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サイボーグ化と人間の尊厳 - 生命ケアの比較文化論的研究とその成果に

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サイボーグ化と人間の尊厳 - 生命ケアの比較文化論的研究とその成果に
サイボーグ化と人間の尊厳
松田
Ⅰ
はじめに――サイボーグ医療からニューロエンハンスメントへ
Ⅱ
エンハンスメントと「人間の尊厳」
純(静岡大学)
1『治療を超えて』の懸念
2
Ⅲ
尊厳概念の自然主義化――ビルンバッハーの「尊厳」理解
サイボーグ化の先にあるもの――境界と人間像への問い
1
サイボーグの定義
2
高度技術の内面化
3
自己の概念の流動化
4
サイボーグ化に「人間の尊厳」原理はどこまで通用するか?
Ⅰ
はじめに――サイボーグ医療からニューロエンハンスメントへ
近年の脳科学とその技術的応用の進化は眼を見張らせるものがある。人工内耳,人工網膜,
脳深部刺激療法など,医療分野へのサイボーグ技術の導入が画期的な治療効果をもたらし,
それへの期待が高まっている。日本が誇るロボットスーツも,いまは高価でも,やがて福
祉現場や家庭に導入され,大活躍する日が来るだろう。介護補助具も,より生体に密着し
たものへと進化し,サイボーグ福祉が花開くだろう。
BCI(Brain-Computer-Interface 脳にコンピューターを直結する技術)は,新しい技術的地
平を切り拓いた。サイボーグ技術や BCI は治療に奉仕するだけではなく,治療を超える
(beyond therapy)エンハンスメント(Enhancement)にも用いられるだろう。その可能性は広大
だ。ニューロテクノロジー は,当面する治療への適用をめぐる倫理問題を投げかけるだけ
ではなく,エンハンスメントの普及がもたらす倫理問題をも生じさせる。さらに,それら
を上回るもっと重大な問いを突きつけてくるだろう。それは人間と機械が一体化すること
によってもたらされる人間そのものの変容や人間社会の変貌についての問いである。広領
域に及ぶこれらの問題群の射程をわれわれはまだ十分には見極められないところにいる。
ここでは,今後の議論の展開を可能な限り予想しながら,ニューロテクノロジーがもたら
すサイボーグ化が人間像にいかなる変容をもたらすか?
その変容に対して「人間の尊厳」
は準拠原理となりうるかについて考察してみたい。
1
治療としてのサイボーグ技術
ニューロテクノロジーは,例えば 人工内耳(cochlear implant),人工眼(visual prosthesis 人
工網膜)などのサイボーグ医療として臨床応用されている。これらは,聴 覚情 報や視覚情
報を電気刺激に転換して脳へ直接送り込む情報処理装置のデバイスを人体内に埋め込む
1
ものである 。また 脳深部刺激療法(Deep Brain Stimulation:DBS)が,難治性のパーキン
ソン病や,ジストニアなどの不随意運動症に対する治療に効果を発揮し,治療症例はすで
に世界で4万人達している 1 。DBS 研究開発では,アメリカが世界第一位,日本が第二位
となっている。韓国と日本では,痛みの除去のための大脳皮質への電気刺激が保険収載さ
れている 2 。DBS はさらにうつ病にも効果が示されており,強迫神経症やトゥレット症候
群などの精神疾患への適用も試みられている。DBS は一方では,不随意運動症への治療法
として,その安全性と有効性が立証されてきているが,他方で,ギャンブル狂や過剰性欲
などの人格変容の事例もあるという 3 。
守るべき倫理原則
これらの ニューロテクノロジー が治療として導入される場合には,医療倫理学的・生命
倫 理 学 的 な 検 討 が 必 要 と な る 。 例 え ば 人 体 へ の ICT イ ン プ ラ ン ト (Information and
Communication Technology Implant)(デバイス装着)について,EU の科学と新技術の倫理
に関するヨーロッパ審議会(European Group on Ethics in Science and New Technologie)は,
以下のような倫理原則をまとめている 4 。
「人間の尊厳」原理に基づき,①非道具化(身体や脳を他者が操作・コントロールする
ことの禁止)
平等
②プライヴァシーの保護
③非差別
④インフォームド・コンセント
⑤
⑥予防原則(現にあるリスクだけでなく,身体への長期にわたる影響,将来的なリ
スクにも十分配慮する)を守ること。
これらは,かつてのロボトミー(前頭葉切裁術 1935 年~70 年代)の教訓をふまえれば,
当然必要な配慮であろう。日本では,同意のないままロボトミー手術をされた患者が医師
を殺害するという事件(1979 年ロボトミー殺人事件)まで起こった。脳深部刺激の基盤技
術(定位脳手術による電極埋め込み)は,ロボトミー手術の改良の試みから生まれてきた
だけに,これは昔話として済ますわけにいかない 5 。脳に介入するニューロテクノロジーに
は,人格を変容させる可能性もあるという点で,独特の難しさがあり,他の身体部位を扱
う場合よりも一層の配慮を要する。
脳への介入の難しさ
まず,脳の治療にはインフォームド・コンセントが必要だが,脳はインフォームド・コン
セントを遂行する器官でもある。身体に疾患があるが理解力と意志表示が十分な患者であ
れば,手術に際して,当該治療法がもたらす利益とリスクに関する医師の説明を理解し,
比較考量の上で,みずから同意すること(自律的意志決定)が可能だ。ところが脳に障害
をもっていて,それを手術で治療しようとする患者の場合は,そうは行かない。脳の治療
を受ける患者は,インフォームド・コンセントの能力に,情報を理解する認知面と,同意
するという意志の働きの面で,障害がある場合が多い。むしろ,治療によって初めて同意
1
2
3
4
5
高木美也子 2008, 3
前掲書,21
前掲書,3,25
European Group on Ethics in Science and New Technologie 2005, 22-23
橳島次郎 2008. ロボトミーと DBS との比較検討については,中野(奥野)満里子 2008 を参
2
能力を獲得したり,自律能力を改善することがある 6 。本人の同意抜きに,自律能力を獲得
するための介入は,どのような場合に,どの程度正当化されるのかという問題が生じる。
また脳という器官の特別な機能は単純には数値化できない。質的な精査が必要である。
肝臓や視力の働きの測定は追試が可能だが,例えば,言語理解力はそうは行かない 7 。脳へ
の「治療」的介入にあたって医療倫理一般を適用する際,シュミットは以下の点を考える
必要があるという。
脳への介入が他の器官への介入とは違う倫理上の特徴は何か?
既知の医療倫理的基準が,脳への介入という特殊な諸問題に適合しているか?
既知の医療倫理的基準は拡張され補強されなければならないか?
もしそうなら,それはどのようにして可能か? 8
ニューロエシックスは応用倫理学の新しい応用領域として,既知の倫理原則を単純に
「応用」すれば済むものではない。「具体倫理学(Konkrete Ethik)」 9 の実践が求められる。
すなわち原理と経験との間の往復運動,全体への視座と個別諸問題の具体的検討との間の
たえざる反省的均衡のなかで再吟味と修正を繰り返すことが求められる。
これらの検討には,さらに深い人間学的洞察が必要だ。身体と精神との関係,有機体的
システム(からだ)と人格的システム(こころ)との関係などが改めて問われるだろう 10 。
精神医学や向精神薬の扱いをめぐる倫理的議論 11 を参考にし,これらを同時に深めながら
の検討となるであろう。
Ⅱ
エンハンスメントと人間の尊厳
前節のテーマは,これまでの生命倫理学の議論を深めながらの考察が可能なケースであっ
た。ところが脳 科 学 と そ の 技 術 応 用 は , 特 定 の 症 状 の 治 療 に 限 定 さ れ ず , エ ン ハ ン ス メ
ントの手段として,もっと多様に用いられる可能性が広がっている。サイボーグ化を取
り上げる前 に,エンハ ンスメント 全般と「人 間の尊厳」 原理の関係 について考 察する。
1『治療を超えて』の懸念
『治療を超えて』は,さまざまなエンハンスメントについて考察した後に,結論部で次の
ような懸念を表明している。
まずエンハンスメントためにバイオテクノロジーを導入することの安全性について:
治療を超える医の介入には,
「健康全般を増進させる」結果をもたらすものもあろう。反対
に,
「人並みの健康よりもさらに良い状態(better than well)」をめざすことで,かえって「基
照した。
6 Schmidt 2007, 136-137
7 Ibid.138
8 Ibid.139
9 Siep 2004
10 Schmidt 2007, 141
11
薬によるエンハンスメントについては,植原亮 2007(第 1 回社会倫理研究奨励賞)の精緻
な研究が参考となる。
3
本的な健康(basic health)を危険にさらす」怖れもある 12 。しかし「最も基本的な問題は,さ
まざまな技術と結びついた危険ではなく,技術が完成されて安全に使用できると思い込ん
で用いることから生じる便益と弊害に関わる」 13 。つまり新技術導入時の安全性チェック
のさらに先にある問題を示唆している。これは通常「安全性の問題」と言われるものとは
異なる。例えば,スポーツにおけるドーピングや,受験前に集中力を高めるための覚醒剤
使用などが競争の公正を損ねる(不公正 unfairness)。バイオテクノロジーが可能にした便
益が,自由市場のなかで,利用機会の不平等(inequality)をもたらす。こういった問題であ
る 14 。
そしてもっと重要な問題として,みなが我先にとエンハンスメントに向かうことによる
社会的な強制力(自由の減少 reduction of freedom)や,エンハンスメントが人間の最も共
通 な 欲 求 に 奉 仕 す る こ と か ら 結 果 と し て 生 じ る 画 一 化 ・ 均 質 化 (conformity or
homogenization)という問題がある。つまり各人が思い思いに自己向上をめざした結果が,
『治療を超えて』が最も懸念する事柄のようだ。本書は
個性の喪失をもたらす 15 。これが,
それを「個人的に選択された行動の集積効果(the aggregated effects)」として捉え,「共有地
の悲劇」に匹敵すると理解している。
自然的な人間性への挑戦
『治療を超えて』はこれらの懸念を挙げたのちに,「懸念の本質的根源(essential sources of
concern)」を下記の点に探っている。すなわち,エンハンスメントのためのバイオテクノ
ロジーの利用は,「自然で人間的なものへの挑戦(challenges to what is naturally human)」「<
自然で尊厳ある人間的なもの>に対する適切な敬意を示す態度への挑戦」である。それは
「自然を作り変えようとするプロメテウス的願望」であり,「神にふさわしい知を欠いた,
神のような振る舞い」で,人間の「傲慢(Hubris)」だと断罪する。こうした傲慢に「生命の
恵みへの感謝(acknowledging the giftedness of life)」を対置し,このような「宗教的感受性
(religious sensibility)」が宗教を超えて広がることに期待を表明している 16 。人間の自然本性
への技術介入に対して,
「自然〔神〕から授かった人間的な自然本性(our own given nature, a
12
The President's Council on Bioethics 2003, 280
Ibid. 280
14
Ibid. 280-283
15
Ibid. 284
16
The President's Council on Bioethics 2003, 286-290 こうした集積効果を予想し,それに対して
道徳的な懸念を表明する言説はしばしば見受けられる。しかし,ここから法的規制の根拠を導
くのは困難であろう。集積効果を「共有地の悲劇」に模して捉えていることから分かるように,
これは,個人の自由よりも生態系全体の利益を優先せよという環境倫理学と同様の論理を導く
ことになる。それは他者に危害を与えなければ各人は自己の幸福を最大限に追求してよいとい
うリベラリズムの原理と相克することになろう。リベラルな現代国家では,他者に危害を加え
たり迷惑をかけたりしなければ,少なくとも処罰の対象にはしがたい。処罰規定は,恣意的に
乱用されないために,処罰する行為を明確に限定する(罪刑法定主義)。司法は個別行為を精
査し,その違法性(刑事)や不法性(民事)を特定する。法の乱用を防止するためには,違法
な行為Aと違法でない行為Bとを峻別する徹底したアトミズムが求められる。司法は一般に,
もろもろの個別行為の集積効果を問うのに不向きである。したがって,個別の諸行為の集積効
果によってもたらされる将来の弊害を予測し,個人の諸行為を法的に規制する論理の構築はし
ばしば困難に直面する。
13
4
given humanness)」の方が「善い(good)」という姿勢である 17 。
た だ し ,「 人 工 的 な 手 段 が 用 い ら れ る こ と 」 自 体 に , あ る い は 「 手 段 の 不 自 然 さ
(unnaturalness)だけに懸念の原因があるわけではない」と断ってもいる 18 。むしろ人間とし
ての努力と,努力の果てに達成した成果を自己の活動の成果として確証する営みに関わる
問題と捉えている。
「人間の生活には,修練と努力(discipline and effort)によってのみ卓越性
(excellence)が達成されるような分野がある」。こうした分野において筋肉を増やす遺伝子技
術や,記憶を向上させる薬剤を利用して成果を達成しようとすれば,
「 多くの人々の眼には,
ごまかし(cheating) や安直(cheap)と見えるだろう」19 。自己変容は自己の活動によるものな
のか?
その成果は「自己の活動の成果」として自ら確証できるだろうか?
人はそれを称賛できるだろうか?
あるいは他
20
人間的活動の尊厳の喪失
こうした問いに対して『治療を超えて』は,エンハンスメントの行き過ぎは人間の努力の
価値,それによって達成される卓越性の価値を損ない,努力の成果を自己の活動の成果と
して確証する自己確証・自己実現を不可能にする,と答える。
わたしはより良く,より強く,より幸せになるかも知れない。けれども,どのよう
にしてそうなったか,わたしは知らない。わたしはもはや自己改造の主体(the agent
of self-transformation)ではなく,もろもろの改造力の受動的な受け手(患者)(a passive
patient of transforming powers) である 21 。
そこには「人間主体の自然本性や,自然で人間的な活動様式の尊厳を汚し台無しにする
危険(the danger of violating or deforming the nature of human agency and the dignity of the
naturally human way of activity)」が存する 22 。
エンハンスメントが進みすぎると,「人間的活動の尊厳(the dignity of human activity)」が
失われ,行為の責任主体が不明確になり,活動主体そのものが消滅しかねないという危惧。
これが大統領生命倫理諮問委員たちの心情を最もよく表している。アメリカン・ドリーム
の逆説的崩壊という,『啓蒙の弁証法』を髣髴とさせる立論と言える。
2
尊厳概念の自然主義化――ビルンバッハーの「尊厳」理解
倫理の自然主義化
人間自身への過度な技術的介入によって,
「自然から授かった人間的な自然本性」が失われ
17
Ibid. 289
Ibid. 291
19
Ibid. 291
20 エンハンスメントによって増強された能力は自分の本当の能力(本物 authenticity)なのかと
いう問いである。これについては Wissenschaftliche Abteilung des DRZE 2002. 邦訳 19-21, 植原
亮 2008 参照
21
The President's Council on Bioethics 2003, 294
22
Ibid. 292
18
5
るという懸念に対して,ビルンバッハーは,かかる論述において自然性(Natürlichkeit)が規
範性(Normalität)の意味で使われていると批判する。例えば「同性愛は自然に反するから道
徳に反する」,なぜなら婚姻についての自然の目的は生殖にある,それゆえ同性愛は許され
ない,という主張がなされたとする。
「自然に反する」
「自然でない」という言葉が,
「規範
にそむく」という意味で最初から使われている。つまり同語反復にすぎない。ある行動様
式を「自然でない」という言い方は,その行動様式が間違っていて受け入れがたいことを
繰り返しているだけだ。当該行動様式の拒否をただ強めているだけで,この判断を根拠づ
けてはいないとビルンバッハーは分析する 23 。
「自然」の脱魔術化と日常道徳的思考
ビルンバッハーは自然性の価値について現代哲学と日常道徳とが乖離していく傾向につい
てこう説明している。19 世紀哲学のペシミスティックで経験的な流れ(ショーペンハウア
ー,J. S. ミル,W. ジェームズ,A. シュヴァイツァーなど)は,飼いならすことのできな
い自然の破壊的でおぞましい側面を強調することによって,
「善き自然」という通俗的な像
が構成されたものであることを,イデオロギー批判的に暴き立て,自然的なるものを脱理
想化した。哲学のレベルでは倫理的原則としての自然性が脱魔術化された 24 〔20 世紀には
G. E. ムーアの「自然主義的誤謬」論が唱えられる〕。ところが,近年の日常道徳的思考は
自然を再び規範にまで高めた。これは生物医学とりわけ遺伝学と生殖医療における介入手
法に対する近年の態度のなかに現れている。これらの分野では,自然なもの( natürlich)と
人工的なもの (künsterlich),与えられたものと作られたものとが対置され,たいていは
「自然に(natürlich)与えられたもの」が優先される。
「自然な生殖」
「自然な親子関係」へ
の好みがしばしば表明される。これらの領域においては,他領域に比べて操作的介入の可
能性が急激に増大しているため,これらが新しい可能性として受け容れられず,技術的介
入に対抗して新しい限界がタブー(例えば代理懐胎の禁止など)として作られる 25 。
ビルンバッハーは哲学的議論と日常道徳的思考をこのように対比するが,哲学的な議論
をも展開する『治療を超えて』も,前節で見たとおり,まさしく日常道徳的思考と同レベ
ルの議論を展開している。近年,自然がもたらす「偶然」の価値を強調するハーバマース
も同じ傾向と言える。ただしハーバマースの場合は,
「自然性」の価値をコミュニケィショ
ン的行為論のなかでその意義をとらえ直しているので,日常道徳的思考と同列に扱うのは
公正ではないかも知れない。
生殖の偶然性
ハーバマースは『人間性の未来』 26 のなかで,生殖の「自然性」とそれにつきまとう「偶
い
ず
然性」に着目し,ハンナ・アーレントの natality(生まれ出る こと,出生)という概念を援
用している。ハーバマースはアーレントの『人間の条件』から次の一節を引用する。
23
24
25
26
Birnbacher 2006, 79
Ibid. 81
Ibid. 81
Habermas 2001
6
誕生のたびごとに世界のなかに生じる新しい始まり(Neubiginn)が実際にものをいうの
は,新参者〔子〕が新しい事を始める能力つまり行為する能力をもっているからにほ
かならない。新たに事を始めるイニシアチブ(Initiative)という意味で,行為という要素
は人間のあらゆる活動のなかに潜んでいる。このことは,人間の活動が,誕生によっ
て 世 界 に 到 来 し 生 ま れ 出 る (Natalität)と い う 条 件 の も と に あ る 存 在 者 た ち に よ っ て 実
行されるということを意味している 27 。
人間の創発的な自由は,おのれの始まり(出生)が「他人の意のままを免れている」こ
との上に成り立つという趣旨である。両親が我が子がほしいと思って,子を持つに至るこ
とはよくある。しかしどのような子を持つかは両親の意のままにはならない。子は親を選
べないが,親も子を選べない。このことは人間社会への「新しい加入者」
(新生児)の「自
由」の基盤であるだけではなく,その新参者を受け入れる社会にとっても新しい始まりで
ある。
人間の自由と人間社会の新しい可能性は,じつは思い通りにならない出生の自然性によ
って支えられている。もしこれが生殖細胞への遺伝子的介入などによって,両親の思い通
りになったら,功名心の強い両親の一方的な期待に,生まれてきた子は異論をさしはさむ
余地がない。これは,プログラマーとプログラミングとの関係であり,コミュニケィショ
ン行為の相互性という条件を外れているとハーバマースは捉える。
出生,それは両親の選択からも独立した「偶然」による「大いなる贈りもの」である。
出生後にわかる病気や障害,それへの体質は,これまでは多かれ少なかれ<人間には責任
ケ
ア
のない運命>とみなされた。その運命は他者の援助 と連帯の絆を頼りにすることができた。
もしも遺伝子的素質が出生前診断などで選択の対象となり,遺伝子操作による介入の対象
となるならば,人間は平等だという原則,お互いに人格を認め合う(相互承認)という要
求,社会的連帯という倫理的な理念と諸制度はどう変化するだろうか?「われわれの道徳
的言語ゲームの文法形式」
〔人生ゲームの基本ルール〕は変化しないだろうか? 28
ハーバ
マースはこう問いかけ,生殖の偶然性の保持を人間として超えてはならない一線として位
置づけている。
神の代理物としての自然
このような意味において,ハーバマースは自然の偶然性を規範的な価値にまで高めようと
する。ビルンバッハーはこうした傾向を批判する 29 。
操作的介入の新しい種類の可能性が漠然と恐ろしいものと感じられるところでは,受
動的に万事を任せる態度,介入を断念する態度(「治療を諦めるニヒリズム」)が復権
する。……人間の外の自然を立法的なレベルにまで高めることは,形而上学的合意を
欠いた時代においては,一種の“神の代理物 Gottersatz”として魅力的であるにちがい
27
28
29
Ibid. 2001,102. あえてハーバマースの独訳から引用。アーレント 1973, 11 に対応箇所。
Habermas 2001, 115
Birnbacher 2006, 82. ただしここではハーバマースが明示的に批判されているわけではない。
7
ない。
神なき時代における神の代用物,それが規範の位置にまで高められた「自然」だとビル
ンバッハーは言う。
尊厳原理の自然主義化
倫理的規範としての自然性を,近年は「人間の尊厳」原理が引き受けるようになった。ビ
ルンバッハーは「人間の尊厳」をめぐる近年の議論(とくにヒト胚の地位や生命操作をめ
ぐ る 論 争 に 典 型 的 に 表 れ て い る ) の 特 徴 を 「 尊 厳 原 理 の 自 然 主 義 化 (Naturalisierung des
Begriffs der Menschenwürde)」と捉えて,次のように批判している。
前面に出てきているのは,自由・プライヴァシー圏・自己尊重・生存保障の不可
侵という意味での尊厳ではもはやなく,生物学的な構造と経過に手を触れないと
いう意味での尊厳である。人間の尊厳概念の核心的内実と見なされるものが,人
格の自律ではだんだんなくなり,むしろ生命や遺伝子的同一性といった生物学的
基盤の神聖性になってくる 30 。
例えば「人と動物との交雑種を人為的に作り出そうとする行為は人間の尊厳に反する」
と主張される。こうした言い方では,
「産出される者や産出した者の個としての人間の尊厳
の侵害ではなく,全体としての類の同一性と明確さへの侵害が問題となっている」とビル
ンバッハーは見る。つまり人類としての同一性が侵害され,異質な種との間の境界が不明
確になることを阻止したいという「一種の純血の掟(eine Art ‘Reinheitsgebot’)」が表明され
ている。人間の生物学的基盤を「類の尊厳」として捉え,類としての純血を保持する義務
が唱えられている,とビルンバッハーは見る。自然のなかに存在する種の壁を人工的に乗
り越えるから尊厳に反するという言説。人間の尊厳概念のこうした使用が規範的な内実を
どの程度まで根拠づけることができるかは疑わしいとビルンバッハーは言う。自然な生殖
様式が類としての人間に特有というわけでは決してないのであるから,人間の自然的な生
殖様式の何が「尊厳創出的」であるのかが明白ではないとも言う 31 。
「人間の尊厳」概念の二面性
「人間の尊厳」概念の歴史を振り返りながら,ビルンバッハーの論説にコメントしてみた
い。
金子晴勇氏の詳細な研究によれば「人間の尊厳」概念には,ヘレニズム起源の「人間の
尊厳(dignitas hominis)」とヘブライズム起源の「神の像(imago Dei)」という二つの流れがあ
る。前者は,理性の働きとそれにもとづく道徳的な気高さにこそ人間の価値と尊厳がある
とする知性的な伝統である。後者は,人間は神に似せて造られ「神の像」を宿しているが
ゆえに尊いとする宗教的伝統である。人間本性に内在する尊厳と,神に原型を求める「神
30
31
Birnbacher 2006, 83
Birnbacher 2004, 邦訳 98
8
の像」とは,もとは本質的に異質な概念である。この二概念が緊張関係を孕みながら,複
雑にからみあって展開し,今日の「尊厳」概念が形成されてきた,と金子氏は言う 32 。そ
の結果,人間は①知性(理性)と ②自己完成能力と ③自由意志をもつがゆえに尊厳に値
する,と理解されるに至った 33 。
ここには,
①人間は「神の像」を宿しているがゆえ尊いという,他の被造物から人間を隔絶する
論理
②人間という種の内部においては,すべての人間は等しく不可侵の尊厳を持つという
無差別の論理
という二面が表裏をなしている。すべての人間の尊厳が例外なしに差別なく保証されると
いう②の理念が,他者危害を阻止する強力な論理となってきた。それに対して,①はむし
ろ他の生物種を人間から排除する論理である。①生物学的種としての人間に与えられた特
別な身分,つまり人間を他の生物種よりも上位に高めるような特別な地位。この絶対差別
主義が,②この身分は発達段階や様々な能力,特別な困窮といった個人的なあらゆる質的
特殊性に依存しないという絶対無差別の倫理を支える,という逆説的構造がある。
他者への侵襲と人権侵害の恐れのあるケースに対して,「人間の尊厳」という原理は有
効に機能してきたと言える 34 。しかし,人間の尊厳の保護はどんな内容をもつかについて
の肯定的な定義はこれまで成功せず,人間の尊厳が侵害された事態からアプローチする試
みがドイツ憲法学でも優勢だ。連邦憲法裁判所も通例この観点から判決を下す。
人間の尊厳が不可侵であるという原則に関しては,人間の尊厳が侵害されうるのはど
のような状況においてであるかを確定することにすべてがかかっている。明らかにそ
れは一般的に言えることではなく,いつでも具体的なケースについてのみ言えること
である 35 。
当人の自由意志を無視して,脳への外科的介入によって,その者を操作すれば,「人間
の尊厳に反する」道具化だと非難できる。他者への危害に対して,尊厳論を持ち出すこと
は分かりやすい。しかし,他者への危害を含まない自己のエンハンスメントに対して,「人
間の尊厳」原理は歯止めとして機能するだろうか?
ここにはリベラル優生主義と類似し
36
た議論がある 。自己エンハンスメントとしてのサイボーグ化は,自ら自由に意志し,知
性を働かせて自己完全化(自己実現)をめざすものであって,尊厳の 3 要件の実現にほか
「人間の尊厳」論では
ならないという主張も可能である 37 。エンハンスメント是か非かは,
決着がつかないだろう。
32
33
34
35
36
37
金子晴勇 2002 はこの概念史を見事に解明している。
バイエルツ 2002 参照。
この場合でも,「尊厳」を持ち出す必要はなく,人権の概念で足りるとする意見もある。
ドイツ連邦議会答申 2004, 23 から引用。
原朔 2008 は ニューロエンハンスメントに対して,生命倫理学の4原則が適用できなくな
ると指摘している。
バイエルツ 2004, 170 が紹介するエンゲルハートの立場。
9
Ⅲ
サイボーグ化の先にあるもの――境界と人間像への問い
1 サイボーグの定義
サイボーグ 化を論じる とき,サイ ボーグの定 義を明確に しておいた 方がいいと 思われ る 。
ところがサ イボーグの 定義は意外 とむずかし い。サイボーグ(cyborg)は cybernetic organism
であり,さしあたって「人間と機械との混成物」(Mensch-Machine Hybrid),有機的身体と
ア ン ド ロ イ ド
人工的な機器との融合体と定義できよう(人造人間 はまったくの機械であり,サイボーグ
ではない)。この場合の「機械」や「機器」がどんなもので,混成・融合の状態がどの程度
かが,サイボーグか否かのメルクマールとなる。メガネ をかけてい るだけでは ,ふつうサ
イボーグと は言わない 。メガネは 簡単に取り 外しが可能 であり,視 力を高める ための外
的な道具に すぎず,生 体と融合し ているわけ ではない。 ではコンタ クトレンズ はどうで
あろう?
角膜の上に 載せ,メガ ネよりは密 着度が強ま るが,いつ でも簡単に 取り外し
可能だ。白 内障の手術 によって眼 に挿入する 眼内レンズ(人工の水 晶体)はど うか?
こ
れはもはや 再び手術を しなければ 取り外せな い。生体と 不可分にな っていると いう点 で ,
融合度は高 い。しかし 白内障の手 術をしたお 年寄りを「 サイボーグ 」と呼ぶ人 はまずい
ない。人工 の水晶体で はなく,人 工の網膜を 挿入し,光 の刺激を小 型コンピュ ーターに
よって電気 信号に転換 して脳に送 る技術は,サイボーグ 技術と呼ば れる。この ように「 人
間と機械との混成」と言っても,その種類と段階はいろいろありうる。
ハイリンガーらは下記のようなメルクマールを挙げて検討している 38 。
a 機 械(非 生物的なも の)との親 密さ(Intimität)/侵襲 性 (Invasivität):より生体 に密着
している。それはより 侵襲的 (invasiver)であ るというこ と。例えば ,補聴器よ りは人
工内耳の方 がサイボー グ的。
b 生 存に不 可欠(Notwendigkeit/Existentialität):この基準 では,人工 内耳よりは ペースメ
ーカーの方 がサイボー グ的となる 。人工内耳 は,なくて も生命を維 持できるが ,ペ
ースメーカ ーはそうは いかない。
c
生物学 的(有機的 )要素 (Biofaktizität): 有機体の諸 部分や諸機 能を技術で 代用する
だけではな く,有機体 との関わり が必要。こ の基準では ,臓器移植 を受けた人 もサ
イボーグと なる。
d
エレク トロニクス と神経組織 との統合 (Neurobiologische Integration):有機体 と技術
とを神経生 物学的に接 続し,この 接続をスイ ッチで ON/OFF でき る。この基 準では ,
メガネや単 純な義足な どははずれ る。薬によ るニューロ エンハンス メントや, 消化
器の技術的 代用もはず れる。典 型 的には人工 内耳や BMI な どが該 当する。し かしサ
イボーグの 基準として は,やや狭 すぎはしな いか。
e
自律的 な制御可能 性(Steuerungsfunktion/Autonomie):人体を技 術的に拡張 しても,
それを主体 が制御でき る。有機 体 の自律と ,自己決定に よる責任あ る行為の可 能性。
この基準で は,他者に 操られる「 サイボーグ 兵士」など は,自律を 喪失してい るた
38
Heilinger & Müller 2007, 37
10
め,該当し なくなる。
f
エ ンハ ンスメント (Enhancement):サイ ボ ーグは,人 間学的基準 に比べて際 立って改
良された「 人間と機械との混成物」というイ メージ。こ れは,サイ ボーグにつ いて
の,概念以 前のメタフ ァーに由来 している。 例えば,1960 年代から のサイボー グの
イメージ( ポーランド の作家レム(Stanisław Lem,1921-2006)の『 ヨン博士の 航星日
記』など) 。ここでも エンハンス メントの程 度が問題と なろう。人 間的な人間 改造
技術(治療 を超えるけ れども,サ イボーグに はまだ至ら ない)/ト ランスヒュ ーマ
ンなサイボ ーグ技術( 人間を明確 にサイボー グ化する) 。この区別 をどこでつ ける
ことができ るだろうか ?
上記のどの 要素を採用 すべきであ ろうか?
ハイリンガ ーら は結論として,サ イボー
グについて の説得力あ る定義は困 難だと言う 。仮に ,「 自然的要素と人工的要素から合成
された自己統御的システム」と定義したとしても,次の両極端が生 じると言う 。
①未来学的 イメージ: 脳と機械と の結合によ って肉体的 ・知的諸能 力を高め続 けて
いる人間
②広義:与 えられたも のと作られ たもの,生 物的なもの と非生物的 なものとを 内的
に相互に結 びつけてい る有機体な いしはシス テム
SF 的 な ヴィジュアル・イメージを思い浮かべるのか,いますでに技術的に可能で実行可
能なものに限定するのかによって,議論はかなり変わってくる。広 く取りすぎ ては議論が
拡散する。 狭くしすぎ ると,人間 学的に重要 な問いを捉 えそこねる 。サイボーグにつき
まとう特殊なイメージが,人間の自己了解をめぐる議論に影響している。それゆえ,サイ
ボーグの人間学的存在論的身分についての考察は思考の遊戯ではない。倫理的問題解明の
基礎である 39 。ダナ・ハラウェイもこう言う。サイボーグが何者になるか?
この問いは
40
ラジカルな問いで,その回答はわれわれの生存いかんに関わる 。
靴やメガネ や入れ歯ま でをサイボ ーグとして 扱うのはば かげている 。けれども ,服を
着る,メガ ネをかける ,装飾,化 粧,美容外 科,入れ歯 やコンタク ト,これら は自己ハ
イブリッド 化(Self-Hybridation) 41 で あり,自己 へ向けられ たテクノロ ジー(フー コー)と
言える。そ の意味で「 僕らはもう 既にサイボ ーグなんだ 」という 押 井守の言葉 42 には真実
味がある。
2 高度技術の内面化
人間はこれまで技術の力で外界を変えてきた。いま高度な最先端技術が人間自身へと向か
っている。医療技術は最も古くから技術を人間に向けてきたが,現代の生物医学研究(遺
伝子技術,再生医工学など)は人類の科学技術に新たな次元を切り拓きつつある。そして
ついに脳科学技術によって,「心の座」である脳をも操作し変えるところにまで到達した。
39
40
41
42
Heilinger & Müller 2007.37
ハラウェイ 2000, 293
高 橋 透 2006, 121, 79
NHK 2006
11
人類の歩みを,道具や機械を発明し操り,それらを高度化させてきた歴史と捉えるならば,
外界の改変に向けられた技術が人間自らへ,さらにその最内奥へと向かった結果と捉える
ことができる。この内面化は同時に,グローバルな拡大へと展開する
太平洋を越えて電脳と義体をつなぐ
2008 年 1 月 15 日 ,日 米の研究者 たちは,米 国において サルの脳信 号をコンピ ュータで 解
析し,そのデータを日本に送信して,日本においてリアルタイムで人間型ロボットを,
サルが動く 通りに動か す実験に世 界で初めて 成功した。電脳(コン ピュータ)と義体( ロ
ボット)をインターネットで繋ぎ,ロボットに人間の五感に相当するさまざまなセンサ
ーを取り付け,そのデータを脳にフィードバックする技術が確立すれば(すでに部分的
には実現している),人間は寝たきりになっても,世界中を「旅する」ことも夢でなく
なる。
録画・検索できるゴーグル開発
東京大学大学院情報理工学系研究科の原田達也講師らのグループは,見た物の画像と名前
を記憶し,最後にどこで見たかを知らせる「サイバーゴーグル」を開発した(2008 年 3 月
3 日)。見たものの名前を瞬時に認識し,処理速度は従来の約1万倍という。これは外部装
着で携帯可能なコンピューターであって,脳と直結するBCI(Brain-Computer-Interface)
ではない。しかし,記憶は確実に外部化して行く。人工海馬チップを脳内に埋め込んで,
これをインターネットと結合すれば,脳はグーグルなどの検索エンジンにアクセスし,こ
れを自らの記憶とすることができるようになるかも知れない。サイ ボーグ化の 先には,ニ
ューロエン ハンスメン トの広大な 領域が広が っている。
アメリカの DARPA( Defense Advanced Research Projects Agency 国防 高等研究計 画局)
はすで に BMI のさま ざまな軍事 利用に多額 の資金と力 を注ぎ,考 えるだけで 動く兵器 や ,
戦闘能力をアップした有能な兵士を生み出そうとしている。将来的には脳がスーパーコ
ンピュータ ーと結合す る可能性も 語られてい る 43 。それは さながら,ス ー パ ー 知 能 の 誕 生,
大文字の<知性>と呼んでもいいだろう。そうなったら,「学び」とか「知能」という
概念が根底から揺らぐ可能性もある。「超人類」(ポストヒューマン)を礼賛するカー
ツワイルのような論を聴いていると,人間は人間としての根本的な限界を受け容れるこ
とを拒み始 めたという 感を強くす る。これは より根本的 な問題をは らんでいる 。
3
自己の概念の流動化
アンサンブル
インターネット以前,BCI 以前から,人間は社会存在論的には,「社会的諸関係の 総 体 」
(マルクス『フォイエルバッハ・テーゼ』)である。これはアリストテレスやへーゲルやマ
ルクスの関係論的人間理解であるが,BCI によってネットワークに繋がれた人間は文字通
り,社会的諸関係の結節点となる。自己の概念は限りなく流動化していく。
43
カ ー ツ ワ イ ル 2007
12
記憶の外部化
現在でもすでにわれわれは事典を引くよりも,コンピュータで検索することの方が多い。
紙の書類を捜すよりも,パソコンのなかのファイルやメールボックスを検索する。これは,
ネットワークのなかに記憶が外部化していることを意味する。言語の発明に始まり,文字
化,印刷,出版,写真,映像,ラジオ,テレビ,録音,そしてコンピュータによるデジタ
ル化を経て,ネットワークのなかに膨大な記憶が集積される事態となった。もはや誰の記
ア イ デ ン テ ィ テ ィ
憶か分からないものになりつつある。記憶が人格的同一性 のより所だとすれば,サイボー
グ化はこれを揺るがすことになろう。GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊のなかの草薙素子
はこう自問する。
私みたいに全身を義体化したサイボーグなら誰でも考えるわ。もしかしたら自分はと
っくに死んじゃっていて,今の自分は電脳と義体で構成された模擬人格なんじゃない
かって。いえ,そもそも初めから<私>なんてものは存在しなかったんじゃないかっ
て。
この<私>の不在を,コード 2501(人形使い)はこう解説する。
あなたたちの DNA もまた,自己保存のためのプログラムに過ぎない。……生命とは,
情報の流れの中に生まれた結節点のようなものだ。種としての生命は,遺伝子という
記憶システムを持ち,人はただ記憶によって個人たり得る。たとえ記憶が幻の同義語
であったとしても,人は記憶によって生きるものだ。コンピューターの普及が,記憶
の外部化を可能にした時,あなたたちはその意味を,もっと真剣に考えるべきだった。
BMIの時代を迎えてから慌てて研究プロジェクトを組んで議論を始めてももう遅い
よと言わんばかりである。「人はただ記憶によって個人たり得る」とすれば,ネットワー
クのなかにこそ自己がある。この言葉は,BCI が普及展開した世界を想像するとき,リア
ルな響きを帯びてくる。
4 サイボーグ化に「人間の尊厳」原理はどこまで通用するか?
ここまで来ると,問題は生命倫理学には収まりきれないものとなる。治療としてのサイ
ボーグ技術 について,科学と新技術の倫理に関するヨーロッパ審議会は,人間の尊厳を基
礎に,6つの配慮点を挙げていた(Ⅰ参照)。他者への侵襲と人権侵害の恐れのあるケース
に対して,
「人間の尊厳」という理念は力を発揮してきた。しかし,サイボーグ化が自己の
エンハンスメントとして展開することに対して「人間の尊厳」原理を持ち出すとき,それ
は人類としての同一性を守ろうとする「一種の純血の掟」の意味であった(Ⅱ3(2))。サ
イボーグ化は人間と機械との混成物(hybrid)である。将来さらに人間と機械と動物との混
成物となる可能性もある 44 。hybrid はギリシャ語の hybrida に由来し,雑種を意味する。サ
44
ハラウェイ 2000
13
イボーグ化とは雑種化である。それゆえ人類純血主義に立脚する「人間の尊厳」原理は,
この雑種化を人間の尊厳に反するとして拒否するだろう。
境界をめぐる議論
道具は使い こむうちに ,「手に馴 染んでくる 」というこ とがある。 脳がきわめ て可塑的
であるとい う基盤があ るからだ。この脳の可 塑性を最大 限開発する 可能性が BMI によ っ
て開けてき た。 身体/機械,内/外の 境界は 限りなく曖 昧になって 行くだろう 。「機械
的」という 言葉がネガ ティヴに語 られるよう に,機械は 融通が利か ない冷たい ものとい
う印象があ る。ロ ボッ ト技術や BMI が発展 していくと ,機械 のイ メージが大 きく変わる
だろう。サ イボーグ化 によって人 間自身も機 械的要素を 取り入れて いく。人 間 とは何か ,
機械とは何 かの両面か ら見直しを 迫られるだ ろう。人間 /機械 ,自/他,これらが相互に
「反転し合い,互いに入れ子状態となる」 45 。
とりわけ西洋の思想はこれまで,神と人間との比較に多大なるエネルギーを注ぎ込んで
きた。今後は人間とサイボーグとの比較が重要な関心になろう。
「人間にとっての他者,兄
弟,分身(Doppelgänger),他我(Alter Ego)を具現するものは,サイボーグにほかならない」
からだとハイリンガーらは言う 46 。
こうした技術進化のなかで,「ここを超えたら人間が人間でなくなる」という一線を引
き,技術によって改変してはならない「人間の本質」を確保しようとする態度がありうる。
雑種化を人間の尊厳と相容れないとして斥ける上述の態度である。けれども境界をなんと
しても維持しようとする態度は,同時に,人間の尊厳の理念に反するという面も持つ。な
ぜなら人間の尊厳は,自ら自由に意志し知性を働かせて自己完全化(自己実現)をめざす
ことにあり,固定的な「人間性」を否定して乗り越えて行くところに成り立つからだ。技
術によっても奪われてはならない<人間の核>を堅持しようとすることは,
「 人間が価値と
規範の創造者であるという人間の尊厳の根拠を否定することになる」 47 。
自由にして依存的な存在
Self-Enhancement に「人間の尊厳」原理は機能不全となるかも知れない。けれどもニュー
ロテクノロジー(BMI などのサイボーグ技術等)によって人間は「自由にして依存的な存
在」 48 であることを超えられるだろうか?
自ら自由に意志し,知性を働かせて自己完全化(自己実現)をめざす者を尊厳ある人間
と捉える近代の尊厳概念は,
「自立(自律)した主体」という啓蒙主義的人間像のなかで結
実した。しかし,この人間像は健康な成人男性をモデルにしていて,人生全体を眺めて見
れば,一面的なものにすぎない。誰の人生も,まずは他者の世話なしには一日たりとも生
き延びれない無力な赤ん坊から始まる。人生の途上で事故などにより障害を負うことも稀
ではない。その難を逃れたにしても,老年期や終末期には,ほとんどの人が他人の介護・
看護に依存することになる。
45
46
47
48
高橋透 2006, 44
Heilinger & Müller 2007, 39
バイエルツ,K.1996, 43-45
ドイツ連邦議会審議会答申 2004, 46
14
将来 BMI 保育機,BMI 看取り機は実現するだろうか?
赤ん坊はおなかがすいても,お
しめが濡れても,ひたすら泣き喚くだけだ。もしも BMI で赤ん坊の脳内信号を読み取り,
それを自動保育ロボットに直結すれば,母親は要らなくなるかも知れない。またコミュニ
ケィションがとれなくなった末期患者の脳内信号を読み取り,それを自動介護ロボットに
直結すれば,看護者も介護者も要らなくなるかも知れない。しかしその場合でも,最低限,
BMI 保育機,BMI 看取り機を装着してメンテナンスをしてあげる人間は必要かも知れない。
このような空想を楽しんでも,人間が依存性を全面的に脱却するということは考えにくい。
自由にして依存的でもあるわたしたちは,災害や病気,貧困に苦しむ人々に自発的に支
援の手が差し伸べられるような文化と制度を維持することで,初めて自律的な存在として
自己を実現できる。それが「自由にして依存的な存在」ということの意味である。そこに
ケアしケアされる文化の存立根拠,個人の自己決定とそれを支える社会的文脈がある。ニ
ューロテクノロジーによって,他人への依存は減り,ますますBMIなどの技術に頼ろう
とするだろう。それと引き換えに,ケアの文化と制度は衰退して行くかも知れない。ニュ
ーロエンハンスメントへの熱中はケアの文化を危うくするだろう。しかし人間が「自由に
して依存的な存在」であることを最終的に脱することができないとすれば,ニューロテク
ノロジーが社会的連帯の原理,相互支援の文化と両立する道を探るしかないと思われる。
脳死論議からニューロエシックスへ
かつて脳死・臓器移植法が可決される(1997 年)に至る過程で,生命倫理をめぐる日本初
の国民的規模の議論が展開された。脳死は「人の死」かをめぐる議論である。
「脳死」とい
う概念は,中枢神経系の死が蘇生限界点であることの発見に由来する。
「シドニー宣言
死
に関する声明」(1968 年8月9日世界医師会総会)は「どのような措置が講じられたとし
ても死のプロセスが不可逆となるという確実性」を判定することが重要だとした。当時シ
ドニー宣言は現代医療の「敗北宣言」という受けとめ方すらあったという 49 。脳と人間の
ニ ュ ー ロ エ シ ッ ク ス
絶対的限界がテーマだった。いま再び脳が注目され,脳神経倫理学 をめぐる活発な議論が
始まっている。今度は,脳が,脳と人間の絶対的限界を乗り越えようとしている。脳をめ
ぐる第2ラウンドの挑発に対して,われわれの倫理力と合意形成能力のエンハンスメント
が求められているであろう。
サイボーグ技術や BMI は遺伝子技術による生命操作よりも早く進み,社会に広がる可能
性がある。生命という「畏れ多いもの」を技術的に操作し始めたのは,ここ二,三十年の
ことだ。これに対して,機械の発明とその改良は文明の歴史そのものであり,人類の最も
得意とするところである。現にコンピューター技術の進化は日々加速し続けている。倫理
的な議論のための時間はそうないかも知れない。
49
秋葉悦子 2008,163
15
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生命環境倫理ドイツ情
報センター編『エンハンスメント――バイオテクノロジーによる人間改造をめぐる倫理』松
田純・小椋宗一郎訳,知泉書館,2007
付記
本稿は,
「エンハンスメントと脳科学技術」と題した京都大学での講演(2007 年 12 月2日,
「意
識の先端的脳科学がもたらす倫理的・社会的・宗教的影響の調査研究」研究会)および「サイ
ボーグ医療をめぐる倫理とその先にあるもの」と題した東京大学(駒場)での講演(2008 年3
月 14 日,UTCP 短期教育プログラム「エンハンスメントの倫理と哲学」第 1 回研究会)をふま
え,「重要政策課題への機動的対応の推進」プログラム『意識の先端的脳科学がもたらす倫理
的・社会的・宗教的影響の調査研究』(研究代表名:京都大学
福山秀直)資料,2008 年に掲
載された「ニューロテクノロジーによるエンハンスメント」を加筆し補正したものである。
17
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