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《井口省吾文書》及び解題 (一) : 日露戦争期の書簡と日記を中心として

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《井口省吾文書》及び解題 (一) : 日露戦争期の書簡と日記を中心として
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《井口省吾文書》及び解題 (一) : 日露戦争期の書簡と日記を中心として
日本政治外交史研究会(Nihon seiji gaikoshi kenkyukai)
慶應義塾大学法学研究会
法學研究 : 法律・政治・社会 (Journal of law, politics, and sociology). Vol.62, No.1 (1989. 1) ,p.83113
Journal Article
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00224504-19890128
-0083
《井口省吾文書>及び解題(11
︽井口省吾文書▽及び解題︵一︶
生れた。幼少より学間に関心が深く、島津漢学塾に学んだ後.
井口省吾は安政二年沼津在上石田の井口幹一郎の次男として
一、井口省吾文書について
日本政治外交史研究会
1日露戦争期の書簡と日記を中心としてi
一、井口省吾文書について
二、﹁井口日誌﹂にみる明治三六年
1、湖月会成立へ
2、対露策にっいて
3、田村次長から児玉次長へ
に無縁で、後に長岡外史らと共に月曜会に入会するのもまた当
明治八年陸軍士官学校に入学した。井口は静岡出身のため藩閥
4、第三期撤兵後
四、書簡
たとみえ、児玉源太郎に対して井口の召還にっいて言及し、川
人材本位の登用を意見した。帰国した山県は憤愚に堪えなかっ
ドイッに留学していた井口は山県一行と面会し、閥族の打破と
二年山県有朋内相が欧州視察の途中ベルリンに立ち寄った際、
れるが、反藩閥意識が依然強く残っていた一例がある。明治二
然の成り行ぎだったかもしれない。その後月曜会は解散させら
三.井口省吾略年譜
1、井口省吾文書目録︵自衛隊板妻駐屯地史料館所蔵︶
2、明治三六∼三八年井口宛書簡の概略
3、明治三六∼三八年井口宛書簡:⋮⋮⋮⋮⋮以上本号
五−﹁日誌﹂;⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮:・⋮⋮⋮以下次号
1.目録
2、﹁明治三六年日誌﹂
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法学研究62巻1号(’89:1)
し後任の寺内正毅と意見が合わず参謀本部に転出した。ここに
その才幹を買われて三四年軍務局軍事課長に抜擢された。しか
日清戦争に第二軍参謀として参加し、児玉が陸相に就任した際、
上操六参謀次長がこれをとりなした逸話が残っている。その後
という陸軍内の敏腕家の就任であった。この交代が参謀本部の
有朋でさえも無念さを表明している。しかし田村の後任は児玉
ならず政府においても知られていたが、その病死に際して山県
誌﹂で判明している点である。田村の逸材ぶりは参謀本部のみ
補され、そして大正元年第一五師団長に就任した。その後朝鮮
上でも重要なポイソトである。
計画と読み合せることが当然必要であるが、部内の動向を探る
であろう。これについては防衛研究所図書館に存在する各作戦
う。第三は,対露作戦計画立案の推移が詳細に把握できること
駐割軍司令官、軍事参議官を歴任し、大正九年八月後備役とな
なお本稿では取り上げなかったが、満州軍総司令部からの個
開戦への動きを促進させた点を過小評価してはならないであろ
った。陸軍生活を引退した井口は郷里の長泉村下土狩に居を置
陸士同期の次長田村恰与造、総務部長井口のライγが確定した。
き、晴耕雨読の日々を送り大正一四年三月三目死去した。享年
存在する。しかし出先満州軍総司令部参謀の﹁日誌﹂は﹁井口
人書簡は、山県有朋、桂太郎、寺内正毅等の各家史料に数多く
日露戦争開戦については、後述するとして、戦後陸大校長に
七一歳であった。井口家は遺品及び各史料を陸上自衛隊板妻基
存しない今日︵﹁大山巌文書﹂は断片的に利用可能である︶、同﹁日
日誌﹂が初めてであり、満州軍総参謀長児玉源太郎の史料が現
地史料館に寄託し、その後﹁日誌﹂は防衛研究所図書館に保存
ているが、﹁日誌﹂は御遺族の了解の下に当研究会が保管して
今日でこそその存在が知られているが、その成立へのプβセス、
立について、その存在を明らかにしている点である。湖月会は
注目される。第一は開戦積極派の集まりといわれた湖月会の成
る上できわめて重要であるとの結論を得.御令孫井口泰平氏の
料﹂も目本陸軍の研究上、特に目露戦争をさらに詳細に研究す
して日露戦争関係の軍人の整理作業を行ってきたが、﹁井口史
さて研究会ではすでに明石元二郎文書、長岡外史文書を整理
から日露戦争研究の促進が期待できよう。
刊予定︶を参照すれば、満州軍と大本営という対局的位置関係
職であった長岡外史の﹃長岡外史関係文書﹄︵吉川弘文館より近
誌﹂の価値はきわめて高いといえよう。また当時参謀本部次長
されることになった。現在書簡類は板妻基地史料館に所蔵され
いる。
ここでは明治三六−三八年の井口宛書簡と明治三六年開戦前
メソバーについては判然としない点もあった。しかし﹁目誌﹂
御了解のもとに、同時期の﹁目誌﹂、書簡の一部を紹介するも
の﹁日誌﹂を紹介するが、特に開戦前の﹁日誌﹂は以下の点で
はその答えを明白にするであろう。第二は、田村次長の死と児
︵1︶ ︵2︶
玉の次長就任で参謀本部内の空気が一変していることが﹁日
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《井口省吾文書>及び解題(1)
ヒ其態度ノ硬軟二従ヒ結局多少ノ利ヲ占メソトスル﹂、第二に、
﹁飽ク迄兵力二訴へ勝敗ヲ賭シ結局ノ目的ヲ貫徹セントスル﹂
手段二依リ此脅喝ヲ為シ以テ対手国︵目本帝国︶ノ為ス所ヲ窺
目的を有しているというものであった。そこで参謀本部として
のである。
優︵慶鷹義塾大学教授︶、波多野勝︵常磐大学助教授︶、黒沢文貴︵東
なお本文書の整理作業に携わった研究会のメンバーは池井
京都立日比谷高校講師︶、斎藤聖二︵茨城キリスト教学園短期大学助教
は﹁外交談判ト兵力二訴フルノ外ナカル可シ﹂という姿勢を確
論に方針が定まったのでなく、あくまで﹁外交談判﹂がその前
定するに至ったわけである。しかしここで留意すべき点は主戦
授︶、櫻井良樹︵麗沢大学講師︶の五名である。
二、﹁井口日誌﹂にみる明治一三ハ年
提になっているという事実である。
ロシアの第二撤兵期に直面し、日本はこの動向を注視していた
明治三六︵一九〇三︶年春より日露関係は風雲急を告げていた。
口は、﹁総長、次長不在二付本部ノ意見ハ断言スルヲ得サレト
った。軍令部からは小田喜代造中佐が出席している.席上井
五月九日借行社にて軍令部側との会合にて井口はその報告を行
では田村参謀本部次長が井口総務部長に対しその調査を命じ、
さて五月上旬・シアの韓国竜岩浦進出の報に接した参謀本部
のである。そのような中で参謀本部は﹁第二撤兵期ノ前後二於
1 湖月会成立へ
︵3︶
ケル露国ノ行動二関スル判断﹂を明らかにしていた。
モ、余一個ノ考ニテハ露国ノ挙動二対シ断然タル決心ヲ採ルハ
ヲ促スノ必要﹂をも主張した。
最モ時宜二通スルコト﹂と述べ、さらに﹁此件二付内閣ノ決心
︵4︶
現象シ来ル﹂とし、さらにロシアによる対清七項目の新要求に
第一部長、萩野少佐、朝久野大尉といった第一部員と共に作成
翌一〇日井口は撤兵問題について上聞書を提出するため松川
スル文治、武断勢力ノ消長二依リ極東二対スル政略ノ一変調ヲ
それはまずロシア政府について、﹁従来露国内二於テ相軋礫
ついて列強の意向を偵察する手段、あるいは不条理な要求を提
し、一一日田村次長に提出した。それをもとに作成された﹁上
示して撤兵を遅延させようというもの、この二つの理由がある
聞﹂が次に掲げるものである。
︵5︶
ことに対して、﹁鴨緑江両岸ノ地ヲ占領シ以テ日本二対スル配
と断定した.またロシアが鴨緑江右岸の森林伐採権を獲得した
ニ東洋ノ平和及帝国前途ノ進運二対シ実二寒心二堪ヘス此際帝国軍
目下満州二於ケル露国ノ行動ハ各方面ヨリ蒐集セル諸情報二徴スル
すれば・シアの目的は﹁東三省ノ占領ヲ永続スルニ在﹂るとの
備ノ充実整頓ヲ箇ルハ焦眉ノ急務ニシテ帝国財政ノ顧慮上漸ヲ以テ
備ヲ準備スルニハ非サル﹂と懸念を示しつつ.以上の状況から
判断を下したのである.つまりロシアは第一に、﹁露国ノ慣用
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法学研究62巻1号(’89:1)
整備セントスル計画二係ルモノノ中特二喫緊ノ部分二就テハ急速整
戸ンドン、京城在勤を経て明治三四︵一九〇一︶年政務局長に就
学法科大学卒業後外務省入り、釜山領事館書記生、上海、仁川、
石井菊次郎 慶応二︵一八六六︶年千葉県に生れる。東京帝国
任。
備ヲ要シ候儀ト被存候。依テ別冊露国行動二関スル判断ヲ具シ謹テ
上聞ス。
治三十六年五月
京を経て明治三三︵一九〇〇︶年電信課長、翌年通商局長。
大学法科大学卒業後外務省に入り、ヨーロッパ在勤後仁川、北
学院卒業後明治二八︵一八九五︶年外務省入省。明治三四︵一九
〇一︶年小村外相の秘書官.
本多熊太郎 明治七︵一八七四︶年和歌山県に生れる。東京法
落合謙太郎 明治三︵一八七三︶年滋賀県に生れる。明治二七
るに至った。誰がイニシアチブをとったか不明であるが、とも
ととなった。この日会する者は種々の史料によれば次のごとく
あれ五月二九日烏森の料亭湖月楼に集会しその善後策を練るこ
︵一八九四︶年東京帝国大学法科大学卒業後外務省に入る。
入省。明治三五︵一九〇二︶年参事官。
︵一八九三︶年高等商業学校卒業後明治二八︵一八九五︶年外務省
海軍・陸軍
坂田重次郎 明治二︵叫八六九︶年島根県に生れる。明治二六
海軍 富岡定恭 八代六郎 上泉徳爾 山下源太郎 秋山真
坂田重次郎
之 財部彪松井健吉
八代六郎 万延元︵一八六〇︶年愛知県に生れる。愛知英語学
田、敷島の各艦長を経て明治三六年軍令部第一局長。
軍兵学寮卒。明治二五︵一八九三︶年海大教官、その後厳島、竜
富岡定恭 安政元︵一八五四︶年長野県に生れる。明治九年海
賭ケテ露国ノ横暴ヲ抑制スルニアラサレハ帝国前途憂フ可キモ
いわゆる湖月会はここに﹁今日ヲ以テ一大決心ヲ為シ戦聞ヲ
ク駐在。明治二八︵一八九五︶年ロシア公使館付武官、明治三四
校を経て明治一〇年海兵卒。明治二三∼二六年ウラジオストッ
外務省
八︵一九〇五︶年一二月ドイッ駐在武官。
︵一九〇一︶年和泉艦長、明治三六︵一九〇三︶年浅間艦長、明治三
ノアリ﹂としてロシアに対する開戦で一致することとなった。
油座円次郎 慶応二︵一八六六︶年福岡に生れる。東京帝国大
以下その主たるメンバーの経歴を紹介する。
︵6︶
日は欠席︶ 堀内文次郎 田中義一 松井石根
陸軍 井口省吾木下宇三郎 福田雅太郎 福島安正︵二九
外務省 山座円次郎 石井菊次郎 本多態太郎 落合謙太郎
であった。
外務省中堅幹部の中の有志グループが対露政策研究のため集ま
このようにして軍首脳がその対策に追われる中、陸海軍及び
参謀総長侯爵大山巌
明
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《井口省吾文書>及び解題(1)
田副長、高砂副長を経て明治三六︵一九〇三︶年軍令部副官、第
八八六︶年海兵卒。明治三一︵一八九八︶年八重山副長、以後千代
上泉徳弥慶応元︵輔八六五︶年山形県に生れる。明治一九︵一
三年参謀本部付、同三五年帰朝、開戦時には大本営参謀。
大卒、同二九年参謀本部第二部員、同三一年ロシア留学、同三
田中義一 元治元︵一八六四︶年長州に生れる。明治二五年陸
三二年より参謀本部第二部長。
退後、明二五年よリシベリア単騎縦断、二八年よりアジア旅行.
主要メソバーを紹介したが、藩閥色はなく、参謀本部、軍令
一局員、明治三七︵一九〇四︶年大本営参謀、翌三八︵一九〇五︶年
山下源太郎 文久三︵一八六三︶年山形県に生れる。米沢中学
が興味深い。
部、外務省の中堅層︵明治第二世代︶を中心に構成されているの
浪速艦長。
を経て明治一六︵一八八三︶年海兵卒。明治三四︵一九〇一︶年軍令
2 対露策について
部第一局員.同三六︵一九〇三︶年軍令部参謀、翌年大本営参謀。
八九〇︶年海兵卒。明治三〇︵一八九七︶年アメリカ留学、同三二
秋山真之 明治元︵一八六八︶年愛媛県に生れる。明治二二︵一
強硬派とよばれる将官の残した史料で現存するのはわずかであ
次に彼らの動向及びその対外論について触れることにする。
では主たるメンバーの対露策を明治三六年を中心に考える。
る。それは湖月会の性格上やむをえない面もあるが、特にここ
︵一八九九︶年帰国、軍務局局員。明治三五︵一九〇一一︶年海大教官。
二︵一八八九︶年海兵卒.同三六︵一九〇三︶年軍令部参謀.
財部彪慶応三︵一八六七︶年に生れる。攻玉社を経て明治二
福田雅太郎慶応二︵扁八六六︶年長崎県に生れる。明治二〇
中は明治三一︵一八九八︶年八月・シア行きの命を受けペテルス
ブルクに着任した.ここでの経験を基礎に﹁随感録﹂なる意見
まずその中で興味深い人物の一人に田中義一が存在する。田
書を作成、提出している。
︵幅八八七︶年陸士卒、同二六︵一八九三︶年陸大卒。明治三三︵一
ストリア公使館付武官となるが、翌年二月第一軍参謀。
明治三四︵一九〇ご年一一月伊藤博文は日露関係打開のため
九〇〇︶年より参謀本部部員、明治三六︵一九〇三︶年一二月オー
︵一八八五︶年陸士卒、明治三三︵一九〇〇︶年より参謀本部副官。
ロシア入りしていた。田中はすでに強硬論を唱えており、そこ
堀内文次郎 文久三︵一八六三︶年長野県に生れる。明治一八
︵一八九七︶年陸士卒、同三四︵一九〇一︶年陸大入学。明治三七
直後本国よりの帰朝命令に接した。これは田中にとり相当のシ
松井石根 明治一一︵一八七八︶年名古屋に生れる。明治三〇
︵一九〇四︶年三月動員下令.同三八︵一九〇五︶年七月第二軍副官。
で伊藤に面会し﹁満韓交換﹂が一時的なものであり、またシベ
︵7︶
リア鉄道完成前に開戦することを強く主張した。ところがその
福島安正 葺永五︵一八五二︶年長野に生れる。大学南校を中
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法学研究62巻1号(’89=1)
に一層切実なるの秋、図らざりき、却て帰朝の命に接せんとは。
ヨックだったようである.う露軍の動静を監視するの必要、更
地にして、敵に最大の苦痛を与うる処たらざる可からず。換言すれ
抑々戦略目標として選定すべき処は、敵国の首府若くは主なる策源
られているが、注意すべき諸点には次のようなものがある。
る西比利亜内地に侵入して.欧露に達するは固より苦痛とを与うべ
将来予期する我が戦略上の目標は、之を何処に求む可きか、暖漠た
が為に、戦略上の機能を失う処たらざるべからず、果して然らば、
ば、此地点を失えば、敵は再び起つ能わざるが、惑は少くとも之れ
当局の真意果して那辺に存するや、了解する能わず。斯の如き
眼前の重大危機を雲煙過眠に励して、空しく帰国の途に就くは、
国家に忠なる所以にあらざれば、断然軍服を脱して西比利亜に
留まり、労働に従事しつつ、一は以て露軍今後の行動を監視し、
一は以て該地に於ける革命運動の促進に努め、身命を賭して報
而してその地点方向は、敵に大なる損害と、大なる苦痛とを与うべ
き処たらざる可からず。必ずや其の目標は近く之れを極東に求め、
き処たらざる可からず。此の目的に合する所のものは他なし、東清
効を期せんと欲す﹂と述べているが、田中の憤然たる気持が察
︵8︶
せられる。田中はこの書面を寺内陸軍大臣、田村第二局長に送
ハルピンを戦略の目標におきつつ戦争の行末に注目している
て、東西の交通を両断するに在り。・⋮・
点はロシア駐在の経験の成果ともいうべきものであろう。しか
鉄道を遮断して、旅順口、大連湾を破壊し、結局ハルピンに進出し
︵10︶
クを出発し、シベリア鉄道経由で帰国した。彼の帰朝報告には、
っている。その後田村少将より尉留の回答が届き、本部と和解
﹁命令書には満州地方の旅行を指定しあらざりしも、東清鉄道
て具現化されている。すなわち﹁参謀本部今日の組織は、決し
し他方このような認識は必然的に参謀本部に対する不満となっ
した後無事任務を終え明治三五︵一九〇二︶年四月ペテルスブル
開通の状況を視察して、その輸送力を考究すると共に、直接関
︵9︶
の状態を概陳すれば、攻勢作戦の方針未だ決定せず、従って其
て各部の統一連繋を保ち、業務の進捗を計る所以にあらず。そ
係ある該地方に於ける露軍の動静を見聞して、将来彼の企図如
何を察知するは該下の急務なりと思惟﹂したと記されている。つ
︵U︶
て、海軍と協調し、各部をして各々適従する処を知らしめ、以
計画も亦完からず﹂と批判し、さらに﹁先ず作戦の方針を定め
まりその主目的は、﹁欧露より派遣する輸送力の効程と、鉄道
工事の進捗程度を視察し且又本邦に於て、未だ着手せられる水
て業務の進捗を講ず⋮⋮蓋し学説理論は事実の必要に勝つ能わ
路の状況をも調査して、対露作戦計画の参考に供せむとする﹂
にあった。さて帰京した田中は参謀本部部員に補せられ、第一
興味深いのは諜報部の設置を進言していることである。これに
ず﹂と本部組織にまで言及しその活性化を促していた。最後に
よって満州全域の動向を事前を察知できることに大きなメリッ
︵12︶
き研究を重ねその成果を﹁随感録﹂として明治三六︵一九〇三︶
部長松川大佐の下でロシア班長となった。そして対露問題につ
年二月提出した。書中はほとんど対露作戦に関する部分で占め
88
《井口省吾文書>及び解題(n
このように田中にみられるような対露強硬への動きは、参謀
トがあるとしている。
タリ我若之ヲ占領スルトキハ満州ノ占領ヲ確実ニスルト同時二
然ルニ恰爾賓ハ東清鉄道路中東西ノ連絡点ニシテ要枢ノ戦略点
ルモ之ヲ追騒セソカ為深ク西比利亜内地二侵入スルハ不可ナリ
ようである。事実井口自身四月から数度意見書を提出していた
本部上層部においてもいまだ全面的に肯定されてはいなかった
浦塩港ノ死命ヲ制スヘシ故二是非トモ恰爾賓マテハ前進シテ此
地ヲ占領セサルヘカラス﹂と述べていた。
︵17︶
日露戦争は北満州で両軍が対峙する形で終戦をむかえるが、
がこれについて、﹁四月以後已丘二回二及フモ未タ決セラレス
廟堂ノ諸官亦冷然タルカ如シ億﹂とその歯がゆさを表明してい
けである.井口は以下のごとく結論づけている。
参謀本部ではすでに当初の戦略目的をある程度認知していたわ
︵13︶
る。そのような中六月八日参謀本部首脳会議が開かれた。出席
三、万一談判破レ平和ノ手段ヲ以テ露国力我要求二応セサルトキハ
ノ談判ヲ開カサルヘカラス。
得サルヘカラス英米二国共同ヲ肯セサレハ帝国ハ単独ニテモ公然
向テ公然撤兵ヲ要求シ且極東永遠ノ平和二対シテ確実ナル保証ヲ
二、帝国将来ノ危害ヲ除ク為ニハ帝国ハ英米二国ト共同シテ露国二
リ不問二措クヘカラス。
一、露国満州未撤兵ハ帝国将来ノ為寒心スヘキ結果ヲ生スヘキニ依
者は井口省吾、福島安正、松川敏胤、大島健一及び大山総長、
田村参謀本部次長である。﹁井口日誌﹂によると、各部長は
︵14︶
﹁一同兵力二訴ヘテモ露国二対シ強硬ノ決心ヲ在ルヘキ﹂を述
サレ﹂、さらに田村次長は終始無言だったようである.席上井
べたにもかかわらず、大山総長は﹁之二対シテ反対ノ意見ヲ漏
口は、﹁満州二於ケル露国ノ行動二対シ帝国ノ取ル可キ処置二
︵15︶
関スル意見﹂を開陳している。ここではロシアの対外的膨張は
関係、西比利亜鉄道ノ未完全、日英同盟ノ存立、清国民ノ敵憔心
帝国ハ兵力二訴ヘテモ目的貫徹セサルヘカラス之力為彼我兵力ノ
外二駆逐シ満州ヲ開放シテ各国ノ互市場トシ以テ薙二各国利害
ヒ得ヘカラス。
等今日ヲ以テ最好時機トシテ比好時機ハ今日ヲ逸シテハ決シテ再
従来からすれば当然としつつ.その対策について﹁露人ヲ満州以
ノ関係ヲ生セシメ満州ヲシテ何ノ国モ毒手ヲ触ルル能ハサルノ
シ旅順、大連ノ租借ヲ返還セシメ且為シ得ヘクンハ浦塩港ヲ我
﹁当時陸軍部内に於ても、議論が様々であって、中には露西亜
ていたわけでもなかった。たとえば福田雅太郎の回想によると、
しかし井口も述べるように陸海軍すべてが強硬路線を支持し
︵18︶
中立地タラシメ而テ韓国ノ占領ヲ確実ニシテ露人ノ南下ヲ妨害
占領トシテ露人ノ太平洋二進出スヘキ門戸ヲ塞クヲ以テ最モ確
高級将校、即ち将校以上の方々には、斯う云っては如何かと思
に対して戦を挑んでも勝算が無いと見て居る人が くなかった。
︵16︶
実ナリ﹂と、要するに満州開放論を主張したが、軍事衝突の際
への連絡を確実にする一方、第二段階として﹁敵北方二退却ス
の予測については、まず第一段階として遼東半島の確保と清韓
89
法学研究62巻1号(ラ89:1)
ラゴヴエスチエンスク、ストレチレスク、チタ、ウエルフネウジ
三、此支払を終るまで具加爾湖及び勒那河以東の地を担保とし、ブ
︵19︶
ふけれども、到底露西亜に対して戦争は出来ないという主義の
四、ブラゴヴエスチエンスク等を世界の貿易地と為す事。
むる事。
ンスク等に相等の軍機を駐屯し露国政府をして其費用を支弁せし
人が多かったのである﹂と述べているほどである。
一方井口と同様参謀本部に在職していた福島安正はシベリア
横断、北清事変参加といった経験から次のような積極論を七月
一方、当時駐英公使館付武官の職にあった宇都宮太郎は、湖
月会に名を連ねてはいないが他の武官に比べその所信を明確に
にまとめている。
露国ヲシテ満州二於ケル現状維持ヲ許スナラバ、満州ソノモノヲ露
従事するが.右意見もその意味において重要な史料であろう。
宇都宮は戦争中明石元二郎と密接な連絡のもとに情報活動に
力ヲ我朝鮮鉄道ノ沿線二配置シ度﹂こと
在テハ少クモ露力満州二於ケルト同様我鉄道護衛トシテ相当ノ兵
三、﹁第一項ノ如ク直二朝鮮ヲ我埃及タラシムル能ハサルノ場合二
ハ清国政府合意ヲ得ルコトニ改メ度キコト﹂
乙、﹁露国ハ善意ヲ以テ満州鉄道ノ護衛兵数ヲ限定シ且ツ其変更
︵
全然清国政府二還附﹂すること。
甲、﹁旅順・大連及鉄道沿線ノ外満州一切ノ国土ヲ政治上軍事上
ラシムルコト猶ホ清国他ノ州郡ト同様タラシメ度コト﹂
二、﹁満州ハ依然之ヲ清国ノ主権二置キ正当ナル世界貿易ノ市場タ
コト﹂
一、﹁朝鮮ヲ我邦二対シ埃及ノ英国二於ケルカ如キ関係二置キ度キ
今日二於ケル我希望
﹁妄言﹂
宛の手紙である。以下まとめると次のようになる。
︵22︶
している。次に紹介するのは明治三六年九月一一日付寺内陸相
スルモノタリ。
国二取得セシムルノミナラス、同時二朝鮮ヲモ挙ゲテ彼ノ毒手二委
朝鮮ニシテ一度、彼ノ勢力範囲二帰スナラバ朝鮮海峡ノ制海権ハ固
本帝国ハ扶桑ノ一孤島二蟄居セシメラレ、露国ノ命二唯コレ従ヒ次
ヨリ、日本海ト黄海ノ制海権ヲモ露国ノ専有スル所トナリ、我ガ日
露国ハ一ノ欲望ヲ遂ゲレバ第三欲望ヲ満サントシ、斯クシテ一歩二
ハ対馬ヤ北海道モ彼ノ所望スルコトナルベシ。
肝銘スルヲ要ス。
一歩ヲ進メ貧欲、飽クコト無キヲ以テ彼ノ国ノ常套手段タルコトヲ
思ウテ厳二至ラバ標然、膚二粟ヲ生ズルヲ禁ズル能ハズ。実二現下
︵20︶
ノ状況ハ帝国ノ将来ノタメ一日モ猶予スベカラザル秋ナリ。
また時期的には少々ずれるが、福島自身の戦後構想も明らか
になっているのでこれも紹介する。彼は冒頭満州における鉄道
︵21︶
問題に言及し、﹁露国して侵略の念を断たしむる為め将来此鉄
賠償金として金OO億円を支払ふ事。
沿海州及び薩恰連島を割譲する事。
道を世界の共有﹂とすべきことを述べている。以下次のごとく
である。
一、
二℃
90
《井口省吾文書>及び解題(1〕
の視察は炎天下のため相当苦労したことが﹁井口日誌﹂ではう
かがわれる。また余談ではあるものの投宿地では必ず当地の郡
いるのは興味深い。両グループは一方は釜山から西海南道、一
守に面会し、日本から各種自参したものを渡し注意をはらって
田村次長から児玉次長へ
六月二三目御前会議が開かれた。ここには伊藤、山県、大山、
る。帰京後井口は九月九日大山参謀総長に視察報告をしている。
方は釜山から京城に向け視察を行い九月六日品川に到着してい
松方、井上といった元老、桂首相、小村外相、寺内陸相、山本
しておぎたいのは韓国間題に対する不退転及び対露開戦も辞さ
さて九月末より一〇月にかけ参謀本部内は一変する。それは
海相が出席した。この内容はすでに明白になっているが、注意
ずという強い姿勢が確認されたという事実である。会議席上田
話であるが、﹁井口日誌﹂では次のように記されている。
一〇月一日の田村次長の病没であった。次長後任問題は有名な
を大山参謀総長が提出した。そこでは﹁帝国の決意﹂には、
︵23︶
村参謀本部次長自身が草案した﹁朝鮮間題解決に関する意見書﹂
︵24︶
参謀本部へ出務。大山総長ヨリ次長ノ候補談アリ。総長ハ伊地知
事務取扱ト為スコトニ決セラル。昨日余ハ福島、上原、伊地知三少
幸介少将ヲ欲スレトモ陸軍大臣寺内中将之ヲ欲セス暫ク福島少将ヲ
﹁我軍備更に充実拡張するも到底彼と相平均するの程度に追及
ん形勢斯の如きに至らは贋を蒐むとも及ふなく遂に恨を呑んて
中、急ノ為二合ハス:⋮
︵25︶
将ノ内ヲ提出シタレトモ福島ハ総長ヨリ同意ナク、上原ハ欧行不在
する能はす算数上勝敗既に明白にして樽姐折衝の望なきに至ら
屈辱を受くるあらんのみ放に云ふ朝鮮問題を解決する唯々此時
当時参謀本部部員の誉田甚八中佐は、﹁目露戦争感想録﹂︵林
を然りとす﹂と記されているが、全般的に参謀本部中堅将校の
強硬論とは相異している.極論すれば日露妥協がこの意見書の
ル・程﹂と記している.一方で児玉の次長就任は﹁時節柄世論
三郎氏所蔵︶において、田村中将の死を﹁諸人ノ哀悼病恨ノ情温
ノ歓迎スル所﹂であった.そして目露交渉の時機が遅延すれば
基本となっているのである。事実同年秋ごろ田村次長は福田に
あった。依然田村は見通しに不安をいだいていたようである.
するほど、﹁我国ノ不利二帰スル﹂ため、以後﹁我当局者ハ時
対して開戦論を中止し防禦作戦計画立案を勧告していたほどで
七月二九日井口は田村次長より朝鮮旅行の命を受けた。東京
リシナリ当時殺気即二天ヲ蔽ヒ﹂ていたことを述懐している.
機ノ成ルヘク早ク交戦二至ランコトヲ熱望スル淘二已ムヲ得サ
本部次長に就任し、新たな局面に入ったのである。
このように後任問題は一時紛糾したが後日児玉源太郎が参謀
を出発したのは八月四目、同行者には作戦部長松川大佐、西川
る。数日幣原喜重郎領事に接待された後、一一日井口及び西川、
少佐、本庄大尉らであった。釜山に到着したのは八月九日であ
さらに松川及本庄の二組に別れ視察旅行が始まった.この八月
91
3
法学研究62巻1号(’89:1)
が記されている。その他陸海軍の共同作戦、大本営条例改正問
決断の勇なし﹂と非難の発言に及ぶと山県は全く沈黙したこと
︵謄︶
一方前後するが九月二八日湖月会の一人でもある外務省参事
題等について両者は意見を交換している。いずれも山県の苦慮
が滲み出ており興味深い。
面会している。これは坂田の要望で実現したものであった。池
九月二一日池辺は坂田に会い山県との会見について報告して
官坂田重次郎は日本倶楽部において大阪朝日新聞の池辺三山と
て丁重に口を開き、目露間の関係につき先づ余の所見を問ひ、
辺の﹃日記﹄には、﹁何の用向にやと思ひたるに、坂田君極め
ている.これには無用として池辺は拒否した。坂田の動きにつ
いるが、坂田はさらに池辺に対し伊藤にも会見するべく要請し
いて池辺の感触は次のように述べている。﹁坂田君は元老中に
を促して如何といふ、少々思ひ懸けなき談なれば坂田の発意に
仏英の仲裁を待たんとするものあるの説を信ずるものの如く、
次に自家の所見を談じ、談次遂に余に向ひて山県侯に時局決裁
に之を訪ひ、念入りて之を叩き見んと思ひ、大阪村山上野に面
は如何など心中疑を生じたれど、実は余も山県が京都閑居を幸
︵26︶
而して同時に仲裁の或は将に来らんとするを憂ふるものの如
書面にて述べたるが如き悪果は今日まで幸ひにして未だ生ぜず
る。要するに列国の仲裁を憂慮する中で、対露開戦を促してい
︵29︶
都にて山県に面会している。池辺は、﹁協商の弊患につき当時
議を要する事もあり⋮⋮﹂と記している。池辺は九月三〇日京
し﹂。池辺は、﹁今日に於て日露間の争議に他の容隊の余地少き
︵30︶
と同時に、英は勿論、仏も干渉の決意あるまじき﹂を述べてい
たことが理解できよう。
と難も、却て予見以外の大弊患の生じたるを見る露はいつまで
も協商決定を遷延し、其間に大に軍備を盛んにしつつ﹂あり、
4、第三期撤兵後
らは何らコメソトはなかった。井口は﹁本日ハ第三期満州撤兵
さて一〇月八日は・シア軍第三期撤兵であったが・シア側か
て形格勢禁の窮境に陥り、将に屈して折れざるを得ざるに至ら
新型の軍艦も﹁極東の海面に現はれんとす、而して我は未戦し
んとす、畢寛協商てふものが時局に対して漫緩に失し、殆んど
騎兵百騎ヲ平壌二出サソトシ陸路義州方向へ兵ヲ進メソトシ.
期ナレトモ露国ハ撤兵ノ談話ナク、又露国ハ公使館獲保ノ為メ
︵27︶
敵を弄ぶの愚に斉しく、却て大に露に致さるるの端を啓きたる
の思惟す、⋮⋮﹂とその考えを示したのに対し、山県は、﹁余
シテ山県元帥及桂総理大臣二決心ヲ促サンコトヲ請求ス。然ル
威境道ヲ守備セソトシ﹂ており、また﹁福罵次長事務取扱ヲ要
︵池辺︶が協商を非とするに付ぎては之に同意もせず、さりとし
であった。さらに池辺は桂首相について、﹁今日の事は、患は
ニ桂総理大臣ノ決心確ナラス優柔不断国家ノ大事ヲ誤ラントス。
て之を駁しもせず、而して列国の形勢を説﹂いた、という反応
外にあらずして内に在り、誰が悪るいといふより、内閣自身に
92
《井口省吾文書>及び解題(1〕
億川上大将ハ三十二年五月已二逝キ、去ル一日田村少将亦大将
駐在二区処ヲ与フルヲ得。
三、貴官ハ情報ノ蒐集二関シテハ在京我公使館附陸軍武官井二韓国
受クヘシ。
四.緊急旨ヲ請フノ暇無キ外ハ重大ナル事件ハ総テ稟報シテ指揮ヲ
ノ後ヲ追フ。大山参謀総長又戦意ナシ、加フルニ陸海軍協和ヲ
欠キ両大臣就中山本大臣機ヲ見ルノ明ナク戦ヲ決シテ起ッノ意
ナシ。帝国ノ大事将二去ラソトス鳴呼。﹂と憤慨に満ちた思い
︵31︶
軍上層部の動きに対し井口自身相当焦慮しているのがうかが
翌二〇日児玉次長及び各部長が会合し﹁韓国二於ケル第二次
陸軍歩兵中佐 松石安治殿
参謀総長侯爵 大山巌
明治三十六年十月十九日
右訓令ス
われよう。
作戦ノ方針﹂を決定した。第一案は、﹁駄馬編制の一師団︵第
を記している。
しかし児玉が次長に就任してからは事態は徐々に進行してい
十二師団︶を馬山に上陸し、南路経由京城に前進﹂。第二案は、
︵34︶
︵33︶
口も﹁此有力ノ次長ヲ得国家ノ為メ又本部ノ為可歓事﹂と記し
た。児玉は一〇月二一日参謀本部において着任挨拶を行い、井
︵結氷の時期ならば海州に上陸︶、平壌、安州間を作戦目標と
﹁近衛及び第二若くは第十及び第十二師団を以て鎮南浦に上陸
︵32︶
ている。翌一四日より児玉は対露問題について作戦上の講話を
て二転三転したが、井口は二七日陸軍省に出向き﹁馬山及び元
す﹂というものであった.その後上陸地点及び集中地点につい
行い、以後連日関 係 諸 問 題 に つ い て 協 議 し て い る 。
さて一〇月一七目井口は松川大佐と共に松石安治中佐に与え
仁 、
丁︵二師団海州上陸﹀について協議し児玉次
師団
川 上 陸︶
山口等であった。これにょり一一月一日同出兵計画丙︵二
議
会
が
開
催 協
さ れ た 。 出席者は井口、石本、宇佐川、外松、松
し 手交
﹂ 、 これを基礎に三一日参謀本部及び陸軍省各局課長の
陸
の
作
戦
計
画
書
を
内
議 山上
の た め 、 次長の名を以て寺内陸相に
る訓令案を作成している。これは一〇月一九日付で大山参謀総
長より発令された.
記秘第二九九号ノ一
ノ枢要地トナル可キヲ顧慮シ貴官ヲ京城二差遣ス。其目的ハ主ト
一、日露協商ヲ開キタル結果韓国京城ハ自今軍事的動機ヲ発展スル
シテ韓国二於ケル日露間ノ交渉二就キ種々二発生ス可キ事件ヲ迅
速確実二報告 セ シ ム ル ニ 在 リ 。
此報告ハ真二政略上ノ大局二影響シ延テ戦略上ノ利害二及フコト
多キヲ以テ貴官ハ沈断公平ノ観察ヲ以テ事物ノ真相ヲ看破スルヲ
要ス。
二、外交上二関シテハ在京城日本公使ノ旨ヲ受ク事二従フヘシ.
長の裁決を請うところとなった.
一一月中旬陸軍は関西において特別大演習を行ったが、時期
二関スル情況判断﹂を大山参謀総長に開陳している。
︵35︶
を同じくして松川第一部長は、﹁十月以後二於ケル露国ノ行動
93
」
法学研究62巻1号(曾89:1)
ξ−若夫レ他ノ方面ヨリ判断セソカ露国ノ十月以後二於ケル行動
って韓国の占領を確実にし、㈲京釜、京義の鉄道を速成し、㈲馬山
張して常に露国に対抗する勢力を維持すること、ω同時に兵力をも
一、二師団ト枢要ノ要塞ヲ動員シ十分ノ決心ヲ示シ威力ヲ以テ
シ最早口舌ヲ以テ争フヲ止メ韓国二一部ノ出兵ヲ為スト同時二
国ヲ棄ツルノ覚悟ヲ有セサル限リハ帝国自衛上露国ノ行為二対
一方=一月一九日井口は児玉次長に対して﹁我帝国ニシテ韓
の経営に着手するなどは焦眉の急であろうと信ずる。
ハ我ト戦争ヲ開クヲ好マス徹頭徹尾平和二局ヲ結ハンコトヲ希フモ
ノト仮定セγ然ル時ハ今日露国力極東二対シ続々兵力ヲ増加スル所
州及成シ得レハ北関︵威鏡北道︶地方ヲモ占領スルコトヲ欲スルモ
以ノモノハ時局問題ヲ平和二解決シタル後二於テ全然威力ヲ以テ満
ノト考判スルノ他ナシ果シテ然ラハ露国ハ我トノ談判二荏菖時日ヲ
ヘカラス国際上ノ紛争二於テ政略ト戦略ノ相一致セサルヘカラサル
費ヤシ以テ戦略上己レニ有利ノ日ヲ待タントスルモノナルヤモ知ル
談判ノ後援トナシ尚且韓国ヲ去ラスソハ其時二至リ一大決戦ヲ
二於ケル鉄道電信破壊二関シ﹂訓令を与えている。
一二月一二日清国公使館附武官に対し参謀本部は﹁満州内地
命令系統等についても討議が始まっている。
兵に関する作戦について意見を交換している。また臨時派遣隊
を受けて二一日及二三日井口は陸、海軍両省を訪問して韓国出
このころより日露開戦に向け政府も動き始めているが、これ
覚悟スヘシ﹂と述べ最後の決心を促している。
︵37︶
コトハ云フ迄モナキコトニシテ露国ハ実二此原則二従ヒ目下二於ケ
ル戦略上ノ不利ヲ免カレソトスルニハアラサルカ惟フニ時局ノ問題
二於テ戦略上彼レノ不利二乗シ政略上我レニ有利ノ解決ヲ求ムルノ
好時機ハ今日ヲ措テ再ヒ得難カルヘシ⋮⋮
要するに今が日本にとって一番タイミソグが良いというわけ
である。松川はこれまでの各種の情報から以上のように判断し
ていた。
いる。
一方、児玉次長及び各部長の見通しは次のように紹介されて
井二電線ヲ破壊スルハ頗ル有効ナル事トス。
一、日露両国二於テ事アルニ際セハ露国ノ後方連絡線タル東清鉄道
三、破壊ノ方法及之二使用スル者ノ撰択ハ貴官二一任ス貴官ハ速カ
二.破壊ノ箇処及希望ノ順序ハ載セテ別表第一第ニニ在リ。
児玉次長
露国財政の窮乏のため日露問題は多分平和的解決をみるであろう
各部長
って大となる。
ヲ為スベシ。
軍司令官二送附シアリ若シ之ヲ増加スルノ必要アラハ速カニ請求
四、右破壊実行二要スル爆薬及材料ハ駐屯軍ハ演習用ノ名ヲ以テ談
ニ破壊井二電線切断ノ準備ヲ為シ之二関スル計画ヲ定メ之ヲ報告
︵36︶
が、ただこれ戦機を両三年延期するにすぎなく、われの不利はかえ
万一平和の解決をみるにいたっても、これ後患をのこすものであ
︵38︶
スベシ。
り、日本としてはきっと覚悟しなければならない。即ちω海軍を拡
94
《井口省吾文書>及び解題(1)
が出されている。
一方韓国京城公使館附武官伊地知幸介少将に対しては次のよ
月二日付で坂田少佐、橋本大尉等計七名の将校に同様の訓令
うな訓令が発せられている.
開戦に備えた施策が具体化されつつあるのは明白である。
一、用兵上我国ノ利害二関スル事項殊二軍事統系二就キ精藪ナル研
一二月二三目桂首相及び寺内陸相は伊藤博文と会談した。日
について伊藤は、﹁王ヲ擁シ置クオ絶体ノ必要﹂を述べ、また
露関係一般について伊藤は注意を促しているが、一方韓国問題
究ヲ為シ有事ノ日二当リ遺算無キ様調査スルコト。
︵写︶ ︵39︶
さらに﹁挑発的ナ挙動二乗ラスシテ能ク実際的ノ研究ヲ要ス﹂
清国問題について、﹁清国ヲシテ開戦二導クヲ可トスルノ意見﹂、
二.露国ノ韓国二対スル施設経営二関シ常二注意ヲ怠ルコト無ク探
︵4!︶
及第六項二関スル事項ハ依然継続セラルルコト。
六、貴官ノ東京ヲ出発スルニ際シ与ヘタル訓令ノ第一、第三、第四、
五、韓延党争ノ状況及其原因ヲ明確二討究スルコト。
四、韓国内殊二韓国軍隊ノ動静二関シ常二注意スルコト。
実ナル観察ヲ下スコト。
三、列国ノ韓国二対スル態度殊二軍事的行動二関シ深ク留意シテ確
究スルコト。
ことを述べている。伊藤自身清韓両国の動向について相当注意
をしていたようである。
明治三七年に入り参謀本部から各地の武官等に対しいっそう
︵40︶
明白な訓令を発している。一月五目付﹁青木大佐、仙波少将、
恒吉中佐二訓令案﹂もその一つである。
日露間ノ関係ヨリ生スル我政府ノ対清方針ハ清国ヲシテ表面上厳
こうした状況の中で日露は開戦したのである。日露戦争の歴
正中立ヲ守ラシムルト同時二実際二於テハ彼ヲシテ間接二我行動ノ
援助ヲ為サシメント歓スルニアリ。然レトモ彼ヲシテ後段ノ処置ヲ
史的経緯の中で﹁井口文書﹂が参謀本部、満州軍の動向を検討
︵5︶ 前掲、﹁露国行動二関スル判断﹂。
︵4︶ ﹁井口省吾日誌・第五巻﹂。
防衛研究所図書館所蔵。
︵3︶ ﹁明治三十六年五月露国行動二関スル判断﹂︵参謀本部︶所収、
予定︶。
︵2︶長岡外史文書研究会﹃長岡外史関係文書﹄︵吉川弘文館、近刊
研究﹄五八巻九号、昭和六〇年︶。
︵1︶ 日本政治外交史研究会﹁﹃明石元二郎文書﹄及び解題﹂︵﹃法学
するうえにおいて重要な史料であることは明らかである。
取ラシムル事二関シテハ最モ慎重ノ用意ト機器トヲ要スルカ故二貴
ハ仙波恒吉宛﹄とある︶ト和衷協同シテ目的ノ大成ヲ謀ルヘシ。之
官ハ深ク趣旨ヲ体シ我駐割公使︵其他駐劉総領事“﹃括弧内ノ朱書
ルヲ要ス。
力為メニハ清国ノ有力ナル当路者二公然勧告スル等便宜ノ処置ヲ取
迫テ右対清方針二関シ外務大臣ハ北京駐割公使及在天津上海両総領
招聰将校ニハ本職ヨリ各訓令ヲ与ヘリ﹂︵﹃﹁・・﹂内ノ文ハ仙波・
事二詳細ノ訓示ヲ下セリ。﹁マタ清国駐屯軍司令官、清国駐在将校及
恒吉ニハ不用﹄とある︶。
またこの訓令案に伴い同日付で右訓令が発せられた。なお一
95
法学研究62巻1号(’89:1)
︵6︶ メンバーについては﹁井口日誌﹂、田中義一伝記刊行会﹃田中義
︶ 同右、五一頁。
︵
28
︵
2 7︶ 同右、四九頁。
︵
2 9︶ 同右、五二頁。
同右、一七七頁。
﹃田中伝、qゆ﹄所収。
︶ 参謀本部﹁明治三十六年十二月起 臨號二関スル訓令綴﹂︵防衛
︵
33
3 同右。
︵
2︶
﹃井口日誌﹂
︵
3 1︶
3
同右。
︵
0︶
︵8︶
︵
3 5︶ ﹃機密日露戦史﹄、五四・五頁。
︵7︶
︶ 同右、四一頁。
︵
36
︵
鍵
︶ ﹁井口日誌﹂。
同右、一九五頁。
研究所所蔵︶、以下﹁訓令綴﹂とする。
同右、一九六頁。
3 ﹁訓令綴﹂。
︵
8︶
︶ 同右、五六頁。
︵
37
同右、一八二頁。
︵11︶
﹁井口日誌﹂。
︵9︶
︵12︶
同右。
同右、一八七・八頁.
︵13︶
参謀本部編﹃明治三十七・八年機密日露戦史﹄︵昭和五二年、厳
︵19︶
︵18︶
﹃福島将軍遺績﹄、二六九頁。
島貫重節﹃戦略日露戦争㊧﹄︵昭和四九年、原書房︶、一九七頁。
﹃福田大将伝﹄、八二⊥二頁。
同右.四五頁。
︵勿︶
︵23︶
三山会編﹃三山遣芳﹄︵昭和三年、巧芸社︶、四八頁。
﹁井口日誌﹂。
陸軍省﹃明治軍事史﹄︵昭和五四年、原書房︶、一二六二頁。
﹃機密日露戦史﹄、三七・八頁。
明治2 沼津兵学校附属小学校に入学︵15歳︶
漢学塾に通う︵9歳︶。
文久3 このころ沼津藩士島津悔堂︵維範・得山︶の
て生まれる。幼名誠之助。
0 駿河国駿東郡上石田村井口幹一郎の次男とし
安正2・8・1
三、井口省吾略年譜
︵41︶同右。
︵ω︶ ﹁訓令綴﹂。
九〇頁。
︶ 山本四郎編﹃寺内正毅日記﹄︵昭和六一年、京都女子大学︶、一
︵
39
︵5
1︶
同右、三五頁。
︵0
2︶
明治三六年九月一一日付寺内正毅宛宇都宮太郎書簡︵﹁寺内正毅
︵6
2︶
︵5
2︶
関係文書﹂・ 蹴 ー 踊 ・ 鵬 憲 政 資 料 室 所 蔵 ︶ 。
︵2
2︶
︵21︶
︵1
7V 同右、四二頁。
︵6
1︶
南堂︶ 、 二七∼四五頁。
︵14︶
︵m︶
〇年、文化印刷所︶、一二七頁参照。
治三六年﹂︵憲政資料室所蔵︶、長沢直太郎編﹃上泉徳弥﹄︵昭和三
録﹄︵昭和一〇年、福田雅太郎追懐録刊行会︶、また﹁財部日記・
一伝qり﹄︵昭和五六年、原書房︶、二六一頁、山根悼三編﹃福田雅太郎
追懐
明
96
《井口省吾文書>及び解題(1)
1●3
9●5
12 5 4 4 2 12 4 12
11 4 12
・9
∼ ・ ∼
11
2 7
ひきつづき小学集成舎で学ぶ。卒業後、大岡
12 3 1 10 8 7 6 2 5 39 5 4 3 10 9
・3
8 45 2
舎の教員となるが、まもなく上京し、中村正
● ● ● ● ● ● ● ● ● ∼ ● ● ● ● ●
直︵敬宇︶の同人社に入学︵19歳︶。
38 37 36 35 34 30
。 ∼ 。
陸軍士官学校に入学
●
西南戦争に際し、士官見習となる。
陸軍士官学校を卒業︵24歳︶。
広島で新兵を教育する︵23歳︶。
中尉に昇進︵28歳︶。
砲兵少尉に任官︵25歳︶。
陸軍大学校に第一期生として入学︵29歳︶。
大尉に昇進。
陸軍大学校卒業︵31歳︶。
ーこの前後月曜会の会員となる1
山口圭蔵・東条英教とともにドイッ留学︵34
陸軍大学校教官となる︵32歳︶。
歳︶。
藩閥人事について、ベルリソで山県有朋に意
見具申︵35歳︶。
帰国、参謀本部第一局員となる︵36歳︶。
少佐に昇進、野戦砲兵第四連隊第三大隊長と
陸軍大学校教官となる。
なる︵37歳︶。
日清戦争に際し、第二軍作戦主任参謀として
出征︵4
0歳︶。
賜り、参謀本部第一局員となる。
中佐に昇進、功四級金鶏勲章・単光旭日章を
陸大教官となる︵41歳︶。
大佐に昇進、陸軍大学校教頭となる︵43歳︶。
軍務局軍事課長を兼任︵47歳︶。
軍務局砲兵課長となる。
歳︶。
少将に昇進、参謀本部総務部長となる︵48
日露戦争に際し、大本営参謀となる。
湖月会に参加し、対露開戦論を叫ぶ。
出征。
満州軍総司令部参謀となる。
沙河会戦︵50歳︶.
遼陽会戦。
黒溝台会戦。
奉天会戦。
凱旋。
功二級金鶏勲章・勲二等旭日重光章を賜る
︵51歳︶。
陸軍大学校校長となる︵52歳︶。
中将に昇進︵55歳︶。
97
● ● ● ● ● ● ● ●
● ● ●
28
42 39
6
18 16 15 12 11 10 10 8
2 1
22
2423
27
22 12 9
法学研究62巻1号(’89:1)
● 8
局長
局長
恩賞課長
補任課長
局長
騎兵課長
外松孫太郎
中村雄次郎
亀岡泰辰
深谷又三郎
中岡黙
本多道純
人事局
勲一等瑞宝章を賜る︵60歳︶。
法務局
第一五師団長となる︵58歳︶。
朝鮮駐割軍司令官となる︵61歳︶。
経理局
小池正直
軍事参議官となる。
局長
医務局
大山巌
総務部長 井口省吾
参謀本部次長 田村恰与造
参謀総長
6年1月時点の参謀本部
明治3
大将に昇進︵62歳︶。
勲一等旭目大綬章を賜る︵65歳︶。
後備役に編入。
従二位を賜る︵66歳︶。
庶務課 ①編制 動員
長泉村下土狩の隠棲先で死去︵71歳︶。
第
二
期
生
の
同
期
に
は なお陸軍士官学校
、 伊地知幸介、大迫尚
第一部長 松川敏胤
②作戦・兵姑 ③要塞・攻城
第二部長 福島安正
がいる。
④欧米情報 ⑤支那情報
第三部長 大沢界雄
明治35年3月時 点 の 陸 軍 省
⑥運輸⑦通信
陸
軍
大
臣
寺内正毅
中村雄次郎︵兼︶
中村雄次郎
第四部長 大島健一
局長
井口省吾
第五部長 落合豊三郎
⑧外国戦史 ⑨内国戦史
総務長官
林太郎
総務局
軍事 課 長
山口勝
軍務局
歩兵課長
加藤政義
編纂
工兵課長
砲兵課長
︵兼︶
98
大正1・11
∼4
Q︾ ● ︻0
4 ● −
FD ■ 8
∼﹃O
Ω∪ ● 2
●1
1
9 ● Ω︾
● 9
1
大谷喜久蔵、 仙波太郎、田村恰与造、長岡外史、村田惇ら
道、
1
4・3
● ● ●
32010
《井口省吾文書>及び解題(1)
陸大校長 藤井茂太
1 明治1
5年︵︶月鍛日
六、 伊藤祐義
八、 井上光
1 明治︵︶年6月22目
七、 稲垣之治
1 明治24年11月14日
井口文書中の書簡は史料館に現在七二通︵巻物四巻︶の存在が
01 明治28年2月27目
四、書簡
紹介する。
九、 大島貞恭
02 明治29年2月6日
確認されたが、以下その目録と日露戦争時を中心に重要書簡を
︵自衛隊板妻駐屯地史料館所蔵︶
井口省吾文書目録
2 明治︵︶年︵︶月皿目
1 明治27年1月6目
一〇、大村仁太郎
五十音順
01 明治︵︶年8月1
2日
一一、大山巌
◎は明治36∼38 年 の 書 簡 ︵ す べ て 解 読 済 ︶ 。
︶は不明。
○は解読済。
年代は巻物に記されているものによる。︵
◎2 明治37年10月6目︵山県有朋宛︶
01 明治27年12月30目
0日
1 明治1
9年7月3
一二、岡本兵四郎
◎3 明治37年
一三、小川又次
1 明治24年4月7日︵消印︶
天野湖次郎
1 明治28年3月4日
02 明治︵︶年5月1
5日
◎1 明治37年2月22日
一四、尾崎多逸
◎1 明治37年2月26日
磯野節
伊地知幸介
荒井信雄
1 明治22年3月5日
青山忠誠
一、
二、
三℃
四、
五、
99
1
法学研究62巻1号(’89:1)
1 明治10年 5 月 1 6 目
一五、尾沢主一
1 明治︵︶年2月25日
一六、川上操六
1 明治3
2年1月29日
1 明治33年3月1日
二五、榊原忠誠
1 明治26年12月27日
二六、瀬崎久誠
1明治︵︶年1
1月27日
1 明治1
9日
0年1
0月2
二八、武田禿山
01 明治︵︶年1
0日
2月1
二七、高木作蔵
一八、草問時雄
01 明治35年7月28日
一七、川村養堂
1 明治26年1月8日
1 明治20年4月1日
三〇、田村恰与造
◎1 明治37年3月6日
二九、立見尚文
二〇、グルートシュライベル
01 明治28年2月珀日
一九、栗田継一郎
二一、黒田久孝
ー 明治28年3月7日
2 明治32年12月7日
三一、田村顕利
◎4 明治3
6年5月21日
8日
03 明治34年2正1
02 明治30年5月5日
二二.小坂千尋
1 明治1
7日
5年9月1
01 明治32年12月2日
1 明治︵︶年12月8日
三二、寺内正毅
三三、東条英教
03 大正8年10月18日
4日付寺内宛山本権兵衛書簡︶
02 ︵内容は明治29年4月2
01 明治27年1
0月11日
二三、児玉源太郎
◎2 明治37年9月
8日
01 明治2
0年5月1
◎3 明治38年︵長岡外史宛︶
二四、佐伯運之助
100
《井口省吾文書>及び解題(1)
四五、福島安正
四六、福原信蔵
01 明治3
5年5月9日
◎1 明治36年1
0月1日
◎2 明治37年11月
三五、南部稚枝
四七、前田隆礼
1目︵児玉源太郎宛︶
◎1 明治37年1月1
01 明治1
9年8月11日
三四、豊島陽蔵
三六、乃木希典
四八、松石安治
◎1 明治36年11月19日
◎1 明治37年3月11日
01 明治40 年 1 2 月 2 6 目
四九、水野勝毅
◎1 明治37年2月21目
三七、野辺田種与
1 明治17 年 1 月 1 1 日
五〇、村井長寛
1 明治1
6年2月21日
三八、野間駒
三九、野本静枝
五一、メッケル
01 明治︵︶年1
0月2日
0日
◎ 明治38年10月1
四〇、波多野景造
五二、矢島昌郁
6日
ー 明治21年8月1
1 明治17年7月
四一、花島半一郎
五三、矢吹秀一
1 明治10年5月10日
1 明治28 年 2 月 2 7 日
四二、原有信
1 明治︵︶年n月29日
五四、山県有朋
01 明治28年9月7日︵寺内正毅宛︶
〇1 明治︵︶年4月10日
◎1 明治37年4月18日
◎3 明治37年12月9日︵児玉源太郎宛︶
◎2 明治3
6年3月25日︵大山巌宛︶
四三、原口兼済
四四、平岡芋作
1明治︵︶年8月15日
1 明治31年2月21目
101
法学研究62巻1号(’89:1)
7年3月6日︵第八師団長立見尚文中将より
︿二九11﹀明治3
任務変更の有無間い合わせ。
参謀本部総務部長井口省吾少将宛︶師団動員命令下らず残念。
︿三〇14﹀明治3
6年5月21日︵参謀本部次長田村恰与造少将
より参謀本部総務部長井口省吾少将宛︶、事務連絡。
1目︵要塞砲兵監豊島陽蔵少将より
︿三四11﹀明治37年3月1
り遼東兵姑監井口省吾少将宛︶、日露戦後の砲兵編制について.
︿三八ー1﹀明治38年10月10日︵基隆要塞司令官野間駒少将よ
102
五五、山口素臣
五六、士口見精
◎1 明治37年3月3日
1 明治19年5月9日
明治三六∼三八年井口宛書簡の概略
介少将より参謀本部総務部長井口省吾少将宛︶、韓国政府・各国
参謀本部総務部長井口省吾少将宛V、攻城砲兵編成の件。
公使館との交渉事務および新聞記者との会見、韓国経営事業考
︿四三11﹀明治37年4月18日︵韓国駐割軍司令官原口兼済少
将より参謀本部総務部長井口省吾少将宛︶、作戦計画漏洩の件。
将より参謀本部次長児玉源太郎中将宛︶,秦皇島に兵器弾薬を
1目︵参謀本部第二部長福島安正少
︿四五11﹀明治37年1月1
り参謀総長山県有朋元帥宛︶、観戦記者取り扱いについて。
ルチック艦隊来航時期予測。
︿四五12﹀明治37年11月、満州軍参謀福島安正少将覚書.バ
上陸の件。参謀長人事。混成旅団派遣の件。
参謀本部総務部長井口省吾少将宛︶、動員の際には、他師団に
5日︵山県有朋元帥より参謀総長大
︿五四12﹀明治36年3月2
より参謀本部総務部長井口省吾少将宛︶、東郷少佐の件.
︿四八i1﹀明治37年2月21日︵第一軍参謀副長松石安治大佐
隆礼少将より参謀本部総務部長井口省吾宛︶、満井大尉人事。
︿四七11﹀明治36年11月19日︵台湾守備混成第二旅団長前田
り参謀本部総務部長井口省吾宛︶、旋風見舞。
︿四六11﹀明治36年10月1日︵砲工学校校長福原信蔵少将よ
bて?。
謀本部次長長岡外史少将宛︶、旅順陥落後の軍司令官人事につ
︿二三13﹀明治38年︵満州軍総参謀長児玉源太郎大将より参
より宛先不明︶作戦案遼陽戦後の沙河滞陣について。
︿二三12﹀明治37年9月、︵満州軍総参謀長児玉源太郎大将
合わせ。
貸してある兵を戻すよう希望。またどの軍に配属されるか問い
︿二二11﹀明治37年2月22日︵第四師団長小川又次中将より
︿二i3﹀明治37年、満州軍総司令官大山巌元帥の漢詩。
︿=ー2﹀明治37年⑳月6日︵満州軍総司令官大山巌元帥よ
した書簡。
究などの事務が忙しいため副官適任老を一名増加するよう希望
︿四11﹀明治37年2月26日︵京城公使館付駐在武官伊地知幸
2
《井口省吾文書>及び解題(1)
フルニ新聞記者ノ如ク内外数十人ノ多キニ達シ居ルヲ以テ、其
ト毎日ノ如ク交通シ居レリ、且ツ応接等モ一通リナスモ、之加
韓国将来ノ経営二対シ基礎ヲ誤ラサランコトニ有之候。其経営
応答ノ多忙モ御察被下度候.而テ其最モ苦心考慮ヲ要スルハ、
︿五四ー3﹀明治37年12月9目︵参謀総長山県有朋元帥より満
山巌元帥宛︶、近衛第一両師団検閲方法取調按について.
び沙河方面の作戦計画について。
如キハ能ク当国ノ事情ヲ考究シテ着手スルニ非ラサレバ効果蓋
営事業モ着々開始スル之必要有之ト確信致候。韓国経営事業ノ
ノヲ設置シ、一方ニハ軍事行動ヲ為スト共二、一方ニハ韓国経
御承知ノコトト存候。小子ノ考ニテハ一日モ速二総督府的ノモ
ノ一日モ緩フス可ラサルハ数々参謀総長二具申セシ卑見ニテモ
州軍総参謀長児玉源太郎大将宛︶、旅順艦隊壊滅後の旅順およ
︿五五ー1﹀明治37年3月3目︵第五師団長山口素臣中将より
参謀本部総務部長井口省吾少将宛︶、師団動員希望。
明治三六∼三八年井口宛書簡
四、伊地知幸介
於テモ軍事行動開始ト共二諸所交渉ヲ要スル件ノ多キヲ加ヘタ
細ハ郵便ヲ似て可申述旨返電致置候二付キ余二申述候。当地二
御座候間、井上大尉ノ如キハ尚引続キ当地二服務致候様、御詮
下本職ハ副官適任者一名ヲ増加セラレンコトヲ希望シ居ル位二
若干ノ将校ヲ備ハシムルニ至ルベシト存候.右様ノ次第ニテ目
ノ必要アリト存候。当国軍隊ノ改良モ漸次談頭二上リ居候間、
シテ、一ハ本職ヲ補助セシメ一ハ経営事業の考究ヲ為サシムル
ルハ勿論、軍隊ノ宿営、軍需品ノ供給等二関シテモ韓国政府ト
シ期シ難シト存候二付而ハ、井上大尉ノ如キ第ニノ公使館附ト
交渉ヲ侯テ着手スルヲ要スル件多ク、是等ハ軍隊指揮官若クハ
議相成度御願申候。右迄早々
1 明治37年2月26日
兵姑諸官力直接地方官二付テ細弁シテ足レルカ如キモ、韓国政
参謀本部総務部長井口少将殿
二月二十六日 京城公使館附 伊地知少将
拝啓 益々御多祥奉大慶候。陳バ井上大尉帰朝ノ儀二関シ、委
府ノ状態ハ決而斯ル単調ニテ所置シ難ク、宣戦詔勅ノ御趣旨ヲ
2 明治37年10月6日
闘一、大山巌
一月二十三日麗去。明治三十七年﹂と記されている。︺
︹余白に﹁陸軍中将正三位勲二等功二級男爵伊地知幸介、大正六年
奉シ当国独立ノ体面ヲ侵害セサルヲ度トシ、大官等ヲ説伏シテ
我要求ヲ容レシメサル可ラサル等.内地若クハ占領地ノ業務ト
ハ一種別様ニシテ、許多ノ交渉ヲ要スル以因二御座候。尚将来
各種ノ便利ヲ得ソトスレハ韓政府ト交渉ヲ要スルノ件益々増加
へ、且公使館附武官、公使館護衛隊長、殊二英国ノ如キハ殆ン
スベシト信申候。而ノミナラス外国公使館トノ往復モ頻繁ヲ加
103
3
法学研究62巻1号(’89;1)
裂の動機を与へられしに過キス候。且又前進当時恰も降雨の前
東京に抑留せられたる時より欝積し来り、鼓に至りて僅かに破
制限せシは寧ろ第二軍の好意に出テたる儀にて、其辺は彼等に
に於て、敵力脆くも堅塁を楯とし逸早く我力鉾先を脱したる結
拝啓 益々御清武目夜御尽痺為国家奉慶賀候。陳ハ遼陽の会戦
果、終に長蛇を逸したるは千歳の恨事に御座候得共、幸に陛下
更ふるに衣ナく食ふに糧ナく転た不快の感を増加するの折柄、
後に際し、行路困難にして行李踵カス、辛ふシテ宿営に就くも
大山元帥ヨリ山県元帥へ手簡案
の御稜威と士卒の忠勇とに依り、兎に角両軍必争の戦略点を占
於ても充分諒とし在る筈に有之、彼等の不満は長日月間空しく
領シ獲たるは今後の作戦上至大ノ好都合ト御同慶此事二奉存候。
と為し、扱こソ在陣僅か一二ヶ月にして未タ待遇の厚薄を確む
るに暇あらサるに早く已に退去を思ひ立ち候訳にて、告別の際
速断にも敵力鞍山店を棄てる上は遼陽に於ては大戦ナかるべし
彼等力言語の端にも充分其意を相漏し申候。扱又彼等軽率に退
前進に際し、第二軍に従属したる二、三の英米通信員は俄然帰
国を思ひ立ち、当司令部尚ほ海城滞営中戦場より帰来告別の挨
該作戦進捗中、僅かに鞍山店の敵を駆逐し更に遼陽に向ひ追撃
拶を残して営口を経北清地方へ立去り候途次、山海関より其本
去したる後、幾分か頭脳の冷却するに至て、翻て自己の責任と
サれハ自ら軽挙の責を免れス、本社と社会トに対し一言の申訳
本社に対するノ義務とを考へ来れハ、何とか退去の理屈を付け
始め在京当路諸賢にも不一方御憂慮被為在候段は、当時の電報
けナきを感シ来り候者と相見へ、責任免れの申訳迄に無責任極
一時外国市場に於ける我公債の価額にも影響し、之力為め閣下
等に依り委細承知仕候。後間もナく外国観戦者取扱に関する大
る出鱈目の電報を発したる次第に外ならサる事と被存候。已に
国に向ひ我軍に不利益なる電報を発し候趣。夫れ力有らぬか、
本営訓令を拝し、通信員退去力斯く迄叡慮を煩し奉りたるは実
笑し、其電報の無責任なるに驚き、其人格を以て紳士として伍
す可きものにあらず杯悪口を極め居り候。其外第一軍従属観戦
今日に至りては残留せる各外国武官通信員等は彼等の軽挙を曝
者の如き、鴨緑江付近に於テ追及せし当時は彼我事情の通セサ
に意外の事にて、恐催措く能はサる所に御座候。抑も前述通信
実には候得共.彼等は前にも申述べ候通り第二軍従属者にして、
員等力満腔の不快を似て当戦場を退去せしは、争ふ可らサる事
七月三十日始めて青泥窪に上陸し其戦地に来着せし時は己に大
たる者も有之候得共、此等も亦右と同種類の人物に外ならス候。
る力為め多少不服モありて幾分途中より退去を願出戦場を去り
足を表し一点の不平無之候。要するに過日第二軍より退去の途
爾余戦地に残留の者は、爾来我力主任者との意志も疎通し皆満
石橋戦闘終結後にて、遼陽の会戦を以て実に彼等観戦第一回の
して北進するに際し、万一観戦者に不慮の怪我杯被らしめては
機会に遭遇したるモノに有之、当時我軍の急劇敵の退却を圧迫
却て気の毒にも有之、勇戦線後方適宜の距離以内に進むことを
104
《井口省吾文書>及び解題(1〕
事実の真相は掩はんとして掩ハル可きものに無之、今日に至り
僚中劣等の人物に有之、仮令彼等力如何なる電報を捏造するも、
中自己の感情に駆られ無責任の虚電を発したる輩の如きは、同
村橋影暗水声萌
野竹韻遥風勢細
如遠峰既在未昇
妙以馬眸爆初合
黙々隔林看数燈
部□夜市□非遠
ては已に此言を証明して余り有る儀と奉存候。斬る事情の下に
在て彼の訓令全世界に公表せられたる儀に候ヘハ、此儀に関し
年末︶﹂と記されている。︺
︹余白に﹁右柴野栗山之詩、 大山元帥書、煙台滞陣中︵明治三十七
児玉総参謀長は巌に対しテ相済まサる事とし自ら責を引き、去
月二十二日附を似て閣下に宛辞表を提出されたる儀にて、同官
1 明治37年2月22目
=一一、小川又次
旅順出張中の折とて当時巌は毫も之を知らス貴電等に依り始め
て承知したる儀にて、心情誠に気の毒に不堪、事の絃に至れる
謀長に止マらス高級参謀連も本件を深く心外とし、総参謀長の
ロキ被下難有、御蔭を以内外頗ル好都合得申候間、此段厚御礼
恭啓 爾後益御清栄奉賀候。先日上京之節願上置候件、早速御
は巌の甚タ遺憾に存する次第に有之候。辞表の事は、独り総参
責を分チ進退を可決旨申出候得共、一面には軍国の利害を説て
申上候。借御承知之通り、当師団ヨリハ朝鮮及ヒ其他二大分兵
之を宥しめ置き一面には総参謀長の帰遼を待ち貴電の趣旨を徹
に従ひ篤と談合の上本件は無事落着致候間御安意可被下候。右
底可致と存居候処、昨日旅順より帰来候に付、早速貴電の趣旨
ス時ハ、大二兵力減少致し、作戦上不弁利不少被存候間、師団
動員之場合二在テハ一応御返し可被下哉。若シ御計画上返ス訳
力派遣致居候始末二有之、此兵力ヲ其儘二致シ師団之動員ヲナ
二不至義二候ハN、途中二於テ師団二合シ候様予メ御計画願度
観戦外人取扱井総参謀長進退に関する顛末絃に電報の不備を補
ひ.一応御含迄達高聞度如此に御座候.秋冷軍国多事ノ秋に際
酒気花香満面蒸
嵯峨夜帰
3 明治37年
賛助ヲ得サレハ急二相運申間敷.呉々も御依頼申上候.右御礼
願上候。尤モ此事ハ児玉君えも一筆願書差出置候得共、貴君之
松川其他ト御協力之上、前陳希望之通リ相運候様、偏二御尽力
シ申度、部下一同リソく罷在候間、宜敷御洞察被下、落合、
候。今回ハ千載一遇之決戦ニモ有之、且ツ当師団ノ名誉モ相顕
し、閣下の御健康を祈り、絃に誠実なる敬意を表し候。頓首
□踵引客別山僧
105
法学研究62巻1号(’89二1)
十一日出ノ手紙見タ。大将ノ転職二付キテハ、長谷川第三軍二、
レハ紛議ノ生スルモ計リ難シ。慎重二再考ヲ望ム。
勇重而御依頼申上候。勿々不備
児玉
二月二十二目 又次
追而、当師団ハ第三軍二属スルトモ云ヒ、又ハ第二軍二属
井口殿
︹余白に﹁児玉大将書︵真筆︶﹄と記されている。︺
長岡
西遼東︹書簡切れ︺二、乃木韓国二当タルヲ当然ト考フ。然ラサ
スルトモ内々評スルヲ聞居候。何レニ属スルヤ極密ニテ小
益御勇猛御鞍掌奉敬賀候。陳ハ今度之動員□我々其電命二接シ
1 明治37年3月6日
二九、立見尚文
生限リ承り度候。
と記してある。︺
︹余白に﹁第四師団長小川又次書︵明治三十七年二月二十二日付︶﹂
二三、児玉源太郎
シ大二疑惑ナキ能ハス。固ヨリ敵状二因リ臨機之御処置二出候
可申ト心窃カニ期待罷在候処、何ソ図ラソ本日電命ハ之レニ反
儀ハ申迄も無之候得共、個人之心情ヨリシテ如何も落胆之外無
2 明治37年9月
目的地タル沙河左岸二達シタレハ、速二防禦陣地ヲ構成スベシ。
極々ノ内意
仰キ願クハ従来之御懇情二依リ御内洩之栄ヲ恭スルニ於テハ尚
共有之候哉、或ハ尚勝ル任務ヲ課セラルベキ哉、本官迄伺試候。
文之本懐不過之候。此如偏ヘニ御依頼申上候。頓首
之候.是レカ為メ我々力内々承る任務之大体二於て御変更之事
敵ハ尚ホ本渓湖ノ方面二突出スルノ志シアルモノX如シ.故二
コレ一ツハ我兵ノ疲労ヲ救ヒ、一ツニハ有力ナル予備隊ヲ求メ
我ハ有力ナル予備隊ヲ得ルニ至レハ、東方即チ撫順ト本渓湖ノ
井口少将閣下
三月六日 立見尚文
ン為メナリ。
街道二突出シ得ルノ時機ヲ作ラソトス。
と記されている。︺
︹余白に﹁第八師団長男爵立見尚文書︵明治三十七年三月六日付︶﹂
此戦闘ハ尚ホ数日継続スベシト決心セサルベカラズ。
︹余白に﹁明治三十七年九月遼陽戦後児玉大将自書﹂と記されてい
三〇、田村恰与造
る。︺
8年︵長岡外史宛︶
明治3
3
106
《井口省吾文書>及び解題(P
尊簡拝読候所、益御清康奉賀候。定め而御繁忙之事と奉推察候。
4 明治36年5月21日
リ﹂と記されている。︺
︹余白に﹃明治三十七年三月下関ヨリ大本営二向ケ発送セシモノナ
上御取計ヒ被下度ク、先ハ貴答まて。草々頓首
田三名之身上異存無之、就而ハ総長閣下之御意見を伺ハれ、其
拝啓 益御清武奉賀候.其後ハ意外御無音多謝々々。陳ハ夙二
1 明治38年10月10日
三八、野聞胴
六、七日ニハ相終リ帰京可致事二相成可申候。松石、有田、栗
当方も天気不十分なれ共敢て進行を妨害せす、此分なれハニ十
五月二十一日 田村拝
れバ、戦後の経営二関し砲兵の如きハ消極論之由、実二砲兵ハ
承リ候ヘバ追々御帰京之由、就而ハ過日来東京ヨリの通信二拠
決勝の兵種ニハ無之候得トモ現制の列強二譲歩する方二露国の
日々一通ツ﹄書状相届き候旨堀内副官え御伝声被下候。
夫レニ比しても寡少二て、今後諸列国砲兵の増加ハ必然二可有
井口賢兄
︹余白に﹁参謀本部次長田村恰与造千葉県稲毛転地作業中井口総務
三四、豊島陽蔵
ル如キハ敢テ取らさる所.是非とも十二中隊の旅団ナラサル可
なもの二して仕舞、今日又二十八年制即チ九中隊聯隊ヲ主張ス
十八年の当時ハ此編成ニシテ可ナリシ、然るを現在の如くへん
る。︺
部長二宛テタル書︵明治三十六年五月二十一日付︶﹂と記されてい
1 明治37年3月11日
ラズ、其所用砲二至テハ尚研究ヲ要シ可申と窃二痛心之折柄、
痛心二耐へさる所、現二二十八年の編成ヲ再用セんとすと、二
之、此際兵科的感情ヲ以て消極論を主張スルモノアル如キハ甚
井口少将閣下
二関する鄙見多々有之候得共、他日二譲リ不取敢此段御含之程
閣下御出京との報二接し欽喜二耐ヘズ、予メ右相願置候。尚之
三月十一日 豊島少将
ニ有之、是非其筋之採用希望罷在候。其後時日も大分相立候得
拝啓攻城砲兵編成に関スル卑見ハ先達親敷御話申上置候通リ
勿々頓首
十月十日 駒拝
奉願上候。乍去尚御高見御示教之程も奉希上候.書外後信え.
井口大兄座下
バ、今頃ハ各部隊ノ編成及同編成要領等も確定致候義と推察候
二付、同君二御教示被下度、さすれハ同官之出状二より御話之
二就てハ、其大要拝承仕度、小生旅行中二付、吉田大尉差出候
事項伝承可仕候。先ハ右御依頼申上度、如此二御座候。拝具
107
法学研究62巻1号(’89:1)
︹余白に﹁第一軍砲兵部長ヨリ遼東兵姑監井口少将二宛テタル書︵明
︹余白に﹁原口、大正八年六月十八日麗去、陸軍中将男爵原口兼済
1 明治37年4月18日
四三、原ロ兼済
拝啓 益々御健勝奉大賀候。陳ハ下官病気二付テハ不容易御配
1 明治37年1月11目︵児玉源太郎宛︶
四五、福島安正
書。明治三十七年四月京城ヨリ。﹂と記されている。︺
昨十七日作戦計画漏洩之件二関し御電報受領候処、素ヨリ当部
慮相煩ハシ候処、転地以来目々順快二赴キ候間乍余事御放神奉
治三十八年十月十日付︶少将野間嗣書﹂と記されている。︺
二於テ該計画ヲ知リ居ル者トテハ一人モ無之、又兼テ出発前種
様御配慮相煩ハシ度、数タル僅二一万二候へ共、利用ノ如何ニ
願候。此時事繁急ノ秋二際シ、医師之勧告二従ヒ心ナラス静養
ヨリテハ敵ノ五万、十万ヲモ脅威スルヲ得ベク、仮リニニ十人
仕リ居候事、実二慨歎之極二御座候。御諒察奉希候。
被存候へ共、元来新聞紙ナル者ハ自カラ為ニスル処アリテ、某
ノ小部隊ヲ編成スルモノトセハ、即チ五百隊ヲ作ルヲ得テ、数
々承ル処モ有之、各自相誠メ、官衙ノ意見ハ勿論箇人ノ説トシ
官衙ノ意見或ハ其軍人ノ所説杯ト唱へ往々無責任ヲ以テ其紙上
百ケ所ヨリ敵ノ弱点ヲ蜂撃シ、鉄道ヲ破壊シ倉庫ヲ焼キ橋梁ヲ
青木大佐ヨリ請求シ来候銃器ハ、何卒一日モ早ク御送附相成候
二掲載シ流布スルコトハ其例珍シカラス、万一ニモ是等ノ記載
ハ新聞紙上二斯ル事柄ヲ掲載セシヨリ御配慮相成リシ事欺ニモ
ヲ以テ直二事実ト御認定相成二於テハ、当部ノ迷惑不 、若シ
二是等ノ兵器弾薬ヲ上陸セシメ得ルハ、今日コソ実二最終ノ時
断ツ等、我二有利ノ働キヲ為サシムルヲ得ベク、而シテ秦皇島
テモロ外セシ者無之ハ小官ノ信スル処二候。依テ考フルニ、或
セシムルノ必要有之候間、御認定ノ上ハ一々御指摘相成度候。
ニ至ラγ。一刻モ早ク御断行之程奉祈候。
機ニシテ、時局一層切迫セバ之ヲ此地二揚ルコト到底望ミナキ
又実際上斯ル事柄ヲロ外スル者有之二於テハ、直二当地ヲ退去
候。拝
此後作戦之進捗二伴ヒ類似之流言百出スルヤモ難計二付右申進
四月十八日 原口少将
多大ナリ。因テ軍司令官及ヒ師団長ヲ補佐スル参謀長二其人ヲ
要ニシテ.此勝敗ハ彼我及ヒ世界ノ人心二影響ヲ及ボス事実二
二伸過日諸外国公使ヲ訪間セシ処、先方ヨリモ答礼トシ
リ沈思果断ニシテ遅疑逡巡スル事ナキ性能ヲ具備スル者二非レ
得ルト否トハ其関スル所勿論容易ナラス、実歴二富ミテ胆略ア
時局破裂ノ場合二至ラバ、初期ノ戦闘二勝利ヲ収ムル事殊二緊
テ来訪候へ共、貴地ニテ考慮セシト違ヒ彼我ノ談話一語モ
井口少将閣下
作戦上二及ヒシ事無之ハ意外ノ感有之候。
108
《井口省吾文書>及び解題(1)
約四千浬
チャゴス島
二一千浬
ダマランド
バ其職責ヲ全フスルコト困難二可有之、宇佐川、秋山、内山、
列強ノ兵、公使館護衛ノ名ノ下二続々韓京二乗リ込、ミ候二付テ
館二千五百浬
大迫四少将ノ如キハ軍参謀長トシテ最モ適当ノ人々ト奉存候。
ハ、此方面ノ時局モ幾分力錯雑ヲ来シ可申、乱麻ヲ断ツハ、常
スソダ海峡
マダガスカル︵北港︶
二優勝ノ威力二有之候間、此好機会二於テ鉄道保護ノ名ノ下、
一千五百浬
〃三千五百浬
堂々ト仁川ヨリ混成旅団ノ兵力ヲ上陸セシメラレテハ如何二候
是等ハ既二御胸算ノ儀今更申上候マテモ無之候得共、熱情之盗
哉、万一時機ヲ失シ一日ヲ緩フスヒハ此方面ノ形勢モ益々錯雑
計一万三千五百浬
柴昆
ル﹄所不悪御領承被成下度候。
困難ナルニ至ラγ。各国兵ノ上陸ハ実二我二好時機ヲ与ヘタル
一時間十五浬ノ速力ヲ有スルモノトスレバ、此航海目数三十七
モノト確信仕候。京城今後ノ形勢ニヨリテハ、秋山少将二原田
時下御自重専一二奉祈候。敬具
大佐ヲ附シ御派遣ノ必要可有之カト愚察仕候。
ニテ五日ヲ費ヤシタリ。故二一ケ所二少クモ五日ヲ費ヤスモノ
トセパ、ダカールヨリ柴昆二達スルマテ更二通計二十日ヲ要ス
日トス。艦隊ハ炭水補給ノ為メタンジール一一テ七日、ダカール
児玉次長閣下
一月十一目 安正拝
ベシ。
特ノ少将、満州軍参謀︶力某亜細亜近海二顕ハル∼時期ノ判断、嶋
︹余白に﹁明治三十七年末露国.ハルチック艦隊東航ノ際福島大将︵当
一月下旬ナラソ
而シテ柴昆二五日ヲ費ヤスモノトセバ、台湾海峡二顕ハル﹄ハ
目ナルヲ以テ、柴昆二達スルハ早クモ一月十二日頃ナルベク、
数ハ五十七目ニシテ、該艦隊ノダカール解縫セシハ十一月十六
故ニバルチック艦隊ノダカールヨリ柴昆二来ルマテニ要スル日
︹余白に﹁陸軍大将従二位功二級勲一等男爵福島安正書。本書ハ明
部長︵少将︶トシテ在職中罹病湘南病院二転療先ヨリ。男爵ヨリ当
治三十七年日露両国々交将二破裂セントスル時二際シ参謀本部第二
八日麗︶。福島少将転療中ノ書︵明治三十七年一月︶。﹂と記されてい
時ノ参謀次長子爵児玉源太郎二宛テタルモノナリ︵大正八年二月十
る。︶
2 明治3
7年11月
ダカール
109
法学研究62巻1号(’89:1)
筆也﹂と記されている。︺
四六、福原信蔵
十一月十九日
台中 隆礼
拝啓 □外之御無音申上居候処、益御荘剛奉慶賀候。□□説承
拝啓 東郷少佐の敵手二落チタルハ、誠二我軍ノ為メニ不幸ナ
1 明治37年2月21目
四八、松石安治
︹余白に﹁台湾屯在混成旅団長前田隆礼書﹂ と記されている。︺
省吾老兄座下
れハ、過日浜橋小学風災之節ハ御□子様方御出校中之由二有之
1 明治36年10月1日
候処、御幸運□御無難二而御遁れなされ候由大賀々々、乍延引
ルノミナラス、本人の為メニハ実二悲シムヘキ出来事二有之、
省ヨリ在義州岡部外交官補引上ケノ電報林公使ノ下二達シタル
小官モ亦責ヲ免レサル義ト深ク恐縮罷在候。扱少佐力最初義州
クヘキコトヲ該電報ノ末尾二附ケ加エラレンコトヲ林公使二依
以□□御祝詞如此二御座候。早々敬具
六等避難二対スル見舞状﹂と記されている。︺
頼セラレタル由二御座候。小官ハ翌朝林公使ヲ訪ヒ始メテ右ノ
十月一日 福原拝
四七、前田隆礼
ニ申述ヘオカサル可ラサルコト有之候。即チ本月四日晩、外務
1 明治36年11月19日
次第ヲ承ハリ.﹁情況ハ未タ決シテ如斯切迫シ居ラス.岡部ハ
ヲ引上ケタル事情二就テハ、同少佐ノ為メニ閣下ノ御含ミマテ
拝啓時下貴地寒気尚増候時節、益以御左右御勇壮時節柄為邦
引上クルモ東郷ハ最終マテ踏ミ止マリテ敵情偵察二任スヘキ
井口大兄
家慶賀此事二奉存候。ニニ小生ハ廃団近き旅団長トシテ閑居消
筈﹂ナル旨申述候処へ岡部ヨリ返電アリテ.本日︵即五日︶午
︹余白に﹁福原少将ヨリ明治三十六年九月二十三日ノ旋風二際シ辰
日罷居申候問、右様御放神被下度候。陳ハ突然之御依頼ニハ候
直二東郷少佐へ宛テ、﹁貴官ハ安州二止マリ任務ヲ継行スヘシ﹄
後一時義州ヲ引揚平壌二行クトノコトヲ承知致候。依テ小官ハ
様ノ電報ヲナシ、且ツ清川江ノ偵察ヲナスヘキヲ附ケ加ヘオキ,
と打電シタルモ、終二達セズ、翌六日安州電信局二宛テ再ヒ同
の の の の の の の の
の の の
時、伊地知閣下モ同席二在リテ、東郷少佐モ亦岡部ト共二引上
見ルニ、少壮者トシテ思慮二勇気勉強優等者ト認メ候間、廃団
得共、已二廃団之参謀大尉満井ハ、小生尚日浅きも同官終始相
之暁きニハ何レか之師団参謀二被補候様、小生之希望スル所二
一方ニハ平壌ノ新庄領事館主任二同様ノ電報ヲ発シ、同人ヨリ
御座候間、老台□□御尽力之程予メ願上度候.為其得貴意候.
勿々不具
110
《井口省吾文書>及び解題(1)
陸路東郷二伝達スヘキヲ依頼シタリ。以上ノ次第二付、東郷ハ
爾来弥御清壮敬賀之至二候。扱ハ先般小官儀近衛第一両師団検
2 明治36年3月25日︵大山巌宛V
五四、山県有朋
二与ヘラレタル訓令ハ痛ク少佐二刺激ヲ与ヘタルニ相違無之ハ、
御協議可致ものと存候得共、別二取調按差出候二付、御一覧之
閲之命を蒙り候付随員之者二命シ順序方法取調候間、於元帥府
つ の の の の の の の の の の
の の の の の の の の の の の の の の の の の の の の の の の の の の の
公使ノ電報二従ヒタル次第二御座候。然ルニ参謀本部ヨリ少佐
決シテ自ラ恣二岡部外交官ト行動ヲ共ニシタル訳ニテハ無之、
少佐ガ現二敵ノヵサツクヲ乗越へ義州二入リテ隠匿シ、且ツ屡
ハ、陸軍大臣、参謀総長、教育総監え一応協議可相成と存候。
上御意見も有之候ハX御伝を可被下候。若別段御意見無之候得
猶細縷得拝晒可申陳候。草々敬具
々露兵ノ披索二遭フモ依然トシテ止マリタルニ由テ知ラレ申候。
在シ、十日出発十三目二義州二着スル予定ナリシ由電報シタル
大山元帥閣下
三月二十五日 山県有朋
少佐ハ八日安州二看シテ諸電報ヲ受領シ、九目一目問同地二滞
モ、実際ハ十五日二着シ居リ候。少佐ハ久シク義州二居リ且ツ
︹余白に﹁山県公書、公ハ大正十一年二月幅日麗ス.年八十五。此
猶一読之上何分之儀小官副官え御示シ可被下候。草々
安東県へ露国軍隊ヲ問フタル等、義州ノ韓人ハ勿論対岸ノ露人
モ悉ク知リ居ルコトナレハ、義州へ隠レ居ルノ困難ナルハ他人
謹啓 旅順御出強之結果、殆と海軍之主力ヲ撃滅シ陸軍之面目
2月9目︵児玉源太郎宛︶
3 明治37年1
書ハ明治三十六年三月二十五日附也﹂と記されている。︺
ヨリモ少佐ガ自ラ承知シアリシハ明白ナリ。然ルニモ係ハラス
カヲ充分二認メラレ度希望仕候。以上ハ事既二過去二属シ今更
ト存候間、何卒事情御洞察ノ上少佐の進退力如何二困難ナリシ
断乎トシテ動カサリシハ、深ク自ラ決スル所アリシニ相違無之
何共致方ハ無之コトニ候得共、動モスレハ少佐ノ過功ガ世間ノ
不過之候.□時沙河方面之情況何時二破裂スヘキモ難測形勢二
迫り、元帥及ヒ老兄目夜焦慮不堪遠察候。如御承知沙河方面二
批評二上ホルコトアランヲ恐レ御参考マテ申進オキ候。早々敬
二月二十一目 松石大佐
スルニ、敵ハ優勢ナル兵力ヲ集メ不遠一挙大決戦ヲ試ミソトス
ルモノ﹂如シ。而シテ増援兵伎ハ続々到達シ充分余力ヲ得ルニ
付、欧州其他ヨリノ諸報告ト奉天以北日々増援兵到着トヲ対照
︹余白に﹁松石大佐書︵明治三十七年二月京城ヨリ︶﹂と記されて
至ラハ、遂二我翼側二突出スヘキハ火ヲ観ルヨリモ瞭々タルガ
井口閣下
いる。︺
如シ.而ノミナラズ亜将去リ黒将総指揮官トナリ陸海車之命令
111
具
法学研究62巻1号(’89:1)
ヲ統一シ一致敏活行動スルノ基礎ヲ造出シタルヲ以テ、敵軍之
運動ハ将来機敏活澄ナルモノト見倣サ﹄ル可ラス。之二対スル
方策ハ固ヨリ御成算可有之と察候得共、旅順之攻囲二多大之兵
︹余白に﹁大正十一年二月一日公爵嘉去年八十五。本書ハ明治三十
七年十二月九日附参謀総長在任中満州へ出征中ノ児玉総参謀長二寄
1 明治37年3月3日
五五、山ロ素臣
リ﹂と記されている。︺
セラレシモノ也。書中元帥閣下トアルハ大山総司令官ヲ指セルナ
正攻法二依リ、一塁ヲ抜ハ又一塁二対スル作業ヲ実施シ、猶多
拝啓 今朝師団へ御訪問被下候由之処、一寸ノ差二て不得拝鳳
頗ル難事ニシテ大二考慮ヲ要スル儀と存候。殊二旅順之攻略ハ
力ヲ分割スル今日二於テ、応機有利二我軍之作戦ヲ導カンコト
大之時日ヲ要スベシ。故二稽正攻之進捗ト共冒二般之敵情及ヒ
実二遺憾之至候。唯今停車場二て一寸二ても拝暗得度と相考既
二出懸ケ候処、又々差支相生し不得其意、実二残念之次第二候。
老鉄山方面ヨリノ交通ヲ裁断スルモ亦一手段欺ト察候。是亦地
今朝仁田原参謀長より当師団ノ事情ハ御聞取被下候事と奉拝候。
防禦地物等ヲ十分探知シ海陸併進シテ我右翼ヲ進メ、鳩湾及ヒ
ノ外無之候。若果して右之如き不得止之方略ヲ実行スルトスレ
シ随而士気二及ホス影響他師団ノ比ニアラス、其辺ハ当局者二
何分御覧之通リ各師団ノ集中地ナリ乗船地ナリ、其現況ヲ目撃
形上多大之損害ヲ払フノ虞アレハ、徐々攻撃進行之方策ヲ取ル
ハ、敵ノ突出スルヲ防止スルノ兵員兵煩ヲ要衝之地二備へ、残
於テ御洞察有之度、又此節ハ中央部ヨリ多少漏レ聞ク所有之候
余之兵員兵器ヲシテ北上セシムルノ策ヲ講シ、時機二応シ之ヲ
撃破スルハ目下ノ戦況二照シ必要ナランカ、乍去世界之大勢上
罷在申候。何卒御帰京之上ハ大臣次長等へ御相談之上、右等当
事と相見へ、部下二於テ種々ナル風説ヲ相生し甚激昂ノ気味も
衛戌地ノ他処二異ナル事情ヲ御洞察之上、動員丈ケニテモ可相
有之、彼是動員余リ後レ候テハ不容易勢ヒニ立至候哉と甚煩慮
官之情況判断ハ如何ナル方策ヲ決行スルヤ未タ知ル可ラスト難、
成運二発令有之候様御尽力梱願之至二候。乍併今朝長岡又八参
二立ノ覚悟ナカル可ラサルハ実二千載之遺憾也。蓋第三軍司令
終始一貫一方面ノミヲ攻撃スルハ不得策而已ナラス、其目的ヲ
謀長等ノ大兄ヨリ拝承致候咄二て其辺も少しハ安神仕候。何分
ヨリ洞観スル時ハ、敵二大ナル声援ヲ与へ我ハ頗ル不利ノ位置
為国家所祷候。草々頓首
達スル豊容易ナラソ哉、老兄以為如何。時下微骨之寒自重加餐
十二月九日夜 有朋
応も奉梱願候。停車場二て拝顔得ザルハ如何二に残念二付、以
出戦師団ノ引続キ入込候衛戌地之事故、何トカ特別之御臨時対
書中事情申上置候。時下御自愛奉専祈候。草々敬具
児玉将軍幕下
猶元帥閣下及ひ幕僚諸彦え可然御致声可被下候。草々再拝
112
<井口省吾文書〉及ぴ解題(11
三月三日 素臣
追啓、迂生之体ハ昨今全ク全快平常二復申候間、是又諸君
井口大兄
へ御伝へ奉願候。
と記されている。︶
︹余白に﹁第五師団長子爵山口素臣書︵明治三十七年三月三日付︶﹄
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