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山梨医科学誌 18(3),47 ∼ 59,2003 原 著 ヘッドスペース固相マイクロ抽出/ガスクロマトグラフィー によるシアンの分析と剖検事例への応用 竹 川 健 一 1,2),木 戸 啓 1),大 矢 正 算 1) 山梨大学医学部法医学教室,2)山梨県警察本部科学捜査研究所 1) 要 旨:固相マイクロ抽出(SPME)法により血液中からシアンを抽出し,ヘッドスペース−ガス クロマトグラフィー(GC)で分析する新たなシアンの分析法を開発し,剖検材料中のシアン分析 に応用して有効性を確認した。 バイアル瓶に血液 0.5 ml,シアン標準液 0.1 ml,内部標準(5 ppm アセトニトリル水溶液) 0.2 ml,無水硫酸ナトリウム 0.3 g および 50 %リン酸 0.2 ml を加え,50°C で加温しながら 65 µm Carbowax-Divinylbenzene ファイバーで 45 分間吸着したのち GC 注入口で 30 秒間熱脱離して GC 分 析を行った。検量線は良好な直線性(シアン濃度 0.04 ∼ 1.0 µg/ml,r2 = 0.998)を示し,検出限界 は 0.02 µg/ml(CN −, SN = 3),回収率は 3.02 ∼ 4.06 %であり RSD は 6.8 %以下であった。シアン ピークの日内および経日内変動の RSD は,7.1 %以下と 9.2 %以下であった。シアン添加実験での 本法と吸光光度法の測定値は一致(r2 = 0.999)した。シアン投与ラットの血中濃度測定でも両法 の測定値はほぼ一致した。 シアン中毒死と疑われる男女の剖検試料中シアンを GC-MS 法で確認し,本法と吸光光度法で定 量分析を行った。男女の血中シアン濃度は致死レベル(3 ∼ 5 µg/ml)以上を示し,胃内容中濃度 はより高濃度を示したことからシアン化合物の服用によるシアン中毒死と判定された。両法の測定 値はほぼ一致(r2 = 0.994)し,本法は実務において利用価値が高いことが証明された。 キーワード シアン,固相マイクロ抽出,ヘッドスペースサンプリング,ガスクロマトグラフィー, シアン中毒死 はじめに 材の燃焼時に発生するシアン化水素が焼死の一 因になり得ると指摘されており 3–5),血中の一 シアンは生体内酵素系とくにチトクロムオキ シダーゼ呼吸酵素系の活性を強く阻害して細胞 酸化炭素ヘモグロビン飽和度とともに血中シア ン濃度の測定が要求されている。 内窒息を起こし死に至らしめる最も即効性のあ 従来,法医学および裁判化学分野におけるシ る毒物である 1,2)。シアン化合物は「毒物及び劇 アンの分析は拡散法によるピリジン・ピラゾロ 物取締法」で毒物に指定され取り扱いは法規制 ン吸光光度法 1,6)が用いられてきた。その後ガ がなされているが,自他殺や企業恐喝などの凶 スクロマトグラフィー(GC)がとり入れられ, 悪犯罪にしばしば用いられている。また,新建 クロル化 7),ペンタフルオロベンジルブロマイ 〒 409-3898 山梨県中巨摩郡玉穂町下河東 1110 受付: 2003 年 8 月 28 日 受理: 2003 年 9 月 12 日 ド誘導体 8) としたのち電子捕獲型検出器 (ECD)で検出する方法,アセトニトリル 9)お よびベンゾニトリル 10)に変換後窒素・リン検 竹 川 健 一,他 48 出器(NPD)で検出する方法などが報告され ている。しかし,これらは誘導体化などの煩雑 Ⅱ.血液 ボランティアから同意を得て全血を採取し試 な前処理や装置の改造が必要であり,実用性に 料を作成した。 乏しい。 Ⅲ.器具および装置 近年,NPD 検出器を用いたヘッドスペー アルミブロックヒータはピアス社製スターラ ス−ガスクロマトグラフィー(HS-GC)が考案 ー付リアクティーサーモを,SPME 装置はスペ され 4,11–13),特別な装置や誘導体化せずに直接 ルコジャパン社製 65 µm Carbowax-Divinylben- シアンを分析することが可能となった。 zene ファイバーアッセンブリーおよび手動用 一方,有機溶剤を使用しない環境に優しい新 ホルダーを,NPD 検出器付 GC 装置は Hewlett たな抽出法として固相マイクロ抽出(Solid- Packard 5890A を,データ処理装置は Hewlett Phase Microextraction = SPME)法が開発され Packard 3396A を使用した。コンウェイセルは た 14)。当初は主に揮発性水中汚染物質の分析 柴田科学社製の標準型を用いた。 に応用されていたが,最近はより複雑なマトリ Ⅳ.HS-SPME/GC 法 ックスを持つ各種生体試料中の覚せい剤,コカ 試料の作成は篠原ら 12)の方法を一部改良し イン,ガソリン,シンナー,農薬,医薬品など て行った。あらかじめフリーザー内で冷やした に応用され,さらに SPME 法と 7 ml 容量のバイアル瓶(スペルコジャパン社 高速液体クロマトグラフィー質量分析を結合さ 製)を氷冷しながらこれに血液 0.5 ml ,内部標 の薬物分析 15) せた自動分析法 16)が報告されている。 われわれは HS-GC に固相マイクロ抽出 準(IS : 5 ppm アセトニトリル水溶液)0.2 ml , シアン標準液(CN− 0.2 ∼ 30 µg/ml )0.1 ml , (SPME)法を組み合わせ,高感度で簡便なシ 無水硫酸ナトリウム 0.3 g,50 %リン酸 0.2 ml アンの分析法を開発した。そして,HS- を加え全量を 1 ml とし,速やかにテフロン・ SPME/GC 法を用いてシアン化ナトリウム服用 シリコンセプタム付きスクリューキャップ(ス による男女死体の剖検材料からシアン分析を試 ペルコジャパン社製)で密栓した。これを約 み,本法の有効性を確認した。 30 秒間振り混ぜたのちスタラーバーでかくは んしながら 50°C のアルミブロックヒータ上で 実験材料および実験方法 45 分間加温した。SPME ファイバーは手動用ホ ルダーを用いて加温と同時にバイアル内に突き Ⅰ.試薬 刺し,液相部を露出して 45 分間吸着させた直 シアン化カリウム,リン酸,水酸化ナトリウ 後に GC 分析を実施した。なお,実試料の分析 ム,p −ジメチルアミノベンジリデンロダニン, においてはシアン標準液 0.1 ml の代わりに蒸 クロラミン T は和光純薬社製の試薬特級を, 留水 0.1 ml を添加して全量を 1 ml とした。 シアノリンブルー(モノピラゾロン:ビスピラ Ⅴ.ガスクロマトグラフィー(GC)条件 ゾロン= 12.5 : 1,W/W)は同仁化学社製を, カラム:スペルコジャパン社製 Supel-Q Plot 0.1 M 硝酸銀溶液は和光純薬社製の容量分析用 (0.32 mm i.d × 30 m),カラム温度: 45°C(2 を,アセトニトリルは関東化学社製の高速液体 min)∼ 130°C(10°C/min),注入口温度: クロマトグラフ用を使用した。シアン標準液は 150°C,検出器温度: 220°C,検出器: NPD 検 シアン化カリウム水溶液(CN− 1 mg/ml )を 出器,キャリアーガス:ヘリウム,流速: 0.1 M 硝酸銀溶液で標定したのち,0.1 %水酸 1 ml /min(45°C,ヘッド圧 40 kps),注入モ 化ナトリウム溶液で希釈して用いた。内部標準 ード:スプリットレス。 (IS)は 5ppm アセトニトリル水溶液を用いた。 Ⅵ.吸光光度法 薬毒物化学試験法 1) に従って行った。コン HS-SPME/GC 法によるシアンの分析 ウェイセルの内室に 0.1 N 水酸化ナトリウム溶 49 実験結果 液 2.0 ml ,外室に血液試料 1.0 ml を入れ,さら に 10 %硫酸 0.5 ml を速やかに外室に注入した Ⅰ.ガスクロマトグラム のちただちにグリセリンを塗布した蓋で密封 本法で用いた GC 条件でのガスクロマトグラ し,静かに揺り動かして硫酸と血液を十分に混 ムを図 1 に示す。シアンピークは保持時間(Rt) 合した。室温で 2 時間放置後,内室のアルカリ 4.1 分に,アセトニトリルピークは Rt 9.2 分に 溶 液 1.0 ml を 試 験 管 に と り , 氷 冷 し な が ら 出現し,妨害ピークの影響は認められなかった。 0.0625 %クロラミン T 含有の 0.75 M リン酸一 シアンピークの形状はシアン化カリウムの酢酸 ナトリウム溶液 0.2 ml を加え,2 分後にピリジ エチル溶液を直接注入して得たピークに比べ若 ン・ピラゾロン試薬(シアノンリンブルー 0.25 干の広がりが認められた。 g をピリジン 20 ml に溶解し,水を 100 ml 加え Ⅱ.SPME ファイバー る)3 ml を加え混和して室温で 40 分放置後, 極性の異なる 4 種類のファイバー(100 µm 波長 630 nm における吸光度を測定した。 Polydimethylsiloxane,85 µm Polyacrylate,65 µm Ⅶ.実験動物 Polydimethylsiloxane-Divinylbenzene,65 µm 体重 175 ∼ 195 g のウィスター系ラット 8 週 Carbowax-Divinylbenzene)について検出され 齢オス 5 匹を用いた。動物実験は山梨大学動物 るシアンピーク面積を比較した。65 µm Car- 実験委員会の承認を得て行った。 bowax-Divinylbenzene ファイバーの与える面積 に 対 し 100 µm Polydimethylsiloxane フ ァ イ バ ー は 47 % , 85 µm Polyacrylate フ ァ イ バ ー は 25 %の面積を与えたが,65 µm Polydimethyl- 図 1. シアン(HCN)とアセトニトリル(CH3CN)の HS-SPME / GC ガスクロ マトグラム. 左図:シアン(CN − 2 ng)とアセトニトリル(1.57 ng)標準溶液のガスク ロマトグラム,右図:シアン(CN −)濃度 0.4 µg/ml と 0.04 µg/ml の血液 (アセトニトリル 0.78 µg を含む)および無添加血液(blank)のガスクロマ トグラム 竹 川 健 一,他 50 siloxane-Divinylbenzene ファイバーは痕跡程度 け,平衡化し圧力が高まっているバイアル内に のピークを与えるにすぎなかった。したがって, ファイバーを挿入すると内部のガス漏れにつな 本法では 65 µm Carbowax-Divinylbenzene ファ がるので,ファイバーを挿入し吸着を開始する イバーを使用した。 のは加温と同時に行った。IS 面積は 15 分以上 Ⅲ.加温温度 で平衡となり,シアンピーク面積は吸着時間と シアンおよび IS を添加した血液 0.5 ml の, ともに増加するが 45 分以上で平衡となった。 加温温度 30,40,50,60°C におけるシアンお さらに,シアン/ IS のピーク面積比は 45 分で よび IS ピーク面積を測定した。シアンおよび 平衡に達するので吸着時間は 45 分とした。 IS ピーク面積は温度上昇とともに増加したが, Ⅴ.熱脱離時間 いずれも 60°C では 50°C のときに比べわずかに シアンおよび IS を添加した血液 0.5 ml を 増加しているのみであった。60°C では他の温 50°C で加温しながらファイバーで 45 分吸着し 度に比べピーク面積値にばらつきが大きく, たのち GC 注入口での熱脱離時間 10,20,30, 60°C 以上の加温では蛋白成分の変性は起こり 50,80 秒におけるシアンと IS ピーク面積を測 易くなり液相の不均一化およびアーティファク 定した。IS ピーク面積は 10 秒から 80 秒の間で トの生成が懸念されることなどを考慮して加温 はわずかに増加するのみであった。したがって, 温度を 50°C に設定した。 IS は瞬時に熱脱離するものと考えられた。シ Ⅳ.吸着時間 アンピーク面積は熱脱離時間が長くなるにした シアンおよび IS を添加した血液 0.5 ml を がって増加したが,30 秒の熱脱離でシアンの 50°C で加温し,吸着時間 15,30,45,60 分で 大部分が熱脱離しているものと認められた。50 シアンおよび IS ピーク面積を測定した結果を 秒以上ではピークのテーリングが大きくブロー 図 2 に示す。バイアル内を平衡化したのちフイ ドなピークとなりシャープさに欠けた。この傾 バーで吸着を行うと分析時間が長く迅速性に欠 向は熱脱離時間が長いほど強くなり,ピーク割 図 2. シアン(HCN)およびアセトニトリル(CH3CN)ピーク面積と 吸着時間. ―■―: HCN 面積,―▲―: CH3CN 面積, ―○―: HCN/CH3CN 面積比 HS-SPME/GC 法によるシアンの分析 51 れを起こし,測定値のばらつきも大きくなった。 ン化カリウムおよび IS を溶解した酢酸エチル ピークは熱脱離時間が短くなるにしたがってシ 溶液を直接 GC に注入(CN− 2 ng,IS 1.57 ng) ャープになったが,ピークの形状とピーク面積 して得られたピーク面積を比較して,SPME フ を考慮して熱脱離時間を 30 秒とした。 ァイバーでの回収率および相対標準偏差を求め Ⅵ.塩析効果 た結果を表 1 に示す(n = 6)。各濃度における シアンおよび IS を添加した血液 0.5 ml に塩 化ナトリウムあるいは無水硫酸ナトリウムをそ シアンの回収率は 4.06,3.49,3.02 %であり, 相対標準偏差は 6.8,6.3,5.1 %であった。ま れぞれ 0.1,0.2,0.3,0.4,0.5 g 加えてシアン た,IS の回収率は 0.21 %,相対標準偏差は 7.1 および IS ピーク面積を測定した結果を図 3 に %であった。 示す。シアンピーク面積は塩化ナトリウムおよ Ⅷ.再現性 び無水硫酸ナトリウムともに 0.3 g 以上の添加 血 液 0 . 5 m l に シ ア ン ( C N −) 0 . 2 , 0 . 5 , でほぼ一定となり,IS ピーク面積は塩化ナト 1.0 µg を添加し,シアンピーク面積の日内変動 リウムで 0.1 g 以上,無水硫酸ナトリウムでは および 6 日間における経日内変動を測定した 0.2 g 以上の添加でほぼ一定となった。無水硫 (n = 6)。各濃度における日内変動の相対標準 酸ナトリウム添加群は塩化ナトリウム添加群よ 偏差は 7.1,5.7,5.3 %,経日内変動の相対標 りも常にシアンおよび IS ピーク面積の増加が 準偏差は 9.2,6.2,5.8 %といずれも良好な結 認められた。したがって,塩析剤は無水硫酸ナ 果が得られた。 トリウムを 0.3 g 添加することとした。 Ⅸ.検量線 血中シアン(CN−)濃度 0.04 ∼ 1.0 µg/ml に Ⅶ.回収率 血液 0.5 ml にシアン(CN )0.2,1.0, − おいて内部標準法により検量線を作成した 3.0 µg および IS を添加して SPME ファイバー (n = 6)。検量線は良好な直線性を示し,回帰 で抽出して得たシアンならびに IS 面積とシア 式は Y = 7.64X + 0.247,相関係数 r 2 = 0.998 図 3. シアン(HCN)およびアセトニトリル(CH3CN)ピーク面積と塩析効果. ―■―: HCN 面積(Na2SO4 添加),―□―: HCN 面積(NaCl 添加) ―▲―: CH3CN 面積(Na2SO4 添加),―△―: CH3CN 面積(NaCl 添加) 竹 川 健 一,他 52 表 1.HS-SPME / GC 法による血中シアンとアセトニトリルの回収率 化合物 添加量 (µg) 回収率± SD (%) 相対標準偏差 (%) シアン 0.2 1.0 3.0 0.78 4.06 ± 0.276 3.49 ± 0.221 3.02 ± 0.162 0.21 ± 0.015 6.8 6.3 5.1 7.1 アセトニトリル 吸光光度法(CN µg/ml ) SD :標準偏差 HS-SPME 法(µg/ml ) 図 4. HS-SPME/GC 法とコンウェイセルを用いた吸光光度法によるシ アン濃度の相関. であった。なお,シアン(CN − )の検出限界 いて血液試料とそれぞれ同じ操作を行って作成 はおよそ 0.02 µg/ml(SN = 3)であった。 した。 Ⅹ.吸光光度法との対比 ⅩⅠ.ラットへの投与実験 血中シアン(CN−)濃度 0.1,0.2,0.5,0.8, ネンブタール (ペントバルビタール)で軽 1.0 µg/ml の標準試料を調製し,各試料のシア 度に麻酔したオスの 8 週齢ウィスター系ラット ン濃度を HS-SPME/GC 法および拡散法による 1 匹(体重 175 g)には生理食塩水を,4 匹(体 ピリジン・ピラゾロン法により定量した値を比 重 181 ∼ 195 g)にはシアン化カリウム 0.25, 較した。ピリジン・ピラゾロン法では血液 0.5,1.0,2.0 mg をそれぞれ腹腔内に投与した。 1 ml を使用して定量を行い,HS-SPME/GC 法 20 分後開胸して注射器で心臓血を採取し,ヘ では血液 0.5 ml を用いて得た値を 2 倍して定量 パリンナトリウムで凝固防止を行った。HS- 値とし,それぞれの平均値(n = 5)を図 4 に SPME/GC 法および拡散法によるピリジン・ピ 示す。両法の測定値は良く一致し,回帰式は ラゾロン法により血中シアン濃度を測定した結 Y = 0.833X + 0.015,相関係数 r = 0.999 であ 果を表 2 に示す。両法による測定値はおおむね った。なお,両法の検量線はシアン標準液を用 一致していたが,HS-SPME/GC 法は吸光光度 2 HS-SPME/GC 法によるシアンの分析 53 表 2.ラット腹腔内シアン化カリウム投与後の HS-SPME / GC 法と吸光光度法による血中シアン濃度 ラット 1 2 3 4 5 シアン濃度 (CN − µg/ml ) 体重 投与量 (g) (KCN mg) HS-SPME/GC 法 吸光光度法 181 183 190 195 175 0.25 0.5 1.0 2.0 生理食塩水 2.5 4.6 6.9 13.0 不検出 2.1 4.2 6.8 12.2 不検出 法より若干高い値を示した。 動物を 200 ml 入れる。胃内容物上でシェーン バイン−パーゲンステッヘル反応を試みたとこ 剖検事例への応用 ろ,弱陽性であった。胃底の粘膜に 5 × 3 cm の暗紫赤色腐食性びらんが認められる(図 5)。 Ⅰ.事件概要 子宮体右側に大きさ 7 × 9 cm 大,重さ 250 g の 積雪が残る 3 月,山梨県内の林道にドアがロ 硬い筋腫を付着する。心内血中,尿中のエチル ックされて停車中の乗用車内で男女の死体が発 アルコールおよび心内血中の一酸化ヘモグロビ 見された。運転席側ドアの取手部にティシュペ ンは検出されなかった。 ーパーに包まれた白色粉末入カプセルが発見さ Ⅲ.剖検材料中のシアンの定量 れ,山梨県警察本部科学捜査研究所で分析した 男女死体は,解剖所見および胃内容物上での ところ,約 0.8 g のシアン化ナトリウムである シアン予備試験結果からシアン化合物を服用し と同定された。そのためこの男女は自殺関与の た可能性が高いと判明したので,男女の剖検材 疑いで翌々日山梨大学医学部法医学教室におい 料中のシアン濃度を HS-SPME/GC 法と拡散法 て司法解剖された。 によるピリジン・ピラゾロン法により測定した Ⅱ.主要解剖所見 値を比較した。さらに,ガスクロマトグラフィ A.男性死体 ー質量分析(GC-MS)法を用いてシアン化水 死斑は鮮紅色で腹部,背面,左右前腕に強く 素の確認を併せて行った。 発現し,指圧では消えない。左右上眼瞼に溢血 A.HS-SPME/GC 法 点が少数認められ,左右肺はうっ血と浮腫を示 心内血液,尿,胃内容は蒸留水で適宜希釈し している。胃内には赤褐色流動物を 300 ml 入 た液の 0.5 ml を,各臓器は同量の 0.1 N 水酸化 れ,幽門付近の胃粘膜後面に 5 × 4 cm の暗紫 カリウム溶液を加え氷冷下ホモジナイズし,そ 赤色腐食性びらんが認められる(図 5)。胃内 の 0.5 g をそれぞれ 7 ml 容量のバイアル瓶に取 容物上でシアンの予備試験であるシェーンバイ ったのち,前述の実験方法と同様にして分析し ン−パーゲンステッヘル反応を試みたところ, た。 陽性であった。心内血中,尿中のエチルアルコ B.吸光光度法 ールおよび心内血中の一酸化ヘモグロビンは検 試料は希釈した血液,尿,胃内容 1.0 ml ,ホ 出されなかった。 モジナイズした各臓器 1 g を使用し,10 %硫酸 B.女性死体 に換えて 50 %リン酸 0.5 ml を用いて前述の実 死斑は鮮紅色で胸腹部,背面,左右前腕に強 験方法と同様に測定した。 く発現し,指圧では消えない。左右肺はうっ血 浮腫が強い。咽喉頭から気管気管支内にかけて 透明泡沫粘液を多量に入れる。胃内に赤褐色流 C.ガスクロマトグラフィー質量分析(GCMS)法 HS-SPME 法でサンプリングした試料につい 54 竹 川 健 一,他 図 5. 胃粘膜の腐食性びらん. 上図:男性死体,下図:女性死体 HS-SPME/GC 法によるシアンの分析 て電子イオン化法による GC-MS 分析を行った。 55 Ⅳ.測定結果 装置:島津ガスクロマトグラフ質量分析計 HS-SPME/GC 法および吸光光度法で測定し QP5050A, カ ラ ム : ス ペ ル コ ジ ャ パ ン 社 製 た男女の剖検材料中のシアン濃度を表 3 に示 Supel-Q Plot(0.32 mm i.d × 30 m),カラム温 す。男性では肺が最も高く,次いで脾臓,胃内 度: 40°C(5 min)∼ 200°C(15°C/min),注入 容,心内血液の順で検出された。女性では脾臓 口 温 度 : 150°C, イ ン タ ー フ ェ イ ス 温 度 : と胃内容と心内血液が高値を示し,次が肺と胃 220°C,イオン化法:電子イオン化,キャリア であった。本 2 例の定量結果は男女間で大きな ーガス:ヘリウム,流速: 1.3 ml /min(40°C), 差が認められたが,各臓器へのシアンの分布状 注入モード:スプリットレス。 況は類似した傾向を示した。男女ともこれら剖 検材料における HS-SPME/GC 法と吸光光度法 表 3.HS-SPME/GC 法と吸光光度法による剖検材料中のシアン(CN−)濃度 男 剖検材料 吸光光度法 HS-SPME/GC 吸光光度法 14.7 µg/ml 0.5 µg/ml 24.3 µg/ml 0.4 µg/g 0.6 µg/g 37.0 µg/g 1.8 µg/g 7.9 µg/g 25.1 µg/g 5.2 µg/g 0.4 µg/g 12.5 µg/ml 0.2 µg/ml 23.2 µg/ml 0.4 µg/g 0.9 µg/g 33.8 µg/g 1.1 µg/g 8.4 µg/g 24.3 µg/g 4.5 µg/g 0.4 µg/g 4.5 µg/ml 0.2 µg/ml 4.6 µg/ml 0.1 µg/g 0.2 µg/g 2.4 µg/g 0.2 µg/g 2.0 µg/g 4.7 µg/g 0.5 µg/g 0.1 µg/g 4.1 µg/ml 0.1 µg/ml 6.2 µg/ml 0.1 µg/g 0.4 µg/g 2.9 µg/g 0.1 µg/g 2.1 µg/g 5.7 µg/g 0.3 µg/g 0.1 µg/g 吸光光度法(CN− µg/ml 又は g) 心内血 尿 胃内容 脳 心 肺 肝 胃 脾 膵 腎 女 HS-SPME/GC HS-SPME/GC(CN− µg/ml 又は g) 図 6. HS-SPME / GC 法と吸光光度法による剖検材料中シアン濃度 の相関. 竹 川 健 一,他 56 の定量値はほぼ同様であり,図 6 に示す良好な 相関関係が認められ相関係数は r = 0.994 であ 2 った。 用いられてきた 4,11–13)。 しかし,近年はカラムの分離効率,感度およ び再現性に優れたフューズドシリカキャピラリ HS-SPME/GC 法で検出された剖検資料中の ーカラムが主流となっている。Seto ら 13)はワ シアンピークを HS-SPME/GC-MS 法でマスス イドボアフューズドシリカキャピラリーカラム ペクトルを測定したところ,いずれも分子イオ GS-Q(0.53 mm i.d.× 30 m)を使用してシアン ン M+ 27 がベースピークとなるシアン化水素 の分析を行っており,本研究においても同じ のマススペクトルと一致した。その一例を図 7 GS-Q カラムを用いて分析を試みたが,低濃度 に示す。 領域においてシアンピークにテーリングが強く 生じた。そこでカラム内径が細く同様の固定相 考 察 を持つ Supel-Q PLOT フューズドシリカキャピ ラリーカラム(0.32 mm i.d.× 30 m)を使用し これまで,HS-GC 法によるシアンの分離に て分析を行ったところ,Supel-Q PLOT は低濃 はポーラスポリマー系液相のパックドカラムも 度領域においてもバックグランドレベルは低 しくはフューズドシリカキャピラリーカラムが く,シアンおよび内部標準ピークはシャープに 図 7. 剖検材料 (女性死体心内血液)のガスクロマトグラムとマススペクトル. A 図: HS-SPME / GC 法によるシアン(HCN)とアセトニトリル(CH3CN)のガスクロマト グラム,B 図: HS-SPME / GC-MS 法によるシアンピークのマススペクトル HS-SPME/GC 法によるシアンの分析 57 14.7 µg/ml と女 4.5 µg/ml,吸光光度法では男 出現した。 ワイドボアキャピラリーカラムにおいてもス 12.5 µg/ml と女 4.1 µg/ml であった。いずれも プリットレス注入法では試料注入量に限界があ 致死レベルと同等かそれ以上を示すものであ り,過量の試料ガスはセプタムパージベントか り,死因はシアン中毒によるものと認められ ら漏出し,そのため定量性と検出感度が低下し た。 は注入量が 200 µl を越えると 剖検材料では腐敗によりアミン類や硫化物が ピーク面積と注入量の相関がくずれ,500 µl の 発生し,シアン分析に影響を及ぼすおそれがあ 注入ではシアン化水素で 17 %,アセトニトリ る。そのため本件では剖検材料中のシアンピー ルで 23 %のガスの損失を認めている 13)。しか クを GC-MS 分析し,シアン化水素のマススペ し,HS-SPME/GC 法ではヘッドスペースガス クトルを確認した。HS-SPME 法は GC-MS 法と を注入せずガス中の成分のみを注入する手法で の結合によりシアン化水素の質量測定が可能と た。Seto ら 13,17) あるのでこのような問題は発生せず,SPME フ なり,吸光光度法では不可能であるシアン化水 ァイバーの液相への濃縮効果のため 65 µm Car- 素の同定が可能となるので,吸光光度法では回 bowax-Divinylbenzene ファイバーでの回収率が 避不可能な古い死体材料からの腐敗アミンや硫 3 ∼ 4 %と低レベルにも関わらず検出感度は上 化物などの影響 21)を回避できる。よって,日 昇したものと考えられる。さらに,より内径の 常複雑なマトリックスを持つ試料を取り扱う法 細いカラムを使用することにより高分解能を得 医学および裁判化学分野においては最も重要な ることができた。 分析手法の一つであると考えられる。 NPD 検出器を用いた HS-SPME/GC 法の内部 臓器組織中のシアン濃度の測定に関してはこ 標準物質としてのアセトニトリルは,シアンと れまでほとんど報告がみられない。われわれが は添加剤の影響やヘッドスペース液相の性状の かつて当教室でシアンガス吸入による中毒死体 違いにより気相/液相間での分配に差違が認め を解剖したさい吸光光度法によるシアンの臓器 られると Seto13,17) らが指摘している。本法で 内分布を調べたところ,血液と肺に高濃度つい は適当な低沸点化合物が見つからないので内部 で脾に多く,胃や胃内容からはごく微量しか検 標準物質にアセトニトリルを用いたが,HS- 出されなかった 22)。今回の事件における男女 SPME/GC 法による血中シアンの分析は,血液 はシアン化合物を服用したものでシアンガスを への添加実験,動物実験および剖検例において 吸入したものでないにもかかわらず肺と脾に胃 も拡散法によるピリジン・ピラゾロン法と良好 を上回る濃度のシアンが検出されている。した な相関が認められた。 がって,肺に高濃度のシアンが検出されたから 剖検事例において,男女は死体解剖所見から といってガスを吸入したことにはならないこと シアン化合物を服用したと認められるが,HS- になる。シアン中毒の場合肺のうっ血が強くシ SPME/GC 法により胃内容から男性で アンを含む血量は多い。脾も比較的に血量に富 24.3 µg/ml,女性で 4.6 µg/ml と男性の血中濃 む臓器であるので,高濃度を示すのは血中濃度 度 14.7 µg/ml,女性の血中濃度 4.5 µg/ml を越 の影響が大であると考えられる。しかし,血中 えるシアンが検出され,シアン化合物の服用が 濃度より高い値を示すのは血液量だけでは説明 裏付けられた。 できず,胃内で発生したシアンガスの拡散など シアンの血中の致死濃度(CN− µg/ml 又は g) については明確な値は示されていないが,過去 の影響が考えられるが,原因については不明で ある。 の文献値 3,18-20)から 3 ∼ 5 µg/ml 以上が血中致 シアン中毒死は科学警察研究所の統計 23)お 死濃度と考えられている。本剖検死体の心内血 よび東京監察医務院の統計 24)によると昭和 26 中のシアン濃度は,HS-SPME/GC 法では男 年の新「毒物及び劇物取締法」の施行およびその 竹 川 健 一,他 58 後の法改正により,昭和 30 年ころをピークに よりシアンの定量のみならず質量測定により 以後は激減している。しかし,これとは逆に毒 同定が可能となり,法医解剖死体からのシア 物検査としてのシアン検査件数は「昭和 59 年 ン分析ならびにシアン中毒死の決定にきわめ グリコ森永事件」の発生などの影響により昭和 て有効である。2 例のシアン中毒死例におけ 60 年以降年間 1349 ∼ 2400 件以上と激増してい る体液および臓器内分布データはシアン中毒 る。シアンの検査方法は昭和年代では比色法が 死に関する重要な基礎資料になりうる。 主であったが,平成に入ると検査のほとんどが ガスクロマトグラフィーで行われ,簡便で精度 の高い分析法へと変遷してきている。したがっ て,われわれが開発した HS-SPME/GC 法は検 査方法の進歩に対応し,さらに GC によるシア ンの検査法を前進させるものと確信する。 結 論 固相マイクロ抽出(Solid-Phase Microextraction = SPME)法を用いた血中シアンの新しい 分析法であるヘッドスペース固相マイクロ抽 出/ガスクロマトグラフ(HS-SPME/GC)法 をシアン化カリウムの血液添加およびラットへ の投与実験さらにシアン化ナトリウム服毒自殺 2 例におけるシアンの分析に応用し,従来法で ある拡散法によるピリジン・ピラゾロン法と比 較検討したところ,以下の結論が得られた。 Ⅰ.HS-SPME/GC 法によるシアンの分析は血 液添加実験での再現性と回収率が良好で,検 量線は相関係数 r2 = 0.998 の直線性を示し, 検出限界は CN − としておよそ 0.02 µ g/ml (SN 比= 3)と高感度である。 Ⅱ.HS-SPME/GC 法と従来法である拡散法に よるピリジン・ピラゾロン法を比較検討の結 果,両者の相関係数は血液添加実験では r2 = 0.999,剖検材料では r2 = 0.994 を与え, 非常に良好な相関を有する。 Ⅲ.HS-SPME/GC 法はヘッドスペースガスの 注入を必要とせず,口径の細いカラムが使用 可能で高分解能を期待できる。本法は有機溶 剤を使用しない抽出法であるので環境に優 れ,簡便,迅速,高感度にシアン分析が可能 であり法医実務において利用価値が高い。 Ⅳ.HS-SPME 法は GC-MS 法と結合することに 文 献 1) 日本薬学会編:薬毒物化学試験法と注解,シア ン化合物試験法.南山堂,東京:第 4 版, 75–83,1992. 2) 日本薬学会編:衛生試験法・注解,一般試験法 シアン化合物.金原出版,東京: 91–94,1995. 3) Anderson R A, Harland W A: Fire Deaths in Glasgow Area: Ⅲ The Role of Hydrogen Cyanide. 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