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唐朝の喪葬儀礼における哀冊と論冊

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唐朝の喪葬儀礼における哀冊と論冊
古代学研究所紀要 第5号
唐朝の喪葬儀礼における哀冊と論冊
一出土例を中心に一
江川 式部
はじめに
一、哀冊・詮冊とその出土例
1、詔勅としての哀冊・詮冊
3、出土例にみる形状
2、喪葬儀礼における哀冊文と詮冊文の用途について
4、墓内における配置
二、伝世史料所載の哀冊・詮冊文
三、喪葬の経緯と哀冊・詮冊一出土例を中心に一
1、譲皇帝李憲及びその妃恭皇后元氏
4、恵荘太子李撹
2、驚徳太子李重潤
5、恵昭太子李寧
3、節悪太子李重俊
まとめにかえて
はじめに
古来中国の喪葬儀礼では、故人を弔う謙や祭文、故人の生前の行跡や宗族関係を記した墓誌や哀冊
文、故人の謹とその由来を記す詮冊文など、さまざまな形式の弔文が作られ儀式に用いられてきた。
こうした弔文には実用的でかつ質の高いものが要求され、著名な文章家の撰述によって、皇帝皇后ら
の葬儀に際して奉げられたものは『芸文類聚』や『文苑英華』などの類書に数多く収められているω。
中国における葬礼と文学との関連については、本邦でもすでに西岡弘氏(2)をはじめ多くの研究が行わ
れているが、一方で弔文の内容そのものを、その時代の喪葬儀礼研究の史料として利用することは、
ほとんど行われてきていないように思われる。
近年、墓主の生前の行跡や親族関係などを石に刻文した墓誌が、政治史や経済史などの歴史学研究
に多く利用されるようになってきており〔3}、その成果はたんに正史の補足や修正に止まらず、さまざ
まな史実を明らかにしてきている。しかし墓誌そのものが作られた本来の目的を考えた場合、そうし
た利用は副次的なものであって、まずはその目的であり用途である喪葬儀礼における役割や意義につ
いて明らかにする必要があるのではなかろうか。そしてそれは墓誌に限らず、葬礼に関するさまざま
(1}
②
{3}
『芸文類聚』巻一二∼一六、『文苑英華』巻八三五∼八三七。
西岡弘『中国古代の葬礼と文学 改訂版』(2002年5月、汲古書院)。
任防「新出土墓誌の集大成、伝統文化の精華一『新中国出土墓誌』編纂の回顧と展望一」(『東アジア石刻研
究』創刊号、2005年12月。原載『中国文物報』2005年7月13日第4版)
一3一
唐朝の喪葬儀礼における哀冊と謹冊
な形式の文章についても同様であり、この間題を究明していくことは、史料の副次的な利用をさらに
深めることにもつながるはずである。
本稿ではこうした問題意識に基づき、喪葬儀礼研究の史料として、唐朝の哀冊文と詮冊文とをとり
あげる。「唐代の」とせずに「唐朝の」としたのは、冊文という文章形式が、唐代では原則として朝廷
官府においてのみ用いられたからである。冊文は、皇帝の即位、皇后・皇太子・高官の任命や葬儀の
際の贈官などに用いられ、唐代では木簡ないし竹簡に漆で文字を記したが、使用目的によっては玉簡
に文字を刻し、刻字部分に金泥を施したものも利用された。そして皇室の喪葬儀礼に用いる哀冊や謹
冊は、多くこの玉簡を用いて刻文され墓陵に埋葬されたため、今日その形状を知見することができる
のである。
哀冊文とは本来、死者を哀悼するための文章で、唐朝以前は竹簡または木簡を使用していたものが、
唐代以後は書写材料に玉冊を用いるようになったとされるω。一方の詮冊文は、古来中国では皇室や
高官の莞去に際し詮の賜与が行われる慣習があり(5)、その賜詮の内容を簡に記したものであるが、こ
れもやはり唐代以後に玉簡に刻したものが出現した。そして近年、伝世史料中に残されていた哀冊文
や詮冊文の実物、すなわち玉冊に刻文されたものが、唐室の墓陵の発掘調査によって出土し、その面
貌を覗い知ることが可能となったのである。
本稿では、喪葬儀礼における哀冊文・謹冊文の概要と意義とを究明することを目的に、まず近年の
出土例を中心にそれぞれの発掘報告書から唐朝の哀冊・詮冊の形状及び規格を整理し、っぎに伝世史
料に残る皇帝・皇后・太子の哀冊文・謹冊文の概要を表に整理したうえで、再度出土例に戻って個別
検討を行なう。そして各墓主の葬儀の経緯を正史等の諸史料を使いながら復元し、哀冊文・詮冊文が
喪葬儀礼のどの段階で作成され、どのような意義をもつのかについて考察する。
ただし、現在のところ報告された出土例は数点に限られることと、それらがすべて諸王の陵墓であ
ることから、本稿では皇帝・皇后その人の哀冊文・詮冊文については、その全容を把握するための資
料整理のみを行い、喪葬儀礼の個別検討および比較研究については稿を改めたいと思う。
、哀冊・詮冊とその出土例
1、詔勅としての哀冊・論冊
はじめに、哀冊や詮冊がどのような性質をもった文章であるのかについて整理しておきたい。
哀冊文や詮冊文は、唐代においては冊書に区分される文章形式のひとつであり、冊書は唐朝皇帝の
ω 『旧五代史』巻一四三・礼志には、
古者文字皆書干冊、而有長短之差。魏・晋郊廟祝文書干冊。唐初悉用祝版、惟陵廟用玉冊。玄宗親祭郊廟、
用玉為冊。
古は文字は皆な冊に書し、長短の差有り。魏・晋郊廟祝文は冊に書す。唐初は悉く祝版を用い、惟だ陵廟
のみ玉冊を用る。玄宗郊廟に親祭するに、玉を用て冊と為す。
とあり、唐初には郊祀などでは祝版(板に祝文を記したもの)を用い、陵すなわち皇帝の葬儀や廟享には玉
冊を用いたとある。玄宗期になって、郊祀にも玉冊を用いるようになるが、やがて郊祀祝文については木簡
が用いられるようになったようである。冊の材質とその変遷については、中村裕一『唐代制勅研究』(汲古
書院、1991年)第四章「爾書」第三節「唐代冊書の材料」を参照。
(5) 中国皇帝の尊号に関しては、戸崎哲彦「古代中国の君主号と「尊号」」(『彦根論叢』269、1991年3月)がそ
の起原と沿革とを整理しており、また唐朝皇帝の詮号を含む贈号に関しては、同氏「唐諸帝号考(上)」(『彦
根論叢』265、1990年6月)、「同(下)」(『彦根論叢』266、1990年10月)に、各皇帝別に史料整理がなさ
れており、参照に便利である。
一4一
古代学研究所紀要 第5号
王言すなわち詔勅の一形式である。こうした詔勅の一部としての冊書については、既に大庭脩氏や中
村裕一氏、金子修一氏らの詳細な研究がある㈲。詔勅については『唐六典』巻九・中書省中書令條に、
凡王言之制有七。一日冊書、二日制書、三日慰労制書、四日発日救、五日勅旨、六日論事敷書、
七日救牒。…冊命親賢、臨軒則使読冊、若命之干朝、則宣而授之。凡冊太子、則授璽・綬。
凡そ王言の制は七有り。一曰く冊書、二曰く制書、三曰く慰労制書、四曰く発日救、五曰く勅旨、
六曰く論事救書、七曰く敷牒。
とあり、その「一日冊書」の原註には、
立后建嫡、封樹藩屏、寵命尊賢、臨軒備礼則用之。
立后建嫡、封樹藩屏、寵命尊賢、臨軒して礼を備え則ち之を用う。
とあって、皇后や皇太子を立てる場合や、主に三品官以上の高官の任命の際には、辞令の内容を冊書
にし、その冊書を用いて任命の儀式が行われることになっていた(7)。
唐朝の冊書は、実際にはこうした任命に限らずさまざまな場合に用いられている。中村裕一氏は上
記の研究において明の徐師曽『文体明弁』の序説に述べる冊書の分類を参考にしながら、唐代の冊書
の形態を考察しており、その徐氏の分類では冊書は以下の十一に分類されている。
表1 明・徐師曽『文体明弁』序説による冊書の分類
冊書の種類
用途
6、贈冊
贈号・贈官
1、祝冊
郊祀・祭享
7、詮冊
上詮・賜詮
2、玉冊
上尊号
8、贈詮冊
贈官並賜詮
3、立冊
立帝・立后・立太子
9、祭冊
賜大臣祭
4、封冊
封諸侯
10、賜冊
報賜臣下
5、哀冊
遷梓宮、及太子・諸王・大臣亮逝
11、免冊
罷免大臣
中村氏も指摘するように、この徐氏の分類はそのまま唐代に適応できるものではない。しかしこの
ように分類される冊書のおおよそは、唐代にもみられるかたちであり、用途別にみた冊書の種類分け
としては妥当なものと思われる(8)。すなわち本稿でとりあげる「哀冊」は、太子・諸王・大臣らが亮
去し埋葬される場合や、すでに假埋葬されている彼らの梓宮を改葬によって別の墓所に遷す際に用い
られる冊書であり、「詮冊」は三品以上の位階をもつ故人に対して贈位・贈詮が行われる場合に用いら
れる冊書、というのが唐代におけるその大略である。
哀冊は墓誌墓碑などと同じく、墓主名・贈位・贈詮号・亮去日・埋葬日・埋葬地などを記して墓内
に納めるため、唐代に到って玉冊に刻文されることが多くなったとみられ、また詮冊文は、故人の位
階等によって玉冊の場合とそうでない場合とがあったようである。書写材料の違いやその意義につい
ては、事例をくまなくみた上で検討すべき問題であるため、出土例が数件しかない現状では、これ以
上の憶測を控えたい。では哀冊・詮冊はどのように撰文され、詔勅として施行されたのであるか。
⑥ 大庭脩「唐告身の古文書学的研究」第一章・序論(『唐告身と日本古代の位階制』、学校法人皇學館出版部、
2003年、31∼58頁所収。初出は1950年)、中村裕一前掲註(4)『唐代制勅研究』、金子修一『中国古代皇帝
祭祀の研究』(岩波書店、2006年)第8章「中国古代の即位儀礼と郊祀・宗廟」第4節「冊命と謁廟・廟見」
参照。
(7) 中村裕一前掲註(4)『唐代制勅研究』第四章「爾書」参照。
⑧ このうち、2玉冊は唐代では「上尊号」の用例に限られるものではないため用例の区分としては適用できず、
また9∼llについては唐代では管見の限り確認できない。
一5一
唐朝の喪葬儀礼における哀冊と詮冊
唐朝では中書省・門下省・尚書省の三省が政治の中枢にあり、中書で起草された詔勅は、門下の審
査・駁正を受けたのち、尚書省へ移されて施行された(9)。哀冊や論冊を冊書すなわち詔勅の一形式と
とらえれば、基本的には中書省で起草されて門下からその葬儀を直接担当する尚書礼部へまわされた
と推測される。のちに中書省と門下省が合併されて中書門下となるため、詔勅の起草・施行の手順に
も多少の変化が加えられた可能性はあるが、基本的な流れについては大きな変化はなかったとみられ
る。以上の原則をふまえて、実際に哀冊・詮冊の撰文がどのように行われたのかについては、後段第
三章の個別事例の検討のなかでさらに詳しくみていきたい。
2、喪葬儀礼における哀冊文と詮冊文の用途について
後段第三章で個別事例を検討するが、ここではまず哀冊文や詮冊文が、喪葬儀礼のどの段階でどう
いう用途に用いられるものなのか確認しておきたい。『大唐開元礼』巻一三八・三品以上喪之一は、三
品以上の高官の葬儀の式次第をのべたものであり、このなかに「贈詮」と題する式次第が納められて
いる。唐代の皇帝・皇后・太子・諸王らの葬礼は、『大唐開元礼』など当時の礼典には残されていない
ため、いまは仮にこの三品以上の葬儀次第を参考にしてみたい。葬儀の大略は、初終(死去)から始
まり、敏(入棺)、啓積(かりもがりの終了)、埋葬と続き、それぞれの段階で更に細かい儀式が組ま
れている。「贈詮」は、「啓積」條の次に挿入されるが、啓積から何日目など日程上の指定はない。
告贈詮於枢[原註:無贈者設啓葵、詑、即告論]。其日、主人升立於僕東、西面。祝持贈詮文、升
自東階、進立於枢東南、北向。内外皆止実。祝少進脆読文。詑、興、主人実拝稽類、内外応拝者、
皆再拝。祝進、脆葵贈詮文於枢東、興、退復位。内外皆就位坐実。
贈謹を枢に告げる[原註:贈無くば、啓與を設け、詫りて、即ち詮を告げる]。其の日、主人升り
て旗の東に立ち、西面す。祝(太常寺太祝または祝史か)は贈詮文を持ち、東階自り升り、進み
て枢の東南に立ち、北向す。内外皆な異を止む。祝は少や進み脆きて文を読む。詑り、興ち、主
人は畏拝稽顛(額を地につけて拝礼する)し、内外応に拝すべき者は、皆な再拝す。祝は進み、
脆きて贈詮文を枢の東に貧き、興ち、退きて復位す。内外皆な位に就きて坐実す。
短い儀式ではあるが、枢前で贈詮文が読み上げられ、枢の東におかれるまでの様子が記されている。
原註に「贈無くば」とあるのは、故人に贈られる詮が朝廷からの賜贈でない場合には、の意味であろ
う。このあと詮冊文をどうするのかについては、『開元礼』には示されていない。
一方哀冊文は、詮冊文と異なりその喪葬儀礼における用例は宗室の一部に限られる。いま『通典』
所引の代宗の葬儀次第である「大唐元陵儀注」の用例をみてみると、哀冊は「啓積」ののち、「祖翼」
「献莫」と続く儀式の、「献輿」のなかで用いられる。『通典』巻八六所引の「大唐元陵儀注」(lo)には、
少府監設読哀冊褥於箕東。礼官引冊案進、挙冊官挙冊、進至褥東、西面、以冊東向。…礼官引中
書令進、脆読冊、詑、便伏、興、退位。挙冊者以授秘書監、秘書監以授符宝郎。
少府監は哀冊を読む褥を輿の東に設く。礼官は冊案を引きて進み、挙冊官は冊を挙げ、進みて褥
@内藤乾吉「唐の三省」(『中国法制史考証』、有斐閣、1963年所収。初出は1930年)。礪波護『唐代政治社会
史研究』(同朋舎出版、1982年)第皿部第二章「唐代の制諾」(初出は1975年)第皿部第三章「唐の三省六
部」(初出は1979年)参照。
qo)
@『通典』巻八六・礼四六・凶礼八所引の「大唐元陵儀注」献莫條については、金子修一・河内春人・榊佳
子・江川式部「大唐元陵儀注試釈(六)」(『國學院大學大學院紀要一文学研究科一』第三十八輯、2007年3
月)の河内春人氏担当「献真」條を参照。なお同試釈には榊佳子氏による「代宗皇帝哀冊文」の試釈も収載
されているので、あわせて参照されたい。
(9)
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古代学研究所紀要 第5号
の東に至り、西面し、冊を以て東向す。…礼官は中書令を引きて進み、脆きて冊を読み、詑りて、
挽伏し、興ち、位に退く。挙冊者は以て秘書監に授け、秘書監は以て符宝郎に授く。
とあり、このとき中書令によって哀冊が調読されることが記される。
以上のように哀冊文と詮冊文とは、対象者の幅は異なるものの、喪葬儀礼においては啓残ののち埋
葬にむかう前の段階で、枢前で故人及び参列者にむかって踊読されるのである。皇帝葬儀の儀式次第
である「元陵儀注」では、このあと哀冊・詮冊ともに墓陵に埋葬されることが記されているが、先に
述べたとおり、三品以上の品官の葬儀にみえる贈詮文については、その後の埋葬の儀式ではとくに明
記されておらず、諦読ののちどう処理されるのかはわからない。
3、出土例にみる形状
っぎに、実際に墓陵より出土した唐朝の謹冊・哀冊について整理しておく。下表は、2007年現在ま
でに報告された、唐朝宗室の墓陵から出土した哀冊・論冊の規格を整理したものである(ll)。出土した
冊書はすべて白玉製で、哀冊・詮冊と立冊の三種類がみられる。これらはいずれも墓室・墓道内に散
乱した状態で発見されており、そのほとんどが破砕していて、完全なものは少ない。そして、冊書が
出土したこれらの墓からは、墓誌は出土していない点を指摘しておかなければならない。これは哀冊
が墓誌の用を果たしていることと関連するのであろう。
表2 出土哀冊・誼冊一覧(2007年現在報告書等既発表のもの)
埋葬年
長(cm)
幅(cm)
厚(cm)
文字色
出土
満行
ミ数
嚼
9
填金
①譲皇帝李憲(哀)
742年
28.6∼28.8
2.8∼3.0
1.2
63
②恭皇后元氏(哀)
742年
不明
2.9∼3.3
1.0∼1.1
22
9
填金
③驚徳太子(哀)
706年遷
不明
不明
不明
11
不明
填金
④節慰太子(謹)
710年遷
27.0∼27,4
2.7∼3.2
0.4∼0.6
33
9
填緑
填緑
’④節慰太子(哀)
27∼27.3
2,7∼3.1
0.4∼0.6
59
9
⑤恵荘太子(哀)
724年
不明
2.6∼3.1
0.7∼1.0
26
9
填金
⑥恵昭太子(哀)
812年
28.2∼28.4
2.8∼3.1
1.0∼1.2
101
10∼11
填金
1.0∼1.2
101
10∼11
填金
’⑥恵昭太子(立冊)
28.2∼28,4
2.8∼3.1
※埋葬年の「遷」は遷葬年を示す。
譲皇帝李憲および恭皇后元氏の合葬墓の発掘報告では、①②の哀冊に加え、「第三副冊」「第四副冊」
として、さらに二種類の玉冊片があったことが述べられている。「第三副冊」は譲皇帝の詮冊、「第四
副冊」は恭皇后の詮冊とみて間違いはないが、これら玉冊片の文字は史書にのこる「譲皇帝詮冊文3
(ll)
@表2の基本データは以下の発掘報告書を参照した。①②陳西省考古研究所編『唐李憲墓発掘報告』(科学出
版社、2005年)、③陳西省博物館・乾県文教局唐墓発掘組「唐驚徳太子墓発掘簡報」(『文物』1972−7、1972
年)、④陳西省考古研究所・富平県文物管理委員会編『唐節慰太子墓発掘報告』(科学出版社、2004年)、⑤
陳西省考古研究所編『恵荘太子李携墓発掘報告』(科学出版社、2004年)、⑥陳西省考古研究所・臨撞県文
物園林局編『唐恵昭太子陵発掘報告』(三秦出版社、1992年)。
7
唐朝の喪葬儀礼における哀冊と謹冊
「恭皇后詮冊文」とは内容が異なる(12)。この点について報告書は、・李憲夫婦の地位が極めて高かった
ために詮冊文が数本作成され、そのうちの一本が墓内に埋葬されたのではないか、或いは埋葬直前に
詮冊文の改訂が行われたのではいか、とする(13)。この間題については、第三副冊の断片が19片、第
四副冊の断片が6点しか出土しておらず、ここから全文を復元することはできないため、目下適切な
考証を行うことはできない。
上表にみる限りいずれの詮冊・哀冊片も、長さは28cm前後、幅は3cm前後とほぼ同じだが、厚さに
っいては概ね0.5cm前後か、1. Ocm前後の二種類に分かれるようである。先行の報告書においても、
冊の規格は厚さの差違によって二等あるとみなしているが、1995年に緊急発掘が行なわれた唐僖宗靖
陵から出土した玉冊は厚さ1.7cmとされておりく14)、これを考慮するならば、唐朝としては三種類の規
格があった可能性もある。この規格の差違が、本来的なものであるのか、それとも時代による変遷の
結果であるのかについては、出土品が限られている現在の状況では、判断できかねる問題である。
冊の側面には、上の左右と下左右の二箇所に穴があけられており、この穴に横糸を通して、冊と冊
とをつないでいたとみられる。漢代の木簡にみられるように、冊と冊とを糸を交差させながら綴るの
ではなく、冊を横糸で縫うように綴っていたのである。報告書にはこの冊と冊とをっないでいた糸片
のことはみられず、発掘担当者も注意は払っていたようであるが発見されていない。時代は異なるが、
前蜀王建墓から出土した玉冊は銀糸で連綴されており(15)、後述する哀冊・詮冊全体の重量を考慮した
場合、金属製の糸が使用されたとみるのが妥当であろう。
冊一本に刻される文字数はやや時代の離れる⑥以外は1行9字原則、字体は楷書、陰刻で刻字部分
に填金が施されている。詮冊・哀冊など、当時唐朝が用いた玉冊には、概ねこのような基本形があっ
たことがうかがえる。なお、④節慰太子墓の謹冊・哀冊の「填緑」については、刻字部分に緑色の顔
料が残っていると報告書にはあるが、この緑色の顔料が何であるのかは明らかにされていない。
このほか唐朝の玉冊の規格の参考となるものに、唐玄宗が開元十三年(725)に行なった泰山封禅の
際、社首山で地祇をまつる禅祭に使用された玉冊(祝冊)がある(16)。現在台湾の故宮博物院に所蔵さ
れており、既に中村裕一氏が先述した唐朝の王言の研究でとりあげているのをはじめ㈹、同時に出土
した北宋代の玉冊(大中祥符元年祀皇地祇玉冊)との比較研究なども行われているが{18)、その形状を
みてみると、長さが約29.・8cm、幅3. Ocm、厚さ1. Ocm、全15枚で各冊は側面上の左右・側面下左右に
通穴があけられて、ここに銀糸を通して冊と冊とを連綴しており、全体の重さは3150グラムである。
(12) 『唐大詔令集』巻二六。
(L3)前掲註(11)『唐李憲墓発掘報告』243頁。
(14)僖宗靖陵は盗掘の危険があったとして、1995年に陳西省考古研究所及び乾県文物局によって緊急発掘が行
われた。以後測量等の調査が継続されているが、報告書は2007年7月現在未発表である。僖宗陵から出土
した哀冊の厚さにっいては、前掲註(11)『唐節慰太子墓発掘報告』199頁に言及されている。
(L5>凋漢験撰『前蜀王建墓発掘報告』(文物出版社、2002年再版。1964年初版)参照。
また、開元十三年の封禅の封祀で用いられた祝冊は、金糸を用いて綴られた。『旧唐書』巻二三・礼志には、
玉牒・玉策、刻玉填金為字、各盛以玉匿、束以金縄、封以金泥、皇帝以受命宝印之。
玉牒・玉策は、玉に刻して填金して字と為す、各おの盛るに玉置を以てし、束るに金縄を以てし、封する
に金泥を以てし、皇帝は受命宝を以て之に印す。
とある。
(16)この玉冊は、開元十三年の玄宗泰山封禅の際に使用されたもので、前掲註(15)にみた封祀玉冊の対となる
ものである。民国期に軍閥の馬鴻邊が社首山(蕎里山)の道教寺院より入手し、1970年に夫人から故宮博
物院に寄贈された。
(17)’
?コ裕一氏前掲註(4)『唐代制勅研究』。
(18)唐玄宗泰山禅祀玉冊及び宋真宗禅地玉冊については『故宮文物月刊』第106期に特集されているほか、同誌
ll4期にも専論がある。
一8一
古代学研究所紀要 第5号
1行満9字で楷書・陰刻、刻字部分は填金されていたとみられる。長さが詮・哀冊の平均値にくらべ
てやや(2cm弱)長いが、幅や厚さは上記の平均とほとんど変わらない。
4、墓内における配置
埋葬時に墓内に収められた哀冊・謹冊は、墓内ではどのように置かれたのであろうか。発掘報告が
述べるところによれば、①譲皇帝墓、④節慾太子墓、⑤恵荘太子墓ともに盗掘による墓内の破壊がひ
どく、哀冊・詮冊は墓室及び甫道のほか盗掘洞などからも、散乱した状態で発見されたとする。した
がって出土状況から原在位置及びその形状を特定することは困難としなければならない。
この問題に関して、王育龍・程蕊蓉氏は、南唐二陵(李鼻・李環墓)及び唐僖宗李倶靖陵の哀冊が
石函に収められていたことを考慮し、原則として皇帝のものは石函、太子のものは箱厘(木製の函)
に収められることになっていたのではないかとしている(19)。すなわち上記太子墓に置かれた玉冊は、
それが収められた木函の腐敗によって、盗掘時にはすでに散乱しやすい状況が生じていたということ
になろう(2°)。また⑤節慰太子墓の発掘報告書では、墓室内に木製遺物の痕跡があり、1995年に緊急発
掘が行われた唐僖宗靖陵の石函の位置から考えて、哀冊・玉冊をおさめた木函は墓室内に置かれたの
であろうとする。この木製ないし石製の函の形状及びその中に置かれた玉冊の配置について、上記王・
程両氏が、南唐李昇陵及び唐恵昭太子墓内より出土した石函・玉冊の形状をふまえておこなった考察
は、次のようなものである。
南唐李昇陵内の石函は長さ159cm・幅43cm・高さ7.5cmあり、哀冊はこの石函の中に右から左へ上
下二段に並べられ、上段に並べられた冊の裏面にはそれぞれ「上一」「上二」、下段の冊の裏面には「一」
「二」と番号のみが刻されていた。そして恵昭太子墓より出土した哀冊・立太子冊のうち、立太子冊
は1行10字で全36段(36枚)、18枚ずつ綴られて上下二段に収められていたとし、この冊を収める
石函の大きさは、冊文の全文字数と1行の配字数に基づいた冊数と、その冊の規格(長さ・幅・厚さ)
によって裁定されたとする。玉冊を収めた函にっいては、前蜀王建墓からの出土品が復元されており
【図1】、函中の冊はやはり平面状に並べられた形で収められていたことがわかる伽)。
哀冊はその喪葬儀礼において、啓残ののち陵墓への埋葬に向うさいに行われる献箕の儀式の中で諦
読されるものであるため、こうした「読みやすい」形状に仕立てておくことが必要であったとみるべ
きだろう。
ところで、これまでの報告書でふれられていない「重さ」について考えてみたい。儀式の中で用い
るものとして考えた場合、「重さ」を考慮しないわけにはいかないからである。報告にない以上、以下
の計算はすべて概算によることをあらかじめお断りし、あえて推測を重ねてみたい。出土例にみえる
唐朝の玉冊の材質は「漢白玉」とされている。これは大理石よりもややきめの粗い石質で、出土した
冊に破損が多いのもこの石質が影響しているのであろう。恵昭太子墓から出土した冊の完整品(28.2cm
×2.9cm×1.2cm)1枚の重さは、1立方センチメートルあたり2.9グラム(大理石の重さ)とすると
284,5グラムほどとなる。大理石よりは石が軽いであろうことと、連綴用の通穴と文字を陰刻する分
を考慮して1本約200グラム程度としても、哀冊総本数101本では20キログラムを超えてしまうこと
になるのである。
(19)王育龍・程蕊蔀「唐代哀冊発見述要」(『文博』1996年6期、1996年)。
(20)前掲註(11)『唐節慰太子墓発掘報告』199頁参照。
(2D 前掲註(19)王育龍・程蕊薄氏論文及び前掲註(15)『前蜀王建墓発掘報告』参照。
一9一
唐朝の喪葬儀礼における哀冊と謹冊
唐代宗の喪葬儀礼を記した「大唐元陵儀注」では、献莫の哀冊諦読の際に中書令が褥(敷物)の上
に脆ついて哀冊を読む。このとき「挙冊官」なるものが哀冊を置いた台(冊案)(22)より哀冊を執り、
褥に置き、請読がおわれば哀冊を秘書監に渡すが、冊を巻くなどの動作は一切述べられていない。と
すれば、先の墓室内に収められた冊函の形状からみても、哀冊は開いたままの状態で上げ下ろしされ
ていたと考えるほうがよく、横幅が1mをゆうに超える玉函ないし木函が、この開かれた玉冊を支え
ていたのであろう。そして重さ20キログラムを越えるこうした器物を上げ下ろししたと想定するなら
ば、「元陵儀注」にみえる一連の哀冊の受け渡しの動作についても、補助人員の存在を考えたほうがよ
いかもしれない。
以上が現在までに出土し報告が行われている唐朝玉冊の形状及びその使用方法の整理である。次に
これら哀冊・謹冊が納められた墓陵の墓主について、それぞれの喪葬の経緯をみていきたいと思う。
二、伝世史料所載の哀冊文・詮冊文
唐代では喪葬時に哀冊が撰されるのは皇帝・皇后・皇太子及び死後にこの三者が贈詮された場合に
限られるが、詮冊については品官にも多く行われておりこの限りではない。そしてとくに唐朝皇室の
哀冊・詮冊については、撰者に選ばれた人々が当世一流の文章の書き手であり、伝世史料中に全文が
残されているものも少なくない。そうした唐朝皇室の哀冊・詮冊文の多くは『文苑英華』巻八三五∼
八三九・詮哀冊文條、及び『唐大詔令集』巻二六・三二、『唐文粋』巻三二に納められているが、これ
以外にも、撰文そのものは残されていないものの、諸史料から撰文の事実及び撰者が判明する場合も
ある。唐朝の皇帝・皇后・皇太子及び死後にそれらの贈詮が確認できるものを管見の限り抽出し、そ
れぞれ個別に哀冊・詮冊文作成に関する記事を表に整理すると、以下表3−1∼4のようになる。
表3−1 皇帝哀冊文・謹冊文所載一覧
皇帝諺廟号初詮号
哀冊選者/撰文掲載
李淵高祖大武皇帝
虞世南/文苑835、文粋32、全文138
李世民太宗文皇帝
巨
李治高宗天皇大帝
武墨/文苑835
李顕中宗孝和皇帝
徐彦伯/文苑836、文粋32
李旦容宗大聖貞皇帝
誰冊撰者/撰文掲載
ク遂良/文苑835、文粋32、題賊516
蘇班/文苑835、文粋32、
S文258
’蘇顕/文苑836、文粋32
李隆基玄宗至道大聖大明孝皇帝
王繕/文苑836、文粋32
李亨粛宗文明武徳大宣孝皇帝
袈士滝/文苑836
李豫代宗容文孝武皇帝
崔祐甫/文苑836
徳宗?/全文54
李這徳宗神武孝文皇帝
権徳輿/文苑835、文粋
(22)本章第2節でとりあげた「元陵儀注」にみえる「冊案」は、哀冊を載せた台と考えるが、開元十三年玄宗封
禅の際には「玉冊(祝冊)」と「玉匿」と「玉硲」が作成されたと記されている(『新唐書』巻一四・礼儀志・
封禅條)。祝冊は儀式において哀冊と同じく脆座して論読されるため、その際に上げ下ろしをすることを想
定していなければならない。すなわち、玉冊を開いたままの状態で置くための箱「玉直」と、さらにその哀
冊が納められた玉置を置くための「玉礁」が必要とされたことがわかる。「元陵儀注」同條にみえる「冊案」
はおそらくこの「玉圓を置くための台とみてよいだろう。
10一
古代学研究所紀要 第5号
32、全文508
李諦順宗至徳大聖大安孝皇帝
趙宗儒/文苑836
李純憲宗聖神章武孝皇帝
令狐楚/文粋32、全文542
李恒穆宗容聖文恵孝皇帝
李湛敬宗容武昭慰孝皇帝
李昴文宗元聖昭献皇帝
李珪/文苑835、全文720
李炎武宗至道昭粛孝皇帝
李枕宣宗聖武献文孝皇帝
李催艶宗昭聖恭恵孝皇帝
李儂僖宗恵聖恭定孝皇帝
楽朋亀/文苑836
李曄昭宗聖穆景文孝皇帝
李祝哀皇帝
柳燦
袈橿
※欄内空白は撰者・撰文不明。所載欄の文苑は『文苑英華』、詔令は『唐大詔令集』、全文は『全唐文』文粋は『唐文粋』、
題賊は『石刻史料題践索引』。下表同。
表3−一, 皇后・贈皇后哀冊・識冊文所載一覧
皇后初詮号
哀冊撰者/撰文所載
高祖太穆皇后賓氏(太宗母)
李百薬/文苑837、全文143
太宗文徳皇后長孫氏(高宗母)
虞世南/文苑837、文粋32
高宗則天大聖皇后(中宗容宗母)
崔融/文苑837、文粋32
中宗和恩皇后趙氏
蘇顛/文苑837
詮冊撰者/撰文所載
容文本/撰文不明
容宗粛明皇后劉氏(譲皇帝憲母)
容宗昭成皇后實氏(玄宗母)
劉子玄/文苑837
玄宗貞順皇后武氏
徐安貞/文苑837
玄宗元献皇后楊氏(粛宗母)
薫断/文苑838
粛宗章敬皇后呉氏(代宗母)
斐士滝/文苑838
郭子儀/全文332
代宗容真皇后沈氏(徳宗母)
代宗貞諮皇后独孤氏
常衰/文苑838、文粋32
徳宗昭徳皇后王氏(順宗母)
韓滉/文苑838
李紆
順宗荘憲皇后王氏(憲宗母)
憲宗諮安皇太后郭氏(穆宗母)
権徳輿/文粋32
封敷/文苑838
憲宗孝明皇后鄭氏(宣宗母)
穆宗恭僖皇后王氏(敬宗母)
穆宗貞献皇后薫氏(文宗母)
穆宗宣諮皇后卑氏(武宗母)
宣宗元昭皇后晃氏(驚宗母)
封敷/文苑838
夏侯孜/文粋32、全文746
驚宗恵安皇后王氏(僖宗昭宗母)
昭宗積善皇后何氏(哀帝母)
11
唐朝の喪葬儀礼における哀冊と詮冊
※贈皇帝に伴う贈皇后については表3−3参照
表3−3 贈皇帝・皇后哀冊・識冊文所載一覧
姓名贈皇帝・皇后初識号
i宗族関係)
李弘孝敬皇帝
i高宗第五子武后実子)
李弘妃斐氏哀皇后
哀冊選者/撰文所載
詮冊選者/撰文所載
酵元超/詔令26、
不明/詔令26、全文14
S文玉96酵元超(振)行状
宋温球/文苑837、詔令26、全文296
李重茂蕩皇帝(中宗第四子)
李憲譲皇帝(容宗長子)
李憲妃元氏恭皇后
不明/詔令26、全文38
徐安貞/詔令26、全文305 【出土】①
卑良嗣/文苑838、詔令26、全文362
不明/詔令26、全文38
y出土】②
李踪奉天皇帝(玄宗長子)
王紹/詔令26、全文370 ※妃寅氏同
李俵承天皇帝(粛宗第三子)
常衰/詔令26、全文419
李俵妃張氏恭順皇后
不明/詔令26、全文38
常衰/詔令26、全文419
揚炎/文苑838、詔令26、文粋26、全文422
※【出土1は前掲表2出土哀冊・謹冊一覧参照。
表3−4 太子・贈太子哀冊・識冊文所載一覧
姓名太子・贈太子初詮号
i宗族関係)
哀冊選者/撰文所載
誰冊選者/撰文所載
李建成陰太子(高祖長子)
李賢章懐太子(高宗六子)
※墓誌二件出土。冊無し 、一
李重潤驚徳太子
李嬌/文苑839、詔令32全文249
i中宗長子章后子)
李重俊節慰太子(中宗三子)
李携恵荘太子(容宗二子)
y出土】③
李又/文苑839、詔令32【出土】④
張九齢/文苑839、詔令32、全文293
y出土】⑤
李範恵文太子(容宗四子)
李業恵宣太子(容宗五子)
不明/詔令32、全文19
y出土】’④
不明/冊296、詔令32、全文38
i11月28日付)
蘇顛/文苑839、詔令32、全文258
盧従 /詔令32、全文38
韓休/冊296、文苑839、詔令32、全
カ295
李踪靖徳太子(玄宗長子)
ヲ表2−3奉天皇帝参照
李碗靖恭太子(玄宗六子)
李侶恭驚太子(粛宗十二子)
李揆/文苑839、詔令32、全文371
李逸昭靖太子(代宗二子)
薫日斤/文苑839、詔令32
李諒文敬太子(順宗子徳宗養
12一
不明/詔令32、全文43
古代学研究所紀要 第5号
子)
李寧恵昭太子(憲宗長子)
鄭鯨慶/撰文不明(旧唐158に記事)
y出土1⑥
李湊懐驚太子(穆宗六子)
李普悼懐太子(敬宗長子)
李永荘恪太子(文宗長子)
王起/詔令32、全文643
李漢靖懐太子(宣宗長子)
表2−1∼4をみてまず気がっくのは、哀冊については撰文が残されている場合その撰者がわかる
ものが多いが(23)、詮冊については撰者が判明する事例は非常に少ないということである。同じく詔勅
の一形式であり、同様の制作及び施行過程を経たと思われる哀冊・詮冊ではあるが、史料の残り方と
いう点では様相を異にする。これは哀冊の撰文が、多く勅命によって撰者を選んで行われたのに対し、
詮冊文にっいては撰者を特に指名せずに作成が指示されたことがその理由ではないかと考えられる。
また上表では、かなりの部分が空欄ないし空白となり、追贈が行われた場合でも、撰文そのものが
伝世している例はけして多くはないということがわかる。そして実際には太子が追贈され遷葬が行わ
れた場合あっても、章懐太子墓のように冊ではなく墓誌が出土するものもある(24)。したがって、こう
した空白部分を含め、贈詮と喪葬との関係、また喪葬と哀冊・論冊の作成について明らかにするため
には、それぞれの喪葬とその経緯について個別にみていくほかない。いちどに上記すべての個別検証
を行うことは、紙幅の関係上困難であるので、本稿では出土例にしぼってその事例を検討してみたい。
三、喪葬の経緯と哀冊・thgF出土例を中心に一
第二章における整理をふまえ、本章では出土例に関連する事例をとりあげて、その喪葬の経緯と哀
冊・言盆冊の作成過程及び選者とその所属にっいて具体的に検証してみたい㈱。
1、譲皇帝李憲及びその妃恭皇后元氏【表2①②】
李憲は容宗の長子で、玄宗李隆基の異母兄である。文明元年(684)に容宗が一時登極した際、皇太
㈱ 太宗の哀冊文の撰者は楮遂良であり、宋代に伝わっていた草稿数種が刻文・取拓され、碑帖のかたちで現在
に伝わっているが、誰冊にはそのような例はない。太宗哀冊については内藤乾吉「文皇哀冊秀餐軒帖」(『書
道全集』第八巻・中国8・唐ll、平凡社、1957年、158∼160頁。図版は24∼25頁)、宇佐美一博「詮哀冊
をめぐって」(『中国書法ガイド35楮遂良法帖』(二玄社、1989年、12∼19頁。32∼34頁に高島椀安旧蔵本
図版。41∼44頁に大島修作釈文)参照。
(24) 章懐太子李賢は高宗の第六子で則天武后の所生である。文明元年(684)に武后により自死せられた。翌垂
洪元年(685)に雍王が贈位されて巴州に埋葬されたが、神龍二年(706)に中宗によって司徒を追贈のうえ
乾陵に遷葬され、のち容宗景雲二年(710)太子位の追贈と章懐太子の追詮が行われた。乾陵の章懐太子墓
からは神龍二年の遷葬時と、景雲二年の贈太子位の際の二方の墓誌が出土している。陳西省博物館・乾県文
教局唐墓発掘組「唐章懐太子墓発掘簡報」(『文物』1972−7、1972年)参照。
(25)唐朝宗室の哀冊・詮冊制度の全体像をみるには、表3で整理した内容を、それぞれの葬儀の経緯に照らし合
わせて考察する必要があるが、本稿では考察を出土例のみに限り、その他の個別事例に関しては後日稿を改
めたい。
一13一
唐朝の喪葬儀礼における哀冊と詮冊
子に立てられたことがある。容宗が再度帝位につくと太子位を固辞し、玄宗が即位したのち、開元四
年(716)には宋王から寧王へ改封された。太常卿(開元九年∼十四年)などをっとめ、開元廿一年(733)
に太尉を加えられる。廿八年(740)に妃の元氏が亡くなると体調をくずし、翌廿九年(741)冬11
月24日に西京長安の邸第(自宅)で死去した。
李憲の哀冊文(伝世)によれば、梓宮はその日に「寝門之西階」(大明宮紫震殿南門の西側か)に遷
された。翌日には皇帝号の贈詮が行われているから、この遷残は葬儀を皇帝のそれとして行うための
措置であろう。皇帝亮去の場合、概ね積宮は太極宮太極殿に設営されるが、李憲の場合は贈皇帝であ
り、皇帝に準ずる意から太極宮ではなく大明宮に設営されたのかもしれない。李憲妃元氏の哀冊文(伝
世)には「王亮、及葬凡七月、天子之礼也(王亮じ、葬に及ぶまで凡そ七月、天子の礼なり)」とあり、
葬儀は皇帝葬として七ヶ月かけて行ったことが記されている。埋葬までの経緯を整理すると以下のよ
うになる。
なお◇は撰文が確認できるもの、下線は出土したものを示す。
文明元年(684)2月7日∼天授元年(690)9月9日
皇太子(容宗在位、武后臨朝)
開元廿八年(740) 李憲妃元氏死去
開元廿九年(741)11月24日
李憲死去(長安の邸第)
遷残(寝門の西階)
11月25日
11月25日
「寧王詮譲皇帝制」(詔令26)
贈詮「譲皇帝」◆詮冊(撰者不明/詔令26、全文38)
贈詮「恭皇后」◆論冊(撰者不明/詔令26)
※冊命使は尚書左丞斐耀卿、副使は太常卿章縮
※墓陵からは詮冊が出土しているが、内容は上記史料と異なる
天宝元年(742)5月(日付不明) 「賜譲皇帝手書」(玄宗撰)(旧唐95、冊府47)
5月17日
埋葬(恵陵:同州奉先県)
◆き皇帝一冊 徐H”/詔A26 全文38 【図2】
◆恭皇后一冊 i 嗣/詔令26 全文38・362
*旧唐『旧唐書』、冊府『冊府元亀』、詔令『唐大詔令集』、全文『全唐文』以下同。
李憲哀冊文の撰者徐安貞は中書舎人集賢院学士として、多く玄宗の文章の草稿を行った人物で、中
書侍郎に累遷し、天宝の初めに亡くなっている。一方の恭皇后哀冊の撰者章良嗣は開元十三年(725)
に秘書省校書郎、開元廿一年(733)には河南府洛陽県尉であったことがわかっているが、開元廿九年
(741)の所属は不明で、のち天宝四載には門下省給事中に累遷している。おそらく徐安貞・#良嗣と
もに当時は中書省に所属しており、撰文の指名をうけたものであろう。
2、酪徳太子李重潤【表2③】
李重潤は中宗の長子で、卑后の所生である。聖暦元年(698)、中宗李哲が皇太子となると郡王に封
ぜられたが、大足元年(701)9月に張易之(26)の謳告を受け、武后の命で殺された。中宗が即位すると
(26)張易之(?−705)は弟の張昌宗とともに武后晩年の側近で、武后の寵を侍んで権勢を恣にしていたが、神
14一
古代学研究所紀要 第5号
皇太子を追贈されて改葬の命が下され、斐粋の亡女と冥婚、合葬されて乾陵に陪葬されたとされる(27)。
哀冊文には「驚徳太子梓宮、啓自洛邑、将陪窪於乾陵」とあり、このとき洛陽から長安乾陵へ遷葬が
行われたことがわかる。墓陵は1971年7月に発掘調査が行われ、哀冊11片が出土しているが(28)、冥
婚・合葬された斐氏に関する遺物の報告はなく、冥婚が招魂儀礼のみで行われたものか、実際に斐氏
の遺体を改葬したのかは明らかでない。
また重潤改葬の経緯に関しては、贈詮の日付がはっきりしない。神龍元年(705)2月9日の「贈皇
太子制」には、「門下…可贈皇太子。所司備礼改葬、主者施(門下…皇太子を贈る可し。所司は礼を
備えて改葬し、主者施行せよ」とあるのみで、詮号「整徳」については全くふれられていない。とこ
ろが4月23日付の哀冊文には、上のごとく「驚徳太子梓宮」とあって、すでに「驚徳」の贈詮が行わ
れていたことがうかがえる。『旧唐書』巻七・中宗本紀には「夏四月…戊寅(29日)追贈郡王重潤為
酪徳太子」とあるが、本紀どおり29日に贈詮が行われたのであれば、23日の哀冊にそれが記されて
いるのは奇妙なことといわざるを得ない。
以上を総合して考えると、2月9日の段階では皇太子の贈位が行われただけであって、詮号が決定
し贈詮が行われたのは、それ以後4月23日以前の間であったと考えられる。『旧唐書』中宗本紀がこ
れを4月29日とするのは誤りであろう。この贈詮のさいには詮冊文が作成されたはずであるが、撰文
は伝世史料には残されておらず、また発掘報告にも詮冊文の出土は報告されていないため、その内容
をうかがうことはできない。’これらの経緯を整理すると、以下のようになる。
大足元年(701)9月3日
莞去(洛陽で武后より賜死)
神龍元年(705)2月9日
郡王贈皇太子制・改葬制(詔令32、全文16)
期日不明(『旧唐書』中宗本紀は4月29日)
追詮(「驚徳太子」)
◇詮冊文(関連記事は冊261、会4、1日86)
神龍二年(706)4月23日 啓残・乾陵遷葬
嬌/文苑839詔A32全文249
◆ 重潤一冊文
※◇は撰文の可能性が考えられるもの。
哀冊文の撰者李嬌は、神龍元年(705)にいったん通州刺史へ出されるが、まもなく吏部侍郎を拝し、
っいで吏部尚書となっている。哀冊文はおそらく吏部にいたときに撰されたものであろう。李重潤の
改葬制が出された神龍元年二月には、重潤のみならず、武后期に諌された多くの唐室関係者の名誉回
復がおこなわれた(29)。『資治通鑑』巻二〇八・神龍元年二月條には、
龍元年(705)張東之らによる中宗復位の政変の際に殺害された。
@『旧唐書』巻八六・艶徳太子重潤列伝に、「為聰国子監丞斐粋亡女為冥婚、與之合葬。(為めに国子監丞袈粋
(2了)
の亡女を聰して冥婚を為し、之と合葬す)」とあり、19歳未婚で亡くなった李重潤の改葬にあたり、袈粋の
亡きむすめと冥婚が行われたことが記されている。斐粋にっいてはこれ以外に記事がなく詳細は不明。同記
事は『唐会要』巻四・雑録條にもみえる。
(28)表2及び前掲註(11)「唐驚徳太子墓発掘簡報」参照。
㈱) 『唐大詔令集』巻二・中宗即位赦に、
皇家親族籍没者、則天大聖皇帝錐巳博暢鴻恩、其先有任五品已上官柾遭陥害者、並宜改葬、式遵典礼。若
有後嗣、還其資蔭、其別勅安置井左既者、亦復其属籍、量還官爵、{Jb遣諸流移人。
皇家親族の籍没せる者、則天大聖皇帝錐已博暢鴻恩、其先に五品已上官に任ぜられ柾遭陥害有りし者は、
並びに宜く改葬し、式は典礼に遵うべし。若し後嗣有らば、其の資蔭を還し、其の別勅もて安置井びに左
既せらるる者は、亦た其の属籍を復し、量りて官爵を還し、イ乃りて諸流をして移人せ遣めん。
とあって、即位後ただちに唐朝宗室の名誉回復が指示されたことがわかる。
15一
唐朝の喪葬儀礼における哀冊と詮珊
初、武后諌唐宗室、有才徳者先死…上即位…武后所珠唐諸王・妃・主・鮒馬等、皆無人葬埋、
子孫或流窟嶺表、或拘囚歴年、或逃匿民間、為人傭保。至是、制州縣求訪其枢、以礼改葬、追復
官爵、召其子孫、使之承襲、無子孫者為択後置之。
ニろ
初め、武后唐宗室を謙すに、才徳有る者を先に死す…上即位し…武后諌す所の唐諸王・妃・主・
鮒馬等、皆な人の葬埋する無く、子孫或いは嶺表に流窟し、或いは拘囚さるること歴年、或いは
民間に逃匿し、人の傭保と為る。是に至り、州縣に制して其の枢を求訪し、礼を以て改葬し、官
爵を追復し、其の子孫を召して、之をして承襲せしめ、子孫無き者は為に後を択びて之に置かし
む。
とあって、武后期に珠罰を受けた唐宗室の故人及びその子孫らの当時の状況と、その名誉回復の様子
とが語られている。いったん遠方へ左遷された李矯が急遽中央へ戻され吏部へ配属された背景には、
こうした当時の政治動向があり、李重潤の贈位・改葬もこの流れの一環として行われたのである。
先に第一章で、哀冊文は詔勅文の一形態であるため、通常は中書省より撰者が選ばれて起草された
と仮定したが、李嬌が吏部在籍中に撰文を命ぜられたとすれば、選者は中書省内に限られた人選では
なかったということになる。撰者が吏部在任というケースは後段の李重俊及び李寧も同様である。
3、節慰太子李重俊【表2④】
李重俊は中宗の第三子で、中宗即位後の神龍二年(706)に皇太子に立てられた。やがて皇太女とし
て皇嗣を画策する安楽公主(章后の所生)及びその一派と対立し、神龍三年(707)7月6日、兵を挙
げるが失敗、その日の夕べ逃亡中に終南山で従兵に殺された。遺体は謀反人として太廟に供献された
のち、朝堂に臭首された。
景龍四年(710)6月の中宗の嘉去及びその直後の混乱をへて同月24日に容宗が即位すると、容宗
は速やかにおいである李重俊の名誉回復を行ない、中宗の定陵埋葬(11月2日)にあわせて、重俊の
定陵陪葬を行った。哀冊文によると、10月1日に先螢である「郷社」(京兆郡県か?)を啓いて、梓
宮を定陵へ遷したとある。この経緯を整理すると以下のようになる。
神龍二年(708) 立太子
神龍三年(709)7月6日 挙兵・殺害(終南山)
※埋葬地は「郵社」、期日は不明
神龍四年(710)6月2日
中宗毒殺
唐隆元年(710)6月25日
贈太子重俊皇太子制(蘇顛/詔令31・全文253)
唐隆元年(710)7月7日
贈論(「節慾太子」)・遷葬制(冊府261・全文18)
景雲元年(710)10月1日
◆占冊文 又/文 839 詔令32
景雲元年(710)10月29日
◆勢 文 不明/詔令32 全文19
景雲元年(710)11月
定陵(中宗陵)遷葬
※中宗の定陵埋葬は11月2日なので、それ以降か
李重俊の場合、上記名誉回復の手順が少々複雑であったとみられる。6月25日の贈太子と7月7日
16一
古代学研究所紀要 第5号
の贈詮の記事は、日付も近く内容も贈位に関するものなので、史料の混乱と判断できなくもないが(3°)、
それぞれの内容をつきあわせてみると、『唐大詔令集』巻三一に収録されている6月25日付の制では、
「贈皇太子」とあるのみで「節慰」の号はない。そして『冊府元亀』巻二六一・儲宮部・追詮・節慰
太子條には「可贈皇太子、詮日節慾、陪葬定陵。(皇太子を贈り、詮して節慾と日い、定陵に陪葬す可
し」のおそらく個別に出された制であったと思われる。っまり重俊の場合、
贈太子位制→ 贈詮号(節慰)・遷葬制→ 啓先笙(哀冊文作成)→ 詮冊作成→ 遷葬
という手順で、一連の遷葬が行われたと考えられるのである。
哀冊文の選者李又は、中宗期に中書舎人修文館学士をっとめ、容宗景雲元年には吏部侍郎となって
おり、哀冊の撰文もこのときに行なわれた。李又はこのほか吏部在任中に、典選すなわち人材の選抜
と授官を行って章后期の弊を一掃し、のちに門下省に異動し黄門侍郎となった人物である(3D。李重俊
の贈位・改葬の手続きは、こうした容宗即位当初における改革の動きのひとつととらえてよいと思わ
れる。
4、恵荘太子李携【表2⑤】
李携は容宗の第二子で、玄宗の異母兄である。開元十二年(724)11月24日に亮去し、同日贈詮が
行われ、同年閏12月27日に容宗橋陵に陪葬された。莞去から埋葬の経緯、今上との関係は上記李憲
と同様で、事例としてはこちらのほうが先である。
玄宗はこの開元十二年11月14日に長安を出立し、22日に洛陽に到着している。これは翌年の泰山
封禅に備えた移動であったが、おそらく李携はこの東巡に同行し、洛陽に到着してすぐに亡くなった
のであろう。
開元十二年(724)11月24日
亮去(於行在所。洛陽か)新紀と通鑑は25日
開元十二年(724)11月28日
贈詮制(冊府296、詔令32)
◆謹冊(不明/冊府296、詔令32、全文38)
開元十二年(724)閏12月27日
埋葬(容宗橋陵に陪葬)
◆山冊 張九 /文苑839 詔令32 全文293
李撹の葬儀に関しては、『冊府元亀』巻二九六に、
可追贈恵荘太子。宜令所司備礼就加冊命陪葬橋陵。以礼部尚書蘇顛為喪葬使、京兆P李休光為副
使、尚書左丞楊承令為歯簿使、遣侍中摂太尉元〔源〕乾曜持節冊日…(後略)。
恵荘太子を追贈す可し。宜く所司をして礼を備えて就きて冊を加え橋陵に陪葬せ命むべし。礼部
尚書蘇顛を以て喪葬使と為し、京兆9李休光を副使と為し、尚書左丞楊承令を歯簿使と為し、侍
中摂太尉元〔源〕乾曜を遣して節を持ちて冊して日く…(後略)。
とあって、この贈詮及び葬儀のため、喪葬使及び副使、歯簿使、持節冊命使の、計四名の使職が任命
されていたことがわかる。喪葬使及び副使は葬儀の一切を担当したと考えられ、また歯簿使は、洛陽
で亡くなった李携の遺体を長安まで運ぶための儀侯を組織する必要から任命されたものであろう。そ
(30)池田温編『唐代詔勅目録』(東洋文庫、1981年)容宗唐隆條では、6月25日の贈位制を7月7日の贈詮制と
同一とみなして整理する。同書122頁参照。
(31)李又については『旧唐書』巻一〇一及び『新唐書』巻一一九に立伝されている。
17一
唐朝の喪葬儀礼における哀冊と詮冊
して冊命使は贈詮の儀礼を行う際の責任者であったと思われる。それぞれの位階をみてみると、喪葬
使の礼部尚書は正三品、喪葬副使の京兆Pは従三品、歯簿使の尚書左丞(左僕射)が従二品、冊命使
の侍中が正三品であり、いずれも三品以上の高官であることがわかる。
また哀冊文の撰者張九齢は、開元十一年に中書舎人を拝し、年譜(32)によれば開元十二年はまだその
任にあった。
5、恵昭太子李寧【表2⑥】
李寧は憲宗の長子で、元和四年(809)に皇太子に立てられた。冊礼の儀式は二度雨天順延となり、
10月になってようやく挙行されたようである。元和六年(811)に19歳で莞去した際には、皇太子の
葬礼に関する前例がなかったため、国子司業の袈藍を摂太常卿に任命して葬儀の儀注が作成された(33)。
李寧の葬儀の経緯は、正史や通鑑などの史料からはほとんどうかがうことができず、また論冊・哀
冊文も伝世していない。このため出土した冊文の断片から、その葬儀の経緯を検討してみたい。
まず亮去の日については、出土した哀冊の断片に「二月辛亥皇」とあり、『旧唐書』巻一四・憲宗本
紀・元和六年條及び『資治通鑑』巻二三八・憲宗元和六年條にみえる閏12月21日 (辛亥)として間
違いないであろう。李寧の場合、莞去・発喪から廃朝13日の措置がとられた。このため廃朝期間にあ
たる翌七年正月の朝賀がとりやめとなっている(34)。
次に埋葬日であるが、発掘報告書は「維元和七年歳次壬辰」「二月庚寅朔廿五」「丁酉葬干山之北原
恵」とする断片を、他の哀冊文の例に基づき、「維元和七年歳次壬辰二月庚寅朔廿五回。丁酉葬干山
之北原、恵国璽、囮」と復元できるのではないかとし、埋葬日を2月25日としている(35)。しかし、
元和七年2月は庚寅朔であるから、25日は甲寅であって「丁酉」とはならないはずである。この問題
を考えるにあたり、哀冊断片のなかに「月戊子朔十日」とするものがあることに注目したい。元和七
年の正月前後の月で、戊子朔とするのは七年4月である。そして4月10日は「丁酉」となり、先の「丁
酉葬子…」の冊とも符合する。
『1日唐書』巻一五・憲宗紀・元和七年(812)條には、「三月己未朔、辛酉、以恵昭太子葬、罷曲江
上巳宴(三月己未朔、辛酉(3日)、恵昭太子の葬を以て、曲江の上巳の宴を罷む)」とあり、また『冊
府元亀』巻一〇七・帝王部・朝会條には、
七年…四月壬子、開延英対。宰臣以下、是月以恵昭太子葬、復多雨至是積旬有六日、方坐朝。
七年…四月壬子(25日)、延英対(延英殿での召対)を開く(36)。宰臣以下、是の月恵昭太子を葬
り、復た多雨の是に至ること積旬有六日なるを以て、方に朝に坐すべし、と。
(32)顧建国『張九齢年譜』(中国社会科学出版社、2005年)。
(33) 『旧唐書』巻一七五・恵昭太子伝には、「国典無皇太子莞礼、故又命置領之。(国典に皇太子の蔓礼無く、故
に又た〔斐〕藍に命じて之を領せしむ)」とあるが、太子位のまま莞去した例は高宗時に李弘の先例がある。
ただし李弘の場合は、葬礼は皇帝礼として行われているために、皇太子莞礼とはみなされていなかったのか
もしれない。贈太子葬礼は表3−4のとおりである。
(34) 『冊府元亀』巻一〇七・帝王部・朝会に、「七年正月辛酉朔。帝不受朝賀。以皇太子莞、廃朝故也。(〔元和〕
七年正月辛酉朔。帝朝賀を受けず。皇太子蔓じ、廃朝が故を以てなり)」とある。
(35)前掲註(11)『唐恵昭太子陵発掘報告』16頁参照。 t」
(36)延英殿における召対については、松本保宣『唐王朝の宮城と御前会議一唐代聴政制度の展開一』(晃洋書房、
2006年)第一部・第一章「唐代後半期における延英殿の機能」を参照。また同書「総括」には「総表1聴
政議題一覧表」が附されており、唐朝での御前会議の一覧にたいへん便利であるが、この元和七年4月の会
議については取り上げられていない。
18一
古代学研究所紀要 第5号
とあることなどを考えあわせると、4月10日に恵昭太子の埋葬が行われたことはほぼ間違いないであ
ろう。
それでは先の哀冊断片にあった「二月庚寅朔廿五」すなわち2月25日は何が行われた日であるのか。
上にとりあげてきた諸王の葬儀の経緯をふりかえってみると、莞去ののち太子または皇帝の贈位及び
贈詮号が行われ、遷葬の場合には先螢を啓いて遺体を運び、葬儀及び埋葬が行われる。李寧は皇太子
位のまま亮去し、太極殿西殿に積宮が営まれ、埋葬が行われたとみられるから、葬儀の上で必要とな
ってくるのは「恵昭太子」号の贈謹であったと推測できる。したがってこの哀冊に刻された2月25
日の日付は、故皇太子李寧に対し「恵昭太子」の追詮が行われた日と考えてよいだろう。以上の考察
を整理すると、李寧の葬儀の経緯は以下のように復元できる。
元和四年(809)閏3月 立太子(但し冊礼は10月)
元和四年(809)10月18日 冊礼
◆冊郡王煮皇太子文 冊府34 :P令28 全文63
元和六年(811)閏12月21日 亮去 廃朝13日
元和七年(812)2月25日 追論 ◇詮冊文
元和七年(812)4月10日 埋葬(驕山之北原)◆一冊
、/ 文不云
ところで出土した哀冊断片からは、こうした葬儀の経緯のほか、葬儀に関わった人物に関してもそ
の一端をうかがうことができ、報告書には次の二名が考察されている。一人は「平章事干頗使副」と
いう断片に名前のみえる干頗である。子頗は元和三年9月に司空同中書門下平章事に任命されており、
この当時まだ在任であった。もう一人は鄭鯨慶である。『旧唐書』巻一五八・鄭絵慶伝には、「鯨慶受
詔撰恵昭太子哀冊、其僻甚工(絵慶詔を受けて恵昭太子の哀冊を撰す、其の僻甚だ工なり)」とあり、
哀冊文の撰者が彼であることが記されているが、出土した断簡のなかに細字で「吏部尚書上柱國榮陽
縣開国 勅撰井書」と書かれたものがあり【図3】、この哀冊が作成された当時、鄭鯨慶が吏部尚書の
任にあったこととく37)、この哀冊が勅撰であり、彼によって撰文と筆写が行われたものであることがわ
かるのである。
報告書に考察のある人物は以上二名であるが、この哀冊断簡からは、さらにもう一人の関係者を抽
出できそうである。破片のなかに「輿持節冊詮」と刻されているものがあり【図3】、ここから李寧の
贈論の際、使持節によって詮冊の儀式が行われたことが推測される。したがって「持節」の上にある
「輿」は人名と考えられるのだが、贈太子の場合の冊命使に任命されるのは、先の恵荘太子の例をふ
まえると侍中クラスの人物であると考えられる。そしてこの当時、侍中(正三品)クラスの職にあり、
名前に「輿」をもつ人物としては、元和五年9月に礼部尚書同中書門下平章事に任命されていた権徳
輿をおいて他にはない。とすれば、2月25日の「恵昭太子」贈詮は、礼部尚書権徳輿を責任者として
行われ、4月10日の埋葬は子頗を責任者として行われた、と推察することができるであろう。
まとめにかえて
(37)
@『旧唐書』巻一五・憲宗本紀には、「〔元和七年〕十二月丙戌朔、以吏部尚書鄭餓慶為太子少傅。(〔元和七年〕
十二月丙戌朔、吏部尚書鄭絵慶を以て太子少傅と為す)」とあり、これ以前には吏部尚書の任にあったこと
がわかる。
19一
唐朝の喪葬儀礼における哀冊と詮冊
以上、唐朝の墓陵より出土した誰冊・哀冊と、その墓主の葬儀の経緯とを考察してきた。出土例を
中心にした限定的な考察ではあったが、ここからみえてきた点を整理しておく。
一点目は、玉冊としての哀冊・詮冊の規格についてである。詳細は第二章でみたとおり、長さが30cm
前後、幅が3cm弱で、冊と冊とを上下の横糸でつなぎ、陰刻に填金が施されて、ケースに収められて
いた、という点はほぼ共通であるが、冊の厚さには3種類があったと考えられる。ただしこの厚さが
格付けによるものなのか、時代による変遷なのかは、少ない出土例のみで判断することはできない。
二点目は、皇室葬儀の経緯についてである。皇室の諸王の死亡時の状況は、病死を含む自然死と賜
死とに分けられる。自然死の場合には、皇帝から贈位及び贈詮の制が下されて、その贈位に応じた礼
式で一連の喪葬儀礼および埋葬が官によって行われるが、賜死等によって死亡した場合には、おそら
く無位無官の庶人として葬儀は近親者の手に委ねられたのであろう。したがって近親者に葬礼を営む
財力がない場合には、假埋葬のままになるケースも少なくなかったと考えられるが、時代が移って名
誉回復による贈位・改葬が指示されると、先螢を啓いて遺体を正式に埋葬することが行われた。上に
みた李重潤、李重俊の例がそれである。
三点目は、こうした概ね二通りの埋葬経緯における、詮冊文と哀冊文の制作時期についてである。
自然死によって順当に葬儀が営まれる場合、まず死亡後間もなく贈位が行われ、つぎに贈詮が行われ
る。これは国費で行われる葬礼の格付けを決定するための行為であり、贈皇帝の場合には皇帝に準じ
た葬礼の様式で、贈太子の場合には皇太子の葬礼に準じた様式で、葬儀の期間や儀式内容が決定され
たものと考えられる。そして啓積の際に哀冊が作成されて、葬列が埋葬地へと梓宮を運んでいったの
である。一方賜死ののち、名誉回復による改葬の場合も、やはり先に贈位が行われたうえで改葬が指
示され、っいで贈詮が行われて詮冊が作成されたと考えられる。そして改葬にあたって先坐を啓くと
きに哀冊がつくられ、啓残の儀式をおこなったうえで、梓宮を遷葬したのである。
この詮冊・哀冊に関しては、本来は両者ともに墓葬中に収められるべきものと考えられるが、実際
の出土例をみる限りにおいては、必ずしも両者がそろって出土しているわけではない。この問題につ
いては、本稿でとりあげた5例のみで判断するのは適当ではないと考えるが、詮冊は墓主本人の位階
を決定するものであると同時に、子孫にとっても後嗣として贈位の恩恵を受ける根拠となるため、重
要な意味をもつ。とすれば実物が埋葬されるケースはあまり多くはなかったのではないかということ
も想定される。李重俊の場合にこれが出土しているのは、彼の場合には後嗣がいなかったからとも考
えられるのである。
四点目は、詮冊・哀冊の撰者についてである。本論中にものべたが、論冊文に関しては撰者がわか
る例はほとんどなく、一方の哀冊文の撰者は概ね判明する。℃れは哀冊文についてはその都度撰者が
勅命で選出されたためであると考えられる。詮冊も哀冊も、形状としては玉冊に刻文されるが、その
喪葬儀礼における制作段階や意義は同じではない。詮冊は墓主の葬儀の礼式を決定し、それを葬儀の
なかで請読し明示するためのものであり、子孫親族にとっても後々重要な意味をもつ。一方の哀冊は
葬儀のなかで故人を哀悼することを目的とし、その文面に墓主の姓名と詮号、死去から埋葬までの日
期や場所を簡単に述べるほかは「詞日…」とする詠嘆の韻文が文章の大半を占め、文章として格調高
いものが要求される。哀冊の選者は、中書に限らず吏部からも選ばれていたことが本稿での個別事例
の検討から明らかとなった。これが贈太子に限られたものなのか、皇后や皇帝に及ぶものなのかにつ
いては、後日他の事例もみたうえで検討を加えたいと思う。
さいごに、哀冊文にみえる葬儀担当の使職にっいて指摘しておきたい。本稿でとりあげた史料、と
くに哀冊文からは、冊命使や喪葬使、歯簿使といった使職名がみえるが、これら儀礼関係の使職につ
一20一
古代学研究所紀要 第5号
いては、いままでほとんど明らかにされてきていない。皇帝の葬儀においては、礼儀使や山陵使㈹
などの使職が任命されており、また官吏などの墓誌には、とくにその墓主が贈位を受けた場合には「監
護葬事」(39)と称する使職が任命されて、その葬儀iを指揮する例が散見する。こうした使職に任命され
た者たちが、どのように葬儀に関わったのかについての具体的な事柄は、今回の事例だけではみえて
こない部分もあり、今後の課題として注視していきたい。
(38)唐朝皇帝の葬儀に関わった山陵使については、中国社会科学院の呉麗娯氏が「関於唐代的皇帝喪葬與山陵使」
(平成十八年度第51回国際東方学者会議シンポジウムb報告、2006年)と題する報告をおこなっている。
(39) 日本史における監護葬事にっいては、榊佳子「『続日本紀』における「監護喪事」と「監護葬事」」(『早稲田
大学大学院文学研究科紀要第四分冊』47、2001年)を参照。
一21
唐朝の喪葬儀礼における哀冊と誰冊
【図1】 前蜀王建墓出土哀冊及び復元木函
(『前蜀王建墓発掘報告』文物出版社、2002年再版より)
【図2】 譲皇帝李憲哀冊(『唐李憲墓発掘報告』科学出版社、2005年より)
一22
古代学研究所紀要 第5号
團閲甲
6
5
:
3
2
8
12
麟醐闘踊闘
ユ0’
98 97 X茎 9
【図3】
恵昭太子李寧哀冊(『唐恵昭太子陵墓発掘報告』三秦出版社、1992年より)
−23一
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