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G・バッチェン 「明るい部屋: もう一つの写真小史」

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G・バッチェン 「明るい部屋: もう一つの写真小史」
Kobe University Repository : Kernel
Title
G・バッチェン「明るい部屋 : もう一つの写真小史
」(Geoffrey Batchen, "Camera Lucida : Another Little
History of Photography", in : Robin Kelsey and Blake
Stimson eds., The Meaning of Photography,
Williamstown: Clark Art Institute, 2008, pp.76-91.)
Author(s)
真部, 佳織
Citation
美学芸術学論集,5:54-57
Issue date
2009-03
Resource Type
Departmental Bulletin Paper / 紀要論文
Resource Version
publisher
DOI
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81002343
Create Date: 2017-03-31
「明 る い 部 屋 - も う ひ とつ の 写 真 小 史 」
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7691
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真部佳織
本稿 は、ジェフリー ・バ ッチェンの論文 「明るい部屋- もうひとつの写真小史」の紹
介である。バ ッチェンは受容史の観点か ら写真実践 を含めた考察 を行い、写真研究の方
0
0
5年に開催 された同名のシンポジウムに基
法論 について論 じて きた写真史家である。2
づ く論集 『
写真の意義』 に収め られた本論文 において、バ ッチェンはロラン ・バル トの
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『
明るい部屋』 を写真の理論書ではな く、写真の歴史 -物語 (
と試みる。つまりこの試みは、写真作品としての芸術写真 を扱い、線的に構成されて きた
ボーモン ト・ニューホールに代表 される写真史 1に対 して、 もうひとつの写真史を構築す
るものである。加 えてこの試みは芸術写真の周縁 にあると考えられて きたスナップ写真、
ヴァナキュラー写真 といった実践 を含め、「
写真 とは何 か」 という本質的な問いを前景化
する ものである。それゆえ本論文 は、従来の写真史以上 に広範 な写真 を考察 し、写真史
を語るための枠組みを構築するうえで有効な視座 を提供 していると言えよう。
現在、写真のための歴史的枠組み を設ける試みは方法論的な問題 に直面 している。な
ぜなら、写真の多様性 と遍在性 は伝統的な解釈や物語構造に抗 うか らである。そのため
バ ッチェンは写真 に関する言説の行 き詰 ま りを解消す るために、写真史 に体系的な変容
が必要だと主張 し、その変容 を促す可能性 を 『
明るい部屋』 に認める。 『
明るい部屋』 に
おいてバル トは、記号論やマルクス主義 を放棄 し、様 々な写真 に対す る個人的な語 りを
介 して 「
それなしでは 『
写真』が存在 しえない ような、『
写真』の基本的特徴や普遍性 」
2
を示そ うとした。従来 『
明るい部屋』 に関す る議論 の多 くは、ス トゥデ イウムとプンク
トウムの問題や、 レ トリックの複雑 さに焦点 をあてる ものであった。 しか しバ ッチ ェン
は、 このような観点以上 に 『
明るい部屋』 は広範な構造 を有 し、写真の歴史を綿密 に概
観 していると主張す る。そのためバ ッチェンは、『
明るい部屋』を理論書 としてではな く、
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写真史 (ahi
さらにバ ッチェンは、『
明るい部屋』の構造 を分析す ることを通 じて、バ ル トが提示 し
た二項対立 を明 らかにする。『
明るい部屋』 には様 々な二項対立が配置 され、その構造は
。これ らの二項対立は、私たち
ヴァルター ・ベ ンヤミンの 『
写真小史』3 と類似 している 4
が ダゲ レオタイプの表面 を眺めて私たち自身 を見 るように、作者/読者 を同化 させ、文
字通 り 「
写真」を論 じるための光/影 を表すメタファーである。さらに両者の類似点は、
写真 を引いて歴史的説明を加 える点、流動的な時間軸が見 られる点 にも見 られる。加 え
て、記憶の くいちがい 5や母の温室の写真の不在は、読者が各々のプンク トウムを投影 し、
失った愛 しい人 との関係 を想起 させ ることを促す。 これ らの点か らバ ッチェンは、バル
トとベ ンヤ ミンが ともに現実 と虚構 との境界 を横断 しようと試みていた と指摘する。
また、写真 史 として 『
明るい部屋』 を構成 しようとしたバル トの企 図 を示すために、
8
2
0年代か ら 1
9
7
0年代 に
バ ッチェンは写真の選択 に注 目する。本書で扱 われた写真 は、1
5
5
にわた り、著名な写真家 と無名の写真家双方の作品を採用 している点で恋意的な選択 で
はない。つ まりバル トは 『
明るい部屋』 を 「
普遍性」へ と変容 させ ようと目論 んでいた。
この 目論みはバ ル トが一人称 を採用 し、彼が書 き手であることを示 しなが ら主観的に記
述 していることか らも推測で きる。バル トはまた、写真家の立場か らではな く観客の観
点か ら語 りかけ、アマチュア歴史家が写真に対する見識 を持 ちうる可能性 を示す。すな
わち、バル トが構築 しようとしていたのは 「
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はな く、「ある写真史 ahi
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phy」なのである。加 えて、バル トはアヴァン
ギ ャル ドな写真実践 に対 して無関心である。 この無関心は、 アヴァンギャル ドな実践 を
特権化 し、美的/社会的/政治的なモデルを提供する美術史 に対するバル トの批判であ
る。近年で もボーモ ン ト・ニューホールに代表 される線的な写真史は、いまだ一般的な
写真史であ り続けてお り、起源 とオリジナリティーを強調 した年代記的な語 りの構造 と、
美術史的な価値体系 は維持 されたままである6
。 この種の写真史は、写真家や個 々の写真
について論 じているものの、歴史的な現象や文化的経験 としての写真 を考察 してはいな
い。その結果取 り残 されたままとなっている写真の受容や普及 について語 ることがバ ル
トの 目的であ り、その試みが写真についての言説 を拡張 してい くのである。
ただ し、バル トの 目的は先述 した二項対立 を示す ことではな く、前/後、写真/観者、
テクス ト/読者 といった二項対立間の揺れを示す ことであった。つ まり、これ ら二項対
立間の揺れはポジ/ ネガの ような写真の属性 における括れ と類似 しているのである。 『
明
るい部屋』の冒頭 においてバル トは、「
『
写真』 は薄い層をなす対象の部琴に属 していて、
その二つの薄い層 をこわきずに引 き離す ことは不可能なのである。たとえば、窓ガラス
と風景がそ うであ り、また、言 うまで もな く 『
善』 と 『
悪』、欲望 とその対象がそ うであ
」
る。 この二重性 は、頭で考 えることはで きて も、知覚することはで きない 7と述べ、続
けて 「
つねにそこに居すわっている 『
指向対象』のこの強情 さ」8が写真の本質であると
結論づける。つまり、『
明るい部屋』 におけるバル トの分析方法は、彼が写真の特徴 とし
て理解する二重性 を含んだ 「
基本的な特徴」に類する。例 えば、バル トによる写真 の本
質への探究は、一方で写真の複数性 に関 して、他方では写真 の唯一性 に関 してなされる。
同様 に、バル トは何の記述 もないブルーデイネの無題の写真の複製か ら 『
明るい部屋』 を
始める一方、母の写真 に対 しては長 々しい記述 を行 う。すなわち 『
明るい部屋』 におけ
る諸 々の要素は、一方が他方の ドッベルゲンガ-として現れているのである。さらに、題
名の選択 に もこの二項対立が見 られる。つ まり、 目のなかで捉 えたイメージをその人 自
身が見るという性質ゆえに、カメラ ・オプスクラに対 して、カメラ ・ルシダ 9 は完全 にプ
ライヴェ- トで個人的な体験 の装置である。 よって、写真 を見 る私たちの経験 に内的視
覚が寄与 していることを表すために、バル トはカメラ ・ルシダとい うタイ トルを選択 し
ていると言 えるのである。 カメラ ・オプスクラ/ カメラ ・ルシダの関係 はまた、写真 の
核心であるポジ/ネガの関係にも類 しているため、『
明るい部屋』それ自身が写真の よう
に構成 されていることが示唆 されている。 この ように、二項対立間の内破 こそバ ル トが
『
明るい部屋』 を通 じて組み入れようとした ものであるとバ ッチェンは結論づける。写真
におけるこの二項 間の揺れは、バル トのプンク トウムに関す る議論 において も維持 され
ている。先述 した二項対立間の揺れ と同様に、ここで問題 となるのはプンク トウム とス
トゥデイウムとの間の相違ではな く、揺れ動 く両者の関係性 である。写真 にとって重要
な要素 は補足的な ものであ り、それ らは写真のなかにあ り/ な く、 自然的/文化的な も
5
6
のであ る。そ して、一枚 の写真が ス トゥデ イウムに もプ ンク トゥムに もな りうるとい う
二重性 は 「それはかつてあった」 とい うことのみな らず、未来 に起 こる死 とい う悲劇 を
も意味す る。
以上の ようにバ ッチ ェンは、『
明るい部屋』 自身が読者 に対 して写真 と同様の経験 を与
えてお り、それゆえに写真 その ものについて記述 した写真 史であることを指摘す る。現
代 に立 ち返れば、 ロザ リン ド ・クラウス1
0が指摘 す る 「ポス ト写真」や、デジタル写真
の出現 とともに写真史が迎 えたアイデ ンティテ ィーの危機 は、技術的変化のみならず 「
写
真が もはや単 に写真 その ものではあ りえない」 とい う認識論 的かつ社会 的展開か ら生 じ
ていた。 したが って、私たちが今 日の写真 を考 えるため には、私たち自身のなかに生 じ
る写真 のアイデ ンテ ィテ ィーに対す る問いを考察す る必要がある。現代 の写真史家が抱
える課題 は、現代の写真 を語 るための歴史的枠組み を創造す ることなのである。
バ ッチェンを介 して、 『
明 るい部屋』 はそれ 自身写真 (ダゲ レオタイプ)の ように構成
され、様 々な二項対立 を提示 しなが ら、写真 を見 る際 に生 じる二項対立 間の揺れを体現
していることが明 らか となった。そ して、写真制作 のみ な らず、その周縁 にある写真実
践 を合意 したバル トの言及 は、バ ッチェン自身が他の著作 1
1で試みているの と同様に、既
存の言説 に対 して異 なる視 点 を提供す るものである。 しか し、 この ような試みののちに、
これ まで周縁 であった実践が周縁 の ままであ りつづ け られ るか、すなわち新 たに生 じた
枠組 みが、バ ッチェン自身が否定 していた ような規範的枠組みへ と変容 しないのか とい
う疑問が残 る。ただ し、写真史家が既存の方法論 を問い直す試 みが複数の 「
ある写真史
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phy」 を生み、現在の写真史が直面 している閉塞状態 を打開することに
は違いない。多様 な実践 を含んだ現代の写真研 究 にとって、本論文で提示 された二項対
立の揺れの場 とい う観点 は、「
写真 とは何か」 とい う本質的な問いを議論す る場 として有
効 なもの となるであろう。
(
まなべかお り :神戸大学 人文学研究科博士課程前期課程)
1 第一版は Be
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ロラン.
9
85年、1
5頁 ]
バルトの引用
バルト 『
明るい部屋一写真についての覚書』、花輪光訳、みすず書房、1
箇所は邦訳を参照 した。
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0.[ヴァルター ・ベンヤミン 『
図説写真少史』
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保曹司編訳、ちくま学芸文庫、1
998年 ]
4 2
4節からなる 2章から構成された本書の構造は、前半が後半の鏡像であるといえる。さらに用
語にも、外示/共示、ストゥデイウム/プンクトウムといった二項対立が採用されている。
5 『
明るい部屋』における首飾 りについての記憶のくい違いがその一例である。ジェームズ ・ヴァ
ン ・ダー ・ジー≪家族の肖像 ≫ (
1
9
2
6年)に関する記述のなかで、バルトは首飾 りをプンクトウ
ムとして捉え、同様のものをよく目にしてきたと述べる。しかし、≪家族の肖像≫における首飾 り
は真珠のものであるにも関わらず、バルトはその首飾 りを 「
金の細い組紐」であると記 している。
このように、バルトはおそらく故意に記憶のズレを生 じさせている。
5
7
6 近年 の ミシェル ・フリゾやメアリー ・ワ-ナ一 ・マ リー ンによる写真史は、ニューホールの写真
史 に広が りをもた らした ものの、や は り同傾 向の構 造 を維持 した ままであ る とバ ッチ ェ ンは指摘
している。
7 バ ル ト、同掲書 、11頁
。
8 バ ル ト、同掲書 、11頁。
9 カメラ ・ルシダは写真以前 にあ った写生器であ り、一方の 目をモデルに向け、他方の 目を画用
紙 に向けた ままプリズムを通 して対象 を措 く装置であった。
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08年 4月)において、
バ ッチェンの特集が組 まれ、トルポッ
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