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カ ン ト の実践哲学 (その二)
カントの実践哲学(その二) 一仮言的命法について一 遠 山 義 孝 1. 「仮言的命法」の概念の分析 (2) 仮言的命法という表現 (1) 「すべての命法は仮言的に命令するか定言的に命令するかのいずれかである。」 「道徳形而上学の基礎づけ」のこの文において,カントの著作の中ではじめ て,命法に関して「仮言的」hyPothetischという表現が現われる。カントは上 述の文に続く以下の箇所で更に詳しく区分している。 「もしも行為が何か別の 或るものを得るための手段としてのみ善であるならば)/その場合の命法は仮言 的である。また行為がそれ自体として善であり,従ってそれ自体が,理性に従 うような意志,つまり理性を自分の原理とする意志において必然的と考えられ (1) るならば,その場合の命法は定言的である。」「仮言的」「定言的」という術語は 判断表における関係のカテゴリーの表現である。即ちカントは命法の区分の際 に術語的には判断表に従っている。関係のカテゴリー「選言的」は命法の区分 の際には現われない。何故「汝は,これかあるいはあれかをなすべきである」と いう選言的命法が出現しないのかは,破の著作のどこにも述べられていない。 「仮言的」という言葉は語源的にはδπ6δεσκ即ち条件に由来する。仮言的命 法にはこの本来の意味がそのまま残っている。即ち仮言的命法はある目的によ (2) って条件づけられている(限定されている。)カントは多くの箇所で定言的命法 一 1 _ を型式化したが,仮言的命法に関しては一つの型式をも樹立しなかった。彼は 仮言的命法に対していくつかの例を挙げたが,しかし直接の型式化は行なって いない。ペイFンは仮言的命法に型式を与える試みをしている。彼の型式は次 の如きである。 「理性的に行為するあらゆる存在は,もしもある一定の目的を 欲する場合,手段としてこの目的に対して善であるところの行為を欲するのが (3) よろしい。」 (2) 仮言的命法の二つの様式 上に挙げた命法の重要な点は接続詞の「もしも」(wenn)である。この不変化 詞は意志の可能性を前提にしている。それ故カントは次の如く述べておる。 「仮言的命法は行為がある可能な或いは現実の意図に対して善であると言うだ けである。最初の場合,仮言的命法は蓋然的一実践的原理であり,二番目の場 (4) 合は実然的一実践的原理である。」最初の場合は,ある可能な意図を達成する ために一つの行為を必然的と見なす実践的指定が問題となっている。ここでは ただ可能な意図の達成だけが重要である。 「目的が理性的であり善であるかど うかはここでは全然問題ではなく,目的を達成するためにひとが何をなさねば (5) ならないかだけが問題である。」ペイトンの型式はこの場合にだけただちに有 効である。なぜなら既に述べた如くこの型式はwennによって表現されるか らである。蓋然的命法は,我々にとって可能な目的即ちある一定の目的に対す る手段をさがし,その目的を実現するための熟練を要する。この型式が二番目 の場合においても,即ち現実の意図の際にも,適合するであろうか。この問い を明らかにするために我々はひとまずカントが現実の意図のもとに何を理解し ているかを確かめねばならない。カントは述べている。「あらゆる理性的存在者 に現実に存在するものとして前提せられ得るような一つの目的がある。それは かかる理性的存在者がとにかくもち得るような意図というだけではなくて,彼 ■ コ ■ らのことごとくが自然必然的にもっていると前提せられ得るところの意図であ (6) る。即ちそれは幸福を求めようとする意図にほかならない。」それ故現実に存 在する意図とは幸福を求める意図である。ここではある任意の,ただ可能な目 的に関してではなく,ある完全に規定された目的即ち幸福に関しての実践的必 一 2_ 然性を示すところの一つの仮言的命法が問題となっているのである。両方の仮 言的命法の差異は,蓋然的命法は可能な目的を所有しており,実然的命法は現 寒の目的(幸福)を所有しているということである。幸福に到達するためには 自己の幸福への手段を選択する熟練も必要とされる。この特別な熟練は,カン トによって利巧(Klugheit)と名づけられた。それ故仮言的命法は,熟練の規 (7) 則であるか利巧の忠告であるかのいずれかである。利巧の忠告は単に可能的で あるような意図に関係するのではなく「何びとにも確実にかつア・プリオリに 存することが前提され得るような意図に関係する。かかる意図は実に人間の本 (8) 質に属するものだからである。」ここでペイトンの型式にもどってみよう。実 然的命法においては,現実の目的即ち幸福が存在している。ペイトンの型式に おいて, 「ある一定の目的」は,質料としての幸福によって補充される。目的 は従って定まることとなる。ペイトンの型式の意味を保持するためには,ひと はある一定の目的が幸福であるところの特別な場合を考えるか或いは目的が実 然的に存在しているのだから不変化詞wennをweilに変えることによって, もう一つの新らしい型式をっくらねばならない。新らしい型式は次のようにな るであろう。 「理性的に行為するあらゆる存在者は,幸福を欲するから,この 幸福への手段として善であるところの行為を欲するのがよろしい。」この型式 は目的に関しては唯一の可能性を持つだけであるが,しかしこの目的に達する 手段に関しては多くの可能性を持っている。なぜなら幸福の普遍妥当的な定義 というものが無いからである。各人が幸福を自己の把握を通して理解してい る。しかも経験だけが我々に何が我々を幸福にするかを示す。しかし,もとも と道徳の法則は幸福説(Eudtimonismus)から,はっきりと切り離されねばな らない。というのは幸福はカントによれば徳への動機であることを許されない からである。なぜ許されないかと言えば,幸福は立法の原理として役立たない からである。カントはそれ故,仮言的命法を技術的であるか或いは実用的であ ると名づけはしたが,道徳的であるとは名づけはしなかった。定言的命法だけ (9) が道徳的である即ち「道徳に属する。」 一3 (3) 「実践的理性批判」における仮言的命法 カントは, 「実践的理性批判」において仮言的命法の概念についてわずかに 触れているのみである。仮言的命法とは「意志をただ単に意志として規定する のではなく,欲求された結果に関してだけ意志を規定する」ような命法であ (10) り,それは「単なる熟練の指定を含むものである。」彼はその際に「実践的指 定」praktische Vorschriftenと「実践的法則」praktische Gesetzeを区別す る。定言的命法だけが実践的法則であり得る。仮言的命法は「なるほど実践的 指定ではあるが, しかし法則ではない。」仮言的命法にあっては意志は,意志 がそれを欲求するとひとが前提するところの何か他のものへと指示されるので ある。この事を明らかにするためにカントは仮言的命法の次の如き例を挙げて いる:老境に入って窮乏しないために,ひとは若い時に働いて貯蓄せねばなら ない。この仮言的命法は「たしかに必然性をも含んでいる(必然性なしにはそ (11) れは命法ではない。)しかしこの必然性はただ主観的にだけ制限されている。」 仮言的命法の両方の様式即ち蓋然的,実然的という様式にカントは実践理性批 判の序論の脚注でごく手短かに触れている。しかし熟練の規則ならびに利巧の 忠告としての仮言的命法の概念を厳密化することは行なわなかった。それ故仮 言的命法の表示に関する限り 「道徳形而上学の基礎づけ」においての方が, 「実践理性批判」におけるよりも,はるかに詳しく説明がなされていると言う 事ができよう。 (4) 仮言的命法に対する様々な表現 カントが後の著作において仮言的命法と表示したところのものは「道徳形而上 学の基礎づけ」の中に既に含まれている筈のものである。この道徳形而上学の 基礎づけにおいて,カントは仮言的命法を細かく分類している。それを表にま (12) とめると次のようになる。 仮言的命法 1 蓋然的命法 (1)熟練の命法 ② 熟練の規則 . − 4 一 ㈲ 技術的命法(技術に属する) 皿 実然的命法 (1)利巧の指定 ② 利巧の忠告 ㈲ 実用的命法(幸福に属する) (4)利巧の命法 (5)勧告(consilia) ㈲ 自愛の命法(実践理性批判) 我々は熟練も利巧も人間の能力の中に根拠を持っているということを知った。 熟練あるいは利巧の連続的な発展が今日の文化を発生させたこと更にそれが人 (13) 間の文化的な発展を目的とするであろうことは容易に予測がつくことである。 それ故バオホは仮言的命法に文化的命法なる名を与えたのである。我々の知る 限りではバオホがカントの仮言的命法に他の名前を冠した唯一の哲学者であ る。勿論彼はその際に働らきの要求(Wirkensforderung)を説明しながら価値 倫理学の視点からそれを行なった:「各人が文化の普遍的な価値生活において まさに彼がそして彼だけが彼の特別な力と能力を持って成就したり作用したり することができるところのものを,成就し作用すること,これがこの要求の基 本的な意味でありその結果ひとはそれ故仮言的命法を文化的命法(Kultur− (14) imperativ)と表示することができるのである。」「文化的命法」という表示は非 常に的を射ていると思う。なぜなら行為における人間の作用だけが文化的分野 に関係するからである。文化はカントによれば自然の最終目的であり,また「文 (15) 化の最後的目標は完全な市民的憲法の達成」である。我々はここに仮言的命法 のカントの法哲学への接点を見い出す次第である。 (5) 仮言的命法は分析的 熟練の命法の可能性(如何にして熟練の命法は可能であるか)は,カントに よれば特別な説明を必要としない。なぜなら熟練の命法はすべて意欲に関する (16) 限り分析的であるからである。「目的を欲する者は,そのために必要不可欠な 手段を欲する」という型式はそれ故分析的命題である。目的の意欲の中に手段の 一 5 一 憩欲が既に含まれており,手段の意欲は目的の意欲の中から取り出されるうる からである。しかしどれが各々の場合において有効な手段であるかは,総合的 命題においてだけ示されうる。これらの命題はしかし理論的な種類のものであ る。利巧の命法もまた分析的実践的命題である。「なぜなら利巧の命法は熟練の 命法と以下の点でのみ違うだけだからである即ち後者にあっては目的は単なる (17) 可能的なものであり,前者にあってはしかし与えられているからである。」そ れ故二つの仮言的命法は分析的一実践的命題として把握され得る。両方の命法 にあってはある特定の目的の意欲が条件として前提せられているからである。 即ち仮言的命法は手段の意欲を,目的を欲している者に命令するのである。仮 言的命法のこの分析的性格によれば,当事者が本当に目的を欲するならば強制 を必要としないとさえ言うことができよう。しかし我々はこの点に深くは立ち 入らない。 (6) 仮言的命法に対する後期の表現様式 カントが彼の著作において術語(Terminologie)を変更したか否かは問題と なるところである。例えばカントは時々,術語「実践的」praktischを 「道徳 的」moralischの意味において,「実用的」pragmatischを「技術的」technisch の意味において使っている。その他にも初期と後期の表現様式に違いがあるよ うに思われる。 ①実践理性批判における表現様式 実践理性批判の中に次の如き文がある。 「自愛の原理はなるほど熟練(意図に 対する手段を見つけ出すという)の一般的な規則を含むことができる;それは しかし単なる理論的原理である。」自愛の原理は利巧の原理と見なすことができ る。というのは自愛と幸福とは同一だからである。そうであるならば結果とし て仮言的命法はもはや実践的原理であるとは言えないようになる。上に引用し た文に対してカントは脚注で更に注意を促している。 「数学や自然学で実践的 と言われる命題は本来は技術的と言うのがよろしい。なぜならこれらの学問は 意志の規定とは関係が無いからである。それらは可能な行為の多様性を示すだ けである。けれどもこのことはある一定の結果を引き出すには十分である。そ 一 6一 れ故原因と結果との結合を叙述するところのすべての命題と同様に理論的であ 9罰このことから,もしもひとが「技術的」という術語を道徳形而上学の基 礎づけの中の「技術的命法」と比較するならば熟練の規則が理論的命題である という結果も生じる。C・シュタンゲはこの比較を実際に行ないその帰結を引 き出している。 「もしも熟練の規則が技術的である場合,そしてもしも技術的 な教義が本来実践的命題ではなく理論的命題であるならば,熟練の規則もまた (19) 実践的原理ではなく,それ故にまた命法でもない。」 ②判断力批判における表現様式 後になってカントは自分の考えを仮言的命法は理論的原理であるという風に変 (20) 更したと考えることもできよう。カントは判断力批判の中ですべての技術的実 践的規則を純粋なる理論的認識の単なる帰結であると言っている。即ち「すべ ての技術的一実践的規則(技術と熟練一般の規則あるいは入間とその意志に影 響を与える熟練としての利巧の規則)は,その原理が概念に基いている限り, 単に理論哲学への添え物として数えいれられなければならない。なぜならばそ (21) れらは自然概念に従っての事物の可能性にだけ関係するからである。……」カ ントが道徳形而上学の基礎づけの中で示した彼の見解を変更した更なる例証と して次の箇所を挙げることができる。「実践的命題というのはなるほど事物の 可能性とその規定を合んでいる理論的命題から,表象の仕方に従って区別され るものであり,それ故に内容に従って区別されるのではない。法則のもとにお ける自由を観察している命題のみが実践的命題である。その他のものはすべて 事物の本性に属しているものについての理論以外の何ものでもない。ただそれ らは我々によって一つの原理に従って産出されるのであるが,そのやり方にだ け共通点を有している。即ち(同様に自然に属する)任意の行為によってそれ (22) らの可能性が示されるのである。」それ故実践的命題とは法則のもとにおける 自由を観察する種類のものである。それらは道徳的一実践的(moralisch−prak− tisch)である。ここで我々はカントが自由概念に関係しているところの道徳的 一実践的命題(道徳的一実践的規則)を技術的一実践的命題(技術的一実践的規 則)から区別している事に気をつけねばならない。それに従えば技術的一実践 一7 一 的命題は理論的認識からその内容によってではなくその表象の仕方によっての み区別されている。しかし一体,表象の仕方とは何なのか。コンテキストによ ればこの概念は型式化(Formulierung)と同義のように思える。実際にM・モ リッツは表象の仕方 (Vorstellungsart)を言葉の上での型式化(sprachliche Formulierung)と解釈している。彼によれば「実践的命題(道徳的命題を除 く)は,なるほど言葉の型式化に従って理論的命題から区別されているが,だ からと言。て内容に従。鯉論的命題から区別されるのではな繍この種の実 践的命題即ち技術的一実践的命題に関しては我々は更に判断力批判への第一序 論の中で次の文章を見い出すのである。 「すべての実践的命題即ち自然が含む ことのできるところのものを原因として恣意から導来する命題はすべて理論哲 (24) 学に属する。」純粋理性批判における実践は自然の因果性に対する関係を持っ ている。一方実践哲学における実践は自由に関係しているのである。それ故に カントはこの技術的一実践的規則を実践哲学から(即ち道徳性から)除外する のである。即ち技術的一実践的命題と道徳的一実践的命題との間には,内容的 な差異が存在する。それ故二種類の実践的命題が存在すると言えよう;それは 型式に従っての(技術的一実践的)実践的命題と内容に従っての(道徳的一実 践的)実践的命題とである。熟練の規則は技術的一実践的であり,道徳の命令 (法則)のみが道徳的一実践的である。熟練の規則は利巧の忠告を技術的命法 の一部分として含んでいる。道徳形而上学の基礎づけにおいては蓋然的命法は 熟練の命法と同一であった。カントはその際,既に触れたようにこの同じ命法 を技術的とも名づけている。 「技術的命法」とはカントが結局この種の仮言的 命法に対して妥当するとして取り入れたところの表現である。この事を我々は 判断力批判への第一序論の傍注における訂正によって知るのである。そこでは カントは次の如く言っている。「蓋然的命法」というのは正しい表示ではな い。「ここは,私が道徳形而上学の基礎づけで犯した誤りを訂正するのにちょ うど良い場所である。なぜならば私は熟練の命法について,それが条件付きで だけしかも単に可能であるような即ち蓋然的目的を命令すると述べた後で,私 はそのような実践的指定を蓋然的命法と名づけた。この表現には明きらかに矛 一 8 一 盾が横たわっている。私はそれらを技術的即ち技術の命法と名づけるべきであ (25) った」カントが「蓋然的命法」の表現の中に見い出すところのこの矛盾を我々 は如何に理解したら良いであろうか。パチッヒによればその矛盾は「……「蓋 然的命法』という表現であろう。なぜなら同じ命法が『分析的」とも名づけら (26) れているからである。」彼はここで理論的判断の意味における「分析的」という 言葉を考えている。そうすれば彼の解決方法は納得がいく。というのは理論哲 学における分析的命題はいつも自明(apodiktisch)であり必然的であり普遍妥 当的でありそれ故ア・プリオリであるからである。その場合もしもひとが判断 の論理形式を考えるなら蓋然的命法が必然的であるというのは不可能である。 「カントが行なっている判断論の術語の倫理学の分野での使用は,更に詳細な (26) 説明を緊急に必要とする」という譲歩にもかかわらずパチッヒは「熟練の命法 は蓋然的命法である」という命題の矛盾性を論理学の助けを持って解明したの である。しかし「蓋然的」という表現における矛盾を,「蓋然的」problema− tischはただ目的だけに関係しており,命法には関係していないと考える限り において解明することも可能である。カントは彼の訂正によってただ単に「蓋然 的命法」という表示の使用を避けたかったのであろう。もしも我々がカントが (27) 道徳形而上学の基礎づけの他の箇所で蓋然的命法を「技術的」と名づけたこと を思い起すなら,カントが行なった訂正は必要無かったとも考えられる。 ③ 道徳形而上学における表現様式 カントは「道徳形而上学」 (1797)においては定言的命法以外の他のすべての 命法を技術的と表示している。命法の蓋然的と実然的の区分は,この書におい ては問題とはなっていない。そこでは「定言的(必然的)命法とは,たとえば, 行為によって達成され得る目的の間接的な表現によってではなく,行為をこの 行為自身(その形式)の単なる表象によって,それ故直接的に客観的一必然的な ものとして考え且必然的にするところの命法である;他のすべての命法は技術 (28) 的であり,すべて条件付きである。」「条件付き」bedingtという言葉は仮言的 命法のしるしである。この箇所をカントの以前の表現様式(Fassung)と比べ ると,カントは今や技術的命法をもって仮言的命法と考えていると言うことが 一9一 できる。定言的命法の表示と定義は相変らず不変である。道徳形而上学におい て彼はまた,判断力批判における場合と同じく道徳的一実践的規則を技術的一 実践的規則から区別する。しかも技術的一実践的規則はその指定に従えば「す (29) べて自然の理論に依存している。」道徳的一実践的規則だけが哲学の実践的部 分と関係している。道徳形而上学の基礎づけにおける蓋然的命法と実然的命法 は今や技術的命法の概念の中にとけ込んでしまった。実然的一実用的命法(der assertorisch−Pragmatische ImPerativ)が,如何にして技術的命法になったか は,既に触れた箇所で明きらかな通りである。 「現実のその上主観的必然的目 的の条件のもとに命令する実用的命法あるいは利巧の規則は,また技術的命法 のもとにある(なぜなら利巧は自由な人間をそして彼らのもとでその上自己自 身における自然の素質と傾向性を,その意図のために用いることのできるとい (30) う熟練とどこが違うか?)」我々は今まで取り扱った命法を下記の如くにまと めることができる。 (7) 最終的な表示に従っての命法 (1)技術的命法(技術的一実践的規則) 1 技術的命法(技術に属する) 一目的の遂行の種類についての要求 皿 実用的命法(幸福に属する) 一幸福を形造るところのものの規定に関する要求 (2)定言的命法(道徳的一実践的規則) 技術的命法は一般的技術命法と実用的命法に分かたれる。実用的命法はなる ほど一般的技術的命法のもとにはあるが,しかし実用的命法は我々のもとでよ り大きな役割を演ずるべきである。なぜならそれは我々の幸福に関係している からである。既に述べた如く,幸福の概念は不定である。というのは「幸福の 概念に属するところのすべての要素がすべて経験的であり従ってまた経験に求 められざるを得なかったからである。その結果幸福の理念が成立するには私の 現在の境遇においてそして将来のいかなる境遇においても幸福の絶対的全体, (31) 即ち最大限の幸福が必要である。」技術的(実用的)命法の困難な問題がこのこ 一10一 との中に横たわっている。この理由から利巧はカントによれば我々にただ忠告 を与えるだけで命令を与えることはできないのである。カント自身明確な原理 をこの命法から閉め出した。そしてただそれに沿って人間が幸福になることの できる平均的な道程に関する個々のケースの一般化を行なうに過ぎない。彼は 述べている。「ひとは幸福であるために明確な原理に従って行為することがで きなくて,例えば養生,節倹,丁重,控え目などという経験的な忠告に従って だけ行為することができる。それにまた経験はかかるものが平均して幸福を最 (32) もよく促進するものであることを教えるのである。」 (8) 利巧に関して 批判的倫理学においてカントの意図するところは合理的な純粋倫理学を樹立 することであった。この観点に立てば経験的条件に基づく実用的命法は除外さ れねばならない。しかし他方では我々はこの技術的一実用的命法を尊重せねば ならぬのである。なぜなら我々はすべて自然存在者として経験の中に生きてい るからである。その場合幸福になるためにはひとは明確な規則に従って行為せ ねばならない。これらの規則の原型(Urtypen)は経験から派生したものであ る。そしてそれらの原型が規則となることができるためには,それらは規準と しての定言的命法によって吟味されねばならない。我々に格率に対する定言的 命法の型式を提供するところの普遍的な規準は正当な振舞に関する決定を可能 にすることであろう。この吟味の過程を通して多数の道徳的要素がより高い次 元で道徳的判断の統一へと促される筈である。そして定言的命法の所有してい ないところの理論的経験的基盤を仮言的命法が所有しているということがその 過程で効果を現わすのである。原型を見つけ出す能力はこの命法の能力即ち利 巧である。そして利巧はカントの定義によればすべての意図を「自分の永続的 (33) な利益のために合一する洞察である。」カントは既に純粋理性批判において「利 巧の教義においては我々が我々の傾向性から与えられたところのすべての目的 の唯一の目的への合一,即ち幸福への合一と,それに達するための手段の一致 (34) とが理性のすべての仕事をなす」と言っている。ここでは利巧の実用的側面が 述べられている。彼は「実用的」pragmatischという概念を次の如く理解して _11一 いる。 「もしも歴史が読者を賢く(klug)する場合,即ち世界がその利益を前 代よりも増大するには,或は少なくとも前代と同等にするにはどんな配慮をす ..・ (35) れば良いかということを世界に教える場合,歴史は実用的に把握されている。」 これらの事を考えに入れれば,ひとは利巧の規則(実用的規則)に従って感覚 界において一層良きものに向かうところの進歩を促すことができる。いわゆる ソフィスト的な利巧ばかりでなくポジティヴな利巧も存在する。道徳法則の適 用の際には利巧に対して活動の余地(Spielraum)が残される必要がある。な ぜなら真の利巧は明確な洞察として倫理学の領域で道徳的決定にあたることが できるからである。それ故我々にとって利巧が前面に押し出されることは重要 なことである。ペイトンもこの立場をとっているが彼は次の如く述べている (36) 「利巧の哲学は更にもっともっと探究することができる。」ペイトンによれば, 幸福というのは,利巧の原理を通すことによってただ単に格率であるのみなら ず実践理性の客観的原理でもある。利巧の命法は実用的であり道徳の命法(定 言的命法)は実践的である。語源的には「実用的」pragmatischも「実践的」 praktischも動詞π麺ττε〃(行なう)に由来する。カントの「技術的一実践的」 technisch−Praktischと 「道徳的一実践的」moralisch−praktischという表示は このことをうまく現わしている。 以上を総括してみると第一に言えることはカントは道徳的実践(moralische Praxis)と技術的行為(technische Handlung)の間に鋭い一線を画したと言 うことである。換言すれば技術的一実践的規則と道徳的一実践的規則を区分し たということである。その場合我々はpraktischという形容詞を仮言的命法の 際にも定言的命法の際にも重大に取り扱わねばならない。第二に,彼は技術的 行為は理論的知識の帰結として把えられるべきであると言っている。それ故技 術的一実践的規則(仮言的命法)は,その中で原因と結果の結合が行なわれる ような理論的種類の命題である。仮言的命法は一方では命題(判断)であり, 他方では即ち形式に従えば命法である。第三にはカントは利巧(Klugheit)を道 徳性(Moralitat)からは閉め出しはしたが合法則性(Legalitat)からは閉め出 してはいないということである。利巧は既に述べた如くアリストテレスにあっ 一12一 ては結果を予測し結果が意図に反しないように行為する知的な能力(qp6vna‘9) でありそして道徳的徳であった。カントにあってはしかし利巧は道徳的徳では ない。我々はこの概念を今日的視点において再び生かし,利巧の哲学もまた実 践哲学(praktische Philosophie)であり得るということを確認する試みを行 ないたい。それは道徳と政治の関係(人間は政治的存在であるから)を探究す ることによってはじめて可能になる。あらゆる行為は二っの領域にまたがって おる。「菩」と「悪」が相対している道徳的領域と,「正しい」と「間違い」 が相対している意志力と行為が問題となる技術の領域とである。政治的領域に おける行為は純粋に道徳的な領域における行為とは別の法則のもとにある。仮 言的命法の問題は政治の問題を包含している。政治は今日の世界で入間的行為 において大きな役割を演じているから一殊に我々が原子力時代における平和の 必要性を考える場合そうであるが一我々は次に政治の問題(利巧の哲学の一部 分として)に焦点をあてたい。その際に我々は最後には平和を達成することが できるであろう利巧の行為を政治という風に理解する。我々はひとが原子力時 代において自分の幸福(仮言的命法の目的)を平和の状態においてのみ享受す ることが可能であるということを否認することができない。 EXKURS:今日的視野における命法の意義 (1) 理論と実践の問題 政治的行為の現今の理論において実証主義者 (Positivisten) と弁証論者 (Dialektiker)の間の対決があらわになっている。この事は殊にドイツにおい て著るしい。弁証法はここでは既成のものあるいは諸学に対する批判としてそ して実証主義的思考からの解放の論理として理解される。両者の問題は理論と 実践の問題から派生する。この問題はカントはかの時代に論文“Uber den Gemeinspruch:Das mag in der Theorie richtig sein, taugt aber nicht fUr die Praxis”(1793)において詳述した。その際に彼は哲学的観点においてよ く根拠づけられた理論がそれにもかかわらず人間の行動の実践に対しては役立 つことができないという主張を拒否したのである。カントによれば「道徳にお 一13一 いて理論に関して正しいところのものはすべて実践に関しても有効でなければ ならなk(ll)という命題は一つの命令(Gebot)である。もしも我々が感性的存 在として傾向性によってだけ行為の根拠を規定する場合,理論と実践の間には 矛盾が生ずるであろう。そしてこの矛盾を避けるためには行為一般の経過と導 きが理性的目的の標準の支配化に,そして道徳的目的設定の理念の支配下に置 かれねばならない。なぜなら道徳は「我々が如何に幸福になるかを教えるのでは なく,いかに輻にふさわしくなる∼費」を教えるからである.しかにのことは カントが彼の倫理学において道徳的行為の基本原理並びに基本形式だけを探究 しているということを意味しない。具体的な行為への関係と人間の活動を樹ち 立て維持することは,同時に彼の倫理学の課題である。なぜなら道徳性の事柄に おいては先ず第一に行為が,そして行為の際にはいつも具体的なものが重要だ からである。そうでなければ倫理学は抽象的で現実から隔たったものとならね ばならない。人間は彼が目前にある具体的なケースにおいて,如何に自身対処 すべきかを確かめることができねばならない。その際に利巧が行為を指示する 能力として大きな役割を演じるのである。カント自身理論と実践を次の如く定 義している。 「もしも実践的規則が原理としてある一定の普遍性において考え られる場合,そしてその際に実行にあたって必然的に影響を持つところの多く の条件が度外視される場合,ひとは実践的規則の総体そのものを理論と名づけ 繍それ故力。トの臓によれば理論}ま一般的規則を並べたてたものである・ 既に我々は術語の分析によって実践的規則は技術的一実践的であるか或いは道 徳的一実践的であるかを知った。ここでは明らかに技術的一実践的規則が問題 (4o) となっておる。理論はもしも理論が「可能な命法への根拠を含んでいる」場 合,実践的であり得る。それ故上述の定義においては仮言的命法(技術的一実 践的規則一技術的命法)が問題とされている。実践とは 「ある一定の・一般 に,表象された行動の原理の遵守と考えられるところの,目的の働らきであ 9罰実践(原理に従っての人間の行為という意味での)は,自然法則(技術) の領域における目的の実現において成り立つ。政治はカントにとっては道徳的 自由からではなく自然の必然性から生ずるところの規則性を顧慮せねばならな 一14_ い実践である。社会の現実は自然の領域と技術的実践的なものの領域に属す る。社会にとって標準的な政治の規則は自然法則の分野にある。政治的行為の 機能はそれ故技術的一実践的なものである。政治行動は一方では権力の行使を 他方ではその保持並びに獲得を目指さねばならないが,両方とも技術的一実践 的見解を包含している。核兵器の開発とそれに付随する戦略兵器の開発によっ て我々は新らしい技術的一実践的見解の前に立たされている。理論と実践の統 一が今日ほど必要とされている時はない。この統一の契機は我々に技術的一実 践的能力を要求する。この能力をもたらす気力が利巧である。政治の現実は生 きた個々人に関係する。これらの個人は科学技術的に予想しがたいある一定の 昌自発性を発揮する。即ちひとが入間的個体に自発性(自由)を認めるや否や, 政治的行動の根拠に対する首尾一貫した問いかけが我々を純粋に技術的一実践 的なものを越えて形而上的なものへと常に導くであろう。換言すればそれよっ て政治的行動が道徳的行動へと転ずるのである。純粋な道徳性の契機が政治的 現実の中に横たわっていることを否定することはできない。しかし我々は最初 に政治における利巧の機能の探究を行なってみたい。この関連においてカント 自身次の如く語っている「政治は言う:「蛇のように賢くあれ」;道徳は制限す (42) る条件として付け加える:「そして鳩のように正直であれ」」 (2)歴史的な平和哲学と今日の平和研究 政治的行動は本質的に人間あるいは入間社会に関係する行動である。この本 質的な関連は政治的行動を法の分野に置きかえる。カントの法思想は国家学 (Staatslehre)と社会学(Gesellschaftslehre)を具体的な応用として包含して いる。彼はその際に永遠平和のための国際法の理念を発展させた。彼は政治思 想の最大のテーマは結局のところ永遠平和についてのものであった。平和は現 代の最も焦眉な課題である。カンFが「永遠平和のために」 (1795)を書いて から既に181年が過ぎている。その間に非常に多くの事が起こった。それ故我 々は今日の状況においてカントが「永遠平和」の中で書いたことを,すべてそ のまま適用することはできない。殊に二度にわたる世界大戦はその残酷さと規 模の大きさのために,平和について非常に真剣に考えねばならないという意識 _15一 をもたらした。既にカント以前にエラスムス(Erasmus v. Rotterdam),フラ ンク(Sebastian Franck),ペン(Penn),殊にアベ(Abbe vo11 St Pierre) ‘‘ orojet de paix perp6tuelle”(1713),ルソー(Rousseau)そしてペンサム(Ben− (43) tham)のような思想家達の種々の平和構想が出現したけれども,我々は哲学 的観点における今日の平和思想の出発点としてカントの「永遠平和のための」 理念を基点にすることに異論が無いと思う。今日ドイッでは確固とした一つの 学問になりっつある「平和研究」が話題にのぼっている。日本でもここ数年平 和研究の重要性が叫ばれている。周知の如く,アメリカ合衆国においてもまた ピース・リサーチ(Peace Research)の名のもとに既に早くから平和研究が行 なわれているがこの平和研究はしばしば,カーン(Hermann Kahn)が指摘し ている如く,アメリカに対する平和の条件を見つけ出すことを意図している。 「ピース・リサーチ」は,ヴィエトナムの場合にドミノ理論として見られた如 く,世界戦争の戦略ともなりうるのである。これに反してドイツの平和研究は 純粋に学問的分野であって国家に関係していない。多くの平和研究者は平和研 究は学際的な学問であると主張している。多くの知識,例えば社会学の,行動 科学の,心理学の,歴史の,経済学のそして政治学の知識がそのために必要と される。その際にひとは哲学がこの新らしい学問の基礎に置かれねばならない という結論に達する。もしもカントの永遠平和の理念が平和研究の基礎づけに 取り入れられるとするならば,そのことのうちに,平和研究への哲学の関与に 関する規準(Kriterium)を見い出すことができるであろう。 注 カントの著作からの引用は,すべてアカデミー版に拠った。 Kant, Immanuel:Gesamrnelte Schriften in 23 Banden, hrsg, von der K6niglich Preuβischen Akademie der Wissenschaften. Berlin 1910/56. (1) Kant, Immanuel:Grundlegung zur Metaphysik der Sitten, Bd IV. S.414 (2) Vg1. dazu:Bauch, Bruno:GrundzUge der Ethik. Dar皿stadt 1968(Un・ vertinderter reprografischer Nachdruck der Ausgabe Stuttgart 1935.)S, 129 「仮言的と言う言葉は漠然とした単なる条件付きの妥当性を所有しているので はないということに言及しておきたい。さもなくばこのことはまさに無意味な _16一 こととなるからである。仮言的命法の要求の妥当性は定言的命法のそれと同じ 位に漠然としたものではなく必然的なものである。仮言的というのは要求の内 容に関係するのではなく,作用におけるその表現に関係する。」 (3) Paton, H. J.:Der kategorische Imperativ. Eine Untersuchung uber Kants Moralphilosophie. Ins Deutsche ubertragen von Karen Schenk. Berlin 1962, S.132 “Jedes vernttnftig handelnde Wesen, wenn esβinen gewissen Zweck wi11, sollte die Handlung wollen, die als Mittel zu diesem Zweck gut ist.,, (4) Kant, Immanuel:a. a.0., S.414 f. (5) Kant, Immanuel:a, a.0., S.415 (6) Kant, Immanuel:a. a.0., S.415 (7.) Kant, Immanuel:a. a.0., S.416 (8) Kant, Immanuel:a. a. O. S.415 f (9) Kant, Immanuel:a. a.0., S.417 (10) Kallt, Immanuel:Kritik der praktischen Vernunft. Bd V, S.20 (11) Kant, Immanuel:a. a.0., S.20 (12) 同様の試みはモリッツによっても行なわれた。 Vgl. Moritz Manfred:Kants Einteilung der Imperative. Lund 1960, S.21 (13) vgl. Kant, Immanuel:Kritik der Urteilskraft Bd V, S.431 「任意の目的一般に対する理性的存在者の働らきを生み出すことが即ち理性的 な者の文化である。」 (14) Bauch, Bruno:a. a.0., S.130 (15) Kant, Immanuel:MutmaBlicher Anfang der Menschengeschichte. Bd VIII. S.17 (16) Kant, Immanue1:Grundlegung zur Metaphysik der Sitten. Bd IV. S.417 (17) Kant, Immanuel:a。 a.0., S.419 (18) Kant, Immanuel:Kritik der praktischen Vernunft. Bd V, S.25 f. (19) Stange, Karl:Der Begriff der‘‘hypothetischen Imperative”in der Ethik Kants. In:Kant−Studien 4(1900), S.236 f. (20) vgl.前出(2版言的命法の二つの様式 (21) Kant, Immanuel:Kritik der Urteilskraft, Bd V, S。172 (22) Kant, Immanuel:Erste Einleitung in die Kritik der Urteilskraft. Bd XX. S.196 (23) Mgritz, Manfred:a. a,0., S.63 (24) Kant, Immanuel:Erste Einleitung in die Kritik der Urteilskraft, Bd (25) Kant, Immanue1:a. a O., S。199 XXS.214 一17一 (26) Patzig, Gunther:Die logischen Formen praktischer Stitze in Kants Ethik. Kant Studien 56, S.248 (27) Kant, Immanuel:Grundlegung zur Metaphysik der Sitten. Bd IV, S.416 (28) Kant, Immanuel:Metaphysik der Sitten. Bd IV, S.222 (29) Kant, Immanuel:a. a.0., S。217 (30) Kant, Immanuel:Erste Einleitung in die Kritik der Urteilskraft. Bd XX, S.199 (31) Kant, Immanuel:Grundlegung zur Metaphysik der Sitten. Bd IV, S.418・ (32) Kant Immanuel:a. a.0., S.418 (33) Kant Immamuel:a. a.0., S.416 (34) Kant Immanuel:Kritik der reinen Vernunft. Bd III, S.350 (35) Kant Immanuel:Grundlegung zur Metaphysik der Sitten Bd IV, S.417 (36) Paton, H. J.:a. a.0., S.102 (37) Kant, Immanuel:Uber den Gemeinspruch:das Inag in der Theorie, richtig sein, taugt aber nicht fur die Praxis. Bd VIII, S.288 (38) Kant, Immanue1:a. a.0., S.278 (39) Kant, Immanuel:a. a.0., S.275 (40) Kant, Immanuel:Logik. Elnleitung. Bd IX, S.86 (41) Kant, Immanuel:Uber den Gemeinspruch:das mag in der Theorie, richtig sein, taugt aber n三cht fur die Praxis. Bd VIII, S.275 (42) (43) Ka且t, ImmanUe1:Zum ewigen Frieden. Bd VIII, S.370 vgl. dazu:Raumer, Kurt vol1:Ewiger Friede, Friedensrufe und Frie− densplane seit der Renaissance. Munchen 1953 一18一