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本論 第 1 章 議定書採択の交渉前史−条約第 1 回締約国会議

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本論 第 1 章 議定書採択の交渉前史−条約第 1 回締約国会議
本論
第1章
議定書採択の交渉前史−条約第 1 回締約国会議
本章では、地球温暖化問題に関する国際交渉過程の中でも、表 1-1 で示すように、
京都会議以前の時期、特に、ベルリン・マンデート(Berlin Mandate) 1 が採択され
た COP1(条約第 1 回締約国会議)に注目する。COP1 は、1994 年 3 月 21 日に、条
約が発効したこと 2 を受けた国際会議であり、1992 年 6 月に、ブラジルのリオ・デ・
ジャネイロで開催された国連環境開発会議以来、地球温暖化問題に関する国際的な対
策を検討する重要な会議として注目された 3。
表 1-1
COP1 までの地球温暖化問題に関する主な国際交渉
年
月
国際的取組
場所
1992年
12月
条約作成のための第6回政府間交渉会合(INC6)
ジュネーブ
3月
第7回政府間交渉会合(INC7)
ニューヨーク
8月
第8回政府間交渉会合(INC8)
ジュネーブ
2月
第9回政府間交渉会合(INC9)
ジュネーブ
3月
条約発効
−
8∼9月
第10回政府間交渉会合(INC10)
ジュネーブ
2月
第11回政府間交渉会合(INC11)
ジュネーブ
1993年
1994年
1995年
3∼4月
条約第1回締約国会議(COP1)
ベルリン
ベルリン・マンデート採択
(出所)亀山(2002a, p.5)を筆者修正。田邊(1998, p.3-4)参照。
COP1 で 採択 さ れ た 国際 合 意 が 、ベ ル リ ン ・ マ ンデ ー ト と 呼ば れ る も ので あ る。
INC10(条約政府間交渉委員会第 10 回会合)では、条約 4 条 2(a)及び(b)で定め
られた約束が、同 2 条における「究極の目的」を実現するには不十分であると認識さ
れるようになった 4。このような状況認識から、COP1 は、条約では定められていない
2000 年以降の各国の地球温暖化 問題に関す る取組について議論 する会議と位 置づけ
1
2
3
4
UNCCCC/CP/1995/7/Add.1 Decision1/CP.1(1995, pp.4-6)。
竹内(1998, p.107)。
田邊(1999, p.38)。
田邊(1999, p.4)、オーバーテュアー・オット(2001, p.56)。
23
られていた 5。だが、COP1 の準備プロセス(INC6∼INC11)6 では、実質的な議論 が
展開されず、COP1 で、議定書や他の法的文書が採択される可能性は全く見出せなか
った。そこで、次善の策として、1996 年、あるいは、1997 年のある時期までに、強
化された約束を含むマンデートの採択が目指されることになった 7。
ベルリン・マンデートには、2 条(a)に基づき、附属書Ⅰ国の約束として、2005
年・2010 年・2020 年といった特定の時期までに、温室効果ガスを削減する数値目標
と、そのために取るべき政策と措置を盛り込んだ議定書を作成し、1997 年に開催が予
定されていた第 3 回締約国会議までに交渉を終えることが明記されている。また、同 2
条(b)に基づき、非附属書Ⅰ国には新たな約束を求めないことも確認されている 8。
ベルリン・マンデートの採択は、議定書の採択に向けた交渉の端緒であったと位置
づけることができ、京都会議の重要な論点でもあった数値目標と非附属書Ⅰ国参加問
題に関する国際交渉にも多大な影響を与えることとなった 9。このような国際交渉の過
程から、京都会議以前の時期と位置づけた COP1 を整理していくことは、本論文にお
いても重要な作業であると考えている。
本章では、COP1 における交渉過程について、当会議で重要な役割を果たした「グ
リーン・グループ」が結成されるまでの経緯と、ベルリン・マンデートが採択される
までの国家間交渉の 2 つに区分した上で、表 1-2 で示す「積極派」と「消極派」の動
向を検討する。
表 1-2
京都会議交渉前史における「積極派」と「消極派」の分類
積極派
消極派
「グリーン・グループ」
JUSCANZ 10
(EU/G77 プラス中国(産油国を除く))
産油国
(出所)筆者作成。
井田(2000, p.36)、竹内(1998, p.109)。
INC6 で、INC の新しい仕事を COP1 の準備とすることが決定された。竹内(1998,
p.106)。
7
オーバーテュアー・オット(2001, p.54)。
8
井田(2000, p.38)、オーバーテュアー・オット(2001, p.57)、グラブ・フローレ イク・
ブラック(2000, p.68)、諏訪(1998, pp.8-9)、明日香(2001, p.159)。
9
井田(2000, p.38)、オーバーテュアー・オット(2001, p.56)。
10 日本・米国・カナダ・オーストラリア・ニュージーランドで構成されている。
5
6
24
第1節
「グリーン・グループ」結成の経緯
「グリーン・グループ」(green group)とは、COP1 で結成され、COP1 だけで見
ることができた国家連合の総称であり、非附属書Ⅰ国(G77 プラス中国 11)から産 油
国が除外された “like minded states”( 意見を同じくする国家群)で構成されている 12。
COP1 における主要な論点は、2000 年以降における地球温暖化問題の解決に向けた
取組であった。この論点に関する立場は、非附属書Ⅰ国の間でも分かれていた 13。すな
わち、産油国プラス中国(本章では「消極派」と位置づける)と、それ以外の非附属
書Ⅰ国(本章では「積極派」と位置づける)という 2 つのグループが存在した。
非附属書Ⅰ国内の「積極派」は、COP1 で、AOSIS の議定書案(AOSIS Protocol)
の採択を目指していた。AOSIS は、COP1 での公式採択を目指して、条約 17 条 2 に
基づき、COP1 の 6 ヶ月前である INC10 直後の 1994 年 9 月に条約事務局へ独自の議
定書案を提出していた 14。
AOSIS 案では、附属書Ⅰ国が、CO 2 の排出量を 2005 年までに、1990 年比で 20%
削減することが明記されていた。この内容は、1988 年 6 月に開催されたトロント会議
で合意された「トロント目標」 15 に基づくものと理解されている 16 。一方、非 附 属書
Ⅰ国内の「消極派」は、
「先進国責任論」、及び、1995 年中に公表される IPCC 第 2 次
評価報告書を待つという科学的不確実性に基づいて、非附属書Ⅰ国内における「積極
派」の主張に反対していた。
このように 2 つの立場に分かれていた非附属書Ⅰ国は、3 月 31 日朝に開催された会
合で、全体委員会議長を務めていたラウル・エストラーダ(Raul Estrada-Oyuela:ア
ルゼンチンの外交官)から、次の会合までに立場を明確にするように求められていた。
そこで、非附属書Ⅰ国は、4 月 1 日に会合を開き、自らの立場についての議論を行っ
た末に 17、インドが命名した「グリーン・グループ」を結成することとなった。
G77 プラス中国は、133 ヶ国で構成されている。Group of Seventy Seven at the United
Nations ホームページ(2002 年 10 月現在) http://www.g77.org/main/main.htm。
12 IISD(1995a, p.4)
。
13 竹内(1998, p.110)
。
14 オーバーテュアー・オット(2001, p.53)
。
15 2005 年までに、CO 2 の排出量を 1988 年レベルから 20%削減、長期目標としては 50%
削減するという内容である。気候ネットワーク(2000, p.36)。
16 竹内(1998, p.109)
、井田(2000, p.38)、気候ネットワーク(2000, p.41)。
17 IISD(1995a, p.4)
。
11
25
第2節
ベルリン・マンデート採択に至る国家間交渉
COP1 において、附属書Ⅰ国と非附属書Ⅰ国共に、議定書案に関する立場の差異に
基づく、複数のグループに分かれていた。それが原因で膠着していた交渉を打開した
のが、グリーン・グループ 18 の結成であった。
グリーン・グループは、産油国を除外した 72 ヶ国の非附属書Ⅰ国が、インドを中心
として、それまで産油国に近い立場を取っていた中国を説得することで結成されたも
のだった。このグループは、附属書Ⅰ国における温室効果ガスの排出抑制削減義務を
強化し、非附属書Ⅰ国への新たな義務を課さないことなどを盛り込んだ「グリーン・
ペーパー」(green paper) 19 と呼ばれる文書を、4 月 2 日に提出した 20。
このグリーン・ペーパーの一部は、環境 NGO によって草案されたものである。環
境 NGO は、グリーン・グループと EU の連携による「積極派」を構築するために、報
道機関との関係を活かしながら、主体的に行動していた 21。 COP1 ホスト国のド イツ
を含めた EU は、当初の提案に含まれていた「非附属書Ⅰ国も排出量の目標を作るべ
き」という項目を削除し 22、グリーン・グループが作成したグリーン・ペーパーを受け
入れることで、至上命題であった COP1 の決裂回避を試みようとした 23。
グリーン・ペーパーの提出によって、COP1 は、「積極派」の EU プラス大多数の非
附属書Ⅰ国によって構成されているグリーン・グループと「消極派」の JUSCANZ プラ
ス OPEC(石油輸出国機構)という 2 つのグループに分類されることになった 24。そ
して、EU は、グリーン・ペーパーに基づいて、JUSCANZ との交渉を展開した 25。
「グリーン・グループ」については、蟹江(2001, p.93)、オーバーテュアー・オット
(2001, p.55)、グラブ・フローレイク・ブラック(2000, p.67)、井田(2000, p.38)、IISD
(1995a, p.4)、CAN(1995a)で示されているように、産油国以外の非附属書Ⅰ国だけを
指す「狭義のグリーン・グループ」、並びに、竹内(1998, p.111)、田邊(1999, p.40)で
示されている EU と非附属書Ⅰ国双方を指す「広義のグリーン・グループ」という 2 つの
見方が存在している。本論文では、前者の見方を採用して、COP1 において、EU と「グ
リーン・グループ」連合が構築されたと理解した。
19 他の内容として、条約の不十分性の承認、非附属書Ⅰ国への資金・技術移転の義務、
AOSIS 議定書案を出発点とすること、共通であるが差異化された義務の原則などがあげら
れる。川島(1998, p.7)、蟹江(2001, p.93)。
20 IISD(1995a, p.4)
、蟹江(2001, p.92-93)、竹内(1998, p.111)。
21 オーバーテュアー・オット(2001, p.55)
、竹内(1998, pp.111-112)。
22 竹内(1998, p.111)
、オーバーテュアー・オット(2001, p.55)。
23 田邊(1999, p.40)
。
24 オーバーテュアー・オット(2001, p.55)
。
25 蟹江(2001, p.93)
。
18
26
ただ、グリーン・グループが結成されたといっても、決議案の合意には程遠かっ た 26。
会期最後の夜(4 月 6 日∼7 日)になって、非附属書Ⅰ国と附属書Ⅰ国の大臣は、それ
ぞれ別々の部屋に分けられて、COP1 議長のメルケル(Dr. Angela Merkel)・ドイツ
環境大臣が、ベルリン・マンデートの採択まで「シャトル外交」を行っていた 27。 米
国とオーストラリアが強硬に反対し続けたために、決議案の内容は次第に妥協的なも
のになっていった 28 が、米国政府代表団の譲歩 29 に続いて、カナダ・オーストラリ ア・
OPEC 諸国もあえて合意を妨げようとしなかった。ただし、サウジアラビア・クウェ
ート・ベネズエラは留保をつけた 30。
COP1 では、メルケル議長の意向によって、意思決定手続に関する議論をしていな
かったために、決議案をどうやって採択するかという問題が最後に残されていた。結
局、メルケル議長の「機転」によって、ベルリン・マンデートは採択された 31。
ベルリン・マンデートの採択によって、1997 年に開催される条約第 3 回締約国会議
までに、附属書Ⅰ国の具体的な数値目標について、法的拘束力を持つ議定書の締結が
目指されることになった 32。このことは、地球温暖化問題における「枠組条約−議定書
アプローチ」の完成を目指して、地球温暖化問題の解決に向けた取組が、「枠組条約」
でとどまることなく、新たな一歩を踏み出すことができたと理解できる。そして、地
球温暖化問題の解決に向けた国際交渉が進展したという観点からも、
「消極派」に対す
る「積極派」の勝利として評価できる。
その一方で、
「消極派」の譲歩の末に採択されたベルリン・マンデートの内容に、後
の京都会議が紛糾する不明確性や不十分性が含まれていることにも留意しておかなけ
ればならない。
ベルリン・マンデートの採択を可能にした主要な要因として、グリーン・グループ
の結成を契機とした「積極派」の構築と言葉(英単語)の使い方で示されている附属
書Ⅰ国側の駆け引きが指摘されている。後者に関して補足すると、1 つは 、ベルリ ン・
マンデートⅡ2(a)で示されているように、附属書Ⅰ国における「消極派」が EU の
26
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30
31
32
竹内(1998, p.112)。
IISD(1995a, p.5)オーバーテュアー・オット(2001, p.55)。
竹内(1998, p.112)。
譲歩の背景については、田邊(1999, p.41)参照。
オーバーテュアー・オット(2001, p.55)。
竹内(1998, pp.109-110, p.113)、井田(2000, p.39)。
蟹江(2001, p.90)。
27
求める排出削減に踏み込む一方で、排出削減を具体的な数値で表示し、厳格にその達
成を要求される「目標」(target)ではなく、厳格さを必ずしも要求されない「目的」
(objective)へと緩めたことである 33。もう 1 つは、排出削減の具体的な数値に関す
る「抑制」(limitation)と「削減」(reduction)という表現についてである。「削減」
とは、温室効果ガスの排出量を一定の水準より減らすことであるのに対して、「抑制」
は、
「削減」に至らなくても、増加率が基準とされた時期の排出量よりも少なくすると
いうことで、例えば、伸び率を抑えることでも良いという意味である 34。両者を比較す
れば、「削減」の方が、地球温暖化問題への取組として、より積極的な表現であると言
える。COP1 では、ベルリン・マンデートに関して、「削減」にまで言及するかどうか
の交渉が最後まで紛糾した。結局、ベルリン・マンデートⅡ2(a)で定められたように、
2005 年、2010 年及び 2020 年といった特定のタイムフレーム内において数量化された
「抑制」及び「削減」という両論併記に落ち着くことになった 35 。
このような 2 つの採択要因は、ベルリン・マンデートの内容とも密接に関連してい
るだけではなく、京都会議における重要な検討項目であった、附属書Ⅰ国の数値目標
と、非附属書Ⅰ国の温室効果ガス削減対策への自発的参加・義務化に関して、
「積極派」
と「消極派」間の国際交渉にも多大な影響を与えることになる。
33
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田邊(1999, p.41)、井田(2000, p.40)。
井田(2000, p.40)、田邊(1999, p.43)。
竹内(1998, p.112)、田邊(1999, p.43)。
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