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46号 - 備陽史探訪の会

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46号 - 備陽史探訪の会
2年 2月 3日
平成
備陽史探訪 46号
一〇 周年記念特 集
年 頭 にあ た って
会 長 神谷 和孝
新 年 あ け ま し て お め でと う
備 陽 史探 訪 の会
福山市多治米町 51)8
新 ら し い年 を 迎 え 会 員 の皆 様 、 如 何
る と自 信 を 持 て る ま で に い たり ま し
皆 様 に喜 こ ん で い た だ け る も の に な
の記 念 行 事 は 必 ら ず 立 派 な 、 会 員 の
か った事 は 、 昨 年 の 十 一月 に開 館 し
た。
さ て ﹁備 陽 史 探 訪 の会 ﹂に と って
たば か り の広 島 県 立 歴 史 博 物 館 の御
お過 ご し で し ょう か。
お 一人 、 お 一人 が 今 年 の抱 負 を 抱 か
も 、 非 常 に意 義 の あ る 、 か つ大 切 な
理 解 を い た だ け て 記 念 講 演 会 の共 催
れ て新 ら し い年 を 出 発 な さ った こ と
年 を迎 え た感 が いた し ま す 。
と 同 館 の講 堂 の使 用 を 承 諾 し て い た
だ け た こと で し た 。 広 島 県 立 歴 史 博
年 を 迎 え る こと に な り 、 そ れ を 記 念
陽 史 探 訪 の会 ﹂に と って は 設 立 十 周
団 体 と の今 後 の あ り 方 に つい て色 々
推 察 し て い ま す o 同 館 と地 元 の民 間
の共 催 と会 場 使 用 の申 請 を 、 そ ん な
物 館 に と っ て は 開 館 し たば か り で あ
り 、 県 立 と 言 う 公 の立 場 か ら 、 我 々
と 思 考 さ れ た に違 い あ り ま せ ん 。
に軽 々 し く は 承 諾 さ れ た訳 で な いと
し て 二月 十 一日 ︵
0 1 建 国 記 念 日︶
に、 全 国 的 に注 目 を浴 び て い る 吉 野
高 島 忠 平 先 生 を 講 師 に迎 え て の講 演
ケ里 遺 跡 の発 掘 調 査 の責 任 者 で あ る
等 で文 書 を 通 じ て、 平 成 二年 は ﹁備
様 に は 直 接 に 口頭 で 、 あ る い は 会 報
前 々 か ら 、 機 会 あ る ご と に会 員 の皆
計 画 を す す め て い く中 で最 も 嬉 れ し
いき 、 年 が あ け た現 在 は 二月 十 一日
い内 容 に わ た って 計 画 を 積 み あ げ て
く 、 幾 度 と な く役 員 会 を 開 き 、 細 か
昨 年 の半 ば 以 来 、 計 画 を 実 現 す べ
いる こ と を お伝 え し て参 り ま し た。
け る祝 賀 の宴 を 催 お す 計 画 を 進 め て
会 及 び ニ ュー キ ャ ッ ス ル ホ テ ル に於
第46号
と 思 いま す 。
御座居ます
V
TEL(084"53-6157
承諾 さ れ た 理 由 の中 に は 、 我 々 ﹁備
出 来 な いま ま 活 動 を続 け る 状 態 が続
も の と 思 って いま す 。
げ た も のを 考 慮 に いれ て い た だ け た
会 の あ り 方 な ど こ の十 年 間 の積 み あ
数 を 百 五 十 名 を数 え る、 県 下 有 数 の
整 理 が 出 来 、 以 後 会 も 発展 し て 会 員
ま し た 。 討 論 を 重 ね る中 で ど う に か
と し た空 気 が 役 員 の中 に潜 在 し て い
陽 史 探 訪 の会 ﹂の今 ま で の 活 動 内 容 、 き 表 面 に 出 な いま ま に も ギ ク シ ャク
そ の よ う に考 え る と 、 今 ま で苦 楽 を
役 員 の方 々 の献 身 的 な努 力 が実 った
ら れ た方 々 も 本 気 で会 の発 展 を 願 っ
考 え る と 、 会 のあ り 方 に 一石 を投 じ
共 に し な が ら の会 員 の皆 様 方 の 協 力 、 歴 史 団 体 に成 長 し て来 ま し た が 、 今
も のと 嬉 れ し く 感 じ る次 第 で す 。
か れ て い る市 民 の方 々 が 次 々 に 入 会
し た 当 会 で し た が 、 歴 史 に関 心 を抱
昭 和 五 十 六 年 四 月 僅 か の人 数 で 出 発
生 じ た事 で し た 。
が っ て会 の あ り 方 を め ぐ って対 立 が
間 同 志 で、 会 の会 員 数 が ふえ る に従
以来 常 に発 展 を 望 み協 力 し あ った仲
ん。
一番 逆 風 が 吹 い た の は会 の創 立
態 で 現 在 に い た った 訳 で は あ り ま せ
え って み る と 、 決 し て順 風 満 帆 の状
ど う ぞ 二月 十 一日 の記 念 行 事 は 皆 様
れ し く感 じ ら れ ま す 。
動 の中 で育 って呉 れ た会 員 も い て嬉
し 歴 史 の勉 強 を 続 け る と 言 う 会 の活
生 の時 に入 会 し 、 今 年 は大 学 に入 学
て寂 び し く 感 じ ら れ る 一方 で、 中 学
方 の中 で も 、 年 に は 勝 てず 退 会 さ れ
た方 と か 、 病 気 に な ら れ た方 も あ っ
発 足 当 初 、 元気 で 行 動 を 共 に さ れ た
ず に は いら れ ま せ ん。
訪 の会 ﹂が あ る の で は な いか と 思 わ
て来 た か ら こ そ 、 今 日 の ﹁備 陽 史 探
い て本 気 で役 員 の方 々 が討 論 を 重 ね
さ れ 、 マ ス コ ミ等 にも 会 の活動 等 が
て の こと で あ り 、 そ の問 題 提 起 に つ
紹 介 さ れ る よ う に な って、 会 の中 心
機 に会 が 更 に躍 進 す る こ と を 願 って
一口 に十 年 間 と 言 っても ﹁備 陽 史
的 な 役 割 を担 った 者 に と って、 ホ ッ
と 一息 つい た頃 、 悪 く 言 え ば 会 の活
事 への参 加 を お願 い し て筆 を 置 き ま
探 訪 の会 ﹂の 十 年 間 の軌 跡 を ふ り か
動 に マンネ リ が 生 じ た頃 で も あ った
の です が 、 そ の あ り 方 に不 信 感 を 持
す。
や み ま せん 。
一人 で も 多 く の方 の行
方 の協 力 で是 非 成 功 さ せ、 そ れ を 契
た れ た方 が会 のあ り 方 に 一石 を 投 じ
る気 持 で 、 色 々 の問 題 提 起 を 行 こ な
わ れ そ の整 理 が な か な か キ チ ンと
46号
備陽史探訪
平成 2年 2月 3日
備陽史探訪 の会
十年の購ン3
副 会 長 田 口 義 之
昭 和 五 五 年 ︵一九 八 〇 ︶
九月 七 日 神 谷 宅 に於 て、 福 山 ユー
ス ド マ ップ ク ラ ブ の総 会 を 開 き 、
新 歴 史 研 究 サ ー ク ル の結 成 方 針 を
決 め る。
一〇 月 二 六 日 第 一回 史 跡 見 学 会 を
輛 に催 す。
一 一月 二 四 日 第 二 回 史 跡 見 学 会 、
芦 田 町 の有 地 氏 の史 跡 を 訪 ね る。
一二月 二 一日 昭 和 五 五 年 度 納 会 を
関 戸 和 典 氏 宅 に於 て行 う 。
昭 和 五 六 年 ︵一九 八 一︶
二 月 二 二 日 第 二 回 史 跡 見 学 会 を 蛇
円 山 に催 す 。
四 月 二 六 日 備 陽 史 探 訪 の会 発 足 、
会 長 神 谷和 孝 。
六 月 二 八 日 第 四 回 史 跡 見 学 会 、 岡
山県 備 前 市 を訪 ね る 。
一〇 月 二 五 日 第 五 回史 跡 見 学 会 、
蔵 王 山 周 辺 の遺 跡 を 訪 ね る 。
一 一月 二三 日 第 六 回 史 跡 見 学 会 、
郡 山 城 、 三次 風 土 記 の丘 を 訪 ね る 。
一二月 一九 日 昭 和 五 六 年 度 納 会 、
於 神 谷会 長 宅 。
一月 三 一日 道 後 山 ス キ ー ツ ァー を
催 す。
昭 和 五 七年 ︵一九 八 二︶
一月 二 三 日 一月 例 会 ﹁岡 山 県 総 社
一月 一六 日 第 三 回 歴 史 談 話 会 ﹁歴
史 と 伝 説 ﹂平 井 隆 夫 、 参 加 二 五 名
昭 和 五 八年 ︵一九 八 三︶
市 鬼 の城 踏 査 ﹂ ︵七 森 担 当 ︶
二月 一四 日 一一
史 跡 見 学会
月例会 ︵
を 改 称 ︶ 木 之 上城 址 踏 査 ︵七 森 、
参 加 一 一名
六月 二 六 日 一
ハ月 例 会 ︵バ ス︶ ﹁本
参 加 二 八名 、 終 了 後 総 会
末 維 新 の福 山 藩 ﹂森 本 繁 、 参 加
六月 一二日 第 七 回 歴 史 談 話 会 ﹁幕
り ︵
駅 家 方 面 ︶ 参 加 一二 六 名
五月 五 日 第 一回 親 と 子 の古 墳 め ぐ
名
山城 の建 築 ﹂松 本 房 治 、 参 加 三 七
四月 二四 日 第 六 回 歴 史 談 話 会 ﹁福
参 加 三 八名
武 島 担当 ︶
の史 跡 を 訪 ね て ︵
四月 二 日 四 月 例 会 ︵バ ス︶ 神 石 町
ぐり ︵
種 本 担 当 ︶ 参 加 三 七名
二月 二 一日 一
二月 例 会 、 尾 道 古 寺 め
名
三月 六 日 第 五 回歴 史 談 話 会 ﹁吉 備
の中 の備 南 ﹂佐 藤 一夫 、 参 加 二七
の踏 査 ︵
棗 田 担 当 ︶ 参 加 一二名
二月 二 〇 日 一一
月例会 、府中市常 城
名
南 国 人 衆 の動 向 ﹂藤 井 高 一郎 、
﹁古 代 山 城 ﹂棗 田 英 夫 、 参 加 三 四
二月 一三 日 第 四 回 歴 史 談 話 会 ﹁備
井川担当︶
三 月 二 一日 一
二月 例 会 ﹁沼 隈 半 島 の
チ ベ ット 横 倉 谷 を 探 る ﹂
︵
神 谷 担 当 ︶ 参 加 九名 。
六 月 一三 日 一
ハ月 例 会 、 竹 原 市 の史
跡 め ぐ り ︵河 村 担 当 ︶ 参 加 八 名 。
七 月 一 一日 七月 例 会 、 吉 備 路 を 歩
く ︵種 本 担 当 ︶ 参 加 六 名 。
九 月 一二 日 九 月 例 会 ﹁神 辺再 発 見 ﹂
︵田 口担 当 ︶ 参 加 九 名 。
一〇 月 一七 日 一〇 月 例 会 、 吉 備 路
パ ー ト 2 ︵河 村 担 当 ︶ 参 加 七 名 。
良 県 吉 野 の旅 ︵参 加 一六 名 ︶
一 一月 一三 ・ 一四 日 一泊 旅 行 、 奈
﹁戦 国 時 代 の備 後 国 ﹂田 口義 之
一 一月 二 七 日 第 一回 歴 史 談 話 会
﹁国 衆 に つ い て ﹂藤井 高 一郎
一二月 一 一日 第 二回 歴 史 談 話 会
﹁瀬 戸 内 の古 代 山 城 ﹂七 森 義 人
﹁神 辺 町 の理 蔵 文 化 財 と そ の 活 用 ﹂
菅 波哲郎
一二月 一 一日 一一一
月 例 会 ﹁神 辺 町
迫 山 古 墳 群 の分 布 調 査 ﹂
︵田 口担 当 ︶ 参 加 一二名 。
郷 町 の史 跡 め ぐ り ﹂ ︵山 口担 当 ︶
参 加 四 七名
七 月 一〇 日 第 八回 歴 史 談 話 会 ﹁宮
座 に つ い て ﹂山 上 久 夫
掛 本 陣 と吉 備 郡 真 備 町 ﹂ ︵阿 部 担
七月 二四 日 七 月 例 会 ︵バ ス︶ ﹁矢
当︶ 参 加 五 〇 名
﹁備 後 地 方 の西 大 寺 律 宗 ﹂堤 勝 義
八 月 二 一日 第 九 回 歴 史 談 話 会
九 月 一 一日 第 一〇 回 歴 史 談 話 会
﹁芸 備 地 方 に於 る 近 世 村 落 ﹂
青 野春 水
︵バ ス︶ ︵
末森担当︶
九 月 一八 日 竹 原 史 跡 め ぐ り
参 加五〇名
一〇 月 一〇 。 一 一日 出 雲 路 一泊 旅
行 ︵バ ス︶ 参 加 二 七 名
﹁宮 氏 に つ い て ﹂田 口義 之
一〇 月 二 三 日 第 一 一回 歴 史 談 話 会
一 一月 二 日 瀬 戸 内 村 上 水 軍 遺 跡 め
ぐ り ︵フ ェリ ー チ ャー タ ー ︶
講 師 森 本 繁 、 参 加 一九 〇名
一 一月 二 〇 日 第 一二 回 歴 史 談 話 会
﹁さ い は て の シ ルク ロー ド ﹂
森下 芳文
﹁阿 部 正 弘 と そ の時 代 ﹂鐘 尾 光 世
一二月 四 日 第 一三 回 歴 史 談 話 会
古
吉 備 路 風 土 記 の丘 古 墳 め ぐ り ︵
一二月 一 一日 一一一
月 例 会 ︵バ ス︶
墳 部 会 担 当 ︶ 参 加 五 〇名
一二月 一八 日 忘 年 会
平成 2年 2月 3日
備 陽 史 探 訪 46号
一月 二 二 日 一月 例 会 蛇 円 山 に登
昭 和 五 九 年 ︵一九 八 四 ︶
る ︵
高 橋 担 当 ︶ 参 加 一四 名
一月 二 九 日 第 一四 回 歴 史 談 話 会
参 加 三 二名
︵共 催 ︶
﹁千 原 古 墳 に つ い て ﹂篠 原 芳 秀
参 加 二 一名
﹁赤 穂 浪 士 を探 る ﹂ ︵
吉 田 、 種 本 、 九 月 二 二 ・二 三 日 一泊 旅 行 、 初 秋
一二月 一四 日 第 二 五 回 歴 史 談 話 会
七森 担 当 ︶ 参 加 一〇 名
六月 二四 日 一
ハ月 例 会 ︵バ ス︶ 帝 釈
の史 跡 め ぐ り ︵
武島担当︶
参 加 一五 名
﹁日 本 仏 教 の歴 史 ﹂堤 勝 義
一二月 二 二 日 第 二 〇 回 歴 史 講 演 会
参 加 四 六名
備 北 の宮 氏 を 訪 ね て ︵
武島担当︶
一 一月 二 四 日 一 一月 例 会 ︵バ ス︶
名
横 倉 の平 家 谷 を訪 ね て
︵
森 、 神 原 、 中 西 担 当︶ 参 加 五 二
一〇月 二 八 日 一〇 月 例 会 ︵バ ス︶
参 加 二五名
﹁渡 辺 氏 に つ い て ﹂田 口義 之
一〇 月 六 日 第 二 九 回 歴 史 講 演 会
の飛 鳥 を訪 ね て 参 加 四 〇 名
参 加 五四 名
昭 和 六 〇 年 ︵一九 八 五 ︶
忘 年会 於 松 之家
和 国 家 の関 東 分 国 に つ い て ﹂
て ﹂神 谷 和 孝 参 加 一四 名
︵
談 話 会 を 改 称 ︶ ﹁風 羅 堂 に つ い
四月 一四 日 第 二 六 回 歴 史 講 演 会
七森 担 当 ︶ 参 加 八 六 名
二月 二 一日 一
二月 例 会 、 北 山 の歴 史
と 民 俗 を探 る ︵田 口 、 佐 藤 、 石 井 、
吉 田 担 当 ︶ 参 加 五 一名
阿 部 、神 谷 、 後 藤
の史 跡 を探 る ︵
二月 二 四 日 一一
月例 会 、蔵 王 山 周 辺
名
﹁夢 幻 自 戒 ﹂村 上 正 名 参 加 四 〇
二月 一七 日 総 会 及 び 歴 史 講 演 会
名
神谷担当 ︶参加 三 一
備前焼探 訪 ︵
七月 二 二 日 七月 例 会 ︵バ ス︶
安 井 利 雄 参 加 三 二名
﹁県 北 の中 世 山 城 跡 の研 究 の 現 状 ﹂ 七 月 八 日 第 二 一回 歴 史 談 話 会 ﹁大
新 祖 隆 太 郎 参 加 三 二名
談 話 会 参 加 三 二名 ﹁備 後 中 世
二月 一 一日 総 会 及 び 第 一五 回 歴 史
武 士 団 ﹂田 口義 之
﹁志 川 滝 山 合 戦 に つ い て ﹂田 口
八月 二六 日 第 二 一回 歴 史 談 話 会
二月 二 六 日 一一
月 例 会 、 新 市 の山城
め ぐ り ︵七森 担 当 ︶ 参 加 工○ 名
森 担 当 ︶ 参 加 五 四名
史 跡 めぐ り ︵
一〇 月 一四 日 一〇 月 例 会 輛 の浦
参 加 二三 名
九月 二 二 ・二 三 日 萩 一泊 旅 行
名
﹁吉 田 松 陰 ﹂棗 田 英 夫 参 加 二 六
九 月 一六 日 第 二 二回 歴 史 談 話 会
義 之 参 加 三 一名
二月 一 一日 第 一六 回 歴 史 談 話 会
﹁古 代 山 城 ﹂七森 義 人 参 加 工 一
名
町 の史 跡 め ぐ り ︵
田 口担 当 ︶
二月 例 会 ︵バ ス︶ 甲 山
二月 二 五 日 一
参 加 五 六名
四 月 八 日 第 一七 回 歴 史 談 話 会 ﹁神
辺 町 迫 山 古 墳 の発 掘 調 査 ﹂佐 藤 昭
嗣
歴 史 を訪 ね て ︵
パ ー ト ー 金 江 町
︵
上 下 方 面 矢 野 の岩 海 ︶
尚 越 え き れ ぬ岩 海 に あ う
はば む も の幾 つを 越 え て来 し も の を
︵び わ 湖 南 方 面 の折 ︶
れし 石 碑 の立 つ
暮 せ ま る安 土 城 跡 筆 太 く 下 馬 と彫 ら
に万 葉 偲 ぶ
紫 草 生 いた り し は ど の あ た り 船 岡 山
︵
井 原 方 面 探 訪 の折 り に︶
内海 伴 江
五月 五 日 第 三 回 親 と子 の古 墳 め ぐ
神 辺 、 加 茂方 面︶ 参 加 六九 名
り ︵
田中 作 そ の幼 子 のま ろ き 手 よ ロダ ン
六 月 九 日 第 二 七 回 歴 史 講 演 会 ﹁九 、 の手 に な き ぬき み に て
一〇 C の海 賊 に つ い て ﹂下 津 間 康
一〇 月 七 日 第 二 三 回 歴 史 談 話 会
映 画 ﹁新 平 家 物 語 ﹂上 映
四 月 二 二 日 四 月 例 会 ︵バ ス︶
神 石 郡 三 和 町 の史 跡 め ぐ り ︵立 石
夫 参 加 二三名
一 一月 二〇 日 第 二 四 回 歴 史 談 話 会
か い わ い︶ ︵
種 本 、 棗 田 、 七森 担
七月 一四 日 七 月 例 会 、 松 永 湾 岸 の
を訪 ね て ︵
末 森 担 当︶ 参 加 四 三名
六 月 一六 日 一
ハ月 例 会 、 忠 海 の史 跡
ム ー ビ ー コネ ク シ ョ ン共 催
一 一月 二 日 第 二回 船 め ぐ リ ー 笠 岡
雪夫 担 当︶ 参 加 五 八名
五月 五 日 第 二 回 親 と 子 の古 墳 め ぐ
諸 島 ︱ ︵フ ェリ ー チ ャ ー タ ー︶
﹁遠 藤 弁 蔵 ﹂平 井 隆 夫 参 加 二九
八月 二 一日 第 二 八 回 歴 史 講 演 会
当 ︶ 参 加 三 一名
一二月 二 日 天 明 一揆 の跡 を 探 る
名
講 師 森 本 繁 参 加 一四 三 名
赤 坂 町 方 面 ︶ 参 加 二 〇 二名
り ︵
五月 一三 日 第 一八回 歴 史 談 話 会
﹁備 後 有 地 氏 に つ い て ﹂田 口 義 之
参 加 二六 名
六 月 一〇 日 第 一九 回 歴 史 談 話 会
﹁近 世 備 後 の村 落 ﹂青 野 春 水
46号
備 陽史探 訪
平成 2年 2月 3日
﹁十 年 前 は ? ﹂
七森 義 人
此 様 な 題 で文 を と 云 わ れ た が パ ッ
と し た も の が浮 ん で こ な い為 に、 例
会 の ﹁鬼 ノ城 ﹂に つ い て書 い て み る
事 に し て ﹁最 初 の例 会 ﹂
最 初 の例 会
休 み の 日 は 早 起 き と い う性 格 の自
真 等 で出 て来 る場 所 を な が め る 。 第
五 水 門 を 通 り 、 石 垣 の突 端 へ行 く 。
此 か ら帰 路 に着 く 。 右 側 に石 垣 、 左
側 に池 を 見 な が ら 歩 き 、 第 二 池 跡 を
通 り 、 展 望 台 へ着 き 、 総 社 、 福 山 ヘ
と 帰 路 に着 い た。
私 見 と し て、 此 の 山 城 を 見 る事 に
よ って、 中 世 、 近 世 と の城 の 違 い を
石 垣 、 郭 、 広 さ 等 が わ か って も ら え
れ ば よ か った が 、 山 岳 寺 院 が 後 に出
来 た等 、 国 府 と の関 係 、 等 々 の 意 見
堤 勝義
時宗 と草 戸 千 軒 ・
吉備 津 神社
一、 は じ め に
時 宗 ︵じ し ゅ う︶ 、 今 日 で は あ ま
十 歳 の と き に母 を 失 い、 出 家 し て
随 縁 と 称 し た。 建 長 二年 ︵一二五 〇 ︶
に、 大 宰 府 の聖 達 を 訪 れ 、 浄 土 宗 の
証 空 が 開 祖 と な っ た西 山 義 ︵せ いざ
浄 土 宗 の間 祖 法 然 の弟 子 は親 鸞 を
ん ぎ︶ を 学 ぶ こと に な った。
初 め と し て多 く の 問弟 が い たが 、 浄
京 都 の智 恩 院 は 最 初 は西 山 派 で あ
坊 弁 長 の鎮 西 派 で あ った。
、
り 聞 き な れ な い名 前 だ と 思 いま す が、 土 宗 を 受 け つぎ 教 義 を 変 え な が ら
発 展 し た のが 、 証 空 の西 山 派 と 聖 光
中 世 の時 代 に は 一大 勢 力 を 誇 った宗
時 宗 の開 祖 は 、
一所 不 在 ︵い っし
教 宗 団 です。
ク シ ー に て約 七 恥 ぐ ら い離 れ た 山 中
強 行 を 行 な い、 七 ・四 〇 ご ろ の国 鉄
に て倉 敷 乗 り 換 え総 社 へ、 駅 か ら タ
ま だ 不 確 定 の 二種 の城 を 続 け て 見 ら
が 、 城 跡 が も う 確 定 さ れ て い る城 と
な ん と棗 田 氏 に よ って常 城 へ行 った
す。
っと も お そ く 創 唱 さ れ た 宗 教集 団 で
鎌 倉 時 代 に出 現 し た宗 教 の中 で は も
を称 え れば、救 わ れると 説 く の に対 し
て、 鎮 西 派 は 念 仏 を多 く と な え る の
修 す る善 で あ っ ても 、 阿 弥 陀 仏 の名
修 す る善 で も 、 迷 い の心 そ の ま ま で
分 に合 せ て駅 に 七 ・三 〇 集 合 と いう
へ行 き 、 鬼 ノ城 入 口 へ着 く 、 最 初 に
れ た、 こ の古 代 山城 は 備 後 に 、 二城
一遍 の出 自 か ら教 義 に
こ こで は 、
も 出 て来 た 、 更 に そ の次 の 二月 に は
第 三城 門 へ行 き 、 第 一水 門 の方 へ向
有 る と さ れ て お り 、 続 日 本 紀 に、 備
つい て 簡単 に書 き 、 草 戸 千 軒 、 吉 備
ょふ ざ い︶ を モ ット ー と し た 一遍 で 、 った が 、 現 在 は鎮 西 派 の総 本 山 で あ
一。
個 々 の 信 仰 者 達 を 時 衆 と 称 し ま し た。 Z
西 山 派 の教 義 は 、 心 を 一 つ に し て
って 、 石 垣 の上 を 歩 き な が ら 、 眼 下
後 国 、安 那 郡 茨 城 、 芦 田 郡 常 城 を 停
を も 重 視 し 、 そ れ によ って救 わ れ る
み で な く 法 然 の否 定 し た行 ︵ざ ょう ︶
の総 社 平 野 を 見 下 す 、 石 垣 の高 さ 、
む と 出 て い る が 、 此 二城 が ど こ にあ
石 仏 を 見 な が ら歩 き 、 第 一水 門 に て
西 山 派 の 考 え が大 き く 一遍 に影 響 を
と説 い た。 後 の 一遍 の教 義 を み る と 、
年 ︶ に伊 予 国 で 生 ま れ た 。 父 は 河 野
与 え て いる こと が わ か る。
奥 州 江 刺 に流 さ れ 、 父 の兄 弟 通 政 は
文 永 八年 ︵一二 七 一︶ に善 光 寺 に参
を機 会 と し て 、 伊 予 国 に帰 国 し て、
弘 長 三 年 ︵一二 六 三︶ 父 如 仏 の死
通 信 の子 通 広 で 、 承 久 の変 の 時 に朝
一遍 坊 智 真 は 一三 二 九 年 ︵延 応 元
津 神 社 に つい ても 書 い て み た い。
二、 時 宗 と は
る の か ⋮ ⋮ ⋮ 9・
﹃芸 備 系 図 史 料 集 ﹄
新 刊 案 内
水 門 の穴 を 覗 い た り 、 後 の池 跡 へ行
った り す る。 第 三 水 門 を 過 ぎ 第 四 水
門 へ向 う が 、 此 で道 が 石 垣 上 か ら離
れ 石 垣 上 は 急 で あ る 為 に第 四水 門
斬 首 、 通 末 は 信 濃 国 伴 野 荘 に配 流 さ
詣 す る 間 は 、 彼 の消 息 は明 ら か で な
い。
廷 側 に つ い た為 に、 祖 父 の 通 信 は 、
れ た。
そ の後 、 再 び 出 家 し た と 思 わ れ る
山 本清 人 編 著
父 の通 広 の み は 出 家 し て如 仏 と 号
へ行 く 者 と 、 道 を 進 む 者 の 二手 に分
し て、 道 後 宝 厳 寺 の寺 内 に隠 棲 し て
か れ る 、 水 門 へ行 った 者 は更 に進 み、
いた 。
す る 所 に て第 一城 門 を 見 て、 そ の道
を 登 り 、 道 を 進 ん だ 者 と 合 流 し、 少
の資 料 集
広 島 県 の中 世 武 将 の 系 図 と 出 自
送 料 共 ︵二千 七 百 円 ︶
5
発 行 00
1 秋 田県本荘市出戸町
西 梵 天 一四 八 ︱ 三 家 系 研 究 協
阿 弥 陀 ケ 原 か ら 登 って来 る道 と 合 流
し 広 い広 場 の所 に て昼 食 を 摂 る。 此
議会
一遍 は 、 熊 野 へ参 籠 の途 中 で、 五 人
か ら 第 五 城 門 の あ た り が 見 え て、 写
平成 2年 2月 3日
46号
備 陽 史探 訪
ても よ い か ら と い って無 理 矢 理 に ふ
を 信 が な く ても 、 念 仏 を と な え な く
れ ば 、 念 仏 を と な え ら れ な いど と い
って 、 受 取 る こと を 拒 否 し た。 そ れ
僧 は ﹁弥 陀 を 信 ず る 心 も お こ ら な け
十 万 人 の ふだ を わ た そ う と し た が
こ で、 ﹁南 無 阿 弥 陀 仏 ﹂決 定 往 生 六
の道 者 と ひ と り の僧 に ゆ き あ い、 そ
上 で往 生 を 約 束 す る が ご と き は 、 思
仏 を 信 じ さ せ て、 念 仏 を さ せ そ の
誰 彼 の差 別 な く 、 そ の札 を く ば り な
さ い。 自 ら の は か ら い に よ り 阿 弥 陀
ば 、 良 と賎 、 僧 と俗 、 男 と 女 を 区別
す る こ と も な く 、 縁 あ る 人 た ち には
信 心 の 心 が な いと いう こ と も な け れ
と で は な い。 し た が っ て信 じ た と か
た も の で あ って、 今 に は じ ま った こ
が 法 蔵 菩 薩 と い った 十 劫 の青 、 誓 っ
み て も 、 私 は ﹁草 出 ﹂と は草 戸 千 軒
で あ る か 、 ﹃太 平 記 ﹄ 等 の 記 述 か ら
わ か ら な い の であ る が 、 草 出 の下 に
﹁尾 道 岸 寮 ﹂と あ り 、 全 国 的 な も の
が あ る か と も思 わ れ る が、 当 時 、 備
であ ろ う か と いう 事 に は 多 く の 意 見
人 ﹂ で あ っ たと い う 。
弘 安 九 年 に は、 播 磨 国 尼 崎 ・兵 庫
﹁草 出 ﹂と あ り 、 こ れ は地 名 が な い。 の神 主 の息 子 を 帰 依 し 、 ﹁弥 阿 弥 陀
後 で草 津 と 名 乗 って い た の は 、 草 井
を 経 て 、 印 南 野 の 教 信 寺 に詣 り 、 沙
そ れ ゆ え 、 こ れ は 何 処 で あ る の か は 、 仏 ・相 阿 弥 陀 仏 を は じ め と し て、 出
津 等 草 戸 千 軒 の名 か ら み て、 草 戸 千
弥 教 信 を 追 慕 し た。 翌 年 の十 月 に姫
の 二宗 の間 に は 共 通点 が あ った こと
活動 し て い っ た こ と を 考 え れ ば 、 こ
と つは 、 永 享 十 一年 か ら 永 享 十 二年
軒 に間 違 い な か ろ う と 思 う 。 も う ひ
り 、 秋 に は安 芸 の厳 島 を 訪 れ 、 冬 備
弘 安 元 年 ︵一二 七 八 ︶ 夏 伊 予 に 戻
路 の書 写 山 に詣 で、 国 中 を巡 札 し て
家 を と ぐ る も の、 惣 じ て 三百 八 十 余
前 国 に入 り 、 福 岡 の市 で は 吉 備 津 宮
ぞ 、 御 房 の す す め に よ り て 一切 衆 生
い か に念 仏 を ば あ し く す す め ら る る
に は 本 願 寺 ︵現 存 ︶ が あ り 、 尾 道 に
備 後 地 方 の時 宗 を み て み る と 、 輛
二 、 草 戸 千 軒 の時 衆
活 動 し て い た時 宗 僧 が い た こ と が わ
草 戸 千 軒 に住 み、 そ こ を 拠 点 と し て
の本 願 寺 を 拠 点 と し て、 草 戸 千 軒 を
で も 、 そ の跡 を 残 し て い る の で、 輛
時 衆 は、 福 山 市 駅 家 町 と か 新 市 町
の当 時 の様 子 を か いま み る こ と が で
時 の こ と を画 い て い て、 吉 備 津 神 社
が 備 後 一宮 ︵吉 備 津 神 社 ︶ を 訪 れ た
﹃一遍 聖 絵 ﹄ を み て み る と 、
一遍
国 軽 部 、 備 後 国 一宮 を賦 算 し 、 秋 の
こ ろ 厳 島 に詣 で て い る 。
死 ん だ 時 衆 が 二名 い た こ と が わ か り、 松 原 八 幡 宮 に参 詣 し た。 そ し て備 中
こ の こと か ら み ると、 草 一
月千 軒 で
に か け て書 か れ た 過 去 帳 の裏 書 に
が わ か る。
四 、 吉 備 津 神 社 の 一遍
だ を渡 し た 。
弥 陀 に よ って往 生 は 保 証 さ れ て いる
な え な い僧 に札 を与 え た事 を 反 省 し 、 い あ が り も は な は だ し い。 す で に阿
の こ と で あ ろ う と 確 信 し て い る。
し か し な が ら 、 信 の な い念 仏 を と
熊 野 本 宮 の証 誠 殿 に参 籠 し て、 権 現
のだ己
日 蓮 等 よ り も 一段 と 易 ︵い︶ を 追 求
一遍 は 、 法 然 や親 鸞 、
す なわ ら、
の啓 示 を 仰 ぎ た いと 願 った 。 そ の願
いが か な った の か、 自 装 東 に長 頭 巾
を か ぶ った山 伏 す が た の熊 野 権 現 が
は じ め て往 生 す べき に あ ら ず 、 阿 弥
は 常 称 寺 や西 郷 寺 を 初 め と し て多 く
あ ら わ れ て、 ﹁融 通 念 仏 す す む る聖 、 し て簡 略 化 し て い った の で あ る。
陀 仏 の 十 劫 正 覚 に、
一切 衆 生 の往 生
の 時 宗 寺 院 が 今 も あ る。
中 継 し て、 駅 家 、 新 市 に い った も の
非 常 に広 大 な伽 藍 の最 奥 に 一遍 一
き る。
草 戸 千 軒 にも時 衆 が いた の で は な
か る。
は南 無 阿 弥 陀 仏 と 必 定 す る と こ ろ な
り 。 信 ・不 信 を え ら ば ず 、 そ の札 を
と 考 え ら れ る。 網 野 善 彦 氏 に よ れ ば 、
い か と 、 想 像 し て い た の で あ る が、
昭 和 四 十 四 年 十 一月 に発 行 さ れ た
行 が す わ り 、 ま わ り に吉 備 津 宮 の供
く ば る べし ど と 教 示 し た 。
そ の意 味 す る と こ ろ は 、 ﹁融 通 念
河 原 は 無 縁 の場 で あ った の で、 時 衆
僧 や神 官 等 が す わ って い る。 供 僧 の
一遍 達 は い っ た い何 を み て い る の
の位 置 が 想 像 さ れ る。
神 仏 混 合 で あ って も神 官 に対 す る僧
が 住 ん で い た の は当 然 の こと で あ る
﹃時 衆 過 去 帳 ﹄ ︵現 神 奈 川 県 藤 沢市
港 町 や 河 原 等 の無 縁 所 を拠 点 に し て
あり、
一時 西 大 寺 律 宗 で あ った が、
ま た、 草 戸 千 軒 近 く に は常 福 寺 が
ど う し て間 違 え て す す め て い る の か 。 の総 本 山 清 浄 光 寺 ︶ を 手 に 入 れ る こ
と が出 来 、 そ れ を み て い る と 、 建 武
仏 を す す め て お ら れ る聖 よ、 念 仏 を
一切
御 房 のす す め た こ と に よ って、
年 間 の所 に裏 書 と し て、 ﹁備 後 草 津 ﹂
方 が い い位 置 に す わ っ て い る の で、
衆 生 が は じ め て往 生 す る と 思 っ て い
と あ り 表 書 には 唯 阿 弥 陀 仏 と み てと
る こ と が 出 来 る。 備 後 草 津 と は 何 処
と も 思 わ れ る。
る の は間 違 いだ 。 衆 生 が 弥 陀 の浄 土
に往 生 で き る こ と は 、 す で に阿 弥 陀
46号
備 陽 史探 訪
平成 2年 2月 3日
は廃 絶 ︶ と い う 奏 の始 皇 帝 ゆ か り と
か と いう と 、 ﹁奏 皇 破 陣 楽 ﹂ ︵現 在
駅 家 町 や新 市 、 府 中 、 世 羅 等 には
五、 時衆 の跡
相方城探訪記
も と ろ う か と ﹁ナ カ ニ シ ﹂君 ﹁ヤ マ
ダ ﹂君 と 一緒 に記 念 撮 影 。 そ のあ と
残 り を 見 て回 り 、 た だ た だ お ど ろ き 。
あ と は 下 り 道 を 見 つけ 、 つか れ も 忘
れ て帰 り ま し た 。 そ の次 の 日 に相 方
田中 伸 治
城 の の っ て い る本 を 見 る と 記 憶 と 一
時 衆 と 関 連 あ る であ ろ う と 思 わ れ る
十 二月 の半 ば ご ろ ﹁ ヤ マダ ﹂と
致 す る所 が け っこ う あ って と て も お
いう 舞 楽 を み て い る の で あ る。
駅 家 町 中 島 の最 明 寺 ︵最 明 と いう
﹁ナ カ ニ シ ﹂と よ ん で い る友 達 と 相
も し ろ か った で す 。 や は り 史 跡 を め
伝 承 や 遺 跡 が 残 っ て い る。
の は 北 条 時 頼 の出 家 名 で、 時 宗 に よ
方 城 に で か け た。
﹃一遍 聖 絵 ﹄ の吉 備 津 神 社 の伽 藍
て い るず っと 後 の伽 藍 絵 図 を み く ら
って各 地 に 時 頼 伝 説 が 伝 播 し て い
家 か ら相 方 城 ま で は 一時 間 で 行 け る
前 者 の広 大 な伽 藍 が 想 像 さ れ る 。
と 、 現 在 新 市 町 の資 料 館 に所 蔵 さ れ
べ て み る と 、 誇 張 が あ る と は いえ、
った。 最 明 寺 と 最 明 の関 連 に つ い て
ぐ る の は楽 し い で す ね。
駅 家 町 に は、 平 家 の斉 藤 実 盛 の遺
のお ま け が つい て 城 の あ る山 を 見 上
三 十 分 オー バ ー 、 つ い で に 運動 不 足
私 の生 き て い る証 し の 為 に
遠 く 離 れ て去 った 人 よ
追 憶
だ ろ う と 、 い つも の よ う に自 転 車 を
こ い で い た のだ が 、 ど う や ら距 離 を
は不 明 ︶ に は 阿 弥 号 の 遺 跡 が あ る。
舞 楽 に つ い て は 、 尾 道 浄 土 寺 の文
書 に も 、 吉 備 津 宮 の舞 楽 が 出 て き て、 新 市 の 日 隈 城 跡 に も 阿 弥 号 の遺 跡 が
跡 が あ る 。 斉 藤 実 盛 は 金 沢 の片 山 津
げ が く ぜ ん と し て し ま った。
古 い歴 史 の ロ マン の夢 を
間 違 え たら し く 麓 に つ いた こ ろ に は
わ れ る。 ま た、 現 在 吉 備 津 神 社 の宝
の方 で討 ち 死 に し て い る の で、 駅 家
ま あ そ れ で も 気 を と り な お し て登
って み た ら な ん と道 が 行 き 止 ま り 、
貴 方 の手 の中 に あ る 小 さ な
あ る。
物 館 に は 、 舞 楽 の面 が何 点 か 所 蔵 さ
斉 藤 実 盛 に つ い て は時 宗 の遊 行 上
し か し も う中 腹 にさ し か か り 、 ひ き
舞 楽 が 近 在 に 知 ら れ て い た も のと 思
を む け て み る と 、 吉 備 津 宮 の門 前 で
人 の前 に亡 霊 と な って現 わ れ た と い
返 す に返 せず そ の ま ま 山 の中 を す す
も う 一度 見 せ て聞 か せ て下 さ い
器 の破 片 を 私 の手 に 移 し て
さ て、 も う 一度 ﹃ 一遍 聖 絵 ﹄ に目
藤代 由子
あ る が 、 自 の浄 広 を 着 て靴 を は い た
う 伝 説 が あ り 、 時 衆 と は 深 い か かわ
れ て いる。
武 士 が 今 ま さ に供 を 連 れ て入 ろ う と
り が あ る の であ る。
昔 の夢 を 語 って 下 さ い
と は 直 接 の関 係 は な い。
し て い る の で あ る が 、 供 の者 は 裸 足
む こ と と な った 。 す る と 案 の定 視 界
が ひ ら け 城 に た ど り つ い て し ま った 。
私 の手 の中 の砂 が こ ば れ 落 ち
ま た 、 世 羅 の青 近 に は曽 我 兄 弟 の
宮 本 常 一氏 が 書 い て い る所 で あ る が 、 伝 説 が 残 っ て い た の であ る が ︵今 も
こ の こ ろ に な る と 、 も う疲 れ て疲 れ
て し よ う が な か った 。 そ し て城 内 を
や さ し く 貴 方 を つ ゝむ で せ う
そ れ で も 私 は風 のよ う に
流 れ雲
は か な き人 世 の
う つせ み の
て頂 上 で ひ と 休 み し な が ら 景 色 を 見
す ご さ に感 心 さ せ ら れ ま し た。 そ し
時 々 、 お話 を す る機 会 が あ り ま し た
の で 、 び っく り し ま し た。 武 島 さ ん
て い る と 対 岸 に亀 寿 山 城 や府 中 の町
合掌
の御 冥 福 を お祈 り 致 し ま す 。
他 の絵 図 で も武 士 あ る い は 供 の者 が 、 残 って い ると 思 う が︶ 、 こ れ も 時 宗
と 関 係 あ り 、 曽 我 伝 説 を 持 って 歩 い
︵は だ し ︶ で あ る の は注 目 さ れ る 。
裸 足 で書 か れ て い る も の が あ る の で
回 って み た の だ が 、 ま ず 目 に つく の
こ と が想 像 さ れ る。
三度 と も と に は 返 ら な い
ど の よ う な こ と か 、 裸 足 の者 も い た
た も のと 思 わ れ る 。
は巨 大 な 石 垣 、 ま さ か こ れ ほ ど と は
昨 年 武 島 さ ん が 死 去 さ れ た と の事 、 思 って も み ま せ ん で し た。 昔 の人 の
そ し て、 今 ま さ に武 士 が 入 ろ う と
し て い る 門 の 左 右 に は随 身 が 立 って
い る の で 、 こ の こ ろ に は 二名 の随 身
が 左 右 に立 って い た こ と が わ か る。
が 見 え ま し た 。 へぇ ︱ な が め が い い
な ︱ と感 心 し 、 そ れ か ら ま ぁ 写 真 で
2年 2月 3日
平成
46号
備 陽 史探 訪
故 武 島 種 一氏
追 悼 集
武島 種 一氏 に捧 ぐ
流 れ る よ う な 人 で あ った。
私 は そ の期 待 に応 え ね ば な ら な い。
武 島 さ ん は 素 直 な 方 で あ った。 人
あ る 。 ど う い う わ け か 私 の父 方 の姓
有 福 城 の近 く に森 貞 と い う地 名 が
熊谷 操 子
歴 史 の 虫
悲 し み が 今 と な っ て は 私 の耳 架 か ら
武 島 さ ん 、 探 訪 の会 は今 後 も ず っと
つ ぶ や い て居 ら れ た。 そ の言 の葉 の
消 え な い。 そ の あ と 多 少 時 間 が 余 っ
て いた の で 、 ふ ら り と 私 は 広 瀬 町 の
続 く で し ょう。 ど うぞ 安 ら か に お 眠
と 交 わ る に飾 る こ と な く 淡 々 と 水 が
す る と 階 上 の歴 史 年 譜 の前 で武 島 さ
郷 土 資 料 館 に立 ち 寄 っ て み た 。
も森 貞 。 亡 父 の弟 の 三 男 薫 は 四 十 年
種 一氏 と は無 関 係 ら し い。 私 の父 の
た。 只 し 同 じ 部 落 の 同 姓 で は あ る が
ほ ど 前 に相 渡 の武 島 家 に養 子 に行 っ
り 下 さ い。
が 家 臣 小 川 重 遠 に助 け ら れ備 後 東 城
子 ︵国 久 の孫 ︶ 孫 四 郎 ︵後 の勝 久 ︶
兄 の長 男 の妻 の妹 の娘 が 種 一氏 の御
芦 の穂 に 狐 火 を 見 し寒 の雨
ん が説 明 文 を 書 き 留 め ら れ て い た。
武 島 さ ん は 、 多 年 県 農 林 部 に勤 務
の徳 分 寺 に匿 わ れ た と 云 う 一節 で あ
、
て 子 息 に嫁 い で い る と いう事 を 先 日
そ れ は新 宮 党 の乱 後 、 尼 子 誠 久 の末
さ れ た 人 に相 応 し く 、 実 直 で 真 摯 な
った。 ﹁ど う し ま し た か ﹂と 声 を か
立 石 定夫
特 に郷 土 史 に深 い理 解 と 強 い興 味
の は 間 違 い で は な い で し ょう か ﹂と
け る と 武 島 さ ん は ﹁徳 分 寺 と あ る
人 で あ った 。
を持 ち 、 諸 行 事 に進 ん で参 加 を さ れ
粁 って更 に 回 っ て武 島 さ ん と は親 類 関
。
っ
3 係 に な る で は な い か こ の話 を も
2
、 っ
・と 早 く 聞 い て い た ら き と 二 人 の
9.間 に面 白 い話 題 が 飛 び 出 し て い た だ
8
。
9 ろ う に と思 う と 残 念 で な ら な い
は な わ篠 ” ¨ 制 m ︹ [ 教 ゲ 漱当 ﹄ ﹄ レ
学 習 を 続 け ら れ た 。 そ の態 度 に は 幼
った の は 徳 雲 寺 と 承 知 し て いま す ﹂
尋 ね ら れ た の で、 ﹁孫 四 郎 を か く ま
と 私 は答 え た。 武 島 さ ん は こ の こと
の真 否 に こ だ わ り 、 旅 行 後 に徳 雲 寺
児 の よ う に素 直 さ と みず みず し い感
へ聞 き 合 わ さ れ た ら し く 私 に来 た 書
動 性 が窺 わ れ た。
の 九 月 杉 原 盛 重 を 訪 ね て の伯 者 行 き
状 に よ る と 徳 雲 寺 は寺 名 を 以 前 は徳
武 島 さ ん と の最 後 の旅 行 は 、 仲 秋
で あ った。 武 島 さ ん は 病 状 を隠 し 元
お好 き で あ った歴 史 に寄 せ る 並 々 な
分 寺 と 云 った と い う こ と で あ った。
気 に江 美 城 址 や米 子 城 址 に登 ら れ 、
景 色 を愛 で な が ら 歴 史 の往 時 を懐 古
さ れ て い た。 特 に富 田 城 址 で 一行 の
旅 行 か ら 帰 り の パ ス で各 自 が 感 想
路 島 でし たが 、 今 年 は 金 婚 式 な の で
た と い う 。 ﹁ 一人 で何 度 も 行 った淡
叫 県 職 員 を 退 い て か ら の名 刺 の 肩 書 に
ぁ は 、 九 つも の 歴 史 の会 の 名 前 が あ っ
、
し
林
技
県
し
業
手
に
合
格
職
員
と
て
>
鋒
鋒
に
は
螺
籠
げ
刹
商
疇
暢
嚇
囃
純
わ
詢
機
一
嘲﹁
薫
嘲
郷
馘
柚
動
慟
癖
[
い
い
裁
“
い
を 述 べ合 った と き 、 武 島 さ ん は マイ
な い熱 意 に い た く 感 心 し た も の で あ
多 く の方 が 月 山 に登 って い た間 、 四 、 ら ぬ関 心 と史 実 追 求 を ゆ る が せ にし
を訪 れ た と き も 同 道 し て得 意 の 写 真
ク を 取 ら れ ﹁ こ の度 の旅 行 が 楽 し く 、
家 内 に も 観 せ て や り た く て連 れ 立 っ
て行 って来 ま し た。 私 は 一人 で行 き
五 名 が尼 子 国 久 率 い る新 宮 党 の館 跡
を撮 ら れて いた。 館 跡 で は天 文 二十 三
を 待 って い る ﹂と 熱 っぼ く 話 さ れ た。
杉 原 盛 重 の本 が 近 く 上 梓 さ れ る こ と
った 。
年 の国 久 ら が 討 た れ て か ら 三 百 年 遠
忌 を 記 念 し て建 つ石 柱 に、 ﹁人 間 の
や 尼 子 清 定 経 久 父 子 の 眠 る洞 光 寺
歴 史 と は 風 の よ う に無 情 で す ね ﹂と
46号
備 陽史 探 訪
平成 2年 2月 3日
そ う な 事 と 言 って い た よ。 と 、 之 て
貰 った人 物 ︶ の子 孫 で す よ ﹂ど 確 か
悪 習 を 埴 輪 の献 言 で 変 え 、 土 師 臣 を
た。 ﹁は あ 又 い つか ﹂ ﹁話 は変 わ り
聞 か し て下 さ い よ ﹂と 、 ね だ っ て み
大 覚 寺 統 の話 等 、 会 員 全 部 に是 非 共
大 海 人 の足 跡 、 西 行 の草 庵 、 南 朝 の
が 二人 を 拾 い に寄 って く れ た 。 五月
二十 一日 午 前 九 時 半 だ った 。 一
九 月 二十 三 日、 山 陰 一泊 旅 行 の朝
″壬 申 の乱 に逆 戻 り し か け た時 、
ク
福 山 か ら 会 員 を 満 載 し た 井 笠 の大 型
と 、 楽 し か った話 を い っぱ い い っぱ
市 長 や、 熊 谷 さ ん と も 一緒 で し た ﹂
山 陰 旅 行 か ら 帰 ら れ た時 、 ﹁立 石
ひ と と き を持 つ事 が 出 来 た。
日付 は 十 月 三 日 だ った。 岩 船 の こ と
﹁吉 野 へ行 って来 ら れ た そ う で す ね、 と で も 興 味 深 く聴 か れ た か ら 、 き っ
も 又 、 上 下 駅 で武 島 さ ん と の対 話 の
い間 か し て貰 っ たと 、 薫 兄 か ら電 話
行 か れ た由 の お便 り を頂 い た 。 そ の
児 時 代 を 探 訪 さ れ 、 そ の足 で飛 鳥 へ
が 二 人 の前 に顔 を 現 し てく れ た。
か と 思 わ れ た 時 、 く だ ん の大 型 パ ス
ド を動 か し て貰 いま し ょ う か ﹂と 奥
あ ま り 月 が 奇 麗 だ った か ら 、 ﹁ベ ッ
見 舞 わ れ た時 、 寝 て い て は 失 礼 と 思
し て十 一月 十 五 日 に彼 岸 に旅 立 た れ
る な ん で、 あ ま り に も あ っけ な い。
は な か った か ど 勝 手 な 想 像 を し て い
り。
Z
十 月 二十 一日 N K病 院 に入 院 、 そ
ょ っと し た ら こ れ ら を探 訪 に⋮ ⋮ で
た い所 が あ った の で 加 古 川 か ら 家 内
も 嬉 し そ う に薫 兄 に話 し た と か。
ま す が武 島 さ ん、 飛 鳥 の益 田岩 船 ヘ
さ ん は す ぐ徳 雲 寺 に 、 尼 子 勝 久 の幼
の随 想 で す よ ﹂と 会 報 を読 ま せ て貰
に ど ん な 思 い が 去 来 し て い た だ ろ う。
れ た と いう 。 そ の時 、 武 島 さ ん の胸
に座 っ て美 し い月 を しば ら く 眺 め ら
さ ん が 言 わ れ る と 、 ﹁ い い よ ﹂と 言
っ て昼 の よ う に、
サ ッと ベ ッド の上
、
と 御 自 分 の日 で確 め ら れ た の だ ろ う 。 わ れ て か 元気 な人 の よ う にサ ッと
ベ ッド の 上 に座 ら れ た と か ︶そ の夜
った と も 言 って い た。 私 如 き 者 を 歴
十 五 日 の訃 報 が 今 も って 信 じ ら れ な
い う 姓 は 野 見 宿 祠 ︵垂 任 朝 に殉 死 の
兵 庫 県 の 園 通 寺 の住 職 が ﹁武 島 と
いら れ た そ う で あ る。
帳 を し て来 ま し た ﹂と 薫 兄 に 語 っ て
って天 皇 陛 下 の御 病 気 平 癒 祈 願 の記
を 一人 で帰 し 、 帰 途 、 広 島 県 庁 へ寄
﹁先 日 ね、 二上 山 へ登 って来 ま し
登 ら れ ま し た? ﹂ ﹁ い え未 だ 登 って
そ し て山 陰 旅 行 か ら帰 ら れ た武 島
た 。 健 脚 で 三 四十 分 ら し い で す け
そ の 前 日、 十 四 日 の昼 、 従 兄 さ ん が
れ ど 私 達 夫 婦 は 三 時 間 以 上 も か ゝり
が あ った 。 そ し て そ の 時 ﹁熊 谷 さ ん
ま し た。 熊 谷 が ね 、 俺 は も う 死 ぬぞ 、 ま せ ん ﹂ ﹁飛 鳥 の駅 よ り 岡 寺 か ら の
方 が 登 り 易 い で す よ 。 橿 原 ニ ュー タ
友 の 一人 に 加 え て 下 さ って た の か と
﹁天 皇 に な っ て も 決 し て お か し く な
胸 を締 め つけ ら れ ま し た ピ と 言 う と
島 さ ん も 大 笑 いし な が ら ﹁私 は 三度
登 り ま し た よ ﹂ ﹁あ ら っ、 そ れ じ ゃ
む 筈 が な い ん で す よ ﹂と話 す と 、 武
え は た え で すわ。 これ で いいか と
″
いう程 小 休 止 、 大 体 止 で す も の、 進
荷 も背 負 う て私 の胸 の × の字 は ″と
年 代 古 墳 、 大 佐 山 白 塚 古 墳 等 の関連
池 古 墳 と 、 広 島 県 内 の尾 市 古 墳 、 御
そ れ か ら 、 こ の牽 牛 子 塚 古 墳 、 菖 蒲
お 聞 か せ 下 さ いね ﹂と お 願 いし た。
す よ 。 も し い つか 行 か れ る事 が あ り
ま し た ら 、 武 島 さ ん の御 見 解 是 非 共
墳 と 絶 対 か ゝわ り が あ る と 思 う ん で
の墳 墓 で は と 目 さ れ て る牽 牛 子 塚 古
う で す が 私 は、 斉 明 天 皇 と 聞 人 皇 女
や り 見 え ま す よ。 色 々 の説 が あ る よ
県 に は 、 行 基 開 基 の吉 祥 院 、 若 松 寺
悪 さ が 見 え 見 え だ った そ う だ 。 山 形
ま っ て下 さ い ﹂と 始 め て反 対 さ れ た
と いう。 二、 三 日 風 邪 気 味 で体 調 の
時 、 奥 さ ん は ﹁ こ の度 だ け は 思 い 止
十 月 十 九 日 朝 、 例 に よ って いき な
り も遥 か に遥 か に大 き い。
面 ″も の言 う 足 を お持 ち の素 晴 し
″
い人 物 を 失 った寂 し さ の方 が そ れ よ
と も 思 え る 独 り 探 訪 ︵山 形 も含 め︶
九 月 以 降 の武 島 さ ん の が む し ゃら
す 私 で あ る。
返 ら ぬグ チ の私 語 を 胸 の中 で繰 り 返
合 病 院 に行 か れ な か った の だ ろ う と
N K病 院 に 入院 さ れ た 時 点 で、 医
者 は 奥 さ ん に そ っと ″末 期 を囁 い
″
た ら し い。 出 張 医 師 の通 う 地 元 の診
療 所 へ、 五 年 程 前 か ら 腸 の 不 調 を 訴
え て いら れ た と いう 。 な ら ば そ の 時
私 、 思 って た よ り 小 さ な廟 に思 わ ず
ど う し て完 壁 な 医 療 機 器 を備 え た総
い の は私 だ け で は な いと 思 う 。
い立 派 な 人 物 だ った と 私 達 は 思 う け
と いう有 名 な 天 台 宗 の古 寺 が あ る。
死 ぬぞ と威 す も の で す か ら 、 主 人 の
い日 は丘 陵 の中 腹 にあ る岩 船 が ぼ ん
ウ ン の辺 か ら 見 る と ね、 お天 気 の い
いう嬉 し さ も さ る事 な が ら、 そ の反
ど 、 当 時 と し て は 反 逆 児 の名 の許 に
や 年 代 等 、 二人 の古 墳 談 議 は だ ん だ
行 基 が大 好 き だ った武 島 さ ん は 、 ひ
り ﹁山 形 へ行 っ て来 る ﹂と 言 わ れ た
抹 殺 さ れ た の で す か ら 止 む を得 な い
ん 自 熱 を 帯 び 、 こ れ か ら佳 境 に 入 る
武 島 さ ん も 大 津 皇 子 の フ ァン で す か
の で し ょ う ね 、 あ れ で ﹂二人 の話 が
平成 2年 2月 3日
46号
備 陽史 探 訪
う っす ら と 察 知 さ れ て た の で は な い
書 か れ た 字 ⋮ 今 そ の手 紙 を と り だ し
ら れ てき た 。 簡 結 な 文 体 に き 帳 面 に
き て い る蔵 書 達 を羨 ま し く 眺 め た。
数 日 後 、 写 真 を 同 封 し た手 紙 が 送
だ 心 の 一部 は 永 遠 に見 る人 の心 に さ
った 。 何 十 年 も前 に手 紙 に 移 り す ん
ら え て いる と思 わず には いら れな か
の こ も った手 紙 に は 生 命 が 生 き な が
備 陽 史 探 訪 の会 が 初 め て バ ス で の史
ま さ か こ ん な に早 い と は 今 で も 信 じ
ら れ な い の です。
そ れ は予 想 以 上 早 い も の で し た⋮ 。
武 島 さ ん と の 出 逢 い、 そ し て別 れ
日︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱
か し ら と 、 そ ん な憶 測 が よ ぎ る。 奥
さ や き か け る に違 い な い。 わ た し も
神 石 郡 の史 跡 め ぐ り を 武 島 さ ん の案
一般 参 加 者 を 集 め て
跡 見 学 を 組 み、
は 、 ひ ょ っと し た ら 御 自 身 の終 焉 を
さ ん は 今 頃 、 楽 し か った金 婚 の旅 淡
っ て読 み 返 す の を 楽 し み に数 が 増 え
武 島 さ ん の 心 が 暖 か く 伝 わ っ て く る。 箱 の中 に眠 って い る手 紙 を晩 年 に な
て み て い る わ た し に は 、 手 紙 に残 る
る の を祈 っ て い る。
内 兼 講 師 で行 った 時 で す 。 私 は こ の
時 が会 へ初 参 加 。 武 島 さ ん の説 明 に
武 島 さ ん と 知 り あ った の は 八 年 前 、
路 島 を 、 涙 と い っし ょ に か み じ め て
書 い た時 に は わ た し に む か っ て く れ
手 紙 も葉 書 も書 き 手 の 心 が 、 そ れ を
が も う 二千 を 越 し ま し た よ ピ 笑 顔 の
寺 を 一人 で ゆ っく り と 歩 く の が夢 で
ま わ って み た いな ど 古 寺 や由 緒 あ る
す。 以 後 武 島 さ ん に は史 跡 や 郷 土 史
の事 を お し え て戴 き 、 又 、 会 が 気 に
﹁お寺 や神 社 を ま わ って集 め た印
いら れ る事 だ ろ う。 人 の世 に吹 く 風
の妙 と 、 複 雑 と 、 無 情 を 想 い、 同 世
て い た筈 で、 そ の 思 いは 文 章 の な か
代 の女 と し て私 ま で胸 か き む し ら れ
る思 い で い る 。
し た のを 今 も 鮮 明 に お ぼ え て お り ま
手 紙 に ま つわ る 思 い出 は た く さ ん
入 って 入 会 し 皆 様 方 と 一緒 に郷 土史
の勉 強 を す る 様 に な り ま し た。 こ の
つい て勉 強 し な が ら 色 々 と 問 合 せ を
武 島 さ ん の声 が 耳 に残 って い る 。
﹁本 当 で す か 。 わ た し も そ れ く ら い
あ る が 、 わ た し が 一番 長 い手 紙 を 書
あ る が 果 し て何 個 、 集 印 で き る だ ろ
う か。
一
百 ﹁手 紙 、 読 み ま し た よど と 言 って
いた の は 十 六 枚 で そ れ を 読 ん で只 一
を に ぎ っ て な ん て事 は し て 居 ま せ ん
頃 は ま だ ワ ン カ ップ を 片 手 に マイ ク
史 跡 めぐ り を し て い た あ る 日 武 島
担 当 例 会 に な った と は ⋮ ⋮ 悲 し く さ
び し い事 で す 。
野 町 史 跡 め ぐ り が 武 島 さ ん の最 後 の
ず っと続 い て お り ま し た が 昨 年 の高
ッタ ー は 私 の担 当 と 決 った 様 な 形 で
り は 武 島 さ ん 担 当 、 年 明 け の 一番 バ
か例 会 の行 事 は 備 北 地 方 の史 跡 め ぐ
存 知 の通 り で す 。 そ し て い つの ま に
る に し た が っ て⋮ ⋮ あ と は 皆 様 の御
で し た ヨ。 段 々 と会 の方 に 深 入 り す
朱 印 帳 を 携 え て天 国 へ行 った 武 島
く れ た人 は今 は も う天 国 で あ る。
さ び し い です よ
武島 さ ん
今は亡 き人 を偲 ん で
開 け るま で待 って い て下 さ いね 。
さ ん 、 わ た し 達 が 行 って 0 ・B 会 を
に 〓一つ。
″正 覚 院 耕 雲 種 禅 居 士 塩 飽 の例
に残 って い る。 中 学 時 代 か ら 全 部 と
″
一瞬 思 い出 さ せ た戒 名 で あ る 。 って あ る そ れ ら は も う ダ ンボ ー ル箱
会 を、
武 島 さ ん 、 沢 山 沢 山 お話 を 有 難 う。
合掌 、南 無釈迦牟尼 仏
手 紙
佐 藤 秀 子
入院 し た母 が 二十 年 前 の手 紙 を な
突 然 の武 島 さ ん の訃 報 を お 聞 き し 、 つか し そ う に読 ん で い た。 わ た し も
を 持 っ て入 院 し た い。 電 話 の声 も嬉
山 陰 の旅 行 で の 元 気 な お顔 を 想 った 。 幼 な 馴 染 み や探 訪 の会 の人 達 の手 紙
と て も 信 じ ら れ な か った。
例 会 の 下 見 に田 口 さ ん と錦 士 さ ん 、 し いが 、 あ と に残 る 手 紙 も 又 、 嬉 し
い。 叔 父 が 丹 精 こ め た菊 の花 の 写 真
を 同 封 し て き た 二十 年 ぶり の手 紙 は
武 島 さ ん 、 奥 様 、 わ た し の 五 人 で西
城 町 へ行 った 時 、 浄 久 寺 の 門 前 は 桜
末森 清司
先 日 で か け た文 学 館 に は 川 端 康 成
﹁親 し き 人 と の出 逢 い は悲 し い別
数 ケ月 後 に は 形 見 と な った。
め も な い話 を し な が ら 山 道 を 歩 い た
や佐 藤 春 夫 尾 崎 士 郎 ら の手 紙 が 展
れ が ま っ て い る、 そ れ は 早 い か 遅 い
か の違 いだ け で あ る ⋮ ⋮ ﹂、 若 い頃
や菜 の花 、 山 野 草 の花 盛 り 、 と り と
り 写 真 を 撮 った り ⋮ ⋮ 楽 し か った。
示 し て あ った。 肉 太 の万 年 筆 で書 か
読 ん だ あ る本 に こ ん な文 章 が あ った。 さ ん は 私 に次 の様 な 事 を 言 わ れ ま し
小 川 の せ せ ら ぎ の間 こ え る家 で奥 様
う か べな が ら み て い る と 、 や は り 心
手 づ く り の野 草 の お茶 を 頂 き な が ら 、 れ た個 性 あ る字 体 を 作 家 の顔 を 思 い
ず ら り と 並 ん だ 本 棚 で ひ っそ り と 生
46
た。
﹁郷 土 に 伝 わ っ て い る 古 か ら の伝
説 と いう も の は 大 切 に し な け れば い
人 名 の島 の ラ ラ バイ
本 堂 、 と 思 った 正 面 の大 き な 堂 は
◎ 正 覚院
か ⋮ ⋮ タ イ ム ス リ ップ と 云 っ ても 綺
余 程 殺 風 影 と 云 う 事 の反 映 で あ ろ う
そ の言 葉 に引 か れ る の は 現 今 の町 が
江 戸 時 代 の街 並 が 残 っ て居 る ⋮ ⋮
◎ 笠島 地 区
正 覚 院 に行 く バ ス の中 で 運 転 手 さ
か で美 し い優 し い お 顔 を 拝 す れば そ
は益 の な い事 で あ った 。 あ の ふく よ
来 る 限 り 多 く の人 を 救 う 為 と 云 う、
そ の綬 網 相 を さ が し た の だ が 、 そ れ
の薬 壺 と 右 手 の 施 無 長 の 印 相 の 、 出
黄 銅 貨 の音 が 、 カ タ リ と 意 外 に大 き
く響 い た。 住 職 の懇 切 寸 寧 な説 明 が
話 し に変 り ﹁釣 れ た ん です よ う ﹂、
る史 家 は 多 いが 郷 土 史 を や る 以 上 伝
大 師 堂 で あ った、 真 言 宗 系 で も特 別
ん が ﹁あ れ が 皆 さ ん も 良 く 御 存 じ の
彼 女 の声 に す っか り そ の気 に な っ て
説 を 大 事 に思 い こ れ か ら 歴 史 や 史 跡
に祈 祷 中 心 の こ の寺 の性 格 が う か が
麗
に 修 理 さ れ た 真 本 家 に入 って、 修
わ れ る。 本 堂 は 一段 上 に小 じ ん ま り
理費 四千 万 円 と の説 明 に、 変 に感 心
と 古 び て居 た 。 御 本 尊 の聖 観 音 様 は、 し た私 し で あ った 。 そ の ま ゝ住 み付
て 一瞬 ド キ リ と し た。 ︵人 名 ︶ な ん
終 る や い な や 、 堂 内 に入 って、 左 手
を 堀 り お こ し て み る事 が 必 要 だ 。 伝
き 度 い 気 持 を押 え て土 間 に出 て来 る
て良 く 所 か 全 く 考 え て 居 な か った か
し ま った 。
説 の中 に は 多 く の事 実 が 隠 さ れ て い
と 、 本 島 荘 の 運転 手 さ ん が ﹁こ の家
には 、 隠 れ部 屋 が あ る の で す よ。 あ
ら ⋮ ⋮ 何 し ろ私 し は 、 福 山 か ら の パ
小 島 袈裟 春
土 史 家 の つと め だ と 思 う ど と 色 々 な
横 手 の収 蔵 庫 に収 め ら れ た今 も 、 規
の部 屋 の屏 風 の 後 に 秘 密 の 入 口が あ
ス の中 で神 谷 会 長 が ﹁皆 さ ん は水 軍
け な い 。 伝 承 と か 伝 い つた え な ん て
例 を あ げ て 話 し て下 さ った のが 今 も
帳 面 に 三 十 三 年 に 一度 の御 開 帳 を 守
る の で す よ ﹂、 と いわ く あ り げ に 云
と 云 う と 村 上水 軍 の事 と 思 う で し ょ
や 見 学 会 を と 念 じ て い ま す 。 い つも
又 会 の人 達 と 共 に楽 し い史 跡 め ぐ り
る 。 そ れ を 見 つけ て世 に出 す の も 郷
も の は 歴 史 の資 料 に な ら ぬ と い わ れ
強 く 心 に有 ま す 。 こ の言 葉 を 大 切 に
ら さ れ て居 る。 分 厚 い垂 れ幕 の向 う
った ⋮ ⋮ 隠 れ部 屋 ⋮ ︰ 何 ん と懐 か し
︵
人 名 ︶ の墓 で す ﹂と 云 う の を聞 い
◎ 人 名 の墓 と 両墓 制
れ で充 分 で は な い か ⋮ ⋮ 。
勉 強 を や って いき た い と 思 って ま す 。 で 三 十 年 余 り を 一人 で 過 す の は 淋 し
し て今 後 も コ ツ コ ツで す が 郷 土 史 の
く な い だ ろ う か 、 そ れ 共 ウ ツラ 、 ウ
ツラ と 眠 って居 る の で あ ろ う か 、 人
い事 を ⋮ ⋮ 六 十 年 近 い音 、 隣 の同 年
が 、 今 日 行 く 所 の本 島 も 塩 飽 と 云 う
水 軍 の根 拠 地 で す よ ﹂と 云 う の を 聞
い て、 思 わ ず ウ ウ ウ と 云 っ た位 で す
の冷 え た泡 を な め て居 た ら 妙 に人 恋
.が あ った 。
茶舗
一服 三 百 円 也 、 濃 茶
さ す が ⋮ ⋮ と 云 え ば 大 師 堂 の横 に、
す ピ 今 日 の 日和 の様 に長 閑 で あ った 。
住 職 さ ん は ﹁ア、 今 度 直 し て置 き ま
様 、 こ の様 な事 を 真 先 に考 え る 私 し
ば そ の ま ゝ法 要 が 営 め る。 薬 師 如 来
良 い、 前 面 に 一寸 し た桟 敷 を 設 け れ
の収 蔵 庫 は良 く 出 来 て居 た。 場 所 も
こ の寺 の宝 物 殿 、 と 云 う か薬 師 様
◎東 光寺
チ を付 け て は 見 た も の ゝ威 圧 感 は拭
観 で あ る 、 石 材 の島 だ か ら と 軽 く ケ
寄 達 の墓 の、 立 派 な事 、 五輪 塔 か ら
オ ベ リ スク 型 、 位 牌 型 と 並 ぶ の は壮
え た の で す が 、 こ の代 表 者 で あ る年
と大 急 ぎ で 覚 え て、 さ あ 来 れ と 身 構
か ら 。 ︱ さ て人 名 の数 は 六 百 五 十 人
し く な って、 帰 り か け た H 子 さ ん を
な ど 何 ん の為 に、 と 不 思 議 な 程 巨 大
え な い、 特 に専 称 寺 前 の 吉 田 家 の墓
引 止 め生 れ故 郷 と 云 う 、 そ の島 の話
し を し て居 る内 に何 時 し か 魚 釣 り の
で す が 、 持 病 を 持 つ私 し に ど う か 御
利 益 を 下 さ い ま す様 に、 金 五 円 也 の
永 徳 二年 と 彫 ら れ た鰐 口 の前 の説 明
の女 の 子 と 一緒 に古 い土 蔵 の 三階 で
書 に、 応 永 十 二年 と 、 二 十 三 年 も 後
夕 暮 ま で 息 を 潜 め て隠 れ て居 た事 を
の年 号 が 書 か れ て居 た 。 多 分 東 光 寺
思 い出 し て し ま った ⋮ ⋮ 何 事 も 起 ら
の鰐 口 の説 明 と 入 違 え た の で あ ろ う 。 な か っ た が ⋮ ⋮ 。
事 な が ら 気 に掛 る。
の ク セ で つ い つ い酒 に手 が 出 て迷 解
説 、 脱 線 行 き の私 の姿 を あ の世 か ら
み て笑 っ て居 ら れ る で し ょ う 武 島 さ
ん。
私 は さ び し い で す よ。 ご め い ふく
を 祈 り ま す 。 合 掌
平 成 元 年 十 一月 十 五 日没
享 年 七〇 ︶
武 島 種 一氏 ︵
正 月 二日 作
″落葉踏み友を偲んで寺まいり
″
備 陽史 探 訪
2年 2月 3日
平成
備陽史 探訪 46号
と 小 さ な自 然 石 を 置 い た だ け の埋 め
に理 め墓 の 一帯 が 残 っ て居 た、 転 々
さ て、 そ れ と は 逆 に 近 く の 甲 生 地 区
で立 派 だ った。
せ ら れ る。 勤 番 所 の 宝 物 、 い や 依 っ
より ︵
統 治 ︶ の場 所 で あ った事 が 察
る。 そ こ に勤 番 所 が ︵
自治︶ と云う
本 ﹂昭 和 五 十 六 年 九 月 号 の抜 枠 で あ
が 遂 に敗 北 し た 、 と 云 う 、 ﹁歴 史 読
理 由 は御 想像 の
形 と 見 度 い のだ が ︵
が 、 ワ ラ ビ 手 紋 か 雲 形 か 、 私 し は雲
ら し い。 江 戸 時 代 初 期 の建 立 と 云 う
程 深 い の で あ ろ う 。 そ れ は さ て置 い
て、 石 鳥 居 の笠 本 の先 端 は 確 か に珍
わ る民 謡 ? を唄 っ て 呉 れ た ︵
歌詞が
帰 り の バ ス の中 で H 子 さ ん が 島 に伝
田浦 は 探 訪 予 定 で は な い のだ が⋮ 。
せぎ る を 得 な い で は な い か 。 巨 大 な
分 の墓 を 作 る 、 こ れ で は よ り 立 派 に
の生 前 に子 供 達 が 、 或 い は自 分 で自
墓 は殆 ん ど ︵
逆 修 墓 ︶ だ と 云 う。 親
った 私 し の知 識 範 囲 が 恥 か し か った
を 書 い て判 を 押 す 習 慣 し か 頭 に な か
何んと ︵
朱 印 ︶ で あ った、 自 分 の名
﹁あ れ で す よ ﹂と 指 差 し て 呉 れ た、
あ ﹂と声 を 出 し た ら 近 く に居 た 人 が
家 康 の署 名 が な い、 思 わず ﹁変 だ な
石 櫃 に収 め 、 尚 専 用 の 土 蔵 に保 管 す
る、 そ れ で も 安 心 出 来 な か った か も
出 す 所 で 途 切 れ て居 た。 そ れ が 気 に
悪 代 官 を 村 人 達 が沖 の隠 れ州 に誘 い
て居 た ら ︵お 園 の焦 れ松 ︶ と あ っ て
本 島 巡 り のパ ン フを パ ラ パ ラ と 見
◎ お 国 の焦 れ松
覗 い て来 た だ け な の で す が 。
は と 云 えば 廻 り 舞 台 の構 造 を熱 心 に
を 皿 の様 に し て探 し た が 信 長 、 秀 吉 、 も 何 ん と素 晴 し い事 で し ょ う。 私 し
知 れ な い。 さ て 、 展 示 棚 の文 書 を 目
な って居 た が 、 本 島 荘 で買 った 本 に
継 続 出 来 れば 、 文 化 的 に も 島 の為 に
今 後 も 有 名 役 者 を 招 い て芝 居 興 行 が
露 目 の興 行 も 行 な った と 云 う 、 日 本
中 で も 数 少 な い江 戸 期 の芝 居 小 屋 、
た が、 も し かす る と H 子 さ ん は こ の
昔 、 恩 師 に教 え て も ら った と 云 わ れ
子 さ ん の唄 った歌 詞 は 見 え な い様 だ。
唄 と し て 八 編 程 載 せ て あ った が 、 H
本 島 荘 で 買 っ た本 の中 に島 に伝 わ る
幸 せ許 り 運 ん で来 る と は 限 ら な い。
徳 川 家 康 と続 く 朱 印 状 は 人 名 の 唯 一
て立 つ所 の 支 柱 は 何 ん と 云 って も朱
通 り で す ︶ 。 そ し て境 内 の千 歳 座 、
船 で沖 に出 た人 を待 つ思 い の唄 だ そ
印 状 で あ ろ う 、 織 田 信 長 、 豊 臣 秀 吉 、 良 く ぞ 保 存 、 修 理 し て下 さ いま し た。 う だ 。 や ゝ哀 調 を お び た調 べが 私 に
文 句 な し に頭 が 下 が る 。 そ の 上 御 披
は 、 お 園 の 心 情 と 重 っ て島 の歴 史 の
長 い か ら 民 謡 で は な いか も 知 れ な い︶
け た の も 故 な き 事 で は な い。 そ の福
墓 が⋮⋮。
⋮ ⋮ 庶 民 は 一日 も 留 めず 土 中 に埋 め
よ、 盛 土 は 許 さ ぬ ⋮ ⋮ 理 め る場 所 は
逆 修 墓 は孝 心 の、 或 いは 権 勢 のパ ロ
⋮ ⋮ 。 偉 い人 達 は 印 判 を 押 す だ け な
続 き が 出 て居 て、 お 園 と 云 う の は そ
不 毛 の地 を 選 び 、
一所 に定 め よ ⋮ ⋮
メー タ ー な の で あ った。 だ が そ の年
の は分 か り 切 った事 な の に、 迂 闊 な
の悪 代 官 の 一人 娘 で、 村 人 に欺 か れ
唄 の最 後 の伝 承 者 か も 知 れ な い。
一九 八 九 年 十 一月 八 日
塩飽本島 巡り の中 から
後藤 匡史
あ った で あ ろ う 。
奈 良 県 橿 原 市 の 四条 古 墳 、 同 、 天 理
ルと す る集 団 だ った か も 知 れ な い。
った の だ ろ う か 9・ い や鳥 を シ ンボ
だ った の で あ る。 村 人 達 が お園 を 桐
取 って か け 替 え の な い唯 一人 の 肉 親
り で あ った。 村 中 の嫌 わ れ 者 も 娘 に
な った父 を 案 じ 、
一晩 中 待 ち 続 け 遂
に海 に身 を 投 げ た 、 悲 し い娘 の物 語
人 形 を 造 っ て い る 方 の仕 事 場 を 見 せ
て も ら った。 そ の時 お ヒ ナ様 の内 裏
会 長 の知 人 で 、 以 前 九 月 十 五 日 の下
見 で 一度 お会 い し た が 、 島 で 民 芸 の
った 時 の こ と で あ る。
十 月 十 五 日 の 例 会 、 塩 飽 本 島 に行
人 名 以 外 の 一般 島 民 を 江 戸 時 代 に は
市 の小 墓 古 墳 で出 土 し た木 製 ハ ニ輪
に杞 り 、 沖 の州 を ︵園 の州 ︶ と 名 付
︵
人 名 ︶ を 一般 の農 民 の様 に 思 っ
◎塩飽 勤番所
子 守 唄 の様 に聞 え た。 海 は 必 ず し も
寄 達 も 死 し て後 は 、 あ の埋 め墓 の何
事 で あ った。
隠 れ州 に置 去 り さ れ て 、 帰 ら ぬ人 と
︵毛 人 ︶ と 云 った と 云 う 、 統 治 さ
の中 に鳥 形 の も の が か な り あ った と
の証 明 で あ った。 何 重 も の箱 、 更 に
処 か に人 知 れず 眠 って居 る の で あ ろ
う⋮ ⋮ 潮 騒 を 子 守 唄 に し て。
日 本 武 尊 を 導 い た の は木 製 の鳥 だ
◎木 烏 神 社
大 化 二年 ︵六 四 五 ︶ の薄 葬 令 を そ の
ま ゝに。 そ し て別 に参 り墓 を 作 る、
て は い け な い、 彼 ら は レ ッキ と し た、
両 墓 制 の風 習 も ⋮ ⋮ 。 先 の年 寄 達 の
元 武 将 な の で あ る、 当 然 家 来 ? 等 も
れ る側 の人 々 で あ ろ う 、 幕 末 の動 乱
云 う か ら古 代 日 本 と 鳥 と の関 係 は 余
様 と お姫 様 の 座 って い る位 置 が 、 ま
ら ま ち で あ っ た。 本 来 は 座 った方 か
取 巻 き ︵人 名 ︶ に加 え る様 要 求 し た
時 こ の人 々 が 武 器 を 持 って勤 番 所 を
46
備 陽史 探 訪
平成 2年 2月 3日
ら 見 て左 に内 裏 様 、 右 に お 姫 様 が 正
式 の置 き 方 で あ る。
こ れ は中 国 の 思 想 か ら き て い る も の
で北 位 南 面 と 云 って北 か ら南 を 見 て
左 に東 、 右 に西 と 神 社 で も 必 ら ず 南
に向 い て い る。 大 相 撲 で も北 が 正面 、
吉備 路 古 墳 巡 り
つづり方狂 ︵教︶室
︵そ の 二 ︶
前 号 の 山 陰 の旅 つづ り 方 狂 室 が 大
通 の目 的 に 向 か って会 員 相 互 が 力 を
第 一に、 会 の目 的 を 鮮 明 に し 、 共
出 し 合 い、 共 に満 足 感 の得 ら れ る 活
梅 ボ シ を も ら った 。 砂 糖 は 甘 く て、
塩 は 辛 い、 そ し て梅 ボ シ は ス ッパ
動 を す る。
第 二 に、 例 会 及 び 部 会 の 活 動 に お
失敗︶
イ ⋮ ⋮ あ あ ⋮ ⋮ ス ッパ イ ︵
o昼 の弁 当 を 風 土 記 の丘 で 喰 べた。
い て新 し い考 え を 持 った方 に積 極 的
は成 功 の 元 。
丁 度 一句 を 考 え て い た最 中 で ミ カ
て いた だ く よ う に輪 を 広 げ る こと が
南 が 向 う 正 面 と 云 う 。 又 、 官 位 でも
会 の発 展 に不 可欠 と 思 い ま す。 部 会
か ん こ1 0 1
の横 に オ ク ド が あ った 。 ⋮ ⋮ 俺 の
語 に出 て く る鳴 り 釜 を 見 た が 、 そ
実 さ せ る 為 に と いう こ と は 私 達 会
し ょ う。
Λ 短
参 り ま す 。 御 期 待 下 さ い。
末 森 さ ん の担 当 で 河内 町 の竹 林 寺 ヘ
率 本 年 度 最 初 の例 会 は 、 三 月 四 日、
望 を お寄 せ下 さ い。
率 二月 下 旬 に は 本 年 度 の総 会 を 行
な い ま す 。 会 に対 す る御 意 見 、 御 要
信 V
を 基 本 に 今 年 も力 を 合 わ せ頑 張 り ま
与 す る事 そ し て
名 に値 す る 活 動 を す る べ く ユ ニー ク
なプ ラ ンを 求 め て い る所 で す 。
″
会 員 一人 一人 が 何 か を会 に寄
ク
″
無 理 な く楽 し く
例 会 担 当 者 は 初 め て の方 に参 加 し
変 好 評 で あ った 。 そ こ で そ の 二 を 送
り。
′
o田 沢 さ ん に バ ス の中 で缶 珈 琲 を い
に行 動 し て も ら う 。
左 大 臣 、 右 大 臣 と 云 う様 に左 が 上 位
oバ ス の中 か ら左 に 見 え る の が 吉 備
た だ いた 。 そ し て バ スは 観光 バ ス
に し て も 、 歴 民 研 は私 が代 表 で す が
ンを も ら っ た。 こ れ が ホ ント の ミ
にく る。
の真 備 の銅 像 で す 。 ど う ぞ 見 て下
だ った /
種 本 実
さらなる 発 展 を願 って
古墳 かな
王者 が眠 る
一句 秋 深 し
カ ンせ い ︵
未 完 成 ︶ 交 響 楽 と 云 う。
京 都 の御 所 に行 く と 左 近 の桜 、 右 近
さ い。
こ れ だ け大 き な古 墳 で も調 査 出 来
o作 山 古 墳 の説 明 を 聞 き な が ら
の橘 と 、 こ れ は 天 皇 が 紫 震 殿 か ら南
大 門 の方 に向 って さ す 言 葉 で 、 よ く
ま せ ん。 ハイ墓 々 ︵馬 鹿 馬 鹿 ︶
京 都 に行 った人 が 間 違 って南 大 門 か
ら 見 て左 近 の桜 、 右 近 の橘 と 云 う人
o帰 り 吉 備 津 神 社 に立 ち 寄 った。 そ
し いは 、 こ れ か ら 始 ま った 。
又 、 京 都 に上 る と か古 語 に あ るが 王
し て神 社 境 内 に て銀 杏 の本 の紅 葉
が い る。
城 の地 、 京 都 は、 中 国 の古 い都 、 洛
が 見 事 だ った。 そ れ を い銀 杏 し で
本 年 は 当 会 が発 足 以 来 十 年 目 を 迎
見 て いた。
o吉 備 津 神 社 の長 い廊 下 の 回廊 を 歩
え る年 で あ り 、 皆 様 と 共 に喜 ぶも の
陽 、 時 代 劇 な ど で 上 洛 と 云 う言 葉 を
邪 馬 台 国 と 交 流 が あ り 、 こ こ の都 が
い た。 え え ︰ 今 来 た の に も う 回廊
です 。 私 も 入 会 以 来 会 の 活 動 を 通 し
使 う が 、 中 国 、 三 国 時 代 の魏 の 国 、
洛 陽 で あ り 卑 弥 呼 の使 者 が 上 洛 し た
︵
帰 ろ う︶
のが 青 竜 、 朱 雀 、 自 虎 、 玄 武 と 云 っ
荷物 も 、 こ こ にオ ク ド ︵
置 く︶
員 の課 題 で あ り ま し て、 皆 様 も新 年
o つ い で に 上 田 秋 成 の小 説 、 雨 月 物
と 、 こ の様 な時 に使 った。
て方 角 は 、 東 に川 あ れば 青 竜 、 西 に
o今 日 の講 師 の網 本 さ ん の講 義 を 聞
ま す が こ こ に私 の考 え の 一端 を 述 べ
を 迎 え種 々 豊 富 を お持 ち の事 と 存 じ
ち な み に春 夏 秋 冬 を動 物 で表 わ し た
てさ ま ざ ま な 事 を 学 び 有 意 義 で あ り
道 あ れ ば 白 虎 、 南 に池 あ れ ば 朱 雀 、
い て、 私 な ん か 網 本 ︵足 元 ︶ に も
ま し た。
北 に山 あ れば 玄 武 と さ れ、 こ れ を 四
及 ば な い。
さ せ て いた だ き ま す 。
十 年 の節 を 機 に さ ら に会 を 発 展 充
を 四禽 図 に叶 う と し て王 城 の地 選 定
oバ ス の中 に て藤 村 さ ん に オ カ シ の
神 と 呼 ぶ ⋮ ⋮ こ れ に あ て は ま る地 形
の基 準 と さ れ た 。 陰 陽 道 よ り
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