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朱旭・洪洲氏 歓迎の集い(7月1日)

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朱旭・洪洲氏 歓迎の集い(7月1日)
――一一―――一―一一J
﹁
大 地 の 子﹂ の 一場 面。 病 気 の 日本 人
残 留孤児陸 一心 ︵
左 ︶を労 わ る陸徳 志 を
演 じる朱旭氏
映 画、演劇 、囲碁﹂ 7月1日
﹁
│
│
│
L.____一
朱 旭 氏 、 洪 洲 氏 歓 迎 の集 い
達人と の約束 を守 り 、
一度も 日外 した
こと はあ りま せ ん。ま た、愛新覚 羅淳
儀 の生涯を描 いた テレビ ド ラ マ ﹁
末代
皇帝 ﹂ では戦後 ソ連 で収 容 された津儀
を演 じま した。 こ のド ラ マには杉村 春
日中文 化交 流協 会 は、 7月 1日、来 日中 の朱 旭 、洪 洲 両氏を歓 迎す る集 いを
東京 ・丸 の内 の三菱 ビ ルで開催 し た。 こ の集 いには役 員 、会 員 など約 1 00名
子さ んや千 田是也 さ んとも親交 の深 い
が来 場 した。
藍 天野が出演 し て います 。私 が初 め て
北京 人 民藝 術劇 院 の俳優 と し て、 さら に映 画 や テレビ で活 躍 し て いる朱 旭 氏
話劇 で共演 した のが藍天野な のですが、
は、 1 99 0年、 N HKと 中国 中央 テレビ の合作 ド ラ マ ﹁
大 地 の子﹂ に出 演 、
0周年 を
2012年 、北京 人藝 が創 立 6
日本 人残留 孤児 陸 一心 の養 父を 演 じた。洪洲 氏 は戦争 に翻 弄 さ れた 日中 の囲碁
2
棋 士 の友 情 を描 いた 日中合作 映 画 ﹁
未 の
完
対
﹂
︵
︶
の
本
を
が
け
か
局
年
脚
手
た
は
、
迎え た際 に記念 公演 ﹁
甲子 園﹂ で再度
8
長年 にわ たり 日中文 化 界 の囲碁交 流 に尽力 し て いる。 こ こに両氏 の話 の要旨 を
同じ舞 台 に立ち ま した。 お互 いにこれ
が最後 の舞台 にな らな いよう にした い
6
じ
現在 ま で 6
し
年
間
話
を
談
劇
演
て
い
と
冗
を
言
い
合
い
ま
す
ま
た
。
。 そ の他 にも
朱旭氏 徘傷
そ の間 、老舎 の代表作 ﹁
茶館 ﹂な ど の 文化大革命 中 の四川を舞台 にした ﹁
小
ほか、 ﹁ケイ ン号 の叛乱 ﹂のクイ ーグ船 巷名 流﹂ など 、演 じた役 柄を挙 げ れば
私 は 1930年 に遼寧省藩 陽市 、当 長 、ナチ ス のヒト ラーを 題材 にした ﹁
屠 本当 にきり があり ま せ ん。
︲
3年 、 ﹁
ど
時 の奉 天 で生ま れま した 。翌 3
じ
年
の
九
・
夫
﹂
海
な
外
の
作
品
も
数
多
日
には 8
演
て
き
本
く
茶 館 ﹂ の公 演 で初
5
し
一人事 変 から中学卒業 の4
年
で
戦
映
ま
れ、耳 かき売 り の老 人を演 じま
ま
た
画
で
は
﹁
愛
瞼
こ
の
櫂
に
手
め
て
訪
、
、
。
9年 に北京 の華 北 を そえ て﹂ で四川川劇院 の達 人 か ら門 した 当 時 か ら感 じ て いた 日本 の清 潔
争 を体 験 しま した。 4
。
大学 に入学 、在 学当時所 属 し て いた文 外 不出 の技 芸を伝授 されま した。今 で な印象 は今 でもま ったく変 わりま せん。
工 二団 が後 の中央戯劇 学院 の話劇 団を も 好奇 心旺盛 な映 画 フ ァンから ﹁
愛 瞼 ﹂ そ れ以 来 、 日本 と の縁 は 深 く 、 ﹁
大地
︲年 には現在 も 北京 人
経 て、現在 の北京 人民藝 術劇 院 になり の秘密 を 聞 かれ る こと があり ます が、 の子﹂ のほか、 9
9
ま した。初 め て話劇を演 じた のは 4
年
で活 躍 し て いる俳 優撲存 所ととも に
藝
の﹁
生産 長 一寸﹂でした から、 それ から
﹁
乳泉 村 の子﹂ に出 演 し、 栗 原 小 巻 さ
んと共演 した こと など、たく さ ん の思
い出 があ ります 。
0年 の節 目 にあ
﹁
大 地 の子 ﹂ は戦 後 5
た る19 95年 、 NH Kと 中国中央 テ
レビが共同制作 した テレビド ラ マです 。
日本 の中 国 への侵略 、 そ の戦争 に巻き
込ま れた両国 の人 々を描 いた作 品 でし
た。昨 日、主 人公 の日本 人残留 孤児 陸
一心 の実 父を演 じた仲代 達矢 さ んと 再
会 しま した 。仲 代 さ んと はまた新 し い
作品 で共演 しようと約束 し合 いました。
︵
F﹄螺膚﹄︱
隧ド﹄仁鰤威
NO.8322015.8.1 (14)
流
交
化
文
中
日
(第二種郵便物認可)
66年の演劇人生、1983年に 「
茶
館」公演のため初来日した思い
出などを振り返る朱旭氏
また今 日 の昼 には陸 一心役 の上 川隆也
さ んや、当 時 の撮影 チ ー ム の皆 さ んと
も食事 をす る こと が でき 、懐 か し い思
い出を 語り合う こと が できま した。原
作 者 の山崎豊 子 さ んが亡 く な ってしば
らく経ちま した が、中 日関係 の大 切な
こと が彼女 の作 品 のな か には っきりと
描 かれ て います 。彼女 は素晴 ら し い作
家 であ っただ け でなく 、詩 人 でした。
﹁
大 地 の子 ﹂ も ま た 詩 のよう な響 き を
奏 で て いま した 。彼女 が執筆活 動を 通
じ て伝え よう と した思 いを我 々はじ っ
かりと胸 に刻 ま なけ れば いけま せ ん。
私 の演 じた養 父陸徳志 が紅衛 兵 にな
ぜ 日本人 の子供 を育 てる のかと 批判 さ
れ る場面 があり ます 。後 にあ の場 面 は
ど んな気 持 で演 じ て いた のかと聞 かれ
る こと がよくあ ります 。当時 よく 思 い
出 し て いた のは、周恩来 総 理 の ﹁か の
戦争 では、中国を はじ め多 く の国が軍
国主義 に傷 つけら れた 。同時 に、 日本
人民も また 軍国主義 の被害 者 であ る﹂
と いう 言葉 です 。そ れを思う と 、﹁
大地
の子﹂ で日本 人 の子供を育 てた養 父 の
行動 には間違 いはあり ま せ ん。 日本 の
軍国主義 と 日本 の人 々を 一概 に論ず る
こと は でき ま せ ん。最近 では中国 が豊
か になり 、周 囲を苛 め るよう にな る の
ではと懸念 す る人も いま す が、中国 に
は﹁
小 人 の心を 以 て、君 子 の腹 を量 る﹂、
ま た 、中 国 の伝統 的価値 観と し て ﹁
己
の欲 せざ ると こ ろ、人 に施 す こと な か
れ﹂と いう 言葉 があり ます 。 こ のよう
な価値観 は世界 のど こに い っても尊 重
され る べきも のだと 私 は思 いま す。南
ア フリカ共 和国 の元大統 領ネ ル ソン ・
マンデ ラ氏 が いい例 です 。彼 は黒 人 の
権 利を 勝ち取 るた め に闘 い、 そ の後も
決 し て騎 る こと はあ りま せ ん でした。
去年 、残 念 な こと に私 の妻 で脚本家
7歳 の大
の宋鳳 儀 が亡 くなりま した。 8
往生 でした。最後 に彼女 が書 いた脚本
理髪 館 ﹂ は、本 来 私 が演 じ る こと を
﹁
想定 し て書 かれたも のです 。当 時私 が
病気 にな ったた め、 そ の役 を演 じ るこ
と が でき な か った こと が唯 一の心 残り
です 。生前 は脚本 や小説 で賞 も いただ
き 、晩 年 には ﹃
夕 陽紅 中話朱 旭﹄ と い
う エ ッセイも 刊行 しま した。と ても充
実 した 人生 を送 ったと 思 いま す。
シナリオライター︶
一
状洲継仄 ︵
198 2年 に公 開さ れた 日中合 作映
未 完 の対 局﹂ には、当初 は戦争を
画 ﹁
背 景 にす ると いう意 図 はあ りま せ ん で
した。と ころが 日本 側 の監督 を務 めた
佐藤純 輛 さ んが脚本を読 み、 これを単
な る日中 の棋士 の友情物 語 に留 め ては
いけな いと提案 した のです 。 そ れがき
っかけ でそ の後 3年 間、
佐 藤純 爾監 督 、 せた こと はそ の経 歴を参 考 にしたも の
徳 間康快 先 生 らを はじめ多 く の日本 の です 。も ち ろん、 阿明 は最後 には悲 惨
未 完 の対 局 ﹂ な最期を 遂げま した ので、 そ こは呉名
皆 さま の協 力 を 得 て、 ﹁
の脚本 は軍国主義 を強く批 判す る内 容 人と は関係 のな いシナリオ にな って い
ます。
のも のに仕 上 が った のです。
そ の後 、呉清 源名 人 は 2度 、 日本文
脚本 の見直 し にあ た っては、昨年 1
00歳 で逝 去 された呉清 源名 人 のアド 化界 囲碁訪 中 団 の名誉 顧間と し て中国
バイ スも受 けま した。作 中 の日本 に渡 を訪 れ て います 。 こ の訪 中 団は、 19
った中 国人棋 士 阿明 は、呉名 人を モデ 85年 に中 国 の首 都文芸 界囲棋聯 誼会
厳 文 井会 長 ︶ と 日中文 化 交 流協 会 の
ルにしたも のではありま せ んが、 そ の ︵
人生を参 考 にさせ て いただ いた部 分 が 協議 により実施 したも のです 。当 時 、
少 な からずあ った から です。 呉名 人 は 私 が同聯 誼会 の秘書 長と し て、 日中文
少年期 に日本 人 に見 い出 され、 日本 に 化交 流協 会 は当 時 の専 務 理事 白 土吾夫
渡り腕を磨き才能を開花 させた のです。 氏 が交渉 の代表者 で、現在 の専 務 理事
呉名 人 は戦時 中、 日本 に いな がら数年 中野暁氏 が担 当 し て いま した。 以来 、
4年 続 け られま したが、 団長
間祖 国 の国籍 を失 った ことを ひど く嘆 訪 中団 は 1
未完 の対局﹂ の後 を務 めら れ て いた江崎誠致 先生 の求 心
いておられま した。﹁
半部 分を 阿明 の国籍 を テー マに展 開 さ 力 なく し ては これ ほど の成 果 は為 し得
ま せ ん でした。あ る宴席 で のこと です
が、江崎 先生 が作 家 の井 上光 晴先 生 に
次 のよう に仰 って いた のが深く印象 に
私たち
残り、今 でも忘 れられません。﹁
は中 国 に来 て碁を 打ち 、酒を飲 ん で い
るが、 日本 が か つて中国を 侵略 した こ
とを忘 れたわけ ではな い、今後 も忘 れ
る こと はな い。私 たち は囲碁 の功 徳 に
感謝 しなければならな い﹂
。囲碁を単な
功徳﹂
るゲームや競技と し てではなく、﹁
と し て表 現 した人 は私 の知 るかぎ り 江
崎先生だ け です 。 それは、江崎先生 が
長年 反戦を テー マに作 品を発表 し続 け
て いた作 家 であ ると いう こと に理由 が
あります 。 か つて戦争 への参 加 を余 儀
なく さ れ、 フィリピ ンでそ の残 虐性 を
目前 にし て いた 江崎先生 は、ず っと 中
未完の対局」詣1作と
映画 「
日中囲碁交流の思い出を語
る洪洲氏
(第二種郵便物認可)
流
交
化
文
中
日
(15) NO.8322015.8.1
作家の (左か ら)江崎誠致、井上光晴両氏 と手談 を
交 わす洪洲氏
国 へ行 く ことを躊躇 し て いま した。あ
の侵略 戦争 を考え るとき 、中国 へ行 っ
て飛行 機を降 り た自 分 に何 が語 れ るだ
ろう かと苦 悶 し て いま した。 し かし、
日中文 化交 流協 会 か ら囲碁交 流 のため
に訪中し てほし いと誘 いを受 けたとき 、
初 め て決心を 固 めた のです 。先 生 は、
囲碁と は時空を超 え 、人と 人 の心を繋
ぐも のだと 語 って いま した。以来 、先
生 は毎 年 のよう に中 国 へ行 き 、 200
1年 に逝去す るま で、 日中囲碁交 流 に
尽力 し続 けま し た。
日本文化 界囲碁訪 中 国 のほか に、 1
996年 以降 、 日本書 道 界囲碁訪 中 団
5回も 中国を 訪 問 し、中国 の文 化 界
が︲
囲碁愛 好者 と深 い友 情を結 びま した。
両方 の訪 中 団を合 せ ると延 べ300名
以上 が中 国を訪 れ、訪 問 した都市 は、
北 は黒龍 江省 、南 は桂林 、西 は新 彊 ウ
0 ヵ所 以 上 にも 及び
イ グ ル自 治 区 など 3
ます 。 200 7年 に私 の著書 の日本 語
田中廣悦 訳 、棋苑
版﹁
白 と黒 に遊 ぶ﹂︵
図書 ︶ が刊行 さ れた際 には、書道 界囲
碁訪 中 団 の団長を何 度も務 めた大 井錦
亭 先生 が題字 を揮墓 し てくだ さ いま し
宝﹂と し てわ
た。 そ の作 品 は今 でも ヨ里
が家 に飾 ってあ りま す。ま た、刊行 に
あ たり、神 林留 学生奨 学会 の神林章夫
先 生を はじ め文 化 界 、書道 界囲碁訪 中
国 の団員 の皆 さま が少 しず つ資金 提供
し て下さ いま した 。大島 正雄先生 、大
門武 二先生 には編集 のた め に多 大 な協
力を し て いただきま した。本当 に日本
の皆 さま には感謝 の気持 に堪え ま せん。
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