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仏教、キリスト教、浄土真宗における「欲望」 ―語法の比較研究

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仏教、キリスト教、浄土真宗における「欲望」 ―語法の比較研究
ヤン・ヴァン ブラフト (寺尾寿芳 訳):仏教、キリスト教、浄土真宗における「欲望」―語法の比較研究―
仏教、キリスト教、浄土真宗における「欲望」
―語法の比較研究―*)
Some Comparative Reflections on the Diverging Uses of Desire
in Buddhism, Christianity, and Jōdo Shinshū
ヤン・ヴァン ブラフト
※
(寺尾寿芳 訳)
仏教とキリスト教は、人間の欲望に関して異なる立場をとっ
欲望はめったにそのものとして議論されることがない重
ているように思われる。仏教は欲望の無化をその歩みにおけ
要な主題のひとつである。この概念がふれるような経験、
る目標として語り、一方、キリスト教は欲望を「秩序づけ」、「統
実在、あるいは関係を示す概念の標準的な一覧といった
一する」必要性を語る。ここでまさに次のような問いにぶつか
ものは存在しない。
る。この相違はどれほど深刻なものか。それは内容よりもレトリ
・・・・・・・・・・
ックにまつわる問題なのか。これらの立場は和解しがたいも
欲望は通常、意志に関連して理解される。その場合、欲
のなのか。相違は単に理論的なものに留まるのか、あるいは
望は意志、欲求および期待、また選択と欲、活力源と動機、
実践的結果をもたらすものなのか。
さらには意図といったもので規定される。欲望はまたさら
に情緒あるいは愛情のことばとしても理解される。その場
この問題を十分に取り扱うためには、以下の諸点を考慮しな
合、情緒、感情、情熱、愛、エロス(およびエロティシズム)、
くてはならないだろう。
1)欲望の(哲学的)現象学
執着、渇望といったものと関連し、あるいはそれらによっ
2)相反する立場それぞれの文化的起源:インドにおける
て規定される 1)。
欲望、ギリシア思想における欲望
・・・・・・・・・・
3)キリスト教の思想と霊性における欲望の扱い
欲望の本質は、本能と意志とのあいだに所在をもつよう
4)仏教の思想と実践における欲望の扱い
なものである。…欲望は意志に劣る。というのは、欲望は
5)真宗の場合
私心のない非個人的な思いによって育まれるものではな
いからである 2)。
もちろん本稿ではこれらすべての点を取り扱うことはできな
い。また、他のパネリストの論考においてキリスト教および浄
ショーがさらなるヒントを与えてくれる。「さまざまな宗教の欲望
土真宗の視角からの考察がなされるはずなので、筆者は主
への態度は、それらが世界に対する一般的態度にしたがっ
に仏教における欲望に焦点をしぼり、他の諸点に関する言及
て決定される」のだ 3)。このことは、もちろん、正しい。この点に
は手短なものに押し留めるつもりである。
おける仏教とキリスト教との違いは、あきらかに神によって創
造されたものとしての世界と、人の無明によって生み出された
欲望の現象学
輪廻世界との違いに大いに関わる。しかし、まさに全般に通じ
初歩的ではあるが、百科事典の掲載記事からいくつか拾い
る「世界」という概念をさらに詳細に見なければならないのか
集めてみれば、やはり役に立つかもしれない。
もしれない。まず第一に、この世界における人の在り方は、特
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ヤン・ヴァン ブラフト (寺尾寿芳 訳):仏教、キリスト教、浄土真宗における「欲望」―語法の比較研究―
に詳しく調べてみなければならない。人間の自然的条件は基
ここで手短に説明することが許されるなら、欲望の問題に関
本的に傷ついているのかどうか。あるいは、言い替えれば、
して浄土教の文脈において提示される特別の相貌を観ずるこ
人間の条件はどれほどまでに「原罪」の感染を被っているの
とで、以下のことがいえるだろう。
か。さらには、後に立ち戻らなくてはならない点なのだが、次
浄土教において、欲望は明らかに中心的地位を占めている。
のような諸要因を省くことはできない。つまり、人間に備わった
それは阿弥陀仏の本願や信心における欲生心の中核に存す
認知および欲望という要素を相対評価する際に生じる差異、
るものである。さらに、「欲望のままに救われる」という浄土教
無あるいは絶対存在としての絶対という概念、人間の苦境を
の発想から欲望というものは特殊な光をあびることになる。加
救わんとする際に採用される論法、をである。
えて筆者の目には、この点において浄土教は一般的な仏教
さっと吟味するだけでも、欲望はすぐに逆説的な現象として
からはっきりと区別されるように見える。もちろん、これらの要
立ち現れてくる。したがって、たとえば、欲望は必ずしも相互
素に「聖道門」がまったく欠けていると言いたいわけではない。
に排除しあう二つの目的をめざすようである。欲望の対象を
たしかに菩薩道における諸願が演じる役割を一瞥するだけで
得て喜ぶこと、そして、欲望そのものを鎮めることである。この
も、そんな区別は不当だといえるかのしれない。
視点から見れば、われわれの抱える問題は次のように表現さ
それでもなお、疑問は残る。これら欲に基づく要素がまさに
れなければならないであろう。いかなる線に沿って、仏教とキ
中心的地位を占めるに至るという事実によって、浄土教全体
リスト教は逆説の二角を分かち持つのだろうか、と。
が仏教一般の欲望論では説明されえないような一形態に構
成されるのではないか、という疑問である。言い替えれば、真
背景としての文化的修辞法
宗の教えは一般的な仏教の欲望論に依拠しうるのだろうか、
ここに来てどうにか言えることといえば、仏教とキリスト教は、
あるいは、真宗はまさに独自の「欲望の神学」を必要としてい
それが宗教として展開した地域の文化が保持する一般的欲
るのではないだろうか。欲望の教学の必要性は、曽我量深の
望観をともに有しているということぐらいである。とはいえ両教
次のことばに近い響きをもつようである。浄土仏教の特殊な眼
は、多少とも救いへと至る特別な道においてこの問題をあら
目に焦点を絞る真宗教学を弁護しつつ、曽我はこう述べてい
ためて考えなければならなかった。インド文化に関していえ
る。「私は所謂真宗学の対象は何ぞや、真宗学は信といふも
ば、デラッターが語るに、「欲望は究極的に超俗性において
のゝ原理、信の背景としての願(筆者註:願欲)を明らかにする
克服されるべきものである。…[とはいえ]同伝統においては、
にある」と 7)。このことばは旧約および新約の双方において欲
解脱へ至る生活の諸段階にふさわしい欲望は肯定され、さら
望が中心的話題にあることを示す一文を思い起こさせる。
に想像上の豊潤さで祝福されることさえあるのが」4)。道教の
聖書は主として、契約というテーマに集中する。それは
場合も、「欲望は真実の霊性の源泉というよりはむしろ問題と
いわば、相互に志向し合う二つの欲望のありようを指す。
して表現されている」5)のであり、そのめざすところはあらゆる
第一に、神が人間に自己譲与しようとする主導的欲望で
欲望から自らを引き離すことにある、といってよい。一方、ギリ
あり、続いて、人から神への応答的欲望である 8)。
シア思想は、たとえばプラトンやストア派によって欲望の問題
仏教における欲望
性が十分考慮されているにもかかわらず、「欲望へのより肯定
的な評価」6)を持つものとして特徴づけられる。
この視点から見れば、こう問えるかもしれない。バラモンのさ
ここに至ってもう少し深く探ってみたいと思われる問いに到
まざまな生活段階(住期)を単一の道へと融合することにより、
達する。仏教の欲望に対する立場はまさにいかなるものなの
仏教はいかにしてこの欲望という問題の特質を変化させたの
だろうか。また、仏教の教学および実践の全体系において欲
か。さらに、キリスト教はギリシアとは異なる人間観(原罪観)と
望が占める意味と機能はいかなるものであろうか。さらに、欲
絶対者観の光に照らしながらも、ギリシア的解決法をいかにし
望は究極的には何に基づいているのだろうか。
て再度機能させねばならなかったのか、と。
欲望についての仏教の修辞法がキリスト教の場合と比べて
鋭く対照的であることはすでに触れることができた。キリスト教
においては、たとえば聖アウグスティヌスの「良きキリスト者の
浄土仏教と欲望
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ヤン・ヴァン ブラフト (寺尾寿芳 訳):仏教、キリスト教、浄土真宗における「欲望」―語法の比較研究―
全人生は聖なる欲望である」ということばや、あるいは聖トマス
めたい。もうひとつの区分、つまり小乗と(煩悩即解脱たる)大
の著述に見られる「欲望における善なることはあらゆる行動に
乗とのあいだの区別に関しては、以下においていくらか述べ
欠くべからざる原動力である」9)ということばに表現されている。
る機会があろう。
しかしながら、一方で仏教とキリスト教は、現代社会において
欲望の何が悪いのか
少なくとも一つの目的を共有しているといえよう。「自我中心的
欲望の刺激し増大させることで繁栄するような文化の強迫観
いまやこう自問しなくてはならない。つまり、仏教において欲
10)。ここに至って
望をそこまで否定視させるのはいったい何だろうか。欲望に
われわれは再度問い直すように促される。つまり、これら二つ
関するいかなる否定的意味が仏教の文献において指摘され
の立場は本当にそれほど異なるものだろうか、少なくともいく
ているのだろうか、と。欲望の欠点に関する(一応の)一覧は
つかの点では共通していないだろうか、と。
かくのごときものだろう。
念から」人々を救い出すという目的をである
次の現象は疑いがたいと思われる。仏教の欲望に対する立
1)欲望の最も明白な欠点は、もちろん、煩悩の一種として
場は、完全に否定的なものであるかぎり、逆説的であり、その
分類されうることであり、あるいは煩悩と同等視されうることで
まま維持しがたいものにみえる。ここでの逆説は次のように客
ある。それら煩悩はあらゆる人生苦の根源をなしている。ゆえ
観的に表現されてきた。「無欲なことは理想的である。しかし、
に欲望のせいでわれわれは涅槃の「平安」に達することがで
人は理想に達するために己れの欲望を育まねばならない…。
きない。道元が記したように、「心にねがひてもとむる事無け
究極的に人はあらゆる欲望から免れるよう努力するにもかか
れば即ち大安楽なり」15)。ここでキリスト教と比較すべくこう問う
わらず、それは欲望を用いてこそ初めて達成される」11)。この
てみよう。「平安」というものは必然的に人間の理想を十分か
一節が意味するところは幾分、二つの対照的な言述により確
つ究極に包含するものだろうか。
2)大乗仏教が特に発展させた考えによると、あらゆる欲望
かめられうる。つまり、
は善悪、苦楽を分別する誤った二元論に基礎づけられている。
某人、趙州に尋ねて曰く。「仏陀は得悟したかたであり、
われわれすべての教師である。当然にしてあらゆる煩悩
さらに、まったく「欲望というものは、現在と未来、現実と可能、
(klesa)から免れている。そうではなかろうか。」
実在と理想とのあいだに緊張と対照を実際に生み出さなくとも、
趙州曰く。「そうではない。仏陀はあらゆる煩悩の最大な
それを包含するものである」16)。
るものを抱いている者である。」
3)ゆえに欲望にかられてわれわれは未来へと目を差し向
「かくたることはいかにして可能なのか。」
けることになり、「いま現在」という一念を十全に生きることがで
趙州答えて曰く。「仏陀最大の煩悩は万民を救わんとする
きない。これは結局のところわれわれにとって唯一の現実な
ことである」と 12)。
のである。[にもかかわらず大乗仏教ではつぎのように言う]
・・・・・・・・・・
「しかして、われわれはもはや何も欲しがらないであろう。つ
ある小乗の一派ではこう言われていた。「仏陀のみこころ
まり、われわれは未来から自由になり、したがって、意識や生
には慈悲などない。なぜなら慈悲は煩悩のひとつと思わ
命はもはや想像上の未来によって形づけられたり活性化され
れるからである。」13)
たりすることはないだろう」17)。ここで次のように述べておかな
欲望への否定的判断は明らかに四聖諦において仏陀本人
くてはならない。いったん人が市場に戻るやいなや、あるい
に帰結されるにもかかわらず、仏教のあらゆる形態がまさに
は倫理的「当為」さらには正義を求めて闘うのために現実と理
仏陀と同じように欲望を取り扱うとはとても思えない。よく知ら
想とのあいだの緊張が必要不可欠であると主張されるやいな
れた反証は、もちろん、タントラ仏教、金剛乗仏教である。この
や、事情は複雑なものとなる、と。
反証例は「欲望と感覚が道の一部をなすような道」として定義
4)さらに強調されることは、あらゆる欲望は自己中心的だ
14)。筆者はこの事例を扱えるほどの力
ということである。成仏したいと努力する人に関しては、(その
量を持たないため、この「法輪の最後の回転」を「例外」の名
ような望みは尊い望みではあろうが)道元のいうところでは、
のもと考察から外したいと思う。そのことで、仏教の全体像にと
かれらは「まことの道者かと覚れども、これも猶を我が身をよく
り本質的な要素が脱落してしまうかもしれない点は率直に認
ならんと思ひて修する故に、なをいまだ吾我を離れず」18)な
されてきたものである
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ヤン・ヴァン ブラフト (寺尾寿芳 訳):仏教、キリスト教、浄土真宗における「欲望」―語法の比較研究―
のだ。ここで思い起こされるのは、大乗の信徒が阿羅漢を自
らゆる物事にまつわる欲望・執着への根本的な非難の例外た
己中心的だと批判することである。他方、キリスト教においてこ
ら ね ば な ら な い の か 」 と い う 問い で あ る
の事態は自己愛(天国を望むこと)と神への「純粋」なる愛との
(Atthakavagga Sūtra)の上座部註解書を手に、バーフォー
関係という問題を引き起こす。
ドは、たとえば、以下のようにいってみせた。欲望を総じて否
21) 。 あ る 経典
5)欲望は、たとえ成仏を求めるものであっても、真実に反
定するにもかかわらず、上座部の人々は仏道を行くに関して
するといいうる。人は仏性から離れて存在しているわけでは
欲望の必要性を認めているというのだ。さらに筆者が付け加
なく、なにも欠けるものはなく、むしろ「各々がすべての側面
えるならば、それはキリスト教の立場ときわめて近い位置にあ
において根本的に完全なるものである」19)。欲望はこの真実
る。
に反するのである。鈴木大拙はこの事態をかくのごとく表現し
(それら註解書の説くところでは)理想を求める求道者
た。「楽園はいまだ失われていない。ゆえに再び獲得される
は仏道へ入ることを切望し、その道へ入った者は阿羅漢
ことはない」20)。この点に関して、仏教とキリスト教は対立する
の位置を切望している。しかしながら、阿羅漢は何をも理
ようである。というのも、キリスト教の物語では人は失われた楽
想視することはない。このことは次のことを暗に示す。目
園を本質的かつ正当に求めるものとして登場する。しかしこの
標を希求することは目標に至る道にとって不可欠であり、
時点において、さらに大拙からの引用を続ける方がよいだろ
と同時に仏道へ入ること、あるいは阿羅漢(つまり涅槃)た
う。というのも、その中に以下のような、いくつかのモチーフが
ること以外を求める者は仏教の求道者としての資格がな
手短に表現されているからである。
い…。低級の目標は理想よりも低い状況に留めおく罠と
楽園はいまだ失われてはいない。ゆえに再び獲得され
いうべき欲望をなす。一方、理想的目標に到達するため
はしない。ゾシマ長老がいうように…、楽園を望むやいな
の高次の欲望は実際にそのような低次の状況から人を救
や、いうなれば、楽園への欲望を意識するやいなや、楽
い出す」22)。
園はわたしのそばにある…。終末は実現しうるようなもの
西洋の論理では、そのような矛盾を解決するには、二通りの
ではなく、生活のあらゆる瞬間においてすでに実現され
方法がある。涅槃を求める高次の欲望さえも否定されるべきと
ているようなものである。われわれは実際につねに終末
して欲望の根本的否定を首尾一貫したものにするか、あるい
のなかにいるにもかかわらず、つねに終末を前方に置く。
は、欲望の基本的否定を取り払ってしまい、低次の欲望もま
これは、われわれが時間になかで存在している者、ある
た価値あるものとして容認するかである。しかしながら、大乗
いはむしろ成りつつある者として持たざるをえない幻想な
が現に見出したのは第三の解決法、つまりより徹底的(かつ、
のである。
おそらく、より曖昧)なものだった。西洋の論理はジレンマの
二極を維持しているが、一方、大乗の論理は「輪廻即涅槃」を
大乗と欲望
もって欲望の存在そのものの前提になっている距離つまり欲
キリスト教的環境からやって来て、仏教を研究するようにな
する者と欲されるものとの距離を取り去っている。したがって、
った筆者は、おのずと仏教が有する力動性の秘密が、輪廻と
一方で涅槃は輪廻そのものにおいて存在することで、欲しう
涅槃との対立、無限の生死流転への嫌悪、そして涅槃の静謐
る対象たることをやめている。なぜなら、欲望とは本質的に欠
なる平安への希求にあると考えていた。したがって、大乗仏
如を意味するからである。また、他方では、煩悩や欲望を伴っ
教が輪廻と涅槃とを不二のものとしていると知ったときは、本
たものとしての輪廻が、涅槃によって意義づけられて是認さ
当に驚いた。これでは仏教の力動性が失われるのではない
れるに至る。
だろうか。さらにこの事態は宗教的にいって何を意味しうるの
いまのところはそれでよい。論理的構図として筆者は今なお
だろうか。そのような発展によって引き起こされた欲望観の変
ついて行くことができる。しかし、それは具体的な教義や実践
化を調べてみることはよりよい理解への手掛りとなりうるだろう
にに向けていかなる貢献をなすのだろうか。さらには、解決よ
か。理論の場では、大乗が小乗に向ける批判を理解すること
りもさらに多くの問題を引き起こすのではないだろうか。最小
は容易である。結局この批判は、つまるところ次のように明白
限の具体性を確保するため、前もって幾人かの大乗学者の
な問いを発しているのだ。「なぜ理想的な目的そのものは、あ
言説において機能している論理を見ておこう。
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ヤン・ヴァン ブラフト (寺尾寿芳 訳):仏教、キリスト教、浄土真宗における「欲望」―語法の比較研究―
大乗の菩薩心が凡夫の妄想の中に実相を見出す一方で、
4)伝統的な在り方において見出せるように、道があまりに
縁覚と呼ばれる小乗の人々の修行は、完全にあらゆる愛
も長いことへの反発もまた含まれてきたであろう。なぜなら、
着と執着を滅し、人間的な生活を完全に否定する…。菩
カール・ビーレフェルトが主張するように、「仏性は本来的に
薩の精神は欲望および執着の只中において生命を見出
備わったものであって、獲得されるなにものかではないため
す 23)。
に、宗教的実践の鍵となることは、なにかを得ようとすることを
・・・・・・・・・・
諦め、法を切望することを断念することである。目標からの隔
永平寺での発話のなかで、道元禅師はこう言っている。
たりは、ただ目標に達しようという試みに執着することによって
「土が多ければ、仏像も大きい」。土をもって道元は煩悩
のみ計られるゆえに、そのような試みを断念した者にとって、
を示唆している…。そして、煩悩が多ければ多いほど、現
ただちに隔たりは消えてしまうのである」27)。
れ出る仏も大きくなる。執着力が強いほど、作られる仏は
偉大なものになる 24)。
仏教における欲望の否定はどの程度一貫しているのか
すでに見てきたように、欲望に関する仏教の基本的立場は
・・・・・・・・・・
菩薩は自証に本づく、
徹底的に否定的であり、同時に実践において、上座部は欲望
心を起こせば即ち是れ妄。
に区別を設け、最終目標に達するための欲望の必要性を容
浄心妄中に在り、……。
認している。「妄執の消滅を楽しむ」(第 187 句)と語り、さらに
色類自ら道有り、各々相ひ妨悩せず。
「修行僧よ。汚れが消え失せない限りは、油断するな」(第272
道を離れて別に道を覓めば、身を終るまで道を見ざらん
句)と主張する法句経でさえ、他の箇所では肯定的な文脈で
25)。
語っている。「ことばで説き得ないもの(=ニルヴァーナ)に達
しかしながら、かくのごとき大乗の立場への移行が、単に論理
しようとする志を起こし」(第 218 句)、そして「ニルヴァーナを
的に一貫させたいという配慮によって引き起こされてきたとは
得ようとめざしている[人々がいる]」(第 226 句)と**)。そこでリ
信じ難い。もちろん、より実践的な(かつ、おそらく、より本質
ース・デイヴィッズは、19世紀のヨーロッパが仏教に関して抱
的に宗教的な)モチーフがあったのだろう。これらのモチーフ
いた優柔不断な悲観主義という印象を一掃せんとして、次の
のなかで、われわれの問いにおそらく沿いうるものとして、次
ようにまとめあげるのである。
のことを考えてもよいだろう。
しかしながら、いかなる場合においても、特定の高次の段
1)最も高貴な探求においてさえも存在している「自己探
階を除いて、冷めて心の動きがない状況で修練がなされ
求」の危険性に気づいた記録が大乗の文献のなかによく残さ
るべきではない。誠実な修行者はつねにこう描写される。
れている。
情熱的あるいは熱心で、精力的あるいは真剣で、活力と
2)何人も悟りに到達できそうもないという苦しみに満ちた
努力に満ちており…、熱烈で積極的な欲望に溢れている
ものとして…28)。
経験――末法思想の源泉の一つでもあるが――が大乗への
移行に貢献したかもしれない。たとえば、ハーマンはこのよう
もちろん、大乗に立つ者も同様の主張を避けるわけにはいか
に主張する。
ない。たとえば道元は以下のごとき表現をとる。「今ま是れを
(無欲は不可能だと知りつつ)いわば、欲望の逆説から逃
案ずるに志の至ると至らざるとなり」。「先づ欣求の志しの切な
れる道はないことを見れば、また中観派が措定するように、
るべきなり」。「死なざる先きに悟りを得んと切つに思ふて仏法
涅槃に至る道はなく、望まれそして達成される目標などな
を学せんに、一人も得ざるはあるべからざるなり」29)。
いことが理解できれば、道や目標から「手を離す」のであ
ときとして明確に善い欲望と悪い欲望とを区別する文献に出
り、そして、「放棄」は涅槃に導く、あるいは涅槃そのもの
くわすこともある。たとえば、曽我量深がいうには、真宗の祖
となる 26)。
師である道綽は執着へ至る相と解脱へ至る相、善貪と悪貪、
3)修道生活を目標に至るための不可欠な道とする主張に
善愛と悪愛とを区別し、さらに「浄土と如来の功徳を貪愛する
30)。さらに近年
対して抗議がなされているのだろう。その目標に自ずと至る
ことは決して排斥すべきでないと教へ」ている
道によって定義されていないような目標は外形を喪失する。
よく知られた仏教文筆家のひろさちやはこう書いている。「充
40
ヤン・ヴァン ブラフト (寺尾寿芳 訳):仏教、キリスト教、浄土真宗における「欲望」―語法の比較研究―
35)。修行と悟りとは同一であり、分けて考えられるべき
足させることによって本質的に解消できない欲望を渇愛と呼
いのだ
ぶ。[…]渇愛が渇愛をつくり、渇愛が渇愛を充足させようとす
ではないというのが事実である。
るのだから、それは永遠になくならない」31)。
それ、修証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道
なり。仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なる
ゆゑに……36)
悟りを望むなかれ
大乗ことに禅においては、あふれんばかりの否定力は日常
(似ていない?)類似をキリスト教において探してみれば、聖
の人間的な欲望よりも、むしろ涅槃や悟りに達したいという高
アウグスティヌスしかおもいつかない。「もしあなたがわたしを
度な欲望に向けられているようである。初期中国禅の諸師が
見出してくださらなかったら、決してわたしはあなたを捜し求
たどった足跡や「本覚」思想の文脈にそって、よく知られてい
めはいないであろう」ということばと、修道生活は熱心に神を
るように、道元は「悟りを求めるための修行」をきっぱりと拒否
求めるよりも、神の現存において単純に暮らすことだ、という
した。随聞記から一文を引けば、そのことが簡潔に縮約され
考えである(ここで両者が相反するとは思われていないので
ている。
はあるが)。
只身心を仏法になげすてゝ、更に悟道得法までをも望む
4)修行と悟りとの関係を一つの因果関係にあるとみなすこ
事なく修行するを以て、是を不汚染の行人とは云なり 32)。
とは、まったくの問題外である。つまり鏡にするためタイルを
初歩的な分析ではあるが、この問題に関する道元の提言に
研磨するようなことである。ここでは「突然の悟り」(頓悟)という
おいて、以下の要素を区別しうるであろう。
考えがもたらされる。黄檗はすでにこの件に関して言及して
1)修行においては自己中心的なモチーフがあってはなら
いる。「仏陀と成るべく六波羅密や無数の同様の修行をこなす
ない。「自分自身のために仏法を学んではならない。ただ道
ことは段階を昇ることだが、久遠実成の仏陀は諸段階にある
を求めるためにだけ学ぶのだ」。これはキリスト教における
仏陀ではない」37)。そしてビーレフェルトがいわんとすること
「神の栄光の最大化」というモチーフを想起させる。つまり、自
はここに関連するであろう。
分のために何かを得ようとするのではなく、神の栄光をより偉
禅における頓宗という神秘の源は因と果の融合にある。
大なものにせんがための修行をである。
修行が覚りという目的に還元されようが、あるいは目的が
2)修行においては、努め求めることはまったくあってはな
修行の行為に内在していようが、この二者は同時に生起
33)。努力しようとす
しなくてはならない。…(禅は)このような(悟りを開いてい
る態度は修行そのものに対して有害である、ということだろう。
る者と開いていない者との間に)いかなる区別を超えて屹
このことは夢窓疎石の著述にはっきりと示されている。
立しなくてはならない。それは道程と目的とを融合して、
らない。「所求を断じ仏果を望むべから」ず
わたしは世間と没交渉で三年間、山中で過ごした。しかし、
人間の精神活動を規定している因果律を超えるような宗
いまだ最終的視点に到達していない。仏国禅師の別離の
教の超越的水準を主張することによって[行なわれる]38)。
言葉を思い出した。「もし禅の修道者がほんのすこしでも
ある点でこのことは、キリスト教において良い生活と救いとが
世俗の世界と出家の世界とを区別するのならば、悟りは
因果的関係を欠いていることに近く、神の恩恵の賜物に似て
達成されないままであろう」。世俗でまったく何も望まなか
いるといえるかもしれない。両者はともすれば雄々しい修行
ったにもかかわらず、法を望む欲望はわが心を欺き、悟り
へと駆り立てる動機を危険に曝しがちである。
を求める道に立っていた、ということに気づいたのである。
何が間違っていたのかに気がついたとき、切望する心は
欲望でなければ、いったい何が修行を動機づけるのか
消え去り、それからは日々心を空にして過ごすことができ
筆者はつぎのようにいいたい。この問題に対する解答は最
たのである 34)。
終的にこうなるにちがいない。つまり、欲望なしでは人間の行
3)もちろん中心となる考えは、悟りを求めるあらゆる試み
為が動機づけられることはない、と。実際ここまで見てきたよう
が修行と悟りとを分断してしまい、悟りを外部で探求されるべ
に、道元さえもがこの問いにおいてはまったく矛盾しないわ
き対象としてしまうということである。そのような悟りはありえな
けにはいかず、「切なる欣求の志」を断固として要求している。
い。つまり、期待され、探求され、獲得されるような対象などな
しかしながら、この問題にはいまだ何か他の要因が働いてい
41
ヤン・ヴァン ブラフト (寺尾寿芳 訳):仏教、キリスト教、浄土真宗における「欲望」―語法の比較研究―
るのかもしれない。それが何かをはっきりさせることはやさし
り、あるときまではこの世に対する不満に突き動かされたが、
いことではないが、リース・デイヴィッズがヒントを与えてくれて
あるときかれの「知恵の眼」は開かれ、そして「涅槃は他の何
いる。
にも増してかれにとって現実的なものになるゆえに、(涅槃に
[涅槃を求める]これらの大望、いわば前方からの引き付
ついて何かをいいうるという意味ではなく、かれの行為をます
ける力とでもいうべきもの、とはまったく逆に、仏教は背後
ます動機づけるようになるという意味で)涅槃は『客観的支え』
からの押し上げる力として悪というこの世の大きな重荷を
となるのだ」42)と。さらにまた、次のような事実もある。大乗にお
位置づける…39)。
いて、涅槃は四つの肯定的な性格を賦与されるようになった。
道元はこのことばに同意しているようだ。それは、あらゆること
つまり、常楽我浄である。このことが何であれ、さらに陰謀め
は決心が徹底的であるか否かにかかっているといった後でこ
いた問いが存在する。キリスト教の場合は(さらには浄土仏教
う付け加えるときである。「亦此の志しをおこす事は切に世間
の場合は)基本的に異なるのだろうか、という問いである。キリ
の無常を思ふべきなり」と 40)。
スト教において前方からの力はどのくらい背後からの力を超
越しているのだろうか(かけ離れているのか)。いずれにせよ、
この点にいたるまでは、議論はどちらかというと妥当なもの
だと思われる。というのも、この世を嫌悪することとこの世から
善導の「二河白道」のたとえ話は両者を相互に補いうるものと
救い出されたいと願うことは表裏一体の事態であり、心理的に
みなしているようである。釈尊が背後(東岸)から促し、阿弥陀
分離不可能だからである。がしかし、道元は前方からの引き
如来が前方(西岸)から呼び掛けるのである。
付ける力を否定するかわりに、探求の度合を深め、それをあ
背景を探る
る種の後方から押し上げる力へと向きを変えるのだ。それは、
悟りを当初からそこに存在するものとしてみなし、そのうえで
まさに修行をするよう教え込むことによってなされる。一見す
上記のごとくさまざまな考慮を加えることで、仏教とキリスト教
れば、道元は悟りによって影響されたり「動かされる」ことに反
における対蹠的な欲望観と欲望「利用法」に幾分かの光を当
対しはしないようである。しかし、明らかに道元にとって悟りを
てることができたであろう。それは主に「水平的」類縁を探るこ
「かれの前におく」ことは回避されねばならない。ゆえに道元
とによってなされた。しかし、本当に違いの意味や範囲を理解
の考えは上座部の人々(Shtaviras)に一致するのではなか
できるようになるのは、これらの二見解がどういうふうに世に対
ろうか。かれらは無願(apranihita)を三三昧の一つに数え上
するそれぞれの一般的態度に根差しているか、ということに
げている。「 a-pra-ni-hita を文字通りに読めば、人が『前に
関してある程度の洞察を得た時点においてであろう。筆者に
何も置かない』ということになる」41)。もちろん、そのことは、眼
残されたわずかな頁で、すくなくとも「垂直的類縁」のいくつか
の前にあるものに引き付けられることの何処が悪いのかという
を指摘しようと思う。
問いを引き起こす。その答えは以下のようになりうるだろう。い
ったん前に目当てのものを置けばそれを、欲望から生じた様
人間の本性と苦境
式で着飾らせることになるのだ。
自分自身や他人のケースで実際に出会うように、欲望が人
「涅槃はそれに対する間違った考えをもつときにのみ渇
間の重要な部分をなしているということは否定しがたい。キリ
望の対象となる。『感覚的な渇望』の影響下にあれば、人
スト教において欲望は基本的に肯定的にみなされる。なぜな
は涅槃に伴う至福、喜び、歓喜ゆえに涅槃を求めるであ
らば、欲望は、慈悲深い神によって存在するように意志されも
ろう。…『尽滅を渇望する』気であるならば、人が望みうる
たらされた人間性の部分をなし、また、そのような神とのつな
のは…」41-b)。
がりを形成するものだからである。原罪は人間の欲望に重大
このことはまったく新たな問いが詰まったパンドラの函を開
な無秩序をもたらしたが、人間性を根本的に堕落させることは
けてしまう。原始仏教においては背後からの力から切り離され
なかった。一方、原始仏教においては、このように超越的に
た前方からの力などありえない。というのも、涅槃の内容は輪
基礎づけられた人間の「本性」などという問題は存在しない。
廻の否定にほかならないからである。とはいえ、すでにアビ
そして人間の現状はまさに(無明および)欲望そして欲望と一
ダルマ思想が求道者の動機に生じた転換を語っていた。つま
体の自我によって根本的に傷つけられたものとみなされてい
42
ヤン・ヴァン ブラフト (寺尾寿芳 訳):仏教、キリスト教、浄土真宗における「欲望」―語法の比較研究―
る。ゆえに無欲と無我はおのずと正しい状態とみなされてい
はそれ自身では自らの宗教的実在を説き表わせないというこ
る。しかも、そのような段階に到達する可能性は明らかに肯定
とである。あるいは他所で述べたように、空の論理が指し示す
される。しかしこの可能性の根拠はどこにも明示されはしない
のは、人をそこ(道)へと導くような梯子も梯子をささえるような
のである(おそらく、漠然とではあるが「法」という概念のなか
地面(元来の世俗的状況)もともに説きえないままでの頂上観
にその根拠が見られたのかもしれないが)。如来蔵および仏
なのである。
性の思想において、大乗は解脱の可能性および人間の条件
認識および欲動(能動)の評価
に関するよりいっそう楽観的な見解の根拠を見出した。つまり、
ある種の本来備わっている、そして人間の元来純粋な「本性」
上記で示されたごとく、西洋の伝統において欲望は人間の
は、自我と欲望の塵によってではあるが、つねに表面を覆い
「欲動」的側面と呼ばれてきたものに属している。それ自体は
隠されているだけであって、欲望によってもたらされる堕落は
決断(意志)と情緒(感情)により成り立っている。人間構造の
人間構造の最深部には届くことはないのである。
その部分がこの伝統において比較的多く注目されてきた。中
すくなくとも曽我量深の見解を見るかぎりでは、浄土仏教は
世においては、認識と意志との比較優位が過熱した議論の的
「聖道門」に現れる楽観的な評価を超えて、人間状況に対す
であった。おそらく筆者が無知なるゆえかもしれないが、東洋
る釈尊の原初的な評価へと戻ろうとし、人間に内在するいか
の諸伝統の場合にはそうとはいえないような気がするのであ
なる救済可能性をも容認しない。しかしながら、救いの可能性
る。東洋の伝統ではもっぱら認識に重点をおくようである。そ
はいまや明らかに指摘されている。つまり、阿弥陀の慈悲深
れはともかくとして、デラッターによる次の主張が適切であろう。
い本願のことである。欲生は、それはきわめて肯定的なもの
「意志あるいは情緒のいずれかに対して理性が対極に位置
であるが、もはや人間の能力に帰しえない。浄土仏教はその
づけられ、またそれ以上のものと価値づけられる場合も、欲望
欲生の厳然たる主体として阿弥陀をもたねばならないのであ
はたいてい精神的に問題視されるだろう」45)。そして仏教では
る。
少なくとも、仏教が覚醒あるいは知恵の宗教であることは疑い
えないのである。
欲望:理論と実践との間で
ゆえに仏教理論においては、人間の動態的あるいは欲動
バズウェルは仏教において「仏教の認識面での主張とその
的側面は本来的かつ合法的なものとして認められることはな
最も独特な動態的実践命法とのあいだに創造的かつ堅牢な
く、むしろ幻想あるいは正しき知識の「欠如」とみなされるか、
る緊張があることを見抜いている。すなわち、理論たとえば空
あるいは認識へと還元されてしまう。仏陀の道へと踏み込もう
の論理と実践あるいは道との間に緊張がある」。仏教に関す
と「決心」することは「菩提心」と呼ばれる。それは「悟りの一
る本当の知識は、次の場合にのみ得ることができる。「道や仏
念」あるいは仏性の「念を抱く」と解釈される。したがって、ある
教の動態的な意味〈救済の肯定的使信〉に対し、空やそれに
ヨーロッパの仏教者はかれと同じヨーロッパ人に向けてこう警
関わる概念の認識としての内容〈形而上学的否定性〉に通常
告する。
振り当てられる価値と等しいだけの価値が与えられるときであ
仏教の「道」を決定する純粋行為を欲望および希望と混
る」43)。ゆえに著者は以下の事実に関して遺憾の意を表する
同してはならない。後二者は投影や緊張を想定させるも
のだ。多くの研究成果――ことに「京都学派」の研究――で
のである。この純粋行為には二つの完全なモデルがある。
出会うことになるのが、「切り詰められた、均整のとれない、お
菩提樹下で悟りを得ようという仏陀の決心と、菩薩の願
そらく偏狭な仏教…」である、という事実にである。つまり「きわ
(pranidhana)である 46)。
めて認識上の意味伝統であって、非常に否定神学的な記録
同じ傾向がすでに引いた文章に見て取ることができる。そこ
で過度なまでに満ち満ちた仏教…」44)なのである。
では鈴木大拙が「楽園への希求」(現実には本当の不在を前
提とする欲動的行為)を楽園は存在するという意識へと還元し
かなり露骨に(また簡潔に)われわれの問題をこの主張に照
ている。
らし合わせてみれば、仏教は欲望をひどく禁忌する空の理論
と欲望をなによりも要請する実践とのあいだで欲望の逆説を
仏教自身および仏教とキリスト教との対話という観点にとって
措定していることになる。このことは要するに、仏教の欲望論
有益な、仏教において認識が優越することがもたらす最も重
43
ヤン・ヴァン ブラフト (寺尾寿芳 訳):仏教、キリスト教、浄土真宗における「欲望」―語法の比較研究―
註
要な「結果」とは、仏教理論が慈悲と愛に適切なる地位を与え
にくいということである。なぜなら、愛は疑いもなく情動性に属
*) 本稿は以下の英文論考の日本語訳である。原題:Jan Van
しており、(ニグレン[Nygren]のアガペー観とは異なり)実際
Bragt, “Some Comparative Reflections on the Diverging Uses of
欲望を指し示しているからだ。不幸にもこの重要な課題に関
Desire in Buddhism, Christianity, and Jōdo Shinshū,” in
してそう多くを語ることは控えなくてはならない。仏教の文献
PROCEEDINGS of The Sixth Biennial Conference of the
をみれば、慈悲は知恵に還元し得ないということを十分気づ
International Association of Shin Buddhist Studies ― JŌDO
いているようである。すでに述べた趙州のことばを想起しさえ
SHINSHŪ:"THE ULTIMATE TEACHING OF THE GREAT
すればよい。そして自らの内で対立する二つのものを結びつ
VEHICLE"―(1994年、大谷大学より刊行) なおサンスクリッ
ける方法を知る者として菩薩は定義される。つまり、一方で知
トの表記に関しては、フォントの都合上、簡略化している。
恵は他者を真の存在だとは認めず、他方で慈悲は他者を現
1)R.A.Delattre, “Desire,” in M.Eliade ed., Encyclopedia of Religion,
New York: Macmillan, 1987, vol.4, p.307.
実として認め、事実他者に仕えるのである。しかしながら、空
の論理においては、自他不二への洞察として慈悲は知恵に
2)C.G.Shaw, “Desire,” in J.Hastings ed., Encyclopedia of Ethics,
New York: Charles Scribner, s.d., vol.4, p.663.
還元されがちであり、ゆえにふたたび情動性は認められない
3)Ibid., p.665.
のである 47)。
4)R.A.Delattre, op.cit., p.309.
欲望、時間、空
鈴木大拙からの引用は、われわれの質問が根ざすさらに基
底的な要素にまで射程を伸ばす。欲望は現実の時間におけ
5)Ibid., p.308.
6)Ibid., p.311
7)曽我量深『曽我量深選集』第 10 巻、彌生書房、1971 年、189
頁。
る現実的区別を前提とする。つまり、欲された目的が欠如する
瞬間とそれが満たされて存在する瞬間である。しかし、この
8)Henri Martin, : “Désirs,” in C.Baumgartner ed., Dictionnaire de
Spiritualité, vol.3 (Paris: Beauchesne, 1967), col.608.
「終末」(満たされた瞬間)を前方に見出すことは、大拙によれ
ば、時間内に存在する人間がみてしまうような妄想…なので
9)ともに以下からの引用。Ibid., cols.621 and 607.
ある。したがって、時間は人間を厳然と存在せしめる構成要
10)Thomas Merton, Zen and the Birds of Appetite, A New Directions
Book, 1967, p.31.
素ではなく、欲望によって打ち立てられた幻想夢にすぎない
のである。時間が妄想ならば、欲望に肯定的な実在性は与え
11)Grace Burford, in R.E.Buswell & R.M.Gimello eds., Paths to
られず、さらに付け加えるならば、成仏への「道」にも実在性
Liberation, Honolulu: University of Hawaii Press, 1992, p.48.
は与えられないのである。
12) 以下か ら 引用。 Masao Abe, Zen and Western Thought,
Honolulu: University of Hawaii Press, 1985, p.79.[訳註:英文原
稿からの直訳。阿部は鈴木大拙の次の書から引用しているが、
背景たる絶対者
欲望を評価する際に見出される相違の最も奥にある背景幕
その書のなかで大拙は該当箇所を現代風に意訳した旨を註
は、明らかに絶対者の概念における違いである。つまり、一方
記している。D.T.Suzuki, Zen Buddhism and Psychology, 1960,
において行為として存在し、欲望をもち、愛する人格。それは
p.69.]
人の心のなかで働く欲望を通じて人を引きつける。また他方
13)木村泰賢『真空より妙有へ』甲子社書房、1929 年、207 頁。[訳
註:英文原稿からの直訳]
では空としての存在。そこではまったく澄みきった知恵にお
いてあらゆる欲望も、行為も、愛もが中性化されてきた。また
14)Han de Wit, Contemplative Psychology, Pittsburgh, PA:
Duquesne University Press, 1991, p.224.
は、いかなる目的や投影や目標によっても限定されない純粋
な意識。それは人を引きつけることはかなわず、むしろあらゆ
15)Zuimonki VI 2[訳註:岩波文庫版(懐奘編、和辻哲郎校訂『正
る行為や欲望からまったく「隔絶」することによって「悟られ」う
法眼蔵随聞記』岩波書店、1929 年)、第五、二、107 頁]。
るものである。
Dōgen, Record of Things heard, trsl. by Thomas Cleary., Boulder:
Prajna Press, 1980, p.89.---ドナルド・ロペスが指摘するところで
44
ヤン・ヴァン ブラフト (寺尾寿芳 訳):仏教、キリスト教、浄土真宗における「欲望」―語法の比較研究―
は、煩悩という思想において仏教者は、より古い儀礼宗教が
29)Dōgen, Zuimonki, III, 11 and 17. [訳註:岩波文庫版、第二、十
持っていた「汚穢―純粋に対して基礎的な一連の反対」を示
四、58 頁、および、第二、二十、64 頁]
している。つまり、欲望は「心の純潔」を犯すが、それはほとん
30)曽我量深『曽我量深選集』第 1 巻、120 頁。
どなにか「有機・器官的」なものとしてである。(Cf. Donald S.
31)ひろさちや『大法輪』1993 年 2 月号、84[・85]頁。リース・デイ
Lopez, “Paths terminable and interminable,” in Buswell and
ヴィッズ(op.cit., p.668)も同意見である。「欲望の対象が満たさ
Gimello, op.cit., pp.155-157.)
れても満足が長続きしないときにのみ、欲望は危険をもたら
16)R.A.Delattre, op.cit., p.308.
17)Luther Askeland, “The God in the Moment,” in Cross Currents
すのである」。
32)Dōgen, Zuimonki, VI, 21.[訳註:岩波文庫版、第五、二十、126
40/4 (1990), p.463.アスクランドはこの考えをはっきりと有神論と
して展開している。
18)Dōgen, op.cit., VI 21, p.106.[訳註:岩波文庫版、第五、二○、
頁]
33)Ibid., IV, 8.[訳註:岩波文庫版、第三、十、80 頁]
34)Musō Soseki, Poems and Sermons: Sun at Midnight, trsl. by
W.S.Merwin and Sōiku
125-126 頁]
Shigematsu, San Francisco: North
Point Press, 1989, p.149.
19)次の書中に引用された黄檗の言葉。Christmas Humphreys ed.,
The Wisdom of Buddhism, London/Doblin: Curzon Press, 1979,
35)Ibid., IV, 8.
p.188.
36)Dōgen, Bendōwa(以下の翻訳から引用、N.Waddell and Abe
20)D.T.Suzuki in Thomas Merton, op.cit., p.134.
Masao, in The Eastern Buddhist, Vol.IV/1 (1971), p.144)。[訳
21)Grace G. Burford, op.cit., p.56.
註:訳文は『道元』上(日本思想大系 12)岩波書店、1970 年、
22)Ibid., p.58.
20 頁より引用]
23)Abbot Obora, “On the Heart Sutra,” in Trevor Leggett, The
37)Cf. The Zen Teaching of Huang Po, in Chr. Humphreys, op.cit.,
p.188.
Tiger's Cave, London: Routledge & Kegan Paul, 1977, pp.91
and 100.
38)Carl Bielefeldt, op.cit., pp.150-151.
24)Ibid., p.52.
39)C.A.F.Rhys Davids, op.cit., p.667.
25)P.B.Yampolsky, The Platform Sutra of the Sixth Patriarch, New
40)Dōgen, Zuimonki, III, 11[訳註:岩波文庫版、第二、十四、59
York: Columbia University Press, 1967, pp.160-161.[訳註:『国
訳一切経』和漢撰述部諸宗部九、大東出版社、1988 年、
頁]
41)Edward Conze, Buddhist Thought in India, Ann Arbor: The
University of Michigan Press, 1967, p.67.
140-141 頁]
26)A.L.Herman, in Philosophy East and West, Vol.29 (1979),
41-b)Ibid.[訳注:英語版原文に本註なし。原著者の指示で挿
pp.93-94.
入。]
27)Carl Bielefeldt, in R.Buswell & R.Gimello, op.cit., pp.493-494.
42)Ibid., p.58.
**)訳註:訳文は、中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のこと
43)R.Buswell, “Marga and the ‘Anti-Marga’ Tradition in Buddhist
Thought,” in R.Buswell and R.Gimello, op.cit., pp.24 and 27.
ば』岩波文庫、岩波書店、1978 年、から。
28)C.A.F.Rhys Davids, “Desire (Buddhist) ,” in J.Hastings, op.cit.,
44)Ibid., p.27.
Vol.4, p.668. よりはっきりした表現が、たとえば、次の箇所にも
45)R.A.Delattre, op.cit., p.307.
見て取れる。Santiveda's Bodhichariyavatara:「ゆえにわたしは
46)Sramanerikā Dharmaraksitā, in Rena de Nerval ed., La Présence
煩悩を打倒することから身を引こうとは決して思わないし、煩
du Bouddhisme, Paris: Gallimard, 1987, p.194.著者はそこでは
悩と全力で闘うつもりだし、激しさに身を震るわせてあらゆる
次のようにもいう。「キリスト教においては神学的美徳という威
煩悩と闘ってみせる。ただし、煩悩を破壊しようとする情熱だ
厳を勝ち得る欲望と希望は、不純である(klesa, āsrāva)。その
け は 話が 別で あ る 」 。 ( E.A.Burtt, The Teachings of the
目的が涅槃や仏性獲得であってさえそうである」(p.194)。―
Compassionate Buddha, New York: New American Library,
欲望が不純だという見解に関しては、以下を参照のこと。
1955, p.137 より引用)
Donald Lopez in R.Buswell & R.Gimello, op.cit., pp.154-157. 著
45
ヤン・ヴァン ブラフト (寺尾寿芳 訳):仏教、キリスト教、浄土真宗における「欲望」―語法の比較研究―
者は次のように述べている。「汚穢と純粋というヒンドゥー教に
おける二要素の基本的対立は仏教においても保持されてい
る。身体的領域から心理的領域へと移行されてはいるが」。
47)この点に関する東洋の宗教とセミ系宗教との違いに関して示
唆深い言及をしている文献が存在することを、筆者はジェー
ムズ・ハイジックから教えられた。John Burbidge, Being and
Will: An Essay in Philosophical Theology, New York: Paulist
Press, 1977.それによれば、著者が提起するのは、各世界観に
統一性を与えようとすれば、この二者は異なる「原理的類比」
のもとで機能するということだ。つまり、東洋の宗教は存在の
類比を伴い、セミ系宗教は意志の類比を伴う。思考の東洋的
在り方についてたとえば著者が語るには、「存在の究極的真
理を正しく表現することは、欲望や意志を超克することであら
ゆる区別を捨て去ろうと決意することである」。(p.85)
※Jan VAN BRAGT、南山大学名誉教授
〈訳者後記〉
本訳稿では原著者ヤン・ヴァン ブラフト師に筆削の労をお執りいた
だいた(1996-1997 年)。ここに記して感謝の意を申し添えさせていた
だきたい。文意不明瞭な点および誤訳の責任がひとえに訳者にある
ことは言うまでもない。
46
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