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サヴェジ氏による 1971 年の公開講義について

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サヴェジ氏による 1971 年の公開講義について
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サヴェジ氏による1971年の公開講義について
園, 信太郎
經濟學研究, 54(1): 109-140
2004-06-10
DOI
Doc URL
http://hdl.handle.net/2115/6028
Right
Type
bulletin
Additional
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Information
54(1)_p109-140.pdf
Instructions for use
Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP
経済学研究 5
4
1
北海道大学 2
0
0
4
.6
く研究ノート>
サヴェジ氏による 1
9
7
1年の公開講義について
信太郎
園
1.はじめに
では「論文集」の頁を角括弧つきで示し,例え
ここでは, S
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7
21]は,原文の 3頁及び「論文集」の 7
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8頁まで」及び
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2
1頁から 7
3
6頁まで」への言
「論文集」の r
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統計学の基礎」の性格
ヴェジ氏は 1
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7年 1
1月 2
0日に生まれて 1
9
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1
冒頭の節は I
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仕o
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nである。「統計学の基
年1
1月 1 日に急逝しているので没後の出版だ
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礎」を真剣に問う作業は本来「哲学, p
が,内容は,ピッツパーグ大学の白巴 C巴
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に属するとするのがサヴ、エジ氏の態度であり,
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巴が招待した講演者の一人
「科学」に関する「哲学」を広く解釈すれば「統
として 1
9
7
1年に彼が行った公開の講義であ
計学の基礎Jはそとに含まれると彼は見てい
り,彼の最晩年の態度が伺われるのである。こ
る。しかしサヴ、エジ氏自身は本格的な統計家で
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g
e(
1
9
81
)
の7
2
1頁から 7
3
6
れは「論文集JS
あって「哲学」の専門家ではないのであるから,
頁に収録されている。
あくまでも「統計学」の当事者が(自身の分野
彼は「基礎論J,Savag
,
巴 Leon
訂 d五m
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哲学」を問題にすること
の基礎づけに関る) r
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となる。「統計学」は「科学」の言わば s
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4, Second R
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であり,多くの統計家が(データの収集,整理,
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s,NewYork,1
9
7
2, の 第 1
そして分析などの)地道な日日の作業に従事し
版を執筆した後に,恐らくはほぼ 5年の歳月
ているのであり,乙の地道な作業と「哲学J と
をかけて,主観確率(特に,彼が唱道する個人
がなぜ関るのかは自明ではないかもしれない。
的確率)に基づく統計学が,つまり主観主義的
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しかし「統計学」は知識の進展,出ea
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正
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J や「不確定性に直面している状
しい」道筋であるとの堅い信念に到達したので
況でいかに行動するのか」という「問い」に事
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Jが
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な「ベイズ統計学, B
ある。この「信念J は,彼が地道に積重ねて来
実上不可避的に関っており,従って,倫理や認
た(r確率」への)深い思索及び統計学の全般
識に関する諸問題と重要な連闘があるのであ
にわたる(生真面目な)学習及び実習がもたら
r
科学」における)理論化や発
る。なお彼は, (
した不可避な」帰結なのである。ここでは,
見のフィロソフィーに統計学は(残念ながら)
「信念」の人が最晩年に語った「統計学の基礎」
今まではほとんど貢献してとなかったと注意し
への態度を読み取るとととしたい。なお,以下
ている。
1
1
0(
1
1
0
)
経済学研究
ところで, 乙の冒頭の節 C
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)3[
7
2
1
J
54-1
りフィロソフイカルな「定義」が取り逃がして
は二つの段落から成り立っているのだが,末尾
いる真理を伝えているようでもある。ところで
の段落を引くと次である。
統計家は,データを理解しようとする自身の営
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Jと
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呼び,より理解可能なデータを獲得しようとす
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る自身の営みを実験の計画,白巴 d巴
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となどは元来無理なのであり,むしろ研究の計
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画の段階で,統計家の協力を求めるべきなので
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ある。だがとにかく今日では,組織的で経験的
一つの「信念」に到達した人物にとっては,傍
な研究が行われるどのような領域にも,統計学
観者のような客観性を装って種種の見解を紹介
が応用されていると主張しでも過言ではないの
することは,(1自己J を欺かない限り)もはや
であり,その多様な応用は,人文系の分野,実
不可能なのである。自身の見解を覆い隠して,
業,及び政治の領域にまで及んでいる。
他の(自身と対立する)見解をもっともらしく
ととろでサヴェジ氏は(小児麻痘の予防に対
述べることは,かえって自他を欺くとととな
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)の効果を
する)ソークワクチン C
り公正な」態度とは言い難いのである。む
測定するために行われた有名な実験及び「二重
しろ自身の「信念」を率直に語ることによって,
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J に簡略に触れて
盲検法, d
本来の論旨が明断なものとなるのである。
いる。それは,まず小学校の第 2学年の子供
3
. 統計学とは何か?
両親が自主的に(投与を)希望した子供たちに
たちにワクチンの投与を行うのだが,その際,
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第 2 節はWha
対してのみ問題のワクチンを投与する。その後
という言葉は,本来「国家,出巴 s
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J に関る
第 1及び第 3学年の子供たちと投与を受けた
数値的な情報を意味するために利用されてきた
子供たちとの間で,小児麻痩の発生率及び、病状
のである。この「情報J とは,種種の人口,種
の程度についての比較が為されるのである。こ
種の価格,そして結婚,出生,及び死亡に関す
のやり方は,同じクラスの(投与を)志願した
る種種の記録などだが,今日でもなお多くの統
子供たちと他の(志願しなかった)子供たちと
計家が,これらのデータに関する穏種の作業に
の間で比較を行う(従来の,あまり評判が良く
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sという
従事しているのである。しかし s
なかった)やり方よりは「良い」ょうであるし,
言葉は,社会的なデータに特に関りがない場合
第 2学年は第 1及び第 3学年の中間にある
でも,一般にデータに言及する際に利用される
ので,ワクチンの効果に対する年齢の影響とそ
ようになったのである。そ乙で,多少軽率であ
のワクチンの(想定されている,本来の)効果
r統計学」とは,データを
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J を回避し得る余地
との「混同, c
るかもしれないが
理解し,さらにはより理解可能なデータを獲得
があるのである。しかし,とのような「実験の
するための試みである」と言い得るかもしれな
計画」は百万人を越える子供たちが関る,
い。このような捕え方は,多くの統計家が実際
そして再び繰り返されることなど決しであり得
に行っている作業をうまく要約しているし,よ
ない」極めて巨大な実験を支持するデータをも
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サヴェジ氏による 1
9
7
1年の公開講義について 園
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2
0
0
4
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たらし得ると主張するには,あまりにも脆弱な
さらにまた彼は,連闘がある諸言語聞の系統
もので、あった。そこで(ソークワクチンの効果
の研究にも言及している。つまり,二つの言語
を測定するための)実験の(少なくとも)大部
において同じ観念を表現する単語で言語上の源
分に対して,より堅固な「実験の計画j が為さ
を共有するものが現れる頻度から,それらの言
れるに至ったのである。つまり,志願した子供
語が時の経過と共に派生して来た歴史につい
たちを(無作為に)半数ずつに分けて,一方の
て,何らかの事柄を推論できるということであ
グループにソークワクチンを,他方には「無害
り
, このような頻度に基づく推論では(それが
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いかなるものであれ)当然統計学が(基本的な)
するのである。乙乙で注意すべきなのは,対象
役割を演じるとととなるのである。なお彼は,
となる子供やその両親,ワクチンなどを投与す
この言語の派生の研究に触れている段落の冒頭
る医師,そしてその子供の健康状態を追跡する
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. と注意している。 5[
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れとも「偽薬j が投与されているのか,一切知
次に彼は「品質管理, qua
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lJに言
らないという乙となのである。つまり乙の「実
及している。この「品質管理J とは主に,製造
験の計画Jでは,二つのグループが「偶然的な
の過程を組織的(かっしばしば機械的)に監視
変動を除けば, e
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うとする試みに基づいている。金銭的な価値及
ワクチンの投与などの「問題となっている処
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ntJの見掛け上の効果に影響す
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7
1年当時
品質管理の領域が現在の(つまり 1
る可能性が,排除されているのであるロこのよ
の)統計学的実践の最大の部分を形成している
うに統計学的な考察(及び方法)は大規模
7
2
3
]。
とするのが,彼の見解である。 5[
なワクチンの投与の実施の適否J という行政上
このように統計学的な実践の多様性に注意を
の判断に本格的に闘っているのである。 4
5[
7
2
3
]
)で
,
促した後に,この節の最後の段落 (
[
7
2
2
]。
彼は「統計学とは何かJ を「定義する J ことの
さらにサヴェジ氏は,人文的な諸分野への統
困難に言及している。つまり統計学とは何
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(
他の領域と比較
か」を単純で素早く,しかも「正確に J (従っ
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て多分「哲学的」と言って良いやり方で) r
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で,しかし,特定の著作の(真の)原作者が誰
義してしまう」ことを,幾人かの哲学者は期待
で、あるかが論点となっている状況で,使用され
するかもしれないが,しかしそれにはある困難
ている単語や文体の諸特徴を数え上げたりし
が伴うのである。実際,簡潔で正確な「定義」
て,問題の論争に決着をつけようとする努力が
が仮にできるのだとしても,その「定義」の(内
為されているととは広く知られていると,事実
容の)詳細な説明なしには,その「定義」に出
を指摘している。さらにまた幾つかの音楽
合う読者が「その内容」を理解することは恐ら
作品の初期及び現代の演奏の期間に関る(多分
くは困難であり,従って
計学の(本格的な)応用は
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哲学的な」定義」
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通常は出合うことがない)データ, u
に基づく「統計学Jへの接近は,実際には,他
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哲学的な」定義Jは 統 計 学 」 に つ い て の
7
2
2
]-5[
7
2
3
]。
している。 4[
種種の議論から言わば抽出されたものであり,
1
1
2(
1
1
2
)
54-1
経済学研究
それ故に,種種の論点に(表に出ない様式にお
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統計学」とは r
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頁から, M. S
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tの次の言葉を引用する。
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計学」の基礎づけを遂行するための「良い」シ
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...である。多くの統計家にとっては,
ステムの探求」とを実際上区別しないのであ
この言葉が伝えようとしている観念は必須のは
り,この同一視は, (本格的な統計家である)
ずだと彼は判断するのである。統計家が関るデ
彼の「哲学」に対する欲求をも間接的に語って
ータ及び現象は,個体や事象からなる「集団J
いるであろう。だが彼は
に関する数値的な(あるいは量的な)諸事実な
のシステムが「良い」ものである」とはいかな
r
r
基礎づけ」のため
のであり,通常は「個体そのものJ に関する事
る事柄なのかを,少なくとも「説明する」必要
実ではないのである。このような「集団的な」
があるはずである。つまり問題のシステムが「良
現象に連関する不確定性との関りにおいて,統
い」ためには,とにかくそのシステムにおいて,
計家は「賢明なJ推論を為そうと努力するので
「統計学的な実践における「良い」技法」がい
ある。
かなるものであるのかが演緯されることが必要
4
.r
統計学の基礎づけ」にとって「良い」システ
法」を構成するのかが,説得力のある様式で表
であり,しかも「なぜ」それらが
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r良い」技
ムとは何か?
現されなければ「ならない」はずなのである。
第 3節 は W ha
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従ってそのシステムは統計家たちが為すべ
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5
きであると紛れもなく感じる事柄を(統計家た
[
7
2
3
J-6[
7
2
4
J
)を引くと次である。
ちが)正に為すJその合理的な根拠を(説得力
のある様式で)提示するものであるべきであ
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る。しかしここで用心すべきなのは,彼は特
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定の技法が「広く世間において採用されてい
2
0
0
4
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サヴエジ氏による 1
9
7
1年の公開講義について 園
1
1
3(
11
3
)
る」という事実に基づいて,その技法が「良い」
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J の有用性を,ペイ
「無作為化, r
技法であると判断する Jやり方を,採っていな
ジアンの立場から「直接的に」正当化すること
いということなのである。つまり,彼が「良い」
が困難であることを率直に認めている。しかし
と呼ぶシステムは広く世間において採用さ
彼はこの事実が,ペイジアンの立場が拒否され
れている」技法の「全て」を肯定しなければ「な
るべきものであることを示しているとは見てい
らない」というわけではないのである。「その
ない。ペイジアンの立場は「不完全,加l
p巴r
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J
システム Jが,つまり「その理論Jが,当然の
ではあっても統計学の基礎」を考察する場
ことのように広く利用されている統計的な技法
合には極めて重要であり,しかも一般に理
が「誤り」であると主張する場合には,いかに
完壁さ」を要求
論」に対して(文字通りの) I
多くの人人によって利用されている技法ではあ
することには無理があるとするのが,彼の基本
っても,その技法は注意深く再考されるべきな
的な態度なのである。一方彼は,無作為化が有
のでありその理論」からすれば,結局は放
用な方法であることを認めはするが,無作為化
棄されるべきなのである。しかし末尾の文でサ
は時時余りにも過大に評価されているのではな
ヴ、エジ氏が指摘しているように世間の常識」
かろうかと,疑念を呈している。
を拒否する「理論」は,逆に「理論」の方が棄
却されがちなのである。彼は,自身が唱道する
6[
7
2
4
Jの 3番目の)段
さらにこれに続く (
落を引くと次である。
(1確率」に関する)個人論的見解に基づいて,
主観主義的なベイズ統計学を支持しているのだ
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を打つのである。実際仮説」の真偽に対す
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る判断の様式として有意性検定を捕える場合,
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ある。つまり彼は, (不確定性に直面している)
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「判断の様式としての有意性検定」の有用性の
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根拠に強い疑念を持っているのである。
6[
7
2
4
Jの 2番目の)段落で,
これに続く (
ここでは(統計学における) I
理論」に関る微
彼は統計学」において広く利用されている
妙な論点が言及されている。妥協の余地を排し
1
1
4(
11
4
)
経済学研究
て特定の「理論」を採用する場合にその理
5
4
1
もより「良い」ものである」という実際的な判
論」が現実を尊重する限り「どう見ても誤
断の様式を保持する立場であり,さらには幾
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J結
っている」と判断せざるを得ない, a
つかの「理論」は多分「ほとんど」正しいであ
その結果」は「その理論」
果を導くのならば, i
ろう」という判断の様式を保持する立場なので
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J なのだ
がもたらす言わば「予測, p
ある。ここで注意すべきなのは理論」の聞
が
, 乙の「実際上誤っている予測」をもたらす
の比較に関るとの「判断の様式」が(フォーマ
「その理論J は実際上誤っている」と判断す
ルな)論理の枠組において明確に特徴づけられ
べきもののはずである。だが実際には,特定の
得ないとしても,とにかく彼はこの「実際的な」
「理論」の支持者らは誤った予測Jを「その
判断の様式を保持するとととしたということで
理論」の欠陥であると見なして直ちに「その理
ある。彼は多くのことを語り,だがしかし
論」を放棄したりはしない。彼らは有能な,
「誤った」結論には全く至らない「理論」を窮
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J 統計家にとっては,問題の「予測」
極的には見出し得るのだという望みを,私は終
は紛れもなく「誤り」であるのだから,その「有
に棄てるに至ったj と,率直に述べている。
能な」統計家が「その誤った予測」に依存して
(自身の)判断を下すことなどはあり得ず,従
6[
7
2
4
Jの 4 番目の)段落は一
乙れに続く (
つの文のみから成り,これを引くと次である。
って人人がその理論」を支持する統計家の
判断によって「誤った」道に(直接的に)迷い
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込む余地などは(実際上は)ないはずだと,考
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えるのである。つまり乙の場合明白な誤り」
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かえって(恐らくは利用者にとっては便利な)
「その理論」が保持されてしまうのである。多
これは統計的な作業の現場で利用される諸
分,信頼区間に関る通常の「理論J は,ここで
技法の重要な部分の根拠を説明し得ない「理
の「その理論J の実例になり得るはずであり,
論」は,基本的に不充分だと言い得る」という
「仮説」の検定も同様であるだろう。(しかし
ことである。
ii
明白でない」誤り Jに対しては,これらの「理
6[
7
2
4
J-7[7
2
5
J
)でサヴ、エジ氏
乙の次の段落 (
論」の支持者らはどのように対処するのであろ
は終に「記述統計学, d
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5に近い値だが,そ
うか。例えば, i
言及する。ここで彼が言う「記述統計学」とは,
れよりも小である場合に「仮説」を棄却する」
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J の前にデータを提
「人の心,出ehumanm
という判断の様式は,どの程度まで「信頼でき
示するための技法の集まりなのだが,そのデー
る」のであろうか。)一方致命的に重要な実
タの提示の様式は,とにかく(通常の)人が理
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ntJを重視する立場か
験,出巴 c
解できるものであり,有用なアイディアを示唆
らすれば露骨に誤っている予測」をしてし
するものであり,人を誤った道筋に導くもので
まう「理論Jはただ単に欠陥があるのみでなく,
はないことが強く望まれるのである。このよう
元来「理論」としての資格がないのである。つ
なデータの提示はしばしば,うまく設計されて
まり「その理論」を棄却するには,ただ一つの
いる,図や表,グラフや地図,さらには「アニ
「致命的なJ実験のみで充分なはずなのである。
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J などを利用し
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サヴ、ヱジ氏はとの二つの流儀の間で苦悩し続け
て為されるのである。彼はこの技術,血i
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J
たのである。結局彼が到達した立場とは幾
については多くのことが知られており,さらに
つかの「理論」は,他の幾つかの「理論」より
多くのととが知られるべきであると判断してい
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4
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1
1
5(
1
1
5
)
サヴ、エジ氏による 1
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1年の公開講義について 園
る。「記述統計学」は当然(統計学の) i
理論」
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の対象となるべきなのだが,それは「知覚に関
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て い る 。 従 っ て 統 計 学J に関する「基礎的
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述統計学Jを事実上排除することが容認されて
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きたのは,言わば「経験」に基づくのであり,
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特定の「理論」が「記述統計学」について真剣
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に語ってはいないとしても,直ちに(それ故に)
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その「理論」を不充分だとすることは,適切な
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判断ではないであろう。しかしその「理論」を
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(例えば学生たちに)教える際には,その「理
論」だけでは(統計学の)教育として不充分で
既成のやり方を安直に当てはめるのではなく,
あることを,教える側は充分に認識しておく必
かなりインフォーマルなやり方でデータと(気
要があるのである。統計資料を活用しさらには
長に)つき合う流儀が盛んになるに従って,つ
(うまく)作製しようとするのならば記述統
まり,問題のデータとともに遁遥する流儀が推
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計学」についての「自明でない事柄, n
奨されるに従って,統計学における(フォーマ
血i
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J
を正に知る必要があるのである。だが
理論」を過剰に軽視する風潮が(一部
ルな) i
6[
7
2
4
]一7
サヴェジ氏はこの段落の末尾の文 (
に)生じてきたのである。与えられた状況にお
[
7
2
5
])で,次のように注意している。
いて適正な水準の「形式性, f
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J を獲得
するためには,確かに経験及び判断が必要であ
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よる表現」に他ならない。「数学的諸形式によ
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る表現J を利用せずに非常な明確さ及び精度を
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く困難なのだ、と言ってよかろう。しかも現実は
彼は統計学の研究及び教育の当事者であったの
て表現できる(しかもそうすべき)事柄のみが
より複雑であり,明確さ(及び精確さ)を伴っ
で
, (当時の)教室での統計学が,数学的な議
存在するのではなく,そのような表現が不可能
論を教え込むことに偏り過ぎているととを実感
であったり,そのような表現を強引に当てはめ
していたのであろう。また記述統計学」を
るべきではない状況も存在し得るのである。
見下す風潮があったことも認めている。しか
さらにこれに続く段落を引く。
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に,データ解析を重視するやり方が盛んになる
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に 従 っ て 記 述 統 計 学 」 へ の 「 評 価Jが変化
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これに続く (
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7
2
5
]の 2番目の)段落を引
くと次である。
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6
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54-1
経済学研究
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る。しかも, この「インフォーマルな解釈Jは
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四
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とはなり得ない。「数学」における結品体の幾
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実的な観点から)自身にとって本格的に重要で
あると判断される事物に,考察を絞り込まねば
「統計学」と呼ばれる領域には記述統計学」
ならないのである。数学的な「確率の理論」は
のように形式化」することが(必ずしも)
r
r
確からしさ」とは
容易ではないが,良く認識され良く説明されな
何か」という「聞い」に対して大きく異なった
ければならない事柄が多くあると言って良いよ
「確率論」と呼ばれるが
r
rほとんど正しい」理
見解を持つ者たちが,乙の見解の相違にもかか
うに思われる。例えば
わらず,同一のフォーマルな「理論J を(つま
論」という概念がそうである。さらに, (不確
り「確率論」を)利用できるのである。乙の場
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合,それぞれの論者が形式的な」構造を自
e
n
c巴」に基づく)ベイズ統計学では, (理念化
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r
確率」に対する) r
解釈」に言わば従属
された「個人」ではなく) r
現実の」個人の選
身の
させているのである。(なお「確率論」では,
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J
好が関らざるを得ない「殴昧さ, v
Kolmogorovの公理系が通常は採用されるのだ
の問題がある。例えば明日の晩餐のための
が,主観確率を唱道する Brunod
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iは
,
可能な六つのメニューを自身の選好に従って並
完全加法性の仮定を「公理」としては認めない
べることができる J という主張が理念化された
eF
i
n
e
凶
立場を採っており,サヴェジ氏もこの d
の立場を支持しているようである。)
7[
7
2
5
Jの 4 番目の)段落を引
これに続く (
くと次である。
「あなたJにとっては「真実」であっても
r
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実
際の」あなた」の少なくとも幾つかの選好は「揺
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J はずである。より「重要な」
れ動く, v
選択に関る状況では,例えば家や仕事,そして
配偶者などに対する選択ではあなた」自身
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の選好の「揺れ動き」は,恐らくは「あなた」
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り不可避かつ重要であるので,この「暖昧さ J
サヴェジ氏による 1971年の公開講義について
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0
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1
7(
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1
7
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を組み込んだフォーマルな「理論」を構築しよ
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の)一つの個人的確率で表現される「べき」状
況が,
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rあなた」の)個人的確率「らしき」
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るであろう)理念化された「個人」の選好とそ
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巴
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論」の現実的な性格をあまり前進させない事態
に通じるであろうと判断しているのである。彼
とにかく「統計学」は不確定性に関るというの
は,フォーマルなやり方の限界を冷静に見極め
が
, (サヴェジ氏自身を含めて)大方の意見な
て
r
r
殴昧さ」の存在」を直視して行こうとす
るのである。
なお,この節の末尾の一文を引くと次であ
のだが, ここで彼は敢えてデータ解析に言及し
ている。細細とした多数の多様なデータがどう
しようもなく混在している状況において,その
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. 完壁な理論を求めるよりは「より
計学では「誤差」の分析が主要な課題であり,
まし」なものを追求することが賢明である,と
「問題の結論は正にどの程度確かなのか」が問
いうのであるロ
われたのだが,データ解析ではこの細細と
5
.r
確率」の重要性
ば,はたして何を意味するのか」という「問い J
した事柄から成る混在は,もし何かあるとすれ
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が,問題となるのである。このデータ解析と呼
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sである。この節は二つの段落のみから
ばれる分野の基礎を成すシステムが,いつの日
成札前の段落(
7[
7
2
5
J-8[
7
2
6
J
)で彼は,敢え
か構成されるかもしれないのだが,しかし現実
てデータ解析に言及している。これを引くと次
のデータ解析は極めて経験的な性格を持ってい
である。
るのである。上の末尾の文でサヴ、エジ氏が的確
に指摘しているように,データ解析を「うまく」
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Jが要求されるのであり,このような「能
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1
8(
11
8
)
経済学研究
54-1
カ」を養成する方法が構成できるとは(今の所
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2
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Jの 2番目の)段落を引
これに続く (
くと次である。
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n也巴 maint
つまり「確率」を「定義する」試みが幾つかあ
「統計学」と呼ばれる営みの本質を問い詰める
り
, しかもこれらの試みは互いに対立する側面
の な ら ば 統 計 学Jが不確定性に関るという
を持っているのだが,この 1
1
確率」の定義の
こ と は ど う し よ う も な い 事 実 で あ り 確 率J
試みJ に密接に結びつく様式において,幾つか
に関する解析は,不確定性を取り扱うための主
の「統計学」の理論が展開されるのである。し
要な道具であると見なされてきたと言って良い
かし注意すべきなのは統計学の基礎を成す
ように思われる。ことで用心すべきなのは,サ
確率概念」を探求する場において為されるべき
ヴ、エジ氏は不確定性の全般を問題としているの
なのは,その確率概念に基づいて「まともな」
であり,その中には特定の「仮説」の真偽に関
さらには「強力な」統計学が構築できるか否か
する不確定性も当然含まれているのであり,従
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y
J
を問うことではあっても確率, p
って,その「仮説Jが真である「確率」とその
という言葉に対する辞書編集上の作業ではない
分析とが,当然「統計学」に含まれるべきであ
1
確率」という言葉Jがあ
ということである。 1
ると彼は考えているのである。
る文脈においてどのように利用され,またこの
言葉やその類似語が,いかなる文脈においてど
6
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確率」に閲する幾つかの意味
第 5 節 は Meaningso
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yである。
8[
7
2
6
J
)を引くと次である。
この冒頭の段落 (
のように利用されるべきなのかを調べること
は
1
1
確率」という言葉」に関する考察ではあ
るけれども統計学の基礎を成す確率概念」
の探求からすれば副次的なものである。「統計
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は不確定性, u
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て)編成するために必要とされる諸概念を,と
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にかく確実に掌握する必要があり,しかも,そ
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れらの諸概念に複数の確率概念が現れる余地を
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る。「確率」とは異なるが効用, u
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そのような基本的な概念の一つであり,不確定
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るわけには行かない)本質的な概念である。だ
1
1
9(
11
9
)
サヴエジ氏による 1
9
7
1年の公開講義について 園
2
0
0
4
.6
がサヴェジ氏は, 日常の統計的な作業において
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いるが,上の末尾の文の「頻度論的, f
は「確率j の 方 が よ り 重 要 で あ る の で 効 用 J
個人論的, p巴r
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J,r
について議論するととを避けている。ここで用
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J という表現が,各各これらの「見解J
心すべきなのは,彼は統計学の基礎を成す
に対応している。多数でしかも多様な
r
r
確率J
確率概念」の探求において決定的に重要なの
の定義」を簡潔に三つに分割するのは大胆であ
は不確定性に直面している「個人」の合理
るかもしれないが,多くの「定義の試み」が,
r
r
確率」
対称性,オピニオン,正しい思考,頻度,そし
的な行動様式J の探求ではあっても
という言葉」の利用の様式の調査及び分析では
て「ほとんど確実」というような,比較的少数
ないという態度を保持していることであり,こ
の概念に依存して展開されているととに着眼す
れは「基礎論」以来の彼の一貫した態度なので
るととで,乙のような分類が遂行されたのであ
ある。
ろう。だが,これらの「定義の試み」の内で「意
8[
7
2
6
J第 5節 2及 び 3番目
これに続く (
の)段落を引くと次である。
味J を為すものが結局存在するのか,また存在
するとすればどの「定義」なのかが,厄介な問
題なのである。なおサヴェジ氏は,頻度論者の
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議論には「深刻な論理の悪循環」があり,必要
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論者の思索には本質的な(どうしようもな
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い)欠陥が内在している」と判断しているので
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ある。さらにまた「意味」を為す「定義」があ
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るとしても,それはいかなる目的に役立つのか
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が問題であるし,さらには他にも有意義な「定
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義」があるとすると,その「定義」は,先の「定
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実はサヴ、エジ氏自身は,少なくとも現段階では
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は,個人論的見解によってうまく表現されると
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である。実際,彼が必要論者と呼ぶ人人は確
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現代的な形式は記号論理学に基づいているが,
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確率」の定義の試み」が為
その源は 1
7,8世紀の確率論の初期に既にある
されてきたのである。サヴェジ氏は「基礎論」
と見て良いであろう。当時の(r確率」に関心
の第 1章第 2 節 3頁 で 確 率 」 に 対 す る 態
を持つ)数学者らは,とにかく「偶然が関るゲ
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たのであり,しかもとのようなゲームは同
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とにかく膨大な
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J という表現を用いて記述することが適
れ,乙の区別については, M.T
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巴
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9
5
1
切であるように思われていたのである。例え
年の論文の第 3節を見るように(サヴェジ氏
ば,一方が赤で他方が緑の采から成る対を振る
は)勧めている。ととろで不充分論拠の原
ゲームにおいては,通常は 3
6(=6
2
)
通りの
理」の応用には何らかの妥当な側面が存在し得
可能な結果が想定され,しかもこれらの結果た
るのか,また「存在し得る」としても,いった
ちがお通りの「同程度に確からしい」様式に
い「いつ J存在し得るのか。このような「聞い」
おいてもたらされると想定されたりもしたので
は発せられて当然ではあろうが,その「聞い」
ある。このような「同程度に確からしい場合た
の内容は,問題となっている「原理」の内容を
ち」という見方が現れる根拠には,
精確に捕えることが困難であるので,つかみ所
(例えば「か
け」に)利用される器具が持っているように思
のないものとなってしまっている。しかし「不
われる「対称的なJ仕組みが闘っているようで
の応用は, (新旧を問わず) r
確
充分論拠の原理J
ある。例えば采は表面に目を表す窪みがあり,
率」に関するいかなる必要論的理論の根底にも
角や縁に丸みがあるとしても,その「仕組み」
存在しているように思われるのである。
が正六面体として捉えられて,少なくとも「公
1
9世紀から 20世紀にかけて「対称性」に基
正なJゲームでは, これら六つの面が「同程度
づく「確率」が(実際的な領域において)大体
に確からしく」現れると想定されたりするので
拒否されてきたことには,当然の理由がある。
ある。この「同程度に確からしい」という考え
例えば,男子が出生する「確率」は二分のーよ
方はあまりにも素朴に利用され過ぎたようであ
りもわずかに(しかし紛れもなく)大であると
り,実際同程度に確からしい」という表現
8歳の独身の男性が次の一年間にわたっ
か
, 4
何か」を探
の根底を支える(あるとすれば) r
て生き続けることがない「確率」は1.4パーセ
求し捕えることなしに,この考え方は利用され
ントであるとかいう陳述を,
やすいようである。ところで同程度に確か
基づいて)統計家や保険数理士が結論として提
(統計的な資料に
らしい」という主張を支える論拠として「不充
示することを欲したとしても,このような自然
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で有用な結論の基礎として役立ち得る「同程度
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J が持ち出されたりするのだが,乙の
に確からしい場合たち」を見出そうとしても,
r赤及び緑の采で各各
3及び 4
そのような「場合たち J を感覚によって捕える
が出ることの方が,赤及び緑で各各 5及び 1
ことなどできないからなのである。つまり実際
が 出 る こ と よ り も よ り 確 か ら し い , more
的な統計家にとっては,必要論的な見解は役に
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i
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JJという結論へと通じるいかなる(正当
立たないのである。(なおサヴェジ氏は,
な)議論も,そのような議論があるとすれば,
0世紀において, J
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にも関らず) 2
「原理」は
(それ
ただ言葉だけを入れ替えるだけで,その議論の
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s,そして R
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各段階の妥当性を損なうことなしに,逆の結論
が,それぞれの立場から必要論的な確率概念の
へといたる議論へと転換できるであろう」とい
構築を試み,必要性的見解の刷新を企図したと
う想定に基づいて同等に確からしい」とい
とを注意している。)
う主張の正当化を試みるものなのである。なお
との「原理J は 基 礎 論 」 の 第 4章第 5節
この第 5節 9[
7
2
7
Jの 3及 び 4 番 目 の 段
落を引くと次である。
6
4頁の 3番目の段落で言及されているが,そ
こでの脚注によれば, このような様式での「不
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nと呼ぶべきものであろうと注意さ
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サヴ、エジ氏による 1971年の公開講義について 園
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ているが,全く空白である心」にとっての「客
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J にとっての「正しい」オピニオンな
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どというものは,その「存在」を主張すること
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が極めて困難であり,このような主張に説得力
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があるとは少しも思われないのである。なおサ
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ヴェジ氏は,二番目の段落で,現代の統計家で
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必要性的見解を保持する者はほとんどいない
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sは大きな例外だと述べてい
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る。しかし,現実には(客観的ベイズ推論の著
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名な教科書である) Boxa
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19
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3
)に集
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約されているように, J
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サヴ、エジ氏は次に頻度論者の流儀を取り上げ
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し得る)試行から成る系列において,例えば
「成功」がもたらされる相対的な頻度を考えて,
何らかの(知覚される) r
対称性」を認めるこ
その相対的な頻度に基づいて「確率」を「定義J
とによって「同程度に確からしい場合たち」を
して行こうとするのが,頻度論者のやり方であ
直接的に見出して「確率」の値たちを確定する
る。ここで注意すべきなのは類似する」試
というやり方が,錯誤に陥りやすいことは,恐
行からなる系列が指定されると,もたらされる
らくは現代の必要論者も承知しているはずなの
であろう結果の系列における特定の「結果」の
である。現代の必要論者は「確率」の理論とは
相対的な頻度の
r
r
極限」のようなもの」は,
「論理」の拡張なのだという態度を採るのであ
未知ではあっても固定されている(従って「客
る 。 つ ま り 彼 ら は 証 拠Jから成る集合が一
) 値として,想定されているというこ
観的な J
つの(任意に与えられている)命題を「論理的
客観的なJ
とである。乙の(想定されている) r
に」しかし「不完全に」含意するその「程度J
値が,頻度論者にとっての(その特定の「結果」
(あるいは「範囲 J
) として,その命題に対する
確率」に他ならない。例え
がもたらされる) r
確率」を「定義」
(その「証拠J に基づく) r
ば,毎年世界の全体で出生する子供たちにおけ
しようとするのである。だが,このやり方に忠
る男子の比率を観察するとして,この比率が約
実 で あ ろ う と す る の な ら ば 証 拠J (の全体)
5
1パーセントで安定しているととがわかるの
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J である場合
が特に「同語反復的, t
次に生まれる赤子
ならば, (我我は恐らくは) r
に「確率J を定めることを為さねばならないは
1パー
が男子となるであろう「確率」は,約 5
1
2
2(
12
2
)
経済学研究
54-1
セントである j と(なぜか)主張したくなるで
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とのような(我我の)欲求を満たしてくれると
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して多分物理学者にも,多大な勢力を保ってき
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たのである。結局その時期の科学者にとって,
頻度論的見解以外は魅力に乏しかったのであ
「確率」の頻度論的な「定義」は,見掛け上は
る。「対称性」に基礎を置く必要性的見解は役
客観的なように思われるかもしれないが類
2
0
に立たなかったのであり,個人論的見解は (
似する J試行の系列を想定する際に,問題の試
世紀の初期においても)統計学に対する明確な
行たちが「互いに類似している」という「判断」
1
科学」
主張を発してはいなかったのである。 1
が介入しているのであり,この「判断J は,窮
とは「その客観的な対象,出巴 o
b
j
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c
t
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巴」に関
極においては,問題の「試行の系列」を想定す
るものであり,主観的な判断に基づいて基礎づ
る「個人」の「主観」に依存するのである。し
けられるべきではないJ というもっともらしい
かも,頻度論的な「定義Jそのものが「論理の
主義」からすれば,
(そして多分人気がある) 1
悪循環」に陥っている嫌疑があるのである。
「科学」における確率概念に対して個人論的見
1
1このコイン」を投げ上げる際に「表」が出る
解を採用するととなどは,論外のことともなり
J が「ほぽJ 二分のーであることを「経
「確率J
かねない。しかし,頻度論的見解そのものはあ
験的に」決めようとする際に,頗度論者は極
あ
くまでも試行及び結果の系列の「客観的なJ (
めて多数回にわたる「そのコイン」の投げ上げ
る種の)指標として「確率」を「定義」する試
における「表」の相対的な頻度が二分のーに「近
みなのであり,例えば「この世界における次の
い」のならば,問題の「確率」は「ほぽ」二分
赤子の出生で男子が生まれる Jという「特定の」
のーであり近くない」のならば,二分のー
事象に対する「確率」を正当に「定義」してい
に「近いJわけではない」と答えるはずである。
るわけではないのである。
しかし, ここでの二分のーへの「近さ」とはい
0[
7
2
8
Jの 2番 目 の 段 落 を 引
次 に 第 5節 1
く
。
かなる事柄なのであろうか。もし問題の相
対的な頻度の二分のーからの隔たりが,今後拡
大して行く傾向はないであろう」という推測を
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J という判断を下
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J と判断しているようなの
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サヴ、エジ氏による 1
9
7
1年の公開講義について 闘
2
0
0
4
.6
1
2
3(
1
2
3
)
義」は「悪循環」を含んでいるとととなる。さ
らに問題の「確からしさ」を頻度論的に「定義J
個人論者は「確率」を理想的に整合的な, i
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しようとすれば,同様の問題が再び立ち現わ
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J 個人が持つ諸オピニオンに対す
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rはてしない」議論の後退Jがもた
るある一つの尺度であると考えるのである。し
らされることとなる。さらに得られた」相
かし注意すべきなのは理想的に整合的」と
対的な頻度が二分のーに「近い」か否かの判断
される「個人」ではあっても,異なる「個人」
は,問題の相対的な頻度を獲得するために為さ
の間では,彼らのオピニオンは異なり得るとい
れ,結局
れた「試行」の回数にも依存するはずだが,こ
うととなのである。つまり,同ーの「事象」に
こで,何らかの「二分のーから,少なくともこ
直面している異なる「個人」が,同一の「証拠」
の相対的な顔度に対応する分だけ,隔たる「確
を保持しているとして,さらには彼らの「好み」
J を持ち出すとするのならば,やは
からしさ J
が一致しているとしても,彼らは異なるオピニ
c
r
定
) を持ち得るのであるロつ
オン(即ち「確率J
義」に関する)困難が立ち現れることとなるの
まり,個人論者が「個人Jに対して要請する「合
である。このように確率」に関する頻度論
個人J
理性」は(つまり個人論的合理性は), r
的な「定義」は,そのままでは,暗黙の内に「悪
のオピニオン(のシステム)の一致を理想
r
r
定義」の「はてしないJ後退」か
的な」状況においても要請しないのである。個
りこの「確からしさ」に対しでも同様の
循環」か
r
r
合理的な」個人」
を含んでいるようなのであり統計学の基礎」
人論者が唱える「確率Jは
を成す確率概念の本質を捕えているとは言い難
が保持する「確率」ではあるが,あくまでも「個
いのである。
人」的なものである。「基礎論」の第 1章第
次に個人論的見解が議論されるのだが, 10
[
7
2
8
Jの 3番目の段落を引く。
2節 3頁の 4番目の段落で個人論的見解が
次の様に(但し,冒頭のボールドは原文のまま)
要約されている。 P
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なお,論理的な厳密さを多少犠牲にするのなら
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極めて明断に表現することが可能なのである。
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「今日の午後にここで雨が降るのならば,あな
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たに 1 ドルを進呈する」という(約束が破ら
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なた」が見積るものとしてその値段」が C
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セントであるとする。つまりあなた」は c
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セントで「その「くじ J
J を買う覚悟があるし,
1
2
4(
12
4
)
54-1
経済学研究
同じ額で「その「くじ J
J を売る覚悟もあるの
である。この場合今日の午後にここで雨が
これは個人論的理論の「解釈」の問題である。
,
降る」ことの「あなた」にとっての「確率Jを
乙の「理論」を経験的(かつ心理的)に解釈す
(
rあなた」にとっての) r
その値段J と「その
ることが可能であり,例えば個人」から成
賞金」との比率 c/100によって「定義する J
るあるクラスの「行動」を予測する際に利用で
のである。「あなた」にとっての「その「くじ JJ
きるかもしれない。しかし現実には,経験的に
の「値段」に基づいて「あなた」にとっての「確
解釈される個人論的理論は,つまり「世界」に
率」を「定義する J乙の涜儀は, d巴F
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1
9
3
7
)
おける人人や組織の行動の予測のためにこの理
が「主観確率, s
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J の理論を
論を利用しようとする流儀は,どうもうまく行
展開する際に採用しているが, d
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凶が示
きそうにないのである。現実の人人は, この理
r
r
r
必ず」損をする r
rくじ」
は
論が「個人J に対じて要請するほどには, (
しているように
の組合せJ
J を「必ず」回避する」という様式
るかに) r
合理的ではない」のであり,この理
個人」
において整合的な(あるいは合理的な) r
論が妥当となり得る(現実における)範囲は極
は,自身の「主観確率」が「確率」の加法及び
めて狭いと言わさ守るを得ない。経験的な理論と
乗法法則を満たすように,問題の「くじ」たち
してのとの理論の価値には厳しい疑問符が打た
を「値踏みJせざるを得ないのである。結局サ
れるわけだが,サヴェジ氏は, この理論を規範
ヴェジ氏が述べているように,整合的な「個人」
的なものとして取り扱うべきであると考えてい
の「確率」は,非負で有限加法的で「常に通用
る の で あ る 。 つ ま り こ の 理 論 を 個 人J が自
する事象」に対しては値 l を対応させる(有
身の行動を警戒し取り締まるための規準を与え
限加法的な)確率測度となり,通常採用されて
るものとして取り扱い,従って, 乙の理論の枠
r
r
条件っき確率」の「定義J
Jを (
r
条件
組において自身の行為が「矛盾」しているので
っきの「くじ J
J の「定義j を経由して)満た
過ち」
あれば,自身は(自身の行為において) r
いる
すこととなるのである。なお彼は,この確率測
を犯しているのであり,少なくとも幾つかの自
o
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1
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巴
b
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度の定義域を出巴 B
Jと
,
身の行為を「修正しなければ「ならない J
述べているが基礎論」の枠組を尊重するの
(自身が)自身に対して要請すべきであるとす
な ら ば 事 象J たちから成る σ集合体とすべ
るのである。つまり自身の行為が「整合性
きであるロ
h
e
r
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n
c
y
J を満たすように(自身の行為を)取
c
o・
これに続く段落 (
1
0[
7
2
8
J-11[
7
2
9
J
)では,
り締まるための規準として,即ち,対自己的検
個人論的理論に対するサヴ、エジ氏の(基本的
束のための規準として,個人論的理論を利用す
な)態度が述べられているので,次に引く。
べきであるとするのである。
乙れに続く段落で彼は有名な「誕生日の問
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題」に触れている。全くの他人同士である 2
名から成るクラスに「あなた」がやってきて,
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5名の内で少なくとも一組の同一の誕
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生日の者たちがいる「確率」を問題とするので
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ある。何の準備もなしに乙のような「確率」を
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低い「確率Jを思い浮かべるのが通常ではなか
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9日や昼夜の長さの不
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ろうか。しかし,
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.
均等をどのように取り扱うのかという問題を脇
2
0
0
4
.6
サヴェジ氏による 1
9
7
1年の公開講義について 園
に置けば, (
2
5名の)可能な誕生日のパターン
2
5
1
2
5(
12
5
)
などというものの居場所などはありはしないと
は 365 通りあり,これらのパターンが(ほぽ)
いう言い分によって,個人的確率の「科学」へ
同程度に確からしいと判断して「良い」ょうで
の応用は,厳しく拒絶されてきたのである。し
ある。すると初等的な数え上げと近似式とによ
o
r
.
巴1
(
19
2
4
)
かし,本格的な個人的確率の概念は B
り同じ誕生日の組が少なくとも一つ存在す
において紛れもなく言及されており, Rams巴y
る「確率J
J は,二分のーよりも大となるので
eF
i
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t
i(
1
9
3
7
), 及 び Koopman(
1
9
4
0
(
1
9
2
6
),d
ある。「せいぜい十分の -J が最初の「感じ j
a
,b
: 1941)ではフォーマルに取り扱われてい
であったのが,初等的な「確率の計算」により
eF
i
n
e
t
t
iは,自身が唱道す
るのである。特に d
「二分のーよりも大」が従う。乙の段階で「あ
る「主観確率」の立場から「確率の計算」を基
なた」は自身の「判断」の「矛盾」にでくわす
礎づけ交換可能な事象列」の概念を用いて,
のだがあなた」は,多分他のほとんどの人
J という「客
「未知かつ固定されている「確率J
人も同様に,前者は「誤り」であり後者が(ほ
観論的な」概念を「主観確率」の立場から分析
ぽ) r
正しい」と決断するに違いない。ここで,
し,それによって通常の頻度論的な議論が「主
r
3
6
525通りのパターンは(ほぽ)同程度に確か
観確率Jの理論に組み込まれてしまうことを示
らしい」というのは紛れもなく「あなた」の個
したのであるロ(なお未知固定確率」に関す
人的な判断なのであり,この有名な「誕生日の
eF
i
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e
t
t
iの議論については基礎論」
るこの d
問題」は,個人的確率の理論が実際にいかに機
の第 3章第 7節 及 び 園 (
2
0
0
1年 6 月) (
あ
能するのかの端的な例を提示しているのであ
2
0
0
1年 1
2月 b
)の第 4章)を参照
るいは園 (
されると良いであろう。)しかし 1920年代の統
る
。
さらに 1
1[
7
2
9
Jの 3番目の段落を引く。
計学の激変期にこれらの思索が影響を与えるに
は,これらの論文の公表の時期が遅すぎ,ある
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いは公表のしかたが良くなかったようである。
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1
9
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)は,彼が没した翌年の 1
9
3
1年に
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出来事であった。サヴ、エジ氏は, これらの思索
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は本来ならば統計学の進展に大きな影響を与え
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くは)既になっているのである。)
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「確率」に関する個人論的見解には(他の見
個人論的見解は,相当に漠然とした様式におい
解と同様に)難点もあれば異議も持ち出されて
てならば,既に 1
9世紀には考えられていたの
いるのである。しかし,どの異議が見せ掛けだ
である。しかし科学」においては「主観性J
けなのか,あるいは真剣な考察を必要とするの
1
2
6(
1
2
6
)
5
4
1
経済学研究
かを慎重に見分ける必要がある。ここで注意す
氏は,自身の広汎な「科学J に関る経験に基づ
r
科学」における全ての諸「事実」は結
1
科学」においては客観性が追求
ぺきなのは, 1
いて
されなければならないのであり,個人論的見解
局このようなオピニオンに他ならないという,
を「科学」に持ち込むことは, この客観性の要
)な
(少なくとも彼自身にとっては「明らか J
求に反するものである」という「異議Jを,サ
見解に到達するのである。「ブリテン島は実際
ヴェジ氏は表層的なものに過ぎないと見ている
この地球は近似的に球体であ
に島である J, 1
ことなのである。つまり彼にとっては,賞揚さ
,そして「六フッ化キセノン (
X
e
F
6
)は存在
るJ
1
科学」の客観性」は言わば錯覚だから
れる 1
する」という「事実」は,実は異常な程にうま
である。数学や物理学のみならず,経済学にま
く基礎づけられているオピニオンに他ならな
で知見を有する彼が終に到達した「科学」に対
い。より試論的なオピニオンと比べればこれら
する態度を知る上でこの論点は重要であるの
は「確かだJ とも言いたくもなるが,しかし,
1[
7
2
9
Jか ら は [
7
3
0
Jにかけての段落を次
で
, 1
に引くこととする。
「事実J とされるオピニオンと「試しの」オピ
ニオンとを「質的に」異なるものとして分離す
る,頑丈で不抜の境界線などはどこにも「存在」
C
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しないのである。「存在する」相違とは,それ
らのオピニオンに対して「各自が」保持する「信
念の」程度の違いに他ならない。
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ヴェジ氏は,個人的確率のより深刻な困難に言
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ある真の)化合物を作らないという「周知の事
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である。今日希ガスのキセノンの酸化物及びフ
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る。つまり周知の事実」とされていた事柄
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は,事実に反する(しかし)もっともらしい,
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単なるオピニオンであったのである。サヴェジ
巴r
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2
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0
4
.6
サヴェジ氏による 1971年の公開講義について 圏
1
2
7(
1
2
7
)
念」はサヴ、エジ氏だけのものではないロ
個人的確率の理論が導入する「理想的に整合的
まず必要論的確率は,人人が自分自身のオピ
な」人物と我我とでは,種種の能力において余
ニオンにおける「対称性」を感じ取る際に現れ
りにも聞きがある。そこで, 乙の理念的な人物
るものと見なせるであろう。赤及び緑の二つの
を我我が「まねする J ことで常に利益を得ょう
特定の采の対を一回振る状況で,任意の一つの
としても,うまく行かないのである。理念的人
「目の対」が他の任意の「目の対」と同程度に
物とは異なり,我我は「暖昧さ J の言わば犠牲
確からしいと「あなた」が判断するのならば,
者であり,しかも(数え上げたり)計算を行う
「あなた」が整合的である限り,振ることで現
我我の能力には相当の制約があるのである。も
れる「目の和」が 7である「確率」はあなたJ
し我我にこのような能力の制約がないのなら
にとって 1/6 となるわけである。しかし,
ば,個人的確率の理論は「人」に対する有用性
r自の対」が互いに同程度に確からしい」とい
を失う乙とであろう。現実の人が余りにも「不
う主張は「あなたJの「判断」ではあっても「事
完全である Jが 故 に 理 想 的 に 整 合 的 な 」 人
実J
ではないはずである。人為を尽くすことで,
物に基づく「理論」が,人に対して(自身の行
投げられる采をほとんど立方体に近づけ,采の
過ち J を指摘するこ
動様式に潜在している) r
質量の分布をほとんど一様にし,極めて速い速
とによって有用となり得るのである。しかしこ
度で采を振り,しかも采が落下する広い正方形
こに問題がある。我我はあまりにも不完全であ
の面をほとんど水平にして,その面の縁の壁を
るので,完壁さを「まねする」ことを試みるこ
柔軟で弾力性のあるものにするととができるに
とによって,その「不完全さ」故に,正しくな
違いないのだが,しかもそのような場合,我我
い道筋へと「組織的に」誘導されてしまうかも
は,各「目の対」が 1/36の「確率」で現れ
しれないのである。個人的確率の理論によれ
るという「判断」に益益傾くではあろうが,し
ば,もっぱら(徹底して)自身の利益のみに基
判断」であ
かしとれはあくまでも(各自の) r
づいて行動する完壁なホモ・エコノミクスは,
って事実」ではないのである。また対称
「無作為な, randomJ 標本を取るととを決して
性Jについてのこのような判断のみで確率」
欲しはしないのである。だが我我が,もっぱら
の応用の全てに対応できるわけではない。
自身の利益のみに基づく場合でも,あるいは他
次に頻度論的確率はどうであろうか。頻度論
r
無作為に」
者 は 類 似 す る J試行から成る無限的な系列
抽出される標本というものは,我我にとっては
に基づいて「確率」を「定義」しようと試みる
重要なはずである。(しかし,ある種の状況で
i
n
e
t
t
iは,彼の「主観確率J
のである。一方 deF
の人人の利益を考慮する状況でも,
は個人的確率は紛れもなく意味を持ち得るとし
によってこの「頗度論的な」状況を分析する際
ても,それがはたして統計学や「科学」におい
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b
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巴
,j 事象列を導入
に 交 換 可 能 な , 巴x
11
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J 役に立つのであろうか。
て 本 当 に , rea
r
成功」か「失敗Jかのいずれか一
している。 (
サヴェジ氏は,主観主義的なベイズ統計学の全
方を結果としてもたらす) r
試行」から成る無
体はこの疑問に肯定的に答えると判断してい
限的な系列が「交換可能である」とは, との無
る。)
限 的 な 系 列 の 任 意 の 有 限 列 に お い て 成 功J
ここで注意すべきととは,必要性的であれ頻
及び「失敗Jから成る任意の(結果の)列がも
度論的であれ,個人論的見解以外の立場におけ
たらされる「確率」が,その有限列における「成
る「妥当な, v
a
l
i
d
J 事柄は,個人論的見解の内
) の総数のみに依存し,従っ
功J (及び「失敗J
部において明断に表現されるとするサヴェジ氏
て成功」の総数が等しいならば「確率」が
の
一致するととを言うのであるロ(なおとこで,
c
r
事実」に基づく) r
信念」であり,この「信
1
2
8(
1
2
8
)
経済学研究
各回に「成功」という事象を対応させて事象列
54-1
ある。実際「確率」に関する三つの見解に対応
を導入するのならば,この事象列は「交換可能
して三つの顕著な理論が存在しているのであ
である」と呼ばれる。)交換可能性とは「対称
る
。
性」の一種に他ならず,言及されている「確率」
必要論者も個人論者も,いかなる不確定性も
r
試
を個人的確率とすると,交換可能性とは, (
「確率」によって測定されるという態度を取る
行」の無限的な系列を想定している) r
個人」
ので,その結果として統計的な推論の様式が
のオピニオンの「対称性」に他ならない。 d巴
(原理上は)単純なものとなるのである。つま
F
i
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t
t
iは,交換可能な無限的系列に対して
r
d
e
り,問題となっている幾つかの「仮説」が適用
F
i
n
e
t
t
iの表現定理」を証明して,さらにまた,
する各「確率」を,与えられているデータを考
交換可能な系列を想定する「個人」は,遂行さ
慮して算出すればよいのである。その際そ
れる試行の数が増大するに従って,観察された
のデータ」が得られる「まえ」の各「仮説」が
「成功」の相対的頻度に「近いJ値を,これか
通用する「確率J と,各「仮説」が与えられて
ら「成功」がもたらされるであろう「確率」と
いる場合でのそのデータ」が得られる「確
して採用するに至ることを示したのであるロつ
率」とを利用してそのデータ」が与えられ
i
n
e
t
t
iは,なぜ頻度論者が相対的な頻
まり d巴 F
ている場合での,各「仮説」が適用する「確率」
度を「確率」の近似値として採用するに至るの
を算出するのであるが,その際結果としては,
かを,自身の「主観確率」の理論に基づいて厳
B
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'也eoremを 利 用 す る こ と と な る の で あ
密かつ明断に分析して「しまった」のである。
る。従って,必要論者も個人論者も,ベイズの
なおサヴェジ氏は試行」の例として,画鋲
定理(あるいはベイズの公式)を結果としては
を投げ上げて平たい頭か,それとも針先及び頭
多用することとなるのだが,それ故に彼らは,
の縁でテーブルに着地するのかを観察するとい
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sと呼ばれるとととなる。
う実験に言及している。乙のような「試行」の
彼らの立場からすれば,例えば喫煙の有害性に
無限的な系列を想定する「個人」が,例えば「頭」
ついての推論を行うには,有害さの程度を表す
で着地する「確率」を「頻度論的に J捕えたく
各「仮説J に対応する事後の(つまりデータが
なる状況を未知ではあるが固定されている
確率」を,ベイズの
与えられている場合の) r
確率」などを持ち出さずに,個人論的に(厳密
定理によって算出すれば良いのである。また,
かつ明噺に)捕えることが既に為されてしまっ
与えられている「証拠」に基づいて雄牛に
たのであるロ
3
0
0
取りつけるためのその「くびき」の古さは 2
サヴェジ氏はこれらの事実に基づいて,結局
年から 2400年である」という「仮説」の「確
個人論的見解が必要性的及び頻度論的見解の妥
からしさ J を算出するには,その「証拠」が与
当な部分を厳密かつ明断に表現しており,また
えられている場合のその「仮説」が通用する「確
これら二つの見解には論理上の難点があるとせ
率」を,ベイズの定理によって算出すれば良い
ざるを得ないので,個人論的見解のみが(慎重
のである。
な考慮の末に)正当なものとして生き残るはず
だと見るのである。
ここで注意すべきなのは,ペイジアンと呼ば
れる統計家には,必要性的見解を保持する者も
含まれるということである。だ、がサヴ、エジ氏が
7
. 統計学に関する幾つかの理論
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sである。「確
第 6節 は T
支持するのは狭義のペイジアンであり,これは
主観主義的なペイジアンである。彼はこの狭義
率」に関するいかなる見解を採用するかは,統
s
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のペイジアンの統計学を,原文では p巴r
計家が利用する理論に当然影響を与えるはずで
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sと表現しているのだが,事実
2
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0
4
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サヴェジ氏による 1
9
7
1年の公開講義について 園
1
2
9(
12
9
)
上は主観主義的なベイズ統計学と一致している
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とみなして良いようである。また彼は必要性的
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見解を保持する哲学者と統計家とを区別してお
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を卓越した必要論的統計家として言及し,
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sの統計学への貢献を高く評価してい
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s以後の必要論的統計家とし
る。さらに J
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sにも言及している。しかし彼
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は,必要論的統計学への強い不信感を保持して
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Jの 3番目の段
いるのである。第 6 節 目 [
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当時は(そして今日でも)頻度論的見解が統計
学において優勢なのである。しかし頻度論的統
計学に対するサヴ、エジ氏の態度は厳しい。頻度
つまり,必要論者は「何もない所」から「何かJ
論者は科学的諸「仮説」に対する「確から
を引き出そうとしているというのが,個人論者
しさ」の客観的な基礎づけなどは,どこにも見
の言い分である。必要論的統計学は何らかの規
出し得ない」という「信念」と頻度によっ
準を設定して「非報知事前分布, n
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て定められる「確率」は客観的な」意味を
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J を導入するが,個人論者からすれば,乙
持っている」という「信念」とに支えられてい
の「非報知事前分布」の実際上の背景は「存在
るようである。サヴェジ氏からすれば,前者の
しない」のであり,そこから導出される事後分
「信念」は「認識, t
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布の「解釈」が困難なものとなるのである。だ
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J である。頻度論者の立場
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sの必要論的統計学は,その後, Box
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からすれば,科学的諸「仮説」の不確定性に対
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9
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3
)に見られるように客観的ベイズ
していわゆる「初期のJ確率を当てはめること
推論として発展する乙ととなる。
は,通常はできないので,統計的推論の結果を
次に頻度論的統計学だが, 1
3[
7
3
1
Jから 1
4
[
7
3
2
Jにかけての段落を引く。
「終端の」確率で表現する乙とは不可能なので
ある。つまり頻度論的統計学においては,各
「仮説」が与えられている場合の「そのデータ」
1
3
0(
1
3
0
)
54-1
経済学研究
がもたらされる確率と,諸「仮説」に対する「事
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前の」確率とに基づいて,それらの「仮説」に
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対する「事後の」確率を,つまり「そのデータ」
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が与えられている場合の各「仮説」の「確から
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という自然な」手法が機能しないのである。
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点は既に上の節で指摘されているが,頻度論的
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困難をも抱えているのである。
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なおサヴェジ氏は,頻度論的統計学の内部に
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ることに言及はしているが,対立の具体的な内
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容には立ち入っていない。しかし彼は, Abr
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1dが後者の主張を一般的かつ精密に展開し
個人論的統計学は事実上主観主義的なベイズ
たことに触れて,いわゆる Neymru
トP
巴
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n学
統計学のことと見なし得る。サヴ、エジ氏は「個
派 は 先 験 的 な,ap
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J 確率の利用の禁止
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J ベイズ統計学という
人論的な, p
がもたらす「苦境, d
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J から逃れようと
呼称を用いているが,これは自身が唱道する
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して帰納的推論, i
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基礎論」での)個人的確率の理論を意識した
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Jと
う事柄を帰納的行動, i
上でのことであろう。個人論的であれ必要論的
いう経済的な概念で置き換えようと試みている
であれ,ベイズ統計学の推論の仕組みの「形式J
と歴史の流れを読み取っている。
は相当に単純であり事前の」確率から「事
4[
7
3
2
]
次に個人論的統計学が問題となる。 1
の 3番目の段落を引くと次である。
後の」確率を(ベイズの定理によって)導出す
るものである。その際,各「仮説Jが与えられ
ている場合の「そのデータ」がもたらされる「確
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とか得られるとしても事前の」確率は一人
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一人が定めなければ「ならない」ものなのであ
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る。つまり,ベイズ推論の「形式J の単純さに
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隠されているのである。だがここで注意すべき
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ことは,個人論的な枠組においては確率」
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はいかなるものであれ,最終的には一人一人が
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定めるべきものであるということである。各
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個人」による)指定の問題が
2
0
0
4
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サヴェジ氏による 1971年の公開講義について 園
1
3
1(
13
1
)
「個人」の「確率」は,その「個人」のオピニ
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身の内奥を探査することによってのみ,何とか
阻
定め得るものなのである。だが実践上は,幾人
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かの「個人」のオピニオンに共通している諸特
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のような(共通している)諸特徴の顕著な例と
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して, (
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iによる)交換可能性がある。
また通常の統計的推論との連関では
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が与えられている場合の「標本の分布」につい
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1d仕組i
ての「個人」聞での合意の形成は個人」の
オピニオンの共通した諸特徴に基づいて為され
個人論的な見解は,不確定性に直面している「個
ると「解釈され得る」のである。このような「分
人」の行動様式の「合理性」を重視する。「基
布」の例として,正規分布, P
o
i
s
s
o
n分布,そ
礎論」においては,七つの公準によってこの「合
して二項分布などがある。「母数Jが与えられ
理性」が規定され,その副産物として「期待効
ている状況において, とのような限定された分
用最大化の原理」が規範的に正当化されてしま
布族へと諸「個人」のオピニオンが傾くととは,
う。この合理的な「個人」は,諸事象に対して
充分に注意されて良いように思われる。しか
は「確率」を配分し, (自身の一般的な収入と
し,乙れらの言わば「便利な」分布族は個
しての)諸結果に対しては「効用」を対応させ
人」の「本来の」オピニオンを「真剣に」捕え
る。ここで「確率」とは個人的確率に他ならず,
ることによって得られる「完壁な」分布などで
それは「世界」に対する「個人J のオピニオン
は決してなく,あくまでも「便宜的な」近似で
であり,一方「効用」とは, (諸結果に対する)
あり試論的なものなのである。一方「母数」に
「個人」の「価値」の指標である。つまり,不
対しては,各「個人」が,正に主観的な分布を
確定性に直面している状況における決定理論に
n
導入するのである。(なお,ことでは特に I
と っ て は 確 率J及び「効用」は二つの基軸
p
r
i
n
c
i
p
l
巴で始まる 4番目の文に着眼すべきで
である。ととろが統計的推論においては価
ある。サヴェジ氏は,自身の(1基礎論」での)
値」の指標に(直接には)言及せずにオピニオ
個人論的見解を,一切の妥協を排して保持して
ンとその変化とを明断に捕えることが重要かっ
いるのである。「確率」とは,正に「一人(い
有用なのであり,実際ベイズ推論は,乙のよう
J が定めるべきものなのであり,との
ちにん )
なオピニオンの変化を追跡するのである。この
「一人Jを除いて,他に定めるととができる「存
1dの(頻度論的な)決定理論の試み
ことは W a
在J などは「ない」のである。)
が,オピニオンの指標としての「確率」を導入
4[
7
3
2
]の末尾から 2番目の段
これに続く 1
せずに一方で「結果の価値」の指標としての
落では効用」に関するある注意が簡略に言
) を利用するととと
「効用 J (あるいは「損失J
及されているので,これを引く。
対照的である。
実践的な統計家は,データの分析や収集など
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のみに関るというわけではない。例えば科学者
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3
2(
1
3
2
)
経済学研究
54-1
が統計家に相談する場合,その科学者は,自身
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サヴェジ氏は,主観主義的なベイズ統計学と
他の理論との関係に極めて強い関心を持ってい
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るのである。個人論的見解が「個人」に対して
要請する「合理性Jよりも,さらに強い「規範」
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Waldの流儀をさらに一歩進
u
個人」に対して)課すことによって確
めることで個人論的統計学にたどり着くという
率」の「個人」差を消去できるはずだと,必要
この見解は,客観論的見解のはてに主観論的見
性的見解の保持者らは「思う」わけだが,個人
解を見るというサヴ、エジ氏の持論なのである。
を
論的見解の保持者らは,このような「個人」差
Neyman-P
巴
紅s
o
nの流儀は,とにかく「先験
の消去が「合理的に」なされるわけがなく,こ
的な」確率を利用しないという立場を維持して
のような「消去」は個人」に対する(余り
きたのである。実際にはより一般的に, (特定
にも)過大な要求であると見なしている。しか
個別的なJ事象に対し
の「仮説」のような) r
し必要論的であれ個人論的であれ,統計学的な
ては「確率」を配分しないというのが, この(頗
実践においては共にペイジアンなのであり,実
度論的な)流儀の特徴であったのであり,この
践面において根元的な差異があるというわけで
流 儀 の 支 持 者 ら は 禁 じ ら れ たJ確率を利用
はないであろう。しかし必要論者は,非報知事
するやり方を嫌悪してきたのである。しかし,
前分布やその類似物の利用に見られるように
「頻度論的な」決定理論を徹底して展開しよう
ある種の確率分布に余りにも強く引きつけられ
とすると,始めに捨て去ったはずの「禁じられ
ているのであり,しかもこれらの「魅力的なJ
た」確率に到達してしまうのである。(なお,
分布が,実際の「個人J のオピニオンをうまく
この事実は L
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巴
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S
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g
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n
tによって
表現しているとは限らないし,通常は真剣に表
指 摘 さ れ る の だ が , こ れ に つ い て は Savag
巴
現してなどいないのである。(なおサヴェジ氏
(
1
9
6
2
)及 び 園 (
1
9
9
4年 3 月) (あるいは,園
は
, 乙れら二つの理論の実践面での差異は根元
(
2
0
0
1年 1
2月 b
)の第 5 章)に説明がある。)
n
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o
的なものではないとしているが, Boxa
N巴
y
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P
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nの理論は,例えば検定力曲
(
1
9
7
3
)におけるような客観的ベイズ推論では
線の選択に見られるようにその応用が為され
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l
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c
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J は成立しな
「尤度原理, l
る状況においては,多くの選択が結局はその理
いが,主観主義的ベイズ統計学は「尤度原理J
論の利用者によって為されることを強調してき
と両立するのである。)
たのである。つまりこの理論には,利用者の
さらに彼は,頻度論的統計学の窮極において
(主観的な)オピニオンの表現を受け入れる余
個人論的見解が立ち現れるとする,自身の持論
地が常にあるのである。一方乙の理論は確
を率直に述べることとなる。実際,第 6節 目
率」に対して客観論的な態度を取っているので
[
7
3
3
Jの 3番目の段落を引くと次である。
あるから,個個の利用者に対して許容する(主
観的な)選択の自由度は,個人論的統計学より
2
0
0
4
.6
サヴェジ氏による 1971年の公開講義について 園
1
3
3(
13
3
)
も狭いのだと思われ勝ちである。また確率J
れている。サヴェジ氏は,出巴 F
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n回 d
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に対する態度に着眼すれば,個人論的統計学を
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巴
訂s
o
nの伝統からすれば明らかに
主観論的と表現することも不当ではない。とこ
少数派であり,しかもかなり捕えづらいもので
ろが実際には,利用者の主観的な選択の幅に関
あることを承知しているのである。この段落を
しては,利用者に対して,個人論的統計学の方
引くと次である。
が(客観論的統計学よりも)より多くの「規律,
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巴」を課しているのであり,そこでの主
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的であるべきであり, (個人論者らが「科学J
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に対して主観主義を導入しようとしているが)
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個人論者らの流儀は容認できないと主張する。
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しかしその同じ客観論者が,個人論者は「個人
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(不当に)統制しようと試みていると,苦情を
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口にするのである。しかし個人論者が放棄しよ
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合的なJ行為を選択する「自由J なのであり,
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少なくとも(自身の行動の) i
経済的な解釈,
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頼区聞による推定,分布の尾の部分を利用する
検定,そして「標本抽出の任意停止に対する酷
「データが与えられている場合に母数J
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J などを,
を表現し得るパラメータの全体上で定義されて
評
合理性に問題があるとして拒否するのである。
いる尤度関数(の族)が定まるがそのデー
巴
ymanしかし,乙とで注意すべきなのは, (N
タ」がもたらす「母数」に関する「情報」の全
1dの
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nの理論の成熟したものである) Wa
体はその尤度関数」によって表現されてい
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y
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P
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nの伝統
流儀が,既に潜在的に N
る」というのが「尤度原理Jである。乙れは,
に反しているのだと,サヴ、エジ氏は見なしてい
i
i
母数」を表し得るパラメータが与えられてい
ることなのである。つまり客観論的な伝統は,
J が与えられていると
る場合の「標本の分布J
発展するに従って自身を否定する段階に近づい
仮定し,また標本の値」が定まる場合にこ
ていると,彼は見ているのであり,その到達点
の「値」をデータと見なすこととした上での,
が個人論的見解なのである。
「原理J 訟のである。従って,乙の「原理」に
第 6節 の 末 尾 の 段 落 ( 16[
7
3
4
J
) では,
よればパラメータが与えられている場合の
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巴
rの流儀と「尤度原理」とが言及さ
Jが異なる場合でもそのデー
「標本の分布J
1
3
4(
1
3
4
)
54-1
経済学研究
タ」が得られた後の「それらの尤度関数」が一
推論では(事前分布の様式を考慮すれば)かな
致する(つまり,定数の乗数を無視すれば一致
り「不自然な」ものであるだろう。
する)のならばそのデータ」に基づく
(
r
母
数」に関する)統計的推論の様式は「一致する J
はずなのである。サヴ、エジ氏によれば,乙の「原
8
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基礎づけ」は本当に大事なのか?
第 7 節(16[
7
3
4
]
)は Do出巴 f
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理」は最初は F
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ずである。しかし「尤度原理」は,推定や検定
いる。これを引くと次である。
に関する Neyman-Pearsonの涜儀ととにかく両
立しないのであり,しかも, F
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nが唱える
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だが,主観主義的ベイズ統計学では尤度原
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理」は直ちに従う。但し,サヴ、ヱジ氏は「任意
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については,個人論的見解と両立するようなも
とにかくサヴ、エジ氏は,統計学の「基礎づけ」
のではないとするのが,サヴェジ氏の態度であ
の研究に関心を持った段階では,統計学的な実
る。また,鋭敏に設定されている n
u
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lhypo
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-
践に対して何らかの衝撃を与えようなどとは思
s
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sを「統計量の分布Jの尾の部分を利用して
ってもいなかったのである。なにしろ,少なく
検定するという有意性検定の考え方が,主観主
とも各自の研究に極めて熱心であり,互いの見
義的ベイズ統計学と両立し難いことは,例えば
解の伝達が良好に保たれている多くの有能な研
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xの標題の下での諸議論(例え
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(
1
9
5
7
)及び S
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r(
1
9
8
2
)など)を通
かってしまう「過ち Jに固執しているとは,思
して良く知られている。鋭敏に設定されている
いもよらなかったのである。当時のサヴ、エジ氏
「仮説J を,その他の「対立仮説」に対して検
は統計学の世界」は大体において良好なの
定するという様式は, N巴yman-Pearsonの流儀
だと思いつつも,ただ「なぜ」良好なのかを知
でもしばしば持ち出されるものだが,このよう
ることを欲していたのである。しかし,そ乙で
r
r
仮説」の鋭敏な設定」は,通常のベイズ
彼 は 統 計 学 」 が も た ら す 「 有 用 性Jの「合
な
1
3
5(
1
3
5
)
サヴ、エジ氏による 1
9
7
1年の公開講義について 圏
2
0
0
4
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理的な」根拠を敢えて「問う」こととなる。こ
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に,客観論的な見解を棄てて,個人論的な見解
を(一貫して)保持するに至るのである。個人
サヴ、エジ氏は個人論的な統計学(結局は主観主
1自
的確率の理論は伝統的な」流儀よりも 1
義的なベイズ統計学)が,時代の推移とともに
己」の選好」に対する訓練に役立ち,教育の場
より多くの支持者を獲得して行くであろうこと
においても有益であり,統計家の助言を求める
を期待していたのである。今日では,ベイズ接
人人と連絡を取る際にも,より実践的なのであ
近は,現実の統計学的諸問題への基本的な方法
る。ここで注意すべきことは,サヴェジ氏は,
論のーっとして,言わば「常識」となっている
いわゆる理論家とはととなり,実に多様な事例
が,サヴェジ氏が率直に欲しているのは自
の統計的な分析に闘っており,この「現場での
身にとって「確率」とは結局何か」という「聞
経験」に基づいて個人的確率の「実用性」を肯
いJへの一人一人の(真剣な)省察であって,
定している,ということなのである。
「マニュアル化」された手順の開発ではなかっ
たのである。彼は,統計学に関る多くの人人が,
9
. 将来はどうなるのか?
1
1
確率」とは何か」という「聞いJ と取り組む
サヴ、エジ氏の講義の末尾の第 8 節は Thef
u
-
ことによって,個人論的見解が他の諸見解より
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eである。乙の節は三つの段落から成り, 1
6
も「聞い」の本質をより「深く」捕えていると
[
7
3
4
Jの官頭の段落を引くと次である。
(それぞれの立場から)判断するに至ることを,
強く期待しており,実際彼自身は,現段階では
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個人論的見解のみが,この「聞い」に対する正
当な「答えJであると判断しているのである。
これに続く末尾の段落 (
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3
5
J
)を引くと次
である。
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3
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Jから 1
7[
7
3
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Jにかけての
これに続く 1
段落を引くと次である。
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J 既存の「理論」に組み込む
1
3
6(
1
3
6
)
経済学研究
54-1
ことが困難な,多くの重要な(論じるべき)事
成す確率概念を考察する場合に,不確定性に直
柄があることを率直に認めているのである。!実
面している「個人J の行為の「合理性」とはい
際,科学的な作業において考慮されるべきコス
かなるものであるべきかを探査しなければなら
トのーっとして作業としての計算」がもた
ないことに,気づいていたのである。しかし,
らすコストを(明白な様式で)取り扱うことや,
実際の
r
r
個人」の選好Jに関る「漠然性,
vague-
J
n
e
s
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J への対処や,(r思いもよらない「発見 J
乙のような
rr
個人」の行為の「合理性JJの「定
式化の営み」こそが,個人論的立場の最大の関
心事なのである。
をも含めた) r
発見」に関る論理や,記述統計
2004年 1 月 3
1日同
学と呼ばれている領域の「基礎づけ」などは,
参考文献
(サヴェジ氏自身のものを含む)既存の「理論」
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では,どうもうまく対処できないのである。こ
I
la
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れらを基礎づける作業を通して,統計学に関る
1
6
1-2
0
3,1
9
51.サヴェジ氏が言及しているのはこの第
(新しい)頑丈な理論が構築される余地がある
3節 (
1
8
5頁から 1
9
0頁)である。
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ことを否定はできないであろう。
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9. 補 遺 一 一 引 用 さ れ て い る
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2
1-3
3
6,1
9
2
4
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以上でサヴ、エジ氏の講義録は終了しているの
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3
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だが,この講義録の官頭にはJ. M. Keyn巴Sの
S
m
o
k
l
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r(
19
6
4
) これは K
e
y
n
e
s(
1
9
21)に対する論評であ
ある言葉が引用されており,この言葉が古典的
り,サヴェジ氏によれば,個人的被率の現代的概念に関
な著作である Keynes(1921)からの引用である
する最も初期の説明になっているとのことであるロな
乙とが簡略に付記されている。そとで筆者は,
19
8
0
)には入っていな
お,これは Kyburg四 dSmokler(
この古典的な著作のどの箇所からの引用である
い
。
のかを調べてみたのだが,同著作の P
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r
t W,
Chapter 26,(標題は Thea
p
p
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)の最後の段落の冒頭の一文であ
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ることがわかった。乙の文を次に引用するのだ
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9
7
3
.
が,二つあるイタリックは原文のままであり,
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羽 田o
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サヴェジ氏もそのまま引用している。
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The importance of p
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)
. との論文は H
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1 debe guided by i
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よって仏語から英語へと翻訳されたのだが,その標題
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である。乙の英訳は,Breakthroughs仇 S
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K巴ynesは(個人論的見解とは異なる)必要
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2,にも, 1
3
4頁から 1
7
4頁にかけて収められ
性的見解の保持者であり, (主観主義ではなく)
2
7頁から 1
3
3頁に R
.E
.B
a
r
l
o
wによる
ており,その 1
客観主義の立場に立つのだが,統計学の基礎を
簡略な説明がある。
2
0
0
4
.6
サヴエジ氏による 1971年の公開講義について
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t
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iはこの古典的な論述において,
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個人」の「主
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1
3
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1
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J ことの必
観的なJ見積りが「整合的である, c
頁から 5
7
8頁にかけて収録されており.そこの 5
1
9頁か
要条件として「加法法則の成立」及び「乗法法則の成立」
3
0頁にかけて Wi
I
IiamH
. DuMounchelの簡略な説明
ら5
を導くが,さらに加法法則の成立」が「整合的であ
がある。なお「論文集JS
a
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g
e(
1
9
8
1
)にも収められてい
る」ためには十分であることをも示し,さらに乗法
る
。
法則の成立J も「整合性」にとって十分であることを,
C
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r 1の末尾から四番目の段落の冒頭の文で注意し
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ている。だが,この十分性の証明を提示しているわけで
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はない。また C
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5
8
.
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個人Jによって)
に確からしい, e
判断される事象たちへと「世界」が分割され,しかもこ
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9
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3
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J を配分できる.との趣旨の発言をしている
な「確率J
が,この主張を明確な様式において(従って選択公理に
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e, Cambridge
対する彼の「態度」は不明である)証明しているわけで
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9
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(
1
9
6
1b
)での言及は第 2 版
。
さらに彼は C
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r]
[において, (交換可能な事象列
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t
t
iの表現定理J を証明する。彼は,
に対する) f
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9
2
8年にはとの結果を得ており, Bolognaの国
遅くとも 1
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c
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4
8
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C
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s
s,O
際数学者会議で報告しているのである。彼はとの「表現
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n,1
9
61
.Savage(
19
6
1b
)及び(19
7
7
)での言及
定理」を利用することによって,本来の「主観主義」か
。
は各各第 2及び第 3版
らすればその「存在J を容認できないはずである「未知
J という「客観主義
ではあるが固定されている「確率J
Keynes, J
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n Maynard, A T
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的なJ概 念 を 主 観 確 率 」 に よ っ て 明 断 に 分 析 し 主
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n, London, 1
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2
1
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econd E
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2
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9
6
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r& Row,NewY
o
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. さらに,
ある」状況に対しても,正当に対応し得ることを示した
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のである。「未知固定の確率」の「存在」に関わるこの
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l
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w
n
e
Col
「重い」論点については, Savage(
19
5
4
)の第 3 章第 7
節及び闘 (
2
0
0
1年 6 月) (あるいは園 (
2
0
0
1年 1
2月 b
)
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sL
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.,London,
の第 4 章)を参照されることを勧める。
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1
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8,1
9
6
5
.さ ら に こ の 論 文
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s 2,42, 1
6ト 1
8
7, 1
9
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.
サ
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ヴェジ氏はこの論文に対して基礎論」第一版の文献
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dby Samuel K
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d Norman
7
7頁で, T
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s
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経済学研究
138(
1
3
8
)
54-1
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t Koopman h
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1, H紅R
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d Kegan P
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lL
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d, London, 1
o
n
e
.と記している。なお,この内の 1
9
4
0bは Kyburga
n
d
c
o
u
r
t,B
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ea
n
dC
o
., New York, 1
9
3
1,The Humani-
19
6
4,1
9
8
0
)に収録されている。
S
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o
k
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r(
9
5
0
.1
9
2
6年のこの古典的な論
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i
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sP
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s
s,NewYork,1
述は Ramseyの生前には出版されなかったのだが,同年
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d Howard E
. S
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の末に書かれたものであり,その大部分は t
(
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d
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.,
) S
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d
g
eで 読 ま れ た も の で あ る 。 一 方
Kyburg, Henry E
., J
r
.
,
目
1
9
2
8年の論述は,同年の春に書かれた党書を B
r
a
i
血w
a
i
t
e
York,1
9
6
4
.
がまとめて補足したものである。この覚書の表題を順に
., J
r
.
,
Kyburg, Henry E
a
n
d Howard E
. S
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k
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fb
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s,
上げると, A
) S
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(
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d
s
.,
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. Chance,である。また(今日では広く知られている)
9
8
0
. このKrie
g
e
r版は W
i
l
e
y版とはかなり内容
York,1
1
9
2
6年の論述は, Kyburg a
n
dS
m
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k
l
e
r
(
1
9
6
4,1
9
8
0
)に収
が相違するが, R回 s
e
y(
1
9
2
6
),d
eF
i
n
e
凶(19
3
7
)の英訳,
録されている。一方, Br
創出w
a
i
t
eが編集したこの論文集
19
4
0b
)は引き続き収められている。なお
及び Koopman(
0
0
0年 に,T
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n
t
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1P
l
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の再版が 2
S
a
v
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g
e(
1
9
6
1b
)は上の W
i
l
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y版にはあるがこのKri
e
g
e
r版
l
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s
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p
l
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y
: 5
6 Volumes内 の P
l
z
i
l
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s
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p
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y0
1Logic and
a
v
a
g
e(
19
71)が収められてい
にはない。しかし新たに S
M
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l
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a
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: 8 Volumes中の一冊として, R
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る
。
London,から出版されている。なお,J
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9
3
0
.と年月が記されている B
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eの 4 頁にわた
2頁にわたって December1930.と年月
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る序文の前に,
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9
5
7
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xとは,
が記されている G
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eEdwardMooreによる前書があ
表面上は数学的なある現象のことであり,この現象は既
る。さらに,乙この末尾に掲示した『ラムジー哲学論集』
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1
9
3
9
)の Appendix 1(
3
5
6頁 か ら 3
6
4頁)で
にJ
9
2
6年の論述の第 5 節 TheL
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も出ている。なお, 1
指摘されている。しかしこれを,客観主義と主観主義と
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hの 7番 目 の 段 落 の 冒 頭 に 先 験 的 な,ap
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の聞の差異を本質的に表すものとして, L
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J との関りで捕
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J 確率を「自然淘汰, n
n
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l
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yによる)議論の後に, 5
3
3
直している。またこの(Li
えようとする一文があることは多分注意すべきである。
頁から 5
3
4頁にかけて, M. S
.B
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l
e
t
tと M.G
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とによる注意が,各各掲示されている。さらに S
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8
2
)がある。
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1the Ameri-
2
0
0
0
計学へのサヴェジ氏の偉大な貢献である。なお,圏 (
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7, 3
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5-3
3
4, J
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e1
9
8
2
年 6 月) (あるいは園 (
2
0
0
1年 1
2月 b
)の第 2 章)に
またこれに続く 3
3
4頁から 3
5
1頁にかけて, )
1
頂
に
,
サヴェジ氏の略伝がある。
Dover
,NewYork,1
9
7
2
.これは「基礎論」であり,統
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r自身による R
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rが収められ
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論文集J
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覧には掲示されていない。筆者がこの原稿の存在を知っ
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19
6
3
)の末尾か
たのは, Edw
)
の6
3頁から 7
0頁にかけての彼の著作の一
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19
2
8
), i
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2
3
9[
4
9
6
J-240[
4
97])で言
ら 2番目の節の末尾の段落 (
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サヴエジ氏による 1971年の公開講義について
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2,の文献表によるのであ
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Jによってこのサヴェジ氏の原稿
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0
7,1
9
6
7b
.
論文集JS
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e(
1
9
81)に収録されてい
に言及している。そこでこの原稿に目を通そうと思い,
る。なお注釈として園 (
2
0
0
2年 6 月)がある。
北海道大学附属図書館相互利用掛に (
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nからの取り寄せについて)相談したところが,当掛
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回)に保管されていることがわかった。これはサヴェジ
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0
1, 1
9
71
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個人的確率の
氏が M
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hで印刷して配布したものの一冊であり,な
抽出」に関する規範的な考察であり,
ぜ慶l!iJj.義塾図書館にあるのか良くわからない。だがとに
古典的傑作である。「論文集JS
a
v
a
g
e(
19
81)に収録されて
かく筆者は通読したのである。サヴ、エジ氏は,主観確率
いる。
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確率」に関する
に基づくベイズ統計学が「正しいJ道であるとの堅い信
念に達しているようであり,ベイズ統計学への実践的な
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書物を企図していたのだが,しかし終に「その書物Jは
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完成しなかったのである。(なお,この原稿の末尾には
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1と日付がある文献表があり,そこには 1
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番から 2
0
6番までの文献が掲示されている。)
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0日に生
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I月 1 日に急逝しているので没後の出
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版である。内容は,ピッツパーグ大学の t
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1年にサヴェジ氏が行った公開の講義であり,彼
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の最晩年の態度が伺われるのである。「論文集JS
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6
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論文集JS
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e(
19
81)に収録されている。
5
8
6, 1
(
1
9
81)に収録されている。
2
0
0
3年
, 6 月)がある。
また注釈として園 (
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に収録されている。乙こではLin
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1
9
9
4年 3 月)(あるいは園
紹介されている。なお,園 (
D
.C
., 1
9
81.サヴェジ氏の論文集である。例えば上の
(
2
0
0
1年 1
2月 b
)の第 5章)を参照して頂ければ幸い
S
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g
e(
1961b), (
19
6
2
), (
1967a), (
1967b), (
19
7
1
)は
である。
皆ここに収められている。
S
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泊四世 e
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n,Wiley,New York,
N
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. 4,3
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1
0,D
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6
7a
. r
論文集JS
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v
a
g
e(
1
9
81
)
1
9
6
2
. 但し, Londonでは,同年に同じ標題で, M
e
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u
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'
s
2
0
0
1年 9 月)
に収録されている。なお注釈として園 (
Monographs onA
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s
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sの 一 冊
がある。
として, Methuenから出版されている。この P
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t 1とし
1
4
0(
14
0
)
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経 済 学 研 究
て,“S
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ep
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ca
1p
r
a
c
t
i
c
e
"という
J
E環J と,との定理の Kolmogorovsystemによる表現を
5
9年の)レクチャーが(多少の
標題のサヴ、エジ氏の(19
議論している。これは閥 (
2
0
0
1年 1
2.
F
.
lb
) の第 4童
話
に
内容の拡充を受けた上で)収録されている。またその設
j
収められている。
釈として,圏 (
2
0
0
1年 3月)がある。
溜
閣僚太郎, r
サヴェジ,レオナルド
ジミィ,による 1
9
6
1
イ雷太郎,
r
サヴェジ氏が指掃している個人的確率に
関する幾つかの難点についてJ
, W綬済事研究~ (北海道
年の講義における偲人的確率についてJ
,W
経済察研究』
大学),第 5
1券 第 2号
, 5
1
(
1
97
)7
2
(
2
1
8
),2
0
0
1年 9
3務第 4 号
, 1
7
6
(
6
0
3
)
1
8
7
(
6
1
3
),1
9例
(北海道大学),第 4
月
。 S
a
v
a
g
e(
1
9
6
7a
)に関する注釈である。
年 3月。この講義の内容は S
a
v
a
g
e(
19
6
2
)として公表さ
れている。拙論は,サヴェジ氏が儲人的確E
与に対する限
閣僚太郎なぜサヴェジ氏は 1
9
5
4年に尤度原壊に気
界代替率的な捕え方に基づいて{周人的被率の概念をわか
づかなかったのか?J
, ~絞済率研究~ (北海道大学),第
りやすく説明している講演へのさらなる注釈である。な
5
1巻第 3号
, 1
2
7(
3
9
9
)ー1
3
4(
4
0
6
),2
0
0
1年 1
2.
F
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。
お レ オ ナ ル ド j は fレナード j とすべきであったと
筆者は反省している。これは殴 (
2
0
0
1年 1
2月 b
)の第
留
信太郎
Wサヴェジ基礎論党議~,岩波出!仮サーピス
センター,東京,2
0
0
1年 1
2月初日担。 f
基 礎 論Jへの
5主主に収められている。
要約,注釈,及び f
読みj を提示している。また, J
ニ
の
濁信太郎,
r
サヴェジ氏の略伝J
, W総務築研究~
(北海
0著書第 1号
, 1
6
4(
16
4
)ー1
8
0(
1
8
0
),2
0
0
0
道大学),第 5
殴(19
9
4年 3月
)
, (
2
0
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0年 6 月
)
, (
2
0
0
0年 9月
)
, (
2
0
0
1
年 6.F.l)が収められている。
年 6 月。これはサヴヱジ氏の論文集(19
81)に慕づく f
聞
各
伝j だが,彼の人柄を知る助けになるかもしれない。こ
閣僚太郎サヴェジ氏の帰納法に関する見解につい
れは翻 (
2
0
0
1年 1
2月お)の第 2:Eまに収められている。
, W綬瀦皐研究~ (北海道大学),第 5
2券第 1号
, 3
7
てJ
0
0
2年 6 月
。 S
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19
6
7b
)へ の 注 釈
(
3
7
)-83(
8
3
),2
,W
綬済祭
関 信 太 郎 客 観 論 的 見 解 の 三 つ の 問 題 点J
研究~ (北海道大学),第
である。
5
0巻 第 2号
, 9
9
(
2
7
9
)ー1
0
5
r
なぜサヴェジ氏はオフィシャルな確率を
0
0
0年 9月
。 f
確率j の 定 義 及 び 解 釈 条 件 っ
(
2
8
5
),2
苦
言
き確家j の定義及び解釈,そして「変量をその実現値で
避けたのか?J
, Wffi選済祭研究~ (北海道大学),第 5
2券
2
0
0
1年 1
2
鐙き換える作業j を議論している。これは鴎 (
, 7
3(
2
2
9
)-81
(2
3
7
),2
0
0
2年 9 月
。
第 2号
信太郎,
月b
) の第 3 寧に i
収められている。
園信太郎,
r
サヴェジ氏による
;
r
統計学の議礁に関するサヴェジ氏の再考
1
9
5
9年のレクチャーに
についてJ
, W経済率研究~ (北海道大学),第 5
3巻第 1
ついて J
, W経憐察研究~ (北海道大学),第 5
0券 第 4
号
, 7
9(
7
9
)-103(
10
3
), 2
0
0
3年 6 月
。 S
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)
号
, 1
0
1(
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2
3
)-143(
6
6
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), 2
0
0
1年 3 月
。 S
a
v
a
g
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ta
1
.
への注釈である。
園信太郎,
(
19
6
2
)に収められているサヴェジ氏のレクチャーへの注
釈である。
ラムジー, F
.P
.,箸, D
.H
. メラー編,伊藤邦武,
橋本燦二訳, W ラムジー哲学論集~,劾草書房,東京, 1996
r
コインの投げ上げに腐する米知回定の確
年 5月 1
5日。この童書物は, Ramsey,F
.P
.,P
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率について J
, W終演感研究~ (北海道大学),第 5
1巻第
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d by D
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1号
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)-5
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5
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1年 6 月
。 f
未知かつ翻定
9
9
0,の全訳であり, Ramsey(
19
2
6,1
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2
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されている確率の f
存夜J
J1
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:隠する古典的な議論の確
の訳が収められている。
図信太郎,
認作業であり,交換可能性に関する r
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t
iの表現
ω
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