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2 社会政策とは何か

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2 社会政策とは何か
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社会政策とは何か
What is Social Policy?
これに続く章では、「社会政策」という言葉について考察し、良い質問をたくさんし
て行きたいと思います。その場合、社会行政、社会サービス、社会福祉、社会保障そし
て福祉国家等々の関連する諸概念や諸用語の多様な定義について考察することは避け
られません。そして、なぜ社会政策を研究しなければならないのか、その理由をまず自
問し、社会的ニーズと社会問題の認識に成功したり失敗したりする社会の対応を自問し
なければなりません。私たちの関心は、社会生活や社会組織の特定の分野に関する原理
や目的に向けられているのでしょうか。それとも、社会工学、つまり、行動・経営・組
織の方法や技術とかゲーム理論の応用に向けられているのでしょうか。
どのような解答にたどり着いたとしても、道徳的価値や政治的価値の問題に深く関わ
りをもつことになるのは間違いありません。社会政策という仮面をかぶって政治的宣伝
が行われることは珍しくないのです。
社会政策という言葉の意味を私たちはどのように考えているでしょうか。これと同じ
ように重要な質問は、社会政策は誰のものかという問いです。「政策」という言葉は、
所与の目的に向けられた行動を支配する諸原理に関するものだといえるでしょう。この
概念は、目的とともに手段に関する行動を意味し、その中には、変化する状況、つまり、
システム、実践、行動の変化が含まれます。政策の概念は、(社会、集団、組織という
名の)私たちが、何らかの形で変化に影響を及ぼすことができると信じている場合にだ
け、意味あるものになります。天候に関する政策は持ち得ません。というのは、天候を
どうにかするには、私たちはまだ無力だからです。しかし、非嫡出子については政策を
持っています(あるいは、持つことができます)。なぜなら、私たちには彼らの生活に
影響を及ぼす力があると考えるからです。それが良いものか悪いものかは、あなた方が
政策を作る側の人間であるか非嫡出子であるかによって違ってきますが。
「政策」という言葉を、ここでは、行動志向かつ問題志向の感覚で使っています。集
合名詞の「私たち」という言葉は、イギリスであれナイジェリアであれ中国であれ、い
ずれであっても、人民の「一般意志」を表明する政府の行動を指すものとして用いてい
ます。「一般意志」という概念の意味及び妥当性については、もちろん、いろいろ議論
のあるところです。
「社会」という言葉をめぐって、意味的にもっとも難しい問題が起こるのは避けられ
ません。数多くの学問や職業や集団が、自分のファースト・ネームに社会という名前を
つけ、何か特別なものであるかのようにそれを振り回しているからといって、その意味
が理解しやすくなったともいえません。例えば、社会地理学、社会計画、社会心理学、
社会精神医学、社会行政、社会事業、社会法、社会言語学、社会史、社会医学、社会病
理学等々といったものがあり、また、バンク・オブ・アメリカは、一九七二年一月に、
社会政策担当副社長という新しいポストを設けたほどです。これでは、社会神学という
ものさえ、ありそうではありませんか。こうした学科目や組織体がみんな、社会におけ
る人間、とりわけ、人間関係内部の非経済的要因に何らかの形で関心を寄せているとい
う事実を重く受け止めることが、本当に必要なのでしょうか。人間は社会的存在である、
つまり、もっぱら経済人としてあるのではないとか、社会を機械的有機体モデルないし
心理学的モデルとしてとらえることはできない、と強調しているに過ぎないのでしょう
か。最近みられる「社会」という言葉の流行は、かつて経済学者や政治哲学者や実験心
理学者や社会学者たちが作り上げた、社会における人間のばかげたモデルへの反抗を表
しているだけなのかもしれません。
競争的・自己調節的統合市場経済を確立しようとしたビクトリア時代の経済学者の試
みとか、社会の有機体的性質は事実であるという(近代人類学の「創始者」のひとりで
ある)ラドクリフ−ブラウンの教義を例に考えてみましょう。こうした教義が暗に意味
しているのは、統合とか連帯はすべての社会システムに「自然」に備わっている属性で
あるという主張です。ラドクリフ−ブラウンの著書によれば、「社会構造は、有機体と
しての個人と同じように、確固とした実在である。複雑な有機体は、生体細胞の集合で
あって、一定の構造を保ちながら隙き間をもって流動しているものである」<1>と述べ
ています。
これは、もうひとりの人類学者(社会人類学者)であるエドモンド・リースをして、
「どのような形のものであれ、社会的ストレスはすべて社会の連帯(つまり、有機体の
健康)を回復し、増進しさえする反応を生み出すものだと先験的に確信するのなら、戦
争こそが平和であり、かつ、闘争的調和であると自分を説き伏せなければならない」<2>
といわしめたものであります。
かりに(自己調節的な市場経済から類推して)社会的ストレスが自身を自動的に正
常化するのなら、社会政策のような予期せざる概念が存在する余地はない、といわなけ
ればなりません。
しかし、社会政策(もっと正確には社会福祉システムというべきでしょうが)は、
「自
然」の社会システムに組み込まれた自己調節機構の単なる一部である、と議論すること
はもちろん可能であり、二〇世紀初頭以来のイギリスにおける社会サービスの発達は、
ある意味では、すでに予定されていたものである、ということかもしれません。つまり、
均衡や秩序を取り戻そうとする社会システムの「自然」の働きによって、起こるべくし
て起こったものだというわけです。タルコット・パーソンズの理論のある部分は、この
ような均衡秩序の概念を主張しています<3>。基本的に、この考えは、「すべてはこの
良き世界を最善にするためにある」といった類の保守派イデオロギー、別の言い方をす
れば、需要と供給を自己調節する最良の私的市場の概念をもつ新古典派経済理論の類と
いえるでしょう(とはいえ、女性解放運動が指摘するように、その市場はおおむね男性
向けのものでありますが)
。
話が回りくどくなってきましたが、人間と社会に関するこのような秩序志向の機械的
理論では、社会政策の役割をつまらない付けたりに過ぎないものにしてしまう、という
お話しているのです。まさに、「政策」の役割は無視され、ラッサールが一九世紀イギ
リスの国家を「夜警国家」
(一九七〇年代風に言えば「法と秩序の国家」
)と述べたのと
同じような役割としかみなしていないのです。夜警に政策があるとしたら、監視と秩序
維持そして行動の変化も起こさないのが政策であるといわない限りは無理でしょうし
また矛盾してしまいます。
これと反対の価値判断として、社会政策を機械的とか残りかすとみる考え方を拒否す
る立場があります。社会政策は、変化をもたらす積極的な手段とみることができますし、
その立場では、政治過程全体のなかで予見も計算もできない部分とみることができるの
です。
しかし、社会政策は、貧困者や労働者階級と呼ばれる人々、高齢の年金生活者、女性、
剥奪された児童、社会貧困の一覧表に掲載されるその他の部類の人々にヨリ多くの福祉
や給付を提供するという意味で必然的に善行や福祉を志向しているという結論に飛躍
してはいけません。社会政策による資源再分配の方向は、貧しき者から富める者に向か
うこともあれば、ある少数民族から他の少数民族への移転もありうるし、例えば中流階
層の年金などのように、所得階層や社会階層内部で労働生活者から高齢者へ移転するこ
ともありうるのです。
現在、南アフリカには、多くの人がそれを善行的だとか福祉志向的だとは考えていな
い社会政策が存在しています。南アメリカ諸国、とりわけブラジルには、貧しき者から
富める者に資源を移転して、隠れたる不平等増幅装置の機能を果たす社会保険制度があ
ります。ナチス・ドイツでは、ヒットラーが精神病者や遅滞者、ユダヤ人やその他の少
数民族に関する社会政策(実際にそれらは社会政策と呼ばれました)を開発いたしまし
た。世界の世論は、医学研究や断種やガス室のために人間を利用することを究極目的と
した社会政策のこうした手段を厳しく断罪したのです。
ですから、「社会政策」という言葉を用いたからといって、それが、自動的に利他主
義や他者への関心とか平等への関心などを表すものと思い込むのは禁物なのです。そし
てまた、イギリス(どの国でもそうですが)が社会政策をもち社会サービスを開発して
いるからといって、それが実際に累進的再分配や平等や社会的利他主義を実践している
と思い込むのは思慮が浅いといわねばなりません。あるグループの人々にとって「福祉」
であるものが、他のグループの人々には「反福祉」であるかもしれないのです。
そこで、最後に、「社会政策」という言葉の価値的意味合いを守るために、それがい
かなる政党ないしイデオロギーにも組しないものであることを指摘しなければなりま
せん。私たちはだれでも、自分なりの価値をもちまた偏見をもっています。また、市民
としての権利義務をもち、教師と生徒としての権利義務をもっています。少なくとも、
自分たちの価値観を明瞭にする責任があります。特に、価値に中立であると考えるなら
ばまったく意味をなさないことが明らかである、社会政策のような主題を論議するとき
には、それは義務と言うべきです。イギリスの国民保健サービスの創始者であるニエ・
ベヴァンは、「これが私の真実である。さて諸君の真実を伺いたい」<4>という一句を
好んで使ったものです。
グンナー・ミュルダールは、経済政策や社会政策に関する著書のなかで、自分の価値
や偏りをめぐって、自身や他者を欺くことの危険を多く語り、社会組織の研究で価値自
由アプローチが可能であると信じている社会学者や人類学者たちを批判しています
<5>。
かつて、ヒュームは、真の懐疑論者は、自己の哲学的信念ばかりでなく哲学的疑念に
ついても慎重でなければならないと述べています。ならば、真の信念論者は自己の哲学
的信念と同じく哲学的疑念についても慎重であり、真の懐疑論者も信念論者も結局は同
じものだといえるでしょうか。こうした逆説は可能なのでしょうか。人は、自分の主張
に疑問をもち、疑問に思う主張を紛らしながら、社会政策上の目的を追求できるもので
しょうか。これは、普段の生活で出会う意思決定場面で、ある人々が知恵と呼ぶような
ものでしょうか。つまり、批判的でありかつ実践的でもある、あるいは、思弁的であり
かつ実際的でもある知恵なのでしょうか<6>。
それはさておき、社会政策の定義という面倒な仕事に戻ることにして、他の著者たち
がこれについてどんなことを述べているかを見てみたいと思います。ひとつの極端な見
解として、マクベス教授が一九五七年にホブハウス講義で述べた最も包括的な定義があ
ります。すなわち、「社会政策は、社会に共生する男や女の間の関係ネットワークを正
しく秩序づけることに関わるもの、ないし、他者の生活や利害に影響を及ぼす限りにお
いて、個人や集団の活動を導くべき諸原理に関わるものである」と<7>。
これ以上幅の広い定義を考えるのは難しいでしょう。それは、社会学の守備範囲にか
んする全般的定義とみてもおかしくありませんし、経済学を含む社会諸科学全部に関す
る定義といってもよいくらいです。しかし、マクベス教授のねらいは、社会政策、ある
いは、コミュニティにおける生活に介入するために政府が決定する、すべての政策の中
心課題を述べることにあったのだ、ということを見過ごしてはなりません。教授が考え
るように、人間の自己中心的(利己的)な行動と他者中心的(利他的)な行動の間に中
心課題があるのです。ギンスバーグ教授もだいたい同じ立場に立っています。教授は、
ある形の社会政策は、道徳的進歩の思想に基づくものであると述べ、社会的正義と平等
への関心と知性とが融合することによって「利己主義を凌駕する利他主義の力が増大す
る」ことの中に見出されるべきものとして道徳的進歩という規準を用いています<8>。
私の著書『贈与関係論』は、献血制度の国際比較研究を通じて、この哲学的見解を具体
的に例示したひとつの試みです<9>。
もう片方の極端な定義として、ハーゲンバッハ教授による社会政策の定義を検討しま
しょう。教授は、「一般的にいって、社会政策の主な原動力は、コミュニティのすべて
の成員に最低限の標準と一定の機会を保障したい、という希望であるといえるだろう」
と述べています<10>。これは、西欧諸国の著者たちが提起している数多くの定義に典
型的にみられるものだと考えます。そしてまた、国際連合が近年公刊している一連の研
究や報告書で明らかにしている見解に似ています。一九六二年に公刊された『社会サー
ビスの組織と運営に関する報告書』がその例です。<11>
上の定義並びにそれに類似の定義は、広狭いずれにせよ、どれも三つの目的をもち、
そして当然ながら、価値判断を含んでいます。第一は、善行をねらいとすることです。
つまり、政策は市民の幸福をもたらすことに向けられるということです。第二は、非経
済的な目的ばかりでなく、例えば、最低賃金、所得の最低保障水準などの経済的な目的
を含むことです。第三は、資源の配分において富める者から貧しき者への累進的再分配
手段を含むことです。
バーミンガム大学のラフィット教授はこれらとやや趣の異なる定義を行っています。
ちなみに彼は、「社会政策」の肩書きをもつイギリス唯一の教授です。教授は、社会政
策を次のようにみています。すなわち、それは公共の環境に関わるもので、個人がひと
りでは市場から購入できない社会的な快適さの提供(例えば、都市の再開発、国立公園、
大気汚染や騒音対策等)にヨリ関心を向けたものということです。教授は、(年金のよ
うな)個人の移転支出にはあまり強調点をおかずに、「社会政策は、主に、放置すれば
たどることができない道筋に社会の生活を導く試みである」と述べています<12>。こ
の定義は、ある意味ではヨリ限定的なものといますが、コミュニティ施設や安全装置を
幅広く提供するという点での政府の実質的な介入主義的役割を、その主張の内に含んで
いるのです。
マーシャル教授は、もっと実際的で地に足のついたことをいっています。すなわち、
「『社会政策』は、厳密な意味をもつ述語ではない。・・・それは、サービスや所得を提供
することによって、市民の福祉に直接影響を及ぼす行動、という観点からみた政府の政
策のことを指すものである。したがって、中核部分は、社会保険、公的(ないし国家)
扶助、保健・福祉サービス及び住宅政策で構成される」<13>と述べています。
社会政策は、善行をめざし、再分配的であり、非経済的目的と同様に経済的目的に関
心を向けるものと考えられます。他の定義の多くもそうですが、社会政策は(経済政策
とともに)ひとえに「存在とその可能性」に関するものですから、社会変動を秩序づけ
る選択をその内に含んでいるのです。
研究上のひとつの手助けとして、社会政策の三つの対照的なモデルないし機能を検討
することは、有益だと思います。モデル構築の目的は、建物の構造に魅入ることではな
く、私たちの経済社会生活の一定側面に関する無秩序で混乱した事実やシステムや選択
の中に、なんらかの秩序を見出すための助力を得ることにあります。暫定的なものです
が、その三つのモデルとは次のようなものです。
モデルA 社会政策の残余的福祉モデル
The Residual Welfare Model of Social Policy
この定式化は、個人が自分のニーズを正当に満たすには、
「自然」
(ないし社会的に所
与)の経路が二つあるという前提に基づいています。その経路とは、私的市場と家族で
す。これらの経路が故障したときだけ一時的に社会福祉制度が発動されるのです。ピー
コック教授の「福祉国家の真の目的は、それに頼らずにどうやって生きていくか人民に
教えることである」<14>という発言は、このモデルの福祉に当てはまります。このモ
デルの理論的な基盤は、初期のイギリス救貧法まで遡れますし、スペンサーやラドクリ
フ−ブラウンのような社会学者や、フリードマンやハイエクのような経済学者、そして、
ロンドン経済問題研究所の創始者とその追従者たちが推進した有機体的−機械的−生
物学的社会構成論者に支持されているものです。
モデルB 社会政策の産業的業績−成果モデル
The Industrial Achievement-Performance Model of Social Policy
このモデルは、社会福祉制度に経済の補助としての重要な役割を組み込んだものです。
つまり、社会的ニーズは、能力、就労の成果及び生産性を基礎として充足されるべき、
という立場です。このモデルは、誘因、努力と報酬、階級や集団への忠誠心の形成とい
ったことに関心を寄せる、各種の経済理論ないし心理学理論から導かれており、これま
で「侍女モデル」と表現されてきたものです。
モデルC 社会政策の制度的再分配モデル
The Institutional Redistributive Model of Social Policy
このモデルでは、社会福祉は、社会に統合された主要な制度であり、ニーズ原則にの
っとって普遍的サービスを市場の外側で提供するもの、とみなされます。その基盤の一
部に、社会変動と経済システムの相乗効果に関する理論があり、加えて、社会的平等の
原理が基礎になっています。このモデルは、基本的には、常設の資源再分配システムを
組み込んだものです。
上記三つのモデルは、もちろん、経済学者、哲学者、政治学者及び社会学者の諸理論
や諸理念をもとに、非常に大まかにとりまとめたものに過ぎませんから、もっと精緻な
形でさまざまな変種を開発することができるでしょう。しかし、このように大まかなも
のであっても、社会政策の目的と手段についてもたれている考え方の主な違いをみわけ
るのに役立ちます。三つのモデルのどれにも、現代社会における労働倫理と家族制度に
関す考察が含まれています。
社会政策の三つの対照的なモデルは、選択を行う上での異なる規準を代表しているの
です。次章では、モデルAのもつ意味合いを検討し、他のモデルについては後の各章で
検討することにいたします。
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