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で信濃川に合流します。古くから舟 く残されています。
運、農業用水、川漁などに利用され、 度重なる水害を防ぐため、昭和
この地域の暮らしに欠かすことので 年に建設省による直轄工事として魚
野 川 河 川 改 修 工 事 が 始 ま り ま し た。
きない河川となっています。
六日町地域では昭和 年から改修計
魚野川とその支流の歴史は、洪水
との戦いでもありました。雪解け水 画が始まり、支流でも流路変更など
や大雨で堤防は決壊し、田畑は流失 の河川改修事業が進んでいきました。
や土砂流入により耕作不能となりま 昭和 年8月の集中豪雨は、大き
した。河川へ流入した土砂で川底は な水害となりました。当時の河川改
浅くなり、舟の運航に支障が出たり 修計画は、堤防整備に重点がおかれ
するなど、さまざまな被害が発生し、 ていましたが、この水害を契機に治
古来より河川改修などが繰り返され 水・利水を含めた総合的な河川改修
に見直されていきました。その見直
てきました。
んのため、収集した資料 しの中で「三国川ダム」の建設計画
町史編かさ
わよけ
の中に川除(堤防の整備、川さらい が浮上し、ダムは平成4年に完成し
な ど で 氾 濫 を 防 ぐ 工 事、 河 川 改 修 ) ています。
に関する文書が多くみられます。文 昭和 年水害は、これまで最大で
久 2 年( 1 8 6 2 年 )
「 洪 水 定 式 普 あったとされる昭和 年水害に匹敵
請ヲ急破普請ニ被仰付度願」という す る ほ ど で し た。 そ の 復 旧 事 業 は、
文書が役所に出されています。被害 「 激 甚 災 害 対 策 特 別 緊 急 事 業 」 に 採
が大きかったようで、例年行ってい 択され、5か年で六日町中心部の河
る定式的な普請ではなく、急破(洪 川改修工事が行われました。その後
水による破損)として対応して欲し も河川改修は続き、魚野川が大きく
蛇行し坂戸山裾野にぶつかっていた
いと願ったものです。
「銭淵」
(下記写真)は、直線的な流
このほかにも役所に提出された川
除の工事計画書「川除御普請目論見 路に改修され、平成8年、淵の跡地
帳」や、その報告書となる「川除助 は「銭淵公園」に生まれ変わりまし
郷御普請出来形帳」など、明治期か た。
ら 近 年 ま で の 水 害 予 防 組 合 や、 治 平成 年7月の新潟・福島豪雨は
水・用水管理に関する文書などが多 記憶に新しく、頻発する浸水被害を
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防ぐため、六日町地区では魚野川支
流の十二沢川(新橋、平手川橋、小
米橋付近)の断面を大きくする河川
改修工事が今も行われています。
参考資料
六日町史資料編第二巻
水害( ・8・ 台風 号による集
中豪雨災害の記録)
信濃川水系三国川ダム工事誌
広報むいかまち
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河川改修前の魚野川(写真の中央付
近、 直 角 に 曲 が っ た と こ ろ が「 銭
淵」
)
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10
郷土資料
あれこれ
こ の 石 碑 は 、 美 佐 島 地 区 で の 魚 野
川河 川 改 修 工 事 が 完 了 し た こ と を 記
念し 、 事 業 の 由 来 を 後 世 に 伝 え る た
めに 建 立 さ れ ま し た 。 魚 野 川 の 左 岸 、
美佐 島 橋 の 傍 ら に 立 ち 、 魚 野 川 と 美
佐島 を 見 つ め て い ま す 。
魚 野 川 は 、 ご 存 じ の よ う に 信 濃 川
の支 流 の 一 つ で す 。 豊 か な 水 量 を 持
つこ の 川 は 、 群 馬 県 と 新 潟 県 境 の 谷
川岳 に は じ ま り 、 湯 沢 町 か ら 南 魚 沼
を 流 れ、 や が て 長 岡 市( 旧 川 口 町 )
44
56
23
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【問 合 せ 】
社会教育課 郷土史編さん係
☎773 2197
-
南魚 沼 市 の 石 碑 ⑤
「魚野川改修記念碑」〔美佐島〕
建立 昭和 年 き ごう
揮毫 新潟県議会議員 南雲順一
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ろ ば
ひ
び の
な
ま
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12
市報 みなみ魚沼 平成28年6月1日発行
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