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C:fiVŠš‚å−w−wŁñ icohu

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C:fiVŠš‚å−w−wŁñ icohu
児
征
渡
る
考
山辺
像
肖
の
家
七%
の
日
き
若
殆 んどの人があ
時 回顧 りに,あの時が自分の 人生の転換期だったのだ
白
という感慨を 持たれることだろう。 ダンテが 35才を人生の分岐点と 見放し
たように,或いは A.
ハクレス ー C1894 一 1963) が作中人物リチャードに
26 才で小説を世に 問うことで作家としての 出発を意識させて.いるよう に,
どこかで人は 反省的に或いは 是認する形で ,それぞれの 人生に於ける 重大
な時期を認めるであ ろう。 その重大さとは 又 各人の意図や 価値観 (各人の
いわゆる人生観 ) によって異なるであ
ろ
@5が, ジェームス・ジョイスによ
る A Port 附加が 肋e Artisf as a yoo 柑碑皿グ
al?
像》
《
(若き日の芸術家の 肖
(1916年出版) もいわば初期の 転換点をはっきりと 意識する 一青年の
天職についての 決断が書き表わされた 作品 (それは作者の 自伝的要素の 非
常に濃いものとされるが ) であ る。その決断に到るまで ,主人公スティー
ブン・ディーダラスに 大きな岐路は 立ちはだかり ,いわば彼の 魂の遍歴と
必然たらしめるのであ る。
主人公のスティーブンを 作者の ジ ,イス と 同一視し勝ちであ るが,主に
(3)
小説という手段で 鴇 己を語り続けようと " (伊藤整民謡 ), 文筆家とし
ての可能性をぎりぎりまで 問い続けた一人のアイルランド 人作家 ( これも
よく知られるよ
う
に,彼が名を 成すのは本国を 離れてであ り,終生生国か
らは流浪の人であ ったわけだが )
と
スティーブンとをすべての 点で重ね合
わせる必然性はないにせよ ,一人の感受性の 鋭い,強度の 近視で, まずカ
トリック系イエズス 会派の寄宿学校クロンゴウ ズ
(ClongowVes Wood
・
ウ ,
ド
・カレ" ジ
College) の雰囲気に馴染めず ,その後も,しかし
ながら,内面の 真実を保持し 続けようとするこの 主人公に,読者は 何を見
るであ ろうか。 彼はいわゆる 文弱の徒 か 。 それとも,内面的な 葛藤や惧 悩
38
天理大学学報
を経, これを克服することによってむしろ 確固たる自己の 道を歩むべく 信
念に達する,一つの 堅固なタイプであ
るのか。
今日も, 親 と子の問題に 拾 いて, 又 と息子,母と 息子, 母対娘,久村娘
の関り方には 微妙な差異があ る。偉大なる父を 持った娘と息子の 内的生活
は,そうでない 場合といささか 異なるようであ る。 さて, スティーブンの
人生の蹉 趺 という問題は 今一つ, これは絶対的な 所与として致し 方ないこ
とではあ るが,彼が生まれ 育った カトり , クの背景,更に,祖国としての
アイルランドへの 絶望と関連してくる。 真に母国を愛せない 人は幸福とは
言い難く, しかしその 父 或いは母に対するように ,徹底して自らの 生国を
嫌悪する子または 国民というのはまず 多くの例を見ないことであ
ろう。 そ
れはさておき ,一人の青年の 内面の葛藤を 通して,そこには 特有の不安と
動揺 (その一つとして 性的な問題もあ
る
) も可成真率に 描出されるのだが ,
彼の決断に到る 過程は読者に 痛感させるであ ろう,誰にでもこ
う
いった重
大な決意に直面する 時があ るのだと。
この青年の場合にば 次のような問題が 関係している。 聖職以外に自己の
生きる道は何か。 芸術活動とほ 何なのか。 祖国を去って 生きるとはどのよ
うなことなのか。 又 ,人は如何に 自己に忠実に 生き得るのか。
こうして問
題は , 常のように,次のように 帰着する。 自己とは如何なる 者で,如何に
生くべきなのか。
I
人が生きるといえば ,ひどく孤独な 営みであ るようだが,一社会人とし
ては種々の 製 肘や複雑な人間関係に 身を置くことになる。 しかし個人が
何かの意思を 有し,それを 持続し或いはそれによって 一つの成果を 生み出
そうとする時,人は 正に孤独を意識するであ ろう。 まして,先人が 余り歩
かなかった道や ,先人達が大いに 跨曙 したことや,いわか
る
ろ
一般とは異な
道を歩み始める 時 ,人はその不安と 恐れの中から 自分自身を生かしてい
かねばならない。 人は生きるのか ,それとも生かされるのかは 後ほど再び
言及するとして ,主人公スティーブンにとっても 又,いわかるその 決意の
時にあ った。平凡な生き方をするわけではなかったため ,大いに俊 巡の時
39
T君ぎ 日の芸術家の肖像』一考
を要した。 しかも彼は遂に 若くしてその 決意の時に到る。
シェイクスピア Vこ , いらくさという 恐れの中から 安全という花を 摘むの
だという一節があ るが㏄ Hg勿り Ⅳ,比 3), シ, イクスピ ァや ダンテ そし
てその他歴代の 神学者や思想家やまた 文人達の営み , 殊に美意識の 意味で ,
に憧れた少年から 青年へと成長していく 主人公は,その迷いの 中から, そ
の中でも極めて 不安定さや立場の 暖 昧 さを示唆する 美的・芸術的衝動を 尊
重し,いわゆる 芸術家としての 歩みをとるべく 発意して,遂に 聖職者とし
ての将来を断俳することになる。 勿論そこにあ るのは,青年のその 時点で
の選択・決断であ って,むしろ 周囲からの助言や 勧奨にも拘らず ,
自己の
道を行こうとの 決意であ った。
さてこの時,決断する 者にとって常に 多少の葛藤があ るように,スティ
ーブンにとっても 周囲との 軋礫は少なからずあ る。むしろ可成大きなもの
といってよかろう。 既に『ダブリンの 人々』 (1914年出版 ) に何度か見ら
れたように,いわかる 芸術的な営み ほ,生涯の仕事としてはいたく 不安定
な営為であ り,それを継続することは , この青年にとって 容易ではない。
まず家庭環境があ るし,社会自りな
雰囲気もまたそれを 奨励するものでは 決
してない。 アイルランドのダブリンに 於ける現実やそこでの 芸術的生活の
情況そのものは ,,
A Mother,
の音楽家運,,
A LittIe Cloud,
のリトル
チャンドラーらを 通して,相当深刻に 描き出されていた 筈だ。 あ の短篇
集に 於ける,麻庫,の状況はこの 一 青年の成長と 自己確認の書では 強調さ
れないのではあ るが,根本的に ,芸術活動等に 対する意識が 変化を見せて
いるものとは 到底思われない。 第一,芸術を 云々すること 自体が,家庭に
拾 いても社会にあ っても,むしろ 違和感を醸す 恐れさえあ る。 この ょうな
中で,芸術家として 立つべく若者が 決意するところには ,青年の気負いや
野心, また功名心のようなものとは 完全に無縁であ るとは言いきれない 要
素もあるだろう。 しかしながら ,若さとはまたそうしたものではなかろう
か。 むしろ,その
燃えるような 感情と或る何かへの 憧れや希求の 情熱こそ
が青年を青年たらしめ ,青春を生かせしめる 要素でもあ ろうから。 そこで
問題となるのは ,青年の一途さや 情熱がどのように 燃え続け,一つの 真剣
な営みとして継続され
し続け ,その意見が
ぅ
るかということであ
ろ5
。 芸術的な営みも ,燃焼
持続されてこそ 意味があ るのだから。
40
天理大学学・ 報
この青年ほ,いわばロマンティストの 原点ともいえる ,或いは若い 芸術
家にとっての 核とも言える 美の女神を持ち 得ている。 あ の浜辺で見る 少女
の姿こそが彼にとっての 芸術の中核の 象徴となるらしく ,人間とはしかし
(10)
存外単純な核を 保持するところから ,その持続と 燃焼とによって ,
一つの
普遍性と深遠性とを 獲得していくのであ ろう。 だから,決断をなしたこの
青年にとって 最も重要なことは ,その理論的・ 技術的な習熟性と 可能性以
上に,如何にその 美神を尊崇
し 続 け,
自己に忠実に ,その核から 芸術の気
を噴き出させるかにかかってくる。 だからその時青年ほ ,他の生活者同様,
如何によく且つ 真摯に生き続けるかという 問いを,その 決意と同時に ,自
己に向けたわげなのであ る。
ところで,人は ,それぞれが 祖国やその文化・ 伝統を背負いつつ ,その
人生を歩む。 そこで現われてくるのは ,
人は生きるのか 生かされるのかと
いう問い,やや 宗教的な匂が 漂 かもしれないが
う
,では あ るまいか。 自己
の人生に対して 意識的になるのは 可成人生の時が 経過して (或いは極めて
ゆ の しい体験を経たりすることによって ) からであ ろうが, もし人生を肯
定 し感謝できるのであ れば,人は生かされているとも 感じ,人生の 喜びを
も
感得することであ ろう。 スティーブンにはしかし ,生きる意志と 生かさ
れているという 喜び と 共に使命感があ
cⅠl1)る。生きることとは 芸術の道に勤し
みこれに 遼進することであ り,同時に,彼自身が
真実そのような 使命感に
(12)
目覚める 時 ,
このように自己が 生かされるという 覚醒がこの青年にはあ る。
結局,前述のように ,彼が美の使徒の 一人として生きるべくその 生き方を
規定する時に ,あるのは,美の 探究者としての 自己をほ づ きり意識し,そ
の伝統の中に 自らも身を置こ
の中に生きようとすることは ,
う
との決意に他ならない。 更に 又 ,
この追求
この青年の場合にも ,そこから何か 常に自
己の個我を保持し 続けることによって ,芸術に対する 意識そのものの 変革,
芸術に於ける 一つの独自のスタイル や個性の主張と 伸長とを目指す 意図で
(13a)
あ ることに疑いはない。
To
disc0ver
the mode
spirit@ could@ express@
of life
0r
of art lvhereby
itself@ in@ unfettered@ freedom
このような意識に 目覚めること ,
y0ur
(13 b)
. (p , 246)
このような覚醒が 早い時期にスティー
ブンには訪れたことになるが ,それにしてもやはり 少年期の主人公は ,寄
Ⅱ若 き
日の芸術家の
肖像 一考
41
コ
宿学校でのフットボールの 試合中にも級友の 後方 ケこあ
っ
て,試合には 実質
的に参加していない。 そんなところからけじめられたり ,からかわれたり
の対象にもされやすかった ね げであ るが, この時文 ,人は生きると 同時
生かされるという 理解も読者
ヤこ
生じよう。 即ち , 生きょ
は生かされるということにもなるのであ
ぅ
ヰこ
と意思すること
ろう, と 。 その時, 人は 諸々の内
的・外目りな
葛藤を越えて 存在する者となり 得るのかもしれず ,人が生きる
という言葉の 真の意味は,この ょうに生きょ
ぅ
とする意思と 生かされる感
謝や喜びの思いとが 一致するところに 生じてくると 言えるであ ろう。
スティー ブソ の生き方を見ることによって , 人はここに教養小説或いは
(14)
発展小説の型に 容易に気付くことであ ろう。文弱少年が却って 自己の個を
確立することになる 物語の流れの 中には,ジョイス 自身の生も多分に 投影
されていようが ,人生の一つの 偉大な不思議もまた 見出されるよ
う
に思わ
れる。 つまり,人生に 於 いては,その 長丁場にあ っては,強者は 常に強者
ではなく,弱者にも 又輝かしい (個人的なこととはいえ )
チャンスはいつ
しか巡りくるものだということであ る。それだから,人生の 弱者,学園の
弱虫,近視で激しい運動に 十分ついていげない 少年に,人生はしかし 別の
機会を設 け ,結局そこで自己確信の祝福を 得ることになった。 学監に対す
る抗議のことであ るが, しかしこの時既に , この少年には ,後に芸術によ
って身を立てようと 決意する独立独行型の 青年の芽は萌している。 何より
も,個人にとって 英雄のチャンスは 何度も訪れるものではなく ,またあっ
たとしても,人生の 英雄とは何かに 対する見方によっても 又,その意味合
いは異なってくるのではあ るが。
人は青年に青年らしさを 期待しょう。 その期待されるところは 何か。 そ
して青春とは 一体何なのか。 渥 しく人生に立ち 向かお
う
とする若者の 姿を
見て人は,一般に 理想的な青年像を 見出すかもしれない。 ここにも又,
し
かし,一人の 青年の理想の 生き方,理想の 追求があ る。それはいわゆる 社
会的な変革の 計画や新世界の 建設やというものではない。 しかし,この 青
年スティーブン・ディーダラスの 目指すところは ,いみじくもクロンゴウ
ズ校の友人ロッシュ (NastyRoche)
シア の名工としてのディーダラス
(補
2)
に問われて窮したものの ,あのギリ
( ダイダロス ) を意識するわけであ る。
巻頭にエピバラムとして 置かれた オ ヴィ
(15)
ド
からの引用にもあ る如く,青春
天理大学学報
42
というものを 越えて 一 青年が美の使徒としての・使命に生きょ
ぅ
とする時,
実に生きる生かされるの 枠を超越して ,更には又 ,理想的な青年・ 青春と
いう一過性を 乗り越えて生き 続けることの 意味が呈示されていると
見て
よ
いであ ろう。 かくして, この青年にとっての 芸術や芸術活動とは 永遠の間
題 であ り,
よ
く一芸ということが 言われる ように,それは美を 中心に据え
ての文学活動という 一生を捧げるべきテーマであ
る。 その姿勢と共に ,い
かにしてかという 今後の問題 は あ るが, まずは, この ょうに燃焼しぎると
ころにこそ重要なスティーブンの 決意の契機があ るのだろうし ,彼を取り
巻く 清況 が決して容易ではない 時,却って一般の 生活と芸術とい 分営為と
の関係が明示される
ょ
5 でもあ る。
I
I
母と子の関係があ る。信仰の問題となるとこの 小説では示唆される 程度
だが,後のⅠュり シーズ
コ
(1922年 ) になってスティーブン
と
母との関係
は深刻な葛藤のモチーフとなる。 母とはところで ,原点に帰れば ,守る人,
dl6)
助力する人としての 慈しみのマリアであ り,且つアダムの 傍にあ るイヴで
もあろうから母と 子の関係は深刻な 心理学的問題を 提起することになる。
だが,それと 同時に,父親と 息子の関係こそがここでは 重要なのであ
って,
殊に,父親は ,社会的な存在として ,息子や娘が 受容するなり 通過するな
りしなければならない 第一の門であ ると考えられる。
スティー ブソにとっても必然的に ,父親の存在は 陰に陽に意識される。
彼が最後の決断を 下すにあ たっても, この父親との 関係は大きく 影響を及
ばしていると 考えられる。 一般には,父親との 間に対立の関係や 感情が強
く深いとしても ,往々にしてその 緊張関係は母親への 愛情や尊敬・ 敬慕の
念 によって調和をもたらされようとするものであ
(17-)
る。子供が成長して 一個
の独立した 個 むなるためには ,その父親との 関係にあ る決定がなされよ
う
,
たとえ父親という 存在が非常に 偉大であ れ,低劣愚昧であ ろうと,息子に
はやはりその 父親は ,個として彼が何らかの 形で関りを持ちまた 影響を決
定的に受ける 相手としてあ る。 この ょうな意識 は, 恐らくは宗教白9 . 文化
的且つは歴史的背景を 負って,厳密には 相違を持つであ ろうが, しかし,
二君 ぎ
43
日の芸術家の
肖像 一考
コ
それを無視しょうとしたり ,拒絶し続けようとしたところで ,その血の影
響 とは抜き差しならないものではあ るらしい。 古来,父と子 (息子 ) とは
文学的なテーマとして 何度も採り上げられ 論じられてきている。 結局のと
ころ,父と子の 関係には,究極的に 人と人との出会いと 関係とがそうであ
るよ に,一種の不可思議と 運命的且つは 決定論的な要素も 有している。
う
息子があ る父親に会
う
のは,後天的な 縁組や契約関係は 別におくとして ,
運命的な事件でさえあ って,いわば 息子がその父親を 否定し或いは 排斥
して別の先達を 父親として選択できないとい 5 事実にこそ厳然としている。
父
ここで,決定論という 表現を用いたが ,勿論のこと ,例えば,愚かな
親を持つ息子が 必ずしも阻害されるわけではなく , 又 それが必然というわ
げでもない。 更には,偉大すぎる 父親を持つことによって 却って人生の 後
方に怯む方向を 取る場合も現実にあ
ろ5
。 高い理想や勤勉, 又 努力や忍耐
といった一般的・ 社会的な 徳 とされるものを 否定することによって ,同時
に彼自身が及び 得ない父親の 存在を否定しようとする 心理も又,悲しくは
あ るが人間にとって 現実のものであ
る。 ことほどさように
,父と子との 関
係とは文学的にも 必ず否定的な 要素を内包せざるを 得ないのだろうか。 だ
が,父親の果せなかった 試みを子供が 受け継いで完遂する 場合もあ るし,
いわゆる徒弟白9 関係を続けることから 子が親の技芸を 修得し独り立ちす
る場合や生き 方も又現にあ
る。
この点に関して ,作者ジョイスも 非常に意識的であ
ったね げで,その 体
(19)
験のほどをしばしば 自己の作品に 投影していると 言われる。
しかしスティ
ーブンに関して 言えば,敬愛と 同質のものは 父に対して遂に 見出せないが ,
芸術的な営為への 憧れや 何 としての意識等は 父親の在り方と 無関係ではな
い。 スティーブン は,父親というものの
存在を意識し 認識することによっ
て ,酒飲みで,社会人としては
大成し得なかった
腰の落着かぬ 傾向を有す
るこの父親サイモンから ,音楽等高尚な 面や,繊細な感性,堕ちた 偶像 パ
(補
一
3)
ネルに対する 感情などを受け 継いだと思われる。 スティー ブソ はサイモ
ンの子であ り,そして又 ,サイモンの 子ではあ るけれども, スティーブン
になろうとしていることになる。 この道を追求しよ @5 とする青年は ,
しか
(205
し
,父親の指導や 助言に背く者としてイカルス 的でほあ っても,決して 破
れ挫ける者でほないであ ろう。 何故なら彼は ,
まず,父親の 模倣ではなく
天理大学学報
44
また父親の完全な 不定でもないからであ
る。 ここに,父と 子の葛藤の一つ
(21)
の解決と止揚の 可能性が見出せる ように思われる。 先人が偉大 か否か云々
ではなく,子としての 個が如何に自己のそれを 認識しその個の 完成を目指
すか。 父と子の関係は 永遠的な一期一会を 繰り返すかと 思われる。
人生に於ける 節目ということを 人はしばしば 口にする。 も
う
何度かその
節目を通過した 人もあ れば,その節目にさしかかる 人もあ る。又 ,それを
意識する者とさほどではない 者とがあ ろう。 だが,何れにしろ ,人はこう
いった転換期に 掩 いて決断を迫られる。 これかあ れか, こちらかあ ちらか
で人は二者択一の 岐路に立つことになる。 主人公のスティーブンにとって
(22)
もこの分れ道が 見えてくる。 寄宿学校の生活の 後,一つの体験の 時代が終
り
, 次の体験の時であ るべ ルヴヱ ディア (Belvedere)
校の時代に入って ,
彼 ほいわゆる芸術の 道を選ぶのか 聖職 就くかで大いに 迷う。 結果として
彼は芸術的活動に 生きる道を選ぶわげであ るが,彼にとってもその 決断に
ケこ
到るまでしばらくの 時の経過を要する。 その少し前に , 彼は精神的・ 肉体
的な迷いから 赤線地帯に足を 踏み入れ,その 後痛切な苦悩と 自責の念に苛
まれるわけであ
った。 この純粋さと 誠実に対して
指導者が , 彼に聖職者と
しての道を歩むよう 説き勧めたのではあ ったが。
人 が決断するにあ たって,ことほどさように ,その背景となる 条件等々
を否定する め げにはいかない。 人の決断にはそういった 精神的 ( 内面的 )
理由と,いわば 外的な理由との 交錯があ って, 個々人のそれらを 総合する
形で生まれてくるのであ ろう。
人間とは結局感情的な 存在であ
って,
必ずしも理詰めばかりでは 行動で
きないものであ ろう。 いわゆる芸術的衝動乃至活動という 点に放いても ,
それは計算尽の 行動とは縁遠いものであ ろうし,そして 個々人にとっての
強烈な体験が ( スティーブンにまずは 何人かの異性の 存在があ るよ
う
に)
決定的な役割を 演じるものであ ろう。
・人間は生きるものであ ると同時に生かされるものでもあ ろう, とは既に
述べた。 宗教的な意味での 論議にはならないけれども ,人は自分の 生の主
体 者であ りながらも,諸々の 人生の条件を 背負うことによって ,完全な自
由 というものを 確信し得ない 状況にほあ る。それがしわゆる 現実というこ
とかもしれず ,その意味では 個人の限界があ
る。要は ,
人が如何にその
ょ
『若
き 日の芸術家の肖像 一考
45
コ
うな個の現実と 対 侍 するかというところであ ろう。 個々の存在の 条件と状
況に押しつぶされる 場合も多いだろう。 主人公のスティーブンにとっても
又, イエズス会系の 寄宿学校に生活し 学ぶことは,長子としての 一つの特
権 でもあ った。 (彼の弟は行げなかったわけだから ,経済的な意味もここ
に含まれるわけだが。) しかし, ここで学ぶことから ,或る意味で ,少年
(24)
が 自己と自己の 周囲という条件に 目覚め,その 条件や状況という 所与を如
(25)
何に変革し得るか ,或いはその 情況に於 いて如何に自己の 場を見出すか ,
を問
う
ことになる。 この時,個人はそれぞれに 或る可能性と 不安な自由と
を有している。 どのように生きるか ,如何に個を 確立するか,属する 場の
如何に拘らず ,が人に向けられる 問いではあ
人 があ るところにあ る時生きょ
ぅ
る。
とすること,精神的にも 満たされる意
味で,その人生とは 結局自己満足であ るだけかもしれない。 が,主人公が ,
備えられかけていた 道とは全くではないにしろ 離れて異なる 方向を選ぶ 時 ,
この時やはり 初めて主人公は 自己確立と自己充足・ 創造の方向へ 第一歩を
踏み出したことになる。
III
スティーブンの 形成には へ レニズムの流れを・
汲むものと古典的ラテンの
伝統世界のものとがあ り,そこにはバイロ
ソ
の影響もあ るわけだが,一個
人の成長,少年期を 経て (やはりそこに 戸惑いや 帯路があ ), そこから
り
自己の真実の 理想へと旅立っていこうとする。 彼にはクロンゴウ ズ校での
生活が様々
トこ
人生を教えるものであ ったし,殊に ,同じ年頃の生徒とだけ
ではなく学監や 教師 達 との接触を通して ,いわゆる大人の 権 威主義をも 見
ることになった。 学校生活を離れれば ,父や母とそして 親類,特に叔父の
チャールズ (。 The
Sister ざの同名の人物を 想起させるが ) とダンテおば
さんとの関係や 学校,大学での 交友関係というものからスティーブンは 誕
生したことになる。 即ち, ここで再び『ダブり
ン
するなら, 15の短篇を通して (最後の, TheDead,
の人々』の世界へ 戻ると
となるとむしろ 中篇で
あ るが) 作者が描出したこの 都市ダブリ ソ とその市民の , 麻痒 ,の状態が明
らかであ り,主要な人とは 何れもその退廃状況に 気付き,無意識的に 半 覚
天理大学学報
46
醒の状態にもあ るのだけれど ,遂には脱出しない ,又は脱出し 得ないとい
う否定的な状況があ った。 これら否定的な 条件はまた, 彼 スティーブンの
周囲を囲む人々でもあ ったわけだが ,その否定状況を 抜け出していこうと
する姿こそが ,このスティーブン・ディーダラスの 美の業に終生を 捧げん
と
決意するその 姿勢とそこへの 過程にも見出されるようであ る。 そもそも,
『ダブリンの人々』に 拾 いては,,
ALittleCloud, のリトル・チャンドラ
ーや,Ivy Day in the Committee Room, 中の新聞記者 ( ハイソ ズ氏)
に顕著に見られたように , 自己の夢や希望 文 理想を持ちながらも ,それら
が現実の諸々の 障碍の前で挫折してしまって ,現状に妥協しなければなら
ないという共通の 運命 ( ようやく最後の・TheDead,
に拾 いて, こういっ
た否定的な条件を 越えたあ る調和の可能性が 示唆されるわけではあ った
が ) を背負うからで , このような運命からの 脱出は,スティー ブソ青年に
放いてはようやくその 主張を打ち出すに 到ったところであ る。
いわゆる個人主義というものはひとまずおくとして ,個々人が最大限に
その個性と能力を 発揮することが ,それがよ りよき意思によって (可能な
らばより多くの 人々のため ) であ れば最も望ましいのであ るが, 自己の道
を追求することは 時に運命的な 啓示をも意味するようであ る。成功・失敗
の基準によるのでなく , 自己があ る道を見出し 得たという確信のもとにそ
の追求の完成に 向かえれば,まず 個人としての 安定は得られるであ ろう。
スティーブンの 場合には,冒頭の オ ヴィ
見られるように
ド
からの引用に 呼応して最終 行 に
(Old father, old art 市 cer, stand me
now
and ever
ingo0dstead.),そのような個人的地平を 越えた追求,美の 探求そのもの
カ、こ
い性
れなび個
し再
もで
るそ
,え
一一一一口。︶︶
と ㎝る
坦一る
@
昔
E
Ⅲ
るあ
あが
でろ
なと
よ
方さ
つ れ
くさ
就い
職
にい
て
聖つ
てに
徒そ
めに自身
の ︵
助役
が核であ り,もし状況的な 容易を云々するのなら ,司祭 (the director)
や 個我の問題となる。 究極的には自己の 方向付けを行うのほ 主体者として
の自身であ るが,それでも 行為者ニ 選択者としての 自由にほ人間的な 制約
がつきまとう。 人間的な制約と 理念上の自由をどのように 結びつげ最善の
情況で最上と 思われた判断が ,
結論を引き出すか。 勿論,或る時点,或る
別の段階で他の 意味合いや価値観を 示唆するのは 大いにあ り得ることで ,
そこで人が修正を 迫られる場合もあ るだろう。 スティーブンの 場合には,
二苦 ぎ
日の芸術家の
肖像 一考
47
コ
主にその意味では 芸術,殊に美という 至極抽象的で 観念
ることになった。 逆説的に言えば
自
りな問題に直面す
,それ故に却って 彼はより大きな 自由を
得たということになるのかもしれない。 それでは,芸術とは
ろう。 いわゆる美学 (1748年ドイツで成立とされるが
美とは何であ
(27)
) に照らし合わせて
みても, 美 なるものの感得, 美 そのものの定義には 暖 味なところがあ
しかしながら ,多くの人にとって 美はまず崇高なもの
る。
(28)
,そして永遠の 憧れ
の対象であ る。更に,この対象とは ,表現し難く 名状し難いところを
有し
ていよう。 美 とは個人的,主観的なものなのか ,それともなおも 客観的,
遍在的なものなのか。
又,
もし美に根本原理があ
るとすれば,それは 正に
万人によって 認識され承認される 或る要素を必ず 共有すると言えるのであ
ろうか。 スティーブンの 探求もこれからが 始まりであ
る。宗教的な雰囲気
を背景とした 主人公がどのような 成長・発展を 遂げるかは, 又 ,彼に共鳴
するすべての 人にも 向げられた問いであ ると言えるだろう。
IV
極めて抽象白9, 時として非現実的,観念的であ って,捕捉 し 難い 美 なる
ものとは, スティーブンにとって 一体何か。 A 氏にとっての 美 とは必ずし
も
目ま
B 氏にとっての 美意識に合致するわけではあ るまいから。 その理解の手
@かりとして,スティーブンが 渚で見たあ の美少女というイメージは 可成
はっきりした 形で現われている。 人間にとっての 美は,次第にこのようⅢこ
具象性から抽象性へとたゆたい 昇華するのであ ろうしそ
う
考えれば,人
間精神の変化や 変容の必然性と 関わってくることは 明らかであ る。
要は,その美の 意識がどれほどその 個人と深く関るかであ ろう。 という
のも, その ょ 5 な原体験的な 美意識が , 個々人にとっての 感性的反応の 表
現として真に 崇高性を示し 得るからであ
る。 スティーブンのように ,それ
がいわゆる芸術の 道に進もうと 決心する衝動の 根源的な要素となるのは ,
或る意味では 当然の成り行きかもしれないが ,
その原体験や 感動が表面的
には全く異質の 領域に開花・ 結実するのも 何として決して 少なくない。
こ
れは飽くまでも 男性の立場からのみ 言っているわけだが ,人間が自己の 周
囲や恋愛の対象としての 異性に見出すものがその 心性に関る度合いは , 不
天理大学学報
48
可 解で測り知れない 神秘性を持つ。 それ 故 ,美に深く感じ 入ることは自己
の魂の深さをも 認識することであ り,そこから 宗教的な感情が 生じるのは
自然と言えよう。
本篇の主人公スティーブンの 感動の根底 こは,
ヰ
C@g
この宗教的な 感情が深く
Ⅰ
関っている。 彼の場合にはむしろそのような 宗教的な背景をいわば 外から
予め与えられる 形で成長しつつあ ったわけだから ,将来についての 予想や
(30
り
未来論は 意味のないこととしても , この物語に 掩 いて高まってくる 美への
憧れや決意の 形成に,
トマス・アキナ ス
を中心とする 審美的な意味での 伝
統や系譜も非常に 大きな力を及ばしていると 見てとれる。 この点では,宗
教的な背景の 違いやそういった 面での伝統を 持たない場合との 相違・懸隔
は甚だ大であ る。彼自身が意識するけれども , 聖 アウグスティヌス 更には
中世以来の伝統の 中でのカトリシズムの 普遍性への志向,秩序,統合性,
そこから育まれる 調和という美といったものへの ,
志向と彼の意識は 関っていると 見てよいであ
より全体的な 真実への
ろう。
それだから, これからスティーブンが 成長するにつれて ,その成長如何
が又 同時に読者にも 委ねられるのは , こうした物語に 於ける共通の 条件で
あ ろうが,彼の 状況がカトリ , クの諸人の伝統形式や 内容に係ることは 明
らかになってくる。 だから,例えば ,スティーブソ (そしてジョイス ) の
意識に深く関るダンテの べ アトリーチ
の感動の追求とその
ヱ
に捧げることによって 開眼した 美
発展の姿との 比較がしばしばなされるところであ
青年スティー ブソはこうした先達の 存在を十二分に
問いほこれ以降であ
る。古典主義的な
意識している。
(32)
るし,
だが,
共通基盤に立ち ,全体的総合的一致
を目指すといっても ,そこにはおのずと 何の質の違いはあ る。 スティー ブ
ンにとって大事なのは ,
この個の要素をどれほどに ,単なる個我の 意識と
(33)
は異なって, また如何にその 特質と何に於ける 真実を追求し 得るかという
ことであ る。
Was
什 a quaint
0f prophecies
born
device opening
and
to serve. …
symb0Is,
a
symbol
a page
of
…, a prophecy
imperishable@
medieval
of the
end
0f the artist forging
anew
workshop{ut{f》he《luggish[atter{fthe
impalpable@
some
being?@ (p , 169)
earth
anew
bool(
he had
in his
soa
Ⅱ
ng
49
T若 き 日の芸術家の
肖像 一考
コ
スティーブンにはもう 一つ決定的な 要素があ
る。彼の現実の環境 は必ず
しも美への憧れを 助成するものではなかった。 精神的な意味でも 物質的な
面でも,物語前半に 見られたようなダブリンの 閉塞状態が停滞と 共に横た
わっていたわげで ,それに対する 反動や反発から 彼の意志は強められてき
ている。 彼の将来ということになれば ,
このような美への 憧れ , 美を求め
て自己の精神世界の 構築を目指そうとする 時,それほやはり 一つの独自の
ものとなり得る 不安な可能性と 意思を秘めているとは 言えるだろう。 魂の
成長の記録は 過去にも又将来にも 数多くものされ 残される筈であ る。 それ
は,少くとも 地上的な意味で ,人間の可能性や 人間存在の神秘性をも 示唆
するであ ろう。
スティー ブソ の心にはアイルランドの 現状に対する
いの濃い文化革命的なもの
("
政治的な意味合
一 ネルの失墜と 死に代表される
)
無関
心があ り,いずれ ば逃亡者としての 運命を余儀なくされる 端緒がここにも
(34a)
出ているのであ るが,彼の美への 意識にはカトリックの 伝統 ( 良かれ悪し
かれ,彼が聖体拝領を 拒もうとも ), ヨーロッパの 人と文化の伝統の 中で
捕えられることが 第一にあ る。彼は結局クロンゴウ ズ校を経済的な 理由で
去り , 別のイエズス 会系の学校を 径 て大学
(University
College)
で学
ぶことになるが ,そこでの民族主義的なアイルランド 復興運動の芸術への
取り組み方と 政治的な関与とに 反対する (即ちそれが ジ ,イス的なもので
あ るが) 。 美に対する彼の 意識,何人の 心をも捉えることではあ るかもし
れないが,いわゆる 美とは何か,芸術とは 何かという根源的な 問い (物語
中では大学の 友人リンチがその 対話者の役割を 果すのであ るが) に対して,
プラト ソ
,アリストテレスといった 哲学者の解釈や 心理学を踏まえ ,神学
者 トマス
ア キナ ス の解釈へと帰ってくる。 更に,スティー ブソ の対話者
がいみじくも
指摘するように , 美 とはまた芸術とは 極めて不確かな 場であ
って, ましてスティー フ ンの追い求める 観念的,抽象的な
美とは,善悪の
基準 或ぃほ価値判断に基づく 好感,嫌悪の 反応を越えた 高みへ達しょうと
4b;主人公の求めるところが 一般の理解と 共鳴を得にくい
するのであ るぶ
ことにもなろ
う
。 この点は , 先のりソチとの 対話で,ヴィーナスの 美を考
えるに際しその 幾何学的直角姉角形に 美の意識を見す ぇよう とするステ
ィーブンに 対ぢ? いわば一般の 代表と目されよ
う
リンチからほ ,プラクシ
天理大学学報
50
テレスの手になるヴィーナス 像の腎部についつい 落書きを試みたくなると
の答 ( スティーブン 示唆するところの 感覚的,感情的衝動性 ),
る
美に対する本音が 窺われる。 こういった点からも
,スティーブンの 理想
とするところ T 孤独の営みになるであ ろうことは,容易に 推測さ t
方
レ
く
る
O ナi
思えば以双
め
島
0%
が
y タ
t
h レ
ク
の
︵
A
名ス
のノ
名を有し
一あ
スる
き
ア
人い
Ⅰて
のだ
での
迷宮や鳥の翼に 比肩すべ
一o︶
0 が
大た
友っ
校た
ソ,。
@
カ
ドつ
ウし
ンョ弓
口よz
スおヵ
の青年はスティーブン・ディーダラスの
ゴゥわ
て
ら
ク来
力
白め
そ
にいわゆ
飛行の具を案出した 工匠 ダイダロスの 熱意と希
求の具現がこの 青年の心にあ
る。
要するに,スティー ブソ の決意は孤独の 且つは孤高の 営みに挺身する 姿
勢を表わしたものとも 言えるし, この意味で,当時のアイルランドの 情況
にも巻き込まれず ,
( 自己中心的だと 友人に批判されることになるが )
自
己の信念に従って 生きる決断をなしたものとして 常に新しい作品と 言える
かと 居、
う
。
I do not
fear
亡
o be alone 0r t0 be spurned
leave whatever
a
m;stake,
perhaps
even
l halle to leave. And
a
I am
great mistake,
as long as eternity
a
f0r another or to
not afraid to mal(e
lifeI0ng
mistake,
and
too. (P. 247)
つまり, 青年の成長と 発展とは特に 新しいテーマではないのであ るが, 自
国の否定的な 雰囲気をも脱して ,しかもなお 且つ美的追求という 探求の道
を打ち出す時,そこでほかつての 中世文学の主要な (そして今日でも 決し
て忘れられていない ) モチーフの一つ ,聖杯伝説のそれさえもが 浮かび出
て、 くる。そう言えば, 『ダブリンの人々』に 於 いて,その第三話。
Ara-
by, に登場する少年は , ごった返す町中をおばのお 伴で買物袋を 抱えて 歩
く時,その心の中に 聖杯ではないがカリス (chaIice) を捧げ持つ気分であ
った。 これは,勿論聖杯としての theGra Ⅱとは異なり ,宗教的な意味合
いでのものだが ,青年スティー ブソ の美の追求という
聖杯 (theHolyGrail)
を求めるランス ヮ ,
ト
決意表明には ,この
,その息子ガラ ハド C彼は
(補
5)
成就 し 父親は遂にその 秘蹟に与れなかったが ) らの姿に見るように ,
同
時に子と父の 関係と因縁,そこから 伝承ということがあ り,ダイダロス ー
イカルスの関係とは 逆の要素が投ぜられたことになる。 読者は更にここに ,
Ⅰ若 き
日の芸術家の肖像 一考
51
団
19世紀末から 20 世紀初頭アイルランドに 於ける血と文化の 遺産,伝統と 継
(38 a)
承 ,つまりは美の 追求の新しい 様式を見ることであ ろう。 美 とは下降する
ことも亦 容易で ,
正にアガペ一に ヱ ロース (若しくはヴィーナス ) として
受け入れられやすいわけだが ,かくしてこのスティーブン 青年の意図は 一
居高い方向に 向げられることになり ,ひとりの人間の 固有性が明確になる
のだ。
市
上
口々
ヘンリー・ ジ エームズ (1843 一 1916) に或る 一婦人についての 肖像があ
り,それは,ヨーロッパの 中で ( この作家固有のテーマの 一つであ るが)
一人のアメリカ 人な 牲が如何に生きていこうとするか ,その精神の 成長の
跡を追う物語ではあ った。 ジ ,イスによる 一 青年のポートレートもまた ,
その主人公の 内的成長をいい ,いよいよ芸術家として 立つべく意を 決する
ところで物語そのものは 終る。 この後,作家ジョイスはいよいよ 通常の小
㎝ 6s
説 作法,即ち主要人物と 事件とその展開の 相当の時と場を 持った物語世界
の構築,を去って , 思いきった現代的 ( いわゆるモダニズム ) 且つ実験的
な手法に移行する。 この作品そのものは ,その冒頭部に 放いて少年期の 学
寮生活のスティー ブソの脳裡を幼少時の 思い出 (家庭教師ダンテ 叔母さん
等々 ) や ,大寒前の緊張感といった 場面がフラッシ ,・バック的によぎる
(38 b)
ものの,全体としては 正統的に主人公の 成長を跡付けて ,教養小説的手法
を保っている。
だが, ここに強烈に 出るのは,言葉に 対する主人公スティーブンの 鋭敏
さ
る
( それは『ダブリ
ソ
の人々』中の。 The Sisters, や。Araby, に登場す
少年にも顕著であ ったが)
と
美意識の目覚めということだろう。 浜辺の
美少女の姿にあ る強烈なイメージを 得るということで ,
プラトンに遡るま
でもなく,具体的な 形で,スティーブン 自身が物語中に 言及するように ,
ダンテの影響,あ の べ アトリーチェという 神々しくも鮮烈な 体験を通して ,
を見るのは容易なことであ ろう。 要はこの核がどこまで 燃焼し続けるかと
いうことで, これ以上を探るのは 仮定論・未来論としてのスティーブンの
,その後,を
云々することになるだけであ るが, T.
S.
エリオットの 評
天理大学学報
52
言を考えるなら ,
ジョイスについてはその 後期の作品を 知るためには 初期
の作品を,初期の 作品を考えるにあ たっては最後の 作品を見るといった 視
点は重要であ ろうしつまり
は この詩的散文作家も 或る核を中心として
生
涯成長し続けた 人であ るということになるだろう。
スティーブンはとりわけ 際立った才能の 持ち主ではなく ,
ではないし
いわゆる神童
また美の間頭 について特別に 秀でた鬼才若しくは 異才でもな
いらしい (書くことは得意だったようだが ) 。
それでも彼は ,
或る一つの
体験 (挫折と克服 ) をきっかけとして , 美 というものに 対する 憧 惧や追求
の念がやみ難くなるのを 禁じ得ない。 一時精神的・ 肉体的に迷った 主人公
は,巷間を笏律 よい一夜の暗
う
つな体験を持つのであ るが, この後,指導
の神父との対話,瞑想を 通して結局自分自身の 内なる声に忠実且つ 誠実で
あ るべしとして ,宗教人 としての道を 断俳することになる。 ここでは,少
なくとも青年の 中では,宗教的な 熱誠に匹敵し 得たであ ろうことが,
ス・アキナ ス
トマ
に対する熱烈な 信奉者でもあ ったし, より抽象的な 意味での
完全性の追求に 向かうことを 必然たらしめる。
美を追求する 姿勢はどのような 意味を持つのであ ろうか。 プラトンに帰
らずとも,美は 肉体的物質的具体的なものから ,
ころまでの,把握し 難い不定義性を 秘めている。
よ
り抽象的,精神的なと
、 わゆる可視的な 美とい
うものほうつろいやすいであ ろうし,かくしてスティーブンの 志向する永
遠なるものをそこに 求めるのは険しい 営みであ ろう。 すると美の追求者 は,
より高く滅びのない 永生を有する 意味での 美 というものを 求める者という
ことになる。 そのような一般的な
理解で忙酸味模糊としたもの
,即ち, 美
の存在と有の 追求を自己の 天職と認識したことは ,いわゆる芸術全般に 対
する感受性と 共に , 美を最も高い 価値を有する 次元として仰ぐことになる
伝統がスティーブンを 如
謂であ る。 この時,普遍性,そしてカトリックの
何に捉えているかが 明らかになるであ ろう。 本質的に宗教的なこの 青年の
意識とは,こういった 教父時代からのカトリ " クの普遍且つ絶対的なもの
の追求の熱誠の 系譜を抜きにしては 考えられないのであ
が ディーダラス
る。 それでも, 彼
( ダイダロス ) というあ のギリシア神話中の 有名な工人に
因む姓を持つことをもう 一度想起したい。 スティー ブソは このように へ レ
ニズム とへ ブライズム双方の
要素を内部に 有する青年であ
るということに
53
日の芸術家の肖像 一考
下若 き
コ
なる。
註
(1)
(2)
ダンテ二神曲』の
地獄篇,第一歌の
第一行目 にある。
A. HllXley のむ用&0 (1920) 中の一篇,・
FarcicalHist0ryof
Greenow,
団chard
から。
(3)
この時,評者
は,
(4)
Cf. P. 166
ば
ジ ,イスの内に
, 御 自身を見出しておられたのだろう
・大学を下見するところあ
たりに強烈に窺える。次に,p.
168 の学友@こ 対する絶対的な拒絶。
(5)
登場人物の一人Hotspur の言葉の一部であ
るが,原文に
依ると,・‥
but
my
@ord fool, out of this nettle, danger, wve pluuck th 尽
I tell you,
fnower, safety. とある。
(6)
See
C7)
(8)
焼山の DIlblml@6rs l5 篇中のそれぞれ8 番目,J.O番目の物語である。
p.
170.
当時のアイルランドで
, artist という語は皮肉な
意味を持っていたと
言
わ;れる。
(9) 後出の浜辺で見る美少女がその
象徴となるが,彼には E. C. [Emma
Clery
ら 5,
6 人の大切な女性の
存在があり,殊に,芸術家として
立と 5
コ
とする主人公の
心を占めるのほェマであった。
(10) See PP. 169-170・自己の名をはっきり
意識すること。
(1l) See P. 146 ぱ ・スティーブンが
一夜のシ,ックから立ち直ってこの
意識
を持つのでほ… (生は美しいとも感じ得た)。
(12)
See
P. 169 ぱ
・
(l3a)
Stephanos! をきき,大学時代の
思索経験が決定的となる。
(13b)
引用や言及の
頁数は James
Joy,ce: ハダo).tra@t o/ 爪 e Art@st
as
a
yooli)@g Man2, Penquin Books, 1972 (reprinted) に依る。
(14)
その同系統としてのthe Kllnstleト rom]an
題とした小説) というべきであ
ろう。
(15) Et ignotas animum
d@ittit @ artes
mind
to worlkk upon
unknown
C,artist.nose㍗芸術家を主
とあ り, "And
he set his
arts." の 意だそうであり, Ovid
の
M が小
V17 : 188 からの引用とされる。
See PP. 10g fr; 116, etc. ェマについて,P. llS ff.
川 wrah@os㏄,
C16)
C17) 父も母も主人公が聖職に就くことを欲していたのだが…。
(18)
父と子," ムレ"
Clg)
このことは,しかし,ジ ,イスについて
伝記的要素とフィクションとを
ト
0 間題などがしばしば
提示されるところであ
る。
混同させる一因でもあ
るが。
(20) 解決の如何はともかく
,この葛藤は現代文学特有のテーマの
一つである。
See E. L. Epstein:
U.
P.,
1971,
p.
2
The
Ordea@of
Stephen
Dedalus,
SouthernIllinois
天理大学学報
54
(21)
See W.
(22)
(23)
A
Y. Tinda Ⅲ
Bool(s, 1982 Gepri),
ル ade/,S
G ㎡ dg fo 加川穿 fo ノ ce, Octag0%
PP. 51 円2.
家庭の経済的衰退性,いわゆる
斜陽化も影響するところ
大であろう。
彼の美への憧れの
底部に人間的な脆さや過誤への認識があり,その人間
的なところから美しいものを生み出したい気持ちは強くなってきていた。
(24) いわゆる芸術家(を主題とした小説) の運命であろう。自己の回りのす
べてから去ること。
この点について
, イプセンの影響が
特に指摘されている。
See M. Hodgart:
o0m@@es
JOoyce, Routledge
and Kegan
Paul, 1978, PP.
57-58.
(25)
スティーブンの
場合,あらゆる関係・
束縛からの自由,脱出ということ
であるから,例の
如く,ここにイプセンの
直接的影響を読みとる説がある。
(26)
See PP. 16 ト1161.
(27) 13b, つまり P. 246 を御参照いただきたい。
(28) 対話者としての学部長 (thedean) の言葉にsub Ⅱnme
とあるし,大学時
代の友人の一人は『ラオコ
一ソコ に言及する。
(29) 美の使徒としての彼の位置が重要である。 また,信仰の問題について,
彼は,友人クランリ 一に物語最後のところで(P. 240 代 ), 苦悩を打ち明けて
いる。
(30)
詳しく書かれているStep/@e@@
H げo,
See Sf ゆん e@@
については,
H 佐o ㏄Ⅰ 0/t/aif…の元の版であ
ed. by Theodore
Spencer,
る)
Jonathan
Cape, 1975 creprinted, p. 20 .
(31)
ただ,問題として
,スティーブンが
例えばトマス・アキナ
ス とどれほど,
いかに深く関っているかが
別にある。
(32)
See Mary
P. 195 ぱ
(33)
Cf. PP. 165, 169.
る 時,
foyce o 届 D0%fe,
T. Reynolds:
Princ 計 on U. P., 1981,
・
クロンゴウ
ズ 校からべルヴヱディア校へ移る間の或
彼@t hewasdifferentfrom
others.
クロソゴウズ校で既に感じて
と
いたことを話しているCP. 65) 。 挫折を経て,主人公は
雲の美しさから言葉
の美について
考える。言葉の美・色彩性といえば
ホメ
p
ス …。
そして,ジョ
イス自身がⅠユリシーズ』を
後に書くことを考えると,この作家の精神的な
る。
方向或いほ系譜が知らⅠるようであ
メ
(34a)
l
wⅢ
itself
友人クラソリ一に対して,スティーブンは
次のように言っている。
not
my
myself
eXpress
as
who@ly
myself
serve
home,
as
t0 use
that
in vvhich
my
father@and,
in some
I can,
m0de
l no
eX
Ⅱ
l0nger
e,
and
beheve,
art
defence
cunning.
vvhether
and
I
Yv Ⅲ
as
freely
as
T
the
only
arms
church.
my
of life or
using f0r my
sⅡ ence,
or
it ca は
try
can
to
and
I aⅡ oYv
(P. 247)
伝説のダイダロスもクレタ
島から,そして,ノス王からの
逃亡者であった。
(34b)
美 とは正にそのために
求められるべきもの…。SeeM.
Beebe:Joyce
55
『若き日の芸術家の
肖像 一考
コ
and Aquinas:
佛㎡
The
Theory
C れ fi田 los, ed. by Th0mas
1962,
0f Aesthetics
E. Conno
in/o
Ⅱ
y,
ノ ce,$
Po/f/aif C れ れ cis))@s
Appleton.Century.Crofts,
277.
p.
(35)
特に
(36)
P.
p.
207 あ たりのりソチ (Lynch)
との対話。
25. この時当然スティー
ブソには Stephanos
についても Daeda@us
についても意識がなかった。
㏄7) しかし,何人かのジョイスの
主人公に放いてcha@ice(.カリス) tt Gra れ
に対するのと変わらぬ熱誠,尊崇の
象徴と思われる。
(38a)
Joyce made his cl.e. Stephen,s) Thomismgodless.
(,ConnoLly, oP
ctt., p. 279)
(38b)
主人公の成長と
共に文体も変わっていくという
指摘について,
Tinda Ⅱ, 0タ . c几 .,
p.
展するもの。また, とりわけ芸術家としての
主人公のそれを追
く
see
59 ば .いわゆる「意識の
流れ」は びlysses に放いて発
う
ことは,よ
示唆されるのであるが,非常に
興味あるテーマの一つであ
ろう。
(補 1)
作品成立の時期がほ
ば等しいから(?) 構想,執筆,出版
共相前後して
いる。
(補 2)
Stephen
は紀元一世紀の
著名な聖職者で最初の殉教者 St Stephe@l
に因む。この時,ディーダラス即ちダイダロスであることに目覚めていなか
った。
(補 3)
彼は ク
息子を・
gentleman, に仕立てたかったのは
父親だったし, こうして,
p
ンゴウス
校ヘスティーブンを
行かせたわげであった。
(補 4) See p. 206 ば ・芸術また美の
間題はついて,それは static なもの,
anestheticstasis
を awaken
せ しむるもの,と スティーブンは
語っている。
(補 5)
(補 6)
A
アーサー三伝説中の
最大のテーマの一つとしてよいであ
ろう。
See H. Kenner:
Notes towvard an anatomy
of 。 modernism,
S 加 rc 乃伸 )lゎ igr Q 而 ry, ed. by E. L. Epstein, Methuen,
1982,
pp.
㎞
342
Fly UP