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京都精華大学紀要 第三十一号 − 77− 田中耕太郎の教職観 ――1945年∼1950年頃を中心に―― 住 友 剛 SUMITOMO Tsuyoshi はじめに 本稿は,いわゆる敗戦後の教育改革期において文部省学校教育局長(1945年10月∼1946年5 月),文部大臣(1946年5月∼1947年1月)を歴任した田中耕太郎の教職観と,その前提にあ る国家像や当時の社会情勢への認識,教育観などとの関係について検討を行ったものである。 田中耕太郎の教育観については,第1節で紹介するように,教育基本法制定過程におけるそ の役割との関係で,数多くの先行研究がある。しかし本稿は,これらの先行研究とは視点・方 法を異にしている。 具体的には,占領期教育改革における教員処分体制の形成という,これまで筆者らが検討を すすめてきた問題意識に沿って,田中耕太郎の教職観とその前提にある国家像,社会情勢への 認識を,その当時執筆した諸文献に即して抽出するという作業を中心とした。この点に,先行 研究と本稿との違いがある。 また,筆者を含めた共同研究グループの既発表原稿などでは,占領期教育改革における教員 処分関連諸法令の整備の前提に,田中耕太郎や田中二郎ら当時の教育行政当局者が有していた 「品位ある師表」としての教員像があることを指摘してきた。1) 本稿では,この「品位ある師表」としての教員像が当時求められた背景を,田中耕太郎を例 にとって,占領期における教育行政当局者の情勢認識に即して検討していく。また,田中耕太 郎には『教育基本法の理論』2)など,占領期以後の教育関係の著作もある。しかし本稿では, あえてそれを除外し,あくまでも1945年∼1950年頃の占領期における著作に限定して,その当 時における田中の教職観とその背景にある認識等を検討することにした。さらに,田中耕太郎 は敗戦前,東京帝国大学法学部教授として,あるいは敗戦後も引き続き商法・法哲学などの研 究を行っていたが,これら法学者としての著作3)などについても,本稿においては基本的に検 討対象から除外した。 −78− 田中耕太郎の教職観――1945年∼1950年頃を中心に―― そこで,本稿の主な検討材料としては,対象時期に田中自らが教育について書いた文献とし て,文部省学校教育局長及び文部大臣在職前後に公刊された田中耕太郎の著作2冊,『教育と 政治』4), 『教育と権威』5)を用いることにした。また,田中耕太郎自身による自伝「私の履歴書」6) と,鈴木竹雄編『田中耕太郎 人と業績』7) (有斐閣,1977年)において,この当時の田中耕太 郎について関係者が回想した文章を適宜参考にした。 なお,田中耕太郎は文部大臣を退いた後,参議院議員(1947年5月∼1950年3月)から最高 裁判所長官(1950年3月∼1960年10月)へと転身していった。しかし,本稿の対象時期では, 文部大臣退任後も,教育基本法の解釈や教員運動のあり方などについても発言していた。また, 当時の文部省の官僚のなかには,東大教授時代の田中耕太郎と師弟関係にあったことを懐かし む者もいた。8)このような関係から,文部大臣退任後の田中耕太郎の教職観が,本稿対象時期 の教育行政当局者の教職観と全く無関係にあったとは考えにくい。そこで本稿では,文部大臣 退任後に出版された『共産主義と世界観』9),『善き隣人たれ』10)などにおける田中の教育に対 する諸見解,および田中の論文が掲載された『マルクシズムに対決するもの――批判と反批判 ――』11)も,適宜,参照することとした。 以下,第1節では先述のとおり,これまでの田中耕太郎の教育観に関する研究動向を紹介し つつ,特に最近の研究動向に対する筆者の問題意識などを述べることとする。続く第2節では, まず田中の国家と教育の関係への理解,敗戦後の社会情勢への認識などを,当時の文献に即し て述べていく。続く第3節では,田中の教職観,特に「師表」的イメージの存在を明らかにす る。第4節では,このような田中の教職観が当時の社会情勢においてどのような位置をしめて いたのかについて述べる。そして,第5節では本稿のまとめと今後の検討課題を指摘しておき たい。 なお,本稿は日本教育行政学会第40回大会の自由研究発表(2005年10月15日,東北大学・川 内キャンパス)において,岡村達雄氏(関西大学)ほか筆者含め6人による共同研究発表「占 領期公教育体制における教員処分の実際と構造――教員処分と戦後公教育鴟 ――」の一部と して,筆者執筆部分として発表した原稿に大幅に加筆修正を加える形で,あらためて書き直し たものである。ちなみに,その学会発表時の筆者執筆部分は,「蠡 教員処分の構造的基底」 の「2 教育行政当局者の教職観と情勢認識――田中耕太郎を例として――」であった。 また,上記共同研究発表及び本稿は,科学研究費による共同研究「戦後日本の教員処分をめ ぐる総合的研究漓 ――法制・処分事例・訴訟・判例を中心に――」(平成16∼18年度科学研究 費・基盤研究C,研究代表者・岡村達雄氏)の成果の一部をなすものである。 最後に,本稿執筆にあたって,田中耕太郎の文章を引用する際,一部仮名づかいを最近のも のに修正したり,現在一般的に使用されている漢字に置き換えたりした部分があることをお断 京都精華大学紀要 第三十一号 − 79− りしておく。 第1節:本稿の検討課題と先行諸研究との動向 本稿が検討対象としている田中耕太郎の教職観,あるいは田中の教育思想などについては, 例えば,これまで教育基本法の制定過程における当時の文部大臣としての役割や,教育基本法 の理念に田中の思想がどのように関与しているかといった観点から,次のような先行研究が存 在する。以下,管見の限りで紹介しておきたい。 具体的に紹介すれば,主な著作として,鈴木英一『戦後日本の教育改革3 教育行政』12), 山住正己・堀尾輝久『戦後日本の教育改革2 教育理念』13),勝野尚行『教育基本法の立法思 想――田中耕太郎の教育改革思想研究――』14),杉原誠四郎『教育基本法の成立――「人格の完 成」をめぐって――』15)などがある。また,主な研究論文としては,佐藤秀夫「田中耕太郎の 教育権論」16),川口彰義「戦後教育改革期の教育権思想――田中耕太郎の教育権論を中心とし て――」17),岡敬一郎「田中耕太郎の『教育権の独立』論の再検討――中央・地方教育行政と 教師との関係に着目して――」18)などがある。 また,最近のものとしては,教育公務員特例法など当時の教職関連諸法制の制定過程などに かかわって,田中耕太郎その他の文部省関係者の教職観等に触れたものも見られる。例えば, 久保富三夫『戦後日本教員研修制度成立過程の研究』19),高橋寛人「教育の論理に基づく教員 身分保障制度構築の必要性――教育公務員特例法の制定経緯の検討から――」20)などがある。 ただ,これら先行研究のうちでも最も新しい高橋氏の論文については,筆者の問題意識との 相違点がかなりある。そこで,本稿の問題意識を,高橋氏の上記論文の内容への批判的検討を 行いつつ,具体的に述べておきたい。 まず,上記の論文において高橋氏は,久保氏の文献や GHQ 文書などを参照しつつ,田中耕 太郎らによる文部省内での「教員身分法案」の趣旨が,その後国家公務員法の制定などをめぐ って,当時の GHQ などとの折衝過程で変質していったことを紹介している。 その上で,上記論文の締めくくりにおいて,高橋氏は「法人化により国公立大学教員の身分 保障の法制度が失われた今こそ,戦後教員法立案時の原点に立ち返り,国公私立を問わず,大 学教員だけでなくすべての学校教員を対象として,教育の独立の論理に基づく身分保障の制度 が構築されなければならない」21)と述べる。 ところで,高橋氏の論文自体,昨今の「国公立大学の身分保障の法制度が失われた」という 社会情勢下において,「教育の独立の論理」の必要性を説いている以上,そこでいう「教育の 独立の論理」の主張は,今日きわめて「政治的」な意味をを持つともいえる。しかし前述の論 −80− 田中耕太郎の教職観――1945年∼1950年頃を中心に―― 文において,高橋氏はある社会情勢のなかで,教育行政の当局者側あるいは教員運動の当事者 が「教育の独立の論理」を説くということ自体が持つ「政治性」ということについては,何も 言及していない。また,高橋氏が「独立の論理」を必要と考える「教育」の中身については, 前述の論文においては何も言及されていない。 さらに,久保氏の文献によると,当時,教育公務員特例法の制定をめぐって,教育刷新委員 会第6特別委員会の委員たちの中心的な意見は,「教員は労働者ではない」ということや,「聖 職者教師像」の影響を濃厚に受けていたことなどが紹介されている。また,その「教員の労働 者」性や「聖職者教師像」をめぐって,当時の教員待遇改善をめぐる教員の労働運動への認識 の相違から,文部省係官と教育刷新委員会委員との間で意見の対立があったことなども,上記 の久保氏の文献では紹介されている。22)この久保氏の文献を高橋氏の論文は参照しているが, 当時における「聖職者教員像」をめぐる対立等にはあまり注目していない。 以上の点から考えると,高橋氏が評価する「教育の独立の論理」が,占領期において,それ ぞれの論者のどのような社会情勢に対する認識のもとにおいて主張されたのか。当時の社会的 文脈をふまえつつ,あらためて考察する必要があるのではなかろうか。 ちなみに,新憲法草案作成過程における関係者の旧体制維持(いわゆる「国体護持」)の姿 勢や,田中耕太郎を文部省学校教育局長に指名した敗戦直後の前田多門文相や東久邇内閣が, 「国体護持」と同時に「軍国的」思想及び施策の除去,「平和国家」の建設,「科学的思考力」 や「平和愛好の念」の育成などを説いたこと。これらのことは,前出の鈴木英一や山住正己・堀 尾輝久の文献など,1970年代の占領期教育改革研究の成果でも紹介されていることである。23) このような歴史的事実と,当時における田中耕太郎らの教職観,社会情勢への認識などとが, まったく無縁であるとは考えられない。しかし,前出の高橋氏の論文では,この1970年代の占 領期教育改革研究でも紹介されていた当時の社会情勢などについて,特に触れられているわけ ではない。 以上の先行研究の状況から見て,占領期教育改革における当時の教育行政担当者や教育政策 立案者の持つ教職観,さらにはその教職観を支える教育観,当時の社会情勢への認識や国家観 などについては,まだまだ今後も検討が必要な課題が残されている。また,その課題は,第5 節で紹介する戦後日本の公教育体制が抱える「歴史的負性」の問題をどう考えるかという課題 とも,密接に関連しているとも考えられる。本稿が田中耕太郎の教職観を特にとりあげ,検討 を行うのも,このような問題意識に即してのことである。 京都精華大学紀要 第三十一号 − 81− 第2節:田中の「国家と教育の関係」理解及び敗戦後の情勢認識 では,敗戦後の社会情勢のなかで,田中耕太郎は「国家と教育」の関係などについて,具体 的にどのような認識を持っていたのであろうか。 田中耕太郎は『教育と権威』所収の論文「教育と政治」において,「政治は教育であると共 に,教育は又政治である」24)と述べた。また,同じく「教育と政治」では, 「国家は人類に対す る最も有力な教育機関の一つである」「教育者と被教育者との関係は,国家内に於ける治者と 被治者との関係に酷似する」25)と述べるとともに,「政治思想と教育思想との間には必然的の関 連が存在する」26)とも述べた。 「教育と政治」が最初に公表されたのは敗戦前 27)のことである。ここから,田中耕太郎が敗 戦以前よりから,教育を国家体制のあり方と関連付けつつ,その時々の政治思想との関連にお いて理解する視点を有していたことがわかる。 また,1948年12月の「教育と政治――全国教育長及び指導主事講習会卒業式式辞――」にお いて,田中耕太郎は次のように述べる。ここには,田中耕太郎が教育者を敗戦後の国家再建と いう「使命」の主たる担い手として位置づけようとする意識がうかがえる。 「教育が国家の基礎である以上は,教育を救うことは国家を救うことである。そうしてこ の国家を救う重大な任務は,一つにその高貴な使命を正しく自覚した教育者の双肩にかか っているのである。そうして教育者がその完全にその使命を遂行しうるためには,教育者 がその人格と識見において教育という崇高な天職に適当していることを必要とすること勿 論である。」28) 「政治は教育であると共に,教育は又政治である」といい,教育者に敗戦後の国家再建とい う「使命」を託す田中耕太郎が,その一方で教育を「国家から独立して,国家にかかわりなく, また国家以前に存在すること,学問の研究の場合と同様である」として,「学問の場合と同様 な教育の政治的中立性,超然性が存在する」29)ともいうのは,一見すると矛盾する。 しかし,1945年9月の「平和の使徒たらむ」30)では,田中耕太郎は敗戦後の日本再建を「道 義国家と文化国家の建設」という観点から行う必要性を説くとともに,「直接に政治的効果を 意図しないときに,初めて真の政治性を発揮し得る」「自国の利益を離れて直接に人類社会の 進運と其の福祉に貢献せんと意図するときに,初めて自国の偉大さを立証し得る」31)とも述べ ていた。 田中耕太郎が,上述のような教育と国家体制に関する自らの理解を前提として,この「直接 −82− 田中耕太郎の教職観――1945年∼1950年頃を中心に―― 的に政治的効果を意図しないときに,初めて真の政治性を発揮しうる」という認識を教育にも 適用したと考えるならば,その「教育の政治的中立性」確保という主張もまた理解が異なって くる。すなわち,「教育の政治的中立性」を確保することによって,別の形で国家体制の基礎 形成が可能になるという「政治的効果」が発揮できると考えていたのではないか,と推測でき るからである。 そこで問題は,田中が敗戦後の日本の国家体制をどのようなものと認識しつつ,「教育の政 治的中立性」確保を主張していたのか,ということになる。田中耕太郎は敗戦直後,敗戦前の 軍国主義・全体主義的傾向を「往年のマルクス主義の流行に対する反動」という認識を示しつ つ,「我々が恐れるのは寧ろ国民が誤れる精神主義,非合理主義及び全体主義から,同様に誤 れる物質主義,自然科学万能論及び利己主義に走ることである」32)とも述べた。また,1945年 12月の「新政治理念と自然法」において,田中耕太郎は「我が国体と民主主義とは理論的にも 現実的にも矛盾するものではない」「皇室は国家社会の支柱となって居り,是れなしには国内 的の平和と秩序を維持できない状態にある」と主張した。33)このような田中耕太郎の情勢認識 は,「国体護持」路線を掲げた敗戦当時の政府指導者層の認識ともつながるものであることは 34) いうまでもない。 以上のような点から見ると,田中耕太郎が軍国主義・全体主義的諸勢力の除去を念頭に主張 した「教育の政治的中立性」論が,後にマルクス主義(共産主義)的諸勢力からの独立性保持 を訴えるものへと転化する素地は,すでに敗戦当時からあったと考えられる。このように,こ の当時において田中が「教育の独立の論理」というものを主張することそれ自体が,敗戦当時 の社会情勢を念頭においた「政治的」意味を持っていたとも考えられるのである。 第3節:田中の教育者・被教育者の関係理解と「師表」像 次に当時,田中耕太郎は「教育」というもの,また,その担い手たる「教職」というものを どのようなものとして認識していたのであろうか。 田中耕太郎は,「本来教育は権威思想を離れては存在しない。教育は教育者と被教育者との 区別を撤廃するものではない」35)と考えていた。また,その「権威」は, 「教師は学校と云う教 育的協同社会内の秩序の維持者として絶対的な権威を有し又生徒に対する師表たる道徳的性格 を有する意味に於て絶対的権威を有するが,学問,技術等の教授の内容に関しては相対的権威 者に過ぎない」36)という。 では,なぜ道徳的な側面において「師表」でなければいけないのか。田中耕太郎は『教育と 権威』において次のように述べる。 京都精華大学紀要 第三十一号 − 83− 「例えば私生活上不品行な作家があるとする。其れに拘らず我々はその作品の芸術的価値 を高く評価することを妨げない。然るに其の同一人が我々の前に教師として立つときには, 其の不品行は之れを看過し得ないことになる。教師としての資格に於て其の者は常に生徒 に対し道徳的意味の権威を代表するものとして観念せられる。其の教ふる内容が何んであ れ,彼れは生徒に対し師表でなければならない。」37) また,文部大臣在任時において,田中耕太郎は教員に対し,次のように呼びかける。 「道徳と秩序とを度外視して何の自由主義,何の民主主義であろう。/是非,小国民に自 らを欺かぬこと人の物を盗むことや人に害を与えることは如何なる場合にでも悪であるこ とと云うような,最も単純な素朴的な道徳観念だけでも,幼い心に深く刻み着けるように 努力せられんことを切にお願いしたい。」38) 「殊に教育者なる我々は,十分自己の高貴なる転職を自覚し,品位と識見とに於て社会の 師表となり,教育者のたしなみと心の潤いとを保ち,言動に於て生徒学童達の童心を傷け るが如きことのないように,又世界に対して日本人の名誉を汚損することのないように十 分心掛けよう。」39) 上述の田中耕太郎の教職観には,学問的以上に道徳的権威たるべきことを「絶対的」に求め る傾向が見られる。ここからは,教育者を被教育者に対する道徳的「師表」として位置づけ, 教育者が自ら積極的に既存の社会秩序や道徳を守り,品位あるふるまいを行わせることを通じ て,被教育者にその重要性を意識させようとする意図がうかがえる。以上の点には,田中には 「国民の師表」として「常に修養に努め,清廉に身を持す」ことを求めた「教員身分法案要綱 案」の教員像と重なるものがある。40)また,当時の教育行政関係者などが「聖職者的」ともい 41) える教員像を有していたことは,先行研究においても明らかにされていることである。 第4節:田中の教員の政治活動,教員組合運動に対する認識の推移 その一方で,田中耕太郎の「師表」的教職観は,その「師表」たるにふさわしい教員の身分 保障と独立性の保障を国家に対し要求するものでもあった。例えば田中は文部大臣在任時,敗 戦後の教員の生活苦の問題に対して,次のように発言する。 −84− 田中耕太郎の教職観――1945年∼1950年頃を中心に―― 「従来教育者の待遇が甚だ低位に放置せられていたことは,我が国の社会が口先は別とし て事実に於て教育の重要性を根本的に認識しなかったことに起因しているのである。(中 略)多数の教育者はその教育者としての品位を守り,みじめな待遇を忍従し,その改善を 口に出すことを差控えているが,我々は教育者の斯様な控え目な沈黙をよいことにし,経 済的待遇に於て常に他の職域者に対し落伍者にして置くことを得ないのである。教育者は その使命に顧み黙々と転職を遂行するであろうが,国家,社会は教育者に対し衣食を与え ないで礼節を守れと要求することは政治的に許されないのである。(中略)文部省として は教員組合の正当な要求に対しては当然耳を貸すは勿論条理上至当のこととして,かかる 要求の有無に拘らず現在の事情の下に可能な範囲に於てその実現に誠心誠意努力を致しそ の可能性を少しでも拡大しようと努力しなければならぬ。」42) この点に限っていえば,当時の教員組合運動と文相期の田中との間には,労働条件向上の面 で「妥協」の余地があるともいえる。しかし,この田中耕太郎の文章には,次のような続きが ある。ここには,田中耕太郎が「師表」的教職観と「両親の教育権」による信託を持って, 「最低生活権獲得」43)を要求する1946年10∼11月頃の教員組合運動に抑制を求めるとともに,教 員に対し「社会秩序の維持」に努めるよう求める姿勢が伺える。下記のような田中の姿勢には, すでに教員の組合運動等への強い警戒感とともに,「聖職者」的イメージに近い教員像も見ら れる。 「教育者の罷業は世界のどの国に於ても聞いたことのない驚くべき事実である。(中略) 主張に十分な理由があるにしろ赤旗とプラッカードを掲げ街頭を練り歩く方法以外に教育 者に一層ふさわしい方法がないのであろうか。教育の場合には産業や他の公共事業の場合 と異って受益者は家族的紐帯で結合された学童や生徒である。彼等は両親に対する信頼と 尊敬とを以て師に対している。教師たる前に生きなければならぬと云うが,生きている限 り教師らしくあらねばならない。」44) 「今や新憲法の下に真の民主主義が実現せられんとする秋,国民個人個人に節度と秩序と が要求せられること今日より大なるはない。特に教育者はこの点に於て一般世間の師表で なければならない。教育者は自己の使命が両親よりの神聖なる信託に基づく自覚に徹底し, この社会的混乱の渦中にあって不動の信念,宗教家的情熱及び芸術家的良心を以て天職に 没頭し社会的崩壊に対する堅い防波堤となられることを切に念願する。」45) 京都精華大学紀要 第三十一号 − 85− その後,1947年7月の時点で,田中耕太郎は当時の状況をふりかえり,自らが教員の待遇改 善に努力してきた経過などが当時の教員組合側に理解されなかったと述べた。46)一方,文部大 臣在職時の教員運動に対し,「校長,地方官庁,中央官庁の系統を無視し,正統な指図にした がわぬこと」や,「それらの方面に対し,市井の無頼漢もあえてしないような暴言を吐くこと」 などを取り上げ,そのような教員の行為が「その学童たちに与える影響はもちろんのこと,一 般教育上いかにおそるべき結果を招来するかは多言を要しない」と非難した。47)ここから,田 中耕太郎の考える「師表」として許されないふるまいのなかに,デモへの参加や暴言といった 行為だけでなく,「上位者の正当な指図に従わないこと」が含まれていることがわかる。 また,1948年になると教育行政当局者を前に,「教育者は教育が真理と平和の理念に従って 生きた人間を育成することを目的とする崇高な活動な活動であることを自覚し,外部の政治的 紛争混乱に累されることなく,不羈独立にその使命を遂行しなければならない」48)と述べ,そ の観点から教育基本法第8条第2項を引き合いに出しつつ,教育の「政治的中立性」について 説くようになった。 さらに,1949年になると,田中耕太郎はただ教員の政治活動だけにとどまらず,労働組合運 動全般に対する強い警戒感を示し始める。 例えば「憲法を暴力から守れ」49)という一文において,田中は当時の労働組合側の労働関係 法案に対する反対運動に対し,「批判は自由である。しかしながらその批判も憲法や国会法で 認められた請願陳情等の正式ルートによるものでなければならぬのであり,面会の強要,暴言, 多勢をたのんでの威迫,デモ行進等の方法によるならば,これ往年の右翼的暴力団の議会否認 の直接行動と異るところはない」50)とまで言い切る。 また,「確信ある処置」と題する一文では,「近時の学生運動や教員の団体運動中には,教育 や学園の民主化の名目の下に学園内の秩序を破壊しさらに国家の政治および行政の系統をみだ る種類のものがはなはだ多い。我々がもし,今日の学生や教員の団体的な政治活動をそのまま 放任するなら,政治的責任をぜんぜん負担しないところの,立憲政治の本筋以外に存在した往 年の軍部的存在を認めることになる」51)と述べた。 この一文は,埼玉県教育委員会が学校から政治的活動を一切締め出す方針で7項目を県内各 公立学校との新聞記事をもとに,田中が「教育の本質,ことに政治と教育との関係に関する教 育基本法第八条第二項からはなはだ当然過ぎる」として,その処置を支持する中で述べた文章 に続いているものであった。 そして,1950年1月には,当時の講和問題と絡めながら,「占領軍の指示がなければ,大多 数の教員が唯物主義的共産主義的世界観にかぶれた組合の少数の幹部に引き回され,赤旗をふ って行進したり,ストライキをやったりするようでは,いくら教育制度が整備されても,わが −86− 田中耕太郎の教職観――1945年∼1950年頃を中心に―― 教育の前途は寒心にたえぬものがある」52)と言う。 ここには,田中耕太郎にとって,かつての全体主義的傾向を帯びた社会運動と類似するもの として,当時の教員組合を含めた労働運動全般を位置づけようとする意識が伺える。また,当 時の田中が,社会運動全般への強い警戒感を抱いていたこともわかる。さらに,このような田 中の認識は,日本各地の教育行政当局によって,教員レッド・パージが当時において推進され た時期において示されたことを忘れてはならない。 一方,前述のような田中の発言からは,敗戦当初に田中が抱いていた全体主義的傾向と同時 に,共産主義的傾向を教育界から排除し,敗戦後の社会秩序を安定させたいという意識が,文 部大臣退任後の情勢の変化を前にして,より全面に押し出てきたともいえる。「教育の独立の 論理」あるいは「教権独立」ということについても,このような「政治的」な情勢認識との関 連において当時,田中らが主張したとも考えられるのである。 そして,「新憲法施行三周年記念式典における式辞」において,田中耕太郎は「反民主主義 的,反平和主義的な,暴力肯定の世界観や政治思想が,終戦前と同様今日においても跡をたた ないで,わが国家社会に対し禍根をなし,法と秩序を破壊する虞れあることは,否定できない 事実であります。/全国民は,かような事態に直面して,国家社会を防衛しなければなりませ ん」53)と述べた。 かつて「司法官の独立」と同様に,政治的諸勢力からの教育者の独立を主張していたのが, 先行研究も述べているとおり,当の田中耕太郎自身である。だが,当時の社会情勢を前にして, 最高裁判所長官としての上述の発言が当時,どのような政治的な意味をもったのか,あらため て言うまでもない。また,いわゆる「レッド・パージ」が実施された時期の最高裁判所長官と して,田中耕太郎が教員以外の労働者にもきわめて厳しい対応をとったことは,「レッド・パ 54) ージ」に関する先行諸研究などでも紹介されているところである。 第5節:本稿のまとめと今後の検討課題 以上,第4節まで筆者の視点から,対象時期における田中耕太郎の文献中に見られる教職観 や,それを支える社会情勢への認識,国家と教育の関係理解などを整理してきた。 ただし,前述のとおり,第1節で紹介した先行研究が明らかにしてきたこととは,問題意識 や方法が異なる分,かなり異なった田中耕太郎の姿が現れたとも考える。この点で,本稿の内 容と先行研究の内容とを比較照合し,あらためて田中耕太郎の教育思想や人物像を再構成する 作業が残されている。 ただ,占領期教育改革を通じての戦後公教育体制の形成,さらにはそれにおける教員処分体 京都精華大学紀要 第三十一号 − 87− 制の構築過程を検討対象とする本稿や,これまでの筆者らの共同研究グループの問題意識に即 していうならば,次のことが田中耕太郎の教職観の検討からいえるのではなかろうか。 すなわち,敗戦後の混乱する社会情勢の中で,いかにして教育界から全体主義的傾向及び共 産主義的傾向の両方を排除し,象徴天皇制下の民主主義体制に即した公教育のあり方を確立す るのか。また,その新しい公教育体制下における「望ましい教職像」とはいかなるものか。 この問いに対して,田中耕太郎は,政治的諸勢力から距離を置き,上位者の名に従い,誠実 に職務に従事し,道徳的な「権威」として子どもや親の前でふるまう「師表」的な教職観を打 ち出すことで乗り切ろうとしたのではないかと考えられる。これが本稿での検討から言えるこ とである。 しかしながら,そのことは同時に,田中耕太郎が自らの教育論において,一方で「教育の政 治的中立性」を主張しつつ,他方で教員の「非政治的なふるまい」が持つ「政治的効果」を狙 うという論理的矛盾を抱え込むことにつながったともいえる。 このほか,カトリックの熱心な信者としても知られる田中耕太郎にとって,教育基本法にあ る「公教育の宗教的中立性」の原則と,いわゆる「国家神道」的諸要素を含んだ戦前期日本の 公教育のあり方との関係をどのように考えていたのか。また,戦前期の天皇制は,『世界法の 理論』の著者としても有名な田中自身の諸思想において,カトリック信仰とどのような関係に 位置づいていたのか。このように,ただ単に教育思想のレベルに留まらず,田中耕太郎という 人物の持つ思想的多面性を,その当時における政治・社会情勢や学界の状況などとの関係にお いて,あるいは,同時期に活躍した人物との比較において,どう評価するのかという課題がある。 例えば今後,同じく東京帝国大学法学部教授(後に同大学総長)から教育刷新委員会の副委 員長・委員長として,占領期教育改革にさまざまな形で関係した南原繁や,戦前期は経済学者 として活動し,敗戦後は衆議院議員から後に文部大臣を務めた森戸辰男らの教育観と,田中耕 太郎のそれとの比較検討も必要であろう。 このように,田中耕太郎の教育観の内実を当時の政治・社会情勢などと関連付けながら解明 した上で,あらためて当時の状況との関係で「限界」を持つものとして位置づけするという作 業が,今,求められている。そして,田中耕太郎など占領期当時の主要な教育改革にかかわっ た人物の教育観に対する評価をもとにして,今,あらためて教育基本法の理念や敗戦後の公教 55) 育体制を捉え返すときには,従来の理解とは異なる示唆が得られるのではないかと考える。 ちなみに,この「戦後公教育体制の捉え返し」という課題については,『教育基本法「改正」 とは何か』56)などにおいて,筆者らの共同研究グループの一人・岡村達雄氏が繰り返し指摘し てきたことであり,本稿の前提をなす筆者らの共同研究のテーマのひとつでもある。また,岡 村氏はすでに約8年前,「戦後の公教育は,戦後国家がその初発から抱え込んできた象徴天皇 −88− 田中耕太郎の教職観――1945年∼1950年頃を中心に―― 規定に起因する負性及びそれを内包する支配構造のもとにあり,『国民教育』という観念や社 会意識を培養し続けてきた」57)と指摘してきた。 ここで岡村氏がいう「戦後国家がその初発から抱え込んできた象徴天皇規定に起因する負性 及びそれを内包する支配構造」を含んだ形で,敗戦後今日まで続く公教育体制。この体制のあ りようが,その形成期ともいえる占領期において,例えば田中耕太郎の社会情勢への認識や教 職観との関係において,どのように立ち現れてくるのか。本稿において筆者が取り組んだこと は,この課題へのひとつの試みでもあるといってよい。 (注) 1) 岡村達雄・元井一郎・尾崎公子・林公一・住友剛・池内正史「占領期公教育体制における教員処分 の実際と構造――教員処分と戦後公教育鴟――」(日本教育行政学会第40回大会自由研究発表,2005年 10月15日,東北大学川内キャンパス)。特に同学会発表原稿における「蠡 教員処分の構造的基底」の 「1 戦後教育改革期における教職観」(尾崎公子執筆)が,この当時における「品位ある師表」とし ての教職観を問題にしている。 2) 田中耕太郎『教育基本法の理論』有斐閣,1961年。 3) 田中耕太郎には『世界法の理論』 (全3巻,岩波書店,1932∼34年) , 『法と道徳』 (春秋社,1947年), 『法と宗教と社会生活』(春秋社,1950年)などの法学者としての著作や,『教養と文化の基礎』(岩波 書店,1937年)など,敗戦前に書かれた文献も数多くある。 4) 田中耕太郎『教育と政治』好学社,1946年11月(改訂版1947年11月)。 5) 田中耕太郎『教育と権威』岩波書店,1946年11月。 6) 田中耕太郎「私の履歴書」『私の履歴書 文化人15』日本経済新聞社,1984年所収。日本経済新聞で の連載(初出)は1961年。 7) 鈴木竹雄編『田中耕太郎 人と業績』有斐閣,1977年。 8) 前出の鈴木竹雄編『田中耕太郎 人と業績』によると,例えば当時,文部省において教職適格審査 関連の事務に従事した相良惟一は,当時の田中耕太郎を振り返り,「私自身,少年時代から先生の指導 を仰ぎ,大学では直接薫陶を受け,そして今,直属の上司としてお仕えし,このような重大な局面で 重要な仕事を命ぜられ,それこそ骨身をけずっても職責を果たすべきであると心ひそかに誓った」 (p.105∼106)という。 また,相良惟一が文部省地方連絡課長当時に出版した『教育行政法』(誠文堂新光社,1950年)は, 冒頭に「この書を恩師田中耕太郎先生に捧げる」との言葉が記されている。 このほか,田中耕太郎文相期の秘書課長であり,後に事務次官を務めた劒木亨弘は,「田中耕太郎先 生は東大時代の私の恩師であった。(中略)親しく先生の一部下として働いて居る中に先生の人格に直 京都精華大学紀要 第三十一号 − 89− 接に触れ,益々先生への敬仰の念が深まって行った」 (前出『田中耕太郎 人と業績』p.411)ともいう。 なお,田中耕太郎自身も,東大卒業後の一時期,内務省の官僚として勤務した経験を持つ(前出の 田中耕太郎「私の履歴書」を参照)。 9) 田中耕太郎『共産主義と世界観』春秋社,1950年3月。 10) 田中耕太郎『善き隣人たれ』朝日新聞社,1950年12月。 11) 河野来吉編『マルクシズムに対決するもの――批判と反批判――』労働文化社,1949年。 12) 鈴木英一『戦後日本の教育改革3 教育行政』東京大学出版会,1970年。 13) 山住正己・堀尾輝久『戦後日本の教育改革2 教育理念』東京大学出版会,1976年。 14) 勝野尚行『教育基本法の立法思想――田中耕太郎の教育改革思想研究――』法律文化社,1989年。 15) 杉原誠四郎『教育基本法の成立――「人格の完成」をめぐって――』(新訂版),文化書房博文社, 2003年。 16) 佐藤秀夫「田中耕太郎の教育権論」『法律時報』1975年11月号。 17) 川口彰義「戦後教育改革期の教育権思想――田中耕太郎の教育権論を中心として――」 『愛知県立大 学児童教育学科論集』第12号,1979年。 18) 岡敬一郎「田中耕太郎の『教育権の独立』論の再検討――中央・地方教育行政と教師との関係に着 目して――」『日本教育行政学会年報』第27号,2001年。 19) 久保富三夫『戦後日本教員研修制度成立過程の研究』風間書房,2005年。 20) 高橋寛人「教育の論理に基づく教員身分保障制度構築の必要性――教育公務員特例法の制定経緯の 検討から――」日本教育学会『教育学研究』第73巻第1号,2006年3月。 21) 同上,p.22。 22) 久保富三夫,前出『戦後日本教員研修制度成立過程の研究』の p.69∼76を参照。ちなみに,この参 照部分は,同書第1章「教育刷新委員会における教員研修の理念と構想」の第4節「教刷委委員の 『聖職者教師像』」と第5節「教刷委第6特別委員会の役割」である。ここで久保氏は,「戦前からの 『聖職者教師像』が委員の間に濃厚に残存し,それが教員組合の激しい労働運動に対する危機感・恐怖 から一層増幅され,第6特別委員会の正確を労働運動対策により傾斜させていった」(p.73)と述べて いる。この当時において高橋氏のいう「教育の独立の論理」が,当時の教育行政担当者や教育政策の 立案に関わる人々の間において,どのような社会情勢のなかで主張されたものであるのか。それが, この久保氏の記述からも伺い知ることができるのではないだろうか。 (1945年9月15日)では, 「(前略) 23) ちなみに,敗戦直後に文部省が公表した「新日本建設ノ教育方針」 今後ノ教育ハ益々国体ノ護持ニ努ムルト共ニ軍国的思想及施策ヲ払拭シ平和国家ノ建設ヲ目途トシテ 謙虚反省只管国民ノ教養ヲ深メ科学的思考力ヲ養ヒ平和愛好ノ念ヲ篤クシ智徳ノ一般水準ヲ昂メテ世 界ノ進運ニ貢献スルモノタラシメントシテ居ル」と述べられている。少なくとも占領期当初における −90− 田中耕太郎の教職観――1945年∼1950年頃を中心に―― 教育行政当局者は,「軍国的思想及施策の払拭」「平和国家の建設」等の教育の諸理念は,「国体護持」 と並列的に考えられるレベルにあったこと。このことは,今日あらためて教育基本法をめぐる議論な どにおいて,本稿第5節で紹介した「戦後国家がその初発から抱え込んできた象徴天皇規定に起因す る負性」という岡村達雄氏の指摘と関連させて理解する必要がある。 24) 田中耕太郎「教育と政治」『教育と権威』岩波書店,1946年10月,p.44。 25) 同上,p.44。 26) 同上,p.45。 27) 上述の『教育と権威』によれば,「教育と政治」が最初に公表されたのは1945年2月7日付けの『大 日本教育』799号とのこと。 28) 田中耕太郎「教育と政治――全国教育長及び指導主事講習会卒業式祝辞――」 『善き隣人たれ』朝日 新聞社,1950年,p.79。この祝辞の末尾には,「23. 12. 24」と日付が記されている。 29) 田中耕太郎「司法と政治――司法権と教育権の独立について――」 『善き隣人たれ』,p.20。なお,こ の論稿の末尾には「25. 4. 1」と日付が記されている。 30) 田中耕太郎『教育と政治(改訂版) 』好学社,1947年11月所収。 31) 田中耕太郎「平和の使徒たらむ」前出『教育と政治(改訂版)』,p.11。この論稿の末尾には「20. 9」と 日付が記されている。 32) 同上,p.9∼10。 33) 田中耕太郎「新政治理念と自然法」『教育と政治(改訂版)』,p.41。この論稿の末尾には「20. 12. 9」 と日付が記されている。 34) 例えば古くは吉田茂『回想十年 第一巻』(新潮社,1957年)において,最近では吉田裕『昭和天皇 の終戦史』(岩波新書,1992年)や纐纈厚『日本海軍の終戦工作』 (中公新書,1996年)などにおいて, 敗戦直前,近衛文麿らが終戦工作に際して,国体護持と同時に敗戦後における共産主義者の勢力増大 に対する警戒感を抱いていたことが紹介されている。 また,吉田裕の前掲書や,ジョン・ダワー(三浦陽一他訳)『敗北を抱きしめて 下巻(増補版)』 (岩波書店,2004年)が紹介するように,敗戦後における日本国内・国外からの天皇退位論を前にして, あえて田中耕太郎がこのような天皇制の維持を主張したことの意味を考える必要がある。 なお,前出「私の履歴書」において,田中耕太郎自身が敗戦直前,終戦工作に際して近衛文麿らと 接触していたことに触れている。 35) 田中耕太郎「民主主義と教育」前出『教育と権威』,p.70。 36) 田中耕太郎「教育に於ける権威と自由」前出『教育と権威』,p.19。なお,初出は1940年3月7日付 『中央公論』とのこと。 37) 同上,p.18。 京都精華大学紀要 第三十一号 −91− 38) 田中耕太郎「教育者に愬う」前出『教育と政治』,p.169∼170。原文は斜線部で段落変更(以下同じ)。 39) 同上,p.171∼172。 40) この点については,前出の我々の共同研究発表「占領期公教育体制における教員処分の実際と構造 ――教員処分と戦後公教育鴟――」において,「蠡 教員処分の構造的基底」の「1 戦後教育改革期 における教職観」(尾崎公子執筆)で指摘した。 41) 例えば,前出の久保富三夫『戦後日本教員研修制度成立過程の研究』 ,p.69∼76を参照。 42) 田中耕太郎「全国の教育者諸君に訴ふ」 ,前出『教育と政治』,p.240∼241。 43) 当時における教員の「最低生活権獲得」運動については,増淵穣・教育運動史研究会編『日本教育 労働運動小史』(新樹出版,1972年)などの先行研究がある。なお,同書によると,1946年10月18日, 「最低生活権獲得全国教員組合結成大会」において中央闘争委員会等が結成され,翌19日,田中文相及 び石橋蔵相との面会を求め,約3000人のデモを組んで要求書を提出しようとしたが,田中・石橋両大 臣共に拒否したことなどが記述されている(p.180∼181)。田中の「全国の教育者諸君に訴ふ」という 一文は,このような情勢下において出されたものである。 44) 田中耕太郎「全国の教育者諸君に訴ふ」前出『教育と政治』 ,p.242。 45) 同上,p.243∼244。 46) 田中耕太郎「教育的アナーキー」前出『善き隣人たれ』 ,p.142。 47) 同上,p.147。 48) 田中耕太郎「教育と政治――全国教育長及び指導主事講習会卒業式祝辞――」 『善き隣人たれ』,p.81。 49) 田中耕太郎「憲法を暴力から守れ」 『共産主義と世界観』所収。 50) 同上,p.181。 51) 田中耕太郎「確信ある処置」前出『善き隣人たれ』 ,p.109。 52) 田中耕太郎「講和問題と教育」前出『善き隣人たれ』,p.91。 53) 田中耕太郎「新憲法施行三周年記念式典における式辞」前出『善き隣人たれ』 ,p.69。 54) 例えば平田哲男『レッド・パージの史的究明』(新日本出版社,2002年)の「蠹 第三段階=1950年 のレッド・パージの全般的特質」では,最高裁長官としての田中耕太郎が1950年8月の記者会見で, マルクス主義が日本国憲法とあいいれない等の自らの見解を述べたことや,その発言を GHQ 民政局長 が後押しするかのような口頭指示を行ったことなどが紹介されている(同書,p.195)。 55) 例えば,岡村達雄氏は1997年の段階で,1970年代の教育基本法論の文献からの引用をしながら,敗 戦後の憲法・教育基本法を「不磨の大典」視する教育学研究の動向に対して異議を唱えていた(この 点について,詳しくは『教育学研究』第65巻第1号(1998年)所収の「日本教育学会第56回大会報告 蠢.全体シンポジウム 教育基本法の半世紀(1997年8月29日)」における岡村氏の報告「教育基本法 と自由の現在をめぐって」を参照。同報告は後述の『教育基本法「改正」とは何か』にも掲載)。 −92− 田中耕太郎の教職観――1945年∼1950年頃を中心に―― 筆者が本稿で行ったような占領期当時の教育行政担当者らの教育観の検討を蓄積していけば,その 岡村氏の主張を裏付ける形で,敗戦後の憲法・教育基本法の諸理念などが「当時の社会情勢」を反映 した「歴史的限界を持つもの」として見えてくるのではないかと考えられる。また,このような検討 を蓄積していけば,占領期以後今日に至るまでの教育基本法論・公教育論が持つ諸課題なども,同時 に浮上するのではないかとも考えられる。ただし筆者はまだ田中耕太郎の一部文献の検討に手を染め た段階であり,今は予測的にしかこのことに言及できない。 56) 岡村達雄『教育基本法「改正」とは何か』インパクト出版会,2004年。 57) 岡村達雄「教育基本法と戦後責任の問題――『憲法・教育基本法体制』認識をめぐって――」日本教 育学会『教育学研究』第65巻第4号,1998年,p.5。なお,同論文は前出『教育基本法「改正」とは何 か』にも所収。