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高木和子 - 関西学院大学出版会

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高木和子 - 関西学院大学出版会
K O T
No.18
2009
O
W
A
R
I
インタビュー(後編)
『源氏物語』千年の魅力を探る
高木和子
関西学院大学出版会
KWANSEI GAKUIN UNIVERSITY PRESS
─
限られた「舞台」を楽しむこと
我思う故に我あり
木村
幹
子供の頃、何時も考えていることがあった。この世界は実は「作り物」で、全て
の人々は私を騙そうとして、何らかの目的を持って、何かしらを演じている。私だ
けがそのことを知らず、何時しか、そう、ちょうど舞台の壁が崩れるように、「本
子供なら誰もが考える、少し被害妄想的で夢想的な話と、言ってしまえばそれま
当の世界」が現れる。そして、その時、人々は何も知らなかった私を、笑うのだ。
コトワリ
もくじ
No.18 2009
巻頭エッセイ 我思う故に我あり 限られた『舞台』を楽しむこと 木村 幹
─
—2—
でかも知れない。しかし、私はそれからも随分長い間、この世界と、何よりも自分
自身の存在に疑いを持ちながら、生きてきたように思う。例えば高校の倫理社会の
授業の時、先生がデカルトの「我思う故に我あり」という有名な命題を説明された
時のことを覚えている。この命題は、一瞬、私にとってのとてつもない光明のよう
に 思 わ れ た。 そ う か、 考 え て い る 自 分 が い る、 と い う こ と は、 自 分 は 存 在 す る の
か。しかし、先生はその直後に、ぼそっと次のように付け加えた。「でも、ホント
は考えているものが実在するとは限らないんだけどね」。先生のおっしゃっている
ことは、よくわからなかったが、ともかくその言葉は心に残った。わからないなり
に、哲学の本をむさぼり読み、答えを探そうと勤めたが、一介の高校生にとって、
それは決して容易なことではなかった。
大学に入ると、アルバイトでお金を稼ぎ、春休みにはバックパッカーとして、多
くの発展途上国を歩くようになった。多くの国を歩く中で、政治的混乱や貧困とは
2
何かをはじめて知った。しかしながら、それよりも衝撃的だったのは、これらの深
刻な問題に自分が何もできないことだった。マザーテレサの施設でボランティアを
した時、私ができたのは、道に仆れた人が死んでいくのを、安らかに見守ることだ
けだった。自分の無力さが身に染みた。
何回かの旅を終えた後、私は研究者になることを決めた。政治的混乱や貧困を解
決する方策を見つけたかった、と言えば、格好良い。しかし、現実は、余りの自分
回 海老坂武
田村和彦
第
インタビュー(後編) 『源氏物語』千年の魅力を探る 高木和子
新連載 エピクロスの園
連載 ドイツ庭ものがたり
の小ささ故に、具体的に何をしたらよいのかわからなかったからだった。とりあえ
ず、勉強してみれば、大きな問題に対する、自分の役割が見つかるかもしれない、
河上繁樹
自著を語る 『続スピリチュアルケアを語る』 窪寺俊之
営業部便り ニーチェの庭 〈 〉 そして、研究者を続ける中、私は何冊かの書物とそれより遥かに多い数の学術論
と考えたのだ。
文を出してきた。当初は殆どなかった反響も、次第にそれなりに見られるようにな
り、マスメディア等でも取り上げられることも多くなった。私自身、各種の政府関
係の委員や、国際シンポジウムでの発表、更には、マスメディアでの役割を任され
るようになり、忙しいながらも充実した日々を送れるようになってきた。家庭では
それでもまだ、時々、思う。ある日、自分を取り巻く舞台の壁が崩れ、この世界
よき妻と二人の娘に恵まれ、幸せ、といってよい日々を送っている。
連載 差異の詞典
は崩れ落ちてしまうのではないか。しかし、そんな時、もう一つ考えるようになっ
た。確かにこの世界は「夢」かも知れない。でも「夢」なら「夢」でこの世界を思
きむら・かん)
【遊びと着物】 (神戸大学
う 存 分 楽 し む こ と に し よ う。 だ っ て、 私 に は こ の「 舞 台 」 以 外 に 生 き て い く「 舞
台」はないのかも知れないのだから。
—3—
1
4
8
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2
インタビュー(後編)
『源氏物語』
千年の魅力を探る
たか ぎ かず こ
高木和子
や ま じょう ひ ろ つ ぐ
山 上 浩嗣
関西学院大学文学部教授。
一九六四年兵庫県生まれ。博士(文学)
。
『源氏物語』を中心に日本古代文学を研
究。著書多数。最新刊は『男読み 源
氏
物語』
(朝日新書)
。
聞き手
(関西学院大学社会学部准教授)
『 紫 式 部 日 記 』 寛 弘 五( 一 〇 〇 八 ) 年 十 一
月 の「 こ の わ た り に 若 紫 や さ ぶ ら ふ 」 と い う
記 述。 こ れ は 『 源 氏 物 語 』 を 確 認 す る 最 古 の
記 録 と さ れ て い る。 そ れ か ら 千 年。 今 も 色 褪
せることのないその魅力について日本古代文
学を専門に研究活動を続けている高木和子氏
に話を伺った 。
の好奇心を持続させるための仕掛けとし
れたものではありません。ですから読者
高木
ら一〜四巻という具合に番号順に並びま
でもあるのでしょう。現代の連載小説な
高木
造を示す一つのヒントになりますね。
くった。そのこと自体が『源氏物語』の構
おそらく『源氏物語』は一気に書か
て新しい女性を登場させるなど、連載小
山上
が一括りで長編となる。
すが、当時の『源氏物語』や『落窪物語』は
それはおそらく古代の物語の構造
説的な側面を持っています。
高木
こともできるが、一つだけ独立させても
必ずしも順番通りに読まれたものではな
花巻と蓬生巻の二つだけです。末摘花巻
別の物語として成立する。いわばクライ
末摘花のような女性が登場するこ
では、光源氏が高貴な女性がいると思っ
マ ッ ク ス を 分 散 し た 構 造 に な っ て い る。
山上
て何度も求愛し、ついに関係を持つ。で
作者が意図したかどうかは別として。
とには、何か読者に対するサービスのよ
も何か変だと思ってある日顔を見たらと
高木
い。ある程度独立した巻があり、それら
んでもない女がいたという話です。それ
うなものがあったのでしょうか。
が蓬生巻では、光源氏が苦境に陥って須
『伊勢物語』では、短編が独立的であり
者のせめぎ合いの力学が面白い。
色々な生き方をする人々をカタログ的に
組みの中に、それこそ価値の上下のない、
ながら緩やかに続いていきます。その仕
短編の累積で長編となる、その両
後付け的に階層構造を付けて読む
磨・明石に下った数年間、心変わりせず
末摘花が登場するのは、ほぼ末摘
に待っていた誠実な女性として描かれま
山上
並べていく。
す。巻ごとの価値観が違うのです。
値しない女性として描かれるが、蓬生巻
トータルでは光源氏に好まれるに
だけは末摘花がヒロインという世界をつ
—4—
高木
うが実は後発的なのでしょう。
すが、一カ所にクライマックスを置くほ
マツルギーが異様に見えてしまいがちで
観念があるのです。そのため従来のドラ
にはクライマックスの定型に対する強迫
メディアが登場したため、おそらく我々
山上
別の登場人物の上に同じ状況を与えるこ
直すことはできない。しかし物語ならば、
自分がとらなかった選択をもう一度生き
高木
るんでしょう。
何でこんなに同じようなことが反復され
ちを繰り返し与える。しかも同じ一族に。
ものではないか。時は非常に残酷な仕打
る。もっと言えば運命とか時間といった
というよりも、むしろ光源氏一族と言え
原 処 女 伝 説 」と い う 伝 承 が あ り ま す。 二
古 典 で も 定 番 の パ タ ー ン で す。 灘 に「 菟
高木
と匂宮が争うことで繰り返されます。
を奪ってしまったことは、後に浮舟を薫
あることを薄々知りながら光源氏が夕顔
る効果があると思います。頭中将の妻で
出のものがよりドラマチックに感じられ
のエピソードを反映していることで、後
山上
あったのかと思います。
者なのか、あるいは元々そういう資質が
二十世紀に入って映画等の新しい
ということですね。十年くらいのスパン
とで、こういう展開もあったのだと書く
しょう。
に 犯 し た 罪( 不 義 )を 反 復 す る あ た り で
源氏の妻(女三の宮)が、光源氏が若い頃
の上や、藤壺や、冷泉帝の気持ちはどう
次第に、物語が置き去りにしてきた、紫
る要素は全て捨象していきます。それが
れるか否かの物語で、それを破たんさせ
当初『源氏物語』は、光源氏が天皇にな
らを含みつつ型を繰り返すのは、古代の
様々なバリエーションがあります。それ
の 地 に 移 し て も 同 じ よ う な 伝 承 が あ り、
後を追うという話です。これは舞台を他
川に身を投げて死んでしまい、男二人も
人の男が一人の女を争ったあげく、女が
う
山上
だったのかということに展開のテーマを
『伊勢物語』では似た話を意図的に近く
物語の特徴だと言えるでしょう。
ない おと め でん せつ
複 数 の 男 が 一 人 の 女 を 争 う の は、
こうした繰り返しが続くと、前出
で連載されたものですから。でも、どこ
ことができます。
を夕霧と紫の上が反復しようとする。こ
見つけていった。人間の内面に深く降り
人はいくら後悔しても、かつての
かに壮大なクライマックスは置かれてい
れは未遂に終わりますが。最後は柏木に
立つような切実な課題がテーマとなって
享受の形態と大きく関わっている
ると思いますよ。『源氏物語』ならば、光
女三の宮を奪われてしまう。この反復構
きている。書きながら成長していった作
光源氏と藤壺の関係があり、それ
造自体によっても訴えたいことがあるの
に集めています。長く連れ添った夫婦が
ではないかと思います。主人公は光源氏
—5—
話がたくさんありました。これは世界的
※ジャン・ラシーヌ( Jean Racine
):十七世紀フランス古典主義を代表する悲劇作家。『フェードル』( Phèdre
)
の他にも、『アンドロマック』( Andromaque
)
、
『ベレニス』( Bérénice
)、など多くの戯曲は今も上演され続けている。
な枠組みなのかもしれません。
で も、 こ う し た エ ピ ソ ー ド は『 源
氏物語』の様々なドラマの中に断片的に
英雄は末摘花のような醜い女をも相手
高木
織り込まれていて、一直線には読めない
いて、ある日夫が浮気をするなどの理由
あって、夫の王が二人の仲を疑い、子ど
子と血の繋がりのない義理の母親の恋が
『フェードル』という戯曲があります。息
が古代ギリシャの悲劇を翻案して書いた
出てきます。十七世紀の作家ラシーヌ※
山上
て大切にすべしという価値観は、どうも
遠の存在になれたのに。英雄は全てなべ
に妻にしていれば命絶えることのない永
なった。石長比売は永遠性の象徴で、共
せいで人間は限られた寿命がある存在に
ど、男は醜いからと返してしまう。その
いう姉の醜女も一緒に嫁がせるのだけれ
め
で 夫 婦 の 関 係 が う ま く い か な く な る が、
もを追放して死に追いやり、さらに妻も
山上
『古事記』の頃からあるようです。
び
Aよりを戻す、またはB破たんする。A
自害する、という悲劇です。今の我々か
当時の人が読んでも、その設定自体が異
く や
とBのパターンが並べられている。これ
ら見ても不義の極みの、この構造が取り
常なものだったのですか。
さ
にするという話は『古事記』の中にもあり
はおそらく古代日本での一つのやり方
上げられているのは、さほど稀なことで
高木
このはな の
んですよ。間に長々しい壮大な儀式の描
ます。木花之佐久夜毘売という美しい妹
で、価値が一つに収斂しない世界で、多
もなかったのだろうか、とも思います。
間 に か 六 条 御 息 所 の 声 に 変 わ っ て い る。
め
に求愛してきた男に、父親は石長比売と
様なものを同時に含み込む仕掛けです。
高木
生きた人の肉体の中に誰かが入ってくる
いわなが ひ
写があったり、王朝の雅な世界が延々と
『源氏物語』の場合は、長編の中で似た
でしょうか。以前に『今昔物語集』等の中
んですよね。それは平安朝中期の人が読
父の後妻に恋をする話も繰り返し
書かれていたりして。
話を繰り返し使うことで、次第に高まっ
から継子の関係を徹底的に探したことが
葵の上が話していたのが、いつの
六 条 御 息 所 が 生 霊 に な る 物 語 は、
たり劇的になるということでしょう。
あるのですが、するとまさに同じような
説話にはよく見られるのではない
山上
各々も凄まじい話ですが、全体と
して見るとより凄まじい感じがします。
—6—
到にリアルだけれど、ある部分では幻想
山上 『源氏物語』は細かい描写などは周
エキセントリックだったと思います。
ん で も、 ぎ ょ っ と す る よ う な 現 れ 方 で、
平安朝の物語の中でも極度にリアリズム
高木
何も不思議なことなく読めるんです。
も 書 か れ て い て、 そ れ が 併 存 し て い る。
話のなかに、非常にリアルで精緻な物語
の『百年の孤独』も、まったく荒唐無稽な
軸を見出したいと思っている読者なんで
どこかやっぱりこの物語にある種の価値
高木
物語』の魅力とは何でしょうか。
山上
こと。それを物の怪がしゃべっている。
だけど本当はみんな心の中で思っている
とはいえ、実は物語とはそういうもの
に従って動くことや表現することが許さ
なところだと思います。けれども、感情
六条御息所は『源氏物語』の中でも異色
れている気もしますし、人生の多様な場
こういうものだ、ということを教えてく
語でもないんですよ。心豊かな人間とは
いけれど、破廉恥なことを勧めている物
すね。それは決して教訓的なことではな
価値観は多様だと言いつつ、私は
最 後 に、 高 木 さ ん に と っ て『 源 氏
が混ざり合っている。二つの要素の調和
のほうに傾いた物語ですね。
で、過度に虚構的な、あるいは幻想的な
れない社会のもとで、自らも無意識のう
面をこの中に発見できる。どんな状況の、
そういう意味では、『源氏物語』は
がどうなっているのかなと思うわけで
部分と、非常にリアルな部分が接合して
ちに押し殺しているという抑圧された内
—7—
す。
い て も 何 も お か し な こ と な ど な い ん だ、
面を、生霊という形で書いた。六条御息
どんな立場の人も抱きとめてくれるよう
とも思うのです。ガルシア=マルケス※
所は一種のスケープゴートだったのだと
な豊かさが魅力ですね。
魅力は、あの文章そのものなんです。文
実は、私が『源氏物語』に感じる一番の
思います。もしかしたら、こうした形で
体の技巧的なセンスというか、非常に論
しか情念を表現できなかったのが、平安
朝の女性たちの、現実の立ち位置だった
理的だけれど難解で、格調高い文章です。
かもしれません。
古文で読むからこその魅力じゃないで
仕掛けは空想的だけれど、別の観
しょうか。
山上
日 常 の 言 語 で は 口 に は 出 せ な い。
点から見ればその内容はリアルだった。
高木
※ガブリエル・ガルシア=マルケス( Gabriel José García Márquez
)
:コロンビアの作家。
一九六七年に発表された
『百年の孤独』
は世界的ベストセラーと
なり、ノーベル文学賞を受賞している。
山上浩嗣
連
載
回
語の軽い意味、すなわち禁欲、克己の精神を指
いだ思っていた。この場合のストア派とはこの
ピクロス派になるか、どっちかだろうと長いあ
歳をとったとき、自分はストア派になるかエ
で は 出 発 点 に お い て 同 じ だ っ た よ う だ。 ま た
クロス派も「自然と一致して生きる」という点
と、かなりずれがあるようだ。ストア派もエピ
三世紀にかけてのギリシャ哲学に戻して考える
葉のこうした受け取り方は、紀元前四世紀から
もっとも、ストア派とエピクロス派という言
「アタラクシア」(心の平和)を求めるという目
し、エピクロス派とはこの語の軽い意味、すな
というのも私は、若い頃から、あるときはス
的 に お い て も 同 じ だ っ た よ う だ。 違 い は〈 自
わち快楽追求の精神を指す。
然〉についての考え方、〈アタラクシア〉につ
ところで、いま〈アラセヴ〉の波にさらされ
トア派的に、あるときはエピクロス派的に、人
て い る 私 は、 近 年、 も の を 書 く と き に も、 禁
いての考え方から来るということになるが、こ
エ ピ ク ロ ス 派 だ っ た。 深 夜 か ら 明 け 方 ま で、
欲、克己の精神から遠ざかりつつある。一日数
生の時間を勝手に使いわけてすごしていたから
バッハやベートーヴェンの音楽で気持を高揚さ
時間、ものを書くのが苦行でなく快楽になりつ
だ。より正確に言うと、ものを書いているとき
せながら机にかじりついているときの私はスト
つある(断わっておくが、ものを書くとはこの
の点はいまさておく。
ア派であり、うまいものを食い、女を追いかけ
場合、ペンで原稿用紙の升目を埋めるという作
の私はストア派であり、生活してるときの私は
意のままにならずに涙
ているときの私は
─
エピクロス派
─
ある。サルトルが好きな理由の一端もそこにあ
二つの精神を同居させている作家が好きなので
だった。そして作家の好みという点でも、この
ら、原稿書きがやはり楽しいのである。要する
り で は な い か、 要 注 意 と 心 に 言 い 聞 か せ な が
かが緩んでしまったのではないか、退化の始ま
業のことである)。これはもしかすると、どこ
しているときの私も含めて
るかもしれない。
—8—
エピクロスの園
第
海老坂武
1
Le Jardin d'Épicure
までもなく、いまや完全にエピクロス派になっ
に私は、生活の快楽を追うまでもなく、夢見る
ぎない。またフランスはエピクロス派を自称し
うでいて、あたりまえのことを言っているにす
岩波文庫)といった文句は、気が利いているよ
であり、その次がモンテーニュであり、そのま
エピクロスを教えてくれたのは次にマルクス
ていたようだが、はたしてそう言えるのか。
てしまったのだ。
そこであらためて、そもそもエピクロスとは
た次がニーチェということになるのだが、肝心
何者かが気になり始めた。エピクロス知らずで
エピクロス派を気どってみせるのはみっともな
スの『エピクロスの園』という断章からなる作
この名前にぶつかったのはアナトール・フラン
スから出発して、古今東西(?)の書物にふれ
が、今の私の気分にぴったりなのだ。エピクロ
ル・ フ ラ ン ス の 向 こ う を 張 っ た わ け で は な い
あえて「エピクロスの園」を選んだ。アナトー
しかしこの何回かのエッセーの題名として、
のことである。
のエピクロスの著作に接したのはごくごく最近
いではないか。
私がこの名前を初めて知ったのは、大学生の
とき、哲学史の講義でだった。そのときどんな
品によってだ。フランス文学に多少親しみを持
ながら、快楽について書く快楽にとっぷり浸ろ
話を聞いたのか、もちろん覚えていない。次に
つ人なら誰でも読んでいる。私は若い頃に読ん
うというわけである。
(えびさか・たけし)
だ せ い も あ り、 あ ま り 面 白 い と は 思 わ な か っ
近年読み直してみたが評価は変わらない。た
た。
とえば、「無知は、幸福の必要条件であるばか
りでなく、人間存在そのものの条件である。も
しわれわれが一切を知ったら、われわれは一時
間と人生に堪えられないだろう」(大塚幸男訳
—9—
連 載
〈
〉
ドイツ庭ものがたり
ニーチェの庭
それでも、「単純で自然な」庭しごとが自分の健康にとって
最良の療法だろうというニーチェの思いがある程度切実な響き
を持つのは、これが風土への馴化と養生法にかかわるからであ
る。単純にいえば、世界はどうあるべきかとか、人生をどう生
きるべきか、という頭脳(精神)の問題を、どこで暮らし、な
にを食べるか、という生理学の問題にまで引き下ろしたところ
には、「食餌の問題は、そこいらにある神学的問題よりも人間
回
の救済にかかわるはるかに重要な問題だ」とある。ここでいう
第
に、ニーチェの哲学のひとつの眼目がある。滞在地を選ぶにあ
たってニーチェが風土と気象条件にきわめて敏感だったことに
は前回触れたが、この哲学者は食餌を中心とする養生法も思想
バーゼル大学の教授職を打ち切ったニーチェの計画した故郷
食 餌 は な に も 美 食 を 意 味 し な い。 身 を 養 う 食 物 に よ る 栄 養 摂
や 倫 理 に 重 大 な 影 響 を 与 え る と 考 え て い た。『 こ の 人 を 見 よ 』
での庭づくりが陽の目をみなかった理由のひとつは、彼の健康
田村和彦
状態が悪化したためだった。ただ、たとえ庭しごとを手がけた
してみれば、古典文献学者なら造作もなく引用できたテオクリ
先として思い描かれた単純で健康的な田園生活は、イメージと
たもので、土のにおいや手触りを感じさせるべくもない。隠遁
けば、ニーチェの前半生はもっぱら学問と著作と音楽に集中し
を実践している。各地の鉱泉をはじめ、どんな水を飲むかも重
書』まで、古今さまざまな医学的食餌法の指南を受けて食養生
ナロの長寿食から、同時代の医師による『病弱者のための料理
か、百歳まで生きたとされるルネサンスの哲学者ルイギ・コル
良 や 嘔 吐 に 生 涯 悩 ま さ れ た ニ ー チ ェ は、 医 師 に よ る 処 方 の ほ
取と、それを通じた健康の回復である。実際、慢性的な消化不
:ダイエットの原義)のことである。なに
diatia
よりも肝腎なのは、「からだに良い」食事による正しい栄養摂
取、食養生(
トスやヴェルギリウスの田園詩をモデルにした、根っからの文
ころえていたとは思われない。幼時の牧師館での思い出をのぞ
としても、古典文献学の教授が農具の扱いや畝たての仕方をこ
2
人の感傷的な夢想にすぎないだろう。
— 10 —
2
し、 身 体 の 自 律 性 を 回 復 す る「 生 き る 術 」 の 実 践 者 と し て の
大な関心事だった。なにを食べ、なにを飲むかに細心の配慮を
まった集合式の小庭園、シュレーバー・ガルテンとも近いとこ
紀の後半に余暇利用と健康増進を目的として都市住民間に広
シュレーバー(一八〇八─六一)の理念を引き継いで、畑と体
ろにある。ナウムブルクに近い大都市ライプチヒに、医者であ
操場を兼ねた教育施設として最初のシュレーバー・ガルテンが
り 教 育 者 で も あ っ た ダ ニ エ ル・ ゴ ッ ト ロ ー プ・ モ ー リ ッ ツ・
ヨーロッパ各地を転々とする十年間にわたる一所不在の放浪
開かれたのが一八六五年。ちょうどニーチェがライプチヒ大学
ニーチェ。ここにも地上で滋養を得て生きる生きものとしての
生活も、高度、日照、気温、湿度、降水量、気圧、風などの気
自己認識がある。
候要素に敏感に反応する生命体の馴化の試みを思わせる。生態
に在学していた時期にあたる。古典研究に専心する学究がこの
育 て る か を 知 る こ と。 こ れ は ま さ に「 庭 づ く り 」 の 感 性 で あ
と。自分を含めて、生物や作物にどういう養分をあたえ、どう
いう風土を避け)、その土地にどんな作物が根付くかを知るこ
地の成り立ちを知ること。どういう風土を選び(あるいはどう
はとりわけ敏感だった。気象条件の微細な違いを感じとり、土
る clima
(気候)は、もともとは太陽光線の傾きや斜面の傾き
を示したものだが、日照や気圧、空気といった要素にニーチェ
体操を通じて自律と健康とバランスを取り戻させようとする
らば、都市生活と工業化によって損なわれた心身に庭しごとや
を祝わないような思想は信じるな」とまで断言するニーチェな
由な運動の際に生まれたのでない、おまけに筋肉もともに祭典
の批判を過激化し、ドイツの鈍重な風土を呪い、「戸外での自
わせるように、ヨーロッパ近代の文明社会の虚弱体質と退廃へ
書店に注文した記録がある。自らの健康状態の悪化と歩調を合
健康上の理由からシュレーバーの「室内体操教本」の最新版を
ころその存在を知っていた形跡はないが、バーゼル時代には、
る。各地を転々とする放浪の哲学者が相手にしていたのは個々
シュレーバー流の作業療法に大きな反感は抱かなかったはずで
という語に含まれ
acclimatization, Akklimatization
の土地というより、さまざまな風土と微気候(ミニ・クリマ)
学上の馴化
を 抱 え る「 庭 」 と し て の ヨ ー ロ ッ パ 全 体 で は な か っ た だ ろ う
ある。もちろん、その保守性や集団性は受け入れがたかっただ
ただ、長い放浪生活の末にも、やはりニーチェは自力では自
ろうが。
か。
一方で、「頭を使わないで、時間がかかり、労力を費やす本
当の仕事」を与えてくれるニーチェの野菜畑の構想は、十九世
— 11 —
院は一年余りにおよぶが、その後母親の強い希望でナウムブル
いで故郷に近いイェナの精神病院に収容される。イェナでの入
直後にバーゼルの神経科病院に移送され、さらに母親のはから
末から八九年の年頭にかけてトリノで精神錯乱の兆候を示し、
からである。生活史をたどれば、放浪の哲学者は一八八八年の
わったのは、晩年の彼はいったん庭を思わせる環境に置かれる
分の庭にたどり着くことはできなかった。「自力では」とこと
ら緑陰のあずまやで憩う人のようだ。擬古典調の神殿を模した
ダを鬱蒼と埋める木の葉と植木鉢のアーチに囲まれて、さなが
大作がそれである(挿絵)。この絵の中のニーチェは、ベラン
の画家が療養中の哲学者の写真を撮り、写真をもとに仕上げた
な連想をさせる。クルト・シュテーヴィンクというヴァイマル
だろうか。この時期のニーチェを描いた一枚の絵がぼくにそん
調な生活は、日々の繰り返しからなる庭での日常を思わせない
という地番を持つ住居で、母親の庇護のもとに営まれるこの単
すべては死滅し、すべてはまた花開く
庭
= 師の境遇にふさわしいも
額縁はいかにも大仰で絵と不釣りあいだが、その梁に刻まれた
銘 文 は、 い ま は 余 生 を 送 る 賢 者
クの母親宅に引き取られ、一八九七年に母親が死ぬまで七年あ
するような母子の共同生
のとして読める。
存在の一年は永遠に回り続ける。
すべては別れ、すべてはまた出会う。
存在の家はまた同じく永遠に建てられる。
— 12 —
まりを、主に彼女の看病と庇護のもとで生活する。幼時を再現
活は、それ以前の変転に
満ちた遍歴に比べていか
引用のもとである『ツァラツストラ』の第三部「癒されゆく
ま っ た 時 間 に 起 き、 決
すべてはこわれ、すべてはまた組み立てられる
者」ではこの詩句はさらにこう続く。
ま っ た 食 事 と 水 浴 を し、
存在の輪は永遠にもとどおりに結ぼれる。
4
傷ついた体を休めるために永い眠りをむさぼったツァラツス
4
トラに向かって永劫回帰の思想をこう要約し、「あなたの洞窟
4
び寝につく。意味深くも
4
ヴァインガルテン十八番
毎夕散歩に出て、ふたた
で あ っ た に し て も )。 決
に陥った末の荒廃の結果
(たとえそれが精神錯乱
にも平穏で単調に見える
シュテーヴィング「葡萄の葉陰のニーチェ」
1896 年 ベルリン国立美術館蔵
から出でよ、世界はひとつの庭のようにあなたを待ち受けてい
る 」 と 呼 び か け る の は 賢 者 に 仕 え る 動 物 た ち で あ る。 し か し
ニーチェと庭をめぐるエッセイを閉じるに前に、もうひとつ
のもとで受け継がれることになる。
先でも定期的に食糧や衣料品の包みを送ってもらうのを常とし
釈できる。一方でこの一人息子は深く母親に依存していて、旅
行は、母と妹の呪縛からひたすら遠ざかるためであったとも解
あったのだろう。後半生のスイスやイタリアをめぐる恒常的旅
い る。 先 の 菜 園 の プ ラ ン が 放 棄 さ れ た の に は そ う い う 事 情 も
についても、その気候が自分の体に合わない、と何度も嘆いて
た。保守的で頑迷なドイツの田舎町の典型であるナウムブルク
の関係は、青年期以降のニーチェにとっては大きな負担となっ
るだろう。牧師の未亡人であり、キリスト教の信仰篤い母親と
者である妹に拘束されたものであったことも見ておく必要があ
みえるこの閉ざされた「庭」のステージが、母親と、その代弁
この絵を気に入らなかったというが、永劫回帰を体現するかに
ちなみに、母親は木の葉に覆い隠されて人物が引き立たない
いう生物学的志向など、自然回帰をうたった同時代の生活改革
菜食主義をはじめとする「健康」志向、そして「種」の維持と
矯なものに見えるが、都市からの脱出、ユートピアへの願望、
のである。フェルスターの農本主義のコミューンはいかにも奇
て兄の世話をし、兄の死後はその著作の普及宣伝に心血を注ぐ
る。その後エリーザベトは農場を放棄してナウムブルクに帰っ
条件と資金難のために間もなく破綻し、フェルスターは自殺す
経営にあたるが、この計画は、熱帯林の予想以上に過酷な自然
結婚後、エリーザベトもパラグアイに渡って夫とともに農場の
ヴァ)ゲルマニア」を名乗る菜食主義者のための農場を拓く。
で、 ア ー リ ア 人 の 純 血 種 の 保 護 と 繁 栄 を う た っ た「 新( ヌ エ
染された」ヨーロッパを離れて、南米パラグアイの奥地の原野
ユダヤ主義者としても当時著名であったが、「ユダヤ人種に汚
ターと意気投合して、彼と結婚する。フェルスターは過激な反
ザ ベ ト は、 同 じ ワ グ ネ リ ア ン だ っ た ベ ル ン ハ ル ト・ フ ェ ル ス
のエピソードをあげておこう。長く兄の世話を焼いた妹エリー
ていた。また妹のエリーザベトはバーゼルで兄の住居に長期間
ニーチェはこの呼びかけに答えることはない。
同居して身の回りの世話を焼くのがしばしばだった。その意味
の実験と多くを共有している。これもまた「庭」を作ろうとす
たむら・かずひこ)
で、精神錯乱ののち故郷に用意された隠棲の庭は、親密だが呪
(関西学院大学
るひとつの試みだったと言えないだろうか。
縛に満ちた母子空間の再現といえるのだ。この親密圏は母親の
死後はニーチェが息を引き取る一九〇〇年までワイマールの妹
— 13 —
自
著
を
語
る
続スピリチュアル
ケアを語る
くぼてらとしゆき
窪寺俊之
性」という人もいるが、それではあまり
い。それでは「宗教性」ではどうか。こ
ルでは傷付いた魂の癒しを求め、文化的
めていることが考えられる。個人的レベ
ものに現状の閉塞感を打ち破るものを求
その理由の一つは、スピリチュアルな
集っている。
れでは宗教がもつ独善性や排他性が気に
哲学的すぎて、神秘性や超越性が見えな
なる人もいるかもしれない。スピリチュ
には未来への可能性を求めている。
して、頭をひねり、辞 書を調べ、それで
最近英語のカタカナ読みの文字が氾濫
スピリチュアルケアを語る』は、宗教哲
読んでくださり版を重ねた。今回の『続
学、哲学、医療、福祉に関わる人たちが
に 迫 っ て み た い と 試 み た。 宗 教、 心 理
を出版して、スピリチュアリティの本質
数 年 前『 ス ピ リ チ ュ ア ル ケ ア を 語 る 』
ア リ テ ィ」 の 中 に 隠 れ て い る た め で あ
ち」という根源的テーマが「スピリチュ
展や人間の進化とも関わる人間の「いの
す、多義化する。それは人間の文化的発
状況が変化し複雑化すると共に、ますま
れる傾向にある。この言葉は文化や社会
リティ」には、実に多様な意味が含めら
現今、使用されている「スピリチュア
アリティは宗教の枠を超えた、もっと外
も納得がいかず困惑する。
「スピリチュア
る。そんな未来の黎明を『続スピリチュ
へ広がる自由をもっている。
リティ」も大概の人には、実体が掴 み に
学と医療現場からの論文も加わって更に
がもつ純粋性は見えてこない。英語辞典
た意味合いが強く「スピリチュアリティ」
が多いが、この訳語にはオドロオドロし
言われて、医療、看護、福祉、介護、教
スピリチュアルケアやヒーリングなどと
には、昔から馴染みがあった。今日では
世界では神的性質への同一化を願う人達
このスピリチュアリティの分野は宗教
れば幸である。
判
‌ 並製 一五〇頁
『続スピリチュアルケアを語る』
窪寺俊之[編著]
— 14 —
(聖学院大学大学院教授)
くい迷惑なカタカナに違いない。
で は「 精 神 性 」 と い う 訳 語 も 出 て 来 る
育、 音 楽、 建 築、 文 芸 な ど で も 関 心 が
アルケアを語る』に読み取っていただけ
幅広いものになった。
が、心理分析的意味合いが強く、宗教的
A
5
日本語訳では「霊性」と訳されること
意味合いが欠けてしまう。最近は「実存
新刊
▼営業部だより▲
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『 スピリチュアルケアを語る』
並製
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ホスピス、ビハーラの臨床から
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編・集・後・記
天然ゴムはプランテーションで栽培されたゴムの樹の樹皮に傷を
つけて樹液を容器で採集して得られる。ところが思いもよらない採
集 方 法 が あ っ た こ と を 藤 永 茂 氏 の『「 闇 の 奥 」 の 奥 』 で 知 っ た。
十九世紀末、ベルギーのレオポルド二世はコンゴを私的な植民地と
し、主に象牙とゴムの採取によって莫大な利益を得る。コンラッド
の『闇の奥』のモデルともなったこの植民地で、ヨーロッパ人が原
住民に対して行った非人道的な搾取と大量虐殺が藤永氏の著書の主
題である。銃弾の使用の証拠として原住民の手首が切り落とされる
話もすさまじいが、生ゴム採取も想像していたものとは違う。白人
に使われる原住民たちは、密林の高
— 15 —
並製
木に登らされ、そこにからんで自生
する蔓性のゴム樹の樹液を体になす
りつけて地上に戻るのである。ゴム
液は肌からこそぎ取って集められ
〈非売品・ご自由にお持ち下さい〉
A
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た。文字通りの搾取である。この話
を知ってから、旅行書と美食ガイド
でも有名な某タイヤ会社のゴム人間
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は見られなくなってしまった。(和)
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コトワリ No.18 2009 年 3 月発行
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本誌 頁をご覧ください)
窪寺俊之[編著]
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(内容紹介
14
5
23
5
5
5
5
であらわした「小栗崩し」は遊び心いっ
う。 ま ず は「 松 竹 の も や う 」。 冬 の 寒 さ
た』という着物のカタログを眺めてみよ
るまえびのもやう」とある。海老を食わ
のった模様、そのタイトルはずばり「く
もう一例。大きな車輪のうえに海老が
ぱいの模様である。
に耐えて緑を保つ松と竹は不老長寿のシ
ずに人を食った模様だ。
一六六七年に出版された『御ひいなか
いた。
この冊子が発行される頃は、ちょうど
ンボル、これに寒中に花を咲かせる梅を
【遊びと着物】
卒業式の季節。キャンパスで着物姿の学
加えて「松竹梅」とくれば、晴れ着の定
河上繁樹
生が見られるのはこの日ぐらいだ。着物
番 で あ る。 さ す が に「 松 竹 梅 」 ぐ ら い
着物に表現された模様からはその時代を
し む 一 枚 の タ ブ ロ ー で も あ る。 そ し て、
着物は着る物であると同時に、見て愉
はすっかり晴れ着になってしまった。
洋服を選ぶときにデザインや色彩など感
模 様 あ た り に 落 ち 着 く。 私 た ち は 普 段、
物にしようかと迷いながらも、結局は花
晴れの舞台を飾るのだから、どんな着
い る。 江 戸 時 代 に 歌 舞 伎 や 義 太 夫 で 流
イトルは「おぐりくづし」と付けられて
梯子と碁盤を組み合わせた模様で、タ
ひいなかた』には謎の模様も登場する。
は、 誰 で も 知 っ て い る で あ ろ う が、『 御
よ、と着物が語りかけてくる。
る。 で も 必 要 な の は「 遊 び 」 の 心 で す
て難しい顔をして着物の模様を眺めてい
いことが多い。だから、研究などと称し
う。だが、現代人はその意味に気づかな
— 16 —
生きた人びとの豊かな感性とともに、同
時代の情報が発信されている。小栗判官
が流行っていた時代には、梯子と碁盤か
覚的に選ぶことが多い。現代人は着物も
行った小栗判官の物語、そのなかで小栗
らすぐに模様の意味が連想できたであろ
ついこの感覚で見てしまうが、かつて着
が暴れ馬を相手に碁盤乗りや梯子乗りの
かわかみ・しげき)
物が主流であった江戸時代には、着物の
曲乗りを演じる。それを梯子と碁盤だけ
(
関西学院大学
模様にさまざまなメッセージが託されて
連載 18
K O T
No.19
2009
O
W
A
R
I
特集
「河上丈太郎日記」について
福永文夫
関西学院大学出版会
KWANSEI GAKUIN UNIVERSITY PRESS
─
二人の師
金時鐘さんと徳永恂さん
細見和之
私は学生時代から哲学の勉強をしながら詩を書いてきた。学部の同級生と同人誌
を出し、そこに作品を寄せていたのだ。卒論はヘーゲルの『精神現象学』。博士課
程からはアドルノなど二〇世紀の思想に研究の焦点を移したが、四七歳の現在にい
たるまで「詩」を途絶させたことはない。一昨日もいま加わっている同人誌の締め
。私にとって
コトワリ
もくじ
No.19 2009
巻頭エッセイ 二人の師 金時鐘さんと徳永恂さん 細見和之
─
—2—
切りにあわせて新作を送ったところ。ほっとする一方で、書かねばならないカント
私が詩を書き続けてきたのには、一年留年して大学を卒業したあとに大阪文学学
論が一向に捗らず気になって仕方がない。
校というところに通ったのが大きい。すでに大学院に進級していたかつての同人誌
仲間が着々と研究者の卵へと育ってゆく姿を傍らに見ながら、私は藁にもすがる思
いで文学学校に入学したのだ。いまだに本格的な留学体験のない私にとって、あの
―
ときの文学学校こそは海外だった。ドイツ語やフランス語が話されているのではな
いが、まったく異なった日本語が生き生きと流通していた世界
キム・シジヨン
それは第二言語の習得にも等しかった。
そ こ で 出 会 っ た 金 時 鐘 さ ん は、 以 来、 私 の 文 学 上 の か け が え の な い 師 で あ る。
一九二九年、日本の植民地支配下の朝鮮で生まれた金さんは、あろうことか利発な
「皇国少年」として育ってしまい、日本の敗戦とともに思わぬ形で朝鮮人へと押し
2
返される。朝鮮語を血の滲む思いで取り戻しながらも、一九四八年の済州島四・三
事件に関わって命からがら日本へ渡り、恨み多い日本語であらためて詩作をはじめ
たのだ。金さんの生涯と作品に触れるたびに、私は人間というものが抱えている闇
とくながまこと
の深さ、広さ、怖さに激しく打たれてきた。
一方、私の学問上の師である徳永恂さんは、アドルノ/ホルクハイマーの『啓蒙
の弁証法』の訳者であり、アドルノ研究の第一人者。あらためて大学院に進んで徳
第
回 海老坂武
特集 「河上丈太郎日記」について 福永文夫
連載 エピクロスの園
連載 ドイツ庭ものがたり
永さんのもとでアドルノを学ぶことができたのはまことに僥倖というしかないが、
徳永さんもまた金さんと同じ一九二九年の生まれなのだ。しかも徳永さんは、敗戦
ビンゲンの女庭師 連載 差異の詞典 【遊び(閑暇)と仕事】 営業部便り 関西学院と国連 の直前に長崎で被爆するという痛切な体験を抱えている。フランクフルト学派の批
判理論につながる徳永さんの近代批判の根底には、そのときの爆心地の光景がいま
もありありと横たわっているのだ。
。じつはこの二人が言葉を交わ
ともに一九二九年に朝鮮と日本に生まれ、容易には語りえないそれぞれの体験を
―
核にして、詩を書き、研究を重ねてきた二人
す機会はこれまでなかった。これからもないかもしれない。実現したとすればどん
な会話が成立するのだろう。幼いころの文学談義ともなれば、おそらく意気投合は
まちがいない。とはいえ、そのこと自体が断絶の源そのものなのだ。彼らの重い体
験を思うとあまりに薄っぺらな自分の姿が身に染みるが、少なくとも二人の対話を
ほそみ・かずゆき)
どのようにしてか自分の内部で紡いでゆくこと、それは、だからこそ自分に課せら
(大阪府立大学
れた「使命」のひとつではないかと思っている。
田村和彦
西本昌二
広岡義之
—3—
4
8
10
14
15
16
2
特
集
「河上丈太郎日記」
について
ふくながふみ お
福永文夫
獨協大学法学部教授
WHO?”という疑問を呈することであ
戸 惑 い と と も に、“ K A W A K A M I
河上丈太郎の名を聞いて、多くの人は
い っ た。 そ の 後 一 高 を 経 て、 一 九 一 五
「 非 戦 論 」 か ら 平 和 主 義 と、 キ リ ス ト 教
精神のなかに社会主義的思想を育んで
彼は、内村鑑三・堺利彦・幸徳秋水らの
始めたころである。河上は中学・一高を
ろ う。 と く に 若 い 世 代 は そ う で あ ろ う。
通じて弁論部に属し、弁論の才を磨いて
科に入学。大正デモクラシーが芽を吹き
院の一ページを飾り、かつて政治に関心
いった。当時を振り返って、彼は内村鑑
(大正四)年東京帝国大学法学部政治学
をもつほどの者なら、だれも河上丈太郎
三からキリスト教を、新渡戸稲造(当時
半世紀という時の流れは、ある意味残酷
の名を知らぬはずはないとまで言われ
の一高校長)から人格主義を、高野岩三
である。しかし、河上は草創期の関西学
た、 著 名 な 政 治 家 で あ る。 こ こ で ま ず、
好 ま ず、 立 教、 明 治 学 院 講 師 を 経 て、
帝大卒業後、河上は官吏となることを
だと述べている。
郎(東京帝大教授)から社会科学を学ん
彼の人となりを紹介しておきたい。
河上は、大日本帝国憲法が公布された
区芝で、材木商新太郎の長男として生ま
一九一八年四月関西学院文科教授として
一八八九(明治二二)年一月三日東京港
れた。くしくもこの年、関西学院がラン
神 戸 の 地 を 踏 ん だ。 本 人 は 一、二 年 で 東
京に帰るつもりだったが、彼にとって神
バ ス に よ っ て 原 田 の 森( 現 神 戸 市 灘 区 )
河上は父新太郎の影響もあり、五歳の
戸は第二の故郷となり、終生の選挙基盤
で、その産声をあげている。
とき洗礼を受けた。地元の小学校を終え、
となった。
河上が赴任したころの関学は、専門学
一九〇三年立教中学に進んだ。日露戦争
前 夜、
『万朝報』の熱心な読者であった
—4—
関 西 学 院 大 学 で は、 二 〇 〇 九 年 度 大 学 共 同
研究として「関西学院と社会運動人脈」をテー
マ に 研 究 会 を 発 足 さ せ る こ と と な っ た。 こ の
研 究 対 象 の 中 心 と な る 河 上 丈 太 郎 に つ い て、
研究協力者である福永文夫氏に語ってもらっ
た。 こ の 研 究 成 果 は 『 河 上 丈 太 郎 日 記 』 と し
て ま と め ら れ、 二 〇 一 一 年 、 関 西 学 院 大 学 出
版会より刊行さ れ る 予 定 で あ る 。
関西学 院 学 院 史 編 纂 室 所 蔵
河上丈太郎
(1889 ─ 1965)
科の二科があった。一九二一年、関学は
ミッションスクールに学ぶ者の喜 悦 とそ
私はこの気風を一変して強き自信を持ち、
会 へ の 関 わ り を 深 め て い っ た。 同 じ こ
者教育に携わることで、現実の政治・社
二四年神戸に設立された労働学校で労働
彦 と 知 り 合 う 一 方、 一 九 二 二 年 大 阪 に、
神戸の地で、河上はキリスト者賀川豊
いたと伝えられている。
高等商業部、文学部、神学部の三部に改
の誇りを高めたいと願いました。
(中 略)
ろ、学問の師高野岩三郎、盟友森戸辰男
自信が欠けているのに義憤を感じました。
組され、文学部は英文、社会、哲学の三
を高めたいと思いました。自分の学問的
この文科を大ならしめて学院全体の権威
に、ミッションスクールの使 命に対 する
学科で構成された。この間、彼は法学通
済学者。東京大学講師)らが、大阪に設
(元文相、広島大学総長)、櫛田民蔵(経
校令による四年制で、神学部と高等学部
論のほか憲法、民商法、財政学、歴史な
立場から文科の社会科の完成に全努力を
の二つに分かれ、高等学部には商科と文
どを担当、併せて文学部学生監、講演部
傾注しました。
」
立された大原社会問題研究所(現法政大
指導教授なども務めた。また、彼は社会
阪本勝(のち兵庫県知事)ら東大新人会
松 沢 兼 人( の ち 衆 議 院・ 参 議 院 議 員 )、
念 を つ か ま せ る こ と に 力 を 注 い だ。「 私
重点をおかず、学問の根本精神や中心理
講義では、出席数や試験にはほとんど
前身となる政治研究会神戸支部長とな
社会主義という言葉は使えなかった)の
学大原社会問題研究所)に居を構え、彼
系の人々を迎え、スタッフの充実に努め
の課目には落第点もないが満点もない」
り、二四年中間派無産政党・日本労農党
学 科 に 新 明 正 道( の ち 東 北 大 学 教 授 )、
た。関学時代を回顧して、彼は次のよう
が口癖で、学生の個性を尊重し、特徴を
意義、キリスト教の教育の日本社会にお
ミッションスクールの日本 文 化に対する
「私は官学の出身でありますが、
(中 略 )
生 か ら は、「 お と っ つ あ ん 」 と 呼 ば れ て
数千名になるとも言われる。彼を慕う学
接 し、 感 銘 を 深 く し た 学 生 を 加 え れ ば、
名を超える。礼拝その他で、その謦咳に
この河上の講義を聞いた学生の数は千
神 戸 は 戦 前 日 労 党 の 金 城 湯 池 と な っ た。
挙 げ て い る。 河 上 の 高 ま る 声 望 も あ り、
彼は多くの友人の存在、考え方の一致を
と に な る。 日 労 党 参 加 の 動 機 に つ い て、
に参加、いよいよ政治の道に入り込むこ
一九二二年河上は、無産政党(当時は
を支えた。
に述べている。
活かすことを大切にしたという。
ます。
(中 略)
この私が当時の学生の気分
ける価値を強く意識していたものであり
—5—
落選という苦汁をなめたあと、一九三六
員はわずか八名であった。その後二度の
る。この選挙で当選した無産政党系の議
日労党から立候補し、当選を果たしてい
に、十年間勤めた関学を後にした。
男子普通選挙による衆議院総選挙を前
そして、一九二七(昭和二)年彼は初の
がら十字架を負うて、死に至るまで闘う
私にとって十字架であります。しかしな
とを、私の良心が許しません。委員長は
て突撃せよ』
と、この苦難の道を避くるこ
「先人はわれわれに教えて曰く
『屍を越え
の異名を与えた。
て 行 っ た 演 説 は、 彼 に「 十 字 架 委 員 長 」
る ま で 一 〇 回 当 選 )。 委 員 長 就 任 に 際 し
君の最大の政治上の任務というものは何
幸いに総理大臣という地位に立てる岸
を、私は忘れては相ならぬと考えておる。
び国外に非常な迷惑をかけたこの事実
の戦争をさせた、そうして日本の国内及
岸君に心から訴えたいことは、あれだけ
機会と考えておる。
(中略)
生涯にとって最大の自分に対する反省の
た者であります。私はその事実を、私の
して無産政党をその渦に巻き込んだ。河
現に賭けたように思われる。戦争責任を
彼は残りの人生を平和と民主主義の実
とだと思っている。」
精神が、岸君の政治の中にあっていいこ
を与えた日本の大衆にお詫びするという
かと言うならば、あの戦争によって迷惑
私は、この戦争の責任者の一人として、
年、三七年総選挙で社会大衆党から立候
べきことを、私は決意したのであります。
」
一九二八年総選挙に、彼は兵庫一区に
補し当選した。
上は、大政翼賛会総務となり、一九四二
強 く 意 識 し、 一 九 五 八( 昭 和 三 三 ) 年
他方、迫りくる軍靴の足音は、彼をそ
年総選挙では翼賛会推薦で立ち、当選し
「最後に私は、岸君に訴えたいことがあ
*
*
およそ歴史研究において、日記は原資
*
清廉な生涯を捧げた。
党の統一と社会の改革に、その誠実かつ
河 上 は キ リ ス ト 教 社 会 主 義 者 と し て、
一〇月二九日の衆議院予算委員会の総括
シ ス コ 講 和 後 の 一 九 五 二 年 政 界 に 復 帰、
り、戦争の責任者と言われて追放を受け
るのであります。私自身もご承知のとお
信介に次のように訴えた。
質問で、東大の後輩であり当時の首相岸
ている。
戦後社会党創設に関わったが、翼賛会
と の 関 係 か ら、 河 上 は 公 職 追 放 と な り、
右派社会党委員長に就任し、同年総選挙
しばらく表舞台から退いた。サンフラン
で当選した(以後、一九六五年に亡くな
—6—
的意味は、そこにある。
ころ皆無である。河上丈太郎日記の歴史
で、いわゆる「革新」系のそれは今のと
し、 い ず れ も「 保 守 」 系 政 治 家 の も の
く の 政 治 家 の 日 記 が 上 梓 さ れ た。 し か
『 芦 田 均 日 記 』、『 佐 藤 栄 作 日 記 』 な ど 多
料として重要な位置を占めている。近年
公開の日記は、彼の足跡に新たな光を当
時代を、社会を映す鏡となっている。未
や、人間模様が赤裸々に記され、同時に
い。 そ こ に は 自 身 の 率 直 な 思 い の 数 々
な い し、 見 ら れ る こ と を 予 想 し て い な
あるように、日記は人に見せるものでは
心を知る手がかりとなる。誰しもそうで
としたのだろうか。
か。あるいは、社会をどう変えて行こう
う向かい合い、どう生きて来たのだろう
となった人びともいた。彼らは社会とど
となり、彼の選挙基盤を支える重要な柱
ている。なかには、県会議員や市会議員
ナリストをはじめ、様々な分野に巣立っ
りの人たちにも危険を及ぼす可能性が
記を書くことは自らの身のみならず、周
しい官憲の監視と弾圧の下にあった。日
産運動家、戦後革新系に属する人々は厳
なる。日記は日本の近現代の歩み、ある
らこの国のかたちが模索された時代に重
り、全一〇冊を数える。それは、敗戦か
一月)までのおおよそ十五年間にわた
日から始まり、その死の年(一九六五年
日記は一九四九(昭和二四)年四月三
にわたる関西学院の歴史の中に脈々と活
練 達 )” に 簡 潔 に 表 現 さ れ、 一 一 〇 余 年
for
た ス ク ー ル モ ッ ト ー“ M a s t e r y は、その後C・J・L・ベーツが提唱し
の使命(ミッション)とした。この精神
またそのような人を育てることを彼自身
と し て 世 界 万 人 の た め に 献 身 す る こ と、
関学開学の祖・ランバスは、世界市民
あった。河上も関学在職中の一九二五年
いはキリスト教史の数少ない資料の一つ
き続けている。河上の運動の良き理解者
てるものとなろう。
「 京 大 学 連 事 件 」 に 際 し、 家 宅 捜 索 を 受
であり、貴重な歴史の証言であると同時
でもあったベーツは、一九六〇年安保騒
そこには一つの理由があった。戦前無
け、多くの蔵書を押収された苦い経験を
に、関学の戦前と戦後を振り返る一つの
手紙を送っている。
負傷したとき、故国カナダから見舞いの
動のさなか、河上が右翼の暴漢に刺され
Service(奉仕のための
もつ。それゆえ、河上も含め彼らが日記
里程標となるだろう。
*
を残すことは皆無に近く、丈太郎の日記
*
河上の教え子たちは、政治家やジャー
*
も戦後に限定されている。
河上は熱情的な雄弁家であったが、文
章 を 残 す こ と は 少 な か っ た。 そ の 意 味
で、彼が残した日記は、数少ない彼の内
—7—
連
載
回
う、ギリシア、ローマの詩人や哲学者ばかり持
だ と き は、 文 字 づ ら だ け を 追 っ て い た の だ ろ
を枕頭の書とするようになった。若い頃に読ん
ある時期から、私はモンテーニュの『エセー』
なかったのである。
主さまの道楽」などと、一言で括れるものでは
もしれない。決して「世捨人の独り言」、「御領
「別の姿」と書いたが、「真の姿」と言うべきか
ある」と言い切っているモンテーニュである。
世捨人であったことに間違いはない。裁判官
た 文 章 に つ い て、 私 自 身 の 考 え を 記 す よ う に
章を書きとめるようになった。そして書き写し
は、 折 々 に、『 エ セ ー』 の 中 か ら 気 に 入 っ た 文
このようなモンテーニュを発見してから私
くく
ち出して注釈をしている、世捨人の独り言とし
か思わなかった。食うに困らぬ御領主さまの道
の 役 職 を 辞 し た あ と に、 四 十 代( 今 で 言 え ば
こすりつけながら、自分の考えを活性化しよう
なった。『エセー』という質のよい 砥石に頭を
楽という気もしていた。
六十代)半ばからこれを書き始めたのだから。
を描き出そうとしたのだから。御領主さまであ
ない。なぜなら彼は自分を題材にし、自分の姿
れは人生が過ぎてしまってから生き方を教わ
し彼自身こう書いているではないか。「われわ
としたのだ。少し遅すぎたかもしれない。しか
と いし
独り言と決めつけるのもあながち間違ってはい
ることは確実で、一生彼は金の苦労をしなかっ
る」(原二郎訳。以下同様)
み返し、モンテーニュの別の姿が見えてきた。
の最後に見られる次の言葉は、ほとんどエピク
スを何回となく引用している。 また『エセー』
当然のことながら、モンテーニュはエピクロ
たはずである。
こう言ってよければ、晩年をよりよく生きるこ
「自分の存在を正しく享受することを知るこ
ロスの言葉と言っていいくらいだ。
しかし、こちらが六十歳近くになってから読
とに心を砕いているモンテーニュ、よりよく生
とは絶対の完成であり、ほとんど神に近い完成
きることとはどういうことかを考えているモン
テーニュ、そして「快楽こそわれわれの目的で
—8—
エピクロスの園
第
海老坂武
2
Le Jardin d'Épicure
モンテーニュ自身、エピクロス(だけではな
である」
いが)の言葉を砥石として自分の言葉を磨いて
してこの『エセー』を自分の子供にたとえてい
る。
こ こ で 私 は は た と 立 ち ど ま る。 私 は 困 惑 す
ら、自分の残した学説のうちに慰めを見いだそ
エピクロスは死の間ぎわに腹痛に苦しみなが
てたことがなかった。それに、仮に私が良い本
い作品を残すか、といった二者択一の問いを立
い子供を作るか、ミューズの神々と交わって良
こともしなかった。そもそも、女と交わって良
る。私は良い子供を作ることも悪い子供を残す
うとしたという。モンテーニュはそこから、子
を何冊か書いていたとしても、死の間ぎわにそ
いたに違いない。たとえばこんな箇所だ。
供 を 残 す か 作 品 を 残 す か、 と い う 問 い を 立 て
しかし、と私は思い直す。それは「自分の存
の作品を書いたことに満足感を覚え、それが慰
在を正しく享受する」ということがどういうこ
る。そしてこう推論する。エピクロスは、よい
この推論は納得できる。しかしモンテーニュ
となのかが、本当にはよくわかっていないから
子供を沢山残すよりもすぐれた著作を沢山残す
はそこからもう一つの推論をする。愚劣な本を
ではないか、と。エピクロスとモンテーニュを
めになるとはとても思えない。
残すよりも出来の悪い子供を残すことを選んだ
結ぶ線をきちんと追ってみる必要があるのでは
ことの方に満足を覚えたのではないか、と。
だろう、と。要するに、本の方が大事だと言い
ないか、と。
(えびさか・たけし)
たいのだが、子供などは良かろうが悪かろうが
どうだっていい、というふうにも読めるではな
いか。彼はこう続ける。
「私も、妻と交わるよりも、ミューズの神々
と交わることによって、完全無欠な子供を生む
方がはるかにましだと思うかもしれません」そ
—9—
ドイツ庭ものがたり
なりに名の通った、観光客向けのすこぶる牧歌的な町である。
この町は、やはりローマ人が教えたワインの一大集散地として
も有名で、蛇行するモーゼルの谷の斜面には、さわやかな酸味
のリースリング種の白ワインを産む葡萄畑が一面に広がってい
る。夏の午後など、丈の短い葡萄の樹が整然と植えられた緑な
ことがある。西ヨーロッパをスイスからオランダまで南から北
ドイツ西部のトリーアという町に縁あって一年あまり暮した
を体験するようになる。存在と信仰を根底から揺るがす「稲妻
たヒルデガルトは、四十歳の頃から強い霊感を得て幻視や見神
代にベネディクト派修道会に入り、やがて女子修道院長となっ
として認められるにあたって画期をなした地でもある。少女時
連 載
ビンゲンの女庭師
に流れる大河ラインは中流域でいくつかの川と合流するが、そ
のような白昼夢」の襲来をたて続けに受けた彼女は、それをラ
回
のうちのフランス側から流れこむ河の一つがモーゼル川で、ド
テン語の文書として書き留める一方、当時もっとも影響力の大
第
す 斜 面 を 川 岸 か ら 見 上 げ る た び に、 丹 精 を こ め た 庭 の 奥 深 く
へ、見えない誰かの手に導かれていく思いがしたものだ。
そのトリーアがヒルデガルト・フォン・ビンゲン(一〇九八
ジビユレ
─一一七九)とかかわることについ最近まで気がつかなかっ
イ チ ェ・ エ ッ ケ と 呼 ば れ る 合 流 点 か ら ち ょ う ど 百 キ ロ さ か の
きかったクレルヴォーの修道院長ベルナールを頼って、一連の
— 10 —
た。「トイトニア(ドイツの古称)の女預言者」、「ラインの巫女」
と呼ばれたこの十二世紀の女性神秘家が生まれたのは中部ライ
ン地方で、名前に冠されるビンゲンは彼女の修道院にほど近い
ぼったところにトリーアがある。古代ローマ以来、二千年の歴
ヴィジョンが果たして神の啓示や恩寵と矛盾しないかどうかを
ライン河畔の町である。しかしトリーアは、この女性が神秘家
史を誇る「ドイツ最古の都市」として、数々の古代遺跡と歴史
田村和彦
的建造物を擁し、カール・マルクスが生まれた町としてもそれ
3
居並ぶ枢機卿や司教たちを前にその内容を示し、それを擁護し
月にわたり開催された公会議の席上で彼女の幻視をとりあげ、
つであったトリーアにおいて一一四七年から翌年にかけて三カ
問う書簡をしたためる。これを受けてベルナールは司教座の一
なす「癒し手」としても注目されているのである。
ナティヴとしての自然療法やホリスティック医学のさきがけを
うより博物学者として、さらには、近代医学に対するオルター
として再発見されたヒルデガルトは、近年になって神秘家とい
い。その故あってか二十世紀のはじめに「ドイツ最初の女医」
ところで《自然学》は独自の庭園論でもある。ベネディクト
ヒ ー ラ ー
たのである。その結果、ヒルデガルトは教皇エウゲニウスから
て 広 範 に お よ ぶ。 む し ろ 見 神 体 験 で 得 た 人 類 救 済 史 的 な ヴ ィ
学、動物学、医学、薬学、さらには建築や作詞作曲などきわめ
た わ け で は な い。 女 子 修 道 院 長 で あ っ た 彼 女 の 活 動 は、 植 物
ただしヒルデガルトは地上を遠く離れた神秘家ばかりであっ
もしくは菜園があって、ライヒェナウの修道士ストラボは「園
ウの修道院にも九世紀に由来する植物園を兼ねた大規模な庭園
た。ザンクト・ガレンや、ボーデン湖に浮かぶ小島ライヒェナ
や治療のために早くから僧院内に薬草園や野菜畑を備えてい
が創建したこの修道会は、自給自足的な僧院生活と病人の保護
ことはいうまでもない。六世紀にヌルシアのベネディクトゥス
会修道女としての彼女が庭しごとに深いかかわりをもっていた
ジョンを、地上と天上の万物を統合する壮大な世界観にまで高
芸詩」によってこの小島での庭しごとの喜びを歌っている。そ
当な幻視者として公認された。
「神への愛の焔に燃えている」ことを称える文書を送られ、正
めた汎知学的な体系性に、中世最大の女性賢者とも呼ばれるこ
パンゾフイー
の人の面目があろう。とりわけ目を引くのは、彼女が神秘学的
と、実践的な医学書《病因と治療》 Causae et Curae
を残して
いることである。神秘学的な著作に比べて実用書の性格が強い
きわめて大きい。それは一種の馴化植物園であったし、実践の
植物を移入・伝播するにあたって修道院の庭が果たした役割は
Physica もそも氷河期の影響で植生の種類がきわめて乏しかったアルプ
ス以北のヨーロッパの内陸部に、薬草をはじめさまざまな有用
ふたつの著作については、後代に大幅な増補や加筆が施されて
ために医学や本草学の文献を収集し、継承したのも修道院であ
著作と並んで九巻におよぶ博物学的な著作《自然学》
いる事情も含め、ヒルデガルト自身がどこまで書いたか定かで
る。ヒルデガルトの実践もこの伝統の延長上にある。
庭しごとにいそしむ女子修道院長は、しかしもう一つの伝統
はないとされてはいるものの、その知識が中世には他に類を見
ない医療実践と自然観察に裏打ちされていることは間違いな
— 11 —
たことはもちろんである。そういえば、彼女の名には人を庇護
の拠点であると共に現世の荒波から人々を庇護する場所であっ
の上にも立っている。すなわち hortus conclusus
、四周を垣根
や壁で囲われた「閉ざされた庭」にいる聖処女マリアのイコノ
する囲われた場所としての庭の「ガルト」が含まれている。聖
のは聖処女マリアで、越えがたい壁は彼女の無謬と純潔を象徴
的関心は、むしろ閉ざされた庭を外部の自然界に向けて限りな
然学》は生まれようがない。ヒルデガルトの自然観察や博物学
もっとも、庭が防護的なものにとどまり続けるならば、《自
ガルテン
グラフィーである。「閉ざされた庭」そのものは古典古代やア
なる庭を護る女庭師がここにいる。
トポス
ラビア世界にも見受けられる文学的・絵画的定型であるが、少
するとされる。挿絵に掲げたストラボの「園芸詩」に付けられ
く開こうとする志向から生まれたと思われる。いわば森羅万象
なくともキリスト教の伝統においては、囲われた園の中にいる
た木版(ただし十六世紀の刊本による)もこの約束ごとに沿っ
をそっくりそのまま「神の庭」とみなすのである。
めに貴重な庭園を整
き聖霊降臨の日のた
ろうとも、来たるべ
んな誘惑や危難が迫
の訪問者(闖入者?)には目をくれようともしない。外からど
が楽園に帰り着くために、人間以外のすべての被造物に帰還の
は恩寵が待ち受けていて、しかも主は最愛の被造物である人間
だろう。堕落のあとに長く苦しい遍歴があるにしても、最後に
るという、彼女独自の救済史観があることにも触れておくべき
ムの子孫である人類を、造物主が用意した楽園に再び帰還させ
あったにもかかわらず神の意に背いて堕落した最初の人間アダ
こ の 志 向 の 根 底 に は、 こ の 世 の 初 め に 完 全 無 欠 な 被 造 物 で
て描かれていて、いかめしい忍び返しのついた板塀に囲われた
え護るマリアの侍女
むアダムの子孫たちに、そのための道しるべを示そうとするヒ
ための徴を施された、とするのである。楽園への帰還を待ち望
庭園で庭を手入れする四人の貴顕の女たちは、門口に立つ男性
たち、というのがこ
創設した二つの女子
う。ヒルデガルトの
らこそ、《自然学》と《病因と治療》は併せて「自然の様々な
はすべてが意味を持ち、利用できないものは何一つない。だか
ルデガルトにとって、世界は予兆に満ちたものであり、そこで
しるし
の絵の見立てだろ
修道院が、信仰生活
— 12 —
の元となった土についてこんな考えが述べられる。「土から人
たとえば《自然学》の第一巻「植物の書」の最初ではアダム
とになろう。逆にすべてが冷で温がなければ、同じく人は平衡
がなければ、それを使用するにあたって正反対の効果を生むこ
き、旺盛に育つ。もしすべての植物が温に属していて冷の植物
はその特性である熱気か冷気かのどちらかが十分に満ちたと
植物についてはまた、次のようにいわれる。「どの植物も温
しるし
間 が 造 ら れ た と き、 別 の 土 が 取 っ て こ ら れ て、 そ れ が 人 間 に
をくずすだろう。というのも、温の成分は人間の中の冷に、冷
か冷のいずれかの性質を帯びており、温の植物の熱は魂を、冷
なった。これに生命の宿っているのを感じたために、あらゆる
は人間の中の温にそれぞれ対抗しているからである。」
心に読み取ろうとすればこそ、人体の生理や自然の事物への正
元素は人間にかしずき、人間の行いのすべてに応えてそれを支
東洋の陰陽バランスの養生法や漢方医学にきわめて近い。三百
被造物の隠された諸性質の書」と呼ばれるのだし、その徴を細
え、人間もまた元素たちの力となった。そして土はその緑の力
種類近い植物のみならず、魚、鳥、獣、爬虫類、さらに石や金
の植物の冷気は肉体を示すためにそれに応じて成長する。植物
( Viriditas
) を 人 間 の 成 り た ち、 天 与 の 性 質、 性 格、 そ の 他 も
ろもろの特性に応じて賦与した。すなわち土は有用な植物を通
確な観察がなされるのである。
して人間の精神的な性情にもとづく行いを個々に教え、一方役
属にまで薬効と治癒力を探った《自然学》は、今はやりのアロ
命のエッセンスを示す概念であるが、必ずしも緑色をしている
と実践 Vita activa
が均衡する癒しの場であるこ
contemplativa
とではないか。この教えに導かれた人は、たとえ片隅のもので
る の は、 自 然 界 そ の も の が 広 大 な 神 の 庭 で あ り、 瞑 想
現代の流行はさておき、女庭師としてのヒルデガルトが教え
この一節を読む限り、ヒルデガルトの医学・自然学の体系は
に立たない植物を通して人間の邪悪で、悪魔的な特性を開示す
マテラピーやオーガニック料理のヒント集でもある。
わけではなく、土の中、人間の体液や組織、あるいは植物をは
「緑の力」とはヒルデガルトの医学や博物学に頻出する、生
るからである。」
じめ自然の万物にあまねく存在するものである。この力を選別
あろうと、自分の丹精する庭が一片のエデンを含むことを実感
たむら・かずひこ)
Vita
や調理・処方によっていかに有効に人間の中に取りこみ、増幅
(関西学院大学
するのである。
もしくは調整するかが庭師兼医師たるヒルデガルトの手引きす
るところとなる。
— 13 —
国 連 と の つ な が り を 身 近 に 感 じ て い る。
ばを聞かない日はない程、本学の学生は
今日の関西学院で「国連」ということ
を担当する。この二つのプログラムは関
指導の下、地域のNGO機関などで実務
上国に駐在し、現地のUNVオフィスの
の経験を学ぶ。後者は一学期をさいて途
員から国連機関で働くことの意義と現場
国連本部を訪問し、特に若手の日本人職
ランティアである。前者はニューヨーク
されてきた。国連セミナーと国連学生ボ
の連携活動を更に発展強化していくこと
進されてきた。今日、本学全学で国連と
「奉仕のための練達」の具体策として促
ビジョンは関西学院のモットーである
考え行動を起こすという総合政策学部の
うと想像できる。地球規模で問題を捉え
世界はもっとひどい事態に対面しただろ
て い る。 し か し、 も し 国 連 な か り せ ば、
機関が万能薬でないことは歴史が証明し
世界が直面する諸問題の解決に国連諸
に例がない。
た方をこれ程多く招聘している大学は他
※元国連本部経済社会局官房長。現在は国連本部で「グローバル・コンパクト」のボランティア顧問並び
に紛争解決NGOで活躍中。関西学院大学総合政策学部客員教授。
田島、村田両氏の指導の下、本学では
これはひとえに諸先輩の努力の賜で、他
西学院の国連との連携を示すシンボル的
が望まれる。
二つの重要な国連関連プログラムが実施
大学ではみられない現象といえよう。
存在意義があるが、他にも国連難民高等
関西学院 と国連
まず特記すべきは田島幹雄氏(※)で
弁務官事務所と協力して世界の難民問題
に し も と しよう じ
ある。田島氏が自らの国連憲章精神を尊
西本 昌 二
重する人生を若者に伝えたい、と始めら
を考えたり、神戸にある「人と防災未来
一線で活躍された有識者をキャンパスに
『学生たちは国境を越える』
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─ 国連学生ボランティアプログラム/国連情報技術サービス
(UNITeS)の挑戦
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— 14 —
関西学院大学総合政策学部教授
れた教学科目の数々が本学総合政策学部
センター」と協調して災害被害に対応す
招き、特別講義を開設している。国連の
▼好評既刊▲
で は 現 在 も 開 催 さ れ て い る。 田 島 氏 の
る活動などもある。
また、総合政策学部では二〇〇六年よ
ミッションを引継ぐような形で、母校・
関西学院で教鞭をとられることになった
氏は特に平和構築と地域レベルでの開発
各分野で幹部職員として成果をあげられ
り特別客員教員制度を導入し、国連の第
協力をわかりやすく、実例をあげて説か
現国連開発計画駐日事務所長の村田俊一
れた。
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わしが耳に入った。酔って不義理を重ねた植木屋が、ひいきにして
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Drama
: Nostalgia for Ancient Hospitality and
一三〇頁
ら、それをまたぐことができない者には、境界の向こうの特別な空
敷居はもともと闘で、住戸の内と外を区別していた横木だというか
しきみ
またげない。日ごとに募る後ろめたさや迷いを言い表わして妙だ。
だ。なるほど足もとの敷居が鴨居の高さになったら、またごうにも
敷 居 が 高 く て、 と い う か わ り に「 鴨 居 で …」 と 語 呂 を 合 わ せ た の
もらっていた旦那の家に行きにくくなったのを言いわけするのに、
Wish-fulfillment Fantasy in Mobile
Society
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から学ぶ英語』
B
間から締め出されていることへの口惜しさも増す。敷居と鴨居とい
う上下で対になった建築部材が、こ
ちらの気持ち次第で高くも低くもな
るのがおもしろい。他人の家の引き
戸やふすまを開けて鴨居の下を通り
抜けるとき、ぼくなどがついひょい
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— 15 —
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FAX 0798—53—9592
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『国際連合の基礎知識』
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窪寺俊之・平林孝裕[編著]
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5
『社会システム理論生成史』
5
ソン、T・パーソンズ
赤坂真人[著] A 上製
コトワリ No.19 2009 年 6 月発行
5
5
5
5
おいて最高の徳である時間を最大限に有
) の 時 間 は、
die Muße
仕事の時間と全く異なっており、仕事に
所以であろう。
る。まさに「正しい無為」が唱えられる
心の健康にとって決定的に重要な徳にな
が 正 し い 閑 暇 の 態 度 を 習 得 す る こ と は、
効に利用することは、不適切な態度とみ
「遊び」( das Spiel
)もまた「閑暇」と
類似している。遊びの本質は閑暇のよう
他 方、「 閑 暇 」(
なされる。純粋な閑暇は、人間がまった
な非活動性にあるのではなくて、活動性
【遊び
(閑暇)
と仕事
く時間を気にかけないで、「正しい無為」
を旨とするものの、遊びは仕事からも区
の時間構造を人間学的に対比して、以下
島書店)のなかで、遊び(閑暇)と仕事
教育社会学者、本田由紀の造語「ハイ
になるのである。
質を理解しない「野暮な人」ということ
ず時計や携帯電話を見る人は、閑暇の本
ちにとって、遊びや閑暇の真の教育学的
状況の真っ只中で生きざるをえない私た
の 副 産 物 と で も い う べ き「 安 ら ぎ 喪 失 」
できる。ハイパー・メリトクラシーの負
もまた、自己自身のうちに安らぐことが
広岡義之
時へのかかわり方のちがい】
現代を代表する教育哲学者のO・F・
に身をまかせることによってはじめて実
─
ボルノーは、彼の主著の一つ『時間に対
現される。それゆえ休暇においてもたえ
別されるべきである。一つの成果に向け
す る 関 係 』( 邦 訳『 時 へ の か か わ り 』 川
のような興味深い思索を展開している。
パ ー・ メ リ ト ク ラ シ ー」( 超 業 績 主 義 )
意義が今やふたたび問い直されなければ
— 16 —
られた仕事のベクトルとは逆に、遊びに
おける活動性は、それ自身において充足
し、かつ楽しみに満ちている。つまり遊
「 仕 事 」( die Arbeit
) に お い て は、 時
間を正しく有効に利用することが求めら
とは、能力ある人が成功していく社会を
ならない。
びのなかでのみ、子どもだけでなく大人
れ、完成されるべき仕事の終極点を見す
特徴づける用語であり、これに価値を見
ひろおか・よしゆき)
えて目的に向かって進んでいく。それが
出す現代社会だからこそ、なおさら人間
(兵庫大学
時への正しい身の処し方となる。しかし
連載 19
K O T
No.20
2009
O
W
A
R
I
特集・シンポジウム
コクゴ・エイゴ・言語共同体の未来
─水村美苗『日本語が亡びるとき』
をめぐって
田村和彦
山本雅代
于
康
山上浩嗣
森本郁代
関西学院大学出版会
KWANSEI GAKUIN UNIVERSITY PRESS
『変身』
(カフカ)
の読みかた
西
成彦
朝、目を覚ましたら虫になっているかもしれないのはてっきり自分だと思って
いた時代があった。あてのない未来でも、そんな自分がかわいくてたまらなかっ
た。虫に変身したって自己愛は変わらないだろう。周囲が自分を見る目だって、
今とさして変わらないだろう。そんな自己憐憫のオカズとしてカフカの『変身』
そうこうするうちに目に見えて変身はしないまま、子どもの親になった。もご
が役に立った。
コトワリ
もくじ
No.20 2009
巻頭エッセイ 『変身』
(カフカ)の読みかた 西 成彦
—2—
もごした虫けらのようではあるけれども、おぞましいと感じることなく、そこそ
こまで大きく育てることができた。しかし、人の子というものには、かならず、
腫れ物のような害虫に見えてくる一時期がある。溌剌としたところが失せ、人の
心証を害するようなことばかりやってくる。それはわが子だけではないらしい。
グレーゴル・ザムザと化した息子や娘の話は、ほうぼうで小耳にはさむ。そんな
グレーゴルに対してやたら下手に出る親がいるかと思うと、てめえなんかくた
ばってしまえと、キレてしまう親もいる。ひたすらグレーゴルの復帰・更正を祈
る親もいる。グレーゴルがほどほどにくたばってくれたことに、清々した解放感
を覚えるザムザ一家に共感する親もいる。ぜんぶ自分のことかもしれない。
そうか、カフカの『変身』は、グレーゴルの目からだけ読まれるように書かれ
て い る わ け で は な い ん だ な。 グ レ ー ゴ ル の む く つ け き 体 は、 も て あ ま さ れ て い
る。グレーゴル自身が手を焼いているようだし、ましてや家族となると、もう手
2
なとわかった。
の打ちようもなく、その手をこまねくだけだ。『変身』は崩壊家族の物語なんだ
特集・シンポジウム
連載 エピクロスの園
営業部便り 連載 差異の詞典
【遊びと誘惑】 回 海老坂武
田中雅一
※連載「ドイツ庭ものがたり」はお休みします。
自著を語る 『社会システム理論生成史』 赤坂真人
第
水村美苗
『日本語が亡びるとき』
をめぐって
コクゴ・エイゴ・言語共同体の未来 月から文芸雑誌『すばる』(集英社)に「ターミナルライフ/終末期の
にし・まさひこ)
3
そして、ふたたびそうこうするうちに、自分の親が年老いて、グレーゴル化し
てくるめぐりあわせになる。自分の体が思うように動かない。見ているこっちが
歯がゆいぐらいだから、本人はもっと歯がゆかろう。しかし、そんな親をちやほ
や し て や る だ け の 辛 抱 が 自 分 に は な い。 そ う か、『 変 身 』 は 介 護 小 説 だ っ た か。
こっちの体だって若かったころほど、無理がきくわけではない。体が思うように
動かない自分にいらだつ日が自分にもやってきつつある。もし親よりも先に自分
が逝ったらどうしよう。介護疲れに身を横たえると、このまま死んでやれと思っ
そして、つい先だって、その親を亡くした。介護で同じような悩みをかかえた
たりもするけれど、なかなか、そうもいきそうにない。
同年輩の友人たちは、西さんはもう卒業だから、と、悔やむより、はるかに羨ま
ゴールインだ。そして、次にゴールインのときを迎えようとしているのは確実
しげな目でこっちを見る。
に 自 分 だ。 社 交 性 を 失 い、 昔 の よ う に あ ら れ も な く と き め く こ と も 少 な く な っ
て、まだまだ虫になりきっているわけではないにしても、グレーゴルは確実に近
この
(立命館大学
—3—
4
12
14
15
16
未来の自分だ。
まってきている。
風景」という連載を始めた。自分の終末期を見据えたいと気持ちがいやましに強
6
特集・シンポジウム
水村美苗『日本語が亡びるとき』をめぐって
コクゴ・エイゴ・言語共同体の未来
─
関西学院大学言語コミュニケーション文化学会と
言語コミュニケーション文化研究科は六月十三日、
―
た むらかずひこ
田村和彦
言語コミュニケーション文化研究科長
関西学院大学経済学部教授
やまもとまさ よ
商学部教授
山本雅代
康
コウ
言語コミュニケーション文化研究科教授
関西学院大学
ウ
于
言語コミュニケーション文化研究科教授
関西学院大学経済学部教授
や ま じよう ひ ろ つ ぐ
山 上 浩嗣
言語コミュニケーション文化研究科教授
関西学院大学社会学部教授
もりもといく よ
森本郁代
言語コミュニケーション文化研究科准教授
関西学院大学法学部准教授
—4—
昨秋の刊行以来、各方面で議論を呼んでいる水村美
苗氏の著書『日本語が亡びるとき
英語の世紀の
中で』をもとに意見を交わすシンポジウムを開催し
た。英語が世界の普遍語となる趨勢が強まる中で、
日本語は将来、現地語のひとつに過ぎなくなるのか。
英語以外の言語で学問研究を行うことに意味はある
のか。英語教育や日本語教育、文学の今後の行方は。
本書の問いかけに、同研究科の教員がそれぞれの立
場から見解を述べた。
掲載協力:関西学院広報室
panelists
域を超えた対話ができるのではないかと
ものも含まれているが、何か面白い、領
著者の問題提起にはセンセーショナルな
者の集まりではないかと考えたからだ。
ミュニケーション文化研究科が二重言語
んだ。本書を取り上げた理由は、言語コ
月に刊行され、各方面で大きな反響を呼
田村 『日本語が亡びるとき』は昨年十
ていくのかという著者の問いかけが示さ
む中で日本語と日本文化が今後どうなっ
で」という副題にも、グローバル化が進
ら か に 意 識 し て い る。「 英 語 の 世 紀 の 中
あるから、著者は百年というスパンを明
い る。『 三 四 郎 』 の 刊 行 が 一 九 〇 八 年 で
は、実は夏目漱石の『三四郎』を受けて
語が亡びる」という挑発的なタイトル
ま ず 本 書 の 概 要 を 紹 介 し た い。「 日 本
人もいる。
機に対する「憂国の書」であると評する
ている。本書は、日本語が瀕している危
運命なのか、といった問いかけがなされ
味、現地語として書かれる文学は亡びる
語で書くことの意味や国民文学の持つ意
れ て い る。「 英 語 の 世 紀 」 の 中 で、 日 本
ば世界に発信できないという認識が示さ
いる。いろんな国の作家がそれぞれの母
ショップでの著者の体験談が記述されて
れた世界各国の作家が集まるワーク
本書の前半に、アメリカの大学で開か
徹底的に読み、学校でもきちんと教える
漱石や鴎外に代表される近代日本文学を
教育をエリート教育に限定する一方で、
て具体的な提言をしている。それは英語
の中で日本語をどう守っていくかについ
論じられている。著者は「英語の世紀」
で、日本の英語教育と国語教育について
最後の七章が最も議論を呼んだところ
いう期待がある。本書は我々をめぐる言
れている。
語で作品を書いているが、今や英語が普
というものだ。この提言にはただちに賛
ぼく自身は本書を自分の専門とも結び
遍語として圧倒的に支配している中で、
つけて興味深く読んだ。ぼくはドイツ文
否両論が起こった。
識が示されている。さらに現代は英語の
学を中心とする外国文学研究をしている
他の言語は一種の現地語になっており、
世 紀 で あ る と 定 義 さ れ た う え で、 今 後
やがて亡びていくのではないかという認
「叡智を求める人」は英語で書かなけれ
—5—
語の状況を共に考え、知的な議論をする
きっかけとして、重要な意味を持ってい
ると思う。
田村和彦
ションのための外国語ではなく、書き言
せ て、 書 け る け れ ど も、 コ ミ ュ ニ ケ ー
けで、明治期以降の知識人は外国語を話
語を仲だちする二重言語者という位置づ
た。著者によれば、それは日本語と外国
文化を豊かにしていこうという志があっ
訳や外国語文学の移入によって日本語の
だときには、著者が述べているような翻
いる。外国語文学研究を専門として選ん
ンの中では次第に人気がなくなってきて
が、この分野は日本の大学のディシプリ
できない。
のかという著者の問いかけは簡単に無視
ない。日本語は学問の言葉として残れる
なければいけないケースもあるかもしれ
であるドイツ語ではなく英語でも発表し
なっている。今後は「現地語」のひとつ
いけないという流れは学会の中で強く
には、やはりドイツ語で発表しなければ
擁するが、例えばドイツ文学をやるため
懸念している。日本も1億以上の人口を
語の発信力が次第に弱まっていくことを
うな圧倒的な英語の発信力の中で、日本
者が理想とする、読むべき言葉としての
れておらず、戸惑うことが多かった。著
日本語という括りで理解されている。
あって、それらをすべて包括したものが
や 年 齢 で も 異 な る。 い ろ い ろ な 方 言 が
るものがある。これは職業のほかに性別
さんらしい言葉など、社会方言といわれ
の他にも、例えば教師らしい言葉、魚屋
日本語とはいわば抽象概念だ。地方方言
日本語というものがあるわけではない。
一口に日本語といっても、何か一つの
捨象してしまっている。捨象して残った
日本語が前提にあって、それ以外は全部
本書では、日本語と国語が切りわけさ
葉としての外国語を読み、それを日本語
山本
ばならない、教育現場できちんと教えな
「最高位」の日本語を守っていかなけれ
の文脈の中に取り入れる翻訳という作業
によって日本語文化や自分自身を鍛えて
ガリズムの立場からの発言を期待された
ければならない、という主張には違和感
私が今日呼ばれたのは、バイリン
いった歴史がある。外国文学研究者とい
か ら だ と 思 う。 井 上 ひ さ し さ ん の 戯 曲
めるのは、日本語であるという主張にも
う立場からも、ある程度ぼくは著者の歴
戸惑いを覚える。この逆、つまり日本語
を覚える。また、日本人を日本人たらし
方言を話していて、字幕がないと何を話
が話せる人はみな日本人であるとは、著
を見ると、登場人物がそれぞれいろんな
し て い る の か ほ と ん ど わ か ら な い。 で
『国語元年』を基にしたNHKのドラマ
る。 ぼ く は 自 分 の 業 績 を 発 表 す る と き
も、これらはすべて日本語だ。
一方でぼくは筆者の危惧を共有してい
は、基本的に日本語で書いている。ドイ
史的、社会言語学的な分析に賛同できる。
ツ語で書く場合もあるが、著者が言うよ
—6—
なる。あるいは私が研究対象としている
人たち。彼らは国籍で言えば日本国籍に
がたくさん住んでいる。例えば帰化した
日本にはいろんな言語を背景に持つ人
り、国民全体の教育に持っていこうとす
「 最 高 位 」 の も の が 大 切 で、 そ れ を 守
ら、 ど う し て も 筆 者 の 考 え る と こ ろ の
こ ろ に 目 を 向 け て 研 究 し て い る。 だ か
は人があまり目を向けない捨象されたと
主張は、排他論的言説ではないのか。私
人とは、それが読める人だけだ」という
ことだ。文化や文学は言語の表現の協力
すもので、地域文化の鏡でもあるという
とは何か、と考えながら、日本で生活し
中国語とは何か、英語とは何か、日本語
于
まず言語や言葉とは、地域文化に根ざ
ている。今日は三つの問題を提起したい。
私は日本語非母語話者だから、常に
国際結婚家庭のような夫婦で異なる母語
者は言わないだろう。
を背景にした家庭で育った子どもたちも
を得てはじめて有形なものとなる。言語
て、 全 面 的 に 反 論 し て い る わ け で は な
者の主張には同意できるところもあっ
本書は、前半と後半でかなり違う。著
と、私にはどうしても読めてしまった。
のがあって、それ以外は仲間に入れない
スの多様性と終助詞の複雑性も日本語の
が、これは中国語にはない。ポライトネ
といった自動詞が受身文になれる現象だ
は自動詞受身文がある。「泣く」「降る」
のでなければならない。例えば日本語に
学は独自性のある言葉の表現に根ざすも
しない。よって国際性を有する文化や文
の独自性なしに集団の文化や文学は成立
る主張には同意できない。
たくさんいる。著者の念頭には、まじり
い。ただ前半が面白かっただけに、後半
特徴で、中国語になかなか訳せない。さ
—7—
けのない日本語、日本人、国語というも
の主張は残念で、本質主義的な言説とい
らに主語の欠如。例えば『源氏物語』を
語なしでも登場人物が副語尾の部分を読
日本語は述語が非常に発達していて、主
読むと分かるが、主語が見当たらない。
う 印 象 を 強 く 受 け た。 繰 り 返 し に な る
読まれる言語でなければならない。日本
本語というのも、文学的価値を持った、
日本語、書き言葉である。さらにその日
が、「 日 本 人 を 日 本 人 た ら し め る の は、
山本雅代
せん」と返答する。日本人は同じ場面で
「ありがとう」、知らない人なら「すみま
乗 っ て 座 席 を 譲 ら れ た と き、 友 人 な ら
葉 の 救 済 が 必 要 に な る。 例 え ば 電 車 に
「 外 」 の 領 域 を 侵 し て し ま う 場 合 に、 言
「 外 」 の 概 念 が あ っ て、「 内 」 の 人 が
か ら な い。 日 本 人 の 場 合 は「 内 」 と
ん」で、それらの正しい使い方がよくわ
い日本語は「ありがとう」と「すみませ
また、中国人にとって最もわかりにく
える。
本語の特徴はまさに日本文化の投射と言
の言語にはあまり見られない。これら日
めば、判読できる。このような現象は他
らだ。
代の言葉こそ正しい日本語だと考えるか
ば、嘆くかもしれない。なぜなら平安時
鎌倉時代の人が話している日本語を聞け
に変わっている。もし平安時代の人が、
べてみれば、原因を問う疑問詞が明らか
物語』と鎌倉時代の『平家物語』とを比
れ が さ ら に 顕 著 に な っ た。『 天 草 版 平 家
使い方が狭くなり、室町時代になるとそ
あった。でも鎌倉時代になると、言葉の
安時代には、疑問を表す言葉がたくさん
比較的平和で豊かな心的表現ができた平
系が形成されつつある変化と捉えたい。
化というよりむしろ新しい言語の表現体
貧弱化がよく言われる。しかし私は貧弱
ないと思う。
だし、英語時代の到来は理想の話に過ぎ
英語である以上は、日本語は永遠に不滅
その意味からも、発信用の道具としての
相手に伝わる意味が違ってくるからだ。
は正しくても、使う場面を間違えると、
とすると、必ず誤用が生じる。文法的に
の道具に母語の文化を無理に付加しよう
語以外の言語はあくまでも道具だが、そ
ばいいからだ。非母語話者にとって、母
し、自分の言いたいことが相手に伝われ
本語の表現は他の言語で正確に伝えるこ
間関係の投射だと思う。このあたりの日
ツールとしての言語であれば問題はな
外交交渉や国際会議で発表するための
で、いつ、何のために使う言語なのか。
を 考 え て み た い。 英 語 は、 誰 が、 ど こ
最後に、日本における英語の位置づけ
言葉を使い分けているが、中国人には理
とはできない。文化の投射としての言語
い。その言語に文化は付加されていない
解できない。これも日本文化に根ざす人
次に、ら抜き言葉に象徴される言葉の
と道具としての言語は違うということだ。
康
于
—8—
山上
得られるからという理由は当てはまらな
ような、母語で書くよりも多数の読者が
訳の不正確さを十分認識しながらその作
確にならざるをえないが、今の読者は翻
んな人がさまざまな言葉で作品を書いて
は言えないだろう。著者は地球上のいろ
身が前半で書いていることからも、そう
書くようになる」という点だが、著者自
あって、英語が普遍語化するという理由
にはその言語で書かれる固有の理由が
樹の例を見ても分かるように、文学作品
ともに「日本性」の表出に努める村上春
くされたミラン・クンデラや、普遍性と
チェコからフランスへの亡命を余儀な
ではないし、叡智を求める人は、普遍語
智とは時間的な進化・発展を遂げるもの
で書かれているとは限らないからだ。叡
うし、そもそも過去の優れた叡智は英語
求める人は他の言語にも目配りするだろ
んなことにはならない。なぜなら叡智を
読まなくなる」という点だが、むろんそ
本 書 を 読 み、 共 感 す る 点 も 多 々
あったが、大きく二つの異論がある。ま
品を楽しむ力を持っている。
いると紹介しているが、この認識からな
だけで、作家がみな英語を選ぶことには
二つ目の「叡智を求める人は英語しか
いだろう。
ぜこの結論にいたるのか。もちろん母語
ならない。
うように、多数の読者に訴えかけたいの
わる問題ではないか。また仮に著者が言
は、その実存やアイデンティティーに関
通 用 し な い と 思 う。 作 家 の 言 語 選 択 と
から優れた作品であるという価値判断は
致しないような世の中では、国民文学だ
の言語であれ、文学の講読が叡智の継承
しない人が増えてくるのではないか。ど
る。この傾向が続くと、文学に見向きを
れ、「 読 む・ 書 く 」 は 軽 視 さ れ つ つ あ
の 英 語 教 育 は「 聞 く・ 話 す 」 が 重 視 さ
ることは危険である。しかも最近の大学
ればいいというメッセージを学生に与え
承する使命を持つならば、英語さえでき
—9—
ず「英語で書ける人は文学作品を英語で
以外で作家活動を行う人は世界にたくさ
であれば、優秀な翻訳家を探せばいい。
その意味からも大学が人類の叡智を継
以外の言語にも関心を持つはずだ。
もちろん文学作品の翻訳は本質的に不正
しかし作家の出自と言語とが必ずしも一
本書では国民文学が重視されている。
んいる。しかし彼らがなぜ母語以外の言
語を選ぶのかといえば、著者が推測する
山上浩嗣
智を創り出す役割を失うわけではない。
他の言語が過去の叡智を伝え、未来の叡
語だけではないし、書き言葉としての英
語が普遍語化することで亡びるのは日本
作品を読もうと思わない。その意味で英
しようとするときに、大半の人は英文学
しろないがしろにされている。英語はそ
英語の普遍語化とは、単に国際標準語
語も変容を余儀なくされていると思う。
の即時的な意思の伝達に便利な言語であ
としての役割が英語に加わっただけだ。
分たちが普段話している日本語というも
に重要な役割を果たしてきた。それを旧
問題は、英語の普遍語化が他の言語を滅
英語の普遍語化とは、読む文化が衰退に
のをどのように捉えるべきか、また日本
世代の産物として廃してしまっていいの
ぼすという誤った因果関係を前提に、英
追いやられていくこと、書物との対話を
語は外国人学習者からどう見えるのかと
ると認識されている。だから英語を勉強
語だけを学べばいいという認識が一般化
通じた時間を置いたコミュニケーション
か。英語が普遍語化するからといって、
しつつあることだ。
いう問題に日々直面する。
が衰退していくことを意味している。
最後に英語の普遍語化というものがも
たらす真の問題とはおそらく、即時的、
前提した上で、戦後の国語教育の理想に
本書では、日本語イコール日本文化と
森本
対する批判が展開され、日本の国語教育
英語の普遍語化に対する危機感は
効率的なコミュニケーションが肥大化し
私も持っているが、外国人に対する日本
眼を置くべきだと繰り返し述べている。
ていることだと思う。それによって読む
しかし、これは日本語教育に携わってい
は日本近代文学を読み継がせることに主
母語話者にとっては、母語は当たり前
る者からすると、いろんな問題を孕んで
語教育の立場から、日本語を学ぶ人に焦
の存在だし、改めて考えることは滅多に
いるように見える。
文化が抑圧され、衰退していく。英語が
ない。ところが言語教育の現場では、母
点を当てて考えてみたい。
してくるということだ。英語の普遍語化
語は当たり前ではない。日本語教師は自
発展し、他の言語が衰退していくのでは
とは実際には誰もが英語で「語ろう」と
なく、英語の「語る」部分だけが肥大化
す る 事 態 で あ っ て、「 読 む・ 書 く 」 は む
— 10 —
森本郁代
に就労目的で来る外国人が増えている。
一九九〇年の入管法改正によって日本
は、日本人だけではないというのが日本
置 か れ て い る。 日 本 語 を 必 要 と す る 人
ていないところもあって、大変な状況に
か。国語教育の対象となるのは実際には
本国内につくってしまう可能性はないの
外国人児童のようなマイノリティーを日
る国語教育を進めることで、先に述べた
化を持つ外国人児童に対する国語教育を
一方で外国人に対する日本語教育の現状
考えると、著者が主張する日本近代文学
日本人だけではない。異なる母語や母文
日本語を学ぶ外国人や外国人児童に教
社会の現状であり、今後もこういった人
える日本語とは日本人に対する日本語と
を、彼らに小さい頃から読ませる国語教
だが、留学生、就学生、日本語学校に通
育を受けるが、就労者や技術研修生、日
育が果たしてよいのかという問題を考え
たちは増えていくことが予想される。
本人の配偶者たちは地域社会のボラン
そもそも同じなのか。著者の視野にこう
なければならない。
— 11 —
う人たちは学校等の教育機関で日本語教
ティアに頼った日本語教育で済まされて
いった人たちに対する日本語が含まれて
実際には地域に在住する外国人に対する
いないことは残念だ。その人たちにとっ
日本語教育はボランティアの教室でなさ
いる。政府がボランティアに頼る政策を
また、日本語の学習を必要とする外国
れているのが大半だ。しかしその場合、
ては、日本語は生活言語になっていて、
人児童も増えている。日系人の子どもた
同じ地域に住む人たちの間に先生と生徒
推進していて、国として言語を保障する
ちは、親が職場を変えるたびに学校が変
の関係を生むことになり、それが教室の
姿勢は今のところ無いに等しい。
わり、住民登録がうまくいかないと、学
場面だけではなく、地域社会の中でも関
日本語母語話者は、世界の中ではマイ
校教育を受けられない。その結果、不就
ノリティーかもしれないが、国内では圧
係性が固定されてしまう危惧がある。
えば、日本語が必要な授業だけ巡回して
倒的にマジョリティーだ。著者が主張す
学の子どもが増加している。こういった
くるボランティアの先生が教えてくれる
子どもたちに対する日本の学校教育とい
学校はまだいいほうで、全くケアができ
水村美苗『日本語が亡びるとき
英語の世紀の中で』筑摩書房、
2008 年。
連
載
回
る箇所が好きだ。その食べ方が私によく似てい
私はモンテーニュが食べ物について書いてい
のだが、この禁止が気にくわない。結石の苦し
る。そこで牡蠣を食べることを禁じられている
うにがつがつ早く食う私は、ここで、おおわが
いず、だいたいは手で食べていたのだ。同じよ
いたいからではなく、粗末な飯であっても満足
いる。しかしそれは次の日に飯をよりうまく食
くなる。エピクロスもまた断食や節食を説いて
と、エピクロスにおけるそれとを比較してみた
こうなると、モンテーニュにおける快楽追求
て、牡蠣を食べ続けるのだ。
は、一つの病気を二つにすることだとうそぶい
みだけでなく牡蠣を食べる楽しみを奪われるの
健康によくないと知りながら、彼はがつがつ
るのだ。
と早く食う。そのためにしばしば舌を噛み、指
友よ、と叫びたくなる。そう、うまいものは集
す る こ と に 慣 れ る た め で あ る。 彼 は 書 い て い
を噛む。当時はスプーンやフォークをあまり用
中して早く食べるにかぎる。食卓に出ている料
そもそもエピクロスにとって快楽とは何だっ
る。「水とパンで暮していれば、私は身体の快
たか。それは「肉体において苦しみのないこと
理には箸をつけず、ちびちびと酒を飲んでいる
しかし、貪欲さにおいてこれはかなわぬ、と
と、霊魂において乱されないこと」である。つ
楽に満ち満ちている」と。
いう点がいくつかある。たとえばモンテーニュ
まり苦痛の欠如である。けれども、この面だけ
だ け の 御 仁 ほ ど、 楽 し く な い 食 事 相 手 は い な
はしばしば食を抜く。それは次の日に御馳走を
を強調するなら、ベルクソンが書いているよう
い。
しっかり食べるためである。あるいは、適当な
これの快楽を必要としないことである」(『道徳
相手でないと飯はうまくなく、その適当な相手
と宗教の二つの源泉』森口美都男訳)という、
に、エピクロスにおいては「最高の快楽はあれ
さ ら に 驚 く の は、 彼 は 結 石 を わ ず ら っ て い
がいないという理由からだ。
て、しばしば下半身に死ぬような苦しみを覚え
— 12 —
エピクロスの園
第
海老坂武
3
Le Jardin d'Épicure
な快楽だ。では積極的な快楽とは何か。彼はこ
楽を区別した、と。苦痛の欠如、これは消極的
ある。エピクロスは消極的な快楽と積極的な快
幸いなことに、いやそうではないという説も
きわめて面白くない生き方に行きつくだろう。
を最高の善と考えたからこそ彼は苦痛に耐えて
蠣 を 食 べ た り は し な い だ ろ う。「 胃 の 腑 の 快 」
こらえながら、痛みを増加させるに違いない牡
如が最高の快楽だと考えるなら、結石の痛みを
と見るべきだろう。なぜなら、もしも苦痛の欠
モ ン テ ー ニ ュ の 感 覚 的 快 楽 の 追 求 は、 さ ら
いるのだろう。
に、これに専心することを求める。「私は踊る
「味覚による快、性愛による快、音楽を聞い
んな言葉を残していたらしい。
て 得 る 快、 踊 る 美 女 を 見 る 快、 こ れ を 除 い た
ときには踊る。眠るときには眠る」
クロス、あの食いしん坊のモンテーニュと重な
ここでようやく私は、自分の探していたエピ
に 眠 っ て い る。〈 眠 ら ね ば な ら ぬ 〉 は 今 な く、
られなくなって以来、私は欲望の生ずるがまま
を、私はうれしく思う。大学をやめて時間に縛
彼が眠りをも感覚的快楽に数えていること
ら、何を善と考えたらよいのか私にはわからな
るエピクロスを見いだした感じがする。エピク
に集中する。死後にはもはや、眠るという快楽
〈眠りたい〉だけがあり、眠るときは眠ること
い」(堀内彰『エピクロスとストア』による)。
ロス学者はこの二種類の快楽をいかに矛盾なく
こ こ で 少 し 気 に な る こ と が あ る。 モ ン テ ー
はなくなるのだから。
説明するかにつとめているが、この努力は彼ら
に委ねよう。私としては、〈快楽主義者〉とい
ニュは精神的快楽をどう考えているのか。それ
う悪徳の匂いのするレッテルを恐れてエピクロ
スを道学者に仕立てあげないことだけを願って
(えびさか・たけし)
は感覚的快楽と同列にあるのか、それともその
上に置いているのか。
おく。
モンテーニュに戻れば、彼はエピクロスの二
種の快楽のうち、積極的な快楽に力点を置いた
— 13 —
自
著
を
語
る
社会システム理論
生成史
あかさかまこ と
赤坂真人
換 理 論 の 研 究 に 取 り 組 ん だ。 本 書 は パ
レートからヘンダーソン、そしてパーソ
ンズへと継承されていった社会システム
一九三七年、ハーバード大学社会学科
理論の系譜を明らかにしたものである。
の助教授であったパーソンズにウィスコ
ンシン州立大学から教授職のオファーが
トは経済システムの均衡分析という手法
イタリアの著名な経済学者V・パレー
る。
の社会学史上の空白を埋める試みであ
成立したかを知る人は少ない。本書はこ
の社会システム理論がどのような経緯で
闘した経験をお持ちのはずだ。しかしこ
が、若かりし頃、社会システム理論と格
学の分野で活躍している研究者の多く
今、日本の社会学、とりわけ理論社会
T・ファラロ等により数理的な社会シス
し、ホーマンズは後にJ・コールマンや
ズは生物学的な社会システム理論を展開
G・C・ホーマンズであった。パーソン
構 築 し て い っ た の が T・ パ ー ソ ン ズ と
その影響下で独自の社会システム理論を
の私的な研究会や講義を行った。そして
たちを集め、社会システム理論について
ハーバード大学で同僚や友人、大学院生
ン ダ ー ソ ン で あ っ た。 ヘ ン ダ ー ソ ン は
バード大学の著名な生化学者L・J・ヘ
をアメリカ社会学に持ち込んだのがハー
であった。
機能学派にとって決定的に重要な出来事
ンズのヘンダーソンとの出会いは構造─
するに至った経緯を振返るとき、パーソ
研究によって「構造─機能学派」を形成
て多くの優れた同僚や学生たちとの共同
た。その後、ハーバード大学を拠点とし
授留任と二年後の准教授昇進を約束させ
れ、その場でパーソンズの二期目の助教
造』の草稿を持ってコナント学長を訪
ヘンダーソンはすぐに『社会的行為の構
ヘ ン ダ ー ソ ン に 自 ら の 進 退 を 相 談 し た。
吉備国際大学大学院准教授
を確立し、その社会システムへの応用を
テムとして定式化される小集団理論や交
の実力者であった
舞い込んだ。このときパーソンズはハー
試みた。そしてパレートの社会システム
バード大学ナンバー
の均衡分析という手法に魅了され、それ
— 14 —
A5 判上製本 188 頁
定価 3990 円 (税込)
2
▼営業部だより▲
【八・九月の新刊】
『社会システム理論生成史』
V・ パ レ ー ト、 L・ J・ ヘ ン ダ ー
ソン、T・パーソンズ
─
赤坂真人[著]
A 上製
K・G・りぶれっと
八〇頁 予価七三五円
他[著]
『フランス経済社会の近現代』
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市川文彦・奥野良知・中垣勝臣
A
K・G・りぶれっと
ツーリズム・ビジネスとホスピタリティ・ビジネス
『観光の経営史』
並製
七二頁 予価七三五円
市川文彦・鶴田雅昭[編]
A
二九四頁 定価二九四〇円
編・集・後・記
— 15 —
【好評既刊】
並製
京都のモダニズムをあつかった展覧会の一角で、大正十三年末に
松竹座にかけられた映画『罪と罰』のポスターとその惹句に目がと
まった。
「寂然たる屋根部屋の中にじゞと音して最後の燭光は消えゆき
暗 然たる二人の不幸な若人のみ坐す」
いわずと知れたドストエフスキーの原作を、わずかな字数で要約
してしまうのは見事な手並みだ。「じゞと音して」というのが利い
ている。黒、赤、白だけを使って人物をキュービズム風に円や四角
に分解し、極度にデザイン化されたロゴ(キネマ文字)を配した図
案の斬新さにも目を見張る。作者は山田伸吉。初めて聞く名だが、
一九二〇年代の大阪松竹座の映画や
舞台の広告を多数手がけた、有名な
デザイナーらしい。
くだんの『罪と罰』は『カリガリ
博 士 』 で 名 を 成 し た ロ ベ ル ト・
ヴィーネ監督による一九二三年のド
イツ映画で、もちろん白黒サイレン
トである。しかし、インパクトのあ
る 図 案 と 文 字 に 乗 り、「 じ ゞ と 」 音
まで響かせながら、異国の映画は街
角から人々に感染してゆく。モダニ
ズムとは、メディアによるそんな感
染の様態ではないか。(和)
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本誌一四頁をご覧下さい)
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兵庫県西宮市上ケ原一番町 1—155
TEL 0798—53—7002
FAX 0798—53—9592
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Wish-fulfillment Fantasy in Mobile
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『子どもに教える大人が初歩から学ぶ英語』
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音声CD付
B 並製
二五六頁 予価二六二五円
関西学院大学出版会
24
25
5
5
5
5
『言語と「期待」』
─
A 並製
意味と他者をめぐる哲学講義
重松健人[著]
コトワリ No.20 2009 年 9 月発行
5
5
5
5
【遊びと誘惑】
田中雅一
なに
に あ ぜ 道 に 座 っ た。 お れ は、「 な ん
彼女は、ヨニ(性器)が見えるよう
リは誘惑されている、と思うかもしれな
なかったとしても、ヨニが見えれば、ム
する偶発性である。ラクシュミが故意で
もうひとつ興味深いのは、身体に関係
ラクシュミ?
だいそれは?
どうした
さらに、誘惑を性的な場面だけに限る
い。
をおれに見せてるんだい?」と言っ
た。 す る と、「 な に っ?
どこ?」と答えなが
必要はない。同じことが、モノ(フェティ
どこ?
シズム)や自然(アニミズム)との関係で
の?
ら、さらにあそこを見せつけるよう
この数年、わたしは誘惑という言葉に、
文字通り誘われ、とり憑かれている。そ
にして自分の体を見回したのだ。そ
も 生 じ る( 前 者 に つ い て は 田 中 編『 フ ェ
の理由ははっきりしている。誘惑という
動と受動といった近代を支配する二元論
文明と未開、個と社会、大人と子供、能
— 16 —
ティシズム論の系譜と展望』京大学術出
こう考えてみると、誘惑は、主客、心
版会、二〇〇九年参照)。
れでおれは彼女のヨニに指を入れ
身、理性と感情、人とモノ、文化と自然、
言葉が胡散臭いからだ。それは、遊び(お
ば、 心 が 主 で 身 が 従 )を 逆 転 さ せ る 概 念
に 見 ら れ る 統 御 あ る い は 主 従 関 係( 例 え
で あ る こ と が わ か る。 誘 惑 に 乗 る こ と、
て、これだよ、と教えた[一八一─
誘惑は、なによりも誘惑者の能動的な
ア ソ ビ と 表 記 す べ き か )と 同 じ く、 勤 勉
はたらきかけである。ところが、この能
一八二頁]。
典型的な誘惑の場面を、東インドの不可
させるのである。
たなか・まさかず)
それが遊びへの第一歩であり、また近代
(京都大学
動性が究極的に求めているのは、誘惑さ
触民男性、ムリのライフ・ストーリーから
惑は、ムリの能動性を引き起こす。
批判へと通じる実践なのである。
紹介しよう
( J. M Freeman, Untouchable,
)。
George Allen and Unwin, 1979 れる側の能動性なのだ。ラクシュミの誘
を核とする近代の世界観をおおいに攪乱
連載 20
K O T
No.21
2009
O
W
A
R
I
特集(前編)
阪神間温故知新
モダニズムから
ユートピア社会主義まで
津金澤聰廣
×
山本剛郎
関西学院大学出版会
KWANSEI GAKUIN UNIVERSITY PRESS
エフェメラとしてのメディア
土屋礼子
ビラというものを、ここ数年調べている。ビラといえば、駅前や街頭で手渡され
る、あるいは郵便受けなどに配られるチラシの類がふつう思い浮かぶ。しかし、私
が特に関心を寄せているのは、戦時中に用いられた宣伝ビラ、日本では主に伝単と
コトワリ
もくじ
No. 21 2009
巻頭エッセイ エフェメラとしてのメディア 土屋礼子
—2—
呼ばれていた類である。これは軍事作戦の一部として散布されたものであり、心理
戦の中核メディアとして組織的に多数制作された。だが戦後のマス・コミュニケー
ション研究は、新聞・テレビ・ラジオといった大規模な産業の発展とともに展開し
たため、ビラはまともに研究されてこなかった。とはいえ二十世紀初頭に飛行機が
実用化され空中から散布が可能になって以降、大量に撒かれるようになったビラ
は、都市では宣伝手段として頻繁に用いられ、その散布の数からいえば立派なマ
しかし、ビラはもともとつかの間だけ用いられる意図で作られ、使用後は保存さ
ス・メディアといえる。
れることもなく捨てられ忘れられるのが常である。このようにはかなく消え去って
しまう一時的な印刷物をエフェメラと呼ぶ。エフェメラとは、一日ないし短時間だ
けしか存在しないものを指すギリシャ語源のことばである。たとえば、ポスター、
絵はがき、カード、パンフレットなどを、書籍や手書きの文書類(マニュスクリプ
2
ト)などと区別して示す総称である。英国では『エフェメラ百科事典』が刊行さ
れ、そこにはタバコや糸の商品ラベル、蔵書札、劇場の座席表、クリケットのスコ
ア表、結婚証明書など実に雑多なものが含まれている。日本でも『日本の紙クズ』
という本が、野島寿三郎コレクションの中から楽譜の表紙やチケット、レコード
ジャケット、番付表、衣料キップなど大正・昭和期の多彩なエフェメラを紹介して
いる。こうした日本の古きエフェメラを愛好する人も少なくないらしく、最近サン
フランシスコで発行された『メイド・イン・ジャパン』という本で、荷物札、すご
ろく、うちわ、雑誌の付録、マッチのラベル、メンコ、蚊取り線香のパッケージま
でが紹介されているのには驚いた。
これらエフェメラのコレクションは、一般には好事家の趣味として片づけられて
しまうだろう。あちらこちらの町や村で作られ流通したエフェメラは数限りなくあ
り、比較的狭い範囲で享受されるこれらの小さなメディアを追いかければ切りはな
い。しかし、読者や情報の受け手という視点からすれば、メディアはそもそもみな
エフェメラである。新聞もテレビも毎日定期的に情報を流しているとはいえ、受け
手はそれにいつも定期的に接しているとは限らない。新聞や雑誌だとて、もともと
は捨てられてしまうエフェメラなのだ。人々にとっては流れ寄せ来る情報の切れ端
が、インターネットを通じてであったり、新聞だったり、ビラであったりするだけ
つちや・れいこ)
のことではないだろうか。そうした人々とメディアの接点を微分する時、エフェメ
(大阪市立大学
ラは実はメディアの本質として立ち現れてくるのである。
特集(前編) 阪神間温故知新 第
回 海老坂武
津金澤聰廣×山本剛郎
モダニズムからユートピア社会主義まで
連載 エピクロスの園
連載 ドイツ庭ものがたり
ジャガイモの風景 自著を語る
田村和彦
『明日に希望のもてる医療はあるか』 重松健人
人間の傲慢と自然の復讐 中野秀一郎
営業部便り 連載 差異の詞典
【遊びと気懸り】 —3—
4
8
10
14
15
16
4
特
集 (前編)
つ がねさわとしひろ
やまもと
たけ お
剛郎
関西
学院大学名誉教授
山本
関西
学院大学名誉教授
津金澤聰廣
モダニズムからユートピア社会主義まで
阪神間温故知新
▶一九三五年当時の宝塚少女歌劇脚本集
海と山に囲まれ、
美しい風景の続く阪神間。そこには豪商と言われる人たちが邸宅を構え、
モダンな文化が花開いた。阪急電車を創設した小林一三の郊外ユートピア理念によって開
発された新しい地域と、西宮の酒造業や戎信仰のように古くからの文化が栄えた場所が、
おのおの個性を輝かせながら、同時に一体感を持って存在している。賀川豊彦らのキリス
ト 教 の 精 神 を ベ ー ス に し た 相 互 扶 助 と 労 働 運 動 か ら 生 活 協 同 組 合 の 活 動 ま で、 そ の 多 く は
官を頼らず、民の力で成し遂げたものと言えよう。
阪神間の歴史を振り返り、今後を模索すべく、阪神間の歴史と文化を専門とするお二人
にお話を伺った。
東京のモダニズム論では、浅草
■田園都市構想と阪神間の私鉄
津 金澤
ズムといったように、盛り 場ごとの地域
モダニズム、新宿モダニズム、銀座モダニ
を中心とした文化として語られることが
それに対して関西は、京阪神それぞれ
多くあります。
す。京阪神でも範囲が広すぎて、各都市
が 独 立 し た 文 化 を 持つ自 由 都 市 連 合 で
して論じることで特徴を捉えることがで
で語るよりも私鉄を軸にした地域文化と
大 阪 と 神 戸 が あ って の 阪 神 間 で
きるように思います。
山本
地区に建てられた造幣寮、造兵司(砲兵
しょうね。大阪の工業は、旧大坂城周辺
工廠)に始まる、と言 えると思います。
や がてその周 辺に 関 連の工場 が 立 ち 並
す。城の南側には被服工廠もできるよう
び、大坂城周辺は軍需工場地帯となりま
—4—
工、紡 績、セメント・硝 子、電 灯 などが
市西部を中心に工場が立ち始めます。鉄
になります。他方、明治十年代後半から
者を念頭に公衆衛生の観点から郊外生活
に、私鉄の経営者は競って大阪市内居住
生 活 の よ さ を 訴 え て い ま す。 こ の よ う
え、空暗き煙と化した」大阪市民に郊外
の な かで、
「 美 し き 水の都 は 昔の 夢 と消
心 を し、 空 気 清 浄、 風 光 に 富 む 住 吉 村
いましたが、妻を病 気で亡くし、一大 決
です。もともと大阪市内の社宅に住んで
した平 生釟 三 郎(一八六六 ─一九四五)
典型的な例のひとりが、甲南大学を創設
ひら お はち さぶ ろう
阪は東 洋のマンチェスターと呼 ばれるほ
その代表的工業で、明治三十年頃には大
て彼は、現JR住吉駅から、朝は東京海
上の神戸支店へ、昼には同大阪支店へ出
(現神戸市東灘区)に移り住みます。そし
かけるビジネスマンでした。この住 吉 村
頃、内務省地方局の有志が『田園都市』
という 本を出しています。これは、日本
の勧めを説いたわけです。ちょうどその
が近代化を推し進めるに地方は如何にあ
ど紡績業が盛んでした。以後明治末年ま
立し、大阪は工業化していきます。しか
住友家の移転が大きな契機となって、そ
には住友吉左衛門も移り住みましたが、
でに水路沿い、臨海部に多くの工場が林
しこれは、いわば工業 化の光の部分で、
るべきか、地方改良運動をどのように行
の後、紡績関係者を始め多くの財界人が
やがて影の部分が目立ち始めます。大阪
ここにやってきたと言われています。
なっていけば日本の近代化は達成される
都市」という言葉は、内務省のこうした
吉村の朝日新聞社主・村山 龍 平らは、そ
津 金澤
か等を論じたものでした。しかし「田園
意図とは異なった理解で「ハイカラな郊
宅問題が明治四十年頃から顕在化してき
たことです。当時は産業資本家が輩出し
外生活」というふうにイメージされるこ
は煙の都と化し、いわゆる都市問題や住
てくる時期でもあり、鉄道の敷設が盛ん
とになります。これには、新聞社が発信
ことは言うまでもありません。
する郊外生活に関する記事が一役買った
域を迂回して走っています。
た。そのため、阪急電車は現在もその地
の別荘の敷地を通ることに待ったをかけ
むらやまりようへい
阪急神戸本線ができるとき、住
治四一年、
『市外居住のすすめ』と題する
になされます。たとえば、阪神電車は明
から郊外生活のよさを訴えています。ま
こうして、大阪市に住む人たちの郊外
反対運動があったために、住吉に駅がつ
る時も、当初予定していた御影で住民の
PR誌を発行し、そのなかで医学的観点
た阪急は、宝塚線を明治四三年に開業し
も、余裕のある上層の人たちでしたが。
への移 動がはじまったわけです。もっと
官設鉄道(現JR)の駅を建設す
ますが、その二年 前の四一年に発 行した
山本
『最も有望なる電車』というパンフレット
—5—
邸宅街を中心にして、周辺地域を開発し
屋市)のような、ハイクラスな人たちの
津 金澤
運動をするようになりました。
になると、今度は御影村の人たちは誘致
くられたのです。しかし駅ができて便利
だっ た と 言 え る と 思 い ま す。 そ の 端 緒
れ、 む し ろ 大 正 か ら 昭 和 に か け て か ら
山本
急をつなげようとする動きもありますが。
ぐ路線も少ない。最近はバスで阪神と阪
山側とで分断されています。南北をつな
津 金澤
違いないと思います。
ではないかと思います。この都市計画区
よそ今の阪神間のイメージにつながるの
けです。この西宮都市計画区域が、おお
ある地域が西宮都市計画区域とされたわ
れぞれ設定されており、その両者の間に
は芦屋川を境に神戸都市計画区域が、そ
山本
が、それぞれ開通します。ですから現西
が、そして大 正一三年、夙川・甲 陽園間
間 が、 大 正一五 年、 西 宮 北 口・ 今 津 間
以外はその後西宮市に合併されました。
それらは南部に位置しています。精道村
甲 東 村、精 道 村の一市、一町、六 村で、
南北については、北側の開発は遅
阪・神戸間には鉄道が四本走っていまし
北部の塩瀬村、山口村が西宮市に合併さ
庫川を境に尼崎都市計画区域が、西側に
ました。阪急はこうした高級住宅地を目
津町、大社村、鳴尾村、瓦木村、芝村、
域の構 成メンバーは西宮市のほかに、今
ある範域を定めたものです。東側には武
指さず「中産階級の楽園」として、サラ
は、先に申しました大正九年の阪急神戸
けれども地域の意識は、海側と
リーマンの上級職の人たちを狙っていった
線の敷設です。翌十年、西宮北口・宝塚
た。時系列に並べると、明治七年、官設
宮市域でも北側と南側とではかなり発展
阪神間、つまり、広い意味での大
阪神は、住吉村や精道村(現芦
のです。
鉄道(現JR)が、明治三八年、阪神電
は明治二二年に町制を敷き、大正一四年
力は複数の配電会社が集まってできたも
間は電気が通じるのも早かった。関西電
鉄道が開通したことから、阪神
には市に昇格します。そして昭和二年に
津 金澤
れるのは、戦後になってからです。
電軌道(路面電車)が、それぞれ開業し
す。自社の発電所を阪急沿線に造ってい
の で す が、 阪 急 は そ れ に 出 資 し て い ま
行政的に見ますと一目瞭然です。西宮
の時期に違いが見られます。
ます。このように鉄道が何本も並行して
は西宮都市計画区域を周辺の町村と設定
線が山手沿いに、昭和二年に阪神国道の
車が海岸沿いに、大正九年、阪急の神戸
走っている地域はめず らしいのではない
経済的に一体となって発展する可能性の
します。これは、将来、西宮市と社会的
たのを、関電と合 併しているのです。阪
通網がこの地域の発展を速めたことは間
でしょうか。国道も加えた、こうした交
—6—
津金澤
なっていきました。
こ ばやしいちぞう
急電鉄の創業者、小 林 一三(一八七三─
こう べ ゆう しん につ
日本で最初に輸入したのは神戸の高橋商
ました。キネトスコープという 映写機を
ることができ、神戸や阪神間の文化を知
な力があった。神戸市立図書館で閲覧す
も多く、戦前までは大衆紙として圧倒的
も大きな影響力を持っていました。部数
報という地方紙があって、神戸や西宮に
ぽう
と毎日新聞の競争とは別に、神戸又 新日
サービスを阪急沿線で実現することを開
会と言われています。神戸の新開地には
甲陽園には映画の撮影所もあり
一九五七年)は、大阪市 内と同じような
発のうたい文句にしているのです。
映画館が多くありました。
山本
が厳しかったのですが、尼崎や神戸では
規制の対象でした。大阪では取り締まり
争中は、風紀を乱すというのでカフェは
関西はカフェ文化も豊かです。特に戦
方を持った新聞として、面白い新聞です。
紙のように大上段に振りかぶる部分と両
又新日報は、今の夕刊紙の要素と、全国
るのに有力な手掛かりとなります。神戸
■阪神間モダニズム
香野蔵治と櫨山慶次郎という、大阪の商
香櫨園には遊園地もありました。
人がつくったもので、敷地約八万坪の大
比較的に緩やかでした。すると大阪の人
津 金澤
(次号に続く)
規模なものでした。当時まだ珍しかった
達し、工場労働者が阪神間に大量に流れ
行ったらしいのです。新開地文 化は、阪
が 尼 崎 や 新 開 地 の カ フェ ま で 出 か け て
の苦 楽園には、大隈 重信が「東 洋一のラ
込んでくると、彼らを対象にして新聞が
■地域密着型の神戸又新日報
神間に大きな影響力を持っていたのです。
音楽堂もあって、ハイカラな西洋音楽が
苦楽園は阪神沿線唯一の避寒地とオー
演奏されました。
力車やバスが出ていたようです。三条実
バーに喧伝され、阪神香枦園の駅から人
ジウム温泉」と言った苦楽園温泉がつく
つくられるようになりました。朝日新聞
大阪や神戸が工業地帯として発
られ、関西財界人の評判となりました。
美から賜った瓢の名に由来するというこ
こ う し て、 や が て こ の 周 辺 は 別 荘 地 に
—7—
連
載
回
『エセー』全体において彼が語っているのは
ていたのか、それとも上下をつけていたのか。
関係をどのように考えていたのか。同列におい
モンテーニュは感覚的快楽と精神的快楽との
であり、そこに自分を見失わさせるためではな
に深入りさせるためではなく、楽しませるため
かないで、精神もそこに仲間入りさせる。そこ
は、私はそれを感覚にばかり一人占めさせてお
感覚は精神に快楽を分け与えてやる、快楽を
く、自分を見いださせるためである」(原二郎訳)
知ることによって精神は本来の自分を取り戻
主として感覚的快楽についてだ。そもそも「精
す、というふうに読めるではないか。
神」という言葉のあとにくる言葉はモンテー
ニュにおいてマイナス・イメージを帯びること
た精神的な快楽の方が肉体的な快楽よりも大き
けれども、精神的な快楽が存在すること、ま
る 箇 所 も あ る。 彼 に と っ て 自 然 と は「 や さ し
したがって必要で正当な」とわざわざ補ってい
加えていることに注意すべきだろう。「自然の、
を説くとき、常に「自然の」という言葉を付け
ただモンテーニュが感覚的快楽、肉体的快楽
が多い。「精神の苦痛」、「精神の拘束」といっ
いと考えるソクラテスのような人がいることも
く、公正な案内人」なのだ。精神にたいする警
た具合だ。
念頭においている。しかし彼自身は、慎重な言
戒もそこから理解されうる。なぜなら、肉体に
そ し て 私 は こ う も 考 え る。 モ ン テ ー ニ ュ に
追いやられているのだから。
くらべて精神は、往々にして、自然から遠くに
い回しにもかかわらず、感覚的快楽の方に引き
これは弱さの告白だろうか。いや、弱さの告
ずられていることを認めるのだ。
白と見せつつも、実はそこにそっと価値観を忍
び 込 ま せ る の が、 も の 書 き と し て の モ ン テ ー
黒い文字を書きつけることによって白い紙を作
かったか、と。白い紙の上にペンを走らせる、
と っ て は、 書 く こ と さ え も 感 覚 的 快 楽 で は な
さらに次のような文章もある。
ニュの戦略ではなかろうか。
「何か私をくすぐるような快楽があるときに
—8—
エピクロスの園
第
海老坂武
4
Le Jardin d'Épicure
に生きよう」と決意し、「われわれの目指す最
いうのも、「わずかばかりの余命を自分のため
能的な行為としてあったのではないか、と。と
品に変えていわば所有する、それはすぐれて官
を借りよう。
ポール・ニザン『古代の唯物論者たち』に助け
いるのはわずかな断片にすぎないので、ここは
ピクロスの著書の大半は失われていて、残って
説明をするのはヤボというものだ。しかし、エ
エピクロスはいかなる時代に出現したか。ニ
後の目的は快楽なのだ」と考えたモンテーニュ
し、失業が慢性化し、移民が増え、その移民た
蓄積されていくが全体としては貧困化が進行
ザンは言う。それはアテナイの良き時代の価値
が、晩年になしたことは、結局のところ、あの
エピクロスに戻って言うなら、彼もまた肉体
ちがまた傭兵の群に身を投じていく時代であっ
厖大な『エセー』を書き、何度も書き直すこと
を重視した。それは彼が「この世」を重視する
た、 と。 エ ピ ク ロ ス が 生 き た 世 界 は、「 流 血 と
観が崩壊していく時代、経済的富が一方の極に
現 世 主 義 者 だ っ た か ら だ。 精 神 を 信 ず る 者 は
放火と殺戮と掠奪」の世界であった、と。
だったのだから。
「あの世」という逃げ道があるが、エピクロス、
渇き、叫んでいる大衆に語りかけた。現代の用
そういう時代にエピクロスは、肉体が飢え、
この唯物論者にとって世界は死滅すべきもので
語で言うなら「プレカリアート」に、というこ
あり、人間は死すべきものである。「すべての
善の元であり根であるのは胃袋の快楽である」
とになろうか。そして彼は社会からの「離脱」
を 説 く の だ。 自 分 自 身 の 自 然 の 欲 望 に 帰 れ、
という彼の有名な一句は、こうした現世主義的
モンテーニュもエピクロスも、現代のおかし
と。 そ れ を「 自 己 中 」 の す す め、 と 聞 い て も、
倫理を端的に示している。
な用語を使うなら、「自己中」であった。二人
(えびさか・たけし)
あながち間違いとは言えぬだろう。
の思想は「自己中」の徹底化である。モンテー
ニュはそのことを深く自覚していたから、その
—9—
回
連 載
第
ドイツ庭ものがたり
ジャガイモの風景
田村和彦
るポーランドの平原は、ドイツ名でダンチヒと呼ばれていたグ
ダニスクの西に広がるひとつながりの開墾地である。十九世紀
の 終 わ り の 年、 ヨ ー ロ ッ パ の 奥 ま っ た 農 村 地 帯 に も 工 業 化 が
迫っているのだが、印象的なのは遠くに煙をあげる煉瓦工場と
森と電信柱が点在するばかりで、あとは地平まで土がうねうね
と 続 く ジ ャ ガ イ モ 畑 の 風 景 で あ る。 小 説 を 原 作 と し た フ ォ ル
カー・シュレンドルフ監督の映画(一九七九年)の冒頭でも、こ
の寒々とした風景のショットが長く続く。収穫が終えられ、畝
のほか身を隠すところがない広大な畑の中で、逃げまどうよそ
者は仕方なく農婦のスカートの奥に庇護を求めたのである。似
つかわしくも「ジャガイモ色の」スカートを何枚も重ね着して、
畑に根を張ったようにしゃがみこむアンナは、大地母神デメー
テルを思わせる。もっともデメーテルが小麦をはじめとする穀
物の豊穣をつかさどる女神だったとすれば、アンナは地中に育
胎から、二つの世界大戦を含む動乱の半世紀を扱った壮大な物
つ塊茎の申し子である。大地とつながったスカートの奥の懐/
語が始まる。ヨーロッパの深くにまで広まったジャガイモはこ
今では世界中に広がり、重要な食料ともなっているこの作物
はポーランドの田舎の畑地から始まる。のちの主人公オスカル
が、南米アンデス原産で、ヨーロッパに伝えられたのはコロン
こで、ひとつの神話的風景を作り出すに至った。
犯 が 逃 げ て き て、 彼 女 の 巨 大 な ス カ ー ト の 中 に 隠 れ て 難 を 逃
ブスの西インド発見後、十六世紀になってからであるのはよく
の祖母となるアンナが、収穫したジャガイモをたき火で焼いて
れ、おそらくその場でオスカルの母の「種が仕こまれ」る。騒
枝に刺して食べているところに、警官に追われたよそ者の放火
ギ ュ ン タ ー・ グ ラ ス の 小 説『 ブ リ キ の 太 鼓 』( 一 九 五 九 年 )
Clusius の植物誌(17 世紀)より
がしく猥雑なピカレスク・ロマンの幕あきだ。最初の舞台とな
— 10 —
4
している作物であり、農家といわず、広めの家庭菜園があれば
らドイツでもジャガイモは好んで栽培され、食生活に深く浸透
もこの農作物をことさらなじみ深いものにしている。当然なが
しやすさと、作付け面積あたりの収量の多さから由来する安価
らず、これほど民衆的で親近感のわく作物もまたない。栽培の
また目立たず飾り気なく不ぞろいで無骨な見てくれにもかかわ
響をおよぼした植物はあるまい。その影響力にもかかわらず、
の中でもジャガイモほど近代ヨーロッパの食糧事情に甚大な影
バコなどがあるが、これらいずれも「聖書に載っていない」植物
プリカ、トウモロコシ、インゲン豆、カボチャ、トウガラシ、タ
に伝わった有用植物としては、ジャガイモのほかにトマト、パ
知られるところだろう。大航海時代以降中南米からヨーロッパ
ティエがプロイセンの例を学んでルイ十六世下で食糧飢饉を緩
く。フランスでも七年戦争に従軍して捕虜となったシャルパン
れ た プ ロ イ セ ン 領 に 定 着 し、 さ ら に 国 境 を 越 え て 広 ま っ て い
は寒冷で痩せた荒地が多かったためにしばしば食糧難に悩まさ
の高さや耐寒性、栄養価が遍く知られるようになり、その栽培
争に明け暮れたこの啓蒙君主のおかげで、ジャガイモの生産性
植え付けることを強制し、結果的に国民を飢えから救った。戦
ガイモ令」を発布して耕作地の一〇パーセントにこの新作物を
農民に対し、王は一七五六年、七年戦争の開始にあたり「ジャ
な作物という偏見からジャガイモを受け入れようとしなかった
なんといってもプロイセンのフリードリヒ大王であろう。劣等
でジャガイモが普及するにあたって多大な貢献をした筆頭は、
そうした状況を変えたのがあいつぐ飢饉と戦争である。ドイツ
料に利用されるだけの「下等な」食物の地位に甘んじていた。
しい)。もっぱら塊茎を食べることが知られるようになってか
かった(それは、枝葉や花実の部分を食べたためでもあったら
珍重されていたが、毒があるとされて食物としては顧みられな
るための抑止策だとするマルサスらの人口論からすれば、自然
ば、ある国には適正な人口があり、飢えや戦争はそれを維持す
て も ま だ 完 全 に 偏 見 か ら 脱 し た と い う わ け で は な い。 た と え
食物にまで成長した「貧者のパン」であるが、その功績によっ
る食糧として普及し、ついで産業革命と人口増を支える国民的
こうして十八世紀から十九世紀にかけて、まず飢饉を救済す
和する食物としてこれを奨励する。
あまね
ところがこれほど人口に膾炙した作物が、ヨーロッパでは移
これを植えて一家の消費分くらいは賄うのがごく普通である。
め
入後も長い間「卑しい根」として蔑まれていたことをご存知だ
らも、暗い地面の中で次々に子を増やし、身を太らせるこの異
ろうか。このナス科の植物は当初は花を愛でる園芸植物として
国生まれの植物は、その性情ゆえに貧民の救荒作物か家畜の飼
— 11 —
かけて、単作に頼っていたジャガイモが疫病のために壊滅的な
た。少なくともアイルランドの場合、一八四五年から四九年に
スのような経済学者もいたが、こうした見解は少数意見であっ
産性と栄養分に優れた食糧としての価値を認めたアダム・スミ
とはない」と述べる。もちろん、一方にはジャガイモの高い生
が存続する限り、怠惰で放埓な彼らの生活習慣が矯正されるこ
需要を超えて増え続けることが可能であり、そうしたシステム
システムのもとでは、下層アイルランド人の人口は通常の労働
えるが、マルサスはこの状態を憂いて「ジャガイモのもたらす
ばから十九世紀なかばまでに三百万人から八百万人に人口が増
にジャガイモ栽培が定着したアイルランドでは、十八世紀なか
以上の増殖を招きかねない危険な食糧だった。すでに十七世紀
モは、食欲と性欲を充足することで人間(特に下層民)の必要
が設けたこの制約を取りはらって人口増を可能にするジャガイ
せる原因となるものであり、またそれを象徴するのである。
にいえば、ジャガイモは人間を自然状態に退行もしくは隷属さ
ちが、魔法の酒を飲んで豚に変えられてしまったように。端的
ちょうど魔女キルケーにたぶらかされたオデュセウスの部下た
て 野 生 に 引 き 戻 さ れ、 動 物 に 近 く な る 不 安 を 抱 か せ る の だ。
にとって、「卑しい根」が可能にする人口増は、人間が食物によっ
とになる。文化的階梯が低いばかりではない。反ジャガイモ派
純さはこの作物がいかに「文化」から遠い位置にあるかを示すこ
の手による加工が文化の証しであるとすれば、ジャガイモの単
に加工されるのと比べて、きわめて単純である。しかし、人間
り、脱穀、製粉、発酵、パン焼きという一連の過程を経て食物
えさえすればよい。それはたとえば小麦が、種蒔きから刈り取
べるにもまるで手がかからず、煮るか焼くか、ともかく熱を加
を栽培する畑がレイジー・ベッド(ものぐさ畑)と呼ばれた。食
さほど手入れを必要としない。前述のアイルランドでは、それ
治家、政治経済学者たちをも巻きこんだ論争の中で、一貫して
れて以降も、農学者や医者ばかりでなく、ジャーナリストや政
興味深いのは、農作物としてのジャガイモの有用性が認知さ
『ジャガイモのきた道』は、西欧から始まった穀物中心の農業
求める中尾佐助氏の『栽培植物と農耕の起源』と山本紀夫氏の
に根強い穀物信仰がある(バナナやイモの栽培に農業の起源を
考えのもとには、小麦とパンを農耕文化の頂点とみなす、西欧
作物とし、根菜作物を「非文化的」で未発達なものとするこの
ひとことだけ異議を唱えれば、穀物を「文化的」で高度な農
打 撃 を 受 け て 人 口 の 八 分 の 一、百 万 人 以 上 を 失 っ た 大 飢 饉 は、
ジャガイモは「単純な」作物であることが強調されていること
ジャガイモ擁護派にとって不利な材料となった。
である。苗床に穴を掘って種イモを埋めれば、植えっぱなしで
— 12 —
近い地下的な特性を生かして、土に埋もれ、畝や穴に隠れ、目
が作物として浸透するのをやめたわけではない。それは地面に
かわらず優位に置かれ続けたからといって、その後ジャガイモ
起源論に対する筋の通った反論である)。さらに、穀物があい
ジャガイモ畑に姿を変えたそうだ。
戦後の一時期は樹木がすっかり切り払われて食糧確保のために
ルリンの中心にある広大な森林公園ティアガルテンも第二次大
ド・スープは伯爵の発明である。あまり知られていないが、ベ
が あ っ た。 慈 善 食 と し て 名 高 い ジ ャ ガ イ モ 入 り の ラ ン フ ォ ー
的なカルトッフェル/テュッフェルは導入当初に塊根がキノコ
ドイツには百に余るジャガイモの別称がある。もっとも一般
立たぬままにあちらの庭、こちらの農地へとそのテリトリーを
り、都市の真ん中でも空
エ ル ト ブ ロ ー ト
(トリュフ)に似ているために命名されたイタリア語からきて
エ ル ト ビ ル ネ
き地さえあれば短期のゲ
ム
エ ル ト ア プ フ エ ル
い る と し て、「 地 中 の リ ン ゴ 」「 地 中 の 梨 」「 地 面 の パ ン 」
ル
リラ的な食糧生産を可能
ヨーロッパ各国のものを含めれば何百もの異名や方言があるだ
「 こ ぶ 」「 曲 が り ん ぼ 」、 ク ネ ー デ ル、 ポ タ ッ ケ と 変 化 に 富 む。
ろう。お上のジャガイモ論議の風向きにかかわらず、民衆的想
ク
にするのも心強い点であ
の憩いの場であるイギリ
像力は異国生まれのこの作物を各地でとっくに手なづけてし
クノレ
る。今はミュンヘン市民
ス庭園ももとは練兵場
まったようだ。
兵士たちの訓練を任され
る。同時にそれは、戦乱に踏み荒らされても地中に潜んで生き
されたポーランドの飢饉と戦争と占領の記憶が影を落としてい
十八世紀から二十世紀にかけて戦争が起こるたびに国土を蹂躙
最初にあげた『ブリキの太鼓』のジャガイモ畑の風景には、
で、
その一角には一七九〇
た英国人士官ベンジャミ
年代にバイエルン王国で
ン・トンプソン(のちに
伸びる、たくましく多産で放埓な、民衆的「根っこ」の生のあ
たむら・かずひこ)
ランフォード伯爵とな
(関西学院大学
りようも写しとっている。
る)が食糧自給のために
開墾させたジャガイモ畑
— 13 —
広 げ て い く。 い ざ 食 糧 難 に 陥 っ た 時 に 飛 び 入 り の 助 っ 人 と な
フリードリヒ大王によるジャガイモ畑の視察
R. ヴァルトミュラー(1886)
自
著
を
語
る
人間 の傲慢 と
自然 の復讐
なか の ひでいちろう
中野秀一郎
も う 一 点、「 医 療 」 と し て は 見 逃 せ な
いと思ったことは、人間存在の自己矛盾
である。周知の通り、医療や災害の現場
では、一つの生命を救うために必死の努
力をする人間が、紛争・戦争やテロの現
場では、最高の科学・技術で作られた兵
器で、大量の生命を一瞬にして奪うこと
よ う な 気 が す る が、 こ れ は 人 間 の「 自
せて、人間存在の自己矛盾も見逃せない
経過をたどったのではないか。それと併
近代科学・技術は、医療も含めて、この
「 陥 穽 」 に 落 ち 込 む こ と も 少 な く な い。
じやり方を繰り返して、最後には大きな
だから、右肩上がりで成功が続くと、同
が、 成 功 か ら 学 ぶ こ と は 苦 手 な よ う だ。
人 間 は、 失 敗 か ら 多 く の こ と を 学 ぶ
ない、既存の抗生物質は効かない。拙著
異して人間に復讐を始めた。ワクチンが
思った瞬間、細菌やウイルスは急激に変
て見事に感染性の病気を押さえつけたと
人間が、抗生物質を発見し、これを使っ
新 型 イ ン フ ル エ ン ザ・ ウ イ ル ス で あ る。
それが、豚インフルエンザから変異した
な し 」 と 考 え て い た 常 識 が 覆 り そ う だ。
「 食 物 連 鎖 の 頂 点 」 に 立 つ 人 間 に「 敵 は
予 知 し て、 最 高 度 の 警 告 を 出 し て い る。
う。すでに、WHOは、世界的な流行を
考えていきたいと思っている。
にあるから、これから先も読者とともに
は、難しい問題である。素材は山のよう
だろう。医療社会学をどこまで広げるか
識もある。グローバル化への配慮も必要
てはいる。が、根底にはこうした問題意
から、それなりに現代の医療問題も論じ
「政治の問題」だと。
覚 し て い た か ら だ ろ う。 し ょ せ ん は、
この問題に対する自己の「無力さ」を自
が、 こ の 現 実 に 目 を つ む っ て き た の は、
にいささかも躊躇することはない。医療
然」か。
の原稿を読んで、この点が興味深いと指
関西学院大学名誉教授
今、人類は、現実問題として、大きな
摘したひとがいた。
本書は、もともとテキストを意図した
危機に直面している。新型インフルエン
かん せい
ザがこの冬大流行するかもしれないとい
— 14 —
四六判 並製 222 頁
定価 1785 円 (税込)
岡本卓也[著] 5上製
一八〇頁
『集団間関係の測定に関する
社会心理学的研究』
一八〇頁
【近刊】 タイトルは仮題
齋藤由里恵[著] 5上製
▼営業部だより▲
一八九〇円
『自治体間格差の経済分析』
『輝く自由』
関西学院の教育的使命
5並製
山内一郎[著]
三四八頁 『〈生きる方法〉の民俗誌』
三二四頁
朝鮮系住民集住地域の民俗学的研究
5上製
編・集・後・記
阪急電車の神戸線に乗るときは、アルピニストだった藤木久三に
倣って六甲山が見える側に座るか立つかするようにしている。登山
家でなくとも、緑の斜面を車窓から間近に仰ぎ、電車の移動につれ
て動く山の稜線をたどって緑の中に目を泳がせて飽きない。藤木が
登ったころの六甲には、今のように山麓をうめてあふれだし、急峻
な斜面まで這いあがる住宅やマンションの叢生はなかっただろう
が、山と一体化した住まいの奇観を観察するのも楽しい。それにし
て も 阪 神、 J R、 阪 急 と 三 つ の 鉄 道 の 車 窓 か ら、 ほ ぼ 同 じ 区 間 で
遠・中・近と異なる六甲山のパノラマを見ることができるのは、阪
神間に暮らす者の稀有な贅沢だろ
— 15 —
島村恭則[著] う。京都や奈良の山に比べればそれ
ほど深くなく、新緑時も紅葉の時も
派手な装いは見せないものの、都市
〈非売品・ご自由にお持ち下さい〉
【十一・十二月の新刊】
『ITマネジメント』
一八八頁
生活の借景としてこの山は聳えてい
る。それが西宮を過ぎるころは書き
割りのようにすっかり取り払われて
見 え な く な っ て し ま う の も、 実 に
あっさりした味わいだ。(和)
〒 662 — 0891
兵庫県西宮市上ケ原一番町 1—155
TEL 0798—53—7002
FAX 0798—53—9592
http://www.kwansei.ac.jp/press/
[email protected]
『 改訂新版 関西学院初等部の
めざすもの』
八九三円
5並製
モデリングと情報処理によるビジネス革新
杉浦司[著] 【好評既刊】
一九九五円
関西学院大学出版会
見えないものに心を傾け、夢を育む学校
磯貝曉成[著]
5並製
一〇六頁 『言語と「期待」』
二五二頁 二三一〇円
意味と他者をめぐる哲学講義
5並製
重松健人[著]
『 明日に希望のもてる医療はあるか』
一四二頁 『子どもに教える大人が初歩から学ぶ英語』
前田浩美・長尾真理[著]
並製
新・医療社会学入門
B
音声CD付
二二二頁 一七八五円
本誌一四頁をご覧下さい)
中野秀一郎[著]
四六並製
(内容紹介
5
※価格はすべて税込表示です。
コトワリ No.21 2009 年 12 月発行
A
A
A
A
A
A
A
【遊びと気懸り】
重松健人
遊びとはそもそも、不真面目であるべ
きものだ。不真面目さを頭ごなしに責め
るのも堅物だが、さりとて真面目に遊ぶ
付きまとっていては、遊ぶ心も定まらな
懸り、病める者や貧しき者への気懸りが
らの解放によることだろう。生活への気
れる。遊びが遊びとなるのは、気懸りか
のだ。
なせる業である。寅の恋は遊びではない
食を忘れるほどまでに真面目な気懸りの
も、一目惚れした女性の力になろうと寝
なり成就する。寅次郎の度重なる恋愛譚
に懸るときだ。フランスの哲学者レヴィ
遊びが遊びでなくなるのは、何かが気
い。逆に何かが気に懸るとき、心がざわ
め く と き、 ひ と は 真 面 目 に 何 か を 始 め
る。
ナ ス は inquiétude
という言葉でこの気
懸りについて語っている。それは不安で
は 妹 の 見 合 い の 席 で、 妹 の 名「 櫻 」 を
む 隙 間 が な い。「 ほ ん の 遊 び の つ も り
れた仲間との気安さには、それが入り込
持ちの動きのことだ。独り身や気心の知
映画『男はつらいよ』第一作、寅次郎
ことを奨励するのも、逆に奇妙な勤勉ぶ
「二貝の女は木にかかる」と解いてみせ
だった」と語る者は、傷つく者への気懸
— 16 —
あり、平静を欠いたさまだ。ただし自己
への不安ではなく、他者へと向かう気懸
り で あ る。「 気 配 り 」 の よ う な 立 派 な 心
り に 見 え る。「 も っ と 遊 ん で も い い 」 と
る。酔っ払って調子に乗った寅次郎が原
持ち以前の、他者へと向かうふとした気
いう気安さこそ、不真面目と言われよう
のは、そうした他者への気懸りを生きる
りを知らないのだ。ひとが真面目になる
遊びは気心の知れた仲間を求める。一
の は、 実 は 隣 の 印 刷 工 場 に 働 く 博 だ っ
ときなのであろう。
因でさくらの見合いは敢え無く破談に終
人 で 遊 ぶ の に は、 独 り 身 の 気 安 さ が あ
た。「 と ら や 」 の 二 階 と 印 刷 工 場、 近 く
(関
西学院大学非常勤講師
わるのだが、二階の女を気に懸けていた
る。誰かのためを思ったり、気を配った
て遠い隔たりが、とはいえ真面目な恋と
しげまつ・たけひと)
りする必要がないからこそ、遊んでいら
が遊び心というものだろう。
連載 21
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