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I;ÒZè"4¦Þ!+¤gkyÊá î0£Jè¤Ë"|[©Cî After Action Report on the 1930 North Izu Earthquake in the former Kami-Kano Village î Information arrangement and analysis of "Earthquake Diary in Tsukigase District" î 田中傑 ȧ˟;1930Ɵ11ȟ9ʹʪ'.ûªͰľϕ:ϋ9ȒʠέȪȟ~ʌü:ξ¿̟ɛ'.tuOF69ĝüH> ĝȪOE!KʎűŸǀ:ɶLOüÛȪÛ5:ɴõ Ÿőʽ8ɴõ őΤI:Ǿǹ9Ŕç'4ȅʦ̞ Ŷ'1)üʡ̫9̈́ű:ÌͥȷO',:ƶ,:ǀǃÃ̑6Ȫ:ǧˑ9F63 Ǻűϣ:͊ˡJOΘE.$ 62) Ìͥȷ˅9ňĤ%LΨ̂ĩ:áήĩˁ:ɦŭ9ďȗ%L.ḝDŽˣ.$63) ¥I̫ ó×ó:ϟáƢ ,LIÕó:ƄμOÀ'4.$687OȕI9'. -2/2.: ûªͰľϕʎűŸǀ͔ε̫ó̫ɫȁǹʎűĖ Keywords: 1930 North Izu Earthquake, after action report, self-help, self-governance, disaster relief, disaster history ðï´¸"ð¯ ì'ÛųOȅʦ)K$65̫ó×óÕó: ´¸"ð¯ ΗǻŮnjOȕI9' ȑ?:Ȃ͓OǠß)@ π˕ɺͼŔϕʎ¥σ̽ȀɎξ9HKåõŸ ǀ:τʳO͇ū)K̫ó×ó9F63 ľń ˍˢOŮȎ'. I;ÒZè!â+³"§"Ah (1 ρʎñ:ġɤEIL4K ʎűŸǀ;2 ûªͰľϕ;1930Ɵ11ȟ26ȑāî4ț2áϛʭȌ 4̫ó×ó51.6%LK,:̫ó ΣȒûʠέȪɷɍ:ûȌOϕʆ6'4ʹʪ'. 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た堀内圭造、月出房穂、堀内仁三、小森弘、内田利 る。 祐の5人が担当)され、また村長が牧野侍従へ状況報 29日、「急設村会議員区長会」が同村役場に召集 告をする前に各区長から聞き取り調査をおこなった。 され、村救護本部、村役場臨時出張所、村消防本部、 30日には村長、助役、村書記、各区長、団体が出 村在郷軍人会本部、村青年団本部、月ヶ瀬消防警備 席し、「家屋ノ被害調査」が実施された。家屋の調 本部の月ヶ瀬区・内田利祐方への設置を決定した。 査が土地の調査よりも後に実施された点は、同区に これは前日の村長通達による救護本部設置を追認し、 おいて用水崩潰など地盤災害の方が家屋被害に比べ 同時に各団体を連携させるため中枢機能の集約を企 て深刻であった(同区では全壊世帯は8/85戸、表-6 図したものと推察される。 参照)ためと考えられる。 12月2日は早朝から用水委員その他役員全員が上 12月1日、同村を賀茂郡連合奉仕団の代表者が慰問 し、同村が同奉仕団による作業奉仕を3日間受け入れ、 用水の応急開通工事のための実地調査をおこない、 同奉仕団を月ヶ瀬警備(ママ)団の従事する用水開 堀内庄平と内田利祐を主任者として家屋その他個人 通工事に加勢させること、彼らの具体的な作業計画 別(戸別の意味か)の損害額や山林被害を調査した は翌日の実地調査により決定されることとなった が、正午までに第一回の調査を実施し、各区長と内 (5.1も参照)。 田半平(校医)、そして堀江千代松が何らかの関与 翌2日夕方6時には区長と役員による協議会が開か (二字又は三字判読不明)をした上で第二回の調査 れ、上用水仮開通工事の担当主任が決定(翌日着工) を実施し、損害価格調査を完了した。 した。協議会の出席者は区長、堀内庄平、堀内仁三、 3日午後0時55分、同区は村長に対して「震災応急 内田二作、上田正作、内田友作、内田平七、内田哲 復興低利資金所要額調査書」を提出した。これは恐 雄、内田利祐、小森弘、堀井年雄、梅原清丸、堀江 らく前日に完了した損害価格調査結果にもとづく書 友吉であった(このうち堀井、梅原、堀江の3名は「月 類であり、5日に村長が応急・復旧資金の必要額を調 ヶ瀬区幹部員名簿(表-8)」に名前がない)。 査するように指示した(3.1参照)のはこの書類が4 5日正午には前日、県庁へ出張した村長が村会議員 日の村長の出張時に県庁へ提出されたためかも知れ と各区長の参加した協議会において応急資金と復旧 ない。また、同日午後1時15分、村役場に対して土地・ 資金の必要額を調査すること、義捐金を受領したこ 建物の被害個所・面積の調査結果が提出された。同 と、救護本部を閉鎖することなどを伝達した。 午後3時には前日の「山林亀裂ノ調査ノ結果先以テ心 配ナキ者ト断定」されたが、「但東府屋(32裏ノ事ハ 翌6日は村役場出張所その他が設置された内田利 切落シヲ以テ良策ト認ム」と判断された(33。 祐方の片付けが行われた(平時体制への復帰)。 4日午前8時45分から夕方にかけ、村会議員、区長、 3.2被災状況の調査 11月26日午前11時に月出巌、内田二作、上田正作、 村有志者各区一名(同区からは山本村会議員、堀内 堀内良策、山本達年が用水路を、また内田利祐、月 区長、区会議員堀之内庄平、梅原清作の4名)が矢熊、 出欣吾、堀(之)内庄平、堀内圭造、堀江茂一が家 田沢、月ヶ瀬、吉奈、門野原、市山、長野の順に罹 屋並宅地をそれぞれ「視察」した。 災者を訪問し、被災状況を実地に調査した。 5日には村社聖神社(月ヶ瀬区本郷)の社掌が県に 月出巌は当時幹部長の筆頭(月ヶ瀬区幹部員名簿 (29 (表-8)より)で、過去に郡会議員 と村長(充職 被害報告をしたが、県は村社湯ノ宮神社(吉奈区)・ (30 で郡会議員を兼務 )を歴任した人物である。また 門野原神社(門野原区)に対して同様の報告をする 月出欣吾は会計係、堀江茂一は消防組月ヶ瀬部長を よう通牒した。 務めていた。彼らのおこなった「視察」は後述する この間、11月28日〜12月5日にかけて「静岡県知事 「調査」とは表現が異なる。また、資料には記載さ 官房統計課柴田芳二郎」と「笹野県統計官」が、12 れていないが、この日は県が派遣した「視察飛行機 月3日には「鈴木(県)復興吏員」が出張して来た上、 ガ吉奈ノ棚場ニ不時着」し、「飛行機ノ取片付モ多 12月5日には「佐野県山林課吏員(が)山葵段視察」 5 を実施した。なお、この「佐野県山林課吏員」の調 簿によればそれぞれ吉奈区と矢熊区に多い城所姓と 査については、12月4日午後4時25分時点で「椎茸(、) 堀江姓の人物を派遣したものと考えられる。 山葵ニツキ被害調査」のために出張して来る予定で あった農林省の吏員の代理を勤めたものと見られる。 4.2.国・県への陳情と近隣町村との連携 7日には「用水路調査」と「震災被害調」が実施さ 11月28日正午、村長は天皇が差遣された牧野侍従 れた。これらは応急工事後の本格復旧を見越しての からの災害情況聴取に応じた。これは被災者にとっ 調査であったと考えられる。 ては直接的には精神的不満を解消したのであろうが、 以上のように生活や生産に直接関わる不動産や農 同時に県出張所に対して被害概要を報告したことが、 業施設を調査した後、8日に「里道被害ノ実地調査」 後述(5.2)するように翌々日以降の配給量の調整に が実施された。 つながった可能性も指摘できる。 3.3応急措置および修繕の実施 村長はその後も12月2日午前5時には田方郡町村会 (34 27日に各組 は組合被害者の被害に対して「屋根応 (三島町で開催)に向けて出発し、同会終了後、午 急手当」と「雨垂通路開サク(ママ)」を実施した。 後9時に村臨時出張所に帰着したり、4日午前7時50 29日には野戦重砲兵第二連隊(衛戍地:三島町)か 分には「震災救助ノ件ニツキ」陳情するため県庁へ ら来援した兵士30名が5分して吉奈、門野原、月ヶ瀬、 赴き、同日午後10時に帰村するなど、対外交渉の役 田沢、矢熊へ配置され、月ヶ瀬区では兵士6名と区の を担った。11月30日時点で駿豆鉄道が全線復旧して (35 手配した人夫(30名) とが上用水の崩潰個所の土 い た (37 た め 、 地 震 発 生 当 日 と 異 な り 三 島 以 南 の 砂を除去する作業に従事した。「村道橋梁水路被害 25-6km全てを歩く必要はなかったが、修善寺以南 (36 復旧費調」(作成年不詳) によれば、村内の被害 の夜道6-7kmを50歳前後の人物が歩くのは容易では 額を降順に並べると同列2位に兵士が配置されなか なかっただろう。 った金山区が挙がっており(月ヶ瀬区は第4位)、来 4.3代議士への支援要請 援兵士の配置や後述する賀茂郡連合奉仕団の加勢が 12月3日午後7時、「前村長、内田半平、月出欣吾、 必ずしも被害状況に基づいて決定された訳ではない 山本達年、木口○○(二文字判読不能)、内田利祐」 ことが伺える。 12月3日からは上用水工事に賀茂郡連合奉仕団が たちは、伊豆地方選出の岸衞(38代議士へ支援を求め 加勢し、同日午後「(復旧作業の工区のうち)第三 る電報を打つ準備をはじめた。本資料には岸衞への 区ト第四区ハ本日中ニ貫通ノ予定(との)報告」が 別送書状の控えが記されており、そこには大川美啓、 入った後、「第三区第四区成工貫通(、)第一区第 月出巌、内田半平(40が連署しているため、被害の比 二区(は)半(ば)成工(明日一日ノ予定)」と記 較的小さかった南部(湯ヶ島)在住の「前村長(宇 録されている。4日午前9時には「上用水崩解(ママ) 田銀作(39)」というのは誤りで、正しくは被害の大 ケ所樋用材」が注文され、午後1時には「細クモ貫通」 きかった北部(月ヶ瀬)在住の「元村長(前任の前 したため、即日第五・第六区に着工した。 任)」の月出巌と考えられるが、宇田と月出のいず 月ヶ瀬小学校の被害については、12月3〜4日に久 れが関与したにせよ、村や区の長老達が郡議会など 保田伝之助が門柱を修繕し、5日には校舎・屋根の修 で同時代に一緒に活動した岸を頼ったことが判る。 翌4日午前9時、連絡要員の堀内謙吾が村からもっ 繕に着手した。 5日には「上狩野村救護所本部」の閉鎖と「上狩野 とも近い郵便局である中狩野村の青羽根郵便局まで 村役場」への改称が、大雨の降った6日には「片附」 出向き、電報を打った。同局は土砂崩れのあった中 と「帳簿ノ整理」がそれぞれ行われたが、7日には「区 狩野村梶山の南に位置しており、上狩野村からの道 民一同上用水押込土砂」の除去作業が実施された。 のりには大きな障害はなかったと考えられる。 岸は翌1931年2月3日、永田善三郎(静岡3区選出、 4.対外的な活動 以下同)、佐藤正(東京6区)、最上政三(群馬2区)、 4.1近隣の区との連絡 今堀辰三郎(愛知1区)、櫛部荒熊(静岡2区)、深 11月29日午後3時、城所右之助と堀江喜○(一文字 澤豊太郎(静岡1区)、胎中楠右衛門(神奈川3区)、 判読不能)をそれぞれ吉奈区と矢熊区へ派遣した。 庄司良朗(静岡2区)らとともに「震災被害者に対す これは、月ヶ瀬区や村長のいた田沢区以外での被害 る租税の減免猶予等に関する法律案(政府提出)」 を把握し、今後の対応を検討するために、有権者名 の委員会の委員となったが、震災時の打電が如何な 6 月)七日(の)帰リ予定ニテ(前日の54名が)稲生 る影響を及ぼしたか別途調査する必要があろう。 沢村稲梓村江("の"、の誤りか)器具(を月ヶ瀬区 の現場に、と文脈より解釈)預ケ置」いたまま帰還 5. 外部からの支援 したことを知ると、月ヶ瀬区の不満は爆発した。 「(受 5.1賀茂郡各村連合奉仕団 の消防組・在郷軍人会・青年団から成る連合奉仕団 け入れは)三日間ニテ后ハ絶対辞退」するとの強い 決意のもと、午後1時に安藤消防組頭と石渡村会議員 (以下、奉仕団と略す)の代表者が上狩野村を「慰 が中狩野村に展開していた奉仕団の本部を訪問して 問」し、同村が12月3日・4日・5日の3日間、奉仕団 「月ヶ瀬警防用水細クモ貫通セルニヨリ他ノ被害甚 の奉仕を受け入れることになった。この時点では奉 大ナルケ所ヘ(人員を)差シ廻サレタ」いと撤収時 仕の目的は全く決まっていなかった。 期の確認をしたのである。奉仕団は予定通りで奉仕 地震発生から6日目の12月1日午後1時、賀茂郡各村 を切り上げることに同意した上で「器具ハ七日迄限 その後、村長と罹災区域外(村内南部)の村会議 員とが協議し、奉仕団の労働力を「月ヶ瀬区警備団 リ置」かせて欲しいと返答した。 5日午前7時半には33名(下河津村)が来着し、同 ノ上用水仮開●●(二字抹消)通工事ニ振リ向クル コト」になったため、 「月ヶ瀬区ニ於テハ之ヲ甘諾シ」、 行していた在郷軍人会静岡支部賀茂郡連合分会副会 奉仕団と(月ヶ瀬)区民と消防組とが「共力(協力)」 長で上(ママ、実際には下)河津分会長の高木秀夫 して実施する作業の計画を翌2日の実地調査に基づ (43 いて決めることとなった。 在所に設置)に詰めるため、高木への用件は同仮本 は挨拶ののち、以後は中狩野村の奉仕団仮本部(駐 部へ伝えるよう求めた。 同区が奉仕の受け入れを「甘諾」した会合が散会 したのは1日の午後9時であった。議論がその1点だけ 奉仕団来援の事実は天城湯ヶ島町教育委員会編 に終始したとは思えないが、甘諾という表現には強 (1979)(44にも記載されている(各日の来援者は54 い抵抗感が感じられる。これは後述する食糧・食事 名、54名、32名とされる)が、その必要性の有無、 (41 食事の提供、奉仕期間をめぐるトラブルの発生、奉 の提供を懸念していたためと推察される 。 3日午前8時に奉仕団54名(賀茂郡稲梓村、同稲生 仕団が地元の意向に構わず押し掛けるかの如く来援 沢村)が来着し、ただちに作業を開始し、同区では した様子などが記録されていることは、いずれも興 午後4時に奉仕団へ「夕食ヲ支給スル準備ヲナ」した。 味深い。 54名は北隣の中狩野村梶山で発生した土砂崩れの現 5.2配給品・義捐品・義捐金 場を視察した後、「交替ノ都合ニヨ」って帰郷した。 資料に記された配給品、義捐品、義捐金の品目、 翌4日は50名(賀茂郡竹麻村、同南崎村)が午前7時 35分に来着し、「朝食ノ上作業地ヘ出発」した。 到着日、分量(金額)を表-9にまとめた。同区の人 この2日目の奉仕団は「弁当(昼食用か)ヲ中狩野 口は300人強程度であり、上狩野村全体に届けられた 村被害地救助トシテ出動セル部隊ヘ御落シタ(譲っ 分量が記載されていると考えるのが妥当であろう。 たという趣旨か)」ことを理由に「当本部(村の救護 地震から3日目(11月28日)の20:00に県出張所か 本部)」に対して食事の「一時補給」を願い出た。つ ら白米(20俵)、醤油(10樽)、木炭(10俵)、慰問袋 まり、前日も提供した夕食に加え、昼飯までも受援 (1個)が届けられた。白米20俵は8,000合に相当し、 側が提供することとなったのである。午後1時には 地震発生時点の備蓄もあっただろうから、人口5,000 「(村の救護)本部ニ於テ使用ノ内ヨリ米(スペース) 人規模の村に対しては充分な分量であったと考えら 升●沢庵五十本(を)奉仕団ノ夕食ニ当」てること れる。翌日午後にも白米20俵、味噌(4斗入り4樽)、 となった(奉仕団が同日の朝食を持参したか、月ヶ ビスケット、慰問袋などが届いたが、主食の配給は 瀬区が提供したか否かは記載がない)。 その後30日に白米3俵、12月1日にパン1籠、12月2〜4 日に白米1俵ずつと減少していった。 村長の回顧によれば、 「月ヶ瀬水路ノ復旧」は「最 (42 モ急ヲ要」した被害箇所だった というが、3.3で述 衣類・寝具については、地震発生から5日目(11 べたように上用水復旧工事の全六工区のうち四工区 月30日)に布団(1包) ・毛布10枚、6日目(12月1日) が奉仕団による2日目の作業開始前(3日午後時点) に毛布1包が届いただけであった。上狩野村での「半 に開通見込みであったことを考えると、2日目以降の 倒壊戸数(15戸、表-5)」に、地震発生2ヶ月前に実 奉仕が本当に必要であったのか、疑問が残る。 施された国勢調査から得られる1戸あたり人数(5.5 人/戸)を乗すると、82.5(人)となる。住宅が「半 奉仕団が「甘受」した受援期間よりも2日長い「(12 7 Ç Ý¾T1ÁT1Áà"E²¥ìÔ(*=~í Çō'.=6>6:Ô4ŵÙOř1.6;̞ 12ȟ5ȑțʐ5̕ʎľÔ³5;͎ȩŁȤŖĶ 3I'11ȟ28ȑ29ȑ620Ä*2Ƃ4.Ψ áȯÖáȯ87ɇΖΤȩGőŌ9ʬKƧȩ92 ̂30ȑIʋʀ'.$6OöȻ)K628ȑ9 4FΨ̂%L4.(45:/ʠέȪ5;ƞ ʠέȪ5ºƸOßΌ:ŔƏȪιĚüιI βȯϴ450Ȳϵβżɱȯϴ400Ȳϵβżɱȯϴ1,100 Ē".̈́űňĤ:ÛųOºƸO͊ΒJ'.ϋ9 Ȳϵ¾èʧ1Ɠ61.ƃȹȩ<JΨƕ%L4 ˅ßƭǖ9¬Μ'.̀ȳƾ͉DŽ9ǀ(.Ψ̂Ů .:5K ǹóʝͶϴǎĭĩϵ:ĩˁGáή924;ŕ ʥ'.6͏Ϊ)K$6FßȬH ĝɈ:$6;Ƨȩ:Ψ̂ή924FƯ4;CK Ńʄ~ƉʱḀ̑ţĪ«̌ϴ1979ϵ9FŔC8͔΅ その応急修繕と村の指示にもとづく損害額の見積り を進めた様子が判明した。被害の予備調査は差遣さ れた侍従に面会した際に県の出張所において報告さ れ、その内容が配給品の分量や品目の決定に反映さ れた可能性も窺えた。また、村が損害額の見積りを 県へ報告した後、おそらく県から復興計画策定のた めに実施する調査への協力要請がなされた。以上の 経緯をみると、自助に属する行為は観察出来なかっ たが、共助(区や村の行動)の領分が広く、それら が公助の展開を促していたと指摘できる。 軍・在郷軍人会・青年団などから成る奉仕団が受 援する村・区とのあいだで援助内容や期間をめぐっ 図-4 月ヶ瀬区・上狩野村をめぐる動き(模式図) て揉めていた事実も判明した。今日では受援側の都 合を考慮することは常識であるが、当時は在郷軍人 はある(46が、本資料から詳細な品目とその分量が到 たちのような自己完結の可能な集団でも食糧を自給 着の時系列順に把握でき、またその品目や分量が被 する必要性をそれほど重視していなかったようだ。 害状況をある程度反映して決められていた可能性が 今後の課題として、1) 月ヶ瀬区および上狩野村の 窺えた。 自主的行動が静岡県の救援活動にどう影響したか なお、病気の流行を予防するため、12月1日以降、 (例えば、村が自主的に調査・申告した復旧額が、 慰問品は一つずつ開封され、消毒されたという(47。 実際の災害復旧低利資金借入額の決定にどう影響し 義捐金については11月30日に96円(東京朝日新聞)、 たか)、2) 在郷軍人会を初めとする戦前期の奉仕組 12月2日に224円(東京日日新聞)、4日に880円(静岡 織における奉仕哲学の変遷を解明することが挙げら 県)、合計1,200円が届けられた。 れる。 5.3各種の復興事業 3.3で既述のように、本資料には「上用水路」の復 参考文献・註 1)NPO 法人日本防災士機構編(2014)、防災士教本、p.116。 2)静岡県警察部(1931)、駿豆震災誌、p.1。 3)同上。 4)静岡県(1930?)、駿豆地方震災概要及救護状況。本冊 子には刊記がないが、巻末に「(十二月五日静岡県震災救 済委員本部情報係調査)」とあるため 1930 年刊行と比定 した。 5)同上、pp.20-23、「各種団体奉仕的活動(情報に依り摘 録)」欄。 6)瀬戸修一郎編(1931)、昭和五年十一月二十六日 駿豆 大震災記念写真帖 帝国在郷軍人会静岡支部。 7)神尾堅一編(1994)、昭和五年北伊豆地震体験記、p.3。 8)天城湯ヶ島町教育委員会編(1979)、町誌資料 第 5 集 災害誌、pp.123-132 9)1:50,000 地形図『修善寺』1926 年修正測図(大日本帝 国陸地測量部)および 1944 年部分修正測図(内務省地理 調査所)部分修正測図(内務省地理調査所)。 10)衆議院議員選挙有権者名簿 昭和 2 年 9 月 15 日現在。 資料に登場する人物の住所を有権者名簿によって把握し、 地理的位置を踏まえた考察もおこなったが、本論では略し た。 11)内閣統計局(1934)、昭和五年 国勢調査報告 第四巻 府県編 静岡県。 12)1:50,000 地形図『修善寺』1926 年修正測図(大日本帝 国陸地測量部)によれば同村持越に金山が所在していた。 13)静岡県沼津測候所(1931)、北伊豆地震報告、震央及震 度分布図(挿絵ページ)。 14)同上、pp.59-83、「各市町村字別被害表」。 15)静岡県警察部(1931)前掲書、pp.7-8。 16)天城湯ヶ島町教育委員会編(1979)前掲書、p.139。 17)静岡県警察部(1931)前掲書、p.146。 旧工事の様子が記されていたが、静岡県警察部 (1931)によれば「用水路耕地の復旧に関しては村 内耕地所有者中罹災者を以て耕地整理組合を組織し たる上県の補助を受けて昭和六年四月末日迄には完 成の見込」(48であった。応急措置は村(区)全体と して対応し、本格復旧は直接関係ある人々が県の支 援のもと資金や労力を負担した様子が窺える。 6.まとめと今後の課題 本稿は旧上狩野村月ヶ瀬区における北伊豆地震時 の災害対応を未公開資料をもとに把握し、他の資料 を援用しながら内容の整理をおこなった。 本資料の記述は「月ヶ瀬区」と題しているにも係 らず、区に関する情報と村全体に関する情報とが混 じり、両者が明確に書き分けられていない場合もあ る。メモを残した人物が区の幹部としての立場と村 救護本部に出入りする人間としての立場とを峻別し ていなかったことを反映していると言える。 図-4に即して資料の記述内容を概括的に振り返る と、対内的には当初は区幹部が区内の被害の予備調 査をし、また区総集会で善後策を話し合い、その後、 9 18)同上、pp.36-38。 19)静岡県沼津測候所(1931)前掲書、p.68、 「各市町村字 別被害表」。 20)天城湯ヶ島町教育委員会編(1979)前掲書、p.130。 21)同村長の 4 男にあたる大川美友によれば、大川美啓は 田沢区在住で、1947 年 6 月に 67 歳で亡くなっているため、 この当時 50 歳前後であった(大川美友(1989)、天城七 十七年の記、p.164)。彼は 1914 年 8 月〜1916 年 9 月ま で上狩野村助役(静岡県田方郡役所(1923)、静岡県田方 郡郡制録、p.104)、1917 年 1 月〜1919 年 9 月まで田方郡 会議員(同前、p.53)を務めた後、1924 年に上狩野村長 に着任(大蔵省印刷局 職員録 大正十四年、p.1116)し、 2 期目(1927 年〜)の 4 年目に地震の発生を迎えた。大 川の家から田沢橋をわたると月ヶ瀬区に入る。大川美友は 父が関東大震災の際に「(余震に備えて、就寝時には)雨 戸を一枚開けておけ」と家人に命じたこと(天城湯ヶ島教 育委員会編(1979)前掲書、p.120)、 「零細地主で二町三 反ばかり」の農地を有していたこと(大川美友(1989) 前掲書、p.166)を記している。 22)復旧工事ののち、11 月 29 日午前 9 時 10 分に三島町大仁駅間、11 月 30 日午前 7 時に三島町-修善寺駅間が開 通した(静岡県警察部(1931)前掲書、p.36)。 23)1933 年新春の回想。天城湯ヶ島町教育委員会編(1979) 前掲書、p.130。 24)助役は青木静。本資料 11 月 30 日の記述から姓が判明 し、他資料から名前を特定した(日本自治協会編(1929)、 市町村治績録、静岡県 p.10、日本自治協会)。大川が 1935 年まで村長を務めた(皇道乃日本ほか編(1935)昭和十 年四月調査 静岡県の史蹟名称天然記念物、田方郡、p.13) 後、1936 年には青木が継いだ(静岡新報編(1936)、静 岡年鑑 昭和十一年、p.146)。 25)参集したのが同村内の全ての区長なのか、月ヶ瀬小学 校の学区であった北部の 6 区長なのかは不明。なお、当時、 上狩野村には尋常高等小学校が 2 校、尋常小学校が 1 校、 あった(日本自治協会編(1929)前掲書、p.10)。 26)区長を特定する手がかりは本資料 12 月 4 日の「堀内区 長」との記述だけであり、幹部長であった堀内圭三と比定 される。 27)衆議院議員選挙有権者名簿 昭和 2 年 9 月 15 日現在に よれば、湯ヶ島区在住。 28)日本地方行政学会編(1927)、現行法規全書(下)、 pp.140-141 29)1907 年 9 月〜1911 年 9 月まで在任。静岡県田方郡役 所(1923)前掲書、p.52。 30)1916 年 6 月〜1919 年 1 月まで在任。静岡県田方郡役 所(1923)前掲書、p.104。 31)天城湯ヶ島町教育委員会編(1979)前掲書、p.130。 同書 p.129 によれば、静岡県水産組合の所有機。 32)東府屋とは吉奈に現在もある旅館の屋号。 33)主語が不明であるが、本資料 12 月 2 日に「山林調査ア リ」という表現があることから、部外者が実施した蓋然性 が高い。また、亀裂の入った斜面を切り落とす趣旨の発言 をしているため、土木の知識を有する人物であったと考え られる。 34)組とは近隣組織としての「組」、組合とは用水組合を指 すと考えられる。 35)天城湯ヶ島町教育委員会編(1979)前掲書、p.129 は 上狩野村に兵士三〇名が来援した記す(字別の兵員割当は 記さず)。 36)天城湯ヶ島町教育委員会編(1979)前掲書、p.123、 p.125。 37)静岡県警察部(1931)前掲書、p.36。 38)岸衞は明治 18 年 8 月生まれ、明治 39 年に東京外国語 学校英語科を卒業した後、ホテル業研究のため欧米各国に 滞在し、帝国ホテル副支配人などを経て熱海ホテルを経営 し、熱海町議会議員、熱海町長、田方郡議会議員、田方郡 議会参事会員、田方郡議会議長、静岡県議会議員などを歴 任、昭和 3 年から衆議院議員を連続 3 期務めた(「歴代国 会議員名鑑」編纂委員会編(1995)、歴代国会議員名鑑(上)、 10 *p.720、議会制度研究会)。 39)宇田銀作村長(1919 年 1 月〜1923 年現在)。静岡県田 方郡役所編(1923)前掲書、p.52。衆議院議員選挙有権 者名簿 昭和 2 年 9 月 15 日現在によれば、上狩野村湯ヶ 島在住)。 40)土屋義衛編(1929)、日本医籍録 分冊静岡県、p.44、 医事評論社によれば、内田半平は明治 13 年生まれ、済生 学舎卒、明治 35 年試験及第、登録番号 14152 号。東京顕 微鏡院講習修了、明治 37 年現地開業、校医。1931 年当時 は医師(東京逓信局編(1931)、静岡県特設電話番号簿、 昭和六年七月一日現在、p.7)で、1935 年(皇道乃日本ほ か編(1935)前掲書、p.13)、1936 年(静岡新報編(1936) 前掲書、p.146)当時は消防組頭であった。 41)瀬戸修一郎編(1931)前掲書には「北狩野村役場ヲ(マ マ)各自白米袋ヲ負ツテ出発前進中ノ分会員」という写真 があり、奉仕側が食糧を自ら用意した場合もあったことが 判る。 42)天城湯ヶ島町教育委員会編(1979)前掲書、p.132 43)高木秀夫は 1885 年千葉県生まれ、1916 年医師国家試 験に及第、陸軍脚気調査会勤務を経て上河津村で 1918 年 に開業した内科医。村医。登録番号 38379 号(土屋義衛 編(1929)前掲書、p.323)。静岡連隊区将校団編(1935)、 団員名簿 p.84 によれば、予備役三等軍医であった。 44)天城湯ヶ島町教育委員会編(1979)前掲書、p.129。 45)静岡県(1930?)、駿豆地方震災概要及救護状況、 pp.15-16、「復興材料配給調」 46)天城湯ヶ島町教育委員会編(1979)前掲書、p.131 47)静岡県警察部(1931)前掲書、pp.78-79 48)静岡県警察部(1931)前掲書、p.81 DÇ 4¦Þ0£J!+¤gkyìFLí DÇ 4¦Þ0£J!+¤gkyìwLí