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世界史(近現代・戦後)第7章
210 第一次大戦後の西アジア・エジプト トルコ共和国の成立と近代化 トルコは、第一次世界大戦で、同盟国側について負けます。1920年に * 連合国と結んだセーヴル条約 によって、メソポタミア(ヨルダン・イ ラク)とパレスチナはイギリスの委任統治領に、シリアはフランスの委 任統治領となります(第一次大戦中に占領していた地域が)。 本当は、ロシアも委任統治領を得るはずでした (第一次大戦中に占 領していたアルメニア・トルコ西部を)。しかし、第一次大戦中に起き ケ マ ル たロシア革命で、ある人物が「無賠償・無併合・民族自決」を表明した .... ので、ロシアは全ての権利を放棄します。さて、ある人物が行ったこと が何だかわかるかい? = パ シ ャ ﹁第 ト一 ル次 コ大 の戦 父で ﹂ト を 意ル 味コ す軍 る司 ﹁令 ア官 タを テ務 ュめ ル、 クイ ﹂ギ の 称リ 号ス を軍 、を 議撃 会退 よし りて 与名 えを ら馳 れせ るた 。。 レーニンの「平和に関する布告」のことね。 そうだね。だから、 ロシアはセーヴル条約の権利を放棄したんだ。 セーヴル条約は、トルコにとって、とても屈辱的な内容でした。特に、 ギリシア人居住区のイズミル(スミルナ)が、連合国側のギリシアに占 領されたことに対して、トルコ国民は納得できません。 そこで、第一次大戦後、アンカラに臨時政府を樹立(オスマン朝の都 はイスタンブル)していた第一次大戦の英雄的軍人・ケマル=パシャが、 イズミル奪回に立ち上がります。 ケマルは、ギリシア-トルコ戦争(1919∼22年)で、国民軍を率いてギリ シアを破り、イズミルを連合国から奪回します。これを見たトルコ国民 *セーヴル条約…①ダーダネルス海峡の非武装と国際化、②アルメニア・ヒジャーズ王国の独立、③メソ ポタミア・パレスチナをイギリスの委任統治領とする、④シリアをフランスの委任統治領とする、など が決められる。 第7章 アジア・アフリカの反植民地運動 211 図①第一次大戦後のトルコ わ は、 「ケマルをリーダーにして新しい国を作ろう」と湧き上がりました。 そうした動きの中、ケマルは、アンカラにトルコ大国民会議を開催し、 1922年にスルタン制の廃止を宣言。その直後に皇帝メフメト6世が亡命 したため、ついに600年以上続いたオスマン帝国(1299∼1922年) は滅亡します。 さて、実はこの時、連合国の間では、トルコの新政権を承認するかど うかの話し合いが行われていました。イズミルを奪回したケマルは、連 合国側と敵対することになりますからね。 でも、1923年のローザンヌ条約で、セーヴル条約は破棄され、同年10 月にトルコ共和国の成立が承認される。トルコ共和国の初代大統領には ケマルが就任し、首都はイスタンブルからアンカラに移されます。 さて、連合国側が、新政権のトルコ共和国を承認したのはなぜだと思 う? 第一次大戦直後でこれ以上戦争をしたくなかった、というのも一 1911∼12年の伊土(イタリア‐トルコ)戦争の講和条約(1912年)も、同じくローザンヌ条約とい う名前なので、注意したい。 212 つの理由ですが、重要なのは、ケマルがどういう人物かということです。 * * ケマルは、①カリフ制の廃止 (政治と宗教の分離)、②女性解放 、 ③文字革命(アラビア文字からローマ文字へ)、などを行ってトルコの 近代化・脱イスラーム化を進めた人。 つまり、イギリスやフランスは、オスマン帝国よりも、近代的な考え を持ったケマルのほうが利用しやすいわけです。だから、イギリスやフ ランスは、独立を承認し、トルコの近代化を支援したんだ。 “トルコの父”(アタテュルク)と呼ばれたケマルは、トルコの国民 びょう 的英雄とされ、彼の死後アンカラに建てられた巨大なアタテュルク廟か らも、その尊敬の深さを知ることができます。 エジプトの独立と共和政の成立 それではエジプトです。エジプトは、ア ラ ー ビ ー = パ シ ャ の 反 乱 (1881∼82年)がイギリスによって鎮圧された時に、すでにイギリスの 保護国化が確定していました。第一次大戦中にイギリスの干渉が強化さ れ、1914年に正式に保護国となります(トルコの宗主権放棄) 。 * これに対し、エジプトでは、サアド=ザグルール率いるワフド党 の 反英独立運動が起こる。そして、ワフド党は、“エジプト人のためのエ *カリフ制廃止…1924年に廃止したことで、オスマン王族はトルコから追放され、政教分離が行われた。 *女性解放…1925年以降、女性のチャドル(ヴェール)を廃止し、一夫一婦制を樹立。1934年には女性 に参政権を与えた。 第7章 アジア・アフリカの反植民地運動 213 ジプト”をスローガンに掲げ、1922年にエジプト王国として独立を実現 します。 ただし、この独立は形式的なものです。独立したといっても、イギリ スは「エジプトの防衛権、スエズ運河の駐兵権、スーダンの領有権」を 持ったまま。エジプトには常にイギリス軍が駐屯しているので、エジプ トで反英的な動きがあれば、イギリスはすぐに鎮圧できます。 つまり、この防衛権がなくならない限り、エジプトの本当の独立とは いえないんです。 しかし、1936年、エジプト−イギリス同盟条約が結ばれ、イギリスの エジプト防衛権がなくなり、ようやくエジプトの主権が認められること になります。ただし、スエズ運河地帯とスーダンのイギリス軍の駐兵権 は撤回されませんでした。 この地域からイギリス軍が撤退するようになるのは、第二次世界大戦 後の1951年に、エジプト―イギリス同盟条約が消滅してから。1954年に スエズ運河地帯の駐屯、1956年にスーダンの駐屯がそれぞれ廃止され、 スーダンは共和国として完全に独立します。 実はこの時、エジプト議会は、イギリス―エジプト同盟条約を継続さ せようとしていました。理由は、国王や官僚などは、イギリスから利益 を得ていたからです。 * これに対し、1952年に自由将校団 というナショナリストの団体がク ーデタを起こします(ワフド党と間違えないように)。このエジプト革 命で、国王は追放され、1953年にエジプト共和国が成立します。そして、 紀元前3500年から続いたエジプトの王政が、ついに幕を閉じるのです。 エジプト革命で活躍したのが、ナギブとナセルです。新政権で、ナギ ブは首相兼初代大統領に、ナセルは副首相に就任。しかし、翌1954年、 ナセルがクーデタを起こし、自ら政権を握ります。そして、ナセルは、 *ワフド党…エジプトの民族主義政党で、「ワフド」とは“代表”の意味。地主や民族資本家を地盤とし、 保護権の廃止・完全独立を要求して反英独立闘争を展開した。 *自由将校団…ナセルが青年将校団らと結成。ナギブを団長とした。 214 “ナセル主義”と呼ばれ る社会主義的な政策をと る。ま、「ナセルのナセ ル技」とでもいいましょ うか…。 以降、エジプトはソ連 との関係を重視するよう になります。今でもエジ プトは何かあるとロシア 寄りになりますね。以上、 エジプトはここまで。 クーデタによってエジプト共和国の首相兼大統領となったナセル は、アスワン = ハイダムの建設、スエズ運河の国有化、シリアと 合併してアラブ連合共和国を結成(1961年にシリアは離脱) 。アラ ブ運動の中心的指導者となった。 イギリスの二重外交から、パレスチナ問題が生じる さあ、問題はパレスチナです。ここには、西アジア全体の問題が絡ん できますよ。 西アジアは、長い間オスマン=トルコ領で、アラビア半島にあるイス ラム教の聖地・メッカやメディナもトルコの支配下でした。 そのため、アラビア半島のアラブ人の間にナショナリズムが芽生え、 原始イスラム教への復帰を唱える新宗派・ワッハーブ派が誕生する。ワ ッハーブ派は、アラビア半島にワッハーブ王国を建国(1744年頃)しま すが、1818年にトルコの命令でエジプト総督ムハンマド=アリーに征服 されましたね。 さて、第一次大戦中に西アジアに侵攻したイギリス軍は、ケマル=パ シャ率いるトルコ軍に撃退されます。当然、イギリスは反撃しますが、 トルコの領土は広いので、どんなに攻めても攻めきれない…。 そこで、イギリスは、反トルコのワッハーブ派に、アラビア半島で暴 第7章 アジア・アフリカの反植民地運動 215 れてもらおうと考えるんだ。 イギリス人の高等弁務官マクマホンは、メッカのアラブ人首長フセイ ンとこんな約束をします。「もし反乱に協力してくれたら、パレスチナ にアラブ人国家を建設させてあげよう」と。これが、フセイン−マクマ ホン協定(1915年)という密約です。 というわけで、ワッハーブ派のフセインらは、アラビア半島西岸にヒ ジャーズ王国を建設し(1918年に独立を宣言)、1917年にはトルコ第2 の都市ダマスクスを占領します。 しかし、第一次大戦中、英・仏・露は「戦争が終わったら、西アジア 一帯を3分割しよう」と決めていた。これが、1916年のサイクス−ピコ 協定で、こちらも密約です。 さて、イギリスは、第一次世界大戦後半になってくると、お金がなく て困っていました。ユダヤ人からお金を借りたいけど、スエズ運河の株 を買収する時にすでに借りているので、ただではお願いできないんです。 そこで、イギリスは、当時ユダヤ民族の間で高まっていた建国運動 * (シオニズム運動 ) に着目し、ユダヤ人に「パレスチナのユダヤ人国家の * 建国を支援しよう」と約束する。これが1917年のバルフォア宣言 です。 19世紀はナショナリズムの時代。ユダヤ人もアラブ人も同様です。そ れをイギリスは利用したわけです。 さあ、そういう時に、ロシアでレーニンが革命を起こし、「ロシアの 前の皇帝は、こんな約束をしてたんだぞ」と、サイクス―ピコ協定を暴 露する。それで、フセイン―マクマホン協定の密約内容も明るみに出る ことになります。 イギリスの二枚舌、いや三枚舌外交は、アラブ人もユダヤ人も怒らせ ました。そして結局、どれが採用されたかというと…、1920年のセーヴ ル条約でサイクス−ピコ協定が採用されたわけです(ロシアは「平和に *シオニズム…ソロモンの神殿があったとされるシオンの丘(イェルサレム近郊)を中心として、パレス チナにユダヤ民族国家を建設しようという考え方。 *バルフォア宣言…ユダヤ人の資本協力を期待して、イギリスの外相バルフォアが表明。ユダヤ人資本家 ロスチャイルドに書簡で伝えた。 216 関する布告」にのっとり、協定を破棄) 。 見方を変えれば、イギリスの委任統治になったわけですから、アラブ 人・ユダヤ人双方とも自分の民族の国家を作るチャンスはあるというこ と。アラブ人とユダヤ人の両者は、今後の期待を込めて、それぞれパレ スチナへの入植を始めます。 そうした環境で、イギリス政府(パレスチナは英の委任統治領)が、 第7章 アジア・アフリカの反植民地運動 217 ある時はアラブ人に、ある時はユダヤ人に有利なように、と顔色をうか がいながら政策を行うので、そのうち両宗教の間に対立が生まれるよう になるんだ。 インドを支配した時と同じだね。 まさにそうだね。そして、1929年の急進的なアラブ人によるユダヤ人 への発砲事件をきっかけに、両者の溝は深まり、現在に至るというわけ * です。このパレスチナ問題 の原因となったのは、イギリスの身勝手な 政策です。アラブ人もユダヤ人も、両方とも被害者なんですよ。 アラビア半島に、ワッハーブ派のサウード家が君臨 ではアラビア半島に話を戻しましょう。 「パレスチナのアラブ人国家建設を支援するから」と言われ、ヒジャ ーズ王国を建国(トルコに対抗)したフセインは、イギリスに裏切られ イ ブ ン た形になりました。 = イギリスとしては、石油の利権のこともあるから、フセインにこれ以 上暴れられては困る…。 そこで、イギリスは、アラビア半島でもう1つの国家建設を支援し、 その国家にヒジャーズ王国を征服させました。その国家とは、アラブ人 ワッハーブ派イブン=サウードの建国したネジド王国です。彼はイギリ スの軍事援助を得て、ヒジャーズ王国を征服した後、ヒジャーズ=ネジ ド王国を建国( ☞P218・図②参照)。 その後、アラビア半島の大部分を占めるこの王国は、1932年に“サウ * ード家のアラビア”という意味の、サウジアラビア王国 となります。 ちなみに、サウジアラビアはいまだに英・米寄りですね。 *パレスチナ問題…1964年、パレスチナ人がパレスチナ解放機構(PLO)を設立し、イスラエルに対 するゲリラ闘争を展開するようになる。 *サウジアラビア王国…首都は、リャド(政治の中心)とメッカ(宗教の中心)の2つ。宗教は、原始イ スラム教への回帰を唱えるイスラーム教ワッハーブ派。 サ ウ ー ド リ ャ ド を 中 心 と し た 、 ア ラ ビ ア 半 島 内 陸 部 の 出 身 。 も と ネ ジ ド 王 国 の 国 王 で 、 サ ウ ジ ア ラ ビ ア の 初 代 国 王 。 218 図②ヒジャーズ王国 旧トルコ領から独立国が誕生(パレスチナ以外) その他の西アジア諸国を見ていきましょう。旧トルコ領で、イギリ ス・フランスの委任統治領になっていた地域から、次々と独立国が誕生 しますよ。 イギリスから、イラク王国(1932年)、ヨルダン王国(1928年)が、 フランスから、レバノン(1943年)、シリア共和国(1946年)という名 の独立国が誕生します(図②参照) 。 しかし、パレスチナだけが独立できない。2つの民族がいるので、イ ギリスは統治の仕方を迷っているんです。 そうこうしているうちに、イェルサレムのイギリス大使館がユダヤ人 に爆破される事件が起きる(1946年)。 そこで、これ以上統治できないと判断したイギリスは、1947年にパレ スチナの管理を国連に委託。同年、国連は「パレスチナをアラブ人とユ イギリス・フランスの委任統治領はよく出題される(P211・図①で確認)。これは、1920年のトルコ の敗戦条約である、セーヴル条約で決められた。 第7章 アジア・アフリカの反植民地運動 219 ダヤ人で半分に分割し、それぞれ独立させる」というパレスチナ分割案 を発表します。 これに対し、1948年、ユダヤ人は喜んでイスラエル国を建国しました。 しかし、アラブ側はイスラエルの建国に猛反対し、第1次中東戦争 * (パレスチナ戦争)(1948∼49年)がはじまるんです。 アラブ人は、国連の出した分離独立案になぜ反対したのか。それにつ ☞P299∼参照)。 いては、戦後史で詳しく説明します( イランは、未だイギリス支配のまま 次はイランです。イランのカージャール朝は、1907年に英露協商が締 結されたことで、イギリスとロシアに分割されましたね( ☞P139∼参 照)。その後、ロシアは革命で引き上げたので、イランはイギリスの支 = ハ ー ン 配下に置かれます。 * こうした亡国の危機に際し、イラン人軍人レザー = ハーン がクーデ タを起こし、1925年にカージャール朝からパフレヴィー朝に変わります (1935年には、ペルシア王国から現在のイラン王国と改称) 。ただし、イ ギリス支配は以前と変わりませんでした。 これ以降、イスラーム的ではある ものの、イギリスの財政支援のもと、 西欧近代化を行っていきます。しか し、第二次世界大戦後は、資源ナシ ョナリズムのもとイギリス支配に対 する反発がはじまっていくのです。 この続きは9章の戦後史で詳しく説 明しましょう。 *第1次中東戦争…この結果、イスラエル国が独立を確保、領土を拡大したが、敗れたアラブ人は住む場 を失い、パレスチナ難民となった。 レ ザ ー で カ ー ジ ャ ー ル 朝 を 廃 止 し 、 翌 年 皇 帝 に 推 さ れ 、 パ フ レ ヴ ィ ー 朝 を 創 始 。 1 9 2 1 年 、 イ ラ ン で ク ー デ タ を 起 こ し て 実 権 を 握 る 。 1 9 2 4 年 、 議 会 220 第一次大戦後のインド・東南アジア インドの反英独立運動 次はインドです。イギリスは、ベンガル分割令(カーゾン法)で、ヒ ンドゥー教徒とイスラーム教徒の住み分けを行い、両者の対立をけしか ガ ン デ ィ ー の 植 民 地 ︶ に 渡 り 、 イ ン ド 人 開 拓 団 の 人 種 差 別 問 題 と 戦 い 、 1 9 1 5 年 に イ ン ド に 帰 国 。 イ ン ド の 裕 福 な 家 に 生 ま れ 、 ロ ン ド ン に 留 学 し て 弁 護 士 と な る 。 南 ア フ リ カ ︵ イ ギ リ ス けていました( ☞ P144∼参照)。その結果、ヒンドゥー教徒中心の国 民会議派(1885年)、イスラーム教徒中心の全インド = ムスリム連盟 (1906年)との対立が表面化するようになりました。そうした状況の中 で、両教徒の和解と反英共闘を唱えて登場したのがガンディーです。こ こからは、1915年にガンディーが帰国してからの話をしましょう。 第一次世界大戦が始まってから、ガンディーの説得とキラー=ファッ * ト運動 の影響もあり、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒はいったん手 を結びます。 *キラー=ファット運動…イスラーム教徒の反英運動。イギリスの矛盾に気づいたイスラーム教徒の学生 や学識者を中心に起きた、反英運動。 第7章 アジア・アフリカの反植民地運動 221 一方、第一次世界大戦で兵力の増強を図りたいイギリスは、インドに 「第一次大戦でイギリスに協力すれば、戦後、自治を与える」ことを約 束する(1917年:モンタギュー宣言)。インドはこの条件をのみ、約80 万人のインド兵を投入しました(7万人近く戦死)。 しかし、第一次大戦が終わった1919年、イギリスはインドに対し、ロ ーラット法という反英運動の厳しい弾圧法(令状なしの逮捕、裁判なし の投獄を承認)を発布する。 つまり、インド人は、自治をもらう予定だったのに、 ローラット法でパンチをもらったというわけです。 ひどい話だね。 この裏切り行為に対し、ガンディーたちは非暴力・不服従(サティヤ ーグラハ)の運動でイギリスに抵抗(第1次非暴力不服従運動)。1929 年には、国民会議ラホール大会を開き、完全独立(プールナ=スワラー ジ)の姿勢を掲げていきます。そして、国民会議派の指導者は、ガンデ ィーからネルーに代わります。 ちなみに、キラー=ファット運動は、1924年にトルコでカリフ制が廃 止された時点で終わってしまったため、イスラーム教徒の反英運動は収 まり、反対にヒンドゥー教徒との対立が再び激化。1924年以降、イスラ ーム教徒はイギリス寄りになり、両教徒は反英共闘ができません。 1930年に出されたイギリスの塩の専売制に対する第2次非暴力不服従 運動( 「塩の行進」)に対して、イギリスは高まる独立運動を抑え込むた めに、1930∼32年の間、3回にわたり英印円卓会議を開きますが、不調 に終わります。さらに1935年に発布された新インド統治法も、州単位で 自治が与えられ連邦制にはなったものの、 「州全体の政策はイギリスが決 インド国民会議で覚えておきたいのは、次の3回。1885年のボンベイ大会、1906年のカルカッタ大会、 1929年のラホール大会。 ネ ル ー 指 導 。 第 二 次 大 戦 後 に 独 立 し た イ ン ド の 初 代 首 相 を 務 め る 。 ケ ン ブ リ ッ ジ 大 学 卒 。 ガ ン デ ィ ー に 協 力 し て 、 反 英 運 動 を 222 める」というような内容で、インドの完全独立とはほど遠いもので した。 さて、この時点で、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の独立に対する 考え方には、大きな違いがありました。 ガンディーは、「同じインド人としてイスラーム教徒と手を組んで、 イギリスに対抗しよう。そして一つのインドを作ろう」という考え方。 一方、イスラーム教徒のリーダーであるジンナーは、「先々のことを 考えて、別々に独立しよう」と考える。彼は、一緒に独立すれば、少数 派のイスラーム教徒が政策面で不利な立場になることを恐れて、別々に 独立できるようイギリスに打診し、戦争協力をするのです。 これを見た若きネルーは、「イスラーム教徒がそれでいいと言うなら、 自分たちも別々の独立でいい」と考える。 イギリスは、戦後に影響力を残すことを考えて彼らの要求をのみ、 1947年8月、ヒンドゥー教側はインド連邦(後にインド共和国)として、 イスラーム教側は、東 図③インド分離独立 西に分かれてパキスタ ンとして分離独立しま す(その後、東パキスタ ンは1971年にバングラ デシュ人民共和国とし て独立) 。第二次世界大 戦後、インドは反英米 からソ連に傾き、パキ スタンは親英米になる のは、そのためなんだ。 その独立からまもな インドの宗教問題もポイント。ヒンドゥー教とイスラーム教の対立の中心となっているカシミール地方、 シク教の多いバンジャーブ地方などは知っておこう。 第7章 アジア・アフリカの反植民地運動 223 く、ガンディーが心配していたことが起こりました。ヒンドゥー教徒と イスラーム教徒が印パ戦争(1947年9月∼49年)を始めたんです。この 時、ガンディーは断食をして戦争の中止を訴えました。 そして、1948年の1月30日、ジンナーの説得に向かうために民衆の前に 現れたガンディーは、 一人のヒンドゥー教極右派の青年に暗殺される…。 保守的なヒンドゥー教徒にしてみれば、イスラーム教と手を組もうと するガンディーは裏切り者なのです。 これは、歴史に学ぶところですね。エジプトのサダト大統領、イスラエ ルのラビン首相などもそうでしたが、平和的な解決を図ろうとする指導 ☞P302∼参照)。 者は、味方の極右派に暗殺されるケースが多いのです( 東南アジアの独立・民主化運動 次は東南アジアです。植民地からの独立運動の指導者を確認していき ましょう。 〈ビルマ〉の独立運動で重要な人は、タキン党の指導者アウン=サン です。この人は、ビルマ(現在のミャンマー)民主化運動の指導者アウ ン = サン = スー = チーのお父さんです。 タキン党は、第二次大戦で日本に協力してイギリスを追い出そうとし ますが、日本に利用されていることに気づいて、1944年から反日に転じ ます。 “ビルマ国民の父”と言われた彼が亡くなると、軍事独裁政権が続き、 現在は、娘のスー=チー女史が、現政権に対して民主化運動を続けてい ます。 スー = チーさんなら、 ニュースで見たことがあるよ。 224 〈タイ〉は唯一の独立国でしたが、バンコク朝の専制政治に対抗して、 人民党のピブンが、1932年にタイ立憲革命で立憲王政を開始します。 ス カ ル ノ の リ ー ダ ー 。 イ ン ド ネ シ ア 共 和 国 の 初 代 大 統 領 。 イ ン ド ネ シ ア の 独 立 を 指 導 し た 、 ﹁ ム ル デ カ ︵ 独 立 ︶ ﹂ 〈インドネシア〉の独立運動の指導者は、インドネシア国民党の指導 者スカルノ。インドネシアはオランダと戦争をして1949年に独立を勝ち 取ります。また、1920年には、アジア初の共産党であるインドネシア共 産党が結成されました。 〈フィリピン〉は、1934年にアメリカから完全自治を与えられ、10年 後の独立を約束されます(実際に独立したのは1946年)。この時のアメ リカ大統領は、F・ローズヴェルトです。 〈ヴェトナム〉の対仏独立運動の指導者は、1930年にインドシナ共産 党を結成したホー=チ=ミンです。彼は、1941年にヴェトミン(ヴェト ナム独立同盟)を結成し、日本、のちにフランスと戦います。 第一次大戦後の朝鮮と中国 ホ ー = チ = ミ ン 独 立 後 、 初 代 大 統 領 に 。 仏 、 米 と も 戦 う 。 ヴ ェ ト ナ ム 共 産 党 の 指 導 者 と し て 活 躍 し 、 朝鮮の反日運動と日本の支配 朝鮮は、1910年の韓国併合で日本の植民地となり、日本の朝鮮総督府 に統治されます。 そして、第一次大戦後の1919年3月1日に、反日運動で有名な三・一 運動が起こる。これは、パリの講和会議で、民族自決と言いながら、朝 鮮は独立できなかったことがきっかけで起きました。 実は、この運動は、この後中国で起こる五・四運動(反日)、インド の非暴力不服従運動(反英)に影響を与えるんだ。3つとも1919年 に起きた独立運動です。 日本は、それまで反日運動は武力で弾圧してきましたが、三・一運動 東南アジアの場合、その国名と指導者の組み合わせ問題がよく出る。できれば地図とともに覚えたい。 第7章 アジア・アフリカの反植民地運動 225 以降、抵抗が強まってくると、それまでの武断政治を改め、文化政治に 切り替えます。1930年代以降は、日本語強制、創氏改名、天皇崇拝など の皇民化政策へと転換していきます。 かん とう 当時、日本は朝鮮に関東軍という陸軍部隊を設置していました。この 関東軍は、のちに満州事変のきっかけを作る部隊なのです( ☞P251∼ 参照)。 魯 迅 中国の文学革命 しん がい 辛亥革命によって中華民国が成立し、清王朝が滅亡したものの、孫文 えん せい がい ぐん ばつ の夢は袁世凱の軍閥政権誕生によって打ち砕かれたことは、前に説明し ☞P167∼参照)。 たね( 1915年、この軍閥政権に反発しようと、北京大学を中心に文学革命が 始まります。力ではなく筆で、軍閥政権に反発しようとしたんですね。 ちん どく 文学革命の中心になったのは、啓蒙雑誌『新青年』を発行した陳 独 しゅう こ てき ろ じん り たい しょう 秀 と、彼の影響を受けた胡 適 、魯 迅 、李 大 で、4人とも北京大学で 1915年からはじまる文学革命と、1966年からはじまる文化大革命を混合する人が多いので注意! 著 書 に ﹃ 狂 人 日 記 ﹄ ﹃ 阿 Q 正 伝 ﹄ な ど が あ る 。 本 名 は 周 樹 人 。 周 恩 来 と 同 じ 、 紹 興 市 出 身 。 226 * 教鞭をとっていました。特に胡適が提唱した白話運動 は、中国の旧体 制・旧思想(儒教)を批判する『新青年』の運動で広まり、文学革命の 基礎となります。 五・四運動で、中国共産党と中国国民党が結成される そして、1919年のパリ講和会議で、日本が撤退しないことがわかると、 同年5月4日に北京の学生らがデモを行う(五・四運動)。これは、た だの反軍閥運動ではなく、反日運動でもあります。 だん き ずい この時、当時の軍閥政権である段祺瑞政権は、デモに参加した学生を 逮捕しますが、のちに釈放します。なぜ釈放したのかわかります? 政 府は、ヴェルサイユ条約に調印しなかったんです。つまり、軍閥政権は、 学生の言うことを聞いたことになります。 そして五・四運動の影響で2つの党が誕生する。1921年に陳独秀が中 国共産党を結成。日本から帰国した孫文は、1919年に中国国民党を再編 します(国民党は袁世凱に弾圧されて消滅していた)。 革命のために、第1次国共合作が完成 孫文の作った中国国民党の支持者は、資本家が多く、陳独秀の作った 中国共産党の支持者は、貧しい労働者や農民が中心。支持者が違うので 両党は水と油の関係なんですが、1924年の中国国民党一全大会で、共通 の敵(軍閥)打倒による協力体制が成立します(第1次国共合作)。 よう きょう ふ じょ こう のう この時のスローガンは、“連ソ・容共・扶助工農(ソ連と提携して共 産党を受け入れ、労働者や農民を助けよう)”というもの。孫文は柔軟 な考え方ができる人だったので、軍閥政権打倒・日本排斥を実現するの に必要ならば、社会主義をも取り入れようとしたんだ。 *白話運動…難解な文語体から、口語体で文学を表現(白話文学)しようとする運動。大衆に文化を広め ることになった。 *五・三〇事件…上海の日本人経営の工場で、中国人労働者がストライキを起こしたのをきっかけに闘争 が激化。その後5月30日に、デモ隊に英警官隊が発砲するなどして、全国的な反帝国主義闘争に発展。 第7章 アジア・アフリカの反植民地運動 227 *第1次国共合作 孫文は、三民主義の一つである 「民生の安定」 (貧しい人にも均等 に土地を配るべき)は、社会主義 にも通じると判断した。ただし、 この協力体制は対等ではなく、コ ミンテルンの指示により、共産党 に有利な体制だった。 ±介石が北伐を開始 その孫文が没した1925年、上海で外国人に対する労働者の暴動が起き、 * これが全国的な反帝国主義運動に発展します(五・三〇事件 )。その後、 しょう かい せき 孫文の後を継いだのが、± 介 石 です。彼らは活動の拠点(広州国民政 府)を広州に置き、軍閥政権の中心である首都北京に向かって、南から ほく ばつ 北に北伐(1926∼28年)を開始します。 ±介石は優れた将軍ではありましたが、反共産主義で、国共合作には 最後まで不満でした。彼はしだいに反共色を強め、1927年、北伐の途中 せつ こう * * で浙江財閥 の求めに応じ、 上海の共産党員を弾圧する(上海クーデタ ) 。 つまり、国共分離です。孫文の期待する革命は、また裏切られました。 孫文は、反共の±介石を、自分の後継に望んではいなかったが、革命を 成功させるには、軍閥政権に対抗して軍を統率できる±介石の力が不可 欠と考えていたんだ。 *浙江財閥…帝国主義列強が集中する上海を中心に発足した、中国人資本家の一団。 *上海クーデタ…4日間で共産党員・革命的労働者300人以上が虐殺、500人以上が逮捕され、5000 人以上が逃亡または行方不明になった。 ± 介 石 主 席 と な る 。 第 二 次 大 戦 後 、 国 共 内 戦 に 敗 れ 、 1 9 4 9 年 、 台 湾 に 移 っ た 。 中 国 国 民 党 の 指 導 者 。 日 本 の 陸 軍 士 官 学 校 に 学 ん だ 軍 人 。 南 京 で 国 民 政 府 228 では、北伐以降の中国の動きと日本の対応を、図を見ながら確認して いきましょう。 まず、1926年7月に開始された北伐は、当初、国民党と共産党の国共 合作で行われました。ただし、±介石はもともと反共なので、彼ら国民 党右派(保守派)は単独で北伐を行います。 おう ちょう めい 一方、汪兆銘を中心とした国民党左派(改革派・反±派) と共産党は、 長沙中流域の武漢に一度政府を構えます。ところが、1927年、共産党の本 部があった上海で、±介石が反共のクーデタを起こし、国共分離となる。 図④北伐と長征時代の中華民国 張作霖爆殺事件 (1928.6) 北伐完了(1928.12) 三・一運動 (1919) 長征終了(1936.10) 日本の山東出兵 (1927∼28) 南京国民政府 (1927.4) 西安事件(1936.12) 上海クーデタ (1927.4) 遵義会議 (1935.1) 中華ソヴィエト共和国 臨時政府(1931∼34) 長征開始(1934.10) 北伐開始(1926.7) 中国国民党結成の流れは覚えておきたい! 中国同盟会(1905)→国民党(1912)→中華革命党 (1914)→中国国民党(1919) 第7章 アジア・アフリカの反植民地運動 229 ずい きん これで共産党員が瑞金に集結し、中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹 もう たく とう 立します (1931年)。この時、共産党の主席に就任したのが、毛沢東です。 その後、±介石ら国民党右派と武漢政府が合流し、1927年に南京国民 政府を樹立。そこから再び軍閥政権打倒のために北京を目指します。 日本軍の侵攻と、抗日民族統一戦線 ちょうさく りん これに危機感を感じたのは、軍閥政権・奉天派の張作霖です。彼を支 援していたのは、朝鮮に出兵していた日本の関東軍(奉天軍閥)。日本 せい なん は±介石らを阻止しようと、1928年に山東半島に出兵します(済南事件) 。 しかし、±介石は日本軍をかわして、そのまま北京に向かってくる。 そこで、張作霖は、日本軍の支援を受けようと、電車で北京から奉天へ と向かいますが、その途中で、なんと日本軍に爆殺されてしまいます * (張作霖爆殺事件 )。 日本側は、北京を守れない張作霖を生かしておけば、±介石に寝返る 可能性もある、と考えたんです。しかし、日本は、この事件を事故もし くは±介石の仕業とし、暗殺の事実を認めませんでした。 そして、日本軍は軍閥政権を死守するために、北京へ張作霖の息子の ちょう がく りょう 張 学 良 を向かわせる。この張学良は非常に優れた軍人で、日本の命令 のもと、北京の軍閥政権を継ぎます。 しかし、張学良には、父が日本軍に爆殺されたことなどお見通し。つ まり、張学良は、強い反日感情を持っていたのです。彼は、±介石率る 国民党軍と組んで、父の仇である日本打倒を考えます。 そして、1928年、北伐が完了し、張学良と±介石が手を組み、軍閥政 権と国民党が和解。しかし、±介石の標的は、日本ではなく共産党だっ たのです。結局、日本とは1933年に停戦協定を結び、±介石の国民党軍 はすかさず共産党攻撃を開始します。 *張作霖爆殺事件…奉天から5kmほど北京寄りの陸橋にダイナマイトをしかけて、その下を張作霖の電 車が通過する時に爆破した。関東軍の将校らが中心となって起こした。日本史では、“満州某重大事件” という名で登場する。 毛 沢 東 第 二 次 大 戦 後 、 中 華 人 民 共 和 国 を 建 国 し 、 主 席 に 。 共 産 党 軍 を 率 い て 瑞 金 に 中 華 ソ ヴ ィ エ ト 共 和 国 を 建 設 。 230 一方、±介石に徹底的に弾圧された共産党は、壊滅的な状態で、やっ ... ずい きん との思いで瑞金から延安へ退きます。中国共産党は、これを逃げたとは ちょうせい * 言わず、長征 (1934∼36年)と呼びました。 では、このへんで、それぞれの相関関係を図を見ながら確認していき ましょう。 ±介石と張学良は、1928年に手を組んでいます。そして、±介石は 1934年に毛沢東を攻めています。毛沢東と張学良は、それぞれ日本と戦 おうとしています。 そして、毛沢東は±介石に、「我々を攻めるのは間違ってるだろ。共 産党と協力して日本を攻めようじゃないか」と言った。これが1935年の 八・一宣言です。 それでも±介石は親日のまま。この後に何が起こるかわかります? 図⑤西安事件 (1936) 以前の相関図 *長征…瑞金から延安までの1万2500kmは苦難に満ちた大移動だったが、その間に中国共産党におけ る毛沢東の主導権が確立された。 第7章 アジア・アフリカの反植民地運動 231 抗日の張学良と毛沢東が手を組むとか。 結局そうなるんだ。 彼らにとって、今度は±介石が邪魔になってくるからね。 そんな時、1936年、たまたま西安の宿舎にいた±介石は、張学良らに よって武力で監禁される(西安事件)。つまり「抗日にならないのなら、 殺すぞ」と、脅しをかけたんです。しかし、±介石は「反共をやめて反 日になるくらいなら、死んだほうがまし」と反発する。 この対立(±介石VS毛沢東・張学良)を真っ先に止めに入ったのが、 そう び れい しゅう おん らい ±介石の妻・宋 美 齢 (姉の宋慶齢は孫文の妻)と、共産党の周 恩 来 (のちの首相)でした。 孫文の妻は宋慶齢、±介石の妻は宋美齢で、妻同士は姉妹。±介石の裏切りを心配していた孫文は、1925年 に亡くなる時に、妻の慶齢に「万一の時は妹に説得させろ」と言い残していた。 西安事件を聞いた慶齢は、±介石説得のために、すぐに妹・美齢をセスナに乗せて上海から西安に向かわせた。 西安事件が起きたところは、唐の時代に玄宗と楊貴妃が愛を育んだとされる“華清池”と呼ばれる観光地 である。 周 恩 来 外 交 面 で も 活 躍 。 彼 の 死 に 際 し て 、 第 一 次 天 安 門 事 件 が 起 こ る 。 中 華 人 民 共 和 国 初 代 首 相 。 イ ン ド の ネ ル ー と 平 和 五 原 則 を 発 表 す る な ど 、 232 なぜかというと、±介石は日本の陸軍士官学校で学び、日本の戦い方 を熟知しているので、±介石を殺さずに、彼を抗日にすることが中国に とって重要だったんです。 その結果、±介石は反日になることを約束し、釈放され、ここで第2 次国共合作の準備が整うのです。 釈放された±介石は、自分を裏切った罪で張学良を 自宅軟禁にします。それも、1936∼92年という長い間。 .. .. . 張学良も、それじゃ∼超ガックリだヨ∼。 日中戦争をきかっけに第2次国共合作を実施 このような状況下の1937年7月7日、とうとう日本軍が北京を占領し ろ こうきょう (盧溝橋事件)、日中戦争に突入する。 これで中国側はいよいよ共同戦線が必要となり、国民党と共産党が協 力して第2次国共合作(1937∼45年)がとられます。 しかし、日本軍が撤退する1945年には、両軍は内戦を開始。そして、 アメリカの仲介で一度休戦するも再び内戦状態となり、その結果、1949 年に共産党が勝利して、中華人民共和国が成立します。 負けた国民党は、台湾へと逃げて台湾国民政府を成立。そして、現在 まで中国本土と台湾は、戦争はしていませんけど、対立の状態が続いて いますね。 次の章では、第一次大戦後のワシントン体制を打破しようとした日本 の関東軍が、1931年に勝手に満州に侵攻(満州事変)、1937年に北京に 侵攻(日中戦争)、それから太平洋戦争へと突入していく過程を説明し ます。 1931年に柳条湖事件が起きた柳条湖は、奉天(現在の瀋陽)、1937年の盧溝橋事件が起きた盧溝橋は、 北京。混同しないように。 第7章 アジア・アフリカの反植民地運動 233