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合わせていた人たちによって、多く の忠魂碑や慰霊碑が建てられました。 市が平成 年に行った「民間建立 戦没者の状況調査」では、 基余り の石碑が確認されました。その内の 半数程度が昭和 年代後半から昭和 年代前半に建立されたものでした。 市内のある小学校では、忠魂碑を 手がかりとして、児童が戦争につい て主体的に調べ、学ぶという授業も 実践されました。このように忠魂碑 などは、戦争を今に語り継ぐための 地域の貴重な資料にもなっています。 参考資料 塩澤町史通史編下巻 合併 周年記念誌 塩沢町 20 26 「六日町史」 資料編第一巻を発刊しました 【問合せ】 社会教育課 郷土史編さん係 ☎773 2197 「 六 日 町 史 」 資 料 編 第 一 巻 先 史・ 古代・中世編を発刊しました。 先史・古代編では、飯綱山古墳群 をはじめとする六日町に残る多くの 遺跡を掲載しています。 中世編では、中世の南魚沼地域を 語る上で欠くことのできない文書資 料や城郭の縄張図を掲載しています。 体裁 A5版、約900頁 販売価格 3, 000円 販売窓 口 郷土史編さん係、中央公 民館、大和公民館、塩沢公民館 お詫びと訂正 城内郷土誌 30 20 50 市報4月1日号の「郷土資料あ れこれ 」で写真の見出しに誤り がありました。お詫びして、訂正 します。 訂正前 五十沢川頭首工 五十沢川頭首工わき石碑 訂正後 三国川頭首工 三国川頭首工わき石碑 - 郷土資料 あれこれ - 【問 合 せ 】 社会教育課 郷土史編さん係 ☎773 2197 40 42 30 20 42 南魚 沼 市 の 石 碑 ④ 「忠魂碑」〔四分区(塩沢)〕 建立 明治 年5月 塩沢町尚武会 き ごう 揮毫 山縣有朋 だいもちそり に一之沢より、座石は明治 年に5 30人の人夫によって吉里から引き 出 さ れ ま し た。 忠 魂 碑 の 除 幕 式 は、 同年5月6日に行われました。昭和 5年9月 日、塩沢小学校増築に伴 い移転され、現在は塩沢中央公園に 立っています。 この石碑の隣には、明治 年に日 清戦争にちなんで建立された「明治 廿七八年戦捷記念碑」があります。 第二次世界大戦後の昭和 年 月、 連合国の日本占領により、国と宗教 との分離を目的とした通称「神道指 令」という覚書が出されました。こ の覚書により、忠魂碑などの建立が 禁止され、既存する石碑の撤去、公 有地からの移転などの指令が出され ました。 城内村の忠魂碑は、大正9年に城 内 小 学 校 校 庭 脇 に 建 立 さ れ ま し た。 しかし、前述の指令により、小学校 敷 地( 公 有 地 ) に あ っ た 忠 魂 碑 は、 昭和 年3月に法音寺の境内まで雪 22 12 上を大持橇を使って運ばれ、翌年改 めて建立されました。とても大変な 作業であったと伝えられています。 昭和 年4月、サンフランシスコ 平和条約が締結され、連合国による 日本の占領は終了しました。先の覚 書は失効となり、これまで建立を見 41 42 戦 没 者 の 慰 霊 や 顕 彰 の た め に 建 立 さ れ た 石 碑 を、「 忠 魂 碑 」 や「 慰 霊 碑」 な ど と い い ま す 。 戊 辰 戦 争 の こ ろか ら 建 立 さ れ た と い わ れ て い ま す 。 全国 的 に は 日 清 ・ 日 露 戦 争 ご ろ に 広 まり 、 第 二 次 世 界 大 戦 終 了 ご ろ ま で に多 く 建 立 さ れ ま し た 。 当時は軍国主義の時代で、軍事教 育の 一 つ と し て 学 校 の 敷 地 内 に 建 立 され る こ と も 多 く あ り ま し た 。 塩沢町の忠魂碑は尚武会によって 建立 さ れ ま し た 。 碑 文 石 は 明 治 年 市報 みなみ魚沼 平成28年5月1日発行 19 22 27 ば ひ ろ の ま な び