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Page 1 Page 2 ~重商主義は國内に多くの金銀を蓄積することを以て國
、 一
コ
幽三
四
アダムー・スミスの経濟政策原理
目 衣、
﹁國富論⋮﹂の立思義
スミスの考える富及びその増進の方法に關する理論
ツ四〇
’.
(一
尾
O
重商主義の批判i自由貿易主義の・王張
結
松
●
O,.
一﹁國富噛論の意義レ
重商主義は國内に多くの金銀を蓄積することを以て國富の増進であるとレ、それを目的として、國家の極端な保
護干渉により外國貿易の効果を利用した所の政策であるが、その政策匹成功によつて商業資本が蓄積され、その商業
一資本の襲展する所、それが漸次灌業資本に轄化せんとするに至りて、重商主義政策そのものが生薦力のより以王の嚢
展の爲めには矛盾した政策艦系となるに至つた。.帥ち猫占的特許會肚の如幽存在は、國民の自由なる簾業活動を制限
・し、伸びん乏する生藤力を抑腰ル、順調な國民経濟の畿展を阻害する様になつて來たからである。今や時代は輻回せ
んとしている。近代的産業維濟焚展の爲めには、從來の重商主義的政策から新しき塵業資本主義的政策へ、即ち國家
干渉主義の政策を打破して、自由放任主義の政策へ゜と︵韓回せねばならなくなつて來たのである。ρ
ロ へ
モ
此の兆候は十八世紀のイギリ・スに於て早くも現れていたが、それが一つの學問的な罷系として理論付けられ、重商
主義の批判としての自由主義緯濟學の原理を確立した0はアダム・°スミス︵㌧r住壁p 臨W営P帥けげ H刈鴇lH刈ΦO︶であり、彼
の畢生の大著﹁國富論﹂︵↓げoミΦ巴墜O﹄Z9鉱o口゜・︶がそれを代表する金字塔である。
総て圭義政策の主張には、その基底に於て哲學、倫理學、更に肚會學及び歴史の研究がなければならないコ此の意
味に於でス隻は哲學者であり、とりわけ優れた倫理學者であつた。と同時に彼ぱ肚會學者であり、且叉、歴史家で
あつた。彼は今羅璽の誼として多くの入歪霰されている蒸し彼は、今泊の意肇於ける轟化詫奪
も
門維濟學者と云うことは出來ない。彼は哲學者之して、、叉肚會學者として、又歴吏家として、その豊かな思索と、現
アダム・スミスの経濟政策原理 ・ ︵四一︶・四一
、 , ・ ﹂︵四二︶・四二
實への廣くて深い観察とハ又それに基づく豊富な材料どを以て経濟學を展開したのであり、從つてその規模は甚だ大
ゆ ド コ た ズ
きく、包括的であり、然も現審︵的である。スミスはた貸思い付きや何かで雷丁なる自由主義政策を掲げたのではない。
彼は入聞そのもの玉性質を深く研究した結果、生來利己的な人間は利己的な入間として充分に活動せしめねば國富は
増進しないという結論に到達し、その結論を中心忽し’て利己心の表現とも見るべき分業と交換の基礎の上に立つてい
ヘ へ
る近代的な丈明肚會︵9く罠N巴ωo鼠Φ畠︶、それは市民耐會︵o貯出ω09簿団︶と呼ばれる所のもので診るが、その市
、 ・ 9
民肚會に於ける生活の理論を魂め、物質的富を増進する方法を明らかにし♂そ轟が實際葡に國民の繁榮と幸輻とに合
致・するものであることを明らかにしたのである。書名に﹁諸國民の富の性質及び諸原因に關する研究﹂︵﹀昌冒ρ鼠蔓
ト ゜ 町 − − !・
凶μ8昏Φ2錬仁N①9二岬孟O鋤信のoωO﹄昏①芝①巴昏o剛2鋤自O旨ω゜ド謡9︶とあるのは、明らかにそれが一つの理論的な
、科學的書物であるごとを示して払る。然し同時に彼の書物ば輩なる経濟理論の書物ではなく、経濟政策の書物.でもあ・
る。そのことは、彼の著書の内容を縮くことによ℃極めて明らかとなる。即ち彼に於ては、経濟學は正しぐ経濟政策
ヒ ・ 、 . ・ \ .
の爲あに存しκいる。それを端的に示す言禦は、國富論第四編の一番始めに於ける彼の有名な丈句であるが、それは
吹の如く書かれている。﹁政治菱は立法者愚簡の一部門と老えられている経濟學︵やo馨囲o鋤80き営矯︶は、二
つのはつきゆし畜的・論している菱・箪陰、λ抵充盆る牧入︵ー婁・議ち生藝響供給する・
ニ、第二には、國家印ち公共團艦︵Ooヨ場oβ毒o巴爵︶にその公共の仕事を行うに充分なゐ牧入を供給してやること、で.
と、否もつと適切に云えば、入民の爲めに斯の如き牧入即ち生活資料を目分達自身で用意、出來るようにしてやるご
. ’ 藍 、 ・
マ
ある。從つ,て経濟學は人民と君主︵o口Oく⑦﹃①一晦旨︶の双方を富ますことを企圖している﹂と。スミスに於ては、維濟學
’ ︵註一︶
㍉・
が理論の龍系でめると共に、それは叉同時に貫際の政策の爲めの髄系であり、此の爾者の間に何等の、腿別が立てら妙
ていない。
彼の主張は要するに、利己心は人間泊然の性情であるから、肚脅を組織する各個入の利己的活動は、正義の法
︵讐Φ冨≦°・oh旨゜。江8︶ー自己の橿利を蝉重するが、同時に他人の罹利も曾重するーを侵害せざる限度に於噛て、
”
へ
う之を自由放任に任せよ。各人が自己の資本並びに勢働を使用するのは、自己の利釜の爲めに使用するのであつて肯決
、 −
して甦會[似利釜を目的と←てそのハ爲めに使用するのではな払。然し此の自己の利釜を圖るとい゜うことは、彼の意圖に
關係なく、﹁一つの見えざる手﹂に導かれて就會全罷の富を最もよく増進し、叉國家を富ますことになる。何故なら・
, ぱ、自己の利釜を圖ることは結局彼に、より多くの利釜をもたらすことになり、自己が富むことは、全鰹から見て耐.
會を又國家を富ますて乏になるからである。 ﹁私は公共の利釜の爲めに事業をする様な風をし゜てい乃汰汝によつて、
9多みど妻爲さ発嘉うことを未だ曾て駁たζとがな塵僻人の自利追求は之を鼠放籍してを方が・
回 凸 虚 ’、
ロ サ
﹁彼が眞に就會の利釜を増進せんと企てる場合よりも、もつと有勘に肚會の利釜が塘進されること屡々で−あるからで
ユ筆之が利忌の葵姦用である・故に興の畠鐘隠動竈孝る・・な謬王義輻度・一撰除
アダム・スミスの輕湾政策原理 油 ︸ 、︵四三︶ 四三・ 、
亀
’ ▼ 一 ’
拳
手段を提供することになる﹂と彼は云う。スミスは斯ういう思想的基礎の上に立つて、個人の維濟生活に封する國家
・ .. ︵註六︶
,等自身は少しもそれを企圖す惹乙とな−く、叉それを意識することなくして、就會の利釜を進め、叉人類の塘殖に封し
、 .りでに樹立せられる。﹂その制度の下に於ては、各人は﹁一つの見えざる手︵Ωユ⇔置く賞旨冨び海α︶に導かれて﹂﹁彼
鳶影 ,︵註四︶ ‘ τ − . ︵註五﹂
す
れ
ば
、
そこには﹁簡明なる自然的自由の制度︵陛Φoぴユo毒9。巳ω言宜Φω矯ω8日o剛舜欝話=箭霧畠︶・がぴと
/ . 、
︵四四︶ 四四
然し高島敷授も云う檬に﹁彼の理論的混臨は後の學問にとつて絶好の暗示となり、彼の矛盾は後に遜展し、相封立する護至
ある。八三浦新七著﹁東西文明史論護ご蝋六九−三八九頁0 ° 、 、 洗
”が巧みに璽梅せられて嘆賞すべぎ調和を得て居る﹂膿系で、.﹁國富論﹂は﹁アダム・ス・、スの濫系なき禮系﹂だと云う批評が
すぐれた見本である。 ︵高島善哉編﹁スミス國富論講義﹂1、五頁及七九頁。︶﹁又彼の著述は⋮⋮矛盾した思想、異れる意見
瀞スミスの﹁國富論﹂は、マルクスの﹁資本論﹂のよ5に、首尾.一貫した理路整然たる論理的膿系の書ではない。矛盾と混齪の
ゲ
てはへ極めて樂観的な信仰を抱かしあたと云わなければならない。 咤
放に全精力が尚けられた。それが彼をして個人の利己的螢利活動の自由放任を強く主張せしめ隔、その放任の結果に就
ノ ア
ノ
制度そ.のもの﹂獲展過程を豫見するに至らす、當面の課題である重・商主義的諸制度の批判に急であり、叉之よりの解.
る意義が認められねばならない。たf彼は、資本主義杜會獲展の前夜に立つていた學者であつたが爲めに、資本主義
會に封する鼠皐冨な槻察、そレて叉人間肚會㊥歴応的解剖によつて得られたもの.である所に、 ﹁國冨論﹂・の光彩陸離た
ぬC自由主義、’それは決して塞想的な猫断によつて形造られたものでなく、㌦精細な彼の汰間性に關する研究、入間砒
ド ノ
の全領域を殆んど包括する程の総括性を持つ、全艦としては渾然と融和した﹂つの膣系に組み立た。彼の経濟學を貫
ぜ ヒ こ
偉大な経濟學者であつたことは疑う飴地がない。彼は當時のあらゆる學読を集積し、それを、 一つの偉大な、維濟學
リ ァ
は経濟科學の唯一の創始者でもなければ、叉経濟科學の礎石を据えた唯一人の人でもない。然し彼が嘗て見ざる最㊨
の主張となつて現れたが、その思想、その理論、その主張は、何れも彼の猫創的研究の結果生れたものではない。彼
此の利己心を中心とする自然的秩序の哲學、重商主義的束縛からの解放の理論、それは螢利活動に於ける自由放任
ノ ロ ヘビ へ
の干渉を徹底的に排除して、自由放任を主張するのである。 ’ ・
「
,
つた諸學派の生みの親となつた。﹂︵高島善哉編集前摘書七九頁︶のであり、﹁國富論﹂は時勢の攣化にも拘らず、依然として現
代経濟學者の先ず學ばねばならぬ活き.ている名著である。 ‘
、前掲高島善哉編集↓スミス國富論講義﹂β現在の所1・2・3は既刊、、4・5は未刊︶は極めて優れた解設書熔ある。
︵註一﹂ 目9,≦o巴昏9累帥試8ω゜O彗昌雪”・。畳ごくo一﹂・U・、ω8・﹂﹁國窟論﹂の邦謬は、竹内謙=博士謬︵改造文庫︶と大内兵
、 \
守達二頃鉾一くこO餌bじ炉
弓げ¢月げ8厭︽oh]≦o冨一ωo昌け坤ヨΦ昌叶ω゜゜gd渥一く°℃Oゲ四掌一゜
ご
Hσ達゜ ” < o 一 ゜ 目 ゜ 冒 ゜ 画 b コ ド
一σ冠ご く o 一 ゜ 一 ゜ ℃ : 心 b o 一 ゜
衛博士課︵岩婆庫︶とρ二つが蕃よいと思う.携謬文縫等譲奮負ケ所が多い.. ,、
︵註二︶
︵註三︶
ド
︵註四︶
︵註五︶
︵註六︶ 守罷こしd搾゜一く;Oゴp”°岡゜
ニ スミス⑳.考える富及びその増進.の方法に關する理論
アダ声・スミスの纏濟政策原理 ﹁ , 國︵四五︶ 四五
︵oユαq圃己=畷︶供給する所の根源であつて・是等のものは常にそσ螢働の置接の生慶物から威るか、或はその螢働の
竃・帥ち﹁各盛の多の蕩は客國民が銀婆するあらゆる生活の絵品及び便宜品を各國民果源的に,
ものは議であるかぢ・聾は識の窪物でなけ農ならぬ・﹁國富論﹂書畠しの文句は次の薯な言馨始
國民が年救清費する所ひもの、即ち生活の必需晶︵口ΦOΦωω曽﹃一Φω︶及び便宜品︵60ロ︿①μ帥Φロo①ω︶である。それを造る
重商主義は富の實罷を貴金薦貨幣と考え、重農主義のそれは土地の生産物であつたが、スミスの老える富の實艦は
ノ
ノ ド ロ
︵四六︶ 四六
生霧を以て他の麗より葵した所のものま島繕と昆嚢がζス馨學の基本鑑すものである・,
。ス、、、スは、各國民が蓼に充てる爲めに年々生産蓄所の総てのもの、一般的に云つて國民の漕費物、髭点を置いてい有
印ち彼は、潰費者の立場に重黙を置いて富の生琵を考、えてい乃。此の雛ス、、、スの﹁國出口田論﹂より凡そ百年後に出版され虎マル
な コ
クスの﹁貧本狐齪になるど、.彼は資本主儀納生産方法の下に生簾される商口岬︵富︶を問題としているので、その商口㎜の生産手
.段である生隆財に笥しても深い研究をしているが、スミスにはそれは見られない。従つて資本の集中現象とか、資本主義制度
の矛盾とか、と云つた檬なことは、﹁國富論﹂には出て來ないが、之はスミスの時代が未だマヌLフアグチユア時代であり、、重商
の
主義時代であつたからで、彼は重商主義的束縛からの自鴎を主張し、個人の螢利的活動が自由である祉會印ち資本圭義肚會の
も
π到來を希求するに專府であり、−資本主義制度そのものN批剣とい5ことは一彼㊨生存申には未だ纏濟愈會がそこまで成熱して
ノ
の ロ の
雇らず、従つて問題となゐなかつた時代だからである。 − ・,.. ’ − −
富とは護何であるか。それは如何にして生産されるも、のであるか。その富は甦會的に如何に分配さわるか。輕濟祉會は李.
鰹として如何なる秩序をもつて循環するものであるか。是等の黙は何れも近代経濟離の重要課題であるが、スミスに於ては、−
富とは生活の必需品並びに便宜晶、印ちこ般的に云?て國民の浩費物であり、それば肚愈的螢鋤によつて生産される。而して
その冨が肚會的に如何に分配されるかという問題即ち分配論の問題になると、スミスに於ては本楼的な分配論は未だ充分に煮
き ぜ ノ
識されていない。 ﹁國富論﹂第一編の表題申に見られる﹁分配の順序﹂は紅會的分配の議論ではな9て、之は分配論の形をと
つた領格論の一攣形に過ぎない。本格的分配論はリカルドに至つて始めて正面から坂扱われる。°そして脛濟の循環、即ち貨幣゜
と物との循碧構想という慰なると、ス.・スは重毅派の影響壷けてい認も拘らず、﹁脛濟謹に於け富如き再生産畢
程募析とい混塩極めて髪警.之は嚢鑑髭べて・・嘉決定的に後退し3嘉で匁る.國富論﹂葵の
コ 任務はか富︵即ゐ螢働の生産物たる必儒品並びに便宜品︶の姜藩進に關する理論的究阻とその方法にあり、從つて國富諭﹂
を貫いているもの茎龍として生蓬論的議論であると云え惹。慰﹁蓄積せよ蓄膨せよであり、剰鰍傭値のできるだげ多い部
分を資本に魑化せよであつた。﹂︵大塚金之助著﹁世界資本主義贈達更、文献解題﹂’六頁、岩波書店。︶
ゴ の ノ し
スミスの考える富とは・必需晶及び便宜品であ句。それは螢働によつて造られる。故に富の増進の爲めには、結局
生産的勢働が増加すればよく、それによつて各國民の濾費物が豊富になればよいということになる。その富は年汝治
費される以上、それは年汝新らたに蓬られねばならない。その場合に於て、過去の劣働の蓄’積も亦重、要となる。過
’
去の螢働の蓄積たる資本は勢働の有用さ︵効果︶を大きく嵐るからである。然し乍ら螢働の痘用さは螢働の生産力
ノ
︵昏ΦO憎o山qo鉱くΦOoミΦ毎o胤冨げQ自婦︶によつて異る.が、その生産力を決定するものは何であるかという事が、彼の
維濟學の,最初の任務となる。
スミスによれば、富印ち生港の必需品及び便宜口㎜は、次の二つの原因によつて檜加される。即ち − ’ , ﹂ へ註二︶
﹁第一には、螢働が一般に用いられる際の熱練、器用さ︵血Φ×け⑦﹃諒団︶及び判断力︵甘魁ぴqΦ諺op叶︶によつて﹂であ
り。 、
し コ の
﹁第二には、有用なる螢働に從事する人汝、の数と﹁然らざる者の激との割合によつて﹂であるの
覧
︵註三︶
笹は勢働の寡懸で蓼・枳方如何の問題である・その質の馨・用努の霧如何に参℃、麓の生薦
の へ
力が異つて來る。スミスは勢働の生礎力を最もよく増進する諸原因を探求し、それは各人をしてその技能に慮じて仕
ノ ド く
事を分播せしむるということ.、邸ち分業︵巳く坤ω圃o⇔o捕冨ぴoロ﹃︶どいうことに最大原因を見出し、それが働螢の生産
力を驚くべき程に増進していることを、彼の有名なピンの製造を例に墨げて蓮べている。 、
弥此の分業論に於て、スミスは彼自身はつきりと囁別をして論じてはいないが、もヶ一つの分業即ち職業分業ど呼ばれる所・のも
’アダム・スミスの経濟政策原理 ’ ︵四七︶ 四七
ー 畠
− . 、 ︵四八︶ 四八
のを摯げている。魏は例えば大工と鍛冶屋の間に行われている分業などの如きであるが、之は前のピンの製造に於げる作業
分業とは性質が違ヶものである。然し何れにしても從來一人でやつていた仕事を多徽の人々の聞に分割して、各人が全艦の仕
め ヲ ノ キ
事σ一部を分捲し、從つて各人は夫々違つた仕事をしながちも、然し全騰とtては互に協力しているとい5こと、それはエ場幽
内に於ける作業分業であゐと、°或に肚會内に禁ける職業分業であるとを問わず、湘互に分割さわて作業の特化、職業の分化を
ヘ ロ
俘い乍らも全騰としては相互依存の關係にあるとい5こと.之が劣働の生産力を著しく高めること讐り、ス・スの云う富の
’生産を大いに増進せしめることになり、、﹁それは輕濟的進歩、肚會的進歩の最も有力灘要因の一つである。﹂︵劉O。.・,貸O巳盆
8昏①oり昆α鴇oh℃9簿$一国8昌o目ざ冨。。Oし唱゜μ①①゜︶かくして成立する肚會がスミスの云う文明辻會である。 ・
然らば何故に此の分業が嚢達するのかと云うと、それは公共の利釜などと蛎うことを考えない人間の性癖から自然
﹂ . ㌔ ﹁ ㌧, ° 9︵註酉︶
に出て來るものであ妙、−その性癖とは、 一物を他物と取引し、交易及び交換せん巴する人,間自然の傾向である、と彼
は云う。
以上によつて分る通り、一彼は交換の本能を入筒性に固有のものと君倣すのであるが、それは人汝が分業によつてそ
の生薩した所のものを互に交換する方が、そうでな,い自給自足の場合よφも自己の利釜になるからであり、人汝は自
ロ コ ヒ ヱ
己の’利谷を求姫て行動するというのが入間自然の性情と見るからである。こxに於て分業は利己心に獲する肚會的個
入の自己利釜追求の表現であり、叉それは同時に耐會そのものム利釜増進の表現であるとスミスが解繹していると云
えるのでかる。 ・ ﹁ ・ ・ , ・
從つて分業の利釜を籏大せんとするのは入聞の本性に從うものであり、、從つてそれ膝自然的秩序に從うものであ,
る。故にそれを充分に伸ばす様にしてやることが経濟就會の繁榮にとつて不可欠の婁件鶏ある。そこで此の本性を充
Q ’ 幽 ゜ 内 P
分に獲展せしむる爲めには從來の自給自足経濟から抜け出て、市場が成るべく廣くなることが望まレい。その理函
は、交換が磯展し、從つて市場が獲展しなければ、分業も磯展しないからである。斯くて、利己心を中心に分業と交
換の基礎の上に成る肚會、印ち丈明肚會乃至市民肚會に於ては、 ﹁各人が総で交換によつで生活する。・邸ち幾分か商・
ヒ の ノ し
人羨る・その藁そ紅會そのものは芒く一個の粟審と成詮麓語その商藷會しそ正に摘の資奎
義肚會である。
第この富の増加の原因は、國民の中で直接に財貨の生産に從事する者と、之をた貸沿費する者乏の割合如何という・
、
ことに在る免而して之は、一國の就會的総生薦中どれだけを生産的目的に向け、どれだけを滑費的に目的に向けるか
というその割合如何の澗題となゐ﹁。何となれば生慶的目的に向けられる部分が多い程、生産的螢働に從事する者が多、
. , ! ・
くなるから幽一國の富は増進することになる。之に反して、浩費的目的に向けられる部分が多い程、生産的螢働に從事
する者は少なくなり不生産的な酒費者が多くなるから、 一’國の富は減少することになるからである。從つて各國民の
、 、 ’ \
物的生活の豊富さ如何は、生産的勢働者と不生謹的勢働との割合如何におつて決定されることになる。
じ げ ド ゴ
こ玉で注意を要するのは、スミ・スの老える生産の意味如何であるが、彼は螢働の結果何か具艦的な形のあるものが
﹁ ’
出來て、それが他の便値あるものと交換出來る様な場合でなければ、それを生産と云はない。從つて彼にょれば、震
主、文武百官、櫓侶、法律家、讐者、”あらゆる租類の學者、さては又、’俳優、常間為二音樂家、オペラシンガi等々の
k
如く、他の入級の働勢の年生産物の一部によつて支えられている入汝は、それらの入々の仕事が如何に有用であり、°
’
叉如何に必要であるにし・ろ、後になつて他の便値あるものと交換の出來る具醒的な有形物牲何物も生薦しないが故に
アダム.スミスの脛濟敢策原理 一 ︵四九︶ 四九、
、σ証六︶
, ・ ︵五〇︶ 五〇
不生塵的であり、か﹂る不生産的入間が塘加すればする程その肚會は衰亡すると考える。 吟 .
此のスミスの老え方には、螢働が資本家に雇用されて、そこに資本利潤なるものを生することが前提として考えら
れている。スミスにとつては資本に利瀞は着奪ものであり、當然に存在すべきものであり、それば読明ずる必要がな
い程自明の事とされている。然し資本家に雇用されたスミスの所謂生産的螢働であつでも一利潤を生ぜす、却つて損
失の生する場合窓考えられる。.例えば恐慌の時などの様に却つて損失を生む場合もある。それにスミスが不生産的帥労
働ど呼ぶ所のもの、即ち具艦的に形のある物は何も生礎しないサーヴィス業などに於ても、そこに投ぜられた資本に
は利潤がもたらされてるのを、吾汝は普通のこと弐して現貴に見ることが出來る。してみると利潤を上げる勢働が生
傭的であの、利潤を上げない勢働が不生薦的であるということ﹂、具艦的に形のある物を生産する螢働が生産的であ
り然らざるものが不生産的であるということは別汝のことになり、之を混雑して了うと理論の混齪が生する。何とな
゜ 、 ° 、
れば具膿的に形σある物を造る生産螢働的螢働が、不況で利潤が上らす、從つて不生産的螢働になるということもあ
るからである。此の鮎に關しては、よく云はれる檬に、スミスは未だ資本主義最初の形態たるマ。ヌファクチュア時代
に立つていた理論家で、資本・王義生産組織の獲展が將來如何様になるかということを豫見するに至らなかつたからで
タ ロ ぐ ト ロ
あゑ從つ甕本嚢の麓は、麟組織全讐想聾て行き、時には恐慌のときのように、その嘉譲壌する、
こともあり得る﹂ということには氣が付かなか0たのである。彼は、資本の蓄積はそれだけ多くの.雇用螢働を増加
し、,そじて利澗が獲得さ煎て、それが反蓄積の増加となり、それは肚會的には物的生産力の籏大と増進がもたらさ
れ、かぐて維濟就會は釜汝繁榮するということ以上には深く考えていなかつたのである。從つ、て彼は、私有財薩制魔
を基礎とし、自利追求を自由放任に任すことに封しては.その前途に何等の不安を抱かす、コつの見えざる手﹂
︵£o昌一嵩く一ω一げ一Φゲ9︸μ甑︶の働きによつてもたらされる自然的調和には、絶大な信仰を持つていたのである。
峯 ﹂
從つでスミスによれば、経濟肚會を繁榮に導く資本の蓄積は、年女、生巌される肚會的総生産物中、年汝所得として
消費さ勉て了う蔀分を控除した、晩りの生塵に向けら瓢て刹潤を提供する所の部分、即ち資本を大遼くせ訟ばならな
い事になる。それには節約によつて、不生産的に沿費されて了う部分を出來るだけ少くし、盆産的に用いられる部分
を出來るだけ大きくす飾ことが必要である。斯く七て浪費を避け、節約を行い、資本として蓄積される部分大なれば
し
犬なる程、生慶的勢働を雇うことが大きくなり、生産的跨働の最が大なれば大なる程ザ 一國の富は増大する。故に富
を最も多く増加する爲めには、.生産的螢働を最も多く雇う様に資本を蓄積増加すべきであり、而してその資本σ最洛
有利なる使用方法は、その資本の所有者が之を最も有利な方面に使用して最大限の利潤を上げんとする努力噂甥し、
何等の制限干渉を行うことなく、,之を自由放任に放置して必くことにありとするのである。
若し此の條件が満されるならば、勢働の生産力は釜汝高まり、資本は釜汝蓄積されて、生薩的螢働は釜汝多く維持
される。斯⋮くして國民の富は愈々豊富となる。故に砒會を富ます問題としては、農工商共に最も廣恥範園に於て分業
ボ ゴ
が行はれる様にしこ又資本が潤澤である様にして、その資本の’使用をレて自然的秩序に從わしめることである。郎ち
資本の自由を認め、資本家をして自由に利釜を追家せしめること,が耐會一般の利盆にAμし、國民を冨ます℃とにな
るc
、 、
一 膏 ・
こ﹂にス・、﹀スの重商圭義的諸制度からの自由、即ち個人の螢利浩動はそれを自由放任に任すべき自由主義経濟學の
︾ダム・スミ勇輕濟政策原理 ︵五一︶五一 ・ 、
ノ
.︵丑二︶ 五噛二
墓本原理がある。 ・ . ・︸ 、
塑スミスは﹁國富論﹂第二編第五章﹁資本の異れる使用方法に就て﹂,と題する章に於て、資本投下の順序を羅げ、農業︵原始蓬・
,は人間の生産的労働の外に.自然の力即ち自然の悪みが加わるかあだと云5のであるが.之は勿論察褒鑑の影響姦く
業︶を笙、位とし、以下嚢、議業、肇とする.農業を箏笹し乏叢も生講だとするまたる理霞、農蕃於て
、.受けでいることを示すもので、今日で侭一般にその誤りなることが認められている。然し彼が重商主義︵B①触。㊤馨牒①。、。孚
リ ノ
゜唇。嵐。巨゜・誉琶の外國貿易偏重思想を攻撃レ、國内に生産力を保持し夏にそれを叢展させよケと考えた鮎で、ス、、、スにと
づτは、農業があらゆる生産力の基礎であり、工業は農業かち得られた素材に加工をすることによつて始あて護達すゐもので
ロ ム コ ロ ノ
あり、此の二つの産業の畿展に俘って運輸業や商業が起るのであり、従つて農業は他のどの産業よりも最も生産的で、之に資
︵註四︶
︵註三︶
︵註二︶
同σ置;<O一゜囲゜b°bo恥゜
Hげ置ごくo一゜一゜冒゜H凱゜
一露αこくO一゜野b°け
同σ達こく〇一゜H°b°巨゜
自由貿易主義の主張
Oo
餌謬
目ゲΦ芝OP一けげO帖一4卯ぼO昌u
G昌Pβ.已ゆ①α4<O一゜一゜唱。μ゜
︵註五︶
一ぼ幽二くOr一.唱゜ωH画゜
.︵註一︶
本を用5ることが最も有利な資本使用の方法であると云うことになる。
へ註六︶
ゴr ’
三 重商ま義の批剣
以上述べた如き自由放任主義の維濟學原理に立つて、彼は重商主義︵09昌日⑦煙鼠巴O冠導Φ容p。導闘げω団鴇Φ§︶の金
銀を目的とする外國貿易偏重主幾に封し痛烈な批判を加えると共に、一方に於て彼の本領たる自由貿易主轟を高調し
ている。彼の所謂召然的自宙の制度﹂︵け審望・け・ヨ。断葛葺・;げ。﹃毫はこ・に於て面目躍如たるものがあ
る。
彼は先す重商・王嚢が貨幣と富とを混同して居ること・を排斥しく次で重商主義は留ハ易差額の順調︵θげω︷9<Oロ周9◎三Φ
び巴p。昌ooO臨財鋤幽Φ︶が國富の塘進であるとの見解から次の如遼諸政策をとつたとして、之に一汝非難攻撃を加える。
ω゜輸入制限の方法として、 、・ F ﹁﹁ , . ・
雷㈲ 何れの國からの輸入庖あつ℃も、國内に於て生藤せられ得るが如き財貨を諸外國から輸入することに樹し制限
を加えた︵第四編第二章︶。 ・ ’ 、
之に繋しスミスは云う。﹁高牽の關視を課し叉は轍入の絶酎禁止左することによつて、國内で生塵し得るが如き財
、 ︵註一︶
貨を外國から輸入することに甥し制限を加えれば、國内市場の猫占は大なめ小なり確保される。﹂・そして﹁か玉る國内﹂
, ’ ノ
の勢働と資本のより大なる部分をこの特種産業に向わせるものであることは疑のない所である。﹂だが﹁・一勉會の㎞、
市場の猫占は、それが與えられる特種の産業に甥し屡々大きい奨働となり、而して之が無い場合に比し.て、その肚會
’ ﹁ ︵註二︶
、幾悟﹂竪証會の肇蕩は・そ続會の栗の量によつて制限せ・砦ものであるか蔭關撃の他の護
般産業活動ば、その祇會の資本が㌔︵その資本に欝する一定割合の螢働者数を︶雇用レ得るととろ以上であるこ噛とは出
によつて一耐會の資本その竜の玉量を増加することは出來ない。而して螢働者数も資本との一定割合を超えて増加し
ノ ヘ
ないから、從りて慶業の分量そのものが増加することもあり得ない。是等の手段は、﹁せいぜい、その産業活動の一
アダム。スミスの纏濟政策原理 → ︵五三︶ 五三
︵五四︶ 五四
部分を或る方向に即ちか﹂る手段がなかつたならばその方向に向わなかつたであろう方向に、向ける位のことしか出
來触咽︶鄙ち棄なら犠の嚢へ行く資本を保霧畢あ鳶めにそ窪業へ向零るだけにすぎない・
, ︵註五︶
然るに﹁すべてめ各個人は彼の麦配し得る資本に封して、最も有利な使用方法を見出だそうと 絶えす努力して趣
る。﹂そのことは先す第一に、彼をして國内麗業へ彼の資本を同わせる。その方が利潤確保の上に於て便利であり、
安金であるからでみる。第二に、﹁自己の資本を國内産業の支持に使用するすべての各個人は、生産物が最大の債値
ダ ロ
をもつような方向に向けようと必然的に努力する。﹂之が結局彼をして富ましめる。固よりそのことは、溢.貸最大利
ノ も
︵註六︶ , 匿 ・ ・
潤を得んが爲めの私利追求慾に駆られて行われるのであつて、彼はそこに於て些かも肚會の公釜を増進しようという
ことを意圖して居る繹ではないが、そうすることによつて、そのことは﹁見えざる手﹂に導かれて彼の思い設けない
目的、帥ち溢會を叉國家を富ますという目的、を達域憲のに役立つことになる。故に資本の使用は自由にすべき
ヘ コ ま
で・馨黍之に渉する・と嬉慈鹿げて渥か・でなく・それ憂葵危瞼㌫羅比︶ ・ ・
’F ︵註八︶−
又、外國から安く買えるものを國内で製造することは、國民としても個人としても愚である。何となれば、か玉る
ことは﹁その國の産業活動が有利な用途から不利な用途に移されることになり、、そしてその年汝の生産物の交換慣値
は、立法者の意圖の,如くに、増加せすして、いやしくもそういう規則が設け、られる毎に必然的に減少するということ
、︵註九︶ 、 、
起なる﹂からである。コ漏うまでもなく、此の様な規則があれば註或特種な製蓬業は、それが無い場合よりも一層早
く確立される﹂という利釜はあり得るに相違ないが、か玉る人爲的政策は、資本及び産業活動を、その自然の用途に
︵註一〇︶
.任せて置いた場合にその資本が猫りでに増伽するよりも一層速かに之を増加させるとMう⋮穣なこと−は、確かになざそ
!
うで馨L四云うのがスミスの毒の難であるが・穿はモに⋮あ畠貿茎鐘塗、極めて明瞭に捉
えることが出來る。
り ㈲ 貿易均衡が自國に不利である之考えられる諸國からの、殆んど一切の種類の財貨輸入に異常な制限を加えた
︵第四編第三章︶。
ほ ト ノ ロ げぎ ご コ
此の項に關する入ミスの批判は二部に分れ、先す是は﹁重商主義︵O◎5PdPΦ﹁O陣単一 ω嘱ωけObP︶の原理に基すくも伺且−
6不合理なることに就て﹂論する。今そめ.要黙を摘記すれば次の如くである。印ち英佛爾國が相互看易を抑制制限
し合つている結果は、英佛爾國民間の殆〃互,謬正當なる貿易を断絶せしめ、密輸をして利釜ある鴎雀しているμ
が、斯の如ぎは重商主義の原理に立つて見るも省、一國の富の壇進の上から不A口理極ま為ことではないか。たとえ自
由貿易の結果フランスに貿易均衡上利あるこ乏が間違いないとレても、之が爲めイギリス全艦の貿易が更に悪化する・、・
という理屈にはなるまい。況んや一旦輸入したフランス品を利釜を得て更に再輸出するならば、そのこと、は更に明瞭
である。オ・汐がフ・ンぶら薯婆輸入レて、・髪灌・ギリ桑譲出U深い篠けていると珍様駕
鹿なζとはなくなるだろうとスミスは論じている。 , ’
、第=部は﹁其の他の原理に立つて見るも是等異常制限の不合理毫・とに就て﹂論する。・・、・がこ完云う其の.
し き
他の騒とは勢皇露費鯨攣∼∼冨喜§い3塁暑9畿・巳§・§§︶であるが、た・え.
質易均禦鶉であつても、薗内の奮の生蒙年お纏を超過す昏なちば、それは響,颪が富んで行ぐこ止
ではないか。又たとえ貿易均衡が順調であつても、二國内の年汝の潰費が年汝の生産を超過するならぽ、それ億一國
アダム・スミスの経濟敢策原理 ・ . . ︵五五︶ 五五 雪
ロ ノ
・ . . ・︵五六︶ 五六
まるものであると一スミスは論する。.
が貧乏になつる行くことではないか。その鐵からしてた貸徒らに金銀の順逆に目がくれている貿易差額読は不合理極.
㈹ 輸出奨⋮働の伽方法として、 、 .
㈲ 戻視制度をとつた︵第四編第四章︶。
戻税は二つの場合に與えられた。ω國内の生産物が何等かの税叉は消費税を課せられている場合には、その税金の
、全部又は蔀が、蟄玄場合に際して饗読た。曾最入した外國品を再欝す霧合には、箭に謬えた
齢隅入視の全部叉は一部が漁岬戻された。
・.・・’スによると、之は税金をかけなかつだならば、もつと多量に輸出さ砦だろうと思われるよりも、.より以上の
もコ ト ア ぜ ノ ノ
ら メ
ヒ
多量の財貨を輸出させる様にはならないと論じ、此の制度が資本使用の自然的・秩序を妨げることを述べ、末尾に於て
戻視は財貨が眞實に或外國に輸出される場合に於てのみ有用なのであるが、若干の戻税、蘇に煙草などには、戻視詐
欺︵一旦驚して戻撃馨、叉秘密に譲入玄︶.の多芝とは人のよく覆f嬰あり、之は政府の牧入にとつて
ノ
も、㌧叉公正なる商人にとつても、等しく有害であると云う。
㈲ 輸出奨駒金剃度をとつた︵第四編第五章︶。 ’
ノ
・スミスは、奨働金は是無しでは到底外國市場に於て競畢出來ない特種の國内塵業部門に與えられるものであるが、
ち ロロ
斯の如きは人・民の犠牲に於て行わる玉ものであり、然も全罷からみで⊥貧本使用の自然的秩序を妨げ、、國富の塘進には
ならない、と論駁する。 ’ .’ , .
術本項申め﹁穀物貿易及び穀物條例に關する枝論﹂申に於て﹁蓋しも総ての國民が自由轍出及び自由韓入という自
由制度︵師ち自由貿易主義︶を探用す・るならば、多激の國家に相分れて居る一大大陸は、恰も一大帝國内の諸州に類
似するであろう。一大帝國内の猪州聞に在つては、國内商喋の自由が、理性之経駿とにより、たゴに駅乏a最上綾和
響あるばかりでなく詑た盤の繋有効な誘剤であるの高獲、、蟄入貿易の畠も霜乳三炎陸・、
アダム三ミスの輕濟政策原理 , ︵毛︶五七
釜、邸ち一殴滑費者の利釜は犠牲にされて居るではないか。一農、植民地維持ということからイギリスは如何なるも
民政簿・確かに一部特警與えられ薯の刹釜には馨て居るかも知れ秩が、熟しそれによつて國民全膣の利、
み、それも︸部の特橿を與えられて居る者の利釜猫占の爲めにのみ所有するtとを論難し、・欺の如き猫占的排他的植
スミスは濯民地に就て﹂論すをと極めて詳細である。彼の所論は結局に於て、植民地を本國の制釜の爲めにの−
商入に翼して與えられた.︵第四編第七章︶。 亀 ﹁ .
,① 遠隔の地に植民地を建設することによつて、,た貸に特罐のみならす、實に猫占権が、植民地建設國の財貨及び
違ない。然しそれも諸國民総ての間に於て自 田競箏の行わる玉場合に於ける貿易の利釜には及ばないと論する。
之に樹してスミスば、特定國間の互恵的條約はその特定國間の商人吸ぜ製造業者忙とつては相互に利釜となるに相
特権的互恵協定を締結レた︵第四編第六章︶。 一、
も ノ
@有利な通商條約によつて、域る特定國との擢、他の総ての諸國との間に許容さ紮所より竜、湘互に有利な
合蓮的なもの無あるに拘らす、之が國家問の偏見、誤れる政策の爲めに一向に行われないことを嘆じている。
晶
芒て居る諸聚擢とつ喬淫り同じ様である鶴罎藷べて疲の毒す猷申義箆嚢纏めて
●
︵五八︶五八
のを得拠か辺亘大な財政上の負捲と植民地λの母國に樹する反感、日疋以外に一艦何を得たというのか。﹁現在の︵重商﹂
− ︵註一四︶
・主義的植民地︶管理組織の下に於て、イギリスがその所有する植民地支配から得る所ぼ損失以外の何物もないLと彼
は云う。そこで彼は、 ﹁若しも、英帝國の諸部分の何れかの地方が、帝國全盟の維持匹欝して貢献する所何物もあり
得ない様であるならば、職時に於けるそれら地方の防禦費用も、挙時に於ける行政上、・軍事上の諸施設に封する如何
︵註一五︶ ・
なる費用負捲も、共に全く冤れて、帝國將來の方研と計書とをば、その實情につ払て眞に當を得た所に適合せしむべ,
く努力すべきである﹂と結んで彼の大著﹁國富論﹂圏そのもの、玉最後の言葉としている。 ’ 調
以上の言葉だけでは、スミスが植民地の放棄論者であるか︵叉は維持論者であるかということに就ては明瞭でない
爲めに、此の問題をめぐり嘗て學界に諭寧を惹起したのであ都が、然し・今日では.彼は放棄論者であLるということに
落着いているコ破が植民地の放棄を主張したのは本國財政の互大な負澹を免れんが爲めであるが、然し彼は分離した
も
植民地との雫和的な友好關係に基づく経濟的利釜の維持増進ということを強く老えている。だが植民地を放棄せよと
,提案しても、’それは國民の自負心や植民地所有によつて利釜を得で居る一部特権者の反封等の爲め、實現不可能な
、 ︵註一六︶ ’・・ . −・ ,
° こと玉考えた。それならば如何にしたらよいかという問題に當面し、°植民地と本國と鑑口膣して一つ゜の帝國にするの ㌦
・ ︵註‘一七︶ . 。 ・ の. 、
外潅しと結論した。だが、スミスは之も亦實現不可能なヱートピアと老えた。然し彼の植民論の根底に横わる根本理想
ヒ ノ
は、個人の利己心を中心とし、同感︵ω同b日℃9けげ︽︶を紐帯として成る挙和的な國際砒會の實硯であり、そこには.やは
り彼の自由主義原理が一貫して流れていると云わねばならない。
蔚スミスの時代は未だ重商圭義の弊害が甚しかつた時代であり、産業革命の前夜であり資本主義の興隆は之からとい5時代であ
ロ
つた。従つてその當時は責本の過剰に苦しむということを難ぐ知らなかつた時代である。その爲め菰民地、本瀕を合諺して此
の大地域の上に猫占的排他的な輕濟政策を行うという檬な考えは未だ如何なる人の念頭にも浮び得なかつた時代である。
然しその後の護展に於ては、植民地が資本投資市場として資本主義的生塵の獲展にとつては不可飲のものであることを’般’
的鍾く意識される檬になり慮民地の経濟的難.それに附随する當然の結果乏しての貿易の蓬、交湧蓬が促進説
ると共に、分業ど交換の震達が釜々起り、かくて分業と交換の豊富さの増進したことが人類にとつて極めて有用であり、潰費
財の種類及び敷量の増大が諸國民の物的生活の幸幅暦進に甚大な貢献をしたこと舷最早や誰も疑わない所である。
スミスが貿易という流通の過程からは富は生れない。富は生産の過程からのみ生ずる、故に貿易に資本を投ずるのは國内の
生産的労働を大きくする所以では㍉ないから不得策であるとしたり、叉資本の國内使用の利益を反覆力論し、植罠地の鑛山に資
本を投下すゐのは確かに利釜だが、然しその爲めに本國の資本が減るから本國の生産力はそれだけ減少する。.従つて資本の向
ヒ ヒ
﹁け方を誤つでいると主張したり、又資本投下の順序について、・農業を第一位に學げ、之に資本を投ずるめが最も生産的である
としている点などは、今日から見ると何れも妙な議論であるが、スミスの時代は未だマヌフ.アクチユア程度の時代であり、國
自㊤噂
降O°
心boO°
痒り゜
画bσド
癖卜⊃bo°
︵五九︶ 五九ー
内産業の興隆はスミス以後であつたことを考え惹と、スミスの時代としては彼の所論は別に不思議ではない。
︵註一︶目ず①≦雷犀戸庶翼舞ごコ゜・°O碧葛⇒.ω巴゜°くo 一゜℃°痒。。°
一ぼ匹こ
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一 一
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一ぴ凶山こ
同げ賦こ
Hげ凶2
一三亀こ
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一
鼠臼
八七六・五四三二
) ) ) ) ) ) )
ドリド拶り、り
、アダム・スミスの経濟政策原理
A
A 註註1註註註註註
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回ぴ置ごく9°目゜づ゜Hδ゜
一げ誌ごくo滑胃゜”°a°
目ぴ箆こくo賢困゜℃°劇9°
ぎ窪遣くoド臼゜づ゜島GQ°
昼達こくoド圏゜”°藤boN°
一び達二くorり”°躯器゜
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匂び達゜<9°昌゜唱゜H課゜
ノ
●
︵六〇︶ 六〇
.は有害無釜であると云う。斯うい与思想は、確かに彼の思想的先騙者と見られηるマヅドヴ回ル゜︵bU興昌曽H山αΦ鼠鋤誉L
ぜる手L︵帥昌帥昼く一Qo一ぴ一⑦ げ簿芦山︶の働きは、そこに自然的な調和をもたらすから、、心配はいむない。之に干渉すること
マ コ
フ皇裂追求を﹁嚢の法﹂︵昔Φ一・。≦の。芸ω餓。Φ︶を超蓋齢園に於て行わしむ濠に託ば点。鋸え゜
われる様にすれば、その目的は達せられると去う。生來利己的な人間をして、思う存分に脳他の同胞と自由競學で、・
“” 、 ㌦ ,
止することによつ一て、ゾ彼の主張する﹁印戴的自由の制度﹂︵爵oの団゜・櫛Φ鼻o炉函勘霞暫一号賃蔓︶が何の妨げもなく行
ブ し
スミス、の國富論な、人民と共に君主を富ますことを目的とした研究である。彼は封建的特橿、重商主義的猫占を慶
サ ゴ
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●
四結
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︵註一︶ . . ﹁
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刺的な一詩書から受け縫いでいる。. 一
此の書は人間の食慾が假に悪徳であるとしても、この悪徳あるが故にこそ活濃な融會活動が竜たらされるのであ
り夏國黍箋するのである屠し此ρ綴がなかつた、肚會は沈滞し、嚢して了う.舗してその慈の結誰
ド ノ コ
・.座
會が混齪する心配はないかと云うに、そういう心配はいらない。個々入の活動は本人達の意圖に關係なく、肚會公共
一
ピ コ ラ
の旙証になる。それは最初から非利己的な目的を以て計書された場合よりも、遙かに大なるものであると云う思想を
読いて、人間の所有慾︵富、地位冨樺力等︶、螢利追求慾、’そして贅澤慾、その増長を全面的に認め、それは漿⋮働す
へ
べき協のとして讃美した。F彼は叉﹁人間は肚會の爲めに造られてA居るが故に、入間は肚會全羅に翼嵐るやさレ込愛
・情︵犀置衛帥鳳Oo鉱Oβ︶を以て生れて來て居るべき筈の竜のである。汰間は肚會の一部分である。だから肚會の幸幅
審翫σ︶を昏塵向︵嘆o需霧一な︶箸すゑ ので墾・云・γヤ・ブベリー︵°・藝のげ邑の利他嚢的
入間観を論駁して書炉た﹁肚會﹁の本質に瀾する研究﹂︵諺QっΦ母oげ函馨O昏Φ冒g。ε﹃①、ohωoo帥①受︶ゐ最後の所で次
ノ
サ
の如く結論している。﹁以上によつて、私は次の事を謹明したと自負する。即ち人聞に自然的である友情や愛情と云
︶
つたものも、また理性及び自制によつて獲得出來得る翼の徳性も、それは杜會の基礎ではないということである。然
し し
ノ ト e
して道徳的にせよ自然的にせよ、吾汝が此の世に於て悪徳と呼ぶ所のものは、吾汝を 耽會的動物にする偉大な原理で
あるし、又例外なくあらゆる産葉及び仕事の生命でありそれを支える確固たる藩礎であるとあうことである。そして
㍉叉総ての藝術及び科學の眞の起源は此の悪徳に求められねばならぬということ、そして此の悪徳が経息した瞬間に、.
ノ ロ リ
・アダム・スミスの経濟政策原理 ︵六・一︶ 六﹁
1 、
肚會はすつかり崩壌して了わないとしても、姦無しに述れねばなら瓜之いうことであるLと。此“の大膿な道徳観の
︵六二︶ 六二 ‘
− ︵註三︶
・獲表は、當時の道徳哲學に眞向うから封立した庵のであ砂、勿論當時の世人﹂からは激しい非難詮受け、バークツ/
︵⋮匿9は﹁蜂の寓琶を以て﹁委曾て見ざる最悪の書﹂,︵昏・鼠昆。伍。ωひ。。蚕鋤叶①<ゆ村噸9ω刃と非讐匝。
・ミスも始めは之に封し痛烈な酷評を加えたが、それはスミスの道徳哲學漢マンドヴ,ルの如く全く自由奔放な
憲藪張りの﹁放縦なる學読﹂︵=oΦ昌鳳o緯ωω団゜。8旦道徳情操論第七部第二編第四章参照︶ガ認めて強いからで㍉
ある。スミゴの利己心には一定の限界がある冒、市民肚會に於て當然に期待さるべき正義感、即ち自己の標利を曾重す
るが同鷺兜の橿利も蜜し・﹁隣馨すきと乞麟︶とい・彼の﹁巽窪﹂バ樽げ・薯・・h甘゜・量がそ
れである。自分を他入の立場に置いて見ると払う感情、帥ちスミスの云う,o・団日弓曽甚団之は既に鮭會的な行爲をする
ら タ
爲めの働きであ蔓、物的利谷の追求も、をれが一般肚會の活動の原動力である限り、やはりそれは正義の法を限度と
して、肚會の人汝の同感︵ω団ヨ”麟げゲ団︶を得られる性質のものであり、從つて利己心は市民肚會の自然的秩惇を安え
る原理である。敬に正義の法の範園内に於て富の獲得及び潰費に關する各個入の利己的活動の自歯を認むること、嘘
は市民肚會に於ける生活の推進力であり、之が肚會の稲証を増進し、國家を繁榮に導くことになるのであつて、やが’
て奮べ甕本主藷會の黍墜菱ていた久ミにとつて此の利忌の是認・そ似畠馨絵然の道簾馨
も
あつたのである。 . ・ 、 ’
薦業革命によるイギリス慶業の近代的獲展は間もなく彼の後忙績いた。彼は﹁まことに、商業の嘗由が大英國に全
く回復さ鷲・とを期待するのは、將來此の酊に・⋮・・→喜アが樹立されるのを期待ずると同檬に馬簿た事であ
4 、 ° ・ ’ し −︵、註団︶
ものと汝つた。そこには’歴史の流勉が、時代の要求が、、自然的自由の制度を必然のものとしていたからであるつ斯の
ヘ メ
如き地盤なくしては彼の自由主義も生れなかったであろう。印ちイギリスの十八世紀どいヶ時磁代が、彼をして重商主
義的諸制度はイギリスの國民を富ますことにはならないとして、亀激レく之を非難攻撃せしめたのである。
、 r
、彼は重商主義酌な國家の干渉政策を−一切排斥する。從グてギルド的な規定、特権、地位、徒弟制度、救貧法、輸出
入に關する制限等、凡そ総て旨泥等の自然的自由の制度が現われることを.妨げるものは悉く有害無釜であるから磯止せ
ねばならぬとする。此の黙に關しスミスが高ぐ掲げた経濟政策上の一大原則たる自由主義の根本要領遂言い表した有
名な言葉は、 ﹁國富論﹂第四編の﹂番絡りの所に出て來る。即ち﹁特恵又は干渉の総ての諸制度が、斯くして完全に
取り去ちれるならば、簡明なる盲然的自由の制度はぴとりでに樹立せられる。︵此の制度の下に於ては︶各入は、正
コ ノ
義の法を侵害せざる限り、偵己の思ケがま玉に自己の利釜を邉求し、自己の螢働及び資本を以で、他の何人又はどん
な階級の人汝乏も競璽することに就て、完全に自由に放任される。かくて君主は、若し之を行わんとすれば常に必す
畿りな裁謄陥る箆錘く、且渓間の懇叉は知撃以てしては製之を蕾に實行する・との難しい霧
から、、郎ち私入の勢働を監督し、之を肚會の利釜に最も適合する方面に向けるという義務から、完全に菟れ得ること
にな為。自然的自由の制度の下に於ては、・君主の留意すべき任務はたf三つあるのみである。是等三つσ任務は、實
際、極めて重要なものであるが、然し雫易で普通の理解力ある者には何入にも理解し得られるものである。三つの任
務とは、第一忙他國の暴力及び侵入に樹し自國を保護するの任務、第二に肚會の各員を、出來る限り、その就會の他
アダム・ス熱スの輕濟政策原理 ︵六三︶ 六三
︵六四︶ 六四 ’. .
の全の歪又続禁ら保護レてやる任務、響嚴正なる司蓉肇樹立するめ霧声第三は蓋の公華菱び
或種の公共施設を創設し且ρ之を維持するの任務である。蓋し是等の事業を創設し維持するこ.とはう決して一個汰又
は少数個人にとつて利釜となり得だい。何となればその利潤は繭大肚會に封してこそ屡汝牧支償つて術絵かあること
があるけ讐も・駕なる個人叉は少稿人にも到嚢用を讐に足り秩からで硲蟄と・かくて國秀霧は・’
彼によつて僅か三つに限定され%。帥ち、①樹外的な國防 ②樹内的な治安維持及双司法゜⑧個人としては採算のと
れない公共事業だけで診る。か玉る國家は後にドイツの熱血的肚會主義者ラッサール︵一い帥ωω鋤一一〇︶によつて輕蔑的に
夜警的と云はしむるものであるが、然しか玉る國家が前提されてのみ、償格機構を通じての維濟の自動調節作用によ
る自由放任の主張は成立し得るのである。
スミスの経濟政策は=葺にして云うならば、﹂螢利活鋤の自由主義であるゆそれが最もよく肚會の富を増進すると云
ヶのである,而して彼の富に關する理論は、重商主義者の如く金銀の増加を目的とすを理論ではなくて、その金銀を
以て購入される泌需.叩、便宜.叩、一般的に云つて國揖沿費物、がより多く生産されるごとを目的とサる理論Pあ
リ ク
る。而してそれら國民の浩費物を生産するのは資本と螢働である。’それ故に此の二つが何よ砂大切であり、それが増・
ヘ コ
加することが重要である。かくて國民の浩費物が釜汝多く生慶されて、,國民がより豊富により安くそれらの沿費物を
、 “F 、 へ’
滑費出來る⋮様にすることが國民全髄の利釜増進となるのであり吊國民を幸輻にする所似である。 、
此の國民の滑費を彊調する立場ば國富論最初からの彼の命題である。此の黙から彼は云う。 ﹁漕費は総での生産の
唯一の目的であの沸窮極目的である。從つて生産者の利釜はた貸泊費者の利釜を増進するに必要な為べき限度まで考
、
慮さるぺきである。此の公理は完全に自明であるので、之を謹明しようと試みるのは馬鹿双汝レい程.である。然レ重
商主義にあつては、沿⋮費者の利釜は殆んど恒常的に生産者の利盆の爲めに犠牲とされて居る。そして重商主義は、消
費でなく・叢を以て総ての商垂の窮瞥的で萱最醤雪あると考えて居藤で齢謹︶≒湾費嘉誰
コ コ サ ノ
心とし、分業と交換が自由に行われる商業耐會の彼の理論、之は資本主義経濟理論の理想的典型と云うべきである。
然し資本主義維濟の獲展は、スミスの樂観した如くに、滑費者の利釜塘進本位に生産が螢まれる様にはならなかつ
た。生塵者は一方に於ては勢働者から搾取し、他方に於ては清費者から搾取し、螢利活動の自由競璽は貧富の懸隔を
ヒ 釜汝甚だしくし、,,砒會全罷可の調和と輻趾増進とは爲めに妨げられる様になつ嶺。 .
、 .
,%スミスは﹁國富論﹂に於て均由主義を力強く商調したが、それは當時の蚕商主義的國家干渉政策に射する批判として大きな意
義を有するのであり、彼は自由主義の爲めに自由主義を主張したのではない。彼はコスモポリタソと云われるけれども、彼ば
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.イギリス國民の。立場に立つて、イギリス國民として理想とした所の人類祉會の圭隅増進、その爲めの自由主義主張者であり、
のでもない。成程彼の學設を承吐繹いだマンチエ﹁スター學派⑳人々は、明かに資本家擁護となつて了つたけれども、・彼は航海
、.コスモポリタンなのである。それから又、後世の一部の人々の云うが如く、彼拡資本家の利益擁護⑳爲あ液自由主義を唱えた
條例を辮護して、’﹁國防は富裕よりも重要である﹂︵く〇一゜一゜娼゜禽O°︶と云つたり、叉螢働階級に醤する雇主階級の横暴態度に
就て述べたりしているが︵切o鼻囲゜Oげも﹂×°︶、そこには﹁何慮か國士の風と氣構とが感じられ﹂︵上田属之助著﹁蜂の寓話﹂二
っ リ ヒ う コ げ
三養︶・又欝書摯る人間的な温かさ憲じられるのである・ 、 rん.’
リ ロ
産業革命の進展はYスミスの﹁豫定調和﹂を崩壊させた。自由競箏の花汝しい世界ば畢寛優勝劣敗、弱肉強食め世
アダム・スミスの経潜紀以策原理 @ , ︵六五︶ 六五 ’
ヤ ロ
界,であつた。そレてそれは樹内的には肚會問題の獲生となり、⋮封外的には先進國後進國間の経濟的後展の差異から來
颪
‘ ゜る國家霧立と移、・・スの慧とする畠霧も多くの批判を受け藻になつた。野内的に璽レた審蟹は.
︵六六︶ 六六ド
も
自由主義の批判として肚會主義を掻頭せしめ、封外的な先進國封後進國の劉立も亦自由主義の批判として保護貿易主
’ 蓄
義を生んだ。保護貿易主義による後進國の維濟的獲展、そして先進國への仲附入り、資本主義の高度化、谷汝尖鋭化
する螢資間の樹立、國象間0封立、是等に自由主義そのものをさえ否定する檬になつて來た。スミスの理想とした人㍉
・類世界に於ける自由通商は今の塵未だ途遽しの感がある。
︵註一︶
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く馨研霧の;としての、最も優れた文献で濁る。 L﹂ ∼ 、,・
上田辰之助著﹁蜂の寓話﹂昭和二十五年馬参照。此の書はマソドヴイルに舗しての、また自由主義経濟思想の根底を画
− , ・ 4/ 画
︵註二︶
︵註三︶
冒鉾噛く9戸やH密“ ,、
Hぴ剛P鰯く9°目ご””°Hq◎劇ー0 ・
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︵註四︶ 謬。零。巴昏。h匿畳gの臼9言§.ψ,。3︿°r図も゜漏゜。°
︵註五︶
︵註七︶
9︵註六︶
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