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No.38〜No.41 (2014年)

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No.38〜No.41 (2014年)
K O T
No.38
2014
O
W
A
R
I
対談(後編)
言語研究の多様性
小川暁夫
×
宮下博幸
関西学院大学出版会
KWANSEI GAKUIN UNIVERSITY PRESS
卒論発表会に思う
永松伸吾
この二月に、私の勤務する学部で初めての卒業論文発表会が開催された。関西大
学社会安全学部は開設四年目にあたり、この春に一期生を社会に送り出すことになっ
ている。ゼミ単位で卒業論文発表会をやるところは他の文系学部でもあるようだが、
発表会では一時間目から四時間目までの時間をつかって、教員一人あたり四十数
コトワリ
もくじ
No. 38
2014
巻頭エッセイ 卒論発表会に思う 永松伸吾 —2—
全員にやらせるというところは理系の一部の学科に限られるようだ。
人の発表を聞かないといけない。しかも、本学はいわゆる学際系学部。どんな論文
を加えるというのもなかなか大変な作業であり、学生の研究よりも、我々の集中力
が飛んでくるか、まったく専門外の話を聞かされることも少なくない。それに質疑
思いのほか学生の発表技術は高い。それが自分らの指導の成果だと胸を張りたい
が試されているようであった。
ところではあるが、現実には就職活動の経験が大きいのではないかと思う。自分を
分析して、企業を研究し、自らを売り込むという経験は確実に学生をたくましくし
ていると感じる。しかも、就職活動は大学の単位と違って、努力すればだれにでも
成功が保障されるものではない。しかもこれまた大学の単位と違って、自分の人生
を今後大きく左右するものである。その厳しさは、確実に人を大きくするのだと思
う。
2
しかし、そうなると、はたと思うのである。結局のところ、私たち大学人が彼ら
に与えてあげられるものはいったい何なのだろうかと。先に学生の発表レベルは高
もっともらしい話を語り、質問についてはそつなく回答するが、投げかけられる批
かったと書いた。しかしその中には、美しいスライドを使って、どこかで仕入れた
判に対しては反論もなくあっさりと同意するといったように、中身の乏しいことを
それっぽく語りその場をしのぐ能力だけが成長したような学生も少なからずいる。
少なくとも大学が学生に授けなければならない能力とはこの類のものではない。
ていく能力である。だが、それをどう身につけさせるかという方法論は、意外と難
いろいろなものの前提を疑い、批判的に検証し、それを論理的に積み上げて論証し
逆説的であるが、自由な思考を身につけさせるためには、逆に「型にはめる」と
しい。
いうことが大事だと思うようになった。批判的に物事を考えよと言われても、批判
的に考えるための思考様式を持たない学生には無理な注文である。だからこそ、学
術研究の方法論を学び、科学的な検証の手続きを経験し、批判的な思考のパターン
を身につけさせる必要がある。おそらく、その経験がなければ、科学的に確かなこ
そう思いながら、発表会ではかなり辛辣なコメントを投げかけた。だが、その批
とと不確かなことを見極めるセンスも身につかないだろう。
判は同時に、もっとこう指導してあげたら良かったという、自分自身への批判でも
ある。我々が大変だと感じたのは、集中力の問題というよりはむしろその部分なの
かもしれない。
(関西大学 ながまつ・しんご)
小川暁夫×宮下博幸 対談(後編) 言語研究の多様性 連載 世界から 第 回 ネルソン・マンデラ讃① 海老坂武 連載 ドイツ庭ものがたり 第 回 ふえよ! ウサギ 田村和彦 自著を語る
井出 浩 介護人材の定着促進に向けて 大和三重 営業部だより
連載 差異の詞典 まこと
【怒りと「真の名」】 —3—
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16
かずひこ
田村 前回は、言語類型論が音韻から文
法まで扱う、とても守備範囲が広いもの
だという話題が印象的でした。
だといえますが、そこにも普遍的な段階
性があるのかもしれません。
田村 状況と人間の関係ですね。環世界
の中の、どこに自分を位置づけているの
宮下 そうですね。今小川さんの挙げた
「 寒 い 」 で す が、 日 本 語 で は 寒 さ に 直 面
かにも関わるのではないでしょうか?
したときの状況で間投詞的に「寒い!」
小川 文法は文を組み立てる仕組みです
が、実際は、それを使う場面があります。
日本では、たとえば友達の下宿に行って
と言えますが、ヨーロッパの言語ではこ
語用論あるいは社会言語学の分野です。
「少し寒くない?」と言えば、その反応は
れがなかなか難しいようです。日本語で
「窓を閉めようか」「ヒーターをつけよう
には個人主義的なものが背景にあるのに
です。能力を問うヨーロッパの言語文化
ける手続きが文化ごとに異なっているの
かない言語文化圏がある。相手に働きか
になる言語文化圏と、それでは上手くい
ですが、何を言うかに応じてそれが可能
間が言語を通じて行動を引き起こすわけ
と能力を
you please close the window?
尋ねることで行為の遂行を求めます。人
のだ、という議論には、言語学者として
ものの見かたや考えかたを規定している
ターンがその言葉を話している人たちの
ら 表 現 す る 言 葉 が あ る。 た だ、 こ の パ
自分から距離をとった第三者的な状況か
置かれた状況を中心に表現する言葉や、
そこにはまたパターンがあって、自分の
す。ある意味で言葉は解釈の体系です。
ように言葉によって異なることがありま
ね。言葉で状況をどう表現するかはこの
は形容詞がそもそも感情的なのでしょう
対 し て、「 寒 い 」 と 言 う だ け で 十 分 な 日
か 」 で す ね。 ヨ ー ロ ッ パ の 場 合、 Could
本語はどちらかというと状況表現が優勢
—4—
対談(後編)
言語研究の
多様性
あき お
関西学院大学出版会では現在、ベルント・ハ
イネ著
『言葉はなぜ今のような姿をしている
のか』
(仮)
の翻訳出版を進めている。多様な
言語の中に、人間の言語としての普遍性を見
いだせるのではないかと、日々研究を重ねて
いるお二人に話を聞いた。
お がわ
小川 暁夫
ひろゆき
幸
関西学院大学教授(対照言語学、言語類型論)
た むら
和彦
関西学院大学教授(ドイツ文学)
聞き手 田村
関西学院大学教授(ドイツ語学、認知言語学)
博
みやした
宮下
×
は慎重にならないといけませんが。
変化する言葉
な言いかたです。 Je pense, donc je suis.
表現の仕方がかなり違うのです。
宮 下 挨 拶 の「 お は よ う 」は「 時 間 が 早 「我思う、故に我あり」とは違うのです。
いですよね」と状況しか言っていません。
主 体 は 私 に あ り ま す。「 さ よ う な ら 」は
が語源ですから、「私はあなた
morning.
によい朝を望みます」となり、あくまで
者・佐久間鼎は「自ずから然する」表現
言 い 方 を し て い ま し た。 有 名 な 国 語 学
現 代 の ド イ ツ 語 で は Ich denke
(私は思
う)です。しかし以前は Mich dünkt
(私
に思われる)というふうに日本語に近い
し て、「 私 は 空 腹 を 持 っ て い る 」 と い う
と言っています。
I wish you a good
言い方は新しいものです。もともと主語
「さようであれば」という意味で、「こう
は
Good morning
)とは「事態に従う」者で、「事態
subject
を従える」者ではなかったのです。つま
小 川 言 葉 は 変 わ っ て い き ま す。 ヨ ー
ロッパの言語などにある、主語=人間と
(
いるだけです。英語の
「神があなたのそばにあらんこ
God bye
と を 」「 そ れ を 私 は 望 む 」 で す。 ヨ ー
か ら の 派 生 で す。 bye
に good
とい
bye
う形容詞がつくのはおかしくて、もとは
と思います。
い言語研究がこれから必要になってくる
要なテーマでもあります。そういう幅広
だん人間=主体が中心を占めるようにな
は
Good bye
田村 いわゆる非人称の問題ですね。
いう状況が今まであったから」と言って
God 小川 非人称の世界は、昔はヨーロッパ
の言語でもたくさんあったのです。だん
り「何かが私をして空腹にせしめる」と
ロッパの多くの言語では、そこに必ず人
いう言い方のほうが、昔のヨーロッパ言
て 富 士 山 が 見 え た と き、「 あ、 富 士 山 が
間がいるのです。ですが日本語は「さよ
ら見えてくる、言葉の使い手である人間
宮下 幅広い言語研究との関連で言うな
ら、言語学はあくまで言葉が出発点です
日本語に似ています。新幹線に乗ってい
語では優勢だったのです。これはむしろ
見えた」と言えば、主語は富士山です。
Now you see うなら」と状況を言う。そのあたりに、
日本語の特質が表れていますね。
を見ていきたい。それが、単なる言葉の
りました。この変化は哲学や社会学の重
そ れ を 見 て い る 人 は 表 現 さ れ ま せ ん。
小川 日本語でよく使う「私にはそう思
われる」は、何か考えがあって、その考
ヨーロッパの言語なら
えが現象として「私」の中に生じるよう
が、言葉だけを見るのではなく、そこか
言うと、何かそういう情景があって、そ
のように「人間」が出てこな
Mount Fuji.
いとうまく言えない。一方「見える」と
れが目に入ってくるというイメージで、
—5—
いう方向でやっていくのが今後の言語研
がっていく可能性だと思いますし、そう
研 究 に と ど ま ら ず、 他 の 分 野 と も つ な
周辺諸国からの影響で冠詞が入ってきた
ガリー語には冠詞がなかったのですが、
現象があります。他にも、もともとハン
近接している言語同士が似てくるという
と い う お 堅 い 言 い 方 を し ま す が( 笑 )、
いを示しているのと同じです。
言葉が、大枠で似ていて、マイナーな違
小川 地域類型論は方言学ともつながり
ますね。大阪と神戸のように近い地域の
れる、アジア的な現象です。
別々のグループの言語が互いに接触がな
と言う
went to the hall to play the piano.
ことはできますが、バルカンには to play ければ、おそらく同じような言語にはな
らないはずですから、何らかのかたちで
と い う 不 定 詞 形 が な い の で、
the piano
宮下 面白いのは、なぜ地域的な類似性
ということが挙げられます。
が起こるのかです。その原因はそれほど
宮下 バルカン言語同盟には不定詞がな
い こ と も 有 名 で す。 た と え ば 英 語 で I よ く わ か っ て い な い の で す。 お そ ら く
究の課題だと思います。
田村 人間の言語の普遍性と個々の文化
に埋め込まれた個別性ということがさま
ざまにつながっているのですね。
小川 そうですね。普遍性と個別性は両
輪であって、この両輪がどのようにかみ
合っているのか。それから、言語が人間
の外の世界と内の世界との、まさにその
接点をつくっているところが面白いので
宮下 言葉には地域的な特徴があること
も面白いところです。
たとえば助数詞の存在は、中国語にも韓
でなく、アジアの言葉にも見られます。
地域的な特徴はもちろんヨーロッパだけ
ジー)が最近特に注目を集めています。
視する地域類型論(エイリアル・タイポロ
のように表現しなくてはいけ
the piano.
ない。このように地域的なつながりを重
ないか。ベルント・ハイネの最近の研究
いって、似た構造が生まれてくるのでは
う よ う に な り、 そ れ が 一 般 的 に な っ て
ルの人が言語Aのある要素を言語Bで使
きっかけがありませんから。バイリンガ
の言葉の要素を自分の言葉に取り入れる
ます。両方話せる人がいなければ、相手
す。
小川 ルーマニア語はロマンス系の言語
ですが、ギリシャやブルガリアなどバル
国語にも日本語にもベトナム語にも見ら
グループ同士が相互に入り混じった結果
全部 in order that
のような接続詞を使っ
として起こるのでしょうね。その時重要
て
I
went
to
the
hall
in
order
that
I
play
なのはバイリンガルの存在だと考えられ
カン地域の別の語族・語派に囲まれてい
言葉と地域
ます。言語学では「バルカン言語同盟」
—6—
英語は世界語か?
響しているのです。
言葉がどう変わっていくのかに大きく影
す。どんな環境に置かれているのかが、
リカインディアンの言葉はかなり多様で
いの接触がそれほどない。ですからアメ
彼らは広い地域に住んでいたため、お互
例がアメリカインディアンの諸語です。
と、言葉は多様になります。そのような
ですね。反対にグループ間の接触がない
密接な交流があると、言葉は似てくるん
近くて、異なった言葉を話すグループに
ン(複製化)と言っています。地域的に
か。
田村 英語に関連して、今日のグローバ
リズムの流れについてはどうお考えです
がするのです。
いる者から見ると特殊な言語という感じ
とは疑いないのですが、言語を研究して
フランカのような地位を獲得しているこ
話者人口が多く、またかつてのリンガ・
ろ日本語型なのです。もちろん、英語は
ており、ヨーロッパの言語の多くはむし
では少ない。その点、英語は中国語に似
開する」の両方あるのですが、非漢語系
する」も「何々が展開する」と「何々を展
部の漢語系にもあって、たとえば「展開
などのように自動詞と他動詞の区
door
別がないことです。これは日本語など一
はどういうことか、一緒に考える時だと
すね。すばらしいチャレンジだと思いま
小川 関西学院大学でもグローバル人材
の育成や留学生の誘致が進められていま
いのですが(笑)。
の先生方からはお叱りを受けなければよ
スタンスを置いていると思います。英語
語という概念には、多くの言語研究者が
ない人も多いと思いますが、英語=世界
宮下 英語を話せればグローバルになる
という、もちろんそう短絡的に考えてい
質があると思うのです。
理解し、自己を再発見することにその本
ていけるのではないでしょうか。他者を
よって初めてグローバリズムにつながっ
が、ときには対峙しつつ歩み寄ることに
と し て 個 々 の 言 語 文 化 が あ る。 そ れ ら
小川 実は、英語は非ヨーロッパ的な言
小川 ここにも言語研究者からの発信が
強く求められるのではないかと、私は感
思います。
では、そのことを文法のレプリケーショ
語 と 言 え ま す。 疑 問 文 を 作 る 時 に do
を
用いるのも独特です。多くの言語は、動
じています。言語文化の多様性は人類の
(了)
す。しかし今一度、グローバルであると
詞を文頭に置いたり、イントネーション
財産でしょう。多様性があるからこそ真
Tom opens the の対話ができるのです。その重要な土台
の上昇で疑問を表します。また不思議な
のが、 The door opens
と
—7—
新 載
連 載
連
回
世界 から
第
ネルソン・マンデラ讃①
海老坂武
いや、偉大な、という言葉はどこかうさんく
二十世紀にもっとも偉大な政治家は誰か。
ネ ル ソ ン・ マ ン デ ラ。 一 九 一 八 年 生 ま れ。
ある意味で人類の〈希望〉を体現していた。
反アパルトヘイトの闘士。四十五歳のとき、
とともに砕石の重労働を課されながら十九
破壊活動防止法で無期懲役の刑を受け、監獄
年、さらに別の監獄で病に侵されながらも八
さい。こう言い直そう。もしも一人の政治家
この問いが一九五〇年代に発されていたと
年、かのジャン・ヴァルジャンよりも八年多
島のロベン島に送られた。ここで他の政治犯
したら、私はレーニンと答えたかもしれず毛
く、 計 二 十 七 年 近 く の 監 獄 生 活 を 生 き 抜 い
に〈希望〉という名を二十世紀が与えるとし
沢東と答えたかもしれない。六〇年代だった
たら、それは誰になるか。
らホー・チ・ミン、カストロ、ゲバラといっ
た!
のときである。九三年、アフリカ共和国で初
政権の思惑によって釈放、マンデラ七十一歳
一九九〇年、国際世論の圧力とデクラーク
た名前のあいだで迷っただろう。二十世紀は
どう見ても革命と非植民地化の世紀に思われ
しかし、いま二十一世紀のはじめで二十世
めて黒人が参加した総選挙で大統領に選ば
たからだ。
紀全体の歴史を振り返ってみたとき、私は別
フリカの太陽が沈んだ」、「ユートピアが失わ
れた諸組織の禁止措置の解除を政府との交渉
ず、アパルトヘイト体制の解体と非合法化さ
政府から差し出される甘い罠には決して乗ら
マンデラは原則の人だった。獄中にあって
る。
マンデラの経歴をごく簡潔に記すとこうな
れ、黒人と白人との和解政策を押し進めた。
二〇一三年十二月六日、ネルソン・マンデ
の名を挙げたい。ネルソン・マンデラだ。
ラはこの世を去った。九十五歳。死に際して
れ た 」 ……。 そ う、 疑 い な く 彼 は 太 陽 だ っ
数々の哀悼の辞と讃辞とが寄せられた。「ア
た。ユートピアだった。アフリカのみならず
—8—
9
抜いていた。あるジャーナリストはマンデラ
共存以外に南アフリカの未来はないことを見
先見の明のある哲人だった。黒人と白人との
の条件として譲らなかった。マンデラはまた
切りをつけ、彼自身「民族の槍」という軍事
モ隊への発砲)をきっかけに非合法闘争に見
が、一九六〇年シャープヴィルの大虐殺(デ
なことは、最初は非暴力主義だったマンデラ
(アフリカ人民会議)の活動家となる。重要
苦学をしながら弁護士資格を取り、ANC
その彼がなした最初の仕事は「民族の槍」
からの非暴力主義者ではなかったのだ。
組織を創設したことである。彼は決して根っ
についてこう書いている。「この男は岩であ
一体このような人間がいかにして形成され
ると同時に燈台だった」。
たのか。世界史の奇跡と思われる交渉を通じ
たあと、マンデラはテンプ族の首長の家にあ
スペースはないが一つだけ。九歳で父を失っ
興味深いエピソードの一つ一つを紹介する
えねばならなかった。セネガルの詩人大統領
たがすべてギニヤ紙幣でこれはヤミドルに替
ヤ大統領はスーツケース一杯の紙幣を提供し
だったら約四〇〇万円に相当)を提供。ギニ
領のタグマンは気前よく五四〇〇ドル(今日
のための軍資金集め。贋の旅券でアフリカ諸
てのアパルトヘイト体制の解体はいかにして
ずけられて成長する。ゆくゆくはその息子が
サンゴールは航空運賃と外交旅券しか出さな
国をまわり、かなりの成果を収めている。興
テンプ族の長となったときに彼の相談役にな
かった等々。一九六〇年代初頭のアフリカ諸
可能だったのか。それを知るためには何より
るはずだった。ところが二十四歳のときに首
国の懐具合と他国の解放運動への支援の姿勢
味深いのは各国首脳の対応で、リベリヤ大統
長から縁談をすすめられたがこれが嫌で、そ
の温度差がよくわかる(この項つづく)。
も彼自身の自伝『自由への長い道』( NHK
の息子と一緒に家出をして二度と帰らなかっ
出版)をひもとく必要がある。
た。人生の第一の転機と言おうか。
—9—
ドイツ庭ものがたり
の 種 類 の 多 さ に 驚 く。 手 の ひ ら に 乗 り そ う な 小 ぶ り の も の か
ら、両手で抱えてもはみ出すほど巨大なもの、耳の長いもの、
この夏はドイツでずいぶんたくさんのウサギを目にした。
も「純血種」をうたっていて、飼育箱の横に掲げられたプレー
の仔ウサギまで加えて、ざっと五十種類はいただろうか。どれ
うな斑点を散らせたものと、多種揃えられている。生後数か月
連 載
短いもの、羊のように垂れたもの、毛がもじゃもじゃのやつ、
短 毛 の や つ、 と 実 に さ ま ざ ま だ。 色 や 模 様 も、 白、 灰 色、 褐
まずはデュッセルドルフ市内の公園。朝まだ日が昇らないう
トには、品種名や特徴に加え、生年月日や体重までが記されて
色、黒の単色をはじめ、各色のブチ、縞、三毛、大小の星のよ
ちに散歩を兼ねて鬱蒼と樹の繁る公園に足を踏み入れると、薄
いる。品種からいえば犬や猫にはもっと豊富なヴァリエーショ
田村和彦
闇の中で草地のあちこちに黒い小さな塊がうずくまっている。
ふえよ! ウサギ
近づくと綿毛のような尻尾を見せて一斉に逃げ出すウサギの群
上におとなしくうずくまり、黙々
ンがあるかもしれないが、重ねられた狭い飼育箱の中で乾草の
回
れがいくつもある。一つの群れは十匹から二十匹ほどで、早朝
第
のこの時間までは夜行性の彼らが安んじて草を食む頃とみえ
る。朝日が昇り、犬を連れた散歩の人々が木々の間に見え、周
囲から交通の喧騒が聞こえるようになると、ウサギたちはどこ
やらに姿を隠してしまう。
もう一つはライプチヒを訪ねた折りのこと。街なかでたまた
ま見かけたポスターに「飼いウサギ展示会」とある。二日間だ
けの開催で、四、五階建ての集合住宅が連なる地区の裏手にあ
るクラインガルテンの集合地の入口に納屋のような展示場が設
けられている。展示場はあまり大きくはないが、中にはウサギ
の入った飼育箱が所せましと二段に積まれている。ともかくそ
である。前者は英語ならヘア、ド
野ウサギと飼いウサギは違う動物
ひとくちにウサギと言ったが、
示会が毎年幾つも開かれている。
数百種を集めたもっと大規模な展
知ったことだが、ドイツ各地では
ん で い る 様 は 奇 観 だ っ た。 後 で
同じ顔つきの小動物が何十匹も並
と口を動かすばかりの、ほとんど
ライプチヒの飼いウサギ展の道案内
— 10 —
16
いて、生後まもなく自立して餌を探すのに対し、飼いウサギの
群れをなさず単独で行動し、仔は生まれたときから目が明いて
体型、繁殖方法、食性までかなり違う。たとえば、野ウサギは
者は同じウサギ科に属しながら染色体数が異なり、棲息地から
イツ語ならハーゼ、後者は同じくラビットとカニンヒェン。両
れば「脱兎のごとく」時速八十キロに及ぶ速さで疾駆する脚力
し、純然たる野生動物である野ウサギの狡智や俊敏、いざとな
ち も そ れ で あ る。 彼 ら は 人 間 の 居 住 地 と ご く 近 い 場 所 に 棲 息
び野生化したもので、デュッセルドルフの公園にいたウサギた
はなく、都市の公園などで見かけるウサギは、飼いウサギが再
ある。ややこしいのは、野原にいるから野ウサギというわけで
アナウサギの家畜化に着手したのは古代ローマ人だとされて
はない。
いる。その目的は肉を得るためであったが、美食家であるロー
原種であるアナウサギは地面に数十メートルにおよぶ巣穴を
二週間あまり授乳される。南方熊楠の『十二支考』の「ウサギ
マ人が特に好んだのは、驚くべきことに兎肉そのものより、ウ
掘って集団で生活し、出生時の仔は赤裸で目が見えず、地中で
に関する民族と伝説」でも、アナウサギの熟兎と野ウサギがま
サギの胎児、もしくは生まれたばかりの仔だったという。大プ
— 11 —
なんきん
ず区別される。アナウサギはもともと地中海沿岸のイベリア半
まうウサギたちを、レンガや石張りの床の上の柵で囲って飼育
次々に広がった。放っておけば地面に穴を掘って逃げ出してし
したのをきっかけに七世紀以降、ウサギ飼育は中世の修道院で
一世が「ウサギは海のもの」だとしてその肉を食べるのを公認
べることができる唯一の肉としたのである。教皇グレゴリウス
活祭の前日までの日曜日を除く四十日)の期間に、魚以外に食
さず、肉食を絶たなければならない四旬節(灰の水曜日から復
別の理由づけがされた。修道僧たちはウサギ肉を獣肉とはみな
ギ食は中世のキリスト教修道院に引き継がれるが、それには特
リニウスの『博物誌』にもこの珍味について記述がある。ウサ
島に棲息していた動物で、それを家畜化したのが飼いウサギで
上:野ウサギ(Hase)
下:飼いウサギ(Kaninchen)の巨大種
“Deutscher Riese”
た。ただしその結果はむしろ害のほうが多く、たとえばオース
積 み こ ま れ、 渡 航 し た 開 拓 地 で は 食 糧 調 達 の た め 野 に 放 た れ
る。ウサギは航海中の船乗りたちの〈生きた貯え〉として船に
さらにアナウサギが世界中に広められるのは大航海時代であ
化として、表皮の毛色が多色化したり、奇形ともいえる機能や
介在なしには生活環を全うできない。さらに、集団レベルの変
人間に服従しやすくなる。生活は完全に人間に依存し、人間の
長くなることによって産仔数が増す。気性がおとなしくなり、
は、形態や機能、性質に変化が生じる。たとえば、繁殖時期が
たらした。やはり動物学によれば、家畜化されることで動物に
ずその家畜化は徹底的で、飼いウサギの生態に大きな変化をも
トラリアやニュージーランドでは放たれたわずかなウサギたち
形態がその動物の特徴となることもある。これらはいずれも飼
する方法を編み出したのは修道僧たちである。
が野生化してネズミ算式に殖え、表土のあらゆる植物を食べつ
いウサギに観察される特徴である。ぼくが立ち寄ったライプチ
古代ローマ盛期から始められたウサギの家畜化の歴史は、他の
やすく切り離しえたことで、急速な家畜化が押し進められた。
しかも簡略な飼育施設によって元の生活環境である大地からた
物、と定義しているが、ウサギの場合、生殖の管理が容易で、
る。 動 物 学 で は 家 畜 に つ い て、 生 殖 が 人 為 的 に 管 理 さ れ る 動
の子供を産み、生まれたメスは生後五、六か月で交尾可能とな
能で、ひと月あまりの妊娠期間を経て、一度に六匹から十二匹
ビット・タバコを専売して生活しているのもその一環で、そも
を 作 り、 ロ ー ズ マ リ ー・ テ ィ ー や、 ラ ベ ン ダ ー か ら 作 っ た ラ
園に依存している。母親がラビット・ウールからミトンやマフ
んでいるが、彼らの実際の生活は隣の人間マグレガーさんの菜
れている。ラビット一家は大きなモミの木の根元の穴ぐらに住
は、自由なようでいながらすっかり人間の生活世界に取りこま
な い。 菜 園 に 入 り こ ん で 悪 さ を す る 食 い し ん 坊 の ア ナ ウ サ ギ
かペーター・ハーゼとされている)もまた 家 畜 化 と無縁では
キャラクターであるピーター・ラビット(ドイツ語訳ではなぜ
ち な み に、 絵 本 の 中 で 子 供 向 け に 愛 く る し く 擬 人 化 さ れ た
ヒのウサギ展示会は家畜化の最前線だったわけだ。
さん し
くすや木の幹や根まで齧り、巣穴で地面を掘り返して生物相を
ラ イ ヴ ス ト ツ ク
荒廃させ、結局は駆除に膨大な手間をかけさせることになった。
アナウサギの家畜化を思いつかせたのがその旺盛な繁殖力で
動物の家畜化の歴史、たとえば犬の約一万二千年(もっと古い
そもピーターの父親はマグレガーさんに「肉入りパイにされて
あったことは疑いない。メスは一年に五回から六回の出産が可
と い う 説 も あ る )、 イ ノ シ シ の 九 千 年、 馬 と ミ ツ バ チ の 五 千
ドメステイケーシヨン
年、猫の三千六百年に比べて、きわめて新しい。にもかかわら
— 12 —
し ま っ た 」 の だ し、 六 匹 の 子 ウ サ ギ(「 フ ロ プ シ ー の 子 供 た
ち 」) も マ グ レ ガ ー さ ん に 捕 ま っ て あ や う く 毛 皮 に さ れ か か
以前、この連載で旧東ドイツのクラインガルテン事情を紹介
サギも飼われる都市内部の小農園となった。
は、一八七一年の普仏戦争終了に際して、ウサギ飼養の先進地
つくされた典型といえるだろう。 ドイツの一般家庭でウサギが盛んに飼われるようになったの
きない。その意味で飼いウサギは庭の環境に馴致され、改良し
しろ、植物にしろ、人の手を経ずには庭に座を占めることがで
( domus
)の領域に引き入れ、手なづけ、慣らし、飼育し、改
良し、適応させたうえで繁殖や栽培を行うことである。動物に
ン は 庭 の 第 一 法 則 で あ る。 そ れ は、 野 生 の 動 植 物 を 人 間 の 家
言うまでもなく、家畜化にとどまらず、ドメスティケーショ
て小庭園の使用目的を保養に切り替え、小動物の飼育そのもの
て回ってもウサギ飼育は目につかなかった。今は西側にあわせ
を知りたかったからだ。残念ながら、いくつかの集合庭園を見
ン発祥の地であるライプチヒでウサギがどう飼われているのか
インガルテンから出荷されたものだった。
き、旧東独ではウサギ肉と蜂蜜はほぼ一〇〇パーセントがクラ
指 す。 そ れ ら は 自 給 用 で あ る ば か り か、 市 場 に 出 す こ と も で
自 給 目 的 の 庭 で 飼 う こ と が で き る 一 連 の 動 物、 鶏、 鶉、 ア ヒ
小動物飼育家の連合」を名のっていた。この場合、小動物とは
した際に、保養目的より食糧自給目的の比重が大きかった同地
であったフランスから兵士たちが巣箱を使った飼育方法を持ち
を規約で禁ずる組織がほとんどである。ウサギたちもまた、現
の例として、小動物の飼養を挙げた。実際、旧東独におけるク
帰ったのがきっかけだとされる。もちろん愛玩用というより食
代の有用動物の例にもれず、人の目につかないところで飼育、
る。ウサギを独立した動物とはみなさず、人間の領域のごく近
肉用、毛皮用で、飼育箱で育てられるおとなしく手のかからな
収容、屠殺される商品としての「肉」(さらに実験動物として
ラインガルテンの最大の全国組織は「菜園家、入植者ならびに
い草食動物は、都市の狭い住宅の軒先でも手軽に飼ってふやせ
の用途もある)と、飼い主の好みで品種改良される愛玩・鑑賞
いところに位置づけることから、こうしたファンタジーは生ま
るために、特に労働者階級の人々に人気があった。同じころ隆
用のペットへと、完全に二極化してしまったと見える。
れるのだろう。
盛し始めた自給自足的なクラインガルテンが格好の飼育場と
実はぼくがウサギ展示会に足を運んだのも、クラインガルテ
ル、鳩、ウサギ、ハムスター、ヌートリア、そしてミツバチを
うずら
なったことも不思議ではない。そこは鶏やアヒルと並んで、ウ
— 13 —
著 を 語 る
自 介護人材の 定着促進に向けて
み
え
職務満足度の影響を探る
おお わ
学んだ学生が介護現場に就職するのを見
送ってきた。意欲をもって現場に飛び込
んだ卒業生たちが一年後、二年後に挫折
して離職する現実を見るにつけ、なぜ介
護現場の人材が定着しないのか、何が問
題なのかを探りたいと考えるようになっ
た。
材を対象として、職場への定着に影響す
る要因を探るべく、職務満足度に焦点を
本書は、施設および在宅で働く介護人
高く、介護老人福祉施設では全体の入所
大和三重
関西学院大学教授
現在日本は世界で最も高齢化の進展し
者とほぼ同数の四十二万人が待機してい
た超高齢社会を迎えている。少子高齢化
ると言われている。
力は既に限界を迎え、介護の社会化を目
も増大の一途を辿っている。家族の介護
要介護高齢者の増加に伴って介護ニーズ
は深刻な課題となることが予想される。
域社会への影響も大きく、なかでも介護
への影響が懸念されているが、家族や地
われる存在であるが、残念ながら人材不
高齢者やその家族にとって救世主とも思
されている。介護を担う人材は、要介護
年には十九兆円の巨大市場になると予想
介 護 市 場の規 模は年々拡 大し、二〇二〇
きない重要な課題であり、産 業としても
今や介護は我々にとって避けることので
事を続ける上で重要と捉えていた。本書
まくいっているかといった事柄の方が仕
与えられているか、職場の人間関係がう
評価されているか、教育・研修の機会が
あるが、それよりも専門職として適切に
明らかになった。すなわち賃金は重要で
されているが、それだけではないことが
職要因としてこれまで賃金の低さが指摘
当てて実証分析を行ったものである。離
がさらに進むことで社会保障や経済活動
指すべく介護保険制度が導入されたのは
足が常態化し、介護職員の不足は施設の
に向けて政策的含意を述べている。
の最後にこれらの結果をもとに定着促進
十四年前のことである。在宅サービスを
ほぼ半数に見られる。
筆者は社会福祉系学部で高齢者福祉を
重点的に拡充することが介護保険制度の
ねらいであるが、施設サービスの人気も
— 14 —
A5 判上製 188 頁
本体 2800 円(税別)
▼営業部だより▲
【三月の新刊】
『 介護人材の定着促進に向けて』
『河上丈太郎日記』
び
一四〇〇〇円
一九四九─一九六五年
福 永 文 夫 /「 関 西 学 院 と 社 会 運 動
人脈」研究会[監修]
5上製 五六四頁 いし ひ
KGりぶれっと
『石干見に集う』
二八〇〇円
5並製 五二八頁 三八〇〇円
四五〇〇円
編・集・後・記
今橋理子さんの『兎とかたちの日本文化』を読んでから、町の中
のさまざまなウサギのデザインに目を留めるようになった。気がつ
けば、子供向けの商品ばかりではなく、和菓子、洋菓子、食器や包
装紙、「癒し」系のアロマ・グッズなどにもウサギはじつに広範に
ぶ
と
たまうさぎ
取り入れられている。なかでも秀逸なのは、伏せて丸くなったウサ
ばこのデザインはもともと神前に捧げられた供物である神饌に起源
ギを模した伏兎や玉兎と呼ばれるデザインである。今橋さんによれ
を も つ ら し い が、 手 の 中 で 転 が る 玉 の よ う な か た ち が か わ い ら し
い。赤い目や耳の輪郭だけがうっすらと描かれて、かろうじてウサ
ギとわかるものもある。極度の省
略がかえって「用の美」を引きた
たせ、かすれて消えそうなか細い
線が、白い塊からやさしいかたち
を呼び出していることの不思議に
見いる。(和)
— 15 —
職務満足度の影響を探る
大和三重[著]
ヘレニズム王権とディオニュシズム
波部雄一郎 [著]
5上製 三二〇頁
『イギリス法史入門』
第 版 第Ⅰ部〔総論〕
・ ・ベイカー[著]深尾裕造[訳]
5上製 二六四頁 〈非売品・ご自由にお持ち下さい〉
伝統漁法を守る人びと
田和正孝[編] 5並製 約一〇〇頁
A
『 日英語に見る も ののとらえ方』
嶋村 誠
[著]
〒 662 — 0891
兵庫県西宮市上ケ原一番町 1—155
TEL 0798—53—7002
FAX 0798—53—9592
二八〇〇円
5上製 一八八頁 (内容紹介 本誌一四頁をご覧下さい)
六〇〇〇円
一三〇〇円
A
※価格はすべて税抜表示です。
関西学院大学出版会
37
A
『 The Effect of Defined Benefit
Liability on Firms’ Valuations in 【好評既刊】
Japan: Comparison of Japanese
GAAP for Retirement Benefits with 『 プトレマイオス王国と東地中海世界』
』〈英文〉
IAS19
笠岡恵理子[著] 5上製 二〇〇頁 『航空競争と空港民営化』
四六並製 一二八頁 アビエーションビジネスの最前線
関西学院大学産業研究所[編]
『
〈社会的なもの〉の運命』
田中耕一[著]
三〇〇〇円
H
4
A J
A
実践・言説・規律・統治性
四六上製 二五六頁 コトワリ No. 38 2014 年 3 月発行
A
A
近 頃、「 む か つ く 」 と い う 言 葉 を 使 う
かもしれない。
し殺すようになると、子どもは怒りの感
情を理解できず、怒りとつきあうことが
容易いことではない。怒りの蔭には様々
まこと
な感情がある。何ものかへの適正な憤り
とはいえ、怒りの感情を理解するのは
難しくなる。
る。自分の思いを相手に伝える術を知ら
ばかりではない。失敗をした自分への怒
【怒りと
「真の名」
】
少年に出会う。何にむかついたのかと尋
な い。 こ れ は、 感 情 が 未 分 化 と 言 う よ
り、自然災害で被害を受けた時のような
ね て も、「 わ か ら ん、 む か つ く 」 と 答 え
街角で幼な子が泣き叫んでいる。事情
り、自分の感情に気づけていないのだろ
井出 浩
はわからない。欲しいものを買ってもら
う。人は、幼い頃からいろいろな経験を
どこへも向けようのない怒り。怒りの陰
え な か っ た の か、 歩 く の に 疲 れ た の か、
う感情から早い時期に分化してくるとい
説によれば、怒りの感情は「不快」とい
か見えない。ブリッジェスの情緒の分化
のか。その様子からは、怒っているとし
親に怒られたのか。悲しいのか、悔しい
の、 い い 加 減 に な さ い 」。 も し、 怒 り の
否 定 さ れ が ち で あ る。「 何 を 怒 っ て い る
としても受けとめがたく、怒りの感情は
できるようになる。怒りの感情は、大人
えることで、子どもは自分の感情を理解
大人が受けとめ、その意味を子どもに伝
し、いろいろな感情を持つ。その感情を
「 真 の 名 」 を 知 っ て お く こ と は、 自 分
名」を知らなければならない、という。
り、 魔 術 を 使 っ て 操 る た め に は「 真 の
が知っている名前と別に「真の名」があ
の世界では、ありとあらゆるものには皆
(関西学院大学 いで・ひろし)
— 16 —
にある感情の名前に気づかないと、うま
ゲ ド 戦 記 と い う フ ァ ン タ ジ ー が あ る。
く対処できない。
う。そして、怒りから、他の感情が分化
ある魔術師の成長を描いた物語だが、そ
していく。そうであれば、幼な子が様々
感情は許されないものと感じ、感情を押
とつきあう上でも大切なことに思える。
な不快感を怒りの形で表現するのは当然
連載 38
K O T
No.39
2014
O
W
A
R
I
特集 1
温泉あれこれ
古川 顕
特集 2
博覧会と歴史遺産
富岡製糸場のことなど
山路勝彦
関西学院大学出版会
KWANSEI GAKUIN UNIVERSITY PRESS
「間違い」という見方
有馬道子
中国は東洋、アメリカは西洋と呼ばれている。しかし、日本文化研究者ダ
と言うこともできる。
コトワリ
もくじ
No. 39
2014
巻頭エッセイ
「間違い」という見方
有馬道子 —2—
ル コ・ ス ー ヴ ァ ン(
) に よ れ ば、 日 本 か ら 見 れ ば 中 国 は 日 本 と の
D.
Suvin 「 間 」 の 関 係 に お い て 西 洋( West ) で あ り ア メ リ カ は 東 洋( East )である
日本文化に深い関心を寄せたクルト・ジンガー( K. Singer )は日本文化
の特質として、「原点への近さと貴族的特徴」を挙げている。原点への近さ
とは「自然」という原点を強く志向していることであると思われ、貴族的特
徴というのは移ろいゆく自然の無常に繊細な目を向けている生活者の研ぎ澄
自然を畏れる気持ちは地震・津波・台風等に翻弄されてきた長年の経験に
まされ洗練された感性を指しているのだろう。
関係していると思われるし、その同じ自然に人々がいかに愛着しているかと
いうことは、二〇一一年の大震災を経験した人たちがその直後から漁に出た
い、もとの土地で農業を再開したいと願う姿にも表れている。自然は脅威で
漁業ではどんな魚の群れがいつどこにやってくるか、漁に出ているうちに
あると同時に恵みでもあり続けてきた証である。
嵐にならないか、農業では雨は降ってくれるか、日照りが続かないか、台風
2
が来ても収穫ができるか、等と人々は自然との「間」に立って気をくばり続
温泉あれこれ
特集 特集 古川 顕 博覧会と歴史遺産
けてきた。
このように日本人は昔から長い間自分たちのおこなう解釈が自然との
日の私たちのものの見方にそれが無関係であるとは思われない。間のとり方
「間」の適切な関係においてなされているか常に気配りしてきたわけで、今
が不適切であれば、「間」「違っている」ということになる。「間ぬけ」「間が
富岡製糸場のことなど 山路勝彦
第 回 ネルソン・マンデラ讃②
海老坂武 自著を語る
〈社会的なもの〉の運命
営業部だより
連載 差異の詞典
【怒りと幽霊】 山中速人 田中耕一 連載 世界から
悪い」「間にあう」というような関連する日本語表現は、単に人と自然との
「間」は日本語コミュニケーションにおいて肝要なことであり、単なる論
関係のみならず人と人との関係等あらゆる解釈において用いられている。
理の整合性ではなく、沈黙と発話の間、言葉と言葉の間を適切に調節するこ
とが求められている。それは邦楽における息づかいや共演者との間に即興的
に生み出される拍にも表われている。
これに対して異文化共存が進んでいる西欧社会では、特定の視点にとらわ
れ ず、 よ り 普 遍 性 の あ る 詳 細 で 明 確 な 規 則 を 志 向 す る 解 釈 が 好 ん で 用 い ら
れ、メトロノームで客観的に計測されるような等間隔のリズムが志向されて
いる。そこでは日本文化で用いられている「間違い」ではなく、特定の場を
(言語学・記号論 ありま・みちこ)
超えた普遍的な「正誤」を問うことが求められていると言ってよいかもしれ
ない。
—3—
4
12
8
1
2
14
15
16
10
特集 1
温泉あれこれ
ふるかわ
あきら
古川 顕
元関西学院大学経済学部教授
京都大学名誉教授
▶有馬温泉寺を開創した行基の像
─
この 月、関西学院大学出版会から『温泉学
入門
有馬からのアプローチ』
が刊行され
た。長く経済学を専門に研究生活を続けなが
ら、温泉に魅せられて
「温泉のプロ」を自認す
る著者に、温泉との出会いからその魅力につ
いて語ってもらった。
* * *
市にある中学校の二年生のクラスと、同
じ学年の上諏訪中学のクラスとが活発に
文通していて、その交流の一環として友
人と当地に出かけたのが動機である。三
年生になって私たちのクラスが解散して
か ら も、個 人 文 通 の 形 で 交 流 が 続 い た。
そ ん な こ と が あ っ て 以 来、
「 I love 湯」
と な っ て し ま っ た。古 稀 を 過 ぎ た 今 で
0
0
も、上諏訪と聞くと妙に甘酸っぱい気持
0
私の専門は金融および経済学史であ
各 地 の 温 泉 や 海 外 の 温 泉 に 足 を 伸 ば し、
0
地である。そんなことがきっかけで日本
ちになる。上諏訪は私にとっては青春の
長年にわたって秘湯めぐりをするように
0
る。し か し そ れ は 世 を 忍 ぶ 仮 の 姿 で、本
いる。プロであるからにはいつかは温泉
0
当は温泉研究家、温泉のプロを自認して
の本を書こうと思っていた。この積年の
もなった。
湧出量を誇り、諏訪湖岸のいたるところ
たことがある。上諏訪は全国有数の温泉
休みを利用して長野県の上諏訪に旅をし
今から半世紀以上も昔、高校一年生の冬
下呂温泉、草津温泉と並ぶ「日本三名泉」
から、一般にそう呼ばれている。同時に、
本書紀』や『風土記』などに登場すること
ともに「日本三古湯」の一つである。
『日
内 で あ る。有 馬 は 白 浜 温 泉、道 後 温 泉 と
日本を代表する名湯、有馬温泉と同じ区
私 は 現 在、神 戸 市 北 区 に 住 ん で い る。
夢がついに今回実現した。
に温泉が湧き出す。なぜ上諏訪に行った
私 と 温 泉 と の か か わ り は 相 当 に 古 い。
のかというと、私が通っていた大阪府堺
—4—
6
降臨の際に三羽の傷ついたカラスが水溜
羽ガラスという伝説もある。それは二神
の最初のものといわれている。有馬の三
の二神に発見されたもので、わが国温泉
神 代 の 昔、大 国 主 命 と 少 彦 名 命
有 馬 温 泉 は、温 泉 寺 の 縁 起 に よ る と、
方に入っているのは有馬だけである。
と い わ れ る。
「 三 古 湯 」と「 三 名 泉 」の 両
ことにも驚かされる。おそらく全国の温
など実に多彩な人物が頻繁に訪れている
くの天皇や皇族、貴族、僧侶、神官、武家
温泉関係の資料を読み進めていくと、多
幸 ス 」と 記 さ れ て い る。こ の ほ か、有 馬
は「 十 月 十 一 日、孝 徳 天 皇、有 間 温 湯 ニ
さらに『日本書紀』大化三(六四七)年に
舒明天皇、再ビ有間温湯ニ行ス」とある。
紀』舒明天皇一〇(六三八)年には「十月、
し、温泉の効能をはじめどのような温泉
いて本邦最初の体系的な温泉論を展開
と く に 修 庵 は そ の 著『 一 本 堂 薬 選 』に お
こ そ が 日 本 一 で あ る こ と を 認 め さ せ た。
その弟子の香川修庵を味方につけ、城崎
時の有力な医者であった後藤艮山および
れ ど も、簡 単 に 言 う と、城 崎 温 泉 側 が 当
が繰り広げられた。
に温泉日本一をめぐる“ホットな”闘い
が、江戸時代の元禄期に有馬と城崎の間
天皇が何度も行幸した湯としても有名で
の 像 が 建 て ら れ て い る。さ ら に、有 馬 は
恩人である行基の像と並んで三羽ガラス
があるが、この入り口には有馬温泉の大
たという。温泉寺のそばに「有馬の工房」
ラス三羽だけが有馬に棲むことを許され
を発見されたことから、それから後はカ
れに対し、城崎温泉は西の関脇に位置づ
(当時はまだ横綱は存在しなかった)。そ
が有馬温泉というのが定番となっていた
高位の東の大関が草津温泉で、西の大関
番 付 」な る も の が 何 度 も 作 ら れ た が、最
らって温泉をランク付けした「諸国温泉
で あ る。江 戸 時 代 に は 相 撲 の 番 付 に な
二つの温泉がある。有馬温泉と城崎温泉
私が住む兵庫県には、日本を代表する
ことは面白いはずがない。そこで当時の
すれば、城崎の評判が有馬より高くなる
自他ともに西の大関を認める有馬から
ものである。
の温泉だという城崎の勝利宣言のような
る。こ れ は 海 内 第 一 泉、す な わ ち 日 本 一
泉」と大書された御影石の碑が建ってい
する外湯「一の湯」の玄関横に「海内第一
に 推 挙 し た の で あ る。現 在、城 崎 を 代 表
選択の基準に照らしても城崎を日本第一
こんざん
ここでは詳しく説明する余裕はないけ
りで水浴していたが、数日にしてその傷
泉の中で有馬ほど有名な人物が足を運ん
ある。
『日本書紀』の舒明天皇三(六三一)
け ら れ て い た。あ ま り 知 ら れ て い な い
すくなひこなのみこと
が癒えてしまった。その水溜りが今の温
でいる温泉は他にないだろう。
年 に「 九 月 十 九 日、舒 明 天 皇、摂 津 国 有
おおくにぬしのみこと
泉であり、このことによって二神が温泉
間( 有 馬 )温 湯 ニ 幸 ス 」、同 じ く『 日 本 書
—5—
後 の「 有 馬 千 軒 」と い わ れ る 文 化 文 政 時
き返しが功を奏したこともあって、その
を紹介した。こうした有馬側の必死の巻
仔細に論述し、有馬温泉の卓越した効能
かに科学的根拠を欠いたものであるかを
論』四巻を執筆して香川修庵らの説がい
た の で あ る。龍 洲 は こ れ に 応 え て『 温 泉
馬の窮状を打開する方策について相談し
有馬の旅館の主人たちが、その龍洲に有
有 馬 に も た び た び 出 か け て い た よ う だ。
時 の 大 坂 で は 医 者 と し て の 令 名 は 高 く、
河内の柏原(現在の柏原市)の出身で、当
( 龍 洲 と 号 す )に 働 き か け た。彼 は 大 阪
し を 図 り、有 馬 贔 屓 の 医 者 柘 植 彰 常
有馬の旅館が中心となり、必死に巻き返
エキスが全部詰まっているように思われ
きにつけ悪しきにつけ、有馬には温泉の
て い る と、ひ や ひ や す る こ と が あ る。良
は車の往来も結構激しい。ぼんやり歩い
観光客も増加する一方だ。その狭い通り
き、英 語 や 中 国 語、ハ ン グ ル な ど を 話 す
昼間からアルコールを飲ませる店が開
温 泉 情 緒 を 醸 し て い る。だ が 一 方 で は、
ど 伝 統 的 な 有 馬 土 産 を 売 る 商 店 が 並 び、
と か、竹 細 工 の 店 と か、松 茸 昆 布 の 店 な
い通りである。この両側には人形筆の店
泉のメインストリートは湯本坂という狭
馬は自分の風呂のような存在である。温
神戸市北区に引っ越してきた。今では有
れ二〇年近く前に、宝塚から有馬と同じ
有馬温泉に大きな関心をもってかれこ
のようなものと筆者は受け止めている。
て寝かされたのである。そのうちに気分
車椅子を持ってきてもらって部屋に戻っ
を 呼 び、コ ッ プ 一 杯 の 水 を 飲 ん で か ら、
並んでいた妻が驚いて受付のマネジャー
なくなって思わずしゃがみ込んだ。横に
ぐらぐらするように感じ、立っておられ
れ を 立 っ て 見 て い た。そ の う ち、身 体 が
ショーが催され、大勢の観客の後ろでそ
記憶している。
い。ビール大瓶で一本だけ飲んだように
と相成った。それほど飲んだわけではな
なひと時を過ごし、ホテルに戻って夕食
風呂から上越の山々を眺めながらご機嫌
いる。一面の雪に囲まれたホテルの露天
泉で、硫黄濃度が日本一として知られて
標高一八〇〇メートルの高地に湧く硫黄
座温泉に行った時のことである。万座は
と温泉での失敗も少なくない。こんな経
これほど長い間温泉行脚を続けている
呼んで病院に運んでもらいましょうか」
悪くなるようでしたら、ヘリコプターを
は 良 く な っ た が、一 時 は「 症 状 が 一 段 と
ひいき
代( 一 八 世 紀 前 半 )の 有 馬 の 隆 盛 を も た
る。
霊 泉 」と い う 石 碑 が 建 っ て い る が、こ れ
験をしたことがある。真冬に群馬県の万
りゅうしゅう
ら し た と い わ れ る。現 在、有 馬 温 泉 の 共
は有馬こそが日本一の温泉だということ
夕食後ホテルのロビーで地元の民謡
同浴場「金の湯」の玄関前に「日本第一神
を天下に宣言した、有馬の城崎への逆襲
—6—
体にとってこれほど危険な行為はないの
お酒を飲んでいる光景を見かけるが、身
ビなどで露天風呂に浸かってうまそうに
張効果が強く働くからなおさらだ。テレ
万座温泉の場合、硫化水素による血管拡
貧血を引き起こしたせいである。しかも
ているところにアルコールが加わり、脳
熱めの露天風呂に入浴して血管が拡張し
た。こ の よ う な 失 態 が 生 じ た の は、や や
とマネジャーに言う妻の声が聞こえてき
のである。
て、湯が流れている管の中に潜り込んだ
話になった。私が先になりKが後になっ
ているのか、潜って行ってみようという
で、この大きな管の向こう側はどうなっ
が通っていて湯が流れ込んでいる。二人
場の片隅に直径一メートルほどの丸い管
手足を伸ばしていたのであるが、その浴
れる高原のいで湯に浸かってのんびりと
ろ、誰 も 入 浴 し て い な い。秘 湯 ム ー ド 溢
に私とKの二人で大浴場に行ったとこ
ら、
「温泉とは何か」という、分かりきっ
で は な い。有 馬 温 泉 に 軸 足 を 置 き な が
た。
に告訴され、
「大学生 女風呂に闖入」と
でも書かれて新聞沙汰になるところだっ
ではない。もうちょっとのところで警察
い。故意にしようと思ってもできること
これほど恥ずかしい思いをしたことはな
さに“瞬間の混浴”だった。私の人生で、
で管を通って元の場所へ引き返した。ま
う か。宿 泊 し た の は、こ の 高 原 に あ る 古
スに乗車。一時間近くバスに乗っただろ
の小諸駅前より一日二~三本しかないバ
に行ったことがある。国鉄信越線(当時)
良かったK君と二人、長野県の高峰高原
二年次の夏休みに、当時のクラスで仲の
も う 一 つ は、混 浴 の 失 敗 で あ る。大 学
が、も っ と 驚 い た の は 私 と K で あ る。湯
われわれを目に留めた女性も驚いたろう
に 白 い 裸 体 が 林 立 し て い た 光 景 だ っ た。
一 瞬、私 の 網 膜 に 映 っ た の は、あ ち こ ち
た。そ れ は、女 性 の 大 浴 場 の 中 だ っ た。
「 き ゃ ー」と い う 黄 色 い 声 が 湧 き 起 こ っ
め て 立 ち 上 が っ た そ の 時 で あ る。
て周りが急に明るくなった。泳ぐのを止
一メートルも進まぬうちに管の外に出
石を投じることになれば幸いである。
え な い「 温 泉 学 」と い う 学 問 分 野 に、一
あるまいか。まだ十分に定着したとは言
ら書いた硬派の本は意外と少ないのでは
にあるが、本書のような多角的な視点か
りである。ガイドブックのたぐいは無数
化人類学的な観点から縦横に論じたつも
温 泉 を 歴 史 的、経 済 学 的、社 会 学 的、文
て い る よ う で 分 か ら な い 話 を 手 始 め に、
この本は、単なる温泉のガイドブック
ちんにゅう
である。
ぼ け た 木 造 二 階 建 て の 国 民 宿 舎 だ っ た。
から出した頭を慌てて引っ込め、大急ぎ
0
この国民宿舎で、忘れようとて忘れられ
0
ない大チョンボをしたのである。夕食前
—7—
特集 2
やま じ かつひこ
山路勝彦
博覧会と歴史遺産
富岡製糸場のことなど
明治期の実業家であった渋沢栄一は、新しい日本の産業の育
成のため多くの貢献をしている。慶応三(一八六七)年、渋沢
は幕臣身分として西欧への旅に立ち、パリで開かれた万国博覧
会見学という得難い機会に恵まれている。最新の機械工業の進
捗を眼の当りにした経験こそ、渋沢にとっては西欧の知識や技
帰国後、大久保利通らが推進する殖産興業政策に渋沢も携わ
術を日本に導入する契機になった。
り、多くの事業を立ち上げたなかで、明治五(一八七二)年に
は富岡製糸場の設立に尽力をつくしている。それは、日本で最
初の絹産業にかかわる官営工場である。江戸時代でも熟練させ
た養蚕業の技法を日本の農村は展開していたが、西欧の製糸器
械や製糸法を取り入れたことで世界に誇る絹産業を生み出す礎
石 に な っ た の が、 こ の 富 岡 製 糸 場 で あ る。 レ ン ガ 造 り の 操 糸
所、繭倉庫、蒸気罐所のほか、工女の宿舎を併せ持つ一群の建
造物は当時の最先端を誇る施設であった。その優雅さは、今年
(二〇一四年)になって世界文化遺産としてユネスコから認定
こ う し た 事 情 も あ っ て、 富 岡 製 糸 場 で 働 く 女 工 は 気 位 も 高
されたことに窺うことができる。
く、また恵まれた環境で日々を送っていた。和田英の自伝風の
記録『富岡日記』を読むと、そのことがわかる。毎月、一日、
十 五 日、 二 十 八 日 に 振 る 舞 わ れ る 小 豆 飯 と 塩 鮭 と は 楽 し み で
—8—
関西学院大学名誉教授
▲楊洲斎周延による錦絵(山路勝彦所蔵品)
『内国勧業博覧会機械館の図』
、明治 10 年。
▲モースの見た実演光景
出典:モース、
E. S.(石川欣一訳)
『日本 その日その日(1)
』
、
p. 220、1970 年、平凡社。
◀内国勧業博覧会の褒賞メダル(山路勝彦所蔵品)
優秀な出品者には褒賞としてメダルが授与された。
あったと回顧していて、糸取りの技術習得に励んだ工場での仕
事自体も満足のいくものであった。富岡製糸場の大きな特徴は
日本全国から多くの工女が来ていたことにあった。旧旗本や士
族の娘も多く、上等な衣服を身に着け、立ち居振る舞いも上品
その設立から少し経って、当時勃興しつつあった近代産業の
であった。
発展を奨励し、とりわけ絹産業の興隆の宣伝を目的にして、明
治十年八月二一日から十一月三〇日にかけ東京上野公園を会場
に内国勧業博覧会が開催された。日本では明治四年に京都で豪
商らが主催した博覧会が行われたが、政府主催の博覧会として
はこれが最初の試みであった。国家的戦略として殖産興業を謳
うというのが、その主旨である。この内国勧業博覧会と称され
る博覧会は、以後、東京(明治十四年、二十三年)、京都(明
治二十八年)、大阪(明治三十六年)と四回行われていて、明
会場には「東本館」「西本館」「美術館」「機械館」「農業館」
治十年の開催はその第一回目の開催であった。
地からの出品が展示された。当時のガイドブック『内国勧業博
「園芸館」「動物館」が建てられ、北海道から沖縄に至る日本各
覧会場案内』によれば、「機械館は専ら運転してその作用を示
いとより
おりもの
す」とあり、「搗米器」「測量器」など各種の器械が並べられて
い た。 ほ か に も、 紡 糸、 機 杼、 製 糸 の 道 具 が 東 京、 栃 木、 山
—9—
こ の 錦 絵 に 描 か れ た 女 性 は 高 貴 な 雰 囲 気 を 漂 わ せ て い る。
かんざし
簪 を付けた江戸風の髪型、赤、青、緑を基調とした色彩豊か
梨、新潟、群馬などから出品されていた。紡績は明治期の日本
る。おそらくは富岡製糸場の女工もこうした装束であったに違
では輸出産業として活況を呈していたことを考えれば、この展
いない。世界文化遺産として認定されるほどのことはあって、
な和服、長椅子にもたれかかる姿態、どれもが上品で優雅であ
ここに、この博覧会の光景を描いた錦絵が残されている。楊
示はまさに時代を反映していた。
洲斎周延の作による「内国勧業博覧会機械館の図」と題された
やはり当初から出色物だったということであろう。
の た め に 特 設 さ れ た 空 間 が こ こ に あ っ て、 最 新 の 機 械 を 用 い
際は誰なのか、説明がないので不明である。とはいえ、博覧会
械が実際に富岡から運び込まれた道具であるか、また工女は実
を紡ぐ工程を実演する工女たちの姿である。この現場に見る器
持って細かい日常の出来事にも関心をはらい、詳細な記録を残
学、 人 類 学 の 研 究 は も と よ り、 日 本 人 の 風 俗 習 慣 に も 興 味 を
の研究であったが、多彩な才能の持ち主であったモースは考古
歴史上の人物である。訪日の目的は日本近海に生息する腕足類
森貝塚の発見者としてよく知られ、学校の教科書にも登場する
ワード・S・モースも紹介しておかねばならない。モースは大
さらにこの内国勧業博覧会といえば、明治初期に訪れたエド
錦絵は、絹織物の価値を高めようとする博覧会の特徴を映し出
て、実際に製糸工作の実演が行われていたのである。その現場
している。上野不忍池を背景に描いた作品の主題は、繭から糸
を描写したこの錦絵は、国家の威信をかけての博覧会を意識し
していた。
であろうが、実際に博覧会での実演を見聞して、人々は「文明
れらの事柄は新時代の到来だと多くの人々は気づいていたこと
岡製糸場の存在、そこで西欧の技術が導入されていたこと、こ
の実演は製糸産業の意義を十分に教えてくれたはずである。富
自己の感情を表現している。
に思われたらしく、「嬌態と魅惑」という言葉を使って素直に
松を見ることになった。モースにとってその盆栽は奇怪な形状
農業館を見学している。つぎに美術館に行くと、そこで盆栽の
会場に足を運んでいた。人力車を飛ばして会場に行き、まずは
業博覧会が折よく開催されていた時であった。モースは熱心に
モースが訪日したのは明治十年のことで、上野公園で内国勧
たためであろうか、非常に巧く表現されている。
開化」の現実を肌で感得したに違いない。その意味で、この錦
地方に行くのが適わない東京の人間にとって、この機械館で
絵は当時の世相を語る貴重な画像と言える。
— 10 —
である。それは、滑稽の極みだと言うほどで、日本人の文明開
で洋服着用の日本人の姿を見て、またしても奇異に感じたよう
日本人の日常生活にも興味を持っていたモースは、この会場
江戸時代から伝わっている日本の伝統的な紡ぎ方と違って、
(石川欣一訳『日本 その日その日 1 』二二〇頁、一九七〇
年、平凡社)。
湯の温度は蒸気の管で保ち、上には紡のついた回転棒がある
で、一本一本、切れるに従ってまた刷毛でひっかける。鍋の
たらモースはその事実は知らなかったのかも知れない。だが、
化の姿態に驚いていた。徹頭徹尾小さすぎる一着を身に着けた
会 場 で の 娘 た ち の 仕 事 ぶ り が 伝 わ っ て く る 記 述 で あ る。 そ の
この会場でモースが見たのはヨーロッパから伝えられた方法で
博覧会で様々な日本を見たモースは、ついで訪れた機械館で
デ ッ サ ン を 凝 視 し て 見 る と、 あ り の ま ま の 光 景 を 描 写 し て い
り、ズボンを長靴の中に押し込んだりした奇妙な恰好の紳士が
はこのうえもない感動を受けた。即座にデッサンを始め、長い
て、仕事中の娘たちの仕事ぶりはよく描かれている。簪を挿し
ある。それは、日本に定着して未だ日が浅いのだが、もしかし
テーブルに娘が十人ずつ座り、繭から絹を紡いでいる光景を写
た髪、仕事台に向かう娘たちの和服姿、よほど感動を受けたに
開会式に現れたことを自著の『日本 その日その日』で記して
生 し て い る。 そ こ に い た 人 た ち は、 モ ー ス の 眼 に は「 和 装 し
いる。
た、しとやかな娘達」と映ったようである。アメリカの博覧会
違いない。この描写風景は、さきの錦絵と同じである。
てほぐすものと思っていた。繭は三十か四十、熱湯を入れた
紡ぐ方法は実に興味があった。私は一本の糸を繭を引き出し
意義を見出す当時の人々の心意気が伝わってくる。
楽しさを噛みしめることができる錦絵である。同時に博覧会に
を誇らしげに予兆させているようだ。まさに、歴史をひも解く
の一枚の画像は、富岡製糸場が世界文化遺産に認定されること
でに製糸業に携わる女たちの姿は印象的だったのであろう。こ
写をしているのが、とてもおもしろく感じさせる。それほどま
博覧会という場で、日本とアメリカとの双方の人物が同じ描
に出たら、どんなに人目をひくことだろうかと驚嘆の声さえあ
げている。
モースはまた、その紡ぐ方法に興味を持って、詳しく記録し
浅い鍋に入れ、写生図のテーブルの一隅にある刷毛を用いて、
ている。やや長くなるが引用してみたい。
それ等を鍋の中でジャブジャブやる内に、繊維がほぐれてき
て 刷 毛 に く っ つ く。 す る と、 く っ つ い た 繊 維 を 全 部 紡 ぐ の
— 11 —
新 載
連 載
連
世界 から
回
た。何回かの裁判のあと、その活動が明るみ
旅行から帰国してすぐ、マンデラは逮捕され
軍事闘争の資金集めのためのアフリカ巡回
あった。
当 局 に 突 き つ け、 ハ ン ス ト に 訴 え る こ と も
し、対抗策を練り、食事や衣服の改善要求を
ときには砕石作業につきながら、彼らは議論
残してきた母親の死。最初の妻との間の長男
心を痛める出来事も次々と起こる。故郷に
る。
るかいないかといったことまで議論してい
く、割礼をどう考えるか、アフリカに虎はい
議 論 の 中 味 が 面 白 い。 政 治 の 話 だ け で な
に 出 て 国 家 反 逆 罪 で 無 期 懲 役 の 刑 を 受 け、
ケープタウンの沖合にあるロベン島の監獄に
収容された。
まずは劣悪な生活条件、労働条件に耐えね
石作業を強いられる。監獄の部屋にトイレは
ばならない。五時半に起床、午前と午後は砕
なく、大も小も便はバケツの中に。シャワー
の死。二度目の妻、活動家ウィニーの逮捕。
ドキュメンタリー『自由の名のもとに』(N
テレビで見た。二日にわたって再放映された
そのウィニーの若き日の映像をこの四月に
は海水であびる。食事はおかゆばかりで、た
外部からは徹底的に遮断されて、手紙は半
HK)。実に美しい娘(といってももう母親
まに野菜と肉切れが浮いている。
年 に 一 通 の み、 面 会 は な ん と 数 年 に 一 回、
か 」 と い う 問 い に 対 し て、「 今 な ら 殺 せ る 」
になっているのだが)だ。その美しい娘がイ
と答えた。あれは一九七六年の暴動が弾圧さ
三十分だけ許可される。新聞をひそかに持ち
しかしマンデラはくじけない。彼自身の生
れ黒人の子供たちが何人か殺されたときのこ
ン タ ヴ ュ ー の 中 で「 銃 を と っ て 人 を 殺 せ る
来のオプチミズムもあるが、一つには、大勢
とだった。
こむのは重罪とみなされ、三日間隔離されて
の政治犯が同じ一つの収容所に入れられてい
食事を奪われる。
た と い う こ と が あ る。 食 事 中 に、 就 寝 前 に、
— 12 —
第
海老坂武
ネルソン・マンデラ讃②
10
目の前にしてマンデラも何回かつぶやいたに
「今なら殺せる」。同じ言葉を数々の虐殺を
孫娘には〈希望〉という名がつけられた。
十五年先のことだ。娘が結婚し孫が生まれ、
覚」。しかしこの夢が実現されるのはさらに
一九八四年マンデラは本土の監獄に移さ
違 い な い。 し か し、 彼 は そ れ を 押 さ え 込 ん
ハンストによる抗議や国外からの圧力が少
の思惑で、九一年に釈放される。アパルトヘ
念はないが「プラグマチスト」のこの政治家
る。八九年デクラークが大統領に選ばれ、理
れ、この頃から政府との接触が始まる。接触
だ。『 自 由 へ の 長 い 道 』 と い う こ の 本 も、 こ
しずつ効果を示し、七〇年代半ばからロベン
イトの最後の壁が崩れ、南アフリカ最初の総
は話し合いとなり、話し合いは交渉に進展す
島の監獄の待遇が改善された。労働は砕石作
選挙が行われてマンデラが大統領に就任する
の想いを必死に押さえ込んだ物語として読む
業 か ら 海 草 採 り に 変 わ り、 自 由 時 間 が 増 え
までには、さらに曲折に富む闘争の三年があ
べきだとあらためて感じた。
た。それとともに監獄は、解放闘争の歴史や
る。
マンデラ語録として書き写したい言葉はい
マルクス主義の歴史を若い囚人が学習する場
マンデラが身体を鍛えるのを怠らなかった
となっていく。
「敵とのあいだに平和を実現するには、敵
くつもあるが、一つだけ記す。
と 力 を 合 わ せ な く て は な ら な い。 そ う す れ
こ と も 注 目 し て よ い。 毎 日 腕 立 伏 を 一 〇 〇
ば、その敵は仕事仲間になる」(ノーベル賞
回、腹筋運動を二〇〇回。六十歳近くのとき
である。長生きのためのケアではなく、生き
喧伝する政治家の器となんという違いか。
うつわ
い ま 世 界 を 飛 び ま わ っ て、「 敵 」 の 脅 威 を
受賞演説より)
抜くための鍛錬である。
手紙が自由に書けるようになってからは
ウィニーに沢山の手紙を書く。次の一句が微
笑みを誘う。「きみの肌を撫でる心地よい感
— 13 —
と は 異 な る 方 法 論 的 な 意 味 で、〈 社 会 的
の展開を取り上げたのも、そこで、上記
第一部で、パーソンズ以降の社会学理論
離をとってきたことも事実である。本書
うな〈社会的〉政策の理念から一定の距
しかしながら同時に、社会学がこのよ
び つ く わ け で は な い。 な ぜ な ら、〈 社 会
〈社会的なもの〉の終焉や死と直接に結
力 ) の 上 昇 そ の も の は、 か な ら ず し も
ベルで集計して調整・管理しようとする
(「主体」を要因に分解し、それを人口レ
へ 」 と い う 統 治 の 力 点 の 移 行、 統 治 性
点 か ら み れ ば、「 規 律 か ら 管 理[ 調 整 ]
著 を 語 る
自 実践・言説・規律・統治性
なもの〉が問題になってきたからであ
つ 内 在 的 に 結 び つ い て い る か ら で あ り、
的なもの〉はもともと統治性と深く、か
た なかこういち
り、しかも、それを吟味することによっ
そうしたパラドキシカルな「運命」をも
〈社会的なもの〉の運命
田中耕一
福祉国家あるいは〈社会的〉国家の危
て、〈 社 会 的 な も の 〉 を め ぐ る 歴 史 的・
— 14 —
関西学院大学教授
機 と と も に、〈 社 会 的 な も の 〉 の 終 焉 や
そこから、第二部では、フーコーの規
ともと背負っているからなのである。
律 お よ び 統 治 性 の 議 論 に も と づ い て、
社会思想史的な分析をより豊かなものす
た、 国 民 の 福 祉 の 向 上 と 保 障 を め ざ す
十七世紀以来の〈社会的なもの〉の誕生
死について語られるようになった。二十
〈 社 会 的 〉 政 策 を 通 し た〈 社 会 的 〉 連 帯
と〈社会〉の編成・組織化という歴史的
ることができるからである。
が、資本主義経済のグローバル化のなか
なプロセスを取り上げ、それを再び古典
KGUP série
社会文化理論研究
新シリーズ刊行
世紀の先進資本主義諸国を特徴づけてき
で、終焉を迎えているというのである。
期 の 社 会 学( ウ ェ バ ー と デ ュ ル ケ ー ム )
か に な る の は、〈 社 会 的 な も の 〉 が い か
このような〈社会的なもの〉は、十九
に統治や統治性と深く、かつ内在的に結
へと投げ返すことを試みた。そこで明ら
家 の 形 成 と 深 く 結 び つ い て お り、 し た
びついているかということである。その
世紀を特徴づける〈社会的〉問題と、そ
がってまた社会学の誕生と展開に深くか
れへの対応として登場した〈社会的〉国
かわっている。
四六判上製 256 頁
本体 3000 円(税別)
▼営業部だより▲
【六、七月の新刊】
『温泉学入門』
有馬からのアプローチ
古川顕[著]
一九〇〇円
【近刊】 ※タイトルは仮題
『大阪、賑わいの日々』
二つの万国博覧会の解剖学
山路勝彦[著]
A 上製 約三四〇頁 価格未定
関西学院高等学部商科開設一〇〇周年
『世の光たれ!』
並製
一七〇頁 予価二八〇〇円
記念誌編集委員会[編]
A
編・集・後・記
富岡製糸場が世界文化遺産に認定されると聞いて、蚕にまつわる
ことをいくつか思い出した。かつて祖父の家では農家の副業で養蚕
をしていて、田植えが終わるころから夏をはさんで春秋二回、卵か
さんぱく
ら繭になるまで蚕が育てられた。養蚕が始まると、蔵の前の土間だ
と呼ばれる蚕を育てる網が蚕棚に間隔をおいて積み上げられる。日
けでなく家じゅうに棚や足台が所狭しと並べられ、竹で編んだ蚕箔
に 何 度 も 桑 の 葉 を 与 え ら れ て 育 つ「 お か い こ さ ま 」 が 生 活 の 中 心
で、人間はその世話に明け暮れる。家の中が静かになると、無数の
— 15 —
幼虫たちが一斉に桑の葉を食べる音が、低く、しかし途切れなく聞
こえてきた。やがて白い繭を被っ
た蚕は製糸場に送られるのだが、
〈非売品・ご自由にお持ち下さい〉
【好評既刊】
『〈社会的なもの〉の運命』
そこは膨大な数の生き物が運びこ
実践・言説・規律・統治性
田中耕一[著]
所としても記憶されていい。(和)
一四〇〇〇円
まれ、工業製品へと加工された場
四六上製 二五六頁 三〇〇〇円
(内容紹介 本誌一四頁をご覧下さい)
『河上丈太郎日記』
5上製 五六四頁 一九四九─一九六五年
福 永 文 夫 /「 関 西 学 院 と 社 会 運 動
人脈」研究会[監修]
〒 662 — 0891
兵庫県西宮市上ケ原一番町 1—155
TEL 0798—53—7002
FAX 0798—53—9592
四六上製 二○○頁 九〇〇円
二八〇〇円
関西学院大学出版会
5
※価格はすべて税抜表示です。
コトワリ No. 39 2014 年 6 月発行
『大学職員のための人材育成
のヒント』
失敗事例から学ぶケースワーク
の視点
澤谷敏行 五藤勝三 河口浩[著]
5並製
三一四頁 『 つのケースで読み解く日米間
の産業軋轢と通商交渉の歴史』
商 品・ 産 業 摩 擦 か ら 構 造 協 議、 そ
して広域経済圏域内の共通ルール
設定競争へ
鷲尾友春[著]
四六並製 一〇六頁 28
4
A
6
A
ゴースト
【怒りと幽霊】
めたのがきっかけで、ネットに溢れるそ
最近、ヘイトスピーチ問題に関わり始
ぼ永遠に留まり、かつ増殖すらする。お
動メッセージが一旦投げ込まれると、ほ
と労力を要した。他方、ネットでは、扇
は、マスメディアを動員する膨大な資金
海底に遺棄された仕掛け網が人知れず
の 手 の 怒 り に 注 目 す る よ う に な っ た。
魚を捕獲し続けるのを 幽 霊 漁 労 と言う。
金も人手も要らない。
ティだ。おぞましい差別表現に辟易しな
ネット上のヘイトスピーチの場合、怒り
がら読んだ後、気づいたのは、当人は事
の対象は在日コリアンなどのマイノリ
怒りが収まらない。いつまでも怒り続
これと同様に、扇動目的で、あるいは扇
山中速人
けている。怒りが怒りを呼び、勢いを増
実だと確信しているようだが、背後に共
ゴースト・フイツシング
し、 静 ま る 気 配 が な い。 そ ん な 怒 り が
ゴースト
動に乗って発せられた怒りの書き込みが
ゴースト
この幽霊は想像をはるかに超えた影響
こと。そして、その事実誤認や歴史認識
通する事実誤認や極端な歴史認識がある
る幽霊の怒りや事実誤認、極端な歴史認
という昨今の動きにも、ネットに拡散す
う見解に同感だ。ナチスは大衆扇動の要
いるが、差別扇動と訳した方がよいとい
ヘイトスピーチは憎悪表現と訳されて
も同じ難問を抱えている。
大だ。ネットに拡散するヘイトスピーチ
い。しかし、それを回収するコストは膨
仕掛け網を海に投棄するのはたやす
りの声。一旦、怒りの声が書き込まれる
— 16 —
幽霊となって他者を扇動し続ける。
を 社 会 に 与 え て い る の で は な い か。「 従
ネットに充満している。ときに炎上と呼
識の影があると思えてならない。
軍慰安婦」に関する河野談話を見直そう
ばれる現象として注目されるが、炎上し
の仕方が実によく似ており、直接/間接
ゴースト
なくとも、ネットには日常的に怒りが溢
的に共通の情報源を思わせることだ。
と、同調する声が継ぎたされ、他のサイ
点を執拗な反復に置いたが、その実行に
(関西学院大学 やまなか・はやと)
トにも飛び火していく。
動画サイトのコメント欄に投稿される怒
れている。たいがいは匿名だ。掲示板や
連載 39
K O T
No.40
2014
O
W
A
R
I
特集
「私」文学の系譜
谷崎潤一郎から村上春樹まで
河内厚郎
関西学院大学出版会
KWANSEI GAKUIN UNIVERSITY PRESS
文字改革者の夢の痕跡
蒲 豊彦
私の手元に、真っ黒な表紙のそっけない本がある。B5版よりもひとまわり小さい
判型で、厚さは二センチほど。表紙に金色で「新約全書」と印字してあり、『新約聖
書』であることがわかる。だがなかを開いてみても、読むことのできる人は現在おそ
らくひとりもいないだろう。漢字ではなく、見慣れない記号が並ぶばかりなのである。
一九二四年に上海で出版されたこの本は『新約聖書』の北京語訳なのだが、一種の
表音記号で文章が書かれている。たとえば「新約」の「新」という字は、縦長に変形
コトワリ
もくじ
No. 40
2014
巻頭エッセイ
文字改革者の夢の痕跡 蒲 豊彦 特集 「私」文学の系譜 谷崎潤一郎から村上春樹まで 河内厚郎 —2—
したカタカナの「メ」と「ラ」のような記号を左右に並べて、ひとつに組み合わせて
いる。そして「メ」は「新」の子音部分、「ラ」はその後ろの部分の音声を表す。つ
まりハングルの仕組みに似ており、このような記号をいくつか憶えておけば、すべて
の単語が理解でき、つまり文章が読めるのである。こうして、北京語の音声をわずか
このシステムの開発者は王照といい、清末の政変のなかで日本へ亡命したことのあ
な部品に分解することによって、膨大な数の漢字をいちいち憶える必要がなくなった。
る人物だ。そのとき仮名を知ったことが、システム考案のきっかけになったらしい。
カタカナに似た記号が入っているのは、おそらくそのせいだろう。じつは当時、この
ような文字改革案を唱えたのは王照だけではなかった。ほかにもじつにさまざまな表
記案が出され、一種の流行だったと言ってよい。その背景には、十九世紀中葉以降の
宣教師たちの活動があった。かれらは『聖書』を中国語に訳すのだが、そのころの中
国人の識字率はきわめて低く、信者にはそれが読めない。漢字が阻害要因だと考えた
2
4
『新約全書』の冒頭部分
宣教師たちは、中国語をローマ字化しよ
うとした。中国語を表音文字化する試み
連載 世界から 第 回
〈世界の起源〉の現在 海老坂武 連載 ドイツ庭ものがたり
このような文字改革案は、漢字の学習
が、こうして始まった。
にあまり時間と費用とをさくことのでき
田村和彦 ない庶民のことを念頭においた、ある種
エミリィ・ディキンスンの詩学 松本明美 営業部だより
連載 差異の詞典
冨田宏治 自著を語る 白の修辞学 第 回 野の生け垣 の理想主義の産物である。ただし、音声
を表記するといっても、中国語は現在で
も方言の差が大きく、同じ「新」の字で
も地方によって読み方が異なる。冒頭に
紹介した『新約全書』が「北京語訳」な
のは、そのような意味だ。こうしたこと
もあって文字の音声表記化は順調には進
まず、一時はかなり普及したとされる王
た。ただし、理想主義者の努力がすべて
【怒りと哀れみ】 照のシステムも、今ではもう忘れさられ
無に帰したわけではない。宣教師が考案
した音声表記法は、現在、中国語の発音
記号のなかに一定度取り入れられ、生き
(京都橘大学 かば・とよひこ)
残ることになった。
—3—
8
14
16
15
10
11
17
特集
「私
」文学の系譜
あつろう
▶西宮市夙川の風景
神戸夙川学院大学教授
河内 厚
郎
かわうち
谷
崎潤一郎から村上春樹まで
─
現在、関西学院大学出版会は『阪神間近代文
学論
谷崎潤一郎から村上春樹まで』
(仮)
出版に向け企画進行中である。著者の河内厚
郎氏は演劇評論家として執筆活動をスター
トし、
『関西文學』
編集長を二期つとめ、また
文化プロデューサーとして芸術文化分野で
幅広く活躍している。生まれ育った西宮を心
から愛する氏に阪神間の文化と近代文学の
系譜について語ってもらった。
首都圏への一極集中が加速度的に進む
中でも阪神文化圏は独自のアイデンティ
ティをなんとか保ってきたのではないだ
ろうか。現在も少なからぬ文学者が巣立
ち、ま た 在 住 で あ る が、そ こ に は、こ の
地ならではの性格が認められる。
*
阪神間の本格的な近代文学は谷崎潤一
郎によって始まるとされる。地元に生ま
れ育った人間には足元の文化的土壌が把
「現代文學風土記」の中で、文芸評論家の
筑 摩 書 房『 現 代 日 本 文 學 体 系 』の 別 冊
会の市民風土を客観的に叙述することが
が故に、谷崎はこの首都圏とは異なる都
た東京下町生まれという都会人であった
はエトランゼであったが故に、そしてま
* * *
奥野健男が「阪神は……独自の文化圏を
握しにくいものであり、阪神間にとって
形成している科学・芸術・教育など文化
出来たのであった。
ら阪神間へ移住した谷崎潤一郎は、上方
関 東 大 震 災( 一 九 二 三 )を 機 に 東 京 か
の中心でもあり、しかも大都会にふさわ
町人文化の伝統に支えられた女性言葉の
しく多様・多彩であるが、関西という風
土や習慣や文化に根ざす、なにか共通し
魅力に触発されて、新境地を切りひらい
て い っ た。な か で も、全 文 が 関 西 女 性 の
た気質・作風が認められる」と記したの
それから半世紀近く
―
は、昭和四〇年代前半のことであった。
—4—
を救いだした平安時代の状況にも似てい
ちの手から紫式部ら女流文学者が日本語
る。そ れ は、漢 文 脈 に 凝 り 固 ま っ た 男 た
うな物語世界を展開していくことにな
やがて『春琴抄』や『盲目物語』にみるよ
う。己 の 文 体 を よ み が え ら せ た 谷 崎 は、
品であったという言い方も出来るだろ
母なる水脈を求めて旅立った記念碑的作
まった観ある日本の近代文学が、国語の
準語の人工的・観念的性格ゆえにいきづ
「 一 人 語 り 」の 形 で 書 か れ た『 卍 』は、標
は谷崎のほかに見あたらない。
くめ全文を関西弁で書こうとした小説家
巧みに活かす作家はいるが、地の文をふ
聖子のように登場人物の会話に関西弁を
録する試みとなった。織田作之助や田辺
た。
『卍』は、この「関西弁の近代化」を記
ンな関西弁が若い女性の間に生まれてき
語の表現を採り入れた、まったりとモダ
で、関西弁の柔らかさを保ちつつ新標準
子を迎えたりする家がふえてくる関係
移ってきたり、地方出身で帝大出の婿養
そこへ東京からホワイトカラーが転勤で
を、なにか不思議なもののように思い
教、東洋の鐘と西洋の鐘の響きの違い
がらも、ぼくはこの二つの異なった宗
の鐘がこれに応ずるのである。少年な
心女子学院の白い建物から夕べの祈り
夕 暮 れ に な る と 法 華 寺 の 鐘 が 鳴 る。
それを合図のように、むこうの丘・聖
景」を鮮やかに捉える。
期 の 情 景 は、阪 神 間 モ ダ ニ ズ ム の「 原 風
と』に描かれた阪急沿線・仁川の昭和初
周 作 が い る。そ の 回 想 記『 仁 川 の 村 の こ
る が、昭 和 初 期 は、大 阪 の 豪 商 た ち が 郊
ある。戦後に村上春樹氏が育った街であ
の 舞 台 は 阪 神 沿 線 の 香 櫓 園( 西 宮 市 )で
*
人 妻 の 書 簡 体 と い う 形 式 を と る『 卍 』
「 私 」で は な く、
「 私 」生 活 を 扱 う 文 学 と
づ け る こ と に な っ て い く。
「 私 小 説 」の
「 私 」の 世 界 を 描 く 阪 神 間 の 文 芸 を 特 長
と い っ た 書 簡 体 文 学 に ひ き つ が れ て、
譜は、井上靖の『猟銃』や宮本輝の『錦繍』
『 卍 』が 切 り ひ ら い た 語 り 物 小 説 の 系
は、伝統的な寺社とミッション系の学校
周作少年が育った阪急今津線の沿線
出の上に成り立ったものである。
色い人』という作品はこの仁川の思い
ながら聞いたものだった…ぼくの『黄
た。
外に居宅を構え、モダンな生活を享受す
が混在しつつ調和して、独特な和洋折衷
た。
の景観が形成されていったところであっ
いう意味である。
*
この阪神間で育った作家の一人に遠藤
るようになった時期であった。まだ伝統
的な船場言葉(大坂のブルジョア層が用
いた町人言葉)を用いる女性も多かった。
—5—
仰ではなかった。
の、それは自らの意思によって選んだ信
れられて周作少年は教会へ通ったもの
ち、熱心なカトリック信者だった母に連
良家の子女が違う女学校の教壇に立
都市開発が進んだのは鉄道の普及に負う
ら都市形成が行われた阪神間で大規模な
と畿内でも繁華な摂津国に属し、早くか
六甲東南麓に居を移していった。もとも
め大阪の富商たちは、こぞって阪神間の
る 私 立 美 術 館 と い う 具 合 で あ る。当 時、
かし、美術館はあらかたは個人の手にな
前が栄えてきたし、大学も私学が幅を利
な っ た。国 鉄( 現 J R )よ り も 私 鉄 の 駅
何かにつけ「私」が「公」を上回ることに
がある以上、自分のものとは考えられ
どうにもならぬ隙間があり、その隙間
られた。私の体とその洋服との間には
私の体に合う和服ではないように考え
私はこの洋服をぬごうと幾度も思っ
た。 ま ず そ れ は 何 よ り も 洋 服 で あ り、
かけての相次ぐ鉄道開通と電鉄会社の競
続々と移り住んだ。明治末から大正期に
ど私鉄が開通すると、ホワイトカラーも
治末期から大正期にかけて阪神や阪急な
トが別荘・私邸を構えるようになり、明
かれると、大阪の経営者やジャーナリス
に 大 阪・ 神 戸 間 に 旧 国 鉄( 現 J R )が 敷
代のサロンやカルチャーセンターのルー
主体となった。主婦を主な対象とする現
はなく有閑夫人のサロンのようなものが
場からして、今日のキャリアウーマンで
ことになったが、当時の女性の社会的立
主要な部分は女性たちの手に委ねられる
ぐ 場 で あ っ た。し た が っ て、地 域 文 化 の
しており、ホームタウンはどこまでも寛
で( あ る い は 東 京 で )会 社 や 商 店 を 経 営
と こ ろ が 大 き い。明 治 七 年( 一 八 七 四 ) 「公」の世界を担う男たちは、大阪や神戸
ぬ気がした。
合 に よ っ て 沿 線 開 発 に は 拍 車 が か か り、
『合わない洋服』
ツは阪神間にあった。皮肉な言い方をす
歌 劇 場 や リ ゾ ー ト 型 ホ テ ル、野 球 場 と
る な ら、
「 公 」よ り「 私 」が 幅 を 利 か す 戦
し た 地 で あ っ た が、あ く ま で も プ ラ イ
濃く現れる。自分が誰にも干渉されず自
個人の消費生活には人間のホンネが色
とになろう。
後文化の雛形がここに生まれたというこ
いった娯楽施設が続々と建てられてい
遠藤の抱いた違和感とは何を意味する
ここは、
「職住分離」という現代日本の
く。
ベ ー ト な 住 宅 街 と し て 発 展 し た せ い か、
のか? ここで阪神間の都市形成史を振
り返っておこう。
明治の産業革命によって大阪が工業地
ライフスタイルを全国にさきがけて確立
へと変貌するにつれ、住友や鴻池をはじ
—6—
商品を作り出すには、大衆が真に求める
向がつよい。理屈抜きに人の心をつかむ
社会はタテマエよりホンネを重視する傾
学は求められない。もともと関西の町人
の 成 り 行 き だ。そ こ に「 や せ 我 慢 」の 美
しいもの、快適なものを求めるのが自然
う も の で あ ろ う。心 か ら 娯 し い も の、美
本当に欲しいものを求めるのが人情とい
分 の カ ネ を 自 由 に 使 っ て い い と な れ ば、
た文体は、八〇年代の若者たちの心をし
ようになってくる。村上春樹の洗練され
間のみならず日本社会全体に認知される
のライフスタイルを重んじる文学が阪神
ら、消 費 生 活 を 真 正 面 か ら 見 据 え、個 人
りぬけた一九七〇年代も後半に入る頃か
が、時 代 は 下 っ て、高 度 経 済 成 長 期 を 潜
スタイルの原型が丹念に描きこまれた
が享受する消費生活を基盤としたライフ
ジョワジィの生態を通し、現代の日本人
の『 羊 を め ぐ る 冒 険 』と そ の 続 篇 に は、
現代日本人の戯画であろうか、村上春樹
深いところで疲労感を抱くようになった
に邁進してきたものの、いつしか心身の
く。
「西洋」という着物をまとって近代化
ドがひんぱんに登場するようになってい
上 春 樹 の 小 説 に は「 羊 」と い う キ ー ワ ー
では、新しい地平が立ち現れてこないの
「 私 」の 世 界 に 踏 み と ど ま っ て い る だ け
衷するだけで済む話ではないのである。
文 化 の 命 題 で も あ る。
「 和 」と「 洋 」を 折
いテーマなのであり、それは阪神間市民
*
日本の近代は、決して終わってはいな
ない洋服」のメタファーであろうか。
羊 の 毛 皮 と は、遠 藤 周 作 の 言 う「 合 わ
うになった。
という珍妙なキャラクターが登場するよ
『羊をめぐる冒険』を発表して以来、村
も事実であろう。
も の を 察 知 し な け れ ば な ら な い。
「男子
プライベートな美意識、消費文化の支
頭から羊の毛皮をすっぽり被った「羊男」
え が な け れ ば「 個 人 」を 築 く こ と な ど で
かと捉え、九〇年代に入るとアジアや欧
はなく生活感覚や身体感覚に裏打ちされ
きないという散文的な現実を真正面から
米の若者をも捉えるに到った。
たものが求められる。阪急電鉄を創始し
見 据 え た の が 阪 神 間 の 市 民 文 化 で あ り、
た る 者 い か に 生 く べ き か 」よ り、女 性 の
た小林一三は少女の生理を熟知していた
臭覚に近いセンスが求められる。観念で
のか、タカラヅカという消費の王国を創
*
し か し な が ら、い つ ま で も 柔 ら か い
たどりつく。
え た「 柔 ら か い 個 人 主 義 」と い う 思 想 に
それは西宮在住の劇作家、山崎正和の唱
芦屋や西宮など阪神間の市民風俗を活
り出すことに成功したのであった。
写 し て「 昭 和 の 源 氏 物 語 」と も 呼 ば れ る
谷 崎 潤 一 郎 の『 細 雪 』に は、伝 統 と モ ダ
ンが調和していた昭和初期の関西ブル
—7—
新 載
連 載
連
世界 から
回
観客に見せ続けたのである。観客から拍手が
座って両脚を開き、両手で性器を押し拡げて
起こり、あわてふためいた警備員が彼女の前
『アヴェ・マリア』を流しながら、絵の前に
か ど う か は 別 な の だ が。 題 し て『 世 界 の 起
に立ちはだかっている姿がビデオの画像から
パリのオルセー美術館に、誰でも必ず足を
源 』。 女 性 の 性 器 を、 た だ そ れ だ け を、 前 面
止める一枚の絵がある。見て思わず目を覆う
に大きく、色彩豊かに描いたクールベの一作
うかがわれる。
レアリスムの手法での『世界の起源』を描い
レ・マッソンに頼んで、もう一枚、シュール
だ け を 記 し て お く。 ラ カ ン は 友 人 の ア ン ド
有者が、精神分析学者のラカンであったこと
りがない。美術館に入れられる前の最後の所
とによって眺めている人々を逆に眺め返す、
こまでは描いていない)を自分の眼とするこ
客に眺められている性器の穴(クールベはこ
とが難しいので、一点だけ紹介しておく。観
い談話が載せられている。簡単にまとめるこ
ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール誌には長
な ぜ こ う し た パ フ ォ ー マ ン ス か。 週 刊 誌
だ。
てもらった。二枚の絵を重ねて入れる二重構
これは「鏡」としての芸術の「身ぶり」なの
絵の来歴やモデルについて語り始めるとき
造 の 額 縁 を 制 作 し、 マ ッ ソ ン の 絵 を 上 に、
だ、と。
ドゥ・ロベルティス)が驚くべきパフォーマ
ン ブ ル グ の 三 十 歳 の 女 性 写 真 家( デ ボ ラ・
ところでこの五月、この絵の前で、ルクセ
の逮捕を許してはならない。抗議のアピール
提供したという容疑だ。しかしこんなことで
身の性器を造形するためのデータを支援者に
ンネームではないか)が逮捕された。彼女自
のろくでなしこ(なだいなだに次ぐ秀逸なペ
その一ヶ月半後、今度はこの日本で漫画家
クールベの絵を下にして飾り、これぞという
ンスを行なった。キリスト昇天の日、二十九
来客にだけ下の絵を見せていたという。
日 で あ る。 彼 女 は 録 音 し た シ ュ ー ベ ル ト の
—8—
第
海老坂武
〈世界の起源〉の現在
11
の判断で彼女は四日後に釈放されたが、起訴
がまわってきたので私も署名をした。裁判所
の前で服を脱いだ。胸部から下腹にかけては
月、今度はストックホルムのエジプト大使館
国 を 追 わ れ る こ と に な る。 二 〇 一 二 年 十 二
のブログに全裸の写真を掲載した。そのため
ザインしたカヤックを制作したかったらし
ライナから発した女性解放運動)のブログに
ブ イ。 二 〇 一 三 年 三 月 に「 フ ェ メ ン 」( ウ ク
もう一人がチュニジアの高校生アミナ・ス
の文字が読める。
「 シ ャ リ ア[ イ ス ラ ム 法 ] は 憲 法 に あ ら ず 」
されるかどうかは未定である(ちなみに、先
ろ く で な し こ の 目 的 は 何 か。「 わ た し の
の写真家は退去を求められただけである)。
Dスキャンして夢のマンボー
い。支援の金額によって支援者に異なるサー
上半身の写真を投稿、そのため家族に監禁さ
「私の身体は私のもの」と書きなぐった裸の
トを作る計画に支援を!」とあり、性器をデ
〈まん中〉を
ヴィスを提供するという金集めの手法は私は
のスタイルをあみ出したのは、いま名前を出
を脱いで公共の場で抗議行動をするというこ
女性が戦闘的なスローガンをかかげ、衣服
れ、二ヶ月監獄にぶちこまれた。
好きではないが、タブーにいどむという姿勢
は保持しているようだ。
ることのうちに芸術性を求めているのだが、
した「フェメン」のグループらしい。ある評
この二人は、いわば、自分の肉体を露出す
他方、女性が肉体の露出をしながら政治・社
値する。
(えびさか・たけし)
のこと。〈世界の起源〉の現在として注目に
者に言わせれば「フェミニズムの第三波」と
会体制を批判する動きが世界的に広まってい
その一人がエジプトの学生、アリア・エル
る。
マディ。二〇一一年十月、モルシ政権下のエ
ジ プ ト で、「 暴 力、 人 種 差 別、 性 差 別、 性 的
いやがらせ、偽善の社会」に抗議して、自分
—9—
3
ドイツ庭ものがたり
「エデンの園」と題されているとおり、世界の果てにあるよ
うな庭の片隅は、謎の手紙から始まる哲学講義の幕開けにふさ
今から二十年近く前に評判になった哲学小説『ソフィーの世
い差出人は、どうやら野生の領域である森からやってきては、
贈りものを味わうことを覚えるのである。まだ正体のわからな
ソフィーは穴ぐらにうずくまって、智慧の木の実ならぬ哲学の
連 載
わしい。穴から覗かれる庭はソフィーにとって世界そのもので
あり、彼女は最初の人間のようにそれを眺め、「世界はどこか
ら来たか」を考える。荒れて藪のようになった生け垣は、人間
界』は、主人公の女生徒がある日、差出人のわからない手紙を
気づかれぬうちに庭先の郵便受けに手紙を入れていくらしい。
田村和彦
受け取ることから始まる。ソフィーは、自宅の庭の隅にある、
生け垣の中にぽっかりとあいた空洞は、しばらくあとで紹介さ
野の生け垣
だれにも邪魔されない秘密の隠れ家にもぐりこんで、自分あて
れるギリシャ哲学で、目に入るすべての現実は暗い洞窟の壁に
回
に届いた不思議な手紙の封を切る。その隠れ家が一風変わって
映 る 不 確 か な 影 絵 に す ぎ な い と し た、 プ ラ ト ン の「 洞 窟 の 比
第
いる。ソフィーの家はノルウェーにあると思われるが、「まる
の住む庭と、それを囲む森とを仕切る機能をもはやはたさず、
で世界の果てにあるみたいで、庭の向こうにはもう家はなく、
喩」の前置きでもある。
ない穴が開いていて、そこに這いこむと奥は広まった洞穴のよ
囲をめぐる形を示すという(白川静『常用字解』)。垣の本来の
を持った工作物や植栽を指す。垣の右側の旁(亘)は、物の周
て、建物や敷地などの周囲を「囲み」、「区切り」「隠す」機能
垣 と い う 日 本 語 は も と も と「 カ キ ル( 限 る )」 か ら 来 て い
かき
森が始まって」いて、森と庭の境には長いこと手入れされずに
うになっている。このお気に入りの場所に籠ってソフィーは、
藪のように生い茂った大きな生け垣がある。生け垣には目立た
「あなたはだれ?」と問いかける最初の短い手紙を皮切りに、
目的は、ある場所を囲って人や獣の侵入を防いだり、目隠しを
つくり
立て続けに届くいくつもの長い手紙に読みふけることになる。
したり、日ざしや風害などを防ぐことにあるが、古くは玉垣、
まがき
瑞垣、斎垣、籬などに見るように、神の憑代である聖域を囲む
い がき
太 古 か ら 現 代 ま で、 西 洋 哲 学 史 を 駆 け ぬ け る 空 想 的 な レ ク
みずがき
チャーがここから始まる。
— 10 —
17
そこに籠ることで安息や何にも乱されぬ平穏を約束する緑の隠
めるほどの厚みを備えた生け垣は、単なる区画や防御以上に、
垣も、垣根であることに変わりはない。ただし、人がもぐりこ
塀も竹垣も、柴を編んだ四ツ目垣も、土で固めた築地の塀も石
栽を伴わずとも、囲い、隠す機能があれば、垣と呼びうる。板
も、木の柵で囲うのも、石を積むのも垣である。要するに、植
結界でもある。樹を植えなくとも、棒を立てて注連縄を張るの
動物も人間も通り抜けられそうにないようになった」とある。)
周囲には「大小の樹木やからみあった茨、灌木が生い茂って、
ない。(じっさい、ペローの昔話では姫が眠りに落ちるや城の
は、単一の樹種からなるものでも、刈りそろえられたものでも
植 栽 を ま ず 思 い 浮 か べ る か も し れ な い。 し か し 本 来 の 生 け 垣
に刈りこまれた、ボスケットと呼ばれる装飾物や回廊のような
整形庭園で目にする、様々な図形に植樹され、幾何学的な形状
ロッパで生け垣といえば、ヴェルサイユ宮殿などバロック式の
の、 生 け 垣 は 本 来 も っ と 身 近 な 存 在 だ っ た は ず で あ る。 ヨ ー
し め なわ
れ家を体現している。ヤマタノオロチを退治したのちスサノオ
生け垣を表すドイツ語のヘッケも英語のヘッジも、同じ古高ド
ローの「眠れる森の美女」にあるが、どちらの話でも、錘の先
兄 弟 に よ る 昔 話 集 の「 い ば ら 姫 」 で あ る。 こ の 話 の 原 話 は ペ
隠れ家としての生け垣といえば、すぐ思いあたるのはグリム
切り通しの道沿い、水路の岸辺などにひとりでに根づいた植生
を平地に均した後に生じる畔や土手、拾い集められた石の山、
地が拓かれた中世に遡り、樹を伐採して根を掘り起こし、斜面
だ。その起源はゲルマンの森や荒れ地が開墾されて耕地や牧草
に 由 来 し、 も と は イ バ ラ や サ ン ザ シ の よ う に 棘
hegga
のある灌木を畑や住居の周りにめぐらした列を指していたよう
つい じ
がクシナダ姫と共に籠った八重垣もそうした原初の隠れ家で
で指を刺して呪いを受け、百年続く眠りに落ちる姫の居城は、
がもとになって生じた自然の生け垣である。それは低木や灌木
く
あったし、その向こうにはたたなずく青垣に幾重にも囲まれた
イツ語
藪のように茂る背の高い茨の生け垣でびっしりと全体が蔽われ
とその周囲の草本が混生する、奥行きと高さがそれぞれ二メー
こも
大和の原像、籠り国がある。
て、だれも外から見ることも立ち入ることもできなくなる。棘
トルから十メートル以上になる樹木の長い列で、垣根というよ
つむぎ
のある茨の蔓が幾重にもからみあって外部からの侵入を固く拒
り小規模な混成林のような外観を持つ。こうした生け垣は、第
いばら
む城とその奥に眠る姫君の姿は、グリムの昔話の中でももっと
物語の中では人を寄せつけない壁のように立ちはだかるもの
一に森や荒れ地と利用地を分かつ境界であり、次いで定期的に
もよく知られたイメージだろう。
— 11 —
敵の侵入を防ぎ、家畜の脱出を妨
や幅や密度を調整された、獣や外
刈り取りや剪定を行うことで高さ
農用資材を得、家畜の餌となる草や葉を刈り取り、灌木に実る
に、集落の者ならだれもが、燃料となる枯れ木や小枝を集め、
るために共同で下草刈りや剪定、枝打ちを行う場であるととも
よる。牧草地と同じく、そこは緑の防塁としての機能を維持す
た。その意味では、田畑に隣接して山林との境界をなし、入会
多種類の漿果や木の実を収穫することが許される場所であっ
地として共同管理され、薪炭と、落ち葉や下生えから作る堆肥
げ、風防としての機能も持つ緑の
この種の生け垣の中には、連な
防塁でもあった。
りあって列をなし数キロメートル
の供給源であった日本の里山とよく似ている。
草地を取り囲む生け垣の列が延々
園地帯に広がる、村落や畑地や牧
幅は縁どりを含めて十五メートルまでだから、全体は緩やかな
層に分かれ、それぞれ「核」「マント」「縁どり」と呼ばれる。
の層と、中間の低木・灌木、そしてその周囲に生える草本の三
面で見ると中心部の高木(といっても十メートルを超えない)
野の生け垣は独特の形状を持っている。典型的なそれは、断
の長さを持つものがある。特にイ
と続く風景は名高い。ヘッジロウは中世から築かれていた生け
三角形をなすことになる。その中に落葉樹を中心に数百種類の
棲息する小空間、ビオトープでもある。農業・牧畜を営む集落
— 12 —
ングランドやウェールズの低地田
垣が、十七・十八世紀にイギリスで行われた地主による共有地
植物が密生しているのだが、その形状と種別はたえず人の手を
ウ
の囲いこみをきっかけに、私有地を区画するために急速に拡大
加えられることで維持される。たとえば中心の高木は一定の高
ロ
したものだが、その総延長は十九世紀の最盛期に比べ半減した
さを保つために定期的に枝打ちと間伐が加えられ、周囲の灌木
ジ
とはいえ、いまも四十万キロメートルを超えるという。総延長
も隙間なく枝葉が更新するように剪定が行われる。下生えの草
ツ
ではイギリスにおよばないものの、ドイツにも北部の低地平原
ヘ
や南部の丘陵地帯のあちこちにフェルトヘッケ(野の生け垣)
を刈ってよい期間も限定されている。
コ モ ン ズ
この景観が長い間維持されてきたのは、生け垣が農業や牧畜
を営む共同体によって管理・利用される共用地であったことに
膨大な種類の植物が共生する生け垣はまた、多種類の動物が
が残って独特の風景を作り上げている。
イギリス ヘリフォードシャー近くのヘッジロウ
とはいえ、かつてあった生け垣の共同体的な利用の名残がな
を離れてより人為的な庭園の領域に囲いこまれ、もっぱら単一
いわけではない。ドイツの庭にはラウベと呼ばれる四阿風の仮
樹種からなる、整形されて美的・装飾的な機能を果たす植栽に
である。森林と畑の境界に位置し、餌となる小動物や木の実が
住居が欠かせないが、それは小屋に限らず、木組みにブドウや
による共同利用が廃れた現在、ヘッケが注目されているのはむ
豊富なヘッケは野鳥たちの天国であり、四十種におよぶ鳥たち
蔦などの蔓植物をからませたパーゴラ風のものから、雨風をし
し ろ こ の 生 態 学 的 な 側 面 で あ る。 密 生 し た 藪 を な す こ の 領 域
がここに巣を作り、産卵と子育てをする(ちなみにヘッケには
なってしまった。
「生け垣」以外にも、動物の繁殖場所、一度に生まれた雛や仔
のぐだけの簡素な張り出し、さらに植物に蔽われた庭の片隅の
は、なによりも野鳥たちが外敵から身を守るのに格好の住みか
という意味もある)。細長く続く生け垣の列は鳥たちの移動路
から得た木の葉、蔓、枝、柴、樹
皮などの手ぢかな素材で組み立て
た仮の庵のようなものだった。そ
れが庭園の中に取り入れられ、さ
さやかなくつろぎの場所として定
着 し た の で あ る。 庭 の ラ ウ ベ に
人々が集うとき、緑陰の葉ずれの
音や小鳥のさえずりからは、かつ
てあった共同生活の記憶がよみが
えるのかもしれない。
(関西学院大学 たむら・かずひこ)
— 13 —
あずまや
としても役立つ。ほかにも、ハリネズミ、蝙蝠、野ウサギといっ
緑陰までを広く指す。ラウベは木の葉を表すラウプ( Laub
=
)に由来する言葉で、もとは木の葉を家畜の飼料としてい
leaf
た農民が、林地や生け垣の共有地
ラウベに集う人々
家庭雑誌『ガルテンラウベ』(1853 年)より
た哺乳類から、亀、カエル、トカゲ、多くの昆虫と軟体動物ま
で、合計すれば何百種類もの動物
しかない対象である。生け垣は野
は今は自然景観として保護される
かわりも薄れた以上、野の生け垣
すでに持たず、人間の生活とのか
もちろん、農業や牧畜の基盤を
活動が盛んである。
現在ドイツ各地には生け垣の保護
様性を積極的に維持するために、
いる。こうした生態系と生物の多
がこの小さな空間を棲息地として
フェルトヘッケの断面図
中核層(中高木)を中心に、中間層(灌木)、
周縁層(草本)が連続的に連なっている。
語を多用し、隠喩も難解である。さらに
えようとしたのかについても考察を行っ
て、彼女がいかに端的に物事の本質を捉
アメリカ文学の専門家だけでなく、詩に
デ ィ キ ン ス ン と 言 え ば、 生 涯 独 身 を 貫
版することなく逝去した詩人である。し
興味のある若い読者にも読んでもらえる
レ ト リ ッ ク
かも、生まれ育った街をほとんど出るこ
よ う に 有 名 な 詩 も 引 用 し て い る。 つ ま
著 を 語 る
自 となく、白いドレスを着て、読書に耽溺
り、詩を読む面白さと難しさの両面を堪
白の修辞学
まつもとあけ み
エミリィ・ディキンスンの詩学
し、身の回りに起こる自然の変化を敏感
能できる著書である。無論、本著は、ア
としている。本著は、三部構成となって
なるだろう。
の一端を読み取る契機を得られることに
本著は、ディキンスンを知る研究者や
現在の大学教育においては、文学は学
に 感 じ 取 り な が ら、 詩 を 書 き 続 け て い
メリカ詩の醍醐味を声高に主張している
ている。
生たちの将来に役に立たないものとし
た。そのような一人の女性が、どうして
大書ではない。しかし、読者はディキン
き、生前に自分の名前を冠した詩集を出
て、敬遠されつつある。とりわけ、アメ
今日アメリカ詩を代表する詩人としての
スンの詩を通して、目には見えない真実
松本明美
リカ文学、中でもアメリカ詩を専攻する
地位を占めたのかが、議論の的となって
お り、「 白 」 と い う 言 葉 を 初 め と し て、
— 14 —
関西福祉科学大学准教授
学生の数が減少しつつあると聞く。本著
いる。
た 白 い ド レ ス を 一 つ の モ チ ー フ と し て、
本著では、ディキンスンが着用してい
は、 そ の 時 代 の 流 れ に 抗 う か の よ う に、
アメリカ詩を題材にした内容となってい
る。
めていた女性詩人、エミリィ・ディキン
彼女の詩論を語る上で欠くことのできな
論を様々な角度から考察することを目的
スンである。ディキンスンは難解な詩を
い「美」や「記憶」という言葉について
「 白 」 と い う 言 葉 を 軸 に、 こ の 詩 人 の 詩
書く風変わりな詩人であるとの評価がつ
も、深く掘り下げて詳述している。そし
今回、本著が中心テーマに据えている
いて回る。彼女の書く詩は、圧縮された
のが、十九世紀にひっそりと詩を書きた
スタイルでダッシュや大文字で始まる単
A5 判上製 224 頁
本体 2800 円(税別)
▼営業部だより▲
【九、十月の新刊】
『 大阪、 賑わいの日々』
ション』
『 中堅・中小企業のビジネス
一四〇頁 イ
・ ノベー
一六〇〇円
「関西IT百撰」から学ぶ三つの法則
並製
湯浅忠[著]
A
土居豊[著]
『いま、 村上春樹を読むこと』
四六並製 二〇〇頁 予価一七〇〇円
【好評既刊】
『 白の修辞学 』
エミリィ・ディキンスンの詩学
松本明美[著]
A 上製 二二四頁 二八〇〇円
(内容紹介 本誌一四頁をご覧下さい)
一六八頁 二八〇〇円
関西学院高等学部商科開設一〇〇周年
『 世の光たれ!』
並製
記念誌編集委員会[編]
A
編・集・後・記
電車の待ち時間をつぶすためにホームの売店に立ち寄ることがあ
る。そのどれもがキオスクというのだと思っていたら、そうではな
4
いらしい。キオスクKIOSKの名称はもっぱらJR系の売店で使
われ、しかもわざわざ「キヨスク」と読ませて「清く」「安く」を
かけているという。もとはトルコ語でキョシュク köşk
。庭に設け
られた簡素な園亭を指し、オスマン帝国時代から中東に広まった庭
園建築の一つである。キオスクの語は十九世紀から西欧語にも取り
入れられ、駅頭の売店だけではなく、街角の屋台や軽食スタンド、
旅の気分と異国の雰囲気をよびさ
電話ボックスを指すのにも使われた。この名前はその響きですでに
ます。それだけに、特定の鉄道会
社がこの名を独り占めするのは残
念な気がする。(和)
— 15 —
二つの万国博覧会の解剖学
山路勝彦[著]
A 上製 三六二頁 三八〇〇円
三四〇〇円
八〇〇円
〈非売品・ご自由にお持ち下さい〉
ドラゴン解剖学 登竜門の巻
九〇頁 〒 662 — 0891
兵庫県西宮市上ケ原一番町 1—155
TEL 0798—53—7002
FAX 0798—53—9592
5
※価格はすべて税抜表示です。
関西学院大学出版会
講』
二三〇頁 予価一八〇〇円
中国モダニズム研究会[著]
A 並製
関西学院大学総合政策学部教育研究叢書
A 並製
三五二頁 『 政策とデザインの融合を目指して』
3・ からの復興と展望
八木康夫[編著]
KGりぶれっと
『スポーツの経営史 』
A 並製
その多様なアプローチを目指して
市川文彦他[著]
コトワリ No. 40 2014 年 9 月発行
『 中国現代文化
14
38
5
4
4
5
5
11
5
5
【怒りと哀れみ】
冨田宏治
いない。政権基盤は決して強くない。頼
た衆院選の一八八一万をいまだ回復して
一八四二万と、民主党に政権交代を許し
それではと、閣議決定による解釈改憲に
す 羽 目 と な り、 そ う そ う に 立 ち 消 え た。
改憲派の小林節慶大教授などまで敵に回
のイロハもわきまえない暴論だと、九条
批判は強まるばかりだった。六月の朝日
舵をきったが、立憲主義に反するという
の調査では閣議決定による解釈改憲に反
りはアベノミクスの「好調」さを背景と
民主主義とは、異なる価値や利害を調
対する世論は六七%に及んでいる。その
した支持率の高さのみ。
とが多いのではないかと思いますので」
整 し、 敵 を 減 ら し 味 方 を 増 や す こ と で、
「最近いろいろお怒りになっているこ
と本欄への原稿依頼。ははあ、集団的自
果 た す べ き 目 的 を 達 成 し て い く 営 み だ。
あ げ く、 煮 え 湯 を 飲 ま さ れ た 公 明 党 に
衛権行使容認の閣議決定のことか。
の世論の高まりだけ。安倍首相の最大の
結果残ったのは、むしろ憲法九条擁護
— 16 —
慮って、関連法整備は統一地方選以降に
先送り。それでは一体なぜあんなに急ぐ
必要があったのか。ちぐはぐとしか言い
しかしこの男、世論に慮ってハードルを
ようがない。
確かに一片の閣議決定による解釈改憲
れなものである。この哀れさが日本政治
功績はといえば、これかもしれない。哀
総体のものでないことを祈るばかりだ。
下げようとすればするほど、敵を増やし
自民党は九条明文改憲と国防軍創設を
と い う 暴 挙 に 怒 っ て な い わ け じ ゃ な い。
うたって政権を奪還した。しかし、九条
味方を減らしていく。哀れである。
哀れみだ。この男、なぜこんなにも稚拙
先行改憲を打ち上げた。ハードルを下げ
(関西学院大学 とみだ・こうじ)
なのだろう。政権与党は衆参両院で圧倒
安倍自民党の得票は一二年の衆院比例
たつもりだったろう。しかし、立憲主義
改憲のハードルが高いとみるや、九六条
区 で 一 六 六 〇 万、一 三 年 の 参 院 比 例 区 で
的多数を擁しているのに。
だが安倍首相に感じるのは、怒りよりも
連載 40
K O T
No.41
2014
O
W
A
R
I
特集 1
オンラインゲームにおける
「相互承認関係」と「時間支配」
谷本奈穂
特集 2
経済学の市民的価値
本郷 亮
関西学院大学出版会
KWANSEI GAKUIN UNIVERSITY PRESS
レンタサイクルを用いた史料収集に関する考察
藤原辰史
九月上旬、秋田駅に降り立った私はすぐに改札正面の観光案内所に向かっ
た。農村の貧困を迫真の筆致で描いた作家伊藤永之介の墓、彼の言葉が刻ま
れた碑文、ハイセンスな品揃えの古書店板澤書房、雑誌『種まく人』の記念
碑がある土崎図書館、全部で四カ所を地図で確認するためだ。問題は交通手
段。バスでは本数が少なく、タクシーだと運賃が馬鹿にならない。寝不足の
私にはレンタカーは危ない。そこで、六段変速ギア付のオレンジのママチャ
コトワリ
もくじ
No. 41
2014
藤原辰史 巻頭エッセイ レンタサイクルを用いた史料収集に 関する考察 特集 オンラインゲームにおける 「相互承認関係」と「時間支配」 谷本奈穂 —2—
リを借りることにした。返却は午後六時三十分。残された時間は七時間半。
板澤書房では段ボール一箱分の本を購入し、それを大学に送ってもらうよ
地図をかごに入れて目的地へ急いだ。
う手配。それから全良寺で伊藤永之介の墓を探して靴を真っ黒にし、シャツ
を汗で濡らしながら急な坂を登って秋田県護国神社へ。「山美しく、人貧し」
という永之介の言葉をかみしめる。ここからはゆるやかな下り、海風で汗を
乾かしながらペダルをこぐ。二十分ほどで土崎図書館に到着、石碑を写真に
収め、『種まく人』の資料展でたっぷり一時間過ごし、ちょうど四時になっ
た。 暇 つ ぶ し が て ら 一 階 の 図 書 館 を 歩 い て い る と、 偶 然『 金 子 洋 文 資 料 目
録』に目が止まった。金子は『種まく人』同人のひとりで、永之介の保護者
であり、理解者である。彼らの間には多数の手紙が交換され、それが図書館
に所蔵されているというのだ。あわててカウンターに行って尋ねる。本来は
2
4
1
桜 田 館 長 か ら『 種 ま く 人 』 を め ぐ る 貴 重 な お 話 を い た だ き ふ と 気 が つ く
特集 経済学の市民的価値 自著を語る
連載 世界から 第 回 老人と犬 2
営業部だより
連載 差異の詞典 【怒りとクマムシ】 海老坂武 本郷 亮 山田直子 太平洋の航海者 新渡戸稲造の信仰と実践
谷口真紀 8
閲覧の予約が必要な史料だが、無理をいって許可をいただいた。
と、残された時間はほとんどなかった。レンタカーにしておけばよかった、
と悔やむ。秋田駅から自転車で来たことを告げると、驚いた図書館の司書で
ある吉田さんは嫌な顔ひとつせず史料を見やすいように机に並べてくださっ
た。永之介の『消える湖』を金子洋文が脚色した手書き原稿に胸を踊らせな
が ら、 六 時 に 撮 影 を 終 え、 心 か ら お 礼 の 気 持 ち を 伝 え た。 外 は か な り 昏 く
なっていた。
十 分 ほ ど こ い で、 図 書 館 に 地 図 を 忘 れ た こ と に 気 づ い た。 冷 や 汗 が 流 れ
る。あわてて戻って吉田さんに尋ねる。二人掛かりで展示室や閲覧室を探し
まわってくださったが、結局見つからず、そのうちに六時二十五分になった
の で、 観 光 案 内 所 に 電 話 を し て 謝 り、 吉 田 さ ん た ち に も お 詫 び し た。 県 道
五六号線を六速で疾走し、秋田駅に到着したのは七時十分。その後「大丈夫
地酒「まんさくの花」で失った水分を補給しながら、秋田の人たちの無限
でしたか」というお気遣いの電話を吉田さんからいただいた。
の優しさにただただ恐縮した。計画不足、いきあたりばったり、無理なスケ
ジ ュ ー ル。 非 模 範 的 な 史 料 収 集 旅 行 で あ っ た が、 そ れ で も 私 は 自 転 車 で よ
かったと総括したい。理由は汗である。ほとばしる汗の量で起伏を把握し、
冷や汗の量で己の恥を知り、その総量によって夜の酒の味が増したからだ。
京都大学(ふじはら・たつし)
—3—
12
14
15
16
12
特集 1
オンラインゲームにおける
「相互承認関係」
と
「時間支配」
た に も と
な
ほ
谷本 奈穂
む し ろ、
「内容」
( 恋 愛 物 語 )に 付 随 し
中毒性は感じられなかった。
ている、他の「趣向」がよくできており、
金銭や時間を費やさせ、ゲームに依存さ
せる機能を果たしていた。ゲーム世界で
はある種の「社会」が立ち上がっており、
現 実 社 会 と 類 似 し た 構 造 を な し て い る。
トゲとも呼ばれる)が急激に普及してい
オ ン ラ イ ン ゲ ー ム( ネ ッ ト ゲ ー ム、ネ
御 曹 司 や、架 空 の 国 の 王 子、歴 史 上 の 有
も の だ。ち な み に 美 男 子 に は、大 財 閥 の
プの違う美男子に次々と愛されるという
ロ ー ド し た。乙 女 ゲ ー ム の 主 題 は、タ イ
複数のアプリをスマートフォンにダウン
ち二つを概観しておきたい。
し て 捉 え 直 し て い く。そ し て、制 度 の う
では「よくできている趣向」を「制度」と
定するものとして使用されるので、ここ
制度というタームは、時に社会構造を規
る。と 同 時 に、社 会 問 題 化 も し て い る。
関西大学総合情報学部教授
問題の中には、高額な課金、長時間拘束、
名 人( 坂 本 龍 馬 な ど )が 設 定 さ れ、い か
はじめに
そしてゲームに熱中しすぎてしまうオン
にも女性向けのファンタジー(幻想)が
が社会問題化しても、どこか他人事とし
し た こ と が な か っ た。し た が っ て、そ れ
て感じたのではない。主たる目的である
度 も あ っ た。と い っ て も「 内 容 」に つ い
が「 よ く で き て い る 」と 感 じ る こ と が 何
実際にプレイを始めてみると、ゲーム
び、
「 お は よ う、今 日 も 一 日 が ん ば っ て
よ う な 交 流 を も つ 相 手 を「 お 仲 間 」と 呼
組 み )で 交 流 を 持 つ こ と も で き る。そ の
いう名のメッセージをやり取りできる仕
も で き る が、他 の プ レ イ ヤ ー と 手 紙( と
プレイヤーは一人でゲームを進めること
重 要 な 制 度 の 一 つ に「 手 紙 」が あ る。
「手紙」という制度
ラインゲーム依存症が挙げられる。
て 捉 え て い た。と こ ろ が、あ る き っ か け
はずの恋愛物語は、依存症になるほどの
繰り広げられる。
か ら、オ ン ラ イ ン の 乙 女 ゲ ー ム( 女 性 向
これまで筆者は、オンラインゲームを
け恋愛ゲーム)をプレイすることになり、
—4—
ちゃんのシャンプーをしたよ」などの近
ね 」と い っ た 挨 拶、
「昨日はうちのワン
うシステム)。
るアイテムを入手するために料金を支払
( ア イ テ ム 課 金 と い う。ゲ ー ム に 登 場 す
という手紙に出くわすときもある。した
られるので「目、変えたね。いいね」など
もあるし、目そのものも服のように変え
が っ て、魅 力 値 の 高 い プ レ イ ヤ ー ほ ど、
況報告がなされ、一見たわいない交流に
面 白 い の は、服 の 数 が 多 い ほ ど、プ レ
4
思 わ れ る。し か し、こ の た わ い な さ を 軽
4
着 せ 替 え 人 形 ご っ こ を 楽 し め る 上 に、
4
イ ヤ ー と し て「 力 」が あ る と 見 な さ れ る
4
こ と だ。そ れ ぞ れ の 服 に「 魅 力 の 数 値 」 「 他 者 か ら の 承 認 」が た く さ ん も ら え る
4
視し手紙を怠ると、
「お仲間整理」といっ
記 述 し て お き た い。そ れ は、ア バ タ ー
特に、手紙が効果的に機能する場面を
あ る の だ が、魅 力 値 が 高 い ほ ど 勝 つ( 数
げるために必要な対戦型のミニゲームが
で あ る。ゲ ー ム 内 で、自 分 の 魅 力 値 を 上
す る と( ア バ タ ー の )服 な ど が も ら え る
リー的な課題が課せられて、それを達成
めるのとは別に、短期間でサイドストー
う。イ ベ ン ト と は、本 筋 の 恋 愛 物 語 を 進
うなものだ。ゲームは基本無料とされて
る。子どもが遊ぶ着せ替え人形と似たよ
繁に替えることができるようになってい
ターの服や髪型、アクセサリーなどを頻
が 起 こ っ て い る の で あ る。
「すてきなア
よくあるが、オンライン上でも同じこと
しい服を着たりすると、ほめあうことが
でも(女性は特に)、髪型を変えたり、新
る。現実の日常的なコミュニケーション
と ほ め る 風 習 が、半 ば ル ー ル 化 し て い
そして、他の人がアバターを着替える
る。そのときも手紙は効力を発揮する。
無 視 よ、無 視! イ ベ に 全 力 を 尽 く す
わ!」というくらいの盛り上がりを見せ
るプレイヤーの手紙によると「本編? い く。こ れ が 開 催 さ れ て い る 時 期 は、あ
かと対戦して、イベント用数値を上げて
上げていくのと同じで、ミニゲームで誰
催 し だ。達 成 の 方 法 は、本 編 で 魅 力 値 を
ま た、イ ベ ン ト に つ い て も 見 て お こ
( ネ ッ ト 上 で 自 分 を 表 す キ ャ ラ ク タ ー)
値が上がる)ようにプログラムされてい
仕組みになっている。
4
て、他のプレイヤーから仲間と見なされ
が つ い て お り、そ の 合 計 値 が「 力 」な の
4
なくなることがあるのである。
を着替えた時と、イベントの時である。
るのである。
いるが、無料のままでは保持できる服の
バですね」
「(アバターの)髪型変えたね、
まず、アバターの着替えについて見て
数は決まっており、それ以上に服を増や
かわいい!」などの手紙が行き交うこと
み よ う。女 性 向 け ゲ ー ム ゆ え か、ア バ
し た り、服 を「 収 納 」す る「 タ ン ス 」を 購
イベントでのポイントは、課題を達成
入したりするには、実際のお金がかかる
—5—
他のプレイヤーが持っている数値の一部
けでは限界がある。だが、イベントでは、
するには、自分のイベント値を上げるだ
うことができる点にある。課題をクリア
するときに、他のプレイヤーと協力し合
る 喜 び、課 題 に 一 緒 に 立 ち 向 か う 充 実
しまうのである。他者に気遣ってもらえ
を経ると、想像以上に心地よさを感じて
い、課題を達成して互いに感謝する体験
日 常 会 話 を 交 わ し、ア バ タ ー を ほ め 合
認関係」である。バーチャルであっても、
け る の は、他 の プ レ イ ヤ ー と の「 相 互 承
間経てば体力が一〇〇%まで自然に回復
な っ て も、三 分 で 一 % ず つ 回 復 し、六 時
法 も あ る。対 戦 に よ っ て 体 力 が 〇 % に
もあるが、時間が経つのを待つという方
の 金 銭 で 購 入 す る( ア イ テ ム 課 金 )方 法
回復も必要となる。回復アイテムを現実
するたびに体力は低下するので、体力の
い。そのためには「体力」が必要で、対戦
4
を 借 り る こ と が で き る の だ。そ こ で、多
感、そ れ が 達 成 さ れ た と き の 満 足 感。こ
4
くのプレイヤーは、手紙を通じて他のプ
してくれるのである。
4
レ イ ヤ ー と「 仲 間 」と な り、お 互 い 助 け
のような貴重な感覚が、頻繁に入手でき
り、課金せずに体力が回復できるのだか
4
合おうとする。共に協力する必要がある
るのだ。擬似的な「幸せの共同体」にいっ
ら 待 て ば 良 い 仕 組 み に 思 え る。し か し、
4
の で、途 中 も お 互 い を 励 ま し 合 う。課 題
たん入ってしまうと、その
「甘い罠」から
4
が 無 事 に 達 成 す る と、仲 間 に お 礼 を 述
はなかなかに抜けがたくなってしまう。
ム内で仲間と喜びを分かち合っても、現
も、現 実 に 着 る こ と は で き な い し、ゲ ー
アバターの着替え服をいくら入手して
の数値を高めることができるからだ。た
い る。対 戦 す る こ と で、課 題 達 成 の た め
と対戦することは不可欠の条件となって
ントを進めるにしろ、ミニゲームで誰か
るゲームでは、本編を進めるにしろイベ
先に述べたように、筆者が体験してい
〇%になったら、次に体力が一〇〇%に
ら だ。例 え ば、夜 十 時 に 対 戦 し て 体 力
しないと体力の無駄遣いが出てしまうか
に厳しくなってくる。六時間おきに対戦
時間による体力回復を選択すると、徐々
と が 分 か っ て く る。課 金 せ ず 節 約 し て、
○○だけのイベント値が必要」というこ
ベント期間に入ると、
「○月○日までに、
こ れ も「 甘 い 罠 」な の で あ る。例 え ば イ
ゲーム会社は基本無料をうたってお
べ、お 互 い を い た わ り 合 う。そ こ で は、
比較的手軽な形で達成感を楽しめ、なお
かつ、他者から承認されたり感謝された
実の人間関係とは別物である。そんなこ
だ し、い つ で も 対 戦 で き る わ け で は な
「体力回復」という制度
とは、おそらく多くのプレイヤーたちは
りする仕組みが出来上がっている。
知っている。ここでプレイヤーを惹きつ
—6—
4
4
4
4
4
4
4
4
4
のために切り刻まれ支配されるようにな
※
るのである。
4
な が ら も い じ り、寝 る 直 前 も い じ る。つ
4
わものになると深夜に目覚ましを使って
4
なるのは深夜四時である。しかし朝まで
いったん起きてスマートフォンに向かう
4
寝てしまって翌日の朝の七時に対戦して
4
しまったら、三時間分の体力が無駄にな
のだという。そうしなければ体力の無駄
戦すればいいのよ。朝六時に起きて対戦
授 し て く れ る 方 法 は、
「六時間おきに対
実際に、手紙で上級者プレイヤーが伝
フォンが近くにある限り、いつでもゲー
に 身 体 が 覚 え て 習 慣 化 す る。ス マ ー ト
しいことに、このやり方はあっという間
遣いが起きると恐れるのだ。そして恐ろ
ンゲームは、
「相互承認関係」という甘い
の 仕 組 み に 過 ぎ な い。し か し、オ ン ラ イ
が時間で回復できる」といったゲーム上
きはあくまで「手紙を交換できる」
「体力
り 方 や、
「完全に体力が回復するまでに
が 存 在 す る。そ の 勝 負 時 に、現 実 の 世 界
倍になる時間帯(フィーバーと呼ばれる)
また、対戦したときに入手する数値が
え ゲ ー ム「 内 容 」が 稚 拙 な も の で あ っ て
実の時間をゲームの支配下におく。たと
無 料 の「 体 力 回 復 」と い う 甘 い 罠 で、現
罠 で、擬 似 的 な 達 成 感 や 満 足 感 を 与 え、
ゲーム会社が提供しているのは、表向
し、昼 十 二 時 に は 対 戦 し、夕 方 六 時 に 対
ムにアクセスできるからだ。
さいごに
る。
戦 し、夜 の 十 二 時 に 対 戦 す る 」と い う や
対戦することよ。私は体力マックスにし
で用事でも入ろうものなら、腹立たしく
何時間おきかに対戦のためゲームアプ
たことがない」というやり方である。
※
も、それらの「制度」が、高額な課金、長
4
な る と い う。手 紙 を 読 む 限 り、用 事 中 で
4
リ を 立 ち 上 げ る。こ の 方 法 を は じ め る
4
時間拘束、オンラインゲーム依存を生み
4
出していけるのである。
4
も人目を盗んでゲームにアクセスする者
4
と、現実の生活が一気にゲームに支配さ
4
このようにして、現実の時間がゲーム
4
も多数いる。
4
れてしまう。朝起きてすぐスマートフォ
ン を い じ り、昼 ご 飯 前 に も、夕 食 を 作 り
※
—7—
※
※
通
常の生活では、どうしてもゲームできない時が出てくる。その場合、課金して体力回復アイテムを買う選択肢もある。まさに「時間をお金で買う」
のである。
「基本無料」が高額課金へ変貌していく回路である。
以
上は、あくまで、ゲーム初心者の目から見た、女性向け、かつ、スマートフォンでのゲームについての実感である。他ジャンルゲームやパソコンを
使用した場合では異なる特徴があるだろう。
※
1
2
特集 2
ほ ん ご う
りよう
本郷 亮
マルクス、ケインズなどの主義主張を経
済学者と一般の人々が同じ土俵上で議論
できる雰囲気は、今ではほとんど失われ
て い る。た と え ば、現 代 の 主 流 派 経 済 学
では、マルクスは経済学者とさえ見なさ
れていない。要するに近年の経済学は、専
門性という殻に閉じこもり、主流派であ
こうして経済学の消費者人口(広い意味
積 極 的 に 排 除 し て き た の で あ る。だ が、
関西学院大学経済学部教授
の深刻な問題にも直面している。なかで
で 経 済 学 を 学 ぶ 人 々)が 減 少 す れ ば、経
る新古典派経済学
( Neoclassical economics
)
の学問的条件を満たさない人々を一蹴し
も懸念されるのは、
「経済学」自体への需
の急速な性能向上・低廉化・普及も追い
会統計の整備が進んだことや、パソコン
行 わ れ て き た が、二 十 世 紀 に は、各 種 社
数学化と統計データによる検証を通じて
願であったと言ってよい。それは理論の
議論はおおむね、経済学とは無関係な議
および統計的検証という作法に従わない
から見れば、前述のような数学的定式化
なっている。多くの専門的経済学者の目
き る よ う な、裾 野 の 広 い 学 問 で は な く
学などの他分野の研究者が議論に参加で
の よ う な、一 般 の 人 々 や、政 治 学・ 社 会
識することも必要ではなかろうか。
の み な ら ず、そ の「 市 民 的 価 値 」を 再 認
は、経 済 学 の「 科 学 的 価 値 」を 追 求 す る
ジレンマを解消ないし緩和するために
知っている。現代経済学が直面するこの
かは、もちろん経済学者自身が一番よく
「 需 要 の 減 少 」が 社 会 的 に 何 を 意 味 す る
済 学 へ の 需 要 も 当 然 減 少 す る だ ろ う。
風 と な り、そ の 流 れ は ま す ま す 加 速 し
論にすぎず、一昔前のようにA・スミス、
一部の例外を除けば、経済学はかつて
要の減少である。
経済学の市民的価値
経済学に対する「需要」の減少
十九世紀後半以来、経済学は科学的客
た。そ の 結 果、現 代 経 済 学 は 専 門 的 数 理
観性を追求してきた。これは経済学の悲
科学として著しく発展した反面、幾つか
—8—
いられず、主に新聞・雑誌・書籍の形で
に 含 め る )、そ こ で は ほ と ん ど 数 学 が 用
知識であり(いわゆる「経済評論」もここ
民的価値」の向上をめざす広義の経済学
じ て 提 供 さ れ る。第 二 は、経 済 学 の「 市
識であり、これはもっぱら学術雑誌を通
学的価値」の向上をめざす狭義の専門知
スを提供している。第一は、経済学の「科
ることができ、およそ次の二つのサービ
経済学世界は一つのサービス産業と見
に 依 存 せ ざ る を え な い だ ろ う。一 方、第
は、政府の補助金などの外部からの支援
済 学 に お け る「 科 学 的 価 値 」追 求 の 営 み
していないという点である。それゆえ経
門的経済学の商業的有用性をあまり評価
況から推測されるように、民間企業も専
博 士 号( 経 済 学 )取 得 者 の 厳 し い 就 職 状
避する者が多い)、もう一つは、わが国の
学を専門に学ぶ大学生でさえも数学を忌
わずかにすぎないという点であり(経済
すなわち経済学の広義の消費者は、ごく
数 式 に 満 ち た 経 済 学 を 学 ぼ う と す る 者、
る。その大きな理由は二つある。一つは、
重要である。
済政策をめぐる公論形成に不可欠な②が
の 個 別 課 題 を 含 む が、こ こ で は 特 に、経
不可欠な市民的な経済道徳の涵養、など
民主主義社会を円滑に機能させるうえで
機 会( い わ ゆ る フ ォ ー ラ ム )の 供 給、③
望ましい経済社会のありかたを議論する
①私的経済活動に有用な知識の供給、②
ための経済学」という理念の追求であり、
不可欠であるように思われる。
者の向上のためには、後者の向上もまた
の持続可能性という観点から見れば、前
市民のための経済学
提供される。ある同一の個人が第一と第
二 の「 市 民 的 価 値 」追 求 の 営 み は、ビ ジ
は、前 者 の「 科 学 的 価 値 」の 追 求 の 営 み
て い る。し か し こ こ で 指 摘 し た い こ と
の「市民的価値」を排除する傾向が強まっ
は、第一の「科学的価値」のために、第二
前 述 の よ う に、近 年 の 経 済 学 世 界 で
どちらも重要だが、産業としての経済学
済学の「科学的価値」と「市民的価値」は、
い消費者としての一般読者層である。経
ており、それを支えているのが裾野の広
ラー書のほぼすべては、ここで供給され
際、経 済 書 の 大 半、ま た 経 済 系 ベ ス ト セ
ネ ス と し て 成 り 立 つ 可 能 性 が 高 い。実
理 展 開( 純 粋 理 論 )な ど に 限 定 さ れ、何
明らかにすることや、純粋に演繹的な論
仕事は、諸々の経済現象のメカニズムを
立場を突きつめれば、経済学者の本来の
科学的客観性を追求する現代経済学の
経済学の価値観
は、そ れ 自 体 で は、ビ ジ ネ ス・ モ デ ル と
経済学の「市民的価値」とは、
「市民の
二の両方を供給する場合もある。
しては成り立たないだろうという点であ
—9—
しかし実際には、経済学者はしばしば
とは論理的にも不可解だろう。
的客観性を堅持しながら政策論を導くこ
ら政策目標が与えられないかぎり)科学
価 値 判 断 は 生 み だ せ な い か ら、
(外部か
そも、事実判断をどれほど積み重ねても
は排除されなければならない。またそも
定され、
「~すべきである」調の価値命題
の議論は、
「~である」調の事実命題に限
いうことになる。すなわち科学的経済学
済学の本来の立場を越えた仕事であると
ない経済政策を唱えることは、科学的経
らかの個人的価値観をともなわざるをえ
め る た め に よ り 多 く の 銀 を 取 得 す れ ば、
ト最適である。なぜならA氏が効用を高
八 : 二 と 略 記 す る )、こ の 配 分 は パ レ ー
ム を 所 有 す れ ば( 以 下 で は こ れ を 単 に
A氏が八キログラム、B氏が二キログラ
用 は 常 に 高 ま る も の と す る。こ の と き、
う。銀 の 所 有 量 が 増 え れ ば、そ の 人 の 効
とB氏の二人に配分する場合を考えよ
単 一 の 財 貨( 十 キ ロ グ ラ ム の 銀 )を A 氏
る。単 純 な 例 と し て、総 量 が 一 定 で あ る
「 無 駄 」が あ る こ と を 意 味 す る か ら で あ
あるならば、それは集団内の資源配分に
ず に 誰 か の 効 用 を 高 め ら れ る「 余 地 」が
分方法を工夫して、誰の効用も低下させ
さ れ て い る。な ぜ な ら、よ り 効 率 的 な 配
学的客観性どころか、むしろ恐るべき思
い し、も し 存 在 す る と す れ ば、そ れ は 科
値観を持たねばならない理由は存在しな
者がパレート最適という特定の政策的価
誤解を招く表現である。すべての経済学
済学の立場からは……」という前置きは、
と い う 意 味 で あ る こ と が 多 い。だ が「 経
最 適 と い う 価 値 判 断 基 準 に 従 え ば ……」
う 前 置 き を 述 べ る が、こ れ は「 パ レ ー ト
さ い に「 経 済 学 の 立 場 か ら は ……」と い
る。
在するケースでは話はかなり複雑にな
ト最適になるが、複数の種類の財貨が存
が 残 ら な い か ぎ り )、配 分 は 常 に パ レ ー
を高めようとすれば、他の誰かの効用を
る 集 団 内 で、誰 か の 効 用( 経 済 的 幸 福 )
い る か ら で あ る。パ レ ー ト 最 適 と は、あ
という標準的な価値判断基準を設定して
十キログラムであるかぎり(未利用の銀
る場合には、両者の銀の取得量の合計が
適である。このように財貨が一種類であ
九 : 一 も、五 : 五 も、す べ て パ レ ー ト 最
からである。同様の理由から、一:九も、
B氏の銀が減少し、B氏の効用が下がる
性だけに関する基準であり、富の分配の
ト最適の弱点は、それが資源配分の効率
的価値判断にすぎないのである。パレー
しない。パレート最適もまた単なる個人
想統制である。
さて、経済学者はしばしば政策提言の
れ は 主 流 派 経 済 学 で は「 パ レ ー ト 最 適 」
「経済学の立場」から政策提言を行う。こ
低下させざるをえないような状態を意味
科学的価値判断などというものは存在
する。そこでは効率的な資源配分が達成
— 10 —
レート最適であるため、パレート最適の
も、九 : 一 で も、五 : 五 で も、す べ て パ
ど の 例 で 言 え ば、銀 の 配 分 が 一 : 九 で
平等性を無視していることである。先ほ
い。それを承認したうえで、経済学の「市
ら な い だ ろ う し、ま た 変 え る 必 要 も な
客観性の追求は、今後も基本的には変わ
に対応している。経済学者による科学的
し て は キ ム リ ッ カ『 現 代 政 治 哲 学 』
(
登場した。この分野の定評ある概説書と
表者はM・サンデルやC・テイラー)も
持を重視するコミュニタリアニズム(代
させられ、また八十年代には共同体の維
Philosophy: An Introduction, Oxford
K y m l i c k a , Contemporary Political
W.
民 的 価 値 」の 重 要 性 を 再 認 識 し、価 値 判
開放することこそが、経済学の持続的発
断をともなう経済政策論議を広く公衆に
展のために不可欠だろう、と私は強く主
観点からこれらの配分に優劣をつけるこ
点から見た配分の改善が富の分配の不平
と は で き な い。ま た、パ レ ー ト 最 適 の 観
等を拡大させるような悩ましいケースも
本 経 済 評 論 社、二 〇 〇 五 )が あ り、こ れ
千葉眞・
University Press, 2nd edn., 2002,
岡崎晴輝ほか訳『新版 現代政治理論』日
に優るものはいまのところ存在しないよ
張したい。
ロールズ
『正義論』(
John Rawls, A Theory of Justice, う に 思 わ れ る。経 済 学 者 は、政 策 論 の 次
元では、パレート最適という経済学の標
ては、近年の正義論の展開
―
経 済 学 の「 市 民 的 価 値 」の 追 求 に お い
あ る が、パ レ ー ト 最 適 の 観 点 か ら 見 れ
ば、そ れ は 善 い こ と な の で あ る。結 局 の
ところ、
「経済学の立場からは……」とい
う前置きで始まる経済学者の政策提言に
つ い て は、多 く の 場 合、そ の 科 学 的 客 観
自 由 主 義 思 想( 特 に リ バ タ リ ア ニ ズ ム )
乗り越えようとしたのは功利主義思想や
念・価値を扱うものであり、ロールズが
る。正 義 論 は 公 共 政 策 全 般 を 支 え る 理
が重要な手がかりとなるように思われ
るまいか。
対化することが求められているのではあ
することによって、
「経済学の立場」を相
く、前述のような諸々の基準と比較検討
準的価値判断基準を特別視することな
科学的客観性を追求する経済学と価値
で あ っ た。周 知 の よ う に、ロ ー ル ズ の 議
―
)に 端 を 発 す る 一 九 七 〇 年 代 以 降 の
1971
政 治 哲 学・ 公 共 哲 学 の 活 発 な 展 開
観 を と も な う 経 済 政 策 論 は、そ れ ぞ れ、
論はR・ドゥオーキンによって一層発展
性を鵜呑みにしないほうが賢明である。
経済学が担うべき社会的機能としての
公共哲学の隆盛
「科学的価値」向上と「市民的価値」向上
— 11 —
新 載
連 載
連
世界 から
回
海老坂武
年に一回、海外に出る。今年は南フランス
そ の バ ル ド ー の 写 真 展( Brigitte Bardot
)がたまたま美術館で催されてい
Forever
た。この十年の、ということは七十代のバル
へ。農家の一階を五人の仲間で借り、九月始
めの一週間、合宿生活をした。飯つくり、皿
ドーの生活と活動とを追いかけて撮った写真
バルドーが若くして映画界を去ったのはも
家の作品展である。
洗いは交代にやる。
二階を占めている大家夫妻は広大なぶどう
う四〇年以上も前のこと、以後彼女はサン・
畑 の 持 主 で、 朝 早 く か ら 畑 に 出 て 働 い て い
西に駆けまわっている。大変な愛犬家で、写
トロペに家を構え、動物愛護運動に打ち込ん
真では常に何頭かの犬に囲まれている。それ
る。収穫直前の大事な時期なのだ。二人とも
ワインの差し入れがあるのではと期待して
だけでなく、邸内には短い寿命を終えた愛犬
私より少し若いだろうか。ということは後期
いたが、これはなく、かわりにある日、三、
たちの何十かのお墓がある。愛犬家の悲哀を
できた。そのための財団を設け、自分も東に
四十箇のいちじくを置いていってくれた。所
高齢者ということになるが。
有地にいちじくの木が何本もあるのだ。店頭
感じる。
とか。しかしこの街の守護神はなんといって
の若者文化に侵蝕され、街の様相が一変した
ある街として知られていたが、一九六〇年代
もとは芸術村として、ついで有名人の別荘の
す美しさがある。
べきことをやっているという確信がかもし出
は確実に健在である。そしてもう一つ、やる
は各人の趣味に委ねるとして、色気と愛嬌と
のうちに相も変わらぬ肉体美を見るかどうか
は肉体美、色気、愛嬌だった。これらの写真
かつてバルドーの魅力とされたもの、それ
熟成ではない完熟の味に一同舌つづみを打つ。
もブリジット・バルドー、あちこちの店に若
一日、港町のサン・トロペを訪れた。もと
き日の彼女の写真が貼ってある。
— 12 —
第
老人と犬
12
た。右翼の政治家であるという若い亭主との
犬でなく男と一緒に撮った写真が一枚あっ
ヴァカンスを過ごす老人カップルが何組も
れない。南フランスの海岸でも、孫と一緒に
ばあさん文化〉が大きな役割を果たすかもし
ポール・モーラン。第二次大戦中ドゴールが
雑誌で読んだ笑わせる話。作家で外交官の
あった。
写真、これは無視する。
南フランスからパリに戻り友人の家に居候
ご し た。 ひ と つ、 面 白 い ス ペ ク タ ク ル を 見
いた。しかしドゴールにうとまれ、後にアカ
を続け、読書と映画とコンサートの日々を過
た。「 The grandmothers
」演出はアン・ウン
ミ。「 韓 国 の ピ ナ・ バ ウ シ ュ」 と 呼 ば れ て い
デミーに入るのも妨害された。
きなように歌わせ、好きなように踊らせ、こ
ごく普通のおばあさんたちに普段着のまま好
と主人がかけ声をかけると、しつけられた犬
犬のショウを披露する。「死ね、ドゴール!」
一つ考え出した。親しい友人たちを招いては
これを恨みに思ったのだろう、復讐の手を
ロンドンに亡命していた頃、彼もロンドンに
る振付師だ。
れをビデオに収めたものが舞台上に大きく映
はあおむけになって、手足を震わせ、苦悶の
前半はビデオ上映。六〇─九〇歳の韓国の
し出される。このいわば素人の歌と踊りがな
表情を浮かべたという。
可能だ。私も不愉快な政治家の名前をここに
ドゴールの名をあれこれ入れ替えることは
んとも迫力があり、おばあさんパワー満開と
持 っ て き て「 死 ね!」 と 叫 び た い と こ ろ だ
言いたいくらい。後半はそのうちの何人かと
プロの若いダンサーとが一緒に舞台で踊った
が、犬を飼っていないのは残念なことである。
(えびさか・たけし)
り引っくり返ったり、スローとスピードとの
見事な組み合わせのスペクタクルとなってい
た。
ふ と 思 っ た が、 高 齢 化 社 会 に お い て、〈 お
— 13 —
自 著 を 語 る 新渡戸稲造の信仰と実践
類の融和の意義を認めたのは、その信仰
が人間や世界の成熟への願いに結びつい
たからだった。良くも悪くも、信仰が彼
師として植民事業にたずさわった時期も
を差す経歴もつきまとう。台湾総督府技
教鞭をとった彼は、ひとりひとりの学生
東京帝国大学をはじめさまざまな現場で
戸 は 信 仰 を 求 め、 自 ら を 正 そ う と し た。
太平洋の航海者
の生きかたをまとめ合わせていたといえ
新渡戸稲造は太平洋の架け橋になりた
のために祈ってから教室に入ったとい
き
いという志を胸に幕末から昭和の初めを
あったし、晩年には満州事変をめぐって
う。人と人、国と国をつなごうとした彼
たにぐち ま
生き抜いた。彼を語る本を図書館で探そ
日本側の立場を弁護した。彼を太平洋の
の生きかたを貫く謙虚な姿勢に学ぶこと
自分のもろさを認めるからこそ、新渡
る。
うとすると、文学・教育・経済・宗教・
航海者と呼べても、東シナ海の航海者と
谷口真紀
哲学・歴史・政治・言語など、あらゆる
は呼べない。
なぜ新渡戸の言動はそのように矛盾し
は多い。近代の日本人キリスト者の明暗
上製約二〇〇頁 価格未定
5
— 14 —
滋賀県立大学特任准教授
セクションを渡り歩かねばならない。そ
の両方を引き受けていく覚悟を持ってい
れほどまでに幅広い活動を通して彼が力
たい。
に検証しようと試みた。彼が植民事業や
谷口真紀
[著] A
新渡戸稲造の信仰と実践
太平洋の航海者
ていたのか。本書は彼の矛盾点を突くの
満州事変の大義を認めることとなったの
に終始するのではなく、彼の活動や言論
なかでも、新渡戸は日本人初の国際連
は、よりよく生きるための支えだったキ
を注いだのが、欧米と日本の人々の相互
盟事務局次長に抜擢され、国際連合教育
リスト教信仰が文明や国家の発展への願
の負の側面と正の側面の両方をていねい
科学文化機関(ユネスコ)の前身の国際
いに結びついたからである。同時に、人
理 解 を 深 め る た め の 文 化・ 学 術 交 流 で
連盟知的協力国際委員会の立ち上げに貢
あった。
献した。だが、彼にはこうした活躍に影
新 刊
▼営業部だより▲
【十二月、一月の新刊】
『 フレームを変えると、世界が変わる』
【近刊】 ※タイトルは仮題
『相続法実務入門』
村上博一[著]
A5並製 約三八〇頁
『糸賀一雄の研究』
人と思想をめぐって
蜂谷俊隆[著]
約二四〇頁
編・集・後・記
たまたま学生時代に買った文庫本を開いてみて、その活字の小さ
さ に 驚 く こ と が あ る。 内 容 に よ っ て も 差 が あ る の だ ろ う が、 昭 和
五〇年代に出された文庫本では縦四三字に一八行で一ページ当たり
七七四字が収まっている。最新のものではこれが縦三八字に一七行
で六四六字。一行で五字減っただけで見ばえはずいぶん変わる。た
だし一三〇字近く減ることで一時に目に入る情報量は少なくなり、
かわりにページをめくるのに忙しくなる。四〇年ほどの間のどこで
こんなレイアウトの変化が起こったのだろうか。そういえば、新聞
の一行文字数も五〇年前の一五字から一四字、一二字と減り続け、
現 在 は 一 一 字 の も の も あ る。「 目
にやさしい」レイアウトで紙面は
スカスカになり、情報量は格段に
— 15 —
A5上製 約三二〇頁
減った。読みふけるという感覚が
今の新聞では味わえない。文庫本
に戻ればぼくには、ページへの目
〈非売品・ご自由にお持ち下さい〉
『市民社会セクターの可能性』
110年ぶりの大改革の成果と課題
並製
岡本仁宏[編著]
A
小池洋次[編著]
『ソーシャル・イノベーション』
四六並製 約三四〇頁
の「滞留度」が増すほど、内容が
〒 662 — 0891
兵庫県西宮市上ケ原一番町 1—155
TEL 0798—53—7002
FAX 0798—53—9592
コトバのマジック
則定隆男[著]
四六並製 一四〇頁 一四〇〇円
五八〇〇円
一九〇〇円
濃く感じられるのだが、どうだろ
うか。(和)
関西学院大学出版会
『イギリス法史入門』
二〇八頁 【好評既刊】
二六〇〇円
『統治と自治の政治経済学』
四六上製 三四〇頁 小西砂千夫[著]
※価格はすべて税抜表示です。
コトワリ No. 41 2014 年 12 月発行
第 版 第Ⅱ部〔各論〕
五九二頁 所有権法史 契約法史 不法行為法史
身分法・家族法史 刑事法史
J・H・ベイカー[著]深尾裕造[訳]
A 並製
『 学生たちの日々1976─2010』
関西学院大学カレッジ・コミュニティ調査から
A 並製
『太平洋の航海者』
新渡戸稲造の信仰と実践
本誌一四頁をご覧ください)
約二〇〇頁 予
価三二〇〇円
谷口真紀[著]
A 上製
(内容紹介
5
4
5
5
5
しかし、怒りは同時に、それを心に抱
奥底に、共通して燃えさかる青白い炎が。
く者を著しく消耗させる。純粋に怒り続
低温・超真空・強い放射線投射などの極
けること、怒りを恨みやひがみや諦めに
山田直子
化しない。こうした特徴が、クマムシが
変質させずに維持し続けることがどれだ
【怒りとクマムシ】
「最強動物」と称され、生命の謎を解く手
限的環境でも生存率や寿命、繁殖率が変
世の不正義に我々は怒る。怒って正義
け 難 し い か は、 例 を 挙 げ る ま で も な い。
現代では何もかもが目もくらむスピー
己の胸に問えばわかる。
クマムシに思いをはせるとき、私の脳
裏には香港で行なわれている抗議デモの
掛かりと考えられている所以でもある。
雨 傘 の 景 色 や、 圧 政 と 闘 い 続 け た ガ ン
を実現しようと行動する。しかしそれが
んな冬の時代に我々はどうあればよいの
すぐに成果をもたらすとは限らない。そ
だろう。
ドで流れゆき、消費され、それがよしと
人間がいかにあるべきかを示唆していな
— 16 —
される。昨年の事件は忘れられ、十年前
の冤罪は口の端にものぼらず、五十年前
に絞首されるはずだった者の涙を想うこ
ディーら活動家たちの顔が浮かぶ。公正
そんな中でクマムシは逆境におかれた
とさえ我々は厭う。
近年、
「クマムシ」と総称される動物が
いか。「強くしぶとくしなやかに生きよ。
る。
(関西学院大学 やまだ・なおこ)
そして今、最高裁に雨が降り始めてい
はくるのだ」と。
な刑事裁判の実現のため文字通り身を
私は常々もっとも強く人を動かす感情
注目を浴びている。クマムシは周囲が乾
は「怒り」だと考えている。目を凝らせ
怒りを秘めて雨を待て。いつか必ずとき
つ。しかしクマムシの生命活動停止は死
削っている研究者や実務家の顔が浮か
を意味しない。驚くかな、乾眠状態のク
ば見えるはずだ。人間の尊厳や誇りを踏
ぶ。彼らは「怒れる者」たちだ。
マムシは水を得ると速やかに生命活動を
みにじろうとするものと闘う人々の心の
燥状態になるといわゆる「乾眠」に入っ
開始する。また乾眠状態のクマムシは超
て生命活動を停止させるという性質を持
連載 41
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