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東ブータンの遊牧民族の トランス・ヒューマンスを踏まえた開発政策
A g o r a :J o u m a lo fI n t e r n a t i o n a lC e n t e rf o rR e g i o n a lS t u d i e s,N o . 9,2 0 1 2 1 7 [論文] 東ブータンの遊牧民族の トランス・ヒューマンスを踏まえた開発政策についての考察 深山利広* 1.人間巾心の開発に果たす東ブータン研究の志義 1 -1.貧困削減の潮流 1 2 . 東ブータンの孟要性 2 . ブータン王国概略 2-1.略史と政治改革及び社会出発の現状 2 2 . 豊かな自然と多民放の ー 十‘ 同 3 . 東ブータンの↑市民 3 1 . 西ブータンから束ブータンへ 3 2 . 点ブータンの照葉樹林帯 3 3 . タシガン県及びタシャンツェ県の概要と開発の握れ 3 4 . 自給自足による食床治 1 . チベ ッ ト的生活とトランス・ヒューマンス 4-1.西プータンのトランス・ヒューマンス 4 2 . ゴマコーラ・ツェチュの!!fi l 景 4 3 . 遊牧民族の国境を跨いだ符米 ;.もうひとつの開発(Al t e m a t i v eDevelopment) への祝点 4-1.地域研究と同際協力のリンケージ 4 2 . GNHの価怖 1.人間中心の開発に果たす東ブータン研究 の意義 1 -1.貧困削減の潮流 近代化を志向する開発には、画一化に伴う 的援助手法には、社会│対発さらには人間中心 の即売の視点が加味されていくことになる 内 R植民地は、政治的には アジアやアフリカの I 独;立を勝ち得るものの経消的白;烹は難航し、 え化の喪失などの弊古が危ぶまれる の 多様性 1 9 5 5午に開催されたアジア・アフリカ会議で を認識・維持していく観点から、これからの は、先進国の経済発展に従属する JI~ で行われ 岡際協力にはこれまで以上にマイノリティや ている第云IU:界出岡の貧岡や低開資状態の是 地域住民への配慮が重裂となるに違いない , . 正 が 叫 ば れ た。 ま た 、 因 迫 機 関 等 か ら は そのことは第二次世界大戦後の│対発概念の 会遷からも読み取ることができる の k戦で疲 BHN( B a s i c HumanNeeds)アプローチにイt 表される草の恨レベルを対象とした開発コン 弊したヨーロッパを対象としたマーシャルプ セプトの提案が見られる υ 例えば、回連開発 ランや H本 の 復 興 を 主 援 す る た め の ガ リ オ 計画 ( UNDP)は 、 1 9 8 6年に人間の選択を拡大 ア・エロア援助に見られる物量重慌のマクロ する過存を重視する「人間開発」の概念を導 キ悶山 X"(: 同際 n~ 准教授 1 8 アゴラ(天理大守地域文化研究センタ一紀 ' Z . : ') 入し、 1 9 9 0{fーから毎作刊行している "Human る。 束ブータンの農耕民族と遊牧民族の補完 DevelopmentReport(邦題 T人 刷 出 発 報 告 闘係からは、人と物を媒介とした文化・刊慣 書J . ' において、 1994年版からは経消指標に は同境に妨げられず、連綿と続いていること 加え教育や保健・街生等の指標を組み込んだ がう〉かる 。 「人間開発指数(H D I :HumanDevelopment 本論では、束ブータンにおいて信仰されて I n d e x )J を発表している の 1 9 8 7午には同辿環 いる宗教と少数民放の移動の特徴を明らかに 境開発委員会が「持続可能な開発」を提起し、 し 、 1 9 9 0 年仁は j 世界銀行が同発段助の最大の目標 9 8 9 午に終需を迎 を「貧困削減」に定める 。 1 えた束西冷戦以後の世界は、 1 9 9 1年の湾岸戦 ブータン文化は多民放それぞれの世俗が融合 する産物や製品も!ムーくブータン凶内に流布し 争を境に地域紛争が頻発するようになり、そ ている c このことから、小論はブータンの開 l ロ l 地域の人々の暮らしを記録している J した独自のえ化である 。 東ブータンを起源と の背長にある貧困の解消が根本的な紛争予防 発政策瑚念である国民総幸福景 ( GNH: 策として認識されるに主る 。 GrossN a t i o n a lH a p p i n e s s ) が重視する文化 への配慮を行う卜ーでの茶礎資料としてAf:義あ 1 2 . 東ブータンの重要性 るものと与えられる 》 本論の主要部分は、開発政策がこのような 質重視のミクロ的視点に転換していく過渡期 の1 9 9 1年 4月から 2年 3カ月の問、筆者が肖 2 . ブータン王国概略 年海外協力隊員としてプータンー十ー同東端のタ 2 -1.略史と政治改革及び社会開発の現状 1 7 1 U :紀にチベットから来た市僧シャブドウ シガン県 1)に滞存ーした際のフィールドワーク ン・ガワン・ナムゲルが各地に割拠する群艇 に基づき、そこに#らす人々の斗会煮の一端を を征服し、ほぽ現イt の国十で聖俗界の尖権を 吾きとめたものである つ 掌摂した ( D o r j i,C . T .1 9 9 4 )っ1 8 1 吐紀 o kから 19 西プータンの農耕民族は周年的季節移動、 世紀にかけて、内時インドを統治していたイ すなわちトランス・ヒューマンスを行い、冬 ギリスとの問で戦争があり、 1 8 6 5年 に シ ン の聞に高標高域から降りてくる遊牧民族との DOE1 9 9 2 )"1 9世紀 チュラ条約が結ばれる ( 接触によってチベット的生活の享受を U J能に に台頭したトンサの豪族ウゲン・ワンチ ユ ツ している(梁田 1 9 8 6 ;4 7 8 4 7 9 )ο 総 じ て 丙 クは、 1 9 0 7 年に│止袋藩ポに就任し、現一七朝の ブータンより松高の侭い東プータンにおいて ;基盤をほ立した。インドのイギリスからの独 i :要な街に 9 4 9年 に イ ン _It.に伴い、シンチュラ条約は 1 は、タシガン、タシャンツェ等の 暮らしている民主I J民族のトランス・ヒューマ ド・ブータン条約として引き継がれることに ンスは観察されていないが、森林山岳 なった c 条約にはブータン政府は、インドか wに暮 らすブロッパ ( Brokpa)等 の 少 数 民 放 は 、 同 ら領土割譲による補償金を受けることや、 境がないかのごとく往米している 。 彼らはメ ブータンの外交はインド政府の助言を得るこ ラやサクテンからタシガンやタシャンティに 降りてきて物々交換を行う傍ら、賦伐を果た と が J財 記 さ れ て い た が ( Hasrat, B . ] 1 9 8 0 ; 0 0 7午 3月の改定によって、この 1 1 8 1 4 8 )、 2 し出稼ぎに勤しみ、娯楽に興じ、巡礼を行う 助互に関する条項は ) 1 i 1r トーされた u 目 J また、インドのアルナーチャル・プラデイ 初 代 と 第 2代国下会は、鎖国に近い状態を シュ州側では向稼ぎや賢い l 中Iしを行ってい 保っていたが、 1 9 5 Z{fムに即付した第 3 代同十 1 )筆者の浦イ十期河中 の1 9 9 2イlにタシガン県タンヤンツェ地方はタシャンツ ェ県となる じ 津山利広:束プータンの遊牧民族のトランス・ヒューマンスを踏まえた開発政策についての考察 は、農奴解放、教育の甘及等の制度改革を遂 行 し 、 近 代 化 政 策 に 着 干 し たじ その契機は、 1 9 2 2 . 豊かな自然と多民族の王国 ブ ー タ ン ヱ 凶 は 、 ヒ マ ラ ヤ 変 動' ! i J Rの東部に 1959 年のチベット動乱によるダライ・ラマ 1 4 {す:置し、中同のチベット自治│天とインドに挟 世のインド亡命である ο これまで密接な関係 まれた而積 1 6, 5 0 0 k r r lの 内 陸 圃 で あ る 。 緯 j 支で にあった北側のチベットとの国境を狭め、市 はネパール、経度ではパングラデイシュにほ のインド側の j 窓円を大きく聞くこととなる ぼ 咋 し L、 南 北 は i 1 i J抜 200mの イ ン ド 同 境 の ( K o h J i1 9 9 3 ;1 5 3 1 7 1 )。 経 済 分 野 に お い て ヒ ン ド ス タ ン ギ 原 か ら 7,000m級 の 峻1 1 咋まで 9 6 1年 か ら の もインドとの関係が緊密化し、 1 を駈け卜がる急斜面(=あり、束丙は山と j 美作 抗 1次 5カ午 μ l ' l l l l jはインド μ │ ー 1 I 1 I安 員 会 の 助 言 が幾重にも辿なる 〉その大部分は密林で、援わ を待て策定される 2) 包 J F Iロj問 中 立 政 策 を 外 交 れ、稀少野生動植物研も多く、豊かな自然を の基本方針とし、 1 9 6 2 年にはコロンボ・プラ 伺めている ンに加問、 1 9 7 1年 に は 団 連 加 問 を 果 た す υ l r帝 ま で を 刻 々 と 変 化 す る 。 ブータンはこ 高I 1 9 7 2年 に 1 6成で即。ーした第 4代固下ーのジグ れまで一度たりとも植民地になったことはな q 気候は標高によって中熱帯から メ・センゲ・ワンチュックは、近代化に加 いのその一閃には、このような地勢十の優牧 え、民主化、そして国家開発にも意欲的に取 が軍勢のj 住人を較しくしたことを挙げること り 市l むハ 2 006 年に現同ギーである 5代 目 の ジ グ ができる (DOι199 1 ) のへ ミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュクが土位を 1990 作代前、1".の人口は約 6 0 万 人 、 第 3代 田 王の代に恒久首都に定められたテインプーの 継承するコ 政 体 は 第 4代同一七の命により、問主規政か ら議会制民主主義へと移行する注ょにある J 人円は2 .5万人と:J i f 会計されている ( . i ¥DB 1 9 9 4 ;1 ) ( ヘ 就 労 人 口 の 約 8割 が 農 業 に 従 事 GDPの 約 2害u を農業が占める。正砕な 2 0 0 1年 1 1月 に 発 せ ら れ た 勅 令 に よ っ て 憲 訟 の し 、 007午 1 2月に卜院で、 起草が開始されるo 2 民族の数は担摂されていないが、 j 三まかな民 200 氏年 3月 に は ド 院 で そ れ ぞ れ 議 員 選 挙 が 実 族分作iに よ る 困 u三 分 は 、 北 部 の 3,400m以 施され、憲法草案に基づき 2 008 年 4月 に 同 五 卜の高標高域に暮す遊牧民族と、それより低 により首相が任命されている 。 同午7 月1 8日 い標高に住む農耕民族に分けられる c ほとん の 凶 会 に お い て 採 択 さ れ た 憲 法 第 1条 2項 に どがモンゴロイド系人棋であるが、南部には は、「民主的な 72E 、若主制」であることが明 ネパール系住民を相先とする人々が多く幕ら 記されている (RGB2 ( 0 8 )3)c す。進牧民族では、ブロッパ、ダクパ ( D a g p a ), なお、 2 010年 度 の 社 会 開 発 指 数 は 、 山 4 . ! A . ラヤッパ ( L a y a p a )と呼ばれる民族が知られて 平 均 余 命 が6 6.8 歳 、 成 人 識 字 本 が 52.8%、 初 いる 7}u 農羽│民放は、主に支配民族で川部に 中 高 等 教 育 純 就 学 率 が 54.1%であり、 暮らすガロン ( N g a l o p )、原{干民とされる東川 の順位は 1 4 1杭 で あ る 4)。 H [ ) I S a r c h o p )、 そ し て 、 南 部 に のシャチョッパ ( 2 )2 0 0 R : ( 1からは第 1 0 次日カイ│百 I@ がスタートとしている 3 ) 英文;では D e m o c r a t i cC o n s t i t u t i o n a lM o n a r c h yと表記されている ο 4 ) 凹 DPHPを参照c v :i)本論では、え化{句、 j也輝r'1~Jえぴ行政上の区分から困内を"*ブータン(モンガル県、ペマガツ工ル県、 サムドルァプ・ジョンカル LR 、タシガン lR 、タシャンツェ ~9J 、内プータン ( チュカ県、ダガ、ナ l果、ガ サ県、ハ県、パ口県、プナカ県、サムツーェ県、ティンプー県、チラン県、ワンデユ・ボダン県)、1)1央 プータン ( プムタン県、ルンツェ県、サルパン県、 トンサ県、シェムガン県)の 3地域に分けた《 日)近イ│のほぼIf確な人 1r は 、 N a t i o n a lS t a t i s t i c sB u r e a u( N S B )によって発火されている 1 9 ( Hイ ' lの人 1r は: ) 6 4,0 0 0人であるヘ Nati()n~l P()rt~l ( ) fB h u t a nによれば、 2008ω年の人口は 6 8 3. 4 0 7人である。 71 綾部・~ ( 2 0 0 8 ) は「多民族同家ブータンには、多数派であるチベット系のガロン N g a l o n g 、インド・ 2 0 アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要) 図 1 ブータン地図 ... - t _ ' ー ー ー ー ー ー 品 ー ー ー ー ー ー ー 」 ・ . . " . . . . . . . ・ ・ ・ ・ 咽 圃 (出典) D e p a r t m e n to fS u r v e y& Land 多 い ネ パ ー ル 系 住 民 で 構 成 さ れ る (RGB 1 9 7 9 ;1 4 )。 ブータンの文化は、チベット文化を基層と しながら、東ヒマラヤ一帯の文化を取り入れ て独自の文化をっくり出してきた(栗田 1 9 9 2 ;1 2 3 )。日本にまで至るカシやシイを中 心とした照葉樹林帝で生み出された特有の文 ガロンの母語であるチベット・ピルマ語系の ゾンカ(語)である。ゾンカの文字は古代チ ベット語に由来する。公用語としては、英語、 ネパール語が認められている。 3 . 東ブータンの情景 3 -1.西ブータンから東ブータンへ 2 )を持つのは、標高 化(中尾・佐々木 1992; 2 ブータン西部に位置する首都テインプーと 1,000m~3 , 500m の中標高域に住むモンゴ 東ブータンの拠点であるタシガンの直線距離 ロイド系人種である(上山 1969; 2 0 7 )。 西 は約 200kmで、ある。東西の往来は車道がある ブータンの農耕民族はトランス・ヒューマン とはいえ活発とは言えない。東の住民が西 スにより、チベットの影響が強い生活を維持 へ、西の住民が束へ行く機会は少なく、生涯 している(栗田 1994; 2 7 )。シャチョップな をひとつの谷で終える人は珍しくない。 どの束ブータンの農耕民族の営みは、インド 自動車で西ブータンから東ブータンに移動 のアッサム州、アルナーチャル・プラデイ するには、主に 2つのルートがある。まず、 シュ州以東に見られる風俗・習慣との共通性 ブータンの中標高度域の県庁所在地を結ぶ が認められる。 550kmの道中を 2泊、あるいは 3泊するルー ブータンでは、 1 8の言語が話されている トである。ブータン文化をなすチベット的な ( D r i e m, G, ;1 )。国語は、西ブータンに住む 要素と照葉樹林文化との混じった人々の生活 モンゴロイド系のツァンラ T s h a n g l a (シャチョップ S h a r c h o pとも呼ばれる)、ネパール人のほかに、 rokpa、半農半牧生活を営むブラミー Brami (ダクパ Dagpaとも呼ばれる)、 遊牧生活を送るブロッパ B ayapa、総人口わずか数千人弱といわれるドヤッパ Doyapa、レプチャなどの少数民族が存在 ラヤッパ L している」と言己している。 津山利広:東ブータンの遊牧民族のトランス・ヒューマンスを踏まえた開発政策についての考察 を垣間見ながら、ウォンデイ・フォダン、 ト ンサ、ブムタン(ジャカール)、モンガル、そ 2 1 図 2 タシャンテェ県地図 T A S H IYANGTSEDZONGKHAG してタシガンを経由する。インドの援助によ り建設された道は、軍事上の意味合いからも 谷を見下ろす峠を通り、アップダウンを繰り 返すことから、道路距離は直線距離の 2倍以 上にもなる。パスは週に数本しかなく、移動 中にすれ違う車も限られる。 もうひとつのルートはテインプーから南に 下り、インド領を通るものである。総走行距 離は 750kmになる。インドとの固境の街プン ツォリンで 1泊し、翌朝にインド領に入っ て、西ベンガル州、アッサム州を東進して再 びブータン領のサンドルップ-ジョンカルの ゲートをくぐり、 1泊の後、タシガンへ│白jけ て北進すること約 6時間で到着する。タシガ ンへの物資はサンドルップ-ジョンカルから '"曲 1 : 1 1叩咽 運ばれるものが圧倒的に多い。雨季と雪の降 る冬はこちらのルートの方が、ブータンの山 (出典) N a t i o n a lS t a t i s t i c sB u r e a uo fB h u t a n 道を横断するよりも事故の危険は少なく安全 である。タシガンを目指すブータン人の多く は後者のルートを利用する。しかし、日本人 図 3 タシガン県地図 TRASHIGANGDZONGKHAG は日本国外務省よりアッサム州の通過に関し て渡航自粛の通達が出されており、通行には 特別な許可を要する。 3 2 . 東ブータンの照葉樹林帯 東ブータンには、東方人という意味のシャ チョップをはじめ、ブータンの原住民とされ る人々が多く住む。東ブータンでは、西に多 く住むガロンは役人とゾンの僧侶ぐらいであ (出典) N a t i o n a lS t a t i s t i c sB u r e a uo fB h u t a n る。タシガン県カンルンには、インド軍キャ ンプがあることから、そこで働くインド人の 軍関係者がいるもののインド人商人はおら ず、チベット人や中国人の姿もない。 摘されている。 シャチョップ以外の少数民族は、それぞれ の言語を持っている。東ブータンの性民は出 シャチョップはその出自を南部アッサミー 身の村の言葉、同じ谷、そして近くの集落の ズであると認識している(栗田 1 9 8 6 ;4 6 2 )。 言葉が話せ、他の民族とのコミュニケーショ シャチョップの母語のシャチョップカ(語)は ンが取り易い言葉としてシャチョップカを使 チベット・ピルマ語系の言語であり、シッキ う。それに加えてゾンカ、ネパール語、英語 ムの原住民が話すレプチャ語との共通点が指 を話す者もいる。シャショップカは公用語で アゴラ(天理大学地域文化研究センタ一紀要) 2 2 創出、ミソやナットウのような豆類の発酵食 表 1 地域ごとの標高 9 4 ;2 4 )は 、 品の存在をあげている。今枝(19 地域名 B q 1 a 1 1 l I t l a t r h ) a n g ブムタン (ジャカール) 標l 白 中尾・西岡 ( 1 9 8 4 ;1 0 8 1 1 2 )を引用しながら 2 . 6 9 0 「照葉樹林文化の影響としては歌垣や婿入り 2 . 7 1 2 2,1 0 0 1 . 3 0 0 3,8 5 0 3,4 0 0 2 . 2 8 0 2 9 8 1,2 2 0 1 .3 6 1 3,5 3 6 婚のほか、水田稲作、陸稲、焼き畑農業、タ Haa K a n g l u n g K h a l i n g L a y a Merak P a r o P h u n t s h o l i n g P u n a k h a R a d i S a k t e n g カン Jレ ン カリン ラヤ メラ ノfロ プンツォリン プナカ フデイ サクテン SamdrupJ a n g k h a r サンドルップ・ ジョンカル Thimphu T r a s h i g a n g アインプー タシガン 2,3 2 0 1 . 0 4 0 れる粘り気のある米が栽培されている。 タシャンツェ (ゴマコーラ) トンサ ワムロン ウォンデFイ ・ フォダン 1 . 8 3 0 には、東ブータンを起源とする製品が多いこ 2 . 1 8 0 1 . 6 2 0 いる漆器のほとんどがタシャンツェの木地師 1 . 2 6 0 によるものである(写真 1)。彼らは集団をつ T ( G r a o s m l Y a T n f g o t r s a e ) T r o n g s a( T o n g s a ) Wamrong W a n g d u e p h o d r a n g ノ 、 1 6 0 (出所)県庁所在地については、 (NSB2 0 0 6 ;1 4 1 ) より引用。カンルンは MysticTours& A d v e n t u r e sHP、カリンは H i m a l a y a sHP、 n l i n eHP、プンツォリン、ラ メラは RaoO デイ、サクテン、ワムロンは、 G l o b a lG a z e t 土K eyst oB h u t a nHPヵ 、 ら t e e rHP、ラヤ l 引用 ロイモ、ヤムイモ、麹使用の酒、野性根茎の 水酬し食用化、ヤドリギの茶、ソバ、納豆、 ナッツ・オイル、リュウキュウアイの利用、 紙づくり、竹製品、野性カイコ類の利用など 無数に指摘できる jと記している。筆者自身 は、ブータンでヤドリギの茶、リュウキュウ アイ、紙づくりを見た事はないが、その他の ものは日々の生活に利用されていることを確 認している。ラデイではハンダライスと呼ば また、ブータンが紹介される際の物品の中 とを指摘しておきたい。ブータンで使われて くって木地屋村に住み、そこを根拠地にして 各地を渡り歩いて仕事をしている(佐々木 1 9 8 2 ;1 2 4 1 2 5 )。テインプーで売られている 竹製品はタシガンの村々で作られている。 ブータンの民族火装である女性のキラは、か つては束ブータンの女性によって織られたも のが西ブータンの需要を満たし、チベットと 9 9 3年当時はラジオから 1日3 0分 はないが、 1 の人の交流が活発であった頃は、東ブータン 程度の BBS(Bhutan BroadcastingService)の ニュースが流れていた。 西ブータンに比べてチベットの影響がそれ 程強くない束ブータン人は、ブータン以東の 人々が備えている照葉樹林帯で育まれてきた 生活文化を取り入れた暮らしを営み、その様 1 9 6 6 ; 式はブータン全域で見られる。中尾 ( 1 9 7 6 )は、照 5 9 7 5 )及び上山・佐々木・中尾 ( 葉樹林丈化を特徴付ける共通の文化的要素と して、水さらしによるアク抜きの技法、茶の 加工と飲用慣行、絹とウルシの製造、柑橘と シソ類の栽培と利用、麹を使う酒の醸造、 ジヤボニカ型のコメの卓越、モチ種の穀類の 写真 1 タシャンツ工の木地師 1 9 9 2年、筆者撮影 津山利広:束プータンの遊牧民族のトランス・ヒューマンスを踏まえ た開発政策についての考察 2 3 戸経の織物はチベットへも運ばれ、高級品とし タンで見掛けるようなハイソックスははか て珍重された。 ず、夏にはゴをはだけで膝の所で材│を結んだ 3 3 . タシガン県及びタシャンツ工県の概要 独特の衣装に身を包む少数民族に出会うこと Tシ ャ ツ 安 の 男 達 を よ く 目 に す る の そして、 カγぐ、きるコ と開発の遅れ 東ブータンの中心はタシガン県である。 タ シャンツェ地 } jは 1 9 9 2年 に 県 に な っ た じ 而 県 1 9 8 6 ブ ー タ ン 政 府 に よ る 第 6次 5ヵ 午 ( 1 耐の柱のひとつは地} j分 散 期 開 発 で 1 9 9 1 )日1 GNHの 4つ の を 合 わ せ た 人 11及 び 面 積 は 、 そ れ ぞ れ 全 体 の あ っ たの 地方分散型開発は、 10%強 で あ る (OCCe a c hy e a r )。 人 々 は 亜 熱 )の ひ と つ で あ る 「 良 い 統 i f i Jに 即 し て お 村X OOOm0) 舶 の 植 物 に 固 ま れ る 襟 高 600mから 4, り、ブータン政府は地方への権限と予算の移 聞の照葉樹林帯の隙間に暮らしているの一般 譲 を 折 進 し て い る 町 内 一束プータンの岡発の拠 に東ブータンの集格はJ!Liブータンよりも標高 Z o n引 町 事 務 局 は タ シ ガ 点であったゾーン ( が 低 い 所 に あ る 。 テ ィ ン プ ー の 楳 肖 が 2, 3 2 0 ン県ユンフラに置かれていた。 ゾーン制度と m、パロが2,280mであるのに刈ーして、点ブー 9 8 0年 代 後 半 に は地方分権を促進するために1 タンのタシガンはl, 040m、 タ シ ャ ン ツ ェ は 導入された行政システムであり、ゾーン事務 1 . S : 3 0 mである の 同 は 4つ に 分 け ら れ た 同 土 の 複 数 の 県 を 統 括 タシガン県の県庁所在地のタシガンは東川 した。 川 部 、 南 部 、 中 央 音1を 管 轄 し て い た と市北の道が交わる要衝にあり、東ブータン Zone Tか ら Zone皿 の 各 事 務 同 は 1 9 9 2年 に 閉 におけるヒト・モノ・カネ・情報、そして文 鎖されたが、開発の遅れていた米部地域の 化のハブ機能を担っているじ 1 6 5 9 年に建てら おn eI Vだ け が 1 9 9 3 年まで存続した 1 0 juまた、 れたタシカ、ン,ゾシは、チベットやインドの タシガシ県カンルンにはブータン唯一の総合 + 1に 至 る 谷 を アルナーチャル・プラデイシュ1 大学、シェルブツ・カレッジ ( Sherubtse 見ドろす崖の上に建っているο ゾンとは僧院 C o l l e g e )が あ る 心 首 都 か ら 車 で 3Uを裂し、 でありながら、行政府を兼ねる城である 。崖 特に何もない地にキャンパスを置いているの の周りは木や苧:もまばらにしか生えず、地表 は、 が露出している。 ゾンの裾野に広がるタシガ べく勉学に打ち込ませることが狗いである .'~t 生を将ぅ|去の困を:キ:引するリーダーとす ンの街は、すり鉢状の地形の底に川が流れ温 が、若者による都巾部での丙欧文化の蔓延を 呆街のような風怖がある υ 雨季には霧に積わ 懸念してのことでもある υ れ、街全体が蓋をされたような閉塞空間にな る の 冬 の 最 低 気 温 が1 0Cを 下 回 ら な い こ と か 0 3 4 . 自給自足による食生活 ら、チベ ッ ト の 衣 服 に 起 泌 を 持 つ 男 性 の 民 族 1990 年代崎半のタシガンにも貨幣経済の影 衣装のゴが適した土地とは思えない。丙プー が忍び寄ってきていたが、作│任帯は自給に努 如、f ,経済発展、之、l 環境保全、 : ] ' 1 文化振興、 : A ' ,良い統治 9 ) 外務省 HPを参照。津川智ゆ l 氏(J I C Aプロジェクト専門家:ブータン地方行政プロジェクトチーフア 0 0 2年から「プータン地方行政支援プ ドヴァイザー)の街稿文によれば、日木の ODAによる協力は、 2 ' . 1月現在、フェーズ Eが進行している G ロジヱクト が始まり、 201211 1 0)J I C AHPを参照っ近年においても、東部地域の貧開削減は段重1.:開発課題である ,2 0 0 4 年から 5年内、 J I C Aがχ施した「東市 2県民業生産伎術開発・ 4 与及え;援計画プロジェクト」では、東市民業試験場が 管~檎するルンチ、モンガル、タシガン、タシャンツ工、ベマガツェル、サンドゥプジョンカルのうち、 まずルンチ、モンガルの 2県においてパイ口、y ト事業を行い、他 4県への展開を検討している。 2 0 1 0 年からはモンガルにおい て J I C Aによる ' 1 ' " 1芸作物併究開発・首及支援プロジェクト」がスター卜し ている アゴラ(天理大守地域文化研究センタ一紀 ' Z . : ') 2 4 め、物々交換で生活物資のほとんどを調達し たりの収量が著しく低い焼畑をよく I 1にす ていた c る。これは平坦!な地形が少ないことに加え、 タシガンの中心街には常設の商白が 3 0ほど 農業技術の移転が十分に行われておらず、農 あるものの活発な尚いはなく、いつも関町休 ーも難しいことなどが}1j!尚と考 薬や肥料の入 T 業のような雰囲気が漂う。雑貨屋にはインド えられるコ米の相当量をアラ(蒸栴酒)にして i tゃ景徳鎮と喜かれた 上海製の4. しまうため、米の収穫期前にはメイズ、友な 製品と共に、 │均器などの 1[1困製品が悦んでいた。 タシガン どの代替食に繭らざるを符なくなると聞く からタシャンツェの途中にある1 1 時のカムダン 力、ロンの家では昼間から沼が1'1¥されることは (Khamdang)からの眺めは、遥か彼 ) jに 1 1 1が ないが、シャチョ ップの家では、お茶代わり J 折り重なりながら、狭間の谷はチベットに向 三 にアラが飲まれるし、飲酒の肖慣に男交の l かつて後みに消えていく。ブータン人の足な 別はない コ野菜は丙ブータンよりも種煩が少 らタシャンツェから)Ll口あれは、 チベットと なく、ジャガイモ、タマネギ、サヤエンドウ、 の国境に至るという。国境を越えた経験を持 大線、ネギ、チリなどを栽精している c 山の つシャチョップによれば、 1 9 6 0 年代前半まで 忘みは t f J 白・で、森に入れば背中の寵いっぱい は件. 米もあったが、国境を越えてすぐの所に に1 1 1菜が集まる。牛は農耕 IJ I ( Jで制われてお 街がないために中岡製品を仕入れる状況には り、出起こしの頃には鋤を挽く安があちこち ないとのことであった 。 東プータンで販売さ で見られる。│々は殺生を嫌うためにあまり食 れている中凶製 l日lは、商ブータンあるいはイ } 阪 べられていないが、豚が大好物で鶏、牛のI ンドのアッサム州を経山してトラックで遥ば で好まれる 。狭い植の中でケシの葉だけを餌 れて米るようである。 にして足が立たなくなるまで太らせている豚 ゲンには西ブータンで聞かれているよ タシ 7 うな週木のサブジ ( 野菜)マーケットもない へ を見ることもあった コ西ブータンには出ー 殺・ 解体を請け負う人カ旬、るが 11)、米ブータン 米や野菜が出頭から姿を消すことも珍しくな には内をさばく人が少ない心鶏は捌いても、 いが、役人、商人、職人も田畑を耕し、家造 賞して分けあうか、午 豚は時折、村で 1頭を i を飼っているために食糧不足で必裂なカロ は事故で動げなくなったり、鋤が挽けなく 吉川えできないということはないじ リーを f なった時に潰すか、あるいは狩で射止めた鹿 似し、単調な食事のために栄主主素の幾っか が恒常的に欠乏している υ 内陸国であるため に海産物をほとんど取らないことからヨウド 不足による甲状腺肥大の症状が多く見られ、 政府はヨウド人りの臨を流通させている ひ 交である 民チーズ、バターなどの乳 を食す和 l 製品の摂取も西プータンに比べると少ない J 4 . チベ、ツ卜的生活とトランス・ヒ斗ーマンス 4 -1.西ブータンのトランス・ヒューマンス 東ブータンの人キは、一般にチベ ッ ト人や 丙ブ←タンではトランス・ヒューマンスと ガロンに比べると体格はよくなし、。 これは人 呼ばれる唄象が観察されている 。 トランス・ 研的な要凶も大きく関係しているが、食生活 ヒューマンスとは、夏季には標高の l白いとこ による所も kきいと折若手される の ろに家財や家台を卜げ、冬ヂには低地におり 主食は米であるが、通常は米にメイズ(ト てくる周年的季節移動である リ テインプー ウモロコシ )を入れて炊く。束プータンでは ( 2,320m)とプナカ ( 1,220m)、ハ (2.712m) 州ブータンに比べると水田よりも単イJ面積当 とパロ ( 2,280m)、ブムタン (2.690m)とトン 1 1) 中尾 ( 1971; 13, 1 )は「凶殺はすべて特殊なカーストの人たちの什事」と記している じ 津山利広:束ブータンの遊牧民族のトランス・ヒューマンスを踏まえた開発政策についての考察 サ( 2,180m)で見られる現象である。 1 9 5 5年 2 5 すなわち、チベット的な生活を営めないは にティンプーが恒久首都に定められた後も、 ずの丙ブータンの中低標高域に暮らすモンゴ 農閑期になる冬には、ティンプーから宗教界 ロイド系農耕民族がヤクの恩恵に浴すること の最高権威のジェ・ケンポ大僧上の移動に ができるのは、ヤクを飼う遊牧民族からその 伴って、暖かい低地のプナカに引っ越すガロ エッセンスを取り入れることができるからで ンが観察されている。 ある。 チベット的生活に欠かせないヤク(写真 2)は、低酸素・低温に適し、標高 3,OOOm以 上でないと生きられない偶蹄目ウシ科の家畜 4 2 . ゴマコーラ・ツェチュの風景 ブータンの国教であるチベット仏教は、西 である。西ブータンの主要都市であるティン ブータン人が信奉するカギュ (Kagyu)派の中 プ一、パロ、ブムタンの標高にはヤクはいな のドゥク ( D r u k ) 派である。しかし、東・中 い。さらに標高が低いプナカ、ノ¥ トンサで 央ブータンのシャチョップはニンマ (NyIngma) はなおさらである。ブータン人もチベット人 派であり、宗教においても西ブータンとの差 同様にバター茶を飲む習慣があるが、その材 異を認めることができる。ゾンはカギュ派が 料のバターは午乳製である。ガロンはヤクの 建てたものであり、その性人である僧侶と役 代わりに午の恩恵で擬似的なチベットの生活 人はドゥク派の信者である。ニンマ派の信者 をしていると言える。 はカギュ派よりもリインカネーション(輪廻 だからと言って、ガロンがヤクを欲しない 転生)を強く信じるとされ、儀式・神事に費 というわけではない。冬になると遊牧民族が 用をかけない傾向にあり、供物ではツァンパ 農作物や日用品との物々交換のために数頭の (妙、った大麦の粉)に水、バターを混ぜて作ら ヤクを連れて中標高域に降りてくる。その時 れたトルマの形などに違いがある。 1 9 5 9年に にガロンは遊牧民族から肉、乳、皮、毛など ダライ・ラマがインドに亡命するまでは、チ を子に入れるのである。遊牧民族のラヤッパ ベットとの人的交流も頻繁であった。それま のトランス・ヒューマンスについては、栗田 では、ニンマ派の信者はチベットから僧侶を ( 1 9 8 6 ;4 7 8 )が「プナカでヤクの一部を売り 招き、法要を営み布施をしていた。ネパール 払い、必要なコメやムギを買って、またラヤ 系住民の問題 12)が顕在化する頃までは、地 村に帰って行く」と報告している。 主などはインドに亡命しているニンマ派の僧 侶を呼んで法要をしてもらっていたようであ る 。 1 9 9 3年 5月時点では、ブータン政府はイ ンドに住むニンマ派の僧侶にロード・パー ミット(道路通行許可書)を発行しないために 呼び寄せは途絶えていたが、東ブータンの 家々ではニンマパに則った儀礼が行なわれて いる。 ブータン各地ではブータンに仏教を伝えた グル・パドマサンパパの教えを民衆に説く 写真 2 ヤク 1 9 9 2 年、筆者撮影 ツェチュと呼ばれる法要がある。タシガン・ ツェチュ(写真 3)では、ゾンの中庭において 1 2 )1 9 9 0年にブータン南部地域で起こったネパール系住民とチベット系住民の対立・暴動と、それに伴う ネパール系住民の難民化問題。 2 6 アゴラ(天理大学地域文化研究センタ一紀要) 写真 4 チョルテン・コラ 1 9 9 2 年、筆者撮影 が通例であるが、ゴマコーラ・ツェチュでは ラマは目立たない存在である。タシガンから ドゥク派のラマを招くものの、ツェチュは妻 写真 3 タシガン・ツェチュ 1 9 9 2 年、筆者撮影 帯が許されているゴムチェンと呼ばれる僧に よって取り仕切られる。チャムはなく、読経 の声も聞こえない。トンドル(大仏画)の御開 西ブータンで見られるようなチャム(仮面舞 帳もない。また、通常のツェチュは日没前に 踏)などを通じて功徳を積む大切さが説かれ 終わるが、ゴマコーラでは深夜まで続く。 る。しかし、タシガンを離れると趣の異なる ゴマコーラ・ツェチュには、独特の衣装を ツェチュを見ることがある。タシガンの西北 身に纏うブロッパ(写真 5)やダクパと呼ばれ 約 35kmにあるタシャンツェ近郊のゴ〉マコーラ る少数民族も見物に訪れる。ダクパの服装は (GomK o r a )では、太陽暦の 3月ごろにツエ ゴやキラであるため、シャチョップとの区別 チュが催される。 はっきにくい。多言語国家であるブータンで ゴ〉マコーラ・ツェチュは西ブータンのツェ は、互いの母語では理解しあえないことも稀 チュとは趣が異なり、ゾンではなくチョルテ ではない。ゴマコーラ・ツェチュでは、シャ ン・コラ(写真 4)と呼ばれる仏塔の周辺で挙 チョップとブロッパ、そして、インドのアル 行される。東ブータンの幾つかのチョルテン は、ブータンで主流の立方型ではなく、ネ パールのストゥーパに近い形状であり、チョ ルテン・コラはストゥーパ型である。 3層の 四角の土台の上に丸い半球のドームがあり、 日が描かれた尖塔がのっている。民衆は各自 のマニ車を片手で同しながらチョルテンをま わり、あるいは隣接する寺のマニ車を回して 経文を唱える。マニ車の中にはお経が収めら れており、それを 1回転させれば、お経を 1 回唱えたことになると信じられている。ツェ チュはラマ(僧侶)によって執り行われること 写真 5 ブ口ッパの女性達 1 9 9 2 年、筆者撮影 津山利広:束プータンの遊牧民族のトランス・ヒューマンスを踏まえ た開発政策についての考察 2 7 ナーチャル・プラデイシュ州、│から国境を越え る。 メラとサクテンは、それぞれタシガンの て来た人々が会論を交わしている。それぞれ o :線 距 束にある村で、サクテンとタシガンの i 異なった母語を持つ民族であるが、立思疎通 阿佐は約 30km、 サ ク テ ン と タ シ ャ ン ツ ェ は 約 は成立しているようである 。 18kmである ο 祭;有がブロッパを位認したのは また、プロッパ等の少数民抜は、他の民族 市はワムロンまでで、サクテンからは約 50km との通婚は行わず、一大多安・一髪多J:;f1l1Jが の距離にある の少なくとも半径 50kmは移動し 残っていると聞いた。東ブータンで依される ていることになる ι メラとサクテンを合わせ 祭りや法要は相手探しの機会にもなっている た 人 1rは 、 プ ー タ ン の 全 人 1r の O 12%であ とのことであった 〉 000人に対し男件が1, 111 り、メラが女性 1, 目 人、サクテンが 1, 051人 と 見 性 が 多 い H )。 4 3 . 遊牧民族の国境を跨いだ往来 これらの人々は、民放的にはチベット・ビル 東ブータンは山プータンに比べて非チベッ マ語族に属し、他の東ブータン人と同様に付 ト的要素が強くなる 。 タシガン県ではシャ 諸と!吋辺氏放の言葉を話す c ネパール誌とと チョップなどの農耕民放によるトランス・ ンデイ語ができる者もいるようであると宗教 ヒューマンスを観察することはなかった ひ し は、ダライ・ラマを戴くチベット仏教のゲル かし、シャチョップは照葉樹林文化の要素だ ク (Geluk)副長である c ブロッパはツェチュで けではなく、ヤクがもたらす生活物資を字受 は見られない「姉女神」を意味するアチェ・ しているコ買ブータンの主要都市よりも低い ラモ (AcheLhamo) あるいはアシェ・ラモ 標同に¥ 1 1.置するタシガンでは、チベ ッ ト的食 生活は薄らぐものの、頻繁でLはないにしても (AsheLhamo) と呼ばれるヤクの獅子舞等 に特徴のある舞踏劇を継承している 15)υ ヤクのバターやチーズを食し、民出は宗教行 西岡・西岡 ( 1 9 7 8 ;1 5 2 )は、サクテンの様 1られてい 事に欠かせない道具として仏間に街I 子を「彼らは標高 4.000mを越す高原の広々 る。すなわち、この地域の止活文化は値1:に Iのある椋高 とした放牧地からトウモロコシ畑T 背まれてきた照葉樹林文化にチベット的牛 活 2.000mくらいの低地仁かけて広い地域にわ を融合させる民族の季節移動によって酷)えさ たって住んでいた 〉夏村と冬村があるのであ れていると与えらオl,_,る υ ろう」と紹介している ν 焼畑、牧畜、狩猟、 A 東ブ」タンにも農閑期に標高の低いタシガ 採取などの生活を送っており、村ではヤクを : )に 1 ;りて米たり、 ン、タシャンツェ、カリン ll 飼い、大友、ソパ、ジャガイモ、そし てミカ 国境を越えてアルナーチャル・プラディシュ ンなどの呆物を産する 。 州に問掛ける遊牧民放がおり、彼らがシャ ブロッパの服装はブータン政府が公の場で チョップにチベット的物資を供給していると 着用を義務付けているゴやキラではなく独特 推察される へ 1 9 7 8 ; 152-155) のものである r 丙珂・丙岡 ( タシガンには、メラやサクテンに住むブ は 「 女I 生の服装と男性の服装は形だけでなく ロッパと呼ばれる独特の衣装を身にまとった 素材までも違っている。 1 ; :性の服装は f 恵子の 遊牧民族やアルナーチャル・プラデイシュナト│ ブラ(野生約で、織った布)が主で、男性の服装 から米るモンゴロイド系の人々が姿を見せ は分厚いホームスパンのウールである む まる 1 3 ) カリンの標尚を糾載している資料を発見するには卒っていないが、竿おは 1 .! i OOmくらいであろうと 考えている 1 1)K u e n s e lを参照巳 1 5 )A s a i P a u i f i cD a t a b a s eonI n t a n g i b l eC u l t u r a lH e r i t a g e ( アジア太半洋無形え化遺ぽデータベース )を 参照、アチ ェ ・ラモ I A c h eLhamo)は 、 UNESCOの無形文化遺産に選定されている 、 r 2 8 アゴラ(天理大守地域文化研究センタ一紀 ' Z . : ') で住んでいる地 )jが遣うような長が、男女の i 喧を歩いている姿は、なかなか愛きょうがあ 服装にあるのが不忠議であ ったコ 久性は布1 1な る 。 卜部に邑が入る タシガンと同境を接するインドのアルナー ように切り込みをいれた H頭火のワンピース 山j 脇で縫って、 しの一枚布を l チャル・プラデイシュ州を住処とするプロッ を着ている D そして荷をしめ、腰までの長柄 パもいるコ のコートを ;J~織る c ワンピースは亦に 1 '[ の杭 が縦に入ったブラであり、サfも赤いブラ、 ブロッパの経済活動は、パーター公易が一 般的である J ブータン域内では、ブロッパが jL 毛 コートも赤い地で、裾の方に動物の柄を i : .に 巡ぶ']二やヤクの肉、チーズ、バター、 した簡単な織り込み模様が入っている c 女性 等と、シャチヨツパが障する穀物や織物等と の服装では布の長靴だけがウールで、チベッ の交換である 。 ト的である n 帽子はヤクの黒い毛で、作った厚 1 9 9 3年の 1月から 2月にかけて、筆者はタ いフ ェルトのベレー相で、まわりに11.木の尻 シガン・ゾンの修復に従事するブロッパを権 屈がついている 。 この尻足は雨のしずくがそ 認している 。 ゾンダ(児ー知事)によれば、シャ れを伝 って落ちるようになっているのだそう チョップがしたがらない労働を厭わないので で、この帽 fはどう見ても男性の服装とぴっ 煮主しているとのことであった たりとセットになったものである の よく見る の外壁塗りは、最卜 1 滑から竹製のゴンドラを J 危険なゾン 左女件ー の希ているウールのものが、ほかにも I ' I Jって、その『↑1に 2名 の プ ロ ッ パ が 来 り 込 あった c 背中、行てと腰叶ての赤いウールの布 み、刷毛で色を塗っていく 。 プータン凶民の である 。 これはブラの着物で 4.000mの白地 ブロッパにとっては、その労働はウラと呼ば で過ごすには寒いので、オーバーコートの役 れる賦役であるので、本手伝は 1 W :報酬である 目をしているように忠われた c が 、 男性の服装は、すべてがホームスパン・ 1 6 1H30Nu. )を 幸1 酬として受け取 ってい たの ブロツノ fにとっ てウラは、ガロンに詔l さ ウールと皮裂のしゃれたものである υ 頭には れている納f iI.行為というよりも、現金収入を 女性同様に五本の):tLI~ のあるベレー帽をかぶ 得るための労働である のすなわち、ブロッパ り、ベージュ色のウール地で前に阿角い.1 I Iの は交易を行う傍ら、賦役を果たし出稼ぎに勤 ついたキ ュロットをはき、赤または黒のウー しみ、ツェチュに参加するなどの巡礼をし、 ルの長袖の卜若を着る つ さらにその卜から裏 娯楽に興じるために中原高域に降りてくるの 毛の皮のベストを着て、 1 裂をベルトでしめ、 である に 短い刀を差している c 足 に は 黒 い 此 製 の だ メラやサクテンからインドのアルナーチャ ぶ っ とした筒状の脚紳をはき、その卜に女性 ル・プラデイシュナト!との同境までは 1 0 k mもな と│斗じ皮製のウールの長靴をはいている ひ こ タワン (Tawang)L~ に{全むブロ い。凶作I ッ パ の服装だと防寒は完全だが標高 2.000mの低 は 、 地ではちょっともてあます感じである 。男性 0 0 6 ;6 9 7 0 )、メラ、 ていることから ( 金井 2 Losar ( 新年)にアチェ・ラモを披露し の服装で愛矯のあるのは、牒のベルトから紐 サクテンとの文化的共通性を認めることがで が下がっていて、その先に直径 15cmほどの きる の タワンのゴンパ(仏教僧院)でのツェ 丸いフェルトの座布凶をつるしていることで チュでは、チャムも舞われているようであ ある 。,c号の山道で一服する時に、これを敷い る江 て隔るのだそうで、これをお尻にぶらさげて 1 6) 1 ' S$1ヰ N u .2 5 . 9 η 1 7 )T ω I " a n gM o n a s t e r yHPを参照 c 同州はインドで最も開発が遅れた地域とさ 津山利広:束プータンの遊牧民族のトランス・ヒューマンスを踏まえた開発政策についての考察 2 9 れる 。 そのことは議字本等の各種のや士会開発 る被援助手守のイピ在を意識した開発志向の深化 指 標 か ら も 裏 付 け ら れ る 18jc 地 凶 上 は 中 凶 と拡大が見てとれるコきらに、もうひとつの 同境との緩街地帯になっており、点線で衣示 重要な概念であるグローパリゼーションは、 されているが、インドが実効支配している 。 2000 年に開催された国述ミレニアムサミット イ ン ド 製 品 は 最 大 小 売 仙 洛 (MRP)で小売り で 掲 げ ら れ た ミ レ ニ ア ム 開 発 目 標 (MDGs: されるのが一般的である の しかし、インド政 MillenniumDevelopment G o a l s l のそれぞれ 府 の 対 11 困戦略のため、 ) p J1'1'1では M~ ドより の項"に色濃く反映されている 1 9 Lグロー も安い価格で物資を購入できる丹もちろん輸 パルとローカルとのリンケージ、すなわち 送賓が卜来せされているタシガンでのインド 「グローカリゼーション」を念頭に間いての 製 の 販 売 価 格 よ り も 安 い 。 ブ ロ ッパ は ア ル 凶際協力が大きな流れとして定着しているこ ナーチャル・プラデイシュ州側では、ミカン とがうかがえる。 などの農差物、乳製品やウールなどを売り、 ブータンに限らず、今後の国づくりにおい 道路工事等で現令収入を待て、米、茶、塩、 ては、より一層、諸民放の社会や文化に闘す チリ、ボリバケツ、石油などを購入している る知識が重要になることは論を侠たない とのことであったに 発援助は当該社会に劇的な影特や変化を及ぼ υ 開 すのその中には凶避できたであろう弊害も含 5 . もうひとつの開発 まれる〉これらの開発にまつわる後悔を繰り ( A l t e r n a t i v e Development) への視点 返さないためには、衣食住、生業、儀礼、宗 5 -1.地域研究と国際協力のリンケージ 教などの胴広い分野を研究対象とする文化人 本論では、東プータンの農耕民族と遊牧民 類学的な営為や成果が有益と与えられる d 放、あるいは交易者との問に形成きれている フィールドワークを必須とし、特定の社会的 相互依イf関係について述べてきたの 彼らの生 脈絡の巾で対象地域の所与の現象を他の現象 業の形態は、生態環境への適比、の産物であっ や制度と関係づけながら理解しようとする て、その行動範開は同境を超えて広がってお 「全体論(ホリズム )J や、個々の文化はそれ り、外部社会と隔絶された独立した介在で、は ぞれ│占│有の価値を持っており、その聞に優劣 ないことを│月らかにした。我々が見聞きする をつけるのは適汁ではないとする「文化相対 ことのない辺境と思われがちな地域の人々も 主義」的視点が大きく寄与するはずである ハ 国家やグローパル化を基盤とする世界システ 多民族国家であるプータンの国づくりに ムに取り込まれていることが分かる一例であ は、それぞれの民族が有する社会や文化への る の 配慮が欠かせない民ブータン文化は異なる民 筆者の東ブータンでの滞存を終えた 1993年 族によって育まれてきた、犠々な文化的要素 以降の開発キーワ←ドには、「干 1 会開発 J r 参 が溶け合い醸成されてきた他に績を見ないユ 加理開発 J r エンパワーメント J rジェンダー ニークな丈化である わ そのことが隣国との違 と同発 J r 人間の安全保障」などをあげるこ いを際立たせ、凶家の安全保障の源泉にも とができる へ このことからは、草の恨に生き なっていることは、ブータンの政治的到_(v.を 1 8) N a t i o n a lP o r t a lo fI n d i a( N P I J HPを参照 3 インド全体の誠'J.半は 1 9 9 1 年及び 2 0 0 1年はそれぞれ52%、 6~% であり、ア)J-ナーチャル・プラデイシュ州は 12% 、 61% である。 1 9)CN(a) I I Pを参照合8つの H棋は、心極度の貧閃と飢餓の撲滅、③初等教育の完全普及の達成、{ , 3 )ジぇ ンダ←平守一推進と女性の地位向上、 4 乳幼児化亡率の削減、(~;妊産婦の健康の己主ヲ午、@ HIV/エイズ、 マラリア、その他の疾病の蔓延の防止、 7 ; ' 環境の持続可能性従 i 、 果 i, i P聞発のためのグローバルなパー トナーシップの推進 l 、 3 0 アゴラ(天理大守地域文化研究センタ一紀 ' Z . : ') 語る│で特筆に値する 。 る所に特徴がある n具体的な政策は、宇経済 発展、:主文化振興、 C :i環境保全、:きよい統治、 をそれぞれ棋幹としている r 5 2 . GNHの価値 人口も少なく天然資源も持たないブータン ブータンの諸政策は、ブータン人としての 下ー国は、国際政治の微妙なバランスの上で独 アイデシティティーの共イ吉を促し、他国との 、〉ムを保つ、難しい舵取りをしている の非同盟 追いを│吐界に印象付ける狙いがある 。公の場 1 I1 lに基づき、 1962年にコロンボ・ jw 立外交 ) での伝統衣装の者間義務やプータン様式の家 プラン仁参加し、 1 9 7 1年には同連加盟が認め 屋の焚励、さらに森林保全や波り烏の保護な 9 8 0午代には IMF 、 UNESCO、世界 られ、 1 どの諸政策は、まさに官民 銀行などに相次いでか慨している ν その背景には大同に翻弄され、尖際に停く 休の強かで懸命 な取り組みとして評価できる。文化の保持と E資源の保全に有効であ 端境保護政策は、間 J 消えていった王国や_l制が域内に存存したか り、経済而にも良い影特を及ぼしている 9 5 1年の中国人民解放'iflによるチ らである。 1 ブータンの 1人あたり GDPは 1 9 9 4年にイン 9 5 9{fのダライ・ラマ 1 4 ベットのラサ進駐、 1 ドを逆転している ( ADB 1 9 9 9) 20)0 I U 会界的に J 1962年の III~IJ 国境戦争 9 9 0 年代 環境対策が煮視されるようになった 1 は、これまで緊密な関係にあったチベットと には、ブータン独自の捻民過千平に限界の訪日 の扉を狭めることを余儀なくさせた 。 また、 が集まり、 ヒマラヤ 3王凶と称せられたプータン、シッ り、さらには他凶においても GNH概念を導 9 7 5 キム、ネパールのうち、シッキム主同は 1 入した社会づくりが試みられている 21)。 世のインドへの亡命、 年にインド箪の佼攻を[1午した後の困民投票ーの GNHに関する国際会議や指標作 ブータン政府は各粧の経済社会指棋を補う 結果、インドに併合されるという憂き目を見 ために、様々な面から国民の幸祈に関わる 0 0 8 午に七制が屍 るに至り、ネパール十;同は 2 GNH指標を模索し、政策への j え映を試みて いる 。しかし、筆者はプータンの GNHに基 r f-.されている 。 プータンが語られる際に必ず引用される づく同づくりの仙値は、人それぞれに異なる GNHは、内外の情勢を分析し、たゆまぬ向 幸福感の定量的分析にあるのではなく、チ 己改革を繰り返しながら発信される凶家存亡 ベット仏教の教えのひとつである中道を旨と 1 をかけた開発概念である の この言葉は当時 2 し、「干ー栢」について挙同一致で真室長に山き 歳の第 4代国王が、 1 9 7 6年にスリランカ・コ 合い、政府がその駒大のために弁走し ている ロンボで開催された第 5凶非同盟諸国会議後 ことにあると考える 。 の 記 者 会 見 で “GrossN ationalHappiness もはやブータンにおいてもグローパリゼー (GNH)i smorei m p o r t a n tt h a nG r o s sN a t i o n a l 問中から抜け出すことは作きれず、 ションの j Product ( GNP)." と述べたことに端を発し 作種の社会開発指標の改善は喫緊の~題であ . rに代表される る。そのような国際環境の中で、地域に息づ ているの GNHは GNPの向 経済的な豊かさのみを追い求めるのではな く様々な文化や経済社会的な営みは、首都 く、同民一人ひとりが楠神的な思かさや平せ テインブーのある丙ブータンで起案されるポ を感じることができる取り組みを日指してい リテイカル・エコノミーに包摂され、消滅し 2 0 )1 9 9 ,¥イドはブ←タンが R p . 1 S, 0 7 3、インドが R p .l 1•: ; 3 2, .2 0 0 Sイ│はプ←タンが U S $ 1 . 9 0 0 、 インドが USS1 .0 4 0である (ADB2 0 1 0 ) 0 2 1 )R本においては、 GCH( Gr o s sCompa n yH a p p i n e s s) で発展を促えようとする企業や、 GAH ( G r o s s Arak~wa H a p p i n e s s J とし、う尺度を l 三政に導入している京五(都荒川区などがある e 津山利広:束プータンの遊牧民族のトランス・ヒュー マンスを踏まえ た開発政策についての考察 3 1 てしまうことが憂慮される c 料済開発と社会 ブータン土国許相ジグミ・テ インレイの 出発の希離はブータンのアイデンテイテイの 200 お年 9月のf#6 3rnJ凶連総会における声明で 床する c 域内情勢に翻弄されかねな 喪失を豆、 l は 、 いブータン王国にとってこそ丈化へのさらな な日棋であり、物質主義と精神主義とのパラ る配慮が求められるのである c ンスの重視を強刈している 。 また、ブータン GNHはブータンの開発における最終的 GNHは絶対的貧困に舎しむ途トー の同づくりは MDGsの達成にも日献しうる 困だけではなく、先進国でも見られる相対的 2 L 可能性を秘めていることに言及している 2 貧│付や文化の喪失、人間関係の希法化、さら GNH政 策 仁 基 づ く 多 民 放 同 家 ブ ー タ ン の 同 に経済発展優先がもたらした環境彼壊等のグ A l t e r n a t i v e づく りは 、 も う ひ と つ の 開 発 ( ローパル・イシ ューの克服にも不峻を与える e [ upmen t)への試金七ーである 。 Dev そして、 闘琵科学となることが期待される 。 例えば、 く参考文献〉 綾部恒雄耽修・金某淑編集 南アジア‘ 明石吉山 1994 fブータン 今枝山畑 卜山春平編 2 0 0 8r 詰. i * - I U :界の先住民族 変貌するヒマラヤの仏教 T国,大東山版社 1 9 6 9 f照莱樹林文化 i佐助 上山界平・佐々木高明・中 J 金井武 フ ァースト・ビープルズの現在 0 3 .R本文化の深層』 中公新書 1 9 7 6 r続・照葉樹林文化点アジア文化の源流 2006 r 旅行人ウルトラガイド 4 中公新書 アッサムとインド北胤部』旅行人 l i l l i I 各作 7人間開発報告書」 国際協力出版会(19 90-1993 は英語版の み。 1 9 9 1作 版 困辿開発 J 以降は邦副あり ) 栄田治之 1 9 8 6r プータン・ヒマラヤの牛業形態の多様性 J 1 同校民放学博物館研究報円二 第 1 1 巻 2号 ,困立記族学博物館 9 9 2r ブータンの文化的アイデンテ ィティについて J Tヒマラヤ学誌邑 No.3,ヒマ 粟川靖之 1 ラヤ学誌 栗田端之 1 9 9 4 rヒマラヤと照葉樹林の内会うところ・ブータン J T苧 ! 日 73 加速する天主の王凶プータンを知る 』 ア ジアクラブ 中出佐助 1 9 6 6 f栽栴植物と農耕の起源J YJ波書居 中世佐助 1 9 7 1r 秘境ブータン J 干I 会思想、干 1 : 中尾佐助・佐々木高明 1 9 9 2r 照 ) 葉樹林文化と日本」 くもん内版 中尾佐助・│川岡京治 1984 r ブータンの化』朝日新聞祈 川岡京治・ 1 ) 4岡旦了 1978 r 科必の玉回ブータン』 学習研究社 2 2 )CNHP( b l参照 υ アジアフォーラム 3 2 佐々木高明 アゴラ(天理大守地域文化研究センタ一紀 ' Z . : . ) 1 9 8 2r 照葉樹林丈化の道プータン・雲南から日本へ」日本放送出版協会 A s i a nDevelopmentB a n k ( A D B ) .1 9 9 4 .Kり ,l n d i c a t o r s0 /DevelopingAsianandP a c i / i cC o u n t r i e s 1 9 9 4 . MaJ叫a :O x f o r dUn i . v e r s i t yP r e s s . n d i c a t o r s0 /DeveloPingAsianandPacijicCountries A s i a nDevelopmentB a n k ( A D B ) .1 9 9 9 .Keyl ] 9 9 9 .M a n i l a :O x f o r dU n i v e r s i t yP r e s s . n d i c a t o r s0 /DωelopingAsianandP a c i f i cC o u n t r i e s A s i a nDevelopmentB a n k ( A D B ) .2 0 1 0 .Keyl 2 0 1 0 .M a n i l a :O x f o r dUn . i v e r s i t yP r e s s . B h u t a n,R o y a l Govemmento f ,( R G B ) .1 9 7 9 . Bhutan ,H imalay ω , 1K i n g d o m .T h i m p h u : RGB. o y a lGovernmento f ,( RGB). 2 0 0 8 . TheC o n s t i t u t i οn0 /theKingdom0 /Bhutan Bhutan,R Thimphu・ RGB ,0伍 c eo f( O C C ) .e a c hy e a r .F a c tS h e e t ,P o p u l a t i o nandH o u s i n gC e n s u s Census C o m m i s s i o n e r 。 1 /B h u t a n .T h i m p h u : OCC. 伽l e n to fEduca t . i on ( D O E ) .1 9 9 1 . A Gω♂ゆめI 0 /Bhutan. Thimphu: DOE Depar i s t o r y0 /Bhutan15tht o1 9 t hC e n t u r y . Thimphu: Departmento fEduca t . ion(DOE). 1 9 9 2 .A H DOE. D o r j i,C . T . .1 9 9 4 .H i s t 的 , ,0/B hutanb a s e d011 Bμd d h i s m .D e l h i :P r o m i n e n tP u b l i s h e r s . G . .1 9 9 4 .L a n g u a g eP o l i c yi nBhuta l 1 :R i j k s u n i v e r s i t e i tt eL e i d e n . Driem, H a s r a t,B E d u c a t i o n . 9 9 3 . FromD e p e n d e n c yt oI n t e r d e p e n d e n c e :A S t u d yO/l l 1d o B h u t a l 1 Re l a t i o n . New K o h l i,M.. 1 D e l h . i :V i k a sP u b l i s h . i n只 HouseP v tL t d . Kuense l .2 0 0 1 / 02 / 1 0 .K u e n s e l,N a t i o n a lNewsp~戸er 0 /Bhutan. Th . i mphu: K u e n s e lC o r p o r a t . i o n . N a t i o n a lS t a t . i s t . ic sBureau(NSB),R o y a lGovemmento fB h u t a n .e a c hy e a r .S t a t i s t i c a lY e a r b o o k 0 /Bhutan. Thimphu: NSB. l o p m e n tR e p o r t . U n i t e dN a t i o n s DevelopmentProgramme (UNDP). Eachy e a r .HumanDωe NewY o r k :O x f o r dUn . i v e r s i t yP r e s s .( 19 9 0 1 9 9 3 は英語版のみハ 19941 f .W i以降は邦訳あり) 津山利広:束プータンの遊牧民族のトランス・ヒュー マ ンスを踏まえ た開発政策についての考察 3 3 ホームページ 外務省。 h r t p : / パ!V WW . m o f a . g o . jp/ m o f a j/g a i k o/ oda/ m a i l / bロ 2 0 9 . h t m l( 2 0 1 1午1 2月2 0口)c 面際協 ) j機構 ( JICA)" h t t p : / / w w w . j i c a . g o . j p / p r o j e c 山h u t a n . h t m l( 2 0 1 1年1 2月2 0日) c A s i a P a c i [ i cDalabaseon T n t a n g i b l eC u l l u r a lI I e r i t a g e . h t t p :/ , 八v w w . a c c u . o r . j p / i c h / e n / a r t s/ A~BTNl. htrrù (December2 0,2 0 1 1 ) . r .h t t p :/ / www. f a l l i n g r a i n . c o m / w o r l d I B T /(December2 0 .2 0 1 1 ) . G l o b a lG a z e t t e e H i m a l a y a s .h t t p :/ / w w w . h i m a l a y a 2 U ( ) u . c o m/bh u t a n / w i l d l i f e s a n c t u a r i e s/kh a l i n g n e o l i. h t m l( December ( 1 1). 2 0, 2 Keyst oB h u t a n .h t t p :/ / www.keystobht 白 川p /(December2 0, 2 ( 1 1). MysticTours & Adventures. h t t p :/ /www.bhutanmystic a l t o u r s . c o m/ s p e c i a l i n t e r e s t l b i r d w a t c h i n g . h t ml( December2 0,2 0 1 1) Na t i o l l a lP o r t a lo fB h u t a n .h t t p : / / w w w . b h u t a l l . g o v . b t / government / a b o u t b h u t a n .php ( December 2 0, 2 ( 1 1). I )• h t t p :/ / mospi .n i c .i n/ Mospi N e w / s i t e / l n d i aS t a t i s t i c s . a s p x ? s t a t u s = N a t i o n a lP o r t a lo fI n d i a( NP l&menu i d = 1 4( December 2 0, 2 ( 1 1). l v i s i n/b t d e s t i n Olc . h t m l( December2 0 .2 ( 1 1 ) . Rao O n l i n e .h t t p :/ / r a o n l i n e . c h l p a g e s/bt t t p : / / t a w a n g m o n a s t e r y . o r g l i n d e x . p h p (December2 0, 2 0 1 1 ) . T a ¥ v a n gM o n a s t e r yh 目 帆,!V w . u n . o r g / r n i l l e n r u u m g o a l s /( December2 0, 2 0 1 1). U n i t e dN a t i o n s( UN) ( a ) .h t t p :/ / g / e n / g 呂1 6 3 / g e n e r a l d e b a t e / p d f / bh u t a ne n .p d f U n i t e dN a t i o n s(UN) ( b).h t t p :/ / www.un.or (December2 0 .2 0 1 1 ) 巴l o p m e n tProgramme ( UNDP).h t t p :/ / h d r .u n d p . o r g / e n l r e p o r t s/( December U n i t e dN a t i o n s Dev 2 0,2 0 1 1).