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Title 結び目としての神経 : シュレーバーにおける宇宙と身体 Author(s
Title Author(s) Citation Issue Date URL 結び目としての神経 : シュレーバーにおける宇宙と身体 熊谷, 哲哉 研究報告 (2005), 19: 75-93 2005-12 http://hdl.handle.net/2433/134461 Right Type Textversion Departmental Bulletin Paper publisher Kyoto University 結 び 目 と して の 神 経 ― シ ュ レー バ ー に お け る 宇 宙 と身 体 ― 熊 谷 哲 哉 1.「 神 経病者 」 シュ レーバ ー ダニエル ・パ ウル ・シュ レーバー(1842∼1911)の 想録1(1903)iは 残 した唯一 の著 書 『あ る神経病者 の回 、 これ まで に、 フロイ トによ る論文 「自伝的に記述 され たパ ラ ノイア 〈 早 発 性痴 呆〉の一症例 につ いて」(1911)を 皮切 りに 、精神 分析 の観 点か ら、 またはカネ ッテ ィ や ゾ ンバル トらに代 表 され る現 代 文化 論の視sか ら多 く論 じられて きた。これ らの先行研 究は、 シュ レーバー を、現代 を代 表す る 「 病者」 と して描 き、『 回 想録 』の記 述を通 して、現代 社会 が直面す るさまざまな病理 につ いて の理 解 を深 めた といえるだ ろ う。しか しなが ら、シュ レー バー を単な る病者 として 、精神 病の モデル ケー ス として扱 うこ とは、彼 の著 作 じたいを諦 面す ることにはな らない。た しか にフ ロイ ト、ラカ ンらによる糊 申分析 は、病者 のデ ィス クールか ら私た ちの言語 がおかれ た根 本 的 な状況を探 りだ したが 、シュレーバー の500ペ ージを超 え る膨 大なテ クス トに登場す るひ とつ ひ とつのモテ ィー フの意味 や来歴 については、いまだ解 明 されてい ない点 も数 多 く残 され て い る。 シ ュレーバー本 人は、著書 の タイ トルか らもわかるよ うに、みず か ら 「 神 経病者」を名乗 つ ていた。 「 神経病者 」 とは、 なん だろ う。 どのよ うな意味で 「 神経1を 「 病」 んでい るとい う のだ ろ うか。 シュ レーバ ー は、『回想 録1に 収 録 された 「 禁 治産宣告取 り消 し訴訟 の記録 」の 控訴理 由書 において、 「 精 神 を病 んで いる」 とい う意味での精神病 者 と して扱 われ る ことには げ し く反論 してい る。 これ は不 当であ る。とい うの も、一般 的にみ られ ることだが、精神 病 とい う言葉 には 、 悟 性の混濁 とい う観 念が結 びつ いてお り、こ うい つた意味 で私 が精神 病であ るとい う ことには 、断 固 と して反駁 す る。(中略) 1『 ある神経病者の回想録 虹は、以下 『 回想鋤(DW)と 略記する。引用は、Schreber,DarrielPaul: 艶翻 承θ1加 質θ盟θ βハ@㎜ 面 継 θ 皿Gerd Busse([ g―)Gie゚en 2003に よる。 -75一 私 は、 申 立 書 で 、 自分 が神 経 病 とい う意 味 で の 精 神病 とい う状 態 に あ る とい う こ と に つ い て は反 駁 しな い 、 と述 べ た 。 しか しな が ら私 は また 、 「 精 神 病 」 とい う語 が 、 法 的 な 意 味 で 医学 者 に 対す るの とは 異 な った 意 味 を持 って い る こ とを も、す で に は っ き りと指 摘 して きた 。(DW 405) シ ュ レー バ ー が み ず か ら名 乗 る 「 神 経 病 者」 とは、 こ の よ うに 、 きわ め て明 確 に定 義 され た 限 定的な意味で の 「 神 経 の 病 」 を患 う者 の こ とで あ る。2で は 、 具 体 的 に 、 シ ュ レー バ ー は どの よ うに 「 神 経 」 を 病 んで い た とい うの か 。 シ ュ レー バ ー の 病 とは 、自 らの神 経 力榊 との 異 常 な接 続状 態 に置 か れ 、昼 夜 を分 か つ こ とな く、神 や 死 者 の 魂 たち か らの 声 を 聞 き続 け る よ う強 要 され 、3ま た神 に よっ て 「 女轡 糎 を 挿 入 され る こ とに よ り、身 体 が 女 性へ と変 化 し、最 終 的 には 神 に性 的 に濫 用 され る 、あ る い は 神 の妻 とな り新 た な人 類 の 創造 を行 う者 とな る 、 とい う 『 回 想剛 全 体 を覆 い つ くす よ うな 、 壮 大 な 内 容 を持 っ た神 経 の 病 で あ る。 シ ュ レー バ ー の 「 神 経 病 」 は 、先 ほ どの 引用 で もみ た よ うに 、通 常 の 医学 的 ― 医学的な噛 あるいは法 意 味 とは別 の意 味 で 、精神 の病 を 指 して い る。そ れ で は 、シ ュ レー バ ー の壮 大 な 著 作 が 書 か れ る要 因 とな っ た、彼 の 神 経 とは 、い つ た い どの よ うな も の だ っ た の だ ろ うか 。私 た ち に とっ て神 経 とは 、視 神経 や 反 射 神 経 とい った 語 か ら連 想 され る よ うに 、外 界 か らの刺 激 を受 容 し、そ れ に 対 して働 き か け る た めの 信 号 を発 す る器 官 で あ る と同 時 に 、血 管 や筋 肉や 骨 の よ うに 、全 身 に 網 の 目の よ うに 張 り巡 ら され た 、身 体 を構 成 す る根 本 的 な一 要 素 で あ る と考 え られ る 。この よ うな 私 た ち の―般 的 な 神 経 に つ い て の理 解 と、シ ュ レー バ ー にお け る神 経 と は どの よ うに 異 な つて い た のだ ろ うか 。ま た 、シ ュ レー バ ー 自身 は 、どの よ うな知 的 背 景 か ら、 『 回 想録1に 詳 細 に書 き込 まれ た 神 経 につ い て の 知 識 を得 て き た の だ ろ うか。 本 論 稿 で は 、 シ ュ レー バ ー の 『回 想 録 聾に お け る キー タ ー ム の ひ とつ で あ る神 経 に着 目 し、 シ ュ レー バ ー の 知 的背 景 を さぐ る と同 時 に 、シ ュ レー バ ー の記 述 が 、同 時 代の ど の よ うな 身 体 や 神経 に っ い て の言 説 と結 び つ い て い るの か を 考 察 す る こ とに よ り、彼 の生 きた 世 紀 転 換 期 に お け る 、 ひ とつ の 身 体 観 を提 示 す る こ とを試 み る。 2シ ュレ―バー 自身 も 「 私は 、ここ数年来i私の神経が病的 な状態 にある とい うことに反駁 しない」 とはっき り述 べている。vgL Schreber,ebd, 3『 回 想録 』にお ける 、音声的な要素(す なわち神や 魂たちの発 す る声や罵言)と 言語 の関係 につ いては、 掴 高 「F1を めぐるたたか い シュ ト ノく 一 と儲 の世界1涼 都 輔 翔 蚊 研 懲1確 結 」18 号(2004年)、23-36頁 戸刷又を参照℃ ―76― 2.シ ュ レー バ ー と神 経 病 と世 紀 転 換 期 裁 判 官 と して ザ ク セ ン各 地 で 活 躍 した シ コ.レー バ ー が 、 ち ょ うど壮 年 期 を迎 えた19世 紀後 半 とい う謝 ざは 、ま さに 神 経 病 の 日 … 獣 で あ つた とい うこ とが で き る。 ヨア ヒ ム ・ラ ドカ ウ に よ れ ば 、「 神 経 衰弱 」とい う病 名 が ―般 的 に使 用 され 始 め た の は 、1880年 代 の こ とだ とい う。4ド イ ツ に お け る ダ ー ウ ィ ニ ズ ム 流 行 の 中心 人 物 の― 人 で も あ るエ ル ン ス ト ・ヘ ッケ ル は、 『生 命 の 不 可,醐 において 、「 蒸 気 機 関 と電 気 技 術 の 日 訓知 に われ われ は 膨 大 な 「 神 経 エネ ル ギー 」 を 消 耗 し、 「 わ れ わ れ の脳 は 百 年 前 よ り もず っ と強 く緊 張 させ られ 、 消 耗 され 、 そ の体 はひ ど く刺 激 を 受 け 、過 労 を 強 い られ て い る 」 と述 べ て い る。5ヘ ッケ ル が 指 摘す る とお り、神 経 衰 弱 に罹 患す る恐 れ が 非 常 に 高 か っ た の が 、電 話交 換 手や 新聞 社 の植 字 工 とい った 、こ の 時 代 に 急 速 に 普 及 し発 展 した テ ク ノ ロ ジ ー を前 衛 で担 う人 々 で あ っ た 。6ま た 、民 俗 学 者 の川 村 邦光 は 、 明 治 期 の 日本 に流 布 した 神 経 病 や 脳 病 ― 一 そ こ に はむ ろ ん 、 「 狐 愚 き」 な ど 日本 固 有 の神 経 症 的 現 象 とい う背 景 も考 え られ る が 一 →こつ い て の 言 説 や 薬 の広 告 、解 剖図 な どが 、ひ とび との 不 安 に名 前 を与 え 、脳 や 神経 と い うイ メ ー ジ の も とに 、そ の不 安 を方 向付 け た 、っ ま り 「 病 み 方 」 を教 え た の だ と指 摘 して い る。7 この よ うな 状 況 は 、シ ュ レー バ ー の 『回 想 録 』に どの よ うに反 映 して い る の だ ろ うか。 シ ュ レー バ ー 自身 は 、 『 回 想 録1冒 頭 で 、神 経 を以 下 の よ うに 定 義 して い る 。 人 間 の魂 は 身 体 の 神 経 に宿 っ て い る。 そ の 物 理 的 性質 につ い て 、 素 人 の 私 が 言 え る の は 、た だ 神 経 が ― き わ め て 細 い撚 り糸 に もた と え られ る よ うな 一 非 常 に 繊 細 な構 成 物 で あ り、 外 的 な諸 印 象 に よ つて 刺 激 を受 け る能 力 に こ そ 、人 間 の精 神 生 活 全 体 の 基 盤 が あ る と い う こ とだ け で あ る。(DW 6) シ ュ レーバ ー にお け る神 経 とい う語 は 、 わ た した ち が 一 般 的 に 使 用 す る以 上 に 多 義 的 で あ る。 こ こで シ ュ レー バ ー が い う、 「 外 的 な 諸 印 象 に よ っ て束轍 を 受 ける 能 力 」 とは 、 私 た ち に とつ て もそ れ ほ ど違 和 感 が あ る もの で は な い。 しか しな が ら、シ ュ レー バ ー の 考 え る神 経 は 、た だ 印 象 を受 容 す る だ け で は な い。受 容 した さ ま ざま な 情報 を保 存 した り、保 存 した 情報 を 編 集 す 4Radkau , Joachim:.砺52a'蜘 飽r八@㎜ 腰6恥 π磁 ηゴ魔 西θ 四伽 盈 αロゴ塑 地 野Mt血chen /Wien 1998, S.9.「 祐 径衰 弱」(Neurasthenie)と い う語は 、 もともとアメ リカ .::,.医 学者 ジ ョー ジ ・ M・ ベアー ドに よる ものであ り、 のちに ヨmッ パ に伝 わ り、昔か ら存在 した不安心理 、無 気力、不眠 な どの症候群 を一 括 して 「 神 経 衰弱」 とい う病名 のも とに表象 す るようになっ た。 Raecke], ErnsC DieLebenswunder. Leipzig 1923,5.95. 6竹 中亨 蹄 依す る世 紀末 ドイ ツ近代 の原理主義者群 劇 ミネル ヴァ書房2004年 7川 村邦 光 『幻 視す る近代空 剛 青 弓社1997年 、120頁9 -77一 、10真 る こともできる。8つま り、私た ちが考 える脳の記憶や想像 といつた機 能 をも担 つてい るのだ 、 また、世界 の創 造者 である神 は、 「 身 体を持 たない、神経その もの」 であ り、人 間 と異な り、 その神 経は無 限に存在す る とされ てい る ΦW8)。 神 がその神経の能 力、つ ま り創 造す るこ とや 、人間た ちに啓示 を与 えるとい つた ことは、光 線 として行 われ るとい う。この光線 と して の神 の言葉が 、シュ レーバー に伝 え られ ているの規 神 がシュ レー バー の神経 へと語 りかける言葉 は、通常の人間 が意識す るこ との できない 「 神 経 言語」 と呼 ばれ る独 自の言語 方式 である。 ふっ うの人間の言語の ほかに、通常 の健 康な人間 には意識 され るこ とのない、神 経言 語 とい うものが ある。 私の考 えで は、これにつ いての最 も分 か りや すいイ メー ジを得 るには、い くつか の単語 を決 め られた順 序で記憶 に刻み込 も うとす る ときの 過程 、っま り、た とえば学 校で 子供が、詩 を暗唱す る とき とか、聖職者 が教 会で行 う説教 をそ らん じるとき、 とい った過程 を思 い浮かべれ ばいいだ ろ う。 そ うい った 言葉 は、 この ような場合、声 に出 さないで暗唱 され る 〈これは、説教 壇か ら聴 衆 に 要求 され る黙祷の場合 と同様で ある〉。す なわ ち、人 間は、 この よ うな言葉 を使用 す るのに適合 す るよ うな同 じ振動 を引 き起 こす よ うに、神経 に働 きかけるのだが、そ の際 本来 の音声器 官(唇 、舌 、歯 な ど)は 、 ほ とん ど動 かないか、動 かされ るに し て も、偶然 によるもので しかない。 正常 な(世 界秩 序にかな った)状 況の も とでは、 この神 経言語 を使 うこ とは、 も ちろん その神経 を持 つ、本人の意 思にのみ、左右 され る。 誰 も他人に、神経 言語 を 使 うよ う強制す ることはで きない。しか し私は、上述 の神 経病 の危機的な展 開以来、 私 の神経 が外部か ら、 しか も絶 える ことなくひっ き りな しに、動か され る とい う状 況にな ったのt 膀 点は原著者)①W46) シュ レーバー がみずか らの神 経が外的 な力 によつて動 か され てい る、とい う事態 は、先述 し た とお り、この神経言語に よる、神 経への介入 、す なわち思考の撮乱 には じま り、身体 の寸断 や女 閨 ヒへ といた るさま ざまな形 での迫害へ とつ なが るのである。 ここまでシ ュ レーバーにお ける神 経 とい う概念 につ いておってみたが、とりわけ特 徴的なの は、それが神 の言葉を受で 討 る器官 と して機 能 してい るとい うことである。そ して、シュ レー 8こ のような働きをする羅 劇 吾騰 とよljれる。・ 齢}諾 臆 だけでなく、燗 の思考憶 勲 定などの活動も同時にになっており、そこに書き込まれた記憶こそが、ひ とりの人間の個性と対応してい るのだとシュレーバーは述べている。(DW 6) ―78一 バー の もとにや つて くる外部 か らの言葉(そ れ は神 の神 経言語のみな らず、神 の世界 を構成 す る使者 の魂た ちの声 で もある)が 、神 経 を通 じてその身 体 を破壊 し、改造 して しま うとい う点 である。冒頭 の引用 か らも分 か るよ うに、シュ レーバー は積極 的に医学の知識 を取 り入れ、み ずか らの 「 神経病 」が何 であ るかを考 えよ うとして きた。次節 では、シュ レーバー が どの よ う な書 物か らその知 識を得 たのか とい うところか ら、シュ レーバーが身体 を どの よ うに捉 えてい たのか を考察す る。 3― 体操す る身体 、父 シュ レーバ ーの身体 論 と精神主義 シュ レーバー の知 的能力 につ いて、禁治産宣告取 り消 し訴訟の記録 のなかで、鑑定 医の ヴェ ーバ ー博士は以 下の よ うに述べ てい る 。 は じめに、何 度 も繰 り返 し言 つてお くべ きで あるが、パ ラノイア患者に多 くみ られ る よ うに、 この患者 もまた 、知 性や 形却 勺な論理的思考 を構域す る倉旨力に はなはだ しい 障害 をこ うむ ってい る よ うには見受 け られ ない とい うこ とであ る。患者 は多 くの観念 を 自由に操 る ことが でき る し、それ らを秩序 立てて表現 す るこ ともでき る。 それだ け でな くまた 、その思慮 分別 において も曇 りはない。(DW 397) 引用す るまで もな く、シ ュ レーバ ーの豊富 な知識 や明晰な知 性については、『回想鋤 およ び、その末尾 に付 け られ た 「 精神 病 とみな され る人物の医療施設での拘禁は、当人 がそれ を拒 否す るは っき りと した意 志 を表 明 してい る場 合、 どの よ うな前提条件 があれ ばゆ るされ るか」 とい うタイ トル の論文や 、訴訟 の記 録をみれば、明 らかであ る。それ では、具体的 にシ ュ レー バーが どのよ うな本 を読 んで きたの か、また どの よ うな知識 を背景 と して 『回想録 』を執 筆 し たのだ ろ うか。 この こ とにつ いては 、シ ュレーバー 自ら以下 のよ うに語 つている。 しか しなが ら、私 が病気 にな る前 のお よそ10年 の間 に読 んだ哲学的 ・自然 科学的 な 内容 を持 っ著作の 中には 、何度 も繰 り返 し読 んだ もの もあ り、そ の うちのい くつ かを ここで挙 げてお きたい。 とい うのも、これ らの著作に含 まれる眉想 が、 この論文 に反 映 しているの を見 出す こ とが できるだ ろ うか らである。それは た とえば以 下の よ うな 著作 である。 ヘ ッケル の 『自然 創造 史』、カスパ リの 『人間の原 史』、デ ュ ・プ レル の 『宇 宙の発達1、 メー ドラーの 隊 文学』、カール ス ・シュテル ネの 『生成 と消滅 』、 ヴィルヘ ル ム ・マイ ヤーの 雑誌 『 天 と地の間』、 ノイマイヤーの 『 地 球の歴 史 』、ラン ケの 『 人 間』、エ ドゥアル ト ・フォ ン ・ハル トマンのい くっかの哲 学論 文 と りわ け 『現 一79一 代 』 に 掲載 され た もの な どで あ る。 ①W36) この 引 用 か ら分 か る よ うに 、シ ュ レーバ ー が と りわ け 関 心 を 持 つて い た の が 、宇 宙 論 や 自然 史 、進 化 論 や 心 霊 学 な ど、当 時 広 く流 行 した 知 識 で あ っ た。 この よ うな分 野 だ けで な く、 シ ュ レー バ ー はま た 最 新 の 医学 に も関心 を も って い て 、 精 神 病 理 学 の 確 立 者 の一 人 で あ る ク レペ リ ンの 教 科書 を参 照 した り、9医 学 的 な知 識 に 照 ら して も 自分 の病 気 はパ ラ ノイ ア で は な い と主 張 した り して い る ①W355)。 また 、彼 自身 の 父 で あ り、医 師 ・教 育 家 ・保 健 愚 想 家 と して現 在 もシ ュ レー バ ー庭 園 に名 前 を残 す ダ ニエ ル ・ゴ ッ トロー プ ・モ ー リツ ・シ ュ レー バ ー(1808∼1861)に て い る点 を見 落 とす こ とは で きな い 。 『 回 想剛 つ い て も言及 し に よれ ば 、 父 の魂 は 、 あ る種 の 医 学的 な 助 言 を与 え る こ とが で きた 、 とい う。10そ の 具体 的 な 内 容 につ い て は 触 れ られ て い な い が 、別 の 箇 所 で は 、父 シ ュ レー バ ー の 代 表 的 な著 作 『医 療的 室 内 体操 』11に も言 及 して い る。12こ こ で シ ュ レーバ ー が 参 照 した と され る ペ ー ジ を見 て も、そ れ が シ ュ レー バ ー の 病 に どの よ うに 関 9シ ュ レーバー は、郷 究内で閲覧が許 されてい るクレペ リンの 『 精神 医学教 科劃 を読 み、みず か らの経験 して いる外的 な声 が幻 聴であ るとの記述を見つけ、それ を批 判してい る。 「 他方では 、 似 前 にな された経 験 によつて、新 しく現れた観 念を明敏 か つ徹底的 に修正す る}こ あた っての 患者 の無 能力>146頁 、それか らク レペ リンが、 〈 例外のない〉妄想観 念(囎 半現象 として書いてい る 〈 判 断 力の衰 弱〉 とい つた ことは、私においては、この著 作の全体的 な内容 をみれば 、ほ とん ど見出す こ とが できないであろ う。私の場合 く 確固たる思考 秩序 とす でに獲 得 された観念 との記 慮にのっとつた統 紛 だ けでな く、 〈 判 断 と推論 の助 けを借 りて、意識 内容 を批 判的 に訂正 す る能力〉 もまた極 めて鋭 敏なまま存 在 してい るこ とを証明 して見せた と思 う。 これ に対 して、 クレペ リンが146頁 で云 うような意味で く 健康 な経 験1と い う名 の下に、あ らゆる超感覚的な物事 を否 定 して、理解 しよ うとす る人 は、私の考 えによれ ば、ただ18世 紀の嚇 寺代の浅はかな 〈 合理主義白 勺観念 〉に惑わ されて いるにす ぎない とい う拙判 を受 けて しか るべ きで ある。」(DW 79) lo「 先ほ ど言及 した事態にお いて 、とくに興味深かったのは、ユ リウス ・エ ミール ・ハーゼの魂 が、彼の 人 生の中で会得 した科学的な経 験によつて、医学的 な助 言を与 えるこ ともできた とい うことであ る。私の 父 について も、私 はこの機会 に付 け加 えてお きたいのだが、 ある程 度事情は同 じであ つた。 」(DW 96) ここで登場す― るハーゼ とは 、パ ウル ・シュレーバーの母方 の祖父で ライ プツィ ヒ大医学 部教授であ つた、ヴ ィル ヘルム ・A・ハ ーゼ である と考え られる。 11こ の著個 ま広 く読 まれ 、多 くの言語に翻 訳され版 を重ねてお り、その数は19DO年 万部 を超 えていた とい われ る。Israels,Han:5伽 ごろまでに32版 、30 加〆抽 訪θr瑚ゴ5肋.Madison 1989, S240.ま た、心 身の虚弱か ら大 学の職 を辞 していたニーチ ェも 『 医療 的室内 爾 剰(第15版 、1877年)を 参 照 して、身 体の増強 に努 めた とい う。K独 葛RudoE磁 財 珈 ゴ蹴M輪nchen 1998, S.193. 12「 ベ ッ ドに寝 る際 に、男性 は横胸 きに、女性は仰向けに横たわ る、(いわば"受 け入れ る側'と してつね に性交 の際 に合 致 した状況にある)と い うこ とを魂た ちはよ く知っていた。 これ まで の生活で、 この よ う な こ とにまった く注 目してこなかった私 は魂たちから初 めて教わったの である。 この 問題 につい ては、た とえば私の父 の 『 医療 的室 内体操1(第23版 、102頁 〉を読 んでみたが、医師た ちで さえ、 こ ういった問 題 には、詳 しくなかったよ うであ る。J(DWl66) -80一 連 して い る の か は よ くわ か らな い 。しか しな が ら、これ らの こ とを鑑 み て 、シ ュ レー バー の 『 回 齢 剥 お よ び 彼 自身 の 教 養 形 成 に 、父 の思 想 が少 な か らぬ 影響 力 を持 つ て い た こ とは うか が い 知 る こ と が で き よ う。 モ ー リツ ・シ ュ レー バ ー とい う人 物 は 、 これ ま で パ ウル ・シ ュ レー バ ー の 精 神 病 に とっ て 直 接 的 な 影 響 を 与 え た サ デ ィ ス テ ィ ック な ス パ ル タ教 育 者 で あ る とされ て きた 。そ の 見 方 の 代表 的 な 例 と して シ ャ ッツ マ ンや ニ ー ダ ー ラ ン ドを挙 げ る こ とが で き る 。13シ ャ ッツ マ ンは 、 モ ー リツ ・シ ュ レー バ ー の 考 案 した さ ま ざま な 骨 格 矯 正器 具 が 、パ ウル ・シ ュ レー バ ー の 妄 想 に お け る さま ざま な 苦 難 と して 現 れ て い る と考 え、 『回 想 録1第10章 を 中心 に述 べ られ て い る 身 体 の 損 傷 一― 頭 部 を締 め 付 け られ た り、姿 勢 を 固 定 され た り、内 臓 を 抜 き取 られ た り ほ とん どモ ー リツ ・シ ュ レー バ ー の 教 育 に よ る もの で あ る こ とを示 した 。14シ が ュ レー バ ー の 教 育に は 、た しか に子 供 の 身 体 を 拘 束 して真 直 ぐな身 体 を 形 成 しよ う とい う意 志 が あっ た。 シ ャ ッ ツ マ ン は そ れ を息 子 の 精 神 病 と直 接的 に結 び 付 け て い る が 、そ の よ うな 関 係付 け が どれ ほ ど妥 当 な もの な の か は 定 か で な い。 この よ うな 見 解 に対 して 、近 年 の イ ス ラエ ル スや レー トシ ュル テ 、三 井 悦 子 らの 研 究 に よ り、 シ ュ レー バ ー の身 体 論 は 、再 評 価 が な され て い る。イ ス ラエ ル ス は 、シ ュ レー バ ー が考 案 した 骨 格 矯 正 器 具 は 、あ くま で 骨格 異 常 の 児 童 に用 い られ る もの で あ り、 日常 的 な使 用一 一息 子 へ の強要一 を視 野 に 入 れ た も の で は な い と指 摘 して い る。15む しろ シ ュ レー バ ー 本 人 は、 従 来 の 器 具 や 体 操 療 法1士の 助 力 に頼 る ス ウ ェ ーデ ン式涯 療 体 操 に は批 判 的 で あ り、誰 も がひ と り で 、 ど こで も で き る 体 操 を 目指 して い た。16『 医療 的 室 内体 操1に は、体操の効用 だけでな く 、彼 自身 の 保 健 思想 が 明確 に 示 され て い る。 モ ー リ ツ ・シ ュ レー バ ー は 、人 間 とは 、精 神 的 お よび 肉 体 的 な 自然 が 、内 的 に結 合 した二 重 の 存 在 で あ り、文 明 化 した 社 会 で は 、この 肉体 的 な側 面 が貧 困化 して い る と考 え て い る。 それ ゆ え に 、体 撚 こよ る身 体 の 鍛 錬 を 通 じて 、精 神 を活 性 化 し、 さ らに 高 次 の結 合 へ と至 るべ き で あ る とい うの だ 』17 『医療 的 室 内 体 操1に は 、こ の よ うな シ ュ レー バ ー の身 体 論 だ け で な く、 さま ざま な疾 病 や 13モ ー トン ・シャ ッツマ ン 隣 の殺 害者』(岸田秀 訳)章 思社1977年 お よび、Niederland, WilliainG.:刀ゆ 瑠5伽 庶Fran㎞t a M 1978を 参 照℃ t4た とえば シャ ッツマ ンは、『回想録 肘 こお けるシュ レーバ ーの頭痛 にっいて の記 述 と、モー リツ ・シュ レ ーバ ーの考案 した頭 部固定 器について の記 述を対照 し 、両者の因果関係を明示 しよ うとしてい る。(シャ ッツマン!有 薦 、68、 69頁 。) ia Israels,5.87. 16Neuendorf Edmund;6b曲 励 勿 伽 ηθ㎜ 飽α働 θ η厩 甜 加 ㎎ 磁 ノπ 」DieZeitvon 1860 bis 1932. Dresden. o.J.,5.44. 17Schrebeゆ ,GM:/励 盈 θ易 ㎜ θ 騨 紹盈Leip頭g 1894, S.13. -81一 症 候 に 対 す る処 方 箋、あ る い は体 操 に よ る治 療 プ ラ ン が 多数 収録 され て い る。パ ウル ・シ ュ レ ー バ ー が 参 照 して い た 「 病 的 で 衰 弱 を と も な う夢 精 の 頻 発 に対 す る 処 方 箋 」のペ ー ジ では 、17 種 類 の 運 動 とそ の 回 数 を示 したの ち に 、 以 下 の よ うに 述 べ て い る。 と りわ け 重 篤な 場 合 に は 、以 下 の よ うな方 法 が推 奨 に 値す る。寝 る前 に7、8分 列 氏10度 の問 、 か ら12度 程 度 の冷 水 に 半身 浴 し、で き るだ け長 く体 内 に と どま る(そ れ ゆ え 余 り大 量 で な い)水 洗 腸 をす るの が よい 。 そ して 夜 に は 、例 外 的 に仰 向 け に寝 る代 わ りに左 右 と き どき 姿 勢 を変 え な が ら横 向 きで 寝 るの を習 慣 とす べ き で あ る。 そ して 夜 で はな く、 朝 に、性 器 や会 陰 部 を 冷 水 で 洗 うこ と。18 ま た 、神 経症 に っ いて は 、神 経 症 と は 「 血 流 の抵 抗 を征 しよ う とす る無 意 識 的 な働 き」 で あ る と考 え 、そ の よ うな意 志 の及 ば ない と こ ろ で の精 神 の働 き を助 け るた め に、体操 や マ ッサ ー ジ 、 水 療 法 、乾 布摩 擦 な どを行 うべ き で あ る と して い る。19 シ ュ レーバ ー の 言葉 を補 うよ うに 、 と も に 「ライ プ ツ ィ ヒ体 操協 会 」の設 立 に尽 力 した 医 学 部 教 授 の カー ル ・ボ ックは 、 「 筋 肉 や 腱 は 、 単 にカ や 巧 み さ を産 出 し、 多 くは 生 命 を維 持 す る 義 務 を助 け る の み な らず 、脳 の 協 力 に よ り、堅 固 な 意 志 力 や 意志 の強 靭 さを 形成 す る こ と もで き る」 と述 べ て い る。20ボ を奨 励 して い る の 規 ック も、 シ ュ レーバ ー と同 様 に 、精 神 面 で の鍛 錬 の た め に 、 体 操 ボ ッ クの 云 う意 志 や 意志 力 とは 、19世 紀前 半 の ロマ ン主 義 医 学 層想 に お け る キ ー タ ー ム のひ とつ で あ っ た 。治 療 ニ ヒ リズ ム と もい わ れ る待 機 療 法(何 も しな い で 放 置 して お く治 療 法)に 反 発 した 、ヴィー ン の エル ン ス ト ・フ ォ ン ・フ ォ イ ヒ ター ス レー 試 ンは、 『魂 の 修 」にお いて 意 志 力 こそ が 、 あ らゆ る疾 病 に 対 抗 す る力 とな り うる こ とを 訴 え た。21 フ ォ イ ヒ ター ス レーベ ン の師 で あ る カ ール ・フ ィ リ ップ ・ハ ル トマ ンは 、『至福 へ の 教 え』22 の な か で 、 日常 生 活一― 住 ま いか ら性 生活 、子 育 て にい た る ま で一 → こお け る健 康 にな るた め の詳 細 の 教 え と と もに運 動療 法 につ い て も触 れ て い る。 同 書 は1808年 に 出 版 され た が 、の ち taEbd .,5.102. tsEbd 。, S―113.シュレーバーの 『 医療的室内体操』 は、 ここで挙げた ように、体操 だけでな く水療法やマ ッ サー ジな ど他の代潜 医療 をも実 施す るよ う勧 めている。 さきほ どの引用に出て きた水洗腸の よ うな治 臨法 が どれほ ど有効で あった脳 ま定か でないが、す くなくともシュ レー バーが勧め る代 替魍 寮は当時 話題 とな つていた クナイプの水療法 やホメオパテ ィの ように、多 くの人々の期待 を集 めていた し、大学 にお ける医 学教 育に も取 り入れ られ始めてい た。Vgl.1,esky,Erna:Die WlnenerMedizinische Schule im 19. Jahrhudez2 Graz/K ln 1965,5.338. 20B㏄k , Carl Emsじ 励 罵五θ伽 旺ηゴ肋 蟹(瘤1η α説 泌 訪 α2幼 麟. Leipzig 1884, S―26. 21Feuchtersleben ,Ernst von:加r刀 蹟悔猛dか 趾. Ha皿e a.(lS.1848,5.19 Hartmann, Karl Ph.=α酸踊 Schreber. Leipzig 1881. 脚'醜 伽, g拗ch㎜i欝arbei艶t -82一 und ve㎜ehrt von Moh屹 にモ ー リツ ・シ ュ レー バ ー に よ る増 補 改 訂 版 が 出 され て い る。ハ ル トマ ン の 著 書 は 、シ ュ レー バ ー の保 健 思 想 の 源 泉 の ひ とつ で あ っ た と考 え る こ とがで き よ う。ハ ル トマ ンは 、人 間 に 必 要 な のは、 「 空 気 と光 と運 動 」 で あ る と して 、 毎 日30分 の体 操 を励 行 して い る。23ハ ル トマ ン の 体 操 が 目指 した の は 、身 体 と精 神 の ―致 で あ り、そ れ は 運 動 に よ る身 体 の 鍛 錬 を通 じて もた ら され る とい うの で あ る。 三井 悦 子 は 、シ ュ レー バ ー の 体 操 推 奨 論 が、従 来 受 動 的 ・静的 に 捉 え られ て い た身 体 を 解 放 した と述 べ て い る。以 これ ま で た ん な る治 療 の対 象 と して 、器 具や 装 具 に よ つて 、曲 げ られ 、 伸 ば され して き た 身 体 は 、徒 手 体 操 を 通 して 、は じめ て これ らか ら解 き放 たれ 、み ず か ら意 識 し、 自由 に 活 動 す る身 体 を発 見 した の だ とい う。 これ を さ らに 進 めれ ば 、身 体 の 増 強 が 、身 体 の解 放 、ひ い て は 精 神 力 の 強 化 へ とっ な が り、肉 体 と精 神 の一致 した 健 康 状 態 に達 す る の だ と 考 え る こ とが で き る だ ろ う。 シ ュ レー バ ー の 目指 した 地 点は 、肉体 と精 神 の一 致 、両者 の 均 斉 が 取 れ た 関 係 な の だ ろ うか。 先 の 神 経 症 の 治 療 にっ い て の言 及 か ら 、彼 の 目的 が 、身 体 の 活 性 化 を 通 じて 、血 液 の 流 れ の よ うな 不 随 意 の 領 域 を も精 神 力 の影 響 下 に お くこ とに あ っ た と考 え られ るだ ろ う。25 4.拡 大 す る精 神 と宇 宙 父 シ ュ レー バ ー に お け る 、身 体 の発 見 を通 じた さ ら に強 固 な精神 主 義 は 、息 子 パ ウル ・シ ュ レー バ ー に お い て どの よ うな 形 で 現 れ て い るの だ ろ うか。両 者 の間 に 直 接的 な 連 続 性 を 見 出 す こ とは で きな い だ ろ うが 、少 な く と もパ ウル ・シ ュ レー バ ー にお い て 宇 宙 的 に拡 大 した精 神 世 界 か ら、 父 の示 した精 神 と身 体 の 図 式 が い か に変 容 した の か を読 み 解 くこ とは で き よ う。 シ ュ レー バ ー の 神 経 に 、天 界 か ら神 や 魂 た ち の 光線 がひ つ き りな しに 到 来 し、際 限 な く語 り 続 け る とい う こ とに つ い て は 、す で に述 べ た とお りで あ る。 しか しな が ら、シ ュ レー バ ー の 神 経 は 、単 に彼 の も とへ とや っ て くる 情 報 を受 動 的 に受 け 入れ る器 官 で あ るだ け で は な い 。そ れ は 、私 た ち の 目や 耳 と同 様 に 、外 界 の 情 報 をみ ず か ら集 め る こ とが で き るの で あ る。私 た ち の 目や 耳 は 、当 然 の こ とな が ら、 自分 の ご く身 近 に あ る もの ご とを知 覚 す るの み で あ る が 、シ ュ レー バー の神 経 が 知 覚 す る領 域 は 、私 た ち の 常識 的 な 理 解 を は るか に超 え 、遠 く宇 宙 空 間 で の 脇Eb己 ,S.73. %三 井 悦子 胎 療的 な身体運 動にお け るか らだの角 轍 に関する考察D .G.M.シ ュ レーバ ーの 「 医 療的室内 体 操1を 手がか りに して」:奈 良女子大学 文学部 『 研 究年報133号(1990年)、105∼125頁 所収 、116 2iモ ー リツ ・シュ レーバー は 「 血管 のな かの血液 の分酪 ま私 た ちの意志力 の直接的な影 響を免れ る」 とい うことは 自明 であるが 、 「 筋肉 全体 を使 った、計画的 で漸 進 的、そ して合 目的的 な練 習こそ が、機 械的な 血 流のための もつ とも大切 な麩 であ るjと 述 べている。Schreber, D.G.M, S.11& -83一 で き ご と を も感 知 して しま うの で あ る。 シ ュ レー バ ー は 、み ず か らの 目で 見 て 、耳 で 聞 い た宇 宙 の様 子 を この よ うに記 して い る。 他 の グル ー プ を形 成 して い た の は 、お もに ライ プ ツ ィ ヒの 学 生 団 体 サ ク ソニ ア の 元 団 員 で あつ た 。 そ こに 、 フ レッ ク シ ヒ教 授 は 準 団 員 と して 参 加 して お り、 この こ とか ら わ た しは フ レ ック シ ヒを 通 じて彼 らが至 福 を獲 得 した もの と推 測 して い た 。 さ ら にそ の な かに は 、ドレス デ ン の 弁 護 士G.S博 士 や ライ プ ツ ィ ヒの 医 学 博 士S.や 区裁 判 所 長 G.の ち に 「 カ シオ ペ ア に ぶ ら下 が る者 た ち」と言 わ れ た 多 くの 都 ・ 団 員 が い た。他 方 、 多 数 の学 生 組 合員 も い て 、彼 らは木 星 、土 星 、 天 王 星 を 占領 で き た ほ どに一 時的 に勢 力 を拡 大 して い た。 ①W60) シ ュ レーバ ー に お い て 、 宇 宙 空 間 は、 「 カ シオ ペ ア にぶ ら下 が る もの た ち」 や 木 星 、 土星 、天 王星 を支 配 下 に 治 めた 学 生 組 合 員 の 践 電す る 、権 力 闘 争 の 場 と して描 かれ て い る。 シ ュ レーバ ー は こ うい った 清報 を、魂 た ちか ら伝 え 聞 い て い た だ け で な く、自 らの拡 張 した 知 覚 に よ つて 受 信 して い るの で あ る。外 部 か ら介 入 す る光 線 を 自 らの うちに 蓄 え 、 自 ら光 線 を 発 す る こ とに よ り、シ ュ レー バ ー の 「 精 神 の 目」 は発 動 し、宇 宙 全 体 を覆 い つ くす 知 覚 とな る の で あ る。26 シ ュ レーバ ー の 神経 は 、 なぜ 知 覚 可 能 な領 域 を宇 宙 空 間 に ま で 広 げて しま っ た の だ ろ うか。 ま た なぜ 、魂 た ち の 出 身 地 や 生 自地 が宇 宙 空 間 な の だ ろ うか。 この 問題 に は 、シ ュ レーバ ー 自 身 が親 しん だ 、同 時代 の宇 宙 論 、と りわ け多世 界 論 に っ い て の言 説 が参 考 に な る と考 え られ る 。 当 時 、 キ ル ヒホ フ とブ ン ゼ ン に よ って 考 案 され た ス ペ ク トル 分 析27 太 陽 な どの 光 源 か ら の 光 を プ リズ ム に よ って 分 解 し、そ れ ぞれ の 波長 の 長 短 か ら光 源 の原 子 組成 を特 定 す る方 法l 一は 、宇 宙科 学 を飛 躍 的 に発 展 させ 、進 化 思想 の 流 行 と も相 侯 つ て 、当 時 の ドイ ツ に宇 宙 論 の 一 大 ブ ー ム を 巻 き起 こ し て いた 。 シ ュ レー バ ー が 愛 読 書 の ひ とつ と して あ げ て い る 、 カ ー ル ・デ ュ ・プ レル(1839∼1899) の 『宇 宙 の発 達 史 』(1881)は 、ヘ ッケル 流 の 進 化a想 を宇 宙 の 歴 史 に応 用 して い る。 お「 精 神の目」 とは、光線た ち との異常な交 信状態に入 ったシュ レー バー において 、通常の人間が 目や 耳な どの五官を用いて外 界の情報 を得 るのに対 し、 「 光線に よって頭 がいわば光 り織 ・ ている」、つ ま り 「 光線 によつて疸接 内的 な神経系 に投 射」(DW 123)さ れ るこ とによって光や音な どの刺 敷を受容す るのだ とい う。 rVgl .Kinchho$Gustav GesammelteAbhandlungeri -84一 Leipzig 1882,5.598ff 発 達 、 合 法 則 性、 闘 争 、 調 和 、 再 分 裂 、 解 決 、 われ わ れ が 地 上 の 出 来 事 か ら抽 出 した これ らす べ て の カ テ ゴ リー は 、ひ ろ く恒 星 の領 域 に 、類 似 的 に拡 張 す る こ とが で き る。 そ して 宇 宙 の い た る と こ ろ で 、 あ ら ゆ る出 来 事 の 振 り子 は 、生 成 と消 滅 との 間 を揺 ら め い て い る の だ 』28 この よ うに ダ ー ウ ィ ニ ズ ム 的 適 者 生 存 説 を宇 宙 の 惑 星 に っ い て も適 用 し よ うと したデ ュ ・ プレ ル は 、宇 宙 の 発 展 段 階 に お い て 、大 き な楕 円軌 道 を描 く惑 星 は太 陽 に 取 り込 ま れ て 消 滅 す る と 述 べ て い る。29デ ュ ・プ レル に お け る ダー ウ ィニ ズ ム の 普遍 化 の 背 景 に は 、宇 宙 と地 上 とい う二 つ の 自然 界 を つ な ぐ、 言 語 の 一 元 化 が見 られ る の で あ る 。30同 じ本 の な か で 、 デ ュ ・プ レル は 、 「 星 た ち の 唯 一 の 言 葉 は 、ス ペ ク トル 」31で あ り、 「 地 上 と宇 宙 の 法 則 の 同一 陶 は、 「 近 代 天 文 学 の 確 た る 基 盤 で あ る 」32と 述 ぺ てい る。 こ の 当 時 の 宇 宙 論 にお い て 、 最 も注 目 す べ き問 題 は 、他 の 惑 星 に 人 間 が住 ん で い るが 否 か とい うこ とで あ っ た 。イ ギ リス の プ ロ ク タ ー お よび 、 フ ラ ン ス の フ ラ マ リオ ン ら を筆 頭 に 、1860年 代 か ら1930年 代 ご ろま で 、多 くの 科 学 者 や 哲学 者 が こ の 間 題 に 取 り組 み 、彼 らの 言 説 は シ ュ レーバ ー の よ うな デ ィ レ ッ タ ン ト知 識 人 にい た る ま で 、広 く受 容 され て い た の で あ る。 彼 ら のモ チ ヴ ェー シ ョン とな つ て い た の は 、進 化 論 や スペ ク トル 分 析 とい っ た 科 学 技 術 上 の 発 展 で あ り、 地 球 に お け る 文 明 の 発 達 を他 の惑 星 に も投 影 して い た の だ と考 え られ る。そ れ は 、 プ ロ ク ター が あ る天 体 か ら得 られ た ス ペ ク トル の な か に 、金 属 元 素 が 発 見 され た こ とか ら、金 属 器 を用 い る 知 的 生 命 体 が い る と確 信 した こ と認 や 、 フ ラ マ リオ ン が火 星 表 面 の溝 状 の 模 様 を 、 火 星人 が 作 つ た 運 河 で あ る と考 えた り、 謎 火 星 表 面 に み え る光 点 が 、 地 球 に 向 け られ た 信 号 で あ る と推 測 した り、35と い っ た 形 で 火 星 にお け る技 術文 明 を夢 想 した こ とか ら も窺 え 路du Prel,Karl:DieEntwicklungsgeschichte des Weltalls.Leip五g l881,5.235. 29「 それ ゆえわれ われ は、 この よ うな推 論か ら逃れ ることはできない。 しば しば厚いエーテル層 に到達 し た惑星の軌 道速 度は、 その うちに失 われ、不可遜 の運命 に直面せ ざるを得ない。す なわち、最後にはその 速度は たちまち減退 し、ギ リシ ャの ク ロノスが 自らの子 供たちを飲み込んだ よ うに、太 陽に飲 み込まれる の蔦 惑星 は、 自らの起 源へ と戻 り、その輝 く光球は、それ らのゆ りか ごで あったが、また墓 場 ともなる ので ある。」 Ebd.,5.243. 罰 宇宙進 化論 と地球の 自然史 との連続 性については、拙稿 「 光線 と しての言葉 一 シュ レーバー と自然科学 と心霊学」:京都大 学大学E親 』t文 明論講座 文明構造 論分 野 『 文目 構 剣】第1号(X11年)、23∼46頁 所収 、29頁 参aa,,.n 31du Prel=S .46. 胞Eb己 , S.60. おCiowe ,Michael J.:%θ 。 脇 鯉s剛 励 刀白 加 鵡1Z50ソ9α2. Mineola/NewYc)rk 1999, p.372. :均1森 長生 『 火 星の驚 異』(平凡社 新書2001年) 、42頁 、 :35カミー ユ ・フ ラマ リオ ン 『星空遍路 』(武者金吉 調 文明協会1927年 、236頁 以下0 -85一 る。 こ うい った 多 世 界 論 と不 可 分 の 関 係 に あ つ た の が 、生 命 の 起 源 とい う問題 で あ る。 この こ と に っ い て は 、多 くの科 学 者 が そ の 見 解 を述 べ て きた。 当 時最 も支 持 を集 めた のが 、生 命 が 限 石 の 衝 突 に よ つ て 、 外 部 の宇 宙 か ら地 球 へ と運 ば れ た とい う説 で あ る。36し か しな が ら、 ス ウ ェー デ ン の物 理 化学 者で ノー ベ ル 化 学賞 を受 賞 した ス ヴ ァ ンテ ・ア ー レニ ウス は 、この よ うな 通 説 に反 して 、金 星 に生 息す る好 熱 性バ クテ リア が 太 陽 光線 の圧 力 に よつ て 地 球 に 運 ばれ 、発 芽 した とい う仮 説 を展 開 した。37生 命 の 起 源 と発 展 とい う発 想 は 、 シ ュ レー バ ー に お い て も 見 出 す こ とが で き る。シ ュ レー バ ー の神 経 は 、神 の光 線 に よつ て 引 き抜 か れ 、人 類 滅 亡 後 の 新 た な 人 類 の胞 子 と して使 わ れ て しま うの で あ る 。 か の 「シ ュ レー バ ー の精 神 か ら生 まれ た 新 た な人 類 」 は 、地 上 の人 間 に比 べ て は る か に 小 さ な体 格 を して お り、す で に ともか く注 目す べ き文 化 的 な 段 階 に 到 達 し、 と りわ け 彼 ら はそ の 小 さな 身 長 に 見合 っ た 小 さな 牛 を飼 って い た 。(DW 115) ア ー レニ ウ ス にお け る、生 命 の種 子 と して の バ クテ リア は 、シ ュ レー バ ー に お い て は 神 経 線維 の ―部 で あ り、そ れ は神 の 光 線 とい う圧 力 に よ つ て 、は るか か なた の 惑 星 で 、新 た な文 明 を構 築 す るの で あ る。 この 「 シ ュ レー バー の精 神 か ら生 まれ た 新 た な人 類1と い う語 に っ い て は い くつ か 不 可 解 な 点 が あ る。 と い うの も、『回 想 録 』全 編 で この 謡 ま、 合 計6回 出 て く る絡 が 、そ れ ぞれ の箇 所 で 意 味 の揺 らぎ が 見 られ る の で あ る。 先 の 引 用 で は 、 「 新 た な 人 類 」の 世 界 は す で に、 あ るい は 現 在 進 行 形 で 、つ くられ て い る と読 む こ とが で き るが 、別 の 箇 所 で は、そ れ は神 の神 経 との 交 接 に よ っ て 、つ ま りシ ュ レーバ ー を母 と して 近 い 将 来 起 こ る事 態 な の だ とい わ れ て い る。39 こ こ に 、シ ュ レー バ ー にお け る時 間 意 識 の 錯 乱 を見 る こ とが で き るだ ろ う。神 との 交 接 が 終 わ つ た あ と に生 じた新 たな 人 類 の 世 界 を 、す で に 先 取 り して見 て い る シ ュ レー バ ー は 、い った い ど こ に い る の だ ろ うか。 3619世 紀の間 に、限石に関する書 物は5000点 以上に ものぼつた とい う。Crowe, p.401. 訂Arrhenius ,Svante:Die thermophilen Bakterien und der Strahlungsdruck der Sonne. In:Zeitschrift f physilralischeChemie. Bd.130. Leipzig 1927,5.516. Vgl. Schreberi SS.115,124,177,203,288,387. 脇 第13章 においては、このよ うに語 られて いる。 「 今 となっては、それ が私 の気 に入 ろ うが入 るまいが、 世界秩 序は、有無 を言わ ぜ ず脱 男性 化を求めてお り、それ ゆえ、理 性的 に半1断すれ ば、女(の 変身 とい う 考 えにな じむ よ り他に私 には道が残 されていない とい うことが、疑い よ うもない こととして私の 自覚す る ところとな ったのであ る。脱 男性 化の結果 、起 こりうることは もちろん、新 しい人間の創造 を目的 とす る、 神の光線 による受 胎のみであ つた。」(DW 117) -86一 そ もそ もシ ュ レー バ ー の 周 りに集 ま る嶽 ー にお い て神 や 魂 た ち の い る宇 宙 の 世 界 は ちは 、す で に 温 だ燗 た ちで あ る。シ ュ レー バ 、人 間 の世 界 とは 別 の 時間 が 流 れ る、い わ ば 死 後 の 世 界 な の か も しれ な い。ao 宇 宙 が 死 後 の 魂 の世 界 だ と い う発 想 は 、 も ち ろ ん シ ュ レー バ ー に の み特 有 の も の で は な い 。 仏 教 に代 表 され る、輪 廻 転 生 を教 義 とす る宗 教 的 世 界 観 や 、私 た ちが 日ご ろ よ く使 う言 い 回 し ―「 お 父 さん は お 空 の星 に な つ た ん だ よ」 な ど― を考 えれ ば 、こ れ はむ しろ 当然 の こ とで あ る。 しか しな が ら問 題 な の は 、宇 宙 と死 後 の世 界 との 混 同が 、 当時 の 多 世 界 論 者 に お い て も ま た 共 有 され て い た とい う こ とで あ る。 カ ミー ユ ・フ ラマ リオ ン は 、先 に も述 べ た とお り火 星 を 中心 とす る 多 世 界 論 研究 に お け る 最 も著 名 な人 物 で あ つた が 、 ま た 心虚 主 義 者 と して も知 られ て いた。41フ ラマ リオ ンは 、『 精神 生 活 の謎 』 に お い て 、 「 人 間 の精 神 的 な 問 題 と天 空 の 問題 とは 、 人間 の 魂 が 不 滅 で あ り、魂 の 将 来 の 住 処 が天 空 で あ る とす れ ば 、密 接 な 関 係 を持 っ も の と して考 え られ る の で は な い か 」 と 述 べ て い る。 翌 こ の発 言 は 、 『 居 住 世 界 の複 数 性1-こ ち に は 初 版 の10倍 もの 量 に な っ て い たl弓 の書 は 増刷 の た び に 大部 に な り、 の こお い て さ らに明 確 に展 開 され る。 惑 星 は 地球 と同 じ よ うに 、人 々 の 労働 の 場 で あ り、魂 た ち が 大 き くな つて 徐 々 に学 び 、 発 達 す るた め に 来 る よ うな 学 校 で あ り、 あ こが れ た 矢1職を交 互 に取 り入 れ 、 この よ う に して しだ い に 目 的 地 へ と近 づ い て い く よ うな 場 所 な の だ とい う こ と を私 た ち は 知 つ て い る。43 フ ラ マ リオ ンは 、宇 宙 の さ ま ざま な 惑 星 は 、の ち に人 間 が 住 む場 所 で あ り、多 くの 居 住 者 を持 つ 天 の 家 で あ る と考 え た。 彼 は 、世 界 の 複 数 性 と、魂 の輪 廻転 生 とを結 び1寸け て 考 え て い た の で あ る。 この よ うな 発 想 は 、 フ ラマ リオ ン だ け に と どま らず 、 ヴィ ク トル ・ユ ゴ ー を は じめ 、 ペ ザ ー 二 、 フ ィギ エ らは 、死 後 の魂 は 新 た な 肉 体 を得 て 、別 の地 球で 暮 らす よ うに な る とい う 40シ ・ レーバーを取 り巻 く魂た ちは、死後 の燗 ㈱ 緻 嚇 取 られ 、神に よって靴 を施 され祉 で、 神 の住む天 上界の一部 とされた もので ある。 また、入院中の シュ レーバーを診 る主 治医 のフ レックシヒや 看護 師たちは、みな 「 か りそめ に急 ご しらえ され た ものた ち」で あ り、 シュ レーバー の 目の前か ら姿 を消 した とたん泥人形の よ うに、無 にかえ つて しま うと考 えられ ていた。 41フ ラマ リオン(1842∼1925)の 代表的 な著作}ま 、『 居住世 界の複数 閨(1862年)、 『 火星 とその居 住可能 性1(1892)な どで あるが、'L霊主義 に関す る本 として、『 精神 生活の遡(1900年)、 『 無 翻(1907)、 『死 とその神秘』(1920)な どがあ り、フ ランスの心 霊主義 者ア ラン ・カル デ ックとの交流 もあった。 紐Flainma]曲n ,Cam通e:( ersetzt wn Gustav Meyrink)R 磁1dbβ 蝕 轍 加 懸Stutlgart 1908, S.xviii ai Flammarion=Iapluralfite desmondes habfitesParis 1921 ,p.328. -87一 輪 廻 転 生 的 な 多 世 界 論 を唱 え て い た 。必 5.不 死 の魂 と死 に ゆ く肉 体 と を結 び っ け る神 経 で は 、シ ュ レー バ ーや フ ラ マ リオ ンが 思 い 描 い た 宇 宙 空 間 と死 後 の世 界の 結 節 点 は どこ に あ る のだ ろ うか 。 望遠 鏡 と自然 科学 的 な観 察 を も っ て他 の 惑 星 の 知 的 生 命 体 を探 す 多世 界論 と、 霊 視 や 交 霊 術 に よっ て 死 者 の 霊 との 対 話 を試 み る彼 岸 、 思想 とは 、ど う して 両 立 し うる の だ ろ う か 。 フ ラマ リオ ン と同 様 、 心虚 主 義 に 関 す る著 作 も多 い デ ュ ・プ レル は、 『神 秘 哲 学 』(1885) にお い て 、 人 間 の感 覚 がい か に 限 定 的 に しか世 界 を 捉 え得 な い か 、 とい う こ とを論 じて い る。 デ ュ ・プ レル に よれ ば 、催 眠 や 夢 遊 状 態 にお け る人 間 の魂 は 、他 者 や 死 者 の 魂 と も交 信 し うる し、惑星 の住 人 た ち との コ ミ ュニ ケ ー シ ョ ンに お い て は 、通常 の 人 間 の 感 覚 は 役 に 立 た な い だ ろ う とい うの で あ る 。 菊 彼 は フ ラ マ リオ ン とは 異 な り、 直 接 人 間 の 魂 の輪 廻転 生 を問 題 にす る こ とは な い。 媚 む し ろデ ュ ・プ レル に お い て 重 要 だ っ た の は 、 生 き て い る 人 間 の 精 神活 動 と、死 者 そ して 多世 界 の住 人 の 間 に お け る 共時 的 な つ な が りだ った の で あ る。そ れ をデ ュ ・プ レル は 、 『 死 、 彼 岸 、彼 岸 にお け る 生 』(1899)に お いて 「 現 世 にお け る無 意 識 の 生 は、 彼 岸 に お け る 意識 的 な 生 で あ る」 とい う言 葉 で の べ て い る。47デ ュ ・プ レル に お け る死 後 の 世 界 とは 、 あ くま で 人 間 の感 覚 が 及 ば な い 領 域 の こ とで あ り、彼 は 、 ,、 、 、 思 識 の 研 究 に よ つて 、 想 像 に よつ て しか 測 りえ な い 、 拡大 した 知 覚 の 領 域 を夢 想 した の で あ る。 この よ うな考 え方 は 、シ ュ レー バ ー にお け る現 世 と彼 岸 の 関 係 に 近 い とい え る。死 者 と語 る シ ュ レー バ ー は もち ろ姓 ーバーにおいては きた 燗 で あ る し、 自 ら もそ う思 つ て い る。 しか し、も はや シ ュ レ 、生 きて い る とい うこ とが意 味 を持 っ て は い な い の では な いだ ろ うか。魂 が 不 滅 で あ る 以 上 、身 体 が 生 き てい る か ど う力拡 問題 とな らな い の で は ない か 。シ ュ レー バ ー 自 身 も、み ず か ら の 肉体 の 不 在 、あ る い は 「 不 可 死 性」― 不 死 身 と は違 う。 単 に死 な な い の で 44Crowe ,p.410. 菊 デ ュ ・プ レルは 、通常の人間の言語や 感覚 を 「 三次 元的な もの」 として、それ以外 に 「 四次元的Jな 感 覚が磁 す るだ ろ うと考 えて いた 多世聯 と嘘 蟻 は、デー ・プ レルにおいて ともに、通常の燗 が 認識 し得ない四次 元的 な領 域 として考察の対象 となっていた と考え られ る。du Prel:13iePhilosophie der Mystik Leipzig 1910 S.424.お よびdu Prel(1881), S.359. 娼 デ ュ ・プ レルが轍 璽 転 生的 な考 え方 を見せ るのは、む しろその宇宙論にお いてである。 『 宇宙の発達史 』 にお いてデ ュ ・プ レルは、惑星は太陽 に飲み込 ま礼 太陽 はや がて冷 た くなって しま うとい う世界滅亡 の 予測 を立てたが 、のちに別 の場所 で、何 らかの流 星や 阻石 の衝 突に よ り、ふたたび太 陽は熱 を取 り戻 し、 世界 はよみが える と考 えた。du Prel(1910), S.345. しか しながら、この ようなデュ ・プ レルの主張についてアー レニ ウスは、嘆美はす るが、物理 的根拠 に乏 し い としてい る。 ス ヴァンテ ・アー レニウス 『史的 に見 たる科学的 宇宙観の変 圏(寺 田寅彦 訳)岩 波 文庫 1931年 、212∼213頁 。 47du Prel ,Carl:刀br腋1d幽 融 鯉 捻幽5五θ 加 η加 必 囎 蝕M繭nchen 1899, S,87. -88一 はな い。死 なな い とい うよ りむ しろ、死ぬ こ とができるのか さえ、わ か らない のだ 一―の よう なものに気 づかず に はい られ な くな って くる。 これ に関 してあ る別 の問題 が浮 かび上 がつて くる。そもそもわ た しは死 ぬ運命 にあ る のカ\ そ して何 が死因 とな り うるの か、とい うことであ る。わ た しが神 の光 線の再生 能 力を経験 した こ と(これ にっい ては前 の解説を参照)が あるが 、これ らを考 え合わせ る と、いか なる病 気 の影 響 も、暴力的 な外か らの介入で さえ、わた しの 死ぬ原因 と し て除外 されて い る といわ ざる を得な い。(中略) したが つて、 わた しに とつて死 因 とな るの は、一般 に老衰 とい われ る こ とだけであ ろ うと思 われ る。周 知の よ うに、老衰 による死 が どのよ うな ものなのか は学 問的 に あま りあき らか にな つて い ない。(DW 290) シュ レーバー の身体 は、光 線 によ って傷つ けられ るものの、いっ もふ たたび 修復 され て しま う。 自殺を図 つて も必ず宋 遂 に終わ る。 老衰 とい う死 も、 「 ひ ょっ と した らあ りうるかも しれ ない死 」(mein etwaiger 7bd)(DW 290)に 過 ぎないの蔦 死は、 いっにな つた ら来 るのか も うわか らない。 も しか した ら、す でにその瞬間を通 り過 ぎているのか も しれ ない。 … 女 性の身体 に変 え られ 、そ の よ うな もの としてその人物 に引 き渡 され て、性的 に濫 用 され、そ して 「 ただ 捨て置 かれ る」。っま り腐敗 するが ままに放 つておかれ る こと になつていた のt (DW 56) これ はシ ュ レーバ ーが 自らの行 く末 を、魂た ちか ら伝え聞いた場面 で ある。その人物 とはもち ろ榊 であ り、シュ レーバ ーは神 の 脚 なのt ㈱ 勘 として躍 され、殖 でゆ き、駄 る燗 あ るい はすで に、腐敗 した 死体なのか もしれない。腐敗 しつ つ 、自らの精神 か ら生 ま れた 「 新た な人類 」を見 てい るのか も しれ ない。 しか しなぜ、腐敗 し、放 置 された死体 なのだ ろ うか。 シュ レーバー はた しかに、不滅 の超 時間的な世界にある魂 たち と交流す る生活 を してい る。 それ な らば、もはや 自分 自身 の身 体 が死 んで しまつた ところで、その死 体な ど、ど うなつて も かまわ ないはずで あ る。しか しなが ら、魂が取 り出 される源 として の神経はや は り物 質的な存 在で あ り、娼 そ れ 自体 が消 され る こ とはで きる限 り避 け られなけれ ばな らな いので ある。そ 娼「 魂もまた純粋に精神的なものではな く、物質的な実体、つまり神経にもと窃 、 て存在しているのt 一89一 そ れ ゆ え 、 シ ュ レー バ ー は 『回想 録]の 補 遺 に お い て 、 当 時 普 及 して き た火i禦9に 対 して反 対 意 見 を 述 べ るの で あ る。 こ の よ うな事 例 〔 焼 死 した場 合 、死 体 が あ る程 度 燃 え残 る と い う こ と〕 は それ ゆ え、 現 代 の火 葬 と はほ とん ど比べ よ うが な い。火 葬 とは 、独 自の 火 葬 場 にお い て 、途 方も な い 熱 を発 生 させ 、 大 気 を遮 断 す る な ど して 、 人 間 の 死 後 に まだ 残 つ て い る もの を、 手 順 に従 つ て 完 全 に 消滅 しつ く し、 わ ず か ば か りの 灰 に して しま うこ とで あ り、そ し て 実 際 そ うい つた こ とが 実現 され て い るの 規(DW 345) こ こで シ ュ レー バ ー が 述 べ て い る火 葬 につ い て の知 識 は や は り正確 で あ る。お そ ら くそ れ だ け 、死 後 の人 間 の 神経 が どの よ うな運 命 を辿 るの か につ い て 関 心 を持 っ て い た とい うこ とだ ろ う。 シ ュ レー バ ー にお い て 神 経 は 、 本 人 が何 度 も語 つ て い る よ うに 、感 覚 の 受 容器 官 で あ り、 思 考や 記 憶 、そ の他 あ ら ゆ る言 語 活 動 の 器 官 で あ る と同 時 に、 ど こま で も物 質 的 な 生 きた 人 間 の神 経 に 基 盤 を置 く 「 モ ノ」な の で あ る。 シ ュ レー バ ー 自身 が 「 き わ め て 細 い よ り糸 に もた と え られ る よ うな 繊 細な構 成 物 」(DW 6)と 表 現 した神 経 、それ は 眼 に 見 えな い ほ ど に細 い が 、 線 で は な い。 あ く まで 三 次 元 的 な存 在 物 と して 、 空間 的 拡 が りと質 量 を備 えて い るの だO 彼 は 時 間 を 超 え 、み ず か らの 死 後 の世 界 を見 て い る。 身 の丈 に あ っ た 小 さな 牛 た ち を飼 う、 自 らの 生 み 出 した 新 た な 人類 を 見 て い る腐 乱 死 体 シ ュ レー バ ー は 、い ま だ死 んで い な い。死 ん で い る の か も知 れ ない が 、 そ の 神 経 は腐 敗 す る こ とな く、 ぐ ち ゃ ぐち ゃ に壊 れ た 身 体 の 中に 、 い ま だ 生 き残 つ て い る。神 経 だ け で も、生 き延 び て い な けれ ば な らな い のt シ ュ レー バ ー の 神 経 とは 、 い っ た い な ん な の だ ろ うか。 通 常 の 人 間 に お いて 、 音 や 光の感 覚 は 、 ご く身 近 な 領 域 に 限 られ て い る。 そ れ は な に よ り、 自分 の身 体 の 一 部 で あ る とい う制 約 を受 け てい る か ら規 目を酷 使す れ ば 、視 力 は 弱 くな る し、 風 邪 を 引 い て 体 力 が 弱 ま れ ば 、思 考 力 も低 下す る。 しか しな が ら、シ ュ レー バ ー は 神 との 異 常 な、 「 世 界 秩 序 に惇 る」 神 経 接 続(DWv)が 始 ま っ て 以 後 、 限 りな く遠 くへ 、 そ れ こそ 光 が 世 界 を あ ま ね く照 らす よ うに 、そ の精 神 活 動 の 領 域 を拡 大 して ゆ く。 そ の 一 方 で 、彼 の 身 体 は あ くま で-個 の 人 間 の 身 体 で しか な い。そ の現 実 が 、た と え病 室 のベ ッ ドに 拘 束 され て い よ う れ ゆえ もし火 葬で神 径が完全に消滅 して しま うならば 、魂が至福へ と昇 る ことも不可能 となって しま うだ ろ う。」 膀 転は原著者)(DW 344) 姐19世 紀 後半 には、公衆 衛生の観 転か ら火葬 を促進す る動 きが 目立 ち始 めた。1856年 に、ジーメンス兄 弟 は直接 裸火で焼 くのではな く、灼熱 した高熱 の空気流 によ り灰化 させ る再生炉型高熱炉 を開発 した。 こ のジーメ ンス型高熱炉は、は じめイタ リアで普及 し、の ちに1876年 以後 ドイツにも数 箇所設 置 された。 原克 『 モ ノの都市 剃 大修 館書店2000年 、23-26真 lgO一 と、彼 は 宇 宙 空 間 や 自分 の 体 内 の様 子 まで も 見 る こ とが 可 能 とな つて い つ た。 ど こま で も 、四 次 元 的 に彼 の 知 覚 可 能 な 領 或が 拡 大す るの に対 して 、彼 の身 体 は む しろ 忘 れ られ て ゆ く。ひ と っ の 身 体 、自分 だ け の 身 体 とい う限 界 が 忘 れ られ て しま え ば 、そ れ は も はや 不 死 身 で あ ろ う と す で に 死 ん で い よ う と同 じこ とで あ る。そ して彼 の 宇 宙 へ と肥 大 した精 神 は 、忘 却 され 死 の 世 界 へ と踏 み込 ん だ 身 体 とふ た た び 結 び っ く。そ の結 び 目 とな る の が 、シ ュ レー バ ーの 神 経 で あ る。 シ ュ レー バ ー にお け る知 覚 な い し精 神 活 動 とは 、と り もな お さず 彼 の 世 界 に あふ れ る言 葉 で あ る。 見 られ 、聞 き取 られ 、考 え られ た もの ご とは 、す べ て 神 経 に 書 き込 み 可 能 な情 報 と して 言 葉 へ と変換 され る 。逆 に 言 え ば 、 言 葉 へ と変 換 可 能 な もの が 、神 経 に感 じ取 られ る の で あ る。 神 経 とは 、 す な わ ち 、 『 回 想釧 に遍 在 す る言 葉 と、 痛 み や 病気 と と も に 、 自分 ひ と りの感 覚 と して腐 敗 や 死 を 受 け入 れ な けれ ば な らな い 身 体 と い う対 立 した 概 念 が 交 差 し、せ め ぎ あ う 場 所 な の で あ る。 この 場 所 こそ 、 シ ュ レーバ ー が死 者 の 魂 とな る こ と も 、腐 敗 した死 体 とな る こ と も な く、生 と死 、この 世 とあ の 世 の 境 目を生 き る人 間 と して た ど り着 い た 地 点だ つた の だ 、 モ ー リツ ・シ ュ レー バ ー ら の体 操 を 通 じて 健 康 を 目指 そ うとす る 運 動 は、世 紀 転換 期 に入 り、 自然 療 法 や 生 活 改 善 運 動 な ど さ ま ざ ま な方 向 へ と分 岐 し、自然 とと も に 生 き る健 全 な身 体 像 の 形 成 へ とつ な が っ た 。50そ こに あ らわれ た さま ざ ま な 肉 体 へ の眼 差 しや 精神 主 義 に つ い て こ こで 詳 細 に 論 じる こ とは で き な い が 、息子 パ ウル ・シ ュ レー バ ー は、 こ の よ うな 身体 の あ りよ うと は ま っ た く別 の 方 向 へ と進 んt しか しなが ら父 の い う、身 体 の 活 性 化 を通 じて 身 体 を超 越 しよ う とす る精 神 主 義 は 、た しか に 彼 の な か に も息 づ い て い る こ とが わか る。シ ュ レーバ ー は ど こま で も拡 張 す る精 神 の み な らず 、決 して 消 え去 る こ との ない 両 義 的 な存 在 と して の神 経 に っ な ぎ とめ られ た 、忘 却 され つ つ もそ の精 神 を支 え て い る身 体 を も発 見 した の だ とい え よ う。 50モ ー リツ ・シュ レ}バ ーの体操 や庭園にお ける遊戯活動 な どは、の ちにシュ レーバー協会 とい う名の下 に結 社組織 と して全国 に展開 され た。 シュ レーバー協会の主 な活動 は、クラインガル テン とい う個 人の庭 の集合体 を形成 し、そ のなかで園芸 活動 を した り、子供た ちを 自由に遊ばせ ることであ つたが、なかには クライ ンガル テ ンその もの をコロニー化 して しま う協会支 部があった り、健 康噌進 を 目的 とした講 演や子 供 祭 など生活改 善運動 や 田園教 育舎 的な運動 とほとん ど変 わ らない部分 もあ った と考 えられ る。 穂 鷹 知美 『 都 市 と緑 近代 ドイ ツの緑 化文化』山川出騰 土2004年 、お よびRichter, Gerhard:Das Buch 伽5伽 婬 ♂ゆ 四吻 艶 鶴]Leipzig 1925参 照, -91一 Nerven als Knoten — Kosmos und Körper bei Schreber — KUMAGAI In seinem einzigen Werk „Denkwürdigkeiten eines Nervenkranken" Paul Schreber sich selbst einen „Nervenkranken" war von der Neurose Jahrhundertwende (oder Neurastenie) charakteristisch Ibtsuya hat Daniel genannt. Seine Nervenkrankheit etwas verschieden, die für die war. Für ihn waren die Nerven ein Apparat, der nicht nur äußere Eindrücke aufnimmt, sondern auch aufgenommene Informationen aufbewahrt und sogar prüft und bearbeitet. Und nach seinem Bericht dringen durch den „Nervenanhang mit den Göttern" die Stimmen der Anderen wie Götter oder Seelen in sein Denken ein, verwirren seine Gedanken,verwunden seinen Körper und verwandeln ihn in einen weiblichen Körper. Wie sind ihm solche Ideen über Nerven und Körper eingefallen? Es ist der Einfluß seines Vaters Daniel Gottlob Moritz Schreber, den man bei der Forschung über den Hintergrund den Vater des Denkens des Sohnes nicht außer acht lassen darf. Während man als „Sadisten" oder „Haustyrannen mit göttlicher Machtfiille" bezeichnet und nur seine sadistische Seite betont hat, gilt es jetzt, auf seine Gedanken über die Körpererziehung zu achten, die er als Begründer der Heilgymnastik in Deutschland geäußert hat. Moritz Schreber entdeckte den Körper, den man bisher nur für einen passiven Gegenstand der Behandlung gehalten hatte, als aktiven, den Geist aktivierenden Körper wieder. Er glaubte, daß die Einheit des Geistes und des Körpers Gesundheit bringt, und hinter diesem Gedanken können wir die sogenannte geistige Romantik deutlich erkennen, daß man auch auf den dem Willen nicht unterworfene Teil des Körpers Einfluß nehmen könne. Dieser Einfluß des Vater ist , wenn auch nicht unmittelbar, in der kosmologischen Ausdehnung des Schreberschen Geistes zu sehen. Seine Nerven können auch die Vorgänge im von den normalen Sinnesorganen -92- nicht zu spürenden Kosmos wahrnehmen. Im Kosmos, über den er uns berichtet, streiten sich viele tote Seelen ums Leben, und da, auf einem Stern, befinden sich auch „ die neuen Menschen aus Schreberschem Geist". Sein Interesse an der Kosmologie stammt aus der damaligen Beliebtheit des sogenannten Welt-Pluralisten Welt-Pluralismus. Auch in vielen Diskursen gibt es ja einen ähnlichen Zusammenhang Kosmos: Sie dachten dieser der Seelen mit dem auch, die Bewohner anderer Welten wären tote menschliche Seelen und der Kosmos wäre der Wohnort, wir in Zukunft leben würden. Im Zweifel am Welt-Pluralismus fließen der und die Welt nach dem Tod zusammen. Die Welt-Pluralisten menschlichen Wahrnehmungsvermögen und Spiritisten wie Carl du Prel und Camile Flammarion, die auch auf Schreber Einfluß hatten, haben bei der Erforschung von Träumen und Somnanbilismen der übermenschlichen Sinne geahnt konzipiert. Diese Konzeptionen und eine eingebildete die Existenz Phantasie-Sphäre sind denen der Beziehung zwischen Diesseits und Jenseits bei Schreber sehr ähnlich. Schreber nahm die Ereignisse im Kosmos und die Welt nach dem Tod gleichzeitig auf Er ist schon im Leben gestorben. Er stellte sich seine eigene Leiche vor und fürchtete sich gleichzeitig vor ihrem Verschwinden durch Einäscherung. Vernichtung Denn das Verschwinden des Körpers bedeutete ihm die der Nerven. Seiner Meinung nach müssen die Nerven aufbewahrt werden und bei Göttern als ewige Seelen überleben. Bei Schreber vergrößert sich der wahrnehmbare vierdimensionaler Ausdehnung. Bereich in kosmologischer oder Und gleichzeitig wird sein Körper vergessen und sein eigener Tod außer acht gelassen. Aber es sind doch Nerven, die Schreber ans Diesseits,d.h.an den körperlichen Kreuzung, wo sich die ungeheuren Bereich anknüpfen. Sie bedeuten Wörter aus den „Denkwürdigkeiten" ihm eine ,d.h. der geistige Bereich und der Körperbereich wie Schmerzen, Qualen und Tod treffen. Jene geistige Romantik von Schrebers Vater, die den Körper immer aktivieren will, hat er in der Vorstellung seines eigenen sich grenzenlos verbreitenden aufgenommen. Schreber auslöschlichen Körper wiedergefunden, hat den zwar in Vergessenheit geratenen, Geistes aber nie ganz der mit dem Geist und den zweideutigen Nerven verbunden ist. -93-