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鎌足所縁 の茨木・阿為 神社で“蹴鞠 鑑賞”!
ゆかり あ い けまり 鎌足所縁の茨木・阿為神社で“蹴鞠鑑賞”! 牧 かね あ い 彰 あ い 2011 年 11 月 23 日(水) 、 「土曜クラブ」例会(歴史散策)の一環として、予てから念願の茨木市安威の阿為 神社“蹴鞠奉納”を観る機会を得ました。 「午後からは雨!」の予報通り、午後 1 時頃からポツリポツリと 降り始め、いつ中止になるか分からないようないささか落ち着かない“蹴鞠鑑賞”となりました。 当日は JR「摂津富田」駅に総勢 8 人が参集し、途中までバスを利用して阿武山山頂(標高 280m)を経て、 あ ぶ や ま だいねんじ じょうえ たいしょく かん 阿武山古墳(貴人の墓)で昼食後、大念寺(鎌足の長子・定恵開基) ・阿為神社(藤原氏祖神)・大 職 冠神社 フ ァ ン たま (鎌足公古廟)を巡り、最後は JR「茨木」駅前の居酒屋で慣例の反省会という、古代史好きには堪らない どっぷり<“藤原鎌足”尽くし>の一日でした。 ヒーロー わが町・茨木と、あの「大化の改新」の隠れた主役“藤原鎌足”との因縁がこんなにも深かったなんて、 大方の茨木市民は知らないことでしょうね?おそらく! 今回のご案内をお願いした岩本義明さん(会員)!大変お疲れ様でした。また、有難うございました。 茨木・阿為神社の鞠庭で華麗に繰り広げられる“王朝絵巻” 中臣(藤原)氏の荘園が多くあった北摂・三島地区は、鎌足が秘かに「大化の改新」の策を練った地と伝 あめのこやねのみこと まつ えられています。延喜式内社で藤原氏の祖神・天児屋根命を祀る阿為神社は、新社殿が落慶した平成 17 年 (2005)から毎年 11 月 23 日(勤労感謝の日)に“蹴鞠奉納”していて、今年で 7 回目を迎えます。 け ま り え なかのおおえのみこ くつ 鎌足は、法興寺(飛鳥寺)の蹴鞠会で中大兄皇子が鞠を蹴り脱げた沓を拾い上げた縁で皇子と親交を深め、 おのれ フィクサー そ が の い る か ちゅう い っ し 中大兄皇子(天智天皇)を前面に 己 は黒 幕 に徹し、蘇我入鹿を 誅 する「乙巳の変」を経て天智天皇による ふ ひ と プロフェッショナル わが国の「古代律令国家体制」確立に功績がありました。鎌足を継いだ藤原不比等以降の職業的政治家系・ ろうだん 藤原氏による政治の壟断・権謀術策などは、鎌足の遺伝子が累々と受け継がれたということでしょうか? にいなめさい まりにわ 阿為神社では、秋の収穫に感謝する「新嘗祭」の儀の後、社殿の南面に設けられた鞠庭で、午前と午後の みやび まと 2 回、京都の「蹴鞠保存会」会員が、烏帽子、袴姿の 雅 な装束を纏い、輪になって鹿皮の白い鞠を右足の甲 で蹴り合います。 まり あし 蹴鞠は、8 名が一組で一座(1 試合)を行います。鞠を蹴る人を鞠足といい、鞠足たちは方位に基づいて 鞠庭を 8 分割した位置に夫々立ちます。鞠庭の北西の位置を<一>の懸り、または<軒>、南東を<二>、 北東を<三>,南西を<四>といい、この 4 人の鞠足が基軸となって互いに鞠を蹴り合います。<五>以下 つめ は<詰>といい、外れた鞠の蹴り戻し役です。初めは小鞠という足慣らしをした後、<一(軒)>から揚げ 鞠を始め、最後は<二>から<一(軒)>に渡して最初の一座は終わります。要する時間は 15~20 分ほど で、小休止の後、次の座(二座)に移ります。興が昂じれば、三座・四座というように鞠足を交替して蹴り 続けます。日頃馴染みのない蹴鞠も、この程度のことを知っているだけで一層楽しめることでしょう。 り り 阿為神社の砂を敷き詰めた鞠庭で、「アリ」 「ヤ」「オウ」の掛け声も凛々しく鞠を巧みに廻し合う度に、 暫し観覧者からは歓声と拍手が湧き起こります。でも、中高年の演技者が殆んどである現実を踏まえると、 ファインプレイ 優雅な 妙 技 のみを期待するのは、いささか的外れでしょうね!この際、願わくは速やかに世代交代して、 アスリート あし さば 敏捷な若 者 たちの華麗な足捌きを観たいと思ったのは、果たして私だけだったでしょうか? また、一般観覧者を対象とした蹴鞠体験には、圧倒的に女性が多く志願したのには“女性上位”の世相が 伺い知れて、とても興味深く感じられました。 例年、阿為神社の“蹴鞠鑑賞”は、 「茨木市観光協会」の“いばらき観光ウォーク”に組込まれていて、 大変嬉しいことには、不安定な空模様にも拘らず、今回は凡そ 100 名ほどの市民が参加してくれました。 従って、決して広いとはいえない阿為神社境内の観客の凡そ半数は“いばらき観光ウォーク”参加者と いうことになります。お陰様で、 “蹴鞠の会”開催の体面は、なんとか辛うじて保たれたのでは!観覧者が はるばる 少なくては、遥々お越し戴いた「蹴鞠保存会」の方々に対しても礼節を欠きますよね! 「蹴鞠保存会」による“蹴鞠の会”は、奈良・京都の他は大阪府下で唯一茨木・阿為神社だけで開催され ています。この事実に大いに着目し、 「茨木市観光協会」ならずとも、もっともっと声を大にして西国街道 こおりしゅく オンリーワン の宿場で唯一本陣が残っている 郡 宿 の“椿の本陣”と同様に、わが町・茨木が真に誇り得る観光の 目 玉 と ピーアール して、これからも広く喧 伝 して行こうではありませんか! “いばらき観光ウォーク”発足当初は参加者も少なかったのですが、関係者各位の地道な努力が実って、 回を重ねる毎に会員が増え続けて盛況を呈しつつあるのは、茨木の「まちづくり」 「まちおこし」にとって かい のっと し ん し 喜ばしい限りです。 「隗より始めよ!」の格言に 則 り、市民一人ひとりが身近な「茨木の歴史・文化」に真摯 に取り組んでこそ、郷土愛・祖国愛が自ずと育まれることでしょう。此処に、「茨木市観光協会」の更なる 発展を祈念してやみません。 さかのぼ ル ー ル 蹴鞠の歴史は、紀元前 4 世紀頃の斉(戦国時代)の軍事訓練にまで 遡 るとされます。唐代には規則も すた 多様化し、モンゴル帝国の遠征に伴い東欧・東南アジアにも伝播し、その後、中国本土では徐々に廃れ始め、 明代には禁止令、清代には完全に消滅したとのことです。 大和朝廷時代に仏教などと共に伝来した蹴鞠は、日本では独自の発展を遂げて平安時代に宮廷競技として 天皇を始め貴族の間で広く親しまれるようになり、古文書にもその記述がしばしば見られます。清少納言は, 『枕草子』の中で、「遊びわざは、小弓・碁様あしけれど、鞠もおかし(遊戯などはみっともないものだが、 蹴鞠は面白い)」と書いています。 蹴鞠が普及するに連れて、当時の鞠足の中には特に優れた“名足”が現れます。平安末期の蹴鞠の名手・ らんかん 藤原成通は、清水寺に詣でた時、舞台の欄干の上で鞠を蹴り蹴り何度も往復したといわれています。清水を 参拝した時には、この故事を思い出してください。また、後白河院に仕えた藤原頼輔は“無双達者”と称さ れた達人で、子孫がこれをよく伝え難波流・飛鳥井流の流派を打ち立て、此処に“蹴鞠道”が確立しました。 特に、鎌倉時代には武士階級でも盛んに行われ、室町・江戸時代には徐々に庶民にまで普及し、謡曲・狂言・ 浮世草紙などの題材になりました。やがて難波流は衰えましたが、飛鳥井流は幕府・朝廷の要人から庶民に 至るまで広まり、以降近代にまで連綿と継がれています。 しかし、明治以降は極端な西欧化の余波を受けて蹴鞠も一旦途絶えましたが、有志による保存会が創られ 今日に至ります。 「蹴鞠保存会」は創立以来 100 年有余の歴史があり、蹴鞠の継承・保存・普及に努め、京都 (上賀茂神社・下鴨神社・平安神宮・白峰神宮)や奈良(談山神社)で定期的に“蹴鞠奉納”をしています。 まが え ぼ し まり すいかん まり はかま 茨木・阿為神社の“蹴鞠奉納”では、宮中行事にも紛う烏帽子・鞠水干・鞠 袴 いでたち ゆか みやび 姿の出立で、古式床しい“ 雅 な王朝絵巻”を平成の世に再現してくれました。 蹴鞠は、広さ凡そ 14m四方の専用の庭(鞠庭)で、鹿皮の鞠を足の甲で交 互に蹴り続け地に落とさない技を競います。“思いやりの精神”に基づいて チ ー ム ワ ー ク 仲間同士で一連の結束を競う球技です。蹴鞠では、技の美しさや礼儀作法が すりあし 重視され、明確な勝敗はありません。蹴鞠の所作は全て摺足で行い、上半身 み な も は動かさず、水鳥が水面を泳ぐかの如く粛々と行われます。 雅な球技“蹴鞠” 目下、 「なでしこジャパン」の大活躍(第6回 FIFA 女子ワールドカップ優勝)などで、サッカーが空前 ブ ー ム の人気です。日本語でサッカーは蹴球と書きますが、明治初期に居留地で外国人がサッカーに興ずるのを 見て、日本人が「異人さんの蹴鞠」と呼んだことに由来するとか!この典雅な“蹴鞠の理念”を広く現代 日本国民に浸透させるにも、是非とも小中学校などの体育科目に蹴鞠を取り入れて欲しいものです。 パートナー 蹴鞠は相 手 に受け取り易く打ち返し易く配球する、いわば“リフティング”と“アシスト”の上手さを みやび スポーツ かえり 競う至って“ 雅 な球技”です。蹴鞠発祥の地・中国で蹴鞠が消滅している現状を 顧 みると、共生・人権を 命題とする 21 世紀の今こそ、この“蹴鞠”を“相撲”と並ぶ<日本の国技>にまで昇華させよう!そして、 真に“恒久平和”を希求し、全世界に向けて高らかに発信しようでは!