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フェアリーテイル・クロニクル ∼空気読まない異世界

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フェアリーテイル・クロニクル ∼空気読まない異世界
フェアリーテイル・クロニクル ∼空気読まない異世界
ライフ∼
埴輪星人
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
フェアリーテイル・クロニクル ∼空気読まない異世界ライフ∼
︻Nコード︼
N6768BF
︻作者名︼
埴輪星人
︻あらすじ︼
※作者都合により後日談は隔週更新とさせていただきます。
※2016年2月27日、本編完結しました。
ゲームをしていたヘタレ男と美少女は、悪質なバグに引っかかっ
て、無一文、鞄すらない初期装備の状態でゲームの世界に飛ばされ
てしまった。
1
﹁どうしよう⋮⋮?﹂﹁どないしようか⋮⋮?﹂
異世界転移お約束のピンチをどうにか潜り抜け、途方にくれなが
らもとりあえず目先のことだけはどうにかする二人。
これは女性恐怖症のヘタレ男が、ゲームに酷似しつつもぎりぎり
のところで絶対的に違う異世界において、一杯のカ○ピスを飲むた
めに牛の品種改良からはじめるようなノリで元の世界に帰る手段を
探す話である。
※隔週土曜日に新作を投稿します。
※書籍版に合わせてサブタイトルを追加しました。
2
プロローグ
﹁藤堂さんもフェアクロやっとったとは、結構意外かもしれへん﹂
﹁別に、いまどきVRMMOなんて、オタクとかじゃなくても遊ん
でるじゃない。むしろ私としては、東君が上級生産まで行ってた方
が驚いたよ﹂
﹁サービス開始初日の混雑にうんざりして、現実逃避的にそこらの
人と駄弁りながら草むしりしてるうちに、深みにはまってしもてん﹂
意外な状況で顔を合わせた意外なクラスメイトと、しみじみその
意外性について語り合う男女。それ自体はネットゲーム、それも数
年前からすっかり市民権を得たVRMMOでは、さほど珍しい訳で
はない光景である。
あずまひろし
関西弁を話す男の名は東宏。身長百七十一センチの中肉中背と言
っていい体格で、眉が太めである事以外にこれと言った特徴のない
顔立ちの、別段おかしなセンスの服を着ている訳でもなければ、妙
な着崩し方をしている訳でもないのに、どういう訳かどんな格好を
してもダサい、野暮ったいと言われてしまう、全身からヘタレオー
ラを発散させた高校三年生である。受験生なのにゲームにうつつを
抜かしているところを見るまでもなく、割と流されやすいタイプで、
ゲーム以外の趣味は読書、それも主にライトノベル系を好む、どち
らかと言えば世間一般でオタクと評される人物だ。
とうどうはるな
女の名は藤堂春菜。身長百六十七センチと日本人女子の平均より
は高めの背丈と、海外の血が混ざっている事を示す天然の長い金髪
3
と透き通るような青い瞳が特徴的な、文句なしに美少女と言ってい
い女の子である。歌手である母親が日本人の血が四分の一の日系イ
ギリス人であるため、イギリス人の血が八分の三混ざっているとい
う、表現に困る血統の少女でもある。イギリス人の血がものを言っ
てか、やたらメリハリのきいたグラビアアイドルに喧嘩を売って勝
てるボディラインは、男達の目を引きつけて離さない。宏と同じク
ラスの十七歳、本来受験生の身の上である。
﹁人の事は言えないけど、この時期にゲームなんてしてていいの?﹂
﹁心配してくれるんはありがたいけど、これでも予備校には一応通
ってるし、一応志望校のA判定にはぎりぎり引っかかってるんよ。
それに元々、もうちょっとでスキル一個上げ終わるところやったか
ら、そこまでやったら休止するつもりやったしな。で、聞くまでも
ないけど、藤堂さんは?﹂
﹁息抜き、ってところかな? もう、春休みぐらいから、ログイン
自体はほとんどしてなかったし﹂
この会話で分かる通り、二人ともゲームにうつつを抜かして受験
勉強をないがしろにしている、というわけではない。元々二人の通
っている高校が、公立とはいえ成績では県下でもトップクラスの学
校であるため、彼らの学力は決して低くない。春菜の方は親譲りの
記憶力が威力を発揮してか、全国模試でも常に順位三桁を叩きだし
ており、目指す大学の合格率A判定はずっと維持し続けている。宏
の方もヘタレゆえに毎日コツコツと勉強に励み、一部科目は春菜と
互角の成績だ。もっとも、苦手科目が激しく足を引っ張るタイプで
あり、そこが足切りに引っかからないか、常に不安を抱えている。
気さくで気配りができる性格の美人と、ヘタレオーラ全開のライ
4
トオタク。たとえクラスメイトであっても、本来事務的な会話以外
では、一切関わり合いを持つ事はなかったであろう二人。それが事
もあろうにネットゲームの中でばったり出会うと言う、微妙に気ま
ずい状況に陥った事が、ある特殊な問題に巻き込まれた彼らの救い
になっていたりする。
﹁しかし、卒業まで、まともに話する機会なんかあらへんとおもっ
とったのに、こんなところでゲームについて語り合う事になるとか、
人生って分からへんなあ﹂
﹁東君、私と関わりたくないオーラ全開だったもんね﹂
﹁別に、藤堂さんがどうとか言うんちゃうで。単純に、顔の広い女
子と一緒に行動すると、碌な目にあわへんっちゅう人生経験のもと、
誰であってもリアル女子と関わるんは嫌なだけやで﹂
﹁⋮⋮なんだろう、ひどい事言われてるはずなのに、自分でもすご
く納得しちゃってるこの理不尽な状況⋮⋮﹂
微妙に落ち込む様子を見せる春菜。その台詞に微妙に引き気味に
なる宏。元々会話するにしては大きく取っていた距離を、さらにも
っと広げようとする。
﹁藤堂さん自身に心当たりあるとか、やっぱり触らぬ神に⋮⋮﹂
﹁この状況でそれはないと思うんだ、私﹂
﹁そやね。そろそろ現実逃避やめて、もういっぺん状況確認しよか﹂
そう言いながら、ざっと周囲を見渡す。VRMMO特有の、あえ
5
てアニメ寄りに振った現実感が薄い光景ではない、鮮やかな色彩と
圧倒的な質感を持つ風景に空気の匂い。ゲームでは散々狩った、現
実世界では見た事もないような造形の生き物。そして何より、攻撃
を受けた時の、安全規制を超えたやたらと生々しく鋭い痛み。
﹁やっぱり、ゲームではあり得へんよなあ﹂
﹁明らかに、フェアリーテイル・クロニクル、もしくはそれに良く
似た世界、だよね﹂
あまりによろしくない状況にため息をつくと、顔を見合わせて同
じ言葉を発する。
﹁どうしよう⋮⋮?﹂
﹁どないしようか⋮⋮?﹂
ゲームで染み付いた行動原理に従って、現実だと思い知らせてく
れた熊の残骸を処理しながら、ヘタレと才媛は途方に暮れたように
語り合うのであった。
事の始まりは、宏の体感時間で四時間ほど前にさかのぼる。
6
﹁ちぃーっす﹂
﹃お、ヒロさん、ばんわ∼﹄
﹃こん∼﹄
親との約束を律儀に守り、宿題と一時間程度の受験勉強もどきを
済ませた宏は、ようやく作った空き時間にうきうきとヘッドギアを
かぶり、いつものVRMMO﹁フェアリーテイル・クロニクル﹂に
ログイン。グループチャットで挨拶をすると、固定パーティを組ん
でる面子から次々と挨拶が返ってくる。
彼らが遊んでいる﹁フェアリーテイル・クロニクル﹂というゲー
ムは、宏が中学の頃に正式サービスを開始したVRMMOで、﹁狩
りも農業も何でもござれ﹂﹁サバイバルからスローライフまで﹂﹁
ゲーム内のアイテムはすべて自作可能﹂などのキャッチコピーで、
開始当初から常識外れのボリュームを実装し、宣伝文句に偽りなし
の自由度を実現していた事で話題になった、RPG的な意味での職
業の概念がない、キャラクターレベルとスキル熟練度のハイブリッ
ド育成システムを採用した作品である。
本来なら三回か四回ぐらいの大規模アップデートで実装するほど
のマップや要素を正式サービス直後から突っ込み、単に実装された
フィールドの情報が出揃うだけでも一年近くかかると言う廃人泣か
せの偉業を成し遂げたこのゲームは、たった二回の大規模アップデ
ートで、もはや開発者以外誰にも、全ての要素を把握できないだろ
うと言う巨大なタイトルに進化を遂げていた。
もっとも、一番の驚きは、それだけの容量だと言うのに、バグら
7
しいバグやサーバーダウンの類を一度も起こしていないということ
だろう。何よりも、一部のスキルにログアウト中の自動訓練システ
ムを用意することと引き換えに、外部ツールやマクロの類を全て封
じ込め、どんなやり方をしているのかいまだにハッカーに一度も侵
入を許していないという、一部の政府より堅固なセキュリティを実
現している事が、ほとんどバランス調整などを行わないにもかかわ
らず、ユーザーの支持を集めている理由であろう。
もうサービス開始から五年経つと言うのに、いまだにユーザー数、
プレイヤー満足度ともにトップクラスを走り続ける化け物タイトル、
それが﹁フェアリーテイル・クロニクル﹂である。
﹃ヒロさんヒロさん﹄
﹁なんや?﹂
﹃ヒーリングポーションとマナポーションの在庫ってある?﹄
﹁せやなあ。とりあえずレベル6のやったら倉庫に山ほど積みあが
っとるけど、それでええ?﹂
﹃十分。てか、市場にゃレベル4ぐらいまでしか出回ってないんだ
よなあ﹄
出回っているものが、いまだ、思いのほか低レベルであることを
意外に思いつつ、露店だのオークションだのを長いこと利用してい
ない宏としてはそんなものかと納得するしかない。そもそもレベル
4のポーションは、人型の雑魚が結構落とす。落とすだけならとも
かく、モンスターのくせに普通に手持ちをつかって回復してくる奴
も居るから、うざいことこの上ないとは狩りをしている連中のぼや
8
きである。
とある事情があって、このゲームの職人たちは、自分が作ったア
イテムを市場に流さない。そのため、露店やオークションに出回る
のはドロップ品やクエスト報酬程度である。また、上級の素材は上
級の職人がモンスターを解体しないと手に入らない仕様ゆえ、そう
言う素材も市場には出回らない。彼らのレベルになると、職人同士
のネットワークがきっちり出来上がっているため、あまっている素
材は直接物々交換をするのが普通である。ゆえに、宏のような職人
はほとんど露店やオークションを利用せず、結果として自分達が作
る物の希少価値を理解していない。
﹁さよか。まあ、レベル5は安定して作ろう思ったら、中級カンス
トするぐらいの腕はいるからなあ﹂
﹃うげえ、そんなにきつかったのか⋮⋮﹄
宏の言葉にうめく友人A。因みに、カンストとはネットゲーム用
語でカウンターストップ、つまりは上限に達した事を指す。この場
合は、中級をマスターした、と言うのと同じ表現である。
﹁まあ、生産は慣れと諦めと根気やからなあ。で、どんぐらいいる
?﹂
﹃とりあえず、どっちも百本ぐらい欲しいけど、ある?﹄
﹁余裕余裕。百でええんやったらレベル8でもいけるで?﹂
冬休みにスキルあげのために山盛り作った、ポーション作成スキ
ルで製作可能な最高レベルの物を提示してみる。ぶっちゃけ、倉庫
9
一マスに格納できる限界数で三マス分はあるので、誰かが食いつぶ
してくれた方がありがたい。
﹃いやいや、6で十分。てか、レベル8なんて使った日には、目立
ってしょうがねえよ。で、いくら?﹄
素材集め以外でダンジョンに潜らない宏は知らぬ事だが、レベル
8のポーションは現状、上級プレイヤーの回復魔法を超える回復量
を誇る。それ一本でどうにかなるほど甘いゲームではないが、中級
ダンジョンのボスぐらいなら、上手いアタッカーと組めば回復魔法
なしで落とせる程度の性能はある。もっとも、ある理由により生産
スキルを鍛えているプレイヤーが非常に少ないこのゲームでは、生
産か人型の希少モンスターから奪う以外手に入らないレベル5以降
のポーションは、結構な貴重品である。
一般に知られている最高レベルであるレベル6の各種ポーション
など、市場に出回った瞬間に上級の連中に買い占められるレベルだ。
おかげで、大半がキャラクターレベルが人口的にボリュームゾーン
の範囲に居る宏の身内は、誰もレベル6ポーションの相場など知ら
なかったりする。しかも、どういう仕様なのか、レベル5以降のポ
ーションはNPCが買い取ってくれない。
﹁せやなあ。どうせスキル上げで作った奴やし、一本五百でええわ﹂
﹃安!!﹄
﹁いやまあ、正直なところ、出回って無いんやったらNPC売りの
値段以外、相場とかあって無きが如しやし、ドロップ系の素材は皆
からカンパしてもろとるしなあ﹂
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﹃まあ、懐にあんまり余裕無いから、安いのはありがたいんだけど
ね﹄
﹁ほな、今から着払いで送っとくわ﹂
﹃了解。いつもサンキュ﹄
倉庫から取り出したポーションを、宅配便システムで着払い指定
にて送りつける。因みに、一本五百と言うのは、NPCから普通に
買える上限である、レベル2ポーションの値段である。序盤から中
盤の狩りに必須となってくる回復剤だが、必要とされる頃にはかな
り痛い値段だ。それでも生産スキルで作るぐらいなら狩りとクエス
トで稼いで買い集めた方がいい、と言うところから、最初のころの
生産スキルの不遇さは推して知るべしである。
﹃ヒロ、従妹が今度VR解禁になったからって、このゲーム始める
って言ってたんだけど、初心者向けにいい装備って無いか?﹄
﹁せやなあ。雑魚ドロップよりはええナイフと服ぐらいはあるけど、
それで問題ない?﹂
﹃ちょっとスペック見せて﹄
﹁こんな感じやで﹂
倉庫を漁って引っ張り出した服とナイフのデータを、メールに転
写して送りつける。
﹃悩ましいところだな﹄
11
﹁もっとええ奴の方が良かったか?﹂
﹃いや、その逆だ。初心者に渡すには、ちょっと性能が良すぎるか
もしれない﹄
﹁これ以下やったら、NPCから買うた方が早いで﹂
﹃そうか、了解。じゃあ、最初は適当に安い奴を買っておいて、適
当なタイミングでこいつをプレゼントするか。いくらだ?﹄
﹁せやなあ。NPCに売って千五百やから、三千かなあ﹂
﹃だから安いって﹄
﹁倉庫に積み上がったあまりモン押し付けとるだけやし、気にせん
といてや。ついでに余ってる練習用ポーションとレベル0ポーショ
ンも一スタックずつあげるわ﹂
そう言って、もはや使い道も存在しないほど微妙な回復量しかな
い最下級ポーションを大量に押し付ける。役に立つのがチュートリ
アルから初心者クエストを完了し、最序盤の作業を終えるぐらいま
でと言う寿命の短い、だが安定して作れるようになるのにレベル2
ポーションが欲しくなるころのパラメーターが必要と言う、生産ス
キルの不遇さを象徴するようなポーション類である。しかも、ポー
ションには中毒というシステムがあり、特にマナポーションとスタ
ミナポーションは中毒発生率が高いため、大抵はチュートリアルや
初期のクエストで貰った分を余らせている。
容器が必要な割にNPCに売ろうにも低性能すぎて買い取っても
くれず、なのに使っても容器が回収できる訳でもないと言うふざけ
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た仕様で、どうしても赤字を出したくないのであれば、他のスキル
で容器から作る必要があると言う、自由度をうたっている割には入
り口からプレイヤーを門前払いしているとしか思えないバランスが
通好みだとは、宏と同期のポーション職人の言い分だ。
もっとも、ほとんどのプレイヤーから生産が敬遠されている理由
はその前の部分にある。何を作るにも必須と言える材料集めが、死
ぬほどきついのだ。何しろ、最初のころは草一本手に入れるにして
も、顔を近づけてじっくり確認して、使用可能な部位を正確に切り
取る必要がある上に、スタミナ値の最大値に限らず、初期は十分作
業をすればスタミナが枯渇し、五分は休憩しないと作業に復帰でき
ないのである。素材を加工するスキルも大概MPやスタミナの消費
は激しいが、こちらはそもそも材料がなければ先に進まないため、
現実にはそれほど目立たない。
しかも、VRMMOとしての特性を生かして、プレイヤーが本当
に疲れて動けなくなると言うマゾ仕様だ。その上、スタミナが減れ
ば減るほど作業効率や成功率が目に見えて落ちるため、実際には五
分程度の作業で休憩しないとまともな作業にはならない。熟練度が
一定ラインを超えると、そこから加速度的にその問題は解消される
のだが、そこまでが本当にしんどい。
その、変にリアルな設定に加え、生産品目のランクが上がるにつ
れ、他の生産スキルで作る高ランク生産品が必要となって来たり、
そもそも複数の生産スキルを同時に使って加工する必要がでてきた
りと、無駄に凝ったものづくりの設定がなされているため、初級の
スタミナと作業の煩雑さの壁を乗り越えても、中級の半ば辺りで折
れるプレイヤーが多い。その上で、先に記したように、中級に入る
まではせいぜいNPCから購入できるレベルのものしか作れない、
と言う達成感の無い仕様とくれば、よほど深みにはまって意地にな
13
った人間以外、普通は早々に切る。
ぶっちゃけた話、この無駄にえげつない生産の仕様が、フェアリ
ーテイル・クロニクルのユーザにとって、唯一にして最大の不満点
である。しかも、職人達が市場に製作物を流さなくなったのと同じ
理由で、そうでなくても他のゲームに比べて比率が少ない生産キャ
ラの人数が大きく減っているのだから、せめてもう少し育成はやり
やすくしてほしい、という要望は何度も出されている。
﹃前から思ってたけど、いっぺんヒロさんの倉庫の中身、見てみた
いよね。﹄
﹁見せてもええけど、生産品と採取系の素材でうまっとるから、貴
重品はほとんどあらへんで﹂
﹃いやいや。その山とあふれてるって言うレベル8ポーションが、
すでに普通に貴重品だから﹄
﹁上級生産やってる連中の倉庫は、みんな似たり寄ったりやで。多
分、売りに出したらあっという間に値崩れするんちゃうか?﹂
﹃そんなにすげえの?﹄
﹁そら、レベル8作れる連中は二十四人もおるんやし、一人一種一
万は持っとるやろうから、それだけで各種が最低二十四万本やで?﹂
一見して物凄い数だが、プレイヤー総数や消費量を考えると、あ
まり多いとも言えない。何しろ、一回のダンジョン攻略で、普通に
五十や百は食いつぶすのだ。
14
﹃まあ、それはそれとしてさ。ヒロさん、これからダンジョン潜ら
ない?﹄
﹁おー、ええなあ。そろそろドロップ系の素材使い切りそうやし、
今日か明日ぐらいに受験のためにちょっと休止する予定やから、今
からやる作業が終わったら混ぜてもらうわ﹂
﹃今、なに作ってるの?﹄
﹁後でのお楽しみや﹂
人を食ったようにおどけながら、作業を続ける宏に、とりあえず
集合場所と開始予定時間を告げて自分の準備に移る友人達。そんな
彼らを横目に、ひたすらちまちま作業を続け⋮⋮。
﹁よっしゃ、スキルカンスト!﹂
作業の目的を達成し、最近クエストでゲットした特殊スキルをマ
スターした事を確認する。集合場所に向かうために移動しようと倉
庫から転移石その他もろもろを取り出したところで、メールが届い
た事を示す効果音が鳴る。
﹁ん?﹂
メールボックスを覗くと、明らかに文字化けしたと思われる、よ
く分からないタイトルのメールが三通。即行で削除しようかと思っ
たが、念のために知人友人に声だけ掛ける。
﹁なあ。誰か今、僕にメール出した?﹂
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﹃いや、出してないけど、どうした?﹄
﹁何ぞ、文字化けしたメールが三通ほど届いてなあ﹂
﹃⋮⋮それ、触らない方がいいぞ﹄
宏の言葉に、一番年上のメンバーが忠告する。
﹁やばそうやから中身を見るつもりもあらへんかったけど、何で?﹂
﹃最近、文字化けメールでクライアントが破壊されるトラブルが何
件かあったらしくてな。公式でも注意が出てる﹄
﹁へ∼。そんな致命的なバグが出るって、初めてちゃうか? お、
ほんまや。運営からのお知らせにのっとるわ﹂
﹃だから、運営に連絡したら、削除も含めて絶対触らないようにし
ておけ﹄
﹁了解。注意してくれてありがとう﹂
礼を言ってGMコール、文字化けメールについて連絡。運営の方
にもスクリーンショット付きでバグ報告として通報。念のために件
の文字化けメール以外のバックアップを取り、今度こそダンジョン
に潜りに行こうと転移石を起動させた瞬間に、異常が発生した。
﹁なんじゃこら!?﹂
文字化けメールがメールボックスを埋め尽くし、それ以外のウィ
ンドウにまで侵食を開始する。
16
﹃どうした?﹄
﹁文字化けメールがメールボックスからあふれ出しおった!﹂
﹃どういう事だ!?﹄
﹁僕に言われても! って、何で触ってもないのに勝手に開くねん
!!﹂
宏の悲鳴を聞きつけたチャットメンバーが、慌てていろいろ声を
かけてくる。だが、それに答える余裕すら与えず、文字化けメール
はどんどん視界を埋め尽くす。転移石の行き先選択表示に文字化け
した地名が追加され、そこが勝手に選ばれる。
﹁まてい! 移動キャンセルや!﹂
宏の叫びもむなしく、転移石が起動し、目の前がエラーとアラー
トで埋め尽くされる。不規則に表示され続けたその二つの警告表示
が、まるで魔法陣のような図形に並んだところで、宏の意識は途絶
えたのであった。
﹁⋮⋮なんじゃこら⋮⋮﹂
17
あたりを見渡し、顔をしかめながらつぶやく。目が覚めた時、見
覚えがあるようなないような森の中に倒れていたのだ。森、といっ
ても、それほど深い場所に入っている訳ではないらしく、ちょっと
明るいほうに歩けば、すぐに開けた草原が見える。どこをさして森
の入り口というかは曖昧ではあるが、入り口付近という認識で問題
はなさそうである。
﹁本気で、どないやねん⋮⋮﹂
周囲をじっくり観察して、突っ込みどころの多さにため息をつく。
森を構成している植物が、全く知らない物ばかりならまだ良かった。
元々、草木の種類など見分けがつくほど知識はない。なのに、この
森の植物について、ほぼすべての名前を知っているのだ。それも、
現実にはないであろうものが多いという有り様で。
﹁しかも、この格好。何ぼ何でもこれはないで⋮⋮﹂
服装が、ヘッドギアをかぶる前の物でも、ゲームの中で着ていた
ものでもなく、シンプルなシャツの上にこれまた作りのあらい前合
わせの作務衣のようなものを羽織り、スラックスと呼ぶのもおこが
ましい粗っぽい縫製のズボンと、裸足よりまし、程度のまともな靴
底もない靴を履いている。記憶にある、フェアリーテイルクロニク
ルの初期衣装だ。ぶっちゃけ、みすぼらしい。
持ち物も、着てる服以外にはちゃちなナイフが一本だけ。財布も
鞄もない。元の服装でも財布は持っていなかったから、ナイフがあ
るだけましと言えばそうかもしれないが、それにしてもやってられ
ない状況である。
﹁さて、どないしたもんか⋮⋮﹂
18
一通り状況確認を兼ねた現実逃避を終え、ぼやきながらも今後の
行動指針となりそうなものを探す。冗談抜きで命がかかってくる可
能性があるのだから、ここは真剣に探した方がいい。などと、じっ
くり環境を観察していると、唐突に女のものらしい悲鳴が聞こえて
くる。女の声、という理由で、反射的に声が聞こえた方から逃げ出
そうとした宏だが、状況の変化の方が早かった。
﹁いやーーーーーーーーーー!!﹂
﹁ちょいまてい!﹂
声が聞こえてから十秒と経たずに、森の奥からなんとなく見覚え
のある金髪の少女が、叫びながら必死の形相で走ってくる。普通の
人間が出せるとは思えないスピードで走る彼女の後ろには、三メー
トルはあろうかという巨大なクマが。少女の姿を見て震えながら硬
直していた宏は、足を取られてバランスを崩し、熊に追いつかれそ
うになった彼女を見て、頭で何かを考えるより早く、両者の間に割
り込んだ。
﹁逃げて!!﹂
聞き覚えのある声で、見覚えのある容姿の美少女がそう叫ぶより
早く、体に染みついた動作でナイフの柄を熊の腹に叩き込み、力一
杯吹っ飛ばす。すでに頭の中は真っ白、全身の震えはおさまらない。
女という生き物に対する、体の芯まで染みついたトラウマと、巨大
熊という物理的な危機、双方に対する恐怖に理性も感情もすっかり
委縮しているのに、本能は熊を脅威だと認めていない。怖いからこ
そ、とにかく前に出る。
19
東宏は、収まらぬ震えと怖気を抱えながらも本能に押され、体に
染みついた動きで巨大熊の動きを封じ込めにかかった。
﹁藤堂さんも、文字化けメールが来たんか﹂
﹁東君も、か⋮⋮﹂
﹁僕の時は、転移石が最後のトリガーやったみたいやけど、藤堂さ
んは?﹂
﹁私は、ウルス東門の転移ゲートをくぐろうとしたとき﹂
熊の解体を終えた二人は、肉を分け合ってざっと調理し、それで
腹を満たしながら直前の状況を確認し合う。やはり、会話をするに
は結構距離をあけていて、しかもいまだに身構えている様子がある
が、そういうものだと理解した春菜は特に突っ込みもいれない。
﹁何ぞ巻き込むだけ巻き込んどいて、装備もアイテムも金も全部チ
ャラとか、ものすごく不親切な話や﹂
﹁だよね。しかも、安全地帯を探してたらいきなりバーサークベア
だし⋮⋮﹂
﹁藤堂さん、案外ついてないんやな﹂
20
﹁本当にね⋮⋮﹂
宏と再会した時の状況を思いだして、しみじみとため息を漏らす。
宏と同じようにここに飛ばされてきた春菜は、安全地帯を探してい
る最中に熊に襲われ、パニックになって全速力で逃げだしてしまっ
た。だが、どれほど身体能力があったところで、パニックを起こし
ていればその能力を十全には発揮できない。結局、少し走ったとこ
ろで石に躓き足をもつれさせて、巨大熊に追い付かれそうになった
と言うのが先ほどの状況である。そのあとは二人とも当事者である
ため、これと言って語るような事は無い。
戦闘自体は、がくがく震えながらも懸命に相手の攻撃を受け止め
て見せる宏を必死で補助魔法でフォローし、ゲームでの初期装備で
ある貧弱なナイフで二人がかりで攻撃して、どうにか多少の怪我ぐ
らいで急場をしのいだ。幸か不幸か能力とスキルだけはゲームのそ
れと同じだったらしく、貧弱な初期装備でもボス熊ぐらいは余裕で
始末できたのである。
﹁そもそも、今にして思えば、別にこの貧弱なナイフでも、あれぐ
らいソロで始末できたんだよね⋮⋮﹂
﹁そうやな。ありがたい事に、レベルとスキルとパラメーターは、
ゲームからそのまま引き継いどるみたいやし﹂
さっきの戦闘と、その後の治療の事を思い出して頷く。実際、バ
ーサークベアは初心者殺しのフィールドBOSSだが、中堅ぐらい
のプレイヤーキャラから見れば、ダンジョンの雑魚より劣る程度の
相手でしかない。
21
﹁あの、東君﹂
﹁何?﹂
﹁私、アバターの外見は結構いじってたんだけど、今どうなってる
?﹂
﹁どうって、服装以外はごく普通に、いつもクラスのムードメーカ
ーやっとる藤堂さんやけど?﹂
﹁⋮⋮やっぱりか⋮⋮﹂
春菜のため息交じりの台詞に、いまいち何をがっくり来ているの
か理解できない宏。
﹁こんなよく分からんところに飛ばされる異常事態に比べたら、外
見がどうとか大した問題やないと思うんやけど⋮⋮﹂
﹁とは言うけどさ。こういう不特定多数にある程度個人情報が流れ
るゲームで、すっぴんの素顔を晒すのは結構抵抗あるよ﹂
﹁あ∼、藤堂さんやったら、そういう意味では気をつけた方がいい
かもなあ﹂
﹁分かってくれた?﹂
﹁うん。親が有名人っちゅうのも大変や﹂
そう言いながら春菜の姿をもう一度確認し、結構アレな問題に気
がつく。
22
﹁今思ってんけど⋮⋮﹂
﹁ん?﹂
﹁このゲームの初期衣装って、リアルやと案外目のやり場に困るな
あ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮言われてみれば⋮⋮﹂
アバターの時には気にならなかったが、ゲームの初期衣装はゆっ
たりしたデザインのため、意外と隙間が多い。一応見えてはまずい
ところは見えない作りだが、それでもポーズや角度次第では、胸の
谷間ぐらいは見えなくもない。そして、春菜の体型はゲーム中の中
一の頃から設定をいじっていない洗濯板なそれでは無く、現実と同
じグラビアアイドルに喧嘩を売って勝てるレベルであり⋮⋮。
﹁ファンタジーの衣装って、結構いろいろ問題があるよね⋮⋮﹂
﹁一応、作ろう思ったら服も作れん事はないで?﹂
﹁裁縫もやってるの?﹂
﹁裁縫も、って言うか、上位生産に行こう思ったら、基本的に全部
やらんと厳しいで﹂
﹁そうなんだ?﹂
﹁そうやねん﹂
23
いろいろな事情があって、生産の仕様だとか作れるものだとかは、
それほど一般には知られていない。少なくとも、ゲーム中に存在す
るものはすべて製作可能、と言うキャッチコピーが事実である、と
言う事は職人以外は知らないだろう。
﹁まあ、とりあえずは街に入るにしても、お金どうするかやな﹂
﹁初期設定どおり無一文とか、本当にひどいよね⋮⋮﹂
﹁鞄もあらへんからなあ⋮⋮﹂
そうぼやいたところで、ざっと処理したクマの毛皮が目に入る。
着の身着のままでほっぽり出されたも同然の状況では、宝の山と言
えなくもない熊の残骸を前に、いろいろ作れそうなものを思い浮か
べる宏。
﹁せやなあ。これで鞄作るか﹂
﹁そんな事、出来るの?﹂
﹁まあ、それほど問題はあらへん。とりあえず、糸と針がいるけど、
糸はそこらうろうろしとるウサギの毛でどうにかするとして、針は
⋮⋮、川があったから、魚の小骨でどうにかしよか﹂
﹁それでいけるんだ⋮⋮﹂
﹁鞄作るぐらいやったら、多分何とかなると思う。まあ、そういう
わけやから、ウサギから糸作るから、悪いんやけど藤堂さん、自分
僕より料理スキル高いみたいやし、魚捕まえて骨取ってくれへん?﹂
24
﹁了解。ついでに干物にでもしよっか﹂
そう言って、川の方に向かう春菜を見送り、手当たり次第ウサギ
を捕まえて毛皮から糸を紡ぐ。この地域のウサギは、アンゴラウサ
ギのようにふかふかの毛皮を持っているため、糸を作るのに向いて
いるのだ。さらに言うと、高レベルの紡織スキルがあれば、道具が
なくても最低ラインの糸を紡ぐ事は出来る。さすがに、布を織るの
は厳しいが。
﹁この感じやと、当分は野宿でサバイバルやなあ⋮⋮﹂
﹁そうなるよね⋮⋮﹂
素手で作れる限界まで細く糸を紡ぎながら、ついついぼやきを漏
らしてしまう。捕まえてきた魚を捌き終え、スモークする準備をし
ながら、春菜もため息交じりに同意する。
﹁とりあえず、道具がある程度揃えば、売りモンになる程度の薬と
かは作れるから、そこ自作するところからか⋮⋮﹂
必要量を紡ぎ終えた糸と最低限の加工を済ませた針を手に、深い
ため息を漏らす。道のりの長さにうんざりしながら、異世界生活初
日は更けていくのであった。
25
第1話
﹁それで、これからどうする?﹂
﹁これから、とは?﹂
﹁お金がどうとか、そう言う目先の事じゃなくて、この先どうする
かって言う事﹂
﹁ああ、そうやな⋮⋮﹂
昨日は現実逃避的にひたすら鞄やら何やらを作る方に専念してし
まったが、そもそも当てもなくうろうろするだけ、と言うのはあま
りにも情けない。いい加減、現実を直視して、すべきことを考えね
ばならない。
﹁まあ、最終目的は日本に帰ることでええとして、そのためにどう
やって情報とかその他もろもろを集めるか、やな﹂
手元の石を必死になってすり合わせながらの宏の言葉に、一つ小
さく頷く春菜。
﹁とりあえず、情報を集めるにしても、まずは街に入らないと駄目
だよね﹂
﹁せやねんけど、中に入るのに税金取られへんとも限らんわけで、
せめて少しは金目のもんを用意しとかんと⋮⋮﹂
26
﹁それは、直接話をして確認してからでもいいんじゃないかな?﹂
﹁それでもええんやけど、その前にこのへんの内臓はポーションに
加工してまいたいねんわ。この手の素材って、ゲーム中でも時間経
過で腐っとったし﹂
そう言って宏は、昨日ばらした熊の内臓をいくつか指さす。因み
に、解体の時のグロテスクな光景を見て気持ち悪くならなかったの
は、ゲーム中で誰もがマスターするであろう解体スキルの恩恵らし
い。
﹁何が作れるの?﹂
﹁レベル3の特殊ポーションや。レベル5の各種ポーションにも使
えん事はないんやけど、入れる瓶を作る材料があらへんし、それに
どうもここらでは、ええとこレベル3のポーションぐらいまでしか
材料が無さそうやから、特殊ポーションに回す事にしてん﹂
﹁特殊ポーションって、どんなのが作れるの?﹂
﹁一定ラインより上の強さを持つ熊とか狼の心臓でストレングスポ
ーション、肝臓でバイタリティポーション、後熊の場合、胃袋から
毒消しがいけるかな?﹂
﹁一定ラインって、バーサークベアでいけるんだ?﹂
﹁熊系は他の動物に比べると、比較的薬の材料に向いてる事が多く
てな。まあ、一口に材料言うても結構幅があって、例えばレベル2
ポーションやったら基本で五種類ぐらい、応用やとさらに倍、言う
感じで材料の組み合わせがあるんや。そこにオリジナル調合で調整
27
入れる分も含んだら、それこそ数えきれんほどのバリエーションが
あるし﹂
何ともアバウトな発言に、それでいいのかと問い詰めそうになる
春菜。それを察したのか、補足説明を入れる事にする宏。
﹁まあ、言うたら同じような効果を持つ薬を、全部まとめてレベル
2ポーションと呼んでるだけやろうと思うで。現実でも、そう言う
ケースは結構あるやろ?﹂
﹁ん∼、それはそうかもしれないね。で、さっきから何を作ってる
の?﹂
﹁即席の乳鉢。これがないと瓶が作られへんから﹂
﹁さっきから思ってたんだけど、同じような石同士をすり合わせて、
どうして大きい方の石だけ削れるの?﹂
﹁ああ。簡易エンチャントで小石の方を強くしてるから。因みにエ
ンチャント中級を習得済みでかつ、道具製造もしくはクラフトスキ
ルの中級以降からできるようになるやり方や﹂
知らなかった生産関係の情報をいろいろ教えてもらって、感心し
たようになるほどなるほどと呟く春菜。熊を解体した時にいろいろ
知らない素材を集めていたから、上級の生産に届いているのは分か
っていたが、ここまでいろんな事が出来るとは思わなかった。
﹁いろいろ出来るんだね﹂
﹁と言うかむしろ、いろいろ出来へんと熟練度が上がらへんから﹂
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﹁大変そう⋮⋮﹂
﹁生産は慣れと諦めと惰性やで﹂
そんな事を言いながらも、ややいびつながら、実用に耐える程度
の形の乳鉢を完成させる。
﹁それで、藤堂さんは採取とかどの程度やってる?﹂
﹁初級の熟練度十五ぐらいまで。そこで折れて町をぶらぶらする方
に行っちゃったから﹂
﹁要するに普通ぐらいか﹂
﹁うん、普通ぐらい。ごめんね﹂
﹁いやいや。みんながみんな中級とか上級とかまでいっとったら、
僕の存在意義はあらへんやん﹂
﹁そうだね。それに料理と歌は、確実に私の方がうまいみたいだし﹂
春菜の言葉にそらそうやと返し、脇にそれかかった会話を元に戻
す。
﹁ほな、悪いんやけど、材料集めちょっと手伝ってもろてええ? とりあえず採れるやつでええし、そんなにようさんはいらんから﹂
﹁了解。でも、大して練習してないから、あんまり期待しないでね﹂
29
﹁どうせようさん集めても持ち歩かれへんし、しんどくない範囲で
ええで﹂
﹁うん﹂
宏の言葉に軽く手を振り、適当な茂みの方に歩いていく。そんな
春菜を見送った後、
﹁ほな、いっちょ気合入れて頑張ろうか﹂
軽く体をほぐすように動いて、自分が言い出した作業に入るので
あった。
ざっと穴を掘って適当な石を積み上げ、かまどを作り上げる。そ
の後、河原で石を選別して集め、乳鉢で砕いてガラスの材料をより
分ける作業を延々と続ける。ある程度の分量を用意し終えたところ
で、かまどに何やら処理をした薪を大量に突っ込み、単なる薪燃料
としてはあり得ない火力の火を起こす。
そのまま即席のかまどでガラスの精製を行い、形を整えて三十本
ほど瓶を作り上げ、野営地周辺の植物系素材を獲れるだけ集めたあ
たりで、ばてばてです、と言う顔の春菜が、両手で抱え込める限界
の量の草や葉っぱを持ってくる。
30
﹁こんなもんで、ってガラス瓶がある!!﹂
﹁ちょうど今できたところやで﹂
﹁作ってるとこ、見たかったのに∼﹂
﹁それはまた今度っちゅうことで。ついでに鍋も作っといたから、
さっさと薬作ってまうわ﹂
そう言って、材料をすりつぶしたり混ぜたりと怪しげな作業を続
け、鍋で煮込んだものを瓶に詰めていく。
﹁結構作れるんだ﹂
﹁そら、葉っぱとかはともかく、心臓とかがあんだけのかさでこん
な小瓶一本とかいうたら、普通に暴動起こるで﹂
そんな事を言いながら、三種類のポーションを各十本ずつ作りあ
げ、さすがに疲れたと言う感じで座り込む宏。
﹁お疲れさま﹂
﹁さすがに道具まで一から作るんはきくわ⋮⋮﹂
﹁私だったら、絶対途中で挫折してるよ﹂
﹁と言うか、やりながら思ってんけど、さっきの口ぶりからしたら、
自分歌唱スキル高いんやろ?﹂
﹁エクストラスキルがあるから、低いとは口が裂けても言えないか
31
な?﹂
エクストラスキル、と聞いて、感心したような表情を浮かべる宏。
それを見て、今まで持っていた疑問に対して、ある確信を持つ春菜。
だが、それを問い詰めるのは後回しにして、宏の言いたい事を最後
まで聞く事にする。
因みに、エクストラスキルと言うのは、特定の条件を満たした上
で、専用のクエストをクリアすることで得られる、人知を超えた性
能を持つスキルの事だ。古の英雄の必殺技からどんな攻撃も無効化
する防御法、果ては神に捧げる舞踏まで幅広く存在するが、共通す
るのはクエストの発生条件がいまいちはっきりしていない、と言う
事と、持っているだけでいろいろとシャレにならない補正がある、
ということだろう。
﹁エクストラスキルまであるんやったら、なおの事こんなところで
しこしこ鞄とかポーションとか作ってんと、何とか門番だまくらか
して中に入って、広場で一曲歌ってもらった方が早かったかもしれ
へんなあ、と思って﹂
﹁でも、鞄とかなしに歌でお金稼いでも、そんなに持ち運べないよ
ね?﹂
﹁まあ、そらそうやわな﹂
﹁それに、ポーションも心臓とかが腐るからもったいない、って観
点だから、無駄にはならない、と思うけどどうかな?﹂
﹁そう言えば、ポーションってそういう理由で作っとったな。なん
か、カル○ス作るのに牛育てるところから始めるような作業手順や
32
ったもんで、すっかり忘れとったわ﹂
的確ながら、あまりにあまりな比喩に噴き出す春菜に苦笑を返し、
とりあえず完成品を一本渡しておく。
﹁とりあえず、バイタリティポーション渡しとくわ。藤堂さん、感
じから言うて力技は得意やなさそうやし﹂
﹁この手のポーションは使った事がないんだけど、どんな感じ?﹂
﹁ゲーム的には、十二時間ほど耐久値にボーナス補正がつくドリン
クやな。味は保証できへんけど、少なくとも作るのに失敗はしてへ
んから効果はあるはずや﹂
﹁十二時間って、また長いね﹂
﹁フルに効果があるんは、飲んでからせいぜい三時間やけどな。徐
々に効果が薄なって行って、六時間から九時間で申し訳程度になっ
て、十二時間で完全に切れるねん﹂
﹁なんか、あのゲームそんなところまで無駄にリアルなんだ⋮⋮﹂
﹁無駄にリアルやねん。まあ、飲み合わせの干渉まではなかったみ
たいやから、また今度マジックポーションとかも作るわ﹂
春菜がどちらかと言えば魔法系のスキルに偏っているらしいと判
断し、そんな事を告げる。
﹁うん、お願い。でね、東君﹂
33
﹁なに?﹂
﹁そろそろ、お互いに手持ちのカードを全部見せあわない?﹂
﹁手持ちのカード?﹂
﹁うん。どんなスキルをどのぐらいの熟練度で持ってたか、とか、
今何レベルぐらいでグランドクエストをどのぐらい進めてたか、と
かね﹂
春菜の提案に、少し視線を泳がせて考え込む。
﹁悪いんやけど、ステータス画面見んと正確な数字が分からへん﹂
﹁大体でいいよ。私だって、自分のステータスも細かいスキルも覚
えてないし﹂
これが現実だと確信した理由の一つが、ゲームの能力を使えるく
せに、ステータスの参照が出来ない事である。ゲームで取ったスキ
ルに関しては、どうやって使ってどのぐらい疲れてどの程度の効果
があると言うのを何となく体が覚えているため実用上は問題ないの
だが、ゲームの時に最大まで鍛えたもの以外は、今現在どのぐらい
と数字で言えないのが不便ではある。
﹁ん∼⋮⋮﹂
﹁東君が、何を気にしてるのかは分からないけど、少なくともこれ
からしばらくは、私達は運命共同体なんだよ?﹂
﹁せやなあ⋮⋮。まあ、いろいろ作った後やから、今更言うたら今
34
更か。それに、藤堂さんは大丈夫かな⋮⋮﹂
﹁大丈夫、って?﹂
﹁昔な、生産関係でいろいろあったんよ。ちょうど休止期間やった
から、僕自身は直接関わってへんけど、そのいろいろの絡みで一人、
ゲーム自体を続けられへんなったし、嫌気さして生産やめたとかゲ
ーム引退したとかもようさん出たしで、僕も含む職人連中は、自分
のスキル開示に一般人より慎重やねん。さっきまでは緊急事態にテ
ンパっとって、ちょっと不用心に作りすぎた感じやけど、な﹂
いろいろあった、という内容をなんとなく察して、ごめんと一つ
謝る春菜。生産スキルが高い人間の噂をほとんど聞かない理由を、
この時初めて実感として理解したのだ。彼女が知っているのは、高
校受験の最中に何かあったらしい、というそれだけである。
﹁とりあえず、藤堂さんは生産スキルどんだけあるか知ってる?﹂
﹁え? えっと、確か⋮⋮。素材関係が採掘、採取、伐採でしょ?
そこから派生の一次加工が精錬、紡織、木工、クラフトだったか
な? で、最終製品にするのが鍛冶、裁縫、錬金、製薬、道具製造
だったっけ?﹂
﹁大体そんなとこやな。因みに付け加えると、その他に大工、家具
製造、造船、土木、アクセサリ作成があって、分類上は生産に入る
んが料理、釣り、エンチャント、農業やな﹂
﹁料理はともかく、釣りとエンチャントも生産に入るんだ⋮⋮﹂
﹁入るねん。まあ、エンチャントは、魔法系にも分類されとるから、
35
魔法熟練の影響も受けるけどな﹂
こうして見ると、生産と言うか製造スキルと言うのも実に種類が
多い。そもそもアクセサリはともかく、大工とか土木、造船などは、
春菜にとっては今初めて聞いたスキルだ。因みに、これらのスキル
のうち、釣りと料理はランク分けが無く、その分最大熟練度が高い。
﹁で、僕がカンストしてへん製造スキルは、料理、釣り、農業、土
木の四つで、エクストラスキルを取れてないんがそれプラスエンチ
ャントと家具製造﹂
﹁⋮⋮はあ!?﹂
﹁驚く事はあれへん。一次加工までは、普通に上級生産まで届いた
ら必然的にカンストするタイプのスキルやし、それに製造とか生活
系のスキルは初級の熟練度七十を突破したら、一回のログアウトで
一種類だけやけど、材料なしでもログアウト中にある程度勝手に上
がるし﹂
﹁それでも、いくらなんでも信じられないよ⋮⋮﹂
春菜の表情に苦笑し、他のからくりを説明してやる事にする。
﹁藤堂さんがどう思ってるかは知らへんけど、生産スキルって実は、
格上狩りをしてる時の攻撃スキルを除けば、熟練度を上げるための
累積作業時間が一番短い系統やねんで。ただただ単純に、作業以外
の要素が煩雑でシビアなだけで、材料関係の問題が解決すれば、結
構上級って上がるん早いねん。それに、一部除いて、ほとんど全部
並行で育てへんと、材料が揃わへんし﹂
36
﹁それでも、ねえ⋮⋮﹂
﹁他にもからくりがあってな。初級生産スキル全部を五十まで上げ
ると、メイキングマスタリーって言う、作業時間および作業負荷軽
減と成功率上昇、材料の歩留まり向上、採集時の材料増量の効果が
あるスキルを覚えられるねん。これを覚えると、熟練度向上のため
の試行回数が跳ね上がるから、ものすごくスキル上げがやりやすく
なるんや﹂
﹁そんなスキルがあったんだ⋮⋮﹂
﹁あんまり知られてへんって言うか、職人連中でも、知らんかって
取りそこなって中級を突破できんかった奴がおるし。因みに、これ
取って大体二年あれば、材料集めの狩りに付き合ってくれる身内が
おるって条件で、藤堂さんが上げたスキルぐらいは全部上級カンス
トできるで﹂
その話と取得条件を聞いて、何ともまあ本末転倒なスキルだと呆
れるしかない春菜。一番きつい時期に役に立たないあたり、非常に
悪意を感じる仕様である。因みに宏は、生産職人同士の横のつなが
りで、採取系を除くなにがしかのエクストラスキルを習得している
人間は四十人いる事を把握しているが、そのうち彼を含む十五人が、
一般的な生産スキルを全て上限まで上げきっている。さらに言うな
らば、エクストラスキル習得数こそ宏が職人中トップだが、エクス
トラスキル以外の生産スキルを全てマスターしている猛者が一人、
宏よりも多い数の一般生産スキルをマスターしたうえで、エンチャ
ントや土木のエクストラを持っている人間も一人いる。
要するに、このゲームの生産は、上位に行くほど作業そのものは
楽になるのだ。
37
﹁本末転倒やって思うやろ? でも、これを簡単に習得出来たら、
今度生産が楽になりすぎるんちゃうか、って気もするから、こんな
もんでええんちゃう?﹂
﹁そうかもしれないけど⋮⋮﹂
﹁まあ、そう思っといてくれた方がありがたいかな。で、最後のか
らくりやけど、大工、造船、土木、農業、釣りの五つは、放置の効
率が他より大きく設定されてるねん﹂
﹁そうなの?﹂
﹁うん。特に大工、造船、土木は、中級あたりから普通にゲーム内
時間で連続五日とかかかる仕様やから、このへんのスキルは例外的
に、放置の経過時間がリアルやなくてゲーム内時間で判定されるよ
うになってんねん。それに、他のスキルに比べて試行回数が少なく
ても熟練度上がるし﹂
言われて納得する春菜。因みに、フェアリーテイル・クロニクル
では、ゲーム内時間四時間で現実の一時間である。そして、例に上
がったもの以外は、作業時間を現実の経過時間に合わせた上、熟練
度やメイキングマスタリーに応じた補正をかけるようになっている
ため、製薬上級などを放置で上げようとすると、一年やそこらの放
置ではマスターできない。
いろいろと楽になる仕様がこっそり仕込まれている生産関連だが、
結局VRシステム自体に組み込まれた接続時間制限の四時間、ゲー
ム内で十六時間を、スタミナやMPの回復時間以外全て採集や加工
に投入できる精神構造をしていなければ、とても上級には到達でき
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ない。逆に言えば、それが出来てちゃんと情報を持っているのであ
れば、たとえ高校生であっても、五年で宏ぐらいの領域に到達する
ことは可能な、良くも悪くも単純な積み重ねが全てという仕様にな
っているのである。
﹁因みに、土木と大工は高校受験の頃、何件かギルドとかNPCの
城作る仕事を引き受けて育ててん。これやったら一カ月に一回覗く
だけでええし、付属の施設までパッケージで一括で作ってくれるか
ら、ほっといてもガンガン上がるしな。それに、城とか家作るとき
だけ、整地とかの土木作業と築城作業をワンセットで指定できるね
ん﹂
宏が受験に入る前は、まだ職人がらみのトラブルは発生していな
かった。そのため、こういった依頼を受けて物を作る余地はあった
のだ。多分、今ではそこまで楽にあげる事は出来ないだろう。
﹁お城まで作れるんだ⋮⋮﹂
﹁作れんねん。物凄い時間かかる上に、メイキングマスタリーでも
大して期限が短くならへんけど、その代わり、関連施設抜きでも十
とか二十とか平気で上がりおる﹂
﹁船も似たようなやり方でカンスト?﹂
﹁うん。これまた高校受験の後半ぐらいにな。こっちはNPCから
受けた船団製造クエストで上げた他、城作らせてもろた知り合いの
ギルドが冗談で軍艦作る、言いだしたからそれに便乗して作ったり
とか﹂
予想以上に奥の深い話に、自分の楽しみ方が浅かったと思い知る
39
春菜。そんな面白そうなクエストが転がっていたとか、不覚にもほ
どがある。
﹁で、エクストラスキルは、鍛冶をカンストした時に、いろいろや
ってて仲良くなったNPCから変なクエスト引き受けて、そのまま
指示に従ってうろうろしとったら神殿の前で見たことない材料で武
器作れ、言われて、製造に成功したら﹃神の武器﹄って言うスキル
が追加されて、もしかしてと思っていろんなところに顔出したら、
同じ流れであれこれ覚えてん﹂
﹁あ∼、私が取った時と似たような流れ。因みに私のは﹃神の歌﹄
だった﹂
﹁他にも、腰蓑と草の鎧簡易版を作ったった自称キ○キ○ダンサー
が、﹃神の舞踊﹄ってスキルをゲットしてるらしいで﹂
﹁この分だと、他の生活スキルも似たような感じかな?﹂
﹁全部が全部、そうでもないやろうけど、少なくとも二次生産は大
体が﹃神のなんとか﹄やと思うわ﹂
因みに、生活スキルに関しては、他にも演劇、演芸、楽器演奏、
洗濯、調教、交渉、商売など幅広く存在するが、その効能はピンキ
リである。中には全員大工と演劇、演芸スキルを持つ劇団ギルドな
どもあり、宏は一度、彼らと一緒にド○フばりのコントのセットを
作る手伝いをした事がある。そんなものまで作れる柔軟さに、フェ
アリーテイルクロニクルの奥の深さをしみじみとかみしめたものだ。
なお、生活スキルのほとんどはランク分けが無く、その分最大熟
練度が高い仕様になっている。とはいえ、戦闘スキルと違って最大
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まで育てる人は少なく、またエクストラスキルが存在しないであろ
うものも多い。
﹁まあ、とりあえず僕の手札はこんなところかな? 戦闘スキルは
せいぜい基本攻撃と挑発が上級、スマッシュが辛うじて折り返して
るぐらいで、他は全部初級やし﹂
﹁魔法は?﹂
﹁そこまで手が出えへんかったから、生産の時に役に立つ生活系魔
法とか生産用魔法とか以外は触ってへん﹂
﹁そっか、了解。でも、それだけエクストラスキルを持ってたら、
パラメーターはすごい事になってるんじゃないかな?﹂
﹁耐久と精神とスタミナはすごいで。他はまあ、レベル相応やと思
うけど。因みに、グランドクエスト第一章クリア済みで、レベルは
百二十四や﹂
レベルを聞いて、二度びっくりする。案外高い。因みに、耐久と
精神とスタミナが凄い、と言う理由は簡単で、何故か生産スキルは
どれもこれも、それこそエンチャントや料理ですら、必ず耐久と精
神が上がるのである。しかも、序盤のマゾさを超えさせるための餌
だからか、結構補正量も大きい。
キャラクターレベルには上限が設定されていないが、グランドク
エスト第一章をクリアするまでは百が上限である。とはいえ、難関
で有名なグランドクエストも第一章までは大したものではなく、普
通にやればさほど詰まることなくクリアできる。そのため、ほとん
どの人間が百から二百レベルの間に居る。ただし、生産スキルでは
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一切キャラクターレベルが上がらないため、基本的にそれほどレベ
ルは高くない。春菜の友人も製薬の初級をマスターしたところで挫
折したのだが、その時点で春菜とは四十ぐらいレベル差がついてい
た。
﹁結構高いやろ? 材料集めでそれなりにダンジョンに潜ってるか
ら、自然と上がってくるねん。因みに、基本的に前衛、っちゅうか
壁役がメインやから、挑発と基本攻撃が上がってるねん﹂
﹁珍しいと思ったら、そういうこと。でも、それだったら私として
は結構やりやすいかも﹂
﹁ほほう? と言う事は、藤堂さんはやっぱり後衛タイプ?﹂
﹁後衛って言うか、遊撃かな。補助魔法とか状態異常、いわゆるバ
フスキルとデバフがメインのバランスタイプ。各種バフは、エクス
トラ以外では最高性能のやつまで覚えてるよ。レベルは百五十三﹂
﹁ふむふむ。熟練度はどんなもん?﹂
﹁女神の加護だけ最大。他は七割ぐらいかな? 状態異常は全部折
り返したところ﹂
﹁そらまたすごいなあ﹂
一般に知られている補助魔法のうち、最も強力なものをマスター
していると聞いて、ひどく感心してしまう宏。補助魔法は熟練度が
伸びる条件が特殊で案外育てにくく、しかもパーティでの寄与度が
低くカウントされるため、熟練度はともかく、キャラクター経験値
に反映されにくい。その上けっこうMP消費も大きく、複数使う必
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要が出てくる事もあって、途中で切るプレイヤーも多い。生産ほど
不遇ではないが、システム的には性能以外の面で結構扱いが悪いス
キル系統なのだ。当然、キャラクター経験値は入らない。
格上を殴ると熟練度上昇が早くなる攻撃系スキルや、大ダメージ
を回復すると成長が早い回復スキルと違い、補助魔法は上りが一律
だ。そんなところも、パーティでの重要度の割に育っているプレイ
ヤーが少ない原因である。すべてのスキルにおいて、熟練度が上が
って効果が強くなっても、基礎消費が小さくなる事はあっても増え
る事はないのは、補助魔法を育てる上での数少ない救いであろう。
そのため、普通に戦闘が出来てかつ熟練度の高い補助魔法を使える
人物は回復役以上に需要が多く、ドロップ品なども優先的に回して
もらえる事が多い。
﹁後は回復が女神の癒しを折り返したぐらいまで、攻撃は中級攻撃
魔法各種と中級魔法剣をいくつかMAXにしてる。得意な武器系統
は細剣系かな?﹂
﹁手数と手札の枚数で勝負するタイプか。ほんまにバランス型やね﹂
﹁うん。かっこいいからこのスタイルにしろって言われて、おだて
られてね﹂
春菜の照れの入った苦笑に、彼女でもお調子者みたいな事をする
のか、と目の前の綺麗どころの評価を改める。確かに見栄えとして
は、レイピアでの魔法剣を主体とした、手数と手札の枚数で華麗に
相手を圧倒するスタイルが良く似合う女性だが、クラスで見た性格
としては、むしろ足止めと状態異常を多用して、堅実に地味に仕留
めるタイプかと思っていた。
43
なお、フェアリーテイル・クロニクルの戦闘系スキルと魔法系ス
キルは、ゲーム中最も多くの種類を持っている。そのうち、スキル
が初級、中級、上級と分かれているのは基本攻撃と基本射撃、各種
武器スキルと魔法修練だけである。それ以外の、いわゆる技に分類
されるものは、取得条件を満たすと上位の強力な技を覚えられる仕
組みになっていて、それがランク分けの代わりになっているのだ。
その取得条件はランク分けされているものと違い、必ずしも下級ス
キルをマスターする必要がある訳ではない。
技や魔法の覚え方は、条件を満たした上でNPCから教えてもら
うのが基本だが、自分で編み出す、文献などから復刻する、プレイ
ヤーから教えてもらう、などの方法でも可能である。ただし、自分
で編み出すのは恐ろしく難しく、知られている限りではレベルが上
位三人のプレイヤーが一つ二つ編み出した程度である。そのうち一
つがエクストラスキルだったという噂だが、真偽の程は定かではな
い。
因みに補足しておくと、ランク分けのない生産・生活スキルは熟
練度五百で、それ以外のスキルは熟練度百でマスターとなる。
﹁後は、細かいスキルいろいろと、歌唱のエクストラスキルと、料
理をマスター、かな?﹂
﹁歌唱のエクストラがあるんやったら、呪歌とかは使わへんの?﹂
﹁あれ、範囲が広すぎる上に対象の識別ができないから、使い勝手
が悪いんだ⋮⋮﹂
﹁そっか。そう言えばキ○キ○ダンサーも、特殊舞踏は見てる人間
全員巻き込むから使い勝手悪い、って言うとったわ﹂
44
とにもかくにも、無駄なところでリアリティを追求するゲーム、
フェアリーテイル・クロニクル。おかげさまで死にスキルも多い。
歌唱も舞踏もエクストラスキルまで存在すると言うのに、実質単に
NPCからおひねりを巻き上げるためだけのスキルになり下がって
いる。
﹁とりあえず、私の手札はこんなものかな?﹂
﹁ってことは、なんかあった時は熊の場合と同じように、僕が相手
を抑え込んでる間に藤堂さんが始末、言うところかな?﹂
﹁そうだね。痛い仕事を押し付けて悪いけど、お願いね﹂
﹁了解。まあ、藤堂さんみたいな美少女が殴られるよりは、僕みた
いな地味なんが殴られる方がええやろう﹂
﹁美人かどうかは置いといて、そろそろ少女って年じゃないと思う
んだ、私﹂
春菜の指摘に少し考え込む宏。
﹁高校三年生とか大学一年生って、微妙に表現に困る年代やと思わ
へん?﹂
﹁そうだよね﹂
﹁⋮⋮まあ、難しい事は置いといて、食べるもん調達しよか?﹂
﹁⋮⋮そうしよっか?﹂
45
それた話に見切りをつけ、とりあえず目先の問題を解決する事に
した二人であった。
﹁意外と街まで距離あるなあ⋮⋮﹂
﹁だよね﹂
翌日、二日間お世話になった野営地を片付け、街を目指して移動
を始める二人。そう、二日間である。なんと彼らは、屋根も碌にな
い雨ざらしの土地で、二日も生活していたのだ。鞄を作ってなお、
二人分の敷き毛布代わりになる大きさの熊の毛皮があったとはいえ、
実にのんきな話だ。
結局あの後、移動するには時間が微妙だと言う事になり、だった
らガラス瓶作ってるところ見たいからもっとポーション作って、と
言う春菜のわがままに応え、手頃なレベル2ポーション各種を気力
が持つ限界まで作る羽目になったのだ。まあ、道具類は揃っていた
ので、最初の特殊ポーションよりは楽に数を作れたのだが。
因みに、こんなラフな作り方でもレベル4から下のポーションぐ
らいは失敗しないのは、どうやらエクストラスキル﹁神酒製造﹂と
﹁神薬製造﹂の恩恵らしいのだが、確証を得られないので黙ってい
た宏である。
46
﹁まあ、考えてみれば、バーサークベアがおるぐらいやから、町か
ら結構離れてるんはしょうがないか﹂
﹁二人揃って、変なところに落とされたよね∼﹂
﹁ほんまや﹂
とりあえず、あいまいな記憶を頼りに街を探すため、ある程度人
が通っていると思われる小さな道を歩く。決して街道のように整備
はされていないが、獣道と言うほど頼りなくもない。言うまでもな
く、宏は春菜と過剰に距離を取っている。
あたりは森と言うほど鬱蒼としているわけではないが、草原と言
うほど開けているわけでもない。地形や植生、生き物の分布から、
ファーレーンの首都ウルスの近郊だろう、と言う予想までは二人の
間で一致したものの、じゃあ、どっちに行けばいいのかと言うあた
りで意見が食い違い、とりあえずバーサークベアがいたのと反対方
向に行こう、ということで落ち着いたのだ。何しろ、そっちに行け
ば本格的に森の中に入る羽目になる。
なお、ウルスはゲームのスタート地点で、βテストの頃から実装
されていたゲーム最古の地域である。βテストでは、十分以上に広
いファーレーン全域が実装されており、結局テスト中に全てを見る
事はかなわなかったという話だ。
﹁あれ、街道じゃないかな?﹂
﹁それっぽいなあ。次はどっちに行くか、やけど⋮⋮﹂
47
﹁看板とかもなさそうだよね⋮⋮﹂
ある意味当然と言えば当然だが、このわき道がどこにつながって
いるか、などと言うのを記す看板はどこにもなかった。昔このあた
りでよく草むしりをしていた覚えのある宏でも、その手の看板の見
覚えはない。もう五年近く前の記憶なのでうろ覚えだが、確かこの
わき道は、付近に住む住民や冒険者が薬の材料を集めるために良く
入る道であり、その先の森も似たような土地だったはずである。
﹁どっちやったかなあ⋮⋮﹂
広い街道の真ん中付近まで出ると、とりあえず手掛かりになるよ
うなものがないかを探す。
﹁藤堂さん、覚えてない?﹂
﹁全然。私、このあたりを歩いたのってもう四年以上前だし、ウル
ス自体、二年ぐらい来てないし﹂
﹁僕も似たようなもんやからなあ。ずっと辺境で引きこもりやっと
ったし。ウルス自体にはクエスト漁りにとかで去年ぐらいまで結構
来てんねんけど、基本外に出る必要なかったしなあ⋮⋮﹂
﹁私は拠点がダールだったから、このあたりの土地勘はもう、全然
なくなってる﹂
お互いにため息をつきあう。誰か人がいれば、どっちに行けばい
いかぐらいは分かるのだが、悪い事に人通りが全くない。普通なら
隊商などが行き来しているはずだが、どうやら丁度タイミング的に
空白の時間帯だったらしい。
48
﹁よし。棒でも倒して⋮⋮﹂
﹁それで真ん中に倒れたらどうするん?﹂
﹁その時は、どちらにしようかな、で﹂
﹁それやったら、最初からどちらにしようかな、で決めたらええん
ちゃう?﹂
宏の非常にもっともな突っ込みを受け、苦笑しながら一つ頷く。
そんな事をごちゃごちゃやっていると、ちょうど春菜がさした方向
に、人影が見えた。
﹁藤堂さん、誰かおるみたいや﹂
﹁本当だ。ちょっと話を聞いてみよっか﹂
第一村人ならぬ第一異世界人発見、とばかりに、こちらに向かっ
て歩いてくる人影に歩み寄っていく。もちろん、悪い人だった時の
ための警戒は怠らない。
﹁なんか様子がおかしいなあ﹂
﹁うん。凄く切羽詰まってる感じ﹂
﹁背負われとる人、えらい顔色悪いで﹂
﹁⋮⋮声をかけてみる﹂
49
意を決して、春菜がその二人組に近付いていく。いざという時の
ために割り込めるよう、ナイフを抜く準備だけは怠らずに、春菜の
後をついていく宏。初対面の相手の警戒心を解く、という観点では、
宏より春菜の方がはるかに適任だと言う理由による役割分担だ。
﹁あの⋮⋮﹂
﹁申し訳ないが、今急いでいる﹂
﹁その人、どうしたんですか?﹂
﹁ポイズンウルフの爪にやられた。応急処置はしたが、毒が全身に
回ったら終わりだ。そういうわけで申し訳ないが⋮⋮﹂
急ぐ足を止めずに早口で言いすて、二人が来た方に早足で進む。
﹁東君、ポイズンウルフの毒って、さっきの毒消しで⋮⋮﹂
﹁消せるはずやで﹂
何ともご都合主義的な状況に釈然としないものを感じながら、そ
れでも死人が出るよりましだろうと一本差し出す事にする。
﹁藤堂さんは、毒消し系の魔法は無理なん?﹂
﹁ポイズンウルフの系統に対応してるのは覚えてないんだ。あまり
受ける機会ないし、あの系統の毒はほとんどの人が耐性持ってるか
ら、そんなに一生懸命は覚えなかったし﹂
﹁あ∼、そうやなあ﹂
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毒や麻痺と言った、いわゆる状態異常に分類されるものは、高い
耐久値を持つか耐性を得ることで効きにくくなり、かつ治りやすく
なる。毒や麻痺と言っても原因が様々で、薬だと対応する毒消しか
上級生産でのみ作れる万能薬を、魔法で治療する場合も同じく対応
する異常が治療できる魔法か高位の治癒魔法を使わないといけない。
中盤以降の毒一つとっても五種類は入り混じってくる状態異常に対
して、いちいち治療するより耐性を得て防ぐ方が早いという結論に
達する人が多かったのだ。
そのため、耐性の取り方が一般的になる前からヒーラーをやって
いる人を除き、肉体系の状態異常を回復させる魔法が充実している
プレイヤーは少ない。宏などにいたっては、面倒だから万能薬を持
っていく、などと言うレベルだ。しかも、調合をいじった最上級の
万能薬だと、六時間の間全ての状態異常を予防する、などと言うこ
とも可能なものだから、余計に状態異常治療系の魔法は影が薄い。
もちろん、一般のプレイヤーはそんなすさまじい万能薬が手に入る
立場ではないので、高レベルダンジョンだとそれなりに重要にはな
ってくる。
が、宏や春菜のような、戦闘面ではボリュームゾーンに位置する
連中にとっては、それほど重要度が高くなく、しかも鍛えるのもな
かなか難しいので︵効力の低い毒薬を飲んで、というやり方は、治
療魔法が育つより先に状態異常耐性が強くなってしまう︶、どうし
ても放置されがちな系統である。むしろ、毒をわざと食らった上で
通常のHP回復魔法を使って、毒が抜けるまで粘るやり方で耐性を
鍛える方が、早くて楽なぐらいだ。
﹁そういうわけやから、試しにこれ飲ましたって下さい﹂
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﹁⋮⋮本当に効くのか?﹂
﹁バーサークベアの胃袋で作った毒消しやから、遅行性の毒にはよ
う効きますよ﹂
半信半疑のまま、それでも目の前の二人が自分を担ごうとしてい
る様子が無かったため、賭けに出る事にしたらしい男性。背負って
いたもう一人の男を下し、その口に慎重に瓶を近付ける。辛うじて
意識が残っていたらしい毒にやられた男が、コクコクと液体を飲み
下すと、少しずつ呼吸が落ち着いてくる。
﹁藤堂さん﹂
﹁ん﹂
薬を飲ませている間にざっと傷の状態を見た春菜が、初級の回復
魔法を発動させて傷口をふさぐ。
﹁多分、これで大丈夫やと思います﹂
﹁やけに効きが早い薬だな﹂
﹁冒険者向けの調合やから、たかが毒を抜くのに、あんまりちんた
らやってたらあかんのですよ﹂
宏の言葉に納得する男。二人の見ている前で、中毒になった男が
ゆっくり立ち上がる。
﹁本当によく効く薬だ⋮⋮﹂
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﹁助かったよ、お二人さん﹂
﹁いえいえ。たまたまちょうど薬を持ってただけですし﹂
﹁そうそう。材料腐らすんもったいないから、いうて作っただけの
薬なんで、気にせんといてください﹂
勿体ないから、と言うレベルでこれだけの薬を作れるのが、どれ
ほどの希少価値かを明らかに分かっていない二人を、唖然とした顔
で見つめる男達。思わずまじまじと宏達を観察してしまう。
ぱっと見た印象では、どちらもひよっこ、という年齢なのは間違
いない。体格や体型から察するに、辛うじてファーレーンの成人年
齢である十五歳は超えているようだが、上で見積もっても二十歳に
は届いていまい。童顔なうえ全体的な雰囲気が緩いと言うか子供っ
ぽい感じで、間違ってもこんな高度な薬を作り出せるようには見え
ない。春菜の体型が日本人の平均だったら、十二歳ぐらいに間違え
られてもおかしくないぐらいだ。
﹁とにかく助かった。薬の代金を払いたいんだが、いくらだ?﹂
﹁最近の相場がよう分からへんので、当座の生活費程度の金額と、
近くの街までの案内でお願いします﹂
﹁⋮⋮分かった﹂
値段を聞かれて困り、正直にそう答える。どうやら訳ありらしい
と判断した男その一が、とりあえず医者代と考えていた額の半分を
出す事に。ぶっちゃけ、相当足元を見ているが、二人ともそれを分
かった上で受け入れているらしい事は見てとれる。
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﹁それで、こんなところでどうしたんだ?﹂
﹁ちょっと、迷子になりまして⋮⋮﹂
﹁土地勘がないので、どっちに行けば街があるのかが分からなくて
困ってまして﹂
﹁しかも、無一文なんで、街についたところで中に入れるかどうか
もはっきりせえへんで⋮⋮﹂
土地勘どころか、この国の一般常識その他も微妙に欠けている雰
囲気の二人に、思わず顔を見合わせる男たち。薬代で足元を見るぐ
らいのしたたかさはあるが、さすがに恩人を無下に扱うほど腐って
もいなければ荒んでもいない。どっちにしてもウルスまでは行く予
定だったし、連れていくついでにどの程度の知識があるか確認して、
必要な事は教えてやる事にする。
そもそも、ヘタレくさい男の方はともかく、女の方は結構な使い
手のようだから、下手をすると二人がかりでも撃退されかねない。
言葉の端々から漏れる情報からすると、女はヘタレくさい男のボデ
ィガードかもしれない。
﹁そういう事情なら分かった。丁度これからウルスに行くところだ
ったから、ついてくるといい﹂
﹁ありがとうございます、助かります﹂
﹁なに、助けられたのはこっちだしな。そうそう、自己紹介がまだ
だったな。俺はランディ、そいつはクルト。ウルスを拠点に活動し
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てる冒険者だ﹂
男たちの言葉に合わせ、宏達も自己紹介を返す。仲間を背負って
いた男がランディ、毒を食らった方がクルトらしい。どちらもがっ
ちりした体格で、さほど魔力を感じない。どうも二人とも、魔法は
ほとんど使わないようだ。クルトの方がやや砕けた性格をしている
ようだが、正直それほど違いを感じない。
なお、この二人いわく、冒険者ランクは下から三番目の七級だそ
うで、いわゆる中堅の入口ぐらいの力量らしい。どうやらそこらへ
んの設定はゲームと同じらしく、宏もゲーム中では七級冒険者だっ
た。春菜はもう少し上の五級だが、廃人の中には難関で知られてい
るグランドクエスト四章中盤まで進んでいるのに、冒険者ランクが
八級や九級で止まっているような偏った猛者も居るとの噂である。
﹁それで、こんなところで文無しで迷子って、いったいどうしたん
だ?﹂
﹁なんかよく分からない現象が起こって意識が飛んで、気が付いた
らあの森の入口あたりに居たんです﹂
﹁⋮⋮最近よく聞く話だな﹂
﹁⋮⋮僕ら以外にも、そういう人がおるんですか?﹂
﹁あくまでも噂だがな。とりあえず、ファーレーンでは王宮の指示
で、そういう人間は保護する事になっているから、一度そっちの方
に顔を出すといい﹂
その言葉が理解できず、思わず怪訝な顔をする宏と春菜。あくま
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でも噂のはずなのに、王宮が指示を出して保護をしている。おかし
な話だ。
﹁その話やと、国の上層部は与太話みたいな噂を信じとる、いう事
になりますけど⋮⋮﹂
﹁そうなるな﹂
﹁それって、偽物とか出てこないんですか?﹂
﹁どうやってか、本物を識別してるらしいぞ﹂
春菜の疑問にクルトが答えるが、余計に疑問が増えるだけで何の
答えにもなっていなかったりする。
﹁本物を識別してる、って言う事は、最低でも一人は本物が居た、
って言う事かな⋮⋮?﹂
﹁分からへん。分からへんけど、なんか変な話や﹂
﹁元々そう簡単には行かないだろうとは思ってたけど、思った以上
にややこしい事になりそうだね﹂
﹁参ったもんやな⋮⋮﹂
どうにも、いろいろとタイミングが良すぎる。薬については、ぶ
っちゃけ偶然もいいところだろうとは思うが、王宮の方はまず間違
いなく、何かが関わっている。とはいえど、多分関わらずに済ませ
るのは難しそうだ。
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﹁とりあえず、何にしても先立つものは必要やから、金策を考えん
とあかんやろうなあ⋮⋮﹂
﹁ちょっと歌って稼いでみるよ。アカペラになるから、上手く行く
かは分からないけど⋮⋮﹂
﹁ほう、ハルナは歌が得意なのか?﹂
﹁それなり、と言う感じかな?﹂
﹁ちょっと、歌ってもらってもいいかい?﹂
クルトの申し出に一つ頷くと、大きく息を吸い込んで、そのよく
通る美しい声をあたり一帯に響かせる。そこらをうろうろとしてい
た動物たちまで足を止め聞き惚れるあたり、さすがは﹁神の歌﹂と
言ったところか。
﹁⋮⋮本当に、君達は何者だ?﹂
﹁ただの通りすがりの迷子です﹂
﹁右も左も分からへん田舎者で、誰かに助けてもらわんと、明日に
も餓死しかねへん若造です﹂
答えになっていない答えを返し、いろいろな事をはぐらかす宏と
春菜であった。
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第2話
﹁あれが、ファーレーンの首都ウルスだ﹂
冒険者たちとの合流地点から二時間ほど道なりに歩いたあたりで、
大きな城門が見えてきた。話によると、東門らしい。冒険者の足で
二時間なので、一般人ならどれほど健脚でも、最低でもあと一時間
は余分にかかるだろう。直線距離なら大したことはなさそうだが、
途中に丘があったため、ルートが迂回する形になっているのだ。距
離から言うなら、丘がなければ、最初の位置から城門が見えていた
ぐらいである。
﹁なんか、近いんか遠いんか判断に困る距離やな﹂
今までのペースと城門までの距離を考えると、ウルスに入れるま
であと三十分ぐらいはかかるだろう。
﹁片道二時間半はねえ﹂
軽い補助魔法で移動時間を計っていた春菜が、微妙な表情で応じ
る。もっとも、二人とも、自分の体力などを勘定に入れるなら、荷
物満載でもあと三十分程度の短縮は可能だろうと判断しているが、
正直そのペースで長距離を歩きたくはない。
﹁因みに、他の町までの距離はどんなもん?﹂
﹁そうだな⋮⋮。ウルスから一番近い村まで、冒険者の足で八時間、
ってところか。でかい都市で言うと、カルザスとメリージュが一番
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近くて、徒歩で五日ぐらいか? 馬や馬車を使えばもっと早いが﹂
ランディの言葉になるほどなるほど、と頷く。カルザスやメリー
ジュまでの距離は、ゲーム中ではウルスから徒歩で二日ぐらいだっ
た。どうもゲーム内の地図とは、若干縮尺や位置関係が違うようだ。
なお、ファーレーンでは割と安値で懐中時計が普及しており、中級
以上の冒険者にとっては必需品となっている。必需品となっている
理由は簡単で、時間指定の配達物などが結構あるからだ。
﹁それで、一番気になってた事なんだけど⋮⋮﹂
﹁基本的に、住民登録をしてあれば出入りに金はかからない。例外
は一部特権階級と冒険者だな。隊商に関しては、どうせ荷物の検査
があるから、大体はその時に一緒に済ませる事になる﹂
﹁ってことは、私達は今回は取られるんだ﹂
﹁ああ。まあ、大した金額じゃないから、今回は俺達が払う﹂
﹁そうそう。命の恩人だし、歌も聞かせてもらったしね﹂
ランディとクルトが気負いなく答える。その後もいろいろと基本
的な常識を教わり、ゲーム内での表現や認識との違いを埋めていく。
宏にとって一番重要だったのが、ポーション類の呼び方。レベルい
くつではなく何級と言う呼び方になっているらしく、例えばレベル
2ポーションなら七級ポーションと言う事になる。最低が八級だが、
回復効果はあるが弱いものを等級外と一括でくくって呼んでいるら
しい。等級外ポーションは駆け出しの薬師が練習で作ったもので、
同じく駆け出しの冒険者に格安で売られているほか、どこのご家庭
の救急箱にも、絆創膏感覚で一本二本は入っているとのことである。
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ポーションの呼び方に関しては、現存するもっとも古い国である
ファーレーンの建国王、その仲間の魔導師が作れた最高の性能の物
を一級と呼び、そこを基準に作りやすさと効果を考慮して等級を決
めたそうだ。一級より上の物が存在するのでは、という意見に対し
ては、これ以上のポーションは、史上最強の英雄である建国王です
ら即死手前から復活してお釣りが来るような効果になるため、無駄
が大きくて必要が無いと判断したとのことである。製造難易度を考
えると、等級分けが必要になるほど出回る事もないだろう、という
のも理由の一つらしい。
他にゲームと現実の相違点としては、ゲームで使われていたクロ
ーネという通貨の下に、チロルと言う通貨単位が存在する事。これ
に関しては、食材の購入単位がものによっては百単位と妙に大きか
ったり、宿の一泊料金が変に安かったり、ドロップ品の値段がよほ
どの物でもない限り五クローネ程度だったりしていたため、宏も春
菜もあっさり納得している。因みに、一クローネは百チロルで、大
体一クローネ銀貨は千円札と同じ感覚で使われている。ゲーム内の
最低通貨が千円札と言うのはなかなか豪快だが、えてしてゲームと
はそんなものである。
﹁そう言えば、ポーション類って、普通はどの範囲まで買えるん?﹂
﹁そうだな⋮⋮。値段を気にしなければ、七級のポーションぐらい
までは普通に冒険者協会で売っている。とはいえ、庶民が気軽に買
える値段じゃないから、一般の薬屋には八級までしか置いてない。
六級以上は国が抱えている薬師ぐらいしか調合出来ないから、まず
一般に出回る事はないな﹂
﹁ほほう。そうなると、一級ポーションとか恐ろしい金額になって
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そうやな﹂
﹁現在一級を調合できる薬師は居ないと言われているから、金で買
えるかどうか以前に、持ってるだけで国家間の大騒動になりかねな
いよ﹂
﹁たかが傷薬に大層な⋮⋮﹂
あまりに大げさな話に苦笑してしまう宏。だが、考えてみれば、
レベル5以上のポーションは必ずドロップ素材が噛むようになって
くるうえ、レベル7や8は結構な大物を倒さなければ、素材そのも
のが手に入らない。そして、ドロップ系素材と言うやつは、それが
素材として機能する事を知っている人間が死体を解体しないと、余
程偶然が重ならない限りは素材として使える状態でもぎ取る事は出
来ない訳で、中級や上級の製薬スキルを持っている人間が国に保護
されているとなると、レベル5以上、こちらで言う四級以上のポー
ションはほとんど存在していない可能性が高い。
しかも、宏は知らぬ事だが、レベル6以上、つまりこちらでいう
ところの三級以上のポーションには、何と部位欠損を治す能力があ
る。何故、宏が知らないかと言うと、フェアリーテイル・クロニク
ルは余計なところでリアルなくせに、何故かプレイヤーには部位欠
損のシステムがないからだ︵モンスターは普通に部位欠損が起こる︶
。そのため、一撃でHPがゼロになるような攻撃で腕を斬られても、
戦闘不能になるだけで腕がちぎれたりはしない。なお、一級ポーシ
ョンが重要になるのは、三か所以上の部位欠損、それも切り落とさ
れたり潰されたりしてから何年もたっているようなものですら回復
させる能力があるからである。
この機能はヒーリングポーションだけだが、マナポーションは加
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齢や反動などで落ちた魔力や最大MPを最盛期に引き戻す効果があ
り、スタミナポーションには部位欠損を伴わない病や事故の後遺症
を治療する効果がある。これも、等級が高いほど重度のものが治療
できるため、一級ポーションは国家間の戦争を引き起こしかねない
ほどの危険物になっているのだ。
﹁薬ってのは、それだけ重要なんだよ﹂
﹁そら分かるけどなあ⋮⋮﹂
意外に低い生産能力に、思わず内心で頭を抱える宏。とりあえず、
春菜はともかく、宏は下手な事は出来そうもない。薬でそれとなる
と、武器防具などどうなる事か、考えるのも怖い。プレイヤーが鍛
冶で作れるものなど大した物ではないが︵と、宏をはじめとした職
人プレイヤーは思っている︶、それでも上級なら、ドロップ素材も
エンチャントも無しで、それほど危険のない場所でとれる低級素材
だけでも、一般的なNPC販売品の倍ほど性能が高いものは製造可
能なのだ。
そして、ランディやクルトが身につけている防具を見る限り、一
般に出回っている装備品の性能は、ゲーム中のNPC販売品と大差
ないと判断出来る。さすがに春菜は見ただけでそこまでは分からな
いだろうが、宏は神の匠だ。その程度の鑑定は余裕である。これが
普通の装備なら、宏の倉庫の中にごみ同然と言う感じで転がってい
た製造装備が、すべてこちらに転がり込んできた日には、平気で国
家間のバランスを崩しかねない。
﹁さて、ちょっと手続きをしてくるから、少し待っていてくれ﹂
﹁はーい﹂
62
﹁了解﹂
そんな話をしている間に、少し大きな声を出せば、門番と会話が
できるぐらいの距離まで近づいていた。ランディとクルトが二人の
分の手続きや支払いをしている間に、気になった事を春菜とこっそ
り話し合う。距離が近くなったため、微妙に鳥肌が立ち足が震えて
いるが、今回ばかりは我慢するしかない。
﹁なあ、藤堂さん。作ったポーションを買い取ってもらうん、ちょ
っと拙いかもしれへんわ﹂
﹁そんな感じするね。でも、正直レベル3の特殊ポーションはとも
かく、レベル2の各種ポーションは、あっても荷物にしかならない
よね?﹂
﹁せやねん。それが問題やねん﹂
これがただのレベル2ポーションなら売っぱらってしまっても問
題ないのだが、作ったのが宏である、と言うのが問題だ。生産スキ
ルで作ったアイテムは、作った時の生産スキルの熟練度によって、
効果に補正がかかることが確認されている。これが中級程度の技能
で作ったものなら大した差は出ないのだが、宏は神酒製造に神薬製
造まで持っている、最高峰の職人である。さすがに一個上のポーシ
ョンと同じ効果、とまでは行かないまでも、市販の普通のポーショ
ンよりは効果が高いのは間違いないだろう。適当に作った間に合わ
せの道具が、どれぐらいプラス補正を打ち消してくれているかが勝
負だが、作った感じそれほど使い勝手が悪い訳でもなかったので、
そこら辺は期待薄である。
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﹁⋮⋮腹をくくって、売っちゃう?﹂
﹁⋮⋮そうしよか⋮⋮﹂
他の金策方法を考えたあたりで、結局リスクが変わらない事に思
い当り、腹をくくる事にする二人。どうせ、そんなにすぐには指名
手配がかかるまいし、その気になればしらばっくれることもできよ
う、と、甘く考える事にしたのだ。もっと正確に言うなら、国家レ
ベルの厄介事に巻き込まれるかもしれないリスクよりも、今日明日
の食事と宿をとった、と言うのが正解である。
﹁二人とも、ちょっと来てくれ﹂
クルトに呼ばれて、門番のところに駆け寄る。どうやら、初めて
訪れた人間に対する面談らしく、いろいろ質問をされた。どう答え
ていいかが分からない物も結構あったが、二人の忠告に従って、全
て正直に答えておく事にする。
﹁知られざる大陸からの客人か﹂
﹁知られざる大陸?﹂
﹁ごく稀に飛ばされてくる事がある、君達のような出身地不明の人
物が居た場所を、王宮ではそう呼んでいるんだ﹂
﹁それって、一般の人には知られてるんですか?﹂
﹁あまり有名な話じゃないかな? せいぜい冒険者の間に、都市伝
説みたいな形で流れている程度だろうね﹂
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それもそうだろう、と納得する二人をにこにこと見守る門番二人。
実に愛想がいい。
﹁あの、それって、騙りとかいないんですか?﹂
﹁今のところ、そういう人は見た事がないね﹂
﹁そう言うのがおったとして、見分け方とかはあるんですか?﹂
﹁さっきの質問がそう。知られざる大陸からの客人は、こっちの常
識をほとんど知らないからね。いくつか答えられない質問があった
でしょ?﹂
その質問に、納得したように頷く宏達を、ニコニコ顔で見守る兵
士たち。笑顔のまま、宏達に一つ教えてくれる。
﹁知られざる大陸からの客人は、王宮からいろいろなバックアップ
を受けることができる。今、紹介状を用意してるから、明日にでも
行くといいよ。後、このチケットがあれば、冒険者が使う宿なら無
料で泊まれるから﹂
﹁それはまた、お手数をおかけします﹂
﹁これも仕事だからね﹂
イメージと違って愛想のいい兵士達から通行許可証と紹介状を受
け取ると、見送りに手を振ってその場を立ち去る。
﹁また、えらく愛想のいい門番やなあ﹂
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﹁ある意味で国の顔だからな﹂
﹁ファーレーンは商業の国でもあるし、無駄に威圧的にやって評判
を落とす必要はない、ってことらしいよ﹂
二人の説明に納得すると、さっさとお勧めの宿を紹介してもらう
事にするのであった。
﹁ポーション類とかの買取って、どこに行くとええかな?﹂
ランディとクルトのお勧めの宿、黒猫の瞳亭。宿についてすぐに、
今後のために一番必要な事を確認する。
﹁それなら、冒険者協会が一番だな﹂
﹁その心は?﹂
﹁お前達みたいな素人に対しても、基本的に足元を見ない。物によ
っては交渉にも応じてもらえるし、少なくとも必要以上に安く買い
叩く事はしないからな﹂
﹁冒険者協会は駆け出しの冒険者のサポートもやってるんだ。実力
不足なのはともかく、ちゃんと働いているのに報酬を叩いて新米が
育たなかったら、困るのは協会の方だからね﹂
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中堅冒険者の言葉に納得する宏と春菜。
﹁そうだな。この際だから、冒険者登録もしたらどうだ?﹂
﹁二人とも、それなりには戦えるんでしょ?﹂
﹁まあ、バーサークベアぐらいならどうにかできるけど⋮⋮﹂
﹁その装備でバーサークベアをどうにかできるんだったら十分。俺
達も用事があるし、飯食ったら案内するから、登録してきなよ﹂
﹁登録しておいた方が、買取交渉とかにも色がつく﹂
ランディとクルトの説明に頷き、そう言う事ならと登録すること
を決める。冒険者協会と言うやつがどういう目的で設立され、何の
利益を以って運営されているのかがさっぱりではあるが、話を聞く
限りでは、一応国家のしがらみをこえて運営されている組織ではあ
るらしい。ゲーム中でも疑問だったそこらへんの設定について、こ
っちでわざわざ深く突っ込んでも意味はなかろう。
﹁登録って、お金かかるん?﹂
﹁手数料として五クローネだ﹂
﹁あと、簡単な審査があるけど、手に職を持ってる人間にとっては、
それほど難しくないから﹂
﹁なるほど、了解。それやったら、バーサークベアの皮とかは、登
録した後に買い取り交渉した方がええんかな?﹂
67
﹁そうなるな。手数料については後払いもできるが、今回はこちら
で持とう。もっとも、通行税と同じく、知られざる大陸からの客人
とやらなら、手数料も免除されるかもしれないが﹂
どうやら、思った以上にこの国は﹁知られざる大陸からの客人﹂
とやらを重要視しているらしい。何ぞ裏の一つや二つありそうで、
どうにも不安になる話だ。
﹁まあ、何にしてもまずは、普通に冒険者登録とやらを済ませてか
ら、やな﹂
﹁だね。ご馳走さま﹂
まともに調味料を使った料理を二日ぶりに堪能し、今決めた方針
に従って行動を始める。ウルスの街並みは、ヨーロッパとアジアの
混血児のような一種独特の雰囲気を醸し出している、石やレンガで
できた建物と木造の建築物が入り混じったものだ。聞くところによ
ると、ファーレーンの大都市は、多少の地域性はあれど、基本的に
はこういう雰囲気らしい。道端にはそれほどごみの類も落ちておら
ず、清潔な印象である。上下水道が完備され、汚物の処理もシステ
ム化されているとのことで、排せつ物などが原因の異臭もしない。
ウルスは大国ファーレーンの首都でかつ、南北に長い︵と言って
も、幅も日本列島本州の南北より長いのだが︶国土のほぼ中間地点
にある港湾都市だけあって、かなり巨大な街だ。北の山を背に建て
られたウルス城。その城と、街道を思わせる太い中央の大通りを幾
重にも囲むように広がった街は、南西にある湾にまで届いている。
この世界では数少ない、人口が百万人に届く大都市である。世界で
三本の指に入る大国であるファーレーンの人口が、戸籍の上ではせ
68
いぜい一億人に届かない程度である事を考えれば、ウルスがいかに
巨大な都市か分かろうと言うものだ。
元々は城砦都市ウルスと港湾都市アグリナと言う二つの町だった
のだが、七代目の国王の頃にはウルスの出口からアグリナの入り口
まで徒歩で三時間、と言うところまで双方が大きくなっていたため、
区画整理を含めた大規模な公共工事を行って、一つの街にしてしま
ったのだ。国庫に対してかなりの痛手ではあったが、おかげで国の
内外から多数の労働者が訪れ、旺盛な消費で街に大量の金を落とし、
ものすごい勢いで人口が増え、結果として百年ぐらいを想定してい
た費用の償却が十五年程度で済んだとの事である。
東門から西門まで、あるいは城から運河まで、一般人の足では一
日以上かかるその広大な街は、何本もの運河が縦横に走り、船が人
々の足として利用されている。また、陸路としてもあちらこちらに
乗り合い馬車の待合所があり、それとは別に小さな馬車や馬が、タ
クシーや宅配便代わりに人や物を運ぶ姿が随所に見られている。そ
のほかの移動手段としては、普段使うには少々値が張るが、何カ所
か転移ゲートが設置されており、市民は必要に応じて使い分けてい
る。街と街を繋ぐ交通はともかく、街の中の交通の便はそれほど悪
くない。
彼らが利用している黒猫の瞳亭は、東門から運河で十五分程度移
動した辺りにある。このあたりはまだまだ海からは遠く、潮の香り
がする、と言うほどの距離ではない。だが、南に運河か馬車で一時
間も移動すれば、いい加減海が見えなくもない。また、高台に建つ
ウルス城、その物見やぐらからなら、これと言って無理をしなくと
も湾を見る事が出来る。このあたりはやはり、ウルスが港町である
ことをうかがわせる。
69
﹁ん∼、冒険者、か∼﹂
﹁当分は、安全第一でお願いします﹂
﹁分かってるよ。と言うか、そんな難しい仕事、いきなり出来る訳
ないし﹂
﹁と言うか、当面は着替えと装備をどうにかするところからスター
トやからなあ⋮⋮﹂
宏の水を差すような言葉に、自分が着たきりすずめである事を思
い出して渋い顔をする春菜。正直、着替えはいろいろと切実なので、
出来れば今日中にとっとと何とかしてしまいたい。救いなのは、フ
ァーレーンは水が豊富な国であり、風呂には困らない事であろう。
街のあちらこちらに公衆浴場があり、宿や借家の類も、値段次第で
は個別に風呂がある物も珍しくはない。
﹁やっぱり冒険者となると、毎日違う服、というわけにはいかない
よね⋮⋮﹂
﹁やろうなあ。そもそも、持ち歩ける服の数自体が知れてるし﹂
言われて納得してしまう。家がある訳ではない以上、基本的に荷
物はずっと持ち歩くことになる。服と言うのはかさばる上、案外重
い。それに、どんなタイプのものを調達するにせよ、鎧を身につけ
る事を考えると、下に着る服をあまりこだわっても意味がない。何
しろ、鎧のデザインを毎日違うものに、なんて贅沢な真似は、金銭
的にも物量的にも不可能なのだから。
﹁そう言えば、武器とか防具はどないする?﹂
70
﹁とりあえずお金たまったら、適当に安くて丈夫そうなのを見つく
ろって買うつもり。そう言えば東君って、メインは何使ってたの?﹂
﹁これって言うのはないねん。とりあえず、よう使っとったんは斧、
つるはし、鎌、ナイフあたりやけど、ハンマー振り回してる時もあ
ったし﹂
﹁⋮⋮もしかして﹂
﹁言わんといてくれるとありがたい。って言うかよう考えたら、最
低限つるはしは絶対買わんとあかんやん﹂
冒険者協会までの道すがら、春菜と宏の会話を聞くとは無しに聞
いていたランディとクルトは、つるはしと言う単語に首をかしげる。
﹁製薬師がつるはしなんか、何に使うんだ?﹂
﹁いろいろ使うで。一番たくさんいるんが、ポーションを入れる瓶
を作るための石英やし、物によっては特殊な加工をした瓶を作る必
要があるから、その材料が含まれた石を掘るのに、つるはしがあっ
た方がええし﹂
﹁瓶から作るのかよ⋮⋮﹂
﹁むしろ、瓶を作れんかったら話にならへん。一定ラインから上の
薬は、作る段階から瓶にいろいろ小細工せんとあかんし﹂
そんな話、聞いたこともないと言いたげな冒険者たちに苦笑し、
自分が教わったやり方だとそうだった、と言ってごまかす。そんな
71
話をしている間、左右の店を覗きこんでいろんな物の値段を確認し
ていた春菜が、ため息を漏らす。因みにファーレーンでは、ガラス
はそれほど珍しいものではないため、現代日本のように通りに面し
た側をガラスのショーウィンドウにしている店も少なくない。安い
ものではないが、店や一般家屋に使えないほど高くもないのだ。
﹁服って、結構いい値段するよ⋮⋮﹂
﹁どんな感じ?﹂
﹁上下あわせると、平均で十五クローネぐらい。長期滞在だと、黒
猫の瞳亭に二日泊まれるなあ、って﹂
﹁⋮⋮悩ましいところやなあ⋮⋮﹂
宿代については、今日一泊はただで泊まれ、そこから六日分はラ
ンディ達がすでに前金で払ってくれている。一週間以上だと長期滞
在で割引があり、一泊七クローネ。気を利かせて別々の部屋を取っ
てくれているため、二人分で八十四クローネ。そこに加えて、とり
あえず当座の現金として二十クローネほど受け取っている。結構な
金額なので、これ以上を薬代としてせびるのは気が引ける。二人か
らすれば、薬代だけでなく、歌に対するおひねりも含んだ金額なの
だが。
食事に関しては、朝晩は宿代に含まれるが、夕食のメニューは先
ほど食べた昼食と大差ないもので、サラダとスープにパンと干し肉
をあぶったものかソーセージ、もしくは焼き魚がつく程度。日によ
ってはスープと肉類の代わりにシチューが出てくることもあるよう
だが、それほど大きな差がある訳ではない。いいものを食べたけれ
ば材料を持ちこむか、追加料金を支払う必要がある。朝食にいたっ
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ては、もっとシンプルにパンとスープのみだ。さらに昼食は自力で
用意する必要がある事を考えると、服代一着十五クローネは結構き
つい。
﹁いっそ自作するか⋮⋮? でも、そのためには織機が無いとちょ
っとしんどいしなあ⋮⋮﹂
﹁そこからなんだ⋮⋮﹂
ランディ達に聞こえないようにつぶやいた言葉を聞きつけ、春菜
が少々離れた場所から苦笑がちに突っ込みを入れる。
﹁ただで出来る事はただで済まさんと。でも、よう考えたら、自分
の分はともかく、藤堂さんの分はちょっとしんどいか﹂
﹁どうして?﹂
﹁いくらクラスメイト言うても、それほど接点無かった男に自分の
体型とか教えるん、嫌やろ?﹂
﹁⋮⋮確かにちょっと抵抗ある⋮⋮﹂
﹁まだ、上着ぐらいやったらええけど、下着とかはさすがになあ⋮
⋮﹂
宏のぼやくような言葉に思わず顔を引きつらせ、念のために聞く
だけ聞いてみる。
﹁⋮⋮作れるの?﹂
73
﹁作った事はないけど、手持ちにレシピはあったから、多分やろう
と思ったら﹂
﹁⋮⋮ごめん、私今、実利と羞恥心の間で凄く葛藤してる⋮⋮﹂
﹁いや、上着はともかく、下着とか肌着とかは、作れ言われても僕
の方が困るんやけど⋮⋮﹂
﹁⋮⋮そこまで考えてなかった⋮⋮﹂
そんなこんなを話しているうちに、ようやく目的地の冒険者協会
へ到着した。
﹁思ったより、こじんまりとした建物やねんなあ⋮⋮﹂
﹁まあ、そんな大商店みたいな建物が必要な訳でもないしな﹂
黒猫の瞳亭から歩いて四十分程度。宏の感想に苦笑しながら、勝
手知ったる感じで建物に入っていくランディ。こじんまりとした、
とは言うが、それでも購買部をはじめとしたいくつかの施設が入っ
ているためか、それなりの面積と階層はある。城や砦のような規模
は無いが、普通の家やアパートなら、何軒か立てられる程度の規模
だ。なお、ここはファーレーンの冒険者協会を統括する施設でもあ
るため、他の協会施設よりもかなり大きい。また、ウルスには、後
74
三つほど協会の出張所がある。
﹁あら、ランディさん、クルトさん。護衛でメリージュへ行かれた
のではないのですか?﹂
﹁ちょっとばかし状況が変わってな。雇い主の意向で、連絡も兼ね
て俺達だけ戻ってきた﹂
﹁レイテ村近郊に、ポイズンウルフの大群が居座ってる。正直、護
衛対象を連れて突破できるような状況じゃなかったから、依頼人に
村で待ってもらって、俺達でもう一度群れを突破してきたんだ﹂
﹁⋮⋮それは事実ですか?﹂
﹁ああ。正式な依頼として処理されている。こいつが依頼票だ﹂
ランディが差し出した依頼票を確認し、一つ頷く受付嬢。
﹁それで、被害状況は?﹂
﹁依頼人をレイテに連れ込む時に二人、突破するときに三人やられ
た。村は魔物よけの結界があるから大丈夫だが、食料の問題もある
から、あまり長く孤立させるのはまずい。と言う訳で、向こうの村
長と足止めを食らってる連中とが共同で、ポイズンウルフの殲滅も
しくは排除の依頼を出すそうだ﹂
﹁状況が状況だから手付金も含めて後払いになるけど、村長さんか
ら依頼票を預かってるから、悪いけど手続きよろしく﹂
﹁分かりました﹂
75
割と大ごとになっているらしいそのやり取りを、ぽかんと眺める
宏と春菜。ポイズンウルフと言う魔物は、狼が瘴気を浴びて毒を持
つようになった生き物で、単品の強さはバーサークベアよりかなり
弱い。だが、こいつらは元が狼だけあって、とにかく群れる。その
上、回るのはかなり遅いとはいえ致死性の毒を持っているため、ゲ
ームでもバーサークベアとは違う意味で、序盤の初心者殺しの魔物
として知られている。毒は爪と牙両方から感染し、特に噛みつかれ
ると確実に致死量を注ぎ込まれるのが厄介だ。
ただし、ポイズンウルフのような遅行性の毒と言うやつは、実は
耐性を得るには丁度いいため、毒消し片手にぎりぎりまで狩りをし、
やばくなったら毒消しを飲んで消すと言うやり方で、大体のプレイ
ヤーが早々に実用ラインでの耐性を持ってしまうため、脅威になる
のは本当に序盤だけなのだ。
ここら辺が、春菜がポイズンウルフの系統に対応する解毒魔法を
覚えていなかった理由である。しかも、宏ぐらい人間をやめた耐久
値を持っていると、耐性の無い状態異常でもほとんど影響を受けな
い。逆に、このクラスのプレイヤーが防げない毒となると、耐性な
しの駆け出しや一般人なら、触れるどころか遠くから吸い込むだけ
で即死しかねないほどの毒性を持つ。
﹁なあ、ランディさん、クルトさん﹂
﹁なんだ?﹂
﹁凄い大ごとになっとるみたいやけど、ちんたらご飯食べとってよ
かったん?﹂
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﹁考えなかった訳じゃないが、クルトを医者に連れて行って治療す
る時間を考えたら、誤差みたいなもんだったからな﹂
﹁それに、この後の事を考えたら、君達の機嫌を損ねるのはまずい、
って判断もあったし﹂
クルトの言葉にピンとくる。ポイズンウルフの大群をどうにかす
る、となると、毒消しが相当な数必要だ。それも、宏が持っている
ような、魔法で消すのと大差ない効力を発揮する、即効性の強い毒
消しは喉から手が出るほど欲しいだろう。
﹁そちらのお二人は?﹂
﹁ああ。クルトの命の恩人だ。妙な魔法でこっちに飛ばされてきた
らしい﹂
﹁ああ、知られざる大陸からの客人ですか。命の恩人、と言うのは
?﹂
﹁恐ろしく良く効く毒消しをくれた。あの毒消しが無かったら、こ
こまでクルトが持ったかどうかも怪しい。何しろ、貰った時点で歩
けなくなる程度には回ってたからな。あれはまだ残ってるのか?﹂
﹁あと九本。材料があればいくらでも作れるけど、それなりに時間
はかかるで﹂
宏の答えに、胡散臭そうな目を向ける受付嬢。見た目せいぜい成
人年齢に達した程度の子供が、歩けなくなるほど回ったポイズンウ
ルフの毒を、一日もたたずに普通に動き回れるほど回復させるよう
な効果の強い毒消しを作れるなど、にわかに信じられる話ではない。
77
﹁まあ、そう睨むなって。本当にこいつが作ったのかどうかは関係
ない。それだけの毒消しを持っていて、俺達に惜しげもなくふるま
ってくれた、という事実の方が重要だ﹂
﹁⋮⋮申し訳ありませんが、その現物を見せていただけます?﹂
﹁ええよ。元々買い取ってもらうつもりやったし。何やったらレシ
ピも教えよか?﹂
﹁教わっても、今このギルドに居る人間では検証できませんので結
構です﹂
警戒心バリバリの受付嬢の態度に苦笑しつつ、とりあえず赤みが
かった緑と言う感じの色合いの毒消しを差し出す。大事になったた
めか、差し出す時に手が震えているのは御愛嬌だろう。それを買取
カウンターの方に持ち込み、何やら妙な機材の上に載せてごちゃご
ちゃやっている。その結果を見て、驚愕の表情を浮かべる受付嬢と
買い取り担当の女性。
﹁申し訳ありません。先ほどまでの態度を謝罪させていただきます。
この薬、本当にいくらでも作れるのですか?﹂
﹁材料があれば。あ、そうそう。これも買い取ってほしかってん﹂
﹁⋮⋮これは、七級ポーションですか?﹂
﹁ついでに作った奴。もしかしたら騒ぎになるかな、思って買い取
ってもらうかは悩んどってんけど、そっちの毒消しで大ごとになる
んやったらええか、思って﹂
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そう言って、カウンターの上に三十本ほど並べてみせる。駆け出
しの冒険者だと、それだけで一財産と言える数である。
﹁七級ポーションの値段を知らなかったのは分かるが、作りすぎじ
ゃないか?﹂
﹁藤堂さんに、瓶作ってるところを見たいとか言われて、つい調子
に乗ってん。作るだけやったら百本でも二百本でも作れてんけど、
持ち運びができんからこのぐらいでやめてん﹂
﹁だって、見たかったんだもん⋮⋮﹂
バツが悪そうにしょんぼりする春菜に苦笑し、とりあえずこの話
は終わりにする一同。作ってしまったものはしょうがないし、捨て
るのはもったいない。
﹁それにしても、七級のポーションってえらい高いなあ﹂
﹁そりゃ、九級あたりの冒険者だったら、瀕死の重傷でも一本で完
全回復するような代物だからね﹂
﹁俺達でも、いいとこ三本あれば、即死でない限り無傷まで治る。
値段相応の価値はあるさ﹂
日本円にして一本五十万とか、どんな傷薬かと思っていたが、言
われてみれば納得するしかない。何しろ、ゲーム的に言うなら、一
レベルで基本攻撃以外のスキルを一切持たないキャラのヒットポイ
ントが五十程度。レベル1ポーションの基礎回復量が百、レベル2
で五百で、そこに耐久力や作った職人の技量、調合のアレンジによ
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る補正があれこれかかるのだから、ランディやクルトの言葉は混じ
りっ気なしの真実と言う事になる。ゲームでは、冒険者や兵士以外
のNPC、いわゆる普通の人のほとんどが、レベルが高くてせいぜ
い五であった事を考えると、一般家庭ではレベル1ポーションまで
しか必要にならないのも当然だし、瀕死の重傷を五万円で治療でき
ると考えれば、レベル1ポーション五十クローネは高いとはいえな
い。
なお、現実で考えるとあり得ないほど強力な回復力を持つポーシ
ョンだが、レベル2までは魔力の付与を行わない。初級のポーショ
ン調合と言うのは、素材が持つ魔力や生命力を、調合によって限界
以上にまで増幅する技術である。飲み薬が多いのも、内部から作用
することで効果を効率よく発揮させる事が出来るからだ。
﹁もっとも、五級以上の冒険者になると、これぐらいでないと回復
が追い付かないみたいだが﹂
﹁それで、こんなたっかいポーションを普通に売ってるんか﹂
﹁協会としても、もう少し安価に流通させたいところなのですが⋮
⋮﹂
渋い顔でため息交じりに口を挟んできた買い取り担当に、思わず
顔を見合わせる宏と春菜。なんとなくピンと来るものがあり、春菜
が理由を聞いてみる。因みに、この女性は買い取りだけでなく、各
種アイテムの販売の方も担当しているらしい。
﹁その理由は?﹂
﹁需要の問題もあるのですが、それ以上に七級を調合できる薬剤師
80
がそれほど多くなく、特別な素材も必要で一日に作れる数も知れて
いるようでして﹂
﹁あ∼、なんとなく分かる⋮⋮﹂
予想通りの理由に、ため息しか出ない。宏いわく、レベル2ポー
ションの調合は初級をほぼマスターしなければ、確実に作れる腕は
身につかないとのこと。それがどれほど大変か、ゲームで身に染み
て知っている春菜からすれば、そこにたどり着かない人間の方が圧
倒的に多くても仕方がないと良く分かってしまう。
﹁そう言えば東君、このあたりって言うか、バーサークベアのあた
りの草で作ってたよね?﹂
﹁うん。応用レシピやから、八級のポーションの材料でもいけるで﹂
﹁そのレシピを教えてあげたら⋮⋮﹂
﹁難しいやろうなあ﹂
宏の言葉に首をかしげ、すぐに昨日の話題を思い出す。
﹁あ、もしかして?﹂
﹁うん。製薬以外に、錬金術の知識とある程度のエンチャントの技
量もいるねん。って言うても、エンチャントの方は一番簡単なんが
失敗なしでできる程度でええんやけど﹂
﹁話に聞くと大変そうなんだけど⋮⋮﹂
81
﹁全く知識無しやったら、できるようになるまで最低でも一カ月ぐ
らいかかるやろうなあ﹂
﹁だよね﹂
自分の経験をもとに告げる宏に、期待を潰されてがっくり来る一
同。
﹁でしたら、冒険者協会と契約して、安定供給に協力していただけ
ませんか?﹂
﹁出来たらそれも避けたいんやけど﹂
﹁どうしてですか?﹂
﹁思いすごしやったらええんやけど、僕の作ったポーションって普
通のより効果が強いかもしれへん。もし効果が強かった場合、普通
のを作ってる人の生活を圧迫するかもしれへんから﹂
言われて沈黙する購買担当。宏の指摘通り、彼の持ってきたポー
ションは、普通のものより倍ぐらい効力が強い。これが標準になっ
てしまったら、他の薬剤師が作るポーションが売り物にならない。
﹁難しい話は置いといて、だ。アン、この二人の登録を頼む﹂
﹁⋮⋮分かりました。こちらの書類に記入をお願いします﹂
差し出された書類に、書き込める範囲で書き込んで行く。何故か
こちらの文字を普通に書けるが、これに関しては気にしてもしょう
がないと割り切る事にしている。
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﹁そう言えば、今思ってんけど⋮⋮﹂
﹁どうしました?﹂
﹁こっちの人って、どんぐらいの人が読み書きできるん?﹂
﹁そうですね。ファーレーンの場合、都会に住んでいる人はほぼ九
割が読み書きできますが、農村になると、辛うじて数字が読める程
度の人が過半数でしょう。最近では地方の農村にも学校が整備され
てきてはいますが、それでも国全体で見れば半分に満たないのが現
実ですね﹂
受付の女性・アンの説明になるほどなるほどと頷く二人。意外と
高いと見るか、思ったより低いと見るかは微妙なところだが、少な
くとも文字が書けるのも書けないのも不自然ではないレベルではあ
る。
﹁読み書きができない人が登録に来た場合、どうするんですか?﹂
﹁書類自体はこちらで代筆し、研修の時に最低限の読み書きは覚え
てもらいます。読み書きをおぼえるまでは、依頼票の内容もこちら
で読み上げます﹂
﹁そっか、なるほど⋮⋮﹂
﹁それやったら、農村を飛び出した無謀な少年が、登録もできんで
努力の余地も無しに路頭に迷う事はない、と﹂
﹁絶対ではありませんけどね。そもそも、戦技研修と読み書きの授
83
業を受けながら仕事をするような人物は、大抵途中で挫折しますし﹂
丁寧に答えを返しながら、空欄の多い書類を受け取る。ざっと面
接のようなものを行い、書類に何かを書き込んで行く。先ほどまで
のやり取りで大体の人となりは把握しているが、一応規則は規則だ
し、何よりこの二人はファーレーンの法を良く知らないはずだ。暗
黙の了解で見逃される程度の細かい軽犯罪ならまだしも、かばいよ
うのないような大きな犯罪を、住んでいた地域の法体系や文化の違
いで犯されてはたまったものではない。そういった部分が大丈夫か
どうか、しっかり面接で確認しておく必要がある。
﹁それでは、実技試験に移りましょう。ダンジョンの探索許可は八
級以上になるか許可を受けた人物に同行する事で下りますので、今
回は戦闘能力だけを確認させていただきます﹂
一通りの見極めを済ませ、実技試験に。予想以上の実力を見せる
二人に舌を巻いていると、二人の側からも驚いたような感心したよ
うな声が。
﹁アンさん、強い﹂
﹁自分、ダンジョンぐらい潜れるんちゃう?﹂
﹁ギルドの職員は、皆最低限の戦闘訓練は受けているんです。それ
より、住所は登録されていないのですか?﹂
﹁今日こっちに来たばかりですから﹂
﹁なるほど。でしたら、ウルスで一カ月以上活動するのであれば、
明日にでも役所に行って登録してきてください。冒険者カードを見
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せれば、前歴などは特に確認されませんので﹂
﹁それで大丈夫なん?﹂
﹁我々冒険者協会は、そう言う組織ですから﹂
やけに説得力のある説明に思わず頷き、登録が済んだ証として十
級と記されたカードを受け取る。その後、施設の使い方や依頼の受
け方、昇級条件などについて一通り説明を受け、バーサークベアか
ら剥いで来てた素材を買い取ってもらって、その日やりたかった事
を終える。ランディとクルトは、登録を始めたあたりで王城へ緊急
支援要請を行いに行っているため、すでにこの場にはいない。
﹁ポーション類も込みで一万五千か⋮⋮﹂
交渉を終えた春菜から渡された金額を見て、難しい顔をする宏。
いきなり稼ぎすぎた、と思う反面、必要なものを買い揃えるとなる
と微妙に足りない気がする金額だ。とりあえず、今後の行動費とし
て一旦折半しておく。
﹁全部、とても丁寧に処理されていましたので、少し査定に色をつ
けておきました﹂
﹁一見すごい金額やけど、結構悩ましいところやなあ⋮⋮﹂
﹁難しいところだよね⋮⋮﹂
冒険者協会で扱っている装備品を見て、渋い顔で囁き合う。安い
ものは五十チロル程度なのだが、高いものは一万クローネを超える
物すらある。さすがに値段が値段だけに悪くはないのだが⋮⋮。
85
﹁とりあえず、今日は宿に戻って休もうか﹂
﹁そうやな。なんかいろいろあって疲れたわ⋮⋮﹂
﹁お疲れ様でした。もしよろしければですが、今回のポイズンウル
フの駆逐のために、明日の朝からで構いませんので、毒消しを作っ
ていただけませんか?﹂
﹁⋮⋮そうやな。聞いてしもた以上、知らん顔は気分悪いし。ただ、
材料を集めに行く気力が残ってへんから、代わりに集めてくれる?﹂
微妙にアンから距離を取りながら、そんな提案をしてのける。
﹁分かりました。これより職員を総動員して、可能な限りかき集め
ます﹂
﹁まあ、ポイズンウルフの毒やったら、特殊な材料は特にいらんか
ら、それなりの数は集まると思うけどな﹂
そう言って宏から告げられたレシピをメモして、奥の事務室や他
の施設の職員に声をかけて回る。それを見てため息をつくと、もう
一度協会の販売品をざっと眺める。冒険者の中には初歩の製薬術や
錬金術を身につけている人間も少なくはないとのことで、そういっ
た連中のために調合用の機材も多少は売られている。
﹁乳鉢と鍋ぐらいは買って行っといた方がよさそうやなあ⋮⋮﹂
﹁そこは任せるよ﹂
86
少し考え込んだ末に、どうせ今日は使わないからいいかという結
論に達し、そのまま宿に帰る宏と春菜であった。
﹁⋮⋮疲れた⋮⋮﹂
宿の個室。帰りに取った別行動で買い足した下着以外、ほとんど
空になった鞄をテーブルの下に転がしてベッドに横たわる。宏の方
は布と糸と裁縫道具を買ってきていたので、どうやら自分で縫うら
しい。こんなことなら、裁縫ぐらいは初級をカンストしておいても
良かったかもと考えても後の祭り、せめて今後普段着ぐらいは作っ
て貰う事にして諦めたのがさっきの事。
﹁なんかこう、複雑⋮⋮﹂
こちらに飛ばされてから三日目にして、ようやく安全に一人の時
間と言うものを得られた。野宿の時の二日間は、あまりしっかり眠
れなかった。それでも体力は十分すぎるほど回復していたのだから、
この体は結構規格外だ。
複雑なのは、あまりよく眠れなくて、微妙に寝た振りをしながら
宏の様子をうかがっていた結果である。彼の言葉ではないが、正直
卒業までに、事務的な会話以外一切話をする機会などないと思って
いた相手であり、おおよその人となりは知っていても、この環境下
でおかしな行動にでないと断言できるほど信頼できる相手ではなか
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った。あまりよく眠れなかったのは、モンスターに襲われるかもと
いう恐怖よりむしろ、そっち方面の不安の方が理由としては大きか
ったぐらいだ。
だが、宏の行動は予想と大幅に違い、春菜から結構な距離を取っ
て、交代の時間までずっと何らかの作業を続けていたのだ。交代時
間に起こす時以外は寝顔をのぞきこもうとする気配すらなく、それ
はもうひたすら無心に鞄を縫い、乳鉢を削り、熊のあばら骨を磨き、
一切春菜に興味を示そうとしなかった。面倒で疲れる作業を、多少
愚痴る程度でコツコツと続ける姿には好感が持てるが、さすがにこ
こまでガン無視されると、いくら相手が異性としてはアウトオブ眼
中といえど、結構傷つくものだ。
しかもこの男、途中で水浴びと洗濯をしてくる、と言っても一切
その場から動かず、終わらせて戻ってきてもずっと作業を続けてい
た筋金入りで、少しばかりは持っていた女としてのプライドが、た
った二日でかけらも残さずに完全に粉砕されてしまった。そう言う
視線を向けられたのは服装の話が出た時だけで、ランディとクルト
が結構無遠慮にじろじろ見てくるまでは、女としてそれほど魅力が
無いのかと、完全に自信を喪失していた。
﹁この状況で、見境なしに襲ってくるよりはいいけど⋮⋮﹂
少しぐらいは気にするそぶりも見せてほしいものだ。襲われたい
訳でも一線を越えたい訳でもないが、全くそういう方向で意識され
ないどころか、むしろ積極的に関わり合いになりたくないというそ
ぶりを見せられると、かなりショックが大きい。
︵別に、私だからってわけじゃなさそうなんだけど⋮⋮︶
88
冒険者協会での様子を思い出し、そう結論をつける。どうも、彼
は女性と言うもの全般と関わり合いになりたくないらしい。例外と
して、この宿の女将さんとは普通に話をしていたところを見ると、
一定以上の年齢の、ビジネスライクな付き合い以外発生しない相手
は大丈夫なのではないかと思う。
この年であそこまでと言うと、結構深刻な何かがあったのかもし
れない。少なくとも男色の気がある訳ではないのは、教室で近くを
通った時に漏れ聞こえてくるギャルゲーがどうとか言う会話と、服
装の話の時の視線ではっきりしている。なのに女性に近付きたくな
い、仲良くなりたくない、という思考が駄々漏れで、冒険者協会の
受け付けや購買担当に対応している時にいたっては、明らかに顔が
青ざめていた。状況が状況だけに向こうの二人は気が付いていなか
ったが、足などは明らかにふるえていた。
あそこまで重度の女性恐怖症となると、これからのつきあい方も
慎重にしなければいけない。最初、あまりに淡白な反応に傷ついて、
思わず﹁当ててんのよ﹂をやろうとしたが、本能的にそれをやると
本当の意味で全て終わると悟って、寸でのところで思いとどまった。
今にして思えば、よく思いとどまったと自分を褒めてやりたい気分
だ。
﹁明日、ちょっと突っ込んだ話をしたいけど、大丈夫かな?﹂
いくつか確信が持てずに黙っていた事を告げ、意見を求めたいの
だが、向こうがそれをよしと出来る精神状態かどうかが、明日にな
ってみないと分からない。さらに言うなら、話をするのは、出来れ
ば人気が無く、誰かに聞かれる可能性が低い場所にしなければなら
ない。宏自身の事を考えるなら、十分距離を置いた上で、何らかの
作業ができるような場所がいい。そんな都合のいい場所があるかど
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うかはともかく、早急にもっと細かく情報と意見をすり合わせる必
要があるのは明らかだ。
何しろ、現状二人の間での統一見解は、知られざる大陸からの客
人、と言う肩書での王宮からの支援は、受けない方がいいだろうと
言う事と、今回はともかく、これ以降は出来るだけ派手な行動は慎
もう、という二つのみだからだ。
﹁どっちにしても、まずは明日朝の毒消し作りが終わってから、だ
よね﹂
帰りにばったり会ったランディの話だと、宮廷魔導師の使い魔を
通じて、すでに向こうとはやり取りが完了しているとのこと。使い
魔が飛べる生き物でなければ、連絡のためにもう一度無理をする必
要があった、と苦笑していた。
その他もろもろの準備もあり、駆除作戦の決行は明日の昼からに
なるようだ。レイテ村までは比較的距離が近いため、馬を使えば昼
から出ても日が高いうちに駆除に移れる。とはいえ、一番必要な準
備はやはり毒消しらしく、宏の作業が終われば、すぐにでも出発で
きるように段取りを組んでいるそうだ。
﹁明日のためにも、早くご飯済ましちゃおう﹂
どうせ春菜に大したことができる訳ではないが、多少の手伝いは
可能だろう。とりあえず少しでも気力と体力を回復させるために、
とっとと食事を済ませようと宏を呼びに行く春菜。翌日の作業が、
宏の望みとは正反対に、最も面倒な形で最も深く王宮に関わるきっ
かけの一つになるのだが、どういう形で関わる羽目になるのか、こ
の時二人は知らなかった。
90
第3話
その日、冒険者協会は、早朝から大騒ぎであった。
﹁まずはドルクの枝と葉っぱを分けてまとめて、枝は皮をはぐ。そ
れとエージュの茎とドルクの葉っぱは細かくきざんで、こんな感じ
になるまですりつぶして。割合があるから、間違っても混ぜんよう
にしてや。要るんはアスリンは根っこ、エージュは茎だけやから、
それ以外は適当に処分しといて﹂
宏の指示に従い、昨日のうちにかき集められ、山と積み上がった
材料に立ち向かっていく春菜と職員達。参考までにと、材料を分け
てくれた薬剤師が、何人か協力に来ている。
﹁アスリンの根以外は、普通に作られている応急処置用の毒消しと
変わらないのですね﹂
﹁そらそうでっせ。元々、あの毒消しは効きが弱いだけで、成分的
には大抵の毒に干渉できるし﹂
﹁では、このアスリンの根は?﹂
﹁瘴気系の毒に強い効果があるんやけど、そのままやと劇薬やから、
普通の毒消しの成分で劇薬になってる部分を弱めたるんです。ただ、
普通に混ぜて煮込むだけやと肝心の瘴気系の毒に対する効能まで弱
めてまうんで、そこで錬金術の要領でちょちょいと細工したる必要
がありますねん﹂
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壮年の薬剤師の質問に答えながら、手際よくアスリンの根を処理
していく。肝心の素材だけあって一番分量が多いのに、この場にあ
るどの材料より早く処理が進んで行くあたり、熟練度の差というの
はずいぶんと大きいらしい。
﹁見た事のない処理をなさっていますが、それが?﹂
﹁はい。言うてもまあ、初歩の錬金術とエンチャントの知識があっ
たら難しないやり方なんで、機会があったらそっちも勉強したって
下さい。必要な事だけ僕が教えてもええけど、生兵法は怪我のもと
やし、やるんやったら、ちゃんとした人に習う事をお勧めします。
ちゃんと勉強した方が、応用範囲も広がりますし﹂
﹁分かりました﹂
宏の正論に、苦笑しながら同意する壮年の薬剤師。
﹁東君、この皮はどうするの?﹂
﹁はぎ終わったら置いといて。そいつと根っこは、ちょっと特殊な
処理がいるから﹂
﹁了解。あとは、葉っぱと茎をすりつぶしておけばいいんだね?﹂
宏の指示を受け、すりつぶす作業に混ざりに行く春菜。それを横
目に根っこの処理をすべて終え、大量の皮に取り掛かる。魔法を使
って乾燥させ、刻み、すりつぶし、粉にして量を測っていく。一連
の作業の流れるような手際に、方々から感嘆の声が上がる。
﹁蒸留水は?﹂
92
﹁用意してあります﹂
﹁ほな、代わりにそっちの作業やるから、かまどと大鍋用意しとい
てください﹂
﹁分かりました﹂
アンに指示を出して、細かく刻まれた葉っぱをひたすらすりつぶ
していく。他の薬剤師以外のメンバーが、せいぜい十五分程度の作
業で休憩をしていると言うのに、宏はそれ以上の時間の作業を一切
休憩せずにぶっ続けでこなしてのける。しかも、同じ時間で、何倍
もの作業量だ。どんな分野でもそうだが、熟練者と素人の間には、
絶望的な格差が横たわっている。
﹁さて、下ごしらえも終わったし、後は一気に煮込むだけや﹂
慎重に計量しながら、沸騰し始めた蒸留水の中に材料を投入して
いく。まず最初にエージュの茎をすりつぶしたものを両手鍋二杯分
投入し、十秒ほどかき混ぜて全体を均一にする。その後にドルクの
枝の皮を粉にしたものを混ぜ、さらに十五秒ほどかき混ぜる。全体
の色が変わったのを確認すると、ドルクの葉をすりつぶしたものと
アスリンの根を乾燥させて砕いたものを同時に一気に投入し弱火に
緩め、四十分ほど、魔力を込めながらひたすらかき混ぜる。徐々に
色が変わってゆき、澄んだ青色になったあたりで鍋を火から下ろす。
﹁後は瓶に小分けしたら終わりや﹂
魔法で荒熱を取りながら、瓶詰のために未使用、もしくは洗浄済
みの片手鍋に取り分け、ほぼ終了を宣言する。
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﹁手伝うよ。どれぐらいの量を入れればいいの?﹂
﹁首の下ぐらいまで。そんなにきっちりやのうてもええで﹂
﹁了解﹂
宏の指示に従い、お玉と漏斗を使ってせっせと瓶詰を続ける。こ
の作業においても宏や薬剤師の皆さんはさすがで、取り分けた片手
鍋から直接入れていると言うのに、小さな瓶に正確にこぼす気配も
なく流し込んで行く。ギルド職員の皆様もせっせと瓶に蓋をして、
それなりに手際よく封を行う。作業開始から三時間、そろそろ十一
時というあたりで、三百を超える数の毒消しが完成した。
﹁これぐらいあれば十分やと思うけど、どう?﹂
﹁そうですね。従軍する騎士団の数から言っても、これがいいとこ
ろでしょう﹂
﹁まあ、材料的にも設備的にも、これ以上はちょっと厳しい感じや
し、足らんかったら諦めて﹂
﹁分かりました。伝えておきます﹂
アンに対して言うべき事を言うと、協会の購買コーナーへ移動す
る。お目当ては、採掘や採取に使う、つるはしと手斧だ。
﹁とりあえず、これとこれでええかな?﹂
どうせ自作するまでのつなぎだ、ということで、品質的に普通に
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分類できるものを適当に選定。ついでに鉱石をたくさん入れられそ
うな、丈夫な鞄も見つくろう。
﹁そう言えば、鍛冶道具とか貸してくれるところはあるんやろか?﹂
﹁なかったらどうするの?﹂
﹁そらまあ、しゃあないから間に合わせで自作して、ちょっとずつ
ステップアップするしかないやろうなあ⋮⋮﹂
﹁また気の長い話を⋮⋮﹂
﹁しゃあないやん。どっちにしても、ええ装備が必要やったら、最
終的にはちゃんとした設備と道具を用意せなあかんねんし﹂
宏の言葉にため息をつく。この場合、ちゃんとした設備を用意す
る、というのは、工房を持って設備を自作する、ということだ。つ
まるところ、早々に宿屋暮らしを終えて、どこかに十分な広さの建
物を確保しに行かねばならない。もしくはそれだけの土地を購入し
て、資材を集めて自分で建てるか、だ。
﹁すんませ∼ん﹂
﹁はーい﹂
宏の呼びかけに、大急ぎでカウンターに駆け寄ってくる購買担当
の女性・ミューゼル。
﹁こんだけ欲しいんですけど﹂
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﹁分かりました。ちょっと待ってくださいね﹂
何やら黒板で計算を始める。買い取りと違うのだから単なる足し
算でいいはずなのに、掛け算が混ざっているのはどういうことだろ
う?
﹁つるはしと手斧、鞄が全部二つずつで六十五クローネです﹂
﹁安ない?﹂
﹁急なお仕事をお願いしましたので、ちょっとしたサービスです。
報酬については、現在国と交渉中ですので、後日おいでください﹂
﹁了解。ほなありがたく割引してもらいますわ﹂
全く裏が無い訳ではなかろうが、さして警戒するほどの物でもな
さそうだ。昨日と今日で余計な方向で目立ってしまったのだから、
目をつけられるのも当然だろう。ならば、せめてメリットを頂戴す
るぐらいは構わないはずだ。
﹁それで、質問なんですけど﹂
﹁はい、どうぞ﹂
﹁この付近で、鉄とか採れる場所ってあります?﹂
﹁鉱石類ですか⋮⋮﹂
春菜の質問に、少し考え込むミューゼル。
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﹁そうですね。北にあるレーネ山中腹辺りにある崖で、少し取れた
という話はありましたね∼﹂
﹁少し、ですか?﹂
﹁はい。採れるのは採れるそうですが、質も量も大したことが無い
そうで、結局鉱山としては使い物にならなかったんですよね∼﹂
ミューゼルの言葉に、少し考え込む二人。
﹁それで、どうして鉱石が?﹂
﹁まあ、大した話ではないんですが、材料を持ち込めば、安くいい
装備が手に入らないかな、と思ったんですよ。後、東君の話では、
錬金やエンチャントの素材に鉱石を使うものがあるっていう話なの
で、集めておけば初歩の物は自力でどうにかなるかも、と﹂
﹁ああ、なるほど。私はてっきり、武装も自作するのかと思いまし
たよ﹂
ミューゼルの言葉に、全くの無反応は貫けなかった二人。その様
子に微妙に笑みの種類が変わったのを見て、しまったと思うが後の
祭り。のんきそうに見えても、さすがに冒険者協会の職員といった
ところか。
﹁まあ、実際のところ、アズマさんほどの力量は珍しいとはいえ、
薬や武装をある程度自作する冒険者の方も、それほど珍しくはない
ですからね∼。薬剤師の中にも、自分で材料を集めるために冒険者
になった人とか、自分で使いやすい道具を追求するために鍛冶を習
っている人とかも居ますし﹂
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﹁つまりは?﹂
﹁協会の設備に鍛冶関係の物もありますので、必要でしたら声をか
けてくださいね﹂
﹁⋮⋮分かりました﹂
所詮はまだ高校生の若造二人。戦闘能力は十分以上に高かろうと、
こういったやり取りでは大人を相手にできるほどすれていない。冒
険者協会相手には、隠すだけ無駄らしいと諦める事にする宏と春菜
であった。
﹁このあたりか﹂
教わったあたりにたどり着いたところで、崖を見上げながら疲れ
たように宏がつぶやく。基本的に狩人か薬の材料を探しに来る人間
しか入らないような山なので、道と呼べるようなものもほとんど無
く、二人は延々獣道を歩く羽目になったのだ。二人とも一般人の平
均よりは大幅に高い耐久値を持っているため、枝や茨で怪我をする、
という事はなかったが、春菜の服はあちらこちらがほつれ、今も必
死になって毛先に絡んだ枝を引っぺがしている。
ゲームでは、さすがにこういう細かいトラブルはなかったため、
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こんなしょうもない事でも、今の状況が現実である事を思い知らさ
れて、地味にへこむ。服にしても、一応汚れという要素はあったが、
こんな風に袖や裾がほつれたりする事はなかった。もちろん、戦闘
で破れたりはしていたが、木の枝にひっかけたり、などという事は
なかった。つくづく面倒な話だ。
﹁さすがに、有望な鉱脈もないと判断されるような場所じゃ、ちゃ
んとした道なんてないか⋮⋮﹂
﹁まあ、そうやろうなあ﹂
﹁そう言えば、その手斧でいろいろ払ってたけど、集めてたのは薬
の材料?﹂
﹁そんなとこや。まあ、薬だけやのうて、錬金に使うもんもあるし、
服に処理する触媒にしたりもするけど﹂
そう言って、崖をじっと見渡す宏。早速、採掘モードに入ったら
しい。はっきり言って、春菜にはどのあたりに鉱石があるかなんて
分からないが、職人の目には違いがあるのだろう。
﹁あったの?﹂
﹁そんな期待は出来へんけど、まあきっちり精製すれば使えるやろ
う﹂
おもむろにつるはしで崖を掘り始めた宏に確認を取ると、そんな
心もとない返事が返ってくる。とはいえ、崖を掘っている宏の表情
は実にいい笑顔で、このヘタレにこんな表情ができるのかと心の底
から驚いてしまうのだが。
99
﹁それで、作業しながらでいいから、聞いて欲しいんだけど⋮⋮﹂
﹁何?﹂
﹁先に謝っておくと、今まで、ちょっとだけ嘘をついてたの。ごめ
んなさい﹂
﹁嘘って、どんな?﹂
﹁最初に、このあたりの土地勘ほとんどなくなってるって言ったで
しょ?﹂
﹁そう言えば、言うとったなあ﹂
三日目、ウルスに向かって移動中に、確かに春菜はそう言う感じ
の事を言っていた。
﹁あれ、半分は本当なんだけど、半分は嘘だったの﹂
﹁と、言うと?﹂
﹁私、一度行った事のある場所とか、一度見聞きした事のあるもの
って、そう簡単には忘れないの。だから、ゲーム内でのファーレー
ンの地理も、ほとんど覚えてるんだ。あのあたりを歩いたのが四年
以上前、って言うのも、ウルスに来たのも二年ぶりぐらい、って言
うのも嘘じゃないから、後から実装された建物とかがあると分から
ないのは事実なんだけど、ね﹂
﹁なるほどなあ。で、半分本当や、言うには、後から実装された建
100
物がどう、言うのは弱いで。それに、実際にあんまり道とか分かっ
て無かったみたいやし﹂
﹁よく見てるね﹂
﹁そら、ちゃんと観察して、違和感になるようなところは頭の片隅
にとどめておくんが、天敵相手に身を守るコツやからな﹂
﹁天敵って⋮⋮﹂
宏のあまりの言い分に、そんなに自分と行動するのは嫌なのか、
と、思っていた以上にショックを受ける春菜。
﹁別に、藤堂さんがどうとか、そう言う事やないで。僕は基本的に、
女の子とは関わりたくないねん﹂
﹁⋮⋮アンさんとかミューゼルさんに対する態度で、そんな気はし
てたよ﹂
最初の時も先ほども、アンやミューゼルが至近距離に居た時は、
宏の顔は明らかに青ざめていたし、よく見れば鳥肌が立っていた。
そう言う反応が無かったのは、作業の最中の、目先の事に意識の大
半が向かっていた時ぐらいだ。初日の、緊張していると勘違いして
もおかしくない時以外近くで会話をしていないアンはともかく、ミ
ューゼルは多分、宏が対人恐怖症、それも特に女性に対して結構洒
落にならないレベルのそれを患っている事に気が付いているだろう。
﹁自分こそ、よう見てるやん﹂
﹁運命共同体だからね。相方がどんな人か、何が好きで何が嫌いか、
101
どんな事が負担になってるか、って言うのはちゃんと見ておかない
と、余計なトラブルは破滅への第一歩だし﹂
﹁そっか。悪いな、こんなんが運命共同体で﹂
﹁そんな事はないよ! 私は、東君がパートナーでよかった、って
思ってるよ!﹂
自嘲気味につぶやいた宏に、あわてて否定して見せる。実際、右
も左も分からないこの土地で、宏がパートナーであると言うのは非
常に幸運だったと言える。女性恐怖症の彼には悪いが、貞操の危機
を覚えずに済み、それ抜きでもこういう状況で最低限の信頼を置け
る人柄をしており、何より大抵の物を自作できる。これほどのパー
トナーに文句をつけるなんて罰当たりな真似、春菜にはとてもでき
ない。
﹁無理せんでええねんで。正直、天敵やのなんやの、物凄い失礼や
って自覚はあるし﹂
﹁詳しく聞く気はないけど、よっぽどの事があったんでしょ? だ
ったらしょうがないよ﹂
﹁ごめんな﹂
﹁こっちこそ、ごめんね。できるだけ不要な負担はかけたくないん
だけど、性別だけはどうにも⋮⋮﹂
﹁いや、藤堂さんが謝る事でも気にすることでもないと思う、言う
か、むしろ男やったらもっとしゃっきりせい、みたいなことを言う
てもええくらいやと思うんやけど⋮⋮﹂
102
﹁言えないよ⋮⋮﹂
春菜の目から見れば、宏のそれは明らかに、カウンセラーか心療
内科にかかるべきレベルだ。正直、一歩間違えれば引きこもりにな
るか精神病棟に隔離されるのではないか、という種類の危うさを感
じる。去年も同じクラスだったと言うのに、身近にこれほど危うい
人間がいて、それに全く気がつかなかったあたり、自分の観察眼と
思いやり、というやつもまだまだだ。
﹁で、話を戻して。覚えとる、言う割には道がよう分かってない感
じやったんは、何で?﹂
﹁VRと現実では見え方が違った、って言うのもあるけど、一番大
きいのは、覚えてるのと地形が違ったの﹂
﹁ほうほう。たとえば?﹂
宏の質問に、どこを例として挙げれば分かりやすいかを考える。
﹁ウルスに行く途中に、丘があったでしょ?﹂
﹁うん﹂
﹁あれ、VRの方では無かったの﹂
﹁そうなん?﹂
宏の不審そうな言葉に、真面目な顔で頷く。あの時、表立っては
はしゃぎ気味に行動してごまかしていたが、内心では記憶とはっき
103
り違う地形に、かなり大きなショックを受けて混乱していたのだ。
﹁うん。街道に出た時点で城門が見えてなきゃいけなかったんだけ
ど、あの丘があって見えなかったから、地形が違うんだ、って確信
した﹂
﹁ってことは、その前に街道と反対の方に行こうとしとったんは⋮
⋮﹂
﹁あっちに抜けると、ウルスの北門にショートカットできたはずだ
ったんだ。でも、もしあの時向こうに行ってたら、確実に迷子にな
ってただろうね﹂
﹁さよか﹂
今更どうでもいい話だったので、とりあえずそれで流して採掘を
続ける宏。それを見た春菜が、一つため息をついて本題を切りだす。
﹁それで、東君はゲームの初期設定とか、どれぐらい覚えてる?﹂
﹁ほぼ覚えてない、言う感じやな﹂
﹁じゃあ、やっぱり知られざる大陸からの客人、って単語は覚えて
なかったんだ﹂
﹁ゲームでも、そう言う設定やったん?﹂
﹁うん。ゲーム通りだとすると、私達はこの世界の一般人より、能
力やスキルの面では成長が早いはずなの﹂
104
春菜の言葉に、そう言う設定だったのかと感心する宏。なお、過
去に話を円滑に進めるために、細かいステータスを覚えていない、
と言っているが、言うまでもなく、春菜は自身のステータスぐらい、
熟練度の小数点以下まで全て覚えている。もっとも、今となっては
全然役に立たない記憶だが。
﹁まあ、考えてみたら、いくらゲーム内で二十年修業積んでるいう
ても、それだけでここまで技能が育つ訳あらへんわなあ﹂
﹁うん。私もそう思う。で、問題になるのは、ゲームで鍛えた能力
が使えるのはいいとして、能力やスキルの成長が早い、って言う設
定は生きてるのかどうか﹂
﹁そやなあ。ただ、生きてるかどうかを、どうやって確認するんか、
言う問題はあるわな。ゲームとちごて、ステータスを見られへんし﹂
﹁そうだよね。ためしに修練するにしても、客観的な物差しが無い
と変化が分からないし﹂
﹁そもそも、もともと能力値は一つ二つ上がっても、見て分かるほ
どの影響はなかったやん﹂
崖を掘りながらの宏の言葉に、苦笑しながら頷く春菜。宏の足元
には、いつの間にか大量の岩石が転がっている。掘りながら仕分け
を済ませているらしく、よく見ると岩石の山が二つ出来ている。
﹁大体、修練するにしても、元の能力値が高くなってくると、一ポ
イント伸ばすのにかかる時間とか、一回の修練での伸び率とかは悪
なってくるし﹂
105
﹁うん。そこも問題なんだよね。多分、私達は一番低いパラメータ
ーでも、一般の人よりは随分高いだろうし﹂
フェアリーテイル・クロニクルというゲームにおいて、装備補正
なしの能力値を増やす主要な手段は三つ。キャラクターのレベルを
あげる、スキルの熟練度をあげる、伸ばしたい能力値を使う作業を
行って鍛える、である。例外として、レアドロップの消耗品の中に
は、使用すると特定の能力値を永久に一ポイント増やす、などとい
うものもあるが、ゲーム中でも、五年で四つしか出現していないレ
ア中のレアなので、この場合数に入れる必要はないだろう。因みに
そのアイテム、宏は生産可能だが、材料が洒落になっていないので、
いまだに作った事はない。また、クエストボーナスで伸びるケース
もあるが、これも数が少ない上に、グランドクエストの二章以降と
ハードルが高いため、主要な手段からは外れる。
このうち、狙った能力だけを伸ばせるのは、最後の伸ばしたい能
力値を使う作業をする、というやり方だけだ。レベルアップはスキ
ルやそれまでの修練の傾向から、自動的に上昇する能力値を割り振
るため、低い能力はいつまでたっても低いままである。そして、ス
キルの熟練度をあげて得られる能力値ボーナスは、大抵の場合二つ
以上の能力が伸びる。それに、スキルを鍛える、という作業自体が、
能力値の修練にもつながっているため、熟練度ボーナスが得られる
タイミングに関係なく、いつの間にか能力値が上がっている、など
ということも珍しくない。
このように、現実に比べればコントロールしやすいゲーム中にお
いて、ステータス表示を見ながら調整しても完璧に思うようにはコ
ントロールできない類のものなのに、比較基準もないのに闇雲に訓
練して、伸びやすいかどうかなど確認のしようがない。
106
﹁そもそも、フェアクロの能力値って、主観だと十ぐらい変わらな
いと影響が分からないけど、他所から見ると数値が大きくなるほど、
一ポイントの差が絶望的な影響を持ってるのが分かる類の仕様だっ
たし﹂
﹁そうやっけ?﹂
﹁うん。例えばね、筋力が百五十ぐらいの場合、百五十一になると
十五ぐらい基礎攻撃力が増えるの。主観だとたった十五、ってこと
になるけど、武器で言うなら初期のナイフと同じぐらいの攻撃力が
増えてるよね。これが、筋力が三百になると、基礎攻撃力が三十増
えるのかな? 筋力三百のころの三十って大した数字に見えないけ
ど、筋力二十五ぐらいの頃の攻撃力と同じだけ伸びてる訳だから、
一般の人から見たら、たった一ポイントでも絶望的な差になるよね
?﹂
﹁そうやなあ。それにしても藤堂さん、えらい細かい数字に詳しい
なあ﹂
﹁知り合いと協力して、能力値と派生パラメーターの相関関係を計
算した事があったんだ。因みに、サービス開始時スタート組のボリ
ュームゾーンは、キャラクターレベルが百二十から百八十の間で、
最高値じゃない能力値が百五十から二百の間ぐらい﹂
﹁それで、能力値百五十を例にとった訳か﹂
﹁そう言う事﹂
掘る手を止めて感心してのける宏に、胸を張って少し自慢げに答
える春菜。因みに、キャラクターレベルを見るなら、春菜自身もボ
107
リュームゾーンに入る。能力値自体はエクストラスキルの影響があ
るものを除けば、一番高いもので二百五十程度。修練のきつい補助
魔法と料理をマスターしていることと、生活系とはいえマスターし
ているエクストラスキルを持っている分、能力値はボリュームゾー
ンを超えて上位の下の方に入る部類だ。習得しているスキルの数が
多く、一度の戦闘で複数のスキルが上昇する事も大きい。
能力値の上昇は、スキルの補正なしで三十を超えたあたりから伸
び率が急激に悪くなり、五十を超えるとレベルアップとスキルボー
ナス以外で伸びる事はまずなくなってくる。そして、七十ぐらいで
一レベル上がったぐらいでは能力値が増えなくなり、素の値で百を
超えると、レベルアップでもほとんど上昇する事がなくなる。スキ
ルも上位の物をマスターした場合で、せいぜい合計で十五程度の補
正しか入らないため、ほとんどの人間の能力値が、高くて二百程度
に収まるのだ。
このボーナスは生産スキルと上級の補助魔法、そして各種エクス
トラスキルが例外的に他のものより大きくなっている。いずれも取
得難易度や修練のきつさに応じた、洒落にならない能力値補正を持
っている。とりわけ、エクストラスキルの補正量は大きく、マスタ
ーすればそれだけで、普通の攻撃系上級スキル四つ分程度はボーナ
スが入る。もっとも、あくまで補正量が一番大きな能力値が高い、
と言うだけで、補助的に上がる物は普通のスキルと大差ない。そも
そも、一つしか能力値が上がらないスキルと言うのはほとんどない。
もちろん、レベル五百だとか八百などという廃人になると、五百
だ六百だという数値を叩き出す能力値も平気で持っている。修練そ
のものの回数と密度が違う上に、ありったけのクエストボーナスを
総取りしているのが普通だからだ。
108
﹁どうでもええことやけど、今んとこ、能力値的に一番高いのって、
どのぐらいやろうな?﹂
﹁聞いた話だと、七百六十五がトップらしいよ。何の数値かまでは
知らないけど﹂
﹁⋮⋮そんなもんなんや⋮⋮﹂
宏の微妙な表情に、どうやら八百やそこらでは効かない能力値を
持っているらしい、とあたりをつける春菜。生産のエクストラスキ
ルをたくさん持っているのだから、耐久と精神が千を超えている、
などと言われても、特に驚く気はない。
﹁まあ、そこら辺は置いとくとして、や﹂
﹁うん﹂
﹁その事が分かったからいうて、今後の事になんぞ影響があるん?﹂
﹁影響って言うか、相談事?﹂
再び鉱石を掘り始めた宏に、どう話を持って行くかを考えながら
声をかける春菜。
﹁私の記憶が確かなら、ゲームのスタートの時って、ランダムな場
所にプレイヤーが配置されて、その場所に居る兵士に声をかけられ
てお城に連れて行かれる所から始まったと思うの﹂
﹁そこら辺はちょっとうろ覚えやけど、確かお城であれこれチュー
トリアル的な感じで雑用を受けて、その報酬として支度金もらって
109
スタートやった覚えはあるわ﹂
﹁相談って言うのはそこ﹂
﹁ん?﹂
﹁今更だけど、そのゲームのスタート時点の流れに乗るかどうか、
って言うのを相談したいの﹂
あまりに今更な話に、思わず苦笑が漏れる。第一、胡散臭いから
迂闊に城に行くのはやめた方がいいかも、と最初に言い出したのは
春菜だ。まあ、これに関しては、春菜が言わなくても宏の方から持
ちかけただろうが。
﹁本気で今更やなあ﹂
﹁だよね。それに、支度金とかも、特にもらわなくてもよさそうだ
し﹂
﹁とりあえず、やっぱり当初の計画通り、まずは武器の用意からや
と思うで﹂
﹁東君がそれでいいなら、私の方に異存はないけど、なんかリスク
を押し付けて、おんぶに抱っこになってる感じなのがちょっと申し
訳ないかな⋮⋮﹂
﹁現時点ではしゃあない。多分、僕が普通の戦闘キャラやったら、
生活費から何から何まで藤堂さんに頼りきりになっとった話やし﹂
ゲームでは割と軽視されがちな生活系スキルだが、実際にゲーム
110
の世界に飛ばされてしまえば、大きな魔法が使えるよりも美味しい
料理を作れる方がはるかに役に立つ。ドラゴンを一撃で倒す剣技よ
りも、ドラゴンを倒せる剣を作れる方が、何倍も食いぶちを稼げる
のは当然であろう。
たまたま二人揃って、どちらかと言えば生活系のスキルが充実し
ているタイプだったが、これがガチガチの戦闘系のコンビ、などと
いう状況だった場合、いろんな意味で悲惨な事になっていたに違い
ない。今も春菜が、昼食のために持ってきたパンや乾し肉を少しで
も美味しく食べられるように軽く手を入れているが、スキルを持っ
ていなければこんな事も出来ないのだ。
﹁で、武器はええとして、防具どうする?﹂
﹁どうする、とは?﹂
﹁藤堂さん、金属鎧ってタイプやないやんなあ?﹂
﹁その前に、今日掘って持って帰るぐらいで、金属鎧を作れるの?﹂
﹁一回ではたぶん無理や。僕の道具も作らなあかんし﹂
﹁だよね﹂
宏の返事を聞いて、しばし考え込む。
﹁まあ、金属鎧がええんやったら、別に遠慮はせんでもええで。ど
うせ他の事に使う材料も足りへんから、あと一回二回は掘りにこな
あかんやろうし﹂
111
﹁そっか。まあ、全身金属鎧、って言うのは勘弁してほしいけど、
胸当てあたりはそっちの方がいいかもしれないかな、とは思ってる
よ﹂
﹁ブレストプレートか。僕もそっちの予定やし、まあなんとかする
わ﹂
﹁いいの?﹂
﹁言うたやん。どうせ何回かはこっちに掘りにこなあかん、って。
それより、ブレストプレートやいうても、ここいらで取れる素材で
強度出すとそんなに軽くならへんし、結構ガチャガチャうるさいけ
どええ?﹂
﹁それはしょうがないよ。作ってもらえるだけで、感謝です﹂
﹁了解﹂
そう返事を返すと、ラストスパート、という感じで採掘作業を続
ける。途中から、今後のために春菜もポイントを教わって崖を掘り
始め、そこそこの量の鉱石を鞄につめて下山を開始する。行きで懲
りた春菜が結構複雑な感じで髪をまとめてアップにしていたのが新
鮮で、普段と比べて随分と印象が変わったのだが、ヘタレの宏はそ
っちの方をほとんど見ずに、ひたすら藪を払う作業に専念していた
ため、わざわざ手間をかけて髪型を変えた意味はほとんどなかった
のはここだけの話である。
112
﹁溶鉱炉と鍛冶場を使わせてほしいんやけど﹂
翌日。忘れていた住民登録を済ませ、アンから昨日の討伐作戦は
うまく行った事を聞き、ついでに報酬として六千クローネを受け取
り、その足で生産施設管理人のもとへ来た宏は、単刀直入に用件を
切り出した。相手が壮年の男なので、気遅れもせずに堂々とした態
度である。因みに売値は一本五十クローネ、その内訳は材料費およ
び協力者への報酬として十クローネ、残りを協会と宏達で折半、と
いう形で落ち着いた。三百を何本か超えている分のお金は、協力者
への報酬に回している。即効性の強さが効いて、普通の毒消しより
高値で売れたとのことである。
﹁溶鉱炉は二時間で薪代込みで二十クローネ、鍛冶道具は熱源込み
で十クローネだ﹂
﹁⋮⋮結構ええ値するんや﹂
﹁鉱石を精製できるほどの温度まで上げるとなると、かなりの量の
薪がいるからな。ついでに言や、短時間でそこまで温度を上げにゃ
ならんから、薪も特殊処理をした特別性の物を使っている。熱源を
自力でどうにかするんだったら、鍛冶場と合わせて八クローネでい
い﹂
壮年の職員の言葉に、頭の中でいろいろとそろばんをはじく。結
局、ここを使う回数を可能な限り減らす事を考え、一番手間のかか
る手段を取る事にする。
113
﹁⋮⋮そやなあ。普通の薪って、ここで買える?﹂
﹁ほう、そうきたか。普通の薪なら、そうだな。その量なら五十チ
ロルってところか﹂
﹁なら、口止め料っちゅうか人払いも兼ねて一クローネ払うから、
まずは薪頂戴﹂
﹁了解。持ってきたら席を外すから、溶鉱炉を使うときは声をかけ
てくれ﹂
﹁はいな﹂
用意してもらった必要な量の薪一本一本に、何やら模様を刻みこ
み始める宏。結構な量のそれに作業をしている最中に、とうとう最
初から持っていた安物のナイフが欠ける。元々手入れができるほど
質のいいものではないので、かなりへたっていたのをそのままにし
ていたのだ。
﹁藤堂さん、ナイフ貸して﹂
﹁はい﹂
春菜から受け取ったナイフで、作業を続ける。結局、彼女のナイ
フも最後まで作業をつづけたあたりで刃が欠けるが、それでもどう
にか必要な作業は終えられたようだ。所詮割引なしでも五十チロル
で買える粗悪品、バーサークベアを仕留めて解体し、いろんなもの
を採取し、あれこれ削り取り、などとこき使えば当然の末路であろ
う。
114
模様を刻み終えた薪とは別に、鍛冶場に置いてあった粉︵多分火
事になった時の消火剤だろう︶を少し使って地面に魔法陣を描き、
何やらごちゃごちゃと儀式を始める。十分ほどの儀式の後、一瞬、
薪に青い光が宿り、表面に刻み込んだ模様が消える。それを確認し
て、一つ大きく息を吐き出す宏。職員が立ち去ってから三十分ほど、
ようやく宏が言うところの下準備が終わる。
﹁ちょっと、おっさん呼んでくるわ﹂
﹁うん。その間、掃除しとくね﹂
﹁頼むわ﹂
そう言って鍛冶場を出ていく宏を見送って、足元に散らばった木
くずを箒でかき集める。魔法陣は儀式が終わった時に消えているの
で、後はこのゴミを処理すれば証拠隠滅完了だ。
﹁⋮⋮この時間で、全部に自力で処理をしたのか?﹂
﹁大したことはしてへんけどな﹂
﹁まあ、お前さんがエンチャントを使えるらしい、ってのはアンや
ミューゼルから聞いているが﹂
﹁そう言うこっちゃ。でまあ、今から溶鉱炉と鍛冶道具を使わせて
ほしいんやけど﹂
そう言って、十クローネを職員に渡す。受け取った金を見て一つ
頷くと、溶鉱炉に薪を放り込み、火を熾す。明らかに、自分達が普
段使っている薪より大きな火力だが、予想がついていたからか、職
115
員は特に驚く様子を見せない。
﹁あんまり驚いてへんね﹂
﹁知られざる大陸からの客人なら、多少平均から外れていても驚く
ような事ではないからな﹂
﹁さいですか﹂
おっさんの反応に苦笑を返し、次々に鉱石を放り込んで行く。春
菜が運んできた分も投げ込み終わったところで、刃が欠けて使い物
にならなくなったナイフと、今日使っていた手斧とツルハシ二本も、
柄の部分を外して放り込む。
﹁⋮⋮ナイフはともかく、斧とツルハシはまだまだ新しかったみた
いだが、いいのか?﹂
﹁今日、全部作る予定やったからええかな、って。あ、そうそう。
置いてあるヤスリとかタガネ、かなり傷むかもしれへんから、その
分のお金も後で払うわ﹂
﹁どんな使い方をするつもりだよ⋮⋮﹂
おっさんのぼやくような言葉に答えず、指先で空中に魔法陣を描
く。魔力の光で描かれたその模様が、溶鉱炉の中に吸い込まれてい
く。そのまま、手のひらを炉に向けて、意識を集中する宏。その様
子を、微妙に冷や汗を流しながら見つめるおっさんと春菜。そのま
ま、魔力を炉の中に流し込みながら、通常の精製手順を続ける宏。
いくつかおっさんの知らない手順を踏みつつ精製を続け、それなり
の時間がたったところで、炉の中から溶けた金属を引っ張り出し、
116
いくつかの大きさの型に入れて固め、インゴットを作る。こういう
時、いつものダサくてヘタレた空気がどこかに消えるのが不思議だ。
﹁さて、どれから行くかな?﹂
﹁まずは、道具を作った方がいいかも?﹂
﹁そうやな。とりあえずはナイフとハンマーから行くか﹂
﹁ナイフ?﹂
﹁まずナイフ作っとかんと、ハンマーの柄が作られへんし﹂
えらく説得力のある台詞につい感心していると、口をはさむ暇も
ないほどの手際で、流れるように二本のナイフを作り上げる。見る
者が見れば一発で分かるが、素材をハンマーで叩くたびに、刀身に
魔力が流し込まれていく。どうやら、精製段階だけでなく、鍛造の
段階でもエンチャントを行うらしい。
﹁ナイフはこんなもんでええとして、次はハンマーかな?﹂
あっという間に刃先の焼き入れ焼き戻しを終え、砥石で刃の形を
綺麗に整える。本来なら鉄と鋼、二種類の金属を作り、鍛造でひっ
つける事で剛性と弾性両方を上げるやり方をするのだが、今回は素
材にあれこれエンチャントをかけているし、所詮間に合わせだと言
う事で省略したらしい。
﹁作ってると間に合わへんなるから、柄は今回は手斧のやつを流用
するか⋮⋮﹂
117
そんな事を言いながら、途中二度ほど時間延長をして次々と道具
類を作り上げていく。相手の素材が硬いからか、宣言通りヤスリが
二本とタガネが一本駄目になったが、端材で代用品を作ってあった
ため、今回は事なきを得た。おっさんの顔は、始終引きつりっぱな
しだったが。
﹁ほんなら、本命いこか。どんぐらいの長さがええ?﹂
﹁ん∼、えっとね⋮⋮﹂
手斧とツルハシを作り終えた後、春菜の注文をいろいろ聞きなが
ら、最後に残ったインゴットを鍛え始める。先ほどまでより丁寧に
作業を進め、祈るような真摯さで刀身を作り上げる。叩くときに込
められる魔力の量も、今までの物とはけた違いだ。その真剣な表情
と見事な手際に見とれているうちに、美しいシルエットの刀身が完
成する。そのまま残りの材料であっという間に柄と鞘を作り上げ、
冒険者協会に置いてあるどの剣よりも見栄えのする、シャープな印
象の細剣がその姿を現した。
﹁ちょっと振ってみてくれへん?﹂
﹁ん、了解﹂
渡されたレイピアを恐る恐る受け取り、慎重に鞘から抜き放って、
十分に距離を置いてから一通りの型をなぞる。少し眉間にしわを寄
せてその刀身を睨みつけた後⋮⋮
﹁少し重心が手前すぎるかな? 後、握りの小指のあたりを、もう
ちょっと細くしてもらえると助かるかも﹂
118
﹁了解。ちょっと貸して﹂
春菜のリクエストに応え、いろいろと微調整をかけ、延長した残
り時間もぎりぎりとなったあたりで、修正作業をどうにか終える。
﹁こんなもんでどない?﹂
﹁⋮⋮うん、バッチリ!﹂
そう言うと、軽く演武のように新品の刃を振るう。最後に光属性
の魔法剣を発動させて調子を確認し、先ほどとは違う感じで眉をひ
そめる。
﹁どないしたん? なんかまずかった?﹂
﹁まずかった訳じゃなくて、ちょっと釈然としなかっただけ﹂
﹁釈然とせえへん、って?﹂
宏の質問に、どう答えるかを考え、まずは質問から入る事にする。
﹁これって、間に合わせの武器なんだよね?﹂
﹁そうなるな。いろいろ小細工したけど、そもそも大本の素材があ
んまりええもんやなかったし﹂
﹁⋮⋮やっぱり釈然としない⋮⋮﹂
﹁せやから、何が?﹂
119
﹁明らかに、前に使ってたやつよりいいものなのが、ちょっと釈然
としないな、って⋮⋮﹂
言われてもどうにもならない事を言われて、コメントに困って沈
黙する宏。
﹁⋮⋮まあ、その辺の愚痴とか文句は、宿に戻りながら聞くわ﹂
﹁そうだね。ここで話すような事でもないよね﹂
﹁とりあえず、壊した分のヤスリとタガネの代用品は、それで勘弁
したって下さい。後、できればこの事は内密に﹂
﹁⋮⋮分かってるよ。言っても誰も信じねえって﹂
宏の言葉に、苦笑しながら頷くおっさん。実際のところ、春菜の
レイピアは協会に置いてあるどの武器よりも高性能だが、上がない
訳ではない。名工と呼ばれるドワーフが希少金属を使って作った武
器、それにガチガチにエンチャントを施せば、互角以上の物も簡単
にとは言わないが、普通に作れる。が、この辺で採れる、質として
はいまいちな鉱石で作った、となると話は別だ。何より、それほど
までの技巧を尽くして作ったものが、単なる間に合わせなどと口走
る男の事など、誰かに話してもただの与太話にしか聞こえまい。
﹁ほな、今日はこれで失礼します﹂
頭を下げる宏を見送って一つため息をつくと、完全に薪が燃え尽
きてようやく冷めてきた溶鉱炉の熱源部分から、灰をかき出す作業
に入るのであった。
120
﹁まったく、今までの私の苦労はなんだったのかと訴えたい﹂
帰り道。冒険者カードの機能を使って内緒話モード、ゲームで言
うところのいわゆるパーティチャットに入り、釈然としない思いを
全力でぶつけ始める春菜。
﹁って言われてもなあ⋮⋮﹂
﹁クエストこなして苦労して手に入れた義賊アルヴァンのレイピア、
頑張ってお金貯めて+6まで精錬してあれこれエンチャントして鍛
えた逸品を、こんな初期配置の街近辺で取れる材料だけで作った武
器にあっさり上回られて、どれだけショックだったか﹂
﹁ちょっとまって﹂
割と聞き捨てならない話が出てきたので、とりあえず待ったをか
けて確認を取る事にする宏。
﹁何?﹂
﹁義賊アルヴァンって、人型のユニークボスやったよね?﹂
﹁だったと思うけど、それが?﹂
121
﹁捕まったってNPCが言うとったん、藤堂さんが仕留めたん?﹂
﹁そうなるのかな?﹂
春菜の返事に苦笑すると、とりあえずどういう経緯でそうなった
のかの話を聞く。問われるままに答えた春菜の話をまとめると、要
するにゲーム内での普段の行動に従い、広場で一曲披露しておひね
りを集めつつ、最近変わった事が無かったかを聞いている最中に、
予告状が飛んでくると言う形でクエストが発生した、という事らし
い。ゲーム全体で一度しか発生しない、いわゆるユニーククエスト
というやつだろう。
これがまた妙なクエストで、何やらよく分からないうちにダール
の貴族に目をつけられ、その貴族とアルヴァンが春菜を巡って勝負
し、挙句の果てに勝者の権利だから嫁になれ、と迫ってきたのでし
ばき倒して官憲に突き出した、ということだ。アルヴァン自体はユ
ニークボスだけあってとてつもなく強かったが、ダールの貴族との
戦闘で攻撃パターンや手札をほぼすべて見せてくれていたことが幸
いし、相手の攻撃にカウンターを取る形でごり押して、辛うじてぎ
りぎり押し切る事が出来た、とのこと。相手の耐久値と魔法抵抗が
ボスにしては低かったのも、春菜にとってはプラスだった。
﹁藤堂さん、やっぱり強いんや﹂
﹁相手が薄かったから勝てただけだよ。多分東君ぐらいタフなら、
相手のスタミナが切れたところを問答無用で殴り倒せると思うから、
むしろ私が戦うよりやりやすいんじゃないかな?﹂
﹁僕には縁のない単語やとはいえ、あんまり美しくない勝ち方やな
あ﹂
122
﹁勝てば官軍、だよ!﹂
自嘲気味につぶやいた宏に対し、いまいちフォローになっていな
い言葉で無理やり慰める春菜。
﹁でも、あれだけ苦労して手に入れたスターライトが、特殊効果込
みでも間に合わせのこのレイピアに負けるのは、今更ながら釈然と
しないよ⋮⋮﹂
﹁ま、まあ、そこは堪忍してや。お詫びに触媒なしで行ける範囲で、
好きなエンチャントを欲しいだけ掛けるから﹂
﹁それはさらに釈然としないと言うか、何というか⋮⋮﹂
またしてもぶつぶつ言いだした春菜に対し、とりあえずなだめる
ために声をかける事にする宏。
﹁ま、まあ、あれやで﹂
﹁何?﹂
﹁もし、アルヴァンとやりあうときに神鋼製のフルエンチャントし
たレイピアとかもっとったら、せっかくのレアドロップに全くあり
がたみなかったわけやから⋮⋮﹂
﹁そんなのもあるの? って言うか作れるの?﹂
春菜のやけに真剣な顔に、思いっきり引いて距離を取りながら、
恐る恐る返事を返す。因みに、ここまでの会話において、詰め寄っ
123
ているような状況でも一定以上の距離には近づいていない。
﹁聞いても怒らんといてや⋮⋮﹂
﹁何を今更﹂
﹁レイピアやったら、鉱石の必要量が少なめやから、修練のために
三本ぐらい作って倉庫に転がしてあったはずやで⋮⋮﹂
﹁東君一人の存在で、ほとんどのプレイヤーの苦労が無意味になっ
てる気がするよ⋮⋮﹂
﹁簡単に言うけどやで、神鋼製の、素材段階からフルにエンチャン
トかけるレイピアなんか、そう簡単に作れる訳やあらへんねんで?﹂
宏の説得力のない発言に、深々とため息をつく春菜。そう簡単に
作れないのなら、何故三本も倉庫に転がっていると言うのか。
﹁それに、自慢するようで気が引けるけど、そのレイピアかて難易
度で言うたら中々のもんやってんから﹂
﹁終わってからそれを言われても、本当に説得力無いよ?﹂
﹁でも、実際の話、鍛冶の上級とエンチャントの上級と精錬の上級
がないと、あの材料でそれ作るんは無理やねんし、ゲーム内で十五
年ぐらいの修行は要るんやで?﹂
﹁そうなのかもしれないけど、そうなのかもしれないけど⋮⋮﹂
作る方にとってはそこそこ大変でも、傍目に見れば結構あっさり
124
作ってのけたようにしか見えない。そこが、春菜がどうしても釈然
としない部分なのだろう。
実のところ、宏がフレンド登録している一般プレイヤーは、神鋼
の採取難易度と必要量におののいて、フルエンチャントの装備など
ほとんど注文を出していない。素材となるモンスターからのレア部
位が結構厄介だったこともあり、たまたま一緒に素材狩りに行って
手に入った時以外はまず頼む事はない。
しかも、無駄に目立つ上に目をつけられやすいため、身内と狩り
に行く時ぐらいしか使えない、ということもあって、彼らがそんな
装備を持っている事すら知る人間はほとんどいない。ここら辺が、
宏に限らず何かしらの上級生産を極めた二十四人の倉庫が、ゲーム
バランスを崩壊させる魔窟となっていると評判になっている所以で
ある。もっとも、彼らの倉庫全部をかき集めたところで、一人一点
に絞ってさえ、神鋼装備は全プレイヤーの五%に行きわたるかどう
か、という数でしかないが。
なお、この二人は知らない事だが、種族が人間、もしくは亜人に
分類されるボスのドロップ装備は、露店やオークションシステムで
取引された武器の数と品質、高品質装備を持っているプレイヤーの
人数によって変化する。そのため、平均がNPC販売の最高品質の
品物に毛が生えた程度の物しか出回っていない現状では、義賊アル
ヴァンの持つ名剣スターライトといえども、神鋼製の装備はおろか、
神の匠が低級素材を利用し、フルエンチャントで作った間に合わせ
の武器にも劣ると言う微妙な結果が生じるのである。
﹁まあ、そこは置いといて﹂
﹁⋮⋮うん﹂
125
﹁この後の事やけど、ちょっとやりたい事があるから、どっかでご
飯食べた後、ちょっと付き合って欲しいんやけど﹂
﹁いいけど、やりたい事って?﹂
﹁工房も用意できる、十分な広さのある拠点探しと、食材とか調味
料の確認や﹂
宏の言いたい事を察して、真剣な顔で頷く。
﹁予算は、なんやかんやでかろうじて二万クローネ。普通の一軒家
やったら安い奴で五軒ぐらいは十分確保できるけど、工房までとな
るとちょっと心もとない﹂
﹁ゲームでも、大きい店とか持とうと思ったら、もう一桁必要だっ
たよね﹂
﹁稼ぐにしても、目標金額が分からへんと厳しいから、まずはそこ
の確認からやな﹂
﹁金額次第だけど、私の歌も解禁、だよね?﹂
﹁そうなるな。後は、明日から依頼を本腰入れて受けて回らんと﹂
今日は春菜の不機嫌以外にも、製造に時間を取りすぎて、依頼に
手を出すには微妙な時間になったために、冒険者としての活動には
手を出さなかったのだ。
﹁で、食材と調味料の確認、は?﹂
126
﹁別に不味い訳やないから、今の宿のご飯に不満があるわけやない
けど、全体的に味付けが大雑把というか、ワンパターンやろ?﹂
﹁そうだね。これから長丁場になるんだったら、そこらへんもどう
にかしたいよね﹂
﹁そのために、どんな食材と調味料があるかをチェックして、作れ
るもんは自作しようか、って思ってるねん﹂
﹁作れるの?﹂
﹁藤堂さんにもかなり手伝ってもらう事になるけど、大概の調味料
は何とかなると思うで﹂
宏の心強い台詞を聞いて、今までで一番真剣な顔で頷く。正直、
まだ日本食が恋しくなるほど飢えてはいないが、砂糖と塩と香辛料
が主体の、曾祖母の祖国よりはまし、というレベルの味付けのバリ
エーションには、そういつまでも耐えられるとは思えない。調理方
法も、基本的には煮るか焼くしかなく、揚げたり蒸したりといった
料理は、まだお目にかかっていない。発酵食品も塩漬けとくん製と
チーズと酒、それから紅茶ぐらいで、果実酒が変質して出来るフル
ーツ酢の類も、腐敗扱いで廃棄されているらしいと来ている。
発酵食品については、発酵というものがどうしても腐敗と紙一重
であるため、出来たものを食べるチャレンジャーがいなければ、あ
まり発達しないのはしょうがない事ではある。腐敗防止などと言う
便利なエンチャントが結構一般化している以上、無理して保存食を
作る必要もないのかもしれない。なので、発酵食品が微妙なのはま
だ納得がいく。
127
だが、専用の器具とある程度の知識が必要な蒸すと言う調理方法
はともかく、食用の油が増産されて、それほど貴重品でもなくなっ
て結構たつらしいのに、揚げ物がほとんど存在しないのは腑に落ち
ないところだ。とはいえ、腑に落ちないなどといっていても話は進
まない。無いものは無いのだから、自分で何とかするしかない。
幸いにして、昨日今日の食事から、砂糖やスパイス類も、普通に
庶民が手に入れられる程度の値段で流通している事は分かっている。
また、ファーレーン全域でそのまま飲めるほどきれいな水を抱えて
おり、国内に砂漠以外のありとあらゆる気象条件の地域が揃ってい
て、都市の中に大きな港もあるのだから、豊富なバリエーションの
食材が期待できる。日本ほど、と言うのは難しくても、工夫すれば
十分満足できる水準にはできるだろう。
﹁豊かな食生活のためにも、まずは調理場のある拠点を確保せんと
な﹂
﹁そうだね。頑張ろう!﹂
割と切実な問題のために、早くも当初の目的を忘れかけている二
人。結局、夜中に暇ができた彼らがカレー粉とマヨネーズを完成さ
せるのは、それから一週間後の事であった。
128
第4話
﹁うわあ⋮⋮﹂
目の前のかなり嫌な光景に、思わず春菜はうめいてしまう。
﹁東君、これはちょっと⋮⋮﹂
﹁大丈夫。あいつらは見た目とちごてさほど攻撃性はないから、巣
に引っかからん限りは襲ってけえへん﹂
﹁いや、そこが問題じゃなくて⋮⋮﹂
宏の言葉に一応突っ込みを入れ、もう一度目の前の光景を嫌そう
に見つめる。
﹁うわあ⋮⋮﹂
﹁あ、藤堂さん。あんまりそっち行ったら、巣に引っかかって反応
しおるで﹂
﹁え? 本当? どこに?﹂
﹁あのへん﹂
﹁うわ、危ない⋮⋮﹂
すぐ近くにあった巣にビビって、そそくさとその場を離れる春菜。
129
そして、再び状況を確認し、思わず絶句する。
﹁うわあ⋮⋮﹂
﹁ん? どないしたん?﹂
先ほどまでの、目の前で起こっていた事に対してどん引きしての
うめき声とは声色が違う事に気がついてか、怪訝そうに聞いてくる
宏。
﹁目が合っちゃった⋮⋮﹂
﹁大丈夫や。そいつらは視覚で攻撃対象を決めるタイプやあらへん﹂
﹁攻撃されるされない以前に、ぶっちゃけ洒落にならないほど気持
ち悪いんだけど⋮⋮﹂
﹁そう言われてもなあ⋮⋮﹂
﹁蜘蛛って、大きくなるとここまで気色悪いんだ⋮⋮﹂
春菜の言葉をきっちりスルーして、武器兼伐採用具の手斧を握る
宏。その顔は明らかに、いかにして素材を効率よく集めるか、その
障害をどうやって効率よく排除するか、それしか考えていない顔だ。
ぶっちゃけ、春菜の気分など知った事ではない、ということだろう。
そんな二人の目の前では、今まさに巨大なスズメバチが蜘蛛の巣
に引っ掛かり、捕食するための繭に閉じ込められているところであ
った。そう、彼らは今、人ほどのサイズがある巨大蜘蛛の群棲地帯
に来ているのである。初日にバーサークベアと遭遇したところから、
130
さらに冒険者の足で半日ほど茂みを突破したあたりだ。
﹁⋮⋮どうしてこうなった⋮⋮﹂
あまりにあれで何な状況に、思わず遠い目をしながら過去を振り
返る春菜であった。
事の発端は二日前の晩、春菜が発した言葉であった。
﹁もう少し、服が欲しいかも﹂
﹁服かあ⋮⋮﹂
﹁うん。一着ね、カレーとか油の染みが取れなくなってきちゃって
⋮⋮﹂
﹁そうやなあ。店の作業用に一着買うて来る?﹂
﹁それでもいいんだけど、売上考えるとちょっともったいないかも、
って﹂
ポイズンウルフ騒動から一カ月。そろそろ彼らも生活基盤がしっ
かりしてきた。
131
一番大きな変化は、2DKとは名ばかりと言う広さの、ウルスで
は最低ランクと言える小さな部屋を借りた事であろう。流石に、ず
っと宿暮らしはコストパフォーマンスが悪い。それに、宿の部屋で
調味料の開発というのは、いろいろ空しいものがある。何しろ、完
成させても使い道が無いのだから、いまいちやる気がでない。宿で
使ってもらうにしても、まだまだそこまでの量は作れない。そんな、
割と本道からずれた理由もあって、早々に小さな部屋を借りる事に
落ち着いたのである。
他には、資金調達の一環として、依頼の空き時間に屋台を始めた。
メインの売り物はカレーパンとアメリカンドッグ。作りすぎたカレ
ー粉の処分と、新しい調味料の普及活動も兼ねている。たまに依頼
で外に出た時に仕留めた野牛などの肉を、串カツとしてからっと揚
げて売ることもあり、醸造に成功したとんかつソースとトマトケチ
ャップが大活躍している。カレーパンは一個三十五チロルとかなり
吹っかけ気味な値段だが、最近では定番商品としてとてもよく売れ
ており、だんだん本業が冒険者なのか屋台なのかが分からなくなり
つつある。
﹁せやなあ。店の売り上げは最高で丸一日やった日の百クローネや
もんなあ﹂
﹁材料費とか屋台の登録料とか引くと、せいぜい利益は平均五十ク
ローネだもんねえ﹂
それでも、冒険者としての仕事の合間にやっている屋台の売り上
げとしては、かなり上出来な方であろう。普通なら、丸一日やって
も、よくて七十クローネ程度の売り上げが普通である。街に来て最
初の二日間で稼いだ二万クローネという金額が、どれほど破格の収
入かがよく分かる。
132
二人の屋台が盛況になっている理由の一つに、これまで無かった
衣をつけて油で揚げる、という調理方法を取っている事がある。揚
げる、という概念が全くなかった訳ではないのだが、長い間液状の
食用油が貴重品であり、食材全体がつかるほどたっぷり油を使って
調理できるほど液体の調理油が手に入りやすくなったのは、ここ数
年のことだ。これはファーレーンだけでなく、この世界全体で言え
ることであり、どこの国でも調理用の油と言えば、一般的には獣脂
やバターのような、いわゆる脂の事を指す。なお、ラードのような
タイプの脂も存在するが、これもまた最近まで生産量が少なかった
ため、揚げ物の発達を助けることにはならなかった。
二人が始めたことで、当然真似しようとする料理人や屋台も相当
数いるのだが、これまで揚げ物と言うのは貴族の食卓でも滅多に見
る事が無かったものだ。故に中華鍋に近い種類の底の深いフライパ
ンをはじめとした、揚げ物に向いた調理器具もほとんど開発されて
いない。一度耳目を集めればそのうち一般的になるだろうとは言え
ど、一般家庭にまで調理方法が浸透するにはまだまだ時間がかかり
そうだ。とは言え、美味いものを食いたいと言う人間の欲求は、時
代も世界も超える。半年もすれば揚げ物も、一般家庭の定番料理と
して十分に普及するだろう。
因みに、蒸し料理に至っては、そもそもファーレーンには概念自
体がまだ存在せず、辛うじて鉄の国・フォーレで具の無い蒸しパン
を作って食べるようになったところだ。そのフォーレでも、屋台で
使えるような蒸し器はない。その事を知った宏と春菜は、もう少し
寒くなったら肉まんでも屋台で売ってみようか、などと話していた
りする。
﹁それで話を戻すけど、東君、服は作れるんでしょ?﹂
133
﹁そらまあ、問題なく作れるけど﹂
﹁汚れに強い服とか、出来ない?﹂
﹁出来るで。服に汚れ防止のエンチャントをかければええだけやか
ら﹂
﹁そんな便利なものがあるんだ⋮⋮﹂
あっさりとそんな便利な事を言ってのける宏に、心底感心したよ
うに唸る春菜。
﹁まあ、完成品にかけるのはちょっとやりにくいんやけどな。それ
に、ゲームではそんなに人気のあるエンチャントでもなかったみた
いやし﹂
﹁そりゃ、貴重なエンチャント枠を一つ食いつぶすんだし、しょう
がないよ﹂
﹁確か、NPCにやらせた場合、三個ぐらいが限界やったっけ?﹂
﹁それぐらい。最初からエンチャントが付いてる場合は、それは数
に入らないみたいだから、そう言う装備は凄く人気があったよ。プ
レイヤーがやると違うの?﹂
﹁単純に成功率だけの問題やけど、その気になったら、ごっつ複雑
な奴を五つぐらいまでは行けたはずやで。多分、一個に同時につけ
られる数には、特に上限はないと思う﹂
134
﹁そうなんだ﹂
﹁まあ、無駄に難易度上がる上に装備の破損確率も跳ね上がるから、
初級エンチャントならともかく、上級エンチャントはやって三つぐ
らいまでやなあ。やろう思えば、五個か六個ぐらいまでは現実的な
成功率で出来るけど﹂
宏の言葉に感心しつつ、気になった事を聞く。
﹁ドロップ装備みたいに、最初からエンチャントがついたものって
作れるの?﹂
﹁作れる、言うか、藤堂さんのレイピアがまさにそれやねんけど?﹂
﹁へっ?﹂
﹁あれのやり方は簡単で、要するに素材の時点と加工の時点で付与
をやればええねん。それ作った時は、高位精製のやり方として、魔
力を使った品質向上法をやりながら、ついでに素材そのものに自動
修復のエンチャントをかけといてん。で、炉から取り出した時点で
耐久性向上をつけて、加工しながら属性攻撃適性︵全︶とパリィ強
化+75%を練り込んだんがそいつや﹂
﹁属性攻撃適性︵全︶にパリィ強化+75%って、無茶苦茶高価な
エンチャントじゃない!﹂
﹁レイピアやから、どうせ後でつけるやろう思ってな。材質の問題
で、加工段階での付与をそれ以上練り込むんはきつかったから、基
礎攻撃力向上とか能力値ボーナスとかは乗っけてへん﹂
135
思わず十分すぎる、と突っ込みを入れそうになる春菜。基礎スペ
ックの時点でレア装備であるスターライトを超えていると言うのに、
初期エンチャント四つとかどんな廃装備だと、春菜でなくても突っ
込むだろう。
﹁それにしても、気になるんだけど⋮⋮﹂
﹁何?﹂
﹁どうして、製造段階でかけたエンチャントは、後でエンチャント
をかける時に干渉しないの?﹂
﹁上級を教えてくれたNPCの話やとな、詳しい理屈は知らへんけ
ど、エンチャントがかかった素材を加工すると、エンチャントやな
くて材質が持つ特性に化けるらしいわ。だから、あれはエンチャン
トがついてるんやなくて、固有能力を持ってる、言うんが正しいね
んて﹂
逆に言うと、普通の方法では特性を消す事は出来ないため、こう
いう武器を溶かして再利用するのは難しいのだが、それも一応やり
方はあるらしい。とはいえ、滅多にやる機会がある事ではないよう
だが。
﹁でまあ、話を戻して、汚れ防止のエンチャントやけど﹂
﹁うん﹂
﹁服にかけるより、布地か糸にかけた方がかかりやすいねんわ。同
じ理屈なんが、自動修復と破損防止あたりやな﹂
136
﹁ってことは?﹂
﹁いっそ、糸の材料から集めた方が、後々コストかからへんで﹂
またこのパターンか、と思いつつも、非常に魅力的な提案である
事は認める春菜。着たきりすずめになる危険性も無くはないが、ど
うせそれほどたくさんの服は持ち歩けない。ならば、丈夫で長持ち
し、汚れの心配が無いものを持ち歩けるだけ確保するのが最善だろ
う。現状、服の傷みの問題で材料を取りにいけず、鎧を用意できな
いのも、冒険者としての仕事をあまりこなせない理由の一つである。
それに、宏には悪いが、職人なんて材料が無ければただの人だ。
宏の場合、完成品が高性能すぎるため、材料があっても迂闊に作ら
せる訳に行かない。そして、冒険者として見た宏は、能力値は極端
に高いが所有するスキルが足を引っ張っており、どうやってもただ
の壁にしかなり得ない。ゲーム中ではという注釈は付くが、冒険者
の平均を見るのであれば彼はただの人以下である。屋台にしても、
宏の料理スキルは三ツ星レストラン級ではあるが、春菜に比べると
はっきり差が分かるレベルで劣るし、そもそも致命的なレベルの女
性恐怖症があるため、売り子もまともに出来ない。こうして見ると、
地味に使えない男だ。
もっとも、屋台やキッチンで使う器具は全部彼が作ったものであ
り、一般に出回っているものはおろか、元の世界にある調理器具よ
りも使いやすかったりするあたりは、さすがは道具製作のエクスト
ラスキル保有者、といったところか。あっちこっちを駆け回って集
めた廃材を利用して、低コストに抑えてあるのもポイントが高い。
春菜だけだったらもっとたくさんのお金を使って、もっと使いにく
い調理器具を手に入れる羽目になっていたであろう。
137
準備段階では役に立つが、実行段階では使い物にならない男。そ
れが現状の東宏だ。流石に、春菜はそんなひどい事は考えていない
が、それが客観的に見た現実である。
﹁因みに、どの程度のエンチャントがかけられるの?﹂
﹁せやなあ。温度調整、自動修復、汚れ防止、サイズ自動調整、あ
せも・ただれ防止、耐熱、耐酸、耐久向上なんかはいけるかな。あ
と、衣料品はエンチャント一つごとに少しずつ防御力補正がつくか
ら、ええ素材使って素材段階からたくさんエンチャントかけたら、
防御力向上系をかけんでも、下手な鎧より防御力高くなったりする
で﹂
宏が上げたエンチャントを聞いて、表情が変わる春菜。どうやら、
補足説明は耳に入っていないらしい。
﹁あせも防止? それ、下着にはかけられる?﹂
﹁いけるけど、下着作りに関しては、致命的な問題があるねん﹂
﹁⋮⋮何?﹂
﹁下着には、何でかサイズ自動調整がかけられへんねん﹂
﹁あ∼⋮⋮﹂
確かに致命的だ。少なくとも、宏が作業する上では大問題であろ
う。
﹁今回は諦めるか⋮⋮﹂
138
﹁そうしてくれると、助かるわ。一応、服の方にはかけとくけど﹂
﹁それはお願い。しかし、サイズ自動調整か⋮⋮﹂
﹁ん?﹂
﹁ゲームの頃は、ドロップ防具についてたらメガクラスのレアだっ
たんだよね﹂
春菜の言葉に、微妙に怪訝な顔をする宏。
﹁サイズ自動調整なんざ、普通にどんな防具にもかかるやろ?﹂
﹁かかるけどさ、エンチャント枠を一個食いつぶすじゃない﹂
﹁それやったら、普通にサイズ調整してもろたらええやん﹂
﹁ドロップ防具って、NPCが扱えない事が多いんだよ?﹂
﹁そうなん?﹂
﹁うん﹂
余計なところでリアルなフェアリーテイル・クロニクルでは、武
器はバランスを取りなおさなければ、防具はサイズを調整しなおさ
なければ使い物にならない。武器の方は少々自身が使いやすいバラ
ンスと違っても装備出来ない訳ではないため、何とかごまかしごま
かし使っている人間も多いが、防具に関してはそうはいかない。一
番装備条件が緩いローブや衣服でも、身長や体型にある程度の制限
139
範囲があり、大きいものを身につけるとかなりアレな見た目になる
上に派手にペナルティがつき、小さいものはそもそも着られない。
これが皮鎧や金属鎧になると、本人の体型にきっちり合わせて調
整し直してもらわないと、そもそも装備すること自体が出来ない上、
一度調整してしまうと他の人間が身につける場合は再度調整し直す
必要が出てくる。その上、調整の仕方によっては不可逆になるもの
もあるため、普通にサイズ調整をするのは結構なリスクが伴う。
しかも、ドロップ装備を扱えるNPCは限られており、特に上級
ダンジョンで手に入る装備は低ランクの精錬強化以外はまず不可能
だったりと制限が強く、意外と融通がきかないのだ。上級装備生産
までたどり着いているプレイヤーなら、煉獄と呼ばれる最上級のダ
ンジョンで手に入る最強クラスの装備であろうが余裕で調整できる
が、残念ながら彼らは引きこもっていて、一般プレイヤーの前には
出てこない。結果的に、レアドロップの防具は、装備するためにサ
イズ自動調整と自動修復のエンチャントが必須になってしまってい
るのである。
一部の廃人ギルドは割と早い段階から生産の重要性に気付き、必
死になって職人メンバーを育ててはいるが、メイキングマスタリー
をはじめとした大事な情報をほとんど知らないため、中々難航して
いるらしい。また、ポーション中毒の問題もあり、スタミナポーシ
ョンがぶ飲みによる素材収集や加工もそうそうできない事も、新人
の職人を育てる上で随分足かせになっている。特にマナポーション
とスタミナポーションは中毒性が強い上、ポーション類は基本的に
全て回復量が固定値なので、序盤のスタミナ消耗頻度でがぶ飲みし
ていると、あっという間に中毒を起こすのだ。そうでなければ、と
うの昔に新人の誰かが上級を極めているだろう。
140
﹁まあ、それは置いといて、や。材料をどうするかやな﹂
﹁心当たりは?﹂
﹁まず、植物系はアウト。このあたりには麻の群生地はなかったと
思うし、綿はいま花がついてるかどうか分からへん。動物系も、羊
とウサギはやめといた方がええやろうな﹂
﹁その理由は?﹂
﹁野生の羊はこの辺にはおらへんし、服一着分の糸集めよう思った
ら、このあたりのウサギを狩り尽くす羽目になるで﹂
納得できる理由に、思わず唸ってしまう春菜。こうして見ると、
服一着作るのも、中世では大変である。
﹁じゃあ、どうするの?﹂
﹁せやな。一般人にはお勧めできへんけど、蜘蛛の糸を使う、いう
手はあるで﹂
﹁蜘蛛?﹂
﹁うん。スパイダーシルク、言うてな﹂
宏の言葉に納得する。確かに絹は虫の糸だ。普通は蚕を使うが、
蜘蛛の糸でも作れなくはない、というのは聞いた事がある。
﹁でも、蜘蛛の糸って、集めるの大変じゃない?﹂
141
﹁そこは当てがあるから安心して。ただ、ある程度以上強い冒険者
がおらんと出来へん手段やから、一般人には本気でお勧めできへん
ねんけどな﹂
﹁なんか、ものすごく嫌な予感がするけど、ある程度以上って、具
体的にはどのぐらい?﹂
﹁もしもの事を考えるんやったら、バーサークベアをタイマンで秒
殺出来るぐらいが望ましい、っちゅうとこや﹂
予想よりはかなり低いハードルだが、簡単に言っていい内容でも
ない。春菜なら問題ないが、ランディやクルトでは微妙なラインだ
ろう。宏の場合、ダメージソースに問題があるため、死にはしない
が秒殺となると厳しい。ちゃんとした武器を用意していればともか
く、採集用も兼ねた鎌や斧ではたぶん無理だと考えていい。
﹁⋮⋮大体予想は出来るけど、もしもの時って、一体何?﹂
﹁フィールドボスの大蜘蛛・ピアラノークが居るんやけど、こいつ
が普通にバーサークベアの倍は強い上に、毒こそ持ってへんけど面
倒な特殊能力もあるから、熊秒殺出来るぐらいでないと厳しいねん。
まあ、自然治癒以外での回復はせえへんし、時間かければ普通に倒
せるんやけどな﹂
﹁⋮⋮言われなくても分かってるんだけど、一応確認しておくね。
どこに行くの?﹂
﹁バーサークベアの居る森の奥の方にな、ジャイアントスパイダー
の群生地があるねん。昆虫系のMOBの宝庫やから、ついでに薬の
材料と珍味の類も集めよか﹂
142
﹁昆虫系って、本気で嫌な予感しかしない⋮⋮﹂
子供の頃ならともかく、十七にもなって虫が好きな日本人の女の
子はそうはいない。八分の三がイギリス人とはいえ、春菜もそこら
辺は変わらない。蜘蛛やムカデの類でも直視できないほど苦手では
ないものの、好き好んでデカイ虫など見に行きたくはない。
﹁まあ、わざわざ見に行きたいもんでもないしなあ。嫌やったら市
販の糸を買い込んで、布織るところからやるけど﹂
﹁⋮⋮でも、絹なんだよね?﹂
﹁うん。それも普通より数倍丈夫な奴やで﹂
﹁⋮⋮たまには、冒険者らしい活動も必要だよね?﹂
結局、物欲に負けて蜘蛛の群生地に行く事にする春菜。途中で確
実に一泊する必要が出てくるから、などと言われて野営道具も揃え
たのだが、まあ大丈夫だろうというポジティブシンキングが甘かっ
た事は、冒頭での現地の生命の営みを直視した時に思い知らされる
のであった。
﹁それで、どうやって糸を集めるの?﹂
143
﹁それはな﹂
春菜の問いかけに、こそこそと蜘蛛の巣に引っかからない範囲に
移動して、手頃な石を投げつけて巨大なバッタを追い立てる宏。嫌
な予感を感じた春菜が突っ込みを入れる前に、バッタを蜘蛛の巣に
誘導する。見事に巣に引っ掛かり、もがいて絡まって身動きが取れ
なくなったバッタを、巣の主である大蜘蛛が繭玉に加工する。
﹁とまあ、こうやってたくさん繭玉を作ってな﹂
巣を張り直している蜘蛛を放置し、別の蜘蛛の巣にカマキリを引
っ掛ける。そうやって次々と虫を巣に誘導して繭玉を作って行き、
その数が二十を超えたあたりで行動を変える。
﹁十分な数が揃ったら、蜘蛛を排除して糸を紡ぐねん﹂
﹁うわあ⋮⋮﹂
流石というかなんというか、実にえげつない。人間らしい汚いや
り口だ。
﹁ついでに、閉じ込められて窒息死した連中を解体していろいろ剥
ぎ取れば、お金になって一石二鳥やで﹂
﹁汚い。さすが職人、やり口が汚い﹂
﹁生きていくのに、綺麗事は通用せえへんのや﹂
そんな事をうそぶきながら、容赦なく蜘蛛を始末していく宏。伐
144
採用の斧とはいえ、幾重にもエンチャントを施されたそれは、蜘蛛
の外殻を卵でも割るかの如くあっさりと叩き割る。こんな調子で仕
留めて行って、蜘蛛を全滅させたりしないのか、と心配してしまう
ほどのペースで始末していくが、流石に群生地だけあって、数える
のも嫌気がさすほど居る。大して問題はなさそうだ。
﹁さて、先に始末した蜘蛛をばらそうか﹂
﹁先にそっちなの?﹂
﹁繭の中身が生きとったら、面倒やん。どうせ基本的な死因は窒息
死か圧死やねんから、ちょっと時間置いた方が確実やで﹂
虫系は結構タフやからな、という宏の言葉に頷き、始末した蜘蛛
を解体する。時折よく分からない部位を取り出して妙な処理をして
いるが、何かの素材になるのだろう。大方の解体を終えたあたりで、
とりあえず邪魔になるので素材だけより分けて鞄に突っ込む。触媒
が少々痛い出費にはなったが、事前に容量拡大と重量軽減、腐敗防
止のエンチャントを付与してあるので、結構な分量を詰め込んでも
まだ余裕がある。
﹁さて、そろそろ本命行こうか﹂
﹁流石に、そこからは私、手伝えることないよね﹂
﹁せやなあ。流石に携帯用の機材で糸を紡ぐんは、藤堂さんの技量
では厳しいやろうなあ﹂
﹁そもそも、私紡織は取ってないんだ。次の機会までに、頑張って
覚えるよ﹂
145
﹁了解。また今度教えるから、ファーラビットの毛で練習しよか﹂
﹁お願い﹂
やはり、何事も出来ないよりは出来た方がいい。なんだかんだと
手伝っているので、最近採取系と製薬は多少技量が上がっているが、
せいぜいその類の依頼が選択肢に入るようになった程度だ。独力で
は練習用ポーションが辛うじて作れる程度、それもちゃんとポーシ
ョンとしての効力を持つのは、よくて三割というレベルである。
宏も経験した道なので、春菜がサボる形になっても気にしない。
そもそも役割分担が違うので、文句を言うのは野暮である。第一、
宏一人ではまともに売り子もできなかったのだから、春菜に何かを
言える立場ではない。
﹁とりあえず、適当に薬の材料を集めてくるね﹂
﹁ピアラノークがおるかもしれへんから、気つけてや﹂
﹁うん。蜘蛛の巣に引っかからないようにすれば大丈夫だよね?﹂
﹁いや、ピアラノークは普通のアクティブと同じや。巣も索敵に使
いおるけど、温度とかにおいとか視覚でも判断して襲って来よる。
仕留めた獲物を繭玉に閉じ込める以外は、基本的に普通の肉食系ア
クティブと同じ行動原理で動くと思ってええで﹂
面倒くさい解説を受け、うへえ、という顔をしてしまう。
﹁詳しいけど、やり合ったことあるの?﹂
146
﹁三回ぐらいかな? 正直、そこまで強くはないけど、倒すとなる
と普通のダンジョンボスより面倒くさいで。行動原理はあのへんと
変わらんくせに、動きとか蜘蛛のそれやから﹂
﹁⋮⋮もしかして、蜘蛛のそれってことは、空を飛んだりとかする
?﹂
﹁糸をつこてな。正直、場所が場所やから、三次元的に動いて襲っ
てくると思ってええで。ワイヤーアクションをする高さ一メートル、
全長五メートルの蜘蛛とか言うふざけた生き物や﹂
つくづく面倒くさい話を聞かされ、思わずうんざりした顔をして
しまう。バーサークベアと違って、このあたりは初心者はおろか、
中級以上のプレイヤーでもわざわざ来る機会のない場所である。そ
のため、初心者殺しのフィールドボスという扱いにはなっていない
が、ウルスに割と近い土地に、そんな面倒なモンスターが集中して
いるのはどういうことか。
﹁まあ、そういうわけやから、注意してな。藤堂さんやったら、普
通に勝てるとは思うけど﹂
﹁うん﹂
流石に、そんな化け物とまともにやり合いたくはない。
﹁とはいえ、こういう話をしてると遭遇するのが、世の定めってや
つだったりするんだよね⋮⋮﹂
春菜のつぶやきに、苦笑をもって答える宏。これだけ話をして影
147
も形も無いようでは、物語として失格だ。池を覗き込みながら、押
すなよ、絶対に押すなよ、と言っている芸人の背中を押さないのと
同じレベルで駄目駄目である。お約束というのを分かっていない。
﹁⋮⋮やっぱり、ああいう話はするもんじゃないよね⋮⋮﹂
物語のお約束というやつは、今回もしっかり発動したらしい。い
くつか薬の素材になる葉っぱや草を集めたところで、巨大な繭をた
くさん抱え込んだ、大きな巣。その中心に鎮座する、地べたを這い
まわっている状態ですら、春菜と大差ない高さを持つ巨大蜘蛛。そ
いつとばっちり、目があってしまった。
﹃東君、東君﹄
﹃出た?﹄
﹃うん。目があっちゃった﹄
﹃すぐそっち行くわ﹄
冒険者カードの通信機能を使って業務連絡を終え、ピアラノーク
を宏が来る方に誘導する。他の蜘蛛を刺激しないように、ルート選
定も慎重にしなければいけない。春菜は、慎重に後退を始めた。
148
ピアラノークは強かった。
﹁藤堂さん、そっち行ったで!﹂
﹁了解!﹂
空を舞う巨大な蜘蛛。その異様な光景に気を取られることなく、
着地地点に魔法で罠を仕掛けて飛び退く。相手が着地した瞬間、大
きな火柱が立ち、ボス蜘蛛をこんがり焼きあげる。
ぎちぎちと音を立てながら、全身で怒りを表現して突っ込んでく
る蜘蛛を、サイドステップで紙一重で回避し、宏のお株を奪うよう
にスマッシュではね飛ばす。バランスを崩されながらも、糸を飛ば
して動きを封じようとするピアラノーク。そこに割り込んでさらに
スマッシュを叩き込み、相手の行動を完全に潰す宏。
﹁今のうちに追撃や!﹂
﹁了解!﹂
再び相手を牽制する役を宏に譲り、飛び道具タイプの光の魔法剣・
オーラバードを飛ばして叩き込む。出の速さが売りの、比較的攻撃
力には劣る初級魔法剣だが、春菜自身の技量とレイピアの性能、そ
して何より付加された特性﹁属性攻撃適性︵全︶﹂による増幅が合
わさり、ピアラノークの外殻を貫通するだけの威力は十分に発揮す
る。
﹁往生せいやあ!!﹂
震える腕を押さえながら、ピアラノークの顔面に、全力で斧を叩
149
き込む宏。スキルの類は持っていないが、伐採や採掘、鍛冶、木工
などの補正により筋力が高い彼は、基礎攻撃力だけは春菜の倍近い
スペックを持っている。攻撃速度が遅い上に攻撃技が無いため、単
位時間当たりのダメージ量では圧倒的に劣るものの、それでもボス
に手傷を負わせられる程度の火力はある。この世界の冒険者の平均
からすれば、十分以上に攻撃力があると言っていいのだ。
とはいえ、基礎攻撃力がいくら高くても、攻撃スキルによる爆発
力が無いため、スキル構成が戦闘向けの冒険者に比べると、どうし
ても見劣りする。結局、冒険者としては並以下なのは変わらない。
今の攻撃も、蜘蛛の殻をぶち抜く事は出来たが、春菜の攻撃に比べ
るとその効果は見劣りする。ダメージよりもむしろ、牙を潰して噛
みつけなくした事の方が重要なぐらいだ。
﹁もう一丁!﹂
怒りの声を上げて前足を振り下ろそうとしたピアラノークを、ス
マッシュで吹っ飛ばしてひっくり返す。
﹁藤堂さん!﹂
﹁ブラッディ・フラッシュ!﹂
宏の掛け声に合わせ、気合の乗った掛け声とともに、レイピア系
の中級連撃で蜘蛛の腹を切り裂く。さらに続けて、炎の中級魔法剣・
フレイムダンスで、先の連撃で切り裂いた傷を正確になぞり、内臓
を燃やす。苦悶の声を上げながらもがき、前足を春菜に向かって力
一杯叩きつけるピアラノークだが、正確な剣さばきで綺麗に受け流
され、ダメージを与えることはできない。
150
﹁これなら、もう一撃いける!﹂
今の受け流しで姿勢を崩され、体勢を立て直しきれなかったピア
ラノークに向かって踏み込み、光の魔法剣・セイントブレイドを大
きく振りかぶる。この時、春菜は一つ失念していた。
相手は蜘蛛であり、足以外にも移動手段を持っている事を。
﹁藤堂さん、それはまずい!﹂
宏の声は一歩遅く、ブロックした前足を切り落としたところで、
剣を振り抜いた態勢で大蜘蛛のぶちかましを受けてしまう。蜘蛛は、
糸を木にくくりつけ、その力で大きく飛び上がったのだ。
﹁きゃあ!﹂
可愛らしい悲鳴をあげて、大きく弾き飛ばされる春菜。とっさに
レイピアで受け流したたため直撃は避けたが、完全に地べたに転が
されてしまう。
そのまま、七本になってしまった足で春菜を抑え込もうとするピ
アラノーク。ここで捕まってしまえば、あとは容赦なく繭に閉じ込
められることになるだろう。下手に抵抗すれば、全身の骨を砕かれ
かねない。そうなってしまえばおしまいである。
﹁させるかい!﹂
飛びかかろうとした蜘蛛の胴体、先ほど春菜が切り裂いて燃やし
た腹と胸の継ぎ目のあたりに斧を叩き込み、正確に大蜘蛛を吹っ飛
ばす。
151
自身の手数が少ない自覚がある宏は、とにかく防御と時間稼ぎに
徹することで腹を決めていた。春菜が体勢を立て直し、自分の身を
守れる状態になるまでは、下手な真似は出来ない。ここを抜かれて
しまえば終わりなのだ。
﹁こいやあ!﹂
足の震えを必死に押さえながら、注意を引くために腹の底から大
声を上げる。正直な話、先ほどまでのジャイアントスパイダーと違
い、こいつを相手にするのはとても怖い。サイズによる威圧感もさ
ることながら、とにかく手数が多く、しかも一発一発が痛い。食ら
ったところで打ち身にもならないとはいえ、痛いものは痛いのだ。
﹁東君!﹂
﹁藤堂さん、大丈夫か!?﹂
﹁うん!﹂
数発の攻撃をブロックし、足の一本に反撃を叩き込んだところで、
ようやく体勢を立て直せたらしい春菜が声をかけてくる。
﹁東君。この蜘蛛って、レア素材は?﹂
春菜が攻撃しやすいようにスマッシュでひっくり返していると、
彼女からそんな質問が。
﹁一応腹のところにあるけど、そんなに気にせんでもええで﹂
152
﹁お腹ってことは、足を全部切り落として、頭を落とせば素材回収
はいい感じ?﹂
﹁まあ、そうなるわな﹂
宏の言葉に頷くと、マナポーションとスタミナポーションを立て
続けに飲み干し、レイピアを立てて魔力を通し始める。
﹁大技行くから、もうちょっとだけ時間を稼いで﹂
﹁⋮⋮了解や﹂
春菜の気迫に押され一つ頷くと、起き上がって突撃してくるピア
ラノークをすくい上げるような斧の一撃でひるませ、先ほど切りつ
けてダメージを与えた前足を全力の一撃で切り落とす。これで後は、
この巨大蜘蛛には糸と体当たり、締め付けぐらいしか攻撃手段はな
い。
それでも、果敢に宏を、春菜を押しつぶそうと迫ってくるピアラ
ノーク。そのあくまでも諦めない執念に内心で引きながらも、死に
たくはないので必死になって応戦する。糸を飛ばして飛び上がろう
としたところを見切り、とっさにナイフを抜いて切断する。大方浮
き上がっていた大蜘蛛の体がバランスを崩し、背中から無様に落ち
る。
﹁東君、準備完了!﹂
﹁分かった! 無茶はせんといてや!﹂
﹁大丈夫!﹂
153
宏の言葉に元気よく返事を返すと、並列処理を行っていた魔法を
同時に発動させる。複数の春菜が出現し、起き上がろうとしていた
ピアラノークの足元が派手に崩れる。
﹁行くよ! エレメンタルダンス!﹂
春菜達の声がハモり、時間差をつけて次々とピアラノークに飛び
かかっていく。一人目が炎の魔法剣で一本目の足を切り落とし、二
人目が氷の魔法剣で傷口を凍結させる。三人目が風の刃を振るい、
四人目が大地の牙で足をへし折る。そうやって次々に魔法剣で蜘蛛
を切り裂いていき、全ての足を切り落としたところで全員が重なり、
一人になる。
﹁フィニッシュ!﹂
全ての属性を重ね合わせると言う無茶を実現した刃が、ピアラノ
ークの腹を付け根で綺麗に二つに切断する。流石にここまでされる
と、いかなジャイアントスパイダーの王といえども、その命を維持
する事は出来ない。一分ほど痙攣し、切り落とされた足の付け根が
うごめいていたが、ほどなく力を失い動きを止める。
﹁あ∼、疲れた∼⋮⋮﹂
﹁大丈夫なん?﹂
﹁⋮⋮大丈夫大丈夫⋮⋮﹂
そう言いながらその場にへたりこみ、指一本動かせません、とい
う態度で適当な木の幹にもたれかかる春菜。上級魔法剣・エレメン
154
タルダンス。無属性以外の相手には百パーセント弱点属性を突くこ
とができ、さらに耐性のある属性攻撃でも減衰なしでダメージが通
る事もあり、攻撃系エクストラスキルを除けば、単体相手には最強
の攻撃力を持つと言われているスキルではあるが、いろいろと欠点
があって使い手はそう多くない。
第一の欠点として、習得条件が厳しく、煩雑である事。最低でも
百五十の敏捷が必要で、全ての属性の初級魔法剣二種と中級魔法剣
一種をマスターしたうえで、さらに一種類ずつ熟練度五十以上の物
を習得し、その上で中級の無属性連撃スキルを二種と分身系魔法も
しくはスキルを一種、熟練度七十五以上にしていることが要求され
るのだ。スキル自体はレイピアでなくても発動できるのだが、武器
によってはレイピアの専用スキルを避けて条件を満たすのが難しい
ため、事実上使い手はレイピアがメインのキャラになってくるので
ある。
第二の欠点として、発動前に必ず分身を出しておかなければなら
ず、その動作がスキルに含まれていないというものがある。そのた
め、どうしても攻撃までにワンテンポかツーテンポ余計な間が開き、
パーティプレイで相手の体勢が崩れた時、即座にこの大技を叩き込
むと言うやり方が少々厳しくなる。
そして、最後にして最大の欠点が、MPとスタミナの消耗が半端
ではない事だ。出した分身が使う魔法剣、そのコストをすべて本体
が支払うためか、そうでなくても事前準備で消費しているMPもし
くはスタミナを、根こそぎ持って行く勢いで消耗してしまう。初期
の採集ではないが、並のスタミナの持ち主では、一発撃ったら五分
は休憩しないと動けなくなると言うリスキーな技なのである。トッ
プクラスの廃人でもスタミナとMPの問題で、一回の戦闘で三発は
撃てないと言う、まさに切り札のような技だ。
155
﹁あれ、ものすごくスタミナとか食うんだ⋮⋮﹂
﹁あ∼、そんな感じの技やなあ、確かに⋮⋮﹂
﹁でも、最近東君のお手伝いしてるからかな? MPもスタミナも
全快じゃなかったのに、前よりは撃った後が楽になってる﹂
﹁そうかもしれへんなあ﹂
だるそうな春菜の近く、女性恐怖症が悪さをしないぎりぎりの距
離に立ち、一応周りを警戒しながら彼女の回復を待つ。ピアラノー
クほどではないが、攻撃的な虫は結構居るのだ。
﹁⋮⋮せっかくだし、そろそろ解体しよっか⋮⋮﹂
﹁もう大丈夫なん?﹂
﹁まだだるいけど、ジャイアントマンティスぐらいなら普通にあし
らえるよ﹂
﹁さよか﹂
春菜の申し出に一つ頷くと、とりあえず特にこれと言ったものが
無い足の解体を頼む事にする。胴体周りはいろいろと薬やら触媒や
らに使えるものがあり、それなりに知識が無いと回収できない部位
が多いのだ。
﹁とりあえず、胴体の方は終わったから、先こいつの巣の繭を糸に
してくるわ﹂
156
﹁了解。足が終わったらそっちに行くよ﹂
﹁頼むわ。あの繭、何ぞあんまりええ予感はせえへんし﹂
宏の言葉に頷くと、三本目の足を解体しに行く。派手に切り飛ば
したためにあちらこちらに分散しているため、探すだけでも一苦労
である。単なるキチン質とは一味違う外殻に加え、足の肉も死後硬
直でかたくなっており、宏特製の切れ味鋭いナイフでなければ、ま
ともに解体など出来なかったであろう。
春菜がすべての足の解体を終えたところで、宏の呼ぶ声が聞こえ
る。売り物になる素材を回収して鞄につめた春菜は、宏がいるはず
であるピアラノークの巣へ急ぐのであった。
﹁どうしたの?﹂
﹁予想通り、厄介事や﹂
そう言って、一つ目の繭の中から出てきたという、プラチナブロ
ンドの髪の少女を示す。年のころは十一、二歳ぐらいか。傾向とし
て発育がいいファーレーン人の例に漏れず、春菜より若干低い程度
の身長はあるようだ。上品で手の込んだ、明らかに高級品と分かる
ドレスを着ており、彼女がそれなり以上の財産と身分を持つ家の出
157
身である事は疑いようがない。ほとんど呼吸をしていないため、膨
らみ始めて少ししたぐらいの胸は、ほぼ上下していない。
﹁⋮⋮なるほど。まだ生きてるの?﹂
﹁この子はな。まあ、生きてる、いうても、いわゆる仮死状態って
やつやけど﹂
宏の言葉に一つ頷くと、分かる範囲で状態を確認する。確かに、
消えかかってはいるが、生命エネルギー自体は途絶えていない。何
やらよく分からない種類の魔力がヴェールとなって包み込んでおり、
これが彼女を守っていたのだと考えられる。多分この魔力を解除す
れば、少女は仮死状態から復活するであろうと思われるが、残念な
がら春菜の解除系魔法では、触媒なしではこのクラスの複雑な特殊
魔法を解除するのは厳しい。これが支援を専門にしているプレイヤ
ーならどうとでもなるのだが⋮⋮。
﹁触媒が手元にないから、私の技量じゃ、この場で生き返らせるの
は無理﹂
﹁僕の方も同じや。こういうのをチャラに出来るアイテムは作れる
けど、材料はともかく、機材が今の手持ちやと心もとない﹂
﹁材料はあるの?﹂
﹁ここらの昆虫系ので、ある程度代用できる﹂
宏の言葉に一つ頷く。
﹁ウルスに帰れば、機材はどうにかなるの?﹂
158
﹁手持ちやとたらんけど、協会で売ってるやつでいけるで﹂
﹁そっか。じゃあ、今回はもう引き上げる?﹂
﹁いや。他の繭にも生存者がおるかもしれへん。ただ、ここでばら
して、何人も生存者がおったらいろいろまずいから、向こうの繭と
一緒に野営地まで運んで、夜通しで全部糸にしてまおうかと思っと
る﹂
﹁了解。じゃあ、この子を野営地まで運べばいいんだよね?﹂
﹁頼むわ。僕は繭を回収できるだけ回収してくるから﹂
宏の言葉に頷くと、鞄を腕からぶら下げ、少女を背負って群生地
を出る。ここに来る途中にあった、割と開けた池のほとり。野生の
動物は結構いるが、全体的に攻撃性の低いものばかりが生息する一
帯。宏特製の結界具を置き、ちゃんと火を熾しておけば襲われる心
配はまずないと言う、理想的な野営地である。
﹁なんか、きな臭くなってきたなあ⋮⋮﹂
背負った少女の服装に意識を向け、思わずつぶやく春菜。嫌な予
感がひしひしとする。正直なところ、宏ではないが、ピアラノーク
が抱え込んでいた繭には、ぶっちゃけ最初からいい予感はしなかっ
た。
﹁貴族とかその類の噂、どんなのがあったかな?﹂
屋台の売り子や歌姫をやりながら集めた噂話、それをいろいろと
159
思い出しながら、ひたすら野営地を目指す。アルザス公爵とパウエ
ル侯爵が対立してる、とか、王太子とその上の妾腹の兄、それから
三つ下の弟が水面下で継承権争いをしてるとか、それがたたってか
皇太子には浮いた話が一切ないとか、今の王家は正室の子供が三人、
側室の子供が五人いて、現在王妃が懐妊していていろいろきな臭い
とか、そう言う話はいくつか思い出したものの、子供の人数と性別
以外はどれも噂止まりで裏が取れているものではない。
もしかしたら自分達に関わりが出来るかもしれない噂として、王
太子の姉に当たる第二王女が病に伏せっており、治療できる薬が無
くて衰弱してきているらしい、という話を聞いた事はあるが、流石
に今回の状況に直接かかわりがあるとも思えない。正室の子である
第五王女とこの少女の年格好は近いが、仮に第二王女の治療に使う
薬の材料がこのあたりにあったとしても、順位が低いとはいえわざ
わざ継承権を持っている王女様が、こんなところに直接危険を冒し
てくるとも思えない。
﹁詳細は、本人を起こして聞くしかないか⋮⋮﹂
情報が足りなすぎて、推測すらできない。こんな年端のいかない
子供の生存を忌々しく思う気はないが、状況が状況だけに手放しで
喜べないのが悔しい。
︵まったく。もし何かの陰謀でこの子がこんなことになってたんだ
ったら、黒幕はタダじゃ済まさないんだから⋮⋮︶
どうあっても関わり合いになる事を避けられないなら、ポジティ
ブに相手をしばくことを考えた方がいいだろう。どうせこのパター
ンは、十中八九何かの陰謀劇に巻き込まれるのだ。ならば、せいぜ
い自分達を巻き込んだ事を後悔させてやろう。そう決意して、春菜
160
は歩く速度を速めるのであった。
﹁全部で三人か⋮⋮﹂
﹁ピアラノークに捕食されて、八人中三人も生きとったんやったら
運がええ方やで﹂
生存者の少なさに沈んだ顔を見せる春菜に対し、これまたため息
交じりに答えるしかない宏。亡くなった人間の内訳は、戦士風の男
性が三人に文官風の男性が一人、侍女らしき女性が一人である。正
直、全員生きているとは最初から思っていなかったが、実際に死体
を見てしまうと多少は気落ちしてしまう。 ﹁本当に八人だけ?﹂
﹁分からんけど、繭があったんはこんだけやった﹂
ピアラノークが抱え込んでいた繭。その中から出てきた八人のう
ち、仮死状態で生きていたのは、最初の少女を含めて三人だけだっ
た。残りの二人の生存者は、見た目二十歳前後の女性と、壮年の男
性であった。どちらもがっちりした金属鎧を身にまとっている。
﹁ちょっと、不可解な事があるよね﹂
161
﹁あ、藤堂さんも?﹂
どうしようもないことについて、いちいち気落ちしていても仕方
がない。助けられなかったのは事実だが、この場合はむしろ、助か
ったこと自体が奇跡の領域である。あまり責任を感じても無意味だ
ろう。そう割り切ることにして、気分を変えるために気になったこ
とを話し合う。
﹁助かった二人って、明らかに騎士だよね?﹂
﹁装備の質とか筋肉の付き方とかから考えて、金で位を買ったとか
そういう人種やなさそうや﹂
﹁この人たちが、ピアラノークに一方的にやられたりするのかな?﹂
春菜の問いかけに、渋い顔をして首をひねる宏。実際に立ち会っ
てみなければ実力など分からないが、装備がまるでない自分達でも
何とかなったのだから、実力で騎士になった人間ならどうにかでき
そうな気がする。
﹁罠にかけられた、っちゅうのがありそうなところやけどなあ﹂
﹁たとえば?﹂
﹁前衛の連中って、状態異常魔法に対する抵抗力は結構低い事が多
いからなあ。この人らも、麻痺とかバインドとか食らったら、一方
的に捕食される可能性はある﹂
﹁そっか。それなら特に抵抗した痕跡もなく捕まっててもおかしく
ないか⋮⋮﹂
162
﹁そもそも、ここにおること自体が自分の意志やない可能性もある
な﹂
そう言って、すでに息を引き取っている侍女らしい女性と文官ら
しい男性に目を向ける。どちらも、間違ってもこんな場所に来るよ
うな人材ではない。
﹁まあ、考えても仕方が無いよ﹂
﹁そうやな﹂
﹁それで、どうやって帰る?﹂
﹁それが問題や。亡くなった人については、運ぶにしてもここで処
理するにしても、形見と身元を証明するもんだけ回収して、浄化し
たうえで埋葬するしかないとして、や﹂
﹁生きてるこの三人を、どうやって運ぶか、だよね?﹂
春菜の言葉に頷く。
﹁まあ、手が無い訳でもない﹂
﹁どんな?﹂
﹁ピアラノークの巣で、食われた冒険者のものらしい荷物があって
な。ほとんど魔力が切れかかっとるけど、転送石が二つほど残っと
ってん﹂
163
﹁それを使って?﹂
﹁魔力を充填したれば、とりあえず亡くなった人も一緒にウルスに
は戻れると思うで﹂
そう言って、残りの虫を閉じ込めた繭を糸に変え始める。余計な
ことを考えないための、ある種の現実逃避ではあるが、生産スキル
によって鍛え上げられた、すでに人間の領域を超えた精神力パラメ
ーターも、この切り替えに一役買っているのは間違いないであろう。
﹁虫は解体しておけばいい?﹂
﹁スズメバチだけ置いといて。あれは薬の材料になるから﹂
方針を決めると、あっさり平常運転に戻ってしまう宏。その様子
に苦笑しながら、自身も気分を切り替えるために、言われた通り中
身の虫を解体し始める春菜であった。
164
第4話︵後書き︶
これが王道だと信じている
6/8 指摘を受けたので、ラードについてちょっと追記しました
165
第5話
﹁ただいま﹂
﹁おかえり∼﹂
蜘蛛の群生地から帰ってきて三日目。まだ目を覚まさぬ三人の面
倒を見るため、宏と春菜は交替で仕事をしていた。亡くなった五人
については、個人でどうにかできる問題ではないので、冒険者協会
に預けてどうにかしてもらうことにした。運び出す時も、ランディ
達をはじめとした知り合いの冒険者の手を借り、事情も全て正直に
話してある。さすがに、服代を浮かせるためにわざわざ蜘蛛の群生
地まで行った挙句の果てに、碌な防具も着けずにピアラノークとど
つきあいをして生還した、という内容には、関係者一同、驚くより
先に呆れていたが。
屋台については宏が早く帰って来た時か、春菜が仕事に出た時だ
け開店している。言うまでもなく、宏に店番が出来ない事が主な理
由だが、二人同時に出歩けない事による仕入れの不安定さも原因の
一つだ。
助けた三人は寝室を占拠している。二人が借りたアパートは小さ
なものではあるが、それでも一応2DKの間取りはある。同じ部屋
で一緒に眠る事を宏が拒否したのは言うまでもなく、かといって流
石に毎日ダイニングで眠る、などという疲れが取れそうもない行動
を春菜が許容できるはずもなく、議論の結果、キッチンとダイニン
グ以外に二部屋以上の部屋のある、必要最小限のスペースを持った
一番安い部屋、という条件で物件を探し、辛うじて見つけたのが今
166
の住居だ。トイレは各階で共同だが、二人が住んでいる階には他に
住民が二人しかいないため、それほどかちあうこともない。風呂は
毎日公衆浴場である。
辛うじてダイニングキッチンも合わせて三つに部屋が分かれてい
るだけなので、ダイニング以外のそれぞれの部屋は四畳半もなく、
ベッドを置けばぎりぎりでしかないが、それでも女性の方は、無理
をすれば一部屋で二人眠れなくはない。春菜はダイニングのテーブ
ルをどけて、宏特製の折り畳み式簡易ベッドで眠っており、宏はベ
ランダで寝袋だ。おっさんと添い寝などしたくない、というのもあ
るが、それ以前に、おっさんのガタイが良すぎて、部屋の寝床がぎ
りぎりなのだ。台所は調味料やら処理済みの薬草類やらに占拠され
ていて、とても人が眠れるような環境ではないし、それがなくとも
ダイニングと直結しているため、宏が眠るには酷な場所だ。
正直なところ、いろんな意味で宏一人が割を食っている感じがし
て申し訳ないのだが、野営の時はいつも春菜だけテントに入れて、
本人は雨ざらしで寝袋だ。そういう意味では、結局それほど変わら
ないのかもしれない。同じテントに入りたくない、というそれだけ
の理由で、わざわざ触媒を調合して、雨天防御とかいうマイナーな
エンチャントを寝袋に施していた宏の姿に、何とも言えずほろ苦い
ものを感じたのは記憶に新しい。
﹁そんで、あの人らは?﹂
﹁呼吸とかはしっかりしてるけど、まだ目を覚まさないよ。そっち
の調子は?﹂
﹁仕事の方は大して問題あらへん。食材はまあ、仕事であっちこっ
ち回ったついでにいろいろ仕入れてきたから、ちょっと楽しみにし
167
てて﹂
﹁了解﹂
テーブルの上を片づけながらそう答える春菜。待機中は暇なので、
とりあえず食材が許す範囲で新メニューの仕込みをしたり、製薬や
錬金術の練習で素材の下処理をしていたのだ。たかが三日、うち一
日は仕事に出ていたとはいえ、前々からつかみかけていたコツを確
かなものにする程度には、練習量は稼げたらしい。初級の段階では
扱いが難しいものも、いくつか処理が済んでいる。
﹁それで、今日は何かあった?﹂
﹁その前に、ちょっとあの人らの様子見てくるわ。感じからいうて、
そろそろ起きてくるはずやし﹂
﹁ん、分かった﹂
宏の言葉に頷くと、とりあえずお茶を入れる用意をしておく。お
茶受けに、スイートポテトもどき︵というよりはいもきんとん、と
表現した方が近いだろう︶を出すことに決め、宏特製の魔力ポット
でほうじ茶に丁度いい温度のお湯を沸かす。地球の電気ポットと同
じく、設定した温度のお湯を沸かし終えたら勝手に保温してくれる
上に、魔力ポットゆえに空焚きの心配がないと言う優れものだ。
ほうじ茶は、醗酵させる前の茶葉を探して買ってきて、自分で用
意したものである。この世界の醗酵食品は結構いびつな発達をして
おり、パンや食品についてはほとんど進歩が無いくせに、酒や茶に
関しては十八世紀ごろの地球と大差なかったりする。紅茶について
は、実のところ薬草酒を作ろうとしていろいろやっているうちに偶
168
然できたものだそうで、地球での成り立ちとは微妙に違う経緯をた
どっているようだ。
﹁どんな感じ?﹂
﹁そうやな。少なくとも、このおっさんはなんか切っ掛けがあれば
起きると思う。ただ、確実にとは言いきれへんから、ゆすったり魔
法で起こそうとしたり、あと殺気ぶつけて反応させたりとか、そう
いうやり方はやめとこう﹂
﹁了解。あっちの二人は?﹂
﹁藤堂さん、僕に死ねと?﹂
﹁別に、看病のために状態を確認するぐらいなら、文句は言われな
いと思うけど?﹂
﹁甘い、甘いで藤堂さん。その理屈が通じるんは、エロスを感じさ
せへん種類のイケメンに限るねん。起きた時に僕みたいなきもい不
細工なヘタレが目の前におってみ? 絶対に、こんなところに連れ
込んで何をするつもりだった!? とか、すごい剣幕で怒鳴り散ら
すに決まってる﹂
﹁そ、それはさすがにないと思うけど⋮⋮﹂
あまりの意見に引きながら、それでもさすがに聞き捨てならない
言葉ゆえに反論をする春菜だが、宏は悲しそうに顔を横に振る。ど
うやらこのヘタレ、余程女性を信用できない人生を歩んできたよう
だ。初対面の、それも言葉を交わしてすらいない相手に対する評価
としては実に失礼だが、それを失礼と思わないほどの経験をしてき
169
たらしいと考えると、いかに春菜といえどもコメントのしようがな
い。
﹁世の中にはな。落し物拾って、これ誰のん? って、聞いたら、
ただ拾っただけやって言う目撃者がいくらでもおるのに、お前盗ん
だんか? みたいなこというて、泥棒とか大騒ぎする女が結構よう
さんおるねん﹂
﹁居ない居ない﹂
﹁六回や﹂
﹁えっ?﹂
﹁目の前で拾ったの見てたはずやのに、そういう騒ぎ起こした揚句
に濡れ衣着せられた、もしくは着せられそうになった回数﹂
内訳は中学時代に五回、高校に入ってから一回。結果、たとえ落
し物が足元に転がってきたとしても、泥棒扱いしないことを周囲に
念押ししない限りは、絶対に拾わないようにしているらしい。わざ
わざ関西から引っ越してきて、中学時代と同じパターンで泥棒にさ
れかけるとは思わなかった、と苦い顔で言う宏に、コメントしよう
がない春菜。三年生になってからは、基本的に不登校、もしくは保
健室登校だったことと、そうなった原因とも言える、学校中を揺る
がす不祥事のおかげで、手癖が悪いと言う内申書の誤解自体は解け
ている。
因みに、中学時代は二回同じ事を繰り返したところで、落とし物
を見つけても見なかった事にしていたのだが、それを担任︵三十代
及び四十代女性︶に注意されて渋々拾った結果、三回濡れ衣を着せ
170
られたのだ。担任もグルだったか確信犯だったか、ちゃんと見てい
たはずなのに、盗むとはどういう事だ、とか、そういう話になった
のは苦い思い出であり、四十代までの女性を基本的に信用しなくな
った決定的な理由である。
高校に入ってからの一件は、それを言い出したクラスメイトの女
子が、そう言う事の常習犯だった事が同じ中学出身の人間から周囲
に伝わったため、濡れ衣を着せられた揚句に保護者呼び出し、とい
う最悪のパターンは逃れられたが、あわや再び不登校になりかけた
のは、本人にとっても学校にとっても思い出したくない話だ。特に
学校側は、宏が中学時代、担任にまでそう言う扱いを受けていた事
を把握していたため、訴訟沙汰も覚悟していたと言う。正直なとこ
ろ、クラスメイトが全員フォローに回ってくれた事と、中学時代と
違って、最初の段階から言いだした女子の方が袋叩きにあっている
ような状況だったから助かったようなもので、もし、あの時もう何
人かが悪のりしていれば、宏はここで完全に社会からドロップアウ
トしていただろうし、学校側も致命的なダメージを受けることにな
っていただろう。
彼らの通っている学校の校風に助けられた形だが、VRシステム
を使った現実時間換算三年以上のカウンセリングの成果が、一発で
水の泡になるところだったのは間違いない。どうにか今は辛うじて
日常生活に支障がないレベルで落ち着いているが、三年前の経過し
だいでは宏はこの生活を維持することは出来なかっただろう。
﹁何にしても、繭から引っ張り出した時はしゃあないとしても、そ
れ以上は余計なリスクは避けたいねん﹂
﹁⋮⋮ごめん。本当にごめん⋮⋮﹂
171
思わず、女に生まれてごめんなさい、と言いたくなってしまう春
菜。そう言う事をする人間は少数派ではあるが、その手の性格破綻
者と関わりやすい巡り合わせの人間に言っても、説得力など生じな
い。何故に同じ事を六回も、という理由も説明されてしまっては、
宏がうかつだったなどとは、口が裂けても言えない。違うクラスだ
った上に、事件そのものは大した騒ぎになる前に鎮静化したため、
当時他所のクラスだった春菜はそんな事があったとは全く知らなか
ったのだ。しかも、一緒に聞かされた他の件も大概だったため、余
計に女に生まれた身の上で一緒に行動する羽目になってごめんなさ
いと言いたくなってしまう。
ぶっちゃけた話、フォローに回ったクラスメイト達も大した話だ
と思っていないために基本的に忘れており、宏が落し物を拾う前に
わざわざ念押しをした時ぐらいしか蒸し返されることは無い。一年
の時に違うクラスで、同じクラスになっても関わりがほとんど無い
人間は知らないのが普通である。第一、宏の境遇が特殊だったから
大事になりかけただけで、この程度のトラブルは、どこのクラスも
何件かは起こっているのだ。
﹁と、言うわけやから、少なくとも起きてくるまでは、絶対に近く
に行く気はあらへん﹂
﹁そうだね。考えてみれば、目が覚めてみれば知らない男がいて、
しかも鎧を引っぺがされて着替えさせられてる、とか言ったら、ど
んな誤解されてもおかしくはないよね﹂
﹁それが、蜘蛛の糸まみれで、とても布団に寝かせられる状態やな
かった、いうてもな﹂
彼らの身につけていたものに関しては、すでにきっちり洗濯・修
172
繕を済ませて、枕元につるしてある。残念ながら、お嬢様のドレス
の修繕に関しては、とても春菜の手に負える品ではなかったので、
鎧などと一緒に宏がすべて済ませている。武器と鎧に至っては、修
理のついでに、エンチャントを行わずに済む範囲でいろいろ手を入
れてあるため、見た目が同じだけの別物になっていたりする。
﹁まあ、とりあえず軽くお茶でも飲みながら、協会で言われたこと
と、調達してきたあれこれについて話すわ﹂
﹁ん、了解。スイートポテトというか芋きんとんというか、そう言
う感じのおやつを用意してあるから、ちょっと待っててね﹂
そう言って台所に立ち、急須にお茶を入れる。この急須は、春菜
が道具製造の練習を兼ねて、空き時間に自作したもので、十数個の
失敗作を経てようやく満足いくものができた、という代物である。
因みに、失敗作に関しては、材料がもったいないからと、宏が錬金
術で逆転させて素材まで戻していた。ダイニングをほぼ丸々占拠し
ている折り畳み式の巨大なテーブルをはじめ、この部屋にある家具
も、ほとんどは練習のために春菜が作ったものを、宏が手を入れて
使っている。
正直、春菜自身は製造を極めるつもりは全くないのだが、せめて
裁縫ぐらいはということで、とりあえずメイキングマスタリーを身
につけられるまで、宏にいろいろと教わっているのである。
﹁まず、協会で言われてきたことやねんけどな﹂
﹁うん﹂
﹁僕らがピアラノークの巣で見つけた繭玉、数は五個やったことに
173
してほしいんやと。手伝ってくれた人らにも、とうに口止めは済ん
どるらしい﹂
﹁それって⋮⋮﹂
﹁多分、あの人らが生きてる、って今の段階でばれたらまずい、言
う事やろう﹂
宏の言葉に一つ頷く春菜。
﹁とりあえず、この事についてはええことと悪い事がワンセットや
な﹂
﹁いい事、って言うのは協会は私達を守ろうとしてくれるつもりだ、
ってことで、悪い事は、もうあがきようがないぐらい厄介事に巻き
込まれてる、ってことかな?﹂
﹁そう言うことやな。今更ほってくる訳にもいかんし、緘口令ごと
きで誤魔化せる時間も知れとるし﹂
﹁アドバンテージとしては、転送石でこの部屋に直接戻ってきてる
から、その程度の緘口令でもそれなりに時間は稼げる事だよね﹂
﹁そうやな。後、僕らは屋台やってることで顔が売れてるから、仕
込みとか仕入れを口実にすれば、部屋をもう一つ借りても不自然で
はない事﹂
﹁この部屋二つ借りる方が、一段広くて部屋数が多い場所を借りる
より安くつくもんね﹂
174
春菜の言葉に頷くと、この話は次に進展があってから、というこ
とで切り上げる。
﹁次はいろいろ嬉しい話や﹂
﹁と言うと?﹂
﹁わかめと昆布、海苔が手に入ったで﹂
﹁え? ええ!?﹂
宏の言葉に、驚きの声を上げてしまう春菜。海産物のマーケット
に並んでいなかったため、この国にはないものとばかり思っていた
のだ。
﹁ファーレーンでは、海藻、特に昆布の独特の風味があんまり受け
入れられへんかったそうで、一部地域を除いて、ほとんど食べられ
てへんかってん﹂
﹁あ∼、なるほど﹂
宏の説明に、心の底から納得する春菜。実際のところ、日本人で
も昆布のダシ汁はともかく、昆布そのものは嫌いだと言う人間はそ
れほど珍しくない。それに、世界中の複数の地域で存在している食
材でも、日本では食べるがヨーロッパでは食べない、だとか、アフ
リカでは食べているが日本では食べない、だとか言う事は珍しくな
い。ファーレーンの場合、それが海藻だっただけなのだろう。
﹁実際のところ、海の幸も山の幸もいくらでも手に入る土地柄やか
ら、わざわざ藻を食べる必要も感じへんかったんやろう﹂
175
﹁凄く納得できるよ﹂
﹁その割にはタコとかイカは食べてるんやから、なかなか不思議な
食文化、っちゅう気はするなあ﹂
﹁別に、ヨーロッパ全土でタコイカを食べなかった訳じゃないんだ
けどね﹂
春菜の突っ込みに苦笑する宏。なお、ファーレーンでは海藻の類
は現状単なるごみに近いらしく、美味しい食べ方や利用方法がある
のであれば、厄介なごみが宝の山に早変わりするため、期待してい
る漁師は少なくない。船の修理や何やらで仲良くなった宏の頼みも
あって、天日干しなどの処理も気前よくやってくれたようだ。
﹁で、それとは別に、そばを一杯買うて来てん﹂
﹁わ、わ、わ﹂
そう言って、テーブルの上に今日の戦利品をいろいろ並べて見せ
る。天ぷらによさそうな新鮮なエビとか、絶対に狙っているとしか
思えないラインナップだ。その内容に、春菜が嬉しそうに歓声を上
げる。
﹁東君﹂
﹁何?﹂
﹁醤油と鰹節は、どんな感じ?﹂
176
﹁まだちょっと若いかも、言う気はするけど、試しに使う分にはい
けると思うで﹂
春菜に言われるまでもなく、醸造中の調味料の状態ぐらいは把握
している。そうでなければ、いくら腐敗防止の鞄に入れておけばい
いと言っても、こんなラインナップで食材を買い集めたりはしない。
なお、熟成が必要な調味料をちんたら作るつもりはないようで、宏
が一番最初に作ったのは熟成加速器だったりする。高レベルの薬に
は、醗酵作用を起こす必要があるものが少なくないため、数を作る
にはこの道具は必須なのである。
﹁だったら、本番に行く前に、まずはダシをチェックするところか
らかな?﹂
﹁そうやな。まだあかん、とかなったらちょっとさみしいし﹂
﹁それで、そば打ちはどっちがやる? なんなら私がやるけど﹂
﹁いやいや、藤堂さんはダシの方に専念してくれてええで﹂
暗に、自分がやりたいと言う自己主張をする春菜に対し、ここは
譲れないとばかりに牽制する宏。結局じゃんけんに負けた宏は、そ
ばの実を挽いてそば粉にした後、片栗粉を作るためにジャガイモの
でんぷんを取り出す作業に入ることになるのであった。
177
不思議な、だが食欲をそそる芳しい香りが鼻腔をくすぐる。深い
眠りについていた少女は、その香りに意識を急浮上させる。
︵ここは⋮⋮?︶
今まで入った事のないような粗末な部屋の、無理すればどうにか
人が二人眠れるであろう小さめの、だがこんな部屋に住む人間が使
うにしてはやたらと作りのいいベッドに、護衛だったはずの女性騎
士と一緒に寝かされている事に気がつく。そろそろ色気づいてくる
年頃とはいえ、まだまだ子供の範疇にはいる彼女だからこそ、大人
の体格の女性騎士と一緒に寝かされてもそこまで窮屈ではないが、
自分達の素性を考えると、実に捨て置けない扱いではある。
とはいえ、じっくり観察すればすぐに分かる事だが、この部屋は
実に狭い。正直なところ、こんな小さなベッドでも、他の家具は机
すら置けないほどぎりぎりのスペースしかない。はっきり言って、
生活空間というより、ただ眠るためだけの部屋である。
︵どうしてこんなところに⋮⋮?︶
生まれてこのかた、こんな物置以下の部屋には無縁であったため、
今の状況が全く理解できていない。傍らで眠っている女騎士を起こ
さぬように注意しながら身体を起こすと、もう少ししっかり部屋の
中を観察する。とはいっても、本当に何もない部屋だ。ベッド以外
の家具や調度品と呼べるようなものは、せいぜい窓に置かれた鉢植
えと枕元に置かれた魔力ランプぐらい。後は壁のハンガーかけに、
自分達が着ていたものと思われる仕立てのいい服がかけられ、部屋
の片隅に女騎士の物である装備一式が置かれている程度だ。
178
スペースの問題で、どうしても殺風景になってしまう部屋ではあ
るが、狭いなりに何とか居心地を良くしようとする工夫をしている
様子は随所にうかがえる。ただし、ベッドにしろ魔力ランプにしろ、
こんな部屋に置くにはやけに物がいい。特にランプの方は、形こそ
シンプルで凝ったところはまるでないが、品質的には王宮、それも
貴族階級が出入りする区画で使われているものと大差ない。少女に
は金銭的な価値は分からないが、この場に不釣り合いである事だけ
は分かる。ありとあらゆるものの金銭的価値については疎い少女だ
が、物の価値そのものが分からないほど世間知らずでもない。
その彼女から見てこの部屋は、観察すればするほど不思議な印象
が強くなる部屋であった。
︵少し、記憶を整理しましょう︶
妙な部屋に居ることでパニックを起こしている思考を落ちつけ、
目が覚める前の事を思い出そうと頭をフル回転させる。ほどなくし
て、腹違いの姉に取り入っていた、胡散臭いと思っていた男が日々
の務めを終えた自分の前に現れ、自分達八人を大蜘蛛の巣に飛ばし
てしまった事を思い出す。護衛を務める騎士たちも強力な捕縛魔法
をかけられていたために、森の奥地に住む巨大蜘蛛の前に、なすす
べもなく餌として繭に閉じ込められてしまった。身の回りの世話で
同行していた侍女と、事務処理のために付き従っていた文官にいた
っては、もとから抵抗する能力など持ち合わせてはいない。仮に捕
縛魔法が掛かっていなくても、ひとたまりもなく食われていただろ
う。
護衛の中で辛うじて、壮年の騎士と今一緒に眠っている女騎士だ
けは、捕縛魔法に完全にかかってはおらず、どうにか多少の時間稼
ぎは出来た。だが、思うように体が動かぬ状況では、稼げる時間な
179
どたかが知れている。血筋と立場的に高い魔法抵抗力を持っていた
彼女だけが、その場で完全にフリーではあったのだが、文官達と同
じく戦闘能力は皆無である。しかも、残念ながら、血統魔法に当た
る一部の物を除き、少女の魔法はそれほど高レベルではない。流石
に、国中に名が知れ渡るレベルの力量を持つ彼らが抵抗しきれない
ほどの呪縛魔法となると、とても解除できる自信などない。そのた
め、最後の悪あがきとして、立場上身につける機会があった、自分
達の時間を止めて身を守る魔法をその場の人間全員に発動させたの
だ。
今現在こうして生きているところを見ると、少女の賭けは、命を
守るという点に関しては勝ったらしい。だが、この部屋の主がどう
いう人間か不明な以上、本当に賭けに勝ったと言うにはまだ早い。
第一、あの魔法を解除するのは、そう簡単なことではない。その自
分がこうして目を覚ましている以上、それを解除できるだけの能力
を持っている人間がいる、という事だ。敵だと判断するのは早計だ
が、命を助けてくれたから味方だと考えるのは、いくらなんでもお
めでたすぎる。
︵とりあえず、まずはちゃんと体が動くかどうかだけ、確かめまし
ょう︶
どうするにしても、まずは体が動かなければ話にならない。どう
いう手段で魔法を解いたのかは分からないが、正規の解き方以外だ
と、体が元に戻ってから、何日も眠っていた可能性すらある。スム
ーズに体を起こせたところから察するに、それほどのダメージは無
かったようだが、油断はできない。
せっせと自身の状態を確認し、とりあえずそれほど体が衰えてい
ない事を理解すると、出来るだけ音をたてないようにこっそりベッ
180
ドから降りる。無意識に、並べてあったスリッパに足を突っ込んだ
のは、育ちの良さかもしれない。部屋の状態から察するに、それほ
ど広い建物ではないだろう。扉を開けた途端に、ここの持ち主とば
ったり、などという可能性もある。相手が善人か、そこまで行かな
くても中立的な立場の人間なら問題はないが、悪人や悪党だとした
ら厄介なことになる。
﹁⋮⋮やっぱり、まだちょっと若かったなあ﹂
﹁まあ、初めてだし、しょうがないよ﹂
﹁せやなあ。まあ、そんなに悪くもないし、次が期待できるからえ
えか﹂
﹁そうそう﹂
扉に耳をつけて聞き耳を立てていると、若い男女のそんな会話が
聞こえてくる。なかなかに不穏な会話だ。耳年増な少女の知識に合
致する事柄を連想し、思わず青くなる。体に違和感はないが、着替
えさせられていることを考えると、ありえない話ではない。
﹁まあ、何にしても、これやったら次の野望に進んでもええかもな
あ﹂
﹁次の野望?﹂
﹁青のりも鰹節も目途がついたし、タコも普通に売っとる。となる
と、一つしかあらへんやん﹂
﹁⋮⋮先に、そっちに行くんだ﹂
181
﹁ええやん。米が手に入らへん現状、作れるん言うたら基本、粉モ
ンばっかりやで?﹂
﹁いや、そうじゃなくて、いろんなものを差し置いて、先にそっち
なんだ、と⋮⋮﹂
意味深な会話を続ける男女に、判断に困る少女。素直に考えれば、
タコという単語がある以上、彼らの会話は食べ物のことだろう。だ
が、そうだとしたら、若いという言葉の意味が分からない。何かの
暗号かもしれないが、その割には緊張感のない空気が漂っている。
男のしゃべり方に、妙な訛りがあるのが印象的だ。正直なところ、
雰囲気的に、自分が想像しているようなことをしでかすようなタイ
プには見えないが、善人でも罪を犯すときは犯すのだ。
そんな事を気にしているうちに、ジュワ∼、っと言うにぎやかな
音とともに、揚げ物と思わしき香ばしい、これまた食欲をそそる香
りが漂い始める。立てつけの悪いドアをこっそり開き、隙間から様
子をうかがうと、台所で何ぞ作業をしている金髪の女性と、巨大な
テーブルの上に広げられたあれこれを片付ける、別段これといって
問題があるわけでもない無難な服装なのに、やたらダサく見えるヘ
タレそうな男の姿が。
﹁完成∼!﹂
何ぞ作業をしていた女性が、嬉しそうにボウルをテーブルに並べ
る。どうやら、先ほどの不思議な香りの何かが入っているらしい。
テーブルの中央には、揚げ物らしいものを盛りつけた皿が。そのボ
ウルを手に取り、同じく嬉しそうに二本の棒を中に突っ込む男。ど
うするのかとまじまじと観察していると、中からやや黒っぽい麺の
182
ようなものが出てくる。それを躊躇いもなく口元に運ぶと、二人と
も豪快な音を立ててすすり上げる。
﹁これこれ!﹂
﹁若いには若かったけど、十分っちゅうたら十分やなあ﹂
﹁うんうん!﹂
そんなことを言いながら、最初からボウルの中に盛られていたら
しい揚げ物をかじる。そのまま一心不乱に豪快にずるずると音を立
ててすすり上げている姿を見ているうちに、少女の空腹感と食欲が
限界を迎える。明らかにテーブルマナー的には下品といえる食べ方
だというのに、あまりにも美味しそうに食べるものだから、見てい
るほうがどんどん我慢できなくなってくる。二人がボウルに直接口
をつけた当たりでついに、少女の意に反して、お腹が可愛らしい音
を立てて空腹を訴える。
﹁ん?﹂
﹁おや?﹂
それほど大きな音ではなかったのだが、それでも先ほどまでの麺
を豪快にすすり上げる音が途絶えた空間には、妙に響き渡ってしま
ったようだ。
﹁おや、起きとる﹂
ヘタレそうな男とばっちり目が合ったところで、観念して食堂に
移動する。どっちにしても、この部屋の大きさと間取りでは、完全
183
に寝静まったときでもなければ、この二人に見つからずに脱出する
のは確実に不可能である。
﹁⋮⋮私たちを、どうする気ですか?﹂
﹁状況がわからへんから、何も決めてへんよ﹂
﹁まあ、まずはご飯、の前に⋮⋮﹂
女のほうが何かをカップに入れて、自分の前に置く。警戒を解く
ためか、中身を見えるようにスプーンですくい、そのまま口に含ん
で見せる。即効性の毒物が入っていないことを証明出来る程度の時
間をおいて、そのまま話を続ける。
﹁とりあえず、いきなり固形物を食べて大丈夫か分かんないし、そ
ば粉にアレルギーがあったらまずいから、それをちょっとだけ飲ん
でみて﹂
アレルギー、という言葉の意味はわからないが、世の中には体質
的に、特定の食べ物を受け付けない人間が少なからずいる事は知っ
ている。多分、彼らが食べていたものが、そう言う食べ物の中でも、
特に拒否反応が激しいものなのだろう。言われた注意事項に一つ頷
き、ほんのりこげ茶色に染まった澄んだ液体を、香ばしい香りに誘
われるように恐る恐るほんの少し口に含む。口の中にほんのりと広
がる豊かな風味に、思わず一気に飲み干しそうになるのを自重し、
念のために頭の中で五十ほど数える。特に体の調子がおかしくなる
こともないため、そのまま少しずつカップの中身を飲み干す。
﹁⋮⋮美味しい﹂
184
﹁そらよかった。おなかの調子はどない?﹂
﹁痛くなったりとかは大丈夫?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁だったら、おそばを茹でるから、ちょっと待ってて﹂
﹁あ、僕がやるわ﹂
どうやらこの男は、初対面の女の子とあまり近い場所には居たく
ないらしい。再び湯を沸かして麺を茹で、暖めなおしたスープらし
きものと一緒にボウルに盛ると、なにやら細かいものをボウルに散
らして、スプーンとフォークを添えてテーブルに載せる。
﹁多分、箸で食べるんは難しいと思うから、それでがんばって食べ
て。そうそう、言うまでもないけど、熱いから気をつけて。後、天
ぷらはおなかの調子が分からへんから、また次の機会に、っちゅう
ことで﹂
﹁お気遣い、感謝します﹂
﹁こっちも、少しでも故郷の味を知ってもらいたいから、気にせん
といて。使った材料がちょっと若かったから、口に合うとええけど﹂
自分からも女性からもかなり距離をとりながら、そんなことを言
って来る。やはり、第一印象のとおり、この二人に不埒を働かれた、
ということはなさそうだ。というか、この男、明らかに女を避けて
いる。だが、そんな観察より今は、目の前の異文化だ。入っている
スープは、先ほど口にした豊かな風味のもの、その原液だろう。あ
185
れなら少なくとも、食えぬほど不味い、などということはありえな
い。期待に躍る胸を押さえ、慎重にフォークをボウルの中に突っ込
み、パスタの要領で適量を絡めとる。
どきどきしながら息を吹きかけて適度に冷まし、期待と不安を胸
に恐る恐る口に運ぶ。少女の語彙では表現しきれないほどの衝撃が
口の中に広がり、空腹という調味料も手伝って至高の味へと導く。
もはや我慢などできない。彼女にできたことは、下品にがっつかな
いようにどうにか自制することだけであった。
上品に、だが一生懸命に黙々とそばを食べ続ける少女を見ながら、
食後のそば湯をちびちびと飲む宏と春菜。日本に居たころは、塩分
の取りすぎとかそう言った事を気にして、ダシを飲み干したりはし
なかったものだが、こっちに来てからはいろいろハードで、むしろ
塩分が足りなくなることも多々あるため、そう言った事は気にしな
くなった。
﹁もうええ?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
名残を惜しむようにダシをスプーンで飲んでいた少女が、完全に
空になったどんぶりを眺めながら頷く。本音を言えばもう少し食べ
たい、という様子ではあるが、起きぬけの暴飲暴食はよろしくない、
186
という事ぐらいは分かっているらしい。食後の感謝の祈りを女神に
捧げると、ため息をひとつついて頭を一つ下げる。
﹁どうやら、気に入ってもらえたみたいだね﹂
﹁それは良かった。明日はまた、ちょっと違うもんを用意するから﹂
春菜と宏の言葉に、一目で分かるほど目を輝かせる少女。余程気
にいったらしい。その表情を見て、明日のメニューについていろい
ろ考える。
﹁そうやなあ。ダシが気にいってくれたんやったら、明日はおでん
とかどないやろう?﹂
﹁あ、いいかも。寒くなってきたら、屋台のメニューにもできるし﹂
﹁屋台、ですか?﹂
﹁うん。冒険者としての仕事の合間に、屋台を出して食べ物を売っ
てるんだ﹂
﹁どんなもんを売ってるか、いうんも明日教えるわ。今目の前にあ
ったら、食べたなるやろ?﹂
宏の言葉に、コクコクと頷く少女。一応育ち盛りであるため、加
減されて出された先ほどの分量では、少しというにはやや厳しい程
度には物足りない。
﹁それにしても、冒険者なのに屋台を出しておられるのですか⋮⋮﹂
187
﹁工房に出来る程度の広さと作りの拠点が欲しくてな。正直、普通
に冒険者としてやっていくと効率悪いから、街の中の仕事を基本に
して一杯こなしながら、屋台で副収入も稼いでるねん﹂
﹁協会の設備を使わせてもらう、って言う手もあるんだけど、いろ
いろとあって目をつけられてるから、出来るだけ他人と関わらない
形で物を作れる環境が欲しいの﹂
目をつけられている、という言葉に顔が引きつる少女。その様子
に気がついた春菜が、苦笑しながらフォローする。
﹁目をつけられてる、って言っても、別に非合法なものを作ったと
か、そういうことじゃないの﹂
﹁では、どうして⋮⋮?﹂
﹁あなたの目利きに期待した上で質問するけど、この部屋、おかし
いと思わなかった?﹂
﹁部屋、ですか⋮⋮?﹂
そう言って、部屋の中を見渡す。空腹を満たすことに意識を持っ
ていかれて忘れかけていたが、よくよく見れば、先ほどの寝室と同
じ種類の違和感がある。自分が食事に使ったテーブルや椅子、室内
を照らしている魔力ランプ、キッチンの機材、それらの大多数が、
シンプルではあるがそうそうお目にかかれないほどの技巧を使って
作られた、素材以外の部分は最高級と言っていい代物なのだ。こん
な家財道具を揃えられるのであれば、普通に工房ぐらい手に入りそ
うな気がする。
188
﹁あの、お二人とも、ずいぶんと立派な家具をお使いになられてい
るのですね﹂
﹁こんな部屋にあるの、おかしいでしょ?﹂
春菜の苦笑しながらの言葉に、どう返事をしていいかが分からな
い少女。そんな彼女の様子に構わず、答えを告げる春菜。
﹁これね、全部自作なんだ。作ったのは私じゃなくて、あっちの東
君だけどね﹂
﹁⋮⋮﹂
あっさりと信じられない事を言われて、思わず絶句する少女。だ
が一方で、それならば目をつけられてもおかしくない、と納得する
自分も居る。これだけの魔道具を作れるのであれば、目をつけられ
るのも当然である。そもそもよく考えれば、この男女のうちのどち
らかは、少女の使った秘術を解除できる能力を持っているのだ。む
しろ、今まで無名である事の方がおかしいだろう。
﹁でまあ、ついつい雑談に走っちゃったけど、とりあえず自己紹介
しよっか﹂
﹁あ、申し訳ありません。これは失礼しました﹂
﹁あんまり固くならんでええよ。僕は、東宏。東が名字で宏が名前
や。冒険者ランクは十級。気楽に好きに呼んだって﹂
﹁藤堂春菜。藤堂が名字で春菜が名前ね。冒険者ランクは同じく十
級。私も、よっぽど変な呼び方じゃない限り、好きに呼んでくれて
189
いいよ﹂
﹁ヒロシ様にハルナ様ですね。私はエアリスと申します﹂
二人が見せてくれた冒険者カードを確認し、嘘をついていないこ
とを理解すると、とりあえず名前だけ告げる。
﹁それで、お二人に確認したいのですが﹂
﹁何かな?﹂
﹁私たちは、一体どういう状況だったのでしょうか?﹂
﹁自分ら、巨大蜘蛛に襲われた事は覚えてるか?﹂
﹁はい﹂
先ほど確認した記憶と一致するその問いかけに、迷うことなく一
つ頷く。
﹁自分ら全員、あの蜘蛛の餌として、繭に閉じ込められとってん﹂
﹁タイミングから言って、もしかしたら間一髪だったかも﹂
﹁そうですか。お二人はなぜ、あの巨大蜘蛛の住処に?﹂
エアリスの質問に対し、顔を見合わせて苦笑する二人。どうでも
いい事だが、宏はエアリスと春菜のいる場所と対角の位置に陣どり、
ずっと立ったままである。正直なところ、事情を理解している春菜
はともかく、エアリスの方は微妙に落ち着かないものを感じている
190
のだが、それを口に出していいかどうかの判断がつかない。
﹁僕らの目的は単純や﹂
﹁服を作るために、糸を取りに行ってたんだ﹂
﹁服、ですか?﹂
﹁うん。屋台の時に着てた服が、いい加減汚れが落ちなくなってき
てて﹂
﹁カレーの汚れに油汚れやからなあ。生半可な洗剤では落ちへんで﹂
カレーというのが何かは分からないが、油汚れが生半可なことで
は落ちない、というのは侍女との雑談で聞いたことがある。とは言
え、そんな理由で蜘蛛の群生地まで出向いたのかと思うと、何とも
言えなくなってしまうエアリス。正直なところ、それぐらい買えば
いいのではないか、と思ってしまうのが人情だが、この二人がそう
言う思考回路でなければ、自分達は今頃蜘蛛の胃袋の中に居た可能
性が高い。今回ばかりは、そのくだらない理由に感謝せざるをえま
い。
﹁こっちからも質問、ええ?﹂
﹁はい﹂
﹁蜘蛛に捕まったんって、八人であっとる?﹂
﹁あっています。あの⋮⋮﹂
191
﹁他の人の事やったら、悪いニュースになるから覚悟して﹂
宏の言葉に、全員が助からなかった事を悟ってうつむくエアリス。
﹁助かったんは、エアリスさんを含めて三人だけや。一緒に寝かせ
とった女の人と、あとごっついおっちゃんが生きてる﹂
﹁レイナは確認していましたが、そうですか、ドーガ卿も助かりま
したか﹂
﹁ごめんな。他の人は、繭から解放した時点で手遅れやった﹂
宏の言葉に、首を左右に振る。正直なところ、残りの五人に関し
ては、自分の術が届いた手ごたえが無かった。多分、繭に閉じ込め
られた時点で、命を落としていたのだろう。
﹁ヒロシ様が謝罪なさることではありません。助かっただけでも、
奇跡なのですから⋮⋮﹂
そう。助かっただけでも奇跡なのだ。それ以上を求めるのは、贅
沢にすぎる。そもそも、助けてもらった上に食事までご馳走になっ
て、何で全員助けてくれなかったのか、などと責めるのは、恥知ら
ずにもほどがある。
だが、それでもエアリスは、こみあげてくるものを抑える事が出
来なかった。
192
﹁貴様ら! 姫様に何をした!﹂
俯き、すすりあげるように涙を流すエアリスを見守っていると、
春菜の部屋からもう一人が飛び出してきた。
﹁レ、レイナ!?﹂
突如飛び込んできた自身の護衛に、思わず涙が止まってしまうエ
アリス。あまりに空気が読めないその行動に、悲しみを忘れるほど
思考が完全に空回りしているのだ。
﹁貴様か!﹂
軽快な動きでテーブルを乗り越え、一挙動で剣を抜き放つと、迷
うそぶりすら見せずに宏を壁に押し付け、首筋に刃を突きつける。
﹁レイナ、やめなさい!﹂
﹁姫様、だまされてはいけません!﹂
明らかに何かを勘違いしているレイナに、どう対処していいのか
わからずにおろおろすることしかできないエアリス。もはや、先ほ
どまでの悲しみなど、完全に飛んでしまっている。
﹁レイナ、ヒロシ様を放しなさい!﹂
﹁いくら姫様のご命令でも、それだけは聞けません!﹂
193
そういって宏をにらみつけると、きつい口調で言葉を次ぐ。
﹁貴様があの男の一味なのは分かっている! 何が目的だ!?﹂
﹁レイナ!﹂
エアリスの叱責をまったく聞き入れず、問答無用で宏を脅しにか
かる。その様子を青ざめながら見つめている春菜。明らかに宏の様
子がおかしい。顔が土気色になり、見て分かるほど全身に鳥肌が浮
かび、目の焦点は合わず、明らかに体が震えている。このままでは、
彼が壊れてしまう。だが、下手に助けに入ると、今度は春菜自身が
宏に余計なプレッシャーを与えてしまう。しかも、その条件をどう
にかしたところで、レイナと呼ばれた女性が納まらない限り、宏に
不必要なダメージを与え続けることになりかねない。
こちらにきてから、東宏は人間とは思えないほどの精神力を有す
るようになった。だが、竜の血を浴びて不死身となったはずのジー
クフリートが、たった一枚の葉っぱのおかげで命を落としたように、
どれほど強靭な精神をしていようと、そう簡単に克服できない心の
傷というのはある。春菜との共同生活でましになってきていたとは
いえ、そもそも一定ラインの社会復帰ができている現状そのものが
奇跡という種類の経験をしている彼にとって、見知らぬ女性に濡れ
衣を着せられ詰め寄られ、何一つ聴く耳を持ってもらえないという
この状況は、過去のトラウマをとことんまで深くえぐる行為なのだ。
﹁しかし、見れば見るほど下劣な顔だな。しかも、黒幕を気取って
いるくせに、この程度の恫喝でここまでおびえすくみ上がるとは情
けない。どうせ単なる女子供と甘く見たのだろうが⋮⋮﹂
194
レイナの言葉は、最後まで続けられることはなかった。恐ろしい
怒気とともに放たれた一撃に、否応なしに対処せねばならなかった
からだ。春菜の鋭すぎる一撃をかろうじて払いのけた次の瞬間、す
さまじい衝撃を受けて部屋の反対側の端まで吹っ飛ばされる。
﹁ごめん、エアリスさん。私今、本気であなた達を助けなきゃよか
った、って思ってる﹂
﹁⋮⋮申し訳ありません、ハルナ様⋮⋮﹂
﹁なぜ謝るのです!?﹂
﹁⋮⋮レイナ。あなた、恩人に対して、どれだけ無礼を重ねれば済
むのです?﹂
顔こそ冷静ながら、全身から壮絶なまでの怒気を放つ春菜と、汚
らわしいものでも見るような視線で自分を眺めるエアリス。二人の
その顔に、背筋に冷たいものが走る。
﹁ひ、姫様! 姫様はだまされているのです! どうせあの男、眠
っているのをいいことに、私たちを慰み者にしたに決まっています
!﹂
﹁宏君のこと、何も知らないくせに勝手なことを言わないで!﹂
後ろで震えながら、焦点の合わない目で虚空を見つめ、胃の中身
をすべてぶちまけて、なにやらぶつぶつうわごとをつぶやいている
宏。そんな彼を背にかばいながら、全身から怒りを発散してレイナ
を追い詰める春菜。いまだ恋愛感情など持ち合わせては居ない相手
だが、それでも共同生活をおくれるほどには気を許し、パートナー
195
として信頼し、親友ぐらいにはなりたい程度には好意を持っている
相手である。そんな人物を思い込みだけでコケにされ、あまつさえ
最悪の犯罪者のように言い募られて我慢できるほど、春菜は温厚で
はない。
﹁素性の知れぬ若い男など、みんな同じに決まっている! 大体、
偶然あの場に居合わせて偶然助けたなど、信じられるわけがないだ
ろう!﹂
﹁いい加減にせんか!﹂
なおも自己を正当化しようとするレイナに、宏の部屋から出てき
たガタイのいいおっさんが雷を落とす。
﹁ド、ドーガ卿!?﹂
﹁さっきから聞いていれば見苦しい! 百歩譲って最初の一手は見
逃すとしても、姫様が引けといったのを聞かぬとは何事か!﹂
﹁で、ですが⋮⋮﹂
﹁第一、この状況でそちらの女性が姫様に刃を向けたら、貴様はど
うするつもりだったのだ!?﹂
ドーガの言葉に返事に詰まる。今の春菜の動きを見ていれば、自
分がカバーするより先にエアリスを貫くぐらい、軽くやってのける
程度の腕前は持っていることは明らかだ。
﹁レイナ、あなたが男性不信気味であることは知っています。私で
すら勘違いしそうになったのですから、あなたが思い込んでも無理
196
はありません﹂
﹁姫様⋮⋮﹂
﹁ですが、引けという命令を無視していいほど、その事情は重くあ
りませんよ﹂
上司二人に散々に怒られ、完全にしおれてしまうレイナ。そんな
彼女を放置して、ドーガが宏と春菜に頭を下げる。
﹁申し訳ない。この件に関して、どのような罰でも甘んじて受けま
しょう﹂
ドーガの態度にひとつため息をつくと、あっさり刃を収める春菜。
﹁次は、ありませんから﹂
﹁まことに申し訳ない﹂
﹁ヒロシ様は、大丈夫なのでしょうか?﹂
﹁分からない。ああなるってわかってたから、できるだけ物理的に
距離をとって行動をしてたんだけど⋮⋮﹂
異常な呼吸をどうにか落ち着かせ、ふらふらと立ち上がろうとし
ては崩れ落ちる宏を、痛ましそうに見守る春菜。
﹁もしかして、ヒロシ様は⋮⋮﹂
﹁相当嫌な目にあってきたみたい。もしかしたら、命の危険にさら
197
されたこともあったのかも﹂
﹁⋮⋮優しそうな方ですから、そこを付け込まれたのかもしれませ
んね﹂
どうにか立ち上がった宏が、自分が吐いた吐瀉物を始末しようと
台所の雑巾を手に取ったあたりで、ドーガがその動きを制する。
﹁わしがやろう﹂
首を左右に振ろうとする宏を強引に押しのけ、無言で汚物の処理
を始める。
﹁東君。着替え、ここにおいて置くから﹂
宏の鞄から取り出した着替えをテーブルの真ん中に置き、少しで
も距離をとるためにエアリスを伴い、レイナを引きずって玄関先ま
で退避する春菜。無言で着替えを取り、ふらふらと自室に戻って着
替えると、何もかもを拒絶するように寝袋を引きずってベランダに
出る宏。
﹁今日は、わしがそちらで眠ろう﹂
﹁ええからほっといて⋮⋮﹂
煤けた背中を見せながらかすれた声でそう言うと、さっさと寝袋
に入って窓を閉め、つっかえ棒を入れて眠りに入る。そんな彼に追
い討ちをかけるように、ポツリポツリと雨が降り始め、瞬く間に結
構な勢いになり始める。その様子を、申し訳なさそうに、痛ましそ
うに見つめる三人と、さすがに自分のやらかしたことを思い知って
198
青ざめるレイナ。命の恩人に無礼を働いた挙句に精神的に壊れる直
前まで追い詰めてしまったこの一件は、冒険者組と助けられた三人
との力関係を明確に決めてしまい、ある面では後々まで徹底的に尾
を引くことになるのであった。
199
第6話
﹁おはようございます⋮⋮?﹂
﹁ん、おはようさん﹂
エアリス達が目を覚ました翌日の早朝。まだ日が昇ってすぐぐら
いの時刻。長く眠っていたためか、いつもよりも早く目が覚めてし
まったエアリスは、すでに起きて何やら作業をしている宏の姿に驚
きながら、おずおずとあいさつをする。
﹁ヒロシ様、お体の方は大丈夫ですか?﹂
﹁それは僕が自分らにする質問やと思うけどなあ﹂
エアリスの言葉に苦笑しながらも、作業する手を止めない宏。昨
夜の状況があまりにも痛々しかったため、正直まともに接してもら
えるかどうかそのものが心配だったエアリスだが、宏の様子を見る
限りでは、すでに昨夜の事は過去の事として整理されているようで
ある。正直、驚くほど強靭な精神だ。
﹁昨日は本当に申し訳ありませんでした﹂
﹁気にせんでもええで。エアリスさんが悪い訳やあらへんし、昨日
の状況って、客観的に見て誤解されてもしゃあないしな﹂
﹁ですが⋮⋮﹂
200
﹁正直、早いとこ忘れたいから、申し訳ない思ってくれるんやった
ら、これ以上蒸し返すんはやめてくれる?﹂
宏の言葉に申し訳なさそうな顔のまま頷き、とりあえず今はこれ
以上相手の傷口をえぐらないように注意する。
﹁あの、ハルナ様は?﹂
気持ちを切り替え、次に気になった事を質問する。昨日の晩、春
菜はここで眠っていたはずなのだが、その姿がどこにも見当たらな
い。
﹁朝市に仕入れしに行っとる。基本的にかなりの量を買うから、普
段は大体二人で行くんやけど、今日はちょっと作っとかなあかんも
んがあるからな。悪いとは思ったけど、ちょっと一人で行ってもら
ってんねん﹂
﹁そうですか。その、作らなければいけない物って、それですか?﹂
﹁そうやで﹂
﹁どのような物なのでしょうか?﹂
春菜に力仕事を任せてまで、わざわざ今作らなければいけない物。
一体どんな物なのかが気になって、思わず質問が口から洩れる。
﹁外見をごまかす道具。三人とも、そこそこ顔は売れてるんやろ?﹂
﹁⋮⋮そうですね。私はともかく、あの二人はそうなりますね﹂
201
﹁一応、協会の方からも、自分らの面倒見てるっちゅうんは隠しと
いてくれって言われとるから、とりあえず外見ぐらいは誤魔化しと
こうか、ってな﹂
﹁⋮⋮御迷惑をおかけします﹂
﹁乗りかかった船やから、気にせんでもええで。起きたからいうて
ほっぽり出すんも気分悪いしな﹂
昨日あんな事があったと言うのに、気のいい返事を返してくる宏。
その態度に、却って申し訳なさが募る。なんだかんだいって、自分
と話をするときに身構えているところが、本当に申し訳ない。正直、
追い出してくれたほうがどれほど気が楽か、などと自分本位なこと
を考えてしまう。
﹁そう言えば、ドーガ卿とレイナの姿も見えませんが、どこにいる
かご存知ですか?﹂
﹁ドーガのおっちゃんは、何ぞ昨日貸しとった部屋で誰かと連絡取
っとる。レイナさんは同じ部屋で、昨日の件で罰みたいなもんをく
らっとる﹂
﹁そ、そうですか⋮⋮﹂
微妙に引いた感じの宏の言葉に、いったい何をやっているのだろ
うかと疑問に思いながらも頷くエアリス。宏の引きっぷりは、明ら
かに女性恐怖症のそれとは違う。そんなこんなを話しているうちに、
入口の扉が開いて、誰かが入ってくる。
﹁ただいま﹂
202
﹁お帰り。ご苦労さん﹂
﹁いろいろよさげな食材があったから、予定外の物も仕入れてきた
よ﹂
﹁了解。折角醤油と鰹節があるんやし、後で一緒によさげな和食系
のメニュー考えよか﹂
宏の言葉に頷き、屋台の仕込みに必要なものだけを鞄から取り出
す。それを見て、テーブルの上を片づけて掃除する宏。
﹁アクセの方は出来たの?﹂
﹁拘ろう、思えばまだまだ手は入れられるんやけどな。まあ、見栄
えを気にせなあかんもんでもないから、別にこれでええんちゃうか。
最悪、内服薬も作ってあるし﹂
そう言って、現状の作品を見せる宏。確かに日ごろ宏が作ってい
るものと比較すれば手抜きではあるが、普通に完成品として扱って
も問題ない程度の出来だ。後は、どこまで手を入れるかではあるが、
見える場所につけて歩く必要がある訳でもない以上は、そこまで精
巧に仕上げる必要もあるまい。
﹁朝ごはん、どうする?﹂
﹁仕込みついでに、屋台のやつでええんちゃう? みんな気になっ
とるみたいやし﹂
﹁了解﹂
203
そこで話を終え、さっくりテーブルの上を片づけて調理用の機材
を取り出し、手際よく仕込みを始める。とは言え、カレーパンのカ
レーは毎日煮込みながら継ぎ足しているし、生地も昨日の朝に仕込
んだ在庫が十分にある。ぶっちゃけ、今朝の仕込みに関しては、今
後仕込みの時間が取れなくなる可能性を考えた上での保険のような
ものである。腐敗防止のエンチャントは、こういうとき便利だ。
昨日のことで、宏と春菜との間にまで亀裂が生じていたら、と心
配していたエアリスは、自然に宏がプレッシャーを受けないように
距離をとりつつ、ごく普通に会話をしている二人の様子にほっとす
る。一カ月程度とはいえ、女性恐怖症の男と共同生活してトラブル
を起こさなかったと言う実績は、昨日のことぐらいは跳ね除けられ
る程度の絆を結んでいたようだ。
﹁申し訳ないのだが、昨日の沙汰をいただきたいので、勝手な頼み
だが、食事の準備は後にしていただいてよろしいか?﹂
朝食の準備に入ろうとしたところで、レイナを伴い部屋から出て
きたドーガが割り込む。後ろに従ったレイナの表情は、申し訳なさ
と後悔で彩られており、昨日の猪武者振りはどこにも見受けられな
い。
﹁出来たら、蒸し返さんといて欲しいんやけど⋮⋮﹂
﹁そういう、ご飯が不味くなる話は正直したくないんだけど⋮⋮﹂
﹁だが、このまま朝食を済ませてしまえば、おそらくそのあたりは
なあなあになってしまうじゃろう? 一応罰を与えておいたが、そ
れでよしとするには、ちいとばかし昨日のことは問題が大きすぎる﹂
204
あえてなあなあで済まそうとしたことを見抜かれ、思わずため息
を漏らす宏と春菜。正直なところ、二人とも人一人を断罪するのが
重い、と思ってしまう程度には日本人だ。一時の感情で徹底的にや
ってしまって、後にいろいろ引きずるのは勘弁願いたい。自分たち
の要望であまり厳しい罰を与えて、逆に恨みを買って八つ当たりで
もされれば目も当てられない。温い罰だと侮られるかもしれないが、
どうせこちらは身軽な冒険者の身。次調子に乗ってやらかせば、そ
のとき容赦なく切り捨てればいいのだ。
ぶっちゃけた話、宏からすれば、少なくとも反省の色が見え、本
気で悔いている様子のレイナは、中学時代の連中と比較すれば相当
ましな部類に入る。世の中には、やらかすだけやらかした上で追い
討ちをかけるような連中も珍しくない中、ドーガから制裁を受けた
とはいえ、逆恨みすることなく自分の非を認めているだけ、まだ救
いようがある。世の中、こういう状況で逆切れする人間など、珍し
くもない。
そして、春菜の方は、被害者の宏がすでに気にしていないことを
わざわざ穿り返して、自分の感情だけで追い討ちをかけるような趣
味はない。感情のままに何かを言う権利は、被害者にだけあるのだ。
関係者とはいえ、第三者が感情論で口を挟むと、碌なことにはなら
ない。納得いかない部分がないわけではないが、一度次はないとい
って矛を収めた以上、自分から蒸し返すのは自身のルールに反する。
﹁わしらだけで裁定を済ませればいい話、と言えばそれまでかもし
れんが、身内をかばっていい加減な始末をしたと思われては問題じ
ゃ。それに、被害者も交えてきちっとけじめをつけんことには、い
つまでも余計なことが燻りかねん。身勝手な言い分だと分かっては
おるが、どうかしばし付き合って欲しい﹂
205
﹁⋮⋮けじめをつけないと、話が進まない、か﹂
﹁そういうことじゃ﹂
申し訳なさそうに、だが譲るつもりはないドーガの様子を見て、
ため息交じりにうなずく二人。
﹁さて、常日頃から頭に血が上りやすい傾向があるとはいえ、普段
なら姫様の命を聞かずにああも暴走するほど無能でもない。そのお
前が、なぜ命令違反を繰り返し、思い込みだけであそこまで突っ走
ったのだ?﹂
﹁完全に私情が原因です。騎士失格どころか、人としてすら最低で
ある事を十分に自覚しております﹂
﹁私情、と言うが、単に男が嫌いと言うだけでああも突っ走るよう
な人間を任命するほど、騎士と言う地位は安くはないつもりじゃ。
言い辛かろうが、詳しく話せ﹂
ドーガの言葉に一つ頭を下げ、宏と春菜に向かってもう一度頭を
下げるレイナ。そして、自分の中で理由を整理し、可能な限り正確
に伝えようとない頭を絞って言葉を選ぶ。
﹁事情としては簡単で、かつ非常に情けない話です。例の事件が起
こる直前に、マズラックの私兵どもとくだらないトラブルがありま
して、そのことを引きずっていたところにあの事件です。目が覚め
たときに無力感で冷静さを欠き、そこに姫様が泣いている姿を見せ
付けられたため、まったく抑えが利かなくなりました﹂
206
そのときのことを思い出して頭に血が上りそうになり、必死にな
って冷静さを取りつくろった結果、表情に反して過度に淡々とした
口調になる。
﹁ふむ。まあ、私兵どもとのトラブル、というのがどういうものか
は大体予想が付くから置いておこう。だが、それが理由と言うには
ちと弱いぞ﹂
﹁これまた申し訳ない話ですが、マズラックの私兵を束ねる男が、
その⋮⋮﹂
どうにも言いづらそうに口ごもり、だが誤魔化すことも出来ない
と思い、思い切って口を開く。なお、マズラックの私兵、というの
は要するに、マズラック伯爵と言う人物の私設騎士団のことだ。私
設とはいえ一応公式に認められている存在ゆえ、王城への出入りも
許可は受けている。それなりに長い歴史を誇る集団だが、ここ二代
ほどは領主とセットで堕落し、いまや私兵扱いである。
﹁本当に申し訳ない話ですが、その男が、ヒロシ殿とよく似ており
まして⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ふむ。言われてみれば確かに、人柄その他はともかく、顔立
ちや雰囲気には、多少近いものがあるのう。普通なら見間違えるほ
どではないが、頭に血が上っている状況では同じ顔だと判断しても
無理は無いか﹂
レイナの言い分を、一定の範囲で認めるドーガ。レイナが話題に
上げている男は実際のところ、彼女が言うようなことを平気でやら
かしかねない人種だ。それと勘違いしたのであれば、性格上突っ走
るのも無理はない。しかも、レイナ相手に散々いろいろやらかした
207
相手であり、彼女の神経を逆なですると言う点ではこの上なく適任
と言える男だったのである。ちなみに、ドーガたちがうまく隔離し
ていたため、エアリスはその男のことを一切知らない。
要するに、双方にとって運がなかったのである。
﹁あの下劣な男が姫様を泣かせたのかと思い、一気に頭に血が上っ
て⋮⋮﹂
﹁もうええ﹂
悔しさと申し訳なさが綯い交ぜになった難しい表情で、血を吐く
ような口調でそこまでを告げる。その言葉をさえぎり、それ以上聞
く必要はない、と首を左右に振る宏。
﹁じゃが、間近で見ればまったくの別人だとすぐ気が付こうが⋮⋮、
頭に血が上っている人間には、言うだけ無駄か﹂
情けないのう、と言う言葉に、更に身を縮こまらせるレイナ。
﹁まあ、人間、どうしても相性悪い相手もおるし、視野狭窄なんざ、
起こすときはどうやっても起こすしなあ﹂
﹁フォローは結構。いかに成人して間もないとはいえ、その程度の
ことで状況判断を狂わせるような騎士など、百害あって一利なし﹂
ドーガの厳しい言葉に、当然とばかりにうなずくレイナ。今まで
の話を聞く限り、多分彼女は猪突猛進型の癖に潔癖すぎるのだろう。
だから、一度こうと決めたらなかなか軌道修正が出来ないのだ。
208
﹁なあ、一つ聞いてええ?﹂
﹁何かな?﹂
﹁成人して間もない、っちゅうてるけど、レイナさんって幾つなん
?﹂
﹁四カ月ほど前に十五になったところだ。その様子では姫様の年齢
も勘違いしておろうからついでに教えておく。姫様は十歳じゃ﹂
エアリスとレイナの実年齢を聞いて驚くとともに、ある意味納得
もする。二十過ぎだと思っていたからどうしようもない人物と言う
印象があったが、自分たちより年下となると話は別だ。十五歳など、
日本で言えば中学三年生。確かに日本人よりは相当しっかりしてい
るが、やはり大人とまでは言えない。この感じでは、エアリスの指
示に散々反抗したのも、若さと猪突猛進的な性格が手伝って、引く
に引けなくなっただけなのだろう。一国の騎士としてそれはどうな
のか、とは思わなくもないが、そこはもう、エアリスとドーガに任
せるしかない。
エアリスにしても、しっかりした受け答えと見た目の印象でかな
り上に見ていたが、実年齢を聞いてよく観察してみると、確かにそ
れぐらいの年齢かもしれない。昨日はそこまで気にしていなかった
が、助けたときの印象に比べて、背丈もかなり小さい。それでも百
五十センチ代半ばぐらいはあるのだから、年齢から考えれば発育が
いい、というのは変わらないのだが。
﹁まあ、話は大体分かったわ。何ちゅうか、昨日のことは起こるべ
くして起こった感じやな﹂
209
﹁うん。納得できるかどうかはともかく、避けようがなかったのは
よく分かったよ﹂
話を聞き終え、そう結論を出す日本人二人。春菜のほうにはどう
してもしっくり来ない部分があるようだが、プレッシャーを与える
原因になりたくないという自分勝手な理由で判断を微妙に日和った
と言う負い目があるので、強く言う気はない。
﹁じゃが、それで済ませるつもりもなければ、そういうわけにもい
かんと思うておる﹂
﹁そこらへんは、僕らはノータッチや。人事的な話はそっちが勝手
にやって﹂
宏の言葉に一つうなずき、エアリスのほうを見るドーガ。
﹁残念ながら、私には一切の裁量権がありません。希望を言うこと
ぐらいは許されますが、私がいちいち口を挟むより、ドーガ卿が判
断するべきでしょう﹂
﹁分かりました。ですが、残念ながら現状、解雇をしても意味が無
い。当面は今日の罰を続けるとして、正式な沙汰は本来の立場に無
事戻れたら、と言うことにさせていただきたい。勝手なことを言っ
ておる自覚はあるが、残念ながら、反逆者扱いされていてもおかし
くない現状では、実効性のある処分を行うことが出来ぬ。それに、
人員の面でも、援護を得られるかどうかが不透明ゆえ、個人的な伝
手で切れる手札だけでどうにかせねばならん。その状況で、愚かと
はいえ十分な戦力を持つこやつを手放すのは難しい。必ず処分は行
うので、今はこれで納得してくだされ﹂
210
﹁まあ、そうやろうなあ﹂
﹁とりあえず、次からはちゃんと二人が手綱を握って、本人も暴走
をしないように努力してくれればいいから﹂
春菜の言葉に、真剣な顔でうなずく主従三人。更に再びレイナが
地面に頭を擦り付けんばかりの謝罪をすることで、この話は終わり
となった。
﹁まあ、そこら辺は置いといて。そもそもなんで捕まっとったんか、
事情説明してもらってええ?﹂
ようやく昨日の後始末が、最低限のラインとはいえ一応のけりが
付き、微妙に弛緩した空気が再び引き締まる。どうやら宏達の方も、
厄介事に関わる覚悟を決めたらしい。異世界に飛ばされて一カ月と
少し。高校生二人は、初めて大規模なクエストに挑戦する事になっ
たのであった。
﹁⋮⋮すまんが、さすがにまだ全てを話していいかどうか、判断が
出来ておらぬ。本来なら助けられた身の上である以上、全てを話す
べきなのじゃが、軽々しく口に出来ん事柄もある。折角協力を申し
出ていただきながら勝手な事を言うが、もうしばし、時間をくれん
か?﹂
211
﹁やろうなあ、と思うわ﹂
﹁断わっておくが、お主らが敵だとは、思っておらんぞ?﹂
﹁それはそれで、ちょっとばかし油断しすぎとちゃう?﹂
﹁三日もあったのだ。敵であるなら、どうとでもできただろう?﹂
ドーガの言葉に、思わず苦笑してしまう宏と春菜。確かに、三日
あればどうとでもできる。そして、どうとでもされた後ではどうに
もならない。
﹁それに、こういってはなんだがの。お主らに騙されて裏切られる
ようでは、終わりじゃろうて﹂
﹁うわ、なにその説得力﹂
ヘタレオーラ全開の宏と、警戒心は十分なくせに性格的にはお人
よしが服を着て歩いているような人種の春菜。こいつらに裏切られ
るようでは、確かに終わりだろう。何しろこいつらときたら、ここ
一カ月ほどの経験があるおかげで、辛うじて自分の命と言う面では
十分に警戒している様子はうかがえるが、それ以外については恐ろ
しく平和ボケしている。エアリスの魔法を解除してのけたことだけ
でも、自分達がどれほど警戒されるか、と言う部分を全く理解して
いない。このダイニングに転がっている家具や道具類を自作した、
と言う言葉が持つ意味を分かっていれば、自分達の目の前で魔道具
など作ったりはしないだろう。
ドーガが二人を全面的に信用できないのは、むしろそこらへんの
無防備さによる面が大きい。価値観の違い、と言えばそれまでなの
212
だろうが、それで済ますには問題が大きいにもほどがある。話の感
じでは、どうにかこの手の物を売って生計を立てる、などと言う迂
闊な真似はしていないようだが、自作の道具で屋台をやっているの
では、あまり変わらない気がしなくもない。
﹁まあ、それならそれで、今後の方針を先決めとこか﹂
﹁そうだね。まず、エアリスさん達は、一応正体を隠しておかなき
ゃいけないんだよね?﹂
﹁そうなりますね﹂
﹁じゃあ、偽名を用意しておいた方がいいよね﹂
春菜の言葉に頷くドーガとエアリス。レイナだけが、どこか不満
そうである。
﹁さて、どんな名前がいいかな?﹂
﹁あんまり本名から離れてると、呼ばれた時に反応できへんから⋮
⋮。そうやな、エアリスさんは、エル、でどない?﹂
﹁可愛い名前ですね。それでいきましょう﹂
﹁ほんなら、それで。おっちゃんはどうするかな?﹂
﹁昔使った名前でよければ、ドジソンと言うのがあるが?﹂
﹁何のためにそんな偽名を用意しとったんかは、あえて聞かん事に
するわ﹂
213
宏のなんとなく引いたような突っ込みに、思わず噴き出すドーガ。
ぶっちゃけた話、彼ほど実力を持っていると、妙な仕事を押し付け
られる事もあるのだ。その時、本名でやるのはいろいろまずいため、
こういう珍妙な偽名を使う必要があったのである。
﹁まあ、どこでどうバレるか分かったもんやないし、再利用はやめ
て、ドル、辺りにしとこか﹂
﹁そうじゃな。ならば、わしは今からドルじゃ﹂
﹁なんだか、私の名前と響きが似ていますね﹂
﹁御嫌でしたかの?﹂
﹁いいえ。まるであなたの孫になったようで、それはそれで楽しい
ですわ﹂
喜々として偽名を名乗る二人に、思わず眉をひそめるレイナ。そ
の様子に気がつきながらも、あえて無視して話を進める一同。
﹁んじゃ、後はレイナさんやけど、何ぞ案は?﹂
﹁響きが近いんだったら、リーナでいいんじゃない?﹂
﹁と言う事やけど、どない?﹂
﹁⋮⋮偽りの名を名乗ること自体、気が進まないが⋮⋮﹂
﹁状況が状況や。諦めて﹂
214
宏の言葉に、不承不承うなずくレイナ。その様子に、一抹の不安
を抱かなくもない一同。彼女の反応で、一つだけ方針を固める。
﹁ほな、これからの事やけど、エルは基本的におっちゃんか藤堂さ
んと一緒に行動する事。基本的に、リーナは絶対にエルと二人で一
緒、いうんはあかんで﹂
早速偽名で呼び捨てる宏に、眉をひそめるのも一瞬の事。さらっ
ととんでもない事を言われて思わず頭に血が上る。
﹁何故だ!?﹂
﹁だって自分、絶対人前でエルの事、姫様って呼ぶやろう?﹂
宏の指摘に、思わず返答に詰まるレイナ。自分で言うのもなんだ
が、間違いなくそう言う失敗をやらかす自信がある。
﹁んでま、今日これからの事やけど﹂
﹁今日は、私が仕事に出るよ。交渉事も結構いろいろあるし﹂
宏をここに残していくことに対する葛藤を微妙にのぞかせながら、
それでも当初の予定通りに春菜は仕事に出て行くことを決める。心
配は心配だが、二人ともこの狭い部屋にいても意味がない。宏を外
に出すほうがいいか、とも考えたが、不特定多数の中に昨日のよう
な人種が混ざっていれば、それこそ目も当てられない。リスク比較
するのなら、ドーガと言うブレーキ役がいるこちらに宏を置いてお
くほうがまだましだろう。
215
﹁頼むわ。僕はここで、作れるもんいろいろ用意しとく。何かあっ
たら、カードで連絡よろしく﹂
﹁分かってる﹂
﹁朝と昼はどないする?﹂
﹁用意して行くと遅くなるから、出先で適当に食べる﹂
宏の質問に返事を返すと、レイピアと荷物を持って、さっさと部
屋を出ていく。その姿を見送った後、朝食のためにあれこれ準備を
始める。それなりに好評だったカレーパンでの食事を終えると、手
待ちを埋めるためにいろいろ作るための準備を始める。
﹁何を始めるのかな?﹂
﹁まあ、いろいろ、な﹂
そういいながら、よく分からない作業を続けている。感じから言
って、日用品の類らしい。
﹁こちらに来てから、そう言う事ばかり研究しているのか?﹂
﹁ほんまはもっと優先せなあかん事もあるんやけど、機材の用意や
ら場所の確保やら材料の問題で、そっち方面はちょっと手待ちやね
ん。で、時間無駄にするんもあれやし、優先せなあかん事柄もどう
せ長丁場になるやろうから、ある意味切実な食事周りとか肌のトラ
ブル対策とか、そっちをいろいろ研究してる訳や﹂
﹁ふむ。優先せねばならん事、と言うやつを聞いてもいいか?﹂
216
﹁国に帰る方法を探さなあかんねん。どうせ自分ら、僕らがどうい
う立場か、そろそろ分かっとんやろ?﹂
﹁知られざる大陸からの客人、ですよね?﹂
エアリスの言葉に、一つ頷く宏。丁度いい機会なので、聞きたか
った事を聞く事に。
﹁お二人は、こちらに来て一カ月ほどになるのですよね?﹂
﹁うん﹂
﹁国の保護を受けないのは、どうしてですか?﹂
﹁これは藤堂さんも同意見やってんけど、なんちゅうか、厄介事の
においがしてな﹂
案の定やろ? と言う宏の言葉に、否定できずにうつむいてしま
うエアリス。その様子に苦笑しながら、とりあえずカレーパンの準
備に入る。
﹁とりあえず、今回に関してはよしと言う事にしといてや。僕らが
フリーやったから、自分らの救助に成功したんやし﹂
﹁そうですね。ただ、そもそものきっかけが、このカレーパンの調
理に問題があったから、と言うのが微妙に釈然としない部分はあり
ますが⋮⋮﹂
﹁どういう事かの?﹂
217
﹁ん? ああ。このカレーパンな、作る過程で服に染みがつきやす
くてなあ。これがまた、ものすごい頑固な汚れで、洗ってもそう簡
単に落ちへんから、糸集めて汚れに強い服作ろうか、って話になっ
て、手に入れやすい蜘蛛の糸を回収しに行っとってん﹂
何度聞いてもあれな理由に、思わず微妙な顔をしてしまうドーガ
とレイナ。普通なら、作業用の服を買えばいいだけの話に聞こえる
が、どうせこのヘタレ男の事だ。作った方が安くいいものが作れる、
とかそんな余計な事を考えたのだろう。ファーレーンに限らず、大
抵の場合自作が基本、と言う面もあってか、確かに服と言うのは買
うと高い。が、蜘蛛の糸と言う事は絹なのだから、その作った糸を
売って作業服を買えば、普通に十着は買えるのではないか、と思う
のは気のせいか。
﹁まあ、考えてみたら、仕込みする時とか屋台でパン揚げる時とか
に着るんに、わざわざ蜘蛛のシルクをつこた服作るとか、ものすご
い贅沢な話ではあるけどなあ﹂
﹁⋮⋮それで、服は用意出来たのか?﹂
﹁いんや。織機を作らなあかんけど、ここやとちっと狭いから、ま
だ織機の材料集めたところで止まっとる﹂
材料は集めたのか、と突っ込みそうになって、突っ込むと負けた
ような気分になり口を噤むドーガ。多彩な能力を無駄遣いしている
風情が強いこの二人について、どうにも先行き不安なものを感じる
エアリス達であった。
218
物事と言うのは、進み始めると猛烈な勢いで話が進んでしまう事
が多い。その法則にもれず、今現在面倒事の真っただ中だと言うの
に、外で仕事中だった春菜が、さらに別口の厄介事を持ち込んでき
た。
﹃東君、聞こえる?﹄
﹃どないしたん?﹄
﹃メリザさんのところでトラブル発生。多分私一人の手に負えない
から、手を借りたいんだけど大丈夫そう?﹄
﹃ちっとおっちゃんに話してみるわ﹄
春菜の口調にただならぬものを感じ、表情を引き締める。ちくわ
を焼いていた作業を止め、焼き上がったものをどけてからドーガの
方に向き直る。なお、メリザというのは依頼で知り合いになった商
人で、ほとんどが雑用任務だが、最近いろいろ贔屓にしてもらって
いる。
﹁おっちゃん、ちっとええかな?﹂
﹁なにかな?﹂
﹁ちょっと藤堂さんがな、出先でトラブルに巻き込まれたらしいね
219
ん。一人で手に負えへん可能性が高い、ちゅう話やから、ちょい出
かけたいけどええ?﹂
﹁儂らの事なら気にせんでもええぞ。飯も食わせてもらったし、留
守番が出来んほど耄碌しておるわけでもない﹂
﹁ほな、悪いけどここで大人しくしとってな。果物とかは勝手に食
べとってええから﹂
そういい置いて、いろいろ道具類が入った鞄と手斧を持って部屋
を飛び出していく宏。因みに昼食は事態がどう動くか分からないた
め、カレー風味のキャベツが入った関西風ホットドッグで済ませて
いる。言うまでもなく、自家製のソーセージとケチャップが大好評
だった。
﹃どこで合流する?﹄
﹃東門でお願い。一度門の外に出ないといけないから﹄
﹃了解﹄
春菜の誘導に従い、錬金術で作った使い捨ての増幅アイテムを大
量に使い潰し、一気に東門に向けて駆け抜ける。春菜の口調では、
あまりまごまごしている余裕はなさそうだし、運河や乗り合い馬車
を使うにしても、ちょうどいいものがあるとは限らない。しかも、
日本じゃあるまいし、あの手の乗り物は定時運行などしていない。
転移ゲートは中央広場まで出ないと使えないため、どっちが早いか
は微妙なところだ。ならば、余計なコストをかけないのは、冒険者
としての基本である。
220
出来るだけ早く移動するために、裏道を駆使して走る。裏道を走
るのは、対角に移動した方が距離が短くて済む、と言う分かりやす
い理由以外にも、大通りは人が多く、こんなスピードで走るのは危
険だと言うのもある。
﹁藤堂さん!﹂
﹁東君、早かったね﹂
﹁そらまあ、全速力で来たから﹂
そう言って、重ね掛けが効く種類の移動速度増幅アイテムを取り
出して見せる。それを見て、納得したように一つ頷く春菜。宏のス
タミナなら、運河を使って二十分はかかる距離でも、普通に最後ま
でトップスピードを維持できるだろう。ネックとなる冒険者として
は遅い足は、増幅アイテムで十分フォローできる。ついでに言えば、
冒険者としては足が遅いだけで、一般人と比べれば倍以上は速い。
﹁で、何があったん?﹂
﹁薬草を取りに行ったルミナちゃんが、戻ってきてないんだって﹂
﹁出ていったんはいつ?﹂
﹁今朝早くに、だって。冒険者や他の子たちと一緒に出て、トラブ
ルがあって逃げて来て、戻ってきたら何人か居なかったそうなの﹂
﹁そら拙いな。居らんのは何人?﹂
﹁分かってるのは三人。全部女の子﹂
221
外に出る手続きをしながら、必要な情報を交換する。因みにファ
ーレーンでは、商店の子供などが薬草や木の実などを取りに出るの
は、それほど珍しい事ではない。薬の材料や日持ちする食材などは
冒険者協会が常に採集依頼を出しているが、余程急ぎの場合か遠出
しないと手に入らない物でもない限り、基本的に協会から買うと質
の割に高くつくため、普通はその手の依頼をこなす冒険者たちと一
緒に採りに行くのだ。複数の街を股にかけるような商会でもない限
り、かなり規模の大きな店の子供でも、結構普通に採集には出る。
なお、この時、採集依頼をこなす冒険者は大抵の場合、駆け出し
よりは経験を積んだ人物が多い。と言うより、全くの駆け出しは、
職員のテストに合格するまで、あまり外に出る依頼を回してもらえ
ないのである。つまり、こういう時一緒に行く冒険者と言うのは、
基本的にそれなりの戦闘能力を持ち、ある程度目配りがきく人間な
のだ。今回も、採集関係でそれなりに実績を積んだ冒険者たちだっ
た。
つまり、そのレベルの冒険者でも手に負えないトラブルが発生し
た、と言う事である。
﹁因みに、トラブルって?﹂
﹁もう少し山の方にいる、ちょっと強めのモンスターが出てきたん
だって﹂
﹁また、きな臭い話やな﹂
﹁うん。最近、あまりよろしくない噂も聞いてるし﹂
222
﹁子供の行方不明が増えてる、言うんはアンさんから聞いてる。今
回も、その絡みかもしれへんな﹂
春菜が先回りして聞いてあった、冒険者がモンスターと殴り合い
をする羽目になった場所に向かいながら、いろいろ意見交換を進め
る。宏達の他にも何人か、メリザがひいきにしている冒険者が捜索
に出ている。こういう依頼は報酬が無いも同然になる事も珍しくな
いが、嫌がって受けないと言う冒険者はあまりいない。むしろ、ひ
いきにしてもらっている相手の緊急事態の場合、進んで報酬なしで
動く冒険者の方が多いぐらいだ。
因みに宏達も何度か、ルミナと一緒に採集をしており、質のいい
素材を取ってくるからという理由で、メリザにはかなりひいきにし
てもらっている。最近では、協会の買取値よりもメリザに卸した方
が高く売れるため、もっぱら討伐系の仕事で集めた素材はこちらに
売っている。その関係で直接名指しで依頼を受けた事も結構あり、
それなり以上には親しい相手である。
なお、この二人が一番多く受けている仕事は、道具の修理・改造、
店の補修と言った技術のいる雑用系で、戦闘能力と言う点に関して
は、装備のせいもあってあまりあてにはされていない。今回も、普
通の冒険者より目端が利くから、ぐらいの理由で話を持ちかけられ
たのだ。何しろ、状況的に人手は一人でも多く欲しい。
﹁⋮⋮藤堂さん﹂
交戦場所まであと半分、と言うところで、唐突に立ち止まった宏
が春菜を呼ぶ。
﹁どうしたの?﹂
223
﹁あそこ、不自然に乱れとる﹂
宏が指さした先を、眉をひそめながら観察する春菜。確かに茂み
が少々乱れてはいるが、言われてみればそんな気がしなくもない、
と言う程度だ。気のせいと言われればそれでかたづくかもしれない、
と言うレベルである。
﹁不自然、なのかな?﹂
﹁少なくとも、僕の目にはそう映る﹂
スキル構成と能力値の差か、こういう事についての目利きは、宏
の方が大幅に優れている。とは言え、自分達だけで単独行動をとる
のはまずい。何人か冒険者を呼ぶ事にする。
﹁気になる場所って、ここか?﹂
﹁うん。ちょっと不自然に見えるねん﹂
﹁⋮⋮当り、かもな﹂
分類上はシーフやスカウトと呼ばれるタイプの、追跡や罠の発見・
解除、カギ開けなど戦闘には絡まないが、冒険者をする上で重要に
なる能力を重点的に鍛えている青年が、険しい顔で答える。
﹁まじかよ?﹂
﹁足跡が残ってる。それも、割と新しい奴だ。ついでに言うと、わ
ざわざ偽装してる﹂
224
そのせいで却って不自然になってるんだがな、と言うシーフの言
葉に、一同の表情が硬くなる。
﹁もしかして、結構やばいんじゃないか?﹂
﹁ああ。だが、下手に全員で行っても、行方不明の子供を人質に取
られかねない。それに、空振りになる可能性もある。こっちは俺と
こいつらでちょっと調べてくるから、お前らは念のために、他の場
所も調べてくれ﹂
﹁そいつらで大丈夫か?﹂
﹁ああ。確かハルナは補助魔法が使えるし、採集をメインにやって
るからか、こいつら結構気配を消すのが上手い。それに場合によっ
ちゃ奇襲をかける事になる。下手に鎧を着てるよりは、これぐらい
軽装の方が悟られにくい﹂
シーフの言葉に、思わず苦笑する宏と春菜。確かに無駄な戦闘を
避けるために、好戦的なモンスターの後ろを気配を消して物音をた
てずに移動することが多い二人は、カギ開けや罠の解除が出来ない
のが不思議なぐらい、気配を消すのが上手かったりする。しかも二
人とも、と言うよりフェアリーテイル・クロニクルのプレイヤーキ
ャラは大抵、クエストで必要になるため遮音結界も覚えている。こ
ういった隠密活動には、ことのほか適性が高かったりするのだ。
﹁とりあえず遮音結界を張って移動するけど、人が増えると見つか
りやすくなるから、少人数の方がありがたいのは確か。何かあった
時、連絡は取れるんでしょ?﹂
225
﹁ああ。居場所の伝達手段もある﹂
﹁だったら、三人で行こう。火力も防御力も、とりあえずどうにか
は出来るから。ちょっと嫌な予感がするし、あまりまごついてるの
は多分まずいよ﹂
髪をさっさとまとめた春菜の言葉に、真剣な顔で頷く他の冒険者
たち。方針が決まったらとっとと動くのが鉄則、とばかりに分担を
割り当てて散っていく。
﹁﹃透明化﹄があるけど、どないする?﹂
﹁それ、お互いに見えるの?﹂
﹁見せたい相手にだけ、自分の姿が見えるようにできる。ただ、余
りモンのやっすい素材つこてるから、効果時間はお察しや﹂
﹁だったら、予想通りだった時まで取っておこう﹂
﹁了解﹂
﹁他に何かある?﹂
﹁鞄ごとありったけ持って来とるから、数はともかく種類はいろい
ろあるで。移動しながらざっと説明するわ﹂
宏の言葉に頷く春菜とシーフ。今までの一カ月、ただ料理と調味
料の研究しかしていない訳ではない。ウルス近郊で手に入るもので、
なにが作れるのかは一通り確認してあるし、作れるものはそれなり
の在庫を用意してあるのだ。とにかく嫌な予感しかしない現状、使
226
える物の確認にそれほど時間をかけるのは、多分拙い。三人は仮パ
ーティを組み、出来るだけ音をたてないように打ち合わせをしなが
みずはしみお
ら、迅速に足跡を追いかけていくのであった。
かづきたつや
香月達也と水橋澪は、ついていなかった。何しろ、フェアリーテ
イル・クロニクルを遊んでいたら突然画面をエラーが覆い尽くし、
気が付いたら縛り上げられていたのだから。
﹁参ったもんだな、こりゃ﹂
﹁まいった﹂
手かせ足かせをつけられ、方々からさらってきたと思われる人た
ちと一緒に牢屋に放り込まれた二人は、投げやりに現状について、
ほとんど出ていないと言っていい程度の声量で話し合っていた。長
い事水も与えられていないため、声がかすれている。
﹁達兄、これってお約束のあれかな?﹂
﹁お約束のあれだろうなあ﹂
﹁そうなると、達兄が殺されずに済んだのは、むしろラッキー?﹂
﹁嫌な事言うなよ、お前⋮⋮﹂
227
澪の言葉に、げんなりした表情を隠そうともしない達也。自分で
も思っていた事をはっきり言葉にされてしまい、かなりへこんでし
まう。
達也も澪も、自分達がフェアリーテイル・クロニクルもしくはそ
れに酷似した世界に来ている事を察している。そう考えるに至った
理由はいろいろあるが、一番大きいのは脱出できないかとあれこれ
やっている時に、達也が魔法を使えた事だ。
﹁で、だ。この状況があれだとして、どうにかできる当てはあるか
?﹂
﹁スキルは使えそうだけど、素手じゃ無理。達兄は?﹂
﹁魔法は使えたが、連中に直接当てるとかぞっとしない話だからな
あ﹂
﹁だよね﹂
達也の言葉に、ため息しか出ない澪。そもそも、攻撃魔法なんて
ものをこんなところで使ったら、周りの人たちがどうなるか分かっ
たものではない。
﹁それにしても、いろいろ複雑な気分﹂
﹁ん?﹂
﹁さっき連れて行かれた女の人、多分⋮⋮﹂
228
﹁あ∼、そうだろうなあ﹂
考えれば考えるほど胸糞悪くなる話に、己の無力を痛感して俯く
しかない二人。先ほど、自分達をここに放り込んだ人相の悪い連中
が、十代後半と思われる、ものすごく可愛い訳でも美人な訳でもな
いが、比較的豊満な肢体をした女の子を連れだして行った。この中
で一番可愛い女性でも綺麗な女性でもないところを見ると、彼女は
そう言う扱いを受けても商品価値が下がらない、と判断されている
のだろう。
﹁ボクが選ばれなかったのって、肉がついてないから、だよね?﹂
﹁だろうなあ﹂
そう言いながら、再びこの従妹の姿を観察する。何度見ても、ベ
ッドで点滴を受けていた時と変わらない外見だ。介助してもらえば
辛うじて、多少は口を使って物を食べる事が出来たためか、一応胸
元にはわずかながら女性らしい膨らみが見て取れるが、半身不随ゆ
え寝たきりなので、その体には筋肉も脂肪もほとんどついていない。
普通に整った可愛い顔はしているが、これだけ痩せていると、さす
がに魅力的と言うのは結構難しいものがある。寝たきり故に髪もそ
れほどちゃんと手入れはされておらず、伸びるにまかせてぼさぼさ
になっている。
名簿だけの話とはいえ、今年中学に進学したばかりという年を考
えれば、体が治ってちゃんと食べれば、背丈や胸に関してはまだま
だ育つ可能性は十分にある。あるのだが、当人は割と諦めているの
も知っている。流石に、事故と難病のダブルパンチとくれば、気休
めを言うのもむなしい。
229
﹁もし健康だったら、どうなってたのかな?﹂
﹁あんまり考えるな。考えたところで、碌な結論にならないぞ﹂
﹁うん。でも、おなか減ったね⋮⋮﹂
﹁もう、二日は何も食ってないからなあ⋮⋮﹂
自分達を捕まえた連中には、どうやら食事を与えると言う発想は
無いらしい。商品を飢えさせるとかどうなんだ、と思わなくもない
が、どうせこいつらの事だ。食ったら出すから掃除が面倒くさい、
とか、すぐに売るんだから餌代がもったいない、とかそういうレベ
ルの発想だろう。死んだところで、すぐに新しい商品を補充できる、
という考えもありそうだ。
二人はまだ二日だが、その前から閉じ込められている人間も居る。
はっきり言って、他の人間は騒ぐ元気どころか、体を動かすエネル
ギーすら枯渇している感じである。普通、人間が全く飲まず食わず
で耐えられるのが七十二時間程度、と言う事実を考えれば、身動き
が取れないほど消耗していて当然である。元気なのは、さっき連れ
て来られてここに閉じ込められた、三人の女の子ぐらいだ。
﹁どうやらまだ生きているようだな、ウジ虫ども﹂
空腹を感じて口を閉ざし、せめて食料だけでも強奪出来ないかと
物騒な事を考えていると、親玉らしい強面のおっさんが、サドッ気
たっぷりの表情で牢屋の中に声をかけてきた。無論、誰も反応など
しない。長くいる人間は生命維持に精いっぱいで、まともな反応な
ど返せるわけがない。新しく連れて来られた女の子たちは、この異
様な雰囲気とおっさんの凶悪な気配に飲まれ、怯えて震えながら縮
230
こまっている。
﹁お前らの新しい飼い主の方々をこれから呼んでくる。が、流石に
全員は飼えんから、売れ残りは処分する。死にたくなかったら、せ
いぜい気にいられるように頑張るんだな﹂
そう言って、何人か手下を連れて出ていく親玉らしい男。牢屋か
ら出ていく時、最後の一人がわざわざ希望を砕くようなセリフを残
していく。
﹁そうそう。間違っても脱走とか考えんじゃねえぞ。ここは森の中
だから、周りはモンスターがうじゃうじゃいる。それに、腕利きを
何人か残していくから、丸腰のウジ虫どもがどうこうできると思わ
ねえことだ。ま、どうせそんな元気もないだろうがね﹂
その言葉を聞いて、こいつらが食事を与えなかった最後の理由に
気がつく。仮にこちらに戦闘能力があったところで、飲まず食わず
で二日も三日も放置されれば、戦うことなどできはしないだろう。
﹁まいったね⋮⋮﹂
﹁ん⋮⋮﹂
男たちが出て行った先を見つめながら、力なく囁き合う二人。正
直なところ、真っ先にとまでは言わないが、自分達は高確率で処分
される側に回るだろう。せめて多少でも食べていれば、一矢報いる
ための体力や気力もわこうものだが、この状況では流石に無理だ。
人間、飲まず食わずと言うのがここまで精神力を削るとは思いもよ
らなかった。
231
﹁こんなひもじい夢は願い下げだが、後はこれが夢だったという落
ちに期待するしかねえか⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ん?﹂
﹁どうした?﹂
何かを感じ取ったらしい澪の反応に、怪訝な顔をして質問をぶつ
ける達也。だが、その質問に澪が返事を返す前に、二人にとって聞
き覚えのある声が、呆れたような怒りをこらえるような口調で声を
かけてきた。
﹁全く、ここまで予想通りとか、勘弁してほしいなあ﹂
明らかに何度も聞いた声。二人とも、その声の主にはいろいろ世
話になっている。もっとも、澪はともかく達也の場合、同じぐらい
いろいろ面倒を見ているため、どちらかと言えばギブアンドテイク、
と言う間柄ではある。声が聞こえてきた位置を考えると、もう姿は
見えていないといけないのに、どう見ても誰も居ない。
﹁⋮⋮もしかして、ヒロか?﹂
﹁⋮⋮師匠?﹂
﹁ん? その呼び名を知ってる、ちゅう事は、プレイヤーの人?﹂
その台詞とともに、ヘタレそうな青年の姿が現れる。髪と瞳の色
が違ったり、身長が記憶より若干高かったりはするが、まぎれもな
くその姿は生産廃人のヒロである。隣には、金髪に青い瞳の、もの
すごく綺麗でグラマーな女性が、それなりの距離を置いて立ってい
232
る。
︵もしかしたら、助かるかもしれないな︶
ヒロの事はよく知っている。防具らしい防具は身につけていない
が、たかが盗賊ぐらいで怪我をするほど、軟弱な肉体はしていない。
もっとも、そもそも達也達にしても、最初から縛られているという
最悪の条件だったからこうなっただけで、連中からは何の脅威も感
じていない。人質なしでかつ人間相手に攻撃する事を割り切ってい
れば、最初に持っていたらしいナイフ一本でも、余裕で勝てる自信
がある。
﹁東君、そういう話は一旦後回し。まずはこの人たちをどうするか、
考えよう﹂
となりにいる女性の声に頷き、辺りを見渡すヒロ。どうやら、女
性の方もそれなり以上のレベルはあるらしい。助かるかもしれない、
が、助かる、という確信に変わるのを感じながら、二人の邪魔をし
ないように、とりあえず黙っておくことにする達也と澪であった。
﹁東君、そういう話は一旦後回し。まずはこの人たちをどうするか、
考えよう﹂
人質の中にいる誰かと、後でも間に合う種類の情報交換をしそう
233
な雰囲気の宏を、とりあえず釘をさして牽制する春菜。この人数を
あの規模の集団から救助するのは、かなりあれこれ準備が必要なは
ずである。まずはそっちの段取りを優先しないと、後で後悔するこ
とになる。
﹁とは言うても、全員連れて逃げるんは、今のこっちの人数では明
らかに無理があるで。転送石一個で運べる人数でもあらへんし、三
つしかないから何人か荷物扱いしても、半分ぐらいしか連れ出され
へん﹂
﹁ジェイドさんが救援を呼んでくれたみたいだから、それまでこっ
ちで時間を稼ぐしかないと思う﹂
﹁となると、籠城できるように準備せなあかんな﹂
そう言って、辺りを見渡して鞄を漁り始める宏。準備、などと言
っても、罠を仕掛けるような能力は持っていない。なお、ジェイド
というのは、一緒に行動していた別パーティの盗賊である。現在別
行動で、他に人質はいないか、戦力はどんなものか、などを調べて
回っている。
﹁師匠、ここから出してくれたら、罠はボクが仕掛ける﹂
﹁さよか。ほな、とりあえずここを開けやんとなあ﹂
鍵開けは出来へんねんけどなあ、などとぼやきながら、牢の扉を
どうにかできないか観察をしていると、春菜が声をかけてくる。
﹁念のために遮音結界を維持したまま消音結界を張ってくれたら、
私が鍵を切り落とすよ﹂
234
﹁了解。任すわ﹂
春菜の提案に頷き、言われた通りに消音結界を張る宏。魔力の流
れから結界の準備が終わったのを確認すると、気合一閃、正確に鍵
を切り落とす春菜。なお、遮音結界は、特定の範囲から音が漏れな
いようにするもので、消音結界は一定範囲内の音を消すものである。
どちらも操作できる音の大きさが力量に左右されるので、今回は念
のために両方を重ねて張ったのである。
﹁ちょっとじっとしててな﹂
牢をあけ、フェアリーテイル・クロニクルのプレイヤーらしい二
人の手かせと足かせを斧で叩き壊す。プレイヤーであるならプレイ
ヤーキャラの能力を持っている確率が高い。冒険者向けのスキル構
成でなくても、基本攻撃スキルは必ず持っているし、パラメーター
は確実に一般人より高い。上手くいけば戦力になるし、そうでなく
ても自衛ぐらいはできるはずだ。そもそも、こちらには見覚えは無
いが、向こうはこちらの事を知っている。ならば間違いなく冒険者
よりのスキル構成だから、自衛ぐらいはしてくれるはず。
そう期待しての行動だが、その期待は微妙に裏切られる。
﹁うう⋮⋮、立ち上がれない⋮⋮﹂
﹁腹ペコが足に来てるな、おい⋮⋮﹂
その言葉に、周囲を観察しなおす。言われてみれば、こういう牢
屋にありがちな排せつ物のにおいが、ここではあまりしない。多分、
水も食糧もほとんど与えられていないのだろう。もっと言うなら、
235
暴行を加えられた跡が見受けられる人間もいる。もっとも、そうい
う道具がないでもないのだが。
﹁捕まってから、何も食わせてもらえてないんだよ⋮⋮﹂
﹁ごめん、師匠⋮⋮。本気で足腰が立たない⋮⋮﹂
空腹による貧血でまともに立ち上がれない様子の二人にため息を
つき、鞄の中からとりあえず水とパンを取り出して差し出す。因み
に、立ち上がれない主な理由は確かに空腹と脱水症状だが、長い間
同じ姿勢で居たことによる筋肉の硬直と足の痺れも、体を動かせな
い原因についてかなりの割合を占めているのはここだけの話だ。
﹁他の人のご飯は、もう少し待って。今手元にある分やと、全員に
回らへん﹂
﹁その代わり、食べた以上は働いてね﹂
そう言いながら、とりあえず水だけはありったけ取り出す二人。
見た感じ、脱水症状がひどい人間も少なくなかったからだ。鞄から
出てきた樽とコップを見て、目を丸くする人質たち。流石にこんな
ものを鞄に入れて持ち歩く人間は、そんなに多くは無い。
﹁さて、そっちの二人は、何が出来るん?﹂
﹁そうだな。お前さんがヒロなら、俺はオババと名乗れば大体のと
ころは分かるんじゃないか?﹂
﹁ボクはミック﹂
236
﹁⋮⋮オババにミックって、マジかい﹂
自己紹介を聞いて唖然とし、思わずうめくように呟く宏。女の子
のほうが師匠師匠と呼んでいたから、自称も含めて三人いる弟子の
うち一人がネナベだったのだろう、と言うのは分かったのだが、よ
りにもよって一番でかくてイケメンで、そのくせ男くさい外見のキ
ャラがネナベだったとは予想外だった。逆に、オババは最初からネ
カマだとは思っていた。思っていたが、中の人がこんな色男だとは
想像もできなかった。何しろ、ゲーム内では自称のとおり魔法使い
の老婆と言う外見で、しかもかなり気合の入ったロールプレイをや
っていたのだから。
﹁まあ、ええわ。ミックや、言うんやったら、確かに罠は何とかな
るな。そろそろ動けそうか?﹂
とりあえず、状況を考えてとっとと気分を入れ替える。
﹁⋮⋮ごめん、まだちょっときつい﹂
﹁確か、依頼で作ったポーションのあまりがあったはずやけど、そ
れでいける?﹂
﹁分からん。何分、いろいろ初めての状況だからな﹂
達也の言葉に、それもそうかとうなずいて、とりあえず保管して
あったあまりもののポーション類を渡す。それを受け取って一気に
飲み干し、体の状態を確認する二人。
﹁何とか動けそう﹂
237
﹁自信はないが、やるだけやってみるか⋮⋮﹂
その言葉にうなずくと、とりあえずありあわせのもので罠やバリ
ケードを準備していく。作業の最中に、入り口と奥から人の足音が
聞こえてくる。もっとも、感覚の能力値がかなり高い宏と澪にしか
聞こえていないのだが。
﹁誰か来た。ミックとオババは中に入って待機しとって。足音の数
から言うて、入り口から来る人間の方が多いみたいやから、藤堂さ
んは奥お願い﹂
﹁了解﹂
さっくり役割分担を決めて、初めての対人戦に備える二人。二人
が構えると同時に、凄まじい音を立てて洞窟の奥の壁が崩れる。崩
れた先には、オーガかトロールと呼んだ方がいいほどの体格をした、
スキンヘッドの筋肉の塊が。手にはこん棒と、ぼろぼろになって気
絶しているジェイドを持っている。ジェイドをそこら辺に投げ捨て
たスキンヘッドは、春菜の姿を見るとにやりと獰猛な笑みを浮かべ、
威嚇するようにこん棒を振り回す。その威嚇を受けて、通路ではな
く壁から現れると言う予想外の登場に唖然としていた二人が、気を
取り直して戦闘態勢に入る。
﹁藤堂さん!﹂
﹁大丈夫、任せて!﹂
明らかにボス級だと思われる相手を見て、いつものように前衛と
して抑え込もうとする宏を制する春菜。正直、このタイプは春菜に
とって、最もやりやすい相手だ。
238
﹁せやな。こっちを空けるんはまずそうや﹂
通路を下ってきた人数を見て、舌打ち交じりに呟き、いつものよ
うに震えながら盗賊一味と相対する。こうして、予想外のスタート
で、二人の初めての対人戦は幕を開けたのであった。
振り下ろされたこん棒を受け流し、カウンターであえて浅めに切
りつける。鋼のような筋肉を持つスキンヘッドにとっては、正直か
すり傷でしかない程度のダメージではあるが、少なくとも魔法剣な
どを使わなくとも、普通にダメージが通ると言う事は確定した。も
う一つ言うなら、宏のように見ている目の前で傷が治る、と言うほ
どの回復力も無いようだ。その情報をもとに、相手の攻撃一撃に対
して、二回攻撃を入れて体力を削りに入る春菜。
獣のような唸り声とともに、轟音を立てて振り回されるこん棒は、
普通の人間が食らえば一撃でミンチになるだろう。だが、かなりの
大振りなだけに、見切るのはそれほど難しくない。気絶しているジ
ェイドがいるため、避ける方向を気をつけなければいけないが、逆
に言えばそれだけの話である。
﹁はっ! てい!﹂
こん棒を持つ腕を二度、浅く切り裂く。あまり深く切ると、筋肉
239
によって固定されかねない。なので、突きも表面をかすめるように
するのが基本だ。それに、下手な攻撃をして、殺してしまうのは正
直避けたい。持久戦になる可能性が高いので、下手に大技を使うの
もNGである。
右からの振り下ろし。軽いステップで回避。胸板とわき腹を刻む。
水平方向へのスイングをくぐりぬけ、さっき切った場所をもう一度、
正確に切りつける。左腕のパンチ。腕を切るようにして逸らす。そ
のまま三度斬りつけて相手の懐から脱出する。華麗に、可憐に、舞
うように相手を翻弄し、少しずつダメージを蓄積させていく。
スキンヘッドにとっては、吹けば飛ぶような小娘の予想以上の抵
抗が面白くないらしい。獣のごとく吠えながら、力いっぱいこん棒
を振り下ろし、あっさり春菜に受け流されて悔しげに唸る。当てれ
ば即座にへし折れるはずのレイピアが、何度打ち合っても手ごたえ
なく流される。パワー馬鹿の攻撃と侮れぬほど鋭い一撃は、だが春
菜の体をかすめる事すらしない。
春菜の技量が無ければ、たとえ宏特製のレイピアといえども、せ
いぜい三度目の受け流しで折られていたであろう。たとえ春菜の技
量でも、並の武器ならとうの昔に折れていた事は疑う余地が無い。
スキンヘッドは、その程度の実力は持ち合わせている。たとえ騎士
といえども、それなりの実力が無ければ、普通に返り討ちにあいか
ねないぐらいには、この大男は強い。
ただ今回の場合、相手が悪かった。
︵そろそろ調整した方がよさそう︶
何度目かのヒットアンドアウェイの後、あえて大きく距離を取り、
240
全体の位置関係を再度確認する。位置関係を冷静に判断し、手早く
誘導先を決める。逃げ回りながらの攻撃ゆえに、地味に微妙な位置
に追い込まれつつある。が、とりあえずジェイドに流れ弾が飛ぶ心
配はなくなった。あとは、足場が悪くなってきている現在の交戦位
置から、牢屋の正面ぐらいまで誘導すれば、細かい事を気にせずに
戦闘を続行できる。無論、牢屋を背にするのはまずい。相手の攻撃
が空振りし、地面を叩いた時に飛び散る瓦礫は、至近距離なら十分
ダメージを受ける威力があるのだ。
入り口方面で何度か、魔法が発動した時特有の魔力の流れを感じ
ているが、宏を信用して無理やり頭をクールダウンする。最悪、オ
ババとミックがある程度の支援はするだろう、という読みもあるし、
こっちが下手を打てばそれこそ宏に余計な負担をかける。こういう
時は焦らず、自分の役割をしっかり果たすのが、パーティ全体に対
する最大の支援になる。
﹁ふん!﹂
﹁甘い!﹂
馬鹿の一つ覚えのような振り下ろしを綺麗に受け流し、相手が自
分を見失うように誘導する。そのまま流れるように背後に回って、
特殊攻撃スキル・ブレイクヒットを放つ。相手の姿勢を大きく崩す
事を目的とした、スマッシュの亜種ともいえる攻撃を受け、前のめ
りにつんのめるスキンヘッド。予定通り丁度いい位置に下がった頭
に、横からスマッシュを叩き込んで吹っ飛ばす。
一見便利に見えるブレイクヒットだが、余程大型の相手でもなけ
ればほぼ確実にダウンが取れるスマッシュと違い、適当に入れたと
ころで、良くて一瞬動きを止める程度の性能しか持ち合わせていな
241
い。相手の姿勢を確実に崩そうと思うのなら、それなりにダメージ
を与えた上で、タイミングを合わせて叩き込まないと効果が出ない。
このタイミングを合わせて、と言うのが意外と難しく、スマッシュ
やその発展スキルで普通にダウンを取れる事もあって、使い手はそ
れほど多くない。
だが、スマッシュ以上に出が早く、ほとんど動いていないような
モーションでも効果を出せる技であるため、使いこなせれば極めて
効果的な、プレイヤーの技量がもろに出る技であり、人型や獣型を
相手にするとき、春菜が好んで使う技の一つだ。ピアラノーク戦で
使わなかったのは、昆虫系や甲殻類との戦闘経験が乏しかった事が
大きい。特に蜘蛛のような重心が低く、安定した足回りを持った相
手に対しては、どういう入れ方をすれば崩せるのかが分からないの
で、いかな春菜といえども効果的な使用は難しい。宏と言う前衛が
いる以上、わざわざ無理してソロでやるような真似をする必要が無
かった、と言う事もあって、普通に攻撃スキルに絞ったのである。
﹁シャドウセイバー!﹂
HPよりもスタミナとMPを大きく削る類の、闇属性の魔法剣で
切りつける。特殊効果としてスタン、混乱、恐怖、バインドと言う
四種類の状態異常が付与される、搦め手から攻めるタイプに御用達
の上級魔法剣だ。言うまでもなく、昆虫系のボス属性には、バイン
ド以外はほぼ通用しない上、バインドも効果が薄い。
﹁とりあえず、念のためにもう一発﹂
白目をむいて倒れたスキンヘッドに、似たような種類の特殊攻撃
を、念のためにもう一発叩きこむ春菜。ビクン、と痙攣した後、完
全に動かなくなるスキンヘッド。一応生存を確認した後、鞄の中に
242
入っているワイヤーで縛り上げる。何でそんなものを持ち歩いてい
るのか、と言うと、荷台に木材を固定したり、てこの原理を応用し
て物をつりさげるのに使ったり、大工仕事の時に仮固定をしたりと、
雑用任務で地味に使い道が多いからだったりする。因みに、宏の指
導を受けて春菜が作り、エンチャントまで施したものだ。
﹁これでよし、と﹂
絶対動けない状態になっている事を確認し、宏の支援に向かおう
として、入り口から濃厚な血の臭いが漂ってきている事に気がつく。
﹁東君!?﹂
﹁大丈夫や、僕の血やあらへん!﹂
例によって震えながら斧を振るいつつ、震える声で春菜に返事を
返す。見ると、入り口付近に矢で胸を貫かれた盗賊らしき男の死体
と、その胸元から流れ出した大量の血だまりが。
それ以外でも、宏の足元はなかなかごちゃごちゃした状態になっ
ている。何しろ、ナイフだの矢だの石ころだのが大量に転がり、へ
し折られた剣の切っ先が散乱し、背中に大量に矢が刺さり全身が焼
け焦げた死体︵これは五体満足だ︶が倒れている。宏が通せんぼし
ている通路の奥を見ると、吹っ飛ばされて白目をむいているのが一
人と、吹っ飛ばされた時に巻き込まれたらしいのが三人、完全に足
止めするような形で倒れており、そのうちの一人は、首があらぬ方
向に向いている。
︵⋮⋮もしかして!?︶
243
状況から察するに、多分矢が刺さっている死体以外は、宏が殺し
てしまったのだろう。正確には、弾き飛ばした拍子に首の骨を折っ
たか、当りどころが悪くて死んでしまった、と言ったところか。状
況が状況だけに、宏が人を殺した、と言う事に対してはこれと言っ
てショックを受けたりはしないが、昨日の今日だ。その事が後に響
かないか、と言う事は心配である。何にしても、少しでも彼の負担
を減らさないと、と考えて移動しようとしたとき、宏がそれを制す
る。
﹁こんでええ!﹂
﹁でも!﹂
﹁大丈夫! 援軍が来た!﹂
﹁正解!﹂
見知らぬ女性の声が響き、それと同時に断末魔の叫びが二つ上が
る。その混乱に乗じて、ボスと思わしきえらそうな男と、奴隷商だ
と思われる太った男をスマッシュでふっ飛ばし、顎の先を大剣の柄
で殴って気絶させる。
﹁はい、お疲れ﹂
﹁遅くなって済まない﹂
生き残りを全員捕縛した、いろんな意味ですらりとした体型の、
まあ普通と言っていい容姿の女性がねぎらいの声をかけてくる。顔
立ちや髪と瞳の色を見るに、どうやら日本人らしい。多分、彼女も
プレイヤーなのだろう。後ろからは、驚いた事に姿を変えたレイナ
244
も出てくる。
﹁お疲れさん、助かったわ﹂
﹁別に、あたしがこなくても、あと五分もあればあっちの彼女と二
人で制圧してたっしょ?﹂
﹁本当に、遅くなってしまって申し訳ない﹂
﹁いや、来てくれてほんまに助かった。おかげで、藤堂さんが人殺
しするリスクは避けられたから、な﹂
宏の言葉に、神妙な顔で頷く二人。どうやら、彼女達も春菜には
あまり人殺しをしてほしくないらしい。レイナからすれば、昨日の
今日だから、宏にも人殺しなどして欲しくなかったところであり、
それだけでも悔いても悔やみきれない。
﹁しかし、なんちゅうかなあ⋮⋮﹂
青い顔のまま、どうにか震えを押さえた宏が、複雑な感情ととも
に言葉を吐き出す。
﹁何よ?﹂
﹁多分、モンスター仕留めたり解体したりするんにためらいが無い
んと同じ理由なんやろうけど、人殺したことに、まったくショック
が無いことが、正直言うてものすごいショックや⋮⋮﹂
﹁あ∼、あたしだけじゃないんだ、それ⋮⋮﹂
245
﹁お姉さんも、そうなん?﹂
﹁うん。まあ、日本じゃないんだし、悪い事してたやつらに攻撃さ
れて抵抗しただけなんだから、誰もアンタを責めたりしないわよ﹂
軽く一つうなずくと、気休めみたいな言葉をかけながら宏の方に
近寄ってくる女性。反射的に距離をとる宏。その様子を見て、不機
嫌そうに眉をひそめる。
﹁ちょっと、何よ?﹂
﹁あ∼、申し訳ない。僕な、正直に言うて、女の人がものすごい怖
いねん﹂
その言葉に、なんともいえない顔でため息を漏らす女性。
﹁リーナに聞いてたけど、相当ねえ。エア、じゃなかった、エルの
護衛って観点ではすごく不安になる回答、ありがとう﹂
﹁は? その名前が出てくるっていうことは⋮⋮?﹂
﹁あたしは溝口真琴。七級冒険者でドルおじさんの手札の一枚。よ
ろしくね﹂
そういってにっこり笑いかけてくる真琴に対し、どう反応するか、
と微妙に悩ましい態度をとってしまう宏と春菜であった。なお、こ
の後ウルスに戻った春菜が風呂を済ませた後、残り時間で何事もな
かったかのようにカレーパン屋台を開始したことに対し、真琴があ
きれたような顔で
246
﹁道中あんだけあのヘタレのことを心配してたくせに、平然とカレ
ーパンを売ってるんじゃない!﹂
と突っ込んだのは、また別の話である。
247
第6話︵後書き︶
今はこれが精一杯。
と言うか、これ以上は作風的に無理です。
後、きれいに落ちてしまったのでここで言い訳と言うかフォロー。
ラスト春菜さんが普通だったのは、宏の様子を観察した上で、普段
どおりのままでいるのが一番いいと判断したからです。
248
第7話
﹁練って混ぜて、まぜるんば。混ぜて混ぜて、まぜるんば﹂
おやつの時間。今日はどんなものを出してくれるのだろうかとわ
くわくしていたエアリスの前に出てきたのはいくつかの怪しげな粉
と水に、魔女の扮装をした胡散臭い老婆であった。
﹁まぜればまぜれば、まぜるんば﹂
ぽかんとしているエアリスの目の前で、妙な歌を歌いながら手際
よく粉を水で溶いて混ぜ合わせ、練り上げていく老婆。練っていく
うちにゲル状の微妙な何かが出来上がっていく。ところどころ妙な
効果音が入っているところが、とことんまで怪しい。
﹁混ぜればおいしい、まぜるんば!﹂
妙に気合の入った宣言とともに、混ざりきって完全にゲル状の何
かになったそれを口に運ぶ。正直なところ、疑問と言うか突っ込み
どころが多すぎて、どこから手をつけていいのか分からないのだ。
そもそも、この目の前の老婆は何者なのか。今の寸劇に何か意味が
あるのか。第一、あの怪しい色合いの何かは、本当に食べて大丈夫
なのか。
疑問は山ほどあり、突っ込みたい事はいくらでもあるが、育ちが
良くて基本的に大人しい性格のエアリスには、突っ込みを入れてい
いのかどうか、判断がつかなかった。
249
﹁何やってんのよ、あんた達⋮⋮﹂
困惑のあまりフリーズしていたエアリスを救ったのは、外出から
戻ってきた真琴であった。おやつを用意してあると聞いて、折角だ
から御相伴にあずかろうと入ってきたら、丁度オババが練っている
途中だったのである。因みに、昨夜からずっと真琴と一緒に行動し
ているレイナは、何とも言えない光景に反応を決めかねている。
﹁何って、まぜるんばやけど?﹂
謎の効果音を入れていた宏が、しれっとそんな返事を返す。ちな
みにまぜるんばとは、知育菓子と呼ばれる化学反応を利用した怪し
げなお菓子のうち、彼らの世界で一番ポピュラーなものである。そ
の食感はムースに近いもので、見た目ほど怪しいものではないのだ
が、謎の粉末を混ぜ合わせるというそのシステムから、とかく不信
感をもたれがちな代物でもある。
﹁それは分かってんのよ。なんでまぜるんばなのよ? しかもわざ
わざ達也にそんな扮装させて﹂
﹁そんなもん、日本の伝統的な知育菓子やからに決まってるやん。
やっぱり日本を知る上で、一度はこのネタを見とかなあかんで﹂
﹁答えになってない⋮⋮﹂
何をどうすればそれが回答だと認められると思ったのか、小一時
間ほど問い詰めたくなる宏の答え。それを聞いて、思わず疲れたよ
うに椅子に座りこむ真琴。その真琴の前に、同じように怪しげな粉
を並べていく宏。ちなみに言うまでもないが、達也がやっていたの
は、まぜるんばのCMの扮装である。彼が扮していた老婆はまぜる
250
ん婆という名前があり、粉を混ぜて練るのが趣味というよく分から
ない設定が存在する。
﹁⋮⋮何が悲しゅうて、ウルスでまぜるんばを食べなきゃいけない
のよ⋮⋮﹂
﹁溝口さん、そろそろ日本の食べモンが恋しい頃やろ?﹂
﹁真琴でいいって。って言うか、溝口って呼びすてにしたり、フル
ネームで呼んだり、虎大砲とか言ったりしたらマジですりつぶすか
らね﹂
彼女は思春期の頃、とある格闘ゲームの復刻版が発売された事に
より、名前を散々からかわれた経験がある。その時のトラウマから、
自分の名字とフルネームが嫌いだったりする。
﹁あと、まぜるんばは別に恋しくない。と言うか、こんな体に悪そ
うなもの、エルに食べさせようとしないの﹂
﹁誤解があるようやけど、体に悪いもんは一切入ってないで﹂
真琴の突っ込みに反論した宏の言葉に、驚いたように視線を集中
させる真琴と老婆こと達也。その態度に苦笑しながら、からくりを
説明する宏。
﹁これな、牛乳の凝固反応を利用してるねん。で、今回はやらへん
かったけど、色変わるバージョンのは、要するにリトマス紙の反応
をつこてるんよ。天然の色素の中には酸性もしくはアルカリ性に反
応して、リトマス紙みたいに色が変わる奴は珍しくないんやで﹂
251
﹁そうなのか?﹂
﹁うん。代表的なのが紫キャベツの色素やな。これなんか、教科書
に出てくるほどメジャーやし。あと確か、アジサイの色なんかもそ
うや。あれは土壌が酸性かアルカリ性かで花、っちゅうか、がくの
色が変わる。他に、なんやったかは忘れたけどなんかの果物の果汁
をつこたゼリーに、レモンの果汁をたらして混ぜて色を変える、っ
ちゅう食べ方をしとったで。そもそも、食材自体、必ずしも中性や
ないし﹂
﹁にしても、わざわざこんな微妙なものを苦労して再現しなくても
⋮⋮﹂
﹁ええやん。これぐらいの遊び心は、人生渡っていくのに必要やで﹂
宏の言葉に、苦い顔をする真琴。宏の場合、と言うか、宏と春菜
の場合、その遊び心とやらで無制限に脱線しそうな雰囲気があるの
が問題なのだ。特に宏は関西人故か、女子の会話とはまた違った形
で脱線するタイプである。その上、厄介な事にこの男、世界でも指
折りの職人であり、物資面では完全にこいつに牛耳られている。幾
分劣るとはいえ澪もトップクラスの生産能力を持ってはいるが、残
念ながらこのヘタレの弟子である以上、こいつが暴走した時に止め
てくれるとは思えない。
﹁⋮⋮わわ、わわわ﹂
反論する言葉に悩んでいた真琴の耳に、なんだか妙に感動したよ
うなエアリスの声が届く。
﹁⋮⋮エル、素直なのは美徳だけど、もうちょっと警戒しなさいよ﹂
252
目をきらきらと輝かせて粉を練っているエアリスに、疲れたよう
に突っ込みを入れる真琴。正直、突っ込みの手が足りない。と言う
か、達也がボケの方に回ったのが、予想外だったのだ。昨日話し合
いをした時には、すぐに脱線しかかる宏達に突っ込みを入れて修正
する側に回っていたので、正直油断していた。普段はどちらかと言
うと突っ込み側のエアリスも、宏達が作る食べ物が絡むとボケに回
る傾向があるのが、頭が痛いところである。
﹁達也も、わざわざ悪乗りして付き合わないでよ﹂
﹁いや、オババだったらこれをやらにゃ、と言われてつい、な﹂
達也の返答に、何度目か分からないため息を漏らす真琴。言われ
てみればこの男、ゲーム時代は気合の入ったロールプレイをやって
いた人種だ。流石にこの種のネタをちらつかされれば、食いつかず
にはいられないのだろう。
﹁何ぞ、えらい不本意そうやな﹂
﹁あんた達が気合入れて稼いでたのって、工房が欲しかったからで
しょ?﹂
﹁せやで﹂
﹁なのに、折角手に入れた工房で、真っ先に作ったのがまぜるんば
って、どうなのよ⋮⋮﹂
﹁人生、そんな事もあるって﹂
253
真琴と距離があるからか、やけに余裕たっぷりにのらりくらりと
かわす宏。いっそ距離を詰めてやろうかと思うものの、この程度の
事で、わざわざ相手の致命的な弱点をえぐるのも趣味が悪い。そも
そも、レイナがそれをやらかしてからまだそんなに時間が経ってい
ない。自分までやらかしてしまえば、何のためにレイナの寝床を引
き受けたのか、分かったものではない。
そういうところを見透かして悪ふざけをするあたり、割と余裕と
いうべきか、やることがヘタレくさいというべきか。なんにせよ難
儀な男ではある。
﹁もういいわ⋮⋮。今日のところは、これで我慢するわよ⋮⋮﹂
そう言って、粉を混ぜ合わせる作業に入る真琴。戸惑いながらも
教わった作業手順を踏み、面妖な反応を示す生地に唸るレイナ。練
ってる最中に帰ってきた春菜と澪が、
﹁わあ、懐かしい!﹂
﹁ボク、これやった事無かったの﹂
こんな感じでやたら楽しそうに粉を練り始めたのが、妙に疲れを
増幅させる。何年かぶりに食べたまぜるんばの味は、正直微妙であ
った。
254
宏達が奴隷商を捕まえた報酬に得たのは、メリザが持っていた大
型の住居付き工房であった。正確には貰ったのではなく、賃料なし
で貸してもらっているのである。なお、ファーレーンをはじめとし
たほとんどの国において、現在奴隷の所持、及び売買は違法である
ため、そっち方面の報奨金も貰っている。
元々、三年ほど借り手がおらず、取り壊して別の建物にしようか
と検討していた物件らしく、たまに無料で注文に応じていろいろ作
ってくれればいい、と言う条件で、依頼の報酬として宏達に貸与し
てくれたのだ。たまに無料で仕事をする、という条件は宏たちの側
から言い出したことで、どのぐらいまでの仕事を最大でどれぐらい
の頻度で、というのも一応決まっている。
なお、真っ先に出た注文が、等級外ヒーリングポーション二百本
材料持ちで、だったのは、春菜がポーション調合の練習中だと知っ
てのことだろう。ぶっちゃけこの広さの工房だと、それだけあって
も一カ月分の地代、その税金分ぐらいにしかならない。
とはいえ、薬の販売ルートを持っているわけではない宏たちの場
合、春菜が練習で作った等級外ポーションを、税金代わりに持って
いかれてもまったく損はしない。薬の類はどこの国でも、特別な許
可を得なければ売買出来ない。屋台で売るなどもってのほかで、冒
険者も含む一般人は基本的に、販売許可を受けた商店か冒険者協会
から以外は購入できない。例外的に、宏たちがクルトに毒消しを与
えたケースや、自分で作った薬を使う場合などのように、個人間で
自己責任で譲渡、使用をすることは黙認されている。
仮にメリザから所有権を譲られた場合、税金分を自力で稼ぐ必要
があるわけだが、冒険者協会が買取をしていない等級外ポーション
255
の場合、結局メリザに買い取ってもらうことになるわけだから、二
百本では足りないことになる。それに、今回改装は自分達でやるが、
ある程度の保守管理はメリザが無料でやってくれることになってい
るため、その分を考えれば宏たちは十分に得をしている。メリザの
側も、宏の規格外の製造能力をある程度利用できるのだから、家賃
が入ってこないことぐらいは何の問題もない。
なお、舞台裏では、お互いに相手の利益を大きくしようとすると
いう、商人と冒険者の間では普通あってはいけない種類の駆け引き
が行われていたことは、言うまでもない。
﹁僕の体は一つしかない訳やけど、まずどっから手をつけようか?﹂
引っ越し作業や最低限必要な物の買い出しなどが終わり、全員が
落ち着いたところで話を切り出す宏。因みに、今囲んでいるテーブ
ルは、もともとこの工房の食堂に残っていた、大人数で食事ができ
る大きなものである。
﹁どこからって?﹂
﹁装備周りのための設備、具体的には溶鉱炉とか織機、作業台なん
かを優先するか、それとも台所回りをはじめとした居住環境を充実
させるか﹂
宏の言葉に、考え込む春菜。他のメンバーも、悩ましそうな顔で
ある。
﹁澪ちゃんは、どれぐらいできるの?﹂
﹁家具は十分なレベルで作れるけど、この規模の建物やと、増築と
256
か改築とか言うのはちょっと厳しかったはずや。機材にしても、あ
んまり無茶は出来へん﹂
﹁大工は中級に入ったところ。どうにか掘っ建て小屋よりまし、程
度の家を設計・建築できるくらい。道具作成は、溶鉱炉の改造とか
は無理﹂
宏と澪の返事に、ふむふむと頷く春菜。
﹁多分、台所を一番使うんは藤堂さんやと思うけど、システムキッ
チン的な感じの奴があった方がよくない?﹂
﹁システムキッチンまではいらないけど、流石に今まで使ってたも
のに比べれば、確かに不便だよね﹂
﹁ほな、まずはそこからやな。あと、水回りいじるんやったら、風
呂の改装もやってしもた方がよさげ?﹂
宏の質問に、女性陣が一斉に真剣な顔をする。風呂文化が結構発
達しているファーレーンでは、入浴設備と言うのは結構重要な問題
である。
﹁その顔やと、がっつりいじった方がよさそうやな。やっぱり、女
の子が全員一回で入れるぐらいがええ?﹂
﹁大きいお風呂があるのは、いい事だよ﹂
﹁ほな、すぐにお湯を沸かせる設備もあった方がええな﹂
そう言って、ざっと図面を起こす。十人ぐらい同時に入れるなか
257
なか大きな浴槽に、十組程度の蛇口とシャワー。今ある風呂も貧弱
と言う訳ではないが、こんな大きな風呂を作れるほどの面積は無か
ったはずである。
﹁これ、どうするの? 今のお風呂、こんなに広くないよね?﹂
﹁ボイラーを魔道具に置き換えるから、そのスペースも組み込めば
どうにかなると思うで。まあ、脱衣所も拡張せなあかんから、多少
中の間取りも変わるけど﹂
﹁大工事になりそうだが、大丈夫なのか?﹂
﹁まあ、三日ほどでどうにかするわ﹂
三日で何とかできるんだ、と言う春菜のつぶやきに苦笑する宏。
そのまま話を続ける。
﹁後は家具の類やけど、これは澪に丸投げな。当面は真琴さんとお
っちゃん、兄貴、リーナはエルの護衛しながら交替で建材の買い出
し。藤堂さんは僕か澪の手伝い。出来れば意見ちょうだい﹂
﹁了解。それはそれとして﹂
﹁ん?﹂
﹁真琴さんも澪ちゃんも名前呼びなのに、どうして私だけ藤堂さん
のままなのかな?﹂
﹁下手に名前呼びで慣れてしもて、向こうに帰った時にその呼び方
が出たら、いろいろまずそうな予感がするねん﹂
258
宏の言葉に、思わずため息を漏らす春菜。心当たりがものすごく
いっぱいある。が、ぶっちゃけると、ある意味手遅れだとも思う。
向こうに帰るのに何年かかるのか、帰った時にどういう立場になっ
ているのかは分からないが、仮にこっちに飛ばされた直後まで時間
を巻き戻したところで、この記憶が残っているのなら、自分が馴れ
馴れしい態度で接してしまうのは目に見えている。
いろいろ器用で我慢強い春菜だが、事、人間関係においては、仲
良くなった相手と喧嘩している訳でもないのに距離を取ってよそよ
そしく接する事が出来るほどには、自制心は強くない。必要以上に
踏み込まず、物理的にも精神的にもあまりべたべたしないタイプの
春菜ではあるが、実際のところ、結構寂しがり屋なのだ。TPOを
わきまえる事ぐらいはするが、クラスメイトと裏でこそこそ付き合
うなどと言う真似は、正直言って苦手である。女性恐怖症で目立つ
のが嫌な宏には悪いが、別に悪い事をしている訳ではないし、男女
付き合いと言う訳でもないのだから、春菜としては堂々と友達付き
合いをしたい。
因みに澪の呼び方が名前を呼び捨てなのは、弟子を名字で呼ぶ微
妙さに双方が耐えられなかったため、自然とそうなっただけで、特
に他意は無い。そもそもゲーム中と違い、今現在は弟子といえど女
と分かった以上、宏が澪と物理的に接触できる距離に近付く事はほ
ぼない。
達也を兄貴と呼んでいるのは、昨日一晩男同士の話をした結果、
なんとなく兄貴と呼ぶ関係になっただけである。言うまでもなく、
宏は性癖的にはノーマルなので、どっちかと言うと近所のお兄さん
を兄貴と呼んでなついている感じである。
259
﹁それ、いろんな意味で手遅れだと思うし、なんか私だけ距離を取
られてるようであんまりいい気分じゃないから、諦めて春菜って呼
んでよ。私も宏君って呼ぶから﹂
﹁ハルナ様は先日、ヒロシ様をそう呼ばれていたような気がします
が⋮⋮﹂
﹁あの時は勢いで﹂
春菜とエアリスのやり取りを、怪訝な顔で聞いている宏。実際の
ところ、目の前でばっちり叫んでいるのだが、完全にグロッキーに
なっていたため、記憶が飛んでいるのである。
﹁で、それでいいかな、宏君?﹂
﹁⋮⋮まあ、ええけど﹂
その返事に、よし、と拳を握り締める春菜。
﹁で、ストロベリーな話は終わり?﹂
﹁いちゃつくのなら、他所でやってもらえないか?﹂
﹁いちゃつくとか、そんな度胸はあらへんで﹂
﹁今の、どこの成りたてカップルか、みたいな会話だったじゃない﹂
﹁藤堂さん、やなかった、春菜さんに言うてや﹂
心底嫌そうな宏の言葉に、なんとなく生温い視線を向けてしまう
260
一同。まかり間違ってこの男に惚れた女は、要らん苦労をたくさん
背負いこみそうだ。女性恐怖症と言う特性と本人の性格に加え、不
細工ではないが女性に受ける外見ではない事もあって、おそらく浮
気は大丈夫だろうと言うのがせめてもの救いか。
﹁まあ、話を戻すとして、じゃ﹂
﹁今日はこの後、どう動くつもり?﹂
﹁僕は今まで使ってた機材で台所を仮改造するから、春菜さんと真
琴さんか兄貴で適当に食材買い出ししてきて。おっちゃんとリーナ
さん、澪は建材その他の調達をできる範囲で。悪いけど、エルはこ
こに居残り。あと、時間があったら風呂の撤去までやってまうから、
今日は公衆浴場行ってきて﹂
﹁了解。買い出しはあたしが行くから、達也は残って﹂
﹁分かった﹂
分担を決め、さっさと行動に出る。この日の夕食は大きな土鍋を
使った、肉と野菜たっぷりの蒸し鍋であった。
﹁さて、ここで問題や﹂
261
﹁何?﹂
﹁蜘蛛の糸がな、そんなにぎょうさんは無いねん﹂
宏の言葉に言いたい事を察し、ため息が漏れる春菜。
﹁それがどうかしたのか?﹂
﹁服がな、上下のセットを五枚か、よういって六枚しか作られへん
ねん﹂
﹁だから、それがどうかした、って、ああ、そう言う事か﹂
﹁うん。メンバー全員分は作られへん。元々フリーで動けてた真琴
さんはともかく、エルにおっちゃんにリーナさんは、間に合わせの
服でうろうろさせてるからなあ﹂
宏の言葉に、思わず唸りそうになってしまう一同。元々、二人分
しか考えていなかったのだ。一人三着ずつ、ある程度着回しができ
るようにバリエーションをつけて、と言う予定だったところに一気
に五人も人が増えたのだから、予定が狂った宏が悩むのも仕方がな
い。
﹁とりあえず、カムフラージュもあるから、元々の予定通り、一着
は僕と藤堂さん、やなくて春菜さんの作業着を作らせてもらうとし
て、他をどうするかやな﹂
﹁だとしたら、二着はそちらの二人に譲るとして、一着はエルに回
してくれんか?﹂
262
﹁そんでええん?﹂
﹁儂らは着たきりすずめにも慣れておる。それに、主を差し置いて、
儂らだけいいものを着る訳にも、な﹂
﹁部下にええ装備を回す、言う考え方もあるで?﹂
宏の言葉に、苦笑しながら首を横に振るドーガ。いい装備、など
と言っても所詮は服だ。確かに幾重にもエンチャントを施せば、下
手な革鎧よりは強くなろうが、それでも金属鎧ほどの効果は見込め
まい。ならば、元々服しか着れないエアリスに回すのが筋だろう。
﹁材料をもう一回取りに行ったりは出来ないの?﹂
﹁出来るで。ただ単に、行って集めて帰ってくるんに、三日ぐらい
かかるだけの話やし﹂
﹁だったら、メンバーを分けて行けばいいんじゃない? 折角人員
も充実したんだし、さ﹂
真琴の指摘に少し考え込み、メンバーの反応をうかがう宏。どう
やら、三日ぐらい宏が不在になる事について、現時点で問題がある
人間はいないようだ。
﹁それで問題ないんやったら、風呂の改装が終わったら行ってくる
わ。何ぼ何でもまだピアラノークも復活してへんやろうし、今回は
そこまで戦闘能力は要らんやろう﹂
宏の言葉に頷く一同。なお、この手のボスは、基本的に瘴気を大
量に吸って突然変異した個体なので、いくら倒してもそのうち復活
263
する。とは言え、流石にゲームと違い、一カ月や二カ月で復活する
訳ではない。また、どういう訳か、一定範囲ごとに一種しか突然変
異する種族はいないので、今から行けば、まだ巨大なだけの普通の
虫しかいないだろう。
﹁じゃあ、誰が行く?﹂
﹁見張りの事も考えたら、最低でもペアで行くべきじゃろうな﹂
﹁ごめん、私ちょっとパス。あれはあまり触りたくない感じ﹂
﹁人足と火力、で考えるなら、俺と真琴が行くのがいいんじゃない
か?﹂
﹁そんなところじゃろう﹂
そんな感じで役割分担が決まり、風呂が完成した翌日に出発する
事になったのだが、帰ってきた真琴いわく
﹁春菜が嫌がったの、よく分かったわ⋮⋮﹂
だそうな。
﹁ふう⋮⋮﹂
264
手足を伸ばせる広い風呂につかると、疲れとともにため息が外へ
出ていく。日本にいた頃には考えられない贅沢に、いろいろ弛緩し
ていくものを感じる真琴。宏達が改装が終わってすぐに糸集めに出
てしまったため、実はこの風呂は、使われるのは今日が初めてだ。
みんな遠慮して、一番風呂を待っていてくれたのである。
﹁やっぱり、広いお風呂はいい﹂
﹁こうして皆で入るのも、気持ちいいですわ﹂
体を洗い終わった澪とエアリスが、仲よく湯船につかり、仲よく
話を始める。聞くところによると、澪は現在十二歳だそうだが、こ
うして見ると背の低さや肉付きの悪さも手伝って、二つ年下のエア
リスとは年齢が逆に見える。とは言え、生まれてこのかた、ブラジ
ャーが無くても困った事がない真琴と比べれば、少なくとも乳房ら
しいものが存在する澪は、十分女らしい体型をしていると言える。
因みに、十五歳のレイナはバストと言うより大胸筋、と言う体をし
ており、真琴とどちらが女性的かと言うのは微妙なところだ。
澪はいろんな意味で小さいが、そういう自分だって身長は百五十
八センチしかない。ファーレーンの女性は平均身長百七十センチほ
どなので、真琴はかなり背が低い扱いになる。現時点では、どうに
かエアリスに身長で勝ってはいるが、追い抜かれるのも時間の問題
だろう。現在かろうじて百四十センチ台半ばに届いた程度の澪に至
っては、八歳か九歳に間違われてもおかしくないぐらいだ。
もっとも、それを言い出せばファーレーンの男性は平均百八十セ
ンチはあるので、宏は普通にかなり小柄な方に入る。もっとも、男
性は女性に比べてやたらばらつきが大きく、実際に一番多いのは百
265
七十五センチぐらいの人たちだ。それゆえに、女性と違ってチビ扱
いされるのは百六十センチ台半ばぐらいから下なので、宏の方は真
琴や澪ほどは目立たない。まあ、宏の場合、持っている雰囲気やら
何やらのおかげで、実際より小さく見られる傾向があるが。
因みに、助け出した時に宏や春菜がエアリスの身長を大きい方向
で勘違いしたのは、服装や髪形などの印象によるものが原因だ。実
際には百五十センチ台に乗ったところなので、目の錯覚で十センチ
ぐらい勘違いしていた事になる。
﹁そういやさ、澪。あんた無茶苦茶痩せてるけど、向こうではちゃ
んと食べてたの?﹂
﹁寝たきりだったから、全然﹂
﹁寝たきりって、何でよ?﹂
﹁事故で半身不随。しかも難病持ちだったから、もともとそれほど
たくさんは食べられなかった。事故に遭う前から、一年の半分以上
は病院だったし﹂
悪い事を聞いたかな、と、何とも言えない雰囲気の中で反省する
真琴。難病と言うのがどういう類の物かは分からないが、澪の口ぶ
りからするに、歩けなくなる種類の物ではないのだろう。
﹁でも、そんな生活だったのに、綺麗な髪してる。あたしはくせ毛
で色も悪いから、こういう髪はものすごく羨ましい﹂
﹁入院中は、ほとんど手入れしてなかったから、ものすごく見苦し
かったけどね。しかも、自力で寝返りうてないから、変な癖がいっ
266
ぱいついてた﹂
最初に変な話を振ってしまったため、どこまでも病院の話題から
離れる事が出来ない。とは言え実際、澪の黒髪はとても美しい。も
う少し、そう、あと五センチ、できれば十センチ背が伸びて、もう
少し太って健康に見えるぐらいに肉がつけば、可憐な容姿と相まっ
て、誰もが振り向く魅力的な女性になれるに違いない。
と言うか、澪だけでなく、春菜もエアリスも方向性が違うだけで、
甲乙つけがたい美しさを誇っている。純粋に綺麗、と言うのは春菜
だが、エアリスはどこか神秘的な雰囲気を持っている。エアリスが
後五年か六年すればこの二人、きっと一対の美術品のような美しさ
を見せてくれるに違いない。片や食に無暗やたらと情熱をささげる
天然ボケ疑惑で、片や出されたものを何でも喜々として食べる食い
しん坊系犬属性だが、見た目にはそういう内面は出てこない。
こうやって見ると、自分一人だけ、容姿の面で特に誇るところが
ない、という事実が痛い。ついでに言うと、ゲームでも現実でも、
料理は卵焼きぐらいしか作れないし、裁縫とかその手の家庭的なス
キルも壊滅的だ。こちらに飛ばされてすぐにドーガに拾われなけれ
ば、達也達とは別の意味で、今頃ピンチだっただろう。
﹁∼∼∼♪﹂
不意に、鼻歌が聞こえてくる。どうやら春菜が、体を洗いながら
歌っているらしい。たかが鼻歌ですらうっとりするほど魅力的で、
思わず聞き惚れてしまう三人。
﹁春姉の歌、凄いよね﹂
267
﹁まあ、スキルがあるから、当然なんだろうけど、ね﹂
﹁それが、師匠によると、リアルでもそんなに変わらなかったんだ
って﹂
鼻歌が途絶えたところで、ひそひそとそんな話をする真琴と澪。
会話の内容が理解できず、きょとんとするエアリス。そもそも、ス
キルなんて概念もなければこういう種類のゲームも当然存在しない
彼女達が、二人の会話を理解できる訳がないのだ。そんな事をやっ
ていると、湯に髪がつからないようにまとめ上げ、タオルで前を隠
した春菜が湯船に向かって歩いてきた。どうやらほぼ同時に体を洗
い終わったらしく、レイナも一緒だ。
﹁ん∼、あ∼⋮⋮﹂
湯船につかって体を伸ばし、そんな気の抜けた声を出す春菜。そ
の仕草を見て、次いで彼女の胸元、お湯にぷかりと浮かぶ見事な形
をした立派な二つの山に目を向ける一同。この場にいる他の四人全
員を足しても全く届かないほど圧倒的な存在感を持つそれは、同性
である彼女達ですら目を離せない。
﹁ねえ、春菜﹂
﹁ん? 何?﹂
﹁もいでいい?﹂
﹁⋮⋮いきなり物騒な事を言われた気がするけど、何をかな?﹂
そう言いながらも、本能的に視線を感じていた胸元を両腕でかば
268
う。が、腕の配置が悪かった事もあり、春菜の細い腕では完全に隠
しきることなどできず、何とも言えない形にひしゃげた乳肉が、か
えってその大きさを誇張する結果になってしまう。しかも、下手に
隠して逃げようとするものだから、変な色気を発散してしまい、逆
に周囲の人間の何かを刺激してしまう。
﹁⋮⋮春姉﹂
﹁なんか、ものすごく視線が怖いんだけど、何かな?﹂
﹁もいでいい? と言うかむしろ、もぐべきだと思うんだけど﹂
﹁だから、何故に?﹂
﹁だって、それだけあったら、つついてパワーアップする人とか絶
対出てくる﹂
﹁⋮⋮個人的には、そういう人とは絶対お近づきになりたくないん
だけど⋮⋮﹂
春菜がもっともな突っ込みを入れるが、単にとなりの芝生の青さ
にやきもちを焼いているだけの人間に、正論でいくら突っ込んだと
ころで意味がない。珍しく春菜が突っ込み一辺倒になっているが、
残念ながら、この場には味方がいない。
﹁やっぱり、もがなきゃ駄目ね﹂
﹁うん。もがないと、ビーム出して誰かにエネルギーを供給したり
しかねない﹂
269
﹁それ、明らかに人類じゃなくなってると思うんだ⋮⋮﹂
そんな風に突っ込みながら、じりじりと後退する。青い瞳を向け
て視線でエアリスに助けを求めるが、いつもは味方するエアリスも
﹁まあまあ、ハルナ様。多少もげたところで、十分なサイズが残り
ますわ﹂
﹁エルちゃんが敵に回った!?﹂
流石に春菜のサイズには、思うところがあるらしい。にっこり笑
いながら、そんな怖い事を言ってのける。更に、真琴とエアリスが
ちらりとレイナの方に視線を送り、微妙に戸惑った様子だったレイ
ナが、どこか覚悟を決めた感じで話に乗っかって来る。
﹁そもそも、剣を振るうのにそのサイズは絶対邪魔だろう? だか
ら、やはりここは姫様のお言葉に従って、その邪魔な脂肪をそぎ落
としてはどうだ?﹂
﹁表現がますます物騒に!? って言うかリーナさん、姫様って呼
ぶのはNGだよ!?﹂
女扱いされるのを嫌がるくせに、実はきっちり気にしていたらし
いレイナ。多分、気にしているから女扱いされるのが嫌なのだろう、
とはなんとなく察しているが、突っ込んだところで話がこじれるだ
けなので、とりあえずスルーしておく。なお、春菜は、レイナが真
琴やエアリスからアイコンタクトを受けて行動している事に気が付
いていない。
﹁他に誰も聞いていないので、別に問題ありませんわ﹂
270
﹁春姉、話をそらそうとしない﹂
﹁と言うか、ちゃんと固定してるからそれほど邪魔になってないし、
痛そうだからもぐのは却下!﹂
﹁足元に落ちた小銭とか、ベルトのあたりとか見えなくない? と
言う訳でもごう﹂
どうやら言っているうちにテンションが上がったらしい。どうあ
ってももぐ、という結論に持ち込む一同に、本気で怯え始める春菜。
﹁人のをもごうとする前に、自分のが大きくなる手段を考えた方が、
多分建設的だと思うな、私﹂
﹁正論ですわね﹂
﹁その正論が通じるのは、成長期が残っている姫様と澪ぐらいでは
ないか?﹂
﹁あんたまだ十五でしょ? あたしなんて二十歳過ぎてんだから、
そう簡単にでかくならないわよ⋮⋮﹂
﹁と言うか、師匠なら何かいい薬とか作れるかも﹂
﹁その手があった!﹂
なんだか、どこから突っ込むべきか悩ましい結論を出して、湯船
から出ていく真琴とレイナ。とりあえず、当面の危機が去ったこと
に安堵のため息をつき、もう少し風呂を堪能する春菜。因みにこの
271
時のやり取りはばっちり宏達に聞こえていたらしく
﹁勇ましく出てきたところを悪いけど、やせ薬と全身整形はともか
く、バストサイズだけ局所的にいじるような薬とか道具は用意でき
へんで﹂
濡れた体を拭くのもそこそこに、異様に手早く服を着て突撃した
ところで、宏に先手を打たれて切り捨てられる。
﹁聞こえてたの!?﹂
﹁と言うか、盗み聞きしてたのか!?﹂
﹁突貫工事で改装したもんやから、どっか構造が悪かったみたいで
な。あんだけ大声で騒いどったら、こっちまで音が反響して聞こえ
てくんねん。多分どっかの隙間がこっちにつながっとるだけやろう
から、明日チェックして塞いどくわ﹂
と、こともなげに言ってのける宏。その言葉を聞いてドーガと達
也の方を見ると、何とも言い難い、生温い視線が。
﹁師匠、全身整形って?﹂
どうやら、結論が気になっていたらしい。真琴達ほど大雑把では
ないにしろ、割と手抜き気味に風呂上りの処理をして出てきた澪が、
クエスチョンマークを大量に浮かべて質問してくる。
﹁課金アイテムであったやろ? 外見を再設定できるやつ﹂
﹁あ∼、言われてみればあったな、そんなの。俺は外見をいじる気
272
が無かったから、その手の外装アイテムは全然気にしてなかった。
って、作れるのか?﹂
﹁作れんで。っちゅうか、材料がえぐいだけで、地味に課金アイテ
ムも全部作れるからなあ﹂
男性陣からの生温かい視線で灰になっている二人を放置し、そん
な事を言っているその他の人間。どうやら澪は騒いだのを無かった
事にしたらしい。正確には、それほどの音量で騒いでいた訳では無
かったので、聞こえていないのだろうとあたりをつけてしらばっく
れたのだ。もちろん、宏の耳には全部聞こえている。
因みに、フェアリーテイル・クロニクルの課金アイテムはほとん
ど趣味的なもので、ハードルこそ高いが全てゲーム内で自力入手可
能だ。しかも、外装の変更に関してはある程度限定的ではあるが、
申請すれば一年に一回は無料で可能だったりする。要するに、それ
で満足できなくてかつ、わざわざ高いハードルを乗り越えてゲーム
内でゲットしようと言う根性の無い趣味人向けなのだ。安定した収
益が望める、月額課金方式のゲームだからこそのやり方と言ってい
いだろう。
﹁ついでに言うと、多分エディター画面とか出てけえへんから、全
身整形の画面で胸だけでかくするとかいう考えで行動するんもお勧
めできへん﹂
﹁うん、そんな気はしてた﹂
宏の言葉に、風呂から上がって束ねていた金髪を下ろしながら話
を聞いていた春菜が、苦笑しながら頷く。多分、イメージした通り
に外見を変える、とかその類の薬なのだろう。ならば、手本なしで
273
使えば、まず間違いなく碌な事にならない。
﹁そう言えば、宏君。エルちゃん達の外見をいじってる薬とかアク
セって、どういう感じなの?﹂
﹁あれは、僕が勝手に外見を設定した奴や。本人らの見た目をベー
スに、不自然にならへん程度に顔のパーツとか配色をいじって、そ
う見えるように外側に幻覚をかぶせてる、言う感じやな。せやから、
体格とか体型とか髪の長さとか髪型とかは、中身と同じになるよう
にしてある。薬の方も同じや﹂
﹁なるほどね﹂
つまり、体型にコンプレックスを抱えている人間には、全く役に
立たない代物だ、と言う事である。
﹁世の中、ままならない物だよね﹂
﹁全くもって、その通りやな﹂
解説に追い打ちをかけられた二人を見ながら、牛乳片手に宏との
んきに語り合う春菜であった。
﹁さてと。いい加減、持ってる情報のすり合わせ、しよっか? 私、
274
合流前の真琴さんがどういう状況だったかとか、まだ聞いてないし﹂
﹁そうだな。正直、俺と澪は現状が良く分からんから、口を挟むに
挟めない﹂
﹁兄貴達の冒険者登録も済んだし、拠点の改装も最低限は終わった
し、ええ加減その手の話ができるぐらいには落ち着いたと思ってえ
えよな?﹂
その日の就寝前。ドーガ達に頼んで先に寝てもらって、日本人だ
けで状況のすり合わせをすることにした。
﹁その前に、ちょっといいかな?﹂
﹁澪ちゃん?﹂
﹁さっきのお風呂の一件、リーナさんとエルが微妙に不自然だった
けど、真琴姉が一枚噛んでる?﹂
﹁ああ、あれ? 半分ぐらい本気だけど、半分ぐらいはいい加減見
てらんない感じだった、ってとこかな?﹂
見てられなかった、と言うのは、多分レイナの事であろう。いま
だにどう接していいか分からない風情で、言われた事には従順に従
うが、自分の要望とかをほとんど口にしない彼女に関して、どうに
もまずいものを感じていたらしい。
﹁やらかした事を反省するのはいいけど、当人がもう気にしてない
事を過剰に気にするのは、チームの空気が悪くなるだけだから、ち
ょっとお節介を焼かせてもらったわよ﹂
275
﹁あ∼、御面倒をおかけします﹂
﹁いいっていいって。そう言うのは、第三者の年長者がすることだ
し。達也じゃ動きづらそうな内容だからあたしがやっただけ、ね?﹂
突っ込み役だからか、春菜とは違う意味でよく見て動いている真
琴に、自然と頭が下がる一同。今回の件については、一方の当事者
である春菜では、動くに動けなかった部分である。
﹁ん? せやったら、さっきの乳を大きくする、言うのんも態とか
?﹂
﹁あれは二人とも、百パーセント本気﹂
﹁さいですか⋮⋮﹂
どうやら、春菜の乳をもぎたい、と言うのも割と本気らしい。微
妙に感謝して損した、という気分になる春菜。
﹁まあ、そこら辺は置いといて。情報のすり合わせはいいとして、
まずはどこから始める? この国についてはあたしが多分一番詳し
いだろうけど、全体的な事は多分そっちの方が詳しいわよ?﹂
﹁ん∼、そだね。まずはいつ、こっちに飛ばされたか、ってところ
から確認しよっか?﹂
﹁了解。あたしは大体三カ月前ぐらい。春菜達は一月半ほど前よね
?﹂
276
﹁正確には四十七日、かな?﹂
﹁俺達は今日で多分十日目、ってとこだ﹂
来たタイミングは、結構バラバラだ。
﹁そう言えば、気になってたんだけど﹂
﹁ん?﹂
﹁何?﹂
﹁あたしがいなくなってから、向こうで騒ぎとか、起こってた?﹂
﹁特には無かったよね﹂
﹁公式で、文字化けメールでクライアントが強制終了する、言うア
ナウンスがあっただけや﹂
宏と春菜の回答に、そんなもんだろうなあ、と、なんとなく気落
ちしながらも納得する真琴。だが、そこに達也が爆弾を投下する。
﹁そう言えば、俺が飛ばされた日、ログインした段階ではヒロが接
続してたぞ﹂
﹁は?﹂
﹁ちょっと待って。真琴さん、向こうでの飛ばされた日の日付、覚
えてる?﹂
277
﹁確か、四月二十七日だったと思うけど⋮⋮﹂
﹁私たちも、四月二十七日に飛ばされたんだ。接続中だったし、リ
アル時計の方は見てなかったから分からないけど、ゲーム内時間は
十三時三十一分五十二秒だった﹂
やたら細かい数字を上げる春菜に、思わず唖然とした視線を向け
る一同。
﹁良く、そこまで細かい時間を覚えてるな⋮⋮﹂
﹁私、一度見聞きしたものは、ほとんど忘れないの。それに、あの
日はちょっとトラブルに巻き込まれて、待ち合わせの時間に遅刻し
そうだったから、何回も時計を見てたしね。まあ、転送ゲートをく
ぐる直前の時間だから、飛ばされた正確な時間かは分からないんだ
けど﹂ 春菜の言葉に頷く宏。何秒か、と言うところまでは覚えていない
が、うっすら思い出した記憶では、確かに十三時三十二分ごろだっ
た。
﹁あたしはさすがに覚えてないわ﹂
﹁俺達は確か、四十分は回って無かった気がするな﹂
﹁なるほど。だとしたら、四月二十七日に文字化けメールを受け取
って、その処理をせずにゲートをくぐった、もしくは転移魔法や転
送石を使った、って言うのがこっちに飛ばされた人の条件なんだろ
うね。で、その何分か、もしくは何秒かの誤差が、何カ月かの時差
になった、ってところかな?﹂
278
春菜の推測に、同意するしかない一同。
﹁となると、僕と春菜さんは、たまたま下一桁まで同じ時間に転移
しようとした、言う事になるな﹂
﹁うん。その一点に関しては、ものすごく運が良かったと思ってる。
一人で飛ばされてたら、最初の熊で死んでた可能性もあるし﹂
熊、と言う単語に怪訝な顔をする三人。その様子を見て、ここに
飛ばされた直後の事を説明する。
﹁俺達ほどじゃないにしても、二人とも結構厄介な状況だったんだ
な﹂
﹁まあ、逆に言うたら、あれがなかったら春菜さんと合流してへん
かったかもしれへんから、それはそれで運が良かったかもしれへん
で﹂
﹁あたしは、飛ばされてすぐにドルおじさんに保護されたから、生
活って言う部分での苦労は少なかったわ﹂
﹁その代わり、戦闘でこき使われてる、と﹂
﹁他にできる事もないし、そこら辺は気にしてない。リアルみたい
に引きこもるよりは、よっぽど健全だと思ってるし﹂
きっぱり言い切った真琴を、戦闘能力的なものとは違う意味で、
強いと思ってしまう宏と春菜。不意打ちができる範囲の蜘蛛とかは
ともかく、まともなモンスター相手に戦うのは、二人ともいまだに
279
怖い。いくら戦闘能力に裏打ちされているとはいえ、それを克服し
て積極的に討伐任務をこなせる真琴は、やはり強い女性なのだろう。
引きこもりとは言っているが、買い出しやら何やらの時の態度や対
応から、そこらへんもこっちの生活で克服した模様だ。一カ月半共
同生活をした春菜相手ですら、緊急事態や必要な状況、もしくは何
かに集中している時以外で一定以内の距離に近付くと、いまだに普
通に恐怖を感じる宏とは大違いである。
﹁とりあえず、あたしの三カ月は、特に語るような事は無いわ。名
指しの依頼って形で、ドルおじさんやレイナを手伝っていろんな任
務をこなしたり、エルの護衛兼話し相手をやってたり、ね。要する
に、ゲームの冒険者、それも特定NPC専属の物と大差ないわけ。
チュートリアル的な感じの事も、ずいぶんやらされたわ。おかげで
引きこもり脱出の、いいリハビリになったわ﹂
﹁なるほどな。俺達は目が覚めた時にはもう捕まってて、後はお前
らの知ってる通りだから、ヒロと春菜が一カ月半の間にやらかした
事、ってやつを聞いた方がよさそうだな﹂
達也に水を向けられ、とりあえず話せるだけ正確に話す。と言っ
ても、大きなイベントと呼べるのは、ウルスに入って一番最初にこ
なした毒消し製作と、二週間ほど前のピアラノーク討伐およびエア
リス達の救出ぐらいなものだ。カレーパンとアメリカンドッグの屋
台をやっていたりとか、それが原因で蜘蛛の糸を集めに行って、結
果としてピアラノークを討伐する羽目になっていたりとか、醤油だ
の味噌だの鰹節だの、果てはいつの間にやらたこ焼きソースやお好
み焼きソースまで作っていたりと、突っ込みどころだけは大量にあ
るが、言ってしまえば日常系プレイヤーに近い行動原理で動いてい
たにすぎない。
280
﹁なあ、一ついいか?﹂
﹁何?﹂
﹁ヒロ、春菜。お前ら、本気で帰る気あったのか?﹂
﹁本気も本気、大真面目やで﹂
﹁拠点確保と食事の充実って、ここに居座る気満々に見えるんだが
?﹂
﹁逆の話、どこから手ぇつけろ、と?﹂
宏の言い分も分からなくは無いため、微妙に反論し辛い達也。だ
が、それでもこれだけは言える。
﹁拠点確保はまだしも、調味料や料理の開発にここまで力を入れる
必要はさすがにねえよ!﹂
﹁甘いで、兄貴。そう言う事は、ここの一般的な食事を一週間続け
てから言うてくれ﹂
﹁宏、あたしも流石にあんた達はやりすぎだと思うわ﹂
﹁じゃあ、真琴さんだけご飯は自前調達な﹂
﹁ごめん、あたしが悪かった﹂
人間、胃袋をつかまれると弱い。宏の台詞に、瞬く間に降参する
真琴。
281
﹁まあ、何にせよ、ヒロと澪がいれば、食料や薬の調達には困らね
えし、春菜がいればまずい飯を食わされる心配は無い。ヒロの言い
分じゃないが、事態は確実に長期戦になるんだから、考えてみれば
確かにこの辺は重要だ﹂
﹁じゃあ、次に重要な事。あんた達はグランドクエスト、どこまで
やってる?﹂
﹁僕と春菜さんは、一章終わらせたとこで止まってる﹂
﹁ボクも同じ﹂
﹁俺は、二章の後半だな﹂
戦闘能力の確認も兼ねて、真琴がグランドクエストの進行状況を
確認する。返ってきた答えは、一般的な狩り主体のプレイヤー平均
か、それをやや下回るものだった。まあ、宏達は生産や生活を優先
するスタイルだったので、無理もない話ではある。達也にしても、
ロールプレイ主体の遊び方だっただろうし、そもそも魔法系がソロ
でクリアするには、第二章は少々厳しい。そもそも、中ボス戦やイ
ベント戦闘が一章とは段違いに厳しく、移動範囲の広さもあって、
第二章終了のプレイヤーは半数にも満たないのが現実である。
﹁なるほど。因みに、あたしは四章の中盤ぐらいで止まってるわ。
武器素材のドロップが出なくてねえ﹂
結構戦闘廃人だった事をカミングアウトする真琴。真琴のぼやき
に反応し、真面目な顔を向ける宏。武器素材、と言う単語を聞いて、
この男が黙っている訳がないのだ。
282
﹁因みに、何が手に入らんの?﹂
﹁ネメシスブラッドと神鋼。神鋼はそこそこの数集まったんだけど、
ネメシスブラッドの方は全然﹂
﹁なんや。神鋼ってドロップでも出るんか。神鉄を掘って精製する
以外に、入手経路ないと思っとった﹂
﹁ちょっと待て! 精製できるの!?﹂
﹁神鋼装備なんざ、腐るほど作っとるで﹂
十分な距離を置きながら詰め寄ってくる真琴に、何を今更、と言
う顔で返事を返す宏。世の廃人達がこの台詞を聞けば、暴動を起こ
すこと間違いなしだ。
﹁それが原因でシナリオが進んでない、言うんやったら、僕らに文
句言うより先に、職人が引きこもりになる原因を作った連中を恨ん
でもらえへんか?﹂
﹁この問題がなくても、十分あいつらは恨まれてるわよ。そもそも、
あの事件が無かったら、レベル6ポーションが普通に買える値段で
出回ってたはずなのに⋮⋮﹂
﹁レベル6どころか、レベル8が普通に出回っとったやろうなあ。
なにせ、僕の倉庫だけでも、各種二万本ほど積み上がっとったし﹂
﹁⋮⋮やっぱ、あいつらマジでいっぺん殺さなきゃいけないわね⋮
⋮﹂
283
要らぬ情報を聞いて据わった目でつぶやく真琴を、苦笑しながら
見守る宏。因みに、レベル6ポーションのゲーム内での相場は一本
五十万クローネ。それ以下だと秒殺で買われてしまうのだ。神鋼は
もっとひどく、一個頭が最低でも三百万。武器と防具を作るクエス
トで、一つ当たりに何十個単位で必要なものとしては破格と言って
もいい。職人が掘って精製すれば、ゲーム内で二日もかからず必要
量が揃うものにこの値段である。職人を囲い込むためにMPKをは
じめとした粘着妨害を行い、デマを流してゲームを続け辛くし、さ
らにどうやってか住所を突き止めてストーカー事件まで起こした犯
人連中は、何をされても文句は言えないだろう。
なお、事件そのものは、文字で書いてしまえば単純な事だ。一部
のマナーの悪い廃人ギルドがいくつか、ぼちぼち高レベルのポーシ
ョンや装備を作り始めた職人達に目をつけ、その中でも特にレベル
の高い集団を囲い込もうとして断られて腹を立て、マナー的には限
りなく黒に近いグレーの、かなりえげつないやり方で粘着妨害し始
めた、と言うだけの話である。事が起こったきっかけは、まだいい
ところレベル4ポーションまでしか出回っていなかった頃、当時最
高レベルだったポーション職人が、レベル5のポーションを売り出
したことである。
その事があちらこちらに飛び火し、とばっちりを受けて抗議した
職人たちが悪役に仕立て上げられ、などと言う感じであっという間
に事件が拡大し、一時はゲーム内で生産活動をすることすらはばら
かれる空気になっていた。その空気に耐えられず、余りに妨害が激
しくてゲームにならなかった事もあり、もうすぐ上級と言うところ
まで来ていたにもかかわらず職人をやめたプレイヤーも多く、それ
が現在職人が少ない直接の原因となっている。直接被害にあってや
めたプレイヤーは一人だが、やる気をなくしてゲームを去った人も
284
少なくない。この空気にさらされていなかった生産スキルなど、釣
りとエンチャント、料理、そしてあまり存在を知られていなかった
造船や土木、農業ぐらいなものである。
ストーカー事件が起こるまでは、職人たちが受けていた嫌がらせ
が、運営が動くには決定的とまでは言えないレベルだった事もあり、
対処のきっかけとなる証拠を押さえるのに運営サイドが手間取って
しまった事も、事態の深刻化に一役買ってしまっていた。この間、
運営サイドが出来た事は、生産スキル使用者が外部の違反ツールを
使用した形跡も、サーバーのデータやプログラムが不正に書き換え
られた形跡も一切ない、というアナウンスをする事ぐらいだったの
だ。
イメージ低下でプレイヤーが減ることなど運営にとってもありが
たくないため、事態の鎮静化のために総力をあげてはいたものの、
マンパワー不足に加え驚くほど状況の進行が速く、件の廃人ギルド
がデマを流して誹謗中傷を繰り返している証拠を押さえ、一斉アカ
ウント削除に踏み切れた時には、もうストーカー被害が出てしまっ
ていたのである。この事件は、彼の運営会社唯一にして最大の汚点
とも言われている。
因みに、ストーカー事件に関しては、最初の一人の住所ばれはあ
る種の自爆であり、他の人の住所も運営から洩れたものではない、
と言う事だけ記しておく。二人目以降は投稿型情報サイトに仕込ま
れていたワームやプレイ日記系のホームページから洩れたもので、
事件の結果、職人連中が持っている情報がすべて秘匿されてしまう
事になったのも、仕方が無いことだろう。
これら一連の事件の結果として、新たに生産を始めようと言うプ
レイヤーは、せいぜい中級に差し掛かるかどうか、ぐらいまでの情
285
報だけで、基本何のフォローも無しに修練を積む羽目になっている。
メイキングマスタリーについての情報が記載される前に、この事件
が起こったのも痛い。これも、職人プレイヤーの数がなかなか増え
ない一因となってしまっているのだ。
﹁と言うかさ、あんた多分サービス開始スタート組だろうけど、大
丈夫だったの?﹂
﹁丁度事件起こったぐらいの頃は受験も佳境やったから、あんまり
目立つ真似はしてへんかってん。せいぜい、NPCから築城とか船
団製造クエストとか受けて放置しとった程度やけど、その手のクエ
の進行状況は、基本他のプレイヤーには流れへんから﹂
最初の事件が起こったのは丁度中学三年の夏ごろ。宏の場合、地
元から逃げるために必死になり始めたころであり、ゲームなどほと
んど触っていなかった。その頃は中断が長かった事もあり、採集系
とこの時上級をマスターした大工、そして当時放置進行真っ最中だ
った造船を除けば、職人としては平均より下、ぐらいの能力しかな
かった。なお、宏が最初にマスターした一次生産以降のスキルは大
工で、二番目が造船だったりする。
なお、言うまでもないことながら、春菜が職人たちの数が急激に
減った事情を詳しく知らなかった理由も、受験生でずっと休止して
いたからである。事件が一応の終息を見たのが同じ年の十月頃ゆえ、
再開した頃には風化はしていないが話題にするのもはばかられる空
気だったのだ。何かあったらしいと言う事は知っていたが、知人友
人の態度から知れば気分が悪くなるだけだろうと考えて、終わった
事だからとあえて調べなかったのである。
﹁そっか。それで、まだそういう話は聞く?﹂
286
﹁新しいところでは先月一人、上級に入ったばっかりの子が粘着さ
れとった。感じから言うて、犯人は生産がらみの都市伝説信じとる
古参みたいやったな。GMコールで始末したけど、名前と顔を変え
て見事に引きこもりや。ぶっちゃけた話、それでケリはつくんやけ
ど、鬱陶しいにもほどがあるからなあ。それに、最近のアホは限度
を知らんから、リアルで殺人事件にでも発展したらヤバいし﹂
返事を聞いて、顔をしかめる真琴。彼らがいまだに引きこもって
いる理由は、単純に安全が確保できたと判断出来る要素がないから
である。警察にしろ運営にしろ、事が起こらなければ動けないのだ
から当然だ。単にゲーム内で粘着された程度では、よほどひどくな
い限りは運営も介入しにくい。当時犯人グループがばらまいた無駄
に説得力がある嘘も完全に影響が無くなった訳ではない事もあり、
余り堂々と行動するのは時期尚早と言うのが、現在の職人グループ
の認識である。
上位のプレイヤー達で保護しようと言う話も無い訳では無かった
が、事件当時は平均が中級程度だった事もあり、保護するには人数
が多く、かといって標的にしやすいぐらいには人数が少なかったた
め、職人たちが自衛した方が速くて確実だ、と言う結論になってし
まった。上位プレイヤー達の中にも、嘘に踊らされて職人たちと敵
対する行動をとった人間が少なくなかった事も追い打ちとなってい
る。
警察に検挙され、運営によって晒された連中が、もともとマナー
の悪さについて誰もが知るところであったため、大多数の人間はも
はや彼らがついた嘘など信じておらず、生産スキルや職人たちに対
するネガティブな空気は、さすがに表面上は消えている。それでも、
もう三年たっていると言うのに、職人プレイヤー=詐欺師、みたい
287
な認識をしている古参も少なくない。そこからそういう認識を教え
込まれて信じ込んでいる比較的新しいプレイヤーも少なからずいる。
そう言った根っこの深い問題に対して古参が自衛した結果、新人さ
んがなんのフォローも無く自力で上級に到達した場合、余計に目立
ってかえって狙われやすくなってしまったのは皮肉な話だ。
﹁まあ、そこら辺はどうでもええ。今は全く関係ない話やからな。
とりあえず、スキル周りの確認したら、この後どう動くか決めた方
がええやろう﹂
﹁そうだね。と言っても、情報収集のために、まずはエルちゃんが
抱えてる問題を解決するところから、だろうけど﹂
どうにも胸糞悪くなる話になりそうだったのを、宏と春菜が方向
転換する。いまだに事情を詳しく知らない春菜だが、やはり深く関
わる必要は無いだろう、と言う事であえて詳細は聞かない事にした
のである。
﹁真琴さんは多分、事情を全部知ってるとは思うけど、こういう事
は本人から聞きたい。明日、とりあえずもう一遍質問してみるわ﹂
﹁了解。その辺は任せるわ。あと、達也達の装備はいいの?﹂
﹁兄貴の分は、今週中に溶鉱炉と金床用意して適当に作るわ。どう
せ間に合わせやし、澪は自分で作った方が練習になってええやろ?﹂
﹁うん、そうする﹂
こうして、ようやくまともな方向に進みそうな方針が決まる。翌
日、宏と澪が間に合わせの一言で作り上げた杖と弓、短剣を見て、
288
真琴がその理不尽さに思いっきりげんなりするのだが、それは別の
話である。
289
第7話︵後書き︶
職人が少ない理由については、そういう設定だと言うことで流して
ください。
後、ネトゲからストーカーに発展した事例としては
﹁お兄ちゃんどいて! そいつ殺せない!﹂
あたりがいろんな意味で有名です。実際にあった事件かどうかまで
は知りませんが。
290
第8話
﹁そろそろ、いろいろ説明が欲しいんやけど、ええかな?﹂
日本人たちが方針を決めた翌日。全員揃っての朝食を終えたとこ
ろで、宏が一同を代表して話を切り出す。
﹁そうだのう。いい加減、こちらの事情を話す頃合いかもしれんな﹂
﹁ドーガ卿!?﹂
﹁リーナ、今はドルと呼べ。それと、卿は不要﹂
お約束のやり取りを済ませ、宏達に向き合うドーガ。もっとも、
レイナがドーガを制そうとしたのは、事情を話すことに反対だから
という訳ではない様子ではあるが。
﹁話の前に、一つ確認しておきたい﹂
﹁何?﹂
﹁一月半ほど前、ポイズンウルフ大量発生の時に毒消しを作ったの
は、ヒロシ殿か?﹂
﹁⋮⋮どうせ確証がある状態で質問しとるやろうから正直に言うと、
確かにその時薬作ったんは僕や。作った数は確か三百ちょっと﹂
ドーガの質問に、正直に答える宏。その言葉に、目に見えて態度
291
が変わるエアリスとドーガ。特にエアリスは何か言いたそうにしな
がらも、レイナの粗相を含む様々な事が引っ掛かってか、これ以上
は図々しいのではないかと遠慮して口にできない、と言った風情だ。
その様子にこのままでは話が進まないとみた春菜が、突っ込んだ質
問をする。
﹁宏君が薬を作れる事と、あなた達がピアラノークにつかまってい
た事に、何か関係があるの?﹂
﹁直接は関係ない。が、今後の事態の打開、という観点では、大い
に関係してくる可能性が高くての﹂
﹁面倒な話?﹂
﹁極めて、な﹂
予想はしていたが、そうきっぱり言われてしまうと反応に困って
しまう宏と春菜。その様子に苦笑しながら、とりあえず必要な情報
を頭の中で整理するドーガ。何から話をするかと考え、そもそも自
分達の素性を正確に話さないと、協力を求めること自体が難しい事
に思い至る。
これまでの二人の態度から察するに、多分こちらの素性にある程
度勘付いてはいるだろうが、確証までは持っていまい。感じから言
って、真琴が自分達の事を話した雰囲気でもない。とりあえず、こ
こしばらくの様子から、少なくとも進んでこちらと敵対する気は無
いだろう、と言う点は断言できる。ついでに言うと、真琴と達也は
ともかく、残りの三人にはあきらかに、敵意を持って相手を騙す才
能には致命的に欠けている。比較的口数が少ない澪はまだ良く分か
らないので置いておくにしても、残りは二人ともそれなり以上に機
292
転は利くし、自分達が騙されたり裏切られたりする可能性について
考える程度には頭もよく警戒心も強いが、根っこが善良と言うか平
和ボケしていると言うか、裏切られそうなら先に裏切ればいい、み
たいな発想はなさそうである。
人柄、という点では信用してもいいだろう。口の堅さ、と言う面
でもそれなりには信用できそうだ。が、人柄がよさそうだからこそ、
演技力と言う面ではいまいち信頼できない部分がある。誘導訊問に
簡単に引っかかったりはしなかろうが、全く態度に出さずにとぼけ
きれるかと言われると微妙なところだ。と、そこまで考えたところ
で、それでもレイナほど馬鹿正直では無かろう、という事実に思い
至る。
レイナの真っ直ぐな所は美点ではあるが、思いこみが激しく裏を
読むのが苦手で、隠しごとが下手だと言う欠点とワンセットの特徴
でもある。生真面目で融通がきかないところがあるため、そう簡単
に誘導されたりはしないが、逆に言えば、思いこまされてしまえば
修正が難しい、と言う事でもある。それゆえに、戦闘以外の突発的
な事態には弱い。とは言えど、レイナも別段全くの無能と言う訳で
はない。若さと性格ゆえに腹の読みあいや交渉などには向いていな
いが、少なくとも家督を継げない三男坊とかの平均よりは、ずっと
役に立つ。
宏を追いつめてしまった件は、手綱を握れる人間が、どちらも機
能不全を起こしていた事もまずかったのである。所詮まだ成人した
ばかりの小娘なのだから、いろいろ経験を積めばもう少しマシには
なるだろうし、当人もそれなりに欠点を自覚し、改善できるよう努
力を重ねているのだから、もう少し長い目で見てもいいだろう。第
一、被害者である宏が厳罰を嫌がっているのに、こちらが様子見も
なしで余計な罰を与えるのは、かえって関係をこじらせかねない。
293
さすがに、同じレベルのミスに対しては二度目はないが。
そんな自分の部下の、精神面での特徴と比較して結論を出す。レ
イナよりは融通がきき、十分すぎるほど義理堅く、かつ二人でピア
ラノークを仕留められる程度の技量も持っている。達也はそれに加
え、十分な腹芸をできる程度の人生経験はありそうだし、澪の方は
達也や宏が口止めをすれば、多分余計な事は言わないだろう。何よ
り宏は、少なくとも製薬と鍛冶と魔道具製作に関しては、高い実力
を有している。こちらの情報が妙なところから漏れるかもしれない、
というリスクを鑑みても、全て正直に話して味方に抱きこむメリッ
トは大きいのではないか。そう結論を出し、自分達の素性を含む事
の次第を全て話してしまう事にする。
﹁話の内容は決まった?﹂
﹁うむ。今から話す内容は、出来れば他言無用に頼みたい﹂
﹁ドーガ卿! 話をすることには反対しません! ですがこんな部
屋で、全てを話すおつもりですか!?﹂
﹁だから、ドルと呼べと言っておろうが﹂
﹁そんな事はどうでもいいです! こんな何処に耳があるか分から
ない部屋で全てを話すのはお待ちください!﹂
﹁そこらへんの対策は、ちゃんとやってあるから安心し﹂
宏の言葉に、エアリスが目をつぶって何かを確かめる。
﹁⋮⋮工房全体に、かなり高レベルの遮音、対盗聴、対透視結界が
294
張ってありますね。さらに、この部屋にもです。これは、どちらが
なされたのですか?﹂
﹁工房全体は宏君が作った道具。最初は私が張ってたんだけど、毎
日張り直すのは面倒だから、途中で道具を作ってもらって、ね﹂
﹁因みに、この部屋には俺と澪が分担してかけた。長話になると厄
介だからな。ついでに、事前にこの部屋だけディスペルをかけてあ
るから、最初から内部に仕掛けてある、と言うのも大丈夫だろう﹂
エアリスと春菜の会話に、補足説明を入れる達也。それを聞き、
感心したような表情を浮かべるドーガとレイナ。因みに全部ゲーム
中の一部クエストに必須の魔法で、それ以外ではほぼ使い道がなか
ったりする。辛うじて遮音結界がハーピーやセイレーンなどの呪歌
や音波攻撃を潰すのに役に立つ程度で、盗聴や透視を防ぐ結界なん
ぞ、クエスト以外には普通まず使わない。そのくせ、クエストによ
ってはやたらと高い熟練度を要求してくることもあり、無駄に熟練
度が高い使い手も少なくない。
なお、何故わざわざそんなものを使っているかと言うと、言うま
でもなく個人情報保護のためである。特に宏の情報はいろいろやば
い。冗談抜きで国家間のパワーバランスが引っくり返りかねない。
当人はそれは大げさだと思っているが、それでもいろいろ出来る事
が漏れるとまずい、と言う自覚ぐらいはあるのである。
﹁ちゅうわけで、余程でない限り盗聴とかに抜かれる事はあらへん
から、キリキリ吐いて﹂
﹁宏君、もうちょっと言い方ってものを考えようね﹂
295
宏と春菜の漫才じみたやり取りに苦笑しながら、ドーガが順番と
して、自分達の正体とこの国の王家についての基礎知識を話し始め
た。話す内容についてはドーガに一任したためか、エアリスは一切
口を挟まない。レイナも先ほどのやり取りで納得したからか、特に
自分の意見を言う事はしない。
レイナから姫様と呼ばれていたエアリスは、この国の第五王女で
末っ子だ。血統的には正室の次女である。基本的にずっと男系で継
承してきたファーレーン王室の中では例外的に、ごく低い順位なが
ら継承権を持っている。これは、彼女が与えられた役割によるもの
である。因みに、ファーレーンでは庶民から孤児まで姓を持つが、
例外的に王族は名字を持たない。これは、彼の一族が唯一無二の存
在であり、他と区別する必要がない事と言う理由からだ。ファーレ
ーンに限らず、一定より古い国家に関しては、王族に名字がない国
の方が多いのも、現時点でもっとも古く格式があるファーレーンを
まねているからであろう。
ファーレーンが男系で王位を継承してきたのには理由がある。王
家に伝わる血統魔法が、どういう訳か王女の子供には発現しないの
である。血統魔法を使える王子の子供には男女関係なく発現するの
に、だ。そのため、正室の女児より側室の男児の方が大事にされて
いたりする。ついでに言うと、ファーレーンに限らず血統魔法の類
は、まず別の国で生まれた子供には出ない。理由ははっきりしてい
ないが、加護を与えている神が違うからだ、と言うのが一般的な見
解である。さらに補足しておくなら、他国に婿入りした、などのよ
うに、王家と縁が切れた男子の子供にも、血統魔法は受け継がれな
い。この点も、全ての国の王家に共通だ。
では、何故エアリスだけが継承権を与えられているのか? これ
は彼女が現在ついている、姫巫女と言う役職が大きく絡んでいる。
296
ファーレーンの姫巫女とは、この国の守護神である女神アルフェミ
ナの神託を聞き、また、自身の体と魔力を媒介にして、女神の力を
使う事が出来る、その名の通りのシャーマンである。この役職につ
いた女児だけは、どういう訳か血統魔法を受け継いだ子供を産む事
が出来るのだ。無論、彼女達であっても、ファーレーンの外に嫁い
で産んだ子供には、血統魔法は発現しない。
﹁話だけ聞くと、すごく重要な立場にいるように聞こえるんだけど、
その割には側仕えがドーガさんとレイナさんだけ、って言うのは不
自然だよね?﹂
﹁なんかあるんやろ。今の話からするに、その姫巫女とやらも、一
代に一人しか出来る人間がおらん、言う訳でもなさそうやし﹂
﹁大方、継承権ってのも個人に帰属するものじゃない、ってところ
なんだろう﹂
ざっとシステムの説明を受けた春菜の疑問に、宏と達也が自身の
考えを述べる。
﹁うむ、その通りだ。姫様は確かに、当代はおろか五代ほどさかの
ぼっても並ぶものがないほどの力を持ってはおられるが、姫巫女と
しての役割を果たせると言う観点では、上に後お二人ほど、まだ嫁
いでおられない姫君がおられる﹂
﹁それに、姫巫女の役につかれた姫君は、政治的な権限を一切持つ
事は許されない。候補となられた姫君は、いざという時のためにあ
る程度の帝王学は学ぶが、それを生かす事はまずないと言っていい﹂
要するに、政治的に無価値な上に代えがきく存在であり、エアリ
297
スだから重要だ、と言う訳ではないのである。その上、一日の大半
をそれなり以上に厳重に警戒されているアルフェミナ神殿にこもっ
ており、残りの時間を、これまた国で一番の警備体制を誇る王城で
過ごすのだから、専属の側仕えはそれほど必要にならない。それに、
ドーガもレイナも、戦闘能力だけで言うなら、この国でも屈指の実
力者だ。ドーガに至っては、政治的にもかなりの影響力を持つ人物
である。
もっとも、それ以上に、姫巫女に就任する前に配属された彼女の
侍女が大層問題の多い人物で、そのくせ外面を取り繕う事だけは上
手かったため、その侍女がやらかした行動がすべて、エアリスの悪
評になってしまっている事が、エアリスの周りに人がいない原因に
なっている。彼女のおかげで、王族及び一部の要人以外からの評判
が非常に悪く、レイナのように昔から近くにいた人材以外は側仕え
を嫌がるので、人を配置できないのだ。
﹁なんかきな臭い話やな﹂
﹁いくらなんでも、自分の娘にそんな変な侍女をつけるほど、この
国の王様って節穴じゃないよね?﹂
ウルスの治安や統治状況、噂話の類から判断した国王像からは、
エアリスの状況にはどうしてもつながらない。その部分の違和感が、
どうにもぬぐえない様子の春菜。
﹁うむ。そこにはいろいろ表ざたに出来ん問題があってな。今回の
事に関わってくる話だが、正直国の汚点のようなものゆえ、詳細は
伏せさせていただきたい。ただ五年ほど前、ちょうど専属の侍女を
つけようかと言うときに大型モンスターが大発生し、どうしてもそ
ういった人事に目が行き届かない時期があってのう。言ってしまえ
298
ば、そこを付け込まれたようなもんじゃ﹂
大型モンスターの大発生、と言う単語に、妙に納得する一同。ゲ
ームの頃も、いわゆる運営イベントとしてそう言った事件は何度か
起こっていた。特に大発生系はゲーム内で最低でも一カ月、長いと
三カ月ぐらいは掃討が終わらない事もあり、手こずれば手こずるほ
どいろんなところに影響が出ると言う、いろいろ凝りすぎだと言い
たくなるような代物であった。
ましてやこっちのファーレーンは、掃討を手伝う高レベルの冒険
者など、ゲームほどの数はいない。必然的に事態は長引き、被害は
拡大し、安全圏の数まで掃討し終えても災害対策としててんてこ舞
いになるため、どうしても急ぎでは無い案件には、目が行き届かな
い物が増えてくる。
﹁⋮⋮なるほどなあ。なんちゅうか、あんまり聞かへん方がよさそ
うやな、その辺の深い事情は。今はその人、関係なくなってるんや
ろ?﹂
﹁すでに処刑されておるから、アンデッドとして復活でもせん限り、
二度と関わる事は無かろうな﹂
ドーガの台詞に、何とも言えない表情をする宏と春菜。聞くと、
姫巫女就任が決まった時に、毒殺未遂を犯したらしい。どうやら彼
女自身が誰かに嵌められたようだが、その頃には仕えるべき姫君を
ないがしろにしていた事が上層部に伝わっていたため、毒殺未遂が
無くても、処刑は時間の問題だったと言う。処刑を合法的に行うの
はハードルが高い国とはいえ、さすがに王族相手、それも抵抗する
力を持たない幼い姫君に虐待に近い真似をしていれば話は別だ。
299
ついでに言えば、そういった事情を知り直訴しようとした教育係
などを何人も無断で解雇し、その報告を握りつぶしていた人物も既
に排除されている。その程度の裁量権はあるが国の中枢に食い込め
るほどでもない立場の男で、何やら見事に洗脳のようなものを受け
ていたとのことである。
﹁本来なら、どのような人間だったとしても、私がちゃんと手綱を
握っていればよかったのですが⋮⋮﹂
﹁いやいやいや。いつ頃からついとったかとかは知らへんけど、そ
う言う人間が年齢一桁の子供に手綱を握らせるとか、あり得へん﹂
﹁というか、最初エルちゃんって、もっと年が上だと思ってたよ、
私﹂
﹁僕もや、っちゅうか、僕らよりしっかりしてるんちゃう?﹂
﹁まともに教育を施された貴族の子女は、同じ年でも私よりずっと
しっかりしていますよ?﹂
﹁まともに教育を施されていれば、ですが﹂
レイナの言葉に、お前が言うか、みたいな視線が集中する。
﹁まあ、話をもどそう﹂
達也に促され、一つ頷いて話を進めるドーガ。
﹁少々話が逸れるが、現時点で姫巫女の資格を持っているのは、エ
アリス様を除けば直系の第二王女殿下と、傍系の第四王女殿下のお
300
二人。そのうち、第二王女殿下とエアリス様は大層仲がよろしく、
第二王女殿下と第四王女殿下も仲睦まじいのだが⋮⋮﹂
﹁エルとその第四王女が、ものすっごく、仲が悪いのよ﹂
﹁正確に言えば、第四王女殿下が、一方的に嫌っておる、と言うと
ころじゃな﹂
真琴の台詞をドーガが補足する。その言葉を確認するようにエア
リスを見ると、悲しさと寂しさが混ざった表情で、一つ頷いてくる。
﹁何ぞ、ややこしい感じやねんなあ﹂
﹁ボク、いつも思うんだけど、揉めるって分かってて、何でたくさ
ん子供作るんだろうね。それもわざわざ側室まで作って﹂
澪の素朴な疑問に、苦笑するしかない一同。実際、理想を言うの
であれば、子供は継承権を持つ一人と、ファーレーンの場合は姫巫
女の資格を持つ一人だけがいるのが、余計なもめごとを起こさない
最良の状況であろう。だが、それだと、どちらかに何かあった時に、
全く立て直しが効かない。特に、この世界は医療の技術もそこまで
進んでいる訳ではないので、血筋が途絶えないようにとなると、必
然的にある程度の数は必要になるのである。
実際のところ、この世界より医療技術が発達している日本でも、
皇室が少子化により男系維持に赤信号が灯っている事を考えると、
継承権争いの危険を冒してでも、ある程度多数の子供をもうけるの
は、どうしても必要な事なのだろう。しかも、側室と言うのは政治
的な要素もある。ファーレーンほどの大国になると、逆に全く持た
ない、と言うのも難しいのだ。
301
とは言え、根っからの日本人でしかも多感な年頃の、しかも男女
付き合いにある種の幻想を抱いている澪には、側室を持ってたくさ
ん子供を作ると言う行為は許容しがたいのも、分からない話ではな
い。
﹁この国は珍しく、王妃様とお二人おられる側室の皆様方が大層仲
が良く、エアリス様と第四王女殿下の間を除いては、王子様方も王
女様方も仲睦まじいのだが、それゆえに⋮⋮﹂
﹁エルと第四王女の仲違いが目立つ、と言う訳か。それは根が深そ
うだな﹂
﹁そうなるのう。そもそも、エアリス様が生まれたこと自体が気に
食わない、という態度だったから、どうにもならぬ﹂
﹁そこだけ不穏なのって、なんか変だよね。因みに、その第四王女
って、いくつ?﹂
﹁今年で十六歳になられる。そろそろ、嫁ぎ先を決めねばならぬお
年頃じゃな﹂
何とも言い難い年齢差だ。
﹁なんか、面倒な感じやなあ﹂
﹁うむ。面倒なことこの上ない。しかも、その第四王女殿下が、ど
こから連れてきたのか、いつの間にか怪しげな男を手元においての﹂
﹁もしかしてそいつが?﹂
302
﹁おう。儂らをピアラノークのもとに飛ばしたのが、そいつじゃな﹂
ドルが明快に言い切ったその台詞に、極めつけに面倒なことにな
った、と内心で頭を抱える日本人たちであった。
﹁情報を整理するためにも、折角だから、この国の王室が、どうい
う人員構成になってるか、教えてもらっていい?﹂
しばしの沈黙の後、春菜がドーガに切りだす。
﹁うむ。まず、一番上が側室第一妃の御子息で、アヴィン殿下。お
歳は二十二歳だが、この度兄弟国であるファルダニアに王配として
迎えられる事になった。そのため、この国の継承権は無い﹂
﹁それ、大丈夫なん?﹂
﹁元々ファルダニアは、この国から分かれ出来た国でな。継承権争
いを嫌った三代目国王陛下の王弟殿下が、自身を担ぎあげようとし
た一派を引きつれて、リドーナ海を挟んだ向こう側の大陸に建国し
た国じゃ。ゆえに、男児に恵まれなかった時は、こちらから王配と
して養子に出される事もある。それに、第一妃は現ファルダニア国
王陛下の従妹、先代の王の弟君の娘に当たる人物でな。血統的にも、
向こうに行くのにちょうどよかったのじゃ﹂
303
﹁気になるんだが、それは本人は納得しているのか?﹂
﹁むしろ願ったりだろう。アヴィン殿下と、かの国の第一王位継承
者のプレセア王女が恋仲なのは、有名な話だからな﹂
達也の質問に対するレイナの補足に、それはめでたい、と顔をほ
ころばせる日本人たち。政略的な問題が絡もうと、当人達が幸せに
なるのならいい事だ。
﹁話を戻そう。その次に第二妃の御息女で、元第一王女のマグダレ
ナ殿下。お歳は今年二十歳になられる。この方は二年前にダールの
王太子妃として嫁がれてな。最近、王女を出産なされて、来年お披
露目の会が行われる予定じゃ﹂
﹁その下が、王妃殿下の御息女で、第二王女のエレーナ様。お歳は
今年十九歳。流石にファーレーンの正室の娘ともなると、嫁ぎ先も
慎重に選ばねばならなくて、まだ独身だ。姫巫女の資格をお持ちで
ある事からも、国内の有力貴族に降嫁なされる可能性が一番高い﹂
﹁ついで、第一妃の御息女であられるマリア王女。十八歳。真琴が
来る直前に、マルクトの宰相でもある王弟殿下に請われて、嫁いで
行かれた﹂
﹁それから、先ほどから話題となっている、第二妃の御息女で、第
四王女のカタリナ様、十六歳。王太子殿下であられるレイオット王
子殿下、十五歳。第二妃の御子息で第三王子のマーク殿下、十三歳。
そしてエアリス様と続く﹂
﹁継承権、という観点では、王弟殿下の御子息も持ってはおられる
304
が、まだ三歳の上、血統魔法にあまり適性がなくての。流石に、血
統魔法の重要性を知らん貴族はおらぬ故、彼を担ごうと言う勢力は
無いな﹂
ドーガ達の話を聞き終え、頭の中で整理する一同。とりあえずの
関係図をまとめた春菜が、確認を取るように口を開く。
﹁とりあえず、国内の政治がらみに関わりそうなのは、エレーナ様
とカタリナ様、レイオット王太子殿下、マーク殿下とエルちゃん、
でいいのかな?﹂
﹁そうなるのう﹂
﹁そのうち、勢力争いに発展しそうなのが、カタリナ様とエルちゃ
ん、でいいの?﹂
﹁人間関係としてはそうじゃが、勢力争いにはならんだろうて。残
念ながら、エアリス様には人望がないからの﹂
元々社交界に出る年になるまで、王族の顔と人柄を直接知ること
ができる人間は、それほどいない。そしてエアリスの場合、社交界
の前哨戦ともいえる、有力貴族の茶話会に参加する年齢になる前に
姫巫女に選ばれ、神殿引きこもりになってしまったため、神殿の上
層部と王族一家、後は幼いころから側仕えをしていたドーガのよう
な人物以外は、正確な情報は一切知らないのである。
その上で、件の侍女が好き放題やった影響がいまだに残っており、
何故彼女が姫巫女に選ばれたのか納得がいかない、と言う人間の方
が圧倒的に多いのだ。エレーナ王女と先代の姫巫女が、能力的にも
人格的にも、今代の候補者の中ではエアリスを超える者はいない、
305
と言いきっているから表面上は収まっているだけで、カタリナ王女
派やエレーナ王女派の人間の方が多いと言うのが実情である。
確かに姫巫女と言うのは、政治的には一切権限は無い。だが、国
王と並んで国を守る柱であり、過去には人柄に問題がある女性が姫
巫女となったために国が大層乱れた、という記録もある以上、悪い
噂しか聞かない子供をそんな地位につけるのは反対だ、と言う人間
が多いのも仕方がないことだろう。
そう言ったもろもろの事情があるため、実力者で王族すべてに顔
が利くドーガと、幼いころから一緒に行動することが多く、戦闘能
力の面で申し分のない、少なくとも裏切る事だけは無いであろうレ
イナ以外、迂闊に側仕えを増やす事が出来ないのだ。ヘタに人を増
やすと、いつ寝首を掻かれるか、もしくは、いつまた姫巫女の威光
を利用して好き放題されてしまうか、分かったものではないからで
ある。残念ながらここまで評判が悪いと、常識と良識を持った人間
は、そう簡単には引き抜かれてくれない。
﹁なんかさ、そのカタリナ王女、って人が問題児なんじゃないか、
って気がしてきたな﹂
﹁それについては、我々の口からは何とも言えぬ。お主らに予断を
与えたくないからの﹂
﹁少なくとも、公式の場では賢明な女性と評価できる振る舞いをし
てはおられる﹂
達也の言葉に、返事を濁すドーガとレイナ。エアリス本人も、一
方の当事者のため迂闊な事は言えないらしい。やんごとない方々の
事情は、いつの世もややこしいようだ。
306
﹁で、今更思い出したんやけど、僕が毒消し作った事と、今後の状
況の打開、っちゅうんとはどうつながるん?﹂
﹁毒消しを作れると言う事は、毒物に詳しい、と言う事でいいか?﹂
﹁まあ、ある程度は﹂
﹁ならば、問いたい。無味無臭でかつ、毒見役を殺さずに本命の体
調だけを崩させるような、そんな毒は作れるのか?﹂
﹁毒自体は、そない難しいもんやあらへん。別段、一回の飲食でど
うこうせんでええんやったら、どうとでも出来るやろな。ネックに
なるんは量の調整だけやし﹂
あっさり返ってきた回答に、眉をひそめながら質問を続けるドー
ガ。
﹁では、その毒を消す事は?﹂
﹁物によるけど、よっぽどでもない限り、消せん毒は無い。ただ、
手遅れの可能性はあるから、絶対とはよう言わん。万能薬、っちゅ
う手段もあるけど、ちょっと遠出せんと材料が揃わんし、機材もち
ょっと不安があるし、そもそも手遅れになっとったら、毒をいくら
消しても無駄や﹂
﹁ふむ。では逆に、病だったとしたら?﹂
﹁それも同じや。症状を聞いた上で直接容体を見な分からへんけど、
大抵は治療できる。せやけど、毒も同じやけど、後遺症とかについ
307
てはそれこそ容体次第やから、この場では何とも言えんで﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
しばし考え込んだ後、席を立ちどこかへ出かける準備をするドー
ガ。
﹁どこに?﹂
﹁少々、協会の方へ顔を出してくる﹂
そう言うと、魔道具を使って姿を変え、エアリスとレイナを置い
てさっさと出かけるドーガ。
﹁で、さっきの話、何ぞ心当たりでも?﹂
﹁⋮⋮エレーナ姉様が、ここのところずっと、体調を崩されている
のです﹂
﹁宮廷医師や宮廷魔術師は、何も分からなかったの?﹂
﹁はい。原因不明の病、と言う事で処理されていますが⋮⋮﹂
﹁症状を聞いたうえで、当人を直接見やん事には何とも言えん話や
な﹂
宏の言葉に一つ頷き、覚えている限りの症状を説明する。ほとん
どは大抵の病に共通するものだが⋮⋮
﹁幻痛に手足の震え、か。エレーナ姫様と他の人って、食事は一緒
308
に?﹂
﹁症状が出始める一週間ほど前からは、王家みんなの予定がつかな
かった事もあって、お昼以外はずっとお一人でした﹂
﹁エルはどうなん?﹂
﹁私は、基本的に神殿での食事で、食べるものは他の神官と変わり
ませんので⋮⋮﹂
﹁なるほどなあ。毒見役は、毎回違う人?﹂
﹁はい。体質や体調の問題なども出てきますし、正確性の問題もあ
りますので、毎回違う組み合わせで、四人ほどの毒見役が毒見を行
っています﹂
﹁他の人には、症状は出てないんやね?﹂
﹁出ていません﹂
そこまで話を聞いて、一つ確信を持つ。
﹁間違いなく、毒やな﹂
﹁断言できるの?﹂
﹁まあ、近い症状の病気はあるんやけどな。それ、確かマージンラ
ットに引っかかれな感染せえへんし、いっぺん人に感染して発症し
たら、すごい勢いで周囲に広がるから、もっと大勢に症状が出てな
おかしいねん。潜伏期間長いんも最初の一人だけやし、特になんも
309
せんでも二週間もあったら治りよるしな。せやから、まず間違いな
く、毒や﹂
﹁解毒剤は作れるのか?﹂
﹁問題あらへん。ただ、日持ちせえへん材料がいるから、すぐに作
るのはちょっときついわ﹂
いくら腐敗防止があると言っても、全ての素材が十分な量保存さ
れている訳ではない。事に、薬系のマイナーな素材などは、西の交
易拠点であるウルスでも、すぐに手に入るものではない。
﹁発症してから、どれぐらいの日数がたっとる?﹂
﹁そうですね。多分、そろそろ一カ月ぐらいでしょうか。私たちが
ピアラノークに捕まった時点で、最低でも二週間は経過していまし
たので﹂
﹁もしかして、ここでスチャラカやっとったん、結構まずかった?﹂
﹁それは、なんとも⋮⋮﹂
﹁まあ、そうやろうなあ﹂
実際のところ、いくら城に大量の解毒剤を納入した実績があった
ところで、一足飛びでどこの馬の骨とも知れぬ冒険者に話が来る訳
がない。それなり以上に実績と信用がある人間がすべてダメ、とな
るのにも二週間やそこらは必要だし、仮にピアラノークの事がなく
ても、どっちみち宏達を面接するのに、目覚めてから今日ぐらいま
での時間は必要だったのだから、誤差の範囲と言うしかないだろう。
310
﹁とりあえず、ドルおじさんが戻ってくるまで動きようがないけど、
どうしようか?﹂
﹁なんやかんやで昼が近いし、ちょっと新しい日本の味を用意しよ
か﹂
宏の言葉に、それまで沈んでいたエアリスが顔を輝かせる。
﹁何を作るんだ?﹂
﹁豚にイカ、エビ、牛スジ、キャベツ、小麦粉、山芋で分かるやろ
?﹂
達也の質問に、材料を並べながらそんな事を言ってのける宏。大
阪人がその手の材料を使うとなると、作る料理は一つしかない。な
お、言うまでも無いが、豚も牛も、あくまで似たような味の生き物、
と言うだけで、全く同じものではない。特にファーレーンで一般に
豚として飼われている動物は、ラードがほとんど取れなかったり豚
骨スープが作れなかったり寄生虫がいなかったりと、同じなのはむ
しろ見た目と肉質、肉の味ぐらいだと思った方がいい生き物である。
﹁なるほど。モダンもOKか?﹂
﹁当然や。ただ、個人的に、広島焼きまでは譲歩するけど、もんじ
ゃ焼きは勘弁な。あくまで個人の好みやけど﹂
﹁大丈夫。私ももんじゃ焼きは、そんなに好きじゃないから﹂
などと会話をしながら、黒い鉄板を食堂のテーブルの上に乗せる。
311
大きな食堂のテーブル、その三分の一を覆うほど巨大な、いわゆる
業務用サイズの鉄板で、その気になれば十枚以上、同時に焼けるだ
ろう。きっちり表面を磨き上げた上で、錆止めその他のための表面
処理を施してあるのが、いちいち芸が細かい。しかも、しっかり魔
道具として使えるようにあれこれ付与まで施しているのだから、手
間がかかっている。
﹁一体、いつの間にこんなものを⋮⋮﹂
﹁溶鉱炉のチェックした時に、な。このぐらいやったら、見た目ほ
ど材料は要らんし﹂
因みに材料は、使い物にならなくなった道具の金具などを集めて
再利用したものである。
﹁ほな、さっさ仕込むで﹂
宣言通りにキャベツを手際よくきざみ、手早く生地を練っていく。
何ぞこだわりでもあるのか、全ての仕込みを一人で終わらせ、春菜
にすら触らせない。
﹁注文は?﹂
﹁豚玉∼﹂
﹁ミックスモダン、卵二つで﹂
﹁えっと、お任せします﹂
﹁師匠、ミックスのチーズトッピングとかもあり?﹂
312
﹁了解や﹂
注文を受け、一気に人数分を焼き上げる。遠慮がちに顔を見るエ
アリスに苦笑しながら、彼女の分を個人的にお勧めな牛スジ入りミ
ックスで焼く。普段は春菜や澪と共同で作業するのに、今回は最初
から最後まで一人で全部やってしまう。十五分ほどかけて焼き上げ、
各人の好みに合わせてソースとマヨネーズをつけ、青のりと鰹節を
まぶして全員に配る。そうやって振舞われたお好み焼きを、最近箸
の扱いに慣れてきたエアリスとレイナを含め、全員がコテではなく
箸で食べ始める。レイナは湯気で踊る鰹節にやや引いていたが、エ
アリスの方は全くお構いなしである。
こうしてエアリスはまた一つ、日本の食文化に染まるのであった。
﹁お待ちしておりました﹂
﹁此度の事、世話をかけたな﹂
冒険者協会ウルス本部。ドーガは協会の長と面会していた。
﹁あの方は、御無事なのでしょうか?﹂
﹁健やかに過ごしておられる。最近はずっと美味くて珍しいものを
313
食しておられるからか、これまでになくとても顔色がよろしい﹂
﹁それは何よりです﹂
ドーガの報告を聞き、心の底から安堵のため息をつく長。エアリ
スと直接面識のある数少ない外部の人間であり、彼女の評判が非常
に悪い事に心を痛めている一人でもある。
﹁それで、宮廷の方はどうなっておる?﹂
﹁それは、私が説明しよう﹂
ドーガの質問に、年若い、まだ少年と言っていい男の声が割り込
む。長身で細身の、どことなくエアリスに似た面影を持つ、白銀の
髪の優男だ。だが、見た目こそまだ成人年齢である十五に達したば
かりの優男ではあるが、その身にまとう雰囲気は怜悧で、その隙の
ない立ち居振る舞いもあり、余程鈍いものでもない限り、誰も若造
だと、優男だと彼を侮る事はしないだろう。
今の今まで気配が無かったところを見ると、転移魔法か何かで飛
んできたらしい。このタイミングの良さからするに、誰かが連絡を
入れたのだろう。自身も冒険者資格を持つこともあり、レイオット
と冒険者協会の間には密接な関係がある。
﹁殿下⋮⋮﹂
﹁報告は聞いている。苦労をかけたようだな、エルンスト﹂
﹁勿体ないお言葉です﹂
314
王太子レイオットの言葉に跪き、深々と頭を下げるドーガ。
﹁ここは公式の場ではない。楽にしていいぞ、爺﹂
﹁はっ﹂
レイオットの許可を受け、促されるままに席につく。
﹁それで、殿下⋮⋮﹂
﹁エレーナ姉上の容体が、悪化した﹂
﹁そんな⋮⋮﹂
﹁まだ命に障りは無いが、もはや自分の足では立てん﹂
予想以上に深刻な状況に、思わず歯噛みするドーガ。そんな彼を
なだめるように、話を続けるレイオット。
﹁それで、例の冒険者は何と?﹂
﹁症状を直接見なければ分からないが、大抵のものは治療ができる、
と。ただし、毒であろうと病であろうと、手遅れになっていればど
うにもならない、とも申しておりました﹂
﹁その言葉、信用できるのか?﹂
﹁少なくとも、市井にいる技量ではない事だけは、断言できます﹂
ドーガの言葉に頷くと、カードを取り出してどこかに連絡を取る。
315
﹁ユリウスを呼んだ。ここからすぐに転移で行くから、徒歩で来る
ように伝えてある。とりあえずそれなりに時間はかかるだろうから、
奴が来るまで状況の確認をしよう。食事はしたのか?﹂
﹁いいえ。状況の確認と連絡を済ませたら、すぐに戻るつもりでし
たので﹂
﹁ならば、ここで済ませよう。何か、軽いものを頼む﹂
﹁承りました﹂
長が出ていくのを確認すると、深くため息をつく。
﹁全くもって、後手に回ったものだ⋮⋮﹂
﹁申し訳ございません﹂
﹁いや。導師長や神官長にも悟られずに、広範囲を巻き込む長距離
転移魔法を使うような相手だ。もともとお前達では相性が悪すぎる。
むしろ、何か仕掛けてくると分かっていながら、まともな対策を打
てなかったこちら側の失策だな﹂
﹁ですが、せめて一太刀浴びせていれば、エアリス様が術を発動さ
せる時間を稼げたかもしれぬと思いますと⋮⋮﹂
ドーガの言葉に、首を左右に振るレイオット。戦うと言う行為に
ついては、彼の妹は全くの心得がない。たとえ、ドーガが時間を稼
いだところで、突発事態で術を発動させる、などと言う事は出来な
かっただろう。むしろ、ピアラノーク相手に身を守るための術を発
316
動させた事が奇跡である。さらに言えば、それを善良な冒険者が助
け出した、などと言うのは、それこそ奇跡を通り越して、何らかの
力が働いているとしか思えない。
﹁あの男は、何と?﹂
﹁あの男、余程エレーナ姉上やエアリスに姫巫女で居て欲しくない
らしい。もはや足腰が立たぬエレーナ姉上や、無責任に役割を放り
出して出奔したエアリスではなく、カタリナ姉上に姫巫女の地位を
譲れ、と言いだした。今のところ、神殿はその言葉を突っぱねては
いるが、いつまでもつか微妙なところではあるな﹂
﹁でしょうな﹂
﹁だが、先代の言葉を借りるまでもなく、カタリナ姉上では国を滅
ぼしかねない。そもそも、アルフェミナ様が姫巫女の変更を受け入
れない以上、奴らがどれほど吠えようと、エアリス以外が姫巫女に
なることなど不可能だ﹂
レイオットの言葉に、深く頷くドーガ。そこに、軽食を持った長
が入って来る。まだ湯気が上がっている温かいスープと、単に火で
あぶって黒パンで挟んただけの燻製肉と言う、実にシンプルな料理
である。
﹁このような粗末なものしか用意できず、大変恐縮ですが⋮⋮﹂
﹁かまわん。毒に怯えながら冷めきったものを食べるよりは、こう
いったシンプルだが、出来立ての温かい物を食べる方がよほどいい﹂
﹁殿下、毒見を⋮⋮﹂
317
﹁必要ない。この時間帯、冒険者たちも食っているのだろう? メ
ニューが同じである以上、毒など混ざっていればとうに騒ぎになっ
ている﹂
レイオットの言葉に頷きながら、念のために自分達が先に手をつ
けるドーガと長。二人とも冒険者としての活動も長く、それなりに
毒物に対する耐性を持っているのだ。ついでに言えば、これだけシ
ンプルで味の想像がつきやすいものだと、余程特殊なもので無い限
り、毒が混ざっていても一発で分かる程度の経験は積んでいる。
﹁それにしても、だ﹂
﹁はい﹂
﹁エアリスは相当珍しいものを食べているようだが、神殿の味気な
い食事に耐えられるのか?﹂
本当に粗末としか言いようがない食事を飲み下し、どういう訳か
側仕えの二人が思い付きもしなかった懸念事項を告げるレイオット
に、思わず動きが止まるドーガ。
﹁⋮⋮そこは、神殿の食事を担当する者も交えて、一度相談する事
にしましょう。珍しくはありますが、豪勢な食事、と言う訳ではご
ざいませんので﹂
﹁なるほどな。それで、そいつらが作る食事は、美味いのか?﹂
﹁好き好き、と言う物も結構ございますが、少なくともわしとエア
リス様は気に入っております﹂
318
﹁ほう、なるほどな﹂
そう言って、にやりとある種邪悪な笑みを浮かべるレイオット。
それを見た瞬間、食事がらみを報告したのは失敗だったかもしれな
い、と後悔するドーガ。城や神殿の食事に文句があるのは、なにも
エアリスだけではないのである。
﹁そうだな。折角向こうに出向くのだから、何か珍しいものを食わ
せてくれるよう、頼んでもらえないか?﹂
﹁⋮⋮頼むだけは、頼んでみましょう﹂
やはり、食事関連の報告は失敗だったか、などと後悔したドーガ
だが、実はこの時点ですでに、報告していようがしていまいが関係
なかったと言う事を、この時彼はまだ知らない。食事を済ませ、今
後の事をざっと打ち合わせし、手待ちになった時間で一体どんなも
のを食したのか、という問いかけに正直に答えていると、黒髪の、
二十歳そこそこの男性が入って来る。レイオットが優男なら、彼は
クールな二枚目、と言ったところか。
﹁ユリウス・フェルノーク、只今参上しました﹂
﹁来たか。思ったよりは早かったな。食事は?﹂
﹁移動中に、軍用食で済ませました﹂
﹁エルンスト﹂
﹁分かりました﹂
319
レイオットに促され、転送石を起動するドーガ。事態は、宮廷が
関わるところまで一気に進展するのであった。
宏の前に置かれた、先ほどの物とは違う鉄板を食い入るように見
ながら、エアリスは次に出てくるものに想いを馳せていた。
﹁全く⋮⋮。こそこそ何かやってると思ったら⋮⋮﹂
﹁ええやん、これぐらい﹂
﹁まあ、いいんだけどね⋮⋮﹂
おやつの時間に宏が用意した機材に、心底呆れた声を出す真琴。
宏の前に置かれている鉄板は、ピンポン球よりやや小さい程度の大
きさのくぼみが、縦に八つ、横に十二列並んだ、エアリス達の目に
は実に奇妙に映る代物だった。これまたいろいろとややこしい加工
がなされており、見る者が見れば明らかに魔道具だと分かるほど魔
力を放っている。もっとも、日本人が見れば、その鉄板の用途は一
目瞭然である。
﹁てか、タコはあるの?﹂
﹁そこら辺はぬかりなしやで﹂
320
そんな事を言いながら、手際よくくぼみに油をひいていく。十分
に熱が通ったところで、さっきとは似て非なる生地をくぼみに流し
込み、タコをはじめとした具材を手早く投入していく。
﹁さて、ここからが注目ポイントや﹂
焼けて生地の縁が固まり出したのを確認した宏が、ピックを手に
宣言する。ピックを縦横無尽に走らせ、くぼみとくぼみの間にあふ
れた生地を切り離す。切り離した生地をくぼみに押し込むと、外周
をなぞるようにピックを動かした後、見事な手つきでくるりとひっ
くり返す。
﹁わ、わわわ!﹂
驚きとも歓声ともつかない声を漏らすエアリスを尻目に、次々と
たこ焼きをひっくり返していく宏。その手つきはプロのそれと比べ
ても、全く遜色ない。
﹁凄い﹂
﹁らしい特技と言うか、意外な特技と言うか⋮⋮﹂
﹁大阪の人間やったら、小学生でもこれぐらいはやるで﹂
などと言いながら、何度もひっくり返しては均等に熱を通してい
く宏。その動きには、一切の無駄も迷いもない。しばらくそれを繰
り返し、全体がいい具合に焼き上がったところで、大きな葉っぱを
使って作った船に、素早く八つのたこ焼きを盛り付けていく。その
まま華麗な手つきでソースとマヨネーズを塗り、青のりと鰹節を振
321
りかけ、つまようじを刺してエアリスの前に置く。
﹁熱いから、気ぃつけて食べてや﹂
先ほどから行儀よく座り、食い入るように見つめていたエアリス
に苦笑しながら、とりあえずそんな注意事項を告げる。どう見ても、
彼女の尻尾は喜びにパタパタ振られているようにしか見えない。食
べる前に、いつものようにちょっと窺うように顔を見た後、素直に
待ちきれないという感じでたこ焼きに手を伸ばす。だが、それでも
宏の注意はちゃんと聞いていたらしく、アツアツのたこ焼きに息を
吹きかけ、慎重に口に運ぶ。
﹁はふ!﹂
やはり、初心者にはややハードルが高かったらしく、口の中でこ
ろがしながら、目を白黒させるエアリス。その様子に苦笑しながら、
とりあえず次を船に盛り付ける。
﹁ん∼、美味しい!﹂
﹁さすが本場の技﹂
外はカリっと、中はとろりと仕上がったたこ焼きを、はふはふと
口の中で転がしつつ堪能する春菜達。その頃には最初の衝撃から立
ち直り、コツをつかんだエアリスが次々にぱくつき始めていた。
﹁因みに、ダシ醤油とかポン酢で食べる、っちゅうんもなかなかい
けるで﹂
﹁へえ? 試してみていい?﹂
322
﹁了解や﹂
そう言って追加で焼き上げたものを、底が深めの適当な器を用意
して盛りつけ、一方にはダシ醤油を、もう一方にはネギとポン酢を
容赦なくかける。
﹁これも美味しい!﹂
﹁以前にいただいた時にも思ったのですが、このポン酢と言うもの
は、さっぱりした酸味が素敵です﹂
春菜とエアリスの歓声に、ドヤ顔をしながら自分の分に手をつけ
る宏。ポン酢まで作ってるのか、とか、そもそも醤油や味噌を作る
ための麹とかをどうやって調達したのか、とか、そう言った突っ込
みはすでに済ませてあるため、突っ込み役の真琴も達也も、もはや
何も言わない。
﹁⋮⋮お前達の国は、こんなものばかりなのか?﹂
﹁これぐらいは序の口。って言うか、一番大事なものが手に入らな
いから、一割も本領を発揮してないよ?﹂
いままで食べた物の無駄にレベルの高い味。その事に対する真顔
にやや呆れの成分が混ざったレイナの問いかけに、力強く言い切る
春菜。その言葉に心から同意する日本人たち。
﹁そうそう。本気で米が恋しくなってきたわ⋮⋮﹂
﹁いい加減、カレーパンじゃなくてカレーライスを食べたいよね﹂
323
﹁いや、まずは卵かけご飯やろ﹂
﹁オムライス⋮⋮﹂
﹁おにぎりもいいんじゃない? おかかに明太子にツナマヨ﹂
﹁⋮⋮牛丼、食いてぇ⋮⋮﹂
達也の魂からのつぶやきに、思わず心の底から同意してしまう日
本人一同。そこから、米に関するトークへと流れていく。
﹁親子丼とか、チャーハンなんかも食べたいよね﹂
﹁そうだな。あと、ビーフカレーもいいが、カツカレーも捨てがた
い﹂
﹁お寿司、お寿司﹂
和気藹々と食べたいものを言い合いながら、たこ焼きを食べきる。
彼らが言いあう、想像もできない料理が気になって仕方がない様子
のエアリスに、思わず苦笑しながら自身に割り当てられたたこ焼き
を堪能するレイナ。そこへ
﹁また、美味そうな匂いを漂わせておるの﹂
﹁あ、おっちゃんお帰り﹂
﹁おう。客人が来とるが、いいかの?﹂
324
﹁ちょう待って。今から焼くから。何人?﹂
話をしていいか、と言うつもりで訪ねた言葉に、そんな返事が返
ってくる。
﹁いや、今後の話をしたいのじゃが﹂
﹁いいじゃないか、エルンスト。折角だから、ご馳走になろう﹂
﹁そうおっしゃるのでしたら﹂
入ってきた長身の少年の言葉に、しぶしぶ頷くドーガ。言うまで
もなく、少年はレイオットである。その姿を見たエアリスが、先ほ
どとは違う意味で目を白黒させた後、声をかけようとして口を開き
かけ、話したいことが多すぎて言葉が出ずに口を閉ざす。
﹁で、何人分焼けばええ?﹂
﹁三人、じゃな﹂
﹁了解や﹂
そんなエアリスの様子に頓着せず、受けた注文に頷き、先ほどと
同様に手際よくたこ焼きを焼いていく宏。その手つきに先ほどの悩
みを忘れ、歓声を上げながら楽しそうに鑑賞するエアリス。結局、
レイオットに対して何か言う、というタイミングを見事に逸してし
まうが、兄のほうも妹の無邪気な姿を見て十分だったのか、エアリ
スを見て一瞬笑みを浮かべると、宏の作業に注目する。パフォーマ
ンスとしてもそこそこと言えるその作業に目を奪われながらも、異
常ともいえるほど高度な魔道具に内心で驚くレイオット。
325
﹁その鉄板、かなりの魔道具だが、自作なのか?﹂
﹁せやで﹂
くるくるたこ焼きをひっくり返しながら、レイオットの問いかけ
に応える宏。レイオットが驚いたのも当然で、魔道具と言うやつの
大半は、武器などに施すエンチャントと違い、機能を使うためには
なにがしかのエネルギーを消耗する。宏がつかっているたこ焼きプ
レートは、その消耗が著しく小さいのだ。普通、一般家庭にある調
理系の魔道具は、単純なオンオフで一定の温度になる類の簡単な物
でも、全くの一般人が半日連続で使うのは厳しい程度の消耗がある。
が、宏の作ったそれは、何の素養も無い一般人でも、丸三日ぐらい
は火をつけていられる程度には効率がいい。たこ焼きと言うものが
どういう立ち位置の食べ物かを知らないレイオットだが、それでも
調理器具のために振るうのは技術の無駄遣いだろう、と断言できる
ほどには高度な代物ではある。
もっとも、ここ一カ月半の宏の制作物は、春菜のレイピアをはじ
めとしたごく一部の例外を除いて、基本的に高度な技を無駄遣いし
ている物ばかりなのだが。
﹁もう一枚、あるよね﹂
﹁よくもまあ、そんな高度な魔道具を二枚も作るものだな﹂
﹁⋮⋮ん∼、まあ、そうやなあ﹂
たこ焼きを焼きながら、何とも煮え切らない返事を返す宏。その
様子にピンと来るものがあった真琴が、ジト目で追及の姿勢に入る。
326
﹁で、本当に、二枚だけ?﹂
﹁ん∼と、やなあ⋮⋮﹂
たこ焼きを焼く手を止めずに、煮え切らない態度を続ける宏。明
らかに、何かを隠している。
﹁怒らないから、お姉さんに言いなさい﹂
﹁その振りは、絶対怒るやろう?﹂
﹁それはあんたの態度次第よ﹂
﹁⋮⋮実は、三つ目があるねん﹂
そう言って、ちょっとたこ焼きを焼く手を止めて、荷物から何か
を引っ張り出す。それを見た真琴の眉がつり上がる。
﹁流石にその材料の無駄遣いは許容できない!﹂
﹁と言うか、何で鯛焼きなんだよ、おい﹂
﹁そうだよ、宏君。小豆もカカオも無いんだから、カスタードと抹
茶しか作れないじゃない!﹂
﹁カレー味とチーズ味もいけんで﹂
﹁宏、春菜! 論点はそこじゃない!﹂
327
何ともずれた内容でもめ始める宏達を見て、頭痛をこらえるよう
に額に指をあてるレイオット。宏が取り出したのは、さすがに鉄板
と言うには無理がある構造をした、無駄に精巧な鯛の型が彫られた
調理器具だった。二枚の板を蝶番で連結したものが三組並んだ構造
で、一組の板には左右対称で六匹ずつ、鯛が彫られている。つまり、
フルに使えば一度に十八個の鯛焼きが作れるのだ。
言うまでもなく、この世界ではオーバースペックにもほどがある
代物であり、間違いなく技と材料の無駄遣いである。こんなものを
作るために努力を惜しまないあたり、努力の方向音痴の名に恥じな
い男だ。
﹁なあ、エルンスト、ユリウス。こいつら、本当に大丈夫か?﹂
﹁私には何とも言えませんね﹂
﹁一応、やる時はやってくれる連中なので、長い目で見てやってく
だされ﹂
しょうもない事でギャースカ言い合いながらも、とりあえずちゃ
んとたこ焼きを焼き上げて三人に渡す宏。そんないつものノリのま
ま、とかく宮廷組の不安をあおる宏達であった。
328
第8話︵後書き︶
だめだこいつら、早く何とかしないと
329
第9話
﹁最近ずっと一人だが、ヒロシとは別れたのか?﹂
﹁チームは組んだまま。宏君はいろいろ作らなきゃいけなくなって、
絶賛工房引きこもり中﹂
﹁そうか、そいつは残念だ。っと、カレーパンとアメリカンドッグ
二つずつ。後、その新作の串カツも二本頼むわ﹂
﹁はーい。一クローネと二十チロルになります﹂
顔見知りの冒険者に近況報告をしつつ、揚げたてのカレーパンを
手早く包んで、葉っぱで作った船に盛ったアメリカンドッグおよび
串カツとセットで渡す。
﹁安い訳でもないのに、相変わらず良く売れてるなあ﹂
﹁今のところ、ここでしか売ってないからじゃないかな?﹂
少し客足が途絶えた隙に、セルフサービスでつけるソースとケチ
ャップの残量を確認しながら、両隣の屋台の主と雑談をする。こう
いう近所づきあいは、商売をする上で欠かせないのである。それに、
冒険者として重要な、情報と言うやつを手に入れやすくなる、とい
う効果もある。
﹁そういや、お前さんの故郷って、他にどんなもんがあるんだ?﹂
330
﹁揚げ物に限定しないんだったら、ものすごくいろいろあるけど⋮
⋮。揚げ物だったら、簡単なところではこういう感じかな?﹂
そう言って手をアルコールで消毒し、朝市で仕入れてきたジャガ
イモを包丁やまな板と一緒に取り出すと、つまみやすい大きさのス
ティック状に切って、ざっと素揚げして塩をまぶす。それを適量盛
って、両隣の店主に渡す春菜。
﹁⋮⋮へえ、こいつは美味いな﹂
﹁一杯やりたくなる味だ﹂
﹁お酒のおつまみだったら、こんなのも﹂
雑談しながら手をアルコールで消毒し、先日風呂の改装中に真琴
が依頼で仕留めてもって帰ってきたトロール鳥の腿肉を材料ボック
スから取り出す。それをざっとぶつ切りにし、醤油をはじめとした
調味料をもみこんで下味をつけ︵いちいちビニールっぽい袋を消毒
してから使うところが芸が細かい︶、片栗粉をまぶす。それを油の
温度を調整してからりと二度揚げして味見してもらう。
因みにトロール鳥とは、名前から想像がつく通りの、全長三メー
トルオーバーの大型の鳥である。トロールの名に恥じぬ生命力と回
復力を持ち、大空を悠々と飛びまわる、生半可な冒険者では身を守
るのが精いっぱい、と言うレベルの相手だ。馬ですら吊り上げる翼
の力と、その重量を固定する足の力はかなりの物であり、その発達
した腿肉と胸肉は火を通すと適度な柔らかさと歯ごたえを持つため、
それなりに高級な食材として流通している。
﹁確かに、酒に合いそうだ﹂
331
﹁正式なコースとかじゃないなら、メインディッシュにもできるよ﹂
鶏肉の唐揚げなど揚げ物の初歩なのだが、そんなものでも珍しそ
うに食べる店主たち。本気で揚げ物と言う調理方法が珍しかったの
だと言う事が、良く分かる光景である。
﹁そいつは売り物じゃないのか?﹂
交代勤務が終わった直後の兵士が、こそこそそんな事をやってい
た春菜に目をつけ、物欲しそうな目で問いかけてくる。
﹁残念ながら、屋台で売り物にできるほど材料がなくて。トロール
鳥二羽程度じゃ、半日も持たないでしょ?﹂
﹁そうかもな。しかし、残念だ﹂
﹁少し残ってるから、カレーパンと串カツのセットを買ってくれた
ら、おまけでつけるけど?﹂
﹁よし、買った。﹂
春菜に乗せられて、カレーパン二個と串カツと言う高い買い物を
やらかす兵士。九十チロルと言う、その気になれば一日分の食費を
賄える金をポンと払い、嬉しそうに唐揚げをぱくつく。
﹁そう言えば、やっぱりまだまだ揚げ物って珍しいの?﹂
﹁少なくとも、屋台じゃまだまだだな﹂
332
﹁鍋は大分出回り出したんだが、やっぱりコンロがなあ﹂
﹁あたしも試してみたんだけど、うちのコンロじゃ火力が足りなく
て、油の温度が上がらないのよねえ﹂
﹁ちゃんと中まで火が通らなかったり、ものすごく焦げたりで、な
かなか上手くいかないしねえ⋮⋮﹂
隣の屋台だけでなく、アメリカンドッグを十本も買って行った近
所の職人や、野菜を中心に串カツを買いに来た女性も同意する。実
際のところ、一般家庭用の魔力コンロでは、揚げ物に適した火力に
調整するのが難しい上に消耗が大きく、業務用だと出回っている鍋
では少々小さい。かといって、専用の物を用意するのは少々金がか
かりすぎて二の足を踏むところだ。それ以上にノウハウが足りない
事もあり、もともと揚げ物を扱っているような高級な店以外では一
部チャレンジャーな店が試行錯誤をしながら揚げ料理に手を出し始
めているぐらいで、まだまだ屋台レベルでは珍しい部類である。揚
げ物でこれなら、蒸し料理も似たようなものだろう。もっとも、こ
ちらはまだ、概念すら知られていないのだが。
実際、料理のときの計量自体が全体的にひどく大雑把な傾向があ
るファーレーンでは、まともな店はノウハウを秘匿しようとしがち
なこともあって、新しい料理やその調理法はなかなか広まらない。
そうやって囲い込むものだからレベルの高い店や料理人とそれ以外
の格差がなかなか縮まらず、全体のレベルの底上げが進まないのだ。
油が出回っている割に揚げ物を見ない理由も、案外こういうところ
にあるのかもしれない。
もっとも、積極的に広めようとしている春菜ですら、どの油がど
んな揚げ方に向いているかとか、どれぐらいの大きさに切ってどれ
333
ぐらいの温度でどれぐらいの時間揚げれば美味しくなるかとか、そ
ういったことを面倒くさがってほとんど教えていないのだから、な
かなか揚げ物の店が増えないと文句を言える筋合いではないのだが。
﹁カレー粉も、全然見ないよね。何人かにレシピは教えたんだけど
⋮⋮﹂
﹁材料自体は安いんだが、無茶苦茶手間がかかるから、売り物にす
ると目玉が飛び出る値段になりそうなんだってさ﹂
﹁そうなんだ?﹂
﹁うちの出入りの薬師はそう言ってたぞ。っと。カレーパン二十個
と盛り合わせ二組、よろしく﹂
﹁は∼い﹂
この近辺に居を構える商店の手代が、そんな情報を大量の注文と
一緒にくれる。因みに盛り合わせは串カツ全種類とアメリカンドッ
グを全て二本ずつ盛ったもので、日によって値段が違う。今日はア
メリカンドッグを含めて八種類。串カツの中には二十チロルの物も
あるので、合計で二クローネをちょっと超える値段になる。
なお、盛り合わせの時は流石に船に盛りきれないため、基本的に
は十分油をきってから包んでいる。ケチャップやソースはセルフサ
ービスのため、この場合は必然的に無しになる。まあ、きちっと味
付けをしてあるので、そのまま食べても十分に美味いのだが。
﹁お待たせ。今日は豪勢なんだね?﹂
334
﹁大きい商売がまとまってな。本格的に動くのはこれからだが、前
祝いって事で人気メニューを集めて回ってるんだ﹂
﹁そっか。じゃあ、ちょっとおまけして十一クローネ丁度にしてお
くね﹂
﹁ありがとう﹂
﹁ケチャップとソース、小瓶入りを各五十チロルで用意できるけど、
どうする?﹂
﹁あると助かるな﹂
﹁了解﹂
注文を受け、小瓶に分けたとんかつソースとケチャップを渡す。
最初の頃はこんなもので商売などしていなかったのだが、欲しいと
いう客が少なからず居たために、今では聞かれれば普通に売るよう
にしている。値段が高く感じるが、ほとんど瓶代なので仕方がない。
正直な話、占有して商売するつもりが全くない春菜達の場合、買っ
て行った誰かがとっとと真似して広げてくれた方が、自分達が知ら
ない料理が生まれるかもしれないと言う点で嬉しいぐらいだったり
する。
そのまま両隣の店からもいろいろ買い取り、自分の店に帰ってい
く手代。それを見送った後、次の注文に備えるために在庫ボックス
をあけて⋮⋮
﹁うわ、在庫ピンチ!﹂
335
まだ半日経っていないと言うのに、いつの間にやらカレーパンの
残りが少ない。考えてみれば、さっきフライドポテトと鳥の唐揚げ
を作った時間帯以外は、客と雑談しながらひっきりなしに十個単位
でカレーパンを揚げていた気がする。
﹁今日は何でこんなにお客さん多いんだろう?﹂
﹁最近、営業時間が不安定だったからじゃないのか? 昨日だって
やってなかったしな﹂
﹁それって、普通は客足が遠のく理由だよね?﹂
﹁ここでしか買えない代物だからなあ﹂
﹁全く、羨ましい限りだよ﹂
などと言いながらも、笑っている両隣の店主。実際のところ、カ
レーパンと相性のいい飲み物だとか、揚げ物の口直しにいい料理だ
とかを売っているので、相乗効果で結構いい売り上げをあげていた
りする。むしろ、春菜にこけてもらうと売り上げが落ちる可能性が
あるのだ。
﹁ちょっと前は、丸一日やってもカレーパン二百とアメリカンドッ
グ二百、串カツ八十ぐらいが最高だったのに⋮⋮﹂
﹁それだけ浸透してきた、って事だろうさ﹂
﹁しまったなあ。もっと仕込んでおけばよかったよ﹂
﹁因みに、あと何個残ってるんだ?﹂
336
﹁残り三十ってところかな。串カツは野牛のが残り十、蜘蛛の足肉
が二十五で、後は四十ぐらいずつある感じ﹂
すでに、盛り合わせはきついと言う事である。昨日受けた︵正確
には、断ると言う選択肢が無かった︶依頼の絡みで、出来るだけ売
れ残りを出したくなかったとはいえ、少々仕込みの量を絞りすぎた
かもしれない。そんな事を言っている端から、さらに客が十人ほど
来て、カレーパンが三個と串カツが合計二十程度出ていく。
﹃どんなもん?﹄
仕込みをミスったか、などと後悔しているところに、宏から通信
が入る。
﹃もう少しで在庫が無くなりそう。後一時間はかからないと思う﹄
﹃ほな、ちょっと作ってそっちに送ろうか?﹄
﹃送るって、どうやって? 誰かに持ってきてもらうんだったら、
多分手遅れだよ?﹄
﹃その在庫ボックス、今共有機能を拡張したから﹄
また高度な機能を無駄に増やしたものである。因みに共有機能と
は、複数の収納スペースをつなげて、中身を共有できるようにする
機能である。この場合、多分屋台の在庫ボックスと工房の食糧庫あ
たりを繋いであるのだろう。本来ならスペースを共有させるものが
全部揃っていないと追加できない機能のはずだが、最初の段階で別
の物と共有してあったので、その別の物を拡張したのだと言う話で
337
ある。宏の力量なら、共有先が複数あるようなものでも、手元に一
つあれば十分らしい。
つないだ空間の数だけ容量が増えると言う事もあって、人によっ
ては割と重宝しているエンチャントではあるが、触媒がかなり高価
なのとNPCだと成功率が洒落にならないほど低い事がネックとな
って、一般ユーザーには高嶺の花、と言う感じの代物になってしま
っている。今回の場合、手伝えることがなくて手待ちだった真琴が、
討伐依頼で狩ってきた獲物の内臓をこのエンチャントの触媒に加工
出来たため、倉庫とパーティの鞄全てを共有化した事は知っていた。
が、在庫ボックスを他の物と共有してあった事は、さすがに知らな
かった。
言うまでもない事だが、こんなえげつないエンチャントは、当然
一般には知られていない。ゲームと違って国家レベルでもほとんど
知られていない様子で、鞄経由で食品や道具のやり取りをしている
宏達を見て、ドーガがしきりに羨ましがっていた。なんでも、騎士
団レベルでも、兵站に関しては普通に徒歩や馬で荷台を引いて持ち
運ぶのが一般的で、容量拡張を限界まで利用しても、普通に手に入
る鞄レベルでは長期戦に耐えられるだけの物資を運ぶのは困難なの
だそうな。
﹃道理で入れた覚えのないものが入ってると思ったよ⋮⋮﹄
﹃とりあえず、どんぐらい送り込めばええ?﹄
﹃そうだね。ん∼、カレーパンだけ、三十個もあればいけるかな?
あればあるだけ売れるとは思うけど、串カツとの兼ね合いからす
ると、そんなもんだと思うよ﹄
338
﹃了解や﹄
春菜の注文を受けて、カレーパンの仕込みに入る宏。今後の仕事
のための道具作りはいいのだろうか、と思わなくもないが、声をか
けてきたという事は、手が空いたのだろう。そんな事を考えながら、
カレーパンを揚げ続けていると⋮⋮
﹁金を出せ!﹂
なかなかいかつい体格の歴戦の戦士風の男が、かなり大ぶりなナ
イフを突き付けながら脅してきた。身なりを見た感じ、食いつめ気
味らしい。いきなりの事態に、周囲の人が悲鳴を上げ逃げ惑う。そ
の様子に眉をひそめた春菜が、怯える様子も見せずに行動を起こす。
その動きは、周りで見ていた一般人はもちろん、当の男にも見切
る事は出来なかった。微かに甲高い金属音が聞こえたと思ったら、
すでにナイフは根元から切り落とされていた。見ると、いつの間に
か抜き放たれていた春菜のレイピアが、切り落とされたナイフの刃
先、その真ん中あたりを串刺しにしている。なぜわざわざそんな真
似をしたのか、理由は単純。下手に切り飛ばして油の中に入ったり、
周りの誰かに当たったりしたら大惨事だからである。
﹁ご注文は?﹂
地面にナイフの刃先を突き刺し、逆にレイピアの切っ先を突き付
けながら、にっこりと微笑んで問いかける春菜。いくらか弱そうに
見えても、大抵のフィールドボスには勝てる技量はあるのだ。強盗
を成功させたいのであれば、せめて義賊アルヴァンとやりあえるぐ
らいの実力は必要である。
339
﹁⋮⋮あ、アメリカンドッグを一つ⋮⋮﹂
何か買えば見逃すと言うサインを理解し、なけなしの金でアメリ
カンドッグを買って這う這うの体で立ち去る男。その様子を見守っ
ていた群衆が、春菜に向けてやんやの喝采を上げる。この事件から
十五分で、追加も含めて全ての商品が売りきれるのであった。
﹁やばそうなのは居るか?﹂
ウルスから少々離れた森の中。澪、達也、真琴の採集チームは、
付近に危険そうな生き物がいないかチェックしていた。レイオット
王太子殿下に昨日押し付けられた、エレーナ王女殿下の治療。その
仕事のために、解毒剤をはじめとしたさまざまな薬剤の材料が必要
になった、と言う事で、達也と澪の訓練も兼ねて、材料調達に来た
のだ。本当は現在採集訓練中の春菜も連れて来たかったのだが、今
後屋台をできるかどうかが不透明な情勢になってきたこともあり、
在庫一掃セールのために残らざるを得なかったのである。
因みに今回の場合、材料調達と言うのは、植物性原料だけではな
い。モンスターの臓物なども対象である。なので彼らは、そこそこ
攻撃的な生き物もいる区域に来ている。採集中は割と無防備になる
ので、索敵はきっちりしておかねば危険だ。それゆえに、普段の依
頼よりも慎重に索敵してるのである。もっとも、森の中と言っても
340
まだまだ踏み込んだばかり、と言う位置関係で、少し後ろを向けば
街道すら見える範囲であり、現時点ではそこまで攻撃的な生き物も
いなければ、持って帰ってありがたがられる素材も生えていない。
﹁ん。あっちに不確定名・大型のトカゲがいる﹂
達也の問いかけに対し、アバウトに空の方を指さしながら、なか
なかにやばそうな事を言ってのける澪。
﹁あっちって、どこよ?﹂
﹁だから、あっち﹂
澪が指さした先を凝視するも、達也も真琴もそれらしき影は見つ
けられない。角度から言って空中に居るらしいが、見える範囲には
鳥すら飛んでいない。
﹁距離は、どれぐらいなのよ?﹂
﹁多分、ざっと十五キロぐらい?﹂
人類の限界をあっさりぶち抜いた事を言う澪。視力強化スキルに
よって鍛えあげられた澪の目ならば、水平線の向こう側ですら見る
事が出来る。
﹁おいおいおい。そんなもん、俺らに見分けがつく訳ねえよ﹂
﹁師匠なら、分かるかも﹂
﹁流石に、お前らみたいに感覚が高い訳じゃないからなあ⋮⋮﹂
341
澪の無体な言葉に、呆れたように突っ込みを入れる達也。ゲーム
においては、感覚と言う能力値はほぼすべての行動に関わってくる
割に、補正が入るスキルが生産全般か射撃系および盗賊系の一部と
芸術系、後は察知・探知系ぐらいしかないと言う、狙って鍛えるの
は非常に難しい能力値だった。生産系と芸術系以外は補正値も修練
ボーナスも低めに設定されていることも、感覚を鍛えるのが難しい
理由の一つである。
そのため、百五十が最初の壁である他の能力値と違い、感覚値は
百を超えるのが非常に困難で、百五十の壁には届いてすらいない人
間が大多数である。宏や澪のように三百なんて数値を鼻で笑う人間
など廃人の間ですら伝説の生き物で、チーム内で三番目の春菜の能
力値ですら、歌唱のエクストラが噛んでいる事もあって、真琴や達
也ではどうあがいても勝負にならないレベルである。一応、製薬と
錬金術が中級に達し、相応に採取と伐採も上がっている達也はまだ
しも、その手のスキルは触ってすらいない真琴はどうにもならない。
﹁しかし、空で大型のトカゲって、やばくないか?﹂
﹁具体的な形状は?﹂
﹁胴体がちょっとずんぐりしてて、前足が皮膜の翼になってる。足
は結構太くておっきな鉤爪がついてて、尻尾に毒針らしいものがあ
る。色は黒﹂
﹁ワイバーン、か?﹂
﹁そんな感じ﹂
342
澪の言葉に顔をしかめる達也。かなり遠出したとはいえ、一般的
な冒険者が加速系アイテムを使って移動すれば、このあたりはまだ
ウルスから日帰りで行き来できる範囲だ。こんなところにワイバー
ンなど、ゲームの時はイベントぐらいでしか出て来なかった。
﹁こっち、捕捉されてる﹂
﹁⋮⋮そう言えば、連中の索敵レンジはかなり広かったな﹂
﹁しかも、肉食なのよね⋮⋮﹂
そこまで言いあって、顔を見合わせる三人。
﹁⋮⋮やっちゃう?﹂
﹁真琴、今の装備で、ワイバーンをやれるか?﹂
﹁余裕。そっちは?﹂
﹁武器だけはいいから、被弾さえしなければいけるだろうさ﹂
相談しているようで、単なる確認でしかない会話を終えたところ
で、澪が無言で弓を構える。射程延長と貫通強化のエンチャントを
重ね掛けしてあるとはいえ、所詮は普通の木材で作ったただの弓だ。
品質の問題で下手な大型クロスボウより威力は上だが、流石にどう
あがいても十五キロも先の相手には届かない。が、こっちが応戦の
構えを取った事は相手にも伝わったようで、このか弱い獲物に向か
って、真正面から突っ込んでくる。
﹁残り十キロ、九、八、七⋮⋮﹂
343
﹁素材を考えると、あんまり派手に焼いたりしない方がいいんだよ
な?﹂
﹁となると、あたしが頭を落とすのが一番手っ取り早いわね﹂
真琴の言葉に、一つ頷く達也と澪。スライムなどのような原始生
物の類でもない限り、頭を落として死なない相手はそういない。ワ
イバーンもその例に漏れず、流石に頭を落とされたり心臓を潰され
たりすれば、確実に死ぬ。
﹁残り一キロ、攻撃する﹂
既に真琴と達也にも姿が見えるワイバーンを睨みつけ、その宣言
とともに、連続で二発、矢を放つ澪。放たれた矢は、見事にワイバ
ーンの翼の付け根を撃ち貫き、突き刺さる。翼の自由が利かなくな
り、バランスを崩して地面に墜落するワイバーン。だが、それまで
の速度が速かった事もあり、墜落地点は澪達から数十メートル離れ
た平地部分だ。その気になれば、お互いに攻撃が可能な範囲である。
﹁オキサイドサークル!﹂
堕ちたワイバーンに対し、割とマイナーな特殊攻撃魔法を発動さ
せる達也。この魔法、相手を閉鎖空間に閉じ込めた上で、大量の酸
素を発生させて酸化および酸素中毒を起こす、もしくは、酸素を全
て奪い取って窒息死させると言う技である。今回は窒息死させる方
を選んだが、流石にタフなワイバーンは、このぐらいでは死ぬどこ
ろか気絶もしない。人間ならば割と早い段階で脳を破壊できる魔法
だが、体の構造の違いもあって、すぐに致命傷、と言う訳にはいか
ないようだ。
344
オキサイドサークルの閉鎖空間に阻まれ、のたうつ事も出来ない
ワイバーン。その哀れな犠牲者の頭を、三カ月愛用している大剣で
一刀のもとに切り捨てる真琴。ドラゴンほどではないにせよ、ワイ
バーンの皮は非常に硬い。それを特に気合を入れるでもなしに切り
落とす真琴は、間違いなく相当な力量の持ち主だろう。動けない相
手を切っただけ、という条件ゆえに活躍はしていないが、元々魔法
使いと弓兵がいて、単独の相手に奇襲が成功したのであれば、前衛
の出番など無いのが普通である。
﹁また、変な魔法を覚えてるわね﹂
﹁生き物相手に素材集めの狩りするときに、物凄く重宝するんだよ。
なにせ、普通の攻撃魔法と比べて、倍は素材が取れる。その上、皮
とかは品質がいい奴が取りやすい。内臓狙いの時は、相手によって
は別の魔法の方がいい事もあるがね﹂
﹁試したの?﹂
﹁まあ、な。こいつやヒロを手伝う事が多かったから、出来るだけ
少ない回数で多く集めるにはどうすればいいかって、いろいろ試し
たもんだ﹂
﹁なるほどね。確かにあたしが達也の立場だったら、絶対同じ事す
るわ﹂
うんうんうなずいて納得する真琴。そんな彼らの様子に頓着せず、
ワイバーンの亡骸を観察する澪。
﹁どうした?﹂
345
﹁このクラスの獲物だと、適当にブロックごとに分けて、師匠に解
体してもらった方がいいかな、って﹂
﹁そうなのか?﹂
澪の言葉に首をかしげる達也と真琴。宏の言葉が正しいのであれ
ば、素材として剥ぎ取るだけなら、澪でもほとんどの物は回収でき
るはずなのだ。
﹁うん。剥ぎ取った段階でエンチャント処理した方がいい、なんて
ものもあるし﹂
﹁具体的には?﹂
﹁ワイバーンの場合、皮なんかがそう。あと、尻尾の毒針は上手く
すれば毒薬にも解毒剤にも使えるけど、これも解体して取り出すと
きに、ちょっとした処理が必要﹂
流石に、単独撃破を目指すならレベル三百以上が目安のモンスタ
ー。いろいろ気を使う素材があるようだ。なお、言うまでもないこ
とながら、あくまで目安が三百、と言うだけで、能力値と所有スキ
ル、プレイヤー本人の技量である程度どうとでもなる。実際、春菜
はレベル百三十五のときにイベントで絡まれて、非常にきわどい勝
負ながら単独で始末するのに成功している。相手の防御力を抜ける
だけの最低限の攻撃力と、即死しないだけのタフさ、そしてちゃん
とした対応能力があれば、たいていの相手は意外と何とかなるのが、
フェアリーテイル・クロニクルと言うゲームである。もっとも、ち
ゃんとした対応能力というのがかなりハードルが高いのだが。
346
﹁別に、ボクがやってもいいんだけど、皮にかけるエンチャント処
理とか、ボクと師匠じゃ効果に三割以上差が出る﹂
﹁だったら、とっととブロックに分けて回収しちゃいましょう。入
るわよね?﹂
﹁問題ない、って言うか、出る前にあいつが共有化とかいろいろか
けてたぞ﹂
﹁了解。本当に、細かいところで凝った事をする奴だわ﹂
そう言って、翼、右足、左足、などという具合にざっくりブロッ
ク分けして鞄に詰め込む。入れた時点で血の流れなども止まるのが
便利だ。口の大きさより入れたパーツのサイズの方がはるかに大き
いが、魔法の鞄にそこら辺を突っ込むのは無粋と言うものだろう。
実際のところ、今回の共有化が無ければ、下手をすればワイバー
ンの素材だけで鞄が満タンになりかねなかった。いかに容量拡張に
よって見た目の数倍は容積があると言っても、今回のワイバーンは
長手方向だと十メートルを超えているのだ。しかも、全てのパーツ
がここら一帯では貴重な素材なので、捨てると言う選択肢も難しい。
共有化によって、全員の鞄の容量+倉庫および在庫ボックスの容量
となっているからいいが、そうでなければ最悪、皮だけ剥いで終わ
りと言う事になっていたかもしれない。
職人として、こういう役に立つ作業だけをやってくれればいいの
だが、関西人の血がうずくのか、先日の鯛焼きプレートやまぜるん
ば、各種調味料のような趣味全開の方向に全精力を注ぎ込み、明後
日の方向に努力を重ねる事も少なくないのが、東宏の困ったところ
である。
347
﹃師匠、師匠﹄
ブロック分けを終え、鞄に突っ込んだところで、カードのパーテ
ィチャットモードで澪が宏に連絡を取る。パーティチャットなので、
この場に居る全員が宏との会話を聞くことができる。
﹃なんや?﹄
﹃ワイバーン仕留めた。解体して﹄
﹃別にええけど、またごっついのんがおったんやな﹄
﹃うん。ちょっと瘴気が濃い気がする﹄
気になった事を報告すると、何やら考え込んでいる種類の沈黙が。
しばし、宏が行っているであろう何かの作業の音だけが聞こえ、そ
の後に困ったような口調で宏が返事を返す。
﹃何ぞ、碌な事になってへん雰囲気やから、注意してや。どうにも、
やな感じがするし﹄
﹃分かってる。無理しない範囲で帰るから﹄
﹃了解。場合によっては、解体は全部こっちに振ってくれてもええ
から﹄
﹃師匠、そんなに手が空いてるの?﹄
﹃アクセは丁度終わったところや。今は、春菜さんのためにカレー
348
パン仕込んどる﹄
その言葉に、屋台の方が相当順調らしいと察する一同。まあ、春
菜が全力で売り子をするのだから、当然と言えば当然なのだろうが。
﹃とりあえず、カレーパンの仕込み終わったら解体作業に移るわ。
ワイバーン肉の食べ方は、春菜さんと相談かなあ﹄
﹃真っ先に食べる方を考えるのかよ⋮⋮﹄
﹃ええやん。食べる事は体の基本やで﹄
達也の突っ込みに、しれっと返す宏。とはいえ、尻尾の先端だけ
とはいえ、一応毒を持つ生き物だ。トカゲの親玉と言う事を考えな
くても、あまり食欲がわく相手ではない。
﹃とりあえず、いつレイっちが患者を連れて戻ってくるか分からへ
んから、適当なところで切り上げて帰ってきてな﹄
﹃分かってるって。まあ、とりあえず二時間ぐらいは粘るから、そ
のつもりでいてくれ﹄
﹃了解﹄
達也の言葉を了承し、通信を切る宏。既に澪は材料採取と言う名
の草むしりに入っている。周囲の警戒を真琴に任せ、自分も材料集
めを手伝う事にする達也。宏や澪ほどの腕はないが、一応これでも
採集と伐採は中級の半ばぐらいには達している。
二時間後、達也達は結構な量のモンスターを仕留め、十分すぎる
349
量の材料を確保して帰還するのであった。
扉をノックする音にエレーナが身を起こそうとするより早く、侍
女が反応する。
﹁どなたでしょうか?﹂
﹁レイオットだ。姉上とお話がしたいのだが、いいだろうか?﹂
王太子の言葉に自分をうかがう侍女に対し、一つ頷いて見せるエ
レーナ。
﹁どうぞ、お入りください﹂
﹁失礼する﹂
部屋の主であるエレーナに一つ会釈をし、優雅な所作で部屋に入
って来るレイオット。後ろには、いつものようにユリウスが従って
いる。弟の様子から、自分に関わる、何か重要な話があるのだと察
するエレーナ。
﹁すぐにお茶を用意いたします﹂
﹁いや、必要ない。それより姉上、人払いをお願いしたい﹂
350
﹁分かりました﹂
お茶を用意しようとしていた侍女に目配せをして下がらせると、
全身の痛みと倦怠感を押して姿勢を正すエレーナ。朝からずっと熱
が下がらず、薬湯や重湯ですら飲み込めずに吐き戻している。正直、
体力的にはつらいどころの騒ぎではないのだが、そうと知っている
レイオットが、多忙の身を押してわざわざ会いに来たのだ。大事な
話なのは間違いない。
﹁それで、話と言うのは?﹂
﹁準備が必要ゆえ、少し待っていただきたい。ユリウス﹂
﹁はっ﹂
そう言って、二人で懐から何やら取り出し、ごちゃごちゃといじ
り始める。次の瞬間、部屋の中を魔力が満たし、外部と完全に隔離
される。
﹁隔離結界とは、また大層なものを張るのね﹂
﹁どこに目と耳があるか、分からないからな﹂
﹁しかも、これほどの魔力を使うものは、見た事もないわ。ドラゴ
ンにでも、喧嘩を売るつもり?﹂
﹁作った男に言わせれば、これでも手を抜いたそうだが﹂
レイオットの言葉に、絶句するしかないエレーナ。
351
﹁⋮⋮本当に?﹂
﹁私たちの話を聞いてすぐ、目の前で加工を始めたからな。三十分
程度で作り上げたのだから、手を抜いたと言うのはあながち嘘でも
ないだろう﹂
﹁その人、一体何者なのかしら?﹂
﹁ニホン人、だそうだ。エルンストの子飼いのマコトと言う冒険者
と同郷だと言っていたから、知られざる大陸からの客人だと考えて
間違いないな﹂
レイオットの解説を聞いて納得する。それなら、これほどの物を
作りだしてもおかしくないだろう。
﹁それで、だ。姉上﹂
﹁何かしら?﹂
﹁その男なら、あなたの体を治せる可能性がある。ただし、奴をこ
こに連れてくるのは、現状では難しい﹂
﹁それは、どうして?﹂
﹁簡単だ。ここでは、治療が妨害されかねん、と言い張っている。
しかも、残念ながらそれを否定できない﹂
レイオットの言葉に、渋い顔をしてしまうエレーナ。心当たりが、
ありすぎるほどある。特に、カタリナのそばにいる男が。
352
﹁それで、私はどうすればいいの?﹂
﹁姉上に求められている事は、大したことではない。物置のような
粗末な部屋に文句を言わない。体調以外の理由で、出されたものを
残さない。治療経過が思わしくなくても、文句を言わない。態度が
無礼でも罪に問わない﹂
﹁部屋についてはともかく、それ以外は当たり前と言えば当たり前
の話ね﹂
﹁我々も釘を刺された。手遅れでも文句を言うな、とな﹂
考えたくない可能性についても、既に釘を刺されていたらしい。
﹁それで、結論は?﹂
﹁姉上が納得するのであれば、その男に全てを任せるつもりだ。父
上も宰相も、既に納得している﹂
﹁魔道具作りが得意なのは分かったけど、それで治療など、できる
のかしら?﹂
﹁これを目の前で作ってみせられては、納得するしか無かろうさ﹂
そう言って、姉に何かを渡すレイオット。受け取ったそれを見て、
怪訝な顔をするエレーナ。
﹁小瓶? たかが瓶に、随分と強い魔力を込めてあるわね。中身は
薬のようだけど⋮⋮﹂
353
﹁四級のヒーリングポーションだ﹂
﹁!?﹂
とんでもない事を、あっさりと言ってのけるレイオット。その言
葉に、思わず瓶を取り落としそうになる。
﹁ほ、本物なの⋮⋮?﹂
﹁ああ。宮廷魔導師と薬師に確認を取らせた。間違いなく四級ポー
ションだ。もっとも、材料の都合で、五本程度しか作れなかったそ
うだがな﹂
弟の言葉を聞き、手元のポーションをまじまじと観察する。確か
に瓶からして、たかがポーションに使うものとは思えないほど強力
な魔力が漏れている。蓋に手を当ててレイオットをうかがい、頷い
たのを確認してほんの少し開封する。流石に伝説手前となっている
四級ポーション、とでも言えばいいか。わずかに開封した隙間から
洩れたにおい、それだけで毒素に痛めつけられた体が楽になった気
がする。
事実、この四級ポーションが本物かどうかを確認した時、訓練で
受けた軽い怪我が、においをかいだだけで治癒したケースがあった。
二週間前に秘密裏に行われた大規模討伐、その時に瀕死の重傷を負
った騎士が、後遺症こそ残れどその一本で復帰できるレベルまで回
復したのだから、とんでもないポーションである。こんなものを、
何でもないように目の前で駄弁りながら作ってのけるような薬剤師
は、少なくともこの国と隣国二国にはいない。
354
因みに、このポーションの材料、ピアラノークのはらわたを処理
したものが使われている。他の材料は、二度目に糸を回収しに行っ
た時に、ついでにあれこれ植物系材料をかき集めてきたものだ。実
のところ、五本程度しか作れなかったのは、薬の材料ではなく、瓶
の材料の都合だったりするのだが、流石にそんな裏事情は、レイオ
ット殿下は知らない。
﹁これを作れる男が言うのだから、彼にどうにもできないのであれ
ば、誰にもどうにもできないだろう﹂
﹁そう⋮⋮﹂
レイオットの説明は、納得するしかないものである。どこからか
持ってきたものならば、騙されている可能性も指摘できるのだが、
目の前で作った、と言うのであれば誤魔化しようがない。ちゃんと
効果が出ている以上、騙すために適当に作った偽物だと言う線も消
えている。だが、本物を作れるからこそ、危険なのではないのか、
と言う疑問がなくもない。
﹁その男たちが信用できないのであれば、もう一つ補足説明をしよ
う﹂
﹁まだ、何かあるの?﹂
﹁その男には、エアリスが随分懐いていてな。エルンストもそれな
り以上には信頼しているようだから、人柄には問題ないと判断して
いる。もっとも、油断すると趣味に走って妙なものを作りがちでは
あるようだが﹂
﹁妙なもの、って?﹂
355
﹁私が見たのは調理器具だったが、正体不明の菓子だとか妙な調味
料だとか、主に食の方面で暴走しがちだそうだ﹂
それを聞いて、出されたものはちゃんと食べろと言う約束を、早
まったかもしれない、と思ってしまうエレーナ。だが、レイオット
がこの話を持ち出した、と言う事は、もはや選択肢は無いのだろう。
﹁⋮⋮分かったわ。いくつか不安要素があるようだけど、きっと、
他に選択肢は残されていない。その方に、お願いして頂戴﹂
﹁ああ。これからそのための手続きを済ませてくる。一時間後に迎
えに来るから、それまでに準備を済ませてくれ。後、万全を期すた
めに、侍女を連れていく事は出来ない。ある程度、自分の事は自分
でする事になるだろうから、済まないがそのつもりでお願いしたい﹂
﹁命が助かるのであれば、それぐらいの覚悟は決めるわ﹂
エレーナの言葉に頷くと、魔道具を解除して部屋を後にするレイ
オット。一礼したユリウスがエレーナのために侍女を呼び、レイオ
ットの後を追いかける。
﹁療養のためにここを離れることになったから、身の回りの物を用
意して頂戴﹂
﹁分かりました。随行員は、どうなさいますか?﹂
﹁向こうが用意してくれるそうだから、必要ないわ﹂
疲労でぐったりとしながらのエレーナの言葉に、顔色を変える侍
356
女。
﹁それは認められません!﹂
﹁お父様と王太子殿下が決定なされた事よ。あなたも、心当たりが
あるのでしょう?﹂
﹁⋮⋮ですが⋮⋮﹂
﹁決定事項よ。納得しなさい。出発は一時間後だそうだから、急い
で﹂
﹁せめて私だけでも!﹂
言い募る侍女に首を横に振り、準備を急かす。迎えに来たレイオ
ットに命をかけて食い下がった侍女だが、結局その言葉が受け入れ
られる事は無く、感情面で小さくないしこりを残したまま、エレー
ナは治療に向かうのであった。
﹁⋮⋮何をしているのだ?﹂
エレーナを御姫様だっこで抱えたレイオットが工房の敷地に入っ
た時、宏は何やら大型のモンスターを解体していた。ぶら下がって
いる皮を見るに、おそらく黒い爬虫類なのだろう。
357
﹁あ、レイっち。早かったやん﹂
声をかけたレイオットの方を見ず、やりかけの作業を続行しなが
ら返事を返す宏。どうやら、途中で手を止めるのはまずい工程だっ
たらしい。
﹁⋮⋮お前たちぐらいだろうな。許可をもらったからと言って、我
々にそこまで気安く接するのは﹂
﹁ええやん。ここにおる間は肩書なんざ無しって事で﹂
レイオットをレイっちなどと妙な呼び方をする男に、彼の腕の中
でエレーナが目を白黒させる。王族相手にそう言う呼び方をするだ
けでなく、振りかえって人の顔を見たとたんにびくっとしてそそく
さとあからさまに距離をとるなど、実に失礼な男だ。確かに今のエ
レーナはやせ衰えてぼろぼろで、正直正視に堪えない姿をしている
自覚はあるが、それでも初対面の相手にとるべき態度ではない。な
いのだが、王族と知っていてそれをやると言う度胸は、ある意味好
ましいと言えば好ましいのかもしれない、と、あまり回らない頭で
妙な事を考えるエレーナ。
﹁それで、なにをしていたのだ?﹂
﹁ん? ああ。真琴さんらがワイバーンを仕留めたから、ばらして
処理しとってん。もうじき食材仕入れて春菜さんが戻ってくるから、
ブロック肉の毒抜きをな。まあ、いうても熟成の問題とかもあるか
ら、今日すぐにっちゅうわけにはいかんけど﹂
﹁⋮⋮ワイバーン、だと? それも、よりにもよって、黒? どこ
358
で出てきた、と言っていた?﹂
﹁大霊峰の麓あたりらしいわ。何ぞ、ちょっと瘴気が強なってる気
がする、言うとったで﹂
ろくでもない情報に、表情が凍りつく二人。その様子に頓着せず、
話を進める宏。
﹁で、そのお姉さんが、第二王女殿下?﹂
﹁⋮⋮ああ。エレーナ姉上だ﹂
﹁んじゃまあ、一応部屋は用意してあるから、粗末で悪いんやけど、
そこに連れてってくれへんかな?﹂
﹁分かった﹂
宏に案内され、粗末と言うよりは質素、と言う感じの部屋に入る。
広くは無いが、少なくとも人一人を介護するには十分なスペースが
あるその部屋は、質のいい家具がセンス良く配置され、狭いなりに
とても居心地がよさそうだ。窓際に置かれた一輪ざしの可憐な花が、
エレーナを快く迎え入れてくれる。
﹁ほな、もうじき澪が帰ってくるから、きちっとした診察はそれか
らやな﹂
﹁今からやらないのか?﹂
﹁⋮⋮僕に女体に触れと? それ、どんな拷問やねん﹂
359
宏の言葉に、先ほどの態度も含めて何かピンと来るものがあった
らしい。エレーナが恐る恐る質問する。
﹁初対面でぶしつけだとは思うのだけど、あなたもしかして⋮⋮﹂
﹁正直、一生関わりあいになりたない程度には、女の人が怖いけど
何か?﹂
﹁⋮⋮面倒をかけて、申し訳ないわね﹂
﹁ええよ、ええよ。困った時は、お互い様や。そう言えば、一応自
己紹介しとこか。僕は東宏。このチームの製造責任者や。必要なも
んがあったら、下着以外は大概作れるから、何でも気軽に言うてや﹂
今更と言えば今更のような自己紹介に、軽く会釈を返すエレーナ。
﹁そう言えば、その件に関してエルンストが、と言うよりはレイナ
がひどい粗相をやらかしたそうだが⋮⋮﹂
﹁終わった話やから、気にせんでもええで。今のところ、またやら
かす様子もないし﹂
﹁だが⋮⋮﹂
﹁今、人が足りてへんねんやろ? それに、どうもああいうガチガ
チなタイプは、自分でもやらかした思ってる事を責められもせんと、
やらかした相手に優しいされるとそっちの方が堪えるみたいでな。
食事ん時は雰囲気悪うせんように強がって平気そうにしとるけど、
空き時間はものっそい居心地悪そうやし、十分罰になっとると思う
で﹂
360
現状のレイナは自分で自分の事を全く信用していない様子で、何
かやる事、出来る事は無いかを聞くときと、言わなければいけない
事、確認する必要がある事があるとき以外は、滅多に宏に話しかけ
ない。逆に、宏に言われた事は、どんな無体な要求でも文句ひとつ
言わずに黙々とこなしている。トイレ掃除だとか汚物の処理だとか、
人が嫌がりそうな事に至っては進んでこなす徹底ぶりだ。
これが他の人間なら、反省しているふりを疑われても仕方が無い
のだが、レイナの場合そういう駆け引きは宏以上に向いていない。
ゆえに、例の件から二日三日は納得いかない、と言う感じが残って
いた春菜も、今や進んで有耶無耶にしようとする方に回っている。
良くも悪くも感情がストレートに行動に直結しやすいのが、レイ
ナ・ノーストンという少女なのだ。
﹁どっちにしても、反省が足らん思うたら、おっちゃんが焼き入れ
るやろうから、そこら辺に関しては僕は口はさむ気はあらへんし﹂
﹁そうか。なら、エルンストの方には後で間を見て、私から釘を刺
しておこう﹂
﹁そこら辺は好きにしたって﹂
そっけなく話を切り上げると、何やら道具を用意しながら考え込
む宏。少し考えた上で、今からすべき事を口に出す。申し訳ないと
思いつつも、終わった事にしたがっている宏の態度に甘える事にし、
とりあえず治療のための指示を聞く態勢になる二人。
﹁まあ、触診とかちゃんとした診察は後回しにするとして、とりあ
361
えず問診だけ済まそうか。あ、そうや、レイっち﹂
﹁何だ?﹂
﹁毒素を調べるために、お姉さんから血をもらいたいんやけど、自
分出来へん? 終わったら、治療用に等級外ポーションを飲んでも
らえばええし﹂
﹁⋮⋮やってみよう。指示をよこせ﹂
﹁はいな﹂
採血、などと言う作業は初めてだが、血管がどこにあるかぐらい
は知っている。宏の指示に従って姉の血管に針を刺し、多少の血を
抜いて渡す。受け取った血に、ポシェットから取り出した何かを浸
しながら、問診を続けていく宏。
﹁大体は、エルに聞いとった通りやな﹂
﹁エル?﹂
﹁エアリス姫様の偽名。匿っとんねんから、素直に呼ぶ訳にはいか
んやろ?﹂
宏の説得力のある言葉に、思わず納得するエレーナ。
﹁それにしても、レイオットにしろエアリスにしろ、そんな珍妙な
呼び名を許すのだから、随分と仲良くなったものね﹂
﹁エルはまあ、成り行きとはいえ命の恩人やからなあ。レイっちに
362
関しては、ある意味同類やから、ってところでどない?﹂
﹁同類か、なるほどね﹂
﹁ああ。同類だ﹂
宏の言葉ににやりと返すレイオットと、思わず苦笑するしかない
エレーナ。宏には悪いが、レイオットが彼の同類のまま、と言うの
は王家の血筋を存続させる、という観点では実にまずい。が、宏の
ように関わりあいになりたくないほど怖い、と言う訳ではないが、
レイオットの身内以外の女性に対する不信感と憎悪は相当なもので
ある。
﹁それにしても、僕みたいになし崩しで共同生活する羽目になった
訳でもないのに、春菜さんとか澪に対しては、えらくあたりが柔ら
かいやん。エルが驚いとったで﹂
﹁ミオはいろいろな意味で子供だからな。女として扱う方がどうか
している﹂
﹁春菜さんは?﹂
﹁彼女ほど女性らしい人物は確かにそうはいないが、ある面におい
てはあれほど女を感じない人物も珍しいぞ。どうにも、警戒しよう
にも毒気を抜かれる﹂
春菜は、女性特有のどろどろした感情を驚くほど感じさせない。
急に打算的になったり、妙なところで現実的だったり、女性に多い
心の動きがない訳ではないが、少なくとも権力に群がって来る女が
持ち合わせているような、そんな黒さ、汚さは一切ない。多分にそ
363
れは、春菜が実際は誇り高い人物である事が大きいのかもしれない。
﹁何にしても、ハルナやマコトは、尊敬に値する人物だ。いくら女
性と言うものを憎んでいると言っても、女性だからと言うだけでそ
ういう人物を遠ざけるほど愚かでは無いつもりだぞ﹂
﹁なるほどなあ。っと、そろそろええかな﹂
何やら納得したところで、先ほど血に浸したあれこれを取り出し、
真剣な顔で確認する。
﹁予想通り、やな﹂
﹁では?﹂
﹁間違いなく、毒や。予想通りとはいえ、エミルラッドとは手の込
んだ真似をしよる﹂
﹁エミルラッド、とは?﹂
聞いた事のない名を告げる宏に、真剣な顔で続きを促すレイオッ
ト。
﹁無味無臭、無色透明の猛毒や。銀みたいな毒に反応しやすい金属
にも影響を与えへん、生き物を殺すためだけの毒物やな。ただ、普
通に致死量を混ぜ込むと、飲みもんやろうが食べもんやろうが分離
して一目瞭然になるし、そんなもん口に入れたら、飲み込む前に拒
絶反応で吐いてまうから、いろいろ工夫がいってな﹂
﹁具体的には?﹂
364
﹁そうやな。一番確実なんは、毎回食後のティーポットに水滴一滴
たらして、大体一カ月言うところやな﹂
﹁その程度の分量を茶葉に混ぜ込めばいい、ということか?﹂
﹁そんなとこや。ついでに言うと、それぐらいやったら、毒見の人
には引っ掛からへんし﹂
などと言ってはいるが、宏個人は食事への混入ではない、もしく
は、それだけで中毒にしたのではない、と思っている。
﹁ただ、それやと姫様を中毒にするんは確実にできても、他の人間
を巻き込まんと済ますんは厳しいから、別の方法も考えた方がええ
やろうな﹂
﹁具体的には?﹂
﹁接触でも体内に取り込むから、姫様しか使わへん道具に塗ったく
られとった可能性もある。他にも、姫様の化粧品、香水なんかにも
微量ずつ混ぜ込んであった、っちゅう線も疑わしい﹂
﹁つまりは?﹂
﹁首謀者が余程でもない限り、結構な数の協力者がおるはずや﹂
考えたくなかった事実を突き付けられ、渋い顔で沈黙する二人。
﹁まあ、間一髪、言うレベルやけど、治療自体は出来る範囲や。た
だ、なあ﹂
365
﹁ただ?﹂
﹁ちょっと症状が進みすぎとるから、多分結構な後遺症が残るわ。
それに、こいつを直接解毒する、となると、材料が難儀やねん﹂
﹁何が必要なのだ?﹂
厄介な事を言い出す宏に、眉をひそめながら問いかけるレイオッ
ト。
﹁ソルマイセンっちゅう果物や。高地やと割といつでも生ってるん
やけど、物凄く足の早い実でな。収穫してから腐り始めるまで遅く
ても一日かからへんぐらい、完全に腐り切るまでに二日かからへん
ような厄介な実や。しかも食用としては微妙な味で、薬用につかう
にはかなり面倒な処理が必要なうえに、収穫するんにも扱うんにも
相当な腕がいるねん。せやから、基本的に需要の無い果物やから、
いくらウルスが世界一の物流拠点や、いうても、流石にこんな珍妙
なもんは出回って無いやろうなあ、って﹂
﹁割といつでも生っている、のだな?﹂
﹁花が割といつでも咲いとるからな﹂
宏の説明を聞き、即座に行動を決めるレイオット。
﹁ならば、採りに行かせよう。特徴を教えろ﹂
﹁それやったら、今日の採集チームに行ってきてもろた方が早いや
ろ。まあ、特徴は教えるから、念のために市場に出てないか探して
366
くれへん?﹂
﹁分かった。済まないが、姉上の事を頼んだ﹂
﹁引き受けた以上は、ちゃんとやるから安心し﹂
宏の言葉に一つ頷くと、ざっとソルマイセンの特徴を聞いて転移
術で帰還するレイオット。その姿を見送った後、宏の方を向くエレ
ーナ。
﹁後遺症って、どんなものが?﹂
﹁虚弱体質やな。多分、何の手当ても無しやったら、前みたいに健
康な生活は出来へんなると思う﹂
﹁何の手当ても無しなら、と言う事は、何か方法はあるのね?﹂
﹁まあ、そのためにいろいろ作っといたから﹂
エレーナの問いに応え、再びポシェットから何かを取り出す。
﹁こっちがスタミナ増強の指輪、これが生命力強化のイヤリング。
他にも耐久力向上とかあれこれ用意しといたから、これとスタミナ
ポーションで、今の状態でも歩くぐらいの事は出来るようになるは
ずやし、多分、ある程度は食べて消化してくれるはずやで﹂
﹁⋮⋮また、ずいぶんと強力な術が付与されているようだけど、あ
なた一体何者?﹂
﹁単なる職人や﹂
367
宏の言葉に納得できない様子のエレーナ。そんな彼女を見て苦笑
しつつ、入れ違いで外出から戻って幻術を解いていたエアリスを呼
ぶ。
﹁お姉様、そのお姿は⋮⋮﹂
宏に呼ばれてエレーナの見舞いのため部屋に入ったエアリスは、
変わり果てた姉の姿に絶句する。
﹁正直、油断していたわ。現状、あなたの予備でしかない私が、ま
さか一服盛られるなんて、ね﹂
﹁申し訳ありません⋮⋮﹂
﹁エアリス、私の可愛い妹。どうしてあなたが謝るの?﹂
エアリスを招き寄せ、その頭を抱え込んで優しく撫でる。とは言
え、彼女に責任がないことは明白ではあるが、エアリスが全く無関
係ではないだろう、と言うのもまた、間違いない事実ではある。
﹁とりあえず、まずはお姉さんの体を、日常生活ができる程度まで
回復させるところからスタートやな。そこから先、エルをどないし
て責任を追及されへん形で安全に元居ったところに帰らせるか、っ
ちゅうのが課題、ってとこかいな?﹂
﹁そうね。まあ、そのあたりは、お父様や王太子殿下に任せましょ
う。所詮、私は権限のない予備だから、ね﹂
何ともマイナスの印象を受ける言葉を、あっけらかんと言っての
368
けるエレーナ。なんだかんだと言って、ここで治療を受けること自
体には、全く文句が無い様子である。
﹁さて、春菜さんが帰ってきたみたいやし、晩御飯の準備に入ろう
か﹂
そう言って、エアリスを看病のためにその場に残し、台所の方へ
降りていく宏。その日、エレーナに出された夕食は、醤油と煮干し
のダシをベースに野菜のエキスを煮出した具の無いスープで、滋養
たっぷりの優しい味が弱っていた胃にゆっくりと沁みこんで彼女を
癒すのであった。
369
第10話
﹁確認したいんだが、この後どうするつもりだ?﹂
エレーナが工房に来た翌日。朝食後、代表で達也が宏に問いかけ
る。治療と言う作業が主体となるため、現段階では、チームの行動
を決めるのは宏に一任されている。
﹁兄貴らには帰って来てすぐで悪いんやけど、また採集に行って欲
しい。澪やったら、ソルマイセンは分かるやろ?﹂
﹁ん﹂
宏の指示に頷く三人。
﹁兄貴らが行ってる間、僕は出来る範囲でエレ姉さんの治療をやっ
て、空いてる時間にワイバーンの革で鎧でも作っとくわ﹂
﹁私は?﹂
﹁春菜さんは、基本は待機。エレ姉さんの介護で、頼みたい事とか
いろいろ出てくるはずやし。待ってる時間がもったいないから、適
当に空いてる機材で、注文の等級外ポーション作っといて﹂
﹁了解﹂
﹁後、これは出来たら、でええんやけど、おっちゃんとかリーナさ
んと協力して、エルをちょっと鍛えたって欲しい﹂
370
宏の意図するところを理解し、名指しされた三人が真剣な顔で頷
く。所詮十歳児にできる護身術などたかが知れているが、直接命を
狙われた以上は、そのたかが知れている護身術でも身につけないよ
りはましだろう。付け焼刃はかえって危険だ、という指摘もあるが、
この場合、重要なのは心構えである。
それに、エアリスは聡明な少女だ。護身術を身に付けたからと言
って、襲われた時に相手を撃退しようとするような、そんな無謀な
真似はしないだろう。当人も意図を理解しており、三人に向かって、
よろしくお願いします、と頭を下げている。
﹁あ、そうそう。おっちゃん、そんなようさんでなくてええから、
どっかから鉄鉱石、仕入れられへん?﹂
﹁伝手をたどれば出来ん事は無いが、何故じゃ?﹂
﹁エルと姉さんのな、護身用の懐剣打っとこうか、ってな﹂
﹁鉱石の方がいいのか? 何なら、鉄塊を買ってくることもできる
ぞ?﹂
﹁どうせ溶かしていろいろ細工するところからやから、鉱石の方が
都合がええ﹂
宏の言葉に頷くと、頭の中で調達の算段を立て始めるドーガ。
﹁懐剣を作る、で思ったんだけどさ﹂
﹁真琴さん、何か?﹂
371
﹁そろそろ、宏も自分の武器、ちゃんとしたのを作ったら?﹂
﹁まあ、そのうちな。今回は、時間的にも材料的にもちょっと厳し
いからパス﹂
そんな気のない返事に、思わず苦笑する一同。他のメンバーはま
ともな武器を手に入れたと言うのに、この男はいまだに伐採用の手
斧や採掘用のツルハシ、採集に使う大型スコップ、鍛造用のハンマ
ーなどを使いまわしているのである。そうでなくても攻撃用の技が
スマッシュしかないと言うのに、さらに戦闘能力を下げる要因を放
置しているのは、冒険者としてどうなのかと思わなくもない。
﹁後、宏も戦闘訓練、ちゃんと受けた方がいいんじゃない? うち
のチームだと、あんたが必然的に前で敵の攻撃を食い止める事にな
るんだからさ。時間的に攻撃周りは後回しにするとしても、せめて
フォートレスとアラウンドガード、アウトフェースぐらいは身につ
けておいた方が、後々楽よ﹂
﹁真琴さん、その辺は使えるん?﹂
﹁あたしも一応できるけど、元々タンク専門じゃないから、そんな
にがっつりとはやってない。でも、ドルおじさんはむしろそっち方
向でしょ?﹂
﹁うむ。斧の技は無理じゃが、そこらへんの技とスマッシュの派生
系ぐらいは伝授できるぞ?﹂
﹁それも、余裕がある時に。多分、そこまで手をあけるんは、しば
らくは無理や﹂
372
﹁もちろん、治療がひと段落してから、の話よ﹂
これまでと違い、当分は宏に振られる仕事量が多い。エレーナの
治療にエアリス達の武器作り、そして、材料の問題でこれまで手つ
かずだった防具の充実。他にも、もしもの時のための保険として、
エレーナの治療着やら何やらも強力なものを作らねばならないし、
今までのように趣味に走って妙なものを作るような余裕は、しばら
く手に入らないと考えていいだろう。
なお、フォートレスとは防御力向上、アラウンドガードとは広域
防御、アウトフェースは威圧型の集団挑発である。どれもこれも、
普通壁役として前に立つならほぼ必須と言われている類のスキルだ
が、今まで宏は無しでやってきた。これに関しては、難しいダンジ
ョンに潜った事がない事に加え、各個撃破で仕留めていくのであれ
ば、スマッシュと挑発を駆使すればある程度何とかなるからでもあ
る。
それに、VRMMOは性質上、俯瞰視点で遊ぶゲームに比べると
どうしても死角が大きいため、複数で行動する場合、壁役が出来る
前衛一人しか用意せずにダンジョンに潜る、などと言う事はほとん
どしない。なので、元々専門扱いされていない宏の場合、一緒に潜
る連中も、敵を完全に抑え込むことについてはそれほど期待してい
なかったのである。むしろ、スキル構成の割には優秀な壁役だった
事もあり、これまで文句を言われた事は一度も無い。
﹁そこらへんの事はまあ、腰据えてやらなあかんから、まずは治療
の方、目途つけてまおう﹂
﹁だな。ヒロが前衛として完璧な働きを出来るようになりゃ確かに
373
楽だが、現状急ぐ必要がある類の事でもない﹂
﹁でも、余裕ができたら、絶対にやらなきゃ駄目だからね﹂
真琴の言葉に苦笑しながら頷くと、それぞれの行動を促す。
﹁さて、長距離移動の準備だが⋮⋮。澪、そのソルマイセンとやら
がある場所までどれぐらいかかる?﹂
﹁戦闘が全くなくても、移動だけで二日は要る﹂
﹁了解。食料が難儀だな﹂
﹁あ、それについては、言ってくれれば用意するよ。共有化してる
から、いつでもそっちに送れるし﹂
﹁そっか。なら、装備と鞄だけ持って行けばいい訳だな﹂
春菜の提案に、ありがたそうに頷く達也。正直、まともな食事に
ありつけるかどうか、と言うのはかなり大きい。この一点だけでも、
鞄の共有化はメリットが大きい。個人所有出来るアイテムが無くな
るとか、いろいろ問題があるのも確かだが、どうせ一蓮托生のこの
状況、チーム内でのレアアイテムの奪い合いなど意味がない。多分
そのうち、男のロマンがはちきれんばかりに詰まった書物とかを買
いたくなる日が来るだろうが、その時はそっち用の袋なりなんなり
を用意すればいいのである。
﹁因みに、お昼はおそばにするつもりだから、食べたい具とかあっ
たら言ってね。可能な限り用意するから﹂
374
そば、と聞いて、エアリスの顔が輝く。彼女は、そばが大好きな
のである。もっとも、彼女は大抵のご飯を喜々として食べるのだが。
﹁そうか。カレー南蛮とかも、いけるか?﹂
﹁了解。澪ちゃんと真琴さんは?﹂
﹁天ぷらそば、今のマイジャスティス﹂
﹁肉系が入った奴がいいかな。後、山かけそばも捨てがたいから、
出来たら二杯食べたい﹂
真琴の、体育会系かと言いたくなるような宣言に苦笑しながら、
了解の返事を返す。
﹁じゃあ、ちょっと仕入れに行ってくるけど、いいよね?﹂
﹁頼むわ。僕はこれから、薬処方するから﹂
﹁じゃあ、俺達は道具を用意したら、すぐ出かける﹂
目先の行動が決まり、三々五々散っていく。チーム総出でのプロ
ジェクトが、幕を切って落とされた瞬間であった。
375
﹁さてと、このワイバーン肉、どうするかな?﹂
昼食も終わり、エアリスの訓練、その初日をつつがなく終了した
ところで、微妙に手待ちになった春菜が、食糧庫を確認して考え込
む。流石に十メートルを超える獲物だけあって、肉の量も半端では
ない。首を落とした以外のダメージが、翼の付け根に刺さった矢だ
けだったため、ほぼ丸々一匹分素材が取れているのである。
夕食には少々早い時間だが、仕込む量によっては相当手間がかか
る。それに、未知の食材なのだから、最初は時間をかけて検討した
方がいい。まだ時間が早いのであれば、練習も兼ねて薬を作ればい
いのでは、と言われそうだが、いくら腕が良くなっていく実感があ
るとはいえ、延々と等級外ポーションを作り続けるのは、それはそ
れで心が折れそうになる。宏じゃあるまいし、十六時間ぶっ続けで
調合作業など、まともな人間には不可能だ。
﹁とりあえず、毒はちゃんと抜けてるだろうけど、生はまずいよね
?﹂
流石に、このクラスの生き物に寄生虫などいないとは思うが、そ
こは絶対とは言い切れない。確実を期すなら、きっちりと火を通す
べきだろう。なお、春菜は未知の食材を料理する時、声に出して考
えをまとめるため、普段に比べて独り言が多くなる。
﹁無難なのはステーキかシチューだけど、これだけあるんだから携
行食も含めて、いろいろ試すかな﹂
そう呟いて、とりあえず手頃な腿肉のブロックを取り出す。まず
は味見するのに適当な大きさに切って、無難に焼いてみることに。
376
﹁⋮⋮鶏肉に近い感じかな? それも、普通の鶏より軍鶏とか比内
地鶏に近い感じ?﹂
鶏肉、と言うと思いつくのが焼き鳥と唐揚げ。だが、焼き鳥はタ
レを仕込むところからスタートになる上、そのタレがちょっと寝か
した方がよさそうな気がする類の物なので、今回はパス。と、なる
とまずは
﹁唐揚げかな。でも、普通に唐揚げにするのも芸がないから、ちょ
っとひねってみるかな﹂
いろいろ材料を確認したうえで、思い付いた料理のための準備に
入る。ざっと材料を揃えたあたりで、厨房に誰かが入って来る。
﹁エルちゃん?﹂
﹁ハルナ様、少々よろしいでしょうか?﹂
﹁どうしたの?﹂
﹁お姉様が、喉が渇いたとおっしゃられまして﹂
そう言って、空になった水差しをおずおずと差し出す。
﹁ん、了解。ただの水でいい? それとも、何か飲み物を用意しよ
っか?﹂
﹁少し味があるものがよろしいかと思います﹂
﹁んっと、じゃあ⋮⋮、先週仕込んだサフナのジュースがあるけど、
377
それにする?﹂
﹁はい。お姉様も、サフナのジュースはお好きです﹂
エアリスの言葉に頷き、食糧庫から良く冷えたジュースを取り出
す。なお、サフナとはリンゴのような形状をした柑橘類で、柑橘類
としては酸味が少ないのが特徴だ。良く熟したものは手で皮がむけ
るほど柔らかくなり、軽く絞っただけで大量の果汁があふれ出るほ
ど水気が多い。水気が多すぎるため、食用に使うには熟す前のもの、
飲み物に使うのは完熟したもの、と言う感じで使い分けられている。
柑橘類としては胃に負担が少ないのも特徴で、病気の時はお湯で割
ったものを飲むことも多い。
﹁それで、エレーナさん、晩御飯は肉料理、大丈夫そう?﹂
﹁それについては、食べられるように薬処方しといたから、春菜さ
んは好きに料理したって﹂
春菜の疑問に答えたのは、いましがた厨房に顔を出した宏であっ
た。
﹁薬って、具体的には?﹂
﹁食欲増進の薬と、消化剤やな。まあ、普通の胃薬も用意してある
から、量を調整すれば、少々重くてもいけるやろ﹂
﹁毒の方は、どんな感じ?﹂
﹁根治まではまだまだやけど、とりあえず幻痛を押さえるぐらいま
では抜けたみたいやで。用をたすぐらいは自力で出来るとこまでは
378
どうにか回復したから、大げさな介護は要らんのんちゃうかな﹂
宏の言葉に、ほっとしたようにため息をつく春菜とエアリス。そ
の様子を見て、何かを思い出して深く深くため息をつく宏。
﹁正直なところ、王族、言うんは大したもんや﹂
﹁⋮⋮どうしたの?﹂
﹁澪の触診の結果とかから考えたら、エレ姉さん、普通の人やった
ら我慢できへんでのたうちまわってるほどの痛みがあったはずや。
それやのに、しんどそう、言うぐらいで割と普通の態度やったから、
物凄い我慢強いなあ、って﹂
﹁そんなに、ひどかったのですか?﹂
﹁まだ毒を盛られ続けとったと仮定するんやったら、あと三日遅か
ったら、国を挙げてのお葬式やったと思うで﹂
あっさり言ってのけた宏の言葉に、完全に凍りつくエアリス。そ
こまできわどかったとは、さすがに予想もしていなかったのだ。
﹁まあ、間におうたんやし、その手の不吉なたらればは気にせんで
ええやろう。とりあえず、ジュース持って行ったげて﹂
﹁あ、はい﹂
宏に促されて、水差しとジュースの入ったコップを持って厨房を
出ていくエアリス。彼女を見送ってから、春菜が宏に質問する。
379
﹁そう言えば宏君、台所に何か用?﹂
﹁ちょっと、コンロ借りに来てん﹂
そう言って、調合などに使う大鍋に、水をなみなみと張って火に
かける。
﹁⋮⋮何するの?﹂
﹁鎧の表面処理に使う薬剤をな、作りたいねん﹂
﹁もう縫い終わったの?﹂
﹁後は仕上げてエンチャントするだけや。とりあえず、ソフトレザ
ーでよかったやんな?﹂
宏の質問に頷きながら、その腕に感心する春菜。本当に、物を作
らせたら無敵だ。
﹁で、春菜さんはもう、夕食の準備?﹂
﹁うん。デザートまで考えたら、ちょっと卵が多くなるかなって思
わなくもないけど、別にいいよね?﹂
﹁まあ、死にはせんと思うで﹂
そんな事を言いながら、怪しげな液体をぐつぐつと煮込み続ける
宏。その様子に苦笑しながら、ついでに別の鍋でゆで卵を作っても
らう事にする春菜。
380
﹁大体メニューの想像ついたけど、この程度であの肉食べ尽くせる
ん?﹂
﹁今日は前哨戦。あ、そうだ﹂
﹁ん?﹂
﹁骨って、何かに使う?﹂
﹁別に、どっちでもええ、言う感じやな﹂
﹁じゃあ、明日ちょっと、ガラでダシを取ってみるよ﹂
などと、のんきな会話を続ける二人。ワイバーンと言う魔物の脅
威を知っている人間が聞けば、ダシ? 骨でダシ? などと突っ込
む事請け合いである。いや、そもそも、肉を調理する、という発想
の時点で引くに違いない。何しろ、普通の包丁だと、肉を切り分け
たりしたらすぐに修復不能なレベルでぼろぼろになるし、普通の人
間が普通に火を通したとこで、食べられるほど柔らかくはならない。
そもそも、相当な性能の刃物を使って、ちゃんと手順どおりにやら
なければ、解体そのものが出来ない生き物なのだ。
当人達はピンと来ていないが、ワイバーンのような上級魔獣を調
理しようと思うなら、相当な腕と道具を持っていなければスタート
ラインにも立てないのである。いろいろ調理しているうちに傷んで
きたから、なんて理由で打ち直した包丁が、まるで魔剣のようにワ
イバーンの肉をスパスパ切っているなどと言うのは、見る人が見れ
ばめまいを起こしかねない光景だろう。もはや慣れた︵諦めたとも
いう︶ドーガやレイナが何も言わないからこいつらはそれが普通だ
と思っているようだが、言うまでもなく一般的な光景ではない。
381
自分達の異常性を認識していない二人は、宏が台所での作業を終
えるまで、いつものようにいろいろとメニューについて話し合うの
であった。
﹁さて、こんなもんやな﹂
かき混ぜていた鍋を火からおろし、作業場の方へ運んでいく宏。
この後荒熱を取り、鎧の表面に塗りたくるのだ。これを塗って乾燥
させ、エンチャントをかければ完成である。
﹁ゆで卵も出来てるから、後は任すで﹂
﹁了解。腕によりをかけて、美味しいご飯を作るから﹂
そう言って、時間がかかるデザートの下ごしらえを済ませたら、
粗めに濾したゆで卵をはじめ、みじん切りにしたタマネギなどの材
料とマヨネーズをあえて大量にタルタルソースを作る。手頃な大き
さに切り分けたワイバーン肉を処理し、どんどん揚げていく。山盛
りになったそれを皿に一人分ずつ分け、タルタルソースを添えて完
成だ。採集チームの分は保温容器に入れて、タルタルソースを入れ
た別の容器とセットですぐに食糧庫の方に入れておく。
382
並行作業で作っていたカスタードプリンを蒸し器から取り出し、
魔法である程度冷ましてから冷蔵庫へ投入。ついでに作っておいた
ジャガイモのポタージュスープを火からおろし、メインディッシュ
と同様に採集チームの分を保温ポットに入れてこれまた食糧庫へ。
最後に手早くサラダを作ると、パンを用意してカートに乗せ、ダイ
ニングに一気に運ぶ。なお、言うまでもないが、この工房で焼かれ
ているパンは、酵母を使って生地を発酵させた、いわゆる現代のパ
ンである。今日はバターロールとクルミパンらしい。
﹁ご飯出来たよ∼﹂
館内放送︵無いと不便だろうから、と、宏がつけた︶で宣言をす
ると、エレーナを抱えたレイナが、誰よりも早く食堂に姿を見せる。
﹁実にそそる香りだが、今日のメインディッシュはなんだ?﹂
﹁ワイバーンの腿肉竜田揚げ、タルタルソース添え。お代りもある
から言ってね﹂
レイナの問いかけに対してさらっととんでもない食材を告げた春
菜に、それは美味そうじゃの、と後から入ってきたドーガが平常運
転で返す。
﹁⋮⋮ワイバーン? 本当に食べられるの?﹂
﹁普通に美味しかったよ?﹂
﹁いえ、味がどうでは無くて⋮⋮﹂
唖然とした様子のエレーナが突っ込みを入れようとして、自分の
383
席に着いたドーガと自分を椅子に座らせたレイナが、首を左右に振
るのを目撃する。
﹁⋮⋮冗談かと思っていたが、本当に食うのか⋮⋮﹂
﹁あ、レイっちも来たんや﹂
﹁お兄様!﹂
何とも言えない感じの沈黙を纏っていたエレーナの代わりに、唐
突に表れたレイオットが突っ込みを入れる。姿を見せたレイオット
に、エアリスが実に嬉しそうな顔を向ける。
﹁ああ。昨日の晩は特に問題になるようなものは出ていなかったと
聞いたが、姉上が少し回復したと聞いて、少々食事内容が不安にな
ってな。無理を言って、こっちに確認しに来た﹂
﹁殿下も食べていく?﹂
﹁ワイバーンの肉は、滋養強壮にええで﹂
﹁⋮⋮そうだな。いただいて行こう﹂
レイオットの言葉を聞き、先ほどにも増して喜びの表情を浮かべ
るエアリス。その様子を微笑ましそうに見守りながら、急遽一人分
余分に盛りつけを済ませる春菜。元々急な来客の可能性を考え、余
分目に作ってあったので一人分ぐらいは問題ない。兄が席につくの
を確認した後、彼の分が配膳されるのを大人しく待っているエアリ
スだが、その取り繕った澄ました表情とは裏腹に、きらきらと輝く
瞳が目の前の竜田揚げをロックオンして離さない。ワイバーン肉を
384
調理している、と言う異常事態について全く疑問に思っていない、
と言うより、そもそも何が異常なのか全く理解していない顔だ。昨
日の夜に、出されたものを食べる時にいちいち顔色を窺わない、と
窘められたため、今日は食欲全開で目の前の食事に意識を全部投入
している。
﹁じゃあ、今日も美味しいご飯にありつけた事を感謝して、いただ
きます﹂
配膳を終えた春菜が宣言すると、食前の祈りをささげ終えた他の
メンバーも次々と料理に手を伸ばす。一口サイズの竜田揚げをフォ
ークに刺すと添えられたタルタルソースをからめ、恐る恐る口の中
に入れるレイオットとエレーナ。
﹁理不尽ね⋮⋮﹂
タルタルソースと相性ばっちりの竜田揚げの味に、複雑な表情で
エレーナがつぶやく。ワイバーンの腿肉は、基本淡白ながらもしっ
かりした味があり、ジューシーな肉汁がタルタルソースの味と見事
なハーモニーを成して、口の中一杯に広がっていく。実に幸せな味
だ。
﹁何が?﹂
﹁あんな獰猛な生き物が、どうしてここまで美味しいのかしら⋮⋮。
そもそも、ワイバーンなんて、調理できるものなの⋮⋮?﹂
﹁そもそも、ヒロシとハルナが理不尽の塊ですからなあ﹂
﹁え∼?﹂
385
﹁料理ぐらい、練習すればだれでもできるやん﹂
練習したぐらいでワイバーンを調理出来れば、誰も苦労はしない。
そんな事を一切理解せず、口々に苦情を申し立てる二人。
﹁まあまあ、お兄様、お姉様。とても美味しいのですから、文句は
無しにしましょう﹂
満面の笑みを浮かべながら食事を続けるエアリスに窘められ、不
承不承納得する王族二人。もっとも、その複雑な表情も、美味の前
には長続きしない。
﹁レイオットからいろいろ聞いていたから、どんな食事が出るのか
不安だったのだけど⋮⋮﹂
﹁素材以外はまとも、どころか実に美味だな。毎日こんなものを食
べているのか?﹂
﹁今のところ、好みに合わないものはあっても、不味いものはあり
ませんな﹂
﹁たまに、考えない方が幸せになれそうな素材を使った料理が食卓
に並びますが、そこは気にしない方が幸せになれると学習しました﹂
レイオットとエレーナの質問に、真顔でそんな事を答えるドーガ
とレイナ。因みに、考えない方が幸せになれそうな素材の代表例が、
ピアラノークの足肉である。流石にワイバーンには大幅に劣るとは
いえ、これまた普通の料理人が調理するのは厳しい素材だ。味はカ
ニから独特のしつこさをなくした感じで、これまたびっくりするほ
386
ど美味しいのだが、自分達が食われかけた相手を食う、と言うのは、
ドーガとレイナにとってはなかなか複雑な気分だった。
他にもいろいろあるが、特に真琴が合流してからが、その手の食
材の登場確率が上がったのは間違いない。何しろ、彼女が依頼や採
集先で仕留めてくるモンスターときたら、間違っても七級冒険者が
相手にするような生き物でもなければ、このあたりでそうそう見か
けるようなものでもない、というか見かけてはたまらない相手ばか
りである。よくもまあこんな依頼ばかり見つけてくるものだ、と、
呆れるしかない。
それを全て調理してのけるのだから、宏も春菜も大概である。
﹁じゃ、デザート出すよ∼﹂
全員が食事を終えたのを確認し、デザートのプリンを持ってくる
春菜。良く冷えたそれは、今までレイオットもエレーナも見た事が
無い、蒸して作ったものだ。プリンは無いのにアイスクリームやシ
ャーベットの類は存在しているあたり、世界が違えば発達の方向性
や状況も大きく変わるものである。
﹁美味しいです﹂
出てきたプリンに目を輝かせ、嬉しそうにスプーンを入れたエア
リスが、一口目を飲み込むと同時に、実に幸せそうにコメントする。
﹁エルちゃん、プリン大好きだもんね﹂
﹁プリンも、言うんが正解やな﹂
387
﹁ヒロシ様とハルナ様が作ってくださる食事は、どんなものでも大
好きです﹂
にこにこしながら幸せそうに語るエアリス。多分この中では、彼
女が一番いろんな事について無頓着であろう。実にシンプルに、美
味しいは正義を断言している。
﹁エアリスは、もう少し出されたものに警戒をしてもいいと思うが
⋮⋮﹂
﹁お二人が食べられない物を出す訳がありませんので、その警戒は
不要だと思いますよ﹂
どうやらエアリスは、食に関しては二人に全幅の信頼を寄せてい
るらしい。実際、二人とも調理してみて不味かったものはすべて処
分しているのだから、食えないほどまずいものが彼女の口に入る事
はあり得ない。そしてそもそも、食事というものにこだわっている
人間が、食べ物に毒を混ぜるなどという真似をする訳がない。
﹁見事に胃袋をつかまれてるな⋮⋮﹂
﹁あなた、姫巫女の役目に戻れるの⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮戻った時には、頑張ります﹂
あまりに警戒心の薄い妹に、思わず頭を抱えつつも、こんなに穏
やかな団欒風景はいつ以来だろう、などと少し遠い目をしそうにな
るエレーナ。むしろ、エアリスが食事のときに自然な笑顔を浮かべ
ているところなど、初めて見たかもしれない。そもそも食事時に限
らず、エアリスが自然な笑顔を見せたところなど、ここ三年ほど見
388
た記憶がない。その一点だけでも、正直とても喜ばしい事だ。
意外かもしれないが、行方不明になる前のエアリスは、食事とい
うものに全く関心を寄せない少女だった。王族ですらめったに食べ
られないような豪華な料理も、家畜のえさと変わらぬほど粗末な食
事も、彼女にとっては全く同じ価値しか持ち合わせていなかった。
無駄に気を使うエアリスは、毒物でさえなければ、どんなものでも
笑顔を張り付けて淡々と平らげてきたが、多分本当に美味しいと思
った事は一度も無かったに違いない。
残念なことに、エアリスにとって家族の食卓というのは、カタリ
ナからのいびりを必死になって受け流しながら、誰にも心配をかけ
ないように笑顔を張り付けて義務的に食事を平らげる、という作業
以上の物ではない。それが作業である以上、味覚が正常に仕事をし
たところで、味など全く分かるまい。そうでなくても、出されたも
のは常に冷めているのだ。レイオット達ですらそれほどうまいと思
わずに食べていたのだから、彼女が食事に関心を寄せる訳がない。
そのエアリスがここまで美味しそうに、楽しそうに、自然な笑顔
を浮かべて食事をしているのだ。今まで、何を出されても全く関心
を示さなかった彼女が、出された皿を食い入るように見つめている
姿には、思わず目を疑ってしまった。その上で、見た目よりもはる
かに警戒心が強いエアリスが、全幅の信頼を寄せていると宣言して
いるかのようなあの発言である。たかが十日ほどだと言うのに、よ
くもまあここまで手懐けたものだ。
﹁何にしても、あのエアリスが食べる事にちゃんと関心を持てるよ
うになったのは、多分あなた方のおかげなのでしょうね﹂
﹁神殿の食事に戻れるかどうか、という不安要素はあるが、少なく
389
とも食事がただの義務ではなくなった、というのは、兄としては喜
ばしい事だな﹂
﹁そうなん?﹂
﹁ああ。少なくとも、こんな風に楽しそうに食べている姿は、長い
事見ていないぞ﹂
レイオットとエレーナのコメントに、申し訳なさそうに下を向い
てしまうエアリス。何しろ、ここでの態度ときたら、兄や姉との食
事より宏達と食べた方が楽しいと言っているようなものなのだから。
﹁エアリス、あなたは何も悪くないのだから、顔をあげなさい。別
に、責めている訳ではない、というより、むしろ私たちが謝るべき
事なのだから﹂
﹁あの席では、お前が食事に関心を持てなくなっても、誰も責める
事は出来んさ。むしろ、カタリナ姉上をどうにもできなかった、私
達の責が大きい。そもそも私自身、それほど家族の団欒を楽しいと
思っていなかったのだから、お前が楽しいと思わないのも、むしろ
当然だ﹂
慌ててエアリスに謝罪と慰めの言葉をかけるレイオットとエレー
ナだが、大好きな兄たちとの食事より、ここでのまだまだなじみが
薄い人たちとの食事の方が楽しかった、という事実は相当ショック
だったらしい。俯いたまま肩を震わせ、顔を上げようとする気配は
無い。
﹁なあ、エル﹂
390
﹁⋮⋮なんでしょうか⋮⋮﹂
﹁多分大方一カ月ぶりぐらいになるはずやと思うねんけど、久しぶ
りにお兄さんとお姉さんが一緒におる晩御飯は、楽しなかったか?﹂
﹁⋮⋮とても、楽しかったです⋮⋮﹂
﹁ここ十日ほどと比べて、どうやった?﹂
﹁⋮⋮今日の方が、ずっとずっと、楽しかったです⋮⋮﹂
﹁ほな、別にええやん﹂
何でもないようにあっさり言いきる宏。その言葉に顔を上げるエ
アリス。目があった宏が、その不細工とまでは言わないが整ってい
るとは言い難い顔に、ニッという擬音が似合う感じの、綺麗でも格
好良くもないが愛嬌のある笑顔を浮かべる。その顔につられて、涙
目のまま少し顔をほころばせるエアリス。
﹁なあ、レイっち﹂
﹁何だ?﹂
﹁問題ないんやったら、たまにこっち顔出してや。豪勢な食事、っ
ちゅう訳にはいかんけど、出来るだけ美味いもん、用意するから﹂
﹁⋮⋮そうだな。姉上の治療状況を確認する必要もあるし、出来る
だけ顔を出そう。さしあたっては、近いうちに兄上とマークを連れ
てくる事にする。その時はまた、変わったものを頼むぞ﹂
391
﹁了解。ただ、ワイバーンのお肉がまだまだたくさん残ってるから、
何回かはワイバーン料理が重なるかもしれないけど⋮⋮﹂
春菜の言葉に、軽く苦笑するレイオット。全長十メートル以上の
飛竜を解体したのだ。十人やそこらでは、そうそう食べきれるわけ
がないだろう。
﹁そこは任せる。美味ければ文句は言わんさ。あと、まだ残ってい
るなら、少し包んでくれないか? 父上や兄上と、こいつで軽く晩
酌をしようかと思うのだが﹂
﹁はいな。とりあえず、珍しい料理に関しては、ワイバーン以外に
も食材はいろいろあるから、それなりに期待してて﹂
春菜の言葉に一つ鼻を鳴らすと、エアリスの頭を二、三度、親愛
の情をこめてぽんぽんと叩き、用意された竜田揚げを受け取って転
移魔法で城へ帰ってゆくレイオット。
﹁さて、デザートも終わったし、後片付けしたら、みんなで一緒に
お風呂に入ろっか?﹂
﹁そうね。昨日は体調的に体を拭いてもらうのが精いっぱいだった
し、エアリスと一緒にお風呂に入るのも久しぶりだし﹂
﹁だったら、急いで片付けてくるね﹂
﹁あ、僕がやっとくわ﹂
話の流れを受けて、後片付けを買って出る宏。どちらにせよこの
後、革鎧の最終仕上げをしたり、新しい薬の処方をしたりと、まだ
392
まだ風呂に入る余裕は無い。因みに、風呂自体はレイナが食前に準
備してある。鍛錬でかいた汗を流す回数の都合上、大概風呂の準備
はレイナかドーガが行っている。
﹁頼んでいい?﹂
﹁うん。台所でやっときたい作業もあるから、気にせんと先済ませ
て﹂
﹁了解。じゃあ、お先に﹂
そう言って一旦自室に引き上げていく春菜達を見送ると、皿を集
めて厨房へ引っ込む。実際のところ、風呂上がりの女性陣は結構な
危険物なのだが、春菜との共同生活開始から一カ月半、いい加減そ
れなりに慣れてはいる。
﹁さて、折角やから、ついでに風呂上りのフルーツ牛乳でも用意し
とこうか﹂
﹁おぬしもまめじゃのう﹂
ミキサー的な何かに牛乳八と半、果物一とちょっと、残りを砂糖
などの材料、と言う感じの割合で入れる宏を見て、呆れたようにド
ーガが突っ込むのであった。
393
﹁やっと飯にありつけるのか⋮⋮﹂
﹁大猟﹂
﹁全く、弱いくせに数だけは多いんだから⋮⋮﹂
死屍累々となった雑魚を片し終わり、ため息交じりにぼやく三人。
まだ街道からそれほど大きく外れている訳でもないのに、あちらこ
ちらからびっくりするほどの数が襲いかかってきたのだ。大半の獲
物は食材としても採れる素材的にも、これと言って見るものが無か
ったため、討伐証明部位だけ切りとって達也の手によって焼き払わ
れている。解体したのは肉が美味いもの、皮が高く売れるもの、内
臓などが何かの材料になるものに絞ったが、それでも大概な時間が
かかってしまった。半数ぐらいは真琴が一撃で仕留めたものだとは
いえ、正直かなり疲れたのは事実である。
﹁なあ、真琴﹂
﹁何?﹂
﹁お前、こっちに飛ばされてから、このあたりに来た事は?﹂
﹁依頼で何回か、ってところ。多分達也が聞きたい事は、その時は
こんなに湧いたのか、だと思うから先に言うけど、答えはNOね﹂
真琴の返事を聞き、思わず難しい顔をする達也。とりあえず魔物
よけの結界は張ったので、少なくとも明日の朝までは襲撃を食らう
事は無いが、あまり気持ちのいいものではない。
394
﹁それで、何か気になる事でも?﹂
﹁ん∼、どう言えばいいかな。昨日のワイバーンの時、澪が瘴気が
濃くなってる、って言ってただろう?﹂
﹁うん。このあたりもちょっと瘴気が濃くなってるよ、達兄﹂
﹁やっぱりか。まあ、話を戻すと、だ。普通、ワイバーンなんざ、
こんな麓の方では遭遇しないはずだ。少なくとも、ゲームの時は、
イベント以外では相当山の上の方まで行かなきゃ、かちあう事は無
い相手だった﹂
﹁だよね﹂
ワイバーンは強いモンスターだが、どういう訳かあまり平地の方
には下りてこない。ワイバーンに限らず、強いモンスターの生息域
は限られており、普通の生き物が分布しているあたりにはそれほど
現れないものである。
むろんこれは、人間にせよ動物たちにせよ、そう言った強い生き
物の生息域を避けて暮らしている、という事実も当然関係している。
だが、それとは別に、まるで見えない壁でもあるかのように、強力
なモンスターはほとんど特定の生息域から出てこないのだ。しかも、
そう言った生き物のほとんどが、元々人間が住むには適さないよう
な、極めて厳しい自然環境下で暮らしている。
﹁俺達が捕まった盗賊団だが、ここ最近は、魔獣制御のオーブとや
らであのあたりには普段生息していないような魔物を操って標的を
分断、護衛の冒険者とはぐれた人間を捕まえて売っぱらってたんだ
ろう?﹂
395
﹁そういう風に聞いてるわね﹂ ﹁これはヒロとも話してたんだが、おかしいと思わないか?﹂
﹁⋮⋮確かに、おかしいわね﹂
﹁言っちゃあなんだが、連中は三流、とまでは言わんが、正直大し
たことは無かった。右も左も分かって無かった当時ならともかく、
今なら素手でも殲滅出来る程度でしかない。そんな連中の稼ぎで、
魔獣制御のオーブなんざ手に入るものなのか?﹂
達也の台詞に、何とも言えないと言う意味を込めて首をかしげて
見せる。そんな真琴の様子を見た達也が、ため息交じりに苦笑を漏
らし、一つ頷いて見せる。
﹁達兄﹂
﹁どうした?﹂
﹁お腹すいた﹂
達也と真琴の会話を興味無さげに聞いていた澪が、話を遮って夕
食を催促する。いい加減日もとっぷり暮れて、既に夕食の時間とし
ては遅いぐらいになっている。向こうと違って自分の口でいろんな
ものを食べられるからか、澪はややもすると、エアリスと変わらな
いぐらい食べることにこだわる。
﹁ま、そうだな。情報が足りない状態で、あーだこーだ言っても始
まらないか﹂
396
﹁そうね。それに、お約束ってやつから考えれば、大体原因の予想
はつくしね﹂
﹁だな﹂
真琴の言葉に一つ頷くと、とりあえず春菜が用意したであろう夕
食を探す。
﹁⋮⋮ワイバーン腿肉の竜田揚げ、か⋮⋮﹂
﹁タルタルソースもあるわね﹂
﹁竜田揚げにタルタルソースって、どうなんだ?﹂
﹁そう言うお弁当もあるから、別におかしくないんじゃない?﹂
などと口々に緩い会話をしながら、用意された夕食を取り出して
いく。
﹁しかしなんだ﹂
﹁何よ?﹂
﹁亜竜を竜田揚げにするってのも、なかなかのセンスだよな﹂
達也の割とどうでもいい感想に、思わず噴き出す真琴と澪。冷静
に考えれば面白くもなんともない発言だが、なんとなくつぼにはま
った感じである。
397
﹁そう言えば、ワイバーンとかあのへんの肉って、結構な能力修練
値が無かったか?﹂
﹁あんまり覚えてないわね∼。職人連中みたいに隠れてはいなかっ
たけど、熟練三百を超えるような料理人も、そんなに一杯はいなか
ったし﹂
﹁どっちにしても、ボク達ぐらいの能力値だと、食事の修練値なん
て気休めだと思う﹂
﹁ま、そうだがな﹂
澪の指摘に、まいったと言う感じで同意する達也。実際、食事に
よる能力値の修練がはっきり意味を持つのは、全ての補正を抜いた
値が五十ぐらいまで。そこから先は、無駄ではないにしても、食事
だけで分かるほどの上昇は見込めなかったのだ。能力値を確認でき
ないにしても、そう言った部分がそれほど大きく変わるとは思えな
い。もっとも、食事うんぬん以前の問題で、素の能力値が五十を超
えたら、レベルアップでの自動配分以外では、分かるほどの能力変
動など無かったのだが。
﹁しかし、うまそうだな﹂
﹁本当ね。これがあの大型トビトカゲだとは思えないわね﹂
などと感想を言い合いながら、とりあえず荷物から取り出したテ
ーブルの上に皿を並べ、適当に竜田揚げを分ける。ポタージュスー
プの入った魔法びんをあけ、マグカップに注いでパンやサラダとと
もに配置すると、そこには野営地での食事だとは思えない、見事な
夕食が並んでいた。この場に他の冒険者がいたら、その食の充実度
398
合いに目を見張り、羨ましさのあまり眠れなくなる事請け合いであ
る。
﹁それじゃあ、いただきます﹂
﹁いただきます﹂
手を合わせて食前のあいさつをする達也と澪を横目に、さっさと
竜田揚げに手をつける真琴。三人の中では一番体を動かしたため、
正直辛抱たまらなかったのだ。
﹁美味し∼い!﹂
﹁美味いな、本気で﹂
﹁幸せ﹂
容器だけでなくエンチャントの影響もあって、まだ温かい竜田揚
げ。それを夢中で頬張りながら、美味を賞賛する三人。残念ながら
山登りが待っているため下手に飲む訳にはいかないが、達也と真琴
にとっては、これで良く冷えたビールでもあれば完璧という味だ。
因みに、俗に腐敗防止と言われているエンチャントだが、実際の
働きは微妙に違う。このエンチャントは腐敗を防止しているのでは
なく、影響下にある物質の変化を全て止めているのだ。なので、こ
の中に生き物を入れても死ぬ事は無いし、温かいものはずっと温か
いまま、冷たいものはいつまでも冷たいまま保存されるのである。
何気に高度な事をしているエンチャントではあるが、古代の超人た
ちが全身全霊を持って改良を続けた成果か、触媒なしで普通に付与
できると言う、エンチャントとしては驚きの低難易度だったりする。
399
触媒なしで付与できるのであれば、宏達がこちらに飛ばされた初
日に、わざわざバーサークベアの内臓を薬に加工しなくても良かっ
たのではないか、と言われそうだが、ゲーム中で滅多に使わない事
もあって、あの時点ではきれいさっぱり存在を忘れていたのである。
春菜に至っては、エンチャントの細かい仕様など全く知らないのだ
から、指摘しようにも出来る訳が無い。
﹁あのトビトカゲ、肉食のくせに臭くないんだな﹂
﹁うん、あたしもかなりびっくりしたわ﹂
﹁幸せ﹂
いろいろな意味で予想を超えたワイバーン肉の味に驚きつつ、瞬
く間に平らげてしまう三人。そのままの勢いで食後のプリンを制覇
し、満足そうな顔で夜空を見上げる。
﹁全く、ヒロと春菜がチームに居るってのは、こういう状況では最
強の条件だよな﹂
﹁油断すると趣味に走りすぎるのが、問題っちゃ問題だけどね﹂
真琴の台詞に苦笑する達也。実際、二人だけで外部から一切の突
っ込みを受けずに一カ月ちょっと行動した結果が、明らかに帰る気
が無いと思われるやたら充実した調味料のストックなのだから、真
琴の言葉を誰も否定できない。第一、何をどう間違えれば、帰る手
段を探すという出発点からカレーパンを屋台で売るという発想にな
るのか、正直いまだに理解できない。
400
﹁さて、そろそろ明日の事を打ち合わせしましょう﹂
﹁了解。っつっても、明日一日は山登りなんだがな﹂
﹁ソルマイセンとやらが生ってる場所まで、どれぐらい登ればいい
?﹂
﹁明日一日だと、ちょっと厳しいぐらいの距離、かな?﹂
澪の心もとない返事に、思わずため息が漏れる。因みに言うまで
もない事だが、澪とてソルマイセンの正確な生育場所など知らない。
単に地図と知識を照らし合わせ、高確率で自生していると思われる
場所を特定しただけである。
﹁因みに、それは純粋に距離の問題? それともエンカウント率?﹂
﹁両方﹂
﹁達也、何かいい魔法とかない?﹂
﹁微妙なところだな。認識阻害の結界って手はあるが、さっきみた
いに既にロックオンされてると意味がない。後、相手の感知能力が
高いと、普通に喧嘩をふっかけられる﹂
﹁それ、さっきの連中ぐらいだとどんな感じ?﹂
﹁あのレベルだけなら、よっぽど下手を打たない限り、そう簡単に
見つかりはしないとは思うが⋮⋮﹂
達也の言いたい事を察し、渋い顔をする真琴。真琴も全てのフィ
401
ールドを知っている訳ではないため、どこにどんなフィールドボス
がいるのかに関しては、それほど詳しい訳ではない。このあたりに
してもそうで、基本的に普通の戦闘廃人がうろうろするような地域
ではないため、何が居るのかなど全く知識に無い。
それに、昨日のワイバーンのようなイレギュラーがあれば、多分
一発で発見されてしまう。
﹁一応確認するが、あの数の雑魚とセットでワイバーンクラスが来
たら、どうにかできるか?﹂
﹁流石にきついわね﹂
﹁諦めて、サーチアンドデストロイ﹂
あっさり極論を言いきる澪に苦笑しながら、それしかないかと腹
をくくる達也と真琴。
﹁いっぱい頑張ればご飯が美味しい。ご飯が美味しければ、結果的
に幸せ﹂
﹁⋮⋮まあ、そうだな﹂
澪の割と能天気な発言に、そんなものかもしれないと笑う達也。
﹁ま、腹決めて頑張るか﹂
どうせ、もともと最低三日はかかる、という前提で組んだ行程だ。
仮にスムーズに行ったところで、結局は明日収穫作業というのは厳
しいのである。ならば、少々疲れるが、サーチアンドデストロイで
402
も構うまい。
そう腹を決めて、さっさと眠りにつく達也であった。
﹁レイオット、エアリスの様子はどうだった?﹂
﹁元気だった。それに、ずいぶんと楽しそうだった﹂
軽めの果実酒を口にしながら、兄の問いかけに応えるレイオット。
なお、ファーレーンでは十五歳が成人で、それぐらいから基本的に
酒は合法である。ただし、やはり度数のきつい蒸留酒などについて
は、暗黙の了解で二十歳ぐらいまで飲む事は無い。店の方でも、あ
る程度の年まではほとんどジュースと変わらない果実酒しか売って
くれないのだ。
﹁楽しそう、か⋮⋮﹂
﹁エアリスが楽しそうにしているところなど、ずいぶん長く見てお
らんな⋮⋮﹂
﹁あと、いい雰囲気でちゃんとしたものを食べているからか、ずい
ぶんと血色がよかった。今のあれを見て、笑顔を張りつけた人形、
などというやつはいないだろうさ﹂
403
レイオットの報告を聞き、何とも言えない気持ちで沈黙する国王
とアヴィン王子。
﹁因みに、今日出されたものを少し包んでもらってきたのが、これ
だ﹂
﹁ふむ⋮⋮。揚げ物か?﹂
レイオットが取り出した竜田揚げを珍しそうに眺めながら、国王
がレイオットに質問を返す。
﹁ああ。竜田揚げ、という料理だそうだ﹂
﹁何の肉だい?﹂
兄の質問に一つにやりと笑うと、特大の爆弾を落とす。
﹁ワイバーンだ。それも、黒だな﹂
﹁なんだと!?﹂
﹁ちょっと待て! 黒のワイバーン、だって!?﹂
﹁ああ。ほのかに魔力が残っているから、間違いないな。これは、
明らかに竜種の物だ﹂
レイオットの言葉に、思わず絶句するしかない王とアヴィン。
﹁⋮⋮そんなものを料理できる料理人を、我々が知らないと言うの
もおかしな話だな﹂
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高位のモンスターを調理できる料理人など、世界中を探しても両
手両足の指の数をやや超えるかどうか、と言ったところだろう。そ
んな人間がウルスにいるとういう事を、全く知らなかった事を訝し
く感じる国王。
﹁当然だ。連中は冒険者であって、料理人では無いからな。だが、
噂ぐらいは聞いているはずだぞ﹂
﹁噂?﹂
﹁父上、兄上。カレーパン、というものを知っているか?﹂
﹁ああ。街で噂になっている、一風変わったパンの事だろう? ⋮
⋮という事は﹂
アヴィンの言葉に一つ頷くと、言葉を続けるレイオット。
﹁あいつら、知られざる大陸からの客人だけあって、常識というも
のに相当疎くてな。ワイバーンぐらい、練習すればだれでも調理で
きる、などと真顔で言っていたぞ﹂
﹁建国王の時代ならともかく、今の時代にあのクラスの魔獣を調理
できる料理人などほとんどいないのだが、な﹂
﹁この城の料理長ですら、ワイバーンとなると微妙なところだろう
ね﹂
﹁四級ポーションと言い、この料理と言い、流石は知られざる大陸
からの客人、という事か﹂
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そう言って、まだ温かい竜田揚げを、タルタルソースに絡めて口
に入れる国王。それに続いて手をつけるアヴィンとレイオット。口
の中に広がる美味に、相好を崩す国王とアヴィンに対し、二度目と
なるそれの味に、少し苦笑するレイオット。
﹁実にうまいのだが、あまり納得いっていないようだな﹂
﹁いや、なに。やはり時間がたつと、どうしても味が落ちるのだな、
と思っただけだ﹂
揚げものの宿命として、時間がたつとどうしても油が回ってしま
う。それにほとんどの肉料理は、冷めてくると少し固くなる。
﹁それにしても、エアリスは毎日こんなうまいものを食べているの
か?﹂
﹁我が妹ながら、羨ましい話だね﹂
﹁味もそうだが、食べる時の雰囲気も大違いだ。団欒とは、ああい
うのを指すのだろうな﹂
レイオットの言葉に、沈黙を返すしかない二人。
﹁カタリナ、か⋮⋮﹂
﹁余としては、同じように愛情を注いできたつもりなのだが、な⋮
⋮﹂
﹁あれは、エアリスが本来自分がなるはずであった姫巫女の地位を
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奪った、などと逆恨みしているからね。それも、生まれてすぐに神
託が下りる、という努力では覆しようのない形で奪われたのが、よ
ほど気に食わないらしい﹂
﹁カタリナ姉上は、自分がいまいち敬われていない理由をそこに持
ってきているようだが、裏で手を回してエアリスの侍女を自分の都
合がいい人間にしたり、実の妹を最悪の子供だとねつ造したりする
ような品性が外に漏れている事に、全く気が付いていないあたりが
末期的だ。そういう性質を完璧に隠し通せると思っていること自体、
頭が足りていない﹂
レイオットの容赦のない言葉に、深くため息をつくしかない国王
とアヴィン。本来ならもっと強く釘を刺すべきだったのだが、切っ
掛けがあるたびに用事を作ってはのらりくらりと逃げをうち、ほと
ぼりが冷めたころにまた同じような事をする、というたちの悪い事
をつづけられてしまったため、まともに叱る事も出来ないまま、ど
うにもならないところまで来てしまったのである。
﹁それはそれとして、父上﹂
﹁何だ、レイオット?﹂
﹁どこまで進んでる?﹂
﹁あらかた、捕捉は終えた。後は機を見て排除するのみ、だ﹂
﹁カタリナ姉上は、どうするおつもりだ?﹂
﹁表向きは病気療養中に病死、という形になるだろうが、本質的に
は反逆罪で死罪、だな﹂
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自分の娘を手にかけるしかない、という事実に対し、深い苦悩を
見せる国王。だが、残念ながら彼女を許すには、少々問題がある証
拠が集まりすぎた。しかも、突っ込んで調べると、カタリナの周り
に集まった世話係の類は、侍女から教育係まで全て、あまりよろし
くない集団の息がかかってる事が判明している。一度直に会って話
した結果、いろいろな意味でもはや手遅れだと判断せざるを得ない
ほどゆがんでしまった王女など、生かしておけばそれだけで国が傾
きかねない。
﹁とりあえず、その言葉を聞いて安心した。が、問題は⋮⋮﹂
﹁あのバルド、という男だな﹂
﹁あれだけの真似をし、しかも証拠をきっちりと押さえられたと言
うのに、こちらが証拠をねつ造した事にしてのけるような男だから
ね。一筋縄ではいかないだろうね。正直、ああいう保身にだけは長
けた小物が、一番性質が悪い﹂
カタリナをたぶらかしたバルドという男、言動そのものはどこか
らどう見ても小物だというのに、法の不備や隙間を上手い具合につ
いて、誰が見ても明らかに有罪であろう案件を限りなく黒に近いグ
レーで無罪を勝ち取っている。
今回のエアリス行方不明事件も、決定的だと言い切れる証言が出
来る人間はすべて行方不明、もしくは死亡していること、犯行時刻
と思わしき時間帯にはアリバイがあることなどから、証拠不十分と
いうことで追求を逃れきり、逆に王家が証拠を捏造したと批判した
のだ。
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転移魔法だろうがなんだろうが、下準備をすればその場にいなく
てもいくらでも発動させることができるのだが、発動した後から術
者が誰かを特定するのは、残念ながらファーレーンの魔法技術では
不可能だった。そのため先代が制定した、冤罪防止のために立証に
完璧を求めすぎる法の壁に阻まれて、バルドに止めを刺すにはいた
らなかったのである。
﹁一体いつから準備をした計画なのかは分からないが、私ではなく
姉上とエアリスを狙うあたり、この国を本気で破壊しようとしてい
るらしい﹂
﹁最悪、エアリスさえ生き延びれば、国を立て直す事は出来る。彼
らには悪いが、もうしばらく娘を預かってもらうしかないな﹂
一見同意するしかない国王の言葉に、だが少し言いづらそうに口
を挟むレイオット。
﹁残念ながら、そこまで悠長な事を言えるかどうかは難しいところ
だ﹂
﹁⋮⋮どういうことだ?﹂
﹁このワイバーン、冒険者の中でも比較的足が速い連中が、という
条件ではあるが、東門から徒歩で一日程度歩いた場所で仕留めたそ
うだ﹂
﹁⋮⋮なんだと!?﹂
﹁その時、瘴気が濃くなっている感じがした、と言っていたからな。
どうしても、近いうちに一度はエアリスを神殿に返さねばならない
409
だろう﹂
レイオットの言葉に、苦渋の表情を浮かべる国王。
﹁とりあえず、下準備として兄上とマークを連中に引き合わせたい。
流石に今日言って明日、というのは厳しいだろうが、出来るだけ早
いうちに時間を作ってほしい﹂
﹁分かった。何とかしよう﹂
﹁頼む。向こうにも料理の準備があるだろうから、出来るだけ早く
連絡をくれ﹂
レイオットの要請に頷くと、残りの竜田揚げを平らげにかかる三
人。素晴らしくうまいはずのそれは、話が終わってからは今一味を
感じなくなるのであった。
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第11話
﹁やっと見つけた⋮⋮﹂
大霊峰と呼ばれる山脈の片隅、ウルスから三日ほど山道を歩いた
先、澪はようやく目的の物を見つけた。彼らが今いる辺りからもう
少し獣道を登ったあたり、澪の視力と観察力で無いと発見できない
ような位置関係のところに、藍色の果実を鈴なりに実らせた木が何
本か立っていた。
﹁やっとかよ⋮⋮﹂
﹁全く、大霊峰って言っても、こんな中腹付近にアクティブがわら
わら出てくるなんて、おかしいわよ⋮⋮﹂
死屍累々と言う感じの死骸を崖下に蹴落としながら、澪の報告に
思わずぼやく達也と真琴。途中、フィールドボスクラスが二体同時
に出て来た時は、流石にどう逃げるか真剣に考えたものだ。前日の
夜に宏からワイバーンレザーアーマーが届いていなければ、正直ま
ともにやりあう気は起こらなかった。
﹁なあ、真琴﹂
﹁何?﹂
﹁大霊峰に、この手の闇属性の、それも瘴気バリバリのモンスター
なんか出て来てたか?﹂
411
﹁仮にも霊峰の名をもらってるんだから、闇属性はともかく瘴気を
まき散らす奴なんて、いなかったはずだけどね⋮⋮﹂
﹁だよなあ⋮⋮﹂
いろいろと釈然としないものを感じながらも、とりあえず気分を
切り替えて死骸の処理を続ける。もはや、討伐証明部位を集めるの
も面倒になって、ほとんどの雑魚はそのまま崖下に蹴落としている。
解体のためにブロック分けした相手など、ヘルハウンドとイビルタ
イガーぐらいなものだ。因みに言うまでもなくどちらもフィールド
ボスクラスの大物で、瘴気をこれでもかというほどばらまく生き物
である。さっさと処理をしないと、血のにおいや死骸から出てくる
瘴気に惹かれて、更に大量のモンスターを相手にする羽目になって
しまう。
﹁これはさすがに、殿下やエレーナ様に報告して、いろいろ確認し
た方がよさそうね﹂
﹁そうだな﹂
多分、大霊峰でのおかしなモンスター分布については、現時点で
は誰も把握してはいないだろう。ついでに言えば、地元民でもない
達也と真琴では、普段とどれぐらい違うのかも分からない。もしか
したらこれが普通で、ゲームの時の分布がおかしい、という可能性
もある。が、植生やら何やらを考えると、ここに居るのはおかしい
連中も結構いる。中には明らかに南国にいるべきタイプの、このあ
たりのような比較的涼しい山の中腹に出てくるはずがないものまで
いる。
そして何より、ほとんどのモンスターが瘴気で変質したものらし
412
く、やたら奇形が多い。奇形ゆえにあまり強くは無かったのが救い
ではあるが、正直あまりいい感じはしない。
﹁で、澪。ソルマイセンは収穫できそうか?﹂
﹁問題なし。ただ、達兄も真琴姉も触らない方がいい﹂
﹁は?﹂
﹁何で?﹂
澪の言葉に、たかが果物だろう? という考えを前面に出しなが
ら問いかけてしまう二人。その質問に対し、行動を持って示す事に
する澪。
﹁⋮⋮ほい﹂
﹁わわ!﹂
﹁ちょっと待て、いきなりだなおい!﹂
何の前触れもなく、いきなり切り取ったソルマイセンの実を二人
に投げてよこす澪。その握りこぶしほどの実を慌ててキャッチして、
すぐに澪の言葉の意味を知る。
﹁何これ!﹂
﹁ちょっと力入れて掴んだだけで、もう傷み始めてるじゃねえか!﹂
﹁地面に落ちると即腐る。指先でつつくとそこから腐る。上手く採
413
っても半日もすれば腐り始める﹂
﹁足が早い、なんてレベルじゃねえな、おい!﹂
表情一つ変えずに補足説明を入れる澪。洒落にならない腐りやす
さに、思わず全力で突っ込んでしまう達也。その言葉を気にするで
もなく、するすると器用に木の上に登った澪は、じっくり果実を選
定したうえで一つ慎重に切り落とし、一旦ポシェットに入れて保管
したうえで飛び降りる。
﹁これが多分、一番食べごろ﹂
そう言って、先ほど仕舞ったソルマイセンを取り出し、三等分に
分けて二人に渡す。食べて大丈夫だと示すように果実をかじる澪を
見て、思い切ってかじってみる二人。断面の白い果肉から無色透明
の果汁が滴り落ちる。じっくり味わってなんともいえない表情にな
った達也と真琴が、正直な感想を漏らす。
﹁⋮⋮ほとんど味がしないな﹂
﹁下手すると、水の方が味が濃いかもしれないわね﹂
﹁ソルマイセンが食用にならないのは、それが理由﹂
何とも個性的な果実に、どうにもコメントできない二人。果実と
言うやつが甘いのは、基本的にはほかの生き物に種を運んでもらう
ためである。味がしない、腐りやすい、なんていう特徴は、自然界
の仕組みや生存競争の輪と言う奴に真っ向から喧嘩を売っているよ
うな気がしてならない。
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﹁因みに、唾液か胃液と混ざるか、火を通せば腐らなくなる﹂
﹁つまり、食って腹を壊す事は無い、ってか?﹂
﹁うん。あと、味のせいか虫や鳥がつく事は無くて、木に生ってる
やつを強く握っても腐らない﹂
﹁本気で変な果物ね⋮⋮﹂
コメントに困る情報を淡々と告げる澪に、思わずげんなりした顔
で感想を述べる真琴。
﹁そう言う訳だから、周囲の警戒よろしく﹂
﹁了解。どれぐらいいるんだ?﹂
﹁薬の材料としては使い勝手がいいから、採れるだけ採っていく﹂
﹁分かった﹂
澪の言葉に頷き、周囲の警戒を続ける二人。こまごまとした雑魚
を蹴散らしながら、澪の作業が終わるのを待つ。三本生えていた木
から、それなり以上に熟した果実を全て回収し終えたところで、澪
が慌てて飛び降りてくる。
﹁達兄、帰還魔法!﹂
﹁やばいのか?﹂
﹁不確定名・ワイバーンが三!﹂
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﹁よし、逃げよう﹂
取り巻きになりそうな雑魚が居ない現状、勝とうと思えば余裕で
勝てる相手ではあるが、流石に疲れているこの状況で三匹も同時に
相手にするのは、はっきり言って御免こうむりたい。それに、ワイ
バーンがらみの素材は過剰在庫になっている。故に、澪の報告を聞
いた瞬間に帰還魔法を発動し、慌ててゲートを開く達也。開いたゲ
ートに一目散に飛び込み、さっさと帰還する三人。獲物に逃げられ
たワイバーンは、怒りの声を上げながらいつまでもその上空をぐる
ぐる回り続けるのであった。
達也達三人がひいこら言いながら山登りをしていた同じころ。
﹁またいかついもんを調達して来てんなあ⋮⋮﹂
用意された鉱石を見て、呆れたように宏が突っ込みを入れていた。
﹁僕が加工出来へんかもしれへん、言う可能性は考えへんかったん
?﹂
﹁ちらりとは考えたがの。ハルナの剣を間に合わせと言いきった以
上、この程度を加工出来ん訳がない、と判断したのじゃが?﹂
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﹁まあ、設備的に精錬するんがきわどいとこやけど、一応加工は出
来るで。出来るけど、ようもまあ、こんな早くに魔鉄鉱石とミスリ
ル鉱石なんか用意出来たもんやで⋮⋮﹂
﹁そこはそれ。腐っても王城関係者じゃからな﹂
しれっと言ってのけるドーガに、思わず苦笑しながら納得する宏。
達也に作った杖が木製だった事もあり、最近まともに鍛冶で武器を
作っていない宏にとって、肩慣らしとしては丁度いいと言えばちょ
うどいい素材である。
﹁せやなあ。ハンマーと金床用に、少し材料貰うで﹂
﹁おう。余りは好きに使って構わんよ﹂
﹁ありがたい話やけど、微妙に使いどころに困る分量やねんなあ⋮
⋮﹂
用意された鉱石を見て、頭を悩ませる宏。正直な話、二人分の懐
剣を加工するとなると、最低限金床とハンマーは配分を変えた同じ
金属で作らないと、道具の方が負けてしまう。欲を言うならば溶鉱
炉も新調したいところだが、それをするには素材も時間も足りない。
最低限必要な制作物をハンマーと金床、懐剣二本と考えると、材料
が大量に必要な大剣や両手斧、戦闘用ハンマーの類は厳しい。
﹁作れるとしたら、片手剣か短剣、レイピア、槍の穂先だけ、っち
ゅうところになるけど⋮⋮﹂
﹁この剣もそんなに使ってないのに、新調するのはちょっとねえ﹂
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﹁せやろうなあ⋮⋮﹂
同じ間に合わせと言っても、鉄製と魔鉄・ミスリルの合金製では、
攻撃力も耐久性も段違いだ。だが正直なところ、春菜の戦闘能力だ
け増やしても意味がない。むしろこの場合、元々大火力から手数勝
負までオールラウンドにこなせる春菜より、攻撃手段が適当に殴る
かスマッシュで吹っ飛ばすかの二択しかない宏が、もっといい武器
を持つ必要があるのである。
﹁まあ、とりあえず、や。まずは道具と懐剣二本を作るところから
スタートやな﹂
二つの金属の鉱石を台車に積みながら、これからの事を告げる宏。
﹁折角だから、見学してもいいかしら?﹂
﹁かまへんけど、暑い上に面白いもんでもないで﹂
﹁武器を作るところなんて、こんな機会でもなければ見る事は無い
でしょう?﹂
﹁まあ、そうやろうけどなあ⋮⋮﹂
エレーナの言葉に、微妙に面倒くさそうに答える宏。ギャラリー
がいると集中できない、などというつもりは無いが、作業場にあま
りよく知らない女性がいるのは微妙に落ち着かない。しかも、春菜
の剣を作った時に比べて、作業スペース自体が幾分狭い。はっきり
言って、あまり歓迎できる要素は無い。
﹁とりあえず、暑くても文句言わんといてな﹂
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﹁分かっているわ﹂
﹁アルフェミナ様に誓って、文句など申しません﹂
﹁エルも来るんかいな⋮⋮﹂
まあ、ええけど、などとため息をつきながら、台車を溶鉱炉近く
まで押す。その後ろをぞろぞろついてくるギャラリー達。流石に春
菜とレイナ、ドーガまで一緒となると、作業の邪魔になるほどでは
ないにしても、随分手狭な感じにはなる。
﹁熱いし危ないから、絶対こっち来たらあかんで﹂
作業場の注意として再度釘をさすと、大量に魔力を注ぎ込みなが
ら、溶鉱炉に火を入れる。宏によって魔改造された中古品のはずの
溶鉱炉は、あり得ないほど早く、それこそ瞬く間にと言っていいほ
どの時間で、金属を溶解しうるだけの温度に達する。
﹁まずは金床とハンマーやな﹂
段取りを確認するようにつぶやくと、魔鉄とミスリルの鉱石を、
非常に大雑把につかんで炉に放り込む。更に合金にするための添加
剤として、ワイバーンの牙を一本一緒に入れて、精錬を開始する。
﹁混ぜてしまっていいのか?﹂
﹁合金にするからかまへん。ちゅうより、ミスリルは所詮銀やから
か、そのままやとちょっと柔らかいし焼きも入らんから、基本的に
はなにがしかの金属と合金にせなあかんねん﹂
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﹁なるほどのう﹂
宏の宣言に納得するドーガ。だが、言うまでもなく、普通は鉱石
の段階から混ぜたりなどしない。まずはちゃんと精錬したうえで、
重量を量って割合を決め、再度溶かして合金にしなければ、ちゃん
とした品質の物を作るのは難しい。今回に関しては、宏がその技量
をフルに使って、生産系魔法でどうにかするらしい。
﹁さて、魔鉄の精錬の場合、ここからが本番や﹂
そうつぶやきながら、今までとは比べ物にならない量の魔力を注
ぎ始める。今までですら、並の魔法使いなら絶句するレベルだった
と言うのに、今回のそれは下手をすれば儀式並の量である。
それもそのはずで、魔鉄の精錬については、ドワーフたちでも数
人がかりで儀式を行う必要があるほど、大量の魔力を消費する。鍛
造の時にも大量に魔力を要する、鍛冶スキルと精錬スキルの二番目
の壁ともいえる素材なのだ。故に、言うまでもなく、エンチャント
のスキルがなければ、採掘は出来ても加工も精錬も出来ない。魔力
を際限なく、と言っていいほど吸収するがゆえに、この金属は魔鉄
と呼ばれているのである。
今回はミスリルとの合金になるが、ミスリルに比べて魔鉄の量が
多いため、必要な魔力も多くなる。因みにこの世界の場合、ミスリ
ルの最大の特性は変質を防ぐ事。錆はもちろんの事、瘴気を浴びて
呪われたり、などという事もない。そのため、エンチャントを施す
のも恐ろしく難しく、特に完成品には並の技量ではエンチャントを
かける事は不可能である。今回の組成では、魔鉄の際限なく魔力を
食う特性が抑えられ、呪いを受けにくくなるのだが、これが逆にな
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ると、エンチャントを多少かけやすく、かつ瘴気を払いやすくて呪
われない、焼き入れで硬度を上げられるミスリルになるのだ。
﹁⋮⋮何とかいけたか﹂
冷やして固めたインゴットを取り出し、仔細に眺めて確認をして、
安堵のため息を漏らす宏。正直なところ、絶対の自信までは持って
いなかった。
﹁そんなにぎりぎりなの?﹂
﹁炉がな、向いてるとは言い難いねん﹂
そうでなくても中級の壁、と呼ばれるほどに厄介な性質をした金
属だ。それを魔改造したとはいえ、中古の溶鉱炉で精錬したのだか
ら、流石の宏の腕でも、絶対の自信は無かった。実際のところは、
ちゃんとした設備でドワーフたちが精錬したものよりも上質の合金
ができているのだが、宏からすれば微妙に不満が残る出来らしい。
﹁さて、次は皆さんお待ちかねの鍛造やな﹂
﹁なんか聞いてると、本当に道具が足りてるのか結構不安なんだけ
ど⋮⋮﹂
﹁まあ、炉はともかく、ハンマーはこれでアウトやな。とりあえず、
先に金床を作ってまうか﹂
あっさりそんな事を言いながら、魔法で圧延した合金を熱処理し、
特殊な砥石の魔道具で研磨して金床を作り上げる。その上に熱した
小ぶりのインゴットを乗せ、鍛造用ハンマーに過剰なほどの魔力を
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通して叩き始める。
一打ごとに飛び散る火花に目を奪われながらも、素材に飲み込ま
れていく魔力に顔をしかめるエレーナ。仮に自分が宏の立場だった
場合、これだけの魔力を注ぎ込んで平気で居られるか、という事を
考えると、背筋に冷たいものを感じる。
﹁まあ、こんなところか⋮⋮﹂
ほぼハンマーと呼べる形になったところで、局所時間加速魔法で
一度冷ましながら、ため息交じりに呟く宏。
﹁出来たの?﹂
﹁荒加工はな。この後熱処理して、ちゃんとした形に整形したらん
とあかん。春菜さんのレイピア作った時も、そういうやり方しとっ
たやろ?﹂
﹁ん、そうだったよね、確か﹂
そう雑談しながらも、日ごろのヘタレた表情とは打って変わった
鋭い目で、熱せられて色が変わっていくハンマーを睨む。素人目に
は違いが良く分からないレベルで加熱加減を調整してしばらく温度
を維持し、適度なところで一度謎の液体に突っ込む。派手な音を立
てて液体が蒸発し、ハンマーが冷却される。
﹁その液体は、なんだ?﹂
﹁焼き入れ用の油。そのうち使うやろう思って配合しといた、魔鉄
系に特化したやつ。流石に、こんなに早うに使うとは思わへんかっ
422
たけど﹂
﹁そんなものが必要なのか?﹂
﹁物によりけり。ただの水で冷やしてもええもんもあるしな﹂
レイナの質問に答えつつ、焼き戻しの作業を終える。鍛冶におい
て一番気を使うのが、この焼き入れ焼き戻しの工程だ。焼きが入り
すぎると、硬くなりすぎて脆くなるし、場合によってはその場で割
れる。焼き戻しに失敗すれば脆さの解消にいたらず、むしろかえっ
て脆くなることもある。かといって、焼き戻しをしなければ、大抵
の金属は脆すぎて戦闘用には使い物にならない。あえて焼きを入れ
ないものもあるにはあるが、少なくとも今使っている金属は、武器
として使うにはちゃんと熱処理をする必要がある。
実際のところ、金属というやつは総じて、加工する時は世間一般
のイメージよりはるかにデリケートなのだ。
﹁よし、これでええやろ﹂
それっぽい形になったハンマーヘッドを眺め、一つ頷く。そのま
ま今まで使っていたハンマーの頭を柄から外し、今完成させたばか
りの物と交換する。
﹁⋮⋮うわあ﹂
﹁ん? どないしたん?﹂
﹁そっちの、古いほうのハンマー⋮⋮﹂
423
﹁そらまあ、普通やったら一方的に負けるぐらい柔らかいハンマー
で無理やりやっとってんから、終わったらぼろぼろになってるわな﹂
宏の言葉は、当然の道理ではある。が、それでも、外から中から
大量のひびが入ったハンマーヘッドを見れば、春菜が絶句するのも
仕方がないだろう。しかもこのハンマー、宏が自動修復のエンチャ
ントをかけてあった特製品で、少々のダメージなら勝手に治るはず
なのだ。それが再生する兆しも見せないのだから、下位の道具を使
って上位の道具を作ると言うのがどれほどの事なのか、良く分かる。
﹁さて、前座は終わりや﹂
完成したハンマーにさらに何ぞのエンチャントを施した後、びっ
くりするぐらい男らしい表情で宏が宣言する。いつもはダサさを増
幅する太い眉も、この時ばかりは男ぶりを上げるパーツとして一役
買っている。
﹁前座って、このまま続けるの?﹂
﹁そうですよ、ヒロシ様! ここまでかなりの魔力を使われている
はずです!﹂
﹁神鋼の加工と比べたら、この程度ちょろいもんやで﹂
周囲の人間を絶句させるような事を言い放ち、本命である二本の
懐剣の加工に移る。その様子に、思わず春菜の方を伺うエアリス。
エアリスの顔を見て小さく苦笑すると、ポシェットを漁って何かを
取り出す。
﹁宏君﹂
424
﹁何?﹂
﹁必要ないって言うのは信用するけど、とりあえずエルちゃんのた
めにも、せめてそれだけは飲んでおいて﹂
﹁ん? ああ、了解や﹂
エアリスの心配そうな様子を見て苦笑し、春菜が投げてよこした
五級のマナポーションを飲み干す。本当ならもう一本ぐらいは飲ん
でおいた方が安心するのだろうが、マナポーションとスタミナポー
ションの場合、三十分以内に三本飲むともれなく中毒を起こすと言
う素敵仕様があるため、あまり沢山は飲めないのだ。因みに、二十
四時間だと二十本という制限がある。
﹁ほな、気を取り直していくで﹂
焼け石に水程度ではあるが一応魔力を回復したところで、再び引
き締まった表情でやっとこでインゴットを熱し、金床の上に乗せる。
声に出さずに気合を入れてハンマーを振りあげ、最初の一打を叩き
込む。
祈るように真摯に、挑むように猛々しく、宏は鉄を叩き続ける。
まるで、目の前の物言わぬ塊と対話するように、時折小さく、時折
強く、高らかに槌音を響き渡らせる。先ほど同様、一打ごとに恐ろ
しい量の魔力を注ぎ込み続け、ただの塊だったそれが懐剣の刃を形
作ったところで、ついに注ぎ込まれた魔力を吸収しきれずにあふれ
ださせる。
﹁よし、一本目の荒加工は終わりや﹂
425
そう宣言し、二本目の鍛造に移る。先ほど同様、熟練を感じさせ
る見事な手際で、祈るように、対話するように、ハンマーを振り下
ろし続け、同じように魔力がオーバーフローを起こしたところで、
きっちり懐剣の鍛造を終える。なお、実際のところ、魔鉄を加工す
るのに、魔力をオーバーフローさせる必要はない。ただ単に、余裕
があると余計な影響を受けやすいので、念のためにオーバーフロー
させているだけである。
﹁まずは熱処理済ませて形整えて、バランス調整かな?﹂
とは言え、宏のような熟練工が、使う人間の体格体型を見て製造
したものだ。そんなに極端にバランスの狂った完成品になる事はま
ずない。春菜の時もそうだったが、せいぜい研磨で多少調整すれば
違和感が無くなる程度のものである。
﹁ちょっと振ってみて。っちゅうても、注文つけられるほどの技量
は多分あらへんか⋮⋮﹂
﹁そうね。それに、私は体がこれだし﹂
シンプルだがやけに綺麗な柄をつけ、これまた凝った装飾は一切
ないくせに、見る者の目を引き付けて離さない鞘におさめられた懐
剣を渡され、困ったような表情を浮かべる姫君姉妹。宏の注文は、
正直無茶振りにもほどがあるのだ。
﹁まあ、こっちで判断するから、とりあえず適当に振ってみて﹂
﹁分かったわ﹂
426
﹁頑張ります!﹂
春菜に促され、工房の外で記憶にある基本の型をなぞる二人。昨
日今日始めたレベルのエアリスは正直、気負い過ぎもあってバラン
ス以前のレベルではあったが、それでも大体のところは分かる。
﹁懐剣だし、こんなものだと思うけど?﹂
﹁じゃのう﹂
﹁そうだな﹂
春菜の言葉に同意する騎士二人。そもそも暗器使いでもあるまい
し、こんなもので本格的な戦闘など普通しない。懐剣なんてものは、
基本的には不意を突いて一突きするか、自害するためのものである。
﹁バランスはそんなもんでええとして、持ちにくいとかは?﹂
﹁それも大丈夫。まるで吸いつくように手になじむわ﹂
﹁凄く持ちやすいです﹂
﹁ほな、銘を彫っていろいろ仕上げるから、ちょっと貸して﹂
宏に言われて、今渡されたばかりの懐剣を返す。
﹁仕上げって?﹂
﹁作っといてなんやけど、こんなもんで直接切りあいなんぞするん
はただのアホや。せやから、魔道具としての機能をつける﹂
427
﹁⋮⋮なんか、聞いちゃいけない言葉を聞いた気がするけど、どう
するの?﹂
﹁まあ、そこは仕上げをごろうじろ、っちゅうことで﹂
そう言ってマッドな笑みを浮かべながら、ここ数日で嫌になるほ
ど充実してしまったモンスター系素材を並べ始める宏。正直微妙に
引きながらも、宏が言う以外の選択肢がない事を理解しているため、
あえて余計な突っ込みは入れない春菜。その後、完成品を披露され
たとき、その無駄にすさまじい数々の機能に目を輝かせるエアリス
とは裏腹に、他の四人はちゃんと突っ込みを入れなかった事を後悔
することになるのはここだけの話である。
﹁ちょっと拙い事になってる感じ﹂
完成した懐剣をお披露目し終えた直後に戻った真琴は、武装解除
もせずに開口一発そう言い放った。
﹁拙いって、なにが?﹂
﹁正直なところ、出来ればレイオット殿下にも話を聞いて欲しいと
ころなんだけど、連絡は取れる?﹂
428
﹁無理ではないが、それほどの事かの?﹂
﹁大霊峰の中腹にヘルハウンドとイビルタイガーが出た、って言う
のが些細な問題だったら、別に騒がなくてもいいけど?﹂
﹁⋮⋮それは大事じゃな﹂
真琴の言葉に真顔になり、連絡を取ろうとユリウスを呼び出しか
けたところで
﹁ん、向こうからきたみたい﹂
索敵範囲の広い澪が、転移魔法で工房の入り口に現れた気配を拾
って口を挟む。
﹁やなあ。ユーさん以外にも他に二人ほど連れて来とる。っちゅう
か、レイっち、意外と暇なん?﹂
﹁そんな訳あるか!﹂
宏の失礼な台詞に全力で突っ込むレイナ。その言葉にかぶせるよ
うに、呼び鈴が鳴る。とりあえず出迎えに立ち上がるドーガを見送
り、まずはソルマイセンの検分を行う事にする宏。正直な話、こい
つが今回の本命であって、大霊峰の調査なんておまけの目的にすら
入っていない。
﹁失礼する﹂
ざっと検分を終え、十分使える事を確認したところで、勝手知っ
たるなんとやらという感じで、ドーガを置き去りにして食堂に入っ
429
て来るレイオット。
﹁レイっち、ちょうどよかったわ﹂
﹁⋮⋮何がだ?﹂
﹁真琴さんが、報告したい事があるらしいねん。それも、なかなか
の厄介事みたいや﹂
﹁厄介事か⋮⋮﹂
来て早々に言われた言葉に、らしくもなく顔をしかめるレイオッ
ト。
﹁なんか、ものすごい嫌そうやな、自分﹂
﹁折角、美味い飯を楽しみに来たと言うのに、飯が不味くなりそう
な話を聞かされると分かっていい顔など出来るものか﹂
﹁まあ、せやろうな。でも、遅いか早いかの違いやからなあ﹂
﹁分かっている。それで、どういう話だ?﹂
﹁大霊峰に、ヘルハウンドとイビルタイガーが出たんやと﹂
その報告には、特に反応を見せないレイオット。一緒についてき
た二十歳前後の青年も、これと言って表情を変えたりはしない。唯
一、澪と同年代ぐらいの少年が顔色を変えて食ってかかる。
﹁それ、大事じゃないか!﹂
430
﹁マーク、落ち着け﹂
﹁兄上こそ、どうしてそんなに落ち着いているのですか!?﹂
﹁ワイバーンが出た時点で、覚悟を決めていたからな。もっとも、
いい気分ではないが﹂
﹁!?﹂
ワイバーンが出た、という言葉に絶句しているマークを放置し、
背後の兄と一つ目配せをする。
﹁詳しい話の前に、とりあえず紹介しておいた方がいいだろうな﹂
﹁まあ、予想はついとるけどな。そっちの色男はお兄さんで、こっ
ちのイケメンな坊ちゃんは弟さんやろ?﹂
﹁ああ。兄のアヴィン王子と、弟のマークだ﹂
レイオットの紹介を受け、平然とした態度で軽く会釈してのける
アヴィンと、ようやく衝撃が抜けたらしく、ぎこちなく挨拶を返す
マーク。
﹁なあ、おっちゃん﹂
﹁なんじゃ?﹂
﹁こういう場合の十台前半から中盤の反応って、レイっちとマー君
のどっちが一般的なん?﹂
431
﹁普通の十代で戦闘に関わる人間なら、マーク殿下の方が一般的じ
ゃな。レイオット殿下はこういってはなんだが、いろいろと規格外
なお方でのう⋮⋮﹂
﹁エルンスト! 兄上と比べれば、大体の人間は凡庸扱いされる!
それからそこの間抜け面! その失礼な呼び方はなんだ!?﹂
﹁やっぱり、これが普通やんなあ﹂
宏の感極まったような言葉に、周囲の生温い視線がマークに集中
する。
﹁マークはまだまだ修行不足だからね、職人どの。失礼な態度を取
って、申し訳ない﹂
﹁いや、普通に考えて、失礼なんは明らかに僕の方やん﹂
﹁分かっててわざとやっているのだろう?﹂
﹁何のことやら﹂
アヴィンの言葉に、わざとらしくとぼけてみせる宏。もっとも、
宏がわざとやっているのは事実だが、そこにはそれほど深い理由は
無い。単に、ファーレーン王家の人たちが、どの程度洒落がきつい
のかを確認しているにすぎない。というよりは、レイオットがレイ
っちなどという呼び方に喜んだため、弟もそう言う感じなのかと試
しただけの話である。
﹁とりあえず、お茶入れてくるね﹂
432
﹁春姉、手伝う﹂
﹁の前に、澪ちゃんはお風呂に入った方がいいと思うけど⋮⋮﹂
﹁ん﹂
春菜の指摘に、素直に一つ頷く。実際、三日間も野山をかけずり
回っていたのだ。いくら身につけている物に汚れ防止のエンチャン
トがかかっているとはいえ、厨房に立たせるには少々抵抗を覚える。
﹁彼らは、いつもこうなのかい?﹂
﹁大体は﹂
余りのマイペースぶりに苦笑がちに問いかけたアヴィンに、同じ
く苦笑がちに答えるドーガ。その様子に顔を赤くしながら、申し訳
なさそうにする真琴と達也。こういう時、常識人は損である。
﹁で、話を戻すとして、だ﹂
﹁まだ、僕らも詳しい話は聞いてへん。真琴さん、どんな感じやっ
たん?﹂
﹁詳しくはまあ、荷物に突っ込んだ解体前の獲物を見てもらえば分
かるとして、一言で言うと異常﹂
﹁それだけじゃ分からないだろうから補足すると、やたらと奇形の
モンスターが多かったのと、闇属性や瘴気をばらまく性質を持つ奴
の割合が高かった﹂
433
真琴と達也の証言に、そうか、と一つ頷いて考え込むレイオット。
﹁思った以上に猶予は少なそうだな﹂
﹁おや、レイっち。そっちからも厄介事?﹂
﹁間違いなく、厄介事だな﹂
レイオットの言葉に小首をかしげる、宏。正直、この男がやって
もかわいらしさも何もあったものではない。
﹁兄上、厄介事、なんて軽く話すような内容では⋮⋮﹂
余りにも平常運転の兄に、思わず余計な突っ込みを入れてしまう
マーク。
﹁深刻に話したところで、やる事も結果も変わらん﹂
﹁それはそうかもしれませんが⋮⋮﹂
﹁まあまあ、マーク殿下。どうせこういうパターンで王族がうちら
みたいな一般人に持ち込むような話って、大概ろくでもない厄介事
やから、わざわざ深刻ぶったりせんでもええで﹂
﹁⋮⋮なんか、お前にマーク殿下と呼ばれると、どうにも妙に座り
が悪いな⋮⋮﹂
﹁ほな、やっぱりマー君にしとく?﹂
434
﹁⋮⋮それでいい﹂
不承不承という感じで頷くマーク殿下。なお、このマー君という
呼び方、いつの間にか彼の母親や王妃、他の側妃、果ては姉たちに
まで知られ、非公式の場ではずっとマー君マー君と呼ばれる羽目に
なるのはここだけの話である。
﹁でまあ、話を戻すとして﹂
﹁戻す前に確認だが、エアリスは?﹂
﹁エルなら、さっき禊がどうとかいって、風呂の方に行きましたが
?﹂
﹁戻ってきたあたし達の姿を見て、すぐに﹂
﹁やはり、幼くとも稀代の姫巫女という事か﹂
微妙にかしこまったままの達也と真琴の言葉に、感心するように
顔をほころばせ言葉を漏らすレイオット。レイオットの言葉と同時
に、感極まったように吐息を漏らすアヴィン。少しばかり希望を見
つけた、と言わんばかりのマーク。
﹁で、それとこれと、どういう関係が?﹂
﹁近いうち、それこそ明日にでも、一度あれをアルフェミナ神殿に
連れて行って欲しい﹂
﹁その心は?﹂
435
﹁神官たちでは、地脈の浄化が追い付いていない可能性がある﹂
﹁なんか、やばそうな話やなあ⋮⋮﹂
物騒な事を平気で言うレイオットに、思わず呆れた口調でぼやく
宏。本来ならこの手のやり取りは達也か春菜に丸投げしたいところ
だが、同類のシンパシーゆえか、どうにもレイオットは交渉相手を
宏に定めている傾向がある。
﹁明日すぐに、言うんは流石にきつそうやな。いろいろ準備もした
方がええし、何より今日はエルとエレ姉さんのために懐剣打ったと
ころでかなりへたっとるし﹂
﹁ほう? もう完成させたのか?﹂
﹁完成はさせたけど、たかが懐剣やからなあ。手は抜いてへんけど、
やっぱりいろいろ知れてるわ﹂
﹁あれを知れてるとか、相変わらず剛毅じゃのう﹂
﹁ワイバーン相手に通じるか言うたら、かなり微妙なところやで﹂
明らかに基準が間違っている宏に、さじを投げたかのように肩を
すくめて首を左右に振るドーガ。
﹁ワイバーン? 懐剣で?﹂
﹁流石というかなんというか、君と話していると、常識というもの
のありかが分からなくなってくるよ﹂
436
正気とは思えない宏の言葉に、比較的常識人らしい反応を見せる
マークとアヴィン。レイオットの方はと言うと、国宝の武器の数々
も基本的には誰かが作ったのだから、と言う理由で、宏がどれだけ
物騒なものを作っても驚くに値しない、と考えているらしい。
﹁うちの職人関係の知り合いやったら、あれぐらい普通やで。それ
に、設備も何もかも間に合わせに近かったから、性能自体がいまい
ちやったし﹂
﹁あんな兵器を作っておいて、それでもいまいちとは恐れ入るな、
全く⋮⋮﹂
普段こういう状況で口を挟む事は一切ないレイナが、呆れと関心
の混ざった複雑なため息とともに突っ込みを入れる。
﹁一体何を作ったんだ、お前は?﹂
何を作っても不思議ではない、とは思っていても、直接見ていた
関係者がこうも突っ込み全開であるところを見ると、さすがにスル
ーは出来ない程度に疑問を覚えたらしい。レイオットが真顔で質問
する。
﹁ちょっと小粋な機能をつけた、ただの懐剣や﹂
切り札は秘密にしとくもんやし、などとニヤニヤしながらしらば
っくれる宏に、追及しても無駄だと諦めるレイオット。どうにも口
をはさめなかった達也達は、どうせ宏が妙なものを作るのはいつも
の事、と、話が落ち着くまで大人しくしている事にする。丁度そこ
に、茶器満載のカートを押して春菜が戻ってきた。
437
﹁宏君の制作物はちょっと置いといて、一旦お茶にして落ち着こう、
ね?﹂
﹁そうだな。で、お茶受けの皿に乗っているのは、どう見てもバウ
ムクーヘンだと思うんだが、こっちにそんなものはあったか?﹂
﹁少なくともこの一カ月半、私はウルスでは見てないね﹂
﹁あたしも、三カ月ぶりに見るわね﹂
こういう時、速攻で話が逸れるのはこのチームの特徴であろう。
もっとも今回の場合、達也が意図して逸らしたと言うのが正解なの
で、いつもの脱線とは違うのだが。
﹁まあ、どうせヒロが暇を持て余して作ったとかそんなところだろ
うから、この話はここでしまいだな﹂
﹁ぶっちゃけ、美味しければなんだっていいしね﹂
﹁ええ加減やなあ﹂
﹁お前に言われたくない﹂
などとごちょごちょやっていると、エアリスとエレーナを引きつ
れた澪が、食堂に入って来る。
﹁あらあら。今国内に居る王族の大半が集まってるなんて、大魔法
でも叩き込まれたら一巻の終わりね﹂
﹁エレーナ、あまり物騒な事を言わないでくれ﹂
438
﹁冗談よ。それに、ここの結界具を突破して私達を皆殺しにすると
か、普通の魔導師にはたぶん無理ね﹂
﹁そうなのですか?﹂
﹁ここでは、私たちの常識は捨てなさい、マー君﹂
﹁姉上、どうしてその呼び方を!?﹂
マークの慌てぶりを、くすくす笑って受け流すエレーナ。ぶっち
ゃけ、宏が呼びそうな名前ぐらい、考えなくても分かる。
﹁まあ、厄介な話はお茶を済ませてからにしましょう。どうせ、今
からすぐに動ける訳でもないのだし﹂
﹁そうですね。折角ヒロシ様が作ってくださった、珍しいお菓子も
あるのですし﹂
﹁やっぱり宏君が作ってたんだ、バウムクーヘン⋮⋮﹂
﹁エルの食い付きがすごかったから、つい面白半分でなあ⋮⋮﹂
﹁本当に、食いしん坊になったわね、エアリス⋮⋮﹂
﹁お姉様!﹂
落ちに使われて、顔を真っ赤に染めて姉に食ってかかるエアリス。
緊急事態だと言うのに、その何とも気の抜けた雰囲気に何もコメン
トできなくなるマークであった。
439
﹁で、本気で作らなあかんの?﹂
﹁うん、本気﹂
﹁澪がやったらええやん﹂
﹁ボクと師匠だと、性能が三割は違う﹂
﹁いや、なんちゅうか、それは何ぼなんでもまずいで⋮⋮﹂
夕食後。結局きちっと準備をした方がいいということで合意し、
今日に続いて翌日一日はいろいろ準備に充てることにしたのはいい
のだが⋮⋮。
﹁なあ、エル。当事者の自分はええん? 男にそんな胸とか尻の形
とか大きさ知られてもうて﹂
﹁はい。まだまだ子供ゆえ、貧相なのが申し訳ないですが⋮⋮﹂
﹁申し訳ないって、なにが?﹂
何ともピントがずれたエアリスの言葉に、苦笑しながら突っ込み
を入れる達也。
440
﹁いえ、ですから、私のような子供の貧相な体など、詳細を知って
も別に楽しくは無いだろうな、と﹂
﹁ちょっと待て、エル。その発想は危険だ!﹂
現代日本では、下手をすると手が後ろに回る類の発言に、思わず
あわててしまう達也。そもそも宏の反応を見ていれば、子供といえ
ども女体の詳細なスペックなど、知るだけで余計なダメージを受け
るに決まっている。
﹁危険、ですか?﹂
﹁ああ、危険だ﹂
﹁ですが、ハルナ様と比べると、私など本当に子供子供しています
よ?﹂
﹁姫様、あれは特殊例です!﹂
﹁エルの胸、そこまで小さくない﹂
とことんまで危険な事をほざくエアリスに、ガンガン突っ込みが
飛び交う。
﹁あえて口をはさまなかったけれど、本当にヒロシに懐いてるわね、
エアリス﹂
﹁そうでしょうか?﹂
441
﹁では聞くけど、同じ情報を⋮⋮、そうね。ボルドー王子あたりに
知られたら、どう思う?﹂
﹁⋮⋮なんでしょう、この生理的な嫌悪感は⋮⋮﹂
﹁良かったわ。そういうところはまともなのね﹂
何とも口をはさめない会話に、非常に居心地の悪いものを感じる
達也と宏。正直、男にはこの手の会話はつらい。
﹁それにしても、エアリス﹂
﹁なんでしょう?﹂
﹁達也の言葉ではないけど、そろそろいろいろ気をつけた方がいい
わ。記憶にあるよりも、ずいぶん女らしい体になってきているのだ
し﹂
﹁初めて一緒にお風呂に入った時から、3.5ミリ大きくなってる。
下手をすれば、カップサイズが変わる﹂
﹁だから、そういう話は僕らのおらんところでやってくれへん?﹂
挑発しているのか男にカウントしていないのか、実に際どい会話
を平気で続ける女性陣に、がくがくふるえながら頭を抱える宏。何
とも余計なトラウマを刺激されて、正直意識を保っているのがつら
い。
﹁そう言う訳だから師匠、丁度いい機会だし、リハビリも兼ねてエ
ルの下着お願い﹂
442
﹁いやせやから、どういう訳やねん⋮⋮﹂
﹁人命が関わってる。少しでもいいものを作るべき﹂
澪の性急すぎるとしか思えない言葉に対し、押し問答を続ける宏。
﹁ここには、下着作ったぐらいで師匠に悪さする人はいない﹂
﹁ミオ、あまりあわてて話を進めるものではないわ﹂
どんどん顔色が悪くなっていく宏を見かねて、エレーナが割り込
んで澪を窘める。
﹁さて、このままだとヒロシが使い物にならないから、話を変える
として﹂
﹁変えるとして?﹂
﹁薬の材料は、揃ったのでしょう?﹂
﹁そう言えば。いきなりいろいろ言われたから、正直忘れとった﹂
申し訳ない、と、頭を下げる宏に、苦笑しながら気にしないよう
に告げるエレーナ。実際のところ、小康状態を保ち、アクセサリや
魔道具の効果によってある程度の日常生活は支障なく送れるエレー
ナの治療は、現状では決して優先順位の高いものではない。しかも
薬の材料が揃ったのであれば、毒を消すだけならいつでもできるの
である。
443
﹁とりあえず、まずは解毒剤を作って来るわ﹂
﹁そういや、あの恐ろしく腐りやすい果実、そんなに重要なのか?﹂
﹁あれな。果汁を上手い事濃縮出来たら、万能薬の材料に出来るね
ん﹂
﹁は? てか、どのレベルの?﹂
﹁頑張れば、三級まではいけるで﹂
またしても常識から大幅にずれた事を言いきる宏に、自分の認識
の甘さを痛感する真琴。いい加減突っ込む気力も尽きたらしいエレ
ーナは何とも言えない顔で、三級の万能薬って何、と呟いている。
﹁なあ、一つ聞いていいか?﹂
﹁何?﹂
﹁近場ってほどじゃないけど、そんなに遠くない場所に生えてるよ
うな果実で、本当にそのレベルのものが作れるのか?﹂
﹁ゲームでもそうやったで。まあ、ぶっちゃけた話、あれだけあっ
ても他の材料が集まらへんから、万能薬とか作れるようになるんは
相当先の話やし。そもそも、ソルマイセン自体、収穫できるように
なるまでかなりかかるし﹂
﹁あ∼、なんか納得した﹂
あの腐りやすさだ。開始直後のプレイヤーが収穫するのはほぼ不
444
可能だろう。
﹁で、濃縮するって、具体的にはどのレベルまでやるんだ?﹂
﹁まあ、五倍濃縮で大体五級ぐらいの万能薬が作れる感じ。三級を
作りたかったら、百倍濃縮ぐらいまで頑張らんとあかんけど﹂
﹁そこまで濃縮すれば、少しは味がするのか?﹂
﹁ん? そんなん、どんだけ濃縮したところで水より味が薄いに決
まってるやん。まあ、百倍も濃縮したら、それ自体が五級と四級の
中間ぐらいの万能薬になるけどな﹂
宏の言葉に呆れてしまう達也。本来味というのは、良きにしろ悪
きにしろ体に影響を与えるものを察知するためのものだ。つまり、
それほどの薬効があるものは、本来それなりの味がするはずなので
ある。なのにほぼ無味。ファンタジーに常識を持ちこむのは無粋と
はいえ、正直それはどうなのかと激しく問い詰めたい。
﹁まあ、今回は三倍も濃縮すれば十分やし、他の材料も十分あるし、
手早く作ってまうわ﹂
そう言って、厨房に向かう宏。まだ未熟な澪ならともかく、宏に
とってはこの程度の作業、作業とも言えないレベルのものだ。本来
なら専用の瓶が必要な類の薬だが、それは完全な薬効が製造後六時
間程度しか持たず、何故か腐敗防止でも薬効が消えるのを防げない
からであり、今回は出来てすぐのものを飲むのだから関係ない。
﹁あれ? 宏君?﹂
445
﹁春菜さん、台所に用事?﹂
﹁ワイバーンの胸肉を一ブロック、ちょっとスモークしてみようか
と思って﹂
﹁さよか。僕はエレ姉さんの薬作りに﹂
﹁ああ、忘れてたね﹂
春菜の言葉に苦笑する宏。彼女は今まで見聞きしたすべての事を
記憶しているが、それは思い出そうと思えばすぐに思い出せる、と
言うだけの事にすぎない。単に度忘れとかそういう事が無くなるだ
けで、スケジュールを忘れるとか飛ばすとかいった事をやらかさな
い訳ではないのだ。
﹁まあ、作るんはすぐやから、ちょっと待っててな﹂
﹁ん﹂
そう言って、宏にプレッシャーを与えない程度の距離を置き、薬
を作る作業を見守る春菜。多少製薬についての技量が上がった事も
あり、宏がやっている作業が自分の手に負えない事ぐらい、見れば
すぐ分かるようになった。
﹁完成﹂
﹁早いね﹂
﹁まあ、薬としては単純やからな﹂
446
全方向に強力な薬効を持つソルマイセンを、いくつかの材料と反
応させてエミルラッドに効果を特化させるのが、今回の作業である。
﹁それにしても、やっぱり製薬用のコンロとか、別口で用意しとい
たほうがええかもなあ﹂
﹁だね﹂
飲みやすい温度になるまで荒熱を取っている宏の傍らで、ワイバ
ーンのブロックをつるしてスモークの準備に入る春菜。グリルを密
閉し、外に煙を追い出す段取りを済ませてからチップに火をつける。
﹁とりあえず、一晩燻してみるよ﹂
﹁了解や。まあ、そこら辺は好きにやってくれたらええで﹂
粗熱が取れ、飲みやすい温度になった薬をコップに移し、口直し
のものを用意する宏。それを見て、食糧庫から何かを取り出す春菜。
取り出されたのは、一口サイズの果物がゼラチンのような物の中に
入り、その周辺を半透明の求肥のようなものが包んだ、多分お菓子
というのが妥当な食べ物だった。
﹁何これ?﹂
﹁マナイーターのゼラチンと皮を使ったお菓子。折角だから、夜食
にどうかな、って﹂
﹁僕ばっかり槍玉にあがるけど、春菜さんも大概いろんなもん作っ
てるやん﹂
447
﹁まあ、私は食べ物ばかりだけどね﹂
宏の突っ込みに、苦笑しながら言い訳をする春菜。因みにマナイ
ーターとはその名の通り、魔力を食ってパワーアップする半実体の
ゼリー状生命体である。普通は魔法使いの天敵だが、半実体のくせ
に酸素が無ければ生存できないため、餌であるはずの達也によって
酸欠で仕留められたという、哀れな生き物でもある。
なお余談ながら、マナイーターのコアはウニのような味がするた
め、今日の夕食である、なんちゃってミニ懐石の八寸に使われてい
たりする。死ねば完全に実体化するとか実に不思議な生態ではある
が、春菜にとっては割とどうでもいい事である。なお、この日のな
んちゃってミニ懐石、最大の目玉はワイバーンのガラでとったダシ
を使った小鍋で、ほかにもちょっと変わった生き物の卵をつかった
ダシ巻、ご飯の代わりに用意されたそばの実雑炊など、繊細にして
高度な技をガッツリ投入した品々が並んだ。もっとも、なんちゃっ
てでミニなので、本来のものに比べ品数も少なく、料理を小出しに
せず全部まとめて配膳したのが格式と言う面では微妙なところでは
あるが。
﹁とりあえず、作ってきたで﹂
﹁早かったわね﹂
﹁材料さえあれば、大した作業やあらへんからなあ﹂
﹁ボクだったら、ここの機材でその薬作るの、成功率八割ぐらいな
んだけど⋮⋮﹂
﹁そこは年季の差や。諦めて練習に励むしかあらへん﹂
448
そう言って、人肌ぐらいの温度まで冷めた薬をエレーナに差し出
す。他の薬効成分のおかげで、青緑という何とも言えない色合いに
なってしまったその薬を微妙な表情で受け取り、何とも形容しがた
い微妙な味のそれを一気に飲み干す。余りに微妙な味に顔をしかめ
るのも束の間、すぐに全身を熱さが駆け回り、体の隅から隅まで蝕
んでいた何かを駆逐していく。その熱さが引いた後には、対症療法
の薬では消しきれていなかった微熱や頭痛、吐き気、そして何より
この約一月、常に付きまとっていた絶望的なまでの倦怠感が嘘のよ
うに消え去っていた。
﹁凄い⋮⋮。頭痛も、吐き気も、倦怠感も⋮⋮、ウソみたいに全部
無くなってる⋮⋮﹂
﹁まあ、後遺症まではどうにもならへんけど、これで今回の毒が原
因で死ぬ、言う事は無くなるはずや﹂
後はリハビリで体力をつけるぐらいしか、治療としてできる事は
無い。
﹁とりあえずの注意事項として、体力も抵抗力も相当落ちてるはず
やから、絶対無理したらあかんで。肝臓もよわっとるから、お酒も
控えめに﹂
﹁ええ。折角助けてもらったのだから、不養生をやらかして死ぬつ
もりは無いわ﹂
﹁その方がええ。正直、姉さんの葬式なんざ真っ平御免や﹂
宏の言葉に苦笑すると、まだ口の中に残る微妙な味を口直しのジ
449
ュースで洗い流す。そして、春菜が用意していた正体不明のお菓子
を、何のためらいもなく口に運ぶ。
﹁さっぱりしてるのに濃厚とか、不思議な味ね。この不思議な食感
のものと表面の皮は何かしら?﹂
﹁マナイーター。癖が無くていいゼラチンだったから、ちょっと試
してみました﹂
﹁⋮⋮結局、そう言う落ちなのね⋮⋮﹂
油断すると、綺麗に盛りつけられたモンスターの死骸を食わされ
る食卓。美味いし体に害が無いからいいが、正直油断も隙もない。
ワイバーンぐらいならまだ、驚きはしてもさほど抵抗は無いが、流
石にマナイーターとなると、正直食べたいと思えるものではない。
﹁さて、お風呂入って寝よう﹂
﹁ほな、僕も適当にいろいろ用意したら、さっさと風呂済ませて寝
るわ﹂
﹁師匠は下着作り。もう型は作ってある﹂
﹁マジかい⋮⋮﹂
結局命に直結する部分だからと押し切られ、今後の危険性を考え
てしぶしぶながら血を吐きそうな顔で作業に入る宏。翌朝春菜が見
たのは、澪のイラスト通り綺麗に仕上げられた子供向けの︵と言っ
ても、年を考えると意外と大きい︶ブラとショーツと、部屋の片隅
で土気色の顔をしてぴくぴくやばい感じで痙攣している宏であった。
450
第12話
﹃こちらスネーク。ただいま潜入目標を視認した﹄
﹃そう言うネタはいいから⋮⋮﹄
潜入工作決行当日。真昼間からウルス城背後の森に潜伏していた
宏が、自棄が入った口調で、速攻で余計なネタを仕込み始める。因
みに、エアリスを連れて潜入することになったメンバーは、宏、春
菜、澪の三人。エアリス本人を入れて四人である。四人とも、全身
をすっぽり覆うマントを羽織っており、正直言って胡散臭いことこ
の上ない。しかもさらに胡散臭い事に、エアリス以外の三人は、顔
にマスカレードを装着済みである。
﹃それで、どうなの?﹄
﹃まあ、普通に警備があるわな﹄
流石と言うか何というか、ウルス城の警備は実に厳重で、まとも
にやっては侵入などどう見ても不可能である。これが見掛けだけな
らともかく、見張りについている兵士の練度も士気も高い。異常を
察知させずに高い城壁を乗り越えて、さらに廊下や中庭などを巡回
しているであろう見張りをくぐりぬけろ、などと言うのはかなりの
無理ゲーだ。
それにそもそも、そういう運動神経を必要とする作業は、宏には
向いていない。何しろ、敏捷の値に補正が入るスキルは、旅歩きと
隠密上級、後は短剣初級・中級しか持ち合わせていないのだ。隠密
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上級以外はどれも入る補正は微々たるもので、補正込み百すら遠い
彼方である。ぶっちゃけた話、隠密上級が無ければ、このメンバー
に入る事すら無かったはずなのだ。
ではこいつが何故、隠密上級などと言う場違いなものを持ってい
るのか? 答えは簡単。アクティブモンスターに気取られないよう
に採集や採掘をするためである。隠密上級をマスターすると、ドラ
ゴンの背後で採掘作業をしても発見されなくなるのだから、いろい
ろぶっ飛んだ話だ。
﹃難しそうか?﹄
﹃少なくとも、エルを連れて侵入は無理。一緒に来るのが師匠と春
姉だけならどうにかなりそうだけど⋮⋮﹄
﹃だよねえ。と言うか、魔法禁止の縛りは普通に厳しいよ⋮⋮﹄
﹃やっぱり、これは抜け道使うしかあらへんやろなあ⋮⋮﹄
﹃私もそう思う﹄
﹃賛成﹄
出来るだけ使わずに潜入するよう努力してくれ、と言われて教え
られた抜け道。それを使う決断をあっさり下す宏達。敵に抜け道の
位置を知られるリスクを避けたい、と言うのは分かるが、その結果
として早い段階で見つかっては元も子もない。
﹃そう言うわけやから、プランAの隙をついて侵入、ちゅうんは諦
めるわ﹄
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﹃了解﹄
行動方針を決め、とっとと現在位置を変える。実際のところ、今
いるあたりは別に侵入禁止区域でも何でもないため、普通に動いて
兵士たちに発見されたからと言って、それ自体は特に問題は無い。
この辺にも薬草になるようなものや食材になるようなものはあるの
で、忘れた頃に、と言うレベルではあるがウルスの住民が採集に来
る事はあるのだ。
方針を決めている間不安そうだったエアリスを、春菜が軽く肩を
叩く事で落ち着かせ、その間に澪と宏が索敵を行う。見つかっても
ごまかしがきく、と言うだけで、やはり見つからないに越した事は
無い。
﹁さて、こっちでよかったっけ?﹂
﹁多分そうやったと思うけど⋮⋮﹂
﹁ここ﹂
澪が示した場所の特徴を、昨日何度も見た地図と頭の中で照らし
合わせる。残念ながら、地図そのものは燃やしてしまっているため、
記憶だけが頼りなのだ。
﹁うん、間違いない﹂
﹁確かにこんな感じやった﹂
﹁とりあえず、あける﹂
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そう言って、木の根元に偽装された空間を開放する。出てきた空
間は、平均的なファーレーン人の男性が、辛うじて立って歩ける程
度のものだった。
﹁なかなか本格的やな。なんか、冒険者やっとるっちゅう気がして
きたわ﹂
﹁師匠、ボク達一応冒険者⋮⋮﹂
﹁まあ、ずっと雑用と屋台と歌のおひねりで生活してきたしね﹂
﹁ちゅうわけで、帰ってええか?﹂
﹁師匠、往生際が悪い﹂
などと余計な軽口をたたきながら、澪を先頭に油断なく進んで行
く。
︵しかし本気で、何でこんな冒険者っぽい真似しとるんやろうなあ
⋮⋮︶
とりあえず余計なネタを仕込んだりして無理やり気分を盛り上げ
ていたが、正直自分が潜入要員としてここに立っている事について
は、いまだに納得がいかないものがある宏。一応自分の役目に意識
を向けながらも、もはや手遅れだと言うのに、どこでどう間違えて
ここに送り込まれたのか、どういう反論をしていればこの役から逃
げられたのか、そんな今更のような事を何度も頭の片隅で考えるヘ
タレ男であった。
454
事の発端は、前の日にさかのぼる。
﹁潜入工作? 何でまた?﹂
エアリスをどのように神殿に連れて行くのか、その打ち合わせの
場でとんでもない事を言い出したレイオットに、何とも言えない顔
で聞きかえす宏。因みに、ドーガとレイナは既に他の役目を振られ
ているらしく、その準備のために現在別行動をしている。
﹁正面からエアリスを連れていけば、前回の二の舞になりかねなく
てな﹂
﹁そんなんで、この国大丈夫なん⋮⋮?﹂
宏の言葉に、苦い顔をするレイオット。エアリスの不在は、アル
フェミナ神殿内部に予想以上のダメージを与えていたのだ。
﹁とりあえず、潜入工作以外に方法が無いのか、まずは現状を確認
した方がいいんじゃないかな?﹂
﹁そうだな。確かに、お前達もいきなり城の中にある神殿に侵入し
ろ、などと言われても納得できないか﹂
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﹁普通に考えて、そんな真似したら犯罪者やん﹂
﹁しかも、ウルス城は部外者が不正な方法で簡単に不法侵入できる
ような城じゃない﹂
宏と澪の言葉は、否定の余地が無いレベルの正論である。それに
そもそも、潜入してくれ、はいそうですか、で、何の手引も無しに
あっさり成し遂げられてしまうのは、流石にこの国の王族として看
過できる問題では無い。
﹁それで、普通に考えれば、殿下がおじさん達と一緒にエルちゃん
を連れていけば済む話だと思うんだけど、何が問題なの?﹂
﹁一番大きいのは、別段隠していた訳でもないのに、エアリスの顔
がほとんど知られていない、という問題だ﹂
﹁そんなん、見たら普通に血縁関係ぐらい分かるやん﹂
﹁だからと言って、難癖をつけられない、と言う訳では無かろう?﹂
レイオットの言葉に、思わず面倒くさいと呟いてしまう宏。政治
の世界では、どれだけ一目瞭然の事でも、決定的な証拠なしではど
うとでもいちゃもんをつけられるのである。
﹁他に厄介なのが、エアリスの人望の無さだ。いまだにあの侍女を
スケープゴートにした、などと言う意見が一般的なぐらいだから、
どうにもならん﹂
﹁それが、どんな問題につながってるの?﹂
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﹁簡単だ。姫巫女の仕事を放置して、勝手にどこかに逃げだした責
任感の無い娘を、今更王族として迎え入れるのは民に対して顔向け
が出来ん、などと放言している連中が、それなりの勢力を持ってい
る。それに、下手に正面からのこのこ顔を出すと、顔を知らないの
をいいことに、名を騙ったとか言いがかりをつけて処刑しようとす
る人間すらいかねん﹂
レイオットの言葉に、渋い顔をしてしまう一同。名を騙ったも何
も、国王と王太子が本人だと断言しているのだから、それ以上の証
拠はなさそうなものなのだが。
﹁姫巫女って、政治的には価値が無かったはずだよな?﹂
﹁確かに有事を除いて権力は無いが、それだけに下手をすれば、国
王以上の権威を持つ。権威だけとは言えど、自身が姫巫女の後ろ盾
となっている、と言う事になれば、家柄に箔がついていろいろと有
利に運ぶ。直接的な旨味は無くとも、ごちゃごちゃ口を挟む程度の
価値はある﹂
どうにも腑に落ちない感じの達也の質問に、裏の事情と言うやつ
を解説するレイオット。地位と言うやつは、それが単なる飾りでも、
いろいろ面倒な責任が生じるものである。この場合、代えがきき平
時には何の政治権力も持たない姫巫女といえども、いや、そう言う
役職だからこそ、かえって責任が重いのかもしれない。
そのうえ、先代が改革によって作り上げた新たな統治システムが、
この件ではことごとくマイナスに働いてしまっている。先々代の国
王が乱心し、一部の貴族と結託して国を無茶苦茶にしかかった。そ
のトラウマが原点となっているからか、先代が国を立て直してから
制定した法は王家や貴族の権限を大幅に制限してしまった。
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そのため、貴族といえども一般人を簡単に処罰できず、王族にし
ても民に被害を出していない貴族を排除するのは、彼らがどれほど
反社会的な言動をしていても、どれほど政治を混乱させていても、
それだけでは不可能になってしまっていた。
さすがに言いがかりでエアリスを処刑することは不可能だが、や
り方しだいでは法廷に持ち込まれる危険性もあり、そうなってしま
えばエアリス自身はともかく宏たちの扱いはややこしいことになる。
さすがに誘拐その他に問われないように全力は尽くすが、その間も
汚染は着々と進みかねない。現在のシステムでは、王族といえども
数の暴力を完璧に押さえ込むことはできないのである。
﹁一つ聞きたいんやけど﹂
﹁なんだ?﹂
﹁エルが姫巫女のままやと、その連中にとって何がまずい?﹂
﹁エアリスは末っ子で、当初は誰の注目も集めていなかった。だか
ら、後ろ盾が我々王家以外にはエルンストしか居なくてな。それが
神託を受けてとんとん拍子で姫巫女となった結果、ドーガ家の家格
が妙に上がってしまっている。そうでなくとも建国以来の忠臣の家
系、これ以上力をつけられては面白くない連中の方が多いはずだ﹂
﹁うわあ、面倒くさ⋮⋮﹂
はっきり言って関わりあいになりたくない政治関係の話に、思わ
ず心の底からぼやく宏。
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﹁でも、それぐらいやったら、一応王家と神殿の力で押し切られへ
んの?﹂
﹁無理だろうな。神殿の中でも割れている。一度儀式の間に入って
しまえば簡単にけりがつくだろうが、今の情勢では、正面からだと
そもそも、神殿に立ち入るためにどれほどの時間を要するか分から
ない。それに⋮⋮﹂
﹁それに?﹂
﹁エアリスを蜘蛛の巣に叩き込んだ男が、神殿の入り口に同じ種類
の罠を張っていないとも限らない﹂
﹁要するに、裏口からこっそりもぐりこむしかない、と?﹂
﹁だから最初にそう言った﹂
どうにも覆しようがなさそうな結論に、げんなりしてため息をつ
く一同。正直、何が悲しゅうて、別段敵の手に落ちた訳でもないは
ずの城に、その国の姫君を連れてこそこそ侵入せねばならないのか。
はっきり言って、面倒なことこの上ない。
﹁侵入するしかない、っちゅうんはええとして、や。ほんまにその
裏口は大丈夫なん?﹂
﹁一ヶ所はともかく、もう一ヶ所については、そこが割れているよ
うでは、最初から手の打ちようなど無い。何しろ、お前達につかっ
てもらう予定のルートは、国王と王太子、姫巫女だけに伝わる、い
わゆる秘密の隠し通路、と言う類のものだからな﹂
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﹁⋮⋮そんなもん、僕らに教えてもうてええん?﹂
﹁背に腹は代えられんし、先にあげた三者のうち誰かがいなければ、
そもそも通路として使えない物だからな﹂
レイオットの言葉に納得し、話を進める事にする。
﹁潜入するんはええとして、縛りがあるんやったら今のうちに教え
といて﹂
﹁そうだな。簡単に発見されかねんから、魔法の使用は基本禁止。
魔力を発する道具類も、可能な限り持ち込まないでもらいたい﹂
﹁いきなりハードル高いな﹂
達也の突っ込みに、苦い顔をして頷くしかないレイオット。
﹁その条件だと、俺は潜入メンバーから自動的に外れるな﹂
﹁あたしも、隠密とか潜伏とかの類は苦手だから、今回は留守番ね﹂
条件を聞いて、真っ先にメンバー脱落を伝える達也と、ジャンル
があわない事を宣言する真琴。どちらも妥当と言えば妥当なので、
素直に頷く一同。
﹁となると、確定なんは澪か。後は対応能力を考えたら、春菜さん
も一緒に行った方がええやろうなあ﹂
﹁他人事のように言ってるけど、アンタも行くのよ?﹂
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﹁はあ?﹂
真琴の台詞に、間抜け面を晒しながら聞き返す宏。
﹁だってあんた、隠密行動はものすごく得意じゃない﹂
﹁師匠、ドラゴンの背後で採掘作業できるよね?﹂
﹁それとこれとは別問題ちゃうか?﹂
無体な事を言い出す真琴と澪に、慌てて疑問を呈す宏。正直、索
敵の仕方がアバウトなモンスターと、きっちり布陣を敷いて怪しい
奴がいないかを複数の目で睨んでいる城の警備とを一緒にされても
困る。
﹁お前の隠密能力がどの程度かまでは知らないが、可能ならば一緒
に行って欲しい﹂
﹁せやから、何で?﹂
﹁一つは、女ばかり三人、と言うのがいろいろな意味で不安がある
事。もう一つは、お前が行く方がエアリスが安心できるだろうと言
う事﹂
レイオットの言葉にエアリスの方を見ると、取り繕った澄ました
顔とは裏腹に、彼女の瞳には縋りつくような光が。その毛並みのい
い犬が大人しくお座りをしながら、飼い主に捨てないでと視線で訴
えているような様子に、このままごねるのはどうなのだろうか、と
言う葛藤が生まれる。
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﹁それにさ、宏﹂
﹁なんや?﹂
﹁あんた、いい加減そろそろ何か行動しないと、現状単なる引きこ
もりよ?﹂
﹁職人は、工房で作業するんが仕事やん⋮⋮﹂
引きこもり呼ばわりされて、思わず憮然とした顔で反論する。ど
この世界に、一国の首都の王城に潜入工作をしに行く職人がいると
言うのか。
﹁なあ、ヒロ。何にしても、ここで行かないって言ってエルを見捨
てるのは、いろんな意味で台無しだぞ?﹂
﹁師匠、子供の切羽詰まった頼みを断るのは格好悪い﹂
達也と澪からの非難の嵐に、どんどん顔つきが渋くなっていく宏。
ちらりと春菜の方を見ると、彼女は中立の立場らしく、あえて何か
を言うつもりは無いらしい。多分、最後までごねて突っぱねても、
彼女は幻滅する事も責めることもしないだろう。それほど長くない
付き合いではあるが、それを確信できる程度には深い付き合いをし
ているつもりだ。
﹁正直言うとな、僕は物作る以外、これと言ってできる事があらへ
んから、一緒に行っても足引っ張るだけなんちゃうか、っちゅうん
がどうしても不安やねん﹂
﹁それは、ボク達が⋮⋮﹂
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﹁今回に限っては、エルの人生そのものがかかっとる。頼まれて情
に流されて、能力ない人間が格好つけてふらふらついてくんは、正
直ええこととは思われへん。元々の立場上、エル自身は今回はどう
しても足引っ張る側になる以上、足手まといになりそうなんが二人
に増えるんは、単なる自殺行為ちゃうか?﹂
宏の思いのほか深い考えから来る正論に、嵩にかかって攻め立て
ていた真琴たちも、反論できずに沈黙する。この男、過去にいろい
ろ痛い目を見ているからか、高校三年生の割には不必要に見えるほ
ど深く物事を考えるときがある。今回の場合は、ヘタレと言われず
に厄介事から逃げるために、必死になって理論武装したっぽい部分
が多分にあるのも事実だが。
﹁単なる採取やったら、自分一人の問題や。ミスったところで、自
分でどうとでも帳尻合わせ出来る。せやけど、今回のはそうやない。
はっきり言うて、そんな責任はよう背負わん。能力も無いのにほい
ほい出て行って、リカバリー不能なミスをやらかすんが、正直言う
てものすごい怖い﹂
言っている事は単なる責任回避だが、事態の重さや自身の能力・
適性などを踏まえた上での意見である以上、ヘタレが責任逃れをし
ようとしている、と簡単に言うのは流石にフェアではないだろう。
﹁⋮⋮ヒロシ様、勘違いをなさってはいけませんよ﹂
﹁エル?﹂
﹁この場合、メンバーのミスの責任をとるのは、私かお兄様です。
そもそも、私がちゃんとしていれば、このような状況になる事は無
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かったのですから﹂
エアリスのその言葉に、とっさに反論しようとする宏。王族であ
ると言うだけで、権力の類を一切持ち合わせていない十歳の子供が、
今回の件で出来ることなど知れている。レイオットや国王陛下の責
任については否定しないが、当事者であるエアリスは、本来的には
守られねばならない存在なのだ。
だが、宏のその反論は、口に出す事無く止められる。言いたい事
を察したエアリスが首を左右に振り、宏の言葉を完全に制してしま
ったからである。
﹁子供だから、とか、権力が無い身の上だから、とか、そう言う言
い訳は、事実や結果の前には無力です。それに、私自身は今ですら、
自分からは何一つ行動を起こしていません。ですからせめて、自分
の命を預ける人を自分で選ぶ事と、その結果の責任をとる事ぐらい
はさせてください﹂
﹁⋮⋮なあ、エル﹂
﹁なんでしょうか?﹂
﹁それ、十歳児の言葉やないで﹂
宏の呆れを含んだ言葉に、思わず小さく苦笑を漏らす春菜。宏の
感想は、そのまま春菜の、と言うよりは、日本人たちの意見でもあ
る。
確かにファーレーンの子供は、十歳にもなれば相当しっかりして
いる。そもそも、日本と比べれば普通に生活環境が厳しい上、モン
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スターと言う洒落にならない脅威が身近に存在する以上、日本人の
ように平和ボケしていられる方がおかしい。だが、そういう事情を
踏まえても、エアリスの精神年齢は成熟している気がする。
昔からエアリスはこうだったのか、と、確認するつもりでレイオ
ットに視線を向けると、兄であるはずの彼が、普通に驚愕の表情を
浮かべている。どうやら、彼が知らないこの短期間の間に、ずいぶ
ん大きな心境の変化があったのだろう。
子供と言うのは、成長が速いのだ。
﹁それで、ヒロシ様﹂
﹁やっぱり、考えは変わらへん?﹂
﹁はい。ハルナ様とミオ様に不満がある、と言う訳ではありません。
ですが、私は、やはりヒロシ様に、ヒロシ様とハルナ様に一緒にい
ていただかないと、どうしても不安なのです。それに⋮⋮﹂
﹁それに?﹂
﹁これは単なる予感なのですが、ヒロシ様がいなければ、きっと今
回の計画はうまくいかない、そんな気がするのです﹂
アルフェミナの姫巫女、その雰囲気を身にまといながら、厳かに
とどめを刺しに来るエアリス。流石にそこまで言われてしまっては、
これ以上ヘタレた事を言って逃げるのは無理だ。
﹁⋮⋮しゃあない、頑張るか⋮⋮﹂
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﹁ごめんなさい﹂
﹁こういう時は、ごめんやなくてありがとうの方がええで﹂
昔、カウンセラーの先生にさんざん言われた言葉。その言葉を借
りてエアリスを窘める。無茶振りをしてきたのは確かにエアリスだ
が、やると決めたのは宏である。それに、誰かに何かをしてもらう
のなら、謝るより礼を言うのが筋だ。少なくとも、宏はそう思う。
もっとも、自分がそれを出来ているか、と言われると微妙なところ
ではあるが。
﹁はい。ありがとうございます﹂
輝くような満面の笑みを浮かべて礼を言うエアリスに、深く深く
ため息をつきながらも、少しでも成功率を上げるための算段を立て
る。正直、このままでは用意した装備はほとんど使い物にならない。
どうやってもごまかしがききそうにないワイバーンレザーアーマー
はともかく、エアリスの服と自分達の武器ぐらいは持ち込めるよう
に、何らかの小細工をせねばならない。
それに、潜入工作用にうってつけの道具も、いくつか用意できる
ものがある。材料の都合でそれほどの数は無理だが、無いよりはあ
った方がいいに決まっている。向こうに対する自分達のアドバンテ
ージは、材料と時間さえあれば、いろいろな小細工を用意できる事
なのだから。
﹁せやなあ。とりあえず、決行は明日の昼以降にして。レイっちの
指定した条件考えたら、もう一手間準備がいるわ﹂
﹁分かった。昼、と言うのはこちらにとっても都合がいい。流石に
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連中も、真昼間から警備をかいくぐって侵入してくるとは思ってい
ないだろうし、エアリスの無実を晴らすには、黒幕の言動に疑いが
行く程度の状況証拠があった方がいいからな﹂
﹁了解。ほな、明日早めに昼済ませて、そのまま潜入やな﹂
場合によっては、かなりの長丁場になる可能性が高い。出来るだ
けしっかりした食事を取らなければ、途中でエネルギー切れにでも
なれば目も当てられない。
﹁さっさと準備にはいろか。澪、悪いんやけどポーションホルダー、
作っといて﹂
﹁了解﹂
﹁あと、ワイバーンの翼の皮膜、魔力抜きしといてくれると助かる
わ。ちょっと、いろいろ煮込まなあかんことなりそうやし﹂
宏の指示に頷くと、早速行動に移る澪。宏達が準備モードに入っ
た事を確認し、軽く挨拶をして出ていくレイオット。彼は彼でやる
べき事は山積みだし、そうでなかったとしても、ここにいても出来
ることなど特にない。
﹁ワイバーンの翼の皮膜なんて、なにに使うんだ?﹂
﹁ステルスマント、作んねん。流石に、今着とる服ぐらいは持ち込
めんとまずいやろ?﹂
﹁確かにな﹂
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ネックとなっていた問題、その解決のためにまたも高度な技術を
振るうらしい。本気で、準備時間さえあれば何でもできる男だ。
﹁まあ、ステルスマント、っちゅうても、魔力探知も含めた探知魔
法をごまかせる、言うだけで、姿が見えへんなる訳やないんやけど
な。それに、さすがにワイバーンレザーアーマークラスになると、
何ぼ頑張っても探知を誤魔化されへん﹂
﹁それでも、今回の条件だったら、絶対に必要なものよね﹂
﹁せやろ?﹂
そんな言葉を交わしながら、そのマントに使うための材料を取り
出し、下処理に入る。
﹁それで、俺達に出来る事は?﹂
﹁悪いけど、今のところ特にあらへん。エルの特訓でもやっといた
って﹂
﹁了解﹂
宏の要望を受け、エアリスの指導に移る。工房は、にわかにあわ
ただしくなっていった。
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︵あかん、やっぱりどない考えても、現状を回避できる手段があら
へん︶
昨日の会話を思い出す限り、どうやってもその結論にしか至らな
い。
﹁師匠、本気で往生際が悪い﹂
明らかに今回のミッションについて後ろ向きな事を考えている宏
を、澪が小声でズバッと切り捨てる。
﹁それぐらいわかっとる。ただなあ⋮⋮﹂
﹁ただ、何?﹂
﹁実際にこの場に立ってみると、どないも腰が引けてもうてなあ⋮
⋮﹂
﹁師匠がそんなだと、エルが不安になる。しゃんとして﹂
ヘタレた事を言っている宏に対して、容赦なくずばずばいく澪。
年下にここまで言われるあたり、ヘタレ男の面目躍如、と言ったと
ころか。
﹁まあ、専門外の事をやらされてるんだし、多少は大目に見てあげ
ようよ﹂
﹁専門外、って言うんだったら、春姉もそう。それに、ボク達を助
けに来た時は、普通に潜入ミッションをこなしてた﹂
469
﹁あいつらの笊な警備と、ここへの潜入を一緒にせんといてや。そ
れに、あの時は全員一斉にかかってきても、どうとでもなったレベ
ルやし﹂
宏の言葉に、不満ながらもとりあえず黙る。余り雑談するような
状況でもないし、いつまでもグダグダ言い合うような事でもない。
そのまま、あまりいい雰囲気とは言えない空気で、地下の隠し通
路を黙って歩く一行。わざとらしく迷路になっている道を、記憶力
を総動員して間違わないように抜け、仕掛け扉を動かし、実は落と
し穴になっている広場を大きく迂回して、ひたすら目的地を目指す。
その途中
﹁⋮⋮師匠﹂
﹁なんや、急に立ち止まって?﹂
﹁ちょっとの間だけ、先頭に立って﹂
﹁⋮⋮ええけど﹂
澪がいきなりそんな事を言い出す。何とも唐突な言葉に嫌な予感
がしつつも、言われた通りに先頭に立ち、五メートルほど進む。罠
がらみのスキルが無い宏にも感じられる種類の違和感があり、己を
叱咤しながら過剰にビビりつつ、恐る恐る一歩踏み出すと
﹁なんか今、変な音がしたんやけど⋮⋮﹂
バチリ、と、小さな音ともに違和感が消えた。
470
﹁地図から言うと、ここが教会の敷地、その外周の地下﹂
﹁ちゅうことは?﹂
﹁地上に仕掛けてあったと思われる罠が、地下にまで影響してたん
だと思う﹂
﹁⋮⋮要するに、罠があると分かっとって踏み込ませた、と?﹂
ジト目で追及してくる宏に、すずしい顔で頷いて見せる澪。因み
に、この会話の間、一行は普通に奥に向かって進んでいる。
﹁あのなあ、どこの世界に、師匠に漢探知を強要する弟子がおんね
ん⋮⋮﹂
﹁この場合、漢探知じゃなくて漢解除。だって、罠があったのは最
初から分かってたし﹂
悪びれずにそんな事を言ってのける澪に、どっと疲れが襲ってく
る宏。なお、漢探知とは要するに、わざと罠に引っ掛かってその存
在を暴露すると言う、体を張った探知方法である。主にシーフやス
カウトと言った罠系の職業がいない時に行う、RPGの原型とも言
われるテーブルトークRPG時代からの、ある意味伝統的なやり方
だ。
﹁あのさ、澪ちゃん﹂
﹁何?﹂
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余りにもあんまりなやり方に微妙に引きながらも、恐る恐る声を
かける春菜。平常モードで返事を返す澪。
﹁それ、大丈夫なの?﹂
﹁解除しちゃったこと? それとも、師匠を壁にした事?﹂
﹁両方﹂
﹁壁にした事なら大丈夫。元々あれ以外に突破方法が無かったし、
師匠みたいなトップクラスの職人は、よっぽどのレベルじゃない限
り、魔法系の罠に引っ掛かる事は無い。だって、一般ユーザーレベ
ルの魔法使いじゃ、大魔法をぶつけても発動がキャンセルされるぐ
らい、魔法防御も魔法抵抗も高いし﹂
あっけらかんと言い放つ澪の言葉に、全力で引く春菜とエアリス。
春菜は知識としては、術者の知力が対象の精神力より一定以上低い
と、ランクの低い魔法は当った瞬間にキャンセルされ、全く効果が
出なくなる事は知っていた。が、それはせいぜい初級レベルの話で、
流石に上級どころか大魔法すらキャンセルされる事があるとは、全
く想像していなかった。
宏達職人がそのレベルに到達している事にも引くが、それを平気
で利用して罠に叩き込み、全く悪いと思っていない澪に対しても引
く。この娘、なかなかいい根性をしている。
﹁で、解除しちゃったことだけど、まずかろうがどうだろうが、他
に方法無かったし﹂
﹁えっと、この通路を守るとか、そういう種類の罠だった可能性は
472
?﹂
﹁あり得ないから大丈夫。そもそも、時空神アルフェミナとは、術
の系統が違う感じ﹂
スカウトとして必要だったために習得した魔術知識で、根拠を明
快に断言してのける。
﹁そこまでわかっとるんやったら、わざわざ僕に漢解除なんざさせ
んと、自力で解除したらええやん﹂
﹁それができるほど、弱い術じゃなかった﹂
﹁⋮⋮そんなもんに、自分の師匠を突っ込ましたんかい⋮⋮﹂
力が抜けた感じで、そんな風にぼやく宏。
﹁あの、ヒロシ様、お体の方に異常とかは⋮⋮?﹂
﹁まあ、別段何も問題はあらへんから、ぐちぐち言うてもしゃあな
いんやけどさ﹂
まだ本番のイベントに到着もしていないと言うのに、異常に疲れ
た気がする。だが、脱力している暇もない。
﹁とりあえず、罠潰してもうた、っちゅうことは、急がんとやばい
んやな﹂
﹁多分ピンチ﹂
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﹁ほな、急ぐで﹂
グダグダいっても仕方が無い。最近弟子が反抗的なのは、気にし
てもどうにもならない。ならば建設的に行こう、と、高い精神力で
無理やり気分を切り替える宏。内心では、何で僕がこないな事やら
なあかんねん、と、ヘタレた事を愚痴愚痴言いながらも、エアリス
の手前表面上は必死になって取り繕うのであった。
﹁お待ちしておりました。良く御無事で⋮⋮﹂
何とも言えない構造の隠し通路を抜け、神殿内部にダイレクトに
侵入すると、そこには立派な衣装を身にまとった老人が待っていた。
こういう宗教組織の上層部にありがちな、世俗的な生臭さを感じさ
せない、厳かな雰囲気を纏った、何とも徳の高そうな人物である。
﹁ご心配をおかけしました、大神官様﹂
﹁お話は伺いました。本当に、本当によく御無事で⋮⋮﹂
感極まったように、言葉を詰まらせる大神官。その手をそっと取
るエアリス。彼女にとって、この老人は数少ない、心許せる相手な
のだろう。静かに再会を喜ぶ。だが
﹁申し訳ありませんが、再会を喜ぶのは後ほどでお願いいたします﹂
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春菜が言いづらそうにしながらも、努めて事務的に声をかけ、そ
の光景に水を差す。こういう時、進んで貧乏くじを引こうとするあ
たり、地味に苦労性な女性である。
﹁そうですな。こちらこそ申し訳ない﹂
春菜の言葉にすべき事を思い出し、すぐさま行動に移す大神官。
その姿を、じっと観察し続ける宏と澪。
﹃どう?﹄
﹃少なくとも、瘴気の類は感じへん﹄
﹃心配してるって態度に、嘘は無かった﹄
宏と澪の報告に、肩の力を抜いて内心で安堵のため息をつく春菜。
総合的に見るなら、この大神官は少なくとも敵ではないらしい。
﹁一応確認しときたいんやけど﹂
﹁何ですかな?﹂
﹁うちら部外者が、一緒に行ってしもてええん?﹂
﹁何事にも、緊急避難と例外事項と言うものはございます。それに、
御神託があった以上、あなた方がこの場に存在することについて、
何人たりとも異議を唱えさせるつもりはございません﹂
宏の質問に対し、厳かな雰囲気で微妙に生臭い事を言い放つ大神
475
官。こういう立場の人が教義や規則にガチガチでない事はありがた
いのだが、流石にそれで大丈夫なのか、という疑問は消せない。
﹁そもそも、神殿などと言うのは、神が我々に言葉や加護を下さる
ための場。神官などと言うのは、そのための手続きを代行するため
だけの存在。人間が勝手に決めた教義や規則など、元来何の意味も
ありません。それらが女神の意に沿わぬなら、民が加護を得る妨げ
となるのであれば、そんなものは捨ててしまえばよろしい﹂
宏達の微妙な視線に気がついたのか、厳かな雰囲気を崩さず、淡
々と自分達の組織を否定するような事を言いきる大神官。その信念
が、生臭い台詞を吐きながらも、世俗に染まった生臭坊主と言う印
象を回避し、組織が硬直化し腐敗するのを防いできたのだろう。
﹁それで、この後何をするの?﹂
﹁浄化の儀、ですな。大神官以下高位神官総員、既に準備は整って
おります﹂
﹁それをすることと、エルの名誉の回復と、どうつながるん?﹂
﹁簡単な事でございます。カタリナ様が拒絶され、入る事が出来な
かった儀式の間でエアリス様が浄化を行えば、それだけでエアリス
様が姫巫女として十分な資質を持っておられることの証明になりま
す。それに、既に地脈への浸食が、エレーナ様が健在でも手に負え
ない領域に到達しつつあります。この状況を覆す事が出来るのは、
エアリス様だけでしてな﹂
要するに、本来なすべき仕事をこなせば、それだけで国を救った
事になり、十分な功績になると言うことだ。人柄に対する誤解はと
476
もかく、姫巫女として失格だと言う烙印は、実績を示せば簡単に打
ち消せる程度のものなのだろう。
大神官に先導され、しばらく質実剛健を絵にかいたような通路を
移動すると、大広間のような場所に出る。作りこそしっかりしては
いるが、全体的には簡素な印象の大広間。その北側には、部屋や通
路の印象とは正反対の、精緻な彫刻が施された大きな扉が。扉その
ものに強い浄化の結界が張られているところを見ると、この向こう
側が儀式の間なのだろう。
﹁つきました。申し訳ありませんが、皆様はここでお待ちくだされ﹂
﹁了解﹂
﹁どうせ要らん事やらかす奴がおるやろうし、ここで警備の真似事
でもしとくわ﹂
﹁瘴気を発見したら、問答無用でサーチアンドデストロイ、でOK
?﹂
宏達の返事に、頭を一つ下げて答える大神官。澪の物騒な台詞が
若干気になるようだが、とりあえずスルーすることにしたらしい。
そのままエアリスを促し、もう一度一礼して儀式の間に消える。彼
らを見送って大広間に視線を戻すと、唐突に何者かが声をかけてき
た。
﹁いけないんだあ、部外者がこんなところにいるなんて﹂
﹁自分かて部外者のくせに﹂
477
唐突に表れた、少し意識をそらすと顔そのものを忘れてしまうほ
ど印象が薄い男の戯言を、冷たい口調で切り捨てる宏。ワイバーン
なんぞ目ではないほどの瘴気をばら撒いている男に、愛想良く接す
る理由など無い。
時空神の面目躍如とでも言えばいいだろうか。この神殿内は転移
系の道具や魔法は一切無効化される。それはレイオット達が使う転
移魔法も同じ事である。女神本人以外は転移が出来ない事を考える
と、この男も自分達同様、非正規のルートでこっそり侵入してきた
のだろう。この存在感の薄さを考えると、普通に気配を消して、正
面から堂々と入ってきた可能性もある。
﹁神殿に勝手に忍び込むのって、すっごい重罪らしいね﹂
﹁要するに、自分かて重罪や、言う事やろ?﹂
﹁つまり、君達にお仕置きしても問題ない、って事だね﹂
宏の突っ込みを無視し、言いたい事を言って会話を打ち切る男。
何をされてもいいように、ステルスマントを脱ぎすてて武器を抜き
放つ三人。その三人に対し牽制程度の魔法を放ちながら、こんなと
ころで使うべきではない種類の大規模魔法を準備する男。
﹁こんな狭いところで、良くそんな魔法を使おうと思うよね⋮⋮﹂
どうせばれているのだから、と、オーラバードの精密射撃で男を
牽制しながら、大規模魔法に対して呆れたように漏らす春菜。この
場合、前に出るのは宏の仕事であり、下手に春菜が距離を詰めるの
は全くメリットが無い。なので、距離があっても使える技で仕掛け
るのが、この場合の春菜の役目なのである。
478
因みに、男が放った牽制の魔法は真正面から突っ込んで行った宏
に全部着弾し、何の影響も与える事無くキャンセルされてしまった。
瘴気がたっぷり詰まった闇属性の、本来直撃を食らえば人間として
いろいろとまずい事になる類の、弾道がかなり読みづらいタイプの
魔法だが、残念ながら拡散しきる前に一人に被弾してしまえば、対
集団用の攻撃としては用を果たさない。その上、さらに残念な事に、
彼の魔法力では、そのレベルの魔法で宏の魔法抵抗を貫く事は出来
ないらしい。
﹁だって、君達が暴れたんだからしょうがないよ。こちらは単に不
審人物を制圧しようとしただけだし、大規模魔法は君達が使うんだ
からねえ﹂
﹁⋮⋮浅はか﹂
妙な軌跡を描く矢を撃ち込みながら、淡々と突っ込みを入れる澪。
﹁じゃあ、僕がやった証拠がどこに?﹂
﹁それ以前の問題﹂
澪がなにを言っているのか理解できず、自分の事を棚に上げて頭
がおかしい小娘だと判断する男。子供の戯言を無視して、準備が整
った大規模破壊魔法を発動させる。膨大な魔力が発生し、世界に牙
を向こうとする。
﹁残念だったね! これで君達が生き延びても、神殿を破壊した犯
罪者だ!﹂
479
﹁あなたこそ、残念﹂
哄笑する男に対して、もう一度矢を放ちながら冷たく言い放つ。
矢を叩き落としながら、言われた事を理解できずに怪訝な顔をする
男。そして、すぐにおかしなことに気がつく。
﹁何故術が発動していない!?﹂
﹁師匠を範囲にとらえておいて、あの程度の魔法がちゃんと発動す
る訳が無い﹂
﹁何だと!?﹂
普段なら全く障害にならないであろう範囲魔法の欠点。それは、
効果範囲内に術の強度を上回るだけの強い抵抗力を持つ存在がいる
と、それがたとえ端の方でも術そのものが破壊され不発する点であ
る。宏の魔法抵抗を打ち破るには、たとえ彼が装備なしの状態だと
しても、最低でもトップクラスの廃人が放つ中級魔法以上が必要な
のだ。
﹁往生せいやあ!﹂
驚きのあまり動きが止まった男に、容赦なくスマッシュを叩き込
む宏。手斧の背では無く刃の方でやっているあたり、実に殺意が高
い。とっさにバリアを張り、そのまま柱に叩きつけられる男。
﹁まだまだや!﹂
もう一度スマッシュを入れて壁に叩きつけ、跳ね返ってきたとこ
ろに更に叩き込む。比較的連発しやすい初級スキルとはいえ、本来
480
相手を簡単に壁打ちピンポンできるほどスキルディレイは小さくな
い。こんな真似が成立しているのは、宏がスキルディレイをきっち
り体で覚えている事と、相手が大魔法を潰されたショックから立ち
直り切っていない事、二つの要素が重なったためである。
﹁ええい! 鬱陶しい!﹂
人を小馬鹿にした態度をかなぐり捨て、苛立ちのままに追撃に割
り込んで弾き飛ばす。三メートルほど飛ばされた宏は、だが全くダ
メージを受けた様子も見せず、姿勢を崩すことすらなく着地する。
ぬるいダンジョンが主体だったとはいえ、ゲーム時代に肉壁をして
いたのは伊達ではない。敏捷を上げるようなスキルを持っていなく
ても、普通に弾き飛ばされたぐらいでダウンするほど彼の技量は低
くないのだ。
﹁犯罪者の分際で粘るようだけど、あの王女様にいくら期待しても
無駄だよ﹂
﹁どうせお前さんがなんぞ小細工しとるんやろうけど、それこそ無
駄なあがきや﹂
宏の言葉が終わる前に、儀式の間から強い光があふれ出す。
﹁⋮⋮貴様、なにをした?﹂
﹁簡単な事や。ピアラノークから助けた時、あの子らにかかっとっ
た状態異常、全部まとめて解除しただけや﹂
あり得ないはずの儀式の成功。それを見て憎々しげに宏を睨む男
に対し、平然と答えを返す。あの時は、エアリスが張った仮死状態
481
になる術以外の存在には気がついていなかったが、どんな状態異常
がかかっているか分からない、という理由で、あの時持っていた材
料で作れる、最も強力な状態異常解除アイテムを使ったのだ。
﹁それで、ギャラリーが来たみたいだけど、どうするの?﹂
春菜の指摘に振り向くと、僧兵と近衛騎士を引きつれた、幾人か
の貴族の姿が。
﹁遅いなあ。不法侵入者が来ているのに、今まで何してたんだい?﹂
﹁儀式の邪魔をしようとしている者がいるという報告を、ついさっ
き受けたところだからな﹂
白々しい言葉を告げる男に、レイオットが平然と答えを返す。
﹁だったら、早く邪魔ものを排除しなよ﹂
﹁そうさせてもらおう﹂
レイオットの返事と同時に、動き始めの挙動を一切見せず、ユリ
ウスが男を切りつける。バリアを貫き、肩からざっくりと切り裂い
たにもかかわらず、男は平然としている。その行動を見た幾人かの
貴族が、レイオットとユリウスに対して非難の声を上げ始め、場が
急速に騒がしくなり始める。
﹁おやおや、乱心したのかい? 不法侵入者はあちらだよ?﹂
﹁この場にいる以上、貴様も不法侵入者だ。それに⋮⋮﹂
482
﹁既に、アルフェミナ様が御神託をくださいましてな。この方々は
アルフェミナ様が選んだ代行者。すなわち、神殿の関係者である以
上、この場に立っていても咎を受ける理由はありませぬ﹂
扉の向こうから現れた大神官が、厳かに告げる。
﹁へえ? 証拠は?﹂
﹁無理をなさらぬ事です、バルド殿。貴殿ほど瘴気に浸食されてし
まった存在では、まだこの場において続いている浄化の術は、ずい
ぶんその身に厳しいはずでございましょう?﹂
﹁言いがかりもいい加減にしてほしいなあ。誰が瘴気に侵されてい
るって?﹂
﹁いい加減、戯言はやめよ、見苦しい﹂
言い逃れを続けようとする男を、後ろから出てきた少女が一言の
もとに切り捨てる。
﹁エルちゃん⋮⋮?﹂
その姿を見た春菜が、戸惑いの声を上げる。顔や髪形、体つきな
どは、いつものエアリスと何も変わらない。服装も、ここに連れて
来た時のままだ。だが、白銀だった髪も、青色だった瞳も、まばゆ
いばかりの輝きを放つ黄金色に変わっている。何よりその雰囲気が、
いつもの子犬のように人懐っこい少女のものでは無く、神々しい種
類の威厳を放っている。
﹁お待たせして申し訳ない、宏殿、春菜殿、澪殿。御三方のおかげ
483
で、無事にこの地の地脈の浄化が終わりました﹂
﹁⋮⋮自分、誰や?﹂
﹁宏殿。わたくしの正体など、あえて答えずとも分かっておられま
しょう?﹂
エアリスの姿をした誰かの言葉。その言葉に確信を抱く。どうや
ら、女神のお出ましのようだ。
﹁いつまでこの地を汚しているつもりだ?﹂
﹁この地を汚してるのは、あんたの方じゃないのかい?﹂
出てきた女神に対してひるむ様子もなく、盗人猛々しい言葉をぶ
つける男。その言葉を眉ひとつ動かさずに聞き流すと、周囲をぐる
りと見渡す。
﹁ふむ。地脈の浄化こそ終われど、瘴気の駆逐はまだまだと言うと
ころか。なれば、わたくしの力をもって、もうひと仕事して行きま
しょう﹂
女神の視線に委縮していた数人の貴族が、その言葉にびくりと震
える。その様子に頓着する事無く、再び強い浄化の光を放つ。
484
﹁ぎゃあああああああああ!﹂
﹁やめろ! やめてくれ!﹂
﹁私は悪くない! 悪くないんだ!!﹂
光を浴びた数人の貴族たちが、突然苦しみ始める。その様子を思
わず唖然とした様子で眺めていると、女神がさらに言葉を紡ぐ。
﹁さて、これ以上は我が巫女の体がもちません。宏殿、後を頼みま
す﹂
﹁ちょい待ち、何で僕に頼むん?﹂
宏の慌てたような問いかけに対し、女神は意味深にアルカイック
スマイルを浮かべ、一切の答えを返さない。
﹁それでは、宏殿、春菜殿、澪殿。真琴殿と達也殿にもよろしくお
伝えください。いずれ時が来れば、全てを伝えることもできましょ
う﹂
﹁せやから、何でエルの事を僕に頼むねんって﹂
宏の質問をきっちりスルーし、何とも予言めいた意味深な事を言
い置いて、わざわざエアリスの体から霊体を引き揚げる演出をして、
女神が去っていく。言い伝えと寸分たがわぬ姿の女神が消えるとと
もに、場を覆っていた神々しい空気が雲散霧消する。
﹁何や言うだけ言うて、どっか行ってまいおったで⋮⋮﹂
485
﹁何だったんだろうね、一体⋮⋮﹂
やるだけやって後始末を押し付けていった女神に、唖然としなが
ら開いた口が塞がらない感じのコメントを漏らす宏と春菜。その二
人の様子を、困ったように微笑みながら見つめるエアリス。
﹁まあ、何にしても、御苦労さん﹂
﹁これで、エルちゃんのお仕事は終わりだよね?﹂
﹁はい。無事に瘴気を浄化する事が出来ました﹂
エアリスの言葉通り、一国の王城とは思えないほど蓄積された瘴
気が、きれいさっぱり払われている。瘴気などと言うのは日常生活
でも発生するものである以上、何もしなければいずれまた先ほどの
ように人間の生活に支障が出始めるほどに蓄積されてしまうのだが、
正規の姫巫女が再び大手を振って出入りできるようになった以上は、
そうそう以前のようにはなるまい。
﹁確かに、再びこの地は穢されてしまったが⋮⋮﹂
﹁うわ、まだ生きとった!﹂
﹁また往生際が悪い!﹂
声が聞こえた方を見ると、半ば人の姿を放棄した男が、天井近く
の梁の上に立ち、憎々しげに宏達を睨みつけていた。女神の浄化に
より痛手を受け、人の姿を維持しきれなくなったらしいが、むしろ
あれで死なないあたり、本当に往生際が悪い。
486
﹁だが、その穢れた巫女を浄化すれば、再びこの地を浄化する事が
出来る﹂
そんな事を言いながら、なにがしかの魔法を発動させる。嫌な予
感がしてエアリスに駆け寄ろうとする宏だが、相手の方が一瞬早い。
エアリスの足元に広がった闇が彼女を飲み込み、次の瞬間には男の
腕の中に送り込まれてしまう。
﹁さて、巫女よ。今度こそ正しき神の使徒となれ!﹂
仰々しい言葉とともに、掌に呪いとしか思えない濃密な瘴気を集
め、エアリスの胸元に送り込もうとする。瘴気の塊がエアリスに触
れる直前、パチリと小さな音が鳴って塊がかき消される。神官衣と
懐剣、そして下着による三重の防御機能を打ち破るには、いささか
出力が足りなかったようだ。なお、彼らは最後まで知らない事では
あるが、宏が死にかけながら作った下着で無ければ、エアリスが無
事で済んだかどうかは非常に微妙なラインだった。澪の言う通り、
三割の影響は決して小さくなかったのである。
﹁ダンシング⋮⋮!﹂
﹁エル! それは今切る札やない!﹂
﹁エル! 浄化! 最大出力!﹂
懐剣の特殊機能を発動させようとしたエアリスを宏が制止し、す
べき事を澪が指示する。澪の言葉に反射的に従い、最大出力で浄化
を発動させるエアリス。発動した浄化術は、瘴気をかき消されて動
揺している男を直撃し、隅々まで焼き払う。
487
﹁⋮⋮どこまでも小賢しい!﹂
ついに完全に人の姿を放棄した男が、先ほどまでのふざけた態度
をかなぐり捨てて吠える。不安定な梁の上ながら、既に上手く距離
を取っているエアリスを睨みつけ、一気にけりをつけようと躍りか
かる。
﹁エル!﹂
﹁はい!﹂
男が動く直前に発せられた宏の掛け声。それを聞きつけて躊躇な
く梁から飛び降りるエアリス。一拍遅れて男の攻撃が空振りする。
既に着地地点に待機していた宏が、余裕を持ってエアリスをキャッ
チし、懐から何やら取り出す。キャッチした宏の顔を、熱を持ち潤
んだ瞳で見つめるエアリス。
﹁とりあえず、この子はもうてくで∼!﹂
大神官とレイオットに目配せし、二人が頷いた事を確認したとこ
ろで、その取り出した何やらを発動させる。次の瞬間、転移が発動
した訳でもないのに、目の前から四人の姿が完全に消える。いつの
間に回収したのか、脱ぎ捨てられたステルスマントも無くなってい
る。使ったのは盗賊神の切り札と言う名の、職人たちの間では通称
ハイパージャマーと呼ばれている使い捨てアイテムだ。最大三十秒
とごく短時間ながら、ありとあらゆる探知を無効化するアイテムで、
それこそ今のように目の前で使ってすら、そして触っていてすらそ
の存在を認識できなくなる恐ろしいアイテムである。
488
﹁どこだ!? どこに行った!?﹂
﹁安心しろ。彼らは私の知り合いだ。時が来れば、姉上とともにこ
の場に戻ってくる﹂
﹁もしかして、あの連中が!?﹂
自分達の味方である貴族の一人が発した問いかけ。それに応えず
に周囲を見渡す。
﹁とりあえず、彼らを迎え入れる準備をせねばな。さしあたっては、
逃げたあの悪魔を探して仕留めるところからか﹂
レイオットが、この後のことを指示する。先ほどエアリスが飛び
降り男の攻撃が空振りした瞬間、男に向かって兵士達が攻撃を仕掛
けていたのだが、確かな手ごたえとは裏腹に、爆音と閃光が収まっ
た後には、何者かが突き破ったと思わしき窓があるだけで、男の姿
はどこにもなかったのだ。
﹁御意﹂
レイオットの言葉に、その場にいた人間全員が跪き同意を示す。
こうして、ファーレーン王国は、部外者の協力によって、当面の危
機を脱する事が出来たのであった。
なお、神殿の敷地内から脱出するまでの間、成り行きでそのまま
エアリスを長時間抱え込んで逃げ回った宏は、と言うと⋮⋮
﹁ひ、ヒロシ様!?﹂
489
﹁エルちゃん、今近寄っちゃダメ!!﹂
特殊転移石で逃げ帰った工房の片隅で、己の吐しゃ物にまみれな
がら土気色の顔で、やばい感じの痙攣を繰り返していたのであった。
なお、蛇足ながら、今回ドーガとレイナが何をしていたかと言う
と⋮⋮。
﹁わしらもずいぶん甘く見られたもんじゃのう﹂
﹁全く、たかがこの程度で神殿に侵入できると思っているのは、さ
すがに認識が甘くは無いか?﹂
存在が割れている可能性が高いとある隠し通路の前で、敵側の勢
力と思われる怪しげな一団を始末していたのである。下手に大勢で
ガードすればかえって藪蛇になるため、レイオットは単体戦闘能力
に関しては国内屈指のこの二人に役割を振ったのだ。
﹁まあ、それでも、ヘルハウンドごときではなく、ケルベロスを呼
び出した事は評価してもいいじゃろうて﹂
﹁たった三頭、それも碌に制御も出来ていないようでは、全く意味
はありませんがね﹂
490
目の前で物言わぬ躯になっている三頭のケルベロスと、ついでに
始末されてしまった召喚師と思われる人物十人ほどを見ながら、ぬ
るいと言わんばかりのコメントを残す二人。その様子に辛うじて生
き残った一人が、怯えながら逃げを打とうとして、突如黒い炎に包
まれる。見れば、ケルベロス以外の他の死体も、全て燃え尽きてい
る。
﹁口封じか。段取りのいい事だ⋮⋮﹂
﹁どちらにせよ、我々が捕らえてもまだ引き渡すのは難しい。むし
ろ手間が省けたと考えてよかろう﹂
﹁そうですね。それより、この死体をどうしましょうか?﹂
﹁持ち帰れば、何ぞの素材が採れるかもしれん﹂
﹁相当ズタズタにしてしまいましたが、大丈夫でしょうか?﹂
レイナの指摘に、ぬう、と言う感じで考え込むドーガ。因みにケ
ルベロスは、平均をとるならワイバーンよりも手ごわいモンスター
だ。基本的には地獄系のダンジョンにしか存在せず、大抵出てくる
ダンジョンでは最弱クラスの生き物ではあるが、それはむしろ、他
のモンスターが桁違いに強いだけである。
馬より巨大な三つ首の犬の死骸を見上げながら、片手で振りまわ
せるとは思えない大きさと重量の槍で自身の肩をぽんぽんと叩き、
やりすぎたか、と微妙に後悔するドーガ。因みに、反対側の手には
全身を覆えるほどの、これまた洒落にならない大きさのタワーシー
ルドが握られている。老いたりとはいえ堂々たる体躯を誇る彼が持
てば、ほとんどの者がその威圧感だけで逃げ出したくなるだろう。
491
しかも、動きに全く無理が無い。
﹁久しぶりに暴れたもんじゃから、少々はしゃぎ過ぎたようじゃな。
まあ、持ち帰ればどうとでもするじゃろう﹂
﹁そうですね。皮と肉と骨、後は牙と爪ぐらいしか素材が分からな
い私達がどうこういっても、意味はありませんし﹂
﹁そうと決まれば、適当な大きさにばらして鞄に突っ込むぞ﹂
ドーガの指示に頷き、とりあえず部位ごとに分解するレイナ。な
んだかんだ言って、この辺の考え方はすっかり染まっている二人で
あった。
492
第12話︵後書き︶
この手のネタの天丼は基本。
前回と違って今回は自業自得。
493
第13話
﹁湯けむりに硫黄の匂い⋮⋮﹂
﹁間違いなく、温泉だね、宏君﹂
﹁温泉やなあ﹂
共同浴場らしき建物から流れ出るお湯の匂いを嗅ぎ、はっきりと
そう結論を出す二人。その妙なはしゃぎぶりを、苦笑しながら見守
る年長者達。一行は湯治と言う事で、大霊峰の麓にあるファーレー
ン有数の温泉地・アドネにやって来ていた。移動は馬車でのんびり
と、ではなく、レイオットの転移魔法で一発移動である。なお、そ
のレイオットは、一行を送り届けた後、さっさと帰ってしまってい
る。
﹁ここのお湯、源泉の温度によっては、アレができるな﹂
﹁うん、アレができるね﹂
﹁とりあえず、お前らがやたらはしゃいでるのは分かったから、少
しは落ち着け﹂
達也にたしなめられ、ピタッと動きを止める二人。どうやら突っ
込み待ちだったようだ。
﹁で、温泉卵でも作る気か?﹂
494
﹁そらもう、温泉来たら温泉卵は作らな﹂
﹁後、源泉の温度が高いんだったら、トウモロコシとか芋とか茹で
ようかな、と﹂
﹁相変わらず食う事には執念を発揮するなあ、お前らは⋮⋮﹂
やたら息があっている二人を見ていると、突っ込みを入れるのが
野暮な気がしなくもない。
﹁因みに本命は、温泉まんじゅうや﹂
﹁小豆が無いって話じゃなかったの?﹂
﹁それについては、ある解決策に気がついたの﹂
春菜の言葉に驚き、思わず彼女を凝視してしまう宏を除く日本人
一同。その様子に満足したのか、胸を張ってズビシっ、と指を突き
付け、青い瞳に自慢げな色を浮かべながら高らかに宣言する。
﹁小豆が無いなら、白餡を作ればいいじゃない!﹂
そうでなくてもでかい胸を強調するように突き出し、ドヤ顔でど
こぞの処刑された王妃がのたまったような事を言い放つ春菜。きっ
ちり固定されているため単に強調されているだけだが、そうでなけ
ればたゆん、と言う擬音がどういうものなのか、死ぬほど理解出来
たであろう。その場にいる宏以外の視線が、思わずその胸元に集中
する。
﹁因みに、うぐいす餡、っちゅう手もありやで﹂
495
宏が更に余計な注釈を入れる。どうやら、白餡やうぐいす餡の材
料となる白インゲンや青エンドウは、豚肉同様類似品があるらしい。
﹁それって、解決策なのか?﹂
﹁どっちもマイナーなだけで、伝統的な餡子や。ぜんざいとか羊羹
は解決策がまだ見つかってへんけど、鯛焼きとかはある程度何とか
なるんちゃうか?﹂
﹁つうか、温泉まんじゅうって、単にまんじゅう蒸してるだけなん
だから、温泉地でやらなくてもいいんじゃねえか?﹂
達也の言葉に、にやりと笑ってのける宏と春菜。相変わらず無茶
苦茶距離を置いて会話をしているくせに、この手の事になると本気
で息がぴったりである。
﹁温泉水が飲用に向いてるんやったら、それで蒸したろうと思うて
な﹂
﹁待て待て待て。それをどうやって調べる気だ?﹂
﹁飲用に適してるかどうか見るためのチェッカーがあんねん。作っ
たんは大分前やけどな﹂
﹁温泉専用なのか?﹂
﹁いんや。本来の使い道は、普通の水源が手ぇ加えんでも飲めるか
どうか見るためのもんや﹂
496
宏の言葉に、むしろエレーナやドーガが食いつく。清潔な印象が
あるウルスといえども、生水を飲んで腹を下したとかそういう話は
枚挙にいとまがないし、騎士団に至っては背に腹は代えられず煮沸
して飲んだ水に毒素が混ざっていたりと言う事故が、毎年それなり
に起こっている。
魔道具や魔法で水を出せばいい、と言われそうだが、そんなに簡
単に行く話ではない。常に魔力がある訳でもなければ、万人が水を
出す魔法を使える訳でもなく、更に全ての世帯や部隊に水を作る魔
道具が普及している訳でもない。特に騎士団など、そう言ったリソ
ースは出来るだけ温存しなければならない状況は少なくないため、
場合によっては現地調達はそれこそ生死に直結する。
﹁それは、どの程度の精度で分かるのかしら?﹂
﹁そのまま飲める、煮沸すれば飲める、ちゃんとした処理が必要、
基本飲めん、ぐらいの感じやな﹂
﹁ちゃんとした処理、と言うやつの詳細は?﹂
﹁専門知識があれば分かるぐらいにはいけるで﹂
物凄い食いつきで質問攻めをするエレーナとドーガに、正直かつ
正確に応えていく宏。そんな様子をきっちりスルーし、エアリスが
春菜とはまた違った色合いの青い瞳をキラキラ輝かせながら、春菜
の方にとことこと歩いていく。
﹁ハルナ様!﹂
﹁何?﹂
497
﹁温泉卵、と言うのはどのようなものなのでしょう!? 温泉まん
じゅう、と言うのは美味しいのですか!?﹂
目に見えない尻尾をパタパタさせながら、未知の食べ物に対する
期待を全身から溢れさせるエアリス。何と言うか、いろんな意味で
将来が不安になる光景である。
﹁慌てなくても、ちゃんと用意するから﹂
﹁はい!﹂
満面の笑みを浮かべて、実に嬉しそうに返事を返すエアリス。そ
のあたりのやり取りを見守っていた澪が、事態の収拾のために言葉
を発する。
﹁いい加減、宿、行こう?﹂
澪の実にもっともな突っ込みに、質問やら何やらの動きを止めて
バツが悪そうに頷く一同。はしゃぐにしても、荷物ぐらいは置いて
きてからでいいだろう。
﹁リーナもさ、こういう時はちゃんと意見を言った方がいいぞ﹂
一人話の輪に入れず、状況を傍観していたレイナに対して、苦笑
がちに突っ込みを入れる達也。
﹁わ、私に今の空気に口をはさめと!?﹂
﹁いや、主や上役が暴走してる時は、冷静な部下がブレーキをかけ
498
ねえと﹂
﹁私の方が冷静だと言う状況が珍しすぎて、そこまで考えが至らな
かった⋮⋮﹂
自分の欠点を良く理解しているレイナの言葉に、苦笑が漏れる一
同。なんだかんだで最初の時の事をいまだに気にしている彼女は、
どうにも自分の意志では動かないように自制している雰囲気が強い。
﹁まあ、別に緊急時じゃないからいいんだが、リーナの方が冷静っ
てのもどうかと思うぞ﹂
﹁そうじゃのう。少々浮かれ過ぎたようじゃの﹂
﹁ま、まあとりあえず、宿に行こう、ね﹂
﹁せやな。ここで話しててもしゃあない﹂
﹁いや、お前らが言うなよ﹂
場を無理やりまとめようとした宏と春菜の言葉に、達也の突っ込
みが深々と突き刺さるのであった。
﹁で、何だっていきなり湯治なんだ?﹂
499
﹁と言うか、結局昨日はどうなったのか、ちゃんと説明してもらえ
ない?﹂
宿に入って一息つき、ある程度落ち着いたところで達也と真琴が
切りだす。なお、この温泉街には王家の別荘もあるのだが、今回は
あえてそこを使わずこの街一番の宿を取っている。もちろん部屋は
一番高い、いわゆるロイヤルスイートで、不審者対策に宿全体を貸
し切りだ。費用はすべて国、というより王家の支払いだ。どちらか
と言うと湯治客が少ない時期だったこともあり、それほど無茶をせ
ずとも貸し切れた、と言うのはどこぞの王子の談である。
実際のところ、彼らは誰一人として、唐突に湯治に来る羽目にな
った理由を知らない。何しろ、宏達がミッションを終えて帰ってき
た翌朝、いきなり押しかけて来たレイオットが、
﹁今から姉上とエアリスを湯治に連れて行く。宿の手配はすでに終
えているから、三十分で準備をしてくれ﹂
などと言いだし、あわただしく準備をして出てきたのだ。準備と
言っても、ありったけの着替えやら何やらを一旦倉庫に詰め込むだ
けなのだが、それでも忘れ物は無いかとか、戸締り結界その他のチ
ェックやらでぎりぎりになり、レイオットから説明を受ける暇が無
かったのである。しかも当人はアドネにつくなり、宿のチケットを
押し付けて早々に立ち去っている。冒頭の宏と春菜のボケは、むし
ろその状況でよくあれをやれるものだと感心するべき適応の速さで
あろう。
﹁湯治っちゅう話が出てきた理由は聞いてへんけど、昨日に関して
はまあ、この国全部の地脈を浄化する、っちゅう仕事はちゃんと出
500
来たで。何ぞ女神様らしいのが出てきとったけど、どう説明すれば
ええか分からんから省くわ。当人が時期が来れば会える、みたいな
事言うとったから、その時に本人に聞いたって﹂
﹁仕事全体で言えばまあ、成功だと思う。ただ、黒幕っぽいのは出
てきたけど、少なくとも私達が撤退する時点では仕留められなかっ
た﹂
あまりにもざっくりした説明だが、実際のところ他に説明しよう
もない。詳細を語ると長くなる上に、当事者のくせに宏達も良く分
かっていない事が多すぎるからだ。
﹁まあ、感じから言うて、あれは黒幕でも何でもない、ただのトカ
ゲのしっぽみたいな雰囲気やけど﹂
﹁ボクも師匠の意見に一票﹂
﹁あ∼、かもしれないね。変身した割に、なんとなく三下臭が漂っ
てたし﹂
宏の言葉に同意する澪と春菜。特に春菜のコメントがひどい。
﹁そんなに雑魚っぽかったのか?﹂
﹁雑魚っぽかった。何というか、ゲームとか漫画とかの一番最初の
中ボス、みたいな感じ? 一見大物そうに振舞ってるけど、大抵実
態は単なるトカゲのしっぽ、みたいな相手﹂
春菜の言葉に、妙に納得する達也と真琴。実際、日本人がフルメ
ンバーであれば、悪あがきをさせる事無く普通に仕留められていた
501
であろうレベルである。おそらく、似たような背格好と顔立ちの人
間を、黒幕の振りをさせて送り込んだだけだろう。
﹁で、おっちゃんらが持って帰ってきたケルベロス、うちらの仕事
の絡み?﹂
﹁まあ、そんなところじゃな﹂
昨日は結局、宏が復活してすぐにケルベロスの解体作業をする羽
目になり、結局こういう話をする暇は無かった。しかもケルベロス
の素材は皮と骨以外は大したものが無く、この手の瘴気が強い生き
物を仕留めた時に稀に起こる装備変化、要するにレア装備のドロッ
プもしていなかったため、手間に比べるとあまり美味しくは無かっ
たのだ。
﹁で、背後関係が分かりそうなネタはあったん?﹂
﹁召喚師が居ったので、おおよその予想はつくが、生存者も口封じ
されて死体すら残っておらぬ。確証は持てん、と言うところじゃな﹂
﹁さよか。しかし、ケルベロスを召喚するとか、なかなかいかつい
なあ﹂
﹁まあ、三頭呼ぶのに十人以上の人数を使っておるようじゃから、
そこまで質が高い連中、と言う訳でも無かろう﹂
ケルベロスを召喚、と言うところで何かが引っ掛かっている様子
の真琴と達也だが、そこは春菜ほどの記憶力を持たない二人。何に
引っかかっているのかが出て来ず、結局この場で思い出す事は諦め
る。
502
﹁で、結局何で湯治なのか、ってのは分からないままなのね﹂
﹁まあ、大方の予想はつくがの﹂
何に引っかかりを覚えているのか、それを思い出す事を諦めた真
琴の言葉に、思うところのあるドーガがあっさりとそんな事を言っ
てのける。
﹁因みにどんな?﹂
﹁どうせ、わしらの事を誘拐犯か何かに仕立て上げて処刑しようと
する連中がおるのじゃろう。何しろ、アルフェミナ様が名前を暴露
したらしいからのう。いくら顔を隠したところで、名前から辿れば、
それほど時をおかずにあの場所が割れるはずじゃ﹂
ドーガの言葉に、思わずうんざりした顔を見せる一行。この分で
は、再びウルスに戻れるのかどうかも不安だ。
﹁まあ、今頃レイオットが頭の固い連中を論破しているところでし
ょうし、私達は休暇と言う事で、温泉を楽しめばいいわ﹂
﹁そうだね。十中八九まだ黒幕を仕留めてないし、どうせこの後、
明らかに向いてない宮廷がらみのごたごたに巻き込まれるんだし、
せめてこれぐらいの役得は、十分堪能しなきゃ﹂
面倒事を弟に全て丸投げするエレーナの発言に、春菜が乗っかる。
既に気分を切り替えたらしく、温泉卵、温泉卵、などと無駄に高い
レベルで即興の歌を歌っている。
503
﹁ほな、ちょっと温泉の水質と温度を調べてくるわ﹂
﹁お願い。この部屋、一応キッチンもあるから、温泉卵のタレとか
白餡とか作っておくね﹂
﹁了解や﹂
そう言って、やりたい事を決めてさっさと行動を開始する宏と春
菜。一気に冒頭の話にループさせた事に、思わず呆れる年長者軍団。
ここら辺のブレのなさは、正直感嘆に値するのではなかろうか。
もっとも、行動にブレが無い事の大半が、食事がらみに集中して
いるのはいかがなものか、と言われると何とも言えないところでは
ある。
﹁毎度こういう時に思うんだけど⋮⋮﹂
﹁何だ?﹂
﹁あの二人、一緒に行動するようになって、まだ二カ月経ってない
のよね⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮あ∼﹂
真琴の言葉に、思わず声を上げる達也。正直、ずっと親友だった
と言われた方がしっくりくるぐらい、あの二人の行動原理はよく似
ている。
﹁さて、あいつ一人をうろうろさせて、変な女に絡まれちゃ目も当
てられん。ちょっくらついて行ってくるわ﹂
504
﹁了解﹂
とりあえず財布だけ取り出すと、微妙に億劫そうに宏を追いかけ
る達也。変な女に絡まれる以外にも、お人好しでヘタレな部分を突
かれて、妙なものを売りつけられたり、妙な輩にカツアゲされたり
と言った事に巻き込まれないとも限らない。事実、ウルスに来た当
初、雑用中にそう言った女性が絡まないトラブルに巻き込まれ、ま
ごまごしているところをよく先輩冒険者に助けられていた。
﹁あたし達は、そうね⋮⋮。折角だから、このあたりをちょっと散
策してくるわ。エル、澪、リーナ、それでいいわね?﹂
﹁はい!﹂
﹁問題ない﹂
エアリスと澪の返事を聞き、それじゃあ、と立ち上がる真琴。レ
イナはこういう時、特に口を挟む事はしない。
﹁折角来たのだし、私は温泉につかってくるわ﹂
﹁では、わしはハルナと一緒に留守番かのう?﹂
﹁だね﹂
こんな感じで、全員の行動が決まる。唐突に押しつけられた温泉
街での休暇。なんだかんだと言って彼らは、それを思い思いの形で
楽しむのであった。
505
﹃みんな、事件や!﹄
そんな言葉が日本人一行にもたらされたのは、春菜が温泉まんじ
ゅうの生地を完成させたところであった。まだ真琴達は帰ってきて
おらず、部屋には風呂から戻ってきたエレーナとずっと待機中のド
ーガ、そして仕込みに専念していた春菜しかいない。なお、温泉卵
に関しては既に宏から温泉の温度についての報告を受け、宿の支配
人に断って卵をゆで始めている。
﹃事件って、どうしたの?﹄
﹃凄いもんを発見した! 可能な限り回収していくから、宿に集合
や!﹄
宏が何に興奮しているのかが分からず、思わず怪訝な顔をしなが
らも、まあ待ち時間は暇だし、と言う事でとりあえずまんじゅうを
蒸し始める。
﹁どうかしたのかの?﹂
﹁何か宏君が、すごいものを発見したとか何とか﹂
﹁ふむ。あ奴の凄いもの、と言うやつは、半々の確率で何とも言え
ぬものじゃからのう﹂
506
春菜の微妙な表情に、苦笑しながらそんな事を言ってのけるドー
ガ。話を聞くと無しに聞いていたエレーナも苦笑気味だ。
﹁ただいま﹂
﹁あ、お帰りなさい﹂
最初のまんじゅうが蒸し上がるかと言うあたりで、真琴達が帰っ
てきた。
﹁あいつ、なに興奮してんのかしら?﹂
﹁分からないけど、わざわざ集合をかけるぐらいだから、よっぽど
のものなんだとは思う﹂
﹁てか、達也が一緒のはずだし、よっぽどのものじゃなきゃこんな
連絡、入れないっしょ﹂
﹁だよね?﹂
などと微妙に気が抜ける会話をしながら、蒸し上がったまんじゅ
うを取り出す。一個試食して味を確かめた後、物凄くうずうずして
るエアリスのために、蒸籠から二つ目を取り出す。
﹁はい、エルちゃん。熱いから気をつけてね﹂
そんな注意事項を受け、息を吹きかけて冷ましながら上品にかじ
りつくエアリス。不思議な食感の皮を噛み破ると、口の中に白餡の
上品な甘さが広がる。今まで口にした事のない不思議な甘みにうっ
507
とりしながら、残りを上品に食べきる。
﹁いつものことながら、エルちゃんは本当に美味しそうに食べるね﹂
﹁本当。食べ物のCMやらせたら、引っ張りだこになるんじゃない
?﹂
エアリスの様子に苦笑しながら、自分の分にかぶりつく真琴。白
餡と言うマイナーな代物を使ったものではあるが、久しぶりの和菓
子は実に悪くない。澪も、目を細めながらふかしたてを堪能してい
る。
﹁で、温泉卵の方は?﹂
﹁もう出来てるんじゃないかな?﹂
﹁そっか。じゃあ、後で試食?﹂
﹁かな?﹂
などと食べる話を続けながら、とりあえずドーガとエレーナ、レ
イナにも温泉まんじゅうを行きわたらせる。
﹁それにしても、あいつら遅いわね﹂
﹁何かトラブルでもあったのかな?﹂
招集をかけたくせに、その当人達が遅い。一体何をしているのか
と訝しがりながら、エレーナ達の反応を確認しつつ更にまんじゅう
を仕込む春菜と、その手つきを観察する真琴。正直な話、宿にいて
508
もやる事が無いのだ。
﹁悪い、遅くなった!﹂
﹁ちょっと欲張りすぎて、思うたより遅なってしもた﹂
結局、宏と達也が戻ってきたのは、春菜が二個目を蒸すかどうか
悩み始めたぐらいであった。
﹁で、なにを見つけたって言うのよ?﹂
﹁見つけたんは、こいつや﹂
真琴の問いに応え、宏が取り出して見せたもの。それは⋮⋮
﹁もしかして、これ!﹂
﹁お米!?﹂
﹁そうや。それも、所謂ジャポニカ種の米や!﹂
宏の宣言に、日本人の女性陣が固まる。その言葉が本当であれば
⋮⋮。
﹁つまり、カレーライスが食べられるんだよね?﹂
﹁他にも牛丼とかオムライス、すしなんかもOKや﹂
﹁ご飯に味噌汁、煮物に焼き魚、なんてメニューも⋮⋮﹂
509
﹁どんとこいや!﹂
宏の宣言に、日本人の間で歓声が上がる。その様子を、不思議そ
うに見守るファーレーン人の皆様。よく分からないなりに、どうや
ら日本人一同にとっては本気で大事件なのだと言う事は理解できる。
﹁それで、どれぐらいの量、あるの?﹂
﹁せやなあ。今さっき僕らが回収できた分量やと、とりあえず二升
分ぐらい?﹂
﹁となると、あまり余裕は無いんだ⋮⋮﹂
﹁一応、まだまだようさん生えとったから、収穫しよう思ったら、
十分収穫できるけどな﹂
宏の言葉に、物凄い反応を見せる他一同。
﹁ただ、自生してた稲やから、品種改良もなんもしてへんし、味は
期待したらあかんで﹂
﹁そこまで贅沢は言わないよ﹂
当たり前と言えば当たり前の宏の言葉に、真剣な顔で頷く春菜。
﹁そう言えば、昼はどういう予定になってるんだっけ?﹂
﹁殿下の言伝によると、欲しければ各自で、と言う事になっておる
の。流石に急な貸し切りだった故、昼食の仕込みは間に合わなんだ
ようじゃ﹂
510
﹁なら、厨房を借りて、カレーライス!﹂
春菜の力強い宣言に、歓声が沸き起こる。何故か日本人だけでな
く、エアリスも一緒に喜んでいるところが不思議である。
﹁ほな、足らん食材の買い出しは頼むわ。僕は兄貴と一緒に、宿の
作業場借りて脱穀と精米やっとくから﹂
﹁了解!﹂
宏の宣言に、明らかにテンションが上がり切った様子で返事を返
し、状況についていけないファーレーン組年長者を置き去りにして
出ていく日本人女性達。余りに目まぐるしい、しかも意味不明な展
開に目を白黒させていたエレーナが、ようやくという感じで口を開
く。
﹁結局、一体何がどうしたの?﹂
﹁要するに、うちら日本人のソウルフードである米が見つかったか
ら、国民食であるカレーライスを何カ月かぶりに食える、っちゅう
話やねん﹂
﹁⋮⋮全然ついていけないわ⋮⋮﹂
異国の、それも祖国の食事がかけらも存在しない、と言う状況に
置かれた事が無いエレーナには、どうしてもピンとこない話である。
それは当然、エアリスやレイナも同じ事ではあるが、正直なところ、
割とそれ自体はどうでもいい。
511
﹁一ついいですか?﹂
エアリスが、何より重要な事を質問する。
﹁どうしたん、エル?﹂
﹁その料理は、美味しいのでしょうか?﹂
﹁ごっつ美味いで﹂
にこっと満面の笑みを浮かべて言いきる宏。その姿を見て、否応
なくカレーライスへの期待が高まる。
﹁ほな、ちょっくら準備してくるわ﹂
やたらいい笑顔で宣言すると、米を入れた袋を後生大事に抱えて
部屋を出ていく宏と達也。カレーライスに足りない材料をリストア
ップし始める春菜。好奇心に負けたのか、宏の後をついていくエア
リス。この日、ついに日本食の再現における最大の壁、ジャポニカ
米を手に入れることに成功したのであった。
アドネで一番の格式を誇る最高級ホテル、ホテル・ラグーナの厨
房を、今までに嗅いだ事のない不思議な香りが支配する。
512
﹁無理言って厨房をお借りして、すみません﹂
﹁いいえ、それは構わないのですが⋮⋮﹂
春菜の言葉に、首を左右に振る料理長。訪れる客の中には公爵の
ような高い地位の貴族もいるため、こういった申し出は実のところ
珍しくない。ロイヤルスイートに宿泊するような客の場合、お抱え
の料理人が作る何々という料理が食べたい、などと言う注文は日常
茶飯事で、そのたびに随行員が厨房を借りるのは、ある意味当たり
前の光景である。
故に、冒険者風のこの女性が厨房を借りて料理をする、と言う状
況もそれ自体に問題は無い。厨房に入るときにちゃんと身なりを清
潔にし、邪魔にならない隅っこの方の場所を選び、周囲の人間に配
慮をしながら料理を始めているのだから、別段文句をつける必要も
感じない。
問題なのは、一体何を作っているのかが分からない事である。持
ち込みの大鍋で見た事もない白い何かを調理しながら、その一方で
寸胴鍋で何かをぐつぐつ煮込んでいる。白い何かの方は、たまに細
かく火加減を調整しているところを見ると、なかなかに繊細な作業
が必要なのだろう。そちらの方からは、自分達が嗅いだ事のない、
それゆえに形容しがたい匂いが出ている。不快、と言う訳ではない
が、食べ物の匂いなのかと言われると自信が無い。
そして、寸胴鍋。その中には、先ほど軽く火を通した野菜と肉が
入っており、スパイスをいくつも調合したものと思われる不思議な
粉と小麦粉を使った、濃いブラウンの何とも言い難い感じのソース
で煮込まれている。見た目は微妙にあれではあるが、複数のスパイ
スが入り混じった複雑な香りは、なんとなく食欲を増進させる。
513
この日は何やら強力な圧力がかかって、ホテル全体が完全な貸し
切りとなっているため、現時点で厨房では料理をする必要はない。
故に、まだ少女を卒業しきっていないこの女性冒険者が作る料理を、
料理人全員で観察する時間が持てている。
﹁その料理は一体?﹂
﹁私の祖国の料理です。こっちの鍋で炊いている物にかけて食べる
んですよ﹂
何とも嬉しそうに微笑みながら、白い何かを炊いている鍋の火加
減を確認しつつ、寸胴鍋の中身をかき回して煮え具合を確認する春
菜。
﹁ん、ご飯の方はもう少し、って感じかな?﹂
鍋の様子を蓋を開けずに観察し、寸胴鍋をかき回す。寸胴鍋はと
もかく、白い何かを炊いている方の鍋は途中いろいろ怪しげな反応
を示していたのだが、彼女は一切頓着せず火加減だけを確認してい
た。
﹁カレーはこんな感じ、っと﹂
人参や芋の煮え具合やら何やらを確認してコンロの火を落とし、
もう一つの鍋を観察する。
﹁蒸らし終わったら、こっちも終わりかな﹂
どうやら、こちらの方も問題なく終わったようだ。火を落とすと
514
生で食べられる類の野菜をいろいろ取り出して、手際よくカットし
て行く。
﹁生野菜サラダですか? でしたら、私達が﹂
﹁あ、そうですね。お願いしていいですか?﹂
﹁お任せください﹂
少女の手際に見とれていた料理長が、自分達の既知の、と言うよ
り誰でもできる領域の料理を始めたところで、慌てて割り込む。こ
のまま見ているだけ、と言うのはあまりにも芸が無い。
﹁そろそろ、いいかな?﹂
料理長が作るサラダの色どりや盛り付けを観察し、いたく感心し
ていた春菜が大鍋の方に意識を戻す。鍋のふたを開けると、白い小
さな粒が、つやつやと輝きながらささやかに自己主張をしていた。
その鍋の中身を、蒸気をかきだすように、もしくは空気を混ぜるよ
うに料理長達が見た事もない形の器具でかき混ぜた後、ほんの少し
だけ手にとって味見をする。
﹁ん∼、甘みも粘り気もちょっと物足りない感じかな? まあ、自
生種だからしょうがないか﹂
十分許容範囲、とひとり頷くと、借りた皿にそれを盛り付けよう
とする春菜。そこまで来て、いい加減気になっていた事を聞く事に
する料理長。
﹁すみません。その白い穀物は、一体何ですか?﹂
515
﹁ああ、これはお米って言うんです。宏君が、この近くの沼地に自
生してたって﹂
﹁沼地? ⋮⋮もしかして⋮⋮﹂
﹁何かご存知ですか?﹂
不思議そうな表情の春菜に一つ頷くと、簡単にその沼地の説明を
する。とはいっても、大して難しい話ではない。ちゃんとした道が
無い上に攻撃的なモンスターが多く、わざわざ地元の人間が立ち入
らない場所だ、と言う程度の話だ。何しろこのアドネの街、北西に
は大きな湖があり、そこを水源とした河が近くを通って港町メリー
ジュまでつながっているため、食糧にはほとんど困らないのである。
しかもこの河、大きい割には危険な生き物がほとんどいない。
故に、何やら穀物が自生していた事ぐらいは皆知っているが、そ
れがどんなものなのかと言う事は、わざわざ誰も調査していないの
だ。
﹁食べるものが十分にあり、特産品にも事欠かず、広い耕作地も存
在する以上、わざわざ危険な場所に自生している植物など、誰も調
べようとは考えなかったのですよ﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
実に納得いく話である。何というかファーレーンという国は、こ
ういうノリで美味しいものを逃しているケースが非常に多そうだ。
﹁だったら、折角ですから試食してみます?﹂
516
﹁是非!﹂
力強く頷く料理長の様子に思わず噴き出しながら、全員で試食で
きる程度の量を皿に盛ってカレーをかけてやる。こういうところで
は、米とルーは別々に、もしくは皿の半分を米、半分をルー、とい
う形で盛るべきなのだろうが、ここはあえて一般家庭のように、米
の上に直接とばどばかける。
ファーレーンに、カレーライスが爆誕した瞬間であった。
﹁うちの国では、本当は福神漬と言う物を添えるんですが、米があ
ると思ってなかったので仕込んでないんですよね、残念ながら﹂
そんな注釈をしつつスプーンを添えて皿を渡すと、その不格好な
料理をまじまじと観察し始める料理長。一通り観察を終え、程よく
米とルーが絡んでいる場所にさじを入れ、一口食べる。
﹁⋮⋮見た目に反して、実に洗練された味ですな⋮⋮﹂
﹁この米と言うものの味が、ソースの辛さを程よく抑えて⋮⋮﹂
﹁旨い⋮⋮。いくらでも食べられそうだ⋮⋮﹂
一流の料理人達が、大絶賛と言っていいほど褒めまくる。その様
子に気を良くするより、むしろほっとした様子を見せる春菜。欧米
人の舌だと米の味は分からない事が多いが、流石は一流の料理人と
でもいうべきか。自生種ゆえの微かな甘みをしっかりとらえている
ようだ。そんな感じで品評会をしていると、そこに⋮⋮
517
﹁皆さんだけ、ずるいですわ⋮⋮﹂
恨みがましい視線と恨みがましい声が突き刺さる。見ると、エア
リスが試食している料理人達を本当に恨みがましく見つめていた。
﹁まだかまだかと楽しみにしているのに、一向に準備ができたとい
う連絡がこず、心配になって様子を見に来てみれば⋮⋮﹂
﹁ご、ごめん、エルちゃん⋮⋮﹂
﹁はしたないことは重々承知ですが、我慢していた身には、この香
りはつらいのです⋮⋮﹂
﹁ご、ごめん、すぐ持って行くから!﹂
エアリスの恨みのこもった言葉に思わずあわて、大忙しで準備を
終わらせ部屋に運ぶ春菜。料理を運びこんだロイヤルスイートルー
ムには⋮⋮
﹁やっとかいな⋮⋮﹂
﹁米炊くのに時間かかるのは分かってたが、いくらなんでも遅すぎ
だぞ⋮⋮﹂
﹁春姉⋮⋮、カレー⋮⋮﹂
﹁期待させといてこの焦らし方は無いわよ⋮⋮﹂
欠食児童達が待っていた。
518
﹁ほ、本当にごめん! すぐに用意するから!﹂
そう言って大いにあわてながら皿にライスを盛り、ルーをかけ、
サラダを並べて支度を済ませる。
﹁一応温泉卵もあるけど、どう?﹂
﹁一杯目は、オーソドックスに行く!﹂
﹁お代り前提なんだ⋮⋮﹂
欠食児童はとどまるところを知らないらしい。達也の力強い言葉
に、思わず遠い目をする春菜。
﹁ま、まあ。折角なのだし、冷める前に早速いただきましょう﹂
宏達の様子にどん引きしていたエレーナが、とりあえず軌道修正
する。エアリスのように直接乗り込んでくほどではないにせよ、彼
女もいい加減空腹なのだ。
﹁それでは、今日の糧に感謝して、いただきます﹂
春菜の掛け声に合わせて日本人組がいただきますをし、それに遅
れてファーレーン組が食前の祈りを終わらせる。別に申し合わせた
訳でもなかろうが、ほぼ全員がほぼ同時にカレーにスプーンを入れ、
口に運ぶ。
﹁ん∼! これこれ!﹂
﹁うめえ⋮⋮﹂
519
真琴にとっては三カ月ぶり、達也にしても二週間ぶりぐらいの米。
カレーライスを最後に食べてから、という話になると、達也ですら
一カ月ほど前になる。たかがその程度、と言われそうだが、達也も
真琴も日本にいたころは、基本三食とも米を食べるライフスタイル
だった。しかも、海外赴任などの場合、人によっては一週間たたず
に米の無い生活に耐えられなくなる、と言う事を考えれば、達也の
反応は決して大げさではない。
﹁見た目とは裏腹の、とても洗練された料理ね、これ﹂
﹁スパイスの辛さが食欲を増進させて、いくらでも食べられそうで
す﹂
一方のファーレーン組は、カレーパンとは違う食べ方をするこの
料理に、すっかり魅了されていた。そうでなくても、カレーと言う
のは、日本で花開いたと称されるほど大きく魔改造された料理であ
る。昔のコマーシャルではないが、インド人もびっくりさせ、海外
からのお客様が普通に称賛する、今や発祥の国を差し置いて日本を
代表する代物だ。それを、最高峰の料理人である春菜が思い入れの
限りを投入して、自身でも最高だと思う出来に仕上げたのだから、
不味かろう訳が無い。とは言え、舌が肥えているであろうエレーナ
やエアリスだけでなく、濃い味付けが好きなレイナも美味そうに食
べているところを見ると、案外ファーレーン人は米の味が分かるの
かもしれない。
﹁⋮⋮どうしたの、レイナさん?﹂
﹁あ、いや、その⋮⋮﹂
520
米粒一つ残さず、ほんの少しソースが皿にこびりついている、と
言うレベルまで食べ尽くしたレイナが、何とも言い難そうな態度で
皿を見つめていた。様子から言って、カレーが気に食わないのでは
なく、何かを遠慮している感じである。
﹁お代りなら、遠慮せんと言うたらええで?﹂
﹁⋮⋮いいのか?﹂
おずおずと問いかけるレイナに、にっこり笑って皿を受け取る春
菜。それを見て、微妙に羨ましそうな顔をするエアリス。もっと食
べたいが、そろそろ満腹なのである。
﹁他の人の分は、大丈夫か?﹂
﹁ん。一応一人二杯ぐらいの前提で作ってるから﹂
﹁ならば、わしもいただいて構わんか? 昨日年甲斐も無く暴れた
からか、どうにも腹が減りがちでのう﹂
﹁はーい﹂
大好評のカレーライスに、嬉しそうににこにこ微笑む春菜。そん
な彼女自身は、特にお代りはしていない。もっともその分、達也と
真琴、特に真琴が大量に食べてしまうのだが。
﹁あ∼、美味かった⋮⋮﹂
﹁これで、後半年は戦える⋮⋮﹂
521
久しぶりの米、夢にまで見たカレーライス。それを十分堪能した
達也と澪が、心の底からうっとりと呟く。日ごろはやや食が細い澪
も、今日は二杯も食べている。
﹁で、あとどれだけ米が確保できるの?﹂
ようやくいろんな意味で落ち着いた真琴が、一番重要な事を聞い
てくる。
﹁ん∼、まあ、良くて一俵とかそれぐらいやなあ、群生地の広さか
ら言うて﹂
﹁それ、具体的にはどれぐらい?﹂
﹁六十キロぐらい。毎日三食食べるんやったら、最近の食う量から
逆算した感じでは、五人やったらともかく九人で一カ月は絶対もた
んぐらいか?﹂
﹁少ないわね⋮⋮﹂
宏の言葉に、思わずがっくりくる真琴。もしかしたら、夢の米飯
生活に戻れるかもという期待が大きかったのだ。
﹁まあ、この数字は、今後の事を考えての話やけど﹂
﹁今後の事? どういう意味?﹂
﹁来年を考えんと採り尽くすんやったら、もっといけるんちゃうか
な?﹂
522
宏の悩ましい言葉に、思わず唸る真琴。
﹁そう言えば、宏君。その群生地ってどんな感じなの?﹂
﹁結構広いで。沼や、言うとったけど、今は水が枯れてるから普通
に歩ける感じ。地元の人に聞いた話やと、毎年この時期から春先ぐ
らいまで自然と水が枯れて、大体田植えぐらいの気候の頃に自然と
水が張るんやと﹂
﹁もしかして、結構理想的な感じ?﹂
﹁そうやな。自然と土と水が循環するから、連作障害も出えへんし。
それにこの辺って、日本の米どころに年間通しての気候とか天候が
似とるみたいやし﹂
おそらく、そのあたりの環境が似ているから、原種に近いものが
自生していたのだろう。二人の話を聞いていたエレーナが口を開く。
﹁それならば実験として、種子を集めて栽培してみるのも、悪くは
無いわね﹂
﹁お兄様を抱きこめば、出来ない事ではありませんわ﹂
﹁そうね。こんな美味しい料理が、一部の材料が自生してる分しか
ないから貴重品、などと言うのはもったいないわ﹂
やけにやる気の王家姉妹。それを見てにやりとしてしまう宏。こ
うしてファーレーンは、稲作文化に向けて一歩踏み出すことになっ
た。この時点では全員、十年で栽培方法の基礎を確立できれば御の
字だ、と考えていたのだが、この後意外なところで意外な存在から
523
その手のノウハウが供給され、結局米が主要作物になるまでに十年
かからなかったのだが、流石にそこまで先を見通す事は誰も出来な
いのであった。
﹁さて、折角だから、お風呂行こうか﹂
食後のまったりした時間を過ごし、ようやくお腹の方が落ち着い
てきたのを確認して、春菜が澪達を誘う。なお、宏と達也は、再び
米探しの旅に出ている。今度はドーガも一緒である。
﹁そうね。折角来たのに、まだ一回も温泉に入って無いものね﹂
﹁温泉に来たら、ふやけるまで入るのがマナー﹂
真琴と澪も、異存は無いらしい。それならば、と、残っている全
員で大浴場に繰り出す事に。
﹁こういう高級ホテルでも、大浴場はあるんだ﹂
﹁ファーレーンの入浴習慣は、基本的に大衆浴場が支えているから
な﹂
﹁大浴場に温泉とか、変なところで日本に似てる﹂
524
﹁あ、澪ちゃんもそう思うんだ﹂
綺麗な水が豊富にあるからとはいえ、ファーレーンの入浴文化は
実に日本に似ている。違いがあるとすれば、まだまだ一般家庭に風
呂が常備されるまでには至っていない事ぐらいか。
﹁⋮⋮ん?﹂
﹁どうした、春菜?﹂
﹁なんというか、妙なものが歩いてたんだけど⋮⋮﹂
そう言いながら、見間違いの可能性を考え、その妙なものが消え
た後を追いかけ、曲がり角の先を確認すると⋮⋮
﹁変なのがいる⋮⋮﹂
﹁変なのがいるわね⋮⋮﹂
その先には、頭上にほうれん草のような葉っぱが生え、モアイに
良く似た濃い顔が張りついたカブのような胴体に直接手足がひっつ
いた生き物が、肩? にタオルをかけてスキップしながら大浴場の
方に向かっていた。余りに珍妙なその姿に、思わず声を揃えて呟く
澪と真琴。
﹁も、申し訳ありません!﹂
余りに怪しげなそれをまじまじと観察していると、宿の女性従業
員が大慌てでそいつを捕獲する。先ほど、厨房の方に出入りしてい
た女性だ。女性に葉っぱをつかまれてじたばたもがいているそれは、
525
何とも言えず不気味である。
﹁あ、あの⋮⋮﹂
﹁申し訳ありません! 侵入を許してしまいました!﹂
﹁その事は別にいいんですけど、それ、何ですか?﹂
﹁これはポメと言う野菜です﹂
﹁野菜!?﹂
予想外の返事に驚いた春菜が、思わず目を見開いて絶叫する。見
た目にそぐわぬ可愛らしい名前にも驚くが、そもそも野菜だと言う
事も驚きである。
﹁このあたりの特産野菜ですが、味では無く生態の方で少々癖が強
くて⋮⋮﹂
﹁癖が強いって、たとえば?﹂
﹁この野菜、温泉につかる事で数が増えます﹂
﹁は?﹂
いきなり予想外にもほどがある言葉を聞かされ、目が点になる一
同。
﹁あの、本当に?﹂
526
﹁はい。丁度繁殖、と言っていいのかどうかは分かりませんが、そ
ういう時期なので、なんでしたらご覧になられますか?﹂
﹁あ、見てみたいかも﹂
﹁あたしも興味ある﹂
春菜と真琴の言葉に、エレーナ達も同意する。こういう珍しいも
のを見るのも、旅行の醍醐味である。
﹁それでは、こちらにどうぞ﹂
うおー、うおー、と鳴きながらもがくそれを無視して、繁殖? 場所の温泉へ案内する従業員。毎年の事だからか、慣れたものであ
る。
﹁当ホテルの場合、ここが繁殖場所になりますね﹂
そう言って見せられたのは、かけ流しで適当にためられた、割と
広い野外の風呂であった。もっとも、縁を整備したりはしていない
ので、風呂と言うよりは水たまりと言った方が近いかもしれないが。
﹁うわあ⋮⋮﹂
﹁たくさん浮いてる⋮⋮﹂
風呂の中には、数えるのも面倒な数のポメが、いかつい顔をうっ
とりとほころばせながらぷかぷか浮いている。微妙に引きながら観
察している春菜達に頓着せず、ぶら下げていたポメを投げ入れる従
業員。空中でじたばたもがいていたポメが、着水と同時にその表情
527
をうっとりとほころばせるところは、何とも形容しがたい空気を発
している。その様子をじっと観察していると⋮⋮
﹁あっ⋮⋮﹂
唐突に、ぽこんと言う擬音をつけたくなるような感じで、アーモ
ンドチョコぐらいのサイズのポメが浮かんでくる。実際には株分け
という解釈が正しいのだろうが、見た目の印象では、温泉で繁殖し
ているとしか表現できない。
﹁⋮⋮それで、これ、どうやって食べるの?﹂
﹁それはですね⋮⋮﹂
澪の好奇心半分、疑惑半分の問いかけに、従業員が行動する事で
答える。まずは適当に大人のポメを網ですくって回収。ついでに生
まれたばかりの子供︵手足はまだ生えていないが、生意気にも頭の
葉っぱとモアイ顔は存在する︶も、それなりの量をすくって別の場
所に分ける。
大量によけられた子ポメが、キイキイと甲高い声で鳴いているが、
やはり従業員は一切頓着する様子もない。もはや慣れたものなのか、
温泉から拉致ってぶら下げたポメの抗議の鳴き声も、何も聞こえな
いとばかりにスルーしている。
﹁まずはこの葉っぱを落として⋮⋮﹂
取り出したナイフを目の上あたりに当て、ヘタを取る要領でスパ
ッと葉っぱを切り落とす。物凄くジタバタ暴れて抵抗するポメだが、
慣れているからか全く手こずる様子は見せない。ヘタを切り落とし
528
たところで、ポメの抵抗が完全にやむ。
﹁手足を落として⋮⋮﹂
そのまま流れるような手際で、動かなくなったポメの手足を落と
し、顔面だけの状態にする。
﹁後は適度な大きさに切って、煮るなり焼くなり、と言ったところ
ですね。すりおろしてスープの隠し味にすることもあります﹂
﹁先に葉っぱを落とす理由は?﹂
暴れるポメを見て、誰もが思うであろう素朴な疑問について尋ね
る春菜。その質問の答えは、とんでもないものであった。
﹁そうしないと、爆発するからです﹂
﹁本当にそれ、野菜なんですか⋮⋮?﹂
予想の斜め上を突っ走る返事に、ボケのはずの春菜が突っ込みに
回らざるを得ない。そんな異常事態に、コメントできずに黙ってし
まう元祖突っ込み役の真琴。
﹁因みに、ヘタを落とす前に手足を落としたり、縦に切ると爆発し
ます。後、ヘタの取り方が甘いと、やっぱり爆発します﹂
﹁ぶ、物騒な⋮⋮﹂
﹁毎年、それで一人か二人は怪我人がでるんですよね﹂
529
自爆して怪我人が出るとか、一体どんな野菜だと小一時間ほど問
い詰めたい。
﹁でも、味は気になる﹂
﹁そうだね。ただ、まだそんなにお腹すいてないから、味見もちょ
っとつらいかな⋮⋮﹂
﹁本日の夕食に出ますので、ご安心ください﹂
﹁安心していいのかしら、それ?﹂
とうとう炸裂した真琴の突っ込みに、一同苦笑を禁じ得ない。問
題なのは、従業員がぼけている訳ではない事だろう。ちなみに、葉
っぱの部分はアクとえぐみの無いホウレンソウ、顔面部分は苦みが
少ない大根、と言った味わいで、割と普通に食べやすくて美味しか
ったりする。
﹁あ、あとですね。注意が必要なポイントといたしまして⋮⋮﹂
どんなメニューに使われるかを説明したあと、何かを思い出した
らしい従業員が、何を思ったかヘタを温泉につける。すると、何と
いうことか。温泉につかったポメのヘタは見る見るうちに大きくな
り、三十秒程度で先ほどと全く区別がつかないところまで再生した
ポメが、ぷかりと温泉に浮かび上がったではないか。
﹁ヘタを温泉につけると、すぐに復活します﹂
﹁うわあ⋮⋮﹂
530
まるでプラナリアか何かのような再生能力に、全身全霊を持って
引く一同。
﹁本当にこれ、食べられるんですか?﹂
﹁唾液がつくと、再生しなくなるようです﹂
﹁あ∼、なるほど⋮⋮﹂
﹁因みに、過去にそれなら爆発しないんじゃないか、と、生で丸か
じりをしようとした愚か者がおりまして⋮⋮﹂
﹁聞きたくない聞きたくない!﹂
物騒な名物に関する物騒なエピソードに耳をふさぎ、大慌てで全
力拒否を行う春菜。
﹁それはそれとして、あちらに取り分けている小さいのは何かしら
?﹂
﹁野菜は野菜なので、ある程度間引かないと育ちが悪くなって、味
が落ちるんですよ﹂
エレーナの質問に、えらく地に足がついた回答が返ってくる。そ
う言うところはやはり野菜なのかと思うと、正直妙な気分だ。
﹁と言う事は、あれは廃棄品?﹂
﹁はい。適当に攻撃魔法を叩き込んで、破裂させて処理します。小
さいうちは、いいところちょっとぶつけた程度の衝撃しか起こりま
531
せんし﹂
なかなかに過激な処分方法だ。
﹁ん∼⋮⋮﹂
﹁どうかしたの、ハルナ?﹂
﹁ちょっともったいないかな、って⋮⋮﹂
﹁あの小さい方が?﹂
エレーナに問われて素直に頷く。あれだけ引いていたのに、既に
食べ物としてロックオンしているあたり、一流の料理人は違う。
﹁勿体ない、と言うが、それなりに危険物だぞ?﹂
﹁でも、大した衝撃は無い、って言ってたし﹂
そう言って、じっと観察する。
﹁触ってみても?﹂
﹁どうぞ﹂
従業員の許可を取り、間引かれた子ポメを手に取る。それをもう
一度しげしげと観察し、何かを思いついたように顔を上げる。
﹁厨房、借りてもいいですか?﹂
532
﹁ええ、もちろんです﹂
どうやら、子ポメの利用法を思いついたらしい。ポシェットから
籠のようなものを取り出し、適当に子ポメを盛る。
﹁ちょっと実験してくる﹂
﹁行ってらっしゃい﹂
﹁好きにしてくれればいいが、出来ればこちらを巻き込まないでい
ただきたい﹂
﹁リーナさんにはまだ罰ゲームが残ってるから、試食と言う名の実
験台には強制参加﹂
﹁⋮⋮断れない自分の立場が恨めしい⋮⋮﹂
そんな緩い会話をしながら、春菜と別れて部屋に戻る一行。折角
だから、適当にゲームでもして遊んで、ペナルティとして彼女が作
って来るであろう何かを試食させようと言う腹積もりだ。
そんなこんなで一時間後、春菜が持ち込んだものは⋮⋮
﹁何ともまあ、これまた不気味な⋮⋮﹂
﹁この顔、この色は怖い⋮⋮﹂
きっちりヘタを取られ、赤紫色に染まって苦悶の表情を浮かべる
子ポメの瓶漬けであった。
533
﹁因みに、この色は何?﹂
﹁山ブドウ﹂
﹁それだけを聞くと美味しそうなのだけど、見た目が見事に裏切っ
ているわね﹂
エレーナの感想に、作った当の本人が苦笑する。
﹁と言う訳で、罰ゲームは誰?﹂
﹁私です!﹂
﹁それと、私だな﹂
元気よく手を上げるエアリスと、どんよりした表情のレイナ。ど
うにもエアリスの場合、罰ゲーム自体も楽しいようだ。
﹁じゃあ、せいので噛んで﹂
一つずつ瓶の中からつまみだし、春菜の号令に従って口の中に入
れる。カリッと香ばしい音と同時に⋮⋮
﹁っ!?﹂
レイナの口の中で破裂する。
﹁あ∼、やっぱりちゃんとヘタが取れてない奴があったか⋮⋮﹂
﹁でも、食べやすくて甘酸っぱくて美味しいですわ﹂
534
当りをひいたエアリスが、満面の笑みで答え、次の一つに手を伸
ばす。
﹁まあ、試食はちゃんとしたから、味は大丈夫なんだけどね﹂
﹁パーティの余興などで、度胸試しに使うのもいいかもしれないわ
ね。もちろん、わざとヘタをちゃんと取っていない物を混ぜて﹂
物騒な事を言うエレーナを、割と引いた目で見る真琴と澪。きっ
ちりオチ要員になってしまったレイナは、口の中のダメージに蹲っ
て呻くのであった。
535
第13話︵後書き︶
このタイミングで、17000文字ほどかけて
ただ単に温泉まんじゅうとカレーと謎の野菜を食うだけの話を入れ
る。
それがフェアクロクオリティ。
しかも、温泉に来てるのに入浴シーンの気配すらないところがすば
らしい。
536
第14話
﹁そろそろ、僕らの治療で出来る事はなさそうやな﹂
問診や澪の触診の結果から、エレーナの状態をそう断じる宏。一
週間の湯治を終えた宏達は、戻って一番最初にエレーナの診察を済
ませたのだ。
﹁そう。と言う事は、ここでの生活ももう終わり、と言う事ね﹂
﹁そうなる﹂
微妙に名残惜しげにつぶやくエレーナに、同じく名残惜しげに頷
く澪。短い間ながら、思えばこの口数が少なく感情表現が平淡な少
女とも、実に仲良くなったものである。
﹁まあ、せや言うたかて、どうするか、っちゅうんはレイっちの判
断待ちになるやろうけど﹂
﹁そうは言っても、それほど猶予は無いでしょうね。湯治を切り上
げて帰って来るように指示を出した、と言う事は、私とエアリスを
受け入れる準備が整っている、と言う事だし﹂
﹁せやろうなあ﹂
エレーナの言葉に同意する宏。エレーナが戻ると言う事は、すな
わちエアリスも王宮に戻ると言う事でもある。
537
﹁そんで、僕らはどのぐらい付き合えばええん?﹂
﹁何とも言えないところね。最低でも、お父様に会ってもらうこと
にはなると思うけど⋮⋮﹂
困った顔をしながらのエレーナの言葉に、思わず渋い顔をする宏
と澪。単純に作法が分からないから面倒くさそうだ、と言うのもあ
るが、それ以上に
﹁今までの話聞いてると、ボク達が無事で済む保証が無い﹂
﹁否定できないのが、辛いところね﹂
と言う澪のコメントと、それに対するエレーナの返答が、彼らの
立場のややこしさを物語っている。
﹁お父様とレイオット、それに大神官様が頑張ったのであれば、少
なくとも表面上、あなた達を犯罪者扱いするものはいないでしょう
ね﹂
﹁ただ、エルと姉さんの話は問題にならんとしても、それ以外の事
でどんな罪をでっち上げられるか、分かったもんやあらへんのがな
あ⋮⋮﹂
﹁王政でそれなりの特権が認められているとはいえ、貴族が思い付
きで確たる証拠も無しに罪をでっち上げて、それを理由に重罪を科
す、と言う事が出来るほど司法が腐っている訳でもないわ。ついで
に言えば、公の場で根拠もない事で明確な侮辱、誹謗中傷の類をし
た場合でもなければ、不敬罪や名誉棄損を取られる事もない。それ
だけは保証するわ﹂
538
﹁裏を返せば、筋の通った証拠をでっち上げられてしまえば、犯罪
者にされかねない﹂
﹁ああいう連中って、そう言う事だけは手慣れてそうやしなあ。そ
れに、名誉棄損って、言いがかりに近い内容でも成立させられかね
へんのが怖いところや﹂
王家を、と言うよりは宮廷や政府と言ったものを信用していない
事が良く分かる宏と澪の言葉に、反論もできずにため息を漏らすし
かないエレーナ。
﹁助けてもらっておきながら、この件では私は完全に無力なのが、
歯がゆいところね⋮⋮﹂
この気のいい恩人たちを、完全に無関係と言いきれる政治闘争に
巻き込んで、しかもそれに対して自身は全く無力であると言う事実。
なまじ頭が良くて義理堅いだけに、エレーナにとっては正直この現
実はいろいろきつい。
﹁まあ、どっちにしても、多分私達は黒幕に完全にマークされてる
だろうから、思い切って飛び込んで行って勝負するしかないんじゃ
ないかな?﹂
自身の無力を嘆くエレーナに、丁度お茶を持ってきた春菜が気休
めのような言葉をかける。因みに、入ってきたのは、宏の名誉棄損
がどうこうという台詞ぐらいのタイミングである。
﹁マークはされとるやろうなあ、多分エルを助けた時点で﹂
539
﹁むしろ、ノーマークな方がおかしいよね﹂
こちらの素性が知れたのは割と最近だとしても、存在そのものは、
それこそピアラノークをしばき倒した時点で察知されていてもおか
しくない。相手がアクションを起こさなかったのは、単純にエアリ
ス達の生死がはっきりせず、藪蛇になる事を恐れたからだろう。
実際、今回のケースのように、大きな幸運に恵まれて救助された
場合を想定した罠も仕掛けてあったらしい事は、黒幕のトカゲのし
っぽが話した内容からも察することができる。ただ、計算違いがあ
ったとすれば、その方面では宏も春菜も規格外だったがゆえに、仕
掛けた罠も一緒くたに解除されてしまった事だろう。
﹁とりあえず、一番問題なんは⋮⋮﹂
﹁師匠、致命的に向いてないよね﹂
﹁と言うか正直、宏君は公のパーティとか絶対出て欲しくない。エ
ルちゃんを助けた時みたいな事があったら嫌だよ﹂
﹁そこやねんなあ。そもそもそれ以前に女性恐怖症やなくても、人
脈がどうとか、政治的駆け引きがどうとか、そう言うんに対しては
僕は無力や﹂
女性恐怖症と言うどうにもならない事情を差し引いてなお、対人
関係では微妙にヘタレな面がある宏。たとえ男性相手に限定したと
ころで、下手に交渉の矢面に立たせれば、一体何を約束させられて
どんな言質を取られるか、分かったものではない。
﹁そこは、私と達也さんが頑張るしかない、とは思ってるよ。真琴
540
さん、結構ずばずば突っ込むから、そう言った取り繕っていろいろ
やらなきゃいけない場面は多分苦手だろうし、澪ちゃんはそもそも、
性格とか話し方とか以前に、年齢的にどうしても厳しい場面がある
し﹂
﹁ボク、多分おまけ扱いになるはず。だから、春姉の色香と達兄の
イケメンオーラに期待﹂
﹁私、そういう方面は微妙に自信ないんだけど⋮⋮﹂
身体つきだけを言うなら、確かに春菜は非常に男好きする肢体を
してはいるが、普段は驚くほどそう言う方面での色気は無い。余り
肌色で攻めるような服装をしない事もあるが、それ以上に言動が食
う事に流れがちな事が原因だろう。食べる量こそ人並だが、だから
こそか、食事に関しては並々ならぬ情熱を傾ける。
その上基本的に、春菜は男の視線を気にして行動する、と言う事
をしない。もちろん、性的な意味での羞恥心はきっちり持ち合わせ
ているため、そういう方向でだらしなく無防備な真似はしないが、
男にもてようと言う意識が無いために、一般論で異性の印象が良く
なりそうな、いわゆる同性の目から見て媚びているように映る行動
を取らない。ここらへんも、レイオットが女性を感じないと言うほ
ど色気に欠ける原因であろう。
﹁春菜はむしろ、まともな考えをしている令嬢とかを味方につける
方向で頑張ればいいと思うわ。媚びた服装をした女の色香に惑わさ
れるような連中は、この場合邪魔にしかならないでしょうし﹂
﹁あの、非常に難しい事を要求されてる気がするのは、気のせいか
な?﹂
541
﹁あなたなら、難しくないわよ﹂
エレーナの太鼓判に、思わず苦笑する春菜。
﹁まあ、交渉事は達也さんに投げていいよね?﹂
﹁ある意味、達兄はそれが専門分野﹂
日本では技術系の営業をしていた達也は、クライアントの無茶振
りを交渉によって可能な範囲に落とし込むのが本業である。無茶振
りに対して、カウンターで無茶を飲ませる、などと言うのも日常茶
飯事であり、むしろ今回のケースでは、知恵袋的な魔法使いとして
その存在感を示すのに、絶好のチャンスともいえる。
もっとも、本当ならこういう場で一番頑張るべき澪は、容姿的に
も年齢的にも本人の性格的にも、タヌキを相手にするだけの能力は
全くない。トレジャーハント専門のシーフと言う感じで、ヘタをす
れば宏以上にカモられやすいかもしれない。
﹁何にしても、今後の日程次第だから、今細かいことを決めても仕
方が無いわ﹂
﹁せやな。なるようにしかならん﹂
そんな話をしていると、来客を示すベルと同時に、馴染んだ二人
分の気配が。
﹁噂をすれば、っちゅうところやな﹂
542
﹁これで、しばらくは今までみたいにのんきには無理、か⋮⋮﹂
﹁むしろ、今までがのんきすぎ﹂
澪の突っ込みに、苦笑が漏れる宏と春菜。言われるまでも無く、
自覚はあった。
﹁まあ、そろそろ事件も佳境やろうし、もうちょっとだけ気合入れ
て頑張ろうか﹂
﹁頑張ろう!﹂
覚悟を決めなおして、応接室の方へ降りていく一同。ファーレー
ンでの一番大きな物語は、終わりに向けて少しずつ加速し始めるの
であった。
﹁痛い痛い痛い痛い!﹂
ウルス城の客人用フィッティングルームに、春菜の悲鳴が響く。
﹁肋骨が! 肋骨があ!!﹂
﹁淑女のたしなみです。我慢なさってくださいませ﹂
543
﹁む、無茶言わないで!﹂
背中を足蹴にされ、肋骨がみしみし言うほどコルセットで腰を絞
り上げられ、息も絶え絶えに春菜が抗議の声を上げる。既に真琴の
方は文句を言うのをあきらめ、死んだ魚の目になって遠くを見てい
る。その様子を人ごとのように見ている澪。なぜなら
﹁子供用のコルセットって、楽⋮⋮﹂
澪は子供用の柔らかいコルセットで勘弁してもらっていたからで
ある。
そもそも、まだまだ健康体と言えるほどの肉が付いていない澪は、
普通のコルセットで絞り上げられるほど太い腰はしていない。身長
に対して要求される腰の太さを下回っている上、身長そのものもま
だまだ子供の平均に届いていないため、大人用のコルセットではサ
イズが合うものがもとから存在しない。全体的に見れば年相応には
幼児体型を脱してはいるものの、日本人として見ても発育の悪さは
否めず、コルセットで絞るよりむしろ、詰め物で凹凸を作る方が効
果的な体をしている。
これが同じく凹凸に欠ける真琴の場合だと、健康的な腰のくびれ
はあるが理想とされている物よりはやや太く、盛装をするとなると
絞った上で詰め物を、という発想になって来る。春菜に至っては、
下手に容姿も体型も理想的なものだから、飾り付ける人間が無駄に
張り切ってしまってこの惨状、と言うところだ。
なお、言うまでもない事だが、盛装において理想とされている腰
の太さが細すぎるのであって、春菜も真琴も、世間一般の常識から
すれば十分に細い方に入る。春菜など、コルセットもしない状態で
544
これ以上腰が細いと、むしろ見ている方が気色悪く感じ、これ以上
太いと理想から外れるという、まさに奇跡的なバランスの肉体をし
ている。正直、わざわざ絞らなくても綺麗なシルエットを作る事が
出来そうなものなのだが、そこはもう常識や美意識の違いと言うと
ころで納得するしかないだろう。
﹁か、仮縫いなのに、こんなにしっかり締める必要、あるの⋮⋮?﹂
﹁仮縫いだからこそ、です﹂
取りつく島もない衣装担当に、そろそろ本格的に涙目になってき
ている春菜。宏はともかく、春菜がここまで追い詰められている状
況も珍しいのだが、二人とも地味に、それに対する感想をコメント
する精神状態では無かったりする。なぜなら
﹁こんだけ腰絞り上げられた揚句の、このものすごい上げ底⋮⋮﹂
﹁やっぱり、春姉のをもぐべきだったか⋮⋮﹂
ドレスのラインを美しく盛りたてるため、胸にびっくりするほど
詰め物を入れられているからだ。その様子は、まさに盛ると言う表
現が正しいレベルである。
それでもまだ、軽く寄せて上げるだけで、背中やわき腹の肉を持
って来なくても多少は谷間を作れなくは無い澪はマシな方で、真琴
など胸元が開いたドレスは、最初から選択肢に入りすらしなかった。
何しろ、背中やわき腹にすら持って来れる肉が無いので、ごまかし
ようが無い。
﹁それにしても、これだけ素晴らしいプロポーションをなさってい
545
るのに、露出を控える事を望まれるとは⋮⋮﹂
﹁⋮⋮何か問題でも?﹂
﹁いえ、女の見せ方を良く理解なさっているな、と思いまして﹂
﹁は?﹂
妙なところで妙な感心をされ、思わず目が点になる春菜。別段女
の見せ方にこだわって露出を減らした訳ではなく、単に宏に不要な
プレッシャーを与えてまで、わざわざ無関係な連中の助平な視線を
満足させてやる必要を感じなかっただけにすぎないのだが、どうや
ら衣装係達は別の方向に解釈をしたようだ。
﹁最近の風潮では、鑑賞に耐えるだけの肉体を持つお嬢様方は、下
品にならないぎりぎりを狙って限界まで肌を晒そうとする方が多い
のです﹂
﹁また、それを声が大きい殿方の一部がもてはやしてしまわれたも
のですから、勘違いなされた方々が回を重ねるごとに大胆になって
行きまして⋮⋮﹂
﹁あえて隠す方が、かえって色っぽく見える事もあると言う事を、
いい加減わきまえていただきたかったところでしたので、ハルナ様
の申し出は非常に嬉しかったのです﹂
﹁ですから、ここは私達の総力を上げて、隠すことによる美しさ、
清楚で上品な、手を出すことをためらわせる色香、そこから来る強
烈なエロスと言うものを、殿方にもお嬢様方にも教えて差し上げた
いのです﹂
546
何やら強烈な使命感を持っているらしい衣装係達に、全力で引く
三人。流石に直接矛先が向く春菜には、同情を禁じ得なくなってく
る。
﹁他人事のような顔をなさっておられますが、お二人にも頑張って
いただきたい事はあるのですよ?﹂
﹁は?﹂
﹁な、何を?﹂
﹁今回は時間が無いので見送りますが、お二人とも素材は非常によ
ろしいのですから、それぞれの魅力を最大限に盛りたてませんと﹂
何とも危険な色を目に浮かべ、怪しげな笑みとともに言い切る衣
装係のリーダー。正直言って、怖い。
﹁マコト様の、スレンダーで健康的な肉体は、胸が無い事が必ずし
も欠点ではない、と言う事を証明するのにまたとないほどの素材。
ハルナ様のような凹凸に恵まれなかったお嬢様方の希望の星となっ
ていただくよう、全身全霊を持って飾り立てとうございます﹂
﹁希望の星になんてなりたくないから却下!﹂
﹁ミオ様の未成熟で、今にも壊れてしまいそうな繊細な魅力は、今
だけしか持てない類のものです。それを最大限に引き出して、無暗
に背伸びをしておられるデビュッタント前のお嬢様方に、その時だ
けしか持ち得ない魅力がどれほど強力な武器となるのか、一度はっ
きりと見せつけるべきだと常々思っていましたの﹂
547
﹁そ、それ、変態とか特殊な趣味の男とか寄って来そうで嫌⋮⋮﹂
真琴と澪の拒絶を華麗にスルーして、衣装係たちは明日の会食と
夜会のための衣装を仮縫いしていく。時間が足りない、と言うのは
本当らしく、一番の腕の見せ所とでもいうべき夜会の衣装に関して
は、露出を控えめにと言う注文を聞いた以外は、極めてオーソドッ
クスなデザインのドレスをさっくり縫い上げる。せいぜい春菜のド
レスが、一般的なものより全体的なボリュームが少なめなぐらいで
ある。
﹁細部の微調整は、明日着替える時に一緒に、と言う事になります。
ですので、今日はこれで終わりにさせていただきます﹂
﹁やっと終わった⋮⋮﹂
﹁肋骨が、肋骨が⋮⋮﹂
解放されると分かって、安堵と怨嗟の声が漏れる真琴と春菜。よ
うやくコルセットをほどいてもらって人心地ついたところで、重要
な問題に気がつく。
﹁あ、そうだ﹂
﹁どうしましたか?﹂
﹁明日着替えた後、エンチャントをかける余裕って、あります?﹂
﹁夜会の時間までには十分な余裕を持って準備させてはいただきま
すが、エンチャントの所要時間が分かりませんので、そこは何とも
548
申し上げられません﹂
﹁そうですか⋮⋮﹂
春菜が何を気にしているのかに思い至り、申し訳ございません、
と一つ頭を下げる衣装係一同。実際のところ、彼女達の微妙な立場
を考えると、気休めとはいえエンチャントの一つや二つはかけたい
ところであろう。だが、それを許される時間があるかどうか、と言
うのは専門外の彼女達には分からない。何しろ、大した効果が無い
エンチャントでも、意外と付与にかかる時間は長いのである。
とりあえず、どれぐらいの時間が空きそうなのかを確認し、後で
宏にどうにかならないかを聞いてみる事にして、衣装係の皆さんに
は引き上げてもらう事にする。正直、生地と型紙だけ用意してもら
って、宏に高速で縫ってもらった方が早くていいものが出来そうで
はあるが、今回はそうもいかないのが辛いところである。
﹁春姉﹂
﹁何?﹂
﹁最悪、ボクが簡易エンチャントかける﹂
﹁お願い﹂
衣装係の女性達が出て行ったところで、澪がそう申し出る。持続
時間の短い簡易エンチャントだが、それでも夜会の間ぐらいは持つ。
問題となるのは不意打ちの一撃、及び状態異常。回復アイテムの類
を隠し持つにしても限度がある以上、事前に特に厄介なものだけで
も潰してしまいたい。最悪、一回だけでいいから即死を防げて、混
549
乱、毒、バインドの三つだけでも無効化できれば、どうにもできな
いまま畳み込まれる危険だけは避けられる。
﹁それにしても、本当に面倒なことになったわよね﹂
﹁多分、いずれ避けて通れない道だったんだとは思うけど、何とい
うか、いろいろ準備が足りていない気分﹂
﹁あたしもそれは思うけど、万全な準備なんて絶対出来ない、って
考えれば、今のラインでも上々なんじゃない?﹂
手早く服を身にまといながら、あれこれぼやきあう真琴と春菜。
いつもの馴染んだ格好になったところで小さく吐息を漏らすと、指
示されている合流予定の部屋へ向かおうと案内も呼ばずに外へ。
﹁で、ボク達が借りる部屋って、どっちだっけ?﹂
﹁あたしに聞かないでよ﹂
﹁ちょっと待って、今思い出してるから﹂
特徴に乏しい廊下を見て自分達の現在位置が分からなくなり、い
ろいろおたおたする羽目になる女性陣。実際に通った訳ではないた
め、春菜の記憶力もそこまで当てにはならない。結局、道自体は覚
えていた春菜のおかげで、微妙に迷いそうになりながらもどうにか
遭難せずに、自力で部屋にたどり着けたのであった。
550
﹁なんか、宏がすすけてる気がするんだけど?﹂
﹁まあ、なんつうか、いろいろあったんだ﹂
﹁そっちは、女の人居なかったよね?﹂
﹁まあ、その、なんだ⋮⋮﹂
微妙に言いづらそうにしている達也に首をかしげつつ、ありそう
なネタを考える女の子たち。しばし考えて
﹁衣装がらみで、何かあったの?﹂
﹁⋮⋮どうせ明日になったら分かるから正直に言うけど、似合う服
があらへんかってん﹂
かなりへこんでいる宏の言葉に、部屋が完全に静まり返る。
﹁いや、似合ってなかった訳じゃないぞ?﹂
﹁いつもの事やとはいえ、高い服でさえ何着てもダサぁてキショい
んは、正直かなりへこむで⋮⋮﹂
﹁そ、そうかな⋮⋮?﹂
などと言いつつも、脳内で宏に向こうおよびこちらの世界での高
級な服、と言うやつを着せてみる春菜。いろいろ着せ替え人形にし
551
た後、出てきた結論は⋮⋮
﹁⋮⋮とりあえず、今の時点では難しい、って言うのは分かったよ﹂
﹁素直に、何着てもダサい、っちゅうてくれた方がありがたいで、
それ⋮⋮﹂
﹁ん∼、そうじゃなくて、どう言ったらいいのかな?﹂
この二カ月ほどのつきあいで、宏の場合は容姿や体つきより、雰
囲気の問題が大きい事には気が付いている春菜。元々ファッション
誌に出ているような、カジュアルで移り変わりの激しい服装が、美
形でも不細工でもない方向でやや濃い目の日本人的顔立ちをしてい
る宏には、それほど合わないこと自体は異論は無い。だが逆に言え
ば、かっちりとした仕立てがいい高級な感じの、いわゆるブランド
物の無難なタイプの服ならば、洋の東西に関係なくそれなりに様に
はなると春菜は踏んでいる。
では、何が問題かと言うと
﹁宏君の場合、多分それなりにかっちりした服装で無いと駄目だと
は思うんだけど⋮⋮﹂
﹁だけど?﹂
﹁そう言う服って、私たちぐらいの年代だと、余程頻繁に着て体に
なじませないと、どうしても貫禄が足りないっていうか、ね﹂
﹁なるほど、言われてようやく、さっきの違和感が分かった﹂
552
確かに宏の場合、中身がいくら凄腕の職人だと言ったところで、
表にはそう言ったオーラは出ていない。地道な努力で鍛えあげたと
は言えど、凄腕なのはあくまでゲームの中での話であって、現実に
はそこまで経験を積んでいる訳ではない。もっとも、ある意味では
借り物の能力なのだから、実力に雰囲気があっていないのは仕方が
無いところではある。そこに加え、過去の事もあってか一般的な同
年代ほど闊達な雰囲気も無く、専門分野以外では何をするにも自信
なさげなマイナス思考がにじみ出ている印象がある宏は、現時点で
はオーダーメイドのスーツを、当然と言う態度で着こなせるような
人間ではないのだ。
そもそも、貫録と言う点に関しては、ある程度年を重ね、社会で
叩かれながらも踏みとどまって多少なりとも成果を出し続ける事で
得られる側面もある。スポーツで大活躍しているだとか、芸能界で
大ブレイクしたとか言ったタイプが、もしくは生まれながらの金持
ちでそう言う服装をするのが普通という人種でもなければ、十七や
八で高級ブランドを着こなせる人間はそういない。
かといって、この年代に多いカジュアルな服をルーズに着こなす、
と言う方向性では、宏の場合はおしゃれという印象よりもだらしな
くて不潔な印象の方が先に立ち、逆に普通の服を無難に着ると、も
のすごくダサくて格好悪くなる。本来似合う服装は、もっと経験を
積んで自信と風格を持ってはじめて様になる。この辺のミスマッチ
が、宏が現時点で、何を着てもダサいという印象につながっている
のだろう。
他に問題が無い服装を上げるなら、後はジャージか作業服ぐらい
だろう。作業服の場合、ダサい事が必ずしもマイナス評価にはつな
がらない。そもそも、お洒落かどうかが評価項目に入っていないし、
ベテランの職人など、普通に見ればダサいが、そのダサさが格好良
553
さにつながっている、などと言うことも珍しくない。きっと宏の場
合も、作業服ならそういう方向で馬鹿にされる事は無いだろう。今
回の問題の解決には、全く役には立たないのだが。
﹁とりあえず、絶対何かトラウマあるだろうから、夜会の類は基本
不参加、参加する場合でも出来るだけ早めに引っ込んでもいいよう
に、陛下や殿下に交渉しないと、ね﹂
﹁そうだな。こんなくだらない事で、くだらない連中にヒロを使い
物にならなくされちゃあたまらん﹂
﹁外見と雰囲気だけで、それこそ生存権すら認めない人って、どこ
にでもいるもんね﹂
特に年頃の女の子には、と小さくつぶやいた春菜の言葉は、聞い
た訳でもないのに宏のトラウマを的確に把握していると言っていい。
何しろ、実際のところはどうなの、と聞きかけた真琴が、宏のどん
よりした反応で全てを察したほどなのだから、女性がらみはとこと
んいろいろ抱えているらしい。
多分にこちらに来た事によるパラメーター補正が効いているのだ
ろうとは思うが、それを考えても距離を置くだけでよく普通に女性
と接する事が出来るものだと、心底感心せざるを得ない真琴。自分
や澪、エアリスはおろか、最も距離が近いであろう春菜の事でさえ、
多分本質的な部分では完全に信頼したりはしていないのだろうが、
それでもちょっと注意するだけで共同生活を送れるのだから、なん
だかんだいって宏も、春菜とは違う意味で出来た人間だとは思う。
とは言え、この状況は、最初に共同生活を送ることになった相手
が、春菜だったからこその奇跡だろう。普通ならどれほど文句が出
554
るか分からない宏の態度を、そういう事情だからと笑って受け流し
て、注意深く距離を取って普通に接する事が出来る女性など、そう
はおるまい。少なくとも、自分や澪では、春菜と言うクッションが
無ければ三日と経たずに破綻させている事請け合いである。他の女
性陣では、辛うじてエレーナとエアリスがどうにかできそうだが、
どちらも立場が立場だ。実際に共同生活となると、取り巻きと言う
かお付きの人がやらかしそうなので、結局破局までの時間が早いか
遅いかの違いに過ぎない。
﹁とりあえず、まずは目先の回避不能なシーンをどうにか乗り切る
ところからスタートだな﹂
﹁明日だけは、どうにもできない﹂
﹁せやろうなあ。まあ、覚悟決めて根性入れれば、一日ぐらいやっ
たらどうにかなるやろう﹂
流石にどう頑張ったところで、明日の謁見とその後の昼食会、及
び夜会から逃げるのは難しい。謁見の時にいちゃもんをつけてくる
女と言うのは居なかろうし、昼食会は王族のみの参加。昼食会での
カタリナの言動にだけ注意すれば、この二つはどうとでもなるだろ
う。故に問題は夜会。
﹁どんなに最短で切り上げても、挨拶とかの時間を除いて三十分は
抜けられないだろうな﹂
﹁その間、誰がフォローに回るか、だけど⋮⋮﹂
﹁俺だと、かえってマイナスかもしれない。春菜か澪が横にいれば、
少しはましなんじゃないか?﹂
555
﹁そうね。この場合、対応能力を考えるなら、春菜が横にいる方が
いいと思うわ。春菜の方も、中途半端なチャラチャラした男が寄っ
て来るの、面倒でしょう?﹂
﹁それか、おじさんに一緒にいてもらうか﹂
着々と、最も対策が必要な事柄に対して計画を練っていく一同。
結局、宏と春菜、澪の三人はずっと固まって行動すべし、と言う結
論に落ち着く。
﹁それにしても、今日この後はどうすればいいか、あんた達は聞い
てる?﹂
打ち合わせがひと段落したところで、真琴が今日これからの事を
持ち出す。
﹁聞いてないけど、基本的に、この部屋で大人しくしてるべきじゃ
ないかな?﹂
﹁せやなあ。そもそも、ここに限らず城なんてもんは、基本的に部
外者が案内も無しに迂闊にふらふら歩きまわれるような構造にはな
ってへんし、入ったらまずい場所に迷い込みでもしたら、目も当て
られへん﹂
﹁それに、あの殿下の事だ。本来なら話し合いが終わって手持無沙
汰になるほど、俺達を放置するつもりは無かったんじゃないか?﹂
達也の言葉に、ありそうだと頷く一同。基本的にこの件に関して
は、レイオットは必要最低限か、それを割るぐらいの説明しかしな
556
い。今までの経緯から察するに、宏達のアドリブ能力を当てにして、
出来るだけ外に出る情報を絞っているのだろう。知らない、と言う
事は、時に最高の防衛策になりえるのだ。
﹁まあ、そんな長い事、何の音沙汰も無し、言うことにはならんや
ろうし、暇やったら七並べか神経衰弱でも⋮⋮﹂
宏の言葉が終わるか終らないかと言うタイミングで、部屋がノッ
クされる。
﹁はい、どうぞ﹂
﹁失礼する﹂
噂をすればなんとやら。現れたのは、レイオットであった。後ろ
には、いつものようにユリウスが控えている。宏や澪の耳には足音
が三人分聞こえたのだが、見た感じ、居るのは二人だけである。
﹁すまんな、待たせた﹂
﹁何の何の。丁度話し合いが終わったところやし﹂
﹁いろいろと面倒をかける﹂
﹁いくら非公式や、っちゅうても、王太子殿下があんまり頭下げる
もんやあらへんよ﹂
﹁だが、たとえ王だろうが王太子だろうが、頭を下げるべき時は下
げねばならぬ。特に、我らは貴方達に、二人も家族の命を救われた
のだからな﹂
557
突然、姿が見えない三人目の声が聞こえる。
﹁レイっち、昨日姿隠しとステルスマントわざわざ持って帰ったん
って⋮⋮﹂
﹁まあ、そういうことだ﹂
レイオットの言葉と同時に、やたら威厳たっぷりの、がっしりし
た体格の中年男性が姿を現す。顔の造形や髪の色を見るまでもなく、
一目見てレイオットと親子だと分かるその男性は、まごう事なきフ
ァーレーンの現国王である。
﹁初めてお目にかかる。余がファーレーンの国王にして、レイオッ
トとエレーナ、そしてエアリスの父親、レグナスだ﹂
予想外の登場をしてのけた国王レグナスに、日本人達は反応を決
める事が出来ずに、ただ呆然とするのであった。
﹁あの、陛下⋮⋮、どのような御用件で⋮⋮?﹂
いきなり現れた国王に、恐る恐る声をかける達也。
﹁そう硬くなる必要はない。単に親として、礼を言いに来ただけだ
558
からな﹂
﹁それは、明日の謁見でやるのでは?﹂
﹁あんな偉そうな場で偉そうな態度を取って、誠意など伝わるもの
か﹂
﹁いや、国王やねんから、偉そうでもええですやん⋮⋮﹂
達也の疑問への返答で、この人、本当に大丈夫なのか、と言いた
くなるような事を言ってのけるレグナスに、突っ込んでいいのかど
うか悩む日本人達。
﹁とりあえず、こういった非公式の場では無礼講ゆえ、人としての
最低限の礼儀さえ守れば、いつも通りでも問題ない﹂
﹁そう言われましても⋮⋮﹂
﹁宏殿、だったか? 貴殿は息子を、レイっちなどと呼んでいるで
はないか。今更国王なんぞにかしこまる必要は無いぞ﹂
﹁まあ、そらそうですけど⋮⋮﹂
確かに、王太子殿下相手にレイっちなどと馴れ馴れしくしている
のだから、たとえ国王相手といえども、今更と言えば今更ではある。
﹁それにしても、正直なところ、恩人を面倒事に巻き込んでしまっ
た事、大変申し訳なくは思っているのだが⋮⋮﹂
﹁まあ、そんなんはエルを拾った時点で、とうの昔に覚悟は済んど
559
るんで、気にしてもらう必要は全くあらへんけど⋮⋮﹂
﹁だが、それでも、貴殿が一番苦手としている催し物に参加を強制
せねばならぬのは、王としても親としても痛恨の極みだ﹂
威厳たっぷりのまま、実に申し訳なさそうに言ってのける国王陛
下に、言われた方が思わずあわててしまう。
﹁全く、くだらない事だとは思うのだが、伝統的に多大な功績があ
った一般人をねぎらうのに、どうしても謁見、昼食会、夜会の三つ
をセットでこなす必要がある。正直なところ、それが功績に報いる
ことになるなどとは到底思えぬのだがな﹂
﹁特に夜会については、私も常々疑問に思っていたところだ。あれ
は、のし上がってきそうな一般人を、笑い物にしていたぶるために
わざわざ催すのではないのか、とな﹂
国のトップの、さんざんともいえるような評価。彼らが社交界と
言うものをどう思っているのか、よく分かる言動である。
﹁あの、それで、御用件はそれだけですか?﹂
このまま放置しておくと、どんどん碌でもない愚痴を聞かされそ
うだと判断した春菜が、とりあえず割り込んで質問をぶつける。
﹁いや、心配しなくとも、ちゃんと本題は別にある﹂
﹁貴公らに、夜会における注意事項を伝えておこうと思ってな﹂
国王と王太子殿下が、わざわざ小細工をしてまで伝えに来る注意
560
事項。何ともまあ、碌でもなさそうな話だ。
﹁まず、達也殿と宏殿は、基本的には我らの側の人間が不在の場所
では、決して女どもと話をしてはならぬ﹂
﹁話をしたら、それだけで即座に相手が妊娠すると思え。特に達也
は要注意だ﹂
あり得ない事を聞かされ、反応に困る達也。言いたい事を理解し、
顔が土気色になる宏。
﹁そ、そこまでなんですか?﹂
宏と同様、即座に言っている意味を理解した春菜が、本気で引い
た顔で確認をとる。
﹁うむ。レイオットも、何人空気感染で出来た子供を認知しろと迫
られた事か﹂
﹁こちらが会話を拒めない立場だった事をいい事に、奴らは好き放
題やらかしてくれたからな﹂
﹁それ、放置しとるん?﹂
﹁する訳が無かろう?﹂
凄絶な笑みを浮かべながら、物騒な事を言ってのけるレイオット。
正直なところ、そんな調べれば一発で分かる事で嘘をついて、無事
で済むと思っていたのかという点が非常に疑問である。
561
﹁因みに、言うまでもなく兄上やマークも、似たような経験をして
いる。私ほどの数ではないがな﹂
﹁王子ともあろう者が、その程度の性教育も受けていない訳が無か
ろうに、本当に質が落ちたものよ﹂
王族二人の言葉に、思わずうわあとうめいて絶句する一同。社交
界のレベルの低さと性質の悪さに、コメントしようがない。今の代
の王家は血族間のつながりが強く、レイオットやエアリスの派閥に
入れなければ権威や権益の拡大が難しい事に焦ったのだろうが、も
う少し頭を使えとは言いたいところである。
﹁とりあえず、宏殿に関しては、折を見て余が会場の外へ連れ出そ
う﹂
﹁エルンストとユリウスもつけておくから、開始から一時間程度、
どうにかしのいで欲しい﹂
﹁了解や﹂
﹁その後は、宏殿は余がいろいろ仕事を頼んだ事にして、夜会への
出席を出来るだけ潰す事にしよう﹂
﹁だが、私と父上、それに姉上とエアリス、兄上にマークの分まで
いろいろ雑用を頼んだ事にしても、さすがにすべての夜会を欠席で
きるとは思えん。申し訳ないが、多少は覚悟を決めておいてほしい﹂
﹁それも分かっとるよ﹂
正直なところ、王家サイドとしても、宏を余り夜会などに出した
562
くは無い。これが、達也や春菜のようにほどほどに人間関係の対応
能力があるのならいいが、宏は女性恐怖症ゆえか、初対面の相手、
特に女性に対しては、場合によっては失礼だと言われても否定でき
ない態度をとる事がある。どっちが失礼なのか分からないような連
中の方が多いので、その事自体は別にかまわないとは思うのだが、
それを問題視して処刑を迫ってきたり、王家の権威を引きずり降ろ
そうとしたりする野心家も少なくないのが、頭が痛い話である。
実際のところ、そう言う事を言い出す連中と宏とでは、圧倒的に
宏の方が重要なのだが、それが分かる人間はそもそも、カタリナの
事以外には特に問題を抱えている訳ではない今の王家に刃向かうよ
うな真似はしない。第一、四級ポーションを作る事が出来る、と言
うそれだけでも、大半の貴族を切ってでも抱え込む価値があるのだ
が、彼らのどれぐらいが気が付いているのだろうか。
﹁そう言えば、結局神殿に侵入した時のあのトカゲのしっぽ、あの
絡みはどないなったん?﹂
﹁残念ながら、実行犯の確保には失敗した。流石に自爆されてしま
っては、どうにもならん﹂
﹁親玉の方は?﹂
﹁そちらも残念ながら、な。そもそも、あの実行犯をバルドだと断
定したのも、少しでも目をそらすとどんな人間だったかを忘れるほ
ど特徴が薄い顔をしている、というだけの理由だ。その当人が、事
態が完全に終わるまでカタリナ姉上とともにマークを相手に茶を飲
んでいた以上、無関係ではないだろうと詰め寄ったところで一蹴さ
れるだけだ﹂
563
予想通りとはいえ、本気でトカゲのしっぽだったらしい。宏にキ
ャンセルされる程度とはいえ、大魔法を普通に発動できる人間を尻
尾として使い捨てるあたり、相手の方が実戦的な人材は充実してい
るのかもしれない。
﹁それで、結局エレ姉さんの関係って、どの程度蹴りついとるん?﹂
﹁実行犯と思わしきものは、すでに投獄してある。もっとも、そこ
から背後をたどるのは、少々難しそうではあるが﹂
﹁そらまた何で?﹂
﹁簡単な話だ。実行犯の半分は、そもそも自身が毒物を扱っていた
事すら知らなかったようでな。彼らに毒物を渡したと思われる人間
も探ってはいるが、これまた当人は自身が毒物の運び屋にされた事
すら知らないか、既に足取りが途絶えているかのどちらか。正直、
大半の者に関しては、どの程度の処分をすべきかもすぐには決めか
ねる状況だ﹂
レイオットの報告を聞いて、難儀なことになったとうならざるを
得ない一同。
﹁それって、人を入れ替えても、再発防止にはならない?﹂
報告内容から確定で言える、一番厄介な問題をズバリ指摘しての
ける春菜。ほとんどがいつも通り仕事をしていただけ、となると、
それこそ全てを解毒するぐらいで無いと、防ぎようが無い。
﹁そう言う事になるな。まあ、宏のおかげで、指摘されたもののう
ち、注意すべきを茶葉と食事に絞る事が出来たから、以前よりはは
564
るかにましだろう。最悪、食うふりをしてお前達にこっそり何かを
作ってもらう、と言う手立てもあるしな﹂
﹁王族がそれでいいの⋮⋮?﹂
﹁流石にそれはどうかと私も思うな⋮⋮﹂
余りにアバウトな事を言い出すレイオットに、頭を抱える真琴。
何ともコメントしがたい台詞に、当たり前の言葉しか出てこない春
菜。もはや、王族相手に対する緊張感や遠慮など、どこにも無くな
っている。まあ、元々これまでの経緯から、こういう非公式の場で
は、レイオット相手に対する遠慮などかけらも残ってはいないのだ
が。
﹁せやけど、それやったらうってつけのモンがあったりするねんな、
地味に﹂
﹁うってつけって?﹂
﹁これやけど?﹂
そう言って、宏が荷物から取り出したものは⋮⋮
﹁インスタントラーメンだと!?﹂
﹁カップめんじゃない!﹂
﹁ねえ、宏君。某メーカーの味噌とか、これどういう基準⋮⋮?﹂
﹁パッケージまで完璧に再現してあるあたり、さすが師匠⋮⋮﹂
565
そう、インスタントラーメン各種であった。澪のコメントの通り、
ご丁寧にパッケージまで完璧に再現されている。種類こそカップめ
ん二種類に袋ラーメン二種類と少ないが、確かに後でこっそり食べ
るにはうってつけのものと言えば言える。
﹁と言うか、いつの間にこれを完成させてたの?﹂
﹁春菜さんが屋台やってる間に、こつこつとな。たまごのっけるポ
ケットとか記憶にあるスープの味とか、なかなか再現できへんで苦
労したで﹂
﹁いつもながら、何でこういう方向にばかり努力を惜しまないのよ
⋮⋮﹂
宏のあまりの努力の方向音痴ぶりに、もはや脱力するしかない真
琴。だが、そんなコメントをしながらも、手に取ったカップめんは
離さない。
﹁これは、どういったものなのかな?﹂
﹁この味噌ラーメン、言うやつ以外は、基本お湯注いで一分とか三
分で食べられる麺や﹂
﹁ほう? 美味いのか?﹂
﹁凄く美味しい、って類のものじゃないけど、好きな人はものすご
く好きな感じ、かな? 私はここにあるのは、大体どれもそれなり
には好き﹂
566
﹁春菜さんも、インスタントラーメンとか食べるんやな。家が超セ
レブで料理にこだわりありの人やから、こんなん見向きもせんと思
っとった﹂
宏の言葉に苦笑する春菜。確かに母親がミリオン連発の世界的歌
手であり、父親も人気俳優の彼女の家は、超がつくほどのセレブで
ある事は否定の余地は無い。また、日ごろの食事に関しても、父方
の曽祖父が京都の一流料亭で料理長を務めていたような人で、その
影響で父が料理にものすごくこだわる人物なのも事実である。母親
だって、よく食べるからか物凄く料理が上手いし、その影響で自身
も妹も普通に料理ぐらいは仕込まれている。が、両親ともに不在の
時に、毎回毎回二人分のご飯を馬鹿正直に作っていた訳ではない。
どうしても面倒な時には、袋ラーメンに野菜を入れる程度のアレン
ジで済ませたり、場合によってはカップめんで済ませたりしたこと
も普通にある。
﹁まあ、栄養バランス的にはあまり体に良くない類のものだから、
そんな頻度では食べてなかったのも確かだけど﹂
﹁ふむ。体に良くない、と言う割には、他の者たちの食い付きがい
いのだが?﹂
﹁人間、体に良くない物ほど美味しく感じる、って所かな?﹂
食い入るように眺めて離さない三人を見て、苦笑しながらレイオ
ットの問いかけに応える春菜。実際のところ、栄養バランス的には
確かにお勧めしがたいものではあるが、食べ続けたからと言ってそ
れ自体が病気の原因になるほど体に悪いものでもない。そもそも、
インスタントラーメンの開発者は、開発を始めてから死ぬまで、毎
日一食はインスタントラーメンを食べていたにもかかわらず九十六
567
歳で大往生したのだから、そこまで致命的に健康に悪いと言いきれ
るものでもない。
﹁で、僕らも昼がまだやし、ちょっと試食してみる?﹂
﹁出来るのか?﹂
﹁カップに入った奴はお湯注ぐだけやし、味噌ラーメンやない方の
袋はどんぶりとお湯だけあればいけるで﹂
﹁どんぶりと言うのは?﹂
﹁こういう器やな﹂
宏が荷物から取り出したどんぶりを、しげしげと眺める国王。こ
ういったボウルのような食器に盛り付ける料理は、ファーレーンに
はほとんど存在しない。因みにレイオットの方は工房でそばを食べ
た事があるため、どんぶりの存在は知っている。
﹁では、湯を用意すれば問題ないのだな?﹂
﹁それも、なんやったらこっちで用意するで﹂
すっかり話が食べる方に向かってしまっている一同。その様子に
苦笑しながら、インスタントラーメンに対して一番冷静であった春
菜が突っ込みを入れる。
﹁試食するのはいいけど、打ち合わせの類は終わり?﹂
﹁あ、せやな。確認しときたい事があってん﹂
568
﹁確認したい事?﹂
﹁明日の昼食会と夜会の前って、薬を持ち込んで飲んだりできる?﹂
薬、という言葉に怪訝な表情を浮かべるレイオット。微妙に言い
たい事を察したか、少し考え込む国王。
﹁薬、とは具体的には?﹂
﹁毒の予防用に、万能薬をちょっとな。配合をいじれば、六時間は
大概の毒物をチャラに出来んねん。まあ、言うても手持ちの材料や
と、せいぜい四級で治せる範囲までやねんけど﹂
﹁⋮⋮それは、我々の分も用意できるのか?﹂
﹁薬作るための道具と場所を貸してもらえれば、それぐらいの余裕
はあるで﹂
﹁分かった。この後すぐに手配しよう﹂
﹁おおきに﹂
懸念事項その一を確認し終えた宏が、ポットと水を取り出しなが
ら礼を言う。そのまま、お湯を沸かす作業に入りながら、続いての
懸念事項を質問する。
﹁もう一つは、女性陣にとっての厄介事やねんけど、ダンスとかの
類って、どうなん?﹂
569
﹁明日はエレーナの体調を理由に、ダンス自体は行わない予定にな
っている。だが、いつまでも全くなし、と言う訳にもいかんのも確
かだな﹂
﹁なるほど。後、根っこは同じ問題やねんけど、春菜さんらは、得
物があるだけでドレスのまま戦闘とかできそう?﹂
宏の指摘に、はっとした顔をして考え込み、口々に問題を指摘す
る。
﹁コルセットの感じから言うと、ちょっと厳しいかも﹂
﹁裾の長さも厄介なところね。大立ち回りするとなると、絶対に踏
んづける自信があるわ﹂
﹁そもそも、ドレスで弓を引くのは無理﹂
帰ってきた返事は、どれもなかなか厳しいものであった。
﹁やとしたら、明日はともかく、それ以降は下着は澪が、ドレスは
僕が作った方がよさそうやな﹂
﹁そうだな。流石に今日来て明日で大立ち回りになるような事態は
無かろうが、そう言った備えは重要だ。だが、そこまで動きやすい
ドレスなど、本当に作れるのか?﹂
﹁まあ、ポイントを押さえれば大分変わるで。それに最悪、ある程
度はエンチャントで誤魔化せるし﹂
﹁エンチャントと言うやつは、本当に万能だな﹂
570
﹁出来ん事も、結構あるけどな﹂
衣服や鎧にかかるエンチャントは、武器のそれに比べると種類が
多い。そのほとんどが重箱の隅をつついたような数値には影響しな
い、だが現実には単純な防御力向上など目ではないほど重要なもの
である。特に金属鎧の通気性確保と内部気温制御は、ゲームの時は
ほぼネタエンチャント扱いだったが、実際にあれを着るとなると無
しではやってられない類のものである。鎧全般や裾の長い服、装飾
が多い服などにかける行動阻害軽減も、あるとないとではペナルテ
ィの大きさが大違いで、上位のものになるとフルプレートでも泳げ
るほどの効果がある。ゲーム中ではあまり重要視されなかったが、
弓手用の胸部保護エンチャントなども、こちらに来てから活躍して
いるエンチャントだ。
ゲームの頃は、使えるエンチャントが増えるたびに開発の余計な
こだわりに呆れたものだが︵何しろ、大半が使い物にならない︶、
いざゲームが現実になると、むしろ良くこれだけ用意してくれたも
のだと感謝したくなってくるのだから、現金な話である。もっとも、
中には電波を受信するとか、ローグライクゲームのアイテム情報か、
と言いたくなるような正体不明のエンチャントも相当数混ざってい
るのだが。
﹁まあ、ドレスについては、それでいこ。生地と糸は頼むで﹂
﹁手配しよう。他には?﹂
﹁すぐにどうこう、言うんは思いつかんな。あ、そうや﹂
﹁何だ?﹂
571
﹁こういう変わり種を食べる時、エル呼んどかんと拗ねへんか?﹂
宏の指摘に苦笑し、何ぞ道具を使って連絡をとるレイオット。ど
うやら基本は待ち時間だったらしく、呼ばれてからさほど時間をか
けずに部屋に到着するエアリス。
﹁今日はどのようなものを食べさせていただけるのでしょうか!?﹂
﹁凄い食いつきやなあ、相変わらず﹂
エアリスのその態度に、思わず失笑が漏れる一同。その様子に微
妙にむくれながらも、宏と春菜が用意する謎の食べ物から目が離せ
ないエアリス。
﹁本当は、お野菜とか入れた方がいいんだけど⋮⋮﹂
﹁まあ、今日はオーソドックスにいこか﹂
とりあえず食べ比べるだろう、と言う事で、ある程度取り分けら
れるように小鉢を人数分用意し、カップめん二種を二つづつと、た
まご受けに生卵を落とした元祖鳥ガラの袋ラーメン三杯にお湯を注
ぐ。袋の味噌ラーメンは煮込んだ方が美味しい、と言うよりお湯を
注ぐだけ、と言う作り方を想定していないので、今回は見送る事に。
﹁うわあ、来るなあ、これは⋮⋮﹂
﹁ああ、駄目⋮⋮。これは抵抗できない⋮⋮﹂
作っている過程を見て、どうにも辛抱できなくなってくる達也と
572
真琴。澪も、どことなくそわそわしている。
﹁とりあえず、適当に取り分けて食べてね﹂
そう言って、見本を見せるように元祖鳥ガラのラーメンを自分の
小鉢に取ってみせる春菜。見ると、すでに真琴がカップめんの醤油
味の方をかき混ぜて、自分が食べたいだけの量を小鉢に引っ張り出
していた。達也はシーフードの方らしい。
﹁そう言えば、カレーヌードルが無いのはどうして?﹂
﹁こっちに回すスパイスを、全部カレーパンに回しとったからな﹂
そう言って、元祖鳥ガララーメンをすすって幸せそうな吐息を漏
らす宏。肝心の王族たちの反応はと言うと⋮⋮
﹁これだけ簡単に調理出来て、この味か⋮⋮﹂
﹁宏、ぜひとも製法を広めてくれ。これは、軍や冒険者にとって革
命となる食べ物だ﹂
﹁素朴な味で、美味しいですわ﹂
日本の食事としては最底辺に近い、指折りに安っぽい食事に目の
色を変えていた。
﹁一朝一夕でどうにかなるかは分からんから、とりあえずそのうち
これ専用の鞄かなんか用意して共有化して、自分らが食べそうな分
だけ作って補充しとくわ⋮⋮﹂
573
宏のその提案に、目を輝かせて頷くエアリス。日本が誇るインス
タント食品は、ファーレーンの王族を虜にしてしまうのであった。
574
第15話
ウルス城の謁見の間は、静かな緊張感に包まれていた。
﹁面を上げよ﹂
玉座に座っている国王陛下の言葉に従い、跪いた状態で顔を上げ
る一同。彼らの一挙手一投足を値踏みするように、参列している十
数人の重鎮およびその補佐官の視線が突き刺さる。基本的には、完
全にアウェイの空気。国王の隣にいる王妃と、二人の両隣に立って
いる側妃から感じるのが友好的な視線である事が、日本人一同にと
ってのせめてもの救いだろう。
なお、凄腕の冒険者に見えると言う理由で、謁見の間では綺麗に
汚れを落としたワイバーンレザーアーマーを身につけている。実際、
宏が作り上げたレザーアーマーは、彼の卓越したデザインにワイバ
ーンと言う素材も合わさって、不思議な風格を見せている。何を着
てもダサい宏の、そのダサさがマイナスに働かない数少ない服装、
と言うか装備だ。
﹁此度の事、まことに大義であった。国王として、一人の父親とし
て礼を言おう﹂
﹁勿体ないお言葉です﹂
事前の打ち合わせに従い、達也が代表して国王陛下のお言葉、と
言うやつに対して返事を返す。このチームの交渉窓口は彼である事
を印象付けるために、名指しされた場合を除いて全て達也がアドリ
575
ブで対応することにしたのだ。その言葉を、儀礼にのっとり侍従長
が代弁し、一連の問答を終える。
﹁楽にせよ﹂
いつまでも跪いたまま、と言うのもいろいろと座りが悪いのだろ
う。国王の指示に従って立ち上がり、とりあえず気をつけの姿勢を
とる一同。こういう時、どういう立ち姿が無礼にならないのかを知
らないのだが、と確認を取ったところ、あからさまにだらけた態度
でなければ文句を言われる事は無い、との返事を貰ったので、無難
に気をつけの姿勢にすることにしたのだ。
﹁さて、此度の多大なる功績、言葉を投げ与えて報いた事にするの
は、さすがに王家の沽券にかかわる。何か望みがあるのであれば、
遠慮せずに言うてみよ﹂
昨日こっそり打ち合わせした通りの国王陛下の台詞に対し、最初
から決めてあった返事を達也が侍従長に対して告げようとする。そ
の様子を見た国王陛下がそれを制し、さらに言葉を継ぎ足す。
﹁直接発言する事を許可する。そなたらの口からそなたらの言葉で
直接述べよ﹂
侍従長に中身を捻じ曲げられる事を恐れたのだろう。国王陛下が
直接の発言を望む。
﹁それでは、恐縮ながら直接発言させていただきます。許されるの
であれば、書庫の書物の閲覧許可を頂けないでしょうか?﹂
﹁問題ないが、なにゆえに?﹂
576
﹁我々は、不慮の事故で自身の意思とはかかわりなくこの国に飛ば
されてきました。この国と我々の祖国とは余りに遠くに離れている
ため、この国と祖国との位置関係すら分かりません。ですが、私は
祖国に妻がいます。他の者も、それぞれに家族がいる身の上。どう
しても故郷に帰りたく、そのための手がかりが欲しいのです﹂
﹁なるほど。知られざる大陸からの客人か。ならば、確かにこの国
の位置を知らぬのも道理。なれば、他にも支援は必要だろうが、そ
れだけで十分なのか?﹂
国王陛下の問いかけにしっかりと頷く達也。そもそも情報が無い
今、それ以上の支援など何を求めればいいのかも分からない。生活
するだけなら現状でもどうとでもなるし、それ以上の事をするには
そもそも何をしなければいけないのかが分からない。つまり、禁書
庫も含めたすべての書物を閲覧できる事、それ以上にありがたい褒
美など無いのである。
﹁よし、分かった。なれば書庫にある書物のうち閲覧可能なもの、
全ての閲覧を許可しよう。ただし、禁書庫にあるものは導師長およ
び司書を必ず同席させる事。中には、触れる事すら許されぬものも
あるからな﹂
﹁ありがとうございます﹂
達也の言葉に合わせ、一同が一礼する。この時点で、謁見式は終
了の予定である。
﹁では、此度の事、まことに大義であった。下がってよいぞ﹂
577
﹁はっ!﹂
国王の言葉に一礼し、予定通り退席しようとしたところで、控え
ていた重鎮から言葉が飛んでくる。
﹁お待ちください、陛下!﹂
﹁何だ?﹂
﹁直接発言することをお許しください﹂
﹁許可しよう﹂
重鎮の一人の言葉に、重々しく頷いて見せる国王。可能性の一つ
として、この場で物言いがつくかもしれない、と言う事は最初から
聞かされていた。故に、内心で面倒くさいなあ、などとは思ってい
ても、表には出さずに状況の推移を見守る事にする一同。
﹁本当に、この者達がエレーナ様のお体を治療し、エアリス様を蜘
蛛の巣から助け出したのですか?﹂
﹁当人が言うておるし、治療の過程はレイオットが何度も確認して
おる。背後関係にも後ろ暗いものが無い以上、間違いない事実であ
ると判断出来る。それとも、そなたはレイオットやエレーナが、そ
こまで節穴だと言いたいのか?﹂
﹁め、滅相もない! ですが、そのような若造に、この国一番の名
医ですら治療できなかった症状が⋮⋮﹂
﹁知られざる大陸からの客人を、我らごときの狭い価値観で判断す
578
るな。過去にも、見た目に反してとんでもない能力を持った者がい
た事など、残っている記録だけでもいくらでも事例があろう?﹂
﹁それとこれとは別問題です! 流石に今回の件まで、一人を除い
て冒険者協会の依頼以外で王宮とのつながりが一切なかった事は認
めますので、全て自作自演だった、などと言う事は申しませんが、
当事者の証言だけを根拠とするのは、私を含め納得できない者の方
が多いでしょう!﹂
その重鎮の言葉を聞き、ちょっとビビリながら手を上げる宏。
﹁どうした?﹂
﹁直接発言してよろしいですか?﹂
訛りのきつい口調で、宏が発言の許可を求める。許可を求める発
言自体がすでに直接発言している事になるのだが、ここら辺は形式
だと言う事で突っ込むのは野暮だろう。
﹁許可しよう﹂
訛りのきつい宏の言葉遣いだが、その事については国王を含む誰
一人嘲るような態度は見せない。このあたりはさすがに大国の重鎮、
と言ったところか。
﹁まず最初に一つ。田舎もんなんで、訛りがきつくて無礼な言葉遣
いになるんはお許しを﹂
﹁構わぬ。訛る事を嘲ったり、無礼だと言うような不見識なものは
この場にはおらぬからな﹂
579
国王陛下の言葉に、当然だと言わんばかりに頷く重鎮一同。訛り
を否定すると言う事は、その人物の故郷を否定すると言う事だ。そ
れはすなわち、回り回って自国を否定することにつながる。流石に
意思疎通が困難なレベルで訛っているのであれば話は別だが、言っ
ている言葉が理解できる範囲であるならば、一般人の言葉遣いが訛
っている事を、無礼と言って糾弾するような人間はいない。
﹁まず、エアリス様をピアラノークから助けた、言うんは協会の討
伐証明で信用してもらうしかないとして、エレーナ様の治療に関し
ては、この場でこの城にある材料と機材使うて、何ぞ薬でも作って
みせれば問題ないかと思うんですがどうでしょう?﹂
ビビリつつも出来るだけ丁寧になるように必死になって言葉づか
いを取り繕う宏に思わず微妙に生温かい視線を向けてしまいながら、
言っている内容の剛毅さにはどよめきを隠せない重鎮たち。実のと
ころ、彼らの大半は口ほど疑っているわけではない。ただ、何がし
かの決定的な証拠がないとまた余計なことを言い出す連中がいるの
で、あえて泥を被って言いがかりをつけているだけである。
正直な話、以前レイオットが受け取ったと言う四級ポーションか、
そこまででなくても六級以上の薬類でも献上してくれれば、それで
よしとするつもりだったのだ。六級程度のポーションでも一般の冒
険者が容易に手に入れられるものではないので、少なくとも高度な
薬類を入手する手段を持っていることは十分に証明できる。わざわ
ざ目の前で作ってもらう必要はまったくないのだ。
﹁ふむ、出来るのか?﹂
﹁材料次第です。ただ、そこらの材料でも一つ二つにちょっと高級
580
な素材があれば、やりようによっては六級ぐらいは行けますし、大
霊峰の中腹ぐらいで採れるようなんがあれば、もうちょい上も狙え
ます。ただ、質、っちゅう面では正規の材料で作るよりは落ちます
けど﹂
﹁六級以上が作れるのであれば、少々質が劣ったところで問題ない﹂
そう答えて、城にある薬草類、その全ての種類と機材を、持ち込
めるだけ謁見室に持ち込ませる。因みに、この場合の質が劣る、と
言うのは、回復量が正規の材料で作った場合より落ちる、と言う事
である。とは言え、宏が作るのだから、正規の材料で作るより劣っ
たところで、標準品と比較すれば回復量は上回るのだが。
﹁なんだか、面倒くさい事になったね﹂
﹁まあ、予想通りと言えば予想通りだが⋮⋮﹂
材料が揃うまでの暇な時間、周りに聞こえないように小声でこそ
こそコメントし合う春菜と達也。正直なところ、薬については今更
失敗するとはかけらも思っていないため、そこについては全く心配
していない。むしろ、いろいろやりすぎて余計に目立ってしまう事
の方が厄介そうだ。
﹁これだけか?﹂
﹁はい。以上です﹂
﹁それで、どの程度の物が作れる?﹂
﹁⋮⋮これやったら、普段使うてる機材一種類と、ストックしてあ
581
る素材があれば⋮⋮﹂
国王の問いかけに、じっくり素材を吟味しながらぶつぶつと段取
りを考え、一番上限を見定める。その結論は
﹁預けてある鞄から、機材一種類と材料二種類を使わせてもらえる
んやったら、三級まで狙えますわ﹂
﹁⋮⋮まことか?﹂
﹁こんなところで嘘をつくほど、頭悪いつもりはありません。あ、
でも、材料だけやなく瓶も出しとかなあかんか。ケルベロスの牙で
作った奴が五十本やから、そこが限界かなあ⋮⋮﹂
物騒な事を言い出す宏に、ぎょっとした顔で視線を向けてしまう
一同。
﹁け、ケルベロスだと?﹂
﹁何ぞ先日、ドーガ卿が持ってきてくれたんですわ。もっとも、あ
れは肉は不味いし内臓は薬にならんしで、でかいくせに皮と骨と爪
と牙ぐらいしか素材として使いもんにならへんがっかりモンスター
やったりしますけど﹂
辛うじて敬語と言うレベルまで崩れた口調で、あっさり言い切る
宏。作るものが定まったからか、先ほどまでのビビリまくった様子
は消えている。そのとんでもない返事の内容に、顔が引きつるのが
止められない重鎮たち。ケルベロスと言えば、ユリウスやドーガ、
レイナのような一部の例外を除き、一頭仕留めるのに最低でも熟練
の騎士十人と魔術師一人は必要な、強力なモンスターである。それ
582
をでかい癖に大した素材が取れないがっかりモンスターなどと言い
切るその剛毅な神経には、どうコメントしていいのか分からない。
﹁その牙で、瓶?﹂
﹁そうですねん。ただ、作れる、言うだけで、ごっつ効率悪うて、
三頭分の牙で五十本程度の空き瓶しか作られへんのですけど﹂
しれっととんでもない事を言われ、反応に困る一同。ドーガなら
ケルベロスぐらい鼻歌交じりで始末するのは事実だが、最近素材と
して使ったとなると、そもそもいつ狩ったものなのかが疑問である。
﹁そんなもの、いつ作ってたの?﹂
﹁湯治いってる最中に、窯借りてこっそりな﹂
春菜の問いかけに応えながら、使う薬草を仕分けしていく宏。
﹁それで、どないでしょう?﹂
﹁そうだな。許可しよう。誰か、この者の鞄をここへ!﹂
宏の確認に即断すると、その言葉に呼応するように宏の荷物が運
び込まれる。使い慣れた自分の鞄を返してもらった宏は、もしもの
時のために倉庫に突っ込んでおいた熟成加速器とワイバーンの肝臓
を一欠けら、ソルマイセン、そしてやたらといかつい魔力を放つ空
きビンを取り出して並べる。
﹁その赤黒い肉は?﹂
583
﹁ワイバーンの肝臓です﹂
﹁そちらの妙な果実は?﹂
﹁エレーナ様の治療にも使うた、ソルマイセン言う果物です。非常
に腐りやすいんで、多分見た事もない人の方が多いと思います﹂
などと質問に答えながら、ソルマイセンの果汁を煮詰めて濃縮し
つつ、その他の素材を非常にあれで何な感じに処理していく。何か
一つ処理するたびに発生する洒落にならない魔力に、宮廷魔術師一
同は、思わず顔が引きつるのを止められない。
﹁何か手伝える事は?﹂
﹁流石にこのクラスになると、澪ぐらいの技量が最低ラインや。今
回は量も大したことないし、とりあえず大人しゅう見とって﹂
﹁了解﹂
見ていて分かっていた事を一応宏に確認し、大人しく薬作りの観
察を続ける春菜。正直、自分に手を出せる領域で無い事は、最初の
段階で大体分かっていた。
﹁ほっ! はっ!﹂
複数の薬草を混ぜて何やら気合を入れると、大量の魔力とともに
何やら怪しげな変化を起こし始める。
﹁澪ちゃん、何やってるか分かる?﹂
584
﹁錬金術。二つの素材を混ぜて、上位の別のものに変換﹂
宏の作業音以外全ての音が消えていた謁見の間に、春菜と澪の言
葉が響き渡る。無いなら作ればいいと言うやり方で素材すらどうに
かする宏に、絶句するしかない参列者たち。因みに余談ながら、味
噌や醤油を作るための麹なども、このやり方であれこれ合成して作
ったものである︵正確には、強引に変異をさせたのだが︶。さすが
に今はそんな無茶をせずに、普通に培養して増やしているが。
いくつかの素材をそうやって上位の別のものに変換した後、がっ
つり濃縮したソルマイセンとワイバーンの肝臓を混ぜて加熱して行
く。ある程度煮込んだ後、魔法でざっと冷却してから、別の容器に
入れて熟成加速器に投入する。
﹁そう言えば、今回熟成加速器って何に使うの?﹂
﹁魔力反応の加速や。普通に放置しとったら一週間ぐらいかかりお
るのを、こいつで五分ぐらいまで短縮したるねん﹂
宏の返事に、上位の薬はいろいろややこしいのだと感心してしま
う春菜。普段は味噌や醤油、鰹節、みりんやポン酢、各種ソース類
に果ては焼き鳥のタレまで、発酵食品や調味料を作るのに大活躍し
ている熟成加速器、地味に薬を作るのにつかわれるのは前回の四級
ポーションに続いて、これが二度目の事である。
﹁そろそろいけるんちゃうかな?﹂
そう言って熟成加速器から取り出した薬は、綺麗な澄んだ赤色に
変化していた。
585
﹁いけたわ。後は瓶詰や﹂
そう言って、春菜や澪が手伝いを申し出る間もなく、あっという
間に瓶に薬を詰めて蓋をし、五十本の三級ヒーリングポーションを
完成させる。
﹁因みに、ワイバーンの肝臓をマナイーターのコアに変えれば、同
じ材料でもマナポーションに早変わりやから﹂
﹁スタミナポーションは?﹂
﹁ワイバーンの肝臓とマナイーターのコアをブレンドして、薬草を
一部入れ替えればできるで﹂
そう言いながら、とりあえず完成品を献上する。献上された瓶を
受け取り、ちらっと医師と薬師に視線を送る陛下。その視線を受け、
震える声で返事を返す。
﹁ヒーリングポーションである事は間違いありません。それは断言
できます。ですが⋮⋮﹂
﹁我々も、三級以上となると、直接目にするのは初めてでして⋮⋮﹂
﹁先日持ち込まれた四級ポーションなど比較にならないほど効力が
強い。それは断言できるのですが、では三級ポーションなのかと言
われると⋮⋮﹂
三級以上のポーションは、半ば伝説の領域に足を踏み入れている。
レシピは残されているのだが、それを実践できる薬師がいないのだ。
そもそも宏がやったような変則レシピでなければ、どこに存在する
586
か分からない素材が大半を占めるため、仮に腕が伴っていても正攻
法で作る事は難しい。
つまり、これが三級であると証明する事は、現時点では非常に難
しいのである。
﹁三級か。これを確認しようとするなら⋮⋮﹂
﹁ドーガ卿かフェルノーク殿に相当な大けがを負ってもらうしかあ
りませんな﹂
﹁もしくは、誰かの腕でも切り落とすか⋮⋮﹂
物騒な事を真剣に検討し始める連中に、思いっきり引いた顔をす
る日本人一同。
﹁まあ、とりあえず、だ﹂
物騒な会話を断ち切るように、国王が一言宣言する。
﹁これが本当に三級のポーションかどうかは、本来関係のない話だ。
そもそも、この薬を作らせた理由は、ヒロシ殿がエレーナを治療し
た事を証明する、ただそれだけの事。そして、その証明は十分にな
ったと考えられるが、異論はあるか?﹂
﹁⋮⋮これに異を唱えると、次は何を持ち出してくるか分かりませ
んな﹂
﹁⋮⋮流石に、認めん訳にはいきますまい﹂
587
﹁⋮⋮しかし、何とも心臓に悪い話です﹂
国王の言葉に、次々と同意する重鎮たち。正直、目の前で見せつ
けられた異常な光景に、脂汗が止まらない。何が恐ろしいと言って、
やらかした本人が平常運転である事が恐ろしい。
﹁では、今度こそ謁見は終わりとする。なお、言うまでもないが、
この事は他言無用﹂
﹁無論です﹂
﹁とりあえず、今回はこの場で四級のポーションを作った、と言う
事で誤魔化しておきましょう。検証方法は、出来るだけ穏当で無駄
にならずかつ確実な方法を探しておきます﹂
﹁うむ、任せる。では、下がってよいぞ﹂
なんだかんだ言って最初から最後まで平常運転だった国王の言葉
で、ようやく謁見を終える事が出来たのであった。
﹁先ほどは手間をかけた。すまんな﹂
礼服で控室に待機していた宏達のもとへ、執務を抜け出して謝罪
に来た国王。微妙にフットワークの軽い人である。なお、言うまで
588
もないことながら、日本人は五人ともそろっている。
因みに、礼服と言っても夜会などに出るような服装では無く、王
族の私的な会などに参加する時に着る類のもので、デザインライン
はスーツに近い感じの、かっちりとした印象の服装である。男女で
デザインの違いは無いので、全員同じ服を着ている。ファーレーン
の服装デザインは、比較的近現代に近いものも存在するのだ。
﹁いえいえ。最初からこうなるかも、っちゅうんは分かっとった事
ですし。それに、あのパターンはむしろ対処しやすい方ですし﹂
﹁とは言え、これで少なくとも、あの場にいた連中がお前を軽んじ
る事は無いだろう﹂
国王の言葉に、微妙に乾いた笑みが浮かぶ達也と真琴。むしろ、
あれを見て軽んじるようであれば、それこそ頭の出来を疑うレベル
である。
﹁それで、何ぞ妙に騒がしいんですけど、事件でも?﹂
面倒な話を避けるため、話題を変える宏。実際、妙に騒がしいの
だ。
﹁見習いの訓練で事故があったらしい。どうも、実剣を使った修練
の途中で剣が折れて、破片で大けがをしたものが出たようでな﹂
﹁の、割には騒ぎが大きすぎませんか?﹂
達也が、騒ぎの理由に対して疑問に思った事を指摘する。その指
摘を聞いた国王陛下が、にやりと笑ってとんでもない言葉を口にす
589
る。
﹁騒ぎにもなるだろう。いくら片目が潰れたからと言って、たかが
見習いに国宝級とも言われる三級ポーションを使ったとなればな﹂
思ったよりも深刻な事故に、思わず絶句する一同。最初に立ち直
ったのが宏だったのは、やはりと言うべきだろうか。
﹁目ぇ潰れるような怪我して、三級のポーションで治るんですか?﹂
ここ二カ月ほどの経験則でいうと、いくら新しい怪我でも、その
レベルの負傷はポーションでは治らない。たとえ、腕を食いちぎら
れた子供に五級ぐらいの回復量過多なポーションを飲ませたところ
で、傷口がふさがるだけで部位欠損は治らないのだ。
﹁知らないのか? 三級以上のポーションは、部位欠損を修復する
効果があるのだぞ?﹂
﹁⋮⋮全然知りませんでしたわ﹂
﹁自分で作った薬なのに、そのあたりを全く知らないとは面白い話
だな﹂
﹁そう言う人にそう言うポーションを使う機会が無かったもんで﹂
うめくような宏の返答に、愉快そうに笑う国王陛下。そこでよう
やく、騒ぎの本当の原因を理解する一同。
﹁もしかして、騒ぎになっているのは、目が治ったから?﹂
590
﹁それ以外に何がある?﹂
春菜が恐る恐る発した質問に、本当に愉快そうに答える国王陛下。
確かにそれならば騒ぎにもなろうが、何もそんなに耳目を集めてい
る状況で使わなくても、という苦情は言いたくなる。
﹁因みに、使ったポーションは出どころ不明のもので、正確に鑑定
ができなかったから駄目もとで実験した、と言う事にしてあるそう
だ。ちゃんと保護者の許可も取って実験してあるから、こちらが苦
情を受ける事は無い﹂
﹁もしかして、ちょうどいい実験台が出来た、とかいって喜んでま
せん?﹂
﹁さてな。だが、怪我をした小僧には悪いが、少なくとも重鎮ども
をお前達の味方に引き入れるための、その最後の駄目押しが出来た
事はありがたい。流石に間に合わせレベルで三級ポーションを作っ
てのけるような人間を、くだらない疑惑で国として敵に回すような
真似はせんさ﹂
春菜の畳み込むような問いかけに、腹黒い事をしれっと言い切る
国王。
﹁流石国王⋮⋮﹂
﹁一国の主ともなると、こうでないと駄目なのよね、多分⋮⋮﹂
﹁と言うか、何でこの人が、エルがこうなるまで放置してたんだろ
う⋮⋮﹂
591
達也と真琴の呆れと感嘆の混じった感想を聞き、澪が素朴な疑問
を漏らす。
﹁残念ながら、国王なんぞただの人だ。突発的な事故をある程度利
用する事ぐらいはできても、娘を完全に守ってやるには全く力が足
りぬ、実に情けない生き物に過ぎん。それどころか、己が子供同士
の喧嘩すら、ちゃんと仲裁して仲を取り持つ事が出来んのだから、
情けないにもほどがある﹂
澪に応える形での父親としての懺悔を聞き、彼の立場の複雑さ、
その一端をなんとなく感じ取る一同。残念ながら、どれほど偉大な
人物でも、全てに目を行き届かせることなど不可能だ。どれほどの
名君でも、一切の反乱分子、不満分子を作らずに統治することなど
出来ない。ましてやレグナス王は、周辺諸国の評価とは裏腹に、継
承権争いを起こす芽を最初からつぶせる程度の有能さしか持ち合わ
せていない。
ファーレーンはなまじ豊かで国として安定しているからか、問題
があってもなかなか表面化しない傾向がある。また、表面化した問
題も、放置するリスクより下手に手を打ってこじらせるリスクの方
が大きい傾向があり、なかなか手をつけられない事が多い。特に統
治周りの法体系や監視体制はやたらとがちがちに固められていてそ
うそう汚職などできないこともあり、そう簡単に貴族の横暴で民に
直接ダメージが行く状況にはならないことは、先代の手柄ではあろ
う。
そもそも、連中は言動こそ不穏当だが、それ以外は基本的にまと
もだからそれほど大きな罪を着せることは出来ない。法というのは、
国のトップが守るからこそ末端も守るものだし、残念ながら先代が
構築した現在のシステムにおいては、法は王家にすら優越する。し
592
かも、先々代のことがよほど効いたのか、法改定のハードルがむや
みやたらと高すぎて、事実上誰もが変えなければと言う意見で一致
する問題を抱えたものしか変えられない。
こういった状況が特権階級の不満を高めており、特に先代の改革
で不利益をこうむった連中がバルドのような輩と結託してはしょう
もない言いがかりをつけて、法の不備を利用して逃げるという面倒
くさいまねを許してしまっているのである。こういう連中を排除し
ようにも、それをするには法を改正するところからのスタートが必
要で、だが現状では政権内部で王家と貴族の権威が共倒れ的に失墜
している以外に特に実害がなく、しかもそういう連中でもよその国
の使者や客人の前ではきっちり猫を被りとおすため、恥を忍んで外
圧に頼るというのも難しい。
ここしばらくの一連の事件は、そういった国としての体質、その
しわ寄せがすべてエアリスに行ってしまった感が強い。
﹁だが、貴公らが来てくれたおかげで、一連の問題、その解決に向
けて突破口が開けそうだ。本当に、どれほど感謝しても感謝しきれ
ぬ﹂
﹁僕らは乗りかかった船やから、自己満足で手を貸しとるだけです。
それに、まだ何も終わってへん。今の状態は、ようやく最悪の事態
になるんを防いだ、っちゅうだけです﹂
﹁そうだな。そう言えば、この後を乗り越えるための万能薬、準備
はできているのか?﹂
﹁ばっちりです。服にもエンチャントかけたし、後はこいつを飲む
だけで準備万端です﹂
593
そう言って宏が取り出した小瓶を、全員で一気にあおる。ベース
がソルマイセンゆえの極端に薄い、だが他の薬効成分による何とも
言えない微妙な味わいに顔をしかめつつ、コーヒーフレッシュと大
差ない分量の薬を喉の奥に流し込む。
﹁さて、次の勝負どころやな﹂
﹁多分、カタリナが無礼を働くと思うが⋮⋮﹂
﹁見て分かるような無礼は、まだまだ生温いレベルですから安心し
てください﹂
国王陛下に向かって、かなりきつい事を言ってのける達也。はっ
きり言って安心できるような言葉ではないのだが、非公式の場であ
えて本音で話す事を求めているとはいえ、国王相手にこれを言って
のける達也に感心し、妙な安心感を覚える。
﹁さて、余は一度引き揚げさせてもらう。後ほど、会食の場で﹂
﹁はいな﹂
宏から人数分×二回分の薬を預かり、悠然とした態度で控室を出
ていく国王。前哨戦第二幕の開幕時間は、着々と迫っていくのであ
った。
594
カタリナ王女は、とにかく不機嫌であった。
﹁何よ、あの図々しい冒険者たちは!﹂
先ほどの食事の席を思い出し、怒りのこもった声で吐き捨てる。
王族との食事会など、冒険者ごときには過ぎた待遇だと言うのに、
委縮する様子もなくやたら堂々としていた。
これが、大霊峰を挟んでファーレーンに隣接するミダス連合諸国
の構成国のように、これと言って見るべきものもないような小国の
王族相手ならともかく、世界でも三本の指に入る大国のファーレー
ン王国、その王家相手にあの態度、あまりにも図々しく無礼ではな
いか。
しかも腹が立つことに、五人ともこちらには見向きもせず、レイ
オットやエレーナ、エアリスとばかり、それも取り繕ってはいたが、
見るものが見れば実になれなれしい態度で話をしていた。
まだ百歩譲って、レイオットやエレーナの言葉を自分より優先す
るのは許そう。立場としては二人とも自分より上に来るのだから。
だが、このカタリナが口を開こうとしているのを無視して、エアリ
スに話しかけると言うのはどういう了見か。しかも、この国の王太
子相手に、たかが下民ごときが十年来の親友のような態度で接する
とは!
表面上は平静を保っていたが、内心ではあふれ出る怒りを抑える
のに必死であった。今までの人生で、これほどの我慢を強いられた
事などかつて無かったと言いきれるぐらいである。
595
﹁レイオットもレイオットです! あんなどこの馬の骨とも知れぬ
下賤な薬師ごときをわたくしより優先するなど、あれが大国ファー
レーンの王太子の態度ですか!?﹂
支離滅裂な事を言い放ち、八つ当たりのように枕を殴りつけるカ
タリナ。実際のところ、カタリナが怒りを覚えている一連の内容も、
傍から見ていれば言いがかりもはなはだしいものである。エアリス
を優先も何も、カタリナは食事会の間、一度も自分から口を開いて
はいない。それどころか、会話の流れを受けて発せられた問いを、
綺麗に無視していたぐらいである。第一、なれなれしい態度で接し
ていたのは王族側で、宏達はちゃんと一線を引いた態度で対応して
いた。人目のない、もしくは見られてもかまわない場所でならとも
かく、それ以外の場ではちゃんとわきまえているのである。
だが、表面上はともかく、内面においては日に日に現実との乖離
が進んでいる様子が見受けられる彼女に、その手の事実を突き付け
たところで全く意味が無い。
﹁バルド! あの愚か者たちを、どうにか始末できないの!?﹂
﹁まあ、慌てない事です、カタリナ様﹂
激情に任せて物騒な事を口走るカタリナを、その場にいた事すら
分からないほど存在感の薄い男がなだめる。先のエアリスの神殿へ
の帰還、その時に襲撃をかけてきた男同様、一瞬でも目をそらせば
一切合財の情報を忘れてしまいかねないほど、個性だとか印象だと
かいうものに乏しい男である。
﹁今動けば、我々にも疑いがかかることは必定。それでなくとも、
596
先のエアリス様の一件で、我々は目をつけられております﹂
﹁疑いが? どうしてです?﹂
﹁神殿でエアリス様を襲おうとした男が、私にそっくりだったそう
です﹂
﹁言いがかりもはなはだしいわね﹂
聞く人が聞けば、お前が言うなと突っ込むこと間違いなしの言葉
を言ってのけるカタリナ。その言葉に深々と頷き、言葉を続けるバ
ルド。最初から疑いがかかっていることも、法の不備をつけば大概
は潜り抜けられる自信があることもおくびにも出さない。
﹁確かに、言いがかりもはなはだしい。ですが、人間とは思いこみ
の生き物。一度疑いを抱けば、それをぬぐい去るのは生半な事では
ありません﹂
バルドの言葉に、憎々しげに頷くカタリナ。自身の経験から、バ
ルドの言葉を何一つ否定できないのだ。無論、彼女が思いこみで非
難されている、などと思っている事の大半が自業自得か、そもそも
悪く思われていないのに自分で勝手にそう思い込んでいるかのどち
らかなのだが。
﹁なので、しばらくは直接何かをする事は避け、彼らが馬脚を現す
のを待つのが上策かと思われます。何なら、有象無象を誘導して、
彼らがどうあっても粗相せざるを得ないように追い詰める方法も検
討しますが﹂
﹁そうね。最近は随分動きづらくなっている事ですし、直接的な事
597
は避けるとしましょう。バルド、詳細はあなたに一任します﹂
﹁かしこまりました﹂
バルドの言葉にあっさり納得し、全てを丸投げしてくるカタリナ。
その言葉を引き出し、内心でちょろいものだな、などとせせら笑う
バルド。
カタリナは確かに、教養豊かな女性ではある。国の内外問わず奇
跡と謳われるその美貌も、いまだ発展途上のエアリスを除けば、姉
妹の中では頭一つ抜けていると言っていい。公式の場での振る舞い
は、間違いなく賢明な女性と評していいものである。だが、それで
は彼女は有能なのか、と問われれば、間違いなく否である。一般的
な意味で教養豊かな人間が、必ずしも人格的に優れているわけでは
ない。彼女はその典型例とも言える。何よりカタリナは、学んだ理
論と現実が食い違う場合、現実がおかしいと切り捨てるタイプだ。
これではせっかくの教養も生きなくて当然だろう。
表面を取り繕うことと言い逃れをする事だけは上手いが、それ以
外の事にはまるで頭が回らない女で、おめでたい事に上手く言い逃
れをした後、自分の評価は下がっていない、などと考えている人間
を、間違っても有能と呼ぶ事は出来まい。エアリスにやったように、
人の目をかいくぐって抵抗する手段を持たない人間を徹底的にいじ
める事には長けていても、今回の冒険者たちのように、ある程度自
力で対処する能力を持つ相手と敵対するような能力は無く、何一つ
深く考えずに、己の感情だけで汚れ仕事を部下に丸投げする。
それでも失敗した時の結果を自分で背負うのであれば、それはそ
れで上に立つ者としては間違いではないあり方ではあるが、カタリ
ナは自分は無関係だと責任逃れをし、どれほど明確な証拠があって
598
も無関係なものが勝手にやったことにしてしまうタイプである。そ
の美貌と王族というバックグラウンド、そして予備の予備とはいえ
姫巫女の資質を持つ、という要素が無ければ、あっという間に孤立
しているような女だ。最初にエアリス相手に行った裏工作が上手く
いき、年齢一桁の子供にはあり得ない人格を大半の人間に信じ込ま
せることに成功したから、たまたま今まで問題なくやってこれたの
だが、今後エアリスが表に出てくれば、これまでにやらかしたこと
すべてが本人に返って来ることは疑いのない事実だ。
︵とは言え、ここまでうまくいっていたのに、奴らが現れてから急
に状況が悪くなったのは確かだ︶
もう少しと言うところまで進んでいた地脈の汚染が、たった一日
で元に戻るどころか、前以上に清浄な状態で力を取り戻している。
こんなことなら、無理やりにでもエアリスを仕留めておくべきだっ
たと考えても後の祭り。確実を期すためにピアラノークの巣を確認
しに行ったが、血統魔法による強力な防御によってバルドの手札で
は影響を与えられなかったため、そのままにしておいたのだ。持続
時間自体は一カ月程度だと言う事もあり、それだけあればすべて終
わっていたはずなのだ。
エアリスを排除する、という点で言えば、最善は直接殺す事だっ
たのは間違いないが、残念ながら時限式の転移魔法と違い、城の中
で直接攻撃魔法を使ってエアリスを手にかけると、たとえ時限式で
やっても確実に術者を特定されて、言い逃れが効かなくなる。それ
に、ドーガとレイナは魔法抵抗こそ低いが、魔法防御は意外と高い。
あの二人、特に範囲攻撃に対する防御に長けたドーガを排除しない
限り、直接的な方法でエアリスを殺す事は出来なかった。かといっ
て暗殺というカテゴリーでは素人のバルドが、いくら子供といえど
も王族を武器を使って殺すのは無理がある。暗殺者を雇うにしても、
599
ドーガ達を出し抜くのは厳しい。
ゆえに、失踪と言う形をとった方が都合がいい事もあり、バイン
ド魔法と転移魔法で罠にはめて、飛ばせる範囲の中で最も戦闘能力
が高く、致命的な能力を持つ相手であるピアラノークにぶつけたの
だが、よもや三日もたたずに救出されるとは思わなかった。何しろ、
事件の前に最後にピアラノークと冒険者が戦闘をしたのが半年以上
前の話である。確率から言って、普通は救助の可能性など考えない。
いや、そもそも、二カ月ほど前のポイズンウルフの大発生、あの
事件が彼らのせいで犠牲者なしで終わってしまったことが、ケチの
つき始めだったのかもしれない。使われた毒消しの数は二百二十ほ
どだと聞くが、裏を返せば、上手くいけば最大で二百二十人、この
城の戦力を削り取る事が出来、二百二十人分の瘴気で地脈を汚す事
が出来たはずなのである。いや、即座に回復すると言う毒消しの特
性を考えれば、もっと犠牲者を増やせたかもしれないのだ。そう考
えれば、もう二か月前から、連中には煮え湯を飲まされ続けている
事になる。
挙句の果てにエレーナを完治させ、使っていた毒物を特定し、毒
を盛るためのルートを全て潰されてしまった。警戒も厳重になって
しまった今、種類を変えたところで毒殺などそうそううまくは行か
ないだろう。上手くいけば運がいい、程度の考えで、今日の夜会で
もエレーナとエアリス、そして冒険者たちが飲む予定となっている
飲み物には無味無臭の毒を混入させるつもりではいるが、まず対策
を取られていると考えて間違いない。
︵この女はそろそろ切るにしても、まずは連中を観察せねば話にも
ならんな︶
600
カタリナのように馬鹿正直に表に出しはしないが、腹にすえかね
ているのはバルドも同じである。今から巻き返すのは厳しいだろう
が、可能性を繋ぐためにも、まずは邪魔な冒険者どもを排除しなけ
ればならない。マイナスからのやり直しになるが、それでもせめて、
エレーナとエアリスを何らかの形で仕留める事が出来れば、たとえ
カタリナが処刑されても、一時的にとはいえここで姫巫女が断絶す
る。そうすれば、何もせずとも地脈が瘴気に侵され︵バルド達にと
っては浄化される、という認識なのだが︶、いずれは目的を達成で
きるはずなのである。
本心を言えば、今すぐにでもまとめて排除するために動きたい。
それでもカタリナを制止して様子見をすることにしたのは、連中が
関わってからの展開があまりにもきれいにこっちの計画を破綻させ
ていったことが理由である。相手のことを理解せずに手を出すのは、
あまりにもうかつに過ぎるだろう。
﹁とりあえず、カタリナ様。まずは今宵の夜会、あなた様の美貌で
格の違い、と言うやつを見せつけて差し上げてはいかがでしょうか
?﹂
﹁言われるまでもありません﹂
不愉快そうに一つ鼻を鳴らすと、傲然とバルドに応える。カタリ
ナもバルドも知らない。彼女がこの方面においてさえ、完敗を認め
ざるを得なくなる事を。
601
﹁皆のもの、忙しい中、よく集まってくれた﹂
運命の夜会。その開始を告げる最初の一言を、国王陛下は高らか
に告げる。
﹁今宵のパーティは、我が娘エレーナの快気祝いとエアリスの無事
の帰還を祝い、二人の命を救うために大きな力となってくれた者達
をねぎらうためのものだ﹂
国王陛下の言葉に、場が微妙にざわめく。パーティの名目となっ
ていたのは、エレーナの快気祝いだけだったのである。エアリスが
行方不明になっていた事、つい一週間ほど前に帰還し、神殿で浄化
の儀式を行った後再び姿をくらませた事は聞き及んでいたが、よも
や今日この場で公式の場に顔を出すとは、招待客のほとんどは思っ
てもいなかったのだ。
エアリスの事に関しては、招待客の反応は真っ二つに割れている。
良く恥ずかしげもなく王女面して帰って来て、挙句の果てにのうの
うと公の場に顔を出せるものだと言う反応と、少なくとも無事であ
った事に対しては素直に喜ぶ反応とだ。後者についても、姫巫女と
してはともかく、まだ十歳の、それも王家の直系の姫君に何かある
などと言う事は国家としては大事件であり、それが致命的な事態に
なる前に解決した事を喜ぶ反応がほとんどで、エアリス個人を認め
ている物ではない。
最近のカタリナの行状をよく観察している者たちの中には、エア
リスが生きて戻った以上、このまま続けさせた方がカタリナがやる
よりはマシだろう、と考えている人物も少なからずいるが、それと
602
てエアリス個人を認めている訳ではない。ちゃんと浄化自体は出来
ていたという実績と、噂されているエアリスの人格とカタリナの実
態とを比較すれば、噂通りの人格でもなお、今のカタリナよりマシ
だと判断しているだけに過ぎない。
残念ながら、エアリス王女では無くエアリスという少女の無事を
本当の意味で喜んでいる招待客は、この場には皆無に等しかった。
﹁まずは、皆の者に心配をかけた当人達から、一言あいさつがある﹂
そう言って合図をすると、奥から楚々とした態度でエレーナが出
てくる。まだまだ健康体と言うほど肉付きは戻っていないが、一時
のような正視に堪えないほどのやつれ方は無くなり、その体からは
年相応の生命力が漏れて見えている。この様子なら、さして長くか
からず、元の健康な身体つきを取り戻す事が出来るだろう。
﹁皆様、長きにわたり、御心配をおかけしたことを謝罪いたします﹂
凛とした張りのある声で会場中に最初の一言を行きわたらせ、一
つ深々と頭を下げる。そのエレーナのあいさつを出待ちの扉の陰か
ら見守りつつ、達也と真琴、春菜の三人は現時点の反応から、誰が
比較的まともそうかを観察し、仕分ける作業に集中していた。空気
に飲まれ気味の宏と、エアリスの緊張を解くために普段では考えら
れないほどの口数で話しかけている澪は、この状況では完全に戦力
外である。
﹁しかし、カタリナ王女は派手だなあ⋮⋮﹂
﹁本当にねえ。まあ、確かに良く似合ってて綺麗は綺麗なんだけど
⋮⋮﹂
603
そんな事を言いながら、春菜とエアリスに視線を向ける。
﹁何?﹂
﹁ん? ああ、多分あんた達が出てきたら、みんな驚くだろうなあ、
って思っただけよ﹂
真琴の視線に不思議そうな表情を浮かべていた春菜に、とりあえ
ず思うところを正直に告げる。
﹁それにしても、あんたは落ち着いてるわねえ﹂
﹁緊張してない訳じゃないけど、こういう場面はそれなりに経験が
あるし、それに後ろにフォローしなきゃいけない人がいるし﹂
そう言って、この二カ月ずっとパートナーとして行動してきた男
を見て苦笑する。謁見の時は割と堂々としていたのに、こういう状
況には簡単にのまれるあたり、良く分からない男ではある。もっと
も、謁見の時にいた人たちは、基本的には割とまともな方に分類さ
れる人物ばかりだったし、国王陛下も王妃殿下も側室の御二方も、
自分達に余計なプレッシャーをかけないように、周りを牽制する方
向で視線や雰囲気で圧力をかけていた。多分、普通に謁見などやっ
ていれば、宏だけでなく春菜達も半分使い物にならなくなっていた
だろう。
今の自分の姿を最初に見た時、宏以外は呆けるか硬直するかのど
ちらかであった。その時の様子から他のメンバーが大丈夫なのかな
どと思ったものだが、状況が変われば変わるものである。因みに、
宏が春菜の艶姿に全く影響を受けなかったのは、天敵相手に見とれ
604
たりしたら終わるから、と言う、春菜の側からすれば微妙に泣きた
くなる理由からだ。いかに現状、互いに一切恋愛感情らしきものを
持っていないとはいえ、あんまりにもあんまりな言い分である。
とはいえ、まともな時とヘタレて見える時の状況の違いが、いま
だにいまいちよくわからない。エアリスを連れて城に侵入しようと
した時はまあ、専門外の事をやらされて腰が引けていた感じだから
分からなくもないのだが、時折どうでもいい、しかも女性が絡んで
いる訳でもないような事で、異常にヘタレた行動をとる事がある。
専門分野として判断出来る時ほどとは言わないが、せめて明らかな
嘘に踊らされておたおたするのはどうにかならないか、と思う事は
ある。
何にしても、宏が最初の想定よりはるかに使い物にならなくなり
そうである以上、春菜がおたおたする訳にはいかない。そもそもこ
ういうシーンは、緊張した時こそ堂々とすべきなのである。それが
出来ない人間がいる以上、できる人間はより一層頑張るしかないの
だ。
﹁そろそろ、エルの出番﹂
﹁は、はい﹂
﹁がんばれ﹂
澪に励まされ、むんと気合を入れて胸を張って背筋を伸ばし、真
剣な表情を浮かべて会場に入っていくエアリス。その瞬間、会場が
水を打ったように静まり返る。
﹁皆様、この度は本当にご迷惑をおかけしました﹂
605
会場の隅から隅まで、可憐な澄んだ声が沁みとおる。その言葉が
終わると同時に、無礼にならないようにゆっくりと、深く深く頭を
下げる。その姿に、会場中が飲まれる。まだ十歳の少女の姿に、カ
タリナでさえ、国王や王妃でさえ霞んでしまう。
現れたエアリスは実に美しく、清楚で、気高かった。
ところどころ拙い言い回しがありながらも、心からの言葉を切々
とつづるエアリスを、招待客は呆然と見守っていた。演技かもしれ
ないとはいえ、壇上で言葉を続けるその姿は、少なくとも最悪と噂
される姫君のイメージとは、欠片たりとも重ならなかった。涙をこ
らえながら自身に絡む陰謀に巻き込まれて命を落とした者達の事を
謝罪する彼女を見て、人を人とも思わぬ残酷で酷薄な姫君だという
印象を抱き続けるのは難しい。仮に演技だとしたら大したものだが、
言葉に込められた熱が本物だと思える以上、多少演じている部分が
あったところで、語る内容が全て嘘と言う事もあるまい。
噂と違う点は、もう一つあった。噂どおりならエアリスの容姿は、
内心を写したかのように醜悪で酷薄であるはずだ。だが、壇上にて
切々と想いを訴える少女は、まだまだ幼く完成された美貌とはいえ
ないまでも、幼いなりに可憐で気高く、神秘的な美しさを誇ってい
た。髪や瞳の色、顔立ちなどから、彼女が国王と王妃の直系である
事は疑う余地もないが、その容姿は醜いという評価とはほど遠い。
606
同じ年頃だった頃のカタリナ王女も神秘的であるか華やかであるか
の違いはあれど、今のエアリスのように幼いながらも可憐で気高い
美しさを誇っていたのだから、あと五年もすれば誰もが認める美姫
になるであろう。
カタリナはそんな妹の様子を、そして、妹をそう評価する人間が
時間とともに増えていく会場を、表面は平静に、その実内心怒りで
猛り狂いながら、無関心を装って観察し続けていた。
︵全く、忌々しい︶
エアリスが身にまとっているのは、パーティドレスでは無く神官
としての正装である。普段見る事が無いその衣装は、彼女の清楚で
気品あるたたずまいを引きたて、より一層神秘的な印象を強くする
役目を果たしている。カタリナがどれほど渇望しても身にまとう事
がかなわぬその衣装を、当たり前のように着こなしている事がまた
腹立たしい。せめて、服に着られている感じが少しでもあればまだ
留飲も下がろうが、板についていると言う評価はできても、間違っ
ても服に負けているなどとは言えない。プライドがあるからこそ、
言えない。
﹁どうやら、終わったようですな﹂
再び深々と頭を下げたエアリスを見ながら、バルドが温度を感じ
させぬ声でつぶやく。
﹁あの連中が出てくるようね﹂
﹁お手並み拝見、と言ったところでしょうか﹂
607
その言葉が終わらぬうちに、王の言葉に従い五人の男女が入って
来る。三人目に入ってきた、少女を卒業しかかったぐらいの年頃の
女性の姿に、再び会場内が飲まれる。今度はカタリナも、そしてバ
ルドも例外ではいられなかった。
三人目に入ってきた春菜は、マーメイドスタイルの露出が少ない、
シンプルな青いドレスを身にまとっていた。長い黄金色の髪をあえ
てそのまま背中に流し、これまた実にシンプルなイヤリングとネッ
クレスだけで身を飾ったその姿は、飾り気が少ないからこそ、素材
の突出した美しさが引き立っていた。
普通、彼女の体型なら、同じマーメイドスタイルのドレスでも胸
元や背中がある程度大きく開くデザインにするものだが、彼女のド
レスはせいぜい首筋から上と肩が露出している程度で、肌が見える
場所は圧倒的に少ない。だが、それゆえに秀でた美しいボディライ
ンがよりいっそう強調され、なまじ露出しているよりも強烈なエロ
スを感じさせる。
そのくせ、ドレスの青と言う色と当人が身にまとう物静かで理性
的な雰囲気が、それだけ強烈なエロスを感じさせながらも性的な目
で見る事を憚らせ、知性を感じさせる穏やかな青い瞳が、彼女がそ
ういった誘いに容易く乗るような人間でない事を雄弁に物語る。全
てを一言で言うなら、高嶺の花。その秀でた姿で人々を惑わしなが
らも、決して誰の手にも触れさせない気高き孤高の一輪。彼女の姿
を見た、普段を知っている人々の感想は
﹁化けたな﹂
で一致していた。
608
彼女の前後に出てきたそれぞれに魅力的な二人の女も、いや、そ
れどころか会場中にいる全ての女が、その存在感の前にかすむ。唯
一並び立つことが許されたのは、同じくその神秘性で圧倒的な存在
感を見せつけたエアリスだけであった。女だけではない。美男美女
があふれるこの会場で、そこに埋没しないだけの容姿を誇る達也が、
ものの見事に空気となっている。宏のようなただダサいだけの田舎
者は、視界にすら入っていないだろう。
﹁何よ、あれ⋮⋮﹂
今や数少ないよりどころとなった美貌、それすらも妹とどこの馬
の骨とも知れぬ女、その二人に蹂躙され、震える声でつぶやくカタ
リナ。誰も彼も春菜とエアリスばかりを見ていて、代表でごく短い
挨拶をしていた達也の事など見てもいない。正直、この状況で春菜
以外がどんな粗相をしたところで、誰一人気が付きはしないだろう。
何しろ、春菜が少し身じろぎをするだけで、周囲から息をのむ声が
聞こえるのだ。軽く目が合うだけで動きが止まり、その穏やかなが
らすべてを見透かすような瞳で見つめられれば、腹に一物ある者は
みな慌てて眼をそらし、だがすぐに彼女に視線を奪われる。
会場は、ある意味において春菜の思う通りにコントロールされて
いた。
﹁さて、本日はエレーナの体調の事もあるので、ダンスは無しと言
う事になる。その代わりと言ってはなんだが、ハルナ殿が一曲披露
してくれると言っていた。聞くところによると、彼女は相当な名手
だそうだ。頼んでいいか?﹂
乾杯を終え、あとは自由に歓談を、と言うところで、国王がそん
な事を言い放つ。その言葉に対し優雅に一礼し、返事を返す春菜。
609
﹁拙い歌でよろしければ、喜んで。どのような曲をお望みですか?﹂
﹁そうだな。貴方の故郷で歌われている、喜びの歌を﹂
﹁かしこまりました﹂
王の言葉に一礼し、上品ながら堂々とした態度で前に出る。
﹁正確には私の故郷とは違う国の歌ですが、年の終わりにたくさん
の人で歌うなど、ある意味において故郷に根付いた歌を歌わせてい
ただきます﹂
そう言って、一つ大きく息を吸い込むと、春菜は朗々と歌い始め
た。
とあるクラシックの名曲。日本でも年の瀬に全国各地でこの時だ
けの声楽隊が結成され、無事に年の瀬を迎えた事を祝って歌う光景
が当たり前になった、そんな一曲。本来なら複数で歌ってはじめて
様になる曲を、彼女はアカペラで力強く歌った。
﹁⋮⋮っ!﹂
その声が耳に入った瞬間、カタリナとバルドは同時に、言いよう
のない不快感を覚える。余程感受性が摩耗している人間でも、素晴
らしいと言う事だけは理解出来るであろう歌。この場にいるほとん
どの人間が、先ほどとは違う意味で息をのみ、その素晴らしさに酔
いしれる歌。本来ならタイトルの通り、全身を歓喜が包むであろう
その歌が、カタリナとバルドを苦しめる。
610
春菜が喜びの歌を歌い終えたとき、二人は表面を取り繕う事すら
難しいほど消耗していた。いや、二人だけではない。バルドが長年
をかけて取り込んだ貴族や官僚、使用人などが、軒並み脂汗をかい
て荒い息を吐いている。壁際に待機していた使用人の中には、意識
を失い倒れているものすらいる。共通点はバルドによって洗脳され、
大量の瘴気を身に蓄えていることだろう。そこから出される結論な
ど、一つしかない。
﹁女神の、力、だと⋮⋮?﹂
周囲に合わせて力の無い拍手だけをどうにか返し、愕然とした声
でつぶやくしかないバルド。そのつぶやきは、万雷の拍手にかき消
されて、カタリナにすら届かない。
﹁あの女、味な真似を⋮⋮﹂
取り繕っていた態度をかなぐり捨て、思わず春菜を睨みつける。
その視線を感じてか、バルドに対して柔らかな笑みを浮かべる春菜。
何も考えずに殴りつけたくなる衝動を必死に耐え、仕込んだはずの
毒が効果を見せるかどうかに注目する。流石にすぐに影響が出る種
類の毒物ではないが、あれだけのエネルギーを使って歌を歌った以
上、多少は影響が出るはずである。
﹁⋮⋮やはり、対策ぐらいはしているか﹂
カタリナを除く王族と普通に歓談しながら、勧められたものを特
に警戒する事無く口にする様子を見て、この場での敗北を認めるバ
ルド。予想以上に深いダメージを受けた今、流石に彼らがぼろを出
すように誘導するのは難しい。ちょっかいを出そうにも、地味に王
族のガードが堅く、下手な真似をすれば藪をつついて蛇を出すこと
611
になる。
﹁ハルナ様、おねだりをしてよろしいですか?﹂
﹁何でしょうか?﹂
﹁少しでも皆様に楽しんでいただくためにもう一曲、今度は明るく
楽しい、童謡のような歌をお願いしてよろしいですか?﹂
﹁喜んで﹂
先ほどとは違い、年相応の子供のような態度で可愛らしいおねだ
りをするエアリスの頼みを、笑顔とともに二つ返事で了承する春菜。
その言葉が聞こえたバルドの背筋を、冷たいものが走る。
﹁カタリナ様、引きあげましょう﹂
﹁⋮⋮どうして?﹂
﹁もう一曲、だそうです﹂
バルドの言葉に青ざめる。見ると、先ほどの歌でダメージを受け
た人間は、歌が終わってすぐに引き上げている。
﹁腹立たしいけど、どうにもならないようね⋮⋮﹂
﹁残念ながら、普通の人間にとって素晴らしい歌である事自体は、
我々ですら否定できません﹂
凄まじい敗北感を抱きながら、急に体調を崩したと言ってさっさ
612
と引き上げる。丁度会場から脱出したところで歌が始まり、追加ダ
メージに崩れ落ちそうになりながらもどうにか安全圏まで逃げ切る。
﹁あの女、どんな手を使ってでも排除しなければいけないようね⋮
⋮﹂
﹁そのようですね⋮⋮﹂
もはや目的がどうとか、そんな事に構っていられない。あの春菜
と言う女を排除しなければ、自分達の命が危ない。皮肉にも敗北の
ダメージによって、彼らの結束は固くなるのであった。
613
第16話
﹁それまで!﹂
つばぜり合いを続けていた宏と騎士のひとりが、ドーガのその一
声で力を抜いて距離を取る。時間が出来たと言う事で、宏は現在、
戦闘周りの課題解決のために騎士団の訓練に強制的に参加させられ
ていた。
﹁二十人連続で引き分けか﹂
﹁やっぱ、まともに鍛えとる人にゃ、どう頑張っても通用せえへん
なあ﹂
ユリウスに告げられた結果に、苦笑しか出ない宏。実際、騎士団
の中でも精鋭が集まっているこの部隊では、宏の攻撃能力では全く
通用しなかった。とは言え、騎士たちの方も、今回の結果は心穏や
かに居られるものではない。
﹁ヒロシ殿、あなたは本当に職人なのですか?﹂
﹁正直、まるでドーガ卿を相手にしているような、いや、それ以上
の硬さを感じました﹂
﹁いや、ちゅうても壁役以外は素人に毛が生えた程度やで?﹂
﹁それ自体がそもそもおかしいのです!﹂
614
近衛騎士の一人が発した言葉に、意味が理解できずに首を傾げる
宏。役割分担を考えると、壁役がアタッカーとしては素人同然でも、
それ自体は不思議でもなんでもないのではないか?
﹁普通は、攻撃の対処方法を覚える過程で、自身の攻撃周りの技も
それなりに充実するものじゃがのう?﹂
﹁スマッシュ一本であれだけ立ち回れる人間は、そうはいないぞ﹂
﹁おっちゃんとかユーさんかて、やろう思えばそれぐらい平気でで
きるやん﹂
﹁今回はお前に合わせただけだ。それに、お前の防御力相手にこん
な訓練用の剣で挑んでいては、どんな大火力の技でも意味は無い﹂
ユリウスにあっさり切り捨てられて、納得がいかないと言う表情
を浮かべる宏。
﹁いろいろ思うところはあるじゃろうが、おぬしはまず、自分の事
をもうちっと正確に理解した方がいいぞ﹂
﹁正確に、っちゅうてもなあ⋮⋮﹂
﹁難しく考える必要はない。要は、防御に関してだけは、ドーガ卿
に匹敵する、と言うより部分的に上回っている、と考えればいい﹂
昔真琴とも似たようなやり取りをしたなあ、などと思いつつも、
宏に自分の実力を自覚させる事に全力を注ぐユリウスとドーガ。と
は言え、ファーレーン最強のユリウスと互角以上の実力とまでは思
っていなかっただけで、真琴はもう少し自覚があった。正直なとこ
615
ろ、なにをどうすれば実際の実力と自身の自己認識がここまで食い
違うのか、戦闘畑を歩いてきた彼らには理解できない。
が、理解できないなどと言っていてもはじまらない。まずは、練
習用の模造剣とはいえ、ただの服しか着ていない人間が、鍛えあげ
た騎士が放つ鉄の塊による本気の一撃をまともに食らって、あいた
っ! の一言で済ませられる事がそもそもおかしい、と言う事を理
解させなければならない。同じ条件だと、ドーガですら打撲ぐらい
にはなるし、普通はヘタをしなくても骨折ぐらいはする。因みに何
故普通の服しか着ていないのかと言うと、訓練用の防具を着せたら
あからさまに動きが悪くなったからだ。どうせ以前のような状況に
なると防具なしで戦うのだからとユリウスが言いだし、手加減のエ
ンチャントがかかっているから大きな怪我はしないだろうと言うド
ーガの言葉もあって、そのまま普通の服で模擬戦をやらかすことに
なったのである。
それに、それなり以上の魔力を持つ相手が放った大魔法を、発動
もさせずにレジストして潰すような魔法抵抗の持ち主は、世界中ど
こを探してもいないはずだ。これは事実上、エルフやドワーフのよ
うな異種族も含めた、いわゆる人類が放つ魔法ではダメージを与え
る事はほぼ不可能だ、ということを意味する。この二つの条件を考
えれば、並の手段ではこの男を殺す事は出来ない、と考えた方がい
い。
もっとも、それ以上に中堅どころの冒険者と互角以下の攻撃能力
しかないというマイナスは無視できない要素だ。何しろ、防御面の
異常でごまかせなくなった瞬間、後ろにいるであろう春菜達に攻撃
が集中し、じり貧になるのが目に見えている。火力周りを短期間で
強化する方策が思い付かない以上、まずは張り子の虎である事を悟
らせない手段を教え込む必要がある。
616
﹁とりあえず、まずは武器をどうにかしろ。お前が使っている手斧
やスコップも悪いものではないが、いささか軽すぎる﹂
﹁ちゅうてもなあ。材料も作る時間も微妙なところやし、大体、何
持てばええん?﹂
宏の質問に、二人して考え込む。一部の大型武器を除く代表的な
武器の扱いを確認した感じ、重量武器以外で様になっているのは短
剣とスコップのみ、後は素人同然だった。その様になっている武器
とて、とりあえずバーサークベアぐらいまでは問題なく、ピアラノ
ーククラスまでは一応通用するが、スマッシュ以外の攻撃系の技を
持っていない事を考えると、とても十分とは言えないレベルだと結
論付けるしかない。
その中であえて良し悪しを評価するなら、斧と鈍器の扱いが若干
他のものより上手い、という印象がある。時間が足りない事も考え
るなら、そこからスタートでいいだろう。
﹁無難なところでは、両手斧かのう﹂
﹁それも柄が長くて重いもの⋮⋮。そうだな、ポールアックスなん
かが妥当だろう﹂
﹁もしくは斧では無く鈍器、ヘビーモールあたりを振り回すか、じ
ゃ。どちらにせよ、お主なら盾などなくても致命傷を食らう事はあ
るまいし、少しでも威力のあるものを使うことじゃ﹂
ドーガとユリウスが、二人揃っていかつい大きさと重量を持つ武
器を勧めてくる。どちらもゲームでは取り回しの悪さと攻撃速度の
617
遅さ、過剰な重量などのマイナス要素から、当ればすぐにけりがつ
くだけの破壊力がありながらいまいち不人気だったものである。余
程の筋力と慣れが無ければ、当るかどうかに関係なく振った後派手
に体勢が崩れ、いいように殴られてしまうのだから、不人気なのも
仕方が無い。
因みにモールと言うのは、長い棒の先が大きな鉄球になっている
ものをイメージしてもらえればいいだろう。先に棘をつければ、モ
ーニングスターと呼ばれる物の一種になる。最大の売りは振り回す
時に向きを考えなくてもいい事だと言う、武骨さと野蛮さではあり
とあらゆる武器で一、二を争う、実に原始的な得物である。
﹁簡単に言うてくれるけどなあ、どっちも厳ついぐらい取り回しが
悪いやん。空振ったあとが怖いんやけど﹂
﹁何、少し振り回せばそこらへんのコツはすぐ分かるじゃろう。そ
もそもわしなんぞ、あの大槍で派手に空振りするぐらいじゃぞ?﹂
﹁いや、本職のおっちゃんにそれ言われても⋮⋮﹂
﹁まあ、一度振ってみる事じゃ。駄目そうならそれはそれで、適当
によさげな武器を考えればよかろう﹂
そうドーガに言い含められ、とりあえずしぶしぶながら武器の中
でも屈指の重量を誇るその二つを試してみる事にする。なお、長柄
の武器で攻撃力を補強するのならハルバードでもいいのでは? と
言う意見もありそうだが、ああいう多機能な武器の扱いは、習熟す
るのに時間がかかる。それに、複雑な形状ゆえに穂先がなかなかの
重さであり、取り回しが悪いという点ではポールアックスやヘビー
モールといい勝負である。これを使わせるなら、柄の短いグレート
618
アックスあたりを使った方が、宏の持つスキルを活かせる分いくら
かましだろう。
﹁さて、さすがにそこらへんの武器は在庫が少なくての。今取りに
行かせておるから、他に気になる点を潰しておくかの﹂
﹁気になる点?﹂
﹁うむ。一番気になるのは、二十戦もやっておきながら、結局模擬
戦に慣れた様子が無かった事じゃが、まあそれは置いておこう。先
ほどから見ていて気になっておったんじゃが、攻撃に対して自分か
ら当りに行く事があるのはどうしてじゃ?﹂
ドーガの、自分から当りに行く、という表現は正確ではない。正
確に言うならば、明らかにビビっているくせに、相手の攻撃モーシ
ョンを見るとどういう訳か自分から前に出ていく、と言うのが正し
い。
﹁あ∼、それか﹂
﹁うむ、それじゃ。勇敢に前に出る事は必ずしも悪い事ではないが、
いろいろな意味で危なっかしいにもほどがあるぞ﹂
﹁別に、勇気を振り絞って前に出てる訳やなくてなあ⋮⋮﹂
一見、攻撃に向かって自分から突っ込んで行くのは勇気が必要な
事に見える。だが、宏はそれを全否定する。その考え方に興味を持
ったのか、ドーガでは無くユリウスが先を促す。
﹁勇気を振り絞っているのでないというのは、どういうことだ?﹂
619
﹁単純な話でな。どうせ逃げても痛い目見るんは変わらへんから、
自分から殴られに行った方がダメージ少ななる、っちゅう経験則で
突っ込んで行ってるだけやねん。なんちゅうか、英雄相手にビビっ
て突っ込んで行く雑魚みたいなもん? 言うたら、破れかぶれにな
ってんのと変わらへん﹂
宏の言葉に、なんとなく納得する二人。確かに、力量が圧倒的に
上だと分かる相手と相対した時、恐怖に負けて無策で突っ込んで行
く人間は珍しくない。ただ、総合的に見て同格以下にすらそれをや
ると言うのは、流石に憶病が過ぎるのではないかと思わなくもない。
とは言え、竦んで動けなくなるよりはマシだとも言えるため、そこ
は突っ込まない事にする。
実のところ、春菜がバーサークベアに襲われていた時、彼女をか
ばって前に出たのは、別段義侠心だの正義感だの勇気だのと言う理
由からではない。春菜を見捨てたところで、バーサークベアから逃
げられる自信が無かったという、それだけの理由である。何しろバ
ーサークベアの習性ときたら、一度目に入った人間サイズの生き物
は、全部殺しつくさなければ気が済まないのだ。足の遅い宏の場合、
春菜の死体と言う餌があったところで、自分が殴られるのは早いか
遅いかの違いでしかない。逃げた場合はどう転んでもただでは済ま
ない以上、痛い事は早く終わった方がありがたい、という理由で自
分から殴られに行っただけで、同級生を助けて恩を売ろう、とか、
見捨てるのは気分が悪い、とか、そんな真っ当な思考は一切なかっ
た。
ピアラノークから後ろも、基本的には自分が殴られずに済む選択
肢が無いから、という理由で積極的に前に出ていただけで、ジャイ
アントスパイダーのように不意打ちによる一撃で仕留められる時を
620
除けば、基本的に逃げられる、もしくは誰かに押し付けて問題ない
ケースでは、どれほど弱い相手であっても普通に戦わずに逃げてい
る。
そんな男だから、当然戦闘技能を磨く事に積極的な訳が無い。流
石に今のままではまずいとはぼんやりと思っているが、戦うための
技を覚える事にどうしても抵抗があるのだ。まだゲームなら気楽に
覚えようかという気にもなるが、これは現実である。このままやり
たくない事をずるずるとやらされる羽目になりそうで、どうにも気
合が入らない。
﹁まあ、とりあえず攻撃周りは置いておくかの。武器が決まらねば、
教えられることもほとんど無い﹂
﹁そうですね。となると、前衛としての防御関係、ですか﹂
﹁うむ。フォートレスは後回しにするとして、まずはアウトフェー
スとアラウンドガードか?﹂
﹁そんなところでしょう﹂
とりあえず、範囲攻撃の潰し方と相手の注意の引き方を仕込む事
にする二人。宏の場合、肉体のみでの防御力が金属鎧装備の騎士を
上回っている節がある上、ワイバーンレザーアーマーと言う、ソフ
トレザーアーマーのくせに下手なフルプレートより防御力が優秀な
鎧を持っている。更に防御力を上げる技など、今すぐにがつがつ鍛
える必要はあるまい。
﹁とりあえず、まずはアウトフェースからじゃ。一度やってみせる
から、よく見ておけ﹂
621
そう言って、一発気合を入れるドーガ。次の瞬間、辺りに物理的
な圧力すら感じさせるほどの威圧感がまき散らされ、発生源である
ドーガの姿を、まるで小山のような大きさに錯覚させる。逃げられ
ない。あれをどうにかしなければ、自分達が死ぬ。そんな恐怖に駆
られ一歩前に出て、本能に押されてドーガに襲いかかろうとし、す
んでのところで踏みとどまる。
威圧感はまだまだ続いているが、あんなものはこけおどしだ。本
当の恐怖は、こんなものではない。宏の中の何かがそうささやき続
け、もっと怖かったあれこれが脳裏を駆け抜ける。どれも物理的な
恐怖と言う観点では今より劣るが、精神的な恐怖は比較にもならな
い。ある一件など、命の危機と言う意味でも今より圧倒的に上だ。
そんな過去の記憶のおかげで、最初に恐怖を感じてからミリ秒以下
の時間で自分の心を立て直すことに成功する宏。
﹁ふむ、不発か。なかなかの根性じゃの﹂
﹁いや、ごっつ怖かったで? ごっつ怖かってんけど、よう考えた
ら、チョコレートに比べたら何ぼのもんでもない、言うんが分かっ
てなあ﹂
﹁チョコレート? なんじゃそれは?﹂
﹁食べもんやけど、まあ気にせんといて﹂
本格的に女性恐怖症になった事件と、その直接の原因となった菓
子を頭に思い浮かべ、冗談ではすまないほど青ざめながら身ぶるい
をする宏。その様子から、一服盛られでもしたのか、と、当らずと
も遠からずな事を考えるドーガとユリウス。
622
﹁まあとりあえず、アウトフェースがどんな技か、理解出来たか?﹂
﹁そこはまあ、問題なく﹂
﹁ならばコツを教えてやるから、まずはそれらしい技が発動できる
ように練習しろ﹂
﹁了解や﹂
この後何度も気合の声を発しながら威圧の仕方を練習し、とりあ
えず最低限それらしい技を発動できるようにはなった宏。精神力の
影響を受けるアウトフェースの仕様ゆえ、初めてそれらしい技が発
動した時は洒落にならない威圧感を放出する羽目になり、ドーガと
ユリウスですら一瞬身構えて本気の殺気を放ってしまい、いろんな
意味で周囲を怯えさせたのはここだけの話である。
﹁流石世界一古い国の書庫。物凄い蔵書の数だな﹂
﹁これだけあると、どこから手をつけたらいいのかが⋮⋮﹂
ウルス城の書庫は、まさしく本の海であった。この日、書庫の調
査を割り当てられた達也と春菜は、その膨大な蔵書量に、思わず途
方に暮れたように言葉を漏らす。因みに、真琴と澪はエアリスの護
623
衛兼教師として、懐剣での身の守り方を指導中である。
﹁このぐらいで驚いていては、いけませんぞ。ルーフェウスの大図
書館は、それこそこの城と互角の規模の建物に、所狭しと書物が詰
め込まれているのですからな﹂
心底途方にくれたような達也と春菜の台詞に、宮廷魔導師の長で
あり司書長でもあるモルト卿が、笑いながらそう教えてくれる。そ
の言葉に、うへえと言う表情を隠す事が出来ない二人。
﹁それで、冗談抜きでどこから手をつけようか?﹂
﹁そうだな。春菜はこっちに来てからの事で、気になる事は?﹂
﹁いろいろあるけど、やっぱり知られざる大陸からの客人がらみか
なあ。あと、明らかにそこら辺に噛んでる感じだったから、アルフ
ェミナ様、と言うより、こっちの神様がらみの資料も﹂
﹁なら、俺は歴史をあたってみるか。そっちにヒントがあるかもし
れないしな﹂
とりあえず、まずは当たり障りのないところから調査を開始する
事にする二人。幸か不幸か、二人とも本を読むこと自体は苦になら
ない。ただ、こちらの書物が自分達にとって分かりやすいものなの
かどうかは何とも言えないところだし、流石に本といえども論文の
ような硬い文章を長々と書いてある類のものは苦手である。
﹁それでは申し訳ないのですが、私は職場に戻らせていただきます。
何かございましたら司書の方にお願いします。禁書庫に入りたいの
であれば、誰か人を私の方によこしていただければ、すぐに対処い
624
たしますので﹂
﹁はい。ありがとうございます﹂
好々爺然とした態度で仕事に戻る事を告げたモルト卿に、春菜が
礼を言って一つ頭を下げる。その様子に目を細めながら、達也と話
をしていた司書に何やら告げ、挨拶をしてから出ていく。それを見
送った後、達也と同じく司書に書棚の位置を確認し、何冊かの本を
手に取る春菜。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮まだ一冊目だから判断するのは早すぎるけど、思ったより情
報が少ない気がするよ﹂
﹁⋮⋮奇遇だな。こっちも案外大雑把な感じだ﹂
外れ、とまでは言わないまでも、正直当てになる情報ではなさそ
うな感じだ。何しろ、ほとんどおとぎ話のような内容である。実在
したはずの人間や史実のはずの出来事を書いているはずなのに、は
っきり言って到底そうは思えない文章が続いている。
﹁今回調べたい事とは直接関係ないんだが⋮⋮﹂
﹁どうしたの?﹂
﹁建国王の伝承、事実か神話として捏造したものか判断に困るんだ
よなあ⋮⋮﹂
625
達也の言葉に興味をひかれ、本を借りてざっと斜め読みをする春
菜。その内容は
﹁一太刀で千を越えるワイバーンの群れを殲滅した?﹂
﹁他にも一騎で十万を超える軍勢を止めたとか、邪神の眷族の魔法
を食らって無傷だったとか、いろいろすごい事が書いてあるぞ﹂
﹁確かにこれは、判断に困るよね﹂
﹁だろう?﹂
春菜の感想に、苦笑しながら達也が相槌を打つ。正直、元の世界
だったら荒唐無稽の一言で片がつくのだが、こちらはフェアクロも
どきの世界である。邪神の眷族の魔法はともかく、ワイバーン千匹
を一手で始末すること自体は不可能とは言い切れない。運営イベン
トでの話だが、ワイバーン及びその同格のモンスターの群れ約五百
ほどを、実際に剣技のエクストラスキル一回でほぼ殲滅してのけた
プレイヤーがいたのだ。その時の様子から、一太刀と言うのは誇張
でも、ワイバーン千匹を一人で瞬く間に殲滅したこと自体は事実で
ある可能性が結構高い。
十万を超える軍勢を止める、に至っては、宏に広域挑発を極めさ
せて、地形を選んで突撃させればまず間違いなく成功させるであろ
う。本当にゲームの通りの肉体を持っているのであれば、人間の火
力で宏を殺しきるのはほぼ不可能だと言いきれるのだ。
﹁とりあえず、建国王の事は横に置いておこうよ。神話でも事実で
もどっちでもいいし﹂
626
﹁まあ、そうなんだがな﹂
﹁もうちょっといろいろ読まないと、正直まだ何とも言えない感じ。
ただ、一冊目の段階で一つ、微妙に当てが外れたっぽい事があるん
だけど、聞く?﹂
﹁当てが外れた? どういうことだ?﹂
微妙に困った感じの表情をする春菜に、何とも言えず嫌な予感が
する達也。
﹁えっとね、どうも知られざる大陸からの客人って、全員が全員日
本人でもゲームのプレイヤーでも無いっぽいんだ﹂
﹁はあ?﹂
予想外の言葉に、思わず驚愕の声を上げてしまう達也。どうにか
小声の範囲にはとどまっていたが、もう少し声が大きく、利用者が
多ければ危ないところであった。
﹁記録に残ってる一番古い知られざる大陸からの客人って、どうも
黒人系の人だったらしいんだ﹂
﹁だが、それだけだったら、日本に来てる黒人系の人がゲームをや
ってて巻き込まれた、と言う可能性もあるぞ?﹂
﹁それがね、当時のウルスを見て、文明の発展度合いに驚いてたそ
うなの﹂
627
﹁⋮⋮﹂
その言葉に、物凄く嫌な予感がして黙り込んでしまう達也。春菜
が言った言葉が本当に事実だったのであれば、最低ラインが先進国
と一切関わりあいを持っていない部族と言う事になる。下手をすれ
ば、地球の時間で数百年単位の昔にこちらに迷い込んできた人間で
ある可能性すらある。
﹁考えてみれば、そもそも神隠しなんて古今東西、世界中で枚挙に
暇が無いほどの事例があるんだから、必ずしもゲームのせいでこっ
ちに飛ばされてくるとは限らないんだよね﹂
﹁春菜は、そう言うのを信じる口か?﹂
﹁昔は半信半疑。今は自分がそう言う立場だから、絶対あり得ない
とは思ってない﹂
真面目な顔で言い切る春菜に、言われてみればと納得する達也。
神隠しの大半は誘拐か死体が出ていない遭難の類だろうとは思うが、
自分達の立場を考えるに、いくつかは実際に別の世界に迷い込んだ
事例が混ざっていてもおかしくは無い。
﹁まあ、結論を出すにはちょっと早いから、もう少し本を読んでみ
る﹂
﹁こっちもそうするか。歴史書からだと元の世界に帰るヒントは難
しそうだが、この国に起こってる事については何か分かるかもしれ
ん﹂
﹁そうだね。そっちも、と言うよりそっちを先に何とかしないと、
628
下手に他所の国に行くのもまずい事になりそうだし﹂
自分達のややこしい立場を考えると、元の世界に帰る方法が見つ
かったからと言って、はいそうですかとすんなり帰らせてもらえる
かどうかは怪しい。少なくとも、カタリナとその腰ぎんちゃくをや
っている謎の男をどうにかしない限りは、最低限の身の安全すらお
ぼつかないのだ。
﹁で、それについては何かヒントはあるの?﹂
﹁神殿に出てきた男、地脈を瘴気で汚す事を浄化って言ってたんだ
ろう?﹂
﹁うん﹂
﹁つまり、アルフェミナ神殿の考え方とは逆なわけだから、対立す
る宗教が候補だな。手法が確立してるところを見るにそれなりに歴
史はあるだろうから、形は違えど似たような事件を起こしてるはず
だ。それに、ドーガのおっさんが言っていた、ケルベロスを召喚し
てた連中、ってのに心当たりが無いでもない。ま、こっちはゲーム
の時の話で、この辺の資料を読んでて思い出したんだがな﹂
﹁確かに歴史を調べればそういう話は出てきそうだけど、それって
詳細は禁書庫の分野じゃないかな?﹂
春菜の突っ込みに一つうなずく。もっとも、いきなり禁書庫に行
くのは逆に効率が悪い。少なくともいつの時代にどんな事件が起こ
ったのか、それはどういう集団によって起こされたのか、という二
点は調べておかないと話が進まない。
629
﹁禁書庫に行く前に絞込みをしとかないとな。おおっぴらに出来な
い種類の歴史書を片っ端から読むとか、いくらなんでもリスクが大
きすぎる﹂
﹁なるほど、了解。私のほうはまず、今までの知られざる大陸から
の客人関連を整理しとく﹂
﹁そっちは任せた﹂
雑談で方針を決め、メモ用紙を片手にこれはと思った本を片っ端
から開いていく。時にはお互いの本を交換してデータを確認しあい、
メモの内容を充実させていく。
﹁そろそろお昼ですが、どうなさいますか?﹂
﹁もうそんな時間?﹂
﹁そうだな、一旦切り上げて、飯を食いながら報告にするか﹂
司書に声をかけられ、一息入れることにする二人。さすがに初日
から根を詰めすぎだという意識がなくもない。
﹁じゃあ、一旦宏君と合流して⋮⋮﹂
そう言って腰を浮かせたところで、春菜の脳の片隅に妙な感覚が
引っかかる。
﹁⋮⋮ん?﹂
﹁どうした、春菜?﹂
630
﹁どう言えばいいのかな? こう、何かが自己主張してるみたいな
感じが⋮⋮﹂
﹁自己主張? どういうことだ?﹂
﹁分かんない。ちょっと、集中してみる﹂
そう達也に告げ、脳の片隅に引っかかる妙な感覚に意識を集中す
る。明らかに外部からの干渉。ただし敵意がある類のものではない。
危険があるかないかは現段階では不明。ラインは⋮⋮
﹁禁書庫のほうから、かな?﹂
﹁禁書庫? あそこは魔法的な封印もされてるんだよな?﹂
﹁はい。私では一時開放も出来ない強さで封印されていますね﹂
司書の言葉に難しい顔をする達也。微妙に不安げな表情を浮かべ
る春菜。この状況、間違いなく不自然だ。経験則から言うなら、ま
ず間違いなく碌な事にならない。
﹁とりあえず、今は考えるのをやめてご飯に⋮⋮﹂
問題を先送りにしようとそう提案しかけた春菜を、違和感が自己
主張を激しくして阻止する。
﹁ああ、もううるさいなあ!﹂
﹁本当に何か感じてるのか?﹂
631
﹁この状況でそんな嘘をつくのって、ただの痛い子だよ⋮⋮﹂
﹁そりゃそうか。まあ、その様子じゃ禁書庫に入らないことには話
にならないな﹂
面倒なことになった、と言う表情を隠そうともせずに言う達也に、
力なくうなずく春菜。その様子を見た司書が、大急ぎでモルト卿を
呼び出してくれる。その的確な対応に感謝しながら、あまりに激し
い自己主張に頭を抱える春菜であった。
﹁なにやら大変なことになっていると聞きましたが⋮⋮﹂
本気で急いで来てくれたらしく、モルト卿が書庫に現れたのは、
司書が通信で呼び出してから五分も経っていなかった。
﹁春菜が、何ぞ禁書庫のほうで自己主張してる何かがある、と言い
出してな﹂
﹁それは本当ですか!?﹂
﹁さっきからこっち来いこっち来いって、うるさくて⋮⋮﹂
春菜の憔悴した表情を見て、嘘は言っていないと判断するモルト
632
卿。そもそもモルト卿が同行すればいつでも禁書庫に入れるのだか
ら、こういう嘘をつく意味もメリットもない。
﹁しかし、封印を貫通して呼びかけるとは、相当ですな⋮⋮﹂
﹁私に言わないで⋮⋮﹂
モルト卿が来たからか呼びかけがますますうるさくなってグロッ
キー気味の春菜が、乾いた笑みを浮かべて青白い顔でぼやく。
﹁とりあえず、このままだと春菜が持たない。さっさと中を調べよ
う﹂
﹁そうですな﹂
モルト卿が大急ぎで禁書庫の封印を限定的に解除すると、春菜に
対する自己主張が、ついに一本のラインへと変わる。
﹁どっちだ?﹂
﹁⋮⋮こっち﹂
青い顔のまま、微妙におぼつかない足取りでラインをたどる。そ
の先の書棚には、封印されてなお膨大な魔力を放出する、なかなか
に威圧感のある一冊の魔道書が鎮座していた。ほかにもたくさんの
魔道書が納められていて、はっきり言って背表紙だけならどれが何
の魔道書なのか分からないと言うのに、春菜が探しているのがどの
本か、魔力を確認すればはっきり分かる。
﹁⋮⋮あなたを手に取ればいいの?﹂
633
春菜の呼びかけに応えるように、何も書かれていない背表紙にか
すかな光がともる。その返事を受け、光った魔道書を手に取った途
端、春菜の目つきがジト目になる。
﹁歌えって、どういうこと?﹂
春菜の言葉に対し、これまた何も書かれていない表紙を明滅させ
ることで返事をする。思わず面倒くさそうにため息を付きながら、
言うとおりにしなければ話が進まないと判断して魔道書を開いて、
頭の中に浮かぶ歌詞を思いつく旋律にのせて歌い上げる。その歌に
反応して、魔道書から光があふれ出す。
﹁⋮⋮知られざる大陸からの客人と言うのは、本当に規格外な方ば
かりなのですね⋮⋮﹂
﹁ファーレーンの一般とか平均って奴からはずれてる事は認めます
が、流石に俺をあれやヒロと一緒にするのは勘弁してくれませんか
ね﹂
慄くようにつぶやいたモルト卿に、思わず突っ込みを入れる達也。
いくらなんでも、エクストラスキル持ちの春菜や極端な生産特化の
宏、レベル六百オーバーの真正戦闘廃人な真琴なんかと一緒にされ
るのは不本意だ。達也自身は多少妙な魔法を使える程度で、上級プ
レイヤーの下限と言う範囲をはみ出るものではない。
﹁それにしても、ありゃなんなんですか?﹂
﹁分かりません。禁書庫の魔道書は全て人を選ぶか人を取り込もう
として危険なため、私も内容は知らないのですよ﹂
634
﹁目録とかは無いんですか?﹂
﹁あるにはあるのですが、もう千年以上前のものなので、具体的に
どの書が目録のどれであるのかがはっきりしないのですよ﹂
モルト卿の意味不明な返事を聞き、試しとばかりに近くの比較的
魔力の質や量が大人しい魔道書らしきものを手に取ってみる。やは
り表紙や背表紙には何も書かれておらず、そこを見ても何の本かは
分からない。ページをめくってみるが、どう見ても白紙。だが、魔
力ははっきり感じる事が出来る。
﹁なるほど。こりゃ目録があってもはっきりしない訳だ﹂
﹁そう言う事です。魔道書の中でもとりわけ危険なものは隔離され
ていますので、このあたりのものは手にとっても問題はありません
が⋮⋮﹂
﹁何も書かれて無いように見えるか、そもそもページを開く事が出
来ないかのどっちか、ってわけですか﹂
﹁その通りです﹂
ある意味セキュリティとしては完璧だな、などと余計な事を頭の
片隅で考える達也。セキュリティとしては完璧だが、そもそもこん
なところに隔離されているのだから、たとえ危険度が低いものだと
しても、実際には碌なものではないだろう。少なくとも春菜の様子
を見た限りでは、無害な本だとは到底思えない。
﹁⋮⋮そろそろ終わりか?﹂
635
﹁の、ようですな﹂
三度目の歌の山場が終わると同時に、視界の中で徐々に光が収ま
っていく。そのまま、最後と思われるフレーズの余韻が消えたとこ
ろで光がすべて消え、春菜の前に浮かんでいた魔道書が何もしない
のに閉じられ、元居た書棚に戻っていく。
﹁で、結局何だったんだ?﹂
﹁⋮⋮ごめん⋮⋮、⋮⋮まだ⋮⋮、⋮⋮整理中⋮⋮﹂
地面に座り込み、青い顔のまま微妙に乱れた息を整えている春菜
が、何とも困ったような表情を浮かべる。
﹁そうか。立てそうか?﹂
﹁⋮⋮もう⋮⋮、⋮⋮少し⋮⋮、⋮⋮待って⋮⋮。⋮⋮なんか⋮⋮、
⋮⋮スタミナ⋮⋮、⋮⋮根こそぎ⋮⋮、⋮⋮持ってかれた⋮⋮、感
じで⋮⋮﹂
実に気だるそうに答える春菜。その妙な色気に思わず目のやり場
に困るモルト卿を尻目に、冷静に鞄の中から五級スタミナポーショ
ンを取り出す達也。
﹁とりあえず、これ飲んどけ﹂
﹁⋮⋮ん⋮⋮﹂
達也から受け取ったスタミナポーションを飲み干し、小さく息を
636
漏らす。身体つきの割に普段はまるで色気が無い春菜だが、こうい
う時は余計な色気やエロスが駄々漏れなのが妙に困る。その本性を
知っている達也はともかく、モルト卿にとっては実に居心地が悪い
状況なのは間違いない。
﹁落ち着いたか?﹂
﹁何とか、ね。お騒がせしました﹂
﹁まあ、不可抗力みたいなもんだから、しょうがないさ﹂
そう言って、立ちあがるのに手を貸してやる達也。こういう気配
りは、女性恐怖症の宏には不可能だ。やろうと思っても、まず間違
いなく体の方が拒否する。
﹁で、もう一度聞くが、何だったんだ?﹂
﹁メインはアルフェミナ様がらみの特殊魔法、かな。他にもいろい
ろ覚えたんだけど、ほとんどが今使える奴とかぶってるし、かぶっ
てない魔法は正直、使い物になるとは思えない感じのものが大半だ
けどね﹂
﹁ほほう? 具体的には?﹂
﹁宏君達と合流してから話すよ﹂
﹁分かった﹂
春菜の返答にそう応じ、今度こそさっさと昼食に行くために事後
処理に入る。
637
﹁モルト卿、出来ればこの事は、陛下とレイオット殿下、後は大神
官様とエアリス様以外には秘密にしておいていただけますか?﹂
﹁分かりました。ですが、陛下が必要だと判断した場合、あえて秘
密を漏らすことになるかもしれませんが⋮⋮﹂
﹁陛下の判断ならば、文句を言うつもりはありません。ただ、事後
でもいいので、身の処し方を決めるためにも、漏らしたなら漏らし
たと教えていただければ助かります﹂
﹁伝えておきましょう﹂
そう言う形で事後処理を済ませて、ようやく昼食のために書庫を
離れる。これが、彼らが難儀な道を歩くことになると決定した瞬間
だったのだが、日本人一行がその事に気がつくのはずいぶん先の事
である。この時点では、妙な魔法を押し付けられた、程度にしか考
えていない春菜であった。
﹁まて、小僧﹂
昼食のために春菜達と合流しようと移動していた宏は、昨日謁見
の間に臨席していた重鎮の一人に呼び止められ、唐突にそんな事を
言われる。
638
﹁えっと、何でしょう?﹂
苦虫をまとめて噛み潰したような重鎮の顔にビビりつつ、とりあ
えずご機嫌をうかがうように返事をする宏。その様子に、目に獰猛
な光を浮かべながら、やたらとドスの効いた声で言いたい事を言い
放つ。
﹁さっさと調べものとやらを済ませて、今すぐにでも出ていけ﹂
﹁いやまあ、成果次第では言われんでもそうするつもりではありま
すが⋮⋮﹂
﹁貴様らがエレーナ様とエアリス様を救った事は認めよう。陛下の
裁定であるから、今日一日ぐらい、書庫で調べ物をするのは見逃そ
う。そもそも、エレーナ様とエアリス様を害しようとした愚か者と
違い、わしは現時点では貴様らに対して敵対的な行動をとるつもり
はない。が、貴様らがここに居座る事を認めるつもりもない﹂
﹁いやせやから、必要な情報が集まった、もしくはここでは手に入
らんと分かったらすぐにでも出ていきますがな⋮⋮﹂
人の話を全く聞く気配のない重鎮に、本気でビビりながら口答え
をする宏。
﹁わしがこれだけ譲歩していると言うのに、口答えするのか?﹂
﹁え∼⋮⋮﹂
全く会話が成立しない相手に、どうしたらいいのか本気で分から
639
なくなる宏。そんな宏の困惑に構わず、さらに言いたい事を言い放
つ重鎮。
﹁貴様が世界でも指折りの実力を持つ優れた薬師である事は事実だ
が、居るだけで宮廷が動揺し、国内が混乱するのであれば、むしろ
そんな存在は不要。この場にいること自体が迷惑千万なのだ。だか
ら、今すぐにでも出ていけ﹂
最後の出ていけを声だけで人を殺せそうなほどドスを効かせて言
い放ち、何事もなかったかのようにその場を立ち去る重鎮。ここま
で会話が成立しない相手なのに、全く陰湿な雰囲気を持っていない
ところが、いっそ見事である。神殿潜入時にエアリスの浄化を受け
ても特に何の影響もなかったところから考えると、多分彼は瘴気の
影響を受けてないだろう。
要するに、いわゆる行き過ぎた忠誠心を持つ頑固爺、という人物
なのだ。こういう人物が、ぽっと出のどこの馬の骨とも知れぬ宏達
を、受け入れる訳が無いのだ。当人が言い放った通り、現時点では
特に問題のある行動をしている訳でもなく、王家が後見人として保
護している相手に対して表立ってだろうが裏でだろうが敵対行動を
とる人種でもないが、それと長期滞在を認めないと主張する事は別
問題である。一刻も早く宮廷から追い出すために、敵対や反乱と取
られない範囲で堂々と文句を言う事ぐらいはするだろう。
﹁面倒くさいなあ⋮⋮﹂
本当に面倒くさい。相手が悪い人ではないからこそ、余計に面倒
くさい。この事も報告が必要だとため息をつきながら、視界の隅に
とらえた真琴と澪に声をかける宏であった。
640
﹁ほなまあ、昼までの成果を報告しよか﹂
中庭の片隅、あちらこちらから丁度いい具合に死角になっている
場所に陣取った宏達五人は、用意してもらった昼食を広げながら報
告会を始める。無論、盗聴周りの対策は展開済みである。
﹁まずは僕やけど、今のところ大した成果はあらへん。半日かけて、
アウトフェースらしき何かを発動できるようになった程度や﹂
﹁火力周りはどうしたのよ?﹂
﹁とりあえず、当面はポールアックス振り回して何とかする、っち
ゅう話でけりがついたわ。正味なところ、攻撃系の技は覚えんのに
苦労しそうやしな﹂
用意された食事のにおいを嗅ぎながら、宏が自分の報告を済ませ
る。昨夜の夜会で出された飲み物にきっちり毒が盛られていたため、
一番毒物に詳しい宏がこうやって鑑定しているのである。念のため
に客人用の食堂ではなく騎士団用の食堂で作ってもらったものでは
あるが、それだけで安全だと考えるのは少々おめでたすぎる。なの
で、食欲をそそる香りを前にしても、誰一人食事に手をつけようと
はしない。
﹁結局、攻撃周りは後回しか⋮⋮﹂
641
﹁まあ、ヒロが単独行動をするような状況でもない限り、当座は問
題にはならないだろうさ﹂
﹁そうそう。現段階では、私達で十分フォローできる範囲だしね﹂
結局のところ、大して問題が解決していない事がはっきりして、
思わず肩を落とす真琴。どちらかと言えば期待していなかった春菜
と達也は、アウトフェースが使えるだけでも十分だ、と言う感じで
鷹揚に構えている。
﹁それにしても、モノになるの早くない?﹂
﹁前に春菜さんが言うとった初期設定、あれが生きとるんちゃうか
な?﹂
初期設定という言葉に、思わず怪訝な顔をする真琴達三人。その
表情を見た春菜が、補足説明を始める。
﹁えっとね。ゲームの方の設定だと、知られざる大陸からの客人っ
て、こっちの一般人より成長が早いってことになってるの。だから、
スキルの習得が早いのも、実はおかしなことじゃないのかもしれな
いかなって﹂
﹁実際、おっちゃんらも流石知られざる大陸からの客人じゃ、みた
いな事言うとったしなあ﹂
﹁なるほどねえ。だったら、あたしが今から生産関係を覚えたら⋮
⋮﹂
642
﹁多分、ゲームの時ぐらいには楽に腕が上がると思うで﹂
宏の返事に、やっぱりそうは甘くないかと苦笑する真琴。やって
ない人間にとって、楽になってあれかと言いたくなるのが生産スキ
ル周りの修練だ。それでも、普通に考えれば一つの分野に一生涯打
ち込んで到達できるかどうかという領域に、たかが二十年やそこら
で、それも複数の技能で到達できるのだから、相当楽になっている
のは間違いない。
﹁まあ、そう言うわけやから、前提条件の絡まんアラウンドガード
ぐらいは、そんなに手間かけんと覚えられるとは思うで。実用範囲
に届くまで、どんだけ訓練せなあかんのかが不安っちゃあ不安やけ
ど﹂
﹁なるほどな﹂
﹁あと、予想どおりっちゃ予想通りやねんけど、うちらの事をよう
思ってへん人間が、瘴気とか関係なくそれなりの人数おる。まあ、
瘴気に侵されとるかどうかっちゅうんは、会うただけでは分からへ
んねんけど﹂
宏の言葉に、苦笑しながら頷く真琴と澪。彼女達も、エアリスと
別れた段階で何かを言われたらしい。今日この時点でそう言った連
中と接触していないのは、達也と春菜の組だけのようだ。
﹁さっきもな、謁見の時に居った重鎮の人に、とっとと用事済まし
て出ていけ、って言われたしな。あのおっさんはまあ、追い出し工
作はしても、こっちの調べものの邪魔はせえへんと思うけど﹂
﹁大丈夫なの、それ?﹂
643
﹁少なくとも、浄化食らって平気やった人やから、バルドとやらの
手先、っちゅうんはないわ﹂
宏の情報を聞き、納得する気配を見せる達也と真琴。実際、単に
追い出したいだけの人間だと、むしろ積極的に書庫での調査を手伝
わせて、とっとと目的を達成させたほうが確実でリスクが少ない。
﹁むしろ問題なんは、エレ姉さんの侍女やな﹂
﹁ボクもそう思う﹂
﹁あれはやばい。正直、部屋の端と端ぐらい離れとっても、単独で
エレ姉さんに会うんはいやや﹂
﹁ボクだって、あそこに単独では行きたくない﹂
朝食終了後、念のためと言う事で訓練に混ざる前にエレーナの診
察に行った宏と澪は、その時の事を思い出して身ぶるいしていた。
特に宏の方はこじらしちゃいけないあれこれを再びこじらせそうに
なって、エレーナと澪が必死になってフォローする羽目になってい
た。
もっとも、それがより一層侍女たちの神経を逆なでし、更に関係
をこじらせる事になったのだが。
﹁一応念のために、って事でこっちおる間は診察業務が入るけど、
とっととやる事終わらせてさっさとこっから出ていくんが一番やろ
うなあ⋮⋮﹂
644
﹁そうだな。で、真琴と澪の方は?﹂
﹁これと言って、報告するほどの事は無いわね。まあ、とっさに飛
び道具をはじく防御壁ぐらいは展開できるようになってきてるけど﹂
真琴の報告に、真顔で頷く澪。年が年だけに、エアリスもなかな
か筋がいい。運動不足による体力の無さが不安要素ではあるが、知
られざる大陸からの客人でもあるまいし、そこら辺は一朝一夕でど
うにかなる問題でもない。
﹁エル、真面目で一生懸命。すぐ上達するはず﹂
﹁そうね。人の言う事も良く聞くし、運動神経自体は悪くないしね﹂
﹁そらよかった﹂
﹁で、師匠。ご飯まだ?﹂
澪にせっつかれて、微妙に苦笑しながら一つ頷いて見せる。少な
くとも、すぐ分かるような毒は無い。別に嫌な感じもしなかったか
ら、仮に何か盛られていても、ソルマイセンをかじればすぐに解毒
できる範囲だろう。
﹁じゃあ、いただきます﹂
﹁やっとご飯⋮⋮﹂
手を合わせて食前の挨拶をした後、サンドイッチに手を伸ばしな
がらぼやく澪。エアリス並に食事に執念を燃やす澪にとって、目の
前に食事がありながらすぐに手をつけられない状況と言うのは、実
645
に堪えるらしい。もっとも、サンドイッチといっても硬い黒パンに
適当に具を挟んであるだけの、分類上は男飯と言う感じの代物だが。
﹁いつも思うんだが、このパンの固さだけはどうにかならんのかね
?﹂
﹁酵母使うてへんからなあ。とりあえず、城の厨房ぐらいは、生地
の発酵のさせ方教えてみる?﹂
﹁そう言えば、レイオット殿下にも頼まれてたっけ?﹂
宏の言葉に、思い出したようにつぶやく春菜。忘れていた訳では
ないが優先順位が限りなく低かったため、全く意識していなかった
のである。生地を発酵させた柔らかいパンを工房で味わって以来、
レイオットはこのパンの普及にこだわっている。彼の悲願のために
も、自分達の豊かな食生活のためにも、誰でもできる範囲の事はさ
っさと教えてしまった方がいいだろう。
﹁レイっち、言うたら、タコ焼きプレートの増産と普及もやってく
れ、言うとったなあ﹂
﹁師匠、プレートだけあっても駄目だと思う﹂
﹁せやねんなあ。青のりはともかく、ソースと鰹節は今のままやと
ハードル高いで﹂
食事をきっかけに、どんどん話が脇道にそれていく日本人達。食
い物の話と言うのは実に恐ろしい。なお、レイオットがせっついて
いるたこ焼きプレートに関しては、コンロやホットプレートの上に
載せて使う簡易版のようなものだ。どちらも魔道具自体は存在する
646
ので、板だけ作ればいけるはず、というのがレイオットの考えであ
る。
﹁まあ、その辺の話は置いときましょ。今は優先順位低いんだし﹂
﹁せやな。話戻して、春菜さんらの方はどない?﹂
﹁こっちはいろいろあったんだが⋮⋮﹂
﹁どこから話せばいいかな?﹂
話を振られた春菜と達也が、何とも言い難い表情で悩み始める。
﹁まあとりあえず、調べとった内容から頼むわ﹂
﹁了解。だったらまずは私から行くね﹂
宏の指示を受けて、現時点で分かっていることを話し始める。春
菜が調べ上げた知られざる大陸からの客人に関しては、次のような
内容である。
まず確定事項が、フェアリーテイル・クロニクルと言うゲームと
知られざる大陸からの客人の間には、確固とした因果関係はないら
しいという点。さすがにサイバーパンクな感じのエルフまで迷い込
んできている以上、全員がゲームのプレイヤーだと言い張るのは難
しいだろう。日本人にしても、戦国時代あたりの人物らしい男が第
二次大戦中に特攻隊の一人だった若者の後に来ていたりと、時間軸
が必ずしもこちらと一致していないらしい記述があちらこちらに見
られると言う、実に頭の痛い事実を確認してしまった。
647
逆に、プレイヤーだったのではないか、という様子がうかがえる
人物も何人か居た事も事実である。こちらに迷い込んだものたちの
末路は彼らに限らず、ある日突然消息を絶ったケースと、こちらで
死亡が確認されているケースが混在している。消息を絶ったケース
というのが単に行方不明になっただけなのか、それとも無事に日本
に帰れたのかははっきりしないが、帰ることが出来た可能性がある、
と言う点については大きな収穫と言えよう。
﹁⋮⋮今考えることや無いんやけど⋮⋮﹂
春菜の説明を聞き、恐る恐ると言う感じで宏が口を開く。
﹁何か気になることでも?﹂
﹁いや、向こうの体ってどないなってるんやろう、っちゅうんと、
向こうの時間軸は今どうなっとるんやろう、っちゅうんが気になっ
て﹂
﹁⋮⋮気にはなるけど、今気にしても仕方が無いよね、それ﹂
﹁せやねん。せやねんけど⋮⋮﹂
宏の言葉に、思わずみんなして沈黙してしまう。
﹁後、あたしも気になったんだけど﹂
﹁何?﹂
﹁プレイヤー連中が来てた割には、あんまりそういう痕跡が無いの
が不思議だなって﹂
648
﹁ああ、それはね⋮⋮﹂
春菜いわく、過去にこちらに飛ばされたプレイヤーは、一人を除
いてみな中堅以下の一般的なプレイヤーで、生産スキルをほとんど
触っていなかったらしいとのこと。例外の一人も魔法型の廃人では
あっても生産スキルは採取をちょっとやった程度で、リアルで料理
をした経験がある人間もおらず、少なくとも食文化に関しては、宏
ほどのインパクトを与えられる人材はいなかったらしい。
なぜそれが分かるのかと言うと、別の世界から来たと思わしき人
たちの中には、下手をすれば宏並に薬などに詳しかったのではない
か、と言う人間が少なからずいたからだ。そういった人物とセット
でどんな能力を持っていたかとかを比較的細かく記述している本を
見つけたため、過去にこの国に飛ばされてきた人間についてはある
程度詳しく把握できたのである。もっとも、そういう人間ほどアフ
リカの未開地のような場所が出身地だったケースが多く、総じて料
理と言えば丸焼き、たまに煮込む、みたいな食生活だったそうだ。
豊かな食生活を知っている人間に限って、それをどうすれば再現
できるかと言う知識がないあたりに、何か作為と言うか悪意のよう
なものを感じるのは気のせいだろうか。
﹁なんかしっくりこないわね∼﹂
﹁まあ、プレイヤー連中って言っても人数は俺達込みで二十人に届
かないんだから、今の人口比率を考えればヒロみたいなのが引っか
かること自体が奇跡に近いぞ﹂
﹁まあ、そうよね﹂
649
達也の言葉に、納得するしかない真琴。
﹁そもそも、師匠みたいにスキル無駄遣いして食べるほうに走るこ
とが異常﹂
﹁澪、最近師匠に対してえらいきついやんか﹂
﹁これが本性﹂
しれっと言い切る澪に、思わず疲れたような表情で遠い目をして
しまう宏。ヘタレの自覚はあるが、ここまで弟子の、それも五歳も
年下の女の子にコケにされるのはどうなんだろうと、思わず自問し
てしまう。
﹁まあ、それは置いといて、達兄の報告は?﹂
﹁俺のほうは、大したことは分かってないな。せいぜい、この国で
ごちゃごちゃ何かやってるのは邪神教団らしい、ってことぐらいし
か分かってない﹂
﹁何そのべたな集団⋮⋮﹂
﹁言うな﹂
澪の歯に衣を着せぬ物言いに苦笑する達也。こちらに関してはも
う、その単語からイメージできる事以上の情報は無い。せいぜいが、
真琴がグランドクエストの四章で、邪神教団がらみの集団とやりあ
った事がある、と言う追加情報があった程度。そもそも、現状のグ
ランドクエストの進展度合いでは、邪神が実在するかどうか自体が
650
未確定である。ゲームと似て非なる世界であるがゆえに、邪神教団
自体が存在するかどうかもはっきりしなかったため、これまではち
らりと話題にする程度の事しかしていない。
﹁まあ、それでなんとなく分かったわ﹂
﹁分かったって何が?﹂
﹁カタリナ王女とその腰ぎんちゃくが、昨日の夜会で春菜さんの歌
聞いて苦しんどった理由﹂
﹁あ∼、やっぱりあれ、私のせいだったんだ⋮⋮﹂
宏の言葉に、ショックを受けたようにうつむく春菜。歌が好きで
聞いてもらうことが好きな彼女にとって、自分の歌で人が苦しむと
いうのはショックだろう。
﹁まあ、瘴気に汚染されてなかったら、本来パワーアップするはず
やねんから、多分自業自得やで﹂
﹁ってことは?﹂
﹁多分、神の歌の影響やと思う。キ○キ○ダンサーが居ったら、そ
の踊りで一網打尽やったかもしれへん﹂
﹁それと一緒にされるのも、何かそれはそれでショックなんだけど
⋮⋮﹂
﹁まあまあ。とりあえず次は、瘴気バリバリのモンスター見かけた
らいっぺん歌ってみよか﹂
651
宏のいやに割り切った言葉に、苦笑しながらうなずく春菜。
﹁で、最後やけど、さっきの様子やとなんぞあった見たいやけど、
どないしたん?﹂
﹁えっとね、大変言いにくいことなんだけど⋮⋮﹂
宏の最後の問いかけに、どう答えるか悩みしばし口篭り、事実の
一部と思うところをストレートに説明することにする春菜。
﹁えっとね、禁書庫に封印されてた魔道書に気に入られたっぽくて、
アルフェミナ系魔法のエクストラスキルだと思われるものを押し付
けられちゃった﹂
春菜の厄介ごと満載っぽい一言に、達也以外の全員が固まる。そ
んな状況でも、空は青くきれいに澄んでいた。
652
第16話︵後書き︶
結局主人公補正がかかってるのは春菜さんだった、という話
653
第17話
﹁すまんな、急に呼び出して﹂
﹁まあ、予想は出来とったんで、気にせんでください﹂
春菜からの碌でも無い報告を聞かされた昼食を終え、気持ちを切
り替えて午後からの予定を消化しようとしたあたりで、一同は国王
とレイオットに呼び出された。
﹁しかし、こんな妙な部屋があるあたり、さすが王城言う感じやな
あ﹂
﹁また、妙なところに感心する男だな﹂
場を和ませるためか、速攻で話をそらし始めた宏に、思わず苦笑
しながら突っ込むレイオット。
﹁とりあえず、ここなら強力な防護魔法が掛けられているから、少
々暴れても問題にならない。無論、出入りには国王か王位継承者、
姫巫女のいずれかの存在が必要だから、内部に盗聴だのなんだのを
仕掛けることも不可能だ﹂
﹁つまり?﹂
﹁ここでなら、ハルナが受け継いだというアルフェミナ様の特殊魔
法を使っても、基本的には大した問題にならないはず、ということ
だ。念のために、エルンストとユリウスにも同席してもらっている
654
しな﹂
予想通りの展開に、苦笑を漏らすしかない春菜。いくらドーガと
ユリウスがいると言っても、この城全体を吹っ飛ばすような極端な
威力の魔法だと全く無意味だと考えると、いくらなんでもこの状況
は不用心すぎるのではないか、と言うのが彼女の正直な意見である。
﹁そう言う訳だから、ハルナ殿が覚えたと言う魔法を、正直に正確
に教えてもらえんか?﹂
﹁はい﹂
国王に促され、頭の中で軽く考えをまとめてから口を開く。
﹁とは言っても残念ながら、大半は普通の回復魔法か補助魔法、移
動魔法、障害魔法なんです。使い手の多寡に目をつぶれば、基本的
には特別な条件が必要なものではない、訓練で身につけられる魔法
ばかりです﹂
﹁具体的には?﹂
﹁女神の加護や韋駄天、女神の癒し、長距離転移のようなものが大
半です。私が使えない魔法もいくつかありましたが、どうすれば習
得できるのかを知っていて、何人か知り合いに使い手が居るものば
かりです﹂
具体例を聞き、なるほどと頷く国王とレイオット。確かに韋駄天
などは、騎士団の中にも身につけている者が結構いる程度にはメジ
ャーな魔法だ。名前の通り足を早くする魔法なので、行軍速度を上
げたり戦闘時の展開能力を強化したりするため、少しでも魔法と相
655
性がいい人間すべてに教えようとしているぐらいだ。習得難易度も
それ相応、と言ったレベルである。
女神の加護や女神の癒しになると、さすがに習得者は珍しい部類
になる。とはいえ女神の、と名がついてはいるが、時空神アルフェ
ミナか大地母神エルザ、海洋神レーフィアの三人の女神いずれかの
力を使う魔法、と言うだけで、別段信仰心を求められている訳では
ない。それゆえ別段神官で無くても習得が可能で、どこの国の中枢
も、何人かは使用可能な人間を抱えている。そして長距離転移に関
しては、上級の冒険者のパーティやチームなら、絶対一人は使い手
が混ざっている類のものだ。現実に、日本人チームでも達也が使用
可能である。
女神のとつく補助・回復系の魔法は確かに最上位の魔法であるが、
宏の存在ほど珍しいものではないのだ。ついでに言えば、女神の癒
しは極めた時の回復力こそ三級ポーションを大きく超えるが、部位
欠損は治らない。
﹁大半、と言う事は、多少は特殊なものがあったのだな?﹂
﹁はい。知らない魔法が四つだけ。正確には、一つの魔法を四つの
機能に分けた、と言う感じです。そのうち一つは使い方は分かるも
のの現状発動は出来ず、残り二つは回復系の魔法なので、この場で
は実践できません﹂
﹁ふむ。では、残りの一つは使える、と言う事なのか?﹂
国王の問いかけに対し、青い瞳に困ったという感情を浮かべなが
ら、どう説明すべきかに頭をひねる春菜。その様子から、相当ろく
でもない魔法だと判断する国王。
656
﹁使えんのか?﹂
﹁発動できるかどうか、という意味では発動できます。ただ、実用
性があるのか、と言われると、難しいところです。おそらく今の私
の肉体では、発動即自滅です﹂
本気で困り切った顔で、あっさりととんでもない事を言いきる春
菜。その言葉に、何とも言えない沈黙がその場を覆う。
春菜の肉体は、この国の騎士の平均と十分勝負できるだけのスペ
ックを持っている。流石に純粋なスペック勝負ではユリウス、ドー
ガ、レイナの三人には大幅に劣るものの、手札に一切の制限が無け
れば、レイナ相手なら十分勝ちを収めることもできるレベルである。
そんな彼女が、発動即自滅すると言うほどの魔法。それが攻撃だろ
うがそれ以外だろうが、間違いなく碌でもない代物であろう。
﹁具体的には、どんな魔法なのだ?﹂
﹁対象の思考速度および肉体の速度を、極端に大きく加速する魔法
です﹂
﹁どれぐらい加速できる?﹂
﹁今の私の力量で使えば、約百倍程度に加速できます。加速したか
らと言って老化が早くなる訳でもないようですが、肉体に対する負
荷を全く軽減しないので、余程鍛えていないと、魔法をかけられて
動こうとした瞬間に自滅すると思います﹂
本当に碌でもない魔法だった。この碌でもなさ、さすがエクスト
657
ラスキルである。なお、普段バイクやジェットコースターなどの、
無風状態でも風圧や空気抵抗を生身でダイレクトに感じる乗り物に
乗る機会が少ない春菜は、実は一つ勘違いしていることがあった。
正確には、加速をする魔法ではなく、百倍以上の速度に加速しつ
つ、加速しない状態と同じように動ける魔法がこのエクストラスキ
ルである。それゆえに、空気抵抗や摩擦熱、衝撃波の発生などは完
全に抑えられるのだが、分割された際に劣化したのか、動くことで
体内に発生するダメージおよび、固体に接触した際の反作用は軽減
されないのだ。
が、空気抵抗という要素に意識が向いていなかった春菜は、体内
へのダメージや衝突によるノックバックを軽減しないという特性を、
肉体に対する負荷をまったく軽減しないと勘違いしたのである。
﹁⋮⋮流石にそれだと、使って見せろと言うのは酷だな⋮⋮﹂
﹁自分にかけるのは自滅確定、誰かにかけるのもためらわれる、っ
て言う類の魔法ですからね⋮⋮﹂
とは言え、使えれば強力な魔法なのは間違いない。そこが更に悩
みどころである。
﹁そう言えば、残りの二つは回復系だと言っていたが、どういった
代物なのだ?﹂
﹁どちらも傷や毒、病などだけに直接干渉、時間を操作して治療す
るタイプのものですが、一つは傷や毒、病が消える方向に操作して
時間を加速する魔法、もう一つは傷や毒、病を受ける前まで時間を
巻き戻して、それらに体を蝕まれたという事実自体を無かった事に
658
する魔法です﹂
﹁⋮⋮と言う事は、部位の欠損や障害の類も?﹂
﹁私の腕が上がれば、多分ほとんどのものは治せるようになると思
います。ただし、魂が抜けてしまっているので、死者を蘇生する事
はできません﹂
春菜の言葉に、そうかと頷く国王。死者の蘇生に関しては、国王
に限らずこの世界のまともな人間にとって、最高位の禁忌となって
いる。今までに三度ほど成功例がある死者の蘇生だが、そのたびに
とんでもない量の瘴気が世界に蔓延し、最低でも国が一つ滅ぶと言
うとんでもない被害が出ているのである。
今でもその名残として、蘇生を行った現場は異界化してダンジョ
ンとなっている。そのうち一番ひどいものが、煉獄と言われている
最上位のダンジョンなのだ。
因みにゲームの場合、あくまで戦闘不能で死亡では無く、死ぬ直
前に神々に保護されているという設定となっている。安全圏への帰
還以外での戦闘不能の回復は、女神の癒しか三級以上の高レベルポ
ーション、世界樹の薬などの特殊アイテムでしか不可能と言うハー
ドルの高いもので、一般ユーザーは戦闘不能即帰還が基本だ。
しかも、ポーションおよび女神の癒しによる戦闘不能の回復は非
戦闘時にしか行えず、戦闘中に復帰できる世界樹の薬は大霊窟にリ
アル時間一カ月潜って一個、と言われるぐらいドロップ率が低いア
イテムである。戦闘不能からの回復は、基本的にあまり現実的な選
択肢とは言えないゲームなのだ。
659
﹁ふむ﹂
春菜の返事を聞き、少し考え込む。その沈黙に嫌な予感しかしな
い春菜。
﹁時に、その回復魔法は、自分にもかけられるのかね?﹂
﹁不可能ではありませんが、最低でもちゃんと動ける状態で無いと
無理です﹂
﹁ここに三級ポーションがあるのだが、その回復量で足りるのかな
?﹂
国王陛下に問われて考え込む。ゲーム内では三級、つまりレベル
6での戦闘不能回復は、成功率三割と言ったところ。その上三級だ
と復活した直後はHP1、ポーションを飲むと中毒になる状態だっ
た。今にして思えば、部位欠損が治ると言うのも、この機能を考え
れば当然なのかもしれない。
蘇生の成功率に関しては女神の癒しも似たようなものだが、こっ
ちは連続使用にこれと言ったペナルティが無い。
﹁達也さん、女神の癒しは?﹂
﹁ほとんど鍛えてないが、使えなくは無いな﹂
﹁だったら、自分の体を実験台にするかな⋮⋮﹂
﹁ちょっと待て、考え直せ!﹂
660
慌てて止める達也に対して苦笑すると、発動後に実験に使うつも
りの、BB弾ぐらいのサイズの小石、と言うより破片のようなもの
を取り出してから、念のために耐久値を強化する補助魔法をかけて、
件の魔法を構築する。流石にエクストラスキルだと思われる魔法だ
けあって、消費する魔力も尋常ではない。だが、それでもエレメン
タルダンスよりは消耗が軽い以上、それほど発動に問題は出ないだ
ろう。
﹁行きます! オーバー・アクセラレート!﹂
十秒ほどの詠唱を終え、自身に件の魔法を発動させる。次の瞬間、
周りの動きが完全に止まる。
︵成功かな?︶
ちらっと結果について意識を向け、ものは試しと破片を指先で弾
く。次の瞬間、まず指先に、そして全身にすさまじい痛みが走り、
前のめりに体が傾いでいく。ほぼ同時に、弾かれた小石が恐ろしい
音を立てて壁に食い込み、派手に亀裂を入れる。痛みに負けてとっ
さに魔法を解除すると、すぐに誰かが彼女の体を支えてくれ、ワン
テンポ遅れて薬の匂いがする液体が頭にかかる。金色の髪を薬剤が
伝い、地面に落ちる前に体に吸収される。
﹁春菜!?﹂
春菜の体を支えてくれたのは、真琴のようだ。頭にかけられたの
は三級ポーションで、それを春菜にかけたのは宏だったらしい。反
応自体は宏の方が早かったのだが、動作の数と速度の差で、真琴の
方が早く行動を終えたようだ。なお、頭からかぶる、と言うのは、
ポーションのもう一つの使い方である。実際には頭で無くても、体
661
の露出部分のどこかにかければ事が足りる。回復力こそ一段落ちる
が、緊急時には最も手っ取り早く治療できるやり方だ。戦闘不能か
らの復活もこのやり方になるため、三級ポーションでは三割程度の
成功率しかないのだろう。
﹁春菜さん、体動かせるか?﹂
空になった瓶を鞄にしまい、距離を取りながら心配そうに聞いて
くる宏。この状況でも必要が無くなればきっちり距離をあけようと
する宏に、思わず内心で苦笑してしまう春菜。とは言え、それでも
本心から心配してくれる事自体がうれしいので、あまり気にならな
いが。
﹁まだまだあっちこっち痛いけど、どうにか⋮⋮﹂
﹁ほな、マナポーション飲んで、早めに治療した方がええ。さっき
の解説やと、時間経ったら治療難しなるはずや﹂
﹁⋮⋮うん⋮⋮﹂
﹁五級しかないけど足るか?﹂
宏の質問に頷いて、マナポーションを荷物の中から取り出して飲
み干し、さっさと回復魔法の準備に入る。感触から言って今の力量
では、多分後遺症を残さずに治療できるかどうかぎりぎりのタイミ
ングだろう。
﹁リターン・ヒール!﹂
再びなかなかの量の魔力を持っていかれ、一瞬頭がくらっとする。
662
エレメンタルダンスの時は肉体疲労の方が厳しいため余り印象に残
っていなかったが、魔力の大量消費も結構体に来るものがある。と
は言え、どうにか魔法は間に合ったようで、全身の痛みがあっとい
う間に消える。体をあれこれ動かして異常が無いかを確認し、大事
が無い事を確認してほっとする。障害が残る可能性についても覚悟
はしていたが、やはり何も無いに越した事は無い。
春菜の身に大した問題が無い事にほっとしつつ、とりあえず一旦
落ち着くために話を中断する一同であった。
﹁あれは、なにをしたんじゃ?﹂
中断している間に仔細に壁をチェックしていたドーガが、かなり
真剣な顔で春菜に確認してくる。壁に衝突したはずの破片はどこに
も無く、何かがあたったらしいと言う痕跡はその大きな亀裂だけし
かない。所詮小さな破片ゆえ、衝突した衝撃で完全に砕け散ってし
まったらしい。
﹁単に、適当な破片を指で弾いただけ﹂
そう言って、大体似たような大きさと形の破片を取り出してドー
ガに見せる。なぜそんなものを持っているのか、と言うと、呼び出
された時に実際に魔法を使う可能性を考え、中庭で拾っておいたの
だ。
663
﹁それで、あれか⋮⋮﹂
﹁因みに、普通に弾いたらこんな感じ﹂
そう言って、先ほど破片が直撃したのとは別のポイントに向けて
弾いて見せる。弾かれた破片はぱしっと乾いた軽い音を立てて壁に
当り、そのまま跳ね返って床に落ちる。適当に弾いた割にはなかな
かの威力で、皮膚に直接当れば少しは痛そうである。が、流石に目
に直撃でもしない限り、大きな怪我につながるような威力は無い。
﹁それが、こうなるのか⋮⋮﹂
﹁速度が百倍と言うのは恐ろしいな。そもそも構えたこと自体が分
からなかった﹂
ドーガのうめくようなつぶやきに、ユリウスも慄くように同調す
る。
﹁思ったより派手な事になっててびっくりしたけど、考えてみれば
弾く速度が百倍になる訳だから、単純に考えたら飛ぶ速度も百倍に
なるし﹂
﹁そこまで単純かどうかはともかく、仮に飛ぶ速度が五十倍やと仮
定しても、運動エネルギーは二千五百倍。流石にそんだけ威力増え
たら、壁にめり込むぐらいは行くやろうなあ﹂
宏の言葉に頷く春菜。速度以外の条件が同じであれば、運動エネ
ルギーは速度の二乗に比例して大きくなる。所詮百倍にしたところ
でまだ相対性理論の世界まで届かない小石飛ばしなら、単純なニュ
ートン物理学で考えても問題は無いだろう。
664
それだけの速度で石を弾けば、当然指の方にもとんでもない衝撃
が来る訳で、事前に全身の肉体強度を強化していなければ、先の一
撃で春菜の指は砕け散っていただろう。そこまで速度を強化してお
きながら、体内および衝突のノックバックを一切軽減しないと言う
のは、はっきり言って話にならない。
﹁とりあえず、使い物にならない、の意味は分かったな﹂
﹁うん。予想通り、体感時間で三秒ぐらいしかもたなかったし﹂
﹁そもそも、体もそうだが近接武器だと余程の強度か切れ味がねえ
と、下手すりゃ一発叩きこんだ時点で武器自体が逝きかねないぞ﹂
達也の指摘にも頷かざるを得ない一同。強力なのは誰もが認める
が、同じぐらい使えない事も認めざるを得ない。
﹁まあ、武器は基本的に金属やから、レイピアみたいに元々の構造
上どうしても強度に問題が出る奴以外は、よっぽどでない限り速度
百倍程度であっさり壊れたりはせえへんと思うけど﹂
﹁それって要するに、その分体に対してダイレクトに反作用が来る
ってことよ?﹂
﹁せやねんなあ⋮⋮﹂
真琴の突っ込みに、思わず唸るしかない宏。どこまで行っても使
いづらい。
﹁春姉、一ついい?﹂
665
﹁何?﹂
﹁使ってるときってどんな感じ?﹂
﹁周りが止まってるのと変わらないぐらいゆっくり動いてて、自分
は普通に動けるって感じ。ただし、普通に動いたが最後だけど⋮⋮﹂
春菜の回答に、なるほど、とうなずく澪。使いこなせば強力だが、
なんとも罠満載の魔法である。
﹁一つ思ったのだが、いいか?﹂
﹁何ですか?﹂
﹁ヒロシなら、我々の体感で十秒ぐらいは持つのではないか?﹂
レイオットの物騒な言葉に、言われてみればと納得する宏以外の
一同。
﹁ちょい待ち! 何ぼ何でも今やばい事なってるん見て、すぐにそ
の反応は無い!﹂
﹁でもね、あれを使えばあんたの火力不足はあっという間に解消す
るのよ?﹂
﹁その手のハイパーモードは、せめて三分もたんと意味あらへん!﹂
ビビって必死になって拒絶するも多勢に無勢、結局その場にいた
春菜以外の全員に押し切られる。自分の身でこの術の危険性を直接
666
確認しただけに、春菜はある意味宏以上に反対したのだが、フォロ
ーが出来るうちに確認できる事は確認してしまえ、と言う正論には
勝てなかったのだ。
﹁とりあえず、空間を固めて色を変えるから、的はそれを使え﹂
﹁的、言われてもなあ⋮⋮﹂
レイオットが指定した﹁的﹂を見て、何とも言えない顔をする宏。
レイオットが指示した場所には、いつの間にか人間ぐらいのサイズ
の妙な黒い塊が鎮座していた。
﹁程よい弾力と硬さ、いい仕事してる﹂
﹁そういう問題かいな⋮⋮﹂
レイオットが用意した的をぺたぺた触って確認した澪が、妙な感
想を漏らす。
﹁てか、春菜さんは魔力、大丈夫なん?﹂
﹁大分回復してきたよ。正直、今回復しなくてもいいのに、とは思
うけど﹂
﹁さよか⋮⋮﹂
着々と外堀を埋められていく宏。一部の攻撃魔法と違って、回復、
補助、障害系及び生活魔法は全て、消費が熟練度に応じた固定値で
ある。今回覚えた魔法の場合、元々全体的に消費が重い補助系のオ
ーバー・アクセラレートはともかく、回復系のリターンヒールの方
667
は女神の癒しよりコストパフォーマンスが悪い、と言った程度の消
費量なので、五級のマナポーションの回復量でも全然問題にならな
かったようだ。新しい魔法を覚えた際に春菜の魔力量がかさ上げさ
れている様子があるのも、意外と余裕がある理由だろう。
﹁やっぱり、あまり人様にかけたくは無いよ﹂
宏が嫌がっている事もあり、あんな危険な魔法は使いたくないと
ひたすら意思表示する春菜。宏同様往生際が悪いが、宏がどちらか
と言えば保身に走っているのに対し、春菜は他人の体に気を使って
拒否しているのだから、宏が妙にヘタレくさく見えてしまう。
﹁今更それを言ってどうする﹂
﹁春菜、そう言う魔法があるって事は、いずれそれが必要な相手が
出てくる可能性がある、ってことよ。気が進まないのは分かるけど、
出来る時にできる事はやっておかないと﹂
どうしても気が進まない春菜を、レイオットと真琴が窘めに回る。
特に、ゲーム中でも最前線でやばい相手と戦い続けてきた真琴の言
葉は重い。何しろ真琴には、宏の過剰ともいえる防御力と耐久力、
それが必要になりそうな相手に心当たりがある。と言うより、煉獄
の攻略が途中で止まっている理由の一つが、壁役の耐久力不足であ
る。流石にここまで過剰な補助魔法が必要な相手は思い付かないが、
グランドクエストに関係がない、いつでも出入りできる煉獄ですら、
いまだに最深部まで攻略が進んでいないのだ。何が出てきてもおか
しくない。
そして、グランドクエストは第二章ですら、クエストの中ボスが
並のダンジョンのボスよりはるかに強い仕様であった。分類上は一
668
般ダンジョンの煉獄ですら、現状トップクラスの廃人でもリソース
不足による時間切れや全滅を繰り返している事を考えると、グラン
ドクエストの四章以降のボスは、一体どんなものを相手にさせられ
るか分かったものではない。それを現実で相手にしなければいけな
い可能性を考えると、折角手に入れた強力な魔法を遊ばせておく理
由は無い。
﹁ヒロ、いい加減に覚悟を決めろ﹂
﹁自分らかて、同じ立場になったら絶対抵抗するやろうに⋮⋮﹂
宏の苦し紛れの突っ込みに、思わず目をそらしてしまう他の一同。
流石に動いたと同時にあちらこちらの血管が破裂した春菜の姿を見
ているだけに、絶対にビビらずに実験台になれる、などとは口が裂
けても言えない。まだ実感が無かったとはいえ、危険性を理解した
うえで覚悟を決めて最初の実験台になった春菜は、実に潔く根性の
ある女性だと言えよう。
﹁とにかく、あたしもやんなきゃいけないんだから、二人ともとっ
とと覚悟決めてやんなさい﹂
﹁え!? まだやるの!?﹂
真琴の言葉に驚いて、思わず大きな声を出す春菜。さっき宏の突
っ込みに目線をそらした一人なのに、こんな事を言い出すのは意外
すぎる。
﹁当たり前でしょ? あたしと澪は耐久力じゃどっこいどっこいだ
から、このラインでどのぐらいもつかも確認しとかなきゃ。いずれ
避けては通れないと言っても、さすがに澪にこんな危険な真似をい
669
きなりやらせる訳にもいかないじゃない﹂
﹁真琴姉、格好いい⋮⋮﹂
﹁⋮⋮なんやろう、この梯子外された感⋮⋮﹂
唐突に男前な事を言い出した真琴に、憧れのまなざしを向ける澪
と妙な敗北感を感じる宏。女性と言うのは、割といきなり覚悟を決
めるものである。
﹁ヒロ、これ以上ヘタレを晒す前に、さっさと覚悟決めた方がいい
ぞ﹂
﹁兄貴、自分は蚊帳の外やからって、好き放題言うなあ⋮⋮﹂
今回実験台から完全に外れている達也の言葉に、うんざりしなが
ら突っ込む宏。とは言え、達也の言葉も否定しようのない事実であ
る。空気に抵抗できない日本人としては、これ以上ごねるのは無理
だ。
﹁分かった⋮⋮。春菜さん、ひと思いにやってや⋮⋮﹂
﹁い、いいの⋮⋮?﹂
﹁これ以上ごねられる空気ちゃうやん⋮⋮﹂
覚悟を決めた、と言うよりあきらめた感じの宏が、ついさっき自
分の得物となったばかりのポールアックスを構えて、力無く春菜に
応える。それを聞いた春菜が、微妙に申し訳なさそうに耐久力向上
をかけた後、本命の術を発動させる。
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﹁オーバー・アクセラレート!﹂
術の発動と同時に宏の姿が霞み、派手な破砕音が途切れずに続く。
用意された的が最初の一秒でぼろぼろになり、きっかり五秒で粉砕
される。
﹁これが限界やな⋮⋮﹂
的が粉砕された直後に術を解除し、ぐったりした様子で宏がぼや
く。とは言え春菜と違って体にガタがきている様子も無く、自分の
足でしっかり立っているのだから呆れる頑丈さである。
﹁正直、掛けられた方にも解除スイッチがあるんは助かるわ⋮⋮﹂
﹁もうちょっと粘れないの?﹂
﹁実用範囲やったら、こんなもんやで⋮⋮﹂
いまいち腑に落ちない様子の真琴に、補足説明を入れる事にする
宏。
﹁正直、倒れる手前まで言うたらもうちょいいけるんやけど、毎回
毎回ポーションやリターンヒールやって騒ぐんは危なっかしいし。
第一な、今でも戦闘続けるんは微妙なラインやで﹂
﹁⋮⋮なるほど。確かに余力は残しておかないと拙いわね﹂
﹁そういうこっちゃ﹂
671
そう答えて、一瞬で随分ぼろぼろになってしまったポールアック
スを確認する。的が結構な硬さだったため、全くエンチャントをか
けていない武器ではやや不足だったのだ。
﹁こら、打ち直しやなあ﹂
微妙に柄が曲がってしまった得物を見て、げんなりしたようにぼ
やく。打ち直しと言うが、いっそこれなら溶かして作りなおした方
がいいかもしれない。彼が手ずから作った武器に比べれば劣るとは
いえ、一級品と言っていい代物を一日経たずにスクラップにしてし
まうなど、伝説に残りかねない話だ。
﹁そいつも悪い得物ではないはずだが、実に短い命だったな﹂
﹁流石にちょっと無理があったみたいやなあ⋮⋮﹂
ユリウスの感想に、微妙に頭を抱えながら返事を返す宏。正直な
話、去年引退したというドーガの同期が使っていた特別製の、柄ま
で金属で作られていたすさまじい重量の得物でなければ、最初の一
撃でへし折っていた可能性すらある。
﹁レイっち、ちょっと的が硬すぎるわ。もう一本お釈迦とか言うた
ら面倒やから、三割ぐらい柔らかくしたって﹂
﹁分かった﹂
宏のリクエストに応え、耐久力をそのままに、硬さを三割ほど落
とした的を作り上げる。
﹁宏君、治療はしなくていいの?﹂
672
﹁そこ行くまでに解除したから、休憩したら十分回復するで﹂
﹁ん、分かった﹂
自分と違って大事に至らなかった事を確認し、心底ほっとする春
菜。
﹁で、春菜。魔力は?﹂
﹁もうちょっと待って。リターンヒールまでってなるとまだ厳しい﹂
﹁了解﹂
春菜の自己申告を受け、もうしばらくチャージを待つ真琴。かけ
られる保険はたくさんかけた方がいい。
﹁ただ待ってるだけってのもなんだし、宏、何かほかに感想とかは
ある?﹂
﹁あくまでも僕の感触では、やけど、あれは受ける側の慣れとかで
も大分変わってきそうや﹂
流石に五秒も術を維持した揚句、その後に普通に動けるだけの事
はある。春菜には全く分からなかった情報を、あっさりと白状して
のける。
﹁そうなの?﹂
﹁あくまでも多分、やけどな。何回も受けて体慣らしていけば、そ
673
のうちただ動くだけやったら反動をくらわんでいけるようになるか
もしれへん﹂
﹁それって、何回、程度でいけるの?﹂
﹁分からへんけど、まあ普通は最低でも何百回単位やろうなあ﹂
気が遠くなりそうな事をあっさり言いきってくれる宏に、思わず
頭を抱える春菜と真琴。何百回と気楽に言うが、春菜の場合はそも
そもせいぜい二動作くらいでアウトだし、真琴だってどれだけ持つ
か分かったものではない。それ以前に何百回もとなると、春菜の今
の最大魔力では、何十日かかるか分かったものではない。それを平
然と言いだすあたり、さすがトップクラスのマゾヒスト、生産廃人
だけの事はある。
﹁後の検証課題は、春菜さんがこの術の腕上げた場合、どんぐらい
ノックバックが減るかやな﹂
﹁そもそも、減るのかな⋮⋮?﹂
﹁そこも含めて検証するんやろ?﹂
自分が実験台にされた腹いせか、どんどん厄介な事を言い出す宏。
﹁それ検証するの、アンタも普通にやらされるんだけど、いいの?﹂
﹁体感で三百秒ぐらいやったら大したことあらへんって分かったし、
どんとこいや﹂
﹁⋮⋮アンタって、自分が出来る事になると急に態度がでかくなる
674
わよね⋮⋮﹂
余りに変わり身の早い宏の態度に、思わず呆れたように突っ込み
を入れる真琴。こういうところがまた、妙にヘタレくさい。
﹁そんで春菜さん、魔力は?﹂
﹁そろそろ大丈夫かな﹂
﹁真琴さん、覚悟はええか?﹂
﹁いつでも来なさい﹂
﹁ほんまにええんやな? 血ヘド吐きながら命乞いする覚悟は? 全身砕けそうな衝撃に耐える準、っていきなり痛いやん!﹂
﹁わざわざ物騒な事を言うなっての﹂
物騒な言葉を並べて脅かし続ける宏を、達也が愛用の杖でどつい
て黙らせる。
﹁いや、冗談で言うてるんや無いで?﹂
﹁物騒だけど、間違ってないのがね⋮⋮﹂
宏と春菜の言葉に、微妙に早まったかもしれないと内心で引く真
琴。が、ここで折れたらそれこそヘタレすぎる。もう一度念を押し
てくる二人に一つ頷くと、襲い来るであろう衝撃に対して気合を入
れて備える。
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真琴は、体感で約百秒ほど耐えてダウンした。
﹁姫様、例の話をお聞きになりましたか?﹂
﹁ええ。全く、どこまでも忌々しい小娘です事﹂
とある夕暮れ時の茶会の席。厳重に人払いを済ませ、盗聴対策を
十分に行った部屋。カタリナをはじめとする幾人かの人間がそこに
集まり、怒りと焦りの表情を隠そうともせずに、エアリスを連れ戻
した冒険者たち、正確にはその中でもひときわ目立つ歌姫の小娘を
罵倒していた。
﹁アルフェミナ様が邪神に堕ちた、という話も、あながち嘘ではな
さそうですな﹂
﹁だから何度も言っていたでしょう? そうでなければエアリスの
ような性根の曲がった、汚い心の小娘が選ばれる訳がありません。
ましてやどこの馬の骨とも知れぬ冒険者ごときが、私ですらその存
在を知らぬ秘術を授かるなどあってはならぬ事﹂
﹁全くです﹂
聞く人が聞けば、それこそどの口でそれを言うのかという言葉を、
憤懣やるかたないと言う態度で吐き出すカタリナ。腰巾着のバルド
676
も同意するように頷き続ける。
﹁それにしても厄介なことになりましたな﹂
﹁あの汚らわしい歌だけでも忌々しいと言うのに、その上妙な加護
まで得るとは⋮⋮﹂
﹁どうにかして始末せねば⋮⋮﹂
始末、という言葉が出た時点で、その場を沈黙が覆い尽くす。言
うまでもないが、春菜を殺すと言う事に抵抗を覚えているからでは
ない。単純に現状ではその難易度が高いため、皆迂闊な事を言えず
に黙っているだけである。
実のところ、そもそも春菜が秘術を得たらしい、という情報自体
が未確定だと言う事もあり、藪蛇になる事を恐れてそれほど積極的
に動こうと言う気にならない人間も多い。中には、本来秘匿される
であろうその情報が自分達に漏れている事をおかしいと感じ、罠を
警戒している人間すらいる。
言うまでもなく、その警戒は正しい。何しろ、秘術の情報は国王
サイドが意図的に漏らしたものだ。術の内容を確認した時に春菜達
に許可を取って、後ろ暗い事をしている連中だけにもっとも効果的
に広まるようにコントロールしてリークしたのだから、本来はもっ
と警戒すべきなのである。
﹁始末する、と口にするのは簡単ですが⋮⋮﹂
﹁あの小娘、冒険者としての格こそ低いようですが、その実相当な
手練のようです﹂
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﹁生半可な戦士では、正面からぶつけたところでどうにもならんで
しょうな﹂
忌々しそうにその事実を認める男たち。例の夜会があってから、
冒険者であると言う事を逆手にとって堂々と身元を調べたところ、
出てくるのは彼らにとって不都合な情報ばかり。バーサークベアを
筆頭に、ピアラノークに盗賊団、果ては依頼の失敗で食いつめた元
五級の冒険者まで、本当にまだ九級の冒険者なのかと問い詰めたく
なるような戦果をあげている。特にピアラノークは、このあたりで
遭遇するモンスターとしては頭一つ飛び抜けて強力な相手だ。単独
で撃破した訳ではないといえども、仕留めたという事実には変わり
ない。それほどの相手なのである。
また、彼女が一対一で倒したと言う盗賊団の用心棒、こいつも実
は二級の賞金首として手配されていた、力量的にはかなり厄介な相
手だ。攻撃こそ単純で単調ながら、ただのこん棒で洞窟の壁を粉砕
してのけるそのパワーは、決して侮る事は出来ない。一回一回の攻
撃間隔は長いと言っても、それだけの攻撃を無尽蔵ともいえる手数
を放つスタミナに、並の武器ではかすり傷しかつかない防御力、そ
して何発まともに攻撃を当てても弱る様子すら見せない生命力とく
れば、その危険度合いは下手なモンスターなど霞む。
そんな連中と戦って生き延びているのだから、正面からやりあっ
て確実に仕留めるとなると、ドーガかユリウスぐらいの実力が必要
であろう。それだけの手駒を持っていれば、そもそもこんなところ
でくすぶっている訳が無い。
﹁事故に見せかけて、と言うのは?﹂
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﹁残念ながら、そう言う隙を見せるほど不用心でもないようでして
⋮⋮﹂
そもそも、どこに国王の目が光っているか分からない城内で、迂
闊にそんな罠を仕掛けるのはただの愚か者である。少し前まではエ
レーナとエアリスの件で動揺しており、意外と隙があったのだが⋮
⋮。
﹁毒、は無理か⋮⋮﹂
﹁あの薬師の小僧がいる限り、一服盛るのは簡単ではありません﹂
すぐに考えを撤回した誰かに対し、実感を伴った言葉でバルドが
告げる。実際、宏にはエレーナの時と夜会の時、二度にわたって毒
殺をあっさり阻止されている。夜会の時に一服盛った事については、
現時点では一切話が表に出て来てはいないが、完璧に防いだおかげ
で気がつかなかった、などと言う事はありえない。エミルラッド、
などと言うマイナーな毒物を特定して解毒してのけた以上、全くの
無味無臭では無い毒物など、気づかれない訳が無い。単に、毒を盛
った証拠自体が残っていない事と自作自演を疑われたくない事、そ
の二つの理由で騒ぎを起こさないようにしているだけなのだろう。
﹁ならばその小僧から⋮⋮﹂
﹁奴は、材料さえ与えなければただの人です。むしろ毒だなんだで
余計な仕事を与えず、後で真綿で首を絞めるようにじわじわとやれ
ばいいでしょう﹂
とりあえず、女性恐怖症と言う弱点については調べがついている。
だが、それだけに周りも宏が単独で見知らぬ女性と接触しないよう、
679
毒物なんかより余程ピリピリしながら警戒しているのだ。最終的に
は始末せねばならない相手だとしても、難易度の割に脅威度が低い
相手を、わざわざ優先して仕留めようとする必要もない。
﹁そうなると、後はオーソドックスに暗殺者しかありませんな﹂
﹁だが、現状ではやつらのガードが堅すぎます。まずは、宮廷内で
孤立させねば﹂
今現在、国王の客人と言う立場の日本人達に手を出すのは難しい。
まずは情報戦で相手を孤立させ、宮廷内で彼らを排除しようとする
圧力を高めるところから始めなければならない。薬師として卓越し
た腕を持つ宏と、その弟子である澪を排除させるのは難しいかもし
れないが、それならそれで分断できればどうという事は無い。
﹁暗殺者については、こちらに心当たりがあります﹂
侯爵の位を持つ一人の貴族が、何でもない事のようにそんな物騒
な事を言い放つ。それを聞いた他の参加者が、目をぎらつかせなが
ら彼に注目する。
﹁ほう?﹂
﹁任せてよろしいのですか?﹂
﹁ええ。ですので、皆さまには奴らが孤立するよう、うまく誘導し
ていただきたい﹂
﹁分かりました﹂
680
﹁上手い具合に、国王一派も裏でひそかに分裂しているようですし﹂
﹁あの田舎者達に、宮廷での戦い方と言うやつを思い知らせてやり
ましょう﹂
侯爵の言葉を受け、有象無象どもが蠢き始める。大国の暗黒面が、
胎動を始めるのであった。
﹁やっぱあの視線はきついわあ⋮⋮﹂
翌日の午後。エレーナの診察を終え、思わず宏がぼやく。助手と
して従っていた春菜と澪が、そんな彼を気遣わしげに見つめていた。
昨日と違って午後なのは、単純にエレーナ側の都合である。
﹁お疲れさま﹂
﹁師匠、ますます嫌われてる﹂
﹁まあ、しゃあない事や言うても、どこの馬の骨とも知らん人間が
自分の主かっさらって治療名目で好き放題やって、しかも知らんう
ちに主に取り入っとるとか言うたら、そら目つきも悪うなるやろう
けど⋮⋮﹂
宏のぼやきに同意するように頷きながら、流石にこのまま放置す
681
るのはまずいと頭の中で対応策を検討する春菜。昨日は客人の前と
言う事もあり、せいぜい窘めて釘をさす程度で済ませていたエレー
ナも、今日は宏達の前だというのに、かなり厳しい叱責をしていた。
ほとんどのメンバーは昨日注意された時点でそれなりに頭を冷や
し、少なくとも表面上は宏達を嫌っているような気配は見せなくな
った。だが、彼女達を束ねる筆頭の一人だけ、ますます嫌悪感だの
憎悪だのを前に出してくるようになった。正直、周囲の評判や本人
の言動から来るイメージと比べると、宏に対する態度は物凄く違和
感が強い。生理的にあわないとかそもそも人として相性が悪いとか、
そう言う次元ではない嫌い方も、それを駄々漏れと言ってもいいほ
どの形で漏らしている事も、どうにも不自然である。
もっとも不自然と言えば、昨日あれだけ堂々と出ていけと言って
きた老臣が、今日すれ違った時は単に顔見知りに会釈をする程度の
反応しか見せなかったのも不自然だ。昨日との違いは周囲に誰もい
なかった事ぐらいだが、それが理由だとすればこれまた何がしたい
のかよく分からない。
﹁ねえ、宏君、澪ちゃん﹂
﹁何?﹂
﹁どうしたの、春姉?﹂
﹁これから厨房に行こうと思うんだけど、ちょっと手伝ってくれな
いかな?﹂
あれやこれやを考えているうちに、どうやら、何か思いつく事が
あったらしい。唐突に春菜がそんな事を申し出てくる。
682
﹁厨房? ええけど、なに作るん?﹂
﹁いわゆるスイーツ、って奴かな? お誂え向きに、この国にはま
だ存在しない乙女の恋人があるし﹂
ニッといたずらっぽく笑う春菜を見て、何を作る気なのか微妙に
不安が先立つ宏。逆に、春菜が作るものに対して何一つ疑いを持た
ない澪は、一も二も無く賛成する。
﹁単なるスイーツ作りだけやったら、春菜さん一人で十分やんな?
僕が協力せなあかんのは何で?﹂
﹁作るつもりの数が数だから、一人でやると終わらないっていうの
もあるんだけど、ちょっといい感じの器を作ってくれると嬉しいか
な、って﹂
﹁器ぐらいいくらでも作るけど、一体何個作るつもりなん?﹂
﹁ざっと千単位?﹂
﹁待てい! 何ぼ何でもそらぶっ飛びすぎや!﹂
とんでもない事を言い出した春菜に、思わずノータイムで突っ込
みを入れる宏。この組み合わせの場合、普段突っ込みに回るのは春
菜か澪である事を考えると、非常に珍しい光景であると言える。
﹁この城を実務面で実質的に動かしてるのって、誰だと思う?﹂
宏の突っ込みに対してコメントを返さず、いきなり話を切り替え
683
てくる春菜。いきなりの話題転換に戸惑いながらも、とりあえずこ
ういう宿泊機能付きの組織について、常識的な回答を返すことにす
る。
﹁まあ、実務、言う話やったら官僚と使用人やろうなあ。あの人ら
に指示する人間がおらんかったら機能停止するけど、あの人らがお
らんかったら実務が進まへんし﹂
﹁じゃあ、官僚と使用人を全部集めた、その男女比率は?﹂
﹁使用人が女の人が多いから、全体で言うたら女の人寄り?﹂
﹁つまり、そう言う事﹂
どうやら、それが春菜の回答らしい。分かるような分からないよ
うなその台詞に、思わず首を傾げる宏。
﹁恋バナと甘いものが嫌いな女の子なんてほとんどいないから、い
つものように胃袋つかむところからスタートしようかなって﹂
﹁いつものようにって、自分が食いたいからこだわっとるだけで、
別に胃袋つかむためにうまいもん作ってる訳やないんやけど⋮⋮﹂
﹁そうなんだけど、今回はちょっと戦略的に行こうかって思ったの﹂
春菜がこんな事を考えたのは、ある種の危機感からだ。今の彼ら
は、正直歓迎されていない。流石に国王の腹心や国王直属の文官な
どはこちらに気を使ってくれているが、それ以外は態度に出してい
ないだけで友好的とは言い難い。特に王子たちに近い文官や使用人
の中には宏達に主を取られた、などと考えて勝手に敵愾心を燃やす
684
ものもそれなりに居り、そういう意味で気を使う必要が無いのはエ
アリスの関係者ぐらいなものである。今までの経緯だけをみて判断
するなら、やたらうまく立ち回って王家に取り入ってでかい顔をし
ている他所者と思われてしまうのも仕方が無いのは確かだが、これ
を放置しておくのは流石にまずい。どんな事で足を引っ張られるか
分からない。
現状、春菜が囮の役目を買って出ていることも考えると、直接実
務をやっている層に味方がいるのといないのとでは大違いだ。特に、
女性の噂話ネットワークを利用できるかできないかは死活問題にな
ってくる。それに、侍女や使用人をたくさん抱きこめば、いろんな
ところでこっそり便宜を図ってもらえる。そのためには金銭的な賄
賂ではなく、自分達に味方する明確なメリットを用意する方が都合
がいい。そのためのスイーツばらまき作戦だ。
﹁そないに上手い事、食いついてくるん?﹂
﹁師匠、認識が甘い﹂
﹁ここは美食と飽食の国・日本じゃないってことを肝に銘じて行動
しようね、宏君﹂
澪と春菜の言葉にたじろぎながら、迫力に負けて頷くしかない宏。
この時点で、少なくとも侍女相手に持っていた違和感に関しては、
完全に頭の隅に押しやられてしまう。後に、この時点でもっと彼女
についてちゃんと調べて手を打たなかった事を後悔することになる
のだが、当然思い付きにやや浮かれ気味になっているこの時の春菜
達は知る由もない。
﹁で、結局なに作るん?﹂
685
﹁プリン・アラモード、もしくはプリンパフェ﹂
﹁なるほど。確かに見栄えがする容器があれば完璧やな﹂
宏が納得したところで、意気揚々と厨房に突撃する。こうして、
ウルス城での食の改革は、その火ぶたが切って落とされたのであっ
た。
﹁微妙に上の空だけど、どうしたの?﹂
宏達がプリンを作りに行ったのと同時刻。どうにも訓練に身が入
っていないエアリスを見かねて、真琴が質問する。なお、達也は昨
日に引き続き、書庫に缶詰めである。レイナは例によって、少し離
れた場所でいろんな事に対して警戒している。
﹁あまりいい噂を聞かなくて、いろいろ心配になりまして⋮⋮﹂
真琴の問いかけに、ため息交じりにそう答えるエアリス。
﹁私達のせいで、皆様には相当ご迷惑をかけてしまって、申し訳あ
りません⋮⋮﹂
﹁子供は、そんな事気にしないの﹂
686
エアリスの消沈ぶりに、なんとなく苦笑が漏れる真琴。
﹁ですが、カタリナお姉様達だけでなく、他にも皆様の事を良く思
っていない人間もいるのですよね?﹂
﹁そりゃ、居ない方がおかしいわよ。いくら知られざる大陸からの
客人を王宮が保護してるって言っても、あたし達自身はどこの馬の
骨ともつかない、正体不明の怪しい集団でしかないんだし﹂
真琴の身も蓋もない意見に、現実の厳しさを思い知るしかないエ
アリス。いくら宏達が恩人だと言っても、それだけでファーレーン
という国家が全面的に受け入れるというのは無理がある。それが分
からないほど、エアリスは察しが悪くない。
﹁それにね。完全に一枚岩、トップの言う事はどんな不条理な事で
も絶対で、構成員の間で全く意見のブレが無い何されても裏切ると
いう考えが起こらない組織なんて、怖くて関わり合いになりたくな
いわよ?﹂
﹁構成する人員が完全に洗脳され切ってでもおらん限り、そんな組
織は存在せんじゃろうなあ﹂
﹁だから、関わり合いになりたくないのよ﹂
﹁違いないの﹂
真琴の言葉に、何やら書類を持ってきたドーガが口を挟む。
﹁とりあえず、昨日のお爺さんみたいなのもどうかとは思うけど、
687
あたし達の存在に異を唱える人間がいないってのも、それはそれで
組織としてはどうなのか、って思うわね﹂
﹁まあ、あ奴に関しては気にする必要はなかろう。あれは口だけじ
ゃ﹂
﹁そんな気はしてるけど、言われて愉快なものでもないわよ? し
かも宏とあたし達とで、わざわざ別々のタイミングで接触して個別
に文句言うとか、どうなのよ?﹂
﹁回数を増やした方が、いろんな意味で印象に残るからじゃろう?﹂
どうにもドーガとの意見が噛み合わない。何やら、前提とする部
分が違う気がする。
﹁そもそも、不自然だと思わんかったか?﹂
﹁⋮⋮まあ、確かに不自然だと思ったけど⋮⋮﹂
﹁お主たちに予断を与える事になるし、わしも確信を持っている訳
ではないからこれ以上の事は言えんが、見た目ほど単純ではない、
と言うところかの﹂
ドーガの言葉に、なんとなく察するところができる真琴。
﹁まあ、理由はともかく、お主らにとっとと出ていってもらいたい
のは本音じゃろう﹂
﹁何、そのあげて落とす発言⋮⋮﹂
688
ドーガがつけた落ちに、思わず苦笑が漏れる真琴。
﹁ですが、私も王宮からは早く出ていった方がいい、とは思ってい
ます﹂
﹁私も、姫様に賛成です﹂
﹁そうじゃな。こういうところは、一般人が余り長居するような場
所でもない﹂
驚くような事を言い出すエアリスに、真顔で同意するレイナとド
ーガ。この三人は、どちらかと言えば王宮入りに賛成なのでは、と
思っていただけに、真琴としてはどうしても戸惑ってしまう。
﹁居なくなってもいいの?﹂
﹁正直に言いますと、一緒に居られなくなるのは寂しいし悲しいの
ですが、私がここに戻ってしまった以上、会える機会が減るのは覚
悟しています。それは皆様がここにいても、城下の工房にいても同
じ事です。だったら、皆様にとって快適な場所で暮らしてくださっ
た方がうれしいのです﹂
﹁なるほどねえ⋮⋮﹂
﹁それに、ここに長く居ると、皆さまが私の事を嫌いになってしま
うかもしれない。それがとても怖いのです﹂
切なそうな表情でため息交じりに語るエアリスに、何とも言えな
くなってしまう真琴。
689
﹁それは、嫌われちゃうと美味しいものが食べられなくなるから?﹂
微妙な空気に耐えられなくなった真琴が、無理やり茶化してみる。
﹁マコト様! いくら私でも、そこまで食いしん坊ではありません
!﹂
それまで切なそうな顔をしていたエアリスが、顔を真っ赤に染め
ながら割と本気で怒る。とは言えど、言われてもしょうがないとい
う自覚はあるらしい。
﹁好きになった皆様に嫌われるのが悲しい、と言うのはそんなにお
かしなことですか?﹂
﹁全然。むしろ、当たり前のことね﹂
怒りのあまり泣きそうになるエアリスの言葉に、流石にあの茶化
し方は拙かった、と心底反省する真琴。とは言え、
﹁何にしても、大変よね。あのお人よしが、少々の事でエルの事を
嫌ったりはしないとは思うけど、あの女性恐怖症はなかなか厳しい
わ﹂
つつけるところは出来るだけつつきたい、と言う欲求には普通に
負ける訳だが。
﹁女性恐怖症でなくても、ヒロシ様にとっては私はせいぜい妹でし
かありません。切なくて苦しいのですが、その現実は嫌というほど
理解しています。だから、そう言う風に見てもらえなくても仕方が
無い以上、せめてヒロシ様の支えとなれる女になれるよう、できる
690
だけ努力するつもりではあります﹂
﹁⋮⋮真顔で返されると、それはそれで困るんだけど⋮⋮﹂
﹁話を振ったのは、マコト様ではありませんか。それに、確かに公
の場で口にするのは立場上問題がありますが、こういう非公式な場
で話題にするのは、別に問題はないと思っています。恋愛感情を語
ることも、そのためにどんな自分になりたいかを語る事も、照れは
しますが恥ずかしい事だとは思いません﹂
微妙に照れながらもはっきり言い切ったエアリスに、思いっきり
地雷を踏んだ事を思い知る真琴。彼女の想いの深さを嫌というほど
理解させられ、天然ボケとツンが行きすぎている二人の日本人女性
の先行きに、心底不安を感じるのであった。
﹁殿下から話は聞いている。必要な食材があれば何でも言ってくれ﹂
メインとなる厨房で料理長に挨拶をすると、口調こそ荒いがやけ
に友好的な言葉が返ってきた。
﹁随分待遇がいいんですけど、部外者に職場を荒らされるのは気に
ならないんですか?﹂
﹁珍しいものを作るんだろう? こう言ってはなんだが、我々の作
691
る料理もマンネリ気味でな﹂
なんとなく料理長の言い分に納得し、とりあえず卵と生クリーム
と砂糖、それから果物類を大量に要求する。それらを必死になって
仕込んでいると、奥のほうから悲鳴とも怒声とも付かない言葉が聞
こえてきた。
﹁ちっ! ラーザが一樽、腐ってやがる!﹂
その言葉に、思わず顔を見合わせる三人。ラーザというのは麦を
発酵させたこの世界の酒だが、ビールと違って発泡はしていない。
蒸留させていないウィスキーと言う感じが強い酒だ。それが腐る、
というのはなかなか妙な話である。
﹁師匠、お酒って腐ったっけ?﹂
﹁物によりけりやな。日本酒とかはたんぱく質が入ってるから腐る
こともあるみたいやし﹂
﹁もしかして、腐ったって言うのはお酢になっちゃってるんじゃな
いかな?﹂
この世界では、果物系以外の酸味は毒、もしくは腐敗として扱わ
れがちな傾向がある。特にファーレーン人は強い酸味が苦手な人が
多い。そして当然と言えば当然だが、いわゆるアルコール醸造を経
由してできる酢というのは、熟した果物に比べればかなり酸味がき
つい。つまり、ラーザが腐ったというのは⋮⋮。
﹁ちょい待ち。そいつは腐ってるんやないで﹂
692
﹁はあ? これだけ酸っぱかったら、完全に腐ってんじゃねえかよ﹂
宏の言葉に、とっさに反論する料理長。実際、このラーザ酢は、
そのままでは舐めるだけで意識が飛びそうなほど酸っぱい。
﹁そいつは調味料に使えるんや。量をわきまえれば体にええんやで﹂
いまいち信用できない、と言う表情をありありと浮かべる厨房の
連中に、証拠とばかりに入門編のマヨネーズ、応用編のポン酢など
を取り出しながら答える。地味に黒酢も作ってはいるが、こいつは
本来適していない土地で醸造するのを錬金術で強引にごまかしてい
るため、それほどの量は作れていない。
﹁何だそれは?﹂
﹁この白いやつはマヨネーズ言うて、そいつを使うて作る調味料や。
きゅうりにでもつけてかじってみ﹂
そう言って、率先してマヨネーズをきゅうりにつけてかぶりつく。
相変わらず程よい酸味が卓越した味わいである。
﹁⋮⋮本当に腐ってるんじゃないんだな?﹂
﹁そもそも、そんな味で分かるほど腐ってるんやったら、一口舐め
ただけでも下手したらなかなかやばい事なるで﹂
宏のその言葉に、思わずうなるように考え込みながらもマヨネー
ズを試してみる。
﹁変わった味だな﹂
693
﹁不味くは無いやろ?﹂
﹁⋮⋮まあ、な﹂
不信感バリバリながらも頷いてみせる料理長。その様子に気を良
くした宏が、次にポン酢と言うやつを個人的に一番うまいと思う食
べ方で試させることにする。その様子を見ていた春菜が、酢に対す
る考え方を改めさせるのを宏に任せ、自身はひたすらプリン作りに
専念することにする。
﹁ちょうどここに半ば保存食化したワイバーンの竜田揚げがあるん
やけど、こいつをそのまま食べた場合とこいつをかけて食べた場合
を試してみてや﹂
そう言って、大根のような野菜を摩り下ろしてポン酢とあえたも
のを用意する。なお、このワイバーンの竜田揚げは以前に春菜が用
意したものではなく、その後中途半端に残ったブロック肉の破片を
揚げたものである。揚げたて熱々のまま保存庫に放り込まれている
ので、味の劣化も一切していない。
﹁⋮⋮そのまま食べるのも悪くないが、こいつをかけた方がさっぱ
りして旨いな﹂
さすがに王城の総料理長ともなると、おろしポン酢の味も分かる
らしい。
﹁やろう? ここだけの話、エアリス姫様はこの辺の調味料使うた
料理が大好きやで﹂
694
﹁⋮⋮そうなのか?﹂
﹁そうやで﹂
さすがに今話題のお姫様が好んで使うと言われると、完全スルー
は出来ないらしい。なお、この場ではその存在を提示していないが、
エアリスはポン酢やマヨネーズに限らず、ケチャップにマスタード、
各種ソース、醤油、みそなど大概の味が大好きである。それどころ
か普通の酢漬けやわかめときゅうりの酢の物なども喜んで食べ、甘
みや油の味も好み、その一方でざるそばのつゆにわさびを適量投入
するのも躊躇わない、十歳児とは思えないものすごくストライクゾ
ーンの広い味覚をしている。とはいえ、あまりに度を越して濃かっ
たり極端だったりする味付けや、単体の調味料の味しかしない味付
けは拒否するところを見ると、実のところ単純に日本人の大人の味
覚に近いだけなのだろう。
﹁料理長さんやったら、この手の調味料の使い道はドンと来いやろ
?﹂
﹁⋮⋮そうだな。いろいろインスピレーションが湧いてきた。悪い
んだが、まずはこのマヨネーズとやらの作り方を教えてくれ﹂
﹁了解や。ほかにも酢漬けとか酢の物なんかも教えるわ﹂
そう言って、マヨネーズの作り方から始まるお酢の上手な使い方
講座を機嫌よく進めていく。一通り終わったところで、春菜がプリ
ンの第一弾を蒸し上げていた。別に焼いて作ってもよかったのだが、
蒸すと言う調理法を教えるためにあえて蒸して作ったらしい。春菜
個人が、蒸して作ったプリンのほうが好みだと言うのも理由の一つ
である。なお、後で簡単に容器から抜けるように、澪が即席でいろ
695
いろ容器に細工していた。スイーツのためなら手間を惜しまないあ
たり、彼女も女の子である。
﹁宏君、お疲れ様﹂
﹁あ、ごめん。そっち手伝わんかった﹂
﹁澪ちゃんがいたから、大丈夫。プリンぐらいだったら、そこまで
腕の差は出ないし﹂
そう言って、第一弾約三百個ほどを冷蔵保存する。
﹁さっきのはなんだ?﹂
﹁そういえば、妙な調理の仕方をしていましたよね?﹂
新たな未知の料理を見て、料理人たちが集まってくる。
﹁あれはプリンって言って、私の国で一般的に食べられているお菓
子です。さっきの調理方法は蒸すといって、蒸気を使って加熱しま
す﹂
そう言って、蒸し器をはじめとした道具の構造を見せる。
﹁普通に直接焼くか煮るか茹でるんじゃ、駄目なのか?﹂
﹁味とか食感が結構違うんですよ。また明日にでも、一緒に蒸し料
理をしてみましょうか﹂
﹁ああ。お前達のせいでエアリス様の舌が肥えて大変だと伺ってい
696
るからな。責任とって、今現状でどうにかできることは洗いざらい
教えていってくれ﹂
料理長の言葉に苦笑をもらす三人。こうして宏と春菜は、むしろ
一番最初に胃袋をつかむための部署を味方に引き込んでしまうので
あった。
697
第17話︵後書き︶
この手の超加速系って、加速する本人が自分の意志で即座につかえ
ないと
正直あまり使い物にならない気がする。
698
第18話
﹁お二人とも、ひどいです⋮⋮﹂
エアリス主催のお茶会。その席でプリン・アラモードをつつきな
がら、主催者が宏と春菜に恨みがましく言い募る。
﹁いや、向こうおった時はしょっちゅう食べてましたやん⋮⋮﹂
﹁ヒロシ様、その口調は駄目です。向こうにいた時のようにお話し
ください。呼び方もエルでないとだめですよ?﹂
宏の反論に更に機嫌を損ねた感じのエアリスが、すねたようにお
願いの形をとった命令をしてくる。その言葉に困ったように同席し
ている大神官や侍女に視線を走らせると、二人とも意味ありげにに
やにや笑いながら頷いて見せる。休憩も兼ねて参加しているマーク
は、見て見ぬふりでお茶を口に運んでいる。
﹁⋮⋮まあ、それでええんやったらかまへんけど⋮⋮﹂
意味ありげに笑っている連中の視線に居心地悪そうにしている宏
を、苦笑しながら観察する春菜。ちなみに、このお茶会の参加者、
残りはドーガである。この場にはレイナもいるが、彼女は警備とし
て後ろに控えている。現時点ではまだ明確に敵と味方を仕分けして
いないため、今回は安全パイでかつ時間の都合がつけられたメンバ
ーだけで集まっているのだ。言うまでも無く、盗聴対策はばっちり
である。なお、真琴と澪、達也の三人は現在、それぞれ別の場所で
プリンを配っている。
699
彼の重鎮の釣りとガス抜き、それに日本人達のおやつばら撒き作
戦により、大体の勢力図は確定したと言ってもいい。だが、それで
も敵ではない人間全員が好意的になる訳ではない。それに、場の空
気に合わせてどっちつかずの態度をとる人間などいくらでもいる。
特にエアリスに関しては、先の夜会で評価は急激に回復しつつある
ものの、それまでがそれまでだけにまだまだ予断を許さないレベル
なのだ。
なお、この場にいる侍女はそこそこ年配の人で、エアリスに悪い
噂がたってから二度ほど彼女と接触した事がある、元々彼女よりの
人物だ。カタリナの関係者とはそりが合わず、エアリスがらみの事
もあって冷遇されていたところを拾われ、専属に抜擢されたのであ
る。
﹁呼び出せばいつでも食べられるプリンを持ってくるん後回しにし
ただけで、そこまですねんでも⋮⋮﹂
﹁エアリス様が怒っておられるのは、それだけではありませんぞ﹂
宏のぼやきに対し、穏やかな笑みを浮かべながら釘を刺しに回る
大神官。因みに結構な甘党で、一緒に持ち込んだサーターアンダギ
ーもどきのドーナツも、彼一人でかなりの量を平らげている。年の
割には旺盛な食欲と、それだけ食べても太らないように鍛えあげら
れた肉体が、大神官と言う草食系のイメージがある職位とはいまい
ち一致しない。
﹁お二人とも城に上がられてからは、初日の夜会の場以外では一度
もエアリス様とお会いしていないはずです﹂
700
﹁あ∼、そう言えば⋮⋮﹂
﹁割とバタバタしとったからなあ⋮⋮﹂
なんだかんだと真琴達三人はエアリスと接触していたが、単独行
動が多かった春菜と戦闘訓練以外は宮廷医や薬師に引っ張りだこだ
った宏はタイミングがなかなか合わず、この一週間は一度もエアリ
スと話をしていない。
﹁お忙しいのは分かっています。わがままを言って困らせることに
なってしまうのも理解しています。機会が減るのも覚悟はしていま
した。でも、お二人に会えないのはやっぱり寂しいのです⋮⋮﹂
﹁そう言うてもなあ⋮⋮﹂
﹁私達も、いずれこの国からは出ていく訳だし⋮⋮﹂
﹁分かっています。分かっているからこそ、会えるうちに出来るだ
け会いたいのです﹂
そんな事を言いながら二人を、正確には主に宏をじっと見つめる
エアリス。その瞳に潜むある種の熱を見てとり、思わず内心でため
息をつく春菜。
﹁まあ、出来る限り時間は作るけど⋮⋮﹂
﹁僕の方はともかく、春菜さんは割と厳しいんちゃう?﹂
﹁ある程度切ってはいるけど、正直難しい﹂
701
宏の問いかけに、無意識に自身の金糸の髪をいじりながら難しい
顔で答える春菜。夜会での活躍に加え、アルフェミナの秘術を授け
られた事が知れ渡っている彼女は、今やエアリスと並び、国の中枢
で最も注目を集めている人物だ。それゆえにいろいろなところから
いろいろな催しに誘われており、体がいくつあっても足りない状態
になっている。おかげで宏から完全にマークが逸れたため、最初心
配していたような全員参加を言ってくるような催しは綺麗に無くな
った。
これ以上禁書庫に入って、また余計な何かを引っ掛けては拙いと
言う結論の元、書庫の調査からは外れているのでちょうどいいとい
えばちょうどいいのだが、性格上女の武器を駆使するような戦いは
苦手なのが不安要素ではある。元々彼女の最大の武器は注意力と機
転とはいえ、あからさまなセクハラを何度もされてどこまで我慢で
きるかは、本人ですら何とも言えないというありさまだ。
とりあえず、男性しかいない身の危険を感じる種類の催しや、女
性主体の茶会などでも胡散臭い人物がいるものはすべて断り、それ
以外は地位に関係なく先着順で対応しているが、先着順を徹底して
しまっているがゆえに、エレーナやエアリスの誘いを断らざるを得
なくなっている。今回は春菜が味方につけた使用人ネットワークを
逆利用し、この時間なら空いていると言う確定情報をつかんだ上で
強引に予定を合わせて誘ったのだ。
﹁エレーナ様やエルちゃんを最優先にするのは、私達にとっても王
家の皆様にとってもいい事にはならないし﹂
﹁それは分かっています。分かっているから、今回はこんな強引な
手を使ったのです﹂
702
﹁どっちにしても、もうちょっと時間をかけて吟味して、エルちゃ
んを誘っても大丈夫そうな人を確定しないと危ないから、それまで
は我慢して﹂
春菜の言葉に、不承不承と言う感じで頷くエアリス。春菜が自分
達のためにがんばってくれていることなど、最初からちゃんと分か
っているのだ。
﹁とりあえず、宏君は都合が付くならできるだけエルちゃんに付き
合ってあげて﹂
﹁了解。ただ、春菜さん﹂
﹁何?﹂
﹁気ぃつけや。今一番狙われやすいん、多分自分やから﹂
宏の言葉に、真剣に頷く春菜。それぐらいの自覚はちゃんとある
のだ。
﹁宏君のほうも注意してね。出来れば真琴さんか澪ちゃんと一緒に
行動してくれると安心できるんだけど⋮⋮﹂
﹁まあ、春菜さんの存在がデコイになってる感じで、あんまり僕の
ほうにちょっかいかけに来る人間はおらへんのが救いやな、そこら
へんは﹂
﹁三級のポーションや万能薬を作る事が出来る、という意味を理解
している人間は、相手方には案外少ないようですからな﹂
703
大神官の言葉が、宏の立ち位置を明快に説明している。薬と言う
のはその重要性に反して、どうにも地味なのだ。特に、ファーレー
ンはそこまで製薬のレベルが低くない。流石に学術都市・ルーフェ
ウスを抱えるローレンには一歩劣るとはいえ、国内にいる薬師で五
級までは普通に製造可なのだから、低レベルとは口が裂けても言え
ない。そして騎士団レベルでも基本的に五級の薬があればある程度
どうとでもなる以上、三級だの二級だの、材料を揃えるだけで怪我
人を量産しかねないようなポーションなど、作れる人材がいても意
味が無いと考える人間が多くても仕方が無いだろう。
流石にこれが一級ともなると、死んでなければ何でも治るレベル
になる。そこまで突き抜ければ、それこそ色仕掛けだろうが冤罪に
よる逮捕だろうがどんな手を使ってでも手元に置いておこうとする
だろうが、宏が作ってみせたのは三級まで。現実には一級も作れる
のだが、もしかしてと考える人間より実質材料的な意味で作れない
三級程度にはこだわる必要が無いと考える人間の方が、王家と対立
している集団には多い。更に言うならば、重要性を理解している人
間は、藪蛇を恐れて手を出してこない。
そんなこんなで、呼び出されたのは王族サイドの有力者に一度だ
け、それも全員でかつ宏は夜会免除、こまごまとした相談に乗るの
がメインの要件だった。それ以降は特に呼ばれる事もなく、現在宏
の周りだけは奇妙な無風状態が続いている。
﹁そうや、忘れとった﹂
いきなり話をぶった切って、素っ頓狂な声を上げる宏。
﹁王太子殿下、どっかで空き時間あるかな?﹂
704
﹁お兄様ですか? 夕食後ならば大丈夫かと思いますが?﹂
﹁会うのは構わないと思うが、一体何の用があるんだ?﹂
レイオットに何か用なのか、と、小首をかしげて不思議そうな顔
をするエアリスとマーク。現在不穏分子を一掃するために、水面下
でいろいろやっている王太子殿下。下手に日本人一行と接触を持つ
とお互いにとって面倒なことになるため、基本的に日が高いうちに
顔を合わせる事は一切無い。
そのレイオットが接触を避けている理由をちゃんと理解している
はずの宏が、唐突に用事がある事を言い出す。その事がエアリスに
とって、かなり不思議でしょうがなかった。マークにしても、宏が
この状況で会いたがる、それほどの用事と言うのが思い付かない。
﹁まあ、大した用事やあらへんねんけど、ポールアックスを打ち直
した時に、ついでに余っとった魔鉄とミスリル使うて、長剣一本作
ったんよ﹂
﹁それを、殿下に献上する、と?﹂
﹁まあ、そんなとこや。ただ、前に持ち歩いとった剣を見せてもろ
た事があって、その時の記憶を参考にバランスとか取ってるから、
いっぺん振ってもろて調整せんとあかんねん﹂
宏達のチームでは、長剣を扱う人間はいない。いくら材料の残り
がちょうどよかったと言っても、わざわざ今更恩を売らなくてもい
い相手のためにそんなものを作ろうと思った、その理由がピンとこ
ない宮廷関係者一同。
705
﹁作ろう思った理由は、冗談抜きでついでやで。で、どうせ材料貰
いもんやねんし、王家に返すんが筋やろう思うてそこそこのレベル
のんを作った、っちゅうとこや﹂
どうにも納得していない様子の彼らに対し、苦笑しながら理由を
再度告げる。
﹁そこそこの、ですか⋮⋮﹂
﹁そこそこの、やで。最高傑作となると、そもそも素材自体が桁違
いやし﹂
魔鉄やミスリルを使ってすら、そこそこ。宏の最高傑作という奴
は正直想像できないし、したくもない。
﹁手斧とかツルハシとかを作るんじゃ駄目だったの?﹂
﹁どっちも、普通の鉄と魔鉄で採集できる範囲がさほど変わらんね
ん。そのくせ材料がものすごい微妙に余るし、今後武器としての出
番も減るかもしれへんって考えたら、貰うたところに返しといたほ
うが無難やろ、思うてな。素材として抱えとくにしても、魔鉄なん
ざ次いつ回収できるか分からへんし﹂
実のところ、オリハルコンぐらいまでは、鉱石の段階なら鉄のつ
るはしで掘り出す事が出来る。あの手の金属は精製して初めて本来
の能力を発揮するものであり、採掘にコツこそ必要ながら、鉱石自
体はただの岩だ。
木材にしても、伐採の方法にコツは必要なれど、必要な斧の強さ
自体は知れている。ごく一部の鋼をものともしない樹木や特殊な金
706
属でしか伐採出来ない樹木を除けば、基本鉄で全て賄えるのである。
故に、魔鉄で採集用の装備を作るメリットはほとんど無いのだ。
﹁まあ、それを作った理由は理解した。だが、それなら別段、今で
なくてもいいんじゃないか? わざわざリスクを冒して、兄上と接
触する必要を感じない﹂
﹁正味な話、僕に届くレベルの噂ですら、なかなか物騒な話がいろ
いろ混ざっとるし、王族の一番重要なターゲットが少しでもええ装
備持っとくんは悪いこっちゃないと思うで﹂
﹁⋮⋮そうじゃのう。黒幕がわしらの想定通りならば、そろそろ物
理的な手段に出る可能性も否定できん﹂
﹁おそらく、ここまで綺麗に地脈を浄化されてしまった事は、想定
外どころの騒ぎではないでしょうからな﹂
ドーガと大神官の言葉に、表情を引き締めながら一つ頷く四人。
レイオット曰く、あとひと押し。そのひと押しで、﹁敵﹂がこれ以
上日和見をする余裕は無くなる。そのために、露骨なまでに内部分
裂を起こしているふりすらしているのだ。迂闊な動きでふいにした
くは無い。
﹁ちょっと疑問やねんけど、自分らを手こずらせた相手にしては、
あんまりにも簡単にあれこれに引っかかりすぎてへん?﹂
﹁そうだよね。こんなに簡単に引っかかるんだったら、もっと早く
にけりがついてるよね?﹂
707
宏と春菜の疑問に、微妙な苦笑を浮かべるドーガと大神官。何と
も言えない表情を浮かべるマーク。
﹁これはあくまでも仮説なのですが、瘴気に侵された人間は、それ
と分からないうちに思考能力や判断力が落ちていくのではないでし
ょうか?﹂
﹁その根拠は?﹂
﹁カタリナ様の言動、その変遷を考えると、そう結論をつけた方が
しっくりくるのです﹂
大神官の言葉に、同意するように頷くマーク。実際、半年前のカ
タリナはもっと話も通じれば自制心もあった。それが最近では、加
速度的に意志の疎通が困難になってきている。
﹁あと、一気に状況をひっくり返されて、焦っておるというのもあ
るじゃろうな﹂
﹁焦って取り戻そうとすると視野が狭くなって、大抵は余計に深み
にはまって状況が更に悪化するものですしな﹂
ドーガと大神官の言葉に、ひどく納得してしまう宏と春菜。
﹁本当に情けない話ですが、正直なところ、この一件で明るみに出
るまで、彼らがあそこまで瘴気に浸食されている事には全く気付け
ませんでした。今にして思えば、もしかしてと思うところはいくつ
もあったというのに、です﹂
﹁まあ、モンスターと違うて、人間はよっぽど行きついてない限り、
708
感知できるほどの瘴気は外に漏れへんみたいやし、それもバルドと
かやったら普通に隠せるらしいしなあ﹂
宏の言う通り、普通にしているとバルドですらそこらの人間と全
く気配が変わらない。理屈は分からないが、エルフなども含めた、
いわゆる人間に分類される知的生命体は、発散する瘴気がそれ以外
の気配に紛れやすいようなのだ。
元々、瘴気を感知できるのはそれ専門の訓練をしているか、宏や
澪のように極端に感覚が鍛えられているかのどちらである。それだ
け感知が難しいものが他の気配に紛れやすいとなると、どう頑張っ
てもひどく浸食されていることなど分かるまい。
﹁忙しくて聞く暇がなかったんだけど、最終的に同じことをするん
だったら、どうして今の段階で怪しい人を集めて歌を聞かせないの
?﹂
﹁それが解決につながらないからだ﹂
﹁マー君や、その心はいかに?﹂
﹁この場でマー君言うな﹂
宏の混ぜ返すような一言に眉をひそめながらも、とりあえず宏と
春菜に解説してやることにするマーク。
﹁主な理由は二つだ。一つ目は、瘴気に侵されているだけでは罪に
はならないこと。モンスターの大規模討伐やアンデッドの駆除なん
かをすれば、それだけで浄化するときに苦痛を覚える程度には瘴気
を溜め込むことも少なくないし、土地の状態によっては、ただ暮ら
709
しているだけで知らぬうちに侵されていくこともある﹂
﹁なるほど。浄化という回復手段がある以上、そういう人たちをた
だそう言う場所にいただけ、そういう仕事をしただけで処罰するの
は拙いよね﹂
﹁そういうことだ。そんなことをすれば、誰もアンデッドを相手に
してくれなくなるからな﹂
納得できる回答に頷いていると、マークがもう一つの理由を告げ
てくる。
﹁もうひとつは、連中全員が瘴気に犯されているわけではないこと。
残念ながら、素面で今の姉上と運命を共にしようとしている愚か者
も結構いるのだ﹂
﹁付け加えると、貴族どもは誰が取り返しがつかんほど瘴気に犯さ
れているかはほぼ把握できているがの、文官や使用人のレベルにな
るとはっきりとは分からんのじゃ。彼らを放置しておいて、有事の
際に利用されては目も当てられんし、かと言うて先に排除するのも
人数を考えると難しい。どさくさにまぎれて隔離するのが一番現実
的でのう﹂
﹁瘴気の話がさっきのとおりやったら、素面で狂っとるやつらはと
もかく、浄化したら使える奴も居るんちゃうん?﹂
﹁そういう人間は、とっくの昔にこちらに寝返っている。早い者は
お前達が参加した夜会のときに、遅くてもハルナがアルフェミナ様
の奥義を得たという情報を流した時点でな﹂
710
﹁その段階でこちらに寝返っておらん連中は、残念ながら浄化した
ときの命の保証がないらしくてな﹂
宏の質問に対するマークとドーガの回答が、今の状況をすべて説
明している。
﹁せやったら、そいつらそのまま粛清したらええやん。それとも、
まだ証拠が足らん?﹂
﹁これがダールなら、とっくに解決している程度の証拠はあるんだ
が⋮⋮﹂
﹁ファーレーンでは、先々代のことがまだ風化したわけではないか
らのう。取り巻きがもう少し少なければ、カタリナ殿下とバルドを
強権を持って始末すれば終わりなんじゃが、それをすれば王族の強
権行使を大義名分として、正当に反乱を起こしたことにしそうな連
中が少なくない﹂
﹁かといって、先手を打ってそれをすべて粛清すれば、それこそ国
を割った戦乱に突入しかねません。残念ながら、賢明かどうかとは
また別問題で、先々代のことが呪縛となって王家による粛清という
行動に拒否感を持っているものは多いのですよ﹂
ドーガと神官長の言葉が、今現在の状況の面倒くささを物語って
いる。言ってしまえば、この国は王家の強権発動に対し、極端なア
レルギーを持っているのだ。日本の自衛隊に対する腫れ物に触るよ
うな態度や、ドイツのインフレ恐怖症、アメリカの国民皆保険に対
するある種病的に見える拒否感などが近いかもしれない。
外部から見れば明らかにおかしい態度でも、その国の空気ではそ
711
れ以外の選択肢がない、というケースは枚挙に暇がない。ファーレ
ーンの場合は、それが最高権力者の手足を縛ってしまっていること
が最大の問題なのだ。
﹁何にしても、近いうちに片がつくだろうとアルフェミナ様もおっ
しゃっています。あと、今夜から三日ほど、ハルナ様の身の回りに
注意せよ、とも﹂
エアリスの真剣な表情に、何とも言い難い気持ちがわき上がる春
菜。睨まれている自覚はあるが、話がそこまで進んでいたのは予想
外であった。
﹁そうなると、ちょっと厄介かも﹂
﹁厄介、ですか?﹂
﹁今日の晩、ロアノ侯爵に夕食に招待されてるの。流石にその場で
何かをしてくる事は無いとは思うんだけど⋮⋮﹂
春菜の言葉に、厄介の意味を理解して黙りこむ。ロアノ侯爵は彼
らが敵だと見込んでいる一派の、それも首魁に近い位置にいる人物
だ。断るのも不自然だったために承諾したが、無事に帰れるかどう
かが悩ましい。
﹁ハルナ。エスコート役は居るのか?﹂
﹁一応、達也さんにお願いしようかと思ってるんだけど⋮⋮﹂
﹁それなら、私が代わりに行こうか?﹂
712
マークの問いに対する春菜の回答、そこに割り込んで口をはさん
だのは、アヴィン殿下であった。
﹁殿下!?﹂
﹁兄上!?﹂
﹁お兄様、それは少々問題なのでは⋮⋮﹂
急に表れた長兄に対し、困惑をあらわにしながら反論を試みるエ
アリス。余りに登場が唐突過ぎて、絶句するしかないドーガと大神
官。言っている内容があまりにも危険である事も、二人が言葉を失
った理由である。なお、マークは声を上げた直後に言いたい事をエ
アリスに言われ、とりあえず黙っている。
﹁エアリス。それは、婚約者がいる身の上で他の女性をエスコート
することに対してなのか、それともわざわざ怪しい動きをしている
連中のもとに警護対象である王族がのこのこ顔を出す事なのか、ど
ちらかな?﹂
﹁この場合、両方と言う事になるかと思いますわ、お兄様﹂
﹁まず、前者については問題ないよ。我が婚約者殿は実に心の広い
女性だ。可愛い妹達の恩人が困っている、と告げた所、男なら女性
を体を張ってでも守るものだ、というありがたい返事が帰ってきて
ね﹂
﹁⋮⋮流石はプレセア義姉さまです⋮⋮﹂
ファルダニア次期女王たるプレセア王女の、実に豪快なメッセー
713
ジ。それを聞いて憧れと感心が入り混じったような表情を浮かべる
エアリス。堂々と惚気られて、砂糖でも吐きそうな顔をしているマ
ークの様子に、思わず余計なシンパシーを感じそうになる宏と春菜。
﹁それでも浮気を疑うようならば、通信具を使って惚気話でもして
やれば一発で黙らせられるだろう﹂
﹁⋮⋮頑張れ、春菜さん⋮⋮﹂
﹁⋮⋮うん、頑張る⋮⋮﹂
独り身にとって最強の嫌がらせとも思える手段をさらっと言って
のけたアヴィン。人前でいちゃつく事に全く抵抗を覚えないその態
度に対し、急に疲れを感じ始める宏と春菜。
﹁後者についても、それほど心配いらないよ。ロアノは私には手を
出せない。私に何かあってファルダニアとの関係がこじれるのは、
彼にとっては致命的だからね﹂
﹁そう言えば確か、ロアノ侯爵家の主要な取引先は、ファルダニア
の商人でしたな﹂
﹁ああ。仮にファーレーンとファルダニアの関係がこじれなくても、
彼の食事会に私が参加して何か危害を加えられた場合、彼の国の商
人がロアノと取引などすると思うかな?﹂
アヴィンのその言葉に、苦笑しながら首を横に振るしかない一同。
ロアノ家の特産品は乳製品と一部の果実。実際のところ、その程度
のものはファーレーン国内を探せば、代替え品などいくらでもある。
ただ単にロアノ家のものがファルダニア人の好みにあっているだけ
714
の話で、大差ない味のものも無い訳ではない。後は生産量の問題だ
が、それもファーレーンの農業技術ならば、その程度の余計な需要
を満たすぐらいは問題ない。
要するに、わざわざ王家の不興を買ってまで商売を続ける必要が
あるほど、重要な取引がある相手ではないのだ。
﹁そうなると、後は夜中だけの問題やな﹂
﹁職人殿には、何か思いつく手があるのかな?﹂
﹁春菜さんが今借りとる部屋の入り口にな、ちょこっと細工しよう
か、思ってんねん﹂
﹁入り口に? それだけで大丈夫なのか?﹂
アヴィン殿下の問いかけに、ニッと一つ笑って見せる宏。
﹁侵入防止を考えへんかったら、それで十分やで。単に春菜さんに
安全圏に避難してもらうだけやねんから﹂
﹁安全圏? ⋮⋮もしかして、部屋の扉をどこかに繋ごう、と言う
のか?﹂
﹁まあ、そんなとこや。転移系やと逃げた先がばれる可能性がある
から、特定条件で空間を繋いだればええかな、って﹂
あっさりとんでもない解決策を言い切る宏。その斜め上の台詞に、
今度はアヴィン殿下が額を押さえる。
715
﹁本当に、君と話をしていると常識と言うもののありかが分からな
くなってくるよ﹂
﹁殿下に言われとうないで﹂
宏の切り替えしに、にこやかに笑ってごまかすアヴィン。
﹁二人とも、笑いごとでは⋮⋮﹂
﹁マー君、ここは常識と言うものを投げ捨てる場面だよ﹂
﹁兄上が言わないでください! と言うか、こういう場でマー君と
呼ばないでください!﹂
あっさりいじられて絶叫するマークを、生温い目で見守る春菜。
それなりに有能なのは間違いないのだが、まだまだ修行が足りない。
﹁因みに、避難先は?﹂
大声で抗議するマークをしれっと放置して、話を元に戻すアヴィ
ン。その様子に、これ以上はどう対応してもいじられるだけだと判
断して、何も言わずに黙っている事にするマーク。
﹁工房にするつもりや。あそこは今、そう簡単に侵入できへんよう
にしてあるし﹂
﹁ここより安全な工房とか、すごく皮肉が効いてるね﹂
﹁魑魅魍魎がおらん分、安全やからな﹂
716
宏達が借り受けるようになってから一カ月に満たない時間で、あ
の工房は下手な要塞より強固な防御機能を有する事になってしまっ
た。特定の人物か正規の手段で中に入った存在以外は、澪が仕掛け
た職人と罠師のスキルを高度に融合させたあれで何なトラップの数
々に迎撃される羽目になるし、そもそも洒落が通じない強度の侵入
防止結界が張られているため、そこを突破するだけでも一仕事だ。
エレーナとエアリスと言う重要人物を預かる羽目になったために
必死になって強化した、本来なら既に用済みのはずの防衛システム
が、今度は違う形で役に立とうとしているのだから世の中奥が深い。
﹁何やったら、レイオット殿下とエレーナ姫と、後エルの部屋の扉
にも仕込んどくけど?﹂
﹁レイオットとエレーナは避けた方がいいだろうけど、エアリスに
関しては必要かもしれないね﹂
﹁いっそなんか口実作って、春菜さんの部屋にエルが泊まりに行く、
っちゅうシチュエーションにしたらどないかな?﹂
﹁なるほど。彼らからすれば、排除したい人間が同時に一ヶ所に集
まる絶好の状況。罠を疑いはしても、そろそろ後が無くなってきて
いるから、分かっていても食いつくしかないだろうね。おあつらえ
向きに、罪をかぶせるのにうってつけの人間がこちらにいる訳だし﹂
なかなかに黒い会話をして、方針を固めに走る一同。
﹁ほな、念のためにドーガのおっちゃんとレイナさんも向こうに飛
ぶようにして、春菜さんが今使うてる部屋には、囮として僕が入っ
とくわ﹂
717
﹁ちょ、ちょっと! 暗殺者が来るかもしれないところに宏君一人
って、それは拙くない!?﹂
﹁むしろ、僕一人の方が都合ええんちゃうかと思うねん。騎士の皆
さんに隠密行動とか無理やろ?﹂
﹁それでも、ヒロシ様がするべきことではありません!﹂
もはや誰が囮なのか分かったものではない会話を苦笑しながら聞
き届け、この後のために席を立つ大神官。突っ込みを入れるだけ無
駄だろうと判断し、実務的な問題を列挙してアヴィンと打ち合わせ
に入るマーク。彼らにつられて、それぞれの役割に戻る一同。そろ
そろ、本格的な勝負の幕が切って落とされようとしていた。
エレーナ付きの筆頭侍女・オリアは、自身の心の動きに戸惑って
いた。
︵どうして、ここまで自分の気持ちをコントロールできないのかし
ら⋮⋮︶
エレーナに言われるまでもなく、自分が王宮勤め失格の態度で宏
達に接している自覚はある。診察の度に気を引き締め、次こそはち
ゃんと王女付きの侍女として恥ずかしくない態度を取ろうと意識し
718
ているのに、いざその場になると、湧き上がる強烈な憎悪に我を忘
れないようにするのが精いっぱいになってしまう。
確かに、治療の時に置いて行かれた事に関しては、オリアの中で
納得がいかない部分はあった。だが、それ自体は痩せはしたものの
健康になって戻ってきたエレーナを見た瞬間、どこかに飛んで行っ
てしまう程度のものにすぎなかった。
自身に異変があったのは、夜会の翌日にエレーナの主治医として
宏を紹介された時だった。生理的にあわない訳でもなければ威張り
くさって感じが悪い訳でもない、どちらかと言えば好感を持てる相
手だったはずの宏。その彼を見た瞬間、思わず衝動的に殴りかかり
そうになった。
自分でもその信じられない衝動に内心驚きつつも、余計な事をし
でかさないように診察の間ひたすら我慢し続けたのだが、正体不明
の憎悪を外に漏らさずに済ます事は出来なかった。これは拙いと思
い、診察が終わった後に頭が冷えるまでしばらく役目を外してもら
おうと言おうとした瞬間、既に心の中では整理がついていたはずの
怒りが、理不尽な文句となって勝手に口をついて出てしまった。
︵まるで、私の心が私のものではなくなっているみたい⋮⋮︶
客人達が絡まない事柄は普段通り冷静に、何の問題もなくこなす
事が出来る。なのに彼らを、特に宏と春菜の姿を見た瞬間、いわれ
のない怒りと憎しみが全身を支配し、間違ってもやってはいけない
事ばかり頭に浮かんでくるのだ。それをしないように自制するだけ
でいっぱいいっぱいで、感情が外に漏れないようにする、などと言
う事は不可能だった。
719
もしかして、知らぬ間に瘴気に侵されているのかもしれない。今
までに漏れ聞こえてくる話を総合すると、瘴気に浸食されている人
間は、全く自覚症状が無いという。オリアの場合は自分で自分がど
こかおかしいと自覚しているが、そういう例外があっても不思議で
はない。そう疑って神殿で浄化をしてもらったが、特に体に変化は
無かった。何かおかしな呪いの類でもかかっていないか、それも確
認したが問題なし。
二度目の診察の後、言わずとも事情を察したらしいエレーナがし
ばらく休みをくれたのだが、取れる対応が全て空振りした以上はど
うにもならない。このまま戻る訳にはいかない以上、取れる手は辞
表を出すか首にしてもらう事だけだ。だが、辞表を出すという行動
が取れるかどうか、自分でも全く自信が無い。
︵このままだと、大変な事をしてしまう。早く何とかしないと⋮⋮︶
そんな事を考えながら、見るともなしに部屋の中を見渡す。心の
片隅で、もしかしたら部屋の中に何か妙なものが置いてあり、それ
によってコントロールされてしまっているのではないか、などと言
う都合のいい事を考えながら。
彼女は気がつかなかった。机の上に全く見覚えのない黒い飾り籠
が、何の変哲もない籠ですという顔で居座っていた事に。
720
︵どこまでも小賢しい女だな⋮⋮︶
表面を笑顔で取り繕いながら、ロアノ侯爵は内心で激しく舌打ち
していた。彼らが仕掛けたイメージ操作は、春菜達がばらまいたプ
リンやシュークリーム、バウムクーヘン、まぜるんばなどの手間が
かかる珍しいお菓子類やマッサージチェアなど便利グッズの前に、
何一つ成果を上げる事が出来なかった。
たかがお菓子、されどお菓子、である。しかも、当人達が直接ば
らまいて、作り方を教えて、普段出歩けない区域の噂話まで持ち込
まれれば、歓迎しない人間はまずいない。そうやって城の隅から隅
まで顔を売ってのけた彼らに対して、そう簡単にイメージ操作など
できはしない。最近は事務方に使い勝手を追求した非常に手間がか
かったペンと計算機、全ての休憩室にマッサージチェアをプレゼン
トして回っているらしく、その使いやすさや気持ちよさにファンが
急増中だとか言っていた。
そして、もともと近衛や親衛隊は実力主義ゆえ、ワイバーンを仕
留められるような人間を下に見る事は無い。それ以前の問題として、
城に常備されている材料を使っているとはいえ、効果の高い薬や喉
から手が出るほど欲しかった機材をたくさん用意してくれた宏やそ
の仲間を、悪く言う人間など存在しない。
これが、押しつけがましく物で釣ろうとしているのなら話は別だ
が、彼らの場合はどちらかと言うと、休憩時間に手土産を食しなが
らの世間話で出てきた困りごとを、宏や澪がその製造能力で解決し
て回ったと言う形なのだから、そう言う方向で嫌われる事もあまり
ない。しかも、渡したものが簡単なものなら、その作り方やメンテ
ナンスのしかたまで伝授しているので、居なくなってもすぐに困る
事は無い。
721
つまるところ、悪い噂を鵜呑みにする人間は、もともと自分達よ
りの貴族階級か、それほどちゃんと噂を確認しないタイプの、それ
も直接面識を持つ機会が無い人間しかいないのだ。それどころか、
そんな話をすれば、むしろ馬鹿にされるか軽蔑されるかで、まとも
に取り合ってすらもらえない有様である。ここまで見事に物欲に屈
したのは初めての経験だ。
﹁それにしても、最近は随分とご活躍のようで﹂
﹁とてもお世話になっている割に、大した仕事は出来ていないのが
心苦しい限りですが﹂
ロアノのお世辞に、そつなく切り返す春菜。食事をする姿にして
も、完璧なテーブルマナーを実践しながらも、実に美味しそうに食
べてみせる。時折給仕や料理人に声をかけ、食材や調理方法につい
て説明を受け、逆にアレンジについて提案をしているところを見る
と、敵地だと言うのに普通に食事を楽しんでいるようだ。嫌がらせ
に食べるのにコツが必要な料理を何点か混ぜさせたのだが、戸惑っ
た様子も見せずに普通に食べられてしまっては、嫌みを言う事も出
来ない。
﹁そう言えば、ハルナは我が国の正式なコースを食べるのは、これ
で何度目ぐらいになるのかな?﹂
春菜が料理人に提案していたアレンジを、それも美味しそうだと
にこにこしながら聞いていたアヴィンが、思い付いたように話を振
る。
﹁そうですね⋮⋮。今回でようやく五度ほどになります。まだこの
722
国に来てから二カ月ほどですし、そもそも基本的に外食するより、
ファーレーンの食材や料理と祖国の料理のいいとこどりをしようと、
いろいろ自分達で試す事の方が多かったもので﹂
春菜の回答に、所詮は貧しい冒険者か、と蔑むような視線が集中
する。その視線を綺麗に無視し、話を続ける二人。
﹁そう言えば、君達の作るものは、どれも素晴らしく美味しいとエ
レーナやエアリスが言っていたよ。実際、以前ご馳走になったもの
も、我が国のフルコースに勝るとも劣らない見事なものだったしね﹂
﹁お気に召して何よりです。ですが、やはり正式な格式の高い食事
は、私が中途半端に真似をしたものより、味も見栄えも随分上です
ね。現状では、ここまでのものはとても﹂
﹁謙遜する事は無いさ。正直なところ、私とプレセアの結婚式の時、
一品でもいいので君に料理を担当して欲しいぐらいだ﹂
まごう事なき本音を告げるアヴィンに、冒険者が厨房を担当する
ことにためらいが無いのであれば、と、どうとでも取れるような返
事を返す春菜。
﹁本当に、そのときに都合が付けば来てくれるかね?﹂
﹁冒険者ゆえに先のことは分かりませんので、絶対にと申し上げる
ことは出来ませんが﹂
﹁そのときは、どんな珍しい食材を料理してくれるのか、楽しみだ
よ﹂
723
﹁そうですね。流石にワイバーンはいい加減そろそろやりつくした
感があるので、そのときは別の何かを仕留めてきます。ガルバレン
ジアなんかが美味しいという噂を聞いたことがありますので、その
あたりが食材としてはちょうどいい感じで狙い目でしょうか?﹂
さらっととんでもないことを言ってのける春菜に、それはいい、
などとのんきに答えるアヴィン。なお、ガルバレンジアとはピアラ
ノークのような所謂フィールドボスの一体で、その戦闘能力はワイ
バーンを超える。見た目は十五メートルを超える巨大な獅子だがそ
の尾は七本あり、それぞれの尻尾が特殊な能力を持っている。狩る
難易度も調理する難易度もワイバーンの比ではないが、日本で言う
ところの最高級黒毛和牛の最もいいところを超える美味だと言う話
を、ゲーム中で何度も聞いたことがある。
正直言って、ソロで狩るような相手ではない。とはいえ、所詮は
フィールドボス。今のチームメンバーで今の装備なら、正面から遣
り合っても普通に秒殺が狙える範囲だ。料理に至っては、食材とし
てのレベルにはそれほど大きな差がないのだから、春菜の手にかか
ればどんな食べ方でも自由自在である。
もっとも、戦闘能力的にも調理難易度的にもしゃれにならないガ
ルバレンジアを、ちょうどいい感じで狙い目の食材と言い切るこの
小娘の感性には、さすがに動揺せざるを得ない空気が流れている。
﹁そういえば、やりつくしたといったが、もうワイバーンの肉は打
ち止めかな?﹂
﹁まさか。十メートル級の生き物のお肉を、私達みたいな少人数で
食べきるのはそう簡単なことではありませんよ。ただ、思いつく料
理は大体試したので、やりつくした感じがする、と申し上げました﹂
724
﹁なるほど。ならば、あのワイバーンの骨を煮込んでとったスープ
は、まだ在庫があるんだね?﹂
﹁ガラそのものがありますので、まだいくらでも作れますよ﹂
ワイバーンの骨でスープを作る、と言うありえない会話に、場が
完全に絶句する。ワイバーンを調理できるような料理人は、現在み
んな辺境に引きこもっている。栄耀栄華がむなしくなった、とか、
いい加減モンスターを調理するのに飽きた、とか、引きこもった理
由になんともいえないものが多いのが特徴と言えば特徴だろうか。
そう。何のことはない。例の冒険者一同は、この国の王族の普段
の食事よりも、はるかに高級な料理を食べていたのだ。
﹁おや、どうしたのかな? ワイバーン料理の希少性には確かに劣
るけど、このコースも十分に最高級のものだと思うよ?﹂
﹁も、もちろんですとも。ですが、殿下は本当にワイバーン料理を
口になさったことが?﹂
﹁ああ。初めてご馳走になった竜田揚げと言う料理も、骨でとった
スープをベースにした鍋料理も、どちらも素晴らしく美味しかった。
あ、ワイバーンだと断定する理由にはならないけど、食べたときに
亜龍種の魔力を感じたから、間違いなく一定ラインより強力なモン
スターの肉だった﹂
アヴィンに言い切られ、それ以上疑問を挟むことが出来なくなっ
たロアノ。五年前の大型モンスター大発生のとき、彼もレイオット
もワイバーンを直接目にしている。残骸に触れる機会もあった訳で、
725
魔力を勘違いする可能性は低い。
﹁私は、今日のお料理は好きですよ。テローナがちょっと工夫する
だけで、こんなに上品なお料理になるのは、私としてもうれしい発
見です﹂
﹁君達が作る、醤油と言う調味料を使ったテローナも美味しいと聞
くが、そっちと比べてどう思っている?﹂
﹁お醤油を使えば、大体の料理はそれなりの味に仕上げる自信はあ
りますけど、なんと言うかそれだと、私の中ではテローナというよ
りただの煮込みと言う感じがするんですよ﹂
春菜の回答に、なんとなく納得してしまうアヴィン。テローナと
はファーレーンの固有種であるシャルプという鳥を解体し、内臓以
外丸々一羽分すべて野菜と一緒にコンソメスープで煮込む、この国
全土で食べられている郷土料理である。
郷土料理だけにコンソメスープではなくデミグラスソースだった
り、魚介を一緒に煮たりと結構な地域性がある料理でもあるので、
醤油やポン酢で煮込んでもテローナはテローナだろうが、日本人的
にはビーフシチューを米にかけるのとハヤシライスが別の料理ぐら
いには違うものなのだろう。
﹁なんというか、そういうところはやはり料理人なのだね﹂
﹁料理人なんでしょうね﹂
アヴィン殿下の言葉に、思わずしみじみ頷いてしまう春菜。結局、
さすがに国際問題になりかねない相手にちょっかいを出すわけにも
726
いかず、春菜が持ち込んだバウムクーヘンに軽い毒を仕込むと言う
予定を慌てて取り下げるロアノ。
彼は知らなかった。春菜達がばら撒いているお菓子には、すべて
かなりのレベルの万能薬が練りこまれており、仕込まれた薬の効能
が消えるまでの三日間は、そのお菓子に普通のレベルの毒など何を
どれだけ仕込んでも効果が中和されて即座に消えてなくなることを。
﹁侯爵、お聞きになりましたか?﹂
﹁ああ、あのあからさまな罠、ですか﹂
アヴィンと春菜が帰るのを見計らって、取り巻きの一人がロアノ
に声をかける。
﹁あからさまに罠ではありますが、千載一遇のチャンスでもありま
す﹂
話を持ちかけてきた取り巻きの一人が、妙に前のめりな発言をす
る。今までの流れを考えると、正直ロアノとしては触りたくないの
だが、かといって打てる手もほとんど無い。
﹁侯爵、例の暗殺者を、ここで投入してはいかがですか?﹂
727
﹁そうですぞ。幸いにして、身代わりに出来そうな人間に当てはあ
りますし、上手くやればエレーナ姫様も表舞台から追い出す事が出
来ます﹂
﹁さて、そう上手くいくのやら⋮⋮﹂
取り巻きたちの言葉に、顔をしかめながら否定の言葉を告げるロ
アノ。残念ながら、ここまであからさまに張ってある罠に飛び込ん
で、自分達が無傷で済むなどと言うおめでたい考えは持てない。そ
もそも、仮に暗殺に成功したところで、今現在の状況で確実に疑わ
れるのは自分達一派である。
大体、わざわざ孤立させるように情報戦を仕掛けようとした理由
も、直接関係ない人間を巻き込んで自分達へのラインを誤魔化すた
めだ。それが失敗している以上、リスクの高い行動は避けたい。と
言うよりも正直、もうこの一件には関わりたくないのだ。カタリナ
達ほど瘴気に浸食されていないロアノの場合、そこまで積極的に春
菜やエアリスを排除しに走る動機にも乏しい。今手を引けば少なく
とも自身が処刑台に登らされる事は無く、浄化されたところで三カ
月も寝込めば動けるようになるレベルとあれば、最適解はおのずと
知れる。
一度ならず敵対する側に回っている以上、さすがに多少立場が悪
くなるだろうが、食いつめるほど追い込まれる事もないだろう。何
しろ、そこまで決定的に王家に敵対的な行動は取っていないし、領
民から見れば彼は善政を敷いている方に入る。今回の動機も王家が
憎いからではない。ちゃんとした政治を行い、領地を発展させ、正
攻法で税収を増やしているのに今一ちゃんと評価されず、地位の割
に扱いが低い印象があった事が不満だっただけだ。カタリナ派につ
いたのも、エアリスの悪評に加えエレーナが倒れたという条件で、
728
誰が見ても最適だと考えるであろう行動をとったにすぎない。
﹁ロアノ侯爵、この場にいる以上、あなたも一蓮托生なのですよ?﹂
どうするべきかと思索にふけっていたロアノを現実に引き戻した
のは、いつの間にか現れたカタリナの腰巾着であった。
﹁一蓮托生、とは?﹂
﹁ここまであからさまな罠を仕掛けてくる以上、王家がこの場に居
る顔触れを把握していてもおかしくはありません。ここであなた自
身が動かなくとも、誰か一人が先走るだけで、それを口実にこの場
にいる人間すべてを処分しに動くのは間違いないでしょう﹂
﹁⋮⋮﹂
あえて目をそむけていた事をバルドに指摘され、苦々しい顔でに
らみ返すロアノ。どう言い訳したところで、エアリスを排除するた
めの活動に手を貸していた事は事実だ。それに、暗殺者を斡旋した
のも自分である。それはつまるところ、一度ならず政敵を始末して
いると言う事でもある。探られれば、そのあたりの証拠も出てくる
ことだろう。
﹁それに、もはや手遅れですよ﹂
﹁手遅れ?﹂
﹁ええ。先ほど先走った誰かが、どうやって調べたのかあなたが使
う予定だった暗殺者に対して、あなたの名前で仕事を発注してしま
ったようです﹂
729
﹁何だと!?﹂
﹁そう言う訳ですから、覚悟してください﹂
バルドがその印象の薄い顔に、うっすらと酷薄な笑みを浮かべる。
﹁⋮⋮貴様もただでは済まないはずだが、いいのか?﹂
﹁私としては、血がたくさん流れればそれだけでもありがたいので
すよ。一人死ねばそれだけ聖なる気がこの地に満ちる。聖なる気が
満ちればあの腐った女神も力を失う﹂
バルドの狂気に彩られた表情を見て、絶句するしかないロアノ。
今までのこの男の行動と矛盾する言葉に、ただひたすら混乱するし
かない。
﹁⋮⋮だったら、なぜ最初からそうしなかった?﹂
﹁簡単です。最良の結果は、私のような存在がたくさん増える事で
したから。そのためには、このウルスを聖なる気で満たし、あの女
神の祝福と言う名の呪詛を受け入れられない人間で埋め尽くす必要
があったからです。もっとも、あの忌々しい冒険者たちのおかげで、
あと一歩と言うところで計画は破綻しましたが﹂
実に忌々しそうに吐き捨てるバルド。この男がこういう形で感情
をあらわにしたところを、その場にいる人間が見たのは初めてだ。
﹁どちらに転んでも、明日からあなた達が取れる行動は一つだけで
す。なので皆様﹂
730
淡々とした口調に戻り、じわじわと追い詰めるように言葉をつづ
ったバルドが、最後の一言を言い放つ。
﹁兵の準備は、十分ですかな?﹂
﹁⋮⋮疲れた⋮⋮﹂
﹁お疲れさん。何かえらいへろへろやなあ﹂
﹁体力的にはたいしたことないんだけど、精神的にものすごく来る
よ⋮⋮﹂
王宮内の春菜の部屋。戻ってくるなり著しく消耗した様子を見せ
る春菜に、あちらこちらにいろいろ仕込みをしながらねぎらいの言
葉をかける宏。
﹁それにしても、本気でお疲れやなあ﹂
﹁ん。今日は殿下が居たからましだったけど、それでもいろいろあ
ったからね⋮⋮﹂
﹁愚痴ぐらいやったら聞くで?﹂
731
宏の言葉に、一つため息をもらす春菜。宏がこんなことを言い出
すぐらいだから、自分はよほどなのだろう。とりあえず、せっかく
だからその厚意に甘えて、軽く愚痴をこぼすことにする。
﹁あの人たち、なんなんだろうね⋮⋮﹂
思ったより重い声になってしまった自分の愚痴に驚きつつ、たま
った鬱憤を吐き出していく。
﹁いちいちいちいち聞こえよがしに、食べ物で人の関心を買おうな
どとはさすがは下賎な冒険者だ、とか、贈り物に品がない、だとか、
召使なんぞにすら媚びるしかないとは情けないだとか、言いたい放
題いってくるんだ﹂
言われた内容は鼻で笑ってもいいレベルの、正直春菜の心にまる
で響かないくだらない言いがかりに過ぎないが、いい年した大人が
そういうくだらないことに血道をあげているということが、正直死
ぬほど面倒くさい上にいらいらする。反論したらそれだけで鬼の首
を取ったかのようにくだらない事を囀るのは目に見えており、かと
いって黙っていれば肯定するだけになる。そういう連中の悪意と言
うのは、じわじわとボディブローのように浸透してくるもので、こ
の一週間で春菜の精神は相当やさぐれていた。
﹁何より腹が立つのが、自分達だって恩恵にあずかってるくせに、
薬や道具を作る人を馬鹿にするんだよ? 自分達だけじゃ何も出来
ないくせに、地位がなきゃ人に言うことを聞いてもらえるほどの魅
力も迫力もないくせに、自分達がどれだけ脆い砂の上に立ってるか
も知らないくせに、見た目だけで宏君を馬鹿にするんだよ? 澪ち
ゃんを生きている価値すらない、なんて事を言い出すんだよ? そ
れもわざわざ直接私に﹂
732
自分が悪口陰口を言われることはまったく気にならない。気にし
ていたら、この年まで生きてこれなかったのだから当然だろう。だ
が、自分が評価し尊敬し、どういう形かはともかく好意をもって接
している相手を、狭い価値観だけでこき下ろされるのは殺意すら覚
える。しかも、その内容が生存権すら否定しているのだから、なお
のこと腹が立つのだ。
そんな感じの愚痴を、時に怒涛のごとき口数で、時にポツリポツ
リとブツ切れにするような感じで、溜まっていたものを吐き出し続
ける春菜。作業の手を止めずに、それでもちゃんと春菜のほうに意
識を向けながら、時折春菜の目を正面から見て、一切口を挟まずに
愚痴を聞き続ける宏。
﹁⋮⋮さよか﹂
しばらく春菜の愚痴に付き合い、言いたいことを吐き出し終えた
と判断した宏が、万感の思いを込めたその一言で感想を終わらせる。
その一言が実に驚くほどの重さを伴っている事には気がついたが、
流石に余りに簡潔すぎるその一言に、春菜がどうにもそれはそれで
納得がいかないのもある意味仕方が無い。
﹁さよか、って、それだけ⋮⋮?﹂
﹁いや、春菜さんには嫌な役押し付けて悪いなあ、とは思うてるん
やけど、正直自分とは違う意味で悪口なんざ言われ慣れとるからな
あ⋮⋮﹂
宏の台詞に、なんとなく毒気が抜かれる春菜。
733
﹁慣れてるっていっても⋮⋮﹂
﹁まあ、澪に対しての台詞は正直腹立つし、そんな言葉直に聞かさ
れてる春菜さんにはほんまに悪い、思う。怒ってくれて、ありがた
いとも。せやけど、僕とか澪が、そんな役目押し付けてごめんって
謝るんもちゃうやろ? せやから、こんな感想しか言えんで悪いん
やけど、正直僕には、さよか、としか言いようがあらへん﹂
﹁うん、まあ、そうだよね⋮⋮﹂
宏の返事を聞いて、なんとなく頭がクールダウンする春菜。確か
に宏の立場では、他の感想を言うのは難しいかもしれない。一緒に
怒ってくれるのも嬉しいと言えば嬉しいが、なんとなく宏のキャラ
とは合わない気もする。
﹁そもそも連中、自分らが孤立し始めとることにも気がついてへん
あたりが滑稽でなあ⋮⋮﹂
﹁孤立し始めてるって?﹂
﹁そら普通、たいした能力もあらへん癖に威張り散らして怒鳴り散
らしとる連中が、自分らの仕事を便利にしてくれた人間の悪口を触
れ回れば、反発するんも当然やろう?﹂
﹁それ、どうやって知ったの?﹂
﹁レイっちが教えてくれたわ。多分この後、このあからさまな撒き
餌に引っかかってくれるやろうから、後は勝手に自滅してくんを眺
めとけばええと思うで﹂
734
﹁⋮⋮宏君も、一緒に向こうに引き上げた方がいいんじゃない?﹂
宏の言葉に、流石に心配になってくる春菜。撒き餌に引っかかる、
と言う事は、来るのは本職だと言うことだ。いくら宏が人間をやめ
たレベルで頑丈だと言っても、本職の暗殺者相手に通用するのかと
言うのはかなり疑問である。地味にいろいろテンパっていたために
そこまで頭が回らなかったが、愚痴ってすっきりして冷静になって
みると、宏にかなりひどい役目を押し付けている事に今更ながら気
がついてしまう。
確かに話が出た時には止めはした。だが、なんとなく暗殺者に殺
されるというイメージがわかず、エアリスほど本気で撤回を求める
事はしなかった。その自分の薄情さと考えの甘さに、今更ながらに
背筋が寒くなる。
﹁やばい思ったら引き上げられるように準備してあるし、レザーア
ーマーも着とるし、そこまで心配せんでもええで﹂
﹁でも⋮⋮﹂
﹁それに、リスクで言うたら僕の方がはるかにましやで。春菜さん
の場合、一歩間違えたらそれこそ名誉棄損やの何やので合法的に処
罰されかねへんねんし﹂
宏の指摘は、身分制度の厄介な点である。たとえば春菜が言われ
たような事柄は、庶民と庶民、貴族と貴族の間だと半々の確率で名
誉棄損に引っかかるが、貴族が庶民に向かって言い放った場合、そ
う簡単には罪に問えない。逆に、春菜が同じような事を言い返せば、
確たる証拠があれば、たとえそれが売り言葉に買い言葉であっても、
情状酌量の余地も認められず処罰されてしまう可能性がある。いく
735
ら王族や貴族の特権を大幅に削った法体系といえども、流石に全て
の特権を取り上げるには至っていない。
夜会での会話など、基本的には所詮悪口の言い合いでしかないた
め、処罰されたところで大した罪には問われないのだが、そこから
どういう風に言いがかりをつけて処罰の内容を発展させにかかるか
分かったものではない。悪口ごときをそう簡単に反逆罪だのなんだ
のに出来るほど笊な法でもないが、訴えられるとどうしても一定期
間は行動が制約されてしまう。また、名誉棄損の実刑をきっかけに、
一日二日ぐらいの短期間身柄を拘束する程度は、今認められている
貴族の特権で可能だという事を考えると、春菜が背負っているリス
クはかなりのものだと言える。
﹁そろそろエルが来るころやし、今更の話やから気にせんとさっさ
避難してくれると助かるわ﹂
﹁⋮⋮ん、分かった。危ないと思ったら、すぐに逃げてね﹂
﹁分かっとる﹂
そんな会話を交わした直後に、部屋がノックされる。
﹁来たみたいやな﹂
﹁だね。どうぞ!﹂
予定通り、入ってきたのはエアリスとドーガ、レイナの見慣れた
三人組であった。宏に促され、挨拶もそこそこに部屋に気配をなじ
ませ、クローゼットの扉を抜けて工房に避難する。
736
﹁さて、なにが出るやら﹂
相手の油断を誘うため、手斧を片手に気配を殺してベッドの陰に
潜む宏。流石にこの部屋の中でポールアックスは振り回せない。
﹁⋮⋮来たか﹂
そろそろ日付が変わろうかという時間。余程でなければまず分か
らないであろう気配の揺らぎ、それを感じてレイオット達に連絡を
入れ、事態に対応するために身構える宏。音も立てずに窓が開き、
何者かが侵入してくる。
︵まじかい⋮⋮︶
侵入してきた何者かの姿を確認し、宏が硬直する。宏にとって一
番厄介であろう存在。想定される侵入方法や警備状況から、可能性
として無意識に排除していた相手。
そう、暗殺者は、女性だった。
﹁⋮⋮?﹂
双方にとって無情にも、宏が仕掛けた罠は正確に作動する。全く
無駄のないタイミングで窓が閉まり扉が固定され、空間が世界から
737
隔離される。特定の手段を除き転移系の魔法やアイテムも完全に無
効化され、更に霧状に散布された薬品により、毒物での自害も封じ
られる。
﹁⋮⋮﹂
自身がひっかけられた事を理解しつつも、特に動揺するでもなく
部屋の中を観察する侵入者。噴霧されたものが何かまでは分かって
いないが、自分の体に害を及ぼすようなものではなさそうなので、
無視することにしたらしい。宏が動揺からわずかに漏らした気配を
読み取り、ベッドの陰へ何かを投げつける。
﹁うわぁ!?﹂
﹁⋮⋮﹂
ガタガタ震えながらベッドの陰から転がり出てきた宏を、まるで
温度を感じさせない視線で捉える。とりあえず完全に動きが固まっ
ている宏を排除すべく、仕事道具を片手に音も無く背後に回る。
﹁しもた!﹂
飛び出したときに手斧を落とし、大いにあせる宏。あってもなく
ても大差ないとは言え、状況的に武器があるのとないのとは違う。
殺意すら持たぬ、単なる障害物を見るような目を向けてくる女にト
ラウマを刺激され、雰囲気に呑まれていつも以上に破れかぶれに突
っ込んでいく。
そんな抵抗とすら呼べない抵抗を軽くいなし、あっさり背後から
しがみつく暗殺者。ほぼ全身を皮鎧で覆っている宏を確実に仕留め
738
るなら、背後から喉を切るのが一番だという判断だが、彼に対して
はまた違う効果を見せる。
何ともいえぬ女体の柔らかさ、それも春菜にこそ届かないがなか
なかのサイズを誇る二つのふくらみが、在りし日にあったとある事
件の記憶を呼び覚ます。宏にとって運が悪い事に、彼女が身にまと
っている服は、潜入工作に特化した全身タイツのようなもので、肌
の感触を阻害する機能は皆無に近い代物だった。
女体の柔らかさにパニックを起こし、それまで以上に激しくジタ
バタ暴れようとする宏に手を焼きながらも、さっと喉を仕事道具で
掻っ切る暗殺者。本来なら、それで終わるはずなのだが⋮⋮。
﹁⋮⋮?﹂
ジャイアントリザードの表皮を紙のように切り裂くはずの彼女の
得物は、宏の喉を浅く切り裂いたに過ぎなかった。確かに手ごたえ
はあったのだが、喉から血が出るどころか、見た目には傷が入った
かどうかすら分からない。
この時点で彼女は悟った。この相手は、暗殺者にとっては致命的
な存在だと。
﹁⋮⋮﹂
それでも、彼女は与えられた任務をあきらめるつもりは無かった。
いや、薬で自我の大半を殺されている彼女には、あきらめると言う
概念が存在していないのだ。
ナイフが駄目、毒もこの皮膚の強度では無理だろう。後頭部を殴
739
って撲殺できるほど可愛らしい存在なら、喉を切った時点で終わっ
ているはずだ。ならば、首を締めればいい。幸いにも、自分は相手
の背後を取っている。即座に結論を出し、誰であろうと阻止できぬ
であろう手際で仕事道具からワイヤーを取り出し、手早く首を締め
上げようとする。
﹁やめて! 触らんで!! 離れてえな!!﹂
女性恐怖症によるパニックのせいか、ものすごい力で暴れる宏。
首が絞まっているはずなのに、まるで影響を受けた感じがしない。
予想通り、彼女の腕力ではこの相手を完全に絞め殺すのは難しいよ
うだ。ならば、お互いの体重を利用すればいい。そこまで考えたと
ころで、双方にとってさらに不幸な状況に陥る。
﹁ひゃん!?﹂
暴れていた宏の足が、彼女のかなり微妙な場所をかすめたのだ。
今まで完全に無言だった彼女も、初めて体験するその感覚には、思
わず声を上げてしまう。意外と若い、可愛らしい声だ。その妙に色
っぽい声を聞いた宏がさらにパニックを加速させ、これまで以上に
じたばたと暴れ始める。それが、さらなるピンチを招くとも知らず
に。
密着状態の人間が二人いて、一方がワイヤーを持った状態で下手
に暴れるとどうなるのか。それもそのワイヤーの長さが、人一人を
吊り下げるのに十分な長さがあるとすれば?
そう、絡まるのである。猫がじゃれに行った紐に絡まって、身動
きが取れなくなるあれと同じだ。先ほどの接触で思わず首に巻きつ
けてあったワイヤーを緩めてしまったのが運のつき、元々宏が暴れ
740
ていたせいであちらこちらに半端な状態で巻きついていたワイヤー
が、本格的にどうにもならない形で絡まり始める。
﹁あああああああああああああああああああああああああああああ
ああああ!?﹂
﹁んっ! あん!﹂
ワイヤーが絡まる事で密着度合いが上がり、ますますパニックが
ひどくなって暴れ、更にワイヤーが絡んでやばい感じに密着する。
その悪循環を繰り広げているうちに、宏と彼女の体はついに、人に
お見せ出来ない感じで固定されてしまった。その過程で宏の手足が
彼女の性的な意味で敏感なところを何度もかすめ、本人が全く意図
していないにもかかわらず、その体をじらすように責め立てる。
そもそもここまで密着すると、暴れると言っても小さくもがくぐ
らいのことしかできず、互いに相手に対してダメージを与えるよう
な動きはほとんど不可能になる。彼女の方も、無意識にダメージを
減らすよう動いているのだから、互いに大けがをするような事態に
はなりようが無い。結果として、宏は無意識のうちに、ひたすら中
途半端にあちらこちらを触りまくるような感じになってしまった。
本来、彼女達にはこういった攻めは通用しない。人格とセットで
その手の感覚を消すために、特殊な薬で体質をいじられているから
だ。身体能力と学習能力の増強と引き換えに、人としてどころか生
き物として無くしては拙いものを根こそぎ消滅させる、そんな薬。
彼女はその薬により、使い捨ての暗殺者としては破格の能力を身に
つけていた。
だが、この薬、時間が過ぎれば感覚周りを消す効果は消え、反動
741
でかえって敏感になるという副作用がある。その薬の効果を、噴霧
されていた万能薬が根こそぎ消してしまったのだ。背後を取って首
を切った時点でこう言った反応が無かったのは、吸引と言う本来と
は違う摂取方法をとったため、薬が消えるまでに時間がかかったこ
とが原因である。そして、スタミナポーションとの住み分けのため
か、万能薬は基本的に副作用の類には効果が無く⋮⋮。
﹁あああああああああああああああああああああああああああああ
ああああ!?﹂
﹁ひゃっ! んあ!?﹂
結果としてやばい感じで吼えながら暴れる宏に、敏感になった体
をじらすように責め立てられ続ける暗殺者。二人の体がもはやどう
にもならないほど絡まりあった時には、既に彼女の体は入ってはい
けない種類のスイッチが入り、すっかり出来上がっていた。少しの
動きですら思わず甘い吐息を漏らす彼女とは裏腹に、そろそろ精神
が限界を超えかけ、顔色がなかなか危険な感じになり始めている宏。
暴れる力もずいぶんと弱くなり、もはや痙攣している、という表現
の方が近くなっている。
﹁あああああああああああああああああああああああああああああ
ああああ!?﹂
﹁も、もっと⋮⋮﹂
偶然目があった時、思わずそんな事を口走る彼女。顔を隠す覆面
は、暴れもがいているうちに既にどこかに行ってしまっている。出
てきた顔はある意味予想通り意外と幼く、せいぜい十五かそこらと
言うところだ。そんな少女からの危険な言葉を聞いた宏の心がつい
742
に限界を超え、あっさり意識を手放す。時折ぴくぴくと微妙に痙攣
する体が、彼の心がどれほどピンチかを物語っている。物語ってい
るのだが⋮⋮
﹁んっ! んん∼!﹂
そう。宏が気絶したところで、彼の手足が彼女の敏感で危険なと
ころに接触しているという状況は変わらないのだ。むしろ、痙攣し
ていると言う事は、彼女にとって事態は何一つ良くなっていないの
である。
﹁あっ!﹂
宏が気絶した後も、もぞもぞとポジションを変えていた暗殺者は、
脱出より先に今までで一番気持ちがいい位置取りを発見してしまう。
今までに経験した事の無いその感覚にすっかり虜になりながらも、
所詮気絶した人間が不随意反応を示しているだけの物足りなさに、
ひたすら悶々とする羽目になる彼女。結局、打ち合わせ通り十分後
に突入したレイオット達にあっさり投降し、あまり人様にお見せで
きない種類の顔で洗いざらい情報をぶちまけてしまうのであった。
なお、余談ながら、素直に避難する振りをして工房に移動後、ア
ルフェミナと結託してタイミングを見てドーガを送り込むことで介
入しようとしていたエアリスだが、宏の状況が初潮も来ていない様
な子供にはとてもお見せできないと判断したアルフェミナの裏切り
によって、その目論見は完全に不発に終わったことを記しておく。
743
第18話︵後書き︶
これ、R−15の範囲に収まってるのだろうか⋮⋮。
744
第19話
﹁思っていたより、危険な相手だった﹂
翌日の昼前。ようやくいろんな意味で回復した宏のもとにやって
来たレイオットが、宏がいろんな意味で無事だったことを確認した
ところでそう言い放った。
﹁危険って、そんなにやばい相手やったん?﹂
﹁お前のように桁はずれの防御力を持っていなければ、組みつかれ
た時点で終わっていただろうな。おそらく春菜では、八割の確率で
殺されていたはずだ。エルンストの場合、防御技が解けた瞬間が危
ない、と言ったところか﹂
レイオットの説明を聞き、顔がこわばる宏。自分が予想よりはる
かに危ない橋を渡っていたと知っては、冷静で居られないのも当然
と言えば当然だろう。
﹁お前が相手をしたのは、キリングドールと呼ばれているタイプの、
闇夜に紛れての侵入と人間相手の戦闘能力に特化した、使い捨て前
提の暗殺者だ。特殊な薬物で最低限以外の感覚と感情、人格を殺し、
指令をこなすため以外の思考能力と判断能力を一切残さないように
調整されている、まさしく人形と言う存在だ﹂
﹁の割には、えらいあへあへ言うとったけどなあ⋮⋮﹂
思い出すたびに背筋に冷たいものを感じつつ、昨夜の出来事を記
745
憶の隅からほじりだす。その作業だけでも胃の中身をぶちまけそう
になるが、そこは根性で我慢だ。
﹁特殊な薬物、と言うのが問題でな。昨日あの部屋に仕掛けたトラ
ップの中に、毒を中和するための万能薬を噴霧するものがあったの
だろう?﹂
﹁あったなあ﹂
﹁その万能薬によって薬物が中和された結果、禁断症状のようなも
のが出たらしくてな。その禁断症状と言うのが﹂
﹁もしかして、性欲が増幅されたりでもしおるんか?﹂
﹁近いが、少々違う。感覚器が全体的に敏感になった上で、快感の
類が増幅されるらしい。使い捨てだからと安価な薬で横着をしてい
るから、薬が切れた時の対処をしていなかったらしくてな。いざこ
ういう形で副作用が出ると、まったく我慢が効かなくなるようだ﹂
聞かなければ良かった、と思うような情報を教えられ、反応に困
り切ってしまう宏。女性恐怖症の身の上としては、正直そういう生
々しい話は遠慮願いたい。これ以上続けられると、今度こそ血ヘド
を吐きそうな予感がする。正直、一体どこのエロゲーかと小一時間
ほど問い詰めたい。
きっと相手が宏でなければ、とても子供にはお見せ出来ない展開
になっていたのだろう。
﹁それで、その暗殺者はどないしたん?﹂
746
﹁寝返らせて、暗殺ギルドの襲撃に協力させた。元々自我が薄い上
に昨夜の強烈な体験で洗脳が解けているから、実に簡単に落ちたぞ﹂
﹁大丈夫かいな、それ⋮⋮﹂
﹁普通に戻ってきて普通に大人しく牢屋に入ったから、問題は無い
だろう﹂
それでいいのか、と言いたくなる状況に、思わず遠い目をしてし
まう宏。暗殺なんて言うリスキーな仕事を請け負っているくせに、
その物凄く杜撰な体制は何なのか。
﹁一ついい事を教えてやろう﹂
﹁何やのん?﹂
﹁あの暗殺者が常時与えられていた薬物は、アルパレノンと言う割
と特殊なものらしくてな。連中しか製法を知らない類のものだが、
奴らしか知らないちょっとしたコツ、と言う奴が必要なだけで、材
料も製法もそれほど難しいものではないとの事だ。そのくせほとん
どの魔法や薬は効果が無く、時間で効果が切れる以外解毒方法が存
在しないと思われていたらしい。うちの薬師も宮廷魔導師、大神官
すら同じ結論を出した。お前、何級の万能薬を噴霧した?﹂
﹁四級やけど?﹂
宏の回答を聞き、思わず大きな声で笑ってしまうレイオット。
﹁流石だな。いちいち一般人の常識を斜め上の方向で超えてくれる﹂
747
﹁いや、別段四級の万能薬って、そこまで珍しい材料がいるもんで
も無いやん。成功率が百パーやないだけで、澪でも普通に作りおん
で﹂
﹁その澪でも、我らが抱える薬師よりも腕がいい、と言う事情は理
解しているか?﹂
﹁そうなん?﹂
﹁ああ。だから、材料があったところで、四級の万能薬などそう簡
単に作れる訳ではない。我が国の宮廷薬師の場合、五級のポーショ
ンですらそれなりの確率で失敗しているし、四級に至っては、作れ
はするが十本作って一本出来るかどうかだぞ?﹂
宏の目利きでは、この国の薬師は大体中級を折り返したぐらいの
技量を持っている。その内容を裏付けるレイオットの発言に、なん
となく納得したように頷いて見せる。実際のところ、彼らに会うま
で、こちらの人間で中級に達している人材に会う機会すらなかった
のだから、中級に入っていると言うだけでも、世界全体で見ても比
較的優秀な範囲に入るだろう。
そもそも、四級のポーション類は学問の国・ローレンぐらいしか
まともに作れない。その中でも万能薬は一段難易度が高く、四級と
もなると年に何本も輸出されない。必然的に、暗殺者の尋問になど
使われる事などあり得ないという結論になる。
なお、アルパレノンは一度服用すると大体二週間ぐらい効果が続
き、五級以下では万能薬でも薬を抜く事は出来ない。故に普通は仕
事を振られる前に薬を飲ませれば、結果がどう転んだところで薬が
抜けた結果裏切られる、と言う事は起こらないはずなのだ。
748
因みにアルパレノンに限らず、毒薬や特殊な薬の中には、作るた
めに必要な腕は初級レベルなのに、効果を消すためにはやけに高度
な魔法か薬が必要なものが多々ある。言うまでもなく、エミルラッ
ドもその類の毒物に分類される。
﹁言われてみたら、四級がホイホイ作れんねんやったら、たかがポ
イズンウルフの毒ごときでガタガタ言うはずはないわな﹂
﹁ああ。だからたとえ暗殺者といえど、四級以上の薬物に対する備
えなぞ普通はしないものだ。捕まったところで実行犯は大した情報
を持っていないのが普通だし、そんな下っ端を尋問するのに、わざ
わざ高レベルの万能薬など使う奴はいない。まあ、今回の場合は尋
問のためではなく、防御のために使った訳だがな﹂
実際のところは、それすら異常な話だ。しかも、予防用に服用し
ておくのなら話は分かるが、わざわざ噴霧して相手にも吸引させ、
毒物による自殺を防ぐという発想はまず出てこない。
当然だ。そもそも、その発想で行動する場合、前提となる薬はそ
れなり以上に高レベルの万能薬になる。そんなものは普通手に入ら
ないし、手に入ったとしてもそんな使い方ができるほど安くは無い。
﹁にしても、何ぼなんでも笊すぎへんか?﹂
﹁確かにな。どうやら、今までがそれで上手くいきすぎて、そう言
った危機意識が随分薄れていたらしい。数年前に代替わりしたらし
い今の長も、自身が卓越した暗殺者だったからこそか、かなりの油
断があった気配がある。そもそも、組織の長と言うのに向いていな
かったのだろうな﹂
749
﹁あかんやん。アンダーグラウンドの人間が、そう言う危機管理な
いがしろにしたら﹂
﹁もっともな意見だ。まあ何にしても、お前達のおかげで予想外の
収穫があった。流石に連中も、自我の無いはずの使い捨てに逆襲さ
れるとは予想してなかったようでな。実にあっけなく捕縛されたよ﹂
﹁そいつらこそ、脱走とか大丈夫なん?﹂
﹁指を全部落とした上で、死なないように傷を治しているからな。
流石にあれで脱走するのは難しいだろう。無論、自殺を防止するた
めに、お前から預かった薬を強引に飲ませてある。もっとも尋問す
るまでもなく、裏帳簿や顧客リスト、依頼書の類も全部差し押さえ
てあるから、幹部連中の証言なぞせいぜい駄目押しにしかならんが
な﹂
なかなかえぐい事をさらっと言うレイオット。流石は王太子、や
る事が黒い。
﹁で、あの暗殺者の処遇はどないするん?﹂
﹁現段階では、保留と言うところだな。色にボケているから、コン
トロールするのはそれほど難しくないし、まだまだ自我が薄いから、
こちらが言い含めた事は素直に聞く。正直、急いで処刑する理由も
特にない﹂
﹁⋮⋮寝首かかれやんように、注意しいや⋮⋮﹂
﹁それはむしろ、お前の方なんだがな⋮⋮﹂
750
レイオットのつぶやきを聞きつけた宏が、なんとなく彼女をどう
やってコントロールしているのかを悟って青ざめる。想像通りだと
すれば、本気でこの王太子はえぐい。恩をあだで返すとはどういう
ことか。
﹁そうそう。確認しておくが、そろそろ何か食えそうか?﹂
﹁⋮⋮なんか、いきなり話が飛んだけど、また何で?﹂
﹁そろそろちゃんと食って動けるように準備を整えておかないと、
いつ食いっぱぐれるか分からないからな﹂
﹁何ぞ、やばい情勢なん?﹂
﹁追い詰められた小物どもが、最後の悪あがきをするはずだ。流石
にまだすべてを確認し終えてはいないが、ここまで決定的な証拠を
押さえられた以上、取りうる手段は反乱以外ありえない。そのつも
りで準備をしておいてくれ﹂
最後の最後まで物騒な事を言い切るレイオットに、思いっきり顔
をしかめる宏。一般庶民をそう言う話に巻き込まないでいただきた
いと、声を大にして言いたい。
﹁反乱軍って、そんなにはようにこっちに集合出来るもんなん?﹂
﹁バルドの動き方次第だろうな。召喚術を使えば、その気になれば
万の軍勢でもすぐに呼び寄せられる。もっとも、連中の動員能力を
最大限に使ったところで、この短時間ではいいところ三千、事前に
ある程度準備してあって五千、余程無茶をしたところで八千には届
751
かないだろうとは思うが﹂
﹁しれっと言うてええ数やないと思うんやけど?﹂
﹁その程度の数、直接城内に呼び出されたところでどうとでもでき
る。それほどファーレーンの国防は甘くは無いさ﹂
自信満々に言い切るレイオットに、思わず一抹の不安を感じる宏。
確かにこの城の構造上、最初から来る可能性を想定している軍勢な
ど、五千やそこらが来ても大した問題ではない。が、これが、二万
や三万という数になったら?
﹁なあ、レイっち﹂
﹁何だ?﹂
﹁連中の最大動員能力って、どないなもん? 時間がどうとかそう
いうんを抜きにして考えて﹂
﹁一番多いのがロアノの二万五千だな。他は一番大きくても五千も
かき集めれば破綻するような連中ばかりだから、頑張って集めても
七万には届かん程度だ。ただし、大方が多少訓練を受けただけの農
民だから、収穫後の作業が忙しいこの時期には、どれほど強権を持
って招集をかけたところでそれほど集まらんだろう。これは他の領
主どもも同じだ。後は傭兵だが、これも金がかかるから、それほど
たくさんの数は雇えんはずだ。そもそも、ファーレーンは冒険者は
多いが、傭兵の類は少ない﹂
宏の心配症とも思える質問に、ちゃんといざという時を考えて確
認してあった数字を教えるレイオット。
752
﹁傭兵を最大まで雇うたとしたら?﹂
﹁国内にいる傭兵を全部集めたところで千がいいところだろう。つ
いでに言えば、財力的にもそれが限界だと思え﹂
﹁なるほど。で、そいつらが全部直接この城の中に入ってきたら、
対処は?﹂
﹁問題ない。七万のうち五万五千から六万は確実に農夫だ。神殿の
使う魔法で即座に無力化できる。残りの一万のうち、まともに騎士
と打ちあえる数など一割程度だ。そもそも、この城に常駐している
騎士の数だけでも八千は居るからな﹂
﹁そんなに居ったんかい⋮⋮﹂
予想以上の数にビビる宏だが、考えてみればウルスは住民登録を
している人口だけでも百万人を超える大都市だ。仮に常備出来る兵
力が人口の三パーセントだったとして、専属の戦闘要員が三万人は
居る計算になる。ならば、政治の中枢である王城にそのうちの三分
の一程度の兵力があっても、おかしくは無い。
﹁とは言え、備えをしておくにこした事は無い。食えるならさっさ
と飯を済ませて、私の執務室に来てくれ﹂
﹁了解。確かに、いろいろ準備しといたほうがよさそうや﹂
お互いに状況をひっくり返しうるワイルドカードを持っている以
上、その前提で準備をするに越した事は無い。無論、こちら側のワ
イルドカードは宏と春菜で、向こうは邪神教団と言う組織そのもの
753
だ。
﹁で、食事はどこで出来んの?﹂
﹁既に用意させている。さっさと食えるだけ食っておけ﹂
﹁はいな﹂
レイオットの言葉と同時に、外に控えていた侍従が昼食と言うに
は豪勢な食事を運びこむ。最終決戦に向けて、彼らは着々と準備を
進めていくのであった。
﹁澪、その顔はやめなさい﹂
﹁そんなに、駄目な顔してる?﹂
﹁今回のことは、全員の連帯責任よ﹂
アルフェミナ神殿の大広間。いろいろと不満そうな、と言うより
釈然としない顔をしている澪を、真琴がたしなめる。
﹁本当、私としたことが、大失敗だよ⋮⋮﹂
澪の指示通り魔法陣を描きながら、ため息交じりに反省の言葉を
754
漏らす春菜。分かっている限りでも、朝からこの台詞は軽く二桁に
届く。一番最後まで確認する余裕があったのに、最後まで気が回ら
なかったことがよほどショックらしい。短いなりに濃い日々をとも
に過ごし、自他共に認めるパートナーとして行動していたのにこの
失態だ。彼女の性格で気にするなというのは厳しいだろう。
因みに、彼女達が現在行っている作業は、瘴気に侵された人間を
全てあぶり出すためのステージ構築である。カタリナ一派の貴族達
はともかく、使用人レベルまでとなると完全に把握できていない事、
判断力が落ちているであろう連中にぎりぎりまでこの程度の策も思
い付いていないと思わせる事が理由で、あえてこれまで春菜の歌を
使って何かを行う事は避け、要となる大広間のステージ構築もぎり
ぎりまで目立った準備は進めて来なかったのだ。
下準備として、スイーツばらまきのついでに思い付く限りの場所
にスピーカー代わりの魔法陣を設置し、人がいない時間帯に動作チ
ェックは済ませてある。なので今は、準備段階で見落としていたス
ピーカーの設置場所の確認やマイクの設置、増幅のための魔法陣構
築とスピーカーの接続テストなどを急ピッチで進めているが、地味
に宏のダウンが響いて工程が遅れており、素直に落ち込んでいる暇
は全くない。
﹁それも連帯責任だって、春菜﹂
﹁まあ、今までが今までだから、普通想定してるとは思うよなあ⋮
⋮﹂
達也の言葉に同意するように頷く真琴。結構あれこれ仕込んでい
た宏が、よもや暗殺者が女である可能性をまったく想定していない
とは誰も考えていなかったのだ。後から考えれば、宏だけでなく澪
755
も待機させておけば今回のことは避けられたのは事実で、宏の防御
力と精神力を過大評価しすぎたのは反省事項以外の何物でもない。
﹁師匠、だらしない⋮⋮﹂
﹁無茶いうなって。レイナのときにしろ今回にしろ、むしろこじら
せなかっただけ大したもんなんだからな﹂
一人辛辣なことを言う澪をたしなめる達也。レイオットからの報
告で、宏の女性恐怖症は現状維持レベルだろうと聞かされたとき、
心底大したものだと思った。レイナの件については話に聞いただけ
で現場を見ていないのだが、以前向こうで聞いた中学時代の話と合
わせて考えると、冗談抜きで社会復帰できない可能性すら心配して
いたのだ。
それらを踏まえると、いや踏まえるまでもなく澪の言い分は無茶
もいいところだし、本来ならきっちり叱るべき事柄ではあるが、思
春期の彼女に正論で頭ごなしに叱りつけても反発されるだけで効果
が薄いのではないか、という考えで、とりあえずこの場はたしなめ
るに留める。
﹁いつまでもあれなのは⋮⋮﹂
﹁澪、気持ちは分かるけど、焦っちゃ駄目だって﹂
宏に対する憧れとも恋心とも付かない複雑な、もっと正確に言う
と恋に恋していると言えなくもない澪の気持ちを酌みつつも、若さ
と言うよりその幼さで先走って焦りがちな言動をたしなめる年長者
二人。
756
﹁下着のときもそうだけど、たかが何カ月か女性と同居して恐怖症
を出さなくなった程度じゃ、あまり性別を意識させるようなことを
させるのは危なっかしすぎると思うわよ﹂
﹁でも、やらなきゃ進歩はない﹂
﹁だから、あせんなって言ってんだよ。こじらせちゃ元も子もない
んだし、そういうことは最低でも、この場の誰か、もしくはエルあ
たりが隣に並んでもまったく意識しなくなるまで待てって話だよ﹂
﹁⋮⋮これ以上、師匠のそういう面で情けない姿も、苦しんでると
ころも見たくない⋮⋮﹂
なんともいえない悲しそうな顔で、それでも主張を変えることは
しない澪。澪が自分勝手なだけで言っているわけではない、と言う
のも分かるため、どうしてもため息しか出ない年長者二人。澪の言
葉を検証するまでもなく、今後も女性と敵対し、直接戦闘すること
になる可能性は高い。そのときに今のままでは、宏自身の命が危な
い。
だが、彼が最も信頼している女性であろう春菜ですら、ストレス
を与えずに近寄れる距離は半径九十五センチほど。一歩踏み込んで
手を伸ばせば触れることは出来るが、その場から動かずに接触する
には、宏の側からのアクションが必要な距離である。それを考える
と、まだまだと言わざるを得ない。
ゲームのステータスと本当の意味での精神力や根性というのがお
そらく完全には一致していない以上、本人が完全に折り合いをつけ
て、その傷を乗り越えるまでは外部から余計なまねをするべきでは
ない。それが分かっているから、春菜は距離をとりながら一人の出
757
来た人間としての普通を貫こうとし、エアリスは出来るだけ負担に
ならない距離を模索しながらあえてその好意を隠そうとしないのだ
ろう。
彼女達のその心遣いと努力には頭が下がる思いだが、澪にまで同
じことを求めるのは酷なのも確かだ。
﹁とりあえず、一番きついのは本人だ。ある程度しゃれですむ他の
事はまだしも、この件に関しては間違ってもヒロには直接言うなよ﹂
﹁⋮⋮分かってる⋮⋮﹂
澪本人も、自分の言動が褒められたものではないことは分かって
いるのだ。だが、それでも旨く自分の感情を飲み込めず、それが褒
められたものではない、ある種攻撃的な言動として表に出てしまう
のである。
﹁とりあえず、時間がないから準備急ぐよ。澪、ほかに何をすれば
いい?﹂
﹁達兄と真琴姉は、完成した奴を漏れてたところに設置してきて。
春姉、そこの角度おかしい。あと、もっとペース上げて﹂
﹁了解、頑張る!﹂
澪の指示を受け、今回の肝となる聖堂の準備に全力を注ぐ春菜。
スピーカー代わりの小さな魔法陣を設置しに行く達也と真琴。時間
的に間に合わないかもと思われた下準備は宏が合流したことで、圧
倒的なスピードでどうにか無理やりすべて間に合わせることに成功
するのであった。
758
﹁どうやら、あのアサシンギルドも、噂ほどではなかったようです﹂
朝一番にアサシンギルド壊滅の一報を聞き、呆れの混ざった口調
で言い放つバルド。
﹁失敗するところまでは想定していましたが、よもや生け捕りにさ
れた揚句に情報を漏らすとはね。その結果、ギルド自体が壊滅して
しまうなど、情けない話です﹂
﹁他人事のように言うが、あれだけの証拠が集まっていれば、いか
に王家が強権を使う事を忌避する空気が強いと言えども、流石に我
々に陛下の矛先が向くのは必定。どうするつもりだ?﹂
﹁決まっていましょう。実力行使で現王家を廃せば良いのです﹂
無茶な事をあっさり言ってのけたバルドに、思わず絶句する貴族
たち。
﹁⋮⋮実力行使と言うが、ウルス城を落とすだけの兵力を集めるの
は、我らだけでは不可能だぞ? ロアノ侯以外は、もともとそれほ
ど動員能力がある訳ではない﹂
﹁それに、今は収穫の時期だ。月末には収穫祭を控えている村も多
759
い。農民を兵として徴用するにも限度がある﹂
﹁そもそも、だ。農民たちもそれなりに訓練は受けているが、流石
にウルスの兵士には装備・技量・士気全てにおいて大きく劣る。数
がいくら居たところで話にならん﹂
ウルスを落とし、王家を廃すると言う事が、どれほどの無茶振り
かを口々に言い募る貴族たち。いくら後が無いといえど、いくら現
王家にそれほどの忠誠心を持ち合わせていないといえど、流石にそ
こまでの思い切りは無い。
﹁集めた兵士、全てを城内に直接送りこめたとしたら、どうですか
?﹂
﹁⋮⋮いや、やはり無理だ。城内となれば、結局臨時徴兵で集めた
兵士は使い物にならない﹂
バルドの提案に少し考え込み、結局却下の回答を返すロアノ。
﹁理由は?﹂
﹁アルフェミナ神殿の力だ。アルフェミナ様の加護を利用すること
により、ある種の訓練を受けた者以外は身動きが取れなくなる。そ
うなってしまえばなまじ数が多いだけに、正規兵もまともに身動き
が取れなくなる可能性がある。それとも、バルド殿にはそれを防ぐ
手段があるのかな?﹂
ロアノの言葉に、今度はバルドが少し考え込む。理想を言えば、
騎士達が農民上りの兵士を虐殺でもしてくれれば話が早いのだが、
それをやってくれるとも思えない。同じ理由で、正規兵もほぼ死人
760
を出さずに無力化されるだろう。かといって聖気の量が減っている
今、バルドが直接仕掛けても、ウルスの騎士達を一気に殺すのは難
しい。
﹁そうですね。無力化されてしまうのであれば、即座に殺してしま
えばいいでしょう。貴方達がどれぐらい動員できるかは知りません
が、合計で三千も死ねば、私の切り札を一枚、切る事が出来ます﹂
﹁正気か!?﹂
考えた末、とりあえずこいつらの手下を惨殺して聖気を補充すれ
ばいいか、という自分勝手な結論を出す。バルドの狂った意見に、
思わず貴族の一人が絶叫する。別段民草の命などどうでもいいと言
うか、摘みすぎなければ勝手に増えるから心配ないとは思っている
が、それでも動員した兵を自分達が殺すと言うのは、いくらなんで
も外聞が悪すぎる。
﹁今更、なにを言っているのかね?﹂
﹁ロアノ侯⋮⋮?﹂
﹁この男が正気ではない事ぐらい、随分前から分かっていた事だろ
う?﹂
深い深いため息とともに、諦めたように言い切るロアノ。もっと
も、彼も自身がすでに引き返せないほど瘴気に侵されているという
自覚はないのだが。
﹁だが、流石に無為に何千もの兵を死なせる訳にはいかん。私は民
からの徴兵は行わず、私兵のみを動かす事にする﹂
761
﹁それで、何人ぐらいですか?﹂
﹁すぐに動かせる数は、二千程度だ。そこまでは、昨日のうちに動
員をかけておいた。だが、それ以上となると、領内の町や村に散っ
ている人間もかき集めなければならないから、流石に今日言ってす
ぐにと言うのは不可能だ﹂
﹁そうですね。時間をかける訳にはいきませんので、それで十分で
しょう。他の方々は?﹂
ロアノの言葉を聞き、次々に数を告げる貴族たち。
﹁そこに、マズラックの私兵を合わせれば、どうにか七千ぐらいに
はなりますか⋮⋮﹂
﹁そう言えば、マズラック伯爵は?﹂
﹁ウルス城を落とす、という話を聞いて、何やら準備を行っている
ようですよ﹂
﹁裏切ったりは?﹂
﹁まさか。彼の持つすねの傷は、この情報を王家に持ち込んだ程度
ではどうにもなりませんよ﹂
しれっと言い放ったバルドの一言に、同じ穴の狢である彼らは沈
黙するしかない。
﹁さて、出来れば夜までには決行したいところですが、準備は間に
762
合いますかな?﹂
バルドが示した期限に顔を引きつらせつつも、不承不承といった
感じで頷く一同。実際、明日まで引っ張ればまず間違いなく、この
場にいる人間全員が身柄を拘束されることになる。暗殺ギルドが壊
滅したのが日付が変わってからである以上、情報の確認と精査に一
日はかかる。いくらレイオットといえども、まだ全部確認が終わっ
ていない資料をもとに貴族を拘束するほどの無茶は出来ない以上、
それぐらいの猶予はあるはずだ。
﹁最後に、カタリナ様﹂
﹁何かしら?﹂
﹁最悪の場合、この国の形が完全に変わってしまう可能性もありま
すが、問題ありませんか?﹂
﹁私を受け入れなかった国など、滅んでしまえばいいのです﹂
うっとりと笑いながら、かなり身勝手な事を言い放つカタリナ。
その言葉が事実上のゴーサインとなり、彼らの反乱計画は動きだす
のであった。
後にカタリナの乱として近代ファーレーン史に残るクーデター、
763
その歴史に残る部分の始まりは、夕暮時であった。
﹁⋮⋮そろそろ来るようだな﹂
﹁ぎりぎり準備が間に合うた感じやな﹂
アルフェミナ神殿にて、正門の中庭に現れた大量の転移反応を拾
い、レイオットと宏が呟く。その言葉に顔が引き締まる日本人チー
ム。宏達は名目上は護衛として、実際はアルフェミナの神託によっ
てこの場にいる。現在神殿には、敵であるカタリナ達をおびき出す
役には向かない、非戦闘員である王妃と側室二人を除く王族一同が、
避難の準備も兼ねて囮として待機している。王妃および側室二人は
別口ですでに工房の方に避難しており、この場で戦闘能力が無い王
族は、儀式中のエアリスだけである。ただし、エレーナは体調の問
題から戦力として数えるにはやや不安があるため、今回は守られる
側にカウントされている。
ドーガとレイナはミスリードを誘うために城の玄関の間の方にス
タンバイしており、彼らの代わりにエレーナとエアリスの護衛とし
てユリウスとその部下が数名と、エレーナの身の回りの世話をする
ために彼女付きの侍女もこの場にいる。また、場所が場所だけに当
然のことながら、神殿内部には大神官をはじめとする神官たちもい
るが、今彼らがスタンバイしている大広間には、大神官以外の神殿
関係者は居ない。
﹁マーク、避難の状況はどうなっている?﹂
﹁少なくとも、瘴気に引っかかってない人間は全員終わっています。
ハルナが一曲歌ってくれたおかげで、ずいぶん楽に進みましたよ﹂
764
﹁瘴気に引っかかっている連中は、どうした?﹂
﹁全員まとめて、一時的に地下牢に放り込みました。ただ、歌に引
っかかるほどではなく、だが暗示の影響は受けてる、という人間ま
では排除できていませんし、手遅れになっている人間とそれ以外の
仕分けをする時間が無く、せいぜい男女を分ける以上の事をせずに
まとめて拘束したため、後々問題になるかもしれません﹂
﹁今回は緊急事態だ。それに、変な言い方になるが、歌を聞いて意
識を失ったのであれば、下手に避難場所にかつぎ込むよりも、むし
ろ頑丈な地下牢にいた方が安全だ﹂
マークの報告に一つ頷き、逃げ口上ともいえる言葉を告げる。水
面下でこそこそと下準備を進めていたとはいえ、流石に全てを完璧
に行う余裕はない。予想以上にロアノ達の動きが早かった事もある
が、人数が多すぎてそこまで面倒を見切れなかったというのが本音
である。それに、いざという時は地下牢の方が安全だというのも、
それほど間違った言い分ではない。何かあった時に犯罪者を外に出
さないために、地下牢は城内でもトップクラスの頑丈さを持ってい
るのだ。
﹁兄上﹂
﹁人形の方はちゃんと起動している。兵の配置も問題ない。しかし、
流石は職人殿。私達でもあれが偽物だとは分からなかったよ﹂
﹁分かったら意味ありませんやん﹂
アヴィンの台詞に対する宏の返事。それを聞いて思わず呆れたよ
うな視線を向ける一同。今更言うだけ無駄ではあるが、身内が見て
765
も分からないほど精巧な人形など、分かったら意味が無い、という
理由で用意できるものではない。当然のことながら魔道具の類では
あるが、澪ですら身内を欺ききるほどのものは作る事が出来ない、
と言えばどれほどの難易度か分かるだろう。
﹁話をもどそう。姉上、調子の方は?﹂
﹁走って逃げるぐらいは、問題ないわ。それに秘密兵器もあるし、
そもそも魔力の方は全く問題ないのよ?﹂
﹁そうか。ならば、ユリウス、マーク。いざという時は姉上を頼む。
兄上は父上を﹂
﹁御意﹂
転移反応を拾ってから、淡々と最終確認を続けていくレイオット。
その言葉に便乗して、宏が澪に指示を飛ばす。
﹁事前打ち合わせでも言うたけど、エレーナ殿下が脱出するときは、
澪がついてってサポートしたって。僕らは残って足止めするから﹂
﹁分かってる﹂
﹁ただ、状況次第ではこっちに残ってもらう事なるかもやから、そ
こら辺は臨機応変に﹂
﹁了解﹂
当初から確定していた役割を、再度確認する。大人数を転移させ
ているからか、まだ転移魔法は終わらない。一見、高レベルのキャ
766
ンセル系なら、普通に割り込んで無効化できそうなだけの時間が空
いているが、この種の大規模転移魔法は、割り込んで潰すのがかな
り難しい。下手に力技でそう言う真似をすると、空間がゆがんで異
界化したり、揺り戻しで本来何かが転移してくるはずであった場所
がえぐり取られたりと、碌な事にならない。
なので、仮に大軍が来ると分かっていても、転移魔法の発動中は
決して手を出さないのが暗黙の了解となっている。
なお、本来なら王族以外の魔法では城の内部に直接転移はできな
いのだが、カタリナが直接関わっているためにこれだけの軍勢が場
内に飛び込んでくるのだ。この欠陥に関して、今のところ克服でき
た国は歴史上存在しない。
﹁では、大神官殿﹂
﹁分かっております﹂
国王の言葉を受け、準備してあった術を起動させる大神官。神殿
の各所に仕込まれた術具によって増幅されたそれは、瞬く間にウル
ス城全体を覆い尽くす。
﹁ふむ⋮⋮。どうやら、大半には抵抗されてしまった模様ですな﹂
﹁どの程度効いた?﹂
﹁せいぜい、千と言ったところでしょう。ですが、普段通りの力を
振るう事は出来ますまい﹂
アルフェミナ神殿に仕込まれた術は二つ。一つは、戦闘能力が一
767
定以下の人間を無条件で眠らせる術。もう一つは王族もしくはアル
フェミナ神殿が敵だと認識した相手に対して重圧をかける術である。
基本的には、今回のように城内に直接攻撃を受けるケースを想定し
て用意されたものだが、実際に使われるのは二度目で、効果があっ
たのは今回が初めてだ。
因みに、アルフェミナ神殿が誰の目にも明らかなほど堕落してい
たり、王家が言い繕いようもないほどの悪政をつづけていたりすれ
ば、この術の効果はほとんどなくなる。先々代の時は王家に問題が
あったために術そのものが発動しなかったが、今回はどちらにも該
当しないため、術は正常に機能したようだ。
なお、大神官の効いたのは千、という発言は、二つのうち前者の
術で無力化できた数である。流石にこの短時間で招集できるだけあ
って、ほとんどがちゃんとした訓練を受けた兵士であったようだ。
とは言え、ちゃんとした訓練、と言ったところで、地方領主の手勢
の練度は一番いいところでウルスの騎士団の最下限にも届かない程
度。数が互角程度であれば、地の利もあってまず負ける事は無いラ
インである。
﹁今回に関しては、数から考えれば大して効かんだろうと言う事は
分かっていた。千も無力化できれば十分だ﹂
国王の言葉に一つ頷くと、外の様子を見るための魔道具を起動す
るレイオット。城の宝物庫に転がっていた数百年もののアーティフ
ァクトだ。
﹁さて、ここから先、しばらくは外の部隊に任せるしかない。エル
ンストとレイナのお手並み拝見、だな﹂
768
中庭で始まった乱戦と、玄関広間でのにらみ合いを映しながら、
妙にリラックスした態度でそう告げるレイオットであった。
﹁犯罪者として捕まってるのかと思えば、随分うまく取り入ったよ
うじゃないか、女失格。その色気のない体でも、抱いてくれる男は
居るってことか。良かったじゃないか、ゲテモノ好きが居て﹂
マズラック騎士団団長、オドネル・マルトゥーンは、いつものよ
うにレイナを挑発しにかかった。暗い場所で遠目に見れば宏と間違
えても不思議ではないその顔には、レイナならずとも女性であれば
嫌悪感を持つ以外の選択肢は無いであろう下卑た笑みが浮かんでお
り、間違っても騎士団と名がつく集団の長にふさわしい人格をして
いるとは思えない雰囲気を漂わせている。正直なところ、宏との共
通点など立ち居振る舞いが妙にダサく見えるところと、どことなく
ヘタレオーラを発散しているところぐらいしかない。
周りに控えている彼の部下たちも、お世辞にも品がいいとは言え
ない雰囲気をまき散らしながら、同じように下卑た笑いを浮かべな
がら言いたい放題レイナを侮辱し始める。中にはとても文章に出来
ないような、最低という言葉すら生温いほど下品な台詞もあり、普
通の女性なら男という生き物に幻滅してもおかしくない状況になっ
ている。
もしこの場に達也がいれば、最後の一言を言う前にオキサイドサ
769
ークル当りを問答無用で食らわしていること間違いなしの、実に低
レベルで下半身直結系の台詞ばかりだ。正直まともな神経をしてい
れば、男であると言うだけでこれと同じ扱いされるのはマジギレし
て許されるレベルである。はっきり言って、場合によってはチンピ
ラやヤカラでももっとましだ。
﹁言いたい事は、それだけか?﹂
一通り相手の口上を聞き終えたレイナが、淡々とした態度で冷や
やかに言いかえす。今までなら、この程度の挑発で面白いように怒
ってくれたレイナが、今回はまるで怒る様子も見せずに冷静なまま
で対応してくる。その様子に拍子抜けし、妙に毒気を抜かれるよう
な気分になってしまうマズラック騎士団。
﹁なるほどのう。こいつらに、と言うかこいつらの同類に四六時中
絡まれておれば、男が嫌いになっても仕方あるまいか﹂
﹁これを男の基準にしていた自分が、恥ずかしい限りです﹂
﹁まあ、今更言うまい﹂
男社会の騎士団で、レイナのような極端な戦闘能力を持つ女が混
ざれば、あまりいい目で見られないのも当然だろう。中にはこうい
う実力差を認められない、プライドだけは高い性質の悪いものも相
応に存在するわけで、この手のあまり関わりあいになりたくない性
格をしている人間が、性別や人格を攻撃してくるのもおかしなこと
ではない。
だが、他人のどうしようもない身体的特徴をこき下ろして笑うこ
とでプライドを保つような人間が、一流と呼ばれるほどにその実力
770
を伸ばすことなどそうそうない。それだけの実力があれば、そもそ
もレイナが騎士として己を鍛えていること、実力を伸ばそうと必死
に努力していること自体をあざ笑っているだろう。逆に言えば、そ
れが出来るほどの才能を生まれ持っていない限り、彼我の実力差か
ら眼を背け、馬鹿にできる部分だけをつついてこき下ろすことで安
心し、自分を磨くことを怠るような連中が上に上がることなどあり
えない。
そのことに気が付かず、いや、気が付いていながら目を背け続け
た結果が今、もっとも残酷な形で現れようとしていた。
﹁とりあえず、一つ聞こう﹂
﹁女失格な体型の癖に体で騎士になった卑怯者が、何を聞きたいん
だ?﹂
﹁その体でたらしこんで騎士になった、と言う女ですら、防具なし、
ナイフ一本でも、一対一でバーサークベアぐらいは仕留められるの
だが、お前達は当然できるのだろうな?﹂
レイナの問いかけに、今度はマズラック騎士団の顔が屈辱にゆが
む。彼らは騎士団と言う名に反し、その戦闘能力は七級の冒険者程
度。つまり、全身をがちがちに高品質の装備で固めて、ようやくバ
ーサークベアとまともに勝負が出来る程度でしかない。さすがにド
ーガやレイナのように普通の服とナイフだけでバーサークベアを余
裕で秒殺できるような人間は少数派だが、ウルスを拠点としている
騎士団は皆、一般的な皮鎧と普通の特に優れたことのない剣や槍が
あれば、バーサークベアぐらいは楽勝で仕留めてのける。
装備の質の分一般兵よりはやや強いが、ファーレーンの騎士と名
771
がつく存在としては最弱の集団、それが今のマズラック騎士団なの
だ。
﹁人の事を馬鹿にするのだから、相応の実力はあるのだろう? な
らば、大口をたたくだけではなく、その実力を見せてみたらどうだ
?﹂
いつもとは逆に、レイナの方が挑発をかける。普段の彼女を知っ
ている人間なら、この光景に驚くに違いない。いくら宏との一件で
自分の駄目さ加減を痛感し、反省に反省を重ねて一皮むけたと言っ
たとこで、まだ一月やそこらしか経っていないのだ。その程度の事
でここまでの振る舞いができるようになるのであれば、最初から暴
走なんぞする訳が無い。
実のところ、これにはからくりがある。この作戦が決まった時に、
相手の挑発に乗って何もかも駄目にしないためにと、宏達に土下座
して頼みこんで、頭をクールダウンする効果のある挑発潰しのため
の消耗品を用意してもらったのだ。どれだけ自分の事を信用してい
ないのかと呆れるやり口ではあるが、今回はそれが功を奏して、レ
イナでなくても切れて不思議ではない罵詈雑言の嵐を、きれいさっ
ぱりスルーしてのける事が出来たのである。
﹁それとも、それだけの頭数をそろえて、特殊な性癖の男に媚を売
るしかできない女失格と、そんなゴミ屑に目をかける耄碌爺に挑む
ことすらできないのか?﹂
﹁言わせておけば⋮⋮!﹂
今まで蔑んでいた相手に、自分達の言葉を逆手に取られて見下さ
れる。その事実にごろつき達の怒りが沸騰する。目の前の二人がケ
772
ルベロス三体を歯牙にもかけない存在だ、という事をさっくり忘れ、
数の優位を頼みに襲撃をかける事にするマズラック騎士団。
﹁いくら強いと言ったところで、相手はたったの二人だ! 耄碌爺
と女失格に身の程を教えてやるぞ!﹂
オドネルの号令に鬨の声を上げ、隊列も何も無茶苦茶なまま突っ
込んで行く。そのなっていない様子を鼻で笑うと、二人は何のひね
りもなく手に持った獲物を横に薙ぎ払う。
﹁がぁ!﹂
﹁ぬあ!?﹂
﹁ぎゃあ!!﹂
その何気ない動作の一撃により、ひと山いくらという感じで蹴散
らされるマズラック騎士団。彼らは知らなかった。この世界におい
ては、ここまで実力差が開いてしまうと、数の差が何千倍あったと
ころで無意味だ、という事を。
﹁全く、耄碌爺に薙ぎ払われて気絶するとは、ぬるい連中だのう﹂
﹁鎧ばかり立派でも、中身が伴っていなければこんなものでしょう﹂
﹁この程度なら、ピアラノークの時のようにバインドを食らってい
ても、欠片たりとも負ける気がせんぞ﹂
たった一撃。たった一撃で完全に士気を砕かれてしまったマズラ
ック騎士団は、二人の嘲るような言葉に心底恐怖を抱いて逃げ出そ
773
うとしはじめる。自分達の立場を忘れて逃げを打とうとする連中に
一瞬呆れ、次の瞬間逃がさないための手段を講じることにするドー
ガ。
﹁逃げるな卑怯者ども!﹂
全身から巨大な闘気を発し、逃げ出そうとした私兵どもを威圧し
てその場に押しとどめる。アウトフェース、威圧型の集団挑発。宏
にも伝授した、前衛にとって必須だと言われる技。ドーガほど熟練
すれば、度を越した恐怖を与えることによって、逃げると言う選択
肢すら奪う事が出来る。
マズラック騎士団はこの期に及んでようやく、自分達が生きて帰
れる選択肢が存在しない事を思い知ったのであった。
﹁そろそろ、次の一手に入りましょうか﹂
﹁許可するわ﹂
バルドの言葉に頷くカタリナ。形の上だけではあるが許可を受け、
予定通り次のステップに移行するバルド。
﹁さて、いい声で鳴いていただきましょう﹂
774
にやりと狂った笑顔を浮かべ、目の前で劣勢に立たされている反
乱軍に対し何やら魔法をかける。次の瞬間、中庭に広がったのは阿
鼻叫喚の地獄絵図であった。
ある者は唐突に業火に焼かれ、ある者は何の前触れもなく全身が
腐り落ちる。虚空に現れた大口に丸呑みにされた者、足元が底なし
沼になり、いきなり引きずり込まれた者もいる。共通しているのは、
それだけの目に遭いながら誰一人として即死せず、気が狂うまで苦
しみ続けたと言う事だけである。
そもそも反乱軍の兵士達は、その大半が何も教えられずに領主の
命令で集められ、唐突に城の中庭で正規の騎士団と交戦する事を強
要されただけの集団だ。領主や指揮官の手前、とりあえず最初の降
伏勧告以降は戦っているふりをしてはいるが、その戦意はとてつも
なく低い。二度目の降伏勧告があれば即座に従うだろうし、詳細を
教えられずに命令され、拒否できずに従っただけという立場上、降
伏すれば大した罪に問われる事もないであろう人間ばかりである。
犠牲になったのは、ほぼすべてがそう言う運が悪かっただけの一
般兵たちだった。彼らがそんなむごたらしい殺され方をするほど悪
い事をしていたのか、というと、ほぼ全員が否、というところだ。
反乱軍の中には、よくある領民を搾り取っているような領主も全く
居ない訳ではないが、残念ながらここ十年ほどは王家の目がきつく
なって、そういう無法は簡単には出来なくなっている。それらに消
極的にかかわってきた人間もいないではないが、ほとんどはこのと
きたまたま兵士になっていただけの、領地をモンスターや無法者の
被害から守ってきた人たちだ。
本来彼らは、こんな目にあって当然と言われるような人間ではな
いのである。
775
﹁な、なんだ!?﹂
﹁どういうことだ!?﹂
唐突に起こったあまりにむごたらしい光景に、応戦していた騎士
達も動揺を抑えきれない。もともと、相手に対してこれといって思
うところがあったわけではない。一部の連中のように本気になって
かかってきていればともかく、形の上だけ戦闘を続けている彼らを
本気で切り捨てるつもりなどなかった。実際、割と外周のほうにい
た兵士達は、一合二合打ち合った後あっという間に武器を奪われ、
後遺症が残らないように注意を払った一撃で意識を刈り取られ戦場
から排除されたため、運よく今回の悪夢には巻き込まれずに済んで
いる。
﹁いくら反逆者だからと言って、こんな形で殺すのが貴様らの騎士
道と言うやつなのか!?﹂
生き残りの一人が、あまりの光景に我を忘れて叫びだす。その声
を聞いて我に返った騎士達が、口々に反論をする。
﹁そんな面倒な真似をして、我々に何の利がある!?﹂
﹁そもそも、皆殺しにするつもりなら貴様らごとき、とうの昔に始
末し終えている!﹂
﹁第一、そのつもりがあるなら、そこに転がっている連中に止めを
刺さない理由がないだろうが!﹂
怒りに任せてかなり手荒に相手を制圧しながら、本気で吼える。
776
こんな雑魚相手にこんな外道そのものといった真似をしたと疑われ
る。それは彼らにとって、侮辱以外の何者でもない。
﹁誰だかは知らんが、お望み通り制圧してやったぞ! 出て来い!﹂
反逆軍の指揮官が降伏を言い出したところで、中庭の部隊を指揮
する近衛騎士の大隊長が姿を見せない犯人に対して吠える。その声
に応えて、彼らの前に姿を現すバルド。
﹁やはり貴様か⋮⋮!﹂
﹁折角手間を省いて差し上げたと言うのに、何がそこまでご不満な
ので?﹂
﹁意識を刈りとれば事が足りる相手を、わざわざ後ろ指さされるよ
うなやり口で仕留める必要など最初からないだろうが!﹂
﹁綺麗事は結構ですが、どうせ反逆者は死刑。ならば、どのような
死に方をしても彼らの自業自得でしょう?﹂
﹁命令に対する拒否権のない末端の雑兵など、我が国の刑法ではわ
ざわざ死罪になどせん!﹂
自分に都合のいい解釈で好き勝手な事を言い放つバルドに、本気
で怒りを覚える大隊長。呆然とそのやり取りを聞いていた反逆軍の
指揮官が、大隊長同様に怒りをあらわにする。
﹁そもそも、我らをここに送り込んだのは貴様だろうが! その貴
様が、何故味方のはずの軍勢を虐殺する!?﹂
777
﹁味方? 何を言っておられるのですか?﹂
指揮官の糾弾を聞き、本気で何の事か分からないと言う表情を浮
かべるバルド。その口調に笑いがにじんでいるところを見るまでも
なく、挑発しようとする意図が見え見えではあるが。
﹁何にせよ、貴様は国の法を明確に犯した! 今回ばかりは言い逃
れは聞かん! 今日こそはその首を叩き斬る!﹂
﹁おやおや、怖い怖い﹂
大隊長の気迫を受けて、おどけた様子で怯えたふりをして見せる
バルド。とことんまで挑発的な態度にどんどん怒りのボルテージが
上がっていき、いい加減限界を突破しそうな騎士達。もはや我慢で
きぬとばかりに攻撃を仕掛けようとしたところで、再びバルドが実
力行使に移る。
﹁私もまだまだ仕事を抱えた身の上。言いがかりで殺されてはたま
りませんので、少々抵抗させていただきましょう﹂
いけしゃあしゃあとそんな言葉を言い放ち、なにがしかの術を発
動させる。その瞬間、中庭を濃密な瘴気が満たし、先ほど虐殺され
た者の残骸や意識を失っている反逆軍の兵士達を変質させる。
﹁何!?﹂
﹁貴様、どこまで人を侮辱すれば気が済む!?﹂
﹁侮辱? 何をおっしゃるのやら。貴方がたが無為に殺した人たち
の恨みを晴らしてもらうだけですよ。ただし、生きている者すべて
778
に対してね﹂
にやにやと笑いながら悪趣味な事を言って、更にケルベロスを十
体ほど呼び出して悠々とその場から立ち去るバルド。その場に残さ
れたのは趣味の悪い不死系モンスターと、強引に変質させられ正気
と人格を失い、単なる半端なミュータントモンスターに堕した反逆
軍の兵士、居るだけで瘴気による汚染を拡大するケルベロス、そし
て嫌が応にもそれらに対応せざるを得ず、歯噛みしながら剣を振る
う騎士団という地獄のような光景であった。
その違和感に真っ先に気がついたのは、やはり宏であった。
﹁なんか変な感じや﹂
そのつぶやきを聞きつけたレイオットが、険しい顔を宏に向ける。
﹁何かまずいのか?﹂
﹁何とも言えんとこですけど、なんかおかしい気がします﹂
﹁具体的には、と聞いても説明できないか。どうするべきだと考え
ている?﹂
﹁はっきりと言いきれる話やありませんけど、避難すべき人らはそ
779
ろそろ避難を始めた方がええと思います。いつ戦闘になってもおか
しない﹂
その言葉を聞いた国王とエレーナが、最低限の荷物を確認して利
用予定の秘密通路に向かって歩き始める。二人とも、宏の言葉を疑
う気は一切ないらしい。
﹁澪も頼むわ﹂
﹁了解。師匠、気をつけて﹂
﹁そっちもな﹂
打ち合わせ通り、避難を開始する国王一行についていく澪。なお、
避難先は王妃達と同じく、宏達の工房を予定している。驚きの話だ
が、宏達の工房は、実際にはアルフェミナ神殿よりも堅牢な防御力
を持っている。見た目はやや古く割と大きい建物が塀に囲まれてぽ
つんと建っているだけのアズマ工房だが、その実体は、物理的には
攻城兵器を正面からはじき返し、魔法防御や魔法抵抗も宏本人と大
差ない、大魔法すら場合によってはキャンセルしてしまうものが施
されている、小型要塞のような建物だ。毒や呪いも敷地内に侵入す
る前に浄化してしまうシステムを組み込んでおり、その上、悪意あ
る人間はそもそも人払いの結界により近寄ることすらできないとい
う、何を考えてそこまでガチガチに固めているのか分からない、こ
の世界の技術レベルを考えるなら、この規模の建物としては完璧と
もいえる防御能力を備えている。
宏と澪いわく、この程度の敷地面積だからこそ手持ちの素材だけ
でも可能だったという防衛設備だが、厄介なのは防衛設備だけでは
ない。材料が集まるたびに暇を見つけて拡張を繰り返した倉庫の容
780
量もまた、この工房の要塞化に一役買っている。依頼や採集の度に
新たに抱え込む食材や、宏が暇を見つけては充実させていく調味料
をはじめとした物資の物量を考えるなら、今神殿にいる関係者全員
を収容しても、その気になれば二カ月は余裕で籠城できる。何人か
に外部で食料調達をさせておけば、古代竜クラスに襲撃されでもし
ない限りは老衰で死ぬまで引きこもる事すら可能な、究極のシェル
ター機能を備えている。
言うまでもなくこの過剰な防備は、材料が余っていた宏が趣味と
職業病をこじらせた結果である。無論、最初からこうだった訳では
ないのだが、荒熱取りのような微妙な手待ち時間を見つけてはこそ
こそ改造に改造を重ねた結果、もはやガワと中身が別物というレベ
ルの、何のための施設か分からない物になってしまったのだ。もっ
とも、こういう秘密基地的なギミックがひそかに大好きな達也と真
琴が、普段のようにブレーキをかけずにアクセルを踏み込んだのも
やりすぎた原因ではあるが。
だったら最初からそっちに避難しておけばいいじゃないか、とい
う話もあるが、神殿にいる事をあえてバルドに探知させる必要があ
ったために、囮として使える人間は全員ここに残る事になったのだ。
地味に、全く戦闘能力を持たない人間が侍女たちぐらいしかいない、
というのもこの作戦の決行を躊躇わなかった理由である。
﹁あれ?﹂
避難を始めた国王陛下一行を見守っていると、一緒に移動するは
ずの人物が一人、全く動こうとしない事に気がつく春菜。エレーナ
の腹心ともいえる彼女付きの筆頭侍女・オリアが、移動を始めた主
を無視して、どこかうつろな目でぼんやり立っている。それを見て、
非常に嫌な予感がしながらも一応声をかける事にする。
781
﹁ここは危険かもしれません。早く避難を﹂
声をかけてきた春菜に顔を向けると、ぞっとするような笑みを浮
かべて近寄って来る。その笑顔を見て、背筋に冷たいものが走る春
菜。
﹁避難ルートはあっちです!﹂
その恐怖を振り払い、もう一度念のために声をかける。頭の中を
最大音量で警報が鳴り響く。何かおかしい。何かがまずい。こうな
ったら殴り倒して気絶させて、誰かに運んでもらった方がいいかも
しれない。そんな物騒な考えのもと、そろそろ自分の腕の延長ぐら
いには馴染んできた愛用のレイピアに手をかけたところで、
﹁駄目です、ハルナ様! 彼女から離れてください!﹂
儀式の間から飛び出したエアリスが、大声でそんな警告を発する。
エアリスの言葉にとっさに距離を取ろうとする春菜。その声に驚い
て立ち止まり、思わず振り返ったエレーナ達が見たものは、驚くよ
うな光景であった。
﹁ハルナ様!?﹂
その場にいた人間が見たものは、距離を取ったはずの春菜の懐に
潜り込み、狂気の混じった笑顔を浮かべて、彼女の脇腹に禍々しい
オーラを発するナイフを突き立てるオリアの姿であった。
782
第20話
﹁外が騒がしいのう﹂
マズラック騎士団をほぼ壊滅させたあたりで、中庭の異変を感じ
取ったドーガがつぶやく。
﹁戦闘による喧噪ではないのですか?﹂
﹁違うな。剣戟の音が聞こえん。それに、何やら言い争っておるよ
うじゃ﹂
戦闘中という観点から見れば、明らかに妙な状況。その状況に首
をかしげながらも、とりあえずオドネルを追いつめるドーガ。一応
隊長だけあって、毛が生えた程度とはいえ雑兵よりは強いオドネル
だが、ドーガからすれば誤差の範囲でしかない。抵抗らしい抵抗も
出来ず、あっさり武器を砕かれ鎧を壊され、腰が抜けてその場にへ
たりこむ。
﹁おかしいなどと言うておっても話は進まん。少しばかり確認して
⋮⋮﹂
ドーガは、最後まで言葉を続ける事が出来なかった。中庭と同じ
種類の異変が、この玄関ホールでも起こり始めたからだ。
﹁⋮⋮なんじゃ?﹂
マズラック騎士団の体が、唐突に変異しはじめる。あるものは腕
783
が急激に太くなってオーガですら引くほど筋骨隆々になり、あるも
のは髪の毛が触手に変化する。まだ人型を保っているのはマシな方
で、中にはそもそも人の体を保つ事が出来ず、スライム状の何かに
化けてしまった者すらいる。共通点は瘴気を発散するようになった
事と、サイズが人間の倍以上に膨れ上がった事ぐらいだ。
﹁⋮⋮グロいのう﹂
映像化する場合、まず間違いなくモザイクをかけられるであろう
不気味な光景を油断なく観察しながら、嫌悪感たっぷりに言い捨て
るドーガ。
﹁外が騒がしかった事と、何か関係があるのでしょうか?﹂
﹁分からん。分からんが、少なくともこ奴らを放置しておくわけに
はいかん、と言うのは間違いないじゃろう﹂
﹁⋮⋮外でもこれと同じ事が起きているのであれば、少々まずい事
になっている可能性もあります﹂
レイナの指摘に頷き、槍を構え直すドーガ。マズラック騎士団の
総数は百。今回の変異でどの程度化けるかは不明だが、ケルベロス
ほどのプレッシャーは無い。とは言え、人間としての知性が残って
いれば、変異によって得た戦闘能力をどう使ってくるかは分からな
い。一挙に蹴散らしてしまうべきだろう。
﹁とっととやってしまうぞ、レイナ!﹂
﹁ドーガ卿はこの場を突破して、中庭に加勢してください﹂
784
﹁む?﹂
﹁もはやこいつらに対しては、気を使わねばならない要素は皆無。
見たところ、大した素材を残すような感じでもなく、ヒロシ達にし
ても元人間から取った素材を使って平気で居られるほど壊れてはい
ない。ならば、私が好き放題暴れたところで、誰も文句は言います
まい﹂
獰猛な、実に獰猛な笑みを浮かべながら、襲いかかってきた最初
のミュータントモンスターを三枚に下ろしつつ言い切るレイナ。
﹁だが、一人でこの数は、ちっとばかしきつくは無いか?﹂
﹁少々変異した程度で、この愚か者どもを調子に乗せるのは腹立た
しい。それに、これまでのあれこれに対して、合法的に報復できる
またとない機会。多少きつかろうがどうしようが、きちんと一体残
さず完璧に殲滅しますので﹂
ドーガの微妙に困ったような言葉に応える間にも、更に二体切り
捨てる。普通の斬撃が通じにくい相手には、きっちり属性付与を行
って攻撃を通しているあたり、なかなかにクールだ。
﹁⋮⋮分かった。じゃが、突破するときに何匹か轢き殺す事につい
ては、一切苦情も文句も受け付けんからな﹂
﹁了解です﹂
その相談を聞いていたらしい元オドネルだったミュータントモン
スターが、あざ笑うように声を上げる。
785
﹁この数の差に加えてこれだけの力を我らが持ったと言うのに、中
庭への加勢を考えるとは、本当に頭が悪いな、女失格!﹂
オドネルの言葉を無視し、力をためるドーガをかばうようにどん
どんと敵を切り捨てていくレイナ。時間にして一秒あるかないかの
ため時間の後、正面玄関を通って中庭に出られるルートのうち、最
も大量に敵を巻き込めるラインを見切って技を放つ。
﹁貴様らにはもったいないが、時間短縮のため使わせてもらうぞ!
轟天槍覇!﹂
己が使える最強の大技を解き放ち、正面玄関に向けて飛び出すド
ーガ。一本の巨大な鋭い錐となったドーガは、進路上にいるミュー
タントモンスターの胴体を穿ち、貫き、粉砕して進んで行く。正面
にとらえたものだけでなく、進路の端をかすめただけのモンスター
すらずたずたに引き裂いて突破し、三十を超える死骸を作り上げて
悠々と玄関を出ていくドーガ。瞬く間に半数近くまで数を削られた
マズラック騎士団だが、彼らの受難はまだ終わってはいなかった。
﹁一体一体削るのは邪魔くさい! まとめて死ね!﹂
ドーガの大技に意識が逸れている間に、レイナの方も技の準備が
終わっていたようだ。濃密な殺気とともに、広域攻撃用の技を叩き
込む。
﹁ブラスタースクエア!﹂
闘気をこれでもかと言うぐらい乗せた刃を横一閃に振り抜くと、
その軌跡に沿って濃密なエネルギーが進路上のものを焼き払って行
く。距離による減衰もあって当たったもの全てを仕留めるには至ら
786
なかったが、この一連の流れにより、無傷なのはたまたまどちらの
攻撃範囲からもそれ、逃げ切る事に成功したオドネルのみとなった。
戦闘可能なモンスターの数も、すでに三十程度まで減っている。
﹁さて、頭の悪い女の正当な八つ当たりに、最後まで付き合っても
らおうか﹂
とことんまで獰猛な笑みを浮かべてアウトフェースを放つレイナ
に、変異した力を持ってしてなお恐怖を押さえきれないマズラック
騎士団であった。
﹁春菜!﹂
﹁大丈夫!﹂
脇腹にナイフを突き立てにきたオリアを弾き飛ばし、刺さったそ
れを呪いを警戒して柄を握らないように注意しつつ引っこ抜きなが
ら、真琴に応える春菜。攻撃力を上げる方向でかなりの呪いがかか
っているナイフだが、彼女が着こんでいる防具を全て貫くには少々
足りなかったようだ。
今の必中攻撃でスタミナを根こそぎ持って行かれたからか、弾き
飛ばすより先にオリアは意識を失っていた。相手の力量によって消
耗が変わる類の特殊攻撃なのだから、当然と言えば当然だ。そもそ
787
も、発動できただけ奇跡である。
必中攻撃と防御力無視は、RPGとつくゲームには大抵存在する。
それはフェアリーテイル・クロニクルも例外ではない。ただし、フ
ェアリーテイル・クロニクルの場合はこの類の機能を持つスキルは
非常に少なく、かなり高レベルのボスクラスの攻撃スキルかエクス
トラスキル、ごく一部のドロップもしくは製造装備の特殊機能に存
在するのみである。
また、相手と自分の力量差や相手のスペックに応じてスタミナの
消費が変わり、宏やドーガの防御力を無視してダメージを与えると
なると、相当なコストがかかる。春菜相手に必中攻撃をかける場合、
このケースに比べれば相当ましではあるものの、全く訓練を積んで
いない一般人では、スタミナを根こそぎ持って行かれた揚句に気絶
するのが落ちだ。
これはスキルではなく装備の特殊機能だった場合でも同様で、発
動するためには相当のスタミナが必要となる。これが仮に攻撃が自
動的に必中攻撃、もしくは物理防御無視となる武器だと、一発ごと
にゴリゴリとスタミナを持っていかれるため、相当なタフさが無け
れば使い物にならない。とはいえ、物理法則を無視させるのだから、
ある意味当然と言えば当然かもしれないが。
そう考えれば、オリアは戦闘面でもそれなりに優秀だったという
事になる。当人にとっては嬉しくもなんともないだろうが。
﹁とは言え、ランニングシャツ越しにナイフの刃先があたってる感
触はあったから、本当にぎりぎりだった感じだけど⋮⋮﹂
﹁だってさ。やっぱりランニングシャツだけじゃなくて、ちゃんと
788
したブラとショーツも作ってあげた方が良かったんじゃないの?﹂
﹁無茶言わんといてや⋮⋮﹂
流石と言うかなんというか、その呪いのナイフは、ワイバーンレ
ザーアーマーを完全に貫き、下に着ていたスパイダーシルクの服に
穴をあけ、ほとんど皮鎧と変わらない防御力を持つ絹製のランニン
グシャツに当るところまで刃先をとどかせていた。刺されたあたり
を触って確認したところ、ランニングシャツにも微妙に刃が突き立
っていた感触があるため、本当に紙一重だったようだ。
もし仮に、ランニングシャツを作ったのが宏でなく澪だったら、
糸を織って生地を作るところから始めていなければ、もしくは彼女
を刺したのが昨夜の暗殺者のようにきちっとした訓練を受けていた
人間だったなら。春菜は無傷では済まなかっただろう。そもそも、
ナイフにどんな呪いがかかっているか分からない以上、ほんの少し
刺さっただけでもいろいろアウトだった可能性は高い。
因みに、宏が防げなかったのかと言うと、防ぐためのスキルまで
手が回らず、まだ覚えていなかったためどうにもできなかったのだ。
必中攻撃を肩代わりできるのは、ダメージそのものを肩代わりする
ディボーション、物理的な距離や時間を無視して割り込むカバーム
ーブ、同じく物理的な距離や時間を無視して入れ替わるキャスリン
グのいずれかのみになる。いくら物理法則を無視して必ず当たる攻
撃と言っても、流石にヒット直前に障害物が出現したり対象が入れ
替わったりしたときに、それを追いかけるほどの性能はない。
﹁思い付きとはいえ、ランニングシャツだけでも作っておいて貰っ
てよかったよ、本当に⋮⋮﹂
789
﹁まあ、あれやったら男もんのシャツとあんまり変わらへんから、
そんなにプレッシャー感じんと作れた感じやけど⋮⋮﹂
いきなり言われて大慌てで五人分を織る羽目になった時の事を思
い出し、微妙に遠い目をしてしまう宏。王宮サイドがたくさん用意
してくれたおかげで絹糸の量が十分にあったから良かったものの、
蜘蛛の巣に採りに行くとなると、なかなか微妙な分量だった。糸自
体の質に思うところが無いではないが、今現在市場から調達すると、
これ以上の品質は手に入らない事も分かっているため、多少性能が
落ちる事については妥協してもらった。
わざわざ新しくランニングシャツを作ったのは単純な話で、後衛
に届く必中攻撃の類があった場合の備え、その一環である。流石に
操った侍女に必中攻撃の機能を持つ呪いのナイフを持たせる、と言
うところまでは想定しきれなかったが︵そもそも、オリアはいまの
いままで刃物の類を一切持っていなかった事は確認されている︶、
一枚重ねればそれだけ色々な事に対処できるようになる。宏のガー
ドが完璧ではない以上、こういう備えはいくらあっても困る事はな
い。
﹁とりあえず、そのうち冗談抜きで、全員分のちゃんとした下着を
ヒロが作ることも検討した方がよさそうだな﹂
﹁やめてや⋮⋮﹂
達也の厳しい台詞に、肩を落としながら拒否の言葉を漏らす宏。
まだ子供のエアリスですら、洒落にならないプレッシャーを受けた
のだ。グラビアアイドルと勝負して勝てるような女の下着なぞ、間
違っても作りたくはない。
790
﹁下着の話はそろそろおいておけ﹂
﹁そうだな。で、結局今のはなんなんだ?﹂
﹁⋮⋮多分、バルドに付け込まれたのでしょうね﹂
気絶させられた自身の侍女を見降ろし、苦い口調で断定するエレ
ーナ。彼女が宏や春菜に対して、半ば敵意と呼んでもいいような感
情を持っていた事には気が付いていた。ちゃんと治療を終えて帰っ
てきたため、流石に宏達を詐欺師だとかそういう方向で疑ってはい
なかったが、その治療に一切関わらせてもらえなかった事に対する
不満は、バルドの手によってもはや憎しみと呼べるところまで膨れ
上がりかけていたのだ。
そんな彼女の感情には気が付いていたが、かといって日ごろの言
動や強すぎる忠誠心を見ていると、もし仮に一緒に工房に連れて行
ったところで、やれ部屋が狭いだ汚いだ、やれ食事が粗末だ食材が
怪しいだと、つける必要のない文句をつけて治療を妨げたであろう
事も想像に難くない。
これが部屋や料理ぐらいならまだいい。薬について難癖をつけは
じめたら、下手をすればそれこそエレーナの命にすら関わりかねな
い状況であった。考えすぎだと言いたいところだが、いくらこの件
で反発を買い、そこをバルドに付け込まれたとは言えど、往診の度
に宏達に対して見せていた態度を考えると、杞憂だとは言い切れな
いのが難儀な話である。
﹁貴方達がお菓子をばら撒いて、城の人たちの関心を買った事すら
気に食わない様子だったし﹂
791
﹁余程、姉上の治療に関われなかった事を恨んでいるのだな﹂
﹁何度も釘を刺したのだけど、ね⋮⋮﹂
﹁そう言う恨みは、案外根深いものだからな。本人は心の整理をつ
けたつもりでも、些細な事でぶり返す事は珍しくない。ましてや、
バルドはそう言う小細工だけは得意だ﹂
ため息交じりのエレーナの返事に、面倒な事をしてくれる、と言
う表情を隠そうともせずに相槌を打つレイオット。
﹁さて、姉上。父上達は先に行かせた。少々厳しいとは思うが、急
いで合流してくれ﹂
﹁分かったわ﹂
﹁⋮⋮あかん、手遅れや﹂
更にあたりの空気が変わった事を敏感に察して、ぼやくように宏
がつぶやく。
﹁⋮⋮この感じ、隔離結界?﹂
﹁近いけど多分違う。多分、異界化しかかっとる﹂
顔をこわばらせながらの春菜の疑問に、同じく険しい顔で宏が答
える。異界化した空間と言うのは、入るのは簡単だが出るのは難し
い。
﹁お父様達は、大丈夫かしら?﹂
792
﹁向こうの移動速度と異界化のペースから考えたら、多分脱出は出
来ると思う。下着がどうとか無駄話しとった時点で、今の異界化範
囲からは出とったしな﹂
﹁ただ、エレ姉は今からだと無理。下手をすれば孤立する﹂
師弟の言葉に、表情を引き締めながら頷くエレーナ。最悪の場合
でも、後衛として足を引っ張らない程度に支援する事は出来る。そ
れに、エアリスともども、宏から与えられた切り札も持っている。
﹁とりあえず、なにが出てきてもいいように心構えだけはしておい
て。最悪、私達の対応能力を超えるかもしれない﹂
春菜の厳しい言葉に、真面目な顔で頷く王女二人。エアリスだけ
なら最悪アルフェミナが守るだろうとは思うのだが、体の負担がど
うとか言っていた事を考えると、エレーナの方に手が回るかは不明
である。
﹁流石にここがダンジョンになっては拙い。最悪の場合、王家の切
り札を切る必要があるかもしれん。そうなったら姉上とエアリスを
連れて、どうにか脱出してくれ﹂
﹁⋮⋮それって、レイっちがやらなあかん事なん?﹂
﹁残念ながら、この札を切れるのは国王か王太子、元国王のみ。国
王が健在であれば、王太子は代えがきく。流石に、今の政治情勢で
父上がいなくなるのは拙いからな﹂
その言葉で、切り札と言う奴がどんなものかを理解する日本人達。
793
それが王家の重要な仕事とはいえ、なかなかえげつない立場だ。
﹁そういえば、異界化した空間を元に戻すって、出来るの?﹂
﹁イベントの通りだったら、黒幕を仕留めて瘴気を浄化すれば元通
りになるわね﹂
春菜の疑問に、真琴が明快な答えを返す。ある意味予想通りの回
答なので、方針を考える必要はない。やる事は何一つ変わらないの
だ。
﹁⋮⋮何か出てくる﹂
澪がぽつりとつぶやく。その言葉に反射的に身構えると同時に、
半透明の何かがうようよと現れる。
﹁スペクターか⋮⋮﹂
﹁ヒロ、一ヶ所に集められるか?﹂
﹁やってみるわ﹂
オリアをとりあえず儀式の間の扉前に動かし、浄化系攻撃魔法の
チャージに入りながら声をかける達也。達也の言葉に一つ頷くと、
ものはためしとアウトフェースを発動させてみる宏。
﹁来いやあ!!﹂
掛け声とともに濃厚なプレッシャーを放つ。あまりの迫力に、一
ヶ所に集まる前に吹き散らされるスペクター達。
794
﹁⋮⋮何ぞ消えてもうたけど、どないなん?﹂
﹁いや、スペクターがアウトフェースで消滅するとか、俺も初めて
の経験なんだが⋮⋮﹂
微妙に間抜けな状況に、何とも言えない空気が流れる。
﹁⋮⋮スペクターのような精神体が、あれだけの密度のプレッシャ
ーにさらされて、無傷で居られる訳が無かろう﹂
﹁そう言うもんなん?﹂
﹁ああ。ユリウスやエルンストも、あのレベルのスペクターなら、
大抵アウトフェース一発で蹴散らしているぞ﹂
呆れたようなレイオットの解説に、そういうものかととりあえず
納得する二人。そこにぼそりと、真琴が突っ込みを入れる。
﹁スペクターとかゴーストの類って、春菜が歌えば一発でけりがつ
くんじゃないの?﹂
﹁⋮⋮そうかもな﹂
﹁⋮⋮せやな。言われてみればそうや﹂
瘴気を浄化できるのだから、アンデッドを成仏させる事ぐらいで
きても不思議ではない。とは言え、ゲームの時の常識が完全に抜け
きっている訳ではない上、当の春菜がアンデッド相手に歌を歌うと
言う行動をとった事が無いため、出来るかどうかは当人にも分から
795
ない。他にも何人か歌唱エクストラを持っているプレイヤーは居る
が、呪歌の性能の問題で根本的に戦闘中に歌を歌う事がほとんど無
いため、そんな実証実験は誰もしていない。
そもそもの話、ゴーストとかスペクターの類は単純な物理攻撃は
効果が無く、ボス級でもない限りドロップアイテムもないため、わ
ざわざ積極的に狩りに行く機会が無い。出現場所も限られる上に経
験値面でもさほど美味しい相手でもなく、出現場所に何かいい素材
や美味しいモンスターがいる訳でもない。
ほとんどのプレイヤーがイベントで一度は戦った経験がある相手
ではあるが、それ以外に遭遇すること自体がまずない事もあって、
今回話題になっているスキルに限らず、あの連中に良く効くスキル
の調査自体行われていない。第一、こちらの世界とゲームのアウト
フェースや神の歌が、同じ性能だという保証もない。
故に、彼らがこのあたりの事を知らなかったとしても、何の不思
議もない事ではある。
﹁また何か来た﹂
﹁春姉、お願い!﹂
﹁了解!﹂
澪に言われて、地面からにじみ出るように現れた不定形の腐敗臭
を放つ何かに対し、本気の歌を聞かせる春菜。とっさに歌えと言わ
れたために即座にいい曲が思い付かず、日本人なら誰もが知ってい
るであろう青いタヌキ、もといネコ型ロボットが出てくるアニメの
主題歌を朗々と歌い上げる。因みにあんなこと出来たらいいなと言
796
う歌詞の方である。
予想通りアンデッドの類だったらしく、春菜の歌が響き渡ると同
時に動きを止め、崩れ去っていく腐った何か。どうやら綺麗に浄化
されたようで、肉片すら残らず消え去っている。
とは言え、日本人なら必ず一度は見た事があるあのアニメの主題
歌が後から後から出てくるアンデッドを片っ端から浄化していくシ
ーンは、恐ろしくシュールな絵面ではある。
﹁⋮⋮なんだ、あの歌は?﹂
﹁うちらの国の、子供向けの物語の歌や﹂
﹁童話のようなものか?﹂
﹁似て非なるもの、っちゅうとこやな﹂
宏の解説に、なんとなく納得するレイオット。そろそろ状況も佳
境に差し掛かろうと言うのに、今一締まらない神殿サイドであった。
﹁⋮⋮歌が聞こえると言う事は、どうやらあの侍女は失敗したよう
ですな﹂
797
﹁本当に、使えない⋮⋮﹂
神殿の瘴気が薄まっていく様子を観察しながら、状況の悪さに嘆
息するバルドとカタリナ。流石に致命傷を与えることまでは期待し
ていなかったが、全く効果無しと言うのは予想外にもほどがある。
﹁ですが、六千人分の怨念を即座に払いのけるほどの力までは、流
石に持ち合わせていない様子。いい加減覚悟を決めて、直接仕留め
に向かった方がよさそうです﹂
﹁全く、どこまでも忌々しい話ね﹂
ままならぬ現状に対し顔を醜悪に歪め、怨念のこもった言葉を吐
き捨てるカタリナ。その様子を見て、彼女をファーレーン一の美姫
だとたたえる人間は居ないだろう。
春菜が来るまでは、まだちゃんとした誇りと言うものが存在して
いた。不思議なもので、前提条件がおかしくとも、誇りの持ち方そ
のものに筋が通っていれば、たとえそれがどれほど一般的なものと
相容れなかろうと、醜悪という印象にはつながらない事が多い。カ
タリナもその例に漏れず、少し前までは悪女なりの美しさ、とでも
いうべきものがあった。
だが、今のカタリナはそうではない。なまじ整った容姿をしてい
るだけに、その醜悪さがかえって目立つ。もはや誇りと呼べるもの
をすべて捨て去り、単に気に食わない事を気に食わないとわめき八
つ当たりして暴れているだけのただの子供にまで堕ちてしまってい
る。そこに美学は無く、支持するに足る理念もなく、故に人を従わ
せるに足る説得力もなく、ただただ図体が立派で年齢を重ねただけ
の子供が持つ醜悪さしか表に出ていない。
798
既にバルドに捨て駒にされてしまってはいるが、彼女についた貴
族たちがもう少しまともな時に今のカタリナの姿を見れば、己がい
かに愚かな選択をしたのかを思い知ることになっただろう。もっと
も、大半に関しては、カタリナの姿は自身の鏡でしかないのだが。
﹁とにかく、あの小娘と巫女二人を始末すれば、カタリナ様の勝利
です。後は好きなようになさればいい﹂
﹁そうね。ならばまずは、半分とはいえ血がつながっていること自
体が腹立たしい、どこまでも生意気なあの小娘を、私が直々に始末
する事にしましょうか﹂
既に選択肢は無い。仮にすべてが上手く行ったところで単なる簒
奪者扱いだろうし、首尾よくエレーナとエアリスを排除できたとし
ても、今から地脈を侵食するのはかなり難しい。低能化することと
引き換えに、確かにカタリナは凄まじいまでの力を持つに至った。
だがその力を持ってしても、地脈を汚しきる前に反作用で命を落と
すことだろう。そもそも、国王とマークが逃げ延びている以上、ど
こまで行っても、カタリナには先などない。
だが、バルドにとってはそれでいいのだ。たくさんの嘆きと恨み
節こそが、彼が信仰する神に対して最大の捧げ物になる。ウルスほ
どの大都市ならば、姫巫女を排除するだけでも、それほど時を置か
ずして地脈を汚しきることができるだろう。カタリナはそのための
捨て駒である。
﹁さて、決戦に行きましょうか﹂
もはや彼にとって最高の結果は望めない。バルドは、不本意な状
799
況における最後の賭けに臨むのであった。
﹁難儀なことになっておるのう⋮⋮﹂
﹁ドーガ卿!?﹂
中庭。後から後から現れるアンデッドに手を焼いていると、思わ
ぬ援軍が現れる。
﹁玄関口の方は、よろしいのですか!?﹂
﹁あらかた始末は終えたからのう。後は、レイナ一人でもどうにか
なるじゃろう﹂
飄々ととぼけた口調で言ってのけると、最も大量に湧いて出てく
るあたりに向かって突っ込んで行く。槍ではなく盾を構えての突撃
ではあるが、その大質量はそれだけでも圧倒的な凶器となる。新た
に湧いたアンデッドをシールドチャージの一撃で一気に制圧すると、
辺りをもう一度見渡して状況を確認する。
﹁ミュータントの類はおらんようじゃな﹂
﹁全て殲滅いたしましたので﹂
800
﹁ならば、後は持久戦、と言う事かの。城全体が異界化しておる以
上、こ奴らはいくら倒したところできりなど無かろう﹂
ドーガがあっさり結論を言い切る。やはりそれしかないのかと微
妙にうんざりしながらも、新たに発生する気配を見せるモンスター
に対して身構える騎士たち。
﹁何、儀式の間も姫様も健在である以上、そう長くかかるとも思え
ん。わしらの仕事は神殿にいる面子がバルドを仕留めるまでの間、
有象無象を向こうに寄せ付けない事。これだけの頭数がいれば、大
して難しい仕事でもあるまい?﹂
﹁終わった後がいろいろと大変そうですが、確かに大した仕事では
ありませんね﹂
神殿の方から聞こえてくる、明るい曲調の何とも言えない歌詞の
歌に耳を傾けながら、やや気だるげに答える副団長。漏れ聞こえた
歌だけでも瘴気が薄まってゆき、わずかずつとはいえ出てくるモン
スターの強さが落ちていく。それでも倒す数が数ゆえ、装備品の整
備や騎士たちの休暇ローテーションなど、終わってからやらなけれ
ばいけないもろもろは気が遠くなるほど面倒くさそうだ。
﹁とりあえず、五分ほどはわしが稼いでやるから、部下達の状態確
認と隊列の組み直しをとっととやってこい﹂
﹁了解です﹂
ドーガに追い立てられて、騎士たちの状況確認に移る副団長。流
石に最初の方は激戦だっただけあり、そろそろガス欠になっている
人間は少なくない。中にはメインウェポンが破損している者も何人
801
かいる。予備の武器でも一線級の実力は持っているが、あまり無茶
をさせるのは良くないだろう。前衛として相手の攻撃を受け止め続
けたある騎士など、いつ鎧が全壊してもおかしくないほどの損傷を
受け、いい加減ポーションで誤魔化すのも限界、と言うぐらいの負
傷をしている。彼がそれだけ頑張っていなければ、壊滅まではしな
いにせよ、犠牲者ゼロでここまでこぎつける事は出来なかったに違
いない。
そういった一人一人の様子を手早く確認し、ダメージに応じて配
置を入れ替えて陣形を組み直す。数千人の部隊の編成をわずか五分
で終えるところは、やはり精鋭をまとめる立場にいるだけの事はあ
る。個人の武勇だけでは、隊長や団長に抜擢される事はあり得ない
のだ。
﹁完了しました﹂
﹁ならば、少々休憩させてもらおうかの。流石にこの老骨には、派
手な戦闘が続くのは堪えるでな﹂
﹁お任せください﹂
明らかにまだまだ余裕がある様子のドーガに返事を返し、第一隊
を前に出して新たに出現したモンスターを始末しにかかる副団長。
神殿からは、しみじみと人生を語るタイプの、昭和の香りがするこ
れまた場にそぐわない歌が聞こえてくる。非常にレベルが高いだけ
に、思わず聞き入りそうになって実にやりにくい。だが、この歌が
瘴気を払っているのも確かなのだ。歌うな、などとは口が裂けても
言えない。
どうにも様にならない雰囲気の中、騎士団は地道に雑魚を殲滅し
802
続けるのであった。
﹁ごめん、ちょっと休憩﹂
休みなしで四曲ほど歌ったところで、喉に多少の違和感を覚えて
中断する春菜。本人に自覚は無いが、瘴気を浄化する歌と言うのは
普通より負担が大きいらしい。問題なのは、歌ってる本人は普通に
歌っているつもりであり、特に歌い方を切り替えていたりはしない
ことだろう。
﹁お疲れさん。飴ちゃんあるで﹂
普段酒場などで歌っていた時に比べ微妙に声がおかしくなってい
た事を敏感に察知した宏が、大阪のおばちゃんばりにのど飴を取り
出して投げ渡す。金柑に似た味と成分の何かとはちみつを使った、
比較的穏やかな味ののど飴である。因みに、似ているとはいえ地味
にモンスターなので、普通の人間は下手に触ることすらできない材
料だ。なお、宏が作ったものである以上、普通に薬としての効果が
きっちりある。
﹁春菜が飴を舐め終わるまでは、俺達が暴れるしかないな﹂
﹁せやな。歌止まった途端に、何ぞ実体化はじめとるし﹂
803
宏の指摘に、苦笑するしかない一同。流石異界化。この程度の瘴
気だまりでも元気にモンスターが発生するあたり、実に面倒くさい。
﹁とりあえず、来いやあ!﹂
現れたカブトムシのようなモンスターを、とりあえず威圧して注
意を自分に引き付ける。
﹁兄貴、こいつのはらわた乾燥させて処理したら、肝臓の薬になっ
たはずやで﹂
﹁また地味だな⋮⋮﹂
﹁まあ、解体しとる暇もなかろうから、適当に焼いたって﹂
﹁了解。周囲の瘴気ごと焼き払うか﹂
宏の周りをぶんぶん飛び回っている三体のカブトムシ。その動き
を確認したうえで、瘴気だまりごとまとめて焼き払うのにちょうど
いい術を詠唱する。
﹁行くぞ、ヒロ!﹂
﹁はいな!﹂
﹁獄炎聖波!﹂
達也の気合の声とともに、何とも言えない色合いの炎が瘴気だま
りを焼き払う。その炎に叩き込むように、器用に一回のスマッシュ
で三体のカブトムシを弾き飛ばす宏。聖属性なのかそうでないのか
804
分からない名前の魔法だが、地獄に蓋をしている炎を呼び出して不
浄なるものを焼き払う、と言う効果から分かる通り、聖属性と炎属
性の浄化系上級攻撃魔法である。達也の場合、こう言ったスキルを
使って、わざわざ遠回りなやり方で浄化する以外に、瘴気を払う手
段が無い。
﹁⋮⋮親玉の到着みたいやな﹂
カブトムシを焼き払い、ほぼ清浄な状態になった神殿内に、今ま
でとはまた異質な感じの瘴気の塊が侵入してくる。その瘴気の塊を
察知して、宏が警告の声を上げる。
﹁聖気が満ちる事が皆様方にとって都合が悪いとは言えど、ここま
で根こそぎ払いますか。あくまでも自然の摂理に逆らうとは、どこ
までも傲慢な人たちですね﹂
﹁なんか、言ってる事が木を見て森を見ない種類の環境保護団体み
たいだな⋮⋮﹂
入ってくるなり言い放ったバルドの言葉に、うんざりした感じで
つぶやく達也。
﹁達兄、その心は?﹂
﹁人間の活動も、自然の摂理の一部分だって話だ。典型的なところ
だと、割り箸なんかが有名だな﹂
﹁どういうこと?﹂
﹁一度人間の手が大きく入った森って奴はな、定期的に増えすぎた
805
木を間引いたりして適度なバランスをとったりしてやらないと、か
えって禿山になったりしやすくなるんだ。で、割り箸ってのはそう
言う時に切った木を使って作ってるから、環境を破壊するような代
物じゃねえんだよ。ま、今は割り箸自体がほとんどなくなったし、
一時は間伐材をあんまり使ってなかったから批判されてもしょうが
なかったんだがね﹂
達也の解説に、感心したような表情を浮かべるファーレーンの皆
様。雑学に詳しい春菜や真琴、農業土木伐採あたりのスキルの恩恵
でそういう知識が十分にある宏などは、うんうん、と頷いているだ
けだが。
ちなみに、宏たちの住む日本では、割り箸は祭りなどの屋台か持
ち帰りの弁当に使われている程度で、普通の食堂やレストラン、旅
館などの箸はすべて普通の塗り箸になっている。また、使われてい
る割り箸は当然、間伐材を使っている。
﹁ま、そう言う訳だから、お前さんが思う種類の自然の摂理に任せ
たところで、モンスターたちにとって居心地がいい世界になるとは
限らんぞ?﹂
﹁それで滅ぶのであれば、それが自然の摂理と言うものです﹂
無茶苦茶な事を言い放つバルドに、処置なし、と言う顔をする達
也。こう言った手合いは、どんな証拠を突きつけたところで、自分
の主張に相反する事実は絶対に認めないだろう。
﹁だ、そうだが、それでいいのか?﹂
﹁こんな国、どうなろうと知った事ではありません﹂
806
バルドの言い分をどう思っているのか、そう思って水を向けたカ
タリナからは、なかなかにぶっ飛んだ回答が返ってきた。
﹁王族は教養を磨いて当然、人のために尽くして当然。物心つく前
からそうやって人の事を育てておいて、いざ下の子が姫巫女の資質
を持って生まれれば、私の事など無価値と言わんばかりの扱い。ど
れほど努力しようが、どれほど尽くそうが、生まれ持った資質が少
々劣っただけでゴミ屑同様の扱いをする国など、滅んで当然でしょ
う?﹂
カタリナの言い分を疑問に思い、日本人一同が確認するようにエ
レーナ達に視線を向けると、苦い顔で首を横に振る。
﹁カタリナ。あなたがどう思おうが勝手だけど、あれを努力したと
は、人のために尽くしたとは、誰も評価しないわ﹂
﹁エアリスが今現在あなたより支持されているのは、姫巫女として
の資質だけの問題ではない。心の伴わぬ上辺だけの、それも一方的
で的外れで、本当の意味では相手の事を一切考えていない奉仕活動
など、評価されないのは当然だろう。そんな事も分からないほど愚
かだったのか、姉上?﹂
カタリナの言葉を、真っ向からきっぱり全否定するエレーナとレ
イオット。生まれ持った資質ゆえかつけた教育係が悪かったのか、
カタリナは常に自分が、と言うよりは自分が学んだ理屈が絶対正し
いという前提で行動していた。そのため、表面的な情報から導き出
される、理屈の上では正しいが本質的には無意味な奉仕を上から目
線で投げ与えるように行う事が多く、奉仕活動をしたという行為に
は感謝されても、その実何の役にも立っていなかった事も珍しくは
807
なかった。
それでもバルドが来るまでは、カタリナなりに正しくあろうと努
力していた。それが分かっていたから、王室一家は彼女の行動に対
して注意はしても、今現在のように存在そのものを全否定する事は
無かった。エアリスにしても、カタリナに嫌われているのは自分に
非があるからだと、少しでも姉の神経を逆なでしないように相手の
言い分を良く聞いて、至らない部分を必死になって直そうと努力し
てきた。
結局のところ、それが彼女をより歪ませてしまった面は否定でき
ない。同じ事をしているのに、家族の中で自分の行いは否定され、
エアリスの努力は認められる。差は無いはずなのに、妹ばかりがで
きた子として褒められる。現実には、それではいけないと言われた
事を聞き入れず、否定されたやり方に固執して周囲との関係をこじ
らせたカタリナ自身の自業自得ではあるが、本人からすれば、エア
リスばかりがひいきされているように感じてしまうのも無理はない。
﹁恵まれた立場で育ったレイオットや、自身の一切を否定された事
のないお姉さまには、永遠に分かる事は無いでしょうね﹂
﹁⋮⋮本当にそう思っているのであれば、世界一の名医を探してき
てあげるから、目と頭を診察してもらうべきね﹂
﹁私の事を認めない、受け入れない世界など、みんな滅んでしまえ
ばいいのです﹂
噛み合わない、と言うより、姉と弟の言葉を一切聞き入れようと
しないカタリナとの会話に絶望し、微かに残っていた希望を捨てる
レイオットとエレーナ。そこに、今まで黙っていたエアリスが口を
808
開く。
﹁カタリナお姉さま﹂
﹁誰に向かって口をきいているのかしら、汚らわしい﹂
﹁何故、私がそこまで気に食わないのでしょうか? どうすれば、
お姉さまの心が静まるのでしょうか?﹂
﹁⋮⋮どこまでも傲慢な子供ね。そもそも、あなたが生まれてきた
こと自体が気に食わないと、何度言えば分かるのかしら? 今あな
たが死んだところで、あなたが存在したということ自体が私の神経
を逆なでするのよ。それを理解できないなんて、どこまで愚かなの
かしら?﹂
存在したこと自体を全否定するカタリナ。最初からどうあがいた
ところで、カタリナとエアリスは心を通わせることなど出来なかっ
たのだ。
そもそも、カタリナはエアリスの誕生を喜んだ事は、一度もない。
レイオットやマークは血のつながった兄弟として、ちゃんと血縁の
情を感じる事が出来たと言うのに、エアリスに関しては懐妊が分か
った瞬間から憎悪の対象であった。眠っているだけでちやほやされ
るのが気に食わない。起きて泣きわめくだけで周囲があたふたと駆
け回るのが気に食わない。息をしていること自体気に食わない。何
より、兄も姉も弟達も、みんなエアリスばかり気にかけるのが引き
裂いてやりたいほど気に食わない。
そんなカタリナとの関係を改善しようと努力したところで、気に
食わない理由が増えるだけである。
809
﹁それでも、そうね。あなたに出来る事が一つだけあるわ﹂
強烈な憎悪がこもった、醜悪としか言いようのない笑みを浮かべ
ながら、うっとりと幸せそうに言葉を続ける。その様子に危険なも
のを感じたエアリスが、懐剣を抜き放って構えをとる。良く見ると、
カタリナの影が異形としか呼べない形に変化している。
﹁私の手にかかって死になさい。血の一滴、肉片の一欠けらも残ら
ぬほどズタズタにされなさい﹂
﹁ダンシング!﹂
﹁エッジ!﹂
その言葉と同時に、カタリナの影から触手のようなものが飛び出
す。宏や真琴がカバーに入る隙も与えず、凄まじいスピードでエア
リスを貫こうとする触手。同時に、いつの間にかその数を増やして
いたバルドが、彼女達にとっては背後に当る位置から襲いかかる。
だが、仕掛けてくると分かっていれば、いかに近接戦闘が素人の
二人でも、切り札を起動するぐらいの事は出来る。二人がキーワー
ドを唱え終わったのは、触手が飛び出した瞬間であった。キーワー
ドを言い終えると同時に、二人の周りにそれぞれ六本ずつの懐剣が
浮かび、それを取り巻くように二十四本ずつの、形も大きさも異な
る刃が出現する。
最初の一本がかぎ爪の生えた触手を貫いた次の瞬間には、躍りか
かってきていたバルドの分身、もしくは偽物を複数の刃が串刺しに
する。攻撃用と思わしき二十四本を潜り抜けた触手や分身は、防御
810
用の六本に阻まれ動きが止まったところを、攻撃用が完全に沈黙す
るまで切り裂き、刺し貫く。
良く見ると、攻撃用は常に二十四本、防御用は常に六本、何も相
手をしていないフリーの刃が存在している。故に、次々と現れる偽
バルドや触手、その飽和攻撃も一切の意味をなしていない。実体化
している刃の数がどう少なく見積もっても百を超えたあたりで、バ
ルドは飽和攻撃をあきらめた。
﹁⋮⋮また、あなたの小細工ですか﹂
﹁防御用、っちゅうたらこれぐらいはせんとな﹂
今までの経緯から、こういう余計なものを作るのはこのヘタレ男
に違いない。そういう思いを込めて睨みつけると、ガタガタ震えな
がらもおどけるように返事を返してくる。実に腹立たしい事だが、
今回失敗した原因は、八割がたがこの男にある。
﹁⋮⋮エルンストが兵器と言う訳だ。最大で何本まで同時に出現す
る?﹂
﹁実験では、一万までは確認した。それ以上は面倒になって試して
へん﹂
﹁ワイバーンに通用するかどうか、と言うのは?﹂
﹁見ての通り、一本一本のパンチ力が微妙や。十メートル級の獲物
とか、倒しきるまでに何本かかるか分かったもんやない﹂
宏の言葉に納得するレイオット。実際偽バルドに対しては、完全
811
に動きを止めてはいるが、止めを刺すまでには至っていない。偽バ
ルドの生命力であれだとすると、ワイバーンあたりの突進力なら、
この防衛網を突破してエアリスを叩き潰してしまう可能性は高い。
それに、傍で見ていれば明確な弱点もある。発動した段階で敵に
捕まってしまっていた場合、相手によっては決定的な対応が出来な
い。前回神殿に侵入した時に、宏がこの機能を使わせなかったのも
それが理由である。もっとも、そもそも密着されるほどの距離に敵
を近づけてしまった時点で、懐剣の有無に関係なくいろんな意味で
終わりなのは間違いないのだが。
﹁さてと。エル達の見せ場も終わったみたいだし、あたし達もそろ
そろ暴れましょっか﹂
﹁そうだな。とりあえず、邪魔な取り巻きを殲滅するか﹂
すらりと大剣を抜き、とりあえず一番近くにいる偽物を切り殺す
真琴。獄炎聖波で焼き払う達也。澪はいつもの弓ではなく、短剣を
抜いて偽物の核を器用に正確にくりぬいていく。更に増えた偽バル
ドを宏がまとめて足止めし、レベル百未満のプレイヤーなら即死し
かねない攻撃を体ですべて受け止め、かすり傷未満でしのぎきる。
たまに完全に止められなかった流れ弾で宏以外がダメージを受け
ることもあるが、威力を大幅にそぎ落とされた攻撃だ。その程度の
ダメージは、初級の回復魔法で即座に治療される。
流れはやや宏たちが優位に立つ形で膠着していた。
﹁それらをいくら殺したところで無駄ですよ﹂
812
﹁いえ。聖気が増えていく分、あなた方にとってはむしろ不利にな
るだけ﹂
﹁それに、我々はまだ、全く本気を出してはいませんよ﹂
仕留めるはしから増えていくバルドが、上から目線で楽しそうに
語り続ける。だが、そんな事ぐらい、この場にいる全員百も承知だ。
消費するリソースより回復するリソースのほうが多いこの状況なら、
相手がどれだけ増えたところで関係ない。そもそも、偽者をどうに
かするための手札はちゃんとある。今は単に春菜の喉が回復するま
での時間稼ぎに過ぎないのだ。
﹁春菜、そろそろいけるか!?﹂
﹁問題なし。リクエストは?﹂
﹁相手の神経逆なでした方がよさそうやから、ズン○コ節あたりい
っとこか﹂
﹁は∼い﹂
達也の呼びかけに答え宏のリクエストを受け、某演歌歌手のもの
でもなくド○フのものとも違う、その二つの大元となったと思われ
る、いわゆる海軍小唄と言うやつを歌いはじめる春菜。冗談半分で
ネタにしたのに、きっちり応えてくるあたり底しれぬ女である。
﹁妙に哀愁漂う歌だな⋮⋮﹂
﹁意味の分からない単語もあるけど、とりあえずこういう状況で歌
う歌ではない、って言うのは分かるわ⋮⋮﹂
813
﹁さっきから、もう少しましな選曲は出来ないのか?﹂
歌を聞いたレイオットとエレーナが、微妙な表情で微妙な感想を
漏らす。そんな微妙な歌でも、瘴気はきっちり浄化されるらしい。
触手がすべて枯れ果て、串刺しにされたものは崩れ去り、カタリナ
とバルドが揃って苦しみ始める。
﹁歌をやめろぉ!﹂
余りに強力な浄化作用に耐えきれず、とうとう人の姿を捨てて悪
魔と呼ぶのがふさわしい肉体に変身して春菜に躍りかかろうとする
バルド。だが⋮⋮
﹁どこ行く気や!?﹂
宏がアウトフェースを発動させると同時に、バルドの進路をふさ
いで跳ね飛ばす。濃密なプレッシャーが壁となり、宏の姿が数倍の
大きさに見える。もはや春菜の居場所を目視する事すらかなわぬと
みて、偽バルドをすべて取り込み宏に躍りかかる。
﹁まずは貴方から始末せねばならないようですね!﹂
﹁出来るもんならやってみい!﹂
正面から突っ込んでくるバルドに対し、豪快にポールアックスを
薙ぎ払って対抗する。馬鹿の一つ覚えのスマッシュかと予測し、ス
マッシュ潰しを入れようとしたところで、相手が姑息にも小細工を
していた事に気がつく。
814
宏が叩き込んだ攻撃は、スマッシュではなかった。初級の強打技・
スマイト。スマッシュと違って吹っ飛ばしたり姿勢を崩したりする
ような追加効果は一切ない、純粋に攻撃するだけの技。初級の技で
ある上に形になったのが昨日の事なので、技としての性能は最低ラ
イン。それこそ現時点ではスマッシュにすら一歩譲る程度の威力し
かないが、それでも普通に単なる物理攻撃で殴るよりは威力がある。
何より、宏から飛んでくる一定以上の高威力攻撃が、必ずしもス
マッシュとは限らなくなった事が大きい。発動後の隙が大きかった
り、タメに無駄が多かったり、そのくせ現状の威力では真琴の基本
攻撃二発分にも届かない低威力だったりと問題は多いが、今回のよ
うにスマッシュ潰しをすかして本命を叩き込むには、十分に役に立
つ。
スマッシュ潰しを体でダイレクトに受け止め、そのままの流れで
スマイトを叩き込む。普通より隙の大きい攻撃がぶつかり合った結
果、最初に体勢を立て直したのはやはり、ほぼ無傷の宏であった。
﹁真琴さん! 兄貴!﹂
﹁了解! ブレイクスタンピード!﹂
﹁いけ! 聖天八極砲!﹂
スマッシュでバルドを弾き飛ばした宏の合図に従い、真琴が大剣
の通常スキルとしては最上位に当たる大技の一つを、達也が浄化系
の集束型大魔法を叩き込む。大剣スキルとしては珍しい乱撃タイプ
の技を、赤いオーラを全身にまとって遮二無二叩き込んで離脱する
真琴。一撃一撃がケルベロスを両断できるだけの威力を秘めた斬撃
を三秒間で合計二十叩き込み、スマッシュと同質の体当たりで相手
815
を吹っ飛ばすと言う大技だ。その後に八卦のエネルギーが入り混じ
った、森羅万象の力を固めた砲弾がバルドに着弾する。
﹁いけては⋮⋮、無いわね、間違いなく﹂
﹁大分削った感じではあるがな﹂
一撃入れた感触と、曲がりなりにもボスである事を踏まえて、予
想をすり合わせする真琴と達也。二人が使ったのはどちらもかなり
の大技ではあるが、残念ながら、通常のスキルとしては最強の攻撃
力を持つ訳ではない。
ブレイクスタンピードは、性能的にはエレメンタルダンスをマイ
ナーダウンしたような代物で、コストパフォーマンスには優れるも
のの、一撃の重さでは二枚ほど劣る。それ以上にエレメンタルダン
スが持つ、宏クラスの魔法抵抗でも持っていない限りは必ず弱点を
ついた事に出来る、と言う特性が無い事が痛い。結果として、数値
上の補正は二割も差が無いのに、実際の威力は大違いと言う何とも
言えない現象が起こる。
聖天八極砲も、複数の属性による攻撃としては強力なのだが、似
たような特性でもっと威力のある魔法が、通常スキルにすら少なく
とも二種類はある。威力の割に習得が楽で、大魔法としてはキャス
トタイムとディレイが小さく、熟練度アップによるコストダウン効
果が大きいという特性から習得者は多いが、間違っても最強の魔法
ではない。単純な威力を求めるなら、もっと極悪な魔法はいくらで
もあるのだ。
それにそもそも、達也はスペルユーザーとしては上の下だ。彼の
真骨頂は素材集めの時の手札の多さであって、最大火力は二の次と
816
言うタイプである。こういう搦め手から攻めるには向かない相手だ
と、魔法使いとしては今一歩パワー不足なのだ。八極砲による煙が
途切れたところで、丁度春菜の歌が終わる。煙の向こうのバルドは、
予想通りまだ止めには程遠いダメージ状況であった。
﹁⋮⋮とことんまで、気に食わない真似をしてくれますね⋮⋮﹂
﹁そりゃまあ、巻き込まれた以上は、生き延びるために必死に抵抗
ぐらいするさ﹂
満身創痍、とまでは行かず、だが決して浅手でもない傷を負って
憎々しげに吐き捨てるバルドに対して、ニヒルな笑みを浮かべなが
らからかうように言ってのける達也。宏と違ってビビっているのに
虚勢を張っている、という雰囲気は一切ないあたり、役者の違いの
ようなものを見せる。
﹁さて、一応言っておくが、こっちはまだ、切り札になるようなも
のは切ってねえぞ。まだ抵抗するんだったら、今のうちに切れる札
は切っておくんだな﹂
小馬鹿にするように、余裕たっぷりの態度を見せつけながら言っ
てのける達也に、思わずあわてるエレーナ。
817
﹁タツヤ、迂闊にそう言う挑発は⋮⋮﹂
﹁この手合いが、この程度で手札を使いきるなんざ、あり得ねえ。
だったら、まだ消耗らしい消耗をしてない段階で使わせるに越した
事は無いからな﹂
泡を食って突っ込みを入れるエレーナに対して、余裕の態度を崩
さずにあっさり切りかえす達也。今現在の状況で、その余裕の態度
を潰せるような要素が無い事が、バルドの冷静さを削り取っていく。
﹁なるほど。確かにあなたの言う通りですね。ではその口をふさぐ
ために、少々手札を切りましょうか﹂
バルドの言葉と同時に、十を超えるケルベロスが召喚される。い
きなり増えた取り巻きに、面倒くさいと言う表情を隠そうともしな
い真琴と達也。流石に数が数だけに、これは不味いかもしれないと
少々不安になる春菜と澪。一体何発殴られればいいのだろうか、な
どと腰が引けた事を考える宏。その様子に、勝ち誇ったように笑う
バルド。形勢逆転かと思われたその時、入り口方向にいたケルベロ
スが三頭串刺しにされ、国王が避難した方向にいたのが四頭、一瞬
でミンチになる。
﹁何!?﹂
﹁ボスじゃから、もうちっとましなものを呼び出すかと思えば⋮⋮﹂
﹁さっき陛下の邪魔をしたのもこれだったが、貴様は犬をけしかけ
るしか能が無いのか?﹂
入口から現れたドーガと、隠し通路方面から現れたユリウスが、
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心底呆れたように言い放つ。彼らの技量なら、護衛対象を背後に抱
えていても、ケルベロスごとき何十頭来たところで取りこぼすこと
などない。更に一頭ずつ仕留めて宏達に合流すると、エレーナとエ
アリスを囲むように両脇を固めて油断なく構えをとる。
﹁どうやら、少々時間をかけすぎましたか。ですが、フェルノーク
卿はともかく、ドーガ卿はいささか消耗しておられるようですが﹂
﹁何、お主の攻撃をガードするだけなら、さほど体力を消耗する訳
でもないからのう。火力はユリウスと真琴がおるし、春菜の切り札
もある。わしが出しゃばらんでもどうとでもなろう﹂
ドーガの言葉が終わる前に、宏達に更に援軍が訪れる。
﹁すまない、またしても遅くなった!﹂
ドーガ達同様、進路上にいたケルベロスを三枚におろして始末し
ながら、謝罪の言葉とともにレイナが駆け込んできた。見ると、左
腕が明らかに折れている。どうやら、右腕一本で大剣を振り回し、
ケルベロスを三枚におろしたらしい。片手で振り回せるような重さ
とバランスではない武器を使ってそれをやってのけるあたり、年に
似合わぬかなり人間離れした筋力と技量を持っている女だ。
﹁遅くなったはいいが、その左腕はどうしたんだ?﹂
﹁恥ずかしい話だが、オドネルを始末した時に、最後の自爆でやら
れた。流石に大技は厳しいが、ケルベロスを始末するぐらいはどう
とでも出来る﹂
達也の問いかけに、少々恥ずかしそうに答えるレイナ。余りの回
819
答に思わず唖然とする真琴以外の日本人組と、かつて利用して罠に
はめた相手の予想以上の力量に憎々しげな表情を浮かべるバルド。
﹁で、あの下種はちゃんと完璧に始末してきたんでしょうね?﹂
﹁破片一つ残っていないから、さすがに復活する事は無いだろう﹂
﹁了解。まあ、仮に復活しても、再生怪人なんて大抵は単なる雑魚
だけどね﹂
日本人組で一人だけ冷静だった真琴が、レイナが任されていたで
あろう仕事の首尾を確認する。それを聞き終わったところで、春菜
が女神の癒しで骨折を治療する。部位欠損は無理でも、流石に骨折
程度なら十分治療できるのだ。
﹁ありがたい、助かる!﹂
﹁戦力ダウンを放置しておく理由は無いし。で、オドネルって言う
のが例の?﹂
﹁ああ。マズラックの私兵の頭だ。あんなものとヒロシを同一視し
ていたなど、本当に情けない話だ﹂
どうやら、レイナはいろいろな意味でけりをつけたようだ。なら
ば、後は目の前の、今回の件の黒幕を始末すれば終わりである。
﹁さて、戦力も充実したし、さっさと終わらせよう!﹂
﹁あまり、甘く見ないでいただきたい!﹂
820
さあ、攻勢に出るぞ、と言うタイミングで、バルドが気勢を上げ
て衝撃波を放つ。それを前に出て受け止める宏。完全に出鼻をくじ
かれた形になり、思わず動きを止めてしまう一同。
﹁ここまで、ここまでさせるとは感服しますが、それでもこの場は
私の勝ちだ!﹂
鬼気迫る表情で絶叫するバルド。その言葉が終わると同時に、更
に彼の肉体が変化し始める。それに合わせて、今まで辛うじて元の
姿を保っていたカタリナも、肉体が変質し始める。
﹁ちょ、ちょっと待ってよ。こんな序盤のボスで二段階変身とか、
バランスおかしくない!?﹂
﹁真琴さん、最初のボスやからって、そこまで弱いとは限らんで!﹂
そんな気の抜けるやり取りをしながらも、気を引き締め直す日本
人チーム。変身中に手を出そうにも、分厚い瘴気の壁に阻まれて攻
撃できない。空き時間をぼさっとしているのも芸が無いと、とりあ
えず残っていたケルベロスを全て始末し、支援魔法をかけ直す。
瘴気の壁が消えた先にいたのは、数倍のサイズになって禍々しさ
が増したバルドと、メデューサ、もしくはラミアと呼ぶのがふさわ
しい、頭髪と下半身が蛇となったカタリナであった。
821
第21話
﹁カタリナ、あなた⋮⋮﹂
﹁もはや、人の姿を捨て去るほどに侵食されていたか、姉上﹂
もはや、直視するのもはばかられるほど醜悪な姿になってしまっ
たカタリナに対し、無駄だと思いつつも言葉をかけるエレーナとレ
イオット。カタリナは笑みを浮かべるだけで何も言わない。
﹁お姉さま⋮⋮﹂
カタリナのなれの果てを見て、実に悲しそうにつぶやくエアリス。
女神の寄り代だからか、他者を憎むと言う情動が薄い、ある意味に
おいてはカタリナ以上に歪んでいる彼女には、どうしてここまでカ
タリナが憎しみをこじらせてしまったのか、全く理解できていない。
故に、ただただひたすら悲しい。
﹁聞くだけ無駄やと思うけど、エル﹂
﹁何でしょうか⋮⋮?﹂
﹁あの二人、人間に戻せるか?﹂
宏の問いかけに、実に悲しそうに首を左右に振る。姿が変わるほ
ど瘴気に侵された生き物は、もはやどうやったところで正常な状態
には戻らない。あそこまで行くと、今年の収穫が多かったとか、大
物を仕留めたとか、そう言ったまっとうな努力が実った種類の喜び
822
に触れるだけでも嫌な気分になり、エアリスが生まれた時のように、
たくさんの心からの祝福の言葉が飛び交うような状況では、命にか
かわるほどのダメージを受ける。
瘴気と言うのは本来、そう言う真っ当な神経をしている人間にと
って心地いい空気に触れると、簡単に浄化されてしまうものなので
ある。この世界における祭りと言うのは、日々の生活でたまった瘴
気を払う、という役目も持っている。そう言ったものに一切触れる
事が出来なくなる以上、たとえ正気を取り戻したところでまともな
暮らしは出来まい。
﹁春菜、歌いながら前に出て攻撃とか、出来る?﹂
﹁そんなに難しい事じゃないよ﹂
﹁エレメンタルダンスは?﹂
﹁流石にそれは、後が続かなくなるから考えない方がいいかも﹂
宏とバルドがにらみ合いを続け、レイオットとエレーナがカタリ
ナに声をかけている間に、ざっと簡単に打ち合わせを終わらせる真
琴と春菜。
﹁さて、気色の悪い偽善じみた会話は終わりましたか?﹂
﹁偽善、なあ⋮⋮﹂
別に善人を気取ってそう言う話をしていた訳ではないのだが、こ
いつらとはどうあがいても会話が成立しない事は嫌というほど理解
している。反論するだけ時間の無駄なのだから、とっととどつき倒
823
す事を考えた方が早い。
﹁とりあえず、お前さんとは言葉が通じない事だけは分かったし、
さっさと終わりにしようか﹂
﹁言葉が通じなければ力で排除ですか。やはり、あの腐った女神に
関わるものは、皆野蛮ですね﹂
﹁お前にコメントしても無駄だから、もう何も言わねえよ﹂
そのコメントと同時に、ダメージ付きの捕縛魔法・グラヴィティ
チェインを発動させる達也。効けば儲けもの程度の魔法は、予想通
りあっさりと、とまでは言わないが、ぎりぎりのところで相手の抵
抗を破り切る事は出来ずにキャンセルされてしまう。
﹁ユリウス! お前はバルドをやれ! 姉上は私とエルンストで相
手をする!﹂
﹁御意!﹂
レイオットの指示に従い、一気に前列まで距離を詰めるユリウス。
それに合わせるように、春菜の歌が響き渡る。勝負は、一気に佳境
に入った。
824
﹁うふふふふふふ﹂
不気味に含み笑いをしながら、じりじりと這い寄ってくるカタリ
ナ。その醜悪な姿に顔をしかめつつ、小手調べとばかりに容赦なく
刃を数本飛ばすエレーナ。エアリスと違い、彼女にはもはや、カタ
リナに対して攻撃をする事に一片たりとも躊躇いは無い。
先ほどまでと違い、春菜の歌を聞いても苦しむ様子は一切見せな
い。効果が無いのか、と思うがそうでもなく、徐々にではあるがそ
の姿が崩れていっている様子がわずかながら見て取れる。この様子
では、エアリスの浄化も必殺の一撃とはなり得ないだろう。
﹁うふふふふふふ﹂
刃が突き刺さり、手首や髪の蛇、尻尾の先などを切り落とされて
も、全く堪えた様子を見せずに含み笑いを続けながら這い寄ってく
るカタリナ。既に体の構造が人間とは全く別物になっているからか、
心臓に突き刺さった刃を気にする様子すら見せない。
﹁全くもって、気色悪くなったものだな﹂
﹁うふふふふふふ﹂
﹁もはや人だとは思っていなかったが、言葉すらも捨て去ったか﹂
﹁うふふふふふふ﹂
何を言っても含み笑いを返すだけのカタリナに、ため息すらも出
ないレイオット。大して期待してはいなかったし、もはや彼女がど
んな言葉を発したところで、切り捨てる以外の選択肢は存在しない
825
のは事実だが、それでも自身の行いを思い知るために、せめて心は
人間として死んでほしかった。
﹁まあ、いい﹂
宏から譲られた長剣を構え、さっさとけりをつける事にするレイ
オット。兵器としては姉と妹の懐剣には及ばないものの、武器とし
ては数段強力な、この場に存在する物の中では最強の一品だ。ミス
リル銀の特性を生かした浄化の機能もあるこの刃なら、カタリナが
どれほどの再生能力を持っていたところで耐えきれまい。
﹁姉上、死んでいただこう﹂
レイオットが技の挙動に入ったところで、今まで含み笑いをする
だけだったカタリナが、ついに攻撃のために動き始めた。蛇の体を
活かした、とぐろを巻く動きを利用した跳躍力で一気に距離を詰め、
いつの間に再生したのか、エレーナが飛ばした刃で切り落とされた
はずの右手の鉤爪で、レイオットでもエレーナでもなく最後尾のエ
アリスを引き裂きにかかる。
﹁うふふふふふふ﹂
含み笑いを続けながら大きく振りかぶった右腕をレイオットが切
り落とし、飛びかかった体をドーガが盾を構えての体当たりで吹っ
飛ばす。かなりの抵抗を受けつつも切り落とされた腕は綺麗に浄化
されて消滅し、本体の方の腕も今のところは生えかわる気配は無い。
﹁お姉さま、そこまで私が憎いのですか⋮⋮﹂
﹁エアリス。いかに血縁といえど、逆恨みで身を滅ぼした愚か者に
826
同情する必要も意味もないわ﹂
﹁うふふふふふふ﹂
何を言われようが、何をされようが含み笑いをやめないカタリナ
を見て、心の底から悲しそうにするエアリスと、ただの無価値な路
傍の石を見るような視線を向けるエレーナ。今となっては、カタリ
ナに対して少しでも心を向けているのは、この場ではエアリスただ
一人であろう。
もはや、カタリナがいろんな意味で元に戻れないのは明白だ。姿
が変わってしまった事もそうだが、何よりレイオットに斬られ浄化
され、体は苦しみでのたうっていると言うのに、顔は含み笑いを浮
かべたまま変わらない事がその事実を物語っている。既に彼女の心
は自分だけの世界に閉じこもっており、その体は心が壊れる前に抱
いた妄執に機械的に従っているにすぎない。
姿が変わった時点で、カタリナ王女と言う存在は死んだのだ。
﹁お姉さま⋮⋮﹂
﹁エアリス。姉上の事を思うのであれば、少しでも早く楽にしてや
るのが一番だ。プライドだけは高かった姉上が、こんな醜い姿で正
気に戻ったところでな﹂
レイオットの言葉に頷き、浄化のための準備に入る。ほとんど無
い可能性ではあるが、もしかすると、上手く浄化すれば姿くらいは
元に戻せるかもしれない。
﹁エアリス。私が姉上を斬る。その後に浄化しろ﹂
827
﹁⋮⋮分かりました﹂
泣きそうな顔になりながら、気丈にも姉をその手にかける覚悟を
決めるエアリス。既に、いつでも浄化をする準備は整っている。
﹁エアリス! 余裕があるなら、向こうに刃を飛ばしなさい!﹂
覚悟を決めレイオットの動きに注目していたエアリスに、エレー
ナから指示が飛ぶ。見ると、ぼろぼろになったバルドが、上空をす
さまじい速度で旋回しているではないか。旋回し動き回った軌跡が
ラインになって残っているところを見ると、どうやら魔法陣を描い
ているらしい。
﹁正面の壁が魔法でどうにかなるなどとは思ってなかろうから、物
理攻撃を増強する類の物だろうな。いちいち空中で小細工をすると
いう事は、高速での突撃か?﹂
壁役である宏の、壁としての弱点を見抜かれたようだ。宏は装備
が軽く盾も持っていないため、大質量に高速でぶつかられると、ど
うしても踏ん張りきれない。ある程度はドーガが何とかするだろう
とは思うが、宏とドーガの間にいる人間には、どうしても大きな被
害が出る。
その言葉を聞いてそこまで理解したエアリスが、エレーナになら
って可能な限り妨害できるよう、思い付く限りの軌跡を描かせて刃
を撃ち出し続ける。だが、残念ながらエレーナもエアリスも基本的
には素人だ。高速で飛びまわる相手を確実に撃ち落とすような射撃
のセンスは、一切持ち合わせていない。しかも、どういう手段で魔
法陣を描いているのか、線を飛ばした刃で切り裂いても陣が消えな
828
い。
﹁エルンスト! いざという時の為にハルナとタツヤの前に出てお
け!﹂
﹁ですが、殿下⋮⋮!﹂
﹁もはや姉上、いや、カタリナに戦闘能力は無い! それに、始末
するのはすぐに終わる!﹂
﹁分かりました﹂
レイオットの言葉を受け、のたうちまわっているだけのカタリナ
の横をすり抜けて春菜の前に立つ。その姿を見送った後、とっとと
けりをつけるために、王家に伝わる秘伝の技を発動させるレイオッ
ト。斬った感触から、四肢を落とすぐらいならまだしも、本体を一
撃で仕留めるためには、王家の秘伝を使わざるを得ないと判断した
のだ。流石に状況的に、何発も斬って仕留める暇はない。
﹁手向けに王家の技で葬ってやろう! 受けよ、次元斬!﹂
時空神アルフェミナの力を借りた、その名の通り次元そのものを
切り裂くエクストラスキル。王家に伝わる秘伝と言ってはいるが、
実のところ覚えるだけならファーレーン王家の血族でなくても可能
だったりする。要は、アルフェミナから直接加護をもらうことがで
き、一定以上のラインで剣術を納めていれば誰でも使えるのだ。
﹁エアリス!﹂
﹁はい!﹂
829
次元斬によってコアを切り裂かれ、もはや残骸と言っていい状態
のカタリナに対して、まるで介錯するかのようにエアリスの浄化の
光が降り注ぐ。その身に蓄えた瘴気を根こそぎ清浄化され、ひとき
わ大きく痙攣をおこすカタリナの残骸。その姿が徐々に小さくなっ
ていき、元の美しかったカタリナの姿に戻る。
だが、美女の体に戻ったのもつかの間、瞼を閉じ妙に安らかな表
情をしていたカタリナは、その目を開く事は無く、そのままチリと
なって崩れ去り、後には何一つ、カタリナ王女と言う人物がこの場
にいた痕跡は残らなかった。
﹁お姉さま⋮⋮﹂
結局、最後の最後まで何一つとしてまともに意思疎通する事が出
来なかった腹違いの姉。その最後にこらえきれずに涙をこぼそうと
したその時⋮⋮。
﹁拙いぞ、エアリス!﹂
レイオットが妹に警告の声を上げる。兄の緊迫した声に顔を上げ
ると、そこには、上空に描かれた魔法陣を背負い、急降下のための
体勢に入ったバルドの姿が。
﹁姉上、エアリス! あれの勢いをそげるような防御魔法は!?﹂
﹁残念ながら、手持ちにちょうどいいのは!﹂
﹁ごめんなさい、今からでは多分間に合いません⋮⋮﹂
830
二人の返事を聞き、もしもの時のために少しでも速度をそぎ落と
せるよう、もう一度、今度は別の大技の体勢に入るレイオット。い
ざという時のために腰を落とし、防御力を限界まで引き上げるドー
ガ。スローモーションのように引き延ばされた時間の中、彼らの目
が宏に集中したところで、鞄から何かを取り出した宏が、突っ込ん
でくるバルドの顔面にそれを叩きつける。
一体どんな集中力だったのか、宏が叩きつけたそれの正体を四人
ともしっかり確認してしまい、思わず突っ込みの声を上げそうにな
る。その言葉が口から飛び出すよりほんの刹那ほど早く、神殿中に
すさまじい爆音が響き渡る。爆音と同時に発生した衝撃に揺さぶら
れる神殿。その振動をどうにかやり過ごし、何とも言えない微妙な
表情でつぶやくレイオット。
﹁⋮⋮流石に、あれは無いだろう⋮⋮﹂
﹁⋮⋮で、でも、とりあえず危機は脱しましたわ、お兄様⋮⋮﹂
﹁その代わり、緊張感も根こそぎ持って行かれてしまいましたがな
⋮⋮﹂
宏が行った一連の行動。それにより今までのシリアスだった空気
が一気に消え去ってしまう。カタリナの最後に泣きそうだったエア
リスですら、その涙が完全に引っ込んでしまっている。
﹁⋮⋮この場合、カタリナとバルド、どちらがより哀れなのかしら
⋮⋮﹂
双方ともに確かに小物だが、いくらなんでもこれは無い。あまり
にあまりな状況に、初めて心の底から二人に同情してしまうエレー
831
ナであった。
﹁セイクリッド・ストライク!﹂
まずは小手調べとばかりに、聖騎士の称号にふさわしい聖属性の
一撃を入れて離脱するユリウス。離脱した後を太い闇属性の魔力砲
が撃ち抜き、宏に着弾してキャンセルされ消滅する。
﹁今更、その程度の聖属性攻撃が効くなどとは、侮られたものです
ねえ!﹂
何の痛痒も感じていない様子で、影から大量の黒い非実体の触手
を飛び出させるバルド。だが、それらが誰かに届く前に、距離を詰
めた宏に接触して消失する。
﹁何や、これも魔法かい!﹂
不気味な割に全く効果が無かったバルドの行動に拍子抜けしつつ、
とりあえずスマッシュで真上に吹っ飛ばす。本来魔法ではないはず
の攻撃をキャンセルされた動揺で、その一撃をまともに食らって全
身が宙に浮くバルド。
﹁ブレイクスパイラル!﹂
832
﹁シャインセイバー!﹂
宏が浮かせたバルドに対し、そう簡単に体勢を立て直せないよう
に連続で大技を叩き込むレイナとユリウス。斬られた場所から内部
を螺旋状に引き裂いていく一撃と、神聖なる光をたたえた巨大な刃
による斬撃は、深刻とまでは言わないが無視できないだけのダメー
ジを与えることに成功し、バルドの体勢を完全に崩してのける。
﹁春菜!﹂
そのタイミングを逃さず、真琴が春菜に合図を飛ばす。その合図
に歌いながら頷き、即興の歌と言う形で詠唱していたオーバーアク
セラレートを発動させる春菜と、無詠唱で武器に耐久力強化のエン
チャントを施す澪。術を受け一気に人間の動体視力を超える速度ま
で加速し、空中で身動きが取れないバルド相手に圧倒的な手数と驚
異的な火力で畳み込むように仕掛け、きっかり体感五十秒ほどで離
脱、術をキャンセルしてスタミナポーションを飲み干す。
苛立ちまぎれに反撃で撃ち出した数十発の瘴気弾は当然のごとく
真琴にはかすりもせず、七割は宏に、残り三割はドーガにブロック
され、全く被害を与えることなく潰される。
﹁真琴姉、体はどう?﹂
﹁五十秒なら問題なし!﹂
真琴の状態を確認するために声をかけてきた澪に、強がりでも何
でもなくはっきりと断言する真琴。実際、宏達と一緒に何度も訓練
した結果、五十秒ならスキルを繰り出してすら、ポーションが必要
になる領域まで肉体を痛めつけるような事にはならなくなった。レ
833
ベル六百台のヒットポイントとスタミナは伊達ではない。耐久値と
防御力こそ宏に劣るが、流石にレベルが五倍近くあるだけあって、
最大ヒットポイントは生産廃人を超える。トータルでの生存能力で
勝つのはさすがに無理だが、少々のことでは死にはしないのだ。
﹁まったく、どこまでも忌々しい女神め!﹂
ズタボロになりながら、憎々しげに吐き捨てるバルド。流石に、
百倍速によるラッシュは相当なダメージだったらしい。宏ならとも
かく真琴の火力だ。しかも、今回は通常攻撃を延々と叩き込むので
はなく、ディレイの類が引っ掛からないタイプのスキルを、武器を
壊さない範囲でぶつけられるだけぶつけている。使ったスキルこそ
全て初級ではあるが、それでも総ダメージは死ななかった事が不思
議なレベルに達している。一瞬で変身によって作りだした余裕を全
て削り取られ、今度こそ自身がどうしようもないほどの窮地に立た
されている事を、はっきり自覚する。
﹁だが、今のが貴様らの切り札なら、そう何度も使えるものではあ
るまい!﹂
とは言え、バルドもただでやられていた訳ではない。使われた魔
法の性質と、その欠点を一瞬にして見抜いてみせる。実際、バルド
の指摘通り、もう一度使うには春菜の魔力がもっと回復せねばなら
ないし、魔力の問題が無くとも実戦レベルで使えるのは宏と真琴、
澪の三人だけだ。ユリウス達三人は、魔法による加速に耐える事は
出来るだろうが、自身の加速時間の限界を理解していない。そして、
一度加速した真琴をもう一度加速させるのはリスクが大きすぎて論
外だし、壁役である宏を迂闊に疲弊させるのも怖い。それに、宏と
澪は火力と言う点では、加速してもそこまでのパワーアップはしな
い。
834
術者である春菜の力量が上がればまだしも、現状では切れて一回
の、それも使いどころが非常に難しい、あまりあてにできない札で
しかないのだ。
﹁貴様らの弱点は見抜いた! これで終わりだ!﹂
こうもりやワイバーンのような皮膜の翼をはばたかせ、神殿の大
広間、その天井すれすれまで高く飛び上がったバルドが、全身に強
大な瘴気を蓄え、魔法陣を描くために旋回を行う。それを見た宏が、
正攻法では次に来るであろう攻撃を防ぎきれない事を悟る。
︵まずい! あれは貫かれる!︶
次に来るのは、魔法によって限界まで加速した突撃だろう。単純
な物理攻撃ならともかく、その手の速度がたっぷり乗った突撃は、
宏の手札では重量差の問題で完全に受け止めきる事は出来ない。宏
自身は大したダメージを受けず、ドーガもほぼ無傷で終わるだろう。
真琴、ユリウス、レイナの三人は弾き飛ばされたところで、その圧
倒的なヒットポイントで戦闘不能になる事は無い。澪にしてもそれ
ほど問題は無いだろう。
だが、春菜と達也は、かなり微妙なラインになる。レイオットも、
見た感じユリウス達ほどの生命力はなさそうだから、下手をすれば
致命的なダメージを受けかねない。エレーナとエアリスに至っては
論外である。もっとも王族三人に関しては、年季が入ったタンクで
あるドーガがその技の粋を使って何とかするかもしれない、という
希望的観測が無くもないのだが。
︵なんか、なんか手は無いか!?︶
835
内心で焦りながらも反射的にアウトフェースを発動する宏を尻目
に、牽制で飛び道具を連発する他のメンバー。カタリナと相対しつ
つも隙間をぬってエレーナとエアリスも援護射撃をしてくれる。だ
が、
﹁その程度の小細工で、止められると思うなよ!﹂
旋回速度の速さと動きの不規則さで、妨害として見てもそれほど
の効果を発揮しているとは言い難い。辛うじて澪の射撃は何発か当
っているが、ダメージと呼べるほどの効果は発していない。カタリ
ナの浄化のためにエアリスからの牽制が途絶えたあたりで、妨害が
減った事を好機とどんどんその速度を釣り上げ、瘴気によって書き
上げた魔法陣を背負う。
︵そうや! あれやったら!!︶
急降下の体勢に入った瞬間に閃いたアイデアを実践すべく、大慌
てで鞄からそいつを取り出す宏。そこに向かって突っ込んでくるバ
ルド。
﹁そおい!!﹂
間一髪で鞄の中から取り出した、平均から見れば倍近いサイズの
スイカより巨大なポメを、容赦なくバルドの顔面に投げつける宏。
緊急事態だと言うのにその行動に唖然とする一同をよそに、速度が
災いしてものすごい威力で顔面にぶつかったそれが、神殿を揺るが
すほどの大爆発を起こす。凄まじい爆発に完全に姿勢を崩し、反対
側の壁に叩きつけられめり込むバルド。
836
﹁よっしゃあ! 予想通り!!﹂
﹁ちょっ!?﹂
爆風をアラウンドガードで抑え込み、思いっきりガッツポーズを
とる宏に突っ込みを入れる春菜。あまりの事態に、歌が完全に中断
する。
﹁ちょ、ちょっと宏!﹂
﹁なんや?﹂
﹁ポメって、あんなにすさまじい爆発はしなかったはずよね!?﹂
﹁まあ、普通のポメはそうやな﹂
真琴の突っ込みに対し、あっさり同意してのける宏。実際、ポメ
の爆発力は一番強くてせいぜい、運が悪ければ骨折するかもしれな
いという程度。いくらなんでも、全速力で突撃してくる五メートル
の生き物を十メートル以上吹っ飛ばして壁に叩きつけてめり込ませ
るような、そんな過剰な爆発力は存在しない。
﹁また何かやったのか、ヒロ?﹂
﹁味とか栄養価とか良うなるか、思てな。向こうでこっそり温泉水
に特別ブレンドの植物用栄養剤混ぜて、ちょっと繁殖させてみてん﹂
宏のあまりにマッドな言い分に、顔が引きつるのを止められない
一同。因みにポメの生態として、ヘタを温泉につけた場合だけでな
く、ヘタを切り離した胴体の方を温泉につけても、葉っぱが生えて
837
復活するのだ。つまり、ヘタと胴体を別々に温泉につければ、一株
のポメが二株に増えるのである。手間はかかるが、ポメはこの特性
を使えば促成栽培も可能なのだ。
﹁因みに、ポメは味とか栄養価と爆発力が比例する傾向があるみた
いやから、今のポメは相当美味くて栄養豊富やったはずやで﹂
﹁あんな怖いポメ、料理できる訳ないよ!!﹂
春菜の突っ込みが神殿に響き渡る。緊迫した空気が一瞬にして消
え去り、後には何とも言えない雰囲気が漂うのであった。
﹁⋮⋮どこまでも、どこまでも虚仮にしてくれる!!﹂
壁にめり込んだ己の体を引きはがし、満身創痍となった姿で憎々
しげに宏を睨みつけるバルド。もはや逃げ出すだけの余裕もなく、
己の命をかけずに相手にダメージを与える手段も残っていない。い
やそもそも、まだ死んでいないのが奇跡だ。ならばせめて、ことご
とく虚仮にしてくれたこの冒険者達を、どうにかして道連れにする
事だけを考えよう。そう覚悟して、随分目減りした瘴気を限界まで
圧縮する。
﹁もはや、この国を我が神にささげる事はどうあがいても不可能⋮
⋮﹂
838
ウルス城に出入りできる者を取り込むまでに二十年。王族の側仕
えを選定できる立場のものに接触するまでに十年。その後、さまざ
まな幸運に恵まれ、カタリナが生まれた頃には彼女の側仕えを好き
に決められる立場に立ち、国が順調ゆえに王家や国の法体系に不満
を持つ者達を取り込むことに成功していた。
そうやって五十年近くかけてじわじわと国の中枢を食い荒らし、
ようやく巡ってきた好機をたった二人の冒険者に潰され、少しでも
結果を出そうとあがいた行為もことごとく不発。まだ、それが彼ら
が有能で自身のもくろみを全て見抜いていた、と言うのであれば少
しは救われるものを、こいつらはせいぜい最後に暗殺者を送り込む
タイミングを誘導した以外は、全て行き当たりばったりでその場の
思いつきとしか思えない行動を続けてこちらの手を全て潰してのけ
た。
自分が所詮小物である自覚はある。大した策略を立てられる訳で
もなく、ただ煽るだけしかできない事も理解している。だが、それ
でもいくらなんでも、この流れは余りにも受け入れ難い。これが女
神による予定調和だと言うのであれば、せめてもう少し英雄的な行
動をとる連中をよこせと言いたい。
だが、そんな行き当たりばったりな連中に計画を潰された、と言
う事は、結局自分達のやり方が稚拙だったのだ。そのつけは命で支
払わなければならない以上、せめてその原因となった連中ぐらいは
道連れにして、少しぐらいは雪辱を果たすべきだ。
﹁ならば、トウドウ・ハルナ、アズマ・ヒロシ! せめて貴様らの
命は貰って逝くぞ!﹂
839
望む威力に足りぬ分を自身の生命力で補い、仮に不発した時のた
めの最後の悪あがきを準備して、この姿だからできる最大級の攻撃
を叩き込む。
思えば、勿体をつけずに最初からやっておけばよかった。敵の魔
導師が言い放ったように、余裕があるうちに切れる札はすべて切る
べきだった。だがこの術は、万全な状態で使っても命にかかわる。
使うのは計画が完全に潰えた時だ。あの時点では、まだ逆転の目が
少しは残っていたはずだったのだ。
そんな言い訳を内心でグダグダ続けながらも、練り上げ圧縮した
瘴気と魔力を、大魔法と言う形でチャージする。拡散して放てばウ
ルスの三割を廃墟に変える事が出来る大技を、わざわざ神殿を吹き
飛ばす程度の範囲にまで圧縮したのだ。これをレジストされてキャ
ンセルされるのは、いくらなんでもあり得ないだろう。
練り上げられた恐ろしいまでのエネルギーに硬直し、露骨に怯え
の表情を浮かべる宏の姿に留飲を下げながら、最後の仕上げに入る
バルド。
﹁チッ、させるか! ジャッジメントレイ!﹂
準備されている魔法の威力に顔色を変え、ようやく妨害のための
魔法の詠唱を終えた達也が、光と聖の複合属性を持つ貫通タイプの
攻撃魔法を撃ち込む。浄化能力を持つ通常魔法としては聖天八極砲
の次に威力が強く、貫通タイプである事からバリアなどの防御で潰
されにくい魔法ではあるが、バルドが防御用にあえて漏らしてあっ
た高濃度の瘴気に阻まれ、それらを浄化したところで攻撃力を失い
消滅する。
840
﹁くっ!﹂
﹁まだまだ!﹂
達也の妨害が不発したのを見て、レイナとユリウスが突撃をかけ
る。だが、これまたもはや物理障壁の領域まで達した高濃度の瘴気
に食い止められ、腕の一振りで弾き飛ばされる。
﹁お願いします!﹂
﹁行きなさい!﹂
﹁させない! バスターショット!﹂
エアリスとエレーナがありったけの刃を飛ばし、澪がノックバッ
ク機能付きの高火力技を撃ち出す。だが、いずれも瘴気の結界を貫
く事が出来ず、妨害するには至らない。
あれを貫くには、エクストラスキルが必要だ。そう考えてレイオ
ットに視線を向けるが、首を横に振るばかり。流石にエクストラス
キルだけあってか、次元斬を発動するにはもう少し冷却が必要なよ
うだ。宏じゃあるまいし、一人の人間がそんなにたくさんのエクス
トラスキルを持っているはずもなく、バルドを迎撃しようとした技
は次元斬に比べれば、威力的には三枚は落ちる。
これだけの結界を張るには、本来バルドごときの能力ではどうあ
がいても不足だ。だが、その生命力を削り、準備する間の時間だけ
に限定すれば、たとえ小物であってもこの程度のバリアは張れるの
である。
841
﹁おじさん! あれ、止められる!?﹂
﹁流石に厳しい!﹂
そもそも、止めたところで神殿が無事では済まず、神殿が無事で
は済まない以上、この場にいる人間が生き埋めにならない保証が無
い。
どうにかできないかと手持ちの札を並べて、少しでも生存の可能
性を探る周囲の人間とは裏腹に、やけに落ち着いた態度を崩さない
春菜。一人だけ冷静にいくつかの補助魔法を発動させ、宏に重ね掛
けする。そんな春菜の様子に気がつきながらも、周りの連中の態度
から勝利を確信し、最後の準備を終えるバルド。
﹁もう手遅れだ! 一緒に逝ってもらうぞ!﹂
自身も含めた、この場にいる人間すべてを嘲笑しながら、命がけ
の切り札を解き放つ。
﹁共に堕ちようぞ! ヘルインフェルノ!﹂
妙にさわやかな笑顔とともに、地獄の業火を押し固めた火球を投
げつけるバルド。死の手前まで己の生命力を持って行かれ、壮絶な
までの倦怠感に襲われながらも、最後の意地で二本の足で立ち続け
る。人の枠を捨てた事で得た強靭な肉体は、この状態からでも生命
力を回復させていく。目の前の集団の恐怖と絶望がわずかながら瘴
気となって、彼の回復を促す。その状況を、バルドは満足げに眺め
つづけた。
︵何でやねん⋮⋮︶
842
巨大な火球が、妙にスローモーションで自分に迫ってくる。その
様子をぼんやり見つめながら、頭の中をいろんな思考が目まぐるし
く走る宏。逃げたい。何処へ? 誰か防いでくれるはず。どうやっ
て? 何でこんな事に。自分で首を突っ込んだのではないか。
益体もない思考が頭の中をぐるぐる回りながら、あまりに度を越
した状況と、あまりに絶望的で臨界点を超えた恐怖が、とある記憶
を引きずりだす。かつて生まれ故郷にいた時の、バレンタインの時
期に学校で起こった理不尽な命の危機。警察沙汰となり、全国的に
報道された事件。地域と学校の間に大きな不信感を植え付け、学校
内部の組織をズタズタにしてしまった出来事。
どうにか一命を取り留めた後の、クラスメイト女子の、更に理不
尽な言葉と態度。宏の今を決定づけただけでなく、学校全体で男女
の間に絶望的なレベルの溝を刻みこみ、その直後に入学した新一年
生すら男子が女子を一切信用しなくなった事件。それだけの事件で
ありながらいまだに犯人が特定できていない、警察に対する信頼す
ら揺るがした一件。
それを思い出し、目の前の火球を睨みつける。そうだ。あれに比
べれば、この程度は危機でも何でもない。第一、この世界で最も神
の匠に近いであろう自分が、この程度で死ぬような軟弱な肉体で居
る事を許してくれるほど、こちらの世界の神々は優しくは無い。
この程度、学校の半分が敵に回り、世界の人間の半分に恐怖を覚
えるようになったあのころに比べれば、危機と呼ぶ事すらおこがま
しい。恥ずかしながらバルドの気迫に飲まれ、派手な破壊力に怯え
てしまったが、よくよく考えればレジストに失敗して直撃を食らっ
たところで、少なくとも自分が死ぬ事は無いではないか。
843
その事に思い至り、本能に突き動かされて衝動的に火球に突っ込
んで行く。この時、宏の中で何かがかみ合い、急速に形になりつつ
あった。
﹁この程度⋮⋮!﹂
火球に向かって歩を進め、無意識のうちにこっそり覚えていたフ
ォートレスを発動。ドーガに比べれば児戯にひとしいそれだが、そ
もそも基本となる防御力が段違いだ。物理防御力は全力で身を守っ
ている時のエルンスト・ドーガにわずかに及ばぬものの、魔法防御
ならば彼より数段高くなる。
﹁チョコレートに比べたら⋮⋮!﹂
着弾寸前に、アラウンドガードを発動。元々大幅に削られていた
攻撃範囲を、ほぼ宏一人分にまで抑え込む。
﹁何ぼのもんじゃーい!!﹂
着弾と同時に、気合を入れて魔法に抵抗する。強力な抵抗体に接
触し、急激に削り取られていく火球のエネルギー。進む力と抵抗す
る力がほぼ釣り合う中、激流の中をさかのぼっていくかの如くじり
じりと宏に迫っていき、その身を削りながらも爆発すると言う役目
を果たそうと、愚直なまでに直進する火球。結果、破壊力をほとん
ど発揮することなくどんどん無害なただの魔力となって拡散してい
き、三分の一程度まで削られたところでついに宏に接触し、爆発。
﹁⋮⋮なんだと!?﹂
844
爆風が収まり、煙が消えた後には、ほぼ無傷の宏が突っ込んでき
ていた。流石に無傷ではない。あちらこちらにやけどを負い、爆風
によって出来た裂傷も少なくない。だが、ウルスの三分の一を焦土
に変えるだけの魔法を限界以上に圧縮し致傷力を高めた一撃を受け、
その程度で済ませたということ自体が驚異的なのだ。
仮に、春菜が補助魔法をかけていなければ、もっと目に見えるダ
メージを受けていただろう。フォートレスとアラウンドガードが無
ければ、後ろにいた春菜達は小さくない傷を負っていたはずである。
何より、最初の段階で心が折れていれば、この威力に押さえられる
ほどの抵抗力は発揮できなかった。
ぎりぎりのところで辛うじて、宏はタンクとしての役割を果たし
たのだ。
﹁往生⋮⋮、せいやあ!!﹂
傷の痛みを無視し、力一杯ポールアックスを振りあげ、大声で吼
えながらイメージに沿ってエネルギーを乗せ、全力で振り下ろす。
斧に乗せられたすさまじいまでのエネルギーは、過剰な破壊力とな
って放ったポールアックスとバルドの体を粉砕し、地面に叩きつけ
られ、入り口まで前方に広がる巨大なクレーターを穿ち、神殿正面
の出入り口がある壁を粉砕し、中庭の中央まで亀裂を走らせてよう
やくおさまる。
エクストラスキル・タイタニックロア。長柄の斧もしくは鈍器武
器専用の、物理攻撃系としては最大の破壊力と攻撃範囲を誇る技。
不人気武器の必殺技ゆえに、いまだ習得条件はおろか存在すら発見
されていなかったそのスキルを、宏は怒りにまかせて力技で発動さ
せた。
845
﹁な、何だったんだ、今のは⋮⋮?﹂
﹁さあ?﹂
急展開を見せた一連の流れについていけず、呆然とした口調でつ
ぶやく達也。その達也に対して、平常運転と言う感じであっさり答
えを返す春菜。どういう訳か、彼女はあまり驚いていない。
﹁春姉、なんかすごく平常運転⋮⋮﹂
﹁まあ、ヘルインフェルノを防いでくれる、って言うのは確信して
たし、そのために一杯補助魔法かけたから﹂
澪の突っ込みに、あっさり理由を告げる春菜。流石に今の攻撃は
驚いたけど、などと補足するが、いまいち信用できないところだ。
﹁そう言えば、エアリスもあまり驚いていないようだが?﹂
﹁えっと、恥ずかしながら、今のがどの程度凄いのか、あまり分か
っていないのです﹂
兄の問いかけに、素直にそう答える妹。戦闘経験の少なさゆえ、
今のヘルインフェルノがどれほどのものか、それを防いだ宏がどの
ぐらいとんでもないのか、そして最後の技がどの程度のものなのか、
どれ一つとっても良く分かっていないのである。一般人のエアリス
にとっては、この戦闘で出てきた攻撃全てが、一度食らえば十回は
死ぬだけの威力を持っているのだ。凄さなど分かろうはずがない。
﹁それに、まだ終わっていませんし﹂
846
急に金の瞳に変わったエアリスが、そんな事を断言する。その言
葉を証明するように、異界化していた神殿一帯が通常の空間に戻る
と同時に、何かが中庭に召喚される。
﹁な、なんだ?﹂
﹁ここであんな大きなものを呼び出されると困るので、とりあえず
中庭に移しました。空間は復元しましたが、流石に今の戦闘で出た
被害の修復はしていません。回収出来るものを回収したら、後の対
応のためにさっさとここを離れる事です﹂
﹁もしかして、今は女神ですか?﹂
春菜のその問いに応えることなく、意味深な笑みを浮かべるエア
リス。次の瞬間、瞳の色が普段の青色に戻る。
﹁お兄様! 何かものすごく大きなものが出てきます!﹂
﹁⋮⋮分かった! すぐに対策に入る!﹂
レイオットの言葉を聞き、とりあえず拾えるものを拾い集めて神
殿を飛び出す一同。神殿には何頭かのケルベロスの残骸と、最初に
気絶したまま完全に忘れ去られていた無傷のオリアだけが残される
のであった。
847
﹁これは⋮⋮﹂
﹁また、難儀なものを呼び出したものじゃのう⋮⋮﹂
今際の言葉を言う事すら許されず、圧倒的な破壊力で粉砕された
バルド。そんな彼が自分の死をトリガーにして呼び出した生き物を
見て、うめくようにつぶやくユリウスとドーガ。
﹁正面から直接斬りかかるのは、単なる馬鹿のすることかしらね﹂
﹁さっきヒロシが使った技を叩き込みに行くならともかく、少なく
とも普通に攻撃するのであれば、間違っても勇者などと称えられる
事は無いだろうな﹂
出てきたものの巨大さと移動方法を見て、うんざりしたように意
見を言い合う真琴とレイナ。彼女達に限らず、今目の前にいる巨大
生物を見た人間の反応は、絶望してうめくか余りのどうしようもな
さに皮肉を口走るか、大体その二つに一つだ。もっとも、そんな分
かりやすい反応を示さない人間が、若干一名ほどいるのも事実だが。
﹁来た来た来た⋮⋮! 僕の時代が来よったで⋮⋮!﹂
城の中庭に現れた超巨大な芋虫を見て、目を爛々と輝かせながら
喜びをかみしめるように言葉を紡ぐ宏。
そう。バルドが呼び出したのは、ウルス城すら引きつぶしかねな
いサイズの、超巨大な芋虫だったのだ。このサイズの地べたを這う
生き物に対して、正面から近接攻撃を仕掛けるのは愚か者のする事
848
であろう。まだ二本脚や四本脚で動き回っている生き物ならばすり
抜けて斬りかかる、などと言う真似も不可能ではないかもしれない
が、この手の腹部が地面すれすれに来ている生き物にそんな真似を
仕掛ければ、そのまま前進するのに巻き込まれて引きつぶされ、無
残な屍をさらす結果になるだけだ。
幸か不幸か芋虫自体はノンアクティブらしく、座りのよさそうな
場所を求めてゆっくりのんびりもそもそ動いているだけで、攻撃的
な様子は何一つ見せていない。が、たとえ芋虫といえどもこのサイ
ズ、下手に何か攻撃を仕掛けて中途半端にダメージが通ってしまっ
た場合、怒ってどんな攻撃をしてきてもおかしくない。騎士たちは
この時点では飛び道具を持っておらず、魔法使い達は余りのサイズ
に攻撃魔法を使うべきか否かを迷っていたため、運よくまだ攻撃ら
しい攻撃は誰も仕掛けていなかった。
そんな厄介な生き物を見て目を輝かせ、喜色満面と言う感じの笑
みを浮かべる宏。普通なら頭がおかしくなったのではないか、と疑
うところだが、この男の経歴や特技を考えれば、人によってはピン
と来るものがあってしかるべきだろう。
﹁ねえ、宏君。もしかして、あれ⋮⋮﹂
﹁澪! 足場と樽作るための木材調達や! 兄貴ら魔法使いはバイ
ンド系の魔法であれを適当な場所に固定! エル、もしくは女神様
! あいつが食えるように地脈の魔力、流せるか!?﹂
何かに気がついたらしい春菜の問いかけに応えず、突然宏が矢継
ぎ早に指示を飛ばす。唐突に発せられたその言葉に反応できず、思
わず呆然と立ちすくむ一同。
849
﹁地脈は問題ありません、ヒロシ様﹂
急な指示に反応できない他の人間をよそに、出来る事があるらし
いと見えない尻尾をパタパタと振りながら喜々として答えるエアリ
ス。その姿に我に返り、宏の指示を実行しようとする一同。ポッと
出の下級冒険者の指示なんぞに、という意識は誰も持っていない。
と言うより、指揮官全員が取りうる対応を指示できない状況では、
可能性があるのであれば誰の指示でも従うべきだ、という判断をし
たのだ。
﹁ほな、エルはあれに地脈の魔力を食わせたって! 他の魔法使い
は、さっきも言うた様に芋虫を適当に固定! 固定する魔法は、絶
対ダメージ出る奴使うたらあかんで! 固定が済んだら、あいつが
魔力食えるように、回復とか防御上昇の補助魔法とか、その類のダ
メージが出えへん魔法をガンガン掛けたって!﹂
﹁分かりました!﹂
宏の指示に嬉しそうに従い、魔法使い達が必死になって固定した
芋虫に地脈や霊脈からの魔力をこれでもかと言うぐらい流し込むエ
アリス。
﹁宏君、私も魔力を流す側に回った方がいい?﹂
その様子を見ていた春菜が、出来る事をやろうと言う感じで提案
してくる。が、その申し出に宏は首を横に振ると、
﹁春菜さんは練習も兼ねて、澪の手伝いよろしく。後、他の人は集
められるだけ糸巻きの芯、集めてきて! あれが繭作って安定する
まで三日ぐらいかかるから、その間にありったけかき集めてや!﹂
850
﹁い、今から?﹂
﹁流石に、城下のその手の店は店じまいをしている時間ですが⋮⋮﹂
﹁酒場とか飲食店とか回って、使い終わった奴を回収してこればえ
えねん。後、城内にある奴とかもや﹂
宏の指摘にハッとし、大急ぎで人海戦術で城下に散っていく騎士
たち。その後ろでは、魔力をモリモリ吸収した芋虫が、繭を作るた
めに糸を吐き始めていた。
﹁さて、一世一代の大勝負や。どんだけ糸が作れるか、こうご期待、
っちゅうとこやな﹂
出来上がっていく繭を見て満足そうに頷くと、とりあえず樽作り
に参加するためにその場を後にする宏であった。
それは、かなり異常な光景であった。
﹁澪! そろそろ上の方が開くけど、準備はええか!?﹂
芋虫の出現から六日目、繭が完成してから三日目の朝。完成直後
から凄まじいスピードで糸を紡ぎ続けていた宏が、そんな声を上げ
851
る。因みに、糸を紡ぎ始めてから一睡もせず、一秒たりとも手を止
めていない。水分補給は基本マナポーションで、食事は春菜が用意
した手を汚さずに食べられるものを、どちらも無駄に洗練された無
駄のない動きで、糸を紡ぐ作業を一切止めずに済ませている。
﹁いつでも!﹂
宏の声掛けに、組み上げられた足場の上からそう返事を返す澪。
現在彼女が立っている場所は、ウルス城の最も高い建物の屋根より
上の位置だ。そこまで行かなければ、繭の天辺を見る事が出来ない
のだから、それだけでもどれほどとんでもないサイズなのかが想像
できるだろう。
﹁ねえ、宏﹂
宏の横に積み上がった糸を回収しに来た真琴が、今のやり取りで
出てきた疑問を聞くために声をかける。その間にもどんどん糸巻き
が出来上がって転がされ、回収するものが増えていく。真琴がざっ
と見たところ、芯にかなり太めに巻いていると言うのに、一本作り
上げるのに十秒かかっていない。しかも、このペースで糸を紡いで
いると言うのに、全てにきっちり自動修復のエンチャントが施され
ているのだから、普通の職人が見たら正気を失いかねない光景だ。
﹁なんや?﹂
﹁上の方が開くって、何?﹂
﹁ああ。繭の中にあるさなぎが、そろそろ見えてくんねん﹂
﹁それって、何かあるの?﹂
852
﹁そのさなぎを開けるとな、いろんなことに使えるスープみたいな
んが取れんねん﹂
雑談の間にも一切手を止めず、なんとなく飄々とした態度でそう
答える宏。その回答を聞いて、思わずうえぇ、と言う顔をしてしま
う真琴。
﹁それって、もしかしなくても体液って奴よね⋮⋮?﹂
﹁もしかせんでも体液やで。今は変態中で完全にどろどろに溶けて、
まだ新しい体に変化し始めてへん頃のはずやから、物凄いたくさん
取れるやろうなあ﹂
この芋虫、繭を作り始めてから羽化するまで約十日ほどと、図体
の大きさの割に羽化が早い。なので、その液体を一番たくさん集め
られるのは、繭が完成してから二日目から三日目あたりの、胚を除
いて完全に溶けきっている時期だけになる。繭が出来て四日目には
胴体ができ始め、五日目にはほぼ体が完成し、六日目にはほぼ成体
になっているのだ。そういう意味では、糸を紡げるのも、普通なら
せいぜい繭が完成してから四日目ぐらいまでと言う事になる。
﹁真琴さん。それ片したら、樽の回収も手伝ったって﹂
﹁はいはい。それにしてもこの糸、一体何なの?﹂
﹁霊布の材料になる霊糸っちゅうやつや。糸としては最高級品やで﹂
宏のとんでもない返事に、思わず回収した糸巻きを落としそうに
なる真琴。その様子に苦笑しながら、無駄に洗練された無駄のない
853
動作でさりげなくマナポーションを飲み干し、更に糸巻きの作業を
続ける。
﹁まあ、そんな訳やから、いくらひと山いくらみたいな分量ある言
うても、それなりに丁寧に大事に扱ったってや﹂
﹁りょ、了解⋮⋮﹂
ゲームでも伝説級の素材だった糸の暴落ぶりにめまいを覚えつつ、
とりあえず臨時倉庫の方に回収した糸を運んでいく真琴。振り向い
た時には既にふくらはぎぐらいの高さまで積み上がっており、それ
でもまだまだ糸は取れるんだぜ、と自己主張している繭に再びめま
いを覚える。
なお、なぜわざわざ臨時倉庫を用意したのかと言うと、単純にア
ズマ工房の倉庫容量を超えそうだったからである。ここのところ大
物から大量の素材が取れるケースが連続したため、とことんまで容
量拡張をしていた工房の倉庫ですら、いい加減容量に不安が出て来
ていたのだ。
﹁さて、糸巻きと樽は足りるんかいな、と﹂
ウルスにある全ての糸巻きの芯をかき集め、それだけでは不安だ
からとさらに近隣の村のものまで根こそぎ回収して積み上げたのだ
が、既に在庫は残り三割程度。感触から言ってぎりぎり全部を糸に
できるはず、と言ったところだ。
正直なところ、霊糸を巻きとる糸巻きが、霊木を使って加工段階
からガチガチにエンチャントをかけろ、みたいな無体な事を言い出
すような類のものでなくて助かった、と言わざるを得ない。無論、
854
ただの芯では巻いている間に壊れてしまうため、巻きつけ始める前
に一杯小細工をする必要があるが、その程度の作業は寝ながらでも
できる自信がある。
もっと厄介なのが樽の方で、作れるのが宏と澪しかいなかったた
め、昨日まで澪が作り続けていても、千には届かなかったのだ。ど
うせ底の方に残った分は汲み上げられないだろうとは思うが、それ
を考えても際どい線である。
﹁まあ、なるようにしかならんか﹂
心持ち、糸を巻き取るスピードを上げながらそんな風に結論をつ
ける。結果を告げるならば、糸巻きは残り三つと言う際どいところ
で繭がすべて糸に化け、樽の方は予想通り若干数が足りずに、一度
作業の手を止めた宏によって肥料に加工され、城のハーブ園にまか
れることになる。
﹁これで、終わりや!!﹂
宏のそんな叫びがウルス城に響き渡ったのは、繭が出来てから五
日目の昼前の事。四日貫徹し、全ての作業を終えた事をもう一度確
認したところで、さすがに体力の限界に負けてダウンする。
﹁お疲れ様、宏君﹂
﹁お疲れ様です、ヒロシ様﹂
やり遂げた顔でそのまま爆睡モードに入った宏に、そっとねぎら
いの声をかける春菜とエアリス。このままここで寝かしておくのも
どうだろうと考え、誰かを呼ぼうとしたところでふといたずらを思
855
いつく春菜。澪も呼んだ上で、完全に寝入って起きる気配のない宏
の反応を確認して、女性陣だけでこっそり部屋に運び込む。
﹁これで、今回の事件は終わりかな?﹂
﹁そうですね。権限の無い私や、本来部外者である皆様のお仕事は、
多分これで終わりでしょう﹂
﹁後は、陛下と殿下に頑張ってもらおう﹂
熟睡する宏を見守りながら、ひそひそとそんな事を話し合う三人
娘。
﹁本当に、お疲れ様﹂
いろんな意味でドキドキしながら、そっと宏の手に触れる春菜。
こうして、ファーレーンを襲った一連の事件は、何とも言い難い形
で一応の解決を見たのであった。
856
第21話︵後書き︶
糸に始まり糸に終わる。
なお、先に宣言しておきます。
タイタニックロアはかなり先まで、宏が自由に使えるようにはなり
ません。
感じとしては、当分はサテライトキャノンみたいな扱いかな?
857
エピローグ
﹁此度の事、本当に世話になったな﹂
かなりお疲れの顔で工房を訪れ、全員が揃ったところでいきなり
頭を下げる国王。非公式の場でなければ正直許されない光景に、思
わず顔を見合せながら苦笑する日本人五人。
人事および書類的な意味での全ての後始末が終わり、国王が工房
に顔を出す事が出来たのは、糸作りが終わってから二週間後、既に
秋も終わりに近づき冬の気配を感じる頃の事であった。宏達は先々
週の中頃に工房に引き上げており、エアリスと連絡こそ取りあって
はいるものの、王宮関係者と直接顔を合わせるのは十日ぶりぐらい
の事になる。
﹁お城の方は、もうええんですか?﹂
﹁仕事自体は山積みだが、気分転換に城下にでも行って来いと言わ
れてな。息子達だけでなく宰相に侍従長、果ては近衛の団長にまで
同じ事を言われては、流石に逆らえんよ﹂
﹁そらお疲れ様で。何なら、よう寝れて疲れが取れるハーブティー
でも処方しましょうか?﹂
﹁頼む。出来れば、冷めても不味くならない物がいいな﹂
﹁はいな﹂
858
お疲れの国王陛下の注文を聞き、苦笑しながら了解を告げる。
﹁それで、あの後どないなったんですか?﹂
春菜がお茶受けを全員に配ったところで、宏が話を切り出す。戻
ってきてからはいろいろな物の仕込みでてんてこ舞いで、そのあた
りの情報は全く仕入れていない。春菜の方も一カ月ぶりぐらいだと
言うのに、いや、一カ月ぶりぐらいだからこそか、いくらでも売れ
ると言う感じのカレーパンを腕が上がらなくなるまで揚げ続ける羽
目になり、客や周りの屋台とはそれほど雑談する余裕が無かったの
だ。澪は二人の手伝いで、これまた目が回るほど忙しかった。
その間、手持無沙汰だった達也と真琴が組んで冒険者として活動
してはいるが、下っ端の冒険者に入ってくる情報などたかが知れて
いる。分かっていることなど、ここ数日で急速に討伐系の依頼が減
ってきた事くらいだ。
そんな状態だと言うのに今日全員揃っているのは、流石に一息つ
きたいと言う料理係三人の意見が一致し、全員で休むことにした日
だったからだ。もっとも、国王が訪れたのは偶然ではない。昨日の
夜にエアリスから連絡があり、全員揃う日はいつか、と聞かれてい
たのである。流石に、国王が直接来るとは思わなかったのだが。
﹁とりあえず、まだ状況は現在進行形だが、城内の掃除はほぼ終わ
った、と言うところだな﹂
﹁城内は、ですか⋮⋮﹂
﹁流石に、連中の領地に関してはまだ査察の途中だからな。とりあ
えず、お前達を城で受け入れる直前ぐらいから領主の様子がおかし
859
くなったと言うのは、連中の領地では共通認識だったらしいから、
今のところむしろ領主が変わる事に対してはさして混乱はないが⋮
⋮﹂
苦渋の表情を浮かべながら春菜の疑問に答え、お茶受けのかりん
糖をかじって一息つく。
﹁はっきり言って、調べれば調べるほど、碌でもない事実が出てき
てたまらん。流石に先代の頃から既に中枢の一部に食い込んでいた
など、洒落にならんぞ﹂
﹁先代の頃から? ってえと、最低でも三十年以上の計画ってこと
か⋮⋮﹂
﹁連中が関わった痕跡に関しては、大体四十年前ぐらいまではたど
れた。宮廷内で力をつけはじめたのは、十五年ほど前にあった、余
が即位する直前の大規模侵攻の頃からのようだがな﹂
﹁また、気の長いやり方をしてたんだな⋮⋮﹂
﹁まったくだ﹂
余りに気の長い計画と、それがあと一歩で成就しそうになったと
言う状況に、呆れるやら感心するやら、と言う感じの達也と国王。
だが、国内の政情が安定していつつも、モンスターの侵攻により政
権が常に適度な緊張感を持っている、軍事的にも経済的にも強固な
大国、と言うやつを壊そうとするのであれば、それぐらいの時間は
かかるのだろう。
ましてや先代と言えば、即位当時はレイオットより若かったとい
860
うのに、先々代の乱心によってややこしい事になった国内を、たっ
た五年で立て直した鉄血剛腕の人である。四十年余の在位期間にお
いて唯一にして最大の致命的なミスは、どうやっても不備がでる法
律というものを、余りにも絶対的な基準にし過ぎた事だろう。それ
が無ければそもそもここまでややこしい事にはなっていなかったの
だから、一足飛びに転覆させうるところまで影響力を得ることなど
できなくて当然だ。
しかも、それだけ時間をかけ、大方中枢を掌握しつつあるところ
まで浸食し、後は転覆させるだけ、と言うところで大きな行動を起
こしてすら、こんなくだらないきっかけであっさり計画を潰される
のだから、やりきれない思いがあるに違いない。
﹁何にしても、軍事的にはリカバリー可能な程度しか打撃を受けて
いないからいいものの、後始末の絡みで文官周りが大量に抜けてし
まったのは頭が痛い。半分ぐらいはそろそろ復帰できるが、何人か
はやはり手の施しようが無くなっておったしな。救いと言えば、連
中の領地が大人しく、どころか積極的にこちらに協力してくれる事
ぐらいか﹂
今回に関しては事が事だけに、ゆっくり緩やかにと言う選択肢は
無かったとは言えど、こういう粛清を余り急激に一気に行うと、後
が本当に大変なのだ。理想は腐敗が進むよりは早く、だが人手が足
りなくならない程度のスピードで絶え間なく問題児を排除していき、
使えない人員の数を許容範囲に収まるように調整し続けることなの
だが、どちらの世界の歴史を見ても、それを上手くやれた事例など
ほとんど存在しない。
人類の歴史と言うのは、良くも悪くもショック・ドクトリンによ
る大規模な変化の積み重ねなのである。
861
﹁それをボク達に愚痴られても困る⋮⋮﹂
﹁そうだね。私達は、そう言う領地がどうとか外交がどうだとか、
そう言うのは完全に専門外だし⋮⋮﹂
その後も続く報告というよりも愚痴といったほうがいい内容に対
する澪の困惑交じりの突っ込みに、春菜が苦笑しながら同意する。
実際、たかが冒険者に何を望むのか、と言う種類の話だ。
﹁そうだな、すまん﹂
連中とは違う意味で中枢に食い込んでいるとはいえ、一般人相手
に愚痴るような話でもない。二人の突っ込みでその事に思い至り、
素直に頭を下げる国王。
﹁とりあえず、操られていたらしい連中の処分も終わった。今回の
件で法改正のハードルを下げることにも成功した。今回のように、
分かっている反乱分子を現行犯でしか処分できないシステムもある
程度改めた。後は落ち着くまで手綱を握っていられるかどうかだけ
だ﹂
今回の件での最大の収穫は、全ての武官、文官、貴族が賛成しな
ければ、どんな些細な変更もかけられないという事実上法改正が不
可能なシステムを変更できたことだろう。一部例外を除いて一人で
も棄権があった時点でアウトだったのが、ウルス及び直轄地だけの
ものなら各部門の長の三分の二、ファーレーン全域ならそこに領主
たちの三分の二の賛成があれば改正可能になった。本来なら過半数
程度まで抑えたかったのだが、流石にそこまで一気にハードルを下
げるのは難しい。そもそも、今回の件が無ければ、それすらも不可
862
能だったのだ。
これまでよく政治が停滞しなかったというシステムだが、貴族や
王族に対する刑法周りに大きな不備はあっても、民事的な部分およ
び軍事的な部分はこれまでの慣習をそのまま明文化しただけに近か
ったため、運用をややアバウトにする事で十分対応できたのだ。先
代が在位期間のほとんどを費やして、経済や国民生活に対する権力
者の影響を可能な限り減らした事が、良くも悪くも功を奏した形に
なっている。
外交にしても、新たに法を制定しなければできないようなものは
可能な限り時間をかけてとことんまですり合わせをして検討し、法
解釈だけで対応できるものは全て法解釈をいじる事で対応してきた
ため、諸外国からは侮られることなくやってこれた。内部に対して
は色々弱い現王だが、外交手腕はそれなりに評価できる人材なので
ある。
﹁操られてた人たちって、どういう処分に?﹂
﹁多少思考誘導されていた程度の人間は解雇、もしくは降格だ。流
石にオリアは操られていたと言っても言い訳がきかんが、これまで
の働きを鑑みて処刑だけはやめておいた。北部の修道院で修行、と
いう名の事実上の隔離ではあるが、あれの性格ならばあの修道院で
も上に登っていける可能性は十分ある﹂
温情なのかどうなのか微妙な処罰に、何とも言えない顔をしてし
まう宏達。とは言え、やらかしてしまった事を考えると、かばうの
も難しい。
﹁例の暗殺者は?﹂
863
﹁悪いが、余はそこまで細かい事は関知していない。全てレイオッ
トに任せてあるから、詳細は奴に聞け﹂
確かに、仕事が山積みの国王に、たかが一介の暗殺者の処分など
わざわざ聞きはしないだろう。
﹁それにしても連中、案外正統派と言っていい努力の仕方で食いこ
んできてたんだな﹂
﹁そうなるな﹂
﹁その根性を、もっと別の目的のために使えばいいんだがなあ﹂
﹁それができる連中であれば、そもそも邪神なんぞ崇めたりはせん
だろう﹂
一言で切り捨てた国王の言葉に、苦笑しながら同意せざるを得な
い一同。結局のところ、あの手の連中は皆、自分の境遇に酔ってい
るのだ。だから、不遇と言っていい境遇でなければ駄目だし、それ
を克服するためではなく、自分達を不遇な境遇に陥れた連中を痛め
つけるための努力しかできないのである。
﹁あいつらの厄介なところは、基本的に普通の人間と区別がつかん
ところだ。バルドですら、今回の件までは、せいぜい胡散臭いだけ
のただの一般人にしか見えなかったからな。しかも、領地を持たん
名前だけの貴族はともかく、領主をやっている連中は領地経営自体
はまともにやっているのだから、面倒なことこの上ない﹂
﹁そうだよね。物凄く胡散臭いとは思ったけど、神殿の時ですら、
864
最初は瘴気とかあんまり感じなかったし﹂
直接邪神教団に所属していたであろうバルドですらそれだ。単に
連中に感化され、無意識のうちに瘴気をため込み始めた程度の人間
など、せいぜい最近言動がおかしくなってきた、とか、妙にひがみ
根性が鼻につくようになってきた、とか、そういった変化から疑う
しかない。
春菜ならまだ、直接歌を聞かせてみると言う疑われずにできる確
実な方法もあるが、他の人間には疑っている事を悟られずに確実に
判別できる手段はない。そこも面倒なところである。
﹁我が国はお前達のおかげで、間一髪ではあったが計画は阻止でき
た。だが、他の国はどうなのか分からん﹂
﹁最悪、一国か二国ぐらいは連中の手に堕ちてる可能性もある、っ
てわけか⋮⋮﹂
﹁そのあたりについては、使える手はすべて使って調査させている
が、なにぶん遠方の国もある。結果が出そろうまで、一カ月ぐらい
はかかると思って欲しい﹂
﹁つまり、ウルスを出るにしても、一カ月は待て、っちゅうことか﹂
宏の言葉に、首を左右に振る国王。その態度に、おや? と言う
表情を浮かべる一同。
﹁後一カ月となると、そろそろ各地で雪が降り始める。陸路で移動
するなら、もう既に北ルートは候補から外すべき時期に来ているし、
東から南へ抜けるルートも、丁度一カ月半後ぐらいから徒歩では厳
865
しくなる地域が出てくる。まあ、隊商についていけば、迂回路位は
知ってはいるだろうが⋮⋮﹂
﹁要するに、冬が終わるぐらいまでは、ウルスで大人しくしとれ、
と?﹂
﹁そうなるな。それに、冬場の移動は時間がかかる。特に雪道の移
動は手間がかかるし、吹雪でも吹けば三日は普通に足止めされる。
そのあたりを考えるなら、この街で三カ月余計に足止めをされると
言ったところで、最終的には大差なくなるからな﹂
季節の事を考えていなかった宏達は、国王に言われて初めてその
あたりの問題に気がつく。
﹁なるほど、了解ですわ﹂
﹁それに、後二カ月もすればウルスの新年祭だ。この街を上げて行
う故に、なかなかに盛大にやる祭りでな。折角だから一般人の立場
で参加していってもらえると、国と街を預かる立場としては大変う
れしい﹂
ウルスは農業より商工業の方が規模が大きい事もあってか、秋の
収穫祭と言うのはそれほどの規模では行われない。全く行わない訳
ではないのだが、各地区が勝手に自分ところの自治会のような組織
ごとに日程を決め、日本の盆踊りや夏祭りのように、地元ローカル
の祭りとしてそれなりににぎやかにやる感じである。
宏達が居を構えている地区の祭りは温泉に行っている間に終わっ
ており、出店の出店も祭りそのものの参加もできなかった。他の地
区の収穫祭も、城でごちゃごちゃやっているうちに全て終わってお
866
り、彼らはウルスの収穫祭と言うやつを一つも見ていない。
なお、周辺の村や町は、新年祭より収穫祭の方を盛大に行う。こ
れは、新年祭はウルスのものに参加する人の方が多い、と言う事も
あるが、基本的にはウルスの衛星都市やその周りの村はすべて農業
が主体で、新しい年を迎える事よりもその年の収穫を祝い、大地母
神に感謝する事の方が重要視されているという理由が大きい。
因みに、ファーレーンの新年が地球の北半球と同じ真冬なのは、
単に暦の起点となる年の初めを、建国王の建国宣言に合わせたから
である。初代国王は収穫祭が終わってから国のこまごまとしたシス
テムを始動し、国として十分に機能してから建国宣言を行った。そ
のタイムラグが約二カ月あり、結果として地球と同じように真冬の
これからもうしばらくは寒くなり続ける、と言う時期になってしま
ったのだ。
﹁ほな、その段取りでいきますわ﹂
﹁うむ﹂
宏の返事を聞いて、一つ頷く国王。その様子を見ていた真琴が、
ふと疑問に思った事を口にする。
﹁陛下、この二人に鈴をつけなくて、いいんですか?﹂
﹁どうやってつけろ、と?﹂
真琴の質問に対して返ってきたのは、そんな身も蓋もない回答で
あった。
867
﹁金も地位も必要としておらず、身の安全を保障するには宮廷は不
向き。女を与えるなど逆効果以外の何物でもないとなると、何を持
ってどうやって縛りつけろと言うのだ?﹂
﹁うっ、確かに⋮⋮﹂
﹁まあ、そう言う訳だから、出ていくこと自体は止めはせんよ。ど
んな手を使ってでも取り込むべきだ、という意見もなくもないがね﹂
あっさり鷹揚に言い切った国王に、苦笑しか出ない日本人達。
﹁そうそう、これは出来れば、でいいのだが⋮⋮﹂
少々言いづらそうにしている国王に、怪訝な顔を向ける宏。
﹁食料品関係の事だけでもいいから、誰かに仕込めるだけ仕込んで
この工房に残しておいてもらえると助かる。何なら、こちらがその
ための人員を用意してもいい﹂
﹁言うとは思ってたけど、そこまでですか?﹂
﹁うむ。インスタントラーメンは厳しいかも知れんが、せめてカレ
ー粉の調合ができる人材は欲しい、と、エレーナもエアリスも言っ
ておってな。それに、マヨネーズはどうにかなるようだが、ポン酢
や醤油、鰹節と言ったものはなかなか難しいらしい。欲を言えば、
製法を広められてかつ、大量に生産する方法も用意してもらえると
ありがたい﹂
真琴の突っ込みとも質問ともとれる言葉に対する返事、それはか
なりの無茶振りであった。
868
﹁⋮⋮まあ、カレー粉はどうにかしますわ。実際のところ、メリザ
さんにも同じ事頼まれてますし、レシピ自体はあっちこっちにばら
撒いとるんで、後は調合のための計量作業がネックになっとるだけ
らしいですし﹂
﹁そうか。他の調味料は?﹂
﹁人手集めて、冬の間にある程度の規模で生産できるようにはしま
すわ。こっちもいろいろ広まってくれれば、美味しいもんがようさ
ん食べれてありがたいですし﹂
﹁頼む﹂
そう言って、肩の荷が下りたと言う顔でかりん糖をかじる国王。
その後、お土産をもらってほくほくした顔で帰っていくのを見送っ
て、どうしたものかと顔を見合わせる一同。
﹁宏。安請け合いしたけど、当てはあるの?﹂
﹁忙しいて棚上げしとったけど、メリザさんから頼まれとった事が
あってな。正直、個人的には避けたい事ではあるんやけど、澪に手
伝うてもらえたらいけるかなあ、って﹂
﹁それってどんな?﹂
﹁兄貴と澪が盗賊に捕まっとった時、他にもようけ監禁されとった
やろ?﹂
質問した真琴に対して、問いかけと言うより確認をする宏。その
869
言葉に頷く一同。
﹁そのうち二人ほど、帰る場所が無くてメリザさんところで面倒見
てもろうてる人がおるらしいんやけど、その人らをこの工房で使っ
て欲しい、言われとってん﹂
﹁それが、どうして個人的に避けたいの?﹂
﹁そら、二人とも女やからに決まっとるやん﹂
その一言で、非常に納得してしまう春菜達。宏に女性を指導する
のは荷が重いだろう。春菜はクラスメイトでかつ運命共同体だった
から、澪はネナベだったからこその例外である。その二人が春菜並
に距離感覚がしっかりしていなければ、いろんな意味で厳しい。
﹁とりあえず、カレー粉の調合とか醤油の作り方ぐらいやったら、
澪でも指導できるやろ?﹂
﹁うん。多分、春姉でもできるんじゃないかな?﹂
﹁カレー粉は大丈夫。醤油とかはちょっと自信が無いかな?﹂
などと、とりあえず筋道だけはつける。大方目途が立ったところ
で、達也が結論を出す。
﹁どっちにしても、ここを長く空けておくのはそれはそれでまずい
し、その二人が信用できそうならここを任せちまうのもありじゃな
いか?﹂
﹁そうね。あたしも賛成﹂
870
﹁みんな賛成やったら、明日にでもメリザさんに話通してくるわ﹂
せやからフォローしてや、と言う宏の言葉に頷くと、とりあえず
新しい人間を迎え入れるための準備に取り掛かる一同。彼らのファ
ーレーンでの拠点が、ファーレーンにとっても最重要施設になるこ
とが決まった瞬間であった。
﹁そういやさ、宏﹂
明日の新人さん受け入れのための準備を終えたところで、真琴が
思い出したように宏に声をかける。
﹁何?﹂
﹁あんた、武器はどうすんの?﹂
﹁あ∼、忘れとった﹂
宏の言葉に呆れる真琴。彼のポールアックスは、エクストラスキ
ルを放った時に完全に砕け散り、修理どころか材料の回収すらでき
ていなかった。
﹁いっそ、ケルベロスファング使う?﹂
871
﹁無理無理無理。僕が長剣なんざ使いこなせる訳あらへん﹂
真琴の提案に、大慌てで首を左右に振る宏。ケルベロスファング
とは、ケルベロスの死体が魔剣化したものである。言うまでもなく、
先日のバルド戦で入手したものだ。
﹁てか、なんでここにあんねん﹂
﹁前に臨時倉庫の中身を回収したときにね、ユリウスさんがドサク
サにまぎれて回収物の中に混ぜてたの﹂
﹁いや、気ぃついとったんやったら突っ込もうや﹂
春菜がチクった理由を聞き、さすがに突っ込まざるを得ない宏。
このケルベロスファング、性能的には間違いなく今現在手元にある
武器の中ではもっとも強力なものだが、残念ながらこのチームでは
使い手も居らず宝の持ち腐れである。それ以前にそもそも、王宮で
の戦闘で入手したものなのだから、所有権は王国にあるのではない
のか?
﹁殿下いわく、持たせる相手がいないし呪われそうだから私達に押
し付けたいんだって﹂
﹁いや、それが心配やったら、エルに浄化させたら済む話やん﹂
﹁向こうも処分に困ったんじゃない?﹂
確かに処分に困りそうなアイテムではあるが、だからといって宏
達に押し付けるというのは、あまりにも安易ではないかと思う。そ
872
もそも、大量に作った糸もせいぜい五十本ほどを献上しただけ、後
は全て宏達が回収することになったのだ。澪でもまともに扱えない
ようなものをファーレーンの人間が加工できるとは思えないが、そ
れでも半分とは言わないがせめて三割は所有権を主張すべきだと思
う。
﹁とは言え、こっちにあっても場所をとるだけなんだよなあ﹂
﹁真琴さんこそ、長剣は使わへんの?﹂
﹁使わないことはないけど、それだったらまだ刀のほうがましかな
あ﹂
﹁大剣と刀って、また妙な組み合わせやなあ﹂
真琴の返事を聞いた宏が、かなり不思議そうな顔をする。その表
情を見て苦笑した真琴が、種明かしをする。
﹁最初は、って言うか、刀が手に入ってから結構な期間、メインは
刀だったのよ。でもね⋮⋮﹂
真琴いわく、ゲームでは高品質品より強力な刀が手に入らなかっ
たとの事。実際、生産系プレイヤーが初期に作った物以外で出回っ
ていた刀は、基本的には辺境のNPCが販売していたものかレアド
ロップの高品質品のみ。いわゆる魔剣に相当するものは結局一振り
も見つかっていないのだ。
近接物理としてはスキルが強力で、長剣とはまた違った方面でバ
ランスが良かったこともあり、最上級スキルを習得するところまで
は鍛えた真琴だが、結局武器の性能と言うどうにもならない限界を
873
超えられず、火力に比べて取り回しに優れた大剣に転向したのであ
る。
﹁それやったら、刀打ったほうがええ?﹂
﹁ん∼、いまさらって言えばいまさらなのよね。刀使ってたのも二
年以上前だし﹂
﹁まあ材料入ったら、大剣と刀、両方作ってみるわ。刀のほうがし
っくり来るんやったら、大剣はユーさんにでも押し付けたらええし﹂
﹁その前に、自分の武器作りなさい﹂
余計な方向に突っ走りそうになった宏を、冷たい声で制する真琴。
﹁そういえば、あの時使ってた技って、結局何? 使えそうなの?﹂
﹁頭に浮かんだ名前はタイタニックロアやった。けど、役に立ちそ
うか、っちゅうたら現状では判断不能や﹂
﹁はあ?﹂
﹁使い方は分かるんやけど、何をどうやっても発動せんでなあ⋮⋮﹂
目を覚ました翌日、予備のポールアックスを借りて何度も試した
のだが、発動時の感覚をどれほど完璧に再現しても、うんともすん
とも言わなかった。スタミナをはじめとした消耗するはずのものも
一切消耗していないのだから、完全に不発しているのは間違いない。
手順を間違っていないのに不発する以上、使えないと判断するしか
ない。
874
﹁多分、何かが足らんのやと思う﹂
﹁そっか。さすがにそんなに甘くないか⋮⋮﹂
﹁そう言うこっちゃな﹂
さすがに、そんなに簡単に宏の戦闘能力はアップしないらしい。
﹁ま、そんな火事場の馬鹿力的な代物は横に置いとくとして、だ。
いい加減腹も減ったし、そろそろ飯にしていいんじゃねえか?﹂
﹁あ、そうだね。晩御飯作るよ﹂
﹁今日は何?﹂
﹁ワイバーンガラのスープをベースにした醤油ラーメンと餃子、っ
てところでどう?﹂
春菜の提案に対する回答は、満面の笑顔であった。
﹁で、冬が終わったらこの国を出るとして、当面のでいいから明確
な目的とルートを決めておこうよ﹂
875
ラーメンを堪能し終えたところで、デザートの杏仁豆腐をつつき
ながら春菜が提案する。なお、杏仁豆腐の材料については、物によ
っては深く考えないほうが幸せになれそうだとだけ言っておく。
﹁そうだな。どうも、俺達が知ってるグランドクエストとは、全体
的に相当ずれてる感じが強い。ゲームのときの情報や常識は一旦忘
れたほうがよさそうだ﹂
﹁そうなん?﹂
﹁ああ。少なくとも二章の半ばの時点じゃ、どこの国にもここまで
深刻なピンチはなかったはずなんだ﹂
﹁四章半ばでも、って付け加えとくわ。ついでに言うと、その時点
でも邪神教団は単なる脇役と言うか、ストーリーには直接かんでこ
なかったし﹂
達也と真琴の説明を聞いて、思わずうなり声を上げてしまう。
﹁正直、今の状況がグランドクエストだとしたら、あたし達はどの
辺りにいるのかがまったくわかんないわ﹂
﹁まあ、どうせグランドクエストも四章半ばで情報が途絶えてるん
だし、あれの情報はこの際、無視していいだろうさ﹂
﹁それはええとして、兄貴は具体的になんか思いつくこととかある
?﹂
﹁まずは、情報集めのためにルーフェウスを目指すべきだろうな﹂
876
達也の提案、その意味を即座に悟って頷く一同。
﹁大図書館、か﹂
﹁確かに、あそこの禁書庫に入れたら、大分いろいろ進みそうな雰
囲気はあるなあ﹂
﹁誰とは言わないが、また余計なものを拾いかねないのが難点だが
な﹂
達也の突っ込みに、ちょっとばかり視線を明後日の方向に向ける
春菜。
﹁それだけだと、芸がない﹂
明後日の方向を向いてしらばっくれる春菜を放置し、澪が淡々と
妙な指摘をする。
﹁確かに、ただまっすぐルーフェウスに向かうってのも、無駄と言
えば無駄だな﹂
﹁いくつもの国を無駄に素通りするのも、確かに芸がないわね﹂
澪の指摘に、達也と真琴が同意する。それを聞いてしらばっくれ
るのをやめた春菜が、思いついたことを提案する。
﹁だったら、ルート上にある国や地域の神殿関係も、回れるだけ回
ろうよ﹂
﹁理由は?﹂
877
﹁今回のことで確信したの。こっちの神様とは、絶対無関係じゃい
られない、って﹂
﹁⋮⋮大変説得力のある意見、ありがとう﹂
春菜の、すさまじいまでの説得力を感じさせる宣言に、真顔で同
意する達也。確かに、絶対に無関係とかありえない。
﹁となると、どういうルートを通るか、だな﹂
﹁北周りでフォーレとミダス連邦を経由してルーフェウスに入るか、
南周りでダールとミダス連邦を通るか﹂
﹁達兄、真っ直ぐルーフェウスに行かずに、ダール、ミダス、フォ
ーレからウォルンを通ってルーフェウスに入るルートもある﹂
かなり大雑把な地図を見ながら、あれこれと話し合う一同。
﹁あ、そうや﹂
街道を示す線をいろいろたどっているうちに、何かを思い出した
らしい宏。大霊峰の切れ目、その麓から広がりファーレーンとダー
ルの国境をまたぐ広大な大森林地帯。街道をまたいで更に南にまで
広がり、途中から熱帯雨林に変わっていくその森林地帯の、大霊峰
側の中心あたりを指し示し、とんでもないことを言い出す。
﹁ゲームのときの話やけど、このあたりにエルフの集落と森の神の
神殿があったはずや﹂
878
﹁こんな文明圏の近くに、エルフの集落があるんだ⋮⋮﹂
﹁あってん。ただ、なんちゅうか、いろんな意味でゲームと同じっ
ちゅう確信はあらへんけど﹂
宏が白状した言葉に、思わず苦笑してしまう一同。そのあたりは
もう、ファーレーンの一件で嫌というほど思い知っている。
﹁まあ、そこらへんは情報を集めてから決めよう。冬が終わったば
かりだと、北ルートは通りにくい場所も一杯ありそうだから、そこ
らへんも考えれば南ルートがいいだろうな﹂
﹁そうだね。南のほうが途中で食材を集めるのもやりやすそうだし﹂
達也の決定に賛成する春菜。ほかのメンバーも特に異論はないら
しい。
﹁ルートも決まったことやし、長距離移動の予行演習もかねて、そ
のうちどっかでみんなで護衛依頼受けてみいひん?﹂
﹁そうね。予行演習はしておいたほうがいいわね﹂
﹁後は、馬車とかその辺の移動手段も用意せんと﹂
﹁意外と忙しいよね、特に宏君が﹂
﹁まったくや。やっぱり、最初から冬一杯ぐらいはファーレーンか
ら動けんで﹂
宏の言葉に頷く春菜と澪。宏ほどではないが、消耗品やらなにや
879
らの準備でこの二人も忙しい。
﹁とりあえず、明日からもいろいろがんばろう﹂
当面の方針と目先のやることが決まり、自然と表情が明るくなる
日本人達であった。
﹁ファーレーンのバルドが失敗した﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
﹁計画の遅延は、免れんな⋮⋮﹂
誰も知らない闇の中。数人の男達がひそひそと話をしていた。全
員、視線をそらせばその姿どころか、居たかどうかすら思い出せな
くなるほど存在感が薄く、特徴のない容姿をしている。
﹁他のバルドは?﹂
﹁ダールのバルドは、昨年義賊の手によって問答無用で排除された。
今、新たなバルドを送り込んでいるところだ。フォーレのバルドは
ドワーフどもの価値観に苦労しているらしい﹂
﹁順調なのは、ウォルディスのバルドだけだな﹂
880
特徴のない容姿の集団が、各地の様子を平坦な声で語り合う。彼
らの会話の内容から察するに、バルドと言うのは実行部隊のトップ
のコードネームみたいなものらしいが、ファーレーンにいたバルド
の様子を考えるに、当人は自分がバルドという個人だと思っている
節がある。実は、この場にいる連中の事を知らないのかもしれない。
﹁あそこまで行ったファーレーンのバルドが、ここまで綺麗に失敗
したのは想定外だ。いったい何があった?﹂
﹁知られざる大陸から迷い込んだ連中が、ファーレーンのバルドの
行動をことごとく潰してくれたらしい﹂
知られざる大陸、その単語が出てきた瞬間、男達から忌々しそう
な気配が漂う。
﹁またしても奴らか﹂
﹁だが、奴らとて、その寿命はただの人のもの。仮に奴らの行いに
よりこの五十年が無為に終わったとしても、また五十年、必要なら
百年でも二百年でもかければいい﹂
﹁この世界に聖気が存在する限り、我らが主は不滅。主が不滅なら
ば、我らもまた不滅﹂
﹁とは言え、奴らを放置しておく理由もない﹂
﹁藪をつついて蛇を出す必要もないが、我らの活動域に入ってきた
ら手厚い歓迎をしてもいいだろう﹂
881
その言葉とともに、闇が蠢く。
﹁ファーレーンはどうする?﹂
﹁かなり派手に失敗したから、今は無理だ。周囲を聖気で満たして
からのほうがいいだろう﹂
﹁分かった。では、私は他のバルドの補助に回ろう。世界を聖気で
満たすために﹂
﹁世界を聖気で満たすために﹂
その言葉と同時に、ほんのかすかに残っていた気配がすべて消え
る。蠢くものがいなくなったその場所は、どこまでも深い闇に包ま
れていた。
882
こぼれ話その1
1.初仕事
﹁色々あるんやなあ⋮⋮﹂
﹁東君は、どれにする?﹂
﹁せやなあ⋮⋮﹂
間に合わせの武器を作り、当座の方針も決めた翌日。朝一番に冒
険者協会のウルス東口支部に来た宏と春菜は、掲示板に大量に張ら
れた依頼を前に、仕事を選びかねていた。
張られている依頼書の内容は実に多岐にわたり、モンスター討伐
から異変の調査、隊商の護衛募集など冒険者らしいものから、人足
やウェイトレスの臨時募集、探しものに配達、ゴミ拾い、実験台や
助手のような冒険者であることは余り関係なさそうな依頼まで、全
く統一性はない。
﹁まずは仕分けしよっか﹂
﹁せやな。どういう基準で省いてく?﹂
﹁まず当然の話として、問答無用で要求ランクが高いものは無視﹂
そう言って、目立つ位置に張られた依頼の大半を没にする。
883
﹁次に、今日は初日だから、戦闘が発生する可能性が高いもの、外
に出る必要がありそうなものも排除﹂
そう言った依頼がまとめて張られている掲示板を調べ、依頼を探
す対象から外す。
﹁後は、不自然に依頼料が高いもの、依頼人の名前が無いもの、内
容が不明瞭なものを外して、残ったものから出来そうな仕事を受け
る、ってところかな。ただ、地理が分かってないからお届けものの
類も当面は避けた方がいいはず﹂
﹁⋮⋮ほな、僕はこれにしとくか﹂
﹁もう決めたの? ⋮⋮って、また変な依頼を選ぶよね﹂
宏が選んだのは、道路及び公共の敷地のゴミ掃除。依頼は王室お
よび冒険者協会。歩合制とはいえ依頼料はびっくりするほど安いが、
少なくともリスクはほとんど無い事は断言できる。
﹁これやったら、知らん人と交渉せなあかんような事態にはならん
と思てな﹂
﹁なるほどねえ。だったら私はこれでいいかな﹂
﹁ウェイトレスの臨時募集、か。二人揃って見事に冒険者がかすり
もしてへんなあ﹂
﹁安全第一、だよ﹂
春菜の言葉に、苦笑しながら頷く宏。とりあえず、依頼票をはが
884
して受付に行く。
﹁アンさん、これお願いします﹂
﹁分かりました。⋮⋮また、安全第一と言う感じの仕事を選びまし
たね﹂
﹁右も左も分からないんだから、出来ると分かってるものにしない
と﹂
冒険者になろうと言う人間とは思えない、実に堅実な台詞。その
言葉に苦笑しながら詳しい説明を始めるアン。その隣では、自分達
と同じ新米と思われる少年が、春菜が最初の段階で省いた不自然に
依頼料が高い仕事を受けようとしていた。
﹁⋮⋮あの仕事、大丈夫なんですか?﹂
﹁大丈夫、とは?﹂
﹁ざっと見た感じ、相場だと思われる金額に比べて、依頼料が不自
然に高いんですけど⋮⋮﹂
﹁⋮⋮何とも言えませんね。冒険者協会も全ての依頼内容を精査し
ている訳ではありませんので⋮⋮﹂
冒険者協会といえども、万能と言う訳ではない。毎日持ち込まれ
る依頼の量が量だけに、どうしてもおかしな依頼の混入は避けられ
ない。とは言え、あからさまに犯罪だ、と言うようなものはさすが
に持ち込まれた段階ではねられるし、判断がつかない依頼も大体は
受付を保留し、複数の人間で協議する事で大体は仕分けられる。
885
それらをくぐりぬけて混入された依頼に関しては、もう自己責任
と言うしかない。中には言いがかりをつけるためだけに用意された
依頼なんかもあるが、それに関しては協会サイドが責任を持って対
処する事になっている。
今回、新人が受けた依頼がどういうものかは分からないが、なん
となく胡散臭かったために手を出すのを避けたのだ。
﹁そう言えば、他にもいくつか不自然な依頼があったけど⋮⋮﹂
﹁ノーコメントです﹂
その言葉を聞き、碌でもない背景を嗅ぎつけた宏達は、あまり条
件の良すぎる仕事は絶対触らないことを誓うのであった。
﹁⋮⋮単なるごみ拾いの割には、遅かったですね﹂
﹁申し訳ない⋮⋮﹂
日もどっぷりくれようかと言う頃合いになってようやく戻ってき
た宏に、思わずジト目で冷たい言葉をかけてしまうアン。
﹁それで、何かトラブルでも?﹂
886
﹁チンピラに絡まれて、詰所で事情聴取されとりました﹂
何とも言えないかなり微妙な返事に、聞くともなしに聞いていた
他の冒険者も思わず沈黙する。
﹁⋮⋮一体何があって、そんな状況に?﹂
﹁ゴミ拾いしてたら、チンピラが五人ほど、場所代払えみたいな事
言うて来て⋮⋮﹂
﹁もしかして、払ったんですか?﹂
﹁流石に、言う通りに払ったら依頼料飛ぶどころか身ぐるみはがさ
れかねへん金額やったんで⋮⋮﹂
金額によっては払っていそうな宏の返事に、更に空気が微妙な事
になる。
﹁で、乱闘にでもなりましたか?﹂
﹁そんな訳ありませんやん。一方的に袋叩きにされましたで﹂
心の中で思わず、おい! 冒険者! と突っ込みを入れたくなる
アン。一方的に袋叩きにされたと言う割には怪我をした様子もない
が、防具なしでバーサークベアを仕留められる人間がチンピラごと
きの攻撃で怪我をするはずもないので、そこは気にしない事にする。
﹁そもそも、なぜ反撃しなかったんですか?﹂
887
﹁あいつらの顔が怖かった、っちゅうんもあるんやけど⋮⋮﹂
本気でこいつは何故冒険者をやろうとしているのか、疑問が止ま
らない言葉から言い訳をスタートさせる宏。内容は簡単で、反撃し
たら法的にまずい事になるかもしれないので、下手に殴り返せなか
った、というものである。最初の場所代についても、法的な問題が
あるかもしれないので、金額によっては払っていたと言う事である。
明らかに言いがかりをつけてきたチンピラ相手にすら、まともに
反撃できない臆病もの。宏の評価はあっという間に決まってしまっ
た。正直、毒消しを作っていた時と同一人物なのか、それすら疑わ
しくなってしまう。
﹁でまあ、詰所でいろいろこってり絞られて、解放されてから一生
懸命仕事しとったら今の時間やった、と﹂
﹁⋮⋮向いてませんねえ﹂
﹁全くですわ﹂
とは言え、仕事の成果自体は十分だったらしい。終了票に書かれ
ているゴミ拾い担当の職員のコメントを見る限りでは、必要以上に
綺麗にしたらしいと言う様子がうかがえる。
﹁とりあえず、仕事自体は問題なく終了しているようなので、報酬
を支払います﹂
そう言って用意されたのは、三クローネ。宿代にすらならない。
物価の高いウルスでは、家賃込みでの一日の生活費、その最低ライ
ンが大体これぐらいである。
888
﹁普通なら、あの依頼はお昼ごろに終わらせて、もう一つ別の仕事
をする類のものなのですが⋮⋮﹂
﹁そうやろうと思いますわ⋮⋮﹂
カウンターの上に並べられた銀貨を回収し、ため息を漏らす宏。
春菜の方は丸一日の拘束で五クローネと客からのチップ、プラス賄
いでの食事付き。彼女の事だから、上手い事チップによる副収入を
稼いでいる事であろう。
﹁ほんまやったら、もう一件回れるはずやったんやけどなあ⋮⋮﹂
﹁因みに、どれをするつもりだったんですか?﹂
﹁草むしりですわ﹂
そろそろ夏の終わりにさしかかろうかと言うファーレーンでは、
実に雑草の成長が早い。そのため、ある程度大きな規模の屋敷など
では、一日五クローネ程度で人を雇って庭の手入れをさせる事が多
い。この季節、これと言っていい依頼が無いときは、ベテランから
新米までお世話になる仕事の定番である。
もっとも、宏にとっては別の意味合いの方が強いのだが。
﹁また地味なものを選びますね⋮⋮﹂
﹁たまに雑草の中に掘り出し物があったりするから、僕としてはこ
ういう仕事の方がありがたいんやけど⋮⋮﹂
889
一捻りした仕事選びの理由に、やはりこの男が腕のいい薬師であ
る事を再確認するアン。この分だと、ゴミ拾いも額面通りに集めて
いた訳では無いのではなかろうか。
﹁何にしても、さすがに情けのうて藤堂さんに合わす顔が⋮⋮﹂
﹁何が情けないの?﹂
口を挟んできたのは、仕事上りの春菜であった。
﹁ほんまにごめん⋮⋮﹂
﹁初日なんだから、失敗しても気にする必要はないと思うんだけど
⋮⋮﹂
﹁せやけど、結構な赤字やで⋮⋮﹂
﹁ん∼⋮⋮﹂
今日の稼ぎの余りの少なさに、ひたすら頭を下げ続ける宏を、ど
うしたものかと思案する春菜。正直なところ、四クローネやそこら
の赤字ぐらいは、それほど致命的な問題だとは思えない。むしろ、
たかがチンピラごときに下手に反撃して、騒ぎが大きくなったり死
人が出たりする方がよっぽど拙い。
890
それに、金銭的な稼ぎは三クローネしかないにしても、素材に出
来るものをいろいろ回収してきていると言う事だから、実質的には
マイナスではない気がする。二人分の宿代と生活費程度ならば春菜
一人で十分稼げるし、どうしても大金が欲しいのであれば、宏がな
りふり構わずいろんなものを作れば済む話なのだ。
﹁とりあえず、今日は単なる慣らし運転なんだし、そもそも役割分
担で言うなら、必要なお金を直接稼ぐのは、多分私の役目だと思う
んだ﹂
﹁っちゅうても、流石にこれは、何ぼ何でもなあ⋮⋮﹂
﹁東君は、むしろ私が仕事をしやすいように、道具とか薬とかを作
ったり、そのための材料を集めたり、って言うのを頑張ってくれれ
ば、お金の事は気にしなくていいよ﹂
一人でやりくりするなら確かに、宏の今日の結果は致命傷につな
がりかねない。だが、宏と春菜は、基本的に財布を共有する。なら
ば、二人いるという強みを生かして、家計全体での収支を黒くすれ
ばいいのだ。
﹁あとね。最初からそんな気はしてたんだけど、冒険者としてステ
ップアップして、ってやり方だと、拠点持てるだけの収入は難しい
と思う。足元見られてる、ってほどじゃないけど、全体的に冒険者
の仕事って、拘束時間の割に金額が安いし﹂
﹁⋮⋮せやなあ﹂
﹁だから、依頼と歌以外にも、別にお金を稼ぐ手段を考えた方がい
891
いと思う。ただ、東君が薬とか装備作って売る、って言うのは無し。
交渉の札として使う分にはともかく、直接流通に乗せるのは拙いと
思うから﹂
﹁また、ハードル高いなあ⋮⋮﹂
春菜の言葉に、思わず唸ってしまう宏。正直、大金を稼ぐのなら、
七級のポーションあたりを百本単位で作ればすぐだ。だが、それを
するのは余りに目立つ上に、冒険者協会には感謝されても、一般の
薬師からは恨みを買いかねない。そういう意味で比較的マシそうな
のが武器を作って納品することだが、それとて、誰の手に渡るか分
からないのが怖い。冒険者協会といえども、責任を持てるのは直接
売りつける相手までである。
﹁まあ、とりあえず、もうしばらくは今日みたいに安全第一で雑用
中心に仕事して、ただでもしくは限界まで安値で材料として使える
ものを集めるのを優先しようよ﹂
﹁せやな。何するにしても、まだこっちの事をほとんど知らんし﹂
宏が納得したのを見て、内心でほっとする春菜。実際のところ、
今後の事を考えるならば、この国での生活は宏に頼る事が多くなる
はずだ。たかが十クローネ未満の赤字ごときでぎくしゃくするのは
余りに嬉しくない。
﹁そんで、藤堂さんの稼ぎはどんなもんやったん?﹂
﹁私? 歌のおひねりも合わせて五十ぐらい。歌ったのは三曲かな
?﹂
892
﹁うわあ⋮⋮﹂
確かに、それだけの収入があるのであれば、宏が少々赤字を出し
たところで痛くもかゆくもないだろう。結局その日、宏はずっとへ
こみっぱなしであった。
2.箸使い
奴隷商人から達也達を救出したその日の夜。真琴が自分の部屋に
連れ帰ったレイナと、寝床が準備できていないため宿に泊まった達
也と澪を除く四人は、例の狭い部屋でテーブルを囲み、宏の宣言通
りおでんをつついていた。
﹁昨日から気になっていたのですが⋮⋮﹂
串に刺さった大根やこんにゃく、竹輪をかじってダシの味を堪能
していたエアリスが、宏達の手元を見て口を開く。
﹁何?﹂
﹁お二人の国では、食事のときはその二本の棒を使うのが普通なの
でしょうか?﹂
﹁ああ、お箸の事?﹂
893
﹁大概のモンは、これで食べるなあ﹂
そう言いながら、これでもかと言うぐらい味のしみた大根を割り、
器用につまんで見せる宏。地味にものすごく綺麗な箸の使い方をし
ている。
﹁汁物は、お椀に直接口をつける事が多いかな?﹂
宏の言葉に捕捉しつつ、これまた綺麗な箸使いで厚揚げを一口サ
イズに切り分け、つまんで口に運ぶ春菜。
﹁器用なもんじゃな﹂
﹁うちの国の場合、上手い下手はあっても、おでんぐらいは普通に
箸でつまんで食べるで﹂
﹁煮豆とかあたりになると、かなり微妙な人も増えてくるけどね﹂
ひょいひょいと器用につまんでは、がっついて見えない程度のペ
ースで落ち着いて食事を続ける二人。その魔法のような箸捌きを見
ていると、串に刺してもらったおでんをかじっている自分達が、物
凄く不格好な食べ方をしているのでは? などと思ってしまう。
実際にはスジ肉などは二人とも串で持って食べているし、串カツ
のように箸を使わない物も多いのだが、二人の、特に春菜の上品で
綺麗な所作での食事の仕方を見ていると、どうにも自分達は不細工
な食べ方をしているのではないか、などと思ってしまうエアリスと
ドーガ。
894
﹁⋮⋮もしかして、箸の使い方を覚えたい?﹂
﹁よろしければ、是非!﹂
﹁わしにも、教えてもらえんかのう?﹂
エアリスとドーガの視線の意味を察し、確認を取った春菜の言葉
に食いついてくる二人。その様子を苦笑しながら、大根と竹輪を自
分の皿に追加する宏。昆布ダシは好きでも昆布の煮しめはそれほど
好きではないため、最初に割り振られた分以外はスルーしている。
﹁だったら、明日の午前中に、リーナさんも含めてまとめて教えて
あげる﹂
﹁つまり、それまでに箸を作っとけ、っちゅう事やな?﹂
﹁頼んでいい?﹂
﹁香月さんとか溝口さんも一緒に行動するんやったら、どっちにし
ても新しいマイ箸を作らんとあかんから、二膳三膳増えたところで
変わらんで﹂
﹁そっか。じゃあ、お願い﹂
﹁了解や﹂
そう言って、スジ肉と厚揚げの最後の一つに手を伸ばしたところ
で、エアリスがわずかに反応する。それを見て何かを察した宏が、
標的をウィンナーとこんにゃくに変える。その宏の態度に思わず恐
縮してしまうエアリスのために、厚揚げを串に刺してやる春菜。
895
﹁も、申し訳ありません⋮⋮﹂
﹁子供はこれぐらいのわがままは言わないと、ね﹂
そう言って穏やかに微笑む春菜を見て、こんな女性になれたら兄
や姉にかかる負担ももっと減るのだろうか、などと考えてしまうエ
アリス。後半年もしたら自分も姉になるのだから、もっとしっかり
しなくてはならない。そう心の中で自身に言い聞かせる。
もっとも、この時の彼女の決意とは裏腹に、これから先日本人達
とエアリス自身の食い意地によって、むしろどんどんと子供っぽく
なっていってしまう事を彼女は知らない。
﹁それで、これですか⋮⋮﹂
﹁まあ、いいんじゃない? リーナはともかく、エルとおじさんは
基本あいつらと一緒に寝泊まりするんだし﹂
﹁それ以前に、俺達と同じ飯を食うんだったら、箸を使えるに越し
た事はないからなあ﹂
正体不明の二本の棒を渡され、目の前にたくさん盛られたファー
レーン特産のリング豆を見てため息をつくレイナ。別にこれからや
896
る事を馬鹿にしているとかではなく、自分にこんな細かい作業がで
きるとは思えないと言う種類のため息である。
そんなレイナにいい加減な事を言ってのける真琴と達也。懸案事
項であった宏に対する態度に関しては、こちらについた時点ですで
に本人が不在だったため、とりあえず先延ばしすることにしたのだ。
澪に至っては、元々積極的に発言する性格でもないため、完全に沈
黙を守っている。
一昨日あったらしい出来事は聞いてはいるが、被害者サイドが蒸
し返す気が無い以上は、特に口を挟む気はないらしい。そもそもそ
の場にいなかった彼らの場合、宏がどれほど猛烈な反応を示したの
かを知らないのだから、問題のややこしさに対して実感がわく訳が
無い。
なお、当の宏はメリザと昨日の事で話し合いをするために出てお
り、この場には不在である。
﹁とりあえず、どういう風に持つかを見せるから、まずは動かし方
の練習から、かな?﹂
そう言って、ゆっくり箸の持ち方を繰り返しやってみせる春菜。
それを真似て箸を持ってみる三人。それぞれの持ち方を軽く修正し
た後、動かし方を説明しながらゆっくり動かして見せる。
﹁簡単なような、難しいような、何とも言えん感覚じゃの﹂
﹁ペンの持ち方と動かし方に似ていますね﹂
﹁近いと言えば近いかな?﹂
897
そんな会話をしながらも、しばらく何もないところで箸を開閉さ
せる四人。それなりに動かし方に慣れてきたと判断したところで、
目の前で山盛りの豆をひょいひょいとつまんで皿に移して見せる春
菜。
﹁練習の基本はこれ。ただひたすら豆をつまんで移す。手が疲れな
い範囲でやってみて﹂
あまりに春菜が簡単にやってみせるため、それでいいの? と言
う顔をしてしまう三人。だが⋮⋮。
﹁くっ! 逃げられたか!﹂
﹁もうちょっと、もうちょっと⋮⋮。あっ!?﹂
﹁ぬう、やってみると難しいものじゃのう⋮⋮﹂
つまもうとしては逃げられ、持ち上げては滑り落ち、なかなか最
初の一つが移せない。
﹁そうそう、その調子⋮⋮、ああ!﹂
﹁別に襲われる訳じゃないんだから、落ち着いてやればいいぞ﹂
﹁おじさん、力入りすぎ﹂
外野の日本人が、好き放題言いながら応援する。その様子を苦笑
しながら見守り、時折三人にアドバイスをする春菜。そんなこんな
を一分二分続けたあたりで⋮⋮。
898
﹁あっ!﹂
﹁おっ!﹂
とうとう、エアリスが最初の一つを移すことに成功する。それも、
すくい上げるようなつかみ方ではなく、少々不格好ながらもしっか
り箸の先でつまみあげて、だ。
﹁出来ました!﹂
﹁凄い凄い!﹂
心の底から嬉しそうに言うエアリスに、惜しみない称賛を贈る一
同。その言葉に気を良くしてか、次の豆を機嫌よくつまむエアリス。
どうやら二つ目で完全にコツをつかんだらしく、移し替えるスピー
ドがどんどん速くなり、それに比例して箸の使い方も綺麗になって
いく。
﹁子供ってのは、物覚えが早いもんだなあ⋮⋮﹂
エアリスの上達の速さに、しみじみとした口調で感嘆の声を上げ
る達也。その内容のおっさんくささに苦笑するしかない真琴と澪。
﹁それだけ使えれば、基本は問題ないかな﹂
﹁大丈夫だと思う﹂
春菜の言葉に澪が賛成する。豆をつまむのは、あくまでも箸の使
い方の初歩。応用と言うほど大げさなものではないにしても、単に
899
豆がつまめればいい、というものではない。
﹁じゃあ、ちょうどいいからお昼の魚で、次の使い方を説明するね﹂
﹁魚って、どんなのだ?﹂
﹁心配しなくても、普通の魚。今朝東君が秋刀魚みたいな魚を仕入
れて来てたから、それを焼いて大根おろしとポン酢で食べようかな、
って﹂
﹁⋮⋮米が欲しくなるんだが、あるのか?﹂
﹁残念ながら、パン﹂
春菜の言葉に、思わずがっくり来る達也。流石に昨日の今日なの
で米欠乏症になっている訳ではないが、流石に焼き魚をおろしポン
酢で食べるとなると、相棒は米とみそ汁を希望したくなる。
﹁因みに、みそ汁は出来るよ?﹂
﹁それって、かえって米の不在がきついと思うんだけど⋮⋮﹂
春菜のとぼけた言葉に、思わず力のない声で突っ込みを入れてし
まう真琴。こちらに飛ばされてから三カ月、久しぶりの和食に米が
無いのは悲しい。それも、焼き魚におろしポン酢と言う米とビール
が相棒と言いたくなるようなメニューなのが更に悲しい。
﹁押し麦の麦飯にする?﹂
﹁⋮⋮保留で﹂
900
食べた事のない麦飯では、どうにも判断ができない。結局、昼は
焼き魚に大根の葉っぱの炒め物をメインに、オニオンコンソメスー
プとコッペパンと言う何とも言い難いメニューになるのであった。
3.歌姫と基礎化粧品
﹁ハルナちゃんの肌、びっくりするぐらい綺麗なんだけど、一体ど
んな手入れをしているのかしら?﹂
風呂上りに春菜の肌をまじまじと観察し、心底うらやましそうに
ため息をつくミューゼル。肌年齢と言うやつは女性にとって、永遠
の課題の一つだ。それがたとえミューゼルのように、今年の収穫祭
の時に結婚する事が決まっている女でも同じである。それを気にし
なくなるのは、子育てや世間に振り回され、女と言う性に疲れ果て
てからであり、ミューゼルにとってはまだまだ先の話だ。
工房の風呂が改装中のため、春菜達は近場の公衆浴場に来ていた。
真琴はまだ冒険者として仕事中で、澪は工房内のこまごまとした作
業を続けていたため、後から別々に入りに来る事になっている。ミ
ューゼルは今日は早番だったので、まだ日が落ち切っていないこの
時間にここにいる。
実のところ、ミューゼルの住んでいる部屋は浴室付きのちょっと
901
お高い1LDKなのだが、今日の買取査定は非常に汚れる仕事で、
正直汗と汚れを落として着替えてからでないと、部屋に上がるのは
嫌だったのだ。彼女に限らず冒険者協会の職員は汚れ仕事になる事
が多いため、私物入れのロッカーには常に何着かの着替えとお風呂
セットが収められている。
﹁リーナちゃんやエルちゃんも、そう思うでしょ?﹂
﹁⋮⋮私には、一生縁のない話だ﹂
﹁リーナちゃん、諦めたらそこで終わりよ!﹂
どうにもどんよりした表情で、世界の終わりと言う感じで悔し紛
れの一言を吐き捨てるレイナ。色々あって彼女には頭が上がらない
ため、どれほど羨ましく思っても、下手に悪態をついたりすること
自体はばかられる。それゆえ、今言える限界のコメントをするしか
ない。そんなレイナを本気で励ますミューゼル。
﹁⋮⋮私も、大人になったらあんな風になれるのでしょうか?﹂
丁寧に水気をぬぐい、生活魔法でしっかりと髪を乾かしている春
菜を見て、憧れと悩みの入り混じった声でつぶやくエアリス。そん
な彼女を見て、思わず親指を立てて頷き、絶対大丈夫と言いたくな
って自重するミューゼル。正直言って、余程の事が無い限りエアリ
スが美人に育たないと言う事はないだろう。性格が違いすぎるので、
春菜のようにと言うのは難しそうだが。
﹁それでハルナちゃん、どんな肌の手入れしてるの?﹂
﹁手入れって言うか、普通に化粧水と乳液でケアしてるだけだよ?﹂
902
﹁嘘!? それだけでこんなに、なんて⋮⋮﹂
春菜の答えに衝撃を受け、これが若さ? などと虚ろな目でつぶ
やくミューゼル。だが、ミューゼルも若さと言う点ではそれほど負
けている訳ではない。確かにウルスでの結婚適齢期をはみだしかか
ってはいるが、それでもまだ日本では大学も出ていない年なのだ。
﹁あの、ハルナ様⋮⋮﹂
﹁何?﹂
﹁ハルナ様の化粧水と乳液は、どのようなものをお使いなのでしょ
う?﹂
﹁ん? ああ。特注品、って言う事になるのかな?﹂
春菜の言葉に、思わず顔を上げて詰め寄ろうとするミューゼル。
そのミューゼルを間一髪で制したレイナが、恐る恐ると言った感じ
で口を開く。
﹁もしかしなくても、特注と言うのは⋮⋮﹂
﹁ん。宏君だよ﹂
あっさり言いきった春菜に、それを言ってしまっていいのか? と言う表情を浮かべるレイナ。それを見た春菜が苦笑し、一つ頷く。
﹁そもそも、ミューゼルさんは宏君が薬とか作れること知ってるし﹂
903
春菜の回答に、何とも言えない表情になってしまうレイナ。いく
らなんでも、そんな重要な情報を握られるのは、不用心に過ぎない
かと思ってしまう。
﹁冒険者協会は、そういう情報は漏らしません﹂
レイナの疑惑に満ちた視線に対し、営業モードになって言い切る
ミューゼル。実際、一般に出回っている宏の情報など、ちょっとし
た薬や道具なら作れる冒険者、と言うレベルである。協会やレイナ
達が握っているような、六級以上を製造可能だと言う情報は、今の
ところどこにも漏れていない。
﹁で、頼んだら私の分も作ってもらえるかな!?﹂
﹁依頼として処理してくれれば大丈夫だとは思うけど⋮⋮﹂
﹁けど?﹂
﹁あれって、結構時間かかるんだ﹂
﹁⋮⋮そうなの?﹂
﹁うん。私の時も、これで完成、ってとこまで十日ぐらいかかった
し﹂
意外と長くかかる事に驚いていると、春菜がその理由を解説して
くれる。
﹁とことんまで体質とかに合わせるから、まずは有効成分のどれが
肌にあって、どれが肌にダメージを出すかを調べるところからスタ
904
ートしてね。各成分がどのぐらいの分量まで大丈夫か、どういう比
率だとダメージが出るか、って言うのを大雑把に見切るのに大体二
時間ぐらいかけるの﹂
﹁それだけだったら、十日もかからないんじゃないの?﹂
﹁つけてどうなのかって言うのを、三日ぐらい使ってみて確認して、
問題ありだったら成分調整して、で、私の場合三回やって確定。た
だ、探り当てるまで時間がかかる事もあるみたいだから、上手くい
くまで一カ月ぐらいかかる可能性もあるんだよね﹂
﹁それは、長いなあ⋮⋮﹂
﹁長期間の影響って言うのは、やっぱり使ってみないと分からない
ところも多いから﹂
春菜の言葉に納得するとともに、なんとなくがっくりした様子を
見せるミューゼル。
﹁そんなに手間がかかるんだったら、今バタバタしてるみたいだし
無理よね?﹂
﹁ちょっと厳しいと思う。私たちみたいに同居してればともかく、
ね﹂
流石にそこで、完成するまで同居させてと言いだすほど、非常識
な性格はしていないミューゼル。とりあえず宏達の事情が落ち着く
までは待つ事にする。が、そう言う自重を必要としない立場の女が、
この場に二人ほど。
905
﹁⋮⋮ハルナ様⋮⋮﹂
﹁エルちゃん達の分は、頼めばやってくれるんじゃないかな?﹂
春菜の安請け合いに、本当に? と言う表情を向けるエアリス。
﹁とりあえず、早く帰ってお願いしてみよっか﹂
﹁いいなあ∼、同居いいなあ∼﹂
﹁ミューゼルさんは、あきらめてください﹂
﹁ちぇっ﹂
などと軽口をたたきながら去っていくミューゼル。
﹁心配しなくても、リーナさんの分も用意してもらうから﹂
﹁いや、私はそれが許される立場では⋮⋮﹂
﹁いいからいいから﹂
どうにも薬が効きすぎた感じで、してもらえることすべてを遠慮
しようとするレイナ。余り遠慮しすぎるのも失礼になる、と言う事
は当人も分かってはいるのだが、あれだけの事をしておいて厚かま
しいのではないか、と言う考えがどうしても先立ってしまうのだ。
﹁さっさと帰って、まずは肌荒れチェックから﹂
そう言って、なおも腰が引けた感じで遠慮しようとするレイナを
906
引きずって、どことなく上機嫌で帰路につく春菜。正直、レイナが
やらかした事に対してはまだしっくりこない感情はあるが、それと
おしゃれ周りは別問題だ。
﹁本当にいいのだろうか⋮⋮﹂
どうにもこうにも申し訳なさが先立つレイナ。とりあえず、明日
の午前中はトイレ掃除と汚物処理を徹底的にやろうと心に決めるの
であった。
907
こぼれ話その1︵後書き︶
後付けも含めた空白部分の話。
まだまだ空白部分があるので、
何か思いついたり書き足す必要が出たりしたら
このカテゴリーの話はあとから増えるかもしれません。
908
こぼれ話その2
1.エアリス、料理に挑戦する。
﹁あの、ハルナ様!﹂
﹁どうしたの?﹂
レイオットが顔を出した日の晩。そろそろ夕食の準備に入ろうか、
という時間帯。なにやら思い詰めた顔をしたエアリスが、春菜に声
をかけてきた。
﹁こんなお願いは厚かましいとは思うのですが⋮⋮﹂
﹁厚かましいかどうかは、聞いてみないと分からないかな﹂
エアリスの態度を不思議に思いつつも、とりあえず話を聞く事に
する。今までの傾向からすると、多分大したことは言ってこないと
は思うのだが、どうにもエアリスは些細な事でもかなり遠慮がちに
言ってくる。今回も、何やら非常に重大な決心が必要な事らしく、
なかなか口を開かない。
﹁あの、私に、お料理を教えてください!﹂
﹁うん、いいよ﹂
ありったけの勇気を振り絞って言った言葉を、あっさり了承する
春菜。余りにあっさりと了解を得られて、思わずぽかんとするエア
909
リス。
﹁とりあえず、まずは包丁の使い方から練習しようか。お手伝いお
願いね﹂
﹁ほ、本当にいいのですか?﹂
﹁うん。別に大したことじゃないし﹂
実際、料理を教えること自体は大したことではない。教わる側が
よほどでなければ、卵焼きを焼くぐらいはすぐできるようになるの
が普通である。
とはいえ、包丁の使い方を練習しないと、ほとんどの料理は作れ
ない。食材を切らずに作れる料理など、卵焼きや目玉焼きなどの卵
だけの料理か、パウンドケーキなどの乳製品と卵、小麦粉しか使わ
ない料理、後は乾めんを利用した具の無いパスタぐらいなものであ
る。
なので春菜は、とりあえずまずは基礎の基礎である食材の皮むき
を仕込みつつ、とりあえず火加減とフライパンの扱い方の基本であ
る卵焼きを作らせるところからスタートする予定だ。
﹁今日のメニューはジャガイモと大根、人参の煮物におろしハンバ
ーグの予定だけど、もう一品増やしても大丈夫だから、それをちょ
っと作ってみようか﹂
﹁はい!﹂
嬉しそうに上気した顔で頷き、手を洗って厨房に入る。エアリス
910
の奮闘が始まった。
﹁そうそう、慎重にね﹂
﹁はい﹂
春菜の手つきを見ながら、慎重に人参の皮をむいていくエアリス。
春菜のように薄くは無理だが、皮より身の方がたくさん取れている、
と言うほどでもない。不慣れゆえに慎重な割に危なっかしい手つき
だが、基本的にそれほど不器用な訳ではない、と言うよりむしろ一
般人と比べると器用でもの覚えがいい方なので、それほど何度も怪
我をせずに出来るようになるだろう。ちなみにピーラーは誰も使わ
ないから、ということで作っていない。
人参の次は、ややハードルの高いジャガイモの皮むきだ。順番と
してはどうかと思わなくもないが、いきなりジャガイモよりは少し
でもハードルの低い人参で練習してからの方がいいとの判断で、こ
の手順になったのである。こっちはさすがに結構手こずるだろう、
などと思いながら見ていると、案の定手元を狂わせて指先を浅く切
る。
﹁痛っ!﹂
﹁マイナーヒール﹂
911
エアリスが指を切った瞬間、一番弱い回復魔法を最低出力で発動
させて傷をふさぐ春菜。こう言うのは自然治癒に任せた方がいいの
だが、どうにもエアリスの態度から内緒にしておきたいのではない
かと察し、今回だけは特別に回復魔法で傷をふさぐことにしたので
ある。
決して、春菜が過保護ゆえにか弱いエアリスが指を切って痛がる
のを直視していられなかった訳ではない。
﹁あ、ありがとうございます﹂
﹁内緒にしときたいんだよね?﹂
﹁は、はい﹂
﹁だから、今日は特別。次に手伝ってもらう時は、魔法で治療はし
ないからね﹂
﹁当然です。このぐらいの怪我で魔法を使うのは、さすがに⋮⋮﹂
﹁だよね﹂
苦笑しながらのエアリスの言葉に、同じく苦笑しながら頷く春菜。
とは言え、この時の春菜はまだ確信を持ってはいないが、本来のエ
アリスの立場なら、こういう些細な怪我でも回復魔法が即座に飛ん
でくるのがむしろ当然の立場だったりする。とりあえずそれ以降は
大したトラブルもなく、煮物に使う材料の皮をむき適度な大きさに
切るという作業が終わる。
912
因みに、発育が良く年からすると背が高めのエアリスは、特に踏
み台などを使わずとも、さほど苦労せずに調理器具が使える。もっ
とも、澪と春菜がどちらもある程度使いやすいように設計してある
のだから、澪より体格がいいエアリスにとって使いにくいキッチン
である訳が無いのだが。
乾いた砂が水を吸収するように、と言う比喩そのままに高い学習
能力を発揮したエアリスは、終わる頃には随分と包丁の扱いも様に
なりつつあった。もっとも、様になりつつあるだけで、やはり傍か
ら見ていればまだまだ危なっかしいのは変わらないが。
﹁さて、大根も人参もジャガイモも切った事だし、こっちを火にか
けてる間に挽き肉をこねようか。の前に玉ねぎのみじん切りかな﹂
煮物の味付けをざっと済ませ、じっくりことこと煮込みながら牛
型モンスターとイノシシ型モンスターの合挽き肉を準備する。実の
ところ、宏にひき肉を使った料理を出すと一瞬微妙に身構えるのだ
が、その話をしたら癖みたいなものだと言われてしまったので、頻
度を下げる以上の気は使わない事にしたのだ。
それ以外にもパン粉などの材料を用意し、玉ねぎの皮をはいでヘ
タを取り、みじん切りを始める。その手際に感心しながら、見よう
見まねで玉ねぎの皮をはぎ、二つに切って割っていくと⋮⋮。
﹁は、ハルナ様⋮⋮﹂
﹁あ∼、玉ねぎは目にしみるからねえ﹂
料理の時のお約束、とも言える現象に遭遇する。春菜などはもう
慣れてしみるような切り方をしないので特に問題はないのだが、今
913
日が初めての料理であるエアリスには少々ハードルが高いらしい。
﹁みじん切りはエルちゃんにはまだちょっと難しいから、半分に切
ってそのまま置いといてくれればいいよ﹂
﹁はい、お言葉に甘えます﹂
そんな会話の間にも、玉ねぎの半身は見事にみじん切りに化ける。
残りの半分も同じように手際よくみじん切りにし、ボウル二つに挽
き肉をはじめとした他の材料とともに投入する。なお、煮物を火に
かけてからここまで、三分もかかっていない。
﹁じゃあ、こねようか﹂
﹁はい!﹂
春菜の動作をまねて、ボウルの中身を延々こね続けるエアリス。
無心にひたすらこね続ける彼女に妙に癒されながらも、タネの状態
を確認してストップをかける。
﹁次は成型。こんな感じに整えて﹂
﹁はい!﹂
春菜が熟練の技であっさり形を作る。それをサンプルに慎重に丁
寧に同じ形を作るエアリス。春菜が三つ作る間に一つできるかどう
かのペースだが、一生懸命やっている姿に文句をつける気は起こら
ない。
﹁全部できたら、次は中の空気抜き。こんな風に左右の手でペッた
914
んペッたんってするの﹂
﹁分かりました!﹂
春菜の指示に従い、おっかなびっくりという感じで、ハンバーグ
を左右の手の間で反復横とびさせる。これをやっておかないと膨張
して形が崩れる、と言われてはしっかりやるしかない。かといって、
あまり時間をかけてやりすぎるのもどうかと言うところだ。
﹁じゃあ、焼くのは私がやるから、エルちゃんはつけあわせのサラ
ダ用意して。トマトとレタスね﹂
﹁はい﹂
手を洗って言われた通りに食糧庫からトマトとレタスを取り出し、
記憶にある姿になるように準備していく。レタスは包丁を使わない、
と言う言葉に従い、確かこんな感じとレタスをちぎって軽く水洗い
する。トマトも全て水洗いを済ませ、慎重にヘタを落として、どん
な形に切られていたかを思い出して六等分。サラダボウルを取り出
して少しでも綺麗に見えるように盛り付ける。
﹁ハルナ様﹂
﹁ん、いい感じ。こっちももう少しで焼けるから、これ終わったら
保存庫に入れて、卵焼きの練習しようか﹂
﹁はい!﹂
思ったよりは随分と戦力になったエアリスに、にっこりほほ笑み
ながらこの日最後の料理を指示する。なお、大根おろしはエアリス
915
が卵焼きを焼いている最中に手早くおろしてしまう予定だ。
﹁まずは卵取り出して、ボウルに割る﹂
﹁⋮⋮こうですか?﹂
﹁そうそう。一人一個ね﹂
指示に従って卵を割り、箸で器用に混ざった殻を取り除いた後、
指示に従って調味料を入れて泡だて器でかき混ぜる。そのまま箸で
混ぜてもいいのだが、オムレツと作業工程を統一するために、あえ
て泡だて器での作業を教える春菜。十分混ぜ終わったところで宏特
製の卵焼き用フライパンを火にかけ、さっと油をひいて熱する。十
分にフライパンが温まったところで適量の溶き卵を流し込み、卵焼
きを焼く手順を実演して見せる春菜。
﹁こんな感じで、火が通って半熟っぽくなったぐらいで巻いていく
の。やってみて﹂
﹁はい!﹂
春菜の見本に従い、小ぶりなフライパン全体に溶き卵を行きわた
らせる。表面が固まってきて、いい感じに半熟になったところで、
慎重に生地を巻いていく。最初の分が終わったところで溶き卵を足
し、ちょうどいい大きさになるまで繰り返す。途中、微妙に形が崩
れた回もあったが、少々不格好と言うレベルでどうにか最初の一個
が完成する。
﹁で、出来ました⋮⋮﹂
916
﹁初めてでこれなら、上出来だよ﹂
﹁本当ですか?﹂
﹁ん。私も初めて料理した時は、ものすごく不格好なのを作ってた
し﹂
そう言ってにっこり笑いながら、背中をポンとたたいて続きを促
す。最初の三つほどはやや焦がしたり形を崩したりと不格好なもの
を量産していたが、それでも人数分作り終わる頃にはそれなりに見
栄えのいい卵焼きを焼けるようになるエアリス。他の作業をやりな
がら、その様子を手も口も出さずに見守っていた春菜は、やけどな
どせず無事に終わった事に、人知れず小さく安堵のため息を漏らす。
﹁終わりました!﹂
﹁よくできました、ご苦労様﹂
完成品を見て、そんな感じに褒める春菜。実際、今まで一切料理
関係を触った事が無い十歳児が作ったものとしては、十分すぎるほ
どの出来だと言える。
﹁あ、そうそう。卵焼きの味付けなんだけど、私が教えた味にこだ
わらなくてもいいからね﹂
﹁えっ?﹂
﹁今回は教えやすかったから私の家で食べてる味付けにしたけど、
極端な味付けをしなければどんな味でも間違いじゃないから。まあ、
それは料理全般に言える事なんだけどね﹂
917
﹁そうなんですか?﹂
﹁うん。まあ、ちょっと複雑な料理は大体美味しく感じる味付けの
範囲って決まってくるんだけど、卵焼きはシンプルだから味付けの
幅も広いんだ。その分、人によってはものすごくこだわるから、喧
嘩になる事もあるし。だから場合によってはほとんど味付けをせず
に済ませて、醤油でもソースでもお好きにどうぞ、ってやることも
あるよ﹂
エアリスにすらできるようなシンプルな料理に関する、実に奥が
深い話に目を丸くする。因みに、春菜が教えた卵焼きの味付けは、
いわゆる砂糖醤油をベースにした甘いタイプのものだ。卵焼きとみ
そ汁に関しては、世帯が百あれば百の味付けがあると言われるほど
家庭によって味付けが違うものだが、春菜の家では卵焼きと出汁巻
きは別のものとして扱われているからか、卵焼きの味付けはほんの
りと甘い。
これに関してはどれが正しいとかどれが王道だとか言えるもので
はないため、少なくとも春菜は醤油の味がメインの物や塩気がきい
ている卵焼きが出て来ても、それを否定する気は一切ない。だが、
人によっては甘い卵焼きは認めない、とか、醤油の味しかしない卵
焼きは違う、とか、やたらとこだわり、場合によっては喧嘩に発展
することもある難しいものである。
﹁まあ、結局のところは味見をしっかりやって、調味料をいきなり
たくさん入れずにちょっとずつ足していけば、大抵おかしな味には
ならないから。手順を守って味見をちゃんとして調整すれば、基本
的にちゃんとしたものが出来るよ﹂
918
﹁そうなんですか?﹂
﹁うん。だから、妙な創作料理はまず一般的な料理を全部レシピ見
なくても作れるようになって、調理方法ごとの特徴とか仕組みをき
っちり覚えてから、ね﹂
﹁はい!﹂
こうして、エアリスの初めての料理は、初めての割に十分に美味
しいとの評判のまま無事に終わり、王宮に戻った後もわがままを言
って神殿や工房の厨房に足を運んでは、料理人に指導を受けてめき
めきと実力をつけることになる。その結果、最終的には姫巫女と言
うやんごとない立場の姫君に圧倒的な料理の腕を見せつけられ、真
琴やレイナをはじめとした料理を触っていない女性陣が大いにへこ
んだのはここだけの話である。
2.レイナ、頑張る
アズマ工房の居候、レイナ・ノーストンの朝は早い。夏場でも日
が昇る前に起き出し、まずはトイレと風呂の掃除を行う。朝風呂を
浴びる住人も何人かいるので、掃除を終えた後に湯を張って沸かし
ておく。それが終わったところで日課となっている素振り千回を済
ませ、全員が起きたところでゴミや汚物を回収し、廃棄する。風呂
で汗を流すのはその後、朝風呂に入る人間が全員上がってからだ。
919
﹁おはようさん。今日も精が出るなあ﹂
﹁⋮⋮おはよう﹂
気さくに声をかけてくる宏に対し、気まずい思いを根性をフルに
動員して隠し、出来るだけ普通に挨拶を返す。自業自得としか言い
ようのない理由で気まずいからと言って、挨拶も返さないのは言語
道断に過ぎる。
﹁すぐ朝ごはんできるから、風呂入るんやったら早いとこな﹂
﹁分かった﹂
愛想良く愛想良く、などと暗示のように自分に言い聞かせるレイ
ナだが、そもそも生まれてこのかた、愛想だの愛嬌だのとはあまり
縁が無い人生を送ってきている。本人の思いや努力とは裏腹に、ど
うにも硬い表情でぶっきらぼうな言い方になってしまう。そんな内
心を知ってか知らずか、特にレイナの態度を気にするでもなく食堂
の方に向かう宏。
﹁⋮⋮またやってしまった⋮⋮﹂
﹁何を?﹂
﹁ヒロシ相手に、また感じの悪い対応をしてしまった⋮⋮﹂
朝からがっくりと落ち込んでいるレイナを見て、思わず苦笑する
真琴。感じが悪いも何も、そもそもレイナに愛想の良さを求めてい
る人間などどこにもいない。
920
﹁正直、あたしはあんたが愛想よく愛嬌をふりまいてる方が異常だ
と思うけど?﹂
﹁⋮⋮そこまで言うか?﹂
﹁だって、あんたドルおじさんだろうがユリウス隊長だろうが、一
貫して愛想なくむっつりした顔で対応してるじゃない﹂
﹁⋮⋮私は、そんなに態度が悪いか?﹂
﹁軍の内部で言うなら、別にそこまで問題になるほどじゃないとは
思うけどね﹂
真琴の言い分を素直に解釈するなら、日常生活と言う観点では言
語道断、と言う事になる。その事を即座に察し、更にへこむレイナ。
﹁ま、何にしても、誰もあんたに感じの良さとか求めてないから、
諦めて普通にしてなさい﹂
﹁そ、それでは反省が伝わらないではないか!﹂
﹁感じいい対応をすれば、反省が伝わるとは思えんがね﹂
レイナの叫びを聞きつけて、日課の朝の散歩を終えた達也が厳し
い指摘をぶつけてくる。突然現れた達也に、思わず身構えるレイナ。
宏ほど根っこの部分は深刻ではないどころか、彼と違い物理的な接
触があっても特に問題はない程度の軽いものではあるが、やはり問
題を起こす程度には彼女の男性不信も根深いのである。
921
﹁⋮⋮それでは、どうすればいいのだ?﹂
﹁どうするも何も、へこんで見せようが愛想良くしようが、それこ
そ真摯に誠実に相手のための努力をしたところで、それで反省して
ると相手が受け取るとは限らねえんだし、考えるだけ無駄だよ﹂
﹁そ、そんな⋮⋮﹂
﹁どう転んでも一緒なんだから、どうにもならねえ事で努力するの
はあきらめて、真摯に誠実に行動するしかねえよ。さしあたっては、
今やってるみたいに誰かがやらなきゃいけない、だが大概の人間は
嫌がる仕事を率先してやるぐらいしかないんじゃねえか?﹂
大学を出て結果がすべての社会人になってから五年、些細なミス
ですらリカバリー不能になりがちな営業に配置転換されて三年目の
達也が、社会の厳しい現実と言うやつを突きつける。やってしまっ
た事はどんな事も取りかえしなどつかないのだから、失われた信頼
は腐らずに地道に誠実に長い期間をかけて一から積み上げ直すしか
ないのだ。
﹁それで、償いになるのか?﹂
﹁根本的に、他に今お前さんに出来る事は無いだろう?﹂
ことごとく痛いところを突かれて、思わず押し黙ってしまうレイ
ナ。正直、全く反論の余地が無い。
なお、この場合問題は、役に立っていないぐらいならまだしも、
かえって迷惑になっていては元も子もない、という点だろう。宏も
春菜も、やってもらった事に対しては、よほどでなければ文句は言
922
わないタイプだ。なので、役に立っているのかそれとも迷惑なのか、
その判断がつきにくい。しかも、表面上はもはや全く気にしたそぶ
りを見せないのだから、レイナでは判断が難しいのも仕方が無いだ
ろう。
﹁ま、心配しなくても、お前さんは頑張ってるよ﹂
﹁そうそう。と言う訳で、あたし達がいない間の工房の守りと、こ
まごまとした力仕事をよろしくね﹂
そんな感じで、温泉旅行当日。役に立っている手ごたえを一度も
感じないうちに、流されるままに旅行に連れて来られるレイナ。正
直なところあまりに急に決まった上、準備らしい準備もまともにさ
せてもらえないまま目的地に連れて来られてしまったため、楽しみ
よりも戸惑いの方が大きい。もっとも、割合に関してはさまざまだ
が、他のメンバーもそれなりに戸惑いの感情は持っているようだが。
﹁⋮⋮のどかだな﹂
周囲の景色を見て、ぽつりとつぶやくレイナ。農村と宿場町のあ
いの子のような、なんとなくのんびりした風情の景色を見ていると、
どうにも今の自分は場違いなのではないか、と感じてしまう。今歩
いている小川沿いの道はアドネのメインストリートらしく、老若男
女さまざまな人間が歩いている。
923
ファーレーンは意外と交通が発達している事もあり、観光と言う
のは中世ヨーロッパほどは珍しくない。ファーレーン有数の温泉地
だという事もあって、この日のアドネも旅行客は中々の人数がいる
らしい。道に沿って並んでいる大小さまざまな店を冷やかす、他の
村や街から来た湯治客だと思われる人間もそれなりに多い。
﹁リーナさんは、こういう景色嫌い?﹂
﹁いや。ただ、いかにエル様の護衛とはいえ、こんな風にのんびり
羽を伸ばすことが許されるのか、と思って⋮⋮﹂
﹁四六時中肩肘張っててもしょうがないんだし、これも職務だって
ことにしときゃいいじゃないの﹂
真琴の言葉に曖昧な表情を見せ、目をきらきらと輝かせながらあ
たりを見渡すエアリスに視線を移す。ここのところずっと地味に気
を張っていたエアリス。彼女のこの表情を見る事が出来るだけでも、
まあいいかという気分にならなくもない。
﹁真琴さん! 澪さん! リーナ! 変なものがあります!﹂
土産物の類を扱っているらしい店の軒先を指さし、エアリスがは
しゃいだ声を上げる。そこに鎮座しているのは⋮⋮
﹁⋮⋮何これ?﹂
﹁⋮⋮魚?﹂
木彫りの、マッシブな腕がはえた魚であった。腕と足が生えたも
924
の、もしくは足だけが生えたものと言うのはよく見るのだが、腕だ
けと言うのは少々珍しい。
﹁嬢ちゃん達は知らないのか?﹂
﹁知らないっていうか、見た事もないけど?﹂
﹁そうか。こいつはそこの小川の上流の方で釣れる、ウデヤマメっ
て魚の置きモンだ。腕の部分の肉汁がいけるぞ﹂
﹁不気味だが、食べるのか⋮⋮?﹂
﹁おう!﹂
嘘か本当か分からない言葉を聞き、何とも言えない顔をしてしま
う一行。なお、翌日に全員でアドネグルメツアーをやった時にばっ
ちり存在を発見し、レイナが毒見役として犠牲になるのはここだけ
の話である。
﹁⋮⋮造形は覚えた。今度作る﹂
﹁作るの?﹂
﹁作る﹂
しげしげと穴があくほど見つめていた澪が、とんでもない事を言
い出す。その言葉にぎょっとし、思わず確認を重ねる真琴。
﹁作るのはいいが、作った後どうするのだ?﹂
925
﹁当然、プレゼントフォーユー﹂
﹁わ、私にか?﹂
﹁拒否権はない﹂
実に嬉しくないプレゼント宣言に、思わず目を白黒させるレイナ。
﹁大丈夫。ちょっとはかわいい造形にアレンジする﹂
﹁それはそれで不気味そうね⋮⋮﹂
マッシブな腕が生えた可愛らしい魚など、普通の魚に腕だけが生
えているより更に不気味そうで引く。
﹁とりあえず、次行ってみようか﹂
﹁はいっ!﹂
微妙なものが大量に売られている土産物屋を後にし、更にあれこ
れ冷やかして回る四人。リラックスし聞いているように見える三人
と違ってどうにも肩に力が入ったままのレイナに、ついにエアリス
からの注意が飛ぶ。
﹁リーナ﹂
﹁は、はい!﹂
﹁同行者に気を使わせる護衛は、護衛失格ですよ?﹂
926
﹁も、申し訳ありません⋮⋮﹂
エアリスにまで窘められ、肩を落とすレイナ。まだ十歳の主に厳
しい指摘をされ、どうにも居心地が悪い。
﹁あの事を気にするな、とは言いません。言いませんが、それでヒ
ロシ様やハルナ様に気を使わせるようでは本末転倒です﹂
﹁分かっています。分かってはいるのですが⋮⋮﹂
気を張っていないと、また失礼な事をやらかしかねない。今のレ
イナにとっては、男よりも自分の方が信用ならないのだ。
﹁そう言う真面目なところがあんたの長所だとは思うけど、物事に
は限度ってものがあってね﹂
﹁師匠も春姉も、もう何も気にしてない﹂
﹁反省するのはいいけど、卑屈になってるのは感心しないわよ﹂
真琴と澪にまで集中攻撃され、肩を落とすレイナ。その様子を表
現するなら、ナメクジに塩と言うところか。
﹁もっと胸を張る﹂
﹁バカンスぐらいはちゃんと楽しむ﹂
俯いてしまったレイナの背中を叩き、必要だと考えている要求を
突きつける二人。その言葉を受けて、ようやく下向きの視線を持ち
上げるレイナ。
927
﹁ちょっとはマシな顔になったし、折角だから軽くお茶ぐらいはし
ていこうか﹂
﹁もちろん、リーナ姉のおごり﹂
﹁⋮⋮分かった。何処がいい?﹂
親友と妹的存在の気遣いに感謝し、快くお茶をおごる事にするレ
イナ。空き時間に偽名で冒険者活動をしているので、それぐらいの
手持ちは十分に持っている。
﹁あそこなんか、素敵だと思います﹂
﹁ん、いい感じ﹂
話がまとまったところでエアリスが指定した茶店は、なかなかい
い雰囲気だった。出されたお茶を飲み、一息ついたところで宏から
緊急招集がかかる。
﹁何かしら?﹂
﹁さあ?﹂
﹁ヒロシが何かを見つけた、と言う事は、半々の確率で本人以外は
凄さが理解できないか、本当にとんでもなく凄いかなのだが⋮⋮﹂
﹁達也が連絡入れるのを止めなかった、と言う事は、とんでもなく
凄い方かもしれないわね﹂
928
そう言って、半分ほどに減っていたお茶を飲み干す真琴。エアリ
スと半分こにした茶菓子を全て平らげる澪。
﹁願わくは、召集に足るだけのものを持って帰ってきて欲しいもの
ね﹂
﹁ヒロシ様とタツヤ様ですから、大丈夫だと思います﹂
﹁だといいけど﹂
全幅の信頼を置くエアリスの言葉に苦笑すると、さっさと立ち上
がって店を出ていく。ファーレーンの飲食店は余程高級な店でもな
ければ、大抵注文したものと引き換えに支払いを済ませる形式だ。
この茶店も例に漏れず、お茶とサービスの茶菓子が運ばれてきた段
階で、すでに支払いは済んでいる。
﹁急ぐか?﹂
﹁慌てて帰る必要はないんじゃない? 何処まで行ったかは知らな
いけど、多分あいつらも出先だろうし﹂
﹁ですが、あまりのんびり帰るのもよろしくなさそうです﹂
﹁普通の速さで、より道なしで戻ればOK﹂
澪の言葉に苦笑して頷くと、本当にごく普通の速さで宿に向かう
真琴。この後数か月ぶりのカレーライスに舌鼓を打ち、ポメと言う
怪しげな野菜にカルチャーショックを受け、子ポメの山ブドウ漬け
なる面妖なビジュアルのものを食べる羽目になるのだが、この時の
彼女達は知る由もない。
929
なお、子ポメの山ブドウ漬けが口の中で破裂することになったレ
イナは、その後の温泉で春菜から
﹁これまでの事は、私に対してはさっきので手打ちで﹂
という宣言を受け、翌日に周囲の提案を受けて宏が用意した罰ゲ
ームをこなす事で、ようやく和解が成立することになったのだが、
罰ゲームの内容は彼女の名誉のために伏せておく。
930
こぼれ話その2︵後書き︶
調子悪いときに涌いた頭で思いついた話。
料理のシーンが冗長な気がするけど気にしない方針で。
931
後日談その1
﹁テレス・ファームです。今日からよろしくお願いします﹂
﹁ノーラ・モーラなのです。よろしくなのです﹂
国王陛下が愚痴りに来た次の日。メリザに連れられ、アズマ工房
に二人の女性が訪れた。テレスと名乗った方がエルフ、ノーラと名
乗った方がウサギ型の獣人︵と言っても、ほぼ人間と変わらない外
見ではあるが︶である。見目麗しい種族の女性である二人が、がっ
しりした体格の壮年男であるメリザと並ぶと、なかなかコメントし
辛いビジュアルになる。
テレスは金の髪に翠の瞳の典型的なエルフ美人で、背の高さは春
菜はおろか宏よりも高い。横方向も実に華奢で、体型も古き良きエ
ルフのイメージ通りと言う感じである。胸のふくらみは現時点での
澪と互角ぐらい、真琴やレイナのように洗濯板だなんだと言われる
ほどではないが、背の高さを考えると貧乳と表現しても問題はない
レベルだ。
ノーラは桃色の髪にこぼれおちそうなほど大きな赤い瞳、そして
最大の特徴が頭に生えているウサギの耳と言う、いわゆる萌え系美
少女タイプの獣人である。ウサギのイメージ通り小柄だが、凹凸は
貧相だとか貧乳だとか言われない程度のメリハリを持っている。獣
人だが人間との違いは耳としっぽぐらいなもので、手の構造も全く
人間と同じである。肉球と爪が邪魔で作業できない、などと言うあ
りがちな問題が起こらなかった事は、宏としては喜んでいいのやら
悪いのやら複雑な心境だ。
932
くに
﹁先に聞いとくけど、自分ら故郷に帰るとかはないん?﹂
日本人サイドの自己紹介が終わったところで、盗賊に捕まって奴
隷にされかかっていた、と言う出自を考え、思いっきり距離を取り
ながら確認のために質問しておく宏。メリザがそこら辺を聞いてい
ない訳はないが、一応念のためである。
﹁帰ってもいいんですが、一応目的があって出てきたのに今帰ると、
何しに出てきたのかが分からないというか⋮⋮﹂
﹁いや、別にええやん﹂
﹁正直にいいますと、そろそろ都会の暮らしに愛着がわいてきた感
じでして⋮⋮﹂
テレスのどこか照れたような言葉に、要は田舎者が都会に染まっ
た感じなのか、と当りをつける宏。エルフ族と言うのは閉鎖的、と
いう設定は多くのファンタジーに存在するが、見方によってはそれ
は、いわゆる田舎者と言う側面も見えるのだ。
﹁街に出てきてるエルフは、あんまり故郷に帰りたがらないんだよ
な﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁ああ。聞いた感じでは、別段外に出た連中が戻っちゃいけない、
みたいな決まりはないらしいんだが⋮⋮﹂
メリザの補足説明を聞いて、ますます﹁俺ぁこんな村いやだ!﹂
933
と言って森を後にするイメージが強くなる宏。何というか、ファン
タジーと言うものに喧嘩を売っている想像である。
﹁⋮⋮まあ、ええわ。そんで、モーラさんの方は?﹂
﹁ノーラでいいのです。さんもいらないのです。モーラと言うのは
種族名みたいなものなのです﹂
﹁⋮⋮ノーラの方は?﹂
﹁モーラ族は、独り立ちすると実家と言うものが無くなるのです。
ノーラの生まれは人間の街ではないので、多分故郷はどこかに移っ
て、既に存在しないのです﹂
ノーラの回答を聞き、妙なところで野生動物みたいだな、などと
考える日本人達。因みに、モーラ族はよくありがちな女しか生まれ
ない種族、と言う訳ではない。なので、ちゃんとモーラ族の男女だ
けで構成された集落、と言うのも存在する。
﹁モーラ族は強い種族ではないのです。なので、町以外で暮らすの
は難しいのです。でも、街で暮らすには手に職が必要なのです。ノ
ーラにはそう言った技量が無いのです﹂
﹁で、渡りに船とばかりにメリザさんに頼みこんだ、と﹂
﹁愛玩動物として生活するのは、いろいろとリスクが大きすぎるの
です﹂
売られた場合の用途をしっかり自覚しているあたり、外見とは違
って結構したたかなのかもしれない。
934
﹁と言うことだ。何とか仕込めそうか?﹂
﹁やってみんと分かりませんわ﹂
﹁だろうなあ﹂
とは言え、カレー粉をはじめとした調味料を量産するだけなら、
正直それほど面倒なことではない。専用の道具を作って手順を教え
込めば、この二人の能力がどうであろうと関係なく大量生産はでき
る。
問題なのは、彼女達にどの程度の事を仕込む必要があるのか、だ。
正直、宏はおろか澪のレベルに達するまでですら、五年やそこらで
は不可能である。
﹁正直な話、単にカレー粉とか調味料を作るだけでええんやったら、
僕が専用の設備作って作業手順教えて、難しいところは全自動で完
成までやるようにすれば済むんですけど、それやと他の人間に作り
方を広められへんから、作れる量がすぐ頭打ちになるんが問題です
ねん﹂
﹁まあ、そうだよなあ。独占できるってのは最初のうちは美味しい
が、長い目で見れば損だからなあ﹂
﹁かと言うて、三カ月やそこらで仕込めるんは、せいぜい春菜さん
ぐらいまでやしなあ⋮⋮﹂
現在の春菜の力量は、正規の材料なら八級のポーションなら大体
失敗せずに作れるレベル。七級はまだまだ安定しているとは言い難
935
いところで、精錬や紡織、木工などはほぼ手つかず、と言ったとこ
ろである。
﹁何にしても、とりあえず最初の段階から仕込めるだけは仕込んで
みますわ﹂
﹁おう、頼む。必要なものがあったら言ってくれ。いくらでも援助
するからな﹂
﹁そらまた太っ腹な事で﹂
﹁新規事業のための初期投資って奴だ﹂
そう言って、笑いながら工房を出ていくメリザ。それを見送って
から、とりあえず澪の方に顔を向ける宏。
﹁とりあえず、まずは近場で採れる薬の材料から教えたって﹂
﹁了解。二人とも、武器は?﹂
﹁私は弓が使えます﹂
﹁残念ながら、素手でチンピラを相手に隙を作るぐらいのことしか
できないのです﹂
いきなり物騒な話になり、戸惑いながら自身の戦闘能力を正直に
申告する二人。
﹁だったら、間を見て協会で戦闘訓練。登録できそうなら、冒険者
登録も﹂
936
﹁工房で働くのに、冒険者登録ですか?﹂
﹁素材によっては戦闘能力必須﹂
テレスの質問に、表情を動かすことなく回答する澪。そもそも、
普通に供給があるものを作れる程度でいいなら、自分達が仕込む必
要自体が無い。
﹁何なら、私も付いていこうか? 最近素材集めも御無沙汰だった
し﹂
﹁頼んでええか?﹂
﹁任せて﹂
そんな感じで、とんとん拍子に話が進んで行く。
﹁で、御大将はどうするつもりなんだ?﹂
﹁とりあえず、協会行って二人の道具仕入れてくるわ﹂
﹁作らないのか?﹂
﹁道具作りも教えるから、最初からあんまりええ道具があるんもな
あ⋮⋮﹂
宏の言葉に、妙に納得してしまう達也。確かに、自分達が作るも
のより質のいい道具なんぞあった日には、新しい道具を作ろうとい
うモチベーションが湧かなくなってしまう。
937
﹁なら、俺もそっちに付き合うか。どうせ、スパイスとかも仕入れ
にゃならんのだろう?﹂
﹁じゃあ、あたしは適当に仕事探してくるわ﹂
﹁っちゅうことは、協会までは真琴さんも一緒やな﹂
﹁そうね﹂
﹁ほな、誰も居らんなるから戸締りしてこんと﹂
こんな感じで、関係者が増えたアズマ工房の一日が始まった。
﹁それにしても、積極的に賛成しておいて今更だが、本当に大丈夫
なのか?﹂
﹁今更それ言うか?﹂
﹁まあ、そうなんだが⋮⋮﹂
協会からの帰り道。微妙に心配そうな顔をしながら、宏をうかが
う達也。正直なところ、指導がどうというより、これ以上女が増え
て大丈夫なのか、と言う部分が心配でたまらない。だが、余り長い
938
時間工房を放置するのも拙いのは事実だ。解決方法として職人を雇
って仕事をしてもらいつつ、工房の維持管理もしてもらうのが一番
なのも確かで、今回の話は性別さえ問題なければ願ってもない申し
出なのは間違いない。
なので、最初は積極的に賛成していた達也ではあるが、いざ面接
をしてみると、宏の顔色がとにかく悪い。それこそ、びっくりする
ほど悪い。緊張もあってか相手方からの突っ込みは無かったが、多
分彼女達も何かを察してはいるだろう。当分は春菜と澪の指導でど
うにかできるにしても、その範囲を超えた時に大丈夫なのかがとこ
とんまで不安である。
﹁兄貴、僕の恐怖症と今回の事は、基本分けて考えなあかんで﹂
﹁つってもなあ。どうせなら、陛下に頼んで男の弟子を用意しても
らった方が良かったんじゃないか?﹂
﹁僕が上手い事距離取れば済む話やねんし、今更あの二人を追い出
せる?﹂
﹁⋮⋮無理だな﹂
﹁やろ?﹂
確かに、今更の話だ。面接をする前なら断りようもあったが、面
接して大体の人となりを確認した今では、それこそ努力ではどうに
もならないほどこの仕事に向いていないというケース以外では、今
更首にするのは義理人情や精神衛生上不可能である。
﹁それに、テレスさんにゃ聞きたい事もあるし﹂
939
﹁聞きたい事?﹂
﹁南の樹海に、エルフの集落と何ぞの神の神殿があるかどうかをな﹂
﹁ああ、なるほどな﹂
宏が告げた確認事項に納得する達也。確かに、いろいろな意味で
ゲームとは違うこの世界、空振りを防ぐために本当に集落があるの
かどうかを確認しておくのは、間違いなく重要な事だ。
﹁まあ何にしても、当面はひたすらカレー粉の調合と醤油とかポン
酢の仕込みをやらすことになりそうや﹂
﹁それが先方の要望だからなあ﹂
結局、自分達は食う話とは縁を切れない事を思い知る達也。そも
そも、食が絡む需要は、有限ではあるが限りなく無限に近い。
﹁で、何を買い足すんだ?﹂
﹁スパイス類は当然として、大豆とか麦、柚子なんかも大量に、言
うところやな﹂
﹁了解﹂
なかなかの分量が必要そうだ。そう考えて別行動をしようとした
ところで
﹁ぎゃん!﹂
940
ばちっと言う派手な音とともに、達也の足元から人間のものとは
思えない悲鳴が響く。声が聞こえた方に視線を向けると、薄汚れた
格好の、男女の識別もつかない年頃の小さな子供が、右手を押さえ
てうずくまっていた。
﹁引ったくりか⋮⋮﹂
﹁まあ、珍しくはあらへんわな﹂
とは言え、エンチャントによる防御がしっかりしている宏達を狙
うスリや引ったくりなど、最初の一週間ほどを過ぎたあたりから全
く見なくなっていた。彼らには彼らの横のつながりがあるのだろう。
﹁で、どうするんだ?﹂
﹁まあ、僕らの事知らんあたり、本職言う訳でもなさそうやし、ち
ょいと事情聴取か?﹂
﹁全く、物好きな﹂
﹁本音言うとやな、こういう王道とテンプレの境界線上にあるイベ
ント無視して官憲につきだすん、なんか勿体ないなあ、思うて﹂
呑気な事を言ってのける宏に呆れつつ、子供が逃げないように目
立たない種類のバインドをかけて担ぎあげる。
﹁なんかすげえ悲鳴だったが、何かあったのか?﹂
﹁あ∼、足元見てなくて、こいつを思いっきり蹴っ飛ばした。怪我
941
してると拙いから、ちょっと連れて帰って手当てするわ﹂
﹁別に、わざわざそんなことしなくてもいいんじゃねえか?﹂
﹁やばい怪我でもしてたら、寝覚め悪いだろ?﹂
しれっと言い訳を済ませ、何食わぬ顔で子供を拉致る二人。そん
な二人を見送ったところで、声をかけた男は自分の仕事に戻り、市
場はいつもの姿を取り戻すのであった。
﹁一つ聞いてもいいのでしょうか?﹂
﹁何?﹂
﹁親方は、女の人が怖いのです?﹂
東門から外に出て、近場の草むらで等級外ポーションの材料を集
めようとしたところで、ノーラからそんな質問が飛び出した。
﹁やっぱり分かっちゃうかあ⋮⋮﹂
﹁あの顔色と距離の取り方を見て、それでも他の可能性を真っ先に
考えるのは、いくらなんでも鈍すぎるのです﹂
942
一刀両断で切り捨てるノーラに、思わず苦笑してしまう春菜と澪。
﹁師匠、故郷でいろいろあったらしいから﹂
﹁それで、よくお二人と一緒に行動できるのです﹂
﹁全部春姉の功績。ボク達はその距離の取り方を真似してるだけ﹂
澪の回答を聞き、先ほどの工房でのやり取りやその立ち位置を思
い出す二人。自分達相手とは違って互いにある程度以上の信頼関係
がある事を感じさせる、実に自然な間合いの取り方。一応言葉に出
して確認はしているが、ほとんどアイコンタクトだけで意思疎通を
完了させている事が分からないほど、テレスもノーラも鈍くない。
﹁えっと、私からも質問﹂
﹁どうぞ﹂
﹁ハルナさんと親方はその、そういう関係なんですか?﹂
﹁違うよ﹂
テレスの質問に、ズバッと即答する春菜。
﹁でも、傍から見ていて、あそこまで息があっているとそれ以外に
は見えないんですけど﹂
﹁それはね、私達がそういう関係じゃないから出来るんだよ。ちょ
っと長く触れあっただけで呼吸困難になるほど女の人が怖い宏君が、
そう言う意識を持つのはまだまだ無理だと思う﹂
943
苦笑と言うには苦みが勝ち、だが悲しそうなとか愁いを帯びたと
称するには笑みの割合が大きい、そんな複雑な表情を浮かべて答え
る春菜。その、何とも言えぬ色気のある表情に、思わずドキリとす
る三人。
﹁親方の事情は理解したのです。では、ハルナさん自身はどうなの
ですか?﹂
﹁えっ?﹂
﹁ハルナさん自身は、親方の事をどう思っているのですか?﹂
﹁⋮⋮親友兼、パートナー?﹂
何とも自信なさげに回答を返す春菜。正直な話、これを恋愛感情
と認めるのは何かが違う、いや、認めるのは何かがまずい気がし、
だが単なる友情だと強弁するのも難しい、そんな曖昧な気持ち。運
命共同体と言う観点では、達也や真琴、澪もそうだ。だが、彼らに
対して抱く感情とも、明確に違う。そんな、どう定義していいか分
からない、今まで経験したことのない感情にそれなりに戸惑ってい
る様子がにじみ出ている。
そもそも、春菜は恋愛感情がどういうものなのか、はっきり理解
できていない。他人の恋愛相談に乗ったり、恋愛が絡む騒動で貧乏
くじを押しつけられたりと、いわゆる恋バナやラブコメ的状況に関
わる機会はチームの誰よりも多かったくせに、当の本人はお試しで
の交際すら経験が無いという、信じられない身持ちのかたさでこの
年まで生きてきた。なまじスペックが高すぎた事もあり、言うほど
男子とまともに会話した事もない。
944
告白してくるのはスペックに目がくらんだ相手を碌に見ないナン
パ男か、自意識過剰の勘違い男かのどちらかのみ。春菜や周囲の人
間のお眼鏡にかないそうな人間は、基本的に高嶺の花になど手を伸
ばしたりはしない。結果として、藤堂春菜と言う女性を正面から見
て、その人格をまっとうに評価してくれる身内以外のフリーの男な
ど、今まで一度も遭遇した事が無いのだ。これは鈍い鈍くないと言
うより、どちらかと言うと経験と環境の問題であろう。
宏が春菜というパートナーに出会えて、無事に共同生活を送るこ
とができていることが奇跡であるなら、春菜が宏と本当の意味で出
会えて、正面から互いの人間性を理解し尊重しあいながら、多少な
りとも異性として意識するようになったこともまた、奇跡と言って
いいのかもしれない。ただ、現状のままでは、どうあがいてもそこ
から発展する未来が見えないのが問題ではあるが。
﹁⋮⋮なるほど。良く分かったのです﹂
﹁ハルナさんもミオさんも、大変です﹂
﹁えっ? 何が?﹂
﹁春姉、自分の事には鈍すぎ⋮⋮﹂
﹁えっ? えっ?﹂
本気で分かっていない様子の春菜に、思わずため息を漏らす澪。
王宮入りした最初の夜会の頃までなら、今の言い訳でもみんな納得
しただろう。だが、暗殺者騒動とバルドとの決戦を経た今、春菜の
感情は微かに、だが明確に変化している。それなりに付き合いが深
945
いメンバーで、その事を理解していないのは春菜本人と宏ぐらいだ
ろう。
なお、このケースで宏が鈍いというのは酷である。そもそも、あ
れに自身に対する恋愛感情を想定しろ、ということ自体が無茶振り
もいいところだ。鈍い訳ではないから春菜の微妙な変化には気が付
いているだろうが、それと恋愛感情に至る可能性を結びつけるには、
少々どころではなく女性に対する不信感が大きすぎる。中学時代に
経験したであろうあれこれを考えると、きっと正面から絶対に誤解
の余地を与えない方法で本心から愛の告白をしたところで、よっぽ
ど強烈なきっかけでもなければ信じないであろうことは誰にだって
分かる。
﹁自分の事には、って事は、ミオさんも⋮⋮?﹂
﹁呼び捨てでいい。因みに、ボクは否定するつもりはない。ただ、
自信を持って恋してると言えるほど、自分の感情や直感を信用して
る訳じゃない﹂
澪のカミングアウトに、何とも言えない表情を浮かべる春菜。澪
が宏に対して複雑な感情を持っている事は、言われるまでもなく気
が付いていた。宏がへたれた事を言ったりやらかしたりしたときに、
彼女が妙に宏に対してきつくあたり、その後宏が見ていない場所で
慣れた人間にしか分からない表情で自己嫌悪に陥っているのも、澪
の第二次性徴期にありがちな複雑な心を表している。
﹁で、二人から見た師匠は?﹂
﹁申し訳ないのですが、それほど素敵な人だとは思わないのです﹂
946
﹁優しくて誠実な人なんだろうな、とは思いますが⋮⋮﹂
率直な意見を聞かされ、苦笑するしかない春菜と澪。残念ながら、
宏の良さは初対面ではなかなか分からない種類のものだ。物を作っ
ているところを見せれば、余程職人と言うものを下に見ていない限
りは一発で評価が変わる確信はあるのだが、先ほどの面接ぐらいで
は伝わらないのが普通である。
﹁初対面だと、妥当な感想﹂
﹁私も、故郷にいるときはそんな感じだったし﹂
春菜のカミングアウトを聞き、思わず驚きの表情を浮かべる二人。
﹁あの、皆さんは一緒に行動するようになってから、どれぐらい何
ですか?﹂
﹁私と宏君で三カ月ぐらい? 全員でってなると、まだ二カ月ちょ
っと、ってところ﹂
恐る恐る聞いてきたテレスに、春菜が更に爆弾を落とす。
﹁た、たった三カ月であれ、ですか?﹂
﹁事故でこっちに飛ばされてくるまでは、たまに挨拶する以外は全
然接点なかったし﹂
それが、たった三カ月で熟年夫婦と言わんばかりの息のあい方。
女性恐怖症と言う性質上宏の方から歩み寄るとは思えないから、春
菜が相当注意深く相方を観察し、距離を測り、呼吸を合わせたのだ
947
ろう。最初は多分必要に駆られてなのだろうが、全く特別な感情を
持たない相手に何カ月もそれを続けるのは異常だ。心が広い、なん
ていう説明で済ませられる範囲を超えている。
少なくともテレスの常識ではそうなのだが、今現在自分達と話を
している彼女の人柄を考えると、余程でない限り、誰とでもそうい
う関係を維持できる人種なのかもしれない、と思う自分もいる。
﹁ヒューマン種と言うのは、時折信じられない人間が存在するもの
なのですね﹂
﹁春姉は、いろんな意味で超特殊だから﹂
自分と春菜をヒューマン種でひとくくりにされてはたまらないと、
ノーラの言葉にかぶせるように否定する澪。はっきり言って、こん
な太古のギャルゲーに出てくる、やたらめったら大量にフラグを立
てさせた揚句に、ワンミス即死と言う感じでゲームオーバーを量産
する女と、単に種族が同じと言うだけで同類にされては困るのだ。
ちなみに言うまでもないことだが、ヒューマン種と言うのはいわ
ゆる普通の人間のことである。この呼び名を使うのはエルフをはじ
めとした異種族だけだが、それを言われてむっとするような人間も
いない。﹁人間﹂と言う言葉は基本的に異種族を含めた人型の知的
生命体全体を指すので、ある意味当然ではあろうが。
まるで変人のように言われて、さすがにむっとした表情を浮かべ
る春菜。だが、その春菜が何かを言う前に、畳み込むように澪が次
の言葉を発する。
﹁ちょっと駄弁りすぎた。そろそろお仕事﹂
948
﹁⋮⋮そうだね。後々の事もあるから、山ほど集めないとね﹂
文句を言う機会を潰されて、大きなため息とともに怒りを逃がす
春菜。怒りと言ってもちょっと腹が立った程度で、少し意識をそら
せばあっさり無かった事に出来る程度だ。この程度の暴言とも言え
ない言葉など、王宮で相手にした敵対貴族たちに比べれば、本来は
笑って済ませられる程度のものである。
﹁じゃあ、この葉っぱとこの草、後この草も集めて来て。葉っぱを
切るときは出来るだけきれいに、草は根っこ全体を掘り返してね﹂
そう言って、見本を見せる春菜。大したものではないとはいえ、
浮かべていた怒りを綺麗に無かった事にした春菜に戸惑いつつ、見
本に従って葉っぱや草を集めていく二人。しばらくは黙々と作業を
していたのだが、
﹁そう言えば、親方には、他に関係している女の人とか居ないんで
すか?﹂
その単調さとだるさに五分もしないうちに音を上げ、テレスが再
び恋バナを振る。
﹁居ない訳じゃないけど⋮⋮﹂
﹁多分師匠が女性恐怖症じゃなくても、絶対手を出さない相手だと
は思う﹂
振られた恋バナに、作業の手を止めずに律儀に返事を返す二人。
949
﹁あ∼、でもエルちゃんの場合、女性恐怖症じゃなかったら子犬的
なアピールの仕方で押し切るかも﹂
﹁ありうる。ボクが自分の気持ちに自信が無くなるぐらい、一途に
真っ直ぐに好き好きオーラ出してるぐらいだから﹂
﹁まあ、経緯を考えたらしょうがないんだけど、宏君も大変だよね﹂
﹁外見はともかく、年齢と立場が厄介すぎる﹂
聞いては拙いのではないかと思う情報がポロポロと飛び出してく
る。聞こえてくる情報の断片、そこから漂う危険な匂いに、テレス
もノーラも深く突っ込んで聞いていいのかが判断できず、現実逃避
的に草むしりに集中してしまう。
﹁エルちゃんが適齢期になるまでに向こうに帰れるかどうか、そこ
が割と勝負だと思うんだけど、どうかな?﹂
﹁同意﹂
適齢期、という言葉で、相手が一般にまだ子供、少なくとも成人
はしていない女の子だという事を、嫌でも理解してしまう新人達。
もしかしなくても、この二人が雑談で語っている内容はやばいので
はないのか。戦々恐々としながらも、恋バナの誘惑に負けてついつ
いいろいろと質問してしまう。
そんなこんなで、恋バナで大いに盛り上がりながら十分な物量の
薬草を回収し、終わる頃にはすっかり意気投合している四人。いつ
ぞやの春菜の言葉ではないが、恋バナと甘いものが嫌いな女の子は
少ない、と言うことを証明してしまった形である。彼女達は知らな
950
い。王宮を出た時点ですでに、宏の女性関係にすさまじく危険︵特
に宏の精神衛生上︶な伏兵が存在している事を。
﹁さて、獲物が安全な相手かどうかも嗅ぎ分けられねえ小僧が、わ
ざわざ危険を冒してスリなんてしようとした理由を聞こうか﹂
﹁話す事なんて、何もない。とっとと官憲に突き出せよ﹂
工房の食堂で、捕獲した子供に事情聴取をする達也。乱暴に扱っ
たためか、頑なな態度で達也の言葉を拒絶する子供。見た目や声の
感じからすると、どれだけ上で想定しても、間違いなくエアリスよ
り年下だ。
﹁まあ、なんとなく予想はつくけどなあ﹂
微妙に青い顔をしながら、深く深くため息をついてつぶやく宏。
そのつぶやきが予想外に大きく響き、達也と子供の視線を集める。
﹁予想はつくって、どういうことだよ?﹂
﹁こんな言い方したらあかんのやろうけど、びっくりするぐらい王
道や﹂
﹁王道? もしかして!?﹂
951
﹁多分やけど、自分の身内にひどい病気の人がおるやろ?﹂
宏の言葉に青ざめながらも、頑として答える気はないらしい子供。
﹁その反応が、すでに答えになってんで﹂
﹁だったらなんだよ!?﹂
﹁何、っちゅうてもなあ﹂
言うべきかどうかに悩み、微妙に口ごもる宏。それを見た達也が、
苦笑しながら結論を言い放つ。
﹁別に、その人を治してやる代わりにここで仕事しろ、でいいんじ
ゃないか?﹂
﹁僕らだけで勝手に決めてしもて、ええんかなあ?﹂
﹁そんな、何十人も人を増やす訳じゃないから、問題ないだろうさ。
それに、あの二人だけで賄い切れそうか?﹂
﹁向こうの物覚えにもよるけど、まあ無理やろうな。三人でも仕入
れと工房の管理まで言うたら、多分手が回らんと思う﹂
宏と達也の会話を聞いているうちに、もしかして自分は相当やば
い相手に手を出したのではないかと、急に不安になる子供。実際聞
きようによっては、何か非合法なものを作る打ち合わせをしている
と勘違いしてもおかしくない言動である。
952
﹁で、その病気って奴、大丈夫なのか?﹂
﹁その人がどんなもんかは、診察してみんと分からへん。ただ、少
なくとも空気感染とか飛沫感染、接触感染の類ではないと思う﹂
﹁その根拠は?﹂
﹁そこまで感染しやすいんやったら、もっと騒ぎになってなおかし
い。栄養状態とか体力とかも影響する、っちゅうても、市場に出入
りしてる人の関係者が全く発症せえへんとか、あり得へんやん﹂
﹁まあ、そうだよな﹂
宏の説得力のある言葉に、大いに納得する達也。仮にスラムの中
だけで蔓延している類の病だとしても、スラムの住人が全く市場な
どに出入りしない訳ではないのだから、空気感染だの接触感染だの
の病気なら外に広がらない訳が無い。いくらスラムの人間が市場に
出入りすることにいい顔をしない人間が結構いるとは言っても、完
全に閉め出しているわけではないのだ。
そもそも、ウルスのスラムは、スラムと名がつくものの中では治
安がいい。ギャンブルなどで身を持ち崩した連中ではなく、モンス
ターの大発生で村が滅んだとか災害で仕事を失ったとか、そういっ
た難民に近い人達が住む、ある面最後のセーフティネットとして機
能している区域だからというのが大きいだろう。最低限ではあるが
国からの援助があり、兵士達も定期的に見回るため、そうそう犯罪
の温床になることもない。
もちろん、放蕩の限りを尽くして身を持ち崩したような連中がた
むろする場所もある。が、そういう区域はまた別の場所にきっちり
953
隔離され、それなりに国がにらみを利かせている。それに、先のバ
ルドがらみのあれこれで、暗黒街の犯罪組織も大方駆除が終わって
いる。残っているのは、間違って迷い込んだ堅気に手を出すような
ことはしない、いわゆる必要悪のレベルに収まっている、妙な言い
方をすればある種の治安維持組織となっている連中だけである。
﹁この子の衛生とか栄養状態から言うて、食べモンが悪かった可能
性が高い。どっちにしても、まずこの子自身を清潔にして、きっち
り診断してちゃんとしたもん食わせるところから始めんと、向こう
だけいくら治療してもいたちごっこになりかねん﹂
﹁そうだな。それに、俺も腹が減った。まずは飯にしようや﹂
﹁了解。食材仕入れられへんかったから、あり合わせになるけどか
まへん?﹂
﹁おう﹂
達也の返事を聞き、厨房に消える宏。最近の倉庫の中身を考える
と、あり合わせは十中八九肉系になる。何しろ、ワイバーン以外の
モンスター食材も、山ほど残っている。後はせいぜい、裏でこそこ
そ繁殖させたポメが台所に並ぶ位だろう。
﹁⋮⋮何たくらんでるんだよ⋮⋮?﹂
﹁店員の増強、じゃないか?﹂
﹁⋮⋮はあ?﹂
﹁とりあえず、ここで仕事するんだったら、どこよりもうまい飯が
954
食える事は保証するぞ?﹂
モンスター食材の割合が非常に高くなる可能性がある事は伝えな
い。食えれば問題ないだろう、という地味にひどい理由なのはここ
だけの話だ。
﹁ただいま∼﹂
﹁おう、お帰り﹂
宏が厨房に消えてから三十分後。子供もこき使って風呂の準備を
終えたあたりで、春菜達が帰ってきた。
﹁あれ? 誰か来てるの?﹂
﹁ちっと拾った﹂
﹁犬猫じゃないんだから⋮⋮﹂
達也の説明に、思わず呆れて突っ込む春菜。いきなり現れた大勢
の女性に、警戒心も露わに部屋の端に隠れようとする子供。
﹁澪ちゃん﹂
﹁ん﹂
春菜に声をかけられ、風呂場に移動する澪。それを見てやろうと
している事を察し、声をかける達也。
﹁風呂なら、さっき沸かしたぞ﹂
955
﹁そっか、ありがとう﹂
﹁まあ、そろそろ飯の準備が終わるだろうから、先に食ってからだ
な﹂
﹁作ってるのは、宏君?﹂
﹁他に居ないだろう?﹂
達也の返事に、反論できずに苦笑する春菜。達也はそんなに料理
が得意ではないし、真琴はゲームでも現実でも、調理実習以外で料
理をした経験はない。故に、春菜も澪もいなければ、必然的に料理
は宏の担当になる。しかも、春菜と宏の間にはもはやそれほどの技
量の差はないが、宏と澪の間にはそう簡単には埋められない時間の
壁が立ちふさがっている。
﹁親方は、料理もできるのですか?﹂
﹁料理も、って言うか、物を作る、加工する、って言うカテゴリー
の作業は何でもできるよ﹂
﹁むしろ、何でもできるから師匠﹂
ノーラの問いかけに、微妙に信じがたい返事を返す春菜と澪。
﹁で、その子は何? 多分女の子だと思うんだけど﹂
﹁女なのか?﹂
956
﹁ノーラにヒューマン種の子供の性別を聞かないでください﹂
﹁ごめんなさい、私にもちょっと﹂
春菜の発言に対する達也の問いかけ、それに対して首を必死にな
って左右に振るノーラとテレス。話題にされた子供は、春菜の言葉
に更に威嚇の態度を強くする。
﹁とは言え、考えてみれば思い当たる節はあるんだよなあ﹂
﹁と、言うと?﹂
﹁ヒロの顔色が、妙に悪かった﹂
﹁⋮⋮親方の女性恐怖症って、そこまでなんですか?﹂
﹁分からんが、まあ、本人は無自覚かもしれないぞ﹂
などと微妙に横道にそれた会話を続けていると、食欲をそそるし
ょうがと醤油の焼けた匂いが食堂に漂う。
﹁ご飯出来たで﹂
﹁おう。旨そうだが、メニューは?﹂
﹁ロックボアのロースしょうが焼きや。そのまま食べても、パンに
挟んでも旨いで﹂
そう言って、カートから山盛りもったパンとともにテーブルに配
膳する。サラダとスープもばっちりだが、サラダはともかくスープ
957
の材料は聞かないほうがよさそうなオーラが漂っている。パンに挟
むときの付け合わせを意識してか、レタスが何枚か用意してあるの
が芸が細かい。
﹁ロックボアって、普通に調理しても硬くて食べられなかった気が
するんですが⋮⋮﹂
﹁それ以前に、あんなに獰猛で強力なモンスターの肉を、誰が調達
してきたのかが非常に気になるのです﹂
平常運転で告げられた食材に、戦々恐々とするテレスとノーラ。
ロックボアはその名のとおり、岩のような皮膚を持つイノシシだ。
あまりに皮膚が硬いため、単純な物理攻撃はほとんど効かない。魔
法も属性によっては絶対的な抵抗力を見せ、そうでなくても恐ろし
いまでの突進速度で突っ込んでくるため、魔法をはじめとした飛び
道具は当てるだけでも一苦労、その上視界内の生き物は何にでも攻
撃を仕掛けたがるやんちゃな性質をしたモンスターで、いうまでも
なく食材として使うにもハードルが高い。そもそも普通のイノシシ
の倍は行かない程度のサイズしかないので、ワイバーンと違って肉
が無事であること自体が少ない。
とまあ、モンスターの中でも大概厄介な性質をしているロックボ
アだが、例に漏れずオキサイドサークルなら一発で仕留められるた
め、達也からすれば結構いいカモだったりする。ワイバーンと同じ
日に仕留められており、取れる素材のうち毛皮はワイバーンの下位
互換でしかないため、丁寧に処理を済ませた後にメリザに買い取っ
てもらっている。最初は鎧にでも加工するか、などと言っていたが、
時間が無い上にとんでもないパニックを巻き起こしかねないので、
そのまま引き取ってもらった。
958
﹁兄貴と真琴さんの手にかかれば、ロックボアごとき何ぼのもんで
もないで。せやろ?﹂
﹁まあな﹂
自慢するでもなく普通のテンションで言い放つと、いただきます
をさっさと済ませてしょうが焼を一口食べる達也。しょうがとタレ、
そしてロックボアの肉のワイルドな旨みが互いを引き立て合い、素
晴らしいハーモニーを奏でる。名前や解体での苦労とは裏腹に、そ
の肉は適度な歯ごたえと言うレベルで、硬すぎて食べられない、な
どと言う事は一切ない。確かにそのまま食べても旨いが、パンに挟
むのもよさそうだ。もっとも、
﹁何でこれで米とみそ汁が無いんだ⋮⋮﹂
達也の日本人的感性の場合、真っ先に来るのはそれだったりする
が。
﹁あんまりバクバク食えるほどの量は無いからなあ﹂
﹁でもよ、今日ぐらいはいいんじゃないか?﹂
﹁僕らは良くても、今日来たばっかりの子らに箸使え、言うんも厳
しいやろ?﹂
﹁そうだけどさ⋮⋮﹂
﹁ちゅうか、そう思ったから、パンに挟んで食べる前提で用意した
んやけど﹂
959
わざわざパンに挟むのに使うトングまで並べているところが、実
に芸が細かい。見ると、即行でノーラが肉をトングでつかみ、レタ
スを敷いたパンに挟んでいる。
﹁で、勝手にメニュー決めて用意したけど、種族的にこれ食べたら
あかん、っちゅうんがあったら言うて﹂
﹁特にありませんね。里にいた時はあまりお肉は食べませんでした
が、それは種族としての決まりと言うより、単純に供給量の問題で
したし﹂
﹁心配していただかなくても、モーラ族は雑食なのです﹂
そう言って、用意された食事を嬉しそうに食べる二人。その様子
を部屋の陰から見つめていた子供が、何とも切なそうに恨みがまし
い視線を向ける。
﹁⋮⋮捕獲﹂
その様子を微妙に気にしていた澪が、子供を強制的に捕まえる。
余りにナチュラルな動きに、捕獲された本人も含めて、誰もまとも
に反応できない。
﹁な、何すんだよ!?﹂
﹁ご飯のときは、手を洗ってちゃんと椅子に座る﹂
﹁食わせてくれ、なんて言ってない!﹂
﹁いきさつはどうあれ、出されたものはちゃんと食べるのが礼儀。
960
そもそも、スラムの子供に一服盛る理由ない﹂
などとギャースカ言う子供の言葉を淡々とぶった切り、洗面所に
連れ込んできっちり手を洗わせる澪。自分も子供を捕まえた事で汚
れてしまった手を洗うと、今度は逃げないように手を繋いで連れて
来て、無言の圧力で椅子に座らせる。
﹁澪、強えな﹂
﹁ちゃんと食べられる体なのに、わがまま言って食べないのは許さ
ない﹂
澪の言葉に気圧されて、恐る恐るしょうが焼を挟んだパンに口を
つける。肉とパンがその小さな口に入った瞬間、驚いたように目を
見開き、そのまま無心にがつがつと食べ始める。
﹁あの様子だったら、消化器系がやられてるとかそういう心配はな
さそうだね﹂
﹁せやな。で、悪いんやけど、兄貴と春菜さんには、食べ終わった
後にあの子と一緒にスラム行って、あの子の病気の関係者を連れて
来て欲しいねん。澪らは先に風呂済ませて、調合作業の基礎練習や﹂
﹁了解﹂
食後の事を簡単に打ち合わせして、昼食に専念する日本人達。や
っぱり米が欲しい、などと思いながらも、全員定食換算で二人前近
くの分量を食べたのはここだけの話である。
961
﹁連れてきたよ﹂
﹁ご苦労さん﹂
春菜達が痩せ衰えた女性と、ひったくりをしようとした子供より
さらに幼い子供を連れて戻ってきたのは、出て行ってから三十分少
々経ってからであった。まだ、澪達三人は風呂からあがっていない。
﹁ほな、ざっと診察するから、春菜さん手伝って。それが終わった
ら、ちびっこを風呂に投入や﹂
﹁は∼い﹂
宏の指示に従い、診察のための準備をする春菜。なお、ひったく
りをしようとした子供を説得した言葉は、
﹁ちゃんと連れて来て診察受けさせたら、その人らにもご飯出すで﹂
という一言であった。やはり、旨い食事と言うのは強い。
﹁で、どんな感じ?﹂
手際よく二人の診察を進めていき、結果が出そろったあたりで春
菜が聞く。
962
﹁大体予想通りやな。お姉さんかお母さんかは知らへんけど、年上
の人の方は寄生虫と魔導物質中毒や﹂
﹁⋮⋮中毒?﹂
﹁多分こっちの世界にしかない種類の物質やと思うんやけど、メラ
ネイトって言う魔力伝導体があってな。それが特定の元素と結合す
ると、人体に有害な物質になんねん﹂
﹁⋮⋮ちなみに、その元素って何?﹂
﹁窒素や。ただ、窒素って割と安定しとる元素やから、そのまま放
置したぐらいでは結合せえへん。植物が土壌から取り込んだ時に、
栄養素をあれこれする過程で結合しおるねん。瘴気を吸収したメラ
ネイトは、植物の必須栄養素と区別つかんなるし﹂
宏の説明を聞き、大方の原因を察する春菜。ここ最近の騒ぎで土
壌が汚染されたあたりの雑草を食べて、中毒を起こしたのだろう。
寄生虫に至っては、ありそうな原因には事欠かない。
﹁治療はできるの?﹂
﹁問題あらへん。ただ、体力が相当落ちとるから、まずは虫を殺し
て栄養を横取りされへんようにするところからやな﹂
﹁なるほど。で、もう一人の方は?﹂
﹁こっちは窒化メラネイト中毒が原因の栄養失調。寄生虫は陰性や
けど、念のために弱めの虫下しはやっといた方がええやろう﹂
963
テキパキと段取りを進めながらの宏の説明に、一つ腑に落ちない
点に気がつく春菜。
﹁中毒の原因がそれだったら、どうしてファムちゃんだけ無事なの
?﹂
﹁ファム?﹂
﹁あの子の名前﹂
﹁そういや、名前聞いてなかったな﹂
﹁忘れとったわ﹂
ファムを拾った直後は向こうの不信感で意思疎通そのものに苦労
していたし、その後は展開が早くてそんな暇はなかった。そのため、
この段階に至るまでちびっこの名前を知らなかった。女性ともう一
人の子供にしても、あまりにも状態が悪すぎるので、名前よりも必
要な情報の聞きとりを優先したため、名前はまだ聞いていない。
﹁まあ、話を戻して、や。体質とか体重、食べた量とかでも、この
種の中毒のなりやすさはちゃうしな。臭いからすると発症までは行
ってへんだけで、やばいところにはきとる感じやで﹂
宏の言葉に、顔をしかめながら頷く春菜。王道だなんだと言って
いたが、実際のところは多分、その臭いのやばさが今回の行動の理
由だろう。それも多分、子供を見捨てられなかったみたいな偽善チ
ックな理由ではなく、感染症だったら春菜達やエアリスなどにも被
害が及ぶ可能性があるからというのが本音だろう。そうでなければ、
子供といえども自分の持ち物を盗もうとした女を助ける理由が無い。
964
﹁とりあえず、栄養剤と虫下し入れた点滴用意するから、一発打っ
たって﹂
﹁了解﹂
あれやこれやを手際よく混ぜ、魔力を通して変質させたものを点
滴用の袋に詰めて、後の作業を春菜に任せる。その様子を物陰から
こっそり見ていて、宏の真剣な表情に息をのむファム。
﹁ああいう時は、結構格好いいでしょ?﹂
﹁えっ?﹂
素晴らしい手際で点滴を打ち終わった春菜が、こっそりファムに
囁く。
﹁確かに、診察してる時と調合してる時は素敵だったのです﹂
﹁いつもあのままなら、さぞもてるでしょうね﹂
﹁テレスさん、それは違うのです。普段どう見てもヘタレな男性が、
有事にはものすごく有能で格好いいというギャップが魅力的なので
すよ﹂
﹁ああ! なるほど!﹂
いつの間にか様子を観察していたテレスとノーラのなかなかに容
赦のないコメントに、何とも言い難い表情になる春菜とファム。な
お、彼女の母親と妹は、宏の卓越した技能と非常識なレベルの材料
965
を惜しみなく使った治療により、一週間で病気になる前よりも健康
になり、更に工房の管理と引き換えに衣食住を保証するという太っ
腹な申し出に家族一同感謝を通り越して忠誠すら誓いそうになるの
だが、それを成した当人はその事を知らない。
因みにこの後、土壌汚染が引き金でパニックになっては拙いから
と、国王やレイオットを巻き込んでスラム地区の土壌改良を行う事
になる。その過程で人が住まなくなった地区を何カ所か譲り受けて
農園にし、春菜をはじめとした工房の職人たちからスラムの住人の
うち比較的まともな性格をした人間まで、たくさんの人たちの農業
技能育成に使い倒したのはここだけの話である。
966
後日談その2
﹁今日も疲れた∼﹂
﹁じっとしてると、寒いのです⋮⋮﹂
年越しまでもう何日もない、と言うその日。スラム地区の土壌改
良事業と言う一大プロジェクト、その土木作業の手伝いを終えたア
ズマ工房の見習い一同は、帰ってくるまでの間にすっかり冷え切っ
た体をひっつけあいながら工房にかけ込んできた。因みに、見習い
では無く弟子、もっと言うなら助手である澪は、土壌改良プロジェ
クトの目途がついたぐらいからずっと、大工の訓練も兼ねて工房の
一室を改装しており、この日も作業には加わっていない。
﹁おう、お帰り。風呂沸かしてるぞ﹂
﹁ありがと∼﹂
段取りよく準備を進めてくれていた達也に礼を言い、着替えを取
って風呂に急ぐ一同。全員が風呂場に移動するのを見送った後、時
間差で帰ってきた元締めに視線を向ける。
﹁お前も、今日は上がりか?﹂
﹁もうじき日も落ちるし、土木関係の作業もあらかた終わりやから、
しばらくは現場監督が口はさむ事もあらへんし﹂
土壌改良プロジェクト自体は、もうほとんど終わりかけている。
967
幸いにも汚染された土は表層五センチ程度で、スラムの人間全員と
あちらこちらの土木関係者をかき集めての人海戦術により、除去そ
のものは老朽化した建物の取り壊しが終わるのとほぼ同時に完了し
ている。
汚染された土の処理は宏と澪に加え、城の魔法使いのうち手が空
いている人員や民間人の中で手伝える人間、そして何よりアルフェ
ミナ神殿の神官が大勢協力してくれたため、こちらも除去が終わっ
て数日で完了した。現在は浄化の済んだ土を戻し、農地として整備
しているところである。
普通なら三カ月で終わらないような大工事だが、人員も道具も十
分にあり、かつ宏のような土木の上級を持っている人間が現場監督
をやれば、一カ月もあれば十分にめどがつく範囲だ。因みに、土木
みちおこうじ
のエクストラ﹁神の道﹂をマックスまで上げれば、同じような工事
を一週間で終わらせる事が出来たりする。ゲームでは道尾康司とい
うプレイヤーが土木エクストラを極めており、ほとんどの工事を一
週間以内で終わらせるという神技を見せていた。本人はただひたす
ら道を掘って整地するのが好きな、年末年始によくいるただの変態
ではあるが。
﹁どうでもいいが、ヒロ﹂
﹁何?﹂
﹁澪や弟子連中はともかく、春菜まで土木作業やらせる必要はある
のか?﹂
﹁本人が裁縫ぐらいは極めたい、っちゅうとるから、メイキングマ
スタリーぐらいは覚えさせた方がええやろう、思うたんやけど?﹂
968
﹁メイキングマスタリー?﹂
不思議そうな顔をしている達也に、生産がらみのあまり知られて
いない要素を説明する。
﹁なるほど、そう言う事か﹂
﹁納得してもらえた?﹂
﹁おう。ゲームの時、澪に土木系のクエやらせてたの、理由が分か
らなくて首ひねってたんだが、ようやく納得した﹂
﹁まあ、無きゃ無いで、根性でどうにかできるんはできるんやけど
なあ﹂
確かに、成功率も歩留まりも作業時間も、根気があればカバーで
きる問題ではある。だが、全部複合して噛んでくるとなると、あま
り根性でカバーしたくはない。
﹁流石に、春菜にそれを求めるのも酷だろうなあ﹂
﹁兄貴もそう思うか?﹂
﹁ああ。正直、材料がある程度自力調達できてた俺ですら、製薬が
中級の三分の一も行かずに折れたからな﹂
﹁裁縫は製薬とか錬金と違うて、別のスキルが噛むから余計やで﹂
宏の指摘に、しみじみ頷くしかない達也。
969
﹁それはそれとして、裁縫で思い出したんだが⋮⋮﹂
﹁ああ、霊糸の事? 今の織機やと加工出来へんから、当面は倉庫
に積み上げっぱなしやな﹂
﹁なるほどな。いつまでも加工しないから、おかしいとは思ったん
だ﹂
﹁流石に霊布を織るんやったら、最低でも大霊峰の四合目から上に
居る樹木系モンスターか、オリハルコンクラスの金属を材料にして
織機を作らんと、一枚織る前に壊れおるで﹂
﹁それでよく糸巻きが大丈夫だな﹂
﹁単に巻きつけるだけの糸巻きと、布に加工する織機とではやっぱ
ちゃうで。まあ、糸巻きにしたかて、かなりがっちり強化かけとか
んと、巻きつけた時に切れおるけどな﹂
ワイヤーか何かの間違いじゃないのか、などと小一時間ほど問い
詰めたくなる話に、思わずげんなりしてしまう達也。糸としての手
触りは最高なのに、加工に際しては随分と物騒な話が多い。
﹁高級素材ってのは、あれもこれも面倒なんだな⋮⋮﹂
﹁面倒やから、性能がええねん﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
妙に説得力のある話に、思わず心の底から納得してしまう達也。
970
﹁まあ、作れない物に関しては置いておこう。さっき連絡があって、
今からエルがこっちにくるそうだ。泊まって行くそうだから、レラ
さんが部屋の準備してる﹂
その急な連絡に、何とも言い難い表情を浮かべる宏。もうすでに
日が落ちて暗くなり始めている時間だ。年が明けてすぐぐらいが誕
生日だと言っても、それでもまだ十一歳。そんな子供が出歩くのは
どうか、と言う時間である。
なお、レラと言うのはファムの母親で、二十五歳の未亡人だ。七
歳のファムと五歳のライム、二人の娘を一生懸命育てている若きシ
ングルマザーでもある。言うまでも無い事だが、この世界では十七、
八で子供を産むのは珍しい話ではない。
﹁こんな時期のこんな時間から? よう周りが許したな﹂
﹁何でも、急に環境が変わった上に姫巫女としての役割が忙しくな
りすぎてて、ちょっとグロッキーになってるそうだ。役目の方は三
日やそこら抜けても大丈夫なぐらいには落ち着いたって事だから、
気分転換も兼ねてこっちに遊びによこすんだと﹂
﹁なるほどなあ。まあ、王宮組はいろいろ大変そうやし、ええ加減
グロッキーにもなるやろう﹂
急な話に相手の環境を思い出し、うんうんと頷く宏。特に姫巫女
は現状、エアリス以外は誰も代わりが出来なくなっている。資質を
持っているエレーナが毒の後遺症やら何やらで儀式に耐える事が出
来なくなって久しく、また、新しい姫巫女として実績を作る必要が
あるため、式典や法話の類も出来るだけたくさんこなさなければな
971
らないと来ている。責任感の強いエアリスがグロッキーになるのも、
仕方が無いと言えば仕方が無い。
﹁そう言えば、真琴さんはまだ戻ってへんの?﹂
﹁そっちもさっき連絡があった。同じ仕事に駆り出された女冒険者
と気があったから、今日は外で飲んでくるんだとさ﹂
﹁なるほど。出先の飯がまずくても知らんで﹂
二十歳を過ぎた女の行動に、ケチをつけても仕方が無い。そもそ
も真琴の実力なら、少々酒が入ったところでそこらのチンピラや酔
っ払いにどうこうされる事はあるまい。それに、その女を連れて帰
ってくるかどうかはともかく、戻ってからシメを食って寝るのは目
に見えているのだから、明かりが全部消えるほど遅くはなるまい。
﹁達兄は飲みに出るとか、ええん?﹂
﹁今日はいいさ。そのうち噂集めも兼ねて、適当に飲みに行くつも
りはあるがね﹂
﹁了解や。まあ、どうせ真琴さん戻ってきたらシメになんか食わせ
ろとか言うてくるやろうし、エルが好きそうなメニュー考えよか﹂
などと話をしているうちに、レラとライムが二階から降りてくる。
﹁お部屋の支度が終わりました﹂
﹁ご苦労さん﹂
972
﹁おてつだいしました∼﹂
﹁お∼、えらいえらい﹂
ドヤ顔で胸を張って宣言するライムをよしよししてやる達也。レ
ラには構え気味の宏も、ライムには普通だ。この対応がライムが子
供だからか、それとも小動物枠なのか、と言う割としょうもない事
で女性陣が盛り上がっている事を宏は知らない。
もっとも、同じ程度に子供であるファムにも微妙に構えるところ
があるので、どちらかと言うと小動物枠だというのが正解に違いな
い。同じ小動物枠に入りそうなエアリスは、いろいろと育ちすぎて
プレッシャーを与えてしまうのが不憫である。
﹁さて、そのお姫様はいつ来るんやら﹂
既に真っ暗になっている外を見ながら、王宮を出てからでもなん
だかんだと良く顔を合わせるエアリスの事を案じる宏。とは言え、
あれから工房の方に顔を出した事は無く、雇われ職人たちと顔を合
わせるのはこれが初めてだ。
﹁こんばんは﹂
噂をすれば影。ようやくエアリスが到着した。匿われていた頃に
使っていたアイテムでエルの姿になっている。時間が時間なので、
歩いてではなく自前の転移魔法を使ってここに来たらしい。
﹁いらっしゃい。えらい遅い時間に来るんやな﹂
﹁勤めが終わったのが、先ほどでして⋮⋮﹂
973
﹁ほな、風呂とかまだやろう? 女の子らは今入っとるから、混ぜ
てもらってき﹂
エアリスの体が微妙に震えているのを見て、そんな風に提案する。
野外での儀式やらお清めやらを済ませた後、体を温める間もなくこ
っちに飛んできたのだろう。上機嫌な表情とは裏腹に、顔色はそれ
ほどいいとはいえない。
﹁はい﹂
宏の言葉に素直に返事を返すと、背負っていた荷物からお風呂セ
ットを取り出し、明らかに高い身分を持つと思われる少女に対して
おっかなびっくりと言う感じで手を伸ばしてきたレラに素直に残り
の荷物を預けると、いそいそと風呂場に向かう。その様子に苦笑し
ながら、レラとライムに顔を向ける。
﹁レラさん。悪いんやけどエルの荷物運んだって。ライムもそろそ
ろ風呂入り﹂
﹁は∼い﹂
﹁分かりました﹂
宏の言葉に素直に返事を返すと、元気一杯と言う感じで着替えも
持たずに風呂場に突撃をかけるライム。ファーレーン人の例に漏れ
ず、彼女も風呂は大好きである。今まではスラムだったのでまとも
な風呂での入浴など夢のまた夢だったが、ここにいれば毎日欠かさ
ず温かい風呂に入れる上に、以前は見た事も食べた事も無い美味し
い食事が毎日食卓に並ぶのだ。ライムに限らず、スラム組にとって
974
はここは楽園で、レラやファムなどは本当にここにいていいのかと
毎日が不安である。
﹁さて、エルが結構体冷えとるみたいやし、芯からあったまるメニ
ューがよさそうやな﹂
﹁だな。ついでに、チビ達の偏食が治る奴がいい﹂
﹁となると、やっぱりメインはシチューやなあ。いっそ、テローナ
にするか?﹂
﹁ブルフシュなんかもいいんじゃないか?﹂
ファーレーンの国民食を上げる宏に対して、同じく郷土料理を持
ってくる達也。ブルフシュとは、この地方でこの時期に採れる山芋
の一種をすりおろして作る生地に、色々な具材を入れて焼き固めた
焼き料理である。素材の味と焼き加減だけで勝負と言うこの国らし
いメニューで、カロリーの割に腹もちがよく栄養価が高い、ある意
味理想的なメニューだ。
更にブルフシュは使う芋の性質で、中に入れる具材を上手く選べ
ばアツアツの状態がかなり長く続くという、冬場に持ってこいの特
徴がある。今日みたいに寒い日だと、普通のファーレーン人は大体
どちらかを食べる事になる。
﹁ブルフシュもええんやけど、全員の消費カロリー考えたらもう一
声いるで﹂
﹁今思いついたんだが、テローナうどんってどうだ?﹂
975
﹁⋮⋮ありかもしれへん。試してみるわ﹂
しょうゆベースの海産物のダシを取ったスープで作るテローナな
ら、うどんにぴったりだろう。春菜に言わせれば、それだと単なる
煮込みにうどんをぶちこんだだけだ、と言う事になるのだが、味噌
煮込みうどんよりはこの国の食文化に近いからいいのではないか、
と思う。
いや、そもそもうどんは小麦粉の塊なのだから、コンソメスープ
ともそれほど相性は悪くないはずだ。だったら、正統派のテローナ
にうどんを入れても、それほどおかしな味にはなるまい。
﹁とりあえず、まずはうどん打つところからスタートやな﹂
﹁何か、お手伝いできる事はありますか?﹂
﹁テローナやから、シャルプばらしてくれへん? 一昨日現場で貰
って絞めた奴が十羽ほどあるから、十分足るはずやで﹂
﹁分かりました﹂
宏の指示に従い、単に絞めただけのシャルプを丁寧に解体してい
くレラ。内臓にはかなり加熱しても死なない割と頑固な寄生虫がい
るため、基本的に食べるのは肉だけ、モツの類は廃棄だ。その気に
なれば薬や増幅系の消耗品に使えなくもないが、処理が面倒な上教
材として使うにも澪以外はまだそのレベルに達していない。そして、
その澪は今更これを使って練習するレベルでも無いので、現段階で
はわざわざ取り置きする必要が無いのである。
もっとも、単に捨てるのは勿体ないので、今後のために寄生虫を
976
どうにかしたうえで肥料に加工するつもりではある。何しろ、土壌
改良のための良質な肥料と言うやつは、これからどれだけあっても
足りない。
﹁今日はテローナにしたんだ?﹂
﹁正確には、テローナうどんとブルフシュや﹂
﹁なるほど、新しい料理にチャレンジするんだね!﹂
風呂からあがり、手早くエプロンをした春菜が、何やら気合を入
れる。彼女の参戦により、テローナうどんはテローナにうどんをぶ
ちこんだだけ、と言うレベルでは収まらない魔改造品になるのだが、
それでも作り方を説明しろと言われるとテローナを作ってそこにう
どんをぶちこむ、としか言えないのが業の深い話である。
﹁あの、これはなんですか?﹂
夕食後。今日完成した団欒の間、と言って案内された広めの部屋。
土足厳禁と言われて靴を脱ぎ、中に入ったところで奇妙なテーブル
を見つけて、小首をかしげながら質問するエアリス。
﹁故郷で使われてる暖房器具で、こたつって言うんだ﹂
977
﹁こたつ、ですか?﹂
﹁まあ、入ってみれば分かるよ﹂
そう言って手まねきした春菜に従って彼女のとなりに行くと、見
よう見まねで掛け布団を少しめくって足を突っ込む。その後に続き、
向い側に入る達也。
﹁⋮⋮温かいです﹂
﹁でしょう?﹂
﹁ですが、この距離感だと、ヒロシ様は厳しいのではないでしょう
か?﹂
﹁それは大丈夫。宏君は個人用を持ってるから﹂
そう言って、ちょっと離れた所にある、頑張って四人入れるかど
うかという小さいこたつを指さす。
﹁なんだか、それはそれで寂しい話です⋮⋮﹂
﹁しょうがないよ。無理をしてもいい事は何もないし﹂
下着の時に懲りたよ、と言う春菜に何も言い返せず、何とも言い
難い寂しげな笑みを浮かべるエアリス。なお、神殿脱出の時は当人
の自滅、暗殺者の時は不測の事態、と言う事でとりあえず責任を感
じる事はやめにした。余り引っ張ると、それはそれで宏が居心地悪
そうにするのだから、このぐらい割り切らないと駄目なのである。
978
﹁そう言えば、他の皆さんは?﹂
﹁テレスとノーラは、ヒロと澪から講義を受けてる。レラさんは後
片付けでファムとライムはベッドに直行だ。本当はあの二人も勉強
させたいんだが、子供に無理をさせてもな﹂
﹁後、真琴さんは今日は外で飲んでくるんだって。もうじき戻って
くるんじゃないかな?﹂
それぞれの用事を教えてもらい、とりあえず納得するエアリス。
風呂場と夕飯の席で仲よくなったファムとライムが居ないのは少々
寂しいが、自分も同じ年の頃は結構早くに眠くなったものだから、
文句を言っても仕方が無い。
なお、テレス達が講義を受けているのに、春菜はこたつでぬくぬ
くしていてもいいのか? という問いに関しては、今やっている内
容は既にマスターしており、彼女が聞いても仕方が無いという回答
が返ってくる。メンバーの中ではかなり素人に近い春菜だが、それ
でもこの国の平均から見れば、十分職人扱いしていい技量は持ち合
わせているのである。
﹁それにしても、このこたつというテーブルは、ぽかぽかして気持
ちがいいです﹂
﹁油断して寝ちゃうと風邪ひくから、そこは注意してね﹂
﹁はい⋮⋮﹂
春菜の注意をどことなくぽわんとした表情で聞きながら、座布団
の下にある不思議な素材の床を触って確かめる。
979
﹁この部屋の床は、草で出来ているのですか?﹂
﹁うん。畳って言う、うちの国の伝統的な床材だよ﹂
﹁夏場だったら、このままごろ寝したりもするな﹂
﹁それは素敵ですね﹂
達也の言葉に目を輝かせるエアリス。
﹁それにしても、畳まで作るとかびっくりだぞ﹂
﹁よくイ草の代用品があったよね﹂
﹁まあ、あいつらの事だから、錬金ででっち上げたとか言われても
驚けないんだがな﹂
達也の言葉に苦笑する春菜とエアリス。今までの前科を思い出す
と、宏が何をやらかしたところで宏だからで済んでしまいかねない。
実際には、土壌改良の過程で大量に集まった草の中に、イ草の代
わりに使えるものがかなりの量あっただけと言う余り面白みのない
流れで調達しているのだが、そもそも根本的に、毎度毎度素材の収
集に面白エピソードがある方がおかしい。たまには、ごく普通であ
りきたりな形で材料を調達しても罰は当たるまい。
﹁出来れば、私のお部屋にもこういうスペースが欲しいのですが⋮
⋮﹂
980
﹁ファーレーン城に和室を作るのって、結構難しいんじゃないか?﹂
﹁それに、雰囲気とか風情とか考えると、ちょっと合わないかな、
って気もする﹂
エアリスの希望に、容赦なく駄目出しをする二人。言われるまで
もなく気が付いていたからか、エアリスもそれほどショックを受け
た様子はない。
﹁そう言う感じの離宮を作る、と言うのはどうでしょう?﹂
﹁今、国庫が大変なことになってるんじゃないの?﹂
﹁そうでもありませんよ。むしろ、横領の罰金とか没収した財産と
かで、城の修復や土壌改良事業ぐらいでは使いきれないほどの臨時
収入がありましたし﹂
﹁⋮⋮そういうお金を、そんな風に無駄遣いするのはどうなのかな
?﹂
春菜の突っ込みを受け、誤魔化すようにこたつの中を覗き込むエ
アリス。そんな事をしているうちにふと、現状について気になる事
を思い出す。
﹁そう言えば、急に三人も大人の人を雇って、人件費とかは大丈夫
なのでしょうか?﹂
﹁ちゃんと収入あるから安心して﹂
﹁最近、弟子連中もカレー粉は安定して調合できるようになってき
981
たから、その売り上げが結構あってな﹂
﹁そうなんですか﹂
﹁そうなの﹂
達也と春菜の説明に納得するエアリス。焼くと煮込むが基本のフ
ァーレーン料理とカレー粉は、春菜達が思っている以上に相性がい
いらしい。それゆえ現在作れば作るだけ売れている、と言う感じだ。
大量に調合するための道具を用意してあるため、庶民でもちょっと
背伸びすれば手が出る値段で販売できているのも大きい。もっとも、
屋台でカレーパンをできるほど大量かつ安価に出回っている訳では
ないので、今のところ春菜の屋台が競合する事は無い。
因みに、買っていくのは当然料理人が一番多いが、その次に多い
のは意外にも冒険者だったりする。野営の時に適当に調達した肉や
草が、こいつをちょっと振りかけるだけで随分と食べやすい味にな
る、という理由である。同じ理由で、街から街へ移動することが多
く野営の機会が少なくない仕事をしている人間には、非常によく売
れているらしい。
なお、終わりが近いという理由で今日は全員で土木工事に赴いた
が、基本的に新人達は三日ごとのローテーションでスラムの土壌改
良工事に参加している。一人、もしくは二人が土木に行っている間、
残りの人間が採集や調合を行うという流れで訓練を行い、全員カレ
ー粉は問題なく、等級外ポーションも五分五分程度の精度で調合出
来る技量を身につけつつある。
﹁ついでに言うと、カレー粉の調合自体は、ライムが一番活躍して
るらしい﹂
982
﹁流石に宏君や澪ちゃんほどじゃないけど、計量が凄く早いんだよ
ね。だからものすごくたくさん作れるんだよ﹂
﹁均等に混ぜる作業はテレスとノーラが頑張ってるんだけどな﹂
お手伝いできるというのがよほどうれしいのか、ライムはものす
ごい集中力と素晴らしいスピードで材料の計量を済ませる。記憶力
も良く、分量を口頭で指示しただけでも一度も間違えた事は無い。
もっとも指示が口頭なのは、読み書きがまだ不十分でメモを用意し
ていても意味が無いのも原因だが。
﹁順調なのですね﹂
﹁うん。びっくりするほど順調﹂
﹁少なくとも俺達がファーレーンを出る頃には、等級外ポーション
と各種調味料の注文はどうにかこなせそうらしい﹂
﹁そうですか﹂
アズマ工房が順調で、働く人みんながやりがいを感じているとい
う表情を浮かべている事に、嬉しさと寂しさを感じてしまうエアリ
ス。
﹁まあ、出ていくっつっても、後二カ月はかかるんだがな﹂
﹁たったの二カ月です﹂
﹁そうだね。今までだって、あっという間だったし﹂
983
着々と近付いてくる別れの時。その気配を感じ、寂しさと切なさ
を隠しきれないエアリスであった。
﹁何や、エル。まだ起きとったんか﹂
講義を終えてみかんの入った箱を持って上がってきた宏が、エア
リスの存在に気がついて苦笑する。三十秒ほど遅れて入ってきた澪
が、特に何もコメントせずに春菜の向かいに座る。
﹁ヒロシ様と、お話がしたかったんですよ﹂
﹁別に、明日も明後日もあるやん﹂
﹁それでも、そんなにたくさんの時間はありませんよ﹂
﹁まあ、それもそうか﹂
エアリスの反論にあっさり頷くと、箱から適当にみかんを取り出
して、籠に盛る。
﹁やっぱり、こたつっちゅうたらみかんやで﹂
﹁だよね﹂
984
目の前に盛られたみかんを手に取り、宏の言葉に同意する春菜。
柑橘類の種類が豊富なファーレーンでは、日本で年末ごろによく食
べられる手のひらサイズで素手で皮がむけ、袋ごし食べられる甘い
品種の物も普通に出回っている。
﹁こたつでみかんは幸せ⋮⋮﹂
ほとんど条件反射と言う感じでみかんに手を伸ばした澪が、皮を
むきながらしみじみと呟く。彼女がこの組み合わせを最後に体験し
てから、既に数年の時が流れている。もう二度と体験できないとあ
きらめていた事が、こちらに来てから次々とできるのは嬉しくもあ
り、複雑でもある。
﹁やっぱりそっちに行くんだな﹂
小さい炬燵の方に入った宏に、苦笑しながら突っ込む。天板に小
さく﹁男性専用﹂と書かれているのが、逆に妙な肩身の狭さを感じ
させる。籠が小さいのも、盛られたみかんの数が少ないのも、何と
も言えずさびしい。
﹁そっちに入るん無理やて、分かっとるくせに﹂
﹁まあなあ﹂
そう言って、二つほどみかんをゲットして宏の方のこたつに移動
する達也。
﹁で、テレス達は?﹂
985
﹁下の片づけしとる。そろそろ上がってくるんちゃう?﹂
噂をすれば影、入り口の方から声が聞こえ、テレス達三人が戸惑
ったように部屋の中を覗き込んでいた。
﹁この部屋は土足厳禁やから、靴脱いで入ってきて﹂
﹁あ、はい﹂
﹁分かったのです﹂
言われた通り靴を脱ぎ、恐る恐る部屋に入ってくるテレスとノー
ラ。宏達の言葉だからか、レラは特に構える事無く入ってきている。
﹁折角だから、こたつに入ってよ﹂
﹁こたつ? このテーブルの事ですか?﹂
﹁そそ﹂
テレスの問いに答え、空いているところを適当に指し示す春菜。
それに従い、見よう見まねで掛け布団をめくって足を突っ込む三人。
エアリスと同じテーブルとか、本当にいいのだろうかと思わなくも
ないが、当人が自分の身分について何も言わず、彼女達の言葉遣い
だとかそう言ったものに対しても特に何も言わないのだから問題な
いのだろう、と割り切っている。
﹁こ、これはものすごく危険なのです⋮⋮﹂
その暖房器具の危険性に、真っ先にノーラが気がつく。
986
﹁ここに一度入ってしまったら、自分の意志で出ていける気がしな
いのです⋮⋮﹂
﹁暖かいですよね、このテーブル﹂
などと言いながら、春菜とエアリスにつられて、無意識にみかん
に手を伸ばすノーラとテレス。
﹁あ、そうだ﹂
みかんの皮をむきながら、何かを思い出したように声を上げる春
菜。その様子に、室内の視線が集まる。
﹁年越しそば、どうする?﹂
﹁あ∼、そんな時期やなあ、確かに﹂
春菜の言葉に宏が応じる。別段こだわりがある訳ではないが、折
角和室にこたつまであるのだから、年越しそばを食べるのもいいだ
ろう。
﹁年越しそば、ですか?﹂
﹁そう。ボク達の故郷では、一年の最後の日にそばを食べる習慣が
ある﹂
﹁そのそばを、年越しそばって言うんだ。確か、何か言われがある
とは思うけど、私は聞いた事が無いかな﹂
987
﹁まあ、他のパターンから言うならば、新しい年も長くそばにいら
れる事を願って、ってとこじゃないのか?﹂
ファーレーンの人達を代表してのエアリスの質問に、日本人達が
端的に答えを返す。日本の縁起物は、こういう語呂合わせのような
ものが多い。日本に限らず縁起物と言うのはそういうものなのかも
しれないが、日本の場合独特の習慣に語呂合わせが絡んでいる事も
少なくないので、単純にそう言う語呂合わせや言葉遊びが好きな民
族なのだろう。
﹁その話するんやったら、お節料理も考えなあかんやん﹂
﹁あ∼、そうだよね。それもあるよね﹂
﹁まあ、レイっちとかエルとかマー君とかも来るんやったら、作っ
とくんもありやない?﹂
宏の言葉に頷く日本人達。地味な割に作るのに手間がかかるもの
も結構あるが、全体でみると彩り華やかなお節料理は、季節ものと
して悪くない。
﹁因みに、お節料理って言うんは、新年の最初の三日ほどに食べる、
ちょっと手の込んだ料理の事や﹂
聞かれる前に応えた宏の言葉に、納得の表情を浮かべるファーレ
ーンの人達。
﹁この国で言うところの、モスレムと同じですね﹂
﹁モスレム? どんな料理?﹂
988
﹁小麦粉を練った生地でお肉をくるんだものと野菜をくるんだもの
を交互に串にさして焼いたもので、新年祭のときだけ食べるもので
す﹂
﹁料理自体はそんなに特別なものじゃないみたいだから、入ってる
肉と野菜がポイント?﹂
春菜の問いかけに頷くエアリスとレラ。
﹁お肉はバルーナという動物のもので、一組の番で一年に一頭しか
生まれない、ちょっと貴重な生き物です。平均で三度、長くても四
度子供を産むと寿命を迎えるのですが、その時のお肉が一番美味し
いのも不思議な生き物です﹂
﹁それ、よう絶滅せえへんなあ⋮⋮﹂
﹁だから貴重で、新年祭のときに寿命が来たもののお肉しか食べな
いんですよ﹂
エアリスの説明を聞いての宏の突っ込み、それに対するレラの言
葉にひどく納得する一同。因みに、見た目は牛と鳥のあいの子のよ
うな姿をしているが、別段キメラとかそういう類の生き物ではない
らしい。そう言う哺乳類か鳥類か分類に困りそうな生き物が普通に
居るあたり、さすがファンタジーと言ったところか。
﹁野菜は?﹂
﹁そちらはこれと言って特別なものは入っていません。ただ、この
季節に取れるものがふんだんに使われるのが決まりみたいなもので
989
すね﹂
レラの解説に、割と真剣に聞き入っている春菜。地味にテレスと
ノーラも大真面目に聞いているあたり、彼女達も食には割と全力投
球である。
﹁因みに、モスレムは新年祭のときに、国もしくは領主から住民に
振舞われる料理です。領主が直接見回らないような小さな町や村で
は、新年祭のために共同でバルーナを飼育しているそうです。その
費用も国費で賄われていますが、流石に伝統という事で、この件に
ついて文句を言う人はいませんね﹂
﹁この日ばかりは、私達のようなスラムの住民が城や広場に入って
も、誰からも文句を言われません﹂
﹁なるほどなあ﹂
まだファーレーンに飛ばされてきてから半年に満たない事もあり、
知らない文化や風習も山ほどある。自炊するのが早かった事もあり、
地味にファーレーン料理もそれほどの種類を食べていない。
これは実は、非常にもったいない事をしているのではないか。図
らずもそんな事を考える宏と春菜。相変わらず、こういうところは
思考ルーチンが実によく似ている二人だ。
﹁そう言えば、モスレムを新年の最初の日に食べるのって、何か意
味があるのか?﹂
﹁はい。役目を終えた古き命を食べる事で、過去の事を忘れること
なく糧として新たな年を生きることを誓う、ある種の儀式のような
990
ものです﹂
﹁なるほどな﹂
やはり、所変われば品変わる、と言うべきか。ファーレーンも歴
史が古いだけに、節目節目に色々と独自の習慣がある。
﹁それやったら、新年祭の前夜祭で年越しそば食べて、年明けたら
モスレムってのもええんちゃうか?﹂
﹁それも素敵ですね﹂
﹁何やったら、前夜祭の時にこっちに抜けて来れるんやったら、年
越しそばぐらいは用意するで﹂
その宏の言葉に目を輝かせ、迷う事無く頷くエアリス。この時の
やり取りがきっかけで、姫巫女が一年の最後の日に儀式の一環とし
て年越しそばを食べる習慣が定着し、醤油やダシの定着とともに一
般にも広がっていくのだが、流石にそんな未来の事は知る由もない
宏であった。
﹁そういやさ、インスタントめんの製造関係って、結局どうするの
?﹂
991
翌朝。結構遅くまで飲んでいたにもかかわらず、特に二日酔いの
兆候も見せていないウワバミ女がそんな事を聞いてきた。
﹁流石に残り時間考えたら、そこまでは無理やで﹂
﹁あんただったら、製麺機ぐらいどうとでもなるんじゃないの?﹂
﹁そら確かに、インスタントラーメンの製造ラインぐらいはどうと
でもなるけどな。予想される需要に対して最終的に供給があれな事
になるから、多分えらい値段になると思うで﹂
﹁その前に、ライン一本作った程度だったら、王家に根こそぎ買い
上げられそう﹂
﹁⋮⋮それもそうね﹂
面白半分で騎士たちに食べさせた時の反応を思い出し、苦笑しな
がら澪の突っ込みに同意するしかない真琴。ファーレーンに限らず
この世界では、いわゆる携行食の発達は地球の歴史と比較しても遅
いと言わざるを得ない。そのため、騎士たちの食いつきはものすご
いものがあった。
なまじ腐敗防止のおかげでいつでも新鮮なものが食べられ、容量
拡張のおかげで単位面積当たりの貯蔵量が大きいため、干物のよう
な貯蔵や持ち運びに便利な食べ物の研究はあまり進んでいない。取
り出してすぐ、もしくは軽く火であぶる程度で食べられるものなど、
せいぜいパンとチーズ、肉の燻製ぐらいなものだ。
因みに、肉の燻製は保存食ではなく寄生虫対策で生まれたものだ。
昔の焼き方がアバウトだった時代、表面を焦がさずに中まで火を通
992
すのが難しく、生焼けの肉を食べては寄生虫にやられていた人間が
少なくなかった頃に、その被害をなくすために虫を追い出そうと煙
でいぶしたのがこの世界の燻製肉の始まりである。
﹁そもそも、ラインだけ作っても新製品の開発とかできへんから、
やっぱりちゃんと製法マスターした人間はいるで﹂
﹁新製品、ねえ﹂
これまた納得するしかない意見ではある。自分達が知っている限
りで、現時点で存在するインスタントラーメンは袋二種にカップ二
種。しばらくは物珍しさや利便性で売れるだろうが、定着してしま
うと飽きられかねない程度のラインナップしかない。それでも利便
性などで一部の層には売れ続けるだろうが、向こうの世界ほどの広
がりは見せないのではないか、と言う懸念は残るレベルだ。
﹁そういや、ヒロは新しい奴、作ってねえのか?﹂
﹁カップのそばとうどん、それからカップ焼きそばをそれぞれ二種
類ほど作ったけど?﹂
﹁定番だな﹂
朝食に出されたカップに入ったスープを飲みながら、宏と達也の
会話を聞くとはなしに聞いていたエアリス。新製品、それも焼きそ
ばと言う単語に、好奇心いっぱいの瞳を向ける。
﹁カップ焼きそば、ですか?﹂
﹁そこに食いつくのか﹂
993
妙なところに食いついたエアリスに、思わず苦笑する達也。そば
では無く焼きそば、と言うところが目の付け所が違う。
﹁あの、焼きそばとは、鉄板の上で肉と野菜と麺を炒めて、お好み
焼きに使うソースで味付けしたものでしたよね?﹂
﹁せやで﹂
﹁それをインスタントめんで再現するというのは、どういう感じに
なるのでしょう?﹂
エアリスの質問に、テレス達も興味津々と言った感じで宏の方を
見ている。
﹁実演するんが早いとは思うけど、朝からそんなには食えんやろう
?﹂
﹁⋮⋮残念です﹂
﹁いや、昼に食べたらええやん﹂
﹁いいんですか!?﹂
﹁カップめんで満足できるんやったら、別にかまへんで﹂
宏の言葉に、満面の笑みを浮かべるエアリス。時折ドキリとする
ほど色っぽい表情を見せるようになった彼女だが、こういうところ
は全力で子供だ。
994
﹁それはそれとして、新年祭はどうする?﹂
﹁とりあえず、前夜祭は工房全体で屋台出すつもりで申請はしてき
てるよ。ちゃんと大きい屋台を調達してるし﹂
真琴の問いかけに春菜が答える。今までは基本的に春菜一人で売
り子をやっていたため、屋台で用意できる料理の数も量も知れてい
た。だが、テレスとノーラにファムのバックアップも期待できる今
回は、もう少しいろいろ手を広げてもよさそうだと宏と色々企画を
練っている。
﹁因みに、なにを売るつもりだ?﹂
﹁カレーパンと各種揚げ物はまあ定番として、おでんとたこ焼き、
お好み焼きもありかなって思ってる﹂
﹁また、手を広げるわねえ⋮⋮﹂
﹁当然、真琴さんと澪ちゃんも売り子やってもらうつもりだから﹂
春菜の言葉に、微妙にひきつった顔を浮かべる二人。
﹁あの、ハルナさん﹂
﹁何?﹂
﹁ノーラとテレスは、一体どんな事をすればいいのですか?﹂
﹁お好み焼き担当かな? たこ焼きは澪ちゃんの担当だし、揚げ物
はまだ揚げ加減の見切りが上手く出来ないと思うし、お好み焼きは
995
ちょっと練習すれば普通に焼けると思うから﹂
ノーラの質問に答え、あっさり担当を振る春菜。因みに今回、お
好み焼きは平たい串を生地で挟むようにして焼く事で、箸を使わず
とも食べられるようにする予定だ。焼きそばが無いのは、箸が使え
るのが現状、王族の一部とこの工房の人間ぐらいしかいないからで
ある。
﹁後、余裕があれば肉まんなんかも出したいんだけど、出来そう?﹂
﹁仕込みの方はまあ、問題あらへんで。量ったり混ぜたりするんは、
ライムが居ればどうとでもなるし﹂
﹁了解。じゃあ、そっちを達也さんと真琴さんにお願いかな?﹂
﹁あたしに蒸し加減を判断しろとか、なかなかチャレンジャーね﹂
﹁そこは、道具でどうにかするんがこのチームのクオリティや﹂
と、文化祭か何かのノリで企画を詰めていく一同に、どことなく
悔しそうな顔をするエアリス。
﹁親方、エルが何だか悔しそうなのです﹂
﹁エルさん、どうかしましたか?﹂
﹁いえ、皆さんがすごく楽しそうなのに、どう頑張ってもおそばを
食べに来るぐらいの時間しか抜けてこれないのが寂しいというか⋮
⋮﹂
996
エアリスの、本当に悔しそうな顔に苦笑するしかない一同。手伝
いは論外にしても、せめて屋台に買い物には来たかった。そう全身
で主張しているエアリスが、非常に微笑ましく感じてしまう。
﹁まあ、自分は役割が役割やからなあ﹂
﹁分かってはいるのですが⋮⋮﹂
基本的にもの分かりがいいエアリスだが、まだまだ子供に分類さ
れる年齢である。やはりこういう好奇心は押さえられないし、人が
楽しそうにしているところに自分だけ入っていけないというのはな
かなか苦痛だろう。
なお、ライムを除く下っ端連中は、エアリスがこんなところに出
入りするのが不自然なほど高位の貴族、下手をすれば王族かもしれ
ないと言う事を昨日と今日できっちり悟っているが、賢明にも本人
が打ち明け話をするまでは気がつかないふりをし、彼女が遊びに来
た事は外に漏らさないと固く決意していたりする。理由は簡単、恩
人に対する忠誠心に加えて、我が身がとても可愛いからだ。
﹁もうしばらくしたら、エルちゃんの方もあれこれ落ち着きそうな
んでしょう?﹂
﹁はい﹂
﹁だったら、その時に一緒に遊びに行こう。考えてみれば、私達も
ウルスの観光名所とか、全然見にいってないんだよね﹂
春菜の日本人的発想に、思いっきり呆れたような顔をするテレス
とノーラ。宏達も苦笑しか出ない。
997
﹁そもそも各国の首都など、普通は観光などするものではないので
す﹂
﹁あの、ノーラ。それ以前に、観光のために旅行する人間自体、余
程でない限りそんな人数はいません﹂
﹁ノーラは微妙に観光目的交じりでうろうろしていたのですが?﹂
﹁だったら、ノーラが私に突っ込むのっておかしくない?﹂
﹁おかしくないのです﹂
面の皮が分厚いウサギ人間、ノーラ・モーラ。妙に口が回るのが
非常に面倒くさい。
﹁あ、あの、ファーレーンは結構観光旅行も盛んな国ですので⋮⋮﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁はい。ファーレーンは交通機関が結構発達していまして、少なく
ともウルスの中産階級なら、その気になって休みを作ればカルザス
やメリージュ、その周辺の各都市ぐらいに遊びに行くのは金銭的に
はそれほど難しい事ではありません﹂
帝王学の授業で教わった通りの内容を解説するエアリスに、感心
したような表情を浮かべる一同。
﹁とは言え、皆さんの場合は、そんな一念発起して観光、と言う程
度の話ではないんですよね⋮⋮﹂
998
﹁ん∼。まあ、残り時間が少ないのは確かだけど、ウルスを出てい
く前に一度は遊びに行けると思うから﹂
﹁はい!﹂
そんな風にエアリスをなだめる春菜。こうして、とりあえず新年
祭がらみでちょっとピリピリしていたエアリスは、上手い具合に気
分転換が出来たのであった。
なお、カップ焼きそばは蓋が糊で張り付けられている平べったく
て丸い容器の未確認飛行物体な名称のものではなく、大体それと対
の扱いをされる事が多い、大阪あたりでは二食分を超大盛りとして
コンビニなどで売っている以外はあまり見かけない方を食べようと
したため、
﹁熱っ!あっ⋮⋮﹂
カップ焼きそば初心者がやりがちなミスをして湯きりの時に中身
を全滅させてしまい、しょんぼりする事になってしまうエアリスで
あった。
なお、余談ながら⋮⋮。
999
﹃仕入れた材料、もう空やで﹄
﹁こっちも、カレーパンとたこ焼きは終わったよ﹂
﹁お好み焼きの生地が切れたのです﹂
﹁おでん、最後の卵と昆布が売れたわよ﹂
﹁揚げ物、あと一品﹂
﹁肉まん、終わりました﹂
新年祭前夜の客足の前にはたかが工房一軒が用意した材料程度で
は全くの無力で、日が落ちるまでには全ての料理が終わってしまう。
予想より早くに終わってしまったので、せっかくだからと祭りを冷
やかして帰った春菜たちは
﹁思ったより早かったな﹂
﹁お帰りなさい﹂
どてらを羽織ってコタツに入り、年越しそばを食べているレイオ
ットとエアリスを見ることになるのはまた別の話である。
1000
後日談その3
﹁そおい!﹂
宏の気合の声にあわせヘビーモールが豪快な音を立てて振り抜か
れ、イノシシ型のモンスターが宙に舞う。弱点の腹部が露わになっ
たところを、一本の矢が正確に心臓まで貫く。
﹁宏、こっちに一匹頂戴!﹂
﹁宏君、こっちにも!﹂
﹁了解や!﹂
真琴と春菜の言葉に従い、イノシシをまずは真琴のところにスマ
ッシュで飛ばし、スキルディレイが終わったところで即座にもう一
匹を春菜に弾き飛ばして渡す。
﹁師匠、上!﹂
﹁こっちでも見えた!﹂
澪の言葉より一拍ほど早く飛んでくる大ガラスを発見し挑発、急
降下してきたところをカウンター気味にスマイトで叩き落とす。
﹁ウインドカッター!﹂
地面に堕ちる直前に達也が風の初級攻撃魔法で首を切り落とし、
1001
止めを刺す。血の匂いに誘われて、奥から現れた肉食の熊に対し、
﹁こいやあ!!﹂
アウトフェースで威圧をかけて自身に攻撃を集中させる宏。一瞬
ひるみ、そのまま怯えて宏を殴り倒そうと突っ込んで、次の瞬間派
手に吹っ飛ばされる熊。
﹁どうする?﹂
﹁討伐証明部位が残ればどうでもええ﹂
﹁了解﹂
吹っ飛ばされた熊が態勢を整える前にそんなやり取りを済ませ、
無詠唱の術で一瞬にして熊を氷漬けにする達也。
﹁お疲れ﹂
﹁結構ようけ出てきたなあ﹂
戦闘態勢を崩さずに周囲の討伐済みモンスターを見渡して、感心
するような呆れたような口調でつぶやく宏。彼らが仕留めたモンス
ターは二十を超える。真琴達がソルマイセンの調達をしに行った時
の数に比べれば三割にも届いていないとはいえ、比較的人里に近い
この場所で、そろそろ雪に閉ざされそうだという季節に遭遇する数
としては無視できない。
﹁五分ほどでこの数を釣り上げて殲滅して、その一言で済ます親方
たちが信じられないのです﹂
1002
﹁何というか、親方も強かったんですねえ﹂
﹁親方、格好いい!﹂
戦闘開始後、安全圏に退避していた工房の職員達が、今の戦闘に
ついて口々にそんな感想を言い合う。今回彼らは五人での連携訓練
も兼ねて、ウルス郊外にある農園地帯に依頼を受けて来ていた。ノ
ーラ達三人は、折角だから素材集めについてきてもらったのだ。無
論、地主の許可は取ってある。
郊外と言っても、東門から歩いて二時間ぐらいはかかる場所で、
街道に出て後半日も歩けばレイテ村が見えてくる、と言う微妙な位
置関係だ。依頼内容は単純で、例年になく増えたモンスターの駆除
である。内容が内容だけに宏達以外にも何組かの冒険者が来て、割
り当てられた担当区域で狩りをしている。これだけ狩れば問題なし
と言うラインは曖昧ではあるが、流石に一カ所で百も二百も仕留め
る必要もないだろう。むしろ、狩りすぎてもそれはそれで後々面倒
なことになる。
﹁別にこれぐらい普通っちゅうか、僕おらんでも真琴さんと兄貴の
コンビだけで、普通に大差ない時間で終わるやろ?﹂
﹁まあね﹂
﹁ただ、どっちが楽かって話なら、今回の方が圧倒的に楽だったぞ﹂
同じく戦闘態勢を維持しながらも宏の言葉に同意しつつ、さらっ
と本音を言う二人。
1003
同じ数を二人で仕留めるのと五人で仕留めるのでは、一見して五
人でやる方が楽なのは当然のように思える。だが、素人どうしの集
団戦ならともかく、モンスター相手となるとそんな簡単な話ではな
い。
最低でも一対一である程度のモンスターを仕留める能力があるこ
とが前提で、その上で役割分担ができなければ話にもならない。更
に欲を言うならば、役割分担の際に連携を意識して動ければなおよ
く、更に全員の得意分野がバラけつつ、それぞれの役割をある程度
他の人間が肩代わりできれば文句なし、と言う事になる。
そういう意味では、日本人チームはかなり理想に近い構成になっ
ている。彼らの場合、欲を言えばもう一人補助魔法に長けた人間が
欲しいのは事実だが、そこまで言うのは贅沢だろう。何しろ、そう
でなくても宏と言う安定度合いでは他の追随を許さない強力な壁役
がいるのに、それ以外でも達也以外は前衛が可能と言う贅沢にもほ
どがある仕様なのだ。
宏やドーガほど使い減りしない訳ではないというだけで、真琴も
澪も一線級の防御能力は持っているのである。春菜も一対一や一対
二ぐらいならどうとでもできるため、少々取りこぼしてもどうとで
もフォローができる、と言うのは贅沢にもほどがある。
﹁しかし、アウトフェース覚えてから、一段と安定するようになっ
たよな﹂
﹁無かった頃は、死角にいるのをたまに取りこぼしてた﹂
﹁流石に、単なる職人にそこまで求めるんはどうかと思うで﹂
1004
﹁むしろ、アウトフェースなしでそのライン、って言うのが異常よ﹂
達也と澪のコメントに対する宏の苦情、それに真琴があきれ顔で
突っ込みを入れる。
﹁とりあえず、もう出てくる気配もないし、とりあえずばらせるも
のはばらしちゃおうよ﹂
会話を苦笑しながら聞いていた春菜が、もう一度ざっと周囲の索
敵を済ませて提案する。春菜が特に口を挟まなかったのは、今まで
の経験上、自分達の感覚はどう転んでも一般人からずれている自覚
があったからである。もはや手遅れだとはいえ、わざわざ口を挟ん
でこれ以上職員達に変人扱いされるネタを提供する必要もないだろ
う、などと珍しく保身に走った思考をしていたのはここだけの秘密
だ。
﹁せやな。っちゅうても素材としては微妙なんが多いけど﹂
﹁みんなの練習用に使うのは厳しいか?﹂
﹁毛皮のなめし以外は、辛うじて春菜さんだけやなあ。せめて七級
ポーションに手を出せるレベルで無いと、薬の素材として使うんは
難しい奴ばっかりや﹂
宏の言葉になるほどと頷きつつ、とりあえず討伐証明部位だけ切
り取っていく一同。一応金になるからという事で、取れるものはす
べて回収したが、加工するかどうかは悩ましいところである。
﹁で、そっちは薬草類はどの程度集まった?﹂
1005
﹁とりあえず、籠一杯はどうにか集めたのです﹂
﹁ファムが大活躍でした﹂
﹁テレスもかなり頑張ってたじゃん﹂
どうやら、収穫としては上々だったらしい。テレスとファムに比
べノーラの疲労が濃いのは、単純に技量の差であろう。元々森の民
であるテレスや、よく雑草から食べられるものを見分けて収穫して
いたファムに比べ、どちらかと言うと雑用的な仕事で食いつないで
きたノーラがこの方面で負けているのは仕方が無い事だ。
﹁なら、とりあえず報告に戻って、ついでに昼にするか﹂
﹁せやな。いくら温度制御のエンチャかけてあるっちゅうたかて、
寒いもんは寒いし﹂
﹁雪が降ってきたら、ちょっと厄介だよね﹂
達也の言葉に同意する宏達。このあたりはウルスに近いと言って
も、結構積もる地域なのだ。今も三日前に降った雪がそこかしこに
残っており、街道のあたりに比べると二度か三度気温が低い事を物
語っている。
﹁春菜、お昼は何用意してきたの?﹂
﹁ギャノのいいのを仕入れたから、ザプレにしてみたんだ﹂
﹁いいわね﹂
1006
春菜の返事に、実に嬉しそうな顔をする真琴。なお、ギャノとは
ブリのような見た目で鮭のような味がする白身の大型魚で、ザプレ
とは食材を大きな木の葉でくるんで焼く包み焼きである。ギャノに
限らず様々な肉や魚で作るザプレは、テローナ、ブルフシュと並ぶ
ファーレーンを代表する国民食だ。季節や地域ごとに使われる葉っ
ぱが違い、それぞれに独特の風味が現れるのが特徴で、屋台で売ら
れている物は葉っぱを剥きながらかぶり付くのが普通の食べ方であ
る。なおこの三種の料理は、上品にアレンジされて正式なコースに
出てくる事もある。
﹁いい感じに寒いし、早く帰りましょ﹂
﹁了解﹂
上機嫌な真琴に合わせ、暗に早くご飯にしようと帰還を催促する
澪。そんな彼女達に思わず生温い笑みを浮かべながら、特に文句を
言う理由もないのでさっさと戻る一行。昼までに狩ったとしては破
格の数の討伐証明部位に、同じタイミングで戻ってきた他の冒険者
が唖然としたのは別の話である。
﹁来週から、護衛でカルザスまで行ってくるから﹂
遊びに来たエレーナとエアリスに対して、その予定を告げる春菜。
宏と達也、真琴の三人は所用で外出中、澪は工房の監督中なので、
1007
彼女達の相手をするのは春菜一人だ。レラはこういう時、お茶を持
ってくる以外ではまず顔を出さないし、ライムは先ほど昼寝を始め
たため、起きてくるのはもうしばらく先になる。
アズマ工房は出入りする人間が限られ、下手な要塞よりも防衛設
備が整っている事もあり、転送陣もしくは転移魔法を使って直接来
るのであれば、場合によっては城よりも余程安全だ。そのため、王
子王女が護衛なしでこちらに顔を出す事は割と黙認されている。そ
もそも、エレーナとエアリスをかくまっていた時期の事を考えると、
何を言うのも今更と言う感じが強い。
王族が一つの業者とあまり深いつながりを持つのはどうか、とい
う意見も当然あるのだが、そもそもアズマ工房以外で調達できない
物が多すぎる。その中には国策で広めていこうという機運が高まっ
ている物もあり、それらがもっと手軽に手に入るようになるまで、
アズマ工房との関係を弱くするのは不可能である。そう言った事情
から、工房は権力闘争に関わらない部分で微妙かつデリケートな位
置に立たされている。もっとも、所属している人間は、王家と関係
を深めてどうしようという野心の類は一切ないのだが。
﹁⋮⋮もう、そんな時期なんですね﹂
﹁まあ、中央でも場所によっては雪が解け始める頃だものね﹂
などと言いながら、こたつに入ってぬくぬくする王族二人。そろ
そろ冬も終わりだと言っても、寒いものは寒いのである。
﹁うん。工房の皆もそろそろ最低限の仕事はできるようになってき
たし、いい機会だから練習しておいた方がいいかな、って﹂
1008
春菜のいう練習とは、この場合二つの意味を持つ。一つは言うま
でもなく工房のメンバーが宏達が不在でもちゃんと仕事をする練習
で、もう一つは宏達の長距離移動である。
因みにウルスもカルザスも港町だが、言うまでもなくウルス︲カ
ルザス間の物流を全て海運だけでまかなえる訳ではない。途中にい
くつか村や町があるし、海路で長時間運搬するには向かない物も当
然ある。それに、仮に海岸線上にある漁村だったとしても、必ずし
も船が寄港してくれる訳ではなく、転送ゲートなんて便利なものは
各国の首都もしくは一番規模の大きな都市の内部交通機関としてし
か使われていない。転移陣も主要な都市に小規模なものが設置され
ている程度で、言うまでもなく使えるのは王族か貴族、もしくは王
家の許可をもらった人間のみである。
そう言う訳で、隊商の護衛というメジャーな仕事は、鉄道のよう
に便利で速くモンスターに強い陸運手段が完成しない限りは、そう
簡単には無くならないだろう。
﹁まあ、幸いにして転送石はいくらでも用意できるから、少なくと
も宏君はファーレーンを出てもそれなりの頻度で戻る予定ではある
んだけどね﹂
最低限の仕事はできるようになった、などと言ったところで、単
に量って混ぜるだけのものが余り失敗せずにできるようになった、
と言う程度にすぎない。カレー粉はほぼ問題なく作れるが、ある程
度手順に癖がある等級外ポーションや熟成が絡む醤油などは、少々
安定性に欠ける。そのため、最低でも月に一回か二回は、宏か澪が
戻って指導をする必要があるのだ。
そもそも、三カ月やそこらで、そんな高度な技が身につくはずが
1009
無いのだ。むしろ、三カ月でガラス瓶を作るところから教えて、等
級外ポーションの成功率が少々不安定と言うレベルまで到達した事
が異常なのである。
なお、余談ながら、転送石を湯水のように使うというのは、ある
意味で冒険者の夢だ。転送石と言うのは、一度行って拠点登録を済
ませた、もしくはしっかりイメージができるほど馴染んだ場所に一
瞬でいけるという夢のアイテムである。一つの石で五、六人移動で
き、ノーリスクである事もポイントだ。便利ではあるが使い捨てで、
しかも徐々に魔力が抜けていくため調達してからの使用期日がそれ
ほど長くない。徐々に魔力が抜けていくという性質上基本的に受注
生産にならざるを得ず、価格も一万クローネと驚きのお値段になる。
転送石が高いなら長距離転移の魔法を使えばいいじゃないか、と
いう意見もあるが、あれはあれで消費が重く、移動できる場所の制
限が転送石より厳しい。一度使用した後の再使用時間が最短でも二
十四時間と長く、何より集団で転移すると、何千回かに一回は転送
事故を起こす事があるという危険な魔法なのだ。更に言えば、バル
ドのように外法を使うか十人以上で儀式を行うかしない限り、一度
に移動できる人数、持ち運べる物量は転送石と変わらない。まあ、
起こる事故の大半は、移動しようとしたのとは違う拠点に飛ばされ
るだけで、レイオットやエアリスが使うアルフェミナ系特殊転移魔
法は人数以外の条件全てを無視できるのだが。
なお、いくらでも用意できるとは言えど流石に限度はあるので、
流石に毎日転送石で行き来するような使い方は厳しい。第一、こち
らの転送石はゲームの時と違って、移動距離が長くなると一個で転
移できなくなるため、最初の目的地の南部大森林地帯中央部あたり
になると一個で行き来できるのかどうかは微妙なところである。次
の目的地であるダールに至っては国境付近でも確実に二個、首都近
1010
辺になると三個は必要になる。
﹁そう言えば、転送石や転移魔法ではない移動手段を作るとか言っ
ていたけど、そっちの方はいいの?﹂
﹁今試運転中。人通りが少ないところを軽く走らせて、不具合が無
いか調べてくるんだって﹂
﹁なるほど。それで、結局どんなものを作ったの?﹂
﹁ゴーレム馬車って言えば通じるのかな?﹂
春菜の言葉に納得する二人。ファーレーンでは比較的珍しいもの
ではあるが、全く見かけない訳でもない。ファーレーンの場合、魔
法動力を使った交通手段は船が主流であるため、陸運に使われるゴ
ーレム馬車はあまり発達していない。ゴーレム馬車の本場と言えば
やはり、内陸部と言う立地上陸運が発達したローレンであろう。
﹁それで、その馬車はゴーレムが引っ張ってるタイプ? それとも
車体自体がゴーレムのもの?﹂
﹁車体がゴーレムのタイプ。宏君が夜なべして、七人ぐらいが椅子
に座れる奴を作ってくれたんだ﹂
﹁それは、割と大きなものですね﹂
﹁問題点の洗い出しと改良が終わったら、エルちゃんとエレ姉さん
も一度乗ってもらうつもりだって﹂
﹁それは楽しみね﹂
1011
﹁楽しみです﹂
どことなく嬉しそうに言う二人に、多分見れば驚くんだろうなあ、
などと無責任な事を考える春菜。
賢明な方ならお気づきだろうが、宏が作ったのはいわゆるワンボ
ックスの乗用車である。言うまでもなく、アクセルをベタ踏みすれ
ば時速百キロなど余裕で超えるだけのスペックを持つ、モンスター
を除けば現時点では間違いなくファーレーンはおろかこの世界で最
速の乗りものだ。サスペンション周りは宏が持てるすべての技術を
つぎ込んでいるため、乗り心地は現存する馬車はおろか地球で走っ
ている車と比較しても上を行くだろう。
出せる速度が速度ゆえ、間違って何かにぶつかった時のダメージ
は馬車の比ではない。そのため、不具合だけではなく安全対策の不
備が無いかも徹底的に洗い直している。わざわざ外に出て、人通り
の少ない街道の脇道なんぞを走り回っているのもそれが理由だ。
もっとも、見れば驚くというのは速度やスペックの問題ではない。
むしろ速度やデザイン、乗り心地なんぞよりも、使わない時の事を
考えた宏が組み込んだ余計なギミックの方が問題である。
﹁そういえば、みんなで農園地帯で暴れてきたと聞いたけど?﹂
﹁確かに、そう言う依頼は受けたよ﹂
﹁朝のうちに二十を超えるモンスターを仕留めたというのは、本当
ですか?﹂
1012
﹁本当だよ。結構いっぱいわらわら出て来て。宏君が全部かき集め
てくれたから、そんなに面倒な仕事でも無かったけど﹂
春菜が最後に付け加えた言葉に、思わず顔を見合わせるエレーナ
とエアリス。やるべき時にはちゃんと前に出るとはいえ、基本的に
臆病者の宏が積極的にモンスターをかき集める。どうにも違和感の
ある話だ。
﹁⋮⋮良く、ヒロシがその役回りをやってくれたわね﹂
﹁宏君にも、いろいろ思うところはあったみたい。まあ、抱え込む
って言っても長くて五分もあれば終わるからとか、出てくるモンス
ターの強さ的に、当ってもそんなに痛くなさそうだったとかも理由
だとは思うけど﹂
春菜の指摘に、納得がいくようないかないようなそんな気分にな
る。実際、人の生活圏が近い場所に出てくるモンスターなど、宏の
防御力の前には全くの無力だ。農園地帯で相手にした連中にしても、
一般的な七級冒険者では数で勝っていても無傷で終わらせられるか
は微妙な相手だが、宏なら裸でも無傷で終わる程度の火力しかない。
当れば痛いと言っても、一番痛くて小指をたんすの角にぶつけたほ
うが何倍も痛いのだから、調子に乗って前に出てもおかしくはない
のかもしれない。
だが、それでもどうしても違和感があるのは、二人の中では戦闘
要員にカウントされていない、と言う事が大きいだろう。
﹁⋮⋮やっぱりしっくりこないわ﹂
﹁ヒロシ様は、大きな敵と戦っているような鋭い目をするより、貴
1013
重な素材に目を輝かせたり、難しいものや新しいものにチャレンジ
する時の真剣な姿の方が魅力的だと思います﹂
﹁まあ、エルちゃんの言う事には私も賛成なんだけど、ね﹂
揃いも揃って、宏が冒険物語の主人公には向いていないと言い切
る女達。残念なことに、レイオットをはじめとする他の男達はおろ
か、当人すらもその意見に賛成するあたりが情けないというかへた
れているというか。
﹁とりあえず、どうせこれからも戦闘に巻き込まれる事はたくさん
あるだろうし、実戦で連携の練習をしておいた方がいいって宏君も
含めた全員の意見が一致したんだ﹂
﹁残念ながら、きっとそれが正解なのよね﹂
﹁ファーレーンは幸運にも、バルドの手による転覆計画を間一髪の
ところで阻止する事が出来ましたが、他の国までそう上手くいくと
は⋮⋮﹂
﹁結局、そこなんだよね﹂
エアリスの言葉に、春菜がため息をつく。元の世界に戻る事を考
える限り、どうあがいてもこの手の厄介事と縁を切る事は出来ない。
進んで首を突っ込むつもりはないにしても、十中八九巻き込まれる
と考えて間違いないだろう。
﹁やらなきゃいけない事、やった方がよさそうな事はいくらでもあ
るけど、どれから手をつけるべきかはちょっと悩ましい感じ﹂
1014
﹁そう言う時は、すぐに終わるものか、ずっと続ける必要があるも
のから手をつければいいわ﹂
﹁習慣づけが必要なものは、思い立った時に始めないと、いつまで
もズルズルと先延ばしにしてしまいます﹂
﹁ん、そうだね﹂
二人の言葉に同意しつつ、その内容について余計な事に気がつく。
﹁なんか、習慣づけがどうって言う話は、ダイエットの話題を思い
出すよ﹂
﹁そう言えば、レナお姉さまやマリアお姉さまは、晩餐会や夜会が
続いた時に﹃体重が!﹄とか﹃コルセットが!﹄とかいいながらこ
っそり走っていましたわ﹂
春菜の言葉に、懐かしそうにエアリスが思い出話をする。どうや
ら、ファーレーンにもダイエットと言う単語とその概念は存在する
らしい。
﹁エアリスもそのうち、そっちの仲間入りする⋮⋮事もないわね。
姫巫女だし﹂
﹁姫巫女だと、太らないの?﹂
﹁基本は粗食だし、地脈の浄化は物凄くエネルギーを使うみたいな
のよね﹂
それが理由か、歴代の姫巫女は皆、胸部と臀部を除いてスレンダ
1015
ーな体型をしていたらしい。
﹁とりあえず、この一点に関しては、私達みんなカタリナを評価し
ていたわ。どんなに食べても太らないよう、常日頃から体型と美貌
の維持のためにびっくりするほど努力していたもの﹂
﹁あ∼、結局まともに話した事は無かったけど、確かにそんな感じ
がする人だった﹂
﹁そう言う春菜はどうなの? あなた、いつもものすごく食事にこ
だわってるわよね?﹂
﹁ん∼。うちの家系は基本、そう簡単には太らない感じ﹂
﹁そうなの?﹂
﹁うん。特にみんなでカラオケ、えっと私の国で個人、もしくは小
集団でそれ専用の設備で歌を歌う事をカラオケって言うんだけど、
そのための施設に歌いに行った場合、家族四人で三時間歌って、お
父さん以外は平均二キロぐらい体重が落ちるし﹂
﹁⋮⋮一体どれだけ歌にエネルギーを使ってるのよ⋮⋮﹂
それでも春菜はまだ趣味の範囲でおさめているため、家族につら
れて全力以上を出して歌った時以外はそれほどのエネルギーを消費
したりはしないが、母の雪菜や妹の深雪などは常に全力以上の全力
で歌うため、一回歌うだけでもジョギング以上のカロリーを燃焼し
ている。
﹁後、こっちに来てから、体力を目いっぱい使う機会が増えたから、
1016
むしろ一時期は体重落ちてたし﹂
﹁それでその体型と美貌を維持するとか、羨ましいを通り越して女
性の敵ね﹂
﹁真琴さんにも言われたけど、体質の事について文句を言われても
困るよ﹂
エレーナにまで言われて、苦笑とともに苦情を言うしかない春菜。
反論のためになおも言葉を重ねようとしたところで、澪が上がって
きた。
﹁春姉、そろそろご飯の支度﹂
﹁あ、そうだね﹂
澪に言われて、こたつから出ていく春菜。
﹁そう言えば、今日の食事は何?﹂
﹁最近ファーレーン料理に凝ってたから、今日は久しぶりに国の料
理って事でカキフライ。そろそろシーズンも終わりだし﹂
﹁料理を覚えたいので、お手伝いしてもよろしいですか?﹂
﹁了解。色々教えてあげる﹂
エアリスの申し出を快諾し、色々と料理を教え込む。匿われてい
た頃から合間を見ては手伝いをしていたエアリスは、簡単なものな
ら危なげなく作る事が出来る腕を持っている。その意外な手際の良
1017
さを見せられて、
﹁十一歳になったばかりのお姫様に、どう逆立ちしても太刀打ちで
きないとか⋮⋮﹂
料理が苦手なテレスががっくり落ち込んでいたのはここだけの話
である。
﹁あんた達が、真琴の仲間?﹂
﹁そうだが、あんたは?﹂
﹁真琴の飲み仲間、ってところかな?﹂
護衛任務当日。集合場所に顔を出したところで、知らない女冒険
者に声をかけられた。冒険者をしている女性としては珍しく、その
栗色の髪を長く伸ばしている。
﹁あたしはイルヴァ。チーム﹃ブラッディローズ﹄のリーダーで、
ランクは五級。因みに、うちのチームは全員女。今回、あんた達と
一緒にカルザスまで隊商を護衛することになったわ﹂
﹁俺は香月達也。アズマ工房の交渉担当その一ってところか。ラン
クは八級に上がったところだな。今回は、見習い以外の全員で来て
1018
る﹂
とりあえずチーム名をアズマ工房と言う事にして、自己紹介をす
ませることにした達也。イルヴァの自己紹介を聞いたところで、自
分達がこれと言ってチーム名を決めていなかった事を思い出したの
だ。冒険者協会の方ではアズマ工房専属の冒険者と言う扱いで登録
されているため、達也の自己紹介もそれほど大きく間違ってはいな
い。
﹁噂のアズマ工房の人間と一緒できるとは、面白い事になりそうだ
な﹂
達也とイルヴァのやり取りを聞いていたらしく、なかなかいいガ
タイをしたハンサムが声をかけてきた。
﹁噂? と言うかあんたは?﹂
﹁おう、すまねえ。俺はハーン。ハーン・サンドロームだ。ランク
は六級でチーム﹃深緑の牙﹄の一員だ。向こうと同じく、カルザス
行きの隊商の護衛に参加する。リーダーは別にいるんだが、あんま
りこういうあいさつ回りが得意じゃ無くてな﹂
﹁まあ、それはうちの工房主も同じ事だからな。別に気にせんよ﹂
﹁そう言ってくれるとありがたい﹂
達也の返事に、本当にありがたそうに笑うハーン。その笑顔は、
彼の気の良さを余すことなく表に出している。
﹁で、噂って?﹂
1019
﹁色々、変わったものを作ってるんだろ?﹂
﹁否定はできないな。まあ、作ってるのは俺じゃないがね﹂
そんな感じで達也が一緒に護衛をする他のチームと親睦を深めて
いると、
﹁兄貴、そろそろ出発するらしいで﹂
飛んで火に入る夏の虫、と言う感じで宏が声をかけてきた。
﹁もうそんな時間か。あ、そうだ。ついでだから紹介しておく。ヒ
ロ、そっちの軽戦士がチーム﹃ブラッディローズ﹄のリーダー・イ
ルヴァで、このハンサムが﹃深緑の牙﹄の交渉担当のハーンだ。二
人とも、こいつがうちの工房主、東宏だ﹂
﹁ハーン・サンドロームだ。よろしく﹂
﹁イルヴァ・ミールよ。いつも真琴には世話になってるわ﹂
﹁東宏や。あんまり冒険者らしい事はやってへんから、足引っ張ら
んように頑張るわ﹂
正直に余計な事を言ってのける宏に、思わず苦笑が漏れる達也。
もっとも、単に背負っているだけとはいえ、柄まで金属で作ってあ
るような洒落にならない重量のヘビーモールを軽々と持ち歩いてい
る人間を、単なる足手まといなどと考えるほど二人ともレベルは低
くないのだが。
1020
﹁しかし、ハーン・サンドロームかあ﹂
﹁何か文句でもあるのか?﹂
﹁いんや。ただなんとなく、あだ名とか略称とかが﹃ハンサム﹄に
なりそうやな、って﹂
余計なネタを振った宏に、同時に噴き出す達也とイルヴァ。イル
ヴァの反応から、ハンサムと言う単語はこちらでも通じるらしい。
前に他の誰かにも言われた事があったハーンは、苦笑するだけにと
どめる。その様子が妙に大人の風格を漂わせている。
﹁まあ、とりあえず行こうや。ちんたらやってたら置いてかれる﹂
﹁了解。とは言え、街道沿いに移動するんだから、俺達の出番はそ
んなにないだろうがね﹂
﹁でもないぞ。最近は大分落ち着いてきたが、それでもモンスター
の異常発生は落ち着いてない﹂
﹁じゃなきゃ、あたしたちみたいにランクの高い冒険者を、たかが
カルザスに行くぐらいで雇う訳無いじゃない﹂
﹁なるほど、道理だな﹂
達也ののんきと言うか甘い考えを、一言でバッサリ切り捨てるハ
ーンとイルヴァ。その言葉に納得して見せる達也。
﹁とりあえず澪もおるし、索敵に関してはそんなに心配いらんやろ
う﹂
1021
﹁だな﹂
そういいながら、とりあえず割り当てに従い真ん中の馬車に乗り
込む。ブラッディローズは先頭、深緑の牙は殿だ。そうやって何事
もなく出発した宏達を見守り、どこかにこそこそ連絡を入れる背が
高くて胸の無い騎士風の女性と中肉中背で黒ずくめのそれなりに胸
のある少女の存在には、結局最後まで気付かない日本人一同であっ
た。
﹁師匠、不確定名巨大な鷹が三羽、こっちをロックオンしてる﹂
馬車の幌の無い部分に出て、空を見上げて澪が言う。なお、護衛
だからと言っても、馬車の外を歩いたりはしない。足が遅くなれば
余計に襲われやすくなるのだから、当然と言えば当然だろう。何し
ろ、この世界の馬車はスキルの影響で、荷馬車でも平均して時速二
十キロ以上の速度が出るのだ。故に荷台に乗らない連中は即応しや
すいように、隊商が経費で借りた馬に乗って周囲を警戒している。
宏達の場合は真琴と春菜がこの役割である。
ファーレーン国内では、人数分の馬を用意して襲撃をかけてくる
ような大規模な盗賊団はほぼ駆逐されているため、本来はウルスと
カルザスの間を移動するぐらいなら大した護衛は必要ない。街道付
近に出てくる、馬車が走行中に襲ってくるような足が速くて獰猛な
1022
モンスターは、せいぜいポイズンウルフぐらいしかいないためであ
る。だが、バルドがいろいろやらかした影響がまだまだ残っている
ため、今回みたいに大型モンスターに襲撃をかけられるリスクが数
年前とは比べ物にならないほど高い。
余談ながら、こういう場合馬は冒険者協会で借りるのが一般的で、
返却は基本的に行き先の協会で問題ない。基本的に行き先ごとに一
回いくらで貸し出されるが、特殊な魔道具で生命反応やら何やらを
追跡しているので持ち逃げは出来ない。また、不慮の事故に備えた
保険も貸し賃に乗せられるため、餌代も考えるなら買うよりは安い
とは言っても、それほど安いものでもない。ただし、保険に相当す
る料金は馬を返した時に返金されるため、懐に多少でも余裕がある
なら、貸し馬はそれほどハードルが高い移動手段でもない。
﹁撃ち落とせるか?﹂
﹁問題ない﹂
宏の質問に応え、矢継ぎ早に三射、矢を放つ。他の人間が目視で
きる距離になったところで矢が心臓を射抜き、そのまま墜落してく
る鳥三羽。地面に堕ちる前に、達也がアポートを発動させて手元に
引き寄せ、邪魔にならないように鞄に収納する。
﹁トロール鳥か。どうする?﹂
﹁候補は唐揚げ、照り焼、ステーキにカツあたりやな﹂
﹁持って帰って、スモークするのもいいんじゃない? ってか、あ
たしはそっちが食べたい﹂
1023
﹁ここであえて煮込み﹂
達也の問いかけに帰ってくる回答が、全て食うことを前提とした
ものなのが彼ららしいところであろう。特に真琴が主張する燻製は、
飯であると同時に酒のあてでもある。最近は彼女のために、芋や麦
で焼酎を仕込む羽目になっているのはここだけの話だ。
﹁誰も、肉を売りに出そうって言わないのが凄いよね。それも、一
羽ならともかく三羽も仕留めて﹂
﹁普通、トロール鳥の肉となると、まずはどこに売るかを考えるも
のなんですけどねえ﹂
苦笑しながらの春菜の言葉に、同じく苦笑しながら同意する御者。
﹁あんた達と合流してから一番最初に狩ったトロール鳥、料理した
いって言ったのは春菜だった事、あたしは忘れてないんだけど?﹂
﹁あの頃は、食材もそんなに充実してなかった時期だし。それに、
あの大きさの鳥を三羽分って、結構食べきるのに苦労するよ?﹂
﹁だったらいっそ、屋台で使えばどうだ?﹂
﹁屋台に出すんだったら、後二羽ぐらいほしいかな﹂
﹁そんな余計な事を言うと、それ以上の数を仕留める羽目になるぞ﹂
どこまでものんきな会話をつづける日本人達。その時。
﹁不確定名、巨大な鷹が五羽。仕留めていい?﹂
1024
﹁撃ち漏らすなよ∼﹂
マーフィーの法則に従ったか、再びトロール鳥が出現する。また
しても目視できるようになると同時に撃ち落とされて、達也に引き
寄せ魔法で回収される。
﹁トロール鳥って、あんなに簡単に処理できたか?﹂
﹁弓手の腕がよければ不可能ではないだろうが⋮⋮﹂
その様子を、何とも言えない顔で観察する深緑の牙の一行。先頭
にいるブラッディローズのメンバーに至っては、なにが起こってい
るのか把握も出来ていないだろう。多分、彼女達の眼には、いきな
り矢に心臓を貫かれたトロール鳥が落ちてきて、唐突にその死体が
消えたようにしか見えないはずだ。
﹁もうすぐ野営の時間だし、その時にざっと処理して食うか?﹂
﹁せやな。トロール鳥は基本、肉以外価値ないし。で、どうやって
食べる?﹂
﹁使える調理器具は?﹂
﹁鉄板と鍋やな。大概のモンは出来んで﹂
﹁だったら、揚げ物でいいんじゃないかな? おすそわけもしやす
いし﹂
前後のチームの困惑など知った事ではない日本人一同は、そんな
1025
風に平常運転でメニューを決める。
﹁⋮⋮うまい飯にありつけるのはありがたいんだが⋮⋮﹂
﹁この釈然としない気持ちは何かしら⋮⋮﹂
渡された唐揚げをかじりながら、次々に取り出される調理器具で
野営地とは思えないほど充実した料理を用意する宏と春菜を、本当
に釈然としない顔で見つめる二つのチームの代表者であった。
﹁そろそろ交代だぞ﹂
﹁了解。すまんね﹂
﹁それが役目だからな﹂
三日目の早朝。見張りのローテーションで起こされた達也達が、
眠気を振り払って見張りにつく。ゲームの時は徒歩で複数日かかる
場所への移動は、わざわざ野営などせずにログイン時間を目いっぱ
い使って移動していたため、こういう警戒は今一歩慣れない。
カルザスとウルスの間の移動、それも複数の村や町を経由する迂
回ルートにおいて、最もリスクが高いのがこの二日目と三日目の晩
の野営である。この区間には宿場町も農村も無いため、どんなに頑
1026
張っても野営を避ける事が出来ない。盗賊などに襲われるのも、大
体このタイミングである。まあ、襲われやすいと分かっている場所
を国が放置している訳もなく、それなり以上の頻度で山狩りなどを
しているため、そんなに襲撃をかけられる訳ではないのだが。
因みにこれまた言うまでもない事だが、徒歩で五日程度という最
短ルートは、余程急ぎの、それも海運が使えない種類の荷物が大量
にある場合でもない限りは、普通の隊商はまず使わない。寄り道す
る街が一ヶ所しかない上、その街にはウルスとカルザス双方から定
期的に荷馬車が出ているため、ほとんど旨みが無いからである。
﹃野営、っちゅうんも結構大変やなあ﹄
パーティチャットで駄弁りながら、それぞれの警戒場所に散って
いく宏達。流石に護衛対象の規模がそれなりに大きいため、一ヶ所
で固まっている訳にはいかない。
﹃見張りがいるからな。それとも、見張りを置かなくても安全に休
める道具があるか?﹄
﹃材料が微妙や。流石にウルスにおって手に入るもんで、全部まか
なえる訳やあらへん﹄
当然と言えば当然の宏の言葉に、微妙に納得する達也。実際のと
ころ、弱いモンスターを追い払う程度の道具は普通に売られてはい
るが、残念ながら消耗品なので、今回程度の規模の隊商ではどうに
も使い勝手が悪い。その上、追い払えるレベルがせいぜいトロール
鳥の弱い個体ぐらいまで、それも群れの規模によっては気が大きく
なっていて無視して突っ込んでくる事がある、と言う微妙なライン
なので、結局見張りなしと言う訳にはいかない。無論、盗賊達にも
1027
効果が薄い。
もっと強力なモンスターを追い払えたり、使用回数に制限が無か
ったりとさらに便利な物もあるにはあるが、ほとんどがアーティフ
ァクト扱いで一般人には入手不可能だ。辛うじて中級モンスターを
追い払える使い捨ての結界アイテムが流通しているが、使うのは三
級ぐらいの冒険者が遠方のダンジョンに行く時に余計な消耗を避け
るため、ぐらいしかない。
結局、余程名の通った商人でも、陸路を行く時はがっつり護衛を
雇うのが普通となっている。
﹃微妙でも、少しはマシになるんだよね?﹄
﹃まあ、普通に売っとるやつよりは強い効能はあるで﹄
﹃だったら、間に合わせ程度で作るだけ作っておくのは?﹄
﹃考えとくわ﹄
そんな感じで駄弁りながら、警戒しつつも手待ちの時間を潰すた
めに薬草や薪の類を集めていく一同。そろそろ日が昇ろうかと言う
あたりで
﹁オキサイドサークル!﹂
冬眠し損ねて迷い込んできたらしいロックボアを、達也が酸欠に
して仕留める。
﹁ヒロ、澪、他に居るか?﹂
1028
集まってきた宏達に、端的に質問を飛ばす達也。
﹁居らん﹂
﹁範囲内にアクティブなのはいない﹂
﹁じゃあ、起こす必要もないわね﹂
念のために頭を落とし、吊り下げて血を抜きながら真琴が結論を
出す。血の臭いで余計なものを誘い出さないように消臭結界を張り、
抜いた血を容器で受けて宏に預ける。こういう時の処理は専門家に
任せるのがいい。因みに、消臭結界は真琴が使える数少ない魔法の
一つで、ゲーム時代に血の臭いで余計なモンスターを集めないため
に良く使っていたのだ。
﹁また肉やな﹂
﹁ベーコンにするには、ちょっと時間が足りないかな?﹂
﹁何やったら、熟成加速器使えばええで﹂
﹁分かった。ちょっと借りるね。折角だから、朝ごはんに使おう﹂
そう言って、ロックボアの肉のいいところをいぶし、ベーコンに
加工し始める春菜。
﹁折角だから、鳥肉も﹂
﹁はいはい。何なら、チーズとかもスモークする?﹂
1029
﹁いいわね﹂
などと言いながら、周囲を起こさないように注意しつつ和気藹々
と燻製を作っていく春菜達。野営の見張りの最中に、それも朝一番
の時間帯に燻製など作る冒険者はそうはいないだろう。
﹁⋮⋮で、探知魔法にモンスターが引っ掛からなかったから、ロッ
クボアを解体してベーコン作ってた、と﹂
鉄板でいい音を立てながら焼かれるベーコンを見ながら、呆れた
ように達也の報告を聞くハーン。毎食毎食手の込んだ料理を作る宏
と春菜に、思わず白い目を向けたくなるのも仕方が無いことだろう。
﹁わざわざ騒ぐ必要もないかと思ってな﹂
﹁分からんでもないが、はぐれとはいえモンスターが出たんだ。ち
ゃんと起こしてもらえるとありがたいんだが?﹂
﹁あ∼、すまん。一瞬で終わった上に、俺達はそう言う部分の感覚
がどうにもずれてるんだよなあ﹂
頭をかきながら、申し訳なさそうに言う達也。
﹁と言うか、一体今までどういう生活してれば、その実力でここま
でずれた思考になるのよ?﹂
﹁もともと冒険者じゃなかったから、そこは言われても困る。冒険
者登録したのも最近だし、護衛任務やってるのも、必要に迫られた
部分が強いんだよ﹂
1030
﹁必要に迫られた?﹂
﹁ああ。世界中を旅する必要が出てきてな。長距離移動の訓練とし
て、先輩方にどういったことを注意するべきか、教わろうと思って
たんだ﹂
世界中を旅する必要、と言うところに興味を惹かれそうになるが、
問題はそこではないので自重する二人。
﹁まあ、お前達は護衛任務は初めてらしいし、今回はこれ以上は言
わん。次からは注意してくれ﹂
﹁了解。飯が出来たみたいだし、さっさと食おうぜ﹂
達也に言われて、苦笑しながらお相伴に与る二チーム。何だかん
だ言って、彼らも日本人達の行動の恩恵を受けている。
﹁ロックボアにトロール鳥が八羽もとは、大収穫ですね﹂
﹁よろしければ、毛皮と肉を買い取っていただけませんか?﹂
﹁もちろんです。これだけの質なら、協会の買取査定より五割上乗
せしても十分儲けがあります﹂
﹁普通の査定でいいですよ。あまりちゃんとした処理は出来てない
とのことですし﹂
朝食の席で、そんな会話が繰り広げられる。これだけ丁寧にきっ
ちり処理しておいて、ちゃんとした処理は出来ていないとかどうい
1031
うことかと突っ込みそうになり、あのアズマ工房の主が来ているの
だからおかしなことではないのかもしれない、と考え直す。
結局、到着するまでにもう一度モンスターと遭遇し、夕食に熊肉
のカレー焼きが振舞われることになるのであった。
﹁やっとついたね∼﹂
﹁やっぱ、ウルスよりカルザスのほうが港町っぽいんやなあ﹂
﹁ファーレーン中央部の南側入り口ですからね。そもそも、山側に
あった城が港町と一体化するほど大きくなったウルスが特殊なので
あって、世界中のほとんどの港町は、建物の様式はともかく規模や
景色としてはこんな感じですよ﹂
﹁ウルスは普通の大都市四つ分ぐらいの規模があるものね。港があ
るのに海が見えない町って、こっちじゃ少ないってのはあたしでも
分かるわ﹂
ウルスを出発して二週間後。現実の光景としては初めて見ること
になったカルザスを前に、好き放題言い合う一行。ギルドで成功報
酬を貰って、せっかくだからと観光スポット的な扱いになっている
アルフェミナ神殿のカルザス分殿を覗くと⋮⋮。
1032
﹁お待ちしていました﹂
神殿の裏手に通され、満面の笑みを浮かべるエアリスに出迎えら
れる。
﹁え、エルちゃん!?﹂
﹁またなんでカルザスに?﹂
﹁各地の分殿めぐり、最初の一箇所の時期を繰り上げて、場所をカ
ルザスにしていただいたんです﹂
﹁何、その権力の私的利用⋮⋮﹂
あまりにあまりなエアリスの言葉に、思わず力なく突っ込みを入
れる真琴。その言葉を予想していたのかにっこり微笑むと言葉を返
すエアリス。
﹁神殿の皆様もお父様達も、姫巫女として初めてウルスから出て行
く私のことを大変心配してくださりまして。皆様がここに来るとい
う話をしたら、二つ返事で許可をくださいました﹂
満面の笑みを崩さずにその言葉を告げられ、返す言葉を見つけら
れずに全面敗北を受け入れる一行であった。
1033
プロローグ
﹁多分、ここが入り口﹂
﹁そんな感じやな﹂
ファーレーン南部を覆う大森林。植生が熱帯雨林に変わるぐらい
から三月だとまだやや肌寒い地域までを微妙に弧を描きながら斜め
に走り、ファーレーンとダールという二つの大国を繋ぐ大街道。総
延長四千キロ以上と言われている街道、その大体中央あたりからや
やファーレーン寄りのあたりにある脇道を見て、そんな事を言い合
う宏達。最寄りの街であるレネードから、徒歩だと半日と言ったと
ころだろう。
時速八十キロで後一時間ほど走れば、ダールとの国境も兼ねるシ
ャルネ川に到着すると言う位置関係だ。もっとも、そのシャルネ川
もそれなり以上の水深があるのに川幅が一キロを超える代物で、よ
く橋をかけることに成功したものだと感心するしかない壮大さを誇
る。この大河を超えて更に二日ほど走ってようやく森が途切れ始め
るのだ。この河を抜けるまでは緩やかな弧を描きながら北東に進ん
でいた街道は、川を渡ったあたりから同じように緩やかな弧を描き
ながら南東に進んで行く。
因みにこの世界の街道は、途上国の無舗装の道よりはよほどしっ
かり整備されているが、先進国の都市部に比べれば悪路というしか
ないような道である。この南部大街道もその例に漏れず、よくもま
あこれほどの道幅をこれだけの距離整備できたものだと感心するし
かない大きさではあるが、普通のワンボックスカーで走るには向い
1034
ていない。彼らの乗っている車が見た目と車内設備と操作方法がワ
ンボックスカーであるだけの何かでなければ、車も乗っている人間
も碌な事にならなかっただろう。とは言え、規模が規模ゆえに、仮
にアスファルト舗装ができるとしても維持できたかどうかは微妙な
ところだが。
その広大な、道幅が片側三車線ぐらい取れる街道から見れば、普
通なら見落としてもおかしくないほどささやかな、普通に見ると道
とは思わないような道を見て、一同は何とも言えない雰囲気になっ
ていた。
﹁こりゃ、歩いていくしかないな﹂
﹁まあ、予想はしてたけどね﹂
脇道と言うよりは獣道に近いその通路を見て、うんざりしたよう
な感じで言う達也と真琴。地元の人間が出入りするために切り開い
た、と言う感じの道は、馬車や車はおろか、荷車すら引いていけな
い程度の道幅しかない。そもそも、踏み固められたとすら言えない
足元では、下手に台車などを持ち込んだ日には、確実に立ち往生す
る事請け合いである。
﹁まあ、ごちゃごちゃ言ってても始まらないし、さっさと準備して
行こうよ。感じからいって多分、三日やそこらじゃ目的地には着か
ないだろうし﹂
現実を見た春菜の意見に、微妙にうんざりしながら頷く達也と真
琴。
﹁何がいるかね?﹂
1035
﹁まずは虫除けと虫刺され。きっちり塗っておかないと、このあた
りは刺す虫が多いし﹂
﹁ウルスのあたりと違って、変な病気持っとる奴も多いしなあ﹂
春菜の言葉に同意しつつ、特製の虫除けを全員に配る宏。妙な病
気と聞いて、嫌な顔をしながらも顔や手にすりこんで行く一同。
﹁後は蚊帳とテントやけど、その手のはここで取り出す必要もない
やろう﹂
﹁宏君、コンパスと地図出して﹂
﹁了解﹂
春菜に言われ、大雑把に街道と森だけ書かれた地図とコンパスを
取り出す。
﹁師匠、鉈か鎌よろしく﹂
﹁ほい﹂
澪に言われて鎌を渡す。自分は鉈代わりの手斧を持ち、先導する
ように前に出る。
﹁澪ちゃん、一応髪まとめといた方がいいと思うよ﹂
﹁移動しながらやる﹂
1036
もはや慣れた手つきで髪をアップにまとめながらの春菜の言葉に、
こちらも割と慣れた手つきで束ねてアップにする澪。服の袖や裾は
エンチャントでどうにかなるにしても、髪はどうにもならないのだ。
﹁車片すぞ﹂
﹁了解﹂
一応声だけかけ、返事も聞かずにここまで乗ってきたワンボック
スカーをカプセルに収納する達也。収納されたカプセルの形状が、
七つの球を集めて願いをかなえる漫画のあれによく似たデザインな
のは、明らかに宏が遊んだ結果であろう。
﹁途中、どっかに野営ができる場所があればいいんだが﹂
﹁まあ、無かったら最悪、寝袋のスペースだけは確保するわ﹂
﹁それしかないか⋮⋮﹂
人が自由に動き回るには、この大森林の自然の力は圧倒的だ。全
く手が入っていない森ではないにしても、人にとって未知の領域の
方が圧倒的に多いのは間違いない。そもそも、南部大街道に接続す
るまで回り込むように走ったとは言え、時速八十キロで毎日八時間
は走っているのに、森が見え始めて三日以上経ってようやく折り返
しという巨大さだ。モンスターの存在も考えれば、今の技術レベル
でこの大森林を全て人の手におさめようとするのは不可能だろう。
この南部大街道の建築・整備も、実に大仕事だったに違いない。
何年がかりで森を切り開き開拓したのか、それ自体が想像を絶する
規模である。街道沿いにそれなりの数存在する小規模な宿場町、そ
1037
こに必ず設置されている慰霊碑を見れば、この道を作る工事が相当
な年月と多大な犠牲を払ってなされた事を疑う余地はない。この街
道を作った総指揮者は、間違いなく土木のエクストラスキル持ちだ
ろう。
交通量の多い街道ゆえ、三つほどは大きな宿場町もあった。だが、
それもせいぜい人口十万に届かない程度の規模であり、それほど森
を大きく切り開けている訳でもなかった。どこの宿場町にも慰霊碑
がある事を考えるまでもなく、森を切り開くのはそう容易くないの
だ。
もっとも、いくら交通量が多いと言ったところで、日本の大都市
のスクランブル交差点などと比べればはるかに人口密度は低く、そ
れゆえ時速八十キロなどと言う速度を出しても、人をはねたり衝突
事故を起こしたりはほとんどしなかったのだが。
ウルスを出てもうじき二週間の三月上旬。そんな圧倒的な力を持
つ大森林に、ついに日本人達は足を踏み入れたのであった。
﹁しかし、森の中で野営するのも、慣れたわねえ⋮⋮﹂
﹁山とか森とかで何かする仕事ばかりだったからなあ⋮⋮﹂
辛うじてテントが張れそうな広場を発見し、野営の準備に入りな
1038
がらぼやく達也と真琴。ファーレーンに来てからこっち、澪の採取
に付き合って山や森に入ってばかりの二人は、もはや獣道を歩くの
も慣れたものである。
宏達にしても、外部で何か活動するとなると圧倒的に森の中が多
い。ガラスの材料となる石も、鉄鉱石が取れる崖も、大体は森の中
の川や山の中に点在しており、何より一番需要の多い薬類の材料は、
森の中に入るのが最も質の良いものをたくさん回収できる。
﹁この感じからいうて、たまに野営する人間がおるんは間違いなさ
そうやな﹂
﹁このあたりは街道が近いからか、あんまり凶暴なモンスターはい
ないしね﹂
周囲の植生や地面の様子を確認して述べる宏に、コンパス片手に
地図をメモりつつ春菜が思うところを述べる。外から見れば圧倒的
に緑色の大森林も、一歩中に入ればイメージよりもはるかにカラフ
ルだ。それは、この森が生き物たちに豊かな恵みをもたらしている
証拠でもあり、それを目当てに森に入ってくる人間がそれなりに居
るのもおかしな話ではないだろう。もっとも、分をわきまえない侵
入者に対して、森は決して甘くはないのだが。
﹁テレスはなんて言ってた?﹂
﹁一番太い獣道を抜けていけば川に出るから、そのまま上流目指し
て川沿いに歩いていけば、目ざとい人間なら集落を見つけられるは
ずだ、って﹂
﹁しゃあないこととはいえ、何度聞いてもアバウトな説明やなあ﹂
1039
真琴の確認に対して、正確に内容を繰り返して見せる春菜。その
アバウトな内容にため息しか出ない宏。そもそも、どこの国にもそ
こまで正確な地図が無いのだから、場所の説明がアバウトになるの
は仕方が無い。むしろ、入り口については相当分かりやすく正確に
説明してくれた方だろう。
﹁こんなところに住んでるところを見ると、やっぱりテンプレ通り
に閉鎖的なのかね?﹂
﹁どうだろう? テレスに言わせると、都会にコンプレックスがあ
るから外に出たくないだけで、別に他所者が来るのを嫌がる訳じゃ
ないらしいんだけど⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ファンタジーのエルフのイメージに、真っ向から喧嘩売って
るわね∼﹂
工房で雇ったエルフ娘の言葉に、ため息と苦笑が混ざった言葉を
漏らす真琴。正直なところ、それを言ったテレス自身にも、どうに
も都会に馴染んだ田舎者のイメージが微妙にある。ノーラともども、
奴隷にされかかった割にはヒューマン種に対して偏見や忌避感が無
いのが不思議だが、当人達に言わせると
﹁会った人全体でみると圧倒的に親切な人の割合の方が多かったの
で、一回二回で偏見を持つのはフェアじゃないかな、と﹂
﹁モーラ族にも、碌でなしは山ほどいるのです。そもそも、ヒュー
マン種全体が碌でなしなら、里を出た時点ですでに命は無いのです﹂
との事。基本、ちゃんと働けば食うに困らないファーレーンの、
1040
大国とは思えない牧歌的でどこか平和ボケした民族性に大いに救わ
れている面があるのは間違いない。
﹁まあ何にしても、多少迷っても帰ることはできるんだ。モンスタ
ーにだけ気をつけて、気長に進めばいいさ﹂
﹁そうそう。食材にしても食べきれないほど用意してあるし、いざ
となったら工房のみんなに、食料と水を調達してもらえばいいんだ
し﹂
共有化のエンチャントの恩恵を最大限に生かした春菜の言葉に、
違い無いと笑う一行。戻るにしても転送石も長距離転移の使い手も
確保してあるのだから、一週間や二週間の迷子はピンチにはならな
い。
人間、食うに困らず大きな悩みも無ければ、多少の不自由には結
構おおらかに対処できるものだ。そもそも、彼らの旅は特に期限が
あるものではない。向こうとこっちとの時間軸がどうなっているか
分からない上、既に達也達が飛ばされた頃から見ても半年以上は経
っているのだ。今更焦っても仕方が無いのだから、こういうプチ冒
険の機会は大いに楽しむべきである。
今のところ、彼らはそんな感じで意見が一致している。言うまで
もない事だが、南部大森林地帯に足を踏み入れ、ほとんどの人間が
その所在地を知らないエルフの里を探すという行為は、間違っても
プチ冒険に収まる内容ではない。
どこまでも一般人とは認識がずれている宏達であった。
1041
﹁芋虫芋虫∼﹂
﹁ケバい実ゲットや﹂
﹁怪しい色合いの草、抜いてきた﹂
森に侵入してから三日目。日本人達は、すっかり森の中で生活す
る状況に順応していた。いまだにテレスが指定した川と言うやつに
は行き当っていないのだが、誰一人として気にする様子はない。
なお、彼らは旅歩きのスキルによる強化に加えて森林地帯に対す
る慣れもあり、一日の踏破距離は驚異の五十キロに達する。真っ直
ぐ北に向かって歩き続ければ、十日もあれば大霊峰の南端が見える
ところまで移動しかねないスピードである。
﹁お前ら、よくこれを食おうと思ったよな﹂
﹁結局食うてる兄貴は、人の事言えんで﹂
﹁慣れたって言うか、諦めたんだよ﹂
見た目に怪しい食材に、何とも言えない顔で返事を返す達也。見
た目のあれさ加減とは裏腹に、彼らが調達してくる食材は安全で美
味い。配色が怪しい食材の大半は、怪しい色になる事で外敵に食わ
れないようにするという何とも言い難い進化をしたものらしい。
1042
中には、人間には無害だがここら一体の草食動物や昆虫類にとっ
ては強力な毒となる物質が色素になっている物もあり、異世界は異
世界なりの生存競争をしていることがうかがえる。
﹁しかし、こういう食材見てると、やっぱり異世界だよなあ﹂
﹁何をいまさら。ワイバーン食うといてそれは無いで﹂
﹁いやまあそうなんだが、な。あれはまだ、単にでかいトカゲって
イメージが強いんだが、この辺のは明らかに毒々しいだろう?﹂
﹁言わんとする事は分かるけどなあ⋮⋮﹂
魔法で水を出し、怪しい色合いの草からアクを抜きながら苦笑を
返す宏。ゲームと同じ食品があるのなら、この先はもっとあれで何
な感じの物も出てくる。
とりわけ印象に残っている食品系の上位素材と言えば、どう見て
もヘドロかコールタールです、ありがとうございますという感じの、
普通ならまず間違いなく飲み込めば一発で体がやられる類の外見で、
そのくせ味は現実にこれほどの美味があるのだろうかと思うほどう
まい謎物質が筆頭である。単独で口にしても病気系のステータス異
常を根こそぎ解消する良く分からない物質だが、神酒ソーマという
洒落にならない回復アイテムの材料になるため、そのまま食べる機
会はほぼ無かった。
﹁蛇、捕まえたわよ﹂
余計な事を駄弁りながら夕食の準備をしていると、真琴が自身の
1043
身長と大差ない長さの蛇を引きずって帰ってきた。胴周りの太さは
それほどでもないが、五人分の晩と朝の食事には十分な量の肉が取
れそうだ。
﹁おー、ご馳走やな﹂
﹁蒲焼き蒲焼き﹂
﹁タレ作らなきゃ﹂
寄生虫がいる種類の蛇なので、しっかり火を通してやらなければ
いけない。そのためにも、丁寧に下処理をしていく春菜。
﹁火、起こしといたで﹂
﹁ありがとう﹂
蒲焼きは、鉄板で焼くより網で直火の方がいい。そんな妙なこだ
わりで七輪に火を起こした宏は、色々突っ込まれても仕方が無い。
もっとも、もはや誰も突っ込みなど入れないのだが。
﹁芋虫は、こっちの鉄板で焼いとくわ﹂
﹁草はおひたし?﹂
﹁そうだね。もしくは、木の実と一緒に煮物にするか﹂
などと言いながら、着々と調理を進めていく三人。この時間ばか
りは、料理をしない組である年長者二人の出番は一切ない。
1044
﹁この匂い、そそるなあ⋮⋮﹂
﹁蒲焼きって、どんぶりにして食べたい物の筆頭よね⋮⋮﹂
真琴の言葉に、料理をしていた連中の動きが一瞬止まる。
﹁どうする? ご飯炊く?﹂
﹁温泉の後は護衛任務の帰りにエルと一回食うただけやから、今回
ぐらいは大丈夫やで﹂
﹁どんぶり⋮⋮、食べたいかも⋮⋮﹂
一度意識してしまってはもう駄目だ。焼き上がった蒲焼きを早々
に食糧庫に突っ込み、迷うことなく米を炊き始める春菜。春菜に代
わって蒲焼きを焼いて、片っ端から食糧庫に突っ込んで行く宏。草
と木の実の煮物と並行して、虎の子の麩とワカメを取り出して赤だ
しを作る澪。
一番時間がかかる炊飯作業が終わる頃には全ての料理が食糧庫に
突っ込まれ、飢えた獣たちが今か今かと待ち構えるという何とも言
えない光景が出来上がっていた。
﹁そろそろいいかな﹂
電子ジャーなどと言う便利なものはないので、炊けたかどうかは
自分で判断しなければいけない。とは言え、そこは料理スキルカン
ストの春菜に抜かりはない。土鍋の蓋を取った瞬間、日本人の大多
数が食欲をそそられると答えるであろう香りとともに、白い粒がピ
ンとたった感じで炊きあがったご飯が姿を現す。
1045
﹁もう、辛抱たまらん!﹂
﹁春菜、早く!﹂
﹁はいはい、ちょっと待って﹂
人数分のどんぶりに手早くご飯を盛りつけ、いつの間にか準備さ
れていたお膳に乗せていく。流れ作業で宏が蛇の蒲焼きを米の上に
乗せ、澪がタレをたっぷりかけていく。全てのお膳に全ての料理が
盛りつけられるまで、一分とかからなかった。
﹁正しくどんぶり系の定食だな⋮⋮﹂
﹁食べてる場所とか使われてる材料とか、多分突っ込みどころはい
くらでもあるんでしょうけど、細かい事はどうでもいいわ⋮⋮﹂
箸を手に取りながら、感極まった顔で目の前のお膳を見つめる達
也と真琴。漬物の代わりに焼いた芋虫が乗っていたり、菜っ葉の煮
物が極彩色だったりと、いろいろ微妙な点はある。そもそも、どん
ぶり定食だと小鉢の煮物じゃなくてミニうどんかミニそばだろうが、
という意見もあるだろう。
だが、それでも異世界でどんぶりに赤だしの味噌汁と言う組み合
わせの定食にありつける、と言うのは、日本人にとっては些細な事
が気にならなくなるぐらいの事柄なのだ。
﹁うめえ⋮⋮﹂
﹁タレの味が最高⋮⋮﹂
1046
﹁私的には蒲焼き、結構いい出来だと思うけど、どうかな?﹂
﹁蒲焼きも旨いぞ。鰻とか穴子とはいろいろと違うが、これはこれ
で旨い﹂
爬虫類の常に逆らわず、今回捌いた蛇もどちらかと言えば鶏肉に
近い味わいをしている。なので、鰻では無く鶏の蒲焼きというイメ
ージの方が強いのだが、蒲焼きは蒲焼きだ。ご飯にのせて食べるの
が美味しいのは変わらない。
﹁芋虫が、案外箸休めにええ感じやな﹂
﹁この種類は、ちょっとコリっとしてる﹂
沢庵のようにコリコリと芋虫をかじりながら、全体のバランスに
ついてそんなコメントを漏らす宏と澪。瞬く間にどんぶりも煮物も
味噌汁も無くなる。
﹁ご馳走様でした﹂
全員がほぼ同時に食べ終わり、ほぼ同時にその挨拶を終える。
﹁なんつうか、不思議な気分だよな﹂
﹁普通、こういうとこにキャンプに来たら、どんぶりは食わへんか
らなあ﹂
状況的に一番の突っ込みどころであろうポイントを、情け容赦な
く突っ込んでくる宏。
1047
﹁で、衝動的に米食っちまったが、補給のあてはあるのか?﹂
﹁時期が時期やからなあ。とりあえず、あと半年は待たなあかんで﹂
宏の突っ込みに、納得するしかない達也。実際、まだ田植えも始
まっていないような時期だ。日本で言うなら、ようやく桜の開花予
想が始まった頃だろう。余程特殊なずるをしない限り、流石にこの
時期に新米を手に入れるのは不可能だ。
﹁まだ半分も食べてないから、もうしばらくはそんなに心配しなく
てもいいよ﹂
﹁とは言うがなあ。どうにも炊くたびに結構な量を食ってる気がす
るし、手に入れる機会が少ないものだから、どうしても気にはなる
ぞ﹂
﹁達兄は、エリクサーとか最後まで使わないでクリアするタイプ﹂
﹁悪かったな﹂
澪の突っ込みに、思わずぶすっとした顔で返事を返す達也。とは
言え、後で補充できなかったり、補充できても物凄い値段で数揃え
られないものを最後まで温存して腐らせてしまうのは、ある意味日
本人のお家芸のような部分はある。
﹁まあ、このペースで食う分には、次の新米までどうにか引き延ば
せるとは思うで﹂
﹁ならいいんだが⋮⋮﹂
1048
どこまでも不安そうにする達也。最初から全くないのであれば割
り切れもするのだが、手に入るが量が少ないとなるとどうにも守り
に入ってしまう。
﹁どっちにしても、後生大事に抱えこんどっても意味あらへんし、
どうしても食いたなった時はバクバクいけばええねん﹂
﹁⋮⋮分かっちゃいるんだけどなあ﹂
﹁流石に、そこまで思い切るにはちょっとねえ﹂
執着度合いの問題で、どうにも宏ほどには割り切れない年長者達。
彼らは知らなかった。仮に工房で新人達に米を振舞っていれば、す
ぐにでも悩みが解消できる情報を得られた事を。
﹁そろそろ髪切った方がいいわね∼﹂
﹁私も、毛先揃えようかな﹂
野外の風呂を堪能しながら、そんな事を言い合う真琴と春菜。宏
の特徴とその対策のため、男達には絶対に覗かれる心配が無いため、
実に開放的に振舞っている。
1049
なお、この携帯用の大風呂は、女性陣が凄まじいまでの情熱を持
って宏に製作を強要したもので、テントを張れる程度のスペースが
あれば脱衣所付きで展開出来る優れものである。この風呂の存在が、
この大森林におけるサバイバルに日本人一同が順応出来ている最大
の理由だ。
﹁そう言えば、澪ちょっと大きくなったんじゃない?﹂
﹁真琴姉、それは具体的に、どの部分がどういう風に?﹂
﹁背もちょっと伸びたとは思うけど、体つきが合流した時に比べる
と、随分と女らしくなった気がするわよ﹂
﹁だったら、ちょっと嬉しい﹂
真琴の評価に、本当にうれしそうにする澪。実際、発育速度で言
えばエアリスの半周遅れと言う感じは否めないものの、今の澪を見
て幼児体型と言う人間はいないだろう。半身不随で寝たきりと言う
条件から解放されて久しいため、当初の病的な細さも解決しており、
彼女は彼女で整った容姿をしている事が誰の目にも明らかになって
いる。
ゆっくりとではあるが発育が進んだ結果、普段で比べるとグラマ
ラスで男好きする体型の春菜よりも、幼児体型や病的な細さからは
脱したもののまだまだ豊満とは言えない澪の方がどことなく色気が
あるところが、世の中の奥の深さをうかがわせる話だ。もっとも、
ではトータルの容姿ではどっちが上か、と聞かれれば、まず間違い
なく春菜に軍配が上がるのだが。
﹁でも、春姉みたいに浮くほどじゃないのが⋮⋮﹂
1050
﹁エルだってまだその域には行ってないし、モーラだって大きい方
だけど浮くほどじゃなかったし、焦る事はないんじゃない? あた
しに至ってはこれなんだしさ﹂
﹁真琴さんは真琴さんで、そんなに悪くはないと思うんだけどなあ
⋮⋮﹂
﹁いいのよ、慰めてくれなくても。どうせあたしは、貧乳で有名な
エルフにすら惨敗する女なのよ⋮⋮﹂
春菜の割と本音に近い言葉を切り捨て、自虐スパイラルに沈んで
行く真琴。なお、当のエルフは種族的な価値観か、自身の美醜や体
型にほとんど興味が無かったりする。ついでに言えば実のところ、
エルフが本当に貧乳しかいないとは証明されていない。ただ単純に、
ウルスやカルザスで会う機会があった数少ないエルフ女性が、ほぼ
全員貧乳のカテゴリーに入る体型だっただけである。都会に出てき
ているエルフ全員と顔を合わせている訳ではないので、一定ライン
より上のバストを持つエルフがいないとは言い切れない。
﹁あ∼、そういえば忘れてた﹂
﹁ん?﹂
﹁宏君がいるところではあまり話せないんだけど、そろそろなんだ
よね﹂
﹁⋮⋮あ∼。あんた、重い方だっけ?﹂
﹁そうでもないかな﹂
1051
男のいる場所では出来ない種類の生々しい話を、今のうちに済ま
せてしまおうと声をひそめて話し始める三人。
﹁真琴さんは、どうなの?﹂
﹁あたしは、森に入る前に終わったわよ?﹂
﹁全然気がつかなかった﹂
﹁あたしの場合、ものすごく軽いもの。ほとんど出て終わり、みた
いな感じ﹂
宏の事もあって、互いのプライベートにはあまり踏み込まないよ
うにしていた一同。そのため、一緒に暮らしている割に、こういう
情報がほとんど共有されていなかったりする。工房で生活する分に
は、特に困る事が無かったのも要因であろう。
﹁澪はどうなの?﹂
﹁ボクは、周期がかなり不安定。重さもまちまち﹂
﹁って事は?﹂
﹁いつ来るか不明﹂
﹁来る事は来るのね?﹂
割と重要な事なので、真面目な顔で確認を重ねる春菜と真琴。真
琴の最後の問いかけに、無言で頷く澪。女性特有のこの生理現象は、
1052
期間中さまざまなところに影響を及ぼす。それに、将来子供を産め
るかどうかという重要な問題にもつながってくるため、男の前で堂
々と話せないにしても、恥ずかしがって疎かにする訳にもいかない。
﹁何にしても、澪ちゃんがああいうの作れて助かったよ﹂
﹁こればっかりは、宏に頼る訳にもいかないものね﹂
﹁師匠に押し付けたら、それこそ命が危ない﹂
﹁下着であれだったからね、宏君﹂
合流してからこっち、生理用品の製造は澪の担当だ。本当に気が
回っていない宏と違い、嫁さんもいる達也はなんとなくいろいろ察
しているようだが、こういう事には口を挟まないのがマナーだと心
得ているため、ほじくり返したりはしない。
とは言え、ほじくり返したりしないだけで、その期間らしいと察
した時はさりげなくいろんなところに気配りをしてくれるあたり、
達也はやはりいい男である。美人の嫁がいるのもうなずける話だ。
﹁まあ、そう言う事だから、多分大丈夫だとは思うけど、少し戦力
としては微妙になるかもしれない﹂
﹁了解。まあ、フォローはするから安心なさいな。このあたりはま
だ、大したのは出てこないから﹂
﹁お願い﹂
﹁で、真琴姉。真琴姉の中だと、師匠と達兄、掛け算ではどっちが
1053
前?﹂
﹁掛け算?﹂
﹁澪、その趣味が無い人間が、興味本位でそう言う事を聞かないの。
大体、あんたまだ中学生でしょうが!﹂
男がいる場所では出来ない話を済ませ、そのままガールズトーク
に移る。澪が真琴をいじるために持ち出した話題は、春菜にはつい
ていけないようだ。そのまま目まぐるしくいろいろな話題に変わっ
ていく。女の風呂は、やはり長くなるのであった。
﹁で、ヒロ。最近はどんな感じだ?﹂
﹁どんな感じって、なにが?﹂
女性陣の入浴中。手持無沙汰と居心地の悪さを誤魔化すために、
道具の手入れやら薬の下処理やらをしながら駄弁る宏と達也。
﹁ちっとは、女体に慣れたのか? って話だが?﹂
﹁微妙なところやな。とりあえず、一つ屋根の下でも、工房ぐらい
の広さがあればそんなに気にはならへん。今のメンバーやったら、
馬車とかワンボックスカーの助手席と後部座席やったら問題ないし﹂
1054
その告白は、裏を返せば他の人間が入ってくると厳しい、と言う
事である。前回の護衛任務の場合、真琴と春菜は外で馬に乗ってい
たし、澪は別の馬車で待機していた。何より、仮にも護衛任務と言
う緊張感があったので、多分同じ馬車の中でもそれほど問題にはな
らなかっただろう。
だが、今回はどちらかと言えば気楽なドライブだ。そこまで気を
張って移動する訳ではない。免許を持っているのが達也と真琴だけ、
と言う関係から、二時間ぐらいごとに交代はしていたが、達也が運
転していないときは大体一番後ろの座席に座る事で距離を維持して
いた。もはや気心が知れたと言ってしまっていい間柄、それなりに
ローテーションを組んで座る位置を変える事で、上手い具合に誰か
一人にストレスが集中しないようにやっていた一同であった。
﹁どの程度なら、女に触っても平気になった?﹂
﹁せやなあ。握手とかお金とかもののやり取りぐらいの時間やった
ら、身構えんでも問題ないで﹂
﹁大分良くなったんじゃないか?﹂
﹁まあ、それぐらいは問題無かったんはこっちに飛ばされた頃から
やけど、身構えんと出来るようになったんは、進歩なんやろうなあ。
まだ人混みは怖いけど、ウルスの普通の日ぐらいやったら大丈夫や
し﹂
いまいち自覚の薄い宏の言葉に、凄い進歩だと思うぞ、と、本心
から口にする達也。実際、実の親兄弟はおろか赤子ですら女と見れ
ばパニックを起こし、特例措置でVRシステムの時間加速システム
1055
を脳に負荷がかかる限界一歩手前まで加速して、使える時間をひた
すらカウンセリングを続けるしかなかった頃から比べれば、日常の
些細なやり取りに身構える必要がなくなったというのは物凄い回復
である。
まだまだ日常生活に全く支障が無くなる、と言う領域には達して
いない。日々の暮らしにおいては、この程度の変化はあってないよ
うなものだ。だが、それでも、二年以上足踏みが続いていた病状に
進歩が現れたというのは、画期的な出来事だと断言できる。
﹁それにしても、この森も大概だが、南部大街道も凄いよな。あれ、
普通だったら何日ぐらいかかるんだろうな?﹂
﹁分からへんけど、馬車とか使うても一カ月は見とかなあかんのと
ちゃう?﹂
﹁ゴーレム馬車なら、もう少し早く着くかもな﹂
雑談の内容が、三日前まで車を飛ばしていた南部大街道にシフト
する。普通なら好みの女あたりの話題につながりそうな会話だが、
嫁以外の女は眼中にない達也と、二次元でまともな性格で男を攻撃
しない女と断言する宏とでは、どう頑張ったところで異性関係の話
など盛り上がりようが無い。性欲とかどうよ、みたいな生々しい話
もしないではないが、適当に処理してるの一言で終わってしまうの
で、やはり盛り上がらない。
﹁ゴーレム馬車も、結構なスピードでとったなあ﹂
﹁時速六十キロぐらいか?﹂
1056
﹁そんな感じや﹂
この世界の交通機関は、一般的なファンタジーのイメージよりは
スピードが出る。人が乗る馬車はそうでもないのに、荷馬車にはサ
スペンションなどがふんだんに使われているケースも珍しくないた
め、隊商も結構なスピードで走っている。徒歩でゆっくり移動する
のは、馬を維持できず、乗合馬車の費用も捻出できない貧乏な冒険
者ぐらいだ。
流石に街中ではそこまでのスピードは出さないが、街道を走って
いる時は皆、結構容赦なく飛ばしている。そのスピードがあれば、
南部大街道の存在価値はかなりのものになるだろう。
﹁流石に時速八十以上となると、今のところ人間が作った乗りもん
では無理みたいやで﹂
﹁まあ、そりゃそうだろう。ゴーレム馬車があこがれの的なんだか
らな﹂
﹁あんなワンボックスでも、物凄い羨ましがられとったしなあ﹂
﹁ゴーレム馬車は、維持費がほとんどかからないんだろ?﹂
﹁物によるんちゃう? うちのは動力結晶に自動魔力補充型のええ
奴使うてるし、自動修復に衝突回避、慣性制御型バリアあたりの防
御システムも充実してるからええけど、安モンやと車軸とか頻繁に
修理せんとあかんやろうし﹂
とは言え、ゴーレム馬車は馬の世話が必要ないというその一点だ
けでも、維持費以外の面でポイントは高くなる。その上、ちゃんと
1057
した職人が作ったものなら何十年使っても壊れないとなると、いつ
かはゴーレム馬車が欲しい、と言う考えも分からなくはない。
陸路の移動に関しては、ゴーレム馬車は成功者の象徴ともいえる
のだ。
﹁それで、人間がって言うと、モンスターか?﹂
﹁そうそう。まあ、滅多におらんみたいやけど、人乗せて時速二百
近いスピード出すモンスターとか、この街道を一日で飛び越える飛
竜とかコントロールしてる人も存在はしとるらしいわ﹂
﹁なるほどなあ⋮⋮﹂
確かにワイバーンぐらいのスピードなら、八時間から十時間飛べ
ば十分たどり着けそうではある。とは言えど、残念ながらテイミン
グ系スキルはメンバーの誰一人持っていない。飛行機かヘリコプタ
ーでも作ればともかく、そうでなければ彼らが空を移動する事はな
いだろう。飛行魔法はリスクが大きい。
﹁空から見りゃ、エルフの集落も見えるのかね?﹂
﹁特に隠してへんらしいから、大きさ次第では普通に見えるやろう﹂
﹁こっちのエルフの里って、どんな感じなんだろうな﹂
﹁テレスを見た感じやと、あんまり僕らが持っとるようなイメージ
は通用せえへんと言うか、なんかファンタジーっちゅう観点ではも
のすごいがっかりする事なりそうな気がするわ﹂
1058
木々の陰から見える星を見上げながら、女性陣の風呂が終わるの
を待つ。がっかりしそうだと言いながらも、なんだかんだでまだ見
ぬエルフの里に対する期待は地味に大きくなっている一行であった。
1059
プロローグ︵後書き︶
エルフの森編なのに、まだエルフが出てこない件について
1060
第1話
﹁川発見!﹂
森に侵入してから一週間。水の音が聞こえたと言って三十分ほど
前に確認に行った宏が、遂に待望の川を発見して戻ってきた。
﹁どれぐらいの距離だ?﹂
﹁通りやすいところを通って二十分ぐらいやな。まあ、仮にここが
平地で最短距離に障害物がのうても、多分普通の人で十分はかかる
と思うけど﹂
﹁なら、もう少しだな﹂
直線距離で十分かかる場所となると、一キロ近い距離がある事に
なる。川のせせらぎが聞こえなくても、不思議ではない。
﹁それにしても、川を発見するまで一週間か∼﹂
﹁この場合、街道を横切ってた川のどれかを遡るのとどっちが早か
ったのかな?﹂
﹁一番近いところで二百キロ以上向こうだったんだから、まずこの
あたりに出る前に迷うと思うわ﹂
春菜と真琴の会話が、この広大な森の中にある集落を探す、と言
うのがどれだけ面倒な事かを物語っている。
1061
﹁それにしても、こんな深い場所でも多少とはいえ人が通った痕跡
があるのも、変な話よね﹂
﹁テレスの話やと、月に一回ぐらいはほとんど冒険者っちゅう感じ
の商人も来とったらしいし、そう言う人らが通った後とちゃう?﹂
﹁月一回でこれだけ道ができるものなのかしら?﹂
﹁エルフの人らも、月に二回程度は近場の町にこまごまとしたもん
を買いに降りるそうやし、その時に使うてるんやろうなあ﹂
塩も水も食料品も十分に確保できると言ったところで、やはり街
道沿いの町に買いに降りた方が早いものもあれば、予想より収穫が
悪くて足りなくなるものもある。そのちょっと足りないとか、ちょ
っと手間を省きたいとか、そういったものを確保するためだけなの
で、今のところエルフは人間達とは物々交換に近いレベルの交易し
か行っていないが、大体の物が自給自足出来ている現状ではそれで
十分らしい。
﹁まあ、このあたりを人がうろうろしてるらしい、って言うのも分
かったし、川があるんだったらあとちょっとのはず。もう少し頑張
ろう﹂
春菜の言葉に頷くと、辛うじて人が通れる程度の道をえっちらお
っちら進んで行く。因みに、ここまで一週間もかかった最大の理由
は、途中で何度か道を間違えたからだ。テレスの言葉通りだとすれ
ば、本来この川まではせいぜい四日で着かなければいけないのだか
ら、彼らがどれほど派手に迷ったかよく分かろうというものである。
1062
普通なら、この時間の浪費はグループ内の不和のもとになりそう
なものだが、こいつらの場合そもそも時間を浪費したという意識が
薄いため、今のところ目立って諍いを起こしそうな雰囲気はない。
あるとしたらせいぜい、そろそろ魚が食べたいだとか流石に森の光
景に飽きてきただとか、微妙に緊張感が足りてない理由ばかりだ。
道なき道を探して歩いているというのに、とことんのんきな連中で
ある。間違っても深刻な問題には至りそうもない。
﹁⋮⋮せせらぎの音が聞こえてきたな﹂
﹁そろそろやで﹂
達也の言葉に宏が答え、そこから三分ほどで川が見える。川幅十
メートルほどの、そこそこの大きさの川だ。
﹁お∼﹂
﹁綺麗な川だね∼﹂
﹁丁度ええ時間やし、昼にしようか﹂
宏の言葉に同意し、シートを敷いてご飯の準備に入る一同。
﹁川魚取れそうやけど、どうする?﹂
﹁取れるなら欲しいわね。鳥も蛇もウサギもタヌキも虫も、いい加
減飽きてきた﹂
﹁了解や。昼済ましたら、ちょっくら釣ってくるわ﹂
1063
迷子になって日数を随分とロスしているというのに、のんきな事
を言ってのける宏達。いくら別に急ぐ旅ではないとはいえ、もう少
し緊張感が必要ではなかろうか。
﹁どんなものが釣れるのやら﹂
﹁とりあえず、虫を餌にするんは自分ら食べる時嫌がりそうやから、
即席でルアー作ってやってみるわ﹂
﹁結局、そのパターンからは脱却できねえんだよなあ⋮⋮﹂
どんな状況でも、無きゃ作ればいいの精神でいろんなものをでっ
ち上げる宏。そう言う時に限って、やたらと表情が生き生きとして
いるのが業の深さを感じさせる。正直、こいつと澪に限って言えば、
わざわざ向こうに帰る必要はないのではないかとしみじみ思ってし
まう。
﹁とりあえず、水遊びとか惹かれるものはあるけど⋮⋮﹂
﹁まだちょっと寒いし、やめときましょう﹂
﹁そうだね﹂
折角だから、自分達も釣りをすることにする一同。タヌキ肉のサ
ンドウィッチを食べ終えると、宏が即席で用意してくれた釣竿を手
に、適当によさげなポイントに陣取る日本人達であった。
1064
﹁熱帯の気候でもないのに、たまに妙な色のが釣れるわねえ⋮⋮﹂
釣り上げたばかりのメタリックブルーな魚をみて、思わずと言っ
た感じでつぶやく真琴。サイズが約八十センチほどと中々の大物だ
が、食べて大丈夫なのかという色なので素直に喜べない。
因みに、宏がでっち上げたこの竿、使われている糸は霊糸である。
伝説級の素材だというのに腐るほど余っているため、こういう事に
割とぞんざいに使われてしまう、実にかわいそうな糸だ。
﹁ショッキングピンクはまだええとして、ドドメ色の魚はさすがに
ビビったで﹂
﹁あれって、美味しいのかな?﹂
﹁食うてみんと分からへんなあ﹂
非常にのんきな事を言いあいながらも、それなりに順調にいろい
ろ釣り上げる一同。普通のニジマスやヤマメ、イワナなどに混ざっ
て、ショッキングピンクだったりドドメ色だったりそもそも魚の形
をしていなかったりと微妙なものが、そこそこの数釣れている。
もっとも、即席のいい加減なルアーで釣れる事を考えると、普通
に見えるヤマメやイワナなんかも、日本で釣れるそれと同じとは限
らないのだが。
﹁どうする? そろそろいい数釣れたと思うんだが⋮⋮﹂
1065
﹁せやなあ。しばらくは川沿いに遡って行くんやし、今日のところ
はこんなもんでええんちゃうか?﹂
﹁そうだね。で、これって食べれるのかな?﹂
﹁⋮⋮何そのイソギンチャクみたいなの⋮⋮﹂
﹁よく見ると尾びれとか胸びれとか背びれとかあるから、多分一応
魚なんだとは思うけど⋮⋮﹂
余りにも微妙な姿のそれをしげしげと観察し、少し考え込む一同。
威嚇状態だからか、サイズが春菜の顔面ぐらいまで膨らんでいるの
もアレな感じである。
﹁食う食わんは別にして、ちょっと解体してみよか﹂
﹁何かいい素材、取れそうなの?﹂
﹁ばらしてみんと分からんけど、なんかこう、僕の中の何かに訴え
かけてくるもんがあってな﹂
そう言いながらも素晴らしい手際で止めを刺し、流れるような手
つきでどんどん解体していく宏。いくつかの部位を取り出した後、
残りをとりあえず地面に埋める。
﹁何か使えるものがあったのか?﹂
﹁かなりびっくりやけど、ソーマの材料のそのまた材料に使えそう
な部位があった﹂
1066
﹁師匠、ソーマって?﹂
﹁神の酒で作れる神酒の一種や。かなりいかつい効果があるで﹂
﹁⋮⋮それって、すごい事だと思う⋮⋮﹂
﹁まあ、他の材料が生命の海しかあらへんから、すぐにどうこうで
きる訳やあらへんけど﹂
生命の海と聞いて、微妙に顔が引きつる真琴。生命の海と言うの
は、霊糸を大量にとった繭の中のさなぎ、そこにたっぷり詰まって
いた体液の事である。
﹁とりあえずいろいろ処理して、倉庫の中に厳重保管や﹂
そう言ってきっちり処理をし、倉庫の奥に沈める宏。当分出番は
ないであろうとはいえ、凄いアイテムなのだ。しっかり保管してお
かなければならない。
﹁何というか、こう言うのを引き当てるあたり、流石は春菜ってと
ころかしら?﹂
﹁なんか、褒められてるのかそうでないのか分かんないコメントさ
れてる⋮⋮﹂
真琴の感想に対する春菜のコメントに、思わず噴き出す達也。実
際、春菜は全体的に引きが強い。異世界に飛ばされるという現在進
行形の不運はともかく、その時に宏と言うある意味最高の人材と合
流できたというのは、バーサークベアの事をチャラにしてお釣りが
1067
くるほどの強運だと言える。
とは言え、そもそもその引きの強さで貧乏くじも引き寄せている
雰囲気があるのだから、引きが強いというよりは運不運の振幅が大
きい、と言うのが正解かもしれない。
﹁今のとこ大丈夫やとは思うけど、雨降って増水したらヤバいから、
ちょっと離れもって辿っていこか﹂
真琴と春菜の脱線した会話を尻目に魚の処理を済ませた宏が、そ
んな事を提案する。
﹁雨、降りそうなのか?﹂
﹁何とも言えんとこや。ただ、今週はずっと降ってへんし、そのつ
もりでおった方がよさそうやとは思う﹂
﹁⋮⋮そうだな﹂
今のところ綺麗な青空だが、天気と言うのは気まぐれなものだ。
それなりに当てにできる精度で予想できる二十一世紀の日本の天気
予報ですら、少なくない割合で予報を外している。気象衛星も何も
ないこちらの世界で、ただ空を見上げただけで百パーセントの予想
など不可能だ。
﹁で、川が分かるように安全圏をたどる自信は?﹂
﹁大体は分かるし、それっぽい道も見つけてあるから、安心し﹂
そう言って、少しばかり道を引き返す。川が見えなくなったぐら
1068
いで、素人目にはっきりとは区別がつかないような、よく見ると多
少踏み固められた跡がある地点を指し示す。言うまでもないが、今
通っている道も大差はなく、いくら慣れてきたと言っても、真琴や
春菜、達也には前の日の野営地点に戻る道ははっきりとは分からな
い。
﹁ここを通ればいけると思う﹂
﹁お前にしても澪にしても、よくこういう道を見つけられるなあ⋮
⋮﹂
﹁これが分からへんと、採集系は鍛えられへんからなあ﹂
達也の言葉に遠い目をしながら答える宏。ゲーム内でも、こうい
う道の区別がつくようになるまではとにかく苦労した。これが分か
るようになって、ようやく一歩上位の素材を取りに行く道が分かる
という面倒な仕様は、無駄なリアリティの代表例だろう。
﹁探す気も起らへんけど、この様子やと多分、他にも人型種族の集
落があるで﹂
﹁その根拠は?﹂
﹁道間違える程度には、人がうろうろした形跡があんねんわ。それ
も、結構な頻度で﹂
﹁なるほどなあ﹂
エルフが住んでいるのは確定とはいえ、流石に自分達の集落から
片道三日以上かかる場所で狩りをするとは思えない。エルフの集落
1069
が複数あるのかもしれないが、それなら街道沿いの街にもっとエル
フが来ているはずだ。少なくとも、このあたりにもう一つ集落があ
るのであれば、最寄りの街に出てくるのが月に二回程度、ほぼ同じ
人物しか来ない、と言う事はないだろう。それに、そもそもエルフ
族は長寿ゆえに少数民族で、そんなにたくさんの集落を作れるほど
の数はいないらしい。
それらの情報とこの脇道の多さを合わせて考えると、エルフ以外
の人型種族がこのあたりをテリトリーにしている可能性が高い。
﹁で、や。向こうでもあんまりこの辺はうろうろしてへんからはっ
きりと覚えてへんけど、どんな種族が住んどる可能性が高いと思う
?﹂
﹁ん∼、ゴブリンは居そうだよね﹂
﹁後はなにがしかの獣人族?﹂
﹁オーガなんかもいるかもしれないわよ﹂
森にいそうな人型種族を大体列挙し終わったところで、澪が口を
挟む。
﹁多分、オーガやフォレストジャイアントは、このあたりにはいな
い﹂
﹁どうして?﹂
﹁あのサイズの生き物が通った形跡が無い﹂
1070
﹁なるほどな﹂
澪の説明に、ひどく納得する達也。オーガで二メートル以上、フ
ォレストジャイアントは平均で三メートルを超える種族だ。流石に、
そのサイズの生き物がうろうろしていれば、もっと大きな空間がで
きているだろう。
﹁この中で可能性が高いとなると、多分ゴブリンかな?﹂
﹁せやなあ﹂
﹁大抵の獣人族は、割と人里に近いところで生活してるってノーラ
も言ってたしね﹂
﹁ファーレーンは、異種族が生活しやすい国だからね﹂
割と民族的に気性が穏やかなファーレーンの場合、異種族だから
と言って差別したり排除したりと言う話は少ない。郷に入りては郷
に従えと言う鉄則さえ守っていれば、個人レベルでの喧嘩などはあ
っても、村ぐるみ、町ぐるみでの排斥運動につながる事はまずない。
そのため、一定以上の規模の街には、必ずと言っていいほど複数
の種族が生活している。ウルスに至っては、総人口が少ないエルフ
やモーラ族ですら、その気になれば多少のコロニーを作れる程度の
人数はいる。もっとも、住民の数が数だけに、千人に満たない程度
では、たくさんいるというイメージにはなり辛いのも事実だが。
﹁こっちのゴブリンって、どうだった?﹂
﹁ゲームの時は、外見的には私達のイメージ通り、でも性質として
1071
は普通の人間に近かった感じ。アクティブモンスター扱いになるの
もいれば、普通にNPCとして関われるような友好的なのも居たし﹂
真琴の質問に、春菜が答える。戦闘廃人としてひたすら前線に立
っていた真琴は、ゴブリンと遭遇する機会が無かったのだ。
﹁春菜は、そう言うクエをやった事はあるのか?﹂
﹁うん。何度かね﹂
つまり、フェアリーテイル・クロニクルのゴブリンは妖精に近い
と言う事である。実際、他のゲームでは序盤のクエストとして比較
的メジャーなゴブリン退治だが、フェアリーテイル・クロニクルで
はそれほど発生しない。そもそも、アクティブモンスターとしての
ゴブリンと戦う機会もそれほど多くなく、ゴブリンと戦闘と言うと
十中八九は他の用事で移動中に彼らのテリトリーに侵入、ゴブリン
語が分からなくて問答無用で殲滅、というパターンである。
余談ながら、ゴブリンのNPCと仲良くなったプレイヤー達が、
ゴブリン語を覚えよう運動と言うものを公式掲示板で展開した事が
ある。ゲーム内でこういうパターンで故郷を滅ぼされたと嘆かれて、
単なるNPCのやられ役種族と思えなくなって立ちあがった人が結
構多かったのだ。結果、それなりの割合のプレイヤーがゴブリン語
を習得し、悲劇が起こる頻度が大幅に減ったのである。職人たちに
対するあたりが厳しかった時期があった割に、こういうところでは
変に牧歌的なところがあるのが、このゲームの特徴と言えば言える
のかもしれない。
﹁まあ、もしもの時のための備えとして、一応確認しとこうか﹂
1072
﹁何を?﹂
﹁皆、ゴブリン語での会話はできるか?﹂
宏の一言で、言わんとすることを理解する一同。口々に自己申告
する。
﹁俺は覚えてない﹂
﹁あたしも﹂
﹁私は話せるよ﹂
﹁ボクも話せる﹂
﹁見事に戦闘組とそれ以外で分かれたなあ﹂
宏の台詞に苦笑する一同。どこにどれだけのリソースを割いてい
たか、それが如実に出た形だ。
﹁エルフ語の方はいいのか?﹂
﹁そっちはテレスが言うには、皆ファーレーン語が話せるっちゅう
とったわ﹂
﹁⋮⋮変な話だな﹂
﹁僕に言われても困るで﹂
どうにも、こっちの世界のエルフは細かいところでイメージと違
1073
う。別にどうでもいいレベルの話なのだが、それでもなんとなく面
喰ってしまうのはしょうがない。
﹁まあ、いいか。とりあえず余計な事に結構時間使っちまってるか
ら、少しペース上げるぞ﹂
﹁了解﹂
達也に急きたてられ、ガサガサと派手な音を立てて速度を上げる。
音を立てずに移動、などと言う面倒な事は最初から考えていない。
あれこれカラフルだったり微妙な色合いだったりする草木を尻目に、
道を間違えたらどうするのかと言う事を全く無視して急ピッチで歩
を進める一行であった。
その悲鳴が聞こえたのは、川をさかのぼり始めてから二日目の昼
過ぎであった。
﹁宏君、澪ちゃん﹂
﹁ん、聞こえた﹂
﹁多分、女の悲鳴や﹂
春菜の問いかけに応えると、とりあえず悲鳴の方向を特定し、武
1074
器を握り直してそちらに進路変更する。宏と澪が把握していた気配
の一つのようだ。複数の意味で震えながらも、果敢に先頭に立つ宏
が微妙に哀れを誘う。距離的にそれほど離れていなかったようで、
全速力で突破して一分かかるかかからないかで、問題の場所に到着
する。
問題の場所では、金髪の多分女性と思われる人物が蔦と枝にがん
じがらめにされ、今にも大木に捕食されようとしていた。
﹁やばい!﹂
﹁間に合え!﹂
一刻の猶予もない状況に大いに慌て、とりあえず気を引こうとア
ウトフェースを飛ばしながら手斧を投げつける宏。剣系の初級遠距
離技・ソニックスラッシュで蔦を切り落とそうとする真琴。手斧が
足回りの蔦を落とし、ソニックスラッシュが女性を絡め取っていた
上半身の蔦を切り裂く。
﹁ヒロ、あいつは素材的には?﹂
初撃で女性の救助に成功したのを確認し、一応聞くだけ聞いてお
く達也。女性は地面に落ちる前に普通の加速魔法で高速移動した春
菜が回収しており、二人ともすでに離脱を済ませている。
﹁そこらの木材よりツーランクぐらい上や﹂
ポールアックスを構え、距離を詰めながら達也に応える宏。因み
に、このポールアックスはレイオットが用意した素材を使って、宏
が作りなおしたものである。真琴の危惧をレイナ経由で聞きつけた
1075
レイオットが、他に使うのはまかりならんと魔鉄とミスリルを用意
して押し付け、ついでに必要ならばと溶鉱炉の設備更新までさせた
のだ。
﹁なら、燃やすのはやめた方がいいな﹂
﹁延焼するかもしれへんし、そっちの意味でも避けた方がええで﹂
﹁だったら、適当に根っこでもやっとくか﹂
そう言って、大地系の攻撃魔法で根っこを寸断しにかかる達也。
その魔法の効果が切れたところで、豪快にポールアックスをスイン
グして、幹の根っこ近くに叩き込む宏。
一撃で幹の三分の一まで食い込んだポールアックスは、豪快な音
を立てて再び正確に同じ位置に食らいつこうとする。これが剣であ
れば、たとえ真琴クラスの使い手が同等以上の武器を使っても、通
常攻撃ではここまではいかない。樹木系モンスターに対しては、斧
刃は何よりも強力な武器となるのだ。
﹁往生際が悪い﹂
最後の悪あがきとばかりに宏に伸ばした蔦を、澪が無表情のまま
風を纏った矢で撃ち落とす。間髪いれずに宏から最後の一撃が叩き
込まれ、瘴気で変質した魔木は豪快に切り倒されるに至る。
﹁木材、ゲットや!﹂
﹁おいっ!﹂
1076
回収した手斧で喜々として枝を払いながら、当初の目的を忘れて
そんな事をほざく宏。ちょっと待てとばかりに容赦なく杖で突っ込
みを入れる達也。
﹁まずは助けた人の無事を確認するのが先だろう?﹂
﹁それは春菜さんがやってくれるか、思うて﹂
﹁いやいや、それでも一応心配するそぶりぐらいは見せるのが礼儀
でしょう?﹂
達也はおろか真琴にまで突っ込まれて、しぶしぶ後ろ髪をひかれ
ながらも女性の方に移動する。彼女の全身が視界に入る頃には、春
菜と澪の手によってほぼすべての蔦が取り払われており、その秀で
た容姿を余すことなく観察できる状態になっていた。
予想通り、女性はエルフであった。その尖った耳が、まごうこと
なくエルフである事を証明している。今の騒動で束ねていた髪がほ
どけ、春菜のものより薄い金糸が緩やかに広がっている。エルフ女
性としては珍しい大きなたれ目の瞳は緑色で、森の民と言うイメー
ジにぴったりである。顔の造形全体で言うならやや幼い感じがする
が、流石に澪やエアリスよりは年上であろう。
だが、彼女の最大の特徴は、顔の造形ではない。エルフ族とは思
えない、そのプロポーションである。背が高めで全体的に華奢なの
は種族の傾向から外れてはいないが、草色の服の胸元を押し上げる
ふくらみは、間違いなく春菜をも上回っている。先ほどの真琴の一
撃がかすめたのか解放された時に木の枝に引っかけたのか、やや際
どい感じに裂けた服の胸元からはたわわに実った禁断の果実が今に
もポロリと零れ落ちそうで、達也などはどうにも目のやり場に困っ
1077
てしまう。
そんな風に達也が目のやり場に困っていると言うのに、こういう
状況では真っ先に目をそらし、部屋の片隅でガタガタ震えながら命
乞いをしそうな宏が、何故か真琴とともに食い入るように見つめて
いる。その視線には性的な要素は全くなく、信じられない物を目撃
してしまったというある種の怒りのようなものが感じられる。真琴
はともかく、宏がそんな視線を女性に向けるのは珍しいを通り越し
て、まるで天変地異の前触れのようで、とにかくひたすら不気味だ。
﹁あ、あの⋮⋮﹂
そんな二人の視線に微妙に引きながらも、とりあえず妙な沈黙に
耐えられずに感謝の言葉を口にしようとしたところで、彼女の言葉
をさえぎって宏と真琴が口を開く。
﹁謝れ⋮⋮! トー○キン先生に謝れ!!﹂
﹁やかましい!﹂
いきなり声を揃えてトンチキな事を言いだした宏と真琴を、同時
にハリセンでどつき倒す達也。いきなり謎の謝罪を要求されて、ど
う反応していいか分からずに思いっきり混乱した様子を見せるエル
フ女性。
﹁だって、エルフってもっと胸部装甲が薄い生き物じゃない!﹂
﹁背ぇ高くて洗濯板のモデル体型が由緒正しいエルフのあり方や!
巨乳とか爆乳のエルフはあり得へん!﹂
1078
﹁だから、今それを話す状況じゃねえだろうが!﹂
﹁達兄、それって遠まわしに主張認めてない?﹂
﹁認めてねえ!﹂
澪の余計な突っ込みで、さらに派手に脱線しそうになる一同。そ
んな彼らに呆れながらも、とりあえず春菜が話を軌道修正しに入る。
﹁とりあえず、エルフが巨乳でも貧乳でもどうでもいいから、とり
あえず話を聞こっか﹂
割とひどい言い分で余計な論争をぶった切り、強引に話を軌道修
正する春菜。春菜の言葉にも微妙に引きつりながら、とりあえず胸
元をちゃんと隠しつつ今度こそお礼を言おうとするエルフ女性。そ
の様子に気がついた春菜が、予備の上着を取り出して羽織らせる。
﹁あ、あの、ありがとうございます!﹂
﹁気にしないで。たまたま通りかかっただけだから﹂
﹁まあ、半分迷子みたいなもんやけど﹂
おずおずとそんな感じで礼を口にしたエルフ女性に、ニパッとい
う感じで笑いながら答える春菜と、身も蓋もない事実をあっさり告
げる宏。
﹁迷子、ですか?﹂
﹁せやねん。ちょっくらエルフの集落、っちゅうか、そこにあるっ
1079
て聞いた森の神様の神殿に用事があってんけど⋮⋮﹂
﹁案外脇道が多くて、今割と迷子﹂
宏と澪の言葉に、少し考え込むそぶりを見せるエルフ女性。
﹁あの、差し支えなければ、どのような御用件で神殿に行かれるの
か、教えていただいてよろしいですか?﹂
﹁神殿に行けば、森の神アランウェン様とコンタクトがとれるかな、
と思ったんだけど、どうかな?﹂
﹁アランウェン様にですか⋮⋮﹂
春菜の言葉に、何とも言い難い表情を見せるエルフ。その表情を
見て、まずい事を言ったのかと心配そうな顔で言葉を続ける。
﹁アランウェン様に会いたいって言うのは、やっぱりまずい?﹂
﹁その、まずいというより、私では判断できないというか⋮⋮﹂
﹁えらい人の許可が居る?﹂
﹁はい。三十年前なら特に問題はなかったんですけど、最近ちょっ
といろいろありまして﹂
三十年を最近と称するような言い方に、時間に対する感覚の違い
がにじみ出る。流石にこの世界で最も長寿と言われる種族、気の長
さが半端ではない。
1080
﹁三十年で、外の人間に対する感情が悪化してるとか? だとした
ら、私達がここにいるのはまずいんじゃ⋮⋮﹂
﹁いえいえ。そもそも、悪化するほど森の外から人が来る事はあり
ません﹂
﹁まあ、そうだろうなあ⋮⋮﹂
エルフの言葉に、なんとなく納得してしまう達也。こんなところ
に入ってくるのは、基本的に自分達のようなよほどの物好きだ。外
部ともめ事を起こすほど大規模な交流など、やろうと思っても不可
能だろう。
﹁って事は、エルフの集落までは、案内してもらってもいいのよね
?﹂
﹁はい。と言うか、是非いらしてください﹂
真琴の言葉に、目をキラキラさせながら言い切るエルフ。その表
情は、どうひねくれた判断をしても大歓迎としか読み取れない。
﹁とりあえず、これでしばらくは獣道を歩かなくて済むのかな?﹂
﹁どうなん?﹂
﹁私達の集落は、技術の度合いを横に置いておけば、ヒューマン種
の皆様が住んでいる村や町とはそれほど大きく変わらないと聞いて
います﹂
﹁だったら、ちゃんとある程度歩きやすい道があるんだよね?﹂
1081
﹁はい﹂
エルフの言葉に、どことなく嬉しそうな顔になる春菜。流石に歩
きにくい獣道をずっと歩き続けるのは、いい加減飽きていたのだ。
携帯用の風呂とマッサージチェアのおかげで心が折れる事はなかっ
たが、そろそろ文化や文明の香りがする景色が恋しい。
﹁っと、そう言えば﹂
﹁どうしました?﹂
﹁自己紹介、してなかったよね﹂
﹁ああ! そう言えば!!﹂
お互いに、あまりに相手が馴染みやすい性格をしていたものだか
ら、すっかり自己紹介を忘れていた。
﹁申し遅れました。私はアルチェムと申します。アルテ・オルテム
のメーザとレイチェムの子です﹂
﹁アルテ・オルテム?﹂
よく分からない自己紹介をされ、思わず怪訝な顔をする達也。他
の人間も、微妙に意味が分かっていない感じである。
﹁アルテ・オルテムと言うのは、オルテムの集落で最も古い土地、
というエルフの古語です。私が生まれ育った地域を指す地名だと思
ってください﹂
1082
﹁苗字とか家名は無いの?﹂
﹁エルフの集落は、この森で一番大きいと思われるオルテム村でも
世帯数で五千程度なので、何処何処に住む誰と誰の子供、で大体通
じるんですよ。子供も集落皆で育てる感じなので、基本ほとんどみ
んな顔見知りですし﹂
﹁なるほど、ね﹂
こんな森の中に五千もの世帯数がある集落が存在する、と言う事
実に内心で大いに驚きながら、なんとなくシステムを理解する春菜。
ドワーフなんかと違って寿命が長い分、子供が生まれるペースもの
んびりだと聞いていたので、その規模には本当に驚くしかない。
因みに、テレスにもちゃんとした名乗りはあるのだが、ヒューマ
ンの街ではほぼ無意味なため、適当に省略してテレス・ファームと
名乗っている。宏達もテレスの時と名乗り方が違う事は気になった
が、どうせそんなところだろうとあたりをつけて、この場ではとり
あえずスルーしている。
﹁えっと、私は藤堂春菜。藤堂が家名で春菜が個人名。今ここにい
る人間は、名前については全員同じ並び。で、こっちの男前な最年
長のお兄さんが香月達也さん。この中で唯一結婚してる人。もう一
人の男の子が東宏君で、髪が短い女の人が溝口真琴さん。一番年下
の子が水橋澪ちゃん﹂
春菜の紹介に合わせ、口々に自己紹介を済ませる宏達。紹介を聞
いて何度か口の中で呟きながら顔と名前を一致させ、再度確認して
ほっとした様子でもう一度頭を下げる。
1083
﹁じゃあ、お互いに自己紹介も済ませたし、エルフの村へ出発進行
!﹂
﹁ちょいまち﹂
折角気合が入ってきたというのに、宏が水を差すように待ったを
かける。
﹁どうしたの?﹂
﹁ハンターツリーをまだばらしてへん。こんな上質な木材放置する
なんざ、あり得んで﹂
鉈と手斧を手にしてニヤリと笑う宏に、思わず呆れたようなため
息を漏らす一同。結局、出発は十五分ほど遅れるのであった。
﹁こんな森の中に、こんな立派な村があるとはなあ⋮⋮﹂
﹁レイテ村あたりより規模大きいんじゃないかしら、ここ﹂
アルチェムの案内により一時間ほどで到着したエルフの村を見て、
思わず唖然とする一同。
1084
﹁てか、エルフって農業やってるイメージあんまりないんだけど、
ここって完全に農村よね⋮⋮﹂
﹁農村やなあ。それも、古き良き時代の日本の山村、っちゅう雰囲
気やで﹂
広大な畑を見て、口々にそんな感想を漏らす。見える範囲ではま
だ次の作物を植え終わっている畑は一部分なので、現段階では主に
どんな物を育てているのかは分からない。このあたりの畑は丁度冬
の作物の収穫が終わったところらしく、畑を休ませているのかそれ
とも夏から秋にかけての作物をこれから植えるのか、ほとんどの畑
は手入れだけされて、まだ何も植えられていない。
これがイモ類や豆類、麦の類ならまだそれほどでもないが、この
面積でトウモロコシを植えるのであれば、さぞ収穫は大変だろう。
なにしろ、ファーレーンで一般的に栽培されているトウモロコシは、
いわゆる植物系モンスターである。モンスターと言ってもポメと同
じで肉食性ではなく、特定の時期を除けば非常に大人しい性質をし
ている。ポメと違って普段はじっくり根を張って育ち、普通の植物
と変わらない。
大人しくかつ荒れ地に強く、収穫量も多くて栽培しやすいトウモ
ロコシだが、収穫期になると勝手にとことこ動き回り、自分を増や
すために新天地へと旅立とうと、あちらこちらに走り回ろうとする。
それを捕まえて仕留めて収穫しようとするとかなり激しく抵抗する
ため、それなりに訓練を積んだ人間でないと返り討ちにあうのだ。
枝ビンタは正直、薄着で食らうと激しく痛い。
もっとも、宏達がまだ見ていないだけで、モンスターではないト
ウモロコシもあるのかもしれないのだが。
1085
﹁ここらの畑って、どんなもん植えてんの?﹂
﹁この一帯は、基本的には豆類と根菜類ですね。収穫期になると逃
げようとするのも居るので、年に二回ほど大騒ぎになります﹂
﹁逃げようとするのって、豆? それとも根菜?﹂
﹁どっちも何種類かは居ます。特にオロー大根が逃げ足が速くて大
変です﹂
オロー大根とは、先端五センチほどが二股になった大根だ。普通
のものと違って独特のさっぱりした、コンソメや魚介のダシと相性
のいい甘みがある。そのため、テローナなどに入れるといい味にな
るので、冬場に大人気の食材だ。比較的温暖な地域の方が生育がい
いらしく、ファーレーンの場合は主に南方寄りの地域で栽培されて
いる。が、少なくとも春菜と達也は、植物系モンスターだとは知ら
なかった。
﹁大根がちょこまかと逃げ回っとる光景って、かなりシュールやな
あ﹂
﹁そうだよね⋮⋮﹂
短い脚を忙しく動かしながら、雪の上をちょこまかと逃げ回る大
根。かなりシュールな光景である。このあたりは雪が積もると言っ
ても年に二度か三度と言うレベルだが、それでも収穫の時期に絶対
に積もらないと言う訳ではない。なので、何年かに一回は、そう言
うシュールな光景を目にすることがあるだろう。
1086
﹁雪が積もった年の収穫作業は、本当に大変ですよ⋮⋮﹂
﹁実感がこもってるな⋮⋮﹂
﹁一度やってみれば分かります⋮⋮﹂
アルチェムの心底うんざりしたようなため息に、思わず同情する
ような目を向けてしまう達也。
﹁他にも、レーヴェ豆なんかは毎年何株か、ものすごく気性の荒い
のが育って大変です。せっかく育った豆を飛び道具にして抵抗する
から収穫量は減るし、薄着の時期だから当たるとものすごく痛いし
⋮⋮﹂
農業の話とは思えない単語が、普通にアルチェムの口から飛び出
す。こちらの農業もずいぶん大変そうである。
﹁レーヴェ豆とはまた、いかつい奴を育てとんなあ﹂
﹁畑の管理面で冬場の野菜と相性がいいし、大豆には負けますが栄
養価も収穫量もいいんですよ。ただ、とにかく攻撃が痛くて⋮⋮﹂
﹁鉄板でも仕込んだら?﹂
﹁そんな暑くて重い物をつけて農作業とか、夏場には考えたくもあ
りません⋮⋮﹂
アルチェムのぼやきに、それもそうかと納得する宏。彼もゲーム
の時に何度か栽培しているが、その当時すでに生身で十分すぎるほ
どのHPと防御力を持っていたので、豆の集中砲火を食らっても基
1087
本ノーダメージで収穫作業ができていた。とは言え、そもそもゲー
ムとは作業手順も育成にかかる時間もそれ以外の事も全然条件が違
うので、全く参考にならない記憶ではあるが。
﹁それにしても、エルフが農耕民族だとは思わなかったぞ⋮⋮﹂
﹁エルフをなんだと思ってたんですか?﹂
﹁狩猟と採取をベースに森を主、自分達を従とした共生関係を築く
種族かと思ってたよ﹂
﹁いくらエルフが住むのが実り豊かな森だと言っても、流石にそん
なやり方では仮にも一大勢力と認定されてる種族の生活を賄うのは、
どうやっても無理ですよ﹂
﹁それもそうだよなあ⋮⋮﹂
今までのファンタジーに対するイメージ全体に喧嘩を売るような
アルチェムの発言に、思わずひどく納得してしまう達也。偏屈な隠
者のような生活は、数が少数だから成立するという側面は否めない。
この集落は少子高齢化により一万人を超える程度だとはいえ、世界
全体では百万の大台を超える程度には居るらしいエルフ族。その全
てが森の恵みだけで食っていくのは、どう考えても無理がある。
この日本の里山のような生活環境は、ある意味必然なのかもしれ
ない。
﹁そもそもこの集落だって、何らかのきっかけで植物が育たなくな
った場所を地道に開墾して土壌改良して、少しずつ少しずつ森に負
荷を与えないようにしながら広げていったんですよ?﹂
1088
﹁地道な話やなあ⋮⋮﹂
﹁なんか、エルフのイメージがどんどん崩れていくわね⋮⋮﹂
真琴の言葉に、思わず本心からしみじみ同意してしまう日本人達。
実のところ、彼らが持つ普通のエルフのイメージは、ほとんどの種
族で共有されている。そういう意味ではむしろ、おかしいのはここ
のエルフたちなのかもしれない。
﹁⋮⋮ん?﹂
しばらく農作物やら普段の暮らし、集落の構成などについて駄弁
りながら農道を歩いていると、唐突に宏が何かに興味を示した。
﹁どうした?﹂
﹁いや、あの一角がちょっと気になるんやけど、どう思う?﹂
﹁どうって⋮⋮﹂
いきなり振られた話に眉をひそめ、宏が指さす区画を観察する。
少し観察して、彼が言わんとすることを悟り、驚愕の表情を浮かべ
る達也。
﹁な、なあ、アルチェム⋮⋮﹂
﹁はい、何でしょうか?﹂
﹁あそこで育てられてるのは、どんな作物だ⋮⋮?﹂
1089
﹁ああ、あれはですね。私達の主食となる、ラース麦の田圃です﹂
麦、と言われて期待外れか、と落胆しつつも、田んぼと言う単語
に一縷の望みをかけて、なおも確認を重ねる事にする達也。
﹁ラース麦ってのは、どんな作物なんだ?﹂
﹁えっと、どんな、と言われても⋮⋮﹂
達也の問いかけに、どう答えようかと考え込むアルチェム。麦と
名は付いているが、一般的な麦とは実った時の様子も実の形も違う
ため、外に同じものが無いと説明し辛いのだ。
﹁あ、そうだ。さっき食べそびれたお昼ごはんがラース麦のおにぎ
りなので、それをお見せしますね﹂
どう説明しようかと考えたところで自身の昼食の事を思い出し、
両手をポンとたたいてそう言うアルチェム。そのまますぐに腐敗防
止付きの袋から葉っぱに包まれた握り飯を取り出し、広げて見せる。
﹁やっぱりか!﹂
﹁来た! 来たで!!﹂
﹁これは⋮⋮、まさかの展開⋮⋮!﹂
﹁嘘⋮⋮! 信じられない⋮⋮!﹂
﹁こんなところで栽培されてるなんて!﹂
1090
握り飯を見せた時の一行の反応に、全力で引くアルチェム。それ
も当然であろう。何しろ、アルチェムのお昼ごはんは、いわゆるジ
ャポニカ米の塩おにぎりなのだから。
﹁えっと、ラース麦がどうかしましたか?﹂
﹁それな、うちの故郷では米っちゅう名前で呼ばれとって、やっぱ
り主食になっとってん。でも、ファーレーンでは栽培されて無くて
なあ﹂
﹁あー、なるほど。でも、麦とは呼んでないんですか?﹂
﹁麦と米は作物としての特性が結構違うから、うちの故郷では基本
的に別もんとして扱われてんねん﹂
宏の返事に、不思議そうな表情を浮かべるアルチェム。どうやら
エルフは、麦と米の区別はしていないらしい。どちらもイネ科の植
物だから、間違っているという訳ではないのだが。
そんなこんなで微妙な押し問答をしていると、通ってきた道を派
手な金属音を立てながら、誰かが駆けよってくる。
﹁アルチェム! @※><$#%&!?﹂
﹁チェット?﹂
よく知る村の青年の声に思わず振り返り、怪訝な顔をしてしまう
アルチェム。そんなアルチェムの様子に気づいているのかどうか、
ドーガが着ていたようなガチガチのフルプレートを身にまとった青
1091
年は、少なくとも達也と真琴には聞きとれない言葉で更にまくし立
てる。顔は普通にものすごく美形の典型的なエルフなのだが、フル
プレートを着こんで走り回れるだけあって微妙に露出している首な
どは大層太く、非常にマッシブな身体つきをしているようだ。
﹁チェット、お客様の前だから、とりあえずファーレーン語で、ね
?﹂
﹁こ、これは失礼しただ、お客人。ゴヴェジョンさんからハンター
ツリーが村と外とのルートをふさいでる言われて、慌ててアルチェ
ムさ探すとっただ。無事でよかっただよ! 探しに出た狩人衆はハ
ンターツリーの残骸とアルチェムの弓だけ落ちとった言うし、おら
心配で心配で⋮⋮!﹂
美貌のエルフから、ガチガチに訛ったファーレーン語が飛び出す。
特にゴヴェジョンと発音したところなどは、どう聞いてもゴブ造に
しか聞こえない。それを聞いた瞬間、必死になって押さえていた衝
動に耐えきれず、宏と真琴が叫ぶ。
﹁謝れ⋮⋮! トー○キン先生に⋮⋮!!﹂
﹁しつこい!!﹂
もっとも、叫んだ次の瞬間には達也にハリセンでしばかれたのだ
が。
1092
﹁そうか。アランウェン様に用事があるだか﹂
﹁ええ。それで、許可をくれる人のところに、ね﹂
とりあえず一発叫んで衝動が収まったからか、普通にチェットと
会話をする真琴。この村に来た理由、アルチェムを助け出した経緯
などを説明すると、周囲に居たエルフたちが何度も何度も礼を言っ
てくるのが、妙におかしいというか暑苦しい。
宏と真琴が達也のハリセンに強制的に沈黙させられた後、チェッ
トが指笛を鳴らすと、あちらこちらから屈強なエルフたちが集まっ
てきたのだ。どいつもこいつも種族を間違えているのではないかと
言うぐらいマッシブな体をしており、暑苦しいことこの上ない。顔
がエルフのイメージそのままだから、とてつもなく違和感がある。
﹁それにしても、本当にありがたいことだで﹂
﹁アルチェムは、アルテ・オルテムで一番年が若いおなごだでな。
もしハンターツリーに食われてたらと思うと、おら、おら!!﹂
﹁もういいから、さ﹂
暑苦しい上に涙もろいエルフたちに微妙にうんざりしながらも、
とりあえず苦笑しながらなだめる真琴。どういう訳か、三人の女の
子の中では、真琴が一番エルフたちに人気がある。顔は若くて美形、
言動は微妙に年寄りじみている上に暑苦しい。そんな集団に囲まれ
ても、先ほど一度叫んだからかもう一度絶叫したいという衝動は起
こらない。
1093
﹁そう言えば、アルテ・オルテムで一番年が若いって言ってたけど、
他に子供は居ないの?﹂
﹁いんや。村全体で言えば、幼子は一応百人ぐらいは居るでよ﹂
﹁ただ、地区として一番古いアルテ・オルテムだと、最後に赤子さ
産まれたのが五十年前でな。その五十年前の赤子が、ようやく子供
さ産めるぐらいの年になったでよ﹂
﹁それがアルチェムって事? それはまた、気が長い話ねえ﹂
﹁エルフは寿命が長いでな。その分、体が本当に成熟するまでは時
間がかかるだよ。単に妊娠するだけなら十二歳にもなれば十分だど
も、ちゃんとした体になるまではヒューマン種や獣人族に比べて長
い時間がかかるでな﹂
どうやら、体が最低限の成熟を終える年齢はエルフも他の種族も
それほど差はないらしい。そもそも、無防備な幼児の時期が長いと
いうのは、それだけで種族全体にとってのリスクとなる。そう考え
れば、平均寿命に対して第二次性徴が起こるまでが早い、と言うの
もさほどおかしなことではなさそうだ。
﹁そう言えば、三十年前は神殿まで自由に行き来出来たんだよね?﹂
﹁んだ。あの頃は、別に妙な草も生えてながっだでな﹂
とりあえず一通り聞きたい事が出揃ったと判断し、自分達の目的
に関わる話へと話題を変えた春菜の言葉に、端的な解答を返してく
れる一見青年に見える中年エルフ。
1094
﹁妙な草? もしかして、神殿に行くのに許可が必要なのって⋮⋮﹂
﹁んだんだ。肉食の妙な草が茂っちまっただでな。自分の身を守れ
る人間以外は、立ち入り禁止になっただよ﹂
﹁頑張って駆除さしとるべが、奴ら繁殖速度が速くてなあ﹂
﹁試しに作ってみた除草剤も、すぐ耐性つけおっただよ﹂
その言葉に、うわあ、と言う顔をする一行。このマッシブなエル
フたちが苦労するぐらいなのだから、その肉食植物は相当手ごわい
に違いない。
﹁まあ、もう長の家さ着くだし、詳しい事は長に聞いてくんろ﹂
﹁はーい﹂
中年エルフの言葉に返事を返し、目的地を視界に入れる。ここに
来るまでに見た他の家よりは大きい気がしなくもない家。集会所も
兼ねるというそこが、この村を束ねる長の家だとのことである。
﹁後の事は、アルチェムさ任せた﹂
﹁おらたちは、アルチェムの無事とお客人の到着さ知らせてくるだ﹂
﹁今夜は村あげての歓迎会だで﹂
﹁ゴヴェジョンさん達にも知らせんと﹂
1095
そう口々に言って、蜘蛛の子を散らすように去っていくエルフた
ち。他所者に対する警戒心、などと言うものは皆無だ。
﹁えらく人懐っこい人たちだよね⋮⋮﹂
﹁外から来る人たちが珍しくて、娯楽に飢えてるんですよ⋮⋮﹂
﹁そう言えば、アルチェムさんあんまり訛ってない﹂
﹁私は、外との交渉役の一人ですから﹂
などと澄ましてはいるが、エルフたちと話しているとたまに微妙
に崩れる事を澪は見逃していない。
﹁とりあえず、長に話を通してきますので、少しお待ちいただけま
すか?﹂
﹁了解。お願いね﹂
そうやって待たされること約一分。家の奥から複数の気配が出て
くる。
﹁申し訳ない、お客人。足を悪くしててのう﹂
家の中から現れた初老のエルフ男性。頭は河童と言う表現がふさ
わしい状態。頬はたれ落ちそうなほど肉があまっている。なにより
今まで見たエルフとは正反対のだらしなく膨らんだ三段腹は、今ま
で以上に強烈にエルフのイメージを揺さぶってくる。
﹁あやま⋮⋮!﹂
1096
﹁しつこい!﹂
内心で微妙に同意しつつも、速攻でハリセンでしばいて宏達の台
詞を叩き潰す達也。
﹁師匠。その突っ込みは用件とは無関係﹂
﹁せやな、すまん。つい思わず衝動的に﹂
素直に謝ってくる宏に対し、気持ちが分からないでもないため何
とも言えなくなる突っ込み役。
﹁とりあえず、ものは相談なんやけど﹂
﹁なんじゃ?﹂
気を取り直しての宏の言葉に、大まかにアルチェムから事情の説
明を受けていた長が、値踏みするような目を向けながら聞き返して
くる。
﹁うちらが米と呼んどるラース麦、その栽培方法をファーレーンに
広める手伝いしてくれへん?﹂
﹁そっちはいま話す用件じゃない!﹂
いきなり明後日の方向に脱線した宏に対し、一緒にボケていたは
ずの真琴の突っ込みが炸裂する。そんな異邦人の言動に、おもわず
目を白黒させるエルフたちであった。
1097
第1話︵後書き︶
トー○キン先生、ごめんなさい。
後、作者はエルフの乳がでかかろうが小さかろうが特にこだわりは
ありません。
1098
第2話
﹁ねえちゃん、いい飲みっぷりだべな﹂
﹁んだんだ。もう一丁いくべ﹂
﹁いくらでもかかってきなさい!﹂
アルテ・オルテムの大人全員が総出で騒ぐ大宴会。ざっと見ただ
けでも軽く五百人、多分最低でも千人は超えているであろうエルフ
があちらこちらでたき火を囲んで、がばがばと底なしの風情で濁り
酒をあおっている。その中に何十人か、明らかにゴブリンやフォレ
ストジャイアントと分かる存在も混ざっているのだから、そのカオ
スぶりは凄まじい。
そんな飲兵衛どもに捕まった、と言うよりは喜々として突撃をか
けた真琴は、そのウワバミぶりを遺憾なく発揮して次々に酒瓶をあ
けていく。一杯飲み干すたびにエルフたちのやんやの声援を受け、
上機嫌でつまみをかじっては注がれた酒を躊躇なく空にする。
﹁うわぁ、うわぁ、うわぁ⋮⋮﹂
﹁真琴さん、大丈夫かいな⋮⋮﹂
﹁ありゃあ正真正銘のウワバミだから、大丈夫なんじゃないか?﹂
製法のせいかそれとも世界の違いゆえか、意外と度数がきつい濁
り酒をちびちびとやりながら呆れを隠さずにコメントする達也。実
1099
際、達也が一杯飲み干す間に真琴は三杯はあけているが、呂律も言
動もしっかりしたもので、潰れるという状態が全くイメージできな
い。
﹁なんだかお恥ずかしいところをお見せしてしまったようで⋮⋮﹂
﹁こっちも大概だから、気にすんな﹂
実に恥ずかしそうにして居るアルチェムに、苦笑しながら達也が
答える。実際、唐突に誰だか分からない人物に対する謝罪を求める
事に比べれば、宴会の口実にされるぐらいは大したことではないだ
ろう。
﹁それにしても、エルフとゴブリンとフォレストジャイアントが星
空の下で宴会してるとか、非常に違和感がある光景だな﹂
﹁そうですか?﹂
﹁まあ、一般的なイメージだと、ゴブリンとエルフとかドワーフは、
大概の場合不倶戴天の天敵みたいな間柄って印象があるしなあ﹂
﹁せやなあ。後、フォレストジャイアントは、エルフとはまた違っ
た意味で、あんまり種族間交流とかせえへんイメージがあるし﹂
﹁このシチュー美味しい﹂
ヒューマン種の街での異種族のイメージをアルチェムに語って聞
かせる宏達と、ひたすらマイペースに食事を続ける澪。実際のとこ
ろ、ヒューマン種の持つ異種族のイメージは、宏たち日本人が持っ
ている物とそれほど大きな差はない。そして、街に出てきている異
1100
種族はそれほどそのイメージと離れた振る舞いはしていない。ずれ
ていると言ったところでせいぜいテレスのレベルであるため、エル
フ族の実態がこうであるという事は、ここに来るまで想像もしてい
なかった。
﹁おめらがチェムさ助けてくれたのか?﹂
アルチェムと異種族間交流を進めていると、酒瓶を持ったゴブリ
ンとフォレストジャイアントが声をかけてきた。
﹁そうなるんかなあ?﹂
﹁どっちかってえと、お前木材目当てで突撃かけてたもんなあ⋮⋮﹂
﹁ええやん、木材﹂
達也に突っ込まれて開き直る宏。とは言え、最初はアルチェムの
救助目当てで走ったのだから、助けたというのも間違いではない。
﹁テレスさ出ていった後、里にゃチェムしか年頃の娘はおらんでな﹂
﹁若い娘らしい幸せも経験せずに命さ散らすかと思うたら、おらた
ちも流石に慌てただよ﹂
﹁ハンターツリーは、初見の人間が単独行動の時に不意打ち食らっ
たら、大概逃げられへんからなあ⋮⋮﹂
﹁そうだべ。しかも、現場にゃ残骸とチェムさ使ってた弓だけ残っ
てたんだべ? 焦んない方がおかしいべ﹂
1101
ゴブリンとフォレストジャイアントの言葉に、周りのエルフたち
も頷く。その態度に苦笑しつつ、正体不明の鳥の腿肉にかぶりつく
宏。肉もかかっているたれも正体不明だが、ピリ辛の味付けが中々
旨い。握り飯と一緒に食べると、どんどんご飯が進む。
食事兼つまみとして焼かれている肉類は鳥とウサギがメインであ
るが、シカやイノシシ、クマなどもそれほど大量にという訳ではな
いが一緒に調理されている。流石に寄生虫が怖いので、これらの生
き物は全て、徹底的に火が通される。
﹁ゴヴェジョンさん、フォレダンさん、ご心配をおかけしました﹂
﹁よかよか。無事ならそれでよか﹂
アルチェムに頭を下げられたゴブリンとフォレストジャイアント
が、目を細めながらそう答える。言わずとも分かるだろうが、ゴヴ
ェジョンがゴブリンで、フォレダンがフォレストジャイアントであ
る。見た目は全く違う三つの種族が、中身に関してはほとんど変わ
らないところが面白い。
﹁そう言えば、アルチェムは何で外に居ったん?﹂
﹁西の里のエルフとちょっと打ち合わせがあったんですよ。私、来
週初めてレネードに取引に行くんです﹂
﹁なるほど。人間の街での交渉について、作法とかそういうんを教
わるんやな﹂
﹁はい。引き継ぎを受ける前に担当者だったテレス姉さんが外に出
てしまったので、私が外に出る許可が下りるまでは、西の里のエル
1102
フに頼ってたんですよ﹂
﹁他の人は行かんの?﹂
﹁外の事を知るのは若者の役目だ、という建前のもと、代々年頃の
エルフがこの役目を担っていまして﹂
エルフの社会もいろいろあるようだ。それならとっとと許可を出
して習うより慣れろ方式でやればいいと思うのだが、それをするに
はエルフの感覚ではちょっと若すぎるらしい。因みにテレスも百歳
に届かない若いエルフだが、アルチェムはその半分ぐらいの年であ
る。エルフの社会では五十歳未満と言うのは、日本で言うところの
中三ぐらいの年齢に当たるようだ。少子高齢化が進んでいるとはい
え、周りの人間もずいぶん過保護である。
﹁因みに建前はそれですが、本音は年寄りを外に出すと帰ってこな
いから、だったりします﹂
﹁は?﹂
﹁迷子にでもなるの?﹂
意外としか言いようがない理由を聞き、何じゃそらと言う表情で
聞き返してしまう宏と春菜。なんとなく落ちの想像がついたらしく、
達也は苦笑しながら酒をちびちびやっている。澪はそんなの関係ね
え、とばかりに川魚の塩焼きに夢中だ。
﹁迷子ならまだいいんです。ほとんどはですね、都会にあこがれて、
村に持って帰らないといけないあれこれをそのまま持ち去って行方
不明になるんですよ﹂
1103
﹁⋮⋮それって、むしろ若者がやりそうな事だよね⋮⋮﹂
﹁せやなあ。普通、田舎捨てて飛び出すんは若者の仕事やと思うん
やけど⋮⋮﹂
﹁何百年も辺鄙な村に過ごしてると、刺激が欲しくなるらしいんで
すよ﹂
年寄りがそんな冷や水をやらかしていいのかと突っ込みたくなる
台詞に、どうにも反応に困る。ゲームの時のエルフがこうでなかっ
たために、余計この辺の突っ込みどころが目に余る気がする。
﹁別に、それやったら自由に行かせたげてもええんちゃうん?﹂
﹁あんまり年寄りさ外にふらふら出るんは感心しねえべ﹂
﹁ゴヴェジョンの言うとおりだべ。年寄りは若いもんを指導してや
らんといけん﹂
﹁それに、年寄りが出ていくと、急速に過疎化が進むんですよ。南
西にあったエルフの里は、それが原因で廃村になったんですから﹂
ゴヴェジョンとフォレダンの言葉に、アルチェムがそんな微妙な
補足を入れる。少子高齢化が進むエルフの里。そこで年寄りが一気
に抜けるとどうなるのか。答えは過疎化のスピードが速くなる、で
ある。しかも、エルフの場合は七百歳やそこらでもまだまだ現役で
働けるのが普通だ。なので、年寄りに抜けられると生産能力も急激
に落ちていき、里を維持できなくなるのである。
1104
日本の農村と同じ問題を、エルフたちは違う形で抱えているのだ。
﹁少子高齢化は、どこでも問題になってるんやなあ﹂
﹁んだんだ。ゴブリンは寿命がみじけえし、もともと子だくさんだ
でそういう問題はねえだどもなあ﹂
﹁因みに、ゴヴェジョンは百さ越えてるだで。ゴブリンは三十年も
すれば大体寿命で死ぬから、こいつは化けモンの部類だでよ﹂
﹁化けモンじゃねえべ。おら、アランウェン様のお力で、エルダー
ゴブリンに進化したでよ﹂
この世界のゴブリン事情は、なかなか複雑そうだ。もっとも、ゴ
ブリンがどうであろうと特に興味のない澪は、焼いたピーマンやら
人参やらに標的を変えつつ、ひたすら食事に夢中だが。
﹁そういや、何で皆ファーレーン語で話しとるん?﹂
﹁そりゃおめえ、この村にいくつの種族が出入りしてると思ってる
だ?﹂
﹁たまに来るヒューマンを除いても、全部で四つも異種族が交流し
とるでよ。どれかの種族の言葉で統一したら、それ以外の種族が気
ぃ悪くすんべ﹂
﹁それに、おらたちの口の構造だと、ヒューマンの言葉は喋れても、
エルフ語とかゴブリン語は難しいでな﹂
宏の質問に、分かるような分からないような回答を返すゴヴェジ
1105
ョンとフォレダン。アルチェム以外の発音だと、どうしてもゴブ造
にフォレ太と聞こえてしまうほど訛っているが、意思疎通と言う観
点ではそれほど問題はなさそうな風情である。因みにもう一つの種
族はフェアリーだが、今日は特に用事が無いらしく、この場には来
ていない。
﹁ちゅうことは、テレスとかアルチェムの発音がえらい綺麗なんは、
やっぱり外との交渉役やから?﹂
﹁そうですね。やっぱり、交渉するにはちゃんとした発音で話せな
いと困りますし﹂
郷に入りては、郷に従えです。そんな風に澄まし顔で言うアルチ
ェムを、思わず微笑ましい顔で見守ってしまう一同。なお、この期
に及んでも燻したチーズに夢中の澪は、どうやら余計な事を聞いて
これ以上イメージを損なわないようにしたいらしい。要は自己防衛
反応である。
﹁ん? なんか、あっちが騒がしいな﹂
﹁あ、あれは!﹂
﹁銘酒ドワーフ殺しだべ!﹂
物騒な名前を言いながら、恐ろしく大げさな反応を示すゴヴェジ
ョンとフォレダン。その様子から、多分ものすごく強い酒なのだろ
うとあたりをつける一同。
﹁因みに、ドワーフ殺しってのは?﹂
1106
﹁ラース麦で造った酒を限界まで蒸留して、とことん度数を高めた
酔っぱらうためだけの酒だべ﹂
﹁蓋あけて火ぃ近付けるだけで引火するほどきつい酒でな、ドワー
フが一瓶飲み干す前に潰れたっちゅう逸話がある、ひたすら強いだ
けの酒だでよ﹂
﹁何その危険物⋮⋮﹂
﹁てか、それを真琴がぐいぐいいってるように見えるんだが⋮⋮﹂
達也の指摘通り、もはや米の酒ではなく単なる液状アルコールな
のではないかと言う代物を、真琴と十人程度のエルフが酌み交わし
ている。エルフたちが二杯も行かずにどんどんつぶれていくのに、
真琴の方は既に四杯目だ。それまでに飲んだアルコールの量を考え
ると、さすがにそろそろストップをかけるべきではなかろうかと心
配になってくる。
﹁ちょっと止めてくる﹂
﹁心配しねえでも、あれが出てきたら宴会は終わりだべ﹂
﹁んだんだ。だども、瓶一本空けるつわものがいたとは驚きだでよ﹂
﹁それも、あんなちっこい姉ちゃんがなあ⋮⋮﹂
何やら恐れ入ったような口調で真琴について語り合うゴヴェジョ
ンとフォレダン。確かに真琴は、ヒューマンの平均から見ても小柄
な方に入る。ゴブリンを除けば平均身長が百七十センチ以上の種族
しかいないこの場において、彼女は成人している人間としては最も
1107
小柄な女性だろう。
そんな真琴が、ドワーフですら一本飲めなかった酒をガンガンあ
けていき、そのくせ見た目には思考も呂律もしっかりしているよう
に見えるのだから、引いて当然である。
﹁焼きトウモロコシは、やっぱり醤油塗った奴の方が好き﹂
﹁澪、お前はお前で食いすぎだよ⋮⋮﹂
我関せずと言った感じで焼きトウモロコシをかじっていた澪のコ
メントに、思わずジト目になって突っ込みを入れる達也。なんだか
んだ言って、マイペースな一同であった。
﹁おはよー⋮⋮﹂
翌朝、微妙に寝ぼけた感じで与えられた部屋から出てきた真琴は、
春菜が用意していた朝食に目を見張り、一瞬で眠気を吹き飛ばす。
既に揃って食事の開始を待っていた宏達をスルーし、そそくさと自
分のお膳の前に座って、米が出てくるのを大人しく待つ。
﹁おはよう、真琴さん。とりあえずご飯にお味噌汁と海苔、魚の干
物と小鉢は用意したけど、卵はどうする? 卵焼き? 目玉焼き?
それとも、卵かけご飯?﹂
1108
﹁卵かけご飯で!﹂
まるで昨日の酒が残っている様子を見せない真琴に、思わず苦笑
しながらご飯をよそい、卵と鰹節、醤油の三点セットを渡す春菜。
予想通りの反応に、宏達も笑いを隠さない。
﹁真琴さんは、納豆食べる人?﹂
﹁うん。でも、今日はいいわ。卵かけご飯だし﹂
﹁そっか、了解﹂
真琴の返事に頷き、自分の分のご飯を用意する春菜。皆卵かけご
飯なので、自分も同じく卵かけご飯にする。因みに茶碗をはじめと
した食器類は、工房に居る時に宏と一緒に作ったマイ食器である。
﹁おめえら、生で卵さ食うんだべか?﹂
﹁ちゃんと消毒したから大丈夫やで﹂
﹁そっただ問題じゃねえべ﹂
米の上に生卵を落とし、醤油と一緒にかき混ぜ始めた一同を見て、
引いたような表情で突っ込みを入れるゴヴェジョンとフォレダン。
アルチェムも普通にどん引きしている。
﹁うちの故郷は、あれこれ生で食べる文化があんねん。どんな処理
してどう食べたら安全かっちゅうんは、百年単位の文化の積み重ね
で大体のところは確立されとるし﹂
1109
きっちり隅々まで醤油と卵を混ぜ込んだ宏が、そんな事を言いな
がら美味しそうにご飯を一口食べる。
﹁春姉、おかわり。それと、お昼はオムライス﹂
﹁ん、了解﹂
二杯目を味付け海苔で堪能しながら、そんなリクエストを宣言す
る澪。米が手に入る当てが出来たとたんに、遠慮なく大量にバクバ
クと食べ始める所が分かりやすすぎる。
﹁あたしもお代り。後、納豆ちょうだい﹂
﹁はーい﹂
﹁納豆って、あの腐った豆だべか?﹂
﹁腐っとるように見えるけど、一応食いもんやで﹂
ダシとからし、ネギに醤油を入れてよくかき混ぜ、躊躇なくご飯
にのせて食べる真琴を見て、実に嫌そうな顔をするゴヴェジョン。
ゴブリンの嫌そうな顔と言うのもかなりレアであろう。
﹁まあ、こればっかりは違う大陸の連中に理解しろっつうのは酷だ
ろうな﹂
﹁せやなあ。同じ国の人間でも、僕みたいによう食わんのもおるん
やし﹂
1110
﹁だよね。と言うか、腐った豆ってたまに関西の人が言うよね﹂
﹁関西人が全員、納豆食わん訳でも存在を否定する訳でもあらへん
で。僕とおとんは苦手やけど、おかんと姉ちゃんは普通に食べとる
し﹂
納豆を食べる食べないは、好き嫌いと言うよりはどちらかと言う
と文化と言う側面が強い。元々産地が少ない西日本で食べられない
人間が結構いるのは仕方がない事だろう。それに、確かに栄養価の
面では優れた食べ物ではあるが、食べられないからと言って説教を
受けるような食品でもない。
同じ国の中でもそうなのだ。別の国の、それも根本的に種族その
ものが全く違う存在に受け入れられなくても、文句を言う筋合いは
ない。むしろ、冗談半分で用意した納豆を、普通に平気で食べたエ
アリスのような人間が例外であろう。
﹁それにしても澪、お前最近、本気でよく食うよな﹂
﹁せやなあ。ファーレーンにおった頃も結構食うとったけど、向こ
う出てから三割増しぐらいになってへん?﹂
﹁遅れてきた成長期﹂
達也と宏の突っ込みをそんな言葉でいなし、三杯目のご飯と二枚
目の魚の干物をぺろりと平らげる。いまだ百五十センチの大台に乗
っていないその小柄な体のどこに入るのか、と言うほどの分量だ。
もっとも、最近の活動内容を考えると、その程度食べたくらいでは
太ることなどあり得ないだろうが。
1111
﹁子供がたくさん食うのはいいことだべさ﹂
﹁だべだべ﹂
気持ちいいほどよく食べる澪の様子に目を細めながら、ゴブリン
とフォレストジャイアントが頷く。
﹁それにしても、この煮物うめえなあ﹂
﹁んだんだ。この黒っぽい汁はなんだべ?﹂
﹁あ、それはお醤油って言う、私達の故郷の調味料。大豆を麹って
いうカビで発酵させて作るんだ﹂
﹁大豆だべか﹂
春菜の説明を、興味深そうに聞いている三つの種族。どうやら、
ずいぶんと気に入ったらしい。
﹁そっちのスープも、大豆を発酵させて作ってるんだ﹂
﹁これもだべか﹂
﹁ラースの飯とよくあうで、気になってただよ﹂
﹁色々なものがあるんですねえ⋮⋮﹂
﹁何やったら、作り方教えよか?﹂
宏のその提案に、顔を輝かせるアルチェム達。材料が自給自足で
1112
きるのだから、作り方を学べばいくらでも作れる。彼らの顔にはそ
う書いてある。
﹁ただ、今回みそ汁と煮物に使ったダシは、海のものから取ってる
んだよね。ちょっとこのあたりの作物とかから、いいダシ取れそう
なのを見つくろって改良しないと﹂
﹁ダシですか⋮⋮﹂
﹁それは確かに難しいべな﹂
﹁使う材料で、がらっと味が変わっちまうだよ﹂
春菜の言葉を聞き、悩ましそうな顔をする三種族。ダシで通じる
あたり、そこらへんの概念はファーレーンより発達しているようだ。
その後、このあたりでスープや煮物に使うダシの材料について色々
教えてもらっている途中で、気になる事が出てくる。
﹁そう言えば、昨日普通に塩焼きが出とったんスルーしたけど、こ
の辺って、塩はどないしてるん?﹂
その疑問点を、素直に口に出して質問する宏。森の中にこれだけ
の数の種族が生活していて、普通に塩を使っている事が不思議だっ
たのだ。あたりに岩塩が取れるような洞窟の類があるならまだしも、
ざっと見た感じではそういうものもなさそうである。
街道こそ通ってはいても、近場の街も森の中。ウルスをはじめと
した沿岸部の街と比較すると、塩はそれほど安価なものではなく、
エルフたちが持ち込むようなものでは、そんなに大量の塩と交換で
きるとは思えない。そう言った物価の問題や持ち運べる分量を考え
1113
ると、物々交換で塩を入手しているとも思えない。故に何らかの方
法で生産していると考えるのが自然だが、近くの水源が全て淡水な
ので、生産方法が思い付かない。
﹁塩は、ソルトツリーの実から取れるだよ﹂
﹁ソルトツリーは一年中花が咲く、ほとんどの時期に実をつける種
類の植物なんです。なので必要な時に実をもいで、煮詰めて水分を
飛ばして作ってますね。一個の実で塩の結晶が、大体百グラムぐら
い取れます﹂
﹁一本あれば千人分ぐらいは賄えるでな。このあたりの集落では重
宝してるだよ﹂
流石異世界、妙な植物もあるらしい。因みに、ソルトツリーの塩
は単独で舐めると、ちょっとフルーティな感じがする。塩は塩なの
で、あくまでもそんな気がすると言うレベルではあるが。
﹁なるほどなあ。つまり、このあたりの集落で足らへんのは、娯楽
と刺激、っちゅう訳か﹂
﹁んだんだ﹂
水も塩も肉も野菜もすべて揃うのであれば、わざわざ外に出てい
く理由はあまりない。故に外部との接触が少なくても特に問題には
ならないものの、衣食住に困らないと、どうしても娯楽や刺激と言
うものが欲しくなるのが人間と言う生き物である。ましてや閉鎖さ
れた土地に住んでいて人間関係も閉じているとなると、余計に煮詰
まってそういうものを求めてしまうのだ。
1114
しかもこのあたりの集落、それも特にエルフたちの場合、普通そ
う言う時に保守的になるはずの年寄りが、むしろ刺激に飢えて外に
出ていきたがるのだ。村全体での刺激に対する飢えと言うのがどれ
ほどのものか、想像するに余りある。
﹁そう言えば、出ていきたがるのって、年寄りが多いのよね?﹂
﹁んだんだ﹂
﹁じゃあ、何でテレスはウルスに来てたの?﹂
﹁少し前に、って言っても二年は経ってるんですけど、アランウェ
ン様からの神託がありまして、若者を一人、ウルスに向かわせる事
になりまして。誰に行かせても揉めそうだからくじ引きで決めたら、
テレス姉さんの役目に決まったんです﹂
アランウェンの神託、と言うものにあれこれ心当たりがある一同。
ここまで来ると、神様たちの作為というものをはっきりと感じざる
を得ない。
﹁あの、昨日聞きそびれたんですけど、皆さんとテレス姉さんとの
関係は?﹂
﹁雇い主と見習いだよな?﹂
﹁せやなあ。そこに至るまではいろいろあったけど、今の関係はそ
んなとこや﹂
﹁雇い主、ですか?﹂
1115
﹁せやで。指導したんは三カ月ほどやけど、とりあえずカレー粉と
八級の各種ポーションとか毒消し、あとちょっとした調味料は作れ
るように仕込んできたから、今頃せっせとその手のもんを作っとる
はずや﹂
ポーション、という言葉に微妙に反応するゴヴェジョンとフォレ
ダン。因みに、エルフの村でも、各種ポーションの呼び方はファー
レーン準拠だ。理由は簡単で、この村の薬師は建国当時のファーレ
ーンで修業を積んで帰ってきたエルフの後継者だからである。とは
言え、修行を積んできた当人でも四級はやや手に余るレベルで、そ
の技を今の薬師が全て引き継ぐ前に寿命で逝っている。そのため、
この村で問題なく生産されているポーションは六級が上限である。
﹁ポーション作りさ仕込んだか?﹂
﹁おう。仕込んだのはこいつ、と言うよりはその弟子の澪だがな﹂
﹁澪でも、五級作るぐらいまでは普通に指導できるからなあ﹂
﹁五級だべか⋮⋮﹂
出てきた単語に対し、胡散臭そうな顔を見せるゴヴェジョン。ど
う見ても宏も澪も、そんな高度な薬を作れるほど修行を積んだ薬師
には見えない。
﹁まあ、テレスが今何やっとるかはおいとこうや﹂
﹁そうだね。まずは、現状把握から﹂
宏達がどのレベルの薬を作れるかなど、今は全く関係ない。今重
1116
要なのは、アランウェンの神殿に行くための話である。
﹁神殿への道って、どういう状況になってるの?﹂
﹁正面からの道は肉食の草が蔓延ってて、とても通れねえだ﹂
﹁裏道はハンターツリーとブラッドウルフがちょこちょこ居るだで、
素人にはお勧めできねえべ﹂
﹁だども、裏道の方がまだ通れるだ﹂
﹁んだんだ﹂
なかなかろくでもない情報が漏れてくる。正面通りの肉食の草に
ついては昨日の時点で多少は聞いていたからまだいいが、裏道の難
易度の高さもなかなかのものだ。
宏が三発で切り倒したハンターツリーだが、正面からだと蔦と枝
の飽和攻撃がなかなかに厄介だ。本体はその場に根を張って動かな
いが、それゆえに実に巧妙に擬態し、的確に不意を突いてくる厄介
な樹木である。他の属性に比べれば炎に弱いが、乾燥していない樹
木がそう簡単に燃え上がらないように、斧刃に比べれば致命的な弱
点と言う訳ではない。そして、それ以外に弱点と呼べるような部位
も属性も存在せず、樹木ゆえにやたらとタフで防御力が高い、実に
面倒な相手なのだ。少なくとも、弓矢で倒すとなると相性は最悪で
ある。
ブラッドウルフはその名の通り、血のように赤い毛皮を持つ巨狼
だ。狼のくせにネコ科のように木々を利用した三次元攻撃を得意と
し、その素早い動きと鋭い牙は並の冒険者を五秒と経たずに餌食に
1117
する。ポイズンウルフと比較すると数段上の戦闘能力を持つにもか
かわらず、最低でも十匹以上、場合によっては二十を超える群れで
行動する危険生物で、今回の場合何より面倒なのは、ハンターツリ
ーと共闘する事があることだろう。
ハンターツリーは肉食性で肉や内臓も食べるが、その主な栄養源
は獲物の魔力と体力、ついで血液である。一方、ブラッドウルフは
言うまでもなく肉を食べる生き物であり、血液に対してはそれほど
執着しない。更に言えば、ブラッドウルフとハンターツリーが正面
から戦った場合、数の暴力で大体ブラッドウルフが勝つ。それ以前
に、ブラッドウルフクラスのモンスターにハンターツリーの奇襲は
そう簡単には通じない。奇襲をかけた時点で、大抵ブラッドウルフ
の群れは射程範囲外に逃げている。
つまり、ハンターツリーから見れば、ブラッドウルフは獲物とし
ては非常に効率が悪いのだ。故に、彼らの狩りを手伝って、そのお
こぼれを回収した方が賢い選択になるのである。
﹁よくそんなのがうろうろしてて、この一帯の村が大丈夫だよな﹂
﹁そら、結界ぐらい張ってあるべ﹂
﹁んだんだ。それに、数と数の勝負になればおらたちゴブリンはそ
う負けねえだし、フォレストジャイアントはハンターツリーにとっ
ては天敵だべ。向こうもわざわざ喧嘩さふっかけてくるほど馬鹿じ
ゃねえだ﹂
﹁なるほどなあ﹂
ハンターツリーにとっては、重量があって頑丈かつ、斧の扱いに
1118
長けたドワーフやフォレストジャイアントは相手にしたくない生き
物のトップであろう。何しろ連中ときたら、がんじがらめにしても
気にせず幹まで突破し、強引かつ豪快に切り倒しにかかるのだ。ハ
ンターツリーに限らず樹木系モンスターにとって、重量級の木こり
ほど怖い相手はいない。
﹁まあ、とりあえず裏道については考えへんとして。正面の道をち
っと確認した方がええやろう﹂
﹁裏道を考えないのは、どうしてですか?﹂
﹁俺達が行くだけなら別にかまわないんだろうけど、ここら一帯に
とっちゃ何の解決にもならねえからだ﹂
﹁えっ?﹂
﹁正面からの正規ルートが通れた方が、自分らも便利ええやろ?﹂
予想外の言葉に驚き、目を見開いて宏達の顔を見つめる。
﹁そないに驚く事やあらへん。米ようさん貰って帰るんやし、ファ
ーレーンの農業指導にも行ってもらわなあかんねんから、これぐら
いの仕事はするで﹂
﹁逆に、それだとちょっともらい過ぎなのでは⋮⋮﹂
﹁ええってええって。ただ、ちょっと時間かかるかもやから、その
間無駄飯ぐらいが増えるんはかんべんな﹂
﹁気にせんでもええだよ。ここ三年ほどは豊作だでな。ここもおら
1119
たちの村も、十人や二十人増えたところで飢えることはねえべ﹂
そんな気のいい会話のやり取りをしながら、とりあえず正面の道
を通れるようにする事で方針が決まる。
﹁とりあえず朝ごはんも終わったし、ちょっと正面ルートの様子見
にいこか﹂
﹁そうだね。話を聞いただけじゃ、いまいち状況がつかめてないし﹂
﹁師匠、除草剤は?﹂
﹁それも確認してからや。それに、そんぐらいはここの人らも試し
とるやろうし﹂
そんな事を言いあいながら、朝食の片付けを済ませて冒険の準備
をする。何をするにも、まずは現場を知ることから。そんなプロジ
ェクトの基本に従い、状況確認に繰り出す日本人であった。
﹁ちぇい! ちぇい!﹂
﹁真琴、後ろだ!﹂
﹁ああもう、鬱陶しい!!﹂
1120
﹁師匠、春姉、火矢撃つから下がって﹂
アランウェン神殿への正面ルートは、実に大変なことになってい
た。
﹁流石にこれは増えすぎやろう!!﹂
愚痴とも苦情とも付かない言葉と同時にアウトフェースを再度発
動し、敵の注意をかき集める。伸びてきた蔦を左手のナイフで切り
払い、ずんずん本体に近寄っては鎌で一閃。すぱすぱと小気味よく
刈り取られていく不確定名肉食の草、正式名称マンイーターだが、
刈り取っても刈り取ってもきりがない。
マンイーターはその名のとおり、人間を主食とした肉食植物で、
その蔦で全身を絡めとって体温を奪い、抵抗力が落ちたところで幹
にある袋で丸呑みすると言ういろいろといけない妄想を抱かせそう
な捕食の仕方をする。主食は人間だがその実何でも食べる蔦植物で
もある。
マンイーターの最大の弱点は、一定以上の切れ味を持つ鎌だと一
撃で刈り取られてしまうことだ。マンイーターに限らず樹木系に分
類されない植物系モンスターは、大抵の場合鎌が弱点である。特に
蔓植物は鎌に弱く、根元をスパッと引っ掛けるだけで簡単に仕留め
ることができる。
﹁なんかっ! 今後ほとんど使わないはずのっ! 鎌の熟練度がっ
! どんどん上がってるっ! 気がするよっ!﹂
宏を囮にしてどんどんさくさくとマンイーターを刈り取りながら、
1121
そんな愚痴をこぼす春菜。レイピアだと相性が悪いため、宏たちが
持っている予備の予備を借り受けたのだ。真琴も同じく草刈鎌で作
業している。
﹁そろそろ焼くから、一旦下がれ!﹂
達也の号令に従って宏がまとめてマンイーターを吹っ飛ばし、巻
き込まれないように一気に離脱する。巻き込まれたところでダメー
ジなど受けないが、達也の魔法が不発するのは困るのだ。
﹁グランドナパーム!﹂
極太の業火の帯が、正確に道幅いっぱいに広がってマンイーター
を焼き払う。延焼すらも起こらないほどの熱量で一気にまとめて燃
やされ、五十メートルほどのマンイーターが一瞬で制圧される。魔
法の性質上、進路上にいない対象には一切の影響を与えないので、
こういう作業にはもってこいの魔法である。
﹁兄貴、魔法のクールダウンが終わったら、もう一発頼むわ﹂
﹁分かってる。邪魔が入らねえように、藪に隠れてるやつを駆除し
といてくれ﹂
﹁任せといて﹂
達也の指示に従い、藪の中に隠れているマンイータをさくさく刈
り取っていく宏達。焼き払われた灰は、澪がせっせと回収中である。
﹁とは言えど、もう三回同じ作業をやっても四分の一ぐらいしか進
まねえんだよなあ⋮⋮﹂
1122
﹁しかも、根っこが残っとるから、雨でも降ったら一瞬やしなあ﹂
﹁⋮⋮不毛よね﹂
﹁これは、抜本的な対策を考えんとあかんレベルや﹂
真琴の言葉に同意しつつ、それでもやらないよりはマシだと必死
になって駆除を進める。何というか、町内会なんかでやる草引き、
あれと同じ種類の不毛さを感じる。やらなければ話が進まないが、
やってもやっても終わらない。終わったはしから元通りになる事も
珍しくないとなると、その不毛さは筆舌に尽くしがたい。
しかも、町内会の草引きなら少々大雑把でも特に問題はないが、
こっちは一本でも残っていたら大惨事だ。根っこが残っていたから
復活しました、では話にならない。
﹁とりあえず、後三回ナパーム撃ったら、あれこれ回収していった
ん引き揚げようか﹂
﹁そうね。これは多分、今日明日でどうにかなる問題じゃないし﹂
﹁それに、ちょっと気になる事があるから、付近一帯を調べたいん
だ。そっちにもちょっと付き合ってもらっていい?﹂
﹁了解や。何にしてもまずは、目先の作業を進めようや﹂
宏の言葉に頷き、同じ作業を続ける一同。三度目のグランドナパ
ーム発射が終わり、後片付けを済ませた時には、太陽はすでに中天
を過ぎ西へ傾き始めていた。
1123
﹁春姉、気になる事って?﹂
作業を一旦切りあげた帰り道、村に入ったあたりで澪がそんな質
問を発する。
﹁周辺一帯の地脈とか瘴気の関係を調べたいんだ。長い事神殿にま
ともにお参りしてないんだったら、なんかすごい事になってそうな
気がするんだ﹂
﹁そうだな。そこらも要調査だな﹂
春菜の言葉に頷く一同。こういう事象には、大概その手の要素が
噛んでいる。
﹁そう言えば、あれだけマンイーターがいて、栄養とか足りてるの
かな?﹂
﹁あいつら、普通に光合成もしおるからなあ﹂
﹁⋮⋮何その面倒くさい話⋮⋮﹂
肉食の植物系モンスターの面倒くささはそこだろう。餌が無けれ
ば地面から養分を吸収すればいいじゃない、と言う感じでそもそも
なぜ肉を食うと言いたくなるやり方をするのだ。なので、兵糧攻め
も割と難しい。何とも言えない空気のまま、仮住まいとして借りた
拠点に帰りつく。
﹁で、結局どうするんだ?﹂
1124
﹁やっぱり除草剤?﹂
﹁その類で下手な事は出来へんからなあ﹂
仮住まいとして用意された家で、昼食の準備をしながら再び今後
の方針に話題が移る。
﹁師匠、やっぱり除草剤は駄目っぽい?﹂
﹁あれに効くようなん下手にまいたら、あのへん一帯不毛の地にな
りかねんで﹂
﹁うわぁ⋮⋮﹂
流石は正体不明の肉食植物、無駄に生命力や抵抗力が強い。宏の
言葉に、真琴と達也がうんざりしたように声を上げる。
﹁最悪なんは、あいつらだけ耐性持って、他の草を一掃してまうケ
ースやろうなあ﹂
﹁ケミカル的な方法は難しいか⋮⋮﹂
﹁ちょっと無理がありそうやで﹂
宏の言葉に、どことなくぐったりした様子を見せる達也。こうな
ってくると、最悪の場合全部焼いた後、土を掘り返して根っこを可
能な限り除去するという更に不毛な作業を強いられかねない。
﹁で、何か考えはあるの?﹂
1125
とりあえず、オムライスのサイドメニューとして出すスープを火
にかけ、それ以外の下ごしらえを終えたところで春菜が会話に混ざ
る。スープとは言っているが、どちらかと言うとシチューに近い代
物なので少し時間がかかるのだ。
﹁とりあえず、一番ええんは植物の始末は植物にやらせる事ちゃう
か、と思うんやわ﹂
﹁それはそれでやばくないか?﹂
﹁最善は、あいつらと相打ちになって両方枯らすか、駆逐したとこ
ろで生存できんなって自滅する種類の草やな﹂
﹁やってる最中に変異を起こしたりとかは⋮⋮﹂
﹁言いだしたらきりあらへん﹂
無駄に力強く断言する宏に、反論の糸口を見つけられずに黙りこ
む一同。そこに追い打ちをかけるように発言を続ける宏。
﹁そもそも生態系の話するんやったら、ハンターツリーはまだしも
マンイーターは明らかに外来種や。あれがおる時点でこの辺の生態
系なんざとうに狂うてる﹂
﹁⋮⋮それはそうかもしれないけど⋮⋮﹂
どうにも釈然としない、と言う様子を見せる春菜に微妙に同意す
る一同。だが、ではどうするのかと言うと他に特に案がある訳でも
ない。植物、特に蔓草などは根っこがほんの少しでも残っていると
あっさり復活する事が多い。土を取り除くのも効果的とは言い難い
1126
のだ。
﹁納得はいかないが、それにこだわってても話が進まねえから置い
ておく。草には草を、ってやり方をするのは分かったが、じゃあど
んな草を使うんだ?﹂
﹁それをこれから作ろうと思うんよ﹂
﹁これからかよ。ってか、作るってなんだよ?﹂
﹁錬金術と農業のノウハウを合わせれば、種の一つや二つは余裕で
作れんで﹂
やっぱりこのパターンからは逃れられないらしい。エルフの里に
いるというのに、結局やる事はいつもと変わらない。
﹁ただ、促成栽培とかその辺の技の粋をつくしても、やっぱり完成
まで一週間ぐらいはかかると思うし、まず植木鉢用意せんとあかん
から、その間適当にいろいろ調べといてくれへん?﹂
﹁了解。っと、そろそろ出来たかな?﹂
宏の言葉に了解の返事を返し、台所に戻る春菜。丁度いい具合に
火が通った根菜類に思わず笑みをこぼし、オムライスに使うチキン
ライスを作り始める。
﹁旨そうな匂いがしてるだな﹂
﹁お昼の用意をしに来たんですけど、ちょっと遅かったみたいです
ね﹂
1127
完成して配膳、と言うあたりでアルチェムとチェットが食材を山
ほど持って顔を出す。
﹁こっちの飯の事は、そんなに気にしなくてもいいぞ。食材は山ほ
ど確保してあるし、優秀な料理人もいるからな﹂
﹁確かに、ハルナさんもヒロシさんも、それにミオさんもお料理は
上手ですよね﹂
﹁職人のたしなみやからな﹂
思わず小一時間ほど問い詰めたくなるような理由を告げる宏に、
そういうものなのかと非常に疑わしそうな視線を向けるエルフたち。
普通なら職人は必ずしも料理が出来ないのだが、フェアリーテイル・
クロニクルの職人プレイヤーは、皆最低でも五十以上の熟練度は持
っている。たしなみと言う言葉も嘘ではない。
なお、何故アルチェムが宏達も料理ができる事を知っているかと
言うと、朝食の時に料理を手伝っていたからである。因みに小鉢は
春菜の、みそ汁は澪の担当で、干物をあぶったのとゴヴェジョン達
に出した卵焼きを作ったのが宏だ。
﹁それで、そいつはなんだべ?﹂
﹁オムライスって言う、私の国の料理だよ﹂
春菜の言葉に、珍しそうにしげしげと料理を眺めるエルフ二人。
洋食の代表格ともいえる料理の一つ、オムライス。実のところ、発
祥は日本だ。考えてみれば当然と言えば当然で、洋食のベースとな
1128
っているヨーロッパの方の食文化では、米料理はそれほど沢山は存
在しない。それに、他所の国の料理をこういう形で魔改造するのは、
大抵日本人である。
なお、今回春菜が作ったオムライスは、ライスの上にふわふわの
オムレツをのせてナイフで切るタイプのものではなく、チキンライ
スを薄焼き卵でくるむ、一般家庭でよく作られているオムライスの
原点ともいえる種類のものだ。どうにも春菜は、こちらで日本の料
理を作る場合は、店で出されるような洗練されたスタイルのものよ
りご家庭で作られる素朴な風情のものを好む傾向がある。
﹁お昼まだだったら、二人の分も用意するけど?﹂
﹁物凄く魅力的なお言葉ですが、残念ながらもう済ませてしまいま
して⋮⋮﹂
﹁こっただ珍しくて旨そうなもんが出てくるなら、もっと我慢しと
けばよかったべ﹂
﹁だよね⋮⋮﹂
何処となくしょんぼりした感じのエルフ二人。尖った耳が微妙に
下がっているところが更にその印象を強める。
﹁なんだったら、作り方を教えるけど?﹂
﹁本当ですか!?﹂
﹁この里で手に入るもんで作れるんだべか!?﹂
1129
﹁大丈夫だよ。ケチャップは私じゃなくて宏君か澪ちゃんの担当な
んだけど⋮⋮﹂
﹁醤油と一緒に、作り方教えるわ。っちゅうか、醤油と違うてこの
村にも似たような調味料あるから、そんなに難しくはないと思うで﹂
宏の言葉に、同時に顔を輝かせるアルチェムとチェット。エルフ
といえども食欲の前には無力らしい。
﹁とりあえず、早く食おうぜ﹂
﹁不毛な単純作業でおなか減ってるんだから、これ以上待たされる
と暴れるわよ﹂
﹁っちゅうことやから、悪いけどちょっと呼ばれてくるわ﹂
そう言って、エルフたちの目の前でオムライスに舌鼓を打つ宏達。
その様子を、実に恨めしそうに見つめるエルフ二人。空腹感はない
と言っても、珍しいものを旨そうに食べているのを見れば、やはり
食べたくなってしまうのが人間と言うものである。
﹁アルチェム。おらちょっと思っただが、一人前を作ってもらって、
半分こすればよかったんでねえか?﹂
﹁私も今、ちょっとだけ思った⋮⋮﹂
そんな後悔も後の祭り。この後夕食のときに春菜に作り方を教わ
ったアルチェムは、昼食の時の仇を取りつつ他のエルフに見せつけ
ることに成功するのであった。
1130
第2話︵後書き︶
登場人物の方言は超適当です。
もっと訛らせようかと思ったけど、オリジナルの単語作ったりその
解説入れたりとかまで手が回らなかった⋮⋮。
1131
第3話
﹁姉ちゃん、さっき歌ってた歌はなんだべ?﹂
﹁ん? ああ、私の故郷の木こりの歌、でいいのかな?﹂
三集落共同の伐採場。宏に頼まれて薪を集めるために木を切りに
来ていた春菜は、無意識に口ずさんでいた歌をフォレストジャイア
ント達に聞かれてしまい、彼らに囲まれてしまっていた。
﹁ありゃあ、いい歌だべ﹂
﹁おら、しびれちまっただよ﹂
﹁んだんだ﹂
普通の種族ならグレートアックス扱いになりそうなサイズの手斧
を片手に、口々に春菜に語りかけるフォレストジャイアント達。
﹁なあ、姉ちゃん﹂
﹁何?﹂
﹁あの歌、教えてくんろ﹂
﹁了解。歌詞を教えるから、後に続いて歌ってね﹂
フォレストジャイアントの頼みを快く引き受けると、節をつけな
1132
がらワンフレーズずつ歌を教える。三十分後、森の中ではこの歌の
一番印象的なフレーズを大合唱するフォレストジャイアントの集団
が。
﹁⋮⋮春姉、なんで○作?﹂
別の用事で伐採場に来た澪が、無表情ながら呆れをにじませた様
子で春菜に突っ込みを入れる。その後ろでは、フォレストジャイア
ントの歌に合わせて、歌詞の通りにこだまが響き渡っている。
﹁木こりって言ったら、この歌でしょ?﹂
﹁⋮⋮否定はしないけど⋮⋮﹂
確かに、木こりと言えばこの歌だ。そこに全く異存はない。無い
のだが⋮⋮。
﹁春姉、時折師匠以上に残念な行動とる﹂
﹁残念かな?﹂
﹁凄く残念﹂
そうかなあ、などと首をかしげる春菜を、思わず生温かい目で見
てしまう澪。
藤堂春菜。顔よし、身体よし、性格よし。学業成績から運動神経、
果ては家庭的な技能までほぼ網羅した、一見して完璧超人の女性。
だが、時折見せる歌の選曲センスやファッションに対する姿勢など
には、ものすごく残念な要素が見え隠れする。やはり、世の中すべ
1133
てにおいて完璧な人間はいないらしい。
﹁それで、澪ちゃんはここにどんな用事?﹂
﹁苗木、持ってきた﹂
﹁了解﹂
澪が鞄から取り出した十数本の苗木を見て頷く春菜。間伐作業を
一区切りつけたフォレストジャイアント達も集まってくる。
﹁これ、何処に植えるの?﹂
﹁あの辺だべ﹂
﹁最近、何軒か家の建て替えが続いて、ちょっと森が減ってきてる
だでな﹂
﹁飯食ったら、こいつさ植える作業だ﹂
そう言って、丁度いいとばかりに水筒型の魔道具から出した水で
手を洗い、巨大な握り飯の弁当を広げ始める。一つが赤子の頭ほど
もある握り飯だが、彼らの手に収まれば少々大きめのお握りにしか
見えない。
﹁そう言えば、思ったより若い木が少ない割に、言うほど森が減っ
てる訳でもなさそうなんだけど、薪とかはどうしてるの?﹂
﹁煮炊きや暖房は基本的に魔道具でやっとるでな。普段使う薪は間
伐材で十分賄えてるだ﹂
1134
﹁なるほどね﹂
巨人たちの解説に納得し、女性が食べるにしては分量が多い自分
の昼食を広げる春菜。こちらに来てから消費カロリーが増えたから
か、食べる量は日本にいるときよりも確実に大きく増えた。増えた
のだが、真琴や澪はそれ以上に食べるため、チーム内では一番食が
細い。
﹁なんか、食事の分量の感覚が狂いそう﹂
﹁何が?﹂
﹁普通、このお弁当の量って、かなり多いはずなんだけど⋮⋮﹂
﹁春姉、食細い﹂
春菜の倍はあろうかと言う分量の弁当を快調なペースで平らげな
がら、そんな濡れ衣を着せてくる澪。言うまでもなく、春菜の食べ
る量が少ないのではなく、澪の食べる量が多いのだ。
﹁ヒューマンなら、そんなもんだべ﹂
﹁んだんだ﹂
﹁おら達は体がでかいから、飯もようさんいるだ﹂
﹁むしろ、ちびっこがよく食うべな﹂
明らかに澪よりまともな感覚を持っているフォレストジャイアン
1135
ト。そのコメントに小さく笑みを浮かべると、とりあえず卵焼きか
ら攻略を始める春菜。そんな感じで和気藹々と食事を続ける一同で
あった。
﹁植木鉢は、こんなもんでええやろう﹂
あちらこちらからいい感じの土を採取し、陶器などの焼き物を作
るための登り窯を持つ工房にお邪魔した宏は、公約通り植木鉢作り
に専念していた。
この村の登り窯は、エルフだけでなくゴブリンやフォレストジャ
イアント、フェアリーの物も作っている。また、良質の粘土が取れ
る事もあって、里の主な交易品の一つとして扱われてはいるが、た
くさん作っても捌くのに時間がかかるという理由で、実のところそ
れほど稼働率がいい訳ではない。
﹁ほへ∼⋮⋮﹂
﹁う∼む⋮⋮﹂
土をこね、植木鉢を成型する作業にものすごい量の魔力を込める
宏を、呆気にとられたように観察していたアルチェムと工房主。彼
らエルフ族はドワーフに比べ、保有する魔力量と魔力制御には定評
がある種族である。その彼らから見た宏の魔法能力は、間違いなく
1136
ヒューマンどころかエルフやドワーフなども含めたいわゆる人類の
規格からはみ出ている。
込めた魔力の量もさることながら、その制御の繊細さは彼らをし
て次元が違うとコメントせざるを得ない領域であり、それをたかが
植木鉢ごときに、しかも鼻歌交じりで使用するその感性ははっきり
言って理解できるものではない。
﹁見事なもんだけんど、いつもこんなに魔力を込めるのけ?﹂
﹁せやなあ。何も付与せんと作る事ってあんまりないから、普通の
素材やったら大体はこれぐらいの魔力は使うなあ﹂
宏の台詞に、思わずめまいのようなものを感じる工房主。
﹁お前さん、他にはどんな魔法が使えるだ?﹂
﹁せやなあ。付与系以外は火種起こしたり水作ったりとか、その手
のちょっとした便利魔法がほとんどやで。せいぜい、最近ちょっと
補助魔法を練習しとるぐらいや﹂
その台詞に、思わずもったいないと思ってしまうのは魔法系種族
の宿命のようなものだろう。実際のところ、宏は前衛で勝負しなけ
ればいけないため、詠唱時間が必要な上級魔法は基本使い勝手が悪
い。故にありあまるMPを活かせるような魔法を習得する気はあま
りない。
とは言え、折角のリソースを戦闘中に遊ばせておくのももったい
ないという事で、現在各種補助魔法を練習中だ。それとは別に近い
うちに、牽制程度には使える無詠唱の発動が早い攻撃魔法と、等級
1137
外ポーション程度の効果はあるマイナーヒールの二種類は覚えよう
という事で話がまとまっている。もちろん、生産関係と物理攻撃ス
キルの優先順位の方が上だが。
﹁それにしても、シンプルな形の植木鉢ですね﹂
﹁育てるんがマンイーターとその対抗策やから、そんな手の込んだ
デザインの奴は要らんかと思うてなあ﹂
﹁マンイーター?﹂
﹁神殿への正規ルートを塞いどる肉食の蔓草や﹂
﹁はあ、なるほど。って、ええ∼!?﹂
さらっととんでもない事を言う宏に、思わず絶叫するアルチェム。
﹁あ、あんな物騒なもの育てて、大丈夫なんですか!?﹂
﹁安全対策はばっちりの予定や﹂
﹁予定って⋮⋮﹂
人間すら食べる肉食植物を栽培するにしては、何処までもアバウ
トな言動。はっきり言って不安である。
﹁まあ、そろそろ魔力もなじんだ事やし、とりあえず鉢植え焼こか。
薪は後で春菜さんが持ってきてくれるはずやから、前借りっちゅう
ことで使わせてもらうわ﹂
1138
﹁それは構わねえだが⋮⋮﹂
﹁ほな、ちょっと細工させてもろうて⋮⋮﹂
たかが植木鉢一つ用意するのにこの騒ぎ。この世界の上級職人と
言うやつは実に業が深い。
﹁植木鉢ぐれえ、言えばいくらでも用意しただ﹂
﹁ちょっといろいろ理由があって、単なる植木鉢やとあかんかって
ん﹂
﹁そう言うもんだべか⋮⋮﹂
﹁そう言うもんやねん﹂
そんな事を言いながらも薪と窯両方にあれこれ細工をして、植木
鉢を入れてから火をおこす。
﹁さて、普通やったらそれなりに焼くんも時間かかるけど、そっち
もちょっと細工してはよ終わるようにさせてもろたから﹂
﹁やけに急ぐんだべな﹂
﹁この後あいつら枯らすための草作るんに時間かかるから、道具の
用意は可能な限り時間短縮せんとあかん﹂
﹁なるほどなあ﹂
﹁まあちゅうたかて、植木鉢以外はその場その場で調合やから、今
1139
日はこの後手待ちやねんけど﹂
一度窯に入ってしまった陶器など、人間に手出し出来る事はほと
んどない。せいぜい煙の出方を見て火力の調整をするぐらいだ。既
に昼飯時を随分と過ぎているため、他の予定も微妙に入れづらい。
﹁だったら、ご飯食べてから村を見て回りますか?﹂
﹁せやな。まあ、その前に片付けせんとあかんけど﹂
﹁お手伝いします﹂
微妙に余った粘土や何やを片付け始めた宏を手伝うべく、彼が使
っていた作業台の方に移動するアルチェム。この時ついにアルチェ
ムが持つ、初対面以来なりを潜めていたあれで何な特性を発揮する
事件が起きた。
﹁わわっ!﹂
もう一つあった作業台を迂回しようとしたとき、足元に適当に積
まれていた道具類に蹴躓き、思いっきりバランスを崩して宏に体当
たりをかますアルチェム。悪い事に宏は丁度使ったヘラや何やらを
桶で洗っている最中でかがみこむ姿勢になっており、アルチェムを
受け止めるには踏ん張りが利かなかった。
かがみこんで桶でものを洗っているところにボディプレスをされ
るとどうなるか。言うまでもなく、その場にあるいろんなものを巻
き込んで二人とも倒れるのである。
﹁冷たっ!?﹂
1140
﹁ひぃ!!﹂
どういうひっくり返し方をしたのか、泥がたっぷり入った桶を頭
からかぶり、更に宏を巻き込んで倒れこむアルチェム。女体、それ
も出るべきところは標準をはるかに超えて豊満なそれに押し倒され
る形になり、当然のように全身をがくがく震えさせる宏。
そう、アルチェムはラッキースケベ誘発体質と言う奴だったので
ある。メタな言い方をすれば読者サービス担当やお色気キャラなど
と表現する事もある、そう言うタイプだ。普段はこれと言ってドジ
を踏んだりはせず、どちらかと言うと同じぐらいの年のエルフとし
ては落ち着きもありしっかりした方なのだが、いざラッキースケベ
が発動する条件が整うと、どういう訳か誘い込まれるようにイベン
トを発生させる。
それがたとえ見え見えのエロトラップで、絶対回避できるように
動いていても、なぜかアクシデントが発生して結果的に真正面から
引っかかるように突っ込んで行ってしまう。水にぬれて服が透ける、
妙な引っ掛かり方をして危険な形で服が破れる、などのお約束は全
て彼女の身に降りかかり、何かに蹴躓くときはほぼ百パーセント誰
かを押し倒して顔面に胸を押し付けるか乳を揉まれるように手を抑
え込む。
逆に男の側が彼女の近くで転倒した場合は、大体同じぐらいの確
率で押し倒して胸に顔をうずめる、押し倒して乳を揉む、押し倒し
た上でなぜか股間に顔面をうずめるという三つのケースのどれか、
もしくは複合した状況になる。
そして最大の特徴は、巻き込まれる男は絶対にそれをラッキーと
1141
思えない人間であるという点だろう。可哀想な事に、巻き込まれた
時点で役得を堪能することなく周囲の女性からつるしあげられ、そ
の上男性からはねたまれ爆発しろなどと言われてしまう不運な立場
に立たされてしまうのだ。ラッキースケベと言う奴が本当にラッキ
ーなのか、こうやって考察すると地味に疑問かもしれない。
﹁あいたたた⋮⋮﹂
全身をあちらこちらに思いっきりぶつけてしまい、思わずうめき
ながら身体を起こすアルチェム。その動作で背中に乗っていたあれ
これが地面に落ち、水気がぽたぽたと更に床を濡らす。
ラッキースケベと言うやつのほとんどは、基本的にラッキーを楽
しむ余裕などない。踏ん張りが利かないほどの勢いで衝突すれば、
たとえそれが女の乳房に顔をうずめるような形になっていたところ
で、その柔らかい感触に意識を向ける前に痛みにうめく事になる。
今回もその例に漏れず、少なくともアルチェムの側には触られた
だの乳に顔を突っ込まれただのと言う意識を持つ余裕などなかった。
宏の側はと言うと、この状況でなくても、女体との不意の接触をラ
ッキーなどと思えるほど女性恐怖症は克服できていない。今も辛う
じて吐いたりはしていないが、そろそろ顔色がやばい感じになりつ
つある。
﹁アルチェム、客人を下敷きにしとる。さっさとどくだ﹂
﹁え? あ、ご、ごめんなさい!!﹂
工房主に言われて、慌てて宏の上から飛びのく。
1142
﹁ごめんなさい! 本当にごめんなさい!﹂
宏が立ち上がれるだけのスペースをあけると、とにかくひたすら
米つきバッタのように頭を下げ続けるアルチェム。彼女の頭の上下
が五度を数えたあたりで、ようやく震えがおさまり立ち上がれる宏。
﹁客人、ずいぶんと呻いていたが、どこかいてえだか?﹂
﹁そこは大丈夫や。呻いとったんは違う理由やから﹂
﹁別の理由?﹂
﹁まあ、そこは気にせんといて欲しい﹂
そう言って、自分の姿を見降ろす。泥水をかぶったため、ずいぶ
んと派手に汚れてしまっている。汚れ防止のエンチャントをかけて
あるため軽くすすげば綺麗に元通りにはなるだろうが、着替えを用
意しないと乾くまでは裸だ。もっとも、鞄をちゃんと持ってきてい
るので、そこから取り出せばすぐなのだが。
﹁とりあえず、まだこの季節は寒いべ。共同浴場さ行ってさっさと
風呂に入ってくるだ﹂
﹁せやな。それに、泥洗い流さんと、着替えも汚れてまうし﹂
﹁アルチェム、※◆■▼@#%&+¥⋮⋮﹂
﹁え? あ、はい、分かりました﹂
唐突にエルフ語で言われた言葉に、反射的にファーレーン語で返
1143
事を返すアルチェム。早口だったため聞きとり切れなかったが、そ
の様子にきっと碌でもない指示を出したに違いないとジト目で工房
主を見る宏。宏の予想通り、何か余計な事を考えているような性質
の悪い笑顔を見せる工房主。そんな彼の様子に、最後まで気がつか
ないアルチェムであった。
﹁えらい目に遭うた⋮⋮﹂
髪の奥にまで絡んだ泥を必死になって洗い落としながら、思わず
と言った感じでぼやく宏。さっきは最終的に、乳房を顔に押し付け
るような形でアルチェムに押し倒されたが、正直その感触を味わう
ような精神的余裕は全くなかった。むしろ不可抗力でかつ過失が女
の側にあるとはいえ、まだそれほどお互いを知らない相手にそんな
変態チックな真似をしたら、正直後が怖い。転倒によるダメージよ
りも、むしろその恐怖心の方でなかなか立ち上がれなかった。
これが達也なら、必要以上の動揺をせずに立ち上がり、とりあえ
ず何事もなかった事にするだろう。レイオットなら、そもそも動揺
すらしないに違いない。アヴィン殿下だったら幸運をきっちり堪能
しつつ、スマートにアルチェムをエスコートしたと思われる。一般
的に一番面白い反応を示すのは、きっとマークの役割だ。
﹁まだまだ落ちんなあ⋮⋮﹂
1144
頭皮近くで絡まって固まった泥と言うやつは、地味に落とすのに
苦労する。毛管現象によるものか、なかなか流れてくれないのだ。
丁度シャンプーを切らしており、今日作る予定だったのも痛い。三
度目の洗髪で、ようやく流した湯に泥が混ざらなくなる。
男の短い髪でこれだ。アルチェムの長い髪は相当手間がかかって
いるに違いない、などとちらりと考えてしまったのがまずかったら
しい。三日間でしっかり覚えてしまった少女の気配が、この浴室の
方に近寄って来たのを見つけてしまう。
﹁なんやなんや?﹂
広い共同浴場。湯気が仕事をしているためはっきりとは見えない
が、間違いなくこっちに来ている。
﹁そう言えば、脱衣所の広さに比べて、えらいこの風呂広いなあ⋮
⋮﹂
嫌な予感がどんどん積み重なっていく。昨日一昨日はアルテ・オ
ルテムの長の風呂を使わせてもらったため、共同浴場を使うのは初
めてだ。なので、実はこの共同浴場のシステムは知らない。
この共同浴場は、井戸を掘った時にかなりの温度のお湯が出てき
たので、そのまま風呂に使ったと言っていた。つまりは温泉、それ
も源泉かけながしである。別の用途に使うためのお湯だまりには、
当たり前のようにポメが浮かんでいた。因みに、水浴びではなく風
呂と言う文化をエルフ族に伝えたのは、例のファーレーン帰りのエ
ルフである。それまではこういう形でお湯につかる習慣は無かった。
この温泉、と言う単語に嫌な予感が掻き立てられる。温泉、それ
1145
も秘湯と言うやつは、混浴が珍しくない。そして、アルチェムはか
なりいい年の工房主に何やら吹き込まれていた。その上、アルチェ
ムはこの建物に入る前に、近くの家の人に着替えを借りに行ってい
たため、この風呂に関する注意事項を教えてもらえていない。服を
借りると言って離れた時、アルチェムの体型的に普通のエルフの服
でサイズが合うのか、という疑問を覚えはしたが、多少ぱっつんぱ
っつんでも自前の着替えを取りに行くまで凌げればいいのだから問
題はないのだろうとスルーしていたが、実際はどうなのだろうか。
と、それかけた思考をあわてて戻して、想定される結論をだす。
その結論は、どう考えても
﹁もしかして、はめられたか?﹂
と言う事になる。この村のエルフ、大半は中身が田舎のおっさん
おばさんである。それも、割と性的な悪戯とかを好んでやるタイプ
の。と言う事は、こういう本来笑って済ませられるレベルではない
悪戯を平然とやらかす、と考えてもそれほど間違いではないだろう。
そして、同年代の若い男がほとんどいないため、アルチェムはど
うにもそう言う面での羞恥心やら何やらが未成熟な印象が強い。助
けた時は破れた胸元を恥ずかしそうに隠していたが、どうもあれは、
普通服を着ているべき場所で隠すべき場所が露出している事を恥ず
かしがっていただけで、裸を見られる事に対する羞恥心とは微妙に
ずれているのではないだろうか。
いや、それ以前に、この村のエルフは人前で裸になる事に拒否感
が無い文化なのかもしれない。どちらにしても、宏にとっては絶体
絶命、と言う状況である。
1146
﹁早いとこ出た方がよさそうやな⋮⋮﹂
折角の温泉だが、女体にびくびくしながら堪能するのは不可能だ。
アルチェムの性格的に、自分から突っ込んできたくせにそれをネタ
に宏をいじめるような真似はすまいが、春菜や真琴、澪に知られる
とややこしい事になりそうである。それに、こういう状況だと、た
とえ純然たる被害者が宏であっても、大体男の方が悪いと言う扱い
になるものだ。
﹁泥もちゃんと落ちた事やし、戦術的撤退を⋮⋮﹂
念のためにもう一度身体を流し、そそくさと出ていこうとアルチ
ェムの気配を探り⋮⋮。
﹁もう、よろしいのですか?﹂
﹁うひゃいっ!?﹂
思ったより近くから聞こえたアルチェムの声に飛び上がる。迂回
してくるならもっと時間がかかる、などと計算していたために、完
全に不意打ちを食らった形だ。
どうしてもう宏の背後にアルチェムが立っているのか。答えは簡
単だ。脱衣所の隅っこの方には女性だけが開け閉めできる仕掛けの
扉があり、アルチェムはそこを抜けて宏に襲撃をかけたのだ。
﹁あ、アルチェム、女湯に入らんでええん?﹂
全身を明後日の方向に向け、じりじりと脱衣所の方に逃げを打ち
ながら、念のために重要な事を聞く宏。因みに、声をかけられたの
1147
は背後からだったため、現時点では宏はその男好きする見事な裸体
を一切視界に収めてはいない。
﹁このお風呂は、混浴ですよ?﹂
﹁やっぱり混浴かい⋮⋮﹂
返ってきた答えに、思わず頭を抱えてしまう。なお、この村には
温泉の公衆浴場は二軒あり、もう一つは普通に男女が分かれている。
なので、こういう事態を避けたいならばもう一軒に行けばよかった
のだが、そもそも温泉があること自体を知らず、必然的にもう一軒
ある事も知らなかったのだから回避のしようが無い。
﹁それで、時間的にまだ身体を洗い終わったところだと思うんです
が、湯船につからなくていいんですか?﹂
﹁それはまた人のおらん時間に堪能するわ﹂
﹁風邪引きますよ?﹂
﹁頑丈さには定評があるし、むしろはよ体洗って湯船入らなあかん
のは自分の方ちゃうん?﹂
﹁だったら、いっしょに入りましょう﹂
予想通りと言うかなんというか、アルチェムにはそこらへんの羞
恥心は薄いらしい。特に恥ずかしがる様子もなく、隠すそぶりも見
せずにその見事に実った肉感的な裸身をさらけ出している。
﹁少なくともファーレーンのヒューマンは恋人か夫婦でもない限り、
1148
一緒の風呂に裸で入ったりはせえへんねん﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁せやで。ヒューマンの街で風呂入る時とか気ぃつけやんと、男に
襲われても文句は言えんで﹂
﹁そうですか、気をつけます﹂
とか言いながらも、気をつけようとするそぶりを見せず、そのま
ま体と髪を洗うために蛇口に向かうアルチェム。ピンと来ていない
からかここはエルフの村だからと考えているのか、実に無邪気と言
うか無防備なものである。まともな性教育を受けていない雰囲気が
ひしひしとする事を考えると、男に襲われると言う言葉の意味を理
解していないのかもしれない。
﹁まあ、そう言う訳やから⋮⋮﹂
宏の注意を理解はしていない様子のアルチェムだが、文化の違い
と言う事で混浴から逃げる事は黙認してくれるらしい。そう察して
最後まで彼女の方に視線を向けずに遁走を図る宏。何しろ、押し問
答を始めたぐらいのタイミングで、よりにもよって脱衣所当たりか
ら微かに春菜と澪の声が聞こえてきたのだ。宏の耳だからこそ拾え
たような音量ではあるが、間違いなく今から風呂に入ってくる。
ここで鉢合わせした日には、さっき抱いた危惧が現実になりかね
ない。春菜はまだしも、真琴と澪はこういう事には割と容赦がない。
真琴は現在、達也とともに別件でフォレストジャイアントやゴブリ
ン、フェアリーの村の位置を教えてもらっている最中で、流石にこ
のタイミングで風呂に乱入してくる事はないだろうが、澪がいれば
1149
一緒だ。
そんな破滅的な未来に背筋が凍るような思いを抱き、急いで脱出
しようとしたところで悲劇は起きた。
﹁あっ﹂
アルチェムが、何故か足を滑らせて宏の背中に突撃をかけてきた
のだ。しかも、移動方向を考えれば背中同士がぶつかるのが普通な
のに、どういう転び方をしたのか衝突した時は向きがきっちり変わ
り、思いっきり宏の背中に胸を押し付ける形になっていた。
﹁ひぃ!!﹂
衝撃に対して反射的に踏ん張り、結果としてその柔らかさを余す
ことなくダイレクトに味わうことになってしまった宏。普通なら合
法的に全裸の女体に触れる事が出来て喜ぶべきところなのだろうが、
こういう現在の状況だけを見ると十中八九男の側が悪い事にされて
しまうある種セクハラまがいのケースにおいて、どうせ割を食うの
だからとその感触を堪能するような精神的余裕を持てるほど宏の症
状は改善されていない。
結果として、折角体を張って社会的な死亡リスクを背負ってまで
助けたアルチェムを振り払うような形になってしまった事が、彼に
とって第二の悲劇を誘発することになってしまった。
﹁うわあ!!﹂
﹁きゃあ!﹂
1150
濡れていて滑りやすい、実に足場の悪い風呂場でそんなまねをす
れば、当然転倒するリスクは跳ね上がる。そして、アルチェムはラ
ッキースケベイベント誘発体質だ。こういう状況では更に理不尽な
転び方をするのがお約束と言うやつである。
宏は、見事にその法則を実現してしまった。
﹁いったあ∼﹂
振り払うような動きをした際に向きが変わり、派手な音を立てて
思いっきり後頭部を地面に打ち付けてしまう宏。その上に、明らか
に物理法則を無視した形でのしかかるアルチェム。先ほどとの大き
な違いは、互いに一糸まとわぬ姿である事だろう。事故が原因とは
言えど、記憶も自我も曖昧な幼児期を除けば、宏が異性と全裸で抱
き合ったのは当然これが初めての事である。
これが漫画やゲームであれば、作品によってはこのまま場面が変
わって何があったか示唆しつつもお茶を濁したり、場合によっては
そのまま子供にはお見せ出来ないシーンに直行したりすることもあ
っただろう。だが、今回に関しては男が宏である。アルチェムの無
知さ、無防備さに付け込む以前に、条件反射で発生する恐怖心との
厳しい戦いが待っている。行為に及ぶどころか、そもそも性的な欲
求が湧き上がる余地自体が存在しない。
﹁うひぃ!!﹂
羞恥心や気遣いではなく恐怖心により、必死になって目をそむけ
続けたアルチェムの裸身。それをついに避けようの無い形ではっき
り目撃する羽目になり、思わず大きな声を上げてしまう。その声が、
新たな悲劇を巻き起こす。
1151
﹁どうしたの!?﹂
﹁師匠、大丈夫!?﹂
宏の悲鳴を聞きつけ、バスタオルを巻きつけただけの姿の春菜と
澪が男湯に踏み込んでくる。どうやら風呂の構造で混浴だと見抜い
たらしく、その動きにはほぼ躊躇が無い。宏とアルチェム以外の気
配が存在しない事も理由であろう。
﹁ひぃ!!﹂
現れた春菜と澪を見て、更に悲鳴を上げる宏。この時点で、春菜
は大体の状況を理解した。
﹁アルチェムさん、立てる?﹂
﹁え? あ、はい、多分﹂
﹁じゃあ、早く宏君の上から退いて!﹂
﹁は、はい!﹂
割と切羽詰まった顔で要求する春菜に気圧され、慌てて立ち上が
ろうとするアルチェム。こういう状況で慌てると、大抵ろくなこと
にならない。余りに焦って勢いよく立ち上がったため、勢い余って
今度は反対方向に転倒しそうになる。それを見てとっさに支えよう
と前に出た春菜が、次の犠牲者となった。
﹁わわわっ!﹂
1152
﹁危ない!﹂
距離があった事が災いし、アルチェムが倒れる事を完全に防ぐ事
は出来なかった春菜。片腕をつかんで引っ張る事でどうにか頭を打
つ事までは防いだが、アルチェムの体はほぼ地面に横たわってしま
っている。しかもとっさのこと故に余裕が無く、引っ張られたのと
は反対の腕が、無意識に何かをつかんで引っ張ってしまっている事
に気がつかなかった。
この状況で、つかんで引っ張る事が出来るものなどそれほど多く
はない。そして、春菜がつかまれている事に気がつかないとなると、
それは自動的に致命的なものと言う事になる。
﹁春姉! タオル、タオル!!﹂
﹁えっ?﹂
澪の叫びを聞いて己の姿を見降ろし、ついで半ば無意識のうちに
宏の顔を見る。今の一連の流れで、春菜の肉体を隠していたバスタ
オルは見事に洗い場の床に落ち、肉感的でありながらもある種優美
な美しさも同居した、男好きする癖に手を出す事を躊躇わせるよう
な素晴らしいその裸身を、宏に見せつけるように余すことなくさら
け出していた。
男の視線を一切気にしていない癖に無駄毛の類はきっちり徹底的
に処理されているのは、多分身だしなみの範囲なのだろう。そう言
ったところには全く無頓着なアルチェムとの対比が、その光景に妙
な生々しさを与えてしまう。長い黄金色の髪。形良く豊かに膨らん
だ乳房と対象的な、健康的でありながらも少し力を込めるだけで折
1153
れそうな腰。母性と同時に曲線美を感じさせる腰から尻にかけての
ライン。それらがほぼ共通する二人であるがゆえに、そう言う些細
な差異がひどく印象に残る、と言うのは澪の感想である。
だが、春菜には見られた事を気にする余裕は全くなかった。なに
しろ、そういう関係でも無い相手のそれを見るのは社会的な意味で
死んでも文句は言えない類のあれこれを見せつけられた宏が、目を
あけたまま気絶していたのだから。
﹁み、澪ちゃん! ちょっと着替えて男の人呼んできて!﹂
﹁わ、分かった!﹂
やや強引にアルチェムを引き起こしながら、上ずった声で澪に指
示を出す春菜。宏の様子が余りにヤバいため、羞恥心を感じている
余裕はなかったようだ。同様に宏の様子に危機感を抱いていた澪は、
春菜の指示を受け最低限の身づくろいだけで村に飛び出していく。
幸いなことに、宏の股間あたりにはアルチェムが持っていたタオ
ルが上手い具合にかぶさっており、春菜の側が宏の逸物を見て取り
乱す、と言う状況は避けられた。これで宏の方も全身余すことなく
春菜達に見せつける羽目になっていれば、この時のパニックはこれ
では収まらなかっただろう。
澪が誰かを呼んでくるまでに、大急ぎで自分達も服を着る春菜と
アルチェム。流石のアルチェムも、服を着ている集団の中で自分だ
け裸と言うのは流石に恥ずかしかったらしい。素直にかつ迅速に着
替えを済ませる。
この時点で春菜は、宏単独でアルチェムと行動させてはならない
1154
ときっちり頭のメモ帳に記録するのであった。
﹁なるほど、そんな面白い事があったとはね﹂
﹁宏にとっては災難だったんでしょうけど、グラマーな美少女の裸
を二人分も見たんだから、あんまり同情できないわね﹂
﹁ネットにでも書き込みしたら、爆発しろとかもげろとか、そうい
うレスの大合唱だろうな﹂
いまだに目を覚まさない宏の事を説明され、達也と真琴が漏らし
たのはそんな感想であった。
﹁現場にいた私達は、かなり笑いごとじゃなかったんだよ?﹂
﹁まあ、お前さん達はそうだろうとは思うよ。特に春菜は巻き添え
食って裸見られるわ、事後処理は押し付けられるわ、だしな﹂
﹁そんな事はどうでもいいけど、こういう事があるたびに毎回大丈
夫なのか心配になるよ⋮⋮﹂
﹁この状況で裸見られた女が心配してくれるってだけで、普通はリ
ア充扱いだよなあ﹂
1155
﹁これが他のケースだったら、少なくともあたしは爆発しろって言
う側ね。流石に仲間内で事情も知ってるから、面と向かっては冗談
でも言うつもりはないけど﹂
レイナの一件同様、どうにも温度差がある年長組と春菜。やはり、
現場にいたかどうかというのはかなり大きいのだろう。
﹁それで、ヒロの様子はどうなんだ?﹂
﹁暗殺者の時と同じパターン。なんかうなされてるよ﹂
﹁しょうがない事とはいえ、毎度毎度大変だな﹂
﹁本当にねえ﹂
﹁焦ってもしょうがないけど、師匠もそろそろ克服して欲しい⋮⋮﹂
ちょっと何かあるとすぐにこうなる宏に、思わずため息が漏れて
しまう達也と真琴。澪も、いい加減何回目の天丼か分からないこの
ネタに、そろそろうんざりしてきている様子が見て取れる。宏を責
める気は全くないが、女だらけの工房で何カ月も生活していても特
にトラブルはなかったと言うのに、何故に旅に出たとたんにそうい
う方向のアクシデントに巻き込まれるのか。
﹁とりあえず今回の事は、ちょっと村の人たちを締め上げないと駄
目かな、と思うの﹂
﹁どういうこと?﹂
﹁アルチェムさんから事情聴取した感じ、どうも工房の責任者の人
1156
とか、こうなる事がある程度分かっててそそのかした感じなんだ﹂
春菜の言葉に、なんだかひどく納得した様子を見せる達也。余り
に腑に落ちた様子に、むしろ口にした春菜の方が怪訝な顔をする。
﹁いや、な。うちの爺さんの故郷が、そういう悪戯が好きな年寄り
が多い村だったから、俺の中じゃ田舎の爺さん婆さんはそういうも
んだってイメージが、な﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
達也の言葉に、なんとなくものすごく納得してしまう春菜。多分、
性的な事に疎いアルチェムをそうやってからかって楽しんでいるの
だろう。彼らからすれば、巻き込まれる隙を見せた宏の方が悪い、
と言う事になるのだ。
﹁あの手のタチの悪い年寄りを絞るのは、かなり骨だぞ∼﹂
﹁しかも、相手の方が数が多い﹂
﹁むう⋮⋮﹂
達也と澪の指摘に、思わず唸ってしまう春菜。正直なところ、数
百年単位で年上の相手を説教すると言うのは、たとえ春菜であって
も手に余る作業だろう。そうでなくてもまだまだ人生経験が浅いの
だ。文化の違いという言い訳もある事を考えると、いいように遊ば
れて終わりになりそうな予感すらする。
﹁別にそれぐらい、どうとでもできるじゃない﹂
1157
﹁ふむ?﹂
﹁真琴姉、具体的には?﹂
﹁この村になさそうな、米を使った料理って何がある?﹂
﹁なるほどな﹂
真琴の指摘に、ものすごい勢いで納得する達也。昨日のオムライ
スですら大騒ぎになったのだ。無さそうな料理を適当にちらつかせ
て、徹底的にじらせば相手の方が白旗を上げるのは間違いない。
﹁とりあえず、牛丼はなさそうだよね。牛肉が少ないし、お醤油も
ないから。同じ理由で、お醤油を使うタイプの丼物も全滅だと思う﹂
昨日アルチェムにオムライスを教えた時に確認した、エルフの村
の食糧事情を思い出しながら指折り答える。因みに、エルフたちも
牛肉、もしくはそれに酷似した肉は食べている。
﹁他には?﹂
﹁カレーライスは、確実に無い。スパイス類を使ってるところを見
たことないし﹂
﹁なるほどなるほど﹂
﹁それから、材料的には作れるけど、多分作ってなさそうなのがド
リア。蒸し料理してるところを見たことないから、中華ちまきなん
かもないと思う﹂
1158
結構いろいろあるものだ。春菜の指摘を総合すると、丼物とか米
に直接味をつける類のものは種類が少ない、と言うよりはほとんど
存在しないらしい。逆に、ご飯と一緒に食べるおかずに関しては、
材料が手に入って醤油や味噌が絡まないものは、思い付くものは大
体あるようだ。もっとも、薄焼き卵を作るという発想が無かったり、
肉類が基本丸焼だったりと、トータルではファーレーンとどっこい
どっこいの食文化と言えそうである。
﹁後、意外なんだけど炊き込みご飯はやって無いみたい﹂
﹁いや、調味料の種類から言うと、意外でもないぞ﹂
﹁あ、そうか。炊き込みご飯もお醤油とかダシとか使うから⋮⋮﹂
﹁そう言う事だな﹂
﹁だから、鳥ガラと塩、川魚のアラとキノコのダシで味付けした雑
炊はあるのに、炊き込みご飯は無いんだ﹂
目からうろこ、と言う感じでつぶやく春菜に、思わず苦笑する。
﹁で、今日はどれで攻めるんだ?﹂
﹁そうだね。⋮⋮達也さん、前に牛丼食いてぇ、って言ってたよね
?﹂
﹁おう!﹂
﹁じゃあ、それにしようか﹂
1159
春菜の言葉に、思わず満面の笑みを浮かべる達也。ここに来てか
ら、食いたいと思っていた米の料理にいくらでもありつけるため、
心身ともにとても調子がいい。
﹁じゃあ、とりあえず牛肉のいいところを使った極上牛丼を用意す
るから、達也さんと真琴さんはアルチェムさんを呼んできて、色々
と性的なあれこれを教育して﹂
﹁⋮⋮俺達がやるのか?﹂
﹁下手に性をタブーにすると宏君の身に危険が及びそうだし、この
村の年寄りは当てにならないし、私は手を離せない。かといって、
澪ちゃんや宏君自身にさせるのはいくらなんでもね﹂
﹁⋮⋮まあ、そうだよな。確かにそうなんだよな⋮⋮﹂
春菜の困ったような指摘に、思わず唸ってしまう達也。それに、
こう言ってはなんだが、春菜自身も何処までそう言う生々しい話を
できるのか、という点には疑問がある。
﹁あ、一応釘を刺しておくけど⋮⋮﹂
﹁なんだ?﹂
﹁間違っても、BLとかそういう世間的に確実にアブノーマルな話
はしないでね﹂
﹁しねえよ。ってか真琴、男にはヤオイ穴なんていう器官はねえか
らな﹂
1160
﹁し、知ってるわよ、それぐらい!﹂
達也の厳しい突っ込みに、微妙にどもりながら返事を返す真琴。
過去にその手の同人誌を描いていた経歴があるとはいえ、ちゃんと
それぐらいの知識はある。
あれこれ微妙な証拠から澪に腐女子である事を暴かれて以来、こ
ういう方面ではいまいち信用が無い真琴。宏と達也を掛け算しそう
になっていた、と言うのが致命的だろう。いかにこのメンバーがそ
の手の趣味にもある程度寛容で理解があると言っても、実際に一緒
に行動している相手を掛け算するのは許容してもらえなくて当然で
ある。
﹁つうわけだから真琴。相手の無知とか無垢さに付け込んで仲間増
やそうとかするのは、アルチェムをおちょくってセクハラしてる爺
どもと変わらないから、心しておけよ﹂
﹁分かってるわよ⋮⋮﹂
達也に言われるまでもなく、そのあたりについてはちゃんと分か
っている。そもそもこういう趣味は、ちゃんと世間一般の常識やら
正しい性知識やらを持ったうえで、自分の目で選んでこちらの世界
に踏み込んできてもらわないと楽しくない。考え方はいろいろあろ
うが、少なくとも真琴としては、正しい知識を持ったうえで背徳感
を楽しむのがいいのだ。
だがそれはそれとして、やはりこういう話題で盛り上がれる同好
の士は欲しい。ウルスで冒険者をしていた頃には、日蔭者が持つ同
類に対するセンサーのようなもので相手を見つけて盛り上がってい
たが、向こうを出てからそういう話題には飢えている。
1161
歌こそアニソンなんかも歌いはするが、春菜はその方面ではいろ
んな意味でノーマル。漫画なども読んでいたが、オタク趣味だと言
えるほど深くはない。たまにするガールズトークで、単語の意味を
なんとなく理解しつつあるという程度だ。澪はその経歴上、有り余
る時間をオタク系趣味に全力投入していたが、BLは理解できなか
ったとの事。そして、達也と宏相手にこんな話題を振るなど、まと
もな神経をしていれば絶対に不可能である。
普通に考えたら、ここにいる間はそういう話題で盛り上がるのは
絶望的で、アルチェムを引きずり込もうとしていると疑われてもし
ょうがない。しょうがないのだが、真琴はちゃんと打開策を見つけ
ている。なので、子供をそそのかす気はない。
﹁そもそも、わざわざアルチェムを引きずり込まなくても、フェア
リーに素質のある子が結構いたから、そっちを勧誘する方が早いわ
よ﹂
﹁いるのかよ⋮⋮﹂
﹁腐女子なめないでよ。そもそも達也、何であんたがヤオイ穴なん
て単語知ってんのよ?﹂
﹁嫁のダチに腐女子がいてな。正面から男にヤオイ穴が無いって本
当? って聞いてきやがったんだよ⋮⋮﹂
何とも言えない会話を続ける達也と真琴に苦笑し、とりあえず夕
食の準備に取り掛かる事にする春菜。
﹁春姉、明日はカレー﹂
1162
﹁了解﹂
﹁アルチェムを呼んでくる。春姉、出来るだけ美味しいにおいよろ
しく﹂
﹁うん。行ってらっしゃい﹂
澪を送り出し、自分が考えうる極上の牛丼を仕込みにかかる春菜。
結局エルフのおっさんどもがそのにおいに負けて春菜に屈し、彼女
の説教を真面目に聞くことになったのは翌日の事であった。
1163
第4話
﹁さて、土はOK、マンイーターの茎OK。各種の種も肥料も揃っ
とるし、一丁やろか﹂
翌日、何事もなく復活した宏は、朝食もそこそこに植木鉢の前で
マッドな笑みを浮かべていた。因みに今いる場所は、住民が出て行
って空き家となった建物である。ゴブリンやフォレストジャイアン
ト、フェアリーなどが泊まっていくこともあるため、そのための施
設として、こういった空き家をいくつか村全体で維持管理している
のである。
﹁調子は大丈夫なの?﹂
﹁特に問題はあらへん﹂
﹁だったらいいけど⋮⋮﹂
やけにやる気満々の宏に、微妙に不安を隠せないままとりあえず
曖昧に頷く春菜。毎度のことながら、あの手の事件があるたびに、
宏の現状がどんな感じなのかが不安になる。不思議とそれほどマイ
ナスになった様子はないのだが、今までがそうだからと言ってこれ
からも大丈夫だとは思えないのが辛いところである。
ついでに言えば、昨日どの程度ばっちり見てしまったのか、とい
うのもそれなり以上に気になっているが、それを蒸し返すのは、い
ろんな意味で地雷を踏み抜くようなものなので、少なくとも春菜の
側から触れるのはためらわれる。とりあえず見られたこと自体は事
1164
故で、見られて減るものでもないのだからそれは別にいいのだが。
﹁とりあえず、実験中はいろいろ危ないからあんまり近寄らんよう
に。特にアルチェムは本気でヤバいから、出来るだけ中に入ってく
るんを阻止したって﹂
﹁了解﹂
宏の言いたい事を察し、真剣な顔で頷く春菜。アルチェムをマン
イーターに近付けた日には、冗談抜きでエロゲー的展開になりかね
ない。
﹁それで、宏君は大丈夫なの?﹂
﹁大丈夫やなかったら、こんな事はせえへんよ﹂
﹁そっか⋮⋮﹂
他の事ならともかく、物を作ると言うカテゴリーなら宏の判断は
それなりに信用出来る。たまに巨大ポメのような事もやらかすが、
アニメや漫画、小説のマッドサイエンティストと違い、周りに余計
な被害を出した事だけは無いのだから、信用してもいいだろう。
﹁じゃあ、ちょっと出てくるから、気をつけてね﹂
﹁分かっとる。肉食の植物扱うんやから、油断はせえへんよ﹂
宏の言葉に頷くと、そのまま外に出ていく春菜。正直な話、春菜
がこの場にいても邪魔にしかならない。
1165
﹁さて、まずは一個目の鉢植えはマンイーターやな﹂
仕留めるべき相手が無ければ、実験自体が出来ない。きっちり結
界を張ったスペースの中央付近に鉢植えを置くと、所定の手順で土
を入れてマンイーターの茎を刺し、栄養剤を混ぜた水をやって放置
する。
﹁これで一時間もすれば育つやろう﹂
色々と非常識な事をほざくと、蔓草を枯らすタイプの植物のうち、
この世界特有のものをマンイーターと同じ要領で栽培し始める。
﹁まずは正攻法で行ってみるか﹂
あっという間に凄まじい大きさに育ち、たくさん花を咲かせたそ
れらの植物を、科が同じであろうもの同士を掛け合わせて種を作り、
マンイーターの鉢に一緒に植えてみる。
﹁まあ、向こうの方が普通に強いわな﹂
予想通り芽が出たとたんに、あっという間にマンイーターに押し
つぶされる草達。雑草パワーを侮ってはいけないとはいえ、モンス
ターに分類される物の生命力を奪うのは厳しいらしい。
﹁あと何回か正攻法でやって、それから錬金術の出番、でええか﹂
そんな感じでトライアンドエラーを繰り返し、錬金術なしである
程度マンイーターに潰されずに生き延びる草を作り上げたところで、
品種改良初日は終わったのであった。
1166
﹁今頃、親方たちはテレスの故郷に到着したのかな⋮⋮?﹂
宏がマッドな真似をしている頃、ウルスの工房ではファム、テレ
ス、ノーラの三人がちょっと遅めの昼食をとりながら、のんびり駄
弁っていた。ライムは一足先に食事を済ませて昼寝中、レラはライ
ムと一緒に食事を終えた後、買い出しついでにメリザのところにあ
れこれ納品しに行っている。なお、テレスの村とウルスでは、一時
間以上の時差がある。
﹁あのゴーレム馬車のスピードなら、とっくに到着してないとおか
しいのです﹂
﹁いやでも、私が言うのもなんだけど、まともな道が一切ないよう
な場所にあるから、迷子になっててもおかしくはないよ?﹂
正確な地図が描けるような場所じゃないし、と言うテレスの言葉
に、少し考え込む他のメンバー。
﹁なんだろう、全然困ってるところが想像できない⋮⋮﹂
迷子と言う事で出したファムの結論に、思わずコクコク頷くテレ
スとノーラ。あのメンバーだったら、迷ったら迷ったなりに力強く
生きていくに違いない。少なくとも、どんな環境でも衣食住には困
らないのだし。
1167
﹁きっと、変な素材を見つけて目を輝かせて、森の中だと言うのに
喜々として何か妙なもの作ってるに決まっているのです﹂
﹁それか、必要なものができたからって、霊糸とか無駄遣いして間
に合わせと称した無駄に高性能な何かを作ってるとか﹂
宏がやりそうな事を言い合うノーラとテレスに、真顔でうんうん
うなずくファム。宏の生産ジャンキー振りに関しては、それこそ山
ほど前科がある。何処に居ても材料と道具があれば何かを作ってい
る、それが東宏である。
﹁まあ、ワイバーンとかロックボアとか倒せるぐらいなのですし、
よっぽど厄介なモンスターとかよっぽどの数の群れとかに襲われて
ない限り、心配はいらないと思うのです﹂
﹁ただ、たまには戻ってきてもらわないと、今はいいけどそのうち
頭打ちになりそうだし﹂
テレスの言葉に、思わず苦笑を浮かべる。とりあえず等級外ポー
ションはものになり、カレー粉以外の各種調味料も拘らなければ十
分以上に実用に耐えるものをガロン単位で作れるようにはなった。
だが、まだ八級は安定して納品できるかと言うと微妙な線で、並行
で仕込まれた錬金術やエンチャントも、できる事はたかが知れてい
る。
何でもかんでも教えてもらうのは芸が無いにしても、現状の教え
てもらった基礎をベースに半ば独学で仕事を兼ねた訓練をするやり
方では、なんとなく八級の壁を越えたあたりで頭打ちになりそうな
予感はする。かといって、よく知らない素材を使って試行錯誤する
1168
には、いくらなんでもベースとなる知識も技量も足りない。
それに、宏と澪がいなくなってから、てきめんに進歩が遅くなっ
た自覚もある。やはり、自分達程度のレベルなら、まだまだ指導者
に頼らなければ新しい事に挑戦するのは難しい。そう考えると、ど
うしても先行きに不安を覚えるテレス達。
﹁でも、まだ親方たちが出て行って一カ月もたってないんだし、も
うしばらくは自力で頑張ろうよ﹂
﹁そうね。頭打ちだなんだって悩みは、せめて八級のポーションを
失敗せずに作れるようになってから、ね﹂
ファムの言葉に気分を入れ替え、仕事しようと席を立つテレス。
王宮経由であちらこちらに広まってしまったからか、味噌も醤油も
各種ソースも、いくら作っても足りないぐらい注文がある。別段製
法を隠してはいないが、やはり先駆者だけあってかアズマ工房のも
のが一番いいと評判である。生産出来る分量も現状では桁が一つ以
上違う。まだまだライバルが育つまでは時間がかかりそうだ。だか
らといって油断するとあっという間に逆転される、という危機感は
工房の全員が持っている。
実際のところ、彼女達が作る調味料自体、作るたびに少しずつ進
化しているのだからそう簡単に追いつけるはずが無い。そもそも、
他の業者はようやく製法が安定しはじめたところで、味に関しては
雲泥の差がある。その上、量産効果でこちらの方がやや割安なのだ
からたまったものではない。現状の生産量では王侯貴族や富裕層に
行きわたるのが精いっぱいで、需要を完全に埋めきれていないから
他の業者が参入する余地があるが、これが雇った弟子の数が倍以上
で、工房の設備ももっとがっちりやっていたら、いくら製法を公開
1169
していてもそう簡単に新規参入は出来なかっただろう。
﹁ごめんください﹂
気合を入れて最も注文の多い醤油の生産を始めようとしたところ
で、すっかり仲良くなった姫巫女の少女の声が。
﹁あ、エル様。いらっしゃい﹂
声を聞きつけたファムが、真っ先に迎えに出る。
﹁こんにちは﹂
﹁こんにちは。今日はどのような御用件で?﹂
﹁ダシ用の煮干しを五百グラムほどと、大判の昆布を三枚、それか
ら鰹節を二本お願いします﹂
お姫様がわざわざ自ら足を運んで買い付けるとは思えない物を、
悩むそぶりも見せずにすらすらと注文するエアリス。全て彼女自身
が神殿の厨房で使うものである。
﹁かしこまりました。少々お待ちください﹂
注文を受けて、奥から言われた物を集めてくるテレス。因みに、
アズマ工房が直接物を売るのは、王家と冒険者協会の関係者、後は
ごく少数の彼女達が個人的に親しく信用している相手だけである。
これは宏が工房主だった頃からの習慣のようなものだが、扱ってい
る物の品質と希少性の問題で、直接取引ができると言うだけで妙な
1170
ステータスがついてしまっている。
﹁あ、エル様、上がって上がって!﹂
﹁あの、お仕事はいいのですか?﹂
﹁基本的に、最低限のノルマは午前中に終わるのです。午後からは
給料と休日を確保するための、研鑚を兼ねた増産分なのです﹂
エアリスの質問に、生々しい裏事情をあっさり白状するノーラ。
基本的に彼女達の生活費は、彼女達が上げる売り上げから諸経費を
引いた分で賄われている。別段給料がいくらとか決まっている訳で
はなく、運営のためのやりくりがつくなら利益全部を食いつぶして
も問題はないとのことではあるが、現在工房で暮らしている女達は
皆、金銭面ではいろいろ苦労をしてきた身の上。そんな怖い真似は
とてもできない。
なので、日々受けている注文を納期別に分け、予定されている売
り上げから利益を計算し、日ごろの生活費から逆算してその日の最
低限の仕事を決めて作業をしている。今のところはどれも売価が高
く、納期も十分すぎるほど見込んでもらっている物が大半であるた
め、頑張れば大体は午前中に十分に仕事が終わる。
それゆえに職人見習いの三人は、基本的にその日のノルマを全て
午前中に終わらせ、午後からは出来ればやってほしいと言われてい
る物や明日の予定になる物を終わらせたり、こういった急な来客に
対応するための時間に割り当てている。
﹁お茶とかお茶菓子とか、色々新作があるんですよ。まだ試作の上、
量が作れないから売り物には出来ないんですけどね﹂
1171
そう言って、注文を受けたものと、休憩用のお茶とお茶菓子を用
意してテレスが戻って来た。お茶菓子はパンを薄く切って、油で揚
げて砂糖をまぶしたいわゆるラスクと言うやつである。
﹁⋮⋮美味しいです。このお菓子、テレスさんが作ったのですか?﹂
﹁⋮⋮エル様は、私の料理の腕をご存じだったと思うんですけど⋮
⋮﹂
﹁ご、ごめんなさい!!﹂
微妙にダークな表情になったテレスに対し、慌てて謝罪するエア
リス。テレスは料理が出来ない訳ではないが、ファムやノーラと比
べると数段技量が落ちる。比較対象がエアリスやレラとなると、そ
もそも勝負しようとすること自体が不遜だと言うレベルだ。
﹁この工房にいる人間が、皆料理が上手な訳じゃないんですよ⋮⋮﹂
﹁まあ、マコト姉さんとか、料理全くできなかったし﹂
﹁マコトさんは完全な戦闘要員なので、料理とかできなくても仕方
が無いのです。むしろそれ以外のメンバーが、タツヤさんですら多
少とはいえものづくりの類を嗜んでいる事がおかしいのです﹂
ノーラの指摘に、思わず苦笑するファムとテレス。普通、冒険者
のくくりに入る人間は、物を作る技能など持っていない。せいぜい
がその場にある材料でちょっとした仕掛けを作る程度で、専門的な
技能など覚えていないのが普通の冒険者だ。それを鍛える暇があれ
ば、戦闘をはじめとしたトラブル解決に必要な能力を磨く方に回す
1172
のが一般的な冒険者と言うやつである。武器にしろ薬にしろ、基本
的に金で解決できる要素である以上は金で解決するのが普通なのだ。
無論、宏ほどあれではないだけで、例外はいくらでも存在する。
自力で材料を集めに行くような鍛冶師や薬師の場合、最低限の自衛
ができるように九級から八級程度の冒険者資格を取れるように鍛え
ている人間は結構いる。だが、職人全員が自力で材料を集めに行く
訳ではないし、冒険者と言うくくりで見れば少数派なのは間違いな
い。
﹁まあ、テレスの料理については置いておくのです。どうせ、親方
やハルナさんから見れば、私達の力量なんて誤差の範囲なのです﹂
﹁あの人たちの基準は、ロックボアあたりを調理できるかどうかが
ボーダーラインだしね﹂
﹁その慰めが痛い⋮⋮﹂
ノーラとファムの台詞に、微妙にへこんで見せるテレス。エルフ
の特徴である尖った耳も、その内心を示すように力なく垂れ下がっ
ている。因みに、彼女が料理にコンプレックスを持っているのは、
ヒューマンの社会に割と多い、女のくせに料理の一つも出来ないの
か、と言う種類のものではない。どちらかと言うと、まだ見習いと
はいえ職人としてのプライドの問題である。
エルフ族はジェンダーが割と曖昧な種族なので、女性だからとい
って料理や裁縫についてどうこう言われる事はまずない。せいぜい、
体力勝負の仕事が男性に、集中力と持久力が物を言う仕事が女性に
振られる事が多いぐらいで、どっちの性別にとっても一長一短あっ
たり、誰がやってもあまり変わらないような事は普通に手のあいた
1173
人間がやる社会だ。
なので、料理が相対的に苦手である事が女性としてのプライドを
傷つける事はない。ないのだが、それはそれとして、同期の二人や、
そもそも普通は料理など触るはずのないエアリスにすら大きく劣る
と言うのは、調味料も調合する身の上としては随分と痛い。それに、
錬金術や製薬には料理の技が役に立つ事も多いので、余計にへこむ
のだ。
﹁でまあ、料理の話は置いておくとして。エル様、弟殿下と妹殿下
はどんなご様子なの?﹂
﹁まだまだ赤ちゃんなので色々油断は禁物ですが、今のところ特に
大きな病気もなく、元気に育っていますよ﹂
さっくり話をそらしたファムに苦笑しながら、余りありがたくな
い話が続くよりはいいかと、その話題転換に乗ることにしたエアリ
ス。とは言え、まだ生後一カ月ぐらいなので、これと言って語る事
もあまりないのだが。
﹁親方たちが、実に忙しそうだったのです﹂
﹁そう言えば、大慌てでなんだかすごい産着を作ってましたよね?﹂
自作のハーブティを嗜みながら、ちょっと生まれるタイミングが
ずれた新しい王族の話で盛り上がる女達。生まれたのは男女の双子
で、両親ともにエレーナやレイオット、エアリスと同じ正室の子で
ある。
予定より十日ほど早く生まれた上に双子だったため、大慌てでも
1174
う一着産着を縫い上げることになった宏はご苦労様、としか言えな
い。ファーレーンの医療技術では双子だった事が分からなかった上、
エアリスに神託と言う形で誕生を教えていたアルフェミナがサプラ
イズのためにわざと双子である事を告げなかったので、なんとなく
予感があった当の王妃以外は、生まれてくるまでは誰も双子だと知
らなかったのだ。
その後、赤子用の薬を思い付く限り調合して納品し、王妃にあれ
これ産後の体調を整えるのによさげな加工済みの食材を献上して慌
ただしく旅立って行ったのが二月の末。最初の節目である生後一カ
月も間もなく、と言うところだ。
﹁発表はいつごろになるの?﹂
﹁一カ月目の健康診断が終わって、祝福を授けた後になります﹂
赤子と言うのは、ちょっとした事ですぐに死んでしまう弱い存在
だ。それがたとえ王族で、医療技術の粋をつくしたとしても、死ぬ
時は手の施しようなくあっさり死んでしまう。なので、新たに王族
が生まれた事を正式に発表するのは、大体生まれて一カ月ぐらい経
ってから、と言うのがファーレーンの習慣になっている。
無論、王妃の懐妊も生まれたことも隠していないため、噂話と言
う形で既に国中に広まっている。ただ、双子だと言う事も含めて詳
細は広まっていないため、国民は祝福ムードのまま、いまかいまか
と王室からの発表を首を長くして待ち構えているところである。
﹁祝福は、エル様が?﹂
﹁はい。それが姫巫女の役割なので﹂
1175
ファムの問いかけににっこり微笑んで答え、上品に残りのお茶を
飲み干す。その仕草だけを見ていると、この姫君が食いしん坊でグ
ルメなチャレンジャーだと言うのが信じられなくなる。
﹁それはそれとして、街の様子はどうですか?﹂
﹁新しい王族の御生誕と言う事で浮足立っている感じはありますが、
これと言って特に変わった出来事とかはありませんね。親方たちが
いないので、新しい調味料とか変わった料理とかが唐突に出てくる
訳でもないですし﹂
﹁あ、でも﹂
﹁ファム、何かあるのですか?﹂
﹁市場からちょっと奥に行ったあたりで、おそば屋さんが出来てた
よ。親方が仲よくしてたおじさんが始めたみたい。協会でちょっと
話振ってみたんだけど、多分あれがウルスのおそば屋さん一号店じ
ゃないか、って﹂
そば屋と聞いて、エアリスが瞳を輝かせる。彼女はそばに目が無
い。宏達に指導を受けてあれこれ色々な食べ方を覚えた彼女は、多
分ファーレーン一のそば通であろう。
﹁あ、一応言っておくけど、まず間違いなく親方やハルナ姉さんが
作るそばの味には届かないから﹂
﹁そうですか⋮⋮﹂
1176
﹁でも、それなりに客足はあるみたいだから、醤油がもっと出回れ
ばもっと店も増えて、美味しいおそばが手軽に食べられるようにな
るかも。鰹節はともかく、昆布とか煮干しとかはそんなに高いもの
じゃないし﹂
ファムの補足説明を聞き、ファーレーンにそばが浸透するかもし
れないと言う予測に目を輝かせるエアリス。自分の好きなものが大
勢の人に受け入れられるのは、やはり嬉しいものだ。
﹁それなら、もっと広まりやすくする手段はあるのです﹂
﹁それってどんな?﹂
﹁姫巫女様の大好物だと言う情報を流して、国が醤油と鰹節の増産
を奨励すればあっという間なのです﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
ノーラの言葉を真剣に検討し始めるエアリス。結果を言うならば、
国が醤油や鰹節の増産を奨励する、と言うのはこの時は見送られる
事になる。それでも今の姫巫女の大好物であり、年が明ける前に食
べる習慣があると言う情報が広まったあたりで作り方と一緒に一気
に広まり、カップそばが流通に乗ったことも追い風となって、数年
後にはファーレーンの国民食の一つとなるのだが。
﹁それはそうと、皆さまは今頃、テレスさんの村で何をしてるので
しょうね?﹂
﹁エル様は、村についたって確信があるの?﹂
1177
﹁二日ほど前、アルフェミナ様が教えてくださいました﹂
﹁何その安い神託⋮⋮﹂
﹁アルフェミナ様、エル様には本当に大甘なのです⋮⋮﹂
かなりしょうもない神託を下すアルフェミナに、思わず呆れてし
まうテレスとノーラ。神の威厳も何も、あったものではない。
﹁と言うか、そんなにホイホイ神託をもらって、大丈夫なんですか
?﹂
﹁割と常日頃からいろいろ教えていただいているので、大丈夫だと
思いますよ?﹂
﹁本当に神託が安いんですね⋮⋮﹂
どうやらエアリスとアルフェミナは、神とその祭祀を行う長と言
うより、近所のやたら権力を持っているお姉ちゃんとそのお気に入
りの子供と言った方が正しい間柄になっているようだ。歴代の姫巫
女の中でも、ここまでアルフェミナとの距離が近いのはエアリスを
除けば初代のみである。その一点を見ても、エアリスの持つ資質が
いかに突出しているかが分かる。
﹁まあ、神託については置いておくとして。どうせ親方たちのこと
だから、妙な素材に目を輝かせてアレな感じのものを作ってるか、
新しい食材に目を輝かせてあれこれ料理を試してるか、トラブルに
巻き込まれて明後日の方向に突っ走ってるかのどれかでしょうね﹂
﹁テレスさんの村では、どんなものを食べているのですか?﹂
1178
﹁どんなと言っても、肉類が少ない事と主食が小麦粉系のものじゃ
ない事以外は、ファーレーンとそんなにかけ離れていませんよ?﹂
﹁主食が小麦粉の類じゃない、と言うと?﹂
﹁この辺では見かけないんですけど、ラース麦と言う穀物を炊いた
ものを食べてますね﹂
聞いた事のない作物に、興味深そうに相槌を打つ一同。実物が無
いため、この場にいる誰一人として、それが米である事に気がつか
ない。因みに、宏達が事あるごとに話題にあげていたので、弟子達
三人も米と言う単語と、それが穀物である事は知っている。
﹁ラース麦が恋しくなる事は?﹂
﹁たまにありますが、むしろ村に無い食材とか料理の方が多いので、
そこまで意識する事はありません。今は食生活も充実していますし﹂
﹁そうですか﹂
﹁まあ、次に恋しくなったら、親方達に里帰りを手伝ってもらいま
す﹂
﹁それがいいですね﹂
屈託なく笑うテレスに、どことなくほっとした感じの笑顔を浮か
べて頷くエアリス。彼女達は知らない。四月の半ばごろには、ラー
ス麦こと米の関連で、テレスが頻繁に故郷と工房を行き来する羽目
になる事を。そんな嵐の前の凪の時期を、テレスは朗らかに過ごす
1179
のであった。
﹁スラッシュジャガーの肉は、結構癖が強いかな﹂
﹁マンイーターは何処も美味しくない⋮⋮﹂
﹁何をどうしても美味しくなかったよね﹂
エアリス達が噂話をし、宏が怪しげなあれこれをしていたその翌
日。春菜と澪は駆除を済ませたマンイーターや達也と真琴が他の村
に行く途中で仕留めた獲物を前に、色々と試行錯誤を繰り返してい
た。夕食はドリアと決めていたので、これが昼食代わりである。
﹁とりあえず、マンイーターを食べるのはあきらめよう﹂
﹁薬と消耗品の材料﹂
﹁後で練習に使うから、どんなものが作れるのかとその手順を教え
てね﹂
﹁了解﹂
毎日毎日大量に復活するマンイーターは、どうやら食材としては
食えたものではなかったらしい。春菜の腕をもってしても無理だっ
1180
たのだから、それ以外の用途に活路を見出した方が建設的であろう。
﹁スラッシュジャガーはやっぱりカツかな?﹂
﹁香辛料で臭い消して、大葉とか紫蘇とチーズでカツにするのがよ
さそう﹂
﹁後は、上手く臭みを消してスモークすれば食べれるかな?﹂
﹁それも美味しそう﹂
肉食獣だけあって、独特の臭みがあるスラッシュジャガー。ケル
ベロスと違ってどうやっても食えないほど不味くはないのだが、臭
いに対する処理をしないと食べるのはつらい。そのうえ、どういう
訳か焼いたり揚げたりと違って、煮込むと歯が立たなくなるほど硬
くなるため、カレーなどに入れるのも難しい。必然的に、食べる方
法は限られてくる。
因みに、南部大森林中央部における二大肉食獣のもう一方である
ブラッディウルフも、扱いとしては大差ない。こちらはどちらかと
言うと筋力ブースト系のドーピング薬に使いやすいと言う事で、む
しろ食うよりアイテムの材料行きという感じである。食った感じ味
の違いがそれほどなかったため、使い分けをすることにしたのだ。
﹁ボンバーベアが普通に美味しくてよかったよね﹂
﹁うん﹂
﹁今日は熊肉と旬の根菜のドリアかな?﹂
1181
﹁美味しそう﹂
アクティブモンスターで熊のくせに草食動物だったボンバーベア。
贅沢にもハンターツリーやマンイーターと言った肉食系植物モンス
ターを主食とし、戦闘時には爆発系のエネルギー弾を吐き出す事も
あると言う、この森でもトップクラスに手ごわいモンスターだ。も
っとも、動物系モンスターの宿命か、オキサイドサークルであっさ
り潰されてしまうのは哀れではあるが。
﹁それで、毛皮とかどうしようか?﹂
﹁スラッシュジャガーはレアな白の毛皮だから、マントの材料?﹂
﹁誰がそのマントつけるの?﹂
春菜の問いに、なにを言っているんだろうこの人は、という視線
を向ける澪。
﹁レイピアで戦うんだったら、マント必須﹂
﹁えっ? 私がつけるの?﹂
﹁他に誰が?﹂
﹁というか、レイピアだとマント必須って、どういう理屈?﹂
﹁お約束。王道。世界の選択﹂
訳の分からない理屈を突きつけてくる澪を、思わずじっとりとし
た目で見てしまう春菜。
1182
﹁春姉、ゲームの時はどんな装備だった?﹂
﹁どんなって言っても、武器は名剣スターライトで、防具はとりあ
えずミラージュセットだったけど⋮⋮﹂
春菜の説明を聞き、なるほどと頷く。名剣スターライトの詳細は
知らないが、ミラージュセットについてはかなり高価ではあるが比
較的出回っていたものなので、澪も詳細を知っている。というより、
鉄板装備の一つなので、多分二年以上ゲームをやっていれば大体の
人は詳細を知っているだろう。
ミラージュセットとは、灼熱砂漠のダンジョン・陽炎の塔のモン
スターがドロップする、布系と革系が入り混じったセット装備だ。
一連の装備をそろえると特殊な効果が発生する、いわゆるセットボ
ーナスがあるものとしては一番有名な防具であろう。煉獄に比べれ
ば数段難易度が下がるとはいえ、十分上級に分類できるダンジョン
のドロップなので、なかなかの性能をしている。
防具の特徴としては、最初からサイズ自動調整がかかっている物
が比較的出やすい事と、下手なローブより魔法防御力が高い事、何
より相手の命中に対して結構大きなマイナス補正がつく事が最大の
メリットで、物理防御が優先となるタンク以外の幅広い層に愛用さ
れている装備である。また、部分的にハードレザーのパーツが混ざ
っているにもかかわらず、ハードレザー以上の装備に特有の魔法発
動ペナルティが存在しないのも大きい。ファッショナブルなデザイ
ンに惚れこんで、もっといい性能の物を持っていてもこれを使って
いるプレイヤーも少なくない。
セット装備の効果としては魔法抵抗強化︵弱︶、出会いがしらの
1183
遭遇時における被ターゲット確率20%ダウンに加え、敵が視覚に
頼る相手だった場合、相手の命中・回避に視覚に頼る割合に応じて
大きなペナルティを与えると言う中衛・後衛にとっては美味しいと
しか言えない防具だ。
ただし、ハードレザーが混ざる割には物理防御力が低い事と、装
備自体の耐久力が特殊装備の中では低い方に分類される事、何より
煉獄クラスの相手には視覚ペナルティがほぼ効果を発揮しないこと
から、最前線で暴れている攻略組にとっては趣味装備一歩手前とい
う扱いになっている。実際、単純な物理と魔法防御力だけを見るな
ら、宏が作ったワイバーンレザーアーマーのフルセットの方が魔法
防御力で三割、物理防御力に至っては倍近く高い。
﹁鉄板装備?﹂
﹁鉄板って言うか、魔法を混ぜるスタイル的に、露店とかオークシ
ョンで手が届く他の装備はちょっと使い勝手が悪かったし﹂
﹁なるほど。でも春姉﹂
﹁何?﹂
﹁結局、マントつけてる﹂
澪の指摘に苦笑する春菜。ミラージュセットは一般的にスタイリ
ッシュな騎士や義賊が着る服、というイメージを具体化したような
デザインであるため、当然のようにマントが標準搭載である。幸い
なことに羽根帽子とマスカレードはセットに含まれていないが、春
菜の外見でその二つまで一緒に身につければ、間違いなく美少女仮
面あたりの二つ名をつけられていただろう、というデザインだ。
1184
因みにゲームでの春菜のアバターは、瞳と髪を茶色に変更したも
のだが、現実と違って完全に洗濯板と言える体型である。これは別
に巨乳にコンプレックスがあったとか乳が大きいと邪魔だからとか
そういう理由ではなく、単純に正式サービス開始である中学一年生
の四月の段階では、胸が全くなかっただけの事である。その後、現
実に合わせて身長は無料サービスで変更をかけたが、体型に関して
は面倒だからそのままにしていたのだ。
正直、春菜本人は自分の胸がでかかろうが小さかろうがどうでも
いいと思っている。どちらでも特有の有利不利や便利不便があり、
気にするだけ無駄だからである。
﹁という訳で、師匠に格好いいマントを作ってもらう﹂
﹁決定事項?﹂
﹁決定事項。多分、マントで相手の武器を絡め取るとかマントの裾
で相手の体を切り裂いたりとかできるはず﹂
﹁何、その物騒なマント⋮⋮﹂
澪の物騒な台詞に、思わずと言った感じで突っ込みを入れる春菜。
宏と組むとボケとボケ、という感じになるが、澪と組むとボケと突
っ込みが目まぐるしく入れ替わるのが興味深い。
﹁それにしても⋮⋮﹂
ズラリと並んだ南部大森林中央部特有の素材食材を見ながら、思
わずと言う感じで言葉を漏らす春菜。煮ても焼いても加工しても使
1185
い物にならない物から、素材としては使えないが珍品としては売り
物になるもの、使い道が多くて逆に悩ましいものまでいろいろある
が、物量だけを見ればとんでもないの一言に尽きる。
﹁どうしたの、春姉?﹂
﹁毎度のことながら、どうして売ったり交換したりって発想より、
食べる・何かを作る材料にするって言う発想の方が先に出るんだろ
うね?﹂
﹁今更それ?﹂
﹁まあ、確かに今更なんだけどね﹂
澪の突っ込みに苦笑するしかない春菜。敵を倒すときにも素材と
して使えるかどうかと食って美味いかどうかから倒し方を検討する
のだから、もはやいろんな意味で手遅れだろう。
﹁そんなの、そう言う発想をする総大将がいるからに決まってる﹂
そう言って、隣の家の方に視線を向ける澪。無論そこでは、もの
づくり最優先主義の最先鋭ともいえる宏が、常人が見れば引くよう
なマッドな事をあれこれやっている。
﹁それに、売るより素材に回すほうがメリットがあるなら、そっち
を意識するのは当然﹂
﹁まあ、そうなんだけどね。ただ、もう少しランクを上げたりとか
そっちに回してもいいかな、って﹂
1186
宏に素材として使わせる方がメリットが大きいとはいえ、結果と
して討伐証明部位が手に入らないケースもあり、冒険者としてのラ
ンクが上がらないという弊害も出てきている。積極的に上げる理由
が特にないとはいえ、あまり低すぎると行動に制約がかかる事を考
えると、せめて六級ぐらいまでは上げた方がいいのではないかと思
わなくもない。
問題なのは、そのためには今の小銭漁り的な仕事の受け方をやめ
て、拘束時間が長くて危険度の高い仕事をある程度以上の数こなす
必要があることだろう。宏のおかげで基本的に出費が少ないと言っ
ても、今より金銭効率が悪くなるのは避けられない。資金的には凄
まじく余裕はあるが、余裕というのはちょっとした事で根こそぎ持
って行かれるものである。
﹁すいませ∼ん﹂
﹁アルチェムが来た﹂
﹁だね﹂
色々と悩ましい問題について話し合っていると、丁度空気を変え
るようにアルチェムが到着した。彼女には今の時期手に入る農作物
で、この村の特産品だと言えるものを出来るだけいろいろ持ってき
てもらったのだ。
﹁ちょっと変な時期なので、あまり種類は無いんですけど⋮⋮﹂
﹁まあ、それはしょうがないよ﹂
申し訳なさそうなアルチェムに、時期の問題ばかりはしょうがな
1187
いと特に気にする様子を見せずに返す春菜。それを聞いてほっと胸
をなでおろし、籠の中からいろいろと取り出す。
﹁この時期だと、バッシュレンコンとパイルポテトですね﹂
﹁凄く物騒な名前だけど、モンスター?﹂
﹁バッシュレンコンはモンスターですが、パイルポテトは地下茎が
杭のように頑丈で鋭いって言うだけで、芋はごく普通に芋です﹂
パイルポテトは、硬い岩盤のある土地にも生えて実をつけ、人の
背丈を超えるぐらいまで育つ生命力の強い作物である。
﹁ちょっと待って。その芋って、何処にできるの?﹂
﹁芋だから、根っこですけど?﹂
﹁もう一つ確認するけど、その芋は多年草? 後、もしかして芋を
取っても枯れない?﹂
﹁多年草ですし、枯れませんね﹂
﹁芋に見えるけど別の植物って事は?﹂
﹁間違いなく、芋ですよ。根元に出来ますし﹂
そう言って、ジャガイモの類にしか見えない収穫物を見せるアル
チェム。根っこに芋ができる癖に、根元を掘り返して芋を取っても
枯れないとは、実に不思議な植物だ。流石は異世界である。なお、
そんないかつい地下茎を持つ植物の根にできる芋をどうやって採る
1188
のかというと、単純に地表を這う根もあるのでそこを掘ればいいだ
けである。
﹁なるほど。で、バッシュレンコンって言うのは?﹂
﹁泥から掘り出すと空を飛んで逃げようとして、捕まえようとする
と物凄く痛い体当たりをしてくるレンコンです﹂
﹁⋮⋮やなレンコン⋮⋮﹂
﹁あの体当たりは痛いですよ、本気で。前に逃がしたのを捕まえよ
うとしたフォレダンさんが、胸板に直撃を食らって五メートル以上
吹っ飛ばされてましたから﹂
﹁うわあ⋮⋮﹂
重量級のフォレストジャイアントを五メートル吹っ飛ばすとか、
それは本当にレンコンなのだろうか? その疑問で、春菜と澪の心
が一つになる。
﹁持ってきてもらってなんだけど、それ大丈夫なの?﹂
﹁ちゃんととどめは刺してあるはずなので、大丈夫だと思いますけ
ど⋮⋮﹂
﹁けど?﹂
﹁ポメと同じで、たまにちゃんととどめを刺せてなくて、料理しよ
うとしたときに強烈な一撃をもらう事があるんですよね﹂
1189
﹁うわあ⋮⋮﹂
聞くんじゃなかった、という顔で呻く春菜と澪。ポメも大概物騒
な野菜だが、少なくとも攻撃的ではない。ミスって爆発させた時の
被害は多分バッシュレンコンと大差ないだろうが、調理しようとし
ただけで攻撃される事はない。そう考えると、バッシュレンコンと
やらは相当気が荒いらしい。
﹁で、その実物が⋮⋮﹂
﹁ちょっと待って!﹂
﹁はい?﹂
﹁多分フラグ立ってるから、戦闘態勢を!﹂
﹁春姉、こっちは準備OK!﹂
アルチェムの不穏当な説明を聞き、即座に起こりうる事態を想定
して準備をする二人。こういう話題があった以上、絶対に一本は生
きている。というより、生きている前提で準備をした方が間違いが
少ない。
そんなよく分からない理由で戦闘準備を始めた二人を、たかが食
材を取り出すだけだと言うのにという顔で見てしまうアルチェム。
それも武器を準備するだけならともかく、春菜は補助魔法でガチガ
チに強化をし始めたのだ。確かに今は防具を身につけていないので、
防御力に不安があるのは分かる。が、バッシュレンコンはそこまで
強いモンスターではない。というか、そんなに強いモンスターなら、
栽培しようなどとは考えない。
1190
﹁えっと、出しますね?﹂
﹁うん﹂
﹁いつでも﹂
妙な空気に苦笑しつつ、籠の中からバッシュレンコンを四本取り
出す。この時点では大人しかったため、もしかしてフラグは回避で
きていたのかと微妙に油断し、手近な一本に手を伸ばした次の瞬間。
﹁わっ!?﹂
﹁やっぱり!﹂
﹁ちぇい!﹂
四本のバッシュレンコンによるオールレンジ攻撃が始まった。微
妙に油断してはいたものの完全に警戒を解いていなかった春菜と澪
は即座に一本ずつ仕留めたのだが、完全に油断しきっていたアルチ
ェムは反応が遅れ、どうにか運よく最初の襲撃を回避するのが精一
杯であった。
﹁きゃあ!!﹂
微妙な角度でターンし、アルチェムのスカートに飛び込むバッシ
ュレンコン。その予想外の動きに驚き、硬直してしまうアルチェム。
その一撃でスカートが派手に裂け、天井にぶつかるかどうかという
ところで澪に輪切りにされて生命活動を止める。
1191
その隣では、まだまだアルチェムの災難は続いていた。
﹁あうっ!﹂
バッシュレンコン最後の一本の渾身の体当たりが見事に鳩尾あた
りに直撃し、そのまま民家の壁を突き破って隣の家屋にまで突っ込
んで行ってしまったのだ。もしものために一定量のダメージを軽減
するバリアを全員にかけてあったから良かったものの、そうでなけ
ればアルチェムは大けがをしていたであろう。それだけの一撃であ
る。
そして、隣の家屋では宏がマッドな作業をしている訳で⋮⋮。
﹁なあ、春菜さん⋮⋮﹂
隣の家屋に飛び込んだ春菜と澪を出迎えたのは、特にこれと言っ
て被害を受けた様子もなく、ただひたすら困惑しているだけの宏で
あった。
﹁宏君、大丈夫だった!?﹂
﹁まあ、僕自身は特に被害はあらへんかったけど⋮⋮﹂
﹁けど?﹂
﹁いっぺん、神様を問い詰めなあかんのちゃうか、って思うんは気
のせいか?﹂
微妙に意味不明な事を言い出す宏に対し、怪訝な顔を見せる春菜
と澪。その顔を見て苦笑しながら、とりあえず見てもらった方が早
1192
いと判断したらしく、作業スペースに二人を連れていく宏。
﹁⋮⋮これは⋮⋮﹂
﹁⋮⋮うわぁ⋮⋮﹂
﹁流石に、これはないと思うねん﹂
﹁確かに、これはない⋮⋮﹂
宏の言葉に、絶句しながら頷く春菜と澪。彼女達の目の前では、
宏が作成途中の謎植物が、マンイーター相手にコブラツイストをか
けながら、アルチェムを子供には見せられない感じの縛り方で拘束
していた。
﹁というか、どうしてこうなったの?﹂
﹁最初はな、単にアルチェムを確保して適当にぶら下げ取っただけ
やねんけど⋮⋮﹂
﹁けど?﹂
﹁飛んできたレンコン食った途端に、こっちが救助する暇も与えず
電光石火の早業であんな感じに縛り上げおってな﹂
﹁うわあ⋮⋮﹂
どうやら、あのレンコンはエロレンコンだったらしい。経口摂取
する事でそのエロレンコンの性質を受け継いでしまった謎植物が、
お約束をやるためにアルチェムを見事に縛り上げたようだ。
1193
﹁どうしたもんやろうなあ?﹂
﹁どうしたもなにも、私達が近寄ったら、ミイラ取りがミイラにな
るんじゃ⋮⋮﹂
﹁やろうなあ﹂
﹁ボク、汚れになる年じゃないと思う﹂
﹁相談してないで、助けてください∼!﹂
微妙に視線をそらしながらのんきに相談する三人に、切実な悲鳴
を上げて必死に救助要請をするアルチェム。とりあえず、この謎植
物は、マンイーター対策としてそのまま使うという案は没になるの
であった。
1194
第5話
﹁いつも思うんだが⋮⋮﹂
﹁何?﹂
﹁まともな食材って、無いもんだよなあ⋮⋮﹂
﹁あー⋮⋮﹂
しみじみと言った達也の言葉に、なんとなく返事を返せずに頷い
てしまう宏達。何しろ、今食べてるのがケンキャクザケという、遡
上するときに鍛えた足で断崖をこえる鮭なのだから、達也の言葉を
否定する要素はどこにもない。しかもその足というのが土踏まずま
できっちりあるマッシブな、誰がどう見ても健脚だという代物なの
だから余計にだ。
なお、この世界には、ちゃんと普通の鮭もいる。ただ、普通の鮭
のシーズンが秋口なのに対し、ケンキャクザケはちょうど今頃が旬。
遡上のピークは二週間ぐらいしてからだそうだが、気の早い連中が
すでに川を遡ってきている。
因みに、ケンキャクザケの足をほぐしてマヨネーズで和えると、
ツナマヨにそっくりの味になる。そのため、今エルフの里では具に
ツナマヨならぬアシマヨを入れた握り飯がブームになっている。言
うまでもなく、マヨネーズの作り方は既に伝授済みである。
﹁握り飯の中に鮭が入ってると思ったら、出てきたのがこれっての
1195
はひどいと思わないか?﹂
﹁ウデヤマメとか居るんやし、こう言うのが居ってもええやん﹂
﹁というか、だ。腕だけとか足だけだとか中途半端に生えるんだっ
たら、ちゃんと四肢をはやして普通に半魚人になれと言いたんだが﹂
﹁それはあるわね、実際﹂
達也の意見に同意する真琴。いっそギルマン的な何かなら逆に座
りの良さに落ち着くのだが、見かけるのがこう、中途半端な連中ば
かりというのは勘弁してほしい。
﹁半魚人⋮⋮﹂
﹁ん?﹂
﹁美味しいのかな⋮⋮?﹂
﹁食うのかよ⋮⋮﹂
﹁っちゅうか、半魚人系のが居ったとして、そいつらはモンスター
枠なんか人間枠なんか、どっちなんやろうなあ?﹂
澪の言葉から食う食わないの話題になりかけたところで、ふと気
になった事を宏が告げる。その疑問点に、真剣に悩む真琴と達也。
﹁難しいところね⋮⋮﹂
﹁意志疎通ができるなら人間、本能で攻撃してくるならモンスター
1196
か?﹂
﹁まあ、分けるとしたらそこでしょうけど、意志疎通できてもモン
スター枠ってのもいるし⋮⋮﹂
﹁とは言え、ゴブリンが一応人間枠だってことを考えると、人間枠
の可能性が高いよな﹂
ある面において割とどうでもいい事を、妙に真剣に検討する一同。
遭遇した時に判断すればいいだけの事なのだが、こういう疑問が出
ると真面目に議論してしまうのが彼らの彼らたる所以だろう。
﹁考えてみると、実際に遭遇しないと分からないよね﹂
﹁そうだよな﹂
結局、当たり前の結論に達したところで議論が終息する。とりあ
えず言えるのは、モンスター枠だったら間違いなく一度は食べられ
るかどうかチャレンジするであろう、という事だけである。
﹁で、まあ、話を戻すと、だ﹂
﹁ん?﹂
﹁たまには、根っこがパイルバンカーになってるだとか、空飛んで
オールレンジ攻撃してくるだとか、調理ミスると自爆するだとか、
魚のくせに腕が生えてるだとか、そう言う妙な性質を持ってない、
見た目がまともで性質も普通な分かりやすい食材に出会いたいんだ
が、どう思う?﹂
1197
﹁珍妙な食材でもいいじゃない、ファンタジーなんだから﹂
達也のぼやきに対し、後ろにみ○を、とかつけたくなるような台
詞を吐く春菜。とは言え、こんなふざけた会話で引き合いに出すの
は、さすがに彼の偉人に対して失礼極まりないだろうが。
﹁なあ、春菜﹂
﹁何?﹂
﹁何でもかんでもファンタジーだから、で済むと思うなよ﹂
﹁いやだって、ファンタジーだからとしか言いようがないし﹂
ファンタジーだからと言って、食材がまともな生態系を成してい
るかどうかすら不明で許される訳ではない。そう、声を大にして言
いたい達也。そもそも、いくらファンタジーだと言っても、普通の
漫画や小説のほとんどは、使われている食材は地球とそんなに変わ
らなかった。せいぜいドラゴンとかその手の生き物の肉がある程度
で、いくらなんでもレンコンが空を飛んでオールレンジ攻撃を仕掛
けてきたりはしない。
﹁大体、前々から思ってたんだが、お前らよく初めて見る正体不明
の蛍光色の菜っ葉とか、躊躇いもなく調理して口に入れられるよな﹂
﹁そこはもう、来て一カ月で慣れたし﹂
﹁兄貴と澪は知らんやろうけど、夏の盛りの頃の旬の食材って、物
凄い格好とか色合いのんが多かってんで﹂
1198
﹁それで、真琴が文句を言わない訳か⋮⋮﹂
﹁そう言う事﹂
達也と澪がこちらに出現した九月ごろというのは、地球でもおな
じみの食材が多く旬を迎える。それゆえにファンタジックな感じの
珍妙な野菜や果物はそれほど出回っていなかったが、宏達がウルス
に到着した夏の盛りと言えば、メタリックなドドメ色のキャベツっ
ぽい野菜だとかマッスルな外見の瓜だとかが最盛期だった。いくら
腐敗防止による保存技術があるとは言えど、やはり市場での売り物
は穀物以外は旬のものが主流。それらの食材に手を出さないと食べ
る物の選択肢が急激に狭まる上に、どうしても数段割高になってく
る。
それゆえに、宏も春菜もえらい見た目の食材に引きながらも色々
試し、最終的には食べて死なない物なら何でも食べようとする習慣
がついてしまったのである。真琴に至っては、料理名から食材や調
理方法が分からない物をロシアンルーレット的に試すしかなく、ど
ん引きするようなものでも残すともったいないというお婆ちゃんっ
子の彼女の性格から食べないと言う選択を取る事が出来ずに、春菜
と合流する頃には食わず嫌いは基本的に完全に消えていた。
そういった体験をしていない上、大概のものは見た目にも綺麗で
食べやすい味に仕上げてくれる料理人が複数いたため、達也も澪も
食えそうにないものを食わされる、という体験はしていない。それ
でも澪は、自身が料理する立場ゆえに未知の食材を毒見する事も多
いが、基本食い専の達也はファンタジーな世界のあれで何な食材を
直視する機会はほとんどない。
言ってしまえば、彼のぼやきはそういう恵まれた立場にある人間
1199
の贅沢のようなものである。
﹁そもそも兄貴、ワイバーンとかに文句言わんくせに、野菜に文句
言うんはおかしない?﹂
﹁ワイバーンはファンタジーって感じだったし、ロックボアとかは
普通の肉と大して変わらんからなあ﹂
﹁ワイバーンもファンタジーなら、この辺の草もファンタジーでい
いと思うんだけど⋮⋮﹂
春菜の言い分に苦笑する。確かに、うっすら発光している蛍光色
の草とかはファンタジーと言えばファンタジーだ。ただ、大抵のフ
ァンタジーはその手のものを食べたりしないため、食材と言われる
と突っ込みたくなってしまうだけである。
﹁達也、とりあえずある程度はあきらめなさい﹂
﹁しかねえか﹂
﹁とはいえ、あたしもいい加減そろそろ、舞茸とかエリンギとかチ
ンゲン菜とか、そう言うパターンで新食材を見たいとは思うわね﹂
達也を窘めつつも、かつてはマイナーだったり日本になかったり
した、農業技術や輸送技術の発達で広く食べられるようになった食
材を例にあげて要望を出す真琴。
﹁まあ、探せばあるやろうな﹂
﹁ダールとかフォーレとか、あのあたりに期待、かな?﹂
1200
﹁そこまで行かにゃなんねえのかよ⋮⋮﹂
微妙にうんざりした顔でぼやく達也。実のところ、エルフの里で
採れる農作物も、大半は別段特に変わったところのない普通の作物
なのだが、いくつかがピンポイントでおかしな性質をしているため、
突っ込み気質でまだまだ日本の常識に判断基準が引きずられる達也
の許容範囲を超えがちなのである。
﹁まあ、飯の話は置いとこうや。現状、食材の見た目以外に特に困
るような事もあらへんし﹂
﹁そりゃ確かに、ぼやいてもどうにもならん話ではあるが⋮⋮﹂
宏の言葉にしぶしぶ頷くしかない達也。基本ヘタレのくせに、こ
ういうところは妙に図太いのは、多分職人の領域だからであろう。
﹁兄貴らの方、今どういう状況なん?﹂
﹁とりあえず、割とやばそうなところにあったハンターツリーとか
は全部やってきたぞ﹂
﹁あと、神殿前以外の所に生えてるマンイーターは、根っこが生え
てそうなところ全部土を掘り出して、達也の魔法で完全に凍りつか
せておいたから﹂
﹁ほな、当分は大丈夫やろな﹂
現状手が空いている達也と真琴は、エルフの村からゴブリン、フ
ォレストジャイアント、フェアリーの各村への道を見回り、ルート
1201
的に危険な場所に生息しているハンターツリーやマンイーターを駆
除して回っていた。特にハンターツリーはフォレストジャイアント
以外にとっては致命的だし、体が小さいゴブリンとフェアリーは、
マンイーターも他の種族より危険度が高い。
それ以外の動物系モンスターは、わざわざ自分から仕留めて回る
ような真似はしていない。キリが無い上に、あまり狩りすぎると生
態系にどんな影響があるか分からないからである。
﹁で、そっちの方はどうなってる?﹂
﹁とりあえず、今は最終チェックの段階や。あれがいけたら、一気
に駆除が進むはずやで﹂
﹁そうか、予定よりだいぶ早いな。決行はいつになる?﹂
﹁マンイーターの駆除自体は、最終チェックで問題が無かったら明
日の朝からの予定や。ただ、これで終わってくれる保証はあらへん
から、それ以外の準備もしといたほうがええやろう﹂
宏の言葉に頷く一同。ゲームや物語のお約束、というやつを考え
るなら、マンイーターを駆除するのは第一ステップ以上のものでは
ないだろう。感じから言って何者かの陰謀、という類のものではな
さそうだが、正直陰謀なんかよりも偶発的な何かの方が怖い。
﹁とりあえず、何かがあると仮定して、どんな準備が必要だと思う
? 私は、陰謀関係に対する備えは多分いらないと思ってるけど﹂
﹁あたしの攻略組の経験と勘から言うなら、森林型のダンジョンに
対する備えが必要ね﹂
1202
﹁その根拠は?﹂
﹁マンイーターがあれだけ繁殖してるのに、平和すぎると思わない
? しかも、ルートが塞がれる前に比べて、アランウェン様の神殿
に行く機会が激減してるって言うのに﹂
真琴の言わんとしている事を察し、真剣な顔で頷く宏と春菜。確
かにあれだけの数の肉食植物が固まって繁殖し、その勢力を三十年
近く維持できているというのに、このあたりには瘴気の影響が非常
に少ない。宏や澪の感覚では、少なくとも神殿へのルートは地脈の
通る筋からは外れているが、逆に言うなら大量のマンイーターが生
命維持活動で生み出す瘴気が、地脈の汚染以外の何かに使われてい
ると言う事になる。
﹁せやなあ。ルートが異界化を通り越して、ダンジョンになっとっ
てもおかしくはあらへんなあ﹂
﹁そう言う事。だから宏、澪、出来れば脱出の手段も用意しておい
て﹂
﹁了解や﹂
﹁任せて﹂
経験者の勘、というやつを信じて頷く二人。真琴の勘が外れても
かまわない。備えなんてものは、基本的に無駄になって何ぼなのだ。
﹁じゃあ、午後からのお仕事に入るか。俺と真琴は最後の見回り、
ヒロは最終チェックでいいとして、春菜と澪は何するつもりだ?﹂
1203
﹁ボクは、ダンジョンアタックの準備﹂
﹁私は⋮⋮、折角だから、訓練も兼ねて農作業のお手伝いでもして
くるよ﹂
﹁了解。じゃ、行くか﹂
食事を終えた達也の言葉に頷くと、自分達の予定に合わせて行動
を始める一同。エルフの村に到着してから五日。そろそろ彼らの滞
在期間も終わりが見えてきたようだ。
﹁しかしよう、こんなめんこい客が畑仕事さ手伝ってくれっとは、
世の中何が起こるか分かんねえもんだべなあ﹂
﹁んだんだ﹂
﹁長生きはするもんだべ﹂
春先に植える苗の世話をしながらのエルフたちの言葉に、思わず
苦笑する春菜。美形ぞろいのエルフに可愛いと言われても、どう反
応していいか分からない。しかもこいつらの本性は、田舎のエロ親
父やセクハラおばさんである。
1204
﹁しかも料理上手だべさ﹂
﹁おら達の村で採れるもんで、あげに珍しくてうめえもんさ食える
とは思わなんだべ﹂
﹁料理は、知ってるかどうかも大事だから﹂
さんざん持ち上げてくるエルフに、出来るだけ控えめに答えを返
す。あまり堂々とした反応をすると、それはそれで餌食にされそう
だし、そもそも大したことはしていない。
﹁折角だから、うちの村に嫁さけねえか?﹂
﹁マルガのところのせがれ、嫁いねえべ﹂
﹁アドーのとこもだよ﹂
﹁セネガルの嫁は、新婚早々お告げ聞いて出て行っちまって、今は
何処さほっつき歩いてるのやら﹂
農家の嫁問題が深刻なのは、日本も異世界も、人間もエルフも変
わらないらしい。なんとなくやばい方向に話が進みつつある事を悟
り、とりあえず話題を変えるために質問を飛ばす。
﹁えっと、これは間引く?﹂
﹁⋮⋮んだなあ。微妙な線だべが、まあ間引いちまった方が間違い
がねえべ﹂
﹁これって、少しぐらい植えるのが遅れても、ちゃんと育つかな?﹂
1205
﹁気候にもよるだが、土地と気候さあってれば、そこまでひ弱な作
物でもねえだ﹂
﹁じゃあ、貰って行っていい?﹂
春菜の唐突な問いかけに、怪訝な顔をするエルフたち。
﹁構わねえけど、どうすんだべ?﹂
﹁今回の件が終わったら、ラース麦の栽培指導に人を連れてウルス
に行くでしょ? その時についでだから、向こうの試験農園に植え
てみようかなって﹂
﹁なるほどな。んだば、もっと種類と数があった方がいいだか?﹂
﹁ん、そうだね﹂
春菜の言葉を聞き、間引いたものの中からよさげな苗を取り分け
て集め始めるエルフたち。
﹁こんなもんでいいべ?﹂
﹁ん、十分。ありがとう﹂
﹁いいべいいべ。どうせ捨てるか乾燥させて肥料にするだ。他所で
育つなら、苗も本望だで﹂
﹁んだども、終わってからウルスに持って帰ると、流石に時間さ経
ちすぎねえか?﹂
1206
﹁ウルスに帰るときは、転送石を使うから大丈夫﹂
転送石と聞いて、納得しつつも心配そうな顔を見せるエルフ達。
彼らにとっても、転送石というのは高価で貴重なものだ。それをそ
んなにホイホイ使っても大丈夫なのか、というのは気になるところ
であろう。
﹁転送石だか⋮⋮﹂
﹁そげな高いもん使うて、大丈夫だべ?﹂
﹁大丈夫大丈夫。必要なら、宏君がいくらでも作ってくれるし﹂
あっさり言ってのけた春菜の台詞に、思わず目をむくエルフ達。
﹁あの坊主、そげに凄い腕してるだか?﹂
﹁うん。多分、ウルスどころか世界を探しても、宏君に勝てる職人
はほとんどいないんじゃないかな?﹂
﹁信じられねえだよ⋮⋮﹂
﹁んだんだ﹂
﹁まあ、それはしょうがないとは思うけどね﹂
エルフ達の反応には、流石に同意するしかない。寿命が短いヒュ
ーマン種の、それもまだ小僧とか坊主と呼ばれてもおかしくないぐ
らいの年の男が、世界でも屈指の職人だと言っても誰も信用しない。
1207
﹁あ、そうだ﹂
﹁なんだべ?﹂
﹁この村に転移陣を設置したいんだけど、いいかな?﹂
﹁転移陣?﹂
﹁そんなもんが必要だべか?﹂
唐突に出てきた単語に、急激に場がざわめく。いかに田舎者で平
和な性格をしているとはいえ、転移陣という物の危険性を理解して
いないようなおめでたいエルフはいない。彼らの安全と安寧は、南
部大森林地帯という巨大な樹海と、詳細な場所が分からないという
隠れ里の特性によって守られている。転送石や転移陣は、その二つ
の障壁を一発で無力化してしまうのだ。
これが、転送石程度ならまだいい。物によるとはいえ、あれで運
べる人数や物資はたかが知れており、しかも使い捨てで相当高価な
ものだ。余程強い人間を連れてこない限りは、地味に戦闘能力が高
いエルフ達にとってはそれほどの脅威となり得ない。
だが、転移陣は違う。転移陣は転移ゲートほど大規模な輸送は出
来ないが、移動する人間のほんの少しの魔力を使うだけで、その気
になれば何人でも送り込める。しかも、人が引ける程度の荷車やそ
こに積める荷物も一緒に、だ。一度に一人ずつとはいえ、再使用は
転移を確認してすぐに行えるのだから、それなりの人数を簡単に送
り込める。
1208
しかも最大の問題は、転送石と違って、一度も来た事のない人間
を簡単に送り込めることにある。それらの問題を考えると、流石に
簡単にうんとは言えない。
﹁まあ、普通に考えたら、誰が出てくるか分かんないからイエスと
は言いづらいよね﹂
﹁だべなあ﹂
﹁とりあえず、つなぐ先はうちの工房の中。用途はラース麦の栽培
指導に必要な人員や道具類の移動と定期的な行き来のため。流石に、
いちいち転送石を使うのも面倒かな、って思ったんだけど﹂
﹁確かに、ウルスさ簡単に行けるのは便利だども⋮⋮﹂
﹁その工房とやらが制圧されて、おら達の村に大軍さ来る可能性は
ねえべか?﹂
﹁多分、うちの工房が制圧されるようだったら、転移陣があっても
なくてもこのあたりは無事で済まないと思う﹂
エルフ達のもっともな質問に対し、真剣な顔で断言してのける春
菜。現実問題として、アズマ工房が制圧されていると言う事は、間
違いなく国の中枢は今の王家以外が握っているだろう。更に言えば、
工房の守りを強引に突破できるだけの戦力を持っていると言う事は、
間違いなくバルドをはじめとした例の集団が絡んでいる訳で、その
時点でファーレーンは隅々まで瘴気で汚染されている事間違いなし
だ。このあたりの地脈がウルスの地脈とつながっている以上、その
時はこの村も間違いなく瘴気に飲みこまれている。
1209
﹁それに、転移陣の設定をいじれば、私達の許可が無い人間がこっ
ちに来れないようにできるし﹂
﹁なるほどなあ。その設定を勝手に書き換えられる事はねえべか﹂
﹁ファーレーンの騎士団をして要塞以上の防御力とセキュリティを
持ってるって言い切った工房に侵入、もしくは制圧して、その上で
世界最高峰の付与術師でかつ魔道具職人が作った転移陣の設定を許
可なく書き換えられる力量の人が、わざわざうちの工房を制圧しよ
うと目をつけた時点で、十中八九は転移陣の有無ってあんまり関係
なくなってると思う﹂
﹁だべか?﹂
﹁うん。それが出来そうでそういう事をしそうな集団って、私の心
当たりだと一つしかないけど、その集団のやり口だったらうちの工
房をどうこうするより先に、まず地脈に瘴気を流し込んで国全体を
汚染する方を優先させるだろうから﹂
バルドの戦闘能力と魔導技術を思い出し、そう断言する春菜。言
動などを総合して考えるなら、あれはまず間違いなく下っ端だ。良
くて現地のプロジェクトリーダー、悪ければ現場監督ぐらいの立場
だとは思われるが、逆に言えばそのレベルですら、その気になれば
ウルスぐらいの規模の都市を壊滅させられなくもない戦闘能力を持
っていたのだ。流石に本物のバルドが数人がかりで工房に襲撃をか
ければ、絶対に陥落しないとは言い切れない。
はっきり言ってしまうなら、彼らがウルスを瘴気の供給源にしよ
うなどと考えずに、ただ単純に地脈の汚染とファーレーンの壊滅だ
けを狙って行動していたのであれば、今頃地図の上からはファーレ
1210
ーンもこの村も消えていただろう。多分それではいろいろ足りない
からそう言う回りくどい真似をしようとしていたのだろうが、考え
てみれば実に回りくどい事をしている。
﹁ただ、その集団って、前に戦った感じでは下っ端でも普通に空を
飛ぶし、小規模な街の一つや二つは普通に壊滅させられそうだから、
力技で来たら多分止める手段が無いよ﹂
﹁そげな厄介なのがいるんだべか?﹂
﹁とりあえず、ウルスにいたのは排除したんだけどね。本気でただ
の下っ端だったけど﹂
﹁その話が本当なら、お前ら強かったんだべなあ﹂
﹁私達がこの村に、って言うかアランウェン様の神殿に来たのも、
その絡みでなんだ﹂
嘘か本当か分からない事を言い出す春菜に、判断できずに顔を見
合わせるエルフ達。春菜がこういう嘘を言う人間ではない事も、宏
と澪が職人としては年齢に見合わない腕を持っていることも事実だ
が、かといって全面的に信用するには話が大きすぎる。彼らのよう
な普通の村人に判断出来る話ではない。
﹁⋮⋮残念ながら、おら達には判断できねえだ﹂
﹁⋮⋮村長と長老に相談してくんろ﹂
﹁うん、了解。どっちにしても、アランウェン様の神殿に行って帰
ってきてからの話だし﹂
1211
春菜の言葉に頷くと、各々の作業に戻る。作業を始めてすぐに下
ネタセクハラ込みのあれで何な話題に戻るあたり、おっさん属性は
意外と強いものなのだと思い知る春菜であった。
﹁あの、皆さん⋮⋮﹂
次の日の朝食。アランウェン神殿までの正規ルート解放作戦決行
当日。何やら思いつめた顔をしていたアルチェムが、恐る恐るとい
う感じで口を開く。
﹁ん?﹂
﹁どないしたん?﹂
﹁私も、一緒に行っていいでしょうか⋮⋮?﹂
アルチェムの言葉に、怪訝な顔をする日本人達。正直、アルチェ
ムがついてくる理由が分からない。
﹁理由によるな﹂
﹁後、あんたの戦闘能力も﹂
1212
話を聞かない事には判断のしようがない。とりあえずアルチェム
に対して、何故唐突にそんなことを思い立ったのかと、どれぐらい
戦えるのかを確認する事にする。
﹁まずは、理由からやな。何でまたいきなりそう言う話になったん
?﹂
﹁昨晩、アランウェン様からお告げがありまして⋮⋮﹂
﹁なんか、ちょっと前によく聞いたフレーズ⋮⋮﹂
アルチェムが語り出した理由を聞いて、明後日の方向に視線をさ
まよわせながら呟く澪。言うまでもなく、よく聞く原因となったの
は、現在ウルスで大人しく姫巫女をやっているはずの犬チックなお
姫様である。
﹁具体的には?﹂
﹁皆さんと一緒に行って、そのまま直接神殿に来るように、と﹂
﹁行動としては具体的やけど、理由に関しては全然教えてくれてへ
んお告げやな﹂
﹁全くだ﹂
自分達に実害が及ぶ可能性があるだけに、神様のありがたいお言
葉でも容赦なく駄目出しをする宏達。この場合、アルチェム自身に
もかなりの危険が及びかねないので、ますます言葉としてはきつく
なる。
1213
﹁それともなんや、自分がアランウェン様の巫女かなんかになる、
っちゅう話なん?﹂
﹁分かりません。ただ⋮⋮﹂
﹁ただ?﹂
﹁今、もう一度お告げがありまして⋮⋮﹂
物凄くいいタイミングで下された神託に対し、宏達が思わずジト
目になってしまったのは仕方が無い事であろう。この場合、アルチ
ェムがどうというよりはむしろ、わざわざ監視してタイミングを計
っていたアランウェンに対する突っ込みが主成分である。
﹁自分に怒ってもしゃあないから、何言われたか言うてみ?﹂
﹁あ、はい。これは試練だから、連れていかないなら対話に応じる
つもりもない、だそうです⋮⋮﹂
﹁⋮⋮こっちの神様って、みんなこんな感じなのか?﹂
﹁まあ、ある意味神様らしいと言えばらしいかも。主にギリシャ神
話的な意味で﹂
アルチェムが受けたお告げに対する達也の感想に、春菜が苦笑し
ながらコメントする。実際のところ、ギリシャ神話だけでなく日本
神話にも、似たような神様の話はないでもない。彼らが余り詳しく
ないと言うだけで、多神教国家の神話には、こういうタイプの神様
が普通に登場するものなのかもしれない。
1214
﹁あの、みんなこんな感じなのか、というのは⋮⋮?﹂
﹁ああ。ウルスにいた時にな、アルフェミナ様が有難味が無いぐら
いホイホイ顔を出してだな⋮⋮﹂
﹁それも、事件が終わった後の平和な時に、割とどうでもいい感じ
の理由で下りて来ては、妙なところにこだわった感じの注文をつけ
てくるの﹂
﹁元々あたし達は信仰心って観点では微妙だったけど、あれで本格
的に株が大暴落した感じだったわよね﹂
﹁神様なら、もっと勿体つけて欲しい﹂
アルフェミナに対する駄目出しの嵐に、目を白黒させるアルチェ
ム。どうやら時空神様は、立場としては五大神に入るというのに随
分とフットワークが軽いお方らしい。上位がそれならば、比較的下
位に属するアランウェンが洒落のきつい性格なのも仕方が無いので
はないか、などという主張は多分通じないのだろう。
﹁まあ、話は分かった﹂
﹁アポイント取りたい相手の要望やったら、連れていかんっちゅう
選択は取れんやろうなあ﹂
﹁となると、戦闘能力が問題よね。あんた、どのぐらい戦える?﹂
どの程度戦えるかを知っておかないと、連れていく上での心構え
ができない。ずぶの素人と多少は戦えるのとでは、注意するポイン
トや戦闘時に取ってもらう行動が大きく変わるし、戦力としてカウ
1215
ントできるのであればなおのことだ。
﹁とりあえず、捕まりさえしなければスラッシュジャガーはどうに
かできます﹂
﹁その口ぶりやと、捕まった事あるみたいやけど、よう無事やった
なあ﹂
﹁何人かでモンスター駆除をしていた時のことでしたので、すぐに
援護と回復魔法が飛んできたんです。ただ、その時の感じから、流
石に力比べでスラッシュジャガークラスの獣を押し返すのは無理だ
と分かってはいますが﹂
﹁普通はまあ、そうだろうな﹂
﹁チェットやヤーナおばさんなんかは、地面に引きずり倒されても
普通に押し返したりしますけど⋮⋮﹂
エルフとは思えない力技に、微妙にどん引きする一同。だが、考
えてみれば、収穫時にはフルプレートを着て農作業をするような連
中だ。エルフというイメージにそぐわないだけの馬鹿力を持ってい
ても、何ら不思議はない。
﹁まあ、そこは置いとこう﹂
﹁スラッシュジャガーがどうにかできる程度の腕前、っちゅうんは
分かった。具体的にはどういう戦い方するん?﹂
﹁弓を主体に、四属性魔法による攻撃と障害魔法での足止め、です
ね。小型のモンスターに関しては、懐に入られたらとりあえず鎌と
1216
か鉈で何とかしてます﹂
﹁要するに、澪の変種か﹂
﹁ポジションが微妙にかぶってる⋮⋮﹂
アルチェムのスペックを聞き、そんな風に判断する宏達。後方か
らのアタッカーというポジションはかぶるが、澪と違って距離を詰
めての戦闘には不向きな、攻撃よりのスキル構成という感じだ。
﹁罠とかはどう?﹂
﹁建物の中のものはちょっと。ただ、野外で使うようなものはそれ
なりに﹂
﹁そこもかぶってる⋮⋮﹂
﹁かぶっちゃいるが全く同じってわけでもねえし、キャラは正反対
だから安心しろ﹂
﹁どうせボクはチビで貧乳⋮⋮﹂
達也のフォローなのかとどめなのか分からない言葉に、完全にノ
ックアウトされてしまう澪。順調に育ってはいるが、現在目指せC
カップが目標の、だが地味にカップ自体は完全にBにはなっていな
い己の胸部に悲しそうに視線を落とす。
﹁まあ、この様子やったら、ちょっと予定変更っちゅう感じやな﹂
悲しみに浸る澪をさっくり無視して、何事もなかったかのように
1217
話を戻す宏。この話が続くのもあまりありがたくないと判断した他
のメンバーも、とりあえずそれに乗っかる事にする。スルーされた
澪が微妙にいじけているのを、こっそり頭をなでて慰めている真琴
が趣深い。
﹁予定変更はいいとして、どうするんだ?﹂
﹁とりあえず先に種まきだけやって、アルチェムの腕前確認したら
弓と簡単な皮鎧作ったろうか、ってな﹂
﹁弓って、材料は?﹂
﹁ハンターツリーがあるやん﹂
宏のある意味予想通りの回答に、またこのパターンかと内心で苦
笑する達也と真琴。とは言え、アルチェムの装備を強化すると言う
のは、今回に関してはある意味必須である。
何しろ、エルフ達が使っている武器も防具も、今自分達が使って
いる物と比べれば確実に三つはランクが落ちる。
﹁とりあえず、さっさ種まきしてこよか﹂
﹁手伝うよ﹂
﹁ボクも﹂
﹁別に、全員で行けばいいじゃない。種まく範囲もそこそこ広いん
だしさ﹂
1218
真琴の提案に頷き、結局全員で種まきを行う事に。そもそも定点
固定型のアクティブモンスターの根元に種をまく必要があるため、
一人二人でやるのは厳しい。二人一組で一人がマンイーターの攻撃
を鎌で防いでいる間にもう一人が種をまく、というやり方になるの
はある意味当然と言えば当然だっただろう。アルチェムがエロトラ
ブルを発生させかかったのも、この場合当然の範囲に入るのは言う
までもない。
﹁⋮⋮うわあ⋮⋮﹂
﹁締め上げてる⋮⋮﹂
﹁かじってる奴もいるな⋮⋮﹂
そうやってあわやのところでエロトラブルを回避してまかれた種
は、大方の予想を覆して瞬く間に発芽し、ものすごい勢いでマンイ
ーターを駆逐し始めた。蔦の生えた樹木という体のその植物は、マ
ンイーターを根っこのかけら一つ残さずに引っこ抜いたかと思うと、
コブラツイストだの噛みつきだので締め上げてあっという間に枯ら
し、即座に自身も枯れて次の株へ、という流れでどんどんとマンイ
ーターを仕留めて行く。周囲の植物には一切影響を与えていないの
が素晴らしい。
﹁あの植木鉢でなくても、こんな勢いで育つのかよ⋮⋮﹂
﹁品種改良技術の勝利やで﹂
﹁品種改良というより魔改造の類ね、あれ⋮⋮﹂
真琴がぽつりと漏らしたコメントが、宏が作り上げた謎植物に対
1219
する大方の一致した意見であった。
﹁さて、予定よりちょっと遅くなったが、出発するか﹂
﹁せやな﹂
種まきから二時間後。アルチェムの準備も終わった事を確認した
達也が、出発を宣言する。後一時間もすれば昼食という微妙な時間
だが、そこまで引っ張ると流石に遅くなりすぎる。
﹁神殿までって、どれぐらいかかる?﹂
﹁特に何もなければ、三十分ちょっとというところです﹂
﹁なるほど。仮にダンジョンが存在しなくても、十中八九は何か起
こるだろうから、ざっと一時間ぐらいはかかる訳だ﹂
﹁丁度昼ぐらいになるわね。異界化してなければ、の話だけど﹂
アルチェムの回答に対して色々微修正を加え、おおよその所要時
間を確定させる。はっきり言って、自分達がトラブルに巻き込まれ
ないなどという夢物語を、彼らは誰一人信じていない。
﹁ダンジョンアタックになりそうやったら、早めに昼飯済ませなあ
1220
かんやろうな﹂
﹁入る前に食事を済ませるのは、基本﹂
宏と澪の言葉に頷く真琴。どんなタイプのものであれ、ダンジョ
ンの中で食事をするというのはなかなか難しい。モンスターの出現
の仕方が野外とは違うため、落ち着いて休憩できる場所があるかど
うか自体がネックになるのだ。故に、仮に食事が出来たとしても、
パンを水で流しこむような食事というより空腹を紛らわせると言う
のが正しいものになりがちである。
神殿までのルート上に問題が無かったとしても、十中八九ダンジ
ョンアタックが必要になると踏んでいる宏達にとっては、次の昼食
がこの件でまともな食事ができる最後の機会になる可能性が高い。
そこから先は、事が終わるまではちゃんとしたものは食べられない
だろう。その前提で春菜があれこれ工夫を凝らした携行食を用意し
てあるため、そう言う面では一般的な冒険者よりははるかに恵まれ
てはいるが、日ごろが日ごろだけに貧相な飯というイメージは避け
られない。
﹁出発前に最後の確認﹂
火の始末を終え全員が己の荷物を持ったところで、春菜が声をか
ける。
﹁皆、すぐ出せる位置にポーションは準備してある?﹂
﹁もちろん﹂
﹁最悪の場合に備えて、ロープ、鉈、鎌、ピッケル、手斧は人数分
1221
ある?﹂
﹁そこら辺はぬかりあらへんで﹂
﹁爆薬代わりのポメは、在庫十分?﹂
﹁補充した﹂
春菜の指さし点検に、一つ一つ答えて行く一同。一見間抜けそう
に見えたり、一部聞き捨てならない単語が混ざっていたりするが、
こういう些細な事をちゃんとやっていくのが、この先生き残るため
に大切な事なのである。
﹁全員、バフアイテムは持った?﹂
﹁もちろんよ﹂
﹁じゃあ、適度に気合を入れて、出発だね﹂
思い付く限りの確認を済ませ、今度こそ出発する。順調に行けば
三十分、という言葉とは裏腹に、マンイーターがはびこっている間
に獣の通り道になってしまったせいか、結構な頻度でモンスターと
遭遇する。アルチェムとの連携の訓練になっていい、というレベル
ではあるが、それでも人が通らなくなって草に占領された道とあわ
せてなかなかの足止め要因になっており、アルチェムいわくの折り
返し地点まですら、三十分では効かない時間がかかってしまう。
﹁大した距離やあらへんのに、えらい手こずっとんなあ﹂
﹁三十年も人が通らないと、やっぱり道も凄い事になりますよね⋮
1222
⋮﹂
もはや獣道とも呼べなくなっているその道を必死になってかき分
けかき分け進んで行きながら、違う意味で前途多難な状況にぼやき
が漏れる。アルチェムという案内がいないか、かつて道があったと
言う名残を宏と澪が見分けられていなければ、とうの昔に迷子にな
っていただろう。
﹁で、この辺でどれぐらいの感じ?﹂
﹁そうですね。四分の三は過ぎた、と思います﹂
﹁そっか。そのタイミングでダンジョン、とはねえ﹂
﹁えっ?﹂
真琴の言葉に驚き、辺りをきょときょと見渡すアルチェム。その
様子に少しの間苦笑を漏らすも、すぐに表情を引き締めて言葉を続
ける。
﹁ほら、あのあたりよく見て。ちょっと空間がゆがんでるでしょ?﹂
﹁えっ?﹂
﹁あたしとか達也が気がついてるぐらいなんだから、ヒューマン種
より感覚器が鋭いエルフなら分かるはずよ﹂
真琴が指示したあたりを真剣に睨みつけ、間違い探しをするかの
ようにじっくり観察する。三十秒ほどして、ほんの僅かに不自然な
揺らぎがあった事に気が付き、そこをもう一度よく見る。
1223
﹁えっと⋮⋮、あっ!﹂
﹁あったでしょ?﹂
﹁はい。でも、あんな些細な違い、よくこんなにすぐに分かりまし
たね?﹂
﹁まあ、今回はたまたまって感じね。ダンジョンがあるかもって先
入観があったから、どうにか見分けがついた感じ﹂
﹁私、その先入観があっても気がつきませんでした⋮⋮﹂
﹁そりゃまあ、アルチェムはダンジョンなんて入った事ないでしょ
? それも、こんな普通の空間の異界化が行きつくとこまで行って
出来たタイプの奴は﹂
真琴の指摘に頷くアルチェム。彼女に限らず、この近辺に住む種
族は誰一人としてそんな経験はない。
﹁そういや、真琴はこっちでもそう言うダンジョンに入った事ある
のか?﹂
﹁一回だけね。出来てすぐの若いダンジョンだったから、ボスも雑
魚でそんなに難しくはなかったわ。その割に報酬が美味しくてそこ
そこいいアイテムも手に入ったから、金欠だった当時はすごく助か
ったのよね﹂
﹁なるほどな﹂
1224
真琴の言葉に納得する達也。なお、もっともらしい理屈をつけて
説明しているが、真琴が気がついたのは本当に偶然である。ダンジ
ョンがあるという先入観が無ければ、下手をすれば宏達が止める間
もなくそのまま突入していた可能性が高い。達也も似たようなもの
だが、真琴より若干感覚の能力値が高い分、ドングリの背比べ程度
ではあるがこういうケースでは有利だ。
﹁まあ、ダンジョンも発見したんやし、ちょっと休憩スペース作っ
て飯にしようや﹂
﹁師匠に賛成﹂
﹁そうだね。タイミング的にもそんな感じだし﹂
ダンジョンを発見してしまった以上、この後まともな食事と休憩
は厳しい。ならば、ここでしっかり休んで英気を養い、気力が充実
した状態で突入した方がいいだろう。
﹁とりあえず、ちょっと距離を置いて準備した方がいいんじゃない
?﹂
﹁せやな。こういう時って何が起こるか分からへんし﹂
真琴の提案に頷き、仮にラッキースケベ系エロトラブルが発生し
て吹っ飛ばされたとしても、間違ってもダンジョンに突入する羽目
にならない程度に距離を置いて準備を始める。とはいっても、主な
作業は自分達の腰より高い位置にある雑草を刈り取って、シートを
敷いて座れるスペースを作る事なのだが。
﹁こんなもんでいけるか?﹂
1225
﹁十分。お疲れ様﹂
﹁最初からある程度分かってた事だけど、冒険者ってのは物語と違
って現実だと、泥臭い作業が多いわよね﹂
﹁そらそうだろう。普通、こんな森の奥のダンジョンに道つけると
か、そんなことする訳ねえし﹂
﹁そうだよね。と言うか、こっちのダンジョンの仕様だと、大抵の
ダンジョンは街や国の経営資源として管理とか無理な気がするし﹂
春菜の指摘に、思わず乾いた笑いを浮かべながら同意するしかな
い達也と真琴。放置しておくとどんどん範囲が広がっていく上、突
発的に発生し拡大を止める方法がダンジョンを攻略して消滅させる
しかないのがこの世界のダンジョンである以上、よくあるような迷
宮都市というのは、そう簡単には成立し得ないだろう。
因みに、この手の突発的に発生するダンジョンというやつは、ゲ
ームの時は大体突発イベントとして期間限定で実装されていた。消
滅条件もイベントごとに違い、大半はイベント期間が過ぎれば自然
消滅か、全プレイヤーのクリア回数が指定回数を超える事で消滅、
のどちらかであった。
とは言え、中には煉獄一歩手前というイベント史上最大難易度を
誇る極悪なダンジョンのように、参加プレイヤー全員が協力して全
てのマップを埋めた上で、同じく全員で協力してダンジョンで起こ
る全てのイベントやクエストを発生させてクリアし、最後に誰か一
組のパーティがボスを仕留める事で消滅、というものもあり、普通
は二週間程度のイベント期間が、クリア条件を達成できずに三カ月
1226
かかったケースもある。
もちろん、今回のケースのように普通に起こるクエストを進めて
いくと発生するようなものもあり、そう言うダンジョンはクエスト
を進めているプレイヤーか、そのプレイヤーとパーティを組んでい
る者にだけ入り口が見える仕様になっている。もっとも、今回の場
合は因果関係は逆で、ダンジョンが発生したからクエストにつなが
っている訳だが。 ﹁まあ、迷宮都市が無い訳じゃないんだけどね﹂
﹁えっと、ウォルディスの首都だっけ?﹂
﹁あと、フォーレにも一ヶ所。それから、都市として発展してる訳
じゃないけど、国が管理してるのがダールの陽炎の塔とかそこらへ
んね﹂
﹁その手の数百年単位で残ってるところは、大体都市を作るには向
いてない場所にあるからなあ﹂
達也の言葉に頷いて、とりあえずダンジョンの仕様については話
を切り上げる。単純に、さっさと食事をしたいからだ。因みに、今
回の昼食は豪華幕の内弁当。色々とアレな食材が混ざってはいるが、
見た目は普通に彩り豊かで美味しそうな幕の内である。ただし、朝
食がケンキャクザケだったので、鮭の切り身は入っていない。
﹁そう言えば、春菜は向こうにいた時、誰かとパーティ組んでたり、
どっかのギルドに所属したりはしてたのか?﹂
いただきますを済ませ、味がよくしみ込んだシイタケの煮物に箸
1227
をつけながら達也が聞く。
﹁半固定、みたいなパーティはあったよ。ただ、ギルドは最初は参
加してたけど、受験生やってる間に無くなってて、他に参加って言
うとあっちを立てればこっちがたたず、って感じになったから基本
はフリー。あんまりがっつり攻略とかしてなかったしね﹂
﹁春菜だったら、いろんな意味で勧誘多かったでしょ?﹂
﹁まあ、確かにいろんな意味で多かった。ただ、アバターは身長以
外は中一の時のままで、私小学校の頃はあんまり発育良くなかった
から。サービス始まった頃は、第二次性徴も全然始まって無かった
し﹂
春菜の言わんとしている事を察し、色々と脳内で微修正をかける
一同。
﹁つまり、体型的には真琴といい勝負、と﹂
﹁むしろ負けてるかも﹂
つまり、それだけ絶壁で凹凸が少なかった、と言いたいらしい。
事実、胸はともかく腰から尻にかけては真琴もそれほど悪くはない
ボディラインをしている。が、鳥ガラ体型で背が高い、というのは、
別の意味で素晴らしいプロポーションと称賛される事がある。
﹁お前さんの顔でそう言う体型だったら、ファッションモデルとか
できるんじゃないか?﹂
﹁実際、そう言う誘いもあったよ。中二の頃はものすごく身長伸び
1228
てたし﹂
その頃は、まだ職人プレイヤーも普通に堂々とゲームをしていた。
なので、布系装備のデザインカスタマイズ製品に関して、モデルの
ような事をしている人物もそれなりにいたし、防具のデザインに関
しては事件が起こるまでに二度ほど、ファッションコンテストのよ
うなプレイヤーイベントも行われていた。
ファッションコンテスト自体は事件の後も二度行われたのだが、
どちらも職人プレイヤーが不参加を貫いたため、ドロップ品のごく
普通の装備を展示する場、みたいな感じになってしまったために、
どうにも盛り上がりに欠けて三度目は開催されていない。製造の自
由度が高いゲームで職人全体に危害を加えてしまうと、こんなとこ
ろにまで影響が出てしまうのだ。
因みに、課金アイテムで装備品の外見だけをカスタマイズするア
イテムもあるのだが、普通の人間には使いこなせるようなものでは
なく、また、下手にカスタマイズして職人だと疑われて碌な目にあ
わなかったという体験談も少なくなかったために、容姿変更系と違
ってほとんど使われていない。
﹁後、一回だけだけど演劇なんかも誘われてやったよ。タイトルは、
エディスの恋模様﹂
﹁今思い出したんだが、もしかして、主役の?﹂
﹁うん、主役のエディス役。その一回のために演劇取って、結構育
てたんだから﹂
﹁そうか。春菜の顔、どこかで見た事があると思ったら、あの劇か﹂
1229
春菜の言葉を聞き、去年ぐらいにゲーム内で見た劇を思い出す。
公演回数は四回。公式のイベント動画にもアップされた、とても評
判の良かった劇である。達也も澪を連れて観劇し、アマチュアのも
のとは思えないコミカルながらも押さえるところはきちっと押さえ
た素晴らしい脚本とゲームの機能を駆使した演出、そして何より役
者達の真剣な演技に大いに感動し、惜しみない拍手を送ったもので
ある。
﹁あ、達也さん見てたんだ﹂
﹁おう。あれ、ものすごく評判良かったんだが、もう一度やるとか
はないのか?﹂
﹁あ∼、あそこは、同じ演目は基本的にやらない主義だし、私も受
験生になるからちょっと触れないし﹂
﹁なるほどな﹂
春菜の説明を聞き、いろいろ納得する達也。受験生という単語を
聞かされてしまうと、他のメンバーも納得するしかない。とは言え、
アルチェムには全く理解できない話ではあるが。
﹁とりあえず、話を変えると言うか戻すとして、だ﹂
﹁うん﹂
﹁ダンジョンに潜った経験が無い、って訳じゃねえんだよな?﹂
﹁あるよ、当然。ソロでもパーティでも何回も潜ってる﹂
1230
﹁なら、そんなに心配はいらねえか。アルチェム以外は全員経験が
ある訳だしな﹂
達也の言葉に、一つ頷く春菜。澪と違ってあまり大がかりだった
り難しかったりするのは無理だが、パーティメンバー全員が気をつ
ける必要がある類の罠が分かる程度には、その手のスキルも育てて
いる。まあ、その程度のスキルは、ダンジョンに潜るプレイヤーが
最低限のたしなみとして身につける必要がある類のものではあるが。
﹁とりあえず、そういうフィールド型のダンジョンは、建造物型と
か洞窟型とはまた違った癖の悪さがあるから、そこら辺は注意が必
要ね﹂
﹁だな。何しろ、情報自体が何一つない﹂
そのまま、食事を続けながら注意すべきポイントについて意見交
換する一同。話題に対しては置き去りになりがちなアルチェムも重
要な内容に真剣に聞き入り、分からない事は積極的に質問をする。
そうやって真琴以外はこちらに来てから、アルチェムにとっては生
まれて初めてのダンジョンアタックに、ちょっとずつテンションを
上げていく日本人達であった。
1231
第6話
﹁まいったもんやなあ﹂
﹁困りましたね⋮⋮﹂
出だしからの性格が悪いとしか言いようがない展開に、のんきに
ぼやく宏と深刻な顔をするアルチェム。この状況でエロトラブルに
巻き込まれてしまうと二重の意味で命が危ないため、宏は慎重にア
ルチェムとの距離を取っている。
﹁ヒロシさん、連絡はつきましたか?﹂
﹁そこは問題あらへん。ただ、見事に二人ずつ分散させられたみた
いでな、なかなか難儀な感じになっとる﹂
﹁難儀なことになってるって⋮⋮﹂
言葉の割に深刻さを感じさせない宏の口調に、思わず眉をひそめ
てしまうアルチェム。普通に考えれば、こういう形でパーティを分
散させられてしまうのは、割と致命的な状況のはずである。いくら
アランウェンの指示があったとはいえ、足手まといだと分かってい
て無理やりついてきた自分が何かあるのは許容するつもりはある。
故に自分が危ない目にあうのはいいとしても、他のメンバーがいく
ら自分よりはるかに経験豊富でも、こんな風に分散させられた状態
ではその実力を十全に発揮する事は出来ないのではないか。そちら
の方が心配である。間違っても、こんな風にのんきな会話をしてい
るような状況ではないはずだ。
1232
ダンジョン化した森に突入した瞬間、彼らは見事に分散させられ
ていた。空間を捻じ曲げてのやり口ゆえ、現在位置すら分からない
と言うなかなかに洒落にならない状態だと言うのに、宏はさほど焦
った様子を見せない。それが不思議であり、どうにも理解できない
アルチェム。そんなアルチェムをなだめるように、宏が口を開く。
﹁分散させられてしもたんはどうしようもないんやから、深刻ぶっ
てもしゃあないで﹂
﹁でも、ここはダンジョンなんですよ?﹂
﹁ダンジョンやわな﹂
﹁出口も分からない上に、私は完全に足手まといですよ? 悔しい
事に、きっとヒロシさんの足を思いっきり引っ張ります。それに他
の皆さんだって、このままだと危ないんじゃ⋮⋮﹂
﹁ようある話や﹂
そう。パーティを分散させるトラップなど、実によくある話なの
だ。ついでに言えば、レベルの低い誰かと一緒に行動している時に
限って分散のトラップに引っかかる程度のことは、それほど珍しく
はない。敵の強さが分からないため、あまり楽観的に構える訳にも
いかないのは事実だが、連絡が取れる状態で分散させられた事に焦
っても仕方が無い。連絡を取り合って、近接戦闘がほとんどできな
い達也と連絡手段が無く実力に劣るアルチェムが一人だけ孤立した
状態で飛ばされる、と言う最悪の事態だけは避けられた事を確認し
ている。それが分かっている以上は、落ち着いて行動する事がこの
場合一番重要だ。
1233
多分、アルチェムもそんな事は言われなくても分かっているだろ
う。だが、生まれて初めて突入したダンジョンで仲間たちと無理や
り引き離され、戦闘面ではどこまで頼りになるかよく分からないヘ
タレ風の男とペアを組まされると言う状況で、落ち着けと言われて
も難しいのは仕方が無いだろう。
宏の方もそれが分かっているので、不安を訴えるぐらいは聞き流
している。そのままのれんに腕押しといった風情の会話を続けてア
ルチェムをクールダウンさせながら、もう一度周囲をぐるりと見渡
してぽつりとつぶやく。
﹁それにしても、難儀な感じやな﹂
﹁何度も言わなくても、分かってます﹂
﹁いや、多分自分が考えてるんと僕が言うてるんとでは、難儀の種
類が違うで﹂
不思議な事を言い出す宏に、ただ嘆いているだけだったアルチェ
ムが怪訝な顔をする。そんなアルチェムの態度を確認し、話を続け
る事にする宏。
﹁多分、このダンジョンは普通に通路の構造が変わるタイプや﹂
﹁えっ!?﹂
﹁まずくせもんなんが、壁も天井も木と蔦で出来とる、っちゅうと
ころやな。足元も雑草が生えとって地面が見えん。石壁とかレンガ
の壁がずっと続くんも大概やけど、この光景も大概自分の現在位置
1234
が分かり辛い﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁せやねん。仮に動かへんかったとしても、少なくとも普通の人間
の目やと、景色の違いをはっきり認識・記憶するんは厳しいやろう
と思うで﹂
ずっと森に囲まれた村で暮らしてきたアルチェムにはピンとこな
い事を言いながら、壁の状態やら何やらを慎重に確認する宏。宏が
安心と信頼の十フィート棒で壁を軽くつついた瞬間、つつかれた蔦
と枝がもぞもぞ動き始める。
﹁予想通りやな﹂
﹁動きましたね⋮⋮﹂
﹁これで、構造が変わる、っちゅうんも確定したやろ?﹂
﹁はい﹂
﹁こんだけ動いたら、目印つけるんも無意味や﹂
宏の言葉には、頷く以外の選択肢が無い。多分というかほぼ確実
に、地面に矢印などを刻んでもすぐに消えてしまうだろう。
﹁ついでに言うたら、最初が最初やから、ワープの類が無いとも言
い切れんねんな﹂
﹁ですよね﹂
1235
﹁と、言う訳で、や﹂
何やら結論を出したらしい宏が、ポールアックスを構えて壁の前
に立つ。
﹁馬鹿正直に通路通ったる理由も薄いし、一番瘴気が濃いと思われ
る場所にまっすぐ突っ込んでいくんが、いっちゃん手っ取り早い﹂
﹁はいっ!?﹂
﹁往生せいやあ!!﹂
アルチェムが素っ頓狂な声を上げたのを華麗にスルーし、腰の高
さで薙ぎ払うように豪快にポールアックスを振るう。腕力向上の補
助魔法によって多少とはいえ強化された腕力で振るわれた、爆熱の
簡易エンチャントを乗せた斧刃によるスマイトは、その過大な破壊
力で豪快にダンジョンの壁を叩き斬り、燃やし、爆発させて吹っ飛
ばす。
﹁ほな、行こか﹂
過剰な破壊力により、普通に人二人ぐらい通れる大きさの穴が開
いた壁を指さし、何事もなかったかのように平然と言ってのける宏。
見た目の派手さや結果のすさまじさとは裏腹に、普通のモンスター
相手だとワイバーンやケルベロスはおろかピアラノークに対しても
それほど大きなダメージにならない攻撃ではあるが、対物破壊とい
う観点では他のメンバーの追随を許さない荒技である。今回は斧の
攻撃が効きやすい樹木系だった事もプラスに働いた。
1236
なお、今回の最大のポイントは、ダンジョンの壁を破壊するなど
という力技をやらかしたくせに、宏が全く消耗していない点であろ
う。
﹁あ、あの⋮⋮﹂
﹁ん?﹂
﹁あれって、ありなんですか?﹂
﹁やって出来た、っちゅう事はありなんやろう﹂
アバウトな宏の返事に、何をどう言い返すべきなのか分からずに、
なんとなく耳を倒したような感じでため息をつくアルチェム。性的
な面では無防備で常識に欠ける上にかつエロトラブル発生体質のく
せに、それ以外の部分では妙に常識的な少女である。
﹁なんにしても、こんだけぎっしり木とか蔦とか生えとったら、何
ぞ珍しい素材の一つや二つ生っとるやろう﹂
﹁あの、目的が変わってませんか?﹂
﹁さて、ガンガンいくで! 素材が僕を待っとる!﹂
アルチェムの突込みを無視してそう一声吠えると、隣の部屋の壁
に突撃をかける宏。そんな森の民であるエルフとしてはあまり許容
したくない行動をとる宏に呆れつつ、他に迷わず進む方法がなさそ
うだと何処となくあきらめをにじませながら、仕方なくと言った感
じで後をついてくアルチェムであった。
1237
﹁邪魔っ!﹂
カブトムシを一息でばらばらにし、少しでも瘴気が濃い方へと急
ぎ足で進む春菜。珍しい事に、誰がどう見ても今の春菜は焦ってい
た。
﹁おい、落ち着け!﹂
﹁でもっ!﹂
﹁心配するのは分かるが、ヒロもそう簡単にはやられねえよ﹂
﹁そっちを心配してるんじゃない!﹂
新たに飛んできた大型のスズメバチを視線も向けずに切り捨て、
感情的に叫ぶ。どちらかと言わなくとも穏やかな気性で、あまり感
情的に叫ぶイメージの無い春菜が声を荒げるのを聞き、思わず内心
で唸ってしまう達也。
﹁まあ、ヒロとアルチェムの組み合わせってのは、確かに不安をそ
そるのは分からんでもないが⋮⋮﹂
﹁あの組み合わせで戦闘中にアルチェムさんのあれが出たら!﹂
1238
﹁だから、言わんとしてる事は分かってるから落ち着け﹂
基本的に年長だからこういう役割を求められる達也だが、大抵の
場合は一緒になだめる側に回るはずの春菜をこうやって落ち着かせ
ないといけない、というのは想定外の大珍事だろう。年齢からする
とかなり達観していて落ち着いている春菜だが、こういう部分はや
はりまだまだ未成年だと言う事が分かってほっとする半面、この状
況で分かってもありがたくないという気持ちもある。
﹁まず、今回のこの状況は、どうやっても回避できなかった。これ
はいいな?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
﹁で、だ。状況や条件を考えれば、そもそも孤立しなかっただけマ
シだ。あいつは確かに凄まじくタフだが、まだまだ火力は足りねえ。
ダメージは受けないにしても、単独だと数に押されて立ち往生しか
ねない。だから、攻撃役としてアルチェムが一緒なのは、考えよう
によっちゃ運が良かった﹂
﹁⋮⋮そうかな?﹂
﹁弓が新しくなった分、単純な攻撃能力なら澪より上だからな。防
御周りに難があるからトータルの戦闘能力じゃ俺らにはかなわんに
しても、純粋に火力があるから澪と組ませるよりは条件がいい﹂
春菜が懸念している事に対しては、何の慰めにもなっていない要
素で彼女をなだめようとしている達也。だが、アルチェムが持つ宏
に対しては致命的な性質というやつは、この状況では誰と組んでい
ても致命的なのだ。宏にとって特に相性が悪いと言うだけで、二人
1239
一組でダンジョン内でエロトラブル発生、などという状況では、誰
と一緒でも共倒れになってもおかしくないのである。
﹁最初から、そこはあまり心配してないんだけど⋮⋮﹂
﹁もう一つの要素に関しちゃ、余程の偶然で運よく俺とあいつが組
むことになったケース以外じゃ、誰と組んでも同じだよ。アルチェ
ムが特にそう言うトラブルを起こしやすいってだけで、他の女が似
たような事をやらかさないと言いきれる訳じゃねえ﹂
﹁なんか、すごくひどい事言われてる気がするんだけど⋮⋮﹂
﹁実際のところ、ハンターツリーあたりに不意打ちされたら、お前
でもあんまり人様にお見せ出来ない格好で捕まる可能性は、結構高
いだろう?﹂
﹁⋮⋮まあ、そうかな?﹂
他にも、宏にとっては格好の素材製作手段であるジャイアントス
パイダーなんかも、下手に巣にかかってしまえばこれまた人様にお
見せ出来ない格好で絡まってしまう可能性は十分にある。イソギン
チャクタイプのモンスターやスライムあたりも、子供が手を出して
はいけない漫画やゲームなんかでは定番だ。ファンタジーというや
つは、そう言う方向で注意すべき生き物は結構種類が豊富なのであ
る。
﹁そう言う訳だから、焦ってもしょうがねえ。むしろ、俺らがそう
言う状況になったら、あいつらを助けに行くどころじゃなくなるん
だからな﹂
1240
達也に言い聞かせられ、不承不承という感じで頷く春菜。どうに
も違和感がぬぐえない状況に、心底困ってしまう達也。どうやら当
人達の自覚が皆無なだけで、春菜は予想以上に宏に入れ込んでいる
らしい。エアリスといい春菜といい、その男の趣味はどうなのかと
言いたくはなるが、蓼食う虫も好き好きだ。そこに文句を言っても
無駄だし、そもそも妻帯者の自分が変に口を挟むと、ロリコンの称
号に加えて浮気の疑いをかけられると言う二重に避けたい状況にな
りかねない。故に、男の趣味云々に関しては自分からは口出しする
気はない。
が、自身の感情を制御できず、無謀な事をするなら話は別だ。思
い付く限りのやり方で頭を冷やさせなければいけない。そうしない
と、この場合春菜だけでなく達也も道連れにされてしまう。
﹁それにしても、なあ⋮⋮﹂
﹁何?﹂
﹁澪あたりが暴走する可能性は想定してたが、まさかお前さんがこ
こまで焦るとは思わなかったぞ﹂
﹁そりゃ、ずっと一緒にやってきたパートナーが危ないと思ったら、
焦りもするよ﹂
﹁そう言う種類の焦り方に見えなかったから、想定外だったんだよ﹂
微妙にうんざりした顔で、この際だからついでに刺せる釘は刺し
ておこう、などと考える達也。春菜の事だから、一度納得すればあ
る程度自身の感情をコントロールできるだろうし、無意識のうちに
宏にとって致命的な事をやらかして、色々こじらせてしまうのも厄
1241
介だ。
﹁達也さんから見て、どういう風に見えてたの?﹂
﹁言っちまっていいのか?﹂
﹁遠慮なく言って﹂
﹁そうだな。手ごわい恋敵に男を取られそうになって、でもどうに
もできなくて焦って空回りしてる女、って感じだったぞ。いや、む
しろ自分のものだったはずの男を持ってかれた、っつうか、依存し
てる相手がどこかに行ってしまいそうな恐怖に怯えてる小娘、って
ところか?﹂
﹁えっ?﹂
かなり予想外の事を言われ、思考が完全に停止する春菜。そんな
状態でも飛んできたハエ型モンスターを反射的に切り捨てるあたり、
なかなか人間離れした能力を持っている女だ。
﹁別に、それが悪いとは言わねえよ。恋愛結構、青春結構。ヒロは
あんなだし、お前さんはもてそうな割にそっち方面は疎いみたいだ
から、むしろそういう話が出てきたのは大いに結構なことだ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁が、惚れた腫れたで平常心をなくすと、恋でもそれ以外でも碌な
事はねえ。あいつの事もあるからお前さんの恋は出来るだけ応援す
るが、その結果がどうであれ、俺達もヒロも、お前がいないといろ
いろまずい。無論、それはこの場にいない真琴や澪にも言える事だ
1242
がな﹂
思考がまとまらないらしく、完全に沈黙してしまった春菜に対し
て淡々と説教というか演説というかを続ける達也。今までが今まで
だったために、自身がこういう事を言われるのは初めての春菜は、
空回りする思考と感情をもてあましていた。大抵の事は理性的に処
理してきた彼女にとって、経験した事のない状態である。
﹁結局、最後に結果を出せる奴は大抵、どんなに感情を高ぶらせて
もどこかに平常心を維持してるもんだ。漫画とかでもよくある台詞
だが、頭はクールに、ハートは熱く、ってな﹂
﹁達也さん、他人事だと思って簡単に言うよね﹂
﹁他人事だからな。第一、今までお前さんはそれが出来てたんだ。
今回だけ出来ねえとは言わせねえぞ?﹂
気軽にあっさり春菜の苦情を退け、いつの間にか何処から這い出
てきたアブラムシっぽいモンスターの群れを炎の壁を立てて全部焼
き払う。奥の穴から更に出てこようとしている連中は、とりあえず
ファイアーボールを穴の中に叩き込んで爆発させて一気に追い立て、
途切れたと思われるところでグランドナパームで全滅させる。延焼
とかそういう問題について一切考えない荒いやり口だが、これでも
ダンジョンが燃える事はないという確信のもと行っていたりする。
﹁それで、だ。気がついてるか?﹂
﹁えっと、何が?﹂
﹁お前、本気で色々キてたんだな⋮⋮﹂
1243
﹁うっ⋮⋮﹂
無理やり力技でとは言えど、どうにか頭を冷やすことに成功した
春菜としては、達也が言わんとしている事は正直耳が痛くて仕方が
無い。まだ心の中で焦りはくすぶっているが、そんな状態でもさっ
きまでの自分は流石にないと断言出来てしまうのだ。
﹁ちっと振り返ってみろ﹂
﹁ん﹂
達也に言われ、背後を確認する。答えは一目瞭然。
﹁道がふさがってる?﹂
﹁おう。どうも、さっきからちまちまと構造を変えて来てるらしい。
マッピングは無意味だと思っていいだろうな﹂
﹁って事は、敵の強さはともかく、構造としてはかなり厄介なダン
ジョン?﹂
﹁そうなるな。ちょっと方針を考え直した方がいい﹂
達也の言葉に頷き、足を止める。どうやらこの区域のモンスター
は先ほど焼き払ったのもので全てらしく、新たに何かが出現する様
子はない。
﹁考え直すのはいいけど、どうする? 選択肢としては、このまま
瘴気の濃い方に向かうか、あえて回り道をするか、ぐらいだけど﹂
1244
﹁そうだな。と言っても、結局最終的には瘴気の濃い方に行く事に
はなるとは思うが﹂
﹁じゃあ、このまま瘴気をたどっていく?﹂
﹁当座はそれでいいか。三つぐらい分岐を抜けたら、もう一度考え
よう﹂
﹁了解﹂
達也の言葉に従って方針を決め、とりあえず次の三叉路まで進ん
で行く。二人が通り過ぎた後には、派手にやられ過ぎて素材の剥ぎ
取りどころではない状態の死骸が大量に残されるのであった。
﹁さて、面倒なことになったけど、どう見る?﹂
宏が壁をぶち抜きにかかり、春菜が焦りに支配されていた頃、真
琴と澪は最初に飛ばされた広場から動かず、腰を据えて話し合いを
始めていた。
﹁個人的には、師匠より春姉が心配﹂
﹁その心は?﹂
1245
﹁アルチェムとセットは、春姉にとって地雷﹂
予想外に冷静な澪の言葉に、思わず納得しつつ感心する真琴。温
泉で宏と鉢合わせしたあたりから、春菜が地味にアルチェムを警戒
していた事には気が付いていた。正確に言うなら、宏とアルチェム
が一緒にいるときは、だろうか。春菜の立場なら、複数の意味で妥
当な態度であろう。
﹁でもさ、あの二人の組み合わせって、春菜でなくても色々不安は
あるわよ?﹂
﹁戦力的には問題ない。エロトラブルはむしろ、師匠のリハビリ﹂
﹁いやいやいやいや﹂
あまりにもえげつないと言うかひどい事を言い出す澪に、ノーカ
ウントで突っ込みを入れる真琴。流石にあれは、宏のリハビリには
少々刺激が強すぎるのではないか、という気がひしひしとする。
﹁真琴姉、いい加減多少の性的な要素を含む突発的な物理的接触ぐ
らい役得程度でスルーできるようにならないと、師匠のために良く
ない﹂
珍しく難しい単語が並んだ長文でえらい事を言いきる澪に、思わ
ず頭を抱える真琴。暗殺者の時に大量に刺した釘が、ちっとも意味
をなしていない感じだ。
﹁あのさ、澪﹂
1246
﹁急ぐなって言うのは分かる。でも、今いる世界はファンタジー﹂
﹁だから?﹂
﹁スライム、ローパー、サキュバス﹂
﹁なるほど、言いたい事は分かったわ﹂
出てこないとは限らず、出て来てしまうと展開的に色々とまずい
事になりそうなモンスターを列挙され、思わず深く納得してしまう
真琴。特に一番最後のはヤバい。危険だ。場合によっては発禁にな
る可能性すらある。
﹁確かに定番ね、いろんな意味で﹂
﹁分かってくれたらいい﹂
﹁てか、澪。あんたその歳でその手のネタを平然と口にできるって、
一体今までどんなものに手を出してきたのよ?﹂
真琴の厳しい突っ込みに、視線を明後日の方向に向けてタバコを
吸う仕草をして誤魔化す澪。はっきりと断言しよう。いくらなんで
も、中学一年生女子がその手のネタに詳しいと言うのは、いろんな
意味で間違っている。しかも、澪の口調からは間違いなく、十八歳
未満御断りの、いわゆる本番シーンがばっちりねっとり描写されて
いる物に手を出していると断言できる。いくら向こうでは半身不随
だったとはいえ、親御さんはこの娘に好き放題やらせ過ぎなのでは
ないだろうか?
﹁これで通じる真琴姉も大概だと思う﹂
1247
﹁あたしはもう成人してるからいいのよ。っていうかむしろ、うち
のメンバーで通じないのって、春菜ぐらいなんじゃないの?﹂
地味にオタク率が高い日本人メンバー。もっとも、いくらVRM
MOが市民権を得て、オタク扱いされないレベルの一般人が普通に
触るようになったと言っても、ネットゲームに手を出している人間
というのがそれほど低くない確率でオタク系の趣味を持っているの
は彼らの世界でもそれほど変わらない。むしろ、ゲームや漫画など
にそれほど興味が無い春菜が、サービス開始から続けている方が意
外なのだ。
とは言え、確かに春菜はあまりオタク系のネタは通じないが、そ
う言うネタに嫌悪感を持っている訳ではない。下ネタや性的な話題
に対しても、過度に食いつく事もなければ潔癖にはねのける事もな
く、ほどほどの感じでスルーしている事が多い。ついでに言えば、
男女関係なくそういう類の本やら写真やらを持っていたり、そっち
方面に興味を持っている事に対してはそういうものだと流している、
色々な面で実によくできた娘さんなのである。
﹁だったら、ボクだけ文句を言われる筋合いはない﹂
﹁高校二年ぐらいならある程度黙認もするけど、あんたこっちに飛
ばされる直前ぐらいまで小学生だったでしょ?﹂
﹁性に対する好奇心に、年齢は関係ない﹂
﹁その代わり、一定の倫理観は必要だって分かって言ってるでしょ
⋮⋮﹂
1248
何というか、いろんな意味で将来が心配な娘さんである。半身不
随というのもそうだが、それ以上に奇跡的に障害がすべて快癒して
社会復帰しても、碌な道を歩みそうにないところが。
﹁てか、前々から思ってたけど、あんた絶対、あたし達をギャルゲ
的分類で評価してるでしょ?﹂
﹁⋮⋮﹂
真琴の指摘に対し、またも明後日の方向を向いてタバコを吸う仕
草で誤魔化そうとする澪。この時点ですでに駄目駄目である。
﹁大方、春菜の事もサービス担当だとか実は恋愛的にはかませ系だ
とかそう言う評価してるんじゃないの?﹂
﹁サービス担当はアルチェムで、かませ系は現在未登場﹂
﹁やっぱり分類してるんじゃない﹂
﹁⋮⋮﹂
語るに落ちた澪に、厳しい突っ込みを入れる真琴。とことんまで
話題が逸れている事には気が付いているが、ここでうやむやにする
と今後に響きそうだと考え、あえて逸れたまま限界いっぱい追及を
進めることにしたらしい。なお、語るに落ちた澪は明後日の方向を
向きながら鳴らない口笛を吹き、それでも誤魔化せそうにないと知
ると、怪しげな太極拳的動きをして別の突っ込みを誘おうと奮闘し
ている。
澪が突っ込み待ちでやっている動作はおそらく、十二の切なさを
1249
テーマにしている割には前日譚の小説はともかくゲーム本編は何が
切ないのかいまいち微妙だった某ギャルゲーの、いろんな意味で伝
説となっているオープニングのダンスと表現していいのかどうか不
明な挙動であろう。正直なところ、彼らの時代では既にプラットホ
ームとなったゲーム機自体が博物館以外に現存していないようなゲ
ームのネタを持ってくるとか、年齢詐称でなければ一体何をどうす
ればこんなディープな世界に首を突っ込む事になったのか小一時間
ほど問い詰めたいところである。
とりあえず一つだけ言うならば、多分日本人チームで一番の駄目
人間は、最年少であるはずの澪で間違いないだろう。
﹁で、気が済んだ?﹂
﹁因みに、春姉は太古のギャルゲーのパッケージヒロインによくあ
った、セーブロードができるタイミングが一日とか一週間とかの周
期のくせに、毎日五本以上のランダムイベントを発生させた上でこ
れまたランダム発生の必須イベントを全部消化しなきゃいけなくて、
そのくせ他人のどんな雑魚いイベントでも一回発生したらゲームオ
ーバー一直線って言うトラウマ量産型メインヒロイン﹂
﹁非常に納得できるのがなんか悔しいけど、開き直ってネタに走っ
ても誤魔化されないわよ﹂
﹁理解出来る真琴姉も同類。というか、年齢詐称疑惑?﹂
﹁あたしはあんたほど詳しくないわよ。単に、所属してたギルドの
最年長がちょうどそれぐらいの年代だったから、なんとなく話を聞
いて覚えてただけ。って言うか、その疑惑はブーメランだからね﹂
1250
突っ込みの矛先をどうにかそらせたと内心ほっとしている澪。だ
が、真琴の追及はこんなことでは止まらない。
﹁とりあえず言っておくけど、人間そんな簡単にギャルゲー的分類
でくくれはしないし、あんたみたいな歳のガキンチョが十八歳未満
禁止の作品に手を出すのは、あんたの親が許してもあたしが許さな
いからね﹂
﹁もう手遅れ﹂
﹁向こうに戻った時は、覚悟しなさい﹂
﹁話題作ぐらいは触りたい﹂
﹁どうせ大抵は少し待てば全年齢版が発売されるんだから、それま
で我慢すればいいじゃない﹂
﹁どうやっても全年齢は無理な作品も⋮⋮﹂
﹁そう言うのを触るな、っつってんの!﹂
駄目だこのちびっこ、早く何とかしないと。実際には人の事など
これっぽちも言えない真琴が、自分の事を棚にあげてそんな事を心
に決める。とは言え、実際には双方ともに既に手遅れくさいのが、
この業界の業の深いところであろう。
﹁というか、真琴姉。そう言う話はまた後で﹂
﹁誤魔化す気満々なのが分かってるのに、追及できる状況じゃない
のが悔しいわね﹂
1251
苦し紛れの澪の話題転換に、苦々しい顔で頷くしかない真琴。流
石に、ダンジョンの中でわざわざ腰を据えてやるような話ではない。
﹁それで、真琴姉。この後の行動指針はどうするの?﹂
﹁その前に、まず戦力と状況の把握ね﹂
ダンジョン攻略に関しては、自分よりはるかにベテランである真
琴に判断を全て丸投げする澪。
﹁一応確認しておくけど、あんたの探知範囲に他の人間はいないの
よね?﹂
﹁いない﹂
﹁となると、最低でもキロメートルオーダーで離されてる訳ね﹂
高い感覚値と各種探知系スキルに裏打ちされた澪の探知範囲は、
実に人間をやめた領域にいる。雑多な気配が入り混じるダンジョン
内であっても、一キロ前後の範囲は特に魔法などを使わなくても精
密探知が可能である。その澪が言うのだから、最低でも一キロ以上
の距離を置いて分散させられたのは間違いないだろう。
﹁あと、あんたは回復系の魔法、使える?﹂
﹁辛うじてマイナーヒールだけ。師匠や達兄、春姉みたいに魔法攻
撃力高くないから、はっきり言って気休め﹂
﹁具体的には?﹂
1252
﹁最大回復量でなら、六級ポーションの平均回復量とどうにか勝負
できるぐらい﹂
﹁それはドロップ品基準? それとも宏特製の奴で?﹂
﹁その中間ぐらい﹂
今の真琴や澪の能力で考えるなら、確かに気休めレベルではある。
だが、ポーションは在庫に限界があり、中毒というリスクも存在す
る。第一、戦闘中にポーションを取り出して飲んだり浴びたりする
のは、ペアでダンジョン攻略をするという状況ではかなり難しい。
六級ポーションにやや劣るレベルとはいえ、出が速くクールタイム
も短いマイナーヒールが使えると言うのは大きい。
﹁因みに、回数的にはどれぐらい使える?﹂
﹁一分間の魔力回復量で三十回ぐらい。回復を考えずに魔力を使い
きるまで、だったら一万回の大台は超える﹂
フェアリーテイル・クロニクルの消費・回復は、基本的に全て固
定値である。ものによっては一定範囲でランダムな数値が乗る事も
あるが、各種リソースの最大値とは一切関係が無い。そして、いろ
いろな能力値で補正を受けた澪の回復力が1%に大きく満たない事
を考えると、各種初級生産スキルの熟練度初期値でスキル行使六秒
で1%、中級に上がる直前でも二分で1%と言うスタミナ消費はか
なりひどい仕様である。
﹁それなら、気休めよりはマシって考えていいわね﹂
1253
﹁あまりあてにされても困る﹂
﹁分かってるわよ。次に攻撃能力だけど、新しいスキルとかは取っ
てないわよね?﹂
﹁ん﹂
﹁なら、確認する事は特にないわね。武器も特に変えてないし﹂
﹁師匠ならともかく、普通はあんな短時間でハンターツリーを弓に
加工とか無理﹂
ここら辺が初期組でかつマゾプレイを乗り越えて大きく育った連
中と、中途組で他のスキルにも結構浮気している人間との超えられ
ない壁であろう。澪はある種の特例で他の人間よりプレイ時間は長
いが、それでも限界はある。
﹁となると、迂闊に瘴気が濃いところに突入するのも考えものね﹂
﹁他の組と比べると、HP以外のリソースが足りない﹂
﹁まあ、そこはあたしの経験と手札の枚数でカバーするしかないっ
しょ。それに、他の面子と違って、こっちにはシーフ系のスキルが
充実してるって言うのも強みね﹂
﹁このタイプのダンジョンはほとんど潜った事が無い。あまり当て
にしないで﹂
﹁それでも、中級以上を持ってるかどうかは大違いよ﹂
1254
真琴の台詞に、今一つピンとこない様子の澪。誰しも、自分の事
となると分からない物なのだろう。
実際のところ、真琴の言葉には何一つ嘘はない。シーフ系のスキ
ルも生産スキル同様、初級と中級以上ではその有用度が極端に違う。
初級で対応できる罠の大半は、素人が十フィート棒などを駆使すれ
ば回避できたり解除できたりするものなのに対し、中級以上はそも
そもその程度では誤作動させることすらできない物ばかりである。
上級スキルともなると、魔法やら特定のモンスターやらが噛んだ嫌
がらせのような罠ですら普通に発見・解除・設置出来るのだから、
その有用性は計り知れない。
ただし、シーフ系のスキルは習得条件が面倒くさい上、システム
アシストがあっても上手く出来ない人はとことん出来ないという性
質上、生産スキルほどではないが結構な数の挫折者を生み出してい
る。因みに真琴は初級の折り返しぐらいで止まっているが、これは
挫折したからというより、このあたりで役割分担が決まり、彼女が
罠を触る機会が激減したためである。
﹁で、このダンジョンについて、何か気がついた事はある?﹂
﹁壁がうねうね動いてる﹂
﹁本当?﹂
﹁ん﹂
真琴に聞かれて、十フィート棒で壁を叩いて見せる澪。叩かれて
うねうね動く壁を見て、思わず顔をしかめる真琴。
1255
﹁これはまた、面倒ね﹂
﹁うん、面倒﹂
﹁この壁、襲ってこないでしょうね?﹂
﹁そこは不明。ただ、襲ってくるんだったら今ので攻撃がきそう﹂
澪の言葉に頷く真琴。このパターンだと、襲ってくるのは多分、
トラップとしてだろう。
﹁とりあえず、あたし達はリソースに不安があるし、瘴気の濃い方
にまっすぐ突っ込んで行くのは避けた方がいいわね﹂
﹁遠回り、する?﹂
﹁する﹂
﹁じゃあ、こっち﹂
澪に先導され、瘴気がやや薄い方へと移動を開始する。流石に宏
のように、壁をぶち抜いて一直線に移動する、という発想はないら
しい。すぐに通路をふさがれて戻れなくなるが、最初から予想して
いたので大して慌てる事はない。
﹁さて、なにが出るやら﹂
﹁エロトラップだけは勘弁﹂
真琴の言葉に余計なコメントを添える澪。なんだかんだと言って、
1256
精神的には結構余裕がある二人であった。
一方その頃のファーレーン首都・ウルス。
﹁⋮⋮ハニーに会いたい⋮⋮﹂
ウルス城の片隅にある殺風景な小さな部屋。そこの主である微妙
に表情に乏しい少女が、入って来たレイオットに対してそんな事を
口走る。彼女はかつて宏に襲撃をかけ、アルチェムもかくやという
エロトラブルにより撃退され、あっさり寝返った暗殺者の少女であ
る。
﹁そうだな。そろそろ問題は無いか﹂
レイオットの顔を見るたびに同じ事を言う少女を見て、少し思案
したうえで結論を出す。これまではいろいろ問題があって外に出せ
なかったが、前にレイナと組ませてカルザスに行く宏を確認させた
時に特に問題が無かった事を考えれば、そろそろ野に放っても大丈
夫そうである。
そもそも、広大なウルス城のこんな辺鄙な忘れ去られた場所に彼
女を押しこめているのも、当初の状態ではいろんな意味で外に出す
のに問題があったからで、決して彼女を飼っている事がばれてはい
けないから、などではない。世間一般の常識どころか、人間が生活
1257
する上で決して破ってはいけない種類のルールすら理解しておらず、
そもそも意思疎通にすらいろいろ問題を抱えていればそれも仕方が
あるまい。
それでも当初の予想と違い、基本的には実に従順で協力的で、定
期的に食事とは違う意味での餌を与えておけばまず裏切る様子が無
かったため、こっそり処分すると言う面倒な作業をする必要が無か
った事は嬉しい誤算だったのは確かだ。その餌というのが、宏の使
用済みのタオルだの食べ終えた魚の骨だのといった性癖的に理解不
能なものだったのは、流石のレイオットといえども全力で引いたの
は確かではあるが。
﹁いいの?﹂
﹁条件付きだがな﹂
どんなに表情が豊かな人間でも、彼女の目ほどに感情を表現出来
はすまい。それほど目だけでダイレクトに感情をあらわにする彼女
に、絶対に譲る事が出来ない条件を突きつけるレイオット。
﹁条件?﹂
﹁まず、許可なく直接的な接触をはかることは許さん﹂
﹁!?﹂
少女の顔に、絶望が浮かぶ。持ち上げられて即座に叩き落とされ
たようなものなのだから、しょうがないと言えばしょうがないかも
しれない。
1258
﹁何故⋮⋮?﹂
﹁当たり前だろう。そもそも、お前が奴らに警戒されないとでも思
ったのか?﹂
﹁思ってた﹂
少女の回答に、深々とため息をつく。とりあえず普通に街を歩い
てもさほど浮く事は無くなったといっても、やはりまだまだそう言
った感情的な部分については未成熟だ。正直、ファムやライムの方
がはるかにそのあたりについてはよく分かっている。
﹁お前、自分があいつを殺そうとした事を忘れたのか?﹂
﹁⋮⋮覚えてない﹂
﹁都合のいい頭だな⋮⋮﹂
再び深々とため息をつくレイオットに、無表情のまま内心慌てる
少女。彼女のために言うならば、別段嘘をついている訳ではない。
あの日捕縛されて暗殺者ギルドを裏切り、情報を洗いざらい吐いて
更に襲撃まで協力した後、そのご褒美として色々口では言えない事
をしてもらったあたりで、そもそもなぜ捕まったのかとか、それ以
前に何故王宮に襲撃をかけたのかだとか、そういった情報がきれい
さっぱり飛んでいってしまったのだ。ヒロシの事がきっちり記憶に
残っていたのは、それだけ刺激が強かったからか執着が強かったか
らなのか、そこは実に興味深いポイントであろう。
これについては実は、仮に捕まった時に暗殺者ギルドが足がつか
ないように仕込んであった仕掛けが、色々な要素が複雑に絡み合っ
1259
てかなりタイミングがずれて発動したのが原因なのだが、仕掛けら
れた当人は当然そんな事は一緒に忘れ去っている。更に言えば、そ
んな内実に詳しい人間が王宮サイドにいるはずもなく、検査や尋問
で発見出来るような仕掛けでもないため、誰一人として気が付いて
いない。
今確認を取れば、暗殺者ギルドについて自分がそこに所属してい
た事以外一切合財きれいさっぱり忘れてしまっている事が分かるだ
ろうが、既に壊滅している上に当人は元々所在地関係以外は大した
情報を持っていなかったため、もう一度蒸し返される事もなく今に
至る。
当然そういう仕組みなので、一度記憶を消してしまえば仕掛けそ
のものが無くなってしまう。そういう意味では、彼女はいろんな意
味でようやく人間としてスタートラインに立てたと言っていいだろ
う。スタートラインに立てた理由やその結果の状況については、子
供の教育に悪すぎて正直あまり口にしたくは無い部分があるが。
﹁何にせよ、お前は元々ヒロシ、と言うよりはヒロシがガードして
いたハルナとエアリスを殺すために、この城に侵入した暗殺者だ。
ヒロシに撃退されて今に至る訳だが、そういう経緯を持っている人
間を、そう簡単にあっさり信用するほどあいつらもお人よしではな
い﹂
﹁そんな⋮⋮﹂
レイオットの言葉に、絶望したような表情になる少女。元々の表
情の変化が澪よりはるかに少ないため、かえってその絶望度合いが
大きく伝わってくる。
1260
﹁心配せずとも、ちゃんと接触する機会を用意してやる﹂
﹁本当に?﹂
﹁ああ。というか、お前に与える役割を考えれば、いつまでも接触
せずにというのは無理だろう?﹂
﹁役割?﹂
﹁後で説明する﹂
レイオットの言葉に、素直に頷く少女。疑問を持ってはいるが、
話を聞いてからで十分だと判断しているらしい。こういう判断がで
きるのに、感情というものに関しての理解がほとんど無いあたりは、
キリングドールという出自が関わるいびつさであろう。
﹁二つ目の条件は、余程の非常事態を除き、こちらの指令を最優先
させる事﹂
﹁ハニーの命よりも?﹂
﹁状況によるな。奴らが自力でどうにもできず、かつお前が命令違
反をすればどうにかなる範囲であれば、多少は目をつぶってもいい﹂
﹁分かった﹂
﹁もっとも、お前にそこまでの判断能力があるとは思えないが、な﹂
﹁ハニーとその仲間の命以外で、命令違反をする必要を感じない﹂
1261
﹁だといいがな﹂
人としては明らかに駄目だろうという言葉をきっぱり言い切る少
女に、軽く肩をすくめて答えるレイオット。そもそも、レイオット
にとっては彼女は単なるおもちゃと大差ない。思ったより使い出が
あり、かついろんな意味で面白い事になりそうだから処刑をせずに
色々教育しているだけで、何か問題が起こればとっとと切り捨てる
事に全くためらいは無い。自分より宏を優先させる程度なら黙認し
てもいいが、致命的な裏切りをしてファーレーンに被害をもたらし
た場合、誰がどれほど懇願しようと即座に殺すつもりだ。
﹁まあいい。三つ目の条件は、何があっても我々とのつながりは口
にしない事。宏をはじめとして幾人かにははじめから知らせてはお
くが、お前からは絶対に口にするな﹂
﹁当然のこと﹂
﹁色に溺れてあっさり口を割った女の言葉など信用できんが、まあ
いいだろう﹂
﹁大丈夫。ハニーに触ってもらう以上に気持ちいい事なんて無いか
ら﹂
﹁それが不安だと言っているんだがな⋮⋮﹂
どうにも何処までも不安がぬぐえない台詞を聞き、思わずぼやく
レイオット。確かにこのおもちゃは面白いのだが、同じぐらいいろ
いろと不安要素がある。
﹁最後の一つは簡単だ。知り得た情報は全て、こちらに逐一報告し
1262
ろ﹂
とりあえず、少女の戯言を華麗にスルーして、最後の条件を指定
する。
﹁ハニーはどんなプレイが好みかとか、メンバーの女が何処が一番
感じるかとかも?﹂
﹁それを調べてどうするつもりなのかが気になるが、お前に情報の
取捨選択をさせるとろくなことにならんだろうからな。その手の情
報も全てよこせ﹂
﹁分かった。それで、私の役割は?﹂
﹁ダールに行って裏社会と接触、彼の国の最新の状況を調べられる
だけ調べろ﹂
与えられた指示を聞き、再びショックを受けた表情を浮かべる少
女。
﹁⋮⋮エルフの村じゃ、無い⋮⋮?﹂
﹁今からお前を送り込んだところで、行き違いになるだけだろうが。
第一、お前は南部大森林地帯でエルフの村へ行く道を見つけられる
ほど、森林での行動は得意じゃないだろう?﹂
﹁現地で頑張る﹂
﹁今から頑張っても手遅れだ。第一、森の中など、連中の一番得意
なフィールドだ。お前が加わったところで、足手まといにこそなれ
1263
ど、奴らに貢献できる事など無い﹂
きつい事を言われて、しおしおとしょげかえる少女。事実なので
反論の余地が無いのが厳しい。
﹁だから、お前は奴らの弱い部分をフォローする必要がある。連中、
裏社会に対しては伝手もなければ対応能力も低いからな。そう言う
部分を補佐できるように、次の目的地であるダールに先行して行っ
てこい﹂
﹁⋮⋮そう言う事なら﹂
﹁まあ、待て﹂
レイオットの言葉に納得の色を浮かべ、今すぐにでも出て行こう
とする少女。先走る少女を呼び止めるレイオット。こんな様子で裏
社会と接触などして大丈夫なのかと一見不安になるが、彼女を再教
育した情報部の人間から聞くところによると、裏社会に接触すると
きは見事に冷徹な人間に切り替わると言う。元暗殺者というのは伊
達ではないらしい。
﹁最低限の装備と路銀を用意してある。エルンストから受け取って
おけ﹂
﹁了解﹂
﹁あと、いつまでも名無しでは行動に支障が出る。名前をやるから、
次からはそれを名乗っておけ﹂
﹁ハニーにつけて欲しい﹂
1264
﹁贅沢を言うな、といいたいところだが、喜べ。この名前は、ヒロ
シにつけさせたものだ﹂
レイオットの言葉に、一瞬キョトンとした表情を浮かべる少女。
因みに、レイオットの言った事は嘘ではない。今回彼女につける名
は、諜報部に新しく入った女の隊員につけるコードネーム、参考に
するから何か候補が無いかと雑談で振って聞きだしたものである。
﹁本当に?﹂
﹁本当だ。どうせお前がごねるだろうと思って、前もってそれとな
く聞いておいた﹂
レイオットの言葉に喜色満面になり、早く早くと目で催促する少
女。
﹁レイニー・ムーン。それがお前の新たな名前だ﹂
﹁レイニー・ムーン⋮⋮﹂
﹁これで話は終わりだ。準備をして出発しろ﹂
レイオットに言われて一つ頷くと、無駄に綺麗な体捌きで部屋か
ら出て行く。沁みついた癖は拭い難いらしく、どんなに素人っぽく
振舞おうとしても、挙動に一定以上の実力が滲み出てしまう。
﹁さて、これで打てる布石は打った。奴らに関しては、後は高見の
見物というところか﹂
1265
どう転んだところで平穏無事には済まないであろう日本人達の旅
路。それを少しでもサポートできれば、との考えを打算より優先さ
せて彼女を教育し直したレイオット。無論、ファーレーンの利益に
関してもそれなり以上に確保できるようには動いているが、ある面
では心友と呼んでもいい宏に関しては、家族と同じぐらいには気に
かけている。そうでなければ、いかにファーレーンの利益につなが
ると言っても、こんなリスキーな真似はしない。
﹁本来なら、もっとちゃんとした駒を動かすべきだが、そこまで手
が空いていない。あれでナニな女だが、悪く思うなよ、ヒロシ﹂
レイニーが出て行った部屋を施錠し、そんな事を呟く。ほぼ同じ
タイミングで寄り道して採取中だった宏が、悪寒を感じて周囲をき
ょろきょろと見回したのは偶然の一致だと言う事にしておこう。
1266
第7話
﹁あの、ヒロシさん⋮⋮﹂
﹁なんや?﹂
﹁それが貴重な素材だと言うのは分かるんですけど、こんなところ
でごそごそやってていいんでしょうか⋮⋮?﹂
﹁馬鹿正直に最短ルートを最速で突破しても、単独でボスとやり合
う羽目になるだけやん﹂
アルチェムの疑問に対して分かるような分からないような返事を
して、そのまま壁から生えている蔦やら葉っぱやらを集め続ける宏。
物凄い集中力とびっくりするほどの手際の良さで手早く必要な部分
だけを切り取っては鞄に突っ込んで行く姿は、熟練の採取業者のよ
うだ。
﹁そもそも、さっきまでは無視して壁を壊してたと思うんですけど、
あっちは良かったんですか?﹂
﹁さっきまでの壁を構成してる植物は、ええとこ七級のポーション
材料にしかならん。わざわざここで集めんでも、砂漠地帯以外やっ
たらどこでも代替品が手に入るレベルやから、さっくり無視してん﹂
﹁じゃあ、ここの蔦とかは?﹂
﹁こいつらな、錬金術でちょちょいと処理したったら、一級ポーシ
1267
ョンの材料のバルセラ、その代替品のミルレットの材料になんねん﹂
一級ポーション、という単語を聞いて、驚くより先に胡散臭そう
な表情を浮かべるアルチェム。現在一級および二級ポーションの製
法は完全に失われて久しく、実物にしても現存するのは確認されて
いる物が世界で五本程度。それも残っているのは全てヒーリングポ
ーションで、マナポーションやスタミナポーション、特殊ポーショ
ンの類は全て、煉獄ができた事件による巨大モンスター世界同時進
攻の時に使い尽くされている。
実物も製法も失われている物が、果たして本当に作れるのか。そ
んな疑問をアルチェムが抱くのも仕方が無いことだろう。そもそも
実際に作ってみせたとして、それが本当に一級ポーションであると
いう証明をどうするのか。一般人なら即死しなければ、八級のポー
ションでも部位欠損以外は十分に完全回復する。多分、並の騎士な
ら五級で十分だろう。ポーションの一等級というのは、それほどま
でに差が大きいのである。回復量を基準にした場合、余程でない限
り三級以上の違いは分からない。
﹁バルセラってなんですか?﹂
﹁大霊峰の頂上付近にある大霊窟、そこの中ほどで採れるコケや。
それ単独でもちょっと成分調整したるだけで五級ぐらいの回復力を
もっとる﹂
﹁ミルレットは?﹂
﹁バルセラの回復成分を、人工的に合成したもんや。回復成分だけ
を抜き出してるからそっちの方が強いように思うやろうけど、ちょ
っとした不純物の影響で薬効が増す分、バルセラを直接処理して作
1268
った薬の方が効果が強なる傾向はある。まあ、っちゅうたかてミル
レットそのものを調整したら済む範囲の差やけどな﹂
素人には判断できない事をあっさりと言ってのける宏に、信用す
べきかどうか迷っていると言った感じの視線を向けるアルチェム。
なまじ宏が凄まじい力量の薬師である事を知っているだけに、与太
話と切り捨てられないのだ。
﹁まあ、今の手持ちの材料だけやとどうやっても一級は無理やから、
証明して見せろ言われても無理やねんけどな﹂
﹁はあ⋮⋮﹂
アルチェムの疑いの視線に気が付いているらしく、特に気負うこ
となく話を終わらせる宏。そのまま五分ほど黙々と作業を続け、決
して狭くは無い壁すべてから蔦と葉っぱをむしり終える。
﹁さて、素材も集まったし、もう一丁壁抜くか﹂
﹁壁の向こうがモンスターの巣だった、なんてパターンもありそう
ですから、注意してくださいね﹂
﹁っちゅうか、今から抜く壁の向こう、多分そんな感じやで﹂
﹁えー⋮⋮﹂
再びとんでもない事をあっさりのたまう宏に対して、ついついジ
ト目を向けてしまうアルチェム。壁の向こうのモンスターの気配を
察知できるのは凄いと思うが、分かってて何で平常運転で何事も無
かったかのように壁をぶち抜こうとするのか。アルチェム的にはそ
1269
こら辺を小一時間ほど問い詰めたい。いくら冒険者と言っても、冒
険しすぎだろう。
﹁大丈夫や。群れまで結構距離あるし、ちゃんと対策も考えとる﹂
﹁本当に?﹂
﹁マジやで﹂
いまいち信用できない事を言う宏だが、今までこいつは言った事
はちゃんと実現してきている。完璧に上手くいくかどうかはともか
く、なにがしかの対策があるのは確かなのだろう。そこは信用して
いいはずだ。多分、きっと。
そんなアルチェムの内心の葛藤をよそに、実にいい笑顔で壁に向
かってポールアックスを振りかざし
﹁往生、せいやあ!!﹂
いつものセットを乗せて一気に叩きつけて粉砕する宏。これまで
何度も繰り返したのと同じ程度の衝撃が部屋を揺るがし、壁を構成
している樹木が一本粉々に砕かれて大きな穴が開く。
その向こう側には、人間より巨大なサイズのリスが、大群と言っ
てもいい数で待ち構えていた。
﹁ヒ、ヒロシさん!﹂
そのあまりの数と大きさに、思わず怯えて宏の方を向くアルチェ
ム。その時視界に入ったものをついついしっかり確認し、思わず目
1270
が点になってしまう。
﹁そおい!!﹂
﹁そ、そんなものなんで持ってきてるんですか!?﹂
宏が掛け声とともに豪快に投げ込んだのは、例によって特大サイ
ズのポメであった。前回バルドの顔面に叩きつけたものよりさらに
一回り大きく、そのサイズはすでにお化けカボチャの領域に入りか
けている。普通なら人間が投げ込めるような重量ではないのだが、
そこは特大サイズでしかも柄までがっちり金属製のヘビーモールを
平気で振り回す宏の腕力だ。放物線を描くどころか、ほぼ水平に群
れの中心部へと妙に正確に飛んでいく。
﹁危ないから引っ込み!﹂
そう叫びながら、唖然としているアルチェムをあけた穴から引き
はがし、爆発に備えて壁を遮蔽物にする。念のためにアラウンドガ
ードとフォートレスを同時に発動させた次の瞬間、部屋中どころか
ダンジョン全体を揺るがすほどの衝撃とともに、ポメが大爆発を起
こす。
あのサイズでもなお、タイタニックロアの破壊力には三枚ほど劣
るポメだが、それでも下手な上級範囲魔法よりは高い火力を発揮し
ている。その爆発力に爆心地にいたリスは全て跡形もなく粉砕され、
少し離れた位置のものは中途半端に肉がちぎれ飛んだ無残な屍をさ
らしている。もっとも外周にいたものでも全身の骨が砕けたり、内
臓に致命的なダメージを受けたりしてその命を終えており、運よく
生存した三体も無傷ではいられなかった。そう、数十体居た群れは、
ただの一撃で壊滅したのである。
1271
﹁今のポメ、一体何なんですか!?﹂
﹁前に別の温泉地で見つけてな。つい好奇心に負けて品種改良して、
えらい事になった奴や。野放しにするんも危ないから、とりあえず
回収して保管しとってん﹂
﹁何でもかんでも品種改良しないでください!﹂
﹁一回はやってみたくなるんが、職人っちゅう奴や﹂
そんな事をうそぶきながら、ポールアックスを構え直して中の戦
意を失っていないリスに対して、アウトフェースによる威圧をかけ
る。その態度を見て、アルチェムも余計な突っ込みは後に回すこと
にする。
残りのリスを仕留めるまでにかかった時間は、わずか数秒であっ
た。
﹁な、何、今の!?﹂
﹁爆発かなんかがあったみたいだな﹂
順調に瘴気の濃い方へ進んでいた春菜と達也が、唐突に起こった
1272
凄まじい振動と爆音に、思わず足を止める。
﹁爆発って、戦闘?﹂
﹁十中八九そうだろうな﹂
﹁でも、こんな大きな爆発だったら、相当強い攻撃をしてると思う
んだけど⋮⋮﹂
﹁真琴と澪にはこんな威力の手札はねえし、ヒロのエクストラスキ
ルは基本発動しなかったはずだ﹂
﹁って事は、敵が!?﹂
﹁そう早まるな。ちょっと確認してみればいいだろうが﹂
そう春菜をなだめ、早々にパーティチャットで確認する達也。宏
なら戦闘中でも普通に反応するだけの余裕はあるだろうし、真琴と
澪の組み合わせなら、どちらかは返事をしてくれるはずだ。
﹃凄い爆発があったようだが、無事か?﹄
﹃今のにびっくりして足が止まった以外、こっちは平和よ﹄
﹃ただし、だんだん瘴気の濃い方に誘導されてる感じ﹄
真琴と澪の平和な言葉に、まずは一つ安心のため息をつく達也。
と、なると、何かが起こったのは必然的に宏達のペアになる訳だが、
返事をする余裕があるのかが気になるところである。
1273
﹃悪い悪い。今のん、僕がやってん﹄
達也の心配をよそに、あっさりと真相を報告してくる宏。一体何
があったのかを重ねて問おうとするより早く、当人から追加の報告
が来る。
﹃壁ぶち抜いた先にな、ちょっと洒落にならへん数のモンスターが
居ったもんやから、とりあえず特大ポメぶつけて始末してん﹄
﹃まだ残ってたのかよ⋮⋮﹄
﹃そんなもん、一個二個で品種改良の結果なんか分からへんから、
十個以上作ったに決まってるやん﹄
﹃待てコラ﹄
物騒な事を平気で口走る宏に、間髪いれずに光の速さで突っ込み
を入れる達也。毎度のことながら、目を離すとろくな事をしていな
い男だ。
﹃で、まあ、今はモンスターからはぎ取り中。大方の死体がものす
ごい状態悪い上に元々も大した素材にはならん感じやけど、ドーピ
ング系のアイテムぐらいは作れそうやから、確保できるだけ確保し
とくわ。で、リスの肉やけど、食う?﹄
﹃師匠、それ美味しい?﹄
﹃普通にリスの味や﹄
﹃回収で﹄
1274
澪の言葉に了解の意を伝えると、そのままチャットを終えようと
する宏。そこに慌てて春菜が割り込む。
﹃宏君﹄
﹃なんや?﹄
﹃アルチェムさんは大丈夫?﹄
﹃それは怪我的な意味で? それともうっかり的な意味で?﹄
﹃両方﹄
春菜の問いかけに対して、達也と真琴が苦笑している気配が伝わ
ってくる。だが、春菜にとってはかなり重要な問題なので、うやむ
やには出来ないししたくない。
﹃今んところ、どっちも大丈夫やで。っちゅうか、そうやないとこ
んな風にのんきに話してられへん﹄
﹃そっか。分かった。じゃあ、出来るだけ急いで合流できるように
頑張るから﹄
﹃まあ、瘴気強い方にまっすぐ行くし、そのうち合流できるやろ。
途中で採取とかはさむから、そっちの方が先にボスにたどりつくか
もしれへんけど﹄
﹃ん﹄
1275
春菜の心配をよそに、あくまでも平常運転の宏。採取という言葉
から、どうやらダンジョンアタックというよりもダンジョンに材料
収集に来ているノリで行動しているらしい。まあ、いちいち雑魚相
手にガクブルされるよりはそっちの方がリラックスできていいだろ
うし、達也達も安心できるから文句をつける筋合いは無いのだが。
﹁と、言う訳だ﹂
﹁これで、方針は決まったね﹂
﹁だな﹂
爆発があった方に向かえば、宏達がいた痕跡は見つけられる、と
いうことだ。途中で中ボスとぶつかって戦闘になったりしなければ、
そこまでは苦労しないだろう。
﹁それにしても、通話機能があるのに、パーティメンバーの位置情
報を調べる機能はねえんだよなあ、このカード﹂
﹁ついでに言うと、マップ表示機能もないよね﹂
達也のぼやきに便乗し、贅沢な事を言い出す春菜。そもそも通話
機能がある時点で、他のものとの文明レベルの落差が非常に激しい
のだが、そういうところには意識が向かないらしい。
﹁まあ、マップ表示機能があったら、そもそも冒険者協会で各種地
図を販売するとかあり得ねえだろうしな﹂
﹁それはまあ、そうだけど﹂
1276
冒険者協会では、その地域の大雑把な地図や有名どころのダンジ
ョンの踏破済み区域の地図を販売している。それらは多数の先輩達
の血と汗と涙と命によって作り上げられた大切な資産であると同時
に、後進達の屍の数を減らすのに大きな役割を担う最重要アイテム
となっている。
冒険者協会としても、これらの地図とパーティメンバーの現在位
置表示をカードの機能に組み込みたいところなのだが、それをする
と途端にカードの製造難易度が跳ね上がるため、コストや人材の問
題で現状維持になっている。国家間のしがらみを超えて運営されて
いるとはいえ、実際には国ごとにそれぞれ全く別の組織である現在
の冒険者協会では、カードの改造というのはそう簡単な事業ではな
い。あれば便利であると言うだけで差し迫った必要性が無い機能な
ので、とりあえず後回しにしているのである。
まあ、地図の機能に関しては運営費として無視できない収入があ
るので、出来る事なら別売りとして今の体制を維持しておきたいと
いう思惑がまったく無いという訳でもないのだが。
﹁とりあえず、ヒロ達の話から察するに、ルート上にそれなりの難
易度を持った障害があると考えて間違いないだろうな﹂
﹁うん。ちょっと強めのモンスターとか、頭ひねってどうにかでき
る仕掛けとかだったらいいけど、罠の類だとちょっと拙いよね﹂
﹁俺達にゃ、罠をどうにかするスキルはねえからな﹂
今のところこれと言って特に派手な罠は存在しなかったが、最後
までそうとは限らない。どうせ全ての罠を見抜く事は出来ないと割
り切り、防ぎにくい足元と天井の罠を特に警戒して、左右に対する
1277
注意はやや控えめで進んできている。左右の壁から何か来る分には
反射神経と防御魔法でどうにかする方針だが、時折微妙にこちらに
ちょっかいを出そうとする蔦があったりと、地道に精神力や集中力
をそがれるのが辛い。罠がらみを澪に依存してきたつけが、ばっち
り出てきた感じだ。
構造はごちゃごちゃと変わるくせに景色は一定で、時間感覚もだ
んだんおかしくなってきているのが怖いが、空腹と疲労はちゃんと
時計代わりに機能するだろう。そう信じて探索を進めていく。
﹁真琴達はともかく、ヒロの奴は凄まじくいい度胸してるなあ﹂
﹁そもそも、道を通らずに部屋の壁を壊して進んでるって時点で、
罠も何も関係ないよね﹂
﹁真っ先にそのやり方に走るあたり、本気でいい度胸してるよな﹂
﹁だよね﹂
ダンジョンの壁を殴って壊すなど、一体どんな問題を引き起こす
か分かったものではない。それをできるからと無造作に行うその根
性は、普段のヘタレ男とはどうにもイメージが重ならない。
﹁⋮⋮何か、居る﹂
﹁⋮⋮なかなかのプレッシャーだな。何処だ?﹂
﹁多分、この向こう﹂
じわじわと集中力を削られながらも数度の戦闘を特に問題なく終
1278
わらせ、それなりに先ほどの爆発の爆心地に近付いたあたりで、二
人はとうとうそれに遭遇した。
﹁マンイーター?﹂
﹁そんな感じだが、多分別物だな﹂
﹁様子から察するに、瘴気を吸ってパワーアップしたタイプ、かな
?﹂
﹁おそらく、な﹂
だだっ広い空間のど真ん中に鎮座する、巨大な食虫花。妙にしっ
かりした茎から大量に生えた蔦、獲物をとらえて消化するための袋、
太い根っこ。その特徴は明らかにマンイーターだが、その大きさが
違う。そいつはどこからどう見ても中ボスであった。
﹁どう見る?﹂
﹁私達が戦ってきた相手だと、単純な戦闘能力の時点でピアラノー
クよりは強いと思う。神殿でやりあった偽バルドなら、条件次第で
はあれより強い﹂
﹁結論は?﹂
﹁戦って勝てない相手じゃない。ただ、相性的にはかなり不利かな﹂
﹁了解。問題なのは相手の手数と射程距離、であってるか?﹂
達也の問いかけに一つ頷く春菜。同時に飛んでくる攻撃の数が多
1279
い、というのは、回避主体の春菜にとっては分が悪い。しかも、こ
ちらは白兵戦距離で無いと十分な火力を発揮できないのに、相手は
ざっと見ただけでも二十メートル程度は射程距離がある。あの蔦が
伸縮自在ではないとは限らない以上、白兵戦に持ち込むのは難しい
と考えて間違いないだろう。
﹁と、なると、だ﹂
春菜を攻撃力としては当てにできないと判断した達也が、とりあ
えず小手調べとして部屋の入り口ぎりぎりからグランドナパームを
発射する。基本的にその場から動かない相手故に、攻撃を直撃させ
るのは実に簡単ではあるが、流石に中ボス。中の上程度の攻撃魔法
では、大して大きなダメージは見込めない。
﹁っと!﹂
反撃とばかりに伸びてきた蔦をまとめて切り払い、達也を部屋の
入り口から数歩離れたところまで押し出して、自身も離脱する春菜。
部屋の入り口ぎりぎりまでしか攻撃が伸びて来ないらしい事を確認
し、とりあえず一息つく。
﹁どんな感じだ?﹂
﹁多分そこそこレジストされてると思う。表面ちょっと焦げただけ
だから、もう治り始めてるよ﹂
﹁なるほどな。じゃあ、次は⋮⋮﹂
出し惜しみなしで聖天八極砲を発動させる。流石にそのレベルの
魔法をレジストするほど魔法抵抗が高い訳もなく、レジストしたグ
1280
ランドナパーム程度でもダメージを食らう魔法防御力ではダメージ
を押さえることもかなわない。一度の攻撃で、HP換算で三割ほど
のダメージを受けて激しく蔦をのたうちまわらせる巨大マンイータ
ー。流石に詠唱時間と魔力消費だけでこれだけの威力を一撃で出す
のは、現状では真琴でも不可能である。
リスクを承知でやるなら、春菜のエレメンタルダンスは余裕でこ
の技を超える威力があるが、あれはオーバー・アクセラレートと同
じく下手に使うと戦闘不能になる、現状では一度の戦闘で一回限り
の切り札だ。間違っても、相手の戦闘能力をきっちり把握できてい
ないこの状況で切る札ではない。
﹁回復は始まって無いね﹂
﹁よし。だったらもう一発!﹂
春菜の報告に一つ頷き、もう一撃入れようと術の冷却時間を確認
していたその時、背中を何者かに押される。
﹁な、何だっ!?﹂
﹁達也さん、壁が!﹂
春菜の言葉にとっさに振り向くと、いつの間にか通路をふさいで
いたダンジョンの壁が、そのまま二人を中ボスルームに押し込もう
と背中に密着していた。抵抗しようにもそもそもダンジョンの構造
変化そのものなのだから、壁を壊しでもしない限りは抵抗の余地な
どない。部屋の中に完全に押しこまれ、きっちり退路を塞がれてし
まう。
1281
﹁ちっ! 流石に一方的にやれるほど、甘くは無いか!﹂
﹁一撃入っただけでもよしとしよう﹂
達也を庇うように立ってレイピアを構え、油断なくマンイーター
を睨みつけながら自身に言い聞かせるように言葉を吐き出す春菜。
その言葉に頷くと、冷却時間を待つ間に違う魔法の詠唱を開始する
達也。
﹁やっぱり、威力優先でヘルインフェルノかアブソリュートバニッ
シュあたりも習得しておくんだったな⋮⋮﹂
﹁あの辺はいまいち使いどころが無いから、いいんじゃない?﹂
通常スキルでは最高峰の火力を持つ魔法を上げ、そんな風にぼや
く達也。だが、ヘルインフェルノは効果範囲が広すぎて誤爆がひど
く、システム上フレンドリィファイアが無いゲーム中ならともかく、
今の状況では非常に使いにくい。熟練度と魔法攻撃力に応じてうな
ぎ登りに効果範囲が広がっていくのもマイナス要素だ。ゲーム中で
はこの魔法を覚えた人間は、必ず一度はフィールドで試射をして全
部仕留めきれず、焼け残ったフィールド中のモンスターのターゲッ
トを根こそぎかき集めて袋叩きにあった経験がある。伊達にウルス
の三分の一を灰燼に変える魔法ではないのだ。消費が重く、詠唱・
冷却時間ともに一度の戦闘で二発目が無いであろうレベルなのも痛
い。
アブソリュートバニッシュは、通常スキルとしては物理・魔法す
べて合わせた中で最大の攻撃力を誇る攻撃魔法である。複数の属性
を融合させて消滅の魔法に変化させると言うある意味分かりやすい
思想・原理の魔法で、反発する力も破壊力に転換するため、エクス
1282
トラスキルではないと言う事に驚かざるを得ない攻撃力を見せるの
だが、残念ながら詠唱が最短で十五秒と長く、一発撃ったら達也程
度の魔力では枯渇を避ける事が出来ないと言う極悪なまでの燃費の
悪さを見せる。澪ぐらいの魔力が無ければ二発目は存在せず、ボス
戦での最初の不意打ち以外では基本出番が無い魔法だ。
言うまでもなく、どちらもそのあれで何な性質は知れ渡っており、
習得者は決して多くない。使いこなしている人間となるとさらに少
なく、双方を一度の戦闘で二発以上使った事があるのは魔法系プレ
イヤーでキャラレベルがトップの廃人、ただ一人だけであろう。
﹁とにかく、炎に若干弱いのは植物系の定番だ! 一気に燃やす、
獄炎聖波!!﹂
瘴気を吸っている以上、浄化の特性を持つ火属性魔法はそれなり
に効くだろう。その判断のもと獄炎聖波を叩きつける。予想通り、
聖天八極砲には一枚劣るとはいえ、十分なダメージを受けて更に激
しくのたうちまわり始めるマンイーター。更に炎系上級スキルのブ
ラストバーンで焼き払い、そろそろ次の聖天八極砲の準備に、とい
うところで敵の動きが変わる。
﹁手数が一気に!!﹂
﹁大丈夫か!?﹂
﹁何とか! でも⋮⋮!﹂
この勢いで手数が増えると、いずれ防ぎきれなくなる。達也を背
後にかばうと言うのが想像以上に厳しい上、最初にやったように一
撃で蔦を切り落とせなくなってきているのが問題だ。せめて相手の
1283
手数を減らしたいと、思い付く限りの障害魔法をかけられるだけか
け、更に少しでも切り落としが成功しやすいように、炎の魔法剣で
攻撃を防ぐという工夫をしているのだが、それでもどうしても押さ
れ気味になってしまう。
︵どうにか、どうにかして、せめて切り払った蔦をすぐに攻撃に使
えないようにしないと⋮⋮!︶
厳しくなっていく一方の攻撃に内心で大いに焦りながらも、出来
るだけ思考を冷静に保ちながら相手を観察する。分かっているのは、
切り落としに成功すれば約二十秒ほど、炎の魔法剣で切り落とせば
完全に、その蔦による攻撃は出来なくなると言う事だけだ。
つまり、相手の攻撃を炎の魔法剣で確実に切り落とせれば、どう
とでもできると言う事である。が、それは言うは容易いが、という
奴の典型である。宏なら捕まったところであっさり引きちぎるだろ
うし、真琴なら切り払いで確実に蔦を潰してのけるだろう。だが、
手数と手札の枚数が売りの春菜には、そこまでの腕力も火力もない。
持ちうる手札でどうにかする事を考えねばならない。鎌という選択
肢もあったのだが、最初の段階では手札の枚数が減るのが怖くて、
あえて普段通りにしてしまった。普通に考えれば、いくら相手の弱
点とはいえ熟練度換算で初級を折り返してすらいない武器をボス戦
で使おうと考えるのは、相当度胸がいる。しかも、レイピアと鎌と
では扱い方が極端に違うのだから、日和るのも当然である。
とにかく冷静に、と、呪文のように頭の中で呟きながら、相手の
挙動を観察し、既に思い付いている対応策、それに切り替えるため
の隙を探し続ける。視界の端を迂回して背後を狙うように飛んでき
た蔦を間一髪で叩き落とし、達也にダイレクトアタックを仕掛けよ
うとした頭上の蔦をいい具合に焼き切ることに成功したところで、
1284
マンイーターの攻撃が急激に激しくなり始める。
マンイーターからの臨界点を超える攻撃に、今度こそ焦りを押さ
えきれなくなる春菜。それでもどうにか四方からの同時攻撃を素晴
らしい剣さばきと体術で凌ぎ、足元からと頭上から達也を直接狙っ
た攻撃を潰したところで、視界の隅に辛うじてとらえただけの蔦に
レイピアを絡め取られてしまう。もう一本の蔦をとっさに放った炎
の魔法で焼き払った次の瞬間、マンイーター本体から消化液の弾丸
が発射される。
︵あれは、防げない!︶
飛んでくる速度が予想より早く、防御魔法の展開が間に合わない。
避けようと思えば避けられるが、それをすると達也に直撃する可能
性がある。そして、魔法剣で叩き落とそうにも、肝心の武器が無い。
だが、詠唱時間やディレイを考えれば、この一撃さえしのげば、達
也がきっちり始末してくれるだろう。
ある種のあきらめとともに、せめて致命傷を避けるためにと両腕
で頭と顔をかばう。ワイバーンレザーアーマーと自分の防御系補助
魔法の効果なら、治療できる程度のダメージに収まるはずだ。髪の
毛に結構な被害が出そうだが、命には代えられない。
そんな後ろ向きの思考とともにダメージに備えていると、着弾よ
り先に達也の魔法が発動する。聖天八極砲ではない何かだが、彼の
手札を全て知っている訳ではない。何か変わった魔法で、ちょうど
いいものがあったのだろうとあたりをつけながら、消化液が自分に
かかるのを待つ。が、いつまでたってもその瞬間は来ない。
﹁えっ?﹂
1285
﹁結界を張った! 立て直せ!﹂
﹁うん!﹂
達也の言葉に従い、腰の後ろに固定してあった鎌を取り出して、
武器に関係ない種類の炎の魔法剣を発動させる。それを見た達也が
結界を解き、今度こそ八極砲の詠唱に入る。
﹁蔦系の植物モンスターは、鎌に弱い!!﹂
そう吠えて、流麗な鎌さばきで次々に蔦を切り落として焼き払う
春菜。再び飛んできた消化液を左手に持ったナイフに冷気系の魔法
剣を乗せて切り払い、凍りつかせることにより武器の劣化と飛沫に
よる被害を避ける。
﹁裏ワザ行くぞ! どけ!﹂
﹁了解!﹂
達也の宣言に従って射線をあけ、ついでに持って行かれたレイピ
アを回収する。春菜が飛びのくとほぼ同じタイミングで、達也から
二発の聖天八極砲が飛び出す。
﹁流石に、こいつなら終わるだろう!﹂
達也の叫びと同時に、二発の聖天八極砲がマンイーターを飲み込
み、焼きつくす。流石に今回は、素材を気にしている余裕などない。
その攻撃により、きっちりマンイーターは消滅していた。
1286
﹁えっと、今のは?﹂
﹁無茶苦茶シビアな上にコストが重いやり方なんだが、特定のタイ
ミングで無属性で無詠唱ノーディレイでクールタイムゼロの攻撃魔
法を使うと、詠唱中の魔法が二発に化けるんだよ。魔法使いの間で
はよく知られている裏ワザで、バグなのかって問い合わせに対して
公式に仕様だって返事も来てる。こっちでも出来るかどうかも、成
功するかどうかも一か八かだったんだが、何とかうまく行ってよか
ったよ﹂
﹁そんなやり方があるんだ﹂
﹁まあ、成功しても二発目はコストが三倍になるから、あんまり率
のいい手段じゃないんだがな﹂
他にも無属性・無詠唱・ノーディレイ・クールタイムゼロの魔法
に関しては、特殊なタイミングで発動させることにより他の魔法の
クールタイムを上書きする効果もある。一般的に強制冷却と呼ばれ
ているテクニックだが、これもタイミングがきつい上に魔力消費が
倍になるという欠陥があるため、ここぞと言う時以外で使うような
手段ではない。ついでに言えば、無詠唱でノーディレイ、クールタ
イムなしと言っても、毎秒何十発も撃つといった真似は出来ない。
トリガーディレイと呼ばれている発動させると意識するためのタイ
ムラグに加え、発動までにもタイムラグがあるのだから当然である。
﹁それにしても、危なかった⋮⋮﹂
﹁ゲームでも結構あの類のとはやりあったが、同じ程度の強さでも
厄介さはこっちの方が大幅に上だった気がするぞ﹂
1287
﹁やっぱり、アルゴリズムが決まってるゲームのモンスターと、本
能で臨機応変に動いてくる実物のモンスターじゃ全然違うよね﹂
春菜のため息交じりの言葉に同意すると、とりあえずマンイータ
ーが居たあたりに落ちていた結晶を拾っておく。
﹁とりあえず、魔力が結構危機的水準だ。悪いがちっと休憩したい﹂
﹁了解。結界を張るよ﹂
流石に、専属のタンクなしでの中ボス討伐はきつかったらしい。
宏の存在がどれほど偉大かをかみしめながら、疲弊しきってぐった
りと休憩をする二人であった。
春菜達が中ボス戦で苦労していたその頃、真琴達は。
﹁あれ、明らかに中ボスルームよね﹂
﹁急激に瘴気が濃くなったから、多分ワープさせられた﹂
澪の指摘に頷く真琴。瘴気が薄い方へ薄い方へと移動していたた
め、ここまで戦闘の類は一度も発生していない。罠の類も特になか
ったため、二人とも春菜達に比べると全くと言っていいほど疲弊し
ていない。もっとも、宏も壁をぶち抜いて採取をしてと好き放題や
1288
っているくせに、消費が回復を上回らないために全く消耗せずに進
んでいる訳で、どう見ても春菜達が一番貧乏くじを引いているのは
間違いない。
﹁で、唐突に出現した中ボスの人は、どんな感じなのやら﹂
﹁人型とは限らない﹂
真琴の軽い言葉に、言わずもがなな突っ込みを入れる澪。いろん
な意味で余裕である。
﹁まあ、人型かどうかはともかくとして、やらないって選択肢は無
い訳だし、悪いけど罠とか調べて来て﹂
﹁了解﹂
真琴の指示に従い、とことこと一見無造作に、その実かなり慎重
に扉に近付いていく澪。自然物で構成されたこのダンジョンにおい
て、明らかに不自然な扉という人工物。それを丹念にチェックし、
それ自体に罠もカギもない事を確認してゆっくりと開く。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
お互いに顔を見合わせて、見なかった事にしようと言う感じで扉
を閉める。
﹁なんていうか、キモかったわね⋮⋮﹂
1289
﹁あれは無い⋮⋮﹂
扉の向こうにいたのは、豹頭で首から下がトカゲとゴリラを足し
て二で割ったような、骨格構造は分類上人型になるであろうモンス
ター。ただし、
﹁なんか、いろんなものに寄生されてた訳だけど、どう思う?﹂
全身のそこかしこをキノコや菌糸が覆い、あちらこちらから何や
ら植物が生え、その目はうつろで意志らしきものは何一つ感じ取れ
ない、こいつが動くのであればもはやベースの生き物とは別のモン
スターになっている訳だが。
明らかにいろんなものに寄生されているくせに表面上はほぼ原形
を保っているあたり、はっきり言ってゾンビよりも気色悪い見た目
に仕上がっている。
﹁何かの餌?﹂
﹁かもねえ。ただ一つ言えるのは﹂
外見から予想される性質を思い浮かべ、うんざりした表情で結論
を口にする真琴。
﹁あれが動くのであれば、あたし達にとっては無茶苦茶相性が悪い
はず﹂
うんざりした表情で断言する真琴に、無表情に頷く澪。宏とアル
チェムが純粋な火力に、達也と春菜が腕力と防御力に難があるよう
に、真琴と澪の組み合わせは属性攻撃のバリエーションが少ないと
1290
いう欠点がある。澪の簡易エンチャントは力量的に属性付与ができ
ず、真琴は光属性しか属性攻撃技を持っていない。それに素材回収
の観点から、澪は炎系の弓技を覚えていない。
また、粘菌に寄生されているという特性を考えると、弓も大剣も
効果は薄いだろう。いくら切り刻もうが刺し貫こうが、寄生してい
る何かが無事であれば相手の動きが止まる事は無いに違いない。火
炎系や灼熱系の簡易エンチャントが使え、メインウェポンのもう一
方がヘビーモールという重量級の鈍器を使う宏か、いろんな種類の
属性攻撃を得意とし、範囲攻撃の手札も多数持ち合わせている達也
と春菜のペアの方がはるかに簡単に仕留められる。
だが、遭遇してしまった以上は、相性の有利不利を言っても仕方
が無い。相手によっては与えるダメージが相手の回復力を上回れな
い可能性がある宏よりは、まだ倒せる可能性があるだけはるかにま
しであろう。そう無理やりポジティブに考えて、気分を切り替える
真琴。
﹁澪、ガスマスクとかその類のものは?﹂
﹁あるけど多分必要ない﹂
﹁何でまた?﹂
﹁この鎧、特殊環境耐性のランク6がかかってる﹂
澪の回答を聞き、微妙に眉間を指でもんで頭痛をやり過ごす真琴。
特殊環境耐性というやつは、毒沼だの砂嵐だの火山内部だのといっ
た、人間がうろうろするには難があったり不可能だったりする環境
で行動せざるを得ない時、その影響を軽減するものである。そのラ
1291
ンク6と言えば、生き物が即座にモンスター化するような濃度の瘴
気でも普通に行動ができるレベルで、普通に厄介な環境という程度
なら全く苦にしない。
流石に攻撃を食らって直接体内に毒を流し込まれた、などという
ケースはジャンルが違うため無効化できないが、今回のように胞子
だの粘菌だのに寄生されかねないと言うパターンにはばっちり効果
がある。実のところ、宏がわざわざこのエンチャントをかけたのは、
達也が花粉症だと言っていたからだと言うのはここだけの話だ。
﹁だったら、後は直接体内にちょっかいをかけられた時のための対
策ね﹂
﹁万能薬で問題ない﹂
﹁寄生虫とかもいけるの?﹂
﹁いける﹂
澪の回答を聞き、戦闘するだけなら問題は無いらしいと結論を出
す真琴。後の問題は、どうやってあれを仕留めるか、だろう。
﹁あの手のは燃やすのが手っ取り早い訳だけど、たいまつと油ぐら
いでどうにかなると思う?﹂
﹁微妙﹂
﹁やっぱり?﹂
﹁あの手のは、魔力を乗せた炎でないと多分焼けない﹂
1292
澪の指摘に、思わず唸る真琴。メジャーな炎の魔法剣をひねくれ
者根性であえて触らなかったつけが、こんなところでのしかかって
きたのは予想外にもほどがある。もっとも、魔法剣は習得が面倒な
ものが多いので、無効化されにくい光属性一本に絞るのはそこまで
おかしな選択肢ではないのだが。
﹁澪、あれを焼くのに使えそうな魔法とかはある?﹂
﹁焼くだけならできるけど、攻撃には使えない﹂
﹁了解。最悪、出来るだけ小さく切ってその魔法で地道に焼いてい
きましょう﹂
真琴の言葉に澪が頷いたところで、扉がゆっくり開き始める。ど
うやら、準備に貰える時間は、これで終わりらしい。
﹁準備はいい?﹂
﹁いつでも﹂
澪の言葉を聞くと同時に、扉が開ききるのを待たずに突撃。先制
攻撃とばかりに鞘に入ったままの大剣でモンスターを殴り飛ばす。
スマッシュホライゾンという、水平方向への吹っ飛ばしに特化しき
ったスマッシュの上位技により、狭くは無い室内の反対側の壁まで、
一気に吹っ飛ばされるモンスター。
﹁バスターショット!﹂
起き上がりかけていたモンスターを更に吹っ飛ばして壁に叩きつ
1293
け、追い打ちで縫いつけるように数カ所を射抜く澪。動きが十分阻
害されている事を確認し、まずは様子見程度に手だけを切り落とし
て細かく切り刻む真琴。念のために燃やそうとして、嫌な予感がし
てその場から逃げる澪。次の瞬間、切り刻まれたはずの手首が肉片
から増殖し、澪が居たあたりに向かって飛んできて爆発する。
﹁予想通りと言えば予想通りだけど⋮⋮﹂
﹁また、性質が悪い⋮⋮﹂
爆発の規模から察するに、多分直撃したところで大したダメージ
は無い。だが、相手が相手だけに、下手に食らって寄生されたら厄
介だ。逃げられるなら逃げに徹するのが正解だろう。
﹁!﹂
迂闊に切り落としたりもできない事を悟り、どうにか方法は無い
かと思考の海に沈みかけたところで、とんでもないものを見て一瞬
動きが止まる澪。
﹁真琴姉! 足元!﹂
だが、動きが止まったのもほんの一瞬。即座に真琴に警告を発す
る。その言葉を聞き、特に確認せずに澪の方に飛びのく真琴。間一
髪というタイミングで、真琴の足元に這い寄ってきていた粘菌を避
ける。
﹁⋮⋮うわぁ⋮⋮﹂
﹁困った⋮⋮﹂
1294
あまりに性質の悪い攻撃に、うめき声しか出ない二人。だが、ま
ごついている余裕はない。いくら動きが遅かろうと、攻撃は止まっ
ていないのだ。
﹁とりあえず澪、攻撃力ゼロでもいいから、魔法で焼いてみて! あたしは出来るだけ足止めしてみる!﹂
﹁分かった!﹂
真琴の指示に従い、粘菌に対して生活系魔法の着火というやつを
かける。マッチやライター程度の火種しか起こせない魔法だが、一
応は魔法の炎。足止めに真琴が押しつけているたいまつの炎よりは
効果が出ているようだ。
﹁真琴姉、効いてる!﹂
﹁了解! って事は、後は他の手が無いかを考えながら持久戦よ!﹂
少しでも効果があるなら、まずはその手段を限界まで使ってあが
くしかない。宏がドーガを木刀でスキルを使わずに殴るようなささ
やかなダメージしか与えられないが、どうやら焼いたところが復活
するとか増殖するとかいう事は無いらしい。
﹁にしても、キリが無いわね!﹂
状況に変化が無いどころか、じりじりと押され始めている事に対
しての焦りをにじませ、真琴が思わず叫ぶ。確かに澪が焼いたとこ
ろからは増殖しないが、それ以外のところがどんどん増えて行くの
で、実際のところは焼け石に水レベルなのである。スタミナ的には
1295
全然問題は無いが、対処に関してはだんだんと追い付かなくなって
きている。
﹁攻撃魔法と同じレベルは無理﹂
﹁分かってるって。てか、何かいいアイテムないの!?﹂
﹁今テンパってて思い付かない。具体的に提案﹂
﹁たとえば火炎石!﹂
鞘に入れた剣で粘菌をはねのけ、たいまつで牽制しながら土壇場
で閃いた、初級の攻撃アイテムの名前を叫ぶ真琴。それを聞いて、
思わずはっとする澪。テレス達の指導でさんざん作ったはずのアイ
テムなのに、意識からすっかり抜け落ちていたのだ。
﹁結構たくさんある!﹂
﹁じゃあ、悪いけどそいつをばら撒いて! あたしはちょっと手を
離せそうにない!﹂
﹁了解!﹂
鞄に手を突っ込み、倉庫の中の商品ではないアイテムを突っ込ん
だあたりから、かき集められるだけの火炎石をかき集める。それを
真琴に当たらないようにばら撒き、一気に発動させる。
﹁よし!﹂
﹁効いてる!﹂
1296
効果は劇的だった。真琴達を壁際まで追い詰めていた粘菌が、一
瞬にして派手に焼き払われる。だが、百近い火炎石による炎により、
最初の寄生体を含む八割を焼き払うことに成功したが、止めを刺す
には至っていない。
﹁もう残ってないの!?﹂
﹁無い!﹂
﹁拙いわね⋮⋮﹂
確かに形勢は逆転したが、残った二割がこの期に及んでまだ増殖
を始めている。しかも、よく見れば天井に這い上がって難を逃れた
連中もいるため、すぐに巻き返されそうだ。
︵何か、何か残ってるはず!︶
アイテム、という手段は十分な効果を発揮した。なら、他に使え
る手があるはずだ。たとえば、魔力を持った油かアルコール、それ
を燃やした炎なら?
﹁真琴姉! あれ!﹂
﹁分かってる!﹂
もしかしたらいけるかも、と言う手段を考え付いたのと同じぐら
いのタイミングで、粘菌たちがなにやら行動を起こす。焼け残って
いた菌糸が一箇所に集まり、巨大なきのこになったのだ。
1297
﹁どうせ、あれも炎熱系のスキルが乗った魔力打撃以外、物理攻撃
はほとんど効果ないんでしょ!﹂
﹁十中八九、そう﹂
﹁とりあえず手は考えたから、少し時間稼いで頂戴!﹂
﹁了解!﹂
先が見えたからか、澪にしては元気よく返事を返し、大量に矢を
つがえるとその先に着火魔法で火をつける。
﹁アローシャワー!﹂
巨大きのこを囲むように、燃え上がる矢が地面に突き刺さる。そ
の熱気にひるみ、動きが数秒止まるきのこ。大したダメージになら
ないとはいえ、やはり炎は苦手らしい。
﹁女の身でこれやるのはどうかと思うけど⋮⋮﹂
その数秒間を存分に活かし、かばんの中から銘酒ドワーフ殺し、
それも神殿に奉納してくれと聖別されてお神酒となった物の一本を
取り出す。
﹁これ以外にいい手が思いつかない以上⋮⋮﹂
左手に酒瓶を下げ、右手に持ったたいまつの炎を確認し、再び巨
大きのこをにらみつける。
﹁大道芸に付き合ってもらうわよ!!﹂
1298
何かを吹っ切るように高らかにそう宣言すると、口で酒瓶の栓を
抜き、一気に口いっぱいに酒を含む。火を近づけただけで引火しそ
うなほど高濃度のアルコールが口の中に広がる。飲み込みたくなる
誘惑を必死になってこらえ、相手に残りの酒をある程度加減してぶ
ちまけると、たいまつの炎を口の高さに掲げる。そのまま、できる
だけうまく霧状になるように気をつけながら、口の中身を一気に噴
出す。
﹁ま、真琴姉、それはいくらなんでもちょっと⋮⋮﹂
大道芸と言い切った真琴の、その言葉に一切偽りのない行動に、
さすがに突っ込まざるを得ない澪。ほぼ純アルコールじゃないのか
と言われるアルコール度数は伊達ではなく、すさまじい勢いで燃え
広がり巨大きのこを焼き尽くす。
澪があきれた表情で見守る中、とどまることを知らずに燃え続け
た炎が、その場のモンスターをすべてこんがり焼き上げる。その香
ばしいにおいに酒飲みとしての顔がのぞきかけるも、さすがに状況
が状況ゆえにぐっとこらえる。
﹁まあ、さすがに全部焼き尽くせたみたいだし、ちょっとだけ回収
して先に進もう﹂
﹁そうね。で、これ何かに使えるの?﹂
﹁師匠なら多分、使い道を知ってると思う﹂
宏なら、何かに使うんじゃないか。その言葉に反論できる人間は、
少なくとも知り合いの中にはいない。
1299
﹁とりあえず、どれだけ持っていく?﹂
﹁ん∼、あのきのこぐらいは全部持って行っていいかも﹂
どうにかぎりぎりで戦闘を乗り切った二人は、割と即座に平常運
転に戻るのであった。
なお、中ボス戦らしいモンスターとの戦闘描写がなかった宏達は、
と言うと⋮⋮。
﹁やばいなあ﹂
﹁なんか、寒気がします⋮⋮﹂
﹁そらまあ、明らかにボスルームやし﹂
バルド︵本物︶の全力全開と変わらぬ量の瘴気を放つ部屋の前で、
困惑の声を上げていた。
﹁さすがに、さっきのオオサンショウウオより強いですよね?﹂
﹁そらまあ、さすがになあ﹂
部屋の前で、さすがに困ったと言う態度でごちゃごちゃ話し合う
1300
二人。なお、オオサンショウウオというのは宏達が遭遇した中ボス
らしきモンスターだったが、自慢の再生能力で千日手に持ち込むよ
り先に、宏のお家芸であるスマッシュとスマイトによるお手玉で首
の骨をへし折られ、あっという間に脳を完全に破壊されたために割
と秒殺に近い形で葬り去られた。再生能力は高くても、防御力と生
命力はそこまで高くなかったことが敗因である。
足を切り落としたときにあっさり再生して見せたことにより、宏
に方針を固めさせてしまったのもいけなかったようだ。せめて宏の
武器が手斧のままでスマイトを習得していなければ持久戦に持ち込
めて、アルチェムのスタミナぐらいは枯渇させられた可能性はあっ
たのだが。
﹁まあ、とりあえず下手に動かんと、ほかのみんなをもうちょい待
とか﹂
﹁そうですね﹂
﹁で、さっきのサンショウウオの足、切り落とした方のんを軽く焼
いてみようかと思うんやけど、食べる?﹂
﹁⋮⋮少しだけ﹂
現在、三時のおやつぐらいの時間。それなりに動き回ったことに
よる軽い空腹に負け、一般的にはゲテモノに分類されるであろうサ
ンショウウオの足肉のあぶり焼きとこのダンジョンで取れた正体不
明の果実による間食を取るアルチェムであった。
1301
第7話︵後書き︶
作者の性格の悪さと卓ゲ物としての本性がにじみ始めたダンジョン
攻略。
このダンジョン、結構エロイ︵えぐい、ろくでもない、いやらしい︶
仕様なので
次話もダンジョンの仕様に苦労してもらうことになります。
1302
第8話
﹃ちょ、ちょっと待ってよ!!﹄
宏からの報告を受け、思わず春菜が絶叫した。その叫びが頭に響
き、隣にいた達也が思わず顔をしかめる。
﹃春菜さん、もうちょい声落としてくれへん?﹄
﹃あ、ごめん⋮⋮﹄
﹃いや、今のはヒロが悪いだろう﹄
宏にたしなめられて即座に謝った春菜を、これまた間髪いれずに
達也が擁護する。実際のところ、強制的に分散させられたというこ
の状況下において、唐突にボス部屋を見つけたなどと言われれば思
わず叫んでしまっても仕方があるまい。
﹃それで、今はどういう状況なんだ?﹄
﹃とりあえず壁壊してちょっと引き返して、そこそこ安全そうな場
所で待機中や﹄
﹃そうか﹄
流石に、ボス相手にそのまま突撃をかけるような無謀な真似はし
ていないらしいと知り、とりあえず安堵の声を漏らす春菜と達也。
宏の性格上まずそんな真似はしないだろうが、このダンジョンの性
1303
質を考えると、どうにもならなくなって戦闘を開始せざるを得なく
なっている可能性は否定できなかったのだ。
何しろ、特に何も行動せずに十分以上同じ場所にとどまり続ける
と、壁や通路が動いて追い立てるようなダンジョンだ。宏達がボス
戦を強いられていてもおかしくない。
﹃とりあえず、こっちも大分瘴気の中心が近くなってきた気がする
から、もうしばらく待ってて﹄
﹃了解や。真琴さんらの方は?﹄
﹃あたし達の方も、かなり瘴気が濃くなってきたわ﹄
﹃レンジぎりぎりだけど、春姉と達兄の気配はとらえた﹄
﹃ほな、そっちはもうじき合流やな﹄
﹃多分﹄
当初の状況からすれば、ずいぶんと事態は好転してきている。量
産した火炎石を使いきったのは少々痛い気もするが、消耗品なんて
使って何ぼである。無くなったら、また作ればいいのだ。
﹃とりあえず、そんなにせかすつもりはあらへんけど、こっちもい
つまで安全圏に引っ込んでられるかは分からへん。焦らん程度に急
いでくれたら助かるわ﹄
﹃分かってる﹄
1304
﹃もっとも、どんな構造になってるかは分からねえから、近くに見
えてもすぐに合流できるとは限らねえんだよな。まあ、ここまで来
たら、このダンジョンのラスボスも多少の時間稼ぎと退路を塞ぐ以
外の小細工はしてこねえだろうが、な﹄
﹃何にしても、ええ加減壁が分厚うなってきたから、そろそろ逆行
するんも限界っぽいわ。最悪持久戦に持ち込んで粘るけど、僕はと
もかくアルチェムがなあ﹄
宏の懸念は、結局のところこの状況でボス戦に突入せざるを得な
くなった場合の最大の問題であろう。戦闘能力的には決して低くは
ないアルチェムだが、それでもトータルスペックとしてはゲームの
時のボリュームゾーンにはやや届いていない。その上このダンジョ
ンは、全体的に弓使いにとっては相性が悪い相手が目立つ。ボスが
予想通りの相手であるならば、今回は最初から最後までずっといま
いち役に立たないまま終わる可能性すらある。
﹃悪いが、そこは頑張ってくれ、としか言えん﹄
﹃分かっとる﹄
それを最後に足を止めず続けていた会話を打ち切り、周囲に対す
る警戒を一段と強めながら更に足を速める春菜と達也。はっきり言
って、現状は間違いなく危機的状況にある。それも最初に春菜が危
惧した方向ではなく、正真正銘チーム瓦解と宏とアルチェムの命の
危機だ。
﹁達也さん、魔力の余裕は?﹂
﹁十分だ﹂
1305
﹁だったら、ちょっと無理をしてもいいよね?﹂
﹁状況が状況だからな﹂
流石に、今回は焦るなとは言えない達也。何しろ、彼自身も焦り
を押さえきれていない。
﹁とは言え、結局問題なのは⋮⋮﹂
目の前の分岐を見て、達也が思わず唸るような声を出す。この期
に及んでまだ、最終的には意味が無く、だが短期的には時間稼ぎと
して多大な効果がある無駄な分岐を突きつけてくるあたり、本当に
根性の曲がったダンジョンである。
﹁目先の分岐、どっちが時間的にましか、だよな﹂
﹁だよね﹂
どうせ最終的にはボスルームに到着させられるのは目に見えてい
るのだが、分岐があると言う事はどちらかは確実に遠回りをさせら
れると考えられる。その判断材料が瘴気の濃淡しかないというのが
厄介なところである。
﹁でも、こう言うのは考えるだけ無駄だよ﹂
達也の問題提起をあっさりバッサリ切り捨て、考えるそぶりすら
見せずに瘴気の濃い方へ足を進める春菜。そのある種男前と言って
いい態度に、大慌てで後をついていくしかない達也。
1306
﹁考えるだけ無駄、とは?﹂
﹁悩む時間で結構な距離が稼げるし、そもそもどちらかが近道だっ
て言う保証すらないから﹂
﹁なるほど、下手な考え休むに似たり、か﹂
﹁そう言う事﹂
今の状況では、ちんたら迷っている暇はない。遠回りだろうが距
離は詰められるはずなのだから、下手に考えずに直感に従うべし。
状況が切羽詰まってきた事で腹が据わった春菜は、むしろダンジョ
ンに入った直後よりも冷静に行動を決めていた。
﹁⋮⋮モンスターか。こっちが正解の可能性が高いな﹂
﹁下手に戦闘を避けようとして、ボス部屋で挟み撃ちにあったら面
倒だし危ないから、出来るだけ最低ぎりぎりの消耗で全部殲滅﹂
﹁だな﹂
春菜の方針に同意し、目の前を塞ぐ鼠の群れをグランドナパーム
で焼き払い始める達也であった。
1307
一方、真琴と澪。
﹁こっち﹂
﹁了解﹂
特に話し合いもせずに、澪の探知に従ってサクサクと先に進んで
いた。こちらは無駄な戦闘を避け、とにかく足を速める事で距離を
稼ぐ方針のようだ。
﹁えらく長い道ね⋮⋮﹂
﹁でも、戦闘するよりは多分早くつく﹂
﹁一撃で殲滅してても?﹂
﹁毎回一撃で殲滅できるほど、大技の連発効く?﹂
澪の否定できない種類の反論に、とりあえず沈黙を持って答えと
する真琴。
﹁で、瘴気はどう?﹂
﹁確実に近づいてきてる﹂
﹁次の分岐は?﹂
﹁モンスターがいないのはこっち﹂
真琴の問いかけに対し、現在の道から左側に伸びた通路を示す澪。
1308
その言葉に頷くと、迷うことなくモンスターの居ない方へと進んで
行く。
﹁宏達と春菜達の位置は?﹂
﹁師匠の位置は⋮⋮。うん、見つけた。方向としては右の方。春姉
達は、左側。さっきからほとんどボク達との距離は変わってない。
たまに立ち止まってるのは、多分戦闘してる﹂
﹁了解﹂
唐突に大きくカーブを描き始めた通路を道なりに進むと、床を覆
う苔の分布が急に変わる。
﹁澪﹂
﹁空間がおかしい。多分、ワープしてる﹂
﹁先の瘴気度合いは?﹂
﹁こっちより濃い﹂
どうやら、先ほどの中ボス戦と同じパターンらしい。つまり、こ
こを超えるとまた位置の把握がおかしくなる訳だ。最悪、もう一度
ぐらい強力なモンスターとやり合わなければいけない可能性も覚悟
しておく必要がありそうである。
﹁まあ、引き返せないから行くしかないんだけど﹂
﹁待って。一応、罠は調べておく﹂
1309
とっさに真琴を制止し、もはやお約束となった十フィート棒で壁
から床から天井から、ダンジョンをくすぐるかのような繊細なタッ
チでチェックを始める澪。
﹁おかしな感触がある。わざと強めに突いてみるから、注意して﹂
﹁OK﹂
一応真琴に警告して、不自然な感触がある場所をぐっと押しこん
でみる。次の瞬間、境界線から向こう側が苦しんでいるかのごとく、
通路全体を不規則にのたうたせ始めた。間違えて踏んでいたら、な
かなかの大惨事になりそうな光景である。
﹁この期に及んで初めて罠が出てくるとか⋮⋮﹂
﹁相手も必死、って訳ね﹂
あの中に入っていればまともに身動きすら取れそうにないほどの
たうつ通路。それを見て流石に険しい顔をする二人。道なき道を行
ったとはいえ、よくもまあ宏達は無事にボスルームにたどり着いた
ものである。
﹁さて、どうしたものか﹂
﹁もうちょっと、小細工してみる﹂
﹁任せた﹂
こういう状況で取れる行動が極端に少ない真琴は、どうしても澪
1310
にまかせっきりになってしまう。せめて、何か出来る事を考えなけ
ればと、集中力の限界まで通路を観察する。春菜達の話では、少な
くとも普通の火炎系攻撃魔法では、壁も床も全く燃える気配が無か
ったと言う。
聞けば聞くほど、どうやって宏が壁をぶち抜いたのかが分からな
くなるが、あの男は発動できないとはいえファーレーンで身につけ
たエクストラスキルの影響もあって、筋力自体は下手をすれば四ケ
タの大台に手が届きかけている可能性がある。それだけの筋力で構
造物破壊が得意な武器を使ってスキルを乗せて壁を殴れば、たとえ
初級の攻撃スキルでも十分な破壊力を持たせられるのだろう。武器
が魔鉄製のものに切り替わっている事も、この場合見逃せない要素
だ。
現状の宏は、重量とバランスの問題で手数が少ない武器を使って
いる上、倍率一倍の初級スキルしか持っていないため総合火力は中
の下程度だが、最大火力の維持可能時間と長期戦になった時の合計
ダメージは戦闘系の廃人に迫る勢いである。もはや雑魚相手には低
火力とは言えないところまできている。一定ラインよりタフな相手
には攻めあぐねてしまうという欠陥はそのままだが。
真琴も筋力は近接型戦闘廃人の平均程度は持ち合わせているので、
鈍器があれば普通の石壁ぐらいは簡単に粉砕できる。だが今回に関
しては大剣で軽く切りつけた感触からすると、たとえ宏から武器を
借りて壁を殴ったとしても、彼女のスペックではこのダンジョンの
壁を抜いて最短コース、というやり方は難しい。
︵壁を壊す方法は、今考えることじゃないわね︶
それかけた思考を修正し、正面の道について五感で集められる情
1311
報を限界まで収集しようと試みる。視界の中では、澪が弓を使って
いろいろやっている。
︵普通の魔法じゃ駄目、って事は、浄化系のスキル、もしくはその
代用手段なら?︶
澪が何ヶ所かに矢を撃ち込んだあたりで、そんな考えに思い至る
真琴。目の前の通路は澪の手によって、既にどうあがいても侵入不
能になっている。
﹁ちょっと試していい?﹂
﹁了解﹂
澪の許可をもらって、キノコを焼いた時に使ったドワーフ殺しの
残りに布を突っ込み、火をつけて投げ込んでみる。すると⋮⋮
﹁うは﹂
﹁豪快に燃えてる﹂
今まで、火矢を撃ち込もうがたいまつを押しあてようが全く引火
することなくのたうちまわり続けていた通路が、完全に炎の海とな
って焼き払われる。
﹁真琴姉。事態、悪化してない?﹂
﹁まあ、好転するとは思ってなかったけど﹂
澪の突っ込みに対し、素直に正直に返事を返す真琴。とりあえず、
1312
このままでは本当に話が進まない。もう一手、考えていた事を実行
する事にする。
﹁ブルインパクト!﹂
鞘をつけたまま強打系の中級スキルを乗せて大剣を振り下ろし、
溺れ死ぬ間際の虫のごとくもがきのたうつ床を力一杯叩く。その一
撃が当った瞬間、床に大きな亀裂が走る。床全体に入った亀裂が壁
を伝い、天井を覆い、きしみをあげる。そして
﹁崩れた⋮⋮﹂
﹁とりあえず、大人しくはなったわね﹂
亀裂が入ってもろくなった天井が、ついに自重を支えられずに崩
落する。その衝撃で壁が砕けちり、床が動かなくなる。どうやら予
想外に広範囲に火が回ったらしく、境界線から先はそれなりの大き
さの広間になっていた。
﹁⋮⋮鎮火は、したみたいね﹂
﹁まだちょっと熱を持ってる﹂
﹁まあ、これぐらいは大丈夫っしょ﹂
広間の熱さを軽く確認しての真琴の言葉に同意し、念のために十
フィート棒でじっくり確認しながら進んで行く澪。
﹁で、位置関係は?﹂
1313
﹁師匠達の方は今ので一気に近くに来た。でも、多分まずい事にな
ってる﹂
﹁まずい事にって?﹂
﹁さっきまでは瘴気の塊と距離があったのに、今は部屋一つ分も離
れて無いところまで来てる﹂
澪の説明を聞き、一瞬で状況を理解する。どうやら、恐れていた
最悪のケースになってしまっているらしい。
﹁急ぐわよ!﹂
﹁分かってる!﹂
真琴の号令に叫びを返し、今度は瘴気の濃い方へまっすぐ走って
いく澪。だが、二人の焦りとは裏腹に、日本人チームが再び全員集
結するまで、もうしばらく時間が必要になるのだが、今の二人はそ
んな事は分からない。今はただ、少しでも早くボス部屋を探すこと
に全力投球する二人であった。
春菜達がボスルームへと必死になって進んでいる頃、待機してい
た宏達に災厄が降りかかろうとしていた。
1314
﹁なんかおかしい﹂
﹁ですよね⋮⋮﹂
先ほどまで採取以外で十分も同じ場所にじっとしていれば、何ら
かのやり方でその場から追い出しにかかっていたダンジョンが、妙
に大人しい。今までは追い出されそうになるたびに、とりあえず適
当な壁を破壊して通り道を確保し、ボス部屋には出来るだけ近付か
ないように立ち回ってきた。どうやらその積み重ねに対していい加
減学習したらしく、だんだん壁の厚みが増えて貫くのに手間がかか
るようになってきたり、妙な胞子やガスを噴出しはじめたりと手の
込んだ妨害が増えてきた。
流石にそろそろ限界かと思っていたところに、この不気味な沈黙
である。既に今の位置に来てから二十分以上が経過しているのに、
一向にダンジョンに変化の兆しは見られない。
﹁何があるか分からへんから、その心づもりだけは⋮⋮﹂
そう言いかけたところで、ダンジョンの変化に気がつく宏。
﹁ここ出るで!﹂
﹁えっ?﹂
﹁早う!﹂
唐突に行動を起こした宏についていけず、戸惑いながら後に続こ
うとするアルチェム。だが、ダンジョンの行動は実に迅速であった。
1315
﹁あ、足元が!﹂
﹁遅かったか!﹂
部屋を出るより先に、足元が底なし沼のように変化したのである。
一気に膝まで沈んでしまえば、流石の宏といえども簡単に脱出する
事は出来ない。そのまま沼の中に引きずり込まれながら、どこかに
ゆっくり運ばれていく二人。
﹁ひ、ヒロシさん⋮⋮﹂
﹁こうなったら、慌ててもしゃあない。出来るだけ体力温存や﹂
﹁は、はい!﹂
そんな会話を続けているうちに狭かった部屋がいつの間にか広く
なり、更に自分達を運んでいる物が泥から毒々しい色の水に化ける。
﹁ちっ、毒水か!﹂
色が変わったあたりで急激に弱り始めたアルチェムを見て、一つ
舌打ちする。経過時間を考えるなら、そろそろ万能薬の効果が切れ
始める頃だろう。幸いにしてそろそろ終着点らしく、水かさが急激
に減り始めている。一刻も早くアルチェムを保護するために、水流
に足を取られながらも必死になって陸地に上がり、女体に対する恐
怖心を死ぬ気で押さえて彼女を引きずり上げる。そのまま応急処置
として万能薬とポーションを振りかけ、瘴気の塊に対して視線を向
ける。
﹁予想通り、ボスは樹木か⋮⋮﹂
1316
凄まじいまでの瘴気と威圧感をふりまき、その大木はそこに佇ん
でいた。
﹁ヒロシさん⋮⋮﹂
﹁アルチェムは離れた所で休んどき。こいつは僕が押さえとく﹂
ポールアックスを構え、青白い顔をしたままどうにか立ち上がろ
うとするアルチェムを制し、彼女を背に庇うように立つ。手持ちの
ポーションが五級までだった事に加え、意外とえげつない毒性を持
っていた毒水のダメージによる後遺症が万能薬では治療できない事
もあり、アルチェムが動けるようになるまでには一時間やそこらは
かかりそうだ。もっとも、エレーナと違って一日か二日あれば完全
に回復できるだろうと言う事を考えると、後遺症という表現はかな
り大げさなものではあるが。
相手の威圧感に手足の震えは隠せないが、体が条件反射で震える
のはいつもの事だ。それに、バルドの最後の一撃の時に比べればそ
れほど怖いと感じないし、そもそもチョコレートに比べればこの程
度の恐怖、本気でどうという事はない。
﹁さて、こっちのリソースが尽きるんが先か、それともお前さんの
手札が切れるんが先か、勝負や﹂
宏がそう宣言すると同時に、このダンジョンのボスであると同時
にコアでもある樹木モンスター・イビルエントが枝を鳴らす。宏の
孤軍奮闘が、今始まりを告げるのであった。
1317
﹃春菜、ちょっとヤバい事になってるみたいよ!﹄
宏達がイビルエントと対峙していたのとほぼ同じ頃。春菜達に対
して真琴が焦りを含んだ通信を送っていた。
﹃真琴さん? ⋮⋮もしかして!?﹄
﹃澪が言うには、宏の気配が瘴気の塊と同じ位置にいるって!﹄
真琴からの通信で感じたいやな予感。それが的中した事に対して、
背筋に冷たいものが走る。
﹃そっちはどんな状況!?﹄
﹃ちょっと前からループさせられてる! 今、仕掛けを探してると
ころ!﹄
﹃そっちもって事は、徹底的に時間稼ぎに走ってる、って訳ね⋮⋮﹄
十五分ほどの移動でループさせられていると確信を持った春菜達
と、一分ほどの時点で仕掛けそのものには気がついた澪。仕掛けに
引っ掛かったのは春菜達の方が大幅に早かったため、状況としては
それほど変わらない。
﹃そうなると、壁を壊して合流を考えるのが一番手っ取り早いんだ
1318
けど﹄
﹃壊せるの?﹄
﹃一応、手が無いでもないのよ﹄
そう言って、自分達が暴れる廊下を崩壊させた時の事を話す。そ
れを聞いて、少し思案をする。
﹃ドワーフ殺しに獄炎聖波で着火すれば、もしかしたら⋮⋮﹄
﹃可能性はあるわね﹄
﹃澪ちゃん、こっちとそっちの位置関係は?﹄
﹃直線距離で百メートルぐらい。そっちから見て北北西の向き﹄
﹃了解﹄
預かったドワーフ殺しは十本。うち一本は真琴が使いきったと言
っているから、使えるのは残り九本。下手な事をして使いきるとそ
れこそ手詰まりになりかねないから、慎重にやらねばならない。
だが、慎重にやるやらない以前に、まずは本当に思惑通りに行く
のかどうかを確認する必要がある。澪の説明からすると、瘴気が濃
い方向に対して通路を抜けば、とりあえず二人を巻き込まずに済む
はずである。そう予想を立て、実験を開始する。
﹁まずは、直接かけて燃やしてみるところから、かな?﹂
1319
﹁そうだな﹂
未開封の瓶をあけ、きついアルコールのにおいがするそれを壁に
軽くかける。全力ダッシュでそのポイントから離れると同時に、達
也から獄炎聖波が飛ぶ。
﹁⋮⋮悪くはないけど、まだまだってところだよね﹂
﹁霧状にして充満させて爆発させるか、火炎瓶方式でやるかのどっ
ちかの方がよさそうだな﹂
それなりに燃え上がり、結構な範囲と深さを焼きつくして消えた
炎を見て、行動方針を確定させる。
﹁まずは爆発させるとして、どうやって充満させる?﹂
﹁挟みこむように結界を張るから、その中にどうにかしてその酒の
霧を発生させられないか?﹂
﹁やってみるよ﹂
ポーション作りを習う過程で覚えた、指定した液体を操作する魔
法。それを使って結界の中に酒を移動させ、根性を入れて霧状に変
化させてみる。結界と結界の隙間に強烈な酒のにおいが充満し、起
こった霧で視界が一瞬閉ざされる。次の瞬間
﹁獄炎聖波!﹂
達也が気合とともに結界の中に地獄を蓋する聖なる炎を発生させ
る。着火とともに大爆発。両側の壁を大きくえぐり取り、見事に両
1320
側の壁に人一人が通れる程度の穴をあける。
﹁行けたな﹂
﹁行けたね﹂
成果を確認し、一つ頷いて穴を潜り抜ける。あまりちんたらやっ
て、またふさがれてしまってはたまらない。
﹃春菜、達也。どうだった?﹄
﹃壁は壊せたよ。二人はどこに?﹄
﹃爆発が起こった時点で、空間の接続先が変わったみたい。距離を
離された﹄
﹃ループは?﹄
﹃今から確認する﹄
どうやら、このまま合流を許すほどぬるい事はしてくれそうもな
い。だが、とにかく今はボスルームに向かって急ぐしかない。
﹃とりあえず、私達はこのまままっすぐ行ってみる!﹄
﹃分かった。また別のループにはまったら、その時はその時で何か
考えるわ﹄
﹃了解!﹄
1321
お互いの方針を確認したところで、開いたばかりの突破口を駆け
抜ける。彼らにとって、ボス部屋は近くて遠かった。
﹁来いやあ!!﹂
宣戦布告としてアウトフェースを発動させ、イビルエントの意識
を完全に自分に引きつける。同時に、周辺にこっそり立っていた十
数本のハンターツリーから一斉に枝が伸びる。
﹁邪魔や!﹂
アルチェムが巻き込まれかねない位置のハンターツリーを駆除し、
更に続けて挑発を飛ばす。新たな取り巻きを呼び出す可能性は十分
にあるが、それを気にしていてはボス戦など出来ない。
﹁往生せいやあ!﹂
至近距離にいた三本のハンターツリーを切り倒し、すぐさまアル
チェムの正面に戻る。去り際に念のため根っこを切断しておいたか
らか、ハンターツリーが再生する兆しは見られない。だが、これだ
けの濃度の瘴気だと、なにをどうしてくるかなど読めるはずもない。
とにかく安全第一で防御に徹し、我慢比べを続けるしかないだろう。
イビルエントから伸びた枝を払い、ハンターツリーが巻きつけよ
1322
うとしてくる蔦や枝を叩き落とし、飛んできた葉っぱを体で受け止
め、時折距離を詰めて取り巻きを切り倒す。今回に関しては、相手
が動いてこないのは有利な点と不利な点がワンセットになっている
感じだ。
︵予定通りとはいえ、見事に膠着しとるなあ⋮⋮︶
相手が動いてこないため、その場を動かずに攻撃を防ぐのはそれ
ほど難しくはない。が、基本的にアルチェムの前から下手に動けな
い宏にとって、相手が寄ってこないというのはまともに反撃が出来
ないという事とイコールである。何度も挑発と威圧を重ねてターゲ
ットを自分に固定しているとはいえ、遠距離攻撃しかしてこない相
手に対して、護衛対象の前から動くと言う選択を取る度胸は宏には
ない。
その上、ダンジョンボスだけあって、イビルエントの攻撃は宏に
とっても軽いものではない。ほとんど防具で止まっているとはいえ、
ワイバーンレザーアーマーなしでノーダメージにできるとは断言で
きない程度の威力はある。仮に防具なしだったとしても確実に自然
治癒速度の方が上回るだろうが、ノーダメージで済まないという点
は変わらない。防具なしの宏は一般的なフルプレート装備の騎士よ
り防御力が高い事を考えると、そんな人間がノーダメージで済まな
い攻撃を、後ろにいるアルチェムが食らえばひとたまりもない。
故に、何百発、何千発殴られようと、宏はこの場から動かずに耐
え続けるしかないのだ。
﹁せめてハンターツリーを減らせたら、安心してもうちょい前に出
れるんやけどなあ⋮⋮﹂
1323
痛みだけは一丁前のくせにダメージには一切ならないちまちまと
した攻撃に耐えつつ、思わずという感じでぼやく。時間感覚が狂う
ほどの長時間攻撃にさらされ続け、いい加減フラストレーションが
限界に近付いてきている。折れるつもりはなかれど、流石に全くぼ
やかずにやれるほど宏の根性は座っていない。全部の攻撃を防ぐこ
となどとうの昔に諦め、アルチェムを巻き込みそうなものだけを迎
撃し続けてはいるが、それだけでもなかなかの手間だ。
残った一番近いハンターツリーまで七歩。カバームーブでガード
できる範囲からわずかにはみ出る感じの距離が厳しい。壁役として
は重要なスキルだが、あえてガード対象を危険にさらさねばならな
いとあって、それほど鍛えられていないのが厳しい。それでも、当
初の三歩程度という距離からは相当広がっているのだ。後は、これ
で工夫して戦うしかない。
︵距離があるんやったら投擲武器でってのも常套手段やけど、ポメ
はさすがにやばいし手斧は三本。ナイフ類は結構あるけど多分そん
なに効かんし、そもそも軽すぎて簡単に迎撃されそうや。手斧で一
本は何とかできるっちゅうても、そこで手詰まりか︶
いっそ巨大ポメを投げつけてやりたい衝動に駆られるが、至近距
離で迎撃された日には洒落にならない。やるとしたら、最低限取り
巻きを全滅させてからでないと、あまりに危なっかしすぎる。
﹁やるだけやるか!﹂
三十分以上袋叩きにあいながら余計な思考をぐるぐるさせ、何度
も同じ事を考えては踏ん切りがつかずに引っ込めていたアイデアを
ようやく実行する事に決める。伸びてきた枝を強引に払ってへし折
り、大急ぎでウェストポーチから手斧を取り出す。取り出した手斧
1324
にかけられる簡易エンチャントを全乗せして、一番遠くにいるハン
ターツリーに対して全力投球。根元に深々と刺さったところで爆発
を起こし、もう一押しというところまで幹をえぐり取る。追い打ち
でもう一本投げてへし折り、隣のハンターツリーに残りの一本を投
げつける。
ハンターツリーのダメージから、上手くいけばナイフ類でもやれ
るかもしれないと判断、適当に何本か掴み出し、同じように簡易エ
ンチャント全乗せで何本か投げつける。何本かは枝に阻まれるも、
迎撃に出た枝を爆発する事で排除したため、最終的に二本当てるこ
とに成功し、どうにかへし折ってのける。
﹁これが限界やな﹂
残りのハンターツリーは七本。まともな遠距離攻撃手段が無くな
ったため、ここからはひたすら我慢比べだろう。やはりここに来る
前にマイナーヒールではなく最弱の無詠唱・無属性攻撃魔法である
マジックブリットを優先して覚えておくべきだったと後悔しても後
の祭り。今ので危機感を覚えたか、激しくなったハンターツリーの
攻撃にどうにも動きが阻害され、少しでもダメージになりそうな属
性石を取り出すという動作すらできなくなっている。
﹁ヒロシさん⋮⋮!﹂
﹁こんぐらいは大丈夫や! それより、まだ動かれへんねんやろ!
?﹂
﹁ごめんなさい⋮⋮!﹂
﹁あれは避けようが無かったからしゃあない! それより、今は体
1325
休めて動けるように⋮⋮!﹂
そこまでいいかけたところで、不意に宏の体がかき消える。次の
瞬間、アルチェムが壁際まで弾き飛ばされ、宏がその場に移動する。
そして
﹁ヒロシさん!!﹂
イビルエントから伸びた巨大な根が、宏を脇腹から串刺しにして
いた。
﹁達也さん、これ!﹂
﹁間違いなく、ヒロ達が居た跡だな﹂
宏が腹を貫かれていたちょうどそのころ。二度目のループを力技
で突破し、行く手を阻むように流れていた川を飛び越え、モンスタ
ーの群れを始末し、もはや瘴気の塊が間近と言っていいほど近づい
たところで、達也と春菜はついに宏達が居たであろう痕跡を発見し
た。
宏達がイビルエントと交戦を始めてから既に一時間が経過しよう
としており、メンバーの焦りと苛立ちはすでにピークに達している。
澪の探知で二人ともまだ健在である事が分かっているのが救いでは
1326
あるが、相手はボスだ。いつどんな事故が起こるか分かったもので
はない。
﹁俺でも瘴気が分かるぐらいだ。あいつらの居場所は近いぞ!﹂
﹁うん!﹂
ようやく、ようやく見つけた道。ここまで来たら、多少拙速でも
一気にボス部屋になだれ込んだ方がいい。いくつかのトラップやモ
ンスターの集団を強引に突破したため、二人ともそこかしこにダメ
ージは残っている。魔力もいい加減微妙なラインで、中毒が怖い程
度にはポーション類も飲んでいる。本来なら多少でも休憩して態勢
を整え直すべきなのだろうが、それをできるだけの心の余裕は残っ
ていない。
それに、一時間経過してまだ宏とアルチェムが健在だという事は、
状況が完全に膠着しているということだ。膠着状態であれば、自分
達が割り込めば流れをいい方に手繰り寄せる事が出来るかもしれな
い。魔力が半減しているという不安要素はあるが、それでも取り巻
き程度なら始末できるだけの火力は維持している。後はやり方次第
だろう。
﹁遠ざかってるのがこっちだから、ボス部屋はこっちだな!﹂
﹁急ごう!﹂
逸る気を押さえるそぶりすら見せず、宏がぶち抜いたであろう壁
の穴から一直線にボス部屋に突っ込んで行こうとする二人。この時、
周囲の観察がおろそかになっていたため、いつもなら気が付いてい
たであろうそれの存在を見事に見落としていた。
1327
﹁チェムちゃんみ∼つけた!﹂
﹁ひゃんっ!?﹂
その結果、緊張感を根こそぎ奪い取るような萌え系アニメの少女
キャラのような声の謎生物に、あっさりと不意打ちを許してしまう
結果になった。
﹁な、何!?﹂
﹁チェムちゃんふかふか∼﹂
﹁チェムちゃん細∼い﹂
﹁チェムちゃんプニプニ∼﹂
最初の一匹からの不意打ちを許した次の瞬間、どこから湧いて出
たのか更に二匹のそれが春菜の胸と腰にしがみつく。
﹁春菜。そう言うのは、アルチェムの専売特許だと思ってたんだが
⋮⋮﹂
﹁そんなどうでもいいコメントしてないで助けて∼!﹂
タコのような足であちらこちらを撫でまわされ、その何とも言え
ない感覚にもだえながらSOSを発する春菜。先ほどまでのシリア
スな空気は、既に何処にも存在していない。
﹁チェムってのがアルチェムの事だったら、そいつは別人だぞ?﹂
1328
﹁チェムちゃん違う?﹂
﹁チェムちゃんじゃない∼﹂
﹁でもチェムちゃんの匂いする∼﹂
﹁金髪∼。胸おっきい∼。チェムちゃんに似てる∼﹂
﹁チェムちゃんどこ∼?﹂
何とも気が抜ける台詞を吐きながら春菜を解放し、ふよふよあた
りを飛び回りながらアルチェムを探し始めるその謎生物。
それは、何とも評価が難しい外見をしていた。言うなれば、タコ
の萌え擬人化を中途半端に行った結果、という表現が一番分かりや
すい感じである。簡単に見た目を説明するなら、デフォルメされた
女の子を頭部だけにし、髪の毛の先をタコの足のような形状にして、
グロテスクにならないように調整をかけた姿と言えば理解できるだ
ろうか。このまま携帯ストラップなんかにしても問題なさそうな、
マスコットキャラ的な生き物である。
普通に考えれば海辺の生き物に見えるが、どういう原理でか普通
に空を飛び、何事も無かったかのように空間転移を行っているとこ
ろを見れば、別段生息域が何処でも特に困ることなく普通に生きて
いけそうな気はする。
﹁まあ、確かに春菜はアルチェムに似てるが、いろいろ違う点があ
るぞ﹂
1329
﹁そうだよね。そもそも根本的に種族が違うし、私の髪はストレー
トだけどアルチェムさんはちょっとウェーブがかかってるし﹂
﹁春菜は目が青いが、アルチェムは緑だ。それに、声は春菜の方が
色気があるし、何より﹂
﹁背と胸はあっちの方が大きい﹂
達也と春菜が、二人の相違点を次々と指摘して行く。その言葉に
無いはずの首をかしげていた謎生物達が、確かめるように春菜の胸
部に群がっていく。
﹁ふにふに∼﹂
﹁ぷにぷに∼﹂
﹁でもちょっと小さい∼﹂
﹁うん、小さい∼﹂
さんざんこねまわして納得したところで、春菜を解放する謎生物
一同。好き放題もみくちゃにされて息を乱しながらも、小さいとい
う評価に新鮮なものを感じてしまう春菜。この状況でそこに食いつ
くあたり、今更ながらやはり彼女もところどころ残念な性格をして
いる。
﹁で、話を戻すとして、だ﹂
﹁話∼?﹂
1330
﹁なになに∼?﹂
﹁結局、お前さん達は何なんだ?﹂
さっくり知りたい事を切り出す達也。こいつらのペースに飲まれ
て一瞬状況を忘れていたが、本来あまりちんたらしている余裕はな
い。だが、この謎生物を放置しておくのもいろいろ怖いところがあ
るため、まずは正体を確認しておく事にする。
﹁何って∼?﹂
﹁種族∼? 種族∼?﹂
﹁まあ、そんなところだ﹂
﹁私達はオクトガルなの∼﹂
﹁アランウェン様のペット∼﹂
何とも言い難い返事をもらい、どうしたものかと悩む二人。特に
敵意は感じず、この状況で嘘をつく理由もないから真実なのだろう
が、これをペットとして飼っているアランウェンの性格が、ますま
す残念な方向で疑わしくなってきた。
﹁何でここにいる? 後、アルチェムとの関係は?﹂
﹁ダンジョン出来た時に巻き込まれたの∼﹂
﹁外に上手く転移できなくて、普通に生活してたの∼﹂
1331
﹁チェムちゃん巫女∼﹂
﹁巫女巫女∼﹂
﹁ナース∼?﹂
とりあえず、最後の台詞以外は大体理解できる返事が返ってきた。
そのあたりで、なんとなく今回のアランウェンの思惑も理解する。
﹁ようするに、アルチェムを連れて行って、こいつらを回収して来
いってことか﹂
﹁そんなとこだよね﹂
﹁チェムちゃんどこ∼?﹂
﹁多分、この先にあるボスルームに居るはずだ﹂
ボスルームと聞いて、不規則に上下運動をしていたオクトガル達
がぴたりと止まる。
﹁ボス∼?﹂
﹁瘴気瘴気∼?﹂
﹁うん、瘴気の中心部。気配からいって、何か強いモンスターが居
るはずなの﹂
春菜の言葉にまた上下運動を始めると、踊るように何やら不可思
議な動きをして、また最初と同じように並んで上下運動をするオク
1332
トガル達。
﹁イビルエント∼﹂
﹁その場から動かない∼﹂
﹁攻撃多彩∼﹂
﹁仲間捕まってる∼﹂
またまたいろいろと情報をくれるオクトガル達。割と重要な情報
の中に聞き捨てならないものが混ざっている事に気が付き、とりあ
えずそこを突っ込む事にする達也。
﹁仲間が捕まってるって、お前ら一体何匹いるんだよ?﹂
﹁捕まってるのを除いて∼﹂
﹁これだけ∼﹂
その言葉と同時に、複数の部屋を埋めつくさんばかりの数のオク
トガルが現れる。ざっと数えただけでも、間違いなく百匹は居る。
﹁私達∼﹂
﹁群体生物∼﹂
﹁軟体生物∼﹂
﹁一匹いれば三十匹∼﹂
1333
﹁意識は共有∼﹂
﹁分離合体自由自在∼﹂
そんな事を言いながらぽんぽん分離合体を繰り返して見せるオク
トガル達に、思わず絶句してしまう二人。何しろ、一番大きなもの
で、頭の大きさが五メートルぐらいあったのだ。しかも、スペース
の都合で出来ないだけで、やろうと思えば城より大きくもなれると
言っているのだから半端ではない。
﹁それができるんだったら、イビルエントぐらい倒せそうな気もす
るんだが?﹂
﹁無理無理∼﹂
﹁場所狭い∼﹂
﹁取り巻きいっぱい∼﹂
﹁火力ない∼﹂
ゆるい空気と頭の悪そうな喋り方に流されそうになるのをこらえ、
必死になって緊張感を維持しながら重要な情報を拾い集めようとす
る達也と春菜。出来るだけ細かく聞き出そうと四苦八苦し、とりあ
えずオクトガルの攻撃手段がタコの足で薙ぎ払うだけだという事を
聞きだす。軟体動物の体と圧倒的な魔法防御で滅多に死ぬ事はない
が、ボスルームで合体できるサイズでは体格的にパワー負けするの
だとか。
1334
﹁なるほどな。まあ、そいつに関しては当初の予定と変わらねえ。
俺らが突っ込んで行って倒すだけの話だ﹂
﹁だね。それより、真琴さん達は何処にいるんだろう?﹂
﹁合流を待つのは厳しいぞ。そうでなくてもここで時間を浪費しち
まったんだし﹂
達也の反論に頷く春菜。宏と連絡が取れず、真琴達も道に迷って
いるとなると、本来こんなところで謎生物相手にちんたら会話をし
ている暇はないのだ。
﹁真琴さん∼?﹂
﹁仲間∼?﹂
﹁誰誰∼?﹂
﹁どんな人∼?﹂
達也達の言葉に、オクトガルが食いついてくる。
﹁仲間だな。後二人いて、どっちも女だ﹂
﹁女の子∼? どんな人∼?﹂
﹁片っぽは、女の子って言うにはちょっと厳しい年かもな。どっち
も背はそんなに高くない。片方は春菜より十センチぐらい背が低く
て胸が皆無。もう一人は更に十センチぐらい背が低くて、貧乳と呼
んでもらえる程度で見て分かるぐらいには胸がある﹂
1335
﹁分かった∼﹂
﹁連れてくる∼﹂
達也の説明を聞いて、隣の部屋に湧いていたオクトガルの一団が
姿を消す。唖然としているうちに、彼女︵?︶達に絡みつかれた真
琴と澪が現れる。気が抜ける口調の頭の悪そうな喋り方に騙されが
ちだが、印象ほどには頭が悪い訳ではない事が、これではっきりと
証明されてしまった。
﹁確保∼﹂
﹁捕獲∼﹂
﹁拉致∼、監禁∼﹂
﹁身代金∼﹂
﹁遺体遺棄∼﹂
﹁物騒な事言ってんじゃないわよ謎生物共!﹂
他に捕まえ方が無かったのかというような際どい捕獲のされ方を
した真琴が、連想ゲーム的に物騒な事をほざくオクトガルに突っ込
みを入れる。その見事な突っ込みに喜んだオクトガルが、更に好き
放題コメントをほざきだす。
﹁宙づり、宙づり∼﹂
1336
﹁いけにえ、いけにえ∼﹂
﹁処刑、処刑∼﹂
﹁遺体遺棄∼﹂
﹁だから物騒な事を言うなって言ってんの! さっさと下ろしなさ
い!﹂
キシャーという擬音をつけたくなるような感じで吼える真琴を、
わざわざ天井すれすれの高さで解放する。危ないところでどうにか
着地を決め、思わずジト目で連中を睨みつける真琴。
﹁ちっぱい、ちっぱい∼﹂
﹁成長期∼﹂
﹁揉んで育成∼﹂
﹁バストアップ∼﹂
﹁寄せて上げる∼﹂
﹁何この屈辱⋮⋮﹂
澪は澪で、複数のオクトガルにようやく育ち始めたという感じの
乳房を好き放題いじられ、無表情のまま屈辱に震えている。数の暴
力というやつは、かくも無情なものなのだ。
﹁で、こいつら一体何よ?﹂
1337
﹁オクトガルって言う、アランウェン様のペットだって﹂
﹁ペット、ペット∼﹂
﹁眷族、眷族∼﹂
﹁いあいあ、いあいあ?﹂
﹁窓に? 窓に?﹂
﹁誰かこいつら黙らせて⋮⋮﹂
誰かが何かを言うたびに反応して、好き放題さえずって連想ゲー
ムでおかしなことを言い出すオクトガル達に、思わず疲れたように
言葉を漏らす真琴。時折、この世界でその単語や概念が通じるのか
疑問が尽きない発言をするところが、余計に疲れる。ナースだのい
あいあだの窓にだの、向こうでも濃いめの人たちにしか通じなさそ
うなネタを何処から仕入れてきたのかが気になるが、この場合多分
主犯はアランウェンだろう。
﹁こいつらについては置いておこう。どうやら、この向こうでヒロ
達がボスとやりあってるらしい﹂
﹁戦闘してる音が聞こえる。間違いない﹂
﹁こいつらの相手をしてたから、余計な時間を食っちまった。急ぐ
ぞ﹂
﹁すとっぷ、すとっぷ∼﹂
1338
﹁用件まだ∼、用件まだ∼﹂
先に進もうとした達也達を、オクトガルが数の暴力にあかせて足
止めする。
﹁邪魔するなよ﹂
﹁アルチェムさんが向こうに居るんだよ!?﹂
﹁そっち危険、そっち危険∼﹂
﹁ここも危険、ここも危険∼﹂
﹁足元注意、足元注意∼﹂
わざわざ引きとめた上で、要領を得ない事を言い続けるオクトガ
ル達。その言葉に行こうとしていた通路の先を見て、思わず絶句す
る。
﹁なんだ、ありゃ⋮⋮﹂
﹁もしかして、底なし沼?﹂
﹁毒沼に変化、毒沼に変化∼﹂
﹁沼地拡大、沼地拡大∼﹂
言いたい事を理解し、顔色を変えて引き返そうとする春菜達。だ
が、時すでに遅く⋮⋮
1339
﹁うわあ!﹂
﹁ちょっ!﹂
﹁足元が!﹂
﹁このトラップはひどい!﹂
彼らの立っていた足場が一瞬で底なし沼に変化、一気に自力脱出
不可能なところまで引きずり込まれるのであった。
1340
第8話︵後書き︶
このタコたちは、セクハラならタコじゃね? みたいな会話から
やっぱりマスコットなら女の子だろうを経由して誕生することにな
りました。
というか、女の子の頭部にでもしないと、普通に成敗されてしまう。
1341
第9話
身体が腰のあたりまで泥に埋まり、流石に悲観的な思考で頭が埋
め尽くされたところで、唐突に体が浮き上がり始める。
﹁えっ?﹂
﹁宙づり、宙づり∼﹂
﹁回収、回収∼﹂
戸惑いの声を上げる春菜に応えるかのように、能天気な緩い声が
色々と連想ゲームのように好き放題喋りはじめる。
﹁キャッチャ∼、キャッチャ∼﹂
﹁UFO、UFO∼﹂
﹁あぶだくしょ∼ん﹂
﹁地上の男に∼﹂
﹁飽きた寝る∼﹂
﹁何でその手の単語とかネタとか知ってるのって言うか、かなり微
妙な改変をしてるのはなぜ?﹂
春菜の突っ込みを完全スルーして、楽しそうにふよふよと浮かび
1342
ながら連想ゲームを続けるオクトガル達。みると、他の三人も合体
したオクトガルに救出され、結構な高さをゆっくり移動している。
﹁キャッチャ∼、キャッチャ∼﹂
﹁救出救出∼﹂
﹁アーム緩い∼﹂
﹁一個救出三千円∼﹂
﹁人形原価○円∼﹂
﹁生々しい事言うなよ、っつうか、何で日本の通貨単位とか知って
るんだよ!﹂
喋れば喋るほど、色々な疑問を生み出してく謎生物・オクトガル。
もしかしたら、アランウェンがそういう性格なのかもしれないと、
アルフェミナの事で微妙に揺らいでいた神様への敬意が、更に揺ら
いでいく一同。
﹁ぼろ儲け∼﹂
﹁やりすぎて客こない∼﹂
﹁破算倒産∼﹂
﹁遺体遺棄∼﹂
﹁その流れで何で遺体遺棄すんのよ!﹂
1343
突っ込んだら負けだと思いつつ、どうしてもスルー出来ずに突っ
込んでしまう真琴。どうやら遺体遺棄という物騒な単語を気に入っ
ているらしく、事あるごとに使いたがる。
﹁宙づり宙づり∼﹂
﹁運搬運搬∼﹂
﹁あぶり焼き、あぶり焼き∼﹂
﹁解体解体∼﹂
﹁遺体遺棄∼﹂
﹁遺棄するんだったら、最初からあぶり焼きにするなよ⋮⋮﹂
出来るだけ我慢しようとしているのだが、この能天気な声にはど
うしても突っ込みたくなる達也。これが彼女︵?︶達の策略だとし
たら、実に恐ろしい事だ。
﹁おっぱいおっぱい∼﹂
﹁ひゃん!﹂
﹁大きいのが至高∼。小さいのは未来への希望∼﹂
﹁おっぱいに貴賎なし∼﹂
﹁おっぱいおっぱい∼﹂
1344
﹁おっぱいよりも、君が好き∼﹂
ただ運んでいるだけに飽きたのか、とうとう運搬中の春菜に余計
なちょっかいを出し始めるオクトガル達。何故か不思議と苦しくな
いとはいえ、不自由な体勢で運ばれている春菜には抵抗の余地はな
い。性別以前に生き物として別カテゴリーだから辛うじて許される
セクハラ攻撃に、必死になって耐え続ける羽目になる。
そして、その手の攻撃は伝染するものだ。
﹁偽乳∼、偽乳∼﹂
﹁詐胸∼、詐胸∼﹂
﹁エアーD∼﹂
﹁パット追加∼﹂
﹁やかましい!﹂
多分、プライド的な意味では一番ダメージが大きかったのは真琴
であろう。わざわざ胸部にいろんな詰め物を勝手に詰められ、無理
やり見た目だけはDカップぐらいに見えるようにされた揚句にさも
自分が進んでやりました、見たいな言われ方をしたのだから。
確かに真琴は、貧乳とすら呼んでもらえない、えぐれていないか
ら辛うじてセーフと自分を慰めるしかない胸について非常に気にし
ている。気にはしているが、だからこそパットを仕込んだりありも
しない肉を寄せてあげて誤魔化そうという真似を避けてきた。何と
1345
いうかこう、何かに負けた気が非常にするからである。
それをこんな風にいじられて、ダメージが無い訳が無いのだ。口
うるさく抗議するものの、文句を言えば言うほど喜んで面白がって
好き放題いじり始めるのだから、たまったものではない。あまりに
好き放題やられて疲れ果て、涙目になりながらだんだん口数が減っ
ていくのが哀れである。
もっとも、達也以外は似たり寄ったりな状況だ。春菜は早々に文
句を言うこと自体諦めてされるがままになっているし、澪は澪で乱
暴にされると痛いからと注文をつけるだけで、それ以外は黙って屈
辱に耐え続けている。そのせいか、真琴に比べてその攻撃は比較的
おとなしい。
﹁俺に対しては、えらく大人しいじゃないか﹂
﹁男の子にセクハラは危険∼﹂
﹁生々しいの∼﹂
﹁いじっても楽しくな∼い﹂
﹁柔らかい方が好き∼﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
オクトガル達の言葉に、なんとなく妙な説得力を感じる。確かに、
この状況で股間の逸物を撫でまわされても困るのは事実だし、かと
いってそれ以外で分かりやすいセクハラポイントも特にない。男の
ごつごつした尻を撫でても楽しくない、というのもなんとなく分か
1346
る。そういったもろもろを理解した達也が、心の中で自分が男であ
る事を本気で感謝したのも無理もないだろう。
﹁それにしても、ヒロ達は大丈夫か?﹂
﹁戦闘してる音は微妙に聞こえてくるけど⋮⋮﹂
﹁気配はまだしっかりしてる⋮⋮﹂
達也の疑問に対し、何処となくぐったりしながら春菜と澪が情報
を告げる。無駄な抵抗をあきらめたため真琴よりはマシだといえど、
やはりオクトガルのセクハラ攻撃は疲れるのだろう。
﹁もっとスピードは、って言うのは贅沢だろうしなあ﹂
﹁私達∼、汎用型∼﹂
﹁荷物運ぶとこれが限界∼﹂
﹁だよなあ⋮⋮﹂
オクトガルの飛行速度は、それほど速くない。なんとなく普通に
やっても攻撃が当らない印象はあるが、それは速度によるものより
も、反応の良さとつかみどころのない動きに寄るところが大きいだ
ろう。
基本的にそれほどスピードが速い訳でもないところに、人体とい
う結構な重量物を抱え込んでいるのだ。そもそも運んでもらえるだ
けでもありがたい。太ってはいないといっても一番軽い澪ですら四
十キロはあるところに、全員それなりに重量のある装備を身にまと
1347
っている。日本人女性の平均的な身長体重の真琴も大剣装備と言う
都合上、装備重量が軽い達也とトータルではどっこいぐらいの重さ
がある。この場にはいない宏に至っては、行軍中は全体が金属でで
きているポールアックスとジャイアントモールをぶら下げているた
め、普通に百キロの大台を超えている。宏は例外としても、一番軽
い澪ですら総重量で言えば五十キロを超えているとなると、オクト
ガルがそれほどのスピードで運搬できなくても当然の話である。
﹁転移してっていうのは、⋮⋮駄目だよね。出てきたところを狙い
撃ちされるかも﹂
﹁集中砲火∼﹂
﹁ハチの巣、ハチの巣∼﹂
﹁遺体遺棄∼﹂
﹁今回ばかりはそのネタ洒落にならないからやめて⋮⋮﹂
相も変わらず隙あらば遺体遺棄という単語につなげたがるオクト
ガル達を、疲れたような顔で窘める春菜。今回は本当に冗談では済
まない。
﹁結局は、大人しくしておくしかないって事だな﹂
﹁みたいだね⋮⋮﹂
﹁足元があれだから、しょうがない﹂
滔々と流れる毒液の川を示し、諦めをにじませて澪が告げる。そ
1348
の言葉に何一つ反論の余地が無く、なんとなく無言になる一行。
﹁どんぶらこ∼、どんぶらこ∼﹂
﹁ぷかぷか、ぷかぷか∼﹂
﹁クラ○ボ∼ン﹂
﹁カプカプ笑ってる∼﹂
そんな空気を全く読まずに、マイペースに適当な事を言いながら
一行を運搬するオクトガル。桃太郎からなぜか明治から昭和初期に
多数の童話や詩を発表した文豪のネタになっているが、こいつらの
言動に慣れてきたせいかそういう気分になれないからか、誰も突っ
込みを入れない。いい加減飽きたからか、セクハラ攻撃は止まって
いる。
﹁⋮⋮そう言えば﹂
﹁何何∼?﹂
﹁どうしたの∼?﹂
春菜がぽつりとつぶやいた言葉に、一斉に食いつくオクトガル達。
会話が成立するようで成立しない連中ではあるが、基本的に人懐っ
こくておしゃべりが好きなのだ。
﹁えっと、ここのボスってイビルエントって言ってたよね?﹂
﹁言ってた∼﹂
1349
﹁間違いな∼い﹂
﹁名前から察するに、エントが瘴気に侵されて変質した生き物だと
思うんだけど﹂
﹁せいか∼い﹂
﹁正解者に千点∼﹂
春菜の言葉に、妙に嬉しそうに飛び回りながら口々に連想ゲーム
を続ける。連想ゲームを続ける連中をとりあえず無視し、核心とな
る質問を口にする春菜。
﹁イビルエントが動かないって言ってたよね?﹂
﹁動かない∼﹂
﹁位置固定∼﹂
﹁攻撃は遠距離∼﹂
﹁エントは普通に自分の足で動き回ってたと思うけど、イビルエン
トは違うの?﹂
エントは、数千年生きた樹木が周囲の魔力などを取り込み続けて、
森の精霊と呼んでいいところまで自身を昇華させた存在である。そ
の姿は本来樹人とでも呼ぶのが正しいものであるため、根が変化し
た二本の足で自由に動き回り、腕として使える枝で器用にいろいろ
な事をこなす。ただし、生まれるまでに数千年かかる事と、同じ時
1350
間をかけても必ずしも進化する訳ではないことから、一種族として
扱えるほどの数はいない。ついでに言うと、似たような姿の種族で
あるトレントとは全く関係が無い。
それが瘴気を吸ってモンスター化したのであれば、やはり自身の
足で自由自在に動き回りそうなものだが、少なくともここのボスを
やっているイビルエントは違うらしい。
﹁瘴気吸収、変質∼﹂
﹁異界化∼﹂
﹁ダンジョン発生∼﹂
﹁同化∼﹂
﹁ダンジョンと一体化∼﹂
﹁えっとつまり、ダンジョンと一体化したから、身動きできなくな
ったって事?﹂
聞き返した春菜に、正解∼、と能天気な返事が返ってくる。その
ままねじれ国会だの合意を一方的に反故だの責任転嫁だの脱官僚は
政治家の思いつきだの偏向報道だの、妙にブラックなネタを連想ゲ
ームで続ける。そんなどこぞの国の一時の与野党を思い出させるネ
タをきっちりスルーし、思いのほか重要な情報を頭の中で整理する。
この情報でほぼ確定したと言えるのが、イビルエントを仕留めれ
ばダンジョンが消滅するということだ。もはや場が固定されている
蜃気楼の塔や煉獄などと違い、今回のダンジョンは突発的に発生し
1351
たものだ。瘴気の量も大したことが無く、固定ダンジョンになるま
で早く見積もっても五百年ぐらいかかるはずで、核となっているイ
ビルエントが居なくなれば、少なくとも現状のダンジョンを維持す
る事は出来なくなるはずだ。
もっとも、それが即、異界化の解除につながるかというと何とも
言えないところである。ゲームのイベントでは色々な理屈でボスを
倒せばダンジョンが無くなって異界化が解除される事が多かったが、
こちらでもそうとは限らない。こればっかりは、やってみないと分
からないのだ。
だが、ダンジョンと一体化しているという事は、相手のリソース
が膨大なものになっているという事でもある。最低ラインで見積も
っても、普通のダンジョンボスのように大技の空撃ちを何回もさせ
るやり方でガス欠になる事はないと予想される。そう考えると、宏
の攻撃能力では、永久に勝負がつかない可能性すらある。
﹁最後に念のために確認するけど、イビルエントを倒せば、このダ
ンジョンは崩壊する?﹂
﹁するする∼﹂
﹁異界化も無くなる∼﹂
﹁イビルエント、瘴気固定中∼﹂
﹁居なくなると拡散∼﹂
オクトガル達が、春菜の予測を全て肯定する。この時点で、急い
で宏のもとに駆けつけるべき理由が増えた訳だが、足元が毒液の濁
1352
流で足場になりそうな場所が一切ない現状ではいかんともしがたい。
﹁宏君とアルチェムさん、私達が合流するまで無事だったらいいん
だけど⋮⋮﹂
﹁まだ気配は健在﹂
﹁うん。それは分かってる。分かってるんだけど⋮⋮﹂
心配なものは、心配だ。特に、相手が動かないというのがまずい。
宏は飛び道具をほとんど持っていない。かといって、アルチェムの
弓は樹木とは相性が悪い。取り巻きの種類と配置によっては、アル
チェムのカバーで精いっぱいで攻撃に移れない可能性がある。しか
も、相手はダンジョンと一体化している存在だ。この場も含めて、
ダンジョン全域が相手のテリトリーである以上、取り巻きが無節操
に増えたり、本来攻撃範囲ではない場所から攻撃が出てきたりして
もおかしくないのである。
﹁ボスルームは、まだか?﹂
﹁陸地まであと十分∼﹂
﹁妨害注意∼﹂
﹁無抵抗非暴力∼﹂
達也の質問に、大体正確なところを教えてくれるオクトガル。相
変わらず連想ゲームのキーワードがよく分からないが、重要な質問
に対してはちゃんとした回答を返してくれるのは助かる。内容によ
っては、こちらの予想を超えるだけの濃い情報を教えてくれるあた
1353
りが心憎い。
﹁注意注意∼﹂
﹁危険危険∼﹂
﹁ピッチャービビってる∼﹂
浮遊状態になってから五分後。またもオクトガル達が変な単語を
混ぜながら騒ぎだす。その言葉を問いただすより早く、ダンジョン
の壁が破裂するように大量の枝を伸ばしてきた。
﹁ヒロシさん!?﹂
﹁大丈夫や!﹂
腹を貫いた太い根を切り落とし、強引に引っこ抜きながらアルチ
ェムに向かって叫ぶ。見た目に派手な怪我ではあるが、実際のダメ
ージは大したことはない。
そもそも、耐久の数値が高いという事は、内臓や眼球のような本
来弱点となりうる重要器官も頑丈だという事である。もちろん、宏
とて首を切り落とされたり頭を潰されたりすれば一撃で死ぬのは言
うまでもない。だが、この手の大抵の動物にとって共通する弱点は、
1354
その破壊の難易度は耐久力によって激変する。宏がアサシンに襲わ
れた時、彼女が首を切っても薄皮一枚まともに切り裂く事が出来な
かったのがいい見本である。
無論、これにも例外は普通に存在する。一番有名なところでは特
定の種類のドラゴンが持つ逆鱗で、ここはどれほど耐久値が高かろ
うと、普通の生き物の皮膚程度の強さしかもたない。その種類のド
ラゴンは、ここを深く貫かれると一撃で即死する。また、角が脆く
て折られると極端に弱体化する、尻尾の付け根が弱くて切り落とさ
れると動けなくなる、などのそれだけでは即死にはつながらないが
致命的な弱点、というものを持っている生き物もそれほど珍しい訳
ではない。が、幸いにして、人間に分類できる生き物は、生命体と
してはごく普通の性質を持っているため、この手のどれほど強くな
っても脆いまま、という部位は存在しない。
精神力によって克服できない精神的な弱点、というカテゴリーに
至っては、一定以上の知性と個性を持つ種族なら実例を上げていく
と枚挙にいとまがないレベルである。宏の女性恐怖症もこのカテゴ
リーに入るが、この場合物理的に頑丈な相手だと殺すのが難しい事
は変わらないのが、難点と言えば難点である。
何にしても、イビルエントの攻撃は確かに宏にダメージを与える
ことには成功したが、彼の生命力と防御力からすれば、命の危機に
は程遠い。程遠いのだが、見た目にはそんな事が分からない程度に
は重傷なのは事実である。
﹁その傷で大丈夫だって言われても!﹂
﹁痛いのは痛いけど、大して効いてへんのは事実や﹂
1355
アルチェムの悲鳴のような言葉に何処となく淡々とした口調で反
論し、そのままマイナーヒールを三回発動させて完治させる宏。正
直なところ、放置していても一分ぐらいでほぼふさがる程度の傷な
のだが、同じような攻撃が連続してくると流石にじりじりと削られ
ていく。
イビルエントが行った攻撃のからくりは簡単だ。この手のボスク
ラスが多用する、防具及び補助魔法、使い捨てアイテムによる防御
力を完全に無効化する類の攻撃を食らっただけの話である。感触か
らいって、滅多にない耐久値による防御力を一定割合無効化するタ
イプの機能も含まれていた模様だ。相手の今までの攻撃力と今のダ
メージから予測するに、生身の防御力を25%程度無視されたと言
ったところだろう。それを、フォートレスの効果がちょうど切れた
タイミングで食らってしまったため、予想外に大きなダメージを受
けたのである。
普通なら相当なコストが必要な攻撃だが、どっしりと根を張って
いる今回のボスの場合、コストパフォーマンスの悪い大技を連射さ
せてガス欠を狙う、というのは厳しそうな雰囲気がある。下手をす
れば地脈からエネルギーを直接引き出している可能性もあり、そう
なると相手のスタミナは無限大という事になる。
﹁あれを出してきた、っちゅうことはや﹂
次の動きを見定めるために、ポールアックスを構え直して腰を低
くし、慎重に相手の方へにじり寄っていく。無論、フォートレスの
掛け直しとアウトフェースの重ね掛けも忘れない。
﹁ようするに⋮⋮﹂
1356
根っこがうなり、同じようにアルチェムに向かって攻撃が飛んで
いく。その一撃を見切って、一発は斧で切り払い、もう一発は体で
止める。今度は皮膚の表面で止まったところを見ると、フォートレ
スをはじめとした自己増幅系スキルの、生身の防御力を増幅する部
分は無視できないようだ。今回はフォートレスの増幅量が相手の無
効化量を大きく上回っているため、さっきのようなダメージは出せ
なかったらしい。
因みに、先ほどのダメージを数値で表すなら、宏の最大HPの2
%強と言ったところである。レベル差のおかげで大体同じ程度のH
Pを持つ真琴の場合、同じ一撃をくらえば三割近く持って行かれる
事を考えると、宏の防御力がどれほど極端なものかがよく分かる。
言うまでもないが、アルチェムが同じ攻撃を食らえばひとたまり
もなく、達也や春菜も瀕死一歩手前ぐらいのダメージは受ける。瀕
死一歩手前で済むのは二人ともそれなりに最大HP自体は高いから
である。もう一つ補足するなら、この攻撃に対してまともに防御力
が残るのは宏ぐらいで、25%も生身の防御力を削られてしまえば
真琴と春菜達との差はほとんど無くなってしまう。
今まで使ってこなかったこんな大技を連続で飛ばしてくるという
事は、結論は一つしかない。
﹁こいつ、焦っとんで!﹂
﹁えっ?﹂
宏の言葉に、思わず耳を疑う。今までの状況で、相手が焦るよう
な要素が思い付かない。
1357
﹁焦るって、どうして?﹂
﹁簡単な話や。多分、援軍が意外と近くまで来とるんやろう﹂
﹁援軍って、ハルナさん達ですか?﹂
﹁他におらんやろう﹂
アルチェムに当りそうな攻撃を丁寧に叩き落とし、現状を分析し
てのける宏。流石に気配を確認する余裕はないので、春菜達が目と
鼻の先まで来ている事は知らないが、戦闘が始まってから相当な時
間が経過している事は分かる。いい加減、真琴達か春菜達のどちら
かが到着しかかっていてもおかしくはない。
﹁せやから、援軍が来るまで凌ぎきるか、相手との距離を詰め切れ
たらこっちの勝ちや!﹂
そう言って一歩を踏み出すと、慌てて複数の枝と根っこが宏を貫
こうとする。その態度が彼の推測を裏付ける結果となっているが、
分かっていてもやめられないのだろう。
﹁体の方はどない?﹂
﹁全快ではありませんけど、戦闘するぐらいは問題ありません﹂
﹁ほな、反撃開始と行こか﹂
危なげない足取りで立ち上がったアルチェムを見て、そう声をか
ける宏。宏の言葉に頷くと、宏に作ってもらった弓を引き絞るアル
チェム。樹木系のモンスターには相性が悪い武器だが、ノーダメー
1358
ジではない。
﹁他所見せんと、こっち見ろや!﹂
アルチェム狙いなどという余計な真似をさせないため、何度目か
のアウトフェースを気合を乗せて発動させる。一連の攻防で宏以外
を狙うのは無駄だと悟ってか、アルチェムに向かって伸ばしていた
根っこや枝を再び宏に集中させるモンスター達。その攻撃を受けて
なお、前に出ようとじりじりと進んで行く宏。
﹁まだまだや!﹂
密度の濃い攻撃を全てブロックし、体で止め、斧で叩き落としな
がら、駄目押しのアウトフェースを乗せて宏が吼える。今更こいつ
らの通常攻撃など、何発受けても撫でられているのと変わらない。
殺意の高いダンジョンを作り上げたイビルエントといえども、所詮
分かりやすく直接的なやり方で攻撃してきているだけだ。人間達が
たまに見せる本物の濃厚な悪意と比べれば、まだまだぬるいと言わ
ざるを得ない。
本当に性質の悪いやり方というのは、自らは直接的には一切手を
下さずに、誰一人悪い事をしていないのに自滅を避けられないとこ
ろに追い込むものだ。些細な事を誇張して伝えて周囲に悪意を持た
せ、社会的に孤立させてじわじわとやる悪辣な手段としての典型で
すら、本質的には手ぬるい。そういう意味では、今回のダンジョン
は自滅を誘うところにすら到達していないのだから、性質が悪いと
言っても知れている。
性根が腐ったとしか表現できない人間の被害に遭った経験がある
宏からすれば、イビルエントが見せる程度の悪意など大したもので
1359
はない。基本的に気が弱くてヘタレでビビりな臆病者だが、実際の
ところ物理的な痛みに対してはそれほどの恐怖心は持っていない。
彼が怖いのは何をされるか分からない、どれほどのダメージが来る
か分からない、という、傷の深さが予想しきれない事に対してだ。
普通そんな組み合わせをしない材料が入ったチョコレートと言う、
一見大したことがなさそうな物で死の淵を彷徨い、その後被害者だ
というのに追い打ちで社会的に不必要な制裁を受けた身の上として
は、未知の被害を過大に想定しがちになるのは仕方が無いことだろ
う。
そういう意味では、既にその姿を完全に晒し、大体の最大火力と
それによって受けるであろう被害が想定できるイビルエントなど、
恐怖の対象にはなり得ない。現状怖い事があるとすれば、預かった
アルチェムに何か致命的な事が起こって、言い訳の効かない状態で
エルフ達から悪意をぶつけられることだ。悪意ならまだいい。彼ら
がぶつけどころのない怒りを飲みこんで、やりきれない表情で自分
達を見るような状況になるのは、多分何より堪える。
だから、たとえ心臓をぶち抜かれても、これ以上アルチェムには
かすり傷一つつけさせる訳にはいかない。そのためにも、イレギュ
ラーを起こさないよう、とっとと目の前にいる材木を切り倒してし
まわねばならない。
﹁バスターショット!﹂
本体を叩いても効果が薄いと自覚しているアルチェムが、取り巻
きのハンターツリーに吹っ飛ばし系の射撃を入れる。相性の悪い弓
で自力移動不可能な樹木系モンスターを倒す場合、相手の射程範囲
外からノックバック系や吹っ飛ばし系の射撃を繰り返して、根元か
らへし折るのが定石だ。
1360
﹁範囲攻撃は無駄やで!﹂
刃となった木の葉が降り注ぐという範囲攻撃を、宏がアラウンド
ガードで潰す。分散するタイプの攻撃だけあって、多分アルチェム
にあたっても露出部分にちょっと痛い切り傷ができる程度だとは思
うが、状態異常や特殊攻撃に対して極端に耐性が高い宏だと、即座
に無効化してしまうためにどんな小細工を仕込んであるかが判断で
きない。故に、弱そうだと判断出来る攻撃でも潰しておくにこした
事はない。
宏のこの判断は正しかった。今の攻撃は、麻痺と混乱を起こす毒
が仕込まれていた。仮にアルチェムが食らった場合、しびれた体で
宏に向かってバスターショットを撃ち込むという、現状では洒落に
ならない種類の行動をとっていたであろう。そこから先は、明らか
に碌でもない未来へ一直線だ。
﹁もう一発です! バスターショット!﹂
軽いノックバック作用のある弓技を叩き込んだ後、もう一度本命
の吹っ飛ばし射撃を撃ち込む。追い打ちでノックバック系を二種撃
ちこんだ後、クールダウンが終わったバスターショットを発射する。
ここまでの連続射撃により、ついにハンターツリーが一本倒れる。
﹁やった!﹂
﹁まだ居るから、油断は出来んで!﹂
取り巻きを減らすことに成功し、喜びの声を上げるアルチェムに
釘をさす宏。一本へし折った事によって攻撃の密度は減ったが、そ
1361
の分おかしな挙動をすることが増えた。これは、絶対に何か違う手
口を考えている。
そんな宏の思考を肯定するように、枝と蔦が大量に伸びて、宏を
絡め取る。宏を仕留めるのは簡単ではないと理解した樹木達が、行
動を封じるために吊るし上げようとしたのだ。
﹁ヘヴィウェイトや! 持ち上げられるもんなら持ち上げてみい!﹂
宏が対バルド戦の後で身につけた小技を発動して見せる。自重の
軽さによるノックバック・吹っ飛ばし攻撃への耐性の低さ。それを
カバーするために、一時的に自身の総重量を十倍以上にはね上げる
スキルだ。当時と違ってヘビーモールも一緒に背負っている宏がこ
れを使うと、熟練度が低い現状でも一トンを超える重量になる。ハ
ンターツリー一本で平均重量九十キロのドワーフを持ち上げられな
いのだから、ハンターツリー六本プラスイビルエントでも、軽く浮
かせるのが精いっぱいなのは当然であろう。
持ち上げようとして失敗し、膠着状態に陥ったところでその馬鹿
力で枝を引きちぎる。一回の攻撃で出せる最大火力と言う点でこそ、
一般的な火力型の七級冒険者にすら一歩か二歩譲る宏ではあるが、
純粋な腕力となると現在こちらにいる人類で宏を超える人間は一人
もいない。これまた人間離れした感覚値と器用値によって蝙蝠のよ
うな繊細な骨格を持つ生き物でも骨を折ったりせずにつかむ事が出
来るが、実際にそう言った加減を一切せずにその筋力を振るえば、
素手で大木をへし折る事すら容易い。
いかにイビルエントのものだといえど、たかが枝の十本や二十本
で拘束することなど、最初から土台無理な話なのである。
1362
﹁どんどんこいや!﹂
枝と蔦を引きちぎりながら、更に吠えて威圧する。とにかく嫌な
予感がする以上、きっちりターゲットは固定しておきたい。ハンタ
ーツリーはともかく、イビルエントの攻撃は一発でも後ろに通して
しまえば致命傷になりかねない。
そんな、神経をすり減らすような状況を続けていくと、一瞬背筋
にゾクリとした感覚が走る。足をすくおうと払われた枝を切り払い、
腕に絡まった蔦を引きちぎり、顔面を打ちすえた枝を完全に無視し
て次の攻撃を見定める。イビルエントの一連の攻撃、その最後の一
撃を潰したところで、足元に不審な気配。
﹁こらやばい!﹂
とっさの判断で、限界まで威力を絞ったスマッシュでアルチェム
を弾き飛ばす。急に弾き飛ばされて何が起こったのか理解できてい
ない様子のアルチェムが、呆然とした表情で目の前の光景を眺めつ
づける。彼女がほぼノーダメージのまま壁際まで飛ばされたところ
で、その惨劇は起こった。
﹁がはっ!﹂
地面から生えた無数の根。それが槍のように宏の全身を貫いた。
全身を、ダメージを受けた事とは別の種類の虚脱感が襲い、次の瞬
間に天井から更に無数の枝が伸びて突き刺さる。エント系のモンス
ターが使う切り札、サウザンドパイク。射程内の複数のターゲット
それぞれに個別で攻撃するという嫌らしい技で、個別攻撃ゆえにア
ラウンドガードでは潰せない。対処方法はただ一つ、射程距離外に
逃げるのみだ。
1363
宏によってその唯一の対処方法を取る事が出来たアルチェムが状
況を理解する頃には、宏の姿は枝と根に覆われて目視できなくなっ
ていた。
﹁宏君!?﹂
状況を理解したアルチェムが悲鳴を上げるより先に、春菜の声が
響き渡る。どうやら、ボス討伐のための役者は揃ったようだ。
時間は少しさかのぼる。
﹁プロテクション!﹂
﹁アフェクション!﹂
壁から伸びた枝や飛んできた刃の葉を、春菜と達也が防御魔法で
防ぐ。ある意味予想通り、ダンジョンは彼らが無傷でボスルームに
到着する事を阻もうと、最後の抵抗を始めた。
﹁相手にとっちゃ、今来られるとやばいって事だろうな、こりゃ﹂
﹁流石に、この密度はきついよ。防御はまあ、どうにかなるとして
も、突破するのは、ね﹂
1364
﹁枝堅い∼﹂
﹁腕力ない∼﹂
﹁パワーが足りない∼﹂
﹁魔導力だ∼﹂
春菜の言葉を肯定するように、口々に攻撃力不足を訴えるオクト
ガル達。いちいち謎の単語が混ざるのはいつもの事だ。
﹁魔力を使い潰せばどうにか突破口ぐらいは開けそうだが⋮⋮﹂
﹁達也の火力をここで使いきるのはどうかしら?﹂
﹁つっても、足場が無い状態で攻撃できるのは俺と澪だけだろうし、
他に手はないだろう。それとも、澪の方はこういう時に使える技が
あるか?﹂
﹁持ってない﹂
予想通りの澪の回答に、深くため息をついて杖を構え直す。
﹁足場があればあたしがやるのに⋮⋮﹂
その様子を見た真琴が、実に悔しそうにつぶやく。そのつぶやき
を聞きつけたオクトガルが、不思議そうな顔をして真琴の前に浮か
ぶ。
1365
﹁足場いる∼?﹂
﹁足場あればいける∼?﹂
﹁足場作る∼?﹂
いきなりの申し出に、詠唱を始めた魔法を中断して呆然とオクト
ガルを見つめる達也。
﹁出来るのか?﹂
﹁最大持続時間約一分∼﹂
﹁ちょっと柔らかい∼﹂
﹁問題ない∼?﹂
質問に普通に回答が返ってきて、思わずどうしたものかとお互い
の顔を見合わせる一同。微妙な沈黙を破って結論を出したのは、真
琴だった。
﹁出来るんだったらやって﹂
﹁りょうか∼い﹂
﹁行くよ∼﹂
﹁がった∼い﹂
その掛け声とともに、薄く伸びたオクトガル達が床になるように
1366
合体していく。
﹁フィールド展開完了∼﹂
﹁踏んで踏んで∼﹂
﹁優しく踏んで∼﹂
﹁痛いのいや∼﹂
何とも言えない言葉とともに、足場の完成を告げる。それを聞い
た真琴が、細かい事は考えない事にして普通に足場の上に立ち、全
身のエネルギーを大剣に集中させる。
﹁行くわよ! ブレイクスタンピード!﹂
無属性と言う条件と、大元はダンジョンの壁であるという事実。
それらを加味して最強クラスの大技で伸びた枝を粉砕する。流石に
重量のある大剣による連続攻撃は厳しかったらしく、この一撃であ
らかた道が開ける。
﹁もう一発行くわよ! スマッシュインパルス!﹂
今の一撃を警戒して、枝を高密度で絡ませて新たな壁を作りだし
たダンジョンに対し、スマッシュの二段上の上位技をぶつけて黙ら
せる。この調子で一分の持続時間ぎりぎりを使って、完全に道を切
り開く真琴。
﹁流石にダンジョンの壁を貫くのは無理でも、たかが枝で作ったこ
の程度の厚みのバリケードぐらい、どうとでもできるわ﹂
1367
﹁真琴姉、格好いい﹂
﹁たまには活躍しないと、ね﹂
そんな風にうそぶいて、再びオクトガル達にその身をゆだねる真
琴。一分間の間に現在位置も相当進んでおり、あと二分もすれば、
今の足場を作ってもらえば陸地に到着する、と言うところまで来て
いる。
﹁流石に、これ以上は妨害する事もなさそうね﹂
﹁だといいんだがな﹂
﹁あるとしても、陸地が逃げるぐらいでしょ?﹂
﹁かねえ﹂
真琴の言葉通り、何事もなく陸地の上空まで移動できる。
﹁運搬運搬∼﹂
﹁輸送輸送∼﹂
﹁現地到着∼﹂
﹁遺体遺棄∼﹂
﹁遺棄するな!﹂
1368
遺体遺棄、の掛け声と同時にかなりアバウトな落とし方をされた
達也が、どうにか着地を決めながら突っ込みを入れる。他の三人は
同じような落とされ方でも割と華麗に着地しており、身体能力の差
を思い知らされるようで微妙にへこむ。
﹁っと。さっさとヒロ達に加勢⋮⋮﹂
と言って、瘴気の中心に目を向けたところで
﹁宏君!?﹂
丁度、宏が無数の根と枝で串刺しにされ、目視できないほど絡め
取られる瞬間が目に飛び込んできた。
﹁まずい!﹂
﹁流石にあれは、宏でも無事じゃ済まない!﹂
今の一撃に戦慄しつつ、救出するために即座に手を打とうとする
達也と真琴。春菜はすでに回復魔法の詠唱に入り、澪はアルチェム
のカバーのために走り出している。
﹁⋮⋮何ぼの﹂
それらの行動が結実する前に、宏を包みこんだ枝の塊がみしりと
音を立てて膨れ上がる。そして
﹁もんじゃーい!﹂
宏の絶叫とともに、ポールアックスが大きく動き、強引に全ての
1369
枝と根を叩き斬り、引きちぎって粉砕する。
﹁宏!﹂
﹁大丈夫!?﹂
﹁これぐらい、知れとる!﹂
今の一連の動作で全身から流れ出た己の血を周囲にまき散らしな
がらも、大して堪えた様子も見せずに健在をアピールする宏。もっ
とも、真琴ですら即死するほどの一撃を、それも防御力低下の特殊
能力付きで食らったのだ。口で言うほど無事ではない。微妙にドレ
インも食らっているため、スタミナも若干危険領域に入りかかって
いる。
もっとも、現状で連続で食らったところで、後十発近くは普通に
耐えられるのだが。
﹁ひ、ヒロシさん⋮⋮?﹂
﹁アルチェム、無事か?﹂
﹁無事です。無事ですが⋮⋮﹂
﹁ほな、気にせんでええ。これが僕の仕事やからな﹂
声が震えているアルチェムをなだめるように告げると、春菜の治
療魔法を受けて全快した体を再びイビルエントに向ける。そうやっ
て何度も自分を守ってくれた背中を見上げ、色々な意味でドキドキ
する心を押さえながら立ち上がる。
1370
﹁春菜さん、オーバー・アクセラレート、いける?﹂
﹁出来るけど、大丈夫なの?﹂
﹁今ので治った﹂
ダメージを心配しての春菜の言葉に、平然とした態度で答える宏。
日ごろのヘタレが嘘のようになりを潜め、まるで物を作っている時
のように無駄に頼りがいがあるその態度に、思わずドキッとしなが
らもつい心配が先立ってしまう春菜。
もっとも、戦場と言うのは常に状況が変わる。春菜達が合流した
事で一気に天秤が傾くかと思われたところで、イビルエントが最後
の悪あがきでハンターツリーを大量に呼び出す。
﹁取り巻きが増えたわ! あんまりちんたらやってる暇はなさそう
よ!﹂
﹁フレイムバスターを使う! ヒロ、余波を押さえてくれ!﹂
﹁了解や!﹂
オーバー・アクセラレートをかけるかどうかでまごつく春菜をよ
そに、一気にけりをつけるための手を打ち始める達也。
︵私は、ここで何をしてるの⋮⋮?︶
着々と自分達の役割を果たすために行動を起こす彼らを見て、自
身に向かって問いかけるアルチェム。ハンターツリーは増えたが、
1371
全員揃った以上は悪あがき以上の結果は出ないだろう。既に、彼女
に出来る事はない。否、下手な事をするとかえって邪魔になる。
自分が足手まといになるだろう、と言うのは最初から分かってい
た。だから、宏の行動に突っ込みはいれても特に反対はせず、基本
的に指示に従って大人しくしていた。所詮素人のアルチェムには、
正確な判断は出来ないからだ。
だが、探索に関してはそうでも、戦闘に関しては完全な素人では
ない。ボス戦の前半はともかく、後半攻撃に参加してからはもっと
できることは色々あったはずなのだ。なのに、アルチェムは相手の
挙動も碌に観察せず、ただ定石に従ってハンターツリーを攻撃して
いただけ。ちゃんと見ていれば、自分をかばった宏が無防備に相手
の必殺技を食らうような事態にはならなかったはずである。
攻撃にしてもそうだ。相性が悪くて他にやりようが無かったとい
っても、相手の攻撃を妨害する工夫ぐらいはすべきだった。ちゃん
と出来る事を考えずにただやみくもに攻撃するだけなら、アルチェ
ムがやった程度の事は村の子供ですらできる。このままでは自分は、
無駄に身体と胸が大きいだけの子供で終わってしまう。
︵何か、何か出来る事があるはず!︶
女性が致命的に苦手なのに、それでもアルチェムに親切にし、と
ことんまで体を張って守ってくれた宏。このままではそんな彼にお
んぶにだっこのまま終わってしまう。彼の役に立ちたい。それも、
自分にしかできない事で。
何か出来ないか、その言葉が頭の中をぐるぐるしているうちに、
達也の魔法が完成する。その一撃で新たに増えたハンターツリーを
1372
全て焼き払うも、三秒後に再び同じ数のハンターツリーが生えてく
る。春菜の魔法は、まだ完成しない。聞こえてくる何かの声。再び
宏に大量に突き刺さる根と枝。聞こえる何かの声。宏の血を吸い上
げ、再生するイビルエント。語りかけてくる何かの声。
︵⋮⋮そっか⋮⋮︶
頭をクールダウンするために声に耳を傾け、自身の役割を理解す
る。アランウェンから巫女に指名され、とりあえず言われた通りの
お清めを朝晩続けていたが、今まで肩書だけで本質的にはただのエ
ルフだったアルチェム。この時彼女は、本当の意味でアランウェン
の巫女になった。
﹁皆さん、少し下がってください!﹂
アルチェムが声を張り上げる。唐突に掛けられたその言葉に、一
瞬動きが止まる一同。それに頓着せず、眠りを妨げられ、怒りと悲
しみの声を上げる祖霊達に、人間には聞きとれはしても意味を理解
する事は出来ない音の羅列で語りかける。
︵お願い!︶
ただ一つだけの願いを込め、何かに突き動かされるように音を発
し続けるアルチェム。アルチェムの願いを聞き届けた祖霊達が、増
えたハンターツリーを全て枯死させ、地脈に食い込んだイビルエン
トの根に干渉し、新たな魔木を召喚できないように場を支配する。
吼えるように枝を鳴らし、暴れるように地表近くの根をのたうたせ
るイビルエント。だが、それらの行動を全て、アルチェムから願い
を受け、対価として彼女のマナをもらいうけた祖霊達が妨害する。
歌詞も旋律も存在しないながらも、アルチェムが発している音は間
1373
違いなく歌であった。
エクストラスキル・トーテムコール。神々の巫女にとって基本に
して究極のスキル。本来はこれを身につける事によって、初めて巫
女を名乗る事が出来る最重要スキル。特定の資質を持たない人間に
は、絶対に身につける事が出来ない力。エアリスが生まれた時から
身につけ、無意識に使いこなしていたそのスキルを、ついにアルチ
ェムは自分のものにしたのだ。
﹁春菜さん!﹂
﹁分かってる! オーバー・アクセラレート!﹂
アルチェムが起こした奇跡に一瞬呆然としたところを祖霊達にた
しなめられ、慌てて自分達が取るべき行動に移る宏達。宏と祖霊達
の言葉に促され、ただ一人詠唱を続けていた切り札を発動させる春
菜。たとえ巫女の力があったとて、普通の人間には本来聞こえぬは
ずのその声。それを彼ら五人が聞きとれたのは、日本人達が知られ
ざる大陸からの客人だからであろうか?
﹁往生、せいやあ!!﹂
当人以外には単なる超音波でしかない掛け声とともに、遮二無二
イビルエントにポールアックスを叩きつける宏。当人の意識では百
秒七十発、外部の視覚では約一秒。一筋の亀裂が見ている前で広が
り、ついにダンジョンのボスが切り倒された。
1374
﹁復帰∼﹂
﹁空間解放∼﹂
イビルエントが死んだ事により、ダンジョンが消滅。しばらくし
て異界化が収まり通常空間に復帰したところで、ボス戦の時は妙に
大人しくしていたオクトガル達が妙に嬉しそうにあたりを飛び回っ
ていた。
﹁お前ら、さっきはえらく大人しかったが、どうしたんだ?﹂
通常空間に戻った事を一切気にせず、ひたすらイビルエントの解
体を続ける宏を何とも言えない感じの笑みで見守っていた達也が、
急に騒ぎ出したオクトガル達に視線を移して声をかける。
﹁さっきシリアス∼﹂
﹁空気重い∼﹂
﹁私達、空気読めるいい子∼﹂
﹁本音は?﹂
﹁痛いのいや∼﹂
正直に答えるオクトガル達に思わず苦笑し、なんとなくただなら
ぬ様子で宏の姿を見つめる日本人とエルフの女を観察する。正確に
1375
は、イビルエントの解体を手伝っている澪を羨ましそうに見ている、
であるが。
﹁なあ、真琴﹂
﹁言わなくても分かるわよ﹂
﹁どうなると思う?﹂
﹁まあ、春菜が一番有利なのは変わらないんじゃない?﹂
ヘタレで女性恐怖症のくせに妙にもてる宏を肴に、こそこそと盛
り上がる年長者二人。人生に一度はあると言われているモテ期。時
期的にある意味一番いいタイミングで来ている印象があるが、本人
的にはもっと症状がよくなってからモテて欲しかったに違いない。
﹁それにしても、何でモテるんだと思う?﹂
﹁あたしが言うのも変な感じだけど、女ってギャップに弱いところ
があるし、宏ってなんていうかこう、母性をくすぐるところがある
気がしなくもないし﹂
﹁ああ、なるほど﹂
情けないと思っていた人間が予想外に格好良くて頼りになるとこ
ろを見せられると、普通に頼りになって格好いい人間よりプラスに
見えるという事であろう。そこは価値観が違うエルフでも同じだっ
た訳だ。
﹁それに、身体を張って守ってもらえて、嬉しくない女はいないっ
1376
てことね﹂
﹁なるほどなあ﹂
﹁まあ、エルもアルチェムも、人のものが欲しくなるタイプの女っ
てわけでもなさそうだから、そう言う方向で泥沼になる事はないん
じゃない?﹂
﹁泥沼になる前に、あいつが女を受け入れられるようになるかどう
かがまず疑問だがね﹂
などとこそこそ会話を交わしていると、ふよふよ飛び回って遊ん
でいたオクトガル達が行動を起こす。
﹁チェムちゃん久々∼﹂
﹁チェムちゃんおっきい∼﹂
﹁チェムちゃんプニプニ∼﹂
﹁チェムちゃん挟める∼﹂
ひとしきり外を堪能したオクトガル達が、アルチェムを捕獲して
もみくちゃにし始めた。当然普通にオールレンジセクハラ攻撃付き
だ。
﹁ひゃんっ!? ひっ!? あ、ちょっと!?﹂
妙に色っぽい声でもだえながら抵抗しようとするアルチェム。そ
の声に一瞬動きが止まり、そのままスルーを決め込んで解体を続け
1377
る宏。その背中には、触らぬ神にたたりなし、と書いてある。
﹁チェムちゃん美人∼﹂
﹁チェムちゃん可愛い∼﹂
﹁チェムちゃんしましま∼﹂
﹁あの、ちょっと、ここでそういう事はっ!!﹂
﹁じゃあ、向こうでする∼﹂
そう言ってきっちり空気を読んで、宏の目の届かない場所にアル
チェムを拉致するオクトガル。何がしましまなのかはあえて秘す。
折角巫女としての資質を開花させたのに、お色気担当なのは変わら
ないアルチェムであった。
1378
第9話︵後書き︶
エロイダンジョンもこれでおしまい
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第10話
﹁もうそろそろ、いいか?﹂
宏達の解体作業とオクトガル達のアルチェムいじりがひと段落し
たのを見計らって、達也が声をかける。既にあたりは完全に日が落
ち、いくら満月とはいえ明かりなしではまともな作業は何一つ出来
ない状態になっている。
﹁せやな。ええ加減さっさと神殿に、って思うたけど、よう考えた
らいっぺん戻って晩飯でもええぐらいの時間になっとんなあ﹂
﹁月があんなに高い﹂
澪が指さした先には、不気味な青紫に輝く満月が。その巨大な満
月は、相当長い事ダンジョンで足止めを食っていた事を示すように、
既に天頂に来ていた。
﹁どないする? まだまだ草を始末せんと先には進めん感じやけど、
気合入れたら後一時間もすれば神殿つく感じやで﹂
その妙に不吉なものを感じさせる不気味な色に顔をしかめつつ、
この後どうするかを周りに振る宏。何かよからぬ事が起こりそうな
月だが、アルチェムもオクトガル達も何も言わないので、とりあえ
ず大丈夫だろうと気にしない事にする。
﹁この暗い中、草刈りしながら進むのはパス⋮⋮﹂
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﹁だよね⋮⋮﹂
﹁ほな、戻るか﹂
木材を鞄に詰め終わり、よっこらせっ、とオヤジ臭い掛け声で立
ち上がって鞄を担ぎ直した宏に、またしても待ったがかかる。
﹁今から戻るんだったら、もうここで普通に野営したらいいじゃな
いの。ダンジョンの跡地だから、開けた状態で草もそんなに生えて
ないし﹂
﹁そうだよね﹂
﹁戻るのもテントたてるのも大差ない﹂
もうこれ以上うろうろしたくない。そんな日本人女性のわがまま
が炸裂し、数の暴力で押し切られる。まあ、押し切られたと言って
も、男性陣も強固に反対するような理由があった訳ではないが。
﹁見張り、どないする?﹂
もはや手慣れた作業をこなしながら、宏が野営をするなら絶対必
要な事を確認する。いつもは大体決まったローテーションでやるの
だが、今日は全員ものすごく疲れている。正直な話、体力的には相
当きつい。
﹁私達がやる∼﹂
﹁見張り見張り∼﹂
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﹁前張り前張り∼﹂
﹁微妙な単語が聞こえた所が非常に不安だけど、任せても大丈夫?﹂
確認してくる真琴に肯定するかのごとく上下運動をして見せ、周
囲にフォーメーションを組んで散開するオクトガル達。
﹁こんな感じ∼﹂
﹁バリア張ったの∼﹂
﹁これでいい∼?﹂
キャンプ地点に残ったオクトガルが、確認を取る。
﹁配置はそれでいいんだが、これから飯だし、今すぐでなくてもよ
かったんだぞ?﹂
﹁ご飯?﹂
﹁ご飯ご飯∼﹂
﹁お肉? お魚?﹂
﹁食べていい? 食べていい?﹂
あちらこちらに散っていたオクトガル達が、夕食と聞いてわらわ
らと集まってくる。
﹁リス肉でよかったら、食うてもええで﹂
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﹁食べる∼﹂
﹁食べるの∼﹂
宏の言葉に飛び付くと、キャーキャー言いながらどこからともな
くナイフとフォークとお皿を取り出す。その様子に思わず失笑しな
がら、手を洗ってから鉄板を二組用意し、ありったけのリス肉をた
れに漬け込み始める宏。宏の作業に合わせ、とりあえずわかめスー
プの調理に入る春菜と、小麦粉をこねてナンのようなものを鉄板で
焼き始める澪。その作業を食い入るように観察するオクトガル達。
因みに、魔道具仕様の鉄板が二組あるのは、護衛任務の時にもう一
つあれば便利だという意見が出たため、工房に帰ってから急遽作り
上げたものだ。
﹁ご飯ご飯∼﹂
﹁お肉まだ∼?﹂
﹁我々は∼、空腹だ∼﹂
とうとう鉄板の上に肉が乗せられたところで、タレの焦げる匂い
に反応して一斉に騒ぎ始めるオクトガル達。八本の足のうち二本で
支えた皿を、ナイフとフォークで叩いてちんちん鳴らす。明らかに
自分達より先にこいつらに食わせなければ、落ち着いて食事など出
来ない。そう判断した宏が、オクトガルの体格に合わせたサイズに
リス肉を切り分け、どんどん彼女︵?︶達の皿にのせていく。宏の
判断に従いたくさん焼いたナンもどきや野菜を配る澪と、小さいカ
ップに苦労しながら適量を注いでいく春菜。オクトガルの数が数だ
けに、それなりの規模の炊き出しのような状況になっている。
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オクトガル達は足が八本ある上に宙に浮けるため、それほどの面
積が無くても食事できる。そうでなければとても食事のスペースが
足りていなかっただろう。その事に感謝すべきか否かに悩みながら、
どんどん料理を配っていき、ようやくオクトガル全部に行き渡った
ところで、最初に付け込んだ肉や仕込んだスープが全部切れる。
﹁ありゃ⋮⋮﹂
﹁追加で作らんとあかんなあ﹂
﹁ごめんね、もうちょっと待って﹂
二人の言葉に、思わずため息が漏れる料理していない組。美味そ
うな匂いに耐えられそうになかったのは、何もオクトガルだけでは
ないのだ。澪の焼いていたナンもどきも、それほどの分量は残って
いない。
﹁待つのはいいんだが、肉は足りるのか?﹂
﹁肉もタレも十分あるから、そっちは問題ないで﹂
﹁わかめもまだまだ在庫は十分﹂
二人の返事を聞いて、とりあえずひと安心する達也と真琴。何か
ら何まで申し訳ない、と言う感じで思わず俯くアルチェム。手伝お
うにも、三人の手際があまりにも良すぎるのと調理器具の数がぎり
ぎりなのとで、手を出す隙間が無いのだ。
﹁達兄、真琴姉、アルチェム、とりあえずこれかじってまってて﹂
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あまりに空腹が辛そうな待機組を見かねて、少しだけ残ったナン
もどきを三等分して差し出す澪。
﹁いいのか?﹂
﹁あれ見て、我慢できるの?﹂
オクトガル達を視線で示しながらの澪の言葉に、力なく首を左右
に振る三人。なにしろ連中ときたら
﹁うまうま∼!!﹂
﹁肉汁∼!﹂
﹁まいう∼!!﹂
﹁わかめ∼、わかめ∼!﹂
﹁う∼ま∼い∼ぞ∼!!﹂
﹁三つ星の∼! 通∼!!﹂
などと騒ぎながら、その飛行方法でどれだけうまいかを力説して
くれているのだ。中にはグルメごっこのつもりか、妙に詳細に味を
解説しながらうっとりしてるやつまでいて、正直辛抱たまらなくな
ってきた。はっきり言って、空腹の時には拷問以外の何物でもない。
﹁まあ、そんな手の込んだ料理じゃないし、すぐ出来るから﹂
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﹁しかし、あいつら結構よう食うなあ。毎日あの調子で食われたら、
食材いくらあっても足らんで﹂
体の大きさからすれば明らかに多めの肉や野菜を、平気な顔で平
らげているオクトガル達。あの数であの食欲と言うのは、何とも燃
費が悪そうだ。
﹁普段はそんなに食べないの∼﹂
﹁さっきいろいろやって、エネルギー切れ∼﹂
﹁美味しい料理でチャ∼ジ﹂
﹁お肉うまうま∼、野菜うまうま∼﹂
宏のコメントを聞きつけたか、上下運動と食事を続けながらオク
トガル達が自己主張する。実際のところ、オクトガルはその自己主
張通り、普通なら一度体格に合わせた量を食べれば一カ月以上飲ま
ず食わずで普通に活動できる。今回は真琴と澪を回収し、春菜達を
運搬し、足場にまでなったためにエネルギーを大量消費したため、
とかく空腹だったのだ。数匹がエネルギーを大量に消費する場合、
その消費を群れ全体で分担するという謎生物らしいシステムを持っ
ているため、全体が一気に空腹になってしまうのである。
﹁まあ、今回はいろいろ世話になった事だし、腹いっぱい食わせて
やったらいいさ﹂
﹁あんたはいいわよね、基本的に恩恵だけもらってるんだから⋮⋮﹂
達也のいい子ちゃん的な発言に、即座にジト目で突っ込みを入れ
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る真琴。隅々まで徹底的に色々やられたアルチェムを除けば、精神
的に一番被害が大きかったのはおそらく彼女だろう。
﹁そりゃ確かに、こいつらがいなきゃ詰んでた可能性があるのは認
めるわよ。でもね⋮⋮﹂
﹁ま、まあまあ、そんなにとがらなくても﹂
﹁これがスケベ目アイコンみたいな目つきでおやじチックにねちっ
こくやってきたんだったらともかく、言ってる事が腹立つだけでや
ってる事は動物が懐いてきたレベル﹂
ある面真琴と大差ない扱いを受けていた澪の、実に割り切った言
葉。それを聞いてがっくりと肩を落とす真琴。動物なら何を思って
いてもこっちには伝わらないが、こいつらは半端に言葉での意思疎
通ができるのが問題なのだ。春菜の言葉に持てる者の余裕のような
ものを勝手に感じ取ってしまう点でも、真琴は実に大きなダメージ
を受けていた様子である。
﹁その、言ってる事が腹が立つってのが最大の問題だと思うんだけ
ど⋮⋮﹂
﹁貴族達の蔭口よりよっぽどましだったから、そんなに気にはなら
なかったけど?﹂
ぼやけばぼやくほど立場が悪くなっていく真琴。ついにはすっか
り諦めていじけてしまう。一応フォローしておくなら、あれだけい
ろいろセクハラされて、あれだけいろいろ暴言を吐かれれば、普通
は真琴位には腹を立てるものである。あっさり割り切った澪や、普
通に最初から気にしていない春菜の方がおかしいのだ。
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﹁とりあえず、肉は焼けたで﹂
会話に加わらずに肉を焼く方に専念していた宏が、真琴の皿に一
番いいところを一番たくさん盛ってやる。飯でフォローできるほど
簡単な気持ちではないだろうが、美味いものを腹いっぱい食べれば
少しはマシになるものである。
﹁そう言えば、このリスってどんなモンスターだったの?﹂
﹁ここ来る途中に何べんか夕飯のために仕留めたリスおったやろ?
あのリスが全長二メートルぐらいの大きさに巨大化しただけの奴
や。それがざっと見たところで百匹前後のコロニー作っとったから、
ポメで一網打尽にしてん﹂
﹁あれは、横で見ててびっくりしました⋮⋮﹂
﹁効率的やったやろ?﹂
突っ込みに対してあっさり切りかえされ、何とも言えない乾いた
笑みを浮かべるアルチェム。彼女の攻撃が効きやすい数少ないモン
スターだったのに、普通に活躍の場も与えられずに始末されてしま
ったのは微妙に寂しい気がしなくもない。
﹁因みに、肉は食えるけど内臓は用途が微妙やったし、骨はあんま
りダシも出えへんからほってきたで。毛皮はまあ、売りもんぐらい
にはなりそうやったから、無事な奴だけ回収してきといた﹂
仕留めたモンスターからきっちり素材をはぎ取っている宏に、思
わず呆れた目線を向ける一同。真琴と澪も中ボスの粘菌を多少は回
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収したが、ここまで細かくはやっていない。春菜と達也に至っては、
回収できるような仕留め方を一切していないので素材はゼロだ。
﹁他にもいろいろ取ってきたから、戻ったら整理やな﹂
﹁素材といえば、イビルエントの木材でどの程度のものが出来るん
だ?﹂
﹁せやなあ。弓にするんやったら、ハンターツリー製より三つはラ
ンク上がるで。後、家具とかやったら千年単位で使えるもんになる
し﹂
現状、このチームの装備品で素材のメインが木材なのは弓だけな
ので、他の用途となるとどうしても家具とか道具になりがちである。
もっといい金属を手に入れたら鎌や手斧の柄もいい木材が必要にな
るのだが、現状では普通の木材で特に問題が無い。春菜のレイピア
や真琴の大剣は柄も金属製で、握りのところにいい革を巻いている
だけなので木材は使っていない。達也の杖も特殊な精製方法で魔力
伝導率を高めた鉄を一体成型した短いもので、これまた木材は使っ
ていない。
﹁木材で思い出したけど、織機は作れないの?﹂
﹁作れるけど、自動修復と耐久強化を三回ぐらい重ね掛けしてガチ
ガチに強化して、やっと二日ごとに一着分の霊布が作れる程度やな﹂
前々から気になっていた不良在庫の霊糸。それをどうにか物に出
来ないかと考えた春菜の問いかけに、かなり微妙な回答が返ってく
る。
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﹁因みに、作るのはどれぐらい時間がかかるの?﹂
﹁布織るだけやったら十分ぐらいやで。その間にものっそいぼろぼ
ろになるから、残りは修理の時間やな﹂
﹁⋮⋮微妙だね﹂
﹁微妙やねん。シャトルなんかは下手したら使い捨てやし。あと、
流石に持ち運べるようなサイズにはならんで﹂
つくづく最上位素材という奴は厄介だ。考えてみれば、魔鉄の加
工も似たような騒ぎがあったのだから、下位の素材で作った道具で
上位の素材を加工しようとすれば、これぐらいの問題は当たり前な
のかもしれない。
﹁とりあえず、何作るかは村に戻ってから考えるわ。今は飯や﹂
﹁そうだね﹂
色々先送りした宏の言葉に素直に同意し、いただきますをして料
理に手をつける。基本シンプルな、調味料以外はだれでも作れるよ
うな代物だが、シンプルだからこそ実に美味い。オクトガル達が騒
ぐはずだと周りを見ると、いつの間にやら見張りに入ったらしく、
既に周囲には影も形も見当たらなかった。
﹁悪戯さえしなきゃ、あの子たちもすごくいい子なんだよね﹂
﹁いい子なんですよ、連想ゲームでおかしなことを言い出さなけれ
ば﹂
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流石に神様のペットだけあって、その性質自体は実に善良だ。言
動が妙にうざい事とやたらと好奇心だけで性的な悪戯をしたがる事
が問題ではあるが、悪戯に関しては犬猫あたりが本能でやらかすも
のと大した違いはないレベルなので、そういうものだとスルーした
方が精神安定上問題が少ない。
﹁それにしても、リスの肉って美味しいですね﹂
﹁この肉が、普通のリスと同じような味とは限らへんけどな﹂
﹁だよね﹂
色々と見た目と味が違う物の実例を連想しながら、アルチェムの
感想に余計な補足を入れる宏と春菜。その言葉にそういうものかと
思いつつ、こんな場所で食べるものとしては味も見た目も極上の料
理に幸せな気分になるアルチェム。たっぷりの美味い飯と特別に解
禁されたいい麦焼酎のおかげで、真琴の機嫌も少しばかり上向きに
なるのであった。
﹁何ぞ、さびれた感じやなあ﹂
﹁三十年ですからね∼﹂
翌朝、ついに到着したアランウェン神殿を見上げて、正直な感想
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を漏らす宏とアルチェム。ここ三十年ほどは危険が一杯の裏ルート
を命がけで突破して奉納、という形が続いたため、神殿の手入れが
かなりアバウトなまま放置されているのだ。木材と細かな石材を組
み合わせて作られた神殿は、あちらこちらが周囲の植物に浸食され
てなかなか大変なことになっていた。
﹁⋮⋮せやなあ。折角来たんやし、春菜さんと澪の訓練も兼ねて、
ちょっくら大規模改修としゃれこむか﹂
﹁えっ?﹂
いきなり行動が脇道にそれ始めた宏に、思わず乾いた声を上げる
春菜。流石に、この場でいきなりそっちに話が流れるとは思わなか
ったのだ。
﹁えっと、今からやるの?﹂
﹁逆に、後に回すと面倒やん﹂
﹁って言うか、ボク達がやる作業なの?﹂
﹁こう言うんを見ると、何っちゅうかむずむずしてくんねん﹂
完全にスイッチが入ってしまっている宏に、思わず揃ってため息
をつく春菜と澪。
﹁やるのはいいが、材料は足りてるのか?﹂
﹁そらもう、兄貴らが狩ってきたモンスター素材とか、だぶついと
るんがようさんあるし。それに﹂
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﹁それに?﹂
﹁どうせハンターツリーも、絶対材料としては余らせるしな﹂
やけに説得力のある宏の言葉に、あきらめの表情で同意するしか
ない達也。何しろ、ボス戦で大量に湧いたハンターツリーの無垢材
が、数にして三十本以上あるのである。まず間違いなく、普通に余
る。大した規模の神殿でもないので、それだけあれば余裕で修理が
できる。
﹁そう言えば、アルチェムが何かやって枯らせたやつは、普通に使
えるのか?﹂
﹁まあ、使えん事はないで﹂
﹁それなら別にいいんだがな﹂
﹁っちゅう訳やから、ちょっと儀式したら作業開始や。まずは、寸
法測りつつ状態チェックからや﹂
そう言って祭壇にいろいろお供え物をして何やら簡単な儀式をし
た後、巻尺やら何やらを取り出してあちらこちらをチェックして回
る宏。その宏にならって、それほど間違いようのない場所を測定し
はじめる春菜と澪。待っている間暇な達也と真琴は、何もしないの
もあれなので神殿の周囲の草引きや掃除などを始める。アルチェム
は手が足りないところのお手伝い、と言う感じだ。
﹁アルチェムさん、ちょっとこっち押さえて﹂
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﹁はーい﹂
﹁そっちが終わったらちょっとこの材木支えとって﹂
﹁分かりました﹂
宏がざっと起こした図面に合わせて、てきぱきと作業を進めてい
く一同。神殿を貫通している大木の枝はもはやどうにもならぬと早
々に対処をあきらめ、建物の一部として利用。方々の腐った柱や壁
を取り外し、基礎が駄目になっている部分に防腐加工したハンター
ツリー製の杭を打ちこんだ後、鉄筋に近いものを含めた何種類かの
材料を入れて補強し、撥水性のセメントもどきで固め直す。
そうやって、最低限の枠組みだけを残して柱を修復した後、屋根
から壁からすべて取っ払い、ハンターツリーを加工して作った柱を
組み木の要領で取り付けて補強、足元からの水の浸入を避けるため、
ある程度の高さまで石や砂利を組み合わせて隙間を埋め、再びセメ
ントもどきで固める。そこまで終わったところで、これまたハンタ
ーツリーで作った板を釘を使わずに固定していき、ようやく神殿と
しての体裁が整う。
当然のことながら取り付けそのものはともかく、取り付けられる
ように加工するのは当然宏しかできない。故に、取付と固定は宏の
指示に従い、他の人間が総出で行う形になった。神殿までの移動中
はどこかに行っていたオクトガル達もいつの間にか戻ってきており、
高所作業となる屋根の取り付けを進んでやってくれたのは日本人達
にとってはありがたい援軍であった。板の配置が終わり、雨漏りが
しないようにあれこれ屋根に細工をした後、防腐剤代わりの汁を全
体に塗って、ようやく神殿の修復が終わる。
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朝から始めて昼食をはさみ、日が落ちようかと言う時間までかか
る大工事であった。
﹁大きめのあばら家ぐらいの建物でも、結構大変なもんだな⋮⋮﹂
﹁そらまあ、日曜大工、っちゅうレベルではあらへんし、しゃあな
いで﹂
﹁そう言う作業を、思い付きで突発的に始めないでよ⋮⋮﹂
﹁放置しとくんも、気分悪いやん﹂
達也と真琴の苦情に、悪びれる様子もなく平然と答えてのける宏。
土木レベルの作業がせいぜい基礎のやり直し程度だったことに加え、
エクストラスキル﹁神の城﹂を持っているからこそこのぐらいの時
間で済んだが、本来はその場で材木を加工しながらだと一日やそこ
らで終わるものではない。そもそも、基礎自体が一日で終わるなど
あり得ない作業である。基礎工事が土木と大工、どちらのスキルで
も可能な作業でなければ、今頃作業も出来ずに酒盛りの類でもする
羽目になっていただろう。
本来、決して思い付きで始めるような工事ではあり得ないのだ。
﹁新しい建物って気持ちいいし、別にいいんじゃない?﹂
﹁そこは否定しないけどさ﹂
﹁考えてみれば、神殿の修理って職人冥利に尽きる?﹂
﹁そうだね。言われてみれば、結構大それた仕事をしてたんだよね、
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私達﹂
今更ながら、自分達が結構大それた仕事に手を出した事に思い至
る春菜と澪に、思わず苦笑を漏らす年長者組。
﹁何にしても作業も終わった事やし、ちょっと結界やらなんやらの
手直しと再起動して、終わった報告も含めて祭壇にお供えしてくる
わ﹂
駄弁りながらも祭壇のチェックと手入れを終えた宏が、神殿を神
殿として機能させるために必要な、残りの作業を終わらせに出る。
三十年お供え程度で放置されていた上、至近距離に結構な濃度の瘴
気をため込んだダンジョンが存在した影響もあり、結界も随分とへ
たっている。このままでは、器だけ作って魂を入れないという言い
回しそのものの状態になる。
﹁どんな状態ですか?﹂
﹁予想通り、相当へたっとるわ﹂
いつ破れてもおかしくないレベルで弱っていた結界を張り直し、
そのまま流用した神具で色々な術式の再起動をかける。その様子を、
いつの間にか外に出て来ていた春菜や澪と一緒に見守る。敷地の中
を清浄なエネルギーが充満し、神殿が神殿として再び機能しはじめ
る。
﹁後は、お供え物やな﹂
﹁ドワーフ殺しがあるのなら、燻製肉を一緒に供えてくれればあり
がたい﹂
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祭壇前でお供え物の準備をしようとしたところで、唐突にそんな
リクエストが聞こえてくる。振り返るといつの間にか、やたら立派
に枯れきった雰囲気を発散する、見た感じ中年ぐらいの、森の奥深
くに隠棲しています、みたいな感じの男が佇んでいた。町に出て托
鉢でもすれば、その気もないのに無意識にお布施をしてしまいそう
な人物である。
﹁もしかせんでも、アランウェン様でっか?﹂
﹁もしかしなくとも、アランウェンだ﹂
﹁おやまあ﹂
神殿の主が直々に登場する。そんな珍事に、思わず唖然とするし
かない一同であった。
﹁色々聞きたい事もあろうが、まずは食事にしたらどうだ?﹂
供えられたドワーフ殺しの蓋を躊躇いも見せずにあけながら、何
か言いたそうにしている達也を制してそんな事を言う。なんだかん
だと言いながらも真っ先に立ち直った宏が、リクエスト通りロック
ボアとトロール鳥の燻製肉に野菜と果物を祭壇に備えた直後の行動
である。流石にあのエルフやフォレストジャイアントを守護してい
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るだけあって、この神様は飲兵衛でザルのようだ。
﹁ふむ。この燻製、なかなかいい味だな﹂
﹁それはどうも﹂
優雅に燻製をかじる神様に苦笑しつつ、自分達の夕食を準備する
べく食材の検討を始める春菜。真琴と澪が焼き払って回収してきた
中ボスのキノコもどきか、同じく中ボスの宏が仕留めたオオサンシ
ョウウオか、微妙に悩ましいところである。
﹁迷ったときは、両方使う!﹂
豪快に言い切って、適度な大きさの粘菌とオオサンショウウオの
切り身を用意する。そのまま流れるように宏がダンジョンで採取し
た謎の野菜や木の実、根菜などを準備し、隅のほうを軽くあぶって
味やら何やらを確認した後、面倒だと言わんばかりに全部天ぷらと
唐揚げにする春菜。その剛毅な料理方針に、全力でひく真琴。達也
も微妙に心配そうだ。
﹁灰汁抜きとか、大丈夫なのか?﹂
﹁齧った感じ、火を通せば問題ないレベルだったよ﹂
﹁ならいいんだが⋮⋮﹂
春菜の言葉に、無理やり納得して完成を待つことにする達也。真
琴のほうも不安を隠しきれないながら、下手に口を挟まないことに
したらしい。
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﹁と言うわけで、完成﹂
﹁⋮⋮澪は何作ってたんだ?﹂
﹁天つゆとお吸い物?﹂
﹁天ぷらだからまあ、普通よね﹂
素材が全部謎であることを除けば、実に普通の話である。
﹁で、春菜がメニュー決めるより早く何か仕込んでたけど、ヒロは
何してたんだ?﹂
﹁釜飯や﹂
宏の言葉に、何の釜飯? とは怖くて聞けない一同。ダンジョン
で何を拾ってきているかが分からないため、中身が想像できない。
﹁とりあえず、その天ぷらと唐揚げ食べ終わるぐらいに炊き上がる
から、先そっちいこか﹂
宏の言葉に、火にかけられて微妙に湯気を出している釜飯から視
線をそらす。今日の夕食は、どうしてこうも覚悟が必要な内容なの
か。
﹁それならまあ、先にこっちを食うか﹂
﹁そうね﹂
正直なところ、瘴気たっぷり殺意バリバリだったダンジョンで回
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収した、まともに毒見もしてないような食材を山盛り使った天ぷら
や唐揚げなどあまり食したいものではない。が、とりあえず唐揚げ
のほうは、宏とアルチェムが材料であるオオサンショウウオの肉を
一度食べているので問題はなかろう。昨日のリス肉も、今までやり
あった中に同じモンスターがいて、食べたことがある肉だったから
問題なかった。
故に、問題となるのは妙な寄生の仕方をしていたキノコや、イビ
ルエントの一部分としか言いようがない木の実、根菜、木の葉の類
だろう。もっと平たく言うなら、春菜が作った天ぷらが怖いのだ。
普通に考えれば、あれだけ瘴気が濃くて性質が悪いダンジョンに
住んでいたモンスターの肉など、どれほど高度な料理人の手で毒抜
きをしてもらっても怖くて下手に食えない気がするのだが、実際に
食って確認した人間が居るものに関しては、未知の食材には腰が引
け気味な達也と真琴もまったく文句を言わない。
﹁ん、いい感じ﹂
特に構えることなく粘菌の天ぷらを口にした春菜が、満足げに頷
く。その様子に大丈夫そうだと判断した真琴が後に続く。驚いたこ
とに、味そのものはまいたけに似ており、からっと天ぷらにすると
なかなかの美味だ。
澪はすでにサンショウウオの唐揚げを平らげている。こちらでの
この手の生き物は割合淡白な味のものが多いのだが、このサンショ
ウウオはボスだけあってか、肉自体がなかなかしっかりした味をし
ている。これは食欲魔神の澪も大満足である。
﹁ふむ、それもうまそうだな﹂
1400
﹁言うと思って、分けとります﹂
﹁すまんな﹂
お供え物として別に分けてあった天ぷらとお吸い物、それから唐
揚げをとりあえず麦焼酎と一緒に祭壇に供える。
﹁うむ、美味い﹂
﹁こんなところででっち上げた即席料理で申し訳ないんですけど﹂
﹁美味ければ気にするようなことでもあるまい﹂
などと言い切って酒をかっ食らいながらどんどんお供えを平らげ
ていくアランウェン。眷属のほうは昨日たくさん食べたからか、食
わせろと騒ぎ出すことはなかった。アランウェン本人が居るからか、
周囲を囲んでぷかぷか浮くだけで、これと言って口を開く様子も見
せない。
﹁で、そろそろ釜飯がいい具合になりそうやけど﹂
﹁もう腹はくくってるから、とっとと用意して﹂
﹁了解や﹂
真琴の催促を受け、釜の蓋を開けて中身をざっとかき混ぜる。先
に一膳分をよそって祭壇に供えると、残りを大体等分に盛って配っ
ていく。
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﹁で、結局何の釜飯なんだ?﹂
﹁季節の釜飯・森のダンジョン風味やけど?﹂
﹁⋮⋮回答になってねえ⋮⋮﹂
宏のあまりにもあまりな回答にうめくように突っ込みながら、魚
のようなものが入った釜飯を食べる。美味い。美味いのだが⋮⋮。
﹁この魚、何?﹂
﹁多分、サンショウウオの取り巻きやったはずの魚﹂
﹁取り巻きだったはず、とは?﹂
﹁速攻で陸の上に引きずり上げたもんやから、基本なんもできんま
まアルチェムに止め刺されとったわけやけど、何か?﹂
宏の回答に、視線がアルチェムに集中する。アランウェンの存在
に緊張し、萎縮したまま非常におとなしく食事を続けていたアルチ
ェムが、突然向けられた視線にびっくりして硬直する。
﹁今の話は?﹂
﹁えっとですね。一番最初、陸に引っ張り出すために宏さんが水に
入ってスマッシュでサンショウウオを跳ね飛ばしたわけなんですけ
ど⋮⋮﹂
﹁けど?﹂
1402
﹁そのとき一緒に巻き込まれたらしくて、サンショウウオの体に弾
き飛ばされた魚が地べたをびちびち跳ね回ってまして⋮⋮﹂
﹁邪魔だからしめた、と﹂
達也の言葉に頷くアルチェム。それで大体出所が分かったところ
で、おとなしく一緒に添えられたごく普通のたくあんなどと一緒に
黙々と平らげて行く。
﹁美味いものをそんな辛気臭い雰囲気で食うのはどうかと思うが﹂
﹁ちょっと食材がねえ﹂
﹁ロックボアやワイバーンを食っているのなら、今更だろうに。あ
のダンジョンも、構造としては性根が相当曲がってはいるが、肉や
魚で食えないものはいなかったように思えるが?﹂
﹁理屈で分かってるのと、実際に経験してるのとではいろいろ違う
んですよ⋮⋮﹂
﹁そういうものか﹂
納得したようなしていないような、と言う風情で達也の言葉に頷
くと、供えられた麦焼酎を飲み干し、ドワーフ殺しのビンを新たに
開ける。素面でやってられるか、という感じの飲み方に見えなくも
ないが、さすがに神様だけあって酔っ払う気配はまったくない。
﹁さて、飯も終わったことだし、一杯やりながら本題に入るとしよ
うか。付き合え﹂
1403
﹁さすがに、俺はそのドワーフ殺しは無理ですが⋮⋮﹂
﹁好きな酒を飲めばよかろう。酒蔵ぐらいあるのだろう?﹂
アランウェンの言葉にしぶしぶ頷くと、とりあえず焼酎を一本引
っ張り出す。未成年組はさすがに酒はまずいという事で、とりあえ
ず適当に用意したバウムクーヘンとフルーツジュースで代用する。
こうして、ようやく本来の目的であるアランウェンにいろいろ聞く
というところにこぎつけた一行であった。
﹁さて、まずはアルチェムの巫女としての覚醒と、眷族の解放に協
力してくれたことに礼を言おう﹂
﹁まあ、成り行きみたいなもんやし、そこは礼を言われる筋の話で
もありませんで﹂
﹁こういうことは、けじめだからな﹂
元々そのつもりで宏達にアルチェムを押し付けたくせに、妙にま
じめぶって言うアランウェン。その雰囲気だけは賢人と言う風情を
たたえているが、前に並んでいる酒瓶が微妙に台無し感を演出して
いる。
﹁アルチェム、今もちゃんと聞こえているか?﹂
1404
﹁はい﹂
﹁その声を聞き、向き合っていくのがお前の役割だ。さすがにまだ
ウルスの姫巫女ほどの力は使えまいが、お前はエルフだ。時間はい
くらでもある﹂
﹁日々、精進してゆきます﹂
﹁あまり肩肘張る必要はないぞ。努力して腕が伸びるようなもので
もない﹂
アランウェンにたしなめられても、今一歩肩から力が抜けない感
じのアルチェム。そんな彼女を思わず生暖かい視線で見守ってしま
う一同。
﹁こちらからもいくつか用件はあるが、まずはそちらの聞きたいこ
とを聞いておこう﹂
アランウェンから振られて、アイコンタクトで役割を押し付けあ
う。結局最年長で一番常識人で、もっとも切実に帰りたい達也が代
表で口を開く。
﹁いくつか質問はありますが、まず最初に一つ﹂
﹁うむ﹂
﹁私達は、向こうに帰ることは出来るのでしょうか?﹂
一番最初に核心を突いた質問を飛ばす達也。それを聞いたアラン
1405
ウェンが、やはりそこからかと言う表情で酒を一口飲み、あっさり
と回答を返す。
﹁それに関しては、アルフェミナから伝言がある。帰る方法はちゃ
んと存在していると伝えておけ、とな﹂
非常にあっさりと知りたいことを教えてくれたアランウェンに対
し、さすが神様と感心しながらも動揺を抑えきれない日本人達。な
いといわれる覚悟もしていたためありがたいといえばありがたいの
だが、実現できる方法なのかどうかが分からない以上は喜べない。
﹁その方法は?﹂
﹁私の管轄外だから知らぬ。が、お前達の同類はすべて、向こうに
帰っていると聞いている﹂
﹁なるほど、それはつまり⋮⋮﹂
﹁方法は知らんが、不可能な方法ではない、と言うことだな﹂
詳しくは三女神に聞け、と言われて思わず困った顔をしてしまう
一同。ウルスにいる間にそういう話をしたかったのに、アルフェミ
ナが何一つまともに話してくれなかったのだ。割と頻繁にエルの口
を通して色々と会話はしたのだが、オンオフが激しくて、落ち着い
て話をする機会にはついぞ恵まれなかったのである。
﹁まあ、アルフェミナは今、地味にいろいろ忙しいからな﹂
﹁エルの体に頻繁に降りとるくせに?﹂
1406
﹁ある程度の頻度で巫女の体に降りておかねば、リンクが切れやす
くなるからな。それに、現在の巫女は歴代で最も力が強く、また就
任した年齢も屈指の幼さだと聞く。今のうちから体を慣らしておい
たほうが、後々いろいろと便利だ﹂
﹁それ、降りるたびに寿命に影響する、っちゅうんは?﹂
﹁初代を超えるほどの資質となると、早死にする方向での影響はな
かろう﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
それはそれで物騒な、と言いたくなる回答に微妙に納得し、よく
よく考えれば聞きたいことがほぼ終わったのではないか、というこ
とに気が付く。
﹁他には?﹂
﹁あの、アルフェミナ様からの伝言、なぜ最初の段階で教えてもら
えなかったのでしょうか?﹂
﹁こちらへの移住を望む可能性もあるから、聞かれるまではいう必
要がないと、奴から言われておってな﹂
﹁⋮⋮もしかして﹂
﹁こちらに迷い込んできた連中、すべてが故郷に戻ることを望んだ
わけではない、と言うことだ﹂
どうにも、歴史の裏側にはいろいろな話がありそうだ。所詮あい
1407
まいな歴史書と童話もどきだけでしか確認していない話なので、あ
る意味当然だろう。
﹁まあ、たいした意味はなかろうが、知られざる大陸からの客人に
ついて詳しく知りたければ、禁書﹃フェアリーテイル・クロニクル﹄
を探せ﹂
﹁⋮⋮!﹂
﹁それって!﹂
﹁お前達がやっていた、VRMMOとやらの名前と同じだろう?﹂
唐突に出てきた名前に、今度こそ動揺を隠し切れない日本人達。
いくつか知らない単語に加え、禁書のタイトルに対するすさまじい
までの動揺を見せる日本人達に対して、不思議そうな視線を送るア
ルチェム。
﹁アルチェムよ。今の話は、こちら側の人間には関係のない話だ。
忘れる必要はないが、気にしたところでまったく意味はない﹂
﹁分かりました﹂
神様が言うのだから間違いないのだろう。そうあっさり納得して、
さっくり疑問を捨て去るアルチェム。知らなくても困らないことを
穿り返す趣味は持ち合わせていない。
﹁その名前が出てくるということは、この世界はやっぱりゲームと
同じ?﹂
1408
﹁あくまでも極度に似ているだけだ。思い当たる部分はあるだろう
?﹂
﹁それはもう、山ほどあります⋮⋮﹂
﹁人間が物語と言う形で空想している世界は、大体同じような世界
がどこかに存在していると思え﹂
詳しい理屈は知らんがな。そのアランウェンの言葉に、知っても
意味のないことだと頭を切り替える宏達。実際、この世界がゲーム
の世界そのものだろうがそうでなかろうが、今更どうでもいい話で
ある。
﹁で、フェアリーテイル・クロニクルが禁書というのは?﹂
﹁そちらでの扱いは知らんが、こちらでのフェアリーテイル・クロ
ニクルは、この世界の御伽噺、そのすべての成り立ちと裏側の事情
を余すことなく記載しているからな。当然都合の悪い事実も山ほど
あるだろう﹂
﹁うわあ⋮⋮﹂
﹁他に質問は?﹂
アランウェンから聞き返され、いろいろ衝撃的な話に混乱する頭
を必死に回転させながら漏れがないかを確認しなおす。が、微妙に
空回り気味の思考では効果的な質問などすぐに出てくるはずもなく
⋮⋮。
﹁その、フェアリーテイル・クロニクルはどこに?﹂
1409
﹁ルーフェウスの大図書館辺りにあるのではないか? 管轄外だか
ら、他にありそうな場所など知らん﹂
聞いてからいまいちだと思った質問に対して、身も蓋もない回答
が帰ってくる。
﹁さて、その様子ではどうやら、今はまともな質問は思いつかんよ
うだな﹂
﹁すんません⋮⋮﹂
﹁何。私は他の神に比べれば比較的暇だからな。聞きたいことがあ
れば、また聞きにくればよい﹂
﹁ほんまにすんません﹂
謝ることでもなかろうに、妙に恐縮して見せる宏。その様子に失
笑を漏らしつつ、自身の要件を済ませることにするアランウェン。
﹁さて、ではこちらの用件に入ろう﹂
﹁俺達に何か?﹂
﹁何、言葉だけでなく、実用的な礼をしておこうかと思ってな﹂
そういうと、軽く手を振る。指先からあふれ出た光が、五人を包
み込む。
﹁えっ?﹂
1410
﹁今のは?﹂
﹁とりあえず、森の中で役に立つあれこれの技を、二年ほど修練す
れば身につけられるであろう程度に刻み込んでおいた。それと、宏、
春菜、澪だったか?﹂
﹁私達、ですか?﹂
﹁ああ。お前達は土木と農業の技を身につけているようだから、そ
のための知識と感覚を少しばかり引き出しておいた。あまりやると
エリザがうるさいから、神の技に届くほどではないがな﹂
﹁いや、この程度のことで届いたら、それはそれで不味いですやん﹂
そんな微妙な会話を続けていると、唐突に澪の様子がおかしくな
る。
﹁どうしたんだ、澪?﹂
﹁な、何かすごい力が⋮⋮﹂
﹁えっ? ⋮⋮もしかして!?﹂
﹁うむ。春菜、お前のオーバー・アクセラレートに相当する弓の技
を伝授した﹂
あまりの大盤振る舞い振りに、思わず絶句する一行。
﹁⋮⋮この程度のことで、そこまでしてもらうんはちょっと⋮⋮﹂
1411
﹁ダンジョンを一つつぶして、地脈を浄化して、更に神殿の修復と
結界の強化までした報酬と考えれば、それほどおかしなものでもな
かろう?﹂
﹁だ、だけど⋮⋮﹂
﹁所詮、われわれ神など、意思と人格を持った舞台装置に過ぎん。
舞台装置として許される以上のことは出来んからな﹂
またしてもあまり知りたくない裏側をもらし、新たに封を切った
ドワーフ殺しをあおるアランウェン。さすが神様、本当にざるだ。
﹁何か、あたしと達也はあんまり強化された感じがしないんだけど
⋮⋮﹂
﹁魔法使いは微妙に管轄が違うからな。いろいろ使えそうな魔法は
伝授しておいたから、それでしばらくはしのいでくれ﹂
﹁いや、伝授してもらえただけで十分なんで、そこは気にしないで
ください。が、確かに俺はともかく真琴が微妙なのは気になります
ね﹂
﹁相性の問題もあるが、出し惜しみしている人間にわざわざ新しい
技を与えるのも、と思ってな﹂
﹁出し惜しみって、もしかして刀のことですか?﹂
﹁他に何が?﹂
1412
アランウェンの言葉に、なんともいえない表情になってしまう真
琴。確かに、スキルの充実度合いで言えば、大剣より刀のほうが上
だ。だが、刀という武器そのものの限界に負けて転向してからずい
ぶんたつ。いまさら戻しても勘を取り戻せるかどうかは微妙だ。
﹁せっかく、神の武器を打てる男がいるのだ。こき使って本領を発
揮してはどうだ?﹂
﹁武器だけの問題じゃ⋮⋮﹂
﹁一度体に刻み込まれた技など、そう簡単には忘れん。言い訳して
いる暇があれば、一回でも多く武器を振れ﹂
そのまま、これで話は終わりだと言わんばかりに無理に酒盛りに
年長者二人を巻き込むアランウェン。アランウェンとの邂逅は、い
ろんな意味で物事が動く新たなきっかけとなったのであった。
1413
第10話︵後書き︶
神様もいろいろあるんです
1414
エピローグ
﹁オルテムよ∼!﹂
﹁私達は∼!﹂
﹁帰ってきた∼!!﹂
アランウェンと酒盛りをした翌日。一行は、なんだかんだで二日
も留守にする羽目になったオルテム村に、ようやく戻ってくる事が
出来た。道中、今後少しでも行き来しやすいようにと道を塞ぐ雑草
を刈り、木を切り倒し、ある程度道として成立するように作業しな
がらだったため、村に到着した時には既に昼を過ぎ、太陽が随分と
傾いていた。
﹁アルチェム、無事だっただか!?﹂
﹁心配したんだべ!﹂
村に入ると同時に叫び出したオクトガル達をきっちりスルーし、
我先にとアルチェムの様子を確認するエルフ達。彼らの顔には、一
様に安堵の表情が浮かんでいた。
﹁遅くなってごめんなさい。ダンジョンとか神殿の補修とか色々あ
ってすぐに帰ってこれなかったんです﹂
﹁よかよか。無事に帰ってこれたなら、それだけでよか﹂
1415
年長のエルフ女性が、涙を湛えながらアルチェムを抱きしめて言
う。おっさんどもと結託してアルチェムの性教育を色々と歪めてい
た張本人の一人だが、やはり人一倍の愛情は持ち合わせているらし
い。アルチェムにおかしな性教育を施していたのも、ある種の親愛
の表現のようなものだから、当然と言えば当然だろう。外野のお堅
い価値観の持ち主なら、その表現の仕方はどうかと小一時間ほど問
い詰めたくはあるだろうが。
﹁だどもチェム⋮⋮﹂
﹁はい?﹂
﹁たった二日で、えらく変わっただなあ﹂
﹁んだんだ﹂
ひとしきりアルチェムの無事を確認し帰還を喜び合ったところで、
ゴヴェジョンが彼女をしげしげと観察した後にそんな事を言い出す。
フォレダンや他の人間も同じ感想を抱いたらしい。
﹁そんなに変わりましたか?﹂
﹁何ぞ、えらく綺麗になっただよ﹂
﹁んだ。それに、なんか風格のようなものが滲み出てるべ﹂
﹁立派になっただ﹂
﹁元々胸は立派だっただがなあ﹂
1416
そんな風にアルチェムの変化を口々に語りあう村人達。二百歳か
ら三百歳ぐらいのまだまだ若いエルフなどは、不思議そうに首をか
しげるアルチェムに一瞬見とれ、目があった時に恥ずかしそうに視
線を逸らす者も多い。
﹁まあ、風格っちゅうんは心当たりあるわ﹂
﹁チェムちゃん覚醒∼﹂
﹁巫女巫女∼﹂
﹁ナ∼ス?﹂
﹁そう言うネタはいいから⋮⋮﹂
微妙に危険なネタを挟むオクトガルに、空気を読めとばかりに突
っ込みを入れる澪。ネタがなんとなくわかるため、微妙に居心地が
悪い。
﹁覚醒だか?﹂
﹁何ぞ、アランウェン様の巫女として大事な能力を身につけたらし
ゅうてな。まだまだ使いこなせてへん、みたいな事は言うとったけ
ど、そう言う面では一皮むけた、っちゅうことやろう﹂
﹁なるほど﹂
アルチェムの変化、その一方については、宏達の説明で大体理解
する。だが、それだけではもう一つの綺麗になった方は説明できな
い。もっとも、比較的狭いコミュニティの中とはいえ流石に人生経
1417
験豊富なエルフ達。特に年長者は説明する宏の顔を見たアルチェム
の態度で、なんとなく色々と悟る。
﹁アルチェムさも、女になっただか﹂
﹁こらまた二重にめでたいべ﹂
﹁えっ? えっ?﹂
﹁子供さいつこさえるだ?﹂
﹁えっ? あの?﹂
何やら早合点した幾人かが、先走った事を言い出す。その言葉に
便乗して、オクトガル達が騒ぎ出す。
﹁チェムちゃんらぶらぶ∼﹂
﹁ライバル多い∼﹂
﹁泥沼の多角関係∼﹂
﹁遺体遺棄∼﹂
﹁だから物騒な事を言うなって⋮⋮﹂
隙あらば遺体を遺棄しようとするオクトガルに、疲れたように突
っ込みを入れる達也。今回の場合、微妙に洒落になっていないとこ
ろが怖い。
1418
﹁ほほう?﹂
﹁ヒロシさ、そんなにもてるだか?﹂
﹁おなごさ怖えのに大変だなあ﹂
﹁こりゃ、まだ乙女のままだべな﹂
オクトガル達の言葉と、子供だなんだといいだしたあたりで微妙
な変化を見せた春菜と澪の態度から、そんな風に結論を出すエルフ
達。他人の色恋沙汰が好物なのは、何も女だけではないのである。
﹁とりあえず気になったんだけど、いい?﹂
﹁なんだべ?﹂
﹁アルチェムと宏が仮に子供作ったとして、その子はハーフエルフ
よね?﹂
﹁なんか、いきなり非常に物騒であり得へん話振られてる気がする
んやけど⋮⋮﹂
真琴がエルフ達に振った質問、それに対する宏のコメントに、今
までからかわれて恥ずかしがっていたアルチェムが微妙にぐさっと
きた感じの表情を浮かべる。もっとも、宏に子作りするか? など
と聞けば、相手が誰であろうとあり得ないと答えるのだから、別に
アルチェムに何か不満がある訳ではないのだが。
﹁確かにハーフエルフだべが、それがどうしただ?﹂
1419
﹁エルフって、割とそう言うの嫌いそうだからどうなのかなって?﹂
﹁子供は子供だべ。ハーフだろうが純血だろうが関係ねえだ﹂
﹁んだんだ。親の方には寿命の違いに対しての覚悟さ問い詰めるだ
が、子供にゃ関係ねえべ﹂
﹁子供っつうんは世間でも可愛がって褒めて叱って育てるもんだべ。
ハーフだからってだけで村八分とか、大人がすることじゃねえだ﹂
どうやら、エルフ的にはハーフとか特に関係ないらしい。つくづ
く一般的なイメージとはずれた連中である。
﹁まあ、そっちが別にハーフでもいいってんだったら、後は当人の
問題だからいいんだけどさ﹂
﹁んだ。まあ、他所の村にゃハーフはアウトって掟のとこもあるみ
てえだべが、うちはそんな小せえ事は言わねえだ﹂
流石に南部大森林地帯で最大規模のエルフの村だけの事はあって
か、この村は種族という点ではかなり懐が広いようだ。
﹁だども、ありゃあかなり難儀だべ﹂
﹁あの男、前に事故でアルチェムさに押し倒された時、今にも胃の
中身さぶちまけそうな顔してただよ﹂
﹁女性恐怖症∼﹂
﹁一周回ってヤリ捨て男∼﹂
1420
﹁だからろくでもない事言うんじゃねえ⋮⋮﹂
エルフ達の訳知り顔での会話、その尻馬に乗ってろくでもない事
を言い出すオクトガルに突っ込みを入れ、そのままため息をつく達
也。正直むしろ一周回ってヤリ捨てるだけの根性があれば、いろん
な意味でもう少しましなんじゃないかと思わなくもない。だが、そ
うなればそうなったで他の心配事が付いて回る訳で、正直面倒なこ
とこの上ない。
﹁それにしても、おめえら結構長い事見かけなかっただが、何処さ
ほっつき歩いてたんだべ?﹂
﹁ダンジョン∼﹂
﹁異界化発生∼﹂
﹁巻き込まれた∼﹂
﹁脱出不能∼﹂
﹁そら大変だっただなあ﹂
合体分離を繰り返しながら、断片的な単語で端的に説明を終える
オクトガル達。それだけで大体の事情を察したエルフ達が、巻き込
まれてダンジョン生活をしていたオクトガル達と、それを救出した
であろう宏たち双方にねぎらいの言葉をかける。
﹁何にしてもいろいろめでたい事さあっただし、今日は宴会だべ!﹂
1421
﹁んだんだ!﹂
この中で最年長のエルフが声を上げ、周りにいた連中が一斉に同
意の声を上げる。この日、村のエルフ達は史上最速で残りの仕事を
終え、村の歴史始まって以来の大宴会のために全力で突っ走るので
あった。
﹁マルゲリータ、第一陣が焼けたよ∼﹂
﹁揚げ物各種、完成﹂
折角だからと手伝いを買って出て、宴会料理の定番的なものをい
くつか用意している春菜と澪。ピザはわざわざ宏に即席の石窯を作
らせて何枚も一気に焼き、揚げ物にしても屋台で使っていた機材を
ありったけ用意して、流れ作業でどんどん揚げている。先ほどまで
手伝っていた宏は、別の作業のため席を外している。
宏が席を外した当初こそ何処となく挙動不審だった春菜だが、あ
まりの忙しさにすぐに平常運転に戻り、今では完全に料理脳に切り
替わっている。
﹁豚の角煮も、そろそろいい感じ﹂
﹁春姉、揚げだし豆腐のダシはこんな感じでいい?﹂
1422
﹁ん、こんなもんかな? あ、アルチェムさん、蒸し鳥とか適当に
配ってきて﹂
﹁了解です﹂
恐ろしい手際で次々と料理を完成させ、方々で焚火を囲んでいる
エルフ達にばらまいていく。が、流石に人数が人数である。村人た
ちもエルフ料理︵と言うほど大層なものではないが︶を作って配膳
してはいるが、食べる口の数と胃袋の大きさが桁違いで、なかなか
追いつかない。最初から全員に全ての料理を行きわたらせることは
諦めているが、それでも出来る限り大勢に食べてもらえるよう、物
量を増やす以外にもいろいろ工夫はしている。
煮崩れしないように煮え具合の管理が難しい角煮や豆腐の量が厳
しい揚げだし豆腐はともかく、それ以外の揚げ物や蒸し物、ピザな
どはエルフ達も作り方を覚え、勝手にどんどん作ってくれている。
特にピザはかなり大判のものを焼いているため、十六等分しても一
人頭はなかなかの大きさになる。材料も十分にある上一回に十枚以
上焼き上がるため、ピザは上手くやれば全員に行きわたるかもしれ
ない。
﹁お前さんがたは、そろそろ向こうさ行っとくれ﹂
﹁いいの?﹂
﹁まだまだいっぱい作らなきゃいけないと思うけど﹂
﹁お前さんがたの料理も、大体全員に一品ずつぐれえは行きわたっ
てるべ。それに、今日の主役さいつまでも働かせとく訳にもいがね
1423
えだ﹂
年配のエルフにそう言われ、他のエルフ達にも頷かれた春菜と澪
は、流石に頃合いかとその申し出を受け入れ達也達と合流する事に。
﹁そう言えば、ヒロシさんはどこに?﹂
﹁師匠なら、一番大きな焚火の前でたこ焼き焼いてくるって﹂
﹁そろそろ始まる頃かな?﹂
﹁たこ焼き、ですか?﹂
澪が口にした正体不明の単語に首をかしげるアルチェム。それに
気が付き、実物を見た方が早いと言う事で、宏のところに連れて行
く事にする二人。
中央の焚火前には、人だかりだけでなくオクトガルの塊まで出来
ていた。
﹁関西名物たこ焼き屋台、今から開店や。数量限定やから、早いも
ん勝ちやで∼﹂
そんな気の抜ける口上とともに、例によって例の如く無駄に洗練
された無駄のない流麗な手際でたこ焼きを仕込んでく。その見事な
手際にどよめきの声が上がり、更に人が増える。
﹁兄ちゃん、入ってる具は何だべ?﹂
﹁天カスにネギに紅ショウガ、あとはメインのタコやな﹂
1424
﹁タコだべか?﹂
﹁因みにこういうやつ﹂
火が通るのを待つ間、とりあえず説明のために袋から処理する前
の奴を取り出して見せる。それを見たエルフ達が、ああ、見たいな
顔をする。
﹁ランパスみたいなもんだべか﹂
﹁ランパス?﹂
﹁この森にゃ、そのタコだべか? それと似たようなのが木に登っ
とるでな﹂
﹁足の形とか頭の形とかいろいろ違うところはあるだが、まあ種類
としては近いんでね?﹂
ありがちと言えばありがちだが、この世界にはタコイカ系の陸上
生物が普通に存在するらしい。ついでに言うと、貴重なタンパク源
として普通に食っている。なので、エルフ達にとってはその程度で
ある。が、
﹁きゃ∼!﹂
﹁食べられる∼!﹂
流石にほぼ足の形も本数も同じオクトガルにとっては、似たよう
なもんだでは済まなかったらしい。青ざめながら散り散りになり、
1425
遠巻きにして宏を眺める。
﹁いやいや。流石に自分らを食おうっちゅう気にはなれんわ﹂
たこ焼きをくるくる手際よくひっくり返しながら、苦笑をにじま
せてそう窘める宏。実際、いくら足の形が同じだといっても、オク
トガルとタコとではいろんな意味で見た目が違いすぎる。そもそも
オクトガルに関しては、食べられるというイメージ自体が湧かない。
﹁本当に?﹂
﹁食べない? 食べない?﹂
﹁食わん食わん﹂
そんな事を言いながら恐る恐る寄ってきたオクトガル達に、最初
に焼き上がった分を振舞う。湯気でゆらゆら踊る鰹節が、私を食べ
てと誘っているような錯覚を覚え、恐る恐るアツアツのタコ焼きを
口に運ぶオクトガル達。
﹁まいう∼、まいう∼!﹂
﹁う∼ま∼い∼ぞ∼!﹂
﹁三つ星の、通∼!﹂
どうやら猫舌とは無縁らしく、普通なら舌をやけどしそうなほど
熱いたこ焼きをあっという間に平らげる。その様子を微笑ましく見
守りながら、次々と焼き上がった分をエルフ達に渡していく宏。い
つの間にか混ざっていたフェアリーやフォレストジャイアントにも、
1426
体格に合わせて加減した分量を振舞う。
﹁さて、仕込んだ材料も無くなったし、今回はこれでおしまいや﹂
﹁そりゃねえべ!﹂
﹁くう! もっと早くにくればよかっただ!﹂
﹁どうにもならねえだか?﹂
﹁さっきのタコじゃ駄目だか?﹂
早い者勝ちと言う宣言通り、最初に仕込んだタコが切れたところ
で店を畳もうとすると、方々からそんなブーイングが飛んでくる。
その声に応えてやりたいとは思うものの、さっきのタコはちゃんと
した処理をしていない物だ。すぐに食べられる訳ではない。それに、
紅ショウガも補充を忘れて使いきってしまい、先ほど慌てて仕込ん
だところなのでまだ十分に液がしみこんでいない。
﹁すぐに仕込まれへん材料も切れとるし、タコにしてもあれをその
ままぶつ切りにして、っちゅう訳にもいかんねん。流石に無い袖は
振れんから、残念やけど今日はここで店じまいや﹂
流石にいかな宏といえども、無理なものは無理である。更に言う
なら、今から仕込みをやってというと、今度は彼が物を食う時間が
無くなってしまう。
﹁もっと食べたい∼﹂
﹁食べるの∼﹂
1427
﹁ちょうだ∼い、ちょうだ∼い﹂
諦め悪くオクトガル達が自己主張し、何体かはちゃっかり自分達
の分を確保していた春菜達から少し分けてもらう。その際、食べ終
わったつまようじを持った自分の足を見て
﹁⋮⋮じゅるり﹂
などとやっていたり、摩訶不思議な動き方をしたあと微妙にしょ
んぼりした感じの個体が何処からともなくまな板を取り出して
﹁遺体遺棄∼﹂
などと言って自分を調理するよう主張したりしていたが、明日以
降に色々用事が終わったら村の各地区を回って作るから、と説得し
たらエルフ達も含めて全員大人しくなった。
﹁大盛況だったな﹂
﹁ええ事やけど、ウルス戻ったらタコをようさん仕入れとかんとな
あ﹂
﹁案外あっさり転送陣の設置許可は下りそうな感じだよね﹂
﹁せやな。何するにしてもそれからやで﹂
明日以降にやるべき事を話し合いながら、熊肉をケバブのように
大きな串に刺して炙り、そぎ落として食べる料理を口にする一同。
見れば角煮やピザなどは、しっかり自分達の分を確保してある。
1428
﹁転送陣の設置って、どれぐらいかかるんですか?﹂
﹁まあ、二時間ぐらいやな﹂
﹁その程度で出来るんですか﹂
﹁その代わり、設置に無茶苦茶魔力食うんやけどな﹂
アルチェムの問いかけに軽く応え、追加のケバブにかじりつく。
この料理はエルフが祝い事のときに食べるもので、今回はアルチェ
ムの巫女としての覚醒とアランウェン神殿の改築が祝い事の口実と
なっている。複雑な味付けは何一つしていないが、果実や木の実を
ベースにキノコ類のダシで味を整えたタレがなかなかに美味で、つ
いつい食が進んでしまう。
﹁あの、私も皆さんについて行って、いいですか?﹂
﹁いきなりそれ言われてもなあ⋮⋮﹂
突然のアルチェムの言葉に、ちょっと困ったような表情でお互い
の顔を見る宏達。連れていく、と言う一点に関しては、宏達の方に
は特に問題はない。問題があるとすれば
﹁ちょっと連れ歩くのは不安﹂
﹁現状だと、あんまり一緒に旅する女体が増えるとなあ﹂
というコメントがすべてだろう。
1429
﹁やっぱり、駄目ですか⋮⋮﹂
﹁絶対駄目、って言う訳でもないんだけど、事が事だからちょっと
気軽には頷けないよ﹂
﹁って言うか、アルチェム。あんた巫女でしょ? ホイホイ出歩い
ていい訳?﹂
真琴の質問に、巫女が出歩くと何かまずい事があったかな? と
言う表情を浮かべるアルチェム。元々こちらのシャーマン系の人間
は、神域の守護だとか祭祀の長だとか言う立場を兼任している人間
は少ない。その上、アランウェンはそう言う部分は大層アバウトで、
極論お供え物さえあれば祭祀の類をしなくても守護に手を抜いたり
はしない。彼に限らず、こちらで神の名をもつ存在は大抵そんな感
じである。
故に、巫女と言っても単に神々が身近にいて見守っている、以上
の意味はない事の方が多く、アルチェムなどはその典型である。む
しろ、祭祀の長としてたくさんの儀式をこなしているエアリスの方
が、この世界の巫女としては少数派だろう。もっとも、彼女の場合
は王族や姫巫女と言う物の権威を強くするためにそういった祭祀が
必要だという側面もあるため、一概にアルフェミナの巫女が特殊だ
とは言い切れないのだが。
﹁⋮⋮なるほど。巫女と祭祀とか神域の守護とか、そういうものは
直接関係ない訳か﹂
﹁と言うか、アランウェン様のお祭りとか、ご本人が面倒だからい
らないといってたので、やった事がありません﹂
1430
﹁うわあ⋮⋮﹂
アルチェムの回答に、納得と呆れの入り混じったうめき声を漏ら
してしまう春菜。昨日出会った本人の様子や性格から察するに、酒
とつまみをあてがっておけば特に文句を言わずに守護を続けてくれ
そうなのは事実だが、あまりに身も蓋も、もっと言うなら威厳も風
情もない話には呆れざるを得ない。
﹁とりあえず、ついて来たいっていうのを無碍に断るのもどうかと
思う﹂
﹁澪、本音は?﹂
﹁アルチェムのエロトラブルに慣れたら、少しは女性恐怖症もマシ
になるんじゃないかな?﹂
﹁またスパルタね⋮⋮﹂
呆れるような真琴の言葉にえっへんとささやかな胸を張ってから、
乳製品や小魚をメインにガンガン食事を続ける澪。チーズたっぷり
のグラタンがいい感じだ。
﹁いきなり連れて行くのは、いろんな意味でリスクが大きい。テレ
スとかノーラは旅にも慣れてるだろうし、農業指導ついでに工房で
一カ月程度そう言う方面の修行をして、旅慣れてる連中の許可が下
りてから合流、でいいんじゃないか?﹂
﹁せやな。まずはウルスで都会に慣れるところからや﹂
この物理的に閉鎖されている感じの村で暮らしてきたエルフが、
1431
いきなり外の貨幣経済が支配する社会に飛び込んでも上手く行く訳
が無い。まずは見知ったもののフォローを受けながら、ウルスと言
う世界最大規模の大都市でヒューマンの貨幣経済に慣れた方がいい
だろう。宏達も旅慣れている訳ではないので、アルチェムのそうい
う部分までフォローできるかどうかは、正直なところかなり微妙だ。
別段、宏達もアルチェムが嫌いな訳ではない。むしろ、個人とし
てはかなり好感を抱いている方だろう。戦闘面でもそれ以外でも、
特に足手まといと言うほど能力が劣っている訳でもない。ただ、エ
ロトラブル発生体質に加え、外の世界を知らなさすぎる純粋培養の
田舎者、という点がネックなだけであり、どちらか一つでもフォロ
ーの必要が無くなれば、ある程度はどうにかなる目途は付けられる
のである。
もっとも、一番大きな理由は、あまりにもしょんぼりされてしま
い、断るのが大罪のような気分になってしまったからではあるが。
﹁つまりは?﹂
﹁工房で雇うから、そこで働いた給料で旅支度を整えよっか﹂
﹁はい!﹂
宏達が出した結論に顔を輝かせ、迷うことなく頷くアルチェム。
とりあえず最低限の折り合いをつける事が出来て、何となくほっと
してしまう一同。結局、アルチェムとの合流が自分達の考えている
ような形では無くなるのだが、当然この時の宏達はそんな事は知る
由もない。
﹁話は終わっただか?﹂
1432
大体の結論が出たところで、比較的よく顔を見る中年に差し掛か
ったぐらいのエルフが、酒が回っている感じの顔で割り込んできた。
﹁大体結論は出たけど、どないしたん?﹂
﹁いや、そっちの姉ちゃん、大層歌さ上手いと聞いただが﹂
﹁あ、何か歌おうか?﹂
﹁頼んでいいだか?﹂
﹁喜んで﹂
エルフのリクエストに応え、そう言った出し物の舞台代わりにな
っている一番大きな焚火の前に立つ。元々むやみやたらと存在感が
あって人目を引く春菜は、ただそれだけで会場中の視線を集めてし
まう。
﹁リクエストがあったので、私の故郷の歌をいくつか、歌わせてい
ただきます﹂
そう前置きをして、まずはしんみりとした、だが暗い訳ではない
歌を二曲連続で歌い始める。どことなく沖縄っぽい印象を与える音
階のメロディに乗せて歌う、泣いて笑っていつの日か花を咲かそう
という歌詞の曲から始め、遠い春よというフレーズが印象的な、日
本語の美しさを感じさせる曲を続ける。
アカペラで歌ったその二曲で、観衆の心をこれでもかと言うぐら
いがっちりつかむことに成功する春菜。そのままの路線で続けてい
1433
ればいいのに、三曲目でいきなり方向が逸れてしまうあたり、そろ
そろ本格的に残念美女の称号を贈るべきかもしれない。
﹁姉ちゃん! ○作歌ってけれ!﹂
﹁は∼い!﹂
わざわざリクエストを聞き入れ、三曲目としてフォレストジャイ
アント達の間で大流行中の木こりの歌を歌い始める。フォレストジ
ャイアントだけでなく、予想外にエルフやフェアリー、ゴブリン達
の食いつきも良かったため、だったらという事で一部歌詞を変えな
がら演歌特集に入る。
田舎が嫌だから東京に出て牛を飼うという内容の歌を、テレビや
車を適当なものに、東京をウルスに置き換えて朗々と歌い上げ、そ
のまま東京に出てしまった恋人に帰ってこいと呼びかけるリンゴ農
家の男の歌に続ける。他にも孫の可愛さを歌い上げた歌や、女の情
念たっぷりの難所越えの歌などを続けて歌い続ける。
﹁ワスらフェアリーの歌声には負けるだが、ヒューマンの歌も悪く
ねえだな﹂
﹁いや、ああいう歌ばかりだと思われても困るんだが⋮⋮﹂
﹁勘違いするでねえべ。あくまで一番はフェアリーの歌だからな。
別に、おめえらを認めた訳でねえだからな﹂
﹁こういうジャンルでツンデレやられても困るんだけど⋮⋮﹂
種族全体でツンデレをやっているフェアリーの、訛りのきつい口
1434
調での典型的なツンデレメッセージに何とも言えない表情を浮かべ
てしまう真琴。身長六十センチぐらいで体型バランスは大人のそれ
である彼らが、妖精の羽根という表現以外思い付かない羽根を動か
して飛び回りながらド演歌を口ずさみ、その姿を見られると顔を真
っ赤にして訛りのきつい口調でツンデレ的な照れ隠しをする。正直、
そう言う種族だと知っていても反応に困る光景である。
もっとも、一番反応に困るのは、どう見ても欧米系の、それもす
ごぶる付きの美女である春菜が朗々とド演歌を歌っている、という
事実なのは言うまでもない。
﹁あ、路線が変わった﹂
﹁でも、演歌じゃなくなっただけでアレな感じなのは代わってない
⋮⋮﹂
あみだくじを引いて楽しい、と言うド○フの生放送コント番組を
打倒したお笑い番組の代表的な一曲を歌い始めた春菜に、たまに突
っ込みに回っているように見えても、やはりボケはボケかと深く再
認識する達也と真琴。そんなこんなで、宴会はずっと盛り上がり続
けるのであった。
﹁本当に、いいんですね?﹂
1435
﹁お主らには世話になったからのう。それに、これだけのセキュリ
ティを固めてあるのじゃから、そうおかしなことにはなるまいて﹂
翌日。長から許可をもらった宏達は、まずは転送陣を張るために
あてがわれた小屋を改装し、勝手に出入りできないようにするとこ
ろからスタートした。そのやたらと厳重なセキュリティを見た長と
アルチェムが目を丸くする中、さっさと地面に転送陣を焼きつけ、
魔力を通してスタンバイ状態にした宏が、一足先にウルスの工房ま
で戻る。
﹃テステス、マイクテス。聞こえとる?﹄
﹃テステス、聞こえますか? こちらは感度良好﹄
一時間ほどして、工房に戻った宏から通信が入る。ゲームじゃあ
るまいし、流石にギルドカードではウルスと国境近くのエルフの村
では通信距離が足りないので、わざわざそれ専用の通信アイテムを
作ってある。因みに、こういうアイテムを預かるのは、大抵の場合
は春菜である。伊達に宏との付き合いが一番長い訳ではない。
﹃こっちも感度良好。こっちは接続準備出来たけど、やってもうて
かまへんかな?﹄
﹃ちょっと待って、今確認をとるよ﹄
宏の連絡を受け、最終確認に入る。
﹁向こうは準備出来たって。後は接続するだけって言ってるけど、
接続して大丈夫?﹂
1436
﹁ちょっと待って。念のためにチェックする﹂
春菜から伝言を受け、もう一度不備が無いかチェックする澪。不
備があったからといって大爆発するとかそういう事はないのだが、
いちいち何度もウルスとオルテムを転送石で行き来するのはいろん
な意味で面倒くさい。やるなら一発で終わらせてしまいたいもので
ある。
﹁ん。陣に不備は無し。魔力状態良好﹂
﹁もう一度確認しますが、接続してしまっていいんですね?﹂
﹁うむ。問題ない﹂
アルチェムに支えられているとはいえ、立っていること自体が大
儀そうな長が、それでも真剣な表情を維持して一つ頷く。長からの
Goサインが出たところで、宏にもう一度連絡をとる。
﹃接続していいって﹄
﹃了解。今から接続するから、念のためにちょっと離れとって﹄
﹃は∼い﹄
宏の指示を全員に伝え、十分に転送陣から距離を取ってからそれ
を伝え、陣の変化を見守る。
連絡を入れてから十五秒ほどたったあたりで陣が光りはじめ、三
十秒ほどで補助システムとして設置された六つの魔力結晶から魔力
が放出される。転送範囲を確定させるかの如く光の輪が広がり、あ
1437
る程度の広さになったところで今度は天井まで伸びる。一分ほどか
けてそれらの一連の挙動が終わったところで、空中に何やら文字ら
しい模様が浮かび上がる。
﹁接続完了だって﹂
﹁もっと時間がかかるかと思ってたよ﹂
一同の心情を、春菜が代弁する。転送陣と言う重要なシステムが
こんなに短時間で出来るのは、流石に釈然としない物があるのも当
然であろう。
﹁師匠の魔力量だから出来る事﹂
﹁そうなの?﹂
﹁普通は設置準備だけでも、三人ぐらいで丸一日以上の儀式が必要﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
基本的にものづくり以外で魔力を使わない男なのでピンと来づら
いが、宏の魔力はその気になればウルスを壊滅させられるバルドよ
りも多い。精神ほど知力の能力値が高くないので魔法攻撃力は上の
下程度でしかないのだが、生産とか生活関係の魔法しか使えない事
を考えると、むしろ無駄に高いといっていいだろう。
なお、ゲームの時の知力と言うのは、感覚とよく似た性質をもつ
数値であった。いわゆる頭の良し悪しや勉強が出来る出来ないとい
うより、気がつくかつかないかとか、直感的に理解出来るか出来な
いかを現した数値である。この数値が高いと魔法攻撃力が上がる以
1438
外にも、感覚と同じくいろんな場面であれこれヒントが出てくるよ
うになる。感覚との違いは、理性か本能かと言い換えれば分かりや
すいだろう。
﹁で、もう使えるんだよな?﹂
﹁使える﹂
﹁あ、でもちょっと待って。今から宏君が、テストを兼ねてこっち
に戻ってくるんだって﹂
春菜の言葉が終わるか終らないかと言うタイミングで転送陣が光
り、宏の姿が現れる。
﹁転送テストも成功やな﹂
﹁いきなり本人がテストせずに、先に何か小物でも送って来なさい
よ﹂
﹁面倒やし、別にええやん﹂
真琴の注意をあっさり受け流し、通信機に向かって小声で何やら
呟く宏。その直後、再び転送陣が光り輝き、今度はテレスとノーラ
が出現する。
﹁うわあ、本当につながってる⋮⋮﹂
﹁親方に関しては今更と言えば今更なのですが、それでも流石にい
ろいろどん引きなのです⋮⋮﹂
1439
出てきてすぐに、いろいろ失礼な第一声を漏らしながら、周囲を
ぐるりと見渡す二人。そんなあまりに有難味のないテレスの帰還に、
目を丸くして絶句したまままだ立ち直れない長とアルチェム。そん
な二人と目があったところで、思わずあっと言いながら口元を手で
隠すテレス。微妙な沈黙の後、一つ咳払いをして誤魔化し、二年ぶ
りぐらいに顔を合わせた長に対して帰還のあいさつをする。
﹁ご無沙汰しておりました﹂
﹁う、うむ。息災で何よりじゃ﹂
﹁アルチェムも、久しぶり。ファーレーン語は、上達した?﹂
﹁そんなに聞き苦しくない程度には、普通に話せてると思うんだけ
ど⋮⋮﹂
﹁ん、問題ない、かな﹂
後にオルテム村だけでなく、エルフ族全体でも一番の薬師となる
テレス。その彼女の初めての帰還は、実に締まりのない微妙なもの
になるのであった。
なお、余談ながら
1440
﹁⋮⋮ハニーがウルスに戻ってる気がする⋮⋮﹂
乗合馬車でダールを目指している最中の元暗殺者が、野生の勘の
ようなものを働かせてそんなコメントを漏らしたのはここだけの話
である。
1441
こぼれ話 その1
1.エルフの森の住民たち
﹁流石にフォレストジャイアントの集落周辺だからか、これと言っ
て問題はないわね﹂
﹁元々、強靭な種族だからな﹂
﹁おら達も、そうむざむざ村を襲わせたりはしねえべ﹂
オルテム村から彼らの足で三十分ほどのところにあるフォレスト
ジャイアントの集落。そこまでの道を見て、真琴と達也が感心した
ように言う。流石に平均身長三メートルの種族だけあって、自分達
の村の防衛は完璧らしい。
﹁それにしても、あんな巨体がうろうろしてるのに、このあたりっ
てほとんどそう言う獣道はないのよね﹂
﹁それ言い出したら、オルテム村だってあの規模の村があるとは思
えないほど痕跡少ないしな﹂
﹁森に住む種族が森の中に分かりやすい痕跡さ残してたら、はっき
り言って話にならねえだよ﹂
身長三百二センチのフォレダンが、木々をほとんど揺らさずに進
みながら突っ込みを入れる。その言わずもがなな指摘に苦笑しなが
ら、ゴヴェジョンやフォレダンよりは派手に木々を揺らしながら歩
1442
を進める。普通ならモンスターに襲われやすかったり自分達の不意
打ちの目を潰したりとあまりよろしくない行動なのだが、今回はエ
ルフ以外の種族の集落と顔つなぎをするのがメインだ。あまり見事
に移動音を消してしまうと、それはそれでよろしくない。
﹁そろそろだべ﹂
﹁んだんだ﹂
ゴヴェジョンとフォレダンに言われ、自分の体が隠れるほど生い
茂った茂みの隙間に目を向ける。果たしてそこには⋮⋮
﹁⋮⋮スケールは大きいけど、軒数は少ないのね﹂
﹁おら達はガタイがガタイだからな。元々勢力としては小せえだ。
何処の集落も、どうにか世帯数が三桁ってところだべさ﹂
﹁んだども、エルフ達みてえに単身世帯や夫婦だけの世帯がメイン、
って訳でもねえだがな﹂
隙間から見える、人間基準だと二階建て程度の規模の平屋のログ
ハウス。それが十数軒集中している様はなかなかにスケールが大き
く、壮観ではある。が、規模の大きさに惑わされそうになるが、真
琴の指摘通り確かに建物の数は少ない。
フォレダンの集落にいるフォレストジャイアントは大体五百人ほ
ど。フォレストジャイアントの寿命は人間と大して変わらず、繁殖
能力はエルフ以上人間未満と言うところだとの事だ。食料事情もあ
って、大体増えもせず減りもせず、ぐらいで推移するらしい。たま
に別の集落のフォレストジャイアントと見合いなどをしているため、
1443
過度に血が濃くなる事は避けられているそうである。
因みにフォレダンは三十路に差し掛かろうかと言うところで、三
年前に嫁が病気で逝っている。子供は上の子がそろそろ思春期と言
ったところだとの事。普通ならこんなにホイホイ父親が外出してい
るとぐれそうなものだが、こんな小さな集落だとぐれるも何も無い
のだろう。
﹁皆の衆、客人さ連れて来ただぞー!﹂
フォレダンの一声で、わらわらとフォレストジャイアント達が方
々から現れる。その数、おおよそ四百人と言ったところか。足を悪
くしている年寄りや仕事で不在のものもいるのだから、妥当と言え
ば妥当だろう。
﹁ヒューマン種とは珍しいだな﹂
﹁アルチェムさの恩人だべ﹂
﹁しばらくオルテム村さ滞在するだから、念のために顔つなぎさ連
れて来ただ﹂
﹁そかそか。ならば長居は出来ねえだな﹂
﹁んだ﹂
妙に人懐っこく歓迎ムードで二人を取り囲むフォレストジャイア
ントの集団。敵意はないとはいえ、その迫力は中々のものだ。
﹁次はゴブリンのところだか?﹂
1444
﹁そのつもりだべ﹂
﹁だったら、ちょうどいい具合に上がった酒さあるだ。一樽持って
いけ。客人もいるか?﹂
﹁欲しい!﹂
長らしきジャイアントの申し出に、一も二もなく飛び付く真琴。
フォレストジャイアント仕様のなかなかにきつい酒をもらって、ほ
くほくした顔で旅立つ真琴と呆れ顔の達也であった。
﹁これはまた、すごい数ねえ﹂
﹁ゴブリンの力は数に負うところが大きいだ﹂
﹁同じ数だと、おら達はどうやってもエルフやジャイアントには勝
てねえだよ﹂
ゴブリン達の集落。こちらは建造物と呼べるものはほとんどなく、
あちらこちらの穴倉やら木のうろやらで生活している。ゴヴェジョ
ンいわく、ゴブリンは人口の増減や入れ替わりが激しいため、いち
いち建物を作っていられないのだそうだ。それゆえに、家と呼べる
のはゴヴェジョンをはじめとした重要な仕事をしている人間のもの
1445
だけで、他の建物も倉庫ぐらいしかない。
そんなゴブリンの集落だが、住んでいる数は面積に比して非常に
多い。ざっと数えただけでフォレストジャイアントを超える数が出
てきており、後から後から更にわらわら出てくる。ちょっとしたお
祭り騒ぎだ。
﹁長、長。フォレストジャイアントから新酒が届いてるだ﹂
﹁おお! それはありがてえ!﹂
ゴヴェジョンの言葉に合わせて樽をおろすフォレダン。それを見
て歓喜の声を上げる長。一樽、と言ってもフォレストジャイアント
仕様の樽だ。ゴブリン達なら上手くやれば、一人一杯はありつける
分量である。
﹁あっ、そうだ﹂
﹁どうしただ、お客人?﹂
﹁うろうろしてたスラッシュジャガー三頭ほど仕留めたんだけど、
あれって食べれるの?﹂
﹁どいつも結構でかい個体だったから、なかなか食い出がある。食
えるんだったら、一頭置いて行こうかと思ってるんだが?﹂
﹁それはまた、ありがてえ話だで。奴ら凶暴で凶悪だでな。儂らゴ
ブリンだと、一頭仕留めるのに十五人は覚悟せんと厳しいだよ﹂
﹁だども、普通に食うには癖がつええだが、燻製にすればうめえべ﹂
1446
大歓迎と言った雰囲気のゴブリン達に頷くと、鞄の中から一番大
きい奴を取り出す。その獲物のサイズに、ゴブリン達から歓声が上
がる。
﹁ありがてえ、ありがてえ﹂
﹁長、長。おらたちからも何か渡すだよ﹂
﹁んだな。と言うても、今渡せるのはレットレルの果実酒とマルガ
鳥の燻製卵ぐらいなもんだども⋮⋮﹂
﹁それって、どんなもの?﹂
﹁レットレルは、二月ごろに取れる木の実だでな。山ブドウを更に
濃い味にした感じの味だべ。酒も、普通にそんな感じさよ。マルガ
鳥の燻製卵は、レットレルの酒によく合うだ﹂
﹁じゃあ、貰っていいんだったらそれで﹂
酒とつまみと言う組み合わせに、迷うことなく頂戴することを決
める真琴。腐女子的趣味が基本封印されているからか、酒に関する
欲求がひどくなっている感じがする。もっともアル中と言う訳では
ないようなので、酒で仲間を売ったりしそうな気配はいまのところ
感じない。
﹁フェアリーのところさ行くなら、ついでに一樽ほど持っていって
くんねえべか?﹂
﹁了解﹂
1447
長の言葉に気前良く頷くと、ゴブリンが三人がかりで持ち運ぶよ
うな、彼らの体格からすれば十分すぎるほど大きな樽を受け取って
鞄につめる。
﹁後はフェアリーか﹂
﹁こっちのフェアリーだから、多分色々油断は出来ないんでしょう
ね﹂
出発前にこそこそ話し合う達也と真琴。その言葉を聞くとはなし
に聞いていたゴヴェジョンが、思わず苦笑を漏らした事はここだけ
の話である。
﹁余所もんが、何の用だべか?﹂
身長六十センチほどの、蝶のような羽を背に持つおとぎ話に出て
くる妖精のような姿をした男が、警戒心も露わに訛った口調で言う。
それを見て、微妙に反応に困る真琴。達也の方はある程度予期して
いたらしく、これと言って動揺した様子は見せない。ついでに言え
ば二人とも、達也達からは見えない場所にたくさんのフェアリーが
隠れている事にも気が付いている。
﹁この二人は、オルテム村の客人だで﹂
1448
﹁アルチェムさ、助けてくれただよ﹂
﹁信用できるだか?﹂
疑惑の目を向けるフェアリーに、これが普通の態度だよなあ、な
どと場違いな事を考える達也。フェアリーと言う種族は作品や伝承
ごとにいろいろ違うが、警戒心が強いという特徴は珍しいものでは
ない。もっとも、一般的にはエルフがそちら側なのだが⋮⋮。
﹁アルチェム本人がそう言ってるだよ﹂
﹁脅して自演の可能性はねえか?﹂
﹁それはエルフの長老に失礼だべ﹂
フェアリーとゴヴェジョンの会話を聞き流しながら、なんとなく
あたりの気配を探ってみる真琴。理由は特になく、本当になんとな
く気になっただけである。感覚の能力値は低いが、ゲームの頃から
最前線で戦い続けた経験から、この手の勘がそこそこ効くのだ。
﹁ねえ、達也﹂
﹁どうした?﹂
﹁あれ、多分モンスターよ?﹂
真琴がこっそり指さしたのは、普通の蔦の振りをして木に巻きつ
いている草。門番的に使っているにしては位置がおかしい上に、数
が少なすぎるのが気になる。宏か澪ならば見た瞬間にモンスターで
1449
ある事を看破しただろうが、真琴の感知能力では能動的に疑ってか
からない限り、あの手の擬態系モンスターは見抜けない。
﹁どうする? 先に倒しちゃう?﹂
﹁そうだな。どんな感じのモンスターかは分からんが、やっちまっ
た方が面倒は少ないだろうよ﹂
いまだにもめてるゴヴェジョンとフェアリーを放置し、とりあえ
ず怪しげな蔦の方に行く。いつの間にか割と近くまで移動していた
蔦植物。予想通り接近した真琴に向かって伸びてきた蔦を鎌で切り
払い、本体を切り捨てようとしたあたりで⋮⋮
﹁何してるだ!?﹂
隠れて監視していたフェアリーの女性が飛び出してくる。
﹁あっ! 馬鹿!﹂
飛んでくるフェアリーに思わず叫んでしまう真琴。攻撃の手が止
まった瞬間、狙い澄ましたように飛び込んできたフェアリーを捕食
しようとする蔦。フェアリーを絡め取った瞬間に、真琴が鎌で蔦を
切り落とす。
﹁危ないから下がってなさい!﹂
無謀にもモンスターの前に飛び出したフェアリーを叱りつけ、本
体らしき場所をさっくり切り落とす。一撃であっさり枯れた蔦植物
を油断なく観察し、どうやら増殖する気配はないらしいと結論をつ
けたところで、一つ息を吐き出す。
1450
﹁これ、あんた達の門番代わりって訳じゃないわよね?﹂
真琴の問いかけに対し、首を左右に振るフェアリー男性。女性の
方は流石に食われかかったショックからか、青ざめるを通り越して
真っ白と言った方が正しいであろう顔色になっている。
﹁どうにも物騒だから、ちょっと周り草刈りしてきた方がいいかし
ら?﹂
﹁流石に、これ以上は勝手にやるのもまずいだろう﹂
﹁そうね。あんまり歓迎されてないし、変に勘繰られるのも嫌だし
ね﹂
二人の言葉に、何とも言えない表情を浮かべるフェアリー達。そ
こへ
﹁何を騒いでるだ?﹂
村の中から、何処となく立派な姿の男性フェアリーが現れる。感
じからいって、どうやらフェアリー達の指導者階級らしい。
﹁ゴヴェジョンが、余所もんを連れてきたから追い返そうとしてた
だ﹂
﹁アルチェムさの恩人だべ。連れて来て何が悪いだ?﹂
﹁それが信用ならねえ、つってるだ﹂
1451
﹁フォルト、やめるべ!﹂
フォルトと呼ばれた対応役が、後から出てきた男性に一喝されて
黙る。
﹁失礼した、お客人。我らは魔法以外の能力はゴブリンに大きく劣
る弱い種族だでな。数もそれほど居らんで、どれだけ警戒しても警
戒したりねえだ﹂
﹁まあ、それが普通だよなあ﹂
﹁エルフの対応が緩すぎるのよね、実際﹂
﹁ま、そういうことだ。普通は警戒するのが当たり前だから、別に
気にしてねえよ﹂
男性の謝罪に苦笑を浮かべながらも、とりあえず気にしてない事
を告げる二人。その二人の言葉と態度に、どことなくほっとした様
子を見せる男性。
﹁何で怪しげな余所もんに謝るだ、ゼオン!﹂
﹁失礼だといってるだろうが、フォルト!﹂
﹁だども!﹂
﹁何でもかんでも疑って、味方になってくれる可能性のある余所も
んさ排除したら、最終的に困るのは我々だべ!﹂
ファンタジーの、それもこう言った種族にありがちな会話を訛り
1452
のきつい口調で交わすゼオンとフォルト。文章に直せば比較的読み
やすいが、実際のところはイントネーションがおかしいだけでなく
妙なところで台詞が濁るため、聞き取りは意外と難しい。
﹁ありがちな会話だなあ﹂
﹁あの二人、いつもあんな感じ?﹂
﹁だべなあ﹂
﹁フォルトさ、わけえ癖に頭固くてなあ﹂
﹁だども、ゼオンさもあまり変わらねえだよ﹂
だんだんヒートアップしてくる口げんかに、思わず呆れた視線を
向ける余所者達。フォルトの方は相変わらずだが、ゼオンもだんだ
ん言っている事が変わらなくなってくる。二人の違いを上げるなら、
相手を認める認めないに関係なく受けた恩に感謝して見せるぐらい
は必要だ、と言うゼオンの主張が、やや外向きに見える程度であろ
う。基本相手をとことんまで疑って受け入れないところからスター
トする姿勢は大して変わらないし、少々恩を受けたところで相手を
受け入れる気はないというところも同じである。
この喧嘩を見ていて分かった事を上げるなら、立場的にゼオンと
フォルトはそれほど大きな上下関係は存在しないだろう、という点
だ。流石にきちっとした上下関係があるのであれば、いくらなんで
もフォルトがこんな形で食ってかかる事は不可能だからである。
﹁客人の前であげな事言っちまっちゃあ無意味だべ﹂
1453
﹁んだんだ﹂
ゴヴェジョンとフォレダンの会話が、現状の不毛さと馬鹿馬鹿し
さを物語っていると言えなくもない。
﹁なんかもう面倒になってきたし、ゴブリンの長から預かってきた
酒を置いて、とっとと帰るか?﹂
﹁そうね。どうせそんなに深く関わらないでしょうし﹂
などと話し合っていると、先ほどまで真っ白になっていたフェア
リーの女性が、いつの間にか何処となく熱い視線でゼオンとフォル
トを見つめている。
どちらも美形ぞろいのフェアリーの中でも頭一つ抜けた男前であ
る。同じ種族の女であれば、のぼせあがってもおかしなことではな
い。ないのだが、真琴のセンサーは、微妙にそう言う視線ではない
と告げている。
﹁ねえ、ちょっといい?﹂
﹁なんだべ?﹂
﹁少し気になった事があるんだけど⋮⋮﹂
﹁礼を言ってない事だか? 確かにおらはおめえに助けられただ。
その事は感謝してやるが、おめえらを認める気はねえ﹂
ちょっと気まずそうに、先ほどとは違う意味で顔を赤くしながら、
言い訳がましくもじもじとそんな事を言ってのけるフェアリー女性。
1454
翻訳をするなら、﹁助けてなんて言ってないんだからね。でもあり
がとう﹂といったところか。言ってる事だけを見れば何様と言う感
じだが、態度や口調などがすべて裏切っている。副音声が明らかに
﹁ありがとう、ごめんなさい﹂と言っているのだから、オタに分類
される達也と真琴としてはご馳走さま、と言いたい気分である。
そんなツンデレいただきました、みたいな台詞に一瞬動きが止ま
ってしまった真琴だが、とりあえず再起動して本題に入る事に。
﹁別にお礼はどうでもいいんだけど、ちょっとあんたの様子が、っ
て言うか、あの二人を見てる視線が気になったのよ﹂
﹁なんか文句でもあるだか?﹂
﹁ないない﹂
急に攻撃的になったフェアリー女性に対し、満面の笑みを浮かべ
ながら手をパタパタ振って否定し、至近距離に近寄って他の人間に
は絶対聞きとれないであろう音量でささやく。
﹁ゼオンさんとフォルトさんだっけ? あんた、あの二人の組み合
わせだと、どっちが相手を押し倒す展開が好み?﹂
﹁⋮⋮!?﹂
﹁個人的には、ゼオンさんの方が強気攻めで、フォルトさんの方が
強気受けかな、みたいな印象だけど﹂
﹁攻め? 受け?﹂
1455
﹁あ∼、流石に専門用語に分類されるか⋮⋮﹂
フェアリー女性の反応を見て少し反省し、次々に要らん事を吹き
込み始める真琴。真琴の説明に顔をリンゴのごとく真っ赤に染めな
がらも、真剣な表情で説明に聞き入る女性。いつの間にか彼女以外
にも三人、新たなフェアリー女性が話に加わっている。その様子に
気を良くしながら、こっそり取り出した紙にサラサラっとフリーハ
ンドとは思えないすさまじいレベルのイラストを描き始める真琴。
無論、描いているのは全裸のゼオンとフォルトの絡みである。
﹁真琴、ちっと長に挨拶したら、そのまま帰るぞ﹂
﹁あ、うん、了解﹂
いつの間にか大人数のフェアリー女性と何やら内輪の話に没頭し
はじめた真琴。微妙に見え隠れする腐のオーラに気圧されて距離を
取っていた達也が、とっとと話をつけて帰る段取りを進めたらしい。
大方布教が終わったあたりで色々な事後処理も終わったようで、さ
あこれからディスカッションだと盛り上がり始めたところで現実に
引き戻される。
﹁なあ、真琴⋮⋮﹂
﹁何よ?﹂
﹁何話してたかは知らないが、変な事を吹き込んでんじゃないだろ
うな?﹂
﹁大丈夫大丈夫。単に交流を深めてただけだから﹂
1456
何の交流、と言うのは怖くて聞けなかった達也。この後のこの日
の晩、彼はフェアリーの女性達がそっち方面の素質を持っていると
いう事を聞かされてげんなりする事になるのだが、今の彼は知る由
もなかった。
2.エアリス、そば屋に行く
﹁お父様、大神官様﹂
﹁どうしました、エアリス様?﹂
﹁今日は特に用事はなかったと思うが?﹂
﹁公式の用事ではありません。ただ、ちょっとわがままを言いに来
ました﹂
やたらと真剣な表情で話を切り出してきたエアリスに、思わず顔
を見合わせる国王と大神官。エアリスがいいそうなわがままが、い
まいち想像がつかなかったのだ。
﹁して、そのわがままとは?﹂
﹁近いうちに、お休みをいただきたいのです﹂
1457
﹁それは構わんが、何故だ?﹂
﹁実は⋮⋮﹂
エアリスの説明を聞いて、思わず微妙な表情を浮かべてしまう国
王と大神官。街に出たいというところまではある程度予想していた
が、その理由が遊びたい盛りの年頃の娘とは思えないものだったの
だ。
﹁そば屋、ですか⋮⋮﹂
﹁そばぐらい、いつも食べているだろう?﹂
﹁自分で作って食べるものではなく、商売として作られている物を
食べてみたいのです﹂
真剣な顔で、やけに熱のこもった視線で主張するエアリス。その
内容がそばでなければ実に立派な王族ぶりだと言えるところが、何
とも言えず業が深い話である。
﹁正直、街で食事をするというのはあまり認められるものでもない
のだが⋮⋮﹂
﹁危険物であれば、アルフェミナ様が教えてくださいますわ、お父
様﹂
﹁⋮⋮信徒にはあまり聞かせられない理由ですな⋮⋮﹂
例によってあまりにも安い神託を披露するエアリスに、更に何と
も言い難い顔になる大神官。危険を教えてくれるというのは姫巫女
1458
としての能力を誇示するのに格好のネタではあるのだが、その理由
と言うのが街でそばを食べようとした、というのは流石にいろんな
意味で株を大暴落させかねない。
﹁⋮⋮大神官殿、却下する理由が思い付かんのだが、どう思う?﹂
﹁そうですなあ⋮⋮。それにどうせ却下したところで、アズマ工房
に出たその足でこっそり向かわれてしまってはどうにもなりませぬ。
最近、地味に反抗期の気配もありますしな﹂
﹁⋮⋮そうだな﹂
却下する理由が思い付かなかった最大の原因が、アズマ工房に日
ごろから出入りしている事にある。日によっては、工房職員達と一
緒にそのまま市場などのそれほど治安の悪くない区画へ足を延ばす
こともあるため、どうにも今更感がぬぐえないのだ。
もっと言うならば宏達に保護されていた頃、単独でこそなかった
が変装した状態で結構あっちこっちふらふら歩きまわってもいる。
どうしても心配だというのなら、それこそドーガがフリーな日に合
わせて許可を出し、一緒に行動させれば済む話でもある。
ドーガに休みを使わせるのは、という意見もあろうが、これまた
地味に今更の話でもある。何しろ、孫もそろそろ立派に育ってあま
り一緒に遊ぶことも無くなった今、護衛名目でエアリスと街に繰り
出すのは彼にとってひそかな楽しみでもあるのだ。言ってしまえば、
孫に甘いお爺ちゃんポジションである。
﹁⋮⋮そうだな。エルンストの休日が三日後。大神官殿、この日は
何かあったか?﹂
1459
﹁特にエアリス様を拘束せねばならぬ用事はございませんな﹂
﹁ならば、その日にするか﹂
﹁ありがとうございます!﹂
目をきらきらと輝かせながら、礼儀正しく頭を下げて礼を述べる
エアリス。目に見えない尻尾をぶんぶんと振り回しているのが丸わ
かりの態度である。そのままもう一度一礼して退出し、神殿へ戻る。
﹁どうせ、自分が作るそばの方が美味いに決まっておろうに⋮⋮﹂
﹁まあ、よいではありませんか﹂
退出したエアリスを見送った後、ぼそりと正直な感想を呟く国王
とそれをなだめる大神官。そんなこんなで、エアリスは念願のそば
屋に足を運ぶことになったのであった。
﹁ここですか⋮⋮!﹂
﹁なかなかの風情ですな﹂
三日後。予定通り休みをとったエアリスは、ファムに案内されて
1460
飲食店街のやや外れにあるそば屋に来ていた。店構えは木造平屋の
何処となく風情がある建物で、少なくともファーレーンでは見かけ
ない建築様式である。それもそのはずで、建物自体は出発前に宏が
図面をでっち上げて店主に託したものであり、そば屋である以上彼
が引いた図面が日本建築以外であるはずが無い。そのため、周囲か
ら浮いているような溶け込んでいるような、不思議な景色になって
いた。
﹁とりあえず、エル様、じー様﹂
﹁どうしました?﹂
﹁なんじゃ?﹂
﹁美味しいには美味しいけど、過度の期待は駄目だよ?﹂
﹁分かっていますわ﹂
ファムの言葉にそう返事を返し、迷いのない足取りで暖簾をくぐ
る。
﹁いらっしゃい。三人かね?﹂
そばを打っていた店主らしき男が、入ってきた三人にそんな風に
声をかけてくる。
﹁ええ﹂
﹁おっ、ファムか。また来てくれたんだな﹂
1461
﹁ああ、うん。ちょっとこっちの二人に頼まれて﹂
﹁なら、下手なもんは出せねえなあ﹂
そう言いながら、手慣れた手つきでそばを打ち続ける。彼が打っ
ているのはそば粉八のいわゆる二八そばと言う奴だ。店主の力量と
いうか癖では、十割そばは上手く作れなかったらしい。とは言え、
同じそば打ち職人のエアリスの目から見れば、この店主もなかなか
の腕前は持っている。
﹁流石に商売をなさるだけの事はあります﹂
﹁ファムの関係者ってところで予想はしてたが、そば打ちが分かる
って事はやっぱりお嬢さんもヒロシの関係者か?﹂
﹁ええ﹂
﹁って事は、ますます下手なものは出せねえなあ⋮⋮﹂
などと言いながらもそばを打ち終え、動きを止めることなく茹で
始める。いい感じに茹で上がったそばをどんぶりに移し、仕込んで
あった温かいだし汁をたっぷりかけ、手早く刻んだネギを添える。
﹁まあ、ヒロシの関係者だったら、かけそばだよなあ﹂
注文も受けずに用意するだけ用意し、言い訳がましくそんな事を
言う店主。だが、三人とも普通にかけそばを頼むつもりだったので、
当然文句はない。
﹁あいつらが作る物にゃまだまだ届かないから、あんまり期待はし
1462
てくれるなよ﹂
予防線を張りながらも、だしが香るかけそばを三人に出す。出さ
れたそれに迷わず箸を突っ込み、最初の一口をあまり音を立てずに
すすり上げる。
﹁⋮⋮なるほど﹂
﹁エルさま?﹂
﹁いえ、不十分なお醤油でずいぶんと美味しいおつゆを作っておら
れて、驚きました﹂
﹁やっぱり、醤油は分かっちまうかあ⋮⋮﹂
エアリスの指摘に、どことなくがっくりした様子を見せる店主。
その様子に苦笑しながら、次の一口をすする。じっくり吟味した後、
更に評価を続ける。
﹁少々小麦粉の引きが荒いような気がします。あと、少々水の回し
が早いのではないでしょうか?﹂
﹁小麦粉は、ちっといいのが手に入らなかったんだ。水回しは注意
はしてるんだが、なかなか安定しねえんだよ﹂
精進あるのみだな、と自嘲気味に呟く店主に、ほんのり笑顔を浮
かべて言葉を続けるエアリス。
﹁ですが、今までヒロシ様以外のおそばを食べた中では、一番美味
しいですよ。さすがにご商売をなされるだけの事はあります﹂
1463
﹁大将、前食べたときより美味しくなってるよ。自信持ちなよ﹂
﹁⋮⋮ありがとうよ﹂
エアリスとファムのフォローに、小さく笑みを浮かべる店主。話
をしているうちに、いつの間にか数人の客が入っている。
﹁あら?﹂
﹁客が増えてきましたな﹂
﹁このお店、結構繁盛してるんだよね。天ぷらとか珍しいものがあ
るし﹂
﹁では、あまり長居をしても申し訳ありませんね﹂
﹁いや、ゆっくりしていってくれればいい。あいつの関係者なら、
ちょっといろいろと試してほしいものもあるしな﹂
そう言って、さっと天ぷらを揚げて盛り付ける。そのほかにもそ
ばがきとそば雑炊を少しずつ用意して三人の前に出す。
﹁ご馳走するから、向こうが終わったらちっと感想を聞かせてくれ﹂
﹁ありがとうございます﹂
とりあえず伸びる前にかけそばを食べきり、そば雑炊とそばがき
に口をつける。そばがきに関しては、麺として食べる方法を宏が持
ち込むまでは、むしろこういった食べ方のほうが主流であった。な
1464
ので、それ自体は珍しいものではない。違いがあるとすれば、ダシ
を使った繊細な味付けをしていることぐらいだろう。
﹁こういう食べ方をこの味付けで食べるのもいいよね﹂
﹁美味しいですよね﹂
﹁これを食べると、そばが雑穀であることを思い出すのう﹂
そば雑炊をすすりながらしみじみと語るドーガに、そういえばそ
うだよなあ、みたいな顔をする少女二人。最後に天ぷらを食して感
想を述べ合う。
﹁やっぱり、揚げ物は揚げたてがいいよね﹂
﹁からっと揚がっていて、美味しいです﹂
割とべた褒めに見える店主の料理だが、なんだかんだで細かいと
ころで結構きっついダメだしをもらうのであった。
1465
後日談 その1
﹁よく考えたら、もうじき四月よねえ⋮⋮﹂
﹁せやなあ。もうそろそろ、向こうやと花見のシーズンやなあ﹂
ウルスは旧スラム地区の実験農場。それぞれの畑に大八車に満載
した苗を運搬している最中に、思い付いたように真琴がつぶやく。
そのつぶやきに同意し、この時期のイベントを思い起こす宏。なお、
田植えにはまだ少々早い事から、稲の苗は用意していない。
﹁流石にウルスにゃ桜はあらへんし、今回は花見は無理やな﹂
﹁そうね。と言うか、そもそもこっちに桜ってあるの?﹂
﹁ゲームん時はどうやったか覚えてへん。まあ、近い品種から地道
に改良は出来るんちゃうか?﹂
﹁やっぱりそっちに行くのね⋮⋮﹂
いつものように気の長い話をし始めた宏に、呆れたように突っ込
みを入れる真琴。いくら宏といえど、花見が出来るほどの数の桜を
用意し、この土地で定着させるには十年単位の時間がかかるだろう。
正直、真琴としては、そこまで長い期間こちらに居るのはまっぴら
ごめんである。ウルスでの生活は気に入っているが、それとこれと
は別問題だ。それに、そんな長い期間達也を嫁さんと引き離すのも
問題である。
1466
﹁それにしても、あのスラムがここまで様変わりするとはねえ﹂
﹁そらもう、頑張ったから﹂
﹁頑張った、ってレベルでもなさそうなところが凄いわよねえ﹂
もはや元の面影などかけらも残っていないスラム地区を見渡して、
呆れと感心の入り混じった口調で言葉を漏らす真琴。今彼らが歩い
ているあたりも、真琴が来た当初は異臭がする、とまではいかない
までも、決して清潔な場所ではなかった。それが今やゴミ一つ落ち
ていない手入れの行きとどいた畑の畔道に化けており、もはやスラ
ムという名前とはかけ離れた姿になっている。
ウルスのスラムは、世帯数が辛うじて四桁に届いていない程度の
規模だった。衛生状態の悪さから入れ替わりが激しい事もあり、人
口で言えば五千人のラインを行ったり来たりする程度。占有してい
た土地は小規模な農村の農地以外をひっくるめたぐらい、ほどの大
きさではあるが、オルテム村の同様のスペースには全く届かない。
面積はいわゆる小規模な農村に分類されるレイテ村のそれらより何
割か大きいぐらいだが、ピーク時の人口は十倍近くスラムの方が多
い、と言えば大体の規模は分かるだろうか。スラムである以上、住
めなくなって放置されているスペースもあるので、それらのデッド
スペースを足せばもう少し広くなる。
その大きさの土地の土壌改良を行い、更に面積を拡張して畑にし、
止めに元々の住民のために低層とはいえ集合住宅を何軒か完成させ
るという作業を、わずか三カ月程度で完了させてしまった事を、た
だ頑張ったの一言で済ませるのはいかがなものか。真琴的にはそこ
のところを小一時間ほど問い詰めたい。特に、集合住宅を着工から
一週間で全て完成させた点については。
1467
﹁それにしても、もうすぐ一年か∼﹂
﹁真琴さんは、六月ごろやっけ?﹂
﹁そそ。多分六月頭。あの頃は右も左も分からなかったし、暦がど
うなのかもはっきり知らなかったから、正確な日付は分かんないん
だけどね﹂
﹁それは僕らも同じやで。まあ、春菜さんやったら何日経ったとか
覚えとるやろうから、こっちに飛ばされた正確な日付も分かるやろ
うけど﹂
﹁まあ、普通そうよね﹂
宏の言葉に頷く真琴。何かにメモでもしていない限り、普通はカ
レンダーなしで何日日付が経過したかを覚えている事は難しい。実
際のところ、春菜とて何日経ったかをカウントしている訳ではなく、
毎日何があったかとどういう順序で起こったかを覚えているだけで
ある。更に言うなら、春菜の記憶力と言うのはデータベースやイン
ターネット検索などと同じようなもので、キーワードが無ければ覚
えている事を思い出せない。平常心でない状況だと思い出すのに時
間がかかったり、その場では思い出せなかったりすることも珍しく
ない。
﹁何にしても、まず確実にこっちに来てから二回目の誕生日を迎え
ることになりそうよ﹂
﹁真琴さんって、いつが誕生日なん?﹂
1468
﹁六月十三日ね﹂
﹁飛ばされてきて割とすぐやねんなあ﹂
﹁そうね。因みにあんたは?﹂
﹁僕は七月二十七日やな。小学校の頃はクラスでお誕生日おめでと
うがあるんやけど、夏休み中やから一回も言うてもらった事無かっ
たわ。それに、飛ばされた時はもう八月なってるから、一回飛んど
るし﹂
なかなか不憫な話をしてのける宏に、微妙に反応に困る真琴。未
だ達也ぐらいしか詳細を知らない中学時代の話以外にも、色々と地
味に可哀想な経歴を持っている男である。
なお、ここでこの世界の暦について簡単に説明しておくと、一カ
月は奇数月が三十一日、偶数月が三十日で、十一月の三十一日はう
るう年だけ存在する。一日は二十四時間で一時間は六十分、一秒の
長さも大体同じだが、実は直径が地球より大きくて自転も速く、そ
のせいか重力も若干大きいのだが、こちらに飛ばされてきた地球人
は皆、元の世界よりも身体能力が跳ね上がっているため、その違い
に気がつく事はなかった。もっとも、もともと誤差の範囲に近いの
で、身体能力に関係なく気が付かなかった可能性は高いが。
この世界では早くから高高度の空を飛んで長距離移動する人間が
存在したため、自分達の住む大地が球体をしている事は大昔から知
られていた。そのためか、時間関係は早くから今の形に落ち着いて
いたのだが、そこに至るまでのあれこれの苦労についてはここでは
省く。
1469
﹁そう言えば、達也とか澪は誕生日どうなのかしら?﹂
﹁聞いてへんから知らん。ただ、話題に出てへんっちゅう事は、一
回目はもう過ぎとる可能性が高いで﹂
﹁そうね﹂
﹁過ぎてるって、何が?﹂
苗をおろしながらの会話に、昼代わりのカレーパンを持ってきた
春菜が食いつく。丁度いいので、今までの話題をそのまま春菜に振
る事にする二人。
﹁いやな、もうすぐ四月やなあ、っちゅう話しとって﹂
﹁で、もうじき、あたしがこっちに来てから一年になるんだなあ、
って﹂
﹁そっから、誕生日の話題になってん﹂
﹁そっか、なるほど。確かに達也さん達でももうじき半年だから、
誕生日の一つや二つは、って、誕生日⋮⋮? ⋮⋮ああ∼!﹂
誕生日と言う単語に、突然素っ頓狂な声を上げる春菜。その様子
に、思わず一歩引く二人。
﹁いきなりでかい声出して、どないしたんよ?﹂
﹁もうすぐ、私誕生日じゃない!﹂
1470
﹁その歳で自分の誕生日忘れるって、どうなのよ?﹂
春菜のあれで何な発言に、思わず微妙な表情で突っ込みを入れる
真琴。
﹁因みにいつ?﹂
﹁四月一日﹂
﹁それって⋮⋮﹂
﹁ん。後一日ずれてたら、学年が一個下だったんだよね﹂
何かを察した真琴の言葉に、苦笑しながら答える春菜。当然春休
みの最中なので、宏同様少なくとも学校でお誕生日おめでとうを言
ってもらった事はない。小さい頃は微妙にコンプレックスだったが、
流石に高校三年生にもなればどうでもいい事になってくる。それに、
小学校の頃から鼻炎でいじめられっ子だった宏と違い、春菜は家族
にもその関係者にもクラスメイトにもそれなりに派手に祝ってもら
っているので、そこまで気にしていた訳でもない。
﹁それにしても、本来の暦通りだったら、そろそろセンター試験の
ための追い込みの時期だよね﹂
﹁せやなあ。まあ、戻ったところで出席日数があれやから、もう一
年いかなあかんやろうし﹂
﹁だよね∼﹂
﹁それで済むといいんだけどね﹂
1471
和気藹々とそんな話をしているが、宏と春菜は本来は受験生であ
る。本当ならそもそも四月末の時点でのうのうとゲームをしている
こと自体がおかしいのだが、こちらに飛ばされるというトラブルが
無ければ、二人ともきっちり休止するつもりだった。宏はここに飛
ばされる直前に行く予定だったダンジョンで休止の予定だったし、
春菜は本当に息抜きがてらゲーム内で軽くショッピングや観劇など
を楽しむ程度のつもりだったのである。第一、春菜の学力と成績な
らば、別段そこまでがっつり勉強しなくても普通に志望校に合格で
きる。
それに実のところ、宏は大学受験にそれほどこだわっていない。
正直なところ、落ちたらすんなり家業の金属加工工場を手伝うつも
りでいる。何しろ、出入りする女性の数が極端に少なく、しかも外
に出る必要もほとんど無いのだ。彼にとって、これほど素晴らしい
環境はない。
そもそも、自分の事情も噛んでいるとはいえ、折角取引先にひっ
ついて関東にまで来たのだ。自分の代ぐらいまでは工場を維持しな
いと、引っ越し費用をはじめとしたあれこれが勿体ない気がする。
中一ぐらいまでならともかく、今はむしろ工作機械で鋳物の塊をゴ
リゴリ削るのははっきり言って大好きだし、見知らぬ女性︵と書い
て天敵と読む︶がうようよいる大学に行く気はあまりないのが今の
宏である。流石にチャレンジもせずにと言うのは家族が許さないの
で、一応家から通える範囲で女性が少なそうな大学の、その中でも
更に女性が少なそうな学部を受けるつもりはあるし、その大学も辛
うじてとはいえ一応A判定はもぎ取っているのだが。
﹁何にしても、月変わってすぐが誕生日やったら、お祝いの一つぐ
らいはしよっか﹂
1472
﹁そうね。折角話を聞いたんだし。ただ、プレゼントって言っても、
ってのはあるんだけどね﹂
﹁別に、お祝いしてくれるだけで十分すぎるほどだけど⋮⋮﹂
﹁こう言うんは、気持ちの問題やからなあ﹂
誕生日と聞くと、何もプレゼントを用意しないというのも座りが
悪いものである。特にそれが、そろそろ運命共同体として第二の家
族のような立場になってきている相手となると、余計にそうだろう。
﹁まあ、帰って兄貴とか澪とも相談するわ﹂
﹁折角だから期待はしておくけど、こういう状況だし無理なら無理
でいいんだよ?﹂
﹁そう言われると、むしろちゃんとしたものを何か用意しなきゃっ
て気になるあたしは、ひねくれ者かしら?﹂
﹁せやなあ。ただ、一人一個はちっとハードル高いし荷物も増える
から、皆で一つ、でええ?﹂
﹁もちろん﹂
どうやら、話はまとまったらしい。こうして、異世界で誕生日パ
ーティと誕生日プレゼントと言う、実にハードルの高いミッション
が始まったのであった。
1473
﹁ハルナさんの誕生日、ですか﹂
﹁せやねん。で、プレゼントは工房全体で一個、それとは別にパー
ティをやろか、っちゅう話になってな﹂
その日の夜。団欒の畳の間に一同を集めた宏が、会議の趣旨を説
明する。当事者の春菜は、空気を読んで風呂と夕食の準備をしてく
れている。アルチェムが妙に瞳を輝かせているのは、人を祝う事が
好きだからか、パーティという口実で用意されるであろうご馳走が
楽しみだからかは微妙なところである。
﹁プレゼントを一個に絞った理由はまあ、分かるわよね?﹂
﹁親方たち、これからまた長旅に戻るからだよね?﹂
﹁そそ。だからそんなにいっぱい物をもらっても、ってのがあるの
よ﹂
﹁で、何がいいかっちゅう意見が欲しいて、集まって貰うたんよ﹂
企画の趣旨を理解し、各々思い付くものを上げようとしたその機
先を制して、真っ先に澪が口を開く。
﹁下着一式﹂
1474
﹁却下﹂
澪が口にしたそれは、当然のごとく達也に秒殺で却下される。
﹁達兄、どうして?﹂
﹁貰う方に気を使わせてどうすんだよ﹂
﹁え∼?﹂
秒殺で却下された上に駄目出しまでされて、思わずぶ︱たれる澪。
だが、
﹁そうですよね。作るのがヒロシさんだったら、ハルナさんすごく
気にしそうです﹂
﹁確かに一瞬考えたのですが、親方が作らないのならば普段と同じ、
親方が作ったら素直に喜べないのです﹂
﹁実際のところ、春菜って、そう言う無理を喜ぶタイプじゃないわ
よね﹂
﹁大体、男性に女ものの下着を作ってもらうのって、ちょっと抵抗
がある気がします。親方がどうこう以前の部分で﹂
達也以外からも駄目出しの嵐が吹き荒れ、澪の意見は完全に全否
定される。
﹁とは言え、布がらみは悪くないんじゃない?﹂
1475
﹁そうだな。丁度いいから確認したいんだが、イビルエントの木材
で織機を作ったら、霊糸は加工できるのか?﹂
﹁出来ん事はないけど、連続で織れるんはせいぜい服一着分、自動
修復に二十四時間以上おかんとすぐに壊れおんで﹂
﹁織れはするんだな?﹂
﹁織れはすんで。効率はごっつう悪いけど﹂
宏の返事を聞いて、第一候補は決まる。
﹁もう一つ確認なのですが、織機を作るところからやって、当日ま
でに間に合うのです?﹂
﹁そこはまあ、問題あらへん。ただなあ﹂
﹁ただ?﹂
﹁霊布の服なんざ最終的に全員分カスタマイズした奴作る訳やし、
あんまり有難味あらへんのんちゃう?﹂
宏の指摘に、思わず全員黙ってしまう。
﹁そうですね。むしろ小物の方がいいのかも﹂
宏の指摘を吟味し、じっくり考えた上でぽつりとテレスが漏らす。
その一言に対し、全員の視線が集中する。
﹁具体的にはどんな?﹂
1476
﹁霊布で、って言うのはいいと思うんです。ただ、別に服じゃなく
て、リボンとかその程度でいいんじゃないかな、って﹂
﹁ああ、なるほど﹂
﹁確かにかさばらないし、服に飾るもよし、髪を束ねるもよしで、
色々使い道はあるわよね﹂
テレスの提案を聞き、真剣に検討し始める一同。だが、その時点
で結論は決まったも同然である。
﹁ほな、霊布のリボンでええか﹂
﹁だな。で、何か必要なものとか、あるか?﹂
﹁せやなあ。折角やから、ちょっと遠出して触媒の材料とか取って
きてくれへん?﹂
﹁具体的には?﹂
﹁アドネから大霊峰中腹付近まで上がったら、確か中ボスぐらいの
モンスターが何種類か居ったはずやから、そいつら各一体ずつ仕留
めて来て﹂
いきなりえげつない事を言い出す宏に、思わず絶句する工房の職
員達。だが、言われた方は割と平然とした態度で
﹁了解﹂
1477
﹁そういや、あのへんいろいろ居たなあ。どれぐらいの強さか覚え
てるか?﹂
﹁ワイバーンほど強くなかったと思う﹂
﹁なら、よっぽど集団で襲ってこない限りは楽勝だな﹂
などとのんきな会話を続けている。
﹁まあ、プレゼントの方はそれでいいとして﹂
﹁次はあれね。料理﹂
﹁春姉に作らせるのは論外﹂
﹁言われんでも、僕と澪でやるつもりやで﹂
状況的に、料理をするのは宏と澪以外にあり得ない。高レベルモ
ンスターの肉を調理できるのは宏、春菜、澪の三人しかいない以上、
他の選択肢などない。
﹁それはまあ、もう自動的にそうなるのでいいんですが﹂
﹁メニューは、決まってるのですか?﹂
﹁春菜さんの好みぐらいは把握しとるし、大体のところは当りつけ
とるよ﹂
流石につきあいが長いだけあってか、なんだかんだ言って宏は春
菜の事に詳しい。流石に異性が知っていると問題がある事柄につい
1478
ては知らないものの、それ以外の事は一部の感情を除いて大体理解
していると言っていい。
﹁だったら、全部ヒロに丸投げでいいよな?﹂
﹁投げてくれてかまへんで。その代わり職員の皆様方にゃ、モンス
ターが絡まへん食材の調達に走り回ってもらうけどな﹂
﹁そんな事でよければ喜んで﹂
﹁頼むわ﹂
そんなこんなで、料理や会場の準備の方は、これと言ってもめる
ことなくあっという間に割り振りが決定する。
﹁それにしても、前々から思ってたんだが﹂
﹁ん?﹂
﹁春菜って、生まれも育ちも関東圏なんだろう?﹂
﹁本人はそう言うとったなあ﹂
達也が言いたい事が分からず、それがどうしたという表情を浮か
べてしまう宏。
﹁なんか、あいつが作る料理って、味付けが関西風の薄味なのは何
でなんだろうな、って思ってな﹂
﹁そう言えば、カレーもビーフカレーよね﹂
1479
﹁うどんとかそばのダシも、色が薄い﹂
他にも関東と関西で違いがある食文化について、春菜が関西より
である証拠を羅列していく一同。大体の証拠を並べ終わったところ
で、微妙に蚊帳の外だった宏に視線を戻して確認をとる。
﹁ヒロ、お前そこらへんの理由って知ってるか?﹂
﹁前にちょこっと聞いた事あるんやけど、父方の曽爺ちゃんの影響
やって﹂
﹁曽お爺ちゃん?﹂
﹁何ぞ、その人が京都かどっかの一流料亭のオーナー兼板長やった
らしくてな。春菜さんの爺ちゃんは二男やか三男やかで料理の道は
進まへんかったみたいやねんけど、おとんが何故芸能人やっとる、
っちゅうぐらいお爺ちゃんっ子で、元々の夢は本店の三代目板長や
ったっちゅう事や﹂
﹁なるほど。つまり、父親の味付けが関西風だから、あいつの料理
も関西風になるってことか﹂
﹁らしいで﹂
理由を聞いて、なんとなく納得してしまう達也と従業員一同。だ
が、微妙なところが気になるらしい真琴が、追加で突っ込みを入れ
てくる。
﹁それって、よくお母さんの方が受け入れたわよねえ。春菜のお母
1480
さんって、確かあのYukinaよね?﹂
﹁そう言うとったなあ。当然っちゃ当然やけど、会うた事無いから
素はどんな人かとかよう知らんけどな﹂
﹁なんか、そういう人って味にうるさそうだけど?﹂
﹁あ∼、その疑問は聞いた事あるで。あの人は味音痴やないけど、
味のストライクゾーンがめっちゃ広いらしゅうてな。余程食えんほ
ど不味くない限りは、出された物に文句言わんそうや。ただ、不味
いの基準は一般とあんまり変わらんみたいやけど﹂
春菜の母親で世界的な知名度と人気を持つ歌手、芸名﹃Yuki
na﹄こと藤堂雪菜は二児の母とは思えない若々しい女性で、大層
な健啖家なのに太らない事でも有名だ。春菜やその妹と並ぶと姉妹
にしか見えず、春菜同様割と長身で華奢だが出るべきところはもの
すごくはっきりと出ている体型をした超が付くほどの美女である。
そんな華やかなプロフィールとは裏腹に、実のところその中身は愉
快な人、という表現しか出来ず、春菜のボケ気質は間違い無く彼女
の遺伝であろうという人物だ。もっとも、妙に苦労人なところは、
その母親を含めた周りの人たちに揉まれて出来上がった性格ではあ
るが。
因みに、春菜の母雪菜は中学ぐらいまでイギリスで育っているが、
春菜から見て曽祖父に当る人が関西の料理を好んでいたため、文化
交流の一環という名目で京都の料理人を連れて行っていた。そのた
め、雪菜自身も関西風の味付けで育っており、実のところ別段父親
の影響だけで味付けが関西風と言う訳ではなかったりする。
なお、イギリスで育ったためか、雪菜本人は料理に文句を言う事
1481
はほとんどない。春菜があれで何な食材でも果敢にチャレンジした
り、明らかに食えそうもない見た目の料理を出されても普通に手を
つけたりするのは、そんな母親の教育の成果であろう。母親からす
れば、コンサートで行った砂漠での選択肢に乏しい食生活や、生ま
れ育った国のティーフード以外は妙に雑なものが多い食文化などか
らすれば、大抵のものは許容範囲であるというだけの話なのかもし
れないが。
﹁まあ、何にしても、や。僕の味付けと春菜さんの好みはそんなに
離れてへんし、好きそうなもんでパーティ向けなんも分かるから、
一品二品新作にチャレンジする以外は、基本無難なところ用意する
わ﹂
﹁了解。じゃあ、明日から狩りに行くかね?﹂
﹁なんだったら、ちょっと遠くまで足伸ばして、ガルバレンジアも
やってみる?﹂
﹁いいな、それ﹂
物騒な相談を平気な顔で進める達也と真琴に、全力で引いた顔を
する職員達。よく分かっていない顔をしているのは、ガルバレンジ
アと言う生き物を知らないアルチェムぐらいである。
何しろ、ガルバレンジアはウルス周辺からフォーレとの国境付近
までの一般人にとっては絶望の代名詞のような存在で、悪い事をし
た子供にいい聞かせるために引き合いに出すことも多い、正真正銘
の大ボスなのだ。ウルスの騎士団なら、広い場所におびき出した上
で五十人程度の規模でかかれば重傷者を出しながらもどうにか仕留
められると言うレベルなのだが、少人数でとなるとユリウスとドー
1482
ガにレイナが居ても、無傷で狩るには少々厳しい範囲である。ウル
スからはかなり距離がある、それも大霊峰の中腹からやや山頂より
のあたりが主な生息域で、滅多に人の居住圏まで下りて来ないのが
辛うじて救いというモンスターだ。
だが、一通りソロでフィールドボスを仕留めた経験のある真琴に
加え、素材のためにほとんどのフィールドボスを最小限の攻撃で仕
留める事を強いられてきた達也が居るのだから、それほど問題にな
る訳ではない。しかも残念なことに、動物タイプのボスは普通にオ
キサイドサークルによる酸欠が通用する。ガルバレンジアも例外で
はなく、オキサイドサークルの扱いに関しては熟練者の達也が居る
という時点で、普通にカモにされてしまうのである。もっとも、熟
練度MAXでかつスキルディレイと詠唱時間を知りつくした人間で
ないと、流石にガルバレンジアクラスは仕留められないのだが。
言うまでもない話だが、これは決してユリウス達が真琴や達也に
大きく劣っている事を示す訳ではない。達也に関してはジャンルが
違いすぎるし、真琴にしても少人数で強いモンスターを狩るならと
もかく、大規模な戦場ではユリウスに一歩劣る。流石にレイナと比
較すれば数段上だが、それでも相手の専門ジャンルで比較すれば、
圧倒的に上と言う訳でもない。攻撃型タンクという役割になれば、
絶望的な防御力を誇る宏ですらトータルではドーガの足元にも及ば
ない。
ファーレーンの騎士で戦闘能力トップに位置するこの三人は、実
際のところ生半可な廃人より強いのだ。ただ、ゲームの時には彼ら
が得意とするジャンルの戦闘があまりなく、また宏達の行動だと今
後もそう言うジャンルに関わる機会は少なくなる事も考えると、ド
ーガ以外が専門分野で無双する可能性は低いと言わざるを得ない。
1483
﹁とりあえず、僕は織機作るところからスタートやな﹂
﹁師匠、スペシャルなケーキをメインに、いい感じのスイーツ﹂
﹁言われんでも、最初から予定に入っとる﹂
澪のリクエストを言うまでもないと宣言し、その場でちゃっちゃ
と図面を起こし始める宏。織機で霊布を作り始める時点でプレゼン
トの内容はばれそうだが、どうせ最初からサプライズなど諦めてい
るのだ。それに、隠したいとなったら、絶好の作業場所が無い訳で
もない。
﹁そろそろ入ってもいい?﹂
﹁話し合いは終わったから、別にいいぞ﹂
﹁じゃあ、お邪魔して﹂
みかんを持って上がってきた春菜が、適当にちゃぶ台の真ん中に
盛る。そろそろ在庫的に、このシーズンのみかんはこれで終わりだ
ろう。いかに大容量の保管庫を持っているといっても、無限に貯蔵
できる訳ではない。
﹁そう言えば、ついでだからちょっと確認しときたいんだけど、い
いかしら?﹂
﹁何や?﹂
﹁春菜と宏の誕生日は分かったんだけど、達也と澪はいつなの? あと、他の子たちも一応教えて。因みにあたしは六月十三日で、宏
1484
は七月二十七日﹂
﹁あ∼、そうだな。俺は十月十三日で、澪は九月八日だ﹂
それを聞いて、春菜が微妙な顔をする。
﹁ん? どうした?﹂
﹁いやえっと、澪ちゃんの誕生日って⋮⋮﹂
﹁ボクの誕生日?﹂
﹁多分、こっちに飛ばされてきた日なんじゃないかな、って﹂
﹁⋮⋮そうなの?﹂
澪の問いかけに、カレンダーを確認しながら微妙な顔で頷く。
﹁私達が飛ばされたのが八月一日でほぼ確定で、達也さん達と合流
したのが九月十日。で、脱水症状とかの進み具合から、大体飛ばさ
れて二日目ぐらいだったんだよね?﹂
﹁そんなもんやな、確か﹂
﹁だったら、多分そうだろうなあ、って﹂
非常に微妙な情報を聞かされ、反応に困る一同。はっきり言って、
誕生日プレゼントとしてはかなり嬉しくない。因みに合流して落ち
着いた時点で日付が分かっていたのに、当の本人が誕生日について
完全に忘れていた理由は簡単で、いまいち現実味が乏しかった上に
1485
あれこれ忙しくてそこを意識する余裕が無かったからだ。
﹁達也さんは達也さんで、思いっきりバルドとやりあった日だし﹂
﹁そういやそうだな﹂
二人揃って、実に微妙な誕生日プレゼントをもらっている事にな
る。とはいえ、澪に関しては健康な体というプレゼントも一緒にも
らっているのだから、達也よりはマシなのかもしれない。なお、達
也が自分の誕生日を忘れていた理由は更に簡単で、社会人にもなっ
たら、書類に生年月日を書くとき以外は基本的に誕生日など意識し
ないからである。
﹁僅差で一回飛ばされた宏とこの二人って、どっちがより不憫なの
かしらね?﹂
と言う真琴のコメントが、この話の結論であろう。なお、日本か
らこちらに飛ばされてくる過程で妙な時差が発生している事は、ア
ルチェムも含むこの工房にいる人間には既に説明してある。なので、
この件については誰も質問をしない。その後、他のメンバーの誕生
日も大体出揃い、カレンダーにメモをして大体の予定を確定させる。
﹁まあ、何にしても、春菜さん終わったら、次は真琴さんやろうな﹂
﹁あたしの時のプレゼントは、お酒でいいわよ。同人誌とか無理だ
ろうし﹂
﹁描いた奴の調達は無理にしても、描きたいんやったら紙とインク
とトーンぐらいは作るで?﹂
1486
﹁⋮⋮すごく心がぐらついたけど、描く方は足を洗ったからやめと
くわ。それに、そんなに落ち着いて描く余裕もないでしょうし﹂
宏のコメントに、本当にかなり心がぐらついた様子を見せる真琴。
流石に同人誌とやらが何かまでは教えていないため、意味不明な単
語に説明を要求する表情を浮かべる職員達。無論、誰一人としてど
んなものかを説明するつもりはない。
﹁ボクはギャルゲーがいい﹂
﹁流石にそれは無理や﹂
﹁俺は早く詩織に会いたい⋮⋮﹂
﹁あと半年でケリつくとは思えんのが難儀やなあ⋮⋮﹂
同人誌と言う単語を聞いて調子に乗った澪のリクエストを一蹴し、
嫁に会いたいという達也の切実な願いに難しい顔をするしかない宏。
他のメンバーも、達也の本気で切実な願いには痛ましそうな表情を
浮かべてしまう。
﹁まあ、とりあえず目先の事全部片付けるしかないよ﹂
﹁そうですよ。まずは目先のハルナさんの誕生日をちゃんと祝いま
しょう﹂
場の空気を変えるために微妙に上ずった声で言い出した春菜のフ
ォローを、何処となく無邪気な言い方で微妙に叩き潰すアルチェム。
巨乳には天然が入った人間しかいないのか、などと呆れるしかない
真琴であった。
1487
﹁それで、わざわざこっちに来て作業しているのか﹂
﹁せやねん。それに、自分らに話通しとかんと、エルがすねるやろ
?﹂
﹁まあ、それもそうだが⋮⋮﹂
ウルス城の作業場。わざわざ下加工を済ませたイビルエント材を
持ち込んで組み立てている宏に、呆れたような口調で突っ込みを入
れるマーク。たまたま重要案件が終わった直後で多少手が空いてい
たため、いきなり訪ねて来て作業場を借りたいと言い出した宏を引
き受ける羽目になったのだ。なお、レイオットは現在各地の視察中
で、夜になるまで戻ってこない。全ての貴族の領地に転移魔法一発
で往復できるこの国の王族だからこその強行軍だ。
﹁で、念のために確認しておく。またとんでもないものを組み立て
ているようだが、何を作るんだ?﹂
﹁織機やねんから、布に決まっとるやん﹂
﹁いや、それは当然分かってるし、何を作るか予想はついてるんだ
が⋮⋮﹂
1488
﹁マー君、現実は直視せなあかんで﹂
宏にあっさり言われ、思わずこめかみを押さえるマーク。どうや
ら予想が正しかったらしいと理解したところで、どうにも持病の頭
痛が出てきた感じだ。
因みに、この場には他にも何人か侍女や城付きの職人が居て作業
しているが、公の場ではない事と宏達と王家の関係を知っているこ
とから、宏とマークの気安いやり取りにも見て見ぬふりをしている。
﹁それにしても、ようやく釣り糸とかスモークん時の吊るし糸とか
味をしみ込ませるときに縛るとか、それ以外の使い道で霊糸を使え
る訳やけど﹂
﹁伝説の素材を、そんな用途に使うなよ⋮⋮﹂
﹁だって、腐るほど余っとんねんからちょっとは使わんと﹂
宏の回答に思わず、これだから度を越した腕の職人は、などとぶ
つくさつぶやくマーク。とりあえずその認識については、凄腕の職
人全体に対して失礼なのではないか、などと他人事のようにこれま
た微妙に失礼な事を考えるマーク付きの侍女。この件に関しては突
っ込むだけ無粋だと思っているからか、作業場の人たちは華麗にス
ルーしている。そんな彼らの思考を理解しながらもきっちり無視し
て、組み上がった折りたたみ機構付きの織機に洒落にならない魔力
を放出する糸を通し始める。
﹁ヒロシ様!﹂
﹁おう、エルか﹂
1489
縦糸の配置を終え、シャトルに横糸を巻きつけ終えたところでエ
アリスが作業場に飛び込んでくる。その様子は、まるで尻尾を振っ
て飼い主にじゃれつきに行く子犬のようだ。子犬と称するには歳の
割にいろいろと発育が良すぎるが。
﹁ヒロシ様、ハルナ様のお誕生日が近いというのは本当ですか!?﹂
﹁ほんまやで。せやから、ちょっとプレゼントをな﹂
﹁私に何か出来る事はございますか!?﹂
﹁せやなあ⋮⋮。これ完成したら、祝福でもかけたってくれるか?﹂
﹁喜んで!﹂
﹁私も協力しましょう﹂
宏の提案に対して、エアリスだけでなくあろうことかアルフェミ
ナまで食いついてくる。その様子に苦笑しながら、作業する手を止
めずに宏が突っ込みを入れる。
﹁アルフェミナ様にゃ、むしろこまごまとした背景説明してもらう
んが一番のプレゼントやと思うけどなあ﹂
﹁もうしばらくお待ちください。そこまでまとまった時間を作るの
はなかなか難しくて﹂
﹁まあ、アランウェン様もアルフェミナ様は忙しいっちゅうとった
から、そこは諦めて待っとくけどな﹂
1490
﹁申し訳ありません﹂
そう謝罪して、すっとエアリスの体から抜けていくアルフェミナ。
こうやって隙間の時間を見つけてはエアリスの体に降りているアル
フェミナだが、長くても五分程度だというのだから本当に忙しいら
しい。とは言え、目の前でホイホイそう言う奇跡を見せられる方と
しては、心臓に悪いことこの上ない。いい加減慣れたマークやその
侍女はともかく、工房で作業中の人たちは作業の手を止めて固まっ
ている。
﹁それはそれとして、その布は何を作ってるんだ?﹂
﹁ん? 適当な幅に裁断して、リボンにする予定やけど?﹂
白い無地の生地を織りながら、何でもなさそうに言ってのける宏。
その回答にくらりと来るマークと侍女。加工工程で膨大な魔力を練
り込み、たくさんの触媒を使い潰してさまざまな魔法を付与しなが
ら織りあげられていく生地。それで作るのが単なるリボンと言うの
は、マーク達でなくともめまいを覚えて当然である。因みに模様は、
達也達が仕留めて帰ってくる予定の魔獣から色素を抜いて、春菜の
イメージカラーである青と白のチェックに染める予定だ。
普通ならチェック柄は糸を先に染めるものだが、達也達が材料を
用意してくれるまで待っていると何かあったときに織りなおす時間
が足りなくなることに加え、糸のときと織った後での染料ののりが
どう違うかを確認したい、という理由もある。リボンなのにわざわ
ざ普通サイズの生地を織るのも、道具のテストなどをついでに済ま
せてしまいたいからだ。
1491
しかも、ここではわざわざ口にはしないが、たかがリボンといえ
ども一本縫うためには、魔鉄合金製の縫い針を十本以上準備してお
かなければ縫えない。普通の鉄の縫い針では生地を貫通出来ないの
だから当然である。使い捨てるのであれば五本で十分なのだが、流
石にもったいないので多めに用意してある。材料はポールアックス
とヘビーモールを作った時の端材で、いずれ使うだろうからとその
時に一緒に作ったものだ。裁断用の刃物にしても、いくつか特別な
ものを用意してある。
﹁そう言えばヒロシ様﹂
﹁ん?﹂
﹁ちょっと前に、ウルスに出来たおそば屋さんに行ってきました!﹂
﹁お∼。おっちゃん、とうとう開店したんか﹂
エアリスの報告に、感心したように一つ頷く宏。屋台関係で仲良
くなった人物で、足に怪我をして引退した元海の男である。元海の
男と言う事で海藻類は簡単に入手するつてがあり、しかもそばを大
層気に入っていたために、折角だからと作り方を仕込んだ人物だ。
ついでに箸の使い方も教えてある。
﹁で、どないやった?﹂
﹁流石に本場のものには劣りますが、それなり以上には美味しかっ
たです。ただ、お醤油はまだまだ高級品ですので、商売としては大
丈夫なのか、と言うのは少々心配ではあります﹂
﹁醤油と味噌に関しては、増産のあてはあるで﹂
1492
﹁本当ですか?﹂
宏の言葉に、驚きの表情を見せる王宮の人々。熟成が必要な味噌
と醤油は、醗酵の加減を見極めるのにコツが必要で、今のファーレ
ーンの平均的な食品加工技術では少々難しい。アズマ工房以外での
量産が進んでいないのも、現在そこら辺を試行錯誤している最中だ
からである。
﹁因みに、何処で増産するつもりだ?﹂
﹁エルフの村や。大豆の備蓄も結構あるみたいやったから、何人か
に醤油と味噌の作り方仕込む予定やねん﹂
﹁エルフ?﹂
﹁テレスの故郷がな、物凄い規模の農村やってん。せやから、大豆
の増産と味噌と醤油の作り方仕込んどこうかってな。向こうも醤油
と味噌は欲しいみたいやし﹂
﹁そうなのですか﹂
宏の言葉に、どことなく嬉しそうに反応するエアリス。今は貴重
品の調味料が安くたくさん手に入るようになるのは、一人の和食好
きとしても帝王学を学んでいる姫巫女としても嬉しい事である。
﹁農業⋮⋮、エルフが農業⋮⋮﹂
﹁味噌⋮⋮、エルフが味噌⋮⋮﹂
1493
宏が伝えるエルフ族の実態に、なかなかのショックを受けた様子
を見せるマークと侍女。良くも悪くも偏見と言うものと縁遠いエア
リスと違い、この二人はよくあるエルフ幻想を持っていたようだ。
確かに、一般的なエルフの高貴で孤高と言うイメージと、泥臭い畑
仕事や見た目は不可解なペースト状調味料とがつながらないのは不
思議ではない。話を聞くとは無しに聞いていた他の人間も、流石に
無反応ではいられなかったらしく方々からひそひそと幻想が崩れた
事に対する会話が聞こえてくる。
﹁そう言えば、テレスさんの故郷では、どんな出来事があったので
すか?﹂
﹁まあ、いろいろあったで﹂
エアリスのリクエストに応えて、オルテム村であった事を話し始
める宏。その内容に頭痛をこらえるのがやっとという様子のマーク。
宏達がやる事にいちいち驚いていては身が持たないと知りつつも、
結局エアリス以外は突っ込みを入れずに話を聞き終える事は出来な
い王宮組であった。
﹁っちゅうわけで、や﹂
﹁わわっ﹂
1494
参加予定者全員が揃ったところで、大皿に華やかに盛りつけられ
たパーティ料理を運びこみながら、そんな風に声をかける宏。盛り
つけられた料理を見て、嬉しそうに声を上げる春菜。
﹁春菜さんの十八歳の誕生祝いや。じゃんじゃん食べてたっぷり祝
ったってや﹂
﹁はいっ!﹂
美味しそうな料理に目を輝かせながら、これまた嬉しそうに答え
るエアリス。少なくとも日本ではこれと言って特別な料理はないが、
ファーレーンではまだまだ作られるようになって間もないものが多
い。なお、残念ながら王宮組はエアリスとエレーナだけである。他
の人間は忙しくて体があかなかったらしく、非常に残念そうにしな
がらもいくつか共同で祝いの品を用意するにとどまった。用意され
た祝いの品が、どれも何かの材料に使えと言わんばかりのものだっ
たり市場流通的には高級な食材だったりするあたり、アズマ工房の
人員をどう思っているのかがよく分かる話だろう。
﹁春菜さんは野菜料理も好きやから、野菜の比率をちょっと多めに
してみてんけど、どない?﹂
﹁うん、うん!﹂
宏の言葉にそう答えて、季節の野菜のてんぷらに目移りしている
様子を見せる春菜。そんな彼女に対して嬉しそうに微笑みかけなが
ら、これまた季節の野菜を使った炊き合わせを配膳していく。大皿
のポメの葉とワイバーン胸肉のドリアを四皿ほど取り分けやすい位
置に配置し、メイン料理であるガルバレンジアのフィレステーキ和
風ソース仕立てと本日のスープを全員に行きわたらせたところで、
1495
ある意味メインでもある誕生日ケーキを春菜の前にどどんと置く。
﹁うわあ、すごい⋮⋮!﹂
﹁これは外せんやろう﹂
﹁当然﹂
宏が用意したのは、備蓄してあった各種フルーツを味と見た目の
バランスを崩さない範囲でこれでもかと配置し、二色の生地を使っ
て﹁Happy Birthday﹂と表記されたビスケットをの
せ、更にちゃんとろうそくを立てられるように配慮してある生クリ
ームたっぷりの華やかなケーキだ。なお、カカオをまだ発見してい
ないため、ビスケットの生地には食紅の類を使って色をつけてある。
﹁なんかもう、これだけでも幸せだよ⋮⋮﹂
﹁そう言うてもらえるんはありがたいけど、これっちゅうて特別な
料理はやってへんで?﹂
﹁でも、こんなに一杯用意するのは、大変だよね?﹂
﹁澪もおったから、さほどでもあらへん﹂
何事もなかったかのようにさらっと言ってのける宏だが、料理す
る立場の春菜から見ればそんなはずはないと一発で分かる。どれも
これも見えないところで手が込んでおり、見た目ほど簡単な料理は
一つとしてない。そうでなくても比較的高級食材に分類されるモン
スターをふんだんに使っているのだ。楽しんで料理しているから気
にはならないが、モンスター食材の調理はなかなか大変なのは身に
1496
しみている。
﹁ほな、本日のメインイベントの一つ、行ってみよか﹂
そう言って宏が手を叩くと、一瞬で部屋の明かりが消え、全ての
ろうそくに火がつく。手品のようなやり方に目を丸くしている春菜
をよそに、こっそり打ち合わせを済ませていた一同がハッピーバー
スデーの歌を歌う。歌い終わる頃には落ち着きを取り戻していた春
菜が、十八本のろうそく全部を吹き消すと、割れんばかりの拍手が
食堂を包む。
﹁もう一つのメインイベントは、ご飯終わってからにしよか﹂
﹁そうだね。冷めるともったいないし、それに私もう限界!﹂
正直に食欲を見せる春菜に笑いがこぼれ、だが他の人間も実のと
ころ大差なかったらしい。いただきますを済ませると、猛烈な勢い
で料理を平らげ始める。
﹁この野菜のてんぷら、凄く美味しいんだけど何?﹂
﹁ルーコンっちゅうらしいで。普通は焼いて食べるっちゅうとった
けど、てんぷらにしたら美味そうやったから﹂
ハート形をした厚みのある小ぶりな葉っぱのてんぷらをかじりな
がら、感心したように頷く春菜。ちょうど今頃出回り始め、四月の
末には終わってしまうという収穫時期の短い食材なので、宏達が見
た事が無いのも不思議なことではない。天つゆにも塩にもその他の
調味料にもあう癖の少ない野菜だ。
1497
他にもケンキャクザケとポメのマリネ、黄色いブロッコリーであ
るバーニャとリコピンたっぷりの赤いアスパラガスであるラッツォ
をメインとしたサラダ、キノコとオロー大根をはじめとした日本に
は存在しない具材のみで構成された野菜の炊き合わせ、日本にある
ものに似ているがどこか違う野菜を中心にしたキッシュなど、一ひ
ねりしたものが結構ある。
なお、メイン以外での一番人気は、ロックボアの肉を生姜ベース
のタレで味付けし、人参とラッツォを巻いて衣をつけて揚げたカツ
である。いわゆる人参とアスパラの豚肉巻きカツの亜種だ。いつの
時代、どんな世界でもオーソドックスな料理は人気なのである。手
が込んでいる分、モンスター食材であるコマオウエビを使った同じ
オーソドックス系料理の海老フライより評価が高いようだ。とは言
え、それ以外の料理もそこまで人気が無いものはなく、野菜が嫌い
でも不思議ではない年頃のライムですら全種類を一つ二つ食べてい
る。
﹁このメインのお肉、食べた事が無いほど美味しいのだけど、一体
何を仕留めてきたの?﹂
﹁ガルバレンジア﹂
﹁他の素材も美味しくいただきました﹂
﹁なるほどね﹂
エレーナの問いかけにあっさりと答える狩り組一同と、これまた
何でもなかったかのように納得してのけるエレーナ。王族といえど
も滅多に食べられるものではない強烈な美味を、とことんまで堪能
する腹積もりらしい。
1498
﹁エレーナ様、驚かないんですか?﹂
﹁今さらだもの﹂
動じないエレーナの反応に、むしろテレスが驚いて質問を飛ばす。
ノーラやファムも似たようなものだ。そんな彼女達に当たり前のこ
とを、と言う感じで返事を返すと、後味を楽しんだ後軽く口直しに
日本酒を口にし、どんな手段を使ったかまだアツアツのままのドリ
アを取り分けて食べる。なお、エアリスが驚いていない事に関して
は、誰一人として不思議には思っていない。
﹁流石に王女さま方は貫録が違いますねえ﹂
﹁ノーラはガルバレンジアと聞いた時、いろんな意味で正気を疑っ
たのです﹂
﹁私も、初めて四級ポーションを見せられた時は、あなた達と変わ
らない反応を見せたものよ﹂
他にもいろいろあった結果、何が料理されて出て来ても驚かなく
なってしまったのだ。
﹁とりあえず、オクトガルがここにいなくて良かったよな﹂
﹁そうね。あいつらがいたらさぞうるさかっただろうし﹂
そろそろ満足してきたのか、辛口で芳醇な米の味が広がりながら
もさっぱりした後味の日本酒を飲みながら語り合う達也と真琴。そ
の言葉にあの謎生物を知っている人間が全員、それこそアルチェム
1499
ですら同意するように頷くのが救えない話である。
﹁オクトガル?﹂
﹁アランウェン様のペットと言うか眷族と言うか⋮⋮﹂
﹁何というか、謎生物としか言いようがない生き物が居るんだよ﹂
オクトガルを知らない一行を代表するように、ファムが不思議そ
うに聞き返す。それに対する年長組の返事に、何だそれはと言う顔
をするファム。特に会話に口を挟まず、にこにこ笑いながら楽しそ
うに食事を続けていたレラも、この件については同様である。
﹁こう、直接見ないとわからないのよねえ﹂
﹁せやなあ﹂
﹁謎生物としか言えない﹂
﹁姿かたちはともかく、それ以外は口で説明するのはちょっと難し
いよね﹂
これまたテレスとアルチェムも同意せざるを得ない説明を続ける
日本人達。結局この場ではそれ以上の説明はなかったが、後日予想
外の形で工房の職員達と顔を合わせることになると言う事は、当然
この時点では誰も想像すらしていない。
﹁さて、そろそろ料理も無くなったし、別腹のケーキとメインイベ
ント行くで﹂
1500
﹁待ってました!﹂
﹁ケーキ! ケーキ!﹂
ケーキと言う単語に、女性陣が︵それこそレラやライムまで︶一
斉に反応する。ウルスでも生クリームのお菓子はあるのだが、今回
宏が用意したような、華やかで繊細で手の込んだケーキはまだほと
んど存在しない。言うまでもなく、調理技術の問題である。今回諸
般の事情で参加できなかったゴヴェジョンやフォレダンが居たら、
その圧倒的なパワーにどん引きしていたに違いない。
﹁一番ええ所は当然春菜さんとして、後は年が若い順にええ所を分
配、でかまへんよな?﹂
﹁もちろん﹂
﹁年長者は年少者に配慮するものよ。王族だからと言って、私やエ
アリスに気を使う必要はないわ﹂
﹁あの、私とアルチェムはこの場合不利なような⋮⋮﹂
﹁エルフの宿命なのです。諦めるのです﹂
宏の提案にワイワイと姦しく反応する女性陣。そんな様子に苦笑
しながらも、出来るだけ不公平にならないように切り分けて分配し
て行く。
﹁で、メインイベントのプレゼントフォーユーや﹂
全員に行きわたったところできっちりラッピングしてある包みを
1501
取り出し、春菜に渡す宏。中身をあらかじめ聞いている他のメンバ
ーは、思ったより大きな包みが出てきた事に首をかしげる。袋のサ
イズが当然だと思っているのは、祝福儀礼をおこなったエアリスだ
けである。
﹁何だろう? あけていいよね?﹂
﹁もちろんや﹂
宏に促され、何年かぶりにプレゼントと言う物に胸をときめかせ
ながら包みをあける。中から出てきたのは大小三本のリボンと、サ
ファイアがあしらわれた襟元に飾るのにちょうどいい感じのリボン
ブローチであった。どれも落ち着いた青と白のチェックがシックで、
春菜の雰囲気にあったおしゃれな代物である。
ブローチはドレス以外の正装にもワイバーンレザーアーマー着用
時にも上手く合わせられる、なかなかに見事な一品だ。リボンの方
もどんなに見る目が無い人間でも、使われている生地がとんでもな
いものだと分かるような妙な風格を放っている。魔力をある程度精
密に感じ取ることが出来る者が見れば、それらが伝説のアーティフ
ァクトといい勝負が出来る品物である事を即座に見抜くであろう。
もっとも、それと同時に、自分達では扱いきれないであろうことも
悟るのだが。
﹁親方、あのブローチは聞いていないのですが?﹂
﹁王室ご一家からの内緒のプレゼントや。かなりええ品もんやった
から、腕によりをかけてみてん﹂
﹁な、なんかすごく畏れ多いような⋮⋮﹂
1502
﹁うちらとファーレーンの王室の場合、今更非公式の場で畏れ多く
もとか言う間柄でもあらへんやろ﹂
宏の身も蓋もない意見に、思わず吹き出してしまうエレーナとエ
アリス。その様子を見て釣られて淡く微笑むと、プレゼントされた
それらを再び包みに入れると、それを大切そうにギュッと胸元に抱
え込む。
﹁皆、ありがとう⋮⋮﹂
数が少ないからこそ、工房全体で知恵を絞って心をこめてくれた
事が分かるプレゼント。それは、春菜にとって生涯でも指折りの忘
れられないものになるのであった。
1503
後日談 その2
﹁墨打つから、押さえとって﹂
﹁はーい﹂
ウルスでは今、アズマ工房拡張工事の真っ最中であった。
﹁ヒロシ、木材さ足りとるべか?﹂
﹁足りんなら、もっとハンターツリーさ伐ってくるだが﹂
﹁まあ、なんとかなるやろう﹂
測量と墨打ちを終え、ざっと基礎をどうするかの目算を立てなが
らゴヴェジョンとフォレダンにそう答える。
﹁それにしても、リフォームして一年もたってないのに、拡張工事
が必要になるとは思わなかったよね﹂
﹁まあ、しゃあないわな。工房スペースはまだしも、宿舎の部分は
フォレストジャイアントが寝泊まりするにゃ、ちょっとどころやな
く狭いし﹂
﹁すまねえだな﹂
﹁ええってええって。工房に男手が足りてへんのは気になっとった
し、フォレダンのおっちゃんやったらいろんな意味で信用できるし﹂
1504
宏の言葉に頷く他のメンバー。いろいろあれで何な話が広まって
いるアズマ工房に対しては、元々不埒な事を仕掛けようという人間
はそうはいないのだが、それでも男手が全くないというのはやはり
不用心である。かといって、女の園になっている上子供が二人もお
り、しかもエアリスまで出入りする現在のアズマ工房に、迂闊に信
用のおけない男を招き入れる訳にもいかない。そういったもろもろ
を踏まえると、そもそも異種族に性的な興味がほぼ存在しないフォ
レストジャイアントは最適と言う事になる。ついでに言えば、年を
重ねすぎて性欲が既にほとんど存在しないエルダーゴブリンも。
実のところ、いわゆる人間に分類される生き物に関しては、どん
な組み合わせでもその気になれば普通に交配が可能だ。条件さえ整
えれば、フォレストジャイアントとヒューマン種やエルフはおろか
フェアリーやピクシーの間にだって子供は作れる。ただし、普通は
ヒューマン種とエルフやドワーフ、一部獣人などのような見た目や
体格、美的感覚が近い組み合わせ以外ではあまりハーフと言うのは
生れてこない。性欲を抱くポイントが違うのだから、当然と言えば
当然だろう。種族的にメスが居ないミノタウロスなどを除いて、女
なら何でもいいという狂った種族は居ないのである。
﹁とりあえず、この際やからこの建物は男子寮にしてまうつもりや
けど、どないやろう?﹂
﹁まあ、いいんじゃないか?﹂
﹁今後も人数を増やすなら、妥当なところじゃない?﹂
宏の提案に、特に問題ないと同意する一同。どうせこの後も、あ
ちらこちらの僻地に転送陣を設置して回り、その土地その土地から
1505
いろんな人間を引っ張りこむことになるのだ。それに、工房の規模
拡大はあちらこちらからの要望でもある。
﹁さて、とりあえず基礎工事終わらせてまうから、春菜さんは訓練
兼ねてあっちこっち手伝って。澪はファムらの講義頼むわ﹂
﹁了解﹂
﹁教材は何使ってもOK?﹂
﹁好きにやったって﹂
宏の了解を得て、適当によさげな材料を集める。今回の講義は七
級ポーションとそのランクに相当する各種消耗品の予定らしい。
﹁ほな、明日には外装が終わるとこまでやってまうで﹂
﹁終わるんだべか?﹂
﹁この規模やったら余裕や﹂
そんな自信たっぷりの宏の言葉通り、その日のうちに異常にしっ
かりとした基礎が出来上がるのであった。
1506
﹁七級ポーションはこんな感じだけど、出来る?﹂
﹁その反応って、こんな事に使うんだ⋮⋮﹂
﹁見極めが難しいのです⋮⋮﹂
﹁速度を一定にって言うのは大変ですよね⋮⋮﹂
澪の講義を聞き終え、実際に試してみたところで思わず唸り声し
か出なくなる三人。まだエンチャントや錬金術を他に応用するよう
なレベルには至っていないが、それでも八級ですらまだ四苦八苦し
ている職員達には、非常にハードルが高い。
﹁因みに春姉は最近、これやりながら初歩の初歩レベルの簡易エン
チャント乗せられるようになったから﹂
﹁⋮⋮いくら親方やミオさんが一緒だといっても、その進歩は早す
ぎます⋮⋮﹂
﹁⋮⋮親方も大概人間かどうか疑わしいのですが、ハルナさんもや
っぱり種族を詐称しているとしか思えないのです⋮⋮﹂
テレスとノーラの感想に、思わず吹き出してしまう澪。どちらか
と言わずとも表情に乏しい彼女だが、笑ったりしない訳ではない。
なお、春菜が本格的に生産を始めてから八カ月。採集系とエンチ
ャントを熟練度十五程度まで上げていた事や材料に余裕があった事
を考えるなら、そこまで無茶な成長速度でもない。そもそも調味料
作りに関しては、料理だけでなく製薬や錬金術のスキル修練にもな
る。そのため、カレーパン作りは地味にかなりの濃度のスキル修練
1507
になっていたのだ。
とはいえ、その春菜でもまだまだ初級突破までは遠い。簡易エン
チャントを乗せられるようになったといっても、あくまでも多少品
質を良くできるとか多少作業がしやすくなるといった程度で、宏や
澪のように一段階以上低い素材からポーションを作ったりする事は
出来ない。所詮、初級は初級なのだ。
﹁一応話は通してあるから、今度からオルテム村近辺でも材料集め
すること。あのあたりなら、七級の材料が結構手に入りやすいし﹂
﹁分かりました﹂
﹁七級の材料、あたし達でも採れる?﹂
﹁素材取るのは、八級までの材料と大差ない﹂
そう言って、各々の材料の特徴をざっと解説する澪。それを真剣
な顔で聞き、しっかりメモをとる三人。いつの間にやらファムも、
そしてこの場にはいないがライムもきっちり読み書きができるよう
になっており、少々難しい内容でも講義できるようになってきたの
は好材料であろう。
なお、ゲームのときも素材の収集自体は八級以下と七級でそれほ
どの差はない。素材や完成品のランクごとの採取難易度が大きく変
わるようになってくるのは、五級を超えたぐらいからである。六級
ぐらいまではどちらかと言うと、群生地が初心者が行くには厄介な
場所に偏っており、数集めるのが大変だという事が障害になる。
また、初級を乗り越える障害は材料だけではなく、熟練度が伸び
1508
る条件にもある。中級以上は失敗でも熟練度が伸びるのだが、初級
の間は失敗からは何も学べないらしく、どんなおしい失敗でも熟練
度は上がらない。その上、スタミナの消費が作業何秒ごとに最大値
の1%などという中級以上と比べて格段に多い仕様となれば、なお
のことだろう。しかも、スタミナが一定ラインを割り込めば疲労ペ
ナルティで成功率も下がる。テレス達三人もずいぶんマシになって
きたとはいえ、スタミナ消費の罠はいまだに厳しく、生産量や技能
の向上に対する大きな壁となって立ちはだかっている。
﹁後、そろそろ道具作る方法も覚えた方がいいから、明日ぐらいか
らそっちも﹂
﹁道具も自分で作るのですか?﹂
﹁当然﹂
いきなりの発言に面食らったノーラの質問に、秒殺で切り返す澪。
自分で使う道具ぐらい自分で作れないと、この先いろいろと困るこ
とになる。特に、宏が使っている鍛冶用ハンマーのように、特殊素
材をベースにガチガチにエンチャントをかけて作り上げなければな
らない道具など、金を出せば手に入るようなものではない。そもそ
も、産業が高度化し極限まで細分化される以前は、日本でも高レベ
ルの職人は道具作りのプロでもあった。この世界もそういう傾向が
ある以上、手に職を持ちたいのであれば道具や設備ぐらいは自作出
来ないと話にならない。
宏や澪、春菜などの認識はそんな感じではあるが、まだまだひよ
こにすらなっていない職員達の場合、自分達で道具を作る必要があ
るなどと言う事は、残念ながら想像すらしていなかった。もっとも、
今現在やっている程度の作業は冒険者協会などで手に入る器材で十
1509
分である上、それ以外のあるとちょっと便利な小物類も大体揃って
いたのだから、作るという発想に行かないのも仕方が無い部分はあ
るだろう。第一、宏達は作業のための道具を作っているところを、
一度も見せてはいない。
﹁市販の道具じゃ駄目なの?﹂
﹁師匠が使ってるハンマーみたいなのが、市販されてるとでも?﹂
﹁うっ﹂
﹁それに、調味料と七級までのポーションで満足するならともかく、
それ以上になると市販の道具じゃ性能が悪すぎる﹂
致命的な実例を出され、その上向上心があるなら引けないコメン
トまでいただいてしまい、完全に沈黙してしまう三人。
﹁いきなりそんな難しいものは作らないから、大丈夫﹂
﹁あまり信用できません⋮⋮﹂
﹁と言うか、三人の力量じゃ、作れてすりこぎがいいところ﹂
地味に摩耗する必須道具を上げられ、非常に納得してしまうテレ
ス。確かに、形を言わなければテレス達三人でも作れるうえ、今の
ペースで使いこめば一年とは言わないが結構早くに摩耗しきりそう
な道具である。
﹁とりあえず、明日は道具類の材料調達先として、多少鉱石が取れ
るところに案内するから、まずはそこで採掘訓練﹂
1510
﹁肉体労働ばかりなのです⋮⋮﹂
﹁薬作るのも、地味に腕力勝負ですよね⋮⋮﹂
﹁職人って、体も頭もかなりいるよね⋮⋮﹂
スパルタ式にハードな日程を組まれ、まだ日も高いのに疲れ切っ
た表情を浮かべる三人。彼女達は知らない。自分達はまだ、長い職
人坂を登り始めてすらいないという事を。
﹁大分上達したんやなあ。僕が謎植物つくっとる間に、大分練習し
た?﹂
﹁ん∼、とりあえず二日ぐらい、ずっと糸紡いでたからそのせいか
も﹂
﹁なるほどなあ﹂
何処からともなく調達してきた羊毛を糸にしている春菜を見て、
感心したように頷く宏。冬場の猛練習の成果も出てか、ファンタジ
ー的な意味で特に癖のない素材なら、問題なく布まで加工できるよ
うになっている。ちょっと集中力を欠いているからか、たまに失敗
して糸を千切ったりしているが、紡いだからと言って使い道もあま
1511
りないので、大した問題ではないだろう。
﹁後は精錬と鍛冶と船造り覚えて採掘と一緒に練習したら、そろそ
ろメイキングマスタリーいけるかもなあ﹂
﹁本当に?﹂
﹁まあ、習得ペース考えても、各々一カ月から二カ月ぐらいは必死
なって練習せんと無理やとは思うけどな﹂
﹁最短でも半年かかるのかあ⋮⋮﹂
宏の言葉を聞き、微妙に遠い目をしてしまう春菜。実のところ、
あと半年でそこまでの技能を身につけるのは、本来不可能とは言わ
ないが相当の運が絡む。ゲームだった頃と比べて実作業時間が長い
事を考えても、それ以外の時間も結構長いのだからそんなに技量の
上昇が速くなる訳ではない。
﹁戦闘と違って職人技は回数が勝負やからなあ﹂
﹁やっぱりそういうもの?﹂
﹁そういうもんや﹂
一回の実戦が百の訓練に勝るといわれる戦闘と違って、生産関係
はどのレベルのものをどれだけ作ったかがすべてだ。同じものを一
から何十個、何百個と作ることにより、徐々に徐々に腕が上がって
いくものである。頭の良し悪しもある程度習得速度に影響するとは
いえ、そこに近道はない。究極的には戦闘も回数勝負ではあるが、
訓練と実戦の境界線があいまいな職人芸とは比べ物にならないだろ
1512
う。
﹁それにしても⋮⋮﹂
﹁ん?﹂
﹁いくら生産系スキルが能力補正大き目っていっても、やっぱり初
級は初級だよね﹂
﹁何ぞ、思うところでもあるん?﹂
﹁何というか、私がオーバーアクセラレート習得した時みたいな自
覚できるほどの差とか、宏君とか澪ちゃんがエクストラとった時み
たいな傍で見てて劇的に見えるほどの変化はないなあ、って。﹂
春菜の言い分に、思わず首をかしげる。正直なところ、タイタニ
ックロアを身につける前と後で、宏本人には劇的な変化の実感はな
い。澪にしても、もともと高い能力のものががさらに延びた部分が
大きいため、ぱっと見た感じでそれほど大きな違いを感じない。
﹁そんなに変わっとるかなあ?﹂
﹁大違いだよ。だって、手斧使った時の攻撃力が明らかに見て分か
るレベル上がってたし﹂
春菜の主張の根拠は、実に簡単だった。因みに、手斧を使った時
の攻撃力を比較する相手としては、伐採に行った時に遭遇した灰色
熊を持ってきている。以前の宏は二発かかって瀕死どまりだったこ
の熊を、タイタニックロア習得以降は一撃で仕留めていたのだ。当
りどころの差と言うのはない。なぜなら、同じ場所に同じように攻
1513
撃を食らわせていたのだから。
﹁まあ、初級は初級、っちゅうのはあるやろうけど、それだけでも
あらへんのちゃう?﹂
﹁と、言うと?﹂
﹁春菜さんのオーバーアクセラレートとかうちらのエクストラみた
いにいきなりスペックが変化したんやなくて、修練でちょっとずつ
じわじわ上がっていっとる訳やし、少なくともそう簡単に自覚でき
るほどの差は出えへんと思うで﹂
宏の実に説得力のある台詞に、思わず納得してしまう春菜。成長
期の身長やバスト、足のサイズの変化などのように、ふと気がつく
といつの間にか大きく変わっているのが、スキル修練による能力と
言うものだ。たまに会う親戚のような立場でもない限り、はっきり
と認識するのは難しいのかもしれない。
﹁まあ、それはそれとして、や﹂
﹁うん﹂
﹁澪が春菜さんにマント作れ、みたいなこと主張しとるんやけど、
どうする?﹂
﹁あ∼⋮⋮﹂
いまだに澪がこだわっている事を知り、困ったような笑顔を浮か
べて軽く小首をかしげて見せる春菜。正直なところ、あまり趣味性
の高い装備構成にはしたくないのが本音である。
1514
﹁宏君は、どう思う?﹂
﹁見た目がどうとかそういうんを置いとくんやったら、ありはあり
やと思ってんで﹂
﹁そうなの?﹂
﹁春菜さん、左手空いとるやろ?﹂
﹁空いてるけど、それが?﹂
﹁絶対やないんやけど、本来レイピアとかその手の武器で戦う、い
わゆるフェンサーっちゅうやつは、左手に盾代わりのマインゴーシ
ュとかその手のもんを持つんやわ。まあ、春菜さんの場合は両利き
やから、相手かく乱するためにスイッチするって観点で左手空けと
くとかもありやし、実際にその種のフェイントもやっとるし﹂
宏の解説に、糸紡ぎの手を止めて、思わずあーなどと声を上げる。
実際、ゲームで細剣系をメインにすると決めた時に、フェンシング
関係の動画を片っ端から見た事がある。その中には、宏が説明した
ように受け流しに特化した短剣を持ったスタイルのものもあった。
﹁でまあ、その辺のスイッチの事まで考えると、や。盾代わりのマ
ント、っちゅうのも有りやないかな、ってな﹂
﹁マントって、盾代わりになるの?﹂
﹁そら、ドーガのおっちゃんとか騎士連中が使うとるような盾と同
じにゃならんで﹂
1515
﹁まあ、そうだよね﹂
﹁ただ、いわゆるバックラー的な使い方は腕が伴えば出来るし、ブ
ラインドに使うてかく乱するんは古典のフェンサーの常套手段やっ
たりもするんよ。それに、澪が言うたみたいに、裾で斬ったりとか
の武器として使えるマントも出来ん訳やないし﹂
﹁そっちは歩いてる時に自分の足とか切りそうだから保留として、
防具として使えるんだったら考えてもいいかな。正直、森のダンジ
ョンで防御力と防御手段の不足は痛感させられてたし﹂
まだ半月も経っていない出来事を思い出し、思わず苦い顔をする
春菜。専門分野の問題とはいえ、はっきり分かっている弱点をいつ
までも放置しておくのは怖い。
﹁ほな、今晩にでも作っとくわ﹂
﹁頼める?﹂
﹁任しといて。丁度ええ素材は山ほどあるしな﹂
﹁丁度いい素材って、たとえば?﹂
﹁まずは一般的なところでワイバーン。ケルベロスでもなかなかの
んができる。後、ガルバレンジアもありやな。何やったら、そのう
ち鱗系やない種類のドラゴン狩ってくるんも選択肢やで﹂
見事に食いついてきた春菜ににやりと笑い、いくつか候補を上げ
ていく宏。どれもこれも普通はマントの素材になどしないものばか
1516
りである。
﹁最後のはパスとして、なんだかものすごく贅沢なラインナップだ
よね⋮⋮﹂
﹁全部在庫がようさん余っとるから、どんな贅沢な使い方でも出来
んで。何やったらワニ革のハンドバッグと称してワイバーンの革で
ブランド物のパチモン作ってもええで﹂
﹁やな偽物⋮⋮﹂
﹁偽モンやあらへん。パチモンや﹂
﹁私にはその違いが分からないよ⋮⋮﹂
関西人以外にはいまいち通じにくいネタを言ってのける宏に、何
とも言えない困った顔をするしかない春菜。
なお、パチモンもしくはパチモノとは、ニュアンス的には性質の
悪い無認可非公式のパロディ商品と言うのが近い。イメージとして
は、物真似芸人が無許可でやっている物真似みたいなものだろうか。
本物とは似ても似つかないのに、特徴だけはむやみやたらとよくと
らえているあたりがそっくりである。もっと正確に言えば、便乗商
品と言うのが本質に近いであろう。
全体に共通する特徴としては、やたらと胡散臭く、どう見ても本
気で騙す気はゼロだというのがあげられる。ほとんどの人が一目で
偽物と分かりつつ、どこまで本物に近づけられるか、そしてその上
で笑いがとれるかがパチモノ作りの真骨頂と言ってもいい。騙され
るのが偽物ならば、分かっていて一発ネタのために買うのがパチモ
1517
ノと言う感じだろう。分かっていて買うのだから、早まったという
後悔はあっても、騙されたとかよく見ておけばよかったという種類
の後悔はしないのがパチモノなのだ。
﹁いや、そんな事を力説されても⋮⋮﹂
そんな感じの説明を力説する宏に、本気で呆れた顔をしてしまう
春菜。性質の悪いパロディだろうが本気で騙すつもりの類似商品だ
ろうが、本物ではないという一点では全く同じである。公式のジョ
ークグッズならともかく、そんな限りなく黒に近いグレーな、と言
うより普通に黒であろう商品を買う気は起こらない。
﹁まあ、パチモンについては置いとこか。マント以外にももう一つ、
確認しときたい事があんねんわ﹂
﹁何?﹂
﹁レイピア、グレードアップするか?﹂
これまた急に意外な事を聞かれ、とっさに応えに窮する春菜。今
でも性能的にはやや過剰気味なのに、まだグレードアップするとい
うのだ。春菜が答えをためらうのも当然であろう。
﹁えっと、また唐突だよね?﹂
﹁まあ、春菜さんにゃ唐突に聞こえるやろうなあ﹂
﹁それを聞いてくるって事は、他にも武器を新調するんだよね?﹂
﹁真琴さんのをな。アランウェン様の話もあったし、こっちで勝手
1518
に刀と大剣作っとこうか、思うてんねん﹂
﹁それで、ついでにって事?﹂
﹁せやねん。兄貴のロッドも作るし、澪の弓に至っては素材的に魔
鉄合金製よりツーランクぐらい上のイビルエント製になりおるし、
春菜さんのだけ普通の鉄製のままになってまうから、ついでに作っ
た方がええやろう、思うてな﹂
納得できると言えば納得できるその言葉に、少し考え込む春菜。
正直なところ、今のところ攻撃力不足の類は特に感じない。バルド
の時はそもそも接近戦を挑む隙間など無かったし、巨大マンイータ
ーの蔦を切るのに苦労したのは根本的に武器の相性の問題だ。どち
らも新調したところでそれほど差が出るものでもない。
だが、新調出来る時に新調しておかないと、いざという時に武器
の性能が悪くて足を引っ張りました、などと言う洒落にならない事
態を引き起こしかねない。宏に負担をかけることになるのが難点で
はあるが、やはりここは作っておいて貰った方がいいのだろう。
﹁悪いけど、お願いしていいかな?﹂
﹁了解や。エンチャントはこっちで勝手に決めてええな?﹂
﹁うん。どんなものが出来るか分からないし、お任せするよ﹂
宏の確認に了解の返事を返し、基本全てを丸投げにする春菜。彼
女の力量では、正直口を挟めるところがなにも無いのだ。
﹁ほな、レイピアとマント、っちゅう事で﹂
1519
﹁あっ、やっぱりマントも作るんだ﹂
﹁作って無駄にはならんしな。流石にマスカレードと羽根帽子まで
は作る気ないけど﹂
﹁作られても困るよ⋮⋮﹂
宏の冗談に心底困ったような顔で突っ込みを入れ、完全に止まっ
ていた紡績作業に戻る。猫が見れば転がして遊びそうな毛糸の玉が
既に三つ目に差し掛かっているが、この工房に猫はいないので問題
はない。
﹁そう言えば、その毛糸なんかに使うん?﹂
﹁秘密﹂
﹁さよか。まあ、使う予定あるんやったらええわ。霊糸みたいに不
良在庫になったらたまらんからなあ﹂
春菜の言葉に用途があると判断した宏が、使い道に関しては特に
突っ込むことなくコメントを残す。深く突っ込みを入れられなかっ
た事に、思わずホッとする春菜。真琴や澪との話し合いの結果、こ
の毛糸でパンツを編むことが決まっているなどとは、流石に何重も
の意味で宏には告げられない春菜であった。
1520
﹁また、ものすごい量の鉱石ですね﹂
﹁まあ、いろいろ作るからなあ﹂
春菜に最終確認を取った二日後。大量に運び込まれた魔鉄とミス
リルの鉱石を見て、微妙に驚きの声を出すアルチェム。そんなアル
チェムにいつものことと言わんばかりの台詞を残し、精製の前に鉱
石の質を確認する宏。
﹁こんなに鉱石買って、大丈夫なの?﹂
﹁それは金銭的な意味か? それともコネ的な意味か?﹂
﹁両方だけど、主に金銭的な方かな?﹂
﹁金に関しては問題あらへん。魔鉄とかミスリルは、製品になって
もうたらものごっつう高いんやけど、鉱石段階やとだぶついとるみ
たいで安いねん﹂
需要と供給の関係を表すかのようなその説明に、納得するやら寂
しいものを感じるやらでコメントに困る一同。鉱石段階だと安いの
は当然、精製できる職人が少ないからである。現在の職人の平均レ
ベルだと、このあたりの素材は精製して加工できるだけで超一流扱
いされてしまうのだ。
﹁ちょっと待って﹂
﹁ん?﹂
1521
﹁だぶついてるって事は、鉱石を掘れる人は結構いるの?﹂
﹁そうなんちゃうか? 含有量の多い、いわゆる質のええ鉱石掘る
んは結構な腕と勘がいるんやけど、鉱脈さえ見つけとったら単に掘
るだけやったらそこらの人足でも行けるし﹂
ランクの高い素材の意外な事情に、これまた微妙に絶句する春菜。
実のところ神鉄以外は、ゲームでも掘るだけなら初級の熟練度七十
もあれば掘れるのだ。ただし、鉱石の品質が非常に悪くなる上、掘
ったところで精錬の腕が追い付かないため、レベルが上がるまで間
違いなく不良在庫としてだぶついてしまうのである。
そこらへんの事情はこちらの世界でも同じらしく、絞り気味の生
産量でも鉱石自体は割りとだぶついているのだ。
﹁なあ、ヒロ﹂
﹁なんや?﹂
﹁コネの方は、そこまで使い倒して問題ないのか?﹂
﹁鉱石ぐらいは問題あらへんやろう。そもそもこんなスピードで入
ってきたんも、向こうがだぶつき気味の鉱石をこっそり買いたたい
て確保してあったかららしいしな﹂
﹁何やってんだよ、ファーレーン王家は⋮⋮﹂
ファーレーン王家の予想外にもほどがある行動に、思わず頭を抱
える達也。宏が注文を出さなければ、そのだぶついた鉱石をいつま
1522
でも抱えることになる、と言う事は考えなかったのだろうか?
﹁多分やけど、向こうはそのうち鍛冶も仕込むやろうって睨んどっ
たんやと思うで﹂
﹁あ∼、なるほどな⋮⋮﹂
﹁実際、いつになるかはともかく、いずれはこの辺の素材使ってあ
れこれやる訳やしな。それに、材料持ち込みやったら値段の方は勉
強する事なるし﹂
﹁厄介な話だよな、それも⋮⋮﹂
色々と過大な期待をされている節のあるアズマ工房。実際、春菜
の成長率ほど異常ではないにしても、テレス達三人ですらすでに製
薬と錬金術に関しては、世界全体の平均を超えているのだ。しかも、
現状作り方を広めてすらここでしか作れない物も結構ある。それ以
上に、コンスタントに結構な分量の火炎石などの低レベル消耗品や
八級程度の毒消しを生産し納品しているというのは、実績としては
この上ないポイントとなる。
アズマ工房、と言うよりはそこで働く三人の職員に関しては、王
宮や冒険者協会、メリザ商会なども驚きをもって見ている。超越し
た技量をもつ指導者がいるかどうかでどれほど変わるのかと言うの
をはからずも証明してしまった形になっているため、色々な組織が
水面下で息のかかった者をアズマ工房に弟子入りさせられないかと
画策している。もっとも、当の指導者達となかなか接触を取れない
ため、最初から考えもしていない王宮以外は計画が頓挫しかかって
微妙に頭を抱えていたりする。
1523
元の世界に帰るため、ふらふらとあちらこちらへ出歩いているの
が妙なところで功を奏する形になっているようだ。もちろん、当人
達は何一つ深い事は考えていない。
﹁流石に邪魔やし、当事者になる真琴さんと兄貴、後春菜さん以外
はちょっと出とってくれるか?﹂
﹁分かりました﹂
﹁仕事してくるのです﹂
﹁親方、後でいろいろ教えてね﹂
宏に促され、素直に調味料作りのために出て行く三人。澪も自分
の弓を作るために工作室の方へ向かう。現状特にやるべき事もない
ため、どうしようかと少し考え込むアルチェム。もっとも
﹁あ、じゃあ私は、ちょっと村の方に戻って醤油蔵と味噌蔵の進捗
度合いを見てきますね﹂
すぐに自分でもできることを思い付き、用事を済ませるために出
て行くのだが。なお、ゴヴェジョンとフォレダンがここにいない理
由は単純で、宏の図面をもとに醤油蔵と味噌蔵を作りに行っている
からである。味噌も醤油もあの一帯の貴重な外貨獲得手段になりう
るという事で、村中総出で作業をしている。すぐに安定して量産と
言うのは難しそうだが、それでも最初の試作品が現時点で問題なく
発酵が進んでいるため、日本酒と並んで新たな特産品としての期待
は強い。気が早い暇人達は、すでに大豆の増産のために新しく畑を
作る計画すら立てており、既に切り開いても問題のない老いた一帯
を見つけていたりする。
1524
因みに、何故あの一帯の連中が外貨を欲しがっているかと言うの
は簡単な話で、外貨が無ければダシに使える海産物やカレー粉を購
入する事が出来ないからである。流石にいくらなんでも、この一帯
の四種族全員の口を満足させうるだけの調味料や海産物となると、
アズマ工房が無料で提供するという訳にはいかない。だが、地味に
和風の舌を持っているこの地域の連中は、宏達が持ち込んだ煮干し
やカツオ、昆布などでダシをとった煮物をたいそう気にいってしま
い、安定して手に入るのなら何としても手に入れたいと考えている。
故に自分達も使いたいという事もあり、非常に真剣に醤油造りに取
り組んでいる。
﹁ほな、まずは材料少なあていける、春菜さんのレイピアから行こ
か﹂
﹁ん、お願い﹂
﹁まあ、ちゅうたかて、材料はまとめて一気に作るんやけど﹂
そんなとぼけた台詞を吐きながら、溶鉱炉にどんどん材料を投入
していく。レイオットに無理を言って集めさせた、流通に乗るぎり
ぎりのレベルの砂を使ったレンガの、世界でもここにしかない高性
能溶鉱炉である。もっとも、宏的にはつなぎ程度の、大した性能と
は言えないレベルの設備ではあるが。
因みに、レイオットが無理を言われたのは、真琴からの苦情を受
けて宏に魔鉄製の自分の武器を作らせようとしたのが原因である。
言ってしまえば、自業自得だ。
﹁んじゃまあ、本番行くで∼﹂
1525
気の抜ける口調で完成した合金を引っ張り出し、その口調とは裏
腹の真剣な表情で熱した鉱石にハンマーを入れる。例によって例の
如く、作業中は触れれば切れるのではないか、と思わせるほどの鋭
いまなざしで、真摯に丁寧に、大胆に繊細に作業を進めていく。
ほどなくして最初の一品、春菜の新しい相棒となるであろうレイ
ピアが完成する。
﹁完成や。ちょっと振ってみて﹂
﹁ん、了解﹂
宏に促され、初めて武器を作ってきたときのことを思い出しなが
ら軽く型をなぞってみる。あの時と違い、今回は何一つ調整しなく
てもまったく狂いがない。狂いがないどころか、びっくりするほど
手になじみ、今まで以上に扱いやすくてしっくり来る。しかも、こ
れまでとは比較にならない性能を持っていることが、ただの素振り
でもはっきり分かる。
﹁すごい、完璧⋮⋮﹂
﹁そらもう、長い付き合いやし、戦闘シーンも覚えるほど見とるか
らな。今更バランス崩したりとかはせえへんよ﹂
一発で特に修正する必要もなくきっちりバランスをとってのけた
宏に、思わず感動するようなまなざしを向ける。宏がチームにいて
よかったと思うことはいくらでもあるが、こういうときは特にそう
思ってしまう。
1526
﹁まあ、特殊機能は後で説明するとして、次は兄貴の行ってみよか﹂
﹁おう、頼むわ﹂
﹁ほな、行くで∼﹂
例によって例のごとくばかげた量の魔力を注ぎ込みながら、ロッ
ドを音高く槌音を響かせて成形していく。魔力の増幅と制御補助に
気を使って導通ラインを設計し、いくつかのポイントに魔力結晶を
はめ込むためのくぼみを作る。補助材料を組み込んでデザインライ
ンから魔法の効果を大きくする形状に変え、最後に冷却と同時に強
力なエンチャントを施す。
﹁後は魔力結晶をはめ込んで⋮⋮﹂
変形の五芒星を描くように配置された魔力結晶が、その身に輝き
を灯す。そのエネルギーの流れを微調整した後、仕上げのエンチャ
ントを施して完成。軽く起動して問題がないことを確認すると、達
也にそのまま渡す。
﹁ちっと確認して﹂
﹁何か、ものすごく手の込んだロッドだな。前のとは大違いだ﹂
﹁そら、材料の充実度合いも違うし。同じ間に合わせっちゅうても、
前のときに使える材料やと作れるもんも気合の入り方もやっぱちゃ
うで﹂
分かるような分からないような宏の宣言に苦笑しつつ、ロッドを
起動していくつかの魔法を軽く発動してみる。すさまじくコントロ
1527
ールがやりやすくなっている反面、増幅率が高すぎるため手加減は
逆に難しくなりそうな感じだ。そんなことを考えつつ短縮詠唱でい
くつかの魔法を起動し、即座にキャンセルする。
﹁⋮⋮なあ﹂
﹁何?﹂
﹁今、裏技使わなくても二重起動に成功したんだが?﹂
﹁そら、多重起動の機能組み込んであるんやから、当然やで。っち
ゅうか、裏技ってなんや?﹂
﹁詠唱中にタイミング合わせてノーディレイで詠唱なし、クールな
しの魔法起動すると、コストが激増する代わりに同時に二発魔法が
発動するんだよ﹂
﹁ほう。そら知らんかった﹂
宏が作った杖には、多重詠唱の機能が組み込まれている。初級レ
ベルなら五種、中級で三種、聖天八極砲レベルでも二種同時に詠唱
可能な極悪な杖だ。当然コストは普通に起動した数だけ消費するの
だが、そこはそれ、宏がそんな問題を何の手当てもなしに放置する
わけがない。
﹁後、もう一つ気になってたんだが、妙に発動コストが軽くないか
?﹂
﹁あ、達也さんも?﹂
1528
﹁なんや、もうばれたんか﹂
刀の材料にするための玉鋼を作りながら、達也の質問にしれっと
答える宏。
﹁で、何をやったんだ?﹂
﹁兄貴らがガルバレンジア狩って来てくれたから、イビルエントの
葉脈と組み合わせてええ触媒が作れてなあ﹂
﹁何か、聞くのが怖くなってきたんだけど、何のエンチャントをつ
けたの?﹂
﹁魔法発動コスト75%カットと戦闘スキル発動コスト75%カッ
トを武器段階で焼き付けといてん﹂
﹁はあっ!?﹂
宏のとんでもない台詞に、この場にいた三人が思わず絶叫する。
﹁なんや、そないに驚かんでもええやん﹂
いつの間にか大剣を打つ準備をしながら、顔をしかめつつそんな
文句を言う。だが、そんな宏の文句など、誰一人聞く耳を持つわけ
もなく⋮⋮
﹁あんた、それがどれだけとんでもないか分かってて言ってんの!
?﹂
﹁とんでもないもなんも、上級エンチャントとしては割と一般的な
1529
しろもんやで﹂
﹁そんなもんが付いた装備なんて、煉獄の中層でも出てこないわよ
!﹂
﹁その代わり、煉獄産の武器って魔道具とかエンチャントで再現で
きへん種類の特殊機能は結構あるで。それに消費軽減のほうは、向
こう居った時兄貴の杖には付けとったやん﹂
﹁あんな物騒な杖、やばすぎて普段使いできねえからそこまで見て
ねえよ!﹂
宏の言い訳をあっさり聞き流し、吊るし上げを続けようとする真
琴達。ちなみに、煉獄産装備固有の特殊機能というのは、半分以上
が癖が強すぎて使い手を選ぶものであり、残りの半分はせいぜい優
秀なおまけ程度のものだったりする。後、宏は誤解しているが、煉
獄中層の固有機能程度ならば、すべての生産エクストラを習得した
上で同じ階層で入手可能な素材を集めれば再現可能である。もっと
も職人達が引きこもっている上にハードルが高すぎて、誰も確認し
ていないため開発者か神様ぐらいしか知らない情報ではあるが。
﹁ついでに言うたら単なるエンチャントやから、どんな武器にでも
つけれんで﹂
﹁⋮⋮ごめん、ちょっとめまいが⋮⋮﹂
﹁ほんまのところは95%カットのほうつけたかったんやけど、素
材が大霊窟まで行かんと揃わん上に、生産量がごっつ少ないからな
あ﹂
1530
﹁これ以上怖い事言わないで、いいわね?﹂
﹁別に怖くはないやん﹂
真琴にすごまれ、ぶつくさ言いながら鉄の塊を大剣の形に鍛え始
める。最初は微妙にふてくされた表情だったものが、作業を始める
とすぐさま引き締まったものに変わる。ハンマーを振り下ろす一撃
一撃が鉄塊に魂をこめ、現在世界に二つと無い強力な武器へと変貌
させていく。
﹁まずは一つ目。バランス見るから、軽く振ってみて﹂
﹁はいはい﹂
どうせバランスなんぞ確認しなくても、今までの戦闘を見ていれ
ば余裕で正確な重心を取ってのけるに決まっている。そんな気分で
春菜に習って軽く型をなぞる。予想通り、真琴にとって最適な重心
バランスと寸分狂わず一致している。軽く振った感じ、基礎スペッ
クでは煉獄で手に入るレア装備よりは三枚ほど落ちる印象だが、む
しろ割と気軽に作って三枚程度で済んでいる事がおかしいので、そ
こは気にしない事にする。
﹁いまさらあんたが作る武器がバランス狂うはず無いわよね﹂
﹁分からんで。次作るんは、真琴さん使っとるところ見たことない
し﹂
﹁へっ? ⋮⋮まさか!﹂
真琴の言葉に耳を貸さず、熱した玉鋼を厚さ五ミリ程度に打ち延
1531
ばす。延ばし終わった鋼を二センチ程度の破片に割っていき、慎重
に質のよいものを数キロ選定していく。小割りにされた材料を熱し
て沸かし、一つの塊にしてから打ち延ばす。平たく延ばしては折り
たたみ、何度も何度もたたいては折りたたむ。
二十回ほど折りたたみ終えたところで満足いく品質になったのか、
もう一つの鉄の棒を作り始める。残りの塊を精製しなおして組成を
いじり、それなりの硬度を持ちながらも粘り強い鉄を作り上げる。
それを最低限の整形をしたところで、最初に鍛え上げた鋼で今作っ
た鉄をくるむ。
﹁そっちの鉄と最初の鉄は、何か違うのか?﹂
﹁最初の鉄だけやと衝撃で折れたり砕けたりしおるから、軟らかく
て粘り強い奴で衝撃逃がせるようにしたらんとあかん﹂
達也の質問に答えながら、二つの鉄を熱して打ち合わせそれぞれ
の性質をそのままに一体化させ、小槌で日本刀の形に成形していく。
小槌とやすりで形を整えた後、土らしいものを表面にコーティング
し、再び熱して焼入れ。焼きが終わったものの曲がりや反りを修正
した後研ぎあげて状態を確認。やすり仕立てをしてから銘を刻み、
脇差と太刀の中間程度の長さを持つ、見事な波紋が美しい日本刀を
完成させる。ここまでの工程で時折正体不明の粉を振りかけながら
ぶつぶつ何かを唱えているのは、おそらくエンチャントを施してい
るのだろう。
本来の刀鍛冶が見ればおかしな作業もいくつかあるが、そもそも
素材が違う上に魔法という現実には存在しない工程も挟まるのだ。
ベースとなる大まかな流れは同じでも、割りと重要な細部が一致し
ないのは当然といえば当然である。魔鉄ならばまだその程度の差で
1532
すむが、更に上の素材では教科書どおりの鍛造方法では、その方法
についてどれほどの腕を持っていてもまともな武器にはなりえない。
この世界の素材は、上に行けば行くほど訳の分からない特性を持っ
ているのである。
﹁まあ、妖刀っちゅうほどの代物にゃなってへんけど、十分実用範
囲にはなっとるはずやで﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁日本刀ってのも、手間がかかる代物なんだな﹂
﹁せやなあ。伊達に世界最強の美術品っちゅう訳やあらへんしなあ﹂
そんな宏達の会話を聞き流し、何かに魅入られたかのように完成
した刀を手に取る真琴。ギャラリーや設備から十分に距離をとり、
長らく使わなかった技を確かめるかのように恐る恐る振るう。真琴
のその動きに応え、寸分の狂いも無くイメージどおりの軌跡をなぞ
ってみせる刀。その瞬間に、いや、その刀を手に取ったときから、
真琴は自分の中の普段は意識しない欠けたところが埋まったような
感覚を覚えていた。
﹁バランスとか、どない?﹂
宏の質問を完全に無視し、何度も何度も取り付かれたように刀を
振るう。理想どおりのバランス。理想どおりの長さ。そして、今ま
では望むべくも無かった、妖刀となりうる片鱗を見せる切れ味と強
靭さ。材質こそ本来の意味での玉鋼ではないが、そんなことは関係
ない。これは紛れも無く日本刀だ。真琴がかつてゲームの中で半身
として選び技を磨き上げ、高みに上り詰め、そして手足の延長たる
1533
相方に出会えずに挫折した、その道を再び歩かせてくれるであろう
存在だ。
︵もしかしたら、今度こそ、今度こそあの技が⋮⋮︶
かつて、ゲームの中で出会ったNPC。その男に師事し、極意を
叩き込まれ、皆伝の証として受け継いだ一連の技。それに耐えうる
だけの刀を得ることができずに、結局一度もまともに振るったこと
の無い奥義。もはや刀使いとしては錆び付いてしまっている現在の
真琴では、技を発動させることはおろかその準備段階にも至れない
だろう。やはり煉獄産の装備には及ばない事を考えれば、この刀で
はまだ足りないのかもしれない。それでも
﹁うん。覚悟は出来たわ﹂
再び、一振りの刀にすべてをかける覚悟は固まった。
﹁何の覚悟かは分からへんけど、そらよかった﹂
﹁宏、またいろいろ注文つけることになるかもしれないけど、とこ
とんまで付き合ってもらうわよ﹂
﹁職人としては、顧客のわがままは望むところやで﹂
こうして、真琴はようやく、ゲームでとは言え本来目指した道に
戻ってくるのであった。
1534
後日談 その2︵後書き︶
パチモノについては、作者の、というより登場人物の勝手な言い分
です。
言うまでもなく無許可のパチモノは普通に違法ですので、絶対に買
わないでくださいね。
1535
後日談 その3
﹁今日も農作業、頑張るで∼!﹂
﹁おー!﹂
鍬を片手に声を上げる宏に、妙に楽しそうに追従する春菜と澪。
ウルスの旧スラム地区の農園も、そろそろ宏達が手を出さなくても
よくなりそうなぐらいには形になりつつあった。
﹁土壌の改良は大方終わったし、後は作付したらアルチェムあたり
にお任せやな﹂
﹁はい! 頑張ります!﹂
宏に話を振られ、妙に気合を入れるアルチェム。その様子を、一
緒に苗や種、肥料を運んできた職員三人が妙に生温かい目で見守っ
ていた。
﹁気候的に田植えにゃまだ早いんがちっと残念やけど、夏から秋に
かけて収穫の野菜類はあと少し植えたら終わりやな﹂
そう言って、トウモロコシやレーヴェ豆の種を見る。どちらも農
家泣かせの植物系モンスターだが、兵士や新米騎士の訓練にはちょ
うどいいという理由で、国の要請を受けて一番外側の開墾地に植え
ることになったのである。
ウルスの農園はどちらかと言わなくても実験農場的な側面が強い
1536
ため、現時点では結構な面積の畑全てに作付をする訳ではない。も
う少し後から田植えが始まる水田はもとより、六月ごろに植えて秋
から冬にかけて収穫という作物も結構あるため、現段階で全部の畑
に作付する訳にはいかないのである。
﹁作付作業ももう一息やし、皆気張ってやろか!﹂
宏の掛け声にその場の人間が全員呼応し、今日も農作業が幕を開
けるのであった。
﹁親方、モテるよね﹂
﹁モテるのです﹂
﹁うん。普段はああなのに、何故かすごくモテる﹂
苗を運び終えてお役目御免となったテレス達は、もはや駄弁って
いても失敗しなくなった材料のすりつぶし工程をこなしながら、宏
達が戻ってきてからよく見かける光景について語り合っていた。
﹁正直、私はアルチェムがこっちに来る事になった事も驚いたけど、
そのアルチェムがあんな風に恋する乙女みたいな顔をしてるのにも
びっくりした﹂
1537
まだまだ女としての情緒はいまいち熟していない感じがあり、そ
れゆえに年寄り達にいいようにおもちゃにされていた妹分の事を思
い出して、しみじみと語るテレス。身体つきだけはエルフの平均を
大幅に超えて熟しているくせに、彼女が村を出る頃には冗談抜きで
子供だったアルチェム。それが、自分が村を出て三年も経たないう
ちに、ああも一足飛びに大人っぽくなるとは予想外にもほどがあっ
た。
﹁ノーラとしては、ハルナさんがどう見てもはっきり自分の気持ち
を自覚している事に驚愕しているのです﹂
﹁ああ、それも驚きだよね﹂
﹁一体何があったのかしら?﹂
ノーラの言葉は、それはそれで衝撃が大きかった事柄である。オ
ルテム村に行く前から、宏と一緒にいる時の春菜は結構な時間、彼
を目で追っていた。よく観察しなければ分からない範囲であるとは
いえ、宏が他の女性と話をしている時には微妙に落ち着きを失って
いた印象も無きにしも非ずで、見るものが見れば春菜の気持など誤
解しようが無いレベルである。むしろ、当人がなぜ自覚していない
のかの方が不思議な話であった。
普通に考えれば、宏と春菜という組み合わせは不釣り合いにもほ
どがある。一方はところどころ残念なところや妙な隙があるとはい
え、誰もが認めるいい女。もう一方は日常生活では妙にヘタレなと
ころがある、ものづくりと飯の事以外にほとんど興味を示さない、
ダサい見た目の女性恐怖症男。当人達が言うように、こんな事態で
もなければ絶対に接点など持ちようが無い組み合わせである。
1538
テレス達には通じないたとえだが、宏は学業成績を除けば、いわ
ゆる典型的なの○太くんである。日常生活では駄目なところがやけ
に目につくところも、劇場版などのような大きな事件の時には決断
力のある妙に男らしいところを見せるところも、まさしくそのまま
だ。違いがあるとすれば、の○太くんのように結果が出ない事をす
ぐに投げ出す訳ではなく、そういった地味で地道な作業をこつこつ
とやる事を苦にしない性格であるぐらいだろうか。もっとも、それ
もヘタレ故に投げ出すタイミングを失うと、ついついずるずる続け
てしまうという側面も無きにしも非ずなのだが。
そんな男と女だ。普通なら接点など持ちようが無い組み合わせだ
が、逆に何らかのきっかけで共同生活をすることになり、それなり
以上に親しくなれば、女の側が母性本能を刺激されてほだされる可
能性も無いとは言い切れない。事実、春菜も何カ月もの共同生活の
結果、普段の妙に頼りないところに母性本能を刺激され、有事の変
なところで頼りになる面とのギャップにころっといってしまったの
だ。
﹁エル様はまあ、分からなくもないかな﹂
﹁あれはもう、強烈なすりこみなのです﹂
﹁命を助けられて、その上胃袋までつかまれちゃったらどうにもな
らないよね﹂
﹁話を聞いている限り、アルチェムも大差ない感じなのです﹂
﹁うんうん﹂
エアリスもアルチェムも、宏に直接命を救われている。特にエア
1539
リスは一時、宏と春菜の庇護下で何の偏見の目も無く年相応の子供
としてのびのびと暮らしていた事もあって、二人に対しては刷り込
みというレベルを突破した懐きようを見せている。王族としての立
場を取り戻した後も、公式の場ではともかくそれ以外では変わらず
接してくれている宏に対しては、それこそ他の男など眼中にないレ
ベルでの入れ込み具合である。
﹁こうやって見ると、ミオさんがいまいちよくわからないよね﹂
﹁こっちに来る前から師弟関係だったらしいし、時間の積み重ね?﹂
﹁まあ、師弟関係なので、ある意味分からなくもないのです﹂
物を作っている最中の宏は、一種独特の強烈な魅力を発散してい
る。見た目こそ何処にでもいそうなさえないダサい男のままなのに、
滲み出る雰囲気や眼光がその印象を木っ端微塵に粉砕する。あれを
日常的に見ていたのであれば、澪が宏に転んでもおかしくはないだ
ろう。
テレス達も、日常生活で見せる情けなさと相手が女性恐怖症とい
う事実、そして春菜やエアリスといった絶望的なレベルのライバル
の存在が無ければ危なかった。無論、宏相手に好意を持っていない
訳ではないが、それはあくまでも尊敬できる人物としてのものにす
ぎない。ファムとライム、レラの三人はそこに、自分達をどん底の
生活から引き上げてくれた恩人という要素もあるし、年少二人は自
慢の兄という意識も持っているが、年齢差や立場の問題から、恋愛
感情にはつながりようはない。
そんな風に分析されている宏と澪の関係だが、実のところ澪がい
いな、と思ったのは製造に対するスタンスよりも、ごつい男アバタ
1540
ーのくせにどんくさい自分に、達也以外で一番最初に、かつ一番た
くさん親切にしてくれたのが宏だったからだったりする。出会い自
体は割と偶然だが、草むしりをしている最中に嫌がらせをされてい
た自分に絶対そういう連中に発見されない穴場を教えてくれた事や、
安全かつスムーズに職人生活を送るための必須スキルをいくつか伝
授してくれた事は、その立場上他人と接する経験がほとんど無かっ
た澪にとっては物凄く嬉しい出来事だったのである。
もっとも、ビデオゲームどころかそのベースとなるテレビや動画
と言った概念自体がまだ存在しない以上、こちらの世界の人間には
当然VRMMOの話など理解も想像もできない。宏と澪の関係がピ
ンとこないのも、澪がどういう経緯で淡いとは言えど恋心のような
ものを抱いたのかも、テレス達には分からないのが当然だろう。
﹁それにしても、当事者じゃないから恋バナとして面白可笑しく話
してられるけど、アルチェム達は大変ね﹂
﹁相手が改善してきてるとは言っても女性恐怖症で、しかもライバ
ルは三人もいていずれ劣らぬ強敵だもんね﹂
﹁むしろ、女性恐怖症なのに言い寄られる親方の方が大変なのです﹂
﹁あ∼⋮⋮﹂
ノーラの指摘に、思わず唸ってしまうファムとテレス。実際のと
ころ、宏がこれまでフラグを立ててきた経過は、女性恐怖症ゆえに
相手を敵に回すと地獄を見そうだとヘタレた事を考えて、本来強気
に出るべき状況や見捨てても誰も文句を言わない状況ですら折れて
相手のために動きまわった結果、という面も大きい。それが無くと
も、義理人情や倫理的な問題から、下手に助けないという選択肢を
1541
取れない状況も多々あり、そこで最善を尽くした結果余計に好感度
を上げてしまって、本人的には地獄を見るという構図が成立してい
る。
恐怖症ゆえに自己防衛のために行った行動が、むしろ天敵を惹き
つけてしまう。恐怖症ゆえに相手をとことんまで観察し、地位だの
身分だの容姿だのといった付属情報を無視して相手の事を理解して
しまうため、そういったものを煩わしいと思っているいい女から余
計に好意的に見られてしまう。本人的には敵に回らないレベルのほ
どほどの好感度で十分なのに、何かあるたびにどんどん泥沼にはま
っていく宏が、第三者から見ると実に哀れである。
﹁何にしても、応援するなら私は同郷のよしみでアルチェムかな?﹂
﹁ノーラはハルナさんなのです。多分、その組み合わせが親方的に
一番マシになるのです﹂
﹁あたしは友達だからエル様一本﹂
﹁誰もミオさんを応援しないのです﹂
﹁そう言うノーラだって﹂
﹁流石に、今の焦りすぎのままでは応援できないのです。せめて、
ノーラたちぐらいには親方の現状を受け入れられるぐらいに成熟し
ないと、親方が可哀想でとても応援できないのです﹂
大先輩といえども容赦しない、手厳しいウサ耳娘。反論できない
どころか、自分達も同じような考えであるため、苦笑するしかない
他の二人。
1542
﹁まあ、応援するといっても、あたし達に出来る事なんて特にない
んだけど﹂
十分な分量すりつぶし終わった材料からゴミを取り除きながら、
どこか達観したような事を言うファム。何処まで行っても所詮は無
責任な外野。そもそも応援するといったところで、極めてややこし
い人格を持つ宏相手の恋に、何をどうすれば応援になるのか自体が
分からない。それ以前に、苦労してきた分精神的にはかなり早熟と
いっても、ファムもまだ普通に子供だ。自身に恋愛の経験も無いの
に、応援も何もないのである。
﹁それ以前に、私達自身も人の事をどうこう言える立場じゃないの
よね⋮⋮﹂
﹁人の恋愛にくちばしを突っ込む前に、自分の相手を探す方が先な
のです﹂
そろそろ適齢期のテレスとノーラが、自身のあまりに潤いの無い
環境に何処となく涙目になりながらぼやく。二人とも水準以上に美
人でそれなり以上にもててはいるのだが、目先の仕事の楽しさにの
めり込んでしまっている上、あれを基準にしては拙いと思いながら
もつい、達也や宏を比較対象に持ってきてしまう。宏はともかく達
也を持ってくると、ほとんどの相手は没になってしまうのが手厳し
い。
﹁フリーのいい男、どこかに転がってないかなあ⋮⋮﹂
﹁フリーじゃないから、いい男なのです﹂
1543
﹁そうだよね⋮⋮﹂
﹁でも、ここで働いている以上、迂闊な相手を彼氏には出来ないの
です﹂
﹁ハードル高いよね⋮⋮﹂
﹁前途は多難なのです⋮⋮﹂
己の立場の難しさに、涙目のまま何処となく遠い目をしてしまう
テレスとノーラであった。
﹁お前さんから個人的な相談事、ってのも珍しいな﹂
﹁どっちかって言うと、あたし達が相談持ちかける側って感じよね﹂
冒険者協会近くのカフェ。春菜は宏と澪が手を離せないタイミン
グを選んで、達也と真琴に相談事を持ちかけていた。
﹁で、なんとなく予想はつくが、他の連中にあんまり聞かれたくな
い相談事ってのはなんだ?﹂
﹁私、宏君とどういう風に接するのが正解なのかな、って⋮⋮﹂
1544
思わず秒殺で今まで通りが一番、と返しそうになり、必死になっ
てその言葉が口から出ないようにこらえる二人。それが出来ないか
ら達也と真琴に相談しようとしているのだから、その回答は無意味
である。
﹁⋮⋮どういう風にって?﹂
﹁今までこんな風になった事が無かったから、何もかもが分からな
くなっちゃって⋮⋮﹂
本人の中でも全く整理できていないのであろう。自身の色々と理
不尽な感情に苦しみながら必死になって言葉を探る春菜に、真琴も
達也も次の言葉を辛抱強く待つ。
﹁一緒にいると凄く意識しちゃって、ドキドキして冷静で居られな
い⋮⋮。なのに、こうして別行動してると、今何してるのかな、と
か、女の子関係のトラブルに巻き込まれて無いかな、とか、そんな
事ばかり考えてていろんな事がなかなか手につかない⋮⋮﹂
﹁⋮⋮お前さんから、そう言う台詞が飛び出すとは思わなかったよ
⋮⋮﹂
真っ当な恋する乙女の恋愛相談を聞かされ、かなり失礼な感想を
正直に口にする達也。真琴に至っては、春菜の悩みが真っ当すぎて
思考停止している。
﹁やっぱり、変だよね⋮⋮﹂
﹁つうか、お前さんなら、とっくにそんなところは通り過ぎてると
思ってたぞ﹂
1545
﹁通り過ぎてるって?﹂
﹁ん∼、どう言やあいいかね?﹂
イメージに依存する種類の感想ゆえに、どう説明すればいいかに
苦慮する達也。自覚の有無はともかく、春菜が宏をそういう意味で
意識していたのなんて、バルドとの対決が終わった頃からだ。はっ
きり言って、ウルスを出る頃には普通に恋する乙女にしか見えなか
った。故に、とうの昔にそこを通り過ぎているように見えたのであ
る。
もっと言うならば、そもそも藤堂春菜という女性は、そういう感
情を持った上で相手の事を想いやり、その上で自力で自身の気持ち
と状況と双方に対する最適解を見つけ出して行動するというイメー
ジがある。その二つの理由から、今更こんな相談を受けるとは思わ
なかったのである。
﹁上手く説明できないけど、普通のセオリーだとそう言うのはもっ
と前に起こってて、それで自分が恋してるって気がつく事も多いか
ら、あたし達が見た感じだと、とっくに気がついてて結論出してる
ように見えてたのよ﹂
﹁そうなの?﹂
﹁前にも言ったと思うが、お前さんがヒロに恋愛感情かそれに近い
気持ちを持ってる事なんざ、城でのごたごたが終わった時点で、親
しい人間の大半が気がついてたわけだ﹂
﹁駄々漏れってほどじゃないけど、あんたが宏をすっごい意識して
1546
たのはちょっと鋭い人間なら普通に分かる範囲だったから、あれだ
け意識してて普通の態度が取れるとかすごいな、なんてアンやミュ
ーゼルなんかと感心してたのよ﹂
﹁よもや、無意識でやってたとは思わなかったんだよな、これが﹂
﹁自分が恋してる事に気がついてなかった怪我の功名とか、どれだ
け厄介なのよ⋮⋮﹂
微妙に頭を抱えている風情の達也と真琴に、どうにも困ったよう
な笑みを浮かべるしかない春菜。まともな意味での恋愛経験が全く
ない春菜にとって、二人の言い分はどうにもピンとこない。
﹁まあ、これで分かったと思うが⋮⋮﹂
﹁それが出来れば、苦労はしてないよ⋮⋮﹂
﹁だよな⋮⋮﹂
どうにも厄介な状況に、本気で頭を抱えたくなる達也と真琴。多
分相手が宏でなければ、この会話をこっそり聞かせるだけでほとん
どの問題は解決するだろうが、残念ながら相手が悪い。
﹁この場合、どうしたい? とかどうなるのが一番だと思う? と
かいう質問は無意味よね⋮⋮﹂
﹁聞くまでもねえよなあ⋮⋮﹂
﹁現状で何が一番いいのかは、分かってるんだ⋮⋮﹂
1547
何が一番か、など、少しでも理性と思いやりを持っていればすぐ
に答えは出てくる。だが、それでどうにかできないのが、思春期の
恋というものだ。
せめて、春菜に多少なりとも恋愛経験があれば、宏の状態がもっ
と良くなるまで気持ちに蓋をすることもできたかもしれない。だが、
いろんな意味で残念なことに、この恋は彼女にとっては初めての、
それも本人も気がつかぬうちに想いを積み重ね気持ちを育て、誰も
が驚くほど立派に開花させてしまったものである。その強烈なエネ
ルギーは、いかに春菜が理性的で感情のコントロールに慣れていた
ところで、容易く制御できるものではない。
本当に残念なのは、よりにもよって自身に向けられた恋愛感情の
類を一切信用できない宏に対して、本人も気がつかぬうちにそれほ
どの恋をしてしまった事であろう。
﹁この気持ちを向けること自体、宏君にとってはすごい負担だって
言う事は、重々承知なんだ。だけど⋮⋮﹂
﹁そりゃまあ、惚れた相手に分かってほしい、出来る事なら触れ合
いたい、なんてのは当然の気持ちだわな﹂
﹁本気で、相手が宏じゃなきゃねえ⋮⋮﹂
むしろ、相手が宏でなければ、とうの昔に勝負はついている。と
ことん厄介なのが、宏の方は春菜に対しある種の依存をしてはいる
が、明らかに恋愛感情は欠片たりとも持ち合わせていない事である。
しかも、ある種の依存をしているとは言っても、じゃあ春菜がいな
くなれば問題が起きるかと言えば、宏だからこそどうとでもなる話
だったりする。単に対人関係の問題に過ぎない以上、春菜が居なく
1548
なったら開き直って、人里離れた山奥にでも隠れ住むだけに決まっ
ているだろう。
所詮、宏にとって春菜は、何処まで行っても自分に危害を加えて
こないと信用している女性、でしかない。人としてそれなり以上の
信頼を寄せてはいるだろうが、それでもまだ女性に対する恐怖心を
克服できるほどではない以上、たとえ春菜といえども何か大きめの
地雷を一つか二つ踏み抜けば、容赦なく見限って距離を置こうとす
るのは間違いない。
﹁女性恐怖症なのは宏の責任じゃないから、あいつに文句を言うの
は筋違いだしねえ﹂
﹁それ以前に、春菜がヒロに惚れたからっつって、ヒロが春菜に惚
れなきゃいかん理由もないしな﹂
﹁それならまだいいのよ。舞台には立ててるんだから。これは春菜
に限ったことじゃないけど、現状は舞台に立つことすら許されてな
いじゃない﹂
﹁本当になあ⋮⋮﹂
﹁誰だか知らないし何やったかは知らないけど、あいつをあそこま
で壊した奴は同じ女として許せないわね﹂
考えれば考えるほど出てくるネガティブな情報に、なんだかだん
だん腹が立ってきた真琴。何が腹が立つといって、これだけともに
行動し、それなり以上の信頼関係を結べたという手ごたえがあって
すら、何かあったら自分達でも原因となった女共と同列に扱われか
ねない、という事実である。宏に文句を言ってもどうしようもない
1549
がゆえに、そこまでの心の傷を刻み込んだ連中には怒りを覚えるし
かない。
﹁とりあえず真琴、その怒りはしまっておけ﹂
﹁分かってるわよ。腹立つけど、今更ここであたしが切れたところ
で、何の解決にもなんないし﹂
﹁お前さんがやらかした元同級生とやらに報復したところで、それ
はそれでヒロが引く原因になりかねんしな﹂
そもそも知りあう以前の、それも関与しようのない環境で起こっ
てしまった事件に対して、今更愚痴愚痴言ってもどうにもならない。
それよりも、この場では春菜の恋心に関して、出来る限り建設的な
意見を出す事の方が重要である。
﹁とりあえず、話を戻そう﹂
﹁うん。それで、私はどうすればいいと思う?﹂
﹁ごめん、達也、お願い。あたしの無いに等しい恋愛経験じゃ、こ
んなややこしい問題にアドバイスできない⋮⋮﹂
﹁っつってもなあ。俺だって、頑張って色々我慢して、ヒロが恐怖
症を克服する手伝いをするのが一番だ、ぐらいしか言えねえぞ。ま
ずはそこからやらねえと、スタートラインにすら立てねえし﹂
結局はそこに戻ってくる問題である。そして、それが出来れば春
菜が二人に相談を持ちかける訳もなく⋮⋮
1550
﹁何だこの手詰まり感⋮⋮﹂
﹁普通の恋愛で有効そうな駆け引きの類は、全部逆効果なのが確定
してるものねえ⋮⋮﹂
﹁むう⋮⋮﹂
結局年長者二人と相談して分かった事は、宏が恋愛対象としてど
れほど厄介かという事と、それが分かってなお、というより分かっ
てしまったがゆえに、自身の恋心が燃え上がってしまっているとい
う事だけであった。
﹁姫様、楽しそうですな﹂
﹁ええ、とっても!﹂
声をかけてきた老臣に、輝くような笑顔で答えるエアリス。その
心からの華やかな笑顔に、思わず嬉しそうに目を細める老臣。エア
リスは日々、実に充実した時間を過ごしていた。
エアリスは少しでもいい女になるために、常日頃から自分を磨く
ことに余念がない。それは外見や知識、運動能力だけでなく、心の
持ちようや人の話を聞くときの姿勢など、いわゆる人柄や品性につ
ながる要素についても同じである。その努力が誰のために行われて
1551
いるかを知る人間は一様に勿体ないと感じているが、それがエアリ
スを高みに導く原動力になっていることも事実であるため、あえて
誰も何も言わない。それに、その相手のためにこれだけの事をする
のは勿体ないとは思いつつ、相手が抱える問題を考えれば、これだ
けの努力が必要だというのも彼らは理解している。
その結果、まだまだ幼いといってしまえるこの姫巫女は、内面に
引きずられるように見た目や仕草も洗練されていき、神殿での務め
を果たしている時は既に、万人が自然と跪いてしまうだけのオーラ
を放つようになってしまっていた。
こうなってくると不思議なもので、姫巫女に復帰してからしばら
くは散発的にあった嫌がらせの類も今ではぴたりと収まり、かつて
はたくさんいた権威や権勢にすり寄ってくるような人間も、最近は
エアリスの顔を見るだけで逃げ出すようになっている。もはや、彼
女の周りにいるのは老若男女関係なく、性根も正しく実力もある人
材ばかりだ。中には最初は利用して足を引っ張ろうと考えていた者
も少なからずいたのだが、気がつけばすっかり彼女に心酔して、国
と王家、民のためにその手腕をいかんなく発揮するようになってい
る。
当人に自覚はないが、もはやエアリスは名実ともにファーレーン
の象徴であり、アルフェミナ神殿のよりどころとなっているのであ
った。もっとも、食いしん坊で料理が好きで、食に関してはチャレ
ンジャーであるという本質は、何一つ変わるものではないのだが。
﹁今日はお休みですかな?﹂
珍しく私服姿のエアリスを見て、誰でも分かる事に対して形ばか
りの質問をする老臣。コミュニケーションというやつは、こういう
1552
ところからスタートするものだ。
﹁はい。ずっと姫巫女で居るのも、視野が狭くなってしまいます、
という建前で﹂
﹁それを言い出したのが誰だかは大体わかりますが、姫様のお年頃
ならば、そんな事は気にせずに休みは休みとしてパーっと遊べばよ
ろしい。どうせ後十年もせぬうちに、子供らしく遊ぶような事は許
されなくなるのですからな﹂
﹁分かっていますわ。ですので、子供らしく遊んでまいります﹂
にこにこと楽しそうな笑みを絶やさず、老臣の前で変装用の魔道
具を取り出して見せる。彼を含めた腹心達は、エアリスが休みのた
びに魔道具で変装し、エルと名乗ってアズマ工房の子供たちや神殿
の孤児院にいる子供たちと遊んでいる事を知っている。最初の頃は
あれこれ心配が絶えず、こっそり後をつけて様子を確認したり、ア
ズマ工房の職員達にいろいろ質問したりしていたが、エアリス本人
が賢明にも治安の悪い地域には一切近寄らず、工房の職員達も決し
てそいう言う場所には連れて行かない事を知ってからは好きにさせ
ている。
因みに、他の王族に関しては、バルドがらみの問題が片付いて以
降は、エアリスの外出はさほど心配していない。アルフェミナがこ
れでもかというぐらいえこひいきしているエアリスが、そう簡単に
何らかのトラブルに巻き込まれて、致命的な影響を受けるはずが無
いのである。
﹁それで、本日はどちらへ?﹂
1553
﹁折角ヒロシ様もハルナ様もいらっしゃるのですから、一緒に畑仕
事をしてこようかな、と思いまして﹂
﹁なるほど。それで動きやすい服なのですな﹂
﹁はい﹂
普通、ファーレーンほどの大国になると、王族だとか姫巫女だと
か言う大仰な肩書が付いている人間が畑仕事をするなど、他の王族
が許しても部下や貴族達が許さないものだ。が、この国の場合、バ
ルドの件であまりそう言う事にうるさい連中が力を失っている上、
エアリス本人が何処に出しても文句が出ないほど立派に王族っぽい
ため、神官として必要な事だといわれてしまうと反論し辛い。故に、
こういう面では王族らしくない奔放な行動を堂々と行っても、今で
は誰もとがめない。
この老臣も例に漏れず、エアリスが畑仕事をするという事につい
ては全く問題視していない。姫巫女という立場上政治的な発言力は
ないとはいえ、王族が国を支える農業に直接触れて理解すること自
体は悪い事ではないし、国直轄の実験農場となって以来、旧スラム
地区はウルスでも屈指の治安のいい地域となっている。その上で宏
達が一緒となると、正直問題になる事が何一つ思い付かないのだ。
宏とエアリスの関係が男女として進展することすら、国としては歓
迎すべき事だという認識があるのだから何を言わんやである。
﹁上手く行くといいですな﹂
恋にも自分磨きにも、というより恋のために自分磨きに一生懸命
な少女に対して、複数の意味を込めてそんな風に告げる老臣。
1554
﹁まだ子供を成せる体にすらなっていないのですから、あまり焦る
気はありませんわ。それに、今の私と上手く行ってしまうのは、そ
れはそれでいろいろと問題ですし﹂
﹁そうですか。まあ、姫様がそう思われておられるのであれば、こ
の老いぼれは何も申しますまい﹂
﹁はい﹂
老臣の言葉に頷き、一つ微笑んでから軽やかな足取りでその場を
立ち去ろうとするエアリス。これで話が終わればこのシーンは綺麗
にまとまるのだが、そうは問屋がおろさないのが業の深いところで
ある。
空気をぶち壊しにしたのは、大きめの花を生けるために廊下に飾
られた壺、そのうちちょうど入れ替えのために空になったものから
伸びてきたタコの足であった。
﹁タコつぼ∼、タコつぼ∼﹂
﹁あら?﹂
﹁エルちゃんはっけ∼ん﹂
壺の中から、能天気な声とともに這い出してきた謎生物。言うま
でも無く、オクトガルである。
﹁こんにちは、いらっしゃいませ﹂
﹁エルちゃ∼ん、エルちゃ∼ん﹂
1555
﹁はい、どうなさいました?﹂
﹁顔見に来ただけ∼﹂
突然のオクトガルの登場に驚くでもなく、平常運転で対応するエ
アリス。実のところ、ウルス城にオクトガルが来たのは、春菜の誕
生日が終わってすぐぐらいの事だったりする。言うまでも無く、宏
達もアルチェムも、オクトガルがウルスにいる事は知らない。
﹁エルちゃん、何処行くの∼?﹂
﹁ヒロシ様の居る農場の方へ参ろうかと思っています﹂
﹁宏ちゃんいる∼?﹂
﹁はい。確認を取っていますので、まず間違いないかと﹂
﹁残念∼﹂
エアリスが宏達と行動するつもりだと知って、残念そうにふよふ
よ上下運動を繰り返すオクトガル。ウケをとるためのタイミングを
はかっているとのことで、宏達にはここに来ていることは内緒にし
ているのである。因みにどうやってウルスに来たかというと、限界
までサイズを小さくしたうえで、アルチェムの荷物にこっそり紛れ
込んできたのだ。一匹来た事により他のオクトガルも自由に行き来
できるようになったため、多い時には三十匹程度が城や神殿に侵入
しては、今のような悪戯をして仕事中の皆様を驚かせている。
普通なら問答無用で成敗されてもおかしくないのだが、エアリス
1556
が彼女? 達をアランウェンの眷族だと宣言し客人扱いで接してい
るため、誰も文句を言えずに悪戯を窘める程度の事しかできないで
いる。こいつらが出没するようになってからまだ十日も経っていな
いというのに、既に壺の中にいるぐらいでは誰も驚かなくなってし
まった。
﹁申し訳ありません。ですが、夜には一緒に遊べますので﹂
﹁気にしな∼い﹂
﹁問題な∼い﹂
﹁マー君で遊んでくる∼﹂
﹁突撃∼﹂
いつの間にか増えていたもう一匹と一緒にとんでもない事を宣言
すると、その場から忽然と消えるオクトガル達。特殊転移以外では
転移不可能なウルス城の中も、連中にとっては何の障害にもならな
いらしい。
﹁マークお兄様とお付きの皆様のフォロー、お願いできますか?﹂
﹁御意﹂
余計なところで反応がいいマークは、オクトガル達にとっては格
好のおもちゃである。ついでに言えばお付きの女官の皆様もちょっ
とプライドが高い人が何人かいるため、オクトガル達が面白がって
せっせとセクハラをする。仕事を完全に止めるほど暴れはしないも
のの、マークにとってはたまったものではない。
1557
﹁それにしても、何故か姫様だけは、オクトガルのそう言ういたず
らの標的になりませんな﹂
体型的にはまだ月のものが来ていないのが不思議なぐらいには成
熟してきているエアリスだが、どういう訳かオクトガルのセクハラ
攻撃を受けない。その事に対して不思議そうにしている老臣の言葉
に、
﹁エルちゃんにいたずらするのは危険∼﹂
﹁発禁、発禁∼﹂
﹁禁止事項∼﹂
﹁だ、そうです﹂
追加で登場した当人達が答える。年齢だけで言うならばエアリス
と同じぐらいの年の子供もいるし、澪だって手を出せば危ないのだ
が、そういうものでもないらしい。エレーナや王妃たちにすら手を
出しているくせに何とも不思議な選定基準だが、おそらく年齢や体
の成熟度合いと関係なく、オクトガルですらエアリスにそう言う手
出しをするのははばかられる何かがあるのだろう。
﹁レイっちはっけ∼ん﹂
﹁突撃∼﹂
どうやら、後から来た二体は、レイオットを邪魔しに行くようだ。
もっとも、レイオットはマークと違って、仕事の手を止めずにかつ、
1558
相手を飽きさせない程度に上手くあしらう事が出来るのだが。
なんだかんだといって、すぐ遺体遺棄遺体遺棄とうるさいこの能
天気な謎生物を、すっかり受け入れているウルス城の人たちであっ
た。
﹁姉さん、ヒロシさんの事、教えて﹂
﹁親方の事、ねえ⋮⋮﹂
アルチェムの真剣な表情に、何とも言えない表情を浮かべるしか
ないテレス。いずれ聞かれるとは思っていたが、聞かれたら聞かれ
たで困るのも事実だ。
﹁本人に聞けば、ってわけにもいかないのよね?﹂
﹁流石に、ちょっと恥ずかしいよ⋮⋮﹂
﹁でしょうね⋮⋮﹂
アルチェムがまず知りたいのはずばり、自分がストライクゾーン
に入るかどうかだろう。宏の趣味やら食べ物その他の好みなどは現
状、知ったところで手出しが難しいジャンルである。特に食べ物は
自力で何とかしてしまう男の上、どちらかというと胃袋をつかまれ
1559
ているのは自分の方だからどうにもならない。
だが、それをテレスに聞かれても困るのだ。そもそも宏の場合、
女の好み以前に女性と接触できるかどうかの方からスタートになる。
辛うじて朗報と言える情報があるとすれば、とりあえずあの男の性
欲は、間違いなく女性が対象であるという事だけであろう。女性恐
怖症だからといって、即座に男色に走る訳ではないのだ。
﹁で、私もそんなに知ってる訳じゃないけど、親方の何が聞きたい
の?﹂
﹁一番知りたいのはその、あの⋮⋮﹂
胸の事、という呟きに、非常に困ってしまうテレス。当然そんな
情報を持っている訳もなく、思わず視線を宙にさまよわせてしまう
のも仕方のない事であろう。
﹁もしかして⋮⋮﹂
﹁あ、違う違う﹂
﹁じゃあ?﹂
﹁その情報を持ってる人って、タツヤさんかメリザさんか、後はエ
ル様のお兄様ぐらいじゃないかしら﹂
翻訳するなら、そう言う踏み込んだ話も多少は出来る程度に親し
い男性しか知らない、ということになる。多分ドーガはそういう話
自体をしないだろう。
1560
﹁そっか⋮⋮﹂
﹁正直、ライム以外の女の子だと、現状誰が相手でも例外無く身構
えるから、そう言う情報は皆無なのよね﹂
﹁それって﹂
﹁あ、別段そっち方向の趣味があるって感じじゃないわよ? 多分、
オクトガルとかあのあたりと同じような感覚なんじゃないかしら?
もしくは、女扱いする必要が無いぐらい子供だからか﹂
﹁あー⋮⋮﹂
なんとなく理解できる理由を聞き、とりあえず少し安心する。女
性恐怖症をこじらせた結果幼女趣味になったとか、いろんな意味で
救いが無さ過ぎる。
﹁でも、別に男の人が好きっていう訳じゃないんでしょ?﹂
﹁それは大丈夫。流石にそっちの趣味だったら誰か分かるはずだか
ら﹂
流石に、宏の男色疑惑に対しては明快に否定しておくテレス。宏
はその手の腹芸が出来ない男である以上、女性の観察力と勘の良さ
をもってすれば隠し通せる訳が無い。
﹁となると、チャンスだけはあるのかな?﹂
﹁厳しい道だけどね﹂
1561
そう。状況的に、チャンスだけは平等にある。前髪だけしかない
事で有名なチャンスの女神だが、この件についてはその前髪すら、
下手をすればそり残しレベルの長さである可能性が高いのが難点だ
が。
﹁とりあえず、情報収集が難しい親方の趣味とか置いといて、アル
チェムの強みを検証した方がいいんじゃない?﹂
﹁そうかな?﹂
﹁恋人いた事が無いから偉そうな事は言えないけど、相手の趣味に
100%合致しないと駄目だったら、世の中に恋愛結婚の夫婦は皆
無になるんじゃない?﹂
﹁そういうもの?﹂
﹁多分﹂
恋愛経験が無い割に、妙に的確な指摘をするテレス。実際、何か
の調査によると、恋人や配偶者が完全に自分の好みに一致していた
かという問いに対しては、Noという答えの方が圧倒的に多かった
りする。好みと違う部分があっても惹かれあってしまうのが、恋愛
というものの醍醐味なのだろう。
﹁そう言う訳だから、アルチェムが女性としてアピールできるとこ
ろを検証﹂
﹁お願い﹂
﹁あくまで一般的な人間の男性に対しては、って事だけど、若いエ
1562
ルフで普通に美人で胸が大きいって言うのはアピールポイントね。
後、私と違って料理できるみたいなのもいいんじゃない?﹂
﹁⋮⋮エルフであるって言う点以外は、ヒロシさんにはあんまりア
ピールにならないような気が⋮⋮﹂
﹁それを言ったら試合終了よ﹂
自分でも思っていた事をズバリと指摘され、勢いで誤魔化すテレ
ス。もっと言うなら、エルフであるというポイントも最終的にプラ
スかどうかは微妙である。何しろ、寿命が十倍ぐらい離れているの
だ。性的な要素だけで言うのであれば、今のアルチェムとそう言う
関係になれれば、自分が死ぬまでずっと若いままの女体をむさぼれ
るというのは十分な利点であろう。しかも、アルチェムはエルフと
は思えないほど肉感的な、いわゆる男好きのする身体をしている。
だが、これが心を通い合わせた夫婦となると、これほどの寿命の
差は互いにとって無視できないマイナスとなる。男の側はいつまで
も若い妻を置いて自分はどんどん衰えていくことになり、妻の側は
愛した男がどんどん老いさらばえ衰えて行くのを見守ることになる。
物語でのヒューマン種とエルフの恋愛が悲恋になりがちなのも、こ
の要素が小さくない。
﹁後、エルフ以外のポイントだと、胸以外はハルナさんに惨敗して
るし⋮⋮﹂
﹁でも、料理の腕以外は絶対的な差にはなってないと思うけど?﹂
どうにもネガティブな要素ばかりをあげつらうアルチェムに、ど
ういうコメントで気持ちを盛り上げてやればいいか判断できずに、
1563
割と勢いに任せて無理やり前向きにさせようとするテレス。彼氏い
ない歴が年齢の二人のエルフは、そんな感じにグダグダのまま女性
恐怖症の男の落とし方について話し合うのであった。
﹁そう言えば、ミオさんは誰かに恋愛相談とかしないのですか?﹂
春菜とアルチェムがそれぞれ身近な人に恋愛相談をしている事を
知っているノーラが、風呂上りでなんとなく一緒になった澪に質問
する。
﹁誰に? 何を? どういう風に?﹂
﹁それを言われても困るのですが、ミオさんだけ特に動きを見せな
いのが不思議なのです﹂
﹁今はいろんな意味でそれ以前の問題﹂
﹁そうなのですか?﹂
﹁いろんな意味で問題外のボクが、いろんな意味で恋愛不能な師匠
相手にどうしろと?﹂
恋する乙女とは思えないほど冷静な澪の言葉に、なんとなくタレ
耳のウサギになってしまうノーラ。澪の言葉は、彼女の状況を的確
1564
に表している。
﹁春姉ぐらいいい女だったら色々やるべきかもだけど、ボクじゃあ
ねえ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ノーコメントは痛い⋮⋮﹂
﹁自分で言っておいて、それは無いのです﹂
どうやらフォローの言葉を期待していた澪に、思わずジト目で突
っ込むノーラ。結果として、この件では自分がどう思われているの
かをはっきり認識することになる澪。
﹁とりあえず、ミオさんは親方にきつすぎるのです﹂
﹁自分でも分かってる﹂
﹁焦りすぎなのです﹂
﹁分かってる﹂
あまり動かない澪の表情だが、それでもその言葉に嘘が無い事ぐ
らいはノーラでも分かる。
﹁師匠が好きだから、しょうがないと思ってても我慢できない﹂
﹁そんなツンデレはいらないのです﹂
1565
澪に製薬知識と一緒に詰め込まれた余計な単語を使って、バッサ
リ冷たく切り捨てるノーラ。大方の問題は宏の症状改善を待つまで
動きようが無いとはいえ、澪に関しては現時点でもいろいろとやる
べき事がいくらでもある。
﹁親方相手にツンデレなんてやったら、症状を悪化させるだけなの
です﹂
﹁おっしゃる通りで﹂
言われるまでも無く、澪にも分かっているのだ。そもそも、宏が
女性恐怖症でなくても、まっとうな神経を持っている相手に現実で
ツンデレなんてやった日には、普通はうざい女だと思われてそこで
終わりである。ツンデレが一般的な感性を持った相手とカップルに
なれるのは、物語の中だけの特異現象に過ぎない。
﹁だから、今のボクを好きになるなんて、ただのロリコンの変態ド
Mだけだし、そんな性癖の人はこっちがお断り﹂
﹁言ってて痛くないのですか?﹂
﹁かなり﹂
事実だとはいえ、自分で言っていて物凄くへこむ澪。どれだけ自
分がまともな恋愛対象からほど遠いか、はっきり思い知る羽目にな
ったのはものすごく痛い。料理が出来る以外の目を覆わんばかりの
女子力の低さは、今更ながらに危機感を覚えるレベルである。
﹁まあ、そう言う訳だから、現状もう少しましな性格になるように
努力はする﹂
1566
﹁でも、親方にアピールするつもりはないのですか﹂
﹁うん。せめて、もうちょっといろんな所が育ってから﹂
そういって、そろそろBカップには届きそうな胸に軽く触れる。
オクトガルにさんざんいたずらされたからか、最近ちょっと成長速
度が上がった感じがするのだ。
﹁まあ、ノーラもそれが一番だと思うのです﹂
﹁それまでに決着がつくなら、それはそれでしょうがない﹂
自分で自分の欠点を分かっていて、出来るだけ改善するよう努力
しようとはしている澪。そんな彼女の事を、恋愛に関してはともか
くそれ以外の面ではいろいろ応援しよう、などと思うノーラであっ
た。
なお、この件で一番の鍵となる男は⋮⋮
﹁なあ、ヒロ﹂
﹁何や、兄貴?﹂
1567
﹁お前、分かっててスルーしてるだろう﹂
﹁⋮⋮何のことやら﹂
達也から、こんな疑惑をぶつけられていた。なお、現在はポーシ
ョン瓶作成中である。イビルエントの件で思うところが出来たため、
ダンジョンで材料も丁度いい具合に揃った事もあり、三級のポーシ
ョン各種を作ることにしたのである。
﹁お前があいつらの気持ちに気がついてねえのは、かなり不自然な
んだよな﹂
﹁僕がそれを信用できると思うか?﹂
﹁やっぱ、そう来るよなあ⋮⋮﹂
中高生ぐらいの頃の罰ゲームの定番の一つ、嫌いな相手への告白。
そのターゲットにされた回数が片手の指では足りない宏が、女が自
分に惚れているなどという事を信じる訳が無いのである。普通の女
であっても絶対信じないのに、春菜達のようないい女に分類される
人物が自分に懸想しているなど、何かの間違いか単なる思い込み以
外あり得ないと判断するのは当然であろう。
なお、罰ゲームだと分かってるんだったら無視すればいいじゃん、
という突っ込みに対しては、それをすると余計に立場が悪くなると
いう回答が返ってくる。同じ理由で、宏には断る、という選択肢は
与えられていなかった。結局、呼び出されてYESと応えて告白し
た女子と強要した女子からの罵詈雑言に耐え、女なら誰でもいい必
死なキモ豚呼ばわりを受け入れるしかなかったのである。
1568
普通なら不登校になってしかるべきだが、残念ながら彼の出身中
学は色々ゆがんだところがあったため、病気でもない限り不登校に
なったらどんなレベルの低い高校でも進学できるか怪しかったとい
う事情もあり、おもちゃにされ続けるしかなかったのだ。
﹁でも、春菜とかがそんな簡単に惚れたはれたを言い出すと思うか
?﹂
﹁恋愛っちゅうんは、大いなる勘違いやそうやで﹂
﹁勘違いから始まって、相互理解が進んでも冷めない恋ってのもあ
るが?﹂
﹁僕に対してだけは、あり得へんやろう﹂
少なくとも春菜がそう言う罰ゲーム的な形で自分に言い寄る事は
ないとは確信していても、それが続くとは全く思っていない宏。春
菜の性格を考えると、一度恋をしたらそれなりに大人の対応をしな
がらも、余程の事が無い限りは一途に恋心を持続させそうな気はす
るのだが、宏にそれを信じろというのも酷な話だろう。むしろ、告
白というものにいい記憶がないのだから、まだ女性恐怖症を克服し
切れていない現時点において、信用できるほうがおかしい。
﹁罰ゲームで嫌いな相手に告白させるのって、どっちに対してもい
じめ以外の何物でもないんだから、校則とかで禁止にすりゃあいい
のになあ﹂
﹁禁止したところで、やる奴はやるで。ガキやねんから﹂
むしろ、禁止されたからこそやりたがるのが第二次性徴期で反抗
1569
期まっ盛りの子供というやつである。
︵こりゃ、先は長そうだな⋮⋮︶
春菜やエアリスのおかげで大分不信感が和らいでいてすらこれだ
という事実に、恋する乙女たちの前途の多難さを悟って内心でため
息をつく達也であった。
1570
こぼれ話 その2
1.ある日のライム
﹁ライム! 材料採りに行くよー!﹂
﹁はーい!﹂
ある日の早朝。早春の遅めの日の出をようやく拝んだぐらいの時
間帯。ファムは支度を終えたばかりの妹に声をかけていた。
工房で保護されたぐらいに五歳になったライムだが、子供だから
と言って遊んでばかりと言う訳ではない。難しい調合や製作関係は
流石に体力的にも身体の成熟度的にも触らせてもらえないが、その
分、計量や採取などの比較的単純な作業はたくさんこなしている。
言うまでもない事だが、ファムやライムのように年齢一桁の子供
が仕事をしている事は、この世界では珍しくない。子供が遊んでい
られるのは豪商か貴族の家ぐらいなもので、オルテム村のエルフで
すら、五歳にもなれば子守や遊びも兼ねて、農作業の手伝いをさせ
るのは当たり前だったりする。現代日本人の感覚ではひどい話に聞
こえそうだが、そもそもその日本でも、一般的な年齢一桁の子供が
まったく仕事をせずに生活出来ていた時代など、実際にはまだそれ
ほど長くはない。
﹁ファム、ライム。ついでに市場でスパイスを買ってくるのです﹂
﹁うん!﹂
1571
﹁分かってるって﹂
﹁大丈夫だとは思うけど、気をつけてね﹂
出発前にいつものやり取りを済ませ、元気よく東門に歩いていく
二人。
﹁ファムちゃん、ライムちゃん、おはよう!﹂
﹁おはよう、ルミナ﹂
﹁おはよー!﹂
いつものように採取組にいるメリザの娘・ルミナに朝の挨拶を返
し、冒険者たちに混ざって子供の足で歩いて一時間ぐらいの採取ポ
イントへ移動する。
﹁おねーちゃん、ルミナちゃん、こっち!﹂
﹁あ、ちょっと、ライム!﹂
﹁一人で先に行っちゃ駄目だよ!﹂
年上二人にたしなめられるも全く聞かず、一番よさげなポイント
をさっさと陣取るライム。その様子を見て、外れを引いたらしいと
肩を落とす他の採取組。暗黙の了解で、一ヶ所で採取するのは一つ
のグループとその護衛だと決まっている。別段破ったところで罰則
はないのだが、初めての人間が知らずに破ったならともかく、意図
的に無視するような連中は関係者から社会的な制裁を受ける。それ
1572
ゆえ、よほどの愚か者でもなければ、こういう暗黙のルールを破る
ような真似はしない。
﹁うわ、早生りのティムベリーがこんなに⋮⋮﹂
﹁我が妹ながら、毎度こういうのをよく見つけるよね⋮⋮﹂
呆れと感心の入り混じった姉二人のコメントに、ドヤ顔でえっへ
んと言う感じで胸を張るライム。彼女はこういった近場で採れるレ
ア素材の類をよく見つけるのだ。
因みに、ティムベリーは基本的に初夏から夏にかけて熟する多年
草の果物で、ベリーの名前の通りイチゴと同系統の果実である。普
通なら三月半ばと言うこの時期に実をつける事はないのだが、どう
いう訳かごくまれに春まだ浅い時期に実をつける事がある。こうい
った季節外れのティムベリーは強い魔力を持ち、薬の材料として珍
重されるほか、エンチャントの触媒や錬金術系の少々レベルの高い
アイテムの素材としても使える。
﹁まあ、せっかく見つけたんだし、採れるだけとっちゃおう﹂
引くほど大量に生っているティムベリーをせっせと摘み取り、籠
を満載にしては鞄に移して工房に送る。ファムとルミナが頑張って
ティムベリーを集めている間、今度はいつの間にか木の上に登り、
質のいいドルクの葉をこれでもかと言うほど回収する。ドルクの葉
は枝から落ちる寸前のものが一番品質がよく、必然的に一度の採取
ではそれほどの量は取れない。そんな一番いいところを、枝から枝
へ飛び移りながらどんどんと集めて行くライム。工房での食事が効
いてか、五歳児とは思えない身体能力である。
1573
﹁ライム! 危ないからそう言う真似するな!﹂
﹁はーい!﹂
ファムに叱られて、素直に木の上から下りてくるライム。年相応
にやんちゃだが、聞き分け自体はものすごく良かったりする。
﹁おねーちゃん、ここ!﹂
﹁こりゃまた立派なアスリンが⋮⋮﹂
﹁根っこ掘り出すの、大仕事だよね∼﹂
ライムが指さした先には、普通のものより倍近い大きさの株のア
スリンが、可憐な白い花をつけていた。これまた言うまでも無く、
株が大きいほど根っこも太くて素材としての品質も良くなる。ファ
ム達の力量なら、運を味方につければワンランク上の薬を作れるレ
ベルの材料だ。
その他にも七級と八級、どちらのポーションにも使えるちょっと
レアな素材をあれこれ回収し、この日の素材調達を終える。採取能
力全体で言えばテレスが断トツだが、レアものの発見率は僅差でラ
イムが上回る。この日もそんなライムの特技が炸裂し、予定よりも
いい材料がたくさん手に入ったアズマ工房であった。
1574
﹁ファムちゃーん、ライムちゃーん、遊ぼー!﹂
昼食も終わってややアンニュイな時間帯。丁度昼寝から目を覚ま
したライムを、誰かがそんな風に呼んでいた。
﹁ファム、ライム、行ってくるのです﹂
﹁いい?﹂
﹁今日のノルマは終わってるんだし、友達と遊ぶのも大事よ?﹂
﹁了解。ライム、行こ﹂
﹁うん!﹂
姉達の許可をもらい、誘ってくれた友達のところに軽やかな足取
りで下りて行くファムとライム。そんな子供達を和んだ感じの視線
で見守る年長者達。片親でスラム出身という悪条件の割に、二人と
も今現在は実に健やかに育っている。二人とも勉強も仕事も一生懸
命頑張っているため、ややもすると勉強嫌いの貴族の三男坊あたり
よりも学識豊かな可能性すらある。
﹁ごめん、待った?﹂
﹁大丈夫﹂
ルミナをはじめとした幾人かの子供達に頭を下げると、全く気に
していない様子でにこにこと上機嫌に答えを返してくれる。全員こ
の一帯の子供達で、男女比はやや女子の方が優勢と言ったところか。
1575
彼女達も、現在工房の主戦力であるファムが必ずしも手が空いてい
ない事を理解しているので、断られたところで気を悪くする事はな
い。そもそもみんな家の手伝いがあるため、このグループ全員が揃
うこと自体が結構まれだったりする。
﹁で、何して遊ぶ? 鬼ごっこ? かくれんぼ?﹂
﹁ポメ栽培もできるよ∼﹂
笑顔で漢字交じりの物騒な遊びを提示するライムをスルーして、
とりあえず工房主直伝のだるまさんが転んだで意見が一致する一同。
因みにポメ栽培とは、温泉水を利用してヘタと胴体からポメを倍々
ゲームで増やすというスリリングな遊びである。言うなれば、爆竹
遊びと大差ない。もちろん、増やしたポメは後でスタッフが美味し
くいただく事になる。
﹁じゃあ、最初はファムちゃんが鬼で﹂
﹁りょーかい﹂
ざっと最初の取り決めをしてゲームを始める。当然と言えば当然
だが、実のところだるまと言うのが何か、この場にいる子供達は誰
一人知らない。そんなゲームであるから、彼の工房主は関西人らし
く、最初はこのゲームを﹁坊さんが屁をこいた﹂で教えようとして
いたが、真琴と達也の突っ込みにより未然に防がれるというどうで
もいい余談があったりする。
﹁だるまさんが転んだ!﹂
﹁っ!﹂
1576
﹁ケイン、アウト!﹂
﹁ちぇっ﹂
ファムのフェイントに引っかかった男の子が、悔しそうにアウト
コーナーに移動する。
﹁おねーちゃん、タッチ!﹂
﹁うへえ。またライムにやられた﹂
﹁えっへん﹂
地味に知恵が回るライムにタッチされ、全滅させられずに終わる
ファム。姉妹対決の勝率は五分と五分。もっとも
﹁ライムちゃん、タッチ﹂
﹁やられちゃったー﹂
所詮は子供の浅知恵なので、他の子供達相手でもそこまで優位と
言える勝率でもないライムであった。
1577
﹁えっと、だれもいないかな?﹂
もうそろそろ夜中という時間帯。きょときょとと誰も見ていない
事を確認したライムは、こそこそと中庭へ出て行く。
﹁こんばんはー﹂
まるで寝起きドッキリのように小声で何かに声をかけると、その
近辺が至近距離で無いと分からない程度にぼんやり光る。よく見る
と、光の中央に小さな双葉が出ている。
﹁肥料、もってきたよ∼﹂
ライムの言葉に反応して、再び光る地面。その地面の言葉を解読
し、指定通りに肥料をまいていくライム。宏謹製・生命の海︵巨大
芋虫のさなぎからとれた体液︶を使った究極の肥料が、惜しげもな
く地面に振舞われる。使う当てのない残り物とはいえ、なかなかに
大胆な行動だ。
ライムが何をしているのか。それ自体は、大した話ではない。か
つていたずらして腐らせたソルマイセンをこっそりここに埋めたと
ころ、見事に発芽してしまったために内緒で世話をしているのだ。
普段はそう言う種類の悪戯は絶対しないライムだが、どういう訳
かその日は皿に盛られたソルマイセンにものすごく好奇心がそそら
れ、いけないと分かっていながらつい指先でつついてしまったので
ある。その結果、見事に腐り始めたソルマイセンに大慌てし、パニ
ックを起こしたままごく自然に中庭の割と日あたりのいい一角に埋
めてしまったのだ。
1578
やってしまってから自分がやらかした事に気が付き後悔し、懺悔
しようとしたもののきっかけをつかめず、そのままずるずると後ろ
に伸ばしているうちに宏達が旅に出てしまい、結局証拠を隠滅して
しまった形になったのである。
もっとも実のところ、ソルマイセンを置き去りにしていた宏はラ
イムがやらかした事を知っていたが、本人が反省し後悔しているこ
とも知っているため、あえて突っ込みを入れない事にしたのだ。半
分は彼自身の管理の不備の問題だと言う自覚があるのも、ライムに
甘い理由である。
﹁お水、こんなかんじ?﹂
ゾウさんのじょうろ︵宏作︶でちょろちょろと水をやると、嬉し
そうに地面が光る。五分ほどでもういいよという感じに地面が光り、
水やりも終わる。
﹁じゃあ、また明日もお水もってくるからね﹂
ライムの言葉に再び嬉しそうに地面を光らせると、後はそのまま
沈黙を保つソルマイセン。実のところ、誰も手を出していないだけ
で、ライムが中庭でこっそり何かを育てている事はみんな知ってい
る。別に悪い事をしている訳でもないので、内緒で育てたいのであ
れば内緒で育てさせようという事で意見が一致し、大人達みんなで
こっそり見守っているのである。
﹁うにゅう、眠い⋮⋮﹂
深夜というほど遅くはないものの、五歳児としてはかなり夜更か
しに入る時間。流石に眠気に勝てなくなり、出来るだけ足音を経て
1579
ずに戻った自室ですぐにぐっすり寝入る。
それが、ライムの普段と大体変わらないある一日であった。
2.霊糸にまつわるエトセトラ
ファーレーン三大公爵家の一つ、ランバルス家。その現当主であ
るオルトは、現在大層不機嫌であった。
不機嫌だとは言っても、別段現王室に対して不満がある訳でも、
国内で自分の扱いが悪い訳でもない。領地の運営も上々で、最近任
された粛清貴族の所領の管理も上手く行っており、税率は国が定め
る物の半分程度だというのに税収自体は右肩上がり。はっきり言っ
て、彼を取り巻く環境は順風満帆そのものである。
なのになぜ不機嫌か。それは一つだけ、どうしてもうまくいかな
い事があるからである。
﹁⋮⋮また失敗したのか?﹂
﹁はい。申し訳ありません⋮⋮﹂
﹁まったく⋮⋮。一体どうなっておるのだ⋮⋮﹂
1580
現在彼の機嫌を損ねているのは何か。それは、カタリナの乱の事
後処理で王室がかなりの量を確保した、霊糸という伝説の素材が原
因である。
といっても、別段霊糸を使って何か大それたことを考えている、
という訳ではない。単純に、この手の品物を全てアズマ工房に依存
することに危機感を覚え、自分達で加工できるようになった方がい
いと一反ぐらい織れる量の糸を王室から譲り受けただけの話である。
無論、アズマ工房に対する危機感だけでなく、やたらと王室と親
しくなった宏達が気に食わないというのもある。折角の伝説の素材
をいつまでたっても加工する様子を見せない宏に不信感を抱いた、
というのもある。だが、最大の理由はやはり、アズマ工房への依存
度がこれ以上高くならないよう、自分達の加工技術を高めておきた
いと言う一点に尽きる。
なので、あれこれ色々とやっているのだが⋮⋮。
﹁ハンターツリー製の織機でも駄目だとはな⋮⋮﹂
﹁これ以上となると、現状素材そのものの加工がほとんどできませ
ん﹂
﹁まったく、流石は伝説の素材と言うべきか⋮⋮﹂
布にするための織機、その製作段階で派手に躓いていた。何しろ、
普通の織機に何の工夫も無く糸を通すと、通した瞬間にあちらこち
らがスパスパ切れ、あっという間にばらばらになってしまうのだ。
手触りが滑らかで、それ単体だと指を切ったりとかいった事は一切
起こらないというのに、機材に通した途端にである。気難しいにも
1581
ほどがある。
﹁糸の切断も、難航しております﹂
﹁魔鉄製のハサミでは、無理だったか?﹂
﹁厳しいとしか言えません﹂
また、問題となっているのは機織りだけではない。それだけの強
度を誇るが故に、ただ切断するだけでも、現状まともな方法では不
可能なのだ。
﹁一度切るたびに、ハサミの刃が一枚やられます。このままでは、
何本あっても足りません﹂
﹁そうか。何か手は?﹂
﹁正攻法で行くのであれば、もう一段強度の高い素材を使う事にな
るでしょう﹂
﹁正攻法で無い場合は?﹂
﹁殿下の持つ魔鉄製の剣を使って、フェルノーク卿かドーガ卿の技
を持って切断する方法があります﹂
恐ろしく洒落にならない事を言ってのける技術担当に、眉間のし
わが深くなるランバルス公。後に宏が霊布を織った際、今の提案よ
りはかなり穏便にとはいえ似たようなやり方で切断しているのだが、
さすがにそんなことまでは彼らは知る由もない。故に、深刻な顔を
するしかないのだ。
1582
﹁それに、仮に布を完成させたとしても、他にも問題がございます﹂
﹁どうやって縫うのか、だな?﹂
﹁はい。布だけあっても、それを縫って何らかの製品に仕立てなけ
れば、現状と何ら変わりません﹂
﹁ハサミで切れぬとなると、魔鉄で縫い針を作ったところで布を突
きぬけることは難しかろうな﹂
﹁現実には、ほぼ不可能であると予想されます﹂
きつい予測を断言してのける技官に、ますます眉間のしわが深く
なるランバルス公。大見得切って素材をもらいうけた以上、できま
せんでは済まされない。済まされないのだが⋮⋮。
﹁⋮⋮直接一足飛びに加工するのは難しいか﹂
﹁申し訳ございません﹂
﹁いや、お主を責めても始まらん。正直、我ら全員、伝説の素材と
いうものを甘く見すぎた。この程度の障害は、本来予測してしかる
べきだったな﹂
﹁ですが、不可能だった、では済まされません﹂
﹁無論だ。だから、まずは霊糸に近い特性を持つ糸を作り、それを
布にするところからスタートしよう﹂
1583
今のままでは、何をどうしたところで歯が立たない。ならば、ま
ずはそこに至る道筋を作るところから考えるべきだろう。
﹁特性が近いと言うと、何がある?﹂
﹁手触りという点ではスパイダーシルクが、強度という点では金属
を糸にしたものが近いでしょう﹂
﹁金属、か。現在、どれぐらいの細さまで行ける?﹂
﹁木の葉の茎ほどが限界です﹂
﹁では、その糸を布として織る事が出来るところまで細くするとこ
ろからスタートだな。それはそれで役に立つ技術だから、費用は惜
しまん。存分に励め﹂
﹁かしこまりました﹂
ランバルス公の命を受け、工法開発に乗り出す技官。結局彼らの
代で霊糸の加工に成功する事はないのだが、この時の技術開発によ
り高張力ワイヤーを開発。金属から一般的な素材までありとあらゆ
る繊維の加工技術を世界一のレベルまで高めることに成功し、彼ら
は後の世に近代繊維開発の祖として称えられる事になる。
だが、それほど国に尽くし、レイオットの子供の代にまで頼られ
る事になるランバルス公だが、結局霊糸の加工が出来なかったこと
を恥と考え、最後まで功を誇ることなくその生涯を閉じるのは、こ
こだけの話である。
1584
﹁やはり、無理か?﹂
﹁現状用意できる機材では、不可能と申し上げるしかありません﹂
所変わってウルス城。他国から招聘した世界一と言われる機織り
の名人の言葉に、特に落胆した様子も無く頷いて見せるレイオット。
﹁参考までに聞くが、お前はこの糸を紡ぐ事は出来るか?﹂
﹁⋮⋮特化した機材があれば、どうにか可能だと申し上げるのが精
一杯です﹂
﹁なるほど。伝説の素材だけに予想はしていたが、どうやらこいつ
は相当難儀な代物らしいな﹂
﹁申し訳ありません⋮⋮﹂
﹁いや、単に確認したかっただけだ。別に結果がどうであれ、誰か
を責めるつもりなど毛頭ない﹂
恐縮しっぱなしの名人に、苦笑を浮かべながら寛容な言葉をかけ
るしかできないレイオット。そもそも、この糸を作る事が出来ない
連中に加工できるのであれば、宏がとうの昔に服か何かを作り上げ
ているはずである。その宏が加工出来ないと言っている以上、普通
の連中に加工できる訳が無い。
1585
ついでにこの名人の名誉のために言っておくならば、彼は宏達を
除けば普通に世界一の腕を持っている。ただ、持っている魔力が少
なく、エンチャントの技量も無いために、霊糸をはじめとした特殊
素材を扱う能力を持っていないだけである。普通のスパイダーシル
クを作らせたなら、澪がエンチャントを使わずに作ったものとは互
角程度の品物を作るだけの技量はある。
そもそも、加工できる人間が普通に存在しているなら、伝説の素
材などとは呼ばれないのだ。
﹁とはいえ、せっかく来てもらって、ただ不可能だと言う結論を聞
くだけというのはあまりに勿体ない。折角だから、この城にいる職
人たちに、少しばかり指導してやってくれんか?﹂
﹁それは問題ありませんが、この糸を作った人物に頼んだ方がよろ
しいのでは?﹂
﹁奴はいま、ウルスには居なくてな。それに、それなりの年を重ね
ているお前と違って、奴はどうやってそれだけの技を身につけたの
かが分からんほど若い。どうにもこの城の連中に教えるには、その
若さが邪魔をするのだ﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
﹁しかも、奴はレベルが隔絶しすぎている。職人ではなくて宮廷魔
導師に言え、というような要求を平気でする上にどの程度出来るか
を図るのが苦手らしくてな。素人を最初から教えるならともかく、
ある程度熟練の域に達した者を指導するのは、少々不向きなのだ﹂
1586
聞けば聞くほど不可解な人物像。レイオットから説明される宏の
人物像に、本当にそいつは実在の人物なのかと疑わざるを得ない名
人。実のところ、その説明は厳格に言えば間違っている。宏が一定
以上の熟練者を指導するのに向いていないのは、レベルが隔絶しす
ぎているのも原因の一つではあるが、彼から見ればこの世界の熟練
者は全体的に出来ることとできないことの振り分けがいびつすぎる
上、そのやり方に慣れきってしまっているためにどう矯正していい
か分からないのが一番の原因なのだ。
﹁まあ、とにかく、だ﹂
﹁はい﹂
﹁案内をつけるから、一度機織り場の方へ行ってくれ﹂
﹁かしこまりました﹂
文官に案内されていった機織り場で、その機材と職人たちの技量
の高さに舌を巻く名人。王家の正装や神官たちの衣装を作っている
のだから技量が高いのも当然だが、霊糸がらみの話を聞いていて、
大したことはないのではないかという先入観があったのである。
﹁見事な腕です﹂
﹁いや、やはりあなたには負けるようですよ﹂
互いに一枚ずつ布を織り、その出来を互いに確認しあう。作られ
た布はどちらも、現在この世界では最高級といえる品質の生地だっ
た。特に名人のものは手触りも丈夫さも色合いも麻で織った布だと
は思えない出来である。
1587
﹁これだけの腕を持っていても、霊糸は織れませんか⋮⋮﹂
﹁残念ながら、機材が持ちません﹂
﹁その糸を作った奴も、それを言っていました﹂
﹁やはり、そこがネックですか﹂
名人と布職人のトップとの会話を聞いていた女官が、ふと思いつ
いたことを質問する。
﹁その糸が絹に近いものでしたら、生地を織るのではなく、レース
を編めばどうでしょうか?﹂
その女官の質問に、少しばかり考え込む技師達。糸を作るときは、
糸巻きの芯を強化するだけでどうにかなったという。ならば、強靭
な編み針を作ってレース編みの達人に依頼すれば、あるいは⋮⋮。
﹁⋮⋮問題は、そのレースを何に使うか、だな﹂
﹁服飾のことは専門とは言えませんが、よほどいいものにつけない
と、レースに対して服のほうが格で大きく負けてしまうような気が
します﹂
﹁難しいところですな﹂
﹁やはり、難しいですか⋮⋮﹂
あまりに難儀な素材に、ため息が漏れる一同。いっそ、その恐ろ
1588
しい強度を利用して、レースを防具の裏地にするとかもありだろう。
﹁⋮⋮なんにせよ、いろいろと研鑽が必要だということですな﹂
﹁ですね。お互いがんばりましょう﹂
互いに激励しあい、また再び互いの最高傑作を披露しあうことを
約束してこの日の交流を終える。その後一ヶ月もしないうちに実際
に霊布の加工風景を見てしまい、霊糸を初めて手に取った時と同じ
ように再び自信を木っ端微塵に砕かれそうになるとは、この時布職
人達は想像すらしていなかったのであった。
なお、宏がなぜレースを作らなかったかというと⋮⋮。
﹁レース編みだと、ダメなの?﹂
﹁機材的にはそっちやったらいけるんやけど、使い道がなあ⋮⋮﹂
﹁確かに、ぱっと思いつくといったらハンカチと下着ぐらいだよね﹂
﹁下着とか、お互いに勘弁願いたい話やろ? そもそも、男もんで
総レースとか、想像するだけでサブいぼが出てきおるし﹂
という、いろんな意味で切実な理由があったのはここだけの話で
1589
ある。
3.昭和の味
﹁わ、大きなイチゴ!﹂
﹁いい出来だべ﹂
オルテム村では、最初のイチゴが収穫時期を迎えていた。
﹁今年は特に出来がいいだよ﹂
﹁でも、イチゴってこの時期だっけ?﹂
﹁この品種は、三月に採れるだ﹂
一緒に収穫していたエルフの言葉に納得し、せっせとイチゴを摘
み取って行く春菜。摘み取りながらも、見事な赤の大振りなイチゴ
を見ると、どうしても味が気になってしょうがない。
﹁食ってみるだか?﹂
﹁いいの?﹂
1590
﹁摘み取ってすぐ食うのが、一番うめえべ﹂
というエルフの勧めに従い、よく土を落としてかぶりつく。日本
で出回っている品種に比べると随分味全体が控えめだが、それでも
みずみずしい甘さと程よい酸味がバランスよく口の中に広がって行
く。言うなれば、近年のかなり徹底的に品種改良されたものではな
く、昭和の頃のこれから急激に発展していく頃のイチゴ、というと
ころだろうか。
﹁美味しい!﹂
﹁そいつは良かっただ﹂
更に二つ三つ食べて味を確認すると、摘み取り作業に戻りながら
そのまま食べる以外の使い道を頭の中で模索する。聞いた感じ、村
人全員どころか近隣の三種族にも行きわたらせてお釣りがくるぐら
いの量を収穫できるようだが、それをただ何の工夫も無く食べるだ
け、というのもなんとなく勿体ない気がする。
とりあえずは練乳をかけるのが基本だろう。凍らせて食べるのも
いい。ケーキなどに飾ると見た目が華やぐ。小豆があればイチゴ大
福を作れるのだが、白餡との相性はどうだろうか。
色々な食べ方が頭をよぎる。日本のものと違って甘さが控えめな
ので、色々と味付けに工夫をしなければならないだろうが、それは
それで腕の見せ所だ。そんな事を考えながら、手際よくイチゴを収
穫して行き、半日後。
﹁色々と助かっただよ﹂
1591
春菜一人分の人手により、予定より早く収穫作業が終わる。
﹁邪魔になってないなら、よかったよ﹂
﹁これ、持って行くだ﹂
そう言って、イチゴを山盛りに持った笊を二つ、春菜に押し付け
るエルフ。
﹁えっ? こんなに?﹂
﹁んだ。今年は特に豊作だでな。他の種族に配ってもかなり余るだ
よ﹂
﹁でも⋮⋮﹂
﹁何なら、こいつのうめえ食いかたさ教えてけれ﹂
交換条件に出された言葉で、それならいいかと受け入れる春菜。
調理方法の伝授による食生活の向上は、春菜的にも大歓迎である。
﹁じゃあ、ちょっといろいろ試してみるよ﹂
﹁足りねえなら言ってけれ。まだまだいくらでもあるだでな﹂
﹁はーい﹂
エルフ達の期待のまなざしを受け、寝泊まりしている家へ戻る。
時間的に、まだ宏はマンイーター対策の開発に熱中している頃合い
だろう。ならば、彼が一度手を止める夕飯時までに、何か一品それ
1592
っぽいものをでっち上げる、が目標だ。
﹁さて、何から行こうかな?﹂
なんだかんだで料理が好きな春菜。新鮮なイチゴを手に、ウキウ
キしながら思い付くレシピをあれこれ脳内検索するのであった。
﹁ん∼⋮⋮﹂
どうにもしっくりこない。そんな表情で簡単にできるイチゴのお
菓子に視線を落とす。と言っても、作ったのはイチゴの練乳がけに
シャーベット、カップケーキにクレープぐらいで、どれも試食用の
ショートポーションである。
﹁こう、何かありきたりというか、面白みが無いと言うか⋮⋮﹂
どれもまずい訳ではない。恐らくシンプルイズベストなエルフの
村では、今まで作られた事のないタイプのお菓子ばかりだろう。だ
が、それだけだ。何というか、春菜の中ではこれじゃない感がぬぐ
えない。
他に何かないか、必死になって頭をひねりながら、とりあえずジ
ャムを煮込む準備をする。作業をしているうちに、ふと思考の片隅
に浮かび上がったのがジャムパン。正確に言うと、その中に入って
1593
いるジャム。もっと細かく指定するなら、非常に安いジャムパンの
チープな、ゼラチンで固めてあるようなジャムである。
﹁昔どこかで、ゼラチンが入った安いジャムを使ったお菓子の話を
聞いたような⋮⋮﹂
そこまでキーワードが揃えば、かなり高速でかつすさまじい精度
で記憶がよみがえってくるのが藤堂春菜だ。今回も速やかに思い出
したい事を思い出す。
﹁そうだ! お爺ちゃんの子供の頃の話だ!﹂
そこからするすると思い出した、父方の祖父から聞いた昭和の頃
によく見かけたおやつの話。イチゴの味自体がどちらかと言うと昔
の品種に近いのであれば、それを再現すればしっくりくるのではな
いか?
﹁よし、試してみよう!﹂
そうと決まれば早速実験。まず必要になるのは、ゼラチンの入っ
たチープなイチゴジャムとバタークリーム。カップケーキを作った
時のタネを使って、ついでに薄く平べったい長方形のカステラも焼
いておく。
﹁ジャムはこんなもんかな?﹂
いい感じにチープで、そのくせ妙に癖になるジャムを作り上げ、
冷やしてややかために仕上げる。ジャムの完成と同時に焼き上がっ
たカステラをオーブンから取り出して冷まし、その間にバタークリ
ームを仕上げる。仕上がったバタークリームをいい具合に冷めたカ
1594
ステラの表面に薄く塗って伸ばし、更にその上にジャムを重ねてこ
れまた薄く延ばす。
﹁これを巻けば完成かな?﹂
そうやって作り上げたのは、スーパーなどではいつの間にやら生
クリームがたっぷりのロールケーキに駆逐され、見かける機会が激
減した昔懐かしのジャムロールであった。
﹁さて、どんな感じかな?﹂
昔は一切れを個包装で売っている事が多かったそれを、やや薄め
に切ってかじってみる。生クリームたっぷりのちょっと高級な味わ
いに慣れた舌にはチープに感じるものの、これまた妙に癖になる味
わいである。
﹁お爺ちゃんが子供のころに食べてたのって、こんな味だったのか
な?﹂
食べた事が無いものなので、判断に困る春菜。多分、彼女の祖父
ももはや味がぼやけていて、これを食べさせたところで正しい味か
どうか判断するのは難しいだろう。何にしても、食べた事などない
と断言できる割に妙に懐かしい味わいになんとなく満足した春菜は、
折角だから晩御飯も昭和の味で攻めることにしたのであった。
1595
﹁こらまた、漫画的な天丼だな﹂
﹁考えてみれば、エビ天が二匹だけのってる天丼って、意外と食べ
る機会ないわよね﹂
﹁基本、飲食店の天丼って、天ぷら定食の天ぷら全部盛っとるから
なあ﹂
﹁地味に、こういう天丼って憧れ﹂
春菜に出された、大きなエビ天だけが乗ったシンプルな天丼を前
にして、そんな感想を言い合う一同。かつてエビが高級食材だった
頃の天丼。養殖が盛んになったことに加えて円の価値が上がって安
くエビが仕入れられるようになった事により一気に身近になり、そ
れに伴いどこかの飲食店が天ぷらの種類と量を増やしたことから、
いつの間にかやたらとにぎやかな天丼が主流になったのである。
﹁という訳で、昭和の味を再現してみました﹂
﹁なるほど。そう言えば、そのエビフライは何だ?﹂
﹁ちょっと衣が余ったから、色々小細工して遊んでみたの。これ作
っても余ったから、ドーナツもどきも作ったんだ。形は輪っかじゃ
ないけど﹂
﹁なんか、非常に嫌な予感がするんだが⋮⋮﹂
そう言いながら、エビフライをかじってみる達也。カラッと揚が
った衣をサクッという音と同時に噛み破ると、中身は空洞。
1596
﹁なんだこりゃ?﹂
﹁いわゆるエビのしっぽフライ。その空洞を再現するの、ものすご
く苦労したよ﹂
﹁余計なところで手の込んだ真似して遊んでるわねえ⋮⋮﹂
﹁っちゅうか、昔のエビのしっぽフライ、聞いた話からするとこん
なにサクッとした衣やなくて、もっとふかっとかふにやっとかそう
言う感じやったんやない?﹂
﹁あ、そうかも﹂
次回はそこも踏まえて頑張ってみるよ、などと真顔で言う春菜に、
処置なしという感じで肩をすくめて首を左右に振る真琴。元からこ
ういう性格だったのか、宏との同居生活で感染したのか、春菜もネ
タに走る時は徹底的に走る傾向がある。もっとも、素でやっている
ことも多々あるから、宏同様元からボケ気質なのだろうが。
﹁で、春姉。胴体はどこに?﹂
﹁鍋の具かすりつぶして練り物の材料にしようと思って、分けて保
存してる﹂
﹁鍋に入れるんだったら、頭としっぽも一緒にあった方がよくない
?﹂
﹁茹でてから殻をむくの、面倒かと思って完全にばらしたよ﹂
1597
鍋や仕出しの幕の内などに入っているエビについて、大多数の人
が思っているであろうことをしれっと言ってのける春菜。エビやカ
ニのような食材は、殻の処理が常に問題になってくる。
﹁あ、そうそう。昭和の味として、ジャムロールって言うのかな?
あれも作ってあるから﹂
地味に食べた事が無いものを言われて、首をかしげながらも食事
を済ます一同。エビ天だけの天丼というやつは、小細工が効かない
だけに腕と素材がダイレクトにものを言うが、そこら辺は流石に春
菜の作る料理。天丼にありがちな食べているうちに油が米と天ぷら
両方に回り切って、などという問題も起こらず、シンプルだからこ
その味わいを最後まで保ちきる。
そして、デザート。
﹁なんか、こういうチープな味わいって、妙に癒される時があるわ
よねえ﹂
﹁まあ、一回で何切れも欲しいっちゅう感じでもあらへんけど﹂
﹁春姉、グッジョブ﹂
﹁この安っぽさがたまらないな﹂
なんだかんだと大好評のジャムロール。もっとも、この日作った
もので一番評判が良かったのは、衣のタネの余りを使ったドーナツ
もどきだったのは、ここだけの話である。
1598
こぼれ話 その2︵後書き︶
後日談1を掲載したあたりで完成したものの
推敲校正その他が間に合わずに後回しにした奴。
リクエストから二本、思いつきで一本書きました。
1599
プロローグ
﹁お好み焼き二本とたこ焼き一皿で千百セネカです﹂
﹁ほらよ﹂
﹁毎度ありがとうございます、またのおこしを﹂
ダール王国の首都・ダール。初日の昼過ぎに到着した宏達は、冒
険者協会へのあいさつや商業ギルドへの屋台申請などを早々に済ま
せ、翌日にはもう屋台で商売を始めていた。この日屋台で売ってい
るのは、お好み焼き串とたこ焼き、鯛焼きである。屋台は宏がワン
ボックスに組み込んだ余計な変形ギミックを利用している。ワンボ
ックスがモーフィング変形で屋台に化けるシーンは、いくら非常識
な宏の技術力を知っていても、流石に全力で引いたのだが。
因みに、ファーレーンとダールでは通貨が違い、ファーレーンの
一チロルはダールの通貨・セネカに直すと十セネカになる。また、
ファーレーンのクローネに当たる通貨は無く、一クローネは千セネ
カになる。言葉については、ダールでは普通にファーレーン語が通
じる上、ダール語はファーレーン語と近いのでそれほど困る事はな
い。この事情はファーレーンと北側で国土が接している鉄の国・フ
ォーレでも同様である。
実のところ、ゲームの時は全部クローネで買い物ができた半面、
ファーレーン語が通じる相手が少なかった。こんなところでも、こ
の世界がゲームとは直接関係が無い証拠が出て来てしまっている。
1600
﹁⋮⋮ねえ、春菜⋮⋮﹂
﹁何、真琴さん?﹂
﹁何であたし達、屋台やってるの?﹂
﹁在庫整理と貨幣獲得のため?﹂
春菜の何ともすっとぼけた回答に、眉間のしわを深くする真琴。
その間も鯛焼きを焼く手を止めないのは、ある種のプロ意識だろう
か。
因みに言うまでもない事だが、現在宏と達也は別行動である。滞
在期間が読めないため、拠点を探しまわっているのだ。別行動だと
分かっているのに時折春菜が宏を探すような素振りを見せるが、客
が来ている間は普通に対応している。一時期宏と一緒にいるときは
挙動不審だった春菜だが、ワンボックスで長距離を走っているうち
に慣れたか、最近は昔のように割と自然な態度を取れるようになっ
てきている。
﹁別に、活動資金は十分あるわよね?﹂
﹁今のところ、特に問題はないかな?﹂
﹁食料は、普通に狩りをすれば十分賄えるわよね?﹂
﹁それ以前に食材は在庫がたっぷりあるから、当分は調達自体考え
なくてもいけるかも﹂
﹁だったら、屋台で稼ぐ必要ないじゃない﹂
1601
真琴の苦情を鼻歌交じりに聞き流し、五本のお好み焼き串を焼き
あげる春菜。無駄にレベルの高い鼻歌で流され、ますます眉間のし
わを深くしつつも焼き上がった鯛焼きをショーケースに並べて行く
真琴。その隣では、無表情ながらどこか楽しそうにたこ焼きを回し
続ける澪の姿が。
元々屋台を始めた理由は、宏と春菜二人では冒険者としての仕事
で工房を買う資金を蓄えるのが難しかったからだ。工房も入手し、
戦力的にも討伐任務で大きな利益を上げられるところまで整った現
状、わざわざ拘束時間が長い屋台にこだわる理由は特にない。
﹁冷静になって考えてみると、あたし達のやってる事って、ものす
ごくシュールじゃない?﹂
﹁何処が?﹂
﹁だって、わざわざファンタジーの世界の、それも人の住んでる土
地の半分ぐらいが赤道直下の国でたこ焼きとか鯛焼きとか売ってる
のよ? 物凄く微妙な絵面じゃない﹂
﹁ゲーム的中世ヨーロッパ風の街並みを背景にカレーパンと串カツ
売るのも、絵面としては大して変わらないと思うけど?﹂
春菜の無情な切り返しに、鯛焼き器に生地を流し込みながらがっ
くり肩を落とす真琴。そんな愚痴を言っているはしから、噂を聞き
つけたらしい子供達が、百セネカ銅貨を差し出しながらきらきらし
た目で真琴を見上げてくる。ダール人の特徴である淡い褐色の肌が、
なかなかにチャーミングだ。
1602
﹁何味がいいの?﹂
これは相手をしないと駄目か、と内心でぼやきつつ、数が同数に
なるように白餡とカスタードクリームを入れて行く。カカオもしく
はその代替品が見つかっておらず、小豆もまだ発見していないため、
この屋台で提供している鯛焼きは白餡とカスタードだけだ。そのう
ち抹茶クリームも開発しようか、などと春菜と宏が話し合っている
のはここだけの話である。
﹁中身が白いの∼!﹂
﹁カスタードクリーム!﹂
﹁両方∼!﹂
子供達が口々に告げてくるのに合わせ、ショーケースから手早く
鯛焼きを取り出してお金と交換していく。下手に素手で触って腹で
も壊されたら嫌なので、絶対直接は触らない真琴。そんな気遣いを
知ってか知らずか、今にもよだれをたらしそうな顔で鯛焼きを受け
取る子供達。
﹁ちゃんと手を洗ってから食べんのよ。それと、熱いから気をつけ
なさいよ﹂
﹁は∼い﹂
真琴の言葉に律儀に頷き、水魔法でその場で手を洗ってからかぶ
りつく子供達。ショーケースで保温された、まだ餡子がアツアツの
鯛焼きをはふはふ言いながら美味しそうに食べるのは、心がなごむ
光景である。もっとも
1603
﹁俺にも一匹。中身が白い奴﹂
﹁私はカスタードクリームかな?﹂
そんな子供達につられて注文してくる大人のおかげで、なごんで
いる暇は全くないのだが。
﹁それにしても、この暑い街で、こんな熱いメニューがよく売れる
わよね⋮⋮﹂
﹁珍しいからじゃないかな? あと、この気候だから、粉ものでも
ない限りはちゃんと火を通したものじゃないと怖い、って言うのは
あるかも﹂
﹁この街の屋台、熱いメニューが多い﹂
ショーケースが品切れになり、必死になって新しい鯛焼きを焼き
ながらの真琴の言葉に、そんなコメントを告げてくる春菜と澪。子
供達のおかげで鯛焼きがよく売れているが、お好み焼き串やたこ焼
きもかなりの勢いで売れている。赤道からそれなりに北の方にある
首都ダールは、気候で言うならかなり熱帯寄りの亜熱帯に属する。
西側は海になっているが、ウルスと違ってこっちは正真正銘、ごく
普通に港町である。
﹁これだけ暑いんだから、いっそ、かき氷かアイスキャンディーで
もやる?﹂
亜熱帯の気候で鉄板作業をさせられた事で、いい感じで湧いた頭
で考えた事を無責任に口走る真琴。その間も他の二人同様、鯛焼き
1604
を焼く作業の手は止まらない。いくら着ている服に気温調整のエン
チャントが乗っていても、やはり暑いのは暑い。どうにも思考が茹
った感じになるのは仕方が無いだろう。
﹁あ∼、すごくよく売れそう﹂
﹁多分過労死するレベル﹂
春菜の何処となく乾いた口調に、澪が物騒な台詞で相槌を打つ。
澪の台詞は誇張でも何でもない。冷房程度ならともかく、氷を作る
ような魔道具は基本的に魔力コストが非常に大きく、商売で使われ
る事は滅多にない。単純に熱を出すだけの魔道具に比べると、どう
にも効率が悪いのだ。なので、アイスクリームやジェラートの類は
割と高級品で、アイスキャンディーのような庶民的なものはそもそ
も存在していない。ちなみに領土内に寒帯の土地があるファーレー
ンやフォーレなどは、冬の間に大量に作った氷を腐敗防止の倉庫で
保存し、夏場に切り売りするやり方で魔道具なしで氷を普通に確保
している。
そんな珍しいものを亜熱帯であるダールで、それも庶民が買える
値段で売りに出した日には、生産ラインを作っても足りないほど売
れる事請け合いである。
﹁よっぽど生産性を上げないと、昼まで持たないかもね﹂
﹁それこそ、ジュースと串を突っ込んで起動したら瞬間冷凍するぐ
らいでないと無理、って?﹂
﹁そんな感じ。ついでに言えば、一回の作業で百本単位で作らない
と﹂
1605
春菜の言葉に、うへえ、という表情を浮かべる真琴。どんな構造
の機材になるかまでは知らないが、どうせ取り出しは手作業になる。
毎日毎日機材からアイスキャンディーを取り出す作業と言うのは、
シュールを通り越して心が摩耗しそうだ。何というか、作業に面白
さが無い。
﹁と言うか、そもそも屋台やる必要自体ないわよね⋮⋮﹂
﹁あ、そこに戻るんだ﹂
﹁そりゃ、戻るわよ⋮⋮﹂
そろそろ生地が乏しくなってきた事を確認しつつ、微妙に疲れを
にじませた真琴が話を蒸し返す。冒険者協会で仕事を引き受ければ、
短い拘束時間で一回数十万セネカは簡単に稼げるというのに、何が
悲しゅうてスキル修練にもならない作業でちまちま子供から百セネ
カ単位で小遣いを巻きあげねばならないのか。そんな真琴の心境を
知ってか知らずか、鯛焼きは飛ぶように売れて行く。
﹁あっ⋮⋮﹂
順調に売れて行くうちに、ついに鯛焼きの中身が底をつく。それ
自体は問題ないのだが⋮⋮。
﹁あっちゃ∼、しまった﹂
﹁どうしたの?﹂
﹁中身ないのに、生地入れちゃってる﹂
1606
﹁あらら﹂
三組ある鯛焼き器のうち一組六匹分だけ、餡もクリームも入って
いないかった。ほぼ素人の真琴が、分量の目測を誤ったのである。
﹁⋮⋮よし﹂
少し考え込んだ末、食材バッグに手を突っ込んで何かを取り出す
真琴。ミスに気がついたところで加熱を停止してあるため、まだ小
細工をする余裕はある。状態維持の機能があるため、加工を止める
と再開するまでその状態を維持するのだ。
﹁⋮⋮真琴さん、人の事言えないぐらいチャレンジャーな事しよう
としてるよね﹂
﹁死なばもろともよ!﹂
呆れたような春菜のコメントに、開き直って吠える真琴。彼女は
六つのうち三つにカレーパン用のカレーを、残りの三つに用途が決
まっていないチーズを入れたのだ。
﹁てな訳で味見するから、あんた達も付き合いなさい﹂
﹁は∼い﹂
﹁真琴姉。チーズはともかく、カレーは無謀だと思う﹂
﹁分かっててやってるから安心なさい﹂
1607
﹁安心できない﹂
結局、チーズはともかくカレーはお菓子用に甘めに味付けされた
鯛焼きの皮とは著しくミスマッチで、食べられないほど不味くはな
いにしても流石に売り物にはならないのであった。
ここで、彼らがいるダールという国について、多少説明をしてお
こう。
ダール王国はファーレーンの南東に位置する大国家で、おもに熱
帯系の気候風土を持つ国である。その事は、首都のダールが亜熱帯
の気候である事からも想像がつくであろう。ファーレーンとダール
は隣国ではあるが、実のところ互いの領土で地続きになっている場
所はない。陸路で移動できるのは南部大街道と大森林の迂回路のみ、
その道も橋がかかっているから徒歩や馬車で移動できるだけである。
ファーレーンとダールの位置関係は、ちょうど地球のヨーロッパ
とアフリカ大陸の関係とほぼ同じだ。違いがあるとすれば、地中海
のような陸地に取り囲まれた海が存在しない事と、砂漠の面積が狭
く、それなりに内陸に至るまで緑地帯が広がっていることだろう。
二つの大河によって、この大陸は隣接する他の大陸とは完全に切り
離されている。ダール王国はこの大陸をほぼすべて掌握していると
いっていい。その国土の大半が自治区の、ある種連合国家のような
体制ではあるが、国土面積だけで言うならば世界最大の国家だと言
1608
える。
この国に住む民族は、地球で言うところの南米や東南アジアより
やや薄めの褐色の肌と北欧系の顔立ちが特徴の、何処となくエキゾ
チックな印象の人々である。この特徴はヒューマン種だけでなく、
土着の異種族も同様であり、南部大森林地帯でも南側の熱帯雨林、
それもシャルネ川を越えた先に住むエルフ族などは、見事にダール
系の特徴を有している。首都から遠く離れた辺境の地は異種族・異
民族の自治区になっており、そのあたりには黒色系の人種も暮らし
ている。
ダール王国の最大の特徴は、首都から馬車で一日ちょっとで端っ
こに到着する位置にある灼熱砂漠と、そのど真ん中にそびえたつ陽
炎の塔の存在であろう。灼熱砂漠は外周部はともかく、中心部は最
低でも五級以上の冒険者しか依頼などでの立ち入りは許されていな
い難所である。大サソリや大ムカデなどの砂漠と聞けば即座に連想
するような生き物以外にも、砂鮫や巨大蟻地獄、バジリスク、デザ
ートクラブなど危険度が高いモンスターが目白押しの、正真正銘の
危険地帯なのだ。もっとも、立ち入りを禁止しているといっても見
張りを立てている訳ではないので、要はそこで行方不明になっても
捜索や救援の類は一切しないと言うだけの話ではあるが。
その分、灼熱砂漠で得られる素材はどれもなかなかのものであり、
特に砂漠の砂はガラスや煉瓦、陶器の素材としては世界で指折りの
品質を誇る。また、岩石砂漠のあたりで採れる石材もいいものが多
く、多大な苦労を重ねて採掘された石材は、この国の王城や砦を難
攻不落の要塞に仕立て上げている。
隣国でありながら異なる大陸だからか、文化・芸術の面ではファ
ーレーンとはかなり違うダール。唯一にして最大の弱点は、絶望的
1609
ではないにせよ、食糧自給率が高いとは言えないところである。少
々の不作で国民を飢えさせる事はないが、何かあった時にはすぐに
飢饉と隣り合わせになるという、ファーレーンにはない弱みを抱え
ている。そのため、食糧の重要な輸入先であるファーレーンには、
へりくだる必要はないにしても迂闊な真似は絶対にできない。
別の大陸でありながら、西方と中央、東方の文化が入り混じった
芸術の国・ダール。その地で宏達は、新たな活動を開始しようとし
ていた。
﹁それで、いい物件は見つかったの?﹂
夕食の席。丸一日別行動していた宏と達也に、目的は達成できた
のかを問いかける春菜。
﹁補修工事を自分でやるって条件で、半分廃墟みたいになってる一
軒家を格安で借りる契約は取ってきたぞ﹂
﹁半分廃墟って、どの程度やばそうな感じ? 流石に歩くたびに床
が抜けそうとか、そのレベルの廃墟は格安でも勘弁してほしいわよ
?﹂
﹁まあ、一日あったら普通に住める程度には修理できるで﹂
1610
砂麦のエールを飲みながらの真琴の言葉に、砂麦のパンにスパイ
シーで汁気が少ないシチューを浸していた宏があっさり答える。ち
なみに砂麦はダールの主要作物である、砂漠ですら育つ乾燥と高温
に強い麦だ。収穫量は小麦に引けを取らず、畑を休ませる頻度が八
年に一度と小麦より連作障害にも強いのだが、パンにするとぱさぱ
さでそのくせ黒パンよりも固いという微妙な食感になるのが難点で
ある。
﹁で、格安ってどれぐらい?﹂
﹁一カ月で一万セネカ。工房にもできる規模としては、格安だろう
?﹂
﹁因みに、平均的な賃料ってどんな感じ?﹂
﹁ダールは土地建物が安いからな。一人部屋ぐらいのもので月五千
セネカぐらいだ。一軒家で三万ぐらいだったか?﹂
まともな宿が月単位の契約で一人二万セネカぐらいと考えると、
確かに安い。もっとも、宿は食事が料金に含まれ、事前に申告する
必要はあるが、食べなかった分は返金があるのがこの国のスタンダ
ードだ。その他に毎朝シーツを交換してくれたりといったサービス
も料金に含まれているのだから、宿が本当に割高だとは一概には言
い切れない。もっとも、月単位で契約しないのであれば、間違いな
く宿の方が高いのだが。
﹁とりあえず、その物件が格安だってのは分かったわ。他はどんな
感じだったの?﹂
﹁後は一気に値段が飛んで、月三十万セネカとかになってきたから
1611
除外した﹂
﹁まあ、いわゆる店舗とか事業用の建物になってきおるからなあ。
高いんはしゃあないで﹂
﹁別に、そこまでの規模は要らないんじゃないかな?﹂
﹁工房までは要らんとは思ったんやけど、三万とか五万程度で借り
られる部屋とか家って、この人数で住んだら作業スペースが怪しい
物件が多くてなあ﹂
ファーレーンに飛ばされた直後ぐらいの時期は、作れるものもそ
れほど多くなく、使う機材も知れていたからあの狭い部屋でどうに
か作業のやりくりが出来ていたのだ。人数も作る物の種類も使う道
具も材料も増えた今となっては、同じスペースで作業と日常生活の
やりくりをするのは不可能である。
﹁何にしても、明日補修工事するから兄貴と真琴さんは適当に依頼
でもこなしてきとって﹂
﹁了解。いい加減、ランクも上げとかないとね﹂
﹁砂漠に入るのに大手を振って突入できるようになっとかねえと、
いろいろ面倒が多そうだしな﹂
真琴と達也の言葉に、真面目な顔で一つ頷く宏達。ファーレーン
ではいくつか国の依頼をこなした事にして昇格してはいるが、それ
でも宏、春菜、澪の三人はそれまでの実績不足がたたり、いまだ八
級である。達也と真琴は練習で行った護衛任務の結果昇格条件を満
たし、試験を受けて六級にはなっているが、それでも灼熱砂漠に入
1612
るにはまだ足りない。
ランクを上げるのは急務とまでは言わないが、今後の事を考える
なら五級程度まではあげておいても損はしないだろう。そう考える
と、今日はちんたら屋台で商売をしていたのは失敗だったのではな
いか。そんな考えが真琴の頭をよぎる。なにしろ、ランクはそのま
ま使わせてもらえるといっても、ファーレーンとダールの冒険者協
会は別組織だ。ファーレーンでの実績は、全く考慮されない訳では
ないにしてもあまり役には立たなくなる。
﹁それにしても、どっから手ぇつけるべきやろうなあ﹂
﹁ちょっと、この国に対して情報が少なすぎるしね﹂
﹁せやねんなあ。情報が少ないから、下手な動きは出来へん﹂
﹁伝手が乏しいから、情報収集も難しい﹂
澪の指摘に、少しばかり考え込むことになる一行。ファーレーン
では特に意識しなかった、と言うより意識する余裕もないまま宮廷
でのごたごたに巻き込まれたのだが、このチームは裏側の情報収集
手段に欠けている。ファーレーンの時は怪我の功名的に、王家やそ
の関係者を通じてどうしても必要な情報は回してもらえるようには
なったが、そもそも知り合いがいないダールでは無理な話である。
今後の事を考えるなら、図書館や冒険者協会、噂などで手に入る
情報だけに頼るのは難しい。だが、暗部に手を出して無事に切り抜
けられるだけの交渉力と自衛手段を持ち合わせている人材はいない。
しいて言うなら春菜なら出来なくもなさそうだが、正直なところそ
んなリスクの高い汚れ仕事を押し付けるのは、いろんな意味で抵抗
1613
がある人選だ。
冒険者としてのランクや生活基盤よりも先に、まず情報収集手段
の確保が最優先。その意見を否定するメンバーは一人もいない。だ
が、では具体的にどうやるのか、となると全くアイデアが出てこな
いのが現状である。
﹁とりあえず、今は噂話の収集に全力投球﹂
﹁だね。後で一曲歌って色々聞いてみようかな?﹂
﹁そこは任せる﹂
決めかねているようで、それなりに方針自体は決める日本人一行。
分かりやすいところから手をつけるのは、基本と言えば基本だろう。
﹁それにしても、この国の料理は辛いなあ⋮⋮﹂
﹁南国やから、スパイシーなんはしゃあないんちゃうか?﹂
﹁それは分かるんだが⋮⋮﹂
方針が決まったところで、やたらがっつりスパイスが効いた羊肉
の味を微妙な顔をしながら、周囲に聞こえないように小声でそう評
する達也。ダールの料理はスパイスをこれでもかというほどたくさ
ん使った料理が多い。どちらかと言えば寄生虫を気にする感じで発
達したファーレーンと違い、食中毒対策が基本だというところだろ
う。
流石に暴力的に辛いだけという味ではないものの、宏達が作る比
1614
較的薄味でしっかりした味付けに慣れた舌には、少々刺激が強すぎ
る味なのは確かだ。気候風土が絡む問題ゆえにこの一点だけで文句
を言う気はないが、先行きが不安になる話ではある。
﹁個人的には、もうちょっと辛さ控えめの方が酒に合うと思うんだ
がなあ﹂
﹁引越したら、その味付けで作ってみようか?﹂
﹁頼む﹂
春菜の提案に一つ頭を下げると、出された物を残すのは駄目だと
ひいひい言いながら痺れる辛さの羊肉と根菜の焼き物を平らげる。
エビと玉ねぎのシチューも、やけに酸味が効いて後に引く感じであ
る。どれもこれもまずい訳ではないのだが、日本人の味覚からする
と少々惜しい感じに仕上がっている。
﹁何ぞ、いっちゃん最初にやらなあかんのって、料理の開発と微調
整のような気がしてきたわ﹂
﹁あ∼、そうかもね﹂
宏の言葉に同意する春菜。宏も春菜も、別に出された料理に全く
不満はない。郷に入りては郷に従え、ではないが、別に文句を言う
ほどひどい味付けではないからだ。だが、達也の言う事も理解でき
るため、日本人好みにアレンジするのはありだろうとは考えている。
﹁あたし的には、これぐらい辛いのも平気ではあるんだけどね﹂
﹁好みで言うと?﹂
1615
﹁やっぱり、もうちょっと素材の味が分かる辛さの方がいいわね。
慣れてくればともかく、今の時点じゃどれも辛すぎて同じ味に感じ
るし﹂
やはり、真琴も極端な味付けが苦手な日本人だったらしい。現時
点ではこの国の料理の辛さはちょっと、と言うのが本音のようだ。
﹁澪はよく平気だな﹂
﹁これはこれで﹂
料理するからか感覚値が高いからか、宏達同様過度にスパイスが
効いた料理をそれなりに美味しそうに食べる澪。彼女の舌には、真
琴や達也では分からなかった味の違いがはっきり感じられている。
﹁にしても、隣接しとる割に、ファーレーンとはえらい味付けが違
うもんやなあ﹂
﹁本当にね﹂
別にこの国の料理に否定的ではないとはいえ、宏のコメントには
流石に同意せざるを得ない春菜と澪。達也と真琴は、もとより否定
する理由が無い。
この国で自分達の料理が受け入れられるのか、そこはかとなく不
安になってきた宏達であった。
1616
宏達が夕食にあれこれコメントしていたその頃。
﹁⋮⋮ドジ踏んだ⋮⋮﹂
一週間ほど早くにダールに到着していたレイニーは、あれこれや
ばそうな相手に追い回されていた。レイオットの指示に従い幾人か
のダール貴族について探っていたところ、厄介そうなのに目をつけ
られたのだ。どうにか自然に振り切ろうと色々小細工したものの、
土地勘が無い事もあって上手く逃げ切れず、少し人通りの少ない場
所に入った途端に問答無用で斬りかかられたのだ。
﹁何処に逃げた?﹂
﹁最後に見たのは向こうだ﹂
﹁そうか。念のために二手に別れるぞ﹂
﹁了解﹂
レイニーと大差ないほど薄い気配で音も立てずに動き回る男達。
黒ずくめの集団とかいうのであれば怪しさ大爆発だが、残念ながら
雑踏に紛れ込まれれば識別が出来ない程度には普通の格好をしてい
る。もっとも、レイニーも一枚脱げば完全に雑踏に紛れ込めるよう
な特徴のない服装をしているのだが。
男達が二手に分かれたのを確認したところで、あえて来た道を逆
1617
行するレイニー。土地勘が無い場所で下手に動きまわれば、追いつ
められるのは避けられない。ならば、少しでも道が分かる場所に逃
げた方が生存確率は上がるだろう。最悪、切り札の特殊転送石でセ
ーフハウスその一かその二まで逃げればいい。
そんな感じで逃亡を続けること三十分。妙に高層建築が多く、そ
のくせほとんど人の気配がしない廃墟のような区画を逃げながら、
罠と障害物を駆使してちょっとずつちょっとずつ数を減らし、どう
にか逃げ延びる算段を立てられたところで⋮⋮。
﹁何処のネズミかは知らないが、なかなかの腕だ﹂
レイニーの見立てで一番厄介そうな男に追いつかれる。一対一で
勝負するなら、勝てなくはない程度の力量。ただし、こちらは散々
動き回ってそれなりに消耗しているのに対し、相手はそれほど体力
を使ってはいない。他にも追手がいる事を考えると、なかなかに絶
望的な状況である。
﹁その腕は惜しいが、残念ながら生きて返す訳にはいかん。何を探
っていたかは知らないが、我々に見つかるようなミスをしでかした
事を後悔することだな﹂
﹁⋮⋮﹂
獲物の前で舌舐めずりは三流のする事。思わずそんなコメントが
頭をよぎるが、それを言って挑発になるほど相手は弱くないだろう。
虎の子の特殊転送石を起動させる隙を窺いながらも、とりあえずそ
れ以外の手札を頭の中で並べて行く。この場合、先に相手から手を
出してきたのだから、レイニーが反撃して仕留めてしまってもそれ
自体は特に問題はない。問題があるとすれば、探っていたいずれか
1618
の相手に自分の存在が確実に割れている事であり、今回の件で大体
の戦闘能力が割り出されてしまう可能性が高い事である。
何にしても、正当防衛である事を補強するために、先手必勝の戦
術はあえて封印する。キリングドールとして身体の髄までしみ込ん
だ戦闘技法のうち、最も偶然だと言い逃れが効きそうなやり方を選
び、相手をひっかけるために壁に背をつけてあえて隙を作る。
﹁今更そんな小細工をしたところで、お前がどこかの組織に所属す
るそれなり以上の腕の工作員である事は割れている。仮にここで俺
を殺したところで、我々の仲間がこの街で貴様を少しでも見かけれ
ば、問答無用で切り捨てに行くだけだ﹂
﹁⋮⋮﹂
言われずとも分かっている事を口走る男に、実はこいつは頭が悪
いのではないだろうかとひそかに値踏みするレイニー。それを踏ま
えたうえで、自分が見た目は年端もいかない少女である事まで利用
して相手をはめる算段を立てているのだ。それに正直なところ、こ
の男以外は一対一が一対四ぐらいになっても負けることなどあり得
ない。その一番の腕ききがこの程度の思考ならば、それほど危機的
状況と言う事にもなるまい。
﹁ふむ、あきらめんのか。往生際の悪い﹂
いまだにグダグダいいながら、ようやくレイニーの誘いに乗るこ
とにしたらしい男。男が動いた瞬間、微妙な位置にあった崩れかけ
の壁に特殊な打法で衝撃を加え、更に足元に踏みこみの時にできた
くぼみと言い訳が効く範囲のへこみを無詠唱の魔法で作って微妙に
バランスを崩させる。ついでに言えば、じわじわと位置を変え続け
1619
て、相手の目測を誤らせる程度の小細工は済ませてある。
結果、いくつかの自覚が難しい要因が重なって微妙にバランスを
崩した男は、攻撃を見事に回避された結果として、レイニーが背中
を預けていた壁を思いっきり斬りつける羽目になる。その時の衝撃
が止めとなり、男の頭上から大量のがれきが降り注いでくる。回避
しようと足に力を入れたところで、彼女が仕込んでいたもう一つの
罠が発動し、足を取られて逃げ遅れる。
男は、結局自身に何が起こったかを理解しないまま、崩れ落ちて
きたがれきが頭に直撃、二度と目を覚ますことなく眠りにつくので
あった。凝った事をしている割には、宏達相手だとどれ一つ通用し
ないところが笑えない事実である。
﹁獲物を前に舌舐めずりは、三下のすること﹂
やはり頭が悪い、などと死人に対してひどい事を考えながらそん
なコメントを残し、追いつきつつある他の追手にあえて突っ込んで
行くように路地から飛び出す。待ち受けていた追手その二とその三
に小細工を仕掛けて距離を稼いだところで、新たな異変に気がつく
レイニー。
﹁やけに騒がしいと思えば、こんな可憐な子猫がやんちゃをしてい
たとはね﹂
ヴィジュアル系バンドが着こんでいるようなゴシック衣装にマン
トを羽織り、レイピアと羽根帽子を常備したマスカレイド装着の男
が、建物の屋根からそんな言葉をかけて来たのだ。男性にしては声
が高めで、妙に澄んだ声色をしているのが印象的である。声だけを
聞くと、男女どちらだといわれても納得しそうだ。
1620
見た感じ、年の頃は二十代半ばか、どれだけ上で見ても後半に差
し掛かったところだろう。ダール人の特徴である淡い褐色の肌に彫
りの深い顔立ち、ダールでは珍しいブロンドの髪が特徴的な、おそ
らく美男子と言っていい人物である。
﹁アルヴァンか!?﹂
いきなり声をかけられて動きが止まったレイニー。その彼女に襲
いかかろうとしていた男達が、屋根の上にいる男性を見て悲鳴を上
げる。
﹁アルヴァン?﹂
男の悲鳴を聞き、思わず小首をかしげるレイニー。その幼子がす
るような妙に可愛らしい仕草はアルヴァン的には大ヒットだったら
しいが、残念ながらレイニーは悪い意味で宏一筋だ。他の誰がどん
な感情を持とうと、欠片も気にかけるつもりはない。もっと言うな
らば、宏とやる事をやれる関係になれれば、その当の宏自身の気持
ちすら割とどうでもいいという、澪とはまた違った意味で筋金入り
の駄目人間がレイニー・ムーンである。
故に、彼女がその名前を聞いた時、この何か勘違いしてそうな服
装の男は有名人らしい、などと言うずれた感想を持つ以上の反応は
全くなかった。諜報員としてそれでいいのか、と問い詰められそう
な事実である。
﹁さて、醜い男達には退場いただくとして、子猫ちゃんはどんなや
んちゃをしていたのか、じっくり聞かせていただくとしよう﹂
1621
﹁別に、大したことはしていない﹂
なんとなく変態臭が漂うアルヴァンの台詞に対して、事実である
が故に非常に残念な回答を返すレイニー。実際、レイニーは集めた
噂をもとに、一般人でも思いつきそうなちょっと突っ込んだ質問を
して回っていたにすぎない。それもそんなに目立つやり方でやって
いた訳でもなく、たまたま周囲の確認が甘かった時にこいつらがい
ただけだったのだ。レイニーがドジを踏んだというのは、下手に撒
こうとせずに適当に買い物でもして偽装すればよかったというだけ
の話である。
﹁まあ、何にしても彼らにはある疑惑がかかっていてね。その動か
ぬ証拠と言うやつを押さえた事だし、堂々と成敗させてもらう事に
しよう﹂
そんな事をあっさり言いきって追手の二人を斬り捨て、更に合流
してきた四人を瞬く間に仕留めて見せる。もっとも
﹁ふむ、流石の逃げ足、と言うところか﹂
アルヴァンが六人を仕留めている間に、レイニーの姿は影も形も
なくなっていたのだが。
﹁さて、サブリーダー格が残っている事だし、最後の仕上げと行く
か﹂
合流してきた残りのグループを無力化し、真琴あたりが喜びそう
なやり口で背後関係を吐かせてからこの日の最後の仕上げに移るア
ルヴァン。次の日、義賊にあれこれ暴きたてられたとある貴族が、
どういう訳か女王の手にあったお家取りつぶし確定レベルの違法行
1622
為の証拠書類をもとに、一族郎党一人残さず斬首刑にされたのはこ
こだけの話である。
1623
第1話
﹁さて、どれからやる?﹂
﹁まずは慣らしも兼ねて、近場の簡単な討伐系ね﹂
﹁了解﹂
真琴の意見に従い、ダール近辺で済む簡単な討伐依頼を漁る達也。
正直なところ、ダールに来るまでの道中では新しい武器の慣らしは
全くできていない。何しろ、ワンボックスの慣性制御系バリアで安
全圏に弾き飛ばして終わりだったため、わざわざ戦闘する必要が無
かったのだ。
とりあえず都市の近くにいるモンスターは普通に雑魚ばかりだが、
新しい装備の性能に慣れていない現状で下手に強いものとやりあう
のは危険だ。特に真琴はもう何年も使っていない刀に転向する事も
考えると、いきなりフィールドボス級と喧嘩するのは怖い。白兵戦
というのは同じでも、武器の特性や間合い、スキルの性質など何も
かもが大剣と刀とでは大きく違うのだからあまり無茶は出来ない。
﹁ジャイアントホッパー退治とグラススネークの駆除があるが、こ
れでいいか?﹂
﹁そうね。妥当なところじゃない?﹂
達也が持ってきた依頼をざっと見て、特に異を唱えることなく頷
く真琴。ジャイアントホッパーとは人間サイズのトノサマバッタ、
1624
グラススネークはサイズこそ普通ながらポイズンウルフと同様の死
に至る毒を持つ蛇である。グラススネークの方は群れで襲いかかっ
てくる事もあり、巣を発見したら迅速な駆除を求められるモンスタ
ーでもある。
ダールはいわゆるサバンナのようなステップの端の方に存在する
街だ。故に、ファーレーンとは種類が違えど基本的には草原にいそ
うなモンスターが多く存在する。とは言え、暑い地域の生き物だか
らか、ファーレーンに比べるときつい毒を持っているものが多い。
ジャイアントホッパーはファーレーンにも存在するが、この地域の
奴は普通に毒を持ち、ファーレーンよりやや気性が荒い。それゆえ
に、ファーレーンでは見かけない討伐依頼があったりするのである。
ゲームの時でもモンスターレベルや基本性能は大差ないのだが、毒
持ちが多いことや状態異常攻撃を良く食らう事から、ウルス周辺よ
りはランクが上の地域として扱われていた。
﹁これとこれを受けたいんだが﹂
﹁分かりました。確認事項はございますか?﹂
﹁そうね⋮⋮。グラススネークは何匹いるの?﹂
﹁発見されているのは中規模の巣が一つですね﹂
真琴の質問に簡単に応え、手続きを進める受付の男性。カードに
記載されたランクを見て、少し眉をひそめる。
﹁お二人のランクに対して、この依頼は少々難易度が低すぎるかと
思いますが、本当によろしいのですか?﹂
1625
受付の言葉に内心苦笑する二人。実際のところ、普通この程度の
依頼はせいぜい八級程度の冒険者が受けるものであり、報酬も基本
的に高くない。
﹁ああ。武器を新調したばかりでな。ちょっとした慣らしをしたい
んだ﹂
﹁それに、ダールに来たばかりで、このあたりのモンスターがどん
なもんかが分かんないから、それも確認しときたいしね﹂
﹁なるほど、分かりました。どちらもお二人の力量からすれば大し
た相手ではありませんが、それでも毒を持っていますので十分ご注
意を﹂
﹁了解。ありがと﹂
受付から注意を受け、そのまま出現地帯だというあたりにさっさ
と出て行く。武器はともかく防具は新調していないが、並のプレー
トメイルより物理防御力が高いワイバーンレザーアーマーをぶち抜
けるようなモンスターは、このあたりにはいない。もっとも、そん
なモンスターが跋扈するような場所に、わざわざ首都を作るような
国はそうそうなかろうが。
﹁さて、今回は討伐証明部位だけでいいか﹂
﹁買い取り表見た感じ、これといって高く売れるようなものも無か
ったし、それでいいと思うわ﹂
﹁だったら、サクサク行くか﹂
1626
真琴の言葉に頷き、本当にサクサク進める達也。慣らしとして倒
すには少々弱すぎる感じはあったが、それでも多少癖をつかむぐら
いの事は出来た二人であった。
﹁土台はほとんど傷んでへんから、まずは外回り埋めてこか﹂
左官道具にセメントを軽く盛り、春菜と澪に渡しながら宏が告げ
る。このセメントはオルテム村へ行く前からずっとこまごまと続い
ていた建築関係の作業に合わせて、宏が大量に作った在庫の残りで
ある。魔法やら何やらがたっぷり詰まっているため、もとの世界に
存在しているセメントよりはるかに高性能だが、比較基準を持たな
い彼らはそんな事は全く知らない。
彼らが確保した工房は、建物としてはダールで一般的な、大きめ
の石を組み合わせてセメントで固定したものである。ところどころ
に補強のために鉄の梁のようなものは通っているが、基本は石を積
み上げただけのものである。建物の規模を考えると不安が募る構造
だが、このあたりは地震はほとんど起こらず、起こってもせいぜい
数百年に一度、大きくて震度三ぐらいのものしか発生しないらしい。
﹁本当に今日中に終わるの?﹂
﹁最悪、外回りと寝床ぐらいは何とかするつもりや﹂
1627
大きさと傷み具合が予想よりはるかに上だった建物を不安そうに
観察する春菜に軽い口調で答え、二人では手に負えそうにないヤバ
目の亀裂にいろいろ細工をして埋めていく。
流石に借りるだけなので、自動修復や防御関係は簡単に解除でき
るように仕込んでおかなければいけない。かといって、いくら簡単
に解除できねばいけないといっても、誰でも解除できるようでも困
る。そこらへんのさじ加減はなかなか大変だが、そんな事は今更な
ので特に問題視している様子は見せない宏。
﹁そう言えば、このあたりは水は結構いい値段してたよね﹂
割と早い段階で外壁を終えて水回りの補修をしている宏を見て、
宿の水の値段を思い出す春菜。ファーレーンはほぼすべての地域で
水はタダ同然の値段だったが、ダールはそこまで水資源が豊富な国
ではないらしい。魔道具などを駆使して飲める水を確保しているた
め、とりあえずほとんどの地域では水不足にあえぐところまではい
っていないが、ファーレーンのようにそのまま、もしくは軽く煮沸
する程度で飲めるようになる水源はダールには少ない。これは鉄の
国と呼ばれるフォーレも似たようなものである。もっとも、元々水
源が少ないダールと、単に水のミネラルが多すぎて飲めないだけの
フォーレとでは、ちょっとばかり意味合いが変わってくるのだが。
大霊峰と南部大森林、そして定期的なモンスターの大進攻が無け
れば、ダールもフォーレも水資源と食糧庫となりうる土地を求めて、
ファーレーンと何度も戦争を行っていただろう。バルドの手によっ
て起こされたような内部分裂も他の国からの横やりでもっと頻繁に
繰り返されていたはずだし、先の反乱もこの情勢でなければ、あん
なやり方でわざと誘発させるような真似は出来なかった。
1628
定期的にモンスターが大進攻を起こすような土地を恵まれている
と言っていいかはともかく、食料も水もよその国との戦争も心配し
なくていいという点では、ファーレーンはどこの国よりも恵まれて
いると言えるだろう。
﹁僕は日本とファーレーンしか知らんけど、普通は水がタダ同然の
国って珍しいんちゃうん?﹂
﹁珍しいのは珍しいけど、その中ではダールは割と高い方かな、っ
て﹂
﹁内陸部に砂漠があるから、しょうがない﹂
澪のコメントが、ダールの国内事情の一端を表していると言えな
くもない。ダールの国内の少なくない割合が基本的に乾燥地帯で、
分かりやすい水源はあまりない。首都のダールにしたって、農業や
生活用水に使うにはともかく、濾過も煮沸もせずにそのまま飲める
水はほとんど無く、井戸水だけでは賄いきれない水需要を海水を淡
水化する事でどうにかまかなっているようなものだ。
そんな事情を抱えながら、ダールはファーレーンと並んで、いや、
ファーレーン以上に冒険者が集まる国ではある。理由は単純、陽炎
の塔があるからだ。ここら辺はゲームの時も同じで、春菜がここを
拠点にしていたのも、陽炎の塔での装備集めをやっているうちに居
着いてしまったからである。装備そのものは、結局半分そろえたと
ころで挫折してオークションで購入したのだが。
もっとも、その陽炎の塔の存在故に、ぎりぎりのやりくりで浮か
せた飲料水を外部に大量に運び出さなければならないのだから、色
々と痛しかゆしである。飲み水が必要なのは塔に向かう冒険者だけ
1629
でなく、塔を管理するために作られた小規模な街の住人や、そこに
物資を運び込む商人たち、果ては砂漠近くにある宿場町などもなの
だ。ダールが首都でそれなりに多数の水源を抱えているにも関わら
ず、何処の国よりも水の値段が高い理由も、そこら辺にあるのだろ
う。
﹁それで、ここのお水はどうするの?﹂
﹁そらもう、ファーレーンと同じレベルで使えるように、普通に魔
道具で合成するつもりやで。そのために水道管とか通したんやし﹂
﹁なんか、すごく贅沢してる気分になるよね﹂
ファーレーンで一番安い酒の倍近い値段だったダールの水。ファ
ーレーンの安酒が冗談みたいに安い、というのもあるが、それでも
並の酒と比較してもやや高いのは事実だ。いかに魔道具と起動のた
めの魔力というコストを支払っていると言っても、そんな高価なも
のをじゃぶじゃぶと使えるというのは贅沢どころの騒ぎではない。
﹁水だけは、ちゃんとしたもんを確保できるようにしとかんとあか
んしな﹂
﹁まあ、それは分かるけど、別にそんなにじゃぶじゃぶと使えるほ
ど確保する必要はないんじゃないかなって﹂
﹁別に飲み水とか洗いもんだけの話やあらへん。ポーションとか口
に入れるもん以外でも、物作りには綺麗な水が必須やで﹂
﹁そうなの?﹂
1630
﹁春姉、それ結構常識﹂
﹁まあ、春菜さんにゃまだピンとけえへんか﹂
今のところまだまだ素材の品質の差が影響するほどの腕前になっ
ていない春菜には分からない事だが、綺麗な水というのは色々な作
業で重要になってくる。これはゲームの製造だけに限らず、現実で
の工業製品についても言えることである。特にハイテクがらみは汚
染されていない水が重要になるものも多く、水資源の汚染がそう言
う面でも問題になっている国は少なくない。
もっとも、どこでどう噛んでくるかが分かりやすい農作物や料理
などと違って、工業製品と綺麗な水の関わり合いがいまいちピンと
こないのは、しょうがない事かもしれないが。
﹁で、今思ったんだけど﹂
﹁ん?﹂
﹁鍛冶とかしないんだったら、この広さの工房は要らなかったんじ
ゃないかな?﹂
﹁どうやろうな﹂
かなり真剣な顔で亀裂を埋めていた春菜のコメントに、少しばか
り考え込む宏。実際のところ、ポーションとちょっとした消耗品ぐ
らいなら、普通の部屋で十分は十分だろう。実際、ファーレーンで
も最初の頃は三畳二部屋と四畳半かせいぜい六畳ぐらいのダイニン
グキッチンで色々な作業をしていたのだから、一時的な拠点にする
のに工房など必要ないのは事実だ。ただし
1631
﹁確かに消耗品補充するだけやったら、こんな広い物件はいらんね
んけど、な。そろそろ霊布ぐらいは織っとかんとまずいかも、思う
たらちっと他の物件は手狭な気がしてん﹂
﹁あ∼⋮⋮﹂
作る必要があるのは、何も消耗品だけではない。特にダールはレ
ンガや石材が素材のメインである。そういったものを加工するとな
ると、物によりけりとはいえどうしてもある程度のスペースは必要
になってくる。それに、割と長い間の課題となっている霊布の作成
となると、織機を置くのに必要な空間だけでもなかなかのものだ。
結局それなりの広さが必要となるのであれば、大してコストが変わ
らないなら安い物件を修理して使うのが一番、という結論になるの
である。
﹁でも、ファーレーン以外で長期滞在するたびに、こんな感じで工
房を確保するの?﹂
﹁状況によりけりやで。今回はここらで手に入る素材との兼ね合い
っちゅう面もあったから、わざわざ安い物件探して工房確保したけ
ど、ローレンあたりやと大掛かりな設備で加工するようなもんも手
に入らへんし、流石にこの規模の工房はいらんと思う﹂
﹁なるほどね﹂
納得できる回答を聞き、再び作業に戻る春菜。それほど長い時間
ではないとはいえ、手を止めて駄弁っていた間に澪があらかた終わ
らせてしまったため、そのまま内部の作業に移る。宏の作業に関し
ては、春菜と話をする直前に全て終わっていたため、それほど影響
1632
はなかったらしい。
﹁師匠、外は全部終わった﹂
﹁ほな、春菜さんと分担して内壁全部チェックして回って。僕は天
井と床を全部埋めてまうから﹂
﹁了解﹂
宏の指示に従い、床の傷みが比較的軽いあたりからスタートする。
流石に崩れるような傷み方はしていないが、どうしても足元がお留
守になりやすい事を考えると、宏の作業が終わるまでは床の状態が
いいところからやって回った方が無難である。
﹁とりあえず目標は、昼飯ここで作れるように、っちゅうとこで﹂
﹁分かったよ﹂
﹁頑張る﹂
結果を言うならば、この日の昼食はこの工房で作る事は出来たが、
作業自体がやや遅れたために食べたのは割と遅くなってからであっ
た。
1633
﹁急いで帰らなきゃ⋮⋮!﹂
ダール南地区。炎の神イグレオスを祀るイグレオス神殿・ダール
分殿に勤める神官見習いの少女が、メインストリートから一本外れ
た裏通りを走っていた。裏通りと言っても普通に店舗が立ち並ぶ表
通りとさほど変わらない商業通りで、走ったからといって誰かにぶ
つかるほど人の数が多くはないが、それでも下手な村の広場よりは
人通りが多い道だ。別段迷い込んだら無事では済まないような、治
安の悪い場所ではない。そもそも、まだ昼を少し回った程度の時間
帯であり、この時間帯に十代前半の女の子が一人で道を走ったとこ
ろで、余程運が悪くない限り命にかかわるようなトラブルに巻き込
まれるほど、ダール全域の治安は悪くはない。
そう、余程運が悪くなければ、である。どれほど治安のいい場所
であっても、絶対に事件に巻き込まれないと断言する事は出来ない。
事件というやつは起こるときは起こるし、命にかかわるトラブルな
ど、それこそどれほど安全だと思われる状況でも不意打ちで発生す
るものである。そういう意味では、彼女は実に運が悪かった。
日ごろから神殿の用事や個人的な買い物などでこの一帯の店を利
用している彼女は、それゆえに慣れも手伝って全く警戒せずに神殿
へ急いでいた。別段さぼっていた訳でも何でもなく、ついでに頼ま
れた仕事が多かった事と普段より寄付してもらった物品が多くなっ
た事が重なり、帰る予定の時間を大幅に踏み倒してしまったのだ。
理由が理由だけに叱られたりはしないだろうが、それでも遅れたこ
とには変わりない。そんな焦りから、少々注意力が散漫になってい
た事は否めない。
そのため
1634
﹁きゃっ!﹂
足元がおろそかになっており、それに全く気がつかなかった。
﹁いたたたた⋮⋮﹂
何かに足を取られて転び、痛みにうめく少女。比較的露出の少な
い神官衣のおかげで肘と膝を軽くぶつけた程度の怪我で済んだが、
それでも痛いものは痛い。運よく預かった物資をぶちまけたりはし
なかったが、転倒した本人には何の慰めにもならない。
﹁一体何に躓いたんだろう⋮⋮﹂
痛みが引くまでの間、自分が転ぶ原因となった何かを確認する少
女。自分が躓いたであろうそれを見て、思わず顔を引きつらせる。
﹁えっ? 何で?﹂
少女の視線の先には、岩でできた立派な手があった。いくら注意
力が散漫になっていたといえど、こんなものを見落とす訳が無い。
第一、こんなものがあったら、他の人が全く反応しないことなどあ
り得ない。つまり、その手は突然生えてきた、ということになる。
﹁な、何でこんなものが⋮⋮﹂
顔を引きつらせながら、本能に根ざした恐怖に負け、慌てて立ち
上がろうとする少女。だが⋮⋮
﹁えっ?﹂
1635
立ち上がろうとした瞬間、彼女の両腕と両足を何かがつかむ。突
然力一杯引っ張られる形になり、たやすくバランスを崩して再び地
面に転がる少女。
﹁えっ? えっ?﹂
何故自分が捕まっているのか分からず、思わず周囲を見渡す。大
きな違和感。
﹁な、何で誰もいないの!?﹂
そう。転倒する直前まで多数の人がいた通りは、いつの間にか無
人になっていたのだ。目に入る景色は先ほどと変わらぬ、石造りの
建物が並ぶごく普通の商店街。なのに、商店の中も含めて、誰一人
いない。
﹁誰か! 誰か助けて!!﹂
岩の手をどうにか引きはがそうともがきながら、必死になって声
を張り上げる少女。だが、万力のように強い力で彼女を捕らえる岩
の手は少女の筋力ではびくともせず、助けを呼ぶ声は人間はおろか
虫の気配すらしないこの空間にむなしく響き渡る。そして
﹁きゃあ!?﹂
ひとしきり無駄な抵抗を繰り返して疲れ果てた少女を、多数の手
が吊り上げる。どう転んでも碌でもない結末しか待っていないであ
ろう状況に、無駄だと分かりつつも再び必死になって抵抗を始める
少女。そんな少女をあざ笑うように、多数の岩の手は彼女を高く持
ち上げ⋮⋮。
1636
一向に帰ってこない事を心配した神官たちによって、消息が途絶
えた場所から更に二筋ほど離れた道で無残な姿になった彼女が発見
されたのは、翌日の朝の事であった。
﹁イグレオス神殿の見習いの子が、変死してたんだって﹂
﹁また、物騒な話やなあ﹂
宏達がその噂話を耳にしたのは、事件の二日後であった。正確に
は、あちらこちらで路上ライブをやっていた春菜が噂を拾ってきた
のである。
﹁しかし、神殿関係者に手を出すとか、なかなか命知らずだよな﹂
﹁まあ、堅気やない連中には恨まれとるかもしれへんけどなあ﹂
普通なら街中では起こり得ないような事件。その内容に何とも言
い難い顔でコメントするしかない達也と宏。この世界の神殿という
のは、権威はあれど権力が無い組織だ。権威を盾に何かを強要した
ところで、それが妥当なものでなければ誰も言う事を聞いてくれな
いのが、この世界の神殿の立場である。神殿内での権力闘争なども
無い訳ではないが、性質としてはファンクラブの闘争に近いものが
ある。それゆえに道を誤ればすぐにその地位を追われてしまうため、
1637
案外内部での腐敗は少ない。何しろ、場合によっては神自身が直接
裁定を下すのだから、金だの根回しだのでどうにかなるものでもな
い。エアリスが姫巫女なのに神殿での立場が弱かったのも細かな原
因はいろいろあれど、突き詰めれば人気が無かったからの一言に尽
きる。
システム上腐敗し辛い事に加え、神殿は土地の浄化や魔物よけの
結界の維持など、国や街を維持するために必要な作業を無償で行っ
ている。そんな組織だから、普通堅気の人間は神殿に敵対的な行動
などとる訳が無い。無論、神殿関係者も完璧な人間ではない以上、
個人間でトラブルを起こす事は普通にあるし、法を犯した人間の断
罪を神殿が代行する事も多いため、逆恨みの類も少なくはない。だ
が、それでも、変死させられるほど恨まれることはまずない。神殿
の機能が無くなって得をする人間など、社会生活を送っている限り
はいない。それこそ犯罪者ですら、神殿が無くなって得することな
ど無いのである。
故に、見習いが変死する、などという事件を起こした犯罪者がた
だで済む事はあり得ない。達也のコメントは、それを指してのもの
である。
﹁それで、どうする?﹂
﹁春姉、どうするって何が?﹂
﹁私達、一応神殿に用事があるよね?﹂
﹁今回の件は部外者やから、少なくとも僕は自分から積極的に関わ
るつもりはあらへんで﹂
1638
﹁まあ、それが妥当でしょうね﹂
神殿が絡む以上、どうせ無関係ではいられない。それは分かって
はいるのだが、かといって信頼関係が存在しない相手のために、自
分からどんな危険があるか分からないような厄介事に首を突っ込む
のは避けたい。神殿側もメンツとかプライドとかそういったものが
あるのだから、巻き込まれて成り行きで共闘したとかそういうケー
スでもない限り、何処の馬の骨とも分からない冒険者を頼ることな
どしないだろう。
﹁で、今日はどうする?﹂
﹁当分は冒険者らしくって方針だから、私は地理の把握も兼ねてま
ずは雑務系の仕事をこなせるだけ、って思ってる﹂
﹁あたしと達也は、例によって慣らしのための討伐系ね﹂
﹁じゃあ、ボクもそっちに﹂
﹁ほな、採取依頼行ってくるわ﹂
﹁いや、ちっと今は単独行動は物騒だから、ヒロは春菜と一緒に仕
事しとけ﹂
﹁せやな、了解や﹂
そんな感じでその日の予定はあっさり決まる。宏と春菜の組み合
わせ、というところでまた何かろくでもない事に巻き込まれそうだ、
などと考える達也と真琴。その予想を裏切り、本格的な活動開始の
初日はそれなりに穏便に仕事を終えることが出来るのであった。
1639
翌日。
﹁どれする?﹂
﹁これなんかいいんじゃないかな?﹂
﹁屋根の塗り直しの手伝い、か。確かに手ごろは手ごろやな﹂
見ると、作業するのはとある貴族の別宅。作業員が二人ほど、不
注意で足を滑らせて転落し、人手が足りなくなったため緊急依頼と
なったらしい。高所作業が絡む可能性がある割に報酬は安い仕事だ
が、とにかく急ぎで人員を確保するためにありとあらゆる伝手で人
員募集をかけているという事情から、何人来るか分からないため固
定給は安く抑えざるを得ないのだろう。
屋根塗り自体は熟練の技がある程度必要だから、多分臨時雇いの
人足の出番はない。彼らに求められるのは機材を屋根まで運んだり、
道具を洗ったりといった雑用の類だろう。怪我人が出て作業が遅れ
たため、職人にそれをやらせる余裕が無くなったらしい。それゆえ
仕事はいくらでもあり、多少人数が多くなっても遊ぶ人間は出てこ
ない状況のようだ。
いわゆる派遣業者という側面も持つ冒険者協会は、期限が短い場
1640
合はこの手の依頼を新人に強制的にやらせたりもする。少なくとも
ゴミ拾いや草むしりよりは報酬がいいし、外に出る仕事よりは安全
だからだ。今回もその例に漏れず、まだまだなり立てです、という
感じの新人が何人か送り込まれている。
﹁因みに、兄貴らは?﹂
﹁昨日よりちっとランク上げて、ストーンアントやってくるわ﹂
﹁それって、真琴さんの慣らしに使えるの?﹂
﹁今日は範囲攻撃の練習だから、ちょうどいいのよ﹂
﹁数も多いから、慣らしにならんってほど早く終わる事もないだろ
うしな﹂
達也と真琴の評価に納得し、各々仕事の手続きに行く。今回は澪
も宏達と一緒に行動するつもりらしく、達也達は二人組で依頼を受
領する。
因みにストーンアントは、その名の通り石のような外骨格を持つ
アリである。アリゆえに雑食で何でも食べ、この手の地域に住むア
リの例に漏れず、人間だろうが肉食獣だろうがドラゴンだろうが関
係なく襲いかかる獰猛な種である。平均的な大きさは大体五十∼七
十センチだが、大きいものでは一メートルを超える物も普通にいる。
働きアリの群れは平均して大体十匹前後。外骨格の硬さからナイフ
やレイピア、サーベルのような速度主体の武器は、普通の品質のも
のはほとんど役に立たない。そういった諸々から、討伐依頼を受け
る目安は七級のバランスが取れた、もしくは火力寄りの構成の五人
程度のパーティとなっている。
1641
その評価から分かるように、達也と真琴の慣らしやランクアップ
には丁度いい相手と言える。今回は陽炎の塔への補給ルート上にや
や大きめの群れが出没するようになったとの事なので、場合によっ
ては巣を探し出して駆除する依頼が出てくる可能性もある。流石に
そのレベルになると、いくら真琴のレベルが宏の四倍を超えるとい
っても、達也と二人で完遂できるような依頼ではなくなるのだが。
﹁まあ、とりあえず気ぃつけて行って来てや﹂
﹁分かってるって。転送石もあるんだし、無理はしねえよ﹂
宏の言葉に軽く手を上げ、大通りを砂漠方面に向かって歩いてい
く二人。なんとなくそれを見送った後、人足をやるために高級住宅
地の方へ足を向ける宏達。
﹁流石に、この一帯は綺麗な建物が多いよね﹂
﹁石造りの美学やな﹂
﹁師匠、どれぐらいで作れる?﹂
﹁中級は必須やけど、カンストまではいらんと思う。折り返してれ
ば行けるやろう﹂
宏の言葉に、微妙に残念そうな表情を浮かべる澪。とりあえず大
工は中級には届いているが、自分では作れそうにないと言う判断の
裏付けが出来てしまったのだ。
﹁私はそもそも、このレベルを作れるようになる気も起こらないし﹂
1642
﹁まあ、春菜さんはジャンルが違うからなあ﹂
﹁それもあるけど、こういう建物に住みたいって言ったら、宏君が
作ってくれるでしょ?﹂
﹁そら身内やねんし、材料の調達手伝うてくれるんやったら、いく
らでも建てるで﹂
何を当たり前な事を、と言わんばかりの宏に、内心でそうだろう
なあ、と呟く春菜。正直なところ、下着などが絡む裁縫以外、生産
関係は宏に全部丸投げで全く問題ない。というか、生産ジャンキー
の宏的に、むしろ丸投げはご褒美なのだ。とは言え、六級ぐらいま
での低ランクのポーションのように、宏的には目をつぶっていても
失敗しないようなものはときめきが薄いらしく、他の人間の修練の
ために割と積極的に仕事を振ってはいるが。
﹁とりあえず、貴族の持ち家の補修を受け持つんやし、今回の棟梁
もそれなり以上の腕を持っとるはずや。色々勉強になると思うから、
二人ともよう見ときや﹂
﹁分かった﹂
﹁了解﹂
宏の指示に頷く二人。もっとも、宏ほどではないだけで生産にそ
れなり以上の情熱を注いでいる澪はともかく、大工を極める気が全
くない春菜はそれほどの熱意を持って技を盗みに行く気はないのだ
が。
1643
﹁師匠こそ、勝手にちょっかい出して棟梁より熟練の技とか見せな
いように﹂
﹁注意はするけど、確約は出来んで﹂
澪の注意に、どうにも自信なさげに返す宏。別に全体的に特に問
題が無いのであればわざわざ手を出すつもりはないのだが、放置す
ると厄介なトラブルを発生させそうな事があったら、流石に見過ご
せる自信はない。
﹁いや本当に、そこは注意してよ、宏君﹂
春菜が不安そうにさらに釘をさすが、内心ではどうにもあきらめ
気味である。流石に何度もこういうフラグをスルー出来る訳もなく、
作業現場ではそれなりのトラブルに巻き込まれるのだが、この時の
彼女達は知る由も無かった。
﹁真琴、そっちはどうだ?﹂
﹁問題なし。本当によく斬れる刀だわ。そっちは?﹂
﹁危うくやりすぎるところだったが、ようやく加減がつかめてきた﹂
二方向から襲ってきたストーンアントの群れを殲滅し、互いの様
1644
子を確認しあう二人。ストーンアントは確かに強いモンスターだが、
達也のような魔法主体の後衛タイプでも、範囲攻撃を持っていてレ
ベルが百を超えていれば、特別な装備なしでもソロで一グループぐ
らいは始末できる相手である。もっとも、前衛後衛関係なく、特別
な装備なしのキャラがソロで狩れる相手と言うと、よほどのプレイ
ヤースキルの持ち主でもない限りはこのあたりが上限になってくる
のだが。
﹁それにしても、前から思ってたんだが職人製造の装備はどれもこ
れもトンでもねえなあ﹂
﹁まったくね。この刀も大剣も、確かに純粋なスペックじゃ煉獄の
武器には三枚ぐらい落ちるんだけど、特殊機能とか扱いやすさまで
含めたらいい勝負だし﹂
﹁俺は向こうでもちょくちょくヒロから装備を融通してもらってた
んだが、性能が凄すぎて下手に使えなかったんだよなあ﹂
﹁そういえば、その杖の多重起動だっけ? その機能にえらく驚い
てたみたいだけど、向こうにいたときはそういうのはなかったの?﹂
﹁後で聞いたんだが、俺が頼んだときはちょうどいい素材がなくて、
別の方向で同等ぐらいに強力そうなのを適当に作ってたんだと。考
えてみりゃ、こっちに飛ばされる直前にもらった神鋼製の杖とかむ
ちゃくちゃなスペックだったんだから、これぐらいで驚く理由はね
えんだよなあ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮怖いから、どんなものだったか聞くのはやめておくわ﹂
﹁そうしたほうがいい﹂
1645
重装より物理防御が高いローブや与えたダメージをHPとMPに
変換する杖、受けた魔法ダメージをHP回復に回す指輪など、これ
でゲームバランスをちゃんと取れているのだろうかと心配になる装
備品の数々を思い出し、思わず遠い目になる達也。状態異常耐性に
関しては少々甘い感じだったが、そこら辺はスキルで割と簡単に上
がるからエンチャント枠を他に回している、というのが正解なのだ
ろう。つくづくゲームバランスが心配になる。
もちろん、これらの装備もいろいろ限界はある。魔法ダメージを
受けると回復する、と言っても上級魔法は防げないし、重装より物
理防御が高いと言っても、同等ランクの素材で作ったものには当然
負けている。だが、それでも世に出ればそれだけでいろんなバラン
スが崩れる物ばかりなのは間違いなく、自重しない職人というのが
いかに性質が悪いかがよく分かる。
もっとも、自重という言葉を投げ捨てただけで生産関係でここま
で極まったものを作るのは、日本人ぐらいなのかもしれないのだが。
﹁しかし、数が多いな﹂
﹁これやらないと、報酬が入らないからしょうがないんだけど、面
倒くさいわよね∼﹂
﹁そういや、こいつらって何かに使えるのか?﹂
﹁あたしに聞かないでよ﹂
解体の度に行われる会話を、ここでも繰り返す達也と真琴。討伐
証明部位は頭だが、足は買い取りがあったはず、などとうろ覚えの
1646
記憶を頭の中で反復しながら順調にばらしていく。こちらに来る前
に宏がなにも言っていないのだから、多分他の部位は大した素材に
はならないのだろう、などとの結論で分かる範囲だけ確保しておく。
﹁全部で五十匹か﹂
﹁切れ間なく襲ってきたし、案外近場に巣があるのかもしれないわ
ね﹂
﹁そうだな。こいつは帰って報告する必要がありそうだ﹂
ストーンアントの巣は、存在そのものが致命的なレベルの危険物
である。町や村の近くにないのであればともかく、街道を徒歩で三
時間という程度の位置にあるのであれば、多少犠牲を出してでも可
能な限り速やかに駆除する必要がある。
﹁宏達がいるんだったら、このまま探して潰すんだけどねえ﹂
﹁流石に、俺達二人だと手に余る。今日はこのまま引き上げるぞ﹂
﹁了解﹂
達也の言葉に従い、残骸を適当に処理して立ち去ろうとする真琴。
巣が近くにあるのなら、早めに立ち去らねば新手に絡まれる可能性
がある。正直なところ、それはそれで面倒だから巣を潰しに行きた
いところだが、宏ならともかく達也達だと絶対に途中で息切れして
数に押し切られる。せめて向こうにいた時の装備がすべて手元にあ
れば、単身で巣の殲滅ぐらいは余裕で出来るのだが。
﹁ん?﹂
1647
街道に戻りかけたところで、真琴が何かに気づく。
﹁どうした?﹂
﹁なんか、向こうの方から地響きと悲鳴が聞こえてきたんだけど⋮
⋮﹂
﹁⋮⋮土煙が上がってるな﹂
﹁なんか、思ったより近いわね﹂
﹁俺らだけの時にこのパターンは、地味に珍しいよな﹂
﹁そうねえ﹂
などとのんきな会話をしながらも、足は真琴が声を拾った方に向
けている。これは別にお人よし根性だけでの行動ではない。状況的
に自分達にも何らかのトラブルとして降りかかって来る可能性が高
いため、それならば助けられるものは助けた方がいいだろうという
判断があったのだ。宏達と違い、達也も真琴も手助けすることによ
る明確なメリット、もしくは手助けしなければ受けるであろう明確
なデメリットが無ければ、それほど積極的にトラブルに首を突っ込
みたい性質ではない。
﹁ロックワームの群れか﹂
﹁まったく、どうなってんのかしら﹂
土煙のおかげで距離感がつかめなかったが、意外と近場で行われ
1648
ていたその戦闘シーンを二人が確認したのは、状況が発生してから
二分程度の事であった。群れ、というだけあって、先ほどのストー
ンアントとどっこいどっこい、つまりは五十を超える数がいる。は
っきり言って、障害物も何もない場所でやりあいたい相手でも数で
もない。そもそも、ロックワームはこれほどの群れを作る生き物で
はない。
そんな生き物の群れに、行商人の持ち物らしい馬車と、神殿の紋
章が入った立派な馬車が襲撃を受けている。護衛らしい騎士と冒険
者のグループが迎撃にあたっているが、ロックワームは六級程度の
冒険者が数人がかりで一体を仕留める前提のモンスターである。胴
周りが二メートル、全長が十メートル近くあるミミズの群れなど、
宏やドーガのような例外を除けば、正面からぶつかり合って無傷で
押さえきれるはずが無い。しかも、ロックワームはその名が示す通
り、表皮が岩でできている。岩のように硬いのではなく、文字通り
岩でできているのだ。普通の武器を普通に使っていては、決してダ
メージなど通らない。
﹁とにかく、助けるぞ!﹂
﹁分かってる!﹂
正直、こんなものをたった二人で正面から相手取るような真似は
したくない。彼らを助けた上である程度盾になってもらい、出来る
だけ少ない負担で仕留めるのが一番だ。
﹁ワイドヒール!﹂
﹁虚空閃!﹂
1649
まずは怪我人の治療を優先した達也と、戦闘不能になり止めを刺
されかけていた冒険者を救助するためワームを切り捨てる真琴。そ
こから一気に戦闘の流れが変わる。
﹁手助けするわ!﹂
﹁助かる!﹂
突然現れた援軍の申し出を、迷うことなく受け入れる隊長らしき
人物。状況的に、プライドがどうとかとても言えないようだ。
﹁オキサイドサークル!﹂
味方にできるだけ被害を出さず、かつ展開が速くて効果が大きい、
という理由から、迷うことなくオキサイドサークルを多重起動する
達也。ロックワームといえども酸素なしでは生存できないため、当
然酸欠攻撃は通用する。
﹁七割は押さえた!﹂
﹁了解!﹂
達也の報告を聞き、酸欠で動きが鈍くなったロックワームを踏み
台にし、後ろの方で渋滞を起こしているワームをターゲットに大技
を叩き込む。
﹁光破斬・一閃!﹂
そのまま斬りつけては、いかに魔鉄製の刀といえども有効なダメ
ージなど与えられない。なので、光属性の大技、それも一直線とは
1650
いえ広範囲を切り裂く必殺技に派生させて、十匹程度のワームを一
刀両断する。このまま連続でやればあっという間にケリがつきそう
だが、初っ端に使った防御無視技の虚空閃がコスト的に意外と重く、
また光破斬系列は一度出したら十二秒のクールタイムが存在する。
いかにコストが四分の一になるといっても、真琴も達也も宏のよう
に常時スキルを撃ち続けられるようなスタミナもMPも持ち合わせ
ていない。故に
﹁光王剣・円陣!﹂
コスト的にもう一段上の技を、全周囲を薙ぎ払うタイプのバージ
ョンで発動させて残りを半減させ、即座に離脱する真琴。真琴がゲ
ーム中で身につけた流派は、基本的に一つの技がいくつかの形態に
派生する構成になっている。光破斬も光王剣もこの流派の技として
は普通の派生のし方をするため、消耗や武器への負荷、威力などの
違いを無視すれば同じ使い方が出来る。
これが普通の刀であれば、ロックワーム相手にこれだけ荒い使い
方をすれば一発で破損するが、そこは流石に中級素材を使い一流の
職人が鍛え、しかもガチガチにエンチャントを施した代物。多少消
耗した様子は見せるが、それでもガタが来たり切れ味が鈍ったと言
うところまでは行かず、まだまだ血を吸い足りないといわんばかり
に物騒な輝きを宿している。本来ならもう一撃行きたいところだが、
相手の位置を上手くコントロールしないと効率が悪い技しか残って
いない。なので、もう一撃を入れるとすれば
﹁スマッシュホライズン!﹂
相手の位置を強引に誘導するためのスマッシュ系になる。今回は
相手を一ヶ所に固めるため、水平方向へのふっとばしに特化した物
1651
を放つ。これで、打ち漏らしのうち迂回して馬車に向かおうとして
いた奴が別の一匹を巻き込んで飛んでいき、残りの集団とひと塊り
になる。
﹁オキサイドサークル!﹂
そこに、多重起動で範囲を拡大したオキサイドサークルが飛び、
残りすべてを陣の中にとらえる。
﹁終わったな﹂
﹁お疲れ様﹂
達也と真琴が獅子奮迅の活躍をしている間に、騎士達も最初に相
手をしていたワームを仕留め終わったようだ。特に描写はしていな
いが、達也が多重起動で彼らの傷を治し、致命的な攻撃をバリアで
防ぎ、足止めの魔法を発動して手数を減らし、と、至れり尽くせり
のサポートをしていたのは言うまでもない。
﹁助かった、ありがとう﹂
﹁あのままだったら、俺達も巻き込まれそうだったから、気にしな
くていい。こっちも、あんた達に協力しなきゃヤバかったしな﹂
﹁とてもそうは見えんが﹂
﹁武器がいいからそう見えるだけで、あの数を二人で相手取れるほ
ど強くはねえよ﹂
いまいち信用してもらえていない事に気がつきながらも、とりあ
1652
えず釘をさすようにそう告げる達也。実際、彼らが足止めをしてい
なければ最初のオキサイドサークルが間に合うかどうかは微妙なラ
インで、そこをミスれば後は重量と数の暴力で挽き潰される以外の
未来はない。
また、宏特製の刀だからこそここまで粘れたが、普通の鉄で普通
の職人が作ったものだと、下手をすれば二発目の光破斬の段階で砕
けていた可能性がある。実際、宏が作った刀ですら、光王剣を使っ
た段階で多少の消耗は起こっていた。もう二発ぐらい大技を叩き込
んでいれば、壊れはしないまでも自動修復で間に合うかどうかは微
妙なラインであろう。
﹁それにしても、これ全部は流石に持って帰れねえよなあ⋮⋮﹂
﹁倉庫も、そこまでの余裕はなかったわよねえ⋮⋮﹂
﹁討伐証明部位だけでは駄目なのか?﹂
﹁仲間内に腕のいい職人がいるから、持って帰れば何かに使えるん
じゃないかって思ってるんだが⋮⋮﹂
とは言え、どれほど考えても無理なものは無理だ。しぶしぶあき
らめて、とりあえず入りそうな分として三匹程度、酸欠で仕留めた
ものを鞄に突っ込む二人。
﹁⋮⋮すごくたくさん入る鞄なのですね﹂
﹁まあ、元々凄まじく容積を拡張してある上に、さっき言った職人
が色々と細工してるからな﹂
1653
鈴の音のような美しい女性の声に反射的に応え、一拍置いてから
思わず首をかしげる。恐る恐る声がした方を振り返ると
﹁先ほどは、本当にありがとうございました﹂
顔を赤くして目を輝かせ、しっかりがっちり達也をロックオンし
た十代後半から二十代前半ぐらいの女性が立っていた。ダール人の
特徴である淡い褐色の肌に、ダール人にはやや珍しい青い瞳と金の
髪を持った美女である。
﹃なあ、真琴⋮⋮﹄
﹃あんたがこのパターンに引っかかるなんて、本当に珍しいわよね﹄
﹃⋮⋮ありがたくねえ⋮⋮﹄
真琴の断言に思わず心の底からそうつぶやき、ため息交じりに女
性の言葉を待つ。
﹁私はイグレオス神殿所属・ダール分殿で司祭をさせていただいて
います、プリムラ・ノートンと申します。お二人に是非お礼をした
いのですが、お名前を教えていただいてよろしいでしょうか?﹂
案の定という感じの言葉を聞き、自分達が厄介事に巻き込まれる
引き金を引くとは思わなかったとため息をつきながら、素直に自分
達の名前やら何やらを告げる二人。達也にとっては実にありがたく
ない一連のイベントが、ここで幕を開けたのであった。
1654
なお、余談ながら、後から説明をするのが面倒だと言うこととど
うせ関わりあいになるだろうからと宏達を回収しに行った達也と真
琴は、
﹁⋮⋮なんだ、このカオスは?﹂
工事現場で新米冒険者達に妙に懐かれている春菜と澪に、自身も
懐かれながら完全スルーして目を輝かせながら山積みになった石を
仕分けしている宏と、それをどことなく潤んだ瞳で見つめている神
官風の少女というなんともコメントに困る光景に遭遇する。
﹁ちょっと、いろいろあったんだよ﹂
﹁いろいろ、なあ﹂
﹁というか、そっちもいろいろあったみたいだけど?﹂
﹁まあ、いろいろあったんだよ﹂
何処となく疲れをにじませての春菜の言葉に、同じく疲れをにじ
ませて答える達也。結局のところ、平穏無事なファンタジーライフ
とは無縁な一行であった。
1655
第2話
﹁で、お前さん達の方は、どういう状況だったんだ?﹂
﹁どうって、普通に石材と宝石の原石を仕分けとったんやけど?﹂
﹁いや、その前の状況を聞きたいんだが⋮⋮﹂
イグレオス神殿・ダール分殿。互いの依頼の後処理やら何やらを
済ませ、色々落ち着いたところでようやく昼食にありつけ︵因みに
昼食は自前のノリ弁当。内容的には普通のあれだが、この世界では
地味に貴重な食材が入ってたりする︶、状況のすり合わせに移れる
宏達。もっとも、達也の質問の仕方だとその手のボケを返すのはも
はやお約束なのだが。
﹁その前っちゅうと?﹂
﹁そもそも、あの石の山はどこから出て来たのかとか、新米達がや
けにあんた達に懐いてたのはどうしてなのか、とか、それ以前に何
があったのか、とか、いろいろあるでしょうが﹂
﹁まあ、いろいろあるのはあるんだけど⋮⋮﹂
﹁師匠、春姉、何処から説明する?﹂
﹁せやなあ⋮⋮﹂
達也と真琴の言葉に、何から話すべきかというところを相談する。
1656
何からといっても、それほど長い時間かけて事態が進行したわけで
はないが、その分短期間にめまぐるしくいろんなことが起こったた
めに、何をどう説明すればいいかが分からなくなっているのだ。
﹁⋮⋮っちゅうか、結局何がどうなったんやっけ?﹂
﹁待てこら﹂
﹁いや、なんちゅうか、兄貴らが見た以上に流れがカオスやって、
目先のことに対応しとったら気が付いたらああなった、みたいな感
じやってん﹂
﹁もう最初から、時系列順に話せばいいじゃない﹂
﹁っちゅうても、発端はともかく、途中経過がいくつか、どれが先
やったっけっちゅうんが、目先のことに集中しとったからちっとご
っちゃになっとんねん﹂
よっぽどだったらしい。もっとも、宏に関しては、目先の素材に
意識が行っていて状況の変化をまるっと無視している可能性も否定
できないのだが。
﹁とりあえず、状況を整理する時間がほしいから、先に達也さん達
の方で何があったのか教えてもらっていい?﹂
﹁了解。っつっても、こっちの事情説明はそんなにボリュームはな
いがな﹂
﹁そうね。単にアリの駆除をある程度済ませて、さあ引き上げよう
か、ってタイミングでロックワームの群れとそれに襲われてる馬車
1657
を発見して、救助したら神殿の神官と陽炎の塔への補給帰りの商人
が乗ってた、ってだけだから﹂
﹁ちょっと待って、ロックワームって⋮⋮﹂
﹁あ∼、やっぱ春菜もそこが引っかかった?﹂
春菜と真琴のやり取りに一瞬怪訝な顔をし、すぐに何かに気が付
いた様子を見せる宏。一方の澪は、何がおかしいのかが分からない
らしい。
﹁なあ、真琴さん、ロックワームの群れって、どんぐらいの数やっ
た?﹂
﹁五十ってところね。正直、護衛の騎士団の皆さんに足止め役を振
れなきゃ、とてもじゃないけどあたし達だけで殲滅できる数じゃな
かったわね﹂
﹁そらまた、おかしな話やな﹂
﹁宏君もそう思う?﹂
﹁まあ、なあ﹂
このやり取りで、自分以外が何をおかしいと思っているかを理解
する澪。だが、残念ながらこの付近のモンスターにそれほど詳しく
ない澪では、どのあたりがどうおかしいのかがぴんとこない。
﹁ロックワームが群れを作るのって、おかしい?﹂
1658
﹁少なくとも、その数のコロニーは作らないよね?﹂
﹁性質的に厳しいわな﹂
澪の疑問に対してほかのメンバーに春菜が確認を取り、宏が断言
する。
﹁あたしとかは経験則のレベルだけど、やっぱり性質的におかしい
んだ﹂
﹁せやなあ。あいつら、群れを作る個体数が二桁超えたら、二桁切
るまで共食いしおるねん。せやから、ロックワームは基本、比較的
若い個体しかおらん﹂
﹁そうなのか?﹂
﹁せやねん。まあ、このあたりのきわどいバランスの土地で、あん
なでかい雑食生物がそんなでかいコロニーぼこすこ作ったらろくな
事ならんから、多分ある種の生存本能やとは思うで﹂
﹁あー、なるほど⋮⋮﹂
実に分かりやすく説得力のある宏の解説に、思わず本気で納得し
てしまう一同。だが、そうなると余計に不自然な点が目立つ。不自
然を通り越して、明らかに何らかの陰謀すら感じさせる。
﹁で、ロックワームは魔石系のええ材料がかなり一杯取れんねんけ
ど、どんだけ回収して来とる?﹂
﹁まずそっちかよ⋮⋮﹂
1659
﹁重要やん﹂
﹁いやまあ、そうだが⋮⋮﹂
やはり最後は素材の方に話が行く宏に、苦笑しながら正確なとこ
ろを告げる達也。持って帰れたの三匹分だけと聞き、今から回収に
行って間に合うかどうかなどと本気で検討し始める宏。もっとも、
ロックワームをちゃんと解体できる人間などそれほど多くないため、
今頃は通りすがりの誰かが討伐証明部位だけをどうにか切り取って、
他の宝の山はそのまま放置されているだろうとは思うが。
﹁とりあえず、素材については置いておくとして、そっちも神殿関
係が絡んでるんだ?﹂
﹁まあ、俺達が巻き込まれたのはともかく、ロックワームの群れっ
てのは明らかに神殿関係者狙いだろうしな﹂
﹁で、そっちもって事は、やっぱりあんた達のほうのごたごたも神
殿関係?﹂
﹁主原因はそうだと思う﹂
﹁主原因は?﹂
春菜の言葉に、怪訝な顔をするしかない達也と真琴。二人の反応
に、どこか疲れた感じの笑みで分かりあってみせる宏達。素材がら
みのテンションでそのときは気にならなかった宏だが、後から思い
出してみるとなかなか疲れる状況だったらしい。
1660
﹁本気で、何があったのよ?﹂
﹁せやなあ。とりあえず僕の主観で話するから、春菜さんと澪には
補足頼むわ﹂
﹁了解﹂
﹁師匠、できるだけ脱線は無しで﹂
﹁努力はしてみるわ﹂
あまり信用できない返事を返し、とりあえず起こったことを話し
始める宏であった。
話は、時系列的には達也と真琴がストーンアントを狩り始めたあ
たりに遡る。
﹁師匠⋮⋮﹂
﹁宏君⋮⋮﹂
宏は、二人から白い目で見られていた。理由は簡単、あれだけ釘
を刺されていたというのに、塗料の下塗りが甘い、というよりほぼ
塗っていないと言ってしまっていい場所を発見してしまい、ついつ
1661
い手を出してしまったからだ。そこだけ他の場所とは比較にならな
いほど綺麗に均等に塗られた下塗りの塗料は当然目立ち、棟梁にあ
っさりばれて質問攻めにあってしまったのである。
﹁流石にあれは見逃せんで﹂
﹁だったら、棟梁に報告すればいいでしょ?﹂
﹁手元に塗料あったから、代わりに塗ってもうた方が早い思った。
後悔はしてへん﹂
﹁⋮⋮開き直るのはどうかと思うな、私⋮⋮﹂
思いっきり開き直ってみせる宏に、ジト目で突っ込みを入れる春
菜。もっとも、宏の作業量が増える以外にこれと言って不利益はな
いので、そこまで怒るような事でもないのだが。
﹁とりあえず、思いっきり目をつけられたよね﹂
﹁まあ、世の中そんなもんや﹂
﹁師匠にそれを言う資格はない﹂
平常運転という感じで雑用を続けながらそんな会話をする三人。
他の駆け出し冒険者たちも、忙しく荷物を運び道具を交換しといっ
た作業にかけずり回っている。状況が変わったのは、持ち主の貴族
であるカーリー・デントリスが顔を見せたあたりからだった。国政
にも関わる高位の貴族である。
﹁進捗具合は、どんな感じかね?﹂
1662
﹁本館の屋根の塗装は、半分は完了しました。特に何もなければ、
本日中に本館は完了しますな﹂
﹁なるほど。その様子なら、明後日ぐらいには中に入れそうだね﹂
そんな風に、デントリスと棟梁が進捗具合について打ち合わせを
しているのを、やっぱり貴族の前では丁寧な口調になるんだななど
と思いつつ資材の仕分けをしながら聞くともなしに聞いていた三人。
今回使われている塗料は、後で多少の魔力を通す事で即座に定着す
る類のものだ。当然かなりの高級品なので、こういった貴族や豪商
の建物ぐらいにしか使われない。故に、施工主であるデントリスの
言葉は間違いではない。
もっとも、今回塗装がスムーズに進んでいるのは、宏が棟梁に入
れ知恵した異国の工法、という言い訳で誤魔化したエクストラスキ
ル一歩手前のやり方が影響しているのは言うまでもない。この時点
で工事の責任者が暫定的に宏に移っているため、彼の持つスキルが
施工速度に大きく影響しているのだ。
﹁⋮⋮ん?﹂
﹁どうなさいましたか?﹂
﹁このような工事現場に似つかわしくない、実に可憐な花を見つけ
てね﹂
﹁ああ、ハルナの事ですか﹂
可憐な花、という言葉に即座に誰の事かを理解する棟梁。この場
1663
にいる女性は春菜と澪の二人だけ。どちらも一般的な水準をはるか
に超える美貌を誇るが、そのうち彼の趣味嗜好に合致する年齢と体
格体型を持っているのは春菜の方だ。なお、棟梁が春菜と澪の名前
を覚えていたのは、単純に数少ない女性だからということに加え、
宏と併せて三人とも八級というこんな雑用を引き受けるような等級
ではないことも影響している。
﹁ふむ、ハルナと言うのかね?﹂
﹁はい。臨時雇いの冒険者ですが、ランクが八級ですのでそれなり
の実力は持っているかと﹂
﹁八級の冒険者がこういう仕事を受けるとは、また珍しい﹂
﹁本人達は、来たばかりで街の構造が分からないから、それを覚え
るためにこういった雑用を引き受けている、と言っとりました﹂
やはり抱く疑問は同じか、などと思いながら、三人の事情を説明
する棟梁。棟梁は特に断ってはいないが、さっきから基本的に三人
一組で行動し、息の合い方も他の冒険者達とは比較にならないレベ
ルなのだから、宏達三人がパーティかチームを組んでいる事は誰の
目にも明らかである。
﹁なるほど。実に興味深い話だ﹂
﹁はあ⋮⋮﹂
デントリスの言葉に、また始まったとばかりに生返事を返す棟梁。
この貴族は領民や王都の一般庶民の事もよく考え、搾取をしない割
には民の生活向上に関わる事には気前良く金を使うなど、為政者と
1664
しては悪くない人物ではある。だが、そんな彼も自身のスケベの虫
だけは制御できないらしく、好みの女を見つけるととにかく蛇のよ
うに執念深くアプローチを繰り返す悪癖がある。今のところ、彼の
好みが一定以上の年齢できちっと凹凸のある胸の大きな美女という
手を出しても社会的に問題にならないタイプだからいいが、澪のよ
うな外見やもっと幼いのが好みだったら、周りの人間は実に大変だ
ったに違いない。
とりあえず、地位をかさに着て無理強いする事はないが、それで
も口説かれた女は他国の王族などを除き、基本的に全員誘いに乗っ
ている。そのうちの半分はその地位に負けて、最終的には満足して
いるとはいえ最初の段階では意に沿わぬ関係を結んだ女だ。残りの
半分のうち七割は地位や金に目がくらんで遊びの関係にホイホイ乗
って、半分のうちの三割は伊達男のデントリスと火遊びを楽しんで
いるという感じで、今のところ彼と真剣に恋愛をして、などという
女は一人もいない。奥方からして政略結婚であり、関係こそ険悪で
はないが容姿も金もテクもある肉体関係前提の友人という感じから
抜け出してはいない。
そういう男だから、普通はこれと言ってバックがある訳でもない
冒険者の小娘を口説く事に、何のためらいも持たないのも当然であ
ろう。もっとも、巨大なバックがあって、下手をすれば国際問題に
なりかねないと分かっても、好みの女を見て口説かないなどという
選択肢は持たないのがカーリー・デントリスという男だが。
﹁君のような美しい女性が、こんな仕事をしているとは珍しいね﹂
﹁そう言う口説き目的のお世辞は、間に合っていますので﹂
施主であり国の基幹にも関わっている男に対し、見事な愛想笑い
1665
を浮かべながら平気でそっけない返事を返す春菜。この手の口説き
文句はファーレーンにいる間に腐るほど聞かされているし、下半身
直結型の貴族男性に口説かれた経験も豊富だ。故にデントリスがど
ういうタイプかぐらいは即座に見抜いている。この手のタイプは誘
いを断ったところで気を悪くしたり地位をかさに着て脅したり、金
の力でこちらに危害を加えたりはしてこないが、その分相手が手ご
わいほど燃える。目をつけられた以上簡単にあきらめたりはしない
だろうから、適当に相手をしてはぐらかし続ける以外ない。
ファーレーンの王家に泣きつけば一発で話は解決するだろうが、
この程度の事でわざわざ一国のトップの手を借りるのも馬鹿馬鹿し
い。故に、春菜は完璧な営業スマイルでお呼びでない事を突きつけ
続けることに決めたのである。もっとも、ファーレーン王家からす
れば、宏達の囲い込みの観点から、むしろこういうことこそ泣きつ
いてきて欲しい、というか、こんな事でアズマ工房がフリーな立場
で無くなる事の方が厄介なので、知れば頼まれなくても介入しただ
ろうが。
﹁おやおや、つれないね﹂
﹁自分で言うのもなんですが、これでも結構粉をかけられてますか
ら﹂
作業の手を止めずに、失礼にならない程度に愛想よく対応を続け
る春菜。微妙な状況におたおたしている新米冒険者たちに指示を出
しながら、宏と澪に全体の進捗を確認して手際よく次に必要なもの
を準備する。
﹁とりあえず、今は仕事中ですし、中断はこちらの信用に関わって
くる問題なので、後にしていただければ助かります﹂
1666
﹁本当につれないね﹂
﹁残念ながら、そういう人間ですから﹂
﹁なるほどね。作業の手を止めて済まない﹂
流石に、今この状況で口説き続けるのは逆効果だと判断したらし
い。使用人に来訪者がいる事を告げられた事もあり、この場は割と
あっさりと引くデントリス。相手が誘いに乗ったのであればともか
く、立場を利用して仕事中の女性を強引に誘って中断させるという
のは彼のポリシーに反する。もちろん、この状況で誘いに乗ったと
しても、デントリスの身分に負けてという可能性がある事ぐらいは
理解しているので、誘いに乗った春菜のマイナスにならないように
泥をかぶるぐらいはするつもりだが。
﹁これ以上仕事の邪魔をするのは避けるから、後でもう一度チャン
スをくれないかな?﹂
﹁駄目だと言っても、あきらめないのでしょう?﹂
﹁もちろんだとも﹂
にこやかにいい笑顔で言い切ったデントリスに苦笑し、しょうが
ないなあという感じでしぶしぶ同意して見せる春菜。もっとも、表
情とは裏腹に彼女から発散される空気は限りなく冷たく、笑ってい
るように見える瞳にはその実、デントリスに対しては何の感情も浮
かんでいない。あるのは十把一絡げのナンパ男に口説かれて余計な
時間を取られた事に対するわずかな苛立ちと、意中の相手がいる状
況でまるでそう言う女のように扱われた事に対する怒りだけ。大貴
1667
族であるはずのデントリス相手には、全くと言っていいほど関心を
持っていない。
﹁春姉、大丈夫?﹂
﹁本人に言うのも陰口叩くのもよくないんだけど、正直ああいう顔
と身体だけが目当ての男は、はっきり言ってうざい﹂
妙に上機嫌にデントリスが立ち去ったのを確認した後、恐る恐る
声をかけた澪に小声でかなりきつい感想を漏らす春菜。もっとも、
作業場が妙に静かになっていた事もあり、近場にいた男達にはその
発言はきっちり聞こえていたのだが。
﹁ま、まあ、あれは師匠とは正反対のタイプだから、しょうがない
んだけど﹂
﹁本当にね。宏君みたいに紳士的に、とまでは求めないから、せめ
て仕事中にわざわざ粉かけに来るような非常識な真似はやめてほし
い﹂
﹁師匠は師匠でどうかと思うんだけど⋮⋮﹂
トラウマの事を差し引いてもこういう問題ではヘタレすぎる宏に
関しては、紳士的と評するのは評価に下駄をはかせすぎている気は
する。実際、今も春菜の静かな怒気にビビって目をそらし、微妙に
ガタガタ震えながら塗料の混合比率のチェックなどという今やらな
くてもいい作業に没頭するふりをする、という見事なヘタレぶりを
見せている。
女を口説けとまでは言わないが、チームのメンバーが迷惑してい
1668
るのだから、澪的にはこの場を去る口実になるような仕事を振ると
か、そういった何らかのアクションは欲しいところだった。あくま
でも澪の認識ではだが、この手のケースだと声をかける相手は実質
的には男になるのだから、女性恐怖症はそこまで致命的な問題にな
らないはずなのである。
﹁それにしても、こんな工事中のお屋敷にお客さん?﹂
﹁あ、澪ちゃんもそこは気になった?﹂
﹁ん﹂
どうせそろそろ昼食のための休憩だという事で区切りのいいとこ
ろで棟梁の許可を得て作業の手を止め、デントリスが対応のために
向かった正門の方に視線を向ける二人。今は正面玄関付近で作業を
しているため、スキルの無い春菜の視力でもデントリスが二人ほど
の来客と立ち話をしている姿が十分に見てとれる。澪の目ならば、
来客が初老に差し掛かろうかという神殿関係者とその付き人と思わ
れる見習いらしい少女の二人だという事も確認できる。
﹁来てるのは多分、神殿関係のそれも偉い人﹂
﹁そらまた、変な話やなあ﹂
﹁だよね﹂
ようやく復活した宏が、二人の雑談に混ざってくる。見ると、宏
が混ぜ終えた塗料は既に職人たちの手に行きわたり、下塗りの赤だ
った屋根が仕上げの色である緑に変わり始めていた。
1669
﹁感じからいうて、割と高位の神官か司祭みたいやけど、わざわざ
こっちに来とるあの貴族様を探してまでって、どういう用事なんや
ろうなあ﹂
﹁私的にはそこを気にしたら、余計なフラグが立ってその事情に巻
き込まれそうだから嫌なんだけど⋮⋮﹂
﹁なんもせんでも巻き込まれそうなんがなあ⋮⋮﹂
宏の言葉は、それほど時間がかからぬうちに現実となる。もっと
も、三人とも神殿関係者の変死というニュースを聞いた直後にこれ、
という時点で巻き込まれる覚悟自体は微妙に出来上がっていたりす
るのだが。
﹁あとなあ﹂
﹁こそこそしてる人が一人、居るよね﹂
﹁居るなあ﹂
宏と澪の言葉に、さすがに驚いた顔を見せる春菜。彼女の気配感
知能力では、さすがにそこまで判断出来なかったのである。
﹁っちゅうか春菜さん﹂
﹁ん?﹂
﹁さっきの貴族、もしかしてアルヴァンのユニーククエの焼き直し
なんちゃうか?﹂
1670
﹁あっ⋮⋮﹂
宏の言葉に、初めてそこに思い至ったという表情を浮かべる春菜。
ああいう口説かれ方をするのは珍しくないため、何かのクエストの
フラグだとまでは考えなかったのだ。
﹁後、なんかこっち来とる気がするんやけど、どう思う?﹂
﹁来てるよね﹂
﹁間違いなくこっち来てる﹂
色々といやな予感がする状況で、思わず内心でこっち見んななど
と叫んでしまう三人。そんな三人の願いも空しく、デントリスと来
客は宏達三人に目をつけ、こちらに歩み寄ってくる。
﹁どうしよう、また余計なフラグが立ってる気がするんだけど⋮⋮﹂
﹁っちゅうか、あの人らに今から絡まれるよりももっと面倒な事が
起こりそうな雰囲気や﹂
﹁えっ?﹂
﹁流石にこのレベルの瘴気だと、まだ春姉には分かんないか﹂
﹁澪、僕やとこそこそしとんのは一人しか分からんけど、他に居る
か?﹂
﹁敷地外、というか二軒隣の屋根の上に、微妙に瘴気が滲み出てる
何かがいる﹂
1671
宏と澪の会話で、どうやら何かが起こりそうだという事を把握す
る春菜。一応冒険者らしくという事でレザーアーマーを身につけて
きたのが、思わぬところで役に立った形である。
﹁来おる!﹂
ヘビーモールを取り出して、微妙な空間のゆがみに意識を集中す
る。ヘビーモールを選んだのは、単にこのあたりのモンスターは打
撃武器が効きやすいからという、あまりあてにならない判断からで
ある。
﹁こらやばい!﹂
出てきた何かを見て、宏が叫ぶ。出てきたのは、ストーンゴーレ
ムを主力とした魔法生物の群れであった。流石に魔力か召喚能力か
の限界があってか、ストーンゴーレムは見える範囲ではわずか三体、
他は一番強くてマッドマンという、八級でも魔法か魔法剣が使えれ
ば一対一で余裕で仕留められる雑魚ばかりだったが、とにかく数が
多い。その上、この場にいる人間の七割近くは、身体能力こそ高い
が戦闘能力はほとんど持ち合わせていない職人たちなのだ。デント
リスはそれなり以上の技量を有してはいるようだが、その彼と初老
の神殿関係者を含めても、まともに戦力換算できるのは五人程度。
突然の事に新米達は頭の中がパニックを起こしているようで呆然と
しており、迎撃行動など取れてはいない。
﹁こいやあ!!﹂
とにかく敵をフリーにしては拙い。数がどうとか細かい事は抜き
にし、全力でモンスターをかき集めるためにアウトフェースを気合
1672
とともに発動させる。
﹁自分らも冒険者のはしくれやったら、武器ぐらい抜かんかい!﹂
その場にいた敵が全員自分に向かってきたところを確認し、まだ
目立ったアクションを起こさない新米達を怒鳴りつける。宏に怒鳴
られてようやく自分達がとるべき行動に思い至り、大慌てで荷物の
中から各々の武器を取り出し、一番近くのモンスターに攻撃を仕掛
ける。
﹁宏君、澪ちゃん!﹂
﹁助かるわ!﹂
﹁ありがとう、春姉!﹂
レイピアを抜いて真っ先に女神の加護を自分を含めた三人にかけ、
数を減らす事を優先する春菜。そこへ
﹁ハルナ君、大丈夫かね!?﹂
客人たちとともに、わざわざ春菜のところにデントリスが駆けつ
けてくる。
﹁私の心配をしている暇があったら、一体でも数を減らしてくださ
い!﹂
マッドマンを三体同時に始末しながら、春菜に対して格好をつけ
ようとしているデントリスを叱り飛ばす。その言葉に、別の誰かが
反応した。
1673
﹁確かに、このお嬢さんの言っている事は正論だ。そうだろう、デ
ントリス君?﹂
﹁アルヴァン!? 何故貴様がここに!?﹂
﹁どうにも不穏な気配があってね、色々探っているうちにここで事
が起きるだろうと確信したから、少々待ち伏せをしていたのだが、
いけなかったかね?﹂
﹁味方を挑発してる暇があったら戦う!﹂
状況を忘れて斬り合いを始めそうな二人を一喝し、宏が転倒させ
たストーンゴーレムのコアを貫く春菜。新米達もそれなりに奮闘し、
モンスターの数が徐々に減っていく。もっとも、この戦闘で最大の
功労者が誰かと言うと、
﹁じゃんじゃんバリバリかかって来いやあ!!﹂
ストーンゴーレムを全て抱え込んだ上で、敵の注意を引きつつ威
圧で動きを止めるという荒技で、戦況を完全にコントロールしての
けていた宏であろう。とは言え、ストーンゴーレム全部といったと
ころで、実際のところは三体のうち一体はほぼ最初の段階でスマッ
シュとスマイトでのお手玉により粉砕されており、残り二体のうち
一体も春菜に仕留められたのだが。
﹁春姉! ちょっと別作業!﹂
﹁了解!﹂
1674
ある程度数を減らして宏の負担を減らしたところで、澪が武器を
短剣から弓に切り替える。そのまま、二軒隣の大邸宅の屋根に立っ
ている何者かに向けて、小手調べ的に二発ほど矢を放つ。眉間と心
臓のあたりを矢が貫いたところで、その不気味な人影が空気に溶け
るように消え、更に庭の状況が変わる。
﹁えっ?﹂
邪魔にならないように必死に立ち回っていた見習いの少女の足を、
岩でできた手が力一杯つかみ、引きずり回し始めたのだ。
﹁てい!﹂
その様子を確認した宏が、即座にストーンゴーレムの腕を砕いた
後弾き飛ばして鍛冶用ハンマーをポシェットから取り出し、ダッシ
ュで近付いて岩の手を砕く。邪魔が入ったと見たか、更に増える岩
の手を、出てくる端から砕いていく。年配の男性の方にも岩の手が
襲いかかっていたが、こちらは年の功か実力の差か、宏達が手を出
すまでもなく自分のメイスで何事も無かったかのように粉砕しての
けている。
﹁そこかい!!﹂
出てくる端から岩の手を砕きながら、本体と思われる場所を探り
当てる宏。即座に武器をモールに持ちかえて、インパクトの瞬間に
へヴィウェイトを発動しながらスマイトで地面を殴る。その頃には、
ストーンゴーレムも含む他のモンスターはほぼ駆逐され、残りの異
変はこの岩の手だけになっていた。
﹁なっ!?﹂
1675
﹁ほう。グラムドーンとは、なかなかに厄介なものが出てきたな﹂
宏の一撃であぶり出されたのは、陽炎の塔の二階の階段を守るス
トーンゴーレムの変異種・グラムドーンであった。十五階建てであ
る塔の二階の階段とはいえ、上級ダンジョンに分類される陽炎の塔
を守るボスだけあって、基本スペックだけでもその戦闘能力はスト
ーンゴーレムはおろか、砂漠に出没するモンスターの九割より強い。
その上、地面と同化して予測できない攻撃を仕掛けてくるというな
かなかに嫌らしい、上級者の登竜門のようなボスである。故に、そ
れなりの実力者であるデントリスが顔を引きつらせる程度には強い。
そう、確かに強いのだが⋮⋮
﹁よっしゃあ! 石材ゴチや!﹂
いくら強いと言っても、ダンジョンと一体化したイビルエントと
比較すれば五枚は落ち、宏基準で特に火力のある攻撃を持っている
訳でもなく、更に重量級の打撃武器に対して意外と脆いという弱点
まであるとなると、宏にとっては単なるカモ以外の何者でもない。
他の誰かが手を出す時間すらなく、コアだけを残してきっちり全身
をばらばらにされて活動を停止する。所詮、総合性能ではケルベロ
スよりやや勝る程度のゴーレムなど、大した脅威にはならないので
ある。
﹁あ、あの!﹂
﹁まずコアは回収するとして、ちっと品質チェックやな﹂
赤い顔をしながら宏に声をかけようとしている見習いの少女をス
ルーし、まずは素材収集にいそしむ宏。
1676
﹁えっと、お手伝いしたいんですが、何をどうすればいいでしょう
か?﹂
﹁せやなあ。持てる範囲でええから、ストーンゴーレムの破片とか
もこっち持ってきて﹂
それを見て、何をすべきか即座に悟った見習いの少女は、アプロ
ーチを変えることにしたらしい。宏の指示に従い、比較的軽いもの
を運んでいく。そんな少女の様子を見た他の冒険者たちが、宏を尊
敬の目で見ながらゴーレムの残骸をどんどん運びこむ。
﹁さて、私は私の仕事をする事にしよう﹂
﹁待て、アルヴァン!﹂
﹁また会おう、デントリス君。それはそうと、お嬢様方﹂
﹁何かな?﹂
﹁次に会う時は、ヒーローの彼もいっしょに食事でも﹂
﹁お断りします﹂
アルヴァンの誘いをにこやかに一刀両断してのける春菜に、これ
また尊敬のまなざしを向ける新米達。そうして、彼が立ち去ってす
ぐぐらいのタイミングで達也達が合流したため、二人は一番カオス
な状況を目撃することになったのだった。
1677
﹁なるほどねえ﹂
いくつか春菜と澪に補足されながら、とりあえず思い出せる限り
の流れを話し終えた宏に、思わずため息を漏らす真琴。確実に一連
の事件の黒幕に目をつけられている上に、デントリスとアルヴァン
というこれまた面倒くさそうな連中に気に入られてしまった、とい
うのは、正直かなり頭の痛い話である。
因みに、宏が語った内容は実際にはここまできっちり整理されて
いる訳ではない。また余分だと思われる枝葉を全てそぎ落としてあ
るためそれほどややこしい状況には感じられないだろうが、実際に
は口説かれる前にひと悶着あったり、一応お尋ねものであるアルヴ
ァンを捕まえようと余計な事をした新米がいたり、戦況が落ち着い
てきたあたりでまたデントリスとアルヴァンが揉めはじめたり︵正
確にはデントリスが一方的に突っかかり、アルヴァンに軽くあしら
われている訳だが︶と、こまごまと場を混乱させる出来事はいろい
ろと起こっている。それに、宏は現実逃避していた間の事は、ちゃ
んと把握していない。
﹁で、アルヴァンって、結構いい男だった?﹂
﹁真琴姉が薄い本を妄想するぐらいには、色男だった﹂
﹁なるほど、それはいい事を聞いたわ﹂
1678
﹁色男、なあ⋮⋮﹂
宏の何とも言えない表情を見て、不思議そうな顔をする一同。別
にアルヴァンが色男だろうがなんだろうが、普段の宏ならば全く頓
着するような事ではない。なのに、色男という評価に妙な表情を浮
かべるところを見て、これはもしや春菜に脈があるのか、などと内
心期待していると
﹁なあ、春菜さん。ちょっと確認したいんやけど﹂
更に周囲の期待をあおるように、宏が春菜に話を振る。
﹁えっと、何かな?﹂
﹁ゲームの時のアルヴァンって、ほんまに男やった?﹂
﹁えっ?﹂
その、誰にとっても予想外な問いかけに、その場にいた全員の目
が丸くなる。
﹁ちょっと待って、師匠﹂
﹁ん?﹂
﹁あのアルヴァン、女なの?﹂
﹁少なくとも、僕はあれが女やって断言できるで﹂
﹁本当に?﹂
1679
﹁僕が、天敵を見間違えると思うか?﹂
物凄い説得力を持つ宏の言葉に、全員反論できずに黙ってしまう。
思えば、服装や髪形以外での男女の識別が難しい育ちと年頃のファ
ムを、宏は一目で女の子だと見抜いていた。他にも冒険者仲間のど
う見ても女にしか見えない女装男を一目で男と見抜いていたりと、
トラウマが絡むだけに性別がらみの感覚は常人の理解を超えるレベ
ルで鋭い。
﹁まあ、アルヴァンが男か女かは、別段どうでもええこっちゃ﹂
﹁いやいやいや﹂
﹁よくないよくない﹂
それなりに重要そうな問題を凄まじい暴論で切って捨てる宏に、
達也と真琴が即座に突っ込みを入れる。
﹁いや、別段どうでもええやん﹂
﹁春菜を口説いてるのが女ってのは、それなりに問題があるんじゃ
ねえか、と思うんだが?﹂
﹁あたしもそう思う﹂
﹁あれがそう言う趣味持っとっても、それ自体はこっちにゃ実害な
いやん。あれが男でも女でも、春菜さんが口説かれるっちゅうのは
結局変わらんやろうし﹂
1680
﹁なんか、そこまでドライに割り切られるのは私としては結構複雑
⋮⋮﹂
どっちに転んでも春菜が口説かれるという結果は変わらないとい
う宏の言い分は、確かに間違っているとは言えない。言えないのだ
が、宏の口ぶりでは、春菜がアルヴァンに押し倒されても、性交渉
的な意味では本当にまずい事態にはならないとか考えていそうなの
が怖い。いくら相手が女でつくものがついていなかったとしても、
本番をこなす手段などいくらでもある事ぐらいは、春菜の微妙な性
知識でもなんとなくわかる。
仮にアルヴァンが女性で、何らかの形で押し倒されてそう言う事
をされたとして、今の春菜にとってある意味で一番大事な、出来れ
ば宏に奪って欲しいものが無事だったとしても、きっとものすごく
自分が汚されたような気分になるのだろう。男女関係なくそういう
本を読んでいたりする事には寛容な春菜といえども、やはり性的な
事は惚れた男以外とは絶対したくない程度には普通の乙女なのだ。
﹁感じから言うて、今日春菜さん口説いとったんは、どっちも力づ
くでとかは嫌いそうなタイプやから、春菜さん本人が徹底的に拒否
すれば大丈夫ちゃうか?﹂
﹁その根拠は?﹂
﹁そらもう、力づくでやるっちゅうんやったら、アルヴァンの方は
ともかく、デントリスさんの方はとうの昔に権力使うて無理やり奪
いに来とるやろう﹂
﹁ああ、なるほどな﹂
1681
女性恐怖症で男女の恋愛とか他人のものでも触れる気も無いくせ
に、妙なところで妙に説得力のある分析をする男である。もっとも、
女性恐怖症ゆえに天敵について徹底的に観察、研究した結果の分析
能力だという面があるのはここだけの話だが。
﹁とは言え、断りきれない事とかもあるかもしれないから、いっそ
宏が春菜の初めてを奪っちゃえば?﹂
﹁そんな怖い事言わんといてえや⋮⋮﹂
﹁怖いって、春菜なら合意の上だったらあんたが怖がるような事は
しないと思うんだけど?﹂
﹁こっちではともかく、向こう帰った後の事考えたら怖すぎて、二
次元以外にはよう手ぇ出せん⋮⋮﹂
据え膳でも絶対に手を出さないほど警戒心と恐怖心が強い男、東
宏。春菜の方も宏の言いたい事が分からないでもないため、真琴の
提案が出た時の妙な期待を捨てて話を変えることにする。
﹁まあ、その話は置いておこうよ﹂
﹁せやな。デントリスさんの方は最悪、ファーレーン王室のあれや
これやを出して国際問題的な方向に持って行けば何とかなりそうや
し、アルヴァンに関しては今考えるだけ無駄や﹂
期待してしまったという事と真琴の露骨な応援に対して顔が赤く
なっている事を自覚しつつ、どうにか話を変えることに成功する春
菜。相も変わらずどこか他人事の宏に微妙に傷つかなくもないが、
宏自身にできることが特にないという事とジャンル的に手助けを求
1682
めること自体に無理がある事を考えれば、彼の態度に文句を言うの
は筋違いだろう。そもそも、宏と春菜は仲間ではあっても恋人では
ない。今までの態度で自力で対応できる事を示してしまっている問
題である以上、まだどうとでもなる段階で宏が口を挟むのもおかし
な話である。
﹁今回の件、やっぱり邪神教団が絡んでると思う?﹂
﹁ここまで露骨だと、他にあり得ないだろうな﹂
﹁召喚系であれこれやってくるのは、バルドの時も同じだったわよ
ね﹂
﹁屋根の上にいた奴の瘴気のパターン、偽バルドに似てた﹂
口々に状況証拠を上げていく一同。ファーレーンの時に比べると
手口がやけに直接的だが、活動範囲が広い分かえって対処に困る面
はある。
﹁とは言え、連中のやり口としては違和感はあるよな﹂
﹁せやなあ。ファーレーンの時はものすごい時間かけて浸透しとっ
たみたいやし﹂
﹁その話、詳しく聞かせていただいてよろしいですかな?﹂
状況の分析に夢中になっていた宏達に、落ち着いた老人の声がか
けられる。その言葉にびくっと体を震わせ、恐る恐るいつの間にか
入ってきていた老人に視線を向ける一同。
1683
﹁大変長らくお待たせして申し訳ない。このイグレオス神殿・ダー
ル分殿を預かる、神官長のボルドワと申します。まずは此度の事に
ついてのお礼をさせていただきたい﹂
予想以上の大物の登場に、いきなりディープなところに首を突っ
込む羽目になった事を悟る日本人達であった。
一方その頃、ダール城の王家の執務室。
﹁⋮⋮やけに上機嫌ですね⋮⋮﹂
﹁ふむ、やはり分かるか?﹂
﹁いつの間にか抜け出して、帰ってきたと思ったらその表情です。
分からないはずがありません﹂
脱走癖のある女王に対し、早速嫌味をぶつける女王の腹心・セル
ジオ。もっとも、脱走して戻るたびにこの程度の嫌味は聞かされる
のだから、今更この女王が堪える訳が無いのだが。
ダール王国の女王・ミシェイラは、現在二十八歳。この世界の基
準では少々とうが立ったと言われてしまう年齢だが、実際には女盛
りという表現が最もしっくりくる、あでやかな女性である。
1684
ゆるくウェーブのかかった金の長い髪にダール人の特徴である淡
い褐色の肌、彫りの深いややきつめの印象を与える華やかな顔立ち
に、春菜やアルチェムには一歩半ほど譲るが、それでも見事な凹凸
を持つ肢体の、一言で評価するならふるいつきたくなるようないい
女となる女性である。
こんな彼女だが、実は王に即位した後すぐに崩御した夫との間に
三人の子供をもうけた、立派な母親でもある。一番上の王子はそろ
そろ本格的に国政に関わりはじめようかという年頃で、年に似合わ
ず理知的で落ち着いた性格をしている。そんなしっかりした息子に
甘え切ったこの女王は、実務こそバリバリにこなしてはいるが母親
としては愛情を注ぐ以外は思いっきり手抜きをしており、子供達が
よくグレなかったと感心するレベルである。
﹁まあ、そう尖るな。妾にとって、これがいかに大事かはお主にも
分かって居ろう?﹂
﹁ただお忍びで街を見て回るだけなら、私もこんなに頻繁に小言を
申したりはしません﹂
﹁嘘をつけ﹂
女王に是が非でもやめてもらいたい行為について口にする前に、
彼女から即座に否定の言葉をぶつけられるセルジオ。
﹁お主のような人種は、仮に妾が普通にお忍びで街を見て回るだけ
でも小言を言うに決まっておる﹂
﹁そ、そんな事は⋮⋮﹂
1685
﹁それにのう。交渉というやつは、見返りなしで一つ譲歩すれば、
後は際限なく譲歩させられるものと相場が決まっておってのう。お
主が言いたい事は分からんでもないが、それを飲んだところで妾に
はこれと言ってメリットなどない。そんな要求を何故飲まねばなら
ん?﹂
そんな事を食えない笑みを浮かべながら言い切るミシェイラ。流
石に諸外国と対等に渡り合っているだけあって、口では到底勝てそ
うにない。
﹁何にせよ、先日目をつけた連中について、色々面白い事が分かっ
た﹂
﹁ほう?﹂
﹁あくまでもこっそりつけておいた密偵からの情報じゃがの。連中、
どうやらグラムドーンを相手に余裕で勝利できる程度の戦闘能力は
あるようじゃ﹂
何かを誤魔化すかのように、やけに密偵からの情報という単語を
強調するミシェイラ。この場の会話において暗黙の了解であるとあ
る事情を伏せるための符丁に苦笑しながら、もたらされた情報につ
いて素直な感想を告げることにするセルジオ。
﹁流石は、ファーレーンを救った英雄という事ですか﹂
﹁そう言う事じゃな﹂
あでやかな笑みで楽しそうに語る女王。その様子はまるで、新し
いおもちゃを手に入れた子供のようである。
1686
﹁残念ながら、ファーストコンタクトは神殿に持って行かれたよう
じゃがな。別段向こうと敵対して居る訳でも無し、妾が直接接触す
る手段など、どうとでもなろう。それに、ファーレーン王家からの
情報に相違なければ、奴らが目的を果たすためには、我が王家に接
触せずに済ませる方法はないしの﹂
﹁御意﹂
女王ミシェイラの意を酌み、深々と頭を下げるセルジオ。彼とし
ても、ファーレーンを救ったアズマ工房の連中と友好関係を結ぶ事
に関して、国益と女王の機嫌双方の面から見て全く異存ない事柄で
ある。
﹁しかし、娘どもが屋台で作っておった食べ物は、どれも実に美味
だった。昨日今日と冒険者をやっておるようで、屋台はやっておら
んかったのが残念じゃ。特に鯛焼きという奴がよかったが、頼めば
また作ってくれるのかのう?﹂
﹁陛下⋮⋮﹂
国のためにある程度必要だとは言っても、ミシェイラのこの趣味
といくつかの悪癖だけは、どうしても頭が痛いセルジオであった。
1687
第2話︵後書き︶
とりあえず宏はデリカシーってものを勉強するべきだと思うんだ。
1688
第3話
﹁自己紹介の前に、先に確認しておきたい事があるのですが⋮⋮﹂
﹁なんでしょう?﹂
﹁我々の話を、どこから聞いておられましたか?﹂
﹁今こちらに来たところですので、皆さまの話題はバルドの事しか
分かりませんな﹂
一同を代表しての達也の質問に、嘘か本当か判断しがたい返事を
返す神官長。その事に疑問を抱いたが、藪蛇を恐れて追及はしない
事にする達也。別段アルヴァンの性別についてなど聞かれたところ
で問題はないはずなのだが、なんとなく感づいている事が知られる
と拙いのではないかと、どういう訳か特に根拠も無く考えたのであ
る。その他については、特に聞かれて困るような話は無かったとい
うか、事情聴取でもう一度確認を取られそうな事ばかりなので問題
はない。
色々気になるところはあるが、相手は海千山千の神官長。達也や
春菜の手に負える相手ではない以上、余計な突っ込みは避けるべき
だと判断し、さっさと自己紹介に入る達也。達也の判断を尊重し、
というより自分がぼろを出すのを嫌って、状況に乗っかって自己紹
介を済ませる一同。
﹁それで、話を戻しましょう。まずはじめに聞きたい事ですが、フ
ァーレーンにもバルドという男は居たのですかな?﹂
1689
﹁はい。我々が奴を仕留めたのは、もう半年近く前の事になります
が﹂
﹁となると、やはり我が国に出没しておったバルドとは別人、とい
う事になりそうですな﹂
﹁こちらにも、バルドが居たのですか?﹂
﹁ええ。もっとも、一年は前にアルヴァンの手で討たれていますが﹂
思いのほか重要な情報に、思わず真剣な顔でアイコンタクトをと
る日本人一行。一年以上前となると、真琴ですら来たかどうかとい
う時期だ。それゆえに複数いるとは言い切れないが、少なくとも宏
達が仕留めたバルドとアルヴァンに討たれたバルドが別人なのは間
違いない。
﹁それで、今回の一連の事件とバルドの手口が違う、というのは?﹂
﹁ファーレーンでは、三十年以上かけて国の中枢に浸透して、国家
そのものを転覆させる事で直接的な死人を出さずに混乱を起こし、
それによって発生する瘴気で地脈を汚そうとしていました。色々と
偶然が重なって、ここにいる宏と春菜が現在の姫巫女であるエアリ
ス様を救出していなければ、今頃ファーレーンという国は大混乱に
陥っていたでしょうね﹂
﹁ふむ。その事を知っているという事は、皆様がファーレーンを危
機から救った知られざる大陸からの客人、という事でよろしいので
すか?﹂
1690
﹁その情報がある、という事はしらばっくれても無駄でしょうね﹂
隠したところで無意味である以上、正直に話した方が得策だ。そ
う判断してあっさり事実を認める達也。実際、別に後ろ暗い事をし
た訳ではないし、公言していないのも言ったところで普通の人間は
信じないという理由と、言いふらして余計な事に巻き込まれるのは
面倒くさいからという二つの理由にすぎない。既に巻き込まれる事
が確定している今、無理に隠して不自然な隙を作るよりは、さっさ
と認めた方が面倒が少ない。
﹁それにしても、偶然ですか。実のところ、ウルスの姫巫女様のみ
に起こった事件について、それほど詳しい話は知らぬのです。失礼
ながら、どのような事があったのか、お聞きしても?﹂
﹁大した話ではなく、単に蜘蛛の糸を採りに行ったら、バルドの罠
にかかって転移魔法で飛ばされた姫巫女様が、蜘蛛のボスであるピ
アラノークに餌にされかかっていたというだけです。その時点で、
というより本格的に巻き込まれるまでは、この二人にも我々にも、
特に王宮に対して働きかけようとか取り入って何かをしようとか、
そういう種類の考えはありませんでしたよ﹂
﹁でしょうなあ﹂
蜘蛛の糸を採りに行く、という要素に微妙に首をかしげながらも、
日本人達に野心が無いという事だけはあっさり認める神官長。そも
そも彼らに野心があるのであれば、ダールで冒険者などしているは
ずが無いのである。
﹁それにしても、ファーレーンの事情にお詳しいですね。知られざ
る大陸からの客人が王宮のごたごたの解決に関わった、などという
1691
事は、少なくとも庶民のレベルでは全く知られていない事実ですよ
?﹂
﹁このダールは、食料についてファーレーンに対して無視できない
レベルで依存していますからな。ファーレーンに何かあるのはあま
りよろしくないので、常に隣国の情勢には気を配っております。そ
れに、ウルスのアルフェミナ神殿がごたつくと、このイグレオス神
殿にも少なくない影響がありますので、対策を打つためにも可能な
限り情報は集めておりますよ﹂
﹁まあ、そうでしょうねえ﹂
やけにファーレーン国内の情勢に詳しいことに対する春菜の質問
には、実に納得できる回答が返ってきていた。イグレオス神殿に関
しては灼熱砂漠にある本殿が総本山とはいえ、ファーレーン国内に
もそれなりの数と規模の分殿がある。アルフェミナ神殿にしても世
界各国の一定以上の規模の都市すべてに分殿があるのだから、互い
に少なくない影響があるのも当然だろう。必然的に、互いにそれな
り以上に情報を集める事になるのである。
﹁とりあえず、バルドについてこちらが出せる情報はこんなもので
すが、他に何かありますか?﹂
﹁そうですな。ファーレーンでバルドを仕留めたのが皆様であるの
なら、彼奴等の強さがどのようなものだったのかをお聞きしたいの
ですが﹂
神官長の当然といっていい質問に、どう答えるかを少し考え込む
一同。強かったのは強かったのだが、何処となく三流っぽいところ
があったため、強かったと断言し辛い。特に最後っ屁があまりにひ
1692
どい終わり方をしているため、どうにも道化のイメージが強すぎて
強さの評価が難しいのだ。
﹁普通に戦えば、多分強いんやと思うで?﹂
﹁途中までは、結構いろいろ厄介だったよね?﹂
﹁ヘルインフェルノをぶっ放してきたりとか、正直弱い訳が無いん
だが⋮⋮﹂
どう答えるべきかと、ひそひそと相談する宏達。実際のところ、
多分宏達がいなければファーレーン城は陥落していた。宏という生
きたマジックキャンセラーがいなければ、ヘルインフェルノで城全
体を焼き払われて終わったであろうことは疑う余地が無いからであ
る。ただし、宏がいるという一点だけで、ファーレーンのバルドは
ボスとは思えないほど対応しやすくなってしまったのもまた事実で
ある。
﹁とりあえず、一個一個の要素を抜き出して評価しましょう。まず、
変身について﹂
単に宏というチート壁が居たからなしえた結果だというのに、下
手をすれば雑魚という評価に落ち着きそうだった事に危惧を覚えた
真琴が、少しでも冷静に評価するために会話を誘導する。
﹁ちっと評価し辛いところだが、一回姿が変わるたびに、少なくと
も魔法防御は上がってたな﹂
﹁ダメージも通りにくうなっとったで﹂
1693
﹁宏君の腕力で、しかもポールアックスで殴ってダメージが通りに
くいとなると、一般兵の通常攻撃は無力化されるよね﹂
﹁瘴気の壁も結構厄介﹂
﹁やなあ﹂
真琴の誘導に従い、主に二段階目の変身後について論じる一同。
とは言っても、二段階目でも基礎能力だけなら、ドーガやユリウス
ぐらいの実力者がいれば普通に制圧できる強さでしかない。
﹁でもまあ、基礎能力だけなら、五級ぐらいの冒険者が複数いれば
どうにかなるんじゃねえか?﹂
﹁基礎能力だけなら、ね﹂
﹁体当たりとかヘルインフェルノとか召喚とか、そこら辺が対応で
きる人間っちゅうんが難しいんちゃう?﹂
﹁だよね﹂
﹁と言ったところですが、参考になりますか?﹂
ブレインストーミング的なやり方で導き出された結論を聞き、苦
悩するような表情を浮かべる神官長。言うまでも無く、ヘルインフ
ェルノを防ぐ手段など心当たりが無いからである。
﹁そういや、今気ぃついたんやけど﹂
﹁何?﹂
1694
﹁工事現場で召喚されたモンスター、妙にしょぼ無かった?﹂
﹁あ∼⋮⋮﹂
言われてみれば、の世界ではあるが、確かに数こそ多かったが、
かけだしでも一体二体なら問題ない程度のしょぼいとしか言いよう
がない雑魚しか出て来なかった。
﹁なんか、いろいろ違和感あるなあ﹂
﹁そうだよね。神殿を直接狙った手口もだし、あんなところでモン
スターを呼び出すのもバルドのやり口とは違うし﹂
﹁バルドなら、もっと強いの呼ぶ﹂
おかしいと感じたポイントを上げて首をかしげ続ける一同。かな
り重要な情報が多数出てきたところで、話をしめるために口を開く
神官長。
﹁大変参考になるお話、ありがとうございます﹂
﹁役に立ってるんやったらええんやけど⋮⋮﹂
﹁十分です。それで、ひとつお願いがあるのですが⋮⋮﹂
﹁犯人探しでしたら、俺達ではあまりお役には立てないかと﹂
頼みたかった事を先に言われてどうしたものかと考え込み、妙案
っぽいものを閃く。閃いた案を上手く押し通せれば、もう一つの懸
1695
念事項も一緒に処理が出来る。
﹁いえ、そちらにも協力していただきたいのですが、それとは別に、
こちらの司祭と見習いを一人ずつ、皆様に預かっていただきたいの
です﹂
﹁もしかしてそれって⋮⋮﹂
﹁はい。皆様に命を救われた二人、プリムラ・ノートンとジュディ
ス・ノートンの両名です﹂
いきなりすぎる申し出に、どう反応すべきか咄嗟に思い付かない
一行。
﹁何故、そんな話が?﹂
あまりに唐突な頼みに、浮かんだ疑問を素直に口にするしかない
達也。それに対し、その場で無理やり構築した理論武装で対抗する
神官長。
﹁まず、二人が皆様にお礼をしたいと申しておるのが一つ。二人と
も将来を嘱望されている人材ゆえ、外部での活動経験があった方が
都合がよい事が一つ。そして、狙われたのが彼女達であるなら今後
も狙われると予想されますが、二人ともそれほどの戦闘能力を持ち
合わせていない、という事が最後の一つです﹂
﹁どれ一つとして、我々が引き受ける理由にはなりませんよ?﹂
﹁もちろん、ただでとは申しません。この件は、冒険者協会を通し
て正式な指名依頼とさせていただく所存です。神殿からの指名依頼
1696
となれば、実績としてそれなりの扱いになります故、ランク査定に
もかなりの影響がございます﹂
実績、という言葉に微妙に悩む宏達。ダールで屋台を控えている
理由が、正にそれだからだ。せいぜい五級まで上げれば十分だとは
言っても、その五級までというのが中々険しい道なのは言うまでも
ない。
﹁無理を承知の上でお願いいたします﹂
﹁⋮⋮どうしよっか⋮⋮?﹂
﹁神殿からの依頼となると、断るのは流石に問題になると思うわ﹂
﹁ただ、女が増えるんはなあ⋮⋮﹂
﹁だよなあ﹂
宏達としては、別段司祭と見習いを預かるぐらいの事は問題ない。
問題なのは、今まで女性を抱え込んだパターンと違って、これとい
って関わる動機が無いことだろう。エアリスのように放置すれば後
味が悪い事になりそうなケースでもなく、ファム達一家のように自
分から関わった訳でも、テレスとノーラのように世話になっている
人間に頼まれた訳でもない。強いて言えばアルチェムの時に近いと
言えば近いが、あのときはエルフの村で世話になる事が分かってい
た上、別段四六時中一緒に行動する訳でもなかったので、それなり
に人間関係を深める理由はあった。
だが、今回の場合、神殿そのものに用はあっても神殿組織に深入
りしたくはなく、しかも神殿そのものは本殿も分殿も一般に広く開
1697
かれている。正規の手続きを行えば礼拝そのものは誰でもでき、逆
に分殿でコネを作ったところで、巫女やそれに相当する人物と面会
する事が出来る訳でもない。それに、イグレオス神殿とのコネはあ
って損をするものではないが、ここで断った所で、間違い無く神殿
が敵に回るという事はない。神の存在が身近な分、各神殿は良くも
悪くもそう言う部分では潔癖なのである。
故に、宏に余計なプレッシャーを与えると分かっていて新たな女
を引き受けるには、冒険者としての実績と神殿とのコネというのは、
いまいち魅力が足りない条件なのだ。
﹁どうやら、この条件ではお気に召さないご様子ですな﹂
﹁正直に言いますと、一人女性が苦手なのがいましてね。本来なら
大歓迎すべき条件なんですが⋮⋮﹂
﹁でしたら、今までの条件に、灼熱砂漠と陽炎の塔への出入りを、
神殿の名のもとに許可するというものを加えればいかがでしょう?﹂
﹁そんな事をして、大丈夫なのですか?﹂
﹁話に聞いているだけの戦闘能力があるのであれば、少なくともそ
の二つをうろつきまわって生還できる必要最低限の実力はある、と
判断出来ます。それに、我々も塔への出入りを特別に許可するぐら
いの権限はございます﹂
神官長の言葉を聞き、もう一度相談をする一行。現状では別段、
これといって陽炎の塔自体への用事はない。ないのだが、職人的な
観点で中級から上級にかけての素材が手に入る上、別に無くても困
らないとはいえ、レア装備のミラージュセットが入手できる可能性
1698
がある。今後の展開で陽炎の塔を踏破する必要が出てくる可能性も
考えれば、出入りできるようになるのはそれなりに意味はある。
﹁何ぞ、ありがちなパターンやと、陽炎の塔に入ってなんかせなあ
かん可能性はあるわな﹂
﹁それ考えたら、今の段階で入れるようになっておいて損は無いよ
ね﹂
﹁現時点で、塔そのものに何か用事は?﹂
﹁これといっては特にあらへんけど、あそこモンスター系の素材は
それなりに充実しとるから、澪の訓練に丁度ええんはええで﹂
﹁そうか。だったら、引き受けるか?﹂
﹁せやなあ。どうしても引き受けさせたいみたいやし、ここらで手
ぇ打っといた方がええやろう﹂
宏が問題ないなら、という事で話が決まる。断られそうだから条
件を上乗せしてきたところを見ると、ダール分殿にはあの二人に護
衛を割けるほどの戦力も、宏達の手を借りずに捜査を進めたり黒幕
を引きずりだしたりするだけの人員も無いのだろう。そういった事
情が察せられる状況で、これ以上条件闘争のような真似を続けるの
は、それこそ神殿を敵に回しかねない。
﹁その条件で、受け入れましょう﹂
﹁そうですか。ありがとうございます。無理を言って申し訳ない﹂
1699
﹁いえ。こちらこそ、条件闘争のような真似をしてしまって﹂
﹁お仲間の事があるのです。生半可な条件では受け入れられないの
も、当然でございましょう﹂
この後、受け入れに対する費用や期間その他についての詳細を詰
め、こまごまとした準備のために引き上げる宏達。司祭と見習いの
姉妹を翌日に受け入れられるようにするため、あれこれ慌ただしく
動き回る事になるのであった。
﹁情報としては、こんなものだ﹂
﹁⋮⋮アルヴァンとやらが、ずいぶん暴れてる﹂
﹁ああ。もっとも、不思議と俺達の領分はほとんど犯さないんだが
な﹂
ダールの盗賊ギルド、その直属の情報屋から買い取った情報をも
とに、正直な印象を告げるレイニー。流石に足で稼ぐ情報収集には
色々と行き詰りはじめたため、こういう裏側の組織に接触すること
にしたのだ。
﹁⋮⋮わざと見逃してる?﹂
1700
﹁恐らく、な。アルヴァンが荒し回っている貴族やら豪商やらは、
こちらにとってもあまりよろしくない連中が多い。それを考えると、
奴は俺達が弱ること自体は歓迎していないようだがな﹂
﹁ほとんど、という事は、少しは?﹂
﹁まあ、こいつはサービスでいいだろう。面白い事だが、俺達の関
係者でアルヴァンに始末された連中は、こっちのルールを踏み外し
た奴らばかりだ。遠くないうちに粛清されていただろうから、面子
の問題を横に置いておけば、わざわざ文句を言う理由も薄い。それ
にそもそも﹂
﹁向こうが挑発したとは言っても、先に手を出したのは始末された
連中の方、とか?﹂
﹁そう言うことだ。喧嘩売って反撃食らって死んだ、それもはぐれ
者について文句なんざ言った日には、こっちの看板に自分で泥を塗
る事になりかねないんでな﹂
情報屋の言葉に納得して頷くレイニー。ファーレーンのギルドも
そうだが、この手の国が黙認している盗賊ギルドは、経歴や当人の
人格、生れ持った資質などの理由で表の世界で生きることが出来な
い連中を、最低限の秩序を維持するために手綱を握る事が本来の役
割である。それゆえに、無用に堅気の人間に手を出したり、不必要
に盗みをはたらいたりするような連中はすぐに粛清される。
もちろん綺麗な組織ではないため、金のために多少は堅気の人間
を食い物にしたりはするが、それでも相手が堅気であるだけのとん
でもない碌でなしでもない限り、多少の損を負わせる以上の事はし
ない。堅気からせびり取っている金のほとんどは言ってしまえば警
1701
備費用のようなもので、出さなかったからといってわざわざ人をや
って営業妨害をしたりといった面倒な真似はしない。単に、はぐれ
をはじめとした他の連中が悪さをしても、傍観して救援等を一切し
ないだけである。流石に、自分ところの下っ端がそんな真似をすれ
ば、すぐさましめて焼きを入れるが。
そう言う組織だから、構成員が誰かに殺されたところで、幹部ク
ラスでもない限りは報復に走ったりはしない。アルヴァンの行為に
したって、問題となるのは内部で粛清するべき対象が勝手に死ぬの
は示しがつかないという事だけで、よほど重大な違反をしたもので
もない限りはわざわざ文句を言う気も無い、というところである。
もちろん、特に組織のルール上問題を起こしていない人員が問答無
用で殺されそうになったなら、その構成員の生死問わずそれなり以
上の報復を行う事になる。
﹁アルヴァンについての情報は、ある?﹂
﹁別料金だ﹂
﹁いくら?﹂
﹁そうだな。大した情報は握って無いから、五千だな﹂
本気で大した情報を握っていないため、この手の情報屋から買う
にしては格安と言っていい値段を提示する。それでも握っている情
報の内容から言えばぼったくりもいいところなのだが、ほぼ一見に
近い目の前の小娘相手には、わざわざひいきをする理由が特にない。
﹁街で頑張って調べれば分かる程度の情報なら、五千は出せない﹂
1702
﹁もう少し内容はあるが、まあいいだろう。四千五百だ﹂
﹁色が付いているって言っても、街で拾える情報から推測できる程
度だったらせいぜい三千﹂
﹁⋮⋮四千だ。これ以上は下げられん﹂
流石に、すぐに言い値で払うような真似はしてこないレイニーに、
まあ当然か、などと考えながら落とし所を提示する。実際のところ
まだまだぼったくり気味の値段だが、街で拾える情報から推測でき
る程度の内容に裏付けを与えることが出来るのだから、余所者に売
るならこれぐらいの値段が妥当な線だというのが彼の主張だ。
﹁分かった﹂
﹁毎度﹂
レイニーが四千セネカ支払ったのを確認し、手元にある情報を全
部並べて行く。と言っても、ほとんどは先ほどレイニーに売りつけ
た貴族や豪商の情報と重なるもので、それ以外はせいぜいいくつか
の厄介なモンスターをアルヴァンが始末したとか、そういう戦闘能
力を推測する手掛かりぐらいしかなかった。
これだけなら、間違い無く四千セネカの価値など全くないが、最
後に付け加えられた確定情報が一気に価値を上げる
﹁それは本当に?﹂
﹁ああ。間違いない。どのラインまで食い込んでいるかは分からん
が、アルヴァンは確実に王家と直接関わっている﹂
1703
城の隠し通路を開いていたという、アルヴァンを追跡した腕利き
の証言。それは確かに重要なものだった。
﹁場所や内容までは聞かないけど、その通路の開き方は分かってい
る?﹂
﹁いや。魔法の心得のある奴によると、あの通路は特殊な条件を満
たさないと開く事が出来ないらしい﹂
﹁⋮⋮不自然﹂
﹁そうだな。まあ、どうせこれ以上正体を詮索させないように、わ
ざとその情報をこちらに漏らしたってところだろうが、な﹂
アルヴァンの情報が余り手元に無いのは、結局のところ通路の事
が分かった段階で、藪蛇を恐れて調査を打ち切ったからである。仮
にアルヴァンの正体が王族だったとして、その情報をもとに下手な
アクションを起こせば、自分達が粛清されることになる。そもそも、
最悪正体が王族だと世間一般にばれたところで、民からの人気が高
い義賊の事。誰もが納得はしても、脛に傷のある連中以外は王家に
対する反発などしない可能性が高い。義賊は、一般人にマイナスに
なる事は何一つしていないのだ。
﹁聞きたい事はそれだけか?﹂
﹁そんなところ。情報助かった﹂
﹁また何かあったら聞きに来い。金さえ出せばいくらでも売ってや
る﹂
1704
﹁一応当てにしておく﹂
情報屋にそう答えると、いつ立ち去ったかも悟らせぬうちにその
場から消えるレイニー。長い事情報屋稼業をやってきた彼をして、
見えている相手の追跡が不可能だと判断せざるを得なかったのは実
に久しぶりの事である。
﹁さて、ファーレーンの密偵さんは、何を探りたいのやら﹂
腕の割にいまいち欲しがった情報の内容に一貫性が無いレイニー
の質問を思い出し、そんな事を呟く情報屋であった。
同じ頃、ウルスのアズマ工房では。
﹁いらっしゃいませ、エル様﹂
﹁こんにちは﹂
例によって例の如く、ごく普通にアズマ工房に顔を出すエアリス。
もはやいつもの事なので誰も気にしないが、日々必死になって姫巫
女様と親しくなろうと頑張っている非主流派の皆様からすれば、い
ろんな意味で絶叫したくなる状況ではある。
1705
﹁本日はどのような御用件で?﹂
﹁アルチェム様は、おられますか?﹂
﹁アルチェム、ですか?﹂
エアリスの口から出てきた名前に、小さく首をかしげるテレス。
エアリスとアルチェムという組み合わせが、どうにもピンとこない。
﹁申し訳ありません。今、畑の方に出ていまして﹂
﹁そうですか。待たせていただいても?﹂
﹁もちろん﹂
わざわざ帰ってくるのを待つほどの用件、というのが全く思い付
かないながら、とりあえずエアリスを奥に通す。実のところ、アズ
マ工房の応接室に通される外部の人間は地味に限られ、畳の部屋と
なるとそれこそ王族とその関係者、後は名目上の家主であるメリザ
ぐらいしか入れない。
これは別に意図してそうしている訳ではなく、単純にそこまで親
しくしようという相手が他にいないからである。もっと言うならば、
職員達は工房主の不在時に勝手に取引先を増やすような真似はしな
い。それが、アズマ工房と取引するにあたっての妙なハードルとな
っていて、むやみやたらと余計なプレミアが付いているのだが、当
事者たちは全く気が付いていない。
﹁それで、アルチェムにどのような御用が?﹂
1706
エアリスを畳の部屋に通した後、お茶と茶菓子を出しながら問い
かけるテレス。この日のお茶はいわゆる緑茶で、茶菓子は醤油せん
べいである。お茶の用意の時にアルチェムと連絡は取ってあるので、
後は帰ってくるのを待つしかない。
﹁詳細はご本人に直接説明する事になりますが、とある事情で、し
ばらくファーレーンを離れることになりまして﹂
﹁それに、アルチェムを連れていく必要がある、と?﹂
﹁はい﹂
とりあえずそれだけを説明すると、上品に湯のみに入ったお茶を
口にする。春菜同様どこからどう見ても日本人ではないというのに、
やけに堂に入った仕草である。
﹁どうしても、連れていく必要があるのでしょうか?﹂
﹁はい﹂
﹁いつからですか?﹂
﹁出来るだけ早いうちにと考えていますが、まずはアルチェム様の
都合を聞いてからという事になります﹂
わざわざアルチェムの都合に合わせるあたり、本当に重要な用件
らしい。その事を理解し、下手に突っ込んだ話を聞くのはやめるこ
とにするテレス。とりあえず別の話題を探すために、一拍置く意味
も兼ねて自分の緑茶に口をつけようとする。その時。
1707
﹁ひゃっ!?﹂
突然何者かが、テレスの背筋をなぞった。不意打ちで敏感な場所
をくすぐられたテレスは、思わず驚きのあまり変な声を出し、手に
した湯呑を落としそうになる。
﹁きゃっち∼﹂
﹁キャッチャ∼、キャッチャ∼﹂
﹁ピッチャービビってる∼﹂
中身をぶち撒けそうになった湯呑を、間一髪のところでタコの足
のようなものがキャッチする。その足と意味不明な単語を連ねる能
天気な声に、先ほどのいたずらの犯人を知るテレス。
﹁あなた達、いつの間に⋮⋮﹂
﹁チェムちゃんについてきた∼﹂
﹁エルちゃん大好き∼﹂
﹁テレスちゃんエルフ∼﹂
いまいち答えになっていない答えを返し、エアリスとテレスの膝
と頭の上に陣取るオクトガル。そのまま、全く遠慮する様子も見せ
ずにせんべいに足を伸ばす。
﹁全くあなた達は⋮⋮﹂
1708
何処までも変わらないオクトガルの様子にため息をつき、今度こ
そ自分の湯呑に口をつける。ある意味ちょうどいい話題が出来たの
で、素直にその話題を振る事にする。
﹁この子たち、いつからこちらに?﹂
﹁四月の頭ぐらいでした。城で働く皆をあの手この手で驚かせてい
ますよ﹂
にこにこと優しい微笑みを浮かべながら、慈愛の心を感じさせる
声で説明するエアリス。その膝の上では、オクトガルが器用にせん
べいを一口サイズに割り、頭上の同胞に渡している。よく見ると、
いつの間にかテレスの頭上にいるオクトガルが、自分達の分のお茶
を勝手に淹れ、他の三匹の湯呑に注いでいた。実にマイペースな連
中である。
﹁そ、それはまた、ご迷惑を⋮⋮﹂
﹁いえいえ。アランウェン様の眷族なのですし、それにやっている
事はどれも罪のない悪戯です。むしろ、この子たちか来るようにな
ってから、城の中がちょっと明るくなった気がします﹂
やたらと恐縮してペコペコ頭を下げるテレスに、優しくやんわり
と気にしなくていい旨を告げるエアリス。実際、別段テレスが謝る
必要がある事ではなく、また城で働く者たちにとっても、いい加減
オクトガルの存在にも慣れ、職場で共有のペットを飼っているよう
な感覚になっている。料理長などは特にオクトガルを気に入ってお
り、合間を見ては新作料理の味見をさせていたりする。ただ、セク
ハラ攻撃を罪のない悪戯に分類するのはいかがなものか、という気
はしなくもないが。
1709
﹁それにしても、馴染んでますね⋮⋮﹂
﹁いけませんか?﹂
﹁いえ、もちろんそんな事はないのですが⋮⋮﹂
オクトガルから受け取ったせんべいを上品な動作で二つに割るエ
アリスを見て、なんとも言えない気持ちになる。何が微妙かと言っ
て、頭にオクトガルを乗せているのに、その品の良さが全く損なわ
れていないことだろう。オクトガルが妙に大人しいのも、何とも言
えない気持ちになる理由だ。
﹁ただ今戻りました、って、えっ?﹂
呼び戻されて大慌てで畳の間に入ってきたアルチェムが、予想外
の光景に目が点になる。そのアルチェムを発見した瞬間、オクトガ
ル達の合計八つの目が、キュピーンという擬音をつけたくなるよう
な輝きを見せ、即座に飛び立つ。
﹁チェムちゃん、見つけた∼!﹂
﹁チェムちゃんチェムちゃん∼!﹂
﹁えっ? ちょ、いきなりそれ!?﹂
わっと殺到してきたオクトガルに反応しきれず、あっという間に
もみくちゃにされるアルチェム。年齢的にエアリスに見せるのはど
うなのか、という感じの度を越したセクハラをやり始めるオクトガ
ルに、思わず大慌てで立ち上がるテレス。その様子をにこにこ見守
1710
りながら、せんべいを一口かじるエアリス。
﹁チェムちゃんふかふか∼﹂
﹁チェムちゃんおっきい∼﹂
﹁チェムちゃん大好き∼﹂
﹁テレスちゃん量産型エルフ∼﹂
﹁量産型って何!?﹂
よく分からない台詞に突っ込みを入れつつ、必死になってアルチ
ェムからオクトガルを引きはがすテレス。それをにこにこと見守り
ながらも特に手を出す様子を見せず、ただ一人安全圏でお茶を堪能
するエアリス。結局エアリスが本題に入れたのは、ここからさらに
十五分後の事であった。
﹁ここ、ですか?﹂
﹁ああ﹂
案内された日本人達の拠点に、虚を突かれて唖然とした様子を見
せるノートン姉妹。その様子に苦笑しながら、セキュリティ周りを
1711
少々いじる宏。
﹁とりあえず、入れるようにはしたで﹂
﹁おう。今日はなんだかんだで疲れたし、さっさと二人の部屋割決
めて、飯と風呂済ませて休もうや﹂
﹁そうだね﹂
達也の提案に一つ頷き、今日の夕飯何しよう∼、などと即興で歌
いながら台所へ向かう春菜。その様子に、我に返るプリムラ。手遅
れだと知りつつも即座に外面を取り繕うところは、流石に若くして
司祭となるだけの事はある。いまだに唖然として現実に戻ってきて
いないジュディスとは大違いだ。
﹁あの、すみません。少しよろしいでしょうか﹂
﹁何です?﹂
﹁あの、この立派な建物が、本当に皆様のダールでの活動拠点なの
ですか?﹂
﹁はい﹂
﹁⋮⋮失礼を承知で質問させていただきます。賃料だけでもかなり
かかると思うのですが、こんな大きな建物が必要なのでしょうか?﹂
プリムラの、ある意味当たり前と言えば当たり前の質問に再び苦
笑するしかない一同。言うまでもない事だが、普通なら六級や七級
の冒険者がこれほどの規模の建物を必要とする事はないし、宏が改
1712
修した結果とはいえ、ここまで立派な建物だと、本来なら月々の賃
料が五人分の一月の宿代を平気で超える。
だが、宏達はいろんな意味で普通とは言い難い。普通の冒険者は
拠点に工房としての機能を必要とはしないし、普通は食えないに分
類されているモンスターを燻製にしたりはしない。そもそも、屋台
の合間に冒険者としての仕事をしていた時点で、冒険者という定義
に当てはまるのかどうか自体が疑問だ。
﹁そうねえ。普通はこの広さはいらないわよねえ﹂
﹁普通は、この大きさの建物を借りるのはきついわな﹂
プリムラの至極もっともな質問に対し、自分達の特異性をどう説
明すればいいのか、判断に困る達也と真琴。
﹁普通に借りたらごっつう高いけど、今回は廃墟手前の建物借りて
自力で改修したから、月一万セネカでOK貰ってんねん﹂
そんな二人の悩みをさっくり無視し、ごく普通にからくりを説明
する宏。
﹁⋮⋮自力で、ですか?﹂
﹁そっちの方が、お金かかってるような⋮⋮﹂
宏の説明を受け、ようやく現実に戻ってきたジュディスの方がこ
れまた現実に立脚した突っ込みを入れる。確かに普通ならそうだろ
うが、普通という定義からずれて迷走している人間にその突っ込み
を入れても無駄である。
1713
﹁そら、業者に頼んだらそうやろうけど、全部一から自分で修理し
たからな。前に別のとこで使うた資材もようさん余っとったし、ほ
とんど金はかかってへんよ﹂
﹁別のところ?﹂
﹁別に隠すような事でもあらへんし、言うてもうてええ?﹂
多分、ある程度合理的な説明をしてやらないと安心できないだろ
う。そう考えての宏の質問には、特に反対意見は出ない。その事を
確認し、あっさりと重要事項を説明する事にする宏。
﹁ちょっと事情があってうろうろしとるけど、うちらは、ファーレ
ーンでも工房やってんねん。で、そこの拡張工事や何やで余った資
材が結構あってな。それを使いまわしたから別段新しい費用は発生
してへんねん。それに、そんときの資材も買わんと自分らで調達し
に行った奴の方が多かったし﹂
﹁本当に?﹂
﹁嘘ついて見栄張る必要あらへんやん。そもそも、見栄張ってこの
建てもんやったとしても、もう三カ月分の賃料は払ってんねんし、
自分らに特に迷惑はかからへんし﹂
ちょっと疑わしそうに宏をうかがっていたプリムラが、最後のコ
メントでそれもそうかと納得し、肩の力を抜く。本殿やダール分殿
はともかく、それ以外の地方都市のイグレオス神殿より立派な建物
なのはどうなのかと思わなくもないが、それこそ言ったところで単
なる僻みにしかならない。
1714
﹁納得したんやったら、部屋決めようか﹂
﹁とりあえず、プレートのかかってない部屋から適当に選んでくだ
さい﹂
宏と達也の言葉に促され、明らかに自分達がこれまで住んでいた
部屋より広くて立派な部屋を借りうける。ある程度の費用は神殿か
ら支払われているとはいえ基本的には居候の身の上であるため、出
来るだけ小さい部屋を借りようとしたのだが、元々の間取りの問題
か、一番小さな部屋ですらプリムラの元の部屋より倍近い広さだっ
たため、考える事をやめたのだ。
﹁細かい家具は今日は無理として、一応寝床だけは間に合わせで用
意やな﹂
まだ全く物が無い二人の部屋に入ってきた宏が、そんな事を言い
ながら鞄から折りたたみのベッドを取り出す。高度な職人芸が詰め
込まれたその折りたたみベッドは、見た目や大きさこそ普通のシン
グルサイズながら、スプリングの利き具合から作りの良さから、こ
れまたプリムラ達には縁が無い高品質な代物であった。言うまでも
無く春菜が練習で作ったものを、宏があれこれ手を入れて改造した
ものである。
なお、言葉遣いがフランクになっているのは、姉妹の側から敬語
をやめてほしいと申し出たからだ。居候する上に敬語まで使われて
しまうと、どうにも居たたまれない。それに、宏達に堅苦しい思い
をさせるのは、姉妹的にはいろんな意味で駄目駄目だ。達也と真琴
は年長者ゆえに現在は一応敬語を使っているが、部屋割を決め終わ
ったあたりで普段通りの口調になっている。
1715
﹁お姉ちゃん、私いろいろと常識がおかしくなりそうです﹂
﹁ジュディス、これを当たり前と思ってはいけませんよ?﹂
﹁当たり前だと思ったら、なんだかいろんな事が終わりそうです﹂
間に合わせの一言で用意されたベッドを触り、何処となく遠い目
をしながらのジュディスの言葉に釘をさすプリムラ。せめてもの遠
慮として二人で一部屋占拠することにしたのだが、あまり意味が無
かったようだ。
﹁他に必要なもんがあったら、遠慮せんと言うてや。すぐ作るから﹂
﹁いえいえいえいえ!﹂
﹁お気持ちは大変嬉しいのですが、これ以上いいものを用意されて
しまうと、前の暮らしに戻れなくなってしまいます﹂
宏の言葉に、大慌てで遠慮の言葉を告げる二人。実際、これ以上
となると、冗談抜きで前の暮らしには戻れない。
﹁ほんまに遠慮せんでもええで。アランウェン様の神殿に寄った時
に大量に切り倒す羽目になったハンターツリー材がまだまだようさ
ん余ってるから、箪笥とか机ぐらいはすぐ作れるし﹂
﹁それは、私達に使わせるよりどこかに売りつけた方が⋮⋮﹂
﹁消耗品以外をあんまり流通に乗せると、色々問題ありそうやから
なあ﹂
1716
言われて初めて、そっちの可能性に頭が回るノートン姉妹。あり
そう、ではなく確実に問題があるだろう事ぐらいは、世情にやや疎
いプリムラ達でも普通に想像できる。
﹁まあ、そう言う訳やから、いるもんあったら作るし、今まで使う
とった奴持ってくるんやったら運ぶん手伝うし﹂
﹁お気づかい、感謝します。ですが、神官長の申し出だったとはい
え無理やり押しかけた身の上で、そこまでお手伝いしていただくの
は気がひけます﹂
﹁これ以上の事は我々の修行のためだと思って、是非お控えくださ
い﹂
宏の申し出をやんわりと断り、感謝を込めて心からの笑みを浮か
べる。その様子から、修行というのは口実ではなく、結構本気の言
葉なのだと悟ってこれ以上は言わない事にする宏。神殿関係者がこ
の言葉を出すとまず折れてくれないのは、どうやらイグレオス神殿
でも同じ事らしい。
﹁了解。ほな、ついでやからここの設備もざっと説明するわ﹂
﹁お願いします﹂
再び宏に連れまわされ、建物の中をざっと回る姉妹。いくつか呆
れたところはあったのだが、一番は
﹁⋮⋮お姉ちゃん、お風呂があります⋮⋮﹂
1717
﹁⋮⋮ファーレーンではどうか知りませんが、この国では風呂とい
うのは王族ぐらいしか使えない程度には水が貴重なのですが⋮⋮﹂
やはり風呂の存在だったようである。姉妹の言葉の通り、ダール
ではそこまで水資源に余裕はない。せいぜいが水質浄化魔法で綺麗
にした水を使いまわして身体を拭く程度。それとて全員が水質浄化
魔法を使える訳でもなければ、毎日そのために魔力を回せる訳でも
ない。流石に神殿で正式に働いている二人はその程度の魔力はある
が、それでも流石に風呂に湯をためるだけの魔力など無い。
﹁水については気にせんでええで。魔道具で作っとるから﹂
﹁⋮⋮もう、驚くのにも疲れました⋮⋮﹂
﹁お姉ちゃん、私なんだか申し訳なくなってきたんですが⋮⋮﹂
一番上で六級しかいない冒険者のチームとは思えない、充実しす
ぎるほど充実した設備での暮らし。そんなところに恩返し名目で無
理やり割り込んだ事に対して、心底申し訳ない気分を味わうジュデ
ィス。プリムラも流石にちょっとこれは自分達が余りにも図々しす
ぎるとはっきりと自覚してしまい、思わず内心で神官長に恨み節を
ぶつけそうになる。
﹁ご飯出来たよ∼﹂
心の中で神に懺悔をする姉妹に対し、ある意味止めとなる春菜の
言葉が聞こえてくる。その声で懺悔をやめ、宏に誘導されて食堂に。
﹁まだこの国の料理は研究途中だから、申し訳ないけど私達の国の
料理にさせてもらったよ。ごめんね﹂
1718
﹁いえいえ。食住全てを賄っていただくのです。文句などとても﹂
﹁それで、今日は何だ? 匂いからするとカレーみたいだが﹂
﹁スラッシュジャガーのチーズカツを使ったカツカレー﹂
﹁ほう? 美味そうだな﹂
達也の言葉に嬉しそうに笑うと、全員にカレーとサラダ、それか
ら水を用意する。水が基本貴重品であるダールでは、あまり種類が
無い煮込み系の料理。それも見た目にはやや微妙な色合いのものを
前に戸惑う姉妹をよそに、いただきますを唱和してためらうことな
くスプーンを突っ込む日本人一同。
﹁チーズとカツとカレーの相性抜群!﹂
﹁カツカレーはうめえなあ、やっぱり﹂
﹁普通のカツとはちょっと違うけどね﹂
﹁春姉、どんな時でも美味いは正義﹂
などと言いながらバクバクと実に美味そうにカレーを平らげて行
く日本人達を見ていると、見た目に対する拒絶感よりも好奇心と食
欲が勝ってくるらしい。恐る恐るひと匙すくい、慎重に口に入れて
味わう姉妹。ダールの料理ほど辛さにインパクトの無い味に戸惑う
のもつかの間、口の中に広がる複雑な旨みを引き立てる絶妙な辛さ
に、気がつけばどんどんと食が進んで行く。
1719
﹁気に入ってもらえたようで、よかったよ﹂
﹁これほど洗練された味の料理は、初めて食べました﹂
﹁ダールの料理って、全体的に辛さに特化しすぎてる感じがして、
こういう種類の美味しさってないんですよね、お姉ちゃん﹂
﹁そうですね。調味料の種類も偏っていますし﹂
自国の食文化の広がりのなさに、少しばかり寂しいものを覚える
ノートン姉妹。もっとも、こればかりは植生や気温をはじめとした
地域の特性というものが絡んでくる問題なので、別に恥じるような
事ではない。そもそも、醤油だけでもメーカーと製法の違いで何十
種類も違う味のものがある日本の方が異常なのだ。
﹁それにしても、居住環境が快適なだけでなく、料理まで美味しい
なんて⋮⋮﹂
﹁お姉ちゃん、私達、元の生活に戻れるのでしょうか⋮⋮?﹂
﹁気をしっかり引き締めましょう⋮⋮﹂
食事を終え、感謝の祈りを終えたところで、快適過ぎる生活に不
安が隠せなくなる姉妹。そんな姉妹に追い打ちをかけたのは
﹁お姉ちゃん! トイレの便座から水が出て来てお尻に!﹂
﹁落ち着きなさい!﹂
﹁でも、というかお姉ちゃんも一度試してみれば分かります!﹂
1720
﹁⋮⋮こ、これは⋮⋮﹂
アメリカで誕生して日本で花開いた、ウォッシュレットという魔
物だった。
1721
第4話
﹁それで、今日はどうする?﹂
ノートン姉妹を受け入れた翌朝。朝食の席で達也が予定について
確認をとる。
﹁どうしよっか?﹂
﹁せやなあ、どうする?﹂
色々と予定が狂い、困った表情を浮かべるしかない宏と春菜。
﹁達兄、真琴姉、何か考えてる事、あったの?﹂
どうやら何か予定があったらしい年長者二人に、学生組を代表し
て澪が質問する。
﹁大したことじゃないんだけどね﹂
﹁ロックワームの事が無きゃ、お前ら全員連れてストーンアントの
巣を駆除しに行こうかと思ってたんだが、な﹂
﹁あ∼、なるほど⋮⋮﹂
ストーンアントの巣の駆除は、ダールの冒険者にとってはとても
重要度の高い仕事である。ストーンアントの巣は放置しておくとか
なり巨大なコロニーとなり、場合によっては一つの街を飲み込んで
1722
しまうのだから、とんでもない話だ。その分難易度も高く、七級程
度の冒険者が一組で行くような仕事ではない。
もちろん、依頼を受けずに勝手に駆除し、事後承諾で女王アリの
討伐部位を持って帰っても受け付けられるし、自己責任での行動な
ので別段厳重注意を受けたりもしない。ただ、無謀な冒険者の烙印
を押される可能性は否定できないが。
﹁流石に、ストーンアントの巣はきついかな?﹂
﹁プリムラさんはまだしも、ジュディスさんを連れていくのは無謀﹂
中止という決定に対して、春菜も澪も文句を言うことなく受け入
れる。司祭としてそれなりの支援系魔法が使えるプリムラはともか
く、見習いで生活魔法に毛が生えた程度の魔法しか使えず、近接戦
闘がらみもずぶの素人であるジュディスを連れていくのは、いくら
なんでも壁役である宏の負担が増えすぎる。
﹁てな訳で、どうする?﹂
﹁個人的には、昨日の続きは避けたいところや﹂
﹁まあ、そうだろうなあ﹂
﹁僕一人で行くんも選択肢やねんけど、わざわざトラブルに巻き込
まれかねへん仕事をやっすい給料でやりに行くんもなあ﹂
もともと、ダールの地理を把握するためと多少のコネを作るため
の仕事だ。険悪な関係で無いとはいえ、それゆえに対処しにくいト
ラブルが起こる可能性がある仕事をわざわざ受ける必要はない。そ
1723
んな宏の主張に対して、特に異を唱える者はいない。デントリスの
事を知っているジュディスまでが賛成するぐらいだから、彼の判断
は妥当だろう。
﹁となると、本気でどうする?﹂
﹁やっぱり、屋台かな?﹂
﹁⋮⋮結局、そこに回帰するのかよ⋮⋮﹂
﹁ほとぼりが冷めるまでは、迂闊に冒険者やるのもだしね﹂
どうやら、彼らはどうあっても屋台という選択肢からは逃れられ
ないらしい。微妙にげんなりしつつも、他の案も特にないのでその
意見を受け入れる。
﹁じゃあ、ヒロはここで仕込みか?﹂
﹁せやな。ついでやから、ロックワームもバラしとくわ﹂
﹁そういや、忘れてたな﹂
﹁昨日回収して来えへんかった分は仮に残っとったとしても、流石
に食材としてはあかんなってきとるやろうなあ﹂
﹁この気温だからなあ⋮⋮﹂
熱帯に属するダールの気候。それは肉類に対しては非常に厳しい
ものだ。当然、食材に関しては売る側も買う側も絶対に腐敗防止の
エンチャントがついた道具を使うことを義務付けられているが、売
1724
る側はともかく買う側に関しては、言われなくても生ものを裸で持
ち歩いたりはしない。
﹁で、兄貴はどうする?﹂
﹁そうだな。協会行って昨日のロックワームについて確認したら、
たまには客引きでもするか?﹂
﹁了解や。で、メニューはどうする?﹂
﹁ここは無難に、カレーパンでいいんじゃない?﹂
﹁人手もあるし、もう一声行っとこうか﹂
宏の掛け声に、更に頭をひねる春菜。使える人手を考え、作業内
容を吟味し⋮⋮
﹁たこ焼きは材料の仕込みがちょっと厳しいから、トロール鳥の焼
き鳥かな。あ、そうだ宏君﹂
﹁なんや?﹂
﹁白餡とカスタードクリーム、仕込める?﹂
﹁問題あらへんよ﹂
﹁じゃあ、鯛焼きも出せるね﹂
春菜の言葉に、微妙にげんなりした様子を見せる真琴。鯛焼きと
いう言葉から、間違いなく自分が調理担当をすることになると判断
1725
したからである。
﹁プリムラさんとジュディスさんって、どの程度お料理できる?﹂
﹁最低限は出来ますよ。ね、お姉ちゃん?﹂
﹁流石に、調味料を調合しろとか細かく火加減を調整しろとか言わ
れると困りますが⋮⋮﹂
﹁だったら、ちょっと仕込みを手伝ってもらっていいかな? その
腕前次第で、場合によっては別に一品か二品考えるし﹂
﹁分かりました﹂
春菜の申し出に頷き、現場監督の生産馬鹿と料理馬鹿の指示を受
けながら仕込みを開始する一同。仕込み段階ではこれと言ってでき
ることが無い達也と真琴は、とりあえず屋台の場所取りと協会での
情報収集のために拠点を出て行く。
﹁これやったら、フィッシュアンドチップスあたりも増やすか?﹂
﹁そうだね﹂
﹁問題なさそう﹂
仕込みでの姉妹の料理の腕を確認した宏達三人は、あっさり一品
増やすことを決めるのであった。
1726
﹁いらっしゃいいらっしゃい。ファーレーン名物カレーパンだ!﹂
昼時の広場。数日前に一度だけ商売をしていた見慣れない構造の
屋台が、新たに不思議な食べ物を売りはじめた。達也の客引きに合
わせてそんな噂が駆け巡るとともに、周囲の屋台の客を根こそぎ持
って行きかねない勢いで人が集まり始める。
﹁兄ちゃん、カレーパンってなんだ?﹂
﹁いくつかのスパイスを混ぜたもので野菜とか肉とか煮込んで、パ
ン生地でくるんで油で揚げたもんだ。美味いぞ?﹂
﹁結構いい値段だが⋮⋮﹂
﹁値段だけの価値はあるさ﹂
一個四百セネカ。ファーレーンで売っていた時に比べてさらに割
高ではあるが、そこは水の貴重さが物を言っている。最初は普通に
三百五十セネカとファーレーンとほぼ同じ値段で売るつもりだった
のだが、水をそれなりの量使う事から姉妹に突っ込みを入れられ、
今の値段に落ち着いたのである。何しろ、三百五十セネカだと、小
さなカップ一杯のスパイスシチューとほぼ同等程度の値段にしかな
らない。この国では煮込み料理は高いのだ。
水の値段の問題以外にも、宏達一行は元々、とある生産ジャンキ
ーのおかげで他の冒険者に比べて必要経費が極端に少なく、あまり
1727
がつがつと利益をむさぼる必要が無い。故に、どうしても利益率が
どうとか他の屋台の値段がどうとかいう事をあまり考えない傾向が
あり、姉妹からの突っ込みが無ければ周囲を駆逐しかねない値段で
屋台をやりかねない危険性があるのだ。
そういう意味では結構な量の水を使う鯛焼きも値上げするべきだ
ったのだが、こちらは子供のおやつだから手ごろなワンコイン百セ
ネカを崩したくなかったため、そのままの値段でやっている。
﹁トロール鳥の串焼きだと!? こんな値段で売って大丈夫なのか
!?﹂
﹁あ∼、在庫がかなりダブついてるから、これぐらいでも全然黒字﹂
﹁ダブついてるって⋮⋮﹂
﹁一応これでも冒険者だし﹂
思わず嘘つけといいたくなるような春菜の台詞に、何とも反応に
困る客その一。とりあえずその値段で大丈夫だといっているのだか
らと、目玉らしいカレーパンと折角だからトロール鳥の串焼きをも
もとねぎまを一本ずつ購入する。他の客もそんな感じで、とりあえ
ずおためしでという反応がほとんどだ。
﹁おねーちゃん、中身白いのちょうだい!﹂
﹁カスタード!﹂
鯛焼き屋を目ざとく見つけた子供たちが、器用に大人をすり抜け
て真琴に注文を出す。大人が同じ真似をすれば殴り合いのケンカに
1728
発展しかねないが、やっているのが子供、それもほとんどの大人に
とって競合しない鯛焼きが目当てなので、とりあえず大目に見てく
れているのだ。
﹁はいはい、分かったからちゃんと並びなさい!﹂
無作法な真似をする子供達を叱りながら、手早く鯛焼きを葉っぱ
で包んで渡してやる。達也が上手い具合に列の整理をしてくれたお
かげでとりあえず大した混乱も起こらず、子供達を先頭に鯛焼きの
ための列も完成して問題なく運用できるようになる。
﹁今日はタコ焼きとやらはやっておらんのか?﹂
﹁材料の仕込みが間に合わなくて﹂
﹁そうか、残念だ﹂
屋台開始から二時間ほど。初日にも顔を出した三十路手前ぐらい
の美人さんが、鯛焼きも含めて各種一つずつを買いながら残念そう
に言う。カレーパンにフィッシュアンドチップス、焼き鳥が五種と
かなりのボリュームだが、前回もお好み焼き串にタコ焼きお代り、
鯛焼きも二つ平らげているので多分問題ないのだろう。
とは言え、たこ焼きが無い事は残念でも、それと焼き鳥やカレー
パンとは別問題らしい。さっそくという感じで皮串からかじり始め、
つくねやレバーも美味そうに平らげて行く。
﹁うむ。鳥自体の旨味もさることながら、このタレが実に絶妙!﹂
﹁秘伝のタレですから﹂
1729
次の客の邪魔にならぬよう脇によけながらも、まるで宣伝するか
のようにその場で食事を始める女性。割と豪快に食べている割に所
作そのものは妙に上品で、彼女が上流階級、それもかなり上の方の
人間である事は疑う余地もない。無いのだが⋮⋮
﹁ほう、このパンは中にシチューのようなものが入っているのか﹂
﹁この国のシチューと、ちょっと似てるかな?﹂
﹁ふむ⋮⋮。うむ、これはまた、スパイスの塊だというのに複雑で
繊細な味よのう。ファーレーンの名物だというが、我が国のスパイ
スでも可能か?﹂
﹁計量をちゃんとするかどうかだけの問題。ただ、私達は自作して
るけど、調合済みのカレー粉はウルスでもまだ高級品﹂
﹁計量か。それは確かに問題だな﹂
そんな人間がカレーパンやフィッシュアンドチップスを立ち食い
しながら、屋台の料理人と雑談するのはどうなのだろうか。そんな
事を思わなくもない日本人一同。
﹁そう言えば、数日前に店を出して以来、今日まで全く屋台をやっ
ていなかったのはどういう訳だ?﹂
﹁冒険者だから、一応本業の冒険を﹂
﹁本業? 副業の間違いではないのか?﹂
1730
﹁屋台はあくまであまった素材を使いきる手段﹂
達也と真琴が内心で嘘つけ、と突っ込むような事をあっさりと言
ってのける春菜。モンスター系食材は確かに余ったものを使ってい
るが、それもどちらかというと屋台でも使えるから、という理由で
確保した肉類の方が多いぐらいである。
﹁それで、明日も屋台を出すのか?﹂
﹁ちょっとの間はその予定かな? メニューは手持ちの在庫と相談
の上で適当に決めるけど﹂
﹁こちらが心配するような筋合いはないのだが、あまり周りの商売
を圧迫するようなメニューを並べるでないぞ?﹂
﹁あ∼、それなりに考慮します、はい﹂
釘をさすような女性の言葉に、少々恐縮しながらも他に答えよう
がない春菜。メニュー自体は基本的に他の屋台とは被りようが無い
のだが、その分珍しさで客を奪ってしまう可能性まではどうにもな
らない。
﹁あ、そうだ。そろそろカレーパンは底が見えてきたけど、他は在
庫大丈夫?﹂
﹁つくねがもうちょっとで終わりそう﹂
﹁フィッシュアンドチップスはまだ大丈夫です﹂
﹁白餡はそろそろ終わりね。後三十は厳しいと思うわ﹂
1731
﹁⋮⋮追加の仕込み、頼んだ方がいいかな?﹂
各人の報告を聞き、対応を考える春菜。そこに
﹁売り切れなら、売り切れでいいではないか﹂
フィッシュアンドチップスを食べ終わった女性が口を挟む。これ
で彼女の手元に残っている料理は、デザートの鯛焼きが二つだけで
ある。
﹁別に、今日来ている全員に売る必要もなかろう? それに、ここ
らで止めておけば、周りの屋台をそれほど圧迫する事もない﹂
﹁それもそっか﹂
女性の言葉に納得し、宏に連絡を入れるのはやめにしておく春菜。
﹁達也さん、カレーパンは一人一個でもいま居る人で終わり!﹂
ついでに行列の具合から残りを逆算し、客引き兼行列整理の達也
に伝達する。
﹁ごめんなさい、残り少ないから一人一個でお願いしてるんです﹂
二つ以上注文したがる客に必殺の申し訳なさそうな表情でのお願
いをぶつけてノックアウトし、どうにか並んでいる人間全員にカレ
ーパンを行きわたらせる。その後、焼き鳥やフィッシュアンドチッ
プスを手伝いながら次々と客を雑談交じりに捌いていき、屋台開始
から三時間経たずに用意した商品はすべて品切れとなる。
1732
﹁ごめんなさい、仕込み全部使い切りました!﹂
春菜のその宣言に、噂を聞きつけて覗きに来た客ががっかりした
表情を見せる。
﹁春姉、片づけはボク達がやるから、お客さんにお詫びの一曲、振
舞ったら?﹂
あまりにもたくさんの客ががっかりした様子を見せるものだから、
見かねた澪が提案する。
﹁ん∼、そうだね﹂
﹁歌うのか? ならばそうよの。今のお主の心情に合わせた、切な
い恋歌などどうだ?﹂
何が面白かったのか、近場の屋台で濁り酒の類を買ってちびちび
やりながら最後まで屋台の様子を観察していた女性が、春菜が歌う
という流れになったあたりでそんなリクエストを提示してくる。
﹁⋮⋮そんなに駄々漏れ?﹂
﹁屋台の最中には、流石に分からなかったがの。さっきからあちら
の方に意識が向いておる事ぐらい、少々観察眼がある人間ならすぐ
に分かる事よ﹂
﹁⋮⋮御見それしました﹂
あちらの方と言って拠点のある方角を指し示す女性に、素直に降
1733
参して見せる春菜。どうせそこまで駄々漏れだったら、誤魔化す意
味もない。最近は演歌とかコミックソングとかが多かった事だし、
リクエストに応えて自分の年代や外見で歌うならまとも、という分
類に入る歌を歌う事にする。
ざっと脳内検索をかけ、かなり古いながらも一応アイドルが歌っ
ていた歌を一曲、とりあえず歌う事にする。願いがかなうならすべ
てを忘れたい、だが激しく燃える恋心は消す事が出来ない、という
歌詞の八十年代ぐらいのバラードである。今の春菜自身の心情とは
微妙に違うが、恋をした事により今はその心情が実感として理解で
きるようになったため、なんとなく歌いたくなったのだ。
﹁曲が決まったようだの。だったら少し待て﹂
春菜が歌おうとし始めたところで歌を軽く制し、いつの間にか広
場を埋め尽くしていた客を一瞥すると、酒を買った屋台の店主に声
をかける。半分ぐらいは初日に春菜の鼻歌や酒場での一曲を聞いて
いた客で、残りの半分はそこから流れた噂を聞きつけた連中である。
﹁お主の店、子供が飲めるようなものはあるか?﹂
﹁一応果汁の類はあるが?﹂
﹁ならば、それと先ほどの酒を一杯ずつ、ここでたむろしている連
中に振舞ってやれ。これで足りるであろう?﹂
十万セネカ金貨を三枚ほど投げてよこし、御大尽な事を平気で言
ってのける女性。それを見て目をむきながらも、律儀に金貨を一枚
返す店主。
1734
﹁二枚でもお釣りがくる﹂
﹁正直だの﹂
﹁小心者なんでね﹂
そんな事を言いながら、カップに酒を注いでいく。それを確認し
たところで、今度は聴衆に向かって声をかける。
﹁私が一杯おごってやる。だからお主らもここらの屋台で、何か一
品買うがよい﹂
声を張り上げた訳ではないのに広場の隅々まで通る女性の声にわ
っと歓声を上げると、酒を受け取った後で方々の屋台に散る。十五
分ほどで騒ぎが収まると、ほくほく顔の店主たちも含む全員が歌を
聞く態勢になる。
﹁何かすごく大事になった感じはしますが、せっかく来ていただい
たので、とりあえず一曲歌わせていただきます﹂
物凄い数の群衆に微妙に引きながら、当りさわりのない挨拶を済
ませると息を大きく吸い込んで、全身全霊で一曲目を歌い上げる。
伴奏なしだというのに、最初の一音でその場の空気を完全に支配す
る。
結局大量のおひねりとともに春菜が解放されたのは、二時間後の
ことであった。
1735
﹁なんか落ち着くわあ⋮⋮﹂
久しぶりに視界の範囲内に女性がいない時間を過ごしていた宏は、
仕込みが終わったカレーパン約千個を前に思わずしみじみと呟いて
いた。春菜達が出て行ってからまだ二時間も経っていないが、春菜
と二人で活動していた頃からずっと仕込み続けてきたカレーパンだ。
千個仕込むぐらいでは二時間はかからない。
最近は同じ部屋に複数の女性がいるという状況にも随分と慣れて
きたとはいえ、女性恐怖症が治った訳ではない。慣れたというだけ
でプレッシャーを感じない訳ではなく、しかも最近は安全パイであ
ったはずの春菜からすら微妙に不穏な気配を感じるようになってい
る。正直、微妙にでは済まないぐらい居心地が悪い。
﹁春菜さんに思うところがある訳やないんやけどなあ⋮⋮﹂
他に仕込みをする必要がある物も思い付かず、とりあえず外でロ
ックワームの解体を始めながら愚痴っぽい何かを漏らす。別に春菜
の事は嫌いではない。長く運命共同体的な間柄で活動を続けてきた
こともあり、それなり以上には信頼も寄せているし情も移っている。
だが、あくまでそれは一個人としての春菜に対してである。
女性としての春菜に関しては、残念ながら本能レベルでの警戒を
解くまでには至っていない。今更そんな事はしないだろうとは思っ
ていても、女性であるというだけでどうしても一定ラインの警戒は
してしまうのである。いかに性欲の対象が女性だといったところで、
1736
たとえ写真でも現実の女性に対してはそう言う意識を向けられない
程度にはトラウマが残っている宏に対して、身近な女性に警戒する
なというのは酷であろう。
そもそも、異性の事などどう頑張ったところで完璧な理解などで
きはしない。体の構造が違うのだから、互いに経験できない要素も
たくさんあるし、本能のレベルで考え方が違う部分も多い。まして
や、恋愛が絡むと男女関係なくまともな人間ですら時折トチ狂うの
だ。そのせいで受けなくていい社会的制裁を受けた身の上としては、
正直身近な人間の恋愛感情など、自分に向けられたものか否かに関
係なく勘弁願いたい。
宏にとって女性とは、いまだに自身に対して危害を加える思考回
路が全く理解できない生き物、という定義のままなのである。
﹁全く、何が悪かったんやら⋮⋮﹂
せっせとロックワームを解体し、食える部位、素材にできる物、
ただのゴミにわけながら、これまでの事を色々と思い返す。正直な
ところ、吊り橋効果のようなものがあった気がしなくもないエアリ
スとアルチェムはまだしも、春菜に関しては自分を異性だと意識さ
せるようなきっかけになることなど、これっぽっちも思い付かない。
強いて言えばダンジョンで別行動になった時に何かあったのでは、
と思い付く程度だが、その何かが余程の事でない限り、あの春菜が
自分に対して恋していると勘違いするような事にはならないはずだ。
そして、そのよほどのことという奴がどうしても思い付かない。あ
り得ないとは思うが、今までの日常の積み重ねが原因であるなら、
春菜の男の趣味は相当悪い。
1737
普通なら宏の身分でそんな事を考えること自体が自意識過剰だと
いわれそうだが、残念ながら自分に向けられる感情で他に該当する
ものが無く、達也だけでなく真琴やオルテム村の住民、果ては工房
の職員にドーガやメリザにまで釘を刺されている。その上、一緒に
いる時間の大半はこちらに視線を向けて来るわ、やたら頻繁に目が
あうわ、目があうたびに頬を染めながらそれでもこちらをじっと見
てくるわとなると、宏的には勘弁してほしい事だが、最低でも恋愛
感情を抱いていると春菜が勘違いしているという結論以外は出しよ
うが無い。
そんな事を考えているうちに、三体分のロックワームがすべて素
材に化ける。地味に表皮と内臓と歯を除く全てが可食部であるロッ
クワームは、サイズがサイズだけになかなか食い出がある分量があ
る。モンスター食材の常として、普通の料理人が調理すると食えた
ものじゃなくなるが、ロックワームの調理難易度はトロール鳥と同
じぐらい。ちょっと訓練すれば主婦でも最低限の調理は可能になる
ラインである。
﹁とりあえず、春菜さんの勘違いをどうするかは置いとこう﹂
あくまでも春菜の今の感情は勘違いだと譲るつもりはない宏。本
人が聞けば本気で泣きそうだ。
﹁ロックワーム、どうやって食うかな?﹂
いろんな意味で色気より食い気。はっきり言って恐怖しか覚えな
い恋愛関係のあれこれよりは、こっちの悩みの方がはるかにましだ。
とりあえず、ミミズという単語でいろいろ考えてみる。よくある
のはそのまま火を通してうどんのように食べる食べ方だが、大きさ
1738
が大きさの上、すでに解体しているため却下。そのまま焼くかゆで
るか煮込むかというのが王道だが、なんとなくひねりが足りない気
がする。
そのまま、ミミズ、ミミズと呟きながらあれこれ考えているうち
に、余計な事を閃く宏。
﹁せや。ミミズっちゅうたらハンバーガー屋の都市伝説や﹂
世界的なハンバーガーチェーン各社に対して、定期的に発生する
都市伝説。いわゆるハンバーガーのパテに牛や豚以外の、それも普
通食べないような生き物を使っているというあれである。その中で
もミミズというのはネズミと並んでメジャーな素材だろう。普通に
考えれば、チェーン展開するほどの規模の店が、ネズミやミミズの
肉をそれだけの数集めるなど、コスト的に不可能なのはすぐ分かる
事なのだが、どういう訳かこういう噂が無くなる事はない。
何にしても、今回はハンバーガーに正真正銘ミミズの肉を使える
のだ。少なくとも日本人メンバーの受けは取れるだろう。そんな余
計な事を考えつつ、ハンバーガーのパンを仕込む。発酵時間を短縮
するため、わざわざ熟成加速器を使うあたりが末期的だ。流石はネ
タに命をかける大阪出身といったところか。
﹁パテの種はこんなもんか。後はチーズとレタス、トマトにソース、
玉ねぎもみじんにしてちょっと火通しとこか﹂
パンを発酵させている間にざっと仕込みを済ませ、試しに味見用
に一枚焼いてみる。端の方を多少千切って口に入れ、その出来栄え
に満足げに頷く。
1739
﹁普通にそんじょそこらのバーガー屋の肉より美味いし﹂
宏は知らない事だが、ロックワームはこの地方の肉類としては最
高級品に分類される。使っているのは間違いなく牛だと言っても、
どんな品質の牛のどの部位をどういう風に加工しているかがいまい
ち不明なファーストフードのパテより美味いのは、ある意味当然で
ある。肉の味など調理方法が同じなら、基本的に値段がダイレクト
に反映されるものだ。
もっとも、ファーストフードの王様であるハンバーガーは、そう
言う怪しげな牛の肉を使ったチープな味わいがいいという意見も否
定できないものではあるが。
﹁さて、ミミズバーガーは完成やけど、春菜さんらは流石にまだ帰
って来んかな?﹂
ミミズバーガーを完成させ、試食でかなり遅めの昼食を済ませて
満足したところで、意外と時間が経っている事に気がつく宏。屋台
というのは意外と終了時間が読めない物だが、今回は割と突発的に
屋台に走った事もあり、仕込みの量はそれほどでもない。余程売れ
行きで苦戦していなければそろそろ終わりかと思う半面、珍しいだ
けでそんなに馬鹿すか売れるとも思えないという考えも無くもない。
実のところはすでに屋台のメニューは全て売り切れており、現在
リサイタルでおひねりを巻き上げている最中だとは、流石に宏も予
想できなかったようだ。まだ帰ってこないのであればもう少し遊ん
でおこう、という方向に自然と意識が向く。ターゲットはストーン
ゴーレムの破片。
﹁⋮⋮って、場合によったら溶鉱炉とかいるやん﹂
1740
処理工程を思い浮かべ、その問題に行きつく。流石にレンタルの
工房に勝手に転送陣を設置する訳にもいかないし、かといってわざ
わざウルスに一回一回戻るのも面倒だ。ならば、やる事は一つ。
﹁レンガ、レンガっと﹂
溶鉱炉と言う以上、普通の金属やガラスが溶けるより高い温度に
耐えられなければいけない。必然的に、その要件を満たす材料もし
くは処理を行う必要があるため、作るにはそれなりの機材が必要と
なる。故に、この場合宏がとった手段と言うのは
﹁こんなところか?﹂
溶鉱炉の材料となるレンガを作る、そのためのかまどを作る事で
あった。幸いにして、この工房の庭にある土もダール特有のものだ。
錬金術と魔道具製作、エンチャントの合わせ技を使えば、即席のレ
ンガ焼きかまどを数秒で完成させるぐらい訳はない。
なお、今回の場合、溶鉱炉の材料自体は別段レンガでなくても問
題ない。普通に熱に強い石を集めて組み合わせるだけでも十分に役
目は果たす。が、このダールは超耐熱レンガの材料に向く土や砂が、
簡単にかつ大量に手に入る。ならば、それを使わない手はない。
﹁ほな、焼くでえ!﹂
即席炉の状態が安定したところで、レンガの製造に入る。材料に
マッドマンの泥を使い、あれこれ多重に処理を重ねて焼き上がった
後の耐熱性と耐久性を上げていく。それをそれなりの高温で一気に
焼きあげ、何処に出しても恥ずかしくない耐熱レンガを作り上げる。
1741
調子に乗ってマッドマンの泥を使いきるまでレンガを焼きつづけ、
溶鉱炉を作るのに十分な数を作り上げたところで、ついでだからダ
ールにいる間に、ランクの高いガラス瓶も量産しておこうかなどと
余計な事を考える。そうなるとガラスの材料が欲しくなる。ガラス
の材料と言えば石英、つまり砂や石に多量に含まれ、ダールにはお
あつらえ向きに砂漠がある。結論は一つしかない。
﹁状況がもうちょい落ち着いたら、砂漠に砂掘りにいかなあかんな﹂
誰にも相談せずに、勝手に予定を決める宏。突っ込み不在とは恐
ろしいものだ。
﹁そういや、魔鉄とかあのへんの鉱石、地味に在庫結構残っとった
なあ﹂
溶鉱炉を組み上げながら、砂漠と言う単語から連想したあれこれ
に関連した機材作りのための材料を思い浮かべる。砂漠に砂を集め
に行くぐらいまでなら、突っ込みは入っても誰も反対はしなかった
だろう。だが、突っ込み不在のままオクトガルもかくやというレベ
ルで連想ゲームを続けた結果、どんどん明後日の方向にそれた思考
により、現時点で主にやるべき事やら何やらを放置して突っ走る方
向で予定を固めてしまう宏。残念ながら当分は屋台をするため、宏
自身にはその準備のための時間は余裕で捻出出来てしまう。
﹁何やってんだ?﹂
﹁あ、お帰り。だいぶ遅かったやん﹂
﹁おう、ただいま。屋台自体はすぐ終わったんだがな。で、何やっ
1742
てんだ?﹂
﹁時間あったから、溶鉱炉作ってんねん。ストーンゴーレムの破片
処理すんのにあった方がええし、それにどうせ砂漠の方にも行くか
らそこで砂取ってランク高いポーション瓶も作っときたいし。かま
へんやろ?﹂
﹁まあ、別に反対する理由はないが、な﹂
暇だったから溶鉱炉を作る、という発想に微妙に呆れつつも、宏
がこういう空き時間に機材や道具、各種消耗品などを作っているの
はいつもの事だ。そう考えて、特に突っ込みを入れることなくスル
ーした達也。この時、地味に鉱石類も用意されていた事に突っ込ん
でおけば、この後の訳のわからない寄り道は回避できたであろう。
だが、残念ながら達也はその手の素材類は詳しくない。結果として、
突っ込み不在のままひそかに暴走状態だった宏の行動を修正する機
会は失われてしまった。
﹁しかし、腹減った⋮⋮﹂
﹁もうちょい作業したら晩飯の準備はするけど、持ちそうにないん
やったらハンバーガー作ってんで﹂
﹁おっ、そりゃいいな。今日は妙に忙しくて、昼を食う暇が無かっ
たんだよ﹂
﹁さよか。ほな、ちょっと用意してくるから他の連中も集めといて﹂
﹁おう!﹂
1743
余程空腹だったらしい。やけに嬉しそうに軽やかな足取りでメン
バーを食堂に集め、宏が用意したハンバーガーを目を輝かせて貪り
食う。ファーストフードの類をあまり食べないイメージの春菜です
ら妙に喜んで食べているのは、おそらく空腹だけが原因ではあるま
い。
﹁うめえな、このバーガー!﹂
﹁ハンバーガーの割に、意外と上品な味?﹂
﹁ってか、このパテ、牛じゃないでしょう﹂
﹁真琴さんの意見に一票。宏君、これ何の肉?﹂
﹁ロックワームや。いわゆるミミズバーガーっちゅう奴やな﹂
にやりと笑って答えた宏に、食べる手がピタッと止まる一同。
﹁⋮⋮さすが師匠。ネタのためならボク達が思い付かない事を平気
でやる⋮⋮﹂
﹁⋮⋮そこに痺れも憧れもしねえがな⋮⋮﹂
﹁と言うか、流石に私、こっちに来てその都市伝説を聞くとは思わ
なかったよ﹂
などと言いながらも、すぐに再びハンバーガーをかじり始める。
言っては何だが、今更ミミズごときで引いていたら、食うものが無
くなってしまう。
1744
﹁⋮⋮お姉ちゃん、私ロックワームを食べる機会があるとは思いま
せんでした﹂
﹁⋮⋮もしかしてとは思いましたが、やはりご自分で調理なさいま
したか⋮⋮﹂
﹁何かまずい事でもあるん?﹂
﹁まずいというか、ロックワームはダールの食肉としては最高級品
です。なので、売ってお金に変えたのかと思ったのですが⋮⋮﹂
﹁うちら、食材の類はあんまりそのままでは売らへんねん。トロー
ル鳥かて、まだ在庫が十羽分ぐらい残っとるしな﹂
それは流石に食肉業者に卸したらどうか、などと思わなくもない
姉妹。トロール鳥など、一羽あれば五人分で十数食は余裕で作れる
大きさの鳥だ。十羽となるとそう簡単に食べきれるものではない。
﹁せやなあ。トロール鳥の話が出てきたし、今日の晩飯はトロール
鳥の旨煮あたりにするか?﹂
﹁そいつはいいな。で、それはそれとして、だ﹂
﹁ん?﹂
﹁流石に、他に妙なものを食わせようとしてたりはしないよな?﹂
やけに真剣な顔で詰め寄ってくる達也に、微妙に引く宏。見ると、
真琴や澪、春菜までこの件では敵に回っている風情がある。流石に、
不意打ちでのミミズバーガーは衝撃が大きかったらしい。言うまで
1745
も無く、春菜や澪的に今回問題になっているのは不意打ちでミミズ
を食わせた事ではなく、半年以上食べる機会が無かったハンバーガ
ーに、余計な都市伝説ネタを仕込んだ事である。
﹁⋮⋮残念ながら、ゴーレム食うには機材が足らん﹂
﹁って、ゴーレムを食うのかよ!?﹂
﹁宏君、本当に食べれるの?﹂
﹁食えるで。鉄やろうが泥やろうがミスリルやろうが、いっぺんゴ
ーレムにしてばらして、ちょっと特殊な調理器具で調理したったら
食えんねん。ただ、逆にいっぺんゴーレムにせんと、金属関係はど
んな調理しても食えんけど﹂
﹁てか、食った奴がいるのかよ⋮⋮﹂
﹁うちの職人仲間で一人、やる事が思い付かんで煮詰まったアホが
冗談半分でやりおってん。流石にほんまに食えるとは、本人含めて
だれも思わんかったけどな﹂
あまりにもあれで何な宏の発言に、コメントが思い付かずに沈黙
する一同。いくらなんでも、鉄だのミスリルだのを調理して食った
人間がいるというのは、流石に想定外にもほどがあったのだ。
﹁まあ、これに関して裏話っちゅうかネタばらしするとな。ようす
るに魔法生物やから調理できるらしいねん﹂
﹁流石に物には限度があると思うな、私﹂
1746
﹁色々今更やっちゅうことにしとこうや。で、晩飯いつぐらいにす
る?﹂
このまま続けていてもグダグダになるだけの話題を打ち切って、
夕飯の支度について確認する。とりあえず納得できるかどうかはと
もかく理解できる理屈も聞けたところで、話題転換に乗っかる事に
する達也。
﹁そうだな。今食ったから、二時間後ぐらいでいいんじゃねえか?﹂
﹁了解や。ほな、溶鉱炉の続きやってくるわ﹂
﹁じゃあ、私は明日の仕込み、って、ずいぶんたくさんカレーパン
作ったんだね﹂
﹁そらもう、かなり手が空いとったからな﹂
﹁じゃあ、私は白餡とたこ焼き関係の仕込みかな。流石に明日はト
ロール鳥はいいか﹂
二時間と言う微妙な空き時間に関して、各人が勝手に予定を組ん
で行く。トイレを含む建物の掃除に関しては居候状態の姉妹の仕事
なので、今回は誰も手を上げない。
﹁折角やから、ミミズバーガーも出したらどないや?﹂
﹁あ、面白そう。値段は高めのご当地バーガーぐらいでいいかな?﹂
﹁高級食材やっちゅうんやったら、そんなもんやろう﹂
1747
そんな感じで明日出す物も決まり、工房の方へ消える宏を見送っ
て一つため息をついてから仕込み作業に入る。翌日は割と朝の早い
時間から開店したにもかかわらず昼まで持たずに在庫が切れ、仕事
が休みの暇人達に請われてリサイタルの時間がもっと長くなるのは
ここだけの話である。
﹁こんな時間まで、何処をほっつき歩いていたんですか⋮⋮﹂
﹁屋台を冷やかしておったのだが、何か問題でも?﹂
﹁大ありですよ⋮⋮﹂
﹁今日すべき仕事は、朝のうちに終えてあったと思うが?﹂
﹁女王ともあろうものが、こんなに頻繁にかつ長時間、無断で特に
重要でも無い私用を理由に職場をあけるなと申し上げているのです﹂
耳の痛い小言をぶつけてくるセルジオに、明後日の方向を見る事
で聞き入れるつもりはない事を主張する女王。これで決裁だのなん
だのが滞るのであれば問題だが、残念ながら女王の即断が必要な案
件が入った時には、外遊中でもない限りはどういう訳か大抵王宮に
居るため、どうにも小言の効果が薄い。
﹁特に重要ではない私用と言うがの、今回の屋台巡りは例のファー
1748
レーンからの客人の様子を見に行く、という重要な仕事があったの
だぞ?﹂
﹁陛下自らが行うような仕事だとは思えませんが?﹂
﹁他者から聞いた人となりなど、信用できるものか﹂
ズバッと言い切った女王の言葉に、反論が思い付かずに沈黙する
セルジオ。この手の情報は、往々にして余計なフィルターが間に挟
まるものだ。それで要らぬ苦労を強いられたこともある女王として
は、誰の邪魔も入らない状態でかつ、相手がこちらの正体を推測で
きない時に重要人物の人となりを確認するのは、実に重要な仕事な
のである。
﹁まあ、おかげで、ファーレーン王家からの伝達については、ほぼ
すべて裏が取れたといっていいがのう。残念ながら、肝心の二人の
うち、男の方が居らんかったが﹂
﹁結論は?﹂
﹁おおよそ、レグナス王の言葉は真実であろうな。それゆえに、余
計な事をして敵に回すのも怖いのう﹂
﹁余計な事、ですか﹂
﹁さしあたっては、デントリスがくだらぬ事をしでかさんよう、ど
うにかして釘をさしたいところじゃ。正直、妾はワームの餌は勘弁
してほしいところでな﹂
この国では、真剣に恋している者に横恋慕する愚か者は、ワーム
1749
の餌にされても文句を言えないという格言がある。言うなれば、馬
に蹴られるのダール版である。
﹁デントリス卿の悪癖が出ておりますか⋮⋮﹂
﹁うむ。まあ、対象となったハルナ嬢は、あの手の軽い男は嫌いな
ようだがな﹂
割と派手な容姿でかなり男好きする体型の春菜だが、女王の見た
所実際の性格は相当地味で、しかもかなり身持ちが堅そうである。
更にその上、対象が誰かは予想しかできないがかなり本気の恋をし
ている風情があるとくれば、難攻不落どころの騒ぎではない。ああ
いうタイプは一目ぼれや吊り橋効果での恋と言うのが難しい半面、
相手の良いところも悪いところもひっくるめて時間をかけて惚れ抜
くから、余程はっきりと袖にしたのでもない限りそう簡単にあきら
めるとも思えない。
恐らく惚れられたであろう男とデントリス、双方に対してご愁傷
さまとしか言いようのない話である。もっとも、ご愁傷様の内容は
正反対ではあるが。
﹁何にしても、いつぞやのような国際問題は勘弁願いたいところで
す﹂
﹁うむ。しかも今回に関しては、いろんな意味で洒落にならん事に
なりかねん。まだ裏情報の段階だが、我が国にとっては歓迎すべき、
だがいろいろと火種になりそうな話も随分と入ってきておる。他に
当てがえる女がいるのであれば、あ奴の下半身をそちらに引きつけ
ておきたい﹂
1750
﹁そうですね。検討しておきましょう﹂
﹁場合によっては、ファーレーンから送り込まれておる子猫に、色
々と働いてもらう事になるだろう﹂
女王がさらっと口走った聞き捨てならない情報に、眉をピクリと
動かすセルジオ。それを見て苦笑する女王。
﹁密偵、と言うほどのものではない。そもそも密偵であれば、レイ
オット王太子がわざわざこちらに存在を明かしたりはせんよ﹂
﹁では?﹂
﹁まあ、要は子飼いのシーフと言ったところであろう。集めておる
情報も、ファーレーンにとって有利になるものと言うより、おかし
な動きをしておる勢力についてがメインじゃ。アルヴァンの事以外
は、知られてこちらの不利になるような情報も集めておらぬ﹂
﹁つまり、そのシーフを利用してファーレーンに情報を流し、愚か
者どもの駆除に協力させる、と﹂
﹁うむ。どうやらファーレーンも相当かき回されたようじゃからな。
利害が一致しておる以上、手を組むのは当然じゃ﹂
物騒な笑みを浮かべ、妙な色気を感じさせる声色でなかなかに黒
い事を言う女王。
﹁しかし、内通とは愚かな真似をしています﹂
﹁向こうに出没しておったバルドの集団長距離転移であれば、南部
1751
大森林やフェアランド海域の問題を回避できると考えたのだろうが、
そもそもあのような程度の低い反乱が成功すると思うておったので
あれば、連中の質も落ちたものよ﹂
﹁そもそも、成功したところでアルフェミナ神殿が無くなってしま
えば、かの国の富はいいところ数年で全て失われるというのに、そ
んな事も分からないとは⋮⋮﹂
ファーレーンの中途半端な反乱劇。そこにダールもフォーレも付
け込まなかった理由は女王とセルジオの一言に尽きる。誘われてい
ると分かりもしない連中がおこした反乱など成功する訳もなく、成
功したところで先が無い。そもそもどちらに介入するにした所で、
フォーレからは大霊峰と北部大森林が、ダールからは南部大森林と
大霊峰、そしてフェアランド海域と言う難所が邪魔をする。あれだ
け展開の早い反乱劇に介入するような余地は、最初からなかったの
だ。
その上、現王家に協力したところで過去の借りがやや少なくなる
程度、反乱軍に協力しても得るものなど全くないとなると、手出し
をするだけ馬鹿馬鹿しい。現王家は穏健派だから問題ないが、元々
国としての力関係はファーレーンの方が圧倒的に上だ。気に食わな
い事があったからと食糧の輸出を止められてしまうと、困窮するの
はダールの方である。
このあたりの事情はファーレーンを取り巻く全ての国が一致して
おり、反乱があったからと言ってそれに乗じてファーレーンの国土
を切り取ろうという野心を見せる国はどこにもないのである。何し
ろ、切り取った国土で増えるであろう収穫量と、取引が止まる事で
得られなくなる食料では比較にならない。それぐらい、国境付近の
モンスターは性質が悪い。
1752
他にも、先々代の王が乱心した時に食糧の輸入が混乱した結果、
餓死者が大量に出たという歴史も、まともな王家が続いているとこ
ろに波風を立てたくない理由となっている。隣国が強大になる事を
望む国はないとはいえ、元々互いに侵略とかが可能な環境では無い。
トップがちゃんと仲良くできる相手であるなら、仲よく支え合うに
越した事は無いのである。
﹁さて、とりあえずさしあたって問題となるのは⋮⋮﹂
﹁どうやって女王として接触を持つか、ですか?﹂
﹁うむ。例の変死事件がらみで神殿がごたついておる所に、先のデ
ントリスの別邸の件で神殿の事情に巻き込まれてしまったようでな。
もっとも、幸いと言っていいのかどうか、押しつけられた相手はノ
ートンのところの娘二人のようじゃ﹂
﹁ならば、そちらの伝手で調整しましょう﹂
﹁頼むぞ﹂
そうやって当面の方針を決めた女王だが、ありとあらゆる予定が
宏の暴走によって微妙に狂う事になるとは、この時予想だにしてい
なかったのであった。
1753
第5話︵前書き︶
今回、一発ネタのために少々露骨な性的描写があります。
スルーしてもぜんぜん問題ないネタなので、苦手な方はスルーして
ください。
どのあたりかというのは、その描写の直前ででてくるネタで分かる
かと思います。
1754
第5話
﹁なあ、ヒロ⋮⋮﹂
﹁何や?﹂
﹁同じ事を何度も確認するのもあれだが、今回俺達は砂漠に砂を取
りに来たんだよな?﹂
﹁せやで。そろそろポーション瓶とか作り足す時期やし﹂
﹁じゃあ、ここはどこだ?﹂
﹁砂漠の地下に隠れとった、いわゆる超古代遺跡っちゅう奴やな﹂
どうしてこうなった。辺りの景色を何度も確認しながら、内心で
その言葉を延々と繰り返す達也。本来の予定では、日帰りで回収で
きるだけの砂を回収して、とっととダールに戻るはずだったのだ。
間違っても、こんな正体不明の遺跡に突入するはずではなかったの
だ。
﹁ねえ、宏﹂
﹁何や?﹂
﹁何であたし達、ここにいるのかしら?﹂
﹁そら、ドリル使うて地中深くに潜ったからやん﹂
1755
﹁いや、そうじゃなくて、砂を集めに来て、何で地中深くに潜る必
要があったのか、って話よ﹂
﹁そんなん、砂漠に来たらいっぺんは地下に潜りたいっちゅう、男
のロマンが発動しただけの話やん﹂
発動させるな。そう言いかけて言葉をため息にかえる真琴。残念
ながら、今更言っても手遅れである。そもそも、ドリルのついた潜
水艇というある種のロマンが詰まった乗物を見て、本来突っ込みで
あるはずの達也と真琴まで乗ってみたいと思ってしまった時点でア
ウトだ。
﹁まあ、来てしもうたんやから、腹くくって遺跡探検しようや﹂
﹁そうだね。折角来たんだし﹂
宏の提案に、何のためらいもなく同意する春菜。惚れたはれたの
問題に関係なく、元からこういうケースでは春菜がブレーキ役にな
った事はない。ましてや、今は宏に対してかなり熱烈に好き好き光
線を飛ばしている状態だ。アクセルを踏む事はあっても、ブレーキ
をかけることなどあり得ない。
﹁⋮⋮師匠、春姉、あそこに面白そうなものが﹂
﹁どれどれ? あ、本当だ﹂
﹁よし、まずはあそこからやな﹂
和気藹々と探索モードに入った学生組を見て、深く深くため息を
1756
つく達也。帰るだけなら転送石か長距離転移で一瞬だが、今更それ
を使って強引に帰還するのは、いくらなんでも空気が読めて無さ過
ぎる。それによくよく考えれば、別段この遺跡を調査する事に対し
て、特別問題も不利益も存在しない。あるとすればせいぜい、イグ
レオス神殿に対して日帰りだと言ってきた事ぐらい。これに関して
はプリムラの方から連絡を入れさせれば済む話である。
﹁⋮⋮しゃあない。あいつらを野放しにすると何やらかすか分から
ん。俺達も行くぞ﹂
﹁あ、あの、いいのですか?﹂
﹁私とお姉ちゃんは、これといって特別に準備とかしてきてないん
ですけど⋮⋮﹂
ノートン姉妹に水を差されるような形で突っ込みを受け、もう一
度ため息をつきながら荷物その他の確認をする達也。鞄が倉庫とダ
イレクトにつながっている関係上、元々こういう状況であまり特別
に準備などをした経験はないが、流石に心構えすらできていない状
況というのは初めてである。多少は確認した方がいいだろう。
﹁本当に、どうしてこうなったのかしら⋮⋮﹂
しみじみとぼやく真琴に呼応するようにため息をつき、荷物から
必要そうなものを取り出しながら、何処で間違えたのかこれまでの
経緯について再確認する達也であった。
1757
事の起こりは昨日の晩。夕食を済ませた後の事。
﹁そろそろ少しはほとぼりも冷めてきたし、ちょっくら外に出たい
んやけどええ?﹂
﹁外に出る? 具体的には?﹂
﹁瓶の材料集めるために、砂漠の方まで行きたいんよ﹂
宏の提案に、頭の中でいろいろ検討する一同。とはいえ、宏達三
人が砂漠に対する出入りに若干ランクが足りない事以外は、これと
言って他に思い付く問題も無い。ランク制限があるといったところ
で、陽炎の塔と違って別段見張りが立っている訳でもない。この場
合のランク制限は、特例を除き砂漠に出入りする類の依頼を受けさ
せてもらえない、という程度のものでしかなく、勝手に入る分には
自己責任である。
﹁そうだな。別にそれぐらいは大丈夫だろう﹂
﹁砂集めてる間ぐらいだったら、あたしと達也でプリムラとジュデ
ィスを守るぐらいは余裕だろうしね﹂
砂漠のモンスターはそれなりに強いが、あまり深くまで入り込ま
ない限りは囲まれたりもしない。澪がちゃんと探知役をこなしてく
れれば、不意打ちを食らう事もないだろう。その条件であれば、戦
闘能力のない姉妹を守るぐらいは全く問題ない。
1758
﹁で、どのあたりまで行くんだ?﹂
﹁ワンボックスで日帰り圏内やから、七時頃出発でこの辺までかな、
っちゅうとこや﹂
そう言って宏が指示したのは、地図上で街道が砂漠に差し掛かっ
たあたり。ダールから距離にして約二百キロ少々。ワンボックスな
ら三時間はかからない、どころか本気で飛ばせば二時間でお釣りが
くる程度である。
﹁⋮⋮ここまで、日帰りでいけるのですか?﹂
地図を見て、胡散臭そうに宏に視線を向けるプリムラ。最高級で
移動速度に特化したゴーレム馬車なら確かに可能だが、その条件で
も行って帰ってくるだけで二時頃になる計算だ。食事や休憩、採取
の時間なども考えると、日帰りではかなり厳しい。
﹁俺達の移動手段は、普通のゴーレム馬車より速いからな﹂
﹁そうなのですか?﹂
﹁ああ。ダールからウルスまででも、十日あれば余裕でつくぞ﹂
ウルスからダールまでは、南部大街道を利用して大体六千キロち
ょっと。平均時速で八十キロ、八時間前後走り続けて九日程度とい
うところである。これが馬車となると、スキルの影響で時速二十キ
ロ以上出るといっても、普通に一カ月では到着しない大旅行だ。
もっとも、陸路という制限を考えたとしても、現代日本では移動
だけで十日などという旅行はほとんど無い。首都と首都を繋ぐだけ
1759
でこれだけの移動距離が必要と言うだけでも、ファーレーンとダー
ルという二つの国の広大さがうかがえよう。
﹁それで、ワンボックスの方は砂漠仕様になってるのか?﹂
﹁とうの昔に対策済みや﹂
﹁なら、明日朝から行くか?﹂
﹁屋台の方、いきなり休みだとちょっと問題にならないかな?﹂
﹁それは、朝行く前に近場の店のおやっさん達に言付けしてもらえ
ばいいんじゃないか?﹂
春菜の問題提議に、対応策を提示する達也。賄賂と歌とその他も
ろもろで仲よくなった近場の店の店主たちなら、上手い事取りなし
てくれるだろう。お客さん達も彼らの本職が一応は冒険者である事
を知っているため、こういう突発的な休みがあるかもということも
承知している。
﹁じゃあ、明日の朝早起きして支度して、広場で言付けするのをお
願いして、そのまま砂漠まで一直線?﹂
﹁せやな。っちゅう訳やから、今日ははよ寝よか﹂
﹁了解﹂
その言葉を皮切りに、それぞれ明日のための準備に入る。そして
翌日の昼。
1760
﹁本当に、二時間ほどで到着するんですね⋮⋮﹂
﹁そんなにスピード出てる感じはしなかったのになあ⋮⋮﹂
時速八十キロで立てていた予定より早い、約二時間という経過時
間で目的地に到着した一行。砂漠方面はもともと交通量が少なく、
徒歩で近隣の農地などへ向かう人や塔へ向かう馬車などを追い越せ
ば、後は容赦なく百キロオーバーで走って問題が無かったことが最
大の要因だろう。たまにストーンアントなんかを弾き飛ばしている
のはいつもの事だ。
なお、ジュディスが余りスピードが出ている感じがしなかったの
は、車が完全に覆われているために外の風が入ってこなかったこと
に加え、外の景色が基本的に変化に乏しかった事が原因である。他
にも、自動車というやつは案外速度というものを感じ辛いと言う特
性も理由としてあげられる。
流石に砂漠だけあって、まだ十時前だと言うのにすでになかなか
の気温になってきている。これが出発したぐらいの時間帯だったら、
氷点下までは行かないにしてもかなりの低温になっている訳で、自
然というのはやはり過酷なものだ。
﹁で、砂をとるんだろう?﹂
﹁まあ、そう慌てな﹂
車を片づけながら、あまり結論を急がないようにと別のカプセル
を取り出す宏。新たに出てきたカプセルを見て、怪訝な顔をする達
也。
1761
﹁そいつは?﹂
﹁折角砂漠に来るんやからって、こう言うんも作ってみたんよ﹂
そんなコメントと共にカプセルを展開すると、中から出てきたの
は艦首にドリルがついた潜水艇。全長は大型バスよりやや大きい程
度で普通の潜水艦よりは小型だが、それでも艦首に取り付けられた
ドリルは中々のサイズだ。そのたくましくも武骨な掘削用のドリル
に、妙な胸の高鳴りを感じる達也と真琴。澪の視線はすでに釘づけ
である。
﹁⋮⋮聞くだけ野暮だとは思うが、これは何のために用意したんだ
?﹂
﹁そらもう、砂漠の海を潜るために決まっとんで﹂
﹁⋮⋮これ、表面が革製みたいだけど、大丈夫なの? 潜りました、
生き埋めになりました、ってのはあたし流石に勘弁して欲しいんだ
けど﹂
﹁余りに余ったケルベロスの皮とかロックワームの皮をガチガチに
固めて表面に張っとるし、水圧耐性とか地中耐性向上もガンガン重
ねがけしとるから、一キロぐらいの深さまでは大丈夫なはずやで﹂
宏の言葉を確認するため、軽く表面を叩いてみる。やたらと硬質
で、そのくせ妙に弾力のあるその感触に、少々の圧力ではびくとも
しないだろうと結論を出す。
﹁外側がいくら丈夫でも、骨格がヤワだったら駄目だと思うんだが、
そっちは?﹂
1762
﹁ファーレーン居った時にようさん買いだめした魔鉄とミスリルあ
るやん。あれ使って作ったし、革の下にも魔鉄製の鉄板張ってある
から、骨格強度も悪うないで﹂
﹁何その資源の無駄遣い⋮⋮﹂
﹁ええやん。どうせ武器の修理か作りなおし以外に使い道ないんや
し﹂
ロマンあふれるその乗物に心を奪われてか、どうにも真琴の突っ
込みもいまいち力が無く、無駄遣いを糾弾するには至らない。しか
もこの時は彼らは知るよしもないが、後のちこの潜水艇︵この場合
は潜地艇と呼んだ方が正しいかもしれない︶、別の場所で本来の使
い道とは全く違う形で役に立つ事になる。材料自体の使い道が乏し
いと言うだけでなく、そういう面でも無駄遣いという非難は正しい
とは言えなかったりする。
﹁まあ、何にしても、せっかく作ったんやから、軽く地下に潜って
みたいんやけど、どない?﹂
﹁⋮⋮最低限、ちゃんとテストしてからかしらね﹂
﹁水圧の方ではテストし終わっとるから、少なくとも浅い場所でバ
ラけたりはせえへんはずや﹂
﹁あんた、単独だと本気でろくなことしないわね⋮⋮﹂
﹁高レベルの職人系プレイヤーは、大概こんなもんやで﹂
1763
他に知り合いがいないために比較しようのない事を言われ、思わ
ず疑わしそうな視線を向ける日本人一同。言葉の意味が分からない
ため、とりあえず会話をスルーして潜地艇をまじまじと観察するノ
ートン姉妹。
﹁っちゅう訳やから、特に問題あらへんねんやったら、軽く潜りた
いんやけど、どない?﹂
もう一度やりたい事を主張する宏。その言葉を吟味する、という
よりお互いに結論を押し付け合う達也と真琴。春菜は潜地艇そのも
のにはこれと言って興味も何もないが、それゆえに宏がやりたいと
言っていることに反対する事はあり得ない。ある程度の安全性が確
保されているのであれば、なおのことである。
澪に至っては、むしろ潜る気満々だ。年長者二人の手前、あえて
強く主張はしていないが、出来る事ならこのロマンあふれる乗物で
ギュンギュン地下を潜りたい。割と表情の変化に乏しい彼女にして
は珍しく、きらきらと期待に輝いた目で達也と真琴の結論を待って
いる。
﹁⋮⋮まあ、いいか⋮⋮﹂
﹁⋮⋮そうね。正直、あたしも地中って言葉に抗いがたい魅力を感
じてるし⋮⋮﹂
﹁ほな、軽くレッツゴーや!﹂
そんな掛け声で一同を潜地艇へ追い立て、誰にも邪魔をさせない
ようにさっさと操縦席に落ち着く。そして
1764
﹁いくで! 限界深度へGoや!﹂
﹁ちょっと待て!﹂
いきなり物騒な事を言いながら、思いっきり操縦桿を潜る方へと
落としこむ宏。どうやらこの潜地艇、操縦システムは航空機の類に
近いらしい。物騒な事を言い出した宏を止めようにも、操縦席と客
席の間に隔壁がある上にシートベルトをしていた事が災いして、止
めるどころか割り込みに行くことすらできない達也。
そのまま十五分ほど潜航した後、岩盤らしきものに突撃をかけて
ぶち抜いて行った潜地艇は古代遺跡がある超巨大な空洞に突入し、
冒頭へとつながる事になる。なお、地面を潜っているとは思えない
スピードで動いていた潜地艇のせいで、何体かの砂鮫やサンドマン
タ、ロックワームなどがドリルの犠牲になった事をここに記してお
く。
﹁ここは飲食店の類やったみたいやな﹂
﹁そうだね﹂
冒頭で見つけた、他の建物と比較しても違和感のある造形の建物。
その中を見てそう分析する宏と春菜。外観とは違って中身は割と普
通にテーブルと椅子が並び、テーブルの端にはメニューらしき冊子
1765
が立てられている、割と普通の飲食店のような構造になっている。
問題があるとすれば、ファーレーンでもダールでも、こういうタ
イプのメニューがテーブルに備え付けられている飲食店を見た事が
無い、という所だろうか。
﹁⋮⋮この文字、残念ながら読めない⋮⋮﹂
﹁キッチンの構造は、そんなに特殊なものじゃないよ﹂
﹁置いてある調度品は、全部魔道具の類やな。もっと細かあ言うん
やったら、バッテリー式の奴や﹂
それぞれに調査結果を告げる。全体を通して言える事は、ベース
となっている技術や文明レベルが地上のほとんどの国と隔絶した水
準にあると言うことだろう。
﹁なんちゅうか、滅んだんか放棄したんか、それとも壮大なドッキ
リなんかがいまいちはっきりせえへんなあ﹂
﹁ドッキリって?﹂
聞き捨てならない宏の発言に、少し離れた場所をあれこれ調べて
いた真琴が怪訝な顔を向ける。
﹁ドッキリ、っちゅうか、ダメージの少ないブービートラップ、っ
ちゅうか⋮⋮﹂
﹁どういう事よ?﹂
1766
﹁いや、な。なんかところどころに妙な精神的干渉をかましてくる
設備とか道具とかその他もろもろが置いてあってなあ﹂
そう言って、宏が指さしたのが天井からぶら下がっている紐。何
事もない様子を装って、丁度昔の蛍光灯のスイッチのような感じで
垂れ下がっている。ここが飲食店というカテゴリーであれば不自然
なことこの上ないのだが、そうと思わずに見た場合妙に自然な上に、
やけに引っ張りたくなる。
﹁⋮⋮言いたい事は、なんとなく分かったわ﹂
﹁やろ?﹂
﹁で、宏としてはどう思ってる訳?﹂
﹁あの紐引っ張った結果によるんやけど、引っ張った後の展開がイ
ン○ィ・ジョー○ズかド○フかで判断が変わってくんで﹂
非常に分かりやすいたとえに、思わず深く納得してしまう真琴。
﹁で、や。これが単なるブービートラップやったらともかく、ド○
フ的な方向性やったら、場合によっちゃあどっかでその様子を見て
にやにやしとる連中が居るはずや﹂
﹁そのためにこの規模の遺跡を作るとか、相当な暇人集団ね﹂
真琴のコメントには同意せざるを得ない宏。宏も趣味に走りがち
だが、流石に映画かテレビ番組の収録でもない限り、この規模の遺
跡を一発ネタのために作り上げるような真似はしない。
1767
﹁とりあえず、判断するためにはあの紐を引っ張らないといけない
のよね?﹂
﹁せやねんけど、なあ﹂
﹁何よ?﹂
﹁なんとなく、あそこまで見え見えの振りに素直に従うんって、芸
人的にちょっとなあ﹂
﹁誰が芸人よ⋮⋮﹂
言わんとしている事は分からなくもないが、そこで芸人根性を発
揮されても困る。
﹁とりあえず、もうちょい他のところ調べてから考えよ﹂
﹁そうね。高確率で何かあるって分かってるものを、まだ調べる場
所が残ってる状態で触る必要もないわね﹂
﹁っちゅう訳やから、ちょっと他の場所見て回るわ﹂
他のメンバーにそう声をかけ、最初に調べていた飲食店っぽい建
物を後にする。単独行動だと何があるか分からない、という理由で
春菜と達也、それからジュディスの三人がついてくる事に。
﹁で、何処をどういう風に探すんだ?﹂
﹁とりあえず、文献ありそうな所を探そうや﹂
1768
﹁でも、文字が読めそうな感じじゃ無かったから、見つけてもこの
場ではどうにもならないかもしれないよ?﹂
﹁もしかしたら、ダール語かファーレーン語に近い言語で書かれた
文献があるかもしれへんし、あかんかったとしても文字適当に写し
て帰って、神殿かどっかの書庫当って見ればええだけやし﹂
﹁だったら、遺跡の入口あたりに転移ポイントを設定しておいた方
がいいな﹂
﹁せやな。ここは特に転移妨害とかかかってへんみたいやし、登録
しとけば何回も行き来するんも楽になるし﹂
達也の提案を受け、一旦入口あたりに戻ってくる一行。転移ポイ
ント設定を行った後、公的機関がありそうな大型の建物を覗いて回
る。
﹁探れば探るほど、不自然な遺跡だよな﹂
﹁こう、あれや。ネタに引っかかって笑ったら、どっかからアウト
! みたいな宣言が来てケツ一発しばかれそうな感じや﹂
﹁宏君、ジュディスさんがついていけないから、向こうのネタは控
えようね?﹂
﹁了解や﹂
春菜にたしなめられ、余計なネタを言う口を閉ざす宏。とはいえ、
この時点でファンタジー的な意味で普通の遺跡である、という可能
性はほぼ完全に消えている。
1769
﹁それにしても、こういう遺跡って、宝箱とか宝飾品とかが出てく
るのが普通だと思ってたけど⋮⋮﹂
﹁宝飾品はともかく、普通に考えて墳墓とか神殿とかの類やない遺
跡の場合、宝箱がある方がおかしいわなあ﹂
﹁まあ、考えてみればそうだよね。そもそも、宝箱って何? って
話だし﹂
﹁ロマンのねえ話だが、現実だと遺跡ってのはそう言うもんだしな﹂
これと言ってお宝らしいものが見つからない事に対し、そんなロ
マンのない会話を始める一行。実際のところ、副葬品だの宝物殿だ
のがあるタイプの遺跡でもない限り、宝箱などというものは転がっ
ていない方が普通だろう。ゲームのように、何の変哲もない普通の
部屋にやたら強力なアイテムが入った宝箱が置いてある、などとい
うのは現実的に考えるならおかしな話だ。
﹁まあ、遺跡とダンジョンは別モンやで﹂
﹁そういうものなんですか?﹂
﹁そういうもんや﹂
そんな生々しい話題で駄弁りながら、抵抗力の低いジュディスが
妙なものに引っかからないように注意しつつ、図書館らしき建物を
探し出す。
﹁それにしても、本当におかしな遺跡だよね﹂
1770
﹁妙なのは今更じゃねえか?﹂
﹁まあ、今更なんだけど、そういう種類のおかしさじゃないと言う
か⋮⋮﹂
そんな事を言いながら、本棚を人差し指で軽くなぞる春菜。その
動作で、言いたい事を理解する宏と達也。
﹁そういや、そこら辺は全く気にしてなかったな﹂
﹁確かに、正真正銘古代遺跡やのに、妙に埃とか汚れとかの類が少
ないわな﹂
﹁だよね?﹂
春菜の指摘に感心する宏と達也。流石は基礎女子力は一応高い女
の子。その手の観察力は男どもとは一味違う。
﹁えっと、あの、どういう事でしょう?﹂
掃除が行き届いている、という事について、何がおかしいのかす
ぐにはピンとこない様子のジュディス。人のいない古代遺跡、とい
うものについていまいち理解できていない様子である。
﹁いや、な。普通に千年単位は昔の遺跡だってのに、掃除が行き届
いてるってのはおかしいよな、って話だ﹂
﹁これはちょっと僕が迂闊やってんけどな。よう考えたら、残って
るもんの傷み具合が、ちゃんと保管された状態で千年以上経った、
1771
っちゅう感じやってん﹂
﹁えっと、つまり?﹂
﹁予想される回答は二つ。この遺跡がまだ生きとる可能性と、千年
単位で気長にドッキリしかけて待っとる暇な連中が居る可能性や﹂
﹁あっちこっちにある不自然な紐とか妙な仕掛けとかを考えたら、
暇人説が有力って感じ?﹂
﹁せやなあ﹂
他の結論に持って行きづらい考察を終え、とりあえず下手な仕掛
けを起動させないように慎重に本棚を調べて行く。古今東西、本棚
というのはゲーム的な方向でもド○フ的な方向でも仕掛けの宝庫で
ある。たとえば
﹁さっきちゃんと入っとったのに、えらい入れんのがかたいなこの
本﹂
﹁⋮⋮いてっ!﹂
出っ張って入らない本を押しこんだら、別の本が飛び出して顔面
に直撃したり、
﹁なんだろう? この本、大きさも分類もすごく不自然なんだけど
⋮⋮﹂
﹁下手な事すんなよ?﹂
1772
﹁って言われても、出したら入らなくなっちゃったし﹂
﹁感じから言うて、こっちやったら入るんちゃうか?﹂
﹁あ、本当だ。って⋮⋮﹂
﹁お約束っつうか、古典的っつうか⋮⋮﹂
並べ方を変更したら、本棚が動いて隠し階段が出てきたり、それ
はもういろいろとおかしな仕掛けがたくさんあるのだ。
﹁とりあえず、隠し階段は放置として、読めそうな感じの本は見つ
けたで﹂
﹁本当?﹂
﹁っちゅうても、なんとなく英語かなんかが近そうな本があった、
っちゅうだけで、僕の語学力やと中身は分からへん﹂
﹁そっか。ちょっと見てもいい?﹂
﹁頼むわ﹂
宏に渡された本を開いて、少し眉間にしわを寄せる春菜。読めて
しまった内容が、かなり予想外の代物だったからだ。
﹁えっとね。表紙の文字は読めなかったけど、中表紙のタイトルは
読めたよ。タイトルはエルメット夫人。多分小説か何かだと思う。
最初のページ見た感じ、文法とか単語は、フランス語と英語とドイ
ツ語が入り混じってる感じ﹂
1773
﹁なんか、非常に嫌な予感がするタイトルやな﹂
﹁奇遇だね。私もなんだかいやな予感がするよ﹂
﹁正直、読まない方がいい気はするんだが、予想通りの内容とは限
らないのが悩ましいよなあ⋮⋮﹂
出てきた本のタイトルに全力で引きながら、対応について相談す
る三人。ダールでは小説という文化がそれほど浸透していないから
か、宏達がなにに引いているのかが理解できないジュディス。そん
なジュディスを放置してごちょごちょと相談し、意を決した春菜が
ページをめくっていく。
﹁⋮⋮うわぁ、うわぁ⋮⋮﹂
﹁もしかして、予想通りか?﹂
﹁うん。えっとね。﹃坊や、いらっしゃい﹄ エルメット夫人は自
らその豊満な胸元をくつろげながら、まだ精通も始まったかどうか
というあどけない少年を挑発的に誘う。まだ性に関しては未成熟な、
それゆえに好奇心を押さえきれないうぶな少年は、夫人の壮絶な色
香に飲まれ、我を忘れて魅入られたようにその熟れた肢体にむしゃ
ぶりつく⋮⋮﹂
﹁やっぱりポルノ小説かよ!!﹂
淡々とした口調で朗読する春菜に、というより朗読された書籍の
内容に、思わず全力で突っ込みを入れてしまう達也。表紙に書かれ
たタイトルが誰も読めない古代文字で、しかも本自体が普通に扱っ
1774
ても崩れたりしないぎりぎりという傷み具合なのが、いろんな意味
でひどい。
﹁なんか、ものすごく生々しい描写が⋮⋮﹂
顔をリンゴのように真っ赤にしながら、それでもついついという
感じで開いたページを全て読んでしまう春菜。残念ながら、彼女も
性行為に対する好奇心を押さえきれないお年頃なのだ。特に、尋常
ではないレベルで恋をしてしまったが故に余計に。その隣では、同
じくリンゴのように顔を真っ赤にしながら、続きを催促するように
春菜を見つめる耳年増な神官見習いが。
﹁遺跡で見つけた本が古代のポルノ小説とか、ものすごいトラップ
やんなあ﹂
﹁まったくだ⋮⋮﹂
ページをめくるべきか否かで葛藤している様子の春菜を横目に、
のんきな口調でコメントする宏と非常に疲れた様子の達也。いくら
古代文明といっても、書籍というものがある以上はその手の本があ
るのもおかしなことではないが、わざわざピンポイントに図書館風
の建物に蔵書として置いておくとか、これがいわゆるドッキリの類
でなければ一体どういう神経をしているのか疑わしい話である。
﹁とりあえず春菜。そういう本は、後で夜中にこっそり、自分の部
屋で読んだ方がいいぞ﹂
﹁あ、う、うん。そ、そうだね﹂
達也にたしなめられ、羞恥心より好奇心が勝りそうになった自分
1775
を恥じるように本を閉じ、空いているスペースに適当に突っ込む。
流石に自分がものすごくはしたない事をした自覚があるのか、何処
となく残念そうながらも文句を言う様子はないジュディス。
これが澪ならば、何をいまさらという感じで堂々と読みふけるの
だろうが、流石に春菜にはその手の開き直りは不可能だ。そこまで
羞恥心が無い訳でもないし、先ほどは我を忘れていたとはいえ、好
きな男の前で読むには内容に問題がありすぎる。
﹁それにしても、お前さんがあの手の本に、あそこまで食いつくと
は思わなかったぞ﹂
﹁あ∼、それは、あの、その⋮⋮﹂
流石に自分でも、先ほどの事はうら若き乙女としてはあり得ない
行動だった自覚があるだけに、湯気でも出そうなほど真っ赤な顔で
もごもごと言葉にならない何かを呟くことしかできない。一応恋す
る乙女としてのある種の本能も先ほどの行動に走った原因の一つに
はなっているのだが、本人も漠然としている感じなのですぐに言葉
にできない。
﹁あ∼、でも、えっとね。あれって、いわゆる男の人の妄想とか願
望とか、そう言う感じなんだよね?﹂
とりあえず、ようやく明確な言葉になった考えを達也に告げる。
その内容を聞いて、宏には聞こえているであろうことを承知の上で、
それでも声をひそめて内緒話をする事にする達也。
﹁まあ、全部が全部って訳じゃないが、大抵はそうだろうな﹂
1776
﹁だったら、ああいうのを参考にして頑張れば、喜んでもらえるの
かな、とか、ちらっと﹂
﹁普通ならともかく、いくらなんでも相手があれだからなあ﹂
﹁やっぱり、無謀かなあ?﹂
﹁というか、そこに行く前に越えにゃならんハードルがなあ﹂
結局のところ、らしくない行動も大抵はそこに行ってしまうあた
り、恋愛感情というのはなかなかに業が深い。こう言う何もしてい
ない状況だとついつい宏の方に視線が向きがちな春菜を見ていると、
ため息しか出ない達也。目が合うたびに宏が怪訝な表情か何処とな
く困ったような表情を浮かべるのを見ると、春菜がどうにも哀れで
しょうがない。
澪ではないが、双方のためにせめて恋愛感情の存在を受け入れら
れるぐらいには立ち直ってほしい所だが、それこそ澪に何度も口を
酸っぱくして言っているように、ここで焦ってこじらせる方が余程
害が大きい。可哀想だとは思うが、春菜にしろエアリスにしろアル
チェムにしろ、もうしばらくは辛抱してもらうしかない。手負いの
獣にちょっかいを出しても、碌な事にはならないのだ。
﹁なあ、春菜﹂
﹁分かってるんだけど、心も体も思い通りにはいかないんだよね⋮
⋮﹂
﹁そっか。まあ、頑張れ﹂
1777
﹁ん﹂
そう言って、気持ちを切り替えるために図書館の探索に戻る春菜。
結局、古代のファーレーン語やダール語で書かれたポルノ小説と妙
な経済理論が書かれた論文以外にすぐに読めそうなものは発見でき
ず、とりあえず隠し階段を調べるために真琴達と合流する事にした
宏達であった。
一方、同時刻の真琴達はと言うと⋮⋮。
﹁まったく、何処までもふざけた遺跡よね⋮⋮﹂
﹁真琴姉、ちょっとは落ち着く﹂
﹁分かってるわよ⋮⋮﹂
今までちゃんと回避できていたブービートラップを、プリムラが
うっかり発動させてしまっていた。
﹁それにしても、かなり見事なタライ罠﹂
﹁紐引っ張ったプリムラじゃなくて、あたしに直撃したのが釈然と
しないところだけどね⋮⋮﹂
1778
﹁も、申し訳ありません!!﹂
﹁いやまあ、いずれ誰かはやるだろうなあ、とは思ってたんだけど
ね⋮⋮﹂
そう。だんだん紐を引っ張りたい、レバーを倒したい、という誘
惑に抵抗し辛くなってきていたため、いずれ三人のうち誰かがやっ
てしまうだろうとは思っていた。思っていたのだが、それをやった
プリムラではなく、何故か離れた位置にいた真琴の頭上から金ダラ
イが落ちてきたのが真琴の不機嫌の原因である。
しかも、落ちてきたのは一個だけではない。痛みに驚いて飛びの
いた先に一回り大きいのが、余りの衝撃によろめいて踏み出した先
に特大のが落ちてきた。まるで誰かが見ていて、真上から狙って落
としているかのような正確さで真琴の頭に直撃した三つのタライ。
かなり痛かった。特に最後の一つなど、その気になれば澪とライム
が一緒に行水できるサイズがある。
役所のような建物だけに注意はしていたのだが、本人の努力とは
関係ない形でひっかけられた挙句に道化にされた。そんなおちょく
られた感が、真琴の神経をこれでもかという感じで逆なでしたのだ
った。
﹁⋮⋮怪しげな文字発見﹂
﹁どうせ読めないんでしょう?﹂
﹁今回は読める﹂
澪の台詞に驚き、思わず駆け寄る真琴とプリムラ。
1779
﹁で、なんて書いてあるの?﹂
﹁上を見ろ、だって﹂
﹁⋮⋮なんだか非常に嫌な予感がするわね﹂
﹁というか、先ほど見えた感じでは、この上にはこれと言って変わ
ったものはありませんでしたよね?﹂
﹁うん。無かった﹂
などと言いあいながら頭上を見上げると。
﹁今度は下を見ろ、か⋮⋮﹂
﹁足元には何もなかった。間違いなく﹂
﹁って事は、非常に嫌な予感がするわね﹂
﹁ボクも。といっても、おちょくられてそうとかそういう方向だけ
ど﹂
そんな感じで非常に嫌な予感を覚えながら、それでも素直に足元
を見ると、そこには﹁ざまあ見ろ﹂の文字が。
﹁⋮⋮無茶苦茶腹立つわね⋮⋮﹂
﹁流石ド○フ的古代遺跡。いろんな意味で外さない﹂
1780
﹁澪、あんたは腹が立たないの?﹂
﹁真琴姉みたいに、殺意を覚えるレベルじゃないかな?﹂
無駄に冷静な澪に、それはそれでいらっとくる真琴。とはいえ、
流石に年下に八つ当たりをする訳にもいかない。年長者としていろ
いろなものをぐっとこらえる。
﹁⋮⋮腹が立つのは目に見えてるけど、他の場所も調べましょうか
⋮⋮﹂
﹁了解﹂
﹁今度は気をつけます⋮⋮﹂
真琴の号令に従い、建物の中を家捜ししていく一同。当然のごと
く、碌なものが出てこない。例えば⋮⋮。
﹁そっちは何かあった?﹂
﹁箱の中に読めない文字が書いてあったぐらいですね﹂
﹁どれどれ⋮⋮。これ、日本語?﹂
日本語のメモが出て来たので読んでみると、
﹁えっと、アホが見る、ブ⋮⋮﹂
﹁真琴姉、それ以上はいろいろと危険!﹂
1781
とか版権に引っかかりそうなネタを仕込んであったり、
﹁何この気持ち悪い人形⋮⋮﹂
﹁真琴姉、知らないの?﹂
﹁知らないって?﹂
﹁その昔瞬発的に流行った、死に○け人形って奴﹂
﹁こっちには不思議な服を着た猫の絵が⋮⋮﹂
﹁な○猫とか⋮⋮﹂
年齢を疑われそうな︵特に全部分かる澪が︶、昔流行ったマスコ
ットとかその類のものが大量に置いてあったり。ド○フかと思えば
笑ってはいけない方に近い傾向のネタが仕込んであるという統一性
の無さが、どうにも鬱陶しい感じである。
﹁予想通りとはいえ、碌なものが無いわね⋮⋮﹂
﹁オクトガルもそうだけど、この手のネタってどこから仕入れてく
るんだろう?﹂
﹁あんたは人の事は言えないとは思うけど、それも確かに疑問ね。
今回はあの謎生物共と違って、あんまり最近のネタはなさそうだけ
ど﹂
﹁いくつか前の方で外れるのもあるけど、ざっと見て平均は、昭和
の終わり頃から平成の中期に差し掛かるぐらいまで?﹂
1782
﹁本気で、それが分かるあんたも大概だと思うわ⋮⋮﹂
某牛丼が好きな筋肉男の消しゴムを並べながら、あっさり年代を
特定してのけた澪に呆れたようにコメントをする真琴。
﹁それにしてもなんか、動きまわれば回るほど、この遺跡を作った
連中の思うつぼにはまりそうなのが面倒くさいわね﹂
﹁イラッと来るだけで大した害はないから、適当に調べよう﹂
﹁しかないか⋮⋮﹂
澪の言葉にもう一度疲れたようにため息をつき、座っていた椅子
から立ち上がる。続いてプリムラが席を立とうとテーブルに手をつ
いたところで⋮⋮。
﹁っ!?﹂
思いっきりテーブルの天板が跳ね上がり、プリムラの顔を強打す
る。コントなどでよく見る光景ではあるが、実際に不意打ちで目の
前で起こると、とにもかくにも物凄く痛そうだ。
﹁だ、大丈夫!?﹂
﹁ら、らいじょうぶれふ⋮⋮﹂
真っ赤になった鼻を押さえながら、もごもごと不明瞭な発音で健
在を主張しようとするプリムラ。ネタの傾向が変わっていたため、
思いっきり油断していた。今回はプリムラだったが、もしかしたら
1783
再び真琴が餌食になっていたかもしれない。それぐらい際どいタイ
ミングだった。
﹁そうだったわ。結局、今のあたし達はコントの登場人物なのよね﹂
﹁地味に普段とあまり変わらないという説あり﹂
﹁その辺はあたしのせいじゃないわよ⋮⋮﹂
気を引き締め直そうとして、澪からあまり言われたくない種類の
指摘を受けて肩を落とす真琴。正直なところ、普段からコントじみ
た行動をとっている原因という点では、主犯格の宏と春菜ほどでは
ないだけで澪は決して人の事は言えない。
﹁まあ、それはともかくとして、もう少し調べるだけ調べましょ。
ただし、あくまでもコント的展開に対して警戒は必要だけど﹂
﹁了解﹂
﹁分かりました﹂
真琴の号令に従い、気を引き締め直して探索を再開する一同。こ
こまでくれば、流石にプリムラもコントというのがどういう意味か
というのは大体理解しているらしい。不自然なものになるべく手を
出さないように、ひたすら慎重に慎重に調査を進めていく。
そんな羹に懲りてなますを吹くようなやり方で一階部分の大まか
な調査を終え、いよいよ二階に上がろうかというところで、ピタッ
と足を止める真琴と澪。
1784
﹁ねえ、澪⋮⋮﹂
﹁真琴姉も同じ事考えた?﹂
﹁この展開って、普通そうよね?﹂
﹁普通そうなる﹂
代名詞で微妙な会話を続ける二人に、よく分かりませんという表
情を向けるプリムラ。コントの意味は理解しても、ではよくある展
開というのがどういうものなのか、となると流石に分からないので
ある。
﹁階段、ちょっと徹底的に調べてみて﹂
﹁了解﹂
﹁あの、階段に何か?﹂
﹁この後の展開が予想通りだとすると、絶対にあるだろうって仕掛
けが、ね﹂
そんな事を言いながら、澪の調査結果を待つ。が⋮⋮。
﹁ごめん。怪しいところは見つからなかった﹂
﹁⋮⋮妙な継ぎ目とか変な仕掛けとかは?﹂
﹁少なくとも、ボクに分かるレベルではなかった﹂
1785
﹁そっか。厄介ね⋮⋮﹂
十中八九は仕掛けがある。それが分かっているのに対策が立てら
れない。恐らく二階に上がっても碌なネタは仕込んでいないだろう
以上、いっそ無視してしまえばいい。そう考えて二人に告げようと
したところで
﹁真琴姉。さっき調べたんだけど、建物入り口の扉が特殊な鍵でロ
ックされてた。解除不能﹂
﹁つまり、全部のイベントを起こせってことね⋮⋮﹂
﹁ボクが行ってロープ結んでくる。ボクだけ何も引っかかってない
っていうのも不公平だし﹂
﹁いいの?﹂
﹁どうせ致命的な罠じゃない﹂
澪の、珍しく男前な発言に目を見張る。確かに今回遭遇したトラ
ップは、どれもこれも致命的なものではない。だが、うら若き乙女
が食らいたい種類のものでもないのだから、犠牲者は少ない方がい
いだろう。だと言うのに、このチーム最年少の少女は、自分からそ
んな汚れ系トラップに引っかかりに行くと言う。
﹁それにね、真琴姉。こう言う時自分だけ引っかからないのって、
画面的には全然美味しくないんだよ?﹂
﹁画面って何よ?﹂
1786
いきなりメタな事を言い出す澪に、思わず全力で脱力する真琴。
やはり澪は澪だと言うところか。
﹁きっと見てるはず、おそらく、多分﹂
﹁それで見て無かったら、あんた引っ掛かり損じゃないの? いや、
女の身の上でああいうのに引っかかるのが美味しいかどうかは別に
して﹂
真琴の突っ込みに、明後日の方向を向いて鼻歌なんぞでごまかす
澪。結局言い出したら聞かない上に他にできる事も無いので、彼女
に任せる事に。
﹁じゃあ、行ってきます﹂
そう言って身軽に軽快に階段を駆け上って行き、
﹁あっ!﹂
﹁やっぱり来た﹂
予想通りパタンと倒れてスロープとなる階段に足を取られながら
も、
﹁てい﹂
きっちりと手すりにロープをひっかけて登る体制を作り上げる。
﹁顔面打たなかったから、微妙に美味しくなかったかも﹂
1787
﹁そういう汚れ思想はいいから⋮⋮﹂
どうにも汚れ系芸人の思想を普通に体現しようとする澪に、呆れ
ながら突っ込むしかない真琴。なんだかんだでちゃんと二階に上が
った三人は、同じような汚れ系コントトラップの嵐に巻き込まれ、
すっかり体を張った芸人にされてしまうのであった。
﹁⋮⋮なんか、そっちも大変そうだな﹂
﹁⋮⋮遺跡探索で身体を張るって、普通こういう方向じゃないわよ
ね⋮⋮﹂
﹁⋮⋮あ∼、なんかお疲れさん﹂
﹁そっちも春菜が妙に挙動不審なんだけど、何かあったの?﹂
﹁⋮⋮なあ。古代遺跡で見つけた文献が、ポルノ小説だったっての
はどう思う?﹂
﹁⋮⋮納得したわ⋮⋮﹂
予想をはるかに超えてあれで何な遺跡。ファンタジーな世界だか
らといって、必ずしも物語のような出来事ばかりではない、などと
いうのは十分に理解していたつもりだったが、現実というのは何処
1788
までも斜め上を突っ走るようだ。
﹁で、隠し階段を見つけたんだって?﹂
﹁ああ。それも、構造的に絶対にここに階段があるのはおかしいっ
て位置にな﹂
﹁どういう事よ?﹂
﹁あれだ。下の階の同じ位置、普通に喫茶スペースみたいなのがあ
ったんだよ﹂
﹁あ∼、ある意味お約束よね。主にアメリカ映画とかで﹂
アメリカ映画のお約束、物理的にあり得ない構造の建物。それを
現実に見る事になって複雑な顔をしている達也。その気持ちには同
意するしかないが、同じシーンなのにアップが終わると登場人物の
顔や服装が変わっているとかその手のネタと同じで、こういう場合
は細かい突っ込みはしないのがお約束というかある種のマナーであ
る。
﹁そう言えば、二階に上がった時、階段とか大丈夫だったの?﹂
﹁階段? ⋮⋮ああ。コントでよくあるあれか﹂
﹁そそ。こっちはもろにやってくれたんだけど﹂
﹁そう言うのは無かったな。本棚には色々と仕込んであったが﹂
﹁やっぱり、徹底的にふざけてる訳ね、この遺跡﹂
1789
ざっと情報を交換して、思わずため息をつく年長者二人。ここま
で来たのだから、調べられるところは調べて帰りたい。だが、この
展開が延々と続くのは、それはそれで勘弁してほしい。そんな気持
ちのこもった重いため息である。
この後、良くも悪くも達也と真琴の懸念は外れ、隠し階段を降り
た後から遺跡のパターンがガラッと変わるのだが、最初の時点で予
想されていた別のパターンと更にそれ以外のパターンに切り替わる
ところまでは、この時点では誰一人予想できないほどド○フのコン
ト的パターンに慣らされてしまっている一行であった。
1790
第5話︵後書き︶
ヘタレを一人放置してた結果がこれだよ。
あと、澪の年齢詐称疑惑がしゃれになっていない件について。
そろそろオッサンホイホイタグ入れたほうがいいかなあ⋮⋮。
1791
第6話
﹁お腹減った⋮⋮﹂
いざ階段を下りよう、という段階になって、澪がぽつりとつぶや
く。妙なテンションに押されて探索に専念していたため、昼食をと
るタイミングがつかめなかったのだ。
﹁言われてみれば、お腹減ったよね﹂
﹁ここは、先に飯やな﹂
澪の訴えにつられ、意識してなかった空腹感を今更自覚する一同。
こういう時は身体の訴えに逆らわず、ちゃんと食事をするにこした
事はない。
﹁とりあえず、下のサロンスペースで食うか﹂
﹁だね。この階段降りてからだと、食べる余裕があるかどうかが分
かんないし﹂
食うと決まれば行動が迅速になる。話が出てから五分後には、サ
ロンスペースで弁当と飲み物の準備が完了する。
﹁今日の昼飯は?﹂
﹁ダール料理に挑戦してみました。確か、イネブラとジャッテ、だ
ったかな?﹂
1792
あってる? という疑問を込めた春菜の視線を受け、弁当の中身
を確認して頷くプリムラとジュディス。イネブラは一同がダールに
来て最初に食べていたスパイスの塊のようなシチューの具材違いで、
昔のダールの言葉で鳥のシチュー、という感じの意味である。これ
がメインの具材が魚介になるとバネブラ、牛肉や羊の肉になるとド
ネブラとなるらしい。宏達が初日の晩に食べていたのは、バネブラ
という事になる。
ジャッテは羊乳とスパイスを混ぜたタレに具材を漬け込んだもの
を焼く料理の総称で、鳥を焼けばイネジャッテ、魚介だとバネジャ
ッテ、牛肉だとドネジャッテとなる。もっとも、最近はファーレー
ンから輸入する食材の幅も広がっているため、イネジャッテと呼ぶ
より鳥のジャッテと呼ぶ事の方が多いのだが。
﹁うへえ。また辛そうだなあ⋮⋮﹂
弁当箱に入っていた料理を見て、思わず達也が呻く。韓国料理ほ
ど暴力的に赤い訳ではないが、それでもどちらの料理にもスパイス
に加えて唐辛子のようなものが結構な量使われており、見ているだ
けで口の中が辛くなってくる。
﹁まあ、そんなに辛くならないように色々工夫してるから、ね﹂
﹁もっとも、いじってある分、プリムラさんとジュディスの口にゃ
合わんかもしれへんけど﹂
料理というのは基本的に、その地域で最も多く採れる食材や調味
料に依存すると同時に、その地域に住む人間が好むように進化して
いく。ファーレーンに比べてスパイス類が多く採れ、それ以外の調
1793
味料が少なくなるという地域性があったといっても、達也の舌だと
辛さしか感じないというレベルになるのは、そう言う料理を好む人
間が多かった、ということだろう。
それを日本人好みに調整したと言う事は、生粋のダール人である
プリムラとジュディスの口に合わない可能性は高い。日本料理の味
付けも万能ではないし、日本人の味覚も全世界で受け入れられるよ
うなものではないのだ。
﹁⋮⋮このイネブラ、確かにイネブラなのですが、初めて食べる味
わいです﹂
﹁イネブラでも、こんなにさっぱり辛さが引く味付けとか出来るん
ですね﹂
春菜の作ったイネブラは、身体がかっと熱くなるような辛さはそ
のままに、後味がさわやかにすっと引くよう工夫されていた。その
味付けは間違いなくイネブラだが、ただのイネブラではない。
﹁作った魚醤の中に、ちょっといい感じのがあったから試してみた
んだ。後、ジャッテがあるから肉を控えめにして、その分野菜の種
類と量を増やしてみたの。思った以上に後味がさわやかになって、
びっくりしたよ。お口に合ったかな?﹂
﹁お姉ちゃん、私はこっちの方がいいかな﹂
﹁そうですね。イネブラはお酒が無ければ喉が渇きますが、これは
それほどでもありませんし﹂
意外とダール人の二人にも高評価なイネブラに、見えないところ
1794
でひそかにガッツポーズをとる春菜。料理人のはしくれとしては、
やはり自分達の好む味付けで本場の人間に気に入ってもらえるのは
嬉しい。
﹁気に入ってもらえて、よかったよ。ジャッテの方は?﹂
﹁これは、何のお肉ですか?﹂
﹁ブラッディウルフ。スラッシュジャガーでもよかったんだけど、
カツカレーにも使ったからあえてこっちにしてみたんだ﹂
またしても登場したモンスター食材、それも南部大森林の比較的
奥の方でしか遭遇しないそれなりの強さの肉食獣の肉の名前に、何
かをあきらめたように首を左右に振って料理をかじる姉妹。因みに
余談ながら、南部大森林はダールから見れば位置的には北部になる
が、一般名称になっているためダールでも南部大森林で通じる。
﹁やっぱり臭いが強い肉食獣の肉は、こういうスパイスをたくさん
使う料理とは相性がいいよね﹂
﹁だな。後、思ったより辛くねえんだな、このジャッテって料理﹂
﹁羊乳のおかげで、意外と辛さがマイルドになるんだよね﹂
﹁まあ、スパイスの組み合わせもいじったし、すりつぶした野菜を
隠し味にたれに入れたりいろいろ実験はしとるけどなあ﹂
やたらめったら手間暇をかけて作られた料理に、思わず沈黙して
しまうノートン姉妹。こう言っては何だが、イネブラもジャッテも、
それほど手間をかける料理ではない。普通のイネブラは、適当に混
1795
ぜたスパイスを少なめの水と共に入れ、一緒に入れた野菜から出る
水で煮込むと言うやや金のかかる手抜き料理だし、ジャッテに至っ
ては何も考えずに羊乳にスパイスを入れて大雑把にかき混ぜたもの
に肉を浸し、何も考えずに焼くだけという簡単料理である。
王宮や高級なレストランならともかく、普通の宿や屋台、一般家
庭でこの二つの料理にここまで手をかける事はまずない。せいぜい
ちょっとこだわりのある店がスパイスの組み合わせを工夫する程度
で、それでもその店は行列が出来るレベルだ。
間違っても、こんな風に魔改造一歩手前と言われそうな工夫をす
るような料理ではない。
﹁そう言えば、このパン、食べ応えがある割にえらくサクサクだけ
ど、使ってるのは小麦?﹂
﹁砂麦。折角だから、いろいろ遊んでみました﹂
真琴の質問に、微妙にドヤ顔で答える春菜。ノートン姉妹の事も
あるためあまり米料理をしておらず、その反動でかなりフリーダム
にパン作りをした成果の一つである。
﹁春姉。そっちの二人が、いろいろと価値観が壊されて悩んでます
って顔してる﹂
﹁そんなに変かな?﹂
﹁変とは言わんが、普通は来たばかりの国の料理を、ここまで大胆
にこねくりまわしたりしないんじゃないか?﹂
1796
﹁そこはそれ。食べる事とものづくりには全力投球の日本人ですか
ら﹂
﹁春菜の見た目で日本人を語られても、正直違和感しかないわ﹂
何ともとぼけた会話を続ける一行に、ため息とともに首を左右に
振るプリムラ。いい加減食事がらみで宏と春菜のやることに驚いて
も無意味だと思っているのに、ダール料理の魔改造品ごときにここ
まで動揺する自分に情けなさを感じてしまう。
﹁毎度のことながら、よくもまあそんなに工夫するところが思い付
くもんだ﹂
﹁美味しいものを食べるためには、手間と工夫と実験を惜しんじゃ
いけないんだよ?﹂
﹁それは分かるんだけど、よくその情熱が続くわよね﹂
﹁師匠と春姉に言うだけ無駄だと思う﹂
何処となく投げたような事を言う澪に、思わず視線を泳がせる二
人。澪はある意味、こいつらの食道楽の一番の犠牲者である。何し
ろ、あれこれ試そうとする二人にとことんまで付き合わされ、違い
が分からないレベルの差で議論しながら微調整し、その結果に対し
ていちいち感想を聞かれるのだ。いくら美味しいものが食べられる
と言っても、たまにものすごく面倒くさくなる。
しかも、最初からワイバーンを調理できる程度の腕があった事が
災いし、エアリスのように頑張って料理してもあまり褒めてもらえ
ず、胃袋をつかもうにも宏の方が腕がよく、しかも春菜という強大
1797
な壁も存在している。その上、人生経験の差か、二人ほど工夫する
ポイントが思い付かないため、創作料理となると手も足も出ない。
美味しいものは大好きだが、たかがテローナにうどんをぶちこむだ
けで、ダシの調整から具材の選定からうどんのかたさまでとことん
こだわって調整する思考回路には、残念ながらとてもついていけな
い。
そこまでしないと料理がアピールポイントにならないのなら、女
子力というやつは正直いらない。最近はそんな事を思ってしまう澪
である。
﹁まあ、実のところは他に没頭できるものがあんまりないから、つ
い手の込んだ事をしちゃうだけなんだけどね﹂
﹁歌は?﹂
﹁歌は別に練習とかしないし、どっちかって言うとながら作業みた
いな感じだから、酒場とかで歌う時以外は基本的に何かしながら歌
う感じ?﹂
﹁まあ、普通はそんなもんだろうなあ﹂
腹式呼吸からファルセットにビブラート、歌手と呼ばれる人間が
使う高等技術を普通に使いこなした歌を、料理や作業の合間に鼻歌
のような感覚で歌う女。それはそれでどうかと思うが、多分身に染
みついた癖なのだろう。
﹁あ、そうだ、宏君﹂
﹁何?﹂
1798
﹁余裕があったら、でいいんだけど、ギターか何か作ってくれると
嬉しいかな﹂
﹁ええけど、弾き語りでもすんの?﹂
﹁うん。毎回アカペラって言うのもなんだしね﹂
なんだかんだと人前で歌う機会が少なくない春菜。ウルスに居た
頃はそれほどでもなかったが、ダールに来てからは屋台とセットに
なったため、歌う回数が激増している。
﹁了解や。ついでやから、三味線なんかも作っといた方がええか?﹂
﹁あ、そうだね。演歌とか民謡だったら、そっちの方がいいし﹂
宏の提案に頷く春菜。この口ぶりでは、地味に三味線の演奏もで
きるらしい。つくづく変なところがハイスペックな女だ。
﹁⋮⋮なんか宏の作る楽器って、さあ﹂
﹁ん?﹂
﹁こう、ロックンローラーがやるみたいに思いっきり振り下ろした
ら、無傷で岩とか粉砕しそうよね﹂
﹁だよな。後、適当に鳴らすだけで凄い衝撃波が出たり、呪歌じゃ
ねえのに相手が状態異常になったりとかもありそうだ﹂
﹁師匠だと、子供の身長ぐらいありそうなバイオリンとか、総重量
1799
五百キロの黄金のピアノとか作った揚句、バイオリンミサイルとか
ピアノボンバーとか言ってぶん投げるとか普通にネタにしそう﹂
楽器という単語について好き放題コメントする真琴達三人。特に
澪のネタは、そもそもそれは楽器として成立してるのか、と小一時
間ほど問い詰めたくなるものである。
﹁まあ、素材から言うて鈍器として使える程度の強度はあるとして、
や。流石に春菜さんが使う楽器で、そこまでネタに走る気はあらへ
んで﹂
﹁春菜が使う楽器なら、ねえ﹂
﹁僕とか澪が使うんやったら、まず真っ先にイロモノに走るやろう
けどなあ﹂
﹁師匠、それ差別⋮⋮﹂
﹁いや、僕らのキャラ的に、まともな楽器とかあり得へんやん、普
通に﹂
宏の身も蓋もない意見に、反論できずに沈黙する澪。最近は肉付
きも良くなり、黙っていれば見事な和風の美少女に見える澪だが、
その言動は何処までもネタキャラである。本人も自覚しているため、
楽器をやるにしてもイロモノ枠である事は否定の余地が無い。無い
のだが、自業自得とは言え地味にへこむ話である。
﹁あの、皆さんの故郷では、子供の身長ほどもあるようなバイオリ
ンや黄金のピアノがあるのですか?﹂
1800
﹁無い無い﹂
﹁あれは単なる冗談﹂
﹁冗談の割には、妙に内容が具体的だったような⋮⋮﹂
ジュディスの質問に、全力で否定する達也と澪。とはいえ、ギタ
ーを振り下ろして壊したり、ギターで誰かの頭をかち割ったりする、
というのはあながち冗談とは言い切れないのだが。
﹁とりあえず、こっちに来る前から換算して三年ぐらいまともに演
奏してない事になるから、流石にきっちり練習して勘を取り戻さな
いと﹂
﹁流石に、楽器演奏までエクストラ持ってる、とか言う事はないよ
な?﹂
﹁無理無理無理。一応スキルは持ってるけど、せいぜい一割程度だ
ったよ﹂
歌ほどには演奏の才能は持ち合わせていない春菜は、楽器演奏は
歌の邪魔にならない程度にしか身につけていない。恐らく本気を出
して習得すれば一流の端っこぐらいには引っかかるだろうが、音楽
は趣味の範囲でと考えている春菜にはその気はない。
﹁まあ、今すぐどうって事やないし、切実に必要なもんでもないし、
そこはのんびりやっとこうや﹂
﹁そうだね。音楽は余暇の範囲で楽しく、だね﹂
1801
﹁飯も終わって結論も出た事だし、そろそろ行くか?﹂
﹁せやな﹂
﹁次は何が来る事やら﹂
遅めの昼食を終え英気を養った彼らは、どう考えても碌な仕掛け
が施されてはいないであろう隠し階段の先へと向かうべく、一発気
合を入れるのであった。
建物の構造上あり得ない場所にある階段を下りた先は、中途半端
な人工物の通路、といった感じであった。三人並んで戦闘するには
少々狭いが、二人で並ぶ分には片方は長物を振り回してもさほど問
題にならない程度の道幅がある。
﹁なんか、上とはえらい雰囲気が違うやんか﹂
﹁お姉ちゃん、なんかすごく冒険って言う雰囲気になってきました
!﹂
﹁ジュディス、落ち着きなさい﹂
素人目にも冒険をやっているように見えるこの状況に、相当テン
ションが上がっている妹を窘めるプリムラ。確かに冒険という雰囲
1802
気になってはきたが、先ほどまでの遺跡のあれこれを考えると、こ
の先もきっと碌でもないネタがたくさん仕込まれているに違いない。
それが分かっている状況で、素人が見た目に飲まれて無駄にテン
ションを上げるのは、いろんな意味で危険だ。さっきみたいに無理
やり身体を張らせて笑いをとるようなトラップならまだしも、場合
によっては本当に命の危険があるかもしれない。自分達のような素
人は、出来るだけ冷静に落ち着いて行動しなければならないのであ
る。
﹁こら、由緒正しい遺跡のパターンかもなあ﹂
﹁そんな感じだよね﹂
それなりに広がれるところまで十フィート棒で足元や壁をチェッ
クしていた宏と春菜が、感触やら何やらでそんな感想を言い合う。
この場合、由緒正しいと言うのはイン○ィ・ジョー○ズのパターン
を指す。
﹁とりあえず、隊列組むぞ。ヒロと澪が先頭、俺とノートン姉妹が
真ん中。真琴と春菜は殿で頼む﹂
﹁了解﹂
達也の指示に従い、隊列を組み直す一行。トラップの探知能力が
高い澪と、そう簡単には使いべりしない壁役の宏が先頭に来るのは、
この場合定石とも言える。問題があるとすれば、背後で発動するパ
ターンのトラップに対しては、能力的にはともかく技能的には専門
家に劣る春菜では少々不安があることだろうか。
1803
そんな、今までほぼ使う事が無かったダンジョン用のシフトを組
み、じりじりと慎重に進んで行く。エルフの森のダンジョンのよう
に、シーフの技量に関係なく対応しようが無いトラップがあるかも
しれないが、それを理由に何もしないのはただの自殺志願者だ。
﹁⋮⋮今のところ、何もなし﹂
﹁内容が馬鹿馬鹿しかったとはいえ、さっきまでのトラップの量を
考えると不気味ね﹂
﹁だよね﹂
上層の遺跡は、それこそ目につく場所には漏れなく、という感じ
で何か仕込まれていた。多分引っかかったところで、一番ひどくて
爆発に巻き込まれて煤だらけになって髪の毛がアフロになるレベル
だろうとは思うが、その分数だけは嫌になるほど多かった。
それに比べると、まだ探索開始から十分ほどとはいえ、全くトラ
ップらしいトラップが無いと言うのは不気味すぎる。
﹁⋮⋮突き当り、T字路﹂
﹁何やろうなあ、この微妙に面倒くさいネタが仕込んでありそうな
状況は﹂
﹁とりあえず調べる﹂
かなり不審な感じのT字路に、警戒心をむき出しにしながら慎重
に丁寧にしつこくしつこく確認する澪。どうにも嫌な予感しかしな
い。
1804
﹁⋮⋮通路自体には、これと言って何も仕掛けはない﹂
﹁せやけど、なんか違和感あんで﹂
﹁うん。何かおかしい﹂
仕掛けは無いが、これだけははっきり言える。何かがおかしい。
罠の類はないが、二人の高い感覚値が何かを訴える。
﹁こういう時は、構造そのものが騙し絵レベルでなんか変やねん。
せやから、土木とかそういう方面から攻めれば、なんかわかるはず
や﹂
そんな事を言いながら、土木作業の時に使った水平器を取り出し、
それをまず自分の足元に置く宏。どうやらこのあたりはちゃんと水
平が出ているようで、水平器の気泡はちゃんと中央に来ている。
﹁次は、っと﹂
間違って踏み込まないように、手前から届く範囲で水平器を置く。
傾きを示すように、気泡が右側に上がっていく。
﹁通路が傾いとんな。多分、ビー玉置いたら転がるレベルや﹂
﹁そんなに傾いてるの?﹂
﹁凄い技術で手間暇かけて誤魔化しとるわ、これ﹂
宏の言葉に、首をかしげるしかない春菜。彼女で辛うじて多少違
1805
和感を覚える程度で、達也や真琴、ノートン姉妹などの目にはまっ
たく違和感が無い仕上がりである。並の冒険者なら、罠が無いから
とごく普通に通路に侵入するレベルだ。
﹁で、や。通路が傾いとる、っちゅう事は、このパターンやと﹂
﹁定番はローリングストーン?﹂
﹁やろうなあ﹂
こういう状況でよくある罠を提示し、全員の意見を一致させる。
﹁実際の傾斜はどんなもんだ?﹂
﹁人間の体やと、傾いとる事に気がつくかどうか、っちゅうレベル
やな。で、いろんなやり方で徐々にこう配がきつくなってんのが分
からんよう錯覚させて、まっすぐ歩いてるつもりやのに実は下って
た、みたいな感じになると思うわ﹂
﹁いわゆる幽霊坂とか、あんな感じか?﹂
﹁そんな感じや﹂
﹁⋮⋮陰険だな⋮⋮﹂
﹁何をいまさら﹂
手の込んだ陰険な構造の遺跡について、面倒くさげに確認し合う
宏と達也。とはいえ、陰険な構造ではあるが、不思議と殺意は感じ
ない。恐らくだが、この遺跡はお約束を悟らせないために陰険なや
1806
り方をしているだけで、ちゃんと回避方法が設定されているのがな
んとなく分かるからだろう
﹁この場合問題になるんは、岩が最後まで転がるんを防いだ方がえ
えんか、途中でよけて最後まで転がした方がええんかやな﹂
﹁えっと、もう岩が転がってくるのは確定なんですか?﹂
﹁今までの流れから言うて、こういうお約束は絶対はずさんやろう﹂
不思議そうなジュディスに、力強く断言する宏。上のフロアがあ
れだけある意味でのお約束に忠実だったのだ。このフロアがイン○
ィ・ジョー○ズ的お約束を外すとは思えない。
﹁岩が転がってくると言うのは、なんとなく理解しました。防いだ
方がいいか否か、というのは?﹂
﹁この手の仕掛けって、大きく分けて二つのパターンがあるんだよ
ね。一つ目が、岩をよけて突き当りに落とす事で、別のフロアや通
路に行くためのルートを確保できるパターン。もう一つが突き当り
に当った時点で、別のトラップが作動するパターン﹂
プリムラに対して、丁寧にお約束を解説する春菜。この罠が厄介
なのは、転がしてみないと分からないところだろう。しかも、岩の
せいで道が通れなくなるなどといった派生パターンも少なくない。
﹁今の段階だと、どっちのお約束なのかを判断する材料が少ないの
が問題﹂
﹁そうだな。真琴、何か思い当たる事はあるか?﹂
1807
﹁あたしにそう言う観察力を求めないでよ。それが分かってたら、
そっちの二人か春菜がとっくに見つけてるわよ﹂
﹁だよなあ﹂
ノートン姉妹に対する澪の補足説明を受けて、基本こういう状況
では役に立たない達也が、同じく役に立たない真琴に形ばかりの確
認をとる。基本的に引っかかってみるしかない、というのが本気で
面倒くさい。
﹁トラップの構造上、下手に単独で確認とかしたら分断されかねん
のが厄介やで﹂
﹁ここは腹をくくって、皆で引っかかってみよっか﹂
﹁それやったら、僕が一番後ろやな﹂
最悪、生身で転がってくる岩を受け止める必要があるが、このメ
ンバーでは宏以外に直径数メートルの丸岩をどうこうできる人間は
いない。
﹁場合によっちゃあ、岩砕かんとあかんから、モール持っといた方
がええやろうなあ﹂
﹁頼む﹂
﹁ごめんね、危ない役任せちゃって﹂
﹁こんなん、ハニトラに比べたら全然怖ぁないで﹂
1808
引っかかったら根性の悪い女に嘲笑われ、引っかからなかったら
根性の悪い女に存在を否定するような罵詈雑言を投げかけられる。
罵詈雑言といったところで、達也あたりなら負け犬の遠吠えと普通
に無視するような事柄だが、宏にとってはいろいろときつい。
﹁相変わらず、物理的な危険は女性関係のトラブルより脅威度が下
なのね⋮⋮﹂
﹁真琴さんかて、モンスターよりノンケのパンピーの方が怖いって
経験、しとるやろ?﹂
﹁⋮⋮言いかえせないわねえ﹂
そんな事を言い合いながら、若干隊列を変更してT字路に入って
行く。色々と時間を稼ぐために宏は傾斜を登って行き、他のメンバ
ーは通路の構造、というよりは逃げ場所を確認するために下ってい
く。
澪を先頭にした調査側の集団が十数メートル歩き、そろそろつき
あたりが目視できるかどうかというあたりに来たところで、ガタン
ッと通路に大きな振動が走る。
﹁来た!﹂
﹁宏君、大丈夫!?﹂
﹁まだ大してスピードも乗ってへんから、余裕やで!﹂
目の前からゆっくり転がってくる大岩に対して突っ込んで行き、
1809
ヘヴィウェイトで自重を増加、完全に受け止めて見せる宏。それな
りに本気の重量ではあるが、その気になれば片手で支えられるあた
り、どうにも密度はそれほどでもないような印象である。はっきり
言って、最大速度で直撃したところで、ノートン姉妹でも命を落と
す事はないだろう。
﹁この岩、ほとんどハリボテやで﹂
﹁重量はどんな感じ?﹂
﹁僕のモールよりちょっと重いぐらい。表面は岩のように硬いけど、
密度で言うたらかなりスカスカや﹂
やはり、陰険な割に殺意はないらしい。油断させておいてと言う
可能性も無い訳ではないが、この遺跡がある種のアトラクションで
あると考えるなら可能性は低い。
﹁そっちはどない?﹂
﹁通路の奥にちょっとした仕掛け。岩がはまって通路がふさがる感
じ?﹂
﹁ほな、この岩砕いた方がええな﹂
﹁いや、むしろ一回はめこんでから砕いた方がいいんじゃないか?﹂
﹁さよか。もしかしたら最大速度で無いとあかん可能性もあるから、
ちょっと戻して仕掛けして、そっちに合流してから転がるようにす
るわ﹂
1810
﹁了解﹂
方針を決めたところで、えんやこらと大玉転がしのように岩もど
きを押し上げて行く。通路の天辺まで押し戻した後、楔を二本用意
して位置を固定し、一本に霊糸をくくりつけてひっこ抜けるように
細工する。この時、地面の方にも多少細工をして、くさびが確実に
壁際に抜けるようにするのも忘れない。直径が道幅一杯といっても、
固定された楔を避ける程度の遊びはあるのだ。
その様子を見ていた達也が、いまだにこういう便利グッズ扱いか
ら完全には脱却できていない霊糸に対して、心の中で十字を切った
事は言うまでもない。
﹁細工完了。回避場所はここか?﹂
﹁だと思うよ﹂
﹁割とこの人数やとぎりぎりやな﹂
﹁うん。ごめんね?﹂
﹁いや、しゃあないって﹂
五人を超えると割と鮨詰めになる回避スペースを見て、微妙に顔
を青ざめさせながらももの分かりのいい事を言ってのける宏。とり
あえず、何かあった時の壁役をまっとうする必要性と仕掛けを起動
させるためという大義名分のもと、密着度合いが比較的マシになる
一番外側に入る。この時、いざという時に補助魔法をかけるため、
という言い訳で宏に一番密着するスペースを確保した春菜は、密着
した時点でそのスペースが自分にとって、いかに危険かを思い知る。
1811
︵うわあ⋮⋮︶
革鎧越しとはいえ、惚れた男に密着すると言うのが、これほど心
臓に悪いとは思いもよらなかった。至近距離に見える宏のやや青ざ
めた顔に申し訳なく思いながらも、普段意識する事のない男の匂い
と見た目の印象よりはるかに逞しい体、そして比較的鎧や布が薄い
場所から伝わってくる肌の感触と体温が、徐々に春菜の思考を停止
させようとする。
﹁ほな、行くで﹂
そんな春菜の様子に気がつく気配すら見せず、鎧越しだと言うの
に妙に柔らかい春菜とジュディスの体の感触に青ざめながらも︵春
菜以外の位置は、とりあえずくじ引きで決めた︶、すべきことを宣
言して思いっきりよく楔を引っこ抜く宏。次の瞬間、重力に引かれ
てゆっくりと転がり始めた岩もどきは、何か仕掛けでもあったのか
傾斜から予測される以上のスピードで転がってゆき、なかなかの勢
いで突き当りに衝突する。
なお、傾斜の分か、このあたりは天井が意外と高いため、仮にい
ろいろ失敗して岩もどきに挽きつぶされても、身体の上を転がって
行くだけでそれほどのダメージにはならない。澪ですら気がつかな
かったが、ご丁寧に妙な超技術で、わざわざ地面がクッションにな
る構造になっていたりするところも、製作者がアトラクションのつ
もりである事がありありと分かる要素である。
﹁さて、どうなった事やら﹂
SAN値が直葬されそうな状態から一刻も早く抜け出すべく、い
1812
そいそと回避スペースから出て行く宏。余りに忙しなく離れて行く
宏の体温が妙に寂しく、思わず小声であっ、と呟いてしまう春菜。
普通の男なら戦うべきは性欲だとか理性のぐらつきとかであろう状
況でも、この男は本気で発狂しそうな恐怖と闘う羽目になるのだ。
﹁まあ、理由は分かってるんだけど春菜、あんた顔真っ赤よ?﹂
﹁ジュディス、あなたもですよ﹂
﹁お姉ちゃんにだけは言われたくないです﹂
なんだかんだと言って、合法的に合意の上で意中の男と密着する
機会を得た女性陣は、全員顔をこれでもかというぐらい赤く染めて
妙なテンションになっている。
﹁で、感想は?﹂
﹁⋮⋮皆には悪いけど、ある意味においては誕生日の時より幸せだ
った気がする⋮⋮﹂
意地の悪い顔で春菜をからかう真琴に対し、うつむきながらどこ
となくとろけそうなかすれた声で、小さくつぶやいて答える。普段
は身体つきの割に驚くほど色気が無い春菜だが、この時ばかりはあ
りとあらゆる煩悩を解脱した賢者や僧侶でも道を踏み外しそうなほ
どの色香を漂わせていた。はっきり言って嫁さん以外女としては眼
中にない達也ですら思わずくらっときそうになったのだから、相当
である。むしろ、普段が普段だからこそ、そのギャップが余計に大
きいのかもしれない。
﹁まあ、こんな機会でも無きゃまともに物理的接触が出来る相手じ
1813
ゃないしねえ﹂
﹁春姉もジュディスもずるい⋮⋮﹂
くじ引きに負けた澪が、目だけで二人を非難する。そんな女性た
ちのやり取りを頑ななまでに無視し、岩が転がってきた坂の上と岩
が直撃した行き止まりを確認、調査する宏。今だけとはいえ、過剰
に色気を発散している女など、宏にとっては起爆スイッチの入った
核弾頭のようなものである。
﹁坂の上は、行き止まりのままやな。引き返す道は普通に塞がっと
る。新しい道は出来てへんけど、軽く叩いた感じから言うて本気で
しばけば通り道ぐらいは作れそうやで﹂
﹁要するに、森のダンジョンと同じやり方か?﹂
﹁そんな感じや﹂
あくまでも力技で平常運転に戻る男二人を見て、どうにか力技で
意識を切り替える女性陣。まだまだ鼓動が収まらない春菜だが、い
つまでも引きずって宏に負担をかけては、何をやっているのか分か
ったものではない。
﹁ほな、一発行くで﹂
﹁おう﹂
達也の許可を受け、思いっきりモールを振り下ろす宏。実のとこ
ろ、ちゃんと調べれば坂の上の行き止まりに小さなスイッチが見つ
かり、それを押せば普通に隠し通路が出てきたのだが、そんな事は
1814
知る由もない宏達は、結局力技で道を切り開いたのであった。
いくつかのフロアを突破した先の、休憩可能なスペース。一行は
一息つきながら、微妙にうんざりした顔でこれまでの事を振り返っ
ていた。
﹁定番の罠、一杯あった﹂
﹁ほとんど漢解除で潰した気がするんは気のせいか?﹂
﹁まあ、それが一番早かったのは事実だしなあ﹂
上から横から飛び出してくる槍に吊り天井、迫ってくる壁など、
ここに来るまでに定番と言える罠がほとんど出尽くした。出ていな
いのはテレポーターとアラームぐらいである。テレポーターが出て
こないのはおそらく元ネタに存在しないからで、アラームはガーデ
ィアンなどの仕込みが面倒だったからに違いない。
﹁いやまあ、あれが本当にやばい罠だったら、あたしか達也が漢解
除以外の方法を提案したけどさあ﹂
﹁槍とか矢とかが、全部おもちゃ同然だったよね、あれ﹂
﹁迫ってくる壁も、人間挟んだらそれ以上動かんぐらいのパワーし
1815
かあらへんかったしなあ﹂
﹁その癖、まともに解除できる構造になってなかった﹂
﹁何というか、もとから四苦八苦しながら漢解除で突破させる前提
だった感じね﹂
イン○ィ・ジョー○ズ的お約束だと、全ての罠は引っ掛かって突
破という事になる。そして、あくまでアトラクションという立場を
崩していないこの遺跡、発動した罠は全部致命傷には程遠い性質に
なっていた。槍や矢は穂先や鏃がゴムのような柔らかくて弾力のあ
る素材でできており、目にでも当たらない限りはまともなダメージ
になりようが無かった。吊り天井も迫る壁も、まるで昨今の電動シ
ャッターや自動ドアのように、ちょっと硬い物が挟まるとそれ以上
進まなくなると言う安全設計で、余程の事が無い限りはそれで命の
危機に陥ると言う事はない仕様である。
とはいえ、全くペナルティが無い訳ではない。吊り天井や迫る壁
は結構がっちりロックがかかる構造だったため、力技で突破するに
は結構な苦労があった。槍や鏃は当ると軽い麻痺や混乱などのちょ
っとした状態異常になり、その場はともかく後々に結構響いた。い
ずれも致命的ではないが、スタミナや精神力といった要素は確実に
がりがりと削られている。
因みに、一番きついペナルティは、最後の最後にジュディスが引
っ掛かった槍衾トラップでの状態異常﹁空腹﹂であろう。
﹁途中、何故かレーザーと赤外線で罠張っとったんは、思わず笑っ
てしもたで﹂
1816
﹁あれだけ、ネタの傾向が違う﹂
途中、何故かスパイものか何かのような警備態勢をとっていた一
角があり、センサーに引っかかるとガーディアン代わりのボールが
ヒットアンドアウェイで攻撃を仕掛けてくると言うトラップがあっ
た。とても全部よけられるような配置になっていなかったため、結
局宏がすべてフルスイングでホームランして始末し、回避できる範
囲でだけセンサーを避けて力技で突破したのだ。
﹁で、まあ、あれや﹂
﹁うん。言いたい事は分かってるよ﹂
﹁ここまで来て、何の仕込みもあらへんっちゅうことはまずあり得
へんとして、この場合何から突っ込んだったらええと思う?﹂
﹁定番だもんね、不自然なところにあるやけにしっかりした作りの
妙に真新しいトロッコ﹂
宏と春菜のコメントが示す通り、部屋の奥には妙に真新しいトロ
ッコがあり、そこから空洞の上をレールが走っている。空洞の底を
よく観察すると、パッと見には分からないように巧妙にカモフラー
ジュされた安全ネットが張ってある。これに関しては、落ちても大
丈夫と安心すればいいのか、落ちるかもしれないような仕掛けが施
されている事を心配すればいいのか、かなり微妙なところだろう。
この手の突っ込みを入れるのは無粋ではあるが、明らかに古代遺
跡だと言うのに、何故かトロッコのレールが錆一つ浮いていないの
はものすごく不自然である。中途半端に古く見せる偽装が入ってい
るトロッコが、余計にその不自然さを強調している。恐らく分かっ
1817
ていてわざとだろうが、実に余計なところでいいセンスをしている。
﹁とりあえず、この場合ありそうなネタ、あげてこか﹂
﹁まず基本は、こうもりか何かに攻撃食らうってとこだな﹂
﹁後、途中でポイント切り替えないと地底に転落、はありそうね﹂
﹁ジェットコースターも定番。トロッコなのに宙返りとかレールが
ねじれてたりとか﹂
﹁だけど、何故か乗ってる人は絶対落ちないんだよね﹂
トロッコという事でありそうなネタを出し合い、今後の展開を予
想する。どれもこれもある意味定番のネタである以上、絶対に仕込
んであるはずだ。
﹁まあ、ある意味今までよりは大したことあらへんわな。基本的に
はジェットコースターの亜種やし﹂
﹁だなあ。となると問題は﹂
﹁トロッコ、もうちょい容積欲しかったで⋮⋮﹂
本日二度目の密着タイムとなりそうな大きさのトロッコに、思わ
ずため息をつく宏。流石に先ほどのようにぎゅうぎゅう詰めという
事はないが、少なくとも武器を振るう余裕はない。
﹁もう一つ問題なんが、そろそろええ時間やっちゅう事やな﹂
1818
﹁あ∼、言われてみれば、いい加減晩御飯ぐらいの時間だよね﹂
﹁せやから、どないする? ここで一泊して明日の朝からトロッコ
攻略するか?﹂
﹁先がどうなってるか分かんねえのが厄介だな﹂
﹁かといって、トロッコで終わりとは思えないし、こういう精神的
に疲れそうなネタを明日の朝一でって言うのも気が進まないのよね
え﹂
いい加減いろいろあって疲れているので、今日のところはこれ以
上余計なイベントは勘弁してほしい。だが、明日の朝一番から宏が
使い物にならなくなりそうなイベントをこなすのも、それはそれで
どうかという気がする。
﹁面倒だから、コインでもはじいて決めるか﹂
﹁それでいいんじゃない? どっちに転んでも碌な事にならないし﹂
﹁じゃあ、私、配置のあみだくじ作っとくね。宏君と達也さんは一
番前で﹂
宏が一番ダメージが少なくなるよう最初に男性陣の位置を固定し、
残りのメンバーをくじで適当に決める。その間に達也がはじいたコ
インの結果は表。今日のうちにトロッコを終わらせることが確定す
る。
﹁トロッコ終わってすぐぐらいのところに、野営に向いた場所があ
ったらええんやけど﹂
1819
﹁まあ、ところどころセーブポイントっぽい場所もあったし、大丈
夫だと思うよ﹂
そう言って、やたら強力なくじ運で宏の真後ろというポジション
を確保した春菜が妙に嬉しそうにトロッコに乗り込む。本日二度目
の接触タイムだ。同じ列には澪を挟んで真琴が入り、ノートン姉妹
が一番後ろとなる。
﹁とりあえず動かすから、しっかりつかまってろよ!﹂
達也の警告に従い、つかまれる場所にしっかりとつかまる一行。
どの程度の速度が出るかは不明だが、安全バーだのシートベルトだ
のの類は無いフリーなトロッコだ。恐らく妙な仕掛けでそう簡単に
落ちる事はないだろうが、しっかりつかまっていないと怖いことこ
の上ない。
﹁早速こうもりか!﹂
﹁定番やな!﹂
予想通りの展開に舌打ちしつつ、マジックブリットで落とせるも
のを落としていく宏と達也。他のメンバーは場所や角度が悪いため、
流石にこれといった対応は取れない。
﹁わわ!?﹂
宏が撃ち漏らしたこうもりが、春菜の頭上をかすめてどこかへ飛
んでいく。とっさに頭を下げて避けたところで、大きなカーブに差
し掛かる。
1820
﹁わわわっ!﹂
姿勢が崩れた状態で大きく曲がったものだから、思いっきり前に
つんのめる春菜。物理法則に逆らいきれず、そのまま宏にしがみつ
く。
﹁⋮⋮っ!﹂
思わず悲鳴を上げそうになり、必死になって飲み込む宏。いかに
女性恐怖症といっても、このどうしようもない状況でそう言う理由
で悲鳴を上げるとか、流石にそれなりの期間同居している相手に失
礼すぎる。SAN値が厳しいが、最大値さえ下がらなければ、シナ
リオが終われば全快するのだ。ここは必死になって我慢するしかな
い。
などとかなり間違った方向でゲーム脳的な事を考えているうちに、
恐らく危険地帯であろう切り替えポイントが見えてくる。このまま
地底に落とされると、春菜に押しつぶされることになって余計にS
AN値がピンチだ。そんな駄目駄目な思考のもと、反射的にポイン
トを切り替えると⋮⋮。
﹁きゃあああああああああああああああああああああああ!!﹂
﹁ちょっとまてえええええええええええええええええええ!!﹂
﹁この低速で宙返りは余計に怖いわよ!!﹂
﹁うひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!﹂
1821
ある意味予定通り、レールがジェットコースター仕様に変わる。
トロッコの低速でジェットコースターのような挙動を取られるのは、
いろんな意味で不安がよぎる。しかも、何故か一定以上床から足が
離れないと言うだけで、振り落とされそうになる不規則で不安定な
Gは、妙に物理法則に忠実にかかってくるのである。落ちないと分
かっていても床から完全に足が浮いたりするのは、正直不安などと
いう次元では済まない。
結果として
﹁わああああああああああああああああああああああああ!!﹂
﹁怖い怖い怖い怖い!!﹂
﹁ひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!﹂
春菜と澪が恥も外聞も思いやりも完全に投げ捨ててやたらと立ち
方が安定している宏にしがみつき、その結果ジェットコースターで
は感じないはずの恐怖で叫ぶ羽目になる宏。そこに蝙蝠が不規則に
ヒットアンドアウェイをやらかし、春菜と澪が更に力一杯しがみつ
いて宏が叫ぶと言うある意味素敵な流れが完成する。
﹁⋮⋮なんか、ものすごく怖かった⋮⋮﹂
﹁ご、ごめんね、宏君。ちょっとまだ普通に立てない⋮⋮﹂
普通のジェットコースターとはある意味で比較にならないほど怖
いトロッココースターのせいで微妙に足が震え、宏から手を離さね
ばいけないと分かっていても、どうにも離れる事が出来ない二人。
今はやたら安心感のあるこのぬくもりを手放せそうにない。
1822
﹁⋮⋮﹂
そんな二人に対し、完全に真っ白に燃え尽きた宏は何の反応も示
さない。恐らく、トロッココースターが怖いと感じなかった唯一の
人物ではあろうが、間違いなく何の慰めにもなっていない。
﹁と、とりあえず、いろんな意味で今日はこれ以上は無理だな﹂
﹁そ、そうね。正直、ここが野営出来そうなスペースがあってよか
ったわね⋮⋮﹂
そう言いながら後ろを振り向くと、
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁プリムラとジュディスが、目をあけたまま気絶してる!?﹂
絶叫マシーンに全く耐性の無いノートン姉妹が、見事に気絶して
いた。
﹁連中が帰ってきておらん?﹂
1823
﹁はい。早朝に砂を取りに行くと言って街を出たらしいのですが⋮
⋮﹂
﹁それなら、一日二日戻って来ぬのは、不思議でもなんでもなかろ
う?﹂
﹁いえ、それがですね⋮⋮﹂
﹁ああ、そう言えば、連中はゴーレム馬車を持って居ったな。それ
ならば、確かに日帰りで砂漠まで行けん事はないか﹂
宏達の情報を思い出し、少々顔をしかめる女王。明日あたりに神
殿から手を回し、そろそろ正式に王宮へと招き入れる予定だったの
が台無しである。
それだけではない。ゴーレム馬車を持っていて、しかも早朝に砂
を取りに行くと言った連中が戻ってきていない。それはすなわち、
なにがしかのトラブルに巻き込まれている、という事である。
﹁連中からの連絡はないのか?﹂
﹁とりあえず、ノートン姉妹からは一度、少し予定が変わったから
帰るのが多少遅くなりそうだ、という連絡はあったそうですが﹂
﹁多少、という単語がある以上、普通は日をまたぐなどとは考えぬ
か﹂
﹁はい﹂
﹁この目で確かめた実力を考えれば滅多なことでは命の危険はなか
1824
ろうが、一体何処で何をしているのやら﹂
余りに不穏当な状況に顔をしかめつつ、一応一行の身を案じる女
王。とはいえ、いかな女王といえども流石に
﹁あ、砂牡蠣発見﹂
﹁おっ、牡蠣か! 毒とか大丈夫か?﹂
﹁こいつは加熱さえすれば、いつ捕まえても食えるで﹂
﹁牡蠣は燻製にすると美味しいのよねえ﹂
﹁カキフライ、カキフライ﹂
きっちりトロッココースターの恐怖から立ち直った上で古代遺跡
に生息する食材を発見し、平常運転で夕飯を作っているとは想像も
していないのであった。
1825
第7話
﹁いない、だと?﹂
余りに意外な報告を受け、思わず聞き返す男。この場にいる人間
の中ではもっとも立場が上のようだが、この場にいる誰よりも影が
薄い。面と向かって話していても全く記憶に残らないほど存在感が
薄く、特徴が無い。
﹁ターゲットは、昨日より消息が不明となっています﹂
﹁どういうことだ?﹂
﹁昨日の朝からダールを出たターゲット一行が、いまだに帰ってき
ておりません﹂
﹁追跡は?﹂
﹁連中が使用したゴーレム馬車と思われる乗物のスピードに追い付
けず、途中で断念せざるをえませんでした﹂
ゴーレム馬車、という単語に納得するしかない男。ゴーレム馬車
のスピードは別格だ。生身で使用できる手段では、追跡するのは厳
しい。
﹁とは言っても、何処に向かったかのおおよその見当は付いている
のだろう?﹂
1826
﹁可能性のある場所、全てを探らせましたが⋮⋮﹂
﹁発見できなかった訳か。ゴーレム馬車は? あれを隠すのは、そ
れほど容易いことではないと思ったが?﹂
﹁影も形もありませんでした﹂
予想外に厄介な状況に、その特徴の無い顔をしかめる男。顔も名
も知らぬファーレーンの同胞の計画を潰した連中と、今回の計画に
おいて必ず始末しておかなければならない姉妹。その二つが一緒に
行動していると聞いた時には、神の采配だと喜んだものだが、流石
に一筋縄ではいかないらしい。
今週一週間ほどはずっと屋台をしていた事は分かっている。それ
が格好のチャンスであったのは事実だが、妹の方に襲撃をかけた時、
ファーレーンから来た連中の一人、最も小さな小娘に当てられた矢
傷が思った以上に深く、回復に手間取ってしまって襲撃に回れなか
ったのだ。
そのチャンスを活かせなかった事が、ここに来てこんな形で問題
になるとは。そう男は歯噛みする。
﹁とにかく、発見できるまで探し続けるしかないな﹂
﹁御意に﹂
どんなに上手く隠れても、人海戦術で当ればそのうちあぶり出せ
る。そして、今までこそこそ隠れ続けてきただけに、目立たずにそ
う言う事をするための手駒だけは豊富に揃っている。今日一日あれ
ばあぶり出せるはずだ。彼らはそう確信していた。
1827
流石に、ターゲットである宏達が、昨日からずっと地底深くにあ
る遺跡をうろうろしているなどとは知る由も無く、彼らの確信とは
裏腹に、この日は完全に無駄足を踏む事になるのであった。
﹁なんかこう、微妙に見た覚えがある光景だな﹂
﹁視聴者参加型の体張ったアトラクション系バラエティ番組とか、
こう言う感じの企画あらへんかった?﹂
階段を下りた先は、広大な空間をいくつかに区切ったエリアであ
った。そのいくつかに区切られたうち一番最初の区画は、フロアを
二つに分断する形で大きな池があった。
﹁イン○ィ・ジョー○ズの後に、何でこんな和風の池があるのかし
らね?﹂
﹁分からへんけど、企画の意図ははっきりしとんで﹂
﹁まあ、そうだよね﹂
企画の意図など、見れば分かる。池の中央を繋ぐように水面から
出ている石。それを渡って向こうへ行け、という事であろう。だが、
渡る前に確認しなければいけない事がいくつかある。
1828
﹁予想を言うたら、恐らく石の中にはただ浮かんどるだけの奴があ
るはずや、っちゅうとこか?﹂
﹁そうだね。あと、それを隠すために不自然なぐらい透明度の低い
水が入ってる感じ?﹂
﹁それと、水面が異様に凪いどるんも、浮き石を誤魔化すためやろ
う﹂
観察して分かる事を、冷静に確認し合う宏と春菜。どうせこの後
もアトラクションっぽい物が続くのだろうとあたりはつけているが、
思い込みで行動するのは危険だ。確認できる事は徹底的に確認した
方が、後悔は少ない。
﹁このエリアの中には、ヒントになるようなもんは何もあらへんな﹂
﹁ルール説明の類もなさそうよ﹂
見れば意図するところぐらい分かるだろう、と言わんばかりの不
親切さだ。もっとも、遺跡なんて普通はそんなものなのだろうが。
﹁師匠、達兄、この企画、微妙に覚えがある﹂
﹁ほう?﹂
﹁なんや?﹂
﹁恐らくこの造形、風雲た○し城⋮⋮﹂
1829
﹁何や、それ?﹂
澪が、自分達の親ですら恐らく生まれていたかどうかという時期
に大ヒットしたバラエティ番組の名前を上げる。SAS○KE辺り
の原型となったであろう、一般応募の視聴者が身体を張ってアトラ
クションをクリアして行くアクション系バラエティ番組である。
無論、そんな古い番組を、宏達が知る由もない。ノートン姉妹に
至っては、そもそもバラエティ番組、という概念自体が理解できて
いない。
﹁大昔にヒットした番組。多分、年代的にうちの親とかでも知って
るかどうか微妙﹂
﹁⋮⋮毎度のことながら、お前はどこからそう言うネタを仕入れて
くるんだ?﹂
達也のジト目での突っ込みに、無表情のまま明後日の方向を向い
てタバコを吸うようなしぐさをしてごまかす澪。毎度のことながら、
どこまでも年齢詐称疑惑が付きまとう少女である。
﹁まあ、ええわ。念のために、この水ちょっと調べとくわ﹂
﹁頼む﹂
確認しておくべき事を確認するため、バケツとロープ、それから
信頼と実績の十フィート棒を用意して池に近寄る宏。十フィート棒
を池に突っ込んで深さを確認した後、まずは普通に池の水をくみ上
げて水質調査。その後、念のために底の方をこそぐため、ロープで
くくったバケツに錘をつけ、慎重に底に沈めて行く。
1830
深さは宏の腰ぐらい。仮に深い場所があっても、水深一メートル
は無いだろう。地底に余計な仕掛けが無ければ、最悪水に浸かって
歩いて突破、という選択肢もある。
﹁⋮⋮池の水はまあ、そんな問題になるような成分はしてへんな。
間違って飲んでも、即座になんかあるっちゅうほどの有害物質は入
ってへん﹂
﹁即座に、って事は、飲むと拙いものが入ってる、って事よね?﹂
﹁まあ、この見た目で完全に無害ってのはあり得へんわな﹂
﹁そりゃそうだけどさ。どのぐらい危険なのよ?﹂
﹁腹が弱かったら、割とすぐに腹壊すかもしれへん、程度やな。正
直、途上国の生水よりははるかに飲用に適しとるから、後は量の問
題や。ただ、突破するときにミスって落ちた、程度の状況で飲んで
まうぐらいの量やったら、そんなに気にする事はあらへんよ﹂
つまり、ほぼ無害、という事である。
﹁後、気になる事は、や﹂
池の底に沈殿している物をチェックし終え、これと言って問題が
無いと結論を出したところで一番問題になりそうなポイントを口に
する宏。
﹁こんなん、十フィート棒使うて進めれば、全く問題なく向こうい
ける訳やけど、そんな単純な話か?﹂
1831
﹁⋮⋮そう言うのを調べるのは、多分ボクの仕事﹂
宏の疑問を受け、十フィート棒を取り出しながら澪が答える。シ
ーフというのは、こういう時に身体を張るのが仕事である。
﹁別にわざわざあんたが調べなくても、こんなの誰が調べても一緒
だと思うんだけど?﹂
﹁こう言う時こそ、セオリーに従うのが美味しい﹂
完全にお笑い芸人か何かの心得のような事を語る澪に、思わず呆
れ顔になる真琴。元々残念なところが多分にある娘だが、最近完璧
超人っぽい春菜がかなり残念なところを見せるようになってきたか
らか、自身の残念さを取り繕わなくなってきている。正直、それで
いいのか乙女たち、と、今後が心配でならない真琴。言うまでも無
く、自分の事は完全に棚に上げている。
﹁あ、でもその前に一応確認﹂
何かを思いついたらしい澪が、唐突に自分の弓を取り出して矢に
ロープをくくりつけて構える。それを見て、意図するところを察す
る一同。
﹁それが上手くいけば、確かに話は楽になるわよね﹂
﹁まあ、そのやり口に対して、何の対策も取ってねえとも思えんが
なあ﹂
実のところ、やろうとしている澪本人も、内心では達也の意見に
1832
完全に同意するところではあるが、確認もせずに突っ込んでくのは
単なる脳筋である。最終的にやる事は同じでも、確認できる事は全
て確認したうえで、可能な限り最大限の準備をして挑むのと何も考
えずに突っ込んで行くのとでは、心構えの上でも結果の上でも、天
と地ほど違うのだ。
﹁とりあえず、シュート﹂
気の抜ける口調で、地味に手持ちのスキルの中で、弓に負担をか
けずかつ矢を壊さずに撃てる最強の貫通系スキルを放つ澪。一瞬エ
クストラスキルを使う事も考えたが、流石に今の技量でかつ自分が
作った弓だと、一発撃てばそれで修理が必要になってくるため、こ
んなところで使うにはいろいろ問題がある。もっと言うなら、エク
ストラスキルを使った際に、ロープが無事で済む保証が無い。
気楽に撃ったように見えるのに、恐ろしいエネルギーを纏って、
すさまじい勢いで飛んでいく矢。池の半分を超えたところで、何か
にぶつかって衝撃波をばら撒き、派手な音を立てて消滅する。
﹁やっぱり無理っぽい﹂
﹁まあ、予想通りやな。手ごたえとしてはどんな感じやった?﹂
﹁流石に、エクストラスキルなら貫通する?﹂
﹁要するに、正攻法で突破せい、っちゅうこっちゃな﹂
自身がエクストラスキルを放った経験を踏まえ、そう結論を出す
宏。他のメンバーも同意見のようだ。
1833
﹁それにしても、今の一撃を完全に無効化する技術、というのは正
直、かなり恐ろしいものを感じますね﹂
﹁お姉ちゃん。私はむしろ、その技術をこう言う趣味的な事に惜し
げもなく注ぎ込む事の方が恐ろしいです﹂
ノートン姉妹の、それもジュディスのコメントに、思わず乾いた
笑みを浮かべるしかない日本人一同。何しろ、日本という国は、こ
う言うくだらない事に全身全霊をかけ、どうでもいい事に持てる限
りの技術をつぎ込んでしまう傾向があるのだ。自分達が企画を立て
て準備する立場なら、迷うことなくこれぐらいの事はする。その自
覚があるため、この遺跡を作った存在に対して余り大きな事を言え
ないのである。
﹁ま、まあ、とりあえずだ﹂
﹁うん。最後のチェック、行ってくる﹂
あとチェックすべき事はただ一つ。十フィート棒を使ってのクリ
アが許されるかどうか。とはいえ、ここまで徹底して抜け道を潰し
てきているのだ。絶対に何らかの対策は取っているはずである。
そんな事は分かってはいるが、もしかしたら、という事もある。
十フィート棒が使用可能だと分かれば、それだけでこのアトラクシ
ョンは突破したも同然。駄目だったとしても、チェックした誰かが
水に落ちるだけだ。
﹁最初の一個は、流石に変な仕掛けは無し﹂
普通にしゃがんでつつける位置にある最初の一ヶ所は、ごく普通
1834
にしっかりとした足場であった。よく見ると、塗装が荒くて妙にチ
ープな飛び石ではあるが、足場として機能しているのであれば問題
ない。
﹁⋮⋮見た印象通り、かな?﹂
二歩めは、三つの足場のうち二つが、よく見れば分かる程度に動
いていた。それを再確認のためにつついてみると、見た目の印象通
りにあっさり動く。もし踏んでいれば、そのまま水に落下したであ
ろう。残りの一ヶ所は、ちゃんとした足場のようだ。
﹁三カ所目は⋮⋮﹂
先ほどまでの流れに従って、十フィート棒で石をつついた次の瞬
間、足場にしていた石が忽然と消える。
﹁あっ⋮⋮﹂
突然の事だけに、当然のごとく全く反応できない澪。そのまま勢
いよく池に落とされる。
﹁⋮⋮まあ、予定通りやな﹂
﹁⋮⋮うん、予定通りだね﹂
わざわざ三つ目までトラップが発動しないところが嫌らしい。そ
んな事を考えていると、池の底の妙なぬめぬめに足を取られつつ、
どうにか澪が這い上がってくる。長い黒髪が濡れそぼり、微妙にホ
ラーじみた姿を晒す。
1835
﹁見ての通り﹂
﹁やなあ。っちゅう訳で、ルールに従って突破やな﹂
妙にドヤ顔の澪に呆れつつも、それ以外に方針など決められない
宏。結局、他に選択肢など無い。それを確信したところで、さっさ
と順番を決める事にする。とりあえず、水滴が落ちて足が滑ると拙
いと言う事で、澪は乾くまで待機という事に。
﹁あの、こちらにロープを固定しておいて、最初の一人がそれを持
ってそのまま突破する、というのはどうでしょう?﹂
﹁そう言う小細工をしたら、即座に足場が無くなりそうな気がする
からやめておこう﹂
プリムラの提案を、今までの流れからの判断でバッサリ切り捨て
る達也。足場が消えるぐらいならともかく、ダッシュしている最中
に謎の力でロープをひっぱられたりした日には、落ち方によっては
溺れかねない。
﹁っちゅう訳で一番手の春菜さん、GOや!﹂
﹁了解!﹂
走り出す前にじっくりコースを観察し、ラインを見定めてステッ
プをイメージする。そのイメージを実現するために念のために補助
魔法を発動させると、助走をつけて一気に飛び石を駆け抜ける。
﹁おお!?﹂
1836
﹁さすが!﹂
﹁春姉、格好いい﹂
長い金髪をなびかせ、スタイリッシュなステップで危なげなく飛
び石を伝い、何一つ問題無くあっさり向こう岸にわたる。こう言う
時は残念な姿を見せないのが、藤堂春菜という女性である。
﹁で、兄貴はいけそうか?﹂
﹁ま、なんとかしてみるさ﹂
あれの後ってのは正直勘弁願いたかったがなあ、などとおどけな
がら、春菜と同じようによく観察してラインを見定め、補助魔法で
敏捷性を上げた後に、時間をかけて慎重に危なげなく確実にクリア
していく。
﹁さすが兄貴、堅実や﹂
﹁いくら冒険者だっつっても、必要のない冒険をするのはNGだろ
う?﹂
﹁そうですね。タツヤ殿の言う通りです﹂
場合によってはそれでも冒険者か、と言われそうな達也の台詞を、
全面的に肯定するプリムラ。惚れた弱みなのか、それとも本心から
そう考えているのかは微妙なラインだ。
﹁真琴姉、GO﹂
1837
﹁はいはい﹂
無理やりいちゃつこうとするプリムラと、死んでもその空気だけ
は回避したい達也との攻防をサクッとスルーし、真琴をけしかける
澪。エンチャントのおかげで服は完全に乾いたが、髪がまだまだ微
妙なラインらしい。タオルでぬぐってはドライヤーで飛ばすと言う
作業を延々と繰り返している。
﹁観察力には自信が無いから、春菜方式で行く方がよさそうね﹂
﹁真琴さん、補助魔法いる?﹂
﹁頂戴﹂
真琴の要請を受け、向こう岸から達也の杖を借りて射程延長し、
速度系の補助魔法をかける春菜。出力が増加するため、射程延長が
無ければ危なっかしくて使えないとは作った張本人のコメントであ
る。
そのまま、春菜からの補助魔法で上昇した速度を活かし、一気に
駆け抜ける真琴。途中一ヶ所外れを踏み抜いたが、極端な速度を活
かして力技で落ちる前にかけぬける。
﹁なんか脳筋的なやり方になっちゃったけど、多分これが正解の一
つだと思うのよね﹂
﹁うん。ボクが見た動画だと、そのやり方の方が成功率は高かった﹂
実際、同種のゲームの場合、意外と達也方式でじっくり観察して、
というのは成功率が低い。失敗内容は見切りを失敗するケースが半
1838
分、距離があって届かないケースが半分、といったところか。
﹁で、次はジュディスやけど、大丈夫か?﹂
﹁えっと、多分?﹂
どうにも自信なさげに応えるジュディス。実際、残念ながら彼女
は観察力にもスピードにも自信の無い非戦闘型の神官見習い。勢い
に任せるには最大速度が足りず、観察して見抜くには経験と観察眼
が足りない。
もっとも、この問題はプリムラも同じ事ではあるが。
﹁まあ、落ちても死にはせえへんから、ちょっと行ってみよか﹂
﹁はい、がんばります!﹂
宏の激励を受けて、慎重に一ヶ所ずつクリアして行くジュディス。
いい感じに中央付近まで来たところで
﹁あっ!﹂
思いっきり外れを踏み抜いてしまう。そのまま抵抗の余地なく池
にダイブするジュディス。
﹁大丈夫ですか、ジュディス!?﹂
﹁落ちただけだから、何とか⋮⋮﹂
一応底に足がつく深さであるため、とりあえず問題が無い事をア
1839
ピールしながらゴールに向かいかけ、何を思ったのか向きを変えて
スタート地点へ戻ってくる。
﹁そのまま向こう行ってもよかったんちゃう?﹂
﹁師匠、壁みたいなのがある﹂
﹁そうなん?﹂
﹁はい。どうにも突破できそうになかったので、素直に戻ってきま
した﹂
﹁また手の込んだ真似しとるなあ⋮⋮﹂
無駄に厳しい不正防止策に、思わずため息を漏らす宏。ルールを
順守させるために、徹底して手の込んだ真似をして見せるその執念
には、呆れればいいのか感心すればいいのか悩ましいところである。
﹁とりあえず、次はプリムラさんやな﹂
﹁そうですね⋮⋮﹂
あまり自信なさそうなプリムラを、気の毒そうに見つめる宏と澪。
これまでを見ている限りでは、それほど運動能力が高い感じではな
い。結構大きな胸が邪魔なのかもしれない、などという考えもある
が、それだと春菜はもっと駄目なはずである。
﹁とりあえず、最悪の場合の手を考えといた方がええやろうなあ﹂
﹁師匠、何か思いついてる?﹂
1840
﹁正直、あんまりやりたくない手段やけど、手が無い訳やないんよ﹂
余り思い切れない感じでおっかなびっくり進んで行くプリムラを
見て、再びため息を漏らす宏。あの様子では、近いうちに落ちそう
だ。などと考えた次の瞬間に、正解の石を踏んでいたにもかかわら
ず乗り移るのに失敗して落ちる。
﹁あ∼⋮⋮﹂
﹁まあ、あかんやろうっちゅう感じではあったわなあ﹂
妹同様、全身ずぶぬれになりながらスタート地点に戻ってくるプ
リムラ。どうにも、この二人がクリアできるまでには相当時間がか
かりそうである。
﹁⋮⋮なあ、澪﹂
﹁どうしたの、師匠?﹂
﹁あの表示、どう思う?﹂
宏に言われ、彼が指さした方向を見ると、そこにはデジタル表示
で2という数字が。もちろん、先ほどまでは存在していなかった。
﹁もしかして、このゲームって残機制?﹂
﹁失敗に何のペナルティも無い、っちゅうんも不自然やからなあ﹂
落ちればずぶ濡れになる、というのは十分なペナルティのような
1841
気もするが、確かにチーム全体にペナルティが存在しないと言うの
も不自然な話である。
﹁で、失敗できるんが後二回、っちゅうことは、や﹂
﹁あの二人が成功するのを、待つ余裕はない?﹂
﹁そうなるわなあ⋮⋮﹂
正直気が進まないが、いよいよ反則に走る必要が出てきたようだ。
﹁師匠、思い付いた手ってどんなの?﹂
﹁まあ、やること自体は簡単や。僕があの二人かついで突破するっ
ちゅう話やからな﹂
﹁⋮⋮大丈夫なの?﹂
﹁⋮⋮覚悟決めてやれば、まあ三分ぐらいは持つで﹂
三分とはまた、微妙な時間だ。
﹁三分でクリアできるの?﹂
﹁そこで、春菜さんの出番やな﹂
その台詞で、宏の言いたい事を理解して顔色を変える澪。はっき
り言って、いろんな意味でそこまでやるかという方法である。
﹁っちゅう訳で、春菜さん! この二人担いで行くから、敏捷系の
1842
補助魔法とオーバー・アクセラレート頂戴!﹂
﹁はあ!?﹂
いきなり切り札を切れ、と言ってきた宏に、いろんな意味で目を
白黒させる春菜。女体を二人も抱えて大丈夫なのか、とか、そもそ
もそこまでしないとクリアできないほど難しいアトラクションなの
か、とか、いろいろと、それはもういろいろと言いたい事は湧いて
出てくるが、春菜達の方でもデジタル表示には気が付いている。ノ
ートン姉妹の運動神経と観察力を考えると、余裕があるうちに切れ
る手札を全部切るぐらいの方がいいのだろう。そこに思い至ったと
ころで、いろいろとある言いたい事を全てぐっとこらえ、補助魔法
の準備に入る。
そうやって無理に己を納得させ、いろんな意味でもやもやしてい
る感情を抑え込みながら、どうにか敏捷強化の補助魔法を発動させ
る。小脇に抱えるような形とはいえ、ノートン姉妹が宏に密着して
いる姿に妙にイラッと来るが、これまた理性を最大限に動員して平
常を保つ。
﹁行くよ!﹂
﹁頼むわ!﹂
腹の中にどろどろとしたものを抱えつつ、どうにかこうにか最低
ラインの平常心を保ちきってオーバー・アクセラレートを発動させ
る。微妙に集中力にかけていたと言うのに、達也の杖の補助もあっ
てか、今までにないぐらい会心の出来で発動する切り札。
そんな事にまで妙な苛立ちを感じながらも、それらの感情を少し
1843
でも表に出せば、いろいろな事が終わりかねない。抑えようとして
抑えきれるものでもないが、それでも必死になって自身の綺麗とは
口が裂けても言えない感情を抑え込む。達也と真琴には悪いが、後
で宏達がいないところで、この感情について八つ当たりじみた愚痴
に付き合ってもらう事にしよう、などと考えたところで、目の前に
二人を抱えた宏が前触れもなく現れる。
﹁⋮⋮だ、大丈夫!?﹂
目の前に現れた宏の様子を見て、先ほどまでのどろどろとしたあ
れこれを綺麗に忘れて、大いに心配する羽目になる春菜。
﹁さ、流石にこれは堪えるわ⋮⋮﹂
﹁も、もしかして、重かったですか?﹂
﹁重量の問題やあらへん。女体を二つも抱えた、っちゅうんが問題
やねん⋮⋮﹂
青白いを通り越して土気色になった顔を下に向け、うずくまって
何かに耐えるように言葉を吐き出す宏。これを見ていると、宏にも
ジュディス達にもやきもちを焼いていた自分は人間失格なのでは、
という気になってしまう春菜。
﹁師匠、大丈夫!?﹂
﹁ま、まあ、何とか生きとる⋮⋮﹂
﹁とても大丈夫とは思えないわね⋮⋮﹂
1844
﹁悪いんやけど、次からは真琴さんと澪で分担してくれると助かる
わ⋮⋮﹂
﹁了解﹂
流石に、この状態を見てはNoとは言えない真琴と澪。自分達を
運んでくれた宏の様子に、どうにもあたふたしてしまうノートン姉
妹。事に、ジュディスの方は深刻だ。
﹁あ、あの。大変ご迷惑をおかけしてしまったみたいで⋮⋮﹂
﹁まあ、女性恐怖症の人間が、普通に女らしい身体つきの女体を二
つも抱えて運べば、こうなるわなあ⋮⋮﹂
﹁え、えっと。こ、今回に関してはこいつが自分から言いだした事
だし、そもそもこの遺跡にあんた達を連れてきてる事自体、ある意
味こいつの自業自得だし?﹂
あんまりにも意気消沈している姉妹を見かねて、あまり褒められ
たものではないと自分でも分かっている種類のフォローを入れる真
琴。自滅とはいえ、一番ダメージを受けた宏を悪者にするような内
容しか思いつかなかった事に、内心忸怩たるものがあるにはあるの
だが、自分から言いだした、というのは厳然たる事実の上、他に取
れる手段はと言うと微妙なラインだったのも間違いない。そのあた
りの複雑な感情が表情に出てしまっているので、フォローとしての
効果が薄くなるのは仕方が無いことだろう。
もっとも、真琴は本心から言った訳ではないとは言えど、突発的
な思いつきで周囲の突っ込みを無視してこの地下遺跡に突入をかけ
たのは宏なのだから、足手まといの女二人を連れて来ていること自
1845
体が自業自得、というのは間違いではないだろう。言ってしまえば
因果応報である。
﹁とりあえず、こいつが復活したら次のフロア行くか﹂
﹁春姉もコストの重い魔法使った直後だし、ちょうどいい休憩?﹂
﹁すまんなあ、毎度心配かけて足引っ張って﹂
﹁こればっかりはしょうがないって﹂
なんだかんだ言って、宏が復調したのは五分後の事であった。
﹁ここらがラストやろうとは思うんやけど、こらまた厄介なアトラ
クションやなあ﹂
﹁物凄く揺れそうな橋だよね﹂
手摺の無い、細く長い一本の吊り橋を見て、物凄く面倒くさそう
な顔でコメントをする宏と春菜。手すりが無い、という時点で、正
直勘弁してほしい。下にはそれほど深くない位置で安全ネットが張
ってあり、スタート側にはちゃんと戻るためのハシゴも用意してあ
る所が絶妙に鬱陶しい。
1846
橋の向こうには、日本の城のような建物が見えている。どうやら、
あれがゴールらしい。橋の太さはフォレストジャイアントの足の大
きさ程度。綱渡りをするほど狭くは無く、普通に歩けるほど広くは
ない。
ここまでのアトラクションは、どれもこれもなかなかの難易度を
誇っていた。ノートン姉妹でも頑張ればクリアできなくもないとこ
ろが、かなり絶妙なバランスである。二体の悪役プロレスラーのよ
うなデザインのゴーレムに追い回される迷路などは、奇跡的に一発
でクリアできた。
因みに、元ネタと違って運の要素が強いアトラクションは全て排
除されており、元の番組で最初の池の後にあったノーヒントで正解
の壁を選んで突破するものや、この後に存在する正解のトンネルを
選んで匍匐前進で通り抜けるアトラクションは存在しない。
﹁で、これは何をすればクリアなんや? ただ渡るだけやったら、
それこそ最初の池の方が難易度高いで?﹂
﹁あ、今回は説明書きがあるよ﹂
恐らく、仕掛けだけを見て判断できるアトラクションではない、
という判断だろう。すべき内容が日本語で、かつ図解入りで記され
たプレートが橋のすぐ横にあった。これまでにもいくつかこう言う
プレートがあるアトラクションはあったので、今更驚くような事で
はない。
﹁えっとね、橋の中央あたりで金色のボールをキャッチして、黒い
ボールの妨害をくぐりぬけて橋を渡り切るんだって﹂
1847
﹁なかなかの難易度だな﹂
﹁二人運ぶとなると、二つボールゲット?﹂
﹁恐らく、そうなるだろうな。まあ、やってみるか﹂
﹁じゃあ、また私から行くね﹂
今までのパターンを踏襲し、こう言うアトラクションでは最も対
応能力が高い春菜が先陣を切る。身軽な動作で橋の中ほどまで危な
げなく移動すると、なかなかの勢いで撃ち出された金色のボールを
難なくキャッチ。橋を揺らさないように重心を前後にだけ動かす工
夫をし、次々と容赦なく打ち出される黒いボールを全て回避して橋
を渡り切る。
今まで初見で全てのアトラクションをノーミスでクリアしてきた
だけあって、今回もかなり余裕で突破してのける春菜。まさしく模
範演技といったところである。
﹁橋はどないな感じ?﹂
﹁見た目ほどは揺れないけど、ボールが直撃した場合、体の重心の
具合によってはちょっと怖い事になるかも﹂
﹁なるほどな、了解や﹂
春菜の報告を聞き、大体の仕組みを解析する宏。横から観察した
感じと春菜のコメントから察するに、この橋は構造的には、揺れる
と言うよりねじれるのだろう。身体を左右に大きく揺らすことさえ
なければ、多分落ちたりはしないはずだ。
1848
ボールの発射間隔が意外と長いのもありがたいポイントになりそ
うだ。もっとも、それが照準をつける時間だとすると、あまりちん
たら動いていると連射を食らって、ということもあり得る。
﹁とりあえず、攻略方法は大体分かったわ。実践出来るかどうかは
別問題やけど﹂
﹁ほう? 具体的には?﹂
﹁要は、体を左右に揺らさんように、出来るだけ橋の真ん中の方を
歩くんがポイントやな。橋の構造から言うて、左右にゆれたりはせ
えへんけど、前後はともかく左右に重心が崩れると、真ん中あたり
でねじる可能性が高い﹂
﹁なるほどな。あのボールは?﹂
﹁金色の方は、説明書読んだ感じでは、取られへんかったり落とし
たりしても特にペナルティは無いみたいやから、普通の体勢で取れ
る奴に絞って、無理に取ろうとせえへん方がええやろう。黒いボー
ルは春菜さんぐらいのスピードやと、よう照準合わせへんのかそん
なに連射はしてへん感じやった。多分ゆっくり行くと危ないと思う
で。まあ、ゆっくり行くと、普通に狙い撃ちは食らうわなあ﹂
宏の解説に、なるほどと頷く一同。もちろん澪はこのアトラクシ
ョンを知っているが、具体的な攻略方法など考えた事も無かったの
で、宏と春菜のコンビプレーに素直に感心している。
﹁ほな、今後の対応策も考えなあかんから、ノートン姉妹からまず
行ってみよか?﹂
1849
﹁申し訳ありません、足手まといで⋮⋮﹂
﹁向き不向きの問題やから、しゃあ無いで。これが普通の遺跡とか
ダンジョンやったら、そんなに苦労はせえへんかってんけど、実体
がこれやしなあ﹂
足を引っ張りまくっているこの現状に情けなさそうにうつむくプ
リムラに対し、そんなフォローを入れる宏。流石に、古代遺跡がバ
ラエティ企画の集合体だとまでは思っていなかったのだ。これが普
通の遺跡であれば、情報解析や考察の観点から、司祭であるプリム
ラの知識は大いに役に立っていた可能性が高い。それにそもそも、
真っ当なダンジョンの場合、ロープやら何やらを使った小細工で、
多少運動神経に難があっても突破できるように工夫できるのだ。
そう言う意味では、細かなルールにより小細工をやり辛いこの遺
跡の方が、ノートン姉妹のような敏捷の数値があまり育っていなさ
そうな人材を連れ歩く場合の難易度ははるかに高い。その代わり、
命の危険がほとんど無い事を考えれば痛し痒し、というところでは
あるが。
﹁まあ、どうせこの後もなんか余計なネタはあるやろうし、悪いん
やけど頑張って突破してきてくれへん?﹂
﹁⋮⋮分かりました。頑張ってどうにか突破します﹂
宏にけしかけられ、少しばかり気合を入れて橋を渡り始めるプリ
ムラ。アドバイスに素直に応じ、確実に取れそうなボールが来るま
で無理にキャッチする事を考えずに待機。真正面からのものをやや
バランスを崩しそうになりながらもどうにか受け止め、可能な限り
1850
迅速に渡り切ろうと前のめりに進んで行く。
意外と速く動いたためか照準をミスったらしく、最初の何発かは
明後日の方向に飛んでいく。奇跡的な呼吸で照準が合いだしてから
最初の三発の黒いボールをすり抜け、足元に当たった四発目を必死
になってこらえ、あと二歩といったところで五発目のボールが顔面
に直撃する。
﹁っ!﹂
大きくバランスを崩したものの、ここで根性を見せて重心を逆方
向に向け、その勢いで残り二歩を一気に無理やり倒れこむように渡
り切る。顔面から地面に突っ込みそうになったところを春菜に受け
止められ、どうにか一発クリアに成功する。
﹁お姉ちゃん、凄い!﹂
﹁物凄いガッツね﹂
﹁次は自分が頑張らなあかんで、ジュディス﹂
﹁分かってます!﹂
姉の泥臭いナイスファイトを目撃したからか、気合の入った様子
でチャレンジするジュディス。意外と軽快な足取りで中央にたどり
着くと、恐れを知らない様子で金色のボールを難なくキャッチ。足
場の悪さをまったく無視した怖いもの知らずな足取りであっさり突
破してのける。余りに迷い無く渡り切ったためか、妨害のボールは
わずか三発で終わってしまった。
1851
こう言うのは、ビビって慎重になった方がかえって失敗しやすい。
そんな結論を見せつけるようなチャレンジ風景だ。
﹁さて、懸念事項やったノートン姉妹も突破したし、後は僕らやな﹂
﹁まあ、悪くても誰かが一回再チャレンジするぐらいで済むんじゃ
ない?﹂
真琴のコメント通り、不運にも達也が橋にあたって反射した弾の
直撃を食らってバランスを崩し、そこを狙い撃ちされて落とされた
以外は、特に誰も失敗することなく全員クリアしてのける。なお、
この時一番突っ込みどころが多かったのは
﹁うわあ⋮⋮﹂
﹁あれはひどい⋮⋮﹂
﹁ゲームの前提を根底から覆すやり方ね⋮⋮﹂
フォートレスを発動させて全くバランスを崩すことなく全ての黒
いボールを体で止めて、普通に悠々と渡り切った宏だったのは言う
までもない。
﹁よくぞ生き残った、我が精鋭たちよ!﹂
1852
城の前。軍服を着た人型のモグラが、宏達を見るなりそんな戯言
を言い放った。
﹁生き残ったもくそも、全員クリアできるまでやりなおしてんねん
から当たり前やん﹂
﹁様式美というやつである。細かい突っ込みを入れるのはNGであ
る﹂
宏の突っ込みに対して、律儀に返事を返すモグラ。どうやら、ち
ゃんと会話は成立するようだ。
﹁色々と聞きたい事はあろうが、まだ番組は終わっていないのであ
る。最後までステージをクリアするのである﹂
番組の収録中だとしたら、かなりの問題発言になりそうな事を言
い放つモグラ。ここに来るまで全てを番組として収録しているので
あれば、かなり気の長い企画だ。
﹁はいはい。で、最後は何よ?﹂
﹁あれに乗って、城の防衛軍と戦うのである﹂
真琴の質問に対してそう答えながらモグラが指示したのは、かな
りチープでいい具合にダサく、素敵な感じにチャチなデザインのゴ
ーカートであった。前面には、鉄砲の銃口のようなものが設置され
ている。数は全部で十四台。どうやら、敵味方同数での勝負らしい。
﹁操作はおそらく、見れば分かるのである。それを使って、敵を全
1853
滅させるのである﹂
やたらと上から目線のモグラの言葉に、なんだか何もかもがどう
でもよくなってくる一同。何が悲しゅうて、などと思わなくもない
が、はっきり言ってすべて今更の話である。
﹁で、撃破判定はどこ?﹂
﹁前面の的に弾を当てればいいのである﹂
﹁弾って、安全?﹂
﹁流れ弾が直撃したところで、絶対に怪我をしないと保証できるレ
ベルで安全である﹂
ならいいか、と、色々あきらめた感じでカートに乗りこむ真琴。
どうやら操作はフォークリフトなんかに近いらしく、右足のアクセ
ルで前進、左手のハンドルを回す事で旋回、右手のスイッチを押せ
ばフォークが出る代わりに弾を発射するらしい。
﹁ちょっと練習した方がよさそうね﹂
﹁実戦でやるのである。用意した防衛隊も、初めて動かすレベルで
ある﹂
感覚がつかめるかどうかが不安になった真琴の台詞を、それをば
らしてもいいのかという情報を出しながら却下するモグラ。
﹁乗り込んだであるか? では、始めるのである!﹂
1854
モグラの号令に合わせ、しぶしぶといった感じでカートを動かす
一同。衝突とかしたら面倒なことこの上ないので、とりあえず散開
する事にする。
モグラが言ったとおり、敵として用意された針金のようなゴーレ
ム達も、操作に関しては相当不慣れなようだ。もたもたと手間取り
ながらも同じように散開し、がっくんがっくんとつっかえたような
動き方で前進してくる。それを横目にとりあえず囲い込むように動
き、流れ弾が味方に当らないように注意しながら最初の一体を仕留
めるためにスイッチを押しこむ達也。
﹁って、水鉄砲かよ!﹂
そう。銃口から飛び出したのは、まごう事なき水であった。それ
なりの射程距離ではあるが、当ったからと言って絶対に怪我とかは
しないであろう威力である。放水車のような勢いがあればまだしも、
まるで水漏れのように、ぴゅー、という擬音をつけたくなるような
飛び方をする水鉄砲では、何処に当たったところで怪我などしよう
が無い。
安全面ではこの上なく安全ではあるが、残念ながら迫力という面
では更にチープさに磨きがかかっている。元々そうだと言われれば
それまでだが、もはや大がかりな子供の遊び、以外の何物でもない
状況になっている。
﹁きゃっ!?﹂
微妙に気を抜きながらも敵を一機仕留めた春菜が、水鉄砲の直撃
を受ける。旋回中だったために的に水がかかる事は避けたものの、
なかなかの分量をかけられてしまったため、全身がずぶ濡れになっ
1855
ている。
﹁うう、冷たい⋮⋮﹂
ペナルティに水濡れ系が多い今回の遺跡だが、ここまで水をかぶ
ったり水に落とされたりという被害を全て回避してきた春菜。最後
の最後でずぶ濡れになったあたり、運命の女神様はちゃんと平等に
沙汰をするタイプらしい。もっとも、宏だけは全身粉まみれになっ
てはいても、水関係のペナルティは食らっていないのだが。
﹁あと一機!﹂
なんだかんだと言って、相手の不慣れに助けられながらも着々と
数を減らしていく宏達。残念ながらノートン姉妹が撃破されている
が、七機のうち三機は彼女達が仕留めているので、差し引きは大幅
にプラスだ。撃破されたのも自ら囮になっての事なので、地味に操
作に手こずって安全圏でうろうろしているだけだった澪なんかより、
ずっと役に立っている。
﹁わわっ! わっぷ!﹂
最後の一機を照準にとらえ、トリガーを引こうとしたところで相
手の挙動に気がつき、大慌てで旋回する春菜。旋回が間に合って撃
破判定は免れたものの、もろに頭から水をかぶってしまう。
﹁とった﹂
そんな春菜の尊い犠牲を利用して、美味しいところをかっさらっ
て行く澪。余計なところでちゃっかりしている娘である。
1856
﹁それまで!﹂
全機の撃破を確認したところで、モグラから勝負あり宣言が飛ぶ。
﹁うう、下着までぐしょぐしょ⋮⋮﹂
二度も頭から水をかぶる羽目になった春菜が、悲しげにうめく。
どうにもこの水、エンチャントを貫通する効果があるらしく、本来
なら表面で止まるはずの水が隙間から侵入し、全身くまなく濡れ鼠
にしてくれている。
﹁多分、今鎧外したら、ブラウス透けてるんだろうなあ⋮⋮﹂
﹁そう言う危険な話は、ヒロが聞いてないところでやれ﹂
﹁はーい。って、そう言えば、プリムラさんとジュディスさんは、
水に落ちた後、下着とかどうしたの?﹂
﹁魔法ですぐに乾かしました。春菜さんもそうなされば?﹂
﹁なんかこの水、魔法をはじくの⋮⋮﹂
どうやら、ただの水ではないらしい。疑問に思ってモグラの方に
視線を向けると
﹁最終決戦で魔法でバリアなど張られては、興醒めもいいところで
あるからな。その水には低級のエンチャントを貫通する機能と魔法
をはじく機能をつけたのである。心配しなくとも、あくまで無視し
て貫通するだけで、エンチャントが施されたアイテムを破壊するよ
うな機能は存在していないのである﹂
1857
﹁な、なんて迷惑な⋮⋮﹂
必死になって髪から水を拭いとりながら、ジト目でモグラをにら
みつける春菜。もはや対策は着替えるしかないが、着替えるのに向
いた場所がこのあたりにはない。だが、濡れた服をいつまでも身に
まとうのは非常に気持ちが悪い上、じわじわと体温も奪われている。
鎧は脱いで乾かせばいいとしても、それ以外は一度裸になって処理
しなければいけない。
微妙に色ボケをやらかした罰が当たったのかもしれないが、この
罰の当り方はいろいろと致命的すぎる。そもそも、こういう役柄は
どちらかと言うとアルチェムが引っ掛かるタイプのもので、春菜の
担当ではない気がする。しかも、ラストの水鉄砲を生身で食らった
のが春菜だけとか、かなり作為的なものを感じる。
﹁と、とりあえず、向こうで着替えてくるよ⋮⋮﹂
﹁おう。一応火は起こしておくから、風邪ひく前に着替えてこい﹂
微妙に肩を落としつつ、城の影となっている場所へとぼとぼと歩
いていく春菜。その後ろ姿を見送った後、こっそり悪魔のささやき
をする澪。
﹁師匠、達兄、覗きに行かなくていいの?﹂
﹁それは僕に死ね、っちゅうことか?﹂
﹁確かに春菜はそそる体をしてるが、な。はっきり言って、俺は詩
織以外の裸には興味が無い﹂
1858
普通ならたぎる性欲に任せて覗きイベントを敢行し、女性陣から
袋叩きにあうのがお約束というものだと言うのに、きっぱりはっき
り枯れた事を言ってのける色気も面白みも無い二人。こいつらにそ
ういうセオリーを求めても無駄であろう。
﹁澪。この場合、覗きに行って欲しいのか行って欲しくないのか、
どっちよ?﹂
﹁師匠の場合は行って欲しい。達兄が行ったら幻滅する﹂
﹁あのなあ⋮⋮﹂
なかなかに身勝手な娘さんであった。
十分ほど後。身づくろいに手間取った春菜が戻ってきた時には既
に、話し合いの準備は整っていた。
﹁春菜さん、大丈夫か?﹂
﹁う、うん。大丈夫⋮⋮﹂
宏から温かい葛湯をもらいうけ、火に当たって震える体をなだめ
ながら答える春菜。風邪をひくほどではないが、意外と冷え切って
1859
いるらしい。よく見なくとも、肌が青白くなっている。ゲームの最
中は分からなかったが、実は相当水温が低かったらしい。
﹁⋮⋮ああ、温かい⋮⋮﹂
﹁しょうが湯の方が良かったか?﹂
﹁ん、ありがとう。これで大丈夫﹂
宏に気を使ってもらい、青ざめた顔で嬉しそうに微笑む春菜。宏
特製のエキスがあれこれ入った葛湯により、徐々に体温が戻ってく
るのを感じる。
﹁とりあえず私の事はいいから、話を進めて?﹂
﹁了解。って訳だから、この遺跡について全部教えなさい﹂
﹁いきなり偉そうな洗濯板なのである。そう言う仕草は、せめてそ
ちらのちっこい娘ぐらいに凹凸が出来てからするのである﹂
えらそうに胸を張って情報を請求した真琴に対し、かなり毒の強
い返事を返すモグラ。モグラのくせに人間の体の凹凸を気にするあ
たり、どういう価値観なのかが非常に気になる。
﹁そう言う挑発のしあいはいいから、この遺跡が何なのかを教えて
くれ﹂
﹁何なのか、と言われても、大地の民が作り上げた娯楽施設としか
言えないのである﹂
1860
﹁大地の民、ねえ。それはどんな連中なんだ? どれぐらい残って
る?﹂
﹁どんな、であるか。そうであるなあ。我のような地中生活に向い
た種族の獣人と、地中生活に特化した技術発展を遂げたヒューマン
種の総称、それが大地の民である。色々あって、残りはもう百人前
後といったところであるか?﹂
つまり、百人前後の娯楽のために、宏達は身体を張り続けた、と
いう事になる。何とも悲しい事実だ。
﹁その百人は、ずっとここで暮らしてきたのか?﹂
﹁否。いつか帰ってくる同胞、もしくは新たな客人を待って、永き
眠りについていたのである。お前達が娯楽施設に侵入したのと同時
に、とりあえず全員起きたのである﹂
﹁いつか帰ってくる、って事は、どこかに旅立った連中がいるって
ことか?﹂
﹁冥界神様を探しに出た同胞と、地上に活路を見出しに行った同胞
がいるのである﹂
﹁冥界神様を探しにって、どういう事?﹂
なかなか聞き捨てならない単語が聞こえてきたため、思わず真剣
な顔で確認を取る春菜。会話の主導権は達也に預けて傍観する予定
だったのだが、自分達にも深く関わってきそうな内容だったために、
黙っている事が出来なかったのだ。
1861
﹁恐らく三千年ほど前の事である。冥界神様と姫巫女様が、書置き
を残して失踪されたのである﹂
﹁書置き? どんな?﹂
﹁家出します。探さないでください。である﹂
﹁小学生かよ⋮⋮﹂
何とも気の抜ける書置きだ。だが、その書置きを最後に、いまだ
に所在が不明なのも間違いない。小学生か、などと笑ってはいられ
ない。
﹁とりあえず、三千年となると、当時の姫巫女が存命ってのはなさ
そうだな﹂
﹁流石に、それは期待していないのである。その事について、こち
らから質問しても良いであるか?﹂
﹁なんだ?﹂
﹁三千年前、地上で何か変わった事はなかったであるか?﹂
三千年前、という単語を聞いて少し考え込むも、こちらの歴史に
それほど詳しくはない日本人達。ピンとくる情報など何一つ出てこ
ない。
﹁三千年前と言えば、ファーレーンが建国された時期だったと思い
ますが⋮⋮﹂
1862
﹁そうなの?﹂
﹁はい。ファーレーンは、世界最古の国家です。とはいっても、最
初はウルスを中心とした小規模国家だったようですが﹂
﹁今の王様が六十何代目かぐらいだったから、千年程度かと思って
いたんだが⋮⋮﹂
﹁八代目ぐらいまでは王家の寿命も長く、在位期間が平均して百年
程度だったと聞いています。また、平均在位期間が四十年程度、五
十年以上も少なからずいたと言う長い在位期間も特徴ですので、三
千年という歴史も嘘ではないかと思われます﹂
プリムラの補足説明に、思わず唸ってしまう一同。元の世界の場
合、断裂せずに続いている国家と言う点では世界一長い歴史を誇る
日本でも、文献と言う形で確実にたどれる国家の系譜はせいぜい六
世紀ごろまで。古事記や日本書紀がすべて正しいなら二千六百年ほ
どの歴史を持つ事になるが、神武天皇に相当する初代の天皇が存在
する事は確実だとしても、それが本当に二千六百年前の人物なのか
と言われると、絶対だとは誰にも言えないところだ。
国家としての断裂が無く、世界でも文献の保存状態の良さが屈指
の水準にある日本ですら、はっきりしている歴史はその程度でしか
ない事を考えると、ちゃんと記録が残っている状態で三千年国家が
存続しているファーレーンは、なかなかにしたたかな国家だったら
しい。もっとも、これに関しては、日本もファーレーンも、形は違
えど外部からの侵略戦争というものから隔離されてきたという幸運
があるため、自滅さえしなければ長い歴史の国家になるのは必然だ
ったのかもしれない。
1863
そんな事を考えながら、話を続けることにする達也。
﹁とりあえず、外では現在世界一でかい国がその頃に成立してた様
だぞ﹂
﹁恐らく、その関係で何かあったのであるな﹂
﹁まあ、何かって言われても、神様にでも聞かにゃ分からんが﹂
﹁何か、コネは持っていないのであるか?﹂
﹁なくはないが、すぐにって訳にも行かねえぞ﹂
﹁それでいいのである。こちらから頼む事になるのであるから、無
理は言わないのである﹂
出会ってから初めて、しおらしいところを見せるモグラ。その様
子に、思わず顔を見合わせる一同。
﹁まあ、こっちの目的とも噛み合いそうやし、それぐらいはかまへ
んで﹂
﹁それは助かるのである。後、これは出来たらでいいのであるが⋮
⋮﹂
﹁何?﹂
﹁流石に百人しかいない世界はさびしいのである。たまにでいいか
ら、誰か連れて来て欲しいのである﹂
1864
モグラの切実な願いを聞き、思わず同情してしまう宏達。確かに
碌でもないアトラクションでえらい目を見たが、少なくとも安全対
策はばっちりだった。誰か連れてくる分には、特に問題ないだろう。
﹁せやなあ。エルとか、こういうんむっちゃ好きそうや﹂
﹁余裕があるときに、連れてきてもいいかもね﹂
﹁でも、エルには一番上の階のネタ、まず通じない﹂
﹁そういや、あのネタはどうやって仕入れたんだ?﹂
﹁素晴らしい英知の詰まった、魔法の箱があったのである﹂
そう言ってモグラが見せたのは、流行アーカイブと書かれたDV
Dの束と、ちょっと旧式のノートパソコン。パソコンの型式から言
って、どうやら二千年代前半までのデータしかなかったらしい。
﹁そう言うのから、ネタを持ってこないの⋮⋮﹂
日本の流行の妙な業の深さに呆れつつ、そう突っ込みを入れるし
かない真琴。
﹁そうそう、参加賞として砂牡蠣と地底コーヒーの詰め合わせを贈
呈するのである﹂
﹁コーヒーだと!?﹂
﹁ちょい待ち、兄貴。これがうちらのイメージしとるコーヒーと、
味とか特徴とかが一致するとは限らん﹂
1865
﹁そんなもん、淹れてみればすぐ分かるだろうが!﹂
﹁コーヒーでよければ、いくらでも贈呈するのである。だから、ま
た来るのである﹂
コーヒーという単語に過剰に反応する達也を見て、つかみに成功
した事を確信するモグラ。このしばらく後に連れてきたエアリスが
大層アトラクションを気に入り、ダール滞在中にこっそり入り浸り、
揚句のはてにファーレーンで同種の遊戯施設を作れないかと真剣に
検討するのも、何かが琴線に触れたらしいオクトガル達が頻繁に遊
びに行くようになるのも、全てここだけの話である。
1866
第8話
﹃行方不明?﹄
﹃今日で不在三日目﹄
﹃⋮⋮まあ、連中の事だから、どうせ妙なものを見つけて、そっち
に意識を全部持って行かれているとかそんなところだろう﹄
レイニーから宏達の不在を聞かされたレイオットの反応は、宏達
の事を知りぬいていると言ってよさそうなものであった。
﹃盗賊ギルドの情報網にも引っかかってないのに?﹄
﹃連中は、動き始めるとものすごい行動範囲で動くからな。しかも、
普通の馬車の四倍以上の速度が出る乗物を持っているとくれば、い
かな盗賊ギルドやダール王宮の諜報網といえど、確実に捕捉できる
とは限らん﹄
﹃そういうもの?﹄
﹃ああ。馬車で一日以上の距離になってくると、場合によっては普
通の通信具では直接通信できなくなるケースもある。そうなってく
ると、伝言ゲームになって急激に情報の確度も落ちる。情報という
やつは、人の口が一つ増えるたびに加速度的にねじ曲がって行くか
らな。行き先が灼熱砂漠となると、通信距離から外れても不思議で
はない﹄
1867
レイオットの言葉に、感心したように頷くレイニー。こうした事
は本来、彼女自身がちゃんと理解したうえで行動しなければいけな
い事なのに、まるで素人のような反応である。元々余り期待してい
ないとはいえ、今後が非常に不安になるレイオット。
なお、この定時連絡には、レイオットが宏に注文して作らせた通
信具を使っている。ブースターユニットを双方に取り付ければ、大
陸の端から端まで通信出来る優れものだ。魔法の水晶玉や水鏡を接
続すると、相手の顔を見ての会話もできる。
﹃⋮⋮まあ、いい。それで、ダール国内の様子は?﹄
﹃最近、例の義賊が元気に暴れてる感じ。調査対象の半分は義賊に
成敗されて、女王に止めを刺された。それ以外は特に問題らしいも
のは見えない。物価も安定してて、子供がすさんだりとか事件が多
発してるとかそういう様子も特にない。街の往来もなかなかの活況﹄
﹃ふむ。どうやら予想通り、義賊アルヴァンとやらはダール王家と
何らかのつながりがあるようだな﹄
﹃それは間違いない。盗賊ギルドの情報だと、アルヴァンが王城の
隠し通路を使ったところを目撃したものがいる、との事﹄
﹃⋮⋮なるほど。恐らくそれは、わざと見せているな﹄
﹃だと思う﹄
王家の直轄地にある盗賊ギルドなど、基本的に王家と慣れ合って
いる存在だ。そこにわざわざつながりを誇示するような情報を見せ
る理由など、詮索無用だと示す以外の理由はない。
1868
﹃それで、聞いていいなら質問﹄
﹃なんだ?﹄
﹃調べてた貴族、何?﹄
レイニーのアバウトな質問に、怪訝な顔をするレイオット。
﹃どういう意味だ?﹄
﹃あの連中、いろいろおかしい﹄
﹃具体的には?﹄
﹃単に井戸端会議に他所者が混ざっただけで、執拗に追いまわして
始末しようとするのって、普通?﹄
かなり異常な情報を聞かされ、しばし黙りこむ。レイニーがドジ
を踏んだ、という可能性もあるが、井戸端会議でそこまで突っ込ん
だ質問をするほど間抜けでもない。流石にそこまで無能だと、他所
の国に送り込むような真似は出来ない。
﹃一応確認しておく。何かミスをしたのか?﹄
﹃世間話をした後、戻る最中につけられてた。セーフハウスが見つ
かると拙いかと思って、撒こうとして失敗した﹄
﹃⋮⋮微妙なラインだな⋮⋮﹄
1869
﹃その時から気になっていろいろ調べてたら、行商人の弟子とかが
世間話でそいつらの噂聞いた後、治安の悪い地域に誘い込まれて殺
されそうになったりしてる現場を何回か押さえた﹄
因みに、押さえた現場はダールの治安維持員に任せ、レイニー自
身は基本放置している。その結果助からなかったとしても、目立つ
訳にはいかない裏稼業なので気にしない方針にしている。
実のところ、確率四割程度でアルヴァンが割り込んで連中を始末
しているため、最近他所から来た人間の不審死は格段に減っている
のだが。
﹃その情報、そちらの盗賊ギルドには?﹄
﹃まだ流していない。だけどおそらく、大体のところはつかんでる
と思う﹄
﹃だろうな﹄
レイニーの判断を妥当だと認め、見えないと分かっていながら一
つ頷くレイオット。自分の縄張りで起こっている出来事を、その地
域の盗賊ギルドが全く把握していないはずが無い。手を出していな
い理由はおそらく、被害者がすべて他所者であるため、貴族を敵に
回してまで制裁に走るには材料が足りない、というところだろう。
もう少し目立った人数の被害者が出れば、流石に傍観は出来ないの
だろうが。
﹃それで、連中一体何?﹄
﹃お前は多分覚えていないだろうが、お前が宏を殺そうとした事件、
1870
その首謀者とつながりがあった連中だ﹄
﹃その事件は覚えてないけど、捕まってた間にあった反乱がどうの
こうのの関係?﹄
﹃そんなところだ﹄
それで、なんとなく納得する。薬の影響で以前のファーレーンは
知らないが、それでも現王家の人気が一年二年で得られるようなぬ
るいものではない事ぐらいは知っている。いくら当時のファーレー
ン王家が先代のおかげで両手両足を縛られているような状況だった
とはいえ、少し考えれば反乱など起こしても上手くいかない事は明
白だった。
その状況で反乱をおこすような、そんな明らかに頭のおかしい連
中とつながりがあるのだ。まともな思考回路をしていなくても、全
く驚くに値しない。
﹃そいつらも、瘴気に頭をやられてまともな思考が出来なくなって
いたが、どうやらそのつながった先も似たようなものらしいな﹄
﹃瘴気に頭をやられると、そこまで頭が悪くなるの?﹄
﹃まあ、度合いによるのだろうがな﹄
そこまで行って、脇道にそれかけた会話を戻すことにする。
﹃とりあえずはそうだな。連中についての調査は継続として、だ。
それと並行してしばらく、前に聞いた神殿関係者の不審死事件につ
いて追いかけろ。恐らく、裏で何らかのつながりがある﹄
1871
﹃了解﹄
﹃あと、連中が帰ってきたら一度接触をはかり、その時点で得た情
報を全部奴らに伝えろ﹄
﹃いいの?﹄
﹃必要な事だからな。ただし、ヒロシには迫るなよ?﹄
天国から地獄に叩き落とすようなレイオットの言葉に、
﹃無理﹄
﹃いや、お前のために言っているんだが⋮⋮﹄
﹃ハニーを見て、ハニーの匂いをかいで、自制がきくとでも?﹄
﹃⋮⋮そうだったな。お前はそう言う生き物だったな⋮⋮﹄
制御不能である事をはっきり理解し、心の中で宏に謝罪しながら
深々とため息をつくレイオット。宏にとっての受難は、刻一刻と迫
っているのであった。
1872
﹁達兄、変なのがいる﹂
砂漠からの帰り道。ワンボックスの中で、澪がぽつりと漏らす。
﹁変なの?﹂
﹁不確定名・存在感の薄い人型飛行物体﹂
﹁多分バルドね﹂
﹁バルドだな﹂
不確定名を聞いた瞬間、真琴と達也が妙に力強く断定する。だが、
それに対して
﹁もしかしたら、偽バルドとかコピーとかの方かもしれへんで?﹂
宏がそんな異論をぶつけてくる。
﹁なあ、ヒロ﹂
﹁ん?﹂
﹁その違いは、これから起こるであろう事ややるであろう行動に対
して、何か影響がある違いなのか?﹂
﹁敵の強さと、黒幕が健在かどうかが変わってきおるで﹂
﹁いやまあ、そうなんだろうとは思うが⋮⋮﹂
1873
などと微妙にメタな感じの会話をしつつ、自分達にとってやりや
すそうなフィールドを探して走り回る。下手にダールの街まで戻っ
てしまうと、一般人を巻き込んで派手な戦闘をやらかす羽目になり
かねない。ダールの一連の事件がバルドのやったことだとするなら
ば、そういうテロ的な行動をためらうとは思えない。
﹁あの、バルドってなんでしょうか?﹂
宏達の会話を不思議そうに聞いていたジュディスが、思い切って
質問する。彼らは時折、内輪だけの話に没頭する事があるため、口
を挟めるタイミングで質問をしておかないと、話に取り残される。
﹁ファーレーンを転覆させようとした邪神教団の小者。こっちでは
義賊が、問答無用で一人切り捨ててるらしいがね﹂
﹁そんなのがいるんですか?﹂
﹁いるんだよ。普通に戦うと結構面倒なのがな﹂
ジュディスの質問にかなりアバウトな答えを返し、当座の対応を
確認しようと宏に視線を向ける達也。
﹁とりあえず、シールドシステムは起動したで﹂
﹁どの程度の攻撃なら、耐えられる?﹂
﹁ファーレーンの時で言うんやったら、ラストのヘルインフェルノ
以外はしのげるで﹂
﹁なら、相手の出方を見るのもありか﹂
1874
﹁出方を見る必要もなさそうや﹂
宏のコメントと同時に、車全体が大きく揺れる。どうやら体当た
りを食らったらしい。その後も立て続けに何度か衝撃を受けるワン
ボックス。宏特製のオートジャイロのおかげで横転するような事は
ないが、正直乗り心地の悪さがひどい。
﹁流石に空飛んでるん相手やと、逃げる側は不利やなあ﹂
﹁まったくだな﹂
派手に揺らされながらも大したダメージを受けていないワンボッ
クスに安心し、のんきな会話を続ける宏と達也。普通の車ならとう
の昔に大破している状況だが、戦車より頑丈なこのワンボックスを
壊すには、少々どころではなく足りない。
﹁で、なんか反撃手段はあるか?﹂
﹁とりあえずは、相手の動きを止めるところからやな﹂
﹁そう言う機能もあるのか?﹂
﹁そらもちろん﹂
宏の予想通りの回答に、思わずにやりと笑ってしまう達也。この
手の何に使うのか分からないギミック満載の車というのは、おっさ
んとまでは言わなくてもそれなりにいい年の達也でも、かなりわく
わくしてしまうものだ。というより、一般的に男というやつは、オ
タクかどうかに関係なく、最先端技術だの戦闘用だの新機能だのと
1875
いう単語に弱いのである。
﹁なら、反撃開始か﹂
﹁まずは砂漠の方まで誘導してや﹂
﹁了解!﹂
宏の要請に従い、派手にドリフトしながら進行方向を変え、アク
セルベタ踏みで一気に加速する。慣らしの時以外一度も出した事が
無い、時速百六十キロという悪路走行には向かない速度までわずか
数秒で加速し、そのまま一目散に砂漠方面へ突っ走る。
無論、そんな荒っぽい真似をして、車内が無事で済む訳が無い。
全員シートベルトをしていたために大事には至っていないが、いき
なり大きく振り回されたため、窓際に座っていた真琴と澪が思いっ
きりよく頭をぶつける羽目になる。オートジャイロが無ければ、下
手をすれば転覆しているレベルの挙動だ。むしろそれですんだのは
運がいい方だろう。
﹁ちょっと達也! もうちょっと丁寧な運転を!﹂
﹁達兄、女の子はもっと優しく扱う﹂
﹁その手の苦情は、あの影の薄い悪役に言ってくれ!﹂
体当たりを外し、火炎弾での妨害に切り替えた不確定名・バルド
を示しながら、真琴の文句を封殺する達也。いきなりのドリフトタ
ーンに虚を突かれ、しかも速度が大幅に上がったため、すぐに体当
たりの態勢が取れなかったらしい。外した際に街道脇の草原に生え
1876
ていたひょろ長い木に突っ込んで思いっきりなぎ倒しているが、な
ぎ倒した本人も含めて誰も気にしていない。
そのまま、ひたすら荒っぽい運転を続けながら、砂漠を目指して
爆走する達也。地味にいつの間にか人型から悪魔型に変身して、火
力を上げた状態で攻撃をしかけながら追ってくる不確定名・バルド。
時間帯と位置の問題で、現在砂漠方面との行き来がほとんど無いか
らいいが、これが朝方や日が落ち始める時間帯のように、移動して
いる人間が多いタイミングであったら大惨事だろう。
﹁砂漠が見えてきたぞ!﹂
﹁そのまま街道から適当にそれて!﹂
デッドヒートを繰り広げる事三十分。ついに砂漠まで戻ってくる
ワンボックス。この面倒くさい追いかけっこもそろそろ終わりのよ
うだ。余りに荒い動きにノートン姉妹が震えあがり、身を寄せ合っ
て神に祈りを捧げ続けているのが印象的である。
﹁このまま砂漠に入って、大丈夫なのか?﹂
﹁今さっきモードチェンジしといたから、普通に走れんで﹂
﹁どんなワンボックスだよ⋮⋮﹂
ワンタッチ全自動で砂漠仕様、熱帯仕様、寒冷地仕様などを切り
替えられるワンボックス。いくら分類上はゴーレム馬車で厳密には
自動車ではないと言っても、流石に好き放題やりすぎのような気が
しなくもない達也。耐環境性では世界に冠たる日本車といえども、
流石に細かい整備なしで全く問題なく雪道から砂漠まで走れる訳で
1877
はない。
﹁まあいい。どのあたりまで引っ張りこむ?﹂
﹁とりあえず、大きい奴ぶっ放しても街道に影響せえへんところま
で引っ張りこまんとな﹂
隣で助手席に仕込まれたタッチパネルをこそこそ操作しながら、
ナビに大雑把な目標ポイントを設定する宏。そのポイントに一目散
に走る達也。広い場所は好都合とばかりに追跡の手を緩める気配を
見せずに突っ込んでくる不確定名・バルド。そろそろ目標ポイント
付近、というあたりで、ついに宏が動きを見せた。
﹁ほな、そろそろ行くで!﹂
パネルを操作し、ファーレーンの時とは微妙にデザインが違うバ
ルドを画面のセンターにとらえ、体当たりを仕掛けてくるタイミン
グを見計らってスイッチを操作する。
﹁まずは、特製鳥もち弾や!﹂
その言葉と同時に、画面内のバルドの正面に巨大な鳥もちが拡が
る。体当たりのために速度を上げていた事が災いし、避ける余地も
無く真正面から突っ込んで行くバルド。
﹁よしっ! 命中や! 兄貴、車止めて!﹂
﹁それで拘束は終わりか?﹂
﹁まさか。どんどん行くで! 次は硬化剤! 更にデバフネット!
1878
止めに捕縛結界弾!﹂
一体どこにそんなものを仕込んであったのか、次々と怪しげなあ
れこれを発射するワンボックス。硬化剤により鳥もちがゴムのよう
な感じに固まり、デバフネットに付与された各種能力低下で抵抗す
る力を削り取られ、捕縛結界弾で完全に身動きを封じられるバルド。
ここまで徹底的にやる必要があるのか、というやり口に対し、呆れ
ればいいのか感心すればいいのか分からなくなる達也。
一つ言えるのは、このワンボックスは、一昔前のスパイ映画の車
よりえぐい。
﹁また、容赦ないわねえ﹂
﹁だって、フリーにうろうろさせたら面倒やん﹂
﹁まあ、そうなんだけど⋮⋮﹂
漏れ出ている瘴気の量から、明らかにファーレーンで仕留めたバ
ルドと大差ない強さだと判断できるこの推定バルド。それがこうま
で見事に封殺されてしまっているのを見ると、何とも言い難い気持
ちになってくる。
﹁とりあえず、復活されたら鬱陶しい。とっとと始末つけんで﹂
﹁まだやるのかよ⋮⋮﹂
﹁当然や。いつ突破してくるか分からへんねんし、ああいうのは跡
形も無く吹っ飛ばしとかんとな。っちゅう訳で、街道に背中向ける
ように移動して﹂
1879
﹁へいへい⋮⋮﹂
何処までも容赦のない宏の言い分に、まあバルドだろうからいい
か、などと何処となく投げた事を考えながら指示通り街道に背を向
けるよう車を移動させる。移動中でも、視界の隅では硬化剤で固め
られた鳥もちがプルプル震えているのが見える。
﹁ほな、最後の仕上げ行くで。澪、周囲に人影は?﹂
﹁半径一キロ圏内には人の気配なし﹂
﹁了解、問題なしやな。安全ロック、解除。エネルギーバイパス接
続、チャージ開始。本体固定﹂
宏が何か手順を一つ踏むたびに、車のそこかしこであれで何な感
じの不吉な音が漏れ始める。先ほどまでの碌でもない捕縛システム
の事もあり、いろんな意味で非常に不安になってくる一同。こいつ
の好きにやらせておいて、本当に大丈夫なのだろうか?
﹁バイパス解放、バレルセット、展開。エネルギーチャージ完了、
照準セット。耐衝撃シールド展開﹂
妙に淡々と手順を進める宏。バレルセット、のところで窓の外を
巨大なアームが横切ったのを目撃した春菜達だが、バレルと言う単
語の時点で何をやろうとしているかを理解したため、とりあえず終
わってから突っ込みを入れることにしてここは傍観する。
﹁準備完了! ちょっち衝撃来るかもやから、しっかりつかまって
頭下げとってや!﹂
1880
﹁どんなでかい威力の砲撃ぶっ放す気だよ、おい!﹂
﹁見たらすぐ分かる! っちゅう訳で、天地波動砲、発射や!!﹂
やたらいい笑顔で高らかに宣言し、操作パネルとは別のところに
あるボタンをぽちっと押しこむ。次の瞬間、ものすごい魔力の塊が
ワンボックスの屋根の上から発射され、二呼吸ほどのタイムラグの
あと推定バルドに直撃する。
その後がいろいろと大変だった。発射された天地波動砲とやらは
あっさりとバルドらしい何かを飲み込んで巨大なクレーターを穿ち、
付近一帯にいたモンスターを駆逐し、それだけでは飽き足らずに大
量の砂煙を巻き上げ大地震を発生させたのだ。ワンボックスは本体
を固定してあった上に耐衝撃シールドを張ってあったから無事だが、
少なくとも爆心地から半径二キロほどの空間はただでは済んでいな
い。
もっとも、破壊力が拡散しているが故に規模は大きくなっている
が、実際の攻撃力はタイタニックロアや澪のエクストラスキルの方
が圧倒的に上だったりするのだが。
﹁フルチャージはやりすぎやったか?﹂
﹁やりすぎやったか? じゃないわよ!﹂
﹁宏君、流石に地形を変えるのはちょっと⋮⋮﹂
﹁後、今普通に視界ゼロだから、ここから身動きがとれねえぞ﹂
1881
遺跡の件といい今回といい、本気でマッドの好きにやらせるとろ
くなことにならない。
﹁結局、今のは何だったんだ?﹂
﹁天地波動砲か? 性能的にはヘルインフェルノの属性違いみたい
なもんや。ただ、向こうと違うて基本は一点攻撃やから、作用範囲
っちゅう面ではこっちは圧倒的に負けおる。何ぼ何でも、これ一発
やとウルスの一割ぐらいしか廃墟にできへんよ﹂
﹁物騒だな、おい!﹂
﹁いやいや。一回撃ったら砲身自体のクールダウンに三時間、シス
テム全体の冷却に一週間、もう一遍エネルギー蓄えるんに一週間か
かる、非常に手数の少ない切り札的武器やねんから、あれぐらいは
ないと﹂
確かに切り札だ。だが、切れるタイミングが極度に限られる上に
破壊力がありすぎるこんな武装、とてもではないが当てにできたも
のではない。ダールの砂漠という立地条件でなければ、発射そのも
のが不可能という次元の攻撃である。
﹁つうか、何とも言えない名前だが、お前がつけたのか?﹂
﹁元々そういう名前やねん。因みに、この系列で一番えげつない奴
は天地開闢砲っちゅうてな。数値上は5%程度のチャージで今の威
力を鼻で笑える感じや。これもそっちも、車両か船舶に据え付けや
んと運用出来へんのが最大の弱点やけどな﹂
流石に車両据え付け用の兵装だけあって、名前も威力もいろいろ
1882
とアレな感じである。余談ながら、この天地波動砲、素材にファー
レーンでどつき倒したバルドのコアが使われている。そのままだと
ろくなことにならない可能性が濃厚だったため、色々小細工でこね
くりまわして瘴気を完全に抜き、大砲の部品にしたのだ。
つまり、今回の不確定名・バルドは、同僚の一部を素材として使
った兵器に吹っ飛ばされてしまったのである。
﹁で、師匠﹂
﹁なんや?﹂
﹁戦闘用のギミックは、これで終わり?﹂
﹁後は、副砲をまだ使うてへんな。それと、特殊弾も何個か出して
へんし﹂
目を輝かせながらの澪の質問に、これまた物騒な単語をごく普通
に出してくる宏。なんというか、やっている事がまるで戦車を発掘
して穴をあけて改造する某RPGのようである。
﹁宏君。今後のために一応聞いておきたいんだけど、副砲ってどん
なの?﹂
﹁魔導レーザー砲やな。マシンガン系と悩んだんやけど、物量の限
界でそっちに﹂
﹁威力は?﹂
﹁ハンターツリーで作った弓で澪が普通に射撃するレベル、やな﹂
1883
微妙なところだ。飛び道具としては驚異的な威力ではあるが、バ
ルドクラスに通るかどうかは本当に微妙な線である。
﹁まあ、っちゅうても今はそっちも発射できへんけど﹂
﹁もしかして?﹂
﹁車の武装全体の共有ディレイがな、天地波動砲の場合三十分ぐら
いあるねんわ。せやから、今できるんは普通の車として走る事と、
屋台に変形して商売する事だけやな﹂
﹁いや、普通に十分だと思うんだけど⋮⋮﹂
﹁今はレーダーも死んどるからなあ。下手に移動するんも危なっか
しいし、もうちょい待たんとなあ﹂
まだまだおさまらない砂嵐を見て、のんきにどうしようもない事
を言い放つ宏。とはいえ、単に一瞬の強風で砂が舞い上がっただけ
なのだから、普通の砂嵐と違ってそれほど長く待たずとも収まりは
するだろうが。
﹁それにしても、単に衝撃波で巻き上げたにしては長い嵐だな﹂
﹁思ったよりすごい量を吹っ飛ばしたみたいやなあ﹂
﹁他人事のように言うなよ、主犯格⋮⋮﹂
﹁ようある話や﹂
1884
などと駄弁ってからしばらく後、ようやく視界がクリアになって
くる。
﹁念のために、あれが生き残ってへんか確認してくるわ﹂
﹁あ、私も行く﹂
﹁了解﹂
瘴気は特に残っていないし、デバフネットと捕縛結界はそれこそ
オクトガルの転移ですら潰す特別製だ。逃げられた可能性もまだ生
き残っている可能性も限りなく低いが、討ち漏らしていたら面倒な
ことになる。
﹁とりあえず春菜さん、これしとき﹂
﹁はーい﹂
いわゆるガスマスク的なものを春菜に渡し、車の外に出て警戒し
ながら爆心地へ移動する二人。爆心地には、もはや死が免れぬ状態
になった推定バルドが、それでもしつこく生き延びていた。
﹁あ、生きてた⋮⋮﹂
﹁とりあえず、止め刺しとこか﹂
日本の台所での嫌われ者、黒いつやつやしたかさかさ動く節足動
物のような生命力を見せた不確定名・バルドだが、結局ろくな打撃
を与える事も出来ないまま宏に頭をかち割られてコアをえぐりださ
れ、最後の言葉を発する事も無く絶命した。
1885
﹁なあ、春菜さん﹂
﹁何?﹂
﹁あのへんちょっと美味しい事なってへん?﹂
二人だけで行動している事にドキドキしながら、宏が指さした方
に視線を向ける春菜。そこには、砂鮫やサンドマンタなどの砂漠の
幸が、かなりの分量転がっていた。
﹁⋮⋮わっ、本当だ!﹂
﹁ちょっと澪呼んでくるわ﹂
﹁あ、私が呼んでくるよ。宏君は先に解体してて﹂
﹁了解﹂
どうせもう今日中にはダールには戻れまい。そのことが決定的に
なった時点で、とことんまでのんびりと利益をむさぼる事にする一
行。ノートン姉妹ですら異を唱えないあたり、実に染まったもので
ある。
こうして最後まで確定名を与えてもらえなかった今回のバルドは、
藪をつついてヤマタノオロチを出したレベルでの藪蛇により、何を
思ってこんな直接的な攻撃に出たのかを語る事すらなく、大したこ
とが出来ぬまま宏に素材扱いされて終わったのであった。
1886
﹁砂漠の異変について、何か分かっている事は?﹂
﹁アルヴァンの旦那も、興味がおありで?﹂
﹁それは当然だろう。馬車で一日以上はかかると言っても、逆に言
えば、砂漠まではその気になれば所詮一日だ。そんなところで異変
が起これば、このダールにどういう形で波及してくるか分からんか
らな﹂
﹁そういうもんですか﹂
﹁そういうものだ﹂
某うっかりな人のようなやり方で街の噂を集めて回っている自身
の協力者に、世の中の理の一つをなんとなく説きながら情報をせび
るアルヴァン。因みに言うまでもないが、このうっかりな人風の協
力者も、アルヴァンの仮面の下の顔は知らない。
﹁現状、異変については集まってくる噂話はこんなところでさあ﹂
﹁なるほど。やはりお前のところでも、確定しているのは唐突に大
きな音がして大地が揺れて、凄まじい砂嵐が巻き起こったと言う事
だけか﹂
﹁へえ、申し訳ありません﹂
1887
﹁いや、ここまで情報が錯綜している以上、まともな分析は難しい
だろう。多少なりとも現象を確定できるだけマシだ﹂
恐縮している協力者をそうねぎらい、ついでに聞けるだけの事を
聞いておこうと欲しい情報を頭の中でリストアップする。
﹁あとはそうだな。最近他所者に対して妙に攻撃的な頭のおかしい
連中について、新しい情報は?﹂
﹁申し訳ねえっすけど、最近動きが少なくて、集まった噂話も微妙
なところでさあ﹂
﹁最近? どのぐらいからだ?﹂
﹁へえ。旦那が気にかけてた連中が、屋台を毎日出すようになった
あたりからでさあ﹂
その言葉に、やはりかという感じでわずかに眉を動かすアルヴァ
ン。
﹁旦那、何か心当たりでも?﹂
﹁無くはないが、それをお前に教えたところで、入ってくる情報は
おそらく変わらんよ﹂
﹁へえ、そういうもんですか﹂
﹁そういうものだ。⋮⋮そうだな。噂の収集はいまのまま続けても
らうとして、この街のイグレオス神殿関係者の動きについても、今
1888
までより突っ込んだところを探って欲しい﹂
﹁そりゃかまわんですが、本当に突っ込んだところは旦那かスパロ
ーの兄貴、ストロー姐さんの専門分野じゃございやせんか?﹂
﹁そっちはそっちで当然動く。が、裏を取るとなると、噂話の類も
かなり馬鹿に出来なくてね。まったく、人の口に扉はつけられぬと
はよく言ったものだ﹂
アルヴァンの言葉に、違いないと頷くうっかり。もっとも、長年
道化風の情報収集を続けてきた男の勘としては、今回の神殿関係に
関しては、噂話はそれほど当てにならないのではないかと考えてい
る。何しろ、関係者の狙われ方もその後の対応も、いまいち何処を
目指しているのか分からない。そのせいか噂にも骨格というか筋と
いうか、どうにもそういうものが無くてふるい分けも難しい。たま
にあることとはいえ、ここまで方向性が分散した揚句に筋が近いも
のすらほとんど無いとなると、アルヴァンに報告するのもなかなか
つらい。
﹁何にしても、今回はあっしの仕事にあんまり期待しねえでくだせ
え。尾ひれはひれどころか魚からいきなりロックワームに化けるぐ
らいすっ飛んだ噂ばかりですんで⋮⋮﹂
﹁とりあえず、ある程度裏が取れた情報が入っている噂だけでもい
いさ﹂
﹁へえ。まあ、探り入れてみまさあ﹂
アルヴァンに頼まれては、嫌とは言えない。恐らく徒労にはなる
だろうが、それは別段気にはしない。自分の役割は、徒労になる確
1889
率の方が基本高いのだから、今更の話である。
﹁あ、そう言えば﹂
﹁ん? 何かあるのか?﹂
﹁旦那が気にかけてる連中が街からいなくなったとき、貴族連中も
神殿関係も妙に慌ててたそうで﹂
﹁⋮⋮どうも、そこに色々と集約している印象があるが、どう思う
?﹂
﹁同感でさあ。連中が砂漠方面に向かったってんだったら、今日の
砂漠の異変とやらもその連中が噛んでるのかもしれませんなあ。案
外、神殿関係を襲ってた連中も、その異変で始末されてるなんてこ
ともあり得るかもしれませんぜ﹂
うっかりの言い分に、思わず苦笑を浮かべるアルヴァン。可能性
としては確かにゼロではない。だが、そこまでうまく行くと言うの
はご都合主義にすぎるだろう。
神殿関係者を襲撃していたのが、かつて自身が斬り捨てたバルド
と同じ程度の能力を持っているのだとすれば、正面から襲撃をかけ
られればそう簡単に始末できる相手ではない。アルヴァンが単独で
勝てたのも、問答無用で変身前を狙って不意打ちで、しかも自身の
家系に伝わる最大奥義まで使って一気に相手をばらばらに切り捨て
たから成功したのだ。襲撃をかけられる立場だったら、簡単に負け
はしなくても勝てるかどうかは微妙なラインだと言う自覚はある。
﹁私達が追っている襲撃犯が予想通りなら、少なくとも主犯格はそ
1890
こまで簡単に始末は出来ないだろう﹂
﹁旦那がそう言うんであれば、そうなんでしょうなあ﹂
﹁とはいえ、彼らは私が予想している黒幕、それと同等程度の相手
と戦って勝利を収めていると聞く。連中の狙いが彼らに同行してい
る司祭と見習いだとすれば、彼らが襲撃を受けて撃退した、という
可能性が無いとは言い切れない﹂
真面目ぶった顔をしてそんな分析をしてのけるアルヴァンだが、
流石にうっかりの言葉が真相のど真ん中を貫いているとは想像すら
していない。一度顔を合わせただけ、あとはあれこれうっかり以外
からの伝手で集めただけの微妙な情報では、宏のアレっぷりを理解
出来ないのは無理も無い話ではあるが。
﹁何にしても、そのあたりの話は彼らが戻ってこない事には先に進
まないだろう。それまで、さっき言った通りの形で色々と探ってく
れ﹂
﹁分かりやした。旦那はこの後は?﹂
﹁少しばかり、花を愛でてくる事にするさ﹂
気障な言葉を言い捨てて、その場から消えるアルヴァン。いつも
の事なので気にしないが、少しぐらいはあやかりたいなあなどと本
能に忠実な事を考えるうっかりであった。
1891
﹁戻ったぞ。砂漠の異変について、何か新しい情報は?﹂
ダール王宮。神殿との会合という名目で不在だった女王が、戻っ
てくるなり今最大の感心事をセルジオに問いかける。そもそも今回
の外出も、この異変についての話し合いだったのだ。
﹁神殿で話をしていただけにしては、随分と遅かったですね。情報
については、それなりに色々と集まっては来ています﹂
﹁そうか。こちらもついでに寄れるところは全て寄り道して、集め
られる範囲で集めてきた﹂
﹁陛下、この非常時に余りうろうろなさらないでください⋮⋮﹂
﹁情報なんぞ、ある程度自分の足で稼いだものも握っておかんと、
誰に何をつかまされるか分からん﹂
情報源を王宮内の関係者だけに依存するなどという事は、怖くて
女王にはとてもできる行動ではない。仮に自身で歩き回って噂など
を集めていなかったとしたら、まかり間違ってセルジオが裏切るよ
うな事態になれば、自分は何も知らない裸の王様になってしまう。
セルジオが裏切る可能性は現状ではそれほど高くはないが、物事に
絶対という言葉はない。
本当のところを言うならば、女王としては宮廷内の全ての情報が
一度セルジオを経由する、というシステム自体を変えたいところで
はあるが、残念ながら他に適任者が見つからないため、現状維持が
1892
続いている。
﹁まあ、話をもどそう。新たな情報は?﹂
﹁そうですね。つい先ほど調査隊が帰還しました。おかげでようや
く発生地点が絞り込めたことが、最大の情報でしょうか﹂
﹁ほう? どのあたりだ?﹂
﹁灼熱砂漠の入り口付近から約五十キロ南南東に移動したあたりだ
との事です。現場を見ない事にははっきりした事は言えないようで
すが、何者かが大魔法、それもこちらまで振動が伝わってくるほど
の威力から、ヘルインフェルノに相当する魔法を発動させたのでは
ないか、との事です﹂
﹁⋮⋮物騒な話よのう。だが、それだけの術を使える術者となると、
相当絞り込まれることになるな﹂
十数年に一回ぐらいの頻度で、モンスターの大規模発生などで大
活躍のヘルインフェルノだが、当然のことながら、こちらの世界で
はそうホイホイ使えるものではない。何しろ、通常戦闘で使えるよ
うな魔法とは、必要な魔力量が文字通り桁違いだ。単独の魔法使い
が普通に使うのは難しい類のものである。
一般的な魔法使いと比べて十倍以上の魔力を持っている達也です
ら、杖のコストダウン効果が無ければ全快状態で一回しか使えない
のが、大魔法というやつだ。当然使い手は限られてくるし、普通は
儀式魔法として使うか何らかの補助具を大量に使わないと発動でき
ないため、術者を特定するのもそれほど難しいものではない。ヘル
インフェルノクラスよりはるかに燃費がいいとはいえ、この世界で
1893
の分類上は大魔法に入る聖天八極砲も、立ち位置としては似たよう
なものである。
一般庶民はもとより、それなり以上のランクの冒険者でも見た事
が無い人間も少なくないのが大魔法というやつだ。発生した規模が
規模だけあり、砂漠で異変が起こった、という話になっても仕方が
無いと言えば仕方が無いのだろう。何しろ、ダールの場合、使用頻
度が十数年に一度である。
﹁妾の個人的な見解だが、バルドとやらが関わっている、というよ
り犯人なのではないか?﹂
﹁ふむ。よろしければ、その根拠を教えていただいても?﹂
﹁まず、ファーレーンからの資料によると、バルドとやらは普通に
ヘルインフェルノを使ってきたそうじゃ。それに、つい最近ちまた
を賑わせた神殿関係者の襲撃事件、どうもバルドとやらの手口と一
部似通っているようでな﹂
﹁それだけでは、根拠として薄いのでは? それにそもそも、バル
ドと言えば、アルヴァンが問答無用で切り捨てたはず﹂
﹁同時期にファーレーンでも活動しておったのじゃ。同名で似たよ
うな力量の連中がわらわら存在しても、何一つおかしくはあるまい
?﹂
女王の切り返しに、眉間に皺を刻みこみながらも頷くしかないセ
ルジオ。正直、ヘルインフェルノを単独で発動してくるような生き
物がわらわら居てはたまらないのだが、他の国からの情報まで精査
すると、女王の指摘が間違いとは言い切れないのが悩ましい。
1894
﹁そして、これが一番の根拠じゃが﹂
﹁⋮⋮どうぞ﹂
﹁昼前の段階で、ファーレーンからの客人達が砂漠におったという
情報がある。そして、例の異変が三時過ぎ。ノートン姉妹が一緒で
あった事を考えれば、そこを狙ったバルドと一戦交えた結果があの
異変だという可能性も無くはない﹂
最初のころは除外していた可能性、それについて頭の中で真剣に
検討して出した結論をセルジオに伝える女王。異変がいわゆる大魔
法の類ではないと確定していれば、おそらく今でもこの説は一顧だ
にしていなかっただろう。
﹁では、彼らは⋮⋮﹂
﹁どんな手段を使ったかは知らんが、どうやら生きてはいるらしい。
砂嵐に巻き込まれて立ち往生したから、帰着が明日以降になると言
う連絡が神殿の方に入っておる﹂
﹁大魔法に巻き込まれて、生きていますか⋮⋮﹂
﹁そうでなければ、ファーレーンの事件で死んでおろう﹂
女王の身も蓋もない意見に、苦笑しながら同意するセルジオ。フ
ァーレーンとの兼ね合いもあるから取り込むと言うのは難しそうだ
が、間違っても敵に回してはいけないだろう。はっきり言って、勝
てる気がしない。
1895
﹁何にしても、今後の問題もある。帰ってきたら早急に、かつ失礼
の無いように王宮に来てもらわねばな﹂
﹁御意﹂
今後のあれこれもある。とにかくまずはつなぎを取らなければい
けない。そんな王家側の都合により、やっぱりダールでもお城と関
わりを持つ羽目になる宏達であった。
一方、その頃。
﹁ダールのバルドが消えた﹂
﹁⋮⋮二人目か。また義賊か?﹂
﹁否。ファーレーンのバルドを仕留めた連中のようだ﹂
とある闇の中。あって無きがごとき存在感の連中が、何やらごち
ゃごちゃと話をしていた。
﹁また、連中か?﹂
﹁今度はどのような状況で?﹂
1896
﹁巫女の資質を持つ連中を始末しようと攻撃を仕掛けて、そのまま
正体不明の攻撃で返り討ちにあったらしい﹂
その報告に、その場を沈黙が覆い尽くす。しばしの沈黙の後、一
人が口を開く。
﹁それで、どうする?﹂
﹁新たなバルドについては、すでに手配は終わっている。だが⋮⋮﹂
﹁単独で送り込んだところで、また返り討ちにあって終わる可能性
が高い﹂
﹁だが、ファーレーンと違って内部に火種が残っている以上、何も
せんというのもな﹂
前回と違い、健闘した様子すらなくあっけなく仕留められた今回
のバルドについて、頭が痛いといわんばかりの口調で会話を続ける
影達。再びしばし沈黙が場を覆い、一人がポツリと言葉を漏らす。
﹁⋮⋮一人で無理なら、三人ぐらい送り込むか?﹂
﹁⋮⋮それも手ではあるが、奴らは自分以外にバルドが居るとは思
っておらん。連携など取れるとは到底思えんが?﹂
﹁少し細工をして、最初から三人組だったと思わせるしかあるまい﹂
﹁可能か?﹂
﹁ある程度は、な。もともと、バルドという名が自分だけのものだ
1897
と思ってはいるが、自身と同じ立場の存在が居ることは知っている。
そこを利用して細工すればいい﹂
最後の影の言葉で、とりあえず方針は固まる。どの道現状のまま
では詰むのだ。それに、少々手間がかかりはするが、バルド自体は
いくらでも作り出せる。まったく痛手がない、とまでは言わないが、
それほど気にする必要がある損失でもない。
﹁では?﹂
﹁まあ、いきなり数を送り込んだところで上手く行かぬだろう。今
後のテストケースとして、まずは二人送り込むことにしよう。先ほ
ど手配したというバルドは、もう送り込まれているのか?﹂
﹁否﹂
﹁ならば、記憶に細工をする。起動させずに待機させておいてくれ﹂
﹁分かった﹂
いくら自作といっても、バルドは起動させた時点で独立した人格
を持つ。後からの記憶の変更は難しい。それに、独立した人格を持
つため、最初からチームを組んだという設定を記録してあったとし
ても、必ずしも相性がいいとも限らなければ、頭を使って連携をと
るとも限らない。データがない状況で三人以上というのは制御不能
になったときのリスクが大きすぎる。そのことは理解しているから
か、当初から一人減らすことに対して、この場の誰も異を唱えない。
﹁さて、後は私の仕事のようだ。貴様らは貴様らの仕事に戻れ。世
界を聖気で満たすために﹂
1898
﹁ああ。世界を聖気で満たすために﹂
その合言葉をきっかけに、全員が各々の仕事に戻るためにその場
から姿を消す。
﹁知られざる大陸からの客人どもを、これ以上放置しておくわけに
もいかんか﹂
闇の中から浮かび上がったバルドにいろいろな改造を施しながら、
そんなことをポツリと呟く影。とりあえずそのまま送り込んでも上
手く行く気がしないため、少しばかりギミックのようなものを仕込
む。
﹁さて、後は成り行きを見守るか﹂
やるべきことを終えた影は、次こそ客人どもを始末してくれるこ
とを期待しながらバルドを送り出し、闇の中に消える。
影がそんなことをやっていた同時刻。
﹁へえ? サンドマンタって、フカヒレみたいなのが採れるんだ?﹂
﹁砂鮫からキャビアも採れんで﹂
﹁デザートクラブって、結構身がしまってて甘みがあるから、カニ
酢で焼きガニとか最高じゃないかな?﹂
そんなダールをめぐる新たな陰謀など知る由もない宏達は夜空の
下、砂漠の幸でやたら贅沢な夕飯に舌鼓を打っているのであった。
1899
第8話︵後書き︶
書いていて某戦車発掘RPGを思い出した作者がここに。
1900
第9話
﹁予想以上に、長丁場になったな﹂
﹁流石に、遺跡出てから一泊する羽目になるとは思わんかったで﹂
砂漠に砂を取りに出て四日目の十時過ぎ。ようやくダールの入り
口が見えてきたところで、思わず大きくため息をつく一行。帰って
くる途中で見かけた広大な砂麦畑が、疲れた心を妙に癒してくれた
のが印象的であった。
﹁戻ったら一度、神殿に顔を出す必要がありそうですね﹂
﹁お姉ちゃん、私ものすごく怒られる未来しか思い浮かびません⋮
⋮﹂
﹁一応毎日定時連絡入れていましたし、そもそも不在期間が延びた
のも私達の責任とは言い難い事情ですので、流石に怒られる事は無
いでしょうけど⋮⋮﹂
﹁心配をおかけしたことに対するお説教は、とても長くなる気がし
ます⋮⋮﹂
この後について考え、何とも憂鬱そうな顔で再びため息をつくノ
ートン姉妹。そんな二人の様子を見た日本人達の視線が、諸悪の根
源に突き刺さる。
﹁というか、転送石か転移魔法で戻ればよかったんじゃねえか?﹂
1901
﹁車で二時間ぐらいやったら、横着せんと普通に帰ったらええかと
思うたんやけど﹂
﹁まあ、その意見に関しちゃ、確かに否定できねえところではある
んだがな⋮⋮﹂
﹁それに、転移で戻っとったら、ダールでバルドとかちおうとった
んやで。それは流石にいろいろ不味いやろう﹂
宏の意見を否定しきれず、渋い顔をしてしまう達也。ワンボック
スのアレでナニすぎる機能の数々でほぼ完全に封殺したバルドだが、
普通に正面からやりあうとすると、そこまであっさり倒せる相手で
もない。範囲攻撃も多数あるため、はっきり言って無関係な人間が
多数いる街中でやり合いたい相手ではなく、かといって誰もいない
広い場所だと、召喚による物量で押し切られかねないところがある。
たまたま相手が藪蛇をやってくれたため、一番簡単に勝てる形で
ぶつかる事が出来たが、そうでなければかなり面倒な戦いを強いら
れることになっていただろう。下手をすればノートン姉妹というお
荷物を抱えて、周りの被害を気にしながらゲリラ戦の相手を強いら
れると言う神経の磨り減る状況になっていたかもしれない。
そういう意味ではわざわざのんびり車で帰ると言う選択を取った
のは間違いではなかったのだが、そもそも地下遺跡なんてものを掘
り当てた揚句に調査なんぞをしていなければ、ノートン姉妹の不在
がここまで長引く事は無かったのだ。そういう意味では、特に宏は
深く反省しなければいけない。
もっとも、達也達は知る由もない事ではあるが、実のところそれ
1902
がかく乱要因となり、所在地を見失ったバルドがいろいろ焦った揚
句今回の結果につながったのだから、本人達が知らないところで、
ある種の最適解を引き当てていた事になるのかもしれないが。
﹁まあ何にしても、全部今更の話だから、これからの事を考えよう
よ﹂
﹁その、これからの事で気が重いんですよ⋮⋮﹂
﹁てか、その辺の話、俺らにも飛び火してこねえか?﹂
﹁そこら辺は任せるわ。僕は布も織らんとあかんし﹂
﹁こら待て逃げるな諸悪の根源﹂
色々と丸投げしようとする宏に、間髪いれずに突っ込みを叩き込
む達也。ここでこいつを逃がしてしまうと、また同じことをやらか
しかねない。
﹁僕が居っても居らんでも変わらへんやん﹂
﹁そういう問題じゃねえよ﹂
あくまでも面倒事から逃げようとする宏と、そうはさせじと言葉
を重ねる達也。そのやり取りに苦笑しながら、ちらりと窓の外を見
て、違和感を覚える春菜。
﹁⋮⋮ん?﹂
﹁どうしたの?﹂
1903
﹁春姉、何かあった?﹂
﹁なんか、妙に警備が物々しくない?﹂
春菜の指摘に、余り気にしていなかった他のメンバーも状況を観
察しはじめる。そして
﹁確かに、妙に殺気立ってる、というより浮足立ってる感じだな﹂
﹁どうなってるのかしら?﹂
全員がその妙な物々しさに目を丸くする。明らかに普段より人数
が多い門番。やたらと厳重な検査。一組一組に随分時間をかけてい
るようで、普段に比べてかなり入場待ちの列が長い。
﹁本気で随分と物々しい﹂
﹁僕らが居らんかった間に、何ぞ大きい事件でもあったんか?﹂
﹁あり得ないとは言い切れないが、例の見習いの事件のときでも、
ここまで物々しい空気にはなって無かったぞ?﹂
﹁ほな、外で何かあったんかもなあ﹂
自分達が原因かもという可能性を見事に排除したまま、そんな頓
珍漢なやり取りを続ける。
﹁何にしてもとりあえず、最後尾に並ぶしかねえよな﹂
1904
﹁荷物の検査がややこしなりそうやから、入りっぱなしになっとっ
た容積共有は切っとかんと﹂
﹁今のうちに、不自然じゃない程度に中身を整理しておいた方がい
いよね﹂
﹁せやなあ。とりあえず車のトランクスペースには、砂漠の砂を突
っ込んどくとして⋮⋮﹂
速度を落として時間を稼ぎながら、ざっと荷物の整理を終わらせ
る日本人一同。容量拡張はともかく、容積共有は一般には知られて
いないエンチャントである以上、こういう時は使えなくしておいた
方が問題が少ない。
因みに普段はどうしているかというと、街の外に出るときは、余
程の大物をゲットした場合や受け渡しが必要な時を除いて、基本オ
フにしている。今回は手に入れたアイテムが多かったため、共有な
しでは完全に管理できなかったのだ。
﹁とりあえず、中身はこんなものかな?﹂
﹁ほな、共有オフ﹂
適当に各人の鞄に素材を分配したところで、容積共有の機能をオ
フにする。容量拡張の方は一般的なエンチャントであるため、特に
気にする必要はない。一般的なのは四倍程度までだが、金とコネが
あれば三十倍でも四十倍でも可能である。もっとも、四倍以上に拡
張するのであれば、相当なレベルの重量軽減を一緒に施さなければ、
使い物にならなくなりがちではあるが。
1905
﹁しかし、本気で何があったのやら﹂
﹁⋮⋮もしかして、私達が関係してるかも﹂
﹁ほう? それはまたどういう根拠で?﹂
﹁なんかえらそうな人が、血相を変えてこっちに来てるから﹂
最後尾に並んだタイミングでの春菜の指摘に、原因が思い当たら
ずに首をかしげる日本人達。逆に、もしかしてと言う顔をするノー
トン姉妹。その二人の態度に気がついた春菜が、念のために声をか
ける。
﹁プリムラさんとジュディスさんは、何か心当たりが?﹂
﹁というかむしろ、皆さんがどうしてこんな簡単な事に気がつかな
いのかが不思議なのですが⋮⋮﹂
﹁お姉ちゃん、皆さんがそういう面で相当ずれてるのは今さらだと
思います﹂
﹁なんかひどい言われようだけど、思い当たる理由は?﹂
﹁よくよく考えてみれば、砂漠であれだけ派手な攻撃をすれば、普
通は騒ぎの一つも起こります⋮⋮﹂
疲れ切った様子のプリムラの説明に、そんなもんなのか、と不思
議そうに顔を見合わせる一行。
﹁あれ、ランクとしてはヘルインフェルノと同等程度なんだから、
1906
ちょっと考えればそんな騒ぎになるような事でもないんじゃないの
?﹂
﹁ヘルインフェルノなんて、一体どれだけ使い手がいると思ってる
んですか⋮⋮?﹂
﹁珍しいけど、まったく見ないほどではない程度﹂
﹁そこまで有触れていたら困ります⋮⋮﹂
真琴の回答に、本気で頭を抱えながら突っ込みを入れるプリムラ。
予想通り、妙なところで常識が無いことが露呈する日本人達。
﹁ドーガのおっちゃんとかユーさんとかが真琴さんとええ勝負やっ
たから、魔法の方もそんなもんやと思うとったけど、違うんや﹂
﹁その方々がどういう立場かは知りませんが、恐らくマコトさんと
同等の力量となると、ファーレーンやダールの規模でも両手の指で
は辛うじて足りない、という程度しか存在しないでしょうね⋮⋮﹂
﹁世知辛い世の中や⋮⋮﹂
﹁ヒロシさん、それ何か違うと思います⋮⋮﹂
妙な感想を述べる宏に、容赦なく突っ込みを入れるジュディス。
そんな緊張感も常識も無い会話を続けているうちに、騎士だと思わ
しき一団に囲まれてしまうワンボックス。何か喋っているのは分か
るが、防音性も気密性も高いワンボックスでは、彼らが何を言って
いるかは上手く聞き取れない。
1907
﹁どうしました?﹂
無視していると思われるのはよろしくないと判断した達也が、窓
をあけて声をかける。
﹁もしかして、聞こえておられなかったか?﹂
﹁この車は、気密性も防音性も高いもんで、外の声とかが聞き取り
にくいんですよ﹂
﹁そうか。では、改めて聞こう。貴公らはアズマ工房の方々で正し
いか?﹂
﹁ええ、そうですが?﹂
﹁では、申し訳ないのだが、我々とともにこのまますぐに神殿の方
へ行っていただきたい﹂
慇懃無礼、という感じの態度で行き先を強要してくる隊長らしき
人物。その様子に流石にただ事ではない何かを感じ取り、ごねるの
は得策ではないと判断する達也。
﹁とりあえず了解しました。車はどうしましょう?﹂
﹁出来れば、ここで降りて欲しい﹂
﹁了解です。降りたら片付けるんで、ちょっと時間ください﹂
﹁片付ける?﹂
1908
達也の言葉に怪訝な顔をする隊長。そんな彼を無視してさっさと
車を降りると、とっとと車をカプセルに収納する一同。その一連の
流れに、隊長だけでなくその場にいた全員が絶句する。
﹁流石にこんなデカイものをこんな場所に放置してたら、邪魔で仕
方が無いでしょう?﹂
﹁あ、ああ⋮⋮﹂
相手の出鼻をくじく事に成功し、にやりと笑いながらそんな人を
食った事を言ってのける達也。逃亡を封じるために車両から引きず
りおろす事には成功したが、結局主導権は握られたままの隊長。
﹁なあ、見たか⋮⋮?﹂
﹁あのゴーレム馬車、すごいな⋮⋮﹂
﹁ありゃ便利だよな﹂
﹁どれだけ稼げば、あんなすごい馬車を買えるんだろうなあ?﹂
衛兵達に連れて行かれるアズマ工房一行を見ながら、そんな事を
ひそひそ話し合う行商人達。流石に自作だとは想像もしていないよ
うだ。
﹁いつかはあんなすごい馬車を持てたらいいよな﹂
﹁あれを誰が一番先に買うか、皆で競争だな﹂
﹁だな﹂
1909
新しい目標が出来て気合が入る商人達。知らず知らずのうちに余
計なところに影響を与えてしまう日本人一行であった。
﹁戻ったか!﹂
﹁ご心配をおかけして申し訳ありません⋮⋮﹂
﹁ごめんなさい⋮⋮﹂
﹁二人が無事なら、それでいい⋮⋮﹂
応接室に通されるなり、感動の再会を果たす神官長とノートン姉
妹。その様子を気まずそうに眺める日本人一行。流石に砂漠を三日
も連れまわすとか、いろいろ問題がありすぎる事ぐらいは理解して
いるのである。
﹁あ∼、なんか、いろいろ申し訳ない⋮⋮﹂
﹁馬鹿が一人、暴走しちゃいまして⋮⋮﹂
﹁年長者ぶっとるけど、自分らも乗ったんやから同罪やで?﹂
﹁お前が言うな﹂
1910
多少気まずそうにしながらもあくまでペースを崩さない宏を、恨
みがましい目で見る達也と真琴。とはいえ、残念ながら積極的に止
めなかったどころか、流されたという立場を装って状況を楽しんだ
部分がある二人が宏だけを悪者にするのが筋違いなのは、当人達が
一番自覚しているところだが。
﹁皆様に文句を言うつもりはございません。元々冒険者というのは、
そういうものでございましょう?﹂
﹁俺達がまともな冒険者に入るかどうかはともかく、普通はそうだ
ろうとは思うんですが⋮⋮﹂
妙に物分かりがいい事を言う神官長に、どうにも居心地の悪さを
感じてしまう達也。確かに冒険者というのはそういうものだし、神
殿から出ている費用で全員の生活費を賄うのが厳しい以上、こうい
った危険な活動をする必要が出てくるのも当然ではある。あるのだ
が。
﹁それでも、本来仕事として二人の身柄を引き受けている以上、本
来はもっと気を使う必要があるのは間違いのない事実です﹂
﹁⋮⋮これ以上は堂々巡りになりそうですな。二人が無事だった事
ですし、この話をこれ以上蒸し返すのはやめましょう﹂
﹁そうですね。この話は終わりにしましょう﹂
どうにも生産性の無い方向に話が進みそうになったため、神官長
が話を終わらせる方向に誘導する。既に許しを与えてくれている相
手に対する謝罪、という不毛な流れを続けるのはかえって失礼だと
1911
言う判断のもと、神官長の誘導に乗っかる達也。そのままの流れで、
報告の前に気になっている事を確認する事に。
﹁それはそれとして、どうにもダール全体が浮足立っている感じで
すが、何かありましたか?﹂
﹁その事について、皆様に聞きたい事がございます。皆様はこの三
日間、砂漠の方へ行かれていたのですよね?﹂
﹁ええ、そうなります﹂
﹁昨日の三時頃、砂漠の方で突然巨大な砂柱が立ったという報告が
砂漠近くの町から入り、ダールでも軽い地震が起こって大量の砂で
霞のようになったのですが、何かご存じありませんか?﹂
神官長の質問に、思わず顔が引きつる日本人一行。プリムラとジ
ュディスも、やっぱり、という表情でため息をつく。日本人達は分
かっていなかったようだが、普通はあれほどの威力の技や魔法が発
動すれば、状況を知らない人間からは異変が起こったようにしか見
えないものである。彼らの価値観や行動基準に引っ張られてそこら
辺を失念していたが、砂漠の入り口から二百キロ強しか離れていな
いダールだと、その手の出来事の影響がまったくないと言う訳には
いかないのである。
﹁⋮⋮異変、か。そうだよなあ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮確かに、あれだけ派手に砂を巻き上げたんだから、ダールに
影響ぐらいは出て当然だし、普通は異変だって騒ぎになるよね⋮⋮﹂
﹁⋮⋮外から見たらどないなってるかまでは考えへんかったなあ⋮
1912
⋮﹂
﹁⋮⋮だから、車の中で申し上げたではありませんか⋮⋮﹂
ようやく色々と実感したらしい宏達に、疲れをにじませて突っ込
みを入れるプリムラ。
﹁どうやら、心当たりがあるようですな﹂
﹁はい。というか、聞いても怒らないでくださいね?﹂
﹁話を聞いてから考えます﹂
神官長の正直な回答に、どうにも顔が引きつるのを止められない
達也。現場にいた自分達ではかえって分からなかったが、外から見
ていると随分と派手な事になっていたようだ。やはり、宏に全部任
せたのは大失敗だった。
﹁えっとですね。あれは俺達が、というか正確にはヒロが、車に積
んであった兵器を使ってやらかしました﹂
﹁⋮⋮兵器、ですか?﹂
﹁ええ。天地波動砲と言うらしいんですが、それを襲撃をかけてき
た、おそらくバルドと思われる人型の何かに向けてぶっ放しました﹂
﹁⋮⋮その結果が、あの騒ぎですか⋮⋮﹂
﹁中心近くにいた俺達には、ちょっと派手な爆発と砂ぼこり、ぐら
いにしか見えなかったんですよ﹂
1913
安全を確保したうえで中心近くにいれば、その程度の認識で終わ
っても仕方が無いのかもしれない。だが、ダールに砂埃が霞となっ
て飛んでくるほど派手に砂柱を立てておいて、ちょっと派手な爆発
という認識なのは流石にどうかと思う。
普通なら嘘をついていると判断するような言葉だが、こういう時
に嘘をつけないノートン姉妹の態度を見る限りは、間違いなく事実
を言っているのだろう。何にしても、頭の痛い話である。
﹁具体的に、どの程度の威力だったのかをお聞きしても?﹂
﹁中心付近での破壊力はヘルインフェルノより強い感じで、そこか
ら百メートルも離れれば八割ぐらいまでは減衰していました。意外
と減衰幅が大きいため、まともに攻撃力がある、と言える範囲はせ
いぜい半径で一キロ程度でしょう﹂
﹁⋮⋮十分すぎるほど大規模な攻撃です⋮⋮﹂
﹁だから、砂漠まで戻って使った訳ですが⋮⋮﹂
そこまで気を使うのなら、そもそも使わずに倒すと言う選択肢が
あったのではないか。そう言いかけて、言葉を飲み込む神官長。相
手がバルドであるならば、宏がやらなければバルドがやっていただ
ろう。そうなると、ノートン姉妹の無事も怪しくなる。
それに、製作者である宏はともかく、それ以外の人間は恐らく、
その天地波動砲とやらの威力については知らなかったのだろう。下
手をすれば搭載してあった事すら知らない可能性も高く、その場合
宏を止めると言うのはかなり難しい事は考えなくても分かる。
1914
その宏にしても、おそらくトータルで最も被害が少なくなる方法
を考えて実行しただけにすぎないのだろうから、怒っても仕方が無
いと言えば仕方が無い。これが街の近くでぶっ放したのであれば大
量の雷を落とす必要があるが、わざわざ巻き添えが出る可能性が低
い砂漠に敵を引きずり込んでの行動だ。ある程度はちゃんと考えて
行動している事が分かる以上、あまり怒っても仕方が無い、と考え
てしまう程度には理性が勝つ神官長。損な性格である。
﹁⋮⋮今回に関しては、皆様が考えられる最善の行動を取ったのだ
ろう、という事で納得しておきます。ただ、そもそも三日、いえ、
正確には二日半ほどですか、そんな半端な期間、砂漠で何をなさっ
ていたのですか?﹂
神官長の問いかけに、とうとう来たか、という表情を浮かべる一
同。いくら高速の移動手段があったとしても、いや、高速の移動手
段があるからこそ、二日半というのはかなり中途半端な期間である。
特に灼熱砂漠の場合、二日や三日では奥地に踏みこんで戻ってくる
には短すぎ、逆に宏達の場合、ダールから砂漠までにかかる移動時
間の短さを考えると、入り口付近でごそごそやるには長すぎる。
材料の採取や狩りなどは、余程収穫が少なくない限りは、普通半
日もいれば十分である。昼間の暑さを避けるとしても、普通なら翌
日には帰ってくる。入り口付近ですら、その程度には収穫が多いの
だ。
﹁えーっと、この場合は古代遺跡の調査、で、いいのかな?﹂
﹁まあ、嘘にはならないよな、嘘には﹂
1915
﹁一応いろいろ収穫もあったし、ただ遊んでたわけではない、はず
よね?﹂
﹁遊ばれとった、っちゅう感じではあるけどなあ﹂
返ってきた要領の得ない回答、それも古代遺跡という単語に、思
わず頭を抱えそうになる。隅から隅までちゃんと調査されている訳
ではない灼熱砂漠の事だ。陽炎の塔の事も考えれば、古代遺跡の一
つや二つはあってもおかしくはないだろうが、こんな近場にあれば
未発見という事はないはずである。
だが、嘘をつくにしては、内容がアレすぎる。普通ならもっと説
得力のある嘘をつくだろう。それに、先ほどの天地波動砲と同じく、
ノートン姉妹の態度が事実であると認めている。つまり、これまた
嘘はついていないと判断出来てしまうのだ。
﹁⋮⋮詳しく話していただいても、よろしいですかな?﹂
﹁もちろん。元々報告するつもりでしたしね。ただ、割と長い話に
なりますので、まずは知りたい事を質問していただいてよろしいで
すか?﹂
﹁分かりました。あった出来事全てを今聞くかどうかは、最低限必
要な情報を確認してからにしましょう﹂
﹁ありがとうございます。では、何から話しましょう?﹂
﹁そうですな。その古代遺跡というのが何処にあったか、からお願
いします﹂
1916
やはりそこからだろう。方向性は違えど、神官長と達也の意識が
ぴたりと重なる。もっとも、神官長がそこを聞かねば話にならない、
という攻めの思考だとすれば、達也の方はそこを誤魔化すのはやは
り無理か、というどちらかと言えば逃げの思考だったりするのだが。
﹁先に宣言しておきます。かなり非常識な話ですが、これから話す
内容はすべて事実です﹂
﹁既に、私の常識はかなり揺らいでおります。今更非常識が一つ二
つ増えたところで、大した違いはございません﹂
﹁その言葉を信用します。私達が発見した遺跡は、灼熱砂漠の地下、
およそ一キロほどの深さにあるものでした﹂
﹁⋮⋮地下、ですか⋮⋮﹂
﹁そこの馬鹿いわく、砂漠の地下に古代遺跡というのはお約束だ、
との事でして⋮⋮﹂
達也の言葉に、思わず宏に視線を向ける神官長。神官長の視線を
受けて、何故か胸を張ってドヤ顔を見せる宏。今回やらかしたあれ
これに関して、明らかに何一つ反省していない。
﹁⋮⋮なぜ自信満々な態度を見せるのかはさておき、そんな場所に
遺跡があったと言うのであれば⋮⋮﹂
﹁どうやってそこまで潜ったか、ですよね?﹂
﹁ええ。灼熱砂漠の砂の中は、温度だけでなく様々な危険生物が存
在する、地上の生き物には生存不可能な地域です。仮に通れるトン
1917
ネルを掘るとしても、一年二年で可能なはずは⋮⋮﹂
﹁生身では、確かにそうでしょうね。ただ、そこの馬鹿がいると、
いろんな前提が崩れまして⋮⋮﹂
達也の言葉に、非常に嫌な予感を覚える神官長。報告には無かっ
たが、もしかして本当にトンネルを掘ったのか? そんな思いが表
情ににじみ出る。その顔を見た達也が、小さくため息をついて話を
続ける。
﹁トンネルを掘ったのであれば、まだ話は簡単だったんですけどね
え。そこの馬鹿は、地中に潜ってある程度自由に動き回れる、船の
ような乗物を作ったんですよ﹂
﹁⋮⋮それは、また⋮⋮﹂
﹁俺達が使っている車を知っていれば、出来ないとは言いませんよ
ね?﹂
﹁⋮⋮ええ。あのゴーレム馬車を作れるのであれば、そういった真
似が不可能だとは言い切れない事は分かります。分かりますが⋮⋮﹂
﹁ここでは狭いので無理ですが、広い場所があれば実物はいくらで
も見せられますよ⋮⋮﹂
達也の何処となく投げた言葉に、どうにも頭を抱えたくなる神官
長。ファーレーンでもこの調子だったのであれば、向こうの王宮も
さぞ振り回された事であろう。思わずファーレーンの貴族達に同情
しつつ、彼らを上手く使って危機を乗り越えたファーレーン王家に
尊敬の念を抱いてしまう。
1918
﹁それで、調査に二日半ほどかかった、と言う事ですか?﹂
﹁調査自体は遺跡で二泊した程度ですが、ついでだからと当初の目
的の採取関係をちょっとやってから戻ったら、その帰り道でバルド
に襲撃を受けまして、先ほど話したように、仕留めた時のやり方の
問題でしばらく身動きが取れなくなってしまったんですよ﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
この人数で調査自体は二日未満、という事は、それほどの規模の
遺跡ではないらしい。ならば、この場で詳細を聞いてしまっても問
題はなさそうだ。そう判断して、詳細な報告を聞く事にする。
﹁では、遺跡の調査内容について、詳細を教えていただきたい﹂
﹁そうですね。遺跡そのものに関しては、大地の民と自称する、地
底で生活する一団の娯楽施設のようなものでした。正確には、外部
から訪れる人間をひっかけて遊ぶ、ある種のブービートラップのよ
うな感じで、第一層はおおよそダールの街が入る程度の規模でした﹂
予想以上に大規模な遺跡の話をされ、思わず戸惑いの表情を浮か
べる神官長。その規模のブービートラップを用意していたと言う大
地の民という集団は、いろいろと危険なのではなかろうか。そんな
懸念が、神官長に次の言葉を吐き出させる。
﹁大地の民、ですか﹂
﹁はい。冥界神を祀る、現在百人ほどの集団です。三千年ほど眠っ
ていたそうですが、我々が遺跡に侵入した事で目を覚まし、遺跡の
1919
機能を起動させたとの事です﹂
﹁その機能が、ブービートラップのようなものだったと?﹂
﹁はい。と言っても、侵入者に危害を加えるのではなく、からかっ
て遊ぶような感じのものですが﹂
侵入者をからかうためだけに、ダールの街が入るほどの規模の施
設を用意する。正直、ついていけない感覚である。
﹁⋮⋮ダールが入るほどの規模の施設を、全て調査したのですか?﹂
﹁いいえ。割と早い段階で相手の意図が判明していたので、その裏
付けを取る程度で終わらせてあります。とりあえず、証拠の類もあ
りますよ?﹂
﹁あるのですか?﹂
﹁ええ。許可を取って、いくつか持って帰ってきました。ヒロ﹂
﹁はいな。分かりやすいところでは、これですわ﹂
そう言って、明らかに最低でも百年単位の時間が経過している事
が分かる、古い書物をいくつか取り出す宏。表紙が古代ダール語で
書かれているという事は、間違いなく千年以上前の文献である。
﹁第一層の書庫にあったブービートラップですわ。内容を読んだら
爆笑もんでっせ﹂
﹁⋮⋮一体、どのような内容だったのですか?﹂
1920
﹁僕は古代ダール語は読めんのですけど、プリムラ先生曰く、いわ
ゆる古代の官能小説やったそうです﹂
﹁⋮⋮﹂
信じられない言葉を言い放った宏に疑わしそうな目を向け、念の
ために内容を確認する神官長。タイトルはエリンデルの栄光。少な
くとも小説である、という事は間違いないらしい。最初の数行は特
に問題なく、この時点では普通の娯楽小説である。このまま読み進
めていくと時間がかかりそうだと判断し、適当に飛ばしてページを
開き、二ページほど読み進めていくと⋮⋮。
﹁⋮⋮確かに、官能小説の類ですな⋮⋮﹂
見事に濡場に突入していた。真面目に神官として修業し続けてき
た神官長だが、色に溺れないようにと言う訓練の一環で、多少はこ
ういった本を読んだ事はある。内容や背景設定こそ違えど、この唐
突で強引な展開は、その時に読んだ本によく似ている。
既に老境に達し、性欲などと言うものはほとんど残っていないた
めに、この手の濃厚な性描写を見せられても特に感じるものはない
が、普通の遺跡だと思って古代の文献を調査したら目に飛び込んで
きたのがこの内容だった、と言うのはなかなか来るものはある。
﹁全部、そうなのですか?﹂
﹁仕掛けた本人に聞いたところ、三割ぐらいはそういう本だと言っ
てました﹂
1921
﹁残りの七割は?﹂
﹁一割は地下遺跡の歴史についての真面目な本、三割は毒にも薬に
もならない教養書、残りの三割は官能小説ほどではないけど下世話
な内容の娯楽書だ、との事です。技術書とかその類の本はいろいろ
と危険なので、あえて書庫には入れずに確保してあるそうです﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
ある種の説得力を感じさせる言い分に、素直に感心してしまう神
官長。もっとも、その後に聞かされた遺跡の内容に、思わず全身か
ら力が抜けてしまいながら、先ほど感心した事をすぐさま後悔する
羽目になるのだが。
﹁⋮⋮つまり、全身を使って遊ぶための施設だった、と言う事です
か?﹂
﹁二層目以降はそうですね。まあ、二層目の場合、経験の浅い冒険
者の訓練には使えそうではありますが﹂
﹁三層目は運動能力と機転がモノを言う類のアトラクションやった
から、冒険者としての訓練には微妙なラインやなあ﹂
﹁そうなのですか?﹂
﹁どっちかって言うと、冒険者とか関係なく人間としての基礎能力
が問われる感じだったのは事実ですね。まあ、三層目で訓練するの
も、まったくの無駄にはならない、と言うより、むしろ三層目で十
分鍛えてから二層目で訓練すればかなり効果的だと思いますが﹂
1922
どうにも判断に困るコメントをもらい、思わず眉間を揉みほぐし
て頭痛をやり過ごす神官長。古代遺跡に大地の民。どちらも本来な
ら相当な大発見だと言うのに、この妙な有難味の無さは一体何なの
か。
﹁後、大地の民がそこまで衰退した原因についても、大体のところ
は聞いてきました。その関係で、一度はイグレオス様、もしくはそ
の巫女様にお目通りを願いたいのですが﹂
﹁その内容によります﹂
﹁三千年ほど前、冥界神ザナフェル様とその巫女が地底の神殿を出
奔してしまい、三千年経っても戻ってこないそうです。大地の民が
衰退したのも、出奔した巫女を捜索するために多数の民が出て行っ
てしまった事が直接の原因だそうです﹂
﹁⋮⋮それは、事実なのですか?﹂
﹁恐らくは。一応証拠となるものを借りてきています﹂
そう言って達也が差し出したのは、神の力が恐ろしいほどに込め
られた一枚の紙であった。神官長クラスの人材が見れば、神が直接
手ずから用意した物である事は明白である。
﹁⋮⋮見せていただいても?﹂
﹁どうぞ﹂
震える手で紙を受け取り、恐る恐る開いて中を見ると⋮⋮。
1923
﹁⋮⋮本日はいろいろと頭が痛い話が続きましたが、これは極め付
けですな⋮⋮﹂
﹁ですよねえ⋮⋮﹂
中には、神聖文字と呼ばれる神に仕えるものだけが使う文字で、
﹁家出します。探さないでください﹂と書かれていた。色々と予想
外の報告が続いたこの日の話の、これが止めの一撃である。
﹁とりあえず、この絡みで何か知っている事が無いか、直接確認を
したい訳です﹂
﹁流石に、これを捨て置く訳にはいかないでしょうね⋮⋮﹂
達也の申し出にそう応え、親の仇を見るような目で文章を睨みつ
ける神官長。やがて、どれだけ睨みつけたところで内容は変わらな
いと自らの心に折り合いをつけ、この後の事に話を移すことにする。
﹁本殿との折衝に関しましては、責任を持って進めておきましょう。
ザナフェル様の事が関わってくるとなると、向こうもむげにはでき
ますまい﹂
﹁お願いします﹂
﹁ですが、流石に数日で話をつけられる訳ではありませんし、色々
話も大きくなっております。申し訳ありませんが、日程調整が終わ
るまで、王宮の方に顔を出してはいただけませんか?﹂
﹁王宮、ですか?﹂
1924
﹁はい。許可をいただいているので申してしまいますと、皆さまの
事は、ファーレーンからダール王家へいくつかの話が来ております。
その内容に従って、ダール王家は皆様への過度の接触を控えてはい
ましたが⋮⋮﹂
その言葉で、神官長の言いたい事を理解する一行。
﹁要するに、今回の件でこちらを放置する事は出来なくなった、と
言う事ですか?﹂
﹁はい。公にできないとはいえ、ダールにとって皆様は大事な客人
です。王室としても干渉はしないにしても、常にある程度の動向は
確認しておりました﹂
﹁で、行方が分からへんなったタイミングで、足取りが途絶えた砂
漠で異変が起きたから大慌てで接触をはかる事になった、っちゅう
事でっか?﹂
﹁そういう事です﹂
いつの間にやら、自分達はずいぶん大物になっていたらしい。一
国の王室がわざわざ動向を把握しようとしているという情報に、思
わず戸惑いながらそんな呑気な事を考える宏達。どうにも、自分達
の実績やら危険度やらと言うものの認識が甘い連中である。
﹁今日、今からですか?﹂
﹁流石にそれは、お互いに態勢が整わないでしょう。本日のお話は
我々の方で報告資料を作って、夜までに王宮へ報告を上げておきま
す。皆様は一晩疲れを癒して、明日の朝からの登城に備えてくださ
1925
い﹂
神官長の言葉に、少しばかりほっとした様子を見せる一行。流石
に今はいろいろと疲れている。これ以上神経を使う真似は避けたい。
﹁神官長、私達はどうすればよろしいですか?﹂
﹁プリムラ、ジュディス。あなた達も皆様と一緒に城へ上がってく
ださい﹂
﹁分かりました﹂
何処となく嫌そうな、何か含むところがある表情で神官長の指示
を受け入れるプリムラ。ジュディスもあまり気乗りがしない様子で
ある。
﹁それでは、この場は解散といたしましょう﹂
二人の様子を気にしていると、頭が痛いと言う表情を隠せなくな
った神官長が解散を告げてくる。これは色々ややこしい話がありそ
うだ、などと考えながらも、さっさと懐かしの我が家に帰る事にす
る一行であった。
﹁明日、連中が城に上がってくる﹂
1926
﹁分かりました。どの程度の待遇を?﹂
﹁そうよのう。正直なところ、連中の価値を考えれば最上級でもい
いぐらいではあるが、あまり派手にやるのは色々とややこしい問題
が出てきそうだの﹂
女王の言葉に同意を示すセルジオ。アズマ工房の連中に関しては、
本来ファーレーンから干渉を避けるように要請されている。今回は
事が事だけに理解してくれるだろうが、隣国の言葉を無視して取り
込もうとしている、などと思われてもいけない。かといって、こち
らの都合で呼びつけるのだから、あまり粗末な扱いをするのは、今
度は国としての沽券にかかわってくる。
﹁出来る限り秘密裏に、外に漏れないレベルで最上の待遇で迎え入
れたい。連中の感覚は庶民ゆえ、恐らく贅を尽くした歓迎などすれ
ばかえって引くであろう。それに、食い物にしても部屋にしても、
単に派手で贅沢なだけなら、まず彼らが普段から過ごしている部屋
を上回る事など出来まい。そのあたりを踏まえて、明日に間に合う
ように計画を進めてくれ﹂
﹁また、難しい要求をしてくださいますな﹂
﹁それだけ、相手が難儀でかつ重要だと思え﹂
難しい注文に顔をしかめるセルジオに対し、王族としての態度を
全面に出して更にプレッシャーをかける女王。彼女としては、宏達
を取りこむ事は不可能にしても、悪印象を与える事だけは何として
も避けたいのだ。可能であれば、多少こちらに便宜を図ってくれる
程度の友誼を結ぶ事が出来れば言う事はない。
1927
﹁それにしても、実に面白い連中よ﹂
﹁面白い、ですか?﹂
﹁うむ。あれだけの集団であると言うのに、見事なぐらい性の色を
感じさせぬ。内部ではそれなりに複雑な色恋沙汰が発生しておるよ
うだが、肉体的には恐ろしいほど潔癖なようじゃ﹂
女王の言葉に、思いっきり顔をしかめるセルジオ。この台詞を言
ったのが男であれば、まだそれなりに受け入れられる。だが、世間
一般ではとうが立ったと言われる年頃とはいえ、それゆえに肉体的
には女盛りの女王が言うと、少々生々しすぎて反応に困る。
﹁女三人のうち、男を知っているのは年長の一人のみ。男二人のう
ち年長の方は国に女房を残しているとの話だが、それならさぞ溜ま
っていように、少なくともこの国に入ってからは、そういう店に出
入りした気配すら見せておらぬ﹂
﹁⋮⋮そういう事を詮索するのは、流石にどうかと思うのですが⋮
⋮﹂
女王の許容しがたい二つの悪癖のうち、最もまずいものが顔を出
してきたのを見て、微妙に怒りを浮かべながら釘をさすセルジオ。
このまま話を続けさせたら、絶対ろくでもない方向に突き進む。
﹁何、我々も奴らも生き物よ。どうあがいたところで、こういう話
とは縁など切れんよ﹂
だが、セルジオの威圧を綺麗に受け流した女王は、この下世話な
1928
話を終わらせるつもりなど一切ないとばかりに内容をエスカレート
させにかかる。
﹁とりあえず、さぞ溜まっているであろう年長の男に、火遊びを持
ちかけてみようかのう﹂
﹁おやめください﹂
﹁あのな、セルジオ。妾とて女よ。我が君が愚か者の手にかかって
逝ってから七年。もう七年じゃ。心はいまだ我が君だけのものだが、
それとは別に身体を慰める相手の十や二十こしらえたところで、問
題あるまい?﹂
﹁大ありです!﹂
﹁お主がそう言うから、若いおなごを丁寧に愛でるだけで済ませて
来たのじゃぞ? あれはあれでいいものだが、いい加減そろそろ男
が欲しいぞよ﹂
女王の難儀な性癖に、思わず頭を抱えたくなるセルジオ。あと何
年もしないうちに王太子が成人を迎えるとはいえ、女王が下手な男
と肉体関係を持って、挙句の果てに何か間違って孕んでしまったと
あれば、国を割る騒動に発展しかねない。彼女は王家の直系ではな
いと言っても、何代か前にファーレーンの王族が混ざっている程度
で、血の濃さはほとんど直系と変わらない。しかもファーレーンと
違い、ダールの血統魔法は女性の王族から生れた子供でも普通に引
き継ぐ。この女王の子供であれば、相手が誰であろうとまず間違い
なく、血統魔法を発現させることになるだろう。
だが、女盛りの女王に一生禁欲生活を続けろと言うのも、酷な話
1929
だと言うのは理解している。それゆえに純潔を奪わないことを条件
に、そっちの性癖を喜々として受け入れる素養のある女に限って手
を出すことを黙認してきたのだが⋮⋮。
﹁男が駄目、と言うのであれば、春菜と言ったか? あの娘を色々
と仕込むのは構わんのか?﹂
﹁それもやめておいた方が無難でしょう⋮⋮﹂
﹁あれだけの身体を持っておるのだ。惚れた男を悦ばせる方法を覚
えるのは、プラスにはなってもマイナスにはならんと思うが?﹂
﹁その、惚れた男と言うのが、そもそも女体に対して拒絶反応を示
している、と聞き及んでいますが?﹂
﹁ふむ。そう言えばそうじゃな。一度だけ顔を合わせる機会があっ
たが、あれはなかなかに徹底したものじゃった。確かに、あれをど
うにかせんことには、いくら女の側を仕込んだところで上手くはい
かんか。いや、むしろ下手に仕込んでしまうと、妾と同じ悩みを抱
えてしまいかねんな﹂
﹁ですから、やめておいた方がいいと申し上げました﹂
セルジオの主張に理がある事を認め、しばし考え込む。
﹁ならば、あの工房主に女体は怖くない、と言う事を教えこむと言
うのはどうじゃ?﹂
﹁こじらせたらどうするのです?﹂
1930
﹁なに。童貞をサルにするぐらいは容易い事よ。それに、知識を持
たぬ童貞の相手を知識を持たぬ生娘がするのは、たとえそこにどれ
だけ深い愛情があっても、大抵ろくなことにならぬよ﹂
﹁そういう問題ではありません﹂
最近いろいろあった反動か、今までと比べても特にひどいスキモ
ノぶりを見せる女王。これさえなければ良い王なのに、などと残念
な気持ちになりながら、彼女をどうにか黙らせるために使える言葉
を駆使する羽目になるセルジオであった。
一方、その頃の宏達は、と言うと。
﹁ようやく我が家だな⋮⋮﹂
﹁疲れた⋮⋮﹂
﹁髪とか砂が大分絡んでるし、鎧外したらちょっとお風呂入れてく
るわ﹂
﹁あ、お願いしていい?﹂
﹁任せといて。その代わり、美味しい昼食、頼むわよ﹂
1931
﹁了解﹂
そろそろ拠点として馴染んできた貸工房、そのリビング兼食堂で、
ようやく神経が休まるのを感じていた。
﹁とりあえず、今日はまだ時間もあるし、ちょっと霊布織ってくる
わ﹂
﹁今日ぐらいは休んでもいいんじゃねえか?﹂
﹁なんかこう、ここに居るのに何も作らへんのって、ちょっと座り
が悪いんよ﹂
﹁お前も、その辺がちょっと重症だよなあ⋮⋮﹂
﹁上級カンストするような職人は、みんなこんなもんやで﹂
何とも業の深い言葉を言い残し、作業場の方へ移動しかける宏。
そのタイミングで呼び鈴が鳴る。因みにこの世界の呼び鈴は、基本
的に紐を引っ張って鳴らすカウベルのような大きさと形状のものが
使われている。
﹁誰やろうな?﹂
﹁俺が出る﹂
﹁通り道やし、一緒に行くわ﹂
客が来た、という珍事に首をかしげながら、玄関口まで移動する
男二人。言うまでも無く、この工房を訪ねてくる人間などほとんど
1932
いない。可能性としてはせいぜい神殿関係者が顔を出す事がある程
度だが、先ほど解散してからそれほどの時間が経っていない事を考
えると、余程の事が無い限りは今日はこっちには来ないだろう。
だが、それ以外となると心当たりがまったくない。相手が危険人
物である可能性も考えるなら、誰か一人で相対するのは避けた方が
いいだろう。幸い、まだ宏も達也も武装解除を済ませていない。流
石にメインウェポンは持っていないが、ナイフ程度はちゃんと身に
つけているから、相手がいきなり襲いかかってきたとしても、援軍
が来るまでの時間ぐらいは十分稼げるだろう。
そんな考えのもと、それなりに警戒しながら扉を開けると、門の
前には一人の少女が。
﹁⋮⋮誰だ?﹂
﹁⋮⋮﹂
澪とは違う方向でどこか無表情の、それなりに可愛らしい容姿の
十五、六歳と思われる少女の存在に首をかしげる達也とは裏腹に、
その人物を知っている宏が完全に硬直してしまう。
﹁ヒロ、どうした?﹂
﹁な、何でや⋮⋮﹂
達也に声をかけられ、ようやく再起動した宏が渇いた声を絞り出
す。
﹁⋮⋮処刑されたんちゃうんか? ⋮⋮何で生きてんねん?﹂
1933
﹁知ってるのか?﹂
﹁⋮⋮暗殺者や⋮⋮﹂
宏の回答に、表情が凍りつく達也。流石にそれは捨て置けない。
宏が使い物になるかどうか分からない以上、とにかく援軍を呼ぶべ
きだ。そう判断して声を上げようとしたその時
﹁会いたかった、ハニー!﹂
無表情だった少女の顔がほころび、あっという間にとろけ切った
表情を浮かべてうるんだ目で宏をロックオンしながら、とんでもな
い事を叫ぶ。
﹁はあ!?﹂
﹁なんじゃそら!?﹂
暗殺者だった少女のとんでもない一言に、青ざめた顔のまま驚愕
の叫びを上げる男二人。宏にとって厄介な人間関係が、表に見えて
いる物だけではない事が発覚した瞬間であった。
1934
第9話︵後書き︶
実のところ、あの寄り道もかなり本編に影響があったという話。
1935
第10話
﹁どうしたの?﹂
突然大声を出した宏と達也に、何事かと春菜が駆け寄ってくる。
奥からは真琴と澪も出てきた。全員、まだ鎧は外し終わっていない。
なお、ノートン姉妹は戦闘能力が無いため、こっちに出てこないよ
うに言い含めた上で風呂の掃除を振っている。
﹁⋮⋮その娘、誰?﹂
どうやら呼び鈴を鳴らしたらしい少女を見て、完全に硬直してい
る二人に問いかける春菜。少女の表情が発情していると表現したく
なる種類のものだからか、好き好き光線を放っている視線が完全に
宏をロックオンしているからか、その言葉には微妙に棘のようなも
のがある。
﹁⋮⋮暗殺者や⋮⋮﹂
春菜のちょっと棘のある口調に再起動した宏が、震えながら絞り
出すような声で回答する。
﹁えっ?﹂
﹁ファーレーンで春菜さんとエルを暗殺しようとした実行犯、そい
つや⋮⋮﹂
﹁えっ? えっ?﹂
1936
﹁そいつが、よりにもよってヒロの事をハニーとか言いやがってな﹂
﹁⋮⋮どういうこと?﹂
﹁そんなん、僕が聞きたいわ⋮⋮﹂
宏の本気で怯えている乾いた声に、予想外の回答に戸惑っていた
春菜の中で、何かのスイッチが切り替わる。宏を守るように前に出
て、いつでも剣を抜き放てる体勢で少女を見据え、言うべき事をき
っぱりと言う。
﹁どのような御用件かは知りませんが、お引き取り願えますか?﹂
﹁⋮⋮えっ⋮⋮?﹂
完全に彼女を敵認定したらしい春菜の、冷気すら漂う視線と取り
付く島の無い言葉に、かなり戸惑った声を漏らす少女。同じように
前に出てきた真琴と、後ろでけん制する準備を整えた澪の視線も似
たようなものである。
﹁まって、まって。敵対する意志はない﹂
﹁残念ね。今回ばかりは、そっちの意志の問題じゃないのよ﹂
﹁どういうつもりかは知らないけど、私達にとって、あなたがした
事を許す理由が無い﹂
﹁今なら殺しはしないから、さっさと立ち去る﹂
1937
外敵相手に一気に結束した女達の様子に、それはそれで引く宏。
言ってしまえば、女性のこういう面に苦しめられた部分もあるのだ
から、当然と言えば当然の反応であろう。
﹁まって、まって。レイオット殿下からの言付けが﹂
﹁レイっちから?﹂
﹁どういうことだよ?﹂
意外な名前に、いろんな意味で引きまくっていた宏と達也が反応
する。とはいえ、よくよく考えてみれば、この暗殺者の処分はレイ
オットに一任されていた訳で、別段生きていてもおかしなことは何
もない。表向きは関係者が全員処刑された事になっていた事に加え、
その後かけらも話題が出なかったために勘違いしていたが、レイオ
ットからは処分したとも生かしているとも聞いていないのだ。
﹁ハニー達、裏の世界に顔が利かない。殿下がそこをフォローしろ
って。後、これ伝言﹂
﹁⋮⋮よりによって、何でこいつを使うのか⋮⋮﹂
﹁⋮⋮でも、レイっちやったらやりそうや⋮⋮﹂
レイオットが言ったであろう言葉に妙に納得しながらも、どうし
ても文句を言わずにはいられない男二人。女性陣はいまだに一切気
を緩めず、ブリザードのごとき視線を向けたまま慎重に少女が差し
出した手紙を受け取る。男二人の態度は幾分ましではあるが、それ
でも警戒そのものは続けている。
1938
﹁達也﹂
﹁了解﹂
真琴から渡されたレイオットの手紙を開き、ざっと中身に視線を
走らせる。内容は大体少女が言った通りの事ではあるが、いくつか
判断に困る事も記載されていた。そのあたりについて確認を取るた
め、とりあえず少女に声をかける。
﹁なあ。いくつか確認したいから、正直に答えてくれ﹂
﹁心配しなくても、嘘はつかない﹂
﹁それはこっちが判断する﹂
帰りの車中で頑張って身につけた嘘発見の魔法をひそかに発動し、
他のメンバーに視線を走らせて同意を取った上で、最初の質問のた
めに口を開く。因みにこの魔法、ゲームの時には存在しなかったも
ので、モグラからもらった魔法関係の資料の中にあったものである。
他にもいろいろあったが、一番覚えやすかったのでとりあえず一番
最初にこれを覚えたのだ。
﹁お前、こいつを襲った事を覚えていないっていうのは、本当か?﹂
﹁⋮⋮やっぱり、わたしがそれやったの⋮⋮?﹂
﹁本気で覚えてねえよ、この女⋮⋮﹂
悄然とした様子での少女の回答に、見事なくらい何一つ嘘が含ま
れていない事を確認し、思わず頭を抱える達也。一体何がどうなっ
1939
てこの状況なのか、はっきり言って全く理解できなければ理解した
くもない。
﹁まあいい、次だ﹂
﹁どんと来て﹂
﹁何でこいつをハニーって呼ぶんだ?﹂
﹁私の一番古い記憶が、ハニーに触れられてものすごく気持ちよか
った事だから﹂
少女がうっとりした様子で言い放った質問の答えになっていない
言葉に、今度は宏に冷たい視線が集中する。その様子にがくがく震
えながら達也の後ろに隠れようとした宏を捕まえ、とりあえず確認
すべき事を確認する事に。
﹁ヒロ、正直に答えろ﹂
﹁聞きたい事は大体分かるから言うけど、首絞められそうになった
から暴れたら、ワイヤーが変な感じで絡まってもうただけや。どう
にか離れられへんかってもがいとったら、勝手にこいつがあへあへ
言いだしたんやけど、正直どこにどんな風に当っとったとか全然覚
えてへんし、そんな事気にする余裕もあらへんかった﹂
﹁だとよ。因みに、全部本当の事だ﹂
﹁そもそも普通の女の人でも怖あてよう触らんのに、暗殺者みたい
な物騒な生きもんを組み敷いてとか、何でそんな怖い真似せなあか
んねん﹂
1940
﹁物凄い説得力ね、春菜﹂
﹁まあ、宏君だったら、普通はそうだよね⋮⋮﹂
宏の弁明を聞き、ものすごく納得してしまう女性陣。宏にとって、
触れること自体が怖いという意味では、春菜も暗殺者もまったく同
じラインだ。違いがあるとすればせいぜい、春菜ならどれぐらい触
っても大丈夫か、という見切りがある程度出来ている事ぐらいだろ
う。無論、宏の認識と実際の春菜の許容量とは天と地ほどの差があ
るどころか、普通ならセクハラとか痴漢扱いされるラインでも許さ
れるのだが、恋人同士でもない間柄の相手に対してそういう認識が
あると言うのは、たとえ相手が宏でなくてもいろいろまずい。
もっとも、そもそも暗殺者だと分かっている、それも敵対してい
る相手を抱くなど、薬か何かでまったく身動きが取れない状態にで
もしていない限りは自殺行為でしかないのだから、余程頭の悪い人
間でもない限りは普通、春菜達が危惧しているような事にはならな
い。
﹁それで、話を戻すとして、何で覚えてねえんだ?﹂
﹁殿下は、薬が抜けた時の副作用と暗殺者ギルドの仕掛けの影響だ
って言ってた。暗殺者ギルドに襲撃をかけた時までは、ちゃんとし
た記憶があったって聞いてるけど、正直覚えて無い﹂
﹁薬?﹂
﹁そう言えば、レイっちが言うとったなあ。こいつら元々使い捨て
の人形みたいなもんで、人格とかあったら面倒やからって、薬でそ
1941
の辺殺しとったんやって﹂
﹁なるほどなあ。仕掛けってのは、暗示か何かの事か。察するに、
こいつらが捕まった時に余計な情報を漏らさないように記憶を消す
か何かするための仕掛けが、何らかの理由で誤動作したってところ
だろうな﹂
出てきた情報から、大方レイオットが推測したのと同じ結論を出
す達也。嘘発見の魔法のおかげで、いちいち相手を疑わなくていい
のがありがたい。もちろん、嘘は何一つ言っていないが真実全てで
もないケースなどこの魔法では見抜けないものも多いが、今回の場
合はそれほど問題にならない。
﹁で、今日は何の用でこっちに来た?﹂
﹁殿下から許可をもらって、顔つなぎと今まで集めた情報の提供に﹂
﹁だ、そうだ。嘘は言ってない。﹂
とりあえず、がっちり結託している女性陣に判断を仰ぐ。達也本
人の考えとしては、正直信用は出来ないが利用はできそうだと言う
感じだが、宏の事を考えると排除した方がいいかも、と思わなくも
ないところである。
﹁信用できない﹂
﹁こいつ嫌い﹂
﹁こいつに頼るんだったら、他の方法考えた方がいいわね﹂
1942
見事なまでの敵認定にかなりショックを受けた様子の少女と、余
りに見事な連携に過去のトラウマがうずきガクガク震えている宏。
流石に宏が直接ひどい目にあったところを見ているだけに、春菜達
の間での認識は恐ろしいまでに一致しているようだ。
﹁そ、そんな⋮⋮﹂
﹁被害者ぶってるけど、信用できる理由があると思うの?﹂
﹁そうそう。先に師匠に危害を加えたの、そっちだし﹂
﹁それに、あんた何か隠してる目的があるでしょう?﹂
共通の敵に対して、結束して当たる春菜達。明らかに、意識が完
全に戦闘モードに切り替わっている。これから味方になるはずの相
手からの厳しい追及に、涙目になりながら小動物のように小さくな
る少女。これではどちらが悪者か分かったものではない。
﹁わ、わたしは危害なんか加えない⋮⋮。ただ、頑張って役に立っ
て、ハニーからご褒美をもらいたいだけなのに⋮⋮﹂
﹁ギルティ﹂
﹁ギルティ﹂
﹁ギルティ﹂
少女が漏らした本音に、三連続で有罪判決をぶつける女性陣。も
はやいじめそのもののような状況に、少女よりも宏の方が部屋の隅
でガタガタ震えながら命乞いをしそうになる。
1943
﹁おーい、ちょっと落ち着け﹂
そんな宏の様子を見かねた達也が、春菜達をなだめに回る。正直
なところ、真琴と澪はともかく、春菜がここまで過剰に攻撃的な反
応を示すとは思わなかったのだが、もてあまし気味の恋愛感情に振
り回されて空回りしてる女に冷静さを求めるのは酷なのかもしれな
い。しかも、事は下手をすればその惚れた相手の命に直結しかねな
いのだ。いかに理性的な春菜といえども、攻撃性を押さえきれない
のはしょうがないだろう。
﹁とりあえず、傍から見てるとどっちが悪者か分からなくなってる
ぞ﹂
﹁達也、あんたこいつが信用できるっていうの?﹂
﹁いんや。ただな、そいつが信用できるかどうかじゃなくて、ヒロ
が御覧のありさまだからな﹂
本当に部屋の隅でガタガタ震えて命乞いのような言葉を言い始め
た宏を見て、頭が冷えるを通り越して青ざめる三人。同じやるにし
ても、宏の目の前ではなくもっと別の場所でやらなければいけなか
ったのだ。
﹁それに、こいつは信用できねえが、お前さん達のやり方も人とし
てどうか、って感じだったからな。こいつが過去にやった事は簡単
に許しちゃいけない事だが、だからと言って何やってもいいって訳
じゃねえぞ﹂
﹁あ∼、ごめん⋮⋮﹂
1944
﹁⋮⋮すごく反省⋮⋮﹂
﹁⋮⋮そうだよね。今のはさすがに、人として駄目だよね⋮⋮﹂
宏の様子に加えて達也に諭され、自分達が相当やらかした事を自
覚する三人。これでは、宏の中学時代のクラスメイトを悪くは言え
ない。
﹁さて、頭も冷えた事だし、どうする? 俺としては、こいつは信
用できないが、利用はできなくもないと思ってる。ただ、ヒロの事
を考えるなら、出来るだけこっちに近寄って欲しくはないところだ﹂
﹁あたしは、利用する事自体も反対ね。宏の心の安全とあたし達の
精神衛生のために、出来れば一切の接触を断ちたいところよ﹂
﹁真琴姉に一票﹂
﹁ヒロは使い物にならないから、あとは春菜の意見だけだな。どう
する?﹂
達也の問いかけに即座に応えた真琴と澪の意見を聞いたところで、
出来るだけ冷静に自身の考えをまとめようとしている春菜に対して
結論を促す。冷静になった状態で同じ意見であれば、達也としては
異を唱えるつもりはない。
﹁私は、心情的には真琴さんや澪ちゃんと同じ。ただ、話を聞く限
り、宏君を襲った時は自我とか人格とか、ほとんど無かったんだよ
ね?﹂
1945
﹁殿下の手紙とかから察するに、恐らくはそうだろうな﹂
﹁だったら、贖罪と更生のチャンスを一回もあげないっていうのは、
流石にフェアじゃないと思う。だって、その頃は単なる道具だった
んだし﹂
﹁ってことは?﹂
﹁いくつか条件はあるけど、しばらくは様子見したい。私達が、裏
側の情報収集が出来ないのは事実だし、ね﹂
メンバーの中では、現時点では一番甘い意見を出す春菜。先ほど
までの妙な過激さが嘘のようだが、元々彼女は余り攻撃的な感情を
持続させるのが得意ではない。先ほどは宏の事で頭に血が上り、さ
らに真琴達と結託したためにどんどん言動が過激になって行ったが、
恐らく春菜一人だけだったら、無抵抗の相手をつるしあげるところ
までは行かなかったであろう。
﹁駄目かな?﹂
﹁いんや。見極める時間が必要、ってのは理にかなってるしな﹂
﹁心情的には納得いかないけど、宏の反応を考えるとそこが落とし
どころじゃないか、って気はするしね﹂
﹁何かあった時の排除方法だけきっちりしてれば、ボクは特に文句
なし﹂
冷静になれば、それなりに倫理だの人道だの道徳だのの持ち合わ
せはある一同。現状無抵抗の相手をどうこうするにはちょっとばか
1946
り善良すぎる事もあり、春菜の案に誰も異を唱えない。ただし、現
状では情を持つような相手ではない以上、敵対したり問題を起こし
たりすれば、命を奪うことも視野に入れた上で容赦なく排除するつ
もりではあるが。
﹁って事に決まったんだが、ヒロ?﹂
﹁ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい﹂
﹁おーい、戻って来い﹂
部屋の隅でガタガタ震えながら命乞いを続ける宏の頬を軽くたた
き、現実に引き戻そうとする達也。余りに過敏な反応に呆れそうに
なるが、よくよく考えれば達也ですら引くほどの状況だったのだか
ら、宏ならばこの反応もおかしくはないだろう。
﹁女怖い女怖い女怖い女怖い﹂
﹁今回ばかりは同意したくなるが、とりあえずいい加減戻って来い
って﹂
ちょっとやそっとのショックでは復帰しないと踏んで、とりあえ
ず宏の鞄から鍛冶用ハンマーを取り出して軽く頭をかち割る達也。
普通なら命にかかわるやり方だが、刃を殺してあるとはいえポール
アームが直撃してもダメージにならない男だ。達也の腕力で振られ
たまったくスキルの補正が無い小型ハンマーの衝撃など、そもそも
痛みを感じさせられるかどうか自体が怪しい。
﹁あいたあ!﹂
1947
これ以上は流石にやばいよなあ、などと思いながら叩き込んだハ
ンマーの衝撃で、とりあえず宏の目の焦点があう。どうやらちょう
どいいぐらいのダメージだったようだ。
﹁なんやなんや?﹂
﹁やっと戻ってきたか﹂
﹁何があったん?﹂
﹁お前、春菜達とあの暗殺者のやり取りにビビって、ガタガタ震え
ながら命乞いしてたんだよ。で、とりあえずこっちの話がまとまっ
たから、いい加減戻ってきてもらうためにこれで一発殴ったんだよ﹂
﹁⋮⋮兄貴、地味に過激やな⋮⋮﹂
﹁お前、普通のやり方じゃ、戻って来なかったんだよ﹂
どうやら命乞いをしている間の事は完全に記憶から飛んでいるら
しく、達也の言葉に不思議そうに首をひねり続ける宏。その視線が
元暗殺者の少女を捕らえたところで、色々思い出したらしくまたし
ても顔が青ざめる。
﹁とりあえず、あいつの処遇については、こっちの意見はまとまっ
てる﹂
﹁どないするん?﹂
﹁いくつか条件を付けた上で、本当にこっちに敵対する気が無いの
かどうかを見極めるためにいろいろ働いてもらうことにした﹂
1948
﹁⋮⋮まあ、レイっちがこっちに送り込んできた、っちゅう事は、
それなりに安全やっちゅう事やろうから、別にそれはかまへんねん
けど⋮⋮﹂
﹁まあ、不安なのは分かる。だから、条件付けだな﹂
そう言って、春菜に視線を向ける。達也の視線に一つ頷くと、頭
の中でまとめていた条件を口にする春菜。
﹁まず一つ目。私達の許可なく宏君と接触を持とうとしない事﹂
﹁えっ!?﹂
﹁二つ目。宏君と二人だけで話をするのは許さない﹂
﹁そ、そんな!?﹂
﹁三つ目。こちらから呼び出した場合を除き、私達と接触するとき
は、事前にレイオット殿下の許可を取ること﹂
﹁それはいままで通り﹂
必要な条件を淡々と並べて行く春菜と、その言葉に一喜一憂する
暗殺者。そのやり取りのおかげで、無表情のように見えて意外と表
情が豊かである事が分かる。
他にもあれこれ細かい条件を付けた後、ダールの現状に絡む情報
を受け取って話を終えようとする春菜。
1949
﹁とりあえず、せっかくの殿下の心遣いだし、これはありがたく有
効活用させてもらうね﹂
﹁出来たら、ご褒美が欲しい﹂
﹁それを要求できる立場だと思ってるんだ﹂
﹁うっ⋮⋮﹂
春菜の厳しい一言に、しおしおとしおれる暗殺者。
﹁それはそれとして、あなた、名前は?﹂
﹁⋮⋮レイニー。レイニー・ムーン﹂
﹁了解﹂
あれこれ長い戦いの後、ようやく自身の名前を告げる事に成功す
る元暗殺者・レイニー。名前を教えた事で、多少空気が軟化した感
じがして、少しだけ嬉しくなってくる。
﹁で、ご褒美って、具体的に何が欲しかったんだ?﹂
もっとも、その空気を読みながらわざと意地の悪い発言をした達
也のせいで、色々と台無しになるのだが。
﹁頑張ったから、ハニーにおっぱい揉んで欲しい﹂
﹁ちょっ!? 何やそれ!?﹂
1950
﹁有罪! やっぱり有罪!﹂
なかなかとんでもない発言をやらかしたレイニーに、若干緩くな
っていた空気があっという間に凍りつく。予想の斜め上の方向にか
っ跳んだ変態ぶりを見せつけられ、全力でどん引きどころか怯えす
ら見せる宏と、いろんなものをかなぐり捨てて獰猛な表情で有罪判
決を下す春菜。余りに余りの事に、他の三人は反応を決める事が出
来ずに凍りつく。
﹁やっぱり様子見とかやめる!﹂
﹁いや、確かに予想外だが、正直に願望を答えただけで反故にする
のは流石にどうかと思うぞ﹂
﹁放置してたら宏君が危ないにもほどがあるもん!﹂
﹁そんな羨ましい事、絶対に認められない、ってか?﹂
﹁違うよ!﹂
再びヒートアップした春菜を押さえるために、あえていじる方向
で状況をかき回す達也。春菜の意識が達也にそれた次の瞬間、澪で
すら補足しきれないほど見事に撤収してのけるレイニー。その様子
を唖然とした態度で見ていた真琴と澪が、我に返ってひそひそと話
しあう。
﹁ねえ、澪﹂
﹁ん?﹂
1951
﹁あれ、どう思う?﹂
﹁師匠のリハビリには、ある意味うってつけかもしれない﹂
﹁いいの、それで?﹂
﹁少なくとも、本気で師匠とキャッキャウフフしたいのは間違いな
いみたいだし、ボクとか春姉には、ああいう方向性で女体の恐怖を
取り払うのは無理っぽいし﹂
どうやら、澪的にはレイニーのあの言動は別に問題ないらしい。
﹁宏君!﹂
﹁な、なんや?﹂
﹁私が絶対守ってあげるからね!﹂
真琴と澪の言葉を聞きつけた春菜が、決意を新たにしたと言う感
じの表情でそんな事を叫ぶ。そのやたら真剣な表情と決意に満ちた
言葉に、全力でどん引きする宏。いろんな意味でペースが乱れてい
るこの時の春菜に関しては、後々まで宏を除くメンバー全員からい
じられる羽目になるのであった。
1952
﹁エル、アルチェム、そろそろダールに着くぞい﹂
南部大街道からダールへつながる街道、そのラストといえる位置
で同行者に声をかけるドーガ。商人の祖父とその孫、二人に仕える
使用人という設定があるため、ドーガは主であるエアリスに対して
それっぽい口調で声をかけている。他に誰かが聞いているわけでは
ないとはいえ、すでにダールの一般道なのだから、とっさのときに
それらしい反応を出来るように今の段階から馴らしておく必要があ
るのだ。
もっとも、お忍び︵と言っても、縁が無い人間が見ても分からな
いと言うだけで、関係者から見ると全然忍んでいないのだが︶でウ
ルスをうろうろする時も、大体の場合は祖父と孫と言う設定で行動
しているため、もはや本人達もこの偽装にまったく違和感が無いの
だが。
﹁一ヶ月以上かかるって聞いていたんですが、何かものすごく早く
着きましたねえ⋮⋮﹂
﹁そりゃあ、曲がりなりにもゴーレム馬車じゃからのう。それに、
一般人には使えん裏技を使い倒しておるんじゃ。これぐらい早くな
ければそのほうが問題じゃて﹂
﹁そういうものですか?﹂
﹁そういうものじゃ。それに、連中も本気を出せば、十日程度で十
分ダールに到着するしのう。もっとも、裏技を使えんはずの奴らが、
街道を通ってもその気になれば十日でダールに着く、というのは異
常なんじゃが﹂
1953
﹁あ∼、それはなんとなく分かります﹂
地味に一般常識が備わってきているアルチェムが、ウルスでの経
験を元にしみじみと頷く。案内兼護衛のテレスや女性冒険者達と一
緒に、ウルスだけでなく近隣の村まで乗合馬車などで行ったときの
移動速度と比較すると、ゴーレム馬車がとんでもないスピードなの
がよく分かる。
宏達が使っているという、これよりもっと速い移動手段というの
は、正直想像もできない。馬車というのは乗っている人間としては
意外と遅く感じるものだが、それでも時速六十キロを超えるゴーレ
ム馬車は、アルチェムの経験した最高速度を大きく超える。いくら
速度が分かりにくいといっても、さすがに時速何十キロの世界で約
三倍違えば速度の差は十分感じられるわけで、アルチェムが速い速
いというのも当然といえば当然である。
﹁それでお爺様、後どれぐらいでダールに到着するのでしょうか?﹂
﹁そうじゃなあ。まあ、一時間も見ておけば十分じゃろう﹂
窓の外を興味深そうに観察しながらのエアリスの質問に、おおよ
そのところを答えるドーガ。現時点でほぼ予定通りの日程で走って
いるため、何か大きなトラブルでもない限りは、今日中に十分ダー
ルに入れるだろう。
窓の外にはこの地域の特産である砂麦畑が広がっており、農民た
ちがせっせと雑草の処理をしているところが目に入る。もっとも、
視線の向け方を変えると、時折畑の切れ間から地平線まで見渡せる
ほど広大な草原が見え、この地域が起伏の少ない土地である事を嫌
が応にも思い知らせてくれるのだが。
1954
﹁しかし、よくもまあこれだけの数のカレー粉や醤油が間に合った
ものじゃ﹂
﹁工房の皆さんも村の皆も頑張ってましたから﹂
﹁ですが、ダールの気候で、こういったものが売れるのでしょうか
?﹂
一応商人の孫と言う設定になっているため、商売人として重要な
事を確認しにかかるエアリス。カレー粉はともかく、醤油やポン酢
は微妙なのではないか、と思わなくもない。ウスターソースやとん
かつソースはあるいは、と思わないでもないのだが。
﹁まあ、ダールで売れなんだら、フォーレかローレンで売ればよか
ろう。もっとも、連中がこの街に来て結構経つんじゃから、いい加
減このあたりの調味料を使った料理の一つや二つは出来ておるとは
思うが﹂
﹁そう言えば、ダールのお料理って、どんなものが多いんですか?﹂
﹁スパイスを良く効かせた、かなり辛い味付けのものが主体じゃな。
スパイス類は毒消しの作用があるものが多いからの。後、このあた
りは砂漠に近いから、少々水が高くての。煮込み料理も水を使うも
のではなく、羊乳やヤシの実の果汁なんかにスパイスをたっぷり混
ぜたつゆで煮込むものが多い﹂
﹁辛い味付け、ですか⋮⋮﹂
﹁うむ。大抵火を噴きそうなほど辛いか、酸味がきついかのどちら
1955
かになるのう﹂
ドーガの解説に、うええ、と言う感じの表情を浮かべるアルチェ
ム。オルテム村でもウルスでも、刺激の強い味の料理はカレーぐら
いしか食べていなかったため、極端に辛かったり酸っぱかったりと
言う味付けのものは苦手なのだ。むしろそういう料理は、エアリス
の方が強い。
ここに来るまでに食べた料理はスパイスの量こそ多めなれど、そ
れほど極端に辛いものは多くなかった。むしろウシやヤギの乳をベ
ースに果物で味を調えた、どちらかと言うとフルーティな甘さがベ
ースとなった料理の方が多かった。とは言っても、最後に食事をし
た場所から、既に普通の馬車で一日以上かかる距離を進んでいるの
だが。
﹁お主は、辛いものは苦手かの?﹂
﹁カレーとか、ウルスでの普通のスパイス焼きぐらいは平気なんで
すけど、火を噴くほどと言うのはちょっと⋮⋮﹂
﹁ふむ。まあ、テレスも似たような感じじゃったし、オルテムのエ
ルフは全体的に極端な味付けは苦手じゃと言う事かの?﹂
﹁多分、そうだと思います﹂
村で一般的に食べられている料理を思い出し、確信を持って頷く
アルチェム。そもそも、ベースとなる味付けがすべて鳥のガラとシ
イタケで取ったダシなのだ。香辛料の類もそれほど作っていない事
を考えると、余程の量の砂糖か塩をぶちこまない限りは、極端な味
付けになどなりようが無い。
1956
﹁まあ、エルの事もあるし、出来るだけ穏やかな味の料理を探しは
するがの。こればかりは地域性が絡む問題じゃからのう﹂
﹁お爺様、アルチェムさんの事はともかく、私の事はあまりお気に
なさらずに﹂
﹁いやいや。エルは料理もするんじゃから、あまり極端な味付けに
慣れるのはよろしくなかろう?﹂
﹁その地域では、その地域の味付けのものを食べてこそ、ですわ﹂
味覚に対する悪影響を心配するドーガに対し、チャレンジ精神旺
盛なエアリスは一歩も引かない。そのまましばらく押し問答を続け
た結果、お金に余裕があるんだったら多種少量の盛り合わせのよう
なものを用意してもらえばいいんじゃないか、と言うアルチェムの
提案により結論が決まる。
﹁⋮⋮ダールの城門が見えてきたのう﹂
﹁あれですか?﹂
﹁うむ、あれじゃ﹂
押し問答も終わってしばらくしたところで、ようやく最後の目的
地であるダール王国の首都・ダールが目視できる範囲に近付いてき
た。
﹁何やら、物々しい事になっていますわね﹂
1957
﹁そうじゃのう。何やらトラブルでもあったようじゃ﹂
﹁そういえば、妙に空が霞みがかっているような⋮⋮﹂
アルチェムの言葉に空を見上げる。確かに、砂漠へとつながる方
面が妙に霞みがかって見える。大規模な砂嵐の後はこういう天候に
なると聞いた事があるが、道中の休憩時には、そういう話は聞いた
覚えが無い。
﹁これは、街に入るには少々手間がかかりそうじゃのう﹂
﹁こればかりは、仕方がありませんわ﹂
﹁アルチェム、すまんが念のために、連中が出て来んようになだめ
ておいてくれんか?﹂
﹁そう言えば、あの子たち大人しいですよね﹂
ここ三日ほどの道中、ずいぶんと大人しかったオクトガルの事を
思い出し、そんな疑問とともに居場所として用意してあったタコつ
ぼを覗きこむ。それほど大きなつぼではないため、首から下げたり
鞄か何かのようにぶら下げることもできる。そんな小さなつぼの中
を確認すると⋮⋮。
﹁あれ?﹂
﹁どうなさいました?﹂
﹁いえ。中にいないなあ、と思って﹂
1958
﹁呼んだ∼?﹂
アルチェムの言葉に反応して、唐突にオクトガルがつぼの中に現
れる。
﹁何処行ってたの?﹂
﹁退屈だったから、ウルスのお城で遊んでた∼﹂
﹁出番∼? 出番∼?﹂
﹁あ∼、そうじゃなくて、これから検問だから、ちょっと大人しく
隠れててね、って言おうと思ってたの﹂
﹁りょうか∼い﹂
﹁お城で遊んでくる∼﹂
アルチェムの説明を聞いて、あっさり転移で馬車の中から消える
オクトガル達。どうやら、このつぼを持ち歩けば、何処にでも自由
に行き来出来るようである。恐らくこのつぼに限らずマーキングし
てある物資があれば、そこを移動先のポイントに指定できるのだろ
う。
因みに、オクトガルを連れ歩いている理由はそれほど大したもの
ではない。アルチェムとエアリスの荷物にこっそり紛れ込んでいた
奴がいたため、知らないところで余計な事をされるぐらいならと、
普通に同行させることにしたのだ。
﹁お城の皆様には、ご迷惑をおかけします⋮⋮﹂
1959
﹁まあ、しょうがあるまい。排除しようとして排除できる連中でも
ないからのう﹂
﹁本当に、ごめんなさい⋮⋮﹂
アルチェムの責任でもないのに非常に申し訳なさそうにしている
のを見て、思わず苦笑してしまうエアリスとドーガ。既にオクトガ
ルが日常の風景に組み込まれているのだから、今更来なくなったと
したら、むしろ寂しがる人間の方が多いと言う事は分からないらし
い。
﹁さて、そろそろわしらの番じゃな﹂
ややピークの時間からはずれているからか、案外待たされずに街
に入る手続きが始まる。
﹁証明書、確かに確認しました。ドル・オーラ殿で間違いございま
せんね?﹂
﹁うむ。間違い無く、ファーレーンで御用商人をさせてもらってお
る、ドル・オーラじゃ﹂
﹁女王陛下と神官長様から手紙を預かっております﹂
﹁ふむ?﹂
﹁特に荷物に不審な点もありませんので、このままお通りいただい
て結構です﹂
1960
﹁手間をかけたな﹂
門番に入国審査の手数料に多少の心付けを上乗せした金額を支払
い、そのまま門をくぐる。門番の注目が外れたところで、エアリス
が双方の手紙を確認する。
﹁⋮⋮お爺様﹂
﹁なんじゃ?﹂
﹁このままこの街のイグレオス神殿にご挨拶に伺った後、真っ直ぐ
宮殿の方へ向かいましょう﹂
﹁⋮⋮ややこしい話か?﹂
﹁そこまでは分かりませんが、どうやらこのまま私達がこの街で普
通に宿をとるのは、少々問題があるようですわ﹂
﹁ふむ、分かった。ならば、このまま神殿に向かうかの。幸い、道
の方は以前来た時とそう変わっとりゃせんようじゃし﹂
エアリスの申し出を聞き入れ、そのまま真っ直ぐイグレオス神殿
に向かうドーガ。後一時間早ければ神殿で宏達と会えたのだが、ど
うやら運命はこの段階での遭遇を望んでいなかったようだ。結局、
この日は宏達の拠点を調べる暇も無く、王宮の方で一夜を過ごすこ
とになる姫巫女一行であった。
1961
﹁ファーレーンの姫巫女殿は、実にすばらしい娘じゃのう﹂
﹁⋮⋮国際問題になりますので、絶対に手を出さないで下さいよ?﹂
﹁お主は妾を何じゃと思っておる? 流石にあの年の娘に手を出す
ほど落ちぶれてはおらぬ﹂
﹁それを信用できないから申し上げているのです﹂
姫巫女一行を受け入れた王宮では、女王とその腹心が、例によっ
て例の如く、漫才のような会話を繰り広げていた。
﹁ついでに言うならば、あのエルフの巫女殿にも手を出さないで下
さいよ?﹂
﹁あれはおそらく、胸を揉まれる程度なら慣れておる感じじゃし、
本番でなければ問題なかろう?﹂
﹁大有りですよ⋮⋮﹂
ここのところ少々禁欲生活が続いたからか、どうにもタガが緩ん
でいる感じの女王の言動に、とにかくひたすら頭を抱えるしかない
セルジオ。正直、神のお気に入りである巫女達に遊びで手を出すな
ど、後々の怖さを考えれば勘弁してほしいところである。放任主義
でおおらかなアランウェンはともかく、アルフェミナはいまの姫巫
女に対して非常に過保護だと聞く。しかも、アルフェミナの姫巫女
は普通に未婚のファーレーン王族で、その上まだ月のものすら来て
1962
いない年頃だ。彼女に手を出すのは、何重もの意味で問題がありす
ぎる。
﹁それにしても、タイミングが良かったのやら悪かったのやら﹂
﹁微妙に判断に困るところですね﹂
﹁一応確認しておくが、姫巫女殿はどういう扱いになっておる?﹂
﹁表向きは、ファーレーンに駐在しているダール大使の紹介を得た
ファーレーンの御用商人、と言う事になっております。魔道具で外
見も変えていますので、ドーガ卿が武人である事に気がつくものは
居ても、あの一行が姫巫女であると言う事に気がつく人間はいない
でしょう﹂
﹁もっとも、姫巫女殿の物腰や雰囲気を考えると、単なる商人の娘
だと思う人間も少なかろうがな﹂
﹁そこまではどうにもなりません﹂
エアリスのまだ十一歳とは思えぬ物腰や立ち居振る舞いを思い出
し、その記憶の中の所作に思わず小さく感嘆のため息を漏らす。何
度思い出しても見事の一言で、あそこまで綺麗で周囲に対する配慮
に満ちた所作を日常的に行える人間はそうはいない。自分達も含め
て、ダールの貴族には彼女に太刀打ちできるほど品の良い人間はい
ないだろう。
﹁全くもって、一体どのように育てれば、あの年であれほどの女に
育つのか、その秘訣を教えてほしいぞ﹂
1963
﹁教わったからと言って、恐らく実践は難しいでしょうが⋮⋮﹂
﹁そうじゃろうな。それに、バルドとカタリナ一派が排除されるま
での境遇が決め手だと言うのであれば、リスクの方が大きすぎてと
ても参考にもならん﹂
﹁あの状況で国が持ったのは、ファーレーンだからでしょう。ダー
ルで同じ状況になれば、あっという間に泥沼の内戦に突入です﹂
﹁当然じゃ。あれだけ自身の手足を縛っておったと言うのに、あそ
こまで王室の影響力が維持できている国など、そうあってたまるか﹂
王家にそこまでの力が無いダールの場合、自国の王女がかつてエ
アリスのように無能でわがままで残酷だという風評が立ってしまえ
ば、一気に現王室の解体にまで話が進みかねない。その上ファーレ
ーンと違って、ある程度王家の血が混ざっている人間さえ確保して
おけば血統魔法の維持は問題なく出来るとくれば、強硬策で問題を
起こした現王室を排除しても、トップが変わることによる混乱の発
生以外に困る事が無いのだ。
その上、ダールにはアルフェミナの姫巫女のように、王室が直接
関わっている権威はあるが権力は無い類の、本人の人格や能力に一
切関係なく、特定の先天的な資質の有無とその強さだけで誰が就任
するかが決まる類のポストは存在しない。つまり、問題児扱いされ
てしまえば、その命や身分を維持できるような制度にはなっていな
い、と言う事である。
ファーレーンの場合、王族男子の子供か姫巫女およびその候補の
子供にしか血統魔法が受け継がれないと言う事もあって、そう簡単
に現王室を解体して、と言う訳にはいかなかったのが、先の騒動で
1964
泥沼の内戦に突入せずに済んだ最大の理由だ。法や国内の感情の問
題で強硬に出る事が出来ず、貴族達になめられていた部分は確かに
あったが、大貴族の支持や忠誠までは失われていなかったために、
間一髪とは言えそれほど大きな問題にならなかった。他の国では、
おそらくカタリナの反乱を待つまでも無く国が崩壊していたであろ
う。
﹁何にせよ、ファーレーンはますます強靭な国になるじゃろうなあ﹂
﹁次代を担うものが皆、国外に対しては穏健派である事が救い、と
言うところでしょう﹂
﹁そもそも、外征などあの姫巫女殿が許しはしまいよ﹂
ここ半年ほどで国民からの人気をこれでもかと言うぐらい集めた
エアリス。いかに権力の無い姫巫女とはいえ、彼女が反対するよう
な事を強行できるほど、貴族達の支持基盤は厚くない。それに、外
征を行ったところで得る物が少ないのは、ダールやフォーレの側だ
けでなく、ファーレーンの方でも同じ事なのだ。それならまだモン
スターの駆除回数を増やした方が、素材的にも治安的にも余程プラ
スが大きい。
少なくとも、西方地域で国と国との大規模な争いが起こる心配は、
当面はなさそうである。
﹁さて、とりあえず明日の事じゃ﹂
﹁はい﹂
﹁連中と姫巫女殿一行は縁浅からぬ関係じゃし、一緒の席で歓待す
1965
る方がよさそうじゃのう。そういう意味では、今日到着してくれた
のはいいタイミングじゃった。急な変更が重なってすまんが、調整
を頼む﹂
﹁御意﹂
女王の言葉に一つ頭を下げ、明日の調整のために部屋を出て行く
セルジオ。変更が重なるとはいえ、女王の言葉の通り渡りに船では
ある。これで、どの程度の歓待をすべきかという点に頭を悩ませず
に済むのだから。
﹁さて、明日がどうなるか、楽しみじゃ﹂
あれこれ波乱の予感がする状況に、心の底から楽しそうに笑う女
王。ダールでの物語も、そろそろ転換点を迎えようとするのであっ
た。
﹁あら、ヒロシ様?﹂
﹁⋮⋮エルか?﹂
﹁はい。このようなところで会うなんて、奇遇です﹂
﹁なんか、仕組まれとる気がひしひしとするけどなあ﹂
1966
翌日の十時ごろ。工房での朝食を終え、迎えの馬車に乗って城に
入り、女王の身体が空くまでの間城を見学していると、同じように
城を見学していたらしいエアリス一行と遭遇する。ノートン姉妹は
何やら重要な話があると城に詰めている神官に呼び出され、この場
にはいない。
﹁で、お前さん達は、どういう設定でここに?﹂
周囲に誰もいない事を確認し、小声でエアリス達がどういう立場
でこの場にいるのかを確認する。
﹁わしはファーレーンの御用商人、ドル・オーラじゃ﹂
﹁孫娘のエル・オーラです﹂
﹁お二人の側仕えをしております、アルチェムです﹂
﹁なるほど﹂
エアリス達の設定を聞き、妙に納得して見せる達也。恐らく、部
外秘の重要な商談と言う名目で滞在しているのだろう。
﹁エルちゃん、ドルおじさん﹂
﹁なんじゃ?﹂
﹁その設定、必要だったの?﹂
春菜の素朴な疑問に、思わず苦笑を浮かべるエアリスとドーガ。
1967
実際、普通ならばエアリスの場合、他所の国に行くのであれば姫巫
女と言う立場を前面に出して国賓待遇で出向くべきであり、わざわ
ざ妙な設定をこねくり回してお忍びのような形で他国の王家と接触
する理由はないはずである。少なくとも、現在のファーレーンの状
況から考えれば、わざわざエアリスが正体を隠さなければいけない
理由は思い付かない。
﹁普通ならば必要はないのですが、今回は私が本来の立場で外遊す
るには少々時期尚早だと言う意見が多かったことに加え、自由に動
きづらい国賓待遇だと困るという事情もありまして﹂
﹁あたし的には、物見遊山のためにその設定、って言うんだったら
流石に年長者としてちょっとお話が必要だと思うけど?﹂
﹁そういう訳ではありません。ただ、各地の巫女様と色々とお話を
するのに、内容的に衆人環視の前でと言うのは、少々問題がありま
すの。それに、私が接触を持ったと言う事が知られると具合が悪い
事情もありますので、今の時期に国賓待遇で、と言うのは巫女とし
てもちょっと﹂
﹁何だかややこしい事情がありそうねえ﹂
﹁ええ。少々ややこしい事情があります。ねえ、アルチェムさん?﹂
﹁本当に、ややこしい事情があるんですよ⋮⋮﹂
エアリスに話を振られ、いろいろ先行きが不安そうな表情で力な
くこぼすアルチェム。年齢だけで言えばドーガとそれほど変わらな
い彼女だが、人生経験の濃度と言う面では、この場で最年少のエア
リスにすらはるかに及ばない。今回のように、ある種の場数を踏ん
1968
だ経験が必要な場面では、いろいろと不安の方が先立つ。
﹁と言うか、アルチェムをウルスから連れ出して、大丈夫なのか?﹂
﹁そもそも、エルフをメイドにするっていう設定、微妙に無理を感
じる﹂
達也と澪に疑問点、と言うか不安なポイントを指摘され、苦笑を
浮かべるしかない姫巫女一行。家事能力に関してはともかく、それ
以外の部分で非常に無理がある事ぐらい、言われなくとも本人達も
理解しているのだ。そこら辺をどう伝えようかと少し迷っているう
ちに、ドーガの腰にぶら下がっていた小さなつぼから、唐突に数匹
のオクトガルが飛び出してくる。
﹁エルフ∼﹂
﹁巨乳∼﹂
﹁メイド∼﹂
﹁巫女∼﹂
﹁それなんてエロゲ∼?﹂
﹁やかましい!﹂
微妙に思っていた事を言われ、思わず全力で突っ込みを入れる達
也。本人のせいではないとはいえ、アルチェムの属性は並べてみる
と妙にいかがわしくなるものが多い。
1969
﹁つうか、こいつらといつの間に知り合いになってたんだ?﹂
﹁四月頭ぐらい∼﹂
﹁チェムちゃんの荷物に潜り込んでこっそり来たの∼﹂
﹁お城でエルちゃんと遭遇∼﹂
﹁遺体遺棄∼﹂
﹁何の遺体を遺棄したんだよ⋮⋮﹂
相変わらず唐突に遺体遺棄と言う単語を持ち出すオクトガルに、
どっと脱力しながらも律儀に突っ込みを入れる達也。いちいち突っ
込んでいては話が進まないと分かっていても、突っ込まなければそ
れはそれで話が進まないのが悩ましいところだ。
﹁まあ、心配せんでも、仕事が止まるほどの悪戯はしておらんよ﹂
﹁全然安心できへんのは何でやろうなあ?﹂
﹁あははははは⋮⋮﹂
流れるような台詞の応酬に、何とも言えない表情で乾いた笑い声
を上げるアルチェム。彼女自身も基本的には被害者なのに、オクト
ガルがアランウェンの眷族だと言うだけでどうしても責任を感じざ
るを得ない。地味に損な性格をしているエルフである。
﹁っと、誰か来とる﹂
1970
﹁はいはい、隠れて隠れて﹂
﹁は∼い﹂
﹁ちょっと戻ってる∼﹂
どうやら彼らに用があるらしい誰かの足音を聞きわけ、大慌てで
オクトガル達に退散を指示する。指示に従いオクトガル達がどこか
に転移をし終えたところで、堅苦しい印象の中年にさしかかった頃
合いの年頃の男が声をかけてくる。宏達を迎えに来た男で、女王の
腹心であるセルジオと言う人物だ。
﹁お話し中申し訳ありません。陛下の準備が整いました。お茶を用
意しましたので、こちらへいらしてください﹂
﹁分かりましたわ﹂
﹁了解です﹂
多分オクトガルを見られただろうなあ、などと思いながら、一度
ここに出てきた以上、連中なら好き勝手出入りするから一緒だとい
う結論に思い至って、細かい事は考えない事にする一行。とりあえ
ず問答無用で成敗されないように、状況を見計らって女王とその腹
心には話を通しておいた方がいいだろうと、別に気にしなければよ
さそうな事を考えてしまうあたり、なんだかんだで全員オクトガル
達を嫌いではないらしい。
そのまま、よく分からない道を五分ほど連れまわされ、微妙に辺
鄙な位置にあるやや寂びれた感じの小屋に案内される。
1971
﹁良く来られた。妾が女王のミシェイラじゃ。このような場所で申
し訳ないが、少々公の場では話しづらい事柄も話したいのでな。不
便をかけるが、了承してほしい﹂
﹁こちらとしても願ったりですので、お気になさらず﹂
女王の言葉に対し、視線で案内の男に確認を取った上で、この場
のメンバーを代表してドーガが答える。エアリスでは無くドーガな
のは、念のために表向きの立場にのっとってである。
﹃なあ、ちょっとええか?﹄
明らかに毎日屋台に来ては売り物を全種類制覇して、歌まで堪能
して帰っていく例の女性が女王だった事に戸惑っていると、宏が念
話式のパーティチャットで話しかけてくる。
﹃どうしたの?﹄
﹃あれ、ほんまに女王様か?﹄
﹃ドルおじさんの態度を考えれば、間違い無く本物だと思うんだけ
ど﹄
﹃何か問題があるのか?﹄
宏が唐突にパーティチャットで言いだした疑問に、必死に表情を
取り繕いながらも更に大きくなった戸惑いを隠しきれない日本人一
行。そんな彼らに、かなり大きな爆弾を投下する宏。
﹃恐らくやけど、この人アルヴァンやで﹄
1972
﹃⋮⋮は?﹄
宏が投下した爆弾に、辛うじて反応を示せたのは春菜のみ。他の
三人はそもそも何を言われたのかが理解できず、完全に動きが止ま
っている。
﹁お主ら、何か言いたそうじゃのう?﹂
﹁あ∼、ちょっと口に出すんははばかられる話ですねんけど⋮⋮﹂
﹁何、この場で何を言ったところで、口外するような者は居らぬ﹂
﹁それでもやっぱり怖いんで、質問事項は紙に書いた上で、陛下が
確認したらすぐに燃え尽きるようにしますわ﹂
何とも迂遠な事を言って、ポシェットからメモ用紙とボールペン
を取り出して何やら簡易エンチャントを施しながら質問事項を書き
つづる宏。そのメモ用紙を二つ折りにして女王以外に中を確認でき
ないようにした上で、念のために腹心に許可を取って直接手渡しす
る。
メモ用紙に記載された内容を見た女王は一瞬驚きの表情を浮かべ、
すぐさま苦笑を持ってその驚きを誤魔化す。中身を知らない腹心と
姫巫女一行がその様子を見て、よほど大きな爆弾を投下したのだろ
うと判断する。もっとも、すでにメモ用紙は完全に燃え尽きており、
何が書かれていたかは余人にはもはや確認することすらできないの
だが。
﹁まったく、よもや見破られるとは思わなんだ。流石は知られざる
1973
大陸からの客人、と言う事かの?﹂
﹁っちゅう事は、やっぱり?﹂
﹁うむ。質問の内容については、肯定しておこう。じゃが、心配せ
ずとも、妾は間違いなく本物の女王じゃ。ドル殿とエル殿ならば、
その事を証明してくれよう?﹂
﹁うむ。この方はまぎれもなく女王陛下ですじゃ﹂
﹁どのような質問があったかは存じ上げませんが、まぎれもなくミ
シェイラ陛下はこの国で最も尊いお方です﹂
ドーガとエアリスの力強い断言に、かえって混乱の色を大きくす
る日本人一行。その様子に苦笑し、まどろっこしい状況を変えよう
と話を進める事にする女王。
﹁少々ややこしい事になったようじゃ。茶を運ばせたら完全に人払
いをするから、少々待つがよい﹂
﹁あ∼、すんません、ややこしい事言うてしもうて﹂
﹁なに、ばれてしまったのは妾の未熟じゃ。妾とて、汝の立場であ
れば何とか確認しようとするしのう﹂
などと笑って言い切って、控えていた侍女に茶と茶菓子を運ぶよ
うに命じる。
﹁さて、とりあえず座ったらどうじゃ?﹂
1974
﹁それでは失礼しまして﹂
女王の言葉に従い、特に席順の類を考えずに大雑把に着席する一
行。どういう順番が正しいのか、と確認しようとしたところ、まど
ろっこしいからとっとと座れと言われてしまう一幕もあったが、女
王のおおらかさゆえにこれと言って揉めることなく話が進んで行く。
﹁折角来てもらったからのう。茶菓子はわが国が誇る名産品を用意
させた。もっとも、まだまだ生産量が少なくて、原料はともかく加
工品の方は余り沢山は用意出来んがのう﹂
﹁名産品、ですか?﹂
﹁うむ。何、すぐに分かる﹂
そう言って、客人達の反応を楽しみにしていると言う様子で茶菓
子が運ばれるのを待つ女王。それからほどなく、音を立てずにカー
トを押してきた侍女が、一口サイズの小さな黒い欠片がいくつか乗
った皿を、客人達の前に一つずつ並べて行く。
﹁⋮⋮えっ?﹂
﹁⋮⋮もしかして、これって⋮⋮﹂
﹁ちょっと待て! これヤバいんじゃねえか!?﹂
女王とエアリスの前に置かれた皿を見て、顔色を変える達也達。
もっとも、それ以上に大きな反応を示す男が一人。
﹁⋮⋮﹂
1975
﹁ひ、宏君⋮⋮、だ、大丈夫⋮⋮?﹂
予想、と言うより覚悟していたよりも激しい反応に、隣に座った
春菜が恐る恐る声をかける。だが、宏は目の前のものに対する恐怖
で、春菜の言葉に何一つ反応しない。正確に言うなら、彼の反応は
侍女がカートを持ちこんだ時点で始まっていた。
﹁⋮⋮何か、まずかったかの?﹂
﹁女王陛下が厚意でこの貴重なお菓子を出してくださった事は分か
ります。私達も故郷に居た時は良く食べていましたし、基本的には
大好きなお菓子ですから﹂
﹁⋮⋮お主らの故郷にも、これがあるのか﹂
﹁ええ。ですので、人によってこれのせいでひどい目にあう事もあ
る、と言う事で⋮⋮﹂
春菜の言葉に、それと知らずに地雷を踏んだ事を悟る女王。この
場にいる人間の視線は、チョコレートの乗った皿を前に完全に凍り
つき、瞳孔が開いて顔色が土気色になった宏の姿をとらえていた。
1976
第11話
﹁⋮⋮どこや、ここ?﹂
必死になって呼び掛けてくる声。それに引き寄せられるように、
内にこもっていた宏の意識が浮上する。
﹁宏君!﹂
﹁正気に戻ったか⋮⋮﹂
外に意識を向けて真っ先に視界に入ってきたのは、まったく見覚
えのない部屋の内装と泣きそうな顔をしている春菜、そして心底ほ
っとしている様子の達也の顔であった。
﹁兄貴⋮⋮? 春菜さん⋮⋮?﹂
﹁状況を説明する前に確認だが、ヒロ、何処まで覚えてる?﹂
﹁⋮⋮ちょう待って⋮⋮﹂
達也に聞かれ、覚えてる最後の光景を必死になって手繰る。
﹁えっと、確か、王宮に来て、エルとかと会うて、女王陛下のお茶
会に参加するって話になって⋮⋮﹂
そこまで思いだしたところで、急激に体が震え始める。お茶会の
時に何かあった。それは覚えているのだが、何かは思い出せない。
1977
ただ、凄まじい恐怖に耐えきれなかった事だけは思い出せる事から、
女性恐怖症関連の何からしい、という推測はできる。
﹁分かった。大体分かった。だから、無理に思い出さなくていい﹂
﹁宏君、大丈夫、大丈夫だから⋮⋮﹂
思い出そうとするだけで過剰な反応を示す宏に、無理に思い出さ
せようとしない方がいいと判断し、そこで話を終わらせようとする
二人。この分では、チョコレートが出てきた事について今話をする
と、いろんなことが振り出しに戻りそうだ。
﹁⋮⋮なんか、申し訳ない感じや⋮⋮﹂
﹁気にすんな﹂
この場にいる二人の対応からいろいろな事を察し、何とも申し訳
ない気分になる宏。本能が拒絶するため何があったかは思い出せな
いが、少なくともかなり大変な事になったのは分かる。しかも、非
公式とはいえ女王の前での粗相だ。問答無用で無礼打ちされても文
句は言えない。
わざわざこんな部屋を用意してくれているあたり、女王サイドも
今回の件を大事にする気はないようだが、それでも粗相をしたとい
う事実は消えない。そんな状況での後始末を仲間達に押し付けてし
まったのは、本当に申し訳ないとしか言えない。
﹁それで、今どういう状況なん?﹂
1978
﹁細かい話は後回し、まずは完全に立ち直ってからだ。状況を説明
するとなると何があったってところからスタートになるから、今の
状態だとまた同じ事になりかねん﹂
﹁今は無理しちゃ駄目だよ﹂
﹁ほんま、重ね重ね申し訳ないなあ⋮⋮﹂
どうにも仲間にいろいろと洒落にならないレベルで心配と迷惑を
かけてしまった事に、今までにないぐらい恐縮する宏。周りから見
れば避けようが無かったトラブルだとはいえ、かなり後処理が面倒
な問題を起こした事は事実な上、関わっている相手はレイオットの
ようにある程度気心が知れた王族という訳ではない。
自分自身でもどうにもならない部分があるとは言えど、毎回毎回
同じ事で仲間に迷惑をかけると言うのは、宏本人にとっても不本意
な話ではある。だが、いくら意気込みがあろうと気合を入れようと、
そう簡単に克服できないのが恐怖症の類である。レイニーとのやり
取りの時にあれだけ怯えていたというのに、原因の一人である春菜
と一緒の部屋にいて大丈夫であるだけでも、元々の症状からすれば
かなり改善しているのだ。後はもう、積み重ねしかない。
﹁そう言えば、真琴さんと澪は?﹂
﹁エルちゃん達と情報のすり合わせ中。これからどうするかは女王
様も含めて話し合う必要があるから、色々な事が落ち着いてから、
もう一度話し合いの場を用意するって﹂
﹁なるほど、了解や﹂
1979
﹁でもまあ、女王様も忙しいみたいだし、今日は流石にそんな時間
は作れそうもないって﹂
﹁なんかもう、本気で申し訳ない事してしもうたなあ﹂
﹁それはもういいから﹂
どこまでも申し訳なさそうにしている宏に優しく微笑みかけ、な
だめるように声をかける春菜。そのまるで聖母のような微笑みを見
て、昨日のレイニー相手の剣幕とは大違いだと、女の表情の多彩さ
というやつに感心ともあきれともつかない感想を抱く達也。
﹁それで、お腹すいてない?﹂
﹁あんまり食欲はあらへんなあ⋮⋮﹂
﹁そっか﹂
﹁っちゅうか、どんぐらい逝っとった?﹂
﹁三時間ぐらいってところか。昼はとっくに過ぎてるな﹂
﹁じゃあ、皆飯は食うたん?﹂
﹁一応は、な。アルコールがきつい料理と辛い料理が結構多かった
から、春菜と澪とエルはそこらへんちょっとメニューを変えてもら
うことになっちまったが﹂
水が貴重なダールでは、水の代わりに酒を使う料理もかなり多い。
昼間から屋台で買えるようなものにはアルコールが入っている物は
1980
少ないが、ほとんどの煮込み料理は酒かヤシの果汁か動物の乳にス
パイスを混ぜ込んだもので煮込む。その時に殺菌作用を少しでも強
くするためか、あまりアルコールが飛ばないように工夫して煮込む
ものも少なくないため、物凄く辛い上に酒の味がするスープやシチ
ューも結構多いのである。
﹁なるほど。兄貴の感想は?﹂
﹁ああいう味が基本だと、関西風のうどんとかはあんまり受けねえ
だろうなあ﹂
﹁⋮⋮屋台について文句言うとる癖に、屋台前提の感想が出てくる
んってどうなん?﹂
﹁癖みたいになっちまってるからなあ⋮⋮﹂
宏達と行動するようになって九カ月ほど。地味に達也も屋台思考
が染みついているらしい。
﹁まあ、そういう訳だから、エルもアルチェムも、流石にちっと苦
戦してたな﹂
﹁さよか。それやったら、晩飯の時には気合入れとかんとあかんか﹂
﹁その方がいいかもな。ま、それほど辛くねえのもあったから、そ
こまで心配しなくてもいいとは思うがな﹂
出てきた料理についての情報を述べて、片時も離れる気はないと
全身で意思表示を示す春菜を残し、真琴達に宏が正気に戻った事を
告げに出る達也。
1981
﹁ご飯が要らないんだったら、何か飲む?﹂
﹁せやなあ。なんか頼んでええ?﹂
﹁うん。何がいい?﹂
﹁任せるわ﹂
喉は乾いているようだが、これと言って飲みたい物も思い付かず、
春菜に丸投げする宏。その意を受けて、すきっ腹にダメージを与え
ないように、刺激の少ない穏やかなタイプのハーブティを用意する
春菜。こちらの世界固有のハーブを使うもので、牛乳などを入れる
と空腹をある程度満たしながら乳製品特有の胃もたれなどを抑えて
くれる、マイルドな味の飲みやすいお茶である。
﹁はい﹂
﹁ありがとう﹂
﹁他に何か、欲しいものとかあったら言ってね﹂
﹁今は大丈夫や﹂
飲みやすい温度に調整されたハーブティーを一口飲み、何処とな
くほっとした表情を見せる宏。どうやら、無意識のままにかなりい
ろいろな事に対して気を張っていたらしい。なんとなく警戒を続け
ていた宏がようやく肩の力を抜いたのを見て、心の底からの安堵と
喜びの感情が浮かぶ春菜。
1982
自分がとことんまで宏に惚れこんでしまったらしいとまたしても
自覚しながら、この穏やかな時間がもっと続いて欲しいと切に願っ
てしまう春菜であった。
﹁で、大体予想はついとるんやけど、そろそろ僕が何やらかしたか
教えてくれへん?﹂
夕食が終わり、あてがわれた部屋に引き揚げたところで、こっそ
り隔離結界を張りながら仲間達に問いかける宏。流石にもう夜も十
時を過ぎているのだ。いい加減精神的にも落ち着いているし、覚悟
を決めればかなりショックな内容でも取り乱せずに聞く事が出来る
はずである。
なお、当事者だと言う事で、エアリス達も同席している。ノート
ン姉妹は何やら城に来たくなかった理由に関するあれこれで、どう
にも今日明日ぐらいは身体が空かないらしい。城に来てからは晩餐
の席以外では顔を見ていない。
因みにこの隔離結界、念のために女王だけは除外設定してある。
﹁話すのは問題ないけど、アンタ本当に大丈夫なの?﹂
﹁不意打ちやなかったら、根性入れればさっきみたいな事にはなら
へん、はずや﹂
1983
﹁感じ悪い事をあえて言わせてもらうけど、あたしとしては正直、
今回に関しては何回もフォローするのは嫌よ?﹂
﹁分かっとる。僕も正直なところ、聞かんでええんやったら聞かん
と済ませたいとこやけど、それはいろいろまずそうやん﹂
きつめの言葉とは裏腹に、なんだかんだいってそれなりに心配し
ている様子を見せる真琴。そんな彼女に対して、どうにもならない
であろう現実を突きつける宏。分かっていた現実に小さくため息を
つくと、余計な事を思い出させないように出来るだけ簡単に何があ
ったかを説明する事にする。
﹁何があったかは簡単よ。お茶受けにチョコレート、こっちではカ
コラって言うらしいんだけど、それが出たのよ﹂
﹁⋮⋮やっぱりか。それで、大体の事は思い出したわ﹂
真琴の説明を聞き、微かに震えながらどうにか冷静さを保って静
かに呟く宏。その様子に、どうにも心配が止まらない一同。
﹁ヒロシ様、あまりご無理をなさらないように⋮⋮﹂
﹁状況的に、多少は無理せんとあかんからなあ。悪いんやけど、こ
れぐらいはちょっと見逃して﹂
﹁⋮⋮これ以上は、と言う状況になりましたら、私と春菜様が力ず
くでも話を終わらせます。それでよろしいですね?﹂
﹁了解や﹂
1984
どういったところで宏が引くような状況ではないと判断し、ため
息交じりに妥協するエアリス。下手に精神力が強いからか、時折と
ことんまで我慢してしまうのが怖いところだ。
そのまま、宏が思いだしたであろう内容と実際に起こった事、そ
れらについて確認を終え、その後どうなったかについて詳しい話を
終えたところで、達也が思わずといった感じでため息とともに思っ
た事を口にする。
﹁しかし、ヒロ﹂
﹁何や?﹂
﹁それだけチョコレートが怖いのに、向こうでよく普通に生活出来
たな。買い物の時とか、どうしてたんだ?﹂
﹁ある、っちゅうんが分かってる場所やったら、どうとでもできる
で。スーパーとか、チョコレート製品が置いてある場所はしれとる
から、お菓子コーナーと新製品コーナーに近寄らんかったらそんな
に問題にならへん。どうしても近寄らなあかん時は、根性入れて出
来るだけ早く通り過ぎるようにしとったし。まあそもそも、僕の個
人的な買い物はほとんどネット通販でどうにかしとったから、普通
の店で買い物するんも月に一回あらへんぐらいやったし。それに、
チョコレートは怖いけど、嫌いな訳やないんよ。せやから、写真と
か絵で見る分には恐怖症も出えへんし﹂
宏の言葉に、妙に納得する。そもそも宏の場合、チョコレートの
問題が無くてもスーパーマーケットなどでの買い物はハードルが高
い。曜日や時間帯にもよるが、少なくともスーパーマーケットはウ
1985
ルスの平均より大幅に人口密度が高い。しかもスーパーマーケット、
特に食品スーパーの場合、全体的に男女比が女性に偏っている事が
多いため、女性恐怖症の宏には中に入ること自体が非常に覚悟がい
る行動となる。
これがコンビニになると人口密度によるハードルは下がるが、今
度はチョコレートと距離を取るのが面倒なことになる。そのため、
これまたよほどの理由が無い限りはコンビニに入って買い物、など
と言う事は考えない。
そんな状況でよく普通に高校に通えるものだ、と思わなくもない
が、宏達が住んでいる地域が都会的な田舎、と言う感じで、通って
いる高校もそんなに人口が多い地域にはないため、登下校および校
内に居る時の人口密度がウルスを大幅に下回っている。もっとも、
宏と春菜が住んでいる市自体はとある財閥の本拠があったりVRシ
ステムをはじめとした様々なオーバーテクノロジーを開発した天才
が住んでいたりと知名度そのものは高く、さまざまな産業も発達し
ているため人口そのものは多い。そのため、駅前や繁華街などは大
都市圏にも負けない賑わいを見せていたりするのだが。
﹁っちゅうか、自分らがほんまに聞きたいんって、何でそこまでチ
ョコレートが怖なったか、やろ?﹂
﹁そりゃ、ここまでの事だから、な。後々フォローするためにもあ
る程度の事は聞いておきたいが、お前さんの古傷えぐってまで聞く
気はねえよ﹂
﹁ヒロシさん、無理はいけません﹂
﹁そもそもヒロシよ。お前さんのその恐怖症、わしらが経緯を知っ
1986
ておったからといって、問題の解決に役に立つものなのか?﹂
﹁まあ、解決にはならんやろうなあ﹂
ドーガの疑問に、苦笑しながら同意する宏。実際、知ったところ
でどうなる訳でもない。話をすることで信頼している事を示す、な
どと言うのも今更すぎる。まったく無意味ではなかろうが、有意義
な行動でもない。そんな事はこの場にいる人間全員が分かっている
ため、知りたいとは思っても誰も口に出さなかったのだ。だが
﹁師匠が話してもいいのなら、ボクは聞きたい﹂
﹁澪?﹂
﹁ボク達が話を聞く事で、少しでも師匠が前向きになれるんだった
ら、どんな内容でもボクは聞く﹂
微妙に牽制しあって動きが取れなかった一同の膠着状態を潰すた
めに、澪があえて地雷を踏みに行く。この部分では終始態度が一貫
していた澪だからこその態度であろう。
﹁⋮⋮私も、知りたい﹂
﹁春菜?﹂
﹁春姉?﹂
﹁知ったところで解決できないとしても、何があってそんなに苦し
んでるのかは知りたいよ。知らなきゃ、どう支えていいかも分から
ない。見当違いな事をして余計に傷つけちゃうかもしれない。それ
1987
に、何があったかを知れば、少なくともその痛みを少しは分かち合
えると思う。だから﹂
そこで言葉を切り、宏の瞳を正面から見つめる。ひと呼吸かふた
呼吸かの沈黙の後、春菜は己の覚悟を口にする。
﹁今の状態で話せる範囲でいい。宏君、何があったのか、教えて﹂
この言葉を発した事で、もしかしたら嫌われてしまうかもしれな
い。そんな恐怖すらねじふせて、春菜は宏の身に起こった事を尋ね
る。恐らく、今を逃せば、二度とこの話をする機会はない。それに、
この男を愛するのであれば、自分はこの事について知っておかねば
ならない。この話を聞いて、その結果生じた人間関係の不都合を乗
り越えて、初めて勝負の場に立てる。根拠など何もないが、春菜は
いま、その考えを欠片たりとも疑っていない。
澪に乗っかる形になってしまったが、恐らく誰も言いださなけれ
ば春菜が先に言っていただろう。後れを取ったのは単に、それらの
覚悟をきめるのにかかった時間の差である。エアリスはこういう時
は宏の判断に従うため、彼が話すと言えば、春菜達のような仰々し
い態度を取らずに、ただ静かに何が起こったかを聞いただろう。こ
ういう話を聞く事に関しては、春菜達といえど姫巫女として常日頃
から鍛えられている彼女にはかなわない。
﹁まあ、おそらくは大した話やないんやけど、な﹂
そう逃げ腰の前置きをして、覚悟を決めるように深呼吸をひとつ。
そして、微妙に震える体を抑え込みながら、まずは結論を簡単に告
げる事にした。
1988
﹁何があったかっちゅうのを簡単に言うと、や。バレンタインに生
のひき肉入った義理チョコ無理やり食わされて、食中毒起こして死
にかけてん﹂
あっさり言うような内容ではない事を、努めて軽く言ってのける
宏。ある意味予想していた内容の、少々予想を超えた部分に誰も何
も言えず、その場を沈黙が覆った。
宏が話した内容は、予想よりひどかった。
﹁⋮⋮また、えぐいな⋮⋮﹂
﹁⋮⋮そりゃあ、女性恐怖症にもなるわね⋮⋮﹂
その後、宏がぽつぽつと話した事件の一部始終を聞き、うめき声
のようなコメントを絞り出す達也と真琴。他の人間は、現実に起こ
ったとは思えないその話の内容に絶句し、とても言葉を発する事が
出来なかった。
宏の話を要約すると、次のようになる。
中学二年のバレンタインデー。一時間目の最中に机の中に仕込ま
れていた義理チョコを装ったその危険物に気がついてしまった事が、
事件の発端だった。差出人不明のそれに気がつき、非常に嫌な予感
1989
がしたためこの時点では見なかった事にしようとした宏の目論見は
失敗し、隣の席の女子生徒の告発でその存在がクラス中に明らかに
されてしまった事が、宏にとってもこの中学にとっても不幸の始ま
りであった。
半年ほど前から徐々に激しくなっていた女子生徒達の宏に対する
いじめは、この時も平常通り当たり前のように速やかに行われた。
とはいえ、最初の段階では、いじめとまでは言えなかっただろう。
単にその場で食べて感想を言え、と言うだけのものだったのだから。
これが真っ当なちょっと不味い程度のチョコレートであれば、我
慢して普通に食べて無理やり美味しかったと言わされて終わり、だ
ったはずだ。だが、そのチョコレートは中にほぼ腐ったと言ってい
いほど傷んだ生の牛と豚の合挽き肉が仕込まれ、味付けもかなりめ
ちゃくちゃだった。はっきり言って、とても食えた味ではないそれ
を吐き出そうとした宏は、運動部の女子数人に押さえつけられて無
理やり飲みこまされた後、数発殴られて残りも全て食べさせられる
羽目になった。
流石にあまりにも宏の様子がおかしかったために、男子生徒のほ
とんどは最初に吐き出そうとした時点で女子を止めに入っていた。
いたのだが、バレンタインデーにもらったチョコを無碍に扱うとい
う行為に、日ごろは目立って宏に攻撃的な態度を取っていなかった
女子まで結託したために、阻止するには至らなかった。もしこの時、
男子まで敵に回っていたら、宏の女性恐怖症は重度の対人恐怖症と
なり、二度と病院から出てくる事はなかったにちがいない。
そんなものを食べさせられて無事で済む訳も無く、昼休み前に見
事に食中毒を起こした宏は、ある意味幸運である意味不幸なことに
保健室で胃袋の中身を全てぶちまける事になった。この時吐いたの
1990
が保健室でなければ、恐らく食中毒の原因がこの生肉入りのチョコ
レートであった事が特定されず、事件として扱われる事も無く、こ
れをネタに更にいじめられる事はあってもこの後起こった女性恐怖
症を重症化させる事件も発生しなかっただろう。
関係者全員にとってもう一つある意味で不幸であった事があると
すれば、この日の宏は寝坊して朝食をとっておらず、前日は普段よ
り早い時間に夕食を終えていた事であろう。結果的に十二時間以上
の絶食をしており、胃袋の中がほとんど空であったために、食中毒
の原因が他にあり得なかったのだ。
発症した食中毒がかなり性質が悪いものだった事もあり、宏は三
日三晩生死の境をさまよった上他の症状で二週間入院することにな
った。その入院中に、無理やりチョコを食わせた女子生徒が身内が
いない時間に謝罪を口実に見舞いに来て、とことんまで罵詈雑言を
まき散らして人格どころか生存権まで全否定して帰って行くという
出来事があり、その事を予想していた宏の数少ない男の友人によっ
てこっそり録画されていたその事件は、無修正でいくつかの動画サ
イトに前後の経緯も含めてアップされ、瞬く間に大騒ぎになってし
まったのだ。
かなり度を越したその光景が日本中に広まった結果、宏達の中学
では次々にカップルが破局、その原因として恨みを集めた発端の女
子生徒達は宏を逆恨みして殺人未遂を犯し、現行犯逮捕。それまで
に何人かの女子がその事について恨み節をぶつけに来ていた事もあ
り︵最初の見舞いの翌日には病院側が面会謝絶を行っているが、他
人の見舞いの振りをして無理やり侵入した生徒が何人かいた︶、宏
はめでたく重度の女性恐怖症となって二カ月ほど集中治療室で二十
四時間VRシステムによる特別治療を受け、更に半年ほどはずっと
特別なカウンセリングを受け続けることとなり、保健室登校が出来
1991
るようになったのすら夏休み終わりからかなりたってからで、それ
すら週に一日か二日、と言う程度だった。
結局冬休みには今の地域に引っ越したため、中学三年の時は学校
には合計でも二週間程度の日数しか登校していない。
﹁そう言えば、犯人が見つかって無いって、どういうことだ?﹂
﹁そら簡単や。あのチョコを誰が入れたか、はっきりせえへんねん﹂
﹁はあ?﹂
﹁残念ながら、監視カメラどんだけ解析しても、クラスメイトにゃ
チョコ仕込める人間が居らんかってん﹂
発端となった義理チョコに関してだけ言うならば、クラスメイト
は間違いなく全員白だった。クラスメイト以外なら候補は三人ほど
いるのだが、うち二人はそもそもチョコレートを作っていない事や、
その家がひき肉を最後に購入したのが一カ月以上前であることなど
から可能性は低いと判断せざるを得ず、残りの一人は調査しように
も事件の翌日に一家揃って日本を出ており、現在も帰ってきていな
いため捜査が中断。出国理由が父親の左遷に伴う急な海外転勤で、
時期以外にはその背景に特に不自然な点も無く、更に容疑者が事件
当時少年法の範疇であったために証拠不十分な容疑では呼び戻すこ
とも難しかったため、現在も捜査は中断したままである。
﹁まあ、そういう訳で、チョコレートがものすごい怖いねん。元々
チョコは普通に好きやったんやけど、あの日以来匂いだけでもあか
んなってなあ⋮⋮﹂
1992
﹁そら、無理もないだろうよ⋮⋮﹂
﹁もしかして、ひき肉料理で身構えるのも⋮⋮﹂
﹁まあ、そういうこっちゃ。ただ、幸か不幸かチョコのおかげであ
んまり肉っちゅう感じもせえへんかったから、チョコみたいに拒否
反応が出るほどやないんやけどな﹂
力なく笑いながらそう告げてくる宏だが、春菜としてはまったく
笑えない。
﹁と言うか、さ﹂
﹁ん?﹂
﹁あんた、そこまで女子に嫌われるようなタイプには見えないんだ
けど⋮⋮﹂
﹁あ∼。真琴さん、中学生女子のダサい男子に対する容赦なさっち
ゅう奴を、甘く見たらあかんで﹂
宏の言葉に思うところがあるのか、苦い顔で同意するように頷く
春菜。澪も何か心当たりがあるのか、師匠に一票とぼそっと呟いて
いる。
中学ぐらいだと男女関係なく、他人に対する評価項目は大抵見た
目や雰囲気が一番上に来て、人間性などはかなり下の方にくる。も
っと言うならば、中学の時ほどひどくないと言うだけで、高校での
宏の女子からの評価はかなり低い。
1993
更に言うならば、中学生当時の宏は人格的にもダサいという欠点
を克服できるほど魅力的な訳では無かった。ヘタレと言う点は変わ
らない上、ちょっとした事ですぐ泣く泣き虫だったこともあって、
どうにも周りがイライラして殴りたくなるタイプだったのだ。無論、
だからと言って殴っていい訳でもなく、またそういう事をするから
余計に泣き虫になるという悪循環に陥っていた部分もあるが。
﹁それに、当時はひどい鼻炎でなあ。始終鼻ぐずぐず言わせとった
から不潔やいうんで、小学校の頃からそらまあいじめられたわ。性
格的にも明るい訳でもなかったし、運動神経も体力も無かったから
余計やで﹂
﹁そういう事か﹂
﹁そういう事や。スクールカーストと監獄実験、っちゅう奴やな﹂
大抵の場合、公立中学はその地区の小学校がそのまま持ちあがる。
小学校の頃のいじめられっ子と言うのは、中学に入ってもほぼ確定
でいじめられっ子である。
そして、スクールカーストで最下位扱いされると言う事は、その
学校に在籍している間はほぼ人権など認められない、と言う事でも
ある。宏にとって幸いだったのは、フェアリーテイル・クロニクル
で職人をやっていたため、同じ中学にもそれなりの人数、男子の友
達がいたことだろう。女子の友達もゼロではなかったが、ゲーム内
ではともかくリアルでは一切接触がなかったので、この場合はカウ
ントしない。逆に不幸だったのは、先生がむしろスクールカースト
を積極的に強化するタイプが多かった事で、特に女の先生にその傾
向が強かった事が宏の女性恐怖症と女性不信に拍車をかけている。
1994
人間と言うのは慣れて忘れる存在だ。そういう状況が続くと、ど
んなにエスカレートしてもそれが普通の事だと認識してしまうので
ある。結果として、自分達がやっている事が悪い事だという認識が
完全に無くなり、相手が本来自分達と同じ立場と言う事を忘れてし
まうのだ。その事を証明したのが、監獄実験と言う実験である。
﹁なんかこう、色々思い出してちょっと腹立ってきたよ﹂
﹁思い出したって、何を?﹂
﹁当時の新聞記事とか。ああいうのって、絶対いじめられる方に原
因があるんだから、って言うよね?﹂
﹁あ∼、言うよなあ﹂
﹁いじめられる方に原因があったとしても、集団で一人を攻撃した
揚句のはてに再起不能に追い込むのは擁護出来るような事じゃない
のに、絶対にいじめられる方が悪くていじめる側には非が無いんだ
から、いじめられる側の指導を徹底しろ、って言ってくるよね?﹂
﹁場合によっちゃあ、いじめがエスカレートした揚句リンチして殺
したケースにまで、そういうコメント言う奴いるよなあ。流石にそ
の手のケースだと、賛同者は少ないが﹂
いじめに限った話ではないが、何か事件が起こった時、当事者の
一方だけに原因や問題があるケースなど一握りにすぎない。割合の
問題はあれど、当事者双方に何かの問題がある事がほとんどで、大
抵は一方がどれほど改善しても問題が解決しないのだ。そもそも、
片側だけに原因や問題があるのであれば、その原因や問題が解決す
れば感情的なしこりは残れど、それほどこじれずに事件が終息する
1995
ものである。
﹁とりあえずそんな感じやから、カウンセリングの先生とフェアク
ロでのリハビリのおかげで、何とか最低限共学の学校で勉強できる
とこまでは回復したんやけど、女の人に関しては触るんも触られん
のもはっきり言うて怖い﹂
自身の首を撫でながら、そんな事を言う。女の力とは思えない怪
力で首を絞められ、窒息させられかけた事が原因で、余程覚悟を決
めていないと、手が届く範囲に女性がいると落ち着かない。自分か
ら触るのも、触った瞬間に相手が切れて自分を殺そうとするんじゃ
ないかという被害妄想が抑えられず、近寄ること自体が非常にきつ
い。
ゲームの時の人間をやめた精神力が適用されているからか、こち
らの世界に飛ばされてからは女性に近寄ることによる心理的なプレ
ッシャーはずいぶんマシになっている。だが、精神力で押さえるの
も限界があるらしく、長時間接触したり接触した状態で殺気をぶつ
けられたりすると、容易く取り乱してしまう。チョコレートに至っ
ては、包装も何もしていないものがあると、それが手が届く範囲で
なくてもアウトだ。
﹁だったら、無理して共学に通わなくてもいいんじゃねえか?﹂
﹁うちの場合、家と工場、両方の引っ越しが噛んどってな。話持ち
かけてきた得意先の親会社が安く用意してくれた土地っちゅう奴が
第一種工業地域やから二階に家とかやると物凄い不便な上に、歩い
てとか自転車で通える範囲に高校とかあらへんかってな。で、うち
らの地元にある男子校って、全寮制か無茶苦茶ガラ悪いか物凄い遠
いかで、どこもちょっとっちゅう感じやってん﹂
1996
﹁あ∼、うん。確かにそうだよね﹂
﹁春菜さんも分かるか﹂
﹁うん。宏君の家がうちの高校から歩いて通える範囲にあるんだっ
たら、男子校って碌なところないよね。工場が中央工業団地にある
んだったら、一番まともな男子校の近くまで車で一時間ぐらいかか
るし、あの近辺は町工場とか無理だったと思うし﹂
地元民にしか分からない話題で盛り上がる宏と春菜に、何とも言
えない視線を向ける一同。話についてはいけないが、男子校と言う
選択肢がなかったらしい事は、なんとなく伝わっては来る。少なく
とも、全寮制と言うのは逃げ場がないという点で、三年前の時点で
は選択肢として成立しなかったのだろう。
﹁まあ、そう言う訳で、先方が事情を聴いていろいろ段取りしてく
れた中に学校の事もあって、向こうさんが勧めてきたんが今の高校
やってん。僕みたいなケースが一番安心して通える、っちゅう話で、
聞くにたがわず物凄いいろいろフォローしてもらってんで。多分、
違う高校やとまたすぐに不登校やったと思うわ﹂
﹁⋮⋮なるほどね﹂
一連の話を聞いて、いろいろな事が腑に落ちた真琴。ヘルインフ
ェルノをあそこまで減衰させられる精神力を持っている割に、女性
関係では呆気ないほど壊れてしまう不自然さ。戦闘廃人で春菜以上
にデータに精通している真琴にとって、上級魔法を普通にキャンセ
ルできるような抵抗値を持つ人間が、そこまで簡単にパニックにな
るのはおかしいでは済まない話だった。
1997
明らかに演技ではない以上、実際に宏が壊れそうなほど恐怖心を
感じているのは間違いなかったが、そこまで怖いのなら、逆に春菜
と一緒に行動できる事の方がおかしい。そう思っていたのだが、実
に簡単な話だった。
要するに、それだけの精神力が無ければ女性と一緒に行動できな
いほど、彼の女性恐怖症がひどかっただけである。そして、良くも
悪くも春菜が上手くトリガーを避けて宏の負担を減らしていたから、
真琴や澪、更にはエアリスが一緒に居てもどうにか問題なく行動出
来ていただけなのだ。
恐らく、日本にいた時は、宏にとって安全な距離はもっと遠かっ
たに違いない。共学で大丈夫だったのは、学校側の手厚いフォロー
にくわえて、本人が女性と一緒に行動する機会を出来るだけつぶす
ように立ち回っていたのだろう。
﹁やっぱり、学校なんて行くもんじゃないわねえ⋮⋮﹂
﹁いや、そりゃ流石に極端じゃねえか?﹂
﹁あたしたちみたいな人種は、場合によっては学校は地獄なのよ﹂
﹁せやなあ。今の学校はまだましやけど、中学は本気で地獄やった﹂
﹁入院してから、毎日が快適﹂
いろんな意味で日本の社会に適合できていない三人。ひところに
比べればずいぶんマシになったと言っても、日本の教育や社会のゆ
がみはまだまだ根深いらしい。
1998
﹁なんか、ごめんね?﹂
﹁いや、春菜さんは関係あらへんやん﹂
﹁中学の時の事はともかく、うちの学校で宏君の居心地が悪いのっ
て、確実に私も関わってそうだから⋮⋮﹂
﹁春菜さんは別に陰口とか叩かへんし、ダサいからっちゅうだけで
生存権認めへんような事あらへんやん﹂
﹁それは当り前の事って言うか、単に男の子のファッションセンス
とかに興味無かっただけっていうか⋮⋮。それに、そういう事言っ
てる娘を嗜めたりとかしてないし⋮⋮﹂
﹁そんなん、春菜さんが言うたぐらいで価値観変わるかいな﹂
宏が、ありとあらゆる可能性をバッサリ切り捨てる。顔がいいだ
けの変な男に捕まって痛い目を見る、などという経験でもしない限
り、今の歳ではそういう価値観は簡単には変わらない。外見は生き
ていくのにそこまで役に立たない事を理解するには、社会に出てそ
れなり以上に揉まれないと難しいだろう。
﹁ヒロシ様。私達が、怖いですか?﹂
宏と春菜が押し問答に入りそうになったところで、エアリスが唐
突にそんな事を問いかけてくる。
﹁正直に言うと、そっちから普通に手が届く距離に居る時は、怖い﹂
1999
﹁では、今の距離では?﹂
﹁今は怖くない﹂
﹁それは、私達だからですか? それとも、単に逃げられるだけの
距離があるからですか?﹂
﹁⋮⋮春菜さんとかエルとかでなかったら、こんな長い時間同じ部
屋にゃ居れんで⋮⋮﹂
宏が春菜やエアリス、澪相手に緊張せずに済む距離は、現在半径
九十センチ。お互いもうちょっと手を伸ばすか、もう一歩踏みこま
なければ手が届かない距離。アルチェムはエロトラブルの関係から
その距離は辛いが、単に椅子に座って話をしているだけならば、オ
クトガルさえいなければ同じぐらいの距離でも平気である。
﹁私やハルナ様が怖い、という訳ではないのですね?﹂
﹁春菜さんは最近、たまにものすごい怖いときがあるけど、基本的
にはそうやな﹂
﹁あ∼、ごめんね。つい過剰に反応しちゃって⋮⋮﹂
﹁出来たら澪らと結託すんのやめて。あれ、本気で死ぬほど怖いか
ら﹂
﹁本当にごめんね⋮⋮﹂
春菜の謝罪に、苦笑するしかない日本人一行。春菜が過剰に反応
したり澪達と結託したりするのは、大抵宏に関わる問題がある時だ。
2000
宏を守ろうとして過剰反応を示した結果、当の宏を怖がらせるとい
う本末転倒ぶりは、恋する乙女の面目躍如といったところか。
因みに、レイニーの時に妙に真琴が彼女を嫌っている様子だった
のは、結託した際に春菜達に引きずられたからである。春菜が妙に
過激だったのも同じような理屈だ。
﹁とりあえず話を戻しますね﹂
﹁あ∼、ごめん。思いっきり話の腰折ってしもたなあ﹂
﹁いえいえ。お気になさらずに﹂
春菜が過剰反応する原因を察して微笑んでいたエアリスが、とり
あえず話を戻す。
﹁異性と触れ合うのが怖い、と言うのであれば、私達で練習しては
いかがですか?﹂
﹁練習?﹂
﹁はい。とりあえず、軽く手を握ることからスタートでどうでしょ
う?﹂
﹁それって、普通でもハードル高ない?﹂
宏の言葉に、顔を真っ赤にしながら首を縦に振る春菜。軽くとは
いえ手を握るとか、恐らく幸せの余り緊張しすぎて、まともではい
られないだろう。
2001
﹁手を握る、というのが難しいのであれば、手や肩など、日常生活
で接触する可能性がある場所に軽く触れる、というのでも結構です。
いかがですか?﹂
﹁えらく過剰に押してくるやん⋮⋮﹂
﹁私は、人とは究極的には触れ合う事を求める生き物だと思ってい
ます。触れ合う事で救いを得る生き物だと思っています。なのに、
ヒロシ様が触れ合う事が怖くて、触れ合う事で得られる救いに手が
届かないのはとても悲しいのです﹂
真剣にスキンシップの重要性を語るエアリスに、同意するように
頷くドーガと達也。既婚者である二人は、心を通わせた相手と触れ
合う事で得られるもの、その大きさについてよく理解しているのだ。
﹁私達なら、大丈夫です。ヒロシ様を傷つけるような事は決してし
ません。ですから、女性と触れ合う事を怖がらないでください﹂
そう言って春菜に目配せをし、宏のそばに歩み寄って右手にそっ
と触れるエアリス。エアリスの真意を察し、勇気を出して宏の左手
に手を添える春菜。まさしく両手に花、と言う体でありながら、何
かに耐えるような宏の表情をじっと見つめ、これが限界だろうと悟
ったところで手を離す。解放感とともに、ほんのわずかながら感じ
る寂しさに、少しばかり戸惑いを覚える宏。
﹁こういう感じで、少しずつ私達が近くにいる事に慣れていっては
いかがでしょうか?﹂
﹁ハードル高いなあ⋮⋮﹂
2002
﹁そうかもしれませんわね﹂
予想より穏やかな声でぼやく宏に、くすりと笑いながらすっと離
れるエアリス。春菜ほど近くなく、アルチェム程遠くなく、澪ほど
棘のある対応をしてこなかったという絶妙の距離感を利用した、あ
る意味見事な戦法である。
﹁宏君⋮⋮﹂
﹁ん?﹂
﹁あのね⋮⋮﹂
もう一度、今度はもう少しだけ強く宏の手を取り、ありったけの
想いを込めて宏の目を正面から見つめる。春菜の青い瞳に自分が映
っている事に対して妙な違和感を覚えながら、触れられている事に
対する恐怖心を必死になって押さえて次の言葉を待つ宏。
﹁今回みたいな事で何かあっても、私が全力で宏君を守るから、ね﹂
昨日風呂場で散々からかわれたその決意を、今度は昨日よりはる
かに冷静な状態で口にする。恋心の熱に浮かされている事は否定し
ないが、それはエルフの森で自覚してからこっち、いつもの事であ
る。少なくとも昨日のようにまともな判断が出来なくなっている訳
ではないのだから、十分冷静であろう。
﹁だから、ほんの少しでいいから、私達の事を信じてくれると、う
れしい﹂
そこまで告げて、名残を惜しむように手を放し、元の位置に戻る
2003
春菜。春菜が手を離した事で恐怖から解放され、心の中で安堵のた
め息をつく宏だが、やはり、意識できるかできないか程度に感じる
ほんのかすかな寂しさに、内心で大きくなる戸惑いを隠せないので
あった。
﹁さて、ラブシーンはもう終わりかのう?﹂
春菜とエアリスの、無暗に愛情がたっぷり詰まった行動の余韻。
それをぶち壊すようにそんな言葉がかけられる。
﹁⋮⋮いつの間に?﹂
﹁そうよのう。姫巫女殿がそちらの工房主に、自分達で女体に触る
練習をしてはどうか、と提案したあたりからか?﹂
﹁結構前から居ったんやなあ⋮⋮﹂
﹁全然、気がつかなかった⋮⋮﹂
どうやら、一国のトップの目の前で、ずいぶんと大胆で恥ずかし
い真似をしてしまったようだ。仲間内だけでも後で思い出したらの
たうちまわりそうになる事請け合いだと言うのに、女王様の前でと
言うのは致命的に恥ずかしい。
2004
﹁知らぬこととはいえ工房主殿には随分酷な真似をしてしまったか
らのう。流石に謝罪なしではこちらの気が済まんからと思って来て
みたら、実に割り込みにくい状況になっておってな。まあ、おかげ
で、ずいぶんいいものを見せていただいた。若いと言うのは実にい
い。そうは思わんか、ドル殿?﹂
﹁そうですな。わしも若いころは、それはもう女房と熱烈に愛し合
ったものですじゃ﹂
宏と春菜の様子に調子に乗った女王が、ドーガを巻き込んで次々
に追い打ちをかけてくる。因みに、ドーガはいまでも奥さんとはラ
ブラブである。
﹁愛されているではないか、工房主殿﹂
﹁いろんな意味で勘弁してください⋮⋮﹂
﹁罰あたりな事を言うのう。男なら、全員俺のものになれ、ぐらい
言って見せてはどうじゃ?﹂
﹁残念ながら、うちの故郷では複数の女囲うんは、法的にも社会的
にも認められてへんのですわ﹂
﹁そうなのですか?﹂
宏の言葉に不思議そうに反応したのは、何とエアリスであった。
この場で最年少の少女の反応に、日本人の視線が集まる。種族的に
重婚という考え方が無いアルチェムも同様である。もっともオルテ
ム村の場合、一度子供を産んで育て終えたら、ばれない限りは浮気
OK、などというとんでもない暗黙の了解が無い訳でもないが。
2005
﹁なんか、おかしな言葉を聞いた気がするんだが⋮⋮?﹂
﹁おかしなも何も、別にファーレーンでは複数の男女が婚姻を結ぶ
事を禁止していませんが?﹂
﹁そ、そうなんだ⋮⋮﹂
﹁もちろん、当事者がちゃんと心の底から納得していることが前提
ですし、貴族の当主は側室を持つ事は許されても重婚は認められて
いませんが﹂
所変われば価値観は変わるもので、どうやら国全体の雰囲気が緩
いファーレーンは、そこのところも結構緩いようだ。
﹁そういうもんなん?﹂
﹁そうじゃのう。そもそも、重婚を一切認めておらん国の方が珍し
いし、我がファーレーンは比較的要件が厳しい方じゃな。少なくと
も、男二人と女三人、などと言う組み合わせでの重婚は認めておら
ぬからのう﹂
﹁そんな組み合わせを認めてる国もあるんだ⋮⋮﹂
﹁ウォルディスなんぞがそんな感じじゃな。もっとも、彼の国の場
合、そもそも結婚というシステム自体が名前だけのもの、という感
じではあるがの﹂
ドーガの解説に、世界の広さに感じ入ってしまう日本人一行。
2006
﹁まあ、ドル殿やそちらの魔術師殿のように、一人の女房を徹底的
に愛しぬく人間も珍しくはないし、庶民の大半は男女一対一の夫婦
関係を築いておるがのう﹂
﹁それやったら、僕が文句言われる筋合いはあらへんのと違います
?﹂
﹁いやいや。工房主殿のようにもてる男が、ある程度女を囲ってく
れんと女が余る﹂
﹁は?﹂
﹁少なくとも我がダールでは、女の方が数が多いのじゃ。もっとも、
こちらに入ってくる情報を見る限り、ほとんどの国が同じ傾向らし
いがな。因みに最近の出生数だと、六対四まではいかんが、六割に
近い程度には女の数の方が優勢か? そこに加えて男の方が体力を
使う危険な仕事をこなす事が多いから、必然的に死にやすくなる、
という事情もある﹂
女王の解説に、何とも難しい顔をしてしまう日本人一行。ウルス
にいた時にはそれほど意識しなかったが、思いだしてみれば子供は
女の子の方が多かった気がする。屋台や店で働いている人間も、全
体で見ればやや女性に比率が偏っていたかもしれない。男は店より
も力仕事や外に出ていく仕事が多いからかと思っていたが、単純に
女性の方が数が多い、というのも納得できない訳ではない。
因みに当然のことながら、ファーレーンやダールでカウントして
いる出生数などの数字は、それほど正確なものではない。そもそも
国が把握している人口自体、実際の総人口より二割から三割は少な
いのだから当然だ。だが、その把握できていない二割から三割が、
2007
把握できている人口動向とは反対の性別に極端に偏っている、など
という事も普通はない。故に、国が把握している男女比は、基本的
にそれほど大きく狂う事はないのである。
﹁そういうわけじゃから、妾の体で女体の神秘を味わってみるのは
どうじゃ? 歌姫殿や姫巫女殿、エルフ殿を相手にする時に大いに
役に立つぞ?﹂
﹁そんな何重もの意味で怖い事出来るかい!!﹂
﹁むう、残念じゃ。まあ、歌姫殿の目が怖いし、ワームの餌になる
のも勘弁願いたい。先ほど無作法をしたところでもあるし、ここは
大人しく諦めるとしようかのう﹂
あだ
冗談めかしてそんな事を言って、婀娜っぽい視線を次は春菜に向
ける。
﹁ならば、歌姫殿。妾のもとで、男を悦ばせる技を磨いてみぬか?﹂
﹁⋮⋮遠慮しておきます﹂
﹁純潔を奪わぬことは保証するが?﹂
﹁それを胸を張って宣言できなくなりそうなので⋮⋮﹂
﹁むう、頭が固いのう﹂
いろんな意味でお堅い春菜の対応に、本気で残念そうにする女王。
達也をロックオンしようとして本人に睨まれ、肩をすくめて色々あ
きらめる。
2008
﹁とりあえず、女王陛下がアルヴァンや、っちゅうんはこれで確信
しましたわ﹂
﹁そうそう。それについて聞こうと思っておったのじゃ﹂
宏のコメントで、とりあえず本来するつもりであった方向に話を
戻す女王。
﹁工房主殿、いつどこで妾がアルヴァンだと分かった? そもそも、
アルヴァンとしてそなたと顔を合わせたのは、一度だけだったはず
じゃ﹂
﹁女王がアルヴァンやと分かったんは、さっきの顔合わせの時です
わ。ただ、アルヴァンが女やっちゅうんは、その最初の一回ではっ
きり分かっとりましたで﹂
﹁根拠は?﹂
﹁根拠、っちゅうんも難しんやけど、女かどうか自体は、見ればす
ぐ分かりますねん。なにせ、どんな格好しとってもどんな性格しと
っても、女っちゅうんはそれだけでものすごい怖い訳でして﹂
﹁⋮⋮ほんに、筋金入りじゃのう﹂
宏の説明に、呆れたようにコメントする女王。そこに、今まで口
を挟もうとして挟めなかったアルチェムが、素朴な疑問を口にする。
﹁あの、質問いいですか?﹂
2009
﹁なんじゃ?﹂
﹁アルヴァンってなんですか?﹂
アルチェムの基本的な質問に、場が妙に沈黙する。その様子に、
聞いちゃいけなかったのかとおろおろするアルチェム。そんな場の
空気を軟化させたのは、当のアルヴァンである女王であった。
﹁そう言えば、エルフ殿は長らく南部大森林の中央あたりで暮らし
ておったと聞く。なれば、ダールの事情など知らぬのも無理はなか
ろうなあ﹂
﹁森から出て、まだ二月ぐらいやもんなあ⋮⋮﹂
﹁ダールで暴れてる怪盗の事なんざ、知らなくても無理はねえか﹂
﹁怪盗、ですか?﹂
﹁主によろしくない事をやってる貴族や商人をターゲットにした泥
棒、ってところだ﹂
達也の身も蓋もない解説に、当の本人が思わず苦笑を浮かべる。
﹁事実ではあるが、もう少し言い方というものを考えて欲しいのう﹂
﹁と、言われましてもねえ﹂
﹁まあ、そういう訳じゃ。流石に妾本人が見聞きした事柄で、直接
入手した不正の証拠となれば、基本言い逃れはきかんからのう﹂
2010
﹁また、無茶な事をしますね﹂
﹁何、ミスをしても確実に逃げる手段は何重にも用意しておるよ﹂
妙に自信満々の女王に、何を言っても無駄だと考えてとりあえず
スルーしておくことにする一同。この女王が癖の強い人間である事
は、これまでの流れではっきりしているのだ。突っ込んだところで
話がループするだけだろう。
﹁それにしても、いつも思うのじゃが﹂
﹁⋮⋮なんか、碌でもない事を言い出しそうな気がするから聞きた
くないけど、何でしょうか?﹂
﹁男が好む艶本の類では、妾のような怪盗がならずものに捕まって
性的な意味で好き放題されて色に屈する展開が多いが、色に屈した
ところでいいなりになる理由もあるまいに、何故大抵いいなりにな
るんじゃろうなあ?﹂
﹁そんな事を聞かれても困るんだが⋮⋮﹂
やはり碌でもない事だった。そもそも、女王ともあろうものが、
なぜ男性向けの成人指定の本の内容を知っているのだろうか?
﹁色に溺れたところで、別にその連中に依存する必要もあるまいに。
第一、世の中は広い。探せば、ああいう事をする連中よりはるかに
素晴らしい技を持った男も居る。そもそも、あの手のどんな病気を
持っておるか分からん男のナニなんぞ、好んで何回もくわえこみた
がる女の気がしれん﹂
2011
﹁女王、女王。一応子供がいるんで、そういう話はちょっと﹂
﹁む、すまん。確かに配慮に欠いた﹂
まるで男子高校生あたりが教室で盛り上がるかのような猥談を始
めようとした女王を、とりあえずどうにか黙らせることに成功する
達也。達也に話を切り上げさせられ、思わず舌打ちした澪を真琴が
睨みつける。微妙に具体的な表現が出てきた事で居心地悪そうに頬
を染めている春菜と、内容が分かっているのか分かっていないのか、
普段通りにこにこ微笑みながら超然とした態度を維持するエアリス
が印象的だ。なお、アルチェムは確実に分かっていない。
﹁何にしても、ヒーローの彼もいっしょに食事でも、という約束は
果たした訳じゃ﹂
﹁あれ、約束だったんだ⋮⋮﹂
﹁きっぱり断ってへんかった?﹂
﹁気にするな。さて、とりあえずこれからの事じゃが﹂
妙に上機嫌に話を終わらせ、最後の議題を提示する女王。
﹁とりあえず、お主らの用件は、どちらもイグレオス神殿本殿に関
わるものじゃろう?﹂
﹁そうですね﹂
﹁私とアルチェム様も、本題はそちらになりますわ﹂
2012
﹁こちらも少々気になる事がある。日程の調整が必要ゆえ少々待た
せることになるが、早ければ二日後、遅くても五日以内にはダール
を発てるはずじゃ。勝手を申して済まんが、妾も同行させてもらお
う﹂
かなり大事になりそうな事を言い放ち、勝手に予定を組んで行く
女王。突っ込みを入れようにも、こんな時に限って一国の女王とし
ての威厳と眼力を持って黙らせにかかるから、性質が悪い。
﹁ついでと言っては何じゃが、工房主殿が発見した地下遺跡、そち
らに少々寄り道をしたい。到着が更に遅れてしまう事になるが、構
わぬか?﹂
﹁それはまあ、問題ありませんが、何故に?﹂
﹁大地の民とやらと、接点を持つべきだと判断したからじゃ。お主
らも、異論はあるまい?﹂
ダールの女王として、間違いなく重要事項であろうことを力強く
言い切る。領内に未知の、それも数以外の色々な面で自分達を上回
っているであろう集団が存在する。その集団が基本的に友好的であ
るという報告がある以上、何らかの形でコンタクトを取ろうとする
のは、当然と言えば当然である。
ただし、女王自らというのは、流石に不用心ではないか、と思わ
なくもないが。
﹁重要なんは認めますけど、女王様が直接行くんは、何ぼ何でも不
用心ちゃいます?﹂
2013
﹁下手に使者なんぞ出して、そ奴が粗相をした日には目も当てられ
ん。どうせ通り道にあるのなら、妾が直接行った方が間違いが少な
い。それに、その大地の民とやらは、基本友好的な連中なのじゃろ
う?﹂
﹁まあ、そらそうですけど⋮⋮﹂
﹁フットワークが軽いにもほどがあるぞ、この女王⋮⋮﹂
﹁女の身で国をまとめるのじゃ。余り根を張っている訳にはいかん
のでな﹂
あきれ顔の宏と達也に、にやりと笑って見せる女王。本当に、い
ろんな意味で面倒な人である。腹心である彼の気苦労がしのばれる。
﹁さて、そろそろいい時間じゃ。いい加減引き上げんとセルジオが
うるさい﹂
﹁そうですね。決めるべき事も決まりましたし﹂
﹁うむ﹂
まとめるべき話をまとめ終えたところで、いい加減立ち去ろうと
してもう一つ告げておくべき事を思い出す女王。
﹁そうそう、忘れておった。歌姫殿﹂
﹁なんですか?﹂
﹁デントリスが諦めておらぬ。色々釘は刺したが、余計に火をつけ
2014
ただけ、という状況になってしもうたようじゃ。すまぬ﹂
﹁あ∼、あの人、諦めが悪そうですしね⋮⋮﹂
﹁場合によっては、工房主殿に迷惑がかかる事になるかも知れんが、
どうにかうまく切り抜けて欲しい﹂
ありそうな展開に、思わず苦笑が漏れる宏、春菜、澪の三人。ダ
ールでやるべき事が終わるまで、まだまだ先は長そうだと他人事の
ように考えてしまう日本人達であった。
2015
第11話︵後書き︶
これで大丈夫なのか非常に不安な今日この頃⋮⋮。
2016
第12話
﹁どうしてこうなった⋮⋮﹂
訓練用の木製のポールアックスにもたれかかりながら、目の前の
伊達男を見ながら現実逃避的に呟く宏。周囲には、結構な数のギャ
ラリーがいる。
﹁逃げずにちゃんと来たか﹂
﹁そもそも、何でこんなことせなあかんのかは、いまだに腑に落ち
てへんけどなあ⋮⋮﹂
やけにやる気のデントリスに対して、非常に嫌そうに答える。
﹁きっぱり振られてんねんから、こんな仰々しい真似せんとさっく
り諦めたらええやん⋮⋮﹂
﹁一度二度失敗した程度で引きさがっては、欲しいものを手に入れ
る事は出来ないのでね﹂
言いたい事は分かる。非常にまっとうな言い分だ。だが、男女の
間柄においては、そのガッツは時にマイナス方向にしか働かない。
﹁それと、僕がデントリスさんと決闘なんざせなあかんのとは、ま
ったく因果関係あらへんで⋮⋮﹂
﹁ここまで来たら、問答無用。さっさと構えたまえ﹂
2017
﹁はいはい﹂
どうにもテンションの上がらぬまま、もたれかかっていたポール
アックスの刃先を地面に向けるように構える。
﹁では、約束通り、この決闘に私が勝ったら、ハルナ君から手を引
きたまえ﹂
﹁手ぇ引くも何も、そもそも付き合うてすらあらへん、っちゅうに
⋮⋮﹂
ようやく多少はやる気を見せた宏を見て、上機嫌に口上を述べる
デントリス。そんなデントリスの自分勝手な言い分に、とことんテ
ンションも低く突っ込みを入れる宏。
﹁すまんのう、工房主殿﹂
﹁そう思うんやったら、あの人何とかしたってください⋮⋮﹂
﹁残念ながら、言って聞くなら、このような事態にはなっておらぬ
よ﹂
﹁さいでっか⋮⋮﹂
女王の申し訳なさそうな言葉に脱力しながら、どうにか目の前の
事態に対処する事に意識を集中させる。勝ったところで得るものは
なく、かといって負けることも許されないという非常に割に合わな
い決闘。負けたところで当事者の同意を取らず無理やり決行してい
るため、ファーレーンが介入して国際問題化すればあっという間に
2018
チャラになる話ではあるが、そこまでの間が非常に面倒な上、仲間
から何を言われるか分かったものではない。
﹁さて、最後にもう一度確認しておこうかのう﹂
限りなくテンションは低いながらも、一応決闘に応じる構えにな
った宏を見て、女王が切り出す。
﹁勝負の方法は一対一、お互いの得意とする武器で、どちらかが戦
闘不能になるか降参するまで戦うこととする。余りに威力がありす
ぎる技、最初から殺す前提の技は使用禁止。破れば結果いかんにか
かわらず負けと認定する。敗者はトウドウ・ハルナに対する今後一
切のアプローチ禁止する。以上、異存はないな?﹂
﹁もちろん﹂
﹁もう、それでええです⋮⋮﹂
立会人である女王が述べた確認事項に同意する二人。それを聞い
た女王が一つ頷くと、腕を上げて決闘の開始を宣言する。
﹁グラムドーンを仕留めた実力は認めるが、それでも君はハルナ君
にふさわしくない!﹂
﹁いや、それを僕に言われても⋮⋮﹂
気勢を上げながらいきなり割と殺傷力の高い大技を叩き込んでく
るデントリスを、何処までもテンションが上がらないままとりあえ
ず迎撃する。
2019
十分後、考えなしに大技を連続で叩き込み続けたデントリスは、
武器が壊れてスタミナが切れ、無防備になったところを宏のスマッ
シュ連打で何度も宙を舞う羽目になるのであった。
試合終了後、宏にいろいろと確認したい事が出来た女王は、他の
メンバーに断って宏一人を例の東屋に連れ込んだ。無論、周囲には
隔離結界を展開済みである。
﹁ほんに、面倒をかけたのう﹂
﹁面倒やと思うんやったら、部下の手綱ぐらいきっちり握ったって
下さい⋮⋮﹂
﹁実にもっともではあるが、残念ながら客人というたところで国賓
という訳ではなく、表向きは単なる冒険者の一人となると、たとえ
妾が肩入れしているという事実があったとしても、男女の間柄につ
いては個人の事情として処理せざるをえんのじゃ﹂
﹁その癖、女王様が肩入れしとるっちゅうだけでいろいろ言いたい
放題言うてくる連中も多いとか、ほんまに権力の中枢とかと関わる
とろくな事ありませんで⋮⋮﹂
﹁耳の痛い言葉じゃ﹂
2020
宏の遠慮のないぼやきに、本当に耳が痛いと言う表情で同じよう
にぼやく女王。
﹁それにしても、妙な感じじゃのう﹂
﹁妙?﹂
﹁うむ。デントリスは下半身に忠実ではあるが、そこまで頭が悪い
訳ではない。あのようなやり方で歌姫殿がなびくはずが無い事ぐら
い、言われずとも分かっているはずじゃが⋮⋮﹂
﹁瘴気の匂いはせえへんかったし、春菜さんの歌聞いても普通やっ
たから、そっち方面でそんなにおかしなことにはなってへんはずや、
とは思うんですけどねえ﹂
﹁とは言えど、普通ではない事も間違いではない。工房主殿も、戦
っている最中におかしいと思わなんだか?﹂
﹁っちゅうか、あの決闘は、内容そのものがおかしい事だらけでっ
せ?﹂
決闘に至るまでの流れも含めて、突っ込みどころが満載の決闘の
内容について、何処から突っ込むべきか分からないといった体で何
処となく面倒くさそうにコメントする宏。
﹁そもそも、何をどうすれば決闘っちゅう話になるんかが理解でき
へん、ってのは置いとくとしても、あの人、あんな脳筋みたいな戦
い方、せえへんでしょ?﹂
﹁うむ。そもそも根本的な話として、奴の剣術は工房主殿とは相性
2021
が最悪じゃ。先に何回有効打を与えるか、というタイプの勝負なら
ともかく、実戦形式では万に一つも勝ち目はない。グラムドーンと
の戦闘を見ているのじゃ。あやつにもそれぐらいの判断は出来よう﹂
﹁せやのにああいう勝負を持ちかけてきた、っちゅうんは、考える
までもなくおかしいですやん﹂
﹁そうじゃな。あからさまなぐらいおかしい﹂
﹁なんか、その先の事、聞きたないんですけど⋮⋮﹂
愚痴愚痴と鬱陶しい宏に苦笑しながら、それでも容赦なく聞くべ
き事は聞く事にする女王。宏の心境も分からなくもないが、ここで
手を緩めては重要な情報を逃してしまう。
﹁とりあえず、似たような事例について心当たりはないか?﹂
﹁まあ、あるんはありますわ。面倒くさい事に﹂
﹁ほう、やはりか。重ねて確認するが、バルドの絡みか?﹂
﹁以外、ありませんやん﹂
二人とも、バルドは死んだはずだ、などというくだらない話はし
ない。ファーレーンで宏達が仕留め、ダールでは女王自身が始末し、
その癖灼熱砂漠でもバルドらしい生き物と遭遇しているのだから、
何体仕留めたところで全滅したと考えることは出来ない。
﹁で、具体的には?﹂
2022
﹁ファーレーンでの事件の時、一人、マインドコントロールされと
ったらしいんですわ。瘴気に侵されて頭がおかしくなったんとは違
うから、春菜さんの歌とか神官の浄化とかにも反応がのうて﹂
﹁なるほど。どんな感じでおかしくなっていた?﹂
﹁僕らに対する憎しみだけが、度を越してひどくなっとった感じで
したわ。それ以外はまったく普通やったから、それまでの経緯の問
題で、いわゆる逆恨みみたいな状態になっとったと判断してまして﹂
﹁ふむ。確かに、今のデントリスと状態が似ているな﹂
宏から受けた説明をもとにデントリスの行動を頭の中で検証し、
あっさりそう結論を出す女王。特定の要素が関わらなければまとも
なところなど、まったく同じである。
﹁どういう方法でマインドコントロールをしているか、それは分か
っているのか?﹂
﹁残念ながら。ただ、その人の場合、おかしな人間と接触しとった
様子はなかったんで、恐らくぱっと見てもそれが原因やと分からん
ような道具とか使うてやったんちゃうか、っちゅう風には当りつけ
とります﹂
﹁洗脳された人間を元に戻す手段は?﹂
﹁今ぐらいのレベルやと、まともな状態に戻すんは、ひたすらカウ
ンセリングで自分の思考とか行動がおかしなってる事を自覚させる、
以外無理ですわ。もっと進んで、遠隔操作で意識のっとられて、っ
ちゅうレベルになると、遠隔操作自体は万能薬で一発です。ただ、
2023
それで洗脳が解ける訳やないんですけどね﹂
﹁不便よのう﹂
﹁洗脳の厄介なところは、いわゆる状態異常とは違う、っちゅうと
ころですわ。話術とかでじわじわ考え方を捻じ曲げられた場合、い
ろんな経験して自然と考え方が変わったんと区別がつかんので、薬
とか魔法ではどうにもならんのんですよ﹂
﹁本気で、不便よのう⋮⋮﹂
宏の説明を聞き、渋い顔をする女王。面倒事は一発で解決したい
ところだが、残念ながらそうは問屋がおろさないらしい。
﹁本当に、どうにもならんのか?﹂
﹁薬では、どうにもなりません﹂
﹁薬では、という事は、抜け道はあるんじゃな?﹂
﹁そらまあ、大概の事には抜け道はありますわ。ただ、正直褒めら
れた方法やないんですよね﹂
﹁一応、大まかな方法だけでいいから教えてくれぬか?﹂
﹁理屈としては簡単です。精神系魔法使うて、洗脳し直せばええ﹂
確かに簡単な理屈だが、褒められた方法ではないどころの騒ぎで
はない。下手をすれば後々人格崩壊につながりかねないし、洗脳の
方向を間違えれば、今以上に手をつけられなくなる。捕まえた下っ
2024
端を使い潰すならともかく、デントリスのような国の中枢近くにい
る、それもまだ後継ぎがいない貴族にそれをやるのは問題が多すぎ
る。宏が最初にこの方法を提示しなかった理由に納得しつつ、聞い
た瞬間に即座に頭の中で除外する女王。
﹁なるほど、分かった。原因を排除したうえで、地道にやるしかな
い、という事じゃな?﹂
﹁そうなりますわ。しかし、何っちゅうか、ファーレーンの時に比
べるとやり方が荒いっちゅうか、あんまり計画が練られてる感じが
せえへんっちゅうか⋮⋮﹂
﹁ファーレーンの事件については、流石にそこまでの詳細を調べる
事は出来なんだが、そんなに違うのか?﹂
﹁そらまあ、こんなすぐ発覚するようなやり方はしてませんでした
で。おかげでぎりぎりまで気が付かへんかって、一番やばいタイミ
ングで春菜さんが刺されて、思いっきり冷や汗かきましたわ﹂
﹁お主らはともかく、向こうの王太子や国王が全く気が付かなかっ
たという事は、余程だったようじゃのう﹂
﹁おかしかったんはおかしかったんやけど、理由が納得出来へん訳
でもなかったもんで。その上、城で働いとる一般人避難させるどさ
くさで担当者が間違えて、王族付きの侍女として扱うてしもうたと
か、色々ミスも重なったんですわ。もっとも、そういうミスが出る
ように、裏でバルドがかく乱しとったとは思いますけどね﹂
そこまで地道に策を巡らせたバルドですら、宏達というファクタ
ーのせいで大失敗したのだ。やるのならこんな中途半端で荒っぽい
2025
稚拙なやり方ではなく、もっと大雑把に予測できない方向で物理的
に暴れるか、不確定要素である宏達の存在を前提とした、突発事態
に対応しやすく対処されにくい策を練らないと話にならない。
﹁色々参考になった。後は妾の方で適当に調べてみる事にしようか
のう﹂
﹁もしかして⋮⋮?﹂
﹁義賊向きの案件じゃと思わぬか?﹂
﹁⋮⋮頼むから、デントリスさんの二の舞にならんといてください
よ⋮⋮﹂
﹁分かっておるよ。まあ、それはそれとして﹂
聞くべき事を聞き終えたと判断したか、女王の雰囲気が為政者の
それから、女盛りの色を持ったものに変わる。そのゾクリとするほ
どの過剰な色気に青ざめ、元々大きく取っていた距離を更に広げ、
部屋の片隅でガタガタ震えはじめる宏。例の事件後、宏を絞め殺そ
うとして殺人未遂で捕まった女子生徒が、丁度こんな感じで妙な色
気を持っていたのだ。無論、その女子生徒には宏に対する恋愛感情
は無く、自業自得による環境でいろんな所が壊れていたが故に、宏
を殺した時の快感を想像して勝手に発情していただけなのだが。
﹁折角だからやらないか、と言おうと思うておったが、流石にその
反応は傷つくのう﹂
﹁女怖い女怖い女怖い女怖い⋮⋮﹂
2026
﹁いやいや、女体は怖くないぞ?﹂
﹁女怖い女怖い女怖い女怖い⋮⋮﹂
﹁しまったのう。妾としたことが、完全に見切りを間違えてしもう
た。これは、実に申し訳ないことをしたのう⋮⋮﹂
﹁女怖い女怖い女怖い女怖い⋮⋮﹂
﹁しかし、やらかしてしまった妾がいっていい事ではないかも知れ
んが、これは歌姫殿も姫巫女殿もエルフ殿も、実に大変な道を選ん
だものじゃ﹂
宏の過剰な反応にちょっとやりすぎたと反省しつつ、一つ肩をす
くめてその場を立ち去る女王。仮にこの場に第三者がいたならば、
さりげなく澪をはぶっているあたりが無意識なのか意図的なのか気
になった事だろう。もっとも、宏にはそんな余裕はないが。
﹁宏君、お話終わったんだよね⋮⋮?﹂
結局、宏が正常に戻ったのは十分後、女王に謝られた春菜が様子
を見に来た時の事であった。
﹁とりあえずデントリスさんの方はまあ、片が付きそうやとして﹂
2027
仲間たちと合流する道での事。最近では珍しく二人きりの状況に
ドキドキしている春菜に対して、彼女が期待しているのとは全く正
反対の方向で妙な緊張感を醸し出している宏が声をかける。宏の側
が積極的に声をかけた割に二人の間の距離が普段より随分と開いて
いるのは、先ほどの状態を考えれば仕方が無いことだろう。
﹁本当に?﹂
﹁女王陛下が動くんやから、何らかの結果は出るやろう﹂
﹁そっか﹂
デントリスの問題が片付く。そう聞いてあからさまにほっとした
様子を見せる春菜。正直、とにかく鬱陶しかったのだ。
﹁とりあえずバタバタしてて渡しそびれとったもん、渡しとくわ﹂
﹁渡しそびれてたもの?﹂
﹁霊布で作った服がな、とりあえず一着完成してんねん。っちゅう
てもブラウスだけで、ズボンとかはまだ作ってへんねんけど﹂
﹁私でいいの?﹂
﹁春菜さんは防御薄めやのに、割と前に出る機会も多いからな。そ
の上補助魔法とか回復魔法とか、生命線になりがちなスキルようさ
ん持っとるし、兄貴とセットで優先的に防御面を改善せんとやばい
ねん﹂
2028
﹁あ∼、なるほど﹂
自分が優先される理由に納得し、差し出された無地の白いシンプ
ルなブラウスを受け取る。前が女合わせになっている事を除けば、
性別に関係なく誰が着ても問題ないような、毒にも薬にもならない
タイプのデザインである。もっとも、使っている生地が生地だけに、
その毒にも薬にもならないデザインがかえってものすごい気品と高
級感を醸し出す結果となっているが。
﹁一応、サイズ自動調整とかは縫った段階でかかっとるから、微調
整とかはせんでええはずやで﹂
﹁了解。後でちょっと着替えてくるよ﹂
一瞬、装備的な意味ですぐにこの場で着替えてしまいたい衝動に
かられる春菜だが、流石にいつ誰が通るか分からない場所なので自
重する。それに、春菜自身は見られても問題ないどころか、むしろ
お互いに堂々と見せあえる関係になりたいところではあるが、今の
宏に着替えのシーンを見せるのは、余計なダメージを与えるだけで
何の意味もない事ぐらいは理解している。そもそも、慎みという奴
を忘れては女として終わりだ。これがゲームだったらその手の問題
は発生しないため、何のためらいも無く即座に装備を交換していた
ところである。
頭の中でそんな事を考え、新装備に対する期待をどうにかなだめ、
次の話題に話を切り替える春菜。
﹁それはそれとして、王宮に招かれてる形になってる訳だけど、何
か献上品とか、考えなくていいのかな?﹂
2029
﹁せやなあ。何かあった方がええかもなあ。何がええやろう?﹂
﹁ダールは水が貴重だから、水がらみ?﹂
春菜のコメントに、いろいろと考え込む。確かに水がらみの何か
があれば、王室としては非常に助かるだろう。だが、直接的に水を
扱うようなものを渡すのは、非常に危険な気がする。
﹁水を作るような魔道具は、流石にまずいやろうなあ﹂
﹁私もそう思う。こういうところだと、水利権ってかなり大きいだ
ろうし﹂
﹁渡すとしても、いざという時の伝家の宝刀、みたいな形にしとか
んとやばいやろうなあ﹂
酒より水が高いような土地だ。いざという時の渇水対策に、王家
が水を作る事が出来る魔道具を持っておくのはいいことだろう。だ
が、それが余りホイホイ使えると、国全体にとってはいい事なのは
間違いないにしても、利権に絡む大きなトラブルが起こってかなり
の混乱を起こしかねない。
﹁まあ、王家の人しか使えんようにした上で、一日一回とか貯水湖
が空のときしか使われへんとか、貯水湖満タンにする量しか作られ
へんとか、後は魔力の消費量を王族でも空になるぐらい大きいする
とか、そこらへんの制限かければいけん事はないか﹂
﹁そだね。まあ、少なくとも、今の女王様とかはそこらへんもちゃ
んと分かってると思うから、制限かけておけばその意味も理解して
くれると思う﹂
2030
﹁せやな﹂
﹁ただ、それだけじゃなくて、大した影響はないけどちょっと便利
な物とか、あってもなくても何も変わらないけど、あると嬉しいも
のとかも渡したいかも﹂
﹁となると、便利グッズか嗜好品の類やなあ﹂
春菜の提案に、頭の中で作れそうなものをリストアップして検討
する宏。ちょっとしたもの、なので、材料はそれほどいいものにこ
だわる必要はないだろう。
﹁⋮⋮王宮のトイレ、全部ウォッシュレットにするか?﹂
﹁⋮⋮ありだとは思うけど、そこに貴重な水作成の魔道具を持って
くるのは、いろいろ騒ぎにならない?﹂
﹁反感買わんように、ウォッシュレットの設置とセットで、下水処
理関係のシステム整備するか?﹂
﹁規模が大きすぎるって﹂
﹁ほなまあ、マッサージチェアぐらいにしとこか﹂
﹁それぐらいがちょうどいいんじゃない?﹂
いきなり規模がグレードダウンした宏の提案に、内心でほっとし
ながらも軽い感じでOKを出す。別に王城の上下水工事を徹底的に
やる事になっても、それはそれでかまわないとは思っている。思っ
2031
てはいるのだが、あまり派手に動くと、いろいろ面倒なことになる。
そもそも、その面倒事を避けるために、水作成の魔道具を可能な
限り使い勝手の悪いものになるよう調整するのだ。折角施した小細
工が無意味になるようなプレゼントをしては意味が無い。
﹁ほな、いっぺん戻って用意してくるか﹂
﹁手伝える事、ある?﹂
﹁マッサージチェアの方は、いろいろあるで。何脚ぐらい用意した
らええと思う?﹂
﹁五脚ぐらいでいいんじゃないかな?﹂
﹁了解や﹂
大まかに必要な事を確認し終え、達也達との合流を急ぐ。話して
いるうちにいつの間にか、互いの距離が普段と同じになっている。
そんな些細な事でも幸せを感じ、ますます二人きりである事を意識
する春菜。
︵こっちに来た当初は、ずっと二人きりだったんだけどな⋮⋮︶
ファーレーンに飛ばされたばかりのころをどこか懐かしく思い出
しながら、久しぶりの二人きりの時間をひそかに楽しむ春菜。かつ
ては、二人だけで行動するのが当たり前だった。その頃の春菜は、
宏を恋愛対象になりうる相手として意識していなかったため、特に
緊張する事も幸せを感じることも無く、ごく自然にすべき事をこな
していた。もっとも、そもそも飛ばされた当初は、目先の事と宏の
2032
女性恐怖症に対する対応にいっぱいいっぱいで、恋愛なんて考える
こともできなかったのだが。
︵今から思えば、あの頃はずいぶんと贅沢な時間の使い方してた気
がする⋮⋮︶
後悔はしていないが、ちょっともったいないかもしれない、など
と過去を思い出して内心でため息をつく春菜。宏という自分をスペ
ックだけで見るような真似をしない男がすぐ近くにいたのに、自分
を好きになってもらえるよう努力する気がまったくなかったのだか
ら。
あの時間が今の距離を得るために必要だったのは間違いなく、ま
た、春菜が宏を好きになるために必要なステップだったのも確かな
のだから、時間を無駄にしていた訳ではまったくない。故に、後悔
はしていないが、あの頃の穏やかな時間とそれを当たり前のように
享受していた当時の自分が、今となっては羨ましくてたまらない。
︵向こうに帰ったら、ああいうのはちょっと無理かな?︶
お互いに何も言わずに黙々と歩きながら、春菜はとりとめのない
事を考え続ける。少なくとも、当時や今のように同居する、という
のは無理だろう。そもそも、春菜が持つ恋愛感情は一方通行のもの
で、まだカップルにすらなっていないのだ。その上、余程改善した
ところで、宏の女性恐怖症が今の春菜と二人きりで生活するのに耐
えられるところまで行くのは難しそうである。
春菜自身、自分でもはしたないとは思うが、今の彼女は宏と同棲
する事になったとして、まったく何もなしに日々を過ごすことに耐
えられる気がしない。現在のように同居と言っても複数の人間と一
2033
緒ならブレーキもきくが、邪魔が一切入らない環境で自分を律する
事が出来ると思うほど、春菜は自身の自制心を評価していない。
一緒にいれば触れ合いたくなる。触れ合う事が出来れば、いずれ
口づけが欲しくなり、口づけを交わしてしまえば、その先に踏みこ
みたくなるのも時間の問題だろう。幸いにして、春菜の身内は真剣
な恋愛ならそういう事にも理解を示してくれるが、宏の家族や宏本
人は、恐らくそうではない。
︵⋮⋮我ながら、先走った事を考えてる⋮⋮︶
自分のあさましく都合のいい思考に、思わず大きなため息を漏ら
す春菜。その間も、視線はずっと宏をロックオンし続けていたのだ
から、自分のことながら本気で呆れるしかない。
﹁どないしたん?﹂
﹁ん? あ、何でもない。ちょっと考え事してて﹂
﹁さよか﹂
どうやら、宏に心配をかけてしまったらしい。ちょっと反省しな
がらも、こんな些細な事でも気にしてくれる宏の態度に嬉しくなっ
てしまう。
︵とりあえず、当面の問題は、どうすれば宏君が怖がらずに私達の
事を真剣に考えてくれるようになるか、かな?︶
先ほどまで恐ろしく先走った事を考えていた思考を整理し直し、
自身の感情に素直に従ってなすべき事を考える。まずは、少しでも
2034
宏の恐怖心が軽くなるように努力しなければいけない。恐らく、自
分達の中の誰かが恋愛を成就させるには、最低でもあと三歩ほど宏
が歩み寄れるようにならないと、話にもならないだろう。
︵向こうに帰った時、こっちでの記憶もこの気持ちもそのまま残っ
てたらいいんだけど⋮⋮︶
恋愛感情という奴が必ずしもいいものではない。宏への恋心を自
覚してからこっち、毎日のようにその事実を思い知ってなお、春菜
は恋をしなければよかった、などとは思ってもいない。たとえどの
ような結果になったとしても、この気持ちは向こうに持って帰りた
い。宏に向ける恋心と同じぐらい切実に願う春菜であった。
﹁珍しいわね、達也。あんたがこんな真昼間から酒に走るなんて﹂
﹁ちょっとあいつらにあてられて、な⋮⋮﹂
同じ日の昼下がり。あてがわれた部屋に引きこもっていた達也は、
砂牡蠣の燻製をつまみに日本酒をあおっていた。どう見てもやけ酒
である。
﹁ああもまっすぐに惚れたはれたをやられると、どうしても我が身
の現状がなあ⋮⋮﹂
2035
﹁まあ、あんたの立場じゃしょうがないとは思うけどさ﹂
﹁惚れた女と結婚して、二人での生活がようやく軌道に乗った矢先
に引き離されてみろ。ひとり寝の夜が堪えるぞ⋮⋮?﹂
そんな風にぼやきながら、グラスに注いだ酒をグイッとあおる。
日ごろは年長者として無様な姿を見せまいと気を張っている達也だ
が、所詮まだ三十路にも届かない若造だ。新婚の嫁と引き離され、
唯一まともな社会人経験がある人間として陰で色々な役割をこなし、
あまり深刻な愚痴はこぼす事も難しいとなれば、誰も見ていないと
ころで酒におぼれたくなってもしょうがないだろう。
﹁まったく、神様も意地が悪いわよねえ。何も新婚の男を嫁から引
き離さなくてもいいのに﹂
﹁本当に、何で俺だったんだろうな⋮⋮﹂
酒臭い吐息を漏らし、牡蠣を食いちぎって新たな酒を飲み干す。
宏達三人が工房に戻っているからこそ、油断して酒におぼれる事が
出来る。そんな態度を隠そうともしない。
﹁達也、あんた色々溜まってるみたいだけどさ。嫁さん一筋とか言
って意地張ってないで、娼婦でも買って発散してきたらどうなの?
お金は十分あるんだからさ﹂
﹁前から思ってたんだが、真琴。お前、そういうところに妙に理解
があるよな﹂
﹁あたしはあんた達より三カ月長くいるのよ? しかも、面倒見て
くれたのがドルおじさんだから、必然的に騎士連中や警備隊なんか
2036
と関わることも多かった訳よ。流石にこっちの男の方の事情にも詳
しくなるし、理解も進むわよ?﹂
﹁そうか。ヒロに春菜を抱くようにけしかけたのも、そういう事情
か?﹂
﹁まあね。無理やりそういうことする連中を容認する気はないどこ
ろか、片っ端から見つけ出して切り刻んで魚の餌にでもしてやりた
いところだけど、残念ながらいくら春菜だって、防げないときは防
げない。だったら、初めては好きな男に、ね﹂
マイグラスを取り出し、達也の対面に座って酒を注ぎながら、茶
化す訳でもなく真剣な声色で思うところを告げる真琴。騎士団や警
備隊などと行動を共にするという事は、そういう過酷な現実を目の
当たりにする機会が多いと言う事でもある。
﹁で、まあ、話を戻すけど、あたしはあんたが我慢できなくなって
女を抱きに行ったところで、軽蔑したりは絶対しない。我慢してお
かしくなるぐらいだったら、お金で解決できる事は後腐れなくお金
で解決してほしいぐらいよ﹂
﹁お前も春菜も、たまにものすごく男前だよな⋮⋮﹂
﹁随分な言いようね﹂
﹁そう、むくれるな。が、まあ、そうもいかないんだよな、現実的
に﹂
新しい瓶を取り出しながら、苦笑交じりに話を続ける。夕食には
宏達も戻ってくるのだが、そんな事を気にして飲むような心境では
2037
ない。とはいえ、出来あがった状態で夕食の席に行くのは流石にま
ずいので、アルコールを抜くための万能薬も用意しておく。
﹁男ってのは、お前さんが思ってるよりデリケートなもんでな。残
念ながら、詩織以外じゃ反応しないんだよ﹂
﹁⋮⋮そんなもんなの?﹂
﹁ああ、そんなもんだ﹂
﹁⋮⋮あたし、男って頭と下半身は別物だと思ってたわ﹂
﹁まあ、実際のところそういう男が多いのは事実だが、こうと決め
た一人にしか反応しない奴も結構いるもんだぞ?﹂
子供には聞かせられない赤裸々で生々しい話をしながら、コップ
に注いだ酒を一息にあおる。自分から振ったからかそれとも腐女子
だからか、一歩間違えればセクハラになりかねないエロトークに顔
色一つ変えずに付き合う真琴。適齢期の男女とは思えない会話であ
る。
﹁その割りには、遺跡のときは春菜のエロい空気にぐらついてたじ
ゃない﹂
﹁あれにぐらつかない男なんて、それこそ精神的にどうかしてると
思うんだが、どうだ?﹂
﹁まあ、そうだけどさ﹂
ちょっと前にあった事件について真琴につつかれ、とりあえず開
2038
き直ったことを言う達也。あれは本気で修行僧でもノーダメージで
は無理、そんな次元だ。普段が普段だけに、ああいうときの色気が
度を越す。それについては真琴も同感らしく、むしろ達也がぐらつ
いたという事実に安心している節が無きにしも非ず、である。
﹁それで、反応しなかったって事は、試した事はあったんだ?﹂
﹁試したってほどの事じゃないんだがな。ユリウスに誘われて、一
度だけ性的な出し物が売りの夜の劇場に行った事があるんだよ﹂
﹁あ∼、何処だか大体分かった。アレでしょ? 金と交渉次第では、
気に入った踊り子一人お持ち帰りできるところ。まあ、そう簡単に
お持ち帰りできるほど甘い連中でもないけどさ﹂
﹁お前がそれを知ってること自体、かなり微妙な気分なんだがな。
まあ、男同士のつきあいって事で、顔だけは出したんだが⋮⋮﹂
﹁もしかして、あの店でも反応しなかったの?﹂
﹁そう言うことだ﹂
達也の嫁一筋は、どうやら筋金入りらしい。出し物の内容と、そ
れに対する男たちの反応を知っている真琴からすれば、宏とは別の
ベクトルで達也が病んでいるようにしか思えない。
﹁⋮⋮あの店行って反応しないとか、ほとんど病気の域じゃないの
?﹂
﹁残念ながら、詩織相手だったら、夢だろうが妄想だろうが反応す
るんだよ。だから、不能になった訳じゃない﹂
2039
﹁や、多分それ普通に病気だから。あそこ、アルチェムぐらいのエ
ロボディ持ったお姉さんとか、澪みたいな体つきなのにやたら妖艶
でエロい娘とか、様々なニーズにばっちり応えてたと思うんだけど
⋮⋮﹂
﹁お前さん、今の自分の言動が澪の事を言えないって気が付いてる
か?﹂
﹁うっ﹂
達也に痛いところを突かれ、思わず返事に詰まる真琴。とはいえ、
こういう未成年の異性が一緒にいる場では口にしづらい話をする事
が出来て、ずいぶん気分的には楽になった気がする達也。正直、真
琴は達也的には性欲の対象には絶対にならない娘であるが、それゆ
えに友人としては得難い人物である。
﹁まあ、俺の話ばかりってのも不公平だし、そっちもちょっとつつ
かせてもらおうか﹂
﹁な、何よ?﹂
﹁いや、お前さん、宏と春菜の事をせっせと応援してるようだが、
自分自身はどうなんだ、ってな?﹂
真琴的にはうやむやのままごまかしたかった所を突っ込まれ、途
端に目線が宙をさまよう。
﹁どうしても、言わなきゃダメ?﹂
2040
﹁ヒロみたいな事情があって絶対無理だ、ってんだったら言わなく
てもいいが、な﹂
﹁⋮⋮そこまでじゃないのが困りものなのよね⋮⋮﹂
達也の示した条件に、本気で困った顔をするしかない真琴。こっ
ちに来たことがきっかけで、そろそろ真琴の中では過去の事になり
つつある話ではあるが、自分の恥部もあって、あまり口にしたい類
の内容ではない。もう少し時間が過ぎれば笑い話にできそうな感じ
ではあるが、男が聞いて楽しい種類の話ではないのが問題である。
﹁ま、いっか。宏の女性恐怖症を何とかしようってのに、あたしが
自分の失敗を笑い話にできないのはダブルスタンダードだしね﹂
﹁失敗、なあ。もしかして、引きこもってたのもそこが原因か?﹂
﹁そそ。まあ、半分自業自得な部分があるし、今にして思えば、甘
ったれた話だって気もしてるしね﹂
﹁自業自得、ねえ﹂
何やら存外重い話になりそうだと察して、牡蠣の燻製以外のつま
みを取り出す。取り出したのはクラッカーと、ゴブリン達からもら
ったマルガ鳥の燻製卵である。
﹁で、何やらかしたんだ?﹂
﹁一言で言うと、大学時代にパンピーの彼氏と付き合ってて、うっ
かり彼とその友人掛け算した、それも下の名前は実名出しちゃって
た本を見られたって話﹂
2041
﹁⋮⋮そらまた、ダメージの大きい話だな⋮⋮﹂
﹁見られただけでもショックだったんだけど、それがいつの間にか
大学中に広がっててさ。彼氏だけじゃなくていろんな人間から、も
う無茶苦茶言われた訳よ﹂
﹁なるほど、引きこもる訳だ﹂
半分自業自得、という真琴の言葉にひどく納得する達也。ボーイ
ズラブというやつは、小ネタレベルならともかく、本気の内容にな
ると普通の男が受け入れるのは難しい。それが明らかに自分をモデ
ルにした、どころか実名バリバリだとなると、引くか怒るかするの
が当然である。
﹁腐女子である事を恥じる気は全然ないけど、流石に自分の彼氏を
その友達と掛け算するのは、人としての礼儀に欠けるどころの騒ぎ
じゃない訳じゃない。だけど、当時は結構ガキだったから、見つか
らなきゃいいじゃん、なんて軽いノリでやらかしちゃったわけよ﹂
﹁⋮⋮お前さんとその彼氏、どっちも擁護出来ねえ種類の話だな、
まったく﹂
﹁擁護してもらう必要もないわ。もっとも、こっちの趣味を黙認し
てくれるような男じゃなかったから、その事件が無くてもいずれや
らかして破局してたとは思うけどね﹂
﹁なるほどな﹂
真琴が腐女子的な意味以外で男に興味を示さない理由を、なんと
2042
なく納得してしまう達也。経験上、腐女子だからと言って男を作ら
ない訳ではない事を知っていたため、ここまで無反応である理由が
分からなかったのだ。
﹁そんな事があったから、正直当分の間は自分の恋愛はお腹一杯、
って感じなのよ﹂
﹁まあ、その手のダメージって、結構抜けるまでに時間がかかるも
んだしな﹂
﹁強制的に、みたいな感じだったけど、ようやく引きこもりから脱
出した身の上だからね。まだまだ男が欲しいって気分にはなれない
のですよ﹂
﹁てか、初対面の頃からそんな感じはしてたんだが、その言い方だ
とやっぱり経験済みか?﹂
﹁経験済み﹂
達也の、女性に対して正面から聞くのはハードルが高い質問に、
あっさり端的に応える真琴。
﹁因みに、それがあたしの唯一の恋愛経験ね﹂
﹁⋮⋮ヒロもそうだが、お前さんも難儀な人生を歩んでるな⋮⋮﹂
﹁達也だって、今現在人の事は言えないじゃない﹂
﹁まあ、俺はこっちに飛ばされなきゃ、せいぜい澪の世話がある以
外はそんなに難儀な事情は抱えてなかったがな﹂
2043
達也の自嘲気味の台詞に、澪も大概重たい人生を送っていた事を
思い出す真琴。春菜にしても、勝ち組っぽい分普通とは言えない生
活をしていた節があるため、ここに飛ばされる前に平凡な人生を送
っていたのは達也だけ、という事になりそうだ。
﹁そういや、引きこもってたって話だが、生活費は親のすねか?﹂
﹁ん? あたし、ちゃんと収入あったわよ?﹂
﹁ほう? 因みにどんな?﹂
﹁いわゆるデイトレードって奴。元手は引きこもる前までイベント
とかで同人誌売って稼いだお金。引きこもる前二年ほどはちゃんと
完売してたから、そこそこ蓄えはあったのよ﹂
﹁なるほどな。だが、何部ぐらい刷ってたかは知らねえけど、同人
誌の売上ぐらいじゃ、生活費をデイトレードで稼ぐ原資にするにゃ
少なくねえか?﹂
﹁いくつか大穴当てたからね。とりあえず、税金払っても生涯の手
取り分になるぐらいは稼いだわよ?﹂
さらっととんでもない事を言い出した真琴に、思わず口に入れた
酒を噴き出しそうになる達也。
﹁ちょっと待て、お前。それはいくらなんでも稼ぎ過ぎだろう⋮⋮﹂
﹁あたしも、そんなに当り引くとは思わなかったのよ。値動きが分
かりやすい奴適当に買って十万ぐらい小銭儲けた後、冗談半分で適
2044
当に選んだ屑に近い値段の安い株に、その十万の儲けを全部突っ込
んで放置してたら、二カ月ほど後に何かその会社が世紀の大発見を
やったとかで一気に買い注文が入って、あっという間に百倍以上に
なったのよ。発行株数の割に元値が安かったから、上がり方も半端
なかったわよ?﹂
﹁それを三回か四回繰り返した、と?﹂
﹁うん。あの時のあたしは、冗談抜きで神がかってたわ⋮⋮﹂
当時の自分のツキ具合を、遠い目をしながらそんな風に述懐する
真琴。どうせあぶく銭だからと素人特有の大胆さで下調べもせずに
そう言う事をやり続けた結果、大胆なM&Aの対象となったために
急騰した株だの、社員がノーベル賞レベルの商品開発に成功した会
社の株だのを話題になる前に買い付け、ほぼ最高値で売り抜けるこ
とに成功し続けたのである。
真琴のちゃっかりしているところは、元手となった同人誌の売り
上げは、ほぼ満額そのまま残してあったところであろう。そっちの
方は堅実な売買を繰り返し、これまた十倍程度には増やしていたり
する。
﹁で、こっちに飛ばされる前も、デイトレードはやってたのか?﹂
﹁そっちはもう、手を引いたわよ。引きこもるには十分なお金をゲ
ットしたんだから、欲かいてもしょうがないじゃない﹂
﹁なるほどな。堅実だ﹂
﹁博打なんてものは、そう何度もするもんじゃないってことよ﹂
2045
﹁道理だな﹂
真琴の、元引きこもりとは思えない実に正しい意見に、思わず苦
笑しつつグラスをあける。
﹁しかし、そんなに年も変わらねえのに、そっちは億単位の金持っ
てて、こっちは住宅ローンにひいひい言ってるしがないサラリーマ
ン、ってのもなあ﹂
﹁あたしとしては、そっちの方が人として魅力的だと思うわよ。あ
たしみたいなのは、いつか絶対痛い目見るって﹂
﹁そんなもんかねえ﹂
﹁そんなもんよ。正直、向こうにいた時はあのお金のせいで、いろ
んな意味で疑心暗鬼にかられたもんだし﹂
﹁大金持つのも、いろいろあるんだな﹂
真琴の意外な一面を教えられ、色々感心しながら互いのグラスに
酒をつぐ。そろそろ新しい瓶も空になりそうだから、いい加減酒盛
りも終わりにすべきだろう。
﹁最後に一つ、前から思ってた疑問があるんだが﹂
﹁何よ?﹂
﹁引きこもりだってのに、よくフェアクロを続ける気になったよな。
さっきの話だと、普通に対人恐怖症に近い状態になってたと思うん
2046
だが?﹂
﹁ん? ああ、それね﹂
達也のもっともと言えばもっともな質問に、苦笑しながら酒に口
をつける。軽く喉を潤した後、ゲームを続けられた理由をあっさり
告白する。
﹁そりゃ、あたしネナベだったし。アバターも筋骨隆々の巨漢だっ
たから、誰もあたしが大学でやらかした腐女子だなんて思わないっ
て﹂
﹁あ∼、なるほどなるほど﹂
筋骨隆々の巨漢が刀を使ってたのか、とか突っ込みたいところは
いろいろあるが、そこを置いておけばいろいろ納得させられる話で
はある。
﹁お前さん、本気で平凡なのは見た目だけだよな﹂
﹁アンタも、中身が普通とは言い難い部分がある事、気が付いてる
?﹂
﹁俺ぐらいのねじれ方なら、そんなに珍しくもないだろう?﹂
﹁まあ、そうかもしれないけど⋮⋮﹂
達也の主張に微妙に釈然としない何かを感じつつ、最後の一杯を
あける真琴。
2047
﹁それにしても、この状況﹂
﹁ん?﹂
﹁ギャルゲ脳の澪だったら、あたし達の間にフラグが立った、とか
言いそうよね﹂
﹁あ∼、そうだよな。普通ならそうだろうなあ﹂
﹁まあ、恋愛不感症のあたしと嫁以外に対しては性的不能のあんた
じゃ、フラグなんて立ちようが無い訳だけど﹂
身も蓋もない真琴の言い様に、久しぶりに腹を抱えて笑う達也。
お互い、どうあっても相手の事を恋愛対象としては見る事が出来な
い人種ではあるが、飲み友達としてはこの上ない人材だと認識して
いる。
﹁さて、そろそろ酒を抜いとかねえと、いつヒロ達が戻ってくるか
分かんねえな﹂
﹁そうね﹂
もう少しこの酔っぱらった状態を楽しんでいたいと思いつつ、大
人としてさっさと万能薬で酒を抜いて、普段の自分に戻る二人であ
った。
2048
第13話
イグレオス神殿本殿との調整が付き、女王一行の出発が翌日に迫
ったその日。
﹁アルヴァン! 貴様!﹂
﹁こんなものを眺めてにやにやしているのは、正直言って人として
気持ち悪いことこの上ないよ、デントリス君﹂
デントリスの別宅は真昼間から大騒ぎであった。
﹁何故よりにもよって、それを持って行く!?﹂
﹁これが一番怪しいからに決まっているだろう?﹂
理由は実に単純。白昼堂々とアルヴァンが押し入り、デントリス
が妙に大事にしている趣味の悪い黒い像を持ち出したからだ。名状
しがたい形状のそれは、ぱっと見た印象は邪神像、それも﹁窓に!
窓に!﹂という類のものにしか見えない代物で、アルヴァンの言葉
ではないが、こんなものを見て嬉しそうににやにやしている人間な
ど、気色悪くて仕方が無い。
正直なところ、アルヴァン自身こんなものを持って走るのは嫌で
しょうがないのだが、見ただけでやばい事がありありと分かるよう
な物体を、そうでなくても国際問題になりそうな行動を取っている
男のもとに放置するのは絶対にまずい。間違って自分が虜にならな
いように必死になって精神防御を続けながら、屋敷の家人を撒いて
2049
外に出る。
﹁待て、アルヴァン!﹂
﹁待てと言われて待つ理由はないね﹂
宏が下塗りをやり直した建物の屋根︵因みに高さは十メートル以
上はある︶を飛び越え、並の人間では追いかけるどころか見失わな
いようにするのが精一杯という華麗な身のこなしで、屋根伝いに下
町の方に消えていく。
﹁くそ! アルヴァンを探せ! あれだけは絶対に奪われる訳には
いかない!!﹂
デントリスの絶叫を受け、下町の方へ駆け出して行く家人達。正
直なところ、あの正体不明の像に関してはアルヴァンの意見に大賛
成で、彼が持ち去って処分してくれるならば大歓迎ではあるのだが、
主の言葉には逆らえない。
日が暮れるまで全力で街を探しまわった彼らは、謎の少女の妨害
もあって結局欠片たりともアルヴァンの情報を仕入れる事は出来ず、
すごすごと引き返して主の大目玉を食らう事になるのであった。
﹁まったく、余計なところで難易度の高い仕事であったぞ⋮⋮﹂
2050
﹁わざわざ女王陛下直々に盗みに入らなくても⋮⋮﹂
その日の晩。見事にデントリスの手のものを振り切って城に戻り、
宏からもらったマッサージチェアで癒されながらぼやく女王。そん
な女王から霊布を使った封印具に包んだ不確定名・邪神像を受け取
った真琴が、呆れ交じりに突っ込みを入れる。宏達はもろもろの準
備のために工房に戻っており、達也はプリムラに呼び出されていて
身動きが取れず、代表で真琴が一人でこちらに来ている。
﹁正直なところ、他の者だと手に余る事が分かっておったからな。
そうでなければ、わざわざ妾自らこんな趣味の悪いものを盗みにい
ったりはせんよ﹂
マッサージチェアの癒しを受け、とろけ切った声でそんな事を言
いきる女王。
﹁手に余るって、警備体制が?﹂
﹁そちらもだが、むしろその像を持ち運ぶこと自体、非常にリスク
が大きい﹂
﹁そんなに?﹂
﹁ああ。妾でも油断すれば取り込まれるところであったぞ。この種
のものに対する耐性が低い人間が何の対策も無しに触れれば、あっ
という間にデントリスが二人じゃ﹂
アンニュイな雰囲気を纏いながら、厳しい現実を突きつける女王。
実際、ただ持っているだけで何かがどんどん削り取られていくよう
2051
なあの感覚は、余程の人間でなければ正気を保てないだろう。
﹁それにしても、この椅子は実にいいのう。たかが椅子だと侮って
おったが、揉み具合も押しの強さも実に絶妙じゃ﹂
﹁ここにもマッサージチェアの餌食になった人が一人⋮⋮﹂
﹁そういえば、ファーレーン王の三人の妃も、この椅子にはまって
いると聞いたのう﹂
﹁余程あちらこちらのコリがひどいらしくて、暇があれば大体座っ
てマッサージを受けながらうたた寝してるそうですよ﹂
以前エアリスから聞いたロイヤルファミリーの日常を暴露する真
琴。
﹁その話は妾も聞いておる。最初はたかが椅子ごときの虜になると
は、などと侮っておったが、流石にこれは抵抗出来ぬ⋮⋮﹂
一見フリーダムにしているように見えても、この女王も曲がりな
りにも一国のトップ。マッサージチェアに癒される程度には色々と
疲れをため込んでいるらしい。
﹁お前達を敵に回すのがどれほど危険か、今心の底から実感してお
るぞ⋮⋮﹂
﹁そんな大げさな﹂
﹁大げさなものか。人間、苦痛には結構耐えられるものだが、一度
味わった快適な生活を手放すのはほとんど不可能じゃ。快適な生活
2052
というのは麻薬と同じぞ﹂
﹁⋮⋮まあ、心当たりはあるかな?﹂
女王の言葉は、真琴としても否定しきれない要素である。真琴達
とて、何らかの事情で宏が脱落してしまえば、おそらく旅を続けよ
うという気にはならないだろう。それどころか、日常生活にすら支
障が出てくる可能性もある。澪がいればある程度は何とかなるにし
ても、宏ほど圧倒的な製造能力は持っていない。家具をはじめとし
て、いくつかどうにもできないポイントがあるのだ。
﹁はっきり言って、このやり方で周りの人間を陥落させられてしま
えば、いかな王家といえども対抗するのは難しい。ほんに工房主殿
が協力的で助かる﹂
﹁普通、そっち方面で脅威を覚えるとかないですよねえ﹂
﹁そうよのう。真っ当な職人相手ならば、普通権力で抑え込めばど
うとでもなるものじゃが、お主らはそうもいかぬからのう⋮⋮﹂
﹁いやいやいや。あたしたちだって、国家権力を敵に回すのは無理
がありますって﹂
﹁何を言うか。その気になれば今この状況からでも脱出して夜逃げ
する手段ぐらいは持ち合わせておろう?﹂
マッサージを受けて弛緩しきっている声でありながら、女王の思
考や突っ込みの鋭さは何一つ損なわれていない。宏達が常に持ち歩
いているいくつかの脱走用アイテムについて、中身までは分かって
いないにしても存在そのものは想定しているようだ。実にやりにく
2053
い相手である。
﹁それに、物量で押すと言うたところで、お主ら相手にそう簡単に
押しきれるものでもない。最終的にはどうにかなるにしても、それ
までに出る被害を思えば力押しなど下策もいい所よ﹂
﹁そこまで警戒されると、やりにくいを通り越していっそ開き直っ
てもいいかも、って気になってきます﹂
﹁ほどほどにしてもらえれば、妾がとても助かる﹂
﹁善処します﹂
女王の本音を隠すつもりが一切ない言葉に、苦笑しながらそう答
えるしかない真琴。善処すると言っても、実際に自重する必要があ
るのは宏であり真琴達ではないのだが、彼女達が宏の暴走を抑える
事が出来た事など一度もない。せいぜいが突っ込みを入れまくって
軌道修正するのが限界で、その気になっている宏に自重させること
などまず不可能だろう。
﹁うむ、善処してくれ。その像の調査と処分は、工房主殿に丸投げ
で大丈夫なのだな?﹂
﹁多分大丈夫だと思います。あいつで駄目だったら、おそらく誰に
も対処できないでしょうし﹂
﹁違いない。では、くれぐれも頼んだぞ﹂
﹁分かりました。それでは失礼します﹂
2054
女王相手の雑談を終え、厄介事の種を抱えて部屋を出ていく。そ
の場に残された女王は、心行くまでマッサージチェアを堪能するの
であった。
一方その頃、王宮の片隅。ある種のデートスポットとなっている
その場所に呼び出された達也は、妙に無表情にプリムラを見下ろし
ていた。
﹁用ってのは?﹂
﹁タツヤ殿なら、推測は出来ているのではありませんか?﹂
﹁やっぱり、そっちか⋮⋮﹂
プリムラの言葉に、露骨に顔をしかめる達也。その態度が既に、
これ以上ないぐらいの返事になっている。
﹁やはり、私では駄目ですか⋮⋮﹂
﹁女房以外の女には、興味なくてね﹂
少しでもダメージを軽くするため、あえてきっぱりと言い切る達
也。出来るだけ気を持たせないように、同居している間も必要最低
限の気遣いしかしてこなかったのだが、やはりそれでは不十分だっ
2055
たようだ。
﹁達也殿がそこまで惚れこむのですから、私など足元にも及ばない
ほど素敵な方なのでしょうね⋮⋮﹂
﹁さてな。俺にとっては最高の女房だが、理想的な女かって言うと
そうでもないしな﹂
ただ一度振られただけで自己評価を底辺まで落としそうなプリム
ラに対し、別に魅力が無いから駄目だった訳ではない事を伝えよう
とする達也。単に宏や達也が特殊なだけで、プリムラやジュディス
に言い寄られたら普通、大多数の男はまったくぐらつかないと言う
訳にはいかない。その程度には、彼女は魅力的な女性である。
﹁おれの女房はな、何というかふんわりした女なんだ。あれでよく
首にならずに仕事続けられるなあって思うぐらい危なっかしいとこ
ろがあって、時々びっくりするぐらいどんくさい事をする。料理と
かは出来るが、生活力って部分ではちょっと足りてない感じはある﹂
達也の語る嫁の人物像。それは、プリムラとは正反対の位置にあ
った。
﹁だが、そんな女だが、あんたと同じ、ちゃんと自立した女でね。
ちゃんと俺の事を心の底から好いてくれてはいるが、恐らく俺が居
なくなっても、あいつは一人で何とかやっていけるだろう。むしろ、
あいつがいないと駄目なのは俺の方だ﹂
淡々とした口調で語られる達也の惚気話を、出来るだけ表情を変
えずに聞きつづけるプリムラ。ただ断られただけならともかく、こ
こまで嫁に対する想いを聞かされてしまって、まだチャンスがある
2056
などと思える人間は余程である。
残念ながら、プリムラはそのあたりは普通の感性をした女性だ。
それゆえに、表情だけでも平静を保とうと、掌を食い破らんばかり
の強さで拳を握り締める事しかできなかった。
﹁だから、俺は絶対に向こうに帰らなきゃいけない。残してきた女
房のためじゃない。俺が壊れないために、帰らなきゃいけないんだ﹂
淡々と、だがそれ故に大きな声を出すよりも強く相手の魂を揺さ
ぶる達也の告白。その駄目押しに、プリムラの中で何かが吹っ切れ
る。
﹁そう言う訳だ。プリムラに魅力が無い訳じゃない。ただ、俺は、
たとえ女神に言い寄られても、首を縦には振れないんだ。すまない﹂
﹁謝らないでください。奥様がいらっしゃる事を知って、それでも
なお、もしかしたらという願望を抑えきれなかった私があさましか
っただけです﹂
達也に頭をさげられて、泣き笑いのような表情でそう答えること
しか出来ないプリムラ。実際、達也が謝る筋合いの事ではない。プ
リムラが横恋慕をした結果、きっぱり振られただけの事である。そ
もそも、達也は常に言葉でも態度でも妻以外は眼中にない事を示し
続けてきた。それでも諦めきれなかったのは、プリムラの勝手であ
る。
﹁ただ、私がこんな事を言える筋合いではありませんが、もしも私
の事が人としてすら嫌いだと言うのでなければ、今後も一人の友人
としてお付き合いさせてくださいませ﹂
2057
﹁もちろん。プリムラに何か問題があった訳じゃない。あなたの人
間性は、俺にとっても好ましいものだ。ただ、女としてはどうして
も見る事が出来なかっただけで、友人としては得難い人だと思って
いた﹂
﹁それで十分です﹂
そう言って、頭を一つ下げてその場を去っていくプリムラ。こう
いう時、男にできる事はただ一つ。去っていく背中を最後まで見送
る事だけである。
﹁何度やっても、きついよな⋮⋮﹂
プリムラの姿が完全に見えなくなったところで、ため息とともに
心情を吐き出す達也。告白を断ると言うのは、断られる方だけでな
く、断る方だってしんどいのだ。達也にとって、宏とは別の意味で
告白というやつは避けたい状況である。
﹁さて、俺も気分を切り替えねえとな﹂
どうせ結果も含めてすべて筒抜けだろうが、だからと言って振っ
た方が沈んだ顔をするのは筋が通らない。気分を切り替えるため、
転移魔法ではなく歩いて仮拠点に戻る事にする達也であった。
2058
﹁こらまた、鬱陶しいなあ⋮⋮﹂
﹁ここまで露骨に邪神っぽい像って、逆に珍しいよね﹂
﹁普通の人だったら、SAN値が危険領域に入りそう﹂
真琴から受け取った包みを開き、中に入っていたものを見た宏達
の最初の感想は、恐らくほとんどの人が思う事と同じであろう。
﹁で、どう思う?﹂
﹁真琴さん、こんな怪しいもんを前にその振りで答えろ、っちゅう
んは結構なハードルやで﹂
﹁あ、ごめんごめん。その像、どの程度厄介そう?﹂
﹁壊すだけやったらどうとでもなるけど、下手に壊したら後が大変
そうや﹂
とことんまで観察し倒した結論を、過程やら何やらをバッサリ切
って単刀直入に告げる宏。
﹁結局、それってどんなものなの?﹂
﹁ターゲット、もしくは接触した相手の精神に干渉して、ちょっと
ずつ思考を狂わせる類のモンやな。感覚的には、ちょうど認知症が
進んで行くようなステップでおかしなっていく感じや﹂
﹁本人はおかしくなっている自覚がなくて周りもそんなに違和感が
2059
なくて、気が付いたら相当進んでる、と﹂
﹁そんな感じやな。ただ、認知症とは違うから、あった事を忘れる
訳やないんが逆に面倒っちゅうたら面倒やわな﹂
厄介なのは、瘴気を浸透させて思考回路を狂わせている訳ではな
い、という一点である。具体的にどんな思考操作をしているかまで
は不明だが、カウンセリング系統のやり方以外で元に戻せないのは
かなり面倒だ。
﹁宏君、これ明日の朝までに何とかできるの?﹂
﹁まあ、なんとかするしかあらへんわな﹂
ちょくちょく浸食しようとしてくる邪神像を鬱陶しそうに観察し
ながら、こともなげにそう答える宏。いかに認識や思考を変質させ
るタイプのやり方だと言っても、そもそも外部からの精神干渉であ
る時点で、精神抵抗を抜かなければ効果を及ぼす事は出来ない。そ
して、宏の精神抵抗はゲーム時代から大魔法すらほぼ無力にしての
けるレベルであり、しかもここまでの生産活動でひそかにスキルが
上がっている分、ファーレーンに飛ばされた直後と比べるとさらに
磨きがかかっている。たかが邪神像ごときが浸食できるような相手
ではない。
﹁とりあえずまずは、軽くお清めから行こか﹂
﹁お清めって、どうやって?﹂
﹁ウルス出る前にエルに聖水作ってもらっとるから、そのストック
取り崩すわ。因みに、純度の高い水に余ったソルマイセンの果汁と
2060
肥料にした残りの生命の海を混ぜた、実に効力の高い材料で作った
聖水やから、バルドの分身ぐらいは多分浄化出来んで﹂
﹁何そのチートくさいアイテム⋮⋮﹂
﹁そもそも、ソルマイセンが植物として胡散臭いからなあ﹂
などと言いながら、邪神像に瓶の中身を半分ほどどばどばかける。
露骨に苦しんでうねうね動き始める邪神像を見て、余計な悪戯を思
い付く澪。
﹁春姉、聖歌とか歌える?﹂
﹁歌えなくはないけど、どうして?﹂
﹁ちょっと、実験してみたい﹂
実験、という言葉で澪の意図するところを理解し、面白そうだか
らと代表的な聖歌を何曲か歌ってみる春菜。春菜の歌に、更に苦し
そうにのたうちまわる邪神像。春菜自身は限りなく神道に近い無宗
教で、唯一神様に対する信仰心などかけらも持ち合わせてはいない
が、そんな罰あたりな女が歌う聖歌でもきっちり効果が出ているよ
うだ。
﹁効いてる効いてる﹂
﹁やっぱり、浄化系のスキルに弱いんだ﹂
﹁なんか、達也が戻ってきてから獄炎聖波で焼いてもらえばすぐ終
わるんじゃないか、って気がするわね﹂
2061
邪神像のその反応に、好き勝手な事をさえずる女性陣。その間宏
は何をしていたかと言うと⋮⋮
﹁よし、ちゃんと録音できとる﹂
﹁録音? って、何、そのカセットレコーダーみたいなの?﹂
﹁カセットレコーダーやで?﹂
いつ作っていたのか、カセットレコーダーで春菜の歌を録音して
いた。もっとも、外観はカセットレコーダーでも、記録媒体はよく
似た別の何かではあるが。
因みに、春菜がカセットレコーダーを知っていた理由は単純で、
芸能関係者の間では割と現役だからである。澪は辛うじて古い漫画
で見た記憶はあるが、真琴は一度も見た事が無いため、最初宏が取
り出したものが何なのか分からなかった。
﹁カセットレコーダーはいいとして、それを何に使うの? ってい
うか、録音できてるって、何を録ったの?﹂
﹁そら、今の春菜さんの歌に決まっとるやん﹂
﹁え゛っ?﹂
あっさり言ってのけた宏に、予想できていたのに妙な声を上げて
絶句してしまう春菜。異世界で自分の声を録音されてしまうという
予想外の出来事に、どうにも思考がフリーズしてしまう。
2062
﹁師匠、そのテレコいつ作ったの?﹂
﹁暇な時間なんざ、いくらでもあるやん﹂
﹁なるほど﹂
固まっている春菜をよそに、のんきな会話を続けながら邪神像の
前にテープレコーダーをセットする宏。心なしか、邪神像がおびえ
ているように見えなくもない。
﹁え、えっと、何をするの、かな?﹂
﹁そらもちろん、録音した春菜さんの歌聞かせたら、どんな反応す
るか実験するんやんか﹂
再起動した春菜が宏に行動の意図を問いただし、返ってきた回答
に再び固まる。歌っているときはともかく、終わってから自分の歌
声を録音という形で聞かされるのは、本職ではない人間にとっては
案外恥ずかしいものだ。春菜もその例に漏れず、どうやら自身の歌
声をレコーダーなどで録音され、それを聞かされるのは恥ずかしい
らしい。
なお、日ごろワンボックスで移動中、カーオーディオは何を流し
ているのかと言うと、周波数があった植物の歌やら大地の語りやら
を放送している。時折神が発する電波を受信して垂れ流したりして
いるが、聞いている方は特に気にしていない。
﹁取り合えずぽちっと﹂
そんな春菜の態度をきっちりスルーし、容赦なく録音内容を再生
2063
する。宏がスイッチを押してすぐ、先ほど春菜が歌っていた最初の
曲が流れ始める。録音の限界か、先ほどの生歌に比べると魂を揺さ
ぶる力というのはかなり落ちているが、それでも十分すぎるほどの
インパクトを持って部屋の中を圧倒する。恐らくこれを流しておく
だけでも、十分おひねりを稼げるであろう。
﹁お∼、悶えとる悶えとる﹂
﹁春菜の歌なら、録音でもいいみたいね﹂
﹁でも、さっきの生歌に比べるとダメージはちょっと小さい﹂
出来の悪いフラワーロックのように訳の分からない動きでのたう
ちまわる邪神像を見て、観察結果を分析する宏達。そんな彼らを横
目に、恥ずかしさで震え、悶えている春菜が哀れでならない。
﹁まあ、とりあえず方針は決まったで﹂
﹁どうするの?﹂
﹁適当なサイズに切り分けて聖水につけて封した上で、防音結界張
った部屋に置いてさっきの歌をエンドレスで一晩ぐらい流してみた
らええんちゃうかな?﹂
﹁なるほど、それなら確実ね﹂
﹁むしろ、バルド本体でも浄化できる?﹂
とてつもなくえげつない結論を告げる宏。その容赦の無さに感心
する真琴と澪。同じやるなら徹底的に、とは言うが、ここまで徹底
2064
的にやる事はそうはないだろう。
﹁な、なんか、私の歌が、まるでジャ○アンリサイタルみたいな扱
いされてる気がするよ⋮⋮﹂
﹁僕らにとっては全財産突っ込んででも聞く価値ある歌でも、こい
つらにとってはそんな感じかもしれへんで?﹂
﹁性質の違いとはいえ、結構ショックだよね、それ⋮⋮﹂
そういうものだと理解していても、あまりにあまりな扱いにどう
にも悲しくなる春菜。母や妹のように歌手を目指している訳ではな
いので、自身の歌にそこまでのプライドは持っていないが、それで
もそれなりの自負はあるのだ。その歌をここまでぞんざいに扱われ
て、悲しくない訳が無い。
﹁しかし、流石というかなんというか﹂
﹁こういう場合、大体録音だと効果まったくなくなるのが相場だと
思ってた﹂
なんだかんだ言って、威力が落ちるとはいえ録音でもきっちり浄
化の効果がある春菜の歌を聞きながら、呆れとも感心ともつかない
コメントを漏らす真琴と澪。実際、春菜以外が聖歌を歌ったところ
で、一番弱いゴーストを浄化できるかどうかというラインでしかな
い。
とはいえ、そんな事実はいまの春菜にとっては、何の慰めにもな
らない。そもそも、録音でも十分に効果が出るのであれば、別段真
面目に聖歌を歌う必要などなかった可能性が高い。
2065
﹁あ∼、なんか腹が立ってきた⋮⋮﹂
﹁春菜さん?﹂
﹁宏君、ちょっとその歌、一旦止めて﹂
﹁あ、うん、了解や﹂
微妙に据わった目の春菜に気圧されて、何度も何度も首を縦に振
りながら再生を止める。見ているのが宏達でなければ数秒ごとにS
AN値チェックが必要そうな感じでのたうちまわっていた邪神像が、
歌が止まると同時にピタッと動きを止めて普通の像の振りをする。
﹁で、どないするん?﹂
﹁別に聖歌でなくてもいいんじゃないかな、って思ったから、ちょ
っと実験してみる﹂
そう言って、腹に力を入れて朗々と歌い上げ始めたのが、般若心
経。それも、普通にお経として唱えるのではなく、ロックな感じに
アレンジしたものである。
﹁は、春姉⋮⋮?﹂
﹁あ∼、なんか本気で怒ってるわねえ⋮⋮﹂
いきなりの春菜の行動に微妙に引いていると、像が録音を再生し
た時の数倍苦しんでのたうち始める。ロックバージョンの般若心経
が終わったところで、次はゴスペルバージョンを歌う。変わらず苦
2066
しみつづける像。更にデスメタルバージョン、ポップスバージョン、
バラードバージョンなど思い付く限りのアレンジを歌い続ける。
﹁ふう。何かすっきりした﹂
最後に般若心経演歌を歌い終えたところで、やたらすがすがしい
表情で一息つく春菜。どれもこれも無駄にレベルが高く、部屋全体
が妙に厳粛な空気になっているのがどうにも泣けてくる。
﹁春姉、結構むごい⋮⋮﹂
﹁こういう失礼な観客に、真面目な歌を聞かせるのも腹が立つから﹂
八つ当たりを終えてすっきりした春菜が、歌を歌う人間としてど
うなのかといいたくなる事を言い放つ。
﹁とりあえず春菜さんの気が済んだみたいやし、さっさ解体してま
うわ﹂
春菜の怒気にビビっていた宏が、とりあえず生贄の邪神像を手早
く適当な大きさに解体していく。春菜の般若心経シリーズが妙に堪
えたらしく、抵抗らしい抵抗も出来ずにバラバラにされてしまう邪
神像。それをお神酒にしたドワーフ殺しを聖水で割った液に浸し、
逃げられないように瓶に聖属性の封をする。
﹁なんかこう、邪神像が生贄にしか見えないのが変な感じよね﹂
﹁この場合、誰に対する生贄?﹂
﹁そりゃ、春菜の怒りを鎮めるためじゃない?﹂
2067
﹁人を邪神みたいに言わない﹂
﹁邪神じゃなくても、怒った神様を鎮めるのに生贄を捧げるって言
うのは、いろんな意味で定番よ?﹂
怒りで祟り神になった、みたいな扱いをされて膨れる春菜。真琴
と澪の分の今日の夕食は悪戯してやる、などと地味ながらダメージ
の大きな報復を心に誓う。宏が無罪扱いなのは、言うまでも無く惚
れた弱みである。
﹁とりあえず、これ鍛冶場において、防音結界張ってさっきのエン
ドレスで流してくるわ﹂
瓶の中で苦しんでのたうっている邪神像の破片を抱えて、そんな
宣言をしてそそくさと出ていく宏。触らぬ神に何とやら、といった
ところだろう。
﹁さてと、晩御飯の準備、してくるね﹂
やけにいい笑顔で言い切った春菜に、無言で何度も首を縦に振る
二人。その笑顔の迫力に、澪は手伝いを申し出ることすらできない。
結局、その日の夕食はダール料理をアレンジしたものだったのだが
﹁ヒィ、辛い!!﹂
﹁春姉、これはちょっときつい!!﹂
﹁食べられない味付けはしてないけど?﹂
2068
﹁食べられるけど、食べられるけど!!﹂
真琴と澪のものは厳選したスパイスをこれでもかと使って限界ま
で辛さを極め、火を噴きそうなほど辛い癖に一口でも食べたが最後
手を止められない麻薬のような中毒性を発揮する絶妙な味付けがな
された、とんでもない代物になっていた。それを飲み物も用意して
もらえない状態で食べさせられた二人は、結局その妙な中毒性のた
めに最後まで食べ切ってしまって翌朝まで地獄を見る羽目になるの
であった。
なお、例の邪神像だが、翌日の朝には黒かったはずの色が完全に
白くなっており
﹁これ、なんかの素材に使えるかもなあ﹂
﹁そうなの?﹂
﹁まあ、いろいろ実験してみんと分からへんけど﹂
宏のそのコメントにより素材行きが決定。熟成したら何か変わる
かもしれないとの理由で、イグレオス神殿に行っている間エンドレ
スで歌を聞かされ続ける羽目になるのはここだけの話である。
2069
﹁えらい荷物ですやん﹂
﹁少々急を要する書類があってな。流石に、執務を完全に止める訳
にもいかんのじゃ﹂
﹁女王っちゅうんも大変ですなあ﹂
﹁国を預かっているのだ。大変なのが普通であろう?﹂
﹁そらそうですわな﹂
着替えだけとは思えない大荷物を前に、微妙にうんざりしながら
も為政者としての姿勢は崩さない女王。フリーダムに行動している
彼女だが、ちゃんとやるべき事はやっているのだ。
なお、道中は女王はワンボックスのほうに同乗する。これは女王
たっての希望であり、その結果としてノートン姉妹とセルジオがエ
アリスたちの馬車に同乗することになっている。後は親衛隊から数
人、護衛のために王家所有のゴーレム馬車に乗ってついてきている。
これ以上となるとゴーレム馬車の数が足りなくなるため、移動時間
との兼ね合いで人数はこれだけに絞られている。
﹁それなら、毎日屋台に来るのは良くなかったんじゃ⋮⋮﹂
﹁これは正真正銘、いきなり降ってわいた類の書類じゃ。そもそも、
あの一週間ほどは謁見の類も無く、急を要するような事態の兆候も
無かったからの。普通の一日であれば、早朝と夕方からの仕事で十
分一日分の仕事など終わる﹂
﹁この場合、それが可能な陛下の有能さに感心すればいいのか、そ
2070
れともそこまでして遊び歩きたい事に呆れればいいのか⋮⋮﹂
女王の台詞に、なんとも言いがたいコメントをもらすしかない春
菜。もっとも、アルヴァンとして好き放題暴れていることを考えれ
ば、この突っ込みも今更といえば今更なのだが。
﹁それで、例の像はどうなった?﹂
﹁ちゃんとある程度の処理はしましたで﹂
﹁あれでちゃんと処理できるってのも不思議だがね﹂
﹁僕に言わんといてえや﹂
ばらして水につけるというあく抜きか何かのようなやり方で処理
されてしまった邪神像に対して、どうにも納得がいっていない様子
で達也が突っ込む。普通、邪神が絡んでそうな邪悪なアイテムの処
理、といえば、もっと大掛かりな儀式だとか特殊な封印具を使って
何かするとか、そういう方向を期待するものだ。それが、蓋を開け
てみればいつもやっている食材の処理か、せいぜいいいところ標本
のホルマリン漬けと変わらないと来れば、達也でなくても文句の一
つも言いたくなって当然である。
﹁ふむ。具体的にどういう処理をしたのじゃ?﹂
﹁ばらして聖水につけて、浄化効果のある歌を延々聞かせ続けまし
てん。もしかしたら熟成したら素材になるかも思うて、そのままに
して入り口封印して放置してきました﹂
﹁⋮⋮それで処理が済むとか、確かに違う意味で不安が残る話じゃ
2071
のう﹂
出発と同時に早速取り出したいくつかの書類に魔力印を押しなが
ら、宏が行ったという処理について呆れたように突っ込みを入れる
女王。やはり彼女も、もっと仰々しい手段を使っての封印か破棄を
予想していたらしい。
﹁確認しておくが、本当に大丈夫なのだな?﹂
﹁誰かが余計なちょっかいを出さん限りはまあ、大丈夫やと思いま
すわ。入り口もがっちり封印かけてきとりますし﹂
﹁まあ、お主がかけた封印ならば、問題ないのだろう﹂
宏が本気を出した封印なら、並の人間の手には負えまい。そもそ
も、宏達の仮拠点に侵入するには、アルヴァンの能力をもってして
もほとんど不可能に近い難易度になる。一度だけこっそり外出して
宏達の仮拠点を確認している女王はそのことをしっかり認識してい
るので、誰かが余計なちょっかいを出す、ということに関してはま
ったく心配していない。
﹁そういえば、その書類は決裁した後どうするんですか?﹂
﹁これか? こうすれば、この後の処理が勝手に進む﹂
真琴の質問に対し、実際にこの後の処理を実演してみせる女王。
決裁のために押した魔力印に再び多少の魔力を通すと書類全体が一
瞬輝き、次の瞬間その場から消え去る。どうやら一まとめで必要ら
しく、女王は何枚かの書類を連続で処理していく。
2072
﹁後は勝手に担当者が話を進めていくはずじゃ﹂
﹁なるほど﹂
﹁この紙も結構コストがかかるからのう。さすがに値段が張りすぎ
るから、普段はこんなやり方はせんのじゃがな﹂
などといいながら、どんどんと決裁を進めていく女王。めくら判
を押しているのかと思えば、途中で何枚か魔力印を押さずに脇にど
けているので、どうやらちゃんと内容をすべて確認しているらしい。
﹁とりあえず、まず決裁すべき分は終わりじゃな。後は不許可か保
留じゃ﹂
﹁お疲れ様です﹂
﹁まったく、わざわざ外に行くタイミングを狙って決裁書類を大量
に用意するなど、姑息な連中がいて困る﹂
﹁うわあ⋮⋮﹂
女王のぼやきに、思わずひいた声を出す一同。そんなやり方しか
出来ない案件を、この女王が決裁を通すわけがない。その姑息さと
頭の悪さに、どこの国もやることは大差ないんだと実感してしまう。
﹁なんにせよ、こういう小細工をするような連中など、先は見えて
おるがな﹂
﹁ってことは、もしかして⋮⋮?﹂
2073
﹁うむ。すでにいろいろ証拠をつかんでおる﹂
﹁さすがアルヴァン、自重しない⋮⋮﹂
やりたい放題の女王に、どことなく憧れとか尊敬のまなざしを向
けながら自重しないことを褒め称える澪。どうやらそこに痺れて憧
れているらしい。
﹁これが終わったら、連中に止めじゃな﹂
﹁ボク、アルヴァンがファーレーンに居れば、あそこまでバルドが
好き放題出来なかった気がする﹂
﹁そうもいかんのが政治というものじゃ、弟子殿﹂
﹁そうなの?﹂
﹁うむ。バルドが好き放題出来たのは、ファーレーンの先王が長い
時間かけて作り上げてしまったシステムの問題じゃ。あそこまで完
璧に証拠をそろえることを求められてしまうと、妾がおったところ
で問題は解決せん﹂
ファーレーンの問題の多くは、急激に特権階級の権利を制限しよ
うとしたことと、潔癖なまでに冤罪を防止しようとする極端な制度
により起こされたものである。筆跡の一致程度では証拠として認め
られない以上、アルヴァンが悪事の証拠を集めたところで捏造じゃ
ないことの証明ができない。
アルヴァンが集めていたほど決定的なものではないとはいえ、フ
ァーレーン王やレイオットも普通の国なら余裕でお家取り潰しレベ
2074
ルの証拠ぐらいは集めていたのだ。それでも当時のファーレーンの
法では有罪にするには足りなかったのだから、先代は先々代のやら
かしたことによほど懲りていたに違いない。
﹁おぬしらのおかげでファーレーンがまともになったのは、我がダ
ールにとってもありがたいことじゃ﹂
﹁普通、隣国が強くなるのは歓迎しないものだと思ってましたけど
⋮⋮﹂
﹁歌姫殿たちの故郷ではそうかも知れんが、こちらでは隣国が弱く
なることを歓迎できる国はない。隣国が弱くなれば、それだけこち
らの負担が大きくなるからな﹂
モンスターという常時発生している自然災害が存在するこの世界
では、一つの国の衰退が隣国の衰退につながるケースも少なくない。
ミダス連邦に参加している国のような小規模国家ならまだフォロー
も効くが、ファーレーンほどの大国がおかしくなってしまえば、冗
談抜きで世界規模の混乱に陥りかねない。
﹁さて、それはそれとして、だ﹂
﹁なんでしょう?﹂
政治がらみの話はいい加減飽きてきていた女王が、話題転換を図
る。このまま続けていけば、流れと勢いで聞かなくてもいい話まで
聞くことになりそうだったこともあり、その話題転換にのることに
する宏達。
﹁プリムラが明らかに無理をしておるようじゃったが、魔術師殿が
2075
振ったのか?﹂
﹁⋮⋮やっぱり、分かりますか?﹂
﹁他に思い当たる理由もないからのう。それに、お主の普段の態度
を見ておれば、プリムラに脈がないことなど考えるまでもない﹂
﹁我ながら、贅沢で罰当たりな話だとは分かっているんですがね﹂
﹁人の心ばかりは、どうにもならんよ。それに、贅沢で罰当たりと
いうならば、工房主殿に勝てる男もそうはおるまいて﹂
﹁うわ、こっちに飛び火してきおった⋮⋮﹂
この手の話で達也がいじられるのも珍しいと静観の構えだった宏
が、いきなり自分に飛び火してきた話題に恐れおののく。
﹁魔術師殿に関しては奥方の存在があるからまだ納得も出来るが、
工房主殿のそれはいささか頑なに過ぎるぞな。どうせ歌姫殿の気持
ちも、勘違いか何かだと無理やり思い込んでおる、というか思い込
んでおったのだろう?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁工房主殿、黙秘権を認めた覚えはないぞ?﹂
話題を恋バナに切り替えた途端、妙につやつやした顔で情け容赦
なく切り込んでいく女王。その追及の鋭さに、どう答えるべきか悩
む宏。
2076
﹁工房主殿が歌姫殿の気持ちを受け入れるかどうかなぞ、妾が、い
や、他人が強要することではないがのう。どうしても受け入れられ
ぬというのであれば、変に気を持たせるような態度を取るのはマナ
ー違反じゃぞ?﹂
﹁そんな態度、とっとりますか?﹂
おなご
﹁別に歌姫殿に対してだけではないがのう。そこまで女子が怖いの
であれば、いっそのこと女に気を使うような真似をするのはやめて
おいたほうが無難じゃぞ﹂
女王の指摘というかアドバイスに、どう返事を返そうかと考え込
み、そのまま口ごもる宏。どうにもこの件に関しては、女王をはじ
めとした一般人の大多数が納得するような説明ができる気がしない。
﹁⋮⋮ふむ。それすらも怖くて出来ない、というところか。難儀な
話よのう﹂
﹁それが分かるんだったら、あまり宏君を追い詰めるような真似は
⋮⋮﹂
﹁すまんすまん。工房主殿の態度や考え方が、あまりにも女という
もの全体を信用しておらぬものだからのう。さすがに少々腹が立っ
ておって、少しばかり考え方を変えさせたいなどと考えてしまった
のじゃ。工房主殿がどんな目に遭ってきたかを知らぬ身が持つには、
いくらなんでも少々どころではなく傲慢な考え方であったな﹂
春菜にたしなめられ、あっさり自分の非を認める女王。宏に対し
て少々どころではなくやりすぎている自覚はなくもないが、それで
も春菜をはじめとした、この男に懸想している女達がどうにも哀れ
2077
で、余計な御世話と知りつつついつい口を挟んでしまったのである。
いわゆる世話焼きおばさんの思考と同じだ。
女王の言い分も分からなくはないが、彼女が厳しくやったところ
で逆効果にしかならない。いろいろなことからそのことが痛いほど
分かってしまった春菜は、たとえ宏の女性に対するスタンスが本質
的にどこまでも失礼だとしても、それを踏まえたうえで辛抱強く気
持ちを伝え続ける方針以外とるつもりはない。女王の気持ちはうれ
しいが、下手をするとこじらせかねないそのやり方は春菜にとって
ありがた迷惑でしかない。
﹁女王陛下のお気持ちは有難く思いますが、私は私の方針で気持ち
を伝え続けますので﹂
﹁⋮⋮盛りを過ぎるかも知れんのにか?﹂
﹁そうなったらそうなったで、自分の選択ですから﹂
﹁⋮⋮まあ、よかろう。工房主殿がまともになるのが先か、歌姫殿
が折れて他の男になびくか、妾は高みの見物としゃれ込ませてもら
うことにしよう﹂
もともと、他人の恋路に口を挟むなど無粋の極み。宏があまりに
あまりで春菜達が哀れだから口を挟んだが、デントリスのように国
際問題につながりかねなかったり、放置しておけば犯罪につながる
ケースでもない限り、本来女王は人の恋に関しては積極的に干渉す
るタイプではない。それこそ、ワームの餌になるのは勘弁願いたい
のだ。
﹁とはいえ、工房主殿はともかく、魔術師殿についてはいろいろ興
2078
味深い話はある。たとえば、魔術師殿をそこまでとりこにしている
女房殿がどのような女性か、実に気になる話である﹂
再び達也の話題に戻ったことで、車の中の空気がどこか弛緩する。
普通なら体のいい生贄にされているのに、そのことを有難がるかの
ように、砂漠に到着するまで問われるままに嫁の詩織の話を馴れ初
めから何から何まで語り続ける達也であった。
﹁ここが地底ですか⋮⋮﹂
﹁確かに、珍しいものが多数あるのう﹂
﹁下手にちょっかい出さんといてくださいよ。大怪我するような仕
掛けはあらへんけど、結構痛い目は見まっせ﹂
﹁分かっておる﹂
好奇心に任せていろいろいじりそうな女王とエアリスに釘を刺し、
モグラにいろいろ連絡を取る宏。トラップやアトラクション満載の
フロアをこの人数で突破するのはいろいろな意味で勘弁してほしい
ので、秘密の直通通路を使わせてもらうことにしたのだ。
﹁そういえば、エルちゃん﹂
2079
﹁はい、なんでしょう?﹂
﹁前に聞いた冥界神様のことだけど、そろそろアルフェミナ様から
回答が返ってきた?﹂
﹁当時のことはご存知だそうですが、詳細を話す時間が取れないそ
うです﹂
﹁ちょくちょくお告げとかする割に忙しいんだね?﹂
﹁私に対するお告げ程度なら片手間で出来るそうですので﹂
どうやら、アルフェミナはエアリスにお告げをするのが息抜きに
なっているようだ。それだけ忙しいというのはどういうことなのか、
いろいろ気になるところである。
﹁向こうと連絡付いたから、直通通路で行くで﹂
﹁分かった。噂のアトラクションとやらを確認出来んのは残念だが、
時間が無いから仕方がない﹂
﹁あ、その件やけど、何人か各フロアのスタートから突破してほし
いんやって﹂
﹁そういえば、大地の民は娯楽に飢えておるといったか。ならば、
近衛を使えばよい﹂
女王の言葉に、顔を引きつらせる近衛騎士達。女王の娯楽のため
に騎士になったわけではない、などと声を大にしていいたいところ
ではあるが、かといって見知らぬ先住民の娯楽のために女王を汚れ
2080
にするわけにもいかない。どうせ今日はここで一泊になり、その間
は基本的に出番がないのだと忍の一文字で自身に言い聞かせ、隊を
三つに分けてそれぞれのフロアを頑張って突破することに。
不満を飲み込んで覚悟を決めた彼らをさっくり放置し、直通通路
でモグラたちが居る場所に直接移動する女王一行。上下関係と言う
のはそういうものだとはいえ、かなりひどい話である。
﹁娯楽の提供、感謝するのである﹂
﹁何、こちらが勝手に踏み込んだのだ。この程度の協力は当然のこ
とよ﹂
﹁地上の女王というのは、話が分かるのである﹂
﹁そういえば、近衛たちの奮闘、妾達も見ることができるのかのう
?﹂
﹁モニタールームに案内するのである。後、ここを出るときまでに、
ダイジェスト映像を編集したものを進呈するのである﹂
﹁それは有難い。内容によっては、定期的に生贄を差し出すことも
やぶさかではないぞ?﹂
﹁本当に話が分かる女王なのである。そちらも娯楽に飢えておられ
るのであるか?﹂
モグラの問いかけに、にやりと笑って頷く女王。この後、食事の
時間まで近衛たちの奮闘に釘付けになり、結局重要な話し合いは翌
朝の出発直前になった挙句、エアリスからの提案で子供向けのアト
2081
ラクションの企画会議にみんなで熱中するという何をしに来たのか
分からない状況になるのであった。
2082
第14話
﹁向こうの方にうっすらと見えてきてるの、イグレオス神殿かしら
?﹂
﹁うむ。そろそろじゃのう﹂
地下遺跡を出てから時速六十キロで約一日。ようやく目的地のイ
グレオス神殿が見えてきた。
﹁それにしても、このゴーレム馬車は恐ろしい性能じゃのう﹂
﹁あんまり無茶はやってへんつもりやけど、そんなにおかしいです
か?﹂
﹁あの妙な光線、砂鮫を一撃で仕留めておったではないか﹂
﹁まあ、弱点撃ち抜けばそんなもんやと思いますわ﹂
普段は使わないワンボックスの武装だが、今回は何度か使う機会
があった。砂漠のモンスターは、意外と速い速度で地下を動き回る
ものが多く、時速六十キロ程度では振りきれない相手も少なくない
ため、結局何度か魔導レーザーで攻撃して道を開けさせる必要があ
ったのだ。無論、仕留めた獲物は達也が回収できる範囲でアポート
を使って回収している。
因みに、魔導レーザーの攻撃力では本来、砂鮫を一撃で仕留める
ことは出来ない。だが、魔導レーザーには照射時間に応じて多段H
2083
ITすると言う特性があり、撫で斬りするように動かせば大体必要
なダメージを稼ぐ事が出来るのである。
﹁普通、馬車そのものに攻撃能力があるものはほとんど無いのだが、
それは知っておるか?﹂
﹁普通の馬車に攻撃能力ないっちゅうんは知ってますけど、ゴーレ
ム馬車やとそんなに珍しくないん違います?﹂
﹁いやいや﹂
相変わらず意識がずれたところを見せる宏に、秒殺で突っ込みを
入れる女王。普通のゴーレム馬車は、少なくとも走行中に撃てる飛
び道具を備え付けている物はほとんどない。ゴーレム馬車の攻撃手
段など体当たりぐらいしかなく、それ以外の攻撃が出来るものは大
抵戦車と呼ばれている。
﹁工房主殿は、戦車の値段を知らんと見える﹂
﹁戦車? ゴーレム馬車やなくて?﹂
﹁戦闘能力があるゴーレム馬車は、普通戦車と呼ばれるのじゃ﹂
﹁っちゅう事は、この車も戦車になるんですか?﹂
﹁そうなるのう﹂
女王の言葉に、ものすごい違和感を覚える宏。言うまでもない事
だが、彼にとって戦車というのはキャタピラがあって砲塔が旋回す
るあれである。某戦車発掘RPGならワンボックスも普通に戦車扱
2084
いだが、そのつもりで作った訳ではない宏にとってはあくまでワン
ボックスは車なのだ、
﹁因みに、普通の戦車って攻撃力はどの程度ですか?﹂
﹁そうよのう。軍が購入している物は機密ゆえに詳しい事は言えん
が、妾が知っている商人の戦車は、砂鮫やロックワームを仕留める
には少々火力が厳しかったはずじゃ﹂
﹁積んである武装は、飛び道具ですか?﹂
﹁うむ。と言っても、火球を打ち出す程度のもので、ジャイアント
ホッパー程度ならともかく、砂鮫クラスになるとダメージは出るが
十発ぐらい撃ち込まねば仕留められん﹂
﹁なるほど﹂
どうやらこの世界で一般的な戦車というのは、中東などで使われ
ている日本車を改造してマシンガンやロケットランチャーなどを据
え付けた、いわゆるテクニカルと呼ばれている物と大差ないらしい。
﹁その程度のものでも、普通のゴーレム馬車の軽く二十倍はする。
しかも、速度は馬とそう変わらん﹂
﹁高!﹂
﹁火球をチャージ時間以外の代償なしで無限に撃ち出せるとなれば、
普通はそんなもんじゃろう﹂
﹁そうは言っても⋮⋮﹂
2085
普通のゴーレム馬車の最も安いものが十万クローネ、セネカもし
くは円に換算して一千万ぐらいの値段がする。ゲームの時にはたか
が十万だったため珍しくも無かったが、こちらの通貨価値に馴染ん
できた今の宏達にとっては、その程度のちゃちな性能で最低でも二
百万クローネはするというのは非常識な値段だと感じてしまう。
無論、この場合は宏達の感覚がおかしい。ゴーレム馬車の動力と
して使える性能の魔力結晶は、この世界で製造できる人間は各々の
国に十人いればいい方で、しかもその性能に至れるだけの素材もそ
れほどの生産量はない。必然的に、最低ラインの魔力結晶ですら二
週間に一つぐらいしか作られておらず、攻撃性能を持たせうるもの
となるともっと生産量は少ない。
その動力の問題に加え、攻撃するに耐えるフレームだの増えた重
量の処理だのを考えれば、本体に使われる素材もどうしても高いも
のになってくるのだから、値段が指数関数的に跳ね上がるのも当然
である。
﹁ワンボックスといったか? この戦車を購入するとなると、冗談
抜きで国が傾きかねん値段になるじゃろうなあ﹂
﹁んな大げさな﹂
﹁大げさでも何でもないぞ?﹂
作った宏にとってはそこまでのものではないワンボックスだが、
オンリーワンの機能がふんだんに詰まっている上に性能が桁違いで
ある事を考えると、その価値は一級ポーションを超える。大規模な
街を廃墟に変える火力とその余波に耐え抜く防御性能、どんな荒れ
2086
地でも平然と走ってのける走破性能に邪魔な時にはポケットに入る
サイズにできる管理の容易さ。少々搭載能力が低いとはいえ、それ
は単に宏が荷台を大きくする必要を感じなかったというだけで、ま
だまだ容積拡張を重ね掛けする余地は十分に残っている。
これだけの条件が揃っているのだ。もし売りに出せば、それこそ
何処の国も戦争も辞さない覚悟で手に入れようとするだろう。幸い
にして、攻撃能力については女王とセルジオ、ノートン姉妹とファ
ーレーン王家以外からは魔導レーザー程度しかないと認識されてい
る上、他の国の人間はそもそも攻撃できる事を知らない。それゆえ
に、同等以上の火力を持つ戦車を保有している事もあり、同行して
いる近衛達には何としてでも手に入れようとする考えはないが、天
地波動砲の存在が知られてしまえばそうもいかなかっただろう。
﹁売りさばくものに関しては自重しておるようだが、普段使いする
ものも、もう少し自重しておいた方がいいと思うぞ﹂
﹁それ言って聞くようなら、あんな潜地艇みたいなものを作ったり
しませんって﹂
﹁まあ、そうよのう﹂
達也の投げたような言葉に、苦笑を返すしかない女王。この手の
職人というのが、暴走しはじめると際限なく暴走する事は女王にも
覚えがあるらしい。
﹁それにしてもこの道、徒歩ではまず突破できませんよね﹂
﹁こんな過酷な道、よく整備したと思う﹂
2087
﹁ダールという国が成立する前からある道じゃからな。もっとも、
当時は砂漠ではなかったともいうが﹂
﹁ああ、なるほど﹂
言われて納得する一同。普通に考えれば、よほどの理由が無い限
りはこんな過酷な土地に神殿や街を作って道を通したりはしない。
最初から道や町があったところが砂漠化した、と考えた方が自然で
ある。
﹁砂漠化した原因に、陽炎の塔が関係あるのかな?﹂
﹁あたしが知る限りでは、煉獄の辺りにある毒沼が確かあそこが出
来た時に発生したって話だったし、似たようなものなんじゃないか
しら?﹂
﹁恐らく、まったく無関係ではあるまい。もっとも、我が国にもそ
のあたりの正確な記録は残っておらんから、推測しか出来んが、な﹂
﹁もし情報があるとしたら、ルーフェウスの大図書館あたりかな?﹂
﹁それか大地の民の連中やろうけど、陽炎の塔がいつ出来たかによ
っちゃあ、もうすでに眠りについた後やったっちゅう可能性もある
からなあ﹂
灼熱砂漠について、そんな風に考察を重ねていく一同。もっとも、
砂漠の成立がいつだろうと、その原因が何であろうと、正直なとこ
ろ今の彼らに役に立つ訳ではないのだが。
﹁さて、それはそうとそろそろ降りる準備をしておいた方がいい。
2088
この馬車の速度なら、もう目と鼻の先じゃ﹂
女王の言葉を受け窓の外を確認する。いつの間にか目の前に巨大
なオアシスが広がり、石造りの古代遺跡一歩手前という風情の建物
と、それを囲むように広がった町並み、そして町を守る頑丈そうな
市壁が見えてきた。あとはこのまま坂を一気に下れば、五分程度で
到着するだろう。
﹁神殿行く前に、あのオアシス見てきたいんやけどええかな?﹂
﹁手続きの類があるし、時間的にも今日は神殿には入れんからから
問題はなかろうが、どうしてじゃ?﹂
﹁ちっといろいろ気になりますねん﹂
﹁ふむ。何か作れそうなのか?﹂
﹁それを確認するために、見てきたいんですわ﹂
宏の言葉に、顔を見合わせる一同。一人で放置すると高確率でろ
くなことをしない宏だが、余計な事をすると言っても一番ひどくて
前回の地下遺跡程度。自分達が振り回される事を横に置いておくな
らば、これと言って問題がある訳でもない。
それに、碌でもない事をした結果、自分達の安全の確保につなが
ったケースも無い訳ではないため、絶対駄目だと言うのは難しい。
﹁どうする?﹂
﹁あたしか達也が付いていけば、余計な事はしないんじゃないかし
2089
ら?﹂
﹁師匠はものを作ってこそだから、行かせた方がいい﹂
﹁ん∼、単独行動はいろんな意味で心配だから、私と達也さんが付
いていけばいいんじゃないかな?﹂
さりげなく一緒に行動しようとする春菜に、思わず生温かい視線
を向けてしまう宏以外の一同。ハンドルを握っているために視線を
向ける事は出来なかったが、真琴も内心では似たようなものだ。本
当に、恋する乙女は一生懸命である。
﹁まあ、春菜はともかく、達也が一緒に行けば、ブレーキぐらいに
はなるんじゃない?﹂
﹁完全に止めきれる自信はねえが、まあ行ってもいいんじゃねえか
? ヒロが何か引っかかってんだったら、また俺達に絡む話があり
そうだしな﹂
﹁もう一回寄り道する時間的余裕は多分ないとは思うけどね﹂
﹁春菜、あんたそれが分かってても止めないでしょ?﹂
﹁状況によりけり﹂
検問のために車を止めながらの真琴の突っ込みに、非常に当てに
ならない回答を返す春菜。それを聞いて、ここまで来てまたしても
寄り道か、などと何処となく諦めの境地に至る達也と真琴であった。
2090
﹁しかし、見れば見るほどでかいなあ﹂
﹁琵琶湖とかより、普通に大きいよね﹂
﹁で、何を調べるんだ?﹂
関係者の許可を取り、神殿のそばにあるオアシスを見物に来た宏
と達也、春菜。彼らが来たあたりは人がいないが、神殿を挟んで反
対側の湾のようになっているあたりは沐浴が許されている事もあっ
て、そろそろ日が落ちる時間帯でもたくさんの人がいる。
﹁まあ、まずは水質のチェックやけど、こんだけ広いと⋮⋮﹂
﹁潜って遺跡探すとか言うなよ?﹂
﹁流石に、水に入る許可も取らんとそれやる度胸はあらへん﹂
達也の突っ込みに、即座にそう返す宏。裏を返すと、許可があれ
ば堂々と潜って遺跡を探すと言う事である。
﹁とは言えど、このオアシスはいろいろ気になるんは事実やで。何
っちゅうか、ここだけ魔力の質とか空気とかが極端にちゃうねん﹂
﹁神殿があるからじゃないの?﹂
2091
﹁そうかもしれへんねんけど、炎の神様の神殿の近くで、何でこん
なに水の気が強いかっちゅうんはなあ﹂
水の気が強いという言葉に、思わず顔を見合わせてしまう春菜と
達也。
﹁オアシスがどう言う原理で蒸発せんと存在できるんかは知らんけ
ど、周りの地脈とか地質とか考えたら、この規模の湖が存在してる
んは腑に落ちんとこや。それに⋮⋮﹂
﹁それに?﹂
﹁これだけの水資源が確保できてるんやったら、もっと町が大きい
てもおかしないやん。せやのに、この町はオルテムほど大きい無い。
周りが農業に向かん砂漠やっちゅうても、オルテム超えるぐらいの
規模までは余裕で水も食料も賄える感じやのに﹂
純粋に不思議に思った事をつらつらと並べていきながら、水質調
査のためにカップ一杯程度の水を汲み上げる。それを色々とチェッ
クして、出した結論は
﹁何一つ手ぇ加えんでも飲めるな。後、神殿があるからか、ちょっ
とした聖水みたいな状態になっとる﹂
﹁えっ?﹂
﹁まあ、あくまでちょっとした、っちゅうレベルやから、エルに作
って貰うたスペシャル聖水ほどの性能はあらへんけど﹂
流石というかなんというか、かなりとんでもない話であった。
2092
﹁なあ、一ついいか?﹂
﹁ん?﹂
﹁この中にバルドとか叩き込むとして、ダメージは出そうか?﹂
﹁そこまで強力やあらへん。せいぜいがちょっと皮膚がひりひりす
る程度やろう﹂
何とも中途半端な結論である。
﹁他に、何か調べるのか?﹂
﹁調べたい事は山ほどあるけど、貰った許可やと後はせいぜい⋮⋮﹂
足もとの草を根っこから掘りかえして観察し、そのまま埋め戻す。
﹁この辺の植生を確認する程度や﹂
﹁で、何か変わった事は?﹂
﹁胸張って言いきれんネタやから、ちょっとノーコメントやな﹂
色々とおかしな所を確認し、とりあえずノーコメントで誤魔化す
ことにする。一つ言える事は、大霊峰の山頂付近に生えているよう
な草がしれっと混ざっているのは、絶対何か妙な力が働いているは
ずだと言うことだろう。もっとも、大霊峰の山頂付近にしか生えて
いない、などと胸を張って言いきれないため、今のところはノーコ
メントにするしかないのだが。
2093
﹁ほんまやったら宿かどっかであれこれ試したいとこやねんけど、
一応神域になるやろうから勝手に持ち出すんもあれや。これぐらい
にしてそろそろもどろっか﹂
﹁その草程度ならば、神殿もうるさい事は言わないけどね﹂
チェックの終わった雑草を全て埋め戻し、さあ宿へ引き揚げるか
と振った台詞に、性別不詳の涼やかな声色の声が返事を返す。見る
と、二十歳前後と思われる宏と大差ない身長の中性的な容姿の人物
が、いつの間にやら数メートルというところまで近づいていた。
﹁わざわざ気配消して忍び寄ってくるとか、大概悪戯が過ぎると思
うで?﹂
﹁これは失礼。真剣に何やら吟味していたので、邪魔をするのもど
うかと思ったのだが﹂
﹁普通に声かけてくれたらええやん﹂
どちらの性別と言っても納得するであろう涼やかな美貌の人物に、
何処となく警戒しながらも特に驚いた様子も見せずに突っ込みを入
れる宏。
﹁そんで、エルとかアルチェムの同類さんが、何の用や?﹂
﹁それが分かるのかい?﹂
﹁最近、なんとなく分かるようになってん﹂
2094
じわじわと距離を離しながら、普通の感じを装ってそんな会話を
続ける。そのあたりで、硬直が解けた春菜が声を上げる。
﹁ねえ、宏君﹂
﹁ん?﹂
﹁エルちゃんやアルチェムさんと同類って事は、その人もしかして
⋮⋮﹂
﹁多分、イグレオス様の巫女さんやろうなあ。当然女やで﹂
﹁残念ながら、君ほど豊かな胸をしていなくてね。初対面の人には
よく間違えられるんだよ﹂
思わず胸だけの問題じゃない、と突っ込みそうになって、慌てて
その言葉を飲み込む達也。考えなくてもセクハラである。
﹁そんでもっぺん聞くけど、巫女さんがわざわざ何の用や?﹂
﹁特に用がある訳じゃないが、女王陛下が御執心で二人の巫女に懸
想されている人物というのに興味があってね。公の堅苦しい場では
なくて、普段通りの行動をしているところが見たかったのさ﹂
﹁自分、大概悪趣味やなあ﹂
﹁何の何の。海洋神レーフィア様の巫女なんて、ある意味では悪趣
味の極みだと聞いているよ。まだ普通に人間であるだけ、自分は難
易度が低い方さ﹂
2095
﹁何の難易度やねん⋮⋮﹂
巫女の言い分に、思わず突っ込みを入れてしまう宏。そもそも、
人間じゃないのが巫女をやっている、という事自体、どう言う事な
のか小一時間ほど問い詰めたい。
﹁興味があった、っちゅうんは分かった。自分から見て、僕らはど
う言う判断になる?﹂
﹁実に面白いね。興味深い話もしていたようだし、権力だの利益だ
の抜きに仲よくしたいところだよ﹂
﹁そらどうも﹂
﹁それで、先ほどノーコメントだと言っていた事について、少しだ
け詳しい事を聞きたいのだが、駄目かな?﹂
﹁大した話は出来へんで?﹂
﹁それで十分さ﹂
その言葉に、何をどう言うべきか少し整理する。
﹁せやなあ。正直、絶対やとは言い切れん話やから話半分ぐらいで
聞いといてほしいんやけど⋮⋮﹂
﹁聞いてから判断するよ﹂
﹁さっき掘り返しとった草な、大霊峰の山頂付近で採れる奴やねん﹂
2096
﹁⋮⋮大霊峰の?﹂
﹁せやで。絶対とは言い切れん、っちゅうたんは、大霊峰の山頂以
外に生えてへんとか、胸張って言いきれんからや﹂
興味深い、を通り越して、判断に困る話をされて言葉に詰まる巫
女。
﹁本当に、それは大霊峰の山頂で採れる草と同じなのかい?﹂
﹁少なくとも、ものとしては同じや。ただ、まったく同じかっちゅ
うんはこの場でははっきり言えん。大体の品質は分かるっちゅうて
も、成分とかは持って帰って機材使って処理せんと正確には判断で
きへん部分やし﹂
宏の言葉を聞き、しばし考え込む巫女。
﹁そうだね。巫女としての権限を使ってこの一帯の草の持ち出しを
許可するから、調査してくれないか?﹂
﹁せやなあ。出来る限りは調べてみるわ﹂
﹁お願いする﹂
イグレオスの巫女の要請に一つ頷き、めぼしいものを一株ずつ掘
り返して回収する。
﹁今更の話だけど、巫女さんの名前、聞いてなかったよね?﹂
﹁せやな。そもそも、自己紹介自体してへんやん﹂
2097
﹁これは無作法だったね。自分はナザリア。名目上はイグレオス神
殿の巫女をしている﹂
﹁名目上は?﹂
﹁お恥ずかしい話だが、自分はイグレオス様の巫女としては、歴代
でも下から数えたほうが早いぐらいの資質しかなくてね。ファーレ
ーンの姫巫女殿やエルフの巫女殿のように、神殿の外でイグレオス
様と交信できるほどの能力はないのだよ﹂
自嘲するようなナザリアの口調に、どう声をかけていいのか分か
らない一同。実際のところ、ナザリアぐらいの資質で巫女をやって
いるケースなど珍しくも無いのだが、同時代に妙に強い資質を持つ
連中が二人もいるとなると、流石にまったく気にしない訳にもいか
ないのだろう。
﹁まあ、場所選べばイグレオス様と交信できんねんやったら、別段
問題あらへんのちゃう?﹂
﹁そうだよね。エルちゃんの場合は割とどうでもいい話でアルフェ
ミナ様が降りて来てる事が多いし、アルチェムさんは交信できるっ
て言ってもほとんどそう言う事はしないらしいし﹂
﹁アルチェムの場合、アランウェン様の性格があれだからなあ。呼
びかけが通じてる手ごたえはあっても、邪魔くさがってあまり回答
が返ってこないらしい﹂
﹁っちゅう訳やから、基本神殿から出えへんねんやったら、イグレ
オス様がちゃんと毎回呼びかけに応えてくれれば全然問題ないと思
2098
うで﹂
二人の巫女の現状をよく知っているが故に、慰めると言うよりし
みじみと語る感じになってしまう宏達。気まぐれで面倒くさがり屋
のアランウェンはまだいい。神というのは基本、そういうものだか
らだ。アルフェミナは頻繁にエアリスにお告げだのなんだのをして
いるくせに、肝心な事を聞こうとすると多忙を理由に出てこないの
である。
気まぐれを起こして返事を返してくれたアランウェンによると、
別にネタとして何かを狙っている訳ではなく本当に多忙らしいのだ
が、だったらせめてお告げとして欲しい情報の断片でもいいからく
れればいいのに、と思ってしまうのは人間として仕方が無い事であ
ろう。
因みに、ザナフェルの家出の話は、現時点ではアルフェミナから
の回答はない。遺跡の時にエアリスの体に降りて来て話をしようと
したのだが、何やら神様サイドで問題が起こったらしく
﹁なぜこのタイミングで⋮⋮﹂
などと険しい顔をして吐き捨て、イグレオス神殿で話すと言って
出ていってしまったのだ。あの忌々しそうな表情は演技には見えな
かった事を考えると、どうやら人間達の知らないところで、いろい
ろ抜き差しならない問題が発生しているらしい。
﹁まあ、話変えるとして、や﹂
﹁何かな?﹂
2099
﹁自分、巫女やっちゅうんやったら、この神殿の成り立ちとかそう
いう話は詳しいんやろ?﹂
﹁流石に、長老にはかなわない。所詮自分は小娘だからね。年を重
ね、経験を自分のものとして熟成させた人たちには、知識も知恵も
経験も、どう逆立ちしても及ばないさ﹂
﹁でも、概略ぐらいは知っとるんやな?﹂
宏に問われて、一つ頷くナザリア。流石に略歴ぐらいはそらんじ
る事が出来なければ、巫女などとは恥ずかしくて名乗れない。
﹁ほな、聞くけど、このオアシスの底に何か沈めたとか、そういう
話はあらへん?﹂
﹁自分が知っている限りでは、その手の伝承はなかったと思う。た
だ、この湖は神聖なる水をたたえているから、何か聖遺物の類が沈
んでいてもおかしくはないかな﹂
﹁要するに、潜って見んと分からへんっちゅう事か﹂
﹁もしくは、イグレオス様に直接聞くか、だね﹂
宏の寄り道する気全開のコメントに、春菜が軌道修正するように
意見を言う。流石に聖地同然の場所にある湖に潜るとか、余計なト
ラブルを引き寄せるどころの騒ぎではない。基本的に宏のやりたい
事をやめさせようとはしない春菜だが、公序良俗に反しそうだった
り現地の人間の神経を逆なでしそうだったりする時には、一応ブレ
ーキをかけようとはするらしい。
2100
﹁自分としては、必要があるならいくらでも潜ってくれて結構だと
は思うけどね﹂
﹁必要があるかどうかが分からねえのに、いくらなんでも勝手に潜
るのは駄目だろう?﹂
﹁というか、そもそも許可が下りるかどうかが怪しいと思うんだ、
私﹂
達也と春菜の言葉に、反論の糸口を発見できずに苦笑する宏。宏
自
Fly UP