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創立者の大学構想についての一考察(1) - Soka University Repository

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創立者の大学構想についての一考察(1) - Soka University Repository
創価教育研 究第5号
創 立者 の 大学 構 想 に つ いて の 一 考 察(1)
通信教育部開設構想 とその沿革
塩
目
原
将
行
次
は じめ に
1.創
価 教 育 の歴 史 と通 信 教 育
(1)日
本 に お け る通 信 教 育 の発 祥
(2)牧
口常三 郎 と通 信 教 育
(3)戸
田城 聖 と通 信 教 育
2.創
立者 の通 信 教 育 部 開 設 構 想
(1)創
価 大学 の設 立構 想
(2)通
信 教 育部 の 開設 構 想
(3)通
信 教 育 部 開設 構 想 の 目指 す も の
お わ りに
は じめ に
本稿 で は 、創 立 者 池 田大 作 先 生(以 下 、 「
創 立者 」 とい う)に よっ て 開 学 以 前 か ら構 想 され て
い た通 信 教 育 部 開 設 につ い て 、 そ の淵 源 とな る創 価 教 育(1)の 歴 史 か ら考 察 し、 同部 開設 の意
義 を考 え て み た い。
21世 紀 に入 り 日本 の 大 学 教 育 の 環境 は 大 き く変化 して き た 。 大 学 ・短 大 を志 願 す る い わ ゆ る
18歳 人 口が減 少 し、 大 学 ・短 大 の 総 入 学 定員 を 下 回 る とい う時代 を迎 え た。 ま た 、 日本 の 高校
生 が 日本 の 大 学 で 学 ぶ と は限 ら ない 時 代 、 そ して 、 イ ンタ ー ネ ッ トな どに よっ て 、 キ ャ ンパ ス
に行 か な くて も学 べ る時 代 にな って きた 。 そ れ は 、 これ ま で の 大 学 の あ り方 そ の もの を根 底 的
に変 え る もの で あ り、新 しい 大学 、新 しい 教 育 の あ り方 が 問 わ れ て い る。
そ れ ぞ れ の 大 学 が 、 生 き残 りをか けて 、 時代 と社 会 の変 化 に適 切 な 対応 を し続 け る こ とは 当
然 として 、い ま最 も求 め られ て い る の は 、そ の 大 学 の創 立 の 目的 は 何 か とい う原 点 に 立 ち 帰 り、
そ こか ら出発 す る こ とで は ない か と考 え る。 なぜ な ら、建 学 の 理 念 こそ が 、 そ の 大学 の存 在 意
義 で あ り、 そ れ を曖 昧 に して は 、 そ の 大 学 が 存在 す る 意 味 は 、厳 密 にい え ば 、 な くな っ て しま
うか らで あ る。 創 立 者 が どの よ うに創 価 大 学 の設 立 を構 想 して きた の か 、 そ して 、 そ の 構想 実
現 のた め に、 我 々 は どの よ うに創 価 大 学 を発 展 させ て い か な けれ ば な らな い の か 、創 立者 の著
作 や 関 係 文 献 を改 めて 読 み返 し考 え てみ たい 。
そ こで 、創 立 者 構 想 の 柱 とな る も のは何 か を考 え 、 そ こか らテ ー マ を逐 次選 択 し、 考 察 を進
め る こ と と した 。 最 初 に通信 教 育 を選 ん だ の は、 以 下 の 理 由 に よ る。
MasayukiShiohara(セ
ン タ ー 事 務 長)
一21一
創 立 者 の 大 学 構想 につ い て の一 考 察(1)通
信教 育部 開設 構 想 とそ の 沿革
第 一 に、 開学 以 前 か ら通 信 教 育 部 開 設 を構 想 して いた こ とは 、創 立 者 の 大 学構 想 の 大 き な 特
色 で あ り、 先 見 で あ る と考 え た か らで あ る。 創 立者 は 、 学 部 教 育 の 基盤 が確 立 して か ら通 信 教
育 を始 め る とい うの で は な く、 開 学 と同 時 に ス タ ー トした い と考 え て い た。 創 立者 の大 学 構 想
の 中 で は 、通 信 教 育 は 、オ プ シ ョンや サ ー ビス で は な く 、創 立 の 目的 のひ とっ で あ る 。最 近 は 、
放 送 大 学 以外 に も通信 教 育課 程 の み の大 学 が認 可 され る な ど、 情 報 技術 の飛 躍 的 な進 歩 に よ り
「通信 」 とい う手 段 が 教 育 方 法 と して も 高 く認 知 され る よ うに な っ て き た。 しか し、創 価 大 学
が 開 学 した1971(昭
和46)年
に 通信 教 育 課 程 を 開設 して い る 大 学 は 、11大 学 にす ぎ な い。 そ の
よ うな 時期 に通 信 教 育 部 開設 を構 想 して い るの で あ る。
第 二 に 、通 信 教 育部 は 、2006(平
成18)年
に 同部 開設30周 年 の佳 節 を迎 え 、今 や 、現 在 の創
価 大 学 の大 き な 特 色 の ひ とっ とな っ て い る。 現 在 、 通信 教 育部 に は 、 日本 の大 学 通 信 教 育 で は
一番 多 い約22
,000人 が在 籍 し、卒 業 生 も約10,000人 、教員 採 用 試 験 合 格 者 は 累 計約1,700人 で あ
る(2)。 な ぜ 、 こ の よ うに発 展 す る こ とが で き た の か 、 そ れ は 、創 立者 が 、 通信 教 育 にお い て
も、 学部 教 育 と同 じ く人 間教 育 を志 向 した か らで は な い だ ろ うか。 そ こで 、今 年 、 こ のテ ー マ
に取 り組 む こ と と した。
第 三 に 、通 信 教 育 に は 、21世 紀 の大 学 教 育 を考 え る上 で の示 唆 が あ る の で は ない か と考 え た
か らで あ る。 ア ー ノル ド ・J・ トイ ン ビ ー(ArnoldJ,Toynbee)は
、創 立者 との対 談 の 中で 、
「
知 識 が 常 に増 大 し、 しか も そ の解 釈 が た えず 変 化 してい る今 日の世 界 で は 、 フル タイ ム(全
目制)の 青 少 年 教 育 だ け で は十 分 で は あ りませ ん。 引 き続 い て 、生 涯 に わた るパ ー トタイ ム 的
な 自己教 育 を して い く必 要 が あ ります(3)。」 と述 べ てい る。通 信 教 育 は 、生 涯 に わ た る 自 己教
育 に対 応 で き る学 習 シ ス テ ム で あ る。居 住 地 、生 活 環 境 や 職 業 だ けで な く、学 習 に あ て る時 間 、
理 解 力 の差 が あ っ て も 、ひ と りひ と りが 自 らのペ ー スで 、 満 足 感 を持 って 学 ぶ こ とが で き る。
本 来 、学 生 は 、教 員 の講 義 に対 して 受 身 の存 在 で は な く、 ひ と りひ と りが 「学 習 の 主 体 者 」
で あ る こ とが求 め られ る。創 価 とは 、「価 値 を創 造 す る」 とい う意 で あ り、筆 者 は 、創 価 大 学 の
学生 が 「
学 習 の主 体 者 」、 生涯 に わ た っ て 「
価 値 を創 造 す る 主 体者 」、 と育 って ほ しい と念 願 す
る。 それ も 、一 部 の学 生 で は な く、入 学 した 大 多 数 の学 生 が そ の よ うに育 って い く大 学 で あ り
た い と思 う。 そ の よ うな教 育 を考 え る貴 重 な示 唆 が 、創 価 大 学 の通 信 教 育 には あ るの で は ない
か と考 え る か らで あ る。
最 後 に 、筆 者 は 、創 価 大 学 ・同大 学 院 を卒 業 後 、母 校 の 大 学 職 員 として採 用 して い た だ い た 。
最 初 の配 属 は 、通 信 教 育 部 の学 生 係 で あ り、1978(昭
験 した。 こ の期 間 は 、 同部 開設3年
和53)年4月
目(完 成 年 度 を迎 え る前 年)か
よ り7年 半 、 そ の 業務 を経
ら、10年 目ま で に あ た り、
学 生 と教 職 員 が一 体 とな っ て通 信 教 育 部 の伝 統 をひ とっ ひ とっ 積 み 上 げて い った 時 で もあ った 。
20年 以 上 も前 の こ とで あ る が 、通 信 教 育 の業 務 を経 験 して きた こ とも 、創 立者 の 大 学構 想 を考
え る最 初 のテ ー マ に選 ん だ 理 由 の ひ とっ で あ る。
1.創
価 教 育 の 歴 史 と通 信 教 育
創 立 者 が 、創 価 大 学 構 想 の柱 の一 っ に通信 教 育 をお い た 理 由 を考 え るた め 、牧 口常 三 郎 、 戸
田城 聖 が行 った 通 信 教 育 事 業 にっ い て述 べ て み た い 。
(1)日
本 に お け る通 信 教 育 の発 祥
通 信 教 育 が 始 ま る の は 、そ の前 提 とな る近 代 郵 便 制 度 が確 立 され て か らで あ る。1840年 イ ギ
リス で 、ペ ニ ー ・ブ ラ ック と呼 ばれ る世 界 最 初 の切 手 が発 行 され た 。 そ して 、通 信 教 育 が 世 界
一22一
創価教育研究第5号
で初 めて 行 わ れ るの は1856年 、 ドイ ツ の言 語 学 者 ラ ンゲ ン シ ャイ ト(GustavLangenscheidts)
が語 学 教 育 にお い て 実施 した こ とに始 ま る。1871年 か ら1911年 の 時 期 は特 定 で き ない が 、 イ ギ
リス のケ ンブ リッ ジ大 学 で は婦 人 の た め に家 庭 で も高 等 教 育 が 学 べ る通 信 教 育 を始 めた 。 そ の
後 、ア メ リカ に も受 け継 が れ 、発 展 して き た(4)。
日本 にお い て 、 郵 便制 度 が 始 ま っ た の は、1871(明
治4)年
で あ るが 、通 信 教 育 の制 度 の始
ま りにっ い て 、大 学 通 信 教 育 の世 界 で は 、そ の前 身 とな る講 義 録頒 布 を も っ て そ の起 源 と して
い る。1885(明
5Aの
治18年)9.月
の 中央 大 学 の前 身 、英 吉 利 法 律 学 校 の 講 義 録 、1886(明
治19)年
早 稲 田大 学 の前 身 、東 京 専 門学 校 の講 義 録 がそ の始 ま り とされ て い る。 こ の よ うな講 義
録 の時 代 に は 、受 講 者 は 、校 外 生 と して受 け入 れ 、講 義 録 の頒 布 を主 と して 、添 削 指 導 や 試 験
は行 われ なか った(5)。
の ち に大 学 に発 展 して い か な か っ た た め に 、歴 史 の 中 に埋 もれ て し ま っ たが 、 ア メ リカ の通
信 制 大学 を参 考 に して 、質 問 を 受 け た り、試 験 も行 うよ うな通 信 教 授 を行 う通 信 講 学 会 とい う
団 体 が1886(明
治19)年
に生 まれ て い る。 斎 藤 正 二 は 、1889(明
治22)年4月
に牧 口常 三 郎 が
北海 道 尋 常師 範 学 校 に入 学 す る た め に どの よ うな方 法 で学 ん だか を論 証 す る過 程 で 、通 信 教 育
の 開拓 者 と して辻 敬 之 と通 信 講 学会 に着 目 した(6)。 そ こで 、斉藤 が 引 用 して い る横 山健 堂 『文
部 大 臣 を 中 心 と して 評 論 せ る 日本 教 育 の変遷 』(1914年
中 興館 書店 、186頁)を
紹 介す る 。
通信 教 育 の嗜 矢 ・
… 伯 大 木 ・… 西 村 茂 樹 ・… 山県 悌 三 郎 ・… 辻 敬 之
◎ 吾輩 は 、 此 に 、序 を 以 て 通信 教授 の 嗜矢 を語 るべ し。 通 信 教 授 は 、 明 治 の文 化 開発 に於 け る一 大
事項 なれ ばな り。
(中略)
む ◎ 当 時 、 山 県 の 、 披 読 せ し 外 国 雑 誌 の 中 に 、 ニ ュ ー 、 イ ン グ ラ ン ドの 雑 誌 に 、Correspondence
Universityと
い へ る を 発 見 し 、 頗 る 奇 異 の 思 を 為 す 。 そ の 中 に 、InstructionbyCommunicationの
標題 あ るを見て、遙信 に農 らぞ藪番 昌蒸 ε穂 号良暑芳藻 を啓発 せ られ 、此の事 を、甚藪 是に話 し、エ
ママ
夫 の 末 、 通 信 教 授 と命 名 し、 『通 信 講 学 会 』 の名 を 以 て 、 講 義 録 を発 行 し、意 外 の成 効 を収 め 得 た る
な り。(以 下略)
通 信 講 学 会 にっ い て 、 『読 売 新 聞 』1885(明
治18)年12月8日
付3面
に は 、 「○ 両 会 設 立
米
国 の通 信 大 学 校 に倣 ひ 今 度 下 谷 練 塀 町 十 四番 地 の開 発 社 内 に通信 講 学 会 と云 ふ 者 を設 立 し通 信
の方 法 に依 り職 業 ま た は 他 の事 故 あ りて 学 校 へ 通 ふ 事 の 出 来 ぬ者 に 各 人 必 要 の 学 科 を 教授 す る
と云 ふ(以 下 略)」 とあ る。
「
通 信 講 学 会 設 立 ノ主 意 書 」 に よれ ば、 同 会 の創 立 は 、1886(明
治19)年1月
で あ る。 同 会
規 則 に は 、 「三 ケ 月 を以 て一 学期 と し六 学 期 を以 て一 学科 を卒 業 す る も の とす 」 「
会 員 は学 修 せ
る学 科 上 に疑 義 あ る とき は 自由 に質 問す る こ とを得 べ し。 但 質 問 に 関 す る往 復 の 郵 便 税 は 会 員
の 自弁 とす 」 「学 期 末 に至 り卒 業試 験 を望 む も の は其 旨を 通 知 し本 会 の 回答 を 待 て 上 京 す べ し
但合 格 者 に は該 学 士 署 名 の証 書 を与 ふ べ し」 とな って お り、開 講 科 目は、 鉱 物 学 、生 物 学 、心
理 学 、政 治学 、数 理 学 、 教 育 学 、 倫 理 学 、経 済学 で あ る。
そ の後 ま も な く、通 信 構 学 会 で は 、試 験 役 員 を派 遣 も し くは委 託 して 、各 地 方 で も試 験 が 行
うよ うに な る(7)。
通 信 講 学 会 以外 に も同 様 の動 き が 見 られ る。 『読 売 新 聞 』1885(明
に は、「学術 の 通信
治18)年12H10日
付2面
本 郷 元 町一 丁 目三番 地 の有 志 学術 攻 究 会 にて は今 後 米 国通 信 大 学 校 の方 法
一23一
創 立 者 の大 学 構想 に つ い て の一 考 察(1)通
信 教 育部 開設 構 想 とそ の 沿 革
に原 づ きて 同会 中へ 通 信 部 を設 け 、学 士 数 名 を講 師 と して 教 育 、 論 理 、経 済 、法 理 の諸 学 其他
哲 学 英 語 学 等 を通 信 に よ りて 講授 す る とい ふ(以 下略)」 とい う記 事 が あ る。
この よ うに1886(明
治19)年
とい う年 は 、 日本 の通 信 教 育 の発 祥 とい う点 で 極 め て重 要 な年
で あ る。牧 口は 、1889(明 治22)年 に 北海 道 尋 常 師範 学 校 に入 学 して い るか ら、 「
小樽警 察署 に
あ る こ と四 ケ年 、そ の 間暇 さへ あれ ば読 書 に余 念 な く、勉 強 給 仕 の 『ニ ックネ ー ム』 を得 た の
も しか あ るべ きで あ る(8)」 の 記 述 どお りで あれ ば 、 横 山が 「
明 治 の 文化 開 発 の 一 大 事 項 」 で
あ る と した通 信 教 授 のテ キ ス トに触 れ た可 能 性 は 、斉 藤 の 指 摘 す る よ うに高 い か も しれ な い(9)。
次 に 、女 性 を対 象 と した通 信 教 育 の歴 史 は 、1886(明
治19)年
の通 信 講 学 会 に よ る 『通 信 教
授 女 子 家政 学 』 が そ の始 ま り と考 え られ 、 そ の後 、大 目本 女 学 会 の 『女 学 講 義 』 な どい くっ か
の講 義録 が 出版 され る。牧 口常三 郎 が 、大 日本 高 等 女 学 会 を創 立 し、『高 等 女学 講 義 』を 出版 し
た の は1905(明
第2の
治38)年5月
で あ り、1899(明
治32)年2月
の高 等 女 学 校 令 を受 け て誕 生 す る
グル ー プ に属 す る。 同令 を受 け て 、 従 来 の 家事 ・女 芸 中 心 の講 義 録 とは違 っ た講 義 録 が
出版 され る よ うに な っ た。 『高 等 女 学 講 義 』 は そ の先 駆 け と言 え る。1908(明
治41)年 に 始 ま る
女 子 大 学 通信 教 育会 の 『女 子 大 学 講 義 』(日 本 女 子 大 学 の 通 信 教 育 の 淵 源)の 創 刊 も この 時 期 で
あ る。
○女 性 を対 象 と した講 義 録 の始 ま り (主 な も の を挙 げ る)
明治19年
『通信 教 授 女 子 家 政 学 』(通 信 講 学 会)
明治20年4月
『通信 女 学講 義 録 』(女 学雑 誌 社)
5月
『成 立 学舎 女子 部 講 義 録 』(成 立学 舎)
明治25年
『女 学講 義 』(女 学 雑 誌 社)
明治28年
『女 学講 義 』(大 日本 女 学 会)
明治35年
『女 子 学 芸講 習 会』(女 子 学 芸 講 習会)
明 治37年
『女 子 学 術講 義 』(東 京 府 教 育 会 附 属女 子 講 学 会)
明 治38年5A
『高 等 女 学 講義 』(大 日本 高 等 女 学 会)
6月
『家 庭 講 義 録 』(日 本 実 業 教 育 会)
7月
『家 政 講 義 』(大 日本 家 政 学 会)
11月
『高 等 女 学 講 義 録 』(大 目本 淑 女 学 会)
明 治39年6月
『高 等 女 学 科 講義 』(帝 国高 等 女 学 会)
*明 治41年4月
6月
(2)牧
∼ 『高 等女 学 講 義 』 に改 題
『女 子 大 学 講 義 』(東 京 女 子 大 学 会)
ロ常 三 郎 と通 信 教 育
牧 口常 三 郎 が 通信 教 育 に 取 り組 ん だ の は 、1905(明 治38)年5月
本文 中は 「
高 等 女 学 会 」 と略 す)を 創 立 して か ら、1908(明
に 大 目本 高 等女 学 会(以 下 、
治41)年8月
ま で の期 間 で 、 そ の
後 、 同会 は 人 手 に 渡 っ た と思 わ れ る。筆 者 は 、 既 に 、牧 口常 三郎 の 通信 教 育 とそ の 実施 の 背 景
につ い て い くっ か の 論 稿 を発 表 して き た(10)。そ れ ら と重 な る部 分 も あ る ので 、本 節 は 、 新 た
に 明確 に な った 事 実 を 中 心 に概 説 す る こ とに と どめた い。
①
牧 口常 三 郎 が 通信 教 育 に 取 り組 ん だ 時期
牧 口常三 郎 は、1901(明
治34)年4月
北 海 道 師 範 学校 を退 職 し、 5月 に 上 京 す る 。 そ れ は 、
一24一
創価教育研究第5号
それ ま で 、北 海 道 師 範 学 校 教 諭 及 び 付 属 小 学 校 訓 導 と して 地 理 教 育 に携 わ る 中で 書 き 溜 め て き
た原 稿 の 出版 の為 で あ り、 そ の た め に、 学 校 を退 職 し、北 海 道 の教 育 界 にお け る責任 あ る立 揚
も辞 め て の旅 立 ちで あ った 。 しか し、 北海 道 で 彼 が 考 えて い た以 上 に、 東 京 で は 無名 で あ る牧
口の本 を 出版 して くれ る書 璋 を見 っ け る こ とは 困難 で あ っ た(11)。履歴 書(12)に は 、 「
明治三十
四年 五 月 一 日
上 京 シ爾 来 全 三 十 六 年 十 月 マ テ 人 生 地 理 学 ノ著 述 二 従 事 シ 関係 諸 学科 ノ研 究 ヲ
ナ ス 」 とあ る。 しか し、 困 難 の 中で 、斉 藤 弔 花 等 の 良 き友 人 と、 志 賀 重 昂 、 文 会 堂 の 生 沼 大 造
を始 め とす る理 解 者 ・応 援 者 を得 て 、1903(明 治36)年10A15日
、『人 生 地理 学 』 の 出版 と して
結 実 す る(13)。
『人 生 地 理 学 』 の出版 は 当時 の 人 々 に好 感 を持 って 迎 え られ た。 そ れ は 、 当 時 の新 聞雑 誌 に
掲 載 され た42の 書評(14)か ら知 る こ とが で き る。 『活 動 之 目本 』 の 書 評(15)に は 、 「
著者 が忍辱
く
ママ ラ
の精 神 と書 騨 の侠 骨 と は世 の歓 迎 す る所 とな りて 一 版 瞬 時 に して尽 き二版 三版 共 に飛 ふ が 如
く今 又 四版 を重 ね た り」 とあ る。 それ を物 語 る よ う に、 増 刷 は 、 初 版(16)か らわず か10日 後 の
10月25日 、二 版10月28日 、 三版11A25日
、 四版 明 治37年3月25日
とな って い る。 総 頁 で 千 頁 を
超 え る2円 もす る 『人 生 地 理 学 』 が 短 期 間 で これ だ けの 反 響 を よん だ 事 は驚 くべ き こ とだ が 、
牧 口 の生 活 は 、 出版 前 に家 族 で 暮 ら して い た 本 郷 追 分 町 の 三 畳 の部 屋 か ら、11月1日
よ り東 京
高 等 師 範 学 校 の 同窓 会 茗 渓 会 の 書 記 とな り、 経 済 的 に一応 の安 定 を み た が 、 そ れ 以外 に大 き な
変 化 は な か った 。研 究 、教 育 、進 学 の道 が 開 か れ る こ とは な か っ た とい うこ とで あ る。
なぜ 、茗 渓 会 の書 記 の 職 を得 る こ とが 出来 た の か 。 前任 者 の急 な退 職 に よ り後 継 者 を探 して
い た こ とも あ ろ うが 、 牧 口 を推 薦 した 人 物 もい た はず で あ る。 北海 道 師範 学 校 時代 の 牧 口 を知
る有 力 な人 物 は 、 当 時何 人 か東 京 に い る。 そ の 一 人 は 、 槙 山 栄 次(17)で あ る。 ま た 、東 京 高 等
師 範 学 校 の校 長 で あ り、後 に触 れ る 弘文 学 院(18)の 院長 で もあ る嘉 納 治 五 郎 と牧 口を結 ぶ 新 た
な資 料 も発 見 され た(19)。
『人 生 地 理 学 』 を出 版 した1903(明
治36)年10月
か ら、 牧 口は 、 茗渓 会 の 書記 と して 、 事務
を行 う と とも に月 刊 教 育 雑 誌 『教 育 』 の 編集 を行 って い る。 そ して 、履 歴 書 に あ る よ うに 、 茗
渓 会 の書 記 の傍 ら、1904(明
治37)年2A10日
か ら、 弘 文 学 院講 師 と して 地理 を教 授 し、 同 年
8月 か らは東 亜 女 学 校 教 師 として 諸 科 の教 授 を行 うよ うに な る。 これ ら に加 え、1904(明 治37)
年 か ら、 渡 米 協 会 の 演 説 会 で 、 「米 国 の 人 生 地 理(20)」 「米 国 の地 勢 と人 生(21)」 「
米 国 の産 業 と
地 理(22)」 とい った 講 演 を行 う よ うに な り、 ま た 、 北 海 道 出 身 の 杉 中 種 吉 が 編 輯 発 行 す る 『国
民 評 論 』 に3回(23)、 『二 十 世 紀 の婦 人 』に 「
婦 人 と人 生 地 理 学 」(24)を寄 稿 す る な ど活 発 に活 動
して い る。
執 筆 面 にお い て も、 牧 口が 、 弘 文 学 院 で の 地 理 の授 業 で 、 中国 人留 学 生 の た め に補 助 教 材 と
してつ くって い た も のが 、1906(明 治39)年 初 め頃 に、『教 科 目誌
日本 地理 』、『教 科 日誌
国 地理 』 として 文 会 堂 か ら出版 され て い る 、ま た 、『人 生 地理 学 』も1908(明 治41)年10Eに
大 幅 な訂 正 増 補 を して 出版 され て い る こ とか ら、1903(明
治36)年
外
は、
か らの5年 間 、牧 口は 、研
究 に専 念 で き な いま で も、着 実 に地 理 学 の研 究 を続 けて い た で あ ろ う と推 測 され る。
②
通 信 教 育 事 業 に取 り組 ん だ動 機 は な にか
地理 学 の研 究 を 目的 と して 上京 した 牧 口が 、 何 故 、 女 性 の た め の通 信 教 育事 業 で あ る高 等 女
学 会 を創 立 し、 中心 に な って 取 り組 む こ と に な った の か 。 そ の 動機 に っ い て考 察 を進 め て い く
た め に は 、絡 み 合 った い くっ か の要 素 を分 解 して み る必 要 が あ る。
『人 生 地理 学 』 出版 後 、 茗 渓 会 書 記 の 職 を得 て 、雑 誌 『教 育 』 の編 輯 を行 う よ うに な り、東
一25一
創 立 者 の 大 学構 想 につ い て の 一考 察(1)通
信 教 育 部 開設 構 想 とそ の 沿革
京 高 等 師 範 学 校 を 中心 とす る教 育 界 を代 表 す る人 々 の 面識 も得 る よ うに な っ た が 、実 は 、 牧 口
の心 は満 足 して い ない 。 「
教 育 の意 義 」等 の話 題 で 行 われ た 第4回 教 育 茶 話 会(明 治38年5月11
日開催)に
出席 した 牧 口は、 次 の よ うに発 言す る(25)。
私 は 只今 で は斯 う云 ふ真 面 目な 問題 を議 論 す る 資 格 は ご ざい ま せ ん 、 併 し私 も先 頃 お話 申 したや う
に 、永 く教 育 に従 事 して居 りま した も の で 、斯 う云 ふ境 遇 に な つ て も 教 育 に対 す る趣 味 は離 れ ませ ん 、
而 己 な らず 自分 も前 にや つ て居 つ た事 柄 で あ りま す か ら、 教 育 の意 義 に就 い て 一言 した い と思 ひ ま す 。
(下線 筆 者)
高 等 女 学 会 を創 立 す る直 前 の 牧 口の発 言 で あ る。 教 育 茶 話 会 には 、 雑 誌 『教 育 』 の記 者 と し
て 声 が か か った と思 わ れ(26)、高等 女 学 会 の こ とは 出 て こ な い。「
教 育 に従 事 して居 りま した 」、
「自分 も前 にや っ て 居 っ た 」と教 育 に 携 わ っ て い た こ とを過 去 形 で 述 べ て い る。っ ま り、今 は 、
教 育 に携 わ っ て い ない とい って い る。 「
斯 う云 ふ境 遇 にな っ て も」 と、『教 育 』 の 編 集 や 茗 渓 会
の仕 事 をす る現 在 の境 遇 に牧 口 自身 が 満 足 し て い な い の で は な いか と考 え られ る。さ ら に、「
教
育 に対 す る趣 味 は離 れ ませ ん」 と述 べ て い る こ とか ら、牧 口が教 育 に対 して 変 わ ら ぬ情 熱 を も
っ て い る こ とが推 察 で き る。20代 の研 究 の集 大 成 ともい え る 『人 生 地理 学 』を 出版 し、そ れ が 、
好 評 を もっ て 迎 え られ た後 も 、 心 の 中 に は教 育 に対 す る 「
趣 味 」 が 強 く存 在 して い る とい うの
で あ る 。 そ れ は 、 弘 文 学 院 や 東 亜 女 学 校(27)の 教 壇 に立 っ だ け で は満 た され ない も の で あ る。
もち ろ ん 、弘 文 学 院 で の授 業 か ら 『教科 日誌 』2冊 が 生 ま れ 、『人 生 地理 学 』 が 中 国語 に翻 訳 さ
れ た ㈱ こ と を考 え る と、授 業 自体 は 充 実 した も の で あ っ たで あ ろ う。 牧 口が 、通 信 教 育 に取
り組 ん だ の は 、 ま ず 前 提 と して 、 教 育 に対 す る熱 い 情 熱 を変 わ らず に 持 っ て い た か らだ 、 とい
え るの で は ない だ ろ うか。
次 に、 通 信 教 育 に取 り組 ん だ 動機 と して考 え られ るの は 、 学 校 教 育 の 問題 解 決 に 、働 き な が
ら学 ぶ 半 日学 校 が 理 に適 っ た もの と考 え 、 そ の実 践 を しよ うと した こ とで あ る。
1906(明
治39)年2月
に行 われ た第13回 教 育 茶 話 会(29)で,牧
口は 、 当 時 の 学校 教 育 にっ い
て福 沢 諭 吉 の話 を紹 介 して 痛 烈 に批 判 して い る。
嘗 て故 の福 澤 翁 が今 の学 校 は 生 きた 子 供 の捨 処 とい はれ た こ とが あ っ たか と記 憶 して 居 る。 翁 は 自
分 お絃 子 息 を ば 目本 の学 校 に入 れ ない で、 外 国 に留 学 さ した といふ こ とで あ る。 そ の 当 時 教 育 家 は 一
笑 に 附 して 耳 を傾 け る も の も な かつ た けれ ども、 今 考 へ る と 〔日本 の学 校 は〕 神 経 衰 弱 の 患 者 を養 成
す る と警 ま しめた る言 で多 少 理 屈 に合 ふ もの で あ る ま い か と考 へ るの で あ ります 。(〔 〕 内筆 者)
そ うな ら ない よ うにす るに は ど う した らよ い か とい うこ とで 、牧 口は 、半 日学 校 にっ い て 次
の よ うに述 べ て い る。
人 間 に学 問 専 門 の 時 代 を設 く る とい ふ こ とは 理 屈 に適 ふ もの で あ るか ど うか 、全 体 人 間 は精 神 と身
体 と両 方 面 で 生 き て 居 る もの で 、 この 両方 面 が調 和 して 発 達 して始 め て完 全 な もの で あ ら う。 それ が
完 全 の人 間 で あ るの に、今 の 教 育 で は 人 間 の一 代 の 中 に 学 問 専 門 の 時 代 とい ふ もの を設 け て居 る の で
あ る。 学 校 の 無 い 時 代 に は人 間の 一 生 の 間 に は 殆 ん ど心 身 共 平 均 に 使 つ て居 つ た 、 子供 の時 代 に は 全
く遊 び 其 間 に知 らず 知 らず 精 神 の 働 き をな し、 中年 以 上 に な る と半 分 は働 き、 半 分 は 遊 ぶ 、 さ う云 ふ
風 に精 神 と身 体 と平 均 にす る、 即 ちそ れ が 人 間の 生 活 と して 丁 度 必 要 の 所 で あ ら うと思 ふ の に 、今 の
学校 が 出来 て か ら全 く学 齢 時期 か ら して 小 学 校 満 人 年 ま で は 学 問専 門時 代 で す 、 そ れ か ら中 学 校 大 学
一26一
創価教育研 究第5号
校 に 至 るま で も皆 全 く学 問 専 門 時 代 が あ る の で 、長 くば 二 十 年 短 か くて も八 年 乃 至 六 年 で 、 一 目に 六
時 間 乃 至 五 時 間 や つ て 、 そ の 学 問 とい ふ も の を専 心 や つ て居 る 、 殊 に 高 等 女 学 校 生 徒 の 如 き は戦 々
競 々 と して 学 校 の 課 程 の 外 、 宿題 の答 案 の為 に 、 家事 の こ とは 手 伝 す る こ と も出 来 な い様 に な つ て 居
る、 さ う云 ふ 風 の や り方 で あ る か ら、 勢 い感 神 経 の み 強 くな つ て 、 動 神 経 は 衰 弱 を 起す わ け 、 斯 の 如
く して 今 の 生 徒 が 出来 る 即 ち 怠 惰 者 が 多 くな る の で あ る。 そ れ で あ るか ら、若 し子供 と同 じや うに 遊
ぶ こ との 代 り に仕 事 半 分 、 学 問 半分 とい ふ 時 代 を児 童 期 か ら連 続 して 中年 期 に な つ て もや は り半 分 は
業務 、 半 分 は 始 終 絶 え ず 勉 強 す る とい ふ よ うな風 に す る、 そ れ が 自然 の 変化 を して い くな らば 善 い も
コ
の で は な い か 、 此 点 か ら して今 の 学 校 を何 うす る か とい ふ と、 半 日学 校 とい ふ もの が 本 当の 正 しい 理
に合 っ た もの であ るま い か と思 ふ 、 半 日は 学 校 に 行 か れ る、 半 日は 自分 の 業務 に 就 か せ る 即 ち そ れ で
あ る。
こ の よ うな 半 日学 校 の考 え を実 現 す るた め に は、 一 つ の学 校 にお い て 実 行 し、 そ れ をモ デ ル
と して 普 及 を 図 る とい う考 え方 も 当然 あ るだ ろ う。 そ れ が 、 なぜ 女 性 を対 象 と した 通 信 教 育 と
な って い くの で あ ろ うか 。 そ こ に は、 教 育 は 全 て の人 に提 供 され ね ばな らな い とい う牧 口 の考
え が あ る。
1907(明 治40)年12月
、牧 口 は、 川 越 中学 で 開 催 した 高 等 女 学 会 の慈 善 活 動 写 真 会 場 で 次 の
よ うな演 説 を して い る(30)。
今 の世 に誰 れ か女 子 教 育 の必 要 を感 ぜ ざ る も のぞ 、女 子 に学 問 は不 要 な り、 将 た 危 険 な りと て惜 む
べ き好 学 の心 を圧 欲 せ し時 代 は既 に去 りぬ 。 而 して 其 の反 動 は来 れ り。 女 子 の 燃 ゆ るが 如 き 好 学の 心
と之 を遂 げ しめ ん とす る父 兄 の熱 心 とは都 鄙 至 る所 に榜 確
。 之 が為 め に生 徒 は 全 国 の 女 学 校 の 門
に溢 れ 、酒 々 と して 大都 会 に流 れ 込 む な り。 知 らず 各 毎 年 の初 め に 当 り東 西 よ り南 北 よ り汽 車 の満 載
し来 る幾 万 の 女学 生 中 当初 の希 望 を遂 げ成 功 して郷 里 に 帰 る もの果 た して幾 許 ぞ。 斯 く して 自 ら都 会
学 生 の弊 風 も 生す る な り。 さは れ 女 子 教 育 の勃 興 は全 く時勢 の進 歩 に伴 ふ 当然 の こ と に し て 固 よ り慶
す べ く、 国 民 の 半数 を 占 め て男 子 と共 に 国家 を形 造 る女 子 の教 育思 想 の斯 の如 くな る こ と は寧 ろ其 遅
か り しを憾 む べ き な り。 果 して 然 らば 問題 は如 何 に して女 学 の弊 風 を 防 ぎ つ 墨多 数 女 子 の教 育 を普 及
して其 の希 望 を 満 た す か 、 如何 に して 国 民 多数 の 生 活 程 度 に適 当す る女 子 教 育(31)を 施 す べ き か に あ
り。(下 線 筆 者)
ま ず 、 女 子 教 育 の 必 要性 を訴 え 、弊 風 を防 ぎ っ つ 、 多数 女 子 の教 育 を普 及 し、 国 民 多数 の 生
活 程 度(経 済 力 等)に あ っ た教 育 をい か に提 供 す るか が 課 題 で あ る と してい る。 次 に 、
然 る に之 に 対 す る女 子 教 育 の機 関 は 如何 、 文部 省 は 鋭意 之 が 設備 を 奨励 しつ 』あ り。 民 間亦 た 之れ
を補 ふ に幾 多 の 私 立 学 校 は あ り。 然れ ど も年 々僅 に 三 万 有 余 の 女 子 を 教授 しつ ふあ る現 今 の設 備 に て
は、 小 学 校 を卒 業 せ る十 数 万 の 女 子 を収 容 す るに は 、 甚 だ 不 足 な り。 近 来 小 学 校卒 業 生 の為 に 補 習 学
校 は 奨 励 せ ら る 』と錐 ど も、 是 れ 又 た 女 子 に は 男 子 の もの を 完 備 せ る 後 に あ ら ざれ ば及 ぼ され ず 、 男
子 に は最 も便 とす る夜 学 の 如 き も青 年 女 子 には 其 風 紀 上 殆 ん ど不 可 能 に属 せ り。加 之女 学校 は 、 多 く
は都 会 に偏 す る が故 に、 之 に遠 か る村 落 の 女 子 に 対 して は 通 学 、 寄 宿 共 に 不便 に して且 つ 不安 な る が
上 に、 月 々 多 額 の費 用 を要す 。 これ 我 が 国 中流 以 下 の民 度 に適 せ る も の にあ らず(下 線 筆 者)
希 望す る女 子 を収 容 す る にた る教 育機 関 の不 足 を補 い 、 中流 以 下 の民 度 に合 わ せ た 費 用 の教
育 を提 供 す る こ とを述 べ てい る。 こ こ にお い て も 、教 育 は全 て の人 々 に提供 され な けれ ば な ら
な い とい う考 え が根 底 に見 え る。
一27一
創 立 者 の 大 学構 想 に つい て の 一考 察(1)通
信 教 育 部 開設 構 想 とそ の 沿革
之 が 為 に、一 方 に は、 完備 せ る女 学 校 に於 て 、 日新 の智 識 を得 、 更 に進 ん で 高 等 教 育 さへ も受 く る
者 あ る に反 し、他 方 に は 、 志 を懐 い て 空 し く家 に 籠 り、 学 問 修 業 の 時 を過 し終 に 一 生 学 問 の 不 足 を嘆
き。 徒 に他 を羨 む の 人 とな る者 甚 だ 多 し。 之 を 女 子 将 来 の 為 め に図 り、 国 家 永遠 の 後 に 就 い て 考 ふ れ
ば、 決 して袖 手 傍観 して 已 むべ き に あ らず 、 これ 本 会 の設 立 せ られ し所 以也 。(下 線筆 者)
恵 まれ た 一 部 の人 々 と対 照 的 に 、学 問 の 不 足 を嘆 き 、他 を羨 む 人 が 多 い 。 そ の人 た ち に教 育
の機 会 を提 供 した い と言 うので あ る。 こ の よ うに 、女 子 教 育 の必 要 性 を言 っ てい る よ うで 、実
は 、教 育 の機 会 を幅 広 く提 供 す る こ とに大 き な 目的 が あ る。 当時 の 日本 にお い て 、 小 学 校 を卒
業 した女 性 を対 象 とした 学 校 教 育 制 度 は 、男 性 に比 べ ま だ ま だ不 備 で あ る。 こ の こ とが 女 性 を
対 象 と した 教 育 に踏 み 出 す 理 由 と もな っ た の で は な い だ ろ うか 。
こ の よ うな考 え が基 盤 に あれ ば こ そ 、公 的 事 業 で な い に も 関 わ らず 授 業 料 の減 免 や 、学 費 無
料 の 附属 女 芸 講 習 所 設 立 の発 想 も生 ま れ て くる と思 われ る。
演 説 で は 、 冒頭 、女 子 教 育 の必 要 性 は論 じて い る が 、三 段 落 に共 通 して 述 べ られ てい る こ と
は、「
多 数 の 女 子 」、 「
国 民 多 数 」、 「中流 以 下 の民 度 」、 「
甚 だ多 し」 と表 現 され る大 多 数 の人 々 へ
の教 育 の必 要性 で あ る。 『潮 』 第508号 で は 、筆 者 の論 稿 に 「
牧 口常 三郎 は女 子 教 育 の先 覚 者 だ
っ た。」とい うタイ トル をつ け て い た だ い た が 、日本 に お け る女 性 教 育 の機 会 均 等 及 び そ の教 養
教 育 に お け る 先 覚者 で あ っ た こ とは歴 史 的事 実 で あ る。 しか し、半 日学 校 制 度 論 にっ い て 、『創
価 教 育 学 体 系 』第3巻 に 一 章 を 割 い て い る の に 比較 し、女 性 教 育 に関 して は 、体 系 に節 す らな い
こ と を考 え た 時 、 ひ とつ の 仮説 が浮 上す る。 そ れ は 、 女性 教 育 の た め に通 信 教 育 を行 っ た の で
は な く、 中 等 教 育 の機 会 均 等 を 目指 そ う と した 時 、 当 時男 性 に 比べ そ の機 会 が き わ め て少 な い
女 性 を対 象 に 選 ん だ とい うこ とで あ る。 もち ろん 、 女 性 が 学 ぶ とい う こ とが 、 家庭 、社 会 にお
い て どれ ほ ど大 切 か を認 識 した 上 で あ る 。創 立 当 時 の新 聞雑 誌 に掲 載 され た広 告 に は 、「
教 育な
き女 子 は 此 新 進 国 の 良 妻 賢 母 た り難 し」(『東 京 朝 日新 聞 』 明 治38年6月1日
付他)と
あ る。 し
か し、 日本 全 国 で 家 庭 にい る女 性 を対象 と し、 ニ ー ズ の 高 い 教 育 を 安価 で 提供 す る こ とは 、 確
か に広 い マ ー ケ ッ トで は あ る けれ ど も、極 め て不 安 定 な足 場 で事 業 を立 ち上 げ る こ とに な っ た。
牧 口が 高 等 女 学 会 を立 ち上 げ た1905(明
年9月)の
治38)年5月
は 、 目露 戦争(明
治37年2Eか
ら明 治38
最 後 の 頃 で あ る。 海 外 か らの 借 金 で 行 った 戦 争 だ った 為 、 勝 っ た とは い え 日露 戦 争
後 の 目本 は大 不 況 とな る。そ の時 代 に、 「中流 以 下 の」家 庭 の 女 性 が 、直 接 家 事 に 関 係 な い 教 養
を学 ぶ とい うこ とは、 家 庭 経 済 か ら考 えて も極 めて 困 難 な こ とで あ ろ う。 ま さ にそ の 中 で 教 育
事 業 を起 した こ とは、 先 覚 者 と呼ぶ に値 す る。 しか し、 決 して 女 性 だ け を意 識 した もの で は な
い と考 え るべ きで あ ろ う。
こ の よ うな 半 目学 校 と、教 育 の機 会 は全 て の人 々 に提 供 され な けれ ばな ら ない とい う牧 口の
考 え が通 信 教 育 に結 び っ い た の は なぜ で あ ろ うか。 牧 口が 師 範 学 校 を 目指 して 勉 強 して い た 明
治20年 ご ろ は既 に述 べ た よ うに 目本 にお け る通 信 教 育 の揺 藍 期 で あ る。 印 刷 され た 講 義 録 が郵
硬 制 度 に よ っ て定 期 的 に 自宅 に送 られ て くる シ ステ ム は 、当時 と して 極 め て新 しい試 み で あ る。
現代 の イ ン タ ーネ ッ トの普 及 に相 当す る。 ア メ リカ の通 信 大 学 の シス テ ム が 紹 介 され 、 日本 の
通信 教 育 は そ れ を参 考 に生 まれ た。 しか し、教 育 の現 場 を経 験 して い る牧 口 に はた め らい が あ
っ た。 それ は 、講 義 録 を送 る だ け で は無 責 任 で あ る とい うこ とで あ る。1908(明
治41)年2月
の 教 育 茶話 会 で こ の よ うに発 言 して い る(32)。
通信 教 授 を 始 め て居 つ た の で あ るが 、 そ の必 要 を 此処 に 喋 々 申す こ とも無 用 で あ ります ま い。 唯だ
一28一
創価教育研 究第5号
其 成 績 が何 ふ か と云 ふ こ とが却 つ て 皆 さん 方 の御 疑 問 で あ ら う と思 ひ ま す か ら、 そ れ を簡 単 に 申 しま
す 。 通 信 教 授 を します ば か りで あ る と甚 だ無 責任 人 のや うで あ ります か ら、 多 少 の誘 導 した ら必ず 相
応 の成 績 は あ ら う とは存 じな が ら、 未 だ 実行 の 時機 に至 りか ね て居 りま した が 、 北海 道 友 人 中 には講
くママラ
義 録 を 中 心 に して 一週 間 に一 回 、或 は月 に一 回学 校 に集 め て輪 講 せ しめ 奨励 した 所 が 「ナ カ 〉
成績
が宜 い と云 ふ 報告 を な し、且 つ 私 共 に益 々其 の奨 励 して 下 さる方 が多 い の で 益 々 自信 を高 め て 来 ま し
た。 其 故 出来 る丈 け講 義 録 を 改 良 して 当 初 の 目的 を達 す る様 にす る と共 に 前 に 述 べ ま した 公 共 的 の 団
体 に 改 め て 下 層社 会 の女 子 に講 義録 さへ も講 読 の 出 来 ぬ篤 学 の 人 に は 講 義 を配 布 す る こ と も、 是 か ら
追 々拡 張 して や る積 りで あ りま す(下 線 筆者)
講 義録 を送 る だ け で は 、 甚 だ 無 責 任 な の で 、何 か 「
誘 導 」 した らそ れ に見 合 った 効 果 が 出 る
だ ろ うと考 え て は い た が 、 実 行 しな い で い た 。 北海 道 の友 人 が 、 週 も し くは 月 一 回 学校 に集 め
る と教 育効 果 が 良 い と教 え て くれ た とい うの で あ る。 北海 道 の 友 人 は誰 か 特 定 で き な い 。 しか
し、 そ の ア ドバ イ ス を生 か して 、 女 子 技 芸 実 習 講話 会 を 月 一 回 開 催 す るな ど、 人 間 の 触 れ 合 い
を大 事 に した 通信 教 育 を牧 口は行 う。
そ れ で は 、 い っ 頃 か ら この よ うな こ とを考 え る よ うに な った の で あ ろ うか 。 筆 者 は 、 北 海 道
にお け る単級 教 授 の研 究 と実 践 と無 縁 で ない ので は な い か と考 え る。 単 級 教 授 は 、 どの よ うな
過 疎 地 で あ っ て も、 ま た 、 教 員 が 不 足 し、 そ の技 術 が 十 分 で な くて も、 与 え られ た 環 境 の 中で
い か に子 ども達 に適 切 な教 育 を して い くか とい うこ とが 根 底 にあ る。半 日学校 に つ い て も、『牧
口常 三 郎 全 集 』 第7巻
の注 ㈹ に あ る よ うに 、単 級 教 授 の研 究 の 中 で ドイ ツ に お け る半 日学 校
の実 践 を知 る こ と もで き る。
しか し、 高 等 女 学 会 の 創 立 を考 え は じめた の は、1903(明
治36)年10月
の 『人 生 地 理 学 』 出
版 後 で あ ろ う。 先 に述 べ た よ うに牧 口の上 京 の 目的 は 、 著 書 の出 版 と地 理 学 の更 な る研 究 で あ
るか らで あ る。 同会 の創 立 は 、浜 幸 次 郎 を幹 事 、 牧 口 を主 幹 と して 行 われ て い る。 本 格 的 な準
備 は 、中心者 とな る浜 との 再 会(34)、打合 せ を も って 始 ま った と考 え る方 が 適 当か も しれ な い。
牧 口は 、浜 の 北 海 道 師 範 学 校 時 代 の教 え子 で あ り、 新 任 教 員 の時 の後 輩 に あた る。1893(明
治
26)年4月
よ り牧 口は母 校 の 附 属小 学校 の 訓 導 に な る が 、浜 は、1892(明 治25)年 か ら1894(明
治27)年
に同 師 範 学 校 に在 職 してい る。 浜 との 出会 い につ い て の詳 細 は 、他 日を期 した い 。 ま
た 、高 等 女 学 会 の講 義 録 の講 師 陣 が東 京 高 等 師 範 、女 子 高 等 師 範 の人 々 が多 い こ とか ら、茗 渓
会 で縁 した 関 係 者 に よ っ て検 討 され た の で は ない か と推 測 され る。 しか し、教 育 を 中流 以 下 の
階層 に ま で及 ぼす べ き だ とい う考 え に 、 当時 、一 番 近 い グル ー プ とい うこ とに なれ ば 、初 期 社
会 主義 を担 う人 々 との 交流 も視 野 に入 れ て検 討 しな けれ ば な らない だ ろ う。 片 山潜 の後 継 者 と
して 『渡 米雑 誌 』の 発 行 にあ た った 山根 吾 一35)と は北 海 道 時 代 か ら面 識 が あ った と考 え られ 、
彼 の 主 宰す る 渡米 演 説 会 の講 師 も少 な く と も三度 引 き受 け て い る。 片 山 と も交 流 が あ っ た か も
しれ な い(36)。ま た 、牧 口 は 、斉 藤 弔花 の紹 介 で尾 崎 行 雄 に会 お う と した こ とは既 に紹 介 した(37)
が 、『国 民 評 論 』第1号
には 二 人 の論 文 が 掲載 され 、尾 崎 の論 稿 が牧 口の編 集 す る 『高 等 女 学 講
義 』 に も掲載 され て い る(38)こ とか ら、 尾 崎 と編集 者 と して 会 った で あ ろ う。 こ の よ うに 、高
等 師範 の 人脈 だ け で な く、幅 広 い 交流 の な か で 、高 等 女 学 会 の構 想 が練 り上 げ られ た と考 え ら
れ るの で あ る。
牧 口常 三郎 の 三 男洋 三 の妻 で あ っ た金 子 貞子 は 、牧 口の創 価 大 学 設 立 の構 想 を 聞 い たひ と り
で あ る。金 子 は 、牧 口の 、「私 は 大 変 な 苦 学 を した。勉 強 した い と思 っ て も学校 に行 け な い 人 が
い る だ ろ う。 だ か ら、 そ うい う人 の た め に奨 学金 をっ く りた い 」 との 話 を紹 介 してい る(39)。
一29一
創 立 者 の 大 学 構…
想 に つ い て の一 考 察(1)通
信 教 育 部 開設 構 想 とそ の沿 革
向学 心 が あ った 牧 口は 、13歳(40)まで 住 んだ 荒 浜 の 時 代 も、小 樽 で勉 強 給 仕 と呼 ばれ た時 代 も 、
思 うよ うに学 べ ない 苦 しみ を深 く経 験 してい る。 こ の よ うな経 験 も ま た 、牧 口が高 等女 学 会 創
立 に情 熱 を傾 け る こ とに な る理 由 の ひ とつ で あ っ た か も しれ ない 。
牧 口 は、 高 等 女 学 会 を創 立 し、一 身 に背 負 い 、 そ の運 営 に あ た る た め に 大 き な犠 牲 を払 わ な
くて は な ら なか った 。 そ れ を払 っ て も な お 、通 信 教 育 事 業 はや る価 値 が あ る と牧 口は考 え た の
で あ ろ う。 そ の第 一 は、 高 等 女 学 会 創 立 か らお よ そ4カ 月 後 の10Aに
、会 務 に 専念 す る為 、 茗
渓 会 書 記 の 辞 任 を願 い 出 た(41)。ま た 、弘 文 学 院 、東 亜 女 学 校 も1907(明
治40)年4月
に は退
職 してい る。 しか し、 そ れ 以 上 に牧 口に とっ て大 き な犠 牲 と思 われ る の は 、牧 口の小 樽 時代 の
友 人 、藤 山万 吉 か らの研 究 支 援 の 申 し出 を 、 そ の時 点 で は 断 っ た こ とで あ る。 そ の話 を 、牧 口
は 、1908(明
治41)年10月
に 出版 され た 『訂 正 増 補 人 生 地理 学 』 の 「第八 版 訂 正 増 補 に就 て 」
に 、藤仙 に対 す る深 い 追 悼 を込 め て書 い て い る。 既 に以 下 の よ うに要 約 して い る の で再 掲 す る
(42)(尚 、先 生 の敬 称 は略 す る)。
地 理 学 に新 しい時 代 を 開 い た 牧 口が 、地 理 学 会 の な か で、なぜ 大 き な位 置 を与 え られ な か っ た のか 。
それ は、 地 理 学 史 の 立場 か らみ る と帝 国 大学 に地 理 学 の講 座 が で き、 大 学 教 授 ら が 中心 に な っ て地 理
学 の研 究 が 行 われ る よ うに なっ た か らだ とも言 わ れ て い る。
しか し、 実 は もっ と別 の大 き な理 由は 自身 に あ った と思 われ る。
明治38年 秋 、 日露 戦 争 後 の樺 太 国境 画 定 の仕 事 を終 え て 帰京 した 志 賀重 昂 が 、 牧 口を 呼 ん で 、藤 山
万 吉 を知 っ て い る か と尋 ね る。 幼 い 時 の 大切 な友 達 で あ る と答 え る と、樺 太 で会 っ た藤 山が 、ぜ ひ 友
人 で あ る牧 口の研 究 の経 済 的 支援 を した い と思 っ て い る こ とを 伝 え て くれ 、 と頼 まれ た とい うの で あ
る。
志賀 は 、更 に諭 す よ うに 、 「
西 洋 で もそ の よ うな 例 は た く さん あ る。是 非 受 け て は ど うか 」 と言 う。
しか し、牧 口は 「
私 に は今 、 ど う して も や り遂 げ な けれ ば な らな い仕 事 が あ る」 とい っ て辞 退 した と
い うの で あ る(43)。
翌 明 治39年8月
、牧 口は 、藤 山 に会 い に 行 くが 、す で に重 い病 に 伏 せ て お り、面 会 は で き な か っ た 。
以 来 、 二人 は 二 度 と会 うこ とは なか った 。
ちな み に藤 山 の養 父 は 、 後年 小 樽 公 会 堂 を建 築 し寄 付 した藤 山要 吉 で あ る。
藤 山の 申 し出 に優 先 して 、 ど うして もや り遂 げ な けれ ば な らな い 仕 事 とは 何 か 。 そ れ は 、 明 治38年
くマ マ ラ
6月 に、 牧 口が 実 質 的 な 中心 者 とな って創 立 した 「
大 日本 高 等女 学 会 」 の仕 事 、 女性 の た め の 通信 教
育 の 事業 で あ る。
こ の よ うに、 高 等 女 学 会 の創 立 と運 営 は、 誰 か に頼 ま れ て とい うよ り牧 口 自身 が これ は 何 を
差 し置 い て も実 行 した い と思 い 、 強 い意 思 の も とで 運 営 に あた った と考 え られ る の で あ る。
③
大 目本 高 等 女 学 会 の概 要 とそ の活 動
a,大
日本 高 等 女 学 会 の創 立 日 につ い て
高 等 女 学 会 の創 立 は 、1905(明
は 、「
一 、明 治 三 十 人 年 六 月 一 日
治38)年5月
と考 え る。 既 に触 れ た 明 治42年1月
の履 歴 書 に
大 日本 高 等 女 学 会 ヲ創 立 シ全 四十 一 年 八 月 マ デ 其 事 務 並 二高
等 女 学 講 義 ノ編 纂 二 従 事 ス」 と、高 等 女 学 会 の創 立 を 同年6Hと
収集 した新 聞 ・雑 誌 の 広 告 を整 理 して み る と、5月
まず 、既 に5月 に、 高 等 女 学 会 の活 動 が 行 われ て い る。
一30一
して い るが 、牧 口 の発 言 及 び
と考 え られ る ので あ る。
創価教育研究第5号
(イ)「 明治 三十 八 年 五 月 二 十 八 日地 久 節 を トし高 等 女 学 講 義 を発 刊 して …
芸 教 習 所 の 趣 旨」(『大 家 庭』 第3巻 第1号
15日)、 『少 女 界』 第4巻
第7号(金
朝 日新 聞』(明 治38年7月25日)も
港堂
」(「本 会 並 に 附 属 女
明治40年12月)。 『教 育 』63号(茗
明 治38年6月)の
渓会
明 治38年5月
広告 も 「
地 久 節 創 刊 」 とす る 。 『東 京
「
五 月創 刊 」 とす る。
(ロ)「 五 月 中 の 申込 者 は 入 会 金 を要 せ ず 、 六 月 末 ま で は入 学 金 を 半 額 とす 」(『二 十 世 紀 の婦 人 』 第
2巻 第7号
明治38年7月)
(ハ)『 信 濃 毎 日新 聞 』 明治38年5月28目
イ は、 地 久 節(皇 后 誕 生 日)に
付広告
『高 等 女 学 講 義 』 を創 刊 した こ と、 ロは 、5月 中 に入 会 の 申込
み で き る こ と、 ハ は 、募 集 活 動 が行 わ れ て い た こ とを示 す 。
次 に 、多 く の新 聞 雑誌 の広 告 が 、5月 創 立 とな っ て い る。
『教 育 』67号(茗
渓会
聞』 明治38年9月1日
明 治38年9月)に
、「
本 年 六 月 創 立 初 号 発 刊 」 とあ り、 『東 京 朝 日新
付 も 、「六 月創 立 」 と してい る。 こ の 時期 に は 、6月 創 立 の意 識 が あ るの
か も しれ ない 。
しか し、明 治39年1月
か ら3Eに
か けて 、 「
本 会 は昨 年 五 月 創 立 以 来 非 常 の 隆 盛 な り」 とい う
言 葉 が新 聞 ・雑 誌 の広 告 に入 る(『 京 都 日出 新 聞 』1/16、2/1、2/4、
1/14、2/2、3/7、
『信 濃 毎 日新 聞 』2/3、
『東 京 朝 目新 聞 』
『大 阪 毎 日i新聞 』1/19、2/1、3/4、
茗 渓会 『教 育 』73、74、75号 、『女 学 世 界 』第6巻 第5号)。
こ の時 期 に、『ム ラサ キ』 第2巻 第
1号 の広 告 は 、 「
昨 年 六 月創 立 以 来 」 として い るが 、 第2巻 第4号
で は、 「昨年 五 月創 立 以 来 」
と他 と揃 う。(下 線筆 者)
明 治39年9月
には、 「
本 会 は 昨 年 六 月 創 刊 以 来 逐 号 整 頓 」 と高 等 女 学 講 義 の創 刊 の こ とが 新
聞 ・雑 誌 の広 告 に入 る(『 大 阪 毎 日新 聞 』10/9、
新 聞 』9/1、
『東 北 新 聞 』9/1、
新 聞 』9/1、9/4、
世 』第1巻 第1号)。
『萬 朝 報 』9/1、9/14、1◎/1、
『静 岡 民 友 新 聞 』9/2、
『大 阪 毎 日新 聞 』9/1、
『福 岡 新 聞 』9/1、
この 時 期 に 、『東 京 朝 日新 聞』9/1の
『秋 田魁
『神 戸 新 聞 』9/1、
『京 都 日出
『北 国新 聞 』9/1、
『先
み は 、 「六 月創 立 逐 号整 頓 」 と して
い る。 誤植 の 可 能性 は な い か。
女 性 のた め の通信 教 育 で あ る こ とか ら、皇 后 の誕 生 日で あ る地 久節 を記 念 して 、『高 等 女 学 講
義 』を創 刊 し、創 立 の 日 と した の で は な い か と考 え られ る が 、逆 に なぜ 、明 治42年 の履 歴 書 に 、
牧 口が 創 立 五 月 、 つ ま り、地 久 節 を創 立 の 日 と書 か なか った のか 、 興 味 の あ る と ころ で あ る。
b,牧
口常 三 郎 が 関 与 した期 問 と会 員 数
高 等 女 学 会 に牧 口が 関与 した期 間 は 、履 歴 書 に 、 「
全 四十一年八月マデ其事務 並二高等女学
講 義 ノ編 纂 二 従 事 ス」 とあ る こ とか ら、1905(明
と見 られ る。 そ の間 に は 、1905(明
治38)年
治38)年5月
か ら1908(明 治41)年8月
の創 立 か ら,1906(明
の会 員 を有 す る ま で に至 った 上 り坂 の時 期(い
治39)年11月
まで
に は2万 有余
っ ま で順 調 だ っ た か不 明)と 、 そ の後 、何 らか
の 事 情 で事 業 が行 き詰 ま り、そ こ か ら、 再起 を期 して 、1907(明
治40)年12月
、会 長 に 二 条侯
爵 夫 人 を 迎 え 、 慈 善 の女 芸 教 習 所 の活 動 に 比 重 を移 し、 心機 一転 、 存続 に努 め た 時期 に 二 分 さ
れ る。
会員 数 に っ い て は以 下 の新 聞広 告 に 出 て い る。 注 に 付 した よ うに 、 全 国 の約80以 上 の新 聞雑
誌 に新 刊 紹 介 ・書 評 、 広 告 が掲 載 ㈹ され て い る こ とや 高 等 女 学 会 の賛 助 員(45)に 全 国 の 高 等
女 学 校 長 が な っ て い る こ とか ら全 国 規 模 で 募 集(46)及 び 活 動 を行 っ て い た と考 え られ る。
一31一
創 立者 の 大 学 構想 に つ い て の一 考 察(1)通
「(明治38年)9月20目
信 教 育 部 開 設構 想 とそ の 沿 革
会 員 一 万 に 達せ しに依 り」
(『大 阪毎 日新 聞』 明治38年10月9日
陽新 聞』10月4日
、『萬 朝 報 』10月1日
、 『鹿 児 島新 聞』10月4日
、『
信 濃毎 日新 聞』10月4日
、『福 岡 目 日新 聞』10月4日
、『土
、 『北 国新 聞』10月
2日 の各 広告)
「
六 月創 刊 九月 会 員 一 万 人 に」(『
都 新 聞』 明治38年10月4日)
「
大 好 評 を博 し己 に 二万 有 余 の会 員 あ り」
さ ら に、 女 学 会 の所 在 地 で 、4っ
(『萬朝 報 』 明治39年11E11日
に時 代 区分 で き る(47)。それ を 「
資 料1略
の 広告)
年表 」にま と
め た。 概 ね 、 三 崎 町 、水 道 町 に あ っ た 時 期 が 高 等 女 学会 と して の興 隆期 、加 賀 町 、 白銀 町 に あ
っ た 時期 が 、 慈 善活 動 に比 重 を移 し、 存 続 を図 った 時期 に あ た る。
資料1略
明 治34年5月
年表
書 きた めた 原 稿 を 出版 す る為 、 退職 し家族 と共 に上 京
明 治36年10月15目
『人 生 地 理 学 』 を文 会 堂 よ り出版 、 好評 を博 す
明 治36年11.月1日 ∼ 明治38年12A茗
渓 会 書 記 、雑 誌 『教 育 』 を編 輯
明 治37年2月10日
∼ 明治40年4A弘
文 学 院講 師 と して 地理 科 教 授
明 治37年8月1日
∼ 明治40年4月
東 亜 女 学校 教 師 と して 諸科 の教 授
明治38年5月
第 ユ期:神
に大 日本 高 等 女学 会 創 立(∼ 明治41年8月)
田 区三 崎 町 三 丁 目1(48)に 大 日本 高 等 女 学 会 を置 く
明治38年5月
∼
女 子 技 芸 講 習 所 も設 置
『通 俗 学 術 雑 誌
第2期:小
先 世 』 の 編集 ・発 行 人 を務 め る(明 治39年2月
石 川 区 水道 町35に 大 日本 高 等女 学 会 を移 す
∼5月)
明 治39年3月
『日本 の少 女 』 を発 行 す る大 日本 少 女会 の 主幹 を兼 務(明 治40年2月
第3期:牛
込 区市 ヶ谷 加 賀 町2の!3に
大 目本 高 等 女 学 会 を移 す
∼
頃 ∼7月 頃)
明 治40年12月 ∼
女芸 教 習 所 は水 道 町35に
第4期:牛
込 区 白銀 町19に 大 日本 高 等 女学 会 を移 す
明 治41年10月
*明
明 治43年8.月6日
頃 か ら8月
人 生 地理 学 訂 正 増 補 版 を 出版
治42年1月
明 治42年2月2目
明 治41年3月
牛 込 区 下戸 塚12番 地 に寄 留
∼ 明治43年4月23日
富士 見 小 学 校 の首 席 訓 導
文部 省 図書 課 属 とな り、地 理 教 科 書 編 纂 に従事 す る。
次 に 、資 料 と して 、 「大 目本 高 等 女 学会 の 役員 の 変 遷 」 を ま とめ た。 創 立 当初 は 、他 の 通信
教 育 の団 体 に見 られ る よ うな 華 族 夫 人 を会 長 に置 く こ とは なか った 。 後 年 、 慈 善活 動 と して 会
一32一
創価教育研 究第5号
を運 営 して い く必 要 か らか 、資 料 の よ うに会 長 、 副 会長 に華 族 夫 人 を置 くよ うに な っ た。
資料2大
明 治38年5A(創
立 時)幹
*浜
日本高等女学会の役員 の変遷
事;浜 幸 次 郎
主 幹;牧
は 、 明 治38年6月5日
口常 三 郎
に東 京 市 視 学 に任 命 され る(49)。
明 治39年10A
会長
烏丸操子伯爵夫人
明 治40年12月
会頭
二条沿子公爵夫人
副会頭
青木楠枝子子爵夫人
幹事;浜 幸次郎 、牧 口常三郎 、柴 田凌雲 、有久龍一、山川総太
明 治41年3月
会頭
二条沿子公 爵夫 人、副会頭
顧問 肝 付兼行
c,大
青木楠枝子子爵夫人
他理事18名
目本 高 等女 学 会 の活 動 の 概 要
高 等女 学 会 の活 動 に っ い て 、1907(明
治40)年12月
発 行 の 『大 家 庭 』 に掲 載 され た 「大 日本
高 等 女 学会 規 則 要 項 」 に は 、次 の よ うに記 され て い る。
事業 本会は前条の 目的を達せんが為 めに左 の事業 をなす
一、高等女学講義及び雑誌大家庭 を発行 し之を会員 に頒ち以て家庭独修 の通信教授 をなす
二、慈善教育部女芸教習所を附設 し修学の資力 なき女子に技芸 を教授す
くママ ラ
三、本 邦 及び支部 に毎月学芸会を開き本部にあ りて本会講師、支部 にあ りては支 部嘱託講 師の 出
席を請 ひ学科 の質 問に応 じ女芸 の実習 を指導 し講話 をなし以て通信 教授 の及ば ざる処 を補ふ
四、講義録 による卒業生 の為に女芸教習所に特別の学級 を設 け各学科 の補習並に女子 に必要 なる技
芸 を授 け以て高等女学教育を完全 な らしむ
高 等 女 学 会 の活 動 は 、1907(明
治40)年12月
の女 芸 教 習 所 設 置 前 後 で大 き く変 化 す る。 創 立
当初 か らの活 動 は 、規 則 要 項 一 と三 の活 動 で あ り、女 芸 教 習 所 設 置 に伴 い 二 と四が 加 わ っ た。
そ こで 、 そ の順 番 に述 べ てい きた い 。
『高 等女 学 講 義 』 と 『大 家 庭 』 『家庭 楽 』
『高 等 女学 講 義 』 は 、1905(明
が 一 学 年)で48冊
治38)年5月
に創 刊 され た 。 月2回 配 本 され 、2年 間(半 期
を学 び 修 了す る こ とに な って い る。1907(明
治40)年12月
に は 、修 業 年 限 も
1年 半 と し、 第3学 年 以 上 は 、合 本 とな って 月1回 の配 本 とな っ た(50)。
ま た 、月 刊 の 女 性 雑 誌 と して 『大 家 庭 』 が 明 治38年11月 創 刊 され た。 『大 家 庭 』 は 、 第3巻
第6号(明
治41年4月)ま
で 出版 が確 認 で き る(51)。
『家 庭 楽 』 とい う雑 誌 も 明治39年2月
に創 刊 され た 。 月 刊 で 、16号(明
治40年7月)ま
で発
行 が確 認 で き る(52)。『家 庭 の楽 』 とす る広 告 も あ る。『大 家 庭 』 との 関係 な ど詳 細 不 明 。 『岩 手
日報 』 明治39年3月24日
付 の広 告 等 に は 、 「
天 下 最 廉 の雑 誌 『家 庭 楽 』初 号3万 部 売切 れ 、第 五
版 発 行 」 とあ る。
高 等女 学 会 の 出版 物 で 現 存 が確 認 で き る の は 、『高 等女 学 講 義 』第2学 年 第1号 か ら 第4号 、
第12号(明 治38年12月 か ら明 治39年5月)(創
1号(明
治40年12月)1冊(東
価 教 育 研 究 セ ン ター 所 蔵)と
京 大 学 明 治 新 聞雑 誌 文庫 所 蔵)と
一33一
『大 家 庭 』 第3巻 第
『大 家庭 』 第2巻 第1号
の広
創 立者 の 大学 構 想 にっ い て の一 考 察(1)通
告 チ ラ シ(明 治39年)(創
信 教 育部 開設 構 想 とそ の沿 革
価 教 育研 究 セ ン ター 所 蔵)で
それ 以 外 に 、『日清 会 話
あ る。
買 物 指 掌 』(53)とい う小 冊 子 が 高 等 女 学会 か ら出版 され て い る が 、
詳 細 は不 明 。 『先 世 』 に つ い て は 、197-200頁
参照。
女 子 技 芸 実 習 講 話 会 ・観 楓 会 ・区 別 懇話 会 ・卒 業 式 の 開催 等
高 等 女 学 会 は 、1905(明
治38)年11月
以 降,月1回
子 技 芸 実 習 講 話 会(54)を 開催 して い る。1906(明
第3日 曜 に 、主 に高 等 女 学 会 の建 物 で女
治39)年1月21日
の講 話 会 で は 、 余 興 と して
カル タ会 を行 っ て い る。 既 に紹 介 したf北 海 道 友 人 中 に は講 義 録 を 中心 に して一 週 間 に一 回 、
或 は月 に一 回学 校 に集 め て輪 講 せ しめ奨 励 した所 が ナ カ 〉
成 績 が宜 い と云 ふ 」 話 を受 け た も
ので あ ろ うか。
また 、高 等 女 学 会 は 、!906(明
治39>年11H3日
に は滝 野 川 不 動 寺 境 内で 観 楓 会(55)を 開催
して い る。 浜 視 学 、牧 口主 幹 等 の講 話 や 挿 花 茶 儀 実 習 、余 興 と して遊 戯 競 争 、音 楽 活 人 画 福 引
等 を行 い 売 店 も設 け る な ど、 会員 約 三 百余 名 で記 念 撮 影 もす る盛 大 な も ので あ っ た。
1908(明
治40)年2H頃
『日本 の少 女 』(会 長:下
∼7月 頃(56)の 限 定 され た期 聞 で あ るが 、 牧 口は 、 小 学 生 を対 象 に
田歌 子)を 発 行す る大 目本 少 女 会 の 主 幹 を兼 務 す る ㈹ 。 そ して 、そ
の時 期 、 同会 の所 在 地 は高 等 女 学 会 と同 じに な る。 牧 口は 、高 等 女 学 会 と大 日本 少 女 会 の会 員
に よ る合 同 の懇 談 会 を東 京 市 内 の 各 区で 行 い 、 それ に 数 多 く出席 し話 を して い る(58)。また 、
全 国 各 地 で の 開催 も呼 び か けて い る。『日本 の 少 女 』第4巻 第6号 写真 版 に は 、横 浜 目ノ出 町 で
行 った 懇 和 会 の役 員 との写 真 が 掲載 され て い る(59)。
ま た 、1905(明
治38)年5月
の創 立 か ら2年 半 後 の1908(明
治41)年1月19日
に は、 四 谷 愛
住 女 学 校 で 卒 業 証 書 の授 与 式 も行 っ て い る(60)。
慈 善 教 育 部 の拡 張 と慈 善 の 女 芸 教 習 所 の 附設
創 立 以 来 順 調 に発 展 して きた 高 等 女 学 会 だ が、明 治39年11月 に 会 員2万 有 余 を数 え た 頃 か ら、
明治40年9月(61)ま
で の問 に 、 同会 に 大 き な危 機 が訪 れ る。 この こ と にっ い て は 後 述 す る。 む
しろそ れ 以 降 、 高等 女 学 会 の 目指 す 女 子 教 育 の対 象 が よ り経 済 的 に豊 か で な い 人 に 向 け られ る
よ うに な っ た。 そ の こ とを 牧 口は 、 「
本 会 並 に 附属 女 芸 教 習所 の趣 旨(62)」と して 次 の よ うに演
説 して い る。
此 に於 てか 、 従 来 の組 織 を改 め、 一 層 自修 者 の 便 を図 る と共 に慈 善 の女 芸 教 習 所 を も附 設 し学 資 な
き も の に無 料 に て 女 芸 を習 は しめ 、其 の 尚 通 学 し能 は ざ る女 子 に 対 して は 、 本 会 の 講 義 録 を給 与 し、
以 て 能 ふ 丈 、 女 子 教育 の普 及 を下 層 に及 ぼ して 其 の欠 陥 を補 ひ 、.且つ 就 職 の 道 を講ぜ しむ る こ と 》せ
り。
同 じ 『大 家 庭 』第3巻 第1号 の 「
大 日本 高 等 女 学 会 の発 展 」に は 、「
本 会 の組 織 変 更 」 として 、
同会 を慈 善 事 業 と し、資 金 援 助 を募 っ て運 営 す る組 織 に変 更 す る 旨、 次 の よ うに述 べ て い る。
従 つ て将 来 に吾 人 の なす べ き事 は益 々広 大 とな りしか ば、 今 や 区 々た る私 人 の 事 業 と為す を以 て 満
足 す る能 は ず 、公 明正 大 に慈 愛 の念 に厚 き熱 誠 の 同 志 を翁 合 し、 又 た 世 の 博 愛 仁 慈 の 諸 君士 の 賛助 を
く
ママラ
仰 ぎ、 大 に 国 家社 会 の為 に尽 す あ らん として 薙 に組 織 を一 変 す る こ と 墨 あ れ り。
一34一
創 価教育研究第5号
具 体 的 には 、二 条 沿 子 侯 爵 夫 人 を会 頭 に、青 木楠 枝 子子 爵 夫 人 を副 会 頭 に推 戴 す る と と も に、
慈 善 教 育 部 の 拡 張 と慈 善 の女 芸 教 習 所 を附 設 す る こ とに な っ た。 慈 善教 育 部 の拡 張 と は 、創 立
当初 よ り、で き るだ け学 資 に乏 し く、性 質 温 良 の女 子 に奨 励 と慈 善 を行 お うと して 、 「
小学校 の
紹 介 せ る出 征 軍 人 の家 族 に は束 修 免 除 、月 謝 半 減 の 特 待 」「
小 学 校 長 の推 薦 にか 』る操 行 衆 に優
れ 、学校 区域 内 に 於 て模 範 とな るべ き もの \為 め に無 束 修 」を行 っ て き たが 、「当初 の 企 図 を拡
張 し及 ぶ 丈 多 くの人 々 に講 義 録 を給 与 し、以 て女 子 教 育 を 下層 に及 ぼ し、学 術 奨 励 を なす 」 こ
とで あ る。牧 口 は 、そ の趣 旨 を 「
篤 学 の人 で あつ た な らば どれ だ け 自修 に依 て 成 績 が 挙 げ らる \
か と云 ふ 一 の 試 験 と して も ど うか教 育 して 見 た い と思 ふ て 講 義 録 を 上 げ る積 りで あ ります ㈹ 」
と述 べ て い る。
次 に 、 女 芸 教 習 所 に っ い て は 、 「大 日本 高 等 女 学 会 規 則 要 領 」 に 「第 三
女 芸 教 習 所 」 の項
目を設 けた 。
一 目的
教 習 所 は修 学 の資 力 な き 一般 有 志 の女 子 に 技 芸 を伝 授 して 就 職 の 途 を講 せ しむ る所 とす
一修業年 限
修 業 年 限 は 一 ケ年 半 以 内 と し
(略)
其 科 目は家 事
、裁 縫 、手 芸(造 花 、刺 繍 、 編 物 、 摘 み 細
工 、 綿 細 工)簿 記 、産 婆 学 とす
と定 め た。 『大 家庭 』第3巻 第1号
に は、家 事 科 、裁 縫 科 、手 芸 科(造 花 、刺 繍 、摘 細 工 、綿 細
工)、簿記 科 、産 婆 科 の講 師 の名 前 が 主 任 と して 掲 載 され て い る。しか し、実際 に行 われ た の は 、
綿 細 工 、裁 縫 、刺 繍 で あ る(64)。『萬 朝 報 』 明 治41年3月29日
会 の広 告 が 、『東 京 朝 日新 聞 』に も、同 年3月25日
付 に は 、高 等 女 学 会 の綿 細 工 講 習
付 に綿 細 工講 習 会 の 広 告 が掲 載 され 、3月20
日に は 、綿 細 工講 習 会 と リン ク した 「
綿 細 工 の 有 望 」 とい う記 事 が掲 載 され て い る。
高 等 女 学 会 の 前 半 の 活 動 は、 「理 想 」 を掲 げ 、 高 等 女 学 校 に準 拠 した 教 育 内 容 を家 庭 で もで
き る よ うに し よ うと した の に対 し、後 半 は 、体 制 を変 更 し 、講 義 録 を 「下層 」の女 子 に 給 与 し、
ま た 、 女芸 教 習 所 を附 属 し無料 で教 育 し就 職 の道 を開 こ う とい う極 めて 「
現 実 的 」 な教 育 を行
って い る。 経 営 の 危機 を経 た こ とだ け で は 、 この 変化 は説 明 で き な い 。 高等 女 学 会 の運 営 の 中
心者 で あ っ た 牧 口の 心 に何 が あ っ た の か。 少 な く と も、女 性 の 自立 が 大切 で あ る と考 え て い た
の で は な い だ ろ うか。 「
本 会 並 に 附属 女芸 教 習 所 の趣 旨」 の演 説 は こ う結 ばれ て い る(65)。
慈 善 を以 て 単 に 困 窮 者 に金 品 を施 与 す るに あ る の み と解 す るは 偏 せ り。 必 要 な る に は相 違 な し、 効
果 は 目前 に 顕 わ る 》には 相 違 な し。 され ど其 効 果概 ね 案 外 に少 き が 上 往 々 そ れ が為 に 、依 頼 心 を生 ぜ
し めて 思 は ざ る弊 害 を生 す る こ と恰 か も病者 に一 時 凌 ぎの投 薬 を なす が如 し。
真 正 に して 、 有 効 な る慈 善 の 本質 は 、恰 も衛 生 家 が 病 気 の 起 ら ざる 以 前 に 予 防す る の 、却 て病 後 の
投 薬 に勝 る こ と、 幾 層 倍 とな す が 如 く、 軟 弱 な る 女 子 を して貧 困 に 陥 ら ざ るや うに なす に あ り。 金 品
を施 与 して 、 一 時 の 慰 籍 を得 しむ る よ りは 、 職 業 を与 へ て 、 永 久 に 生 活 法 を講 ぜ しむ る は勝 り、 自 ら
生 活 の 方 法 を見 出 さ し め、 偶 々 陥 ゐ る 場 合 に 処 して 、 恢復 の 途 を講 ぜ しむ る能 力 を与 ふ る こ とは 、 職
業 を与 ふ る よ りも、 更 に大 な る効 果 あ る こ と を認 識 す る を要 ず 。 此 意 味 に於 て 教 育 慈 善 は 、進 歩 せ る
社 会 に於 て 、 最 も必 要 な る こ と と して 進 歩 せ る慈 善 家 の 殆 ん ど一 致 せ る所 な り。 願 くは 、 目前 に 直 接
其 の 効 果 の 見 え ざ る を以 て と して、 同情 の 念 を薄 か ら しめ ざ らん こ とを。(下 線 筆者)
④
大 目本 高 等 女 学 会 の 目的 と特 色
1905(明
治38)年5月
の創 立 当 初 の 高 等 女 学 会 を知 る上 で 、『二 十 世 紀 の婦 人 』 第2巻
一35一
第7
創 立 者 の大 学 構想 につ い ての 一 考察(1)通
号(北 海 道 婦 人 同志 会
明治38年7H)の
信 教 育 部 開設 構 想 とそ の 沿革
長 文 の広 告 は貴 重 な資 料 で あ る。 当然 、 主 幹 で あ る
牧 口の考 え が反 映 され てい る。 この資 料 と、『大 家 庭 』第3巻 第1号(明
治41年12.月)に 基 づ い
て 、 高等 女 学 会 の 目的 と特 色 にっ い て 述 べ る。
本 会 の 目的
本 会 は種 々 の事 情 に よ り高 等 女 学 校 に入 る こ との 出来 ぬ女 子 の為 め に、 家 庭 に於 て業 務
の傍 高等 女 学 校 の全 課 程 を独 習 せ しむ る に あ り(『
二 十 世 紀 の婦 人 』 第2巻 第7号)
高 等 女学 会 の 目的 は 、 こ こ に も明 らか な よ うに 、 高等 女 学校 に入 学 で き ない 女 子 に 、 そ の全
課 程 を 家庭 で 自習 させ る こ とに あ る。 しか し、進 学 で き な い最 大 の理 由 は学 費 で あ る。 こ の広
告 に は 明 らか に して い ない が 、 牧 口が 、
本会 は創 立 の 初 よ り、一 方 に存 立 の経 営 を なす と共 に 、及 ぶ 丈 け世 の学 資 に乏 しく、 而 か も性 質 温 良
の女 子 に奨 励 慈 善 教 育 を施 し、聯 か 其人 の為 め、 国家 の為 め に尽 す 所 あ らん と期 し、 当時 日露 大 戦 役
の最 中 な り しか ば 、且 つ小 学 校 の紹 介 せ る 出征 軍 人 の 家族 に は束 修 免 除 、月 謝 半 減 の 特 待 を な し来 り、
又 た 規則 中別 に 特薦 生 を置 き 、小 学 校長 の推 選 に か ンる 操行 衆 に優 れ 、学 校 区域 内 に於 て模 範 とな る
べ き も のy為 め に無 束修 、 無 月 謝 にて 教授 す る こ と とな し居 り しが 、(以 下 略)(下 線 筆者)
(「大 日本 高 等女 学 会 の 発 展 」『大 家庭 』 第3巻 第1号 、24-25頁)
と述 べ て い る とお り、 就 学 を支援 す る為 に、 ① 小 学校 の 紹介 せ る出征 軍人 の 家族 に は束 修 く入
学 金)免 除 、 月 謝 半 減 の 特 待 、 ② 特薦 生 を置 き、 小 学校 長 の 推 薦 に か 」る操 行 衆 に優 れ 、 学校
区域 内 に於 て 模 範 とな るべ き もの Σ為 め に無 束 修 にて 教授 す る制 度 を持 っ て い る こ とで あ る。
これ は、 単 な る通 信 教 育 で 高 等 女 学 校 に準 じた 教 育 を 自宅 学 習 させ る もの で は な く、 学 び た い
意 志 の あ る女 性 に対 して 、広 く教 育 の機 会 を提供 す る こ と に 目的 をお い た もの で あ る。同 じ 『大
家 庭 』 に掲 載 され て い る規 則 要 項 で は 、 創 立 時 と異 な る 目的 が加 え られ て い る。 こ れ は 、 授 業
料 無 料 の女 芸 教 習 所 の 開設 に伴 っ た も の で あ る。 女 芸 教 習 所 にっ い て は後 に触 れ る。
目的
本会は女子 に高等普通教 育 を施 し其智 徳 を高 め以 て本 邦女学 の普及 発達 を図 り併せ て修 学の
資力なき一般女子 に実用的技芸 を教授す るを以て 目的とす(下 線筆者)
(「
大 目本 高 等女 学 会 規 則 要 項 」、 大家 庭 第3巻 第1号
、29頁)
次 に 、『二 十 世 紀 の婦 人 』 掲 載 の広 告 に よ り、 そ の 特色 を見 てい きた い 。
高等 女 学 講 義発 刊
会員募集
本講 義 録 は 、満 ニ ケ年 に して 高 等 女 学 校 の各 学 科 を講 じ 了 るべ き も の に して 、 其 程 度 は 、 正 し く文
部 省 の示 せ る 高等 女 学 校 教 授 細 目に準 擦 し、 経 験 に富 み た る教 育 家 が、 教 室 に臨 み て 、 親 し く生 徒 に
教 授 す る が 如 き方 法 を 以 て 、丁 寧 親 切 に講 義 す る もの な るが 故 に之 につ きて 学 習 す れ ば 高 等 女 学 校 在
学者 と毫 も 異 る とこ ろ な く 、 しか も経 費 を節 減 し得 て、 安 全 に家 に あ りて、 家 業 を助 け なが ら、 中等
以 上 の 学力 を養 ひ 得 べ き も の な り。 恰 も これ 単 に教 室 を備 へ ざ る高 等 女 学 校 と して 見 ら るべ き も の な
り天 下 幾 萬独 習 生 の た め に彼 岸 に達 す べ き 津筏 を供 せ ん とす る も の な り。 又 巳 に他 に嫁 ぎ家 庭 の 主 婦
とな りし女 子 に して 、 常 に密 か に学 問 の 不 足 を感 じ、 青 年 女 子 の教 育 を羨 み 、 年 長 け時 少 き を嘆 く も
の も、現 今 決 して 少数 に あ らず 。 これ ら年 長 女 子 に 向つ て も本 会 は 、熱 誠 を以 て 自修 講 義 録 を学 習 せ
られ ん こ とを希 望 す 。
一36一
創価教育研究第5号
又学 校 に て は、 言 ふ ま で も な く教 室 の 教 授 を 以 て 主 眼 とす れ ば、 高等 女 学 生 の 年齢 に於 て は 、 相応
く
ママラ
に学 科 の 自修 を要 求 す る が故 に 、 自修 の 多 少 は 直 ち に成 蹟 の 良否 に 関す 。 本 会 の講 義 録 は 、深 く此
点 に注 意 し、丁 寧 懇 切 に 自修 研 究 の方 法 を指 導 す る が故 に 、 労少 く して よ く学 科 の要 領 を解 し、記 述
の精 神 を知 り、か つ 容 易 く之 を記 憶 し応 用す る こ とを得 しむ 因 て現 在 の 高等 女 学校 生徒 及 女 子 師範 学
校 生徒 に取 りて も、 極 め て大 切 な る坐右 の 師友 た るべ し。
又 巳に学 校 を 卒業 した る 女 子 も受 験 其 他 の 必 要 に よ りて 、 学校 に て学 び し諸 学 科 を 、復 習記 憶 す る
を要す る場 合 決 して 少 な か らず 。 され ど も浩 潮 の 書 籍 に つ き一 々 之 を反 復 せ ん こ とは容 易 の業 に あ ら
ず 。本 会 の講 義 録 は簡 明 平 易 な る が 上 に章 節 の 要 を撹 りて 之 を表 示 し も し くは 約説 せ る が 故 に 、 短 時
間 に して復 習 を 終 へ 、しか も要 点 を逸 さ ゴ るな り。即 ち 高 等女 学 校 女 子 師範 学 校 の 卒業 生 に 向 つ て も、
研 究若 くは復 習 の た めに 、此 講 義 録 を利 用 せ られ ん こ と を薦 む る もの な り。
若 し夫 れ 、 本 会 の 講 義 録 につ き て 、 熱 心 に学 習 せ る もの に あ りて は 、他 日女 学 校任 意 の 学 級 に入 学
し得 べ く、 又女 教 師 の 検 定 試 験 に合 格 し得 べ く、 将 又 直 ち に 高 等女 学 校 の 卒 業 試 験 に 及 第 し得 べ き こ
とは 、今 日よ り之 を確 保 して 、本 会 の栄 誉 とす る所 な り。
之 を要 す る に、 本 会 講 義 録 は 、 女 子 教 育 の欠 陥 を補 は ん が た め に刊 行 せ る もの に して 、 主 と して 濁
学 生 のた め に し、兼 ね て 、 女 学 生 及 卒業 生 の た め に 自修 研 究 の 良 師友 た らん こ とを期 す る も の な り。
(下線筆 者)
特 色 と して あ げて い る こ とを拾 っ て い く と、 第1段 落 で は、
1,2年
間 で 高 等女 学 校 の各 学 科 を 修 了す る もの で 、そ の程 度 は 、 高等 女 学 校 教 授 細 目に
準拠 して い る。
2,教
室 で生 徒 に授 業 す る よ うな 方 法 で 、 丁寧 親 切 に講 義 をす る の で 高等 女 学校 に入 学 し
た の とか わ らな い。
3.安 い 費 用 で 学 べ て 、家庭 学 習 な の で安 全 で(66)、家業 を助 け な が ら学 ぶ こ とが 出 来 る。
と して 、 「教 室 を備 へ ざ る高 等女 學校 」 と表 現 して い る。
第2か
L高
ら4段 落 で は 、
等 女 学校 で は 、 自習 をす る こ とが 求 め られ 、 そ れ を しっ か りや っ て い るか ど うか が
成 績 につ な が る。 丁 寧 懇 切 な 自習 の方 法 を指 導 す るの で 、 そ の 科 目 を理解 す る上 で 、 高 等
女 学 校 、 師 範 学 校 生 徒 に も有 益 で あ る。
2.学
校 を卒 業 し、 受 験 な どに よ り復 習 をす る場 合 で も有 益 で あ る。
3,志
望 校 受 験 や 検 定 試 験 の勉 強 、高 等 女 学校 の 卒 業 試 験 の 参 考 書 と して も有 益 で あ る。
として 、 高 等 女 学 校 に在 学 も し くは 卒 業 した女 性 に も有 益 で あ る と して い る。
第5段 落 で は、今 ま で の こ とを要 約 す る と、本 会講 義録 は 、「女 子 教 育 の 欠 陥 」 を補 わん が た
め に 出版 して い る と書 い て い る。 こ こ で い う 「
女 子 教 育 の 欠 陥 」 と は何 か 、 実 は 、 単 に 、女 子
教 育 だ けで な く、 当時 の教 育 の欠 陥 と牧 口が考 え る もの を克 服 せ ん とす る と こ ろ に、 高 等 女 学
会 の教 育 の 特 色 が あ るの で は ない だ ろ うか 。 そ れ は 、 「
丁 寧 懇 切 に 自修 研 究 の 方 法 を指 導 す る
(67)」と表 現 され る牧 口が 北海 道 師 範 学 校 の 時 か らの 教 育 に対 す る 姿勢 で あ り、 創 価 教 育 学 体
系 に結 実 して い くも ので は ない か と考 え る。
⑤
『高 等女 学 講 義 』 の特 色
a,開
講 科 目 と講 師 陣
高 等 女 学会 が 月2回 会員 に 送 る講 義 録 『高 等 女 学講 義 』 の 開講 科 目 と講 師 は 、資 料 に よっ て
若 干 異 な る。 そ の 変遷 の研 究 は 後 日の 課 題 として 、概 要 を紹 介 す る 意 味 で 、1907(明
一37一
治40)年
創 立 者 の 大 学 構想 につ い て の一 考 察(1)通
信 教 育 部 開設 構 想 とそ の 沿革
12月 発 行 の 『大 家 庭 』 掲 載 の科 目 と講 師 を掲 載 す る。創 立 時 の雑 誌 新 聞 に掲 載 され て い る も の
は、 初 年 度(第 一 学 年)担
当の 科 目 と講 師 を紹 介 して い る と思 わ れ る ので 、 創 立 よ り2年 経 っ
た 完 成 年 度 以 降 が適 切 と考 え た。(宏 文 学 院 にっ い て は 、注18参 照)
資 料3『
高 等 女 学 講 義 』 の 開講 科 目 と講 師
三
源
川
市
東京府 高等女学校教諭
東京 高等師範学校教授
作文
東京 高等師範学校教授
習字
東京 高等師範学校教授
皐
鶴
田
岩
文法
平
弥
田
吉
東京 高等師範学校教授
平
弥
田
吉
講読
平
弥
田
吉
国語科
平
弥
田
吉
修身科
文学士
算術科 ・幾何科
東京 高等師範 学校教授
治
万
駒
生
英語科
苗
夏
田
池
埼玉県師範学校教諭
郎
太
作
垣
稲
地理科
日本
東京 高等師範 学校教諭
外国
東京府 師範学校教諭
日本地理
東京 早稲 田中学校教諭
外 国地理
本会幹事宏文 学院講 師
敏 郎
造 豊 通 三 豊
米
内 常
岸 田 田 口 田
峰 依 小 牧 依
東京府 師範学校教諭
歴史科
雄
武
田
原
東京 府師範 学校教諭
東京成城学校 教諭
植物
女子高等師範 学校 教諭
動物
前東京府高等女学校 教諭
生理
本会幹事東京 市視学官
化学鉱物
東京宏文学院教授
物理
本会幹事東京 市視学官
裁縫科
女子高等師範 学校 教諭
子
み
な
橋
市
女子高等師範 学校 教授
子
鶴
千
村
吉
家事科
子
美
寿
川
宮
地文
郎
郎 勉 郎 太 郎
茂
次 鉄 次
島 川 幸 山 幸
竹 森 浜 秋 浜
理科
敏
可
来
根
文部省図書課
女子高等師範 学校 訓導
東京宏文学院教授
日本女子大学講師
割烹
本会理事
和歌
日本女子大学講師
女礼法
女礼法専攻
文章
東京 日目新聞記者
子
禄
山
宇
茶儀及挿花
茂
文
島
児
女子 実業科
作
仁
太
金
女子高等師範 学校 講師
一
東京府師範 学校 教諭
喜
森
図画科
圃
花
宅
三
割烹専攻
式
義
島
中
花
弔
藤
斉
(『大 家 庭 』 第3巻
一38一
第1号
、 明 治40年12月
に よ る)
創価教育研究第5号
b,講
義 録 の 内容 の 特 色
講 師 陣 にっ い て 、 『二十 世 紀 の婦 人 』 の 広 告 で は この よ うに紹 介 してい る。
本 会 の教 師
本 会 の教 師 は男 女 両 高 等 師 範 学 校 の諸 先 生 を初 め、 学 識 と名 望 の あ る方 々 に て 、 而 か
も多 年 の経 験 に基 づ き、 誰 れ に も よ く解 る様 、 丁 寧 親 切 に講 義 し、 其 上 各 科 の 研 究 の仕 方 を も教 授 せ
ら る 墨もの な れ ば、 本 会 に入 学 の 女 子 は 、 恰 も実 際 に全 国 の模 範 た る女 子 高 等 師 範 学 校 の 附 属 高 等 女
学 校 に 入 学 した る と同 じ事 な る を信 ず 、(下 線筆 者)
男 女 両 高 等 師 範 学 校 等 の優 秀 な講 師 陣 を配 して い る こ と と とも に、「
誰 れ に も よ く解 る様 、丁
寧 親 切 に講 義 」 し 「
研 究 の仕 方 を も教 授 」 す る とい う とこ ろ が実 は牧 口のや りた か っ た と ころ
で は な か ろ うか。参 考 ま で に 、『高 等 女 学 講 義 』掲 載 され た 牧 口 の 「
外 国 地 理 学 」の 一 部 分 を紹
介 す る。(こ の 引用 の み 、原 文 の香 りを伝 えた い とい う観 点 か ら極力 旧字 体 で 表 記 した)
まず 、 「
誰 れ に も よ く解 る様 、丁 寧 親 切 に」 講 義 して い る例 を紹 介 す る。
(一)外
国 地 理 が何 故 必 要 で あ ら う
ちよっこ らちよい と、脚 薗へ着 って乗 る穣 な角蔭 があるでな し、罷宍 妥敷 しい饗 薗亀茗の藻缶 曲
てくる笹算の亀蓮 が警夏に荷 の基 に壷た う?と は空守1写へ るものの誰れ で も、慧 ふ ところで ある、
が、薗を蹟 して一笏 グ
卿 薗の人も彰 も久れ なかつた響 しな らばい ざしらず、薦葦あ り、声{セ
嘉 あ り、竃樒
あ り一シ
瞬ン千重 ともいふべ き琴 の垂 に、さ りとは蜜 り蒔勢覆れの舌 ひ豊、まあ少 し思ひ置 して、身 の
薗 りを窪憲 してこ藍!。 吾々肩ジ
帯 の星ク
潜 に算 溺 の儀螺 の集御 に廣笑な ことに欝 くであ ら う。 ラ
ンプ 下で、 昆の窟稿 を書 き初 めた私 は、何 よ りも発 にランプの晃 りに窪憲 が薩び蓮 こされた。飯 々た
る認 を銭つ髭碧蒲 は露西亜の南方、カ フカズ の産か しらん、はた北米合衆 國の出か しらん、そ もい
コ
づ 塵 か ら來 た で あ ら う ㈹ 。
次に、 「
研 究 の 仕 方 を教授 」 して い る例 を2例 紹 介 す る。
(二)外 國 地 理 研 究 の注 意
籔 ジ
蕩マ
で親 し く籔諦 に つ い て 籔 窪 を蔓 け て さ へ 、舜 薗 鬼蓮 は麓 え態 い も の を、涜 して 自毫 て 首『
彦 し
や う とい ふ の で す か ら、 六 ケ敷 しい こ とは 笏論 、籔 え る 方 に於 て も 、 これ をi謹藤 を持 た せ て 、 箇 資 く
教授 しや うと いふ は 窟 る 菌難 な こ とで あ る。 が併 し、 物 は在 み に よ る も の で 、 あ な が ち 癸篁 す べ き
で は あ りま す ま い 。
そ こで 、本 義 に矢 る箭 に 、一 寸 ミ讐 ン(穰)にお約 束 して 置 きた い こ とが あ る。第 一 が 地 圖 の こ と、碁 薗
亀 蓮 に兎 薗 が な くて は 兎 て も警 ひ 嬉 る者 で は な い 。 荷 うも 日本 人 は 亀 薗 を簾 ふや うで、 日々薪 簡 に 由
る詣 薫 な ど に も封 蔭 亀 薗 が な けれ ば鞘 らな い こ とが 砂 な くな い が 、 亀 薗 を蘭 い て 見 る とい ふ や うな 、
注 意 を して 居 る人 が 誠 に 少 い 。 た ゴ茜勧 莫 い とい ふ て 、 曇 嫡魑 薩 に して 居 るや うで あ ります 。 です か
ら雀 ガっ て亀 茗 な どで も一 筒 麓 え て ない や うだ し、 徳 々麓 え居 る に して も地 圖 の ど こ に あ る と い ふ や
うな こ とは蕪 績 響 の 様 で あ る 』そ れ を少 しの 茜倒 を忍 ん で、 事 あ る 毒 に度 々 出 して 見 て 居 る と、 無
意 味 の地名 で も、 事 柄 で も、 お れ ミ♪の 鋤 謡に残 つ て 、 多 少 は其 地 圖 に 縣羅 します か ら、 二 三 回注 意
して 畳 え る と決 して 忘 れ る も ので は あ りま せ ん 。 私 共 の 羅 騒 で 見 ま す と、 地名 を 畳 え る爲 め に 、 亀 面
は禾 恵 議 な程 、 力 を肴 つ て居 るや うで あ る。 地 理 を學 ぶ 第 一 の 妻 律 と して 、何 よ り先 き に地 圖 を 一 々
ヒ
霧ド
い て 、 それ に 封 シ
薫 して 見 る とい ふ こ と を り
ポ 懲 け て 習 ひ た い 。 これ が第 一 の お弱 藁 で す(69)。(以
下 略)
一39一
創 立 者 の 大 学構 想 につ い て の一 考 察(1)通
薪i剤 ≡あ淺 惹(一)欧
信 教 育部 開設 構 想 とそ の沿 革
米 の列 強 國 の 勢 労 は遠 い様 で 近 い こ と に驚 く でせ う。(二)そ こ で 其 等 の 國 を
研 究 す るに 從 來 の よ うに 唯 わ け もな く暗舗 せず に 或 は 我 等 の 友 國 と し、 或 は 敵 國 と して観 察 す べ き も
アンシヨ の で あ る と いふ こ とが 略 ぼ お 解 りで せ う。 地 理 は 決 して 無 暗 に下 らな い 地名 を 暗 諦 す るの が本 意 で
は あ りませ ん よ。(三)雑 記 帳 と鉛筆 とを 用意 な さい 、 そ して 略 圖 をお 書 き な さい。 丁 寧 な こ とは い り
ま せ ん 、 一 筆 書 きサ 、 圓 くで も四角 で も。 目に 見 た許 りで は 覧 え られ る もの で は あ りませ ん 。(四)本
章 な ど殊 更 順 序 立 て Σ手 帳 に 書 き 抜 い て置 く こ とは い りま せ ん 、 地 圖 に あ れ ば澤 山です 。 本 文 を 地 圖
に合 わ して 一 篇 讃 め ぱ、 あ とは殆 ん ど讃 ま な く と も よい 、 其代 り本 文 の意 味 を 地 圖 に繰 り合 し思 ひ 出
す の で す ㈹ 。(以 下 略)
⑥
経 営 の逼 迫 と経 営 の譲 渡
高 等 女 学 会 の経 営 の逼 迫 と牧 口の 苦 労 を伝 え る資 料 として は、 以 下 の4点 が あ る。 年 代 順 に
提 示 す る。
イ
「
高 等 女 学 校 講 義 録 の 出版 事 業 や 実 業 女 学 校 の経 営 等 を計 画 し たが 日露 戦争 後 経 済 界 不 況
の影 響 を受 け て思 わ しい成 績 を あ げ る を得 ず して 中止 して しま った 」(「地理 学 に篤 学 の諸 名
士 列 伝 」 『地 理 学研 究』 第2巻 第7号 、 大 正14年)
ロ
「そ の後 、 高 等女 学校 講 義 録 の 出版 を思 い立 っ た が 、 これ は失 敗 に了 っ た 。 営 利 心 を容 れ
る余 地 の な い頭 脳 の持 主 た る君 に は、 不 向 の事 業 で あ っ た と見 え る。」(「人 物 の片 影 」『教 育
週 報 』 昭 和6年3月7目
ハ
付)
「
大 日本 高 等 女 学 藷 義 は会 長 に二 条(屡)副 会長 に 青木 子 爵 等 の名 前 を あ げ 、視 学 浜 幸(三)郎
氏 と協 力 して 大 々 的 に 発 足 した の で あ る が 資 金 難 の 為 非 常 に 困窮 をっ づ け 二 年 位 で 人 手 に
渡 さな け れ ば な らな くな っ た。 家 庭 に於 て も経 済 的 に一 番 お 困 りに な った の は こ の時 代 で あ
っ た 」。(「伝 記
二
牧 口先 生 の御 一 生 」 『大 白蓮華 』 第12号 、 昭和25年)。
「
他 人 の 保 証 を引 き 受 け て経 済的 にひ っ 迫 した 」(『牧 口常 三郎 』聖 教 新 聞 社 、 昭和47年)。
次 に、 関係 す る と思 わ れ る牧 口 自身 の発 言 等 を紹介 す る。 明 治40年10月 の川 越 支 部 に お け る
高 等 女 学 会 慈 善 活 動 写真 会 場 で の牧 口の 演説 の 大 要(71)に は 、
爾 来 菰 に 三 年 、 事 に 当 りた る 吾 等 の 不敏 に よ りて 、 幾 多 の 困難 に 陥 り、未 だ 当初 の 志 望 の 万 一 に も
達 す る能 は ざ る を椀 つ と錐 も、愚 直 な る熱 誠 は幾 分 か社 会 の認 識 と同 情 を受 くる こ と 玉な り、 幸 い に
輩 固 な る 基礎 を得 る に至 れ り。(下 線筆 者)
ま た 、明 治41年1A19日
に愛住 女 学校 で行 わ れ た 第1回 卒 業 式 を 取材 した 『女 学 世 界 』 の 記
者 の記 事 ㈹ を紹 介 した い。
次 に幹 事 牧 口常 三 郎 氏 は立 つ て 会 務 報 告 を な され ま した 。 「
本 会 は 高 等 女 学 校 の設 置 な き 地 方 、 又
は有 つ て も 家庭 の事 情 な どのた め余 儀 な く学 に 就 か れ ぬ 有 志 の 婦 人 の 為 に、親 切 な る通 信 教 授 を施 す
を 目的 と して去 る 三十 八 年 に初 めて 起 つ た もの で あ りま す 。 今 日ま で 色 々 の 波瀾 の あ った に も 関 は ら
ず 、 屈せ ず に貫 い て来 て、今 や 会 員 千 余名 とい ふ 盛 況 に達 しま した 。就 い て は 今後 愈 「高等 女 学 講 義 」
と雑 誌 「
大 家庭 」 を善 美 な もの にす るや う、 互 に奮 励 努 力 す る心 算 で あ りま す。 且 つ更 に必 要 を 感 じ
て 、慈 善 教 育部 と女 芸 教 習 所 と を設 置 い た しま した 。 何 卒 江 湖 の 援 助 を得 て我 々 の微 衷 を貫 徹 出 来 ま
一40一
創 価教 育研究第5号
す 様 、 偏 に切 望 いた します 」 といふ 趣 意 で した 。 牧 口氏 は登 壇 はせ られ ず 、 壇 の前 に立 つ て演 述 され
ま した(以 下 略)」(下 線 筆 者)
イ ・ロ は、 牧 口の プ ロ フ ィル を紹 介 す る記 事 で あ り、 ハ ・二 は近 親 者 の 聞 書 きに よ る。 イ で
は、 経 済 不 況 、 ロで は 、 営 利 心 の欠 如 、 ハ で は、 資 金 難 、 二 で は 、 他 人 の 保 証 を引 き 受 けた と
あ る。 そ れ ぞ れ 視 点 が 異 な る。
二 っ の 牧 口の 発 言 か ら、 明 治40年12月 以 前 に 極 めて 大 き な 出 来 事 が あ っ た と推 測 され 、2万
人 を数 えた 会 員 は 、激 減 も し くは 壊 滅 状 態 に な り、 明 治41年IEに
「今 や 会員 千余 名 とい ふ 盛
況 に達 しま した 」 とい う状 態 に回 復 した とい うこ とで あ ろ う。『大 家 庭 』 の 「
新 会 員 名 簿(以 下
次 号)」(73)には 、明治40年11月1日
以 降 の新 会 員 と紹 介 者名 が 記 載 して あ り、そ の 中 で正 会 員(74)
の 新 会員 は22名 で あ る。
高 等 女 学会 は 、経 済 的 に 後 ろ盾 に な っ て い る組 織 、 人 物 が 見 え な い。 も しか した ら 、存 在 し
な い の か も しれ な い。 しか し、創 立 以来 多 くの会 員 を集 め た こ とが事 実 で あ る な らば、 「
事 に当
りた る 吾等 の 不敏 」、具 体 的 に は 「
他 人 の保 証 を 引 き受 けた 」 とい うよ うな こ とが あ っ た の で は
と推 測 され る。 日露 戦 争 後 の不 況 の影 響 が あ った こ と、そ して 、私 的 事 業 で あ りな が ら、 「中流
以 下 の 」 多 くの少 女 達 に 学 ぶ機 会 を提 供 す る た め に 、入 学 金 や 学 費 免 除制 度 を作 った こ とは 、
「営利 心 を容 れ る余 地 の な い頭 脳 の持 主 た る君 に は 、不 向 の事 業 で あ っ た と見 え る」 と表 現 さ
れ て しか るべ きで あ ろ う。
「
愚 直 な る熱 誠 は幾 分 か社 会 の 同情 を受 く る こ と Σな り」、 ま た 、 「
屈 せ ず に貫 い て 来 て 」 と
あ る よ うに牧 口を知 る 人 々 か ら応 援 の輪 が 広 が り、会 の体 制 の建 て 直 し と支 援 者 の確 保 に努 め
る。 しか し、っ い に力 尽 き て 、1908(明
治41)年8月
、 牧 口 は高 等 女 学 会 か ら手 を引 く こ とに
な る。
そ の後 、牧 口は 、牛 込 区 下戸 塚12番 地 に寄 留 後 、1909(明
治42)年2月
には 、 富 士 見尋 常 小
学 校 ㈹ の 首 席 訓 導 とな る。 こ の時 期 、 東 京 市 の視 学 に 、高 等 女 学 会 を一 緒 に創 立 した 浜 幸 次
郎 が い る。 しか し、 牧 口は 、一 年 余 り後 の1910(明
治43)年4月
る。 そ の牧 口が 、 同 年8月
に 、 図書 局(76)と な る)属(77)と
に は、 文 部 省 図 書 課(後
に は病 気 の 為 、 同校 を退 職 す
して 地 理
教 科 書 の編 纂(78)の 仕 事 に就 く(79)。こ の時 、文 部 省 の視 学 官 に 槙 山栄 次(80)が い た 。
かって 「
上 京 後 の 牧 口常 三 郎 と 『人 生 地理 学 』 出版 に 至 る経 過 」 とい う論 稿 を ま とめ る 中 で
気 が 付 い た こ とが あ る。それ は 、『人 生 地 理 学 』 を出版 す る こ とが で き た最 大 の力 は牧 口の 人 間
性 で あ っ た こ とだ(81)。『神 戸 新 聞 』 に 、斉 藤 弔花 は牧 口 に対 す る深 い 尊 敬 を も っ て 、 『人 生 地
理 学 』 が 公刊 され た こ と を喜 ん で 一文 を 書 い た。 そ の 中 で 、斉 藤 は 、牧 口は 、本 か ら学 ぶ だ け
で な く人 か ら人 間 を学 ぼ うと して い る(82)と 書 い て い る。『人 生 地 理 学 』 を出版 した牧 口が 、女
性 の た めの通 信 教 育 の 団 体 を創 立す る、 この こ とは全 く逆 方 向 の行 動 とも思 え る。 しか し、教
育 に情熱 を もっ牧 口に とっ て 、 人 間 に 向 き合 っ て い る牧 口に とっ て実 は延 長 線 上 の こ とで あ っ
た の か も しれ な い。
牧 口の 手 か ら離 れ た高 等 女学 会 が ど うな っ た か につ い て は以 下 の3っ の資 料 が 存 在 す る。 牧
口が離 れ た後 も、 そ の活 動 が しば ら くは 白銀 町 で継 続 され た と考 え られ 、 時 期 は 不 明 だ が 、東
京 高 等女 学 院校 長 四元 内治 の手 に渡 っ た。
一41一
創 立者 の大 学 構 想 につ い て の一 考 察(1)通
○ 明治41年10.月19日
信 教 育 部 開 設 構想 とそ の沿 革
『読 売 新 聞 』
白銀 町 大 日本 高 等 女 学 会 慈 善 女 芸教 習 所 製 作 の綿 細 工 白木 屋 に展 示
○ 明治41年10月 号 『亜 米 利 加 』
大 日本 高 等 女 学 会 が 、『女 子 学 芸 雑 誌 』 を発 行
*尚
、 同誌 が 実在 す る か ど うか は不 明 。
明 治45年2月
本 郷 新 花 町 に東 京 高 等 女 学 院 附属 大 日本 高 等 女 学 会 。
東 京 高等 女 学 院 校 長 兼 大 目本 高 等 女 学会 幹事 長 四元 内治 とあ る(83)。
⑦
大 日本 高 等 女 学会 創 立 の基 盤 とな る牧 口 の人 道 的 な考 え方
牧 口が創 立 し、 運 営 に 当た っ た 高 等 女 学 会 の 活 動 の 特 色 は 、授 業 料 免 除 の 制 度 や 附 属 女 芸 教
習 所 に見 られ る よ うに、 私 的 事 業 に関 わ らず 、 貧 しい 人 へ の配 慮 な ど公 共 的 色彩 が 強 い こ とで
あ る。 営 利 事 業 に関 わ らず 、 この 割 合 が 高 い 場 合 、 自立 した 経 営 は 当然 困 難 にな り、 篤 志 家 の
応 援 が 必 要 にな っ て く る。
1904(明 治37)年2月10日
が 出版 され た1903(明
に 、日本 は ロシ ア に 宣戦 を布 告 、日露 戦 争 が 始 ま る。『人 生 地 理 学 』
治36)年10月15日
は、 開 戦4カ 月 前 に あた る。 ロ シア の 脅 威 か ら 目本 を
守 る為 に戦 争 は不 可 避 な も の と して 世 論 が 高 ま って い く中、 社 会 主 義 者 な ど少 数 の 人 々 に よっ
て 叫 ばれ る非 戦 論 は政 府 の力 も加 わ り、 か き消 され そ うに な る時 代 で あ る。 この よ うな 時代 に
書 か れ た 牧 口 の 『人 生 地 理 学 』 は 、 帝 国 主 義 の本 質 を厳 し く批 判 して い る(84)。そ して 、 人道
的 な 国際 社 会 の有 り様 を 、 「人道 的 競 争 形 式 」 と して論 じて い る(85)。人 道 的 競争 と い う考 え方
は 、 牧 口が 参 考 要 書 と して 挙 げて い る 中 で は 、 直接 的 には 出て こ な い(86)。人 道 とい う言葉 が
出 て くる の は 、PaulSamuelReinschの
著 書 を高 田早 苗 が抄 訳 し た 『帝 国 主 義 論(87)』 で あ る。
帝 国 主 義 の時 代 に あ って 、 競 争 とい う考 え 方 の延 長 線 上 に 、 「
人 道 的競 争 」 とい う全 く異 な
る考 え を示 した こ とは 、 牧 口の 中 に あ る 人道 的 思考 か ら来 た独 創 とい え る もの で は な い だ ろ う
か 。 帝 国 主義 が世 界 を覆 った 時 代 に あ っ て も、 国 家 の為 で は な く、 ひ と りひ と りの 幸福 を 目的
と した 考 え 方 を持 っ た 牧 口で あ れ ば こそ 、 高 等 女学 会 の よ うな事 業 を行 う こ とが で き た と考 え
る。
(3)戸
田 城 聖 と通 信教 育
戸 田城 聖(本 名 、 甚 一 、 大 正12年 ご ろか ら城 外 と名 乗 る よ うに な る。 昭 和20年7月3日
を機
に城 聖 と改 め る(88>)の 教 育 に 関す る業 績 にっ い て は 、 私塾 で あ る時 習 学 館 にお い て創 価 教 育
学 実 践 のモ デ ル 校 とし て の実 践 が 行 われ て い た こ と と、 『推 理 式 指 導 算 術 』 とい う著 書 が100万
部 のベ ス トセ ラー(89)に な った こ と、模 擬試 験 を行 っ て い た こ と(90)、東 京 拘 置所 か ら出 獄 した
戸 田 が 、数 学 ・物 象 等 の通 信 教 育 か ら戦 後 の再 建 を は じ めた こ と な どが、 創 立者 の 著 作 、小 説
『人 間革 命 』 等 に よ っ て知 られ て い る。 しか し、受 験 参 考 書 を 中心 と した 多 くの 著 作 や 、戦 前
の学 習 雑 誌 に よ る通 信 添 削 にっ い て は十 分 に知 られ てい ない 。 言 葉 を変 えれ ば 、教 育 者 と して
の 戸 田城 聖 につ い て全 体 像 が 十 分 把握 され て い な い ので あ る。
牧 口常 三 郎 に源 流 を発 し、 戸 田 に よ っ て継 承 され た創 価 教 育 の流 れ が 、創 立 者 に よ っ て 大河
とな り、創 価 大学 を は じめ と して そ の構 想 が 大 き く花 開い て い る創 価 教 育 の歴 史 を考 え る 時 、
戸 田が創 価 教 育 に お い て 、 どの よ うな役 割 を 果 た した か 、 明 らか に して お く必 要 が あ る。 そ こ
で 、 ① 戸 田 の 編集 した 教 育雑 誌 、 ② 戸 田城 外 著 の 受験 参 考 書 、及 び 、本 稿 の テー マ で あ る 通信
教 育 に 関 連 す る、 ③ 戦 前 の 学 習雑 誌 と通 信 添 削 、 ④戦 後 の通 信 教 育 の4点 にっ いて 概 説 して み
一42一
創 価教 育研究第5号
た い。
①
戸 田 の編 集 した 教 育 雑 誌
戸 田城 聖 が 、創 価 教 育 学 会 創 立 当時 に果 た した役 割 の なか で 、そ の重 要 性 が見 過 ご され て き
て い る も の に 、彼 の 出版 社 で あ る城 文 堂 、 目本 小 学 館 か ら発 行 され た教 育雑 誌 の存 在 が あ る。
そ の理 由 は 、それ らの雑 誌 自体 が ほ とん ど現 存 して い な い た め で あ る。1933(昭 和8)年
展環境
新 教 材 集 録 』1冊
、1934(昭
和9)年
の 『新 教 材 集 録 』8冊
の 『進
の発 見 に よっ て 、空 白の
部 分 が少 し埋 ま り、戸 田 の発 行 して き た教 育 雑 誌 の 系譜 が見 え て き た。 それ と と もに 、戸 田が
教 育 雑 誌 を 出版 す る こ とに よ り、 創 価 教 育 学 の普 及 に努 め て い た こ とが 明 らか に な った。
戸 田が最 初 に 出版 した 教 育 雑 誌 は 、『新 進 教 材
か れ た 第1巻
第9号(昭
輯兼発行 人
戸 田雅 皓(92)発
とか ら、創 刊 は 、1930(昭
和5年11E20日
行所
発 行)が
環 境 』 で あ る。 「
創 価 教 育学 号」 と表 紙 に 書
現 存 し て い る と思 わ れ る(91)。奥 付 に は 、編
城 文 堂 とあ り、 毎 月1回20日
和5)年3月
発 行 とな っ てい る。 こ の こ
頃 と推 測 され る。 同誌 は 、 同年5A26日
に第 三種 郵 便
物認 可 を 受 け て い る。第1巻 第10号 に甘 庶 生 規 矩 の 「
創 価 教 育 学 批 判 」 が掲 載 と1931(昭 和6)
年3月
に 出版 され た 『創 価 教 育 学 体 系』 第2巻 巻 末 附録 に あ る が 、 同 号 は現 存 して い な い。 甘
庶 生 の 全 く同 じ内容 の 書評 が 『帝 國 教 育 』第583号(昭 和6年3月
発 行)に 「ブ ック レ ヴュ ー
口氏 の 『創 価 教 育 学 』 を読 む 」 と して掲 載 され て い る こ とか ら、『新 進 教 材
牧
環 境 』 は 、購 読 者
が そ れ ほ ど多 くな い雑 誌 で は な か っ た の で は な い か と推 測 して い る。『新 進 教材
環境 』の名 称
で何 年 ま で発 行 され た か も不 明 で あ る。
この 後 に城 文 堂 か ら出版 され た 教 育雑 誌 が 、 『進 展 環 境 新 教 材 集 録(93>』で 、1932(昭
和7)
年12月28日 に 第 三種 郵 便 物認 可 を受 け て い る。今 回 、『進 展 環境 新 教 材 集 録 』第3巻 第14号(昭
和8年12月
発 行)を 発 見 し、 そ の 中 の 第3巻 全 索 引 か ら、 第3巻 第1号
は1932(昭
和7)年10
月 に出版 され た こ と力弐
判 明 した。 『進 展 環 境 新 教 材 集 録 』 が 、『環 境 』 か ら巻 号 を継 承 し、 改 題
され た もの とす るな らば 、何 故 改 め て 第三 種 郵 便 物 認 可 を受 け た か 疑 問 が残 る。『進 展 環 境 新 教
材 集 録 』 とい うタ イ トル か らは 、『環 境 』 を引 き継 い で い るの で は な い か と見 え る。編 輯 兼 発 行
人 は、 戸 田雅 皓 、 発 行 所 は 城 文 堂 で あ る。1932(昭
和7)年
何E号
か ら改 題 され た か 、 も し く
は創 刊 され た か 不 明 で あ る。
『新 教 材集 録 』 は 、 第4巻 第4号 か ら第10号 ま で 、1934(昭
和9)年4Hか
ら11月 ま で の7
冊 を発 見 した 。 編輯 兼 発 行 人 は 、戸 田城 外 、 発 行 所 は 、 日本 小 学館(94)で あ る。
『新 教 材集 録 』 は 、 翌1935(昭
和10)年8月
頃 に改 題 され 、 『新 教 』 とな る(95)。
『新 教 』 は 、第6巻 第2号 か ら第6号 ま で 、1936(昭
和11)年2Hか
ら6月 ま で が 現存 して
い る。 編 輯 兼 発 行 人 は 、 戸 田城 外 、発 行 所 は 、 日本 小 学 館 で あ る。
1936(昭 和11)年7H発
行 の 第6巻 第7号
か ら、 『教 育 改 造 』 に 改 題 され る。 この 第6巻 第
7号 は現 存 してい る と思 われ る。 編 輯 兼 発 行 人 は、 戸 田城 外 、発 行 所 は、 目本 小 学 館 で あ る。
『教 育 改 造 』 が何 時 ま で 発 行 され た か は不 明 。 但 し、1941(昭
和16)年7月
に機 関 紙 『価 値 創
造 』 が創 刊 され て い る が 、 そ こ に は並 行 して 教 育 雑 誌 の存 在 を うか が わせ る記 事 ・広 告 等 は な
い。
こ の よ うに 、1930(昭
和5)年
の 『環 境 』 か ら1936(昭 和11)年
して戸 田 が教 育 雑 誌 の編 輯 兼発 行 人 を務 め て い る。
一43一
の 『教 育 改 造 』 ま で 、 一 貫
創 立者 の大 学 構 想 につ い て の一 考 察(1)通
②
信 教 育 部 開 設 構想 とそ の沿 革
戸 田城 外 著 の受 験 参 考 書
出版 が確 認 され る戸 田城 聖 の 受験 参 考 書25冊(96)を 列 記 す る。 これ らの著 作 は 、『推 理 式 指 導
算術 』 の 背表 紙 に 「
創 価 教 育 学原 理 に よ る推 理 式 指 導 算術 」 と書 か れ て い る よ うに 、創 価 教 育
学 に 基 づ い て書 かれ た も の と考 え られ る。
な お 、1939(昭 和14)年9月28日
和15)年
付 文 部 次 官 通 牒 で 、中 等学 校 入 学 希 望者 の選 抜 が 、1940(昭
新 入 生 よ り学 科試 験 を 全廃 し、 小 学 校 長 の 報 告 、 人 物考 査 、 身 体検 査 の総 合判 定 に改
革 され て い るの で 、 当然 、受 験 参 考 書 の 出版 に も大 き な影 響 が あ っ た。
<家 庭 教 育>
1,『 中等 学 校 入 学 試 験 の話 と愛児 の優 等化 』209頁1円
2.『 中 ・女 学 校
初版:昭
試 験 地獄 の解 剖 』168頁50銭
標(80)』(東 京 朝 日新 聞調 査 部
初版:昭
昭和8年8月)に
和4年12月1日
和8年8月
頃
城文堂
城文堂
『読 書
掲 載 され て い る 同 書 の序 は 、『中 等 学 校 入 学
試 験 ・… 』 と類 似 す る。 関連 が考 え られ る。 未 見 。
<算 術>
L『
推理 式指 導 算術 』542頁1円
初 版:昭 和5年6月25目
創 価 教 育 学 支 援 会 。そ の後 、 日本 小 学 館 。昭 和16年8月10日
発 行 所 は 、第11、16版 は 、
の 改版 改 訂 第126版 ま で の 出版 を確
認(97)。第16版 は542頁 、 第126版 は584頁 。
2,『 普 及版 推 理 式 指 導 算 術 』323頁60銭
年5月10日
3∼4,『
初 版:昭 和9年4月5日
目本 小 学 館
昭和13
の第15版 ま で 出 版 を確 認(98)。
尋常小学副算術書』
は 昭和15年1月
尋 五 用 、尋 六 用 、各90頁 程 度28銭
、30銭
日本 小 学 館
出版
以前。未見。
5,『 仕 上 の算 術 』146頁30銭
日本 小 学 館
出版 は 昭和15年1A以
前。未見。
<読 方>
1.『 推 理 式 読 方 指 導
第五学年用』
山 田高 正 と共著
頁 数 不 明80銭
日本 小 学 館
出版 は
昭 和8年 か。 未 見 。*第 五 学 年 用 が 二 冊 あ る可 能 性 が あ る。
2.『 推 理 式 読 方 指 導
目
日本 小 学館
第六学年用』
昭和12年3月25日
3.『 推 理 式 読 方 指 導
山 田高 正 と共 著423頁1円
初 版:昭 和8年4H15
第24版 ま で 出 版 を確認 。 国語 読本 第十 一 巻 に準 拠 。
第六学年用』
山 田高 正 と共 著
日本 小 学館
国 語 読 本 第十 二巻 に 準 拠
した も の。 広 告 に は あ る が 、未 見 。
4.『 推理 式指 導読 方
第九巻
五 年 前 期 用 』504頁1円
目本 小 学 館
初版 昭 和8年4H
8日 、昭 和13年1.月20日 改版 第25版 まで 出版 を確 認 。
5,『 推理 式指 導読 方
第十巻
6,『 推 理 式指 導 読方
第十 一 巻
4月15日
導
五年後期用』
約450頁1円
六 年 前 期 用 』579頁1円
改 版 第1版 昭 和13年3月25日
日本 小 学館
未見。
日本 小 学 館
初版:昭
、同 第32版 昭 和14年2月25日
和8年
ま で 出版 を確 認 。『読 方 指
第 六 学 年 用 』(山 田 と共 著)と 初版 の 日付 は同 じだ が 、 この 本 は 、戸 田の 単 著。 昭 和13年2
月 の 国語 読 本 改 訂 に準 拠 し、 目次 は異 な る。
7.『 推 理 式指 導 読方
第 十 二巻
六年後期用』
約600頁1円
日本 小 学 館
未 見。
8∼16,『 自学 自習 推 理 式 指 導 読 方 』尋 三 前 期 用 、後 期 用
各25銭 、尋 四前 期 用 、後 期 用
銭 、 尋 五 前期 用 、後 期 用
各45銭 の8冊 が 出版 され て い る。 目
本 小 学館200∼240頁
初版 昭 和12年5月5日
各40銭 、尋 六 前 期 用 、後 期 用
。 この うち 、『自学 自習 推 理 式 指 導 読 方
目本 小 学 館
昭和13年4月20日
一44一
第5版
各30
尋 五 前 期 用 』 は 、296頁40銭
ま で 出版 を確 認 。 他 は未 見 。 同
創価教育研 究第5号
じ頃 に 出版 か。
<口 頭試 問>
1。 『必 らず 聞 れ る 口頭試 問一 新 制 度 に対 応 す る一 』200頁50銭
日本 小 学館
昭 和15年 以
前、未見。
2,『 少 国民 常 識 読 本一 新 体 制 に適 応 せ る一 』200頁50銭
目
昭 和16年6月5日
大 道 書房
初 版 昭和16年2月5
第26版 ま で 出 版 を確 認 。 『必 らず 聞れ る … 』 の改 題 か 。
戸 田は 、「
推 理 式 」 とい う学 習 方 法 で 自学 自習 を行 うた め の参 考 書 と、親 に対 す る 啓蒙 書 を こ
れ だ け書 い て い る。 戸 田 の著 作 にっ い て は 、創 価 教 育研 究 セ ンター で3回 の研 究会 を行 っ た 。
『中等 学校 入 学試 験 の話 と愛 児 の優 等化 』に っ い て は 杉本 芳 雄 、馬 場 百 々子 、『推 理 式 指 導 読 方 』
にっ い て は 川 島 清(以 上 『創 価 教 育研 究 』 第2号 掲載)、 『推 理 式指 導算 術 』 に っ い て は桝 田尚
之 、駒 野 晃 司(本 号 掲 載)が 行 っ た。『愛 児 の優 等 化 』 で は 、戸 田 の全 体 的 な教 育 に 対す る考 え
方 を知 る こ とが で き 、『指 導 読 方 』、『指 導 算 術 』で は、戸 田の教 育方 法 の 特色 を知 る こ とが で き
る。
③
戦 時 下 の 児 童 に学 習 の機 会 を提 供 した 戸 田 の通 信 教 育
一 『小 学 生 日本 』(99)と通 信 添 削(1940-42年)-
a,『 小 学生 目本 』 の創 刊 とそ の 改 題
1940(昭 和15)年5月25目
、厚 田村 の 出 身 で あ る子 母 澤 寛 の 『大道 』 を 出版 した こ とか ら、
出版 社 に大 道 書 房 と命 名 した。 大 道 書 房 は 、1943(昭
和18)年7月3目
、 戸 田が 治 安維 持 法 違
反 、不 敬 罪 の 容 疑 で検 挙 され た あ との 同年11月 ま で60冊 の大 衆小 説 を 出版 して い る。
戸 田 は 、こ の 『大道 』 よ り早 く、同 年1月
よ り、小 学 校5年 生 を対象 に 『小 学 生 目本
(小学 生 日本 社)を 創 刊 し、そ の世 代 が進 級 す る同 年4月 、『小 学 生 日本
る。 同年8月
五年』
六年 』 を創 刊 して い
に は 、学 年 別 雑 誌 の 刊 行 が 制 約 され た た め、 五 年 の 方 の巻 号 を引 き 継 ぎ 、 合 併 し
て 『小 学 生 日本 』 と改 題 す る。 さ らに、 翌1941(昭
和16)年3月1目
常小 学 校 、高 等小 学 校 が 国 民 学 校 に な った た め 、3H号
本 社)に 改 題 す る。 さ らに、1941(昭
改題 し、1942(昭
和17)年4月
1940(昭 和15)年
和16)年11月
の 国 民 学 校 令 に よ り、尋
よ り、誌 名 を 『小 国 民 日本 』(小 国 民 日
頃 に は、 『少 国民 目本 』(少 国 民 日本 社)と
頃 、廃 刊 とな っ て い る。
は 、戸 田 に とって 、 出版 の分 野 にお い て は、 受 験 参 考 書 の 出 版 か ら、 小 学
校 五 、 六年 を対 象 と した 学 習 雑 誌 の発 行 と大 衆 小 説 の発 行 に軸 足 を移 した 時 期 と言 え る。 受 験
参考 書 等 も同年 以 降 新 た に書 き起 こ され た も の は見 当た らない 。 この 年 は 、 戸 田 に とって 自 ら
が 執筆 す る時 代 か ら、 事 業 の経 営者 へ脱 皮 した節 目の時 期 に あた るの か も しれ な い。
1939(昭
和14)年9月1日
1940(昭 和15)年9月27日
、 ドイ ツが 周 辺 国へ 侵 攻 した こ とに よ り第 二 次 世 界 大 戦 が 勃発 、
は、「
バ ス に乗 り遅 れ る な」 と 日独 伊 三 国 同 盟 が調 印 され る。 こ の よ
うな 時 代 に戸 田は 、小 学 生 のた め の学 習 雑 誌 の発 行 に乗 り出す 。 牧 口が 、 創 価 大 学 の構 想 を語
って い るの も1940(昭 和15)年
で あ る。 慰 問袋 に も入 れ られ る よ うな大 衆 小 説 と比 較 した 時 、
どの程 度 の利 益 が見 込 め る だ ろ うか。戸 田 は 、人任 せ にせ ず 、毎 号 、『小 学 生 日本 』 の巻 頭 に子
ども達 へ の メ ッセ ー ジ を載 せ て い る。 同誌 が 、通 信 添 削 を行 って い た こ とを 、牧 口の通 信 教 育
か ら、創 価 大 学 の通 信 教 育 へ とっ な が る創 価 教 育 の歴 史 の 系譜 として 紹介 した い。
b,『 小 学 生 日本 』 の 特 色 と誌 上考 査 問題
一45一
創 立 者 の 大 学 構想 に つ い て の一 考 察(1)通
信 教 育 部 開設 構 想 とそ の沿 革
『小 学 生 日本 』は 、小 学校 五年 、六 年 を対 象 と した 月 刊 学 習 雑 誌 で あ る。そ の特 色 を戸 田は 、
「
創 刊 の こ とば」 に 「さ う した 諸 君 に送 る 『小 学 生 日本 』 は 、楽 し く読 ん で為 に な る読 物 と、
読 む学 習 と一 緒 に問 題 を解 き な が ら記 入 して行 け る勉 強 室 を もっ 雑 誌 です 」 とい っ てい る 。創
刊 号 を例 にす る と68頁 の 内 、後 者 に あた る 「明 る い勉 強 室 」 にお よ そ半 分 の28頁 が あ て られ て
い る。 そ の構 成 は 、修 身 科 、読 方 科 、算 術 科 、休 憩 室 、国 史 科 、理 科 、地 理 、綴 方 科 、図 画 科 、
誌 上考 査 問題 とな って お り、 それ ぞ れ の科 目は教 科 書 に そ っ た 問が 設 け られ 、 それ に記 述 式 に
答 を 書 け る よ うにな って い る。
通 信 教 育 とい う視 点 か ら見 る と面 白 い の は 、 「
誌 上考 査 問 題 」 で あ る。 見 開 き2頁
の 問題 が掲 載 され 、算 術 科(時
間50分)満
点35点 、 国語 科(時
地理 、理 科 、国 史 の こ と〕(時 間20分)30点
『小 学 生 日本
五 年 』第1巻 第1号
間25分)満
に記 述 式
点35点 、 三科 〔注:
とあ る。
の「
誌 上 問題 応 募 規則 」に は 、こ の よ うに 書か れ て い る。
◇誌 上考 査 は 、皆 さ ん の毎 日の勉 強 で どん な に実 力 が進 ん だ か、 全 国 の皆 さん に く らべ て ど うか とい
ふ 、 ほ んた うの 力 く らべ です か ら、 しん け ん にま じ め に解 答 して 下 さい。
◇ 問題 の解 答 は 、簡 潔 、 明 瞭 に 書 い て 下 さ い。
◇答 案 は採 点 を し、 誤 りを正 し、 懇 切 に 、学 び方 、考 へ 方 、 答 へ 方 を指 導 し、 批 評 して御 返 し致 しま
す か ら、 た ん に力 だ め し とい ふ意 味 だ け で は な く、 皆 さん の先 生 と し て どん どん 御 参 加 くだ さ い 。
◇採 点 は厳 重 にや ります か ら、ひ と とほ り出来 て ゐ て も ほ ん の ち よ つ との 点 で入 選 落 選 の ち が ひ が 出
来 ます か ら、 そ の 点御 注 意 下 さい 。(下 線 筆 者)
さ ら に、 「
参 加 規 則 」 と して 、① 郵 送 す るの は、見 開 き2頁 の 「
誌 上 考 査 問題 」 を 切 り取 って
送 る。② 返信 料(四 銭 切 手 封 入)を 必 ず 忘 れ ない よ う、返信 料 が 同封 して な い と返 送 され な い 。
③ 締 切 が1月10日
、3月 号 誌 上 で 成 績 を発 表 す る、 そ して 、 「
奨 励 賞 」 と して 、特別 優 等 賞 は 、
くママ ラ
特 製 銀 メ タル と奨 学 紀 念 品 、優 等 賞 は 、特 製 銅 メ タル 、佳 良 賞 は 、記 念 品 と書 か れ て い る。
『小 学 生 日本 』 の 通 信 添 削 は 、採 点 す るだ けで な く、訂 正 し、 批 評 も行 う とい うの で あ る。
また 、奨 励 賞 を効 果 的 に利 用 し、 児 童 の や る気 を誘 って い る。 ち な み に、 第3回 の 成 績 優 秀 者
は 、特 別 優 等 賞95点
、94点 の3人 、 優 等 賞93点
で 、参 加 総 人員2,341名 の約1%に
∼91点 の10人 、 佳 良 賞90点
の9名
の22名
あた る。 こ の よ うな発 想 は、戸 田が 模擬 試 験 を行 い 、そ の優
秀 者 に記 念 品 を授 与 して い た経 験(100)に よ る もの で あろ うか。
結 果 を早 く知 りた い とい うのが 人 間 の 心 で あ る。 また 、 そ れ が 、 次 のや る気 につ な が っ て い
く。 第3回
の場 合 、3月10日
締 切 で 発 表 され る号 の印 刷 納 本 が4月8日
とあ るか ら、採 点 と集
計 に1カ 月 ない 。 よほ ど、「
誌 上考 査 問題 」を重 要 視 して い ない と継 続 して こ の よ う な企 画 は で
き な い。『小 学 生 目本 』は 、児 童 の読 物 と学 習 の た め の通 信 添 削 の機 能 を も った 学 習雑 誌 で あ り、
戸 田城 聖 も また 、 「
通 信 教 育 」 事 業 を行 って い た とい え るの で は ない だ ろ うか 。
物 資 欠 乏 の時 代 で も あ り、通信 添 削 の た め 、ペ ー ジ を切 り取 って 送 ら な くて は な ら なか っ た。
『小 学 生 目本 』 が 、 こ の よ うな形 態 を とっ て い た こ とも、 多 くの 児 童 に学 習 の機 会 を提 供 しな
が ら、幻 の雑 誌 とな った 理 由で もあ る だ ろ う。
国 民 学校 令 に よ り、小 学 校 が 国 民学 校 に 変 わ り、1941(昭 和16)年3月
も、『小 国 民 日本 』 と改 題 され る。1940(昭
和15)年12月
号 よ り、『小 学 生 日本 』
よ り、 「
誌上考査問題」 も 「
誌 上 常識
考 査 問題 」 と変 わ っ た。 算 術 、国 語 、 三科 の 区別 は な くな り、記 述 式 の 常識 問題 に か わ る。『少
一46一
創価教育研究第5号
国 民 常識 読 本 一 新 体制 に適 応 せ る一 』 が 大道 書房 か ら出版 され るの も、1941(昭
和16)年2月
5日 で あ る。 戦 時 下 の 中 生 まれ た 「常識 」 とい う言 葉 は 、 実 は 、児 童 に とっ て 、今 ま で の よ う
に学 ぶ こ とが 出来 な くな った 時 代 、 「常識 」 が通 じな くな っ た時 代 に生 ま れ た 言葉 の よ うだ。
c,誌
上考 査 参加 人数 の推 移
応 募 した児 童 人数 につ い て は 、以 下 の誌名 ・巻 号 の 「
考 査 問 題 成績 優 秀 者 」 欄 を確 認 した 。
〈 五年 対 象
昭和15年1月
『小 学 生 日本
開始 〉
五 年 』1巻3号
昭和15年3月
号
第1回 誌 上 考 査 問題 参 加 総 人 員1,849人
『小 学 生 日本
六 年 』1巻2号
男1,013人
昭和15年5月
号
第3回 誌 上 考 査 問題 参加 総 人 員2,341人
〈五 年 生 対 象
昭 和15年4A開
『小 学 生 日本
五 年 』2巻4号
男1,214人
昭和15年7.月 号
五 年 』2巻7号
昭和15年10月 号
『小 学 生 日本 』2巻9号
『小 学 生 日本
六 年 』1巻3号
昭 和15年6月
六年 』1巻4号
男1,923人
昭 和15年8月
六 年 』1巻7号
女1,404人
号
女1,722人
号
第3回 誌 上 考査 問題 参 加 総 人 員4,183人
女1,950人
男2,233人
昭 和15年10月 号
第5回 誌 上 考 査 問題 参 加 総 人 員4,547人
『小 学 生 日本 』2巻9号
女2,150人
男2,397人
昭和15年!2月 号
第7回 誌 上 考 査 問題 参加 総 人 員4,737人
〈五 、六 年 対 象
女1,447人
男1,854人
昭 和15年7月
六年 』1巻5号
『小 学 生 日本
男2,147人
号
第2回 誌 上考 査 問題 参 加 総 人 員3,645人
『小 学 生 日本
女1,259人
開始 〉
第1回 誌 上 考 査 問題 参 加 総 人 員3,258人
『小 学 生 日本
男1,986人
昭 和15年12A号
第7回 誌 上 考 査 問 題 参 加 総 人員3,594人
昭和15年4月
女1,327人
男1,511人
第5回 誌 上 考 査 問 題 参加 総 人員3,245人
〈六 年 対 象
女1,127人
始〉
第2回 誌 上 考 査 問 題 参加 総 人員2,838人
『小 学 生 日本
女836人
昭 和15年12月
女2,146人
男2,591人
開始 〉
*「 誌 上 考 査 問 題 」 か ら 「
誌 上 常 識 考 査 問題 」 に変 更
『小 学 生 日本 』2巻11号
第2回
誌 上常 識 考 査
『小 国 民 日本 』2巻12号
第3回
『小 国 民 目本
第5回
誌 上 常識 考 査
昭 和16年2月
号
参 加 総 人 員8,486人
昭 和16年3月
誌 上 常識 考 査 問題
女3,563人
号
五 、 六 年9,569人
国 民 学 校 上 級 生 』3巻2号
男4,923人
男5,690人
昭 和16年5月
五 、 六 年8,946人
一47一
女3,879人
号
男5,626人
女3,320人
創 立 者 の 大 学 構想 につ い て の 一考 察(1)通
〈五 、六 年 対 象
昭 和16年4H開
『小 国 民 目本 』3巻3号
第1回
始 〉
昭 和16年6月
誌 上 常識 考 査 問 題
『小 国 民 目本 』3巻4号
第2回
誌上常識考査問題
第5回
『少 国 民 日本 』3巻10号
第8回
『少 国 民 日本 』3巻11号
第9回
誌 上 常 識 考 査 問題
『少 国 民 日本 』3巻12号
第10回 誌 上 常 識 考 査 問 題
1940(昭
和15)年1月
っ た 同 年4月
る 。1941(昭
和16)年4月
第8回12,321人
る 。1941(昭
撃(昭
強 に な っ て 、8,486人
、 第9回12,403人
和16年12月)に
か ら4,737人
開 始 で は 、第1回
和16)年5Aか
女3,293人
共)12,321名
男9,832人
女2,489人
共)12,403名
男9,121人
女3,282人
共 ・)12,456名
男8,426人
女4,030人
か ら3,594人
、 第2回
、そ の学 年 が 六 年 に な って 始 ま
参 加 し て い る 。 同 年12月
か ら(冬
、 第10回12,456人
ら8Eに
女3,214人
号
開 始 の 五 年 対 象 は 、2,341人
合 併 に な っ て か ら は 、2倍
男5,626人
号
参 加 総 人 員(5,6年
開 始 の 六 年 対 象 は3,258人
共)8,840名
号
参 加 総 人 員(5,6年
昭 和17年3月
女3,198人
男8,735人
参 加 総 人 員(5,6年
昭 和17年2月
男5,540人
号
参 加 総 人 員12,028名
昭 和17年1月
誌 上 常 識 考 査 問題
共)8,738名
号
参 加 総 人 員(5,6年
昭 和16年10月
誌上常識考査問題
号
参 加 総 人 員(5,6年
昭 和16年7月
『小 国 民 目本 』3巻7号
信 教 育 部 開設 構 想 とそ の 沿革
か ら五 年 、 六 年 が
休 み の 時 期 の)9,569人
の8,738人
、8,840人
と約40%も
増 え 、12,000人
が 参加 して い
が 、第5回12,028人
、
台 で 推 移 して い
、 ど う して急 に増 え た か は今 後 の課 題 で あ る。 真 珠 湾 攻
よ る 開 戦 直 後 の1942(昭
和17)年
に お い て 、 こ れ ほ ど多 くの子 ども 達 に
学 び の 機 会 を 提 供 し て い た こ と は 、 創 価 教 育 の 歴 史 に お け る重 要 な 事 実 とい え よ う。
d,『 少 国 民 日本 』廃 刊 の 事 情
『文藝 年 鑑
昭 和18年 度 版 』 に よれ ば、『少 国 民 目本 』 の廃 刊 は 、1942(昭 和17)年4Eと
る。 参加 総 人 員 を 見 て わ か る よ うに 、1941(昭
和16)年10月
あ
以 降 、12,000入 を キー プで き る ほ
どに 定着 して き た。 部 数 もそ れ な りに安 定 して き た で あ ろ う。 廃 刊す る理 由 は戸 田 の側 に は な
い 。推 測 を助 け る2つ の 事 実 が あ る。第 一 に、『創 価 教 育 学会 会 報
て廃 刊 に な るの が 、同年 の5A10日
で あ る こ と、第 二 に 、『特 高 月報
価 値 創 造 』が 第9号
をもっ
昭和 十 八 年 七 月 分 』 に 収
録 され た 「
創 価 教 育 学会 本 部 関係 者 の治 安 維 持 法 違 反 事 件 検 挙 」 に は 、そ の 理 由 と して 、 「
豫て
よ り警 視 臆 、 福 岡 縣 特 高 課 に於 て 内 偵 中 の庭 、(中 略)客 年 一 月 頃 以 降 警 視 廉 當 局 に封 し、(中
略)縷
々 投 書 せ る者 あ り て 、 皇 大 神 宮 に 対 す る 尊 嚴 冒漬
(127-128頁)と
あ る こ とで あ る。客年 一 月 とは 前年 の1942(昭 和17)年1Hの
こ とで あ る。『少
国 民 日本 』 の 廃 刊 は 、 この後 に あ た る。 廃 刊 には この よ うな背 景 も考 え られ るの で あ る。
(ちなみ に、『小学 生 目本』等 の歴史 を明 らかに出来たのは、高崎隆治先 生、山中恒先 生のご研究 とご
好意 に よる ところが多大である。記 して心 より深 く御礼 を申し上げたい と思 う。)
④
日本 正 学 館 の 通信 教 育(1945-46年)
1945(昭
和20)年7A3日
、 豊 多 摩刑 務 所 か ら保 釈 出 所 した 戸 田は 、名 前 を城 聖 と改 め る。
そ して 、 事 業 再 建 の た め 、8H20日
には 、 品 川 区 大 崎 に 目本 正 学 館 仮 事 務所 を 開設 し、 通 信 教
育 の事 業 を開 始 す る。 出獄 か ら わず か 一 カ 月 余 りで 通 信 教 授 の 事 業 を立 ち 上 げ る こ とが で きた
一48一
創価教育研究第5号
の は 、今 まで 述 べ た 『小 学 生 日本 』 の 経 験 が あ っ た か らに ほ か な らな い だ ろ う。
この時 の通 信 教 育 の教 材 等 は未 発 見 だ が 、新 規 募 集 の た め に は 、新 聞広 告 も し くは それ に代
わ る も の は欠 かせ ない の で 、戸 田が 、戦 後 通 信 教 育 を積 極 的 に進 め た期 間 とそ の概 要 を当 時 の
新 聞広 告 欄 か ら推 測 す る。 日本 正 学 館 の通 信 教 授 の新 聞広 告 は 、『朝 日新 聞 』11回 、『読 売 報 知 』
11回 、『毎 日新 聞 』14回 、 『日本 産 業 新 聞』(途 中か ら、 『日本 経 済新 聞 』 に 改題)11回
確認 でき
た。 そ の他 に 、地 方 紙 に も広 告 が 掲 載 され て い る(現 在 調 査 中)(101)こ とが判 明 した。
広 告 は 、時 期 ・内容 か ら、次 の3っ に分 類 され る。a.数
に加 え 、英語 講 座 を加 え た ものc,さ
学 物象 講 座 を募 集b.数
ら に 、高 専 受験 科 を加 え た も の で あ る。〔
注:高 専 とは 、
旧制 高 等 学 校 、専 門学 校 の こ と〕
最 も遅 い 広告
最 も早 い 広 告
a.数
学物象講座
昭 和20年8月23目
昭 和20年9月1目
b,a+英
語講座
昭 和20年9月4日
昭 和20年12月30目
c.b+高
専受 験 科
昭 和21年1月5目
昭 和21年5月7日
次 に 、 それ ぞれ の代 表 的 な新 聞 広 告 の 内容 を見 て み よ う。
aタ イ プ
『朝 日新 聞』(昭 和20年8月23日)
中學一年用 二年用 三年用
敷學 ・物象の學び方 考へ方
解 き方(通 信教授)
各學年別 に数 學物象 の教科書主要 問題 を月二回 に解説 し月一回
の試 験 問題の添削 をなす。又 これ を綴込 めば得難 き参考書 とな
る。資材関係 にて會員数 限定 六 ケ月完了
六ケ月分金廿五円前納
所學校名
學年
會費各學年共
郵便小為替或 は振替 にて送金 の事
住
氏名 明記 の上即刻 申込み あれ(内 容見本規則
書 な し)
く
ママ ラ
東京都 品川匿上大崎二の 九 四二
日本正學館
(振替東京 壼九九武五番)
bタ イ プ
『朝 日新 聞 』(昭 和20年9月7日)
中 等男 女一 年 用 二年 用 三 年 用(通 信 教 授)
歎 學 ・物 象
學 び方
英 語講 座
解 き方
考へ方
讃み方
話 し方
作 り方
各 科 六 ケ月 修 了 ・會 費 各 學 年 一課 目金 廿 五 円前 納 各 學 年 別 に数 學 物
象 英 語 の教 科 書 主 要 問題 を月 二 回 に解説 し月 一 回 の試 験 問題 の添 削
を なす 又 これ を綴 込 め ば得 難 き参 考 書 とな る。 資材 関係 に て
會員数 限定
学 物象
郵 便 小 為 替 或 は振 替 にて 送金 の 事
住 所 學校 名 學
年 氏名 明記 の 上即 刻 申込 み あれ(内 容 見 本 規則 書 な し)
東 京 都 品 川 匿 上 大崎 二 の 五 四 二(102>目
(振替 東 京 壼 九 九 武 五番)
一49一
本正學館
創 立 者 の 大 学構 想 につ い て の 一考 察(1)通
cタ イ プ
『朝 日新 聞 』(昭 和21年1A11日)※
英 語 ・敷 物 講座(通 信 教授)規
信 教 育 部 開設 構 想 とそ の 沿 革
高 専 入試 添 削三 ヶ月 の もの
則書な し
中等 男 女 一 、 二 、 三 年 用會 費 一講 座 廿 五 円 前納 六 ケ月 終 了
高専入試添削
英 語 、数 學 、 物 象 、 國漢 、會 費 一 科 目
三 ケ 月 九 圓 規則 書 あ り要 封 筒 郵 券 十 銭
東 京 ・神 田 ・西神 田二 丁 目(振 替 東 京 一 九 九 二五)日 本 正 學 館
cタ イ プ
新
『朝 日新 聞 』(昭 和21年4月21目)※
高 専 受験 科 半年 の も の
一
・
二
・
三年
用半年終 了
中等 英 ・敷 ・物
男女
開
各 學年 一 科 目計 五 円前 納
高専受験科
英数 物 國
東 京 ・神 田 ・西 神 田 二
漢月二回
講
日本 正 學 館
模範回答付会費半年計 円前納
郵 便 小 為替 便 最 モ 早 シ
これ らか ら、 目本 正 学 館 の 通 信 教 授 は 、1945(昭
広 告(103)か ら6カ 月後 の1946(昭
和21)年
和20)年8月
の 終 戦 直 後 に始 ま り、最 後 の
末 頃 に は実 質 的 には 終 了 した と推 測 で き る。
対 象 は、 中学1年 か ら3年 生 で あ る。 本 来 、戸 田 は、 受 験 参 考 書 も雑 誌 も小 学 校 上 級 学 年 を
主 な対 象 と して きた 。 何 故 、 戦 後 にお い て、 中学 生 を対 象 と した の か 、ま た 、戸 田 の得 意 な分
野 で あ る読 方 も始 めな か った の か 。 あ くまで 推 論 の域 を 出 ない が 、 戸 田は 、1943(昭
7月 か ら1945(昭 和20)年7Aま
和18)年
で 投 獄 生 活 を送 り、情 報 か ら隔 絶 され て い た 。 ま た 、通 信 教
育 を準 備 す る時 点 で は 、戦 後 の 小 学 校 教 育 につ い て は、 ど うな るか 先 が 見 え な い 。 しか し、『小
学 生 日本 』 の世 代 が 、 中学 生 とな って お り、何 を十 分 に教 えて も らえ なか った のか わか る。 そ
れ が 、英 語 で あ り、 算 術 ・物 象 で あ った ので は ない だ ろ うか。 そ して 、持 て る ノ ウハ ウ のエ ッ
セ ンス を高 専 受 験 講座 に集 約 し よ うと した の で は な い だ ろ うか 。
通 信 教 授 は 、数 学 ・物 象 の6カ 月講 座 で始 ま っ た が 、2週 間位 遅 れ て 英 語 講 座 が始 ま り、1945
(昭和20)年12月
ま で は こ の3科
目で 行 った 。1946(昭
和21)年
か ら高 専 受 験 のた め の添 削 講
座 が 、そ れ まで の英 語 、 数 学 、 物 象 に国 語 漢 文 を加 えて ス ター トす る。 教 育 方 法 は 、月2回
教 科 書 解 説=教 材 送 付 と月1回
の
の試 験 問題 の添 削=通 信 添 削 で あ った 。 高 専 入 試 添 削 の期 問 も
当初3カ 月 で あ った が 、 後 に6カ 月 に な っ て い る。 高 専 の試 験 日程 と の関係 で あ ろ うか。
どの程 度 の応 募 者 が あ った か は 、創 立 者 の著 した 『人 間 革 命 』 第1巻
を参 考 にす る以 外 に な
い。 「
先 生 、 き ょ うは 一 万 を越 えま した よ(104)」
、 「二 万 円 を越 す 日 もや っ て き た(105)」とあ る こ
とか ら、一 人25円 として400通 、800通 を越 え る応 募 が一 目で届 い た ので あ ろ う。
戸 田 は 、 日本 正 学 館 か ら 、1946(昭
と と も に 、1945(昭
和20)年11Hに
正 書 房 か ら は 、1945(昭
出 版 年 不 明4冊
和20)年4冊
和21)年
よ り 、 『民 主 主 義 大 講 座(106)』 の 出 版 を 開 始 す る
は 、 日正 書 房(107)か
、1946(昭
ら 子 母 澤 寛 『男 の 肚 』 上 巻 を 出 版 、 目
和21)年9冊
が 出 版 さ れ て い る 。 戸 田 は 、1946(昭
和21)年
、1947(昭
和22)年13冊
、他 に
以 降 、 通 信 教 授 か ら単 行 本 の 出
版 に 切 り替 え た 。
さ ら に 、1948(昭
和23)年
新 年 号 よ り 、 目 本 正 学 館 か ら 、 『冒 険 少 年 』 を創 刊 し(昭
和24年10
月 号 よ り 『少 年 日本 』 に 改 題 、12月 号 で 廃 刊)、 雑 誌 に 軸 足 を 移 す 。 戦 後 の 混 乱 期 に あ っ て 、 子
ど も た ち に 希 望 を 与 え る よ う な 質 の 高 い 少 年 雑 誌 に 出 版 活 動 の 主 軸 を 置 く の で あ る 。『小 学 生 日
一50一
創価教育研究第5号
本 』 の よ うな 通信 添 削 を行 わ な か っ た の は 、 戦 前 に 比べ 小 学校 の機 能 が 回復 して き た こ とも関
係 が あ る の で は ない だ ろ うか 。
戦 後 の 戸 田 に とって 、宗 教 団 体 と して の創 価 学 会(108)の 再 建 が、 最 も大 き な課 題 で あ っ た。
そ の よ うな 中 に あ っ て 、経 済 的 再建 の た め とい う理 由 は あ っ た に して も、 出版 事 業 の 中 に子 ど
も達 との 関 わ りを持 ち続 け よ う と した こ とは 、 戸 田が 、牧 口の 教 育 構 想 の継 承 を考 え て い た 証
左 で は な い か と考 え てい る。
ま た 、 この よ うに 戸 田が 、戦 前 、 戦 後 にわ た り、 牧 口 と同 様 、 通 信 教授 の 事 業 を行 って きた
こ とは 、 現在 の創 価 大学 の通 信 教 育 に とって 大 切 な前 史 とい え るの で は な い だ ろ うか。
2.創
(1)創
立者の通信教育部開設構想
価 大 学 の 設 立構 想
創価大学 の 「
創 価 」 とい う言 葉 は 、1930(昭
和5)年11A18日
に第1巻
三 郎 著 『創 価 教 育 学 体 系』 にそ の源 が あ る(109)。牧 口は 、1932(昭
が 出版 され た牧 口常
和7)年,麻
布新堀尋常小
学 校(110)を 退 職 後 、創 価 教 育 学 会 、 日本 小 学研 究会(111)の 活 動 として 講 演 会 、研 究 会 等 を活 発
に行 い 、1939(昭
和14)年12月
に は 、 麻布 「菊 水(112)」で創 価 教 育 学 会 第1回 総 会 を行 っ てい
る。 活 動 が 活 発 に な り賛 同す る教 員 も増 え て い く中 、 こ の頃 、牧 口は 、創 価 教 育 学 に基 づ く学
校 の構 想 を、 周 囲 の 人 に語 っ て い る(113)。
牧 口は、1928(昭
和3)年
に 日蓮 の仏 法 に帰 依 す るが 、 日蓮 の教 義 に対 す る研 究 を深 め て い
くに従 い 、創 価 教 育 学 会 も宗 教 団体 と して の 色彩 が鮮 明 に な っ てい く。 そ して 、神 札 焼 却 等 の
行 動 は 国家 に反 す る行 為 で あ る と して 、1943(昭
の容 疑 で検 挙 され 、1944(昭
戸 田城 聖 は 、1920(大
和19)年11月18日
正9)年
和18)年7月6目
、治 安 維 持 法 違 反 、不 敬 罪
、獄 中 に逝 去 した。
よ り、牧 口 に師 事 し、 『創 価 教 育 学 体 系 』 の 出 版 に 深 く関 わ
り、牧 口の創 価 大学 創 立 の構 想 を最 も よ く知 って い た。 戦 災 と検 挙 ・投 獄 され た こ と に よ り、
彼 の事 業 は壊 滅 的 打撃 を受 け て しま っ た 。 出獄 した 戸 田は 、事 業 を 再建 す る と と もに 、創 価 教
育 学会 を創 価 学会 と改称 し、宗 教 団 体 と して そ の 再建 と発 展 に 全精 力 を注 ぎ 、 そ の 生 涯 を終 え
た 。彼 は 、牧 口の教 育 の夢 、創 価 大 学 設 立 の構 想 を語 る こ とは ほ とん どなか っ た(114)が 、少 な
く と も次 の3度 、創 立者 に対 して 、 も し くは、 同 席 して い る揚 で 語 っ て い る。
第 一 は 、1950(昭 和25)年11月!6日
の 日大食 堂 にお け る戸 田城 聖 と創 立者 との 語 らい で あ る。
創 立 者 は 、 日記 に、 「
昼 、戸 田先 生 と 日大 の食 堂 に ゆ く。 民族 論 、学 会 の将 来 、経 済 界 の 動 向 、
大 学 設 立 の こ と等 の 、指 導 を戴 く。 思 い 出 の 、 一 頁 とな る(115)。
」 と書 い て い る。 『新 ・人 間革
命 』 に は 、「
人 類 の未 来 の た め に 、必 ず 創 価 大 学 をっ く らね ば な らな い。 しか し、私 の 健 在 な う
ち にで きれ ば いい が 、だ めか も しれ ない 。 伸 一 、そ の時 は 頼 む よ。 世 界 第 一 の大 学 に しよ う じ
や な いか!(116)」 とい う戸 田の言 葉 を記 して い る。創 立 者 は 、この 言 葉 を師 の遺 言 と受 け止 め 、
創 価 大 学 の設 立 を考 え る よ うに な っ た。
創 立 者 は 、戸 田 と1947(昭 和22)年8月14日
に 出会 い 、1949(昭
和24)年1A3日
に は 、戸
田 の経 営 す る 出版 社 、 日本 正 学 館 の社 員 とな っ て い る。 戸 田 は 、入 社 して 問 も な い創 立者 を 同
年S月
に 、少 年 雑 誌 『冒険 少 年 』 の編 集 長 に 登用 して い る。 当時 の創 立 者 が教 育 に対 して どの
よ うな考 え を もっ た青 年 で あ っ た か を知 る 手 が か りに 、『少年 目本 』1949(昭 和24)年10月
号掲
載 の 山 本 伸 一 郎 「大 教 育 家 ペ ス タ ロ ッチ 」 が あ る(117)。山本 伸 一 郎 は こ の時 初 め て使 っ た創 立
者 の ペ ンネ ー ム で あ る。原 稿 の 穴 を埋 め るた め、8月(118)に 急 遽 この原 稿 を書 い た。 そ の 時 に
ペ ス タ ロ ッチ を選 ん で い る。 戸 田が創 価 大 学 設 立 構想 を語 っ た の は 、創 立者 が 心 血 を 注 い で 編
一51一
創 立 者 の 大学 構 想 につ い て の一 考 察(1)通
信 教 育部 開設 構想 とそ の沿 革
集 に あた って い た 『少 年 目本 』 が 休 刊 に な り、 戸 田 の事 業 が 絶 望 的 な 苦 境 の 中 にあ った 時 の こ
とで あ る。
第 二 は 、1954(昭
和29)年9月4目
、創 価 学 会 の人材 グル ー プ で あ る水濤 会 の 野 外研 修 で 氷
川 に 向か うバ ス が 人 王 子 方 面 を通 りか か っ た ときで あ る。「
い つ か 、この 方 面 に創 価 教 育 の城 を
つ く りた い な ・… 」 と(119)。
第 三 は、1955(昭
和30)年1月22日
の 高 知 市 内 の 土佐 女 子 高校 で の 会 合 で 、 会員 か らの 質 問
に答 えて 「今 に作 りま す 。 幼稚 園 か ら大 学 ま で 。 一 貫 教 育 の学校 を作 る。 日本 一 の 学校 にす る
よ」 と の戸 田の発 言 で あ る(120)。
次 に、創 立者 自身 が 、 大 学設 立 を 自 らの課 題 として 構想 し始 めた の は い つ で あ ろ うか 。創 立
者 は、 小 平 の創 価 学 園 の 用 地 を1960(昭
和35)年5H3日
の会 長 就任 式 の 一 カ 月 前 、4月5日
に視 察 して い る(121)。
そ して 、公 式 な場 所 で 、創 立 者 が 初 めて 創 価 大 学 設 立 構 想 が 発 表 した の は 、そ れ か ら4年 後 、
1964(昭 和39)年6月30日(122)の
和48)年
第7回 創 価 学会 学 生部 総 会 で あ る。 こ の時 点 で は 、1973(昭
以 降 に創 価 大学 開学 を考 え て い た(123)。翌1965(昭
審 議 会 が 発 足 す る。1968(昭 和43)年3月9目
46)年4E開
和40)年11月8日
に創 価 大 学設 立
の設 立審 議 会 第2回 合 同 会議 で(124)、1971(昭 和
学 に 向 けて 検 討 が 開 始 され 、1968(昭
和43)年5月3日
の 第31回 創 価 学 会 本 部 総
会 にお い て 「
昭 和46年 設 立 へ 」 と発 表 され る。 しか し、創 価 大 学 の具 体 的 な 構想 は 示 され て い
ない 。
ち な み に 、1971(昭
(明 治4)年
(2)通
和46)年
旧 暦6月6目
は 、牧 口 常 三 郎 が 新 潟 県 刈 羽 郡 荒 浜 村(…現 在 の 柏 崎 市 内)に1871
に 生 誕 し て 、100年 の 佳 節 に あ た る 。
信教育部の開設構想
創 立 者 が 具 体 的 な大 学 の構 想 を初 めて 示 した(125)の は 、1969(昭 和44)年4月2日
学 起 工 式 を終 え た 、 同年5H3目
に創 価 大
の第32回 創 価 学 会 本 部 総 会 で あ る。 そ こで 、通 信 教 育 の構 想
も発 表 に な る。創 立 者 は 、建 学 の 精神 を紹介 す る と と も に、 「また 、これ らは 最 初 か らは無 理 か
も しれ ませ ん が 、通 信 教 育 や 夜 間部 も で き る だ け早 く始 め たい 。 夜 間 部 が で きれ ば 、昼 間働 き
な が ら夜 勉 強 す る こ とが可 能 で あ ります し、通 信 教 育 な らば 、年 齢 、 職 業 、 居 住 地 等 に 関係 な
く、あ らゆ る人 が勉 学 にい そ しむ こ とが で き る こ とに な ります 。」 と述 べ て い る。小 説 『新 ・人
間革 命 』 で 、創 立者 は この よ うに書 い て い る。
さ らに、 伸 一 は 、 民衆 に 開 かれ た 大学 と して、 将 来 、 通信 教 育 部 を 開 設 す る展 望 を 語 っ て い っ た 。
彼 は、 建 学 の 構想 の段 階 か ら、 い ち早 く 「
通 信 教 育部 」 に焦 点 を 当 て てい た の で あ る。
「かつ て一 人 と して民 衆 の要 求 に も とつ く大学 の設 立 を考 え た者 は い ない 」 とは、 文 豪 トル ス トイ
の指 摘 だ 。 今 、 伸 一 は、 そ の 課 題 に 、敢 えて 挑 戦 し よ う として い た の で あ る(126)。
創 立者が 、 「
通 信 教 育 」 にっ い て 触 れ た 最 初 の発 言 だ と思 わ れ る の は 、創 価 大 学 設 立 構 想 発
表 の2年 後 の 、1966(昭 和41)年3月28目
の創 価 学 会 高 等 部 中等 部 合 同 部員 会 で あ る。 「で き る
だ け 大 学 へ は い き な さい(127)。
家 庭 の 経 済 が許 さな い とき は 、自分 で働 い て夜 学 へ い き な さい 。
通信 教 育 で もい い の です 。 自分 の力 で 大 学 は 出 な さい。 男 子 高等 部 員 は 、い ま か らこ の決 意 で
い き な さい。(128)」と述 べ て い る。1966(昭
和4!)年
一52一
に通 信 教 育 課程 を設 置 して い る大 学 は10
創 価教 育研究第5号
大 学 、長 期 の 夏期 ス ク ー リン グ な ど仕 事 を抱 え て 学ぶ に は制 度 的 に ま だ まだ 困 難 の多 い時 代 で
あ っ た(129)。創 立者 は 、1969(昭 和44)年8月15日
の 第2回 高 等 部 総 会 に お い て も 、 「ど うか 高
等 部 員 は 、特 に男 子 は 、一 人 も もれ な く大 学 に進 み(130)」と講 演 して い る。
開学 の 前年 、創 立者 は 、1970(昭 和45)年!2A24日
の第133回 本 部 幹 部 会 で 、「
創価大学 には、
将来 、 通信 教 育 部 をっ く り、働 く青 年 ら に勉 学 をす る機 会 を与 え て あ げ た い(131)」と重 ね て 通
信 教 育部 設 置 の 構想 に っ い て述 べ て い る。 開 学 時 に、通 学課 程 と同 時 に通 信 教 育 課 程 も最 初 か
ら設 置 で き な い か とい う構 想 が あ っ た。 岡安 博 司(創 価 大 学顧 問)は 、実 際 に通 学 課 程 と と も
に 同 時 申請 が 可 能 か 文 部省 に確 認 に行 き 、規 則 は ない が 前 例 が な い と 申請 を 断 わ られ た と証 言
して い る(132)。
1971(昭
和46)年1月25日
に創 価 大学 の設 立 が 認 可 され る。創 立者 は 、 同年2月11目
式 に は出 席 し 、挨 拶 を して い るが 、3月16日
の 開 学 式 、4月10日
の 入学 式 に 出席 して い ない 。
しか し、『朝 日新 聞 』1971(昭 和46)年3月16日
同年4月2日
の竣 工
の多 くの 来 賓 が 招 待 され た 落成 祝 賀 会 、4A2日
の 『聖 教 新 聞 』4面
付23面
「開 学 」 とい うイ ンタ ビュ ー 記事 と、
に掲載 され た 仙 石 三 郎 の特 別 寄 稿 「
創 価 大 学 の 開学 」 か ら創
価 大 学 開 学 前 の創 立 者 の 心境 を伺 うこ とが で き る。
『朝 日新 聞 』 で は 、 「
菊づ くり
菊 見る ときは
か げ の 人 」 との 句 を 引い て 、創 立 者 と して
あ くま でか げ か ら応 援 してい く心 境 にっ い て触 れ てい る。 仙 石 氏 の寄 稿 には 、 通信 教 育 にっ い
て の創 立者 の考 えが 次 の よ うに紹 介 され て い る。
そ して、 創 立者 は 「
文 部 省 の認 可 が 四年 後 で な い とお りな い の で残 念 です が 」 とい い な が ら、 創 値
大 学 の も うひ とつ の 設 立 目的 を こ う説 明 した 。 「これ か らの 教 育 の ひ とつ に高 年 層 の 勉 学 が あ げ られ
ます 。 戦 争 で 貧 しか っ た 国 民 の多 く は、 戦 前 、大 学 に は とて も い け な か った 。 そ うした 四 十 代 、 五 十
代 、 六十 代 の ひ とに も 大 学 で勉 強 が で き る よ うに させ た い の で す 。 四年 後 に は、 通 信 教 育 学 部 をつ く
りま す。 学 歴 は い りませ ん か ら、 本 当 に も う一 度 、勉 強 した い とい う高年 者 に入 学 の機 会 を与 えた い
です ね。 き っ と実 現 させ ます 。創 価 大学 の使 命 のひ とっ に な る と思 い ま す 。」(下 線 筆者)
創立者の、「
文 部 省 の認 可 が 四年 後 で な い とお りな い の は残 念 です が 」 との発 言 は 、岡安 の話
と符 合 す る。 「こ れ か らの教 育 のひ とつ に高 年 層 の勉 学 」 を挙 げ 、 「創価 大学 の使 命 」 とま で 言
って い る。『朝 日新 聞』 のイ ン タ ビ ュー に 、一 歩 引い て 、か げ か ら応援 す る と答 え て い る 同 時 期
に 「き っ と実 現 させ ま す 」 とま で 言 っ て い る こ とに創 立 者 の強 い 意 思 が感 じ られ る。 換 言 す れ
ば 、創 立 者 に とって 、通 信 教 育 を通 じて 実 現 した い も のが 、そ れ ほ ど創 価 大 学 の設 立 に 不 可 欠
な も の で あ っ た ので は なか ろ うか。
通 信 教 育 部 開設 が認 可 され る の は、 開 学 か ら5年 後 、1976(昭
和51)年2月
である。同時 に
大 学 と して始 め て学 部 増 設 を 申請 し、 経 営 学 部 と教 育 学 部 が認 可 され た 。 ま た 、 この 年 の入 学
式 に は 、正 門 の 開通 式 が行 われ 、門 標 に は 、牧 口常三 郎 の筆 に よ る 「
創債大學」の文字が刻 ま
れ る こ と とな っ た。 通 信 教 育 部 は 、 開学 時 に は 開設 は 出来 な か っ た が 、大 学 建 設 の 第 二 節 に 開
設 され た の で あ る。創 立者 は 、 「
通 信 教 育 部 の設 置 は 、創 立 当初 か らの私 の念 願 で 、い わ ば 『第
二 の 開 学 』 と もい うべ き慶 事 で した 。(133)」と述 べ て い る。
1976(昭
和51)年5月16日
の通 信 教 育 部 開 学 式 の創 立者 メ ツセ ー ジ 「
建 設 の 学 徒 の 未 来 に栄
光 あ れ 」(以 下 、開学 式 メ ッセ ー ジ とい う)の 冒頭 に 「
通 信 教 育部 の設 置 は、創 価 大 学 設 立 の構
想 を練 りは じ めて 以 来 の 、私 の念 願 で あ りま した 。」 と述 べ て い る。通 信 教 育 部 の設 置 は 、大学
一53一
創 立 者 の 大学 構 想 につ い て の一 考 察(1)通
信教 育部 開設 構想 とそ の沿 革
構想 の途 中か ら付 け加 え られ た もの で は な く、 「
念 願 」 と して き た こ とで あ る、っ ま り、創 価 大
学 の 構想 に必要 不 可欠 の も ので あ った とい うので あ る。
(3)通
信 教育 部 開設 構 想 の 目指 す もの
通 信 教 育 部 開設 に あ た り、創 立者 の 目指 した もの は何 か を、1976(昭
和51)年5月16日
の開
学 式 の メ ッセ ー ジ を中 心 に考 え て み た い。 この 日、創 立者 は長 文 の メ ッセ ー ジ をテ ー プ に 吹 き
込 み発 表 した。 そ こに は 、創 立 者 が なぜ 通信 教 育 部 を開設 した か 、 どの よ うな通 信 教 育 を 目指
して い るか が 述べ られ てい る。 この メ ッセ ー ジ を中 心 に以 下 の3っ の視 点 か ら見 て い きた い。
①
す べ て の 人 々 に 開 かれ た 大 学
開 学 式 メ ッセ ー ジ で は 、通 信 教 育部 開設 が創 価 大 学設 立 構想 を練 りは じめて 以 来 の念 願 で あ
っ た理 由 と して 、 「
教 育 の門 戸 は 、年 齢 、職 業 、居 住 地 の い か ん を 問 わず 、す べ て の人 々 に 平等
に開 か れ ね ば な らな い。 ま して 、本 学 が 、"人 間教 育 の最 高 学府"を
目指 す 以 上 、教 育 の機 会 均
等化 をは か るた め に 、通 信 教 育 部 を置 くこ とは重 要 な課 題 で あ る と考 えて ま い りま した 。」と述
べ て い る。
前 段 は 、教 育 の機 会 均 等 へ の創 立 者 の強 い 意 志 で あ り、後 段 は、建 学 の理 念 の根 幹 を な す"人
間教 育 の最 高 学府"と の 関係 で あ る。創 立 者 は、 「人 間 教 育 」 の実 現 に は 、教 育 の機 会 均 等 、万
人 の た め の教 育 の機 会 を設 け る こ とが 、 重 要 な課 題 で あ る とい うの で あ る。
前 出 の 寄稿 に お い て仙 石 三 郎 は 、 開 学 時 の 創 立者 の興 味深 い話 を紹介 して い る。
あ る 時 、 私 は創 立者 に応 募 状 況 を たず ね た こ とが あ っ た 。 返 事 は 意 外 な表 現 で は ね か え っ て きた 。
「それ が です ね え、 可哀 想 な ん です 。 多す ぎ るん で す 。」一
「可哀 想jと
深 刻 な 表 情 だ った 。
い う表 現 に 、私 は感 動 した。 創 立者 の心 情 は一 般 の通 念 とは違 っ て、 合 格 者 よ り落 伍
者 へ まず 向 け られ て いた ので あ る。 そ う した 発 想 が 、今 後 どの よ うに結実 す る ので あ ろ うか。
岡安 顧 問 も3回 受験 して不 合 格 だ っ た人 は合 格 させ る こ とは で き ない か とい う創 立 者 の言 葉
を記 憶 して い る(134)。とも に 、 受験 生 、 な か ん ず く不 合 格 の人 の こ とを思 う発 言 で 、創 立 者 の
考える 「
人 間教 育 」 を垣 間見 る こ とが で き る。 人 格 の育 成 を 目指 す 教 育 を志 す とす る な らば 、
それ を望 む 人 間 を機 械 的 に 断 る とい うこ とは 、本 来 は で き な い行 為 な ので は ない だ ろ うか 。 大
学教 育 は 、 「
大 学 設 置 基 準 」 に よ り教 員 数 ・施 設 ・校 地等 に よ り収 容 定 員 の基 準 が 定 め られ 、認
可 され た定 員 の許 容 範 囲 内 の学 生 数 で行 わ な けれ ば な らな い の は 当然 で あ る。 しか し、 そ の痛
み と矛 盾 を 忘 れ て は 、創 立 者 の い う人 間教 育 実践 の第 一 歩 に は立 て ない で あ ろ う。 さ らに 、教
育 を受 け た い と思 っ て い る人 間 の希 望 を 阻 害す る要 因 と して 、収 容 定員 は そ の一 部 にす ぎ な い 。
経 済 的事 情 、 家庭 的 事 情 、 健 康 上 の 理 由 な ど様 々 あ げ る こ とが で き よ う。
創 立 者 力§掲 げ た 、 「
人間教育 の最高学府たれ」 の 「
最 高 学 府 」 とは 、小 学 校 ・中 学 校 ・高 等
学校 の 上 に 大 学 が あ る か ら最 高 学 府 で あ る とい う よ うな 、雛 壇 の最 上 位 とい う意 味 で は な い。
人 間教 育 の模 範 の学 府 、 そ のた め に は 、学 び た い人 が学 べ な い とい う矛 盾 を改 善 す る努 力 を し
て初 め て人 間教 育 の最 高 学 府 た りえ る、 とい え る の は な い だ ろ うか 。
創 立者 は 、「大 学 は大 学 に行 け な か っ た人 々 の た め に こ そ あ る(135)」との趣 旨の 話 を何 度 か し
て い る。 大学 に 学 ん だ人 は 、そ の人 た ち に何 らか の形 で貢 献 してい く とい う心 を忘 れ て は い け
な い とい うの で あ る。 しか し、 この言 葉 は 、 も う一 面 、大 学 人 と して 、 目の 前 の 学 生 だ け を見
一54一
創 価教育研究第5号
る ので は な く、様 々 な事 情 で学 べ な か っ た 、入 学 で き なか っ た人 に対 す る配 慮 を忘 れ て は い け
ない とい う 「
教 育 の 機 会 均 等 」 を よ り具 体 的 に 、精 神 と して表 現 した言 葉 で は な い か と思 う。
こ こで 、創 立 者 の青 年 時代 につ い て少 し触 れ て お き たい 。創 立者 は 、1945(昭 和20)年9月
友 人 の紹 介 で 、神 田 ・三 崎 町 の東 洋 商 業(現
和23)年3月
・東 洋 高 校)の 夜 間2年
、 同校 を卒 業 し、4月 に は 、大 世 学 院(現
間部 に入 学 す る。 しか し、1949(昭
和24)年
、
に 中途 編入 す る。1948(昭
・東 京 富士 大学 短 期 大 学 部)政 経 科 夜
に は 、戸 田 の事 業 の残 務 整 理 と新 規 事 業 を軌 道 に
乗 せ るた め に 、夜 学 に通 う こ とが 出来 な くな り、や む な く大 世 学 院 を休 学 して い る。 働 き な が
ら学 ぶ 人 の気 持 ち 、種 々 の事 情 で 、学 ぶ こ とが で き ない 悔 し さ、 これ を青 年 時 代 に経 験 して い
る こ とも 、創 価 大 学 創 立 に あ た り、 二部 や通 信 教 育部 の設 置 を構 想 した底 流 に あ った の で は な
い か と、推 測 してい る。 牧 口常 三 郎 も師範 学 校 入 学 前 に働 き な が ら学 ん でお り、戸 田城 聖 も、
1920(大 正9)年
、 開成 予 備 学 校 夜 間 部(136)に 通 うな ど同様 の経 験 を して い る。
創 価 大 学 は 、 開学 の年 、1971(昭
和46)年
の 夏 、市 民 講 座 を 開催 した。 翌 年 か らは 、夏 季 大
学 講 座 と して 毎年1万 数 千 人 が 学 ぶ講 座 と して 現在 に 至 る ま で 開催 して い る。 毎 年 参 加 を楽 し
み に して い る方 も多 く、開 設 以 来 毎 年 参 加 して きた こ とを誇 り と して い る方 も多 数 い る。ま た 、
寄 付 者 の 中 に は 、 自身 は 大 学 に 学 ぶ こ とが 出 来 な か っ た の で と、真 心 の 寄付 を して くだ さ る方
も多 い と聞 く。 「
創 価 大 学 は 、民衆 立 の 大学 」 とは 、何 度 も耳 に した 言 葉 で あ る。 創 立 者 の 「
大
学 は大 学 に行 け な か っ た 人 々 の た め に こそ あ る」 との言 葉 は 、創 価 大 学 の根 幹 を なす 精 神 と し
て 忘れ て は な らな い。
牧 口常 三郎 は 、『創 価 教 育 学 体 系 』 で 、 「
教 育 の機 会 均 等 主 義 の承 認 され た る今 日に於 い て は
(137)」
、 「さは あ れ 、 社 会 意 識 は 急 速 に発 達 しっyあ り、 所 謂 教 育 の機 会 均 等 の主 義 の 下 に小 国
民 の総 動員 を な し(138)」と述 べ て い る。 しか も、 牧 口は 、実 際 に 、 中 等教 育 の機 会 均 等 の た め
に1905(明 治38)年
か ら1908(明
治41)年
にか けて 女性 の 為 の 通信 教 育 事業 を行 っ て い る。 戸
田城 聖 もま た 、 戦 時 下 にお い て 十 分 な教 育 の機 会 が 奪 われ た児 童 の た め に通 信 教 育 を 行 って い
る。 す べ て の 人 々 に教 育 の機 会 を提 供 して い く とい う考 え 方 は 、 牧 口常 三郎 、 戸 田城 聖 、 創 立
者 池 田大 作 の 三 人 を貫 く、創 価 教 育 に一 貫 して 流 れ る考 え 方 で は な か ろ うか。
②
働 きな が ら学 ぶ 学 習形 態
開 学 式 メ ッセ ー ジで は 、続 い て 、牧 口常 三 郎 の 「
半 日学校 制 度 」 を紹 介 し、 そ の意 図す る と
こ ろ は何 か に っ い て 以 下 を 引用 して い る。
「
半 日学 校 制 度 の 根 本 義 を要 約 す れ ば 、学 習 を生 活 の 準 備 とす るの で は な く、 生 活 を しな が ら学 習
す る、 実 際 生 活 をな しっ っ 学 習 生 活 を なす こ と、 す な わ ち 学 習 生 活 を な しっ つ 実 際 生 活 もす る こ とで
あっ て 、 学 習 生 活 と実 際 生 活 と並 行 す る か、 しか ら ざれ ば 学 習 生 活 中で 実 際 生 活 も、実 際 生活 の 中 に
お い て 学 習 生活 を も な さ し めっ っ一 生 を通 じ、修 養 に努 め しめ る よ うに仕 向 け る意 味 で あ る(139)」
こ こで は、 二っ の提 言 を してい る。 学 習 生 活(学 校)を 終 えて 実 際 生 活(社 会 生活)に
入る
の で は な く、 働 き な が ら学 ぶ生 活 形 態 と、 それ を生 涯 に わた り持 続 させ る こ と(生 涯 学 習)で
あ る。
高 等 教 育 の 研 究 会 で あ る学 者 が 、 日本 の社 会 は 、 「
高 学 歴 社 会 」 で は な く、学 校 教 育 の期 間
ロ
が長 い 、「
長 学 歴 社 会 」にす ぎ ない と論 じて い た が 、牧 口の考 え と通 じる も のが あ る よ うに思 う。
一55一
創 立 者 の大 学 構想 に つ い ての 一 考察(1)通
ま た 、 ヨハ ン ・ガ ル トゥン グ(JohanGaltung)も
学 生 に一 旦 『脱 出(getout)』
信 教 育 部 開設 構 想 とそ の 沿革
、創 価 大 学 の 学 生 との座 談 会 で 、 「
私 は常に
して み る こ とを勧 めて い ま す 。 それ は 、 か な らず し も海 外 に留
学 す る とい う意 味 で は な く、
仕 事 に就 く こ とで す。最 悪 な の は 間 断 な く勉 強 し続 け る こ とです 。
経 験 を身 にっ け る た め に 、勉 学 を一 旦 中 断す る ほ うが よい 。 それ か らま た学 校 に戻 る 、 そ して
ま た仕 事 に就 く。 ま た学 校 に戻 る。(中 略)勉 強 と仕 事 をい っ た り来 た りす る の です 。 これ が基
本 です(140)。
」 とア ドバ イ ス して い る。 これ ら は、半 日学 校 制 度 そ の もの を 述べ て い るの で は な
い が 、学 習 生 活 の継 続 が有 益 とはい え ない と指 摘 してい る。
改 め て触 れ る必 要 の な い こ とで は あ る が 、半 目学校 制 度 は 、『創 価 教 育 学 体 系』 に おい て初 め
て提 唱 され た の で は な い し、牧 口の独 創 で もな い。 斎 藤 正 二 は 、1893(明
た木 村 一一歩 編 纂 の 『教 育 辞 典 』(博 文 館
明 治26年)に
て い る と指 摘 して い る 。 ま た 、1900(明
治33)年
治26)年
に 出版 され
、半 日学 校 制 度 にっ い て詳 し く紹 介 され
の 『教 育 報 知 』 に は 、月 瑞 子 「
半 目学 校 」 と
い う論 文 が 載 って い る(141)。牧 口 自身 も、 半 目学校 制 度 にっ い て 、1906(明
治39)年
に 、雑 誌
『教 育 界 』 の 「教 育 茶話 会 」 で たび たび 発 言 して い る。
今 の 学 校 を 何 うす るか とい ふ と、 畢 自學 稜 とい ふ もの が本 当 の 正 しい 理 に合 つ た もの で あ る ま い か
と思 ふ 、(中 略)さ
う云 ふ 風 に す る な らば神 経 衰 弱 の者 を絶 っ こ とが 出来 、予 防す る こ とが 出来 るだ
ら うと思 う(142)
私 は 半 日学 校 制 度 と いふ 頗 る突 飛 な考 を此 前 に も 申 して 清聴 を穣 した こ とが あ りま す が 、 私 の 半 日
学 校 と 申す の は 、 所 謂 二 部 教 授 とは 違 ふ 、 総 て の 中学 校 も小 学校 も 、将 た 大 学 も皆 半 目制 度 にす る の
が 本 統 だ ら うと信 じ て居 りま す か ら、 目に触 れ る もの と して皆 夫 れ に解 釈 が され る の で あ ります 。 唯
今 文 部 大 臣 の 訓 令 か ら して 色 々 の議 論 が 出 て居 ります が 、 そ の 中 心 問題 た る神 経 衰 弱 とか煩 悶 と云 ふ
や うな こ とが 、凡 て この 半 日制 度 か らして 救 はれ は しな い か と思 はれ る(143)(下 線筆 者)
とも発 言 して い る。
創 立者 は 、 開 学 式 の メ ッセ ー ジ にお い て 、半 日学 校 制 度 を受 け て 、 「
そ れ は 、過 当な 受 験 戦
争 、学 歴 偏 重 、学 問 と実生 活 の著 しい 離 反 を招 い て い る今 日の教 育 へ の 警 告 で あ る とと も に、
人 間教 育 の一 形 態 を提 示 した も の で あ りま す 。」と述 べ て お り、牧 口の 問題 意 識 と重 な っ て い る。
先 に触 れ た 教 育 の機 会 均 等 を 、創 立 者 が 、人 間教 育 の 最 高 学 府 を め ざす 上 で 重 要 な 課 題 と した
こ と と、入 試 の不 合 格 者 を 「
可 哀 想 」 と、一 番 に思 い や る心 情 を考 えて み た 時 、 敗 者 と勝 者 を
っ くる シ ステ ムや 、行 動 を伴 わ な い観 念 的 な社 会 人 をっ くる ので は な く、 す べ て の 被 教 育 者 が
充 実 した人 生 を歩 め る よ うな教 育 の形 態 と して通 信 教 育 を考 え てい るの で は な い だ ろ うか。
次 に 、戸 田城 聖 が 、半 日学 校 制 度 に触 れ た も の と して は(144)、巻 頭 言 「
青 年 よ、心 に読 書 と思
索 の暇 をつ くれ(145)」が あ る。 そ の前 半 分 に次 の よ うに半 日学 校 制 度 を紹 介 して い る。
故牧 口会 長 が 半 日学 校制 度論 を唱 え られ た。 そ の意 図 は 日本 人 は所 定 の学 校 を卒 業 す る と、 そ の後
は 学 問 を しな い の が 常 態 で あ る。 国 家 の 文化 向 上 の意 味 か らも、 又 各 個 人 の職 業 向上 の 点 か らも、 是
非 と も国 民 全 体 に 一 生 涯 の 間 、 学 問 を させ た い とい うの がそ の 主 眼 で あ った 。 この こ と は又 国家 に と
っ て 非 常 に 経 済 な こ とで もあ る。 な ぜ か な らば、 あ らゆ る学 校 を三 部 制 に して、 午 前 部 ・午 後 部 ・夜
間 部 とす る 。 これ は 校 舎 の節 約 にな り且 又 国 家全 体 の労 働 力 を増 す こ とに な る。 され ば今 の 学 生 が 十
年 も二 十年 も只 国 家 が 養 つ て い る よ うな 現 状 は 、 これ に よつ て打 破 で き る故 に 、小 学 生 も 中学 生 も大
学 生 も半 日だ け勉 強 して 、 そ の 他 の時 間 は 労働 に 自己 の研 究 に 、 費 や せ る よ うに指 導 す る の で あ る。
一56一
創価教育研究第5号
そ して そ の 上 に 、 大 学 の 卒 業 後 も又 大 学 へ 行 か な か つ た 者 も、専 門 の 教 育 又 は 、 一般 教 育 に一 生 涯 勉
強 させ よ うと云 うの で あ る。(下 線 筆者)
現 在 、少 子 高齢 化 が 問題 に な り、国家 の生 産 力 を支 え る労 働 人 口の減 少 が課 題 とな っ て い る。
半 目学 校 制 度 は 、 最 も元 気 な 、 若 い 世 代 が 仕 事 に取 り組 み 、 か つ 、 最 も意 欲 と能力 の あ る青 年
が 学 び なが ら仕 事 に取 り組 む とい うこ とで あ る。も ち ろ ん乗 り越 え るべ き課 題 も あ るだ ろ うが 、
就 職 しない 青 年 を ど うす るか とい う泥縄 的 な 対 策 に比 べ れ ば 、 半 目学 校 制 度 は 、継 続 的 な 社 会
国 家 の維 持 の た め に も真 剣 に検 討 す べ き こ とで は ない だ ろ うか。
戸 田 が 、巻 頭 言 を書 い た 当 時 、 半 目学 校 制 度 が 受 け入 れ られ る状 況 で は 当然 な い。 「暇 が な
い 」 とい う青 年 た ち に 「
朝 三 十 分 の暇 を作 れ ぬ訳 が ない 」 と語 り、 「吾 人 は 、読 書 と思 索 をせ よ
と叫 ぶ もの で あ る」 と結 んで い る。 戸 田 は青 年 達 に学 ぶ こ との 大 事 さ を訴 え 、 実 際 に 青 年 の為
に懇 談 や 研 修 の場 を作 った 。戸 田が創 立 者 に対 して仕 事 の 始 ま る前 な ど行 っ た 「戸 田大 学 」は 、
こ の巻 頭 言 で 述 べ た 半 日学校 制 度 の具 体 的 実 践 と見 る こ とが で き るか も しれ ない 。
③
通 信 教 育 と人 間 教 育
通 信 教 育 とは 、"信"を"通"わ
せ る教 育
創 立 者 の開 学 式 の メ ッセ ー ジで は、教 育 の機 会 均 等 、半 日学校 制 度 につ い て述 べ た後 、「教 育
の本 義 は人 間 自身 をっ くる こ とで あ り、 知 識 を糧 に無 限 の 創 造 性 、 主 体 性 を発 揮 し うる人 間 を
は ぐ くむ 作 業 とい え ます 」 と して 、 通 信 教 育 にお い て も知 識 の 切 り売 りに終 わ る こ とな く、人
間教 育 を実 現 して い きた い と述 べ て い る。
筆 者 は 、1977(昭
和52)年4月
、母 校 の職 員 とな り、 通 信 教 育 部 に配 属 に な っ た 。 創 価 大 学
の通 信 教 育 は 、人 間教 育 の実 現 を 目指 してい か な けれ ば と考 え させ られ た の は 、 開 学 式 の メ ッ
セ ー ジ に あ っ た次 の一 節 で あ る。
私 自身 の こ とを い え ば 、 私 は学 問 の道 を途 中 で 断念 せ ざ る を え なか っ た。 そ の代 り、 恩 師 戸 田先 生
に 、 さま ざ ま な学 問 を教 え て い ただ き ま した 。 それ は、 文 字 通 り、 人 生 の師 と弟 子 との 間 に"信"を
"通"わ せ た 教 育 で あ りま した
。 人 間 の完 成 よ り知 識 が 、 知 識 よ り学 歴 、 資 格 が 優 先 され 、教 育 目的
の逆 転 現 象 を 呈 して い る今 日の 大学 に あ っ て 、人 間の 道 を究 めん とす る皆 さん の存 在 は 、 教 育 の あ る
べ き 姿 を世 に 問 う もの と確 信 して や み ませ ん 。(下 線筆 者)
通信 教 育 とい う言 葉 に 、信(信 頼=心)を
通 わす とい う人 間 教 育 の魂 を吹 き 込 み 、 創 価 大 学
の 通信 教 育 は 、 単 な る知 識 を提 供 す る場 で は な く、教 育 の本 義 で あ る人 間 自身 をっ く る とこ ろ
で あ る と して い る こ とが重 要 で あ ろ う。
万 人 の た め の 教 育 と人 間教 育 の両 立 は 可 能 か
創 立 者 は 、通 信 教 育 の場 に お い て も人 間 教 育 の実 現 を構 想 した 。教 育 の 目指す 方 向 と して は 、
ひ と りひ と り を深 く啓 発 し、 ま た 、 自立 かっ 継 続 した学 習 者 に育 て る とい う、手 作 り と もい え
る人 間 教 育 とい う方 向(一 人 に多 くの 時 間 をか け る)と 、 い か に して学 び たい 全 て の 人 に そ の
機 会 を提供 す るか(で
き るだ け多 くの 人 に分 け与 え る)と い う方 向 が あ ろ う。 通 信 教 育 とい う
場 で 人 間 教 育 を行 うとい う こ とは 、そ の背 反 す る2っ を 両 立 させ る とい うこ とで あ る。
マ ー チ ン ・トロー(MartinA.Trow)は
、 高 等 教 育 制 度 の 段 階 をエ リー ト型 、 マ ス 型 、 ユ ニ
一57一
創 立者 の大 学 構想 に つ い て の一 考 察(1)通
信 教 育 部 開設 構 想 とそ の 沿 革
バ ー サル 型 に分 類 しそ の 特徴 を表 と して ま とめ 、 エ リー ト型(該
率 が15%ま
で)か らマ ス型(同15%以
当 年齢 人 口に 占め る 大 学 在 学
上 か ら50%ま で)、 さ らに 、ユ ニバ ー サ ル 型(同50%
以 上)に 段 階移 行(146)し てい く とす る。 目本 の 高 等教 育 は 、短 大 ・専 門 学校 を含 め る と該 当 年
齢 人 口の60%以
上 が 高 等 教 育機 関 に進 学 して い る と考 え る と、 既 に ユ ニバ ー サル 型 の 時 代 に入
っ て い る。筆 者 は 、 そ れ で は 、 ユ ニバ ー サ ル 型 の 時 代 の 次 は 、 日本 の 高 等教 育 が どの よ うな方
向 に 向か うの だ ろ うか と考 えて きた 。
考 え られ るの は 、 第 一 に、 ア メ リカ の 高 等 教 育 に見 られ る よ うな大 学 間 の機 能 の分 化(147)、
第 二 に、 少 人 数 教 育 へ の 回 帰 、 そ して 、 第 三 に、 通信 教 育 に代 表 され る よ うな 、 よ り大 規 模 な
高 等 教 育 シ ス テ ム の 出 現 で あ る。
第 一 の 大 学 間 の機 能分 化 は避 け られ ない こ とで あ ろ う。
第 二 の りベ ラル ・ア ー ツ教 育 に象 徴 され る少 人 数 教 育 は 、 教 育 効 果 も高 い こ とは 当然 だ が 、
そ れ を低 コス トで 行 うこ とは 極 めて 困 難 で あ る。そ の た め に は 、大 学 の 余 分 な機 能 を切 り捨 て 、
少 人 数 教 育 に機 能 を特 化 させ な けれ ば な らない 。 難 点 は 、 希 望 す るす べ て の 人 々 に こ の教 育 の
機 会 を提 供 す る には コス トが か か りす ぎ る こ とで あ る。
第 三 の よ り大 規 模 な高 等 教 育 シ ス テ ム につ い て は、 映 像 等 のメ デ ィア や イ ン ター ネ ッ トに よ
り双 方 向 に よ る教 育 も十 分 考 え られ る時 代 に入 っ たが 、 筆 者 は、 メ デ ィア に よ る人 間 教 育 、っ
ま り、ひ と りひ と りの被 教 育者 を啓 発 す る教 育 が 可能 で あ ろ うか とい う疑 問 を もっ て い た。
そ して 、 日本 にお け る高 等 教 育 の主 流 は、 も う一 度 、 リベ ラル ア ー ツ ・カ レ ッジ に象 徴 され
る よ うな少 人 数 教 育 、人 間 教 育 の 方 向 に 回 帰す る の で は な いか と考 えて い た。
そ う考 え て い た折 、 日本 の高 等 教 育 研 究 に大 き な影 響 を与 えて きた この マ ー チ ン ・ トロー が
来 目 し、そ の講 演 会 で 、直 接 、 「メデ ィ ア に よる 人 間教 育 は 可能 か」 とい う質 問 をす る こ とが で
き た。 彼 の答 え は 明快 で あ っ た。ITの
分 野 に も明 るい 氏 は 、ITの
急 速 な進 化 は 、 そ れ を可
能 にす る とい うもの で あ っ た。 少 人 数 教 育へ の 回 帰 を念 頭 に置 い て い た私 に とって は意 外 な答
えで 、 そ の考 え をす ぐに 受 け入 れ る こ とは で き な か っ た。 しか し、 時 間 をお い て 、 も う一 度 考
えて い く中 で 、 書 面 に よる添 削 で あ っ て も、 ち ょっ と した 心遣 い でや る気 を与 え る児 童 対象 の
通信 添 削 もあ る。 映 像 を通 じて感 動 した り笑 った り もす る。 メデ ィア は単 に知 識 を伝 え るだ け
で な く、 人 間 の 啓発 も可 能 な の か も しれ な い と、 そ の 可能 性 を考 え る よ うに な っ た。 む し ろ、
科 学 技 術 の 発 達 に よ って 、 極 め て 多 くの 人 々 へ 、 心 を通 わせ た教 育 も可能 な の で は な い か と考
え る よ うに な った 。 そ の場 合 も、 あ くま で 、 人 間 が い て 、 技術 が そ れ をサ ポー トす る。 そ れ に
よ って 、 よ り多 くの 人 に早 く伝 え る こ とが で き る とい うこ とで あ る。
こ の よ うな 発 想 を創 立者 は なぜ 持 て た か
通 信 教 育 に学 ぶ 人 た ち は、 学 部 生 に比 べ 、 学 生 数 に対 す る教 職員 の数 も少 な く、 全 国 に広 く
散 っ てい る こ とか ら、直 接 大 学 に来 て 教 職 員 に接 す るの は ス クー リ ン グ、科 目試 験 な ど わず か
な機 会 に 限 られ る。学 生 同 士 の交 流 の機 会 も 当然 少 な い。通信 教 育 の 開設 に あ た り、「
信 」を 「通 」
わす 教 育 との表 現 を した創 立 者 の発 想 は どこ か ら来 るの で あ ろ うか 。 当然 、 メ ッセ ー ジ に あ る
よ うに戸 田 との交 流 が そ うで あ った として 、学 生 が不 特 定 多数 と もい え る通 信 教 育 に お い て も、
大 学 と学 生 に そ の よ うな教 育 を期 待 した の は何 故 だ ろ うか 。
創 立者 は 、入 学 式 、卒 業 式 、 同窓 の集 い等 、 出席 した 会 場 を、 た とえ二 千 人 を超 え る講 堂 で
あ っ た と して も和 や か な座 談 の場 に変 え て しま う。 また 、大 学 ・学 園 の創 立 者 と して も そ うで
あ る が 、 目本 の 創 価 学 会 の名 誉 会長 と して 、世 界190力 国 のSGIの
一58一
会 長 と して 、あ らゆ る とこ
創価教育研 究第5号
う に気 を配 り、激 励 の手 を差 し伸 べ て い る。そ の よ うに行 動 し続 け て き た創 立者 で あれ ば こ そ 、
自然 の 言葉 と して 、通 信 教 育 を 「
信」 を 「
通 」 わ す 教 育 と表 現す る こ とが で き た と思 う。
創 立者 は 、 通信 教 育 部 の 学 生 に対 して も、 ス クー リ ン グ に参加 した 学 生 に対 す る こ ま や か な
配 慮 や伝 言 と とも に、 メ ッセ ー ジ 、機 関誌 へ の寄 稿 な ど創 立者 自 らが 、 ま さに 「
信」 を 「
通」
わ す 教 育 を行 って い る。 そ の 多 くは 、小 説 や 詩 を通 して で あ り、人 物 の エ ピ ソー ドを通 じて の
こ と も多 い 。 私 の 心 に残 っ てい るそ の 一 例 を紹 介 す る。
な ぜ 学 問 す る のか に つ い て 、 太 宰 治 の 小 説 の 中 に こん な 一 節 が あ りま した。 『正 義 と微 笑 』 とい う
作 品 の な か の 或 る教 師 の述 懐 で あ りま す 。 「
覚 え る とい うこ とが 大 事 な の で は な くて 、 大 事 な の は 、
カ ル チ ベ ー トされ る とい うこ とな ん だ 。 カ ル チ ュ ア とい うの は 、公 式 や 単 語 を た くさ ん暗 記 して ゐ る
事 だ け で な くて 、 心 を広 く もっ とい うこ とな ん だ … …(中 略)学 問 な ん て 、 覚 え る と同時 に忘 れ て し
ま っ て い い もの な ん だ 。 けれ ど も、全 部 忘れ て しま っ て も、 そ の勉 強 の訓 練 の底 に一 つ か み の 砂 金 が
残 っ て ゐ る もの だ 」(中 略)一 っ か み の砂 金
強 の 訓 練"を
さき に 自律 心 と 申 し上 げ ま した が 、それ に 限 らず"勉
自分 に課 し、や り遂 げ て い っ た とこ ろ に 身 に つ く克 己心 や 、 人 へ の思 いや り とい っ た 人
間 の輝 き こそ 砂 金 の 輝 き に ほか な りませ ん(下
線 筆 者)(148)。
この 一 文 は 、 学 ぶ こ と と人格 の形 成 を考 え る上 で 、示 唆 に 富 む 引用 で あ る。 創 価 大 学 の 目指
す 人 間 教 育 は 、学 問探 求 とは別 々 の もの と して 行 うもの で は な い。 む しろ 、通 信 教 育 で あ れ 、
通 学 す る学 生 で あ れ 、 本 来 、 「
勉 強 の訓 練 」 の な か で な され て い くも の とい え るの で は な い か。
「人へ の思 いや り とい っ た人 間 の輝 き」、そ れ は 、そ れ ぞれ の 目標 に 向 っ て の鍛 錬 の 中 で 身 に
つ く も ので あ る。 しか し、 この 思 いや りは 、「思 い や り」 を う けた経 験 が あ っ て は じめ て身 にっ
くも ので あ ろ う。
創 立25周 年 に あた る1996(平 成8)年
文 著 『シ リー ズ大 学 は 挑 戦 す る
、創 価 大 学 を紹介 す る一 冊 の本 が 出版 され た。 悠 木 夏
創 価 大 学 』(栄 光 教 育 文 化 研 究 所 発 行)で
あ る。 「こ の 本 を書
き上 げ るた め に、百数 十 人 の 方 々 に お 目に か か り、イ ン タ ビュー させ て い た だ い た(149)」
、悠 木
は こ の よ うに書 い て い る。 長 い が 引用 させ て も らい た い 。
正 木(創 友 会)委 員 長 は 、
「
湖 れ ば、 創 価 大 学 を設 立 す るた めの 準備 財 団 は 、 池 田先 生 の"庶 民 の た め の 大 学 を創 りた い"と の
思 い に賛 同 した創 価 学 会 員 の 寄 付 を基 に 作 られ ま した 。創 価 大 学 は 、 多 くの庶 民 の真 心 に支 え られ て
創 設 され た 大 学 な の で す 。創 大 生 に は 、 そ う した 人 々 の 思 い や 期待 に応 え られ る人 間 に な る 責 任 が あ
る と思 い ます 」
と話 す 。
創 価 大 学 は 、 さま ざま な 人 々 の 「
思 い 」 が 寄 せ られ て い る 大 学 だ。 そ の 「思 い」 は 、創 立 者 に発 し
て学 生 へ 、 教 職 員 を通 じて 学 生 へ 、 親 た ち か ら学 生 へ 、 先 輩 によ っ て 後輩 へ 、 と脈 々 と伝 え ら れ て い
る。
自分 が 誰 か に よ っ て大 切 に され た こ とや 享 受 した 恩 恵 に感 謝 し、 それ を後 輩 に返 して い こ う とす る。
そ れ をま た 、 後 輩 に ・… 。創 価 大 学 の キ ャ ンパ ス は 、 ま るで 聖火 リ レー の よ うに次 々 と受 け渡 され て
い く人 々 の 「思 い 」とい う灯火 は 、それ を 手 に した 者 す べ て を 誇 ら し く輝 かせ て い る(150)。(下線 筆 者)
徹 底 したイ ン タ ビ ュー で 得 た 実 感 と して 、 創 価 大 学 の人 間 教 育 を、創 立者 に そ の源 が あ り、
そ こ か ら広 が って い く聖火 リ レー に例 え てい る。
一59一
創 立 者 の 大 学構 想 にっ い て の 一 考察(1)通
信 教 育 部 開設 構 想 とそ の 沿革
悠 木 は 、 ま た 、通 信 教 育 と人 間教 育 に っ い て こ う書い てい る。
通教 生 は 学 ぶ意 欲 が高 く、 授 業 中 も 真剣 で 、 教 え が い が あ る と話 す 教 員 は多 い。 一 方 で 、 「
教職員
の方 々 は人 間 的 で情 が あ り、 これ ほ どま で に学 生 のた め を思 っ て配 慮 して くれ るの か と、 さま ざま な
場 面 で感 動 しま した(151)」とい うこ とを何 入 ものOBの
方 か ら聞い た 。
通信 教 育 は 、 そ の根 本 に人 間 を大 切 にす る思 い が あれ ば こ そ 、通"信"が
通``心"へ
と広 が っ て い
くの だ ろ う。 そ して 、 信 が通 い、 心 が 通 っ た と こ ろ に こそ 、 「い つ で も、 ど こ で も、 だ れ で も」 に 開
か れ た うえ で プ ラ ス アル フ ァ の あ る、 創 価 大 学 な らで は の人 間教 育 の味 が発 揮 され るの では な い だ ろ
う か(152)。(下
線 筆 者)
おわ りに
通 信 教 育 部 の 開 設 構想 は 、21世 紀 に 目を 向 け た創 立者 の先 見 で あ り、通 信 教 育 は 、創 価 大 学
として 今 後 さ ら に充 実発 展 を期 さな け れ ば な らな い 分 野 で あ る。 創 立者 が 、大 学 の 果 た す べ き
も うひ とつ の役 割 、す べ て の人 々 のた め の大 学 とい うこ とに 目を 向 けて い た か ら とい っ て 良 い。
また 、創 立 者 が 通 信 教 育 にあ って も人 間 教 育 を志 向 し、 そ れ を実 践 して き た こ とは 、 新 しい 大
学 教 育 を開 く力 で あ る。
大 学 通 信 教 育 協 会 の資 料 に よれ ば 、2005(平
成17)年
度 大 学 通 信 教 育 実施 校 は 、 大 学35校 、
大 学 院19校 、短 大9校 で 、約28万 人 の 学 生 が 学 ん で い る。2006(平 成18)年 度 には 、大 学2校 、
大 学 院6校 が 開設 予 定 で あ る(153)。日本 の 大 学 にお け る通 信 教 育課 程 の 在籍 者 数(正 規 の課 程)
は 、1968(昭
和43)年
度 に7万 人 を超 え て以 降 、1988(昭
超 え て い な い。 とこ ろ が 、1994(平 成6)年
(平成17)年
和63)年
度 ま で の21年 間 、9万 人 を
度 に は14万 人 と、6年 間 で1.5倍 に な り、更 に 、2005
に は 、28万 人 と2倍 に増 え て い る。
この よ うな 近年 の 大学 通 信 教 育 の発 展 は 、放 送 大 学 に よ って 先 鞭 をっ け られ た メ デ ィ ア 技術
の 導入 、 さ らに は 、 イ ン ター ネ ッ トの普 及 に よる とこ ろ も大 きい 。 イ ン ター ネ ッ トは 、 明 治 時
代 に 郵便 制 度 が整 備 され た こ とに よ り通 信 教 育 が誕 生 し、 そ の受 講 者 が全 国 に広 が っ た こ と と
同 じか 、 そ れ 以 上 の 可能 性 を秘 め て い る。
21世 紀 の 目本 の 大 学 は 、少 子 ・高齢 化 の 中 で存 続 を 図 らな くて は な らない 。 日本 の人 口そ れ
自体 が2005年 を ピー ク に減 少 し、2050年 には 、8800万 を割 る こ とも考 え られ る速 さで あ る(『東
京 新 聞 』2005年1月1日
付)。
創 立者 は 、 「
時 代 は、学歴 社 会 か ら実力 社 会 へ移 っ て い る。語 学 や 読 書や 教 養 は 、人生 を 大 き
く豊 か にす る。 社 会 に出 て か ら も学 び 、 見識 を深 め 、 生命 の 可能 性 を 開発 しゆ く 『生涯 教 育 』
が ま す ま す 重 要 にな る。そ の原 動 力 こそ 『通 信 教 育』 で あ る。(中 略)あ る 意 味 で 、歴 史 上 、教
育 は、 長 く 、一 部 の 人 間 の み の もの で あ った 。21世 紀 は 、 人 生 を舞 台 に 、皆 が 『学 ぶ喜 び 』 を
謳 歌 し なが ら、 皆 が 強 く賢 明 に な って い く時 代 で な けれ ば な らな い(154)。
」 と語 っ て い る。
今 年 、通 信 教 育 部 は、 開 設30周 年 を迎 え 、 今 後 どの よ うに発 展 して い くか 、大 き な課 題 で あ
る。 牧 口常 三 郎 に始 ま る創 価 大 学 設 立 の 構 想 は、 大 学 開 学 に よっ て 実 現 され た が 、 そ の 目指 す
とこ ろ の大 学 教 育 の あ り方 は、 創 立 者 の 現 在 に至 るま で の 行 動 に よっ て示 され 、発 言 の 端 々 に
表 れ てい る。 創 立 者 は 、 これ か らの 創 価 大 学 を ど う構 想 して い るの か 、 そ して 、 こ れ か ら の通
信 教 育 を ど う構 想 してい る のか を十 分 研 究 し 、今 後 の創 価 大 学 の 進 む べ き道 を考 え 、 そ の構 想
実 現 を め ざ してい きた い と思 っ て い る。
一60一
創価教育研究第5号
(注)
(1)本
稿 にお いて 、 「
創 価 教 育」 は 、1930(昭
和5)年11月18日
に 『創 価 教 育学 体 系』 第 一 巻 を 出 版 し、
自 らの 教 育 理 念 を創 価 教 育学 と して発 表 した牧 口常 三 郎 、 そ の 思 想 と構 想 を受 け継 いだ 戸 田城 聖 、 そ
して 、創 立 者 池 田大 作 の3人 に よ る教 育 と思 想 を指 す もの と して使 っ て い る。
(2)『 創 価 大 学 通信 教 育部2006入 学 案 内』 に よ る。2005(平
(3)ア
成17)年11月
現在。
ー ノル ド ・J・ トイ ン ビー 、池 田大 作 『二 十 一世 紀 へ の対 話(上)』(文 芸 春 秋
(4)ケ
昭 和50年)、120頁 。
ンブ リ ッジ 大 学 の 通 信 教 育 につ い て は 、WaltonS,BittnerandHerveyF.Mallory,9nivθrsity
Te∂chiRgbyMail,TheMacmillanCompany,1933,pp,11-13に
よる 。 イ ギ リス ・ア メ リカ に お け る
通 信 教 育 の 発 祥 の 歴 史 に つ い て は 、JohnS,Noffsinger,Corrθspondθncescho・ls,lycθums,
Chaut∂uquas,TheMacmillanCompany1926,pp,3-14に
(5)奥
言羊しい。
井 晶 『教 育 の機 会 均 等 か ら生涯 学習 へ 一 大 学 通 信 教 育 の 軌 跡 と模 索一 』(慶 応 通 信
平 成3年)、
13-14頁 。 な お、 英 吉利 法 律 学 校 の講 義録 につ い て は 、 高梨 公 之 の指 摘 に よ る。
(6)斉
藤 正 二 『若 き牧 口常三 郎 』(第 三文 明社1981年)、646-647頁
(7)明
治19年2.月 上 旬 に 印 刷 され た 「
通 信講 学 会第1回 報 告 」 の 裏 面 に は 、 「
○ 通 信講 学 会員 二 広 告 ス 」
。
と して 、「
本 会 ノ規 則 ニ ヨ リー ケ年 半 ノ修 業 ヲ終 フル ノ後 行 フベ キ試 験 ハ 如 何 ナ ル方 法 ニ ヨ レル ヤ ヲ 闘
合 ハ セ 来 ル 向往 々 コ レ ア リ右 ハ 会 員 ヨ リ其 旨 ヲ 申入 レ本 会 ヨ リ ノ通 知 ヲ待 チテ 上京 ス ル ヲ以 テ本 則 ト
ス レ ドモ 遠 隔 ノ地 二 在 リテ 上京 不便 ナ ル ガ為 メ最 寄 ノ 会 員合 同 シ テ 往 復 旅 費 ヲ弁 ズル ノ約 束 ア レバ 本
会 ヨ リ別 二 役 員 一 名 ヲ派 出セ シ メ講 師 ノ 出セ ル 問題 ヲ持 シ テ試 験 場 二 臨 ミ其 答 案 ヲ携 へ 帰 リテ 講 師 ノ
評 点 ヲ受 クル コ ト トスル カ 又ハ 其 地 方 ニ テ最 モ 名 望 ア リ学 術 ア リテ 教 育 上 ノ職 務 二 従 事 サ ル Σ仁 二依
頼 シ 本会 ヨ リ講 師 ノ出 セ ル 問題 ヲ送 付 シ試 験 場 ノ監 督 ヲ托 ス ル コ ト 」為 ス ベ シ 」 とあ る。
(8)南 榎 庵 主 人 「
地 理 学 に篤 学 の諸 名 士 伝 」『地 理 学 研 究 』第2巻 第8号(地
理 学研 究 会
大正14年8月)、
29頁 。
(9)『 尋 常 師 範 学 科 準 備 通 信 講 義 雑 誌 』(忠 愛社)が
当 時発 行 され て い る。 同誌 第16号 は、 明治19年9月
3日 に発 行 。
(10)以 下 の拙 稿 を参 考 に され たい 。
① 「
牧 口常 三郎 と通 信 教 育 一 民衆 のた めの 教 育 を 目指 し て 一」 『通信 教 育 部論 集 』第3号(創
価大学 通
信 教 育部 学 会2000年8月)、
② 「
牧 口常 三郎 は 女 子 教 育 の先 覚 者 だ っ た。」 『潮 』 第508号(潮
③ 「
知 られ ざる牧 口先 生 の事 跡 」 『大 白蓮華 』 第612号(聖
④ 「
創 価 教 育 の 父 ・牧 口常 三 郎 の 足 跡 を 追 っ て
出版 社2001年6月)、
教新 聞社2001年6月)、
肌 で感 じた 人 間へ の"温 か な視 線'」 『灯 台 』 第494
号(第 三文 明社2001年11月)、
⑤ 「
『
人 生地 理 学 』 と牧 口先 生 」 『大 白蓮華 』 第639号(聖
な お 、 そ の他 に、2003年3月17日
行動
教新 聞社2003年6月)。
東 洋 哲 学 研 究 所 学術 大 会 で 「
人 生 地 理 学 出版 後 の 牧 口常 三 郎 とそ の
と題 して 発 表 、2005年8月8日
通 信 教 育 学会 講 演 会 で 「
創 価 大 学 通 信 教 育部 の源 流 一2万 人 が
学 ん だ 牧 口先 生 の 通 信 教 育jと 題 して 講演 を行 った 。
(11)『 同窓 会 雑 誌 』 第27号(同
窓 教 育会
明治35年2月)、53頁
の 雑 報 に牧 口か らの手 紙 の 一 部 が紹 介 さ
れ て い る。
(12)明 治42年IA、
富 士 見尋 常小 学 校任 用 の際 に提 出 され た履 歴 書 。
(13)拙 稿 「上京 後 の牧 口常 三郎 と 『人 生 地 理 学 』 出版 に 至 る経 過 」『創 大 教 育研 究 』 第11号(創
育 学 会2002年
、47-61頁)に
価 大学教
詳述。
(14)当 時 の 新 聞雑 誌 に42の 書評 が確 認 で き る。 拙 稿 「牧 口常 三 郎 著 『人 生 地理 学 』41の 書 評 」『創 価 教 育
研 究 』 第2号(創
価 教 育 研 究 セ ン ター2003年
、261-285頁)に
全 文 翻 刻 掲 載 。 そ の 後 、『活 動 之 日本 』
の 書 評 を発 見 し、『人 生 地理 学』 に対 す る書 評 は42と な る。牧 口の書 評 に つ い て は、 沖 慶 子f牧
口常 三
郎 著 『人 生 地理 学 』 の 同 時 代評 」 『地 理科 学』 第58巻 第2号(地
におい
一61一
理 科 学 学 会2003年)、1-27頁
創 立 者 の 大 学 構想 に つ いて の 一 考 察(1)通
信 教 育 部 開 設 構想 とそ の沿 革
て詳 細 に 分析 され て い る。
(15)『 活 動 之 日本』 第1巻 第2号(隆
文社
明 治39年6月)、118頁
。
(16)理 由は 不 明 だ が 、初 版 は2種 類 存 在 す る。 弘 文 堂 で 印 刷 され た も の と、 秀英 社 第 一 工場 で 印刷 され た
も の であ る。
(17)明 治33年1月
か ら明 治35年3月
ま で 、北 海 道 師範 学校 校 長 。 牧 口 の辞 職 願 を受 理 した。 明 治36年 当
時 、 女 子 高 等 師 範 学 校 教 授 。 『i教
育 』 第68号(茗
渓会
明 治38年10月)、38頁
の 「
十 月 の主 事 会 」 の 議i
題 の筆 頭 に 「
退 職 主筆 、槙 山栄 次(以 下2氏 略)氏 へ 内 規 の通 り謝 状 及 び 物 品 を贈 呈 す る事 」 とあ り、
茗渓会 に も深 く関 わ っ て い た。 同 じ 日の議 題 で牧 口の 辞任 願 出 も協 議 され てい る。
(18)弘 文 学 院 は 、 明 治39年1月
治39年1月
に宏 文 学 院 と名 称 が 変 わ るが 、 本 稿 で は 、 弘 文学 院 と して表 記 す る。 明
と した の は、 講 道 館 所 蔵 資 料 に 『弘 文 学 院 職 員 名 簿
明治 三十 八 年 十 二月 現 在 』 が あ る こ
と、 お よび 東 京 都 立 公 文 書 館 所 蔵 資 料 に 、 弘 文 学 院 関 順 一 郎 よ り、 東 京 府 知 事 千 家尊 福 宛 の 、 弘 文 学
院 を宏 文学 院 に改 称 す る 「
御 届」 の 目付 が 、 明治39年1月15日
で あ る こ とに よ る。
(19)講 道館 蔵 『講 道 館 館 員 名 簿 第 一 』 には 、 本 籍 「北海 道 札 幌 区 南 一 条 西 人 丁 目十 三
戸 主 」、姓 名 「
牧
口常 三 郎 」、 生 年 月 又 ハ年 齢 「明 治 四 、 六 」 と して 、 入 門年 月 日 「(明治)三 四 、 五 、 一 九 」 と記 され
てい る。 山 口令 子 の調 査 に よる。 この 原 本 で あ る誓 文 簿 も講 道 館 蔵 。『人 生 地理 学 』 出 版 にあ た り書 名
につ い て相 談 した 坪 井 九 馬 三 と、嘉 納 治 五 郎 との 交 友 は知 られ て い るが 、 この 視 点 か らの 更 な る調 査
が望 ま れ る。
(20)『 社 会 主義 』 第8年 第11号(渡
米協会
明 治37年9月)、14-17頁
(21)『 渡 米 雑誌 』 第9年 第1号(渡
米協会
明 治38年IH)、2-4頁
(22)『 萬 朝 報』 明治38年12月14日
(23)『国 民 評 論 』(国 民 評 論 社
前)」、第4号
月3日 付1面
米協会
。(表 紙 で は、 「
米 国 と人 生地 理 」)
。
、2面 、 「
今 日の注 意 」
明 治38年L月
創 刊)第1号
に 「
商 品 流動 の 法 則 を論 ず 」、第2号
に 「
同(承
に 「
都 府 吸 引 論 」 とい う牧 口の論 文 が掲 載 され て い る。 そ れ ぞ れ 、『萬 朝報 』 明治38年1
「
紹 介 新 刊 書 」欄 、『日本 』明 治38年3.月1日
明 治38年4.月)広
付6面 広 告 、『渡 米 雑 誌 』第9年 第4号(渡
告 に よ る。『国 民評 論』 は12号 まで 発 行 が確 認 で き る(『 早 稲 田学 報 』 第130
号 に よる)。
(24)『 二 十 世 紀 の婦 人 』 第1巻 第8号(北
海 道 婦 人 同志 会
る。 た だ し、 未 発 見 。 『婦 女 新 聞』 第226号1面
明 治37年9月)に
「くち とふ で 」 欄 に 「
▲
掲 載 され て い る と考 え て い
婦 人 と人 生 地 理 学
吾人は
日本 国 民 、 就 中女 子 教養 の重 任 者 た る 日本婦 人 に 向 つ て 、 今 少 し く人 生 地理 学 に っ き趣 味 を 解 せ られ
ん 事 を望 む 、『地 を離 れ て人 な く、 人 を離 れ て 事 な し、人 事 を論 ぜ ん と欲 せ ば先 づ 地 理 を究 め よ』 との
吉 田松 蔭先 生 が其 学徒 を警 醒 した る金 言 は 、 吾 人 の 生 活 区域 の 広 が る と共 に 益 」吾人 に 明 瞭 とな る一
大 真 理 に あ らず や 、 げ に 吾 人 は 地 を離 れ て は 生 活 す る能 はず 、 生 活 を遂 げ ん が為 め に は何 よ りも先 づ
地 理 を知 らざ るべ か ら ざる事 は 、 単 り学 徒 に 留 ま ら ざ る な り。(廿 世 紀 婦 人牧 口常 三郎 氏)」 と紹 介 さ
れ てい る。 「
婦 人 と人 生 地 理 学 」 の存 在 は 、 坂 井博 美 の指 摘 に よ る。
(25)『 教 育 界 』 第4巻 第8号(金
港堂
明 治38年5月)、57頁
の栄 光 』(曽 根 松 太 郎 氏 教 育 奉 仕 三十 年 祝 賀 会
(26)第4回
。 教 育茶 話 会 に つ い て は 、 三 浦藤 作 『無 冠
昭 和5年)、240-242頁
教 育 茶話 会 で は、 牧 口の 肩 書 き は書 か れ て い な い。 第5回
参 照。
では、 「
教 育 」 記 者 とな っ て い る。
な お 、『教 育 界』 を 発 行 して い る 金港 堂 に は 、牧 口は 、明 治34年 に勤 めた こ とが あ る 。(前 出、拙 稿 「上
京 後 の 牧 口常 三 郎 と 『人 生 地 理 学 』 出版 に至 る経 過 」(『創 大 教 育研 究 』 第11号)、49-51頁
。 な お、 同
論 文 に あ る教 科 書 事 件 の始 ま りは 、 明治35年12月 の誤 り。
(27)東 亜 女 学 校 は 、 明 治37年5月
、 東 亜 精 華 女 学校 と して 、神 田区 矯 子 町34に 開 校 、 同年8月
学 校 と名 称 を改 めた 。 牧 口を採 用 した 明 治38年3月
、東亜女
に は 、教 員 を志 望 す る 中国 人 留 学 生 のた め の課 程
「
清 国 女 子 留 学 生 速 成 師範 学 部 」 を設 置 して い る。 明 治39年9月
に、 下 谷 区北 稲 荷 町46に 移 転 す る 。
東 亜 女 学 校 は 、 東 亜 仏 教 会 に よ っ て設 立 され 、校 主 は 、 田中 舎 身(弘 之)で 、 田 中は 中 国 に深 い 関 心
を持 っ て いた 。
一62一
創価教育研究第5号
(28)一 冊 は、『人 生 地 理 学 』出 版 の3年 後 に 出版 され た 、江蘇 師範 生 編 修 『江蘇 師 範 講 義
第七編
地理』
(江蘇 蜜1906年)で
あ る。 同 書 の 目次 には 、 「人 生 地理 学 」 とあ る。 も う
一冊は
、 そ の 翌年 に 出版 され た 、 世 界 語 言 文 字 研 究 会 編 輯二
部 訳 『最 新 人 生 地 理 学 』(游 芸 社1907年)
で あ る。 これ らの 詳 細 につ い て は 、 高橋 強 「牧 口常 三 郎 箸 『人 生 地 理 学 』 中 国語 版 に 関 す る 一 考 察 」
『
創 価 …教
育 研 究 』創 刊 号(創 価 教 育 研 究 セ ン タ ー2002年)、3-20頁
(29)『 教 育界 』 第5巻 第5号(金
港堂
明 治39年3月)、59-61頁
。
。
(30)「 本 会並 に 附 属女 芸 教 習所 の 趣 旨」『大 家 庭』第3巻 第1号(大
日本 高 等 女 学 会
明治40年12月)、2-3
頁。
(31)牧
口 は、 教 育茶 話 会 で 「
如 何 に した ら青 年 女 子 の小 学 校 を離 れ た者 を 引 立 てs、 家 庭 に於 て 国 民経
済 に適 当 した 教 育 を施 す こ とが 出 来 や うか と云 ふ 考 へ で 、通 信 教 授 を始 め て 居 つ た の で あ る が」 と述
べ て い る(『教 育界 』 第7巻 第5号 、金 港 堂 、 明 治41年3E、121頁)。
(32)同 上 『教 育界 』 第7巻 第5号 、121頁 。
(33)「 寺 田勇 吉 の 報 告 あ り
寺 田勇 吉 訳 の 『普 国 ジ ュセ ル ドル フ県 単 級 小 学 教 則
附プロイセン王国半 日
学 校 教 科 目』 を指 す もの と思 わ れ る。」(『牧 口常 三 郎全 集 』 第7巻 、 第 三 文 明 社 、1982年)、9頁
る。 『教 育 報知 』(明 治20年45号
(34)浜
か ら61号)に
とあ
も連 載 され て い る。
は 、 北海 道 師 範 学 校 に 明 治25年4.月 か ら明治27年11月 ま で在 職 して い る(『 北海 道 師 範 学 校 一 覧 』
北海 道 師範 学 校
明 治44年 、33頁)。 市 川 本 太 郎 『長 野 師範 人 物誌 』(信 濃 教 育 会 出版 部
昭 和61年)、
148頁 に は 、浜 幸 次 郎 は 、諏 訪 郡 中 州村 生 まれ 、明 治17年 長 野 県 師 範 学 校 入 学 。 明 治34年 下伊 那 女 学 校
創 立 時 の校 長 とな り、 「明治 三 十 六 年 退職 して 上京 す る 。一 年 間 二 三 の 中学 校 の講 師 を して 三 十 八 年 東
京 市初 代 の視 学 に任 ぜ られ 十 一 年 間 在 職 し」 とあ る。
(35)牧 口 と 山根 吾 一 との 交 流 は、岡 林 伸 夫 『あ る 明治 社 会 主 義 者 の 肖像 一 山根 吾 一 覚 書』(不二 出 版2000
年)に よ って 明 らか とな っ た 。 二人 の北 海 道 時代 の交 流 に つ い て の研 究 は今 後 の課 題 。 『北海 道 教 育 雑
誌 』 を 見れ ば、 少 な く とも面 識 は あ った と考 え られ る。
(36)片
山潜 『渡 米 案 内』 増 補 訂 正 第11版(渡
米協会
明治37年)に
は 、 自序 の 次 頁1頁
を使 って 牧 口が
渡 米 協 会 で 行 った 「
米 国 の人 生 地理 」 の 演説 の 一 部 を掲 載 して い る。 同書 初版 は 、 自序 に2頁
て い るが 、11版 では1頁
を使 っ
に して い る。 山根 吾 一 の 考 え で挿 入 した可 能 性 も あ る。 片 山 と出 会 った と 断
定 す るこ とは現 時 点 で は 避 け た い。
(37)前 出 、 「上京 後 の 牧 口常 三郎 と 『人 生 地 理 学』 出版 に至 る経 過 」(『創 大 教 育 研 究 』 第11号)、52頁 。
(38)『秋 田魁 新 報』明 治38年7月26日
、1面 の 新刊 紹介 欄 に 、高 等 女 学 講 義 第 一 学 年 第 四号 の科 外 講 話 は、
「
尾 崎 東 京 市長 の時 局 と婦 人 」 とあ る。
(39)『 灯 台』 第482号(第
三 文 明社2000年11月)、61頁
。
(40)伝 記 ・年 譜 で14歳 と記 述 され て い る が 、 そ の 出典 は 見 当 た らな い 。 前 出 、 南 榎 庵 主 人 「
地 理 学 に篤
学 の諸 名 士 伝 」(『地 理 学研 究 』第2巻 第8号)、29頁
の 「
年 僅 か に十 三 に して 北海 道 札 幌 の親 類 に 寄食
して小 樽 警 察 署 の給 仕 と して 自活 の 道 を 得 る に至 つ た の も之 がた めで あ っ た 」 の記 述 に従 った 。
(41)『 教 育』 第68一
号(茗 渓 会
明治38年10月)、38頁
に は 、十 月 二 日の 主事 会 の 議題 と して 、 「
書 記 牧 口常
三 郎 辞任 願 出 にっ き 其 後 任 、 及 び 事 務 所 貸 付条 件 等 に つ き協 議 す 」 と あ る。 茗 渓 会 退 職 は、 前 出 履 歴
書 に よれ ば 明治38年12月 。
(42)前 出、 「
『人 生 地理 学 』 と牧 口先 生 」(『大 白蓮 華 』 第639号)、43頁 。
(43)正 確 には 、 牧 口は、 志 賀 の説 得 に 服 して 、 今 は 受 け る こ とが で き な い が 、後 日志 賀 の 指 導 の も と地
理 学 研 究 を行 う時 に、 藤 山 の好 意 を 受 け る こ と に した 、 で あ る。 『稲 垣 益 穂 目誌
物 館1990)3頁
、 に よれ ば 、藤 山万 吉 の 葬 式 は 明治39年12月21日
(44)書 評 ・広 告 ・新 刊 紹 介 が 掲載 され た 新 聞 ・雑 誌(東 京 以外)は
十 三 巻』(小 樽 市 博
に行 われ て い る 。
以 下 の 通 り(太 字 は 特 に掲 載 回 数 の
多 い もの を 示す 。 『』 略)。
北海 道:北 海 タイ ム ス 、 小 樽 新 聞 、 函 館 新 聞 、 北 海 道 教 育雑 誌 、 釧 路 新 聞 、 青 森:東 奥 新 聞 、 弘 前 新
一63一
創 立者 の大 学 構 想 につ い て の一 考 察(1)通
信 教 育 部 開 設 構想 とそ の沿 革
聞 、 岩 手:岩 手 日報 、 岩 手 毎 日新 聞 、東 北新 報 、秋 田:秋 田魁 新 報 、 秋 田時 事 、 山形:米
沢新聞、宮
城:河 北 新 報 、東 北 新 聞 、福 島:福 島新 聞、福 島 民報 、福 島 民 友 、茨 城:い は らぎ 、栃 木:下 野 新 聞 、
埼 玉:埼 玉新 報 、 チ 葉:千 葉 毎 日新 聞 、 山梨:甲
斐 新 聞 、 山梨 民 報 、 山梨 日 日新 聞、 神 奈 川:貿
易新
報 、静 岡:静 岡民 友 新 聞、長 野:信 濃毎 日新 聞 、 南信 、富 山:富 山 日報 、石 川:政 教 新 聞 、 北 国 新 聞 、
福 井:福 井新 聞 、 愛 知:中 京 新 聞、 新 愛 知 、新 朝報 、 三 重:伊 勢 新 聞 、 京 都:京 都 日 出新 聞 、 大 阪:
大 阪 朝 日新 聞 、 大 阪 毎 日新 聞 、 初 等 教 育 教 材 研 究 、 兵 庫:神 戸 新 聞 、 神 戸 又 新 新 聞、 和 歌 山:紀 伊 毎
日新 聞 、岡 山:山 陽新 報 、 広 島:広 島芸 備 新 聞、 山 口:防 長 新 聞 、 防長 教 育 、愛 媛:海 南 新 聞 、高 知:
土 陽新 聞 、福 岡:福 岡 日 日新 聞 、 門 司新 報 、長 崎1東 洋 日の 出新 聞 、鎮 西 日報 、鹿 児 島:鹿 児 島新 聞 、
沖縄:琉 球 新 報 、 台湾:台 湾 日日新 聞
(45)「 大 日本 高 等 女 学 会 賛 助 員 諸 君 」 『高等 女 学講 義 』 第2学 年 第3号(大
日本 高 等 女 学 会
明治39年1
月)、 「
本 会 賛助 員.(順 不 同)」 『大 家 庭』 第3巻 第1号 、4-6頁 。
(46)『 小 樽 新 聞 』 明 治39年8月27日
、2面 に は 、 「大 日本 高 等 女 学 会 主 幹
牧 口常 三 郎 氏 は会 務 拡 張 の 為
め来 道 札 幌方 面 へ 赴 きた る が 帰 路 当 区 に於 て会 員 募 集 の 上 帰京 す べ し と云 ふ 」 とあ る。『大 家 庭 』第3
巻 第1号 、28頁 に は 、 明 治40年10月17-19目
、 川 越 中 学校 で 、 同年11月9-11日
、 山 口県 山 口 町新 橋 稲
荷座 で慈 善 活 動 映 写会 を開 催 した 記 事 が あ る。
(47)新 聞 ・雑 誌 の広 告 ・書 評 新 刊 紹介 ・記 事 等 に出 て い る高 等 女 学 会 の所 在 地 か ら区分 した。
(48)三 崎 町 三 丁 目1は 、 か な り広 い地 域 で番 地 だ け で は 、 高 等 女 学 会 の 所 在 地 を明 らか にす る こ とは 出
来 な い。 『渡 米 雑誌 』 第10年 第4号(渡
米雑誌社
明治39年4月)、11頁
に 「
注意
渡米雑誌社及び渡
米 協 会 は 東京 神 田 区 三 崎 町 三 丁 目一 番 地 の飯 田 町 の停 留 場 の通 りで旅 人 宿 三 崎 館 の横 で 元 大 日本 高 等
女学 会 の 跡 へ移 転 しま した(以 下 略)」 とあ る。
(49)『 読 売 新 聞 』 明 治38年6月6日
、5面 に 「
東 京 市視 学決 定
昨 日の 東 京 市 参 事 会 は 、(中 略)予
て問
題 た りし市視 学 二名 を 東 京 高 等 師 範 学 校 理 科 卒 業 生浜 幸 次 郎及 び 帝 国 大 学 文 科 卒 業 生 文 学 士 石 井 波 平
の 二氏 と決 定 した り」 と あ る。
(50)前 出 『大 家 庭 』 第3巻 第1号 、30頁 の 「大 目本 高 等女 学 会 規則 要 項 」 「
第二
本 科 教 育 部 」 に 、 「一
高 等 女 学講 義 は各 月 二 回(第 三 学 年 以上 は合 本 一 回)発 行 し正 会 員 に は無 代 に て 配 布 す(略)一
年限
修業
高 等 女 学講 義 に よ る修 学 年 限 は一 年 半 と して 之 を 四学 年 に分 つ 」 とあ る。
(51)『 教 育 界 』 第7巻 第11号(金
港堂
明治41年9月)に
は 、 「大 家 庭 三 ノ六
同 牛 込 区 白銀 町 一 九
大
日本 高等 女 学 会」 とあ る。
(52)『 先 世 』 第1巻 第7号(先
世社
『東 亜 之光 』第2巻 第7号(冨
明治39年5月)の
山房
広告 に は 、 家庭 楽 の 初 号 は2H21目
明 治40年7月)の
発 行 とあ る。
寄贈 書 並 雑 誌 目録 に は、「家 庭 の楽(十 六)大
目本 高 等 女 学 会」 とあ る。
(53)『 高 等 女 学 講 義 』第2学 年 第2号(大
学会 広 告 部 発 行 で定 価5銭
日本 高 等 女 学 会
広告 が あ る。大 日本 高等 女
、広 告 主任 に 品 田奥 松 とあ る。品 田奥 松 は、明治5年
牧 口 とは、 同 郷 の 一 年 年 下 。 明 治37年1月
越佐 と名 士 刊 行会
明 治38年12.月)に
に荒 浜 村 で 生 ま れ る。
に 上京 、 品 田広 告 社 を開 業 した(坂 井 新 一郎 『越 佐 と名 士 』
昭和11年 、540頁)。
(54)新 聞に 以 下 の よ うな 記 事 が 掲 載 され てい る。
明 治39年1.月21日
付 『日本 』
午後一時
三 崎 町 で女 芸 実 習講 話 、茶 の湯 、 差 し花 、 書 法 の 実 習 講 話
会 、 同 日付 『東 京 朝 日新 聞 』 本 日午 後 一 時
新 聞』 本 日午 後一 時
明 治39年3A18日
三 崎 町 同会 で 第 三 回女 子 技 芸 実 習 講 話 会 、 同 日付 『読 売
三 崎 町 同 会 で 第 三 回女 子 技 芸 実 習講 話 会
付 『東 京 朝 日新 聞 』
本 日午 後 一 時
神 田維 子 町東 亜女 学 校 で 第5回 技 芸 実 習 講 話
会(茶 の 湯 、挿 花 、習 字)
明治39年4月15目
付 『東 京 朝 目新 聞 』
明 治39年5月19目
付 『読 売 新 聞 』20日 午 後 一 時
本』
本 日午 後 一 時
安 藤 坂 同 会 で第 六 回技 芸 講 習 講話 会
安 藤 坂 同 会 で女 子 技 芸 実 習 講 話 会5月20日
午 後 一 時 、安 藤 坂 同 会 で実 習 会 開催 、 同 日付 『東 京 朝 目新 聞』
一64一
本 目午 後 一 時
付 『日
安 藤 坂 同会 で
創価教育研究第5号
第 七 回技 芸 実 習 講 話会
明 治39年6月17目
付 『日本 』
午後一 時
安 藤i坂同 会
同 日付 『東 京 朝 日新 聞』
本 日午 後 一 時
安
藤坂 同会 で第 八 回 技芸 実 習 講 話 会
明 治39年7月22日
修 の仕 方
付 『読 売 新 聞』
本 日午 後 一 時
付 『読 売 新 聞』
本 日午後 一 時
安 藤 坂 同会 で 女 子 技 芸 実 習 講 話 会
牧 口、 質 疑 自
担当
明 治39年7月22日
安 藤 坂 同 会 で女 子 技 芸 実 習講 話 会
『日本 の少 女 』 には 、 次 の記 載 が あ る。
明 治40年4月21日
第16回 技 芸 実 習 講 話 会
質 疑 応 答 及 び 講話 を 担 当(小 石 川 ・大 日本 高等 女 学 会)
明 治40年6月16日
第18回 技 芸 実 習 講 話 会
質 疑 応 答 及 び 講話 を 担 当(小 石 川 ・大 日本 高等 女 学 会)
明 治40年7A21目
第19回 技 芸 実 習 講 話 会
質 疑 応 答 及 び 講話 を 担 当(深 川 女 学 校)
明 治40年12月 発 行 の 『大 家 庭』 第3巻 第1号 表 紙 裏 に は 「
本 会 は創 立 以来 毎 月女 芸実 習講 話 を開 き 既
に第22回 」 とあ る ので 、 同 年10月 迄 の開 催 は確 認 で き る。
(55)大
日本 高 等女 学 会 の 滝 野川 観 楓 会 の 記 事 は 以 下 の新 聞 に掲載 され て い る。
『中央 新 聞 』
明治39年11月3日
運動会
大 日本 高 等 女 学 会 の観 楓 会
小 石 川 安 藤 坂 な る 同会 に て は 、本 目午 前十 一 時 王 子 瀧 の川 紅 葉 園 不 動
く
ママ ラ
寺 境 内 に於 て 、観 楓 会 を催 ふ 市 州 教 諭 、 浜 視 学 、 牧 口主 幹 並 に斎 藤 吊 花 氏 の趣 味 あ る 講 話 及 び 児 玉
日本 女 子 大 学 講 師 の 挿 花茶 儀 実 習 等 あ り余 興 と し て遊 戯 競 争 、音 楽 活 人画 福 引 等 を 行 ひ 売 店 の 設 備 も
あ りて
午 後 四時 閉会 の予 定 な り と入 場 は婦 人 に限 り入 場 券 三 十 銭
『や ま と新 闘 』
観楓 会
明治39年1L月5日
会
大 日本 高 等 女 学 会 に於 て は昨 三 日府 下 瀧 の川 不 動 寺 に 於 て観 楓 会 を催 し会 す る者 会 長 烏丸
伯 爵 を始 め会 員 約 三 百余 名 記 念 の 撮影 を為 し散 会 せ り
『東京 朝 日新 聞 』
明治39年10月31日
広告
来 る天 長 節 瀧 の 川 に 本会 観 楓 会 を開 く会 員 諸 嬢 来 会 あ れ講 話 余 興 大 福 引 等 あ り
『東京 朝 日新 聞 』
大 日本 高等 女 学 会
『読売 新 聞』
明治39年11月3日
明 治39年11月3日
会 一束
大 日本 高 等女 学 会 の観 楓会
『都 新 聞』
本 日午 前 十 一 時 王子 瀧 の川 不 動 寺境 内 にて 開 催
明治39年11月3目
今 明 目の 会合
大 日本 高 等 女学 会 観 楓 会(本
『国 民 新 聞』
集会
小石 川 の 同会 午 後 十 一 時瀧 の川 不 動 寺 境 内 に て観 楓 会 を催 す
日午 前 十 一 時 、瀧 の川 紅 葉 園)
明治39年11月3日
十 一E三
日(土 曜)
大 日本 高 等 女 学会 観 楓 会(前 十一 時)瀧 の川 紅葉 園不 動 寺 境 内
『目本 』
明 治39年10月31目
大 日本 高等 女 学 会観 楓 会
十 一 月 三 日王 子 瀧 の 川 紅 葉 園 不動 寺 境 内 に於 て 開会 午 前 十 一 時 よ り講 話
及 び 女 芸 実 習及 び余 興 等 あ る由
観 楓 会 が 行 わ れ た紅 葉 園 不 動 寺 の 場 所 につ い て 『滝 野 川 』 創 刊 号(昭
和58年
同 編 集 委員 会)所 収
の清 水正 之 「紅 葉 園 一 明 治 大 正 の 頃 の 滝 野 川 の 紅 葉 の実 態 」 に よれ ば 、新 聞記 事 中 の 「紅 葉 園 」 は 通
称 で あ っ て 、 正 確 には 滝 野 川 園 と楓 楽 園 の こ とで、 隣 り合 っ て お り、紅 葉 園 は 雑木 を 伐 採 し紅 葉 を植
え た とあ る。 明 治44年 の地 図 に、 滝 野川 園 が あ り、現 在 の滝 野 川 中学 校 の位 置 に存 在 す る。
次 に 、 新 聞 記 事 に共 通 の 「
不 動 寺 」 につ い て、 滝 野川 園 の 隣 に 正 受 院 とい う寺 が あ るが 、 同院 に電
話 を した が 、 不 動 寺 とい う言 い方 は 聞 いた こ とが な い との 返事 で あ っ た 。 しか し、 同 院 の 通 称 は瀧 不
動 で あ り、 不 動 寺 とは 、 正 受 院 を指 し、 そ の一 帯 に楓 楽 園 と呼 ば れ る紅 葉 を植 え た 公 園 が あ った の で
は な い か と推 測 され る 。
ま た 、 清 水 は、 紅 葉 園 に 隣接 す る石 神 井 川 の 上流 に 古 くか ら紅 葉 寺 と呼 ばれ る金 剛 寺が あ る と書 い
一65一
創 立者 の大 学 構 想 に っ い て の一 考 察(1)通
信 教育 部 開 設 構 想 とそ の沿 革
て い るの で、 紅 葉 園 は金 剛(紅 葉)寺 で は ない と思 わ れ る。
(56)牧
口が 大 日本 少 女 会 の主 幹 を兼 務 した 時期 の 『日本 の 少 女 』 は、 第4巻 第4号 、 第6号
、第7号
し
か現 存 して い な い の で 、新 聞 ・雑 誌 の新 刊 紹 介 等 の 大 日本 少女 会 の所 在 地 か ら現 時 点 で こ の よ うに 考
え た。
(57)牧
口が 主 幹 の 期 間 も、 大 西 琴 次 郎 が 『日本 の 少女 』 の 編 輯 兼 発 行 人 で あ る ので 、 牧 口 は、 編 集 の 責
任 ま で は と っ て は い な い 。 『日本 の少 女 』 は 、 明治38年6月
創 刊 。 目本 で 最 初 の 少 女 雑 誌 は 、 明 治35
年 創 刊 の 『少 女界 』 で あ る が 、2番 目は 、『日本 の 少 女 』 とな る(木 村 小 舟 『少 年 文 学 史 明 治 編
童話春秋社
昭和17年 、152頁)。 『日本 の少 女』 は、 第6巻 第3号(明
治43年3月)ま
上巻 』
で の継 続 が確 認
で き る。
(58)牧 口が 参 加 した こ とが判 明 した懇 話 会 は 以 下 の 通 り。 牧 口の肩 書 き は 、記 述 に従 っ た。
明 治40年2月11日
日本 橋 区懇 話 会
牧 口先 生 は ア イ ヌ の話 をす る
明 治40年2月24目
芝 区懇 話 会
明 治40年2月24目
赤 坂 区懇 話 会
閉会 間際 に 出席(青
明 治40年3月3目
本 郷 区懇 話 会
牧 口主 幹 が 太 閤 さま の話 をす る(日 本女 学校)
昭 和40年4月14目
横浜市懇話会
写真 掲 載(目
明 治40年4月21目
麻 布 区懇 話 会
牧 口主 幹 は 花 の 話 をす る(飯 倉 小)
明 治40年5月12目
京 橋 区懇 話 会
牧 口先 生 の お 話
明 治40年6月9日
深 川 区懇 話 会
(59)『 日本 の少 女 』 第4巻 第6号(大
牧 口先 生 出席(南 桜 小 学 校)
山幼稚 園)
ノ出 町3の69)
牧 口先 生 の お 話(深 川 女 学 校)
日本 少 女 会
頁 に は、横 浜 市少 女 懇 話 会 と して、 「
▲会 日
明治40年4月)。
同 第4巻 第4号(明
四月 十 四 日午 前 九 時
石 橋 エイ 方 」 に な っ て い る。 同第4巻 第7号(明
▲会場
治40年7月)、67頁
治40年4月)、79
横 浜 市 日ノ出 町三 ノ六 九
には、 「
前号の写真版第二頁 にあ
る横 浜 市 懇 話 会員 の 姓名 は 、 写 真 版 印 刷 の 際 取 落 と した か ら、 ここ に掲 げ て 置 き ま す 」 と して 、 牧 口
の名 と共 に石 橋 エイ の名 が あ るの で、 場 所 と 日 にち が特 定 で き る。
(60)小 夜 子 「
大 日本 高 等 女 学 会 大 会 参観 記 」『女 学 世 界 』第8巻 第3号(博
頁。 な お 、 『女 学 世 界 』 第8巻 第5号(博
文館
明治41年4.月)写
文館
明 治41年2E)、154-157
真 版 に は 、 「大 日本 高 等 女 学 会 記 念
会 」 と して、 この 時 の写 真 が 掲載 され てい る。
(61)附 属 女 芸 教 習 所 の 発 起 人 会 が 、明治40年10月12日
に 田端 日向邸 で行 われ て い る。 この 頃 に は 、「
危機」
を脱 す る道 筋 が 見 え て きて い る こ とか ら9月 以 前 と した。
(62)前 出、 『大 家庭 』 第3巻 第1号 、3頁 。
(63)前 出 、 『教 育界 』 第7巻 第5号 、122頁 。
(64)同 上 、121-122頁 に は 、 「
今 ひ とっ 女 芸 教 習 所 を 附設 し、 之 も全 く一 の 慈 善 事 業 と して 、 先 刻 御 覧 に
入 れ ま した 綿 細 工 と裁 縫 刺 繍 との 教 授 を始 めま した が 、 尚 引続 い て 産婆 、 簿記 と云 ふや うな もの を始
め て 、 学 費 の 乏 しい 女 子 に 無 料 で そ れ を教 授 し て職 業 に有 り付 か してや りた い と経 営 して 居 りま す 」
とあ る。
(65)前 出 「
本 会 並 に附 属 女 芸 教 習所 の趣 旨」 『大 家庭 』 第3巻 第1号 、4頁 。
(66)当 時 は 、 上 京 した 女 子 学 生 の 堕 落 した 行 動 が社 会 問題 に な り、廃 校 を 勧 告 され る 女 学 校 もあ っ た よ
うだ。牧 口 も、「
知 らず 各 毎 年 の初 め に 当 り東 西 よ り南 北 よ り汽 車 の 満 載 し来 る幾 万 の 女 学 生 中当 初 の
希 望 を遂 げ成 功 して郷 里 に 帰 る も の果 た し て幾 許 ぞ。斯 く して 自 ら都 会 学 生 の弊 風 も生 す るな り」 「
如
何 に して 女 学 の弊 風 を 防 ぎ つ つ 多 数 女 子 の 教 育 を普 及 して 其 の希 望 を満 た す か 」 と述 べ て い る(前
出
「
本 会 並 に附 属女 芸 教 習 所 の 趣 旨」 『大家 庭 』 第3巻 第1号 、2頁)。
(67)『 大 家 庭 』 第2巻 第1号 の 広告 チ ラ シ に は 、 中央 に 「日本 一 の 家 庭 雑 誌
誌 を 以 て 日本 一 と言 ふ か
時代 の智 識 を集 む
一 、 実 際 で 親 切 で 斬 新 で快 活 で誰 れ に も 分 る
大 家 庭 」 と して 「
何 故 に本
二 、 活 動 を 尚 び 平 和 を重 じ
三 、 家 庭 及 婦人 に 関す る どん な応 答 で もす る」 とあ る。
(68)『 高 等 女 学 講 義』 第2学 年 第1号(大
日本 高 等 女 学 会
一66一
明治38年12月)、
頁 は 各 科 目 ご とに つ い て い
創価教育研 究第5号
る。 本 文 中 の講 義名 はr外 国地 理 学 」、 牧 口常三 郎
(69)『 高等 女 学 講義 』 第2学 年 第2号(大
講 述 とな っ て い る。
日本 高 等 女 学 会
明 治39年1月)。
(70)同 上 。
(71)前
出、 「
本 会 並 に附 属 女 芸 教 習所 の 趣 旨 」 『大 家 庭 』 第3巻 第1号
月17、18、19日
、3頁 。 同28頁 に は 、 明 治40年10
に行 われ た とあ り、 演 説 の 日に ち は特 定 で きな い 。
(72)前 出 、 「
大 日本 高 等 女学 会 大 会 参観 記 」『女 学 世 界 』 第8巻 第3号 、154-155頁 。
(73)前 出 、『大 家 庭 』 第3巻 第1号 、37-38頁 。
(74)同 上 、29頁 の 「大 日本 高 等女 学会 規 則 要項 」 に は、 「
正会員
高 等 女 学 講 義 に依 り各 学 科 を 自修 す る
もの に して毎 月 金 四拾 銭 を納 む る者 」 とあ る 。
(75)『 教 育 界』 第10巻 第2号(金
港堂
明 治43年12月)、41-42頁
のK生
「
学 校 参観
東京市内の小学校廻
り」 で は 、 東京 市各 区の評 判 の よい 学 校 を回 っ た記 事 の筆 頭 に、 最 も字 数 を使 っ て紹 介 してい る。
(76)『 官 報 』第8362号(印
刷局
明治44年5月)に
国 定 教 科 用 図 書 ノ編 修 及 発 行 二 関 ス ル 事 項
は、 「
第 六 条 ノ三
ー
教 科 用 図書 ノ 調 査 、 検 定及 認 可 二 関 ス ル 事 項
三
二
図書 局 に於 テ ハ左 ノ事i務ヲ掌 ル
教 育 上 必 要 ナル 図 書 ノ編 修 及 翻 訳 二 関 ス ル 事 項
四
図書 ノ管 理 二 関 ス ル事 項
五
国語 ノ調 査 二関
ス ル 事 項 」 とあ る。
(77)『 明治 四 十 三 年 十 一 月 十 日調
口常 三 郎
(78)牧
文 部 省 職 員 録 』(文 部 大 臣 官房 秘 書 課
明 治43年)の
図 書課 属 にf牧
牛 、原 、三 ノ六 六 」 とあ る。 の ち に 図 書課 は 図書 局 に改 ま る。
口常 三 郎 『教 授 の 統 合 中 心 と して の 郷 土 科 研 究 』(以 文館
大 正 元 年)の 序言5頁
に は 、 「目下 は
国定 教 科 書 の 編纂 に従 事 して 、居 る も の 玉直 接 に教 授 の実 際 に 当っ て も居 らず 」 とあ る。
(79)富 士 見小 学 校 をわ ず か1年 余 で 病 気 を理 由 に 明治43年4月23目
に退 職 して い る が 、 明 治43年5月3
日発 行 の 『教 育 界 』 第9巻 第7号 に は 、 「
▲ 牧 口常 三 郎 氏 、文 部 省 編 集 局員 拝 命。 地 理 編 集 に従 事 」の
記 事 が あ る。 小 学 校退 職 前 に記 事 が書 か れ て い る。
(80)『 明治 四十 四年
(目黒 書 店
職 員 録(甲)』(内 閣 官報 局
明 治43年 、401頁)に
明 治43年)、578頁
に よ る。槙 山栄 次 『教 授法 の新 研 究 』
は、 「
然 る に一 方 に は 矢 津 昌 永 氏 志 賀 重 昂 氏 野 口保 興 氏 な どの 地理
くマ マ ラ
学者 が あ っ て人 文 地 理 学 の 方 向 に力 を 入 れ 、牧 口 常 次 郎 氏 の人 生 地理 学 が 盛 ん に行 はれ て を る と云
ふ状 態 で あ りま す 」、ま た 、 同書403頁 には 、 「
牧 口常三 郎 氏 の人 生地 理 学 は地 と人 生 の 関係 を説 明す る
科学 な り、 と定 義 を立 て ン居 りま す 」 と好 意 的 に 紹介 して い る。 同氏 『新 教 授 法 の原 理 及実 際 』(目 黒
書店
大 正6年)、362頁
では、「
牧 口常 三 郎 氏 の 人 生 地 理 学 の如 く 『地理 学 は地 と入 生 と の 関係 を説 明
す る 科 学 な り』 と狭 く解 釈 して 居 る の も あ る」 とあ る。 牧 口は 、体 系 出版 の後 、『学 習研 究』 第10巻 第
5・号(奈 良 女 子 高 等 師 範 学 校 附 属 小 学 校 学 習研 究会
昭 和6年5月)に
「
地 理 ・歴 史 教 授 の根 底 に於
け る 二大 問題 」 を寄 稿 してい るが 、 当 時 の奈 良女 子 高 等 師 範 学校 の校 長 は槙 山栄 次 で あ る。
(81)前 出、 『創 大 教 育 研 究』 第11号 、55-56頁 。
(82)同 上 、52-53頁 。 『神 戸 新 聞』 の斉 藤 生 「
『人 生 地 理 学 』 の 著 者 に与 ふ 」 に は、 「
足 下 は一 方 に於 て 、
学 に学 び 、 一方 に於 て 人 に学 ばん とす るか」 とあ る。
(83)東 京 高等 女 学 院 編 輯 局編 『家 政顧 問
家庭 教 師』(大 日本 高等 女 学 会 出 版 局
明治45年)、2頁
。
(84)「 去 れ ば往 昔 小規 模 に 、各 部 落 の 間 に な され た る 競 争 は 、今 や 大仕 掛 ケ の国 際 的競 争 となれ り。 是 に
於 てか 万 国 比 隣 、 国 と国 、人 種 と人 種 、虎 視 眈 々 、 荷 で も 間 隙 あ らば 、競 ひ て人 の国 を奪 は ん と し、
之 が 為 には 横 暴 残 虐 敢 て 檸 る所 に あ らず 、以 て所 謂 帝 国 主義 の理 想 に適 へ り となす 。(略)人
の 物 を盗
む もの は盗 と して罰 せ ら るSも 、 人 の国 を奪 ふ も のは 却 っ て強 と して畏 敬 せ ら るy時 世 にあ らず や 。」
(『牧 口常 三 郎 全集 』 第1巻
第 三文 明社1983年
、14-15頁)。
(85)「 人 道 的競 争 形 式 は 之 を今 目の国 家 間 に於 て 見 る能 は ざれ ど、生 存 競 争 場 裏 の 最 終 の 勝者 が 必 ず し も
経 済 的優 勝 者 に あ らず とは 現在 に 於 て も既 に思 想 発 達 の 或 る程 度 以 上 の者 に は認 識 せ らる 、所 な れ ば、
経 済 的 闘争 時 代 に 代 は つ て 次 ぎ に 来 るべ き も のは 人 道 的 競争 形 式 な らん とは 吾 人 の想 像 に 難 か ら ざ る
所 な り。 然 ら ば人 道 的 競 争 形 式 とは 如何 。(中 略)無 形 の 勢 力 を以 て 自然 に薫 比 す る に あ り。 即 ち威 服
一67一
創 立者 の大 学 構想 に つ い て の一 考 察(1)通
信 教 育 部 開設 構 想 とそ の 沿 革
の代 は りに心 服 を な さ しむ る に あ り。」(『牧 口常 三 郎全 集 』第2巻
(86)帝
第 三 文 明 社1996年
、398-399頁)
国 主 義 の 時 代 の 競 争 につ い て は、 建 部 遮 吾 の論 文(「 国 際 競 争 と帝 国 主 義 」(『日本 人 』第178号 、
政 教社
明 治36年1月
、86-90頁 と考 え られ る
を参 考 要 書 に 挙 げ て い るの で 、 建 部 の挙 げ た競 争 と
比較 す る。
建部遽吾
牧 口常三郎
(帝国主義に よる)軍 事的競争
軍事的競争
政治的競争
経済的競争
(帝国 主 義 に よる)経 済 的 競 争
(帝国 主 義 に よる)文 化 的 競 争
人道的競争
(87)東 京 専 門 学 校 出版 部 、 明治34年 出 版。 同書 は、 以 下 の 言 葉 で 結 ばれ て い る 。 「
今 日の如 き 国 際的 競 争
激 烈 な る 時 に 方 りて 永 久 平 和 の黄 金 時 代 を夢 想 す る は 迂 愚 の 畿(そ
し り)を 免 る可 らず と錐 も然 れ ど
も世 界 の 強 国 に して 共 同 利 益 の存 在 を認 め文 明 の進 歩 、 世 界 の 開 発 と云 ふ か 如 き大 事 業 に就 て は各 国
其 の利 害 の 衝 突 を患 ふ る の要 な き を知 らば鉱
相共 に人 道 の 勝 利 を歓 喜 す るの 時 の必 ず 遠 か らず して 来 る 可 き な り」(下 線 筆 者)。
(88)年 譜 牧 口常 三 郎 ・戸 田城 聖 編 集 委 員 会 編 『年 譜 牧 口常 三郎 ・戸 田城 聖 』(第三 文 明 社1993年)、156、
184頁 。
(89)「 『推i理式 指 導 算術 』 各 版 の 発 行 年月 日(判 明 分)」 本 紀要168-169頁 参 照。
(90)西 野 辰 吉 『伝 記 戸 田城 聖』(第 三 文 明社1985年)、99-100頁
に記 述 が あ る。 ま た 、 模 擬i試験 を 受 験
した とい う証 言 もあ る が 、詳 細 は不 明 。
(91)複 写 を閲 覧 した が 、実 物 の 所 在 は 不 明 で あ る。
(92)戸 田城 聖 の こ と。戸 田城 聖 『若 き 目の 手 記 ・獄 中 記』(青 蛾 書 房1970年)、72頁
戸 田雅 皓 に改 名 す
(城文 堂
昭 和4年)で
11版(城 文 堂
には、 「
戸 田晴 通 を
大 正 七 年 五 月 三 日」 とあ る。 戸 田城 外 『中等 学 校 入 学 試 験 の話 と愛 児 の優 等 化 』
は、 著 者 戸 田城 外 、発 行 者 戸 田雅 皓 と使 い分 け てい る。『推 理 式 指 導 算術 』第
昭 和7年)で
は 、 著者 戸 田城 外 、発 行 者 戸 田雅 皓 、 同 第34版(日
本小学館
昭 和9年)
で は 、 著 者 ・発 行 者 と も戸 田城 外 。 雅 皓 は 、城 文 堂発 行 の 雑 誌 、 単 行 本 の 発 行 者 名 と して使 用 され て
い る。 東 京 堂 編 『出版 年 鑑
昭和 九 年度 』(東 京 堂
く
ママ ラ
昭 和9年)、815頁
に は、 「
新 教 材 集 録 」、 「誠 文
堂 」、r品 川 区上 大 崎 三 ノ 三三 六」、 「▲進 展 環 境 に 留意 した 新 しい 教 材 雑 誌 」、 創 刊 年 月 は 、 「昭和8年
9月 」 とな っ てい る。誤 りか 。
(93)『 昭和8年9月
は、 「
城文堂
刊行
東 京 書 籍 商組 合員 図 書 総 目録 』(東 京 書i籍商 組 合 事 務 所
昭 和8年)、341頁
に
戸 田雅 皓 」 の項 目に 『進 展 環境 新 教 材 集 録 』 が 掲 載 され て お り、 「
牧 口常 三郎 編」 とな
って い る。
(94)『帝 国銀 行 会社 要 録
和9年10月
第26版 』(帝国 興 信 所
昭 和13年)、398頁 に は、「
株 式会 社 日本 小 学館
(95)児 童 の 村 生 活 教 育研 究 会編 輯=『生活 学 校 』 第1巻 第7号(扶
8号(扶
設立
昭
」 とな って い る。
桑閣
同 年8月)、21頁
桑閣
昭和10年7.月)、27頁
の交i換雑i誌欄 に 『新 教材 集 録 』が、第1巻 第9号(扶
桑閣
、 第1巻 第
同 年9月)、
20頁 に 『新 教』 が 出て い る(江 沢 敏 和 氏 の 調査 に よ る)。
(96)戸
田の編 著 、 監 修 は 一
一
一eeから除 い た 。
(97)「 『推理 式指 導 算 術 』各 版 の発 行 年 月 日」、本 紀 要168頁 参 照 。
(98)「 『推理 式指 導 算 術 普及 版』 各 版 の発 行 年 月 日」、 本 紀 要169頁 参 照。
(99)正 確 に は 、『小 学 生 目本 』、 『小 国 民 日本 』、 『少 国 民 目本 』 と併 記 す る か、 『小 学 生 日本 』 とそ の 後 継
誌 と表 現 す べ き とこ ろ を、『小 学 生 日本 』 で 代表 して記 述 す る こ とが あ る。
(100)こ の こ とに 関 して は 、 高崎 隆治 か らの 聞 書 き に よ る。
一68一
創価教育研究第5号
(101)例 え ば 、 『新 潟 目報 』 で は、 昭 和20年9月8日
か ら、 昭 和21年5月16日
ま で23回 掲 載 、 他 に 『神 戸
新 聞』、 『北 海 道 新 聞』、『熊 本 日 日新 聞 』、 『
京 都 新 聞 』、『中 部 日本 新 聞 』 で 確認 。
(102)1945(昭
和20)年10月8日
の 『朝 日新 聞』 の広 告 以 降 は、 東 京 市 神 田区 西神 田ニ ノ三 とな る 。
(103)1946(昭
和21)年5月3日
以 降 は 、『民主 主 義 大講 座 』 の広 告 が 掲 載 され て い る。
(104)『 人 間 革命 』第1巻(聖
教 新 聞社
昭 和40年 初 版)、117頁 。
(105)同 上 、141頁 。
(106)『 朝 日薪 聞 』 昭 和21年6月26日
、1面
の 広告 等 で は全6巻
とな っ て い る が、 出版 が確 認 で き る の は
5巻 ま で 。
(107)奥 付 が 日正 書 房 とな って お り、 裏 表 紙 が大 衆 社 とな っ て い る子 母 沢 寛 『起 上 り小 坊 主 』 が 昭 和20
年3月15日
(108)1946(昭
に発 行 され て い る。発 行 者 は、戸 田城 聖 。改名 が 同年7月
和21)年3月
とす れ ば 、発 行 年 月 日が誤 りか。
、創 価教 育学 会 か ら改 称。
(109)『 創 価 教 育 学 体 系 』 出版 以 前 の1929(昭
れ て い る。 ま た 、1930(昭
和5)年6月
和4)年
に 、『創 価 教 育 学 大 系概 論 』 と い う小 冊 子 が発 行 さ
に 出版 され た 戸 田城 外 著 『推 理 式 指 導 算 術 』 も11版 よ り前 は
未 見 で あ る が 、 初 版 よ り背表 紙 には 「
創 価 教 育 学 原 理 に よ る推 理 式 指 導 算 術 」 とな って い る と推 測 で
き る(『進 展 教材
環 境 』 第1巻 第9号 、 昭和5年11月
の 『創 価 教 育 学 体 系』 の広 告 に よる)。
(110)伝 記 、年 譜 で 新 堀 尋 常 小 学校 とあ るの は 不 正確 。新 堀尋 常 小 学 校 は 、浅 草 区小 島 町48に 存 在 す る(『東
京 府 市 学事 関係 職 員 録 』 帝都 教 育会
(111)『 新 教 材 集 録 』5月 号
宣 言(前
略)斯
昭和5年)、136頁
第4巻 第4号(日
本小学館
。
昭 和9年5月)、17頁
には 、 「日本 小 学 研 究 会
に 全 国 憂 国 俊 秀 の 教 育 研 究 家 参 集 し、 教 育理 論 、 実 際 教 育 技 術 につ い て 真 摯 な る研
究 、 批 判 、検 討 を な し、 是 れ を発 表 実 行 し柳 か 教 育 界 の 革 正 、 進 展 に 資 せ ん と して 、斯 に 日本 小 学 研
究 会 の結 成 を宣 言 す 。
また 、 同 号 、35頁
日本 小 学 研 究 会
事務所
東 京 品 川 区 上 大 崎 三 ノ三 三 六
時 習 学 館 」と あ る。
「
編輯室」には、「
氏 の論 文 は、 日本 小 学 教 青 撃 研 究 会 々 長 に して 曾 て 人 生 地 理 学 を
著 され し地 理 学 の権 威 牧 口常 三郎 先 生 の極 力 推 薦 され る所 に し て」(下 線 筆者)と あ り、牧 口が 、 日本
小 学 研 究会 の会 長 で あ った こ とが分 る。 そ の 詳 細 は今 後 の 研 究課 題 。
(112)『 東 京 中 央 電 話 局 電 話番 号 簿
理店
高橋 登女
昭 和14年4月1目
現在 』 には 、麻 布 区 内 で 菊水 とあ る の は 、 「
菊水料
麻 、 山元 、 五 七」 だ け で あ る。
(113)金 子 貞 子 は 、 「
『将 来 、 私 が研 究 して い る創 価教 育学 の学 校 を必 ず 僕 が 、僕 の 代 に設 立 で き な い と き
は、戸 田君 の 代 で 作 る のだ と、小 学 校 か ら大 学 ま で 私 の研 究 して い る創 価 教 育 学 の 学 校 が で き るの だ 。』
と しき りに お っ し や っ て い ま した 。」 と語 っ て い る(『 牧 口 常 三 郎 全 集 月 報4』
年 、6頁)。
、 第 三 文 明 社 、1982
こ の話 の 時期 に つ い て 、 月 報 には 触 れ て い な い が 、 金 子 は 、 「あ の お話 は 、 昭 和 十 四年 四
月 の こ とで す 。縁 あっ て 私 が 牧 口先 生 の三 男 ・洋 三 と結 婚 した 翌 月 の 歓 喜 寮 の座 談 会 で の こ とで した 。」
(「聖 教 新 聞」1999年9月21日
付 、5面)と
伊 國 屋 書 店 ビデ オ 評 伝 シ リー ズ
書 い て い る 。牧 口 の創 価 大 学 に つい て の金 子 の証 言 は、 紀
学 問 と情 熱 第33巻 の 『牧 口常 三 郎
に収 録 され て い る。 ま た 、小 平 芳 平 も、1955(昭
和30)年11月3日
こ ど もた ち の しあ わ せ のた め に』
、 後 楽 園球 場 で お こな わ れ た創 価
学 会 春 季 総 会 にお い て、 「
か っ て先 代 の会 長 牧 口先 生 が絶 えず 、創 価 大 学 、総 合 大 学 とい う事 を 、お 話
にな って 居 られ ま した が 、 そ の 総 合 大 学 の 実 現 、 総 合 大 学 の建 設 も必 ず や 間近 い もの と、確 信 して や
ま な い も の で あ ります 」 と述 べ て い る(『 聖 教 新 聞』 昭和30年11月13日 、2面)。
(114)和 光社 、聖 教 新 聞社 か ら出版 され た 『戸 田城 聖 全集 』 に は、 と も に大 学 構想 に つ い て の 記 述 が 見 当
た らな い。
(115)池
田大作 『若 き 日の 目記1』(会
(116)池
田大作 『新 ・人 間 革命 』 第15巻(聖
(117)詳
し くは 、伊 藤 貴 雄
研 究 』 第4号(創
長 就 任 七 周年 記 念 出 版委 員 会
教i新聞社2006年)、106頁
昭和42年)、120頁 。
。
「
『
少 年 目本 』 掲 載 の 山本 伸 一 郎 『ペ ス タ ロ ッチ』 に つ い て(1)」
価 教 育 研究 セ ン タ ー2005年)、31-62頁
(118)『 少 年 日本 』10月 号 の 広告 が 、 『朝 日新 聞 』9H8日
一69一
『創 価 教 育
。
付 、 『読 売 新 聞』9月3目
付 に 掲載 され て い る
創 立者 の大 学 構 想 につ い て の一 考 察(1)通
信 教 育部 開設 構想 とそ の沿 革
の で、10月 号 の 発 行 は、9月 上 旬 と考 え られ る。
(119)前 出 『新 ・人 間革 命 』 第15巻 、108頁 。
(120)同 上 、108頁 。
(121)池 田大 作 『新 ・人 間革 命 』 第12巻(聖
教 新 聞社2004年)、308頁
。
(122)創 価 学 会 学生 部 に、 高 等 部 の設 置 が発 表 され た の は、1964(昭
和39)年6月1日
、 男 子 部 幹 部会 の
とき で あ る。 創 価 大 学 の設 立構 想 発 表 と 同時 期 とい うの は 興 味深 い。
(123)創 立 者 は、 こ の 時、 「将来 、 公 明 党 が 軌 道 に乗 り、 ま た 、 正 本 堂 が建 立 され た 暁 、 そ れ 以 降 に」 と
述 べ て い る。 正 本 堂 建 立 は 、1972(昭
和47)年10月
で あ るか ら、1973(昭
和48)年
以 降 に創 価 大 学 開
学 を考 え て い た と思 わ れ る。 前 出 『新 ・人 間 革命 』 第15巻 に は 、 「当初 、 大 学 の 開 学 は73年(昭
年)に す る と の 計画 も あ っ た が 、 高 校 の 一 期 生 が 卒 業 す る71年(昭
た の で あ る」(109頁)と
和46年)に
和48
、 予 定 が繰 り上 げ られ
ある。
(124)『 聖 教 新 聞』 昭 和43年3月10目
、1面 に は、 「当初 、 昭和 四十 七 年 開 校 の 予 定 に な っ て い た が、 高 校
の 開校 を前 に各 方 面 か らの 要 望 が 一 段 と強 く な り 『昭 和 四十 六 年 の 開 校 を 目指 して 検 討 を 進 めて は ど
うか 』 との池 田 会長(審
議 会 長)の 提 案 に基 づ き、 これ に とも な う組 織編 成 の 大 綱 が 発 表 され た 」 と
あ る。
(125)高 瀬 広 居 は 、1962(昭
和37)年
の創 立 者 へ のイ ン タ ビュ ー で 「
将 来 学 会 は学 校 をっ く ら な けれ ば な
らな い と思 っ て い ま す 。 三 百 万 世 帯 の学 会 員 の方 々 に ど し ど し勉 強 して も ら って 、 新 しい 文 化 の担 い
手 に な っ て 貰 うの です 」(『第 三 文 明 の宗 教』弘文 堂
昭和37年 、127頁)と 聞 い て い る。この 発 言 に は、
既 に社 会 人 も学 べ る学 校 とい うイ メー ジ が あ った の で は な いか 。
(126)池 田大 作 『
新・
人 間革 命 』 第14巻(聖
(127)1966(昭
和41)年
(128)『 聖 教 新 聞 』 昭 和41年3月30日
(129)1966(昭
和41)年
教 新 聞 社2005年)、10-11頁
。
の大 学 ・短 期 大 学進 学 率 は16,1%。
、2面 。
の10大 学 合 計 の 卒業 生数 は、2,171人(文
(130)『 聖 教 新 聞 』 昭 和44年8月17日
部 省 『学 校基 本 調 査 』 に よる)。
、1面 。
(131)『 聖 教 新 聞 』 昭 和45年12月25日 、1面 。
(132)前 出 、岡安 博 司 「
創 価 大 学 の 開学 を語 る一 創 立者 の大 学 構 想 を 中 心 に一 」(『
創 価 教 育研 究 』第4号)、
178頁 。
(133)「 開設20周 年 特別 寄稿
部1995年5月)、4頁
真 の教 育 は働 き 学 ぶ人 生 の 中 に」 『学 光 』第20巻 第2号(創
価 大 学 通 信教 育
。
(134)前 出、岡安 博 司 「
創 価 大 学 の 開 学 を語 る一 創 立者 の大 学 構 想 を 中 心 に一 」(『
創 価 教 育研 究 』第4号)、
182-183頁 。
(135)池 田 大作 『池 田・名
誉 会長 の青 春 対 話II③ 一21世 紀 の 主役 に語 る一 』(聖 教 新 聞社1999年)、34頁
(136)同 校 に つ い ては 、 『開成 ・昌平 史』(開 成 ・昌平 史 編 集委 員会1991年)参
(137)『 牧 口常 三郎 全 集 』 第5巻(第
三文 明社1982年)、94頁
(138)『 牧 口常 三郎 全 集 』 第6巻(第
三文 明社1983年)、156-157頁
(139)前 出 、『牧 口常 三 郎 全 集 』第6巻
。
照。
。
。
、212頁 。牧 口は 、『創 価 教 育 学 体 系 』 の緒 言 に お い て、 戸 田の 『推
理 式指 導 算術 』 が 、創 価 教 育 の実 証 で あ り、 先 駆 で あ る と称 え る に あ た り、 デ ンマ ー クの 国 民 高 等 学
校 に お け るグ ル ン トウ ィ ッ ヒ と後 継 者 コ ール ドの例 を あ げ て い る(前 出 、『牧 口常 三 郎 全 集 』 第5巻 、
9頁)。 学 校 教 育 だ け で な く、社 会 人 の生 涯 学 習 に 目配 り を して い れ ば こそ 、 こ の記 述 が 生 ま れ た の で
は な いか 。
(140)『SOKAUNIVERSITYNEWS10号
』(創 価大 学1996年7月)、3頁
(141)月 瑞 子 「
半 日学校 」 『教 育 報 知 』 第637号(東
京 教 育社
。
明治33年)、12-14頁
。
(142)「 第13回 教 育 茶話 会」 『教 育 界 』 第5巻 第5号(金
港堂
明治39年3月)、60-61頁
。
(143)「 第17回 教 育 茶話 会」 『教 育 界 』 第5巻 第9号(金
港堂
明治39年7月)、62-63頁
。
一70一
創価教育研究第5号
(144)『 教 育 研 究 雑 誌
小 学 校 』 昭和8年6月
一
号(教 育 学 術 研 究 会)、86-87頁
に 、 戸 田 がイ ン タ ビ ュー に
答 え て 、 小 学 校 長 登 用 試 験 制 度 の実 施 、 視 学 制 度 の 廃 止 と と も に、 半 日学 校 制 度 論 に つ い て 述 べ て い
る。
(145)『 大 白蓮 華 』 第50号(聖
教新聞社
昭 和30年7.月)、1頁
。
(146)天 野 郁 夫 、喜 多村 和 之 訳 『高 学 歴 社 会 の大 学 一 エ リー トか らマ スへ 一 』(東京 大学 出版 会1976年)、
194-195頁 の 「
高 等 教 育制 度 の段 階移 行 に とも な う変 化 の 図 式 」
。
(147)館 昭 『大 学 改 革
日本 とア メ リカ 』(玉 川 大 学 出 版部1997年)、19頁
ア メ リカの 大 学 類 型(1994年/3,595校)」
の 「
カ ーネ ギ ー分 類 に お け る
。
(148)池 田大 作 「
聡 明 な る庶 民 の 学 士 たれ 」 『学 光 』100号 記 念 号(創 価 大 学1984年)、2-3頁
(149)悠 木 夏 文 『シ リー ズ大 学 は 挑 戦す る
創 価 大 学 』(栄 光教 育文 化 研 究 所1996年)、272頁
。
。
(150)同 上 、203-204頁 。
(151)森
年)の
田希 一 は 、 共 著 『「
援 助 」 す る学 校 へ 一 学 び の 援 助 活 動 と して の 教 育 実 践 一 』(川 島 書 店2001
「
第5章
『学 び 』 の 『援 助 』 を め ざ した 学 校 改 革 一 現 代 の さま ざま な実 践 例 」 の な か で 、創
価 大 学 ・通信 教 育 部 の ス クー リン グ の教 壇 に 立 っ た 経 験 を、 「
『学 び 』 の 『援 助 』 を め ざ した 学校 改 革
の 実践 例 」 と して 紹介 してい る。
(152)前 出、 『シ リー ズ 大学 は挑 戦す る
創 価 大 学 』、91頁 。
(153)私 立 大 学 通 信 教 育 協 会 の ホ ー ムペ ー ジ(http://www.uce,or.jp)に
行 っ て いな い 。
(154)「 創 価 一 貫 教 育会 議 ス ピー チ 」『聖教 新 聞』2002年12月12日
一71一
、3面 。
よ る。 但 し1短 大 は学 生募 集 を
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