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第2章1 ファーストコンタクト/シマ

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第2章1 ファーストコンタクト/シマ
第2章1 ファーストコンタクト/シマ
「どん底に落ちるのは一瞬だ」 という定型句に対し、彼、シマは言う。
「そりゃ、チンタラ落ちてたら這い上がれるだろ」。
事実、彼は一瞬で落ちた。
--1)不平等の仕組み
出身は島国「ジュリ」。
「家族は1人も知らない」。物心付いた頃から養護施設で生活、6歳で全寮制の学校に入る。
12歳までの義務教育を受けた後は、陸海軍の兵士を手広く養成する、防衛学校に入学。成績は
優秀で、卒業式では代表として答辞を読み上げた。
当時を振り返っていわく「施設で育ちやこうもなる」。規則の多い集団生活に慣れる、玩具が
なく、屋外で自身の身体を使って遊ぶ、等々が授業に活きた、と。事実、入学者の半数を同様の
施設の出身者が占めていた。彼らの目的は修学、続いて就職、生計の途の確保であり、又、施設
でも幼少時から「兵隊さん」を職業の選択肢の1つとして提示していた。
連合軍の年少部隊ほどでないにしろ、国内では出身による差別、との批判もある。が、シマ含
め当人達は、「仕方もない」と諦め気分。寧ろ自ら「先ず出身で差がついて、更に成長の中で段
々と広がる、不平等が世界の仕組みだ」と言い切っている。
シマ個人は防衛学校について「良い場所だった」とも。何よりも衣食住が保障され、彼の場合
は努力も一定認められた。更に入隊した先でも、幹部候補と一目置かれ、「幅広い視野を」とい
う理由から上層部から派遣を打診され、受諾。3年の期限付きで連合軍に異動する。21歳だっ
た。
--2)世の中馬鹿ばっか
派遣兵は世界各国の連合軍の拠点に配置されるが、何れにせよ、前線から少し離れた、比較的
、安全な場所での活動が多い。危険な場所は先ず年少部隊、が原則である。
シマも同様だった。所属は情報部隊。表向きは、現地の部隊の報告を中央の司令部に、司令部
の指示を部隊に伝達する、という仲介役だったが、裏向きは部隊を監視し、内通者や潜入者を摘
発する、いわゆる見張りだった。従事する中で、連合軍の表に出せない部分、いわく「余計なこ
と」も知っていった。
派遣されて2年目、彼が「どん底に落ちた」、直接の原因は次の事件だった。
連合軍の年少部隊の15~18歳の少年4人が基地の近くで14歳の少女を暴行、殺害した。
懲役20年の判決が下ったが、ガソリンを撒いて火を点け、悶えながら焼け死ぬ彼女を囲んで笑
っていた、という残虐さから、世間はより重い処罰を求めた。しかし軍の裁判所は判決を変えな
かった。冤罪だったからである。
派遣兵が暴行事件を起こし、連合軍の年少部隊に押し付ける、ということは実は度々あった。
他にも重傷を負って復帰が不可能と見るや、エデンに被験体として提供する等、年少部隊の処遇
には目を覆うものがあった。
これについて、シマは画像、音声等、データを収集し始めた。現状を白日の下に曝すべく。「
善い悪いより、好き嫌いでしか考えてなかった」「嫌いだったから、嫌がらせの1つでもしてや
ろうと思った」と言いながら、似通った生い立ちの年少部隊への好もあったのかもしれない。
しかし、その企ては失敗に終わった。自室の戸が開き、同じ部隊の兵士が2人入って来て、彼
の両脇を固め、部屋から連れ出した。行き先は訊くまでもなかった。左の1人が低い声で言った
。「ロリコンと薬中、どっちがいい」。つまりは暴行犯か薬物中毒者に仕立て上げてやる、とい
うわけだった。年少部隊と同様に。「全く汚職に欠かない職場で」と吊り上げた、口の端を殴り
付けられた。それでも彼は吐き捨てた。「どいつもこいつも、バッカじゃねえの」。
--3)使い捨ての人間
連合軍の中央部の兵舎は、派遣兵の、連合軍の、特定者の、というように、3種類に分かれる
。前2者は先に述べた通り。特定者は、重大な命令違反を犯す等、特に注意が必要とされた者達
である。兵舎は電流を巡らせた柵に囲われ、各室は二重に施錠されている上、全室に監視カメラ
が付き、トイレに行くにも監視役の同行が必要、という独房さながらの場所である。
しかし派遣兵の場合、違反があった時点で本国に送還されるので、入ることはない。つまり、
入るというのは、本国が彼を切り離した、それ以外の何でもなかった。
彼を支配したのは、脱力感だった。食事はおろか、ベッドから起き上がる気力もなかった。風
呂にも入らず、異臭を放ち出す身体を、「腐ってしまえと思っていた」と言う程、自暴自棄にな
っていた。「あの時、やっと、本当に理解した。自分は使い捨てられる側の人間なんだ、と」。
しかし数日後、そんな彼の部屋の戸を叩いたのは、軍法会議に引っ張り出す兵士でも、死神で
もなく、「そうですね、悪魔の代理人、とでも言いましょうか」と微笑む、得体の知れない男、
マヤだった。
第2章1 ファーストコンタクト/マヤ
彼、マヤは言う。
「代理人、鏡。私は何処にもいません」
--1)誰も彼を知らない
「気付けばミズホの研究室の副主任の席に座っていた」というのが周囲の印象である。一応、
履歴書上はミズホと同じデメテルの出身。しかも同大学に同年に入学。飛び級のあったミズホに
2年遅れて卒業し、有名な医療機器メーカーに就職。その後エデンに転職し、「気付けば」とな
ったわけだが、言うまでもなく易々と座れる席ではない。しかし彼を追及しても、「色々あった
ような、なかったような」とはぐらかされるだけだ。
全体的に掴みどころがない。外側に向かって垂れた眉と目尻、フンワリした栗色の癖っ毛、微
笑を絶やさない口許。柔和、の2文字が真っ先に思い浮かび、人当たりも良い。しかし初対面の
み。その後は相手に拠る。いわく「善意に善意、悪意に悪意で答えているだけです」「他人は自
分の鏡、私は貴方の鏡というわけで」。温厚に冷淡、善良に邪悪。真っ二つに分かれて何とも言
い辛いが、1つ確実なのは、ミズホいわく「あー言えばこー言う」だろう。しかし、独り言も含
め口数は多く、正しくは「どう言わずとも何か言う」。
--2)救世主
「マヤはエデンのイエス」だと言う研究員は多い。ミズホが神、以外が人。マヤは神の言を人
に伝える、両者の媒介者、キリスト教のイエスの立場にある、というわけだ。
本人いわく「プリンターに過ぎませんよ」。ミズホの言葉を理解し、改めて説明出来れば誰で
も代われるのだそうだが、それこそが誰にも出来ない。伝達する内容が極めて難しく、その上、
ミズホの伝達能力、何より意欲が著しく低いからである
指示を理解出来ない室員に業務は割り振れない。結果として彼が全てを一手に引き受け、只で
さえ短い命を更に縮めることになりかねない。マヤは、エデン、ミズホ、双方にとっての救世主
。というのも言い過ぎではない。が、再びマヤいわく「その逆のような気がしますが」。これは
、実は正しい。
--3)エックスデー
ミズホの「神託」を理解し、整理した上で室員に伝え、その意見を反映し、業務を割り振り、
指示を出す。彼の日々は、この繰り返しである。恰も両者の板挟み、心労絶えず、と思われるが
、「寧ろそれ以外はやりませんからね」と割り切って気楽そうである。室内に留まらず室外との
交流にも乗り出し、とりわけエムスリーとは代表のマトリックスと私的な付き合いもあって、技
術協力が進む。
そして、その日も「交渉」の名目で外出した彼を、不審に思う者は誰1人いなかった。口許に
いつもの微笑がなかったことに気付く者も。
第2章1 ファーストコンタクト/ミズホ
1)ミズホ
エデンを、否、時代を代表する天才と言われる。精神病の治療、中でも薬による治療を中心に
様々な成果を挙げる。中でもウツ病の新薬、「イノセンス」の開発が有名。服用を始めた1日内
に強い効果が現れ、反面で副作用や依存性は弱い。今やウツ病の第1処方薬となっている。
更に、統合失調症に対する気分安定薬等、他の薬にも同様の改良を施し、今や精神治療薬の市
場はエデン社の商品が9割以上を占めている。そして、薬はエデン、エデンはミズホ、という定
式を世界が認めている。
しかしこれについて、ミズホ自身は素っ気ない。富と名声も、彼いわく「紙キレとウワサ」。
しかもエデン所内の半数は彼と同じく意に介さずか、もしくは忌み嫌い、「下心の塊であり、グ
ロデスクなもの」と言う者も。彼らの目的は1つ「真実」であり、その解明が重要で、応用等は
オマケに等しい。
しかし一方で、それを「夢見がちな少女趣味」と嗤い、商品化を急ぐ下心の塊も半数を占めて
いる。両者が牽制し合う状況が、エデンの均衡を取り、成長を促している。
--2)生活破綻者
目的は何であれ、エデンの研究者は一様に研究熱心であり、通勤に便利な敷地内の寮に入って
いる。大小様々な部屋が、家族の有無と地位に応じて割り振られ、室主任では一戸建て全てにな
る。とりわけ立派な豪邸がミズホのものだったが、彼は帰りもせず、研究室内の仮眠所に篭って
いた。
仮眠所はベッド、机、キッチン、ユニットバスが1部屋に収まったアパートの1Kのような作
りで、この点はどの室も同様である。しかし第1室の場合、ミズホの要求を受け、マヤがマトリ
ックスに「多少の」改造を行わせている。
至る所にセンサーが埋め込まれ、彼の心身の様子を読み取る。応じて大小様々なロボットが衣
・食・住、全てを提供する。一切がロボットに管理された非人間的な生活である。しかしミズホ
いわく「自分で選びたいとは思わない」「興味がないから。勝手に決めてやってくれて、助かる
」。切って捨てたようなのは口振りより、物質的な、精神的な豊かさだった。
--3)白い狂気
彼が求めたのは1つ。人間の精神の解明だった。手掛かりになる、と見るや何事にも取り付き
、知識を吸収、消化していった。「獲物を追う捕食者のそれ」と言われるほど、その方法は凄ま
じく、彼が「学習」した後の室内に表れている。
大量の書物等が山と積まれ、殴り書きがノートを食み出て床にも続き、叩き過ぎてキーの割れ
たパソコンが何台も転がり、そして彼自身はその中心で気を失っている、という。非道い有り様
だった。しかしそんな惨状を生み出す度に彼は著しく成長していた。それを一時でも止めたのは
、前後にも1つの出来事だけだった。
--4)タウベ
タウベはミズホがエデン入社時に配属された室の主任だった。薬による治療の他、軽作業を行
うことで脳の血流を活性化させる作業療法、カウンセリング等、様々な治療法に通じ、それらに
改良を加え、当時のエデンを代表する研究者でもあった。
薬の処方だけでなく、症状の変化に合った適切な処方を行う。又、薬の効果をより引き出す為
にも、他の治療法と組み合わせる必要がある。として、医師又は本人がインターネットを介して
専用サイトに症状を入力し、エデンがそれに応じて様々な治療法を一括して提供する、という仕
組み、「エデンズライフ」を発案、実用化した。これによりエデンは薬の市場と医療の現場、両
方を掌握していった。
「研究者というよりより狡い商売人」と陰口を叩く者もいるが、タウベは元はカウンセラーで
もあり、彼を良く知る人々は「温厚篤実そのもの」と口を揃える。
何より「宇宙人の方が未だ取っ付き易い」というミズホに根気良く接し、いわく「打ち解けた
、と思ってるんだけどなあ」。本人は自信なさげだったが、ミズホが所内、否、人生の中で1番
多くの言葉を交わした人物は彼である。ミズホいわく「心が読めるのかもしれない。それぐらい
言い当てられて腹が立ったから、敢えて自分から言うようになった」のだそう。
18歳のミズホに38歳のタウベという組み合わせは恰も父子だったが、「父親はいないから
、よく分からない」。そして唯一の肉親だった母親も、彼のエデン入社時に心不全で死去してい
る。
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5)落下する鳩
12月8日死去、享年40歳。というタウベの死は今なお不可解な部分が多い。直接の死因は
全身の打撲である。19階から落下し、地面に激突して負ったものだが、しかし落下の原因が分
からない。飛び降りたか、突き落とされたか。自殺、他殺、あるいは事故か。様々な憶測が飛び
交っている。その7日前の出来事についても。
それについても少し。第1発見者は、当時入社して直ぐのマヤである。タウベの研究室の1人
だった彼は、ある日の退所時に、準備室で、引っ繰り返った棚と、その下敷きになったタウベを
発見した。棚には毒物を含め様々な薬が保管されており、タウベは全身に切り傷と大火傷を負い
、意識不明の重体だった。
マヤの適切な応急処置もあって一命は取り留めたが、その7日後、病室から姿を消し、間もな
く変わり果てた姿で発見された。奇しくも第1発見者は、又してもマヤだった。
なお、これらの件について、ミズホとマヤに重点的に取り調べが行われたが、目ぼしい情報は
得られなかった。仮に殺人であったとして、彼らに犯行は不可能だった。が、イソラいわく「全
部、知ってると思いますけど。少なくとも副主任(マヤ)の方は」。
--6)ミズホ主任
タウベの死後、ミズホの状況は激変した。彼に代わり室主任に命じられ、精神病の中でも特異
とされる「妄想現実化症候群」が研究対象として示された。なお、対象はその室主任が決めるの
が一般的である。
同時に副主任となったマヤが「分かり易い嫌がらせですねえ」と溜め息を吐く傍ら、ミズホ本
人は一心不乱に、「それは痛々しいほどに」没頭し、いよいよ心身を損ねていく。過労で失神し
ても、気が付けば点滴台を杖に代えて研究室に戻り、制止の声も「うるさいなあ」と一蹴、実力
行使に出ようものなら室から締め出す、という始末。
「それは決して、何かに夢中になることで大切な存在を失った空しさを埋める、という一種の
逃避の類ではなく」「彼の中の辛うじて人間だった部分がタウベで、それがなくなってしまった
、という感じでしたね」とマヤいわく。
食欲不振に体重減少、睡眠障害、「母さんがいる」という幻視、「殺される気がする」という
強迫概念、これは思い込みだけではなさそうだが、等が見られるようになり、躁うつ病と診断さ
れる。自身で作った薬を服用していたが、これは直ぐ効果が現れる一方、強い副作用と依存性を
伴い、寧ろ心身を損ねていった。
--7)アポカリプス
彼自身を代償に、不可能と言われた妄想現実化症候群の解明、治療法の確立は、数年の内に成
し遂げられた。これは「症状」を自らの意思で制御し、「能力」として用いる「コツ」を独自に
身に付けた、スオウとの出会いも大きい。彼の協力の下、ミズホは一時的で、不安定で、制御不
能だった症状を、持続的で、安定的で、制御可能な能力として定着させる為、薬、電気ショック
、カウンセリング等の様々な方法を統合した、「アポカリプス」を組み上げた。
しかしその容体は悪化の一途を辿り、ついに大量の薬を一度に服用し、意識不明の状態で見つ
かる。又しても第1発見者はマヤだった。彼は集中治療室のガラス越しに、ベッドに縛り付けら
れたミズホを見つめ、そして出て行った。「交渉です」と言い残して。
第2章1 ファーストコンタクト/シマとマヤ
1)眠り姫は生き返る
シマの自暴自棄の生活、生きも活きも程遠かったが、も5日目になっていた。が、彼自身は日
にちを憶えていなかった。閉め切った部屋の中で、更に布団の中に1日中引き篭もっていれば無
理もない。
そうした状況は、日々をより長く感じさせた。知らない場所に向かう時、焦燥と不安から、行
きは長く、逆に帰りは短く感じるのと同じである。いつになれば、行き着く、逝き着く、息尽く
のか。彼は悶々としていた。
しかし、過酷な訓練にも耐えた身体は、少しの放置にも大して堪えていなかった。そして、部
屋の戸口に立ったのは死神ではなく、更に性質の悪い人物、マヤだった。
--2)あの鐘を鳴らすのは
チャイムが鳴った時、シマの頭は目まぐるしく回転し、それを押した人物について、3つ候補
を挙げていた。
第1に監視役。彼がその部屋に入って以来、少なくとも1日2回は訪れ、戸の横に食事を載せ
た盆を置く度、合図として一押していった。なお、他の部屋は室内にもチャイムがあり、室外に
用事の時に呼び出すことも可能だが、彼の部屋はトイレ、シャワーが備え付けで、室内で大体が
事足りていた。
一見手厚いように見えるが、意図は寧ろ逆だった。容疑者や被告人は証拠の隠滅、又は自殺の
防止の為、余分な設備の付いた場所に置かないのが一般的である。もはや彼はそう見なされてい
なかった。死んでも構わない。何か適当な実験があれば材料として引き渡す。ケージのネズミだ
ったのである。
話が逸れたが、その日は既に2度、監視役が来ていた。そして彼は、実はその盆からパンを取
って食べていた。その日だけでなく1日に1回は、何か食べていた。
何事も煩わしく、只管に寝ていたくても、空腹で目が覚めた。もうろうとしながら立ち上がり
、戸を開け、手に取り、口に運んでいた。後にマヤに「大したもうろうですよ」、ガープに「け
っこういい加減だよね」、イソラに「自他に甘い」と言われる所以でもある。しかし言いたい放
題である。
第2に取調官。裁判に際して被告人であるシマの意見を聴取する、と一度訪れたきり。彼が何
も言わないでいると、一方的に告訴状を読み上げ、裁判の日にちは未定と告げて帰った。シマは
分かっていた。裁判は開かれない、彼は二度と来ない。
以上で候補の内の2つは消えた。
残った第3は、暗殺者等だった。その場で殺す。又は実験室に連れて行く。前者が良かった。
生き長らえた分だけ非道い目を見る。そう心では自暴自棄になっていても、布団の中で、身体は
構えていた。
生と死の根は1本、命である。よって死を求める者は生に対しても同様である。マヤいわく「
禁欲的なものほど官能的なものです、生臭坊主と言うでしょう」。これは違う気がするが。
何にせよ彼はその典型だった。死にたがりの生きたがり。それが危機にあって明らかになった
のだが、しかし、実は危機ではなかった。というのも、訪問者の次の一声は「お久し振りです。
シマさん」。一気に緊張が解けた、代わりに疑念が湧き起こった。誰だ。
--3)鏡の国の男
「イヤ、初対面ですけど」。開いた戸から不審そうな顔を突き出したシマに、男はアッサリと
言い放った。「こう言っておけば攻撃されないと思って」。正直が過ぎて図々しい、という印象
は、その後より強まった。「お邪魔します」と言うや否やで室内に滑り込み、ベッドに腰を下ろ
して「臭いですね」と顔をしかめ、挙げ句「脱いで下さい」「ハア?」「臭いので。シャワーを
浴びて下さい」「嫌だと言ったら」「私が脱ぎます」「ハア?」「嫌でしょう、だからシャワー
を浴びて来て下さい」と支離滅裂だった。
マヤの「交渉」は常にこういうふうだった。相手の最小限の情報を頭に入れて、後は特に考え
ない。向かい合えば相手の1番都合の悪いタイプの人物に化けられる、それが特技だ、と自負し
ていた。なお、その時のシマにとっては「得体の知れない人物」だった。それは他の誰より、生
と死の両方に対する強い欲求を持て余していた自分自身だった。
マヤは鏡だった。相手にとって都合の悪い部分を取り上げ、自身に映し出し、防御し、攻撃し
た。「最大の敵は自分だと言うでしょう」。その時、マヤの映し出したシマの一部分は、「生き
ようとする意志」だった。彼はマヤを通じ、「ツベコベ言わず生きろ」と言い続ける自分自身を
目の当たりにして、堪え切れず立ち上がり、シャワー室に向かったのである。
--4)嘘を暴け
「申し遅れました。私こういう者です」とマヤが差し出した名刺に、シマは絶句した。軍の関
係者だと当たりを付けていたのが、「エデン第1研究室 副主任 マヤ ハナフサ」。
「エデンの第1って、オイ」「ご察しの通り、彼のいる部屋です」。彼というのは、他でもな
いミズホである。前主任の不審な死もあって、ニュースにも出ていたと言っても、人の名も顔も
直ぐ忘れる彼が直ぐその顔を思い浮かべたのは、単純に、美人だったからである。
表彰式等、芸能人と並ぶ機会に付けて「どちらがどちらか分からない」と揶揄されており、シ
マも初めて見た時は「冗談だろ、と思った」と言うが、これはこの時のマヤも同じだった。ミズ
ホでなくシマに対して。
髭を剃り落とし、濡れた髪を後ろに流した風呂上がりのシマを、しげしげと見て一言。「意外
に良い男ですね」「ゲイか」「残念、バイです」。但し軽かったのは口だけで、次に言い出した
用件は殊の外に重大だった。「貴方を第1研究室主任、ミズホの護衛役に任命します」と。
真っ先にシマが抱いたのは、戸惑いだった。理解できなかった。連合軍にとって不都合な情報
を収集し、その漏えいを試みたという、言わば前科持ちに、連合軍と関係が深いエデンが、最重
要人物であるミズホの護衛を任すとは。罠か何か、でなければ「馬鹿だろ」。しかしマヤは「貴
方が」と返し、更に続けた。「真実を知りたくはありませんか」。
その言葉は、シマの胸をトン、と打った。彼の持った情報は、ごく一部に過ぎなかった。例え
ば年少部隊について。戦場での差別、非人道的な扱いはしばし目にしていたが、以外の場所、何
か事件の実行犯に仕立てられ、拘束され、移送された先。そこでの扱いは、人聞きにしか把握し
ていなかった。
司令部の捏造した情報を元に年少部隊を弾劾する人々と、自身で収集はしても不完全な情報で
司令部やエデンに絶望する自分。両者は大して違わないのでは、という自問があった。そこをマ
ヤは上手く突いた。「真実を知りたくはありませんか」と。
シマは考え込んだ。罠かとも思ったが、こんな一兵士に罠をかける必要があるのか。エデンは
自分が立場を利用して機密を盗み出す、又はミズホに危害を加えるとは考えていないのか。しか
し又しても見透かしたように、マヤは言った。「貴方が真実を知ったところで、それを公にする
とは考えていません」「どうして」「多分できません、というか、できなくなると思います」。
シマが俄かに信じられなかったのは、その話の内容ではなく、そう言ったマヤの表情だった。
「有り得ないのに、寂しそうに見えた」。それに絆されはしなかったが、どの道を選んでも一寸
先も見えないのだし、いざとなれば死ねば良い。「分かった」。半ば投げやりに、シマは役を引
き受けた。
--5)もう1人いる
その後、2人が連れ立って出た、後の部屋に未だ1人がいたことに、シマは気付かなかった。
マヤは知っていた。何せ彼が万が一の為に伴って来たのだから。初めは戸口の外で。シマが風呂
にいる間に、部屋を通り抜け、窓を開け、ベランダにヒッソリと立って、成り行きを見守ってい
た。場合によってはシマを制止させるべく、一応は構えながら。
シマは鋭い。しかし気付かなかった。相手が相手であった。
ベランダから部屋に戻ったのは、少年だった。黒色の髪に黄色の肌、幼い顔立ちと小柄な身体
等はアジア人らしく、だから真っ赤な瞳が奇妙に目立った。
ふとジャンパーの右ポケットが震えて、彼は端末を取り出した。マヤの声がした。「お疲れ様
。もう大丈夫ですよ」「初めから大丈夫だった気がする」「保険ですよ、保険」「まあ、良いけ
ど」。副主任の腹はイマイチ探りかねる、と思いながら、彼は通信を切った。すると又震えた。
又してもマヤである。「言い忘れました。明後日の検診、忘れないで下さいね。スオウ」「分か
ってる。行くよ。ミズホが大丈夫なら」。
第2章2 エデンズライフ(1~2)
1)神の見えざる手
「行先、間違えたか?」「んなわけないでしょう」と直ちに一蹴される、とは分かりながらも
、シマは思わず言い出していた。 その光景を前にしては、無理もなかった。
外見は、研究所だった。入り口に立つ門番の倍の高さ、幅のある塀が、敷地を取り囲む。扉の
横に設えられた小部屋で身体検査を受けてから、敷地内に入った。マヤいわく「薬の材料です」
という、芥子や大麻もあるらしい、草花の植わった畑を抜けると、左右の端が同時に見えず、頂
を見上げようとして倒れそうになる、という巨大な建物がある。その市場を独占する大企業の中
心部に相応しい様子だった。
屋外で又も「くどくどと」検査を受け、やっと室内に入った。受付はなく、直ぐに1本廊下が
あって、部屋に続く。「誰もいねエのな」と言うシマに、マヤは「所員は各自の研究室にいます
。来客はあまり。別部門の、いわゆる御目付役が時々各室を見て回るぐらいで、部外者は立入禁
止ですし」。シマが「なるほど」と言えたのも、しかしそこまでだった。
廊下の先の部屋は、シマいわく「水族館みたいだった」。拓けて、中央に巨大な円柱が1本。
それ以外は何もない。円柱は無色の光に満ちるのだが、その中に時折、黄や白の四角が現れ、消
えていく。目を凝らすと、文章や数式が書き込まれている。その内容、よりも装置から、一体何
なのか見当も付かない。よって「行先、」と零したのだが、マヤは「神の見えざる手。所員の意
思伝達の手段です」と言い、更にエデンの内部について、粗々と説明をしたのが以下である。
この研究所は主に病気の分析、及び薬含め治療法の考案を行い、会社の経営や商品の生産及び
販売は別の部門が行う。
所内は合計で13の研究室に分かれており、各室に主任と副主任が1人ずつ、更に十数名の研
究員がいる。主任が研究テーマを定め、他の室員は指示に従って研究に取り組む。室員は主任の
力量や研究テーマにより増減する。
そうして室同士の競争を促す一方、所一体としての成果を目指す仕組みもある。それがエデン
内部の対話システム、「神の見えざる手」である。これにより各室は現在の自室の状況を全室に
向けて報告する。そして室同士は状況を把握し合い、時に助言も行う。
敵に塩を送るのではない。全ては記録されており、本部の人事部に提出される。発言は評価さ
れ、給料や昇格に反映される。自室の研究に意義が見出せず、他室の研究への関与に注力した結
果、異動となる場合もある。所内の知識や人材を効率的に配分する。それが「神の見えざる手」
である。
「四角の1つずつが各室の報告、又はそれに対する意見というわけです」「へえ」「色が違う
でしょう。白が報告、青が質問、黄色が助言で」と言うマヤを、シマは遮った。1つ異なる色を
見付け、指差して。「あれ、赤だけど」「あーあれは」とマヤが言い出すのを待たず、それは爆
発的に増えた。爆竹が炸裂するように。
見ながら、溜め息を吐いて「特別な、或る方の発言です。起きたようですね」と言うマヤに、
「起きたら困るのか」と訊きながら、だろうな、とも思った。思い当たる限り、或る方は1人し
かいない。赤い四角が画面を呑み込んでいくのを見ながら、マヤがポツリと呟いた。「赤は大体
、危険や誤りを示す色ですが、これは人間のエラーと言うのですかね」。
--2)第1研究室
2人は廊下を進んで行った。先程の部屋から全部で13本が放射状に伸びており、各研究室、
実際は実験室や準備室を含めた1棟を指すが、続いている。
「この部屋を中心に各棟1層、全部で13層が囲うように配置されているので、上空から見る
とバームクーヘンのように見えます」「そういや腹が減った」「案外図太いですね」「お前が言
うか」と言い合う内に突き当たりに着いた。なお、ミズホの第1室はバームの丁度真ん中の層に
位置する。
重厚な戸の先に、白の壁に藍の絨毯、橙のソファと木目の低いテーブルがあった。応接室のよ
うだ。マヤが一歩踏み入れると、少女、但し生身でなく立体映像が現れた。シマに小さく会釈し
、はにかみ「いらっしゃいませ。お飲み物をお持ちします」。
映像とは分かりながらも目を瞠って、「逞しい想像力だな」とシマが言うと、「イエ。実物は
あれ以上で。作業効率化、が言い訳の遊び心で、知り合いの画像を使っています。名前はサラ。
あ、男性です」「役に立たねエ嘘は吐くな」「真実です」と又も言い合う内に、次は部屋の右の
扉が開いて1人が現れ、シマは絶句した。先ず、不意を突かれたからだが、何よりその姿形、そ
して格好について。
20歳ほどか。顔も身体も、一通り成長はしているが、未発達な部分が残る。薄らと丸みはあ
っても、膨らみには達しない。年齢も性別も不確かだが、兎に角、美しい。正に水も滴る何とや
らが、しかも全裸に白衣1枚という格好で出て来た。シマの反応は尤もだった。
しかし彼の方は対称的だった。シマを見ても、少し眉を顰めたのみ。歩み寄って「そんな格好
で」と襟を引き合わせるマヤにも、呑気に「誰か来るって言ってなかった?だからシャワー浴び
たんだけど」。しかし誰が来るか知らず、よって相応しい服装が分からず、連絡を取ろうとした
時、2人が入って来たらしい。
シマは黙っていた。肌蹴た胸に乳房はないが、一方で胸板という力強さもなく、手足も同じく
。華奢で、肌理が細かい。そして改めて顔を見た。完璧だった。又も立体映像か、とも疑うシマ
の心中を察したのか、彼は言った。「触りたいならどこでもどうぞ。でも、処女じゃないよ」。
そう、初対面でトンデモな暴言を吐いた彼こそ、「申し遅れましたが、彼がミズホです」「分
かってる」「しかし理解は出来ても納得は、ですかね」「全く」。
絶体絶命、一転して一体全体。その中で彼のエデンズライフは始まったのだが、マヤいわく「
寧ろ天国より地獄かもしれませんが」「それも全く」。
第2章2 エデンズライフ(3~6)
3)シマの1日
「非道い顔ですね。勿体ない。なけなしの存在意義を投げ打って」
この男には何を言っても火に油。なら何も言わなければ良い。というのが、シマが半月余りを
エデンで過ごして思い知ったことの2番目だった。1番目は、マヤの言う通り、存在する意義が
ロクにない、ということだった。 顔はともかく、自分はこの室に必要ない。
第1室に入ったシマの1日は以下のようだった。
出退勤、という区切りはない。命ある限りが就業中だ。業務の内容は単純明快。「手段は選ば
ず。兎に角、主任を守って下さい」とマヤは言った。
常にミズホの様子を把握し、適切に対処する。それは容易だった。把握と対処の繰り返しは、
戦線と同じだ。その上、相手は非力、どころか無力。シマについても敵対心、どころか意にも介
さない。手、どころか口も出さない。シマいわく「もはや生気すらない」。
シマには私的な時間も、空間もなかった。辛うじて仮眠所の一角の折り畳みのベッドが1台。
しかし室の設備は「全部、自由に使って」とミズホ。家なき子への思いやりではなく、「訊かれ
るの、面倒だから」「そりゃ有り難い」。
設備は台所、風呂、トイレ等々、単身用のアパートほどに揃っていた。その上、「飯」と言え
ば「今日は炊き込みご飯に大根とイカの煮物、なめこ汁だよ」。「服」と言えば「今日は半袖。
暑くなるよ」。「ヒマ」と言えば「テレビ?お喋り?」。部屋に埋め込まれた人工知能、愛称は
モデルの少年から採ってサラ、が至れり尽くせり。
尤もシマの場合、そんな便利、快適さも「退屈だ」と一蹴し、「自分でやる」と言い出したの
だが。「軍人のモットーは先ず自助だ」と、朝食の支度を始めたシマに対し、ミズホは「アホら
しい」、マヤは「素晴らしい」。更に小声で、「この部屋は人を駄目にしますよ」「尤も、駄目
になるならないより、人か否か、という話ですが」と続けた。言わずがなミズホを指して。
--4)ミズホの1日
そんなミズホの1日は以下のようである。
大体、8時に起床、日付が変わった2時に就床。その間の18時間は、先ずは自室のテーマに
取り組む。時々、神の見えざる手に、本人いわく「ちょっかい」を出す。
シマが入った時に見た赤い四角は、ミズホの発言を示す色だった。一言で十年を進める、と言
われるそれも、本人にとっては「思い付き、ちょっかい」だから異常である。マヤいわく「人間
のエラー」が尤もだった。
睡眠以外の生理的な欲求は大体、何かと同時に処理される。なお、処女云々の発言はあったが
、シマの見る限り性欲はない。3大欲求の中での順位付けは、食、睡眠、性だが、上位2つの前
に、彼の場合は労働、という概念もないかもしれない。マヤいわく「子供が積み木で遊ぶのと同
じ。無我夢中というか。誰よりも彼が神の見えざる手に導かれているようです」。
一極集中。それ以外は無防備。だが守る必要がない。というのは、ミズホは所外に出ず、所内
の防犯システムは万全だから。予め許可を受けた者以外は入れない。万一彼らが危険物を持ち込
もうとしても、体内のものも検知され、その場合、光線で身体ごと焼き捨てられる。なお、門で
の身体検査は、持ち込みを防ぐよりも余計な犠牲者を出さない為らしい。
システムへのハッキングの可能性も極めて低い。世界一のエンジニア、ハッカーと名高いエム
スリーの2人が、システムを設計、管理している。2人がシステムを乗っ取ってミズホに害を為
す、という可能性も同じく低い。とはシマ自身が、彼らと画面越しに付き合う内に感じ取った。
いわく「変態が変人にハマってる」。
よって自分は不要である。存在の意義、為すべきことがない。そしてそれを見出すべく動き回
ることも出来ない。その不満で一色の顔を見て、やはり宥めるより茶化すのがマヤであった。
--5)マヤの1日
一方、そのマヤの1日は、上の2人とは全く異なっていた。9時に「おはようございます」、
18時に「お疲れ様です」、と呑気な様子はその時だけで、間は寧ろ逆だった。
ミズホの室は主に3つの部屋に分かれる。主任のミズホと副主任のマヤの部屋、ミズホが私物
化し、生活する仮眠所、他室員の部屋だ。シマは先2つの部屋でミズホと共に過ごし、よってマ
ヤの様子も大体は把握しているが、彼いわく「どっちがエラーなんだかな」。
先ず机にパソコンを2台置き、両手で同時に操作する。左手で会議用の書類を作成し、右手で
メールの返事を打ち、挙げ句、口で今後の予定をミズホに説明する。3方に顔を持つ古い神の如
く、1人3役を、しかも休みなく続ける。かと思いきや、一斉に止めて立ち上がり「17時まで
外出します」と言って出ていく。そして予定通り戻り、定時で切り上げる。「凡人ですが、並大
抵の雑務について3倍は手が速いです」「それ、凡人なのか」。
そして、その日も18時、「お疲れ様です」とマヤは言い、室を出て行く、と思いきや。ミズ
ホに向かって、更に声を掛けた。「主任、1つお願いが」「何」「シマさんを明日の朝まで借り
られますか」。思わずシマは吹いた。「お前何考えて」「やだなア。男2人の飲みニケーション
ですよ」「お前と飲む酒があるか」「吐いて捨てる程ありますよ」。
盛り上がる2人、と言うかマヤの様子を、珍しくもミズホは少し見ていた。マヤは常に突拍子
もなく、を装って機を伺って準備している、とは彼も気付いていた。尤も、何の準備かは分から
なかった。シマを雇ったのも関係があるのか、と考え始めたが続かず、直ぐ「ていうかどうでも
」となるのが性分と、薬の副作用だった。
かくして2人は送り出され、店の個室で向かい合って、「非道い顔ですね」と相成ったのであ
る。なお、その卓には後1人が加わった。「いきなり呼び出してすみません」「構いません。初
めまして」と現れたのは「初対面ですよね、シマさん、スオウです」。
--6)フェイク
人は見た目が9割だと言うが、その先入観は又、9割方覆されるものである。
研究室の資料の扱いは、機密も含めて杜撰の一言だった。一応は「真実を知る」という目的で
エデンに来たシマである。これは据え膳と、初めは人目を憚って、言うなれば盗み見ていたが、
読み耽っていた時に、先ずはミズホに見付かった。しかし彼は一目置いたのみで、以後は気に留
める様子もなかった。寧ろ「部屋の物は自由に、って言ったよ」とも。
訝しかったが、好機を逃す気もなかった。退屈もあって熱心に読み込んだ。やがてマヤの目に
留まり、流石に見咎められるか、とも思ったが、「室内の者は皆知っているので」と又しても。
挙げ句「大半は意味不明だと思いますが、それが普通ですから」と励ましにも似た言葉に、「そ
りゃどうも」と返す他無かった。
しかしマヤの言った通り、資料は難解を極めた。大部分はミズホの覚え書きで、マヤが再構成
したものは別の場所に保管されていた。研究員ですらマヤの注釈と修正なくして理解出来ないも
のを、元一兵士が、ネットで手掛かりを集め、6割方でも読み下したのは、一言で執念の成せる
業である。
そうした過程を経て、彼は第1室の取り組む「ID計画」について、相当な情報を得ていた。
「スオウ」と呼ばれた、目の前の少年が何者か分かる程には。
どんな化け物かと思いきや。「初めまして」と会釈して、マヤを挟んで席に着いたスオウは、
見る限り、全く普通の少年だった。目立つ部分はなかった。黒髪に黄を帯びた肌。切れ長の目に
小振りな鼻と口。典型的な東亜人だった。しかし1つ、真っ赤な瞳を除いて。両耳の小さなルビ
ーのピアスと合わせて、シマいわく「眼が4つあるみたいだった」。
見つめながら、シマは先に読んだ内容を思い出していた。個人の幻覚を現実化する、「リアル
化症候群」。その症状を制御し、能力として用いる「能力者」。それは彼いわく「超能力戦士み
たいなもん」、ミズホいわく「当たらず遠からず」。スオウは1人目の能力者であり、頭の中で
火の燃える様子を強く思い浮かべることで、その幻を視て、現実化する。
よもやガセではなかろうが、現実離れの感は否めず、信じ難かった。自分の目で見ないことに
は。
という思いが顔に出たのか。スオウは「百聞一見、ですね」と呟くと、隣の席の客が残してい
ったカクテルのグラスを引き寄せ、自分の正面に置いた。そして、縁に差した輪切りのオレンジ
を見つめた。瞳が光った、と見えたのは、炎が映り込んでいたのだろう。オレンジは瞬く間に火
に包まれ、青色の液体に落ちた。海に沈む夕陽のように。
息を呑むシマに対し、スオウは吐息し、言った。「先ず対象を決める。焦点を合わせる。燃え
ている様子を想像する。それだけです。戦車も人間も、何でも燃える」。シマは驚いた。それは
能力を見たことより、スオウの素っ気ない言い方について。「壊れてんな、って思った」。同時
に侮った。
リアル化症候群の発症は、強い心的外傷が引き金になるという。発症こそせずとも、心的外傷
から人格形成に支障を来した者は、年少時から周囲にいた。つまり彼の置かれてきた状況も、良
好ではなく、寧ろ劣悪だった。しかしその中で、自分は踏み止まってきた。
「壊れんのは弱い奴」で、比べて自分は強い、という自負があった。それは能力者に対しても
。敵わない相手ではない、とさえ思った。
しかし、それは引っ繰り返った。スオウが注文した定食を平らげ、シマとマヤと他愛のない会
話をし、やがて席を立った時に。
彼の後ろを通り過ぎた、男が倒れた。腹を押さえながら崩れて、その手からゴトリ、とナイフ
が落ちた。スオウが固めた拳を解いて、それを拾い上げた時に、ようやくシマは理解した。何の
目的かは知らないが、男は自分達を狙っており、スオウが1発の殴打でそれを止めた、と。
気付きもしなかった、と呆然とするシマに対して、スオウは相変わらず素っ気なく、マヤに向
かって一言、「いつも言ってるけど、変装ぐらいしたら」「その代わりに両手に華です」「あ、
そう」。
やはり狙いはマヤだった。しかし当人は、「所内の抗争で、時々こういうことがあります」と
恰も他人事で、全く死ぬ気がない。という図々しさに腹を立て、八つ当たりも含んで、シマは「
それなら先に言っとけ。いつも思うがな、どんな研究所だよ」「主任を見れば分かるでしょ」「
見られたもんかよ」「美人でしょ」。
シマが突っ掛かりマヤが茶化す、という2人の御決まり、不毛なやりとりだったが、それを見
て、スオウは口の端を緩めた。小さくだが、笑った。その表情が、「なんつーか、コイツ、こん
な風に笑うのか、って」「それは一目惚れと」「テメーと一緒にすんな」。しかしそれも一瞬で
、彼は直ぐ唇を引き結んで、「失礼します」と頭を下げ、直ぐに店を出て行った。足早に去って
行くのを眺め、マヤいわく「珍しいですね、スオウが動揺するなんて」「動揺しないガキの方が
珍しいだろ」「ですね」。
「人は見た目が9割」という定型句に、シマはこう付け加えている。「その9割は大方、後か
ら引っ繰り返る」のだと。スオウについて。そしてマヤとミズホについても、又。
第2章3 イノセンス(1~3)
1)嘘を暴け
スオウの件を含め、改めて振り返ってシマいわく「研究所と中の奴らには、騙された、って感
じだった」「多分、俺の方に下手な思い込みがあった」。
先ずは研究所について。一言で悪の拠点と思っていたのが、実際はそうではなかった。
連合軍が、心身に著しい支障を来し、使い物にならないとした者を、エデンに実験の材料とし
て提供する。エデンは彼らも活用して研究を行い、新しい薬やプログラムといった成果を軍に還
元する。それらは患者の回復、そして復帰に不可欠である一方、治療に依存する者をも生み出す
。彼らはやがて廃人となり、自らも実験の一材料となる。
兵士の生命、財産を貪り、肥大化する巨悪の巣食う場所。それがこの研究所だ。とは、殆ど彼
の思い込みだった。マヤいわく「一世紀前のマンガじゃあるまいし」。
第1に利益の配分は本部の取締役会が決定する。役員が大部分を取って、所員に残る分は雀の涙
ほどらしい。
そして、少なくとも当所内では人体実験はしていない。研究所は原則として計画の立案を行う
。言わば頭脳であり、実験等を通じたデータの収集や薬の調合等は、手足にあたる別の組織、場
所で行われている。
何より人体実験、それ自体が少ない。軍から材料の提供があっても、大体は不適当と返され、
内部で処理されていた。寧ろ第1室、というかマヤについては、それでも、と軍が無理に押し付
けた一部の者を、助手等として雇用すらしていた。シマいわく「キツめ美人」の秘書のエウロパ
、「アフリカ辺りのマフィアのボス」の運転手のガニメデ。何れも外出が多く、シマとの交流は
少なかったが、「両方、俺より強い」。なお、諸々から察するに、年少部隊の出身らしかった。
「慈善事業のつもりか」、俺も含めて、と突っ掛かったシマに、マヤは相変わらず「有能な人
材は食み出すのです、私のように」と受け流しながら、少し置いて、小声で付け足した。「目に
付く場所で、誰であれ人が死ぬのは、私は辛いですねえ」と。
この時、シマはマヤという人物を少し理解した。変人だ。この場所で真っ当なことを言ってい
る。
--2)心と身体
シマにとってマヤは、変人扱いはしても、理解、共感できる部分があった。「自称悪人の善人
、という点で似た者だから」がイソラ、「それ、イーもだし」がガープの見解である。なお、イ
ソラの方は当時アイロニに加わって直ぐだった。
寧ろその逆、御手上げだったのがミズホだった。天才の考えは凡人には理解出来ない、と放り
出す、かと思いきや、彼はそうはしなかった。というのも、資料を解読する上で、その著者の情
報も一応は手掛かり、出来る限り収集したい。しかしこの親にしてこの子、というか、この性悪
にしてこの悪文で、「結局は意味不明じゃねえか」と気も挫かれながら、彼は実に直向きに取り
組んでいた。
その内に、だった。シマとミズホ、2人の間に段々と会話が生まれた。初めはシマからの一方
通行、事務的な連絡だった。「そこ散らかってたやつ、あっちにまとめてあるから」「そう」、
「副主任、帰り少し遅れるらしい」「そう」という具合の。ちなみ、文書の整理や所員の評価等
、細々した雑務はマヤの担当だったが、彼は先ずエウロパ、更にシマにも委ね始めた。しかし本
来は、副主任でなく主任が割り振り、若しくは自ら行うものである。が、そうミズホに迫っても
「そう」で一蹴だったに違いない。
ミズホは話さない。「話すことがない」と自分からは話さず、話し掛けられても「そう」。折
に皮肉を言うぐらい。比べるとシマは話す。マヤは話し過ぎて「悪いけど、うざい」とスオウに
すら言わしめる。
シマの話の内容は、やがて連絡以外にも及んだ。「俺、先に寝るから」。これにもミズホは「
そう」で、更に「別に言わなくて良いよ」と続けた。しかしその素っ気なさに寧ろ燃え上がる、
というのを、シマ自身は「天邪鬼だ」と、一方マヤは「恋ですねえ」と定義している。
熱心に話し掛けるシマに、やがてミズホは根負けしていった。実のない会話が増えていった。
「おはよう」「そう」。「そう、は変だろ」と食って掛かっても「そう」。しかし「だーかーら
ー」と続けると、ようやく不機嫌な顔で「オハヨウ」「良くできました」という具合に。
「お前の生活、ヤバいだろ」「食べるとか、寝るとか、あんまりしたくない」。シマが手許の
1枚を持ち上げて「コレ、そんなに好きか」と言うと、少し置いて珍しく長く話した。「頭の、
中が直ぐ満杯になって、眩暈がして、出さないと倒れそうで、それに掛かり切って他が手に付か
ない」。シマが「底の抜けた船みたいだ」と言うと、頷いて「それしかしないように、頭の中を
弄られたかな」。
シマはボンヤリと考えていた。研究、それ以外で溢れ返るミズホが見たい。同時に「処女じゃ
ないよ」と言った時の様子が浮かんだ。あの美しい肢体を、余さず他者に曝け出したことはある
のか。暇も性欲も持て余して、と笑って済ませ、られずにそれは尾を引き続けた。抱きたい、と
思った。
--3)暁と血
シマがエデンに引き入れられ、半年が経った。マヤいわく「シマさん、変わりましたね」。兎
に角は「お前の放言に慣れた」と返す余裕を持った、という点が先ず。しかし彼以上に変化があ
ったのが、「何と言うか、変わり果てましたね、主任は」。
その豹変ぶりについて、マヤが挙げた点、及びシマの補足が以下である。「挨拶する」「あっ
ちからはしねえよ」「毎日食事を摂っている」「鳥のエサみてえな量の」「そして寝る」「椅子
で」。「でも引っ包めて、前より別人なみにマシなんですってば!」「マシってお前」。マヤに
しては珍しく熱の篭った言葉だった。
人間は基本的に集団で行動する生物である。生存する上で他者を必要とする。しかし一方、個
体数が増え過ぎた結果か、集団内で過ごすことに不快感を持ち、他者を排斥する傾向も又強まっ
ている。
という現在において、人々には単独と集団、両方の行動の均衡を保つことが求められる。しか
しその均衡については、個体差が大きい。1日も他者と会話がないと不安、という者も、月に1
回で十分、という者もいる。
何にせよ各自が適当と感じる距離に、同様の感覚を持つ人間がいるのが望ましい。ミズホにと
って、シマはそれだった。過干渉でも疎遠でもなく、煩わしさも寂しさも与えない。このことに
ついて、ミズホいわく「空気みたいだ」「存在感が薄いってか」「空気が増えたみたいで、息を
するのが楽になった」。つまりマヤがシマをミズホの側に置いたことで、彼の状態は安定したの
だが、しかしその矢先、事件は起きた。
「お前、何してんだ」。それは、明け方に起こった。午前5時、という暗い内に、珍しくミズ
ホが目覚めた。直ぐにシマも。長年の訓練の成果はあるらしい。そして同時に、何だ、と身構え
た。様子が変だ。興奮しているのか、呼吸が荒い。発作等はなかった筈。夢見が悪かったのか、
にしては大袈裟な。しかも、どうやら泣いている。
こういう場合は聞かなかったことに、というのがシマ含め男の良心、「メンドくせ」が本心だ
が、その時、それができなかったのは、シマが正直だったのでなく、一刻を争ったからである。
ミズホはベッドを飛び降り、駆け出した。広くない部屋なので、直ぐ壁にぶつかる。すると拳
を叩き付け、しばらく続けると又駆け出し、叩き、を繰り返す。何者かに追われて逃げている、
という様子だったが、しかし追う者はいない。
シマが近付き、打ち付けようとする左手を掴んだ。すると、更にミズホは叫び出した。「ごめ
ん、ごめんなさい、タウベ!」。それは先の主任の名だった。
第2章3 イノセンス(4~7)
4)過去に亡霊
第1室の主任のタウベが、倉庫の一角、倒れた棚の下で、全身火傷の重体で見付かった。
その時の副主任のミズホの様子も又、普通ではなかった。自宅の浴室で、シャワーを被りなが
ら気絶しているのを、様子を見に来た同室の者に見付かり、病室に運ばれている。本人いわく「
憶えていない」、近日中の様子から過労と診断されたが、事実は異なる。各自の胸中はいざ知ら
ず、出来事のみ述べると以下のようである。
タウベがミズホを強姦した。前々から、彼がミズホに何か特別な思いを抱くらしい、とは、マ
ヤのみだが感じ取っていた。しかしやがて屈折して暴走する、とまでは「自他共に認める変態」
でも思わなかった。
深夜から明け方の間、他の所員のいない研究室で、ミズホは暴行を受けた。その後、もうろう
としながら自力で自宅に行き、身体を洗おうとしたのか、シャワーを浴びながら気を失った。タ
ウベはその後、自暴自棄からか、棚を自ら引っ繰り返し、その下敷きになった。その場では一命
は取り留めたが、やがて窓から飛び降り、命を絶った。
という一連を、ミズホは忘れている。おそらくは自己防衛から。「頭の中が満杯」というのも
その一端かもしれない。それ以外のことをしない、思わないように。しかし体験自体はなくなら
ない。無防備な夢の中に、より凄惨さを増して立ち現れる。
マヤがシマを護衛を付けたのは、酔狂ではなかった。セキュリティを掻い潜り、ミズホに危害
を加える恐れのある者は、所内に1人だが存在した。他でもない、タウベの亡霊を宿したミズホ
自身だった。普段は側にいて、発症を抑制し、いざという時は無理矢理にでも取り押さえる。自
身の任務の本質を、シマはこの時に理解した。
--5)アイデンティティ
「聞いてない」「まあ、言ってませんからね」。全く悪びれないマヤの様子に、シマは脱力し
た。
その後、ミズホはシマに首を手刀で打たれ、気を失い、そして病室のベッドに紐で縛り付けら
れた。これはその部屋の前、ベンチに並んで腰を下ろしての会話だが、マヤは相変わらずだった
。この状況下こそ平常心を保とうと努め、ではなく「慣れましたしねえ」と、諦めが色濃い。「
寧ろ最近が何もなさ過ぎたんですよ」。
今更が過ぎたが、マヤはシマに説明した。前主任のタウベについて。ミズホへの接し方の変化
と、その結末について。その後のミズホについて。「過去にも同様の自傷は繰り返しています」
。シマは初対面の時を思い出していた。「アイツの身体に、傷はなかった気がするけど」。しか
しマヤは事もなげに言った。「消されますからねえ」。
ミズホは成功者である必要がある。精神病の薬を専門とする研究所の第1人者、それ自身が精
神を病んでいると知れたら、取引先、連合軍の信用を失いかねない。粗悪な薬品を売り込み、更
に症状を進行させ、利益を上げているのでは、と。
なお、ミズホの症状は過去の再体験を主とする典型的な外傷後ストレス障害だった。シマが来
る以前は不眠と集中力の低下も著しく、自ら薬を調合、服用していた。しかしこれは「麻薬に近
かった」とマヤ。「取り上げたら作って、飲んで、倒れて、の繰り返しで。私の方が参ってしま
いまして。だから貴方を引き込んだ」。
「どうして」。マヤは苦笑して「貴方でなければならなかった、というわけではないですよ」
。自分は選ばれた特別な存在、なんて自惚れも甚だしい、と茶化しながら、しかし付け加えた。
「でもね、貴方で良かった、とは思っています」「やはり回復はしなかった。でも進行を遅ら
せることはできた。それは多分、貴方だから」。そして頭を下げて「有り難う御座います。シマ
さん」。
何者も、すべきことを持って生まれては来ない。自分にはすべきことがある、と言う者は、そ
れは自ら選択し、決定したのだ。
自分が何をすべきかと悩んだことは、シマはなかった。生きる為に生きていた。施設で自分の
雑事、更に年少者の保育に追われ、入隊すれば訓練の日々。生きられても、その方法は選べなか
った。1本道を上手く走る、それに夢中だった。
しかし、途中から脱線し始めた。年少部隊の在り方に、ボンヤリながら憤り、記録を残し、挙
げ句に捕らえられた。そしてエデンに連れて来られ、かつての道に戻れなくなって、一応の安全
が確保された場所で、更に長い時間も与えられた。そして自分とは反対のようで、根本に似通っ
たものを持つミズホに接しながら、シマは強く考えるようになった。自分は何をすべきか。とい
うより、何がしたいのか、大切なのか。好きなのか。
--6)御先に失礼
シマがエデンに来て2年余が過ぎた。
更に変化があった。先ずはミズホ。症状は緩やかに、確実に悪化していた。過去の反復に苛ま
れ、暴れ、身の回りの物、伴って自らの身体を傷め付けた。しかしその後、気を失っている内に
全ては元通りになる。そして一切の痕跡が拭い去られた部屋に戻っては、又もや過労、と思うば
かり。自身の発作も、タウベのことも忘れている。次回までは。
しかし過去を引き続ける一方、現在を生きてもいた。新しい記憶を蓄積していた。主にシマに
ついての。例えば、料理が上手い。好物は余り物を掻き集めて、茹で、砕いた芋に混ぜて揚げた
、多分コロッケ。少年時代の思い出らしい。
休日に2人で外出、マヤいわく「これは、デートですよね」も何回かあった。行先は博物館等
の文化施設が多く、これはシマが言い出した。義務教育の頃はともかく、防衛学校に入学してか
らは、授業の内容は著しく偏っていた。その反動らしい。
熱心に見て回るシマに対し、ミズホは「もう知ってる」又は「興味ない」と一蹴する、かと思
いきや、満更でもなさそうだった。水族館の、異形の魚を並べた展示の中で、目を瞠るシマに「
1番珍妙なのは君だよ」と憎まれ口は叩いても付き合っていた。美術館の、1枚の絵の前で立ち
止まりもした。「どうした」とシマが訊くと、「似ていて」「何に」「デメテル。故郷」。
そして彼らをコッソリ眺めて、驚いていたのがマヤである。いわく「主任が可愛いなんてまさ
か」。それに「副主任がストーカーの方がまさかだ」と呟くのが、彼により尾行に巻き込まれた
スオウ。そして「スオウが可愛くなくなったのはイーが伝染ったかな」と嘆くのが、進んで付き
添ったガープ、という具合だった。
愉快の一言、ではなかった。全員に、これは一種の馬鹿騒ぎ、今だけだ、という了解があった
。やがて終わりが来る。ミズホが限界を迎える。しかし同様の危険を孕んでいた者は、実はこの
内の殆どだった。
先ずはシマである。いくらミズホと距離を縮めても、越えられない壁がある。発作の度に思い
知る。声を掛けても押さえ付けても、ミズホに届かない。
理解したかった。ミズホの恐怖を。その一方で不安、憤り、様々でごった返す自身の胸中を理
解して欲しかった。一瞬でも心身、存在の共有したい。平たく言えば、交わって一体になりたい
。そう、言い出せはしなかった。タウベがそれを暴力で叶えようとして、ミズホを壊した後には
。
気を失いベッドに横たわるミズホを見守る度、気が狂いそうだった。触れたい、いけない、の
板挟みで。欲求は日増しに膨れ上がり、やがて限界を迎える。それは辛うじて避けられた。その
先を行く者がいたのである。そんな気狂いは第1室にはミズホを除いて1人しかいない。マヤで
ある。
--7)私を忘れないで
尤も、狂人を装う、つまり狂人のフリは出来る。という例を1つ挙げておく。
もはや何十回目か、というミズホの発作の後だった。ミズホがベッドに横たわる、傍らでシマ
は椅子に腰を下ろし、本を読んでいた。人生を奉げ、というか奪われながら少額だったが、一応
は給料で、彼は本を買い集めていた。そして手持ち無沙汰の時に読んだ。天文学や物理、小説ま
で内容は様々だったが、ミズホが気付くのを待つ内に読むのは1冊と決まっていた。「多分呪い
だった」。このくだりを読み終えたら、前回と同様、ミズホは気付く。「おはよう」「にしちゃ
変な時間だ」、そんなやりとりを繰り返せる、と。
その時も幸いにか、ミズホは気が付いた。瞼を持ち上げ、睫毛に涙が付いていたので、瞬きで
払った。滴が頬を滑り落ちる。7色の光を含んで。虹は直ぐ消える。ガープいわく「命みたいに
」。状況が重ならないよう、首を振った。
シマを見留め、ミズホが言った。「また倒れた」「まあな」。その後は何も言わず、ミズホは
シマをジッと見た。目、鼻、喉、胸を下りて腿の上に本に置いた左手、及び腕を。それは包帯が
巻いてあった。しかも、首から吊っていた。全治に半月。錯乱したミズホが、グラスを投げて付
いた。同様の乱暴は過去にもあったのだが、シマが上手くいなしていて無傷だった。しかし今回
は下手を打った。
ミズホ自身は知る由もない。自責の念に駆られることも。だから「所内でどうして、そんな怪
我をするんだか」と一笑に付される。筈が、ミズホの頬が少し歪んだ。そして徐に、ソッと手を
重ねて言った。「ごめん。いつも」。
それは、有り得なかった。ミズホが自身の発作を、乱暴を憶えていない限りは。
「憶えていない」と、マヤはそう言った。しかし、シマは今更に思った。何で言い切れる。全
部でなくとも一部分なら憶えている、という可能性は大いにある。否、自分の他「馬鹿正直」な
者はともかく、理解の及ばない天才だ、忘れたフリも容易いのでは。
考えが込み入って、真っ白になった頭で、辛うじてシマは言い出した。「おまえ」、憶えて、
いるのか。だとしたら、どこまで。後の方は声にならず、唇だけ動いた。
ミズホが読み取ったかは分からない。しかし、彼は上体を起こし、シマを見上げ、顔を近付け
、そして、唇を合わせた。額を離れた桜の花弁が一瞬だけ触れ、落ちていく。そんな「悲しいほ
どの軽さ」で。シマは一層混乱していた。何で、という問いを目に汲んで、ミズホが答えた。「
君は忘れないで」。それだけ。
その後直ぐにマヤが入って来て、シマはそれ以上を問えなかった。その後は何事もなかったよ
うに、ミズホは振る舞った。
第2章4 ヘヴンリーブルー(1~3)
1)ヘヴンリーブルー
就職や結婚は、3年目が危機と言われる。中弛みする、若しくは耐え難くなる。かくして離職
や離婚と相成るのだが、エデンに来て3年、シマに降り掛かった危機は、より深刻だった。
「動くな」という声で、シマは気付いた。仮眠を取っていたのだ。その日はミズホは何か作業
で、マヤが付き添って別室に閉じ篭っていた。発作はその3日前にあった。マヤの「大体半月に
1回のペースですね」という判断は正しかったが、「だからしばらくは大丈夫です」というのは
、嘘だった、とシマは思い知った。
額に硬く冷たい感覚があった。つられて見上げると、銃身と弾倉。拳銃だった。常人なら動転
して騒ぎ立てもするが、絶体絶命の時ほどノンビリぐらいに構えるのが、訓練、と性格の半々だ
った。
さておきシマは落ち着いて、凶器と、その持ち主を把握していた。マヤの秘書のエウロパであ
る。普段のパンツスーツではなく、ワークパンツに防弾ベスト、ヘルメット、恰も兵士の出で立
ちだ。美しい身体の線が台無し、等という3文小説の文句を、考え付く暇も与えず彼女は一発、
撃った。額を撃ち抜きはしなかったが、左の耳朶の端と、髪一房が焼き切れた。そして「何も言
うな。両手を挙げて立て。前を歩け」。
シマは言う通りにした。一見は唯々諾々、要求に従う無力な者、と見せかけて胎の中では企ん
でいた。話も出来やしない。なら力で捻じ伏せる他無い。しかし分は悪い。拳銃対素手。寧ろ素
手でやり合っても、相手の実力が上だ。
「俺じゃなくて。運転手に頼めよ」「ガニメデは単純過ぎてもう飽きた」というやりとりを置
いて、訓練に付き合ったこともあったが、必ず負けた。兎に角、隙がないのである。辛抱強く好
機を待ち、一気に仕留める。マヤいわく「豹皮を着た女ではなく、女の皮を着た豹というかで」
。
とあらば取りうる手段は1つ。更に辛抱強く好機を待ち、仕留める。等とは思いつかず、只管
に逃げる、であった。未だ死にたくない。兵士を辞めて2余年。切り捨てられ自暴自棄に死んで
も良いと思った、かつてとは全く異なる。しかし、それには1つ条件があった。逃げる。但し、
ミズホを連れて。
とは意気込んでもエウロパには隙がなかった。振り返れもせず、目覚めて直ぐの一瞬、目に焼
き付いた光景のみから分析していた。
先ずは目的。よもや個人ではあるまい、彼女の後ろの組織の目的だ。組織についてはその銃か
ら見当が付いた。女の手でも持ち易い小型で、反動が少なく扱い易い。一方で破壊力は従来通り
。おそらく「沙華 改」。「沙華」は連合軍、身体が未発達な年少部隊で多用された銃だったが
、技術者の流出があって、別の組織で生産、更に改良され、その女性工作員が使用するようにな
った。それが「沙華 改」である。
そして、その組織の名は「ヘヴンリーブルー」。縮めてHB。世界最大の武装勢力、と言うと
巨悪らしいが、それも世界政府と連合軍側からの見解に過ぎない。
世界政府の目標は「自由で平等な世界の構築」である。法律、教育、貿易等、様々な分野で一
定の水準を定め、全ての国が達成することで、世界中の均一的な発展を目指す。しかし、水準を
定める時点で、様々なノウハウを持った先進国、カネを握った新興国の意向が通り、途上国は全
く。よって「平等は望めない」として、一部の国は世界政府を脱退。適宜、当事者同士で交渉し
、条約を締結する、という方法を選んだ。
世界政府は気に入らない。有形無形の圧力をかける。目には目を、ではないが、世界政府の弾
圧に屈さない意思表示として、彼らが兵力を結集したのが、「ヘヴンリーブルー」、天上の青で
ある。当初は活動を防衛に限定していたが、近頃は組織の一部が過激化、連合軍に与する組織等
に対する自爆等による無差別攻撃が立て続けに起こっている。
となれば状況の説明は容易だ。この研究所は連合軍の協力者、標的として相応しい。エデン研
究所の破壊。これが今回の彼らの目的だろう。そして状況からして、少なくともエウロパ含め3
人はいる、工作員を予め内部に送り込む、と準備も周到だ。今まで全く気付かなかったのは、自
らも潜入し、現場で指揮を執った者の手腕が相当だったから。他でもない、マヤである。
--2)エグザイル
マヤの仕事はいつも同じだ。標的となる組織に予め潜入し、他の工作員も使って主に調査、報
告、状況に応じて他色々。本人は「何でも屋」だと言うが、「寧ろトンデモ屋だろ」とガニメデ
。この2人組は長く、近頃はエウロパが加わることが多い。なお彼女はガニメデと、いわく「腐
れ縁」で、彼が拾って来たマヤの姉代わりでもある。この辺りは別の機会に追々として。
今回の作戦、エデン、楽園とかけて「エグザイル」、追放と組織は呼ぶのだが、その目的は大
きく2つあった。1つ目は研究所自体の破壊。2つ目にミズホ他、所員も含めた研究の成果の奪
取である。その為にマヤ、ガニメデ、エウロパ、他十余名が運送業者、清掃員等となって侵入し
ている。一応はマヤが指示を出すが、垂直でなく水平、状況に応じ各自が判断、行動する。
死を恐れない、一方美化もしない。神の名の下に戦う、ジハードの概念、以前に神と、信仰心
がない。「だって何の役にも立ちやしない」というマヤが組織に入ったのは、シマが兵士になっ
たのと同様、実用一辺倒である。他に生きる道を見出せなかった。「ヘヴンリーブルーなら飯が
食えた。要も、用もそれだけです」。
しかし用が足り、更に人並み以上に知識も身に付けると、心境に変化が現れる。「もっと別の
やり方、生き方があるのではないか」。組織の横暴が目に付くようになった。離反すら頭を過っ
た、切っ掛けはエグザイルだった。
実際のところ、HBの関心は破壊より収奪、アイロニ計画を手中に収める方にあった。構成員
は劣悪な状況に置かれ、心身の不調を訴える者も多い。しかし考え方によっては、彼らは金の卵
。上手く症状を能力に昇華させ、大量の能力者を生み出し、戦力の強化を目論んでいた。
当初は何とも思わなかった。しかし実際にエデンに潜入、ミズホと共に研究に取り組み、スオ
ウ、その以前に廃人となった患者含め様々な人間と接する、その内にマヤの中に違和感が生じる
。発症には死の危険が伴う。その上、能力者になっても短命。非人道極まりない、とは言わない
が、「カワイソーな人を見るのは、主任1人で飽きました」が彼の言い分である。
が、一応はHBの一員、真っ向から反対もできなかった。「未だ時機ではありません」と、破
壊行為に及ぶのを何年も引き伸ばし、しかし遂に決行と相成ったのは、一重に組織の「これ以上
待てない」という通告による。
反発や未練はありながら、一方で諦めてもいた。何だってどうだって良い。自暴自棄と言われ
ても、養父に暴力を振るわれ、実母に棄てられた。文字通り乱暴と放棄が自分の根にあるのだか
ら、仕方もない、と思っている。
「そんな人生でも面白いことはあった、気がします。思い出せませんが」。しかしイソラいわ
く「忘れたフリが上手ですよね。副主任も主任も」。
--3)私を連れて行って
そのマヤはミズホと共に、外側の棟から中央の「見えざる手」のある部屋に渡る、廊下の中ほ
どにいた。ガニメデの手引きで建物内の一切の照明が消えていたが、廊下の天井は一面ガラスで
、自然光が降り注ぐので、日中は十二分に明るい。なのでミズホは異常に気付かなかった。廊下
の先の自動ドアが、近付いても全く反応せず、「あれ」とマヤを振り返って、黒い穴を目にする
までは。
マヤが右手に銃を持ち、その照準をミズホの額に合わせていた。と、一見緊迫した状況だが、
「動かない、ですよねえ」「マア、そうだね」とやりとりは緩く、この期に及んでこの2人、緊
張感はあまりない。
特にミズホ。超が付くほどニブイ上、「場馴れも、しますよねえ」「主任の嗜みだしね」副主
任も、と言う通り。シマとスオウが初対面、の時の1件も含め、命の危険は多々あった。何より
、そうも命が惜しくない。というのは、その面持ちに見てとれた。少し持ち上がった口の端に、
湛えるのは安堵だった。汲んでマヤが言う。「お疲れ様、ですねえ」。ずっと。死にたかったで
しょう。やっと。死ねるのでしょう。と続けたくとも「生け捕りが組織の命令なのです」が止む
無しなのが、平の工作員の宿命である。
ミズホの顔色が変わる。残念、より濃い不満の色を押し出して、「未だ痛い目を見て死ねって
の」と乱暴に投げ付けるのだが、「ってわけです」と同じ調子で突っ返され、「あーあ」と盛大
な溜め息。マヤは半ば呆れる。同じなのだと。「未だ3室は手こずってるの」「みたいです」「
あーあ」という、平時のやりとりと。
ミズホにとって世の中の物事は凡そ軽い。自分と他人、生存と死亡、大体が「あーあ」で片付
く。歩道の上の落ち葉と同じ。掃く、放っておく。若しくは気紛れに踏み付ける。
「子供が1番苦手ですよ」とマヤは言う。社会の規範、道徳を今だ身に付けておらず、個人的
な理由で思考、行動する。つまりは自分勝手で、何をしでかすか分からない、想定外の塊だから
。という理由からだが、大人も又で、その例がミズホである。
案の定と言うか、嘆きから一転して「マア、別に良いけど」。どの場所でも自分のやることは
1つ。「人間」の解明。寧ろそれ以外はやれない。やるつもりがない。今や「第1室主任」が自
分の存在意義だと、彼が1番強く自負していた。いわく「時々自分の名前を忘れる」。ミズホは
必要ない。寧ろ初めからいなければ、タウベが壊れずに済んだ。という自責も否めない。しかし
何度も過去を振り返っても、別のものも見ていた。その内に生じた変化が、この時にも表れた。
ミズホは足早に歩を進めた。元より運動神経は良い、というより、自分の身体を意図する通り
に動かすことに長ける。記憶を除いて。それが行き過ぎて、限界を迎え、倒れる、という愚行を
繰り返したのだが。
マヤの反応は遅かった。その内にミズホの手が銃を握ったマヤの手に重なった。奪い取ろう、
というのではない。改めて銃口を自分の額の真ん中に当て、引き金の上の指に指を重ねた。力を
込められたら発砲してしまう。振り切るにも、その拍子で同じく。
マヤが自分を殺さない、殺せまいと踏んで、ミズホは自分を人質に取ったのである。常軌を逸
しているが、相も変わらず、それが、何と言わんばかり、「何処にでも連れてってよ。でもその
前に、1つ条件」と呑気な様子、だったのはそこまで。少し置いて、しばし俯いて、やっと言い
出したのは、「シマを逃がして欲しい。見付からないように、上手く」。
第2章4 ヘヴンリーブルー(4~5)
4)焔咲く
マヤとミズホの悠長とも言えるやりとりはさておき、所内では着々と作戦が進行していた。
ガニメデが地下の電源装置を破壊し、一切の電気、防犯システムを停止させた。所の敷地全体
を囲う電気柵も。しかしそれでも厚さ2メートル余りのコンクリートの塀がある。
よって、その外で待機していたHBの別部隊は、正々堂々の正面突破、つまり入口から侵入し
た。比較的脆い門にロケット弾を放ち、扉と門番、も平時は入退所者を確認、記録する、単なる
受付に過ぎなかったが、を引っ包めて粉砕すると、トラックに乗り込み、煙を切って敷地内に突
入した。
しばらくは農場の中に所員の住宅、店等が点在し、恰も片田舎の風景だが、直ぐに一変する。
豆の木を上った先の巨人の城を思わす、エデン研究所がある。トラックが正面に停まる、と同時
に車内から黒一色で身を固めた男女が出て来る。無反応の自動ドアに小型の爆弾を取り付け、退
避、点火、前進。その後も同様にしながら、彼らは所内に入り込み、所員を見付けては捕獲して
いった。
抵抗する者は殆どいなかった。彼らは何者か、どう対処するか、と考えられたのは、元兵士の
シマ他、「場馴れ」した室長級の何名かで、大半は彼らを目にするや、混乱、を過ぎて恐慌、も
う唯々諾々、という様子だった。
一方考えた者も、結局は従うという結論に至った。侵入者の目的は略奪だ。人員を含めた研究
の成果の。ならば寧ろ好都合だ。エデンに未練はない。今やミズホの牙城、嫌気すら差す。蜜月
の連合軍についても。長官の1人の「ミズホ以外に期待はできない」という発言もあって、「あ
の暴力装置は何も理解していない」と反感が募っていた。
そんな無力、無気力な所員の消極的な協力もあって、エデンの乗っ取りは着々と進んでいたの
だが、それも途中まで、だった。
HBが突入した後、正門の付近は無音だった。しかし口無し死人の門番の側を、エンジン音が
駆け抜けるまでは。周辺の残骸も上手く避け、アッサリと敷地内に入る。装甲車、ではなくごく
普通のバイクで、多少大きい、のではなく乗り手が小柄なのだった。少年らしい。ヘルメットは
被っておらず、顔を曝すのだが、目の良い者でも、見止められるのは黒い髪だけだった。彼は一
瞬で走り去っていった。百キロ超でバイクは研究所の正面に向かい、間もなく到着した。
見張りとして残っていた十余名が、一斉に銃を向け、有無を言わさず発砲した。何者でも、味
方以外は全て敵、が彼らの判断である。しかし的は動き、捉え切れない。一発が辛うじてその前
輪に当たった。横転する、より早く少年は機体を捨てた。走行中のバイクから飛び下りた、とは
自殺行為に等しいが、受け身が上手く、3転で体勢を立て直した。
HBの面々もようやく、只者ではない、と気付いたが、遅過ぎた。少年が顔を上げる。黒い髪
の先に赤い目があった。燃える火のような。と彼らが把握できたのもそこまで。
1人の肩に火が点いた。驚いて手で払うのだが、指に燃え移り、更に触れた部分にも。その毎
に火は大きくなり、やがて全身を包み込むと、次は彼の周囲の者にも。それを繰り返し、あっと
言う間に火だるまが列になった。阿鼻叫喚の中で、少年1人が平然としていた。秋の土手、彼岸
花を眺めるように。目に馴染んだ光景は、もう痛くなかった。
--5)願いと代償
「HBがエデンの破壊、及び所員含め研究結果の略奪を目論んでいる」らしい、と不確実なが
らの報告を受けて連合軍が打ち出した方針は、信じ難くも「乗じて諸共に抹殺する」であった。
今は世界の大企業でも、その勢いは以前に比べ衰えている。尤も、主力のうつ病の治療プログ
ラムについては、「エデンズライフ」で殆ど完成していたのもあるが。
何より内部に様々な歪みを抱えている。1室と他室の実力及び予算上の格差の拡大、不満及び
無気力の蔓延、次世代の育成の放棄。やがて凋落、は免れない。それも何年かの内に。際してス
ッパリ縁が切れたら良いが、揉めた挙げ句、過去の後ろ暗い取引について暴露する、等と持ち出
されては厄介だ。危うきは滅せよ。何とも乱暴で、エデンが「暴力装置」と言う通りである。
HBの仕業に見せかけ、各室の室長級はじめ、主要な人物を始末する。かつてその分野で名を
馳せた者達だが、もはや腐った鯛、用済みだ。しかしミズホについては、その例外とするか、否
かで意見が対立した。その内に別の地域で内戦が発生、対応に回る内、結論を先送りにした。そ
れから直ぐ、事件は起こった。
少年、スオウが単身この場所に来たのは、私用で近くにいた為である。
以上の、エデンに対する軍の方針は、イソラの伝手、「今回は誰と寝たんだかね」とガープが
本気で苛立つのだが、で一応は知っていた。そう遅れずに何人かのアイロニを含んだ特別の部隊
が出動するだろう。現時点で自分に命令はない。好都合だ。部隊が到着するまでに片を付ける。
この場合。映画の主人公なら、軍の非人道的な方針に反発し、味方、敵の命をも救い、挙げ句
にそのヒロインと恋に落ちる、というのが定番だが、彼には有り得ない。HBの工作員、所員の
生死に関心は全くない。寧ろ先の通り、障害になるのなら自ら手を下す。
非情は今に始まったことではない。分類「一般市民」の生命も大分奪った。イソラの言った「
罪のない人々の命が云々と言いますが、殺されるのに罪は必要でしょうか」に応えて彼は言った
。「ないと思う。大罪人が殺されないから」。大罪人とは自身である。そんな皮肉が痛くない。
批判も、何も怖くない。
と言い切ろうとすると、引っ掛かるものはあった。サラ、イソラ、ガープ。そしてミズホ、マ
ヤ、シマ。片手と一本の指。それだけの者を失うことは。
ミズホとマヤ、できればシマを逃がす。というのが、スオウがこの場所に来た目的だった。
ミズホやマヤと、スオウが、ミズホとタウベ、又はシマのような特別な関係だった、訳ではな
い。あくまで研究員と研究対象の域を出ない。シマはその次点だ。しかし会話、食事という行為
の共有が、スオウの中に一定の思い入れを形成していた。他、思い出も。
マヤが仕切って、「親睦を深める」というテーマの下、ミズホとシマ、サラ、イソラ、ガープ
も集め、テーマパークに行ったことがあった。
ワンピースにミュールという変装が似合い過ぎ、一同いわく「寧ろいつものがコスプレ」とい
う具合のサラ。「空いてる」と超回転のコースターをハシゴのミズホ、片や1機目で目を剥いた
ガープ。「無理するから」とはかとなく優しいイソラ。「似合いますよ」「わけねえだろ」と男
2人のメリーゴーランドで失笑を買うマヤ、巻き込まれたシマ。
記憶を失い、その後も心的外傷を残す経験ばかりが続いた。記憶を取り戻そうとは思わない。
寧ろ今ある分も捨てたい。と破滅に走るのを、辛うじて引き留めたのが、この1日の思い出と、
6人だった。悪いこと、嫌いな人間ばかりの中でも、良いこと、好きな人間は見出せる。未だ世
界を信じる力を与えられた。それに報いるだけだった。
つまり、スオウは自身の大切な者を守りたかった。それだけだった。結果として何が起こるか
など、知る由もなかった。
第2章5 ハッピーバースディ(1~3)
0)未来の断片
未だ先のいつか、振り返って「彼」は言う。「懐かしい光景、だと思う」。膝の上に置いた頭
の、髪をソッと撫ぜて。濡れたのが風に当たって乾き、冷たい上、固まってもいる。指で解すと
赤褐色の粉が付き、錆びた臭いが鼻を突く。しかし寧ろ、自ら刻み付けるように、深く吸い込み
、彼は上を向く。街灯、それを焼いた火も途絶えた。地上の光を吸収したように、天上の星々は
輝きを増す。大小構わず犇めき合って、見え過ぎて、1等星を探すのも難しい。
彼が懐かしい、と言ったのはこの光景である。厚い強化ガラスと、更に水の下で、瞼も下ろし
ていた。真っ暗だった。その中に突然、小さな光が、しかし無数に差し込んで来た。
彼は髪を撫でるのを止め、空に向かい手を持ち上げて、言う。「あれがレグルス、かな」。返
事はないが、彼は続ける。絞り出すような小声で。「ねえ、未だ聞こえる?スオウ」。
未だ、遠い先のことである。
--1)連星の定理
能力者の特性の1つに、「連星の定理」というのがある。能力者は密接な他者と影響を及ぼし
合う、更にその影響は他者に応じて凡そ2つに分類される。というもので、詳細は以下の通りで
ある。
1つ目は、他者が能力者ではない場合。
この時、能力者は心身共に安定するが、非能力者は寧ろ不安定になり、挙げ句に発症、という
ケースが全体の4割と、極めて高くなる。しかし発症はしても能力化に至らず、なったとて、よ
り強い負荷が生じるのか、殆どが半年内に死亡、若しくは昏睡している。同時に彼を以て安定し
ていた能力者も一転して様々な障害を生じ、同じく、と相成る。
現在、この危険性が高いのが、ガープとイソラである。原則は非能力者が発症しない内に引き
離すのだが、彼らは「離れるぐらいなら死んだ方がマシ」が本気なので、勝手にしたら良い、と
放置されている。
2つ目は、他者も能力者の場合。
この時は両方が安定する。よって能力者の内、相性が良いと見込まれる者同士は側に置かれる
のだが、一旦引き合わせると、一方に何かあれば他方も、は1つ目と同様で、場当たり的との批
判もある。しかし別の手段とて、大量の投薬は身体へ負荷を生じ、カウンセリングは効果が小さ
い。負荷と効果の両面で、均衡の取れた方法だ、というのが現状である。
これにはサラとルカ、後出になるが、ゾルゲとカノッサがいる。なお、後者の2人は或る事件
を契機に同時に能力者になったのだが、一方の発症、能力化が他方のそれの引き金になる、これ
も定理の現象の1つとされている。
なお、本来の「連星」の定義は以下の通りである。「極めて近接し、互いの重力によって引き
合い、互いの周りを回る2つの星」。2つの内の明るい方を主星、暗い方を伴星とも言う。連星
の片方の星が終わる、つまり超新星爆発を起こすと、もう片方も消失する、ということは稀で、
自らを引く重力がなくなった結果、全く別の場所に放り出されるのらしい。
何にせよ能力者の場合も同様である。支え合って生き、失えば死ぬ。しかし注意すべきは、「
その時は、やむなくそうなる、じゃなくて。そうしたいからそうするんだと思う」とゾルゲ、及
び他の能力者も言う。つまり「2人でいたい。それだけだよ」。
能力者となる以前から密接だった場合は言わずもがな、能力の安定という目的の下、半ば強制
的に引き合わされた者達も、例外なく直ぐ密接になっている。ルカいわく「能力者も悪くない。
サラに会えた」。
現在、殆どの能力者が他者と連星の関係になっている。逆に言えば、なれなかった者は残らな
かった。しかし例外が1人。他でもないスオウである。彼は単体で安定していた。しかしミズホ
いわく「しているように、見えるだけだよ」。
--2)神託
公には地上19階建て、とされるエデン研究所だが、実は地下1階が存在した。しかし知るの
はごく一部の人物であり、エデンの室長級と本部の取締役、連合軍の最高司令部の何人か。第1
室の適当極まる扱いの機密文書と異なり、本当に機密の場所である。理由は安置されたものによ
る。
地階には、先ず中央に巨大なプールがある。更にその中央に1人が収まる大きさの黒い直方体
があり、その外側の四面から太細、色も様々なケーブルが周囲に向かって伸び、水から上がる。
プールサイドは同様の物体、何か機械らしい、で埋め尽くされており、それと接続している。
恰も人間の胸部である。中心の直方体が心臓、ケーブルが血管、周囲の機械が他の臓器に当た
る。しかし「彼」は生きてはいなかった。直方体の中で、3年もの間、仮死状態が続いていた。
少なくとも、この時は未だ。
その上の1階では、ミズホとマヤが対峙していた。
マヤにとって、ミズホの申し出は正に想定外だった。それは多くの場合、「想定、はしたが、
可能性は極めて低いと判断し、外した」であり、つまり怠慢な危機対策についての無責任な言い
訳、その典型だが、今回に限って、それも止む無し、マヤに責任はない、と工作員の内、ミズホ
を知る者は思うのではないか。主任に限って有り得ないと。
本当に困った時は人は笑うものだ、という通り、マヤも又笑っていた。非常に珍しいのだが、
困惑、も過ぎて混乱していた。
白昼夢か。否。押さえられた指が少し痛い。よもやこの主任、偽物か、とも疑ったが、そうな
らないよう先手は打った。否、この主任なら更に先手も、と内心でトンデモな対応を要求してみ
ても、全く受け付けないのがミズホである。何より自分のような小者の小細工を気にかける人物
ではないと、マヤも理解していた。
案の定、彼の眼中にあったのは、兎に角は1人、シマだった。自身を人質にしても彼を逃がす
。それだけだ、という強い意志が、現に彼の目の色を変えるように見えた。元より青いのが、増
して真っ青に。言わば「ヘブンリーブルー」、天上の青。一切の妥協を許さない狂気の色、と言
う者もいる、それが、その組織の一員のマヤではなく、対峙するミズホに合う、というのは、何
ともちぐはぐである。
口の端を吊り上げながらも、マヤは歯噛みしていた。この人は本当に、一挙一動で周囲を掻き
乱し、知って気に留めない。畜生が、と思う反面、そんな粗雑な扱いに快楽を見出すのは、所内
で預言者として振る舞う内に染み付いたか、生来のマゾか。両方だろう。恍惚の中で彼は思う。
いっそ殺してしまえたらと。この矛盾がマヤという掴めない人物の本質、かもしれない。
何にせよ、彼にとってミズホの言葉は絶対で、易々と無下にはできなかった。「理由は」と問
い返すと、ミズホは眉を顰め、「愚問だね。これも愚行か」と置いて、続けた。「生きて欲しい
だけだよ」と。
--3)彼の理由
シマが入る直前の話を、少し。
「護衛を付けても」良いですか、と言い出したマヤに彼が返したのは、相変わらず「へえ」だ
った。
この無関心は、成長する中で身に付けた。幼少時は違った、寧ろ逆だった。相手の発した言葉
をアレコレと考えてしまって、直ぐ返事ができなかった。その内に相手は、忙しなくも「彼は自
分に関心がない」と決め付け、離れていった。これを繰り返す内に、本当に関心を失くした。
伴って口下手になって、やがて凡そを「へえ」の一言で済ますようになったが、さして支障は
なかった。何を言っても同じだ。「イーのいやよは好きのうちだかんね」とガープも言う通り、
なのか、言葉は受け手の心次第で、それ自体は只の音だ。
彼と反対に、滑らかにマヤは続けた。「近頃は殊に物騒ですからね」「にしても今更だね」と
一応は突っ込んでも、それ以上は止めた。常に胎に二、三物は持つ人物なので、掘り下げるとキ
リがなかった。
それに、この曲者が有り難かった。マヤが1番に煩わしい所内外の雑事を処理しているので、
自分は兎に角は研究に心血を注げる。
彼はマヤを一応は認めていた、が言い出しはしなかった。一定離れた場所で頭を垂れていたい
。貴方は神。私は僕。それがマヤの所望する関係だ、とは理解していた。内実はどうあれ、そう
振る舞うことはできた。もはや本音より嘘の方が自然に出てくるのだった。
しかしマヤがそう申し出た時、彼は正直、苛立っていた。それまで自分の周囲から厄介事を取
り除いていた彼が、寧ろ持って来たように感じたのである。
他者が四六時中側にいる。煩わしい。という思いが渦巻く胸が、抉り出して捨てたいほど煩わ
しかった。善い悪い、好き嫌い。そんな感受性は凡そ失ったつもりが、未だ残っていた。苛立ち
はやがて、自身の外へも向かった。見えざる手への「ちょっかい」が増えた。それが結果として
室同士の競争を激化させ、他室が彼に標的を絞り込んでいったのだが、計算ずくだろうか。
シマが訪れたのは、マヤの予告から何日か後だったが、以上からミズホのシマの第1印象は極
めて悪かった。厄介者である上、その後に知った経緯が拍車を掛けた。シマは軍で内部告発に失
敗し、エデンに実験材料として提供されたのだが、マヤが引き取った、というのである。
「青臭い正義感に駆られた馬鹿阿呆を、匿う義理はないと思う」と珍しくも嫌味を言ったのだ
が、マヤは微笑を崩さずに「ありませんねえ」、それ切りだった。しかし、ミズホは知る由もな
いが、彼の発作に伴う自傷行為は激しさを増す一方だった。義理はなくとも、少なくともその時
、取り押さえる腕力は必要だった。
しかしミズホの症状は、シマの入室当時は、寧ろ悪化していた。シマという見知らぬ他者への
不安を、彼を卑小な者だと見下して消化するのだが、そんな自分も又卑小だと嫌い、しかしシマ
が来なければこうはならなかったと憎む。自己嫌悪と他者憎悪、その繰り返しだった。
裸体を曝け出したのも、その表れだった。「処女じゃないよ」と言ったのも。汚れ切った自分
を半ば無我夢中でシマに投げ付けていた。気持ち悪いと蔑んで、そして拒絶して欲しかった。世
界から。あわよくば殺して欲しかった。
彼自身はそのつもりだった。しかしシマはそうは受け取らなかった。美しいと思った。そして
粘り強く、ミズホに接近して行った。
入所の当時、エデンについて、シマは「拍子抜けだった」のだが、それはミズホも同様であっ
た。側に常に他者がいる、という状況は、思いの外、苦痛ではなかった。シマだったから、かも
知れない。彼は少なくとも、ミズホ含めエデン所員の思う「兵士」らしくはなかった。雑なのは
マヤに対してのみで、暴、放言のオンパレエドが相手では仕方ない。他の室員に対しては丁寧に
振る舞って、「主任より好青年では」と皮肉を言う者もいた程である。
一応、ミズホに対しても同様で、当初は呼称も「ミズホ主任」だった。しかしやがて「何か変
」と言い出したのはミズホの方だ。「ミズホさん」「さん、要らない」で「ミズホ」になった。
日常の様子、衣食住も言わずもがな。自他いわく「性格も生活も破綻している」、ミズホと反
対だった。訓練の日々の賜かと思いきや、生来の几帳面でもあるらしかった。とは、或る日、ラ
ベルや付箋も付けて分類、収納された文書等を見付けたミズホが気付いた。思わず「暇な」と呟
きながら、感心もしていた。手持ち無沙汰だろうと、自分には出来ない。
なお、それを知ったマヤは喜々として「能力は生かすものです」と自らの机の書類の山を押し
付けた。手は動かしながら「お前にやらされると思うと、無性に腹が立つような」とシマは文句
を言ったのだが、実はミズホがマヤに丸投げした物だった、とは言うまでもない。
罪滅ぼし、でもないが、機密の文書、その度合いは低いものを、選んで敢えて見える場所に置
いた。マヤは難色を示した。「知らない方が良いこともありますよ」。自らの保身ではなく、別
の形でのシマへの配慮であったが、「兵士に分かるかな」「それもそうですね」、そう言いなが
ら、彼ならやりかねない、とは共に理解していた。目を瞠る速さで、シマは吸収、消化していっ
た。
その様子を見て、ミズホは思い出していた。十年以上も前、幼い頃の夜のこと。
十時に布団に入るのだが、中々眠れな、否、眠らなかった。12時も過ぎた頃、部屋の戸が少
し開き、光が差し、遅れて影が伸びて来る。目を閉じ、長く息を吐き、眠ったフリをする。やが
て戸は閉まり、足音が遠のいていく。
遅く帰宅し、息子の様子を伺い、しかしその他の一切、衣食住、更に会話すら、シッターに任
せていた母親。彼女を待って起きていながら、眠っているのを装った自分。人間の、精神に夢中
になった理由は、そんな幼少時の経験にあった。母親はおろか、自分の胸中に渦巻く思いも、何
度掬い上げても、掴めはしなかった。これを当時に彼の用いた言葉を以て表すと以下のようであ
る。
母さんは、さア。
嫌いなのに何で、好きなふりするの。
好きなのなら何で、放って置くの。
僕も、さア。
嫌いなのに何で、帰ってくるのを待つの。
好きなのなら何で、嘘吐いて、無視するの。
これは、サラが郭で教わった「今更会いには行けないわ」「まさか好きとは言えないわ」とい
う小唄が全て答えだ、とも言える。しかし「このコッパズカシー科白がサラリと出るのが、職人
だよねえ」と、ガープの言う通りである。
話が逸れたが、ミズホ自身も気付いていた。在り来たりな意地の張り合い、擦れ違いだと。し
かし気付きながらなお、生真面目に考え過ぎて、突き進んだ結果がエデンズライフやアイロニだ
った。とすれば稀代の天才も、その実は極めて下らない。が、下らなくても切り捨てられないも
のがある。無様にでも二十余年生きて、それは理解出来た。例えば、生命、承認、愛という類の
。
しかし、いつしか忘れていた。それをシマはミズホに、改めて気付かせた。それだけとも言え
る。が、彼にとって「生きていて欲しい」と思うには、十分過ぎる理由だった。
第2章5 ハッピーバースディ(4~9)
4)鼓動
スオウは所内を進んでいた。HB、及び連合軍の動向等と気掛かりは山とあったが、特に思っ
たのは、自身の身体の調子である。悪くはない。が、変だ。
非常電源も破壊され、空調は全て停止したから、ではない。現在は11月、この地域では初冬
で、外気温は十度前後。寒くなる筈が、寧ろ顔は火照っている。
因み、エデン研究所、少し離れて連合軍の拠点及びスクールがあるのは「ルシャ」、ユーラシ
ア大陸の東方の内陸部に当たる。沿岸部に出ると、世界でも指折りの大都市「レヴン」がある。
税、法制度においてビジネスに特化した区域であり、世界的な大企業の本社が犇めく「世界の大
通り」で有名である。
なお、世界人口は2049年に百億人を突破したが、以降は急減し、現在は半分を下回ってい
る。理由は先進国の少子化、気候変動に伴う不作、災害の増加、感染病の多発、等々が挙がる。
各国内では、特に地方で人口、税収が減少し、行政サービスの維持が難しくなり、対策として
「選択と集中」が進んでいる。これは、何カ所かの拠点に人々を集中して住まわせ、サービスを
供給する。一方、拠点以外の場所に対しては停止する、というものである。各地方により異なり
、道路は放置するが電気や水道は残す、必要に応じて医師や警察は派遣する、等といった場合も
あるようだが、一言では切り捨てだ。
全く乱暴だが、地方に住み続け、自給自足の生活を送る者も多かった。一方、ミズホ等、先端
技術を駆使して生きる者もいた。やがて両者は乖離していった。互いに表面上は認め合うふうを
装って、一枚皮を捲れば見下し合っている。何のことはない。田舎者と都会人の対立の行く末で
ある。
何にせよ、スオウは暑かった。建物に入るまでは鳥肌も立っていたのに。鼓動も速い。動き回
るのを差し引いても。病気ではないようだが、気持ちが悪い。ミズホが「能力者は長くは持たな
い」と言ったのを思い出したが、にしても「不調が生じて直ぐに、という訳ではない」とも言っ
ていたので、安堵、と落胆も浮かぶ。
進んで死ぬ気もないが、死ねば楽か、と考えることはある。「スオウはさ、もっとラクな方を
選ぶべきだよ、生きてる内にさ」とサラが言うのも一理ある、と思いもしながら、不調を押して
、彼は進んで行く。息が上がる。
スオウの行く先に、HBの姿はなかった。争った形跡も殆ど。無力な上に無気力な所員である
、手放しで服従するに違いない、という軍の見込みは当たった。しかしその分、HBの計画は順
調に進み、対応が間に合っていない、という辺りは皮肉である。スオウには好都合だったが、何
せ体調、及び道のりは不都合極まりなかった。
所内の自動扉は全て停止しており、HBはそれらを破壊して先に進んでいる。後追いの場合、
破壊する手間が省ける。そう踏んだのだが、彼の目指すミズホ、もとい第1室に通じるものに限
っては傷1つなかった。
つまり、ミズホの身柄は外から突入した部隊ではなく、彼らを招いた内通者の方で確保された
ということだ。スオウは1人を思い付いた。マヤである。これは、寧ろそうであって欲しい、と
いう望みもあった。彼が何者でも、ミズホは傷付けられない。
何れもカンだったが、正しかった。彼が誤って見ていたのは、自身の不調の方である。仕方も
ない。初めて、なのだから。
--5)チヒロ
全てはミズホの悪趣味な、思い付きの一言に端を発した。「仮に僕が発症して、更にそれが能
力として定着したら」。それを拾ったエデン本部が、能力者の増加による兵力の強化を目論む連
合軍に持ちかけ、資金を引き出し、やがて1大計画として動き出した。
具体的には、先ずはミズホの成体クローンを作成する。電流、化学物質で同様の刺激を与え、
発症させる。能力として定着させる。そして能力者となった分身を見る、というのがミズホの。
更にその結果を応用し、クローン能力者の増産に漕ぎ付ける、というのが連合軍の目的だった。
何にせよその計画の中で、「彼」はミズホの細胞から作り出され、3年も心身に過度な刺激を
受け、負担を蓄積していっていた。地獄にも等しいが、無論、当人は理解出来ていない。
「可哀相に」と言ったマヤに対し、ミズホは自身と同様、思い入れはなかったらしい。「せめ
て名前ぐらい」と言われても「あってもなくても同じだよ」。しかし実験が進むにつれ、愛着、
より罪悪感からか、計画に着手した11月6日、数字で表して1106、千百六の頭を取って、
少し変えて、「じゃあ、チヒロ」と相成った。
--6)親と子
「何が足らないのかなあ」と、ミズホはふと呟いた。
地階の部屋の中央で、例の直方体を挟んで向き合い、彼とマヤの2人は立っていた。直方体の
上面の一部分に窓の中に、チヒロの顔が見える。ミズホは腕を組み、瞬きも少なく、ジっとそれ
を見つめていた。マヤも同様に、のフリをして実はミズホの方を良く見ていた。照明は落として
あり、無造作に置かれた各々の機械が放つ光が、室内を照らし出す。ミズホの白い顔がボウっと
薄い青に染まる。良く似合う。非人間的で。やっと外見が内面に合った。等と思っていた矢先、
ミズホの一言に引き戻された。「ねえ、何が足らないと思う」。
マヤは内心は焦りながら何とか押し込め、チヒロを見つめた。14歳としたので、少し幼くは
あるが、ミズホに瓜二つだ。更に体温、血圧、心電図、脳波。凡そ測定可能なものは全て同じ、
にも関わらず、意識だけがない。
貴方に見惚れて、考えていませんでした、とは冗談でも言えず、「貴方に分からないことが、
私に分かるとでも」と言い訳が苦しかった。「もしかしてと思ってさ」、案の定の返事を、どう
も。皮肉った笑みを浮かべ、ようとしたのだろうが、頬を緩めると、それより疲労の色が濃く出
た。
計画が始まって3年。本部の圧力はいよいよ強くなり、ミズホは心身共に追い詰められていた
。マヤも少なからず。しかし、「お前まで引きずられるなよ」と一応は心配したシマに、「そう
なれるなら本望ですが」と言ったのは本音、もとい弱音でもあった。
この期に及んで力量の差を思い知った。自分が担えるのは小事ばかり。大事は全てミズホだ。
泣き叫び、血を流し、といっても大方は忘れるが、成し遂げ、成果としてきた。但し、今までは
。
彼より応えていたのは、言わずもがなミズホだった。顔からして憔悴し切って、しかし一方で
、何か合点している、というふうにも見えて、マヤはふと言い出していた。「足らないのは、チ
ヒロではなくて」「何か別の」「いや、違いますね、忘れてください」と打ち切ったが、その続
きは、「足らないのは貴方かもしれません、それは生命を世界に生み出す、決意のようなものが
、です」。
生まれない方が良いよ。苦しくて辛いだけだから。そんな思いを、ミズホの視線に見出せる気
がした。これは自身の思いかもしれない。
尤も、決意などなくとも生めはする。少なくとも母が自分を生んだ時はなかった。何も思わず
、兎に角は一時の悦楽のみで、結果があの暴力と放棄だった。
つまり自分は肉欲の、しかも副産物だった。汚い、と幼少時は思い余って身体中を掻き毟り、
血塗れになったこともあった。施設の職員が押さえても暴れ、途方に暮れ、又しても放棄、の手
前で放置していた時、唯一止めに入ったのが、同じ入所者のガニメデだった。
ばた付かせた手を捻り上げ、足を踏ん付け、磔刑のキリストが一丁上がり、と力尽くで。更に
唾を吐くような口振りで「こんな弱エんじゃ、死ねもしねえよ、バーカ」に続けて、「強くなン
だよ。んなことやってる場合じゃねエだろ」。
振り返って、マヤいわく「何だかね。目が覚めた気がしました」。安直に言えば、救われた。
今はもう、自分を肯定もできる。
しかし、その一方で1つ思いは消えなかった。もし、一度だけ過去に戻ってやり直せるなら。
あの胎内に戻り、決して出ないだろう。生まれないだろう。
自分と同様の、否、より強い思いを、ミズホも持つ。そして、親は叶えられなかった夢を子に
託すもの。だからチヒロは生まれない。そう、マヤには思えた。しかし子は親の望みを悉く裏切
るものである。
--7)悪人探し
「な」とシマが言ったのも尤もだった。エウロパがアッサリと銃を下ろし、非常口を示して「
行け。行った先で工作員とバッタリ、なんてオチはない」と言い放ったのだ。更に、信じるか、
いや疑えよ、と自身の中で右往左往となるシマを有無を言わさず捕まえる、が如く襟刳りを捻り
上げ、思い切りよく額を打ち付けた。マヤいわく「心根の優しい女性」なのだが、この状況下で
は止む無しだった、としておく。「マヤから伝言だ。上手く逃げて下さいね、今度こそ、と」。
なお、これはミズホが彼を逃がすよう申し出る前に、マヤが頼み込み、居合わせたガニメデの
口添えもあって、彼女が引き受けたものである。皆、思いは1つというか、イソラに言わせれば
「馬鹿な子ほど可愛いというか、あんたら全員馬鹿ですか」という具合だろう。しかし何事も望
み通りに行かないのは、この時も同じだった。
--8)長い夢
いつの日か、振り返ってチヒロは言う。「夢の中では、ずっと痛かった」。尤も、その時のチ
ヒロは何をも言い表せず、言葉を知った後、更に経ってようやく話し出したのだが。チヒロが直
方体の中で見続けていた、彼いわく「夢」は以下の様である。
内容はいつも同じだった。チヒロは部屋の中にいる。天井、壁、床、全部が真っ白だ。明かり
取りの窓、と言っても日は落ちて、辺りは暗かったが、と戸が1つ。他に何もない。チヒロは中
央に座り込んで、両腕で膝を抱えている。何れも剥き出しで肉は削げ落ち、皮膚を破りそうに骨
が張り出ている。
突然、鈍い音がした。持ち手が回って、戸が押される。チヒロは目を伏せ、両手で耳を塞ぐ。
誰か入って来る。彼は先ず罵る。片っ端から非を挙げる。痩せ細った身体に少し残る肉も毟り
取るように、執拗に。しかし声のする内は未だ堪えられた。やがて彼は黙り込む。何を言う価値
もない。そう思われて、チヒロは逃げ出す。
彼は追いかけてくる。何か棒を持って。やがて殴り付けられ、倒れる。更に胸を蹴り上げられ
る。唾を吐き出すと、汚いと又も殴られる。涙が滲む。口惜しい、ではなく、気持ち悪い、痛い
、苦しい。どうしても身体が勝手に泣くのだ。
彼は手を緩めない。チヒロの額の上の髪を掴み上げ、上を向かせる。顔を近付ける。目を逸ら
せず、チヒロは真正面から彼を見つめる。銀色の髪、真っ青な目。鏡を見たことはなかったが、
自分の顔だ、と何となく分かった。
同じ顔の彼は言う。同じ声で。「生まれるなんて、やめろよ」。更に続ける。「これよりずっ
と痛いよ。お前、絶対思うよ。生まれるんじゃなかったって」。
彼は気を失い、夢は途切れる。しかし終わりの1回だけは続きがあった。以下のようである。
視界は白み始めていたが、チヒロは彼を見ていた。正しくはその左耳の、真っ赤な石のピアス
。理由は分からない。しかし目を、心を奪われた。痛む身体も忘れ見入った。に留まらず手を伸
ばした。その耳を千切り取っても「欲しい、と思った。今思えば、この目にそっくり」。チヒロ
は言う。スオウの両眼を見つめて。
- - - 9)能力者
地階は電源を別に持っており、一切の電源が停止しても、機能を維持していた。しかし周囲の
機会に異変が起こった。計器の針が振り切れ、更に管に裂け目が入り、電流が走り出し、忽ちに
火が点いた。ということがそこら中で起き、辺りは瞬く間に火の海と化した。やがてパン、と一
際甲高い音を立て、中央の直方体、チヒロを収めた、に大きな亀裂が入った。
スオウの不調は限界に達していた。足が重い。力が入らない。「自分の身体だろうが」と吐き
捨て、歯を食いしばって進もうとするのだが、3歩の内に跪いた。
彼の言う通り、彼の身体である。しかしそれは彼の意思に反して、その場所に留まろうとして
いた。彼は知る由もないが、そこの2階下は、例の地階の1室の中央、チヒロの眠る場所だった
。
そして苛立ちを持て余した彼が、激しく拳を床に叩き付けた時、何かスイッチが押されたよう
に、全ては動き出した。
先ずは足元である。突然、激しい揺れがあった。スオウは落ち着いて、考えていた。地震では
ない。自分の周囲の、ごく限られた場所だけが揺れている。
床に耳を当てた。何か甲高い音がする。咄嗟に脇に転がった。途端、今までいた場所が消失し
た。床が砕け、「一瞬、柱が生えたかと」思ったのも無理もない。一抱えもある機械、机に椅子
、観葉植物の鉢植え、それらが砕けた瓦礫等を抱いた暴風は、恰も柱だった。それは天井に突き
立ち、更に破片を巻き込み、脹れながら上に伸びていく。思い付いたのは「竜巻、なのか」。に
しても訳が分からない。少なくとも室内から発生するものではない。
兎に角、下階の様子を、と空いた穴に近付く。吹き上がる中小の瓦礫を手で払いながら、その
縁から目を凝らし、奇妙な光景を見た。自分は2階にいる筈だが、1階の床の下に、未だ床があ
る。知らなかった。地階だ。
見えるのは1つの部屋で、中のものは先の暴風が持ち去ったようだが、どうして中央に、1つ
だけ残っていた。これが竜巻の原因か。真っ黒な直方体。上面に1本、亀裂が入りながら、形は
留めている。小さなガラス窓が付いており、中身が見えるのだが、どうやら人間、というか、「
発症者か、」とスオウは決め付けたのだが、大体は当たっていた。彼は舌打ちした。どうしたら
良い。この時にも竜巻は拡大している。放置すれば、研究所、更に一帯を消し去りかねない。
発症した場合、選択肢は3つ。「発症者が自ら制御し能力とするか、叶わず自壊するか、他者
が力尽くで止めるか」。つまり「能力者になるか、死ぬか、殺されるか」。割合では順に、限り
なく0、対9対1となる。
つまり、今回も放っておけば多分死ぬのだが、その手前の破壊の規模を考えると、そうはいか
ない。殺すしかない。一瞬で腹を括り、スオウは穴に飛び込んだ。瓦礫を払い除けながら、階下
に落ちて行った。が、その時、直方体に変化が生じた。先の亀裂と十字になって新たな亀裂が入
り、やがて上面が弾け飛んだ。彼の来るのを、ずっと、待っていたように。
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