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フランス村落の起源

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フランス村落の起源
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Issue Date
フランス村落の起源
井上, 泰男
法經會論叢, 14: 140-154
1955-10
DOI
Doc URL
http://hdl.handle.net/2115/10760
Right
Type
bulletin
Additional
Information
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Information
14_p140-154.pdf
Instructions for use
Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP
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についてしばしば論じてきた。だがフランスの古い村溶の起源を問題にするなら h 大移動以前にさかのぼらないか
様なことは全フランスについて妥当するであろう。
かったのである。このことは、今日の下アルザス地中川ゃ、ベルギー領ナミユ 1ル地中川に関する実証的個別研究によって確認されるが、同
を強制するようなことはなかった。ゲルマシ人はガロ1 ロ1 マの農民やその農業部煙、並びにその社会構成を根本的に安卒することはな
けにはいかない。五世紀の侵入者は先住民を滅亡させはしなかったし、叉ガ pip- マの土地支配者を駆逐し、ゲルマシ人の言語と地名
(宮ミ T問自書官目。
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等に与えられた土地の可成りの部分を共同利用しいゲルマニアの母国から持ち来った社会経済的規範を忠実に維持する﹁マルグ共同体﹂
之等の村落の大部分は極めて古い起源を有し、少くも中世初頭にさかのぼるであろう。ドイツ農業史家はゲルマ ν人の大移動期に、彼
比により、微視的には同一地方内部に於ても、共同体的結合と、それによる﹁生産規制﹂に密度の相兵があることは言うまでもない。
ゆる﹁村落定住﹂ (2ロ問問。)が行われた。この場合、村溶の構造は地域的に異なり、巨視的には全西欧に共通する南・北二大農業文明の対
ブラシスに於いては、西部・中部に概して見られるような若干の﹁個別定住﹂ 22E22。広とを別とすれば、一般には集団的にいわ
ブ
然しこ Lで我々が問題にするのは、古代的社会構成の遺制ではなく、近代の村落自治体としての共同体の起源である。それは、大移動より
遥かに後の時代の現象との関連に於いてのみ説明される。﹁カロリング時代は向組織化された地方集溶(問232τ25caszm} の時
代ではない﹂ 1 1とA ・デレア 1ジユ己止むよ⑦)は言う o荘園に集凶をなして定住している農民が、真にその共同体意識を回確にするの
は一二世紀に於ける地代荘園の成立以後のことである。何故なら1 1依然として封建地代の重圧下にあるとは言えli領主直営地の賦役
労働から解放された小農民経演の自立が、そのために不可欠の前援をなすからである。之と関連して、人口の増大、並びに新たな開墾の
動きが﹁区域の観念﹂ FEES 矛 F
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iを普及させたのである。更に一一了一三世紀には領主対農民の支配関係も固定化の傾向にあり、村洛共同体は (
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は号一ロえ、領主地代の規制化と、農民経済の一一層の前進を可能にしたという意味に於いて重要であ示。
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要求し、時には革命的な農村コシ ξ ユ1 y運動を展開した。このような農民の抵抗は封建的支配権の再編成の前に結局は挫折に帰したと
こふで我々の問題の終局的見透しを予め要約しておこう。封建時代の村務共同体
出
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(25EEZ令 ZF25m) の組織、並びに共同体的
(255EE 12Z﹃)の遺制
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農業慣行l規 制 GECc
F52m) は、決して﹁原始的共同体﹂乃至いわゆる﹁原始共産態﹂
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を表現するものではなく、領主による農業生産の統制化の企図とからみあいながら、叉反面に於いて農民の領主に対する集団的な力の目
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覚による抵抗の組織化としての役割をにないながらあらわれたのであKo 木稿はか ふる提言へのア。ブローチの一方法として、中吠後期村
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蒸共同体のプロトタイプとも言うべき﹁新村﹂才自由ロミpi-l
iの定住形
。号ZZ)11大開墾運動によって創出された新たな移住地!
この点については、先ずブロツグのブラシス農地制度の三類型の指摘[北部型ド一二画制、開於規則耕地制、。r号
態、並びにその社会・経演的特質について検討しようとするものである o
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まで類型的なもので、ブロツグ自身認めているように実際には多くの例外がある。ブートリユツシユはボルドー地方に関して、こ
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の多くは侵入前にさかのぼる。何故なら、ローマ時代に群居していた地方ではゲルマシ人の大量植民には通しなかったからであ
る。人口密度によって定住の撰択を決定せざるを得なかったフランク人は、村溶の経済構造を完全に受化させるには、しばしば余
りに小数しか定住しなかったのである。
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的この点については、拙稿﹁中秋的支配権の受質と農奴制の成立﹂(﹁歴史学研究﹂一七一号︺参照
参照)
1lこの発展
7一
7 Yスの政治秩序に決ける王権の再建と大諾侠領の内部強化
川間前記ジユイヤールの村溶定住に関する社会地理学的考察は、我々の問題視角に貴重な示唆を与えてくれる。
二、大開墾運動の史的背景
全ヨーロッパ的な商業の復活と長初の都市自治制、そして
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を可能にしたのは人口の増大であり、それを準備したのは﹁開墾者の斧と錠﹂であ 針。大開墾運動の史的意義は、このブロツグの言にほ
三明快に要約される。
森林の伐採、沼沢地の干拓、海岸侭地平野に於ける堤防の設置、荊般の除去等、ーーー総じて、中世のいわゆる大開墾運動に伴う新・築
期、及び規模に関しては、
7ランスとドイツとでは若干の相異がある。
港、新耕地の急増は、それ自体商ヨーロッパ封建社会内部の生産力の一大飛躍のあらわれであったと言えよう o然し、この開墾運動の時
即ち、第一に、ブラシスではゲルマシ人の侵入以来の開墾は九世紀に終り、その後ほ
X二世紀問、土地占有は減少し、カロリング時代
の耕地のあるものは放棄されて再び荒蕪地に転化した o 7ラシド凡、ノルマシデイの如き宇期的例外を別とすれば、大開墾時代は大凡一
一世紀半ばから始まり、二二世紀まで継続する o之に反しドイツでは、特に東南部では開墾事業は九世紀以後-一一世紀初頭まで継続し、
一二吠紀に植民の動きは停止する。然し他方下ザグセン地方の山田沢地帝の干拓事業、並びにエルベ以東にスラグ人を圧迫しつふ行われた
であったブランドルや低地地方から、下ザクセンのみならず、エ凡ベ以東のスラグ地方へ移民が送られたことが注目される o之に反し、
植民運動は一一二世紀以後にまで及ぶ。第二に、ドイツでは内国値段と並んで、かなり大規模な母国外植民が行われ、特に移民の犬貯水池
一ユからイベリア半島への大量移民がなされただけで、か、ふる例外を除けばブラシスでは
ブラシスでは国外植民の例としては、げスコ 1概して内国植民の性格が一般的であった。
0
フランスに於いてもドイツに於什ても到る処で地万円晶訟が行われ、且つ都市的集落が建設されたのはその故である。農民層に
このような相具にも拘らず、開墾運動の根底に横たわる本質的な諸要因は共通している。それは第一に何よりも人口増加の強大な圧力
による
於ける人口、過剰はマシス 1 7 1 7エの分裂を結果し、土地領、玉層に於けるそれは直領地の解体と封土の増加を帰結せざるを得ない。かく
て 7ルリ 1 ストの主張する如く過剰人口の課題に関する限り、領、玉と農民の相互の関、むの一致が、新移住地の建設へと両者を志向させた
と考えられる。第二に、貨幣価値の低下、荘園庁役人(︿
Eo--2EaqES 叉は教会守護(︿ CF
2hm) の越権、消費生活の拡大等に
間2
由来する領主財政の深刻な危機が、之に対する収入増加の方策として、領主を領内森林その他の未墾地部分の開墾へとかりたてたことで
﹁荘園制の中に導入された深刻な愛化によって窮乏した領去によって主導された﹂(ベラ Y) のであ弘 o 実 際 に は し ば し ば 新 村 建 設
ある。領主はその新岡地に移民を紹致し、新たに保有砲を叫創り出すヤ﹂とによって地代激を増大させよけとしたのであり、こうして開墾は
パロワツ
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の主導権は、聖俗両領主の共通の契約による同盟、即ち((宮江指名という形で行われた o この唱耳目白聞のの性格は時と共に異なる。グイ
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公がそこに都市を建設する﹂と述べている。か与る
ヂユツク明
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P 。の性絡の受化は中世後期の政
オレは﹁一一世紀には世俗領主が土地を与え、修道院がそこに安全を保一詳し、﹃避難所﹄ (
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) を建て、小数区を作る o之に反し一一一一世
紀には修道院がむしろ土地を提供し、王叉
治史の上に輿味ある課題を提供するものである。
一四三
一四闘
上述の原因の他に、教会領、玉、王叉は大諸侠に関しては次のような特殊な事情がある。即ちグレゴリアシ改革以来教会は十分の一税
(L25 の徴収権を奪回し得ただ庁に、開墾事業に積極的になり、一層多くの収益をそれから期待することが出来た。特に新村落の創出
と大量移民の形式をとる場合には、移民への前貸、土地測量等に要する珂なりの資本が必要であり、この点に関しても資産のある教会領
m))
が建設されたこと、カペ 1王様
主は有利であった。玉又は大詰侠及び大修道院長が植民事業に有した特殊な関心としては、軍事的防衛に対する配慮、治法確保への意図
をあげることが出来る。例えば、南部の英仏国境の要点に要塞化されたグイル・ヌ 1グたる((宮邑含
の枢要部となったパリ、オルレアジ関の道路に沿って集落中心が増設されたこと等はそれである。
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このような社会的、経済的、政治的諸要因が大開墾運動の背景をなすのであるが、次にこの運動の進展に伴って、あるいは自生的に、
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あるいは領主の企劃の下に設立された新集落の構造的特質の考察に移ろう。
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この点については、拙稿﹁中秋農奴解放をめぐる諸学説﹂(﹁北大史学﹂第三号)を参照されたい。
よるものであるか、又は家内奴隷の保有農への上昇・独立によるものであるかは現在中世史学界の興味ある一論点をなしている。
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先ずグイル・ヌ 1グが、ガロ・ローマ及びフラシグ時代のずイテと区別される所以を地名学的視点から概観しておこう o この点につい
てR ・デイオ VJBEE) の歴史地理的研究は極めて一示唆に富むものがある。それによるとブラνス新村落の地名は次のように分類される
であろう。
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第一に開墾の事実そのものに由来するもの。例えば F・
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以上のような地名は何れも新村の特質を分有しているが、特に第五のケ 1 スは新村の移民の生活的関心の端的な表現であり、 h
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第四に村落共同体の保護主が教会であることを一部すもの。しばしば土地領主は村落から距った土地に居住する不在地主であり、中世前
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期の大土地所有者のように村落の直接の保護主ではなく、村民は神1教会に保護者を求めたのである。多くの
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次にグイル・ヌ 1グの定住形態についてであるが、之については先ず森林地方に設立された特色的村落定住形態としての﹁街路型村
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溶﹂(︿告白出⑦2
5m) が注目される。この型の村落は、例えばプ戸ツグの指摘した 4r貯
囲鶴された宅地が新たに開発せられた道路に、沿って列状に並び、耕地がこの、王軸に沿って魚の骨のように伸びている。叉ノルマ Yデイ地
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方 の ﹀THEE 大森林の中にル 1アシの司弔よって長い道路の両側に設立された諸村落
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はフラνスに於ても森林に設立さ
この型の村落はドイツの東部植民地方に数多く見出され、移民者の割当地はしばしば通例の 7 1フ エ の 二 倍 に 当 る ﹁ 国 王 フ 1 7エ
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{列。包間
LEFE82223 の面積に達したと言われるo'││いわゆる((﹂FEYえSL?2
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)。。へラ
れた村落の大部分はこの型に属し﹁家は道路に沿って配列され、各家の背後に野菜畑と耕地が伸び、それ等は移民の初源的割当分を構成
べてい旬。然しデイオシによれば、こ向型の村落は中世末期以後の開墾によって設立されたものであり、従って当面の大聞から免れ墾時
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) ている﹂と述
する。メの割当地はそれ故一かたまりをなし、その結呆古い村滋共同体的規制 (
代に於ては倫稀であったように忠われる。
こ与で我々は一一 ll一一一一枇紀の新村の発展に対する阻害的な地巡的条件を考慮しておく必要がある。それは長い間未耕地叉は森林地帯
として期閉まっていた地方の土援の性質、並びにそれに基づく農業労働の条件に関するものである。即ち石川仇質を欠如した一小彦透性の粘土
質土壌の条件の下では沼沢が多く、叉雨期には道はぬかるみとなり、耕刑革連斎や車が家と耕地の間を往復することを困難にするo叉耕作
労働に適した時期が少く、雨が降れば畑は泥海と化し農日れは用をなさず、晴天の暑い日が続けば畑の表面は乾燥し、土塊は煉瓦のように
(FEEd) の域を出なかったことは、農民が住居
凝縮して鋤を拒絶する。か Lる条件の下では家と耕地との聞の距離を出来るだけ短縮せざるを得ないであろうし、村落や耕地も小規模な
ものとならざるを得ない。この時代森林地方に設立された移住地の多くが﹁散問定住﹂
に近接した畑を耕作せざるを得ず、従って可成りの村落人口を定住せしめるたけの大耕地面積を形成することが不可能だったことによ
るo例えばロレ 1 1地方の湿潤地帯の散居式小村は、その不法透性土援が、ガロ・ローマ時代末湖及びブラシグの時代を通じて農耕適地
に建設された村落に見られる如き、より大なる経営単位による付洛定住が不可能だったことを示す。
ところで開墾時代末期以来、上ノルマシデイ高原に於いて、珪石粘土の重い不透透性土壌に適合した定住を行うための注目すべき努力
が見られた。即ち﹁一三世紀にこの高原の大森林の中に開墾地が拓かれ、そこに領主が定住せしめた農民の移住地は殆んど無限に開墾を
増大することを可能にする計画に従って組織された。而もそれは家と畑を決して距てることなく、耕作に関す泊相互扶助を余儀なくさ
述の街路型村落に他ならない。
れる小農にとって、常に不可欠な隣人関係を、住民の間に不可能にすることはなかった﹂ハデイオシ)のであ刷。か Lるものが正しく前
然しすべての新村がこのような立地条件によって支配されたと考えるべきではない。不濠透性地方に於てさえも、土地の起伏が耕地の
自然的排水を容易にし得た場合、土地改良事業が陸土質土一援に石氏質土一壊の性秘を与え得た場合には、よりコムパグトなより大なる村落
l 一一二世紀の大開墾による内国植民で建設され
(FZοrhkg三地方は一八世紀まで共同体規
へと発展し、より大面積の耕地を確保することによって、ボ 1ス、ピカルデイに典型的に見られたように共同体的利川に適する耕地構成
0 7 ラシスに於いては、恐らくは西ヨーロッパの他の地方と同様に、一一
を可能にし得たのである o例えば囲横地帯であるプルタ 1 ニユに於てさえ、ポ γトシヤトオ
制に服していた
た新村は、すべてこのような村落式定住を志向していたのである。それ故村落式定住は、土一撲の条件さえ改善されるならば、到る処に拡
まったであろうと卓唱えてよい。
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そこで我々は村落式定住の具体的形態の一例として、フルリ 1ストによって指摘されている一二世紀三一八O年)のノ 1ル地方のグ
イル・ヌーグたるフオレスト(司22こについてみよう。先ずこの村落の中央には回目白o
E己件道路によって質かれたいわゆる﹁市街地﹂
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z豆一切)││家とその附属地ーーが間列される。市街
があり、それは四角に街路によって区劃されており、街路に面して農民の﹁宅地﹂(
バ戸セルぴ
仙台。)及び教会と二つの水飼い場 SF25⋮勺)があり、市街地の外縁には﹁共同地﹂
地の中心には﹁公共的広場﹂ま言。苦 -L
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グドッグの多くの ((rpE
己主)等は、この櫨の密集村ザ絡を代表するものである。
がある。市街地の周囲には共同耕地が拡がり、そこには農民の地条が分散している。ブロツグ等によって指摘されている碁盤縞状の村落
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町 SE25pzzazE)
にあてられ、囲畿されてレる。
この型の新村の基本的構成要素は次の二つである。即ち、仙市街地l 宅地のコンパグトな集合体としてあらわれ、この宅地は、住居
(Lcgロ
PZFOおよEEEEE問。)と野菜・果樹等の栽培地(﹁。H
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) の研究
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凶大きくまとまった若干数の共同耕地合SEEm-gEE)
之は移民に細分割されるつ乃至数パルセル)。各割当分は概ね零細で、こ
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グイル・買 1グの今一つの特殊な定住形態として、主としてシト 1派修道院によって創設された
のことは新村の建設の主たる目的が植民にあったことと関連する。
当時間}自問。ハ穀物倉)は今日のそれより広義に用いられ、農場経営に必要な建物全体を指していた。サν ・ヤヨプ
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によれば、一一五五年頃ポシティュイ (FE官三の修道僧は法王アド日アジ辛子ヒロ)四世から同修道院に属する札自由。の各々の周囲
半星の圏内に、如何なる者も彼等の許可なしに家を建てることは出来ないという特権を得た。彼等はかうして各広告唱の周囲三000
X今日の村落の境界をなしている。この型の村落はブルゴ 1 ニユ地方に数多く見出
7ラシス各地に見られる村落から若手離れた大農場は、富絡な開墾企業者によってこの間一自由。を模倣して
勾
出}自由。に附属する可成り広い農地はほ
ヘグタールの土地を確保した。こ与に誘致された移民の数が増大した時、区自由。を中心に時由形に群居するコムパグトな村落が形成され
たのであり、
され刷。叉プロツグは、現在
建設されたものであることを指摘している。
以上により大開墾時代の新村の定住形態はしばしば立地上の制約から、散日出{定住乃至は小規模農民集務の形態をとらざるを得なかった
が、事情の-許す限りは古い時代の村落式定住に類似のコムパグトな構成をとろうとしたこと、特に土壌の条件に恵まれていた場合には、
村落規模に於いても殆んど古い村溶と異ならなかったことが信ぜられる。それ故一般にグイル・ヌ 1ずを古い起源の村落から区別するも
のは定住形態以外のところに求めなければならないであろう。
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7-アYグ時代の起源の村務名は土地所有者の
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姓名の所有絡に三F 叉は
∞E母22円?等(同一EP‘句・
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) という言援をとって
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F出口'HEH)
含国宝日間
一
次
び -vF阿倍、デイオシによれば、チエラ 1シユ地方の村落はしばしば
MMC-
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間冨・回
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四、グイ Y ・ヌ iず の 社 会 ・ 経 済 的 意 義
グイル・ヌ 1グの社会的経済的特質は、一 O世紀以降の農村経済の発展に関する一般的プラ Yの上に跡づけられなければならない。グ
イル・ 1 1グはこの発展の最も端的な諸性絡を有し、そしてこの意味において、中世後期村落の先駆的役割を果したのである。
先ず注目されるのは先に引用したフオレストに見られるような、新村の中心部における公共的広場の存在である。それは市、乃至市場
の敷地にあてられたものである。同じくフルリ 1 ストの指摘している一二世紀のグイル・ 114γ(一一入O年)に関する史料は、このこ
EZSECEZLEEsa52ELZE)) あ て ら れ た 部 分 は 、 幅 て 奥 行 一 O Oピエ (
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) の帯状地につき、一ドニエの地代を
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) の中の領地に建設せられ﹃居住並ピエ住居ノタメ
とを明確に物語っている。このグイル・ヌ 1グ は 恐 冨 FE修道院の﹁寄進地﹂ (
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) の敷地に、
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35 という言葉は、この場合﹁街路﹂(円宮)の意味に用いられており、かなり古くから荘園及び中世都市の中に見出さ叫る11の建設に
あてられた。こうして四辺形の﹁公共的広場﹂が整然と作り出され、その四阿川は農民の相接した宅地でとりまかれていた。
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O 二O) に よ っ て
か ふる例は既に一一世紀初頭のより古いずイル・ 1 1ずにも見出される。例えばパリ司教 pdEE(九九二l 一
(HOCH-凶阿
SZ唱者 rm) 等に於いても、市場の設置が確認される。
の忠巴宮の森に建設されたずイル・ヌ 1グ(出。∞唱の創立・含︿S
LOEC)、アシジウ伯﹃gzzoZ号E によって FE}2z 修道院の傍に
建設されたグイル・ヌ 1グ
か Lる市場の存在は必ずしもヴイル・ 1 1ずに限られたものではない。嘗てピレシヌによって誇張されたように、手工業と商業はカロ
リシグ時代に決して消滅してしまったのではなく、キグイタス所在地はもとより、村落に於いても年市と週聞はしばしば存続し、全ブラ
(ESB広 3 間号 ZZ白一)は公権力のあらゆる干渉を排した純粋に農村的な経済組織の通例的事実とさえ宥倣されていた。
一O世紀
(E22Z耳切))は史料にあらわれつ xけたのである。更に一 O陀 紀 以 来 ﹁ 荘 園
シグ時代及び後期中併の初頭を通じて否認BZ22)) や (
市場﹂
から一一世紀にかけて週市は急速に矯大するのであるが、その根本的理由は、急激な人口矯加、小規模保有の増大に帰せられる。何故な
らこのことは明らかに農業外生業の必要を、従って社会的分業の発展を導き、地方的交換経演を一周促進させるからであ刷。我々はそこ
にグイル・ヌ 1グの発展を促したのと同一の社会的経,k
m的原因を認めることが出来る。
右のような地方的上局地内市場閣の成立を志向するグイル・ 1 1グの特質と関連して、移住農民の土地保有規模の零細性が特に注目され
ot二O ヘグタ 1凡で農民の大家族共同体の必要を容易に満し得た
なければならない。フルリ 1ストによれば、母国ての標準的マシスは一
5322 は 概 ね 一 ヘ グ タ ー ル 未 満 で あ っ 弘 叉 セ エ に よ れ ば 、 若 干 の 例 外 を 除 け ば 、 新 保 有 地
のに反し、移民の新保有地
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9cmZ) の 多 く は さ ア ル シ パ シ 、 乃 至 は 単 に 一 ア ル パ シ し か 含 ま な い ﹂ と さ れ も 更 に メ l ヌ
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'の詳細な報告によれば、耕地としては半アルパンハ六・五アール)野菜畑の面積を併せても一 0 アール程度の極めて零細なもので
ある。
人口増加とマシス 1 7 1 7エの分裂によって、保有地の零細化は日村溶内部でも進みつふあったのであるが、新村のか与る零細保有地
の増大によって、全体として、過小開設の農民諸階層に占める数的比重の圧倒的大きさは、当時の生産力の発展を考慮に入れても農村経演の
上に極めて重大な影響を及ぼすであろれ o却ち第一に之等の過小農は日雇化し、或いは富農の下に農業労働の機会を、或いは小規模手工
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-品)).或いは森林、牧草地等の共同問益、等の﹁利便﹂
って、或いは市や市場、或いは水草、筒、援狩器、圧搾器││いわゆる (
業その他の農業外営業に補助収入の道を求めなければならず、かくして社会的分業は一一層推し進められてゆく o第二に過小震の生活にと
ZE--志の普及について
市や市場の利用権は社会的分業及び局地内交換経済の発展と必然的に結びつくことは先に述べたo
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) は決定的に重要となる。
この中、
Lではその原因を過小震が 7-7Yグ時代のげシスス保有長以上に自ら粉挽き水車、葡萄酒の圧搾器、パシ焼簡を設置出
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は、従来、王張されてきたように領主権力の拡大・再編成、即ち﹁罰令権﹂ 222 円古宮口)に基づく (
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問題になるが、こ
来なかったという点に求めるプルリ 1ストの見解を重視したい。なかんずく重要なのは共同用益権の問題である。それは飼去による生産
規制として利用された反菌、過小震の経演生活を補う不可欠の手段であった。同時にそれは農民の相互扶助と共同体としての団結を強め
Lる例は三二ご
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る契機にもなるであろう。この場合、領、正による生産統制の意図は何よりも三園制に基づく耕作強制としてあらわれる。何故ならそれは
領主が何よりも望む収益の規則性を確保するのに最も適したものであったからである。か
教会領に見られ、デイオyによれば、少くもパリ盆地の北部ではその時以来到る処でこの制度が採用された。但しこの制度は、それに適
した地方でもすべて行われていたのではなく、叉それが行われていた処でも一八世紀のロレ 1 ヌ地方に見られる如き完枕した状態には達
(255百)による領、王的怒意の規制、即ち村洛慣行日日村法の確立に最大の関心が寄せられた。
しなかった。例えばボ 1ス・ピカルデイ聞の地方に於でさえも、二二・回世紀にコ一圃制は到る処で行われてはいなかった。
之に反し、農民的志向からは、慣習法
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何故ならそこに農民の逃亡以外には何ものも怖れなかった領主に対する安全の保証があったからである。まさにこの意味に於いて、ガ
と呼ばれるが、時には古い荘園制地代と区別して円22E と呼ばれることもある。
ロ-P1マ以来大所有地1荘園を意味していたグイラが﹁村溶共同体﹂の同義誇となったのである。この点をあきらかにするために、領主
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対農民関係を地代の条件を中心にして検討しよう。
新保有地に課せられた地代は一般にサシス
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255)を支払う場合と、凶宅地に関しては貨幣地代 (25r 2255
それは、 宅地と耕地を一緒にして貨幣又は現物の固定地代 (
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} を支払う場合とがある。その最大の特色は、第一に、 課税の規準が土
耕地に関しては収穫一定割合の現物地代(宮町EmEE 問
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地区劃叉は面積単位であること、第二に、地代額が固定され旦極めて軽微であることである。
例えばノ 1トル・ダ 1ム・ド・パリの多くの荘園では、移民はアルパシ当り四ドェェ、同一地方の他の荘園では六ドニエである。叉ナ
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ミユ 1凡一地方でも、一一一一一一一年、サシ・オ 1パシ・ド・十ミユ 1ルG
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合の現物地代 EEE宮ベ﹁言耳品。)は、ナミユ 1ル地方でぷ112立、フラシス全体に関する一般的数字としては、セエによれば
ぺラシは之よりや L高い比率+11日という数字をあげている。
このような新保有地の地代条件は、旧来のマ Yスス保有地のそれとは明らかに異なるものであり、ジエニコーによれば分裂マシスのそ
れとも、その負担の軽微性に於いて区別せられるものであった o このことは、すべての必要な((ロ伸長官同2
)
) を計算に入れても、 向生活す
るに不充分であった新保有地の極度の零細性と関連する。新保有長l移民は狭義の地代に限らず、土地領主に対する彼等の諸々の負担
(賦役、タイュ、市場税、人頭税、死亡税い宿営税等々)の軽減乃至固定化によって、彼等の生活様式((自主EizEC) 全体を領主的
懇意から防衛することを必要としたのである。このことは散居定住の場合にも村落定住の場合にも臭ならなかった。そしてこの必要を具
体化する手段こそ、{(官。Z
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)
) と呼ばれる契約だったのである oまさに植民事業は﹁移民と領主の利益の均衡﹂なしには成功しなかった
のである。何故なら中世に於ける﹁法﹂?と制定の絶対主であった領主と排出も、開拓民を招致するには、彼等の利益を考慮することなし
には不可能だったからである。こうして出発点に於いてグイル・ヌ 1グに与えられた償行 (gESE-5と は 、 環 箆 に 則 し て 大 巾 に 修 正
され、旧来の荘園には見られない慣習法 (ωESSECS芯こを成立せしめるに至った。
るものであると考える。そして、か Lるものとしてのグイル・ヌ 1グの急増は、その法の伝播を運命的なものにする。一二世紀以来特に
以上により、我々は農民負担の軽減、並びに法契約団体としての村落共同体の成立こそ、グイル・ヌ 1ずの歴史的意義を究極的に決定す
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ル・ヌ 1グは旧村落と区別される﹁解放村落﹂ (PSE 丘一-P55zi--とと名づけられたのである。
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