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郷土における国会開設運動
郷土における国会開設運動 遠藤憲雄 幕末の風雲未だおさまらずとはいえ、慶応3年12月9日王政復古が告げられたこと により、新政への光明がほのかに輝やいてきた。慶応4年の東征軍も、西郷南洲と勝 海舟の会談により大事には至らず、また、戊辰戦争は各所にあったが割合小規模に 終った。 明治元年3月14日には5箇條の御誓文が発布され、その翌年の明治2年には、全国 の各藩主による版籍奉還が行なわれた。更に明治4年7月には廃藩置県となって、こ こに中央集権がはかられた。このようにして政治は一応整ってきたが、政府の藩閥専 制化の傾向は強く、一般民衆は幕政時代と変わらず、新政が何たるものかもわから ない状態が続いた。 この時にあたり、明治7年板垣退助、福島種臣等が民選議員設立建白書を政府に提 出し、国会既成同盟を結成し、自由民権の運動を起こし藩閥政治に抵抗した。政府は これに対し、明治8年に新聞紙条例と讒謗律を、同9年には出版条例を、同13年に は集会条例を出して弾圧を加え、又地方府県会開設など漸新的態度も示して、この 自由民権運動をおさえようとした。しかし、こうした自由民権運動は各所にひろまって いった。 我が郷土においても相当活発に動いていたことが、大和市上和田の小川武氏所蔵の 「小川正人氏記録」によってもうかがうことができる。記録中の締盟書は次の通り記さ れている。 締盟書 我叡聖ナル 天皇陛下ハ天地神明ニ誓ハセラレ 聖意ヲ詔シテ曰ク 廣ク集議ヲ盡シ万機公論ニ決ス、ト是實ニ明治初年即位ノ始メタ リ、当時國民未ダ封建之餘習ニ慣レ、其ノ羈絆ヲ脱セズ、卑屈ニ安ンズルノ風俗尚存 スル有テ此ノ聖意ノ所在ヲ顧慮細志スル者アラザリ、然リ而シテ気運漸ク變遷シ今哉 勅諭ノ責ムヘキヲ知リ、且自治ノ重ンズベキヲ覺リ而シテ國會開設ヲ政府ニ請願シ、 以テ至仁ナル 聖意ニ報ヒ奉ラント欲スルモノ陸續東西ヨリ起ルニ至レリ、嗚呼時既ニ如斯、時己ニ 如斯ナルヲ以テ我高座郡有志輩苟モ此ノ時運ニ際シ豈傍観座視ヲ分トシテ甘ンズベ ケンヤ、因テ今回同志者憤然締盟約結シ、以テ國會開設ノ議ヲ政府ニ願望セント欲 ス、抑モ此ノ擧タルヤ下ハ以テ國民ノ自由福祉ヲ永遠ニ保存スルノ志望ニシテ、上ハ 以テ天皇陛下ノ隆恩ヘ報ヒ奉ラント欲スルニ在リ、故ニ此一事ニ關シ将来多少之艱 難ニ會フモ敢テ志向ヲ變スル事ナカラン爲ニ茲ニ締盟約結ノ連署スルモノ如斯也 高座郡相原村 神藤利八 〃 中新田村 今福元穎 〃 田名村 志村大輔 〃 上谷部村 安藤甚五郎 〃 下鶴間村 古木傳左衛門 〃 当麻村代理 斎藤清左衛門 〃 淵ノ部村 鈴木理兵衛 〃 橋本村 森元次郎 〃 座間村代理 稲垣嘉右衛門 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 四ツ谷村 三輪庄太郎 清兵衛新田 小平平右衛門 下今泉村代理 石室利左衛門 鵜ノ森村 大久保伊兵衛 下九沢村 古木弥兵衛 大島村 山口逸作 下溝村 福田要助 九沢村 山本作左衛門 同人代理 菊地小兵衛 〃 上鶴間村 同 彦右衛門 □谷彦兵衛 〃 矢部新田村 守屋市左衛門 〃 柏ヶ谷村 大貫長太郎 〃 栗原村 大矢四郎左衛門 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 新田宿村代理 加藤直右衛門 磯部村 中村鉄之助 座間入谷村代理 沢田丈之助 小山村 原清五郎 相原村 桐生増右衛門 新戸村 藤尾惣左衛門 上久沢村 笹野源兵衛 上溝村 鈴木藤吉 下九沢村 安西半左衛門 締盟書中高座郡有志と記されているが、連署されているのは明治11年までの大区 小区制の時の第20大区の地域の者のみで、ただ第19大区の一村中新田村が加わ り、20大区の上今泉村が欠けているだけである。高座郡の中部に位する第19大区 の40箇村、高座郡南部に位する第18大区の44箇村の署名は記されていない。もっ とも記録には残っていなくても高座郡は南北に長いので、実際は3部に分けて署名さ れたものと考えることができる。 現在の大和市域内は、下鶴間村の古木傳左衛門氏の署名のみであるが、第19大区 のものもあるとすれば、当時の深見村、上草柳村、下草柳村、福田村、上和田村、下 和田村の有志の名も記されていることであろうと推察できる。 こうした締盟約結は高座郡のみならず、各郡でも行なわれ、さらに同志を募ってつい に相模国9郡としてまとまり、建白書(建言書)を作りこれを元老院に奉呈するまでに 至った。 建言書(正人氏記録) 相模国九郡五百五十九町村二万三千五百五拾五名ノ人民奉申上候 國會開設ノ儀ハ兼テ 主上ノ御誓文並ニ難有御明詔ノ趣モ有之立憲政體、則チ國會開設ノ精神ニシテ取モ 直サズ上ヨリ御沙汰相成候御儀ニテ今日迄ノ所ハ唯其時節未ダ到来不致、漸次ニ 其御運ビ可相成トノ御事ニ御座候処本年ニ至リテハ世上人氣モ彌以テ此開設ニ熱心 仕候趣ニテ既ニ諸方ヨリ出願ノ向モ不尠此事ニ就テハ如何ナル邊鄙ノ田舎ニ至ルマ デモ一句ノ不ノ字ヲ申者無之ハ全ク人心ノ之ニ熟シテ時節到来致シ候儀ト奉存候 就テハ私共二万三千五百五拾五名ノ人民モ矢張リ天下ノ衆論ニ同ジク開設ノ儀飽迄 奉希望候 都テ世ノ中ノ事ハ要用ナクシテ起ルベキニ非ズ、又起ス可キニ非ズ、今國會ノ事モ 差シタル要用無之候ハ態々起シテ上ニ御手数相掛又私共モ徒ニ心配仕候ニモ不及 儀ニ御座候得共、去ル嘉永年中ヨリ外国人渡来、引續キ御一新益々以テ外国ノ交際 繁多相成候ニ付テハ国権ノ事、貿易ノ事何レモ容易ナラザル次第ニテ舊幕布時代ノ 政事ニテハ萬々此日本國ヲ維持スルニ不足トノコトハ三歳ノ童子モ心得候儀ニテ乍 恐 主上ノ御誓文并ニ御明詔モ此邊御明察被爲在候テノ御事ト奉存候 唯其恃ム所ハ兵 力ニシテ、求ムル所ハ利益ノミ、昨日迄ハ懇親ノ條約ヲ結ンデ萬代不易の同盟國ト稱 スル者ニテモ今日其一方ニ釁アレバ則チ之ヲ伐テ之ヲ取リ、天地ノ間ニ之ヲ妨グル 者アルコトナシ、斯ル危キ萬國交際ノ其中ニ我ガ日本モ獨立シテ國威ヲ世界ニ暉サ ントスルハ誠ニ以テ容易ナル儀ニ無之、第一ニハ兵備ヲ厳重ニスルコト肝要ノ儀ト奉 存候、然ルニ今我國ノ常備兵僅ニ五万海軍モ實用ニ適スル軍艦ハ十艘ニ過ギズ護 國ノ備ヘ十分ナリト難申、又泰平無事ノ日ニモ常ニ国勢ノ所在ヲ示シテ他ノ侮ヲ防グ ノ方便ニハ時々海外ニ我軍艦ヲ遣リ、又ハ郵便船ノ仕組ヲ盛大ニシテ世界中海水ノ アラン限リハ我日章ノ旗ヲ飜ス様不致テ不叶次第ハ今日ノ時勢ニ於テ疑ヲ容レザル 所ナレドモ實際ニ於テハ軍艦ノ派遣モ僅ニ一年一艘ニ足ラズ、郵便船汽船ノ如キモ 香港ヲ過ギテ一歩ヲ進ムルコトヲ能ハズ、誠ニ以テ微々寥々タルコトニ有之、斯テハ 迚モ外國ヲ威スルニ足ラザルノミナラズ對立ノ交際モ如何可有之哉、思テ此ニ至レバ 寝食モ安ンゼザル次第ニ御座候 右ノ如ク方今護國ノ用意行届カザルハ國ニ人物ナキニアラズ、又財ナキニアラズ、 唯其人物ヲ政府ニ集ムルコト能ハズ、其財ヲ國庫ニ積ム事能ハザルノ罪ノミ、現今ノ 歳入五千餘万圓ニテハ僅ニ従前ノ政府ヲ維持スルニ足ル可キカ或ハ足ラザルコトナ ラン。近日紙幣ノ下落一圓ニ付五拾銭ノ差ヲ生シ、政府ノ歳入五千万圓ナルモ其實 ハ三千餘万ニ過ギズ、實ニ焦眉ノ急難ト可申、政府ハ何等ノ方便ヲ以テ此ノ財政ノ衰 頽ヲ快復セント欲スルカ、既往ハ論ゼズ今日ニ在テハ大イニ國債ヲ募ッテ急ヲ救フノ 外策略ナカル可シ、然ルニ此ノ國債ヲ募ルニ當ッテ政府ハ果シテ人民ヲシテ悦ンデ 此ノ募ニ應ゼシムル程ノ人心ヲ得タル歟、乍恐未ダ此場合ニハ到ラザルコトト奉存候、 今日ノ有様ニテハ政府ノ日本ニシテ未ダ人民ノ日本ニアラズ、故ニ日本ノ艱難モ唯政 府ノ艱難ニシテ人民ノ艱難ニアラズ、人民若シ國ノ艱難ヲ身ニ引受ケ国難ヲ身難トス ル日ニ到レバ何ソ國財ノ不足ヲ憂フルニ足ラン、国債ヲ募ッテ紙幣ヲ消却スルハ易中 ノ易ト可申モノナリ、其人民ヲシテ国難ニ當ラシムルノ方便ハ他ナシ、唯之ニ参政ノ權 ヲ附與シテ國會ヲ開設スルノ一策アルノミ、政府ハ此ノ焦眉ノ急ニ接シナガラ尚且何 等ヲ顧慮シテ荏苒今日ニ至リ給フ哉、乍恐私共ノ愚見ニ於テ解ス可カラザルコトニ御 座候 或ハ此紙幣消却ノ一條ニ付テモ政府ハ竊ニ内國債ノ募ル可カラザルヲ知リ竊ニ策ヲ 内閣ニ決シ竊ニ外國ノ人ニ談ジテ竊ニ外国債ヲ募ルガ如キアラバ天下後世之ヲ何ト カ言ハン。後世ノ論議ハ姑ク閣キ現ニ今我国中ニ於テ人民必ズシモ怠懈ナルニ非ズ、 資力必ズシモ疲弊シタルニ非ズ。紙幣消却ノ爲メニモ若干ノ内債ヲ募ルモ民力ノ盛衰 ニ毫モ影響ヲ及ボスベキニ非ザルナリ、此ヲ是捨テ外國ヲ仰グガ如キハ経済論ノ一 點ニ就テモ最下ノ拙策ナラズヤ、畢竟内國ニ財ナキニ非ズ、財ヲ集ムルノ方便ナキノ ミ、政府ニ國財ヲ集ムル能ハザルハ民心ヲ収ムル能ハザルガ故ナリ、此民心ヲ収ム ルノ法如何ニシテ可ナラン、唯國會開設ノ一策アルノミト奉存候、右紙幣消却ノ儀ハ 唯財政困難ノ一例ニ擧ゲタル迄ノ事ニテ、私共ノ所見ハ固ヨリ此紙幣ヲ消却シタレバ トテ事ナルトスルニアラズ。紙幣ノ事ハ唯焦眉ノ急ノミ。此急ヲ救ヒ終リテ益々國事ノ 改進ニ着手シ陸海軍ヲ擴張シ、海岸ノ防禦ヲ嚴ニシ、内ニハ大イニ銕道ヲ築造シ外ニ ハ盛ニ郵便汽船ノ線路ヲ擴メ製作工業ノ道ヲ勸メテ商賣貿易ノ法ヲ改革シ、外國ノ人 ヲシテ一毫ノ權力ヲ濫用セシメズ、一銭ノ利益ヲ押領セシムル事ナカランヲ期スルノミ、 乍恐政府ノ御趣意トテ此外ニ有之間鋪、則官民一致ノ接點ナリ、政府之ヲ欲シ、民心 亦熟シ之ニ加フルニ時勢ノ切迫止ムヲ得ザルノ事情アリ。國會開設今日己ニ晩シス ルトモ尚早ト言フ可カラズ。國會今日ニ開設スベキ也斯ノ如クシテ始メテ主上ノ御誓 文并ニ御明詔モ其實ヲ顕ハシ可申誠ニ以テ難有仕合奉存候 何卒願望ノ趣御採用相成候様此段奉申上候也 明治十三年六月七日 神奈川縣相模国足柄上・下郡、陶綾郡、大住郡、愛甲郡、高座郡、鎌倉郡、三浦郡、 津久井郡五百五拾九町村、二万三千五百五拾五名総代 足柄下郡小田原駅十字町四丁目百弐番地 士族 松本福昌 廿壱年十ヶ月 足柄下郡曾我谷津村廿九番地 平民農 長谷川豊吉 廿六年七月 陶綾郡大磯駅百八十四番地 平民農 中川良知 三十九年五月 大住郡小嶺村十九番地 平民農 福井直吉 三十三年 仝 郡馬入村七十四番地 平民農 杉山泰助 三十八年七月 愛甲郡戸室村三十八番地 平民農 霧島久圓 四十三年十一月 仝 郡下川入村三十番地 平民農 小宮保次郎 四十二年 高座郡中新田村四十番地 平民農 今福元穎 三十六年十月 仝 郡相原村六十一番地 平民農 神藤利八 三十四年二月 三浦郡三崎町 平民農 塩瀬與太郎 三十六年五月 津久井郡大井村 平民 梶野敬三 足柄上郡谷ヶ谷村 平民 武尾彌十郎 仝 郡金井島村 平民 下山万之助 高座郡下久沢村三十三番地 平民 山本作左衛門 三十一年九月 元老院議長 大木喬任殿 ここに記された高座郡総代の今福元穎氏は、翌明治14年5月5日には初代稲垣道 生氏の後を受けて第二代高座郡郡長となり、長くこの職で活躍された方である。また 神藤利八氏については、正人氏記録に「利八氏ハ神藤才一氏ノ令兄ニシテ維新当時 近藤勇氏等ト彼ノ有名ナル新撰組ヲ組織シタルコトアリ。後縣會議員トナリ議長、常 任委員ニ歴任シ、板垣伯、中島男等ト國會願望ヲ思イ立チ縣民ヲ代表シテ建白シ、 不成シテ自殺セシ程ノ剛毅ノ人ナリ」と記されている。 この文章からもわかるように、この建白書の奉呈が容易でなかったことが次の奉呈日 誌によってうかがわれる。 奉呈日誌 明治十三年六月五日 豫テ小安村内會決議ノ通リ國會開設上申書ヲ元老院ニ捧呈 スル爲メ、各郡有志者総代足柄下郡松本福昌、長谷川豊吉、高座郡今福元穎、神藤 利八、山本作左衛門、陶綾郡中川良知、大住郡杉山泰助、福井直吉、愛甲郡霧島久 圓、三浦郡塩瀬與太郎ノ十名、東京芝区柴井町旅店和泉屋健蔵方ヘ来着。此ノ日足 柄上、津久井両郡ノ総代上京セズ、何ノ由ナルヲ知ラズ、愛甲郡小宮保太郎ハ出京 ノハズナレドモ病気ニテ来會セズ。 六日 足柄上、津久井両郡ノ総代未ダ来會セズ苦慮甚シ。然ルニ来八日ハ神奈川縣 會ノ發會ニシテ、各郡ノ総代大抵議員ナレバ、時日遷延セバ不都合ナルヲ以テ、先ズ 来會セシ人ノミニテ明日ハ建議ス可シト決シ其ノ手筈ヲ爲ス、折節午前十一時神奈川 縣少書記官河野通倫殿同縣八等屬川北壮蔵殿ヲ以テ左ノ書面ヲ贈ラレタリ。 前略今回國會開設ノ儀ヲ建議スルノ由、 依テハ本縣令ニ於テ一應諸君ノ御意見拝聴 仕度由ニツキ成ル可クハ上京ノ各位一同此 者ト同道御出港下サレ度云々。 因テ一同商議、以爲ク、我儕不肖ト雖ドモ相模国各郡人民二万有餘ノ委任ヲ受ケ國 會開設ノ建議ノ爲出京セルヲ以テ、縦令縣令ノ御意ニモセヨ此ノ事項ヲ閣キ私ニ出港 スルハ本意ナラズト。依リテ其意ヲ川北殿ニ陳ブ。同氏乃チ帰港ス。夜第十一時後ニ 至リ再ビ神奈川縣廳ヨリ今福外三名ニ御用コレ有ル趣ニテ「明七日午前十時登廳致 ス可キ旨云々」ノ御用状持参同縣六等屬伊東某殿来ル。乃チ其請書ヲ出シ、後チ明 朝縣廳ニハ今福、福井ノ両人総代ニテ出頭、其餘ハ皆元老院ニ出頭スルコトニ決シ タリ。時ニ鶏鳴暁ヲ報ズ。 七日 未明ヨリ暴風雨ナリシニ幸ニシテ午前十時、則チ我儕ガ元老院ニ出頭セントス ル頃雨歇ミ雲間日光ノ炯々タルヲ見ル。第十一時元老院ニ出頭、今回出院ノ旨ヲ陳 べ上申書ヲ捧呈ス。喜多川書記生受付ス。暫ク扣所ニ待チ正午第十二時上申書正 ニ受理セシ趣同書記生ヨリ傳ヘケレバ「建議書面ニ就キ不明ノ件アラバ何時ナリトモ 出院辨明スベシ」ト申述ベ、宿所ヲ届ケ退院セリ。寓ニ歸レバ足柄上郡ヨリハ武尾彌 十郎、下山萬之助、津久井郡ヨリハ梶野敬三来會セリ。蓋シ出京ノ時ニ際シ総代ニ 病氣或ハ故障ヲ生シ、彼是齟齬セシヨリ斯ク遅延セシナリト。因テ猶明日元老院ニ出 頭、本日差出セシ所ノ書面ヲ返受シ、両郡モ始メヨリ同盟一致ノコトナレバ之ヲ加へ相 模國全郡ニテ更ニ上申書ヲ差出スコトニ決ス。時ニ今福横浜ヨリ歸リ(福井ハ滞留ス) 曰ク、本日縣廳ニ出頭セシ處、令公深ク我儕ノ躁進輕擧アランヲ憂慮シ数回言論ノ往 復アリタレドモ、我儕素ヨリ憂國ノ眞情ニ出デシコトナレバ始ヨリノ成立ヲ逐一辨明、一 ニ懇誠忠實ヲ旨トスルコトヲ陳べタレバ終ニ令公モ其意ヲ嘉承セラレタリト。 八日 委員中縣會議員ニ當ル者ハ開會ナレバ出港セリ。 松本福昌、武尾彌十郎、梶野敬三午前十時元老院ニ出頭、我儕素ヨリ相模國全郡同 盟一致ノコトナレドモ故アリ足柄上、津久井ノ両郡遅参、漸ク昨夕ニ至リ来會セルヲ以 テ昨日差出セル上申書ハ相模国七郡ナレバ本日更ニ相模國全郡ノ上申書ニ仕度旨 申入レ、乃チ書面引換正午第十二時退院セリ。 九日 本日ニ到テハ松本福昌ノミ猶旅寓ニ滞留ス。蓋シ元老院ヨリ何時ノ召喚アルモ 計ラレザルヲ以テナリ。 十日 本日ヨリ十三日ニ至ル迄他ニ記スベキ事ナシ。 十四日 昨夜ヨリ杉山泰助、中川良知出京彼是議スル所アリ。午前第十時松本福昌 元老院ニ出頭、西山書記生ニ傳達ヲ請ヒ「上申書ノ趣意并ニ地方ノ状況等ニ付御尋 問ノ義可有之ト存ジ本日マデ滞京セリ、若シ右様ノ義候ハバ其主任ヘ面談ヲ請フ」ト 申入レケレバ、暫クアッテ同書記生ヲ以テ「目下尋問ス可キ件之レ無キニ付歸國苦シ カラズ、今後或ハ必ズ尋問ヲ要スルコトモアラン、若シ然ル時ハ在所マデ沙汰ス可 シ」ト乃チ退院ス。 此ニ於テ我儕数年ノ間希望セシ旨趣ハ上達シタルヲ以テ先ヅ奉呈ノ一段ヲ終リ之ヲ 諸君ニ報道セントス。前段記載スル他ニ諸方ヘ往復、諸氏トノ面談等之ヲ筆記スルモ 紙上ノ盡ス所ニ非ス、且嫌忌ニ亘ルノ恐モアレバ諸君ニ相會スルノ日口以テ述べ意 以テ傳ヘ不日立憲政體確立ノ光榮ヲ俟ツノミ 明治十三年六月十四日 捧呈委員記 日誌中に記されている県令に呼戻された経過については、当時の報知新聞がその 詳細を次のように報じている。 去ル六日ノ夜縣令ヨリ右総代ノ内、今福元穎、福井直吉、神藤利八、山本作左衛門 ニ「用事ナレバ明七日午前十時ニ縣廳ヘ出頭セヨ」トノ書面達セシニヨリ一同協議之 上翌日今福、福井ノ両人ハ縣廳ヘ出頭シ、残リノ者ハ同日建言書ヲ元老院ヘ捧呈シ タリ。扨縣令ハ今福、福井ノ両人ヲ縣廳ノ食堂ニ召サレ懇々ト諭サレシ大意ヲ聞クニ 「今度足下等ガ國會開設ノ請願ノ爲上京セシヲ拒ムニアラネド拙者ガ職務上ニ於テ是 迄ノ手續ト足下等ノ意見ヲモ承知シテオカネバ不都合モアリ、又大勢連署セシ趣キ成 ハ、國會ノ何物タルカヲモ辨ヘザル無智ノ細民ガ自ラ進ンデ同意スル筈ハナカルベシ、 且去ル三月廿二日地方官ニ下サレタル 論旨ノ趣モアレバ、躁進過激ニ渉ル者ヲ訓戒シテ其方向ヲ誤ラシメズ 廟議ノ有所ヲ體シ、人民ヲ匡直補翼スルハ拙者ガ職務ナリ。足下等ニ於テ輕躁過激 ノ擧ハ万々有間鋪ケレド、斯ル重大ノ事件ヲ行フニ方リ何故拙者ニ一應相談ハセザリ シ」トノ諮問ニ、今福氏答ヘテ曰ク「手續ト云フハ過般地方官會議ノ節、出京ノ諸縣人 ガ両國ノ中村楼ニ集會シ國會開設請願ノ事ヲ議セシ際、拙者ハ断然他縣人ニ雷同ス ルヲ欲セズ、歸縣ノ上一郷ノ人士ヲ團結シ以テ別ニ政府ヘ建言セント發議シテ衆多ノ 賛成ヲ得タリ。夫ヨリシテ其志益々固ク、歸縣ノ末相州各郡ノ郡長ハ勿論有志諸氏ト 謀リ三月五日ヨリ其事ニ無智ノ細民ニハ初ヨリ憲法又ハ國會杯六ヶ鋪事ヲ説クモ通 暁致スマジキユヘ自由ノ人民ニハ必ズ参政ノ權利アル旨ヲ示シ漸クニシテ了解スル ヲ待ッテ始メテ其ノ参政ノ得ルハ國會ヲ起スニ有ト説キ遂ニ請願書ニ連署セシメテ譯 ニテ、必ズ壓制強迫シテ同意セシメシニアラネバ素ヨリ輕躁過激ニ渉ル擧動ハ致サ ズ、益々團結シ人民ノ知徳ヲ開進セントノ心得ナレバ其辺ノ所ハ必ズ御懸念御無用 ナリ、但シ此ノ重大ノ事件ヲ豫ジメ閣下ニ御相談ヲ致サザリシハ全体拙者等ノ思想ト 閣下ノ思想トハ丸デ反対ナルヲ以テ、御相談申スモ無益ノ事ト初メヨリ断念致セシ故 ナリ」ト陳ゼシカバ縣令モ其直實ナルヲ賞シ、種々談話ノ末「既ニ捧呈セシ建言書ハ 今更致シ方ナケレバ此後呉々モ輕躁暴擧杯無キ様惣代人一同ニ通達セヨ」ト命ジ其 席ヲ退カレシハ午後三時ナリト云フ。 高座郡の締盟書と相模国9郡の建言書については、このようであったが、國會開設を 要求する声はいよいよ全國にたかまっていったので、政府はついに次の勅諭を仰い で民論の緩和をはかった。 「明治十四年國會開設の勅諭」 勅諭 朕祖宗二千五百有餘年ノ鴻緒ヲ嗣キ 中古紐ヲ説クノ乾綱ヲ振張シ 大政ヲ総攬シ 又夙ニ立憲ノ政體ヲ建テ 後世子孫繼クヘキノ業ヲ爲サンコトヲ期ス嚮ニ明治八年ニ 元老院ヲ設ケ 十一年ニ府縣會ヲ開カシム 此レ皆漸時基ヲ創メ序ニ循テ歩ヲ進ムル ノ道ニ由ルニ非サルハ無シ 爾有衆亦朕カ心ヲ諒トセム顧ルニ立國ノ體 國各宜キヲ 殊ニス 非常ノ事業實ニ輕擧ニ便ナラス 我祖宗照臨シテ上ニ在リ 遺烈ヲ擧ケ洪謨 ヲ弘メ古今ヲ變通シ斷シテ之ヲ行フ責朕カ躬ニ在リ 將ニ明治二十三年ヲ期シ議員ヲ 召シ國會ヲ開キ以テ朕カ初志ヲ成サントス 今在廷臣僚ニ命シ假スニ時日ヲ以テシ 經畫ノ責ニ當ラシム 其組織權限ニ至テハ朕親ラ衷ヲ裁シ時ニ及テ公布スル所アラ ントス 朕惟フニ人心進ムニ偏シテ時會速ナルヲ競フ浮言相動カシ竟ニ大計ヲ遣ル 是レ宜 シク今ニ及テ謨訓ヲ明徴シ以テ朝野臣民ニ公示スヘシ 若シ仍ホ故ラニ躁急ヲ争ヒ 事變ヲ煽シ國安ヲ害スルモノアラハ處スルニ國典ヲ以テスヘシ 徳ニ茲ニ言明シ爾有 衆ニ諭ス 奉勅 太政大臣 三条實美 明治十四年十月十二日 この勅諭が発せられてから、ようやく政情も鎮静し、政党が相ついで結成され、政府も また國會開設の準備に本腰を入れることになったのである。