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日本語訳を見る Japanese translation(131.07KB)
『寛容論』日本語版
目次
1
1
日本語版テキストの編集方針
2
凡例
3
日本語版テキスト
日本語版テキストの編集方針
日本語版テキストは、H(凡例六を参照)を主体として作成し、日本語としての容易な通
読をめざした。従って、英語版校訂に収録されている文章、修正、削除部分等をすべて日
本語化したり、訳文上で明示することはしなかった。しかし、他の手稿との相互比較を、
ある程度、脚注等で確認できるようにした。
訳文や脚注を読んで、原文や手稿相互の比較が気になる場合には、山田のホームページ
上の英語版校訂(http://www.law.hiroshima-u.ac.jp/profhome/yamada/Locke.html)をさ
しあたりご覧いただきたい。
照合を容易にするために、丁付けは英語版校訂にならい、各フォリオの変わり目で行を
改め、その改行時に B3r(2) 等と明示した。そのさい、ミルトン版『寛容論』テキスト(John
Locke:
An Essay concerning Toleration and Other Writings on Law and Politics,
1667-1683, edited by J.R.Milton and Philip Milton, Oxford Clarendon Edition of the
Works of John Locke, 2006.
以下 Milton and Milton (eds.): An Essay concerning
Toleration と略記)への参照も可能にした。凡例八を参照されたい。
日本語化にさいしては、山田『ジョン・ロック「寛容論」の研究』(溪水社、2006 年)第
1章の分析をもとに、次のように作業を進めた。
(1)EX 部分は、H 本体とは別に H に付された、一枚紙の手稿を指す。ミルトン版『寛
容論』が the First Draft と呼ぶ部分である。EXr、EXv と丁付けし、日本語版末尾に全文
の翻訳を掲載した。
(2)ミルトン版『寛容論』が the Rough Draft と呼ぶ、手稿帖 B の削除部分、すなわ
ち手稿帖 A の原稿となる部分は、英語版校訂には掲載したが、日本語化しなかった。
(3)H 本文上における、欄外、フォリオ裏、その他の追加等は、その旨を本文や脚注
で明記して、本文に組み込んだ。
(4)H、O や A における大幅な修正や追加部分等は、それと明示して本文に組み入れ、
接続する形で翻訳した。別ページに独立させてそれらを掲載するよりも、文脈における修
正のあり様やその意義を理解しやすくするためである。
容易な通読を作業の念頭においたものの、これらの箇所では、前後の通りが悪くなって
いるところがある。
(5)小規模の修正や削除、手稿帖間の比較、他手稿との比較等については、主として
脚注で処理した。
(6)人物名、固有名詞等の日本語表記については、日本での慣例等と判断されるもの
にできるだけ従った。
(7)フォリオの替わり目にまたがる訳文は、日本語の構文上、厳格に英語版のフォリ
オどおりになっていない箇所がある。
2
凡
例
一、
本文中の(
二、
〔
)は手稿上の記載に従う。
〕内の語句等は、山田による注または補足である。
<< >> 内の文や語は、山田の説明である。
三、
四、
下線、数字、段落、及び
五、
下線語句の右にある <
= ? 1°の記号は、手稿に従った。
> 内の文や語は、ロックが下線語句の上に書き込んだもの
である。
六、
四手稿の区別のために次の略記号を用いた。
H:
The Henry E.Huntington Library (California), Manuscript Department, HM584
O:
The Bodleian Library (Oxford), The Lovelace Collection, MS Locke c.28, fols.21-32
P:
The Natioanl Archive (Kew), Shaftesbury Papers, PRO 30/24/47/1, fols.1-34
A:
John Locke, Toleration 67, fols.106-125, 270-1 (in Adversaria 1661)
A 独自の追加部分については、AA 及び AL とした。
七、 テキストの丁付けは、H を構成する五手稿帖の記号 A から E を最初に示し、その後
に各帖内の順序を付した。
たとえば、B3r(2)の場合、それはまず、手稿帖 B の中の 3 枚目であり、かつ r すなわち
表面を意味する。r は表面 recto、v は裏面 verso の略で、英語版校訂との比較上、表裏の区
別が必要なさいに用いた。
(
) 内の番号は、フォリオの右肩に書き込まれている番号である。この番号はロックに
よる通し番号である。ただし、手稿帖 A 部分では、書き込みのある最初のフォリオ上の 1
を除き、後続フォリオには番号は書かれていない。手稿帖 A 上の文章は、2 の番号が付さ
れた B3r のフォリオ、つまり B3r(2)へ接続し、H 本体の最後 (31)まで連番となる。
A 独自の追加部分である AA 及び AL については、fol.125 のようにフォリオページを記
した。
八、 ミルトン版『寛容論』テキストへの参照のために、上記丁付けの右横に [fo.iir] のよ
うに、ミルトン版上の番号を入れた。たとえば、最初の部分は A1(1) [fo.iir] となる。EX
部分を含め、O や A における追加部分等については、ミルトン版『寛容論』テキストは本
体とは別ページに独立させて掲載しているため、それへの参照は脚注で処理した。
3
日本語版テキスト
A1(1) [fo. iir]
寛容論
1667年
良心の自由の問題において、それはここ数年の間、われわれの間でかくもたいそうな応
酬を見たのだが、この問題をもっぱら混乱させ、論争を継続させ、憎悪を増長させてきた
一因は、(私が思うに)次のことであった。両派が互角の熱意と誤りでもって、彼らの主
張を過度に増強させたことである。一方が絶対服従を称揚すれば、他方は良心の事項にお
ける全般的自由を主張した。そのさい、服従と自由が何であり、何が自由の資格をもつか
を規定することなく、また強制と服従の限界を示すこともなかった。
このことへの見通しを明らかにするために、一つの土台として次のことを私は設定する。
それは、疑問視または拒否されるものではない、と私は考える。つまり、
統治者のもつ信託、権力と権威のすべては、彼がその上に立つ当該社会の人民の善、保
護と平和のために利用されるという目的でもってこそ、彼に付与される。それゆえに、こ
の目的だけが、それに従って彼が彼の法を適用かつ運用し、政府を形成かつ運営するべき
規準と尺度となるし、かつそうなるべきである。というのも、一定の法の下で人々が一体
にならず、かつ一つのコモンウェルスにならずに1、もし人々が平和かつ静穏に共存できる
というならば、統治者や政体はまったく不必要になるであろうから。統治者や政体は、こ
の世の人々を互いの不正や暴行から守るためにこそ、作られた。従って、政府を設立する
目的となったものが、
A2 [fo. iiir]
政府の行動の尺度に唯一なるべきものである。
君主制は神授権によると語る人々がいる。私は、この見解を今は議論しないでおくが、
ただ、その主張者に用心しよう。もし彼らがこのことによって、万事に関する唯一至高の
専横的権力と支配権は、神授の権利にもとづいて一人の人に存するし、かつ存するべきで
ある、ということを意味するならば(きっと意味するに違いない)、次のことが怪しまれ
ることになる。彼らは、どこの国に生まれ、どういう法律の下で生きているのかを忘れて
しまい、マグナ・カルタは正真正銘の異端だと断言せざるをえなくなっているのではない
かと。もし神授権君主制によって、彼らが絶対的ではなく制限的な君主制を(それは矛盾
ではないとしても、道理に合わないことだと私は思う)意味するならば、天から与えられ
た彼の2特許状を、彼らはわれわれに示すべきである。そして、この世における彼の臣民の
保護3のためになること以外の何事かをする権力を、どこで神が統治者に与えたのかを見て
1
2
3
O: 「にならずに」と書かれて後、「を構成せずに」へ変更される。
O, P: この
O, P: 保護と福祉(「と福祉」が O で行間に挿入される。)
みよう。あるいは、そうでなければ、われわれの気ままに、そのことをわれわれに勝手に
信じさせておけばよい。というのも、統治者が明示する権限を超えた、統治者自身も制約
を受けていると自認する権力には、誰も束縛されないし、またそういう権力を主張するこ
とを、誰も何人にも許すはずはないからである。
他方、統治者がもつ権力と権威のすべては人民の授与と合意に由来する、と確信する人々
もいる。そういう人々に私は次のように言おう。自分達自身の保護以外の何らかの目的で
もって、自分達の上に立つ権威を仲間の誰か一人か複数に人々が与えるとは、あるいは、
彼らの管轄域をこの世の枠を超えるものにまで拡大するとは、考えられないと。
A3 [fo. ivr]
この世の平和と臣民のプロパティ4を保護するためでなければ、何事にも統治者は従事ま
たは介入すべきではない、ということをここで前提して、次に、人々の見解と行動を考え
てみよう。それは、寛容との関連では、三種に分類される。
1
それ自体においては統治や社会にはまったく関わりがない見解と行動のすべてであ
り、純粋に思弁的な全見解、そして神の礼拝といったもの。
2
その本性は善でも悪でもないが、社会や相互の人間付き合いに関わるようなもので
あって、これらは非本質的事項の内、周囲に影響を及ぼす全見解と行動である。
3
同様に社会に関わるが、さらにその本性上、善か悪かであるようなものであり、こ
れらは道徳的な徳と悪である。
1
第一の種類のみが、つまり思弁的見解と神の礼拝が、寛容への絶対的かつ全般的権
利をもつ唯一の事項である、と私は主張する。まず、純粋に思弁的な見解とは、三位一体、
煉獄、化体、対蹠地、キリストの地上での支配等5を信じることであり、誰もがもつこれら
の見解において、その人の無制約の自由が現れる。なぜならば、単なる思弁は、私の人間
関係に何の歪みも与えず、また、何らかの社会の一員としての私の行動に、何の影響も及
ぼさないからである。たとえこの世で私以外に他の誰もいないとしても、それでもなお、
その結論すべてに変わりが生じないような思弁は、国家を不穏にすることも、私の隣人に
迷惑をかけることも絶対になく、従って統治者の管轄事項には入ってこない。加えて、自
分が何の権力ももたない事項については、その事項への権力を、誰も他人に与えることは
できない(そしてかりに神が与えたとしても、まったくの無駄となろう)。人が自分自身
に理解を命じることができず、
A4 [fo. vr]
また、自分が明日はどんな見解をもつかを、今日には明確に定められないということが、
経験及び理解の本質から明白なのだから。その理解の本質とは、目に明らか6でない物事は
プロパティと訳したが、H, A: proprietys O, P: propriety
EX: 三位一体、堕落、対蹠地、原子等
B2r(1)[fo. 1r]: 三位一体、煉獄、化体、対蹠地、キリストの地上での支配等(ここでは「対
蹠地」の語は下線らしきものをもつ。ロックはこの語を削除しようとしたのかもしれない。)
6 B2r(1) [fo. 1r], さらに O, P では、「目に」(to it)が入る。訳ではこれを入れた。A と
4
5
把握できないということであり、それは、虹に明らかな色以外を、そうした色が本当にあ
ろうとなかろうと、目は見ないのと同様なのである。
<<以下は、ここでロックが O に追加した部分である。>>7
思弁的見解のこの項目を離れる前に、次のことだけ述べておかなくてはならない。
それは、神の信仰は純粋な思弁的見解とみなされるべきではない、ということで
ある。というのも、神の信仰はあらゆる道徳の基礎となり、かつ人間の全生活と
行動に影響を及ぼすものだからである。それなくしては、人間は、野獣の最も危
険な種類の一つとしか、従ってどんな社会も構成不能なものとしか、みなされな
い。
無制約の寛容を正当に主張できるもう一つの事項は、私の神を礼拝する場所、時間と方
法である。なぜならば、このことはもっぱら神と私との間の事項であり、この世での私の
幸福のためにのみ存在する政体や政府の領域や管轄を超えた、永遠の重大事項だからであ
る。統治者は人間と人間との間の裁定者にすぎず、隣人に対抗して私の権利を回復するこ
とはできても、私の神に対抗して私を守ることはできない。他の事項において統治者に従
うことで私が悪をこうむれば、それが何であろうと、彼はこの世で私に補償できる。しか
し、もし統治者が誤った宗教へと私を強制するならば、彼は別の世では私に何の償いもで
きない。このことに、さらに次のことを付け加えよう。統治者が権威をもつこの世の事項
においてさえ、彼は公共の善に関わる以上の事項を決して行なわず、そして、万一彼がそ
うすれば、不正となるということである。統治者は、人々の個人的なこの世の関心事への
配慮を彼らに命じることも、また彼ら自身の個人的な利益の追求を強いることも決してし
ない。統治者は、他人が人々を侵害したり傷つけたりすることから、人々を守るだけであ
る〔(〕それが完全な寛容である)。それゆえに、次のことをわれわれは充分念頭におい
てよいだろう。別の世での私の個人的な利益には、統治者はまったく関わらないというこ
とを。
A5r [fo. vir]
また彼の権限内の事項を超えた、私にとってははるかに高次の関心事であるあの善の追求
にさいして、彼は私に方法を指図するべきでも、私の努力を要請するべきでもないという
ことを。統治者は私自身と同様、あの善を獲得する方法について、確実または無謬の知識
をもたない。あの善においては、われわれはともに等しく探求者であり、ともに等しく臣
民であり、そこで統治者は、私が誤りを犯さないという保証を何も与えられないし、もし
私が誤っても、何の補償も私にできない。私に家を買うよう強制できない者が、天を購う
危険を冒すような方途を私に強制すること、私の健康維持法を私に正当に処方できない者
が、私の魂の救済方法を命じること、私の妻を選べない者が宗教を選ぶこと、そうしたこ
とは理にかなっているのだろうか。しかし、もし神が人々を天へと強制したとするならば
H の A4 では、たんに「明らか」とある。
O: fol.22 Milton and Milton (eds.): An Essay concerning Toleration, p.308.
7
(これはまさに問題点となる)、それは、人々の身体への統治者の外的暴力によるのでは
なく、人々の心への神自身の霊の内的圧力によるに違いない。この内的圧力は、何か人間
的な強制によって作用されうるものではない。救済への道は、強制された外的な行為では
なく、心の自発的かつ深奥な選択であり、そして、目的達成に至らず、むしろそれを阻害
するような何らかの手段を、神が利用するとは考えられない。また、救済への道を人々に
替わって選択する権限を、人々が統治者に与えるとは考えられない。8
B3r(2) [fo. 2r]
それは、たとえ共有することが不可能ではないとしても、譲渡するにはあまりに重大な権
限であり、統治者が神の礼拝において何を命じようと、人々はこのことでは必然的に、彼
ら自身が最善だと考えたことに従わなければならないからである。また、それが無限の幸
福または無限の悲惨への道である、と人が充分に確信していた事項については、その者を
強制的にそこから遠ざけたり、またはそこへ向かわせたりするには、どんな配慮も十全で
はありえなかったからである。9宗教礼拝は、神にふさわしいと私が判断する方法でもって、
私が崇敬するあの神にささげる礼であり、従って神と私自身との間でのみ交わされる行為
ややり取りであって、それ自身の本性上、私の統治者や私の隣人にはまったく関わりをも
たず、従って共同体をかく乱するようないかなる行為をも、必然的に生むようなことはな
い。というのも、聖餐のさいに10跪座するか腰かけるか、ということは、自分のテーブルに
向かって座るか立つか、ということと同様に、それ自体において統治の妨害や隣人への危
害に向かうことはありえないからである。教会でコープやサープリスを着用することは、
市場でマントや外套を着用することと同様に、国家の平和を11乱し、または脅かすものでは
ない。再洗礼するからといって、それがコモンウェルスに嵐を引き起こすことはない。そ
のことは、再洗礼が川に嵐を、また私自身を裸にして洗うことが川に嵐を引き起こさない
ことと同様である。私が、マホメット教徒とともに金曜日を、またはユダヤ教徒とともに
土曜日を、あるいはキリスト教徒とともに日曜日を安息日として遵守しようと、またある
形式でもって、もしくは形式なしで私が祈ろうと、また教皇主義者の種々華麗な儀式で、
もしくはカルヴァン主義者のより簡素な方法で私が神に祈ろうと、たとえそれらが心底か
つ良心からなされたとしても、そのこと自体によって私を、私の君主にとって有害な臣民
にし、また同輩の臣民にとって有害な隣人としうるようなものは何も、私はこれらのどの
以下手稿自体は手稿帖 B へ続くが、B1r から B3r(2) [fo. 2r]の冒頭6行までは、ロックに
よって削除される。
9 ここでロックは次の文の挿入を当初意図していた。
それは B2v[fo. 1v]上にいったん書かれ
た後、削除された。「また、キリスト教の教えが統治者に、宗教の事項において何か新し
い権力を付与するとは、あるいは、統治の一般的本質または統治者にゆだねられた当該社
会の構造にもとづいて彼がかつて得た以上の何らかの管轄権を与えるとは、私は考えな
い。」
10 「聖餐のさいに」から、後の「川に嵐を引き起こさないことと同様である。」までは、
B2v [fo. 1v]に書かれた追加部分である。
11 O: 「それ自身の本性上」がここで挿入される。
8
行為においても見出さない。ただし次のような場合は別である。傲慢さや私自身の見解に
関する自信過剰、私自身の無謬をひそかにうぬぼれることによって、神のような力をもつ
何かが私自身にあると思い込み、私と同じ考えをもつよう他人を強制かつ無理強いし、も
し彼らがそうしないなら、その人々を非難かつ中傷する場合である。このことは実際しば
しば起こることだが、それは礼拝のせいではなく、そういう人間のせいであり、
B4(3) [fo. 3r]
信心のあれこれの種類<形式>の結果ではなくて、堕落した野心ある人間性の産物である。
そうした人間性は、アハブが断食を守ったときのように、あらゆる種類の宗教をたえず利
用する。その断食は、ナボテのぶどう畑を取り上げる原因となったのではなく、その手段
と策略にすぎなかった。アハブの強奪が断食の価値をおとしめることがないのと同様に、
信仰者の一部の者達のそうした過ちは、どんな宗教(というのも、同様のことがあらゆる
宗教に起こるから)の価値もおとしめることはない。
以上のことから、次のように私は考える。
<<以下は、ここでロックが O に追加した部分である。>>12
次のように主張されることもあるだろう。宗教礼拝の全部分に寛容が妥当すると
認められるなら、そのことは、あらゆる点で彼が権力をもつと認められるあの事
項、すなわち宗教礼拝に用いられる、白衣を着るか黒衣を着るか、跪座するかし
ないか等々といった、非本質的事項に関する立法から、統治者の権力を閉め出す
であろう。この主張に対して、次のように私は答える。宗教礼拝においては、非
本質的なものは何もない。というのも、もしそれが、私が神を礼拝するさいに、
神が受容すると私が考えるようなあの衣装、身ぶり等々を用いるということであ
るならば、たとえそれらが本性上完全に非本質的であるとしても、しかしながら、
神が規定かつ是認するだろうと私が考える方法で、私が神を礼拝しているさいに
は、私が真の礼拝方法とみなすことにおいては、どんな次第も変化、除去、また
は追加することは私にはできないからである。そしてそれゆえに、もし統治者が
私に、彼のものとは異なった信仰や教会をもつことを許すならば、私の礼拝のど
んな次第であれ、それを彼が規定するというのは矛盾している。そして、ユダヤ
教(それはキリスト教の原則にまっこうから反する)が寛容されているキリスト
教国において、統一上どんな根拠ならキリスト教の異なった信仰を禁じられるか、
と考えるのは奇妙なことである。ユダヤ教が許容されているところで、キリスト
教の統治者が、非本質的事項における彼の権力を口実に、礼拝方法や様式におい
て何かを加え、または禁じ、もしくは何らかの介入をしようとすれば、それは不
合理なことではなかろうか
113
12
13
誰もが、思弁や宗教礼拝において、完全な、統制されない14自由をもつ。人はその
O: fol.22
Milton and Milton (eds.): An Essay concerning Toleration, p.308.
H には1の番号数字はない。O, P, A は「1」の番号を付す。訳では番号を付した。
自由を、統治者の命令がなくても、または命令に反しても、何の罰や罪も伴わずに、自由
に行使しうる。ただし、そのことはつねに、その人の知識や信念が最善とすることに従い、
誠実にかつ良心にもとづいて、すべて神に向かって行われるのでなければならない。しか
し、野心、傲慢、復讐、党派心といったもの、またはその人が良心と称するものにそれを
混ぜた、何かそうした混合物があるならば、それだけ大いに罪深く、そしてそれ相応に審
判の日に彼は責任を負うことになるだろう。
2
人々がお互いに彼らの行動を、それでもって規制していかねばならないと考えるも
のはすべて、周囲に影響を及ぼす原則または見解だと私は言おう。それは、人々が15望むよ
うに子供を育てたり、財産を処分してもかまわないということ、また、ふさわしいと思う
ときに働いたり休息してもかまわないということ、多婚や離婚が合法か非合法かというこ
と、等々のようなことである。これらの見解と
B5(4) [fo. 4r]
それに伴う行動は、他のあらゆる非本質的事項とともに、16寛容への資格をもつが、しかし、
それらが国家のかく乱に向かわず、または共同体に与える利益以上の不都合を生じさせな
いという限りでのことである。というのも、人間社会にとって明らかに破壊的なものをそ
こからのぞけば、これらの見解はすべて非本質的事項か、または不確かな事項であり、か
つ統治者も臣民も、どちらの側においても無謬ではないから、統治者がこれらの見解を考
慮するのは、次の場合に限られる。それは、法を制定し、そうした見解に統治者の権威を
介在させることが、彼の人民の福祉と安全につながりうるような場合である。しかし、そ
れは良心の事項であるとか、それは罪または義務だと一部の人々が確信している、といっ
たそんな根拠では、その種の見解は何一つ寛容への権利をもたない。なぜならば、臣民の
良心や信仰は、それによって統治者が彼の法を制定できる、または制定すべき尺度にはな
りえず、統治者の法は、一部の者の奇想<信念>にではなく、彼の臣民全体の善にふさわ
しいものであるべきだからである。そうした信念はしばしば互いに対立することがあるか
ら、相対立する法を生じさせるに違いない。そして、誰の良心もそれをとがめないほどに
非本質的なものは何も存在しないから、それには従えないと人々が良心から主張する事項
のすべてにおいて人々を寛容すれば、それは世俗法のすべてを、そして統治者の権力のす
べてを、完全に取り去ることになるだろう。そして、統治者があらゆる点で管轄権をもつ
とみとめられる非本質的事項において、もしそのようにして統治者の権威が否定されれば、
法も政府もなくなってしまうだろう。
B6(5) [fo. 5r]
O: 「統制されない」と書かれて後、「統制されえない」へ変更される。 P: 統制され
えない
15 「人々が」から「休息してもかまわないということ」までは、B3v [fo. 2v]に書かれた追
加部分である。
16 「他のあらゆる非本質的事項とともに、」は行間に挿入される。 A: 他のあらゆる非本
質的事項とともにこれらの見解と、それに伴う行動は
14
それゆえに、どんな人の良心上の誤りやつまずきも、それは、何かを行なうよう、または
そうしないよう、その当人を導くものであって、統治者の権力を破棄するものではなく、
また依然非本質的である当該事項の性格を変更するものではない。というのも、周囲に影
響を及ぼすこれらすべての見解は、それ自体においては多分非本質的ではないとしても、
立法者との関連では非本質的である、と私はここで何の疑念もなく称していくからである。
というのも、そうした見解の道理または不条理、必要性または不法性を、統治者自身がど
れほど確信していても、そしておそらく彼は正しいとしても、17しかし、自分は無謬ではな
いと統治者は自認するかたわら、命令され、寛容され、または禁じられることによって、
そうした見解が人々の世俗的な18善と福祉につながる、まさにそういう場合には、立法のさ
いにそれらの見解を非本質的事項とみなすべきだからである。とはいえ、そのさい統治者
は、自分の個人的な行為を、それらの当の見解において彼自身の良心と信念が指示するも
のに、厳格に合致させねばならぬであろう。というのも、人民の上に立つ統治者になって
も、彼は他の事項に関して無謬になったわけではなく、その後も彼は、彼の行為について
一人間として、それらが自身の良心や信念に合致しているかどうかに応じて、神に責任を
負うからである。しかし統治者としては、この世の彼の全臣民の善、保護と静穏を可能な
限り志向しているかどうかに応じて、彼の法と行政に責任を負うことになる。そのことは、
たいへん確実、かつ明瞭な定則であるから、統治者はわざとそうするのでない限り、その
点で誤ることはほとんどありえない。
B7(6) [fo. 6r]
しかし、これらの事項に関する制限や自由の限界を示していく前に、見解の問題におい
て用いられる、または用いられてよい強制について、いくつかの段階を設定することが必
要となろう。
1
何らかの見解の公表または発表を禁じること。
2
何らかの見解を否認または撤回するよう強いること。
3
反対の見解に同意を表明するよう強制すること
これらに応じて、寛容の段階も同様にある。
これらすべてから以下のように私は結論する。
1
統治の妨害に向かうときには19、これらの見解の何であれ、その公表を統治者は禁じ
てよい。なぜならば、そのさい、それらは統治者の審理かつ管轄下に置かれているからで
ある。
2
自分の見解を否認する、または反対の見解に同意するよう、誰も強いられるべきで
はない。そうした強制は、強制がそのために意図されているあの目的にとっては、実質的
17
「そしておそらく彼は正しいとしても、」は行間に挿入される。
H, A: 「世俗的な」が行間に挿入される。 O, P: 「世俗的な」の語はない。
19 「統治の妨害に向かうときには」は行間に挿入される。 O: 「それ自体において統治の
妨害に向かうときには」(「それ自体において」が行間に挿入される。)
18
な効果を何も生み出すことができないからである。強制は人々の心を変えることはできな
い。20強制は偽善者となるよう人々を強いることのみ可能である。21そしてこの方法によっ
ては、統治者は、彼の見解の真実性を人々に悟らせることなど、とうていできず、自分自
身のために嘘をつくよう、彼らを追いやるだけとなる。こうした命令は統治の平穏や無事
には少しもつながらず、まったくさかさまのことに至る。なぜならば、このことによって
統治者は、どんな人をも、
B8r(7) [fo. 7r]
彼と少しでも見解を同じくさせることはなく22、一層彼の敵にしてしまうからである。
3
これらの見解のどれから生じるどんな行為も、他のすべての非本質的事項における
行為と同様に、それらが彼の人民の平和、安全や無事に向かう限り、統治者は命令または
禁じる権力をもつ。ただ、人民の平和等について統治者は判定者であるとはいえ、しかし、
次のことになおも多大な注意を払わなければならない。それは、国家の必要と人民の福祉
がそれらを求めたという以外の何らかの理由でもって、その種のどんな法も作られてはな
らず、その種のどんな制約も設定されてはならないということである。そして、そうした
強制や厳格性が必要かつ有用である、と統治者がたんに思いつくだけでは、多分、充分で
はなく、強制等が必要かつ有用か否か、彼が真剣かつ公平に考え、かつ議論してきた上で
のことでなければならない。そして彼の見解は(もし彼が誤れば)そうした法の制定にお
いて彼を正当化することはないし、それと同様に、臣民が考えかつ調べてみて、彼らの良
心か見解かのどちらかによく納得がいった場合、そうした法に統治者がもし従わなければ、
臣民の良心や見解は彼を許さないだろう。そして次のことは容易に認められるだろうと私
は考える。統治の安全、そして生命、財産と自由において人民を保護すること、すなわち
全体の保護のため以外の何か他の目的で立法すれば、あの偉大な法廷において最も厳しい
審判に直面するだろう。なぜならば、彼らの善のために政府が設立された人類にとって、
立法者の手中にあるあの権力や信託の濫用は、
B9(8) [fo. 8r]
他の何事よりも大きな、かつ不可避的な悪をもたらすだけでなく、この世では立法者は、
どんな法廷にも責任を負わないからである。さらに、臣民全体の、23かつ臣民個々人の保護
のためにのみ彼に与えられたあの権力を、利用できる限り統治者が利用するならば、また、
統治者の快楽、虚栄や情念のためにそれを悪用し、かつ彼の仲間を脅かし、抑圧するため
20
もとは「そうした強制は、実質的な効果を何も人々の心に生み出すことができない」と
いう文に、「強制がそのために意図されているあの目的にとっては」や「変えることはで
きない」が行間に挿入される。
O: 変えることができる。(次の注参照。)
21 O: 可能ではない。(この注と直前注に対応する部分とも、文脈から判断して、O の筆写
時の誤りと推測される。だが、これらの箇所には、加筆や修正の跡はまったくない。)
22 「なく 」‘not’ は行間に挿入される。
23 「臣民全体の」から「至高の保護者を挑発するものは」までは、B8v [fo. 7v]に書かれた
追加部分である。
にそれを用いるならば、そのこと以上に、人類の至高の保護者を挑発するものはありえな
い。彼の仲間と彼自身との間には、王の中の王から見れば、小さなかつ偶然的な違いしか
ない。
4
これらの見解や行為において、人々自身の良心のもつ真摯な信念に反することへと、
統治者が法や強制でもって人々を制約または強制しようとするならば、人々は良心が彼ら
に求めることを、できるだけ暴力を伴わずに行なうべきであるが、しかし同時に、そうし
た不服従に法が科す罰には静かに24従う義務がある。というのも、この手だてによって、彼
らは別の世における彼らの重大な関心事を自分達に確保し、かつこの世の平和を妨害せず、
神に服従するか王に服従するかという問題とも抵触せずに、両者に当然負うべきものを与
えて、25統治者の利益と彼ら自身の利益の両方とも安泰ということになるからである。まぎ
れもなく偽善者であり、もっぱら良心をいつわり、この世で何か他のことをねらっている、
そういう者は、彼の財産、自由、または生命自体を賭してまでも良心に従い、かつまた法
に服することによって、自分自身に天国を、そして自分の国には平和を購おうとはしない
だろう。しかし、本当はそうではない何事かを必要または不法だとして、頑固に追求また
は忌避するよう、彼の良心や見解が誤って彼を導くことがないように、同様にそうした誤
りや片意地によって、この世と別の世でも同様の不服従で彼が罰せられることがないよう
に、ここで、先の例における統治者と同様に、私人も大きな注意を払わなければならない。
良心の自由は臣民の大特権であるだけに、強制する権利が統治者の大権26であるのと同様に、
それらのもつもっともな見せかけのために、それらが統治者や臣民のどちらをも誤って導
くことがないよう、一層厳重に監視されるべきである。これらの悪は、最も危険であり、
最も注意深く避けられるべきものであり、かつ神が最も厳しく罰するようなものであって、
権利というもっともらしい見せかけや装いの下で、なされるものである。
B10r(9) [fo. 9r]
3
先の二つに加えて、第三の種類の行為があると私は言おう。27それはそれ自体におい
て善または悪と考えられるものである。28すなわち、第二の板上の義務やその侵犯29、また
は哲学者の言う道徳上の徳30である。これらは、宗教の活性的活動的な部分であるが、また
その点で人間の良心が大いに関わりをもつものであるが、しかし私が考えるに、良心の自
由の議論においては、わずかな部分を占めるにすぎない。これらのことに人々がより熱心
になれば、彼らが他人と争いをしないようになる、そういうものかどうか私にはわからな
24
「静かに」は行間に挿入される。
「神に服従するか王に服従するかという問題とも抵触せずに、両者に当然負うべきもの
を与えて」は行間及び左余白欄にかけて挿入される。
26 「大権」から「なされるものである。」までは、B8v [fo. 7v]に書かれた追加部分である。
27 「私は言おう」は行間に挿入される。
28 O: 「と考えられるもの」が書かれて後、削除される。
29 「その侵犯」は行間に挿入される。
30 H: 「徳」のあとで、「悪」が削除される。 O: 徳と悪(「と悪」が行間に挿入される。)
P: 徳
A: 徳
25
い。しかし、次のことは確かである。徳を奨励すること31は、国家にとって大いに必要な支
えであり、かつ、いくつかの32悪を許容すれば、社会のかく乱と崩壊につながることは大い
に確実であるから、どんな統治者も、法によって悪を打ち立て徳の実践を禁じたことなど、
決してなかったし、また、将来彼がそうするであろうとも思われない。徳はそれ自体の権
威によって通用し、徳があらゆる政府にもたらす利益は、どこでも充分にその徳自体を定
着させていく。33だが、いかに奇妙に思われようと、次のことを言わせていただきたい。立
法者は道徳的徳や悪とは何も関わりがなく、統治下にある人類の善と保護に役立つ以外の
いかなる場合においても、第二の板の義務を命じるべきではないということを。というの
も、命令や罰則でこれらの義務を強制しなくても公共社会がよく存立でき、また人々が平
和、または34
C1(10) [fo. 10r]
安全を享受できるのであれば、次のことは確かだからである。これらの義務について立法
者は何の規則も制定すべきではなく、35これらの義務の実践を彼の人民の裁量と良心にゆだ
ねるべきであること。というのも、これらの道徳的徳と悪さえも、公共の福祉においても
つ関わりから切り離されうるのであれば、そして人々の平和とプロパティを確立またはか
く乱する手段であることを止めうるのであれば、それらは神と人間の魂との間の私的かつ
超政治的な関心事にすぎなくなり、そこに統治者の権威は介入すべきではないからである。
神は統治者をこの世での彼の代理人として任命し、命令する権力を与えたが、しかし、そ
れは、他の代官と同様に、彼が代理人である当該の場所で起こったできごとにおいてのみ
命令する権力である。別の世の事項に介入する者は、誰であろうと、懇願かつ説得する以
外の他の力をもたない。36統治者は、37人間の魂の善や別の世での関心事にいっさい関わり
がなく、ただ社会において人々が互いに静穏かつ快適に生活するために、その38権力を授け
られ委託されたにすぎない。そのことはすでに充分に明らかにしたとおりである。そして
さらに明白なことは、統治者は徳の実践を、それらが徳であり、かつ良心の義務だから、
または
C2r(11) [fo. 11r]
31
「を奨励すること」は行間に挿入される。
「いくつかの」は行間に挿入される。
33 O: 「充分にその徳自体を定着させていく」と書かれた後、「統治者の奨励に充分に値す
るものとなる」へ変更される。
34 O: 「または」と書かれて後、「そして」へ変更される。
35 ここで「または正義の剣で悪を矯正しようと努力するべきでなく」が削除されている。
36「別の世の事項に」から「もたない」までは、左余白欄に挿入される。O と P ではカッコ
でくくられる。H では、この部分は以下の文の削除を伴う。「別の世での 〔判読不明語〕
を懇願かつ説得するのみ、という指示を付して、神はその使節を送るにすぎない。」
37 O: 統治者は、統治者として(「統治者として」が挿入される。)
38 O: 定冠詞で書かれた後、「彼の」へ変更される。
32
神への人間の義務であり、神の慈悲と恩恵への唯一の道であるから、39という理由で命じる
のではないということである。統治者が徳の実践を命じるのは、徳が人間相互の利益にな
り、徳の大半が社会の強力な結び目や絆となっているからであって、そうした絆が緩めば、
全体の枠組みがゆるがずにはいられないからである。一部の徳は国家にそのような影響を
及ぼすことはなく、かつ、かえって悪であり、次のものと同程度の悪とみなされる。40それ
は、貪欲、両親への不服従、忘恩、敵意、復讐心、その他である。それらに抗して統治者
が剣を抜くことは決してないが、悪の内で最も人に気づかれにくい復讐心や敵意でも、そ
れが故殺と謀殺の司法上の区別41をつける場合には、そうした悪は人にわからないから無視
する、と言われることはありえない。慈善自体さえ、42それは確かに、人間とキリスト教徒
両者の大きな義務であるが、しかし、その全範囲にわたって寛容への全般的権利をもつも
のではない。そのある部分や事例については、統治者が絶対に禁じてきた、しかも、最も
繊細な良心にすらおそらくは何の障碍も起こさずに、禁じてきたものがあるからである。
というのも、たとえ乞食であれ(彼らが困窮していることが見てとれるなら)、施しによ
って43貧者を救うことは、絶対的に考えれば徳であり、誰もの義務であることに疑いをもつ
ような人々は誰もいないだろう。しかし、施しはわれわれの間では法と厳罰によって禁じ
られ、だが、この場合、良心を侵害されたとか、自由を喪失したと文句をつける者は誰も
いない。もしそのことが良心への不当な制約であったとしたならば、かくも多くの繊細か
つ細心な人々がそれを見逃しうることなど、きっとありえなかっただろう。神は時には(統
治を保護するために神はかくも多大な注意を払う)神の法を、人間の法に多少とも従わせ、
かつ合致させることがある。神の法は悪を禁じるが、しかし人間の法はしばしば
C3(12) [fo. 12r]
その手段になる。現場で捕まえられなかった者には、盗みを合法としてきたコモンウェル
スが存在した。そして多分、スパルタで馬を盗むことは、イングランドで競馬に勝つのと
同様に、罪のないことだった。というのも、ある者から他の者へのプロパティの委譲に関
する方法を指定する権力44を統治者がもつならば、普遍的で平等で、暴力沙汰がないように、
そして当該社会の利益と福祉に適合するように、何らかの方法を制定してよいからである。
このことはスパルタにおいて、彼らは好戦的な人々なので、その市民に警戒、大胆、かつ
敏活を教えることが、悪いことだとはまったく思わないのと同様である。ところで、この
ことに私が留意するのは、一部の神法の義務にさえも制限と変更を加え、かつ悪と徳の性
39
「神の慈悲と恩恵への唯一の道であるから」は行間に挿入される。
「かつ、かえって悪であり、次のものと同程度の悪とみなされる」は行間に挿入される。
41 故殺と謀殺の訳語や概念については、小田直樹教授(広島大学)のご教示を得た。
42 O: 「慈善自体さえ」から、C3(12) [fo. 12r] の「このことから来る。」までは、いった
ん書かれ、小さな修正を加えられてから、後に削除される。
43 「施しによって」は行間に挿入される。
44 O: プロパティの委譲に関する規則制定の権力 (「規則制定の」は行間に挿入される。)
P: プロパティの委譲に関する権力
A: プロパティの委譲に関する方法を指定する権力
(「変容」と書かれた後、「委譲」へ変更される。)
40
格を変化させるように見える場合に、どれくらいコモンウェルスの善が人法の規準となっ
ているかを明らかにするためである。窃盗を無実としえた統治者でさえ、偽証や信義違犯
を、人間社会に破壊的であるがゆえに合法的だとしえなかったのは、このことから来る。45
それゆえに、善悪の行為に統治者がもつ権力46から、次のことが出てくると私は考える。
1
彼はすべてを罰するよう義務付けられない。すなわち、一部の悪を寛容できる。こ
の世でそうしない政府があれば、どんなものか私は知りたい。47
2
何らかの悪の実践を彼は命令すべきではない。なぜならば、そうした命令は人民の
善、または政府の保護に役立つことができないからだ。48
3
何らかの悪の実践を統治者が命じる、と想定されうるならば、良心的な、かつその
命令に憤慨する臣民は、彼の命令に従うべきではないが、先に述べたように、彼が科する
罰に服するべきである。49
これらのことが、強制と自由の限界を画するものだと私は考える。そして人間の良心が
関わる50これら三種類の事項は、それらがそれ自体として別々に、かつ抜き出して考えられ
るならば、私が設定した、かつその限りの寛容の51範囲に権利をもつにすぎない。
C4(13) [fo. 13r]
しかし、寛容へのこの権利を主張する52人々を統治者が処遇する仕方を、同じ根拠でもっ
てなおも変更しうる、二つの事例または状況がある。53
1
人々は通常、彼らの宗教をおおざっぱに採用し、かつ彼らの党派の見解をすべてひ
っくるめて自分のものとみなすので、教皇以外の他の君主の臣民であるローマ・カトリッ
ク信徒に明らかなように、彼らの宗教礼拝と思弁的見解を、そこで彼らが生きている社会
にとって絶対的に破壊的な他の教えと混同することが、しばしば生じる。従って、こうし
た人々は、そうした破壊的な見解を彼らの宗教と混同し、それらの見解を根本的真理とし
て崇め、かつ彼らの信仰箇条として服従するので、彼らの宗教の実践において、彼らは統
O: C2r(11) [fo. 11r] 上の「慈善自体さえ」から、ここまでは、いったん書かれ、小さな
修正を加えられてから、後に削除される。
46 「この権力」と書かれた後、「この」が定冠詞へ変更される。
A: この権力
47 ここで当初、次の文も意図され、C2v [fo. 11v] にいったん書かれたが、削除される。「1
統治者は、絶対的にそうだと考えられるあらゆる悪を罰し、またはあらゆる徳を〔判読不
明語〕するよう拘束されない。そしてこの世でかつてそのようにした政府があれば、どん
なものか私は知りたい。」
48 この2の文章は、C2v [fo. 11v] に書かれた追加部分である。
49 H: 当初はこれを2の文章としていたが、新たに上の2の文章を追加した後、番号3を
打った。 O: 3で始まる文章はいったん書かれた後、削除される。 A: 当該文章は独立
した段落をもたず、2の文章に続く。3の番号が付近の左余白欄に書き込まれているもの
の、この3が正確にどの文章を指すのかは、明示されていない。
50 「人間の良心が関わる」は行間に挿入される。
51 「私が設定した」「寛容の」は行間に挿入される。
52 「自分達を非国教徒と明言する数々の」と書かれた後、これを削除し、「寛容へのこの
権利を主張する」が行間に挿入される。
53 O: 「二つの事例または状況がある」と書かれた後、
「一つの事例がある」へ変更される。
45
治者によって54寛容されるべきではない。彼らの宗教を許しても、破壊的見解の拡大を伴わ
ず、かつ、あれらの危険な見解の伝道は、彼らの宗教礼拝からは区別されうる、55と統治者
が確信できれば話は別であろうが、そうなることはたいへん困難であると私は思う。
<<以下4行は、ここでロックが O に追加した部分である。>>56
そして次の場合に、それは彼らを一層寛容できない存在にするであろう。統治に
対する危険なこれらの教えによって、彼らが何かの機会に、同じ宗教をもつ手近
な近隣の君主の力を得、それが彼らに好意を示し、彼らを後押しする場合である。
2
それが57実行されることを経験が裏打ちしているから、かつ人々は皆が良心を主張す
る聖徒ではないから、次のように私が言っても、どの党派も傷つけないだろうと思う。大
半の人々は、少なくとも人々の党派は、充分な力をもつと、それを彼ら自身の利益のため
に、かつ彼ら自身を権威として打ち立てるために善用または悪用し、権威を獲得かつ保持
する力をもつ支配権の掌握をさしひかえる者はほとんどいない。それゆえに、公共社会と
は区別された団体へと、そして他の仲間の臣民よりも自身の名称や党派をもつ団体との、
より緊密な連帯へと人々が結集するときには、
C5(14) [fo. 14r]
さらに、そうして分離した何らかの党派が、統治者にとって危険と見えるほどに、そして
国家の平和を目に見えて脅かしそうになるほどに多数にふくれあがり、またそうなりつつ
あるときには、その党派を弱め、潰し、抑圧するために、かつそのようにして災いを防ぐ
ために、統治者は政治組織58か権力かに由来する、有用であろうあらゆる方法を用いてよい
し、また用いるべきである。そのさい、そうした党派の特異性が宗教的か嘲笑的かは、次
の場合以外には問題とならない。それは、宗教的結束がより強力となり、かつ良心の59主張
なるものが党派の人々を引きつけるのに、ますますもっともらしく、かつ適合的なものに
なっていき、それゆえに一層疑惑が向けられ、かつ一層注意深く監視される60べきものとな
る場合である。というのも、彼らの分離が現実には宗教礼拝における以外の何ものでもな
かったとしても、かつ彼ら自身のやり方で神を礼拝すること以外に何もしなかった人々に
抗して、統治者が最後の手段として暴力と苛酷な手段を用いたとしても、しかし、統治者
は彼らの宗教を本当に迫害したのでも、また宗教ゆえに彼らを罰したのでもないからであ
54
「統治者によって」は行間に挿入される。
O: あれらの見解は、彼らの宗教礼拝において彼らと交流する人々の誰によっても、吸収
されなければ、支持もされない
P: あれらの見解の伝道は、彼らの宗教礼拝からは区別さ
れうる
A: これらの危険な見解の伝道は、彼らの宗教礼拝からは区別されうる
56 O: fol.28v Milton and Milton (eds.): An Essay concerning Toleration, p.309.
57 O: 「2 それが」以降、C7(16) [fo. 16r] の「次のことを言明しておこう。」まで、い
ったん書かれ、小さな修正を加えられてから、削除され、C7(16) [fo. 16r] 上で明示する O
の文章で代替される。
58 O, P, A: 政策
59 O, P: 「良心の」の語はない。
60 「かつ一層注意深く監視される」は行間に挿入される。
55
る。そのことは、戦場で帽子に白いリボンを、または何か他の徽章をつけている人々を、
それは彼らが敵かつ危険であることの印であるからという理由以外では、征服者が殺さな
いのと同じことである。宗教、つまり、あれこれの礼拝様式は、彼らの結束と一致の原因
であるが、彼らの党派性や騒擾性の原因ではない。というのも、あれこれの場所や姿勢61に
おいて神を礼拝することが、人々を党派的にするのでも、互いに敵対的にさせるのでもな
く、また、神への礼拝は、帽子やターバンの着用の場合とは異なる別のやり方で、取り扱
われるべきではないからである。しかし、それらのどちらも、区別の印となることによっ
て、そして彼らの武力を量り、強さを知り、互いに自信をもち、そして折りあらばすぐに
結束する、そういう機会を人々に与えることによって、人々を党派的、敵対的にするかも
しれない。従って、
C6(15) [fo. 15r]
あれこれの見解や礼拝のゆえにではなく、どんな見解の持ち主であれ、異論を唱えた者達
がかくも大勢いれば危険となるであろうから、制約が加えられる。同様のことが次の場合
にも生じるだろう。統治者が採用する型とは異なる、また彼が身につけるものとは異なっ
た型の衣装が広まり、かつそれが人民のかなりの部分の徽章となり、そのことによって彼
らが非常に緊密な互いの連帯と友情へと至る場合である。これは統治者に警戒の理由を充
分に与え、かつ罰でもって62その型を禁じさせうるのではないだろうか?そうする理由は、
それが不法だからではなく、それが引き起こすかもしれない危険のためである。このよう
にして、俗人の外套は、教会の僧帽や他の宗教服と同じ効果を及ぼしうる。
そして多分クエイカーは、彼らが国家にとって危険となるほど多数となったならば、帽
子をかぶったままでいるということ以外には、彼らを他の臣民から区別する方法が他に何
もないとしても、国家から分離した宗教形態を彼らがもった場合と同程度に、彼らを潰し
かつ抑圧するべく、63統治者の注意と監視に値するようになるであろう。そのさい、次の場
合以外のいかなる状況においても、無帽で立たないことが統治者の苛酷な手段の対象にな
るとは、誰も考えないだろう。それは、無帽で立たないことが大勢の者を連帯させ、その
者達は、まったく非本質的かつ些細なことで統治者と見解を異にするにすぎないとしても、
しかし、それによって統治を危険に陥れるかもしれない場合である。そして、そのような
場合に、人々のどんな党派であれ、その党派の宗教や他の事項が一体となって、
C7(16) [fo. 16r]
彼の統治に対する明白な危険となってきたら、統治者がそれについての審判者であるあの
目的にとって、最も好都合なあらゆる手段を用いて、統治者はその党派を抑圧し、弱め、
または解体する努力をしてよい。しかも、まさしく彼の人民の保護と平和のために、彼が
知る最善に従って行なうことについては、統治者は別の世で責任を問われることはないだ
61
62
63
O, P: あれこれの姿勢
「罰でもって」は行間に挿入される。
O, P: 「潰しかつ」の語はない。
ろう。
暴力や強制がこの目的にとって正しい方法であるかどうか、私はここでは議論しない。
しかし、次のことを言明しておこう。64
<<以下は、O においてロックが削除した上の部分に代替した文章である。>>65
寛容に通常なされる反論は次のものである。統治者の最大の職務は、統治の平和
と静穏を守ることだ。彼は自分の国で異なった宗教を寛容しないよう義務付けら
れる。なぜなら、異なった宗教は差異をもち込み、そこで人々は公共社会から分
離した団体と連帯かつ結合して、コモンウェルスに無秩序、陰謀、そして叛逆を
引き起こし、かつ統治を危機に陥れるであろうから。
私は次のように答える。コモンウェルスに無秩序や陰謀を引き起こすかもしれ
ない事項がすべて、コモンウェルスにおいて容赦されるべきではないとすれば、
不満を抱え、かつ活動的な人々はすべて排除されねばならず、かつ公然と説教す
るよりも、ぶつぶつ不満を言う方が、はるかに陰謀を進めかつ醸成しやすいもの
として、寛容されてはならないことになる。公共社会とは区別される集会や団体
に加わる人々すべてが許容されるべきでないならば、自治都市の、とくに大都市
の特許状はすべて即座に撤回されるべきである。宗教において連帯した人々が政
府に反対する利益は、自治都市の特権において連帯した人々がそうする場合と同
様にほとんどないか、多分もっと少ない。彼らは分散していればいるほど、そし
てあの秩序を形成していなければいないだけ、それだけ危険が少ないと私は確信
する。人々の心は宗教の事項においてはかくも多様であり、かつ永遠の関心事に
おいてはかくも敏感かつ細心だから、人々が無差別に寛容されるなら、かつ迫害
や暴力が彼らをともに駆り立てなければ、彼らはかくも多くの小集団に分裂かつ
再分裂する傾向がある。そして、彼らは、ついさっき別れた、または最も近くに
いる人々にさえも、最大の敵意をたえず抱えているので、互いに見張り合いをし、
彼らが共通の正義と保護を平等に享受する限り、公共社会は彼らをまったく気づ
かわずにいられる。そして古代ローマの例(そこではかくも多くの異なった見解、
神々、そして礼拝様式が無差別に寛容されていた)が何ほどかの重要性をもつと
すれば、次のように想像するだけの理由をわれわれはもつことになる。それは、
まず政府の方が、他の臣民と区別して不公平に彼らを遇することによって、その
信仰者達に悪意を表明し、そしてそのことを国家の職務とするに至るまでは、ど
んな宗教も悪意を国家に疑われるような存在にはなりえない、ということである。
そしてある見解や宗教をこの世から排除し、その信仰において連帯している人々
の党派を潰すために、暴力と強制はいかなる時においても正しい方法である、と
O: C4(13) [fo. 13r] の「2 それが」以降ここまでは、いったん書かれ、小さな修正を加
えられてから、削除され、直後に示す O の文章で代替される。
65 O: fol.28v Milton and Milton (eds.): An Essay concerning Toleration, pp.309-310.
64
理性ある人間の誰かがもし想像しうるのであれば、私は次のことを言明しておこ
う。
以下の理由で、暴力や強制は、最悪の、最後の、そして最大の用心をもって行使されるべ
き手段であると。
1
なぜならば、その手段は人にあれを、つまり暴行を加えるからである。暴行から守
られるだろうというのが、人がコモンウェルスの一員となる唯一の理由だ。暴行の恐怖が
なければ、この世に政府は存在しないだろうし、その必要もないだろう。
2
なぜならば、暴力を行使する統治者は、彼がそうすると主張していること、つまり
万人の安全を促進するということに、66いくぶんか抵触するからである。というのも、各人
のプロパティ、静穏と生命を可能な限り守ることが彼の義務であり、万人を救うための方
途がないか試みつくされるまでは、他の者の静穏や安全のために、ある者を煩わせ、また
は破滅させるべきではないからである。他の者の安泰のために、統治者が臣民の誰かを零
落または破滅させれば、それだけ、彼は自身の意図に反することになる。その意図は、も
っぱら保護のためだと公言されているし、かつそうあるべきものであり、その保護には、
最も身分卑しい者ですら正当な権利をもつ。
C8r(17) [fo. 17r]
かいようのできたつま先でさえ、エソになりつつあるとしても、他のあらゆる穏便な治療
法ではうまくいかないと判明するまでは、それを切り落とすことは、下手くそであると同
時に無慈悲な治療法にすぎず、誰もそれを用いようとしないか、それに同意しないもので
あろう。たとえつま先が地面と同じ低い場所にあって、頭からずっと遠くに離れていても。
これになされうる反論を一つだけ見ておこう。つまり、より穏便な治療法を用いて、そ
んなのんびりした方法をとれば、さっさとやれば効果が出るようなそうした治療法の機会
を、君は失う67ことになり、そうこうしている間に、君の手ぬるいやり方で病勢はつのり、
党派は強くなり、人を集めて、君の支配者になる、というものだ。
これに答えよう。あの党派や分派は、ゆっくりかつ徐々に成長し、成人かつ強壮期と同
様に、幼年かつ弱体期をもち、一気に手強いものにはならず、手遅れの危険性を何ら冒さ
ずに、他種の治療法を試みるための充分な時間を許す。しかし、異論を唱える者達が統治
者と対抗する状態になるほど多数になった、と統治者がはからずも知る事態に陥るならば、
そのさい暴力や苛酷な手段でもって何を彼が得られるのか、私にはわからない。そのとき
には、そうした手段によって統治者は彼らに、団結し武装するための、そして統治者に対
抗して一層堅固に彼らすべてを団結させるための、もっともな口実を与えることになる。
しかし、統治者の義務よりも利害に関わるような問題のこの部分に、こうしていくぶんか
でも近づくことについては、私はより適切な場にゆだねよう。
D1(18) [fo. 18r]
66
67
「を促進する」は行間に挿入される。
O, P, A: 逃す
O, P, A: 安全ということに
ここまで、私はただ、統治者の権力と臣民の義務において、神が設定した限界を描いてき
たにすぎない。統治者も臣民もともに、王の中の最大の王の臣民であり、その王に等しく
服従を負う。この王の中の最大の王は、さまざまな状況や状態において彼らに課せられる
義務の遂行を、彼らから期待する。その義務の概要は以下である。
1
国家の利害関係からまったく切り離された、そして社会における人間の生活に直接
的な影響を何ら及ぼさない見解や行動がある。それらは、思弁的見解と宗教礼拝のすべて
であり、これらは全般的な寛容に明白な権利をもつ。これを統治者は侵害すべきでない。
2
その本性的な傾向において、人間社会に絶対に破壊的な見解や行動がある。たとえ
ば、異教の者との約束は破ってよい。もし統治者が宗教を改革しないなら、68臣民が改革し
てよい。自分自身が信じる見解やそうしたものは何であれ、広め69かつ伝えるべきである。
そして行動においては、あらゆる形態の詐欺や不正などである。これらのことを統治者は
まったく寛容すべきではない。
3
それ自体においては人間社会にとって不都合でも得でもないが、ただ国家の気風や
事態の形勢によっては、それらの影響を善にも悪にも変えうるような、第三種の見解や行
動がある。たとえば、多婚は合法か不法か。
D2r(19) [fo. 19r]
特定の時節に肉や魚が食べられるのか控えられるべきか。そして周囲に影響を及ぼすその
他の見解、及び非本質的事項に関わる全行動である。これらのことは、公共社会の利益に
介入せず、統治のかく乱に何も資するものでない限りでのみ、寛容への権利をもつ。
こうして、ここまでは、統治者の義務に関わるものとして、寛容を議論してきた。彼が
良心において何をすべきかを示してきたので、これからは、政策的判断において彼が何を
すべきかを、少々考えても悪くはないだろう。
ただ、人々の義務は普遍的に制定された70規則に含まれ、しかし、政策的判断は彼ら自身
71に個々に関わる状況によって規制されるから、寛容がどのくらい統治者の利益になるかを
明らかにするには、個々の問題に立ちいることが必要となろう。
それゆえに、現在のイングランドの状況を考えると、
全事項にわたるただ一つの問題がある。それは、この王国の安全と平和を確保し、福祉
を促進するためには、72寛容か強制かどちらが最も妥当な方法か、ということである。
あなたの安全と平和73を確保するには、ただ一つの方法しかない。それは、国内に74あな
O: 「もし統治者が宗教上、公的な改革をしないなら」へ変更される。
O: 「公に教え」へ変更される。
70 訳のさいには、O, P 上の「制定された」 ‘Established’ をとった。H と A では原形のま
まである。
71 「自身」は行間に挿入される。
72 もとは「この王国の平和と福祉を確保するためには」の文に、「安全と」と「促進する」
が行間に挿入された。
73 O:「安全と」が削除される。
74 「国内に」は行間に挿入される。
68
69
たの友人がたくさんいて、かつ勢いがあり、そして敵がほとんどいなくて、みくびってよ
いものであり、または少なくとも、両者の数が圧倒的に違っていて、反抗者があなたを悩
ませようとしても、そのことをたいそう危険かつ困難にしてしまうことである。
富と権力からなる王国の福祉を促進するには、あなたの臣民の数と勤勉が最も直接的に
貢献する。
寛容がこれらのことすべてにどんな影響を及ぼすかは、現在われわれの間にいるさまざ
まな党派を考察しなければ、よくわからない。
D3r(20) [fo. 20r]
こうした党派は、教皇主義者と狂信者の二つにまとめられる、と見てよいだろう。
1
教皇主義者について次のことは確かである。教皇のそれをのぞいたすべての政府に
とって絶対に破壊的な彼らの危険な75見解のいくつかは、その伝道を76寛容されるべきでは
ない。そしてそれらの見解の何かを広め、または公表する者は誰であろうと、そのことを
充分抑制しうる程度に、統治者はその者を罰し<抑圧し> なければならない。そして77、
この原則は、教皇主義者だけでなく、われわれの間にいるもう一方の種類の人々にも妥当
する。というのも、そうした抑制は、彼らの教説の拡大を、いくらかはくい止めるからで
ある。そうした教説は、たえず悪い結果を生むだろうし、かつ毒蛇同様、その毒液を出さ
せないようにするには、やさしく取り扱っていては、決してうまくいくはずがない。78
2
教皇主義者は寛容の便宜を享受すべきでない。なぜならば、彼らが権力をもつとこ
ろでは、他の者には寛容を拒否すべきだ、と彼らは考えてい79るからだ。宗教において人が
自分と見解を異にするからといって、その人を誰も迫害したり苦しめたりするべきではな
い、ということを彼らの原則として認めない人々が、自分達の宗教には自由な特権をもつ
べきだ、というのは道理に合わない。寛容は、統治者によって、彼の人民の平和と静穏を
確立する基礎として設定されるが、この寛大さの便宜を享受するのみで80、同時にその便宜
を不当だと非難する者を寛容すれば、その統治者は、できる限り早急に彼の統治を妨害す
るべきだと公言する人々を、大事にするにすぎない。
3
教皇主義者が教皇主義者である限り、寛容<寛大さ>によってであろうと、苛酷さ
によってであろうと、彼らをあなたの政府の友にすることは不可能であり、彼らの原則と
利害の両方において、彼らはあなたの政府への敵であって、81それゆえに、私は彼らを和解
75
「危険な」は行間に挿入される。
「その伝道を」は行間に挿入される。
77 「そして」以降、次の段落末の「大事にするにすぎない。」までは、D2v [fo. 19v]に書か
れた追加部分である。
78 O, P: 決してうまくいかない
79 「べきだ、と彼らは考えてい」は行間に挿入される。
80 H: 「のみ」は削除されているようにも見える。
O, P, A: 享受し
81 ここに次の文が書かれ、削除されている。「この点で、あなたは彼らを寛容するか、彼
らからただちに手を引くか、どちらかをとるべきである。というのも、それに及ばない苛
酷な手段は皆、彼らをもっと怪しからぬものにしうるし、あなたをより安全にすることは
76
しがたい敵とみなす。彼らの忠誠をあなたは決して確保できず、他方、無謬の教皇には、82
彼らは盲目的に服従する。その教皇は、自分の腰帯に彼らの良心の鍵をくくりつけさせ、
彼らの君主への彼らの誓約、約束と義務のすべてを、とくにその君主が異教の者である場
合には、83折りにふれて免除できるし、かつ統治をかく乱するよう、彼らを武装させること
ができる。彼らは寛容の便宜を享受すべきではない、と私は考える。
484 なぜならば、彼らの数を寛容は決して減らせないが、抑制は減らしうるし、少なく
とも増加させることはないからである。そして、自分達がこうむる苦難をつうじて、そう
した抑制は傍観者になるよう教皇主義者を促すであろう。教皇主義以外のすべての見解に
は、寛容が通常そうした作用を及ぼし、それらは迫害によって増大かつ拡大する。人は迫
害に苦しむ者に同情をもちがちで、その迫害された宗教を純粋なもの、その信奉者達を真
摯な人々だと評価しがちであり、それらのことが迫害の試練と対抗する。だが、このこと
はカトリック教徒にはまったく通用しない、と私は考える。彼らは、他の者に比べて、憐
れまれるべきことはない。なぜならば、
D4(21) [fo. 21r]
彼ら自身の原則と実践のもつ残酷さがそれに値するとみなされる、まさにそうした処遇を
彼らは受けるからである。たいていの人は、彼らが文句をつけるあの苛酷さを、彼らの宗
教ゆえの良心的な人々への迫害というよりも、国家の敵として当然の正当な罰だと判断し、
現に、それは宗教ゆえの良心的な人々の迫害ではない。彼らは同時に外国の、かつ敵の85君
主の臣民だと自認するが、その彼らの良心のゆえにのみ86彼らが罰せられるとも考えられな
い。87加えて、あの宗教の原則や教えは、せんさく好きな頭や落ち着きのない心を、受けい
れそうなものではない。人々は普通、自発的に変わろうとするさいには、他人の権威や強
制に身をゆだねるよりも、彼らがなお自由であり、かつ自分の気ままでいられるような、
特権や熱狂を追い求める。次のことは確かである。寛容は教皇主義者を互いに分裂させる
ことはできず、88彼らへの苛酷な手段が、(他の異論を唱える党派に見られるように)彼ら
を狂信者と結束させることも(狂信者の原則や礼拝や気風は、あまりにも一貫していない
ので)ありえず、そして結束した反抗分子の数を増やすようなあの手段によって、危険を
増大させることもありえない。これに加えて、教皇主義は、その聖職者の手練手管と精励
によって、無知かつ熱狂的な世間へともち込まれ、そして同様の手練手管によって維持さ
決してないからである。」
O: 教皇には誰でも
83 O: 彼らの意味において異教の者である場合には
84 O, P, A: 段落の変更も、番号もない。
85 O: 外国で敵の
86 「のみ」は行間に挿入される。
87 「彼らは同時に外国の」から「考えられない。」までは、D3v [fo. 20v] に書かれた追加
部分である。
88 「寛容は教皇主義者を互いに分裂させることはできず、」は行間と左余白欄に挿入され
る。
82
れ、権力と暴力によって後押しされてきたものであるから、世俗権力が教皇主義者を苛酷
に処遇するところでは、または少なくとも、彼ら自身の聖職者から受けとった励ましや支
援を、世俗権力が教皇主義者から取り去るところでは、教皇主義は、あらゆる宗教の内で、
最も衰退しやすいものである。
教皇主義者を抑制したところで、彼らの誰かがわれわれのところへ送り込まれるので、
われわれの敵の数は減らないとしても、しかし彼らを抑制することは、われわれの友の手
の数を増やし、89強化し、そしてプロテスタントの全党派を、われわれの援助と防衛のため
に、より緊密に結びつけることになる。というのも、プロテスタントの長としてのイング
ランド王の利益は、
D5r(22) [fo. 22r]
われわれの間にいる教皇主義者を冷遇することで、大いに改善されるであろうから。われ
われの教会及び全プロテスタント信仰90の両方に対する共通の敵から、本当にわれわれが自
身を切り離し、かつ敵にきっぱりとした態度をとる、ということが異なった91党派に知られ
れば、彼らはすぐに共通の友情をもってわれわれと連帯するだろう。そして、このことは、
われわれの友情という人質を彼らに与え、かつ彼らがわれわれに置く信頼において、また
われわれが彼らと作り上げる協和の真摯さ92において、彼らが欺かれることはないという保
証になるだろう。
異論を唱える他のすべての者達は、狂信者という不名誉な名前の下に括られるが、その
名前は、ついでながら93私が考えるに、利用されるよりも、一層慎重に脇へのけられ、かつ
忘れられてよいものかもしれない。というのも、混乱状態の中で、分別ある人間の一体誰
が、区別の印を見出し、それを確定しようとするだろうか。そういうことは、党派的な者
達によってのみ、つまり人々をお互いに分裂させ、かつ距離を保たせようという魂胆から、
さまざまな党派に一つの共通の名前をつけて、彼らに結束するよう教える者達によっての
み、切に求められるものである。
しかし、もっと実質的な問題に入ろう。次のことはあらゆる面で一致を見る、と私は思
う。政府を国内での騒擾から守ること、かつ外国からの侵略に抗して防衛すること、その
両者に関して言えば、狂信者は、現存する政府にとって有用かつ支えとなるものに、そし
て可能な限り堅実なものにされることが、必要だということである。それを現実にしうる
ものは次のことしかない。彼らの心を変えることができ、かつあなたの94信念へと彼らのそ
れを向けさせるもの、または、たとえ彼らが自分の見解を手放さないにせよ、しかし、彼
89
「数を増やし」は行間に挿入される。
H, A: 「キリスト教徒の自由」が削除され、「プロテスタント信仰」へ変更される。
91 O, P: 異なる
92 「の真摯さ」は行間に挿入される。
93 「ついでながら」は行間に挿入される。
O, P: 「ついでながら」はカッコでくくられ
る。
94 O:「あなたの」と書かれた後、「われわれの」へ変更される。
90
らの敵意を抑制し、教会の子ではないとしても国家の友になるよう説得しうるもの。
人間の見解を変えるのに、暴力や苛酷な手段がどんな効果をもつか、
D6r(23) [fo. 23r]
歴史は95皆96事例に満ちているが、迫害という暴行がその全信奉者を一挙に排除したところ
は別として、迫害によってこの世から何らかの見解が放逐されたという事例は、ほとんど
ない。暴行がかつて人の見解に何かを付け加えたかどうか、熱狂で操作された議論さえ、
その議論の効力の何がしかを緩めることなく、人を一層頑固に自分の見解に固執させてこ
なかったのかどうか、そんなことを試す97ために、自分自身の胸に問う以上のことを誰もし
ないように、と私は願う。そこに一個の人間の尊厳が存在するあの部分の特権を守るため
に、人間性はたいそう用心深く、もしその部分に強制が課されるならば、人間は獣とほと
んど大差ないものになってしまう。98近年、効果のない迫害99をかくも強固に支持し、かつ
それが人々の見解にほとんど何ももたらさなかったことを知ったものの、しかし、今でも
他人に迫害を試みるつもりでいる人々に、私はたずねる。この世のあらゆる苛酷な手段は、
そのときに最も重要だった見解を心から、かつ真摯に抱くようにと、人々を一歩でも引き
よせえたであろうかと。それは、自分達が正しいとわかっている100からだ、と彼らに言わ
せてはならぬ。というのも、信じていることにおいては、自分は正しいというこの確信を、
誰もがずっともっているのだから。しかし、この101頑固さや志操堅固さ102が、いかに知識
には依拠しないかということは、トルコから戻ったあのガレー船奴隷に明らかであろう。
彼らは自分達の宗教を手放すよりも、あらゆる種類の苦難に耐えてきた。だが、彼らの大
半の者の生活や考えにもとづけば、キリスト教の教義や礼拝を彼らはまったく知らなかっ
た、と人は推測するだろうし、次のように考えたりはしない。あのあわれな捕虜達は(あ
まり教え込まれてこず、また自国で自由を享受していた間もあまり103熱心でなかった宗教
「歴史は」以降、「事例は、ほとんどない。」までは、D5v[fo. 22v]に書かれた追加部分
である。
96 O, P: 「皆」はない。
97 O: 経験する
98 ここに次の文が書かれて削除され、多少の変更を伴って、D7(24) [fo. 24r] 末尾近く、後
注 394 に相応する本文になる。
「苦痛と恐怖は、誰の理性をも納得させられないので、その者を当の見解に同意させるこ
とはおそらくできず、彼の迫害者である人物を、彼に確実に嫌悪させ、かつ当の見解と人
物の両方に、一層の憎悪を抱かせることになる。」
99 最初に、「迫害」だけ書き、その後「暴力」 ‘force of’ を行間に挿入して、「迫害の暴力」
とし、さらに「暴力」を削除して、「効果のない」 ‘ineffectuall’ を改めて行間に挿入する。
O: 迫害という効果のない暴力(「暴力」が行間に挿入される。)
P: 迫害という効果
のない暴力
A: 効果のない迫害
100 「わかっている」は行間に挿入される。
101 O: 彼の
102 「志操堅固さ」は行間に挿入される。
103 O: あまり(ただし H では
‘at home over’ であるが、O では ‘at home were over’ と
‘were’ が追加される。) P, A: かつて ‘ever’
95
を捨てるのと引きかえに)、自分達の見解を変えるのと引きかえに、104自由を取り戻せた
だろうし、(彼らの鎖がほどけても)彼らをたいそう酷使した105あの残忍な主人達ののど
をかき切ろうとはせず、106
D7(24) [fo. 24r]
もし正当な戦争捕虜のように穏当に処遇されていたなら、なおのこと107その主人達には何
の暴行も加えはしなかっただろうと。この事実から、次のことをたくらむ108人々にとって109、
それは危険な企てとなる110ことがわかるであろう。
<<以下、(1)の文章は、D7(24) [fo. 24r] 上でいったん書かれた後、削除され
て(2)により代替される。(2)の文章は、D6v [fo. 23v]に書かれた。O と P は
(1)を採用し、A は(2)を採用する。>>111
(1)それは、大部分が奴隷の状況におとしめられ、船をこぐよう殴打で強制さ
れ、しかし船荷には何一つ分け前がなく、船室すら許されない112、というガレー
船の状態にこの島をつき落とすことである。トルコ人のように酷使されるべき全
員のために鎖をこしらえ、その鎖に彼らをつないでおいて、じっとしていろと説
き伏せでもすれば、話しは別であろうが。
(2)人々に平等な保護の代わりに、屈辱、罰と迫害の待遇しか与えないような
政府に忠実であるよう、またその利益に奉仕するよう、彼らが圧倒的多数でもな
いのに暴力と虐待によって、異論を唱える人々を強制しようとするならば。この
ようにして統一を強制しようとする者達が、自由を許さないすべての人々のため
に鎖をこしらえ、その鎖に彼らをつないでおいて、じっとしていろと説き伏せで
もすれば、話しは別であろうが。
というのも、義務なるものをそうしたいだけ牧師に説教させたところで、人々が自分を守
るに充分な力をもつと考えたときには、抑圧に静かに服し、他人の殴打を背に甘受すると
いうことは、決してなかったからだ。私は、この論考の前半で充分に非難しておいたと考
えるあのやり方を正当化するためにではなく、人間の本性や現実がどういうものであるか
を、そして通常、何が迫害の結果となったかを示すために、このことを言っておく。さら
104
「自分達の見解を変えるのと引きかえに」は行間に挿入される。
「彼らをたいそう酷使した」は行間に挿入される。
106 O, P: 切ろうとはしなかったし (O で ‘cut’ の前に ‘have’ が挿入される。)
107 「なおのこと」は行間に挿入される。
108 A:「願う」から「たくらむ」へ変更される。
109 O: 「たくらむ人々にとって」と書かれた後、「もし誰かがたくらもうとするなら」へ
変更される。
P: もし誰かがたくらもうとするなら
A: たくらむ人々にとって
110 O: 「なる」 ‘will’ と書かれた後、「なりうる」 ‘would’ へ変更される。 P: なりう
る A: なる
111 Milton and Milton (eds.): An Essay concerning Toleration, p.179 Plate 5 [fo. 24r],
p.180 Plate 6 [fo. 23v] 参照。
112 「船室すら許されない」が、いったん「何の特権も保護ももたない」へ変更された後、
「何の特権も保護ももたない」が削除される。
O, P: 何の特権も保護ももたない
105
に、113強制的に見解を導入することは、こうやって広められる<主張される> ものは真理
ではなく、強制によって改宗者をつくることで求められるものは利得と支配だ、という避
けがたい警戒心を人々に与えることによって、そうした見解に人々を近づけないようにさ
せる。というのも、114数学上の一定の真理を人に確信させるために、誰がこうした手順を
とるだろうか?数学上の真理は、私の幸福が依拠することのない真理である、と言われる
かもしれない。私はそのことを認めるし、そして私が幸福になるよう配慮してくれる人に、
たいそう恩義を感じる。しかし、私の身体に悪い作用を及ぼすものが、私の魂へのいたわ
りから生じるとか、この世で私が惨めであるのを見て喜ぶ人が、別の世では私が幸福にな
るよう多大な関心を払う、ということは考えがたいことである。他人の善にかくも熱心に
配慮する人々は、もう少しは貧民の救済の面倒を見ないだろうか。また、そういう人々は、
富者の財産を守ることが大事だとは考え115ないだろうか。天での喜びについてわれわれに
語るが、この世の多大な所有物のために他の人々と同様に懸命に努力する人々の生活を、
われわれがもし信じてよいならば、そういうことも、確かに善いことであり、人の幸福の
一部をなしている。
しかし、かりに迫害が今後も、繊細で傷つきやすい心の持ち主である狂信者を制圧しう
るばかりでなく、とはいえ、そんなことはめったになく、通常は二、三の正統派の喪失を
伴うのだが、そして迫害が異論者すべてをただちに教会の境内へと追い込めたとしても、
結局のところ、それによって統治を安泰にはせず、なお116一層脅かすことになり、かつ、
堂々公然たる反対論者よりも、不誠実で、こそこそして、しかし怒りをたぎらせた敵を抱
えるほどになるまで、なお一層危険を増大させるだろう。というのも、罰と恐怖は人々を
偽らせることはできても、しかし、誰の理性も納得させられないので、彼らを当の見解に
同意させることはおそらくできず、彼らの迫害者である人物を、彼らに確実に嫌悪させ、
かつ当の見解と人物の両方に、一層の憎悪を抱かせることになる。117そこで服従した人々
は、彼ら自身の見解を公表するよりも、無難にすごすことを優先させるだけであり、しか
し、それであなたの118見解を承認するわけではない。
D8r(25) [fo. 25r]
あなたの政府への愛ではなく、あなたの権力への恐怖が、彼らを抑制するのであり、そし
て、もし恐怖が彼らをあなたに結びつける鎖であるなら、彼らが密かな反抗者である119よ
りも、公然とした異論者である場合の方が、彼らをより確実につなぎ止めることに、きっ
「さらに」以降、この段落末の「幸福の一部をなしている。」までは、D6v [fo. 23v]に
書かれた追加部分である。
114 O, P: 「というのも」の語はない。
115 「大事だとは考え」は行間に挿入される。
116 O, P: 「なお」はない。
117 前注 375 参照。
118 O: 「あなたの」と書かれた後、「われわれの」へ変更される。
119 「である」は、行間に挿入される。
O, P: 「である」はない。 A: 「である」は行
間に挿入される。
113
となるだろう。なぜならば、その鎖は着用されるのにより容易であるばかりでなく、打ち
捨てられるにはより困難なものとなるであろうから。少なくとも、次のことは確かである。
あなたの見解の真理を納得させる以外の方法で、あなたの見解へと人々を強制すれば、彼
らをあなたの友とすることはない。そのことは、インディアンを洗礼しようと、かわいそ
うに、ぞろぞろと彼らを川へ引きずり込むことが、彼らをキリスト教徒にはしなかったの
と同じことである。
暴力は人々のもつ見解を支配できないし、彼らの胸に新しい見解を植えつけることもで
きない。しかし、礼儀正しさ、友情、そしてやさしい待遇はそういうことが可能かもしれ
ない。というのも、多くの(ほとんどの、と言ってよいと私は思う)120人々は、忙しかっ
たり怠けていたりして自分で検証しないので、宗教の事項においてさえ、彼らの見解の多
くを信頼に依拠して採用するからである。だが、その人の知識、友情や真摯さについて彼
らがあまりよく思わない121人からは、決して見解を採用しないし、彼らを迫害する者の見
解122を彼らが採用する123ことは、ありえない。
しかし、詮索好きな人々は、親切だという理由では他人の見解を支持することはなく、
納得したいと強く望んでいて、まんざらいやでもない者124の見解を支持するよう125自分を
納得させられる理由を求めがち126だろう。
127異論者を彼らの信念から引き離すためには、暴力は誤った方法であるから、そしてあ
なたの見解に彼らを引きよせることによって、彼らを国家にしっかりと結びつけるのだか
ら、128自分達の信念を断固として129保持する130人々をあなたの友とするためには、暴力は
なおさら確かに役に立たないであろう。
E1(26) [fo. 26r]
( )内語句は、カッコとともに、行間に挿入される。
O, P: カッコ及びカッコ内
語句はない。 A: カッコはない。
121 O, P: 彼らが充分に確信できない
A: 「彼らが充分に確信できない」と書かれた後、
「彼らがよい意見をもたない」へ変更される。
122 「見解」の下線は削除を意図したかもしれない。O, P, A: それ
123 「採用する」 ‘have’ が「支持する」 ‘be’ へ変更され、
「支持する」が削除される。
O,
P, A: 支持する
124 H, O, P: まんざらいやでもない者 (H: ‘whome’ O, P: ‘whom’)
A: まんざらい
やでもないその人物 ‘whose person’ (‘person’ は行間に挿入される。)
125 O, P, A: ‘be of his opinion’ に従って訳した。 H では、「見解」 ‘of his opinion’ が
いったん書かれてから、削除され、 ‘soe’ へ変更される。
126 O: より求めがち(原級に書かれた後、比較級へ変更される。)
127 この直前に次の文が書かれ、削除される。
「暴力は異論者を彼らの見解から引き離すことはできず、従って彼らを政府への忠実な友
人にすることもできないから」
128 O, P: 「そしてあなたの見解に」からここまでは、( )でくくられる。
129 「断固として」は行間に挿入される。
130 O, P: ここで、O において以下の句が挿入され、P もそれを保つ。「そしてあなたと異
なる見解にとどまり続ける」
120
ある見解において相違する者は、その限りで、あなたから距離をおいているだけである。
だが、彼が正しいと信じることのためにあなたが虐待すれば、そのとき彼は完全な敵とな
る。一方ではあからさまな分裂が、他方では争いが起こる。そしてこのことは、現状から
わかるように、苛酷な手段がわれわれの間に引き起こす災いの、すべてではない。という
のも、暴力や虐待は、憎悪だけではなく、敵の数をも増やすことになるからである。狂信
者がすべて集まって多数になれば、そして、国教にとっての心からの友よりも、おそらく
多数になれば、彼ら自身の間でさまざまな党派へとぼろぼろと砕けていく。そして、彼ら
があなたから受ける処遇131によって、あなたが彼らを一層遠くへと追いやることがなけれ
ば、あなたからと同様、お互いどうしも距離を置くことになる。というのも、彼らの見解
そのものは、イングランド教会と一致していないのと同様に、お互いどうしでも一致して
いないからである。それゆえに、相異なる党派へとこうしてばらばらになっていく人々は、
寛容によって最もよくつなぎ止められる。何か他の下で彼らが望みうるのと同じくらい善
い状態に、彼らがあなたの下で置かれているならば、何か他の、自分達をそれほどよく遇
するとは確信できないものを、彼らがこぞって打ち立てようとすることは、ありそうもな
いことだからである。しかし、もしあなたが彼らを迫害すれば、彼らすべてを、あなたに
対決する一つの党派と利害に結束させ、あなたのくびきをふりはらって、新しい政府の設
立を企てるよう彼らをそそのかす132ことになり、そこで誰もが、自分達自身に支配権を得
よう、または別の人々の下でましな待遇を得よう、と願いを抱く。次のことに誰が気づか
ずにいられようか。彼らを権力と徒党設立へと助けた政府の133当の苛酷な手段に訴えれば、
彼らを引きずり倒そうという、同じ願いと同じ力を、他の者に与えるであろうことに。そ
れゆえに、彼らがいかにそれを行使するか、彼らの用心深さが当然求められることになろ
う。しかし、
E2(27) [fo. 27r]
さまざまな党派がすでに成長して一体化し、あなたと対立する134一つの組織と利害を形成
した、とあなたが考えるならば、彼らを連帯させたものが、あなたの下で彼らが受けた苦
難であろうと、そうでなかろうと、たぶん彼らが現在イングランドでそうであるように、
彼らが数においてあなたに匹敵し、またはあなたをしのぐほど多数になっている時には、
暴力は、彼らを服従に向かわせるには、誤ったかつ危険な方法でしかないだろう。
もし、多くの人々が主張するように、イングランドでの統一がかくも必要であり、強制
がそれに至る唯一の道であるならば、統一に熱心な人々に私はたずねる。暴力でそれを得
ることを、彼らは本気で意図しているのかどうかと。もし彼らが本気でなければ、あの主
張の下に効き目のない罰でもって、彼らの兄弟を不穏にし、かつ苦しめるのは、無思慮と
131
132
133
134
O: 悪い処遇 (「悪い」が行間に挿入される。)
「よう彼らをそそのかす」は行間に挿入される。
「政府の」は行間に挿入される。
「あなたと対立する」は行間に挿入される。
いうだけでなく悪である。迫害が、とことんまで至るのでなければ、統一を確立するには
どれほど無能だったかを明らかにするために、私は次の単純な質問をしよう。この王国で
かつて自由な寛容が存在したか。もし存在しなかったならば、かつて放逐された牧師のど
なたかに、次のことを伺いたい。どのようにして彼らは禄から追い払われるに至ったか、
そして強制や苛酷な手段はイングランド教会を守り、かつ内戦前にピューリタンの増大を
防ぐことができたかどうかと。それゆえに、暴行が統一を打ち立てるとするなら、事を婉
曲に言うことは無駄だ。統一を作り出すに違いないあの苛酷さは、異論者すべての、即座
の一網打尽の崩壊かつ消滅へと、及ばずにはいられない。そしてこのことが、キリスト教
の教え、われわれの教会の原則、そして教皇主義からの改革に、どれほどよく合致するも
のであるか、フランスでの虐殺135を模倣に値すると考えることができる人々に、その判断
を私はゆだねる。そして
E3(28) [fo. 28r]
次のことを彼らに考えてもらいたい。死が、それと引きかえにこそ統一をつくり出せるか
らといって、136共通祈祷書に従わないこと、そしてわれわれの教会礼拝のすべてに加わら
ないことに科せられる罰となるならば、そんな法はどれほどに王国の静穏を確立し、王国
の統治を安泰にするだろうかと。
ローマ教は、わずかの間のみ、日本に植えつけられ、小さな根をおろしたにすぎないが
(というのも、あの改宗者達は、あわれにも、無知を敬神の母とするあの教師どもによっ
て伝道されたので、キリスト教のもつ有用な真理と光をほとんどもたず、アヴェマリアと
主の祈り以外、ほとんど何も知らなかった)、何千人もの死によって以外には、根絶され
えなかった。その死も、次の事態に至るまでは、彼らの数を減らすにはまったく役に立た
なかった。彼ら 〔幕府〕 は苛酷な手段を信徒以外にも広げ、かつ、司祭を饗応した当該
家族だけでなく、どちら側であれ隣人だった両隣の家族、とはいえこの家族は当の新しい
宗教には無知か敵対的であったのだが、そのすべて137をも死に至らしめた。そして、千の
死よりも悪い、奇抜で長引く拷問を発明したのである。この拷問を14日間も耐えぬく力
をもつ者もいたが、多くの者は彼らの宗教を捨てた。彼らの名前はすべて、ある計略から
記録された。その計略とは、キリスト教の信奉者がすべて根絶されたときに、これらの棄
教者もいつかはすべて始末される、ということである。キリスト教について、その名前以
上の何かをほんの少しでも知っているか、とにかく聞いた者が生存している限り、その見
解が再度の布教の可能性を失って根絶やしにされるとは、彼らは決して考えなかった。
E4(29) [fo. 29r]
今日、日本と通商を行なっているキリスト教徒は、宗教の違いを示すような議論をしたり、
O: 「手段」と書かれた後、「虐殺」へ変更される。
「それと引きかえにこそ統一をつくり出せるからといって」は行間に挿入される。
O, P: 「それと」以降は、カッコでくくられる。
137 「すべて」は行間に挿入される。
135
136
手を組んだり、138何かの身ぶりを用いることを許されていない。われわれの教会において、
このような方法によってでも統一が回復されるべきだと考える者がいるなら、統一が果た
されるその時までに、王は何人の臣民を残しておけるかを、よく考えるべきであろう。こ
の事例において注目すべきことがもう一つある。それは、あの迫害は、宗教上の統一を打
ち立てるためのものではなかったし(というのも、彼らは七つか八つの分派を、そして魂
の可死や不死といった、たいそう異なった信念をもついくつかの分派を寛容するからであ
る。また臣民がどの分派に属しているかということには、統治者はまったく関心がなく、
詮索もせず、臣民を自分の宗教へと強制することはまったくないからである。)、また、
キリスト教への何らかの敵意によるものではなかったということである。キリスト教が自
分達の間で静かに拡大していくのを、かなりの間彼らは許容していた。だがそれは、宗教
は彼らの口実にすぎず、彼らの企みを実現するものにすぎないという警戒心を、ローマ教
会<教皇主義司祭> の教えが彼ら〔幕府〕に与え、かつ国家の転覆を彼らに恐怖させるま
でのことであった。そうした疑惑を彼ら〔幕府〕自身の僧侶が可能な限り増幅し、この広
まりつつあった宗教の根絶に至った。
統一を確立するさいの危険性を明らかにするために、
E5(30) [fo. 30r]
この問題に関して、いまだ残っているものについて、十全な見通しをつけておくと、以下
の論点が議論されるべきである
1°王国の力と富が依拠するあなたの人民の数や勤勉に、寛容がどんな影響を及ぼしう
るかを明らかにすること。
2°もしイングランドですべての人々を統一へと暴力で強制せねばならぬとすれば、他
の者を強制する有効な力に、どんな党派が単独で、またはどんな複数の党派が連帯して、
そうなりそうかを考えること。
3°寛容に反対する人々はすべて、苛酷な手段と暴力が統治の唯一の術であり、かつ党
派を抑圧する唯一の方法であると考えているように見えるが、それは誤りだと明らかにす
ること。
4°大部分の人々にとって、セクト間の論争や相違の問題は、真の宗教を構成する部分
ではなく、まったくとるに足らない、かつ付属物である139ということ。
5°キリスト教は他の何ものにもまして、世俗社会に党派、戦争、そして混乱を作り出
してきたが、それはどのようにして生じるのか、そして寛容や広教主義がこれらの悪を防
ぐかどうかを考えること。
1406°寛容は、多数を一つの心にし、すべての者に徳を促す場合以外には、統治の安定
138
「手を組んだり」は行間に挿入される。
A: 付属物にすぎない (「すぎない」を行間に挿入する。)
140 この直前に「しかしこれらのことについては、もっと時間のあるときに。」が書かれ、
削除されている。
139
には何も貢献しないこと。統治の安定は、徳と悪に関しては厳格な法を制定かつ執行する
ことで、
E6(31) [fo. 31r]
しかし教会の陪餐資格に関してはそれをできる限り拡大することで、遂げられる。つまり
思弁的見解においては、あなたの規定が少数で度量が広く、そして礼拝時の儀式は少数か
つ容易であればよい。これが広教主義である。
7°神秘的、かつ啓示以外の方法によっては不可知と言われるさまざまな教説を明確に
すること、またそうする努力は、しかも、あなたのさまざまな教会の博士達によって提示
された用語でもってそうした教説に同意するよう人々に要求することは、非常に多くの
人々を無神論者にするに違いないこと。
しかしこれらのことについては、もっと時間のあるときに。
このようにアッティクスは考えました。1667年。141
<<この後、A では、二つの文章が追加される。一つは、Adversaria 1661 の fol.125 上
にあり、A の筆写者によって書かれる。ここでは、これを AA と呼ぶ。ミルトンは、AA
の筆写時期を A の本文と同様1672年頃と推定する。もう一つは、 Adversaria 1661 の
fols.125, 270, 271 上にあり、前者より長く、しかもロックの手により書かれた。これを AL
と呼ぶ。ミルトンは、AL の執筆時期を1675年頃と推定する。>>142
AA
fol.125
聖職者は、自分達の囲い〔教会〕へと人々を強制するよう統治者にせがむよりも、むし
ろ人々に懇願し、彼らを信服させ、納得させて真理に向かわせるという努力を、外交官の
ように行なうべきだと思われる。これこそが、キリスト教を受容させ、かつ彼らが信仰す
るこの宗教を世界のはてまで広める、唯一の方法だった。ところが聖職者は、彼らと意見
を異にする兄弟達を、一週に一度、無慈悲に説教で攻撃し、他の週日にも、彼らを傲慢に
ののしる。そして、人々を自分達の方へ引きよせるために、福音の謙虚さや穏やかな方法、
そして愛という柔らかいつなぎ紐を使って努力をせず、自分達の見解を教えようと彼らが
決して配慮することのない人々さえ143、彼らの支配下に置くよう強制してきたであろう。
というのも、一週に一度漫然と説教をしても、信仰の知識を人々に教える役には、多分ほ
とんど立たないと言える、144と私は思うからだ。何年説教を聞いた後でも、人は信仰の知
O, P: この署名の行はない。 A: このように JL は考えました。1667年
Milton and Milton (eds.): An Essay concerning Toleration, pp.310-314.
143 「さえ」は行間に挿入される。
144 このあたりには、同語反復や空白が多く、構文は明瞭でない。この点で、AA が口述筆
記された可能性が考えられる。
141
142
識には依然無知であり、かつその知識は、人々を善い生活へと説いてしむけるには、めっ
たに効果的ではない。このため、次のように疑う者が出てくる。こうした方法で彼らが努
力して囲いを拡大しようとするのは、羊にエサをやるためではなく、羊毛の利のためなの
だと。私が確信するに、このことは、キリスト教をはぐくんだ当初の方法に、まったく反
するものである。
AL
fol.125
宗教と関わりがある非本質的事項を命じ、または禁じる権力を統治者はもつが、しかし、
統治者自身がその構成員である当該教会内においてのみ、それらは非本質的事項でありう
る。コモンウェルスは純粋に世俗団体であるから、コモンウェルスの平和のために、統治
者は、彼の管轄下にあるコモンウェルス内で、非本質的事項における立法者となり、さら
に、当該宗教団体の規律と秩序、平和のためにも、統治者は当該宗教団体内で(その宗教
団体は、しかし、あくまで自発的団体として、かつ各構成員の意にかなう間での存在とし
て理解されねばならないが〔)〕145、非本質的事項における立法者となるに最適である。し
かし、だからといって、自分がその信奉者や構成員ではない教会の礼拝次第において、ま
たその教会内において、たとえ非本質的事項であろうと、それを命令かつ指令する何らか
の権力を統治者がどうやってもつのか、私にはわからない。コモンウェルスの平和のかく
乱に向かいうるような事項を、彼の人民の誰かがやろうとするならば、人々がそれを世俗
的とみなそうと宗教的とみなそうと、統治者が禁じてよいのは当然だ。これは彼の固有の
職務である。しかし、彼自身は信奉も是認もしていない146宗教礼拝を構成する何らかの礼
拝次第を命令または指令することは、まったく彼の権限外のことであり、そんなことを想
定するのは馬鹿げている。イスラムの礼拝形式を、そして誤りや涜神だと彼が考える全宗
教を、キリスト教徒の君主が指令すること、またその逆の事態を、それがなるほど道理に
かない、または実践的であると誰か考えられるだろうか?しかし、あらゆる世俗上の自由
をもつにふさわしいイスラムの臣民をキリスト教徒の君主が抱えることは、不可能ではな
い。そして事実、トルコ人はキリスト教徒の臣民を抱える。統治者が教皇主義者であれ、
プロテスタントであれ、ルター派であれ、長老派であれ、クエイカー等々であれ、礼拝方
法において異なる教会のどれか、またはすべてに向かって、ある形式を規定してやろうす
るなら、それは同様に馬鹿げたことであろう。その理由は、宗教礼拝は、各人が自身147の
それを神にささげる、あの礼であり、
fol.270
その人が礼拝するあの神に受容され、かつ喜ばれるものだと彼自身が納得する以外の他の
方法では、彼は礼を表することはできず、また彼がそう納得する以外の他の儀礼、儀式や
145
146
147
( )内は行間に挿入される。ただし、閉じる
「いない」は行間に挿入される。
「自身の」は行間に挿入される。
)はない。
様式を、たとえそれらが非本質的事項であっても、彼は何も用いることができないからで
ある。そうしたことは、彼の神に関する彼の意見に依拠し、かつ神を最も喜ばせるもので
あろうから、礼拝の次第を何か一つでも、誰かが他人に規定または指令することは不可能
である。そしてこのことは、世俗社会における各人の関心事とはまったく異なる、かつま
ったく別個の事項であって、世俗社会は別の世での人の事情とは何の関係もない。統治者
はこの点では、どんな私人とも同様に、介入する権利をもたない。そして彼が家臣となっ
ているさらに上の君主に、その君主から彼が直接いただいた何物かゆえに、敬意を表する
方法を彼自身の臣民に規定せねばならぬ場合に比べて、礼拝形式を指令する統治者の権利
は小さい。起立、跪座であれ、平伏、無帽であれ、裸足であれ、あれこれの衣服等々にお
いてであれ、礼拝形式は、その君主への彼の忠誠や、人民を彼がよく統治することには、
まったく関わりがない。というのも、礼拝形式の事項はそれ自体においては完全に非本質
的であり、かつ些細なことでさえあるのだろうが、それらを彼の神が求め、または禁じた
と礼拝者が考え、また礼拝対象である目に見えない力を喜ばせ、または不快にさせるもの
であると彼が考えるさいには、そうした事項は礼拝者にとっては決して非本質的ではない
からである。そしてあなたが彼の見解が変えてしまうまでは(説得だけがそれを可能にす
る)、彼に礼拝方法を規定することは、絶対に、また最大の専制なしには不可能である。そ
ういうことをするのはまったく道理にかなうことではなかったから、キリスト教が世界に
充分拡大し、かつ国教となるまでは、種々の人間社会において、統治者がそんなことに奔
走し、そんな試みを企てる事例は、ほとんど見出せない。そして国教となって以降、キリ
スト教は、他のあらゆる原因を合わせたもの以上に、無秩序、騒乱と流血を人々にもたら
す、そのまさに原因となってきた。
しかし、無秩序はキリストの教えとともに増大してきたとはいえ、キリストがこうした
無秩序の首謀者だとか、そうした致命的な害悪はキリストの教えの結果であるなどと、誰
も考えないように。反キリストが教会の畑にあの毒麦の種をまいてきたのだ。その毒麦を
育ててきたのは、唯一次のことである。キリスト教が拡大し支配に影響を及ぼすようにな
るにつれて、司祭権はキリスト以来の継承に由来し、従って世俗権力から独立している、
と聖職者が主張したことである。(彼らが説くには)按手によって、そしてさまざまな派の
司祭達によって同意(しかし多様に)された他のいくつかの儀式によって、彼らは生涯消
えざる印、特異な聖性、148そしてさまざまな事項を行なう力を天から直接受けとった。そ
うした事項は、他の人々によって行なわれるには不当なものであり、その主要なものは、
1゜神に関する見解、来世の状態や礼拝方法を教授すること
達で特定の儀式を実行かつ執行すること
2゜他の者を排除して自分
3゜彼らの教えや規範に異論を唱える者を罰す
ることである。だが、あらゆる司祭権が最終的には、最後の司祭にして最大至高の司祭で
あるイエス・キリストにいきつくことは、聖書から明白である。2゜149さらに、使徒時代
148
149
「特異な聖性」は行間に挿入される。
番号打ちは手稿のままである。
以降、彼らが主張するそうした力を、そのように特別に設定する根拠は聖書には何もなく、
彼らが何らかの生涯消えざる印をもつという根拠も聖書にはない。3゜次のことは明白で
ある。そうした叙任を受けない他の者は(かりに聖職への他の適性条件や指名があって、
平和や秩序をかく乱することのない場合であっても)合法的に執行かつ実行することを許
されないが、司祭なら行なえるという事項は何もない。そして、教会や神の礼拝が守られ
るのは、国家の平和が治安判事や他の役人によって守られるのと同様である。治安判事は、
判事として彼らを適任とするために、何の叙任も按手も受けず、解任されれば治安判事た
ることを止める。判事と同様に聖職者も、一つは宗教的な公共礼拝の執行のために、もう
一つは世俗的な正義の執行のために必要であるが、生涯消えざる印、職務上の特異な聖性、
または天に直接由来する力は、どちらのためにも必要ではなく150、また便利というほどの
ものでもない。
fol.271
しかし、聖職者は(ユダヤ教の祭司をまねて、彼らは自分達をキリスト教のそれと呼ぶ)
世俗統治とは別個のこの力を、教会初期時代以降ほとんどたえず、神自身から授かったと
主張し、世俗統治者がキリスト教徒であり、聖職者の見解を採用し、かつ聖職者よりも力
において優位して151いるところでは、どこにおいてもそう主張してきた。そして世俗統治
者と張り合えない聖職者は、この力は霊的なものにすぎず、それ以上には及ばないと空と
ぼけたが、彼らが嫌悪し非難を表明する人々を、統治者の義務として罰しかつ迫害するよ
う、圧力をかけた。そして彼らが破門した者を、彼らの下っぱ役人である統治者が処刑す
るべきことになり、こうした骨折り仕事を引き受ける君主にほうびを与えるために、彼ら
は(君主が彼らの目的に役立ったときにはいつも)気を遣って、君主制は神授権によるも
のだとほめあげた。というのもコモンウェルスは従来、彼らの力にあまり好意を示してこ
なかったからである。しかし、君主制神授権説にも関わらず、君主が彼らの教説や形式に
あえて異論を唱えたときには、または聖職者団の命令を執行することに乗り気でなかった
ときには、聖職者が最初にかつ率先して、君主の権威に制約を、そしてその統治に妨害を
加えた。そして他方、君主達は、彼らの権威を助長するように見えることに耳を傾ける傾
向をもつので、彼らの絶対権力を支援するために宗教をもち込み、あの羊飼いの囲いから
少しでも迷い出たあの羊達を、概して進んで苦しめてきた。その囲いの中に羊達は閉じ込
められたが、それは、聖職者と君主の両方によって毛を刈られ、彼らの思いのままに、臣
民と近隣諸国の両者めがけて、どなりつけられるためだった。そしてこのことから、キリ
スト教世界をかくも長い間苦しめ、かつ荒廃させてきた、あの災いの大半が発生した。異
端者、分派、狂信者等々と聖職者が勝手に呼ぶ者達を処罰することが、彼の義務であると
統治者が納得させられ、またそうでなければ、宗教において異論を唱える者から危険を見
てとるよう統治者が教え込まれると、そうした者達を抑圧することが彼の利益だと統治者
150
151
「なく」は行間に挿入される。
「かつ聖職者よりも力において優位して」は行間に挿入される。
は考え、彼の国で設立された宗教礼拝と同じ形を遵守しない者すべてを迫害する。その他
方で、人民は、彼ら自身の見解に従って神を礼拝すれば苦難がふりかかることを知って、
自分達をできるだけ安全にするために団結と連帯を組むようになる。そこで、一方で抑圧
と騒乱が、他方で自己防衛と宗教的自由の希求が、嫌悪、警戒、猜疑や徒党を生み、それ
はまず間違いなく、露骨な迫害や公然たる戦争を勃発させる。
しかし、君主に対してもつ聖職者の鷹揚さは、彼らが君主をあしらう充分な力をもたな
いところでは、大変大きいが、支配権を君主と争うような状態にいったん陥ると、彼らの
霊的権力がどこまで拡大し、絶対的な世俗権力が霊的な秩序へと、どこまで入り込んでい
くかが明らかになる。司祭に始まるあの叙任は、放置しておけば、絶対的支配権へと確実
に成長するであろう。そしてこの世の王国はもたないとキリスト自身が言明するにも関わ
らず、彼の継承者達は(権力をともかく掌握できるときにはいつでも)大きな執行権限と、
厳密には世俗的なあの支配権を獲得する。教皇支配は、こうしたことの大規模かつ継続的
な一例であった。そして長老派が、統治者を少しでも卑しめたときに、その揺籃期におい
てさえ何をなしえたかについては、スコットランドを見たらわかる。
<<以下は、ここで EX と呼ぶ、H に添付されているが、本体から独立した一枚紙の部
分である。
『寛容論』に関わるロックの最初の構想を書きとめたものと思われる。EXr 冒頭
の「1
寛容への権利」以降、EXv の「別の世で責任を問われることはない。」までは、線
で削除されている。>>152
EXr153
寛容の問題を正しく述べると、
1
寛容への権利をもつ、ただ二種類の事項があると私は考える。第一は、純粋に思弁的
な見解のすべてであり、それは、三位一体、堕落、対蹠地、原子等々のようなものである。
それらは、社会にまったく関わりがない。154
2
私の神を礼拝する場所、時間と方法である。これらの両方に、教皇主義者と人類全体
が権利をもつように思われる。
1
なぜなら、たんなる思弁は、他人とともにする私の行動に何の規範も規定せず、世
界で私以外に他の人間が誰もいなくても、どれも変わりがなく、国家をかく乱することも、
私の隣人に迷惑をかけることもありえないからである。
2
私の宗教礼拝においては、私は自由をもつべきである。なぜならば、それは、神と
Milton and Milton (eds.): An Essay concerning Toleration, p.165 Plate 1, pp.303-307.
ミルトンは EXr を [fo. 1r]、EXv を [fo. 1v] とする。
153 左余白欄に寛容と書かれる。
154 この後、次の文が削除される。「そして世界に一人しか人間がいなかったとしても、変
わりがないであろう。」
152
私との間の事項であり、永遠の重大事項だからである。一方、統治者は、人間と人間との
間の裁定者にすぎない。統治者は、私の隣人に対抗して私の権利を回復することはできて
も、私の神に対抗して私を守ることはできない。他の事項において彼に従うことで私が悪
をこうむれば、それが何であろうと、彼はこの世で私に補償できる。しかし、もし彼が誤
った宗教へと私を強制するならば、彼は別の世では私に何の満足<補償>も与えられない。
従って、人々の救いの方法を彼らのために選ぶ権力を、人々が統治者に与えるとは考えら
れない。その権力は、共有することは不可能ではないとしても、譲渡するにはあまりに大
きいものだった。というのも、統治者が宗教において何を命じようと、人々はこのことで
は必然的に、彼ら自身が最善だと考えたことに従わなければならないからである。また、
それが無限の幸福または無限の悲惨への道である、と人が充分に確信していた事項につい
ては、その者を強制的にそこから遠ざけたり、またはそこへ向かわせたり155するには、ど
んな配慮も十全ではありえなかったからである。
2156
人々とともにする私の行動において私を直接導く、宗教礼拝の場所等をのぞいた157
他のすべての行動や見解は、寛容への権利をまったくもたないと私は思う。その事それ自
体においてはたいそう些細なことであろうとも、見解の真理や行動の善悪を納得すること
は良心を拘束するので、私にとってはそうした行動や見解がどんなにか良心の問題になり
うるとしても、である。社会の全重大事が統治者の権力に託されているから、その道徳的
な部分が充分よく保たれる。158というのも、徳と悪との区別は159全人類によってかくも完
全にかつ確実に知られているから、そして悪を打ち立てる160ことがあらゆる社会に混乱と
崩壊をもたらすことはかくも確実であるから、統治者が法によって161悪を命令し、打ち立
て162、または徳を罰したとは考えられないし、そうした事例はかつて見出されなかった。
第二の板の義務(または、むしろ宗教が、というのも、これはその重要かつ活性的な部分
だから)はそれ自体の権威によって、そしてそれが163統治にもたらす利益は、どこにおい
ても充分にその徳自体を定着させていく。
神への私の礼拝の構成や次第を除外すると164、非本質的事項だけが残る。それは、私人
の良心がそれを是認しようと否認しようと、疑いもなく、統治者の強制権力の下にあり、
そうでなければ、法律も政府もありえない。何かをするよう私を導き、またはそこから私
155
「またはそこへ向かわせたり」は行間に挿入される。
これも含め、番号はすべて原文のままである。
157 「宗教礼拝の場所等をのぞいた」は行間に挿入される。
158 「社会の」以降の文章は、次の「というのも」以降の文が書かれた後に、追加された。
159 ここで「自然理性によってかくも容易に」が削除される。
160 「打ち立てる」以前に、「奨励する」と「許容する」が書かれては、削除される。
161 「法によって」は行間に挿入される。
162 「命令し」と「打ち立て」の言葉の選択にロックは悩んだ。おそらく彼は「命令し」を
削除し忘れたと思われるが、訳文では残した。
163 「社会に」が削除されている。
164 「神への私の礼拝の構成や次第を除外すると」は行間に挿入される。
156
を遠ざける165私の良心の誤りやとがめは、統治者の権力を破棄せず、またその事項の性質
を変えず、さらに統治者への私の服従も変更しない。
3
人民の保護と平和は、それに従って統治者が彼の法を制定し、かつ彼の政府を形作る
べき規準と尺度だと私は考える。統治者は思弁的見解や宗教礼拝にはまったく関わりがな
い。というのも、黒髪であることや灰色の衣服を着ることと同様、思弁的見解等はそれ自
体においては、統治のかく乱にはまったく向かわないからである。しかし、礼拝の何かの
方法を信奉する者達が、隣人との交際を彼らがそれでもって規制するような他の見解を(つ
まり、他人を自分達の見解へと強制しようとする、異教の者すなわち他の信仰の持ち主と
の約束は守られなくてもよい等)、彼らの宗教と混ぜ合わせ、かつこうしたものを、彼ら
の宗教の他の部分と同様に、聖なる、かつ必須のものとして支持するならば、166彼らは寛
容には何の権利ももたない。なぜならば、彼らが彼らの宗教の一部とするものは、本当は
宗教の部分ではなく、統治者の権力下に絶対的に置かれるものだからである。統治者はそ
れに対して、彼らにまったく危害を加えず適切と考えるに応じて、支配権を行使しうる。
彼ら自身は、良心においてそのことに固執すべきだと考えていても、統治者は、彼らの宗
教にではなく、純粋に世俗的な権利に関する事に関与するからである。そしてこの根拠に
立てば、教皇主義者は、彼らの宗教を現在混同しているから、
EXv
統治者が適切だと考える限度以上には、寛容に何の主張もできないと私は思う。
また、何かの礼拝の信奉者達が、国家のかく乱の前兆を明白に示すほどに、多数かつ不
穏になるならば、災いを予防するために、奸策であれ、167権力であれ、統治者は彼が適切
だと考えるあらゆる方法を用いてよい。そして、彼らを弱体化させるためにそれが適当な
方法であるならば、彼は暴力や苛酷な手段を用いるべきであるが、しかし、彼は彼らの宗
教を本当に迫害し、宗教のゆえに彼らを罰しているのではない。そのことは、戦場におい
て、帽子に白いリボンや他の徽章をつけている人々を、それは彼らが敵である印だという
理由以外に、征服者が殺すことはないのと同じことである。危険な宗教、つまり、あれこ
れの礼拝形式は、彼らの団結と一致の原因であるにすぎず、彼らの党派性や騒擾性の原因
ではない。というのも、あれこれの場所や姿勢で神に祈ることは、また宗教礼拝の他の部
分はどれも、帽子やターバンを着用することと同様、それ自体においては、人々を互いに
敵対させ、または治安妨害を生む168ことはないからである。それらのどちらかがそのよう
になりうるのは、それが区別の印となることによって、そして彼らの武力を量り、強さを
知り、互いに自信をもち、そして折りあらばすぐに結束する、そういう機会を人々に与え
ることによってなのである。従って、それらのことは、あれこれの見解のゆえにではなく、
165
「またはそこから私を遠ざける」は行間に挿入される。
ここで次の文章が削除されている。「そうでなければ、国家のかく乱の前兆を明白に示
すほどに、多数かつ不穏になるならば」
167 「暴力」が削除されている。
168 「治安妨害を生む」は行間に挿入される。
166
何であれ異論を唱えるそうした見解が多数となって危険になるかもしれないから、抑制さ
れる。169
それゆえ、同様のことが次の場合にも生じるだろう。統治者が採用する型とは異なる、
また彼が身につける衣装とは異なった型の衣装が、はじめは少数の人々によって採用され、
徐々に広まって、人民の大半の者の徽章となり、彼らがお互いに非常に緊密な連帯と友情
を保持する場合である。このことは、統治者に警戒の原因を充分に与えないであろうか。
また、それが非合法だからではなく、危険な結果を生み出すという理由で、その衣装の型
を統治者に充分に禁じさせうるのではないだろうか。このようにして外套は、僧帽や170他
の宗教的な方法や衣装と同様の効果をもちうる。そしてたぶんクエイカーは、彼らが国家
にとって危険となるほどに多数となったならば、帽子をかぶったままでいるということ以
外には、彼らを他の臣民から区別する方法が何もないとしても、彼らが他とは別の宗教の
形態を打ち立てる場合と同様に、彼らを潰しかつ抑圧するべく、統治者の注意と監視に値
するようになるだろう。そのさい、次の場合以外のいかなるときにも、無帽で立たないこ
とが統治者の苛酷な手段の対象になるとは、誰も考えはしないだろう。171それは、無帽で
立たないことが大勢の者をともに連帯させ、その者達は、まったく非本質的かつ些細なこ
とで統治者と見解を異にするにすぎないとしても、しかし、それによって彼の統治を危険
に陥れるかもしれない場合である。そして、そのような場合に、宗教や何か他の事項が、
彼の統治にとって明白な危険となるまでに人々を結束させたなら、人々のどんな党派をも
弱体化させ、抑制し、または潰す力と権利を統治者がもつことに、疑問の余地はない。し
かし、苛酷な手段や暴力、彼らの見解や実践を単に172禁じること、統治者自身の礼拝を厳
格に強制すること、または何か他のより穏便な方法、173それらの内どれが、彼らを抑圧す
るために、最も調法な方法となるかについては、統治者だけが審判者となりうる。そして、
まさしく彼の人民の保護と平和のために、彼が知る最善に従って行なうことにおいては、
統治者は別の世で責任を問われることはない。
私はそこで以下のように結論する。
1
教皇主義者と他のすべての人々は、宗教礼拝や思弁的見解について、寛容への権利
をもつ。
2
教皇以外の他の政府にとって反抗的かつ破壊的なさまざまな見解を、基本的真理と
して彼らの宗教に採用してきた教皇主義者は、寛容への資格をまったくもたない。
3
現在のイングランドで一定数を構成するものとして教皇主義者を考えると、国民の
10分の1か5分の1か2分の1かにせよ、彼らの武装の良し悪しによる以外には、寛容
されようが迫害されようが、彼らが国家にとって危険な存在であることには変わりがない。
169
170
171
172
173
「従って」以降の文章は、「それゆえ」以降の文章が書かれた後に、挿入された。
「サープリス」が削除されている。
下線付きで「目下教皇主義者」がここで唐突に行間に挿入される。
「単に」は行間に挿入される。
「または何か他のより穏便な方法か」は行間に挿入される。
というのも彼らの原則そのものが、彼らを国家と和解不能にし、それゆえに寛容されるべ
きではないからである。
4
数の増減という変動のある一団として教皇主義者を考えると、彼らの数を減らし彼
らの党派を弱体化させるために、寛容か抑圧か、そのどちらかを使うことが役に立つなら、
それに応じて寛容され抑圧されるべきである。174
5
他の異論者は、たとえ数においてあなたを上回っても、彼ら自身の間でさまざまな
党派に分裂している場合は、寛容によって最も安全なものになる。というのも、何か他の
下で彼らが望みうるのと同じくらい善い状態に、彼らがあなたの下で置かれているならば、
何か他の、自分達をそれほどよく遇するとは確信できないものを、彼らがこぞって打ち立
てようとすることは、ありそうもないことだからである。しかし、もしあなたが彼らを迫
害すれば、彼らすべてを、あなたに対決する一つの党派と利害に結束させ、あなたのくび
きをふりはらって、新しい政府の設立を企てることになり、そこで誰もが、自分達自身に
支配権を得よう、あるいは別の人々の下でましな待遇を得よう、と願いを抱く。もし異論
者すべてが一つの見解でまとまり、あなたよりも少数であれば、周囲に影響を及ぼす何か
危険な主張が混じったものを彼らがもたなければ、彼らは彼らの宗教礼拝と思弁的見解に
おいて寛容されるべきである。そして、彼らがあなたよりも多数であれば、暴力は彼らを
服従に至らせるのに、誤ったかつ危険な方法にしかならないだろう。175
174
5の文に入る前に、次の文が削除されている。「そしてこれらのことは、多分、教皇主
義者と同様、他の党派にも妥当する準則であろう。」
175 「そして、彼らが」以降は、左余白欄に書かれている。
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