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蝉笹、熊倉山
の山 外にもいくつか存在した事を予 想させる。 板碑とは、供養塔等として使 歩いて来た。 山・山岳は、登山という冒険 行為や、或いは体育・スポーツ う云われた。杣仕事に鍛えられ の古老から、帰りに秩父弁でそ 話を聞かせて貰った寺沢集落 っけ、その頃また来てくんな」 「もうじき、新蕎麦食べれる 以降なので、ではいつ頃から地 が日本に伝わったのは鎌倉時代 目山」とされている。天目茶碗 は「酉谷山」と云われる山が「天 ツドッケ」と云われる山、また いう天目山。登山地図では「三 として転用される事も多くなっ で作られたものも廃棄や建築材 れらの板碑建立は廃れ、それま ことがある。戦国時代以降、こ れた為、青石塔婆とも呼ばれる いい、秩父産の緑泥片岩で作ら は見られるものを武蔵型板碑と 板石塔婆と呼ばれ、関東地方で た、他所に暮らす人達が、登山 ②戦後の登山ブームでやって来 ①山やその麓の地名の表す意味 関わって来た。 に亘り、様々な場面で、人々と 物学、動物学、昆虫学など多岐 の移動の歴史、地学、鉱物、植 なく、山と関わりある生活や人 われる石碑である。 板石卒塔婆、 的な野外活動という意味だけで 年以上前のことで という観点から命名した山名と、 た声。もう た。 天目山を見ることが出来るの により多様さが見られ、過去の 板碑は建立される地方や時期 どが、私と先輩の研究課題だっ 地元住民の旧来の呼称の相違な ある。 「三ッドッケ」「酉谷山」「黒 た。 晩夏の陽射しが残る山里で、 地方を結ぶ交易ルートを探る材 料として、その道の学問を志す か?? 陸地測量部の命名と、奥多摩 「安谷川」「川浦谷」「大平 その思い込めて、聞き取り調査 側の人々の昔からの呼び名、更 山」「天目山」「大黒」「蝉山」 ってたな・・」 「子供の頃、地元じゃ蝉山と言 人々にとり、貴重な資料となっ に秩父側の人々の旧来からの呼 それらの地名が囲む一帯は、 を行った。 称等、この山域のいくつかのピ 東京農大出身の元沢ヤの先輩 古老の証言の対象とするとこ 古文献等を紐解いていくと、以 ろは、たぶん熊倉山付近のこと ークの呼び名は、何故か未だ落 気取りで想像を巡らせながら、 である。 と二人で、アマチュア民俗学者 天目茶碗を逆さにしたような、 捉え方をされていた。山越えの 長沢背稜から大黒、小黒と越え 山の形状からその名がついたと 交易ルートが、「浅間みち」以 前から一帯というニュアンスの ているという。 ドッケ」「大黒」「天目山稜」 20 ち着かない。 うか? だいたいこの山里から、 元ではそう呼ばれていたのだろ 町D 蝉笹・ 熊倉山 50 要・・。豊かな林相を持つ尾根 いう物を、多くの人々が知る事 過が必要だったのだろうか? で、どこからは民俗に対する想 の確保のファクターを、読図の 狭い地域内で自給自足的な生 たぶんと書いたのは、現在は、 地元に暮らす方達から、且つ 条件の一つにすれば、今まで見 活をし、生業の成立も得られた になるには、いか程の月日の経 熊倉山と呼ぶが、地元で話を聞 ての記憶の断片を聞き取り、資 えなかったものが見えてくるか 時代と、他の地方との交流否、 と、運び易い、加工し易い場所 くと、蝉笹だけでなく、檜岳(ヒ 料に見つけた片言を、如何に組 ら不思議だ。 像の蓋然性でしかないのか? ノキダッカ)辺りまでが、蝉山 み立てるのか、組み立てられる 熊倉山の看板があるピークを、 という山体だったのかもという 交易に活路を見出し始めた山里 で、地域が壊滅しない限り、時 製材作業を全て人力で行ってい 蓋然性・・何を追及したとし 平地の製材所に運ぶより、加工 代を作っている時間は、限りな のか? 登山という目で見れば、ピー ても、見えて来た風景が現実の 後のものを運搬する方が余程理 感想を持った。 クのひとつひとつに、山名があ ものか否かの、可能性の高まり た当時、 わざわざ丸太の状態で、 の時代。大災害や大きな戦争等 ることに違和感はない。しかし 推移してきたはずである。また い連続性を持ち、且つ少しずつ 宋屋敷の主は、なぜ?何の目 大胆に変化した事があれば、そ に適っていたはず。 査を行い話してもらう内容から、 ない。過ぎてしまった時間の記 的で? そこに居たのか? だ を確認する術は殆ど残されてい 憶を、いつでも再現出来る程、 の痕跡は多くの歴史的資料に残 山里で、様々な方に聞き取り調 山麓の地元では、山の頂を連ね いたい宋屋敷の主は誰だったの ョンルートを歩きながらの、如 域で、ちょっとしたバリエーシ 奥秩父と奥武蔵の境を成す山 有った。 先輩と私の拠所は常にそこに されているはずである。 人の寿命は長くない。 潰えてしまった過去の記憶は、 か? 宋屋敷と呼ばれていたの た纏り感ある一帯を〇〇山と言 っている事も多い。因みに「せ 無かった事と同然ではないはず。 は、山中の建物なのか? 我々 板碑は戦国時代には廃れてい ことが出来ないでいた。 は、どうしても手掛かりを掴む み」とは、両側が切り立った狭 木を扱うことを生業とする たい。 で、より今を充実させる糧にし く細長い地形を指す場合もある。 そう思えばこそ、過去を知る事 さて「宋屋敷尾根」のこと。 秩父丹党、木地師、サンカ(山 加工する場所の確保、或いは平 本に伝わったが、当時、他の地 天目茶碗は鎌倉時代以降、日 う姿こそ、我々には相応しいの を求め、夕暮れ近い山里をさ迷 勢ではあるので、見えない答え 何にもついでの様な緩い研究姿 頭の中に、下調べをした言葉が 地に近い箇所まで、加工品を背 方の人々と交流し、天目茶碗と 禍) 山の民 朽ちた炭焼の石積、 人々が、 そこにいたと考えれば、 った。 廻っているが、どこまでが史実 負い下すルートの確保が必 が憧れを持ち書かれていた。い 山岳雑誌「岳人」のT編集長 もいた。 た熊倉山自体初めてのメンバー 敷尾根は初めてとのことだ。ま 今回、私以外の3名は、宋屋 ではあるが。 雪期にはそれなのに注意は必要 露岩や岩場の多い山なので、積 かもしれない。 にしえの知知父の地に存在して アカヤシオが咲く5月上旬、 何十回となく、この山を登っ 期日 8月6日 いたという「童壇」という群族 或いは樹々が色づく10月中旬 安谷川林道の支線分岐に車を ている私などは、夏の姿も、ま 町D、H高、K藤、樋W とても暑い土曜日 の里。その証に、いつかきっと メンバー の山を歩くことに、みなさん多 からが、この山のベストシーズ 蝉山、宋屋敷について、答え 少の躊躇いはあったと思う。会 出逢えることを私達は夢見てい と云える手応えが得られていな で取り組んでいる50の山を、 ンと云われる。真夏にあの標高 い私が書く文章は、思考の混乱 進捗させる意味もあり、この季 たのかもしれない。 を顕現する様な、纏りのない代 節の計画となってしまったが、 いいシーズンにここを歩かせて 置き、8月上旬の暑い日に、宋 たこの山の季節の移ろいのひと 上げたかったかな・・ 屋敷尾根~蝉笹~熊倉山~日野 つと考えているから、全く抵抗 因みに熊倉山・蝉笹辺りを歩 コース(寺沢コース)と周回を 50の山の正式な報告は、H くベストシーズン、私は積雪期 感が感じないのだが。 高さんが書いてくれるとのこと だと思う。膝上くらい積もった ら、ぜひ登ってみて貰いたい。 なので任せるとする。 して来た。 さて、話を今に戻そう。 物だと反省をするのみである。 L