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3 奈良 ・ 平安時代 の 茅野市 中世 の 茅野市
特に茅野市の古墳には優れた 馬具が副葬される例が多いこ とから、朝廷に献上する馬の 生産が盛んであった信濃の国 の牧があったのではないかと いわれています。 は じ き かいゆうとう き わん ノ木遺跡と並び市内では2例 た羽釜が出土しています。梨 発掘調査が行われました。諏 道 沢城下町遺跡は宮川安国 干 寺にあり、杖突峠に向かう国 ひ ざわ が明らかになりつつあります。 しか出土がありません。また、 訪氏の拠点が上原城に移る以 ながみねじょう 集落の北にある長峰状の台地 粘 板 岩 で 作 ら れ た 石 帯︵ 巡 前の、 土師器や灰釉陶器の椀のほ か、カマドにかける鍔のつい にかけて営まれた集落で、合 方︶が出土しています。石帯 初頭にかけて栄えた大町と呼 にあります。 軒の住居址、3軒の掘立 は役人が束帯 装 束のときに ばれたところの一部ではない 平成 年に調査された永明 寺山古墳からは、6本もの直 柱 建 物 跡、 土 坑 墓 1 基 が 発 用いる帯につけたもので、ベ かと考えられています。 ぎんぞうがん 平安時代の集落は、台地の 頂部と南へ下りる斜面に作ら つば 2本の鍔には、銀象嵌︵銀糸 世紀中頃から 世紀 幡坂遺跡は、米沢北大塩 八 の霧ヶ峰から続く山裾のテラ ほったて 世紀 れました。9世紀から 計 そく たい しょう ぞく めに遺跡として把握できてい ス状の台地にあります。小字 ばしら たて もの あと ないことが考えられます。 中世の屋敷跡の存在が予想さ はちまんざか 中世後半の諏訪氏の拠点で ある上原城の城下町は、すで れました。水田により大きく ど こう ぼ で装飾された文様︶が見られ ました。 奈良・平安時代の茅野市 は がま 見されました。ある一時期だ ルトのバックルに変化したと 刀が出土しました。その内の けで途切れてしまう八ヶ岳山 考えられています。 号線の改良工事に伴って 麓の平安時代の集落が多い中 じゅん 茅野市の奈良時代の遺跡の 数は少なく、8遺跡を数える にあって、特異な存在といえ 中世の茅野市 茅野市の中世の遺跡は 箇 所を数えますが、そのうちの 箇所は城跡です。遺跡は沖 積地の宮川前宮周辺と上原に 大きな町が作られますが、小 さな村は八ヶ岳の山麓にまで 広がっています。遺跡の数が 少 な い の は、 近 世 か ら 近 代、 に 市 街 地 化 さ れ て い ま す が、 か しきこう さくへい ち ほう けい たて あな 名が監物屋敷であることから、 けんもつ 作田 上ノ平遺跡は、豊平御 かや にあります。炭化した茅がた 削平されていましたが、掘立 ます。このことから、山麓の 個人住宅の建設などに伴い小 開拓が盛んに行われた様子を 火災にあった住居であること くさん出土していることから、 うかがうことができます。 柱 建 物 跡、 方 形 竪 穴、 墓 坑、 現在の集落と重なっているた 2₅₆ 規模な発掘調査が行われてお 1₅ せき たい にすぎません。これには副葬 ます。 土している古墳を含みます。 この遺跡の数や住居址の数 は、今後の調査で増えていく と考えられますが、遺跡の分 布する範囲は弥生時代から続 く沖積地を出ることはないで しょう。 平安時代になると、遺跡の 数は を超えます。遺跡の分 布は、弥生時代から続く沖積 地に大きな遺跡が広がります が、それだけでなく、規模は 小さいものの八ヶ岳山麓にま ぽう 品として奈良時代の遺物が出 ▲御作田上ノ平遺跡の平安時代の遺物 地下式坑などが多数発見され がわかりました。 で広がっている様子が見られ 13 11 り、古代からの人々の暮らし 0 0 2m 2m ₆₀ 1₈ 梨の木遺跡は、豊平下古田 ▲八幡坂 3 号地下式坑 3 2₅ 1₀₀ 1₀ ▲狐塚古墳まつりに使われた土器 ▲復元された永明寺山古墳