のジ でない後輩のためのジ ッツ
ッツにつかないと自分の考 獲得の 努力を拡 げると共
えを少しでも進めることは に、ジ ッツをとる後進が多
︵昭32 ・小児科客員教授︶
むずかしいのではないかと く出ることを願 って拙文を
した擱
い筆
。
母校をふりかえ ってみる
自分の体験からいえる。
のある短刀の字は同 一の字
い。しかし正宗も少ない銘
るが 同 一とは 云い切れな
のものに似ているものもあ
た。︵昭28 ・大学専任理事︶
正は血を見ることがなか っ
理事にな って十七年間、村
とも云えない。その証拠に
村正の後代の銘の中には私 しているだけで村正のお陰
いないが偽物ならむしろ銘 位退屈している状態は次の
を似せるのが常道である。 術者の順番が近いことを示
思うと大変だと同情の念を ず、小さくても 一国 一城の たからである。そのため後 気に入 ったのに格安であ っ がち偽物と断定するわけに のかと、外科医にと っては
禁じえない。臨床医家を志 主である医長にならないと 年、芝居や小説に仕立てら たから手が出たのである。 もいかない。銘字は初代、 むしろ守護神と考えていた
刀身の方は研ぎ減 った平造 二代のいかつい字には似て が、診療科長が刀をいじる
た つと、医師というより大 なか ったことも恩師国分先 したと思う。最近では都会 はいわゆる良い病院といわ でも二回、村正の刀と槍で
私が村正を手に入れたの る。それよりこれだけ研ぎ た。しばらくしてこの村正
分も と医師 になり つつあ 生のたえざる御指導と前川 ほど開業することがむずか れる病院ほど抱括医療とか 怪我をしているし、祖父清 は二十五年前三ヶ月の外遊 減 った刀に刻み鞘や揃いの を抜くと必ず次の日に緊急
る。多くの人々に支えられ 教授の支援と共に、東京都 しくな ってきていることは チームワーク医療を要求さ 康、父廣忠、長男信康の死 から帰 って刀の美しさに酔 頭、こじり、目抜きをつけ 手術等があり、私に術者が
て ﹁障害児小児科学﹂とか という 大きな組 織の中 で 確かである。生家が実地医 れるものが多い。こうなる 傷にかかわ ったのが村正で っていた頃である。も っと ていることから、大切にさ 廻ることが続いた。やはり
家でない後輩のこれからを と組織で動かなくてはなら あ ったため意識して遠ざけ もこの時は小脇差風の拵が れていたと想像され、あな 正真の村正で血を見たがる
慈恵医大を卒業しえたから な ってきた。医療法の改正 と思う。上述したポジシ ョ 解釈される。妖刀村正とか うとする大名や維新の志士
と実感すると、母校の有難 が発表されこれからの臨床 ンは大学派遣病院でないと 血を見ずには鞘に収まらな 達の中で人気があ ったこと
大学を卒業して三十六年 さを痛感 するもの 大であ 医はどのように生きてゆけ なかなかつけえないように いとか悪い印象を持たれて も事実で、西郷隆盛は村正
公務員といわれて三十二年 る。自分の家が実地医家で ばよいのか、いい時に卒業 思料される。又最近の医療 いるのは、徳川家康が自身 の短刀を愛用していた。
緑蔭随想
碑文を読み終わ って、園内 で答 申はや っとまと ま っ 家の子僧をしていたとの老 十七日に夫妻で老人痴呆で
ス島のプラタナスの木の下 し訳が違う。
同じ静岡県は清水市興津 に残 る桜を 再度鑑賞 する た。しかしこれにて生命が 人が現れたのである。九十 入院して来た。あんなにし
であ ったとされる。その場
所 には今 なお ︵何代 目か に農林省の古い農園があ っ に、人に例えれば小和田家 まとま った訳ではない。異 三歳の老人である。会 って っかりしていた朝三老人は
て、そこにもプラタナスの の人々のような威厳が感じ 論者の中には植物の生命に みると両国の生家のことを 急にぼけ出し俳徊し、近所
19 9 3年
聞
新
大
慈
(
第 三 種 郵便 物 認可 )
第 4 6 4号
監 事
本
監 事
鈴
間
木
詰
巳
︵昭34︶
俊
︵
昭 26︶
武
︵
昭 41︶
益
男
三
︵
昭26︶
慶
︵昭25専 ︶
修
︵
昭 27︶
評議員
亀
評議員
︵昭26︶
稔
︵昭 20 ︶
︵
昭3
5︶
評議員 ・
岩手支部長 ︵
昭25︶
宮
武
︵昭 27︶
鈴木鍾美
評議 員
田
評議貝・
中央支部長 ︵昭 28 ︶
井
田
三
子
雄
司
巖
︵昭 27専︶
繁
︵
昭24専︶
弓
︵
昭29︶
孝
︵
昭 26 専 ︶
純
︵
昭48︶
修
︵
昭 37︶
高 橋 千 晃
評 議員
評議員
坪
︵
昭26︶
富
評議員
名
林
野
評議員・
神奈川横浜支部長 ︵
昭30︶
敏
治
︵昭21︶
三 木 信 男
評議員
森久保
中
山
田
爾
樹
︵
昭 28︶
直
知
︵
昭19︶
修
評議員・
杉並支部長 ︵昭 23 ︶
評議員
山
︵昭3
1︶
田
学
横
大
豊
純
︵昭26︶
直
倉
永 井
評議 員
倫
邦
︵
昭 24 ︶
︵
昭 33︶
一
中
︵
昭33︶ 評議員
国 府田 守 雄
昭 30 ︶
︵
昭 25 専 ︶
︵昭 29 ︶
浜
評議員
評議員
木
木
須 田 富 士雄
評議 員
斎 藤 昭 三郎
評議員
小 林 重 高
評 議 員︵
小 寺 八 郎
評議員 ・
兵庫支部長 ︵
昭23︶
評議員
北 村 洋
評 議員
北 原 敬 市
井
神 谷 正 見
評議員
加 藤 信 吾
評議員
小 田原
評議員
暑中御見舞
︵
昭10︶
滋
雄
︵
昭19︶
泰
正
評議 員︵議長 ︶ ︵昭 28︶
坂
︵
昭 29︶
栄 太郎
評議員 ︵
副議 長︶
︵昭30︶
林
評議員
立
山
赤 司 俊 雄
評議員
秋
評議員
足
評 議員
石 井 嘉 男
野
川
評議 員 ・
愛 媛支部 長
︵
昭 19︶
石
評議員
宇
評議 員
大井 田
評 議員
鈴
鈴
︵
昭18︶ 評議員
小 沢 禎 治
評議員
小田原 利 光
谷
正
F R E E Z E
神
見
は ﹁動くと撃 つぞ!﹂、と たのは、過去に例がないそ
は理解しない。またはP− うである。
と発音をl
間違
eえ
aて
s、
e ところで、この人間が何
どこかの総理大臣のように 故Freezさeれてしま っ
ニコニコと近付いて行き、 たのか。当時の状況、即ち
挙げ句の果てにズドンと 一 最後の場面を推測してみた
と い う 単F
語re
校e
生z
はe
立ち止ま らなか っ 発心臓を打ち抜かれていた くなるのが人情というもの
羽 紀
武
ハワ イ ア ン音 楽
赤
級の歌声、小柄な渡辺順と ら残念なことだと思う。そ
デカの山本の凸凹 コンビも れはガーデンテラスの舞台
愛嬌で楽しいステージであ のすぐ前に団体で陣取 って
った。
折角のハワイ音楽に耳もか
今年六月の上旬、私は静 さずイ ッキ飲みで騒ぎ、外
脈弁形成術で有名なハワイ 人観光客の眉をひそめさせ
大学のキスナー博士を中心 ていた日本人の若者達のそ
ていいものかどうか、依然 に少し入 った場所で発見さ わかにかき曇り、突然暴風 のイメージもあ って ハワイ が出来上が った。プロのハ ていたが、 ハレクラ ニのテ た。また夜九時すぎてルア
として疑問は残る。私のよ れた。カラー写真を見た限 雨にな った。気温が急激に アンは 憧れの音 楽であ っ ニーやコニーアイランダー ラスでのアレン ・アカカと ウのショーを見ながらの食
う な 不 勉 強 な 人 間 に は りでは、学生時代に実習で 下が ったため、彼は深さ三 た。母の実家が鎌倉で、夏 スにあやかり、バンド名は ロイヤルハワイアンホテル 事などが用意された。本場
﹁Freeze
とe
大差 ∼五 mの凹地に避難したの は湘南ボーイを決めこんで 医学生らしく?ランゲルハ のカズメ ロのシ ョーは久し の ハワイ音楽とフラをまた
﹂という単語は、 解剖したLeich
﹁冷凍する﹂という程度の がない。このような石器時 である。が疲労が激しく睡 いた私は当然の如くウクレ ンス ・アイランダースとし 振りに本場を味あわせてく 楽しみながら、 ハワイに行
は食べている。柿の実が熟
意味しか知識がない。従 っ 代の人間が、身の回りの道 魔に襲われ凍死し、そのま レを片手に女の子にもてよ た。そして音はともかく、 れた。それにしてもワイキ くなどまだ夢のようだ った
て ﹁Freezとe言
!わ
﹂れ 具を含めてほぼ人体の原形 まFreeziさnれg
たとい うと練習していた。学1の 揃いのア ロハにレイをかけ キのホテルが日本人に買い 昭和三十三年のバンド結成
ても、﹁動くな!﹂ある い をとどめた状態で発見され う。 ︵昭35 ・評議員︶ 終わり頃に学3だ った音楽 て東医体の前夜祭に華々し 占められてから旧いハワイ 当時を思い、
感慨深か った。
部の先輩、渡辺盛雄さん︵
昭 く出演したりした。田中 一 アンが保護されなくな った
︵昭37 ・第 一外科講師︶
っとしながらも、 ハテあの きたような鳥が飛んで来て 35 ・スチール︶から ハワイ 郎さん ︵昭35 ・唄︶のプ ロ
もと
いわれ、それが本当な
﹁ド ス ッ、ド ス ッ、
ド ス ッ、 音の原因はとそ っと眺めて
そわ そわ にや にや する 。
ただわれわれの年代は第 うちで〃十 二月会〃ツアー
コト コト ﹂
誰 か屋 根に いる 。 いるとなるほど。 一羽が飛 す頃はも っとにぎやかだ。
彼は昔の彼ならず、小学 感想で、すでに喜寿を迎え 番に歌うというような他愛 で十九年に 二十五才で戦死
猫 に して は足 音が変 だな ど び立つと黄金色の枇杷の実 朝六時頃、すずめが先頭を 校の同窓会で再会した往年 ており、いわばクラスの生
の
な
い
〃
い
ろ
〃
抜
き
宴
会
を
し
、先日五〇回忌をした︶
き って飛んでくる。次がギ のわん ぱく坊主 の変り よ 残り組でこの人達は比較的 楽しんでいた。
これら三つのクラス会の
と 考 え、 ぼけ っと して いる をくわえてきた。種だけを
後にカラスが登場する。こ 毎に感じることである。
が多いように感じた。
二次大戦に遭遇した年廻り
は
大
阪
で
あ
っ
た
が
、
よ
き
プ
小 ・中のクラスメートで で、小 ・中学卒は満州 ・支 ランと天候に恵まれ、︵
花
と 音 色 が 変 わ った。 ﹁ド ス プ ッと吐き出すと﹁コツ ッ、 ャ、ギ ャと鳴くオナガ。最 う、これはクラス会をやる に日常生活では〃中庸者〃
ッ、コツ ン、コロ コロ コロ、 コロコロコロ﹂と種が屋根
うなるとすべての鳥は追い
今年はクラス会の当り年
パ サ ッ、ド ス ッ、 コツ ン、 の上を転がり出した。感心
て おく こと はも う不 可能 に スたちが大宴会場を歩く音
こ ま でくる と好 奇心 を抑 え
であ る 。こ うい うのを ﹁黒
感謝した。
今年もわが家の今の季節
ならではのあの光景を思い
な彼らが早くあの大宴会を
わが家は明治神宮が近い 浮かべながら、ユーモラス
ためかいろいろな鳥がよく
訪ねて来る。﹁
ぐみ﹂や ﹁
ゆ 始めてくれないかと梅雨の
すら梅﹂の赤い実は小さな 晴 れ間を心 待ちに してい
鳥むきで、鳥籠から逃げて る。 ︵昭46 ・父兄会監事︶
ので、おおむね大同小異の 各出身の旧小学校々歌を順
旅〃
笠 老 中〃
家
正
俊
三ツ ︵
小 ・中 ・大 ︶の ク ラ ス 会
八
で軍医の弟も ニューギ ニア
︵昭16後 ・同窓会顧問︶
がら同年代の十七年他学卒 た。
地は上海、沖縄、中国、イ これ〃旅〃であり、われわ
ンパールなど、また私事な れはその老中〃にありとし
〇才位であろう か。︵
戦 死 気投票 一位とな った。人生
十二月会員の平均寿命は五 が予科の運動会に演じ、人
多か ったのである。従 って を上級生の故大松順平君ら
二十五名が戦死し圧倒的に 年に流行した〃旅笠道中〃
尚表題であるが、昭和初
歩みがよか ったかとも。
は兎の年だが長寿には亀の
根がつきまとうようで、私
も〃生命力〃には運 ・鈍 ・
コ ロコ ロ、パサ ッ﹂ にぎ や していると屋根から庭に種 払われてしまう。何故カラ で四月八日に小学校、四月 も〃秀才〃の生残りは少な 那事変当時の徴集であ った 冷えで桜花も長く︶秀逸で
ク いようである。そしてその ため、夫々約 一〇〇名の卒 あ った。
か な こと この上 もな い。 こ が落ちて ﹁
パサ ッ﹂。﹁ドス スは最後なのか。東京で見 十七日に慈大十二月会 ︵
ッ、コト
かけるカラスは通勤カラス ラス会︶そして六月八日に
ム
ー
ドはDer︵男性︶の 業でうち戦死者は夫々に約
今や 男子 平均寿命 七十
﹂
は
も
ち
ろ
ん
カ
ラ
なのだそうだ。朝、千葉や 西播州の旧制龍野中学のク
性
〃〃は次第に弱くなり、 数名であ った。併し慈大卒 六 ・一才をすぎたが、どう
た。梅雨の晴れ間にかがや
恒例の行事とな っている、
やま ﹂ のカ ラ スと言 う、な てどこ へゆく﹂などと馬鹿
温 古
まさに ﹁通勤旅ガラス﹂の 会合でも年令は殆ど 一緒な が、昔の話などがはずみ又 中殆どが軍医となり、うち
あのなんともユーモラスな
越
日が半日もつぶれたことに
ど と つまら ない 洒落 ににや げたことを考えながら日曜 出来上がりである。
名
通勤 旅ガ ラ ス
光景の再現を思い浮かべ、
だ。この実を眺めながら、 近 か った。庭 に出 て驚 いた。 であ った。それにしてもカ 埼玉から満員の通勤電車の ラス会に出席した。参加者
︵
中
D性
a︶
sへ移 行の傾 ︵十二月会︶は医学生とし
私は十五年前この家に引 っ な んと 屋根 の上 は十数 羽 の ラスの歩く姿はヨタヨタと 上空を集団で飛んでくるカ は小 ︵二十七名︶中 ︵二十 向が強く、旧中学クラス会 て徴集延期していたが、軍
越してきて以来、この季節 カ ラ スで占拠 さ れて いた の してなんとも滑稽である。 ラスたち。 一生懸命餌を捜 二名︶十 二月会 ︵夫人とも では西播の各町村から当時 医要員として初めての早産
﹁
旅ガラス、枇杷をくわえ して夕方家路につく姿は、 二十七名︶であ った。どの の選抜の元気者が集ま った 医師の年度で、約一三〇名
く実はまことに見事なもの
黄金の 実をたわ わに つけ
今年もうらの枇杷の樹が
緑蔭随想
き家の中から銃を持 って出 い感情 を残す結 果とな っ 〇歳のこの人はオーストリ を下りて行 った。そして用 と ハワイアンが多か った。 37 ・ベース︶
渡辺順︵昭37 ・ をさがした。ホノルルでも でセ ッシ ョンがあ ったが、
てき た加害者は、﹁Free
た−
。﹁日本とアメリカの文 アとイタリアとの国境付近 が済み仲間のいる場所に戻 エセル中田のカイマナヒラ ウクレレ︶など三クラスに ネイティヴなハワイアンが 昼の後にゴルフ、テニスや
と叫んだ
z。
eし
!か
﹂し高 化の違い﹂で簡単に片付け のアルプスで、イタリア側 る途中、頂き付近は 一天に の歌声が巷に流れ、裕次郎 わた ったメンバーでバンド 聴かれる場所が少なくな っ ビーチで楽しむ時間もあ っ
身の高校生が、間違 って加 ってしま った。この判決は る。甦 ったと言 っても生き た弓の弦か食べ物を捜しに テ ィーが盛んで、演奏され 達に教わ って吉見充徳 ︵昭 知の人に会 ったりしたが、 を会場として四日間にわた
害者宅を訪問した。そのと 日本人にと ってやりきれな 返 った訳ではない。五三〇 仲間から離れ、 一人で頂き るのはスタンダードジ ャズ 36 ・ウクレレ︶山本真巳︵昭 夜はやはり ハワイアン音楽 り開催された。毎夜八時ま
の夜、日本
日
H本
aで
l起
lき
oた
wも
ee
のn
なら
されzたe
人間が現代に甦 この人は羊飼で仲間と羊に 楽志向が変わ ってあまり聴 35 ・ギター︶のグレ ッチ ェ できた。学会前にホノルル
学会は日本から十数名が
からホームステイでアメリ ば、過失致死に相当する事 ったという話である。これ 牧草を食べさせていた。時 かれなくな ったが、 一九六 という良い楽器を借りて私 で、ハワイ大学の引退した 参加し、 ハワイ島 コナのビ
カに留学していた愛知県出 件である。しかし無罪にな は正真正銘の冷凍人間であ は晩夏か初秋である。折れ 〇年代は学生のダンスパー はギターをおぼえ、皆先輩 ウ エラン元外科教授など旧 ーチサイドの素敵なホテル
り有名にな ってしま った。 た。
は、アメリカはルイジアナ た。次の瞬間、銃 口から火 であろう。
である。調査した専門家に
夏になると本院内のBG アンバンド結成の誘いがあ にハワイ島で開催された太 の地の文化への感性のなさ
同じ ﹁Free
﹂z
でe
も、 よると、五千年前のアルプ Mにしばしば ハワイアン音 り、すぐに参加した。同じ 平洋血管学シンポジウムに に通じているのかも知れな
州のあの 一件以来、す っか が吹いた。そして彼は倒れ
これは石器時代にFree− スは比較的温暖であ った。 楽が流れてくる。最近は音 学3 の松 岡継明さ ん ︵昭 出席する機会を持つことが い。
第 4 6 4号
(
第三 種 郵 便物 認 可 )
聞
新
大
慈
(平 成 5 年 ) 7 月 2 5 日
1 9 9 3年
(5 )
本
千代田支部長
杉
孝
則
之
︵
昭22︶
浩
宮城支部長
郷
秋田支部長
本
豊 島練 馬 支 部 長 ︵
昭 22︶
小
井
松
澤
︵昭 19 ︶
男
吉
︵昭14︶
嘉
練
信
五
︵
昭24︶ 山形内陸支部長︵
昭26︶
浩
郎
野
井
︵
昭 31︶
︵
昭 27︶
︵
昭 35︶
弘
︵昭 26 ︶
男
︵
昭25︶
光
勇
︵昭12 ︶
利
︵
昭14
︶
神奈川県支部連
安 西 節 重
浅
千葉支部長
荻
埼玉支部長
佐 藤 繁 三郎
群馬支部 長
添 田
栃木 支部長
青 木 力 雄
茨城 支部 長
中 山 元 二
福 島 支部 長
中 目 俊 男
︵
昭 20︶ 山形荘内支 部長︵昭 16後 ︶
三
︵昭 16後 ︶
近 藤 市 雄
︵
昭 20 ︶
豊
足立支部長
花 崎
男
︵
昭 25︶
清
︵昭29 ︶
龍
︵
昭29︶
本
葛飾支部長
岡
田
江戸 川支部 長
蓮
武蔵 野支 部長
三
二
裕
善 二郎
笈川 芳太郎
神奈 川逗葉支部 長
︵
昭2
5専︶
井口
神奈川鎌倉支部長︵ 昭 19 ︶
松 田 文 太郎
︵
昭 25︶ 神 奈川 川崎支 部長
︵
昭 16後 ︶
浩
︵昭 26 ︶
駿
︵昭 16前 ︶
山 手 慎 吾
木口
永
北多摩支 部長
水
村
南多摩支部長
田
裕
︵昭 24 専 ︶
淳
西多 摩支 部長
︵昭26専︶
進 藤
青森 支部長
佐 藤
沢
大木 陽太 郎
暑中御見舞
一
︵昭 17︶
寿
黄
北支部長
板橋支部長
鈴 木
︵
昭 24 ︶
今
︵昭 14 ︶
渋谷支部 長
裕
荒川支部長
港支 部長
松 島
︵
昭 24 ︶
爾
久志本
新宿支部 長
誠
︵
昭 14︶
深 沢 甲 子雄
田
文京 支部長
柴
裕
雄
茂
︵昭 13 ︶
義
︵
昭19︶
国
︵
昭29︶ 調布支部長
昭 一郎
︵
昭27︶
幸
︵昭13︶
忠 行
台 東 下谷 支 部 長 ︵
昭 24︶
森
野
墨 田支部長
宇
村
江東支部長
吉
安
品川支部長
中
田
大田支部長
安
目黒 支部長
青 柳
藤
世田谷支部長 ︵
昭24︶
近
村
中野支部長
中
母を 語 る
木
下
誠
美
さて、母木下なみは健康
り合せた。
先生とも済生学舎で机を並 と深谷 一夫君 ︵昭11︶と乗
べて学んだ由である。
尚、母からは日露戦争当
時は病院船博愛丸に乗り組 な人で八十六才の長寿を全
み、傷病兵の看護に当 った うした。︵昭和 二十二年十
ことを聞いた。いかなる回 二月 二十八日没︶また母は
り合せか、私も日支事変勃 大正時代は米国、シンガポ
一九三三年卒業の時だ っ ことが分 った。母は日本赤 発当時、盛岡赤十字病院か ールと 海外生活 が多か っ
たと思う。東京を中心に公 十字社救護看護婦養成第 一 ら第十 一病院船に、 一九 三 た。何事も率先して行動す
共諸施設を見学した折、日 回卒業生で、明治 二十四年 七年から二年間ばかり乗り る人で、子育ても巧みであ
本赤十字社本社を訪れ、資 十月十八日に卒業した。濃 組んだ。同級の佐久間清君 った。 ︵昭8 ・埼玉︶
母は兵庫県淡路島の片田
料室で救護活動実施状況の 尾大地震はその後まもなく
パネルをみた。その中に濃 であ った。
尾大地震災害地に若い頃の
母の救護活動の姿を発見し 舎の出身、男勝りの性格で
昨年NHK特集で地球の 地球 には水 や空気 が存在 し生きている。しかし人類 ると考えざるを得ない。今
誕生を取り上げた番組があ し、単細胞の生物が誕生し、 という生物は自然を征服せ こそ人類 の持 つ英知を集
り、興味深く視聴した。色々 植物が繁茂し、これらの微 んとするかの如き挑戦、長 め、自然を征服するのでは
な説があるのだが、宇宙に 生物を含めた動植物の循環 い長い歳月によ って培われ なく、謙虚に自然の営みに
漂う塵が互いに衝突して成 が徐々に新しい環境をつく た資源の乱用等により多く 学び、如何にすることが最
りだし、やがて今話題の恐 の生物種を絶滅に、あるい も良く環境を維持しより長
竜たちが闊歩する時代を迎 は絶滅の危機に追いや って くより多くの生き物と共に
える。しかしながら突然の いる。必要なだけ食べ本能 生きて行けるか、よりよい
大きな隕石の衝突による地 のままに自然の摂理に沿 っ 環境を作り出すためには何
表の急激な温度変化は、動 て生きてきた多くの動物種 を成すべきかを考える時で
植物に大きな変化をもたら
が
絶
滅
し
、
ま
た
多
く
の
植
物
あ
ろう。
し、その結果全盛を極めた 種が絶滅することは、これ
もう人類の勝手は許され
恐竜も絶滅してしま った。 らによ って支えられ作り出 ないのである。今こそ方向
人類は与えられた優れた なく、そのほかの多くの宇
しかしこの間、地球内部で されてきた環境が破壊され を転換し、自分 一人、属す
燃えたぎるマグマが地表の て行くことに他ならない。 る国家 ・民族の繁栄だけで
プレートを動かして地震を
起こし、大陸の位置を大き 知恵と技術を持ちながら、 宙船地球号の乗組員のため
く変え、火山の噴火という 自らの手で自らの住む環境 に、身近な小さなところか
定に合格し女医とな った。
燃える エネルギー︵マグマ︶
形でその姿と力を示してき を破壊し続けている。幸い ら何か実践して行かなけれ
長し、やがて内部に赤々と た。
東西冷戦の長いトンネルを ばならないであろう。真 っ
ところが人類は強い繁殖 抜けることはできたが、核 暗な宇宙空闇にぽ っかりと
母は吉岡 ︵旧姓鷲山︶弥生
を蓄えた惑星 ﹃地球﹄が誕 力と知恵を持ち、道具を駆 の驚異が無くな った訳では 浮かんだ緑の惑星 ﹃地球﹄
生する様は何とも興味つき 使して環境に良く適応し地 なく、局地的な戦闘は増え を失わないために。
楽しくあるべきものと考え
プライベイト ・クリ ニック とするのであろうと思う。 食べる楽しみとからな って
秘書などである。
仲間と楽しくなろうとする いる。それは理屈ではない。
私は本来人生は基本的に
脳
が、人では 一番大きくな それにもう 一つ別れる楽し
ってきたのだ。ここに人の みというのもあるのではな
を 一応並べてみると、教授 人の営みは楽しくない事の
私共カ レー ライスの 会
秘書、学会秘書、院長秘書、 多いのが普通だから、敢え も、会う楽しみ、集まる楽
専門誌秘書、国際学会秘書、 て仲間と共に楽しくなろう しみ、話す楽しみ、そして
この女性の皆さんの職種
達の賛同、というより快諾 き抜いてゆくための脳でも 本能であり、喜びであり楽
を得て出来たのが私共のカ あ って、その中枢が前頭葉 しみでもある。これらの本
レーライスの会というわけ であるといわれている。人 能に附属するものは必然的
である。
の額が霊長類の中できわだ なプラスアルファーとして
って大きい由以でもある。 のものであろう。
私が現役の教授をしてい ら気ばることなく普通のよ も ってくるのだと思う。
め
の道具 である動 作や表
た頃、学会や色々のハプニ うに楽しくおつきあいを続
生
き
て
ゆ
く
上
で
私
共
人
間
情
、言葉が出来たのだとさ
ングの仕事にも御手伝いし
け
た
い
と
考
え
て
、
現
職
中
の
が
一
番
使
う
脳
が
新
皮
質
だ
れ
ている。
仕事に関与して頂いた彼女 が、これは同時に楽しく生
しかし生物は食べる事も
︵昭45 ・大学専任理事︶
ないものがある。たまたま 球のあらゆる所に住み繁栄 より危険な状態にな ってい
は人
呼吸法で発声時先ず息 な しはい ろいろ聞 きます
日外国人 ︵語学教育で来日 をする時の様に〃先に ﹁息 ます。今年も大会の中でミ
している方達︶の中で、日 を吐く事﹂に心掛けよと話 ニコンサートが持たれまし
規に認められるよう祈る者 を吸うより吐く事に心掛け が、本当に音楽の不思議さ
の 一人です。今年は先ず在 ると良い。例えば〃ため息 にいつも感銘を覚えており
でも音楽療法士の誕生が正
楽療法研究家により持たれ 楽器を 一つ選び演奏に心掛 とがあります。
ました。 一日も早くわが国 けるとよい、とか歌を歌う
こうした音楽療法のおは
心をうたれました。
ずや間もなく内耳をやられ うイベントで、老人の意欲
第十四回大会は五月末東 聞えなくなるから気の毒で が活性化したと云う話もこ
医健保会館で、全国から音 ある。毎日何でも良いから の大会で以前うかが ったこ
と原曲の崇高さに少からず 見かけるが、この方達は必 でも良い音楽を聞いてもら
されたそのスコアの複雑さ ンキンさせている若い人を れました。老人ホームなど
苦精励の結果、内務省の検
ず、特に許されて湯島にあ
った済生学舎に通学し、刻
た。始めは 一寸分り難か っ あ った。赤十字救護婦にな
たが、よくみると母である ってからも向学の志やすま
七、八年前、中学の友人
︵音楽評論家モーツァルト
研究家井上太郎君 ・日本バ
イオミ ュージ ック学会常任
常会話で支障をきたし心身 されました。更に自閉症の たが、中国の琴 ︵古箏︶の
症となられた方達に対し取 児童に音楽療法を試みてい 演奏が披露されました。蓋
り組まれている東邦大医学 る報告があり、自閉症児音 のないピアノのようなこの
部心療内科が特に音楽療法
楽
療法のわが国では草分け 楽器は、数十本の琴線が会
と云われている大阪市立大 場から見え、日本の箏曲と
音楽の楽しみ方について 学山松質文 ︵ただふみ︶名 はひと味違 った美しい調べ
幹事︶に誘われ入会したバ の有効性を報告された。
イオ ミ ュー ジ ック大 会で
は、い つも ユニークな音楽
療法 の研究発 表が聞 かれ
る。数年前にはジ ャズの源
来るようにな ったと報告さ
も、内耳の解剖学図解から 誉教授によると、与えられ が聞かれました。十六∼十
ている。荷を負うて坂を歩 生の特徴の 一つが現れてい かろうか。別れは悲しい事
耳を大切にする事の大切さ たいろいろの楽器で演奏し 七世紀ドイツ辺りからシル
むようなものであ ってはい るのだと思う。
だけではないようだ。別れ
を説き、例えば、よく車中 ている中で、たまたま感動 ク ロードで中国南部に伝来
けないのだと思 っている。
共通の 経験を も った 者 があるからこそ又会えるの
で ヘッドホーンを着用、キ することがあると奇跡的に したとのこと、別名リラと
社会は現在そのような方向 が、それを基にして集ま っ だと思えば、別れも楽しみ
会話をすることがあ ったと も云うようです。最後に山
に向いていると思う。しか て楽しむ。この楽しみは主
に
なるのではなかろうか。
か、名古屋にある小学校の 松名誉教授ご夫妻のために
しそう考えても実際には楽 に言葉によ っている。言葉
これからも集ま って会 っ
平田先生は ﹁いち、いち、 記念の〃金婚式〃がこの古
しい事ばかりでは決してな こそ人のシンボルだが、そ て話して食べて別れて又会
いちえん﹂と言う言葉を音 箏を交え演奏されました。
いのも人生だ。生きてゆく のオリジンは高等霊長類で ってと、続けられるだけ続
楽的にふしをつけて語る訓
鳴呼哀し心血注ぎ衣笠の て頂いた女性の皆さんと大 という事はそういうものだ
見
ら
れ
始
め
る
と
い
う
。
グ
ル
け
ましょう。
口 愛 二
練をさせ、お金の勘定が出
山本師逝く再建成るに
学の仕事が終わ ってから、 と考えている。それだから ープに所属し、その集まり
カレーライスの会 万才
︵昭25 ・大田区︶ という事は定年にな ってか こそ、楽しみが 一層意味を であるからこそ通じ合うた
︵昭9 ・大学名誉教授︶
音 楽 の不思 議
流がアフリカであり、紹介
道 彦
井
松
良
橋
高
緑蔭随想
山
宇 宙船 地 球 号 物語
カ レー ラ イ ス の 会
(6 )
(平 成 5 年 ) 7 月 2 5 日
1 9 9 3年
聞
新
大
慈
(
第 三 種郵 便 物 認可 )
第 4 6 4号
暑中御見舞
谷
本
神奈 川横須 賀三浦支部 長
三重支部 長
︵昭 14 ︶
大 久保 正 道
大阪支部 長
13︶
秋
︵昭
千
︵
昭22︶
村
佐 賀支部長
中
村堯
長崎支部長
中
熊本支 部長
大分支部長
鹿児島支部長
小田原
直
︵
昭 14︶
正
︵昭15 ︶
︵
昭 22 ︶
得
弼
二
︵昭19 ︶
正
︵
昭 14︶
大
︵昭19︶
永 田 忠 寿
︵昭20︶
嶋
岡
雅
宮 崎支部長
山
和 歌 山 支 部 長 ︵昭 16後 ︶
平
生
仁 木 偉瑳 夫
神奈 川湘南 支部 長
京滋奈支部長
︵
昭 31︶
新 関 寛 二
︵
昭22︶
浩
神奈 川湘 北支 部長
︵
昭 27︶
窪 田
神奈川西湘支部長
雄
田
原
岩
︵
昭 19︶
遠 藤 香 苗
田
鳥取支部長
桑
島 根支部長
司
中央学術連絡委員 ︵
昭25專︶
男
中
︵昭 24︶
関 野 順 也
︵昭 39 ︶
山
昭
二
渋谷 学術連 絡委 員
︵昭24専︶
一 朗
︵昭30︶
岡山支部長
宏
港 学術連絡委員 ︵昭 33︶
︵昭2
2︶ 沖縄支部長
︵
昭 26︶
北
︵昭 19︶
鈴 木 重 弘
二
浩
新宿学術 連絡委員
︵
昭 26︶
洋
保
︵昭18 ︶
松 井 元 司
堀
徳島支部 長
茂
文京 学術連絡委 員 ︵
昭 20︶
地
治
広島 支部長
晋
︵昭23︶
藤
︵昭2
2︶
章
田
田
人
香川支部長
一郎
︵
昭 14︶
正
台東浅草 学術連絡委員
︵昭20︶
川
︵
昭3
7︶
友 成
白
高知支部 長
大 澤 光 太郎
正
︵昭 19︶
篤
英
一
内 藤 裕 郎
台東下谷学術連絡委 員
︵
昭4
5︶
伊 藤
冬
︵
昭28︶ 福岡支部長
宇 都宮
︵
昭 21︶
彦
武
斉
玉
幸
︵
昭 19︶
児
︵
昭 24︶
村
敏
山 口支部長
勝
︵
昭 24 ︶
和
︵昭33︶
宮 崎 茂 夫
子
新潟支部長
金
水
富山支部長
清
石川支部長
岡
福井 支部長
大 野
山梨 支部長
高 原
松
長野支部長
小
田
岐阜支部長
村
本
静 岡支部長
柳
愛知支部長
河 辺 寿太郎
平素に私は専門医学誌な
どの他に週刊医事新報も読
従 って少ない参加を残念 んでいるが、医学界の動静
表でも出席して、もう少し もりであり、否地方会員な
あり、わが同窓会も時の流 すべきで無かろうか。
学祖の銅像 ︵約三 mの巨
ないのであり淋しい感じさ 何とか全国に基盤をもつ慈 べき時であろう。
えも ったものであるが、こ 恵医大こそ 二十 一世紀 への
︵昭23 ・兵庫支部長︶
に三名、東京圏からは約四 いることであり、慈恵医大
の世 界
千名中、五十∼六十名は少 も学祖の墓は宮崎にあり、 的時の流れに乗 って雄飛す
り、東京圏以外からは僅か にはいろいろ問題視されて く度々の母校回帰を図り、
を現している様に思 ってお に於いても、東京中心主義 地方会員も奮起してなるべ
いて、つねづね〃総会〃の と している様である。﹁政 人公園に屹立して、太平洋
盛衰はその会の現況の 一面 界再編成﹂では無いが医界 から米、欧を睨んでいる。
種々なる団体の長に属して り、東京圏のみに固まらん 像︶は遠く宮崎市の文化偉
私も 近畿 及び兵庫 内で れに従 っている様 相であ
六千名余︶
校の幹部及び同窓会員も入 考えるものである。今や日 る筈である。従 って地方会
れて合計約六十五名で閑散 本人口の東京 への 一極集中 員もブ ロックを 基盤にし
であ った。︵
現存会員は約 が種々なる弊害を来し つつ て、も っと母校回帰を推進
さて総会への出席者は母 盛況の総会にならないかと らこの気持ちは皆も ってい
述べられた。
てきたが、この総会では八 お言葉を思いかえし、先ず 名などからも〃慈恵〃の 二
家顧問が同趣旨を代表して 地区ブ ロックからは夫々代 字を探している遵奉者のつ
復興についてスピーチをし に思い乍ら再び小沢先輩の の記事から短波放送の演者
のご意見に敷衍して、地方
の会にも出席し、小沢先輩 る。
はその後に近畿、中国四国 接 に話しう ると心 得てい
本年五月 二十 二日に開か
晩年 への出発に際して、 に相違あるまい。紀野先生 りを持つ可きか等々を披瀝
窓の方
復向
興について切実 のチ ャンスにこそ母校の幹 盤 石の備え ではな かろう
仏教に関心を持ちながら、 は毎月全国で法話の会を持 させ ては如何 と申し 入れ れた慈大同窓会総会につい なご意見を述べられた。私 部や同窓会のメンバーと直 か。
その学識が皆無に等しい事 たれ、会後参会者の信仰の た。私たち夫婦の間で、信 ては、紙上の既報の通りで
地方向窓会員〃
に慄然とした。これでは安 告白というべきものがあ っ 仰がジグザグした感がある あるが、〃
らかな終末が迎えられる筈 た。私の発言の二、三をこ のは、如何。妻は時として
が無い。晩年の人生は仏教 こに記すこととする。
仏飯やらお花を供えるのは
﹁筆者
で横に拡充せねばと決意し
﹂信仰は形骸から 如何 なる心境 かをも 正し
た。喜寿を過ぎた私は、仏 が大切と、法話に打たれた た。又或会後臨終に際して、
教に参学し、死生観を見出 私は、遮二無二仏壇を購入、 先生は、夕陽の美しさを讃
お経を唱えただけでは!と
そうと努めた。そんな折、 カセットに先生の読経を容 え、妻の手を握り、お経を
宗派にとらわれず、自在な れ、毎朝般若心経等のおつ 唱えればよいとされたが、
生き方をされていた高名な とめをした。
在野仏教伝導者紀野 一義師
仏壇等の形式を軽視して 痛切の問題を提起した。先
と 一期 一会を持 った。法華 いた私にと っての 一大革命 生の応答は、眞実に貫かれ
教の風光、正法眼蔵の十集 であ った。得意に朗々と心 ていれば、仏さまはそれを
等々の先生のテープの数々 経を高唱する 一主婦に私は 嘉し給うに違いないとのこ
は、溪水が苔にしみ入る様 唖然とした。先生曰く ﹁お と。表題の、人間の告白な
ので、問題は本人がその内 ものではない。
に私を貫き私の中に沈潜し 経は、幼時から口にするも どということは、生易しい
た。
電計とレントゲンの器械を
研究の場として三十五年、 と耳と手指を使 って、静脈 三種の神器の他に、安い心
早や余白を語る年齢とな っ 瘤の破裂による腹腔内出血
た。昭和三十年代敗戦で廃 を診断し指導している。
加えたがテレビレントゲン
私が時々見るテレビに登 が出現し放射能で私を疲れ
虚の東京と大阪に、戦勝国
米国の生理学の教授が来日 場 するFather Brさ
oせ
w、
nスキルスを誤診した
し、大学の教授に米国の医 は素人探偵で愛すべき人物 私はあ っさりこの武器と訣
学の進歩を紹介した。東大 であり、彼は機械の計算す 別し、残 ったのはRAの関
ブル心電計で、自らコ ップ 医療機械を動かすのは信頼
金コンクリートで診療室と
夜間開業十年の記念に借
の講堂でHOff
教授が、 るデータを鵜呑みをする愚 節と胸部を撮る簡単なレン
日本に当時無か ったポータ を笑い、信頼すべき高価な トゲンであ った。
の水を飲んで心電図の波型 出来ない機械ー人間ーであ
の変化をデモンストレーシ ると歎かせている。私は先 住居を建てたが、 二十五年
ョンし、び っくりした記憶 生と別れ臨床医にならんと も経つと院主の大脳の萎縮
がある。今は自動解析まで した時〃君!聴診器と血圧 と動脈硬化も平行し老朽化
してくれるし、又放射線障 計と注射器があれば、内科 した。変らないのはRAと
テル注射療法を行うことで
害で技師の手を切断し、医 の開業が出来るよ〃と云わ その辺縁疾患の患者にカク
者に放射能を浴びせたレン れた云葉を思いおこし、こ
ト ゲンも テレビ画 像と変 の内科の〃三種の神器〃と あり、医学の大先輩に〃人
り、MRIはRAの患者の 内科教室で覚えた 一片の知 を信用せず、人を疑う制度
へ詰め込まれると頭が圧平
定できずに悩んでいる筈だ 自然保護精神がないから蛇 のように厚手の透明ビ ニー
が、咬症数時間後にDIC には危険である。 一方、慈 ル布を 二つに折 って三辺を
を起こす恐れのあるヤ マカ 恵の屋上から度々運んで漸 ホチキスで縫い合わせた中
ガシだ ったなら、藪塚のス く住みついたヤモリが蛇の
ビル調査用定点に逃がして がら縦に分断して縦に並ぶ
ネークセンター ︵日本蛇族 餌食になりそうなので、我 されて二等辺三角形にな っ
学術研究所︶ への抗ヤマカ が家に放すのは諦め、ほぼ てしまう。また、成長した
ガシ毒血清依頼までは労を 二十日毎に行 っている外房 アオダイシ ョウにある四本
とるつもりで救急室 へと急 天津小湊町に設定したヤ マ の縦縞は幼時横に融合しな
いだ。
着いて見ると、加害種は きたのは雨降りしきる六月 斑紋となり、銭型模様に見
アオダイシ ョウの幼蛇 ︵後 九日︵御成婚の日︶で、二m えなくもない。以上を言葉
てしまう。
刻計測体長三二 ・五 ㎝、体 位までに成長する姿に時々 で表現すると、前述の表現
重一一 ・八五g︶だ った。 出逢えば よいと 思 って い 通りだから、 マムシとされ
の容鑵器
から摘み上げ、医 る。
えない︶周囲の乾いたよう
師達や被害児の両親に説明
頭部が物蔭に隠れても、
ヒトを咬んだ蛇が本院に
すると、ホ ッとした表情の 運び込まれて呼ばれたのは マムシで 最も目立 つ特徴
父親は ﹁芝浦で咬まれたん 三度目で、咬んだ地域は初 は、十円銅貨そ っくりの暗
です。腕位太いのも見ます 回が皇居前のお濠畔、 二度 褐円斑 ︵草蔭では円形に見
よ﹂と云 った。鼠捕食性の 目は愛宕山頂で、全てアオ
関節滑膜を撮り、腹痛でか 識を働かせ、打腱槌と古び である〃と嘆かせ、又開業
本種が住める自然が近辺に ダイショウの仔によるもの な白色地で、咬痕が無痛な
つぎこまれた患者にCTで た筆をRobert War
のt
年昭
e和三十三年施行され その蛇が運び込まれて困 っ 残 っているのは喜ばしい。 だ った。温和な本種が咬む らば無毒咬傷である。
何枚もの画像を撮り、影像
点g
単先
価十円の健康保険 ている﹂という電話が入 っ 担当医にはチメ ロサールく のはひどい扱いを受けたた ︵昭30 ・環 境保 健医学 教
生の〃反射の
−検
nbたe一
r
を見落した若いドクターに 査〃の本の上に乗せ診察机 法である。︵昭22・
目黒区︶ た。こんな時私を頼る意図 らいは塗ることを奨め、蛇 めと思うが、咬めば マムシ 授︶
吉
葉 繁
雄
昭9 ・我孫子市︶
全霊に取り入れられていた 教と如何なる言行 一致の係 か! ︵
去る六月七日夕刻、親し は限られている ので、﹁
す は自宅の庭に逃がすつもり の嫌疑をかけられる不運は
い後輩 T医師から、﹁急患 ぐ行く﹂と電話を切り、T でもら って出たものの、我 ﹁三角頭で銭型模様があれ
やぶ医者も研究の自由を
や〃
ぶ医の 一云〃を書いた にお供えした。 一日二、三 室 へ蛇に咬まれた子供と、 君達は早急に抗毒素を必要 が家の猫TACは私に似て ば マムシ﹂という旧来の形
求めて夜間開業し、自室を 練達の医師は、親からの目 人の患者で始まり、やがて
とするマムシかどうかを同 動物を捕えるのが得意でも 容法で助長される。第二例
して全国の有志に届けられ 如﹂
を 一般会員に開放して、 心すべきは、右往左往する 先輩 ︵
昭14︶が主として地
た早川氏には、釈尊が全身 現代人の仏教観、青春は仏 心の 脆弱さ ではあるま い
りの般若心経を戴いた。無 法話の後のこと。﹁
筆者﹂は、 挑戦とでも言う可きか?法 い。昨年の支部長会議で東
料で毎日二枚の掛軸を筆写 先生毎月発行の機関誌 ﹁眞 話 への己の脆弱さの露呈、 北ブ ロック代表の小沢練吉
この頃、朝日新聞で早川 容を如何に把握しているか
人間は己惚れと自我の塊
翠山氏を識り、肉筆落款入 にかか っている!﹂又或る りである。これが法話 への
郎
八
寺
小
としての私の感想を述べた
〃総会〃
出席 の感想
青 大 将 が蝮 に見 えて し ま う事 情
夫
静
平 井
緑蔭随想
恒 治
塚
飯
法 話 と信 仰 の告 白
やぶ 医 の素 人療 法
第 4 6 4号
(
第三 種 郵 便物 認 可 )
聞
新
大
慈
(
平 成 5年 ) 7 月 2 5 日
19 9 3年
(7 )
暑中御見舞
礼 子
富
夫
栃 木学術連絡 委員
︵
昭4
7︶
中 山 信 彦
群馬学術連絡委 員
︵昭29︶
高 島 正 敏
小 林 輝 夫
有 松 久 雄
昇
埼玉学術連絡委員
︵
昭 27︶
平
野
野
昭
浩
邦
田那村
実
今 井 健 郎
南多 摩学術連絡委員
神 奈川 横浜学 術
︵昭33 ︶ 連 絡委 員
︵
昭48︶
荻
北多摩学術 連絡 委貝
千葉学術 連絡委員
︵
昭 26 ︶
︵昭24 ︶
中 村
調布 学術連絡委員
︵昭33 ︶
墨 田学術 連絡 委員
武蔵 野学術 連絡 委員
︵
昭 31︶
︵
昭25専︶
森
藤
江東学術連絡委員
︵
昭25専︶
加
品 川学 術 連絡 委 員 ・
父 兄会 常 任幹 事
︵
昭3
7︶
上 竹 将 夫
大田学術 連絡委員
︵
昭 43︶
鏑 木 公 夫
田 中 穂 積
神奈川鎌倉学術連絡委員
︵
昭40︶
田 辺 裕 文
神奈 川川崎学術連絡委員
︵
昭31︶
青 木 茂 正
北海道 学術連絡委 員
︵
昭 28︶
浜 田 雅 之
西多 摩学術連絡委員
目黒学術連絡委員
︵
昭 42︶
︵昭 26 ︶
〃i
nternational〃
世 田谷 学 術 連絡 委 貝
︵昭 32 ︶
佐 々木 徳綱
神奈 川湘 南学 術連絡委 員
︵
昭 26専 ︶
一
青森 学 術 連 絡委 員
︵
昭 40︶
足 立 信
豊島練馬学術連絡委員
︵
昭35︶
後 藤 敬 喜
鴇 田 重 樹
斎 藤 文 彦
治
久保 田 邦 之
恒
神奈 川湘 北学術
連絡 委員
︵
昭 28︶
明一 郎
野
岩手学術連絡委員 ︵
昭40︶
田
神奈川西湘学術連絡委員
︵
昭31︶
菅
板橋 学術連絡委員
︵昭25専 ︶
島
宮城 学術連 絡委員
︵
昭42︶
鈴木善 郎
北学術連 絡委員
︵
昭29︶
松 田 直 樹
岸 田 博 公
雄
一 朗
高 橋 謙太郎
石 川 学術 連 絡 委員
︵
昭 39 ︶
高 橋
富山学術 連絡 委員
︵昭37︶
英
新潟学術連絡委員 ︵
昭39︶
松 井 達 明
福 島学 術 連 絡委 員
︵
昭 35︶
健
園 部 昌 彦
安 川 繁 次
茨城学術 連絡委員
福井学術連絡委 員
︵昭43︶
︵
昭 23︶
三 瓶
倉
山形内 陸学 術連絡 委員
︵
昭 42︶
宣
入
荒川学術連絡委 貝
︵
昭 20 ︶
伊 藤 義 彦
明
山 形荘 内 学 術連 絡 委 員
︵
昭 22︶
鈴 木 庄 三郎
︵昭 21 ︶
足立学術連絡 委員
高 田渙
葛飾学術連絡委 貝
︵
昭 25専 ︶
本 井 儀 一郎
田
江戸川学術連絡委 員
へ昭 26専 ︶
岸
一九八五年に米国ミネソ る。両事例とも、記録の調 校医や家庭医として、同君
タ州の 一部で甲状腺中毒症 査 ・解析が事件解明に重要 が健康管理や診療を行う際
が多発した。発症率は人口 であ ったことは疑いない。 に、これが極めて有用であ
十万人当たり三百という高 記録が大切であること、日 る ことは容 易に推測 出来
率であ った。調査団が結成 常臨床面でも各種記録を採 る。このようなノートは麻
され実 地調査を 行 った結 取、整理 ・保存しておくこ 疹、風疹、おたふく風邪に
果、この地域に限局して配 とは診 療の基本 ではあ る ついても出来ており、しか
達される ハンバーガー用の が、実際にはなかなか実施 も十 二年間の蓄積がある。
ミンチ肉が疑われた。そし できない。行うか否かは本 これはS君の貴重な財産で
てその 生産工場 の記録か 人の心掛けと、毎日の努力 あると同時に、地域社会に
ら、ミンチ肉には原材料と 次第であろう。
と っても得難い記録であろ
教室同窓のS君が茨城県 う。このような記録を作成
して大量のウシ頸部筋肉が
使用されていること、これ U市で開業されてから十 二 したS君に敬意を表すると
に多量の甲状腺組織が混入 年余になる。過日、診療の 共に、所属医師会でもこの
私が勤務する東京国税局
していたことなどが判明、
一
端
を
見せて頂いた。その 貴重な記録を活用すべき、
これが原因であると確定さ 中で ﹁
感染症ノート﹂が目 と思 った次第である。
れた。これが有名な ﹁ハン を引いた。例えば ﹁
水痘﹂
六月のベルリンは、明る
い陽ざしで、活気ある街並
司
憲
上
川
に甲状腺末を混入したのが 大状況、家庭内の伝染経路
練を受けた。学生 一人つつ
原因 と判明し たことが あ などが容易に理解できる。 東京国税局診療所長︶
平成五年六月九日皇太子 学長の出迎えを受けた。
御成婚 の儀は全 国中継さ
高木兼寛学長は文部省の に忠孝 と書い て色紙を頂
れ、宮中の奥深く古式ゆか 特別な資格を持 って居られ き、まめに従う事と聞かさ
しき絵 巻物を 見る事が出 たのか、菅笠を被り全国各 れた。まめはまじめの意、
来、国民こぞ って祝福申上 地の学校を訪問し講演され 忠実の事だとある。又下宿
げお目出度い事である。
ていた。小生も中学の時お には必らず両親の写真を飾
慈恵は創立当初より皇室 話を聞き深く感銘した。後 り毎日敬礼する事、時々部
にゆかり深く、毎年皇后陛 年慈恵に入学した或る日校 屋を見廻る係の先生が居ら
下の行啓や宮様方のお忍び 庭で呼び止められ、﹁君の れた。服装検査の時、靴下
思い出は切りが無いので
の御来院も多く、職員は浜 中学は教育方針も良い。﹂ の破れたところ へ墨を塗 っ
離宮へ御招待頂いていた。 とほめられたが、良く覚え てごまかしたりする者もあ
った。
卒業式は皇后陛下の行啓 ていられたものと思 った。
田
岡
の下に行われ、便殿では看 因に校長は加藤彰廉、次は
護婦が接待に当 っていた。 秋山好古大将である。加藤 あるが、卒業以後七十余年
古い方はアルバムに先ず皇 校 長は今 の松山大 学の前 残骨の戯言で貴重な紙面を
后陛下、徳川総裁の写真が 身、松山高商の創立者であ 潰しすみませんでした。
我々は他校の卒業生とは
ある。又学生は卒業迄に必 る。高木学長と 一脈通じる
ず 一回は伊勢神宮 へ参拝す 所があ ったのか、三度来ら 何処か違う。長い立派な伝
る習わしで、新橋駅より特 れたと思う。小生は高商創 統に 育まれた 慈恵精神 を
城麓住人
永々と亡びなく、益々母校
別列車で高木学長以下大勢 立以来学医をしている。
に見送られて汽笛 一声出発
予科時代の訓練は誠に厳 の隆盛を祈念致します。
その上に城見するなり
する。五十鈴川の辺で厳粛 しく、毎日 一時間位教育勅
夏木立 ︵子規︶
を受け参拝を済ませて関西 剣、夏は山奥の滝で、冬は
︵大10 ・同窓会顧問︶
な気持になり、神官の御祓 語に始まり、国民体操や木
方面の旅行をして帰ると又 湘南の海で禊をし心身の鍛
昊
昌
地
益
人
愛 知学 術 連絡 委 員
︵昭 28︶
福
静岡学術連絡委員
︵
昭27︶
伊 原 重 雄
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CS&長
C野
︶学
は術 連 絡委員
︵
昭 26︶
島 田 和 哉
山梨 学術連 絡委員
︵
昭38︶
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nーtに収納管 対する意 欲がう かがわ れ
第 三回国 際
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理し、各病棟 ・外来の端末 た。私に与えられたテーマ
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会議が、ベルリン工科大学 て観
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教授会長のも ムで、複数の部所で同時に
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あ ったが、本邦の私
とで、ベルリン国際会議場 観察したり、過去の画像デ
︵IC︶
C
におい て本年六月 ータを容易に取り出したり 立医科大学における現状と
二十三日∼二十四日に開催 する場合にも有用である。 展望を中心に紹介した。
された。IMAC とは耳
管理するシステムで、P−
イメージ〃
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S普及す こと、 コストパフォー マン
カルテと同様に個人単位で が、そのためには、医師が
は前C述Sのような理由
慣れない用語と思われるの ッピィディスクに個人の各
で、印象記をかねてIM− 種イメージ情報を収納し、 から早急な設置が望まれる
の紹A介Cを したい。
本会議は医学イメージの
管理と有効な利用方法に関
と考えられる。
スの点から初期設備費が低
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の現状、 が請求できることなど、大
一
兵庫学術連絡委員
︵昭 37︶
鶴 崎 隆
和歌山学術連絡委 員
︵
昭 26︶
福 田 雅 由
尚
徹
徳島学術 連絡委員
︵昭 32 ︶
木 下
省
香 川学 術 連 絡 委 員
︵昭 35 ︶
今 川
美 昌
愛媛学 術連絡委員
︵
昭31︶
丹
吉 彦
高知 学術連絡 委員
︵
昭 46︶
谷
福岡学 術連絡委 員
︵
昭3
7︶
丸 岡 和 也
一 秀
佐賀学術連絡委 員
︵昭 20 ︶
東
長崎 学術連絡委員
︵昭 32 ︶
寺 井 大 八
理
熊 本学術 連絡委員 ︵
昭51︶
橋 本晏
大分学術連絡委員
︵
昭 23 ︶
御 手洗 東 洋
橋
克
洋
父兄会副会長 ︵
昭41︶
大
︵
昭42︶
父 兄会 常任幹 事
赤 司 俊 二
父兄 会 常任 幹 事 ︵
昭 38︶
松 平 敬 充
父 兄 会常 任 幹 事 ︵
昭 37︶
太 田 正 治
父兄会常 任幹事
︵
昭42︶
︵
昭 42︶
石 山 隆 三
父兄会常 任幹事
大 浦 正 則
父 兄会 常 任幹 事 ︵
昭 42︶
草 間 泰 成
藤
憲
正
司
樹
父兄会常任幹事 ︵
昭38︶
近
上
父兄会常任幹事
川
山
義
雄
父兄会常任幹事 ︵昭30 ︶
森
山
昇
父兄会常任幹事 ︵昭 27︶
森 山 千 春
孝
志
公
一
︵昭 3
9︶
大 城 正 義
父兄会副会長
村 岡 伸
︵
昭 34︶
靖
海老沢 高 憲
学 生会委員 長
小 澤
父 兄 会監 事
名 越 温 古
本
木 村 晃 三
真
︵
昭 46︶
高 岡
父兄 会 監事
浩
鹿児島 学術連絡委 員
︵昭 23︶
尾
高 本
山 口学 術連 絡 委 員
︵
昭2
4︶
山
広島 学術連絡委員
沖縄 学術連 絡委員
︵昭25専 ︶
︵
昭 31︶
橋 本
岡山学術連絡 委員
︵昭29︶
島 根学術連絡委員
宮崎学 術連絡委員
︵
昭 41︶
︵昭 16後 ︶
良
わ っている のも事実 であ す。また未来に必要な創造 とを是非知 って頂きたいも
り、しかも広大な宇宙の中 力を養う教育をされておら のと思います。以前には欧
力を使 って満州国をつく っ
︵昭18 ・世田谷区︶
岸
鳥取学術連絡 委員
︵
昭 24専 ︶
育が必要です。今の学校教 ての倫理の基本の 一つと考
く、むしろ両親の義務責任 ぬようです。その中で天主 考え直す時に来ているので
であり、これには両親の教 の十戒は、人間万人に向け はないでしょうか。
な っていますが、これも国 り、良く書かれており、こ あることを良く認識し、今
の指 示でや る仕事 ではな れ以外には現在残 っておら 後の我国の生き方の基本を
現在の日本では、小中学 ます。それには旧約聖書が 人類平等な思考をもち、地
生の性教育が大きな問題と 最高の 歴史書の 一つであ 球外では生きられぬ存在で
問題です。
人間が子孫を造り、その中 人間は 偶然の存 在ではな
し
まいました。
に生きているのかも大きな く、創造主の意志によ って
広く良く世界を知り、未
造られたものと思っており 来 へのあり方を考え、愛と
ゆく存在であることは、疑
私としては、動植物を始 たものですが、これも遅す
いもない事実です。何故に めとして、その頂点に立つ ぎたようで、早々と消えて
なり、いつかは必ず消えて です。
乳児は小児となり、若人と 将来世界から消えて行くの したが、我国も遅まきなが
なり、壮年となり、老人と ではないかとはなはだ心配 ら彼等の真似をやり、軍事
す。
なものが忘れられているよ 界を支配し、奴隷を買 った
人間は時間の経過と共に うに思われます。これでは りして自国の発展をやりま
でどんな方向に進んでいる ず、経済発展にのみ目を向 州諸国が、いずれも兵力を
のかも解らぬものの 一つで け、人間としての最も大切 も って植民地をつくり、世
があります。また地球は自 本になる大切な人間愛の問
私としては、
時代を越え、
転しながら太陽の周囲をま 題が消えているのが現状で 人種を越えた真理であるこ
続けながら、いまだに解ら に追われ、
自己主張にあり、 は殆どとり上げられており
ぬものの 一つに時間の存在 いじめあり、競争あり、基 ません。
人間として数万年も生き 育は、知識の詰め込みのみ えられます。しかし日本で
バーガー中毒症﹂の本態で のノートには患児の受診年
須 知
仁
診
療
所
に
も
、
職
員
一
万
五
千
の コスI
トM
パA
フCォ きい問題が解決されなけれ
ある。
月日、
性 ・年齢と共に、通 っ 名の健康診断の記録がコン
ー マン ス、IMAC の普 ばならない。デ ィジタルイ
京滋奈 学術連 絡委員
二十数年前、我国でも市 ている小学校や幼稚園、患 ピ ュータ内に眠 っている。
及に必要な条件などに つい メージの普及とメモリー容
︵
昭 24︶
販の ﹁やせ薬﹂服用者が甲 児の続柄 ︵親子、兄弟 ・姉 現在までこの記録は殆ど活
て
の討議であ った。ヨー ロ 量の増 大に伴 って近い将
高 橋 浩 昭
状腺中毒症で死亡したこと 妹︶などが書き込まれてお 用されていない。S君に比
ッパでは病院のみならず、 来、IMAC が臨床の場
があり、やせ薬の分析と製 り、 一覧すると水痘の流行 して忸怩たる思いのこの頃
さo
れl
るo
よg
うy
になるの
など が ヨー ロ ッパ全体
,に
Tお
eけ
lる
erで
a応d用i
大阪学術連絡委員 ︵昭37︶
造記録の解析から、やせ薬 状態、集団 ︵
学校︶内の拡 である。
は
二
階
建
バ
ス
や
忙
し
そ
う
な
含
ま
れ
て
い
る
。
の
構
想
も
遠
く
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思
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わ
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れ
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る
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。
d
i
c
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e
︵昭34 ・第二内科客員教授 人の往来で賑わ っていた。
は画 像P
をA
ホC
スS も立てられ、IMAC に
︵準 ・父兄会常任幹事︶
大 谷
周
三
国 際I M A C会 議 に 出 席 して
日本 的 発 想 を変 え て頂 きた い
二見男
本
石
緑蔭随想
隆
久
菅 井
録
記
大 正時代 の思 い出
(8 )
(平 成 5年 ) 7 月 2 5 日
19 9 3年
聞
新
大
慈
(
第 三種 郵 便物 認 可 )
第 4 6 4号
C
今年の四月十三日、浦田 半年早く繰り上げ卒業した 学 問だけ では味気 ないの 田大学の講師を勤め、医学
去 る 四月 十 一日、 私は サ
タ
・
グ
ル
ベ
ロ
ー
ヴ
ァ
の
リ
サ
な
り
余
裕
の
あ
る
歌
い
方
に
驚
く
る。
チ ャーもまじえ、思わず溜
卓君の通夜が中目黒の某寺 私たちは、当時の体制に応 で、グルメとまでは言えな 概論を講義し、﹁医学哲学 ント リー ・ホー ルで チ ェコ イタルを聞き、久しぶりに 嘆した。とても人間の声と
それから十年近い歳月が 息を ついてしま った。
声楽の醍醐味を味わ った。 は思えないくらい透明で、 流れ、あの声がどう変わ っ
予定の曲が終わり盛大な
に間
わた って発行した。彼
じて海軍または陸軍軍医と くても毎回食事をすること の会﹂を主宰し、
雑誌メディ
にした。この ﹁臨床懇談会﹂ コ・フィロゾフィアを数年
浦田君は学生時代から大 は浦田君なき後の今日まで
︵昭45 ・同窓会理事︶
心血管系合併症を考慮した
高血圧症の治療に
●1
0mg●20mg
(
ニフェシピン製 剤)
して終戦まで勤務した。
ケストラのメンバーが退場
初めて彼女の声に接した 美しく心地よいものであ っ たか大変気になり、多少の 拍手に答えて三曲のアンコ
のは 一九八〇年、ウィーン た。もちろん彼女の歌は声 不安を抱いて会場に向か っ ールを歌い、それでも調子
国立歌劇場の来日公演で、 ばかりでなく音楽的にも傑 たが、 コンサートでの第 一 は尻上がりであ った。オー
この翌年に亡くな った名指 出したものであ った。
ず、
彼女が姿を見せると﹁
ブ
私も思わず舞台袖にかけよ
ラーバ!﹂の掛け声をかけ、
してからも聴衆は席を離れ
揮者カール ・べームの指揮
以前、ある雑誌にザルツ であ ったことが 証明され
でR ・シ ュトラウスのオペ ブルク音楽祭で、この曲の た。勿論、この日のプ ログ
り彼女と握手をしてしま っ
そのほかオ ッフ ェンバ ッ た。昔だ ったらサインをも
ところであるが、当夜は家
クのオペラ﹁ホフマン物語﹂ らうため楽屋口まで行 った
で、主人公のホフマンが機
についた。
内と 一緒にオトナシク家路
械人形と知らず恋をするオ
ランピアのアリア ﹁
森の小
鳥はあこがれを歌う﹂も、
絶品でユーモラスなジ ェス
学会運営を心がけていく所
ているが、また同時に我々 同、諸先輩の御助言を礎と
して可能な限り満足のいく
にと っては、その中にも本
学の伝統を生かし つつ、い
中川 安 株 式 会社
声でこれがま ったくの杞憂
ラ ﹁ナキソス島のアリアド 総練習の際、報道関係のカ ラムには先程のアリアも含
ネ﹂が上演された時である。 メラマンを入れ写真撮影し まれており期待通りの出来
劇中劇で、悲しみにくれ た時、彼女の歌声があまり 栄えであ った。
小島教授が第37回日本形成外科学会会長に
かにして慈恵医大の理念を 存である。
内科のスタ ッフに感謝の意
理の解明、新しい治療法の 者による活発な討論が繰り
教室としても第十九回総 開発などを検討しようとい 広げられた。
医薬品総合商社
変な勉強家で、医学そのも 四十年近くも続いている。 は英語の原書は日本語と同
︵第 一外科︶
︵形成外科︶
栗原邦弘助教授
望月正武教授
︵新橋武記︶
第3 回世界大会 開催 きる国際学会として大いに
る次第である。スタ ッフ 一
︵
青戸病院内科︶
学 会 開 催 に む け て 教 室 員 一丸 と な って邁進
格調高く具現していくかと
学会は、来る平成六年四
●パネルディスカ ッシ ョン
いうことが大変重要なこと 月七、八、九日の三日間都
﹁最近の臨床検査医学の
さる平成五年五月十 三、 学形成外科開設二十五周年 最新の優れた研究発表、活 であり、そのためには本学 市センターホールにて開催
問題点﹂
十四、十五日の三日間、盛 を迎える記念すべき年でも 発な討議を通じて、会員諸 諸先輩の暖かいご支援なく されるが、最後に重ねて慈
座長 町田勝彦教授
岡市において第三十六回日 あり、学会開催に向けて教 兄に出来るだけ多くの有益 しては到底成し遂げられる 恵医大関係各位の多大なご
︵臨床検査医学︶ 本形成外科学会総会が開催 室員、同窓会員が 一丸とな な情報を提供できる意義深 ものではない。諸先輩の御 支援を心よりお願い申し上
って邁進している。学会の い学会の実現を目指してい 指導御鞭撻を心より念願す げる。
望月幸夫教授
され、児島教授が第三十七
会担当 の指名を 受けて以
来、鋭意準備を進めている
最後に組織委員の 一人と
期待できるものである。
して会の準備に携わ った野
去る四月二十六日から二 した学会である。学会発足 会長である永野名誉教授を 間講師、また当日、学会の
永 野名 誉 教 授 が 学会 の名 誉会 長 に選 ば れ る
国際適 応医 学会
︵
放射線医学︶ 回学会会長に就任した。総 運営に当た っては、多くの かなければならないと考え
十月十四日 ︵
第 二日︶
●特別講演
が、学会開催まで十ヵ月あ
意を新たに、準備に余念が
︵環境保健医学︶ まりとなり、教室員 一同決
清水英佑教授
岡野 弘教授
︵第三病院内科第2︶ ない毎日である。
を表したい。 ︵
武田記︶
時よりサイ エンテ ィフィッ 学会の名誉会長に推薦、全 運営に協力頂いた望月正武
ク コミ ッテ ィーの委員長と 員 一致で承認された。当学 教授を始めとする青戸病院
として筆者 ︵武田︶が招待 会は我々がイ ニシアチブを
のような時期、多数の会員 のもと、東京新宿センター 催の運びとな ったものであ
されており、今回日本で開 と って発展させることので
て﹂
第 一一〇回成医会総会は
寺島芳輝教授
近年の形成外科の発展に 十八日まで、国際適応医学
平成五年十月十三日︵十
水四
︶
︵産婦人科︶ は目を見張るものがあり、 学会第三回世界大会が、会
日︵に
木わ
︶たり、高木会館七 ●シンポジウム
それに伴 って会員数も増加 長永野允名誉教授、事務局
﹁高次機能病院をめぐ っ の 一途をたど っている。こ 長武田信彬︵青戸病院内科︶
が、このほどパネルディス
の期待に答え得る実りある ビルに於て開催された。
この学会は生体の生理現 カナダ、ドイツ、イギリス、
下行洋準備委員長、内田満 象、各種疾患の病態および フランス、 ロシアなど︶か
る。国内および国外 ︵
米国、
座長 酒井紀教授
致します。
各位の積極的な参加を希望 な活動を開始している。
︵第 一生理︶ 副準備委員長を中心とした 治療を生体の適応現象とし らの約五十名の著名な招待
同窓ならびに教職員関係 準備委員会が設置され活発 ての立場から考え、病態生 演者を中心に、多数の参加
馬詰良樹教授
︵第二内科︶ 総会を目指して、すでに木
カ ッション、シンポジウム
ならびに特別講演、宿題報
告の日程がそれぞれ次の通
り決ま った。
十月十三日 ︵第 一日︶
瀧上 誠助教授
●宿題報告
レセプションの直前に行
あると共に、特に今年は本 イツのフライブルクで発足 われた役員会では、今回の
生 き 、生 き て 。
のだけでなく医学概論、医 も っとも現在では勉強の方 様に読む読書家で、著書の
であ った。著書のひとつ﹁医
学哲学など医学思想全般に は脱皮してしま ったようだ 数も多く知識の豊富さと幅
関する幅広い研究をしてい が。﹁臨床懇談会﹂と相前 の広さにはただ驚くばかり
た。終戦後のどさくさも落 後して学閥によらない開業
ち着いた昭和三十年頃、浦 医の勉強会である永井友 二 学概論﹂は五百ページに及
田君の発案で東京並びに周 郎氏らによる ﹁実地医家の ぶ大作である。
辺在住の同級生十数人が集
ま って毎月 一回勉強会をす
夫
貞
原
︵成医会運営委員長 寺島 会を担当して以来のことで う趣旨で、 一九九〇年にド
芳輝︶
バイエル薬 品株 式会社
ることにな った。新しいア
メリカ医学、例えば臨床検
査、ビタミン、遺伝子等の
驚 異 の歌 声
グル ベ ロ ー ヴ ァ
晩年には健康に恵まれな
ための会﹂が発足したのも、
ているアリアドネの心を紛 にもすばらしか ったので、
浦田君の影響力が絶大であ か ったようだが、私にと っ
らわせようとして、ツ ェル 全員が聞き惚れてしまい、
ったからである。私たちは て彼 は友人 であると 同時
ビネ ッタ役の彼女が歌う長 誰もシ ャッターを押さず、
い つの間にか退会してしま に、種々の意味での恩師で
大なコロラトゥーラ ・ソプ 歌い終わ ったら盛大な拍手
ったこの会も現在ますます もあ った。本当に借しい人
ラノのアリア ﹁偉大な王女 が巻き起こ った。という記
を亡くしたものである。
のブラティスラバ生まれの 様﹂を聞き、この至難の名 事が掲載されていたが、そ
︵昭17 ・横浜市︶ 世界的ソプラノ歌手 エデ ィ 曲を軽々と歌い、しかもか の時の光景が目に浮かんで
浦田君は慈恵医大と早稲
で行われ、同級生も数人が 勉強に新進気鋭の講師を呼 発展している。
出席した。昭和十七年九月 んで話を聞くことにした。
保健衛生同窓会
開 催 のお知 ら せ
〇〇一
〇三
円
︵JR浜松町駅︶
ル
衛生 行政 ・衛 生公衆 衛 場所 世界貿易センタービ
生 ・学校保健等の各分野で
ご活躍の同窓の先生方の会
です。十月に御案内状を出 会費
しますので、現在登録され
東京慈恵会医科大学内
ていない先生方で本同窓会 連絡先
に出席ご希望の方は下記ま
環境保健医学教室
平成 5 年11 月20 日︵土︶
楠原浩 二助教授
︵産婦人科︶
階講堂において開催される
︵電話03ー343内
32
ー︶
2
17
10
11
清水英佑教授まで
でに連絡を下さい。
日時
午後 5時 30分 よ り
日興 会館
3時よ
︵り
土︶
平成5 年 10 月16 日 ●最近の不妊症について
静 岡 支 部 総 会
同 窓 会 ・同 門 会 予 告
日時
場所
中部支部長 福田瑞穂
幹事
福地益人
︵JR静 岡駅 前︶ 静岡中部支部当番
特別講演
松井道彦
●大学の近況について
※多数の参加をお願い致
します。
︵アイソトープ︶
石川正昭教授
アダラート
L
東 京病 院部 ・
横 浜 ・港 南 ・みど り 区 ・川 崎 ・
厚 木 ・湘 南 ・
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本
中川 佳 英
取 締役 社 長
シ ン ポ ジ ウ ム 、日程 決 ま る
浦 田卓君 の思 い 出
︵
大学専任理事︶
学 会 用 の ポ ス ター
パネ ル デ ィ ス カ ッ シ ョ ン
紀 雄
大 滝
第 4 6 4号
(
第三 種 郵便 物 認 可)
聞
新
大
慈
(平 成 5年 ) 7 月 2 5 日
19 9 3年
(9 )
恒例のセントトーマス医学校
留学生友の会を盛大に開催す
の留学生の壮行会と帰国し となり 少々残 念で はあ っ どであ った。近年セントト
︵昭57︶大橋美奈子 ︵昭58︶
た留学経験者の親睦会を兼 た。しかし昔一ポンド四〇 ー マス病院の存続について 小林 一成 ︵昭59︶浦島充佳
1︶長谷川譲 ︵昭6
1︶
ねて、毎年この時期に開催 〇円以上した時代の留学の 一部新聞等では不安な報道 ︵昭6
昭62︶滝澤尚子
されている。本学でもこれ 苦労話や、Queen’s もE
あnっ−
たが両校のますます 大木隆生 ︵
まで多数の施設に多くの留
昭63︶
の発音がg
聞l
きi
とs
りh の強 い絆と 発展を祈 り つ ︵昭62︶長谷川望 ︵
つ、来年の再会を約束して 大久保辰雄 ︵平元︶進藤奈
学生を送りだしているが、 にくい、慣れない外国で体
生
通
信
睡眠時無 呼吸症 候群
ってその任にあた ってお
耳鼻咽喉科 足 川哲 夫
最近、健康ブ
発作がある程度を越え
ームのテレビや られます。
週刊誌などで、
時々取り上げら ると、夜間に苦しくて目
れる ﹃いびき﹄もしくは、 が醒めたり、翌日眠気が
間がとれないのが現状であ
群﹄について、簡単に紹
では ﹃睡眠時無呼吸症候
故を繰り返す人が多い︶
、
しま ったり ︵このため事
やや硬い表現をするもの とれず運転中に突然寝て
る。
︵長谷川譲記︶
那子︵平2︶
山田紋子︵平3︶
こうして帰国後も定例の会 調を崩して心細か った、今 会はお開きとな った。
梅雨晴れの平成五年六月 周知のごとく、学祖高木兼 ようである。
を持ち続けている例は珍し だから明かせる裏話などと
尚、当日の出席者は以下 横尾隆 ︵平3︶加藤由美子
本学からは大学の援助の いと思われる。ただ今年度 い った、世代や年代を越え の通り。石川栄世名誉教授 ︵平4︶吉田真希︵平4︶
十 一日 ︵金︶夕刻、東京プ 寛先生が留学されて以来、
学
︵長いものでは 一分を越
睡眼時に①無呼吸発作
療の対象となります。
昇、不整脈が見られ、治
介させていただきます。 睡眠中 に著明 な血圧 上
の夏休みを利用して何かま
そこで提案であるが、こ
ラムにの っと った授業や試 とま ったこと、普段出来な
い絆で結ばれている医学校 り二名の留学生を派遣し、 り、新規留学生無しの状況 き時間の経つのも忘れるほ 中島尚登 ︵昭56︶石野順子
リンスホテルに於いて石川 長年にわた って本学とは強 もと、毎年新卒業生の中よ は留学候 補生の都 合によ た留学の思い出話に花が咲 小亮理事 鶴岡明 ︵昭55︶
栄世名誉教授と小森亮理事
を招いて、平成五年度のセ であるが、 一九八〇年以来 夏期の二ヵ月余り生のイギ
ントトー マス医学校留学生 定期的に留学生を交換し合 リス臨床医学に接する機会
っている 関係にあ ること を得ている。また数年前よ
友の会を開催した。
きた功績がたい へん大きか
夏休 み の抱 負
まず減量が第 一であり、
治療は、閉塞性の場合
六〇 回以上︶、そ の後 に これに付随して薬物 ︵ダ
える︶が②頻発し ︵症例
非 常に大 きな③ いびき
イアモ ック スなど︶や特
別な呼吸器︵鼻CPAP︶
によ っては 一時間あたり
ったこ とによる ものであ
験を、半強制的に受けてい か ったことをしてみてはど
る。
もうすぐ試験も終わり、 追われて過ごし、残りは遊 る。確かに医師になるため うでしょうか。医学の勉強
受賞記念の祝賀会が、去 いよいよ夏休みに入ろうと んで暮らすとい ったような に必要な知識をすべて独学 も大事であるが、それにと
︵住宅事情の悪いわが国
君 ︵昭27︶
セントトーマス医学校は は、意外に知られていない り発足した本会では、当年
矢吹 芳一
第 十 五 回 プ ロ スポ ー ツ大 賞
る四月 二十六日都内のホテ している。現在五年である 生活しかしていなか った。 で体得するのはかなり困難 らわれずに広い意味での勉
の疾患の原因は、大きく 応 となる 場合 がありま
こともある︶を発するこ 応しない場合、手術の適
手術後、ある程度発作
博
監 修 長 谷 川
本 書 は, 脳 神経 を機 能 別 に色 分 け
し, そ の 走 行 が 分 か る よ う に , 三
次 元 的解 剖 図中 に神 経 伝導 路 をカ
ラー で表 示 ,脳 神経 の 解剖 に 対す
る理 解を 必 要 とす る臨床 医 や研 修
医お よび 学 生 に役立 つ 参考 書。
● A 4変 型 頁 180 図 19 色 図 128
1993 定 価 5,
665円 (税 込 ) 〒 400
SBN4−2
60−11
778−
5〕
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書 は, 安全 確実 な 肝臓 癌 治療 の
めの 基 礎的 な デー タの 評 価か ら
種 治療 法の 選択 基 準 とそ の方 法
明確 に 示 し,加 え て肝 切 除の 術
別の テ クニ ック とその コツを 対
形式 で立 体 的 に解 説。
B 5 頁 160 図 59 写 真 35 1993
定 価 24,
720円 (税 込 ) 〒 400
SBN4−
260−1
243
9−0〕
〔I
本
た
各
を
式
話
●
本 書 は,腹 腔 鏡下 胆嚢 摘 出術 を 中
心 に虫 垂切 除 ,骨 盤 内 リンパ 節切
除 ,迷 走神 経切 離 ,鼠 径 ヘル ニ ア
手術 , 腸管 手術 ま で を収載 。 豊 富
な カ ラ ー 写 真 や シェ ー マ で 懇 切 丁
寧 に手 術手 技 を解 説す る。
● B 5 頁 328 図 88 写 真 83
原 色 図 79 1993
定 価 18,
540円 (税 込 ) 〒 400
SBN4−26
0−121
90−1〕
〔I
︵
内 閣総 理 大 臣杯 ︶を 受 賞
私はこの大切な今年の夏
二つに分 けられ ていま す。手術としては、閉塞
では隣家にまで聞こえる などを用い、これらに反
休みを、何か 一つでもよい
す。
はないでし ょうか。
から目標をも って広い意味
性のものでは咽頭のみの
での勉強ができるように努
形成術で改善するものが
き苦しんでいるように見 約八割で、残りの二割は
一つは、睡眠時にもが
える ﹃閉塞性﹄のものと、 これに舌根の形成術が必
力し、有意義なものにした
いと思 っている。
様々な割合で混在してい
一症例でこれらの発作が す。
ま ったかのように見える め、気管切開による上気
﹃
中枢性﹄のもので、同 道抵抗の除去も効果的で
しまい、まるで死んでし 吸 運動の 負荷軽減 のた
のものが極端に低下して 性のものでは、微弱な呼
もう 一つは、呼吸運動そ 要となります。また中枢
︵学生委員長海老沢高憲︶
基本的には医薬両者は協
は残りますが、十分な症
原因としては、閉塞性 状の改善が得られていま
ます。
発 作が主体 のもの は肥 す。
満、咽頭の解剖学的問題
などがあげられ、また中
枢性のものとしては、精
神神 経医学 的な諸 問題
や、脳血管障害の発作後
や中枢の変性疾患などが
診断は精神神経医学的
あげられます。
な評価が不可欠であり、
当院 精神神 経科 では現
在、山寺先生が中心とな
腹腔鏡下外科手術
診療メモ
ルで開かれたが、南 武名 私の夏休みも、今年を入れ これだけではせ っかくの長 を要するが、強制的にやら 強をするのに最適な期間で
業との結びつ
政治家と企 れる。
製 薬会 社 と の
関 連 を考 え る
私達医学生は、カリキ ュ 勉強、好きなことをする時
情に促 したも のとして い ころが 現状は更 衣室が兼
それを参考とし当病院の実 の 一途をたど っている。と
と、大部分をクラブ活動に
慈恵医大泌尿器科教室の 卒の矢吹芳 一君 ︵世田谷区 誉教授をはじめとして、野 てあと残り二回だけとな っ い夏休みを有効に過ごせた されているだけでは本当の
同窓であり、本学 二十七年 在住︶が、第 二十五回プロ 口修、沢村忠、五木ひろし、 てしま った。そう考えると とは言えないような気がす 意味での学力は身につかな
スポーツ大賞 ︵内閣総理大 具志堅用高、堺正章、池部 今年の夏休みは、今まで以 るのである。も っと日常の いと思う。︵少々偉そ うで
臣杯︶を去る三月に受賞さ 良、山口洋子など各界から 上に充実したものにしたい 生活ではできなか ったこと あるが、ご勘弁下さい。︶
れた。永年にわたる日本キ 三百名余の出席者があり、 と思わずにはいられない。 をこの夏休みという機会に しかし現実問題として、学
私の今までの大学時代の しなければと思うようにな 校の授業が行われている期
間はなかなか自分の好きな
夏休みを 振り 返 ってみ る った。
︵町田豊平記︶
ックボクシング界の コミ ッ 同君を祝 って盛大に行なわ
シ ョン ・ドクターとして、 れた。
その健康管理に尽くされて
附属病院めぐり
る。完成時には 一般床三十 用、室内にトイレがない、
分が合理的でない等々、多
五床、未熟児床七床の計四 待合室は狭い、検査室の区
十二床となる。
力して医療の進歩を担うわ
けで、相互の結びつきは必
然的なものである。しかし
この動きが生じたことにつ
︵匿名希望︶
〈
スタンダー ドテ キス ト〉
著 L.
Wi
l
son−pauw el
s,他
監 訳 高 倉 公 朋
訳 斎 藤
勇 ・寺 本
明
本 書 は , 腹 部 急 性 疾 患 79例 の 写 真
を 提 示 しな が ら , 緊 急 画 像 診 断 の
精 髄 に 触れ た実 践 の書 。 急性腹 症
や 腹 部 外傷 の患 者 が運 び こま れた
時, 緊 急時 に はどの モ ダ リテ ィー
を選 択 す べ き か ? す べ き でな い
か ? また, ど こをどの よう に読影
す る のか ? な ど を詳 述。
● B 5 頁 368 図 20 写 真 669 1993
定 価 20,
600円 (税 込 ) 〒 400〔
I
SBN4−
260−1
3498
−1
〕
本 書 は , 患 者 教 育 の た め の 「日 常
生 活 にお ける 自 己管 理の す すめ 」
シ リ ー ズ の 1冊 。〃高 血 圧 症〃 と
言 われ た人 た ちが 高 血圧 症 に対 す
る 正 しい知 識 と認 識 をも っ て自 己
管理 し,合 併 症か ら自分 自身 を守
る ため の指 針 を具 体 的 に与え る。
● A 5 頁 192 図 28 写 真 1 1993
定 価 2,
781円 (税 込 ) 〒 400〔
I
SBN4−260
−1
08
31
−X〕
第 三 病 院 ︵2 ︶
小児系病棟の改修が完了 くの問題があり長年の懸案
きがいろいろ
すれば、六階は周産期病棟 事項であ った。これらの点
問題化し、世
前回の慈大新聞三月号の 床の運 びとなる 予定であ め、本病棟が機能的かつ効 が隣接するためいろいろな を改善すべく検討中である
の中に改革の
附属病院めぐりでは、第三 る。改修された病棟内は、 率的に運用されるのは想像 点で合理的であり、しいて が、限られたスペース内で 風が吹いている。製薬会社
病院の森田療法病棟、リ ハ 病院建物の外観とは少々異 に難くない。さらには看護 は業務の効率化にもつなが
ビリテーシ ョン科病床、そ なり大変素晴しい。とくに 部においても周産期病棟の るであろうと考えている。
この改修と並行して目下
して最新の放射線治療機器 周産期病棟については 一見 開床に際して積極的に取り
について紹介した。今回は に値する 内容とな って い 組んでいる。
の急務でもある集中治療病
すべてを満足させることは と医師の関係も、公正取引 いては、現況の中に何かし
大変難かしい。本件に関し
ら正すべき点が存在するの
委
員
会
の
指
導
な
ど
に
よ
る
是
ては小委員会を設置し、皆
は
認めなければいけない。
正
の
動
き
が
あ
り
、
製
薬
会
社
で知恵を絞 っている段階で 側が学会用スライドや文献
この際望ましい関連の仕
検索の協力を停止したり、 方について、関業医 ・勤務
今年度の下期には6B病 棟の手直しも実施される予 ある。
多少視点を変えて、第三病 る。設置医療機器の整備等
院において現在進行中の病 については今後の課題とな 棟を小児系病棟に改修すべ
きたいものと願 っている。 をするに当り、小児科の赤
産婦人科の現診療科長で 塚教授をはじめ看護部、関
棟、外来の改修およびその ってこようが、皆様には機 く計画中であり、既に実行
計画について述べておくこ 会があれば是非見学いただ 段階にある。本病棟の設計
ととする。
今年八月には、六階の周
も当然この波が及ぶと思わ
定である。
以上、改修計画の 一端に 身近に変化がある。教室に 医 ・教室などそれぞれのレ
さらに今年度は外来部門 ついて紹介した。内容の詳 対する学会の援助、治験報 ベルでこの問題を考え、襟
における内視鏡室の改修も 細は誌面の都合上、いずれ 酬もきびしい制限が生じて を正すべきところは正して
予定されている。現在内視 機会を得てまたご報告した おり、さまざまな影響があ は如何であろうか。慈大新
鏡室は内科1、内科2、外 い。
る。地域の医師会や同窓支 聞で何らかの形で取りあげ
︵梅澤祐 二記︶ 部会などの集会、研究会に てもらいたい。
産期病棟の十八床と七階の ある恩田講師は、周産期に 連部署の方々は他施設を見 科、耳鼻科にて使用してい
外科系病棟の四十 一床が開 関して専門分野でもあるた 学するなど大変努力され、 るが、その件数は年々増加
腹部急 性疾患の
画像診断
著 島 村 善 行
脳神経の
機能解剖学
[BOOK & VI
DEO]
高血圧
セ ラピー
● 豊 富 な カ ラ ー 写 真 や シ ェー マ
で懇切 に手術手 技を解 説
肝 臓 癌 プラクティ
カル・
●三 次元 的解剖図 に神経伝 導路
を カラー で表示
●緊 急画像診 断の精 髄 に
触 れた実 践の書
編 集 K.
A.Zucker
監 訳 出 月 康 夫 ・万 代 恭 嗣
平 松 慶 博 ・広 沢 邦 浩
高尾 信廣
うしお
●安全確 実な肝 臓癌治 療の
方法 を立体 的に示す
●合併症 か ら患者を守 るため
の具体 的な指 針
日常 生活 にお ける
自己管理 のす すめ
医学書院
●新刊
(1 0 )
(平 成 5 年 ) 7 月 2 5 日
19 9 3年
聞
新
大
慈
(
第 三 種郵 便 物 認可 )
第 4 6 4号
大 浦 梅 吉 君 の80歳 を祝 う
去る六月二十三日 ︵水︶、 て、世田谷支部総会及び懇
た。
おしえてたまるか。
中村紀夫名誉教授のスキ
ー部部長退任パーティーが
ミノンのこと。
﹁肌しっとり、私うっとり。﹂
去る五月十四日、東京プリ
ンスホテル ︵末広の間︶に
て開催された。中村先生は
昭和四十七年から二十 一年
間にわた って、スキー部の
部長を勤めてこられた。脳
神経外科の主任教授として
お忙しい傍ら、何度となく
スキー部の合宿に顔を出す
ために御尽力下さ った。
などされ、大変スキー部の
当日はスキー部会長木村
篤人 先生 ︵昭40︶、第 一病
理学助教授の古里征国先生
をはじめとして、中村先生
にお世話にな ったスキー部
OB、現役部員が集まり、
沢山の思い出に花が咲き、
あちこちで昔話の輪が広が
り、和気あいあいのうちに
進行し時の経つのも感じら
れないほどであ った。次期
スキー部の部長は古里征国
助教授とな った。
︵孫敬洙記︶
ついで懇親会に入り、安
non
去る六月十九日区内 二葉 の名誉会員に選出されたと 導入について説明があり、
会館にて、葛飾支部総会が の報告があり、同窓会とし 副院長の衛藤助教授からも
開催された。青戸病院長の て、祝意を表わした次第で 挨拶をいただいた。松永 一
昭18︶が乾杯の音
有廣忠雅教授、副院長衛藤 ある。大浦梅吉先輩には八 臣先輩 ︵
義勝助教授、青戸病院外科 十才を迎えられたので寿状 頭をとられ宴会が始められ
た。各支部の各ブロック別
高橋宣胖教授に、御多忙の 及び記念品を贈呈した。
続いて新任の高橋教授よ に自己紹介が行われ、抱負
中御出席をいただいた。
総会議事として、岡本支 り ﹁下血の臨床﹂と題して など披露された。まさに同
部長挨拶、森田評議員、新 御講演を拝聴した。この中 窓会員の親睦と団結をはか
しく当支部より選出された で大腸ポリープ大腸癌の外 る 有意義な 懇親会 とな っ
永井評議員の挨拶、本井学 科病理について非常に明解 た。
最後に学生歌を高唱し、
術連絡委員よりの報告、会 な御講演をいただき、会員
去る六月十九日︵午
土後
︶三
時より ハトヤホテルにて、 田節 重県連会 長の挨拶 の
川崎支 部総会が 開催さ れ 後、田中忠 一川崎医師会長
た。最初に今年度より新し より医師会活動の内容と苦
[価格は希望小売 価格(参考価格)、
消 費税別]
務報告、監査報告が行われ 一同深い感銘をうけた。待 来年の総会も多数の会員の
た、また岡本支部長より会 望の懇親会は永井幹事の司 出 席を期 して閉会 とな っ
員の高山瑩君が、整形外科 会により行われた。青戸病 た。今回の出席は全部で二
学会での永年にわたる学会 院の有廣院長より大学の現 十二名であ った。
への貢献の対して、同学会 況に ついて、またMRIの
︵真山信郎記︶
に ついて力強く熱 っぽく語
午後八時より懇親会に移 た。
られ、出席者 一同同窓とし り諸川薫同窓会副会長から
最後に世田谷支部の名指
同窓会報告の後、同君によ 揮者 ・伊達洋 一君 ︵昭29︶
ての喜びを感じた。
次いで世田谷支部総会恒 る乾杯のご発声があり、堰 の 指揮で第 一学生歌 を斉
例の講演会に移 った。今年 を切 ったようにあちこちで 唱、散会とな った。尚、当
の講演は先のバルセロナ ・ 懇親の輪が広が った。宴の 日の出席者は四十 二名であ
オリンピ ックで日本射撃チ 半ば で会員 の紹介も 行わ った。
茶屋賓館に於いて開催され ームの監督としてメダル獲 れ、病診連携がここでは病
︵
尾崎捷三記︶
得に活躍されたわが同窓の 診合 体という 形で進行 し
学 長 も出 席 、講 演 は霜 礼 次 郎 君
世田谷支部総会盛大に開催
葛飾支部総会開催
岡村哲夫学長のご出席を得 親会が銀座アスター ・三軒
小沢禎治君 ︵昭27︶の司 霜礼次郎君 ︵
昭37︶にお願
会で会は始まり、この 一年 いして、﹃オリンピ ックに
間に逝去された故藤田正雄 勝つためのメンタル ・トレ
君 ︵昭6︶・故大島昌安君 ー ニング﹄の演題でお話願
︵昭13︶の二名に対し全員 った。講演は勝負に当た っ
く支部長になられた杉田文 労話をおききし、最長老の
太郎君 ︵昭16後︶より開会 町田尚先輩の音頭で乾杯し
の辞があり、つづいて同窓 歓談に入 った。それぞれの
会の諸川副会長より挨拶を テーブルで先輩後輩が和気藹々
と話しの花が咲き、九
その後第三病院外科の伊 月には軽井沢へ 一泊旅行と
いただいた。
最後に川越忠夫君の閉会
全 身循環が
見える。
●お 求め は薬 局 ・
薬店で
ほか に ・ミノン石 けん 7
50円 ●ミノンーD950
円 ・ミノンクレンジ ング
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坪喜八郎教授より ﹁肺癌と ゴルフの予定にな った。
巨大肺のう胞﹂と題する講
演をいただき、スライドを の辞の後散会し、大半の会
駆使されての最新情報とわ 員が 二次会へと行き又楽し
かりやすい講演をされ、注 い時間をすごした。出席者
意点として肺癌とのう胞の は安西、秋山、石永、井口、
合併が多く、特にのう胞部 伊坪、小野、岡野、太田、
の壁の肥厚をみた場合、癌 川越、方波見、桑原、小林、
の疑いがあるとの指摘があ 鈴木、猿谷、宿谷、杉浦、
り、日常生活では煙草がよ 田口、田中、田辺、中島、
くないと強調された。講演 西岡、町田、前原、松田、
後数多くの質問をうけてい 三木、三廼、光永、諸川、
ただき、今後の診療に大い 望月、毛利、渡辺。
︵小林睦生記︶
に参考にな った。
山之内製薬
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A CHI
黙祷、
次いで近藤孝則君︵昭 ての国民性の違いから、無
県連安西節重会長 、同窓会諸川副会長 も出席
mi
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565A
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24︶勇退後の新支部長 ・亀 念夢想の状態、 α波の世界
井邦倫君 ︵昭26︶が挨拶、 と多岐に亘り 一同満足、特
議事に移 った。その後、岡 にゴルフをなさる会員のス
村哲夫学長が大学の現況と コア ・ア ップに役立 ったの
これからの慈恵のビジ ョン ではないかと思われた。
伊坪教授を迎えて川崎支部総会
第 4 6 4号
(
第三 種 郵便 物 認可 )
聞
新
大
慈
(平 成 5 年 ) 7 月 2 5 日
19 9 3年
(1 1 )
中村紀夫名誉教授のスキー部部長退任パーティー開催
ス キ ー部 O B ・
現 役 部 員 集 ま る、次 期 部 長 は古 里 助教 授
︵昭44︶坂本清文 ︵昭45︶
部長窪田浩君 ︵昭27︶、副 阿 部実 ︵昭35 ︶田中 一郎 ︵昭 近藤道子 ︵昭41︶田島敏久
︵塩塚 幸彦 記 ︶ 病院を目指すと心強い御言 願う旨の発言があり、井手
郎 ︵昭47 ︶大 木和 ︵昭 55︶。 にして、頼られ甲斐のある 病院ひいては慈恵の発展を
として外来担当医、当直医 で宴が始ま った。今回は稲
葉があ った。又その第 一歩 先輩 ︵昭17︶の乾杯の音頭
支部長真島良秋君 ︵昭23︶ 35 ︶相 田貞 志 ︵昭36 ︶村 上
庶務黒沢昭君 ︵昭35︶を全 賢 二︵昭37 ︶塩塚 瑛子 ︵昭37 ︶ 河西悦子 ︵昭47︶小山啓 一
学術講演は学術担当鴇田
表を同窓に送付してくれる 葉君 ︵昭48︶︵人事院勤務︶
等教授ならではの配慮をい 斉藤君 ︵学生︶の参加もあ
次いで東部同窓支部代表 わして時を過ごし、最後は
ただき 一同感銘をうけた。 り、総勢十七名盃をくみか
今春 昇任さ れた院長 有 ら始まり、有廣教授、高橋 病院については詳細な説明 の近藤市雄支部長 ︵荒川︶ 例の如く吉岡君 ︵
昭30︶の
青 戸 病院 の三 教 授を お迎 え し て
江戸川支部総会開催さる
員 一致で選出した。
重樹君 ︵
昭28︶の司会で、
浜田病院副院長岡田紀三男
君 ︵
昭23︶の ﹁エイズの最
近の話題﹂が行われた。多
霜 礼 次 郎 著
幸
﹁メ ン タ ル ・ マ ネ ジ メ ン ト ﹂
村
司
数のデータに基づき、 エイ 廣、外科高橋、内科望月の 教授、望月教授が自己紹介 があり、今後江戸川支部は から青戸病院に期待する旨 三本締め で終宴と なった。
ズのすさまじい蔓延状態を 三教授を割烹 ﹁高倉﹂にお 及び抱負をのべられた。更 じめ近隣同窓との交流を密 の発言と共に同窓 一同青戸
︵
高橋吉彦記︶
詳細に解説され、全員 一同 迎えして、五月二十八日夕 に有廣院長が代表して大学
学現況報告、附属四病院の
刻 江戸川支 部会を 開催し 新人事 一覧を配布され、大
懇親会は席を移し、伊勢 た。
蓮田支部長の開会の辞か 概略を述べられ、特に青戸
︵
昭 37︶ 松
南雲今朝雄
諸川 薫
南雲 吉和
渡辺 盛雄
森田
一
衣笠 泰生
戸澤満智子
福地 益人
黒坂 公生
内田 豊
名倉 弓雄
岩田 正晴
米本 恭三
有広 忠雅
川田 忠良
岩澤 章
大畑 元
赤羽 紀武
坪田 修 二
岡部 紀正
高橋紀久雄
原 貞夫
益子 博
松井 道彦
落合 和彦
海老沢高憲
本降りの雨になる夜の遠蛙
に 1日 1カ プ セ ル
興味深く拝聴した。
丹デパート六階のバンケッ
トルームで行われた。まず
児玉支部長、次に北里大学
病院長の石橋晃君 ︵昭35︶
優勝間違いないと思われ 数々の競技会で優勝し、幻 る。そのような相談を受け
慈恵俳壇
清見勝彦︵昭16後東京︶
中村博見︵昭22鹿児島︶
安藤 謙︵大11 ・千葉︶
物 故者 御氏名
︵昭29︶の挨拶があり、そ
の後最年長の小山忠七先輩
・
ツ
ドクターである。この
くら身体的なトレー ニング の医事委員であり、スポー
を積んでも、精神的なもの
がだめになれば総崩れにな 夏のバルセ ロナでは日本の
る。そんな思いから、 一九 射撃チームの監督を勤め、
射撃という精神力が大き
八五年に日本体育協会は、 メダルを取 ってきた。
それまでの運動生理学に基
づく身体的トレー ニングだ な要素を占めることが多い
けでなく、心理的なトレー スポー ツの豊富 な経験 か
岩国 村井 一露 医師として生涯終る黴の宿
冷奴いつしか父の年近く
ときめきの青春想う五月闇
岡山 藤本剛平
ニングを研究し応用するた ら、メンタル ・マネジメン
思ひ立ち 一書をさがす桜桃
めに、メンタル ・マネジメ トの実践であるメンタル ・
長岡 青柳薫也 忌
ントに関する研究班を設置 トレー ニングでの理論や方 庭木々にも つれ鳴きゐし蝉 ギター弾けば■瑰翳を濃ゆ
した。
法に具体的に触れていて、 の声
うせり
本書はその成果の 一部を 興味深い本である。要する 火の如く燃え水のごと止む
生人
を十 二分に働き、楽し 整形外科医。剣道をや って ではあるが、医学的心理学
一村の離れ離れに青田中
社会では、必ずしも天命を 選手やア マチ ュアのスポー に ﹁アガラナイようにする 蝉の声
享年七十歳、昨今の長寿
厚木市医師会長遠藤義夫君
にともに泊まり込んだりも
に開業されました。爾後約
法をこころざされ、伊香保 れませんが、先生はまさに である。著者は私の親友で いうことで、まだまだ糸口
先生は卒業後は、温泉療 全うしたとは言えぬかも知 ツマンのために書いたもの にはどうしたらよいか﹂と
致しました。
ていた選手が試合になると に終わ ったモスクワ ・オリ ることがある家庭医 ・学校
コチコチにな って惨敗して ンピ ックの候補選手であ っ 医にお勧めしたい。
しまうことがよくある。い た。もちろん世界射撃連合
︵昭14︶の音頭で乾杯を行
い時のたつのも忘れて楽し
い時を過した。最後にやは
り 最年長の森 久保茂 先輩
︵昭14︶が閉会の辞をおこ
ない、なごりをおしみつつ
去る六月五日、相模原南 まず児玉清支部長 ︵昭22︶ 散会した。
メディカルセンターで平成 の挨拶、続いて塩塚の庶務
当日の他の出席者は、藤
昭38︶ 村義男 ︵
五年度の神奈川県湘北支部 報告、近藤正樹君 ︵
昭18︶和田惠三郎
の会計報告が行われ、参加 ︵昭21専︶増山 一正 ︵昭28︶
総会が開かれた。
誠
★梅雨あけが待たれる七月 も積極的にとりあげる必要
活躍を期待したい。
某日、恒例の納涼会を兼ね があり、
くひろいあげているの
では読者からの声を広
い。また ﹁うしお﹂欄
名を明記して投稿下さ
いる。住所 ・卒年 ・氏
的な投稿を呼びかけて
た編集 委員会が 開催さ れ ★編集局では新聞 への積極
た。新任の渡辺委員長
のもと活発な協議がな
され、前号の反省、次
号の編集が行われた。
★本委員会には学生委
員長が学生代表として
君から後 町君 へと変 わ っ ほしいことなど気軽にペン
で、 一寸考えたこと、
参加しているが、今回
委員長の交代により海老沢 言いたいこと、皆に知 って
た。学生会の問題など今後 をと っていただきたい。
アルタットカプセル75
クラ
総会は庶務担当塩塚幸彦 全員の承認を得た。その後 小沼三郎 ︵昭30︶太田富治
原
︵昭37︶の進行で行われ、 役員改選の討議に移り、支 夫 ︵
昭30︶大森 一弘 ︵昭31︶
須 藤寿 作 君 を悼 む
︵
昭 40︶ 野
ブ ック ハウ ス ・エイ チデ ィ ・ 一〇 三〇円
須藤寿作君は、平成五年 謳われ、門前市をなす盛況
先生は、授業では流石に 三十年、今や伊香保および みそして満足されたことと いたが、射 撃に転 向し て の応用に目を開かせてくれ
五月十 一日早朝、急逝され だ ったにも拘らず、斯道を 前職が ら解剖学 がお得意 前橋に病院を開設され、盛 確信して居ります。告別式
ました。前日まで、い つも 究めんと、三十代半ばにし で、骨の特徴などいろいろ 名を馳せられるに至りまし 当日は穏やかな五月晴れで
と全く変わらぬ元気さで、 て慈恵医大に入学されたの と教えて頂きました。そこ た。二人のお嬢さんも医師、 した。すべての人々から愛
された先生のお人柄そのも
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医療の手伝いで信州の高原 居ります。
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