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北海道石炭鉱業における独占資本の制覇

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北海道石炭鉱業における独占資本の制覇
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北海道石炭鉱業における独占資本の制覇
水野, 五郎
北海道大學 經濟學研究 = THE ECONOMIC STUDIES,
13: 153-170
1957
DOI
Doc URL
http://hdl.handle.net/2115/31045
Right
Type
bulletin
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Information
File
Information
13_P153-170.pdf
Instructions for use
Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP
北海道石炭鉱業における独占資本の制覇
て財閥諸資本の進出
治
五
き
水
野
五
長
日
占資本の形成へとむかつて急速に進み、第一次世界大戦を契機として本格的な独占段階に入ると
めて急速な
しかも特異な発援を示した。即ち、一一一井、一一一姿、住友等の所謂財閥は明治末期迄にすでに多角的なコシヅエルシ的経
営静態をとり、各稜産業部門において独占的な地位を占めていた。尤も、これらの財閥の多くは、明治初期の政府に
よる近代産業の移植育成の過程において、多くの特権的保護を与えられ、 そ の 産 業 資 本 と し て の 出 発 点 か ら 、 ず マ に
い側面をもつのであるが、 か か る 意 味 を も 含 め て の 特 異 な 独 占 の 成 立 は お 本 資 本 主 義 が そ の 後 進 性
著しい優位を獲得していたのであって、必ずしも本来の意味における独占!自由競争の結果、必然的に形成される!
の成立とは一言い
経済学研究
-153-
まえがき
かすぴ
二、集中祭積の状況
一一一、カルテルの形成
流.
明治維新を起点とする臼本資本主義は、明治一二十年代に至って産業資本の確立を暗々達成したが、 同 時 に 早 く も 独
ま
北海道石炭砿業における独占資本の制覇
麻生の六大決議資本のみ
これに対して北海道においては、明治一一一十年代の前半に至るまでは北炭以外にみるべぎ炭磯資
このような財閥炭磁資本の北海道への
と
、
ぐ
ωの
しないであろう。従って、
明らかにするにあ
北炭自体もまた一一一井の支配するところとなり、更に第一次世界大戦後より昭和初頭にかけての恐慌の時期に、財閥資
しかしながら、 やがて明治末期に至ると二二井、一二菱セ先頭とする財閥資本の北海道石炭磯業への進出が開揺され、
る
。
資本のうちより、 安川、貝由民、 麻 生 の 如 き 所 謂 ﹁ 地 方 大 手 ﹂ の 生 成 を み た 北 九 州 と は い ち じ る し い 対 比 を 示 し て い
一
一
井
、 三菱の財閥炭磁資本の優殺の下にありながら、多くの地元炭繍
々低下せしめた程度に止まっていた。この点、 一
本の出現は殆んどなく、 日露戦争頃に五って、漸く若干の炭礎資本の進出をみたが、 それも北炭の圧倒判的な比重を鞘
確立したのであるが
これらの巨大炭磯資本のうち、北炭以外は、明治年間を通じて、 主として北九州を中心として、 そ の 独 占 的 地 位 を
な地位を確保していたことが指摘される。
るが、 同じく官営であった高島炭磁を獲得し、 その他の直接或いは間接の保護とあいまって、 最 初 か ら 極 め て 優 越 的
にあたって、 それぞれ一ニ池、関内の官営炭坑を極めて右利な条件で政府から与えられ、一一一菱もまた、間接的にではあ
で、全国石炭産出高の五割強を産出している。この場合も、 とくに三井、 北 炭 の 二 社 は そ の 炭 磁 資 本 と し て の 出 発 点
ば明治四十年には三弁、一ニ菱、北海道炭磯汽船株式会社(以下北炭と総称する)、 員 島 、 安 川
ところで、 このような特異な独占の形成は炭磯資本の発展においても、 ま た 明 瞭 に み ら れ る と こ ろ で あ っ て 、 例 え
の故にもつ、 いちじるしい特徴をなすと言うことが出来よう。
水
本の北海道石炭議業におげる制覇が完了するに至った。
や!刷、
の
-154一
野
る。わが閣の石炭鉱業において北海道のもつ重要性については、ここにあらためて言う
の
に関する研究は必ずしも充分なされたとは
L、
こでは北炭の圧
v
L
ぃ。この点本稿に
北海道における炭穣資本の発展過程の解明は、 わ が 国 石 炭 鉱 業 の 発 展 と そ の 構 造 を 理 解 す る に あ た っ て 、 不 可 欠 の も
のと考えられる。 し か し な が ら 、 従 来 こ の
干の意義の存することと考える。
倒的な優位を示す数字ぞ掲げるに止める。
主主空会 I~ 率
)
(-aA 明治年間の北海道石炭鉱業の状態については別稿ハ次号に掲載予定)で、 これぞ窃かにする予定でゐるので、
[備考]
比
九州を中心としてわが国の石炭鉱業界にゆるぎなき地位を確立していた。
四十年には本洞第一坑をそれぞれ買
は当時
収し、 その石炭農出高は常に全自第一依を占め、更に一二井物産は筑豊炭の販売権の大半を凶暴接するなど、 主 と し て 北
後、二十九年には山野茨議、一一一十一一一年には自民成績、一一一十閲年には本洞第二坑、
北海道石炭鉱業に最も早く進出した対関資本は一一一井であった。一一一井は明治二十一年に三池炭磯の払下げな受けて以
一、財閥諸費本の進出
四十
三十五
三十
明治二十五年
次
の北海道石炭鉱業への進出は、照明治一一一十一一年の株式買占による北山氏への経営参加に始まる。即ち、
経済学研究
-155-
年
グ
1
1
ノ
ゲ
北海道石炭鉱業における独占資本の鎖国制
そのや枢部にあって積極的な工鉱業経営を推進した中上川彦次郎の主張により、北海道の石炭鉱業への進出をはか
り、まず株式保有による北炭の支配を策した。最初、北炭の大株主であった雨宮敬次郎に交渉し、その所有する三万
は当時の北炭の総株二十四万株中、 四 万 三 千 八 百 株 を 保 有 す る に 至 っ た 。 こ れ 以 後 、 北 炭 は 明 治 三 十 四
余株を譲受けようとはかったが、交渉不調に終ったため、極秘複に東京株式市場で北炭株の買占めをおこなりた。そ
の結果、一ニ
十四万株中、 九万九千八百株を保有しており、経営参加の程度も一二十一一一
より出琢磨を取締役に、
一一一十八年の二沼にわたって増資をおこなったが、一二井の持株の総株中に占める比率は大体において変化なく、ゴ一
十九年には
波多野承五郎会︺監査役に派造したのみで、中一本だ完全には間社を支配するに主らなかった。
日英合弁の日本製鋼所を
し、その資本金一
ゴ1クメ製造、
このような北炭の経営の危機は一一一井にとっては、 その支配を強化する好機を与えられたことになった。
-156ー
この間、北炭は明治一ニ十六年に万字鉱区を朝吹英二より、三十八年には真谷抱鉱区を頭山満ちより、 そ れ ぞ れ 買 収
して一二十八年に開坑に蒼予するに至り、 日露戦争及びそれに続く好況期に事業を拡悲した。明治一一一十九年には鉄道国
ビ ッ カ 1 ス両社と提携して、
有法により、従米経官して来た鉄道は政府の買収するところとなったが、それにより生じた資金の余力をもって、翌
四十年に英国ア 1 ムストロ γ グ
形成するに去っ足。
しかしながら、明治四十年に起った恐慌とそれに続く不況は、好況期に乗じて拡大した北炭の経営に大打撃な与え、
の副業をも併わせ経蛍し、山灰磁合中心とする
千万円中五百万円余}引受け、吏に同所への銑鉄供給のため室蘭製鉄場を建設したほか、煉瓦製造、
に
に捺して得た公伎の大半を株主に分配したような経営方針の放浅さもあって、経営状態は急激
予
告
水
野
石炭市況の悪化から、明治凶十一一年上期末の同社港顕貯炭は四十二万屯にも達し、吏に臼本製鋼所の経営不振等の
ところが
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は明治四十一一一
経済学研究
三月に、一一一井銀行より北炭への融資のうち四十万円の返還請求をおこない、 問時に新規融
時切抜けることが出来た。しかし罰年四月、 日 本 製 鋼 所 へ の 株 式 未 払 込 金
飯岡義一 (当時一一一弁物産霊役)らをして収拾に当らしめた。 即 ち 問 ら が 中 心 と な っ て
F
月の 株主総会に提出した。
助なしには経営の再建は不可能であると考えられたので、減資額安原案の二分の一から一一一分の一に修正したほかは略
この整理案は株主総会において、三井の支配に対抗する株主の多少の反対もあったが、当時北炭としては三井の投
重役の人選は三井に一任のこと。
引受け希望の株主で資金なさものには一一一井で融資すること。
従来の株主で優先株民受希裂なきときは一一一弁が引受けること。
減資額と同額の優先株発行。
資本会二千七百万円の二分の一減資。
大要次の如き整理案を大正二年
ここに去って、一二弁は盟琢磨、
八月、重役陣の総辞職をみるに至った。
一一弄の反対に久りまた協力を依頼した佳太郎、手よ馨らの援助も得られ丹、社債募集は板めて不成績に終り、間年
に就任して業務の裳理にあたり、明治四十五年二月、社債六百万円を発行して当面の苦境を打開ぜんとはかったが、
終り、専務取締役井上は遂に辞任を申出るに室った。かわって、当時第百十銀行頭取であった室田義文が取締役会長
斎藤安らの仲介により、 日本製鋼所払込済株式引当てに興業銀行より一一一百万円の融資を受けようとしたが交渉不調に
百八十七万円の一時払込の通告を受けるに及び、 そ の 調 達 に 行 詰 り 、 当 時 の 首 相 桂 太 郎 、 大 蔵 次 官 若 槻 礼 次 郎 、 海 相
信用で三弁銀行より七十万円を借入れ、
資六十万円の申込みを拒絶した。このため北炭の経官は著しい苦境に陥入ったが、 専 務 取 締 役 井 上 角 五 郎 ら の 個 人 的
即
ヴ,‘
北海道石炭鉱業における独占資本の制覇
によれば、北炭総株五十四万株中約二十万株た保有するに
に団琢磨を取締役会長に、閉じく三井系の飯田義一、山出藍矢らを取締役に就任せしめ、次いで大正↓一
々全面的に本認された。この結果、一二井は大正一一一
至り、
は大正四年には石狩石炭株式会社をも、 その支配下に置くに至った。同社は
尽には、一二井物産ロシドジ支持長磯村盛一品太郎を取締役社長に据え、 人的にも完全に北炭を支配下に置くに至った。
この北炭への交誼確立に続いて
明治三十九年四月に設立され、谷七太部がゴ一十五年以降経営していた新夕張炭磁な継承し、 間磁の採掘をおこなって
の傘下に入るに至った。なお一ニ
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、
μ 大正四年、三井は向社社長浅野総一郎より、その所有にかかる商社株式(総株の約六割﹀を譲受け、磯村豊太部、
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、
牧田環、出沼直矢を同社重役に派遣した。 か く し て 同 社 も ま た 、 北 炭 と な ら ん で
回一肉炭議
には相知炭議、 四十一一一年には金田炭磁をそれぞれ買収しその石炭
-158ー
弁は大正九年に至って同社を北炭に合併せしめた。
これらの過程とならんで、一ニ弁はその寵系会社たる一一一芥鉱山株式会社をして、直接に北海道の炭磁経営に進出せし
歌神山灰磁合資会社より歌神、
百十には針路山氏騰を大阪鉱業株式会社より買収し旬。なお以上の炭磁のうち登川炭磁は大正
めた。即ち、 同 社 は 明 治 四 十 四 年 に 結 域 虎 五 郎 よ り 登 川 炭 磁 を 買 収 し 、 吏 に 大 正 二 年 に は 明 治 末 期 よ り 保 存 し て い た
砂川積区を関坑し、
九年一月に北炭に譲渡している。また一一一井の傘下に入った後の北炭も、大正六
めていちじるしいもの
両炭叩慨を買収し、次いで大正七年には天塩山氏一概念一犬山田炭磁株式会社より買収印、更に間年に、 さきに大正五年噴一一一菱
自
は石炭鉱業の分野では、明治十四
と鉱区を交換して得た美流渡炭磁の開坑に着手するなど、ゴ一井の北海道石炭鉱業への進出は
があった。
三井とならんで三菱もまた、明治末期より北海道石炭鉱業に進出して来た。
l
して以来、一二井と罰じく北九州を中心として発援し、明治ニ十二年には新入・
には上出自決磯及び方域炭積、一二十
年に高島炭績の経営に
二十八
威
の
水
野
会指し
っ
オ
カ1
の覇権を
と争う合置にあった。
への進出は、 明 治 四 十 五 年 の 大 夕 張 炭 磁 株 式 会 社 へ の 経 営 参 加 に 始 ま る 。 同 社 は 明 治 山
の
産出高は常に一一一井に次いで全国第二位を占め、更に一一一井が筑建炭の販売悔の大半を掌握していたのに対して、
鉄道株式会社
一
一
一
世
交
の
」
に参加するに至つ
九郎川
には明らかでないが、明治四十五年には十数万円の融資が一一一菱からなされて
は大正二年に芦別に鉱区を設定し
翌一一一年より出炭
たに一一一菱鉱業株式会社を創設し、
には飯田延太郎より美唄炭績を、石狩石炭株式会社より美唄炭磁鉄道をそれぞれ買収し、
してこれに経営ぜしめた。なお一ニ菱は大正七年に
以上述べた知く、財閥資本が相次いで北海道に進出した時期には、 わ が 閣 の 資 本 主 義 は 明 治 四 十 年 の 恐 慌 と そ れ に
住友に続いては大倉鉱業株式会社が大正七年に茂毘炭磁の開坑に若手した。
かった。
年に奈良義路より唐松山決磁を買収して進出したのが最初であるが、大正末期に至るまではいちじるしい発震は示さな
ぺ枚目をおこなっていたが、 炭磯資本としての発肢は一一一井、一一一菱に兆し、 は る か に 劣 る も の が あ っ た 。 北 海 道 へ は 大 正 五
一二井、一一一菱に続いて住友もまた北海道石炭鉱業に進出した。住友は明治二十七年に忠隈炭磁を買収し、以後その経
従来、ゴ一変合資会社直轄であった炭磁・鉱山のすべてを同社の経営に移し、ー鉱業経営の機構を整偏した。
鉄道は美唄鉄道株式会社を
を開始した。吏に大正四
に至って一一一菱は詞自決議を完全に自己の所布に移した。また
務取締役になっており、また翌大正二年には一ニ菱から岩崎小弥太、木村久寿弥太が両社取締役になっている。大正五
おり、 大 夕 張 炭 の 一 手 販 売 権 は る と こ ろ と な っ て い た 。 間 年 四 月 に は 三 菱 合 資 会 社 社 員 淡 中 孝 八 郎 が 同 社 専
の
に設立され、一二十九年に京都合資会社により開坑された大夕張炭破を継承し、 その経営をおこなっていた。一一一菱が同
し
続く不況から、第一次世界大戦の勃発とともに、異常な好況期に入り、 それに伴なって、 とくに重工業部門の飛距的
経済学研究
-159-
社
の
お海道石炭鉱業における独占資本の制緩
な発展をみたが、これに県志して、石炭鉱業の
もまたいちぢるしいものがあった。却ち、全国石炭産出高は明治部
から大正八
の間百七十六万屯へと約
の増加
から大正八年の一二千百二十七万屯へと約了八倍の増加を示した。北海道のみについてみる
の百七
と、深却な慢性
をむかえることはなかった。
このことは諸野間のこの時期におけ
るまで、再び好況の
の集中、独占の発展をいちじるしく捉逃せしめるが
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および傍系会社を加えて十三に過日ぎなかったが、 これが昭和
四年ころにはコ一井は九十七、一二菱は六十五の支配会社をもつに至った。
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一
についてみるならば、次の如くである
におさめた。当時の支配の程度は明らかでない
していた一ニ弁釧路炭磁、木村久太郎経営の春採炭夜、
このような独占のいちじるしい発問肢を
まず、一一一井は従来三井鉱山の
保炭磁をあわせて大正九年設立された太平洋炭磁株式会社をその
の投資
同社の総株一一十二万株中、 その八十二。ハ l セシトに当るア八万五百五十株が一二井系の持株で
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プ
正
十
には回中鉱山株式会社より文珠炭磁を買収して砂刊炭繍に合併し、次いで
た
に一一一井は大正十
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に
は
の
時は寵系事業を独立させていなかったが
る発展に明瞭に認められるところで占める。即ち、大正初期には一一一井傘下の会社は直系傍系あわせて十二社、一二菱は当
周知の如く、 恐慌は
的不況にみまわれ、満州事変を契機として浮戦時体制に
げ、わが国の資本主義は大正九年の恐慌以後、大正す一一年、 昭和二年、 昭 和 四 年 と 数 次 に わ た る
を一一小している。 しかしながら、第一次大戦によりもたらされた異常な繁栄期も、 や が て 大 戦 の 終 賂 と と も に 終 り を 告
と、この間の発展のテムポは更に著しく、明治四十四
の千七百六γ
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は日本石油株式会社レ
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ハ北山灰の前身と同名であるが全く加の会社)として
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ハ山崎 JV
とともに社名な現名称に改めた
の一一一菱の支配 C程 , 院 は 明 ら か で な い が 、
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総、株 ﹂
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ころ
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ド相)
(訂)
への進出は、 さきにもふれたように、一一一井、一一一菱より鞘々運く、大五五年以降、唐松炭碕を
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し、同時に従来住友合資会社の
であった唐松炭破をあわ
北海道鉱業株式会社より
るのみに止まったが、大正十一二年に至って、当時、 上 歌 志 内 角 上 赤 平 雨 炭 績 を 経 営 し て い た 坂 炭 横 隊 式 会 社 の
心情)ハ刊一
L参 加 し 、 翌 十 四 年 、 社 名 を 住 友 坂 炭 磁 株 式 会 社 と し 、 次 い で 詞 社 は 昭 和 三 年 十 二 月 、
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のうち九万七千九百株が三菱系の所有に属していた。更に同社は昭和一一一年には北日本鉱業株式会社より尺郡山灰璃を買
剖
と住友九州炭磁株式会社とを合併して住友炭礎株式会社となっ︿¥向。
めていちじるしいものがあ一った。
一一一菱、住友の諸財閥資本の北海道石炭鉱業における集中独占の進展は第一次大戦後より昭和
五年には、 これらの
以上みた如く
にかけて
下期
一
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了図。
配当率ハ制削)
白柳秀相制審﹁中上川彦次郎伝﹂二九五1
2一一一頁。
北炭総﹁五十年史﹂五八i六五頁。
ζの時期の北炭公表利益率及び配当率は次の如くで、経営状態の悪化奇示している。
四十三年
経済学研究
HH
0・六五
五O
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J期
0・八
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七
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期期
無配
年
欠損
年
上期
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十
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利益率(劉)
下上
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一品汁阿川、歌志内、新歌志内、奈井江の
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住友の
た。
十
-161-
収
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)(
2
)(
1
)
北海道石炭鉱業における独占資本の判制覇
四十四年
開口十五年
上殿
下期
一
欠 損一
0・
0
﹁北炭五十年史一備本沿宮中編﹂
﹁労爵間以琢謄伝﹂一一二七頁。
井上繭容が北炭の協力を短絡したのは、北炭が日銭戦争後に英貨社僕百万ポンドを募集した際に、英国スパイア夜会を通じておこ
らとの簡に、今後民閣の会社が外債を募集する際には岡高会に引受けさせるという数約が成立していたらしく、北炭がそれを無
な っ た が 、 さ き に 日 露 戦 争 の 戦 費 を 外 債 で ま か な っ た と き 、 ド イ ツ の ク l ンルピ l商会を通じて募集し、ぞれ以来日山商会と芥上
視 し て ス パ イ ア 商 会 と 契 約 し た た め 芥 上 の 思 議 に ふ れ た た め で あ る と 言 わ れ る 。 爽 山 亮 著 ﹁ 新 考 北 海 道 史 ﹂ 一 七 回 頁 。 ζ の後、
回琢時間らが北炭の整理に粂出すに及んで、校及び当時の宮内大医渡辺千秋は芥上の邸で北炭問題について会談し、団及び益回孝
て裏面で相当玄要な役割ぞ渓じたことは磯かでゐると考えられる。﹁男爵回琢膝伝﹂一一二七頁。
保し
もそれに加わっており、その後渡辺が問の整一環案を支持して他の株主との認を斡旋したことから、井上が一一一井の北炭支配に m
国切治四十一一年、結城虎五郊らにより関坑。
同明治一一一十九年、大阪鉱業株式会社関坑。
同鉱山懇話会編﹁臼本鉱業発達史﹂中巻、一一三三真。
川附敬神炭砿は開明治⋮一一十一一一年間関坑、浜国愛次郎の経営するところであったが、大正三年敬神炭砿合資会社の経営となる。
臼滅炭砿は開明治三十七年中川操太により閥抗、次いで花井町泊三郎の経営するところとなり、大五五年、敬神炭砿合資会社が四回収。
大正二年間閥抗、天塩炭砿合資会社綬営、大正五年天犠炭砿株式会社となる。
同前委、一六回資。
﹁北炭五十年史﹂、八由貿。
より関坑、凶十年京都合資会社、四十四年大夕張炭砿株式会社の経営となったとされている。問委、六四五頁。
石炭鉱業連合会﹁北海道炭砿港湾調資資料﹂一 O 四頁。なお明治工業史鉱業篇よれ、は、問問炭砿忠一一一十九年に夕張炭砿株式会社に
-162-
O.
0語
野
庁無
配
1
1 1/
下上
期期
仰、刷、仙川、制﹁北炭五十年史橋本沿率編﹂
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)(
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)(
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~8) [
1
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)[
1
6
)(
1
5
)
野村商広務資部恒棚﹁株式年鑑﹂大正一一年度版、五六一一賞。
﹁東洋経済新報﹂第五九四号、一ニ八頁。
大正一一年、飯田延太郎関坑。
Q
明治三十八年、中村弥六関坑。大正二年、佐々木俣思郎。大正七年、山下鉱業。以下側と同様。
大正七年、山下鉱業株式会社と所属転々して大正十三年、北海道鉱業株式会社の経営となる。
明治三十五年、奈良義路らにより関坑。三十九年、山県勇三郎質収。四十年、日本興業株式会社。四十四年、奔別炭砿株式会社
上歌志内炭砿は大正二年、坂市太郎関坑。大正十一卒、坂炭砿株式会社に総織変更。上赤平炭砿は大正十年間関坑。
大正九年際、北日本鉱業株式会社関抗。
高橋、前担閣議、二一五頁。
。
東洋経済新報社編﹁会社銀行八十年史﹂ご四O頁
大正十年頃関坑。
﹁日本鉱業発達史﹂中巻、一一一一一三真。
大正十一一年、日本石泌株式会社関坑。大正十三年に問中汽船鉱業株式会社経営の沼氏炭砿(大正八年間坑)を質収合併。
図中鉱山株式会社貿収。
明治一一一十六年、山県勇三郎関坑
高橋亀古口調官﹁尽本財閥の解剖﹂六六頁。
Q 明治四十一年に北海炭砿株式会社に組総変更。四十五年に文珠炭砿株式会社と改称。大正六年
明治一一十九年、山県勇三郎関坑。明治四十一年より相刑務興業株式会社の経営となる。
明治二十年、安回答之助間関坑。大正六年、木村久太郎買収。
問料補問、加藤、大島、大内務﹁日本における資本主義の発達﹂(上) 一回一真。
間前書、一一三六一長。
﹁日本鉱業発達兇﹂中巻、一一三七頁。
明治三十八年、奈向民義路関坑
﹁日本鉱業発遼史﹂中巻、一一三三頁。
)
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経済学研究
-163ー
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北海道石炭鉱業における独占資本の制覇
の指標について考察しよう。
一ニ十九年現在、問中銀之助経営。四十四年現在、日本興業株式会社経営
の如くである。これによると
は第一次大戦中に急激な増加を示し、 この時
えられる鉱区所有の状態についてみよう。北海道における
の進行の状況を
Q
大王六年、奔別炭砿株式会社関坑。大豆七年、山下砿業。以下働と筒様。
。以下偽と同様。
明治二十八年開坑。明治三十周年現在、松永炎介経営
﹁会社銀行八十年史﹂二一一一入賞。
ニ、集中集積の状況
は第一
における独占の最も基本的な指標であると
次に、就開資本の北海道石炭鉱業における
まず、
石炭捺掘鉱区面積の
期の北海道石炭鉱業の急激な発展を明瞭に示している。この場合、財閥資本の所有鉱区の増加は、全鉱区のそれより
この時期の不況の状態を反映して、全鉱区の一回穣
の如く、財閥諸資本の一的存鉱ぽは
回において
た一示しており、 恐 慌 の 過 程 を 通 じ て 、 鉱 区 の 集 中 が
の所有鉱区は、昭和協年に芦別鉱区の整理をおこなった
に注目される。第一次大戦後には
大体において
この間にあって、
も、更にいちじるしいことが
の増加は停滞的であるが
に滴々大幅な減少がみられるほかは
を確保していることもまた法尽される。
かくして、財閥資本による北海道における石炭鉱思の築中独占は第一次大戦後の
ことが出来よう。
の時期に急速に
し、昭和
る。なお、明治鉱業(安川)や浅野の如く、採掘の部商では全く姿を現わしていない資本が、 すでにこの時期に鉱区
とくにその比率が高く、約九割にも達しており、優良一炭層の所在する鉱区の殆んどがその支配するところとなってい
ことを物語っている。更にこれを炭問加についてみると、第二
し
1
6
4
水
野
に至って、 そ の 分 割 支 配 が 時 々 完 了 し た と
す
こ
性日性印
柱
。
第 1表
主要資本別石炭採掘鉱区溜積(単位千王手)
経済学研究
明治 4
4年
大 正 4年
大 正 9年
大正1
4勾
昭和 5年
会
道
1
1
2,
6
5
3
1
5
2
,
256
202,
834
704
208,
214,
2
0
3
む
ゴ
炭
35,
822
7,
6
6
0
8
80
37,
1
7,
8
5
1
446
4,
6
4,
063
1
5,
795
62,
033
20,
0
0
2
6
2,
218
24,
364
43,
482
6
0
,
1
7
7
5,
566
85,
4
2
4
6,
914
88,
949
6,
5
3
9
93,
1
2
1
20,
966
5,
0
8
7
39,
6
7
5
38,
9
6
1
28,
1
1
2
張
別
三菱系小言十
26,
053
3
9,
6
7
5
2,
417
41,
3
7
8
6,
3
6
7
4
7
9
34,
6
0
1
1,
6
2
1
6
0
1
2,
299
3,
3
1
5
878
2,
1
4,
868
2,
6
4
4
3,
337
2,
886
三石狩石井
炭
太
平
洋
三井系小言十
菱
大
雄
タ
住
友
倉
大
明治鉱業
野
浅
1
,
062
1,
062
財閥系合計
44,
5
4
4
87,
293
1
3
2,
6
8
1
1
3
9,
4
2
0
1
5
1,
3
3
6
向上対全道比率
39.5%
57.3%
65
.4%
66.8%
70.6%
(備考) 札幌鉱山監督局管内鉱区一党各年により作成。
各 年 7JU日現在。
第 2表
炭田別,資本別石炭採掘鉱区商議(昭和 5年 7月 1日現主主単佼千坪)
lF
必¥炭¥¥悶¥ 石 狩
全
~t;
鉱
区
炭
洋
弁
平
太
三井系小言十
天~t;
6
,
285
十勝
その他│合計
8,
8
4
5 27,
6
4 214,
2
0
3
52,
9
1
2
24,
3
6
4
8,
488
818
77,
276
8,
4
8
8
6,
539
7,
3
5
7
218
6
2,
24,
3
6
4
6,
539
93,
1
21
6
3
8
6,
3
6
7
7,
005
28,
1
1
2
6,
3
6
7
34,
479
27,
474
住
友
念
大
明治鉱業
野
浅
1
4
司,8
6
6
4
4
8
2
i
苛上対金鉱区比率
事
8
1
1
1
3
8,
385 23,
1
1
4 34,
菱
土
産
E
リ
三萎系小言十
財閥系合計
n路
留耳耳
27,
474
1,
0
7
1
1
4
2
,8
6
4
6
8
4
3,
337
2,
8
8
6
3,
3
3
7
,
1714
1
2
3,
333 18
,
640iu
,
882
89.1% 5
9似
I
41
.
2%
(繍考) 札幌鉱山皇室督局管内鉱区一覧より作成。
-165
- 1
5
1,
3
3
6
-%
一μ - %
70似
道
1,
609
580
2,
4,
057
3,
590
5,
345
6,
724
北
E
た
1,
075
4
1
0
4
4
6
I,
ス
2
1
2
4
8
9
2,
030
1
9
5
2,
794
509
2,
847
817
316
3,
980
2
9
3
565
625
8
3
5
1
,
2
5
5
95
565
6
2
5
1
5
1
986
396
1
,
6
5
1
12
5
1
0
2
116
232
637
211
327
3,
3,
076
4,
867
6,
479
張
.
'
i
lU
夕
大
土
産
句
往
友
大
占
d会
芸
369
重
苦
三菱系小計
67.5%
63.7%
このような鉱区独占の基礎の上に進展した
v
社のみであったが、大正三年には
コ一井系、 三菱系、住方、
間同様乃至はより蚤婆な意義をもっ
Q
告口う迄もなく、鉱業は鉱
一般鉱業においては鉱区の所有が農業における土地所有と
。
コ
こ
れたとは言い難いので、乙の点についてここで若干ふれてお
鉱業における鉱区独占の意義について従来必ずしも明かにさ
いちじるしいものであったかが明らかであるう。
る財関系炭鎖資本による集中集結の進展が如何に急速且つ
これらニつの指標についてみたのみで、 こ の 時 期 に お け
出するところとなっている。
を経た昭和五年には全道の九十六。ハ 1 セ シ ト が 財 閥 系 の 産
大倉で全選の八十六。ハ l セ シ ? を 産 出 し 、 更 に 数 次 の 恐 慌
セシト、大戦後の大正十年には
三井系及び一一一菱系の石炭産出高は全道のそれの六十四パ l
財関系炭破資本は北炭
と、第一一一表の如くである。これによると、明治末期には、
の集中築積の状況を主要資本別石炭産出高についてみる
に
在する地域は極めて限定されており、新たに鉱床が発見され
物を埋蔵する土地なくしては成立しない。ところで鉱床の寄
-166-
96.3%
I91.0%
85.7%
1
,
645
「会選比率
1,
075
財隠系合計
次
(
1
)
230
3,
533
水
124
2,
349
三井系小言十
I 82似
野
2,
746
1
,
075
,
1550
(備考) 札幌鉱山監督局管内鉱区一覧各年より作成。
北海道石炭鉱業における独占資本の制覇
全
弁
石狩石炭
太平洋
昭和 5年
大正 1
0年 大正 1
4年
大正 7年
大正 8生
存
勝治 43年
北海道主要資本別石炭生産高(怒佼千屯)
第 3表
は
るか、或は技術の発達の結菜、従来不可能であった鉱床の採掘が可能となる場合以外には、農業における土地改良に比すべき手
段もない。このように、極めて限定された鉱床について採揚がなされるのであるから、当然何らかの法的規整が必婆となる。わ
が回出の鉱業法では一定の地域で、試掘または採綴をおこなう緩和を、土地所有権とは別個に鉱業権ハ試搬緩及び採掘権)という
形で規定し、鉱業権の登録号待た地域や鉱区とする。採掘鉱区は一良設定すれば、必ずしも割引笑に採掘ぞお乙なわなくしても、
Q
また鉱区は売貿により、その所有者そ移転し得るが、鉱
その鉱区内での採掘権は、原則刷として、排他的豆永続的に保証される。従って、仮にゐる資本家が全鉱区そ独占したと仮定すれ
ば、彼は、そのことのみによって、その鉱業怒伺の独占を篠傑し得る
区の所有には登録に当つての登録税と、年々の鉱区税の納付のみによって足りるから、たとえ現在の景気の状態または技術の水
となった場合に、他の資本家の進出廷泣引き、す独占的に昂掘をなすことが可能となる。更に、鉱区税は埋蔵鉱床の優劣にかかわら
準では採掘が不可能であっても、それぞ採掘鉱区として確保しておけば、将来、景気の回復または技術の進歩の結果、採掘可能
ず、面積のみを基準にして課せられるから、より劣等な鉱区が採掘されれば、優良鉱区の採掘者は差額地代に相当する部分を超
過利潤として獲得することが出来る。また、独占資本による鉱区の独占が略完全になされている場合、それは一切調租鉱という形
以上みた過程に止まらず
これらの独占資本間のさまざまなカルテル乃至
鉱区の独占は以上の如き意義ぞもち、かくてその独占の状況は鉱業における独占の基本的な指擦をなすものと考えられる。
で、中小資本を搾取する基礎をなすものである。
、カルテルの形成
財関炭磁資本の北海道における発展は
I Fの 形 成 を も 伴 な っ た 。 次 に こ れ に つ い て み よ う 。
VVジ ジ ケ
大正二年に一二井が北炭への支配を縫立するや、北山氏と一ニ弁物産との間に売炭委托契約が結ばれた。この契約による
社による売炭組合
より代価回収に宝る一切の手続を代行することとなった。この北炭の三井物産への売炭委托は、
と、北炭の道外販売及、ひ、泌外輸出は、すべて一一一井物産がおこない、販売価格、販売方法、数量については両社で協定
し、一ニ井物設は
翌一二年末に北炭、一一一井鉱山、一二井物産の一一一社による北海道石炭販売組合へと発展した。この
経済学研究
-167-
北海道石炭鉱業における独占資本の制窮
の産出炭及び一ニ井物産の道内における貿付山氏の販売について、組合においてプール
をおこなうこととなり、組
は、その規約によると、北炭、三井鉱山及び当時三井物産が一手販売権を有していた歌仲炭磁合資会社に属する
水
野
に巧じて一一一
に配当することとなった。
者よ山みん
2
円 u
ずるに至った。
立に去るまで存続しがィ
これを水曜会ハ同名の鈎カルテルとは無関係﹀と称し、一二社間の炭価維持のための協
な商談をおこなうこととなった。この協定は大正
の怒化に
これに加わることとなり、組織を改めて、北炭、一一一菱、山下、大倉の
し、従来の水曜会はその付帯事業とすることになった。 ところが、
大正十五年に入っても市況は依然として
従米の価吋位協定に加えて
は法ハ向でおこなうことを協定するなど深刻化ずる
せず、再び四社協定が復活した。 その
伴ない、各社とも荷捌きに狂奔した結果、勢い協調を欠き、 そ の た め 大 念 鉱 業 は 前 年 七 月 、 平 く も カ ル テ ル か ら 脱 退
四社で北海道石炭
十四年まで紋続したが、同年二月、
のほか、 北 海 道 内 に お け る 海 底 大 口 契 約 及 び 入 札 に 際 し て
山下の一二社間に販売協定が成立し
志内、新歌志内、奈井江の諸炭磁を経営していた山下鉱業株式会社の参加をみた。却ち、大正十年六月、北炭、一一一菱
に北炭と一一一菱鉱業は炭価維持のため価格協定を結んだ。このカルテルには、大戦後の恐慌を械として、当時奔別、歌
a よる共販組織の設立に続いて、
一一一井系炭積資太 に
北山氏と一一一菱との間にもカルテル協定が結ぼれた。却ち、大正五年
七 年 に 全 国 的 な 石 炭ν ン ジ ケ 1ト た る 昭 和 石 炭 株 式 公 社 の
合に加入し、 か く て 北 海 道 に お け る 三 井 系 炭 礎 資 本 の 売 炭 機 構 の 一 元 化 が お こ な わ れ た 。 こ の 売 炭 組 合 は の ち に 昭 和
の支配下に入っていた石狩石炭株式会社が
の販売業務は選外及び海外輸出は三井物産が、 道 内 販 売 は
合業務の執行機関として三社売炭部を設置し、毎年五月及び十二月に一一一社関で基本炭価の協定かこおこない。利益金は
足乙
北炭が受托代行することとなった。次いで大正五年には当時すでに
5
<
-
大口取引先に対する販路割当をおこない、 そ の 取 引 先 に 対 す る
-168-
入
ハ3
不況に対して、従来の協定を一段と強化した。
F
︼
山下鉱業の後身、たる北海道拡業は住友の買収するところとなって、カルテルより離脱し、その
m
一めなき取引先に対する競争激化し、 これに加えて昭
昭 和 二 年 以 降 も 不 況 は 更 に 深 刻 化 し 、 谷 社 と も 販 路 剖 当 の 取r
和一一一年末に、
ひんしたが、 昭和六年に至って、協定を吏に強化して、
一部の大口取引先のみに限っていた販
の住友の乱売、東邦炭磁弥生炭の乱発等のアヲトサイダーとの競争放化や、一一一菱美唄下級炭の増加処分売与がらって、
再び協定は
路の割当てを道内販売全般に拡大することとなった。
以との如き北海道内における諸カルテルとならんで、 大正十年以後、全国的な送炭カルテルが組識された。却ち、
なった
の統制
169-
大正九年の恐慌とそれに続く不況に対処して、全国の主要炭礎資本により、大正十年十月、 石炭鉱業連合会が結成さ
して、連合会による送炭調節のみでは不況打開が
れ、以後、大正十凶年を除いて、招和十一一一年に至るまで一貫して送炭調節を実施したが、 こ れ に は 北 海 道 の 重 要 炭 礎
資本はすべて加盟した。更に昭和国、五年の恐需に
一般的引合条件及び販売分野の決定をその主要業務とし
ので、連合会加盟の主要炭機資本により販売統制機関たる昭和石炭株式会社が創立された。同社は行炭の
全般的調査、供給計局の樹立、価格の標準、
(雄別炭砿をも代表す)、住友、大倉がその株主となった。
と あ い ま っ て 、 全 間 的 な 生 産 及 び 販 売 カ ル テ ル を な す も の で あ っ た 。 北 海 道 に お け る 炭 穣 資 本 の う ち 、 北炭、一一一弁、
︿太平洋炭砿をも代表す)、一一一
の
支﹂寺品ゴ﹂者品
の集中築積に加えて、 ますますその狩占的地位を強化したのである。
以上みた如く、 北 海 道 石 炭 鉱 業 に お け る 、 独 占 諸 資 本 は 第 一 次 大 戦 後 か ら 昭 和 初 頭 に 及 ぶ 恐 慌 の 時 期 に 、
な形でのカルテルを結成し、鉱区独占及び
川、問、防、同﹁北炭五十年史一橋本﹂沿率一編。
矧東洋経済新報社編﹁昭和産業史﹂一ニ一一真。
経済学研究
'
.
北海道石炭鉱業における独占資本の制覇
び
野
水
々明らかになったかと思う。これを要
に制覇をなしとげたのである。市して
この北海道における自決議独占資本の制覇は、部時にわ
の叫財閥詫資本はすでに明治末期までに、 北九州抱方において独占的地仕を確立しており、 いまや、北海
道石炭鉱業主覇権もまた彼らの手に帰するに宝った。 かくて
三井、一ニ
後の恐慌の時期に索中独占をいちじるしく強化し、昭和初頭に至って路々
するに、明治末期の恐慌を契機として北海道石炭鉱業に進出した財閥資本は第一次大戦中の怠激な発援を経て、大戦
北海道石炭鉱業における独占諸資本の制覇の過程は、 以 上 の べ た と こ ろ で
す
が国石炭鉱業における独占資本の支配の確立をも意味したのである。
-170ー
む
Fly UP