...

会員のひろば - 北海道医師会

by user

on
Category: Documents
13

views

Report

Comments

Transcript

会員のひろば - 北海道医師会
ト北海道」を近々運用開始する予定です。ロービジ
ョンケア拠点眼科医療機関の一つとして、
「i
Pa
d」を
含め、ロービジョンケアに貢献できればと思ってい
ます。
会 員 の
ひ ろ ば
パソコンと
ロービジョンケア
札幌市医師会
大塚眼科病院
松下
玲子
パソコンは得意ではありませんが、電子カルテを
はじめ、どうにか使っています。メール、インター
ネットでの調べものには確かに便利ですし、学会原
稿の校閲を頼まれ、私が原稿を直すとワードで修正
してまたすぐきれいにプリントアウトされて返って
きます。昔、パソコン(ワープロ)のない時代は、
「清書して教授に提出すると赤く直され、また最初
から清書する」の繰り返しでした。今は図表も場合
によってはその場でちょちょっと直してしまうので
すから、昔々のブルースライドの時代とは大違いで
す。
乗り遅れまいと、娘と同機種(教えてもらうため)
に替えたスマートフォン(スマホ)の機能は、残念
ながら電話・メール、たまにネット程度にしか使っ
ていません(正確には、使えていません)。
眼科領域で低視力の方のロービジョンケアと言え
ば、ルーペや単眼鏡、遮光眼鏡、拡大読書器などが
ありますが、最近タブレット PCの「 i
Pa
d」やスマホ
の「 i
Ph
on
e
」などに障害者補助機能、アクセシビリ
ティが装備されて話題になっています。
ロービジョン外来に「 i
Pa
d」を導入する準備中、
北海道高等盲学校で広島大学大学院准教授・氏間和
仁先生の「視覚障害者のための i
Ph
on
e
研修会」が開
催されたので、過日視能訓練士( ORT)と参加して
きました。パソコンのキーボードと違い液晶画面に
凹凸がないので、ロービジョンの方の「スマホは諦
めている」との声を聞いていましたし、難しいだろ
うなと思っていましたが、認識を改めました! な
かなかの「優れもの」です。もっとも、慣れと練習
が必要で、私自身は使いこなしてロービジョンの方
に教える、なんて自信はありませんので、若い ORT
諸嬢にエールを送るだけですが。
北海道眼科医会では、勤医協札幌病院・永井春彦
先生をリーダーとして、Drt
oDr
の紹介でロービジョ
ンケアを受けやすくし、教育や福祉などとの連携を
スムーズにするための支援システム「スマートサイ
平成2
5
年1
0
月1
日 北海道医報
第1
1
4
1
号
アップル社
i
Pad
i
Padのアクセシビリティ設定画面。
「ズーム」や「画面読み上げ」などのアクセシビリティ機能
が端末に標準搭載されている。
3
4
ALTAをご存じでしょうか?
愛犬NANA
旭川市医師会
くにもと病院
旭川市医師会
道北勤医協ながやま医院
鉢呂
芳一
中川 直子
1
5
年前のある日、
当時小学校1年生の息子が言った。
「犬が欲しい」
7歳年上の息子も、幼いころそう言ったことがあ
る。動物を愛する心があるのはいいなあと、臆病だ
った私にはなかった気持ちがあることを知り、飼う
ことに決めた。ペットショップで命を買うのは嫌な
気がして、さてどうするか?
「ムツゴロウ動物王国」に犬が欲しい旨の手紙を書
いてみた。返事が来た。今、柴犬の子がいるとのこ
と。興味もあり、浜中~中標津と旅をして、小さな
命を受け取った。
私にとって、人生初の犬との暮らし。何もかもが
「えーそんなあ」の連続だった。その子犬 NANAは
よく走り、よく遊び、そして4匹の子犬を産み、3
匹の猫の親代わりをした。美しい赤毛、ピンと立っ
た耳、巻尻尾、太い前足。動きに気品があり、何よ
りも黒く輝く瞳を持っていた。子犬を育てる時、必
ず子犬たちが食べ終わるまで待ち、一匹一匹ていね
いになめて育てる姿に、どれだけ母親の務めの大切
さを教えられたことか。
昨年4月、11
年間仲良しだった猫に先に逝かれ、
毎日びーびー泣き暮らす私に、どこで見つけたのか、
庭でボールをくわえ、昔したようにボール投げして
遊ぼと走り回った。がんばりすぎたのか、猫の死後
7日目に発熱して、食べない状況になった時は肝を
冷やした。
それから1年過ぎ、老いつつも犬らしく暮らして
いる。視力も衰えているが、黒い瞳は変わらない。
じっと見つめる黒い瞳に乾杯!
「 ALTA(アルタ)治療」とは何のことかご存じで
しょうか。別名「ジオン治療」とも呼ばれています。
以前、同じ質問を同期の医師にしてみたところ、案
の定、知っている友人はいませんでした。肛門疾患
に精通されている先生には以下つまらない話になり
ますが、この場をお借りしまして簡単に紹介させて
いただきます。
実はこの ALTA治療、肛門外科の分野では近年ま
れに見る画期的な治療法なのです。およそ8年前に
登場したこの薬は、
「痔」を切らないで治してしまう
という、とんでもない薬です。もちろん「痔」と言
ってもさまざまな「痔」があります。内痔核、外痔
核、痔瘻、裂肛などいろいろな病気がありますが、
この ALTA治療が威力を発揮するのは内痔核の治療
です。残念ながらすべての「痔」の病気がこの ALTA
治療で治るわけではありません。
従来、今でも標準治療ですが、内痔核に対しては
切り取ってしまうという結紮切除術が一般的です。
しかし手術後は、ある程度の痛みを伴います。ALTA
治療は、内痔核に「 ALTA」という特殊な薬を注射
することで、内痔核を治してしまうという画期的な
ものです。切り取るわけではありませんから、通常
は痛みも少なく、手術を受けたその日から内痔核か
らの出血や脱出がほとんどなくなります。残念なが
ら、すべての内痔核症例を ALTA治療だけで治せる
わけではありません。外痔核を伴っている場合な
ど、症例によっては切除が必要になります。
ALTA治療は、近年開発された新しい治療法であ
ると説明しました。しかし、この ALTA治療には、
実は40
年近い歴史があります。というのは、 ALTA
という薬には基になる薬がありました。1
9
7
0
年代に
中国でミョウバンを主体においた「消痔霊」という
内痔核硬化療法薬が開発されており、 ALTAという
薬はこの「消痔霊」の中身を少し変えた治療薬なの
です。
「消痔霊」は現在でも中国で一般的に内痔核治
療に使用されております。ただ中国という国柄のた
めか、なかなか正確な長期成績を入手することがで
きません。現在われわれは9年目を迎えた ALTA治
療について、長期成績を中心にデータの集積を行っ
ているところです。
長期成績がまだ明確でないにせよ、短期的には非
常に有効です。お忙しい生活をされている人々にと
って、特に内痔核症状に困っていらっしゃる場合に
は、この ALTA治療は福音となることでしょう。
愛犬NANA
3
5
平成2
5
年1
0
月1
日 北海道医報
第1
1
4
1
号
ションと称して強要する覇者主義であった。
善悪の基準は、どの国も結局は先祖の固有物であ
るが、 G7等の先進国では絶対神の思想が通底し、
同時にその善悪の基準で他国の個人までもを押さえ
込む植民地思想があり、敗戦後のわれわれも、外来
の保革共々の二種の模倣政治が身に付いて、東西冷
戦の間は国内二分して対決し、いまもテレビなどの
メディアを通した舞台の上で左右と称した闘争に翻
弄されて興奮する癖が茶飯になり、独自の理念や譲
れぬ民族の誇りが見えなくなった。神と人の闘争は
日本にないにもかかわらず、である。
さすればであるが、われわれは家庭と社会の生活
習慣の底にある、歴史と風土に源流を持つ、独自の
物を研ぎ出すことである。
家庭では特に、姑から嫁に伝える母性の役割を尊
ぶ家族の在り方を見直し、衣食住に纏わる礼儀、年
祭、祭儀、算賀を、母性を中心に守り続けることで、
無論、算賀年祭には祖父母と父性の比重が大切で、
その下敷は伝承文化の「道」に見る、相身互身、譲
り合い、知足、巡り合い、栄枯盛衰、思いやるなど
の思想であり、その深層に流れる日本古来の先祖崇
拝の信仰心であり、人を信じる事から信心と信念に
繋がるのである。
さらには風土の似通ったアジアの島国に相応し
い、具体的には天然に畳なづく産業構造、修正自由
資本主義、日本的宗教主義、西洋哲学からの脱却、
恒久平和主義、教育制度の根本的な改変などで、と
りあえずの小手先の方便より、根本的な方策に着手
すべきである。そして肝心なのは、自らが無償の善
に逆らう元凶ではないかと、懸念する風習を再び思
い返すことである。それは日本民族の恥と差恥みの
文化の礎であり、嫁姑の品格付けの物差しを共有し、
さらに己への恐れが天然の畏敬につながり、世界の
あちこちに和平の心を持った子どもが育つ黄金律で
もあるからである。
一神教の博愛に立つ優しさを唱える西欧文化と、
八百万の神に組み立つ文化に安寧を委ねる医術を獲
得できるか、ましてや無宗教という人心に医をいか
に築くか。それは司法の有り方にも全く同じで、法
の奥の倫理の、東西の違いに目覚める時である。一
神教の絶対的規範は自然科学の進展につれ明確に弱
体化している。彼我を責めはしないが、生命存在の
理法の深層に思いを届け、未来につなぐ努力を惜し
んではならない。人間個の絶対的矛盾的自己同一的
絆の場のどこかに生命存在の磐石となる愛も哀もが
あるだろう。博愛と慈悲を混交し得るのはわれわれ
の方にないか。
医療よ医師よ
「いじめ・
体罰・暴力と優しさ」
札幌市医師会
公益社団法人生命科学振興会 常務理事
佐々木
廸郎
いじめが子ども同士から地球規模に蔓延している
ように見える。そこで、所属している公益社団法人
道支部の本年度フォーラムは「いじめ・体罰・暴力
と優しさ」のテーマで、基調講演を前札幌市医師会
長・山光先生と山崎弁護士にお願いした。世がいか
になっても凌駕する優しさの砦は、医療と司法に要
る、との見解である。
われわれが幼小児期から無心で昆虫や犬・猫を追
い回し、弟妹を小突いた記憶は生涯無意識裏にあっ
て、生活の折々に浮沈すると思われ、それは、折々
の生活習慣が修飾し続ける心の癖であり、当然生活
する日々の場に原因がある。その場とは、家庭と家
庭以外で、全部である。
で、その一つである家庭は、誕生直後の子が家族
の習慣に従って心をつくる場であり、その著しい特
徴は子にとって無償の善である母性の存在で、その
乳房は乳児の専有物で、母は3歳ごろまでは専属で
あり、これが人を信ずる絆の元核で、優しさの源で
もある。しかし現代は良妻賢母の二役が一般化し、
良妻は卵胞ホルモン、賢母は催乳ホルモンの両者を
同時に分泌するのは無理があるのに文化として一人
の身に期待され、さらに先の戦後は女性独立運動な
どで両方ともがあやふやになり、母性は家族の調教
師になった。加えて、家族の絆よりは社会の窓の役
だった父性が、これも女性の社会進出でほぼ無意味
になり、その結果、家庭はほとんど崩壊し、乳児は
唯一の情愛の柱を失い、母自身も家族もみな精神不
穏になっているのである。
二つ目の、家庭以外の場は民族の伝承文化で、先
祖が日本列島の四季のある海洋気候で何万年かに培
った、自然に根ざす一次産業社会の思想が基礎をな
していて、昨今の二次や三次産業らは、黒船の襲来
や原爆投下の恐怖による外圧がきっかけで、その伝
承文化を諦め他国の文化を真似た結果の近々百五十
年の激変であり、それはディベートとリベンジと覇
権主義を核にし、行動でいうと、手にした権限を権
力にすり替え、自己本位的に行使し、権利であると
し、さらに自然を開拓しつくし、徹底的な弱肉強食
で相手が敗北宣言するまで許さない富国強兵であっ
た。
今気付くのであるが、そこでの優しさは唯一神に
所属し、下僕としての優しさのみが許されるとし、
さらには宗教を含む文化圏をそっくり先進と後発に
層分けして、
固定価値視し、独善的にグローバリゼー
平成2
5
年1
0
月1
日 北海道医報
第1
1
4
1
号
はにか
3
6
起きてしまいました。妻 Sさんの話では、自宅でも
気にくわないことがあると、私を叱り飛ばすことな
どが日常茶飯事で、毎日小さくなって暮らしている、
とのことでした。診察室では、相変わらずおとなし
い患者さんですから、どうしたら良いものかと、私
もほとほと困ってしまいました。
さて、事件直後の Sさん夫婦の受診日。
「いつも怒
っている人、そうだ、抑肝散を飲ませてみよう」と、
突然、ひらめきました。患者さんには「気分の落ち
着くお薬出しますね」と、インフォームドコンセン
トなど二の次、まさに電光石火の早業で、抑肝散と
大書した処方箋を渡しました。
それから4週間がたちました。いつもは受付で一
くさり文句を言う夫 Sさんが、その日は何事もなく
受診され、薬局で薬をもらい、そそくさと帰宅され
たとのことでした。その後も、 Sさんを巡る事件は
何もなく、穏やかな一年が過ぎました。これは、ま
さに、抑肝散が著効しているのだと、私は素直に嬉
しい思いでいっぱいになりました。
先日、妻 Sさんに最近の夫の様子を尋ねたところ
「怒鳴られなくなったけど、一緒にテレビを見てい
て、面白い場面で話しかけても、ほとんど反応がな
いの」と、物足りなさげに、ぼそっと漏らされまし
た。
もしかして、これは、副作用というものなのでし
ょうか。
外来で怒鳴る患者
札幌市医師会
開成病院
大泉
弘子
私、平成2
0
年4月より、北区の北楡会・開成病院
に勤務しております大泉弘子と申します。
外科医だった父親の「内科系の方向に進んだらど
うや」の一言で、北大第三内科に入局。その後あち
こちの研修を経て、曲がりなりにも、消化器内科を
標榜する内科医のはしくれとして、今に至っており
ます。
最近の消化器の外来は、内視鏡や画像診断では大
きな異常の見当たらない、いわゆる機能性胃腸症と
呼ばれる患者さんが、非常に増えてきているように
思われます。このような患者さんの愁訴を緩和する
ことに毎日心を砕いていると、西洋薬だけの治療オ
プションにいささか限界を感じ、ここ数年来、漢方
治療に大きな興味を抱くようになりました。
本を読んだり、ご高名な先生の講演を拝聴したり、
自分なりに鋭意努力しておりますが、なにぶん独学
のためか、いわゆる病名漢方医から脱却できない状
況が続いております。
たまたま病棟で、申し送りの場に居合わせた時の
ことです。
「○○さんに、また○番が処方されています。食間
にお湯に溶かして、飲ませてください(面倒くさい
なー)」みたいな雰囲気満載で、私はいたたまれなさ
に、その場から立ち去りました。これは、ひとえに
私の漢方医としての実力のなさ(手間のかかる指示
の割には、患者さんが治らない)のゆえんと、自信
喪失の日々が続きました。
さて、昨年の夏のことです。二人そろって糖尿病
で、私の外来に通院されている、 Sご夫妻の話にな
ります。二人の外来受診日の火曜日は、当院の稼ぎ
頭の院長の外来日と重なり、患者さんの待ち時間が
非常に長くなってしまう日でした。夫 Sさんは、担
当医の私の前では、借りてきた猫のようにおとなし
いのですが、受付の事務職員らには、受診のたびに
「待ち時間が長い」と言っては毒づき、怒鳴りつけ
るなどの行状があり、困った患者さんの一人として、
ブラックリストに名を連ねていました。外来のスタ
ッフを通じて、担当医の私にも相談があり、どこか
予約制を導入している他施設への紹介も考えており
ました。
そんなある日、夫 Sさんが、院長担当の患者さん
と、待合い室のイスをめぐってけんかとなり、揚げ
句の果てに怒鳴りつけ、当の患者さんはショックで
しばらく通院できなくなってしまう、という事件が
3
7
平成2
5
年1
0
月1
日 北海道医報
第1
1
4
1
号
江戸型の形状はテレビとネットで見て想像がつい
たが、味までは分からない。季節物なので期間限定
だ。桜餅を目的に上京もできない。だが、こういう
場合こそネットは強い味方だ。探索したら、札幌に
もあるではないか。それも、札幌医大の近くの和菓
子店だ。
春分の日の朝、その和菓子屋にいた。開店早々な
ので、目当ての桜餅は50
c
m
四方のお盆の中に30
個以
上はあった。餅の生地は紅白の二種類があり、紅い
のがこしあん、白は粒あんが入る。形は、確かにク
レープ状で、子規が食べたものと同じだ。だが、巻
いた葉は一枚だけなのでちょっと寂しい。
売り子さんに聞くと、長命寺型を作るのは札幌で
はここだけとのことだから、入手できてラッキーだ
った。関東出身の人が求めにくるので、売れ行きも
良いらしい。分かるなぁ。その時期が来ると、郷愁
をそそる味に心が騒ぐものだから。まるで、お正月
のお雑煮と同じようなものだ。それを食べないと、
その時期が来た実感が湧かない。それが行事食や食
材の特徴でもある。
さて、肝心なのは味だ。一口噛んでみた。道明寺
餅粉とは舌触りが大きく違う。葉の香りは同じ。あ
んは、ほどよい甘さで上品だ。だが今回の焦点は「生
地」である。あんと一緒に食べても分からないので、
生地だけ食べてみた。モチモチ感もなくすっきりし
ている。甘さも強くなく出しゃばってはない。あん
の味を前面に押し出すように奥ゆかしい舌触りだ。
もう一度手にとって観察した。確かに形状は違って
いる。でも味はやや期待外れだった。子規の好んだ
桜餅だからと、期待感を膨らませ過ぎたのかもしれ
ない。
とにかく、季節のお菓子をおいしく味わうには、
五感を鋭敏にしておける体調が重要だ。メタボにな
れば、お菓子はもちろんご法度。風邪を引いたら繊
細な味も分からなくなる。
季節を先取りし、旬も楽しめるお菓子であるだけ
ではなく、日本人の美意識を反映しているのが和菓
子だ。ネット上でも、桜シリーズのお菓子は多数ヒ
ットする。桜は、見るにも食べるにも日本人にとっ
て特別の存在、永遠のテーマだ。
桜餅の葉にも特徴がある。伊豆の松崎町のオオシ
マザクラの葉を用いるが、そこでは全国の7割が生
産されているという。葉の独特の香りは塩漬け中の
発酵によるもので、自然の葉にはないもの。どおり
で葉をこすっても匂いが出なかった。この味と香り
がないと桜餅ではない。
「向島長命寺の桜もち」のホームページでは、餅の
香りつけと乾燥を防ぐため、葉三枚で餅を包んでい
る。こんな大切な葉を食べない? ある老舗のホー
ムページでは「葉を外して食べる」のがマナーと紹
介しているし、
「桜餅の葉っぱを食す会」のホーム
ページでは、食べることを推進しているから、実際
子規の桜餅
札幌市医師会
札幌清田病院
後藤
義朗
本年の春分の日、東京では平年より10
日ほども早
く桜が開花したが、北海道・胆振地方は吹雪だった。
その後も寒さが続いて春が遠のき、道内の開花は通
年を大きくずれ込んだ。
だが、季節を先取りできるお菓子が「桜餅」。昨年
塩漬けした桜の葉を用いるが、その匂いが満開の桜
を思い起こさせる。道内の桜は、花も葉も同時に枝
にたわわに付くから、葉を見ても花の姿を想像する
のは難しくない。桜餅は、待ち焦がれる春の訪れを
感じさせる特別な品なのである。
Eテレ番組『グレーテルのかまど』で「正岡子規
の桜餅」が取り上げられた( h
t
t
p:
//www.
n
h
k
.
or
.
j
p/
k
a
ma
do/s
t
or
y
/i
n
de
x21.
h
t
ml
)。子規が好んだ桜餅は、
筆者の知っている物とは形が違う。子規の桜餅は、
山本新六が1
7
1
7
年に考案した、将軍吉宗が植樹の指
導をした江戸の隅田川の桜の葉を使ったもの。焼い
た皮をクレープ状にしてあんを包み、それを桜の葉
で包む。向島の「長命寺」の門前で売り始めてヒッ
トしたので、この形は「長命寺」型と呼ばれる。一
方、筆者が知るのは、軟らかい、粒々の餅にあんを
包んだもので「道明寺型」という。餅の素材はもち
米由来の「道明寺粉」で、大阪に道明寺という尼寺
があるので、いわゆる上方風だ。
両者を比較すると、道明寺型の分布が広い。北海
道も含まれるのは、北前船での物資流通に関係があ
ると推測されている。一方、江戸型(長命寺型)は
関東甲信地方が中心で、東北地方では福島、宮城、
岩手県に限定され、青森県では旧南部藩の支配地域。
その他、静岡や島根県の一部にも広がっている。
さて子規の話に戻すが、子規は21
歳の時に長命寺
型桜餅を作る「山本や」の二階に下宿したことがあ
る。子規はこの場所を大変気に入り、
「月香楼」と命
名し大切にしていた。10
年後、子規が没する前に、
また食べに行ったという。その味は恐らく初恋の甘
すっぱさが残る懐かしいものだっただろう。
長命寺
江戸風桜餅
平成2
5
年1
0
月1
日 北海道医報
道明寺 上方風桜餅
第1
1
4
1
号
3
8
に食べない人も多数いるということだ。驚きだ。道
明寺型なら餅と一体なので簡単にとれないから、筆
者はそのまま口へ入れていた。
なお、葉の生産者は食べられるように調整してい
るというから、安心して食べよう。そして、葉とあ
んで作り上げる絶妙な春のハーモニーを心ゆくまで
楽しもう。筆者にとって桜餅といえば、食べ慣れて
いるいつもの道明寺型の方だ。パクリ。やっぱり、
ウマー。
と、結核性腹膜炎で東大病院に入院するまでの2ヵ
月間、入院していた2ヵ月間、その後の自宅療養期
間である5ヵ月間からなる。冒頭の「白鳥の歌」2
首が詠まれたのは、諸家の詳細な検討の結果、1
9
1
2
5
年)2月18
日ごろとする説が有力である。
年(明治4
自らが病に倒れた後、 木の妻・節子、そして母・
カツが結核に侵された苦しい生活の中で、土岐哀果
からの著書『黄昏に』を贈られて、わずかにかき立
てられた創作への意欲が、原稿用紙に書きつけられ
た「白鳥の歌」であるという。
( A)では、眼を閉じて心の世界に入り込もうとし
ても、ふるさとの懐かしい山河のたたずまいも、忘
れがたい愛しい人々の面影も、何も浮かんでこない。
( B)では、病に冒された身体の奥深くで、命をつ
ないでいる呼吸の音を、木枯しのごとく受けとめて
いる。ともに、病状の深刻さゆえの寄る辺のなさが、
歌の隅々にまで詠み込まれている。
谷村新司・
『昴』のほうはどうだろうか。まず、
(1)
に続く1番の歌詞から見ていく。
*写真提供・引用
江戸風桜餅:h
t
t
p
:
/
/
4
t
r
a
v
e
l
.
j
p
/
t
r
a
v
e
l
e
r
/
m
u
f
f
i
n
/
上川風桜餅:W
i
k
i
p
e
d
i
a
「桜餅」より(P
D
)
木と「昴」
函館市医師会
函館渡辺病院
水関
清
“♪荒野に向かう道より 他にみえるものはなし
ああ 砕け散る宿命の星たちよ
せめて密やかに この身を照せよ
我は行く 蒼白き頬のままで…”
“♪目を閉じて 何も見えず
哀しくて目を開ければ…” -(1)
次に、
(2)に続く2番の歌詞はこうである。
「眼(め)閉づれど、
心にうかぶ何もなし。
さびしくも、また、眼をあけるかな。」-(A
)
“♪されど我が胸は熱く 夢を追い続けるなり
ああ さんざめく名も無き星たちよ
せめて鮮やかに その身を終われよ
我も行く心の命ずるままに…”
“♪呼吸(いき)をすれば胸の中
凩は吠(な)き続ける…” -(2)
木を想起させる、蒼白き頬をした「我」が、心
の命ずるままに進み行こうとする荒野に照る星あか
り。そうした光を放ってくれる星々は、名もなく、
きらめきを残して、やがて消えてゆく。
ここで思い出すのは、 木の周辺で、陰に陽にそ
の暮らしを支えた人々のことである。金田一京助
(1
8
8
2
-1
9
7
1
)と宮崎大四郎(郁雨)
(1
8
8
5
-1
9
6
2
)
とがその双璧であろうが、ともに文芸雑誌で結ばれ
た縁である。1
9
0
0
年(明治3
3
年)創刊の雑誌『明星』
の存在を 木に伝えて、文学への立志の端緒を与え
たのが金田一なら、その『明星』の縁で函館にやっ
てきた 木に編集を任されたのが、1
9
0
7
年(明治40
年)1月に創刊された雑誌『紅苜蓿(べにまごやし)
』
である。宮崎は、その寄稿者の一人であり、その後
木の義弟となり、 木一家への物心両面の援助は、
木の生前はおろか、その死後まで続けられたこと
はよく知られている。
『明星』は、与 野
(1
8
7
3
-1
9
3
5
)が創立した
「東京新
」の月刊 関紙である。 歌を中心と
した雑誌で、19
0
0
年(明治3
3
年) 月に創刊され、
1
9
0
8
年(明治4
1
年)1
1
月発行の1
0
0 をもって終刊と
なった。
は、その後 人となる
子(1
8
7
8
-
1
9
4
2
)とともに、北原白 (18
8
5
-1
9
4
2
)、吉
(1
8
8
6
-1
9
6
0
)などの、文学 にその名を刻んだ歌
「呼吸(いき)すれば、
胸の中(うち)にて鳴る音(おと)あり。
凩(こがらし)よりもさびしきその音!」-( B)
“ ”で示した(1)と(2)は、谷村新司・作詞
の『昴』
「
。 」で示した( A)と( B)の方は、石川
木(1
8
8
6
-1
9
1
2
)の死後、親友・土岐哀果(18
8
5
-1
9
8
0
)の編集によって出版された歌集『悲しき玩
具』の冒頭に据えられた2首、世にいう「白鳥の歌」
である。この2首は、編集にあたって哀果が底本と
したノート形式の歌集とは別に、原稿用紙に書かれ
ていたものを追加収載したことが知られている。
両者は一見してよく似ており、鮮やかな対応を見
せている。しかしながら子細に見ていくと、
(1)は
『昴』の1番の歌詞であるが、
( A)は土岐哀果・編『悲
しき玩具』の2番目の掲出歌である。同様に、
(2)
は『昴』の2番の歌詞、
( B)は『悲しき玩具』の1
番
目の掲出歌と、順序が両者で逆になっている。
『悲しき玩具』は、1
9
1
0
年(明治43
年)12
月に世に
出た『一握の砂』に次ぐ、 木の第2
歌集として知ら
れる。その作歌期間は、1
9
1
0
年(明治43
年)1
1
月末
から翌19
1
1
年(明治44
年)8月21
日までのおよそ9
ヵ月間とされる。この9ヵ月間の 木の生活を見る
3
9
平成2
5
年1
0
月1
日 北海道医報
第1
1
4
1
号
『明星』は日本近代浪漫派の拠り処となっ
人を育て、
た。 木と『明星』との出会いは、1
9
0
0
年(明治33
年)、 木が盛岡中学3年の時のことである。創刊間
もないこの雑誌を貸し与えたのが、金田一京助であ
った。与謝野鉄幹・晶子夫妻との初めての出会いは
その2年後、盛岡中学を退学して上京した、1
9
0
2
年
(明治3
5
年)1
1
月のことである。文学への一途な憧
れだけでは生活することはできず、翌1
9
0
3
年(明治
3
6
年)には故郷・渋民に戻った。その後の紆余曲折
をへて、雑誌『紅苜蓿』への寄稿が縁となって、
木は1
9
0
7
年(明治4
0
年)5月に函館にやってきた。
その『紅苜蓿』は、
「東京新詩社」の同人でもあっ
た大島経男(18
7
7
-1
9
4
1
)が中心となって設立され
た「苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)」から発行された、月
刊文芸誌である。
「苜蓿社」には『明星』に刺激され
た函館の文学青年たちが集い、大島以外の同人とし
て、吉野章三(18
8
1
-1
9
1
8
)、岩崎正(18
8
6
-1
9
1
4
)、
松岡政之助(18
8
2
-1
9
5
0
)、並木武雄(18
8
7
-1
9
2
2
)、
宮崎大四郎(1
8
8
5
-1
9
6
2
)、向井永太郎(1
8
8
1
-1
9
4
4
)、
沢田信太郎(18
8
2
-1
9
5
4
)らが知られている。その
出身地を見ると、大島と向井は北海道、吉野は宮城
県、松岡と沢田は秋田県、宮崎は新潟県、並木は東
京市(当時)と、まちまちである。すなわち苜蓿社
とは、
函館に縁があって来合わせた若者たちが、文学
への思いを核にして結集した文学結社なのである。
『紅苜蓿』の創刊は19
0
7
年(明治40
)年1月で、そ
の終刊は同じ年の7月。この間の5月には啄木が合
流して、おおいに歌を詠み、恋を語った。啄木は6
月に、大島の後を承けてこの雑誌の主筆となったが、
7月になると同人たちは次々に函館を離れていっ
た。松岡が秋田へ、大島は北海道静内へ、宮崎は旭
川へ、そして向井は札幌に向かった。後日啄木はこ
の文芸誌を評して、
「雑誌・紅苜蓿は四十頁の小雑誌
なれども北海に於ける唯一の真面目なる文芸雑誌な
り。」と、9月6日の日記に記している。
谷村新司・
『昴』の歌詞に戻ろう。
「さんざめく名も
無き星たち」という字句からは「同人中でも特に気
心の合った私達四五人のグループは、殆ど毎日の様
に彼を訪ずれては、詩歌を談じ文学を論じ世間を批
判し、またよく恋愛を語った。そしてまた折にふれ
て歌会を持った。
(
」宮崎郁雨著『函館の砂』)、苜蓿社
同人たちと 木との交流が思い出される。また「砕
け散る宿命の星たち」の字句は、次々に函館を離れ
ていった苜蓿社同人たちの姿をほうふつとさせる。
その主要メンバーの足跡をたどると、大島は郷里・
静内から札幌を経て上京し、官庁勤務の後、春秋書
院で『服部漢和大字典』の編集主任を務めるなど、
出版界で活躍した。宮崎は、教育召集のため旭川の
砲兵連隊に入隊するため、一時函館を離れたが、
木との交流は絶えることなく続き、 木の妻・節子
の妹・ふき子と結婚して 木の義弟となり、物心両
面から、 木を真摯に支え続けた。家業の味噌製造
平成2
5
年1
0
月1
日 北海道医報
第1
1
4
1
号
業や、その後を承けた小売業に従事する傍ら、社団
法人函館慈恵院(現・社会福祉法人 函館厚生院)
の常務理事となり、社会福祉事業にも貢献した。沢
田は、商工会議所から官庁勤務の後、新聞社から銀
行、そして保険会社に勤め、晩年はその顧問の職に
あった。
木自身もそうであるが、結核で人生を縮めたメ
ンバーもいる。吉野は教員を、岩崎は郵便局員を、
並木は商社員をそれぞれ務めていたが、惜しいこと
に早逝している。
渋民から函館にやってきた 木を出迎え、自身の
下宿を函館での宿泊先として提供し、その第一夜を
ともに過ごした松岡は、官庁勤務の後、新聞社など
に勤めた。また向井は、官庁勤務の後、森林調査員
の仕事を長く務めた。余談になるが、松岡は札幌で
も 木を出迎えた一人で、函館の時と同様な務めを
果たしている。19
0
7
年(明治4
0
年)8月の函館大火
の後、職を求めて札幌に来た 木を、向井とともに
札幌駅に出迎えて、駅前にあった18
9
3
年創業の五番
館デパート(旧・西武札幌店)を紹介しつつ、北7条
4丁目にある向井の下宿先・田中サト方に招き、2
度目の宿泊先を提供している。
苜蓿社の同人たちのことを詠んだとされる歌が、
『一握の砂』の「忘れがたき人人」に見える。最初
の1首は大島経男を、2首目は松岡政之助を、3首
目は宮崎大四郎を、4首目以降の3首は吉野章三の
ことを念頭に置いたものとされる。
~とるに足らぬ男と思へと言ふごとく
山に入りにき
神のごとき友~
~友われに飯を与へき
その友に背きし我の
性のかなしさ~
~智慧とその深き慈悲とを
もちあぐみ
為すこともなく友は遊べり~
~かなしめば高く笑ひき
酒をもて
悶を解すといふ年上の友~
~若くして
数人の父となりし友
子なきがごとく酔へばうたひき~
~さりげなき高き笑ひが
酒とともに
我が腸(はらわた)に沁みにけらしな~
ここで、谷村新司がこの歌の題名を『昴』とした
ことについて考えてみたい。古来わが国では「昴」
は「六連星」と呼ばれている。比較的狭い範囲に小
さな星が密集して見える特異な景観で知られ、天体
物理学的には、約6千万~1億歳と若い年齢の青白
4
0
け入れられているのではないか、という論旨である。
その1
2
年後の2
0
0
2
年、遊座昭吾(国際 木学会・
第2代会長)は、小木曽にあてた私信の中で、谷村
に会った時のことをこう伝えている。谷村自身の言
葉として「大学時代に石川 木を読みました。その
ときの糧が、曲や詩となって出てくるのです。それ
が私の心の中の 木です。」と述べたことを伝えてい
る(遊座昭吾:
「 木に誘われて」岩手県立盛岡第二
高等学校生徒会誌『白梅』、2
0
0
1
年)
。
その6年後の20
0
8
年、海部宣男(元・国立天文台
長)はその著書『天文歳時記』の中で「天体一般と
しては、つかの間の一生を輝き、超新星として華々
しく散る運命にある天体である昴を、天才の輝きを
放ちわずか二十七歳の生涯を終えて散った巨星・
木になぞらえて、谷村が「昴」を作詞したことは、
その後の 木の運命と重ね合わせると、適切であっ
たと考えられる。」と評している。
筆者はこれらの論旨に反駁するものではないが、
この解釈では、歌の最後で頻繁に繰り返される、
“♪さらば昴よ” のリフレインの説明がつかない。
木の早逝を、単に天体としては束の間の新星の輝き
“♪さらば昴よ”という
に重ね合わせるのではなく、
言葉の意味に、もっと寄り添うべきと考えたい。
筆者の考えはこうである。昴のような苜蓿社同人
たちの放つ光を、常に頭上に置いて文学の荒野に歩
み入ったものの、念願した小説の世界では芽が出ず、
日々暮らしが窮迫していく中で、
『食うべき詩』の中
で提唱した短歌観に目覚めた 木は、これを武器に、
地道な生活者として、日々折々の思いを詠うことに
よって、人生の奥底に触れる短歌を目指し、苦労の
末、
『一握の砂』を上梓することができた。
日々の暮らしの哀歓を、すばやくすくい取って詠
うことのできる短詩型としての短歌。その斬新な短
歌観をもって、新境地をさらに大きく切り開いてい
こうとした 木の姿こそ、谷村が『昴』の中で歌い
上げたかったものではないだろうか。
い高温の星の集団であるとされる。これまでの考察
から、
「昴」とは、 木の加わった苜蓿社同人たちを
指し、
「さんざめく名も無き星たち」や「砕け散る宿
命の星たち」は、函館の地でひと夏の輝きを共有し
た苜蓿社同人ひとりひとりの、それからの足跡を暗
示していることは、明らかであろう。さらに、この
歌の最後で頻繁に繰り返される“♪さらば昴よ” の
リフレインも、この解釈を支持しているものと考え
られる。
ふるさとの渋民で窮迫していた 木を、1
9
0
7
年(明
治4
0
年)、春から夏の季節を迎える函館の地で熱狂的
に迎えた苜蓿社同人たち。函館での夏を家族で過ご
した 木は、その秋、札幌・小樽に転じ、冬には釧
路で暮らし、文学で身を立てる決心を固めた。翌
1
9
0
8
年(明治4
1
年)春、再び函館に立ち寄ったあと、
木は東京に向かった。その地で、小説家としての
勝負をかけたものの、その売り込みに失敗。深い失
意の中で湧き上がってきた短歌が、それまでさんざ
ん詠んできた、 木お得意の『明星』風の趣を脱し
て、これとは異なる独自の風合いを見せ始める。
生活の細部を子細に見つめ、暮らしの深みの中に
沈潜して初めて見えてくる歌の世界への開眼。短歌
という表現形式を、
「自分が感じたこと、そして考え
たことを日常に即して詠うこと。慌ただしく過ぎて
ゆく日々の暮らしの中の短い時間で、その時々の気
持ちを手軽に表現できる詩型。おりふし、心の中に
浮かんでくる淡い思いを、すばやく掬い取ることの
出来る詩型。」と規定した上で、短歌を「特別な御
馳走ではなく、日々の食卓に欠かせない香の物」と
評した。
木作品の魅力の源泉は、雑誌『明星』と『紅苜
蓿』を介した苜蓿社同人たちとの邂逅によって実現
した、函館での日々の暮らしの中にあった。東京で
の『明星』の輝きに呼応するように、函館で煌きは
じめた苜蓿社同人たちの真ん中に、 木は彗星のよ
うに流れ入って、その光芒をより一層鮮やかなもの
にした。 木にとって函館は、約束の地であり、幸
運の地であり、善良な陽気に出逢えた地だったので
ある。
*
*
*
*
*
歌集『悲しき玩具』の冒頭2首と、谷村新司・
『昴』との類似については、アジア学生文化協会常
務理事(現・理事長)である小木曽友(おぎそ ゆ
う)による『「昴」と 木、その後』
(『月刊アジアの友』
:
1
9
9
0
年9月)の中での指摘が最初のものと思われる。
この小論の中で小木曽は、
『昴』がアジアの人々に愛
唱されているのは、その歌詞が、 木の短歌に想を
得ていることもその一因であろうと指摘している。
木の短歌が、生活感情を平明に詠むことによって
人々に親しまれてきたように、それを下敷きにした
『昴』もどこかでアジアの人々の心情に訴えかける
ところがあるからこそ、こうしてアジアの人にも受
4
1
平成2
5
年1
0
月1
日 北海道医報
第1
1
4
1
号
Fly UP