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ルソーにおける「善き市民像」と「一般意志」

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ルソーにおける「善き市民像」と「一般意志」
29W-03
日本認知科学会
文学と認知・コンピュータ研究分科会Ⅱ
・ルソーにおける「善き市民像」と「一般意志」の生成過程に関して
岩手県立大学
熊本哲也
目次
・はじめに
・東浩紀の『一般意志 2.0——ルソー、フロイト、グーグルー』から
・
「一般意志」と「政治体」の概念にひそんでいる4つのパラディグム
・まとめ
はじめに
最近、ルソーの「一般意志」論が注目を集めています。火付け役のひとりは現代思想家、
オタク文化論者の東浩紀です。『一般意志 2.0』を発表したのは 2011 年ですが、ルソー研
究者たちの間での反響は意外に小さいものであるようです。おりしも 2012 年、今年は、
ルソー生誕 300 年の年にあたり、世界各国で国際シンポジウムなどが数多く開催され、若
手からベテランに至るまでルソー研究の専門家たち、あるいはその周辺部の研究者たちが
様々な角度からルソー研究の報告を行っています。そうした報告において、東浩紀の著作
が言及されることは残念ながら全くといってありません。そうしたルソーの捉え直しのア
カデミックなムーブメントが東浩紀の提起の声をほぼ全く掻き消してしまったかのような
観にさえなっています。おそらく、ネット上では東浩紀の提起に対する議論が行われてい
るのでしょうが、すくなくともルソーに関する人文学の学会においては東のデジタル的一
般意志論は全く取り上げられていません。ということで、あえてこの場を使って東浩紀の
提起を検討し、同時にルソーの「一般意志」論について考察したいと思います。
「一般意志」論は、最近のフランスやスイスのルソー研究の領域でも実はポレミックな
論点のひとつとなっています。それは、一般意志という概念の生成過程において、ひとつ
重要な決定要素がからんでいることが指摘されたからです。一般意志の概念自体、様々な
哲学的・イデオロギー的要素によって、
(フロイト・アルチュセール的な意味において)多
元決定されていると言っても過言ではありませんが、最近発見された決定要素とは化学
chemical の領域からくるものです。というのも、ルソーが『化学教程』という教科書を書
いていたという発見がなされ、このことがルソーの他の著作の再検討の契機となっている
わけです。そこで、一般意志論の形成過程においても、この「化学」という哲学的・イデ
オロギー的要素が微妙にからんでくることが言われているのでこのことを確認しながら、
一般意志概念の把握と、そこにおける「市民」のステイタスというものを、東浩紀の提起
にあるデジタル的一般意志や個別意志を発信する「市民」という存在との関連性から見て
行こうと思います。
引用1
1
本書がこれから語る夢は、二つの全く異なった知的欲望、知的文脈の交差点で成立している。そのひと
つは、いまから二世紀半前に記された政治思想の古典中の古典、ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約
論』である。人民主権を説き、「一般意志」の理念を提出し、近代民主主義の起源だと広く考えられてい
るこの著作は、実際にはかなり謎めいたテクストで、歴史的にもさまざまな議論を呼んでいる。本書の夢
はまずは、この書物の記述を、文字どおり、素朴にベタに解釈するところから始まる。そこに立ち上がる
「一般意志」のイメージが、いまわたしたちが漠然と抱いている「民意」や「世論」と大きく異なること
に読者は驚くだろう。
そしてもうひとつは、この20年のあいだ、経済と社会の様相を根本から変えてしまい、そしていまも
変えつつある技術的な革新、いわゆる「情報技術革命」である。オープン・ソース、アジャイルソフトウ
ェア開発、ウェブ 2.0、ユーザージェネレイテッドコンテンツ、クラウドコンピューティングなどなど、
無数のバズワードが数年単位で現れては消える、その世界の動向を要約するのはたやすいことではない。
しかし、それでも言ってしまえば、パーソナルコンピュータが普及してインターネットが現れた 1990 年
代以降、その「革命」が一貫して目指してきたものとは、グーグルの創業理念を借りれば、「世界中の情
報を体系化し、どこからでもアクセス可能で有益なものにする」ことだったと要約することができる。そ
して筆者は本書で、その「世界中の情報を体系化」というさりげないひとことがいかに二世紀半前の「一
般意志」の構想と響きあっているのか、時代を超えた呼応関係について語りたいと思う。
(東浩紀、『一般意志 2.0』、p.22)
引用2
あらためて整理しておこう。一般意志は政府の意志ではない。個人の意志の総和でもない。一般意志は、
人民が集まり、会議を開き、侃侃諤々の議論を重ねてたがいの差異を乗り越え練り上げる、私たちが一般
に想像するような「合意」とは全く異なる存在である。一般意志は、一定数の人間がいて、そのあいだに
社会契約が結ばれ共同体が生み出されてさえいれば、いかなるコミュニケーションがなくても、つまり選
挙も議会もなにもなくても、自然と数学的に存在してしまう。ルソーはそう考えた。一定数の人間がいれ
ば、だれもなにも調べようと思わなくても、平均身長や平均体重の数値はあらかじめ決まってしまってい
(東浩紀、『一般意志 2.0』、pp.56-57)
るように。
引用3
人民が十分な情報をもって討議するとき、もし、市民相互があらかじめなんの打ち合わせもしていなけ
れば、[一般意志との]わずかな差が多く集まって、その結果つねに一般意志が生み出されるから、その結
果はつねによいものであろう。ところが、部分的な結社である徒党が、大結社[政治体]を犠牲にしてつく
られると、これらの部分的結社のおのおのの意志は、その構成員に対しては一般的であるが、国家に対し
ては特殊的となる。その場合には、もはや人々と同じ数の投票者があるのではなく、部分的結社と同じ数
の投票があるにすぎなくなると言えよう。差の数が減尐すると、その結果として一般性の程度も減尐する。
(ルソー、『社会契約論』、第二編第三章、全集第五巻、p.135)
Si, quand le peuple suffisamment informé délibère, les Citoyens n’avaient aucune communication
entre eux, du grand nombre de petites différences résulterait toujours la volonté générale, et la
délibération serait toujours bonne. Mais quand il se fait des brigues, des assciations partielles aux
2
dépends de la grande, la volonté de chacune de ces associations devient générale par rapport à ses
membres, et particulière à l’Etat ;on peut dire alors qu’il y a plus autant de votants que d’hommes,
mais seulement autant que d’associations. Les différences deviennent moins nombreuses et donnent
un résultat moins général.
(Rousseau, Du Contract Social, Oeuvres Complètes III, p.372)
引用4
詳細を述べるために、尐しの間多くの点であまり正確ではないが私の言うべきことをよりよく表現する
ためにひとつの比較(comparaison)を使うことをお許し願いたい。政治体(corps politique)は個別的
に考えると(pris individuellement)まったく人間の人体にも似た、有機生命体(corps organisé vivant)
のようにみなすことができる。主権は頭を表し、法と習俗は脳髄であり、神経の中枢であり、意志の理解
力及び諸感覚の場所である。裁判官と行政官はその機関=器官(organes)である。国家の財政は、血液
である。それは、賢明なるエコノミーによって、心臓の機能を果たしつつ、人体の各部へ栄養や生命を送
る。市民たちは機械(machine)に生命を与え働かせる手足(membres)であり体(corps)であり、こ
の生き物が健康状態であるならば、脳髄が直ちに苦痛の印象を感じないでは、そのいかなる部分にも傷を
つけることができない。人間の体と政治体の生命は、全体にとって共通の自我(le moi commun)であり、
すべての部分の相互感覚(sensibilié réciproque)と内的な連絡(correspondance interne)である。こ
れらお互いの伝達(communication)がやみ、明確な統一性が消滅し、隣接している諸部分がもはや互い
に並置されるにすぎなくなれば、どうなるであろうか。人間は死に、国家は崩壊するのである。政治体は、
したがってひとつの意志をもった精神的存在(Etre moral)である。その一般的な意志は(volonté
générale)は常に全体と各部分の保持と安寧(bien être)へと傾倒しているが、すべての構成員(membres)
にとって、彼らそして政体に対する正当性と不当性の規則となっている。
(ルソー、『政治経済論』、全集第五巻 pp.66-67)
引用5
もし、一般社会が哲学者の体系の外に実在するとすれば、それは、すでに述べたように、一個の精神的
存在(Etre moral)であって、この社会を構成する個々の存在とははっきり区別された固有の性質をもつで
あろう。そのことは化合物(composés chimiques)が、その構成物質の単なる混合(mixtes)からはけっして
出てこないような属性をもつのと、ほとんど同様である。この社会には、自然がすべての人間に教えた普
遍的な言語があって、これが、彼らの相互のコミュニケーション(communications)の最初の道具になる
だろう。そこでは、すべての部分の交感(correspondance)に役立つ一種の共通感覚器官(sensorium)があ
るだろう。
公共の幸福あるいは不幸は、単純な加算(agrégation)の場合のように、個々の幸福あるいは不幸の総和に
とどまるのではなく、それらを結びつけている関係のうちにあり、この総和より大きいであろう。だから、
公共の福祉は、個々人の幸福の上に成り立つものであるどころか、まさにこれらの幸福の源泉なのである。
(ルソー、
『社会契約論(ジュネーブ草稿)』第二章、p.274 ; Du Contract social , 1ère édition, OC III, p.284)
3
引用6
たとえば、アソシアションという概念である。これは結社とか協働とか訳されて、それだけでも、とりわ
けフランスの社会思想史の文脈では政治理論ないし共同体論に不可欠な概念であるが、これまでこの言葉
が18世紀当時に持っていた化学的用語法の「結合」という含意を考慮されつつ問われることはなかった。
化学のパラダイムを導入することで、何がかわるのだろうか。一言でいえば、「全体」を思考することを
可能にするという効果を持つのである。化学において諸々の物質を化合させる場合を考えてみると。結合
して出来上がった物質はその要素となっている原料の物質とは全く異なった「別の何か」が成立している。
これが、部分と全体に関わる化学パラダイムである。このパラダイムを社会理論に適用することで、ルソ
ーは独特な理論的達成を行った、というのがベルナルディの主張の要点である。社会は、その成員一人ひ
とりの単なる「総和的な集まり(agrégat)」や「多数(multitude)」ではなく、要素を超えた「全体」が
自ら自身に関係する構造をもった「結合(association)」なのである。これが、ルソー的政治理論の単位と
もいえる「政治(共同)体(le corps politique)」を支えていくことになる。
「政治体」ないし「政治共同
体」とは、要素の集まり・総和ではなく、それを超えて統御する原理を備え自己自身を自ら維持保存(自
己の反復)していくことのできる一種の「構造体」である。
『社会契約論』の多くの重要な概念が、
「政治
(共同)体」を軸にして結びついている。
(佐藤淳二、国家・政治共同体・<契約>――ルソー論のための覚書――より)
引用7
しかし、もしわれわれが正、不正の性質を決定する権利を個人から奪うとすれば、われわれはこの問題を
どこにもちこむのであろうか。いったいどこに。人類の前にである。その問題を決定できるのは人類のみ
である。なぜなら人類の抱く情念は、万人の幸福であるからである。個別意志は信をおきがたい。それは
善良であることも邪悪であることもありうるが、一般意志はつねに善良である。それは過去にあやまった
こともなく、将来も誤ることはないだろう。
(ディドロ、「自然法」『ディドロ著作集第3巻政治・経済』より)
・まとめ
東浩紀の「一般意志」へのアプローチは、われわれが個別に意志表示をする、というベ
ースに成り立っていて、これを数学的に総和しうる、という確信があって初めて言えるこ
とではありました。しかし、ルソーの「一般意志」論は、個別的な意志と全体的な意志が
単に、総合されるのではなく、相互に感じあい、照応すること、これが一般意志の最初の
発想でありました。そして、個別から全体へとまるで「別のものが」生成するかのような
飛躍的な一種化学的なイメージがある、ということでした。このことにより、個別と全体
が両立するという困難な問題へのひとつの解答を示そうとしていたと考えられます。
東浩紀の個別的な意志表示、オタク的な意味でのルソーへの共感は、ルソーの他の著作、
とくに晩年の自伝などにおける孤独な思想家というイメージから来ています。いわば、オ
タクのプロトタイプをルソーに見出しているわけですが、この見方は一つのルソー像であ
るとも言えるでしょう。時代とともに、思想家ルソーの見方は変遷しています。19世紀
のルソーは近代的自我、ロマン主義の祖、革命思想家というものでしたが、20世紀のル
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ソー像は、むしろ「自我の病に取りつかれたルソー」というものです。晩年のルソーにつ
いて述べるとき、これは確かに病的な側面があります。しかし、最近の研究動向はこの病
的なルソーではなく、時代の必然性からなんらかの意見を発信したものが著作となってい
う、というようにルソーの置かれた状況、18世紀のフランス、そしてジュネーヴとの関
わりにおいて、書かざるをえなかった意見の表明、というような見方がされることが多い
ようです。その際に、ルソーは自分の身分を「ジュネーヴ市民」という肩書で署名するこ
とを『人間不平等起源論』以来、続けていました。その意味で、ルソーにとっての「正し
い市民」「善き市民」とは、
「一般意志」に従って政治体に自己を譲渡した後にしか存在し
ない、というものではなく、自立した個人の立場で個別意志を表明できるものであったの
でしょう。
東浩紀の『一般意志 2.0』は、以上のような意味で 20 世紀におけるルソー像をそのまま、
自己言及的に提出したものであったと言えます。21 世紀以降、おそらくルソー研究は異な
った方向へ向かうようです。それは、今のところは、まだ未知数としか言えませんが、お
そらくは、社会思想家、政治思想家としてのルソー像が刷新されて打ち立てられてゆくも
のと思われます。以上です。
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