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清末における商業系留日学生の派遣政策と派遣実態に関

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清末における商業系留日学生の派遣政策と派遣実態に関
Kobe University Repository : Kernel
Title
清末における商業系留日学生の派遣政策と派遣実態に関
する研究(A study of the dispatched policy and condition
of chinese government financial students who studies
commercial science in Japan at the last stage of Qing
Dynasty)
Author(s)
王, 嵐 / 船寄, 俊雄
Citation
神戸大学発達科学部研究紀要,9(2):89-103
Issue date
2002
Resource Type
Departmental Bulletin Paper / 紀要論文
Resource Version
publisher
DOI
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81000475
Create Date: 2017-03-31
(
4
0
3
)
神戸 大学発 達 科学 部研 究紀 要
第9
巻第 2
号 2
0
0
2
晴末における商業系留 日学生の派遣政策 と
派遣実態 に関する研究
王 嵐*
船寄 俊雄 **
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LAN WANG
TOSHI
O FUNAKI
Ⅰ はじめに
1
8
9
6(明治2
9
)年 に1
3
人の留学生が 日本 に渡 って以降、1
9
1
2(明治4
5
)年 に民国政府が成立 までの
1
0
数年間、清政府 は 1万人以上の留学生 を日本へ派遣 した。留 日学生教育研究の先駆者である実藤恵
秀は、この時期の留学生教育 を 「
少数良質」 (
1
8
9
6-明治2
9
年 ∼1
9
0
0-明治3
3
年)、「
多数速成」 (
1
9
0
1
-明治3
4
年 ∼1
9
0
5-明治3
8
年)、「
質的向上」(
1
9
0
6-明治3
9
年 ∼1
9
1
1
-明治4
4
年) とい う 3つの段階
に分けた1
)
。従来の研究は、 この時期区分 を前提 として清政府の留学生派遣政策の成立過程や政策の
総体的な内容分析 などを中心 に行われて きた。留学生が在留 した個別の教育機関についての研究 も散
見 されるが、派遣の具体的な経緯や派遣実態の詳細 についてのまとまった研究はあま りみ られない。
とくに、「
質的向上」期 に留学の主流 となった高等専 門学校 に派遣 された留学生の実態 に関する研究
は、ほとんど空自の状態である。派遣政策、来 日の経緯、高等専門学校 における教育の実態、留学後
の動向など、解明すべ き問題がた くさん残 っている。本論文は、商業系高等専門学校 における留学生
に焦点 をあて、以上の問題 を明 らかにするものである。
なお本論文では、実藤の時期区分 に依拠 しつつ、商業系高等専門学校留学の特質を勘案 し、独 自の
時期区分 を行 っている。
Ⅰ 最初 の留学政策 と商業系留学生の派遣 (
1
8
9
6
-1
9
0
2
年)
1 最初の 日本留学章程
日清戦争後、中国の 日本 に対する考 え方が一変 し、 日本の明治維新 に倣い、国運の強盛 をはかる維
新変法運動が盛んに展開 した。1
8
9
8(
明治3
1
)年 に行 われた戊戊変法は失敗 したが、その影響 によっ
て 日本 に学ぶ という認識が広 まった。この年、張之洞は日本留学 を勧めることを趣 旨とした 『
勧学篇』
を出 した2)。 と同時 に、 日本 も留学生受け入れに積極的な姿勢 を示 し、楊深秀が 「
学生 を選出 し日本
*神戸大学大学院総合人間科学研究科博士課程
**
神戸大学発達科学部教育科学論講座
(濃
芸
-8
9-
謂3
2
1呂 要望)
(
4
0
4
)
神戸大学発達科学部研究紀要 第 9巻第 2号
に留学 させ る」 旨の上奏文 を出 した。楊 は上奏文 において、西洋の政治、法律 、理財 、交渉、武備 、
農工、商務、鉱務 な ど、すべ ての分野 において学問 を学ぶため に、必ず 日本 に遊学 しなければな らな
い とい う主 旨の内容 を述べ た3)。 この上奏文 は皇帝 の受 け入 れる ところ とな り、4月1
3日に軍機処 は
皇帝の旨を奉 じて、総理衛 門に留学生派遣 の具体案 を作成す る よう命 じた。総理衛 門は早急 に留学生
派遣 の方法 を定め、次 の方案 を皇帝 に提 出 した4)。
同文館 の末文 (日本語-
筆者註)学生 を選 び、 また南 ・北洋大 臣、両広 ・湖広 ・間断各省督撫
は、現 に設 けてい る学堂の中か ら年幼頴悟 に して、租 は末文 に通ず る学生 を選 んで総理衛 門に報
告、総理衝 門か ら日本 の公使 に通知 して陸続派遣す る。駐 日公使が之 を監督す る。い ままで西洋
留学で した ように、べつ に監督 はおかぬが よい。学生 の費用 は該当官署 か ら駐 日公使 に送 り、随
時支給す る。
留学生の資格、資質、管理方法 、経費 な どについて具体 的な規定が設 け られた。一見 して粗末で簡
略 な ものであるが、 日本留学政策の最初の規定 として大 きな意義 を有 していた。 中央政府が各地方政
府 に日本留学生派遣 を命 じ、それ によって地方 は続 々 と学生 を派遣す ることを通 して、 日本 に赴 き学
問 を修得す る とい う留学 の意識 をさらに民 間に広 め、 日本留学 の気風が促 された。 この上奏文 に指名
された両広 (
広東、広西)、湖広 (
湖南 、湖北)お よび福 建 、新江 、江蘇 な どの省 は、 まさしく留学
の先駆 けになって、数多 くの 日本留学生 を輩出 したのであった。 しか し、留学資格 や管理 についての
規定 は不 明確 な ところ も多 く、後 に様 々な問題 を引 き起 こす ことになった。
2 張之洞 が実施 した派遣措置
中央の提唱 に速やか に応 えた地方 は、張之洞 自身が総督 であった湖北 ・湖南両省 であ った。周知 の
とお り張之洞 は 日本留学の提 唱者であ り、洋務運動 の最 中に湖北省 で 自強学堂 な どの新式学校 3
0
数ヶ
所 を創設 し、湖北 ・湖南両省 の経済 と教育近代化 に精力的 に取 り組 んだ人物であった。1
8
9
8(
明治3
1
)
年 に中央政府が 日本留学 を実施す る計画 を出 した直後、張 はす ぐに両省 において具体 的な派遣車種 を
制定 しそれ を広 く告示 した。 この章程 は、募集資格、定員、学習科 目、年限、費用お よび卒業後 の任
用 な どについて中央 の方案 よ りももっ と詳細 に制定 し、 さらに初めて 自費留学 を奨励す る意思 も示 し
た。
0
歳以下、志 向遠大 、遊学
学生の資格 については、「品行方正、性格専篤 、文筆流暢、資質聡頴 、2
0
0
名、湖南省 5
0
名 とされ、学生 の資質 によって学
を志願 してい る者」 と規定 された。定員 は湖北省 1
習内容が指定 された。 その具体 的 な内容 は武備、格致 (
理科)、農、商、工芸 な ど各種専 門技術 の勉
学 に限 られ、修業年限は 2年半か ら 3年 まで とされ、費用 には学費、生活費お よび旅費 を含 め、すべ
ての費用 は公費 よ り支 出 されるこ ととなっていた。卒業後 の進路 は、 「
総理衝 門に送 って採用 して も
らうか、各学堂の教習 を担任 させ るか、あるいは特別 な試験 を行 い学位 (
立身出世の保証) を与 える」
ことが保証 された。 と くに自費留学 に も奨励措置が講 じられ、 「もし豊 か な家庭が 自ら費用 を用意 し
公費生 と一緒 に留学 を希望すれば、 これ を許可 し監督官吏 に依頼 して面倒 をみ させ る」 こととされ、
卒業後 は公費生 と同 じ待遇 を与 えるこ とが示 された5)。
張之洞の留学生派遣措置 に対 して 日本 の世論 は大 いに注 目 した。当時発行 されていた 『
教育時論』
には、下記の ような記事が たびたびみ られる6)。
支那の俊傑 張之洞門下の学生 は、先頃来朝せ Lが、今 回 また湖南、湖北の二省 よ り、 日本留学生
二百名 を選 出 し、近 々の内、我 国へ派遣す る由。留学 の 目的は、軍事、其他 の学問 を修め しむ筈
-9
0-
(
4
0
5
)
清末における商業系留日学生の派遣政策と派遣実態に関する研究
にて、楊某なるもの、其総督 として先発 し来る旨、上海新聞に見え り。近来の-快事 と謂ふべ し。
後 に様 々な事情 により、留学生の派遣定員は6
4名 に減 らされ、実際 日本 に派遣 された学生は4
8名に
0
名 に至 り、中央政府 に指定 された定員 に
す ぎなかった。そのなかで湖北省 により派遣 された学生は2
満ちたのは湖北省 しかなかった。 さらに湖北省 は自ら両湖書院、経心書院の学生7
8名 を選んで 日本 に
派遣 して実業 を勉強 させた。
湖北省の ように自ら留学生 を大量 に派遣 した地方は当時ではまだ稀であった。その後、張之洞はた
びたび留 日学生派遣の具体策 を清政府 に上奏 した。たとえば、1
9
01(
明治3
4)年、張は両江 (
江蘇、
漸江省)総督劉坤- と共同で、 この時期 に展開された政治、教育、軍事 などを改革する 「
新政」の重
要な一環 として留学、 とくに日本留学 を奨励すべ きだという趣 旨の上奏文 を出 した7)。
3 実業教育 を重視する 「出洋学生鮮業実学章程」
前述 した場味秀の上奏文では、西洋の学問について政治、法律、外交、軍事以外 に、農、工、商、
鉱の各実業 も強調 されたが、中央の派遣方案では留学 に関する詳細は言及 されなかった。 しか し中国
の内陸部 より一足早 く近代化 に踏み出 した経済繁栄地の江蘇、斬江、湖北、湖南、広東などの省は、
近代化 に欠かせ ない実業人材 を養成す るために、実業 に重点 を置いて留学生 を派遣 した。そ もそ も
「中学 は根本であ り、西学は手段である」 を主張 して きた李鴻章、張之洞 ら洋務派は、西洋の政治 よ
り「
芸」すなわち技術 を重視 し、実業人材の養成に目を向けていた。 日清戦争の敗北 によって李鴻章
は失脚 したが、李の洋務派の同志や後継者の張之洞 らは、中央か ら故郷 に帰 り、続 けて洋務思想 を地
方 に伝播 した。 しか し、この時期の洋務派 は、 日清戦争前 に強調 された外国の進んだ軍事技術 を追求
する洋務事業 を放棄 し、「
西人 を制服する方法は、商務 を振興するほかな」 く、「
兵戦 を習 うよりむ し
ろ商戦 を習 う」
、つ まり軍事技術 より農工商 など経済 を発展 させ る専 門知識が もっと重要であると
8)
認識 し、農工商などの専門知識 を身につけた人材の養成 に力 を入れた。 これが、張之洞 らが海外へ留
学生 を派遣することを力説 し、留学の内容が実業 に傾斜 した背景であった。
8
9
9(
明治3
2
)年 7月、清政府 は留学の内容 について、商業
最初の留 日政策が決定 された翌年の1
が含 まれている実業系留学生の派遣 を強調 し、当時の皇帝が総理衝門に下記のような聖 旨を下 した9)0
今 まで洋行 した学生は水陸武備のほか、たいてい言語文字 を専攻 し、その他の各種の学問につい
てほとんど研究 しなかった。西洋各国は従来農、工、商、鉱のような学問 を重ん じて深 く研究 し
て きているが、中国ではこの種の学問に精通 している人材が極めて少ない。そのためこれか ら洋
行する留学生 を如何 に各国の農、工、商 などの学校 に入学 させ、専門の学問 を修め させ、帰国後
この ような学問を如何 に伝授 させ るか ということについて、総理各国事務衛 門は必ず詳細 な章程
を立てて上奏せ よ。
ここに留学 目的が、実業人材 を養成 し、帰国後 に専門学校の教師に充てることに定着 したことが明
らか となった。この旨を奉 じて総理衝門は 「
出洋学生鮮業実学章程」 を定め、留学の重点 を各種の実
業人材の業務 に転 じる意志 を表明 した。 また、 さらに下記のことを強調 した10)。
- 各省官吏が資金 を工面 し、留学派遣 を経常化する。
- 留学期間を 6年 に延長 し、実業が修得で きることを望む。
- 帰国留学生 を奨励 し、昇進 させ る。
- 貴族か ら賢明な子弟の留学 を奨励する。
-
91 -
(
4
0
6
)
神戸大学発達科学部研究紀要 第 9巻第 2号
しか し、この章程が制定 された直後に 「
庚子の乱」が起こり、8国連合軍が北京に進出 したので、
章程は実施 されなかった。逆 にその後、「
西政」すなわち西洋の政治法律制度の重要性が認識 され、
西太后の 「
新政」 も実施 され始めたから、政治法律 を修める留学生が急増 し、実業系留学生の派遣は
ゆるがせ にされた。
4 商業系留学生の派遣実態
最初の派遣政策の不備にもかかわらず、1902 (
明治35)年 までにこの政策により続々と留学生が 日
本へ派遣 された。毎年派遣 された留学生の詳 しい状況はすべて把握で きないが、留学生の派遣状況に
ついて、当時 日本ではよく報道 された。以下はその一例である1
1
)
0
聞 く、清国斬江巡撫、此の程総理衛門より、文武学生若干名を選抜 し、 日本に留学せ しむべ Lと
の訓令 を受け、求是書院、及武備学堂学生中より、四名づつ、都合人名の学生 を選抜 し近々東京
に向け出発せ しめ、前者は中学校に、後者は、士官学校に入学せ しむる筈 な りと。清国の気運、
既に此の如 し、我教育界の彼 に村する準備、計画、果た して如何0
899
この時期に派遣 された留学生の総数は、統計によって多少異なっている。最初は少なかったが、1
(
明治32) 年か ら毎年ほぼ数百名程度ずつ増 えた。表 1は在学者数であ り、表 2は出身省別の人数で
ある。
表2 省別日本留学生数 (
1
9
0
2年調査、1
9
01
年末現在在学者)
省 別
1
8
96-1
902年)
表 1 留学生在学者数 (
年
1
8
9
6
1
8
9
7
1
8
9
8
1
8
9
9
1
9
0
0
1
9
01
人
数 (
名)
1
3
9
1
8(
61
)
2
0
2
1
5
9
2
8
0
余 (
2
7
4)
[
註]さね とう ・けい しゅう 『
中国人 日本留
9
6
0
年、付表 よ
学史』 くろ しお出版 、1
り作 成 した。 ( )内の数字 は李喜所
『
近 代 中国 的留 学 生』 人民 出版 社 、
1
9
8
7
年、付表 による ものである。
総人数 (
名)
湖
江
漸
広
湖
直
駅
広
奉
安
福
四
江
北
蘇
江
東
南
隷
西
西
天
徽
建
川
西
貴
州
4
7
4
4
3
9
2
3
1
9
1
7
1
1
2
1
5
1
2
l
l
4
2
山 東
満 州
宗 室
駐 防
漠 軍
蒙 古
1
4
2
4
7
4
官費生 (
名)
3
6
1
6
1
8
1
0
1
0
l
l
1
1
7
4
9
3
2
l
l
2
8
21
1
3
9
6
1
1
8
8
2
1
1
1
4
1
.
自費生 (
名)
2
4
7
4
[
註]陳学拘 ・田正平 『
中国近代教育史資料匪編』上海教育出版社 1
9
年 、3
7
3-3
7
4
頁 より整理 した。空欄 は不明である。
91
前述 したように、湖北、湖南、江蘇、新江など経済先進地域が より積極的に留学生派遣 を実施 した
ため、最初の段階から人数が多かったことが分かる。また表 2からは、この時期、官費生 と自費生 と
の比率が約 3対 2であったことも分かる。
-
92 -
(
40
7
)
清末における商業系留日学生の派遣政策と派遣実態に関する研究
さて、この段階における実業系留学生の全体 に占めた比率は如何であったろうか。表 3、表 4は、
それぞれ1900 (
明治33)年、1
902 (
明治35)年の時点で留学生が 日本の各学校 に在学 した状況である。
表 3と表 4に示 された留学生の在学状況 をみると、農、工、商など実業系留学生の割合はそれぞれ
全体の15.
8%、1
6% を占めたが、 もし 「
東亜商業学校」のような非高等教育機関を除いたら、 この割
合はただの 9% に過 ぎなかった。 これ と対照的に、軍事系の比率はそれぞれ25%、23.5%であ り、こ
の段階の留学の主流は軍事系であった といえる。 これは清末の政治の不安定が もた らした結果である
と思われる。
1
900年 6月現在在
表 3 留学生在学者数一覧 (
学者および 9月入学予定者)
学
校
名
法科大学
工科大学
農科大学
一高第 1部
同 第 2部
東京専 門学校邦語政治科
同
英語政治科
慶応義塾普通部
専修学校法律科
同
理財科
東京農学校
高等商業学校予科
同
本科
東京工業学校応用化学科
同
機械科
同
電気化学科
蚕業講習所
高等 師範学校
東京外国語学校
陸軍士官学校
成城学校
表 4 学校別留学生在学者数一覧 (
1
902年)
在学者 (
名) 予定者 (
名)
3
1
4
1
2
2
3
6
1
校
帝国大学
第-高等学校
高等師範学校
高等工業学校
高等商業学校
千葉専 門医学校
明治法律学校
慶応義塾
日本法律学校
蚕業講習所
近衛兵 (
見習官生)
近衛兵砲兵連隊見習官生
近衛兵騎兵連隊見習官生
近衛兵工兵連隊見習官生
熊本医学校
東京専 門学校
法学 院
東京学院
東亜商業学校
砲兵工場
陸軍士官学校
成城学校
宏文学 院
東京 同文書院
高等師範付属 中学校
芝区南海小学校
御 田小学校
華族女学校
愛住女学校
休暇 (
帰 国)者
学
5
2
7
8
2
2
卒業 1
4
2
1
3
2
2
3
1
3
1
4
6
2
最盛期 に8
0
[
註]さね とう ・けい しゅう 『中国人 日本留学史』 くろ
9
6
0
年 、5
1
-5
2
頁 より作成 した。
しお出版 、1
人 数(
名)
法 4、工 4、農 7
2
2
6
5
1
lp
1
3
1
3
2
2
9
3
5
2
1
7
6
1
1
9
東京 3 大阪 3
2
5
4
5
2
7
2
0
2
1
1
1
1
3
[
註]陳学陶 ・田正平 『中国近代教育史資料匪編j上海
教育出版社 、1
9
91
年 、3
7
3-3
7
4
頁 より整理 した。
さらに商業系留学生の人数 をみてみ よう。当時 日本で唯一の官立高等商業学校の東京高等商業学校
に在学 した者は以下の とお りである12)。
1
899 (
明治32) 年 に入学 :王事善 (
湖北省)、陸世券 (
新江省)
1
901 (
明治34) 年 に入学 :王環芳、権量、張鴻藻 (3名 とも湖北省)
1
902 (
明治35)年 に入学 :郡家彦 (
四川省)、陳福陳 (
江蘇省)
-
9 3
-
(
4
0
8
)
神戸大学発達科学部研究紀要 第 9巻第 2号
私立専門学校の商学科に在学 した学生の人数 を調べ ることがで きなかったが 、1
9
0
6(明治3
9
)年清
9
0
7(
明治
政府が行 った留学生卒業生登用試験 に参加 した商業系卒業生は権量 しかいなかった。 また1
4
0
)年のこの試験 に参加 した商業系卒業生は、張鴻藻 を除いて早稲田大学商科 を卒業 した陸夢熊の 1
名がいた13)。 この時期の商業系留学生はまだ人数的に少なかった。
9
0
3(
明治3
6
)
最初 に東京高等商業学校 に入学 した王事善は、湖北省か ら派遣 され、卒業 したのは1
年 7月であった。同年 に入学 した陸世券 は、1
8
9
8(明治3
1
)年に漸江省求是書院よ り派遣 された官費
留学生 4名のなかの一人であった。 この 4名は初めて地方 より派遣 された留学生であった。4名のた
めに予備教育機関の 日華学生が設立 され、4名はそこで普通学 を補習 した後、翌年それぞれ帝国大学
(
工学)、第一高等学校 (
法政)、東京高等商業学校 (
商学)などに進学 した。陸世芥は在学中 「
訳書
4
)
。陸は、王事善
嚢編社」 を設け、翻訳 した大量の 日本の教科書は中国各省の新式学堂 に採用 された1
9
0
3(明治3
6
)年 に卒業 した。
と同時に1
9
0
5(
明治3
8
)年 7月に同時に卒業 した。
次の年に入学 した湖北省か ら派遣 された 3名の留学生は、1
3名が帰国 した際、『東方雑誌』は彼 らのことを以下のように報 じた15)。
湖北省 は張香帥 (
張之洞のこと-
筆者註)が教育 を提唱 して以来、 日本 に留学 した官費生が他
省 より多 く、派遣 された学生が専攻 したのは実業や各専門、例 えば高等商業お よび印刷術、音楽
2
人が帰国 したが、彼 らの名前は
など現在中国で最 も急用 な学科である。最近上記各科の卒業者1
次の とお り。高等商業卒業生権量君、王環芳君、張鴻藻君。
1
9
0
2(明治3
5
)年 に入学 した陳福陸は、江蘇省か ら派遣 された官費生であ り、1
9
0
6(
明治3
9
)年 7
月に卒業 した。 この時期 に入学 した 7名の学生の うち、唯一卒業で きなかったのは四川省か ら派遣 さ
9
0
0(明治3
3
)年にマカオの儲才学堂で普通教育 を
れた郡家彦であった。彼の原籍は広西省であ り、1
9
0
2(明治3
5
)年に来 日した。 日本留学の間、彼 は積
受け、後、四川高等学堂留学予備科に入学 し、1
極的に政治活動 を展開 した。政治活動 に熱心だった彼 は同盟会に加入 し、同会の司法部部長、広西支
部長 に選ばれ、四川省で同盟会 を成立するため帰国後警察 に指名手配 され、再び日本へ亡命 した。や
がて彼 は広西省 に帰 り、反清政府の鎮南関蜂起 に参加 し、失敗後アメリカに渡 った1
6
)
0
最初の留 日学生派遣の経緯 を辿 ってみると、この段階における特徴がい くつか浮かび上がって くる。
まず政策が不備であったことである。留学生派遣の資格、学習科 目、学習時間、留学生管理などほと
んどの面 において明確 な規定がなかった。 また、最初は官費生が多数 を占めたが、徐 々に自費生が増
えて きたことがあげ られる。留学生の出身省 をみると、湖北、湖南 、漸江、江蘇、広東、福建 など沿
海部や経済の先進発展地域の学生が多かったことも特徴であった。
Ⅱ 多数速成期 にお ける商業系留学生の派遣 (
1
9
0
3
-1
9
0
6
年)
1 留学の制限策 と奨励策
1
9
0
3(明治3
6
)年、清政府の留学政策 に大 きな変化が起 こった。この変化 を導いた直接の きっかけ
は 「
成城学校入学事件」であった。この事件 は、1
9
0
2(
明治3
5
)年 6月、清政府駐 日公使の察鈎が、
陸軍士官学校の予備校成城学校 に入学 を希望する 9名の自費生に手続 き上必要な推薦状 を出さなかっ
たため、留学生が抗議 を起 こしたというものであった。清政府は日本留学 を勧 める一方、革命運動 に
も利用 される恐れがあることか ら、民間人が軍事知識の学習 をすることを禁止 した。 この事件以後、
清政府は留学生管理上の問題 を意識 し始め、 また、当時急増 しつつあった留学生 に対 して管理 を強め
0
月に留 日学生監督処が設けられ、専
るとい う駐 日公使お よび日本政府か らの要請 もあ り、この年の1
-9
4-
(
4
0
9
)
清末における商業系留 日学生の派遣政策と派遣実態に関する研究
任の監督が任命 された1
7
)
。
日露戦争での 日本の勝利 は日本留学に拍車 をかけた。 また1
9
0
3(
明治3
6
)年、清政府は1
3
0
0
年 も続
いた科挙の廃止 を公表 した18)。 したがって、これ以降は新 しい教育 を通過 しない と出世 を果たせな く
なったが、国内に新 しい学校が まだ不備であったため、留学 とくに日本留学は立身出世の近道 となっ
9
0
4(
明治3
7
)年、中国最初の近代学校制度 を定めた 「
奏定学堂章程」が公布 され、新 し
た。 さらに1
い学校の教貞 は留学 に頼 ることが明確 に示 された19)0
この ような情勢の もと、清政府は 3つの留学政策 を打 ち出 した。留学生の管理 を強化する 「
約束遊
学生章程」、 自費生 を激励する 「自行酌弁立案章程」、お よび留学卒業生 を奨励する 「
奨励遊学畢業生
章程」がそれであった。
ここでは 「
奏定学堂章程」 とその 3つの章程の うち、商業系留学生派遣政策 に関連する内容 につい
て詳 しく分析 してみよう。
1
9
0
4(
明治3
7
)年公布 された 「
奏定学堂章程」では、初めて学校系統のなかに実業教育の地位 を確
立 し、 さらに実業学校の種類、入学資格、学習年限 と内容お よび教師などについて詳 しく規定 された。
そのなかで、留学は実業学校教師を養成する道 として強調 された。要するに、実業教育 を実施する重
要な前提 として、近代的な実業知識 を身につけている教師が必要であるが、 このような教師は中国国
内には皆無であることか ら、その解決策 として海外 に留学生 を派遣 し、外国の教育機関で学ばせ、帰
国後、 これを充てるとい う方法が とられたのである20)。
「
奏走学萱草程」 には次のように私費留学 も提唱 された21
)
。
豊かな家庭の子弟が私費留学で実業 を勉学することに関 して、各省 は力 を入れて勧めなければな
らない。将来 これ らの学生が卒業 して帰国すれば、登用試験で奨励 されることもあれば、各種の
実業 を講 じることもで きる。これは国にとって も個人にとっても有益 なことである。
「
奏走学萱草程」の公布 と同時に、官吏の上奏文や民間の出版物のなかに、実業教育の教師を養成
するために留学生 を派遣するという議論が数多 くみ られるようになった。官吏の上奏文では、張之洞
の ものが代表的であった。たとえば張は次のように述べ た22)0
学生数十人を東洋 と西洋の商業学堂 に派遣 して、それを勉強 させ る。具体的には学生 を 2つの班
に分け、一つは速成科 を勉強 し2年間で修了 させ、 もう一つは全科 目を勉強 し 5年間で修了 させ
る。速成科学生が卒業 して帰国すれば、直ちに仕事 を与えて任用 し、全科 目を勉強 した学生が帰
国すれば、 さらに選抜 して重用する。こうすると商業教育の内容は実際 とつながる事がで き、今
日の中外通商の実際に役立つことが期待で きる。
民間の論議での代表的な意見 を挙げると下記の とお りである23)。
商学 を求め、商業才能 を開発することは商業競争 に勝 てる大事 な要素である。 (
中略)中小学校
を開設 し、一般教養 を与 え、そのなかか ら優秀 な子 を選び、東洋 ・西洋各国に送 り、商学、工芸
などを修得 させ る。 こうして、彼 らが卒業 した ら、各業界 において会社 を設立 して、彼 らの伝授
する場 にする。 こうすると人材が輩出で き、外国の人材 を借 りな くて もいい。 (
中略)数年以内
に、中国の商学 も商業 も必ず盛んにな り、この時また商工大学校 を設立 して、実業 を内地 に広げ
させる。
-
95 -
(
41
0
)
神戸 大学発達 科学 部研 究紀 要
第
9巻 第 2号
一方、実際の留学政策で も実業や科学技術 に関す る専門知識の取得 を目的 とする留学が奨励 された。
た とえば 「自行酌弁立案章程」 には、「
監督処が 日本の各学校 に留学生の入学保証 を出す時、農、工、
商各実業学堂お よび文、理、医科 だけ人数 を限 らないが、政治、法律 、武備 などはそれぞれ定員 を限
定 し、毎年若干名 しか保証 しない」 と特別 に規定 された24)0
しか し、 この段 階の政策 は前段階 より整 った とはいえ、 まだ不十分であった。 とくに留学資格 に関
する規定 は不 明確 で、厳格 に実施 されない場合 も少 な くなかった。
2 実業系留学生派遣 にお ける商業系留学生の割合
この時期 に清政府 は留学生の選抜 、派遣 を迅速 に実行 し、同時 に自費留学 も奨励 した。 しか し留学、
とくに私費留学生の資格 に関 して何 らの制限 もしなかったため、留学 は立身出世の近道 として利用 さ
れることは避 け られなかった。つ ま り修得 しやすい科 目や短期 間で修了証明書獲得可能の速成留学 に
学生が集 中す ることとなった。 この点 を頭 に置いて留学生の派遣実態 をみてみ よう。
まず留学生 の人数 と構成 についてみてみると、総数 は年々増 え、1
9
0
5(
明治3
8
)年前後 にはピー ク
となった。人数の変遷 については統計 によって異説があるが、全般的な動向はみて とれる。留学生の
人数 は1
9
0
3(
明治3
6
)年11月に1
,
2
4
2
名、1
9
0
4(
明治3
7
)年11月に2,
5
5
7
名 、1
9
0
5(
明治3
8
)年 に8
,
0
0
0
名前後 に至 り、1
9
0
6(
明治3
9
)年 は6,
0
0
0
名であった (
1
9
0
5
、1
9
0
6
年 とも8
,
0
0
0
名、 また 1万名 を超 え
た とす る説 もある)25)0
また官費 と自費の比率 も前の時期 と比べて、大 きな変化が起 こった。駐 日公使楊枢の報告 によると、
ピーク時の官費生 と自費生 の比率 は約 3対 7であった。 さらに、最終の卒業学校 をみると、速成科が
約6
0%、普通科が約3
0%、専 門学校 や高等学校が約 3%、大学が約 1%、中退者が約 6%であった26)。
楊枢の報告 の裏付 け として、 ここでは1
9
0
7(
明治4
0
)年 における留学生 (
軍事学校 は除外)の在籍
人数 を挙 げてお こう。
表 5 日本の各学校 における中国留 日学生在籍人数 (
1
9
0
7
年)
在 籍 学 校
帝国大学
学生数 (
名)
4
7
1
9
5
8
4
6
9
8
41
9
2,
6
2
8
4
0
0
2
8
1
9
2
,
5
0
3
9
5
21
3
8
0
4
3
47
官公立大学
高等学校
高等師範学校
高等工業学校
高等商業学校
高等農業学校
私立大学
各種専門学校
外語 .美術 .音楽
医学 .歯学 .薬学
留学生補習予備学校
女学校
警監学校
体育学校
地方公私立学校
その他
[
註]二見剛史 ・佐藤尚子 「中国人 日本留学関係史統計」
4集 、1
97
8年 、1
0
3『国立教 育研 究所紀 要』 第9
1
0
4頁 よ り作成 した。
-
96 -
(
41
1
)
清末における商業系留 日学生の派遣政策と派遣実態に関する研究
表 5が示す ように、留学生の多 くは私立大学 または留学生予備教育機関に集中 し、この段階の留学
生の主体は質の高 くない教育 を受けていたことが分かった。実業系留学生の人数は明確 にで きないが、
人数が少 ないことは明 らかであった。
さて、 この時期の官費留学生の在学状況は如何であったろうか。統計資料が不十分 なため、ここで
は 『
東方雑誌』 に掲載 された記事 に依拠 して、各省の実業系官費留学生の派遣状況 を窺ってみる。
1
9
0
4-1
9
0
6
年)
表 6 各省の実業系留学生派遣状況一覧 (
派遣年
1
9
0
4
1
9
0
5
1
9
0
6
派
遣
者
人数 (
名)
専
攻 (
数字 は人数)
山東
潮仙鉄路総弁
福建
直隷学校 司
江蘇商務局
直隷天津軍医
直隷工務局
直隷
4
4
3
0
2
0
2
0
2
0
4
2
4
農業 2
0
、農工 商2
4
路政
商務 1
0
、工業 6
、商業 2、森林 1、漁業
実業
農工商
軍医
l
l
普通学 .日本語 6、農 2,実業 3
湖北
南部
湖南
四川勘工局
隣西
広東
2
0
3
0
1
0
0
2
0
3
0
3
0
農業
農業
法政 .実業 師範
工芸
実業
鉄路
広西
京 師戸部司貞
漸江
四川
挟西
福 建総督
折江
1
2
5
0
農工専 門
財 政法律
工業 1
,鉄路 数名
鉄路 1
7
、農業 7
、工 業 1
4
、工芸 2
0
実業
実業
鉄路
数名
5
8
3
0
1
2
1
0
1
[
註]『東方雑誌 』(
1
9
0
4-1
9
0
6
年) に掲 載 された記事 よ り整理 した。
表 6をみると分かるように、この時期派遣 された実業系留学生の専攻科 目が、前の時期 と比べ ると
9
0
4(
明治3
7
)
かな り増 えた。 また内陸部の留学生の比率 も前時期 よりはるかに増加 した。た とえば1
年に 『
東方雑誌』が掲載 した統計 によると、留 日学生の省籍 は江蘇 1
7
5
名 、漸江 1
42名、湖南 1
3
0名、
2
6
名、広東1
0
8
名、直隷7
7
名、四川5
7
名、安徴5
5
名、福建4
2
名、江西2
7
名、旗籍 (
満民族)2
7
名、
湖北 1
1
名、貴州1
7名、山東 1
0
名、広西 8名、河南 7名、奉天 ・山西 ・陳西各 1名であった。その後雲
雲南2
9
0
5(
明治3
8)年
南、貴州などの省か ら留学生 を大量 に派遣 した記録 もしば しばみ られる。た とえば1
貴州が4
5
名 を派遣 し、1
9
0
6(
明治3
9)年 には7
3
名 を派遣 した。 こうした動 きは、留学の潮流が内陸部
にも及んだことを示 している。
しか し実業系留学生の うち、商業系留学生の割合は少 なかった。表 5によれば、留学生の総数は
6,
0
00
名以上 に達 したが、高等商業学校の在学人数はこれの 1%にも満たなかった。 もちろん明治大
学のような私立大学の商学部 に在学 していた留学生 もいたが、台湾教育部 に保存 されている 「
各省官
6
名 を数えるに過 ぎなかった27)。 ま
費 自費畢業学生姓名表」 によれば同時期のこの種の学生はわずか1
た表 6をみると、商業系留学生はやは り少数であったことが分かる。
3 商業系留学生の派遣実態
しか し、最初の時期 と比べると、この時期の商業系留学生の数が増 えたことも否定で きない。当時
-
97
-
(
41
2
)
神戸大学発達科学部研究紀要 第 9巻 第 2号
日本 には高等教育 レベルの商業学校 は東京高等商業学校 と神戸高等商業学校 2校 しかなかったが、神
9
0
7(
明治4
0)年に高等商業学校の在
戸高等商業高校 にはまだ留学生はいなかった。表 5によれば、1
名であった。東京高等商業学校の修業期間は予科 1年、本科 3年の合わせて 4年間であっ
学人数は41
たか ら、卒業の年か ら逆算 してみれば、1
9
0
3(
明治3
6)年か ら1
9
0
6(
明治3
9
)年 までに入学 した留学
6
名であ り、具体的な人名は表 7の とお りである。
生のうち、名前が判明 したのは3
表 7 東京高等商業高校の入学者一覧 (
1
9
0
4-1
9
0
6
年)
姓 名
金 天禄
向瑞 蔀
高相犀
劉 光第
呉 乗酔
斉 鼎恒
蒋 以魁
談義孫
趨保泰
通 達壁
鄭聯 鵬
沈離延
李 鳴謙
高風介
陳訓旭
胡光第
鄭
軒
陳錫 嘩
春
入 学 年
1
9
0
4
同
同
同
卒 業 年
1
9
0
8
同
同
同
同
同
同
同
同
同
同
同
同
同
同
同
同
同
同
同
同
同
同
同
不明
1
9
0
5
同
同
1
9
0
9
1
9
0
9
同
同
梁
同
同
楊 汝梅
李 滴真
楊 紹宗
李 成林
同
同
同
同
同
同
同
1
9
1
0
呉家騰
葉 昌赴
劉輔宣
同
不明
呉 会英
周尽臣
銭懲動
周錫経
曽 鮮
張競 立
呉鼎昌
文 藻
余耀 栄
桔 以彰
1
9
0
6
同
同
同
同
同
1
9
1
0
同
同
同
同
同
同
同
同
同
同
同
同
同
同
同
同
同
省
籍
直隷 天 牽
湖南長 少
山東
直隷
江蘇 東 台
直隷 通 州
江蘇 青 浦
江蘇無
山東
江 蘇江都
直隷天 辛
漸江
江蘇
山東恵民
福建
山東
福建
山東
湖北
湖北
漸江
直隷
直隷
湖南
江蘇 江寧
湖南
江蘇
江蘇江 2
蜜
湖北
漸江
福建
斬江海寧
四J
t
l
華陽
湖北
四J
l
不明
費
用
不明
育
官
不明
官
官
官
官
官
官
不明
不明
官
官
官
育
不明
官
育
官
官
官
官
官
官
官
官
官
官
育
育
官
官
官
官
不明
[
註] 『
東京高等商業学校一覧』などより整理 した。
表 7をみると、南方沿海部 と経済発展先進省出身の留学生が圧倒的に多数 を占めてお り、北方の省
は直隷省 と山東省 しかなかった。直隷省 は北京、天津 を含 んでお り従来か ら文化 ・教育の中心であっ
たことか ら、留学生の質 も高かった。四川省が唯一の内陸部地域であった。つまり、 この時期留学の
潮流は内陸まで及んだにもかかわ らず、高等教育 レベルの商業系学校 は依然 として沿海部出身者が中
心であった。その要因としては、入学するのに高度な基礎教育が要求 されてお り、そのため近代教育
が先 に発展 していた経済先進部の省が優勢であったことが考 えられる0
-9
8-
(
41
3
)
清末における商業系留日学生の派遣政策と派遣実態に関する研究
名 に達 していた。前述 したように、 この段階の留学生全体の官費
費用の面か らみると、官費生が31
0%であったが、高等商業学校のそれは8
8.
5%にも達 していた。 このことは、高等商
生の割合はほぼ3
業学校の留学生が優秀であったことを示 している。留学資格が無制限で経費 さえあれば誰で も留学で
きる自費留学 と違い、官費生 には選考があ り、 日本 に来る前 に基礎教育 をしっか り受ける必要があっ
9
0
4年 に入学 した蒋以魁、李振鐸、呉乗剣、李鳴謙、道連堅、談義孫は、
たか らである。たとえば、1
南洋高等商業学堂が教師を養成するため、本校の優秀な生徒か ら抜擢 し日本留学 に派遣 された者であ
り、高形犀、遭保泰 も山東省が商業学校の教師を養成するために派遣 した学生であった。
当時の東京高等商業学校 における日本人学生の入学競争は非常 に激 しかったが、留学生に対 しては
1
9
01 (
明治3
4)年 に改訂 された 「
文部省直轄学校外国人特別入学規程」 に依拠 して受け入れたようで
ある。具体的な受け入れの手続 きはまだ明 らかにしていないが、上記の規程 によれば、留学生が入学
する際に、「
一般学則 ノ規定二依 ラズ所定 ノ学科 ノー科若ハ数科 ノ教授 ヲ受ケ ン トスル者」 は、清政
府駐 日公使か留学生監督が発行 した紹介状があれば 「
特二之 ヲ許可スルコ トアルヘシ」 と規定 された。
ただ し 「
学科修了ノ証明書 ヲ受ケ ン トスル者ニハ試験 ノ上之 ヲ附与スベシ」 とい う規定 もあった28)か
ら、実際に入学 した留学生の人数は表 7のそれを超 えていたことも十分考えられる。
Ⅳ
質的向上期 にお ける商業系留学生 の派遣 (
1
907-1
911
年)
1 実業系留学生派遣政策の変化
前述 したように、1
9
05 (
明治3
8)年前後 に留学生の人数はピークになったが、ほとんどの学生が速
成留学であった。 この状況 に対 して、 日中両国か ら批判の声が上が った。
そ もそ も清政府は新政 に必要な人材 を養成するために留学、 とくに日本留学 を提唱 したが、留学生
の質的低下 という現状は当初の目的 と反する結果であったか ら、この結果 をもたらした原因を反省 し、
9
0
6(
明治39)年 3月に 「
選送遊学限制弁法」が公布 され、
日本留学 に急 ブ レーキをかけた。 まず 1
「中学校 を卒業 し、留学先の国の言語 を通 じ、後 日に高等専門レベル以上の学校 に入学で きる者 を主
に選ぶ」 と留学資格 を規定 した29)。同年 8月に学部 (日本の文部省 に相当)は各省 に速成学生の派遣
を停止する命令 を出 した。他方、国内の初中等教育が次第に整備 されて きたので、清政府は 「
普通の
学問は国内の学堂 に頼 り、専門知識の教育は留学に頼 る」 と留学の方針 を確立 した30)。 したが って高
等教育機関で勉強 している留学生 に対 して、様 々な優遇策や奨励策が打出された。
9
0
6(
明治3
9)
実業系留学生 を奨励する具体的な措置の一つは、留学経費についての規定であった。1
年1
2月に公布 された 「
管理遊学 日本学生章程」 に、「
お よそ官立高等学校あるいは高等専 門学校お よ
び大学 に入学で きる自費生は、総監督が該当生徒の籍所在省の総督 に官費を商請するべ き」 と規定 さ
)
。 もともと高商はその官費補給の枠 に入 っていたが、1
9
0
9(
明治42)年 1月、学部 は官立高等
れた31
実業学生に入学 した自費留学生 に対 して官費支給することを提議 し、これが批准 された。 しか し、官
費補給する専攻範囲の規定 には 「
農、工、理化」 (
後 に医学が追加 された)が明確 に指定 され、商業
は外 された32)。
1
9
0
6(
明治3
9)年以降、清政府は実業系留学 を極力奨励する意向を示 した。 しか し商業系留学生の
9
0
9(
明治42)年 9月に留学生管理機関の留 日学
官費補給 については不明な点が残 っていた。そこで1
生監督処が、学部 に商業系学生は農、工、理化および医学 を専攻する学生 と同様 に官費 を与えること
がで きるか否か とい う主 旨の諮問を送 った。 この諮問に対 して、学部 は規定 によって商業系学生の官
費補給方法が明確 に挙 げられていないためこの度の補給 はで きない と回答 した33)。なぜ商業だけが外
されたのかは現段階では分か らない。ただ同時期 に成立 した 「
五校特約」 に高等商業学校が含 まれ、
山口高等商業学校 に進学する留学生 にはすべて官費の待遇が与 えられた。
-9
9-
(
41
4
)
神戸大学発達科学部研究紀要 第 9巻第 2号
2 高等商業学校への本格的な留学生派遣-
「
五校特約」の成立
清政府の実業系留学生に対する熱意は、高等専門教育機関への進学門戸 を打開する努力 にもよく現
れた。
前節で述べた とお り、清政府は速成留学の問題点 に気づいてその改善 をはかるため、速成留学生の
派遣 を停止 し、資金 を集中 して高等教育 レベルの留学 を強化 しようとした。 しか しここで問題 になっ
たのは、高等専門学校が留学生 を収容する枠 に制限が存在 したことであった。当時、 日本の官立の高
,
0
0
0
名 もいるといわれたが、 しか し毎年各校が受け入れる
等教育諸学校 に進学 を志望する留学生は2
0
数人に過 ぎなかった。留学生が高等教育諸学校 に進学する機会 を確保するた
留学生の枠 は多 くて も1
9
0
7(
明治4
0
)年に駐 日公使楊枢 は 「
遊学計画書」 を皇帝に提出 し同意 を得た上、 日本政府 と積
め、1
極的に交渉 した。清政府は日本の文部省 に、高等教育諸学校が留学生 を受容する数 を一定 にしたい と
い う意向を表明 し、これに対 して文部省 は、 日本人の希望者 さえ試験 によって制限 しているのに、中
国人留学生 を無償で引 き受けるわけにはいかない として、設備費 ・経常費などの一部 を負担 して欲 し
い という意見 を清政府に伝 えた。清政府はこの条件 を受け入れ、両国間で再三交渉 した結果、留学生
9
0
8(
明治4
1
)年以降の1
5
年間、毎年、第-高等
を受け入れる協定 を締結 した。協定の主な内容は、1
5
名、東京高等師範学校2
5
名、東京高等工業学校4
0
名、山口高等商業学校2
5
名、千葉医学専門学
学校6
0
名の計 1
6
5
名の留学生の入学 を許可することとし、そのかわ りに、清国側 は学生 1名 につ き毎年
校1
2
0
0-2
5
0円の教育費 を日本政府 に納めることとした。いわゆる 「
五校特約」であった。なお、留学生
の経費は、各省負担 となっていた34)。
ここで注 目すべ きことは、「
五校特約」 に該当する学校が、帝国大学 に進学する準備教育 を実施す
る第一高等学校 を除 き、高等師範、工業、商業、医学などすべて当時の中国に緊急 に必要 とされた専
攻であったことである。商業系留学生 に対する重視が ここか らもうかがえる。「
五校特約」は 「
多数
速成の混乱 した日本留学時代か ら高等専門さらに実学 を中心 とする秩序ある時代へ転換 させるための
重要な一環 として」
3
5
)の役割 を果た した。
1
91
1(
明治4
4
)年、学部 は北京 に 「
遊学 日本高等五校予備学堂」 を設立する予定案 を立て、「
予備
学堂章程」 も制定 した36)。この予備学堂に文科 と実科の 2学科 を設け、文科は第一高等学校の第-部、
東京高等師範学校の英語部 ・地理歴史部お よび山口高等商業学校への予備教育機関 とされた。つまり
ここで商業は、実科ではな く文科 とみなされた。前述 した官費補給の専攻か ら商業が外 された問題 と
関連 し、商業系の性質に対する認識 にはかな りあいまいな点が存在 していたことが分かる。
3 商業系留学生の派遣実態
清政府が留学生の質の向上 をめざして一連の改善策 を推進するとともに、留学生の人数 も減少の一
9
0
7(
明治4
0
)年に7
,
0
0
0
名、1
9
0
8(
明治4
1
)
途 を辿 った。実藤恵秀の研究によると、留学生の人数は、1
年 に4
,
0
0
0
名、1
9
0
9(
明治4
2
)年 に5
,
0
0
0
名以下 (
4,
0
0
0
名の説 もある)、1
91
0(
明治4
3
)年 に1
,
3
4
7
名
91
1(
明治4
4)年 には1
,
2
0
0
名 しかいなかった37)。 しか しこの間、留学
まで急減 し、辛亥革命発生の1
生の レベルが次第に上がっていたことも事実であった。
9
0
6(
明治3
9
)年前後 に文部省直轄学校の在校人数は全
表 8に示 した留学生在枚状況か らみると、1
91
1(
明治4
4
)年にほぼ半分 に至 り、次の年には初
体の 3-4%であったが、 この割合は年々増 え、1
めて公私立学校のそれを超 えた。文部省直轄学校 は当時の 日本で も質の高い学校であ り、直轄学校 に
在学 していた留学生が留学の主流 になったことは、何 よりもこの段階において留学生の質が向上 した
ことを示 している。
-1
0
0-
(
41
5)
清末における商業系留 日学生の派遣政策と派遣実態に関する研究
(
名)
表 8 留学生の在校分布 (
1
906-1
91
2年)
年
度
文部省直轄学校
1
9
0
6
1
9
0
7
1
9
0
8
1
9
0
9
1
91
0
1
91
1
公私立学校
2
6
2
2
6
3
5
3
8
7
4
4
7
9
9
1
,
0
2
5
合
7
,
0
21
6,
4
3
4
4,
6
7
8
4,
5
2
2
3,
1
8
0
2,
3
0
3
[
註]二見 剛史 ・佐藤 尚子 「中国人 日本 留学 史 関係統計
第9
4
集 、1
9
7
8
年 、1
01
頁。
計
7,
2
8
3
6
,
7
9
7
5
,
21
6
5
,
2
6
6
3
,
9
7
9
3
,
3
2
8
」『国立教 育研 究所紀 要 』
最後 に、商業系留学生の派遣 について詳 しくみてみ よう。
明治末期、東京高等商業学校以外 に神戸高等商業学校 (
1
902年)
、山口高等商業学校 (
1
905年)、長
1
905年)などが続々 と設立 された。「
五校特約」該当校の山口高等商業学校 はい う
崎高等商業学校 (
908 (
明治41) 年 に、
までな く、他の高等商業学校 も積極的に中国人留学生 を受け入れた。たとえば1
東京高等商業学校が留学生 を収容する枠の増加 をはかる意向を示 し38)、長崎高等商業学校 も留学生の
ために特設予科 を設けた。各高等商業学校が収容 した留学生数 を挙げると表 9とお りである。
表 9 各高等商業学校が収容 した留学生数一覧 (
1
907-1
91
1
年)
学
校
1
9
0
7
年
1
9
0
8
年
1
9
0
9
年
1
91
0
年
1
2
5
1
6
6
東京高等商業
神戸高等商業
7
0
0
山口高等商業
6
2
6
2
7
2
6
0
(
名)
1
911年
2
0
2
9
合
計
41
7
1
1
4
[
註]各 『
高等商業学校一覧』 によ り整理 した。
表 9に記 された入学年は、入手 した資料 に明記 された入学者 を除 き、すべては修了 した年か ら潮 っ
て推算 した数字であるか ら、必ず しも正確ではない。 しか し合計数 を考 えると、この段階に留学生数
が総体的に減少 しつつあったにもかかわらず、高等商業学校 に収容 された留学生は前段階 より明 らか
に増加 した。 とくに 「
五校特約」 に沿って留学生 を受け入れた山口高等商業学校の人数は一番多かっ
明治44) 年 に起 こった山口高等商業学校留学生同盟退学事件が原因で 「
五校特
た。残念なが ら1911 (
約」 によって入学 した学生で卒業で きた者はわずか17名 しかいなかった。他の高等商業学校 に入学 し
た学生 も全員卒業 まで至 った訳ではなかった。卒業 したのは、東京高等商業学校が26名、神戸高等商
業学校が 5名、長崎高等商業学校が28名であった。
官立高等商業学校以外 に私立大学の商科 に入学 した留学生 も大幅に増 えた。完全 な数字 は把撞で き
907 (
明治40)年か ら1
911
ないが、ここでは前記の 「
各省官費 自費畢業学生姓名表」 により計算 した、1
(
明治44) 年 まで私立大学商科 などに入学 した留学生数 を表 1
0に示 した39)。
(
名)
表1
0 私立大学商科 に入学 した留学生数一覧 (
1
907-1
91
1
年)
∴ 川
1
9
0
7
1
9
0
8
不
明治大 学
早稲 田大学
日本 大 学
中央大学
3
6
31
6
6
5
1
2
8
2
1
8
0
0
4
[
註]台湾教育部所蔵資料 「
各省官費 自費畢業学生姓名表」 に よ り整理 した。
- 101 -
そ
の 他
1
1
0
(
41
6
)
神戸大学発達科学部研究紀要 第 9巻第 2号
表1
0の数字 には卒業 した学生だけを表 したが、選科や未卒業の学生 はまだ大勢いた と推測で きる。
3
3
名の うち、山口高等商業学校か ら退学 した もの もかな り入 っていた。
明治大学 に入学 した1
次 に、留学生の出身省籍 をみてみ よう。
1 留学生出身省籍一覧
表1
十一
㌍
音
折江
江 蘇
湖 北
湖 南
直 隷
安 徽
江 西
広 東
奉 天
四 川
福 建
山 東
山 西
広 西
雲 南
貴 州
駅 西
河 南
東京高等商業学校 神戸高等商業学校 山口高等商業学校 長崎高等商業学校 私 立 大 学
1
1
6
4
8
2
1
1
1
4
3
3
8
3
5
3
1
l
l
8
1
3
1
3
4
4
7
1
1
4
4
3
2
2
2
1
2
1
1
1
4
1
1
l
l
2
7
1
6
2
2
1
4
7
5
2
0
1
0
2
2
5
5
2
1
1
1
1
[
註]
各『
高等商業学校一覧』
、台湾教育部所蔵資料 「
各省官費自費畢業学生姓名表」などによ
り整理 した。空欄 は不明である。
表1
1の省籍一覧 を通 して、内地の省 の出身者が さらに増 え、前の 2段階における省籍分布の特徴 に
大 きな変化が起 こったことが よく分かる。 また費用 については、山口高等商業学校 はすべて官費 になっ
たが、東京高等商業学校 には官費が2
3
名、 自費が 9名、不明が 9名あ り、長崎高等商業学校 には官費
6
名、 自費が 3名、不明が1
2
名あ り、神戸高等商業学校 には官費が 4名、 自費が 2名、不明が 1名
が1
であった。 これに対 して、私立大学 に在学 して費用が明 らかな8
6
名の うち、 自費が4
2
名、官費が4
4名
であった。官立学校 の官費生が依然 として多数 を占めていたことが分かる。
Ⅴ おわりに
以上、 3つの段階に分 けて、清末の商業系留学生派遣政策に対応 させ なが ら、各段階 における商業
系留学生派遣 の実態 を明 らかにした。 と くに、商業系留学生の出身省籍 ・費用 などについて詳 しくま
とめ、各段階 ごとに、派遣 された留学生の特徴 について考察 を加 えた。
本研究が とりあげた1
8
9
6(
明治2
9
)年か ら1
91
1(
明治4
4
)年の1
0
数年間、 日本の高等商業教育機関
0
0
名 を超 えた。 1万名以上 を数 えた当時の留学生総数 と比べ る と、そ
に入学 した学生の人数 は合計3
の数は少 ない ようにみえるが、西洋の商業知識 を身につけた貴重 な人材 として近代 中国の商業の興隆
に大いに貢献 した。後年有名 になった者 も多かった。た とえば、近代商業教育 に大いに貢献 した京師
大学堂商科分堂 (
商学部)の監督であった権量、天津 甲種学童教務長の全天禄、大量の新式簿記人材
を養成 した江南両等商業学校教務長兼銀行科主任教習の談嘉孫、湖北省商業学堂校長の楊汝梅 などが
-
1 0 2
-
(
41
7
)
清末における商業系留 日学生の派遣政策 と派遣実態に関する研究
挙 げ られる。 また中国最大の近代銀行 である中国銀行 の総裁 にな り、民 国政府財政部次長、実業部部
長 を務 めた呉鼎 昌、有名 な銀行家李銘 、銭永銘、談嘉孫 な ど、中国近代金融史、経済史 に欠かせ ない
人物 も数多 くいた。
1)実藤恵秀 『中国人 日本留学史稿』 日華学会、1
9
3
9
年参照。
2)張之洞 『
勧学篇』湖北書院、1
8
9
8
年。
3)劉真主編 『
留学教育』台湾国立編訳館 、1
9
8
0
年、2
3
9
頁。
4) さねとう ・けい しゅう 『
増補版 中国人 日本留学史』 くろしお出版、1
9
7
0
年、4
3
頁。
5)林子動 『中国留学教育史』台湾華岡出版有限公司、1
9
7
6年、1
2
1
頁。
6)「
張之洞門下の学生来 日」
『
教育時論』第4
71
号 、1
8
9
8
年 5月1
5日、3
3
頁。
7)註3
)に同 じ、2
5
1
-2
5
2
貢。
8)陳填峨 『
清季留学政策初探』台湾文史菅出版社 、1
9
8
9
年、4
1
頁。
9)註8
)に同 じ、1
0
3
頁。
1
0 )註8
)に同 じ、1
0
3
頁。
l
l
)『
教育時論』第4
7
3
号 、1
8
9
8
年6
月 5日、3
1
頁。
1
2
)『
東京高等商業学校一覧』卒業生名簿より整理 した。入学年は逆算 したものである。
1
3
)註 3)に同 じ、7
9
8-7
9
9
頁に参照。
1
4
)註4
)に同 じ、2
6
5
頁。
1
5
)『
東方雑誌』1
9
0
5
年第1
2
期、2
4
7-2
4
8
頁。
1
6
)周棉主編 『中国留学生大辞典』南京大学出版社、1
9
9
9
年、5
3
頁。
1
7
)註8
)に同 じ、1
2
3
頁。
1
8
)註1
)に同 じ、9
0
頁。
1
9
)陳学惰主編 『中国近代教育史教学参考資料』上、人民教育出版社、1
9
8
7
年、5
3
3
頁。
2
0
)朱有献主編 『中国近代学制史料』第 2輯下、華東師範大学出版社 、1
9
8
9
年、2頁。
2
1
)註1
9
)に同 じ、5
3
3
頁。
2
2
)註1
9
)に同 じ、4頁。
2
3
)註1
9
)に同 じ、2
9-3
1
頁。
2
4
)註 3)に同 じ、2
6
9
頁。
2
5
)王寄生 『中国留学生の歴史軌跡』湖南教育出版社、1
9
9
2
年、9
7-9
8
頁。
頁。
9
6
2
6
)註3
)に同 じ、3
)に同 じ、4
2
9-5
8
1
頁参照。
2
7
)註3
0
年史』財政評論新社、1
9
7
6
年、1
4
0-1
41
頁。
神戸大学凌霜7
2
8
)作道好男等 『
8
0-2
8
1
頁。
2
9
)註3
)に同 じ、2
0
7
頁。
)に同 じ、1
3
0
)註8
1
)註3
)に同 じ、7
0
3-7
0
4頁。
3
3
2
)註3
1
)に同 じ。
3
3
)清朝 『
留 日学生監督処官報』第2
8
期 、1
9
0
9
年 5月、6
7
頁。
3
4
)註3
)に同 じ、3
0
3-3
1
5
頁に参照。
3
5
)呂順長 「
清末 『
五校特約』留学 と漸江省の対応」
『中国研究月報』1
9
9
8年 2月号 、1
9
9
8年 2月2
5日、2
9
頁。
3
6
)註3
)に同 じ、31
6
頁。
3
7
)註1
)に同 じ、3
5
0-3
5
1
頁。
3
8
)註3
)に同 じ、4
2
7
頁。
3
9
)註3
)に同 じ、4
2
9-5
8
1
頁参照。
-
1 0 3
1
(
41
8
)
神戸大学発 達科学部研 究紀 要
-1
0
4-
第 9巻 第 2号
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