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34号1998.10.29発行 - KIFA・鎌ケ谷市国際交流協会
Kamagava lnternational Friendship Associatlon ■﹄ 日一 第34号 1998年 10月 29日 発行 一 く 発 行〉 鎌ケ谷市国際交流協会 編 集 ・ 広 報 音B会 ※※※※※ Lecture Meeting for Understanding Whakatane, N.Z. (pg 2) Barbecue Party, Summer Festival (pg 3) ni:IcI:i: :CI::laltudents(l:p:,t th;烹 r I::::rl: N.Z. (pg 4∼ 5) Colulllll(pg 7) 1サ Miscellaneous lnformation (pg 8) One week trip."but a lifetime of memories ず,_イ :Ⅲ │ I 一週 間 の 貴 重 な体 験 ‐ 黎 :` ll蘇 r‐ オ リの ミーテ ィングハ ウスでの宿 泊 と順調 にすす んだ。 鎌 ケ谷 の 5中 学 か ら各 3名 ず つ 選抜 さ れ た生 徒 と共 に 8月 22日 引率 者 の 1人 と 歓 迎 会 をは じめ ミー テ ィ ングハ ウス で も、昨年 の調 印 して機 上 の 人 とな った。 初 めての 中学生 式 に来 日した人 た ちが集 ま つて 暖 か く迎 えて くれ た。 派遣 とあ って 教 育委員 会 の担 当者 も神経 調 印時 の 写真 アル バ ム を生徒 にみせ て楽 しか った思 い 質 にな ってい る様子 。事前研修 は行 な っ 出 を語 るマ オ リの 高校 生 とそ の 父兄 を見 て 、 この大歓 た ものの 不安 を残 した まま生 徒 の 自主性 と可能性 に希 迎 のか げ に、 これ まで の KIFAの 活動 が あ る こ とを 望 を託 しての 出発 で あ つた 。 出発 便 のル ー ト変更 で オ 感 じ うれ しか った 。旅 程 後半 にな って体調 を崩す 者 が ー クラ ン ド到 着早 々 3時 間 あま りを空港 で過 ごす は め 続 出、 ス ケ ジ ュール に一 考 の余地 は残 るが 第 1回 目と にな った 。先 行 きを案 じた が後 は 3日 間 のホー ムス テ して は 8割 方成 功 と思 う。 イ 、 4校 の 学校 訪 間そ して 日本 人 では初 めて とい うマ (小 栗 淑 子) On August 22nd, I was o■ a plane along with 15 junior high school students. They had been chosen from 5 junlor high schools in Kamagaya. It was the first time Kamagaya city had organized to send then to it's sister city, Whakatane, for a visit. The staff organising this trip seemed nervous. We'd had several lectures and meetings beforehand, however, we were anxlous about how the students would cope with their host famllies and the local schools they would be visiting. Anyway, we had to wait and see their full potential and their independence. We had all unexpected 3 hours to klll in Auckland because of a sudden change of the flight route. However, our trip went on as planned which included staying with host fattilies, visits to 4 1ocal schools, and an over■ ight stav at the ttaori meeting house. We were said to be the first Japanese to have staved thereo We received an extremely warm― hearted welcome both at the welcome party and at the maori llleeting house. There l met the people who had come to Kamagava for the sister city signing ceremo町 。 Some of the Maori ligh school students and their mothers were talking about what a wonderful time they'd had in Japall to the 」apanese students, showing their photo albuns. Tnen l saw this, I felt very proud of what KIFA had done. Several students 80t sick towards the end of the trip. Some parts of the itinerary will need rearranging for future trips, lst Tour". (Yoshiko Oguri) however overall this was a successful “ (関 連記事P4∼ 5) K・ ]ロ 第 2回 NZ&ワ カタネ理解講座 今 回 の講座 は鎌 ケ谷市民 (観 客 )と ニ ュー ジー ラ ン ド か らの訪 問団 トライ デ ン ト・ ハ イ スクール の 生 徒 さん の 両者 が、両 国 の 文化 を楽 しく学 び あい相 互理 解 交流 を深 ニ ュージーラ ン ドヘ 遊学 楽 し<遊 び学 S め る こ とにあ りま した。 そ こで構成 を 3部 に し、 ス テ ッフ 1` ち ょっ とま じめ 〃 に NZ&ワ カ タネ理 解 、ステ ップ 2` 生 き生 き ワカタネ ″ ス 紹 介 、 テ ップ 3` 華や か に 日本伝 統 文化 ジ ョイ ン トコ ンサ ー ト″ と し、展示 に も生 け花 、着物 、 NZの 風景 な ど文化 の 融合 を試み ま した。 ` 〃 琴 、フル ー トの ジ ョイ ン ト演 奏 、 夢 の 余韻 の残 る幕 間 でのイ ンタ ビュー で、 身 体 の 不 自由な方 が 「ニ ュー ジ ー ラ ン ドヘ 行 きた くな りま した 」と,隣 の席 の奥様 が「主 人 がそ の よ うな気 持 ちにな って くれ て嬉 しい 」 と涙声 で お っ しゃ った 時 は、 この様 な企 画 を して 良 か った と しみ じみ思 い ま した。 また、高校生 の 明 るい 素 直 な親 しみ を 感 じる笑顔 。 ス ライ ドで紹 介 され た ワカ タネ の 自然 、人 々 の暮 ら しを 団長 の ジ ェフ さん ご本 人 の解 説 で 聞 けた こ 講演 講師 ″ ` ひ つ じの 国の不 思議 マ オ リ研 究家 高橋 芳 男先生 とが最 高 。梨 の ま ち鎌 ケ谷 で格調 高 い 交流 コ ンサ ー トを 聴 き、民族衣 裳 の着物 を 見る こ とが で き、市 民 と して 誇 生き生き りに思 うな どの ご意 見をい ただ き ま した。 瞬 時 に情報 を得 る事 の 出来 る現 代だ か らこそ 、人 間 同 ワカ タネ紹 介 志 の 直接 の触 合 い が よ り重 要 ではないで しょ うか。 (派 遣 部会長 佐藤 キ ク) ス ライ ド・バ ンブー ダ ンス・歌 エフ団長 と ライデン トハ イスクールの生徒 さん 隧 華 や か に 日本伝統文化ジョイン トコンサー ト 靡驚 : 鍵寧響 贔籍 藩籐 警 │1燿 難 攀警 購 魏 残 日本の伝統文化に感激の様子の生徒 さん 轟贔 昴 4ン タ ビュー 者 の馬 さんにマイク をむけ 写1鸞 Kロ ・ ロ 3 │バ ー ベキ ュー 1 7月 パ ー テ ィー 19日 、鎌 ケ谷 市市民 の 森 キ ャ ンブ場 に於 い て、 交 流部 主催 に よるバ ー ベ キ ュー バ ーテ ィー が 開 かれ 、51名 (外 国人 17名 、 日本 人 34名 )と 多数 の 人 に参加 い ただ き ま した。 昨年度 雨天 に よ り止 む な く中止 に してお り、本 年度 は雨天 で も開催 出来 る様 、南部 公民館 も予約 してお きま した。 当 日は、朝 か らの雨 も開始時 間 の 午前 11時 に 合 わせ た よ うに ピタ リと上 が り、空 は晴れ 渡 り、絶好 の パ ーテ ィー 日和 とな りま した。 コ ン ロ 6台 に炭 を入れ 、慣 れ な い 手 つ きで、煙 で 目に は涙 を溜 め、 ど うに か こ うに か 炭 に火 が灯 りま した。 各 自持 参 したお 国 自慢 の料理 と食 材 をお もいお もい に グ リ ル にか け、 ほお ば りな が ら、 キ ャ ンプ場 内 はお い しい に お い に包 まれ パ ー テ ィー は始 ま りま した。 レク リエ ー シ ョンタイ ムで は、 フル ー ト演奏 で さわや か に メ ロデ ィー が響 き渡 り、皆 で合 唱 し楽 しく和や か に 〃`じ ん ` や け 時 間 が過 ぎて い きま した。そ の 後 風 船運 び ″ ″` ゴ ー ム ビン に全員参加 した後 、子 ん スネ ー ク な どゲ 供 た ちに よるス イ カ割 りを行 い 、言葉 の壁 を吹 き飛 ばす よ うな、笑 い 声 と歓 声 でおお い に盛 り上 が りま した。最 後 は、外 国人 メ ンバ ー の プ ロ顔負 け のア シス トに よ り、 マ カ レナ ダ ンスで フ ィー バ ー し飲んだ分 は汗 として流 し、 食 べ た分 のカ ロ リー は全部 消 費 し、 とて もヘ ル シー な一 日とな りま した。 参加 い ただ い た方 々 よ り、草 の根 運動 にな る、ダ ンス が とて も良 か った 、安 い 会 費 (¥100)が 良 い 、 と好評 で終 わ る こ とが出来 ま した。来年 も予 定 し てお ります 。皆 さん に ご参加 い ただ き、国際交流 の輪 を どん どん広げてい きま しょ う。 (交 流部員 津布久 浩之) 昨年 同様 KIFA全 体行 事 として、3回 の夏 まつ り実 行委 員会 が 開催 され ま した。各 部会 よ り選 出 され た実 行 委員 9名 が 4つ の担 当 (PR・ ふれ あい ・ 募金 ・販 売 ) 道沿 い にあ つた た めか 、400人 を越 え る市民 が立 ち寄 り、1 ゲ ー ムや クイ ズ に参加 。 PRの パ ネ ル に 目を向 け、又 、 1 募金や 飲 み物等 の購 入 に足 を止 め ま した。 そ の 中 には、│ に分 かれ企 画 。 当 日の ス タ ッフ も各部会 よ り応援 をいた だ き構 成 され ま した。 塑 さあ、今 日は市民 夏 まつ り。 8月 22日 (土 )。 午 後 3時 今 年 の ブー スの位置 が 両サイ ドの道 へ 通 り抜 け る 『 │::[1:lT合 F;営 彙警 ;瞥 ‡ ;ゞ l曇 曽 底 ]詈 [│ せるにぎわいでした。 (夏 まつ り実行 委 星碁 青木 佳 子 )J 鎌ケ谷市中学 生 ワ Junior High School Studenl 8月 22日 か ら29日 まで ニ ュー ジー ラ ン ドの ワカ タ′ 無 事帰 国 し、9月 17日 、総 合福祉 保健 セ ンター に於 い 皆川 市長 、 EFlttK I F A会 長 、他 の 方 々 の ご挨拶 を し テ ーマ 別 の発 表 が キ ビキ ビ と行 われ て ゆ く。「突然 で れ ます か」 の 問 い 掛 けに笑 い 声 がお こ り、会場 は和 ` 他 に も一 人 一 人 の感 想 が のべ られ 、異文化 に触れ た準 心 の 交流 を得 た喜 び な どが参 列者 に よ く伝 わ って きプ 発 前 の 生 徒 た ち と比 べ る と、一 回 り成長 した よ うに 「 体験 を、生 徒 た ちが これ か ら、 どの よ うに生 か して レ 鳳 麟 躙 │││:‐ 1■ 1 │1躙 1靱 i腑 この 写 真 は 、 私 が トライ デ ン ト高 校 に行 った 時 の もの で す 。私 の左 側 に写 つてい るの は、私 が ホー ム ステイ した家 の娘 さんです。今度、 私 の家 にホームステイに るので、 とても楽 しみです。 (四 中 2年 沖本 麻 衣子 ) 多く ホー の方 ど、 ミュ [ 感じ ; 時 は、 とレヽ ニ ュー ジー ラ ン ドに行 つた 事 で一 番 心 に残 ってい るの は、豊 かな 自然 と人 々 の心 の温 か さ です 。 ホー ムス テイ宅 で は、 家族全 員 が ,い よ く む か えて くれ ま した。 日本 語 で 「お は よ うご ざい ま す 」や 「お なか い っば い 」 な ど話 して くれ ま した。 私 も知 ってい る英 単語 を並 べ て話 を しま した。 ホー ム ステ イ の 3日 間 は流れ る よ うに過 ぎて しまい 、別 れ る時 はす ご く悲 しか ったです じ いつ か また行 きた いです。 (三 中 1年 三好 由華) ニ ュー ジー この写真は、 トライデ ン トハイ ス クールで、ホス トフ ァミリーの子 とその友達、そ して、私 の友達 と撮 つた も のです。ハイ ス クールは、時 間内で見きれ ぬほ ど広 く、 日本 との違 い に とて も驚 きま した。 日本語 の教室 もあ り ドアには `どあ″ と書 いてあ り、非常 口に も `ひ じょ う ″ ぐち と書いてあ りま した。 (五 中 2年 島 幸子 ) あ とは帰 るた な ポーズ を と 結構 悲 しいタ 当にいい旅 が また 行き (三 中 3年 この 写真 は、 ワ ネ の市役所 で ホ ー テイ 先 の 人達 と撮 もので す 。 ホー ム イ 先 の 人達 とは、 も仲 よ しにな る こ 出来 ま した。 (鎌 中 2年 岩崎 カタネ派遣者報告 s Report their Visit to NeZ. を訪 問 してい た 中学生 が ニ ュー ジー ラ ン ドでは、 忙 しい生 徒 さん に、そ の場 で 各 自に コ メン トを も らい、写 真 を 1枚 選 ん で も らい ま した。 ‐ 週 間 が短 く感 じられ 山な どに行 かな くて も、地 平線 まで 見えた り、 山にい ケが、市長 さん は ど う思 わ る貴 重 な体験 の 様子 が よ く表れ てい ま ろん な 色が あ った りして、 )か す。 とて もきれ い で した。 で報 告会 が行 われ ま した。 ヽ ただ いた 後 、各 中学校 の iき な雰 囲気 に。テ ーマ の 、 ホー ムステ イ先 での 。 どこか不安気 だ った 出 iじ られ た。 今 回 の貴重 な くのか 楽 しみ で あ る。 (三 中 3年 St」 ames Street 私達第 四 中学校 は、 小学校 で鎌 ケ谷 四 中 の 事 を紹 介 しま し ・ 黎 拓 之) 中矢 織 .:ヽ 1,ヽ , た .こ れ で鎌 ケ谷 四 中も国際的 に有 名 に …… (四 中 3年 二 瓶 愛 ) 僕 が驚 いたのは、 高校 を 見学 した 時 、み ん な歌 な どを歌 つて くれ た り、や さ しく声 をか けて くれ た こ とです 。す ご く 嬉 しか つたで す 。 ニ ュー ジー ラ ン ドは緑 が (鎌 中1年 沖山 健之介 て よか った し、楽 しか った 。 、ステ イ先 の ホス トフ ァ ミ リー ドに行 つて み たい です 。 てめて 、英 語 が通 じな くて も コ =ケ ー シ ョンが とれ る こ とを実 ニ ユ ジ ラ ン ドを離れ る 1。 つ らく、「日本 に帰 りた くない 」 持 ちが込み上 げて きた。 (四 中 1年 沖田 孝 介) 今 回 の派遣 でた くさん の事 を学 び ま した。一 回 りも二 回 りも大 き く成長 で きた と思 い ます 。 また、 ニ ュー ジー ラ ン │に は迷 惑 もか けた りした けれ '気 ) (三 中 2年 高橋 里奈 ) ニ ュー ジー ラ ン ドは、 自然 がた くさん あ りま した。 こ の写真 は、海 に行 つた 時 の ものです 。水 は透 き通 つて い て、小 さな魚 が泳 い でい ま した。 本 当に美 しい 景色 ばか りで驚 きま した。 (鎌 中 3年 豊田 千晃 ) ラ ン ドの 空港 。 けだ か ら、みん ってい るけ ど、 持 ちだ った 。本 J来 て良か つた。 たい な。 竹下 紘 平) この 写真 は、 トライ カタ デ ン トハ イ ス クール で、理 ムス 科 の授 業 を してい る とこ ろです 。 とな りの男 つた ステ とて とが の子 は、 ホス トフ ァ ミ リー の 同 じ年 の男 の子 の ピー ターです。 (五 中3年 好) 岩橋 大樹 ) K・ 分 か らな い で しょ う。私 は、台湾 の 南 の 台南市 出身 です 。 そ こは、 ライチ な ど、多 くの種 類 の果物 が取れ る熱帯性 気候 を楽 しむ こ とがで きます 。 ライチ は、 とて も新鮮 で お い しいです 。 6月 か ら 7月 頃 に収 穫 され ます =と ころ で私達 は、 トマ トは果物 の一 種 だ と思 ってい ます 。 な 一一 炸 も し、私 が黙 つてい た ら、私 が 日本 人 じゃな い なん て に ル一 ヽ ヽ い 変 ん 。 前 ″ は は で り そ ん 年 サ れ 私 ん か は せ 百 モ そ ・住 つ 北 ま 数 オ ・す で す 台 れ は フ た で ま ヽに し 湾 、 し 味 前 は 特 も 台 で ま 意 婚 で ヽか に 語 り う 結 H て い 様 ダ あ い ヽ今 つ な の ン が と ち ヽま く じ ラ 名 鳥 育 が し し 存 オ 別 い で た て 美 デ一 し つ に ヽう し並 は い 美答 ま わ な 嗜玲 r淑 台湾 イ井 仁石 私 の国 ・ 口 父 の 世代 には 、 日本 人 が51年 間 、台湾 人 を教 育 しま し 多 くの伝 統 的 な 中国 の寺 院 もあ ります .お 祈 りした り、 話 し合 った り、遊 んだ り、伝 統 的 な あや つ り人形 の シ ョ た。 私 た ちは いつ も、 日本人 はいか に素晴 らしい か を教 ー を 見るた めに人 々は集 ま ります 。寺 の 前 の広 場 で は、 野 外 映画会 が開かれ ます 。そ の 日が来 る と、子 供 た ちは しに して も、全 く、泥棒 が入 らな い なん て、 なん と安全 か と.私 た ち の 時代 か ら継承 して、 台湾 の 人 々 は 今 ステー ジに近 い一 番 良 い場所 を確 保 す るた め に、イ ス を で もそ の よ うな考 えを もち、 日本 人 を愛 してい ます 。 も 持 つて、 そ こで待 たな けれ ば な りませ スノで した し台北 の通 りで、 あなた に何 か起 こつた ら、そ して 日本 人 だ とわか つた ら、 あな たは 他 の 国 々の 人 に対す るよ り , え られ ま した。 ドア を ロ ック しな くて も、窓 を開 け っ放 も、 も つ と親切 に され るで しょ う。 友人 た ち よ〃 台湾 へ 来 ませ んか ? (訳 石 関 澄子) そ こで会 う老 い も若 きも、決 して淋 しさを味 わ うこ と は あ りませ ん。 これ らは、私 の 子供 時 代 の 、 一 番 好 きな こ とで した。 も しチ ャ ンスが あれ は、私 の二 人 の娘 た ち に も経 験 させ たい と思 い ます 。 ■y appearallce from a Japanese if l keep You call't tell ally differellce ill There you silent... I collle frOⅢ Tainan City l■ the souther■ Taiwall. ca■ enioy tropical climate which produces mally klnds of fruits like Lychee. It tastes very good and fresh. The harvest seaso■ is aroulld Julle alld July. By the way, we collsider tomatoes as olle klnd of fruit. There are also ma■ y traditiollal Chillese style temples, where poople gather to pray, to talk, to play and watch traditiollal puppet shows. There is all opell cinellla ill the Frontier square. Thell the day ca■ e, kids would have to carry stools to wait there ill order to get the best place near the stage. For youllg alld old people who saw each other there, this didll't make thett feel lollely. These were my favorite I wallt Ⅲy two daughters to have sa■ e things ill ■y childhood. risi:h::::li:I name caHed“ ForⅢ osa"in Dutch hundred lilittin::siふ :器 years ago, which ■eallt a beautiful island. I was brought up alld had lived ill Taipei before marriageo Nowadays it has changed completely. In the generatioll of Especially Taipei may ■ot be so beautiful llow. We were always my Father's age, Japa■ ese educated theⅢ fo1 51 years. told how nice the Japanese were, how safe JapaII was. They live with the door unlocked, and the willdows opell. No burglars at all... IIlherited frolll our days, Taiwall people still keep such feelillgs and love them. If somethillg happells to you ill the Talpei street and we Just llotice you are a 」apanese, thell you would be taken care of much ■o re kindly than anvbody else fro■ other coulltries. MIs.Ishii My friends, why do■ 't you come to Taiwall? え 11:│ . 群 椒「 [│‐ 11■ =f製 石││■ ■ す71奮:孝 摯 1饗華難 メキシコとスペイ ン語 くぬ ぎ山在住 矢作 ペ ス ン イ 語 を勉 強 してい ま 今 、久 し振 りに │ブ 美枝 子 : 全 く覚 えて い な い よ うな のです :も つたい な い /も った い な い /子 育 て を しな が らの 海 外生活 は、 こ とば の不 自 す 。 8年 ぶ りにな るで しょ うか。 年 令 のせ い 由 さや 生活 習慣 の違 いか ら起 こる失 敗 の連続 や腹 の立つ か、 以 前 も少 し しか話 せ なか ったのです が 、 事 が 多 々 あ り、慣 れ るi乞 にかな りの 時 間 が必 要 で した。 悲 しい 位忘れ て しま って い るのです 。や は り そ の うちに何 が起 こって も驚 か な くな ります が ,今 は遠 ず つ と続 けて いれ ば い 遠 い 出 来事 の よ うで楽 しか った事 しか想 いだ され ませ と後悔 す る事 しき り です 。 ん ,た だ 、も う少 しち ゃん と話せ ていた ら、何 よ りもメキ 私 た ちは、夫 の仕 事 の 関係 で1979年 か ら90年 の 間 、二 度 にわ た って メキ シ コで生活 を致 しま した ,に も拘 わ ら シ コを も つ と知 る事 が 出来 ただ ろ うに と残念 に思 い ます。 ず 私 の 語学力 は、情 けな い有 様 で長 い 問 スペ イ ン語 圏 に さて 、そ の 久 し振 りの スベ イ ン語 の授業 です が、1時 間20分 の 楽 しい時 間 です 。 同 じ言 語 で も スベ イ ン とメキ 暮 らして いた な ど と、本 当に恥 ず か しくて とて も言 えな シ コではい くつ か の違 いが あ り、話す ス ピー ドに私 の 耳 いのです =(言 つて ます け ど) かし が つ い て行 かなか った り、使 う単語 の違 い に妙 に感 ′ メキ シ コで生 まれ た長 男 も、 2才 で渡墨 した 次 男 も現 た りで、 あ つ と言 う間 に終 わ つて しま うの です 。先生 は 地 の幼稚 園 で は私 なんぞ よ りは るか に上 手 に話 し、理 解 スペ イ ン人の 女性 で、 日本語 を流暢 に話 され ます ので 、 してい たの です が、それ ぞれ 18才 、16才 にな った 今 で は、 つ い 甘 えて 日本 語 を使 って しまい ます 。 これ では私 の ス ペ イ ン語 は いつ 上達 す るのか 心配 です 。 それ で も、 いつ 旧グ アダ ルー ペ 寺 院 か 本場 スベ イ ンに行 っ て話せ る 日が来 る迄 、末長 く続 け て行 きた い と思 ってお ります 。 ‖ ポサタ・ キ リス ト・マ リア様 にま つわ る物語 を子供たちが 演 じて、最後 にお菓子や 果物等が入 つた ビニ ャー タ害」りを し、皆て拾 いま にて ) す。 (現 lr_の 幼「 =巨 Ahora Tenia todas nucho estoy estudiando el espattl despu6s de mucho tiempo. muchas ganas de aprenderlo. Pero se ne olvidaron casi las palabras. Antes, yo hablaba 口6s que ahora He falta espa=ol. Mi fanilia y yo viviamos en M6xico por el lI::::: ;: Il il:I:° tsl:=:17:i:n198:ilni:81u:h19::igii:1〕 a lin:ljlil11° i6n::::.enEIi::CIbll° II ::::inl:eall:。 : llbl:l:n la::lten:lal。 ::s i::::I I:: :Ilellim。 :eIIci:° i: :ld:ed:CI:11:: aunque nos cost6 mucho trabaio para ViVir. Si hubiera hablado espa五 ol bien, habria podido hacerme aniga con los mexicanos. Puse, cada lunes hay clase de espanol. His.companeros y yo estudianos casi una hora y media. Cuando oi la grabacion de dialogo ■o pOdia Oir bien porquc hablan demaciado rapido para llba五 :u;eH:Iic:lbilap:::le::1:r::C:::al:IIevelsell:n:I口 ::tica ademas habla Japones con soltura. Aunque yo trato de hablar en espa饉 ol, le pregunto a la profesora en iapones. Por esta raz6n, mi espa五ol necesitara unos attos mas para hacer progresos. QuierO estudiar el espanol por muchos anos hasta quc hable bien en Espatta Micko Yahagi 国際交流 ご関 する あなたの体験、 ご意見 を お寄 せ くだ さい。 投稿 規定 :25文 字 ×30行 以 内=題 名 、住所 、年令 (学 年 )を 明記 の上 、 鎌 ケ谷 市国際交流協 会事務 局 (市 役所 3階 企画課 )ま で。 記 載 され た もの には、謝 礼 をお送 り致 します 。 Kl Misce‖ aneous lnforrnation KIFAパ ー テ ィ ー '98の お 知 ら せ KIFA WINTER PARTY 菊花薫るこのごろ、年に一度の、皆様がお楽しみにし てい る KIFAバ ー テ ィー の詳細 が決 ま りま した ので こ 案 内 い た します 。 外 国人 の方 々 と交流 をはか った り、 ゲー ムや ア トラ ク シ ョンに参加 した り、楽 しいひ と時 を過 ご しません か 。 KIFAパ ー テ ィー は、 国際色豊 かで 賑や かな パ ーテ ィ お気 軽 に ご参力Πくだ さい。 えL 会員 以 外 の方 も参加 で き ます ので 、お友達 や お 知 り合 い の 方 もお誘 い くだ さい 。 (日 小 中学生 ) 12時 ∼15時 (受 付 11時 30分 よ り) 所 総 合福祉 保 健 セ ンター 費 会 員 1,500円 ザ 員 中 込 み 11月 9日 会議 室 外 シークレ ツト お よび (月 外 国 人 1,000円 )ま で に、参加 費 を添 えて直 接 事務 局 (市 役所 2,000円 3F)で チ ケ ッ トをお受 け取 りくだ さい . 会員 外学生 1,500円 学生 会員 1,000円 ・――,― ――小 ・The ^…・ …… 6F大 会 │ floor. It is the building located directly behind the city hallo See you there. Tickets are available at the KIFA office。 (¥ 1,000 per persoll) ー です 。 また、軽 い食 事 と飲 み物 も用 意 してお ります 。 時 1998年 11月 15日 be held on November 15th, Sundav. t° This year, KIFA (Kamagaya lnternational Friendship Association), will hold its annual “ international' winter party on Sunday, Nov。 15th, from 12:00 to 15100. The location is the same as last year's party ; Sogo Fukushi Hoken Center, 6th 問 い 合せ 国際交流協会 事務局 845-1141(内 )550 ウ十一タイム Secretヽ Vartilllle Tunnels =Dover= この 夏 、友 人 の 住 む英 国 の ドー バ ー を訪 れ た。 日本 で も、 ドー バ ー 海峡 に向か っ て立 つ 白い 崖 で有名 な場 所 だ。 この 白い 岸 の [1に 二 千年 の歴 史 を持 つ ドー バ ー城 がそび えて い る。 この城 の地 下に秘 密 の トンネ ル が あ る事 を知 る 日本 人 は少 な い ,ナ ボ レオ ン と戦 った 頃 、す で に二 千人 の兵 士 を収容 す る こ とが で きた とい う中世 の トンネル 。第 二 次世界 大戦 時 には、そ の トンネ ルの上 と下 に新 しい トンネ ル が加 え られ 、 司令 本部 や地 ド病 院 が作 られ た。 この トンネ ル の 中 を45分 か けて 案 内 して くれ るツア ー が あ る。対岸 の フ ラ ンスに までせ まった ドイ ツ軍 と戦 っ て負傷 し た兵 士 達 が治療 を受 けた とい う手 術 台。薬 品 の 匂 い が立 ち こめ、 血の 付 い た布や 器 具 が散 乱 し、 医師 た ち の 緊迫 し た会話 がテー プで 流 され て い る。 まるで 当時 の世 界 に タイ ム ス リップ した よ うな感 覚 に させ られ る。英 国 を訪れ る 機 会 が あ った ら是非行 って み て ほ しい興 味深 い場 所 で あ る。 鶉 耐 講 師 に市 内在 住 の 品川 雅子先 生 をお迎 え して、 日本 語 指 導 の研 修 会 を行 い ま した。 テー マ は 「外 国人 の 間違 い ∫ 10周 年記念事業 で好評 だ ` やす い 語法 」 です 。 ボ ラ ンテ ィア講 師ば か りでな く、聞 │][[[│[1旱 ][]][[:]:[:][[::i 心 の あ る数名 の一 般 参加 者 もい ま した。 研 修 の ほんの一 部 を紹 介 します 。 次 の 文 は 日本語 と してお か しい ところが あ ります 。 講 > 閉 当 同 担 △口 ︿本 た 部 ま 修 非 研 是 < ま に す 末 ま 度 い 年 て っ 0 す 思 で ル︶ こ う う よ *川 の水 は、寒 か った 。 る 戴 レ カ て 参 し ご り´ に た 式 *私 は来年彼 女 を結 婚 します 。 *こ の 辺 は、お おぜ いの本屋 が あ ります ね 。 単 語単位 で翻 訳 したた めの 間違 い です ね . *お もしろいの本 あ りませんか。 *2に しいだか ら *大 丈夫 けど *分 かるですか 品詞 の取 り違 えです。 でもネイテ ィブ としての 日本人は、正 しい 日本語 を使 っ ているで しょ うか。話す事 はたやす いのです が、教える 編 事 は、奥 が深 く、難 しく終 りがあ りません。 廿 18拿 暴 霊 鮭 天 会 :暉 痣 茎 晨倉 冒驚 維 葬 ・・ ・ │●・ ・ ●・ ・■ ,。 ・・ ││● .(●・ ● 〓・ ■ 一ゞ ● 0ヽ ・ :麗‐ ●● `■ ■ ■Ⅲ Ⅲ ⅢⅢ ■■ ・Ⅲ ` 集 後 記 今回も色 々な行事があ りま したが、各部会 のご協力 を 頂 き、無事34号 の発行が出来 ま した。あ りが とうござい ま した。9月 にワカタネか ら高校生をお迎 え しましたが、 次号 でお伝 え致 します 。 (Ko O)