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神話と精神 - 南山宗教文化研究所
- 6 1ー 神話と精神 一一キリスト教的物語の背後にある物語-- ジェイムス・ハイジック I.問題の所在 1 地図の背後にある地図 ホルへ・ルイス・ボルヘスは,厳格な科学的方法によって世界を理解し ようとする現代人の絶ゆまぬ努力を次のような彼一流の幻想飛朔の中で朗 笑している。 「カノ帝国ノ地エオイテ,地図作成術ハ完成ヲ究メタガ, 一県ノミノ地 図ニハー市全体ガ,帝国ノ地図ニハー県全体ガ含マレテイタ。時ノ経過ト トモニ,不釣リ合イナ地図デハ不十分トナリ,地理院ニヨッテ別ノ帝国地 図ガ作ラレタ。ソノ;地図ハ,帝国ノ規模ニ正シク匹敵スルモノデアッタ。 次ノ世代ノ人々ハ,地図研究ニサホド溺レルコトナク,ソノ広範ナル地図 ヲ使途ナキモノト判断シ,不敬ニモ,苛酷ナ炎天ト寒天下ニサラシタ。西 方ノ砂漠ニハ,地図ノ残骸ガ八ツ裂キニサレタママ放置サレ,ソコハ獣ヤ 物乞イノ住家トナッテイタ。マタ,国中ニハ,地図作成術ノ痕跡ガ残ッテ イルダケデアッタ。J ( S u a r e zM i r a n d a :V i a j e sd eV a r o n e sP r u d e n t e s,4巻 , 1 4 章 , L e r i d a 司 1 6 5 8 ) υ 地図研究への風刺は,故意にせよ偶然にせよ,認識論的帝国主義に反対 する一般的比愉として,とりわけ示唆的である。なぜならば地図を作成す ることは,精神活動としてみるならば,第一に想像記憶の最も初歩的作用 - 6 2ー 神 話 と 精 神 のひとつであるからである。それは,物質的な自己決定とそれに依存する 可動性を実現させうる程十分静止した対象の世界に主体を位置づけること である。この意味において実際に描かれた地図の出現以前から,あらゆる 時代のすべての地域の人々も,地図作成術の進歩にもかかわらず,絶えず 精神地図を作って来た。それぞれの精神地図は,世界の仮説のイメージ, 言うならば, 一定の環境の中の「指導仮構」として役立っており, f指導仮構」がなければ, 様々な知覚器官は, この 無関係な資料ばかりで出来 上がった,雑炊の如きものになってしまうだろう。 さて,経験をもった主体があればあるほど精神地図もそれだけあるべき であるというのが事実ならば,共通する環境は,共通の知覚器官と結びつ いて「指導仮構」にある程度の一貫性を与える傾向がある。この一貫性は, いずれにせよ,必然的に個別から抽出されているのであるが,すべての相 互協力とコミュニケーションを可能にする。身振り,言葉,描写といった イメージ コミュニケーションの手段は,世界の共通像を各々の精神地図の前で順次 に標準化していってしまう。換言すれば,我々の社会関係は「共有的想像」 のために「私有的想像」の抑圧に全く依存しているのである。「共有的想 像」は, 共有的指導仮構としての本来独自の役割りを失うと,「私有的想 像」を圧迫する傾向がある。 このただでさえ等閑にされがちな事実がなければ,筆者の語るすべての ことは,複雑な哲学的問題を雑把に単純化するほとんど無益な要約のよう であろう。すでにこの傾向を認識論的帝国主義と称したが,それがまさに ボルヘスの地図作成者に対する廟笑の中心点である。 そればかりか,ボルヘスは彼の比輸の架空的源泉を 1 7 世紀中頃に設定し た。当時の文明が科学に凌駕される危険を予測し,同時に,その無用心な 末育である我々に,反動的ではあるが批判的ではなし、,アナキズムを警戒 させるために,ボルへスは,回顧的知識を時代錯誤的に用いようとしたら Lいのである。 Nova フランシスコ・ベーコンは,新世界に関する彼のユートピア物語 r - 63- A t l a n t i s J( 1 6 2 7 年)の中で,「ソロモンの家」の概念を提唱 Lた。それば 研究と教育のアカデミヤであり,修道院型の自給自足共同体である。そこ での科学・哲学的研究は,その時代の最高の知識人の指導の下で行なうこ とができる。ベーコンは周知のごとく彼唯一の科学実験である,冷凍によ る腐敗の抑制を立証するための,ひな鳥に雪をつめる実験の最中に,悪寒 をひき起こし,それがもとで,彼の本の出版を見ることなくこの世を去っ た。彼の思想は稚拙なものであったが,その時代の精神を表し,初期の科 学学会がヨーロッパ中に誕生するばかりであったことを予見した。それら 1 6 6 0年)とパリ科学 の学会の中で最も重要なものは,ロンドン王立学会 ( アカデミー(16 6 7年)であった。 物理学と天文学の最新理論のみならず最上質の測量器機まで,船海術や 地図作成術に応用したことは,それらの新学会の初期の成功の中でも顕著 なものである。地理分野の学問化はその世紀末に達成されたが,地表の構 8 世紀の 図のためのより良質な器械とより完壁な方法は,以後,とりわけ 1 フランス人の偉大な努力によって,出現することになる。そして近代的な 軍隊を有する新政体に学聞を応用する兆しはほとんどなかった。しかしな がら,地図を作成する機能は,以後,永久的に専門家の子に移ってしまい, 地図の価値は普遍的な基準による判定を受けなければならなくなったので ある。驚くべきことではないのだがこの新しい制度によってまず犠牲とな ったのは,中世末期・ルネッサンス期を通じてヨーロッパ地図に不可欠と なっていた飾り書きであった。海・犬地の怪物,風の精,四季の神々,私 有的想像によって未知なる余白の部分を埋め尽くしていたそれらすべてが 消え失せ,芸術的創作には巻紙装飾 ( I ec a r t o u c h e )だけが残った。中医絵 画においては,伝統的 jこ,余白が意味を持つものであるのと同様に,抑 E を受けなかった想象の,それら最後の痕跡を抹殺することは,ある新しい 有意味の規準を受け入れる可能性への前兆となると言えるかもしれない。2) 実際,これは幾世紀に渡る過程の最後の一歩に他ならなかった。最古の 9 0 0年の古代メソポタミヤに遡るが,それらの地図は, 地図は,紀元前約 3 -6 4ー 神 話 と 精 神 原始社会の大半の地図がそうであるように,特殊な現実的必要性に応える u n d i ) と言われ ために描かれたものである。まさしく世界地図 (mappaem る最初の地図は,イオニヤの哲学者達とともに紹介されたにすぎなし、。航 海術の伝統を築き上げたことばかりでなく,より重要なことは,ギリシャ 人の聞に数学や思索宇宙論が誕生したことである。それらは,紀元前 6世 紀の最初の世界地図となって結実した。従って,地球球体説は,アリスト 6 0年に行なった六重の論証より以前に事実として認められてい テレスが 3 たのであった。このような進歩にも拘らず,地図作成術に関しては,プト 9 9 " ' 1 6 5 年)が古代世界で最も偉大な人物であった。彼の著書, レマイオス ( 全 8巻)はギリシャ世界では,その分野で最高峰であった。 「地理学概論J ( しかし,プトレイオスが執筆中,ローマ帝国はその広大な国土を持ったま ま崩壊していった。莫大な量の文書が,極めて現実的な要請のために紛失 したり鎮圧されたりしたが,その中にはプトレマイオスの著作も含まれて いた。それに代わって,以前より地味ながらも正確である帝国地図が作ら れた。 5世紀のローマ帝国の滅亡とともに地理学の分野に対する興味の漸 進的更新は,教会教理の迫害を伴なった支配に突き当たった。その典型は アンティオキアのコンスタンチーノの「キリスト教地形論」であった。そ れは(少なくとも 6世紀の解釈に従った)聖書の啓示と一致させながら地 球を平面盤として表示した。専ら中世以降の教会は文明の進歩の波に手綱 を放ち,ついには自らの独裁的権力まで、失ってしまった。 1 3 世紀末のマルコ・ボーロの旅行によって先年の未知なる土地に対する 魅力を取り戻すことができた。そして,その結果として,航海者の地図の 発展には既成の地図に多くの基本的修正を必要とした。プトレマイオスの 「地理学概論」の再認識は, 1 4 0 5 年にラテン語訳も加わり,世界地図に対 する古代の魅力の開花期を早め, i m a g om u n d i )の いわゆる「世界像 J ( 0 0年聞の地図 新しい方向性を決定した。そして,それによって,以後約 2 作成術の黄金時代の幕が明いた。3) しかし前にも注目したように,それは, 経験科学の伝統が思索的想像の復興に決定的な勝利を収め,地図作成術が -6 5ー 全体的な統制を執るまでの単なる時間的問題にすぎなかった。 ボルへスの比 H命が以上のような過程に対して行なう批判は,前述の見解 の変化の意識が遺憾にも欠如していたことを問題にしている。それは,一 方では,近代科学を誕生せしめたが,他方では,無意識的にいつかの重要 な文化的側面との関係を破壊していく傾向にあった。言い換えれば,その 架空的地図の作成者は図解に詳細を加えることに夢中になってしまい,彼 等の職業の社会的役割を忘れてしまった。その結果,新しい役割が,認め られようが認められまいが,従来の役割に取ってかわった。即ち,その新 しい役割は,一つの分野の現状を維持するために,現実を個々の事実の断 片に分析することであり,そしてその時まで作られていなかったものを作 るとし、う結果をもたらしたのみであった。紙面に描かれるための版図大の 地図ができ上がり,最終的にその仕事が極点に達すると,結局はあの偶像 崇拝が表面化した。そして次の世代の後継者達は前任者ほど知性的でなく, 単に無頓着さ故に枯死した地理的芸術が,味のぬけた塩のように,西方の 砂漠に捨てられ,人々に踏みつけられるままに放置した。 ボルヘスの洞察は,尊大にして思索的な砦の研究とアナーキスト的反逆 のテロリズムとの聞に寓話的対称を強調するために黙示論的な言葉で表現 されている。一方では,多大な出費にも拘らず,情報の蓄積に対する無条 件的傾倒があり,その効用は他者の決定に委ねられた。また他方では,過 度の乱用をすでに生み出していた体系の冷酷で一律的破壊があった。し、か なる場合も,隠れた見解が当事者に明るみにされることはなく,従って, いかなる行動様式も全般的な文化の発達に寄与しなかった。 換言すれば,地図作成者は実際に作っていた「地図の背後にある地図」 に対して盲目的であったと非難されるかもしれなし、。地図と実際の国土と の聞に相互の釣り合いを考愚した観念は一種の精神地図であり,理解とし、 う具体的投企の背後にある指導幻想だからである。その地図こそが研究家 クソレーフ。の共有的想像にとって十分にして確実な規準として受け入れられ, 罷通っていた。逆に, j~ 図作成術が学陪的に体系づけられる前段階の歴史 - 66- 神話と精神 においては, さりわけ私有的想像と共有的想像との聞に健全な緊張感を保 つことによって,その分野は情報とその効用との聞のある種の連続性を確 保していた。 このようにして, ギリシャの地図と合体した宇宙的思索観は, i m a g i n e sm u n d i ) にあらわれた芸術的飾り書きとともに, 中世の諸世界像 ( 人間の欲望の羅針盤を,世界を唯一視する方向に向けさせた。そして,そ の世界は常に認識され支配される部分もあれば,未知で支配されえない部 分もあった。ローマ帝国と教会の干渉によって,一時的に緊張は解かれて も,再び新しい経験や問題に直面すると緊張が作り出された。しかしなが ら,その都度,科学的な方法の外見上の非歴史化と標準化によって,緊張 は解かれた。そこでは必然的に, 次のようなボルヘスの比哨によって提起 された問題を回避することはできなし、。肥大する現代文明の制度化によっ て人聞はその世界から非常に効率的に疎外されてしまうので,おそらく完 全なる非制度化以外の方法は残されていないのだろうか? 2 . 物語の背後にある物語 地図に関する比輸を冗長と注釈すればするほど,それは批判にさらされ る危険に陥る。これは第一にボルへス流の文体に起因する。すなわち,彼 はイメージを通して,直観を本質的なものに還元する方法を用いているた め,付随した諸事物が単なる装飾と化してしまう。また, 可能な限り簡潔 に物語を語ろうとするので,読者はその中にひきこまれてしまい, 日常的 な考え方から解放される。その結果,読者は自らの想像力を媒介として物 語に詳細を加える。さらに,地図の比日命が, それが我々の文化の中で支配 しているいわゆる専門神話といったものを覆すならば,あるいは掘り起こ すならば,その比日命はボルヘスの技巧やまた文学上の注釈に対する彼独自 の不信感を正当化するものとして読まれるかもしれない。最後に専門家精 神を攻撃しようと職業的手段(例えば随筆の出版など) を用いれば,やは り皮肉っぽく比輸の核心を照らし出すことになる。それは,教育の制度化 の経路によって弱まりつつある批判的な言葉に及ぼす周知の影響力へのあ - 67きらめであるように尽われる。 自縄自縛から逃れることは容易ではないと自覚すべきである。一方では, 科学技術文明を特徴づける言語・思想・権力といった形態は,否応なく自 分自身のものであり我々を緊縛している。批判分析という営為は,まず何 よりもこれらの形態を出来るだけ明確化する。それに基づいて,はじめて どのようにそれらの形態を乗り越えるかとか,し、かにして我々の文化を人 間の尺度で適切に評価しうるかとか,また長い間根本的に疎外された制度 を保護してきた,見かけだけの改革の中でわれわれが摩耗していくのをい かに回避すべきかというような考えを推進させることができる。 他方我々は直観と分析を混同しないよう慎重であらねばならなし、。我々 が地図作成者たちの比輸に関する注釈に終止符を打った疑問点というのは, 仮定であったにすぎず,なお実験を通しでその真実を追求していかねばな らなし、。文脈の中で比輸を位置付けなければ,比日命は単なる諺の一つにな り,二律背反の負を甘受せねばならない。さらに,文化制度への我々の服 従が絶対的なものであると推測し,それ故,それらのありとあらゆる制度 に反して先天的論議を呈示するのは,敗北的でありまた愚直すぎるであろ ゅ。例えば,自分をただの庶民と思う人々にとっては「気高い未開人」と いう理想が魅惑的でありながらも,それは改革に対する模範でなく,不満 を表現する科学的裏付けをもった迷信として把握されるだろう。 特に,ボルヘスの風刺によって指摘された問題点は,キリスト教の宗教 的伝統の,近代文明に対して増々深刻化するアイデンティティー危機への 入口として解釈しようと思う。 C.G・ユングは,彼の自伝のあとがきの 中で次のような問題提起を行なっている。「キリスト教は何世紀にもわた って,無為にすごし,その神話をいっそう発展せしめるととを怠ったので ある。……中略……聖書にものべられているとおり,罪は神話にあるので はなく,全くわれらにある。我々は神話を発展させることをせず,むしろ, そのような試みを抑制しようとしてきた。町 そうした言葉で、表現された批判はし、ささか奇妙に,思われる。何故ならば, - 68- 神話と精神 神学思想の普及したこの 2 0 0 0年程の聞に,我々は確かにキリスト教の神話 を発展させてきたからである。多くのキリスト教会の階層的な複雑な組織 はさておき,至る所を網羅した寺院,学校,病院,さらにその他の社会福 祉施設は,キリスト教が眠りの中にあったのではなく,十分に覚醒して活 動していたことを証明している。しかし,ユングの指摘するとこるは実は さらに微妙な点である。神学や施設は,ひとつの機関すなわち組織を詳述 する企てーーその主旨は前述の機関の自己永存化にあるように思われるが ーーに忙殺されて,その本来の使命から逸脱してしまった。ユングによれ ば文化現象としてのキリスト教にふさわしい仕事がその神話の自己普及の 中にあり,歴史と自叙伝と L、う二元住を持った情況の中にあると認識する ことが必要である。 換言すれば,ユシグのキリスト教に対する批判は,いわゆる共有的想像 と私有的想像の聞の接触を妨げるものであり,前に我々が描いていたより さらに広範な文化的問題にまで及ぶものである。彼特有の心理学的表現に よって,彼は次のように言う。「あらゆる閉鎖した宗教体系と同様に, キ リスト教世界は最大限に個人の深層意識を抑圧し,それと共にその空想を 麻埠させてしまうような傾向を示す。一方,宗教は,個人の無意識の代用 として定型化した象徴的な概念を用いる ) 05 j しかし,「空想」を是認した 考え方と関連づける象徴化の役割の彼の確固たる確信によれば,これらの 状態はそれ自体厄介なものとなった。「我々は, おそらくキリスト教象徴 主義の正統な継承者であるのだろうが,この相続権をいささか乱用しすぎ たようである。の」と彼は述べている。にも拘らず,ユングはその著作活動 の大半を費して,一一それ以前に反抗的宗教懐疑主義を伴った時期がまず 到来するが7> f¥}キリスト教伝統の慨を推し進める近代の勢力に対して 強硬に反論した。彼の卓見の熟慮を重ねた見解の一例を次に挙げることに する。「ところが, 世界の現状に直面して時代遅れになってしまったのは キリスト教ではなく,キリスト教に対するわれわれの概念と解釈なのであ ると私は確信している。キリスト教の象徴は,さらなる発展性を秘めた種 ヲ - 69一 子を内在する生き物である。8> ユングの具体的な提言を聞くまでもなく,深層心理学に基づく真のキリ スト教の復興に関する上述の壮大な考えにすら我々は蹟踏する。ある宗教 の伝統全体に挑戦しようとする者は誰も,単に十把ひとからげの批判的概 括によって,真のキリスト教に特権付けられた通行許可証を呈示しており, 一見すると自叙伝的な世界に閉居してしまい。歴史的過程における具体性 から遠さ・かっているように思われる。ユングの思想!が彼の多くの弟子に教 条として是認されることは,専ら我々の危倶を深めるばかりである。しか しながら,ここで問題となっている事柄は,ボルヘスの批判と同様に,現 代の危機に関する直観である。そのことは,出発点としてユング批判を用 いることが妥当である,とし、う十分な示唆を与えているようだ。その精神 があればこそ我々が本論を展開していくことができるのである。そしてキ リスト教の方向転換が行なわれたアルキメデスの点を発見したという確実 さによるのではない。9> ところで,聖書が主体となっている一般のキリスト教的物語の他に,信 仰の中で育まれたあらゆるキリスト教徒は,各人各様の認識方法を用いて 自己の精神物語を内蔵している。例えば,子供は,初聖体拝領の時点で, 両親やそのミサの司祭,あるいは教会に居合わせたすべての人々と聖体に ついてのかなり異なった物語を語るであろう。伝統に関するあらゆる既成 事実や資料を正しく知っていることが不可能であることのみならず,様々 な経験の基盤そのものが異なることは共通の信仰の選択や信仰自体の変革 へと通じている。それは共通の信仰の内容が私的信念の物語に翻訳される ためである。このように厳密に語れは我々の大半はある意味で異教徒であ る。宗教裁判が復活すれば,それが明白になるかもしれなし、。さらに積極 的に言えば,私有的想像によって作られたこの歪みそのものは個々のグル ープであれ,その共有的想像内での教会全体であれ,発展を促すものであ る。そして,その歪みがなければ独創的神学も,また個人の信念もありえ ないであろう。換言すれば,キリスト教的物語の諸作品は,共通の伝統と ~ 70.~ 神話と精神 個人の経験の混合物のように考えられる。それは歴史であると同時に自叡 伝でもある。 もしより広汎な文化とのあらゆる形での接触を絶つことが望ましくなけ れば,キリスト教的伝統が,他の L、かなる伝統と同様に,共通に受け入れ られる物語を要求するということを首肯せねばならなし、。前述の共通の物 語は,歴史的事実の場合と同様,時と場所を明示するより他に表現方法が ありえなし、。刻々変化するし、かなる条件を超越する啓示の連続性の確証を 試みようとも,我々のその努力は根本的に制約を被っている思想の範庸に 含まれた前提を回避することはできないであろう。しかもその共通の物語 は,個人的経験によって形成される多くの精神的物語に対しては規範的な ものと理解されるべきである。勿論,ある意味において,共通の物語は様 々な精神的物語を共有するものであり,それは共通の文献(聖書)や文化 形態によって可能となるものである。換言すれば,共通の物語のどれもが, 歴史的信仰のための指導幻想であり,それ故,各々の精神的物語は自叙伝 的信念のための指導幻想となるのである。 問題は,ユングが精神療法の実験においてしばしば遭遇したように,伝 統の擁護者が共通の物語を実際に指導幻想←ーこれはユングによれぽ「コ ンブレ vグス J( c o m p l e x )を意味するーーとみなすことを忘れがちであり, また彼ら自身の偏見を満足させて疑うことのない神学の帝国主義的性格の 中に陥る傾向があるということである。共通点の少ない精神的物語に対す る制裁は多種多様である。それは危険分子の公的な破間(伝統からの追放 という通告)から宗教世界の私有的想像への決定的な弾圧に至る。精神的 物語の存在をそのようにして抑圧するのは不可能であることは明らかであ e る。しかし,精神的物語が公的な場所で語られるとし、う権利が否定され, J ぞれらを専ら私的にのみ語らせるこどはありうる。このように,因襲によ らない神秘主義思想と同様に,文化集合体と相反する下位文化集合体もま t た,異教的歪みや本来的な迷信として分類されている。自叙伝へのとうし た過少評価が信仰の伝統そのもののー部となるような場合には,伝統は疎 ゥ , . 外された制度となる。そしてひとたび共有的想像と私有的想像の聞に独創 的葛藤が排斥されると,当然の結果としてそのような伝統は非効率的かつ おそらく自壊的なものになる。 アカデミツタ 今日の学術的な神学は,科学思想の発達を支配するために,その信仰の 範障を肱大するあらゆる試みに危倶を抱くのに十分な自己認識に達したこ とは疑いのない事実である。それは,いまだ神秘主義・異教・迷信を信念 の範障に入れて理解するまでには至っていない。 キリスト教徒の保守層は新しい信条を求めており,彼らによればそれが 清めとしての機能を果たすであろう。また彼らは,キリスト教徒を「真の 信徒」とし、うパン種にすることによってその信仰が普及されるのを愚直な までに望む。経済力は別にして,国家における政治的権力をほとんとー失っ た上に,教会は,その宗教上の権力への執拘な執着,すなわち本質的な側 面を再び定義付けかつ主張しなければならないとも言うだろう。その論証 は理に適っているが,我々の世代の宗教上の諸問題や神学の漸次的な非ア カデミック化によって,すなわち以前に各められた精神的物語を語る増大 する勇気によってつくられた心理状態の非常に脆弱な分析に支えられてい るように思われる。l ω 一方,進歩層は,現代人を信仰の中にひき入れる方法として,双手を上 げて信仰の「世俗化J を受け入れる。伝統の根本的な変革が必要とされて おり,それ故に,多様の解釈が共存する時期は,啓示が再び「今日のため のよき音信」となることを示す吉兆であると彼らは論じるであろう。この ように現代文化は,少なくとも大部分において,キリスト教発展のための 罫線として構築される。勿論,こうした態度によっては宗教的信念の「呪 術的な」かつ「原初的な」あらゆる面がまず犠牲となる。彼らの推測する ところによれば,それらは進展を妨げたり,また制度化の抑圧的な力とし て作用するこ主を妨げる傾向にある。しかし,ここでもまた,心理的妥素 の下部に潜む分析は総じて愚かで浅薄であるように思われる。 ボルヘスの地図作成者が,番外の地図の背後にもうひとつの地図が存在 -72ー 神話と精神 していることを知らなかったように,現代キリスト教神学は,共通に語ら れた物語の裏で沈黙を守った精神的物語が果たす役割を忘れてしまったか のようである。物語の背後にある物語を発掘するという目的は,まさに信 念、の精神における象徳的機能を再発見することである。信念が共通の信仰 の中で同化されるに従って,我々はユングと共に空想の抑制を指摘するこ とができる。それは,この過程がキリスト教的象徴の貯えの存続そのもの を疑問視するような危機に陥ったかどうかを考えることになる。宗教的欲 求というのは,それがし、かなる文化的相続によって形成されていようとも, 常に極めて個人的なものとなる。その欲求を宗教的思想や償例といわれる 制度化された様式に従属させれば,伝統が可能となる。しかしながら, も しその従属が無意識のうちに行われるならば,従属はそれ自体目的となり, 人間と安息日の間にある関係を倒錯させる傾向をもつことになる。そして 信念と信仰の分離は,それが一度本来の伝統の一部となってしまえば,基 本的に疎外された様式を用いて将来のあらゆる改革を脅かすのである。次 に問題点をまとめて,地図の比愉に関する我々の考察を終りにしよう。つ から宗教的欲求をあまりにも現実 まり,キリスト教的伝統が宗教上の慣例j 的に疎外すると呈示しているので,我々に残された唯一の手段はおそらく 前述の伝統の孤立無援な施設化ではないだろうか?lD 3 . キリスト教的想像 ボルヘスが科学的方法の頑固な盲目さに対して全盤的な攻撃を加えたこ とは, ユングのキリスト教世界に与えた精神的被害に対するやや特殊な攻 撃と同様,いくつかの概念を導き出すきっかけとなった。それらの概念は, 二つの批判の融合によって導き出される問題を追求する前にここで明らか にされるべきであろう。解釈に際しては,あらゆる可能性をまず最初に呈 示することが肝要であることは異論を侯たな L、からである。ここでは,完 全な解釈学的立場も学術用語を駆使した詳細な定義すらもないのである。 ただ単に様々なしかし雑に分類するだけならば, キリスト教の不朽の真理 - 73ー を探求する場合,その分類は我々がキリスト教の複雑さを解きほぐすため だけにしかその利点はないであろう。 初めに「共有的想像」と「私有的想像」と L、う言葉は,社会学的認識論 へのアプローチを示すために設定された。すなわちそのアプローチは,思 考やコミュニケーションの現行形態のみならず,その発生源である自由な 空想の領域をも考慮に入れている。 「想像」とし、う言葉には, 二重の意味が含有されている。一つは反省の ある過程(機能ではない)を,他はその過程の結果を意味する。その想{象 を他の思考形態から駿別しているものは,それが感覚的記憶とそれを通じ ての言語,身振り,絵画とし、う伝達表現と緊密な関係があるということで ある。少なくとも可視物に限定する訳でも知覚と表現の混合形態のそれの 可能性を否定する訳でもなし、。純粋な抽象的思考と純粋な未区別の惑情が 上の想像の概念から除外される。 さて,想像されるものは伝達可能であるが, (それはおそらく必要なこと であろう)より複雑な経験の一部となるものである。そしてその経験は個 々の主体に似かよった方法で出現することはあっても,それ全体として伝 d 達されることはなし、。この意味で, ージ メト品,- ,タフオ ω 像は記号学上換喰とも噌日命とも言 われ,イメージが表わす知覚に対しては記号的価値を,それらの知覚が成 立する文脈に対しては象徴的価値を有している。 ここで付言すれば,想像の共有的領域と私有的領域との区別はその過程 とその結果であるイメージとの成立,或いは究極的状態に関する特異な理 論とのし、かなる関係も有しないということである。これらの成立や状態は ある意味で,人聞の知識構造に先天的であり,また経験の積み重ねによっ て成長発達するものである。しかも,このことが,怠有的なものと同様, 共有的なものにも妥当すると L、う推定は,ここでの論旨にかなっている。 そこで,文化的枠組みの中で,思想およびコミュニケーションに是認さ わた必須条件として機能するイメージの貯えを想像が包み込む限り,「共 有的J であると言うことができる。ここでは,共有的なものは様々な分類 ← 7 4ー 神 話 と 精 神 を可能にするが,それらの中には,種族的想像(日常生活における民族の 共有世界のイメージを伝えるもの)宗教的想像(例えばキリスト教的伝統, ユダヤ教的伝統,イスラム教的伝統,仏教的伝統など)専門的想像(生物 学,心理学,政治活動など)或いは上記のものの複合体である。 12> この想 像形態の共有化にとって基本となるものは,様々なイメージの聞の関係と イメージの一般的な文化との関係を統制する比較的固定化した法則を持ち ながらも,一つの制度として認められるということである。 逆に,想像が統制や共有的機能の欠如したイメージの貯えを含む場合, それは「私有的」であると言うことができる。しかも,そのイメージは個 人(例えば夢想的イメージ)に対して, 或いは厳密に言って傍流的集団 (例えば多くの神秘主義的形式)に対して排他的である。共有的統制の喪 失は欠陥であるどころか,自由は空想を可能にし,それによってで、きたイ メージは亜文化の枠内であるとしても,思考やコミュニケーションに対し て必須条件として作用することが可能である。この想像形態の私有化にと って基本となるものは,制度イじされていないということである。従って, 様々なイメージの聞の関係を統制したりイメージされるものの別の形とそ れの関係を統制したりするための法則は次第により不明瞭に,より固定性 を失なっていく傾向にある。 以上で,以下の二点が明らかになったと思われる。つまり,第一に,イ メージの基本的な二形態は相互にその根底で強くつながっており,どちら か一方が単独で存在することは決してなし多少なりとも絶えず協調し合 っているということである。第二に,多様化した近代社会では,し、かなる 個人・集団も帰属しうる想像的枠組みから離脱することは困難になってい るということである。しかしながらマスメディアの膨脹する勢力が,社会 組織からのますます深刻化する個人の精神の交通遮断を生み出している状 況において"これらの区別を再確認する方法が必要である。 過程の中で働いている必須条件がしゅ、なるものであろうと,し、かなる結 果と Lてのイメージも「指導幻想」すなわち多かれ少なかれ「幻想」的の 一75~ あり,指導的であるとしてみなすべきである。世界に対するイメージや人 間行為に対するイメージは,幻想として根本的に想像の所産となる。それ 故に,それらは感覚器官によってだけではなく,伝達可能なイメージをつ くり出す感覚の様相の選択によってもひき起こされる避け難い歪みを共有 している。そして,世界が我々のそれに対する期待をほとんど満たしてい るようなところや,或いは少なくとも世界が我々のそれに対する思い出を 持ち続けていることに寛容であるようなところに,導き手としてのこれら のイメージの必要性はあらわれている。世界は自身で我々を指導しはしな いのである。唯,イメージによって我々は周囲の世界を前にして連続性を もった生活を導くことができる。それは,たとえ暫定的であるにせよ仮定 的であるにせよ,導き手の助力がなければ,我々は全く身動きがとれなく なっているからである。ここで重要なことは,導き手としての想像がそれ 自身による想像より役に立っており,日常生活そのものの意味の追求にも 役立つているために, 1,、かなる時も容易にその有用性の批判と遭遇するこ とができるということである。 あらゆるイメージはそれ自身の完成された姿を我々の物語の中に見い出 す。我々の物語とは,換言すれば,相互の関係規則に従って,イメージの 貯えをある世界のイメージの中に組み立てる,広義の前述の構造のことで ある。このように物語は大宇宙的なイメージから一つの出来事の中での小 宇宙的な特殊なイメージまで意図することができる。のみならず,それは 年代論的叙述からあらゆる因果律に至るまで多種なジャンルを許容してい る。物語が一連の共有的関係に条件づけられている場合は, それを「歴 史」として分類できるし,一連の私有的関係に条件づけられている場合は, それを「自叙伝」として分類することができる。実際には,前述したよう に,これら二つの形態は互いに分離した純然たる状態で、は決して現れるこ とはないのである。 従って,物語をイメージから区別するものは,起源でも状態でも,指示 する対象でもなく,記号学的形態である。イメージは独自的不連続的であ - 7 6ー 神 話 と 精 神 り,一方,物語は複雑に相互に関連しあったものである。イメージの単な る集大成だけでは物語を作ることはできず,一つの伝達可能なより高等な ジャンルに題材を提供しているにすぎなし、。物語は意味のある文章であり, その文章がなければ,イメージは共有的且つ私有的想像によって整備され f こ一般的な文脈の中で浮いてしまうと言えるかもしれなし、。その文章がな ければ,イメージは理解可能ながらも文法的な配列のない,相互の関連性 を失なった言葉と同じである。また文脈がなければ,それは全く未知で言 語の言葉と同じである。 従って,明らかに文章だけが一つのイメージの意味を変えることができ るばかりでなく,文章の根底にある文脈もまたその意味と実は物語全体を も変えることができるのである。文脈はもとより微妙ではっきりしたもの ではないので,文脈の変化は,我々がそれに気付かないうちに,一見意義 ありげな連続性をもちながら,少しずつ行なわれることもある。例えば, ボルヘスの地図作成者の比輸の場合には,共有的機能(空間の標準的定義 の設定)と私有的機能(個人と環境の精神的関係)との当初の均衡が,私 有的機能がほとんど制圧されてしまうという文脈上の不均衡によって,い かにしてとって代わられたかを見た。この新しい文脈は,前の文章に準拠 しているようであるが,実は H住地図の意味を紙面の上に地域を投影すると いう意味に変えながら,文章に詳細を加えることを許した。そしてこの文 脈の貧国化は最終的には,役立たない文を生み出した。 文章の根底にある文脈は,「物語の背後にある物語」と呼ばれるべきも のである。これは本書の中心的概念であるから論の展開につれ詳述される だろう。ここでは私有的想像と共有的想像との不可避の協調が分離したイ メージだけでなく文脈の配置にも影響を与えていると述べるにとどめてお こう。従って,解釈の作業は文脈の二重の意味である歴史と自叙伝を導入 することによる原文の再構成を予想させる。物語が意味なしと判断される 可能性は確かにあるが,背後にある物語の発見によってその意味を取り戻 すのである。或いは逆に,外見上ある物語ははっきりした意味を持つが, -77ー その意味が,相対しおそらく矛盾する別の意味を隠してしまう。一方で厳 重な制度化に導き,他方で唐突な非制度化に導くものは,とりわけ物語の背 後にある物語の否定である。物語の背後にある物語の手法は,ボルヘスや ユングの疑問によって提示される両万論法から我々を解放し,共有的想像 と私有的想像の聞の緊張感を取り戻すための解釈上の手練の道具である。 ユングがキリスト教の「神話」と称したものをここでは「キリスト教的 物語」と呼ぶことにする。前述したことに従えばその物語を想像的文章と 表現すべきであろうが,その文章は聖書を文脈的根底にし,歴史的自叙伝 的に展開され,人間性の一般的神秘についてと同様,個々人の神秘に対し て指導幻想として機能している。我々の目的はイメージや物語の解釈の ディテール 詳細を作り出すことではなく, キリスト教的想像に対する完全な地平 を発見することである。結局,我々は捜す道と待つ道という二重の機能に 従って,この解釈を進めることができる。 「捜す道J とは, 左目を閉じ右目だけでキリスト教的物語を見るような ものであると言える。それはちょうど J. R ・R ・トールキンの空想的叙 事詩「指輪物語」の中で,サムという人がその仲間フロドに語った言葉に よって示唆される見解である。それは,これら二人の小さな勇士がその英 雄的行為の後, 次のように語る。「おらたちはまたなんちゅう話の中には いっちまったこってしょうね,ブロド旦那? だれかがこの話をするとこ ろを聞けたらなあ!..・ ...l~) J それは自分自身の生活からの離脱の願望のよ うである。言い換えれは,冒険の最中に,彼を導いていた立場を越える,ー より広範な立場から冒険を考えたいという欲求のようである。彼は,どの ような努力が出来事を決定づけたのか,すなわち,生の体験の中で錯綜し た人聞に対する陰勢力を知りたいと思ったのである。「自分達は話の中で どの点まで噺し手の健備であったのだろうか?J i噺し手はどれたけ自分 達に依存していたか ? JとLヴ決定論についての哲学的問いを発している のである。 サムの聞いと類似した疑問を我々とキリスト教的想像との関係に対して -78ー 神 話 と 精 神 投げかけてみよう。「我々は, 一体何という物語の中に入ってしまってい るのであろうか。J14) キリスト教的物語に対する我々の見方を決定する条 件は何であるか,あるいは,どの文脈の中で,我々は生きているか,を知 りたいと,思っているのである。サムとは異なり,全てを含む雛形ではなく, キリスト教的象徴の貯えをもって作成したその種の物語について質問した いと 思っているのである。また,我々は,物語と究極存在との関係につい d てではなく,未だに不明瞭の陰のままの共有的かつ私有的反省方法につい ても考えてみたいのである。この様に経験の混沌に意味を付与する時造り 出す手段に付臨しているので,この間いは「捜すことによる発見の道」を 意味している。それは答えが知性の統制と入念な適応に依存する聞いであ る。それは物語の背後にある物語に関する問いなのである。 待つ道」に入ることにする。キリ 次に,右目を閉じ, 左目を聞けて, r スト教的物語のこの観点は, R.M・リルケの「神さまのお話」の中で, 中風患者エーヴアルトが語り手に放った質問にあらわれている。物語を聞 いた後で,エーヴアルトは,動けないため,沈黙と長敬の念によって緊密 な関係を結んだ物に似た様子で,その物語の起源を教えてほしし、,と頼む。 語り手は,賢人達が,その物語の老死後,一冊の本の中にそれを葬ってし まったと答える。彼の説明によると,その昔物語は四百年ないし五百年間 生きており,口から口へと伝承され,時には詠い手のロから出てある聞き 手の熱く暗い心の奥底に留まった。エーヴアルトはd:ても信じられないと も、う様子で「一体歌が心の中で眠れるほど,その人たちはしずかだったの ですか。」と尋ねた om これは,我々とキリスト教的想像との関係に,次のような第二の聞いを 示唆している。「我々の物語はし、かなる種類の力を持っているのか。」我々 の生活の中に物語が根をおろしたままである時,それらの物語は肯定的で あろうと否定的であろうと,それらの転変の効果を知りたいと思う。捜す ことによる発見の道が,物語の種類を分析することを問題とするのに対し て , r 待つことにまる発見の道」は,物語の精神の会得を反省することを ー 79ー 問題にしている。すなわち,実際にはエーヴアルトが言うように,それは 一つの歌を心の中に眠らせることのできる時である。それは知的訓練の問 題ではなく,知的禁欲の問題であり,理論的で行動的思考を解き放ち,我々 に及ぶ想像の力に対して忍耐と敬意を持ちながら待つということである。 言わば,言葉の言語を完成するために,沈黙の言語を回復させる必要があ る。それ故,第二の問いは我々に物語の精神的効果を開示している。 そこで,両観点によって必然となった反省活動の中で,我々は創作的か っ知的に活動している訳である。しかし,この観点に深みを与えるために は,両 と聞き一点に焦点をしぼることが必要であるのと同様に,我々の 究極目的として二つの問L、を止揚した第三の問いを設定すべきであろう。 つまり,「キリスト教的物語は今日の我々の時代において語る価値がある であろうかという聞いである。物語の条件と結果への我々の輿味の彼方に, キリスト教的想像に対する責任への関心があらわれてくる。 16) 我々は自ら の伝統の語り手としての宣教者としての未来を了承していたいと思う。キ リスト教的物語に対する観点の形態、を意識するとき,キリスト教的物語を 新しいものとして聞くことが可能になったとき,そして再びその影響を判 断することが可能になったときでさえ,我々がそのキリスト教的物語にど れほど経験の物語を表現することを望むか,また時代と関係のある物語を どれほど表現することを望むか,とし、う問題が未だに残されている。これ までにあらゆる聞いを概説したのであるが,その物語とは語る価値のある ものだと言えるかもしれなし、。 注 1 )H i s t o r i au n i v e r s a tdet ai n f a m i a,BuenosA i r e s, Emece, 1 9 5 4,p p .1 3 1 3 2 . 2 ) 言うまでもなく,現行の地図作成術は同じ道を歩んでいる。おそらし想像 的起源を有する地図の唯一の特徴は,大陸の二次元の図表における分配である からである。例えば,ソビエト人は世界地図でアメリカ大陸を経度に二つに分 断しており,その恩返しに,我々アメリカ人は,その世界地図では,ソビエト 大陸を二つに分断している。 "8 3- 神話と精神 S )1 5 世紀へのプトレマイオスの影響は,彼の死から当時に至るまでの地理学の 発展の費無を意味する。コロンブスをインド探険の失敗に導き,同時に偶然の アメリカ大陸発見にも導いたのが彼のヨーロッバに対するアジアの大きさの過 小推定であったという事実においても,それは明らかである。 4 ) C ・G ・ユン九「ユシグ自伝一一思い出・夢・思想一一 J . みすず書房, 1 9 7 3 . n .pp. 180-81. 5 )G e s a m m e l t e Werke,第 6巻. 8 0節 。 6 )G e s a m m e l t eW e r k e . 第 9-1巻.28 節 。 7 ) この発展については拙書.ImagoD e i( A s s o c i a t e dU n i v e r s i t yP r e s s,1 9 7 9 , P a r tI ) 参照。 8 )G e s a m m e l t e Werke第 1 0 巻. 5 4 2 節 。 9 ) 事実,他の論稿において筆者は運動としての旦ング心理学批判を展開するた めに,地図の比輸を用いた。そこで,学問的な哲学や神学における彼の影響力 の不足は,ユング自身がその心理学的システムの中で織り込んだ,方法論的誤 りに対する無知にあると論じている。拙文“J u n ga n dt h eI r n a g oD e i : The F u t u r eo fanl d e a "( ] o u r n a l0 /Religion,56:1 .1 9 7 6, p p .88-104) 参照。 1 0 ) 拙文“TheW: a keo fG o d " Semina η B u l l e t i n (Techny,I l I . )38:1 ,1 9 6 7 , P P . 16-27. 11)これに関しては,イエスが安息日に働く人を見て行なった警告,すなわち 「友よ,もしあなたは自分のしていることを知っていれば孝いだ。 知らなければわざわいである。あなたはのわれ, しかしもし 律法の侵反者となる。」が特 に参考となるであろう。この節は C o d e xS i n a i t i c u s( ルカによる福音書 6:5 ) 所収であるが. a g r a p h aとして経典聖書からは除かれてしまった。 1 2 ) 例えば,へーゲルは古代ギリシャにおいて. r 民族的想像」が哲学的宗教的 かつ政治的に作用していたと述べている。 H'ノール編「へーゲル初期神学論 9 7 6,P P . 228-37. 集」以文社, 1 1 3 ) J• R・R・トールキン「指輪物語J. 第 6巻 , Ii'王の帰還b 下,評論社文庫, 1 9 7 8 ,p .1 l5 o h nDunneによる。 TimeandMyth(NewYor k : 1 4 ) その間いと文学的言及は J D o u b l e d a y,1 9 7 3 ) 参照。しかし,筆者はこの場合別の純味で引用してている。 1 5 )r 神様のお話 J, リルケ全集,第 4巻,鋼生書房. 1 9 7 3 ,p .4 01 . 1 6 ) 筆者は ,W i t h i J u tS t a f fo rS a n d a l s ,( R o r n e,1 9 7 8 )の序文において,現代の 布教の危機というコンテクトの中で同じ質問を行なった。そこで述べたことは, ここにおいてと同じく,キリスト教的物語の未来が,伝統の機能を人間の反省 と宗教的欲求において理解しようとする我々の能力に依存している,というこ とである。 - 81- Mytha n dP s y c h e 一 一 一TheStoryBehindtheChristianStory一 一 一 JamesW.Heisig 1 PROBLEMATICS Part. Thep r e s e n te s s a yi st h ef i r s to faf o u r p a r te x p e r i m e n ti ni m a g i n a t i o non p o l o g e t i ・ ' c u so fT e r athemes u g g e s t e dbyt h ew e l lknownd i c t u mfromt h eA I l ia n :“ animan a t u r a l i t e rc h r i s t i a n a . 'Tos e et h es o u la sn a t u r a l l yC h r i s t i a n t u d o e sn o tcommitu st os e e i n gi ta se x c l u s i v e l yo re v e ne s s e n t i a l l ys o . Such q u e s t i o n sa r ew i d eo fmyi n t e r e s t sh e r e . 1have a t t e m p t e do n l yt ot h i n k t h r o u g ht h ei d e at h a tt h ei m a g e sp r o p e rt ot h eC h r i s t i a ns t o r yp u tu si n 巴 a c c o u n to fhuman c o n t a c tw i t hd i m e n s i o n so fs o u lt h a tb e l o n gt oanyc o m p l e t p s y c h o l o g y .I ft h i sweren o ts o,andi fC h r i s t i a n i t ywere m e r e l ys o m e t h i n g h o u l db eh a r dp r e s s e dt oj u s t i f yt h e i m p o s e dont h es o u l fromw i t h o u t,wes t h e o l o g i c a le n t e r p r i s ew i t h o u tr e c u r r i n gt oau n i v e r s et i e r e di n t on a t u r a la n d s u p e r n a t u r a ll e v e l s w h i c ht h emodernc o n s c i e n c ec l e a r l yf i n d su n a c c e p t a b l e . P a r t1f o c u s e sont h en a t u r eo fr e p r e s s i o n swroughta g a i n s ti m a g i n a t i o ni n n da g a i n s tt h eC h r i s t i a ni m a g i n a t i o ni np a r t i c u l a r,by t h eo v e r g e n e r a l,a e x t e n s i o no fs c i e n t i f i cm e t a p h o r s .T h i sl e a d si nt u r nt oar a d i c a lq u e s t i o n i n g o ft h er o l ep l a y e dbyhuman i n s t i t u t i o n s ;a n dt oa s k i n g whether t h eo n l y avenuel e f to p e nf o rt h er e s t o r a t i o no ft h ef u l l n e s so fi m a g i n a t i o n,i nb o t h o tb eo n eo fat h o r o u g h g o i n gd e i n s ・ i t sc o r p o r a t eandp r i v a t eforms,mightn t i t u t i o n a l i z a t i o n . Theq u e s t i o ni st h e nr e f i n e dbyi s o l a t i n gt h et h r e e f o l dh e r h e power which m e n e u t i ct a s ko fd e s c r i b i n gt h emythi nwhich we l i v e,t h ec o n d i t i o n sf o rt h ep o s s i b i l i t yo fm a i n t h a tmythe x e r t so v e ru s,andt t a i n i n gt h eC h r i s t i a nm y t h .