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吉野鐵太郎文書について

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吉野鐵太郎文書について
資料紹介 吉野鐵太郎文書について
資料紹介
吉野鐵太郎文書について
七飯町歴史館 学芸員 山田 央
はじめに
当館所蔵資料の中に、
「吉野鐵太郎文書」と呼ばれるものがある。1999 年に寄贈されたもので、故高橋秀雄
氏が所蔵していたものである。文書は、縦書き 26 行の原稿用紙 19 枚からなり、その1枚目右隅には、後に書
かれたと考えられる「吉野鉄太郎筆」という青色の文字が残されている。この文書を所蔵していた高橋氏は、
�
大中山小学校教頭や大中山中学校教諭を努めていた人で、昭和 26 年に発行された「大中山村誌(稿)」の著者
でもある。どういった経緯でこの文書を入手したかはわからないが、七飯町の明治期の様子を垣間見る大変貴重
な資料であることには間違いない。そのため、平成 13 年度の学芸協力調査として、八雲町在住の幸村恒男氏に
翻刻作業を依頼していた。
ここでは、資料紹介として、その成果を紙面に掲載する。
吉野鐵太郎という人物
文書を記した吉野鐵太郎という人物は、天保2年に江戸巣鴨に庭師であった父勘太郎の三男として生まれる。
当時七重村にあった幕府直轄の薬草園の管理を任せられていた箱館奉行頭取栗本鋤雲の誘いもあってか、安政5
年4月�����������������������������������������������
(戸籍上では)����������������������������������������
に七重村へ移住、御薬園の園丁長を任せられる。文久3年、栗本が江戸に戻った後も七重
村に残り御薬園の経営に努めた。明治2年に土地の租借事件を起こす R・ガルトネルが、農場開設地の選定のた
め、周辺視察に動き回っていた際に、御薬園職員として鐵太郎が対応していたことが、北海道大学付属図書館所
蔵の「七重村開墾中日記」の記述からわかっている。
また、ガルトネルから取り戻した土地を母体に設置された開拓使の試験農場「七重官園」でも、園芸に関する
手腕を買われ開拓使雇となり尽力、在勤中には個人農園を経営する等、その手腕を如何なく発揮した。明治9年
に��������������������������������������������������
明治天皇の七重官園巡幸を記念して植樹した松などは、鐵太郎が御薬園時代から育ててきた苗木であり、また、
植樹に際しても鐵太郎が中心となったといわれる。植栽された赤松並木は�����������������
現在���������������
「赤松街道」として七飯町のシン
ボル的な存在となっている。
職を辞してからも鐵太郎は、
庭師としての能力を振るい別荘等の庭園を造園(現在の大和静観園など)したり、
個人農園「親子園」で国内外の果樹生産にも������������������������������
取り組んだ�������������������������
。江戸末期から明治にかけ園芸・農業分野の第一線で活
躍した人物である。日本史的には知られることはないだろうが、七重村御薬園・ガルトネル農場・七重官園すべ
てに関わっていたことを考えると、七飯町の歴史にとってとても重要な人物であったと考える。
吉野鐵太郎文書について
文書は、
「親子園之沿革並ニ園名辨」と「当家養蚕顛末」「果樹繁殖及手入表」「明治二十五年札幌ヘ開設ノ北
海道物産共進会ヘ出品物解説取調書草稿」の章からなる。これらは主に明治時代に記されたものである。簡単に
それぞれの概要をまとめる。
「親子園之沿革並ニ園名辨」
明治 27 年に書かれたと考えられる文書で、その内容は、七重村御薬園創設の経緯、鐵太郎が水無地区(現在
の桜町と考えられる)に移住し、御薬園のほか個人で農業を行っていた時に栽培していた品種、後に大中山村で
新果樹園「親子園」を開設したこと、栗本鋤雲にその果樹園の命名を依頼したこと、親子園で栽培していた果樹
の種類など、
「親子園」開設にいたるまでの経緯とこれまで栽培してきたものが詳しく記されている。特筆すべ
28
資料紹介 吉野鐵太郎文書について
きは、R・ガルトネルが持ち込んだリンゴを栽培し、明治8年にこれが結実したこと、このリンゴは早熟種と中
熟種がありそれぞれ「ガルトの早熟」
「ガルトの晩熟」と呼ばれていたことが記されているほか、多種多様な種
類の果樹を栽培していたこと、リンゴにおいては横浜や東京に出荷していたことなど、当時の七重村で行われて
いた果樹栽培の一端を知る上で貴重な資料といえる。
「当家養蚕顛末」
明治 16 年に書かれたと考えられる文書で、安政3(1856)年~明治 15 年(1882)にいたるまでの吉野家
で行われてきた養蚕事業について記されたものである。特筆すべきは、文久3(1863)年に、函館在留のフラ
ンス人へ卵紙 50 枚を売却しており、これが本道産の養蚕紙輸出の始まりであると記されていることである。そ
の後も吉野家で生産される紙はたびたび輸出されており、������������������������
七飯町における養蚕業の歴史を知る上でも、重要な資
料である。
「果樹繁殖及入手表」
明治 27 年3月に調査し書かれたもので、桜桃・桃・梨・マルメロ・杏・李・栗・梅・リンゴ・ブドウといっ
た果樹を栽培するにあたり、接木における台木の種類や施行時期、剪定の時期などが一覧となっている。
「明治二十五年札幌ヘ開設ノ北海道物産共進会ヘ出品物解説取調書草稿」
明治 25 年に書かれたと考えられる。北海道物産共進会へ出品するリンゴをはじめ、各果樹や杉苗・松苗にお
ける播種ならびに収穫、栽培・培養方法などを記したもの����
である�
。
親子園之沿革並ニ園名辨
吉野鐵太郎
当家養蚕顛末
29
資料紹介 吉野鐵太郎文書について
親子園之沿革並ニ園名弁
安政三
丙辰年、函館奉行所ニ於テ七重村ノ北境城山村ニ接
スル地ヲトシ、凡拾弐万余坪ヲ画シ荊棘ヲ拓キテ新園ヲ創
設セラル、名ケテ御薬園(
)ト云フ、薬用
世我家ヲ呼ンテ御薬園ト云フ、蓋シ此時ニ始マル
草木ヲ培養シ函館病院ノ需用ニ充テ、松・杉・楓・欅・漆・三椏
等ノ苗木ヲ仕立、用地ヘ植付、且ツ各種ノ穀菜ヲ試培シ、本道
注
(
)
1
所生ノ草木及竒花珍草ヲ集メ庭園ヲ設ケ、恰モ現今ノ公園ニ
注
(
…
)
)ノ肺肝ヨリ出テタリ、鉄太郎ハ同年十一月同園
匏庵又鯤ト号ス、今ノ鋤雲翁
2
瑞見氏(
)
肺 注 竒
注
肝
2 花 1
心
め
の
ず
奥
ら
底
し
い
花
(
擬シ函館奉行其他在留官吏出遊ノ場所タリ、此計画専ラ栗
(
)
…
出役ヲ命セラレ同所ヘ移住、明治ノ初年ニ至ル迄看守任ヲ帯ヘリ、
安政度ヨリ元治・慶応ノ頃ニ至ル迄薬園看守ノ暇経営セシ事
業中重ナルモノヲ挙クレハ、養蚕及穀菜栽培ニシテ又炭竈(
)
竈数二十ケ以上ニ及フ
ヲ築キテ造灰ノ業ヲ為セリ、而テ蔬菜及炭ハ函館及五稜
廓地方在留官吏其他ノ需用ニ応ス、運搬ハ最初久根別川ヘ小
舟ヲ浮ヘ棹シテ流下シ、帰路ハ肥料ヲ積載シテ曳船セルモ、此策永
ク行ハレスシテ止ム、後牛馬ノ背ニ倚テ搬出ス、
(
)
牛ハ一時七八頭、馬ハ始終三十頭内外ヲ畜養セリ
養蚕シテ得タル繭ハ真綿トシ、又ハ糸ニ採リテ織物トシ、或ハ卵紙ニ製シ
テ外人ニ売捌キタリ(
)
、明治五壬申年九月、旧薬園ノ
別紙当家養蚕ノ顚末参考
内札幌本道東ノ方今ノ七飯村水無七十八番地(
松・杉林及曩キニ孛国人「アールガルト子ル」氏ヘ割キテ貸与シタル
)壱万三千余坪ヲ払下
部分ニシテ、明治三年、開拓使七重開墾場ノ管理ニ帰シタル土地ヲ除キ、従来居住セシ家宅周囲ノ地
完ク所有ニ属セリ、尓来引続キ農桑ノ傍ラ自己ノ嗜好ニ任セ菓樹並
ニ諸般ノ花卉盆栽ヲ愛養セリ、当時在来ノ菓樹ハ和種林檎十
)
)越後梨弐本(
所持ノ苹果ヲ接キタルモノ、早熟二本、中熟三本ナリ、是ヲガルト早熟、ガルト晩熟ト称ス
(
孛国ガルト子ル氏
)
明治三年植ニシテ晩熟貯蔵ニ耐フ
等ニシテ林檎・巴旦杏・李ノ三種ハ文久ノ未年ヨリ結菓アリ、林檎ハ明治
)
…
西
洋
リ
ン
ゴ
の
注
(
)、苹果五本(
同上
苹 注
果 3
)
、同大実李五本(
同上
こ
と
)
、同巴旦杏十本(
安政五年、江戸ヨリ移植
3
本(
十三年ニ至リ舶来種ノ美菓ヲ得ルト、樹勢衰徴ヲ呈シ結実寡キトニ
ヨリ悉ク掘除ケリ、外二種ハ現今ニ至ルモ一年或ハ二年ヲ隔テ多少ノ結
実アリ、同六年、越後梨十六顆結実セリ、同八年、ガルト種苹果実ヲ結ヘリ、
明治六年後順次同地ヘ植付タルモノ、菓樹ニテハ苹果弐百本、梨
六百
和洋
本、李廿五本、杏三十本、葡萄壱千本、巴旦杏十本、梅二十本、俵茱萸
五十本、桜桃二十本、桃十本、グースベリー弐百本、カーレンツ百五十本等ナリ、
林木ニテハ杉弐千本、桧壱千本、松四百本、桐五百本、欅二百本、桑八百本、
注
(
)
5
)
4
注
(
栗八百本、楢五百本、月桂四百本、白楊樹弐百本、赤楊樹五百本、漆三百
子園説ヲ撰ミ書シテ寄セラル、則チ左ノ如シ
附言、此地明治廿三年十月中売却ス、現今函館区舩見町平出喜三郎氏所有
菓樹園是ナリ
親子園説
余之在箱館以吉野生能諳草木性賦薦為七重村官園
丁長有年後余去生留忽々三十余年于此時憶松杉
拱把欝作森林頃者致書謝且請曰維新後更培洋菓山
林田畝殆至十町年々秋獲養衆口而有余唯御薬園
廃既久而遠近仍呼旧名私心不能安願有以誨之余於是
30
(
)
赤 注 白 注
楊
楊
樹 5 樹 4
ハ
ド ハ
ン
ロ コ
ノ
ノ ヤ
キ
キ ナ
ギ
・
本等ナリ、明治廿一年、鋤雲翁ニ請フテ園名ヲ求ム、同十一月ニ至リ親
…
(
)
…
資料紹介 吉野鐵太郎文書について
授以親子園字且作之説曰園主人於草木呵煦愛育固
如慈父於赤子而草木成材結菓以養園主人亦猶孝子順
孫致報於所生則改御薬為親子何不可之有况親子御
薬邦音相近々音塡字以便称呼様似樺太其類殊多乎
明治二十一年
天長節
六十七翁
栗本鋤雲撰 并書
七飯村字水無十七番地菓樹園五町七反壱畝九歩ハ明治九年開
墾、同十九年迄移植セル菓樹及風防樹(
)等左ノ如シ、苹果
二種共自園培養苗
弐百三十七本、梨六十本、葡萄八百本、桃十三本桜桃弐拾本、李三
注
(
)
6
十本、榲桲三十本、グースベリー五百本、カーレンツ弐百本、桧三千本、杉千
五百本、松弐千本、落葉松六百本、栗弐千本、椴百本、欅百本、楢四百
)
榲 注
桲
6
(
附言、此地明治廿三年一月中売却ス、現今函館区舩見町和田元右衛門氏所有
マ
ル
メ
ロ
の
本、白楊樹三百本、赤楊樹三百本等ナリ
オ
ツ
ボ
ツ
・
…
某樹園是ナリ
明治廿三年三月中、亀田郡大中山村字中野三百七十九番地、乙開墾地
拾六町六反六畝弐歩ヲ購買シ荒蕪ヲ開キテ一ノ新菓樹園ヲ
造営ス、而シテ同年中、将来ノ事業設計便宜上七重菓樹園ヲ
(
)売却シ、更ニ此地ヲ以テ本拠トシ園名尚旧ニ
前記字水無七十八番地ノ内、甲乙丙同字十七番地
因ル、其注意左ニ弁ス
親子園々名弁
天地アリテ而シテ万物生ス、茫々タル覆載ノ間森羅万象之レヲ育
シ、之ヲ成スハ実ニ天ト地ト相待ツテ然ルナリ、万物親アリテ而シテ
子生ス、苟モ覆載間ニ生ヲ得ルモノ尽ク親子ノ相関セサルモノナ
シ、子ノ成育スル所以ノモノハ親アルカ為メノミ、万物已ニ此理ニ於
テ成育スルモノトセハ此関鏈何レノ日カ絶ツコトヲ得ンヤ、我家草
木ヲ成育スルヲ以テ業トナス、茲ニ年アリ、嘗テ栗本鋤雲翁
ニ請フテ園名ヲ求ム、翁即チ筆ヲ取ツテ書シテ曰ク、親子園
ト、而シテ又タ之レカ説ヲ作ル、我親子翁カ命名ヲ悦ヒ、且ツ説ノ過
当ナルニ忸怩スト雖、希クハ翁ノ説ノ如ク草木ヲ成育シテ以テ世ヲ
益スルノ一端トナサントセリ、嘗テ七重ニ在リシヲ大中山村ニ移シ親
子相共ニ愈々精ヲ瘁シ力ヲ尽シテ朝ニ之レニ培カヒ夕ニ之レニ灌
キ聊カ其親子園ノ名ニ背カサランコトヲ期シタルニ其効空シカ
ラス、漸ク世上ノ賛評ヲ得ルニ至レリ、万物已ニ親子ノ関鏈アリテ
成育ス、今ヤ我園ハ親子相共ニシテ草木ヲ成育シ其草木ヲ
成育スルノ情、亦親子ト異ナルナキヲ欲ス、希クハ其園名ニ対シテ
違フ処ナケン
明治廿七年三月
親
吉野鉄太郎
子
同
文吉
現今所有地々籍
渡島国亀田郡七飯村字水無七十八番地丁
同郡藤城村字古道四番
一宅地三畝拾歩
一畑八反五畝廿八歩(穀圃)
同郡七飯村字鷹ノ巣四番
同郡七飯村字鷹ノ巣五番甲乙
一宅地壱反壱畝廿弐歩
一畑三町三反九畝弐歩(
)
樹苗蔬菜園
31
資料紹介 吉野鐵太郎文書について
同郡大中山村字中野三百七十九番地乙
一畑拾六町六反六畝弐歩(
同郡大中山村字大川端
) 一原野二千二百五十坪(
菓樹園樹苗穀物蔬菜園
同郡下湯川村字有場野
一山林弐拾八町壱反壱畝十四歩
昨廿六年中、山林造営成功済ニテ払下出願中
同郡同村字湯ノ岱
一原野五万六千坪
造林目的ヲ以テ貸下許可
〆
生産物並ニ製造品ニシテ博覧会共進会其他ヘ
出品受賞ノ分、左ノ如シ
一弐等賞
金三円
小麦
一五等賞
金五十銭
大麦
一三等賞
金壱円五十銭
白大豆
一三等賞
同
黒大豆
一壱等賞
金五円
乾桑葉
右明治十二年、函館ヘ開設ノ農業仮博覧会ニ於テ受賞ノ分
一三等賞
大麦
一三等賞
蕎麦
独逸外三種
一三等賞
大豆
一壱等賞
葡萄 洋 種
一褒賞
薯蕷
一三等賞
百合
一三等賞
茶縞八丈
右明治十四年、函館ヘ開設ノ第二回農業仮博覧会ニ於テ受賞
ノ分
一褒状
小麦
一褒状
葡萄
右明治十五年、札幌ヘ開設ノ第三回農業仮博覧会ニ於テ受賞ノ分
一褒状
杉苗
右明治十六年、函館ヘ開設ノ北海道物産共進会ニ於テ受賞ノ分
一五等褒賞
麦
右明治十五年、東京へ開設ノ米麦葉煙草菜種共進会ニ於テ
一三等賞
苹果苗
右明治十八年、根室県ヘ開設ノ北海道物産共進会ニ於テ
一三等賞
小麦
一三等賞
苹果
右明治十九年、函館県ヘ開設ノ北海道物産共進会ニ於テ
一褒状
苹果
右明治廿三年、東京ヘ開設ノ第三回内国勧業博覧会ニ於テ
一壱等賞
杉苗
一三等賞
松苗
一三等賞
苹果苗
右明治廿四年十月、亀田外廿五ヶ村連合農産品評会ニ於テ
一三等賞
杉苗
一三等賞
赤松苗
右明治廿五年、札幌ヘ開設ノ北海道物産共進会ニ於テ
函館県令ヨリ賞与ノ辞令写
吉野鉄太郎
安政三年、当道ヘ移住尓来三十年ノ久シキ養蚕紡ノ業ニ勉
励シ、且養樹ニ尽力候段他ノ亀鑑トモ相成奇特ノ事ニ候、依
テ為其賞金弐円五十銭下賜候事
明治十八年十二月廿八日
函館県令従五位勲四等 時任為基
札幌道庁ヨリ賞与ノ辞令写
吉野鉄太郎
32
)
造林地目的ヲ以テ貸下許可
資料紹介 吉野鐵太郎文書について
一弐頭曳再墾犁
壱台
一弐頭牽々木
壱頭分
一麻馬具
壱頭分
一枝手綱
壱組
一スペート
壱挺
一ブレードホー
壱挺
一ポテートホーク
壱挺
一マニヤホーク
壱挺
一レーキ
壱挺
農業励精ニ付、為其賞下与ス
明治廿五年一月廿九日
北海道庁
現今栽培セル菓樹ノ種類本数並ニ名称
苹果四十種
壱千九十本
紅魁
レットアストラカン
、○十五号
ダチェス、オフオールデンボルグ
紅小鞠十本、○五十九号
二十本、○十四号
中成子
十本、○三十号
ツウインチアウンス
五十本、○七十一号
新ノ十二号又幹成
○十六号
園仕立苗ナリ
四十本、○
生娘三十本、
二十本、○六十一号
ガルト晩熟十本、○二十六号
ワジナー 菊形亦昏霞
十本、○二十二号
○六号
五十本、
満紅
甘四十本、○二十号
四十本、○二十九号
ドミニー
二十本、○壱号
九号
ロールスゼ子ツト
五十本、
レデイススウイト 当地方称松井亦常盤紅
二十本、○二十八号
レツトカナダ 当地方称鶯鳥
ニユウタウンピピン
紅斜子二十本、
コッグスウエル
ロームビユーチ 当地方称秋縞
当地方称柳亦多
三号
フオールビビン 当地方称緑王
○三十三号
三十本、○三十五号
ホワイトピピン
此内四本ハ札幌水原寅蔵ヨリ寄贈、余ハ自
内三本ハ廿六年、初メテ二三七顆ト結実アリ、但シ植付ヨリ満四年ナリ
オートレー
九号
当地方称キヤリホルニヤ之十二号
雪光
グラウエンスタイン
原名不詳
アーリーストロベリー
フワミユース
アレキサンダー 当地方称紅紋
○十二号
○七号
○六十号
当地方称五十七号、亦大和錦
サンマークウイン
六十本、○三十八号
亦稲ノ花
縞魁
二
スウイトジュン
当地方称黄金花
?
十本、○十七号
三十本、○
当地方称黄金丸
当地方称赤五十七号、亦旭丸
?
五十七号
オーリーハーウエスト
?
ガルト早熟三十本、○六十七号
原名不詳
緑星二十本、○八号ロ
トールマンススウイト
金鐘三十本、
エローベルフラー
赤龍五十本、○
バールドウイン
三十本、○
ワクスブリーラセクト 当地方称蝦夷衣
青玉二十本、○阿部ノ七号 蝦夷錦二十本、○四十
晩成子
百本、
当地方称茶ボロ亦霜ノ花
内弐本廿六年初メテ結実壱顆三顆、但シ満四年
五本、○シヨクレー十本、○ホメニー十五本、○
レツトジエン
メナジユール十本、
○田村号
弐本、○
以上五種ハ農科大学内、内山平八氏寄贈
恒吉号
三本、○麻小屋前
弐本、○金森号
弐本、
○中村号
寄贈
十本、○
レット、ウインターバーメン
是ハ函館区末広町、渡辺熊四郎氏
旧亀田郡長、中村修氏寄贈、廿六年十九顆結実アリ、菓ハ縞魁ニ似テ稍少ナリ、味ハ魁ニ優ル
桜桃五種
百本
壱号
十五本、○七号
十五本、○八号
十五本、○九号
十五本、
十七号
四十本、
内六本ハ廿六年初テ結実セリ、多キハ三十粒、寡キハ五粒但シ、満四年
梨八種六百三十本
粟雪
三百本、
玉水
百本、
内三十本ハ廿三年春、四年以上ノ木ヲ移植シタルヲ以テ同年ヨリ多少ノ結実アリ
○越後
五十本、○玉子
二十本、○亀
五十
内二十本同上
本、○洋種三号
五十本、洋種十二号
五十本、洋種ガルト早熟
十本、
洋種梨ハ栽培方困難ナリ
葡萄四種五百本
四号
五十本、○十二号
ダイアナ
五十本、○二十七号
フロリフイツク
コンコード
三百五十本、○十五号ハ
五十本、
テラウエーヤ
ートフオード
何レモ廿五年ヨリ結実アリ、四種中ダイアナ
稍モスレバ成熟宜シカラス、他ノ三種ハ何レモ適応ス
33
資料紹介 吉野鐵太郎文書について
梅二種
五十本、豊後
三十本、○大湊
二十本
桃三種
五十本
洋種弐号
二十本、○水密
二十本、○油
十本、
巴旦杏
二十本、○洋種杏
李二種
二十本、
十五株、○洋種原名不詳李
二十本、○
原名不詳
○榲桲
赤十本
白十本
三十株、○ユスラ梅
二十本、
原名不詳
和種大実
廿五年ヨリ結実セリ
○グーズベリー
木仕立苗ニシテ七八年乃至十年ノモノヲ移植セルヲ以テ廿四年ヨリ年々結実セリ
二種二千二十株
○カーレンツ
米国種二千株
独逸種二十株
大苗ヲ移植シタルヲ以テ廿四年ヨリ結実アリ
注
(
米国種赤白二種
)
7
○俵茱萸挿
三種共栽培困難ナリ
五百株同上
○丹波栗
五百本、胡桃
百本
)
胡
桃 注
7
ク
ル
ミ
の
こ
と
(
[欄外記述]
…
李赤白十本ノ下(何レモ七八年ノ木ヲ移植シタレバ廿四年ヨリ結実アリ)ヲ脱ス
以上各種中、他ノ寄贈ニ罹ルモノ二三ヲ除キ他ハ悉皆自園養成ノ苗木
ニシテ、明治廿三年以来逐次植付ケタルモノナリ
国内風防樹種本数 并ニ庭木類
杉
三千本、○赤松
弐千本、○椴
千本、○落葉松
弐千本、○
明石屋
五百本、○谷地月桂
二千本、○白楊樹
五百本、○漆
弐百本、○生垣李
七千本、
以上九種壱万八千二百本ハ廿三年ヨリ漸次移植セルモノナリ
楢
七百本、○赤楊樹
二千本、以上二種ハ在来樹ナリ
庭園植木類各種壱万余本
苗木培養ノ実況
苗木培養ノ実況ハ別紙北海道物産共進会出品解説書
原稿并ニ過般他ノ依嘱ニ応シ取調タル果樹蕃殖手入表ヲ
代用シ爰ニ略ス
現今果実ノ価格并ニ販路
同上 ○李
○梨洋種
壱斤二銭乃至五銭
○梅
十銭ニ付、二十顆乃至三十顆
注
(
○グーズベリー 同上 茱萸
同三銭乃至四銭
壱斤十銭乃至
○杏○巴旦杏
壱升ニ付、四銭乃至五銭
)
壱升四銭乃至五銭等ナリ
販路、苹果ハ近年多少横浜及東京等ヘ出荷アリ、他ハ概ネ函館市街
ノ需要ニ充ツルモノゝ如シ
34
(
)
茱
萸 注
8
シ
ュ
ユ
・
○同和種
十二銭、産出品至テ寡ナシ
○葡萄
同十五銭
…
グ
ミ
の
こ
と
○桜桃
壱斤ニ付、三銭乃至八銭
8
苹果
資料紹介 吉野鐵太郎文書について
当家養蚕顛末
一安静三年、江都巣鴨ヨリ本地ニ移住シ、薬草及松・杉其他
ノ草木ヲ栽培蕃殖シ以テ業トス、万延元年、始テ妻イヨ
生家保坂源兵衛所製ノ蚕種少許ヲ請フテ飼育シ、生繭
壱斗五升余ヲ収メ、機織ノ補トス、之レ自家養蚕ノ創トス
一文久元年、自製種箒下シ飼育中異状ナク、加フルニ結繭
極メテ善ク収穫三斗余、一日製絲ニ従事スルノ際、当時産
掛鈴木三右衛門ナル仁、隅々来ツテ所採ノ生糸ヲ見テ大ニ
賛賞シ、且ツ云テ曰、目下産物掛ニ於テ養蚕業ヲ勧誘セ
ントノ議アリ、乞フ結繭ヲ官ニ売上ン事ヲト、由テ自用ノ
外ハ悉ク官ニ上鬻ス、但シ一升価銀七匁五分
一文久二年、自製種弐枚官賜種弐枚ト箒下シ、生長
ノ状態大ニ宜シク蚕児益々増殖シ、其三眠後ニ至ルヤ
更ニ数人ノ助手ヲ傭フニ至レリ、而シテ順候適季飼育宜キヲ
得、所収則チ三石、前例ニ拠リ過半ヲ官ヘ上鬻ス、尓来
意ヲ決シ年ニ豊凶アルモ不屈不撓之レニ従事ス
一文久三年、慣例ニ拠リ自製官賜ノ弐種ヲ飼養ス、始メニ異
状ナク三眠后桑附ノ刻、季候冷気加フルニ本地ニ於テ嫌
忌スル処ノ東風頻リニ起ル故ニ炭火ヲ以テ温度ヲ和シ、其
他養方甚タ勤労スト雖トモ奈何セン、桑葉採取ニ緩慢
ヲ来シ、自然濡葉ヲ与フルニ至リ蚕児漸次減滅シ、僅ニ一石
)
9
(
)
…
フ
ラ
ン
ス
ヒ卵紙ヲ乞フト雖トモ供用紙払底、為ニ判紙七八枚ヲ
仏 注
蘭 9
西
注
(
九斗ヲ収ム、此年函館在留仏蘭西人曽テ自家ヲ訪
重貼シ五十枚ヲ製シテ同人ヘ売却ス、弥レ則本道蚕
)
10
注
(
種外国輸出ノ濫觴トス、但シ一枚三朱
)
…
は
じ
ま
り
の
意
前年仏蘭西ヘ輸出ノ種彼ノ地嘱望スル所ナリ更ニ多
(
濫 注
觴 10
一元治元年、自製種四枚ヲ飼育シテ生繭三石ヲ収ム、
額ノ注文ヲ受ケ所養ノ蚕悉ク卵紙ニ製シ弐百枚ヲ得、
其他ハ同業ヲ奨励シ薄資ナルアレハ金銭ヲ貸与シテ其
業ヲ祐ケ、東奔西走櫛風沐雨ノ周旋ヲナシ四隣ノ養蚕
家ヲシテ悉ク輸出用ニ製造セシムルニ至ル、当今養蚕スル
者枚挙三四、辛フシテ五百枚ヲ売却ス、但シ一枚ノ価金一分弐朱
一慶応元年以来明治弐年ニ至ル五ケ年間、卵紙四枚或
ハ五枚養育シ其差アリト雖トモ毎年三石以上外国輸出
卵紙ヲ製造ス、当時吾製スル処意外ノ聲誉ヲ得、
為メニ奸商等内地ヨリ齎シ、或ハ贋擬シ甚タシキニ至ツテハ
卵紙ノ班欄ニ菜種ヲ貼付シテ巨利ヲ得ントス、是レ吾製
造繁盛ト善良ナル所以ニシテ毫モ意ニ介セスト雖トモ、一ハ
外国ノ信用ヲ害シ、二ハ当地一般ノ声価ヲ汚濁ナスニ由リ
慶応三年、其筋ヨリ蚕卵紙点検ヲ命セラレ函館産物
掛ニ出張セリ、但シ五ケ年相場丑年ハ壱分二朱、寅年二分、
卯年二分、辰年一両、巳年弐分
一明治三年、自製種弐枚ヲ箒下シ生繭一石弐斗余ヲ収
メ、以テ自家ノ用ニ供ス、同七月、養蚕世話掛兼務ヲ命
35
資料紹介 吉野鐵太郎文書について
セラル
一明治四年、自製種三枚官賜種弐枚ヲ箒下シ、生繭三石
三斗ヲ収メ卵紙五百枚ヲ製シ、弐百枚ハ当地ニテ外人ヘ
売却セシモ残余三百枚ハ当時欧国ノ商船横浜ニ投
錨スト聞キ、妻弟ヲシテ彼ノ地ニ齎ラサシム、其至レルヤ
日本全体ノ該商蝟集シ商船ハ欲スル侭ニ購ヒ畢リシ
不幸ニ遭遇シ唯徒労ニ属スル而巳
一明治五年、自製種三枚箒下シ生繭一石七斗余ヲ収
メ以テ織物トス、茲年九月、官ノ勧誘ニ由リ桑苗五
百本ヲ培養ス、右手当トシテ金弐円五拾銭ヲ下賜セラル、同
月、亀田茅部両郡各村桑樹植付及養蚕勧誘ノ為メ
巡回申付ラル
一明治六年及七年共、自製種三枚ヲ飼養シ、生繭一石六斗
余ヲ収穫シ自家機織ノ資トナス、明治七年ニ至リ去ヌル
五年植エル所ノ桑ヨリ百五十貫目摘菜ス
一明治8年、自製種四枚箒下シ生繭三石余ヲ収穫シ、
内弐石七斗、函館支庁ノ買上ル所トナル、其価一升ニ付金弐
拾銭
明治五年植付ノ桑ヨリ弐百貫目摘菜ス
一明治九年、従来ノ慣例ニ拠リ特別試育トシテ其筋ヨリ上野
国佐位郡島村
田嶋武平製造ノ官賜種弐枚及自製
種二枚ヲ飼育ス、生繭三石余ヲ収穫シ製糸販売ス、但シ
壱円ニ付三十匁
一明治拾年、自製種(
)四枚ヲ飼育ス、生繭弐石余
田嶋種
七重試験場ノ所需ニ応シ上鬻ス
但シ、桑葉百五十貫目ヲ摘菜ス、之レ明治五年植フル処ナリ
一明治十一年、自製種四枚ヲ飼育シ、生繭三石三斗ヲ収メ大
野養蚕室ニ上鬻ス、但シ桑葉前年ト同断
一明治十二年、自製種三枚箒下シ生繭一石七斗余ヲ収ム、
売却スル処前年ト略ホ同シ、但シ桑葉三百貫目摘菜ス
一明治十三年、前年ト大差ナシ、同十四年、函館ヘ開設ノ第二回
農業仮博覧会ヘ手織茶縞八丈ヲ出品シテ三等賞ヲ得タリ、
前年ヨリ妻女病褥ニ臥シ少シク快方ニ趣クモ来年霜摘
雨織ノ疲労潮来セル故カ、之レカ従事ニ耐フル能ハス、翌
十五年ニ至リ薬石其効ヲ奏セツ遂ニ瞑目ス、尓来耕
耘繁閙ヲ来シ、加フルニ百事多端蝟蟻トシテ起リ、雨
読晴耕モ為スニ遑ナク江湖ノ喝采モ隔靴掻痒ト
化シ一時中止スルニ至ル、嗟
右自家養蚕経営ノ一班記シテ以テ他曰ノ参考ニ供ス
明治十六年二月
36
資料紹介 吉野鐵太郎文書について
果樹蕃殖及手入表
種
類
切
接
接
時
砧
木
自四月十日
桜
桃
至同廿五日
桜
芽
接
整
砧
接
時
実
播
挿
木
蒔
時
成木年数
挿
時
自十月十五日
自八月五日
自四月十日
至十一月十五日
至同三十日
至同廿五日
自四月十日
成木年数
一乃至二
二乃至三
剪枝時節
四月初旬
至同廿五日
二乃至三
桃
同
桃
同
同
九月中旬
梨
同
梨
同
同
十月中旬
同
榲
桲
同
榲桲
同
同
同
同
同
同
李
同
同
シバ栗
同
杏
李
自四月十五日
至同三十日
同
栗
自四月廿日
梅
自四月十五日
苹
果
葡
萄
至同三十日
至同三十日
同
自四月十日
至同廿日
李
杏
梅
梅
杏
桃
林檎
海棠
野生葡萄
自八月中旬
同
至同下旬
至同下旬
同
自八月五日
自八月中旬
至同廿日
至同下旬
同
自八月五日
自八月中旬
至同三十日
至同下旬
自四月十日
至同廿五日
同
二乃至三
同
同
九月初旬
自十月中旬
同
三乃至四
同
同
同
自四月十日
至同廿五日
二乃至三
同
三乃至四
二乃至三
四月初旬
三乃至四
同
同
自四月十日
至同廿五日
自四月下旬
二乃至三
一乃至二
至五月初旬
同
自十一月中旬
至同下旬
表中、整砧ヲ二期ニ分チシハ春季季節ニ迫マリテ掘株直ニ切接セハ勢力強壮
ノ結果アルヲ以テ、近年重ニ春季ヲ期セリ、然レトモ多数ニシテ時ニ手廻リ兼ヌル
処ヨリ前年中ニモ掘株置ケハナリ(
東京其他本州温暖地ハ必ス前年整砧スルヲ良トスレトモ当道ハ気候ノ然ラシム処カ殆ント反対ナリ、
其例温暖地ハ前年掘株シテ仮植(俗カタス)シ置ケハ翌春季迄ニハ切口ヘ鮮肉生スルモ寒地ハ概ネ然ラス、却テ稍衰弱ヲ来ス憂アリ、殊ニ掘株期後ルゝ程此
)
憂多シ故ニ接木施術ニ際シ、掘ニ従テ接木スルヲ良トス
○実蒔挿木共成木年数ニアルハ芽接ノ二様アリテ自ラ年数ノ異ナレル
ニ因ル、○梨砧ハ近年実生ヲ用ヒ、挿木ヲ行フハ至テ寡ナク、又挿木砧ハ切接ニ而巳
用ユ、○榲桲ハ専ラ挿木ヲシテ養成セリ、○李ハ実生砧木夥多ナルヲ以テ挿木
ヲ行ハス、○栗ハ丹波其他大実良種アレトモ当道ニテハ成熟悪シゝ故ニ専ラ本
道産大実種ヲ実播キシ接木ヲ行ハス、○苹果ハ従来山梨。海棠。梨。
林檎等ノ各種砧木ヲ用ヒ、且ツ挿木モ一時盛ナリシカ、近年ハ林檎実生及
同根伏セ苗ノ外海棠根伏苗小シク交レリ、○葡萄ハ重ニ挿木ニシテ接木
稀ナリ、且ツ経験上接木ハ不得策ト考フ
明治廿七年三月調
37
資料紹介 吉野鐵太郎文書について
明治二十五年、札幌ヘ開設ノ北海道物産共進会ヘ出品
物解説取調書草稿
一苹果
原名ロールゼ子トス方言茶ボロ
晩熟種
産地
渡島国亀田郡七飯村字鷹ノ巣及同郡大中山村字中野
播種反別
壱町六反歩
但シ、接木植出シ並ニ砧木畑等ナリ
蒔植並ニ収穫
砧木ハ晩秋実播キシ、或ハ四月上旬ヨリ中旬根伏セシテ
作レリ、接木ハ春秋二季ニ施シ、春ハ切接四月上旬ヨリ下旬、秋ハ芽接ニシテ八月
ナリ、而シテ七八年前迄ハ総テ春接ナリシモ以降ハ過半秋接ヲ行ヘリ、
培養法砧木養成方ハ二様ニシテ実播キハ晩秋充分熟シタル果実ノ
種子ヲ取リテ直チニ播種シ根伏セハ晩秋掘取ノ苗木ヨリ切取タル根
ヲ凡一握許ニ切リ百本ヲ一把トシテ土中ニ埋メ置キ、翌春ニ至リ畑ニ植出
シテ発芽生育セシム、何レモ春ヨリ秋迄除草五回、施費二回、十一月ニ至リ
掘取リテ苗木ノ大小ヲ分チ、其大ニシテ強壮ナルハ翌年ノ接木砧トシ(芽接用)、
小ナルハ翌々年ノ需用ニ供セリ、切接ハ芽接砧ヨリ稍大ナル砧木ヲ用ヒ、長
十間深サ三四寸ノ溝ヲ掘リ、熟シタル馬肥ヲ敷キテ、壱時凡七八十株ヲ植ヘ
左右ヨリ土ヲ寄セテ接穂ヲ覆ヒ発芽ノ候ヨリ漸々被土ヲ除ク、然レトモ
接口ヲ露出セサルニ止ム、時々発芽生育ト共ニ萌発スル砧芽ヲ缺キ、
且ツ、不断害虫ヲ駆リ除草スル事三四回施肥二回トス、芽接ハ植付置
タル(
)砧木ヘ置接シ、翌春ニ至リ結付タル
畦長十間、畦間弐尺二三寸、壱時樹数百本ヨリ百二十本迄
藁ヲ取除キ接芽点ヨリ凡二三寸ノ上ヨリ鋭利ナル小鎌ヲ以テ切断シ、接
芽ヨリ発達スル新樹ヲ真直ナラシメ、且ツ、風害等ヲ防クニハ其漸ク四五
寸ニ長シタル頃、之ヲ砧木ノ残株ヘ結ヒ付ケ、尺余ニ成長シタル頃残株
ヲ刈伐シ、更ニ杭ヲ建テ縄ヲ張リ藁ニテ結付ケ生長セシム、其他駆害虫
除草施肥等切接ニ異ナル事ナシ
産出総高及価格、明治九年創業以来昨廿四年迄販売総高三万
八千五百五十本・此代価金壱千九百弐拾七円五十銭、本春販売額壱万
五千本・代金七百五十円、昨廿四年秋接苗弐万九千七百本、本春切接苗五
千本、同秋芽接用砧木三万五千本、稚小砧木五万三千本、根伏五万五
千本等ナリ
褒賞、明治十八年十一月、根室県ヘ開設ノ北海道物産共進会ヨリ三等賞ヲ
授与セラレ、同年十二月、安政三年当道移住尓来三拾年ノ久シキ養蚕
紡織ノ業ニ勉励シ、且ツ養樹ニ尽力候段他ノ亀鑑トモ相成、奇特
ノ旨ヲ以テ函館県令ヨリ賞金ヲ下賜セラル、同十九年十月、函館県ヘ
開設ノ北海道物産共進会ヨリ三等賞ヲ授与セラル、同廿四年十月、亀田
外廿五ケ村連合農産品評会ヨリ三等賞ヲ受ケ、同廿五年一月、農業
精励ノ旨ヲ以テ北海道庁ヨリ二頭牽再墾犂外農具八点下賜セ
ラル
審査請求ノ主眼并ニ雑記、菓木苗ハ安政五年自園植付用和種
菓樹(林檎巴旦杏等数種合テ三十五本)ヲ接枝シタルヲ始トシ、販売
ノ目的ヲ以テ着手シタルハ明治九年後ニシテ重ニ洋菓ヲ培セリ、其種
類産出高及価格左ノ如シ(苹果ハ前記ニ審カナルヲ以テ除ク)、和洋梨
合テ弐万六千四百七十本、代金七百九十四円拾銭、桜桃壱万六百七十五本、代
金五百三十三円七十五銭、葡萄四万六千本、代金弐百三十円五十銭、桃八百
七十本、代金四十三円五十銭、グーズベリー壱万五千本、代金百五十円、カーレンツ
38
資料紹介 吉野鐵太郎文書について
七千弐百本、愛金七十弐円、梅弐千三百本、代金百五十円、巴旦杏及和洋
李杏類弐千弐百本、代金六拾六円、榲桲六百六十本、代金拾九円五十銭
等ナリ、販路、苹果ハ宮城山形岩手青森及北海道ニシテ需用益多々ナリ、
梨ハ販路前ニ均シキモ苹果ニ比シ稍劣レリ、葡萄総額四分三ヲ宮城
山形両県ヘ輸送シ他ハ当道ナリ、近年販路壅塞ノ傾向アリ、桜桃及
桃ノ如キモ多少内地ヘ輸出セリ、其他ハ概ネ当道ナリ、以上掲クル処ノ菓樹中、
本道風土ニ適シ将来最多望ナルハ苹果ニシテ梨、桜桃、桃等是ニ亜ク、
葡萄ハ多年各種類ヲ培養実験シタルモ僅々数種ノ外未タ適当ノ
良種類ヲ見ス、苗木蕃殖ハ葡萄、榲桲、カーレンツ、グースベリー、ハ挿木ニシ
テ他ハ何レモ接木ナリ、接方ハ明治十八年前ハ切接ナリシモ以後ハ芽接ヲ合セ
施セリ(
)芽接施行前ハ早春一期限ア
此法、旧七重農工事務所雇員タリシ京都府ノ人山島某氏、同所ニ施行セルヲ以テ当地ノ嚆矢トス
ルノ日数ナレハ需用者ノ多キ供給ヲ満タス能ハス、当業者ノ以テ遺憾トスル
処ナリシモ此法創マリテ以来漸ク望額ニ応スルヲ得、加フルニ左ノ如キ便益
アリ、一接方簡便ナレハ何人ニテモ速ニ熟練ス、一砧木培養ニ長日月ヲ要セス、一切接
ニ比シ人数ヲ要セス、一期内ニ多数接木シ得、一接着セサル芽接砧ハ掘採リテ
再ヒ切接砧トスルヲ得、一季節八月ナレハ四月頃ヨリハ閑隙ナリ、一当道ノ
如キ寒気強キ地ニテハ春接ナレハ前年ニ接枝ヲ切採リテ保護シ置クヲ
良トシ(桜、梅、桃等別ケテ此必要ヲ感ス)
、秋接ハ不然伐採リテ直ニ使用
ス、一従来ノ経験ニヨレハ芽接ハ結実年限稍ヤ早キヲ覚ユ、且ツ其他ノ点ニ
至リテモ経歴善良ニシテ苹果・梨ノ如キハ切接ヨリ五分乃至壱割、桜桃・
梅・桃等ハ二割乃至三割モ多ク成木ス、芽接砧ハ小ナルヲ良シトス(
煙管ノ
「テウ」程
)太キトキハ新樹ノ生長却テ遅鈍ナル而巳ナラス風害等ノ憂
尠ナカラス、実生根伏トモ二年目季節ニ用ヒテ適当ナリ、梨・梅・桃等ハ実
生砧木ヲ用ユ、桜砧ハ予テ大ナル砧木ヲ斜ニ作植シ充分土ヲ覆ヒ置キ、之
ヲ親木トシ該砧ヨリ発芽シ根ヲ生シタルモノヲ毎春缺取リ植出シテ該年
ノ秋接砧ニ供シ、或ハ前年生ノ新枝ニシテ十分発達シテ其木質モ堅固ナル
モノヲ早春挿木シ置、翌春掘採リテ再ヒ他圃ヘ植出シ接用ニ供セリ、芽
接ハ本邦従来普通ニ行ハサリシ為、世人稍モスレハ害悪アルカヲ疑フ、然レトモ
此法欧米ニモ行ハレ、且ツ前八ケ年間ノ実験ニ照シテ明カナリ、尤モ前述之
如ク大砧ニ接キタルハ害(
)アレトモ小木ニ接着シタル苗ハ結実成
桜ノ如キハ最モ戒ムベシ
長ノ早キ点ニ至リテハ切接ニ劣ン事ナク却テ稍ヤ優レルカ如シ、以上ハ数年経
験上ノ卑見ニシテ其当否ハ前途ノ成跡ニ因テ判明スルヲ得
ヘシ
以下略ス
一杉苗
産地
苹果ニ同シ
播種反別
壱町弐反歩
蒔植并ニ収穫
四月下旬或ハ五月上旬種子壱升ニ付、凡拾五坪ヲ定
度トシテ播種シ、三年目秋或ハ四年目春ヲ以テ収穫ノ期トス
培養法
播種畑ハ前年秋季墾到耕耘シ、春季ニ至リ土塊ヲ砕キ
草根等丁寧ニ除去シ、長十間巾二尺五寸ノ平時ヲ作リ、其上ヲ鍬柄ノ底
或ハ平ナル板片(
)ニテ平ラケ、稀薄ノ肥料ヲ施シテ下種シ土
洗足ニテ踏ムモヨシ
箍ニテ土ヲ被ヒ茅簾ニテ日障ヲナシ、発生後日障ヲ高クシ除草スル
事秋季マテ五回乃至六回、七八月ノ交一度稀薄ノ熟糞ヲ施シ翌年
ニ至リ他圃ニ移植ス、但シ五歩ニ付八百本ヨリ千本迄ヲ度トシ植ユ、
39
資料紹介 吉野鐵太郎文書について
但シ除草三回施糞一度、三年目ハ前年ノ侭除草二回ニテ充分成長
シ山野植付用トシテ適当ナル苗トナレリ
産出総高及価格
明治十年ヨリ同廿四年ニ至ル総高四十七万千九百本、
此代価金千四百拾五円七十銭、本春販売額七万八千本、此代価金弐百三十
四円、明ケ三年苗四十三万本、明ケ弐年苗三十五万本アリ
褒賞
前記ニ審カナルヲ以テ略ス
審査請求ノ主眼 並ニ雑記
安政年度、七重村薬園用地(
)
今ノ字水無官林
植付用ノ松・杉仕立方ヲ命セラレ、両種合テ三万余本ヲ養成シタルヲ以テ当
道移住後樹苗培養ノ嚆矢トス、尓来明治五六年ニ至ルノ間、桐・漆其他
本幼種果樹等若干数培養シタルモ僅少ニシテ数フル足ラス、同七年ニ至
リ将来此業ノ必要ニシテ自他ヲ益スル尠カラサルヲ覚リ松・杉・檜三種各
種子三四合、本国東京ニ仰キテ下種シ普通ノ順序ヲ経テ同十年ニ至リ
杉弐千本、松弐千三百本、檜壱千六百本ヲ得タリ、尓後去ル十四年迄比年播種
養成セシモ旧七重官園奉職ノ傍ラ家奴ヲ指揮シ朝夕寸陰ヲ吝ミ自
身モ汗血ヲ絞リ従事セシ結果ニシテ固ヨリ専業ナラサルヲ以テ一ヶ年産
額八九千乃至壱万ニ過サリシ、同十四年後ハ長子家ニアリ、且ツ幸ヒ此業ニ
熱心ナルヲ以テ専心従事セシメ少シク事業拡張ノ途ヲ開キ、同廿三年
末ニ至リ七重育種場ノ廃セラルゝヤ自身モ解職セラレ進退自由ヲ得ル
而已ナラス苗木ノ需用ハ連年非常ニ増加スルノ景況アリ、此ニ至テ聊カ素
志貫徹ノ端緒ヲ開ケリ、今各需用ノ景況及卑見一班ヲ述ヘンニ近年
各自競フテ植樹ニ従事スルヲ以テ年トシテ苗木ノ剰余ヲ見サル而已ナラス
就中、松・杉ノ如キ輓近四五年間ハ満二年ノ苗木ニシテ過事購ヒ去ラルゝノ盛運
ニ向ヘリ、栗・落葉松・椴・檜等是ニ亜ク、是レ蓋シ多少他エ起因スル処アル
可シト雖トモ亦以テ目下人心ノ向フ処ヲ予知スヘシ、而シテ将来多望ニシ
テ且ツ最モ有益ナルハ杉ニ若ハナシ、故ニ数年来専ラ此点ニ向テ設計
セルモ未タ以テ需用ノ央ニ充タス、仍テ本年ヨリ一層多額産出セシム
ルノ目的ヲ以テ客秋採収シタル地取精良種杉八斗弐升、檜同壱斗
五升、松壱斗弐升、椴壱升、其他樅弐升、落葉松壱斗ヲ下種シ、桐・神樹・
明石屋ハ壱万或ハ五千ヲ根伏セリ、李ハ近年境植付用トシテ需用夥
多ナリ、昨秋播種セシモノ七石五斗アリ、以上ハ創業以来ノ沿革略ナリ、
左ニ初年ヨリ養成販売シタル苗木ノ産出額並ニ価格ト所有地内ヘ植
付タル樹種本数等ヲ記シテ審査官閣下ノ劉覧ヲ煩ハサン、苗木産額
及代価、栗三万七千四百本・代金八十七円、桐六千三百本・代金百五十七円五十銭、
椴弐万八千弐百本・代金弐百八十弐円、檜四万九千本・代金百四十七円、落葉松
三万五千本・代金百七十五円、神樹八千八百本・代金弐拾六円四十銭、明石屋
壱万千五百本・代金三十四円五十銭、李六万八千本・代金三百四十円等ナリ、但シ
杉・松ハ各産出、総高ノ部ニ記載シタルヲ以テ爰ニ掲ケス、
(所有地植付樹木数前記ニ審ナルヲ以テ略ス)
一松苗
赤松
産地
杉ニ同シ
播種反別
弐町弐反六畝歩
播種並ニ収穫
培養法
内、六畝歩、本春播種用ニシテ余ハ明ケ四年ヨリ同弐年苗百弐十弐万本植付付畑
杉ニ同シ
同上
産出総高及価格
明治十年ヨリ同廿四年ニ至ル産出総高五十七万本、
此代価金千四百弐拾五円、本春売却苗四拾五万本、此代価近千百弐
拾五円、外明三年苗弐拾七万本、同二年苗五十万本アリ
褒賞
別項ニ記載セルヲ以テ爰ニ略ス
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特別寄稿 七飯町歴史館所蔵の大型石冠について
特別寄稿
七飯町歴史館所蔵の大型石冠について
青森県立郷土館 斉藤 岳
七飯町歴史館では、
「湯の川」と書かれた紙が貼付けられた石冠を所蔵している。歴史館の前身である七飯町
教育資料室の頃に所蔵されていたものであり、函館市湯の川から出土したものと考えられるが、所蔵の経緯、出
土・採集の状況等は不明である。
この石冠は、三角柱形状で縦 10.5 ㎝、横 20.4 ㎝、幅 8.8 ㎝の大型品である.重量は 2140 グラムである。石
冠の中でも大型のものは北陸地方の石鋸形のものに例があるが、これまでの出土例では三角柱状の大型品は極め
て例が少ない。論文で資料集成が行われている北海道・青森県・岩手県の石冠においては 20 ㎝を超えるものは
紹介されていない(斎藤 2001、大泰司 2001、工藤 2004)。また、表裏面および底面に直線的な溝の表現が入
っているが、こうした例も珍しい。重要なものと感じられたので、お願いをして図化・観察を行うこととした。
大型品で 90 度の展開が難しいうえ、成形時等の敲打痕の認識・表現が難しく、作図は容易でなかった。必ずし
も意を尽くせたとはいえないものの、資料紹介の図として一定のレベルに達するものになったと判断したので、
図を掲載することとしたい。
研磨が進んでいる部分の斧部では敲打痕は確認されない。ひび割れが入っているほか、表面が剥落している。
○の部分は黒色に変色している。以上から焼けている可能性がある。
なお、石材は斜里町立知床博物館の合地信生氏の肉眼分析によると、塩基性砂岩・はんれい岩・粗粒玄武岩の
いずれかと考えられるとのことである。
引用・参考文献
斎藤岳 2001「三内丸山遺跡の石冠・三角形状土製品」『特別史跡 三内丸山遺跡 年報-4-』
大泰司統 2001「北海道の石冠—田川賢三氏採集の石冠—」『北海道考古学』第 37 号
阿部勝則 2004「縄文時代中期の三角形石製品について—岩手県内出土事例の検討—」
『紀要』XX Ⅲ (財)岩
手県文化振興事業団埋蔵文化財センター
41
特別寄稿 七飯町歴史館所蔵の大型石冠について
石冠 背面
石冠 側面
42
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