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小川暁夫 宮下博幸 - 関西学院大学出版会

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小川暁夫 宮下博幸 - 関西学院大学出版会
K O T
No.37
2014
O
W
A
R
I
対談(前編)
言語研究の多様性
小川暁夫
×
宮下博幸
関西学院大学出版会
KWANSEI GAKUIN UNIVERSITY PRESS
夏の祝祭と太田省吾の演劇上演
ウ
ド
西堂行人
はるか向こうに佇む山の稜線が闇夜の中にゆっくりと沈んでいく。その時を見計
らうかのように、劇は終演を迎えた。
チエジユド
キム・アラ
韓国の済州島からフェリーで二十分ほど渡ったところにある牛島という小島で、
この夏、一本の野外劇が上演された。太田省吾作、金亜羅演出の『地の駅』である。
太田省吾は、一九六〇年代 後半以降に起こった演劇革 命の担い手の一人であり、
年に死去したが、死後六年経っても、太田の人気は衰えを知らず、彼の作品はさま
コトワリ
もくじ
No. 37
2014
巻頭エッセイ 夏の祝祭と太田省吾の演劇上演 西堂行人 —2—
ユニークな沈黙劇を追求した前衛的な演劇作家として知られている。彼は二〇〇七
ざまな地で上演されている。彼の独特の作風と実験的な方法論は、本人が死してな
とができた。その一本が、牛島で観た『地の駅』である。
おますます重要さを帯びてきたと言えるだろう。この夏もいくつかの舞台を観るこ
この舞台は一九八五年、宇都宮にある大谷石の採掘場跡で初演された。地下深い
廃墟の中、廃品の堆積した黒山を背景に十数名の男女が黙々と歩き続ける。今回の
うに、日が暮れるまさにその時を終演時間に設定したのである。この山は、後で気
亜羅版では、こんもりと盛り上がった山の上で上演された。しかも冒頭に記したよ
づいたことだが、土葬という習俗の残る韓国では、墓山なのである。
か
山にたどり着いた俳優たちは長いつづれ折の道中をもつれながら歩行し、最後に
頂点に登りつめる。観客はそこで、彼の地に旅立つ人生のメタファーを見ることに
なる。妊婦が花嫁衣装を着て登場する。観客はどんな事情が彼女にあるか知らない。
2
黙劇は、観客に言語情報を与えない分、かえって観客の想像力を拡げていく。
だが各々、登場人物の人生というストーリーに連想を羽ばたかせるのだ。太田の沈
最終日はビヨン島という浮島で、早朝の干潮時を待って、即興版が上演された。
朝五時半という開演時間は、わたしのこれまでの観劇体験にもなかったものだ。そ
沈黙劇で知られる太田は、他方で、セリフ劇の名手でもある。九月に金沢の市民
して今度は、日の出とともに終演を迎えたのである。
芸術村で、
「太田省吾ドラマティック・リーディング」が行なわれた。太田の『小町
くしてみる」という太田の言葉から触発されたオ
リ ジ ナ ル 作 品 ま で 四 作 品 が 上 演 さ れ た。 会 場 と
家屋であり、この静謐な空間の中で、太田の選び
なった「里山の家」は古い民家が移築された日本
抜かれた言葉が語られた。決して熱狂的でない彼
対談(前編) 言語研究の多様性 小川暁夫×宮下博幸 連載 世界から 第 回 カタルーニャへの旅 海老坂武 高島千代 自著を語る 『プトレマイオス王国と東地中海世界』 波部雄一郎 連載 差異の詞典
営業部だより
され た 味 わいが あ り、詩 的 な 感 興 に 溢 れていた。
【怒りと「頓智」】 が あった。 太 田の死 後 も一向 に 消 えや ら ぬ“ 熱 ”
にわたしの内部で静かに動くものがあったのだ。
夏 の 祝 祭 に 太 田 省 吾 の 劇 は、 た し か に よ く 似
合っていた。
(演劇評論家、
近畿大学教授 に しどう・こうじん)
—3—
8
そこには、人生の淵から見返された“祝祭”の熱
の言葉は、死と直面した人生のエッセンスが凝縮
12
4
14
15
16
風伝』をはじめ、
『棲家』や『千年の夏』など珠玉の名品と並んで、
「なにもかもな
『地の駅』
写真 イム・ジョンジン
かずひこ
こうちやくご
つ単語を竹を並べていくようにして文を
つくっていきます。日本語は「膠着語」
際は厳密なタイプ分けは不可能で、一つ
詞など、まさに「膠」で言語単位を糊づ
田村 言語類型論に興味を持たれたきっ
かけを教えてください。
宮下 僕は昔から言葉が好きで、いくつ
かの言葉を勉強していくうち、その共通
の言語の中でも混在しているのですが。
ニカワ
とされ、動詞や名詞の後に、助動詞や助
性や違うところが見えてきて、漠然と面
て総合的と分析的という二つのタイプ分
宮下 それをさらに体系化したのがシュ
レーゲルです。彼は世界のことばについ
けするように文を組み立てます。でも実
白いなと思っていたのですが、それを学
問分野として扱っていたのが言語類型論
んな人たちがどんな環境でそのことばを
けをしたことで有名です。たとえば、た
でした。言葉を勉強するときにはまたど
話しているかを想像するのも楽しいんで
いていのヨーロッパの言語は、動詞自体
すよね。
に人称語尾をつけて主語の人称が何であ
るかを示します。つまり動詞に人称の情
報が融合しているんですね。このような
折語」で、主語が変わると動詞が人称や
小川 簡単に言えば、言語のタイプ分け
です。たとえばヨーロッパの言語は「屈
す。つまり人称の情報が動詞から切り離
合には主語があってはじめてわかりま
けないため、主語の人称は文脈がない場
て日本語では動詞に人称を表す形式はつ
田村 言語類型論とは、どういったもの
なのでしょう。
時 制 な ど に よ っ て 変 化 す る。 中 国 語 は
特徴が総合的と呼ばれます。それに対し
「 孤 立 語 」 で、 漢 字 な ど 単 独 で 意 味 を 持
—4—
対談(前編)
言語研究の
多様性
あき お
関西学院大学出版会では現在、ベルント・ハ
イネ著
『言葉はなぜ今のような姿をしている
のか』
(仮)
の翻訳出版を進めている。多様な
言語の中に、人間の言語としての普遍性を見
いだせるのではないかと、日々研究を重ねて
いるお二人に話を聞いた。
お がわ
小川 暁夫
ひろゆき
関西学院大学教授(対照言語学、言語類型論)
みやした
た むら
和彦
関西学院大学教授(ドイツ文学)
聞き手 田村
関西学院大学教授(ドイツ語学、認知言語学)
宮下 博幸
×
分析的とよばれるものです。
されているわけです。このような特徴が
いるのかは、言語の多様性を見せてくれ
にある世界と言語がどのように関係して
のありかたとリンクしている。人間の外
はとても難しいのです。
りないのです。特に、言語と方言の区別
ごとに異なっていますから、多様きわま
見を経て、人間の言語の普遍性に行き着
ていました。さまざまな言語タイプの発
いかということも、類型論学者は察知し
て何か普遍的なものが必ずあるのではな
小川 そうした形式的な面ももちろん重
要ですが、その背後には、人間言語とし
りを探ることが現代の言語類型論の一番
論と認識論のインターフェイス。その辺
ランドデザインを持っているのか。文化
ある言語能力と、普遍文法がどういうグ
です。人間の認識の様式、人間の内側に
普遍性に着目すると、これは認知の問題
せよこれらを含めると、言葉の数は天文
情は社会言語学の対象ですが。いずれに
る言葉の変種があります。こういった事
とオジサン言葉など、世代や社会層によ
葉にもさらに男言葉と女言葉、若者言葉
宮下 どれくらい通じ合えるかという点
も明確な基準にはなりません。一つの言
ます。一方で、人間の言語が持つ機能の
くために、十九世紀の終わりにガーベレ
学的ですね。
面白いところです。
語に現れてくるかを考えたとき、その根
点を置き、それがどういうかたちで各言
す。 現 在、 世 界 に は お お よ そ 七 千 か ら
ば い け な い の で す が、 そ れ は 不 可 能 で
のです。本当はすべての言語をみなけれ
小川 一つの言葉だけを研究してそこか
ら普遍的なものを導き出すことは難しい
れていたのではないでしょうか。
在の「普遍性」とは少し違う意味で使わ
遍」といったものが想定されていて、現
十 九 世 紀 頃 に は「 ヨ ー ロ ッ パ 基 準 の 普
田 村 「 普 遍 文 法 」 が 一 つ の キ ー ワ ー ド
に な る と 思 い ま す。 し か し、 お そ ら く
源は一つではないかという問いが立てら
八千の言語があると言われ、それぞれに
言葉の普遍性
ンツなどが考えていたことは、その意味
的・機能的な側面です。人間の言語が持
つ意味機能には多くの共通点があり、そ
れがさまざまな言語形式に顕在化してい
れるのです。言語類型論はまた文化論的
るのではないか。人間の言語の働きに重
な広がりも持っています。言語を使う人
多くの方言があります。同じ言語も時代
小川 ヨーロッパ基準といえるかどうか
間と、人間が言語生活を営む社会や文化
—5—
の文法を構築していくという経験論的な
考えかたです。対してチョムスキーは、
人間はもともと言語能力を生得的に有し
て生まれ、そこに刺激を与えることで、
個別言語のデザインが自動的に決まるシ
ステムになっているのだと考えたので
す。同じ日に同じ病院で生まれた子ども
は、違う家庭環境の中で育っていくけれ
ど、私たちが外国語を教科書で学ぶかの
ピアジェは、人間は経験によって言語を
論争というのがありました。心理学者の
キーです。昔、ピアジェ・チョムスキー
ず結びつく言語学者はノーム・チョムス
は難しいのですが、普遍文法といってま
うとしてもなかなか習得できません。ス
あり、その年齢を超えて言語を勉強しよ
ています。そこには臨界期というものが
しかし、その言語習得期は非常に限られ
きるのかという問題提起をしたのです。
を、驚くほど短期間で習得することがで
困」の中から言葉の全体的な文法体系
チ(具体的なものから抽象的なものを導
にある原理を考えるのは帰納的アプロー
てその実態から推論しながら、その背後
です。ピアジェのように、言語を観察し
基本的な原理はまったく異なっているの
す ね( 笑 )。 母 語 習 得 と 第 二 言 語 習 得 の
のです。私たちも苦労しているところで
で、別の方法で言語を習得しようとする
—6—
ように文法を項目順に勉強していくわけ
ではありません。与えられるデータは不
完 全 で 不 十 分 で す。 そ れ を「 刺 激 の 貧
構築する枠組みを組み立てると考えまし
イッチが固定化されてしまっているの
困」とよび、なぜそのような「刺激の貧
た。そこには人間の認識能力の支えがあ
田村 和彦
り、認識能力とタイアップしながら言語
小川 暁夫
く)と言っていいでしょう。普遍文法を
ものでした。
くっていくのかを示していて、興味深い
中で生まれてきた認知能力の普遍性とい
んがおっしゃった、環境との相互作用の
ものは知ることができないというので
得するための装置があり、それが普遍性
は、ヒトには先天的に脳の中に言語を習
宮下 先ほど小川さんが触れていました
が、生成文法的な普遍文法の考えかたで
が、言葉が今のような姿をしているのに
が ら、 ど ん な 空 間 で 生 活 し て い る の か
身体を持ち、どのように環境に関わりな
この立場に立つなら、人間がどのような
う考えかたとはかなり違うものですね。
考えている人たちは、演繹的アプローチ
(抽象的なものから具体的なものを導く)
す。つまり普遍文法は言葉そのものを見
大 き く 関 わ る こ と に な り ま す。 ベ ル ン
と言えます。実態を見ても、背後にある
ていても解明できないということです。
を持っているのだと考えますが、田村さ
ト・ハイネが強調しているのもこのよう
その謎が学問的な魅力なのです。
の で は な い か と 思 っ た の で す。 ユ ク ス
力こそが、言葉に接するときの普遍性な
読んで、人間という動物がもつ認知の能
はなぜ今のような姿をしているのか』を
田村 関西学院大学出版会で翻訳出版を
進めている、ベルント・ハイネの『言葉
文法的な言語学とに分けることができる
それがどう発現するかを問題とする生成
おいて、まずヒトの言語能力を仮定し、
ういう機能を持っているかはとりあえず
の言葉の機能面に注目する言語学と、ど
言語学のように環境との相互作用の中で
立場でもあります。今の言語学は、認知
—7—
な点です。これが認知言語学の基本的な
キュルの『生物から見た世界』は、生物
と思います。僕の関心の中心は認知言語
ヒトの環境との関わりや認知の問題を
類型論的な視点から、言葉に反映された
学的なアプローチで、ハイネの本は言語
にはそれぞれの環世界があるとし、認知
に触れたときにどう反応して言葉をつ
の表し方は、生物としての人間が外世界
わせて論じています。数の使い方や方位
能力と外界をどう認識するのかを組み合
宮下 博幸
言語普遍性の存在
語研究の側から迫っていくんですね。
物として環境の中で生きているヒトに言
の仲間と翻訳しました。認知言語学は生
にコミュニケーションを円滑にしている
に区別しているのです。言葉自体が自然
ます。つまり離れた母音同士で音を明確
小 川 「 あ 」「 い 」「 う 」 は い わ ゆ る「 母
音の三角形」のそれぞれの頂点に位置し
母音がないのです。
も そ う で、「 あ 」「 い 」「 う 」 の 三 つ し か
宮下 最も母音が少ない言語では、母音
は二つか三つしかありません。琉球方言
も当てはまります。
ヨーロッパの言語にも、そして日本語に
う で は あ り ま せ ん。 こ の 含 意 関 係 は、
複も区別しますが、その逆は必ずしもそ
の 単 複 を 区 別 す る 言 語 は、「 ヒ ト 」 の 単
いれば、その言語は必ず特徴Yも持って
す。つまり、ある言語が特徴Xを持って
類 型 論 で は「 含 意 的 普 遍 性 」 が 重 要 で
きたいと考えています。その点、機能的
小川 私が興味があるのは、人間言語の
プ ロトタイプ
原 型 です。原型とは形式的な意味では
とも言えます。
扱っているので、特に面白いと思って他
なく、普遍性といわれるものです。機能
や [m]
もそう
[p]
ですね。ですから、パパやママが「世界
子音としては、歯茎音の [t]
や [d]
が挙
げられます。ほとんどの言語にこの音が
子音は息を遮断して出す音で、典型的な
ものが圧倒的に多いのです。
に関しても、主語が前、述語が後にくる
ないことばもありますが。他にも、語順
宮下 また世界の言語には必ず名詞と動
詞があります。形容詞や副詞はほとんど
たち」「少年たち」「先生たち」も大丈夫
ますね。「人たち」と言えますし。「僧侶
単複の区別ははっきりしています。それ
ら。人称代名詞については、日本語でも
で「私たち」を表すことはできませんか
宮下 つまり日本語でも「ヒト」は単複
の区別をするということですよね。「私」
い の は 単 数・ 複 数 の 区 別 で す。「 モ ノ 」
いるという、連動関係です。わかりやす
類型論では、人間の言語には、すべての
あるのです。 両唇音の
小 川 こ れ ら は 言 葉 の 原 型 の 一 端 で す
が、多くの言葉を比べることによって普
言語に通底する特徴があると仮定してい
語」であることにはそれなりの理由があ
遍性を精密化し、個別性を理由づけてい
ます。子音と母音を例にとりましょう。
るのです。それに対し、息の遮断の少な
トの場合は「たち」や「ら」がつけられ
に対して他の名詞はどうでしょうか。ヒ
い子音は言語によってまちまちなのです。
—8—
たち」は厳しい。その中間にあるのは、
です。しかし「机たち」「椅子たち」「窓
ところだと思います。
ような側面が言葉を研究する上で面白い
イナミックな面が見え隠れします。この
主語(S)動詞(V)目的語(O)の語
論の研究も重要ですね。世界の言葉の、
類型論学者のグリーンバーグの語順類型
宮下 田村さんの言うように、親近感、
あるいは擬人化が関係しているかもしれ
(笑)。
小川 そこに言葉の柔軟さとロマンチス
ト・ 田 村 さ ん の 両 面 が 出 て い ま す ね
達は呼応関係にあります。これも普遍的
きりしている。単複の区別と分類詞の発
ています。そのかわり単複の区別がはっ
詞を数えるとき a cup of water
という言
いかたもしますが、一部のものに限られ
類詞があまり発達していません。物質名
というものです。ヨーロッパの言語は分
日本語学では助数詞、一般的には分類詞
本」「三台の車」「三匹の子豚」と言う。
ま す。「 三 の 本 」 と は 言 え ず、「 三 冊 の
小川 日本語は単複の区別がヒトに限ら
れていますが、数え始めると難しくなり
す。英語を勉強していると前に形容詞が
こ と が 多 い。 フ ラ ン ス 語 は そ の 典 型 で
語型のSVOは形容詞が名詞の後にくる
形容詞が名詞の前にくる言語が多く、英
のです。たとえば、日本語型のSOVは
詞の語順が関係していることを発見した
め、それぞれのSVOやVSOという語
です。グリーンバーグはさらに調査を進
が、三つに絞られるだけでも面白いこと
わせからすれば六タイプあるはずです
で、残りの一〇%がVSOです。組み合
数は英語型のSVOか日本語型のSOV
順を調べたところ、だいたいSVO、S
ヒトとモノのあいだにある動物などです
ま せ ん。「 犬 た ち 」「 猫 た ち 」 も、「 椅 子
な 含 意 関 係 で す ね。 な ぜ そ う な の か。
です。このような文の語順と他の語順と
的に見るとそれは少し変わった現象なの
順と、形容詞と名詞の語順や、副詞と動
OV、VSOの三つになりました。大多
た ち 」「 机 た ち 」 よ り は い い よ う な 感 じ
「ことばで数えること」のとても不思議
ね。
がする。その犬や猫に親近感を持ってい
くるのが普通のように思いますが、世界
田 村 「 星 た ち 」 は ど う で し ょ う? モ
ノより親近感があります。
る人であれば、なおさら言いやすいかも
な一面です。
宮下 含意普遍性といえば、二〇世紀の
しれません。このように実際に言葉を使
うときには、対象とのさまざまな距離に
よって、言葉を柔軟に適合させていくダ
—9—
るのかですね。
普遍性がどういう形でつながりあってい
的に内在する言語能力と、世界の言語の
面白いところです。つまり、人間に遺伝
こを総合的に考えていくのが言語研究の
の研究が乖離しているわけではない。そ
必ずしもチョムスキーとグリーンバーグ
言えます。アプローチは違うけれども、
言語を習得するという考えにも通じると
何らかの刺激を受けた子どもが自動的に
す。そうすると、チョムスキーの、脳に
ると思います。ヨーロッパでも有名な言
も、もう少しきっちり議論する必要があ
日本語に人称変化がないのかという問題
言わなければいけない。ですから本当に
い だ よ 」「 行 き た い と 言 っ て い る よ 」 と
の友達について言うなら「行きたいみた
と言ったら「私」が行きたいのです。私
ものです。「来年ヨーロッパに行きたい」
となります。これは人称制限といわれる
だよ」「ケンタがお腹、痛がっているよ」
で は な く、「 ケ ン タ は お 腹 が 痛 い み た い
ついて言うなら「ケンタはお腹が痛い」
が痛いかは決まっていますね。第三者に
す。「 お 腹 が 痛 い 」 と 言 え ば、 誰 の お 腹
情表現や感覚表現で多く見られるので
すが、日本語にも類似の現象は、特に感
小川 日本語はヨーロッパの言語などと
違い、人称変化がないといわれます。で
だけますか。
日本語の特徴について、さらにお話いた
トナム語などにもこのような広がりが見
合わせがあったのです。また中国語やベ
語が義務と推量の意味を表すという組み
用法があります。日本語でも以前は同じ
にも、やはり当為もしくは義務と推量の
ないかと思いますが(笑)。この「べし」
出てきます。受験のときに習ったのでは
本語の古文では「べし」という助動詞が
たことではないんですね。たとえば、日
見えますね。でもこれはそんなに変わっ
本人の学習者からすると変わった現象に
く推量の意味も表すのですが、それは日
の言語では、英語の助動詞の must
にあ
たる語が、英語と同じく、義務だけでな
ることです。たとえばヨーロッパの多く
中に見られる現象が他の言葉にも見られ
宮下 世界の言語の中での日本語という
点で僕が興味深いと思うのは、日本語の
でにこの問題に気づいていました。
語哲学者のヴィトゲンシュタインが、す
の関係にも、含意普遍性が見られます。
田村 言語類型論あるいは認知論からみ
ると、日本語も言語普遍性を備えている
世界の言葉と日本語
小川 含意関係とは、その文法の諸現象
がどのようにつながっているかの説明で
ということですね。世界の言語の中での
— 10 —
でこのような義務と推量の組み合わせが
られます。でも、世界のいろいろな言葉
ありかたに迫る、そこに醍醐味がありま
味の関係を探り、その言語を使う人間の
ることによって世界の言語に思いを馳せ
かでつながっています。日本語の中を見
しを比較するということは、やはりどこ
宮下 小川さんも僕も、言葉の形式と内
容の関係に興味を持っています。この二
ることもできるのではないかと考えるの
「私はトーマスに自転車を壊された」で
つが分かちがたく結びつきながら、それ
すね。形式と意味の関係は本当に多様で
す。この「被害受身文」は日本語を学ぶ
でいて時代や環境によって変化を重ねて
見られるのはなぜでしょう。これはおそ
そこにはヒトに共通する認知の問題が関
留学生を戸惑わせます。それでも、トー
いく。それらすべては人間による営みで
です。
わってきます。このように日本語に見ら
マスが自転車を壊したという出来事が私
すから、結局、僕たちの興味は「人間と
す。たとえばヨーロッパの多くの言語は
れる他の言語との共通性を見ることで、
に被害を及ぼしているという図式は、言
は何か」に収斂していくように思うので
らく偶然ではなくて、そこをつなぐ何ら
ヒトの言語の意味がどのように発達して
語ごとに異なって表現されていても、意
す。「人間学としての言語研究」、ちょっ
う言い方をします。しかし、日本語では
いくのかという傾向が見えてくるのでは
味 内 容 は 同 じ な の で す ね。 こ の よ う な
と大風呂敷を広げ過ぎましたかね(笑)。
「トーマスは私に自転車を壊した」とい
ないか。さらに共通性だけでなく違いも
テーマに地道に取り組んでいくことに
かのリンクがあるのでしょうね。そのリ
含めて見ていくなかで、日本語を世界の
よって、人間言語の普遍性に迫り、その
ンクは何か。これは面白い問題ですし、
言語の中に位置づけ、意味の発達の観点
多様性を説明していきたいと考えていま
(後編に続く)
小川 同感です。もっと広げてもいいで
すよ(笑)。
からもその全体像を浮き彫りにしていけ
較するということと、日本語の方言どう
れないということです。世界の言語を比
本語と世界の言語というレベルに限定さ
ります。言語の比較対照の楽しみは、日
す。そして、もう一つ強調したい点があ
るのではないかと考えています。
田村 言語を比較対照することは、本当
に興味深いですね。
さまざまな言語における形式と意
小川
— 11 —
新 載
連 載
連
世界 から
回
カタルーニャ(カタロニア)に行こう。こ
ニャとは、まずジョージ・オーウェルの『カ
私の記憶の中に住みついているカタルー
ロにある村の民宿。一七〇年前に建てられた
ていた。最初の二泊はバルセロナの東二〇キ
適であることをフランスでの経験から予想し
村の民宿(B&B)と決めてあった。安く快
同行四人。宿は街のホテルを避けて小さな
われたのだ。
タロニア讃歌』だ。スペイン内戦に共和国側
大邸宅で、広大な庭園と山林に囲まれた豪華
の夏そう思い立った。
の義雄兵として参加したオーウェルの悲痛と
ピカソ、ミロ、ダリ。不思議なことに三人と
日、カダケスへ向かう。こじんまりとした浜
ン・ ジ ョ セ ッ プ 市 場 を ぶ ら つ い た そ の 次 の
バ ル セ ロ ナ で ガ ウ デ ィ の 建 物 を 見 て、 サ
な宿舎だ。朝食付きで一人四五ユーロ。
も言える手記だ。
もカタルーニャの出身だ。ピカソの絵は好き
辺がいくつもある可愛らしい街、芸術家(詩
次に今世紀のスペインが生んだ三大画家、
でこれまでによく見ている。ミロは私にはど
れてきた街だ。路上を走るミニ・トレーンに
人のロルカ、映画のブニュエル)たちに愛さ
乗って隣村のポルト・リガトを一回りしてく
うでもよい。しかしダリは気になる。奇怪な
わざわざその日を選んだわけではないのだ
る。ここにダリの住んでいた家がある。屋上
絵も、道化的な生き方も気になる。
が、 バ ル セ ロ ナ 空 港 に 降 り 立 っ た の は 九 月
に据えつけられた作品の卵を遠くから眺め
次の日は、ダリの生まれたフィラゲスのダ
十 一 日。「 カ タ ル ー ニ ャ の 日 」 だ っ た。 レ ン
リ美術館で半日をすごした。観察と幻想と記
た。
が つ る さ れ て い る。 こ の 日、「 独 立 へ の 道 」
憶 と が 混 沌 と し て 交 差 す る 世 界、 怪 獣 と 人
タカーを借りて走ると、家々の窓から金色の
というスローガンのもとに、カタルーニャ州
地に四本の赤い帯の入ったカタルーニャの旗
のスペインからの独立を求めるデモがおこな
— 12 —
第
海老坂武
カタルーニャへの旅
8
骨、生気と腐蝕、死の予感……どう言ってみ
今世紀のカタルーニャにはもう一人の大芸
終わり近く、アル・ベンドレイの彼の生家を
の演奏で知られるパブロ・カザルスだ。旅の
術家がいる。バッハの『無伴奏チェロ組曲』
愛妻のガラを描いた二点に目を留める。片
てもダリの世界は言葉に収まらない。
方 の 乳 房 を ち ら り と 見 せ て い る『 ガ ラ リ ー
訪れたが、残念なことに閉まっていた。
アールと結婚したあとエルンストとの三角関
恋人、マン・レイの恋人だったガラ。エリュ
リとガラとが晩年をすごした館だ。キリコの
数時間後、プボルの村の城の前に立つ。ダ
音楽祭を主催し、その音楽祭は今でも続いて
けた。一九五〇年からはそのプラードで毎年
コ政権を承認した国での演奏活動を拒否し続
らの難民の救援活動に従事し、戦後はフラン
スのプラードに亡命した。ここでスペインか
前、六三歳のカザルスは国境を越えてフラン
で 抵 抗 し た バ ル セ ロ ナ が 陥 落 し た。 そ の 直
一九三九年一月、フランコの軍隊に最後ま
ナ』、裸になった『うしろ姿のガラ』、どちら
もごく普通に、しかも美しくていねいに描い
係を公然と見せびらかしたガラ。カダケスで
ている。
出会った後すぐにダリのもとに走ったガラ。
いる。
フランコを称讚したダリ。ずるずると妥協
『魔の山』のトーマス・マンにも、映画『ジュー
したミロ。痛烈な批判をした『ゲルニカ』の
ルとジム』の原作者にもインスピレーション
を与えたガラ。ダリの絵の売却を一手に取り
ピカソ。そしてカザルス。
カタルーニャ気質とは何か。カタルーニャ
しきって、友人たちからは強欲の塊とみなさ
文化を代表するのは誰か。思い立ち旅行は問
れたガラ。しかしダリにとってはかけがえの
ない女性、母親でもあり精神科医でもあった
いかけ旅行に変わっていた。
(えびさか・たけし)
ようで、ガラの死後、彼はプボルの城に閉じ
こもって誰とも会おうとしなかったという。
— 13 —
著 を 語 る
自 プトレマイオス王国と
東地中海世界
ヘレニズム王権とディオニュシズム
ゆういちろう
を誇示したのだろうか。その理由は、歴
代の王たちのディオニュソス崇拝と関連
し て い る。 古 代 地 中 海 世 界 に お い て、
ディオニュソスは豊穣をもたらす神とし
て、また劇場や音楽の守護神として、広
く信仰されていた。プトレマイオス朝の
王たちはディオニュソスの子孫と称し、
大帝国を築いた。宮廷の置かれたアレク
に成立し、紀元前三世紀には東地中海に
ス大王の東方遠征の後にエジプトを中心
プトレマイオス朝は、アレクサンドロ
し、豪華で壮大な行列を繰り広げた。ま
プトレマイオス二世は、金銀財宝を費や
東地中海で影響力を維持した。なかでも
アの諸都市や神殿を豊かにすることで、
る。彼らはエジプトの富によってギリシ
は、その豪奢な生活を明らかにしてくれ
かについて考察している。同時に、古典
成される王国を、どのように支配したの
取り上げ、王朝が多文化・多民族から構
して、祭祀の創設や都市への贈与などを
本書では、プトレマイオス朝の政策と
ニュシズム」と定義される。
う な 華 美 な 様 式 や 生 活 態 度 は、「 デ ィ オ
現し、ギリシア文化を愛好した。このよ
べ
サンドリアには、大図書館と学術機関で
た、プトレマイオス四世は、後世に語り
期 と ロ ー マ 帝 国 の 間 の、「 谷 間 の 時 代 」
は
あるムセイオンが設立され、アテナイに
継がれるような巨大で壮麗な戦艦と御座
と見なされることが多かったヘレニズム
ディオニュソスのように「豊かさ」を体
かわってギリシア文化の新たな中心地と
船を造りあげたのである。さらに、歴代
雄
一郎
して繁栄した。同時に、王たちはエジプ
の王たちは、ディオニュソスのテクニタ
トの支配者でもあり、ファラオたちの後
関西学院大学非常勤講師波部
継者としての顔も持っていた。
である。
時代の評価についても一石を投じるもの
なぜプトレマイオス朝はこのように富
アの演劇や音楽を楽しんだ。
イという芸人たちを保護し、日々ギリシ
プトレマイオス朝の王たちについて、
ヘレニズム時代の歴史家たちの記述や、
王国の各地から出土した碑文、パピルス
— 14 —
A5 判上製 320 頁
本体 2800 円(税別)
▼営業部だより▲
【一、二月の新刊】
ヘレニズム王権とディオニュシズム
『 プトレマイオス王国と東地中海世界』
波部雄一郎 [著]
【近刊】 ※タイトルは仮題
『空港競争と航空民営化』
JALグループの戦略・みずほのコンサル業務
四六並製 一二八頁
関西学院大学産業研究所[編]
『 介護人材の定着促進に向けて』
職務満足度の影響を探る
5上製 一八八頁
編・集・後・記
しおり
こ
よ
本や原稿にはさむ付箋が粘着剤付きで商品化されたのはいつごろ
仮にはさむだけの紙片にすぎなかったのではないか。今では、幅も
だろうか。栞や紙縒りは糸綴りの和書の時代からあったはずだが、
素材も様々で、カラフルなものや書き込みのできるものまで実に多
くの種類が文具売り場に並んでいる。ブック・ダーツという銅製の
矢尻のようなものまである。読書家にはそれぞれ「気に入り」の付
箋があるはずだ。忘れられないエピソードをひとつ。高橋英夫氏が
ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』の訳稿を林達夫氏から返された
とき、そこには岩波文庫の赤帯を細く切った付箋がいっぱいに立て
られていたという。昭和三十年代
— 15 —
大和三重[著] 実践・言説・規律・統治性
http://www.kgup.jp/
『〈社会的なもの〉の運命』
の終わりだから、付箋は手書きの
原稿用紙に一本一本糊付けされた
田中耕一[著] 四六上製 二〇〇頁
のだろう。名編集者の「手仕事」
なわない。(和)
付箋を作ってみるが、赤帯にはか
ぼくも当座の用にいろいろな紙で
の場が目に浮かぶ。それを真似て
『河上丈太郎日記』
5上製 五六四頁
福 永 文 夫 /「 関 西 学 院 と 社 会 運 動 人 脈 」
一九四九─一九六五年
研究会[監修] 『 The Effect of Defined Benefit
Liability on Firms’ Valuations
in Japan: Comparison of Japanese GAAP for Retirement
』
Benefits with IAS19
笠岡恵理子[著] 5上製 一九〇頁
〈非売品・ご自由にお持ち下さい〉
5上製 三二〇頁 二八〇〇円
(内容紹介 本誌 頁をご覧ください)
『イギリス法史入門』
四五〇〇円
第 版 第Ⅰ部〔総論〕
・ ・ベイカー[著]深尾裕造[訳]
5並製 五二八頁 『 日英語に見る も ののとらえ方』
嶋村 誠 [著]
5上製 二六四頁 予価三八〇〇円
KGりぶれっと
『教育相談基礎論』
九〇〇円
学校での教育相談活動の方法と実際
5並製 九八頁 〒 662 — 0891
兵庫県西宮市上ケ原一番町 1—155
TEL 0798—53—7002
FAX 0798—53—9592
A
西川隆蔵[著]
関西学院大学出版会
A
※価格はすべて税抜表示です。
コトワリ No. 37 2014 年 1 月発行
14
36
A
A
H
4
A J
A
A
【怒りと
「頓智」
】
高島千代
前 の 日 本 社 会、 政 治 に 関 す る 言 論・ 集
されている時代のこと。今から百三十年
れが飛ぶように売れる。
大判錦絵の「天福六家撰」になって、そ
された活動家六人は、ブロマイドならぬ
言論弾圧に対する激しい怒りや政府批
会・結社の自由がほとんどなかった明治
判を「笑い」や「遊び」に変換して法律
の 頃、 人 び と は む し ろ、「 怒 り 」 を「 笑
かり伝えてしまうのである。しかし明治
の攻撃をかわし、そのくせ真意は、しっ
憲 法 が 発 布 さ れ、「 大 日 本 頓 智 研 法 」 が
い 」「 滑 稽 」、 さ ら に は「 遊 び 」 の オ ブ
例えば、新聞が条例にふれ発行停止に
ラートに包んで表現しようとした。
とったせいか、怒りを抑えられないこと
なれば、新聞の葬式を行う。演説を禁止
「 怒 り 」 の 表 現 は 様 々 だ。 最 近、 年 を
が 多 い。 元 々、 口 の 悪 い 私 で は あ る が、
やったとたん、首謀者は不敬罪で重禁錮
テレビの政治家に向かって、ここにはと
らう。葬列・供養の大行列を行う。人々
に、本物の僧侶を呼んできて読経しても
されれば、演舌供養の塔を建てる。そこ
必要になりそうだ。
を否定するなら、私たちにも「頓智」が
法案で、先人の求めてやまなかった自由
ちの前身だと主張する某政党が、その憲
— 16 —
「 頓 智 統 括 ノ 大 権 」 を 子 孫 に 伝 う、 と
三年・罰金百円・監視一年に処せられて
ても書けないような悪口を投げつける自
はそれを面白がって、どんどん集まって
今は果してどうか。先の人々を自分た
しまった。
分がいる。他方、巷では「ヘイトスピー
(関西学院大学 たかしま・ちよ)
く る。 口 の 巧 い 者 は「 馬 鹿 林 鈍 翁 」 や
政治講談をかける。そうすると、また人
チ」なるものが横行し、私よりひどい悪
びとが集まり、ヤンヤと喝采する。投獄
罵を、公然と普通の人々に投げつけて威
しかし、これはある意味で「言論の自
「 虚 無 庵 天 福 」 な ど と 名 乗 っ て、 寄 席 に
由」が、いい意味でも悪い意味でも保証
嚇する輩もいる。
連載 37
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