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第一部 内蒙紀行

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第一部 内蒙紀行
第一部
内蒙紀行
モンゴル仏教研究生の足跡を訪ねる
モンゴル仏教研究生壮行会
(昭和 14 年2月 右端高橋大善師)
第一章
地図に無い寺院
わたしはパンダじゃあないわ!
北京は久しぶりである。六、七年ぶりであろうか。以前に降り立ったとき、北京空港は
拡張工事の最中であった。空港内は薄暗く、荷物の受け渡しのコンベアーも故障していて、
入国手続きが終わるまで随分の時間がかかった。今日は案外スムーズに終わり、再会を待
っていたガイドの劉さんに会えたのが夜の八時である。彼には昨年チベットへの困難な旅
をガイドしてくれた経緯があり、今日の再会は一年ぶりである。
「やあ! ご苦労さん」
「お疲れさん」
あいさつを一言で済まし、さっそく迎えのバスに乗り込む。北京空港から市内まで細い道
路が真直ぐに延びている。現在は並行して高速道路が完備している。この高速道路のつき
るあたりでレストランに入った。
旅行の安全と成功を祈って晩餐会が始まる。みんなは自己紹介をする。小父チャンはみん
なにニックネームを付けることにした。といっても今ここでみんなに発表するわけにいかな
い。もうすこし気心が知れてからが妥当であるが、命名式は第一印象をもってするのが常道
である。
小母チャンが第一声を上げる。
「私がおそらくこの中で一番歳を食っているわ、・・・」
これで決まった。この小母チャンは最長老となった。そして、隣に陣取った小母チャンが続
く。
「私の趣味はもちろん旅行ですわ。いつもお寺でお札をいただいています。今回もお札の
つづりを持ってきたの、・・・」
この小母チャン、お札さんと命名する。
「わたしは大阪から来ました、・・・・・」
見るとこの小母チャン、いやお姉さんは随分と背が高い。他の四人に抜きん出ている。この
姉さんを目印にすれば、混んだひとごみの中でも、だれも迷うことはない。陣旗さんと決め
た。最後に一番若い女性の番だ。
「私の名前は鈴木友子です。よろしく」
全く控えめの挨拶。でも命名式には十分である。彼女の名前の一文字、友を採用し、友友と
書き、ヨウヨウと中国風に呼ぶことにした。彼女の命名だけはみんなに発表した。中国の若
い人たちはその名の一文字を繰り返して呼び、ニックネームとすることが習慣となっている。
「北京公園のパンダをホンホンと呼ぶ」
そのとたんに、
「わたしはパンダじゃあないわ!」
抗議の声が返ってくる。よく説明し、やっと本人の承認を得る。みんな大賛成である。以後、
ヨウヨウは我らのアイドルとなる。
こうして命名式は一部を公表しただけであったが、無事終了した。
真言宗高野山北京別院
「北京では・・・広安門の近くで、境内一町歩位、建物数棟と云う大きな廟を摂取して報
国寺と名付け、本山から三万円ほど送金をうけて改造設備して、高野山北京別院の看板をあ
げた。その別院が、その後続々と乗り込んできた北支満蒙の開教師等の拠点となった」
(出典「宗政三十年思い出の記」野沢密全著)
北京別院の開教師たち(昭和15年5月)
昭和十二年七月、盧溝橋事件は日中開戦の発端となる。時を移さず、真言宗内局では二月
に組局した草繋全宣師を総帥とする戦時体制が発足し、中国へ開教師が送り出される。すで
に部隊付きの布教師として大陸に渡っていた森諦圓師が開教師第一号の辞令を受ける。昭和
十二年八月である。第二次は宮本光玄、味岡良戒、佐和隆恵、前著書の著者野沢密全の各師
である。野沢密全師は出発が少し遅れたようであるが、九月末、盛大な見送りのなか天津へ
出発した。そして、これらの各師の努力で北京広安門近くの報国寺内に真言宗高野山北京別
院が完成した。
同年十月七日午前十時を期して、全国の真言宗寺院は敵国降伏の大祈祷を盛大に挙行し、
真言宗界は右も左も戦時一色に塗り潰されて行く。そして、この報国寺には予想どおり昭和
二十年までの八年間、多くの真言宗僧侶が尋ね、出発して行く。中国大陸へのターミナルと
なったのである。中国に渡った真言宗の僧侶たちは開教師、モンゴル仏教研究生、華北鉄道
宣撫官、計約三百二十人に及ぶという。実際にはこれ以外の僧侶たちも多く利用したに違い
ない。
城壁のある北京
当時の北京は城壁で囲まれた都市であった。外観上は現在の西安に類似している。最初の
城郭は金代(一一一五年~一二三四年)にさかのぼる。フビライが長城を越えて華北に入っ
たとき、当時の城郭の北東数百メートルの所に新しく城郭を作った。旧城郭を中都と呼ぶの
に対し、大都と呼んだ。東西七キロ、南北八・五キロである。その南部中央に紫金城を建設
する。元朝が滅び北のモンゴル草原に引き上げたのち、明朝はこの大都を大改修した。
大都の南部をほぼ正方形に残し内城と呼んだ。さらに、内城の南にほぼこれの一辺に相当
する長方形外城を接合した。いわば呂の字の上下のロ字がくっついた形をしていた。東西約
八キロ、南北約八・五キロである。紫金城は内城の中央部に位置し、外城の中央やや東部に
天壇がある。広安門は外城の西壁の中央にあった。一九四五年毛沢東が北京入城をはたし、
共産革命の大成果を華々しく歌い上げる。毛沢東はこの城壁を全て撤去し、道路に変えてし
まった。彼の破壊癖はすでに、この時にその片鱗を見せた。
報国寺
外城広安門近くにあったはずの報国寺は現在北京の市内地図に記載がない。広安門も現在
は取り壊され、かっての姿がない。ただ広安門の名称は残っている。広安門内大街はかって
の広安門から東に延びた大街である。天壇公園の北の大街すなわち天壇路の一つ北側の珠市
口大街に続いている。広安門から天壇公園まで約四・五キロの距離がある。この広安門があ
った近辺には、寺院がいくつかあるが、現在の市内地図には報国寺の名前が見当らない。日
本が引き上げた後、名称を変えたのか、あるいは十年の動乱で破壊しつくされ廃寺となった
のか、とにかく報国寺の記載が地図・書物など、探す範囲では見当らない。不思議である。
近辺の寺院を代表してとりあえず、天寧寺と法源寺の参観を旅行社に申し込んでいた。現地
へ行って探そうとの思いからである。
出発の二週間前の日曜日、最後の調査のつもりで図書館へ出かけた。中国製の地図を片っ
端から開けたが見つからない。古い地図で、明代と清代の北京地図の複製を探し出した。こ
れには広安門は広寧門と記載されている。この広寧門から広寧大街が東に延びており、広寧
大街沿いに東約二キロの北側に報国寺の記載があった。現在も存在しているかは不明である。
さっそくこの地図のコピーを持って、旅行社に飛び込んだ。北京では真っ先にこの報国寺の
参観ができるように変更を申し入れた。ともかく、この地へ行けばなんとかなるだろうとい
う楽観的な気持ちで出発した。
旅の二日目、朝早くから我々の行動は始まる。ガイドの劉さんは報国寺が探し出した地図
の位置にあるという。幸先の良いスタートである。小父チャンは報国寺の訪問に際し、二枚
の古い写真を準備していた。昭和十五年及び十六年に日本の真言宗の若い僧侶たちがこの報
国寺で撮った写真である。報国寺がどこであったか、そして写真の現場はその寺院のどこで
あったかを確認し、できれば寺院の古老にその当時の状況を聞き出せればと期待していた。
きれいに清掃され、柱の朱も鮮やかな寺院がそれであった。このような立派な寺院がなぜ
地図にのっていないのか不思議だ。山門を入ると広い整った前庭があり、清潔な寺院のたた
ずまいが良い印象を与えてくれる。早速持参した写真を見比べながら写真を撮った場所を探
すが見当らない。寺院の人と思われる人物と話をするが要をえない。そんなことを三、四度
繰り返しているうちに、報国寺文物所の事務所にたどり着く。副主任の黄敦東氏に面会でき、
来意を話しているうちに主任とも面談できた。主任はこの寺院の管理責任者でまだ若い壮士
である。来意を話し、写真の場所を確認したいと、写真を見せる。この若い主任は即座に、
「こちらに来なさい」
私たちを案内してくれる。一般の参観人は入れない寺院の西側へと小さな開き戸をくぐると、
すぐに分かった。
「この一郭だ!」
コの字型の同じような僧坊が並んでいる。このどれかがこの写真の場所であったに違いな
い。現在は復元され、真新しい朱塗の柱や窓枠は写真の状況とかならずしも一致しないが、
その概要は正にこの位置である。私は写真をいく枚も撮った。そして、一通りの参観を終わ
るとこの主任は話す。案内された五つの庭は清代碩炎武の自宅であった。
天下興亡
天下の興亡
匹夫有責
匹夫にも責任あり
の言葉をのこしており、顧亭林祠と呼ばれた。三角型の吾妻屋式の門がめずらしい。庭園の
持ち主は一九一一年に死亡した。一九九〇年、昔のとおりに復元した。日本の真言宗の僧侶
たちが住んでいたのはここではないという。当時の状況を知る老人に聞いたところ、次のよ
うなことが分かったという。
顧亭林祠の北側に大きな建物があり、現在は事務所兼書類倉庫のようになっている。この
建物の裏に明・清代に亘って線香工場があった。その工場は三つの庭を持つもので顧亭林祠
の小型版といったものであったという。日本人僧侶が来て、この工場を改造した。日本人が
引き上げた後、中国式に変えた。そして寺院の復元工事の時、取り壊して現在は存在しない。
おそらく新築記念とした吉沢重幸師が残した古い写真の日本式住居もここの内装を日本式
に改造したものと思われる。僧侶たち六人が写したもう一枚の写真もこの庭で撮ったもので
あろう。北京別院の姿はもうない。
「貴方の持参したこの写真は素晴らしい資料だ」
「私たちは当時の資料をほとんどもっていない。出来ればこの写真と貴方の知っている当
時の事情を詳しく聞かせていただけないか?」
「私は今それにお答えするに十分な時間がありません。写真は帰国後複写し、私の知って
いる事情をまとめて一緒にお送りしましょう」
こんな約束をし、住所を確かめて別れた。小父チャンは同行の小母チャンたちの姿が見え
ないことに気が付いた。彼女たちを気遣かっていなかったのだ。周囲は市場であり人が混ん
でいる。周囲を見渡すと、いたいた寺院の遥か奥のほうに陣旗さんの白い帽子が群衆の中に
抜き出るように見える。やはり命名は正しかった。
幻の宮殿
寺院内の案内看板に寺院の歴史が簡潔に記載されている。姜主任の案内もおりまぜて紹介
しよう。
創建は遼金(十ないし十二世紀)の時代である。元が大都新城を築いたとき、城壁は北に
移り、報国寺は南城に残った。明の成化年間になって、周大后は弟の吉祥が出家したので、
報国寺の東南の隅に大慈仁寺を建てた。慈仁は女性の心、大慈仁寺は大后の心の寺である。
以後、報国寺は内外に名を知られる。現在の山門はこの当時に増築された。大慈仁寺の石碑
は壁にはめ込まれていたが、現在は庭に移されている。文字は真っ白い石に彫り込まれてい
る。
清の乾隆年代に寺院は修復され、大報国寺慈仁寺と名付けられる。名前が長いので俗称報
国寺と呼ばれた。
清代第三代皇帝雍正帝が戦死者の慰霊寺としてこの寺院内に憫忠寺を建てたが、火災で焼
けたため再建し、昭忠祠と改名した。現在の額字は袁世凱が墨書したものである。日本の靖
国神社に相当するものであった。
後、文人墨客が清代の志士、顧炎武のために寺院の西側に顧亭林祠を建てた。報国寺とと
もに栄える。境内には明代、清代の皇帝の臣僚の題刻、題記になる石碑があり、前・中・後
の三大殿建築は当時の隆盛がしのばれる。樹木は松柏、銀杏や草花が多く環境はすばらしい。
現在の報国寺の題額は不思議なことに趙子昂、王義之、李世民の三人による時代を超えた合
作である。当の額をしっかり眺めると理解できる。報国寺は第一級の中国墨客たちの集まる
幻の宮殿であったのだ。
新中国成立後、報国寺は糧食部の事務所になる。現在国内貿易部中国商報社、中国商業出
版社などの職場となり、報国寺管理委員会が管理している。当寺は格式が高く一般の人は参
観できなかった。一九九七年七月対外開放され多くの人が参観できるようになった。私たち
はまさに絶好のタイミングで参観できたことになる。現在寺院内には事務所のほかマーケッ
ト、展示場、安売り市があり、報国寺文化市場と呼ばれている。
地図に無い大寺院
報国寺が地図に載っていない、と先に述べた。その理由がこれで解った。この寺院は解放
後政府の糧食部が事務所として利用している。我々が見学したときも、「中国商報・・」、
「北京商界・・」といった看板が目に入る。境内では「世界貨幣展」、「報国寺市場」とい
った事業が行なわれており、寺院としての役目は現在ほとんどなく、デパートの一画といっ
た人出である。政府の重要な機関、事務所は地図に記載していないようだ。こんな推測をし
て、ガイドの劉さんに確認したところ、つぎのような返事が返ってきた。
「そうです、そのとおりです。貴方が参観を希望している、大懐仁堂は中南海にあるよう
です。私もずいぶん探したが、同じ理由で地図に記載がないのです。この大懐仁堂は現在も
政府の重要な機関が使っているようで内部の見学も、近寄ることも簡単ではありません」
この大懐仁堂の見学をあきらめざるをえない。中南海の更に詳しい位置だけでも知りたい
と、旅行前にもずいぶん探し、旅行中にも時間を見付けては書店に潜り込んだ。だが、どの
地図、書籍にも大懐仁堂の記載はなかった。
今回の旅行の最後の日、外人客相手の北京の書店に潜り、臼井武夫氏著「北京追想」を何
気なくパラパラとめくっていると、これに大懐仁堂の記載があった。正確な位置と当時の状
況が記載されている。北京に来て、日本人の著書の中に大懐仁堂を見付けたのである。変な
めぐり合わせだが、この件についても十分満足であった。この大懐仁堂と僧侶たちとの関係
については第十章で述べる。
七人の若い密教僧たち
昭和十四年(一九三九)四月、京綏鉄道を北上する客車の一遇で七人の若い男たちがにぎ
やかに話している。言葉は日本語である。服装からみると軍人ではない。頭に密着した鍔の
ない丸い帽子、詰め襟だが下は寸胴の黒いワンピース、モンゴル人や中国人には彼らがモン
ゴル仏教僧(ラマ、喇嘛)の服装であることが一目で解る。彼らは四月、日本を出発し、門
司、釜山、天津を経由し、一週間かけて北京別院に着いた。休む間もなく次の日には厚和へ
向う京綏鉄道に乗ったのである。
この彼らは昭和十四年三月高野山中学などを卒業と同時に高野山モンゴル仏教(俗称ラマ
教とも言う)研究本部第一回研究生となった学徒たちである。
「明日から蒙古へ行け」
「モンゴル仏教を学んでこい」
世話役の上司はそう指示した。
「行けば解る」
何が解るのかは解らないが、
「行こう」
彼らは決心する。モンゴル仏教を学べるのなら申し分なしである。慌ただしい渡蒙準備の
三日間が過ぎ、今は蒙古の入り口である張家口を後にしている。若い彼らにはこれから何が
起きるのかはっきりしないが、「行けば解る」を頼りに、まだ見ぬモンゴル仏教の研究本部
がある厚和へと気持ちは移っていた。七人は名和川勝芳、田尻隆昭、今川海憲、内野泰叫、
近藤廉祐、根本和昌、神山憲雅の十八歳から二十歳の若い僧侶たちである。この内、今川海
憲師は昭和十三年開教師として報国寺に入っていたが、モンゴル仏教研究生に志願した。七
人にはモンゴル行きを自分なりに納得させる理由があった。口うるさい親から離れたい。兵
隊に取られるよりましだ。親の仕送りもない身では行くしかない。田舎の坊主では先が知れ
ている。新しい何かがあるだろう。何か思いっきりやってみたい。モンゴル仏教に大きな夢
がある。七人七様の理由を胸に秘めていた。
日中戦争の発端
当時の中国と日本の状況を見てみよう。
満州の抗日戦線は激化していく。蒋介石の信任を得た抗日戦線の頭目張作霖は日本軍の標
的となった。一九二八年六月三日、北京から奉天に移動する列車ごと爆破される。日本軍の
画策である。息子の張学良は張作霖の死を隠し、反日・抗日運動を全満州に広げ、国民党の
勢力を奥深く浸透させた。日本軍の画策は失敗し、日本軍の焦燥感はますます膨らんでいく。
一九三一年六月二十七日、参謀本部の中村大尉が中国軍に殺された。この後も日中間で小
さな衝突が続く。一方、満州では昭和七年(一九三二)三月一日、清朝最後の皇帝溥儀を執
政とする満州国が中国からの独立を宣言した。日本の満州植民地政策が完了したかに見えた。
昭和十一年(一九三六)十二月十二日、張学良は西安で国民党の領主蒋介石を一時監禁し、
国共合作を進言した。蒋介石はこれを取り入れ、抗日民族統一戦線ができ上がった。中国は
全人民が一致して日本軍と戦う体制を整えた。
一九三七年七月七日、北京の西方十キロ近くの蘆溝橋付近には中国軍と日本軍が睨み合っ
ていた。日本の小隊が中国軍の面前で夜間攻撃の演習を行なった。中国軍に対する嫌がらせ
であり、挑発行為である。中国軍は数発の弾丸を撃った。演習を中止し点呼した日本の小隊
には兵隊が一名欠けていた。これを好機と見た日本軍は大騒ぎを始めた。廬溝橋事件の発端
である。南京にいた蒋介石もびっくりする。負けじと同じように大騒ぎを始め、軍隊を北京
に向かわせる。その大騒ぎが佳境に入ったころ、欠けていた一人の兵隊がひょっこり現われ
た。道に迷っていたのだ。
七月二十八日早朝、日本軍は中国に対して総攻撃を開始した。北京周辺の日本の支那駐屯
軍は一斉に南下を始める。時期を同じくして、日本は上海にも軍隊を送り込み、南京、漢口
めざして進撃を開始する。日本と中国は本格戦争に突入する。
チャハル作戦
支那駐屯軍は平綏線にそって軍を進め、張家口攻略をめざす。内蒙古の領有を開始したの
である。ところが北京の北の八達嶺でくぎ付けとなる。満州にいた関東軍が支援に乗り出し
た。承徳を発した一隊は北に回り、八月五日多倫、八月八日張北、と快進撃を続け、張家口
を北から攻める要点である萬全の渓谷でくぎ付けになる。張家口で二隊が合流したのは八月
二十七日であった。兵力を増強し三個師団となって平綏線にそい西進し、九月十三日大同、
九月二十四日平地泉、十月十四日綏遠(厚和)、十七日包頭に到達し、包頭の西、五原を挟
んで傳作義軍と睨み合いとなった。
モンゴルの特務機関
当時、陸軍の特務機関は内モンゴル在住の全ての日本人を管理していた。軍または政府の
要人以外京綏鉄道(北京ー張家口ー大同ー厚和)以北へは入れなかった。また特に、張家口
以北はだれでもという訳にはいかなかった。張家口以北へ入る者は何らか特務機関と関係を
持っていたといってよいであろう。背番号には特務機関の番号が付されていたのである。商
用で北上する人物にも、宗教者であってもその例外はない。本人がそれを知っていたかどう
かは別問題であった。モンゴル仏教研究生の七人は厚和にあった陸軍特務機関の嘱託となり、
語学専修生の肩書きで京綏鉄道を越え、草原地帯へ入ることになっている。彼らは張家口に
来て、自分たちがモンゴル仏教の研究生であるとともに、モンゴル語専修生であることが解
った。彼らは厚和に着くとまず始めに特務機関長小倉少将、補佐官末松少佐へ挨拶に出向い
た。
当地のモンゴル人はモンゴル仏教の僧侶をラマと呼び一目おいていた。また、仏教をボル
ハン・ノ・シャージン(仏の教)と言い、ほとんどのモンゴル人は敬虔な仏教徒である。ラ
マに対する尊敬の念が強かった。ラマであれば通常その出所を問われることなく、モンゴル
の奥深くまで比較的自由に通行できる。したがって、特務機関の何人かはラマになりすまし
た。もちろんそれなりの語学と教学と修業を積むのである。そして、当然モンゴル仏教研究
生もラマに成り切ろうと努力した。周囲の状況がどうであろうとも、モンゴル仏教を身につ
けることが彼らが納得できる渡蒙の目的の一つである。彼らの方が特務機関の者たちより早
くしかも完全にモンゴル仏教を身につけることができた。
七人の真言宗の若い僧侶たちは自分たちの置かれた状況を理解するのにすこし時間を必
要とした。しかし、若い彼らは何の屈託もなく一途にその環境のなかに溶け込んでいく。若
さはかけがえのない力である。
第二章
百霊廟の悲願
7人のモンゴル仏教研究生 昭和14年4月
中国風の中華丼
北京からフフホトまで夜行列車に乗る。最長老の小母チャンやお札さんは以前夜行列車を
利用した経験もあり、まことに和やかな雰囲気で乗り込む。二段ベッド二組が個室となって
いる。さっそく四人の女性たちは一つの部屋を占領する。しばらくすると、ガイドの劉さん
が悲痛な声をあげた。
「食堂列車が無い!」
「最近なくなったようだ。代わりに駅弁と焼き鳥の車内販売がある。これで夕食にしよう。
キットおいしいよ」
私たちは旅のアクシデントもまた良いとばかりに、全く気にせずにいた。しばらく行くと
太陽が西に沈む。その大きな太陽と、濃い黄色にみんな見とれている。中国の大地に沈みゆ
く太陽をみんな思い思いに眺めていた。写真を撮る者もいる。フラッシュが光る。この広大
な大地で、なんのためにフラッシュをたくのかと小父チャンはしばらく考えるが、答えが出
ない。そんなことにおかまいなく、濃褐色に変色した大きな太陽は山の稜線に沈んでゆく。
列車が右折して太陽は見えなくなった。みんなは部屋に集まりこれから始まるモンゴル草原
の旅に話を弾ませた。車内アナウンスがある。
「長城が左手に見え、ライトアップされている」
われ先にみんなはまたまた窓にしがみつく。山の尾根にそった長城の一部が照らし出され、
山の間に間に見え隠れする。幻想的な思いに引き込まれる。こんな大きなショウーは中国以
外では目にできないであろう。この世界一大きなショウーが終わって部屋に戻ると、劉さん
が駅弁のサンプルを買って来ていた。
「焼き鳥は売り切れで無い」
あきらめ顔で、駅弁のサンプルを見せる。ふたの付いた透明のポリ容器に、ご飯の上に中華
料理が乗っかっている。日本では中華丼という。ここは中国であるから中国風中華丼という
のが正しい。その中国風中華丼の具の部分が心なしか少ない。また見た目が、今夜の夕食に
してはあまりにもかわいそうだ。みんなそんな目で中国風中華丼という奇妙な名の駅弁を眺
めていた。すると、部屋の隅に座っていた最長老の小母チャンが元気よく提案する。
「即席ラーメンがたくさんあるの、これを食べようよ」
この一言で、旅行二日目の晩餐会のメイン・ディッシュは即席ラーメンと決定された。はて
さて三日目の晩餐会が思いやられる。それでも、
「ワイワイ、ガヤガヤ」
みんなは元気に晩餐会の準備に取りかかった。
緑の城
フフホトはモンゴル語で緑の城の意味である。何とも郷愁をさそう。大草原の青と空の紺
碧と相まって私たちが思いを馳せるに十分な名称である。内モンゴル自治区の省都である。
古く帰化城と綏遠城が接近して建設された。日本軍が進駐して厚和と呼ばれるようになった。
厚和は中国語読みでホウフに近い発音でフフホトのフフによく似ている。日本人にしては良
い漢字をあてたものだと思う。現在、中国語漢字で呼和浩特の字をあてている。モンゴル人
はホウフホトのような発音をしている。日本語にはない発音で少し練習しないと正確な発音
にならないようである。ホウ、ホウと口の奥でフクロウの鳴声を二度繰り返し、最後にホト
と落ちを付ければ十分に通じる。通じなければ野性のフクロウの鳴声を実際に聞いて見たま
え。
包頭ー厚和ー張家口ー北京間の京綏鉄道は華北から蒙古への重要な幹線鉄道である。有史
以前からこのルートは軍事面のみならず中国と蒙古の交流路の使命を担ってきた。古来、西
域と中国との交流路はシルクロードがその主流であった。敦煌ー蘭州ー西安ー北京に到るル
ートは日本の正倉院で終着する。このシルクロードの他に上に挙げた蒙古の草原を迂回する
回廊がある。蘭州から黄河に沿って北上し銀川(寧夏)を経て、黄河が一番北辺を流れる五
原で東に折れ、包頭ーフフホトー張家口ー北京へのルートである。この迂回ルートは張家口
で長城を潜り、一気に南下して北京に到る。このルートが黄河の北を迂回することから黄北
ルートと呼ぶ。北京に皇帝が君臨した時代にはこの黄北ルートが栄えた。ジンギスハーンも
このルートを利用して中国を攻めた。元、明、清の各時代に亘ってこの黄北ルートは華北へ
の主要物流路の一端を占めた。
写真の裏書
雲王は当時内モンゴルを統括する覇者であった。しかし、彼は一九三八年三月二十四日死
去した。そして、四月十八日蒙古連盟自治政府葬が行なわれた。
その後内モンゴルの政権を握った徳王は一九三九年九月一日蒙古連合自治政府を樹立す
る。チャハル盟以北の内モンゴルの北半分をその管轄内に入れた。関東軍の後押しがあった
のだが、徳王の願望は一歩前進する。この十日前、すなわち八月二十日、徳王は外モンゴル
の独立を完成させたスフバートルを、あるいは雲王を追悼し、モンゴル人民に団結を呼び起
こそうとした。そして、徳王は外モンゴルを内モンゴルに吸収してモンゴル国の再建を、そ
してジンギスハーンの再度の栄光を我が身でつかもうと策略する。この日の追悼会は全モン
ゴル人に一つの民族意識を高揚させる下工作であった、と考えるのは考えすぎであろうか。
ともあれ徳王にとって重要なこの追悼会にモンゴル仏教研究生五名は参加した。吉沢重幸師
は当時の状況を一枚の写真に残した。序章で紹介した写真である。その写真の裏書きには次
のような記載がある。
昭和十四年八月二十日
蒙彊厚和舎力図召 延寿寺本堂ニテ、クロバトル将軍追悼会ヲ執行スルニ当タリ、政府
主席徳王各委員長以下各機会市民数千人参列スル
僧侶関係 日本喇嘛研究生
高橋大善師
内海勝慧師
民岡秀海師
小野昌道師
吉沢重幸師
西本願寺開教師
藤谷師外二名
外各地ヨリ来舎ノ喇嘛僧十七名
タアラタ二名
政府側ノ葬儀委員 舎先生外一名
舎力図召
フフホトを代表する寺院は五塔寺、大召、そして舎力図召である。この三つの寺院はほぼ
近い位置にあり、参観に適している。私たちの目標はモンゴル仏教の研究本部があった舎力
図召である。埃っぽい大南街を東に三~四十メートル入った横丁に古風な山門があった。そ
の中央に掲げられた額に「延寿寺」とある。十年の動乱時、破壊を免れたのだろうか、建物
も色彩も古く重量感をそのまま残している。
門前町も古風なたたずまいだ。中には朽ちかけた家屋もなくはないが昔の賑やかさが目に
浮かぶ。モンゴル仏教研究生もこの街角で時には青春を楽しんだであろう。その一角から哀
愁を含んだ胡弓の響きが伝わってきた。舞台装置はまさに六十年前とピッタリだ。音楽好き
なヨウヨウはいたたまれなくなり、
「先生!」
小父チャンを呼ぶ。
「あの胡弓を聞きに行っていい?」
「いいよ、行っといで」
中国語の日常会話に慣れた彼女はその出で立ちまでがまるで横丁の中国少女である。一人
町並みをぶらついても全く心配はない。ヨウヨウは嬉々としてその胡弓の響きの中に一人消
えていった。
小父チャン、小母チャンたちは古風な山門に入る。右手に鐘楼があり、お経をスピーカか
ら流している。中門まで約七十メートル程あり、左右の僧坊は土産物の売店になっている。
中門をくぐると、さらに約七十メートル先に大殿が見えた。幾度も写真でみていたその大殿
である。落ち着いた朱色の柱が等間隔にならび、中央にチベット仏教独特のいらかが目に付
く。
舎力図召は明代の隆慶、万歴年間に建立された。一六九六年、葛尓丹の乱に康煕帝が出兵
したおり寺院挙げて協力した。その功績を認められ、康煕帝より報奨として延寿寺の名称を
賜った。その後何度か改修を重ねている。フフホト市では明清以来もっとも著名な寺院とし
て今日に及んでいる。多くの建造物は中国風とチベット風を取り合せた形式でその美しさは
内モンゴル随一である。
舎力図召の召は中国語で「ザオ」に近い発音をし、モンゴル語で廟、寺の意味である。当
時の日本人はシレート・ジョウと発音していた。現在日本ではこのお寺をシレート・ザオと
呼んでいる。
近くにいる若いラマに質問を投げ掛ける。
「活仏がいるから彼に聞け」
居場所を教えてくれた。大殿の左角の門をくぐると「度母殿、古仏殿、観音殿」の案内看
板がある。右に曲がって路地を抜けると「呼和浩特市仏教協会」の看板のかかった山門があ
った。この山門を入ると活仏府である。その正面の広い庭を突き抜けて、正面建物に入る。
来意を告げると、右手の部屋に案内された。でっぷりとした、色黒で五十歳前後の人物が立
派な事務机に座っていた。さっそくお札さんはお札のつづりを胸に抱いて、サイン請求のタ
イミングを待っている。小父チャンは来意を告げ、持参した写真を見せる。
「この写真の裏書きには一九三九年舎力図召で、徳王がクロバトル将軍の追悼式を行なっ
たと記されています。この場所は舎力図召のどこでしょうか?」
彼はその写真を見ていたが、米粒ほどの人物を見ようと天眼鏡を持ち出した。しばらく眺
めて、
「これはシラムレン廟ではないか」
側にいた従者がシラムレン廟は活仏の避暑地だと説明する。
「では、クロバトル将軍を知っていますか?」
しばらく考え、またもう一枚の五人のモンゴル仏教研究生の写真を一通り眺める。
「クロバトル将軍は知らない。この寺に日本のラマが居た事は聞いている。日本軍はこの
召に進駐はしてこなかった」
「私は一九四三年の生まれで、一九五六年に活仏としてこの寺に来た」
「詳しいことはこの寺の長老に聞いてくれ」
一人の老人を紹介してくれた。
「いまから別の会議があるので」
彼は席を立つ。写真を撮り握手をして別れた。彼はフォード車を駆って、埃っぽい町並み
に消えて行った。活仏は舎力図召十一世活仏で呼和浩特市仏教協会の会長である。彼の名刺
にはカルウエン・ザムス(可尓文・扎木蘇)と書かれていた。
従者の説明によると、シラムレン廟は昭河廟とも希拉木楞廟とも後舎力図召とも称されて
いる。延寿寺は前舎力図召とも称する。すると、吉沢重幸師が舎力図召とシラムレン廟を混
同していたとしても不思議はない。写真の裏書きをしたのは、最近のことと思われるからだ。
活仏が紹介してくれた古老の名は旺斎克という。七十歳を越えている。活仏がシラムレン
廟ではないかと言った写真を示して質問する。目が悪いのでと言いながら二枚の写真を窓際
に持って行きながめる。
「この写真はどこですか?」
「舎力図召だ。屋根の構造やいらかの形がそっくりだ。一九四〇年ころ、大きな法会があ
ったことを覚えている」
彼はきっぱりと言った。
「クロバトル将軍は知らない」
首を横に振る。天眼鏡でしばらく眺めている。
「タジリ・バクシは背の高い人だったよ」
持参していた別の写真を見せると、この人だとうなずく。
「高橋大善を知っている」
「ネモトというバクシも知っているよ」
「モンゴル仏教研究生たちは、本殿の東側に住んでいた。当時は二棟の建物を使っていた。
現在はラマの食堂になっているよ」
さっそくその建物に案内を請う。大殿の東側の僧坊に案内してくれた。私たちが若いラマ
に質問した場所である。僧坊に入ると、二、三人の若いラマが昼食を取っている。奥には大
きな鍋が二つあり、中年の女性が食事の準備なのか忙しそうに働いている。
「下にはベッド、上には仏壇、常に三人前後の日本のラマがいた」
「日本喇嘛教研究本部の看板がここにこんな風にかかっていた」
右から三つ目の柱の前で、両手で看板の大きさを示した。
「読経は日本人ラマと合同でよくやった」
「日本人ラマは日本の僧侶の服装をしていることもあった」
「この写真の位置はどこですか?」
研究生五人が並んだ写真を老人に見せると、横からのぞき込んだ若いラマが、こっちだと
足早に歩いて、指をさしている。そこへ足を運んで解った。研究生が使っていた、僧坊の前
の碑亭の右側にならんで撮ったのだ。後の白塔は位置が合う。写真機の視角があえば白塔の
大きさも一致する。
「碑亭の柱がこれなんですね」
大きな建物の角が写っていると思っていたが、実は石碑の碑亭の柱だったのである。碑亭の
板状の囲いが現在は鉄の棒の囲いになっている。
別の老人ラマが会話に参加する。旺ラマより若干若い。
「小さいとき日本人ラマに日本語を教わったことがある」
研究生五人が並んだ写真をみせる。しばらくのぞき込んでいたが、驚いたように、
「この人のようだ」
吉沢重幸師を指さした。そして、またのぞき込んだ。
「間違いない」
うなずいている。
「最後の日本人ラマが兵隊に取られた。かならず廟に帰ってくるといって、出ていったが、
帰ってこなかった。その後、日本人ラマはいない」
バクシン異聞
旺斎克師は田尻師や根本師をバクシと呼んだ。バクシはモンゴル語で「~さん」という軽
い敬称である。ルーツは元の時代にさかのぼる。モンゴル部族は理屈より実用を旨とした。
西欧の宗教にも通じていたモンゴルの歴代皇帝は中国の宗教の選定に当たって、その長老同
志に論争をさせた。一二五五年第二代のムンケ・カーンはカラコルムの万安閣に、仏教の代
表として少林寺の長老と道教の主管道士を招待し論争をさせる。また元朝初代皇帝フビラ
イ・カーンも同様の論争をさせる。いずれも仏教が勝利を収める。歴代の皇帝はチベット系
の仏教のラマの行なう魔術のような祈祷を高く評価した。そして、ラマを博士、中国語でブ
ゥシと呼んだ。これがバクシとなまって定着した。
モンゴル仏教研究生はバクシをもって呼ばれ、またニックネームも付けられた。豊かな不
精ひげを蓄えた笹井敬仙師はサハルティ・バクシ(おひげさん、ひげの先生)と愛称で呼ば
れた。酒を欠かしたことのない根本和昌師はアルヒネ・バクシ(飲んべえさん・酒の先生)
と一目おかれていたことは特に有名である。ちなみに、中国系仏教(青教)の僧侶を和尚、
儒者を秀才、道教士を先生と呼ぶ習わしがこの時代に生まれた。そして現在一般に男性を先
生と称している。
モンゴル仏教僧
昭和十四年一月二十九日、下関で関釜連絡船を下船する一人のモンゴル仏教僧の姿があっ
た。小柄ででっぷりとした体を詰め襟ワンピースで包んだ独特のスタイルはごった返す波止
場のなかでも人目を引いた。左手に大阪朝日の腕章をはめた男とカメラを持った男がそのモ
ンゴル仏教僧に近づく。しばらく腕章の男と僧侶は話をし、カメラマンは何度か写真のフラ
ッシュをたいた。
三人は山陽本線下関駅へと足早に歩く。同じ列車に乗る人の波にもまれながら、大声で話
しだした。
「これからどこへ行くのですか?」
「高野山へ帰ります」
「高野山でだれに会うのですか?」
「まだ、決まっていません」
雑踏の中を歩きながらの会話は要を得ない。まずは、列車に乗り席についてからと、三人
はホームへと急いだ。
翌日一月三十日の朝日新聞に次のような記事が載った。モンゴル仏教僧が列車の窓から笑
顔をのぞかせた一枚の写真が添えられている。
【大阪朝日 一月三十日】
眠れる三十萬蒙古民族の覚醒を促すべく単身渡蒙、帰化城舎力図召に日本高野山金剛峰寺
の廟を開き喇嘛教徒の群れに身を投じていた兵庫県神崎郡川辺村出身大阪築港高野山法師
高橋大善師は二十九日朝入港の関釜連絡船で下関上陸同朝八時五十分発急行で大阪に帰山
したが、喇嘛教僧姿高橋師は語る。
我々宗教家には宗教を通じて大陸啓蒙の重大使命があります。私は在蒙一ケ年、喇嘛教
徒と共に黒麺、ツヨウミなどを食し霊廟に起伏していました。これから本山に帰り教僧二、
三十名をつれて再び蒙古に帰り西蔵依存に終始する蒙古民族を宗教の力で日本依存に転向
させ日本文化を伝えて彼らの迷妄を覚ます覚悟です。=写真は下関駅より東上の高橋大善師
(下関要塞司令部許可済)
高橋大善の悲願
高橋師は宗教家としての悲願を持っていた。真言密教の根本を知ろう。そのためにまず、
モンゴルに渡りモンゴル仏教を修める。同時にモンゴルの宗教も改革し、人民を覚醒する。
これが彼の悲願であった。
「轉法輪」なる名簿がモンゴル仏教研究生の一人、民岡秀海師の母寺、兵庫県三木市の法
輪寺に保存されている。昭和二十年十一月二十一日発行、総本山金剛峰寺教務部編集である。
「支那事変の末期、宗団法が施工され、合同大真言宗が生まれ、それまでの大師教会が大
師講本部の名称の下に金剛峰寺の一翼として、新発足することになり、従来教会のなかに存
って、宗旨の第一線に活躍した古義真言宗布教師会なるものが解散の運命に逢着したのであ
る。・・・」
その教師会の名簿が轉法輪であり、合同真言宗が解散される直前に出版された。高橋大善
師が顔写真とともに紹介されている。
1姓名
高橋大善
2現住所 蒙古厚和日本喇嘛研究本部
3教階
輔教
4現任
蒙古開教監督
5履歴
関西大学法学部文学部卒、支那開教師、従軍布教師、
支那開教教務所
参事、蒙古開教主任、興亜局理事
6趣味
ラクダノ旅
7希望
現在ノ蒙古開教ヲ一歩前進シテ西蔵オモ本宗ノ開教
栄圏北方ノ翼ヲ確立センコトヲ希
圏ニ容シ、東亜共
ム
壮大な希である。一人でできることではない。まずは二、三十人の仲間が要る。部分的に
軍部を頼ることも必要だ。その機会を狙っていた。彼は開教師としての資格をもち、中国へ
は幾度も渡っている。そして、大学時代の同期生で蒙古連盟自治政府総務庁総務課長中島万
蔵氏と連絡を密にしていた。その中島氏からモンゴル西部、甘粛省西域、チベットの情報収
拾の緊急なることをを聞かされた。厚和の舎力図召で一年間モンゴル仏教を研究した彼はラ
マだけが比較的自由に往来できる地方であることを知っている。高橋師の心は動いた。彼は
即刻高野山金剛峰寺へ帰った。
第一回モンゴル仏教研究生
昭和十四年二月、高野山中学と勧学寮の生徒全員が講堂に集められた。何事かと生徒たち
は思い思いに私語していた。しばらくすると校長の吉川法城師があらわれ、高橋師を紹介し
た。
「よく聞いて、よく考え、自分の行動を決定しなさい」
という趣旨を伝えた。その後、一枚の絵はがきが各人に配られた。汽車の窓から顔をだし
た一人の僧侶らしい異国の服装をした小太りの男、高橋師の姿が写っている。その絵はがき
は先にのべた「大阪朝日一月三十日」の記事と写真である。
高橋師は若い教学の僧侶たちを前に、自分に酔うかのように説き伏せた。開教師として鍛
えた演説力は大きな説得力を持っている。涙をうかべ興奮に身を震わせる者もいる。中学、
大学、勧学寮の全生徒と全教師が聞いた。そして、「六大報」にも載せられ、全国の若い僧
侶からも募った。高野山では教諭が生徒全員に応募の意志の確認をした。
二月末、参加者と関係者が金剛峰寺にそろい壮行会が行なわれた。慌ただしく開かれたこ
の壮行会に参加できない者もいた。さっそく渡蒙の準備にかかったが、三月十日の卒業式に
出席できない者もいた。卒業式が済むと第一陣として、六名の若い僧侶たちが出発し、そし
て厚和で一名が加わったことは既に述べた。
関釜連絡船で釜山に上陸、鉄路で山海関、天津を経由して北京に入る。約一週間の行程だ。
北京高野山別院で休息するまもなく、厚和からの迎えの者の案内で蒙古に入る。第一陣の七
名は三月三十一日には舎力図召に入っていた。
四月から七月まで教育を受ける。モンゴル語、中国語、チベット教典、情報収集の方法、
モンゴルの風俗習慣そして、主に医学療法である。緊急医療、針灸の教育には時間を多く割
き、また厚和の病院に出向き授業を受ける。日本語の教育法についても講習があった。だが、
軍事訓練はまったくない。彼らにとっては身に念珠一つでモンゴルの草原に飛び込むための
激しい教育となる。この教育期間の四カ月は異境の地に体を順応させる期間でもあり、めず
らしい風物風習の体験は七人の若い僧侶には好奇心をかき立てる期間でもあった。
八月に所定の教育が終了すると、期待と不安に満ちた内蒙への配属となる。七人の配属先
は次のようであった。
名和川勝芳 シリンゴル盟
貝子廟
根本 和昌 チャハル盟
多論廟
神山 憲雅 チャハル盟
明安旗羊群廟
近藤 廉祐 シリンゴル盟
ウジムチン廟
田尻 隆昭 ウランチャップ盟 五当召
今川 海憲 ウランチャップ盟 舎力図召
内野 泰叫 ウランチャップ盟 シラムレン廟
その後も第二陣、第三陣と真言宗モンゴル仏教研究生たちは渡蒙する。昭和十六年春まで
に総数十七名にのぼる。
舎力図召にはモンゴル仏教研究本部が設置され、高橋大善師が本部長についた。竹本寛隆
師が副本部長を務め、舎力図召常勤となり総務をこなした。研究本部には後に内海勝慧師、
山原章道師、笹井敬仙師らが務めた。常勤とはならず、蒙古草原に点在する廟に入ることも
あった。
美岱召
舎力図召の西方に美岱召がある。古来壁画が有名であり、モンゴル仏教研究生も休日の一
時を見学に費やした。
フフホトを出て、西に向う。二十キロほどで美岱召に着くはずだ。フフホトから包頭へは
交通も整備されており、二車線の道路と、最近完成された高速道路、それに鉄道が平行して
走っている。高速道路では美岱召に行くのに良いインターがないのであろうか、従来の道路
を走る。北は大青山山脈の裾野につながっており、南は黄河の最北部であり、この道路と平
行して流れている。かんがいもよく行き届き、緑が多く、道端には付近で採れた物であろう
小さな杏のような果物をかごに積んで売っている。
フフホトのガイドの李さんによると、
「美岱召はこの北側の山間にあるはず、ひょっとしたらもう破壊されて何もないかも」今
まで見てきた寺院の例からしてもありうべきこととして、北側の山間にそれらしき物がない
かと眺める。もう過ぎたのかなと道路の前方をみると、丁度その時道路脇の石の道標が目に
つく。
「美岱召」
バスは右に入る。二~三百メートルも進むと、二十メートルほどの高さの城壁が目に入る。
その中央に大きな鐘楼風のいかにも中国らしい建物。この鐘楼の中程に観光客歓迎の横断幕
が掲げられている。
召の東側を川が流れており、美岱川また俗称で清水川とも称する。この近辺は水源が豊富
で、樹木も比較的よく伸びている。正面の鐘楼の前庭は小学校の運動場ぐらいの広さがあり、
土産物屋や土地の農家の者が果物を売っている。観光地の風景である。
入場券を買い、この鐘楼の下の門をくぐって、城壁の中に入る。正面には大殿がある。十
二、三人の人たちがたむろして、私たちの入城を見ている。人々に監視されながらの参観風
景にはもうみんな馴れた。左手に美岱召の案内看板があった。幾つかの建物の名称と配置が
描かれている。この看板から察すると、よく保存されている寺院である。しかしラマの姿が
ない。宗教活動は途絶えているようだ。
正面の大殿に入る。ガランドウである。大きな堂内に赤い朱塗の柱が目に付く。中央に小
さな仏像と祭壇があった。さい銭をいれ、線香を立て、両手をあわせてしばらく瞑想する。
もう、この動作にも馴れた。頭をあげて、左右の壁に目をやると素晴らしい色彩が目に飛び
込んできた。
よく見ると、復旧されたあでやかな新しさではない。建立当時の色彩がそのまま残されて
いるように見える。素人目ながら重量感の溢れた壁画だ。カメラを構えると、私の肩を叩く
者がいた。
「写真を撮ってはいけない」
乾いた、ずっけんどんな声に振り向く。四十歳過ぎの女性が首を左右に振っている。彼女
はこの美岱召の管理を任かされていると自ら言った。
「立派な壁画ですねえ」
「十年の動乱の時、仏像・祭器が徹底的に破壊された。その直後軍隊の倉庫になり、建物
は残った。明代の壁画は無傷のまま残る幸運に恵まれた」
ここは二度目の訪問だというヨウヨウが、
「以前来たときお祭りをやっていたわ」
「法事や、お祭りはやらないの?」
「現在、ラマはいない。法事はめったにない。必要なときには別の寺から来る」
「日本のラマについては何も知らない」
「この寺では私が一番詳しいのよ」
女性の管理者は胸を張る。
「この召の案内書はありますか?」
「入り口の切符売場で売っているわ」
帰りに買うことにし、境内を一巡りする。みんなは思い思いに境内に散っていった。
美岱召の創建
美岱召の案内書をひもといてみよう。
十六世紀半ばになると、モンゴル草原に帰ったモンゴル部族は封建貴族たちによる勢力争
いを始める。その中でこのトメト地方及びオルドスの地方で勢力をのばしたのがアルタン汗
(一五〇七~一五八一)である。彼はジンギス汗の十七代目である。一五四八年、四十一歳
で自ら汗と名乗り、一五七一年には明朝より順義王の称号を得るまでになった。モンゴル王
朝の再興である。当時漢族の明朝では役人の腐敗と地主の圧迫で多くの漢人は地方に逃れた。
アルタン汗はこのような漢人を積極的に取りたて、荒野の開墾、商業の推進、手工業の保護
を打ち出した。トメト地方の経済は大きな隆盛をみる。包頭、フフホト、等等の街が立ち並
び繁栄する。こうして美岱召を建立するに十分な財力と技術力が育った。
一五五六年、オルドスのモンゴル王アルタン汗はチベットを攻める。アルタン汗は当時の
最大の仏教宗派ゲルク派の教に心引かれ、一五七七年ゲルク派の僧正ソナム・ギャンツォを
モンゴルに招待した。ソナム・ギャンツォの仏教にアルタン汗は改宗し、ソナム・ギャンツ
ォにモンゴルでのチベット仏教の布教を指示する。モンゴルはチベット仏教をほとんど変形
する事なく受け入れていく。モンゴル地方に宗教的基盤が再び育ったのである。アルタン汗
はモンゴル地方に多くの寺院の建立を進めた。
この美岱召の創建には二つの説があるという。「明史記事本末」には、アルタン汗は一五
七五年トメト地方に福化城を建てた。現在の美岱召との記載があるという。また、美岱召の
城門の上に掲げられた石の額によると、一六〇六年アルタン汗の孫娘ウランピジが霊覚寺を
建立した。清代に寿霊寺と改名する。
ダライ・ラマ四世がチベットの地で宗教会の首領となると、マイダリ活仏をモンゴルの地
に布教に遣わせる。マイダリ活仏は霊覚寺で弥勒菩薩の祭事を行なった。これより霊覚寺を
マイダリ召、なまってメイダイ召すなわち美岱召と呼ぶようになった。美岱は中国語の発音
でメイダイである。
内モンゴルに建立された寺院はこの時期以降がほとんどである。そして清代にも多くの貴
族が避暑地に寺院を建立する。
武州へ
フフホトの市街地を出て北に向う。市街地の北の外れに競馬場がある。まるで宮殿のよう
な建物、堂々とした入り口。このフフホトの競馬場の雰囲気は底抜けに明るい。健康的であ
る。日本の賭博、予想屋、といった暗いイメージは全くない。モンゴル人にとって乗馬は自
転車や車と同じで、まさに下駄の替わりである。男たる者その乗馬技術を競うのは当然であ
る。この競馬場の前に自由市場があった。
「今日の水筒を買おう」
バスを停める。見物かたがた西瓜の買い出しである。市場は全くの喧騒の場、熱気がムンム
ンしている。この熱気がいいのだ。カメラを構えてもだれも気にしない。そんな暇があるな
ら、レンガのような石けんを一つでも売りたいのだ。ねじり揚げパンを売りたいのだ。二、
三枚シャッターを切る。周囲を見回すと小母チャンたちはもう誰もいない。群衆の中に飲み
込まれている。十五分の休憩時間後には皆バスにもどって来るだろう。喧騒に圧倒されそう
になっていると、いきなり後から車の警笛だ。左によけると、屋台にぶつかった。するとそ
の屋台の婆さんが、
「兄さん、何を買うのかね」
「このシャツは兄さんにぴったりだよ」
「いい色だろ!」
「安くしとくから、買ったほうが得だよ」
「こっちの柄がすきかね」
もう私の負けだ。Tシャツの持ち合わせが少ないので、使い捨てのつもりで、婆さんのお
薦めのぴったりで、いい色の、安くてお得な、柄のいいシャツを買った。休憩時間が過ぎて
いる。バスにもどると、すでに戦利品の展覧会が始まっている。ガイドさんは西瓜を二つ買
っていた。
「土地の物は味が悪いがこれは内地から持ってきたものだ!」
ポンポンと叩いて、
「いい音だ!」
自慢気である。
ここから山岳地を登る。草原の雰囲気が漂い始める。草木の背丈が低い。そして一面の緑。
チベットで見た地肌むき出しの茶色い、灰色の、無機質な平原ではない。目にやさしく親し
みを感じる。湿度が低いためか風も涼しく、日差しもやわらかい。頭上には雲一つない紺碧
の空がいっぱいに広がっている。そんな緑の高原にバスを停め、さっそく西瓜の味見が始ま
った。持ち合わせのナイフでザクッザクッと切り開く。真っ赤な果肉が目に入る。さっそく
ほお張る。生暖かいスイカも乾いた喉にはかえって爽快である。甘味も十分、空気も美味い。
気分最高。アイドルのヨウヨウが習ったことがあるというモンゴル・ダンスの歌とステップ
を披露する。みんなはしばしモンゴルの草原の中に溶け込んでゆく。
この峠を越えると武州である。北へ向えばモンゴルの大草原に入り、ウランバートルへの
幹線道路に出る。北西に向えば、丘陵地に入り我々の目的地百霊廟に至る。バスは丘陵地に
入る。緑は少なくなり黄色い砂地がむき出しである。住民は麦・じゃが芋を生産している。
馬は少なく、人力で耕している。耕した部分だけが緑である。村から離れるとまた黄色い砂
地が目に付く。こんな丘陵地を二時間ばかり北西に進む。前方のなだらかな斜面に茶褐色の
レンガ造りの人家が密集している。自由市場のようなにぎやかな通りに入る。
「このあたりだ」
バスの運転手が車を止める。ガイドさんと二人がバスの窓越しに尋ねている。どうももうひ
とつ西の通りのようだ。自由市場を直進し、一つ西の通りに入る。三、四百メートル進むと
右手に寺院風の建物があった。
百霊廟
モンゴル語でバトル・スムと呼ばれている。バトルは将軍・軍人、スムは寺院の意味であ
る。中国語ではバイリンミャオと発音する。多くの軍人の霊を祀る寺である。創建は清の康
煕年間でこの地方の王、ダルカン・ベイレイ(達尓罕・貝勒)が建てた。ベイレイの廟、す
なわち貝勒廟と呼ばれた。チベット風と中国風が混合した風格の高いラマ廟であった。乾隆
四十六年(一七八一)広福寺の名を賜った。その後、ベイレイがなまって、白林(バイリン)
廟と呼ばれ、さらに百霊廟と改められた。百霊廟の位置は内モンゴル草原の中央を東西に結
ぶ幹線道路の要地であり、古くから交易の中継地である。一九三九年、モンゴル仏教研究生
たちが内モンゴルに入った当時、百霊廟は多くの信者を集めた有数の廟であった。草原の中
に壁で囲われた大小多くの廟と僧坊を持ち、寺廟の周辺に建てた信者と交易者のパオは新興
交易都市となっていた。(出典「中国大百科辞典」)
現在、烏蘭察布(ウランチャップ)盟、達尓罕茂明安聯合旗(ダルカン・マオミンアン合
併町)の商業街。百霊廟の山門には「百霊廟喇嘛委員会」の看板が掛かっている。その山門
の右側の小さなくぐり戸を開いて中に入る。左右に白いラマ塔が二基、中央奥に本殿がある。
だが、変だ。百霊廟はこんなに小さくはない。破壊されたとは聞いているが、規模はこの十
数倍はあっていいはず。この本殿だけを再建したのだろうか。本殿の後に僧坊がみえる。一
人の爺さんが休んでいた。来意を告げ、本殿を参観させてくれるよう頼む。爺さんは鍵を捜
し出し、先になって本殿に行き扉に鍵を入れる。
内部の真ん中に大きな黄金色の仏像と祭壇がある。人間の背丈ほどの金色の仏像が五、六
体ずつ、左右の壁に並んでいる。四面の壁には仏画がびっしり描かれている。柱、梁、天井
も色彩が施されている。しかし、変だ。重量感がない。仏像にも、壁画にも、柱の色彩にも、
そして本殿の内部の雰囲気にも。
爺さんが祭壇のローソクに火を灯した。私たちは祭壇の上にある線香をとって火をつけ、
香炉に差し立て礼拝する。さい銭を投げ入れる。爺さんがドラを一つ叩く。しばらく、さい
銭の音とドラの音が続く。内部の写真をとり、爺さんと一緒に外に出る。
「いまは四十人程度のラマがいる。以前は千五百人ほどいた。その四十人のほとんどは働
きにでており寺には住んでいない」
「寺守りはわしらだけさ」
「七十歳よ、生まれたときから、ずっとここにいるのさ」
「十年ほど前に修復した。仏像も作った。絵も書きなおした」
「徳王というモンゴルの王さんを知っていますか」
「しらんねえ」
「日本の高橋大善というラマの名前を聞いたことがありますか?」
「しらんねえ」
「それじゃあ・・」
「しらんねえ」
取りつく島が無い。お礼をいいながら爺さんの僧坊に戻ると、反対側の僧坊からひげの爺
さんが出てきた。同じような質問をするが、同じ答えが返ってくる。
爺さんたちと写真を撮る。ひげの爺さんは帽子を被っている。ひげのない爺さんは帽子も
なく坊主頭である。日焼けした健康な顔色に深いしわが共通点だ。しばらくの間、わいわい
と日本語、中国語、モンゴル語の飛びかう交流である。一人ずつ握手して別れた。二人の老
ラマの名はラブサンとトヴテンと言った。
昼食のため街の食堂に向う。バスの中で小父チャンはつぶやいた。
「ドムチョク・ドンロプ」
徳王のモンゴル名を思い出したのだ。この名を言えばあの爺さんは思い出してくれたかも
しれない。
ドムチョク・ドンロプ
一九〇二年内蒙古チャハル部族王公の長男として生まれた。ジンギス・ハーン第三十一代
の直系の子孫である。幼少のころからジンギス・ハーンにあこがれ、その直系であることに
誇りと使命感をいだき、内外蒙を統一した蒙古帝国の再興を目指すようになった。一九一九
年西スニット旗の親王、一九二四年シリンゴル盟の副盟長、一九三三年には百霊廟内蒙自治
運動を興し、蒋介石に大幅な自治を要求する。蒋介石も共産党と日本軍への対抗勢力の一翼
を期待し、徳王への援助を表明する。
当時、満州への中国の支援は内蒙古を通じて行なわれていた。内蒙古は北から察哈尓、綏
遠、寧夏の三省の地域であり、住民のモンゴル人は漢民族の支配下にあった。機会あらば独
立し蒙古人の国を建設する機会を狙っていた。関東軍は徳王に近付き、軍事援助を惜しまず、
内蒙古軍を組織させる。やがて徳王は蒙古軍政府を樹立。蒋介石との対決姿勢を見せるよう
になる。百霊廟をその前線基地にしていた。
抗日運動発揚の地
以下に中国の目で綏遠事件・日本名シラムレン事件を見てみよう。(出典「中国大百科辞
典・軍事編」)
一九三六年春、日本関東軍はチャハル省の北部六県を占領した。綏遠(後の厚和、現フフ
ホト)をも手中にせんと徳王を策動し、二月、五月にまず傀儡蒙古軍総司令部と蒙古軍政府
を作る。徳王に軍隊を編成し、諸物資を準備させる。王英を司令官にし六、八月の二度にわ
たり綏遠を攻めたが成功しない。十一月の初め日本徳化特務機関長田中隆吉は自ら王英を指
揮し、チャハル省の境界の尚義、商都に進軍する。徳王の第一軍は張北、廟灘に進駐した。
百霊廟の第七師を増兵した。総兵力一.七万でもって、日本軍の数機の飛行機の援護のもと
四面から綏遠を攻めた。
綏遠省の傳作義は中国共産党の抗日の主張と全国国民の支援のもとで、約三万の正規軍、
民兵を集める。主力はまず先に綏遠の東部の傀儡軍を殲滅し、その後北部の百霊廟を落とす
作戦を立てる。
十一月十五日、王英の七千の進軍が開始されたが、傳作義軍の計画通り二十二日には王英
は壊滅した。傳作義軍は勢いに乗り二十四日零時、百霊廟を包囲し、攻撃を開始する。九時
半には傀儡軍の大部分は殲滅し、残部はシラムレン廟とフラツ(布拉図)廟に敗退した。十
二時傳作義軍のほとんどは集結地に戻り、小部隊が百霊廟を守った。
日本軍顧問団は敗局を挽回しようと、二十八日王英の大部分の軍を二手に分け百霊廟を攻
めさせた。傳作義は満を持して待ちかまえている。激戦のうえ十二月四日には王英軍はシラ
ムレン廟に敗退した。王英は逃走、シラムレン廟の二個旅団は投降し、残部は殲滅され、日
本軍顧問の二十数名が銃殺された。
日本特務機関長田中隆吉の目論見は挫折する。特務機関単独の暴挙であった。この暴挙は
世界中に伝えられ、中国の活発な抗日活動は世界の注目を集める。日本では抗日軍事暴動ま
たはシラムレン事件として簡単に報道された。
この戦闘は徳王を利用した日本特務機関の代理戦争であり、このあと続く日本軍による華
北進攻の前哨戦となった。訓練の行き届かない、戦略に疎い軍隊がいかに勇猛果敢であって
も、戦略を持った正規軍にはひとたまりも無いことをはっきりと見せ付けた戦いであった。
徳王の初期の目論見は早くも崩壊の兆しをみせる。
傳作義は一躍英雄となり、綏遠城で善政をしいて住民の支持をえるとともに、抗日運動の
気勢を全中国に広げた。中国共産党は近年この一九三六年の百霊廟の戦いを抗日戦争の発揚
とした。百霊廟の東約二キロの地点に大きな記念碑を建立してその成果を称えている。
一九三七年七月七日、日本軍は華北地方侵略の発端となった櫨溝橋事件を策動する。そし
て、内モンゴルを手中にしようとしたチャハル作戦が開始されたことはすでに述べた。チャ
ハル作戦の総指揮官は東条英樹(当時参謀長)であり、彼の唯一の戦果となった。作戦を開
始した日本軍は八月二十七日張家口に入城、十月十七日には包頭まで進撃し、五原で傳作義
と対峙する。百霊廟はまた日本軍に占領された。そして、一九四五年日本軍の敗戦まで百霊
廟は徳王の手中にあった。
百霊廟の悲願
モンゴル仏教研究本部の高橋大善師はこの百霊廟によく足を運んだ。五当召も近いし、舎
力図召から馬で一日の旅程である。途中シラムレン廟にも立ち寄ったことであろう。そのあ
る日、彼はこの百霊廟で熱を出した。舎力図召から一気に急いだのがたたったのかと思って
いた。ところが、二日目の朝には目まいがして、立ち上がるとき足を取られる。真っ青な顔
に脂汗がにじんでいる。
「ここで、くたばっては!」
意気込んでも体の自由が利かない。すぐに医療ラマが呼ばれた。一通りの診察をし、丸い
薬を三粒飲ませる。しばらくして、高橋師は眠った。医療ラマは夕方来るといって出ていっ
た。その日の夕方、医療ラマがやってきた。高橋師の手を取り、脈心をしばらく聞いている。
そして、ラマは朝と同じく丸い薬を三粒飲ませる。高橋師はまた眠った。ラマは高橋師の付
き添いの若いラマに尋ねる。
「この人の知り合いはいるのか?」
「舎力図召に妹様がいます」
「すぐに呼びなさい」
若いラマは医療ラマの顔をのぞき込んでいたが、うなずくと転げるようにして出ていった。
妹が百霊廟に着いたのは夜半を過ぎ、朝の太陽は草原にまだ顔を出していなかった。妹が
高橋師の病床に来たとき、高橋師は眠っていた。妹はローソクの明かりをすかして兄の顔を
見たとたんに悟った。そっと顔を背け、下を向いたまま座っていた。細い肩が震えている。
しばらくして、妹は立ち上がり、付き添いの若いラマに指示する。若いラマは凹んだ器に水
と一枚の布をもって来る。妹はその布を水に浸し絞ってから、兄の顔をゆっくりていねいに
拭く。油汗と埃でぎらぎらしていた顔が落ち着いたいつもの兄の顔になった。妹は布を洗い、
兄の額のうえに置く。妹はこの動作を一睡もせず丸二日続けた。三日目の早朝、日が昇ると
同時に兄は息を止めた。昭和十六年十月二十七日である。百霊廟の活仏は彼の葬儀を行なっ
た。七日間、儀式が続く。この儀式がすむと妹は華やかな色とりどりの刺しゅうのついた袋
を一つ手渡される。妹は大阪築港高野山にこの袋を持ち帰った。
高橋師は百霊廟にて、パラチフスのため死亡した。彼の夢はまだ半ばにも達していなかっ
た。やっと外郭が見えはじめたところである。彼自身この時点で死ぬとは思っていなかった
であろう。異境の地で大きな夢をしまいこんだまま彼は逝った。
徳王は一九三八年と四十一年、日本を訪問し蒙古独立の支援を申し出る。一九四五年日本
の敗戦と同時にその夢は破れた。その後の国共内線では蒋介石に与みしたが、蒋介石が台湾
に逃れると、今度はアメリカの支援を期待し西蒙自治運動をアラシャン旗定遠営で始める。
しかし、人民解放軍がせまりくるや、一九四九年十二月、手持ちの軍隊を残したまま外蒙古
に逃れる。欧州、アメリカへ出て蒙古独立を訴える希望に燃えていた。だが、翌年二月、外
蒙で政治犯として逮捕される。北京に護送された後、張家口の収容所で思想改造の教育を強
制される。徳王の夢は完全に閉ざされた。
一九六三年、周恩来の強い意向のもとで多くの政治要員とともに徳王は釈放され、内蒙自
治区文史館にて回想録を書く。一九六六年フフホト市で病死した。夢を燃やした百霊廟はわ
ずか北西約七十キロの位置にある。きっと始祖ジンギス・ハーンに暖かく迎えられたであろ
う。六十四歳であった。回想録は森久男氏の努力により一九九四年「徳王自伝ドムチョク・
ドンロプ」として日本で紹介された。
日本の敗戦とともに百霊廟は再び傳作義軍の手中にはいった。そして日本の特務機関の夢
も消え去った。傳作義は八路軍に与し、百霊廟もフフホトをも八路軍に明け渡す。蒋介石の
大きな布石もこの時点で崩壊する。傳作義は北京の日本軍を武装解除する。国共内戦後、傳
作義は一九四八年八路軍に北京を明け渡す。共産国として独立した中国は宗教を禁止した。
百霊廟からラマが消える。一九六〇年代の文革の十年で百霊廟の大伽藍は崩壊しその威容を
消す。
百霊廟はまさにその名のとおり、百の強者たちの霊が彷彿と浮かんでは消えた廟であった。
第三章
内モンゴル大草原
貝子廟内庭での廟祭り
(昭和15年7月15日、伊藤一夫氏提供)
観光パオ
フフホトから北約五十キロの位置に観光用のパオ群がある。草原の中の観光村といえよう
か。二,三十のパオをコンクリートで固めた基礎のうえに固定している。ホテルのロビー及
び食堂兼土産物売場だろうか大きなドーム状の建物が目に付く。中央部分の草地に人々が集
まっていて、人の輪の中で男二人が取っ組み合いをしていた。二人は背中にまで覆われる皮
製のベストを身にまとい、モンゴル相撲をやっている。明らかに観光客と思われる大柄の男
が若い小柄なモンゴル服をきた男に翻弄されている。その数十メートル横ではラクダが着飾
り、花飾りのついた二輪車を引いている。若いモンゴル服の男が馬の曲乗りを披露している。
のどかな観光パオの風景である。このような観光パオはフフホト及びシリンホトの近辺で幾
つか見かけた。また、北京やフフホトで汽車を待つ間にも観光パオの客引きが誘いにくる。
モンゴル草原の入り口をみるには手ごろな手段であろう。
こんな風景をみながら私たちはさらに北へ北へと足を延ばす。夕暮間近になって、スニッ
ト(蘇尼特)右旗/賽漢鎮にたどり着いた。今日の宿泊地である。ホテルの受付を待つ間ロ
ビーを出る。真っ赤な大きな太陽が沈み始めている。こんな色鮮やかな沈む太陽は旅行慣れ
したみんなにも強烈なのだ。ホテルの前に出て歓声を上げながら眺めていた。
大草原行
今日はシリンホトまで約三百二十キロの草原行である。内モンゴルのほぼ中央をほぼ一直
線に東に向う。途中街は二つ、スニット左旗とアパカ(阿巴嗄)。スニット右旗からまず北
に向い大きく東に曲がる。百五十キロでスニット(蘇尼特)左旗に至る。
周囲三百六十度、緑の地平線。その真ん中をひたすら前進する。持参した視野の広いパノ
ラマ・カメラもほとんど役に立たない。とにかく広いのだ。そして、緑と青と白の世界。背
丈二十センチ前後の草木の緑、透き通るような空の青、ときどき空を彩る雲の白。この三色
を基調とする世界だ。時たま蜃気楼が私たちの目を惑わせる。道路は視界のとどく遥かかな
たまで一直線である。バスの中で一眠りして、目覚めてもまだ同じ風景の中を走っている。
行けども行けどもこれだけである。単調といえば単調。宏大といえば宏大。
こんな中をモンゴル仏教研究生たちは馬に乗って行き来した。始めは乗馬の訓練とモンゴ
ル人の風習を身につけるために、数カ月に一度のフフホトの舎力図召への定期報告のために、
中には寺院の兵隊の指揮者となって草原の中を徘徊した者もいた。その状況はやはり来てみ
て、やっとその一部が体験できた。本人から聞いても、旅行記を読んでも、写真を見てもこ
の大草原のイメージは湧いてこない。
今昔トイレ物語
スニット左旗の町並みは素通りである。トイレ休憩もなしにである。街の公衆トイレより、
草原をそのままトイレとして利用させていただくほうが、ずっと気分が良いのだ。この大自
然のいたる所全てがトイレ、いやトイレの中を突っ走っている。
「草原で そよ風そっと お尻なで」
風流な最長老の小母チャン。その小母チャン、初めははるか彼方に出張し座り込んでいた
が、回を重ねるごとに次第に距離が近くなる。このままでは三、四日もすると、男女一緒に
道端に並ぶようになるのではないか、と今度は男性の方が危険を感じだす。
草原の中の街の公衆トイレは開放的である。レンガ造りの屋根付き二部屋である。入り口
は左右側面にある。床下に大きな穴を掘り、穴は後の壁をくぐり抜け、大きな凹地につなが
っている。大地にしみ込む分も含めるとその保有能力ははかりしれない。個室型もあるが入
り口の扉はない。仲間同志座り込んで話をする。下と前が開放的なのだ。通常、二部屋の右
側が女性用、左側が男性用と内モンゴルでは決まっているようだ。
小父チャンは本当かどうか確かめた。男女の記載のないトイレを見つける。申し開きの言
葉を準備し、ずかずかと右側のトイレに入って行く。すると座っていた二人の中年の女性が
こちらをニコッと見上げ、
「あら、いらっしゃい!」
予想を越えた返事が返ってきた。とっさに、
「なにを失礼な!」
奇妙な会話を残して出て来る。うまく難を逃れた。そして目的は達した。右側は間違いな
く女性用である。
モンゴル仏教研究生たちが活躍した六十年前のトイレはまた違っていた。寺院の中である
からではない。トイレそのものがないのだ。また服装も今日のようなズボンではなかった。
男女ともだぶだぶのワンピース。既婚の女性は帯をしめない。それでブスコイ(帯なし)と
呼んだ。ラマもワンピースの上に帯を巻いているにすぎない。必要なときには所かまわずエ
イッと一気に座り込む。小さな個室パオができあがる。看板の代わりに所有者の顔が突き出
ている。ゆっくりと誰に気兼ねすることもなく、時を過ごすことができる。終わると、ヒョ
ッと真っすぐに立ち上がる。素早くしないと衣服を汚す。思い切りのよさが必要である。お
尻の始末は必要ない。肉と穀物のメニュー、それに乾燥のひどいモンゴルでは粟おこしの湿
った状態なのだ。二、三分もすると乾いてしまう。
それにどこへ行っても犬がいる。モンゴル犬である。どう猛で名を知られている。この犬
が後始末をするのだ。座り込むと数匹の犬が取り巻き、狙いを定め争いが始まる。男なら下
手すれば食い千切られないかと冷や冷やものである。寺院に入った研究生たちはまずこの犬
に悩まされた。ところがよくしたもので、数日もすると担当の犬が決まる。その犬が時刻に
なるときまって姿を表す。ご主人がヒョッと勢い良く立ち上がるのを二、三メートル離れて
静かに待っている。
当然一つの疑問が出てくる。この犬の物の始末は誰がするのか? 犬自身が行なうのであ
る。もちろん犬の餌は必要ない。動物を利用した地球にやさしい清掃システムが完成する。
草原の破壊
「大草原も最近は破壊が進んでいる」
土地のガイドの李さんが話す。幾つか理由はあるようだ。放牧する羊、牛、馬の数が多す
ぎると嘆く。生産性向上からどうしても一度に多くの放牧をする。外蒙古での十倍近くにな
っている。これでは食料の草花がどうしても不足になる。草の背丈は毎年低くなる。外蒙古
では八十センチはあるという。周囲の草花はせいぜい二十センチ程度であろうか、地面にへ
ばりついている。また、この地方の気候は恵まれず、ほとんどの植物は一毛作だと指摘する。
草原の夏は短い、春と秋はあっという間に過ぎる。後は長く厳しい冬である。厳しい一年の
内、ほんの二、三ヵ月が観光客用のすばらしい草原の季節なのだ。
阿巴嗄ラマ廟の広島弁
アパカ(阿巴嗄)の街は三十ないし四十メートルの高さの丘に囲まれた街だ。草原の中で
強風をさける知恵なのだろう。直径五,六キロ程度。人口三万人の草原の中の街である。
ラマ廟探しを始める。道行く老人に聞く。
「丁度ここにあった」
今は阿巴嗄旗賓館が建てられている。役所経営のホテルである。劉さんがホテル事務所に
はいり調べだしてきた。
「当時の寺の名前は漢貝廟、文革時完全に破壊された」
「十三オボはない」
「ラマの住居の二,三部屋を改造して、寺を建てている」
貝子廟は漢貝廟ともいったのだろうか?十三オボを知らないとは?変だ。街の片隅にたむ
ろしている者たちに聞いても、ほぼ同様の返事である。改造して建てた寺を探す。
「自由市場の奥にある」
若者が指をさす。自由市場はこの賓館の東どなりだ。その自由市場を見ながら素通りし、
ごみごみした横丁に入る。自由市場で聞いた若者二、三人が何事かと興味深々に一緒に付い
て来る。三、四十メートル進むと左側に小さな寺院風の入り口が見えた。寺守の爺さんがい
た。早速あれこれ質問攻めだ。若者がのぞき込む。爺さん、始めは訳が解らず目をパチクリ
していたが、
「ベイズ廟などここにはナア。べらぼうめ!」
「ここはずっと昔から漢貝廟さ」
「二十年前に壊された。ヘエジャケエ、十年前にここに移ったンヨネ」
「廟の跡には賓館が建っチョルンヨ。ヨオ見んサイ!」
この爺さんどこで覚えたか、ときどき広島弁が出るでガンス!
「ラマも大勢オリンサッタし、祭りもにぎやかジャッタ。いまはナアモナア!」
大口を開けて言インサッタ!
ここは阿巴嗄漢貝廟であることに間違いなく、貝子廟は今日の宿泊地シリンホトに存在す
る。シリンホトの旧名称はアパハノール(阿巴哈納尓)、したがって貝子廟は阿巴哈納尓貝
子廟と称するのが適切である。ノールは水溜まりの意味。ロプノールのノールと同じ意味だ。
六十年前、日本人は阿巴哈をアパカと称していた。小父チャンが現在の阿巴嗄を昔の阿巴哈
と勘違いするのも当然だ。とんでもない所に迷い込んだものだ。それにしても、この内モン
ゴルの大草原のど真ん中で、広島弁を耳にするとは、もう二度と誰も経験できない珍事であ
ろう。
阿巴嗄のレストラン
テーブルと椅子、それにカラオケがある。カラオケのすごい普及ぶりに驚く。カラオケを
聞きながら昼食をした。日本人好みにあつらえた高級ホテルの食事と違って土地の人の食事
が出る。内モンゴルでは土地のレストランの食事は日本人によくあう。日本人向きの味の淡
泊な中華料理と異なり、しっかりと味付けがされている。程よく口を刺激し、塩味がよいの
だろうか実によくあう。食事をしているとレストランの前を盛装したモンゴル衣装のお婆さ
んが通る。カメラをもって飛び出し、写真を撮らせてもらう。付き添いの若い娘さんに
「一緒に撮りましょう」
誘うが、はにかんで並んでくれない。「ありがとう」をモンゴル語でなんというか知らな
いが、お婆さんに中国語で感謝の意をつたえる。ニコッとお互いに笑って別れた。
シリンホトへ
阿巴嗄からシリンホトまでは約百キロ、二時間の旅程である。草原の中に街並みが一直線
の土色の帯のように見えはじめ、次第に近付いてくる。
かってここには日本の特務機関、大蒙公司、シリンゴル盟公署があった。公署内だけでも
二十三家族の日本人が住んでいた。また貝子廟の東西二ヶ所に市場があり、十数軒の漢人商
人の店が立ち並び、モンゴル人との交易を行なっていた。張家口から陸路三日の草原の中の
都市である。解放後、錫林浩特(シリンホト)と呼ばれ、シリンゴル盟の省都となった。
アパカ特務機関はソ連にまで名を馳せていた。ソ連が内モンゴルに進駐したときその中央
部隊は一直線にここへ進駐する。ソ連の特務機関は真っ先にこのアパカ特務機関に駆け付け
た。もぬけの殻であった。アパカ特務要員は日本人と日本兵の避難に全力を尽くしていたの
だ。そして、ソ連特務機関とアパカ特務要員との間で、探索と回避作戦が展開される。岡村
秀太郎他編「特務機関」に詳しい。
そんなことを思い出しながらせまり来るシリンホトの街を眺めていた。家々が小さく識別
できる。特別大きな建物もなく、町並みは茶褐色の蛇が草原に寝転がっているような印象だ。
貝子廟
午後五時ころ、到着する。
早速老人と話をする。ニンジ・テレ老人。
「日本軍が引き上げたとき、十五歳であった」
「当時、わたしは十五キロほど離れた所に住んでいた」
日本では十五キロは随分の遠方だが、モンゴル草原ではほんの隣である。
「廟には二人の日本人ラマが住んでいた。名前は知らない」
「現在、東廟は政府管理で一般の人は入れない」
「十三オボのあった後に塔を建てた」
「現在四十人ほどのラマがいる」
「廟は二回に亘って修復した」
老人になんとか東殿を拝観出来るよう頼んでくれとお願いする。老人は腰を上げ、歩きだ
した。我々一行は後に続く。東廟の中庭に入り、本殿前で記念写真を撮る。
ニンジ・テレ老人と写真を撮っていると、この東廟の管理責任者を紹介された。名はオテ
ゲン・パヤル、四十歳ころで温厚な紳士である。
持参した当時の貝子廟の写真や、書物を見せて来意を説明した。彼はこれらの資料にたい
へんな興味を示す。
「現在、貝子廟の歴史を編集している。この資料は貴重だ」
「この本のモンゴル語、中国語への翻訳の許可を著者に了解を取ってくれ、写真も送って
くれ」
大変な依頼を受ける。出来るかぎりの努力をすることを約束する。彼の言葉によると、十
年の動乱で破壊された廟の歴史と文物とを少しでも忠実に復興し、後世に伝えることに意を
燃やしているのだ。報国寺でもそうであったように、これら一群の人たちの情熱を改めて知
らされた。そのあと、彼はすばらしいニュースをくれた。
「活仏が年一度来廟する。明日は今年一度の二日間の行事の初日になる。あなた方はお会
いになる意志がありますか?」
これはすごいチャンスだ。
「ぜひ活仏にあわせてください」
お願いをする。活仏に会見するまでには更に、二,三人の了解が必要な様子で、パヤル氏
の紹介でそれらの人々に挨拶をして回った。そして、
「明朝七時三十分、このギュットバ・ドゴンに来なさい」
了承してくれた。この日ははやる気持ちを静めるようにしてホテルに入った。
修復を待つ貝子廟大廟
本殿の案内板を読む。
「この本殿は最初に建てた四つの大きなお寺のひとつであった。乾隆八年(一七四三)創
建。戦時中、いちばん盛んな時期には千八百人以上のラマがいた。一九四五年ころ、一部の
ラマを軍隊にしたため、八百人程度のラマが残った。この寺は一時日本軍の駐屯地であった。
十年の動乱の時、破壊された。一九八七年以降、中央政府から九十万元と六十万元をもらっ
て一部修復した。しかし、いちばん重要な殿堂(大廟)はまだ修復していない」
すなわち、東廟とギュットバ・ドゴンだけが修復され、大廟(崇善寺)は荒れ果てたまま
で、朽ちるのを待っている。西廟(延福寺)とゲゲン倉は街並に飲み込まれてしまっている。
マンバ・ドゴンとドインコル・ドゴンは復元されたとパヤル氏は言っていたが確認する時間
がなかった。
オボの事
さて、ここで貝子廟の背後の丘陵地にあったというオボについて述べよう。
オボはチベット仏教の流布している地域には多く見受けられる。チベットでは小高い山の
上などに多く作られている。石を円形に積み上げ土台とし、中に長い棒をいく本も立て、色
とりどりの薄い布(タルチョ)をくくりつける。それぞれの材料、形状、色にそれぞれの意
味がこめられているのであろう。布の原色と土台の形状が一種独特の雰囲気を醸し出してい
る。一般に、信仰の対象観音菩薩が地上に降り立つところ、また旅行の一里塚として利用さ
れてきたとチベットでは聞いた。このモンゴルの奥地では次のような話を聞いた。
貝子廟の裏丘にあった13オボ
(昭和14年当時 小中勝利氏提供)
オボは十三世紀初めころから作られるようになったという。チベット仏教がモンゴルの奥
地にまで流布した時期と一致している。また、その趣旨には三っつある。
一つには、村、地区の境界を示し、東西南北の四方の一番高い丘、岡、山の頂上に建てた
という。住民一人がふたつの石を持ち寄り土台とした。したがって、オボの大きさで村の大
きさが計り知れる。村の領域の主張と権力の大きさの誇示に利用したのだ。
また、オボは加持祈祷の場所、聖地とした。信仰の対象である。貝子廟の裏の岡には十三
基の壮大なオボがあった。それは遠くから遠望でき、貝子廟の権威の誇示でもあったのだ。
現在では十年の動乱時、完全に破壊され、そのあとに大きな碑が建てられている。新中国の
権威の誇示に変わった。
オボは恋人たちの会うところだという。この広い草原の目印はすなわち二人の会うところ
として格好の場所である。
貝子廟の十三オボがなくなった現在、この近辺で一番大きなオボは白銀査乾(バイインチ
ャガン)であるという。
「毎年五月七日に祭りがあり、貝子廟のラマが祈祷に来る。白銀は豊の意味だ」
土地のガイドさんが説明する。
チベット旅行のとき、青海省、チベット自治区ではオボを数えきれないほど見てきた。行
く先々の村で、峠で、丘のうえに、山の上に、幹線道路の道端に、大小とりどりのオボがあ
った。しかし内モンゴルの旅行、およそ千キロ走って見たオボは二カ所のみ。スニット右旗
をでて、観光パオのあった直前の丘の頂に一つ。シリンホトから多倫へ行く途中、田圃の真
ん中で一つ。以上二基である。あまりにも少ない。この内モンゴル東部では破壊が進んだの
であろうか?
旅程変更
あすの早い出発を思い、その準備をして床につこうとしたとき、ドアーをノックしてガイ
ドの劉さん、李さん、そしてシリンホトのガイドさん三人が入ってきた。何事かと思ってい
ると、李さんが、
「相談があるのですが、明日西ウジムチンか多倫のどちらかに行き、明後日はフフホトに
帰らないと後の日程が全て駄目になります。どうしますか?」
「ばかな!昨日の朝、予定の地は全て必ず行けます、といったじゃあないか。だから、昨
日の予定変更を認めたのだ。いまさら何を言うのだ」
詰問する。劉さんの顔を見ると、沈んでいる。
「明日、西ウジムチンへ行き、明後日多倫へ行き、その後、多倫からフフホトまでかえれ
ばよいではないか?」
私が提案する。李さんが運転手に意見を求める。
「多倫からフフホトの旅程は山岳地が多い。今日も大雨の様だったから、道路状況がはっ
きりしない。その旅程は危険が多い。今日来た道を引き返すのが間違いのない最良の方法
だ。」
「では、明日多倫を日帰りし、明後日西ウジムチンを往復したのち飛行機でフフホトにか
えればいいではないか」
「そんな時間の飛行機はない」
土地のガイドがメモ帳を繰る。いろいろ検討したが要は西ウジムチンか多倫をあきらめろと
いうのだ。多倫行きを優先した。劉さんを残して、土地のガイドたちは可能性を検討すると
言って中座した。スルー・ガイドの劉さんは腹立たしげにつぶやく。
「運転手の言う、間違いのない方法を選ぶしかない」
やがて、三人が引き返してきて、李さんが結論を伝える。
「明日多倫を日帰りして、明後日は今日来た道を引き返そう。多倫へは運転手も私も土地
のガイドも行ったことがない。帰りは遅くなるかもしれない」
それでも良い。多倫へ行くことに決めた。多倫廟は内モンゴル最大の廟であり、モンゴル
仏教研究生の根本和昌師が入っていた。西ウジムチン廟が気掛かりだ。
「西ウジムチン廟の現在の状況を知る手がかりは得られないか?」
土地のガイドがいった。
「私も行ったことがないのでよく知らない」
「写真だけでもあるといいのだが」
「今年の十一月行く予定があるので、その時写真を撮ってお送りしよう」
そんな気の長い話を聞きながら、
「まあ仕方ないか。中国の旅行ではよくあることだ。とにかく安全に帰ることを優先しよ
う。それ以外は期待値として残しておこう。こんな奥地で遭難話などに巻き込まれたくない。
明日は活仏にも会えるし、漢貝廟という思いのほかの成果もあったじゃあないか。西ウジム
チンにいた近藤廉祐師には勘弁してもらおう」
自分に言い聞かせ、
「あすの旅程変更は私がみんなに説明する」
皆を引きとらせたのち、同行の四人を呼んで説明した。夜の十一時ころであった。異論は
なかった。
「やれやれ、初めての仲間だとはいえ、いい仲間だ」
安堵した。
西ウジムチン廟
近藤廉祐師が配置された。内モンゴルの最北端、満州国興安省・外モンゴル・ソ連と四っ
つの国の領土が交差する位置まで二百キロの位置にある。モンゴル仏教研究生が配置された
廟の中では厚和から最も遠距離の土地である。彼は三ヵ月に一回、報告と連絡のため馬で一
週間の道程を旅することとなった。
見渡すかぎり草原の真っ只中、朝起きて夜寝るまでほとんど何もすることがない。彼にと
って毎日が手持ち無沙汰であった。当初はのんきな境遇に好感が持てたが、日がたつにした
がい大きな体を持て余すようになる。僧侶である彼にはインドへ行ってみたいという思いが
日本を離れるときからあった。ここは内モンゴルの最北端、厚和へ行くにも馬で一週間、チ
ベットへゆきそしてインドへ、確かに遠い道程である。配置された当初はあきらめかけてい
た。時計の止まったような日々がゆっくりと過ぎて行く。
彼は毎朝のお勤めを始める。モンゴル語で始めたのである。当初は一通りのお経を上げる
のにおよそ一時間かかった。一週間たつと三十分で済むようになる。一ヵ月たつと二十分で
済む。しかし、意味はよく解らなかった。タアラマ(大ラマ)を捕まえて片言のモンゴル語
で意志の疎通を計りながらその意味を理解してゆく。焦りはなかったが、一日でも早くと思
った。早くモンゴル仏教のラマに成り切り、チベットヘ、インドへ行きたい。行けばなんと
かなる。帰りはインドの大使館にでも転がり込めばなんとかしてくれるだろう。そう思って
いた。乱暴といえば乱暴である。
厚和へ三ヵ月に一度の報告に行く。田尻師がチベット行を考えていることを知る。厚和で
は田尻師とよく話し込んだ。話し込むと酒を飲む。二人の気持ちはよく通じた。厚和で田尻
師と話すたびにインドへの思いは高まり、純な宗教心に自分が燃えているのが感じられた。
勢い込んで西ウジムチンへと帰って行く。
一年も過ぎるころには彼のモンゴル語は現地の人たちと区別の付かないものとなる。心な
しか風体もモンゴル人の様相を醸し出す。シラミの巣の衣服、垢だらけの顔と腕、トイレの
作法、・・・もうインドは目の前だ。
ゴン太もゴン太
近藤廉祐師は大正九年一月一日、岡山県西阿曾の生まれ。父泰正師は徳島の出身、延寿院
の在家の人であった。父は近藤廉祐師が帰国する二十日前の昭和二十一年五月五日に死亡し
た。母ツユ子も在家の人であった。
近藤廉祐師は生れ付き体も丈夫で大きく村一のあばれんぼうである。小学六年生になると
近所の子供たちの大親分であった。ゴン太も特大級のゴン太である。父がうるさい人であっ
た。だからゴン太は寺に戻りたくなかった。
小学校五年から法事について行った。中学生になった。岡山二中に入る。ここでも彼は学
校一のあばれんぼうである。喧嘩は絶えず、喧嘩相手の親がよく小言を言いに寺に来る。学
校の窓ガラスもよく割れた。机の足もよく折れた。ブランコの綱もよく切れた。やがて学校
ももてあまし一時彼をクビにする。しかし、学業成績はよく体育系全科目甲、その他全科目
乙でまずまずである。英語が嫌いであった。進学は農業高校に行けと親が決める。この農業
高校を昭和十四年三月卒業し、高野山大学に入学する。
ここで、ゴン太は草撃宣義師に出会う。ゴン太も草繋師の言うことはよく聞いた。尊敬し
ていた。その後草繋師は北京別院に移り、中国大陸の開教師たちの総指揮を取る。彼は近藤
廉祐師を誘う。
「モンゴル仏教研究生として出てこい」
昭和十四年春、モンゴル仏教研究生第一陣として厚和へ、そして最東部のシリンゴル盟西
ウジムチン廟にほうり込まれる。しかし、ゴン太は観念したわけではない。
服は羊皮である。寝るときは裸で羊皮に潜る。夜小便をするとき、裸のまま外に飛び出す。
冬になると、水滴が体や下着にくっついて困った。夏は短い。ほとんど一ヵ月だ。六月から
八月の間に春、夏、秋が過ぎる。季節の変化が早い、全てが駆け足だ。そして、長い冬が続
く。寒いから酒もよく飲んだ。パオのなかにパオをもう一つ作り暖かくした。酒は凍ってい
る。ストーブの上で溶かしてから飲む。燗をしてオンザロックを作るのだ。内モンゴル独特
のブレンド法である。
昭和十七年召集を受けた。岡山の部隊の通信兵になる。当初は蒙彊にいた。その後、転々
とし、上海、武漢辺りまで移動する。あばれんぼうで、生一本のゴン太はこの軍隊生活でも
その実力を発揮する。上にはきつく、下には優しい通信兵は食事の担当もする。上官に腹を
立てたとき、飯を持って行かせなかった。さっそく大目玉である。営倉に一晩入った。
昭和二十一年五月二十五日帰国する。
「中学時代遊んでいたので、上官にならず帰国できた」
ゴン太は幸運の理由を納得していた。
「すごい格好をして帰ってきた」
親の第一声である。毛布のコート、経をすこし、他に数珠、百八個の咽仏、ここまではさ
すが僧侶の面目躍如たるものがある。そのあとがいけない。毛布のコートがシラミの巣窟だ。
当分、家の者と同じ館で寝かせてもらえない。そして、マラリアにかかっていた。しばらく
静養が続く。
酒を飲むとよく話した。
「よく生きて帰れた」
寝言も蒙古語で言っていた。
その後、ゴン太には災難がつづいた。しかし持ち前の生一本のあばれんぼうはこれを乗り
越えて行く。
昭和三十一年、本堂を残し、全焼という大惨事が発生した。以後改修の日々が続く。庫裏、
客殿、鐘楼門、橋と改修が進み、平成元年一月ほぼ昔の姿に復旧する。本堂は浅野家由来の
お堂で二百六十七年前に移転したと書類が残されている。災難はまだ続いた。農地改革で土
地を取られる。二丁五反が四反になる。
昭和六十三年檀家分けした。三百軒が二百軒になる。
ゴン太は物知りオヤジになっていた。檀家のことは三代前まで知っていた。だれだれのお
婆さんはどこから嫁いできて、兄弟は・・・、みんな知っている。当然法事についても詳し
く知っている。檀家をはじめ近所の人はみんな彼に聞きに来る。また彼は几帳面でもあった。
近所のことをよく書いていた。しかし、厚和のことは何一つ書かなかった。
「そのうちに」
が口癖であった。
昭和六十三年八月、「やさしく書いた 仏事の宝典」を著す。現在までに二千部発行、近
在の人たちに渡っている。世話見がよかったのだ。二十年間、毎年四国八十八ヶ所を近所の
人や檀家を連れて回った。多いときは七十人に及んだ。楽しそうに世話をやいた。
昭和五十二年六月二十八日、妻千代子が他界した。
平成六年秋、近藤廉祐師は多くの檀家を引率し巡礼に出た。その旅の途中彼は他界した。
弘法大師の弟子を全うした一生であった。
結局、厚和については一語も残さなかった。
貝子廟活仏との三戒
翌朝七時半、ぴったりに貝子廟に到着する。さっそくギュットバ・ドゴンに向う。パヤル
氏が迎えてくれた。昨日とは打って変わった、ピンと張り詰めた雰囲気がする。ギュットバ・
ドゴンの前庭に十人程度のラマと二十人程度の民間人が三、四のグループになってたむろし
ている。チベットのラサから活仏が来廟し、ともに法会に参加できる喜びが目に輝いている。
パヤル氏が質問する。
「八時から祭事が始まるので、それまでに会うか、祭事が終了してから会うか?」
今日の日程からみると、早く切り上げたい。祭事が終わってからでは多倫廟見学が今日一
日ではできかねる。もう七時四十分だ。
「短時間でも良い、今すぐ会いたい」
申し込む。ギュットバ・ドゴンの右側の棟でお会いするとの返事が返ってきた。そして、仲
介の民間人(服装は民間人だが、この貝子廟では高官であろうと思われる雰囲気をもってい
る)が私たちに注意をした。
「活仏の横に並んではいけない」
「活仏の写真を撮ってはいけない」
「活仏に触れてはいけない」
活仏との三戒である。
「解りました」
一気に緊張する。みんな縦一列になり無言のまま指定された棟に入る。入り口のミスを誰
かが上げてくれる。
「失礼します」
日本語がでている。緊張しているのだ。部屋の中央にけばけばしい法衣を身につけた一人
の老人ラマが厳しい顔をして私たちをにらみ付けている。両手を胸元で合わせ一礼した。老
人ラマはにこりともせず、手でこちらへ入れと、狭い入り口を指し示す。言われるとおりそ
の入り口に立つ。六畳程の部屋の奥に小さなテーブルを挟んでふたつのソファがある。その
両側面にはオンドルふうの座席がある。ソファの向って右側に一人の物静かな青年が座って
いた。ワイシャツにズボンである。顔立ちは薄黒く精悍で、一目でチベット人だと分かる。
活仏は先代活仏の生まれ替わりとして幼少の時期に決められることを知っているため、この
活仏の若さに驚くことは無かった。同行の小母チャンたちは多倫への道すがら説明するまで
納得できなかったようだ。
「私たちは日本から来ました。貴方にお会いでき大変うれしい」
活仏はニコッと笑い、
「座りなさい」
ジェスチャアで示す。三戒を思い出し、向って左側のオンドルのような座席に座る。そし
て同行の三人の小母チャンとヨウヨウが座る。さっそく、貝子廟参観の趣旨を説明する。
「六十年前、日本のラマがこの貝子廟にモンゴル仏教の勉強に来ました」
「名を名和川といいます。彼の情報がなにか得られるかと、期待しています」
持参していた当時の写真を取出し、約六十年前の貝子廟の状況を説明する。約一メートル
も離れているため写真の細部の説明がしにくい。身体を揺すり、手をのばして写真の説明を
する。
「どうぞ、こちらにお座り下さい」
はからずも、三戒のひとつを破ってしまう。
「この人が名和川師です」
「彼は日本の歌(詩吟)が上手く、皆に愛されていたようです」
「この本(「蒙古学問寺」長尾雅人著)をパヤル氏に見せると大変喜ばれた。日本に帰っ
てから、この写真と一緒に一冊お送りする約束をしました」
そんな話をしている間、若い活仏は終始にこやかにうなずいている。
「今日は、貴重な時間をありがとう御座いました。記念に一枚の写真を撮らせてください」
三戒を頭の角に押し込み、思い切って申し込む。
「どうぞ、一緒に撮りましょう」
軽く応じてくれた。ガイドの劉さんにカメラを渡し、シャッターをお願いする。またして
も三戒の二つ目を破ってしまったが、カメラは忠実にその任務をはたしている。
「どうも長い時間有難うございました」
別れの挨拶をする。両手を胸の前で合わせ、一礼して引き下がろうとした。すると、その
若い活仏はスウッと立ち上がり手を伸ばし、握手を求めてきた。小父チャンは三戒の最後に
残った一つをも喜び勇んで破ることにした。分厚い暖かい手である。しっかりと握り何度も
振る。部屋を辞して棟の外に出る。私の右腕は黄金色に輝き、熱い熱気さえも発散していた。
貝子廟の法会
活仏の前を辞して二,三分もすると、ドラやラッパの大きな音とともに祭事が始まった。
私たちの飛び入りで遅れたのだろうか?
若い活仏は法衣に身を包み、一人の従者、先程部屋の前でしかめっ面をしていた老人ラマ
を引き連れて、足早にギュットバ・ドゴンに入る。後姿を見送っていて気が付く。若い活仏
は日本のスーパーで売っているスリッパを素足のまま履いている。祭事であるから、普通な
らば祭事用のモンゴル靴を履く。彼は物事にこだわらない性格なのだと推測する。三戒を破
るのに何の抵抗も示さない、青年活仏の天真爛漫な行動力に喝采を送る。このような活仏が
きっと宗教界を変革してゆくに違いない。朝日が貝子廟の回廊を照らし出していた。
ギュットバ・ドゴン内で読経が始まった。中央の一番奥に活仏が入り口に向って座る。こ
れは日本の様子と逆である。日本では奥の祭壇に向って座る。祭壇を背にした活仏の前に左
右二列が組になり向かい合う。すなわち右から左、左、右、右に向かい合う。そのラマの数
は、右から三,八,八,五人であった。中央の八,八人は歳取ったラマ、五,三人は若いラ
マ、十代の者もいる。このほか世話役のラマが数人いる。この四列のさらに外側に二、三十
人の民間人が身を寄せあって窮屈げに座り、手をあわせている。
二人の年老いた世話役が食物を配っている。穀物を二,三合と三十センチばかりの大きな
焼き煎餅を用意した袋に収めている。読経しながら、この食物の配給と収納が続く。カメラ
を構えると、どこからか二十歳過ぎのラマが飛んできて、写真をとるなと目で規制する。す
でに二、三枚を撮っていた。
祭事は続くが、今日の行程は詰まっている。パヤル氏にお礼を言い別れの言葉を述べ、記
念写真を撮る。最後に、活仏にも私たちの約束を報告したことを告げると、パヤル氏は言っ
た。
「あなたは大変運が良い人だ。わたしはまだ活仏と握手したこともないのですよ」
小父チャンはふと自分の右手を見る。きらきらと輝く黄金色はさらにその輝を増している。
さっそく今日の目的地、多倫へむけて出発する。南に向かって草原を越え、ナルト砂漠を
越え、正藍旗の町を越え、ひたすら走りに走るのだ。
第4章 ハーンを夢見た快僧
シリンホトから多論へ
出発したのは七月八日朝八時半である。バスで一路南下し哈巴嗄(ハパカ)から東に向う
道程である。片道五時間を予想し、見学時間や食事、休憩などの時間を考えると往復十四時
間はかかると想定していた。かなり強行軍である。ハパカまでは道路もよく予定通り三時間
で着く。ハパカではこれから始まるナーダムのため広場にはたくさんの人が集まっている。
街には多くの人が行き交っており、祭りの活気が伝わってくる。多倫での見学が早くすめば
帰りにはこのナーダムを見れるかなと淡い期待が湧いてくる。ハパカから多倫までの道は凸
凹道である。あちこちで道を確かめながら進む。正藍旗についたのは十三時になっていた。
ここで昼食である。
元朝が北京に紫金城を築く前にここに都を置いた。上都と呼んだ。そんなことも理由の一
つなのだろうか、現地のモンゴル料理は私どもの嗜好ともよく一致する。みんな喜んで食事
に時間を費やしている。しかし、夜の帰りが遅くなるのを気にして、小父チャンは気が気で
ない。
正藍旗から多倫までは割合道路も良く、といってもまだ舗装はされておらず、埃をかぶり
ながらのバスドライブである。やがて、なだらかな丘陵を越えると草原の中に一つの街並が
見えてくる。その街並が眼前いっぱいに広がる。二、三十メートルの橋を渡り、多倫の街に
入った。運転手が多倫廟の所在を確かめている。小父チャンは向って左手、斜面の中程に寺
院らしき建物があるのを見付けた。昭和十七年(一九四二)に発行された書物にこの多倫の
街の地形の概要が記載されている。その地形から、多倫東西廟の位置を推測できた。街並か
らすこし離れた南向き斜面の中程に位置している。その寺院風の建物の色はあせて古風な感
じがする。
白い石灰で塗り固められた章嘉活仏殿
多論西廟
やがて運転手はその方向だと街の男から聞き出してきた。運転手がバスを再び止めるのに
五分もかからない。ガイドさんが元気な声で告げる。
「多倫西廟についた」
その風景を一目見たとたん絶句した。なにかの間違いではないかと思ったのである。正門
らしき建物の壁は崩れ、窓も格子もなく、屋根は曲がり、瓦は崩れ、屋根の上には草が四十
センチばかりも生え、所どころには苔さえむしている。その右手には鐘楼の跡であろうか小
さな屋根が細い四本の柱でかろうじて支えられて、崩壊する時を待っている。正門の数十メ
ートル奥にもう一つの建物が見分けられた。内門なのであろうか。状態は正門と同じである。
廟の敷地の中まで雑然とした人家が密集しており、正門と鐘楼と内門はまさに人家に飲み込
まれ、朽ち果てるのを待っている。これ以外に多倫西廟の面影を残すものはなにも見当らな
い。
かってはこの地方を圧するモンゴル仏教最大の聖地であった。住民がこぞって寄進し、信
仰の対象とした活仏は最盛期には十一人までが君臨していた。その内モンゴル最大の寺院が
たった半世紀でこのような状態に落ち入るとは、とっさには呑み込めない。
勇気を出してその正門に入る。足場は悪く、泥や石や動物の汚物で高く積みあがった内部
はさながら薄汚い洞窟だ。足元を気にしながら、カメラをかまえたがアングルが決まらない。
ふと天井を見る。
「アッ」
声を洩らしていた。極彩色の梁が、柱が、壁が目に飛び込んできた。人の背の高さより上
の部分には往時を彷彿とする極彩色が残っている。上部は人為的破壊から守られるチャンス
があったのであろう。そして、屋根の下部は自然の風雨からも風化を免れたのであろう。よ
くぞ残っていたとカメラのシャッターを切り続ける。何枚撮ったのか、フィルムの終了を知
らせるピッピッという乾いた電子音に気付いて我に返った。
フィルムを入れ替えながら、人の気配に振り返る。一人の若者が不思議そうに見ている。
「こんにちは」
「わたしは日本から来たんだよ」
「このお堂はいつからこんななのだい?」
若者は何も知らないとジェスチャアで答える。
「この近くに老人は住んでいないかね?」
「そこの家にいるさ」
彼が指差したのはスレート瓦の一軒家であった。私が内門と名付けた建物の西側にもたれ
掛かるように建っている。家の前は十坪ほどの庭があり、数羽の鶏が放し飼いになっている。
その鶏は白色ではなく、胴体は黒く、首の一部に赤い部分があり、大きさも日本でよく見る
白色レグホンより小型で動きも機敏だ。声をかけると老人夫婦と一人の少女が顔を見せる。
「こんにちは」
「日本から来たんです」
「むすめさんは何歳ですか?」
「学校はこの近くですか」
「もう夏休みですか?」
打ち解けるための話を切り出した。そして、六十歳位の爺さんに聞いた。後程彼は七十二歳
だと分かった。小柄なせいもあって若く見えたのであろう。
「この多倫西廟はずいぶん大きかったのでしょう?」
「この廟は大きかったさ。大きな寺院が十数ヶ所あったのさ。壁に囲まれていたのは大廟
のみだった。わしが小学校のころは五百から六百のラマがいたんだ。毎年六月十五日に祭り
があり、各地から多くのラマが来たものさ。仮面をかぶり、ラッパを吹いて、ドラを叩き、
踊りを踊ったよ。地方の芝居もやったさ。楽しくてねえ、毎年長いこと待っていたものだ」
「多倫廟はいつからこんなになったの?」
「わしはここで生まれたが、一九四八年に兵隊になったのさ。わけのわからん相手と戦っ
たんだ。その後のことは何も知らんよ」
しばらく考えていたが、
「十年の動乱のとき、ずいぶん壊されたよ。それ以後、祭りはやっていないよ」
「戦争からかえって、ここに住めというから住んでいるのさ。隣(内門)に見知らぬ男が
住もうとしたので、追い出してやったさ」
「その隣を見せてよ」
三人の家族と若者とその隣へ行く。まさに、庭続きの隣であり、入り口には扉もなく家人
が物置小屋にしている。使い古した自転車のタイヤ、数個の農具と草の束が転がっている。
正門と同じく、人の背の高さより上の部分には極彩色が浮かび上がっている。一種の疲労感
を感じ、その場を出た。鶏の放し飼いになっている庭で記念写真をとり、住所と名前をメモ
し、写真を送る約束をする。若い娘さんに日本から持ってきていたお菓子を全部渡す。その
庭から出るとき、
「さよなら」
を連発しながら、鶏が開けた扉の隙間から外に飛び出さないよう気を使う。もし飛び出し
たらこの三人の家族は何分か何十分かは鶏と運動会を始めることになるのだなあ、とその様
子を想像する。そんなことでご迷惑をかけないように、片足で鶏を牽制しながら庭の扉を閉
めることができた。ホッとする。
ドロン東廟
私たちはバスに乗り、東へ一キロほど移動する。多倫東廟に来た。ここは西廟とは打って
変わり、まるで田舎の工場だ。人がたくさん、と言っても二、三十人が行き来し、入り口か
ら真直ぐ幅十メートル程の舗装された道路が廟の中につづいている。私たちはバスから降り
てその道路に沿って入って行く。建て屋の窓から中年の男女がめずらしそうに私たちの様子
を眺めている。ガイドさんからここは食料倉庫として利用されていると聞かされている。大
体の様子も分ってくる。直径十~十五メートルばかりの円柱状の、そして頭部は円錐状の穀
物の貯蔵天幕が所狭しと並んでいる。天幕の後方には僧坊の匂いのする建物が沢山あり、か
っての廟の跡であることが分かる。この道路の左側の建物の後方に、多分この東廟のなかで
も最大のお堂があることに気付く。そのお堂の見えるところまで行き、カメラをかまえた。
いつも望遠レンズを装着しているので、ファインダーからはいつも肉眼より拡大した映像が
見える。またまた驚くばかりの光景が目に飛び込んで来た。
この大きな古いお堂の壁が窓がすべてレンガと白い石灰で塗り固められているのだ。屋根
は草むしたまま傾き、瓦ははがれ、廂はくずれ、崩壊の寸前。前面の左右二カ所に出入口と
して幅一メートルほどの扉が設けられている。しかも、お堂の二階部分の石灰で塗り固めら
れた白い壁には薄い赤色で「毛沢東万万歳!」と大きな文字が書かれ、そして遠くない過去
にその上を再度白い石灰を塗って消した状況がはっきり見える。
「中を見せてください」
堂の中の見学を頼む。若者が管理責任者風の者と一緒にやってきて、前面の右側の狭い扉
の鍵を開けた。
お堂の内部の壁には多倫西廟の山門と同じく極彩色が浮かんでいる。時代の古さが感じら
れる色彩である。真っ赤な柱が横七本、奥行五本が並ぶ壮大なお堂である。しかし、よく見
ると天井部分の極彩色ははぎ取られ、空気の流通しそうな隙間は石灰で塗り固められている。
極彩色は痛々しいほど傷ついている。内部は全くのガランドウ。一切の仏像も、祭器も、タ
ンカも何もない。そして、食料らしきものも一切ない。食料倉庫となっていると聞いていた
が、ドラム缶ひとつ、俵いっぴょうない。壁を全て締め切ったため空気の流通が悪く、食料
が腐るのだろうか?この狭い入り口からは保管する食物の搬出入が困難なのだろうか?
この堂の前庭を四角に取り囲む建物も全て同じように壁が塗り固められ、屋根は朽ち果て
ている。そして、内部はすべてガランドウなのだと推測する。食料倉庫にしようとしたが、
使いものにならず、ただ壁を塗り固めたにとどまっているのだ。実際の食料貯蔵は円柱状の
貯蔵天幕が担っている。
食料倉庫の管理責任者の話を聞く。
「当時、日本軍が駐留していた。一九四五年にソ連軍が進駐してきて二年間駐屯していた。
その後、中国軍約一万が吉鴻昌に率いられて多倫に入ってきた。一九六〇年代には動乱が始
まり、多倫廟は基礎まで破壊されてしまった。その後、軍事委員会の命令で廟の一部を民家
に代えた。東廟は一九五七年から食料倉庫として利用している。当時の記録、特に写真は多
倫県委員会の馬さんが多く所有しており詳しく知っている」
さっそく馬さんを紹介してくれるよう頼む。
「ここからほんの五分くらいのところだ、時間から見ても家にいるだろう」
バスに同乗し、案内してくれた。こじんまりした横丁を曲がると、質素だが庭のついた人
家に着く。子供たち四人とお婆さんと奥さんがいる。来意を告げ、馬さんに会いたいと申し
出る。
「あいにくと今日はまだ帰宅していないのです。今日もいつ帰るか分からない」
残念な返事がかえってくる。ご家族の写真を四、五枚撮り、後程お送りするからと住所を
聞いて帰途につく。
すでに五時を過ぎ、日はずいぶん傾いている。多倫の入り口の橋の近くでトイレ休憩をし
たときには夜の始まりを感ずる日差しであった。どこかで夕食をとり、シリンホトのホテル
に帰り着くのは十二時を過ぎる。今日の強行軍を懸念する。想像をはるかに超えた多倫廟の
姿が目の奥に残っている。馬さんとの交流で後程なにがしかの情報が得られそうな期待と軽
い興奮が疲れを感じさせなかった。
満天の星屑
凸凹道を西に引き返す。ハパカに着いたときはもう薄暗く、ここかしこのレストランの灯
が懐かしく感じられた。この土地の料理をいっぱいご馳走になり、日本のドラフト・ビール
にそっくりな味の、生暖かいビールを飲む。すっかり気分も良くなり、時計など気にせずに
帰路のバスに乗り込む。真っ暗な草原を北に向ってひた走るうちにいつしか眠っていた。
「トイレ休憩!」
大きな声で目が覚めた。外は大草原の夜である。ひんやりとした外気が心地よく感じられ
る。寒暖の差が激しくしかも乾燥しているため蒸し暑さなど全く感じない。
空を見上げる。地平線の上が全て星空。この空には星が満遍無く、しかも無数に有る。私
たちが知っている星空の十倍、いやそれ以上の星がある。地平線に近い所も、頭上に近い所
もほとんど同じ密度で星がある。まったくまばたきしない星が夜空全面にびっしりと詰まっ
ている。こんな星空は想像もできなかった。土地の人たちがずっと眺めてきた星空なのだ。
五十五年前モンゴル仏教研究生たちが眺めたのと同じ星空が現在もここにある。夜遅くなっ
た今日の強行軍がこの星空に巡り合わせてくれたのだ。深い喜びを、感謝を感じる。
地獄の一丁目
ホテルまであと半時間ほどのところまで帰ってきた。やれやれといった思いでバスに揺ら
れている。やはり夜も遅いため、また日頃の強行軍がたたり、目覚まし代わりの歌謡大会も
いつの間にか下火になる。中には居眠りに入る者もいる。もちろん小父チャンもうとうとと
始めている。しばらくすると急にバスのスピードが下がり、左に右に揺れ、また正常に戻る。
運転手も疲れているんだなと思いきや、またもやスピードが下がり、バスは左右に揺れる。
小父チャンはとっさに叫んでいる。
「とまれ!」
「右によせろ!」
バスはゆっくりと右に寄る。スピードが下がらない。すると、ガイドさんが大声で、
「ブレーキ、ブレーキ」
やっとバスはスピードを下げ道路の右端に停車する。ガイドさんが、
「少し寝ろ!」
運転手はエンジンを切り、ウインカーだけにする。途端に、大きないびきをかきだした。
地獄の一丁目をのぞき見た思いだ。静かな物音一つしない大草原の闇夜にウインカーの音だ
けが
「カチッ、カチッ」
単調な響きを繰り返している。小父チャンの横に座っていたヨウヨウが聞く。
「ここで夜を明かすの?」
「いや、一時間もすれば自分で目がさめるよ。そうすれば安心だ」
自分で起きるまで起こさないことが良い、という意味を込めて答えた。みんな納得したの
か眠りに付く者もいる。二、三人が目を覚ましている。疲れたのか観念したのか、バスの外
に出る者もいない。話をする者もいない。ウインカーの音がかえって夜の静けさを増幅して
いる。時が止まったかのような、静かな大草原の夜が過ぎてゆく。
およそ三十分して、運転手は目を覚ます。バスの外に小用をたしにでる。さあ、出発であ
る。ガイドさんが運転手に気使う。
「大丈夫か?」
「大丈夫だ!」
元気な弾んだ声が返ってくる。その声にみんな安心する。
ホテルに着いたのは日の変わった深夜の一時ころであった。心配げに旅行社の部長さんが
電気を消した暗いホールの片隅で待っている。みんなは転げ込むようにベッドに入ったこと
であろう。
不法入国
ところが、小父チャンにはとんでもない事件が待ち構えていた。先程までホールの片隅で
私たちの帰るのを待っていた旅行社の部長さんが小父チャンの部屋の扉を慌ただしくノッ
クして入って来た。
「お疲れのところ申し訳ありません」
「はあ?」
「あなた方は中国のビザを持っていませんね」
「エエッ!」
「ここはソ連、外モンゴルの国境に近いため、昨日改めてあなた方のパスポートを提出し
ていただきました。当局がチェックしたのですが、中国のビザをお持ちでは無いことが判明
したのです」
びっくり仰天とはこのことだ。今朝の活仏との握手が逆目に出たのか!!??
「不法入国です。皆さんを今すぐ集めてください」
「そんな馬鹿な!」
次の言葉がなかなか出ない。
「ちゃんと上海で入国手続きをしたじゃないか!馬鹿もいい加減にしろ。この夜遅く人を
おちょくっているのか!アホウめ!」
大声を出すところであったが、やっと声を押さえる。私たちのビザは団体ビザである。一
枚の用紙になっており個人のパスポートにはビザの記載は無い。小父チャンがA四サイズの
団体ビザを代表して預かり、入国手続きはもちろんちゃんとその用紙ですませた。大きな判
子を当局の係官が押している。ただ、それを無くしては帰国できないから、スルーガイドの
劉さんに保管を頼んでいる。昨日、部長がパスポートの提出を要求したときビザの提出は要
求しなかった。
そんなことが脳裏を駆け巡った。小父チャンは肉体的にすっかり疲れていて、すぐにもシ
ャワーを浴びずにでも眠りたいのだ。ましてや中国語で説明する勇気がでない。さらに同行
の皆を集めて説明をすることなど全く必要も感じない。そんな無駄な時間があれば眠りたい
のだ。
「劉さんを呼んでくれ」
乾いた声で言う。彼の来るのを待ちながら、部長さんを部屋の中に案内する。劉さんが来る
まで随分の時間がたった思いがした。やがて劉さんが扉をノックして入って来る。そして、
一枚の団体ビザを取り出して、一件落着。二人が部屋を出るとき、劉さんがささやく。
「ここは田舎なので、(部長は手続きを)よく知らないんですよ」
「それにしては、人口五万人を越える町ではないか!いい加減にしろ!」
返事する替わりに、
「休息!(お休みなさい)、休息!」
と繰り返した。
次の朝、このことをみんなに告げなかった。もうすっかりかたづいた事件だからだ。
根本和昌師からの返信
以上の全文を根本師に郵送した。はじめは思案していたのだが、事実を伝えるのが最良の
方法と思い、多倫廟訪問の報告のつもりで送った。しばらくして、次のような返事が届いた。
前略
貴重な写真をお送り頂いて、往時を偲んで感無量なるものがあります。五十何年か前を思
い出します。何回も読み返し、思いを遠く蒙古の地に走らしています。でも、今は行けませ
ん。かつまた友人の面影だけが偲ばれます。
栄枯盛衰は世のならいとは言いながら、衰退ぶりに驚いてゐます。青春時代、夢と希望に
燃えて活躍したころのことを思い出しています。時代の流れは夢のまた夢です。
蒙古の其の後の話をお聞かせ下さい。最近は体調も思うようでなく本年は熱海の長男を訪
れただけでした。年とともに長期の旅行も出来ません。奥様によろしくお伝え下さい。
敬 具
香火地
多倫廟に入った根本師は東廟本殿の隣の大官臣倉(寺)に部屋を与えられた。こじんまり
とした快適な部屋であった。食事を作る若いラマがつく。この若いラマに酒を買いに行かせ、
よく飲んだ。本殿に小学校ができ、日本語を教えることになる。本殿の一郭に部屋を代える。
日本語を教えるのと、モンゴル語を習うのが日課である。しばらくして、西廟に特務機関が
入る。西廟本殿の右側に移る。新しい仕事がふえる。香火地の解決を任される。漢人と蒙古
人との土地争いが絶えないのだ。個人レベルのイザコザなら何とかなった。目に見えないと
ころで大きな紛争になる。これをこじらすと大変だ。軍隊が出て収めることもある。若い身
には予想を超えた仕事である。
五原事件
駐蒙軍は五原を挟んで傳作義軍と対峙していた。大本営からは包頭以西の侵攻は禁止され
ていた。駐蒙軍は王英を支援して綏西警備軍を編成させ、傳作義軍を挑発する。シラムレン
事件のやり直しである。綏西警備軍はたちまちのうちに三千名近くに膨張し、綏西聯軍と呼
ばれる。
一九三九年傳作義軍は大挙して包頭を襲撃する。この機に乗じ、侵入した傳作義軍を掃討
する名目で一九四〇年一月、第一次五原作戦が開始される。駐蒙軍は二月三日、五原を占拠
し、特務機関、警備隊、綏西聯軍に治安維持を任せる。この第一次五原作戦に田尻師が配属
されていた五当召の警備兵約二百名のうち百名が田尻師を指揮官として綏西聯軍の指揮下
に入る。この時根本師は急ぎ多倫から田尻師の応援に駆け付ける。
「五当召の兵をなぜ日本のために使うか!」
田尻師は憤慨する。黄河河畔の田畠橋まで出撃し、傳作義軍を後套(五原の西)へ追いや
る。三月二十日夜、反撃体制を整えた傳作義軍は五原奪還に押し寄せる。迎え撃つのは治安
維持にあたっているごく少数の特務機関、警備隊、綏西聯軍である。たちまちのうちに特務
機関は全滅し、警備隊と綏西聯軍はちりぢりになった。田尻師と根本師は少数の兵隊ととも
に逃げ延び、草原の中で一夜をあかした。早朝、運よく五原からの撤退兵と合流し、包頭に
むかって敗退する。急を聞き付けた包頭からの援軍の自動車部隊に救出される。桑原機関長
は戦死、篠原補佐官は自決した。特務機関がでっちあげた五原侵攻の意図は失敗に終わった。
駐蒙軍は第二次五原作戦を開始する。二十六日五原を取り返した後、同地を引き返す。名
目だけの勝利であった。
モンゴル仏教研究生を修了
昭和十六年春、モンゴル仏教研究生たちは所定の課程を修了する。廟に残るものもいれば、
新しい職場に入るものもいた。多倫廟の根本師は三月、ゴンチクセイドン(東廟の活仏、カ
ンジュルワ・フトクトの弟)の日本留学の支援をする。同時に新たにモンゴル仏教研究生を
募るため、高橋大善師に同行し一時日本に帰る。ラマの法衣しか持たなかった根本師は笹井
敬仙師の背広を借りて帰国する。後ほど返したかよく覚えていないという。笹井師にこのこ
とを尋ねてみたが笹井師も、
「そんなことがあったかな?」
思い出せない。根本師は兄ほどの年令差のある笹井師を、
「おい!笹井」
呼びすてにしていばっていた。
「わしの方が早く厚和に来たからなあ」
根本師は当時を思い出す。
この時、新たな募集で五名が応募し、四月二十二日舎力図召に入る。五名は若かった。根
本師は従弟と弟を誘う。五名は以下のとおりである。
鈴木猛淳
西田覚宣
望月岱雅
根本芳典
根本師の従弟
根本淳之介 根本師の実弟
蒙古政府警察官
一九四一年春、根本師は研究生募集の帰国を終える。高橋大善師の指示で蒙古政府警察官
の警長となり、多倫の警察隊に入った。蒙古語とラマ姿で多倫の町を我が町のごとく歩く。
給与が入ると即座に酒屋へと姿を消す。女郎屋も多く並んでいた。町では常に緊張を伴なっ
ている。匪賊が賞金稼ぎに日本人を狙うのだ。相手を選ばない。ラマ姿でも日本人と分かる
とその場で殺される。頭骨の外を半周して、弾が後に飛び出した男がいる。命がけの青春探
索であった。
ジンギスハーンの夢
同年八月一日、張家口内政部特務課の主幹に転出する。察哈尓盟盟長であり、政務院院長
の卓王(チョトバシャップ)の身辺警護の任にある。親日派であり徳王につぐ要人である。
当時彼は六十才であった。
卓王には研究生時代にもよく会っている。神山師と二人でたびたび卓王宅を訪れ、宗教談
義に花を咲かせた。特に弘法大師の即身成仏論はモンゴル仏教にはない教えで、卓王は高い
関心を示す。千百年前、空海が長安の青龍寺で学んだ教えを、その末弟子が蒙古の王侯に教
えているとは、
「さぞかし空海も高野の奥の院でくしゃみをしていることだろう」
神山師と笑いあった。
卓王の次女文深嬢は日本に留学した経験があり、日本語が随分うまかった。卓王の秘書役
を務めており、しばしば文深嬢と仕事をする機会があった。仕事が明けると、ロシア人喫茶
店「ボルガ」や清河橋河畔の「大東京」、「オペラ」、「吉野」といったカフェで一緒に時
間を過ごすことが多くなる。卓王は二人の仲に気付いていた。卓王は二人を連れて好きな中
華料理店へ行くことが多くなる。根本師は本気で第二のジンギスハーンになる夢を見ていた。
二人で草原に出たり、清河橋河畔で共に歌を歌った。お酒も二人でよく飲んだ。注文は根
本師がし、勘定は文深嬢がはらう。酒が飲みたくなると電話で呼び出し二人で飲むようにな
る。文深嬢は彼に「アルヒネ・バクシ」というあだ名を付けた。アルヒは酒、バクシはさん、
先生の意味で、「飲んべえさん」ほどの意味であることはすでに述べた。彼女は親しみを込
めて呼んでいた。ある時、「大東京」で飲み、いざ勘定となると彼女の財布の中身では不足
だ。もちろん根本師は一銭の持ちあわせもない。早速、彼女は家に電話をかけ、女中に洋車
を走らせて持ってこさせる。真夜中の騒動であったから、卓王の知るところとなる。翌朝、
二人は並んで大目玉を食った。当然のことながら、歴史と由緒ある弘法大師の即身成仏論は
地に墜ちた。
いつまでもアルヒネバクシ
根本和昌師は大正十年二月二十八日、茨城県新沼郡霞ヶ浦町牛渡にて、父光作の長男とし
て生まれる。父は漁師で、三人の子供を残して三十一歳で死亡した。残された三人の兄弟は
母を助けてよく働いた。小学校を終えると伯母の口利きで高野山大明王院の徒弟となる。院
主は津田実雄大僧正であった。早速彼は高野山中学に入学する。腕白小僧の彼は堅苦しい修
業の道に押し込まれた。昭和九年の春である。
昭和十四年春、
モンゴル仏教研究生に応募、厚和に渡る。
昭和十六年、
多倫県警察隊を経て、張家口内省部特務科勤務。
昭和十七年五月、
中央警察学校卒業、警尉補。
昭和十七年七月、
中国語政府検定試験三等合格、月額十円を支給される。ちなみに一等は三十円だった。
昭和十九年六月、
蒙古政府通訳蒙古語一等合格。
昭和十九年九月、
蒙古政府警尉。
同年九月、
結婚のため賜暇旅行で日本へ一時帰国。妻をつれて大陸にひきかえす。
昭和二十年一月、
駐蒙軍情報部分室に出向。
昭和二十年十月十五日、
天津芙蓉収容所で長男昌幸生まれる。そして、二ヵ月後親子三人は無事佐世保に上陸す
る。七年間の大陸の青春は終った。
昭和三十五年五月五日、彼は自営開拓移民としてパラグアイに向う。再婚した妻と長男(当
時十四才)、長女、次女の五人であった。開拓民として身を粉にして働いた。もちろん、蒙
古で鍛え、ジンギス・ハーンの末裔から授かったアルリヒネ・バクシの名を汚すことなく、
好きな酒を欠かしたことはない。
昭和五十年一時帰国する。近藤廉祐師ら多くの知人と旧交を暖める。その後妻はパラグア
イで死亡する。大きな打撃であった。
七年後再婚。平成二年帰国。再婚した妻の故郷北海道白老町に住み着いた。
腕白小僧
「広島に知り合いの人がいる」
根本師はメモをくれた。二十日市市の串戸に内山ミヨさんを訪問したのは春の兆しが瑞々し
い季節である。彼女はとつとつとした話し方で根本師の中学時代の思い出を話しだした。
とにかく根本君は腕白でしたよ。クラスの同級生から抜きんでていました。
私の夫は当時、高野山中学で数学と英語の教諭をしておりまして、根本君の教室の担当も
していたので、夫からよく話を聞きました。ときどき遊びにきていました。ずいぶん元気の
よい子だと思いました。体が大きかったから運動は何をしても負けたことがなかったようで
す。勘がよくてすばしっこくて、勉強もそれなりにやってたようです。
昭和十二年、中学の二、三年生の時だったと思います。中学をやめたいと言ってきました。
相談する者がいなかったのでしょうか、私のところに来まして、長いこと話し込んでいまし
た。親元から仕送りがもらえなくて、
「もう学校へ行けない」
しょげていました。主人と相談して、なんとかしてやることにしました。そんな事もあって、
私のところへはよく遊びに来ていました。
昭和十三年、主人が死亡しまして、私は高野山を離れ、京都に行くことになりました。京
都で保健婦の勉強をしようと考えたのです。高野山を離れる前日の夕方、根本君はかわさぎ
をたくさん持って来ましてね、私に食べろというんです。近くの川で捕ったのでしょう。早
速火をおこして焼いて食べました。たくさん食べました。おいしかったです。
昭和十六年ごろだったと思います、根本君から京都の駅にいるからというので、京都の駅
であいました。蒙古にいるといってました。はやりの背広など着て、元気なふうでした。こ
の時が根本君を見た最後でした。
私は昭和十六年保健婦になりました。日本で最初の保健婦だったと思います。昭和二十年
まで東京で勤めました。その後、広島県吉田郡の病院に移りました。二年間原爆患者の手当
てに専念しました。毎日毎日がたいへんでした。昭和二十五年総婦長となり、定年まで勤め
ました。
そう、昭和五十何年ごろだったでしょうか、根本君から預かったといって、小さい鞄を持
ってきてくれた人がいました。
「パラグアイという国で一緒に仕事をしている」
その人はいっていました。手紙も入っていました。二枚の紙にびっしりと書いてありました。
根本君は私を忘れていなかったのですね。うれしかったですよ。
ドロン廟の興亡
この旅行から帰国後、小父チャンは多倫の街の馬さんに手紙を書いた。彼の自宅を訪問し
た時撮った写真を添えて、訪問したお礼を述べる。そして、当時の多倫廟の様子や、日本人
ラマについて知っていることがあれば教えてくれるようお願いする。約一ヵ月して返事が届
く。
「あなた方がご覧になった東廟の大殿は名を章嘉活仏殿と呼びます。多倫については満鉄
調査月報十七巻五号、昭和十二年五月一日に記載されているはずです」
早速その記事「ドロンノールのラマ廟」を図書館より取り寄せる。馬さんの手紙とこの資
料から多倫廟の歴史を概括しよう。
康煕二十九年(一六九〇)、葛尓丹(ガルタン)はジュンガル(準葛尓)地方に勢力を広
げた。東蒙古を経由し外蒙古のハルハ(喀尓喀)を手に入れようとする。ハルハの王侯たち
の救助要請を受けた康煕帝はこれに応じ、葛尓丹をウランプトン(烏蘭布通)に撃破する。
ハルハの王侯たちはこれに感謝すべく数十万の人間を引き連れて来朝し、清朝に帰属するこ
とを願いでる。康煕帝はこれを多倫納尓に出向いて引見し、大宴をひらいて王侯たちをもて
なした。
康煕帝が王侯たちをもてなすには一つの政治的意図が含まれていた。漢族の力を牽制する
ために、モンゴル部族と手を結ぶことを考えていた。こんなおり、蒙古の王侯たちが大挙し
て帰属を願い出たのである。康煕帝は大判振る舞いをする。多倫廟の建設である。康煕三十
年(一六九一年)の創建である。完成を見たのは康煕五十三年(一七一四年)であった。二
十三年を要した。中国名を彙宗寺と名付ける。現在の多倫東廟である。この大公共投資は多
倫の寒村を一躍一大都市へと発展させる。康煕帝がこの地を選んだのには理由があった。多
倫は本来ドロンノールと呼ばれた。モンゴル語で「七つの湖」の意味である。水気の少ない
草原の中にいくぶん凹んだこの一帯には七つの湖があった。昭和十二年ころには二つの湖に
減っていたが、地下には豊富な水があったという。
さらに、康煕帝は大判振る舞いをする。毎年多額の支援金をだすとともに、この彙宗寺に
内外蒙古の各廟より二人ずつの大ラマの常駐を命じる。そして第五世ダライ・ラマの高弟の
章嘉を第一世活仏として住まわせ、四十八両の金印を授ける。さらにさらに、康煕帝はこの
大宴会に馳せ参じた王侯たちにはハーンの呼び名や、親王、王、貝勒、貝子、国公等等の冠
位を惜し気もなく授ける。清朝の権勢を知らしめ、宗教を通して蒙古王侯を懐柔したのであ
る。
康煕帝から雍正帝に変わると、新皇帝もさらに大判振る舞いをする。雍正五年(一七二七
年)彙宗寺の西約八百メートルに、もう一つのさらに壮大な寺院を建立する。山門は二重で
あり、鐘楼と鼓楼が各一基、漢・満字の碑亭が各一棟、正殿が二棟、前殿を楼殿とし、全て
で八十一の伽藍があった。各楼、塔、殿、亭には当時最高の絵画が当代一の画家を招いて極
彩色で描かれる。そして、第二世章嘉活仏を住持として住まわせる。多倫西廟善因寺の完成
である。第二世章嘉活仏が第五世ダライ・ラマの高弟だという説もある。
殿堂は全て黄色の瑠璃瓦で覆われていた。一方、彙宗寺の瓦は青色の瑠璃瓦であったので、
人々はそれぞれ青廟・黄廟と呼んで親しんだ。黄廟にはおまけが付く。雍正十年(一七三二
年)準葛尓部族がまたもや勢力をのばし、ハルハを攻めた。この準葛尓部族を平らげる間、
雍正帝は蒙古トップの活仏ジェプソンダンパ・フトクト(哲布尊丹巴・胡図克図)を多倫廟
に一時退避させる。これが切っ掛けで、多倫廟は蒙古随一の廟として栄え、ラマは一時二千
人とも三千人とも言われた。活仏殿は十一殿に及び、多倫の街も最盛期を迎える。その後、
蒙古地方には清朝の援助のもとに多くの廟が建設されてゆく。
清朝のモンゴル政策はさらに進む。ラマを優遇する。さらに一家に一人の息子をラマにす
る規定を押しつける。そしてラマは結婚してはならないとした。結果ははっきりしている。
優秀な人材は廟に集まる。働き手をなくした市民生活は次第に衰微する。男は寺にたむろし、
街中には女の数が増す。正常な結婚生活はなくなり、乱れてゆく。自然に病疫が広がり、人
口が減る。モンゴル部族の勢力は時間とともに削がれてゆく。こうして清朝のモンゴル政策
は成功する。二世紀の時が過ぎると清朝自体も終末を迎える。
清末、民国初頭にはラマは多倫東廟に七百五十人、西廟に三百人となっていた。外蒙が独
立を宣言したのに乗じ、一九一三年九月スニット旗でも内蒙独立運動が芽を吹き、一部は暴
動化する。そして、清朝の傀儡と化していた多倫廟を襲ったのである。徳王はこの時十二歳
である。彼にこの独立運動はどのように写っていただろうか。当時の西廟にいた第十九世章
嘉活仏は難を五台山の鎮海寺に逃れる。これは多倫廟衰退に決定的な影響を与える。民国十
二年(一九二三年)ころには毎年二回、一月と六月に二週間に亘って盛大に行なわれた法会
も行なわれないことがしばしばであった。このころラマは百五十人、在野のラマ百四十人と
伝えられている。昭和十二年(一九三七年)日本軍の調査が入った時、ラマはわずか百二十
人であった。在野のラマを含むかどうかは不明である。
日本軍が占領したときには活仏は一人もいなかった。日本軍は二人の活仏を据える。ダレ
イ・ハンボ活仏、七、八歳。チベット生まれ。およびカンジュルワ・フトクト(甘珠尓瓦・
胡図克図)三十歳であった。六月には法会を再開させる。ラマ舞踏、競馬、弓競技、モンゴ
ル相撲が復活し、学生の運動会、毛皮や特産品の交易が行なわれた。近隣から数万人の人出
となり、一時多倫廟のにぎわいがもどる。しかし、章嘉活仏の復帰は実現するには到らなか
った。
当時、カンジュルワ・フトクト(甘珠尓瓦・胡図克図)はモンゴル仏教研究生とも親交を
深くした。後に説明する笹井敬仙師が引率して日本に渡り、高野山に参拝している。また、
ダレイハンボ活仏は多倫東廟で生活しており、この東廟の大官臣倉に住んでいた根本師はダ
レイハンボ活仏よりジャミヤン・オッスル(菩薩の光)という名をもらう。これらの活仏の
その後の消息は不明である。
一九四九年、中華人民共和国が成立する。宗教を認めない共産党が政権をとる。一九五二
年ころ第十九世章嘉活仏は遠く北京で他界するが、その転生は認められない。いっきに多倫
廟は衰微する。東廟は食料保管基地となり、西廟のそこここには住民が住み着く。一九六〇
年ころにはラマはわずか八名となり荒廃が進む。十年の動乱が追い打ちする。十年の嵐は寺
院も、教典も、祭器も、全てを破壊しつくす。嵐が去った時、二名のラマが壊れた僧坊にひ
っそりと住んでいた。一九八〇年ころ最後のラマが世を去る。彼は県議もかねていて、陳祥
と名乗った。
多倫廟は荒れ果てたまま無住の廟となった。
第五章 年増の楊貴妃
雲崗石窟第20窟における研究生たち
(昭和16年当時)
朝の張家口
夜行列車で到着する。私とヨウヨウは駅の出口に近い所に下車する。他のみんなはずっと
離れたところに下車している。ここ数日体調不良のヨウヨウが列車から下りた途端に座り込
んでしまった。この旅行で二度目だ。真っ青な顔をして、冷汗を流してうずくまっている。
ヨウヨウは昨夜も薬を飲まなかったのだ。
「薬を飲めよ」
さとすように言う。今度はうなずいた。やれやれである。みんなが集まるまでの時間がま
だるっこい。街の男たちが荷物運びの仕事を取ろうとつぎつぎ話し掛けてくる。
「どこへ行くんだ。」
「今日は張家口で、夕方北京だ」
「じゃあ、荷物はこっちへ運ぼう」
トランクを運びにかかる。
「自分でヤルから!」
叫びながら、座り込んだままのヨウヨウが気に掛かる。
「トイレを探して」
か細い声で訴える。いま場所を空けたら、荷物運びの男たちがトランクをどうするか分か
らない。イライラするまま数分間が過ぎる。皆が集まる。ガイドの劉さんと最長老の小母チ
ャンがヨウヨウをトイレに連れていく。つぎつぎと荷物運びの男たちが声を掛ける。こりゃ
あ、看板でも出すか、ラジカセで同じ言葉を繰り返さなければたまったものではない。中に
は、
「おまえはどこで中国語をならったか?」
などと聞いてくる。こちらは病人を抱えているというのに、いい加減にしてくれ。中国語の
実習に来たんじゃあないんだぞ。ますますいら立つ。
やがて、全員がそろい改札口を出る。ヨウヨウは、
「一日眠るところを探して」
ますますか細い声。張家口の観光を頼んでいる旅行社がホテルも経営している。そのホテ
ルの一室を借りる。
朝食をすます。二階の部屋で横になっているヨウヨウが気になる。部屋に行く。陣旗さん
が飲料用のお湯を持ってくる。ヨウヨウの顔を見ると、頬に少し赤みがでている。もう大丈
夫だ。今日はゆっくり休みたまえ。疲れが出ているのだ。
張家口の街
ガイドさんが話す。張家口は一九九五年に対外開放された。二年前である。新中国成立五
十周年記念と日特和尚総会も同時開催を計画したが実現しなかった。
日特和尚は日蓮の弟子である。当時、宣化(張家口の南約三十キロ)の立花寺で布教に務
め、死ぬときは立ったまま死んだことで有名である。現在、立花寺は解放軍総司令本部があ
り、開放していない。一九八六年、日蓮の崇拝者が墓に来て、記念のつもりかレンガを一つ
持ち帰った。この後、対外開放が厳しくなり、現在も許可されていない。
「日本軍は十年いた。同時に僧侶も来た」
「狼窩溝、ここで最後の戦いとなった」
「十万の日本軍が立てこもった」
「湖にソ連、蒙古人の死体を捨てた」
「今年は雨は降らず、干ばつ。街のなかの川に水はない」
「北白川宮殿下の記念碑は壊され、今は河の下だ」
張家口はモンゴル語でカルガンと呼ばれている。関所、番所、砦などの意味があるという。
中国語で口、関はこの意味がある。長城が渤海に尽きるところが山海関であり、西のはてタ
クラマカン砂漠の真ん中に嘉峪関がある。古北口は北京から承徳への関である。
張家口にもモンゴル仏教研究生は足跡を多く残した。笹井敬仙師が高野山別院印務書で働
いていた。また根本和昌師が警察隊に配属され、その後ソ連参戦に備えるため砲兵隊に転属
された。
戦略将軍
根本博中将(関東軍第三軍司令官)は昭和十九年十一月一日、駐蒙軍司令官に転出の命令
を受け取った。太平洋方面への軍隊の抽出につぐ抽出に負われていた。ソ連軍の参戦に対す
る対応と参戦の時期の読みが大きな課題であるとき、駐蒙軍司令官への転出は残された関東
軍の対応が未定のままであるだけに一種の不安が残る転任であった。
着任した駐蒙軍は師団と混成旅団がそれぞれ二個である。担当領域は山西省北部、チャハ
ル省、綏遠省、内蒙古。日本の面積をはるかに超える。この広大な領域の警備と統治の擁護
が任務である。
根本将軍の見識は他の将軍より一歩抜きんでていた。ソ連軍に対する状況判断である。他
の将官たちはソ連軍の捕虜や一般住民に対する態度について、欧米の軍隊と同じだと見てい
た。しかし、根本博将軍は違っていた。
「ソ連は話のできる相手ではない。国策遂行のためならば、いかなる非道も辞さない。強
いものには攻撃しないが、弱いものには残忍極まりない」
(出典「戦略将軍根本博」小松茂朗著)
このような判断から、
「八月十五日以降、抗戦を命ずる司令官を銃殺刑に処す」
ソ連の呼び掛けがあっても判然と無視し、日本人四万の引き上げ完了まで、張家口の引渡
しを武力で阻止することを決意する。同時に、邦人の北京への輸送の準備を開始する。まず、
移動手段の確保である。北京から送られてくる物資の輸送車両をすべて張家口駅構内に溜め
た。
北方の内蒙古の境界線は外蒙・ソ連軍と接し、西は五原で傳作義が守る国民軍、西南方は
共産党の八路軍が力を付けてきている。ソ連軍の進撃が早く、北京・天津を落とされるとこ
の地方の軍人・居留民の逃げ場がなくなり全てが全滅の状況になることは明らかであった。
根本中将は駐蒙軍と北支軍が同じ戦略的立場で動けるよう、北京・天津の北支軍の指揮権を
もほしいと上程する。
昭和二十年に入ると、ソ連軍の参戦に備えた具体的な配備を備えた。根本博中将の方針は
一口でいえば、
「邦人の引き上げが済むまで、一歩も退くな」
である。昭和二十年五月、張家口を拠点としたソ連参戦に対する準備が整うころ、上程して
いた北支軍指揮の司令がきた。根本中将は北京に着き、ソ連軍を長城線より南に進攻させな
い準備に入る。長城を越えるとすればまず山海関である。張家口が北の生命線とすると山海
関は東の生命線になる。
O一高地の激戦
ソ連は昭和二十年八月九日、三方から日本軍に戦いを挑んだ。その一番南側の部隊がこの
張家口をめざす。日本軍もソ連参戦を予知し、壕を掘り戦車隊を前面にだして準備している。
その場所はO一高地と呼ばれた。今の狼窩溝である。海抜千六百五十四メートル、張家口よ
り北約四十キロに位置する小高い岡である。
この戦いにモンゴル仏教研究生であった根本和昌師は砲兵隊に所属し最前線で戦う。彼の
手記「在蒙七年夢の如し」から引用しよう。
同時に召集された兵たちは四十二歳までの老兵でしたので、特に砲兵ときては訓練も大変
でした。訓練を繰り返しているうちに、八月八日対ソ連のために夕方宣化発、明早朝張家口
に到着しました。(一部略)砲をトラックに積み、同日昼ごろ日の丸峠のO一陣地に配置に
就く、同日午後より敵外蒙ソ連軍との砲撃戦が展開されました。砲の陣地は四、五メートル
四方の部屋に一メートル程の砲身を出すための窓がある鉄筋コンクリートのトーチカでし
た。窓からは機関銃弾が飛び込んで来るので大変でした。翌日からは砲を壕の外に出し応戦
することになりました。
中隊(松本歩兵砲中隊)の指揮班にいたので十八日夕方司令部へ命令受領に行ってきまし
たが、その時終戦を知らされました。すぐに武装解除を受けるわけにはいかないので鉄道沿
線の在蒙居留民が脱出し終えるまで、兵隊は戦わざるを得ませんでした。(一部略)砲兵陣
地だから敵からは千メートルくらいはあると思っていましたが、僅か二、三百メートルくら
いまで近付いているとのことでした。吾々松本中隊は最前線であることが解りました。(一
部略)
二十一日ころと思いますが在蒙居留民が引き上げを完了したので兵隊は陣地を退くこと
になりました。砲兵は砲を分解して地中に埋め、自殺用に手榴弾二個と十日分の食糧を各自
携行して退却を始めました。途中の橋には工兵が爆薬を仕掛け友軍が渡り終えると爆破しま
した。追撃してくる外蒙ソ連兵と戦い、前方は軽機や重機兵隊が警戒し両側の山中にいる共
産八路軍と戦い、翌日昼ころ四十キロ工程の張家口に着きました。(一部略)時の駐蒙軍司
令官の戦略は約四万人の蒙彊地区の居留民をソ連兵の略奪暴行から救ったわけです。
どこに居る田尻!
引き上げの第一日目、西望山で露営した。列車は居留民の引き上げに全て使い果たしてい
る。O一陣地で激戦を繰り返した将兵たちは徒歩で北京へ退却する。その夜、なぜか根本師
は寝付かれなかった。体は綿のように疲れ、その疲れで食欲もなく食事も充分取れない。勿
論体をいやす風呂も使えない。いつもならこんな時でもすぐに眠りに入れた。しかし、今日
はなぜか寝付かれない。横になったまま、今日の出来事を思いつくままに思い出していた。
ふと、人の気配がする。だれかがこちらの様子をうかがっているようだ。こんなことはモ
ンゴルに居るときはしょっちゅうあった。また、だれかが私を見張っているのだ。余り、気
にしないことにしている。そう自分に言い聞かしていると、遠くで馬のひずめの音が聞こえ
てきた。何事か! 一頭の馬が必死で草原を走って来るようだ。鼻息も荒く、たてがみを振
り乱し、死に物狂いで走っている。そのわずか一キロ程後に、大きな砂塵が沸き起こってい
る。数百の馬の群れが前を走る一頭を追っているのだ。群れになった馬の疾走する脚だけが
見え、胴体から上は砂塵に隠れ、乗馬する兵士の姿が見えない。先頭の一頭は疲れ切ってい
る。体中から汗が吹き出している。いや血の汗だ。赤い汗だ。血を吹く馬がいたというが本
当だ!
「これはどうしたことか!」
馬の顔が人の顔に変わった。
「田尻!」
馬は田尻師なのだ。長くのばした後ろ髪。濃い眉。精悍な瞳。
「どうした!」
根本師は叫んだようだ。ボロボロの袈裟をなびかせ必死に走りながら、田尻師は何かを訴
えるように、大きく口を開け、右手を振っている。その右手には赤い手袋をはめている。い
や、手袋ではない。手が大きく赤くはれあがっているのだ。両手を振った。
「まってくれ!」
叫んだようだ。両手とも、真っ赤な手袋のように赤く大きい。
「田尻!」
その自分の声で夢を見ていたことに気が付いた。今まで、忙しさのために考えることの無
かった田尻師のことを思い出した。チベットへ一人で旅立った彼はいまどこにいるのか。彼
がチベットへ出発したのはもうずいぶん昔のように思われる。
「どこにいる、田尻!」
そう自問しながら、根本師は起き上がると星一面の空が見えた。遥かかなたのチベットで
田尻師はどうして終戦を知っただろうか。北の張北の方角を探ぐった。若い者を十人も連れ
て行けば、彼を連れ戻す自信が根本師にはあった。一ヵ月も掛かるまい。西に突っ走れば彼
を探し出せる。今まで手足としてきた蒙古人の五人を先に行かせよう。あとの五人はだれが
良いか?装備は?・・・
「根本軍曹殿、食事をしてください。すぐ出発です」
当番兵の声がした。現実にもどった。夜が明けようとしている。逃避行の朝は早い。
「根本軍曹殿、急いで下さい。」
一瞬根本師は迷った。しかし、結論は早かった。根本師は、
「一、二、三」
号令でもかけるように、大きく肩を揺すらせ、背を張家口に向けた。振り返った根本師の
顔は吽像のそれであった。
この後、武器を持たない砲兵隊は徒歩で退却を続ける。ソ連軍の追撃と八路軍の挟み撃ち
を回避しながら五日間の苦闘が始まる。何度も襲撃にあう。武器を持たない砲兵は山陰に退
避するのがやっとである。地雷原を何度も回避する。張全荘、二合科、全修保、延慶で野営
する。そして、二十七日午後三時ころ、八達嶺にたどり着く。居庸関では北支軍の戦車部隊
が砲列を構え、後から追撃するソ連軍を威嚇する。八達嶺守備隊長伊藤少将以下将兵が到着
を迎える。堂々たる隊列歩武で、傷つき疲れはてた無名の英雄たちは帰還した。そして、あ
わただしく天津に移動し、塘古から下関に帰国する。
日本軍の後退と同時にソ連軍と八路軍が張家口に入る。日本人と日本軍はもぬけの殻であ
った。根本中将の作戦は忠実に実行され、その成果を得た。包頭・厚和方面にいた日本軍と
居留民は大同に集まった。大同・張家口間の鉄道が八路軍に破壊されたため張家口に入れず、
大同に足止めを食った。大同から南下し石家荘にでて北京・天津を経て、塘古を出航したの
は翌年の三月八日である。ずいぶん遅れた。
夢の館
張家口の中心地の勝利公園は元日本兵の駐屯地であった。現在、中国人の墓も多くあるが、
この公園には現地の人も行きたがらないという。この公園に二棟の建物が残っている。その
一棟が靖国神社である。コンクリート建の百坪ほどの建物が残されている。中はまるで雑木
の集積所だ。入り口に傾いた石造りの狛犬が二匹、寂しげに座っている。当時の威容を嗅ぎ
出す手がかりはなにもない。ガイド嬢が、
「もう一棟はあれだ」
左側を指差す。まるで物置小屋である。当時は何に使っていたのか問う勇気も出ない。写真
も撮らなかった。
ガイド嬢が言う。
「この張家口の指揮を取った阿部亀秀大将の館がある。一般の人は見ることはできないが、
私の父の務めている会社の庭にある」
鉄筋コンクリート製二階建ての西洋風の建物である。側面の通用口から入る。内装品は全
て無い。ガランとした内部はかびの匂いとクモの巣が占領している。一階ホールから二階へ
階段が延びている。二階にはいくつかの小部屋がある。構造は昭和初期の雰囲気が漂い、軍
人たちが正装して行き交った姿が浮かぶ。テラスに通ずるガラスの入った扉は軋み音をあげ
て開いた。新鮮な空気と太陽にホッとする。
前庭は三十メートル四方ばかりで、車両が旋回でき、玄関ホールへ横付けできる。当時と
しては豪奢な建物で日本軍の威容を誇ったであろう。純白であった壁は風雨にさらされ、は
がれ落ち黒いかびが生えている。いまは見る影もない。その庭はコンクリート敷で草の芽こ
そ出ていないが、ところどころ割れ目が走っている。軍人たちの夢の館であった。
年増の楊貴妃
時間が少しあるのでデパートを見ようと、車を止めた。デパートの回りは、駐輪と物売り
の屋台と人混みとでごった返している。屋台で茘枝(ライチ)を売っていた。琵琶の実の大
きさで色は濃い茶褐色、表面はぶつぶつ。楊貴妃も好んで食べ、遠く広州あたりから運ばせ
たという。ここで売っているのも運んできたものだ。枝に付いた三十粒程で三十元。一個一
元とは!しかし、新鮮な感じがする。日本人向けの値段だろう。この金額では土地の人には
高い果物だ。私たちは三十元払って手に入れた。デパートの片隅に集まって、ほおばった。
さすがの味である。その味は筆舌に尽くしがたい。冷やすともっと美味しいだろう。味わっ
た人にしか解らない味である。フッとすばらしい香に気付き目を上げる。
「アッ、楊貴妃だ!」
三人の楊貴妃がにっこり笑って私を見ている。すこし年増に見えるが、間違いなくライチを
口にした三人の楊貴妃が流し目で私を見ている。その艶っぽいこと、艶っぽいこと。さっそ
く写真を二、三枚撮る。ここで楊貴妃に出会うとは予想もしなかった。思わぬ人に逢うのも
旅の醍醐味である。小父チャンは再度夢中でカメラのシャッターを押し続けた。
帰国後現像した写真を見ると、なんと!そこには三人の小母チャンが写っている。あの楊
貴妃は私の幻想であったのか、それともほんの瞬間の出来事であったのか。楊貴妃もさるこ
とながら、玄宗皇帝もこのライチを食し、きっとこの幻想にかかったに違いない。とにかく
不思議な出来事であった。
鈍行煙車
ソ連参戦を機に、張家口から引き上げた日本住民たちは貨車に乗った。約七時間かかって
北京に着いた。現在、その同じ鉄路を鈍行列車で約五時間で北京に着く。軟席は日本で言え
ばグリーン車。指定席だが満員である。我々の荷物は入り口にまとめて置き、車内には持ち
込む余裕がない。
列車は蒸気機関車、中国語では火車である。なかなかの情緒あふれる旅に気を良くしてい
た。停車する駅ごとに田舎の風情が目に入る。乗り降りする人たちの声がにぎにぎしく耳に
残る。飛行機で点と点を結ぶ旅行ではこうは行かない。バスの旅行もいいが、鈍行列車の旅
行もいい。鉄道の北側は張家口の惨劇を食い止めた部隊が五日をかけて歩いて退却した山道
である。そんな光景を想像しながら車窓を眺めている。張家口を離れるにしたがってトンネ
ルが増える。山間部に入ったのだ。トンネルに入ると機関車の煙が車内に充満する。初めの
うちはその煙もめずらしく旅の経験と考えていた。トンネルが多くなるとその煙を疎んじる
ようになる。そして、鼻をかむ。陣旗さんが顔を拭う。ハンカチの黒さに驚く。満遍なく顔
を拭わないと顔に黒い線が残る。
前の座席に陣取った四十歳前のいかにもモンゴル人らしき男はきっちりと二十三分ごと
に眠りから覚める。ひといきピーナツをかじり、ペットボトルの水を飲み、また眠りに入る。
このでっぷりとした、顔の艶の良い大男は北京に着くまでに約五百グラムのピーナツ一袋と
五百CCのペットボトル二本を空けた。煙などには何の興味も示さない。
予定を一時間半も遅れて夜の八時に北京についた。入り口にまとめておいたバッグを手に
して驚いた。手が真っ黒になり、バッグに手の跡が着く。フッと息を吹き掛けると黒い粉が
舞い上がる。こりゃあ顔だけでなく体中が真っ黒なはずだ。火車ではなく煙車と改名すべき
である。この旅行が終わればしかるべき部局に提案しよう。
旅行の鉄人たち
一日天津で遊び、今日は北京から大同へ夜行列車である。北京を三時十分に出発し、大同
には早朝に到着する。この路線はこれで三度目である。一往復と半分である。我々の旅程は
合理的に組まれているのか? もう気にならない。これまでも何度も変更につぐ変更であっ
た。しかし、我々には不安は全くない。日本国内の時間通り・計画通りの旅行よりずっと楽
しい。さすがこれぞ中国・マンマンディ(慢慢地)よと、そんな気分になれないのなら、パ
ック旅行に乗っかればいいのさ。われわれ一男四女はみんな旅行の鉄人なのだ。さあ、今日
もまたまた晩餐会のメニューはたのしいたのしい特別製となった。わたしは今回の旅行で一
番気に入った白酒・二鍋頭を仕入れている。全員で乾杯しよう!
食事も終わり、お酒もすこし入ると、ヨウヨウが中国語会話教室を始める。彼女の発音は
たいしたものだ。音楽が好きで中国語独特の高低抑揚をもつアクセントを上手く発声できる
のだ。学習歴一年にしてはすばらしい。天性の才能がある。それにその風貌たるや全くどこ
から見ても中国人。あるホテルで、街の娘が迷い込んだものと間違えられ、女性の管理人に、
「こんなところで何してるのさ、さっさと出ていきな!」
語気強く言われた。ところがあわてる事なく中国語で、
「わたし日本人よ、旅行してるのよ!」
即答、事無きを得た。
小母チャンたちもたいしたものだ。今回の旅行のために中国語会話の冊子を持ってきてい
る。一時間ほどで簡単な挨拶語をマスターした。これで三人の太太(タイタイ)、小母チャ
ンが速成された。中国の人口がまたしても三人増えた。やはり旅行の鉄人である。どこの国
へ旅行しても人口を増やしてくる。
前事を忘れず
大同、太原の煤煙による公害は甚大だ。特に大同の被害はひどい。鼻を突く異臭、視界不
良はひどく、晴れ間でも一キロメートル程度の視界になる。朝から赤い太陽があがる。更に、
車の排気ガス。行き届かない路面清掃。生産第一主義の残骸である。大同から秦皇島へ石炭
のピストン輸送をしている。一分に一台の車両が通過するという。
太原や大同ではどこを掘っても石炭が出る。まるで石炭の上に造った街だ。太原では炭坑
夫は四十歳まで、四十歳を越えると炭坑夫をやめる。ほとんどの炭坑夫が病を抱えたまま退
職し、恩給で生活する。この人たちの平均寿命は一般の人よりもずっと短いという。炭坑夫
になる青年は少ない。中国でも公害は確実に広がっている。
この公害はこの工業地帯に限ったことではない。地方の田舎でももうとっくに始まってい
る。五、六年前だったか、昆明から石林までの約百キロメートルの黄色い大地をバスにゆら
れて行った。峠の上のバス・ストップで一休みした。土産物屋のしつこさから逃げるため、
建物の後の広場に出る。大きな湖が広がり、絶景である。ふと、左に目を移すと、山の頂上
辺りに一つのビルがある。大きな煙突からもくもくと真っ黒な煙を吐出している。ガイドに
聞くと、火力発電所だという。これがなければ素晴らしいバス・ストップであり、この風景
は長く保存できる。だがこのままではこの青い空、澄んだ空気、湖の水もいつまで保存でき
るのか、と悔やまれる。また、昆明の昆明湖はいまや工場排水により、プランクトンが異常
に繁殖している。もはや中国第一の湖と謡われ、北京の頤和園にも借景されたたかっての絶
景はもう無い。
日本はかって公害に悩まされ、水俣病、光化学スモッグ、車の排気ガスといった公害を経
験している。そして現在、先進工業国はすべて排気ガス、原子力発電の事故、フロン・ガス
によるオゾン・ホールに悩んでいる。隣国日本の事例をぜひに学んでほしいものだ。「前事
を忘れず、将来の戒めとする」という格言は政治面にだけに適用され、経済優先、工業振興
の前には姿を消すのであろうか?前事とは中国国内のことに限るのであろうか?それとも、
将来とは千年先のことをいうのだろうか?
月面歩行
大同石窟をモンゴル仏教研究生の多くが訪問している。写真も残している。張家口からフ
フホトへの中休みの街である。旅の疲れを癒し、この石窟の見学は彼らの知識・体験を刺激
したことであろう。
大同市内から雲崗石窟まで約三十分のバス旅程である。その道路のすごさはもう大変なも
のだ。道路が凸凹なのではない。行き交う石炭運搬車の多さ。それに満載している石炭がこ
ぼれ落ち、雨の如く道路に降り注ぐ。そして粉塵となって車が巻き上げる。窓は開けられな
い。クーラーなしでは堪らない。道路上では、所々で清掃している。だが、竹のほうきで路
上の石炭の粉塵を道路脇に掃き集めているだけだ。その掃き集めた石炭の粉塵は自然の風と
行き交う石炭運搬車の巻きおこす風とでまたまた道路に舞い戻る。
そんな景色をぼんやり眺めていると、車窓の右手に黄色い断崖が目に入る。その断崖の至
る所に穴が開いている。昔と言ってもほんの最近まで、いや今でも実用されている横穴式住
居かなと思っていると、
「雲崗石窟についた、バスを下りてくれ」
ガイドさんがうながす。バスを下りてびっくりする。バス・プールの路面が石炭の粉塵で真
っ黒なのだ。歩くと、靴の跡が残る。まるで月面歩行だ。
仏教復興事業
大乗仏教はパキスタンのガンダーラ地方でギリシャ・ローマ文化と融合し仏像や仏画を生
んだ。ここから北上し、パミール高原で東進して、シルクロードの西域にはいる。砂漠の民
はギジル千仏洞や敦煌の莫高窟に多くの壁画や仏像を残す。やがて二~三世紀には中国に入
る。
北魏(三八六年~五三四年)時代、五台山を中心に多くの寺院が建立された。大孚寺、清
涼寺、仏光寺である。五台山の聖地としての基盤が築かれる。だが、北魏太武帝は仏教を禁
止した。北中国一帯が廃仏運動に見舞われる。四四六年から四五二年に及んだ。しかし、太
武帝が死ぬと逆に仏教の復興運動が起こる。雲崗石窟はこの復興事業として開削が始められ
た。
悩み多き石仏たち
僧曇曜によって彫り始められた石窟の仏たちは中央の入り口から左右に各約五百メート
ル。右側の石仏たちの損傷が激しい。およそ千五百年の時間が過ぎている。一部はもう形も
ない。洞窟だけがその形跡を残している。これに反し、左側の石窟の仏像たちは色鮮やかで
ある。明清の時代に補修され彩色を施されたという。第二十窟の大仏は素晴らしい。
写真を撮るうちに気が付いた。この仏たちはみんなショールを被っている。上面がみんな
色が濁っている。灰色なのだ。二十窟の大仏も、三十センチばかりのミニ仏たちも、その上
面を灰色に染めている。これは粉塵だ。石炭の粉塵が長い時間かかって降り積もったのだ。
道路に降り積もったのと同じように、近年の工業化で粉塵が災いしている。モンゴル仏教研
究生たちが残した写真には灰色のショールの形跡は見えない。十年の動乱で人的に破壊され
た寺院と同じく、この石窟の仏たちも人間の力で短期間の内に破壊されようとしている。そ
れも今切実な状況だ。
「これは大変だ」
言いようのない思いのまま参観の時間が過ぎる。
窓をしめ切ったバスに乗り込む。ガイドの劉さんがスイカを二つ買った。今日の水筒の代
わりである。スイカの上に積もった粉塵を息で吹き飛ばしながらバスに持ち込む。これから、
五台山まで三百キロメートルのバス旅行である。
バスの中、私の目から仏像たちが被っている灰色のショールが消えない。思いが巡る。ほ
とんどの仏たちが病んでいる。もう今や全員が肺結核だ。それも相当に進んでいる。このま
までは近い将来まず仏たちの色彩が消える。そして肺癌や皮膚病となる。やがて、風化が進
行し、仏たちの姿も形を変え、奇形となり全員が死亡する。最後にこの洞窟は大小の穴ぼこ
になり、そしてその穴ぼこも風化し何も無かったかのように長い歴史からその役目を終え、
この断崖から姿を消す。そして、奇形のフクロウや真っ黒な雀が巣くう。長い時間が過ぎ、
この断崖も平地となり、一切の痕跡を地球上から失う。黒い粉塵が太陽の光をもさえぎり、
闇夜の大地に音もなくいつまでもいつまでも降り続ける。
夢からさめる。バスに揺られながら汗を拭いた。
強制入学
昭和十四年春、真言宗の僧籍にあるもので、大学卒業、二十五歳以下の者は登録を義務付
けられた。福山の能満寺にいた笹井敬仙師にも何の理由で、何の目的かは解らなかったが書
類が送られてきた。その書類を提出して数週間すると、東京の「専門学校」、模範訓練学校
に来いと書類が届く。行かないわけにはいかず、まさに強制入学である。何が始まるのかよ
く解らないまま、学校に缶詰めとなり教育が始まる。同じ年配の僧侶たちが二十人ほどいた
であろうか、見知らぬ者たちばかりである。中国語、針、灸といった中国の医学療法を学ん
だ。宣撫官に必要な教育をうけていることは解った。この教育は二ヵ月で終了し、自宅で待
機せよといわれて福山に帰る。東京見物はできたし、自宅を離れて久しぶりに自由な空気も
味わえた。若い身にはそれなりの成果があった。
福山にかえって十日ほど過ぎたころ、外務省の人から電話がかかる。下関のホテルに来い
との簡単な連絡だ。断れる状況ではない。ホテルで四、五人の僧侶が顔をそろえた。東京で
教育を受けた連中である。ある記録によると、石川素光師、木戸憲祐師、林正盛師、椎名宥
敞師である。再会を喜ぶなどという状況ではなく、どこへ何しに行くのかさっぱり解らない。
その日の夕方、係の者が伝える。
「北京の高野山別院に行く」
中国へ行くことだけは解った。
関釜連絡船に乗り下関から釜山に上陸し、陸路を取る。山海関から塘古をへて天津に入る。
天津から北京までは三時間の旅程であるが、鉄路の事故があり、一日がかりで北京に到着す
る。夕方、北京の高野山別院・報国寺に入る。住職の吉井芳純師が迎えてくれた。厚和から
の迎えが来るまで四、五日北京市内を見学する時間があった。教育期間に聞き及んでいたが、
実際に目にする北京はさすがにめずらしいものばかりだ。
厚和から竹本師が迎えに来る。張家口、大同、集寧を経て、厚和まで列車の中で二度夜を
過ごす。厚和の舎力図召に入ると翌日から三ヵ月の教育がまたまた始まった。教育期間が終
了すると五当召への赴任を言い渡される。昭和十七年九月である。笹井敬仙師が想像だにし
なかった蒙古生活はこうして半ば強制的に始まった。
サハルティ・バクシ
五当召に先に入っていた田尻師は西北へ行ったと聞かされた。詳しい事情は聞くべくもな
い。彼らにはチベットへのお参りが信仰上の最大の関心事である。そして、もう一つは西北
の状況を聞いて、張家口へ送るのが仕事だった。現実には勉強などほとんどしなかった。
シラミがよくわいた。シラミに噛まれるとチブスにかかりやすいと聞かされる。高橋大善
師もシラミにやられたのではと思っている。モンゴル人は羊皮の上着を素肌の上に身にまと
っている。外側に毛が出るときは暖かい季節の時である。羊皮が肌に心地よい。その羊皮の
上着にシラミがわく。そして褌、腹巻に、体中がシラミだらけ。モンゴルに風呂はない。生
まれたときだけ風呂に入るという。日本人ならば二、三ヵ月もすると風呂に入りたくなる。
夜中に、石炭で湯を沸かし、裸になって体を拭き、シラミ退治をする。ラマに見つかると白
い目で見るから、こっそりとやらねばならない。ラマたちはシラミを殺さない。生きものを
殺生しない。信仰心の表れである。ラマたちは、草原へ馬で出て行き、シラミを「置いて」
来る。殺すとは言わない。このシラミとの付き合いに慣れるころ、モンゴルの生活にも慣れ
る。
主食は粟に羊肉および羊の乳である。羊は「神から与えられた食物」なのだ。青野菜がな
い。農耕はしないからだ。当時の農業技術では土地が風化して、砂漠になる。そして、羊が
駄目になる。したがって、青野菜がないから、ビタミンCを補うのも羊の肉である。羊の臓
物がビタミンの宝庫なのだ。その外にお茶、ダン茶である。茶の葉を蒸してレンガのように
固めたものだ。必要量をナイフで削って熱湯に入れ茶にする。漢人はこれをモンゴル人に売
ってよく儲けた。羊、羊皮と交換するのだ。
言葉にはあまり苦労しなかった。二、三ヵ月すると、ムチャでも通じるようになる。困っ
たのは治安が悪いことだ。二回ほど狙撃された。身をひそめて、立ち去るのを待つより方法
がない。五当召には守備隊はいたが、漢人の襲撃では日本人と分れば殺された。漢人は山賊
のような者。蒙古人はやさしかった。
ある日、北京経由で和田師が布教に来た。その前日に襲撃を受けた。そんなこととはつゆ
とも知らない和田師はにこやかな顔で大きく手を振りながら、老体を揺り動かすようにして
トラックから降りてくる。笹井師は即座に止める。
「帰ってください!」
「あぶないから、すぐに!」
トラックに押し込むようにして、寺院の玄関にも入らずに帰ってもらう。鉄道沿線は案外安
全だが、鉄道を離れると危険だ。
特に意識的にひげをのばしたわけではない。四、五日もすればすぐにのびる。剃ろうにも
水も無い。剃刀も無い。石けんも無い。ないないずくしの生活では、ひげを剃らなくても何
の不便も無い。だから自然にひげは長くなる。まるで禅問答である。やがて、みんなは彼を
サハルティ・バクシ(おひげさん、ひげの先生)と呼んだ。
ラマたちの修学旅行
昭和十八年、蒙彊連合自治政府が成立した。笹井敬仙師は張家口のラマ印務所に転勤を命
ぜられる。名簿の整理などが主な仕事であった。
この時モンゴルのラマたちを日本へ連れてゆく。「蒙古有力喇嘛僧訪日見学団」を企画す
る。昭和十八年春、国内を約一ヵ月、十一名のラマたちであった。東京・二重橋、明治神宮、
名古屋をめぐり京都ホテルで丹前を着る。京都大学の付属病院を訪れた後高野山、大阪、九
州に足をのばす。中野学校卒業の幽経少佐が手伝った。少佐がいたので、移動はやさしかっ
た。帰途、朝鮮東亜倶楽部、軍の社交倶楽部に立ち寄る。板垣征四郎朝鮮総督と十一名のラ
マたちを囲んで記念撮影をする。当時としては破格の待遇である。通訳として、見学団の団
長・多倫廟のカンジュルワ・フトクト(甘珠尓瓦・胡図克図)の弟ゴンチク・セイドンが日
本留学の成果を披露する。この時のアルバムが残されている。写真の説明がすべてモンゴル
語なので誰もその意味が解らない。頼りになるのは笹井師の記憶のみである。
よお生きておるのお!
昭和十九年、戦況が厳しくなり、召集を受ける。華南作戦に参加した。信陽の司令部にい
た。
終戦を迎える。蒙彊に帰ろうと思っていた。済南に集められる。時間があったので、済南
高野山に出向く。管長の今岡僧正に出会った。
「日本へ連れて帰ってくれ」
頼まれる。老人の身では一人でも多くの知り合いがいることは気持ちを強く持てるのであろ
う。息子さんと三人で帰国する。昭和二十一年四月二十一日、青島から佐世保に入る。佐世
保では検閲に一週間かかった。お金を少しもらう。「無事帰る」の電報を打とうと思った。
電報より帰るほうが早いと言われ、電報はやめる。福山には夜遅く着く。いっさいの手荷物
はない。身一つで福山の駅に降り立った。焼け野原である。ポツリポツリと家があるのみだ。
火の消えた能満寺に着く。父と母が出てくる。しばらく、三人は顔を見合わせたまま言葉が
ない。父は風呂の準備を始めた。母は食事の準備を始めた。
しばらくしてハワイ行きの話が出た。先輩から「ハワイで布教し、向うで死ね」と指示さ
れる。マウイ島のワイルクの広明寺へ入る。家内は日本人、帰化を勧められる。息子が生ま
れる。三歳になると乗り物は有料になる。これをきっかけに帰国することを考えるようにな
った。七年間ハワイにいたことになる。いい体験をした。ハワイで生活して有り難い思いだ
った。しかし、
「そろそろ落ち着かないと檀家に叱られる」
こんな思いから帰国する。ハワイから帰国後一時、高野山の教会課長を務めた。
現在、ハワイから帰国して三十年になる。ときたま入院が必要な体になった。思うのはた
だ一言だけだ。
「よお生きておるのお!」
第6章 バタガルのトフタン
蒙古服姿の田尻隆昭師
五当召へ
包頭の街から東へ約十キロメートル進み、直角に北に曲がる。埃っぽい空気はがぜんに良
くなり、涼しい乾いた空気が心地よい。前方に青山山脈の小高い丘陵地帯が迫ってくる。こ
の山々の頂きを越えるとモンゴル草原に入る。地図の上では七十キロメートルばかり丘陵地
帯を行くと五当召に到着する。今日は午前中に唯一の目的地に着くのでくつろいだ旅だ。
戦国趙長城遺跡
バスは登り坂にかかる。路面の舗装はまずまずで、快いバス・ドライブである。峠の頂上
にさしかかったころ、道路の左右に大きな真新しい記念碑が建っていた。小休止をすること
になり、さっそくカメラをもってその碑に近付く。趙代の長城の遺跡である。戦国時代は紀
元前四〇三年に始まるから、約二千四百年の昔にさかのぼる。こんな時代にすでに長城の構
築があったのかと驚く。高さ二メートル程度の堤防があちこちで分断され崩れかかっている。
道路によって分断されたその長城の断面は石とコンクリートで固められ、断面形状が良く見
える。出来たころは四角形の断面をしていたであろうが、いまは風雨に浸食されほぼ正三角
形に近い断面をしている。
「こんな低い長城では役に立たないのでは?」
陣旗さんが質問する。
「馬が越えられなければそれで十分なのです」
ガイドの説明である。二千四百年前には馬が唯一の移動手段であった。当時の匈奴にはこの
長城を取り崩す土木技術がなかったのであろう。今は朽ちはて、三角形の断面に変形してし
まった。碑文によると趙の武霊王が北方経営の雄図をめざして建設した。また司馬遷の「史
記」にも記述があるという。役目をとっくの昔に終えた長城は目の前に、長いうねりを横た
えている。
この峠を越え、さらに北に進む。今日のバス旅行は心地よい澄んだ空気と背の低い緑の植
物の丘陵地帯で目にもやさしい風景が点在する。峠を下ると幅五十メートルばかりの川に出
た。水はほとんどなく幅十メートルばかりの淀んだ流れが目に付いた。橋を渡り、私たちの
バスは直角に左折する。民家がぽつぽつと立っている。民家の建材がすこし日本と異なるだ
けで、日本の田舎道と同じだ。数分も進むと、
「郵便局だ!」
小母チャンの声でバスは停車した。
「すみません、この手紙を出したいんですが」
出発前に包頭のホテルで投函したほうが早く着くのに! と思うのと同時に、この田舎の
郵便局のスタンプを押した手紙は稀少価値がでるとうらやむ。この方法で自分が旅行した足
跡を記録して行くのもまた面白い。手紙の投函が終わると、バスは田舎道を川に沿って西に
進む。川の水はどちらに流れているのかはっきりしない。清涼な水だが水量が少ない。雨が
降れば洪水となり、降らないと渇水状態になる川のようだ。この川にへばりつくように民家
が建っている。
華麗な殿堂
山間を曲がると橋が見えた。その橋の向こうに白い建物がいくつも並んでいる。よくみる
とその白い建物は赤や黄色の横線で彩られている。
「五当召だ!」
今までに通過した乾燥レンガを積み重ねた茶色の建物、緑の少ない山、水の少ない川を見て
きた目には、一段とカラフルで周囲から抜きんでる華麗な殿堂である。橋を渡ると若干下り
勾配になっており、広いモータープールに入った。といっても我々以外のバスはなかった。
周囲に数店の土産物の屋台が出ている。観光客も少なく閑散としている。
五当召の名称はこの寺院の前に広がる渓谷の名を五当溝と呼ぶのに因んでいる。五当の二
字はモンゴル語のブタンテゥの音訳で、「雲霧の立ちこめるところ」の意味があるという。
五当召の原名はバタガルと呼ばれ、白蓮花の意味である。またこの近辺に咲く芍薬の花のチ
ベット語だという説もある。チベット語では「広大な悟りを具する寺」の意味があるともい
う。案内書では乾隆十四年(一七四九)に始建とあり、また別の案内書には重修とある。ス
プルガイすなわち骨灰塔の後の院内に現存している色木清(セムチン、休息の小府の意)と
呼ばれる建物が最古とされている。建立されたのは乾隆二年(一七三七)と説明があり、こ
れを創建とするのが良いのだろうか。
乾隆二十一年(一七五四)に乾隆帝より広覚寺の名称を賜っている。満、蒙、蔵(チベッ
ト)、漢の四種の文字で書かれ、一七四九年建立のドンコル・ドゴン(ドインコル・ドゴン
との説もある)の入り口に掛けられている。
五当召は厚和の舎力図召とは建築様式ががらりと変わる。舎力図召は木材を使い、屋根の
かたちも内部の構造も日本や中国本土の寺院と類似点が多い。五当召は主にレンガや石を積
み重ねた作りで外観は四角い小さなビルである。そのビルの外壁は白、茶褐色、黒を主体と
した原色の塗料で化粧しており、チベット様式を色濃く取り入れている。大小のビルが二十
万平方メートルの宏大な丘陵の南斜面にそって幾つもならび、一つの城となっている。
中国の歴代の政権からは実質上独立していた。約二百名の僧兵を擁していた。また、包頭
の東部に広がる青山炭坑を経営しており、信者からの寄進とあわせて千人といわれる僧侶・
使用人の生活の糧となっていた。寺の経済力は地方の軍閥よりはるかに勝っている。
召は大学であり五百人から六百人のラマの学徒と教授がいた。学徒は内モンゴルの各地か
ら集まってきた。アラシャンやオルドスまたチベットからも優秀な学徒が集まっている。そ
の学問の高さでは内モンゴル随一といわれている。設備も純チベット式であり、また学問に
用いられる言葉もチベット語であった。他の内モンゴルの寺院で用いられる言葉はモンゴル
語とチベット語の混合であった。五当召は内モンゴルの最高の学府であった。
この五当召も十年の動乱で荒れ果てた。仏像はじめ教典類、祭器の類はほとんど散逸し、
建物だけが残った。そして、十年前建物の修復が済み、教典は西寧の塔尓寺より運び込まれ
た。ラマも二十人ほど復帰したという。しかし、若いラマの姿はほとんど見かけない。宗教
的活動の様子も見えない。
ひげの爺さん
五当召にきた唯一の目的はモンゴル仏教研究生・田尻隆昭師を知る老人を捜し出し、田尻
師の西北旅行の状況を聞き出すことにある。
正面のツォクチェン・ドゴン(顕教学殿、却伊拉殿)の前で記念写真を撮る。さっそく第
一館チェリン・ドゴン(大集会堂、蘇古必殿)の見学である。内部の見学も早々に切り上げ、
入り口にいる切符切りの老人と話を始めた。
「やあ、こんにちは」
「日本人です」
「ところで、この写真を見てください」
持参した田尻師の二枚の写真を見せた。その老人は写真をのぞき込み、何度も確かめていた。
やがて、
「これはタジリ・バクシだ」
「エッ、本当ですか?」
初めて聞いたこの爺さんが田尻師を知っていたことに驚く。
「間違いないよ」
「タジリ・バクシにあったのは七歳の時だ」
「現在おいくつですか」
「六十七歳じゃよ」
六十年前か、すると一九三七年、昭和十二年。田尻師が五当召に入ったのは昭和十四年夏で
あるから、二年の違いがある。これは誤差の範囲だ。
「タジリ・バクシは一人で来ましたか?」
「そのあと、二、三人が来ていたよ」
「名前は知っていますか?」
「忘れたよ」
長尾氏(「蒙古学問寺」の著者)がこの五当召の調査に来たとき、田尻師とともに撮った写
真を見せる。
「これがタジリ・バクシだ」
指でさし、目で私に伝える。
「真ん中のはレンチン・ラマだ」
「活仏ですか?」
「いやちがうよ」
「タジリ・バクシは西北地方へ旅行したんですか?」
「一九四三年に出発したが、どこかへ行ったままだ」
「帰ってこなかったのですか?」
「そうだ。詳しいことは知らんよ」
「七十六才の年長者がいる。ひげを生やしている。そのラマに聞くとよい」
名前を教えてくれたが、モンゴル語なのでよく聞き取れない。ガイドの李さんが解ったと
うなずく。お礼を言い写真を撮り、握手をして別れた。
ひげの爺さんを探しながらの五当召の見学がこうして始まった。ドンコル活仏宮殿をみて、
ドクシト活仏宮殿を見る。ドクシト活仏宮殿の入り口で温和な風格のあるラマが、宮殿に入
りなさいと手で招いている。しかし、ひげが無い。
「ひげを生やした老人はいますか?」
李さんが聞く。あっちだと手を差出した。小父チャンはその老人の顔写真を二枚撮った。そ
の温和な風格に引かれたからである。この老人の指差す館に行く。
東の谷間に十数棟ある僧坊の一つ、白い二階建の建物の一階である。入り口は正面に一つ。
ノックしてみるが応答がない。そっとドアを押すと開いた。声をかけながら李さんを先頭に
入っていく。奥行五メートル。入り口から真直ぐ幅一メートルばかりの土壁の廊下。突き当
たると左右に二つの入り口。左側に人がいた。挨拶をし、来意を告げる。入れと手で返事が
返ってくる。さっそくどやどやと八人がは入り込む。壁の厚さは五十センチはあろうか。レ
ンガを石灰で塗り固めている。四.五畳程の部屋は三十センチほど床高になっており、涼し
く快適だ。八人が入るともう足の置場に困る。見事な真っ白のひげ、三十センチはあろうか。
日に焼け元気そうな目が突然の来客にびっくりしている。
名をグワンチ・ニマ(克旺察・尼瑪)といった。写真を見せる。
「タジリ・バクシだ。知っている」
「彼は三、四年この廟に住んでいた」
三人の写真を見せる。三人の写真のいちばん右はガンジュルだという、
「タジリ・バクシは旅に出たことがありますか?」
「ラマと一緒にイクチョウメイ(伊克昭盟)まで行った」
「数人で行った。ラマが心配して途中でやめさせた」
「ラマたちの目的は?」
「活仏の転生者を探しに、青海の寺に行った」
この話には現実味があふれている。ここの第六世ドンコル活仏(フトクト)は昭和十八年
(一九四三年)六月天然痘で死亡している。したがって田尻師が旅にでたのは一、二年後の
一九四四、五年ごろであろう。
「タジリ・バクシは国民党に捕まって、この寺には帰らず、どこかに行った」
「この寺のラマが嘆願書を書いたことを知っていますか?」
「知らない」
「タジリ・バクシ以外に日本からきたバクシは?」
「ネモトというバクシが来た」
根本和昌師のことだ。この爺さんはよく覚えているのだ。
「彼は日本の北海道に住んでいる。私も一度会って話をしたよ」
顔がほころんでいる。高橋大善師も笹井敬仙師も知らないという。私たちには時間がない
のが残念だ。お礼を言い写真を撮り、握手をして別れた。建屋を出て、正面の方向に向って
進んだ。二十メートルほど進んで彼の建屋を写真に撮ろうと振り替える。ひげの爺さんが入
り口まで出て、見送ってくれていた。
「さよなら」
気持ちの良い別れだった。ガイドの李さんは第一館で聞いたラマではないという。時間はど
んどん過ぎて行く。残念だが、昼食を取りながら今日のこの後の日程を考えることになった。
私は最後尾になり、まだ物足りなさを残しながら召の正面に向う。
正面のツォクチェン・ドコンの前まで来るとガイドの李さんがひげの爺さんと話をしてい
る。
「この人がそうです」
ガイドの李さんが明るい声で私に伝えた。さっそく、写真を見せる。
「タジリ・バクシだ。二人で撮った写真の半分だ」
すごい返事が返ってきた。当事者でなければ分からないことだ。この爺さんは間違いなく田
尻師を身近に知っている。力が湧いてくる。私は一緒に食事をしようと誘った。
「いや、いらないよ」
「じゃあ、お茶を一緒に飲んでください」
いろいろ誘って、食堂まで来てもらう。話を始めた。
「わたしはタジリ・バクシと同級生だった。一緒に経を読み、議論をした」
「寺のラマの一人が彼の世話をしていた」
「軍隊が駐屯していた。七、八百人いた」
「西山荘(巴盟)まで行った。彼が日本人であることが発覚し、傳作義の部隊につかまっ
た」
「嘆願書?よく知らないねえ」
「ラマは当時七百人ほどいた。現在は五百人ほどいる」
「七十あまりの旗と県の寺に行っている。当時五百あまりの寺があったが、十年の動乱で
九十九に減った。その後修復が進み、二百ぐらいになっている。現在ではラマは重視されて
いない。過ぎた歴史だが心痛い思いだ」
「一番うれしいのは、一九八〇年日本からモンゴル仏教訪中団が来た。その後お経を唱え
ることができるようになった。この時、合同法会をやった。ただお経を唱えることだけが出
来た。だれが、何の目的できたのか何も知らされていなかった。会うことができたのも一部
のラマだけだ。個人的な付き合いは一切できなかった。しかし、これを切っ掛けに法会がで
きるようになった。うれしいことだ。今後とも、日本との交流を切望するよ」
料理が出てきた。初めは野菜類である。
「どうぞ」
誘う。
「いやいらない」
手を横に振る。そこで、小父チャンが皿に取り寄せ箸をおく。爺さんは箸を取り、料理を
口に運んだ。皆から喜びの拍手がおきた。本人も喜んでいる。少しずつ箸を動かしながら話
が弾む。突然、彼は日本語を話し出した。皆んなぶったまげた!
「イチ、ニ、サン、シイ・・・」
大きな声で十まで数えたのだ。大きな拍手が起きる。するとこんどは急に起立し、
「回れ右!」
またもや大声で、その所作をしてみせた。まだまだ、若い動作である。そして、椅子に座り、
ガイドの李さんにそっとささやいた。
「バカヤロウ、とはどんな意味か?」
ガイドの李さんが通訳する。笑いの渦となる。
羊の丸焼きが出た。モンゴル刀で小さく切り裂く。香ばしい薫りが部屋に満ちる。
「お坊さんだから、お肉は食べないのでは?」
小母チャンたちの声がかかる。
「自由にとって食べてください」
彼は箸を取り大きな肉の固まりを一口に遠慮なく食べ始めた。皆んなからまたまた歓声が
あがる。しばらく羊の丸焼きを味わう。あっさりとした塩味で日本人の口に合うことはもう
皆んな知っている。見る間に骨付き肉だけになった。皆んなの食欲はその骨までも食べ尽く
す勢いである。
しばらくすると、彼はピエロに早変わりした。顔の造作が百面相のように変わるのだ。写
真をバチバチと撮った。この大ラマは愛すべき楽しい人なのだ。この寺院内でもきっとみん
なに可愛がられている。そして、私たちへの歓迎の意をこのジェスチャアで身体いっぱいに
表現しているのだ。
爺さんは一句を披露するといい、漢詩を暗誦した。明代の詩だという。
紅花落葉又一天
紅花が葉を散らすも又一日
不知明天見不見
明日会えるか分からない
世界一場空
この世は一切が空だ
詩を歌い終わると、彼は用事があるのでと席を立った。小父チャンは食堂の入り口で彼と
写真を取り、最後の握手をする。言葉が出ない。彼はニコッと笑った。くるりと背をむけ歩
きだした。小父チャンは彼が建物の影に入り、見えなくなるまでその背中を見ていた。
「さすが大ラマだ。深いしわの奥に博学と慈愛とを合わせ持っている」
「後ほど、写真を送るから受け取ってくれよ」
小父チャンはうなづいていた。
彼の名はアワン・ダンピリ(阿完・当辟理)、大ラマ、五当召第三館ドンコル・ドゴンの
管長、七十四歳。一九四五年当時二十二歳であった。
別れの宴
昭和十六年、モンゴル仏教研究生の期限が終わると、蒙古政府警察官(警長)を拝命した
根本師は八月、張家口の内政部特務課に勤務した。この時、田尻師がチベット行を百霊廟で
準備しており、やがて決行するのでその資金を届ける指示が出る。彼は喜び勇んで馬を飛ば
した。その日の内に武州を経由し百霊廟で田尻師と再会する。五原事件で生死を共にした記
憶が鮮明であった。この時高橋師も百霊廟で根本師を待っていた。
田尻師は真言宗の僧侶の「根源を知る」教えにそって、聖地チベットのラサへの思いが強
かった。モンゴル仏教研究生同期の近藤廉祐師もそんな思いを持っていた。二人の話はよく
合った。とにかくラサまで行き、あとはインドに潜りこめばなんとかなる。またモンゴル仏
教研究生の中で一番西側に位置しており、自分がやらねばという責任感があった。若さがた
ぎる中で、決行のチャンスを待っていた。
三人は久しぶりで酒を酌み交わす。田尻師は世話役の若いラマにありったけの料理を準備
させた。高橋師の内モンゴル開教の夢は開き始めたところである。いま目の前にいる二人の
愛弟子たちが成長し、その一人田尻師は明日モンゴル仏教の聖地ラサに旅立とうとしている。
無二の親友・根本師が励ましに駆け付けている。三人の師弟は時間も忘れ、思いの丈を語り
合った。
日はとっくに暮れている。ろうそくの炎だけが幻覚のように揺れている。音を消した楽隊。
円舞する白い長袖衣装のモンゴル娘。そして静止した時間が三人をもてなしている。
三人の師弟はくしくもこの宴が別れの宴になろうとは思いもしなかった。
駐蒙軍の最西端部
さて、田尻師が目指したチベットへの道中へ目を向けよう。
当時、日本の駐蒙軍は包頭の西部、五原を挟んで傳作義軍と対峙していた。五原を東流す
る黄河を渡ると、オルドス(モンゴル語で宮殿ジンギス・ハーンの墓所の意味)の荒原地帯
に入る。このオルドスを南下すると、毛沢東を首領とする共産党軍が勢力を拡大しつつある
延安に至る。また、オルドスを西進し、北上する黄河を渡ると寧夏(現在の銀川)に至る。
この地区は回族の勢力地で馬鴻逵が陣取っていた。黄河にそって南下すると甘粛省の蘭州・
西寧に至る。この地区は同じ回族の馬歩芳の一大勢力地帯であった。特に馬歩芳の勢力地帯
は米国、英国が蒋介石を支援する物資の輸送ルート(西北ルート)、別名援蒋ルートにあた
り、馬歩芳は大きな勢力と軍事力を身につけている。
さらに甘州には馬歩青、粛州には馬歩康が勢力をはり、馬歩芳を含めて三馬といわれ蘭州
から西の輸送ルートを牛耳っている。ちなみに、彼らも回族であり、イスラム教の教祖マホ
メットのマの発音と同じ馬をもって姓としている。現在も馬姓の人にはイスラム教の人が多
い。
「この西北ルートはモスクワ北方の不凍湖ムルマンスクに物資を陸揚げし、ソ連のカザフ
共和国経由で、・・・・西モンゴル地区に輸送する」(木村肥佐生氏)という長大なルート
である。他の沿岸部からのルートは日本海軍が封鎖しており、ビルマからのルートも日本軍
が遮断していた。インドからのヒマラヤ山脈を越えチベット経由のルートは中国嫌いのチベ
ットの中立宣言で実現していない。蒋介石は窮地に立っていたのである。
駐蒙軍の特務機関はこの西北ルートの輸送網や物資の流れの情報を得るために包頭に情
報部支部を置いた。この支部の最西端に配置された分駐所分哨が西展房にあった。
西北病にかかった人たち
内モンゴルに入った若者たちの間に西北病が蔓延していた。以上見たように包頭の西北は
軍事的には中国の援蒋ルートであり、その探索、情報収拾は日本軍の大きな課題であった。
この地は日本にはよく知られない未知の国・未開の原野でもある。黄河の北端・包頭からラ
サまで行程距離数だけ見ても二千五百キロメートルに及ぶ。これが若者たちの冒険心すなわ
ち西北病を誘った。現在では二週間のバス旅程に過ぎない。先陣を切ったのが福田隆繁氏で
ある。
福田氏は内蒙古各地の特務機関長を歴任した盛島角房の知遇を得て昭和十四年十一月入
蒙した。モンゴル人と生活を共にし、モンゴルの習慣と言語を身につけ、西北行の機会を待
っていた。包頭の北部の村を出発したのは昭和十五年十月、半年かけて十六年四月、西寧塔
尓寺に到着する。道案内をつれ、途中から塔尓寺のチャガン活仏の帰郷団体と行動をともに
した。周囲の監視の目を誤魔化しての行程であった。彼は塔尓寺より奥地には行かず、無事
に張家口に帰任した。(出典「秘境モンゴル一人旅」昭和六十年六月二十日、福田隆繁著、
私販本)
西川一三氏は昭和十八年興亜義塾(三回生)を卒業、駐蒙大使館調査部に勤務、西北行の
計画を練る。昭和十八年十月出発、残地諜報部員として、日本の戸籍も抹消されての出発で
あった。彼は黄河の西沿いに南下し西寧に入る。チベット高原を南下して、昭和二十一年四
月ラサに至る。
興亜義塾の二回生である木村肥佐生氏は西川一三氏より二ヵ月遅れて十二月に出発した。
途中、西寧でしばらく休み、昭和二十年(一九四五)五月十八日出発、同年八月末、西川氏
より約半年早くラサに入る。西寧ーラサ間を約四ヵ月、全行程一年九ヵ月の旅程であった。
(出典「チベット潜行十年」木村肥佐生著、一九五八年)
彼は西川一三氏と顔見知りであったが、ラサまでは全くの別行動であった。一九四七年二
月ラサでひょっこり二人は出会うが、その場では二人とも見知らぬ顔でやり過ごさざるをえ
なかった。終戦を知ったのはラサに入ってからである。その後二人は東部旅行を供にした。
インド・ラサ間を幾度も往復したりし、最後には二人共にインドから昭和二十五年六月十三
日帰国した。そんな苦難の行程は近年に無い歴史的大著とも言える、西川一三氏著作の「秘
境西域八年の潜行」(一九九〇年九月)、中公文庫、に詳しい。
学問寺
チベット仏教またはモンゴル仏教の寺院には二つの形態があるという。一つは崇祈を目的
とした寺院である。密教としての大きな特色である信者への利益を施す寺院である。活仏は
祭礼をつかさどり、信仰の対象となった。活仏は一寺院に複数居住することもあり、一人の
活仏は多数の寺院の活仏であることもあった。一人の活仏は多くの僧侶と市民の崇拝の的と
なった。一般に寺院のスポンサーがいてその活仏を経済的にまた政治的に保護する。
寺院のもう一つの形態は、学問寺と称され、スポンサーを持たず政治にも無関係で、戦争
にも大きな被害は受けなかった。五当召がその例である。五当召は大青山炭坑を経営し、自
ら私兵をもって匪賊、盗賊から自らを守った。この学問寺は僧侶の錬成道場であり、教義の
学府である。いかなる活仏もここで訓練を経て僧侶となる。したがって、時の政権が衰微し
ても学問寺は生き残っていった。モンゴル帝国が衰微してもラサの学問寺デプン寺は廃寺と
なることはなかった。五当召も自らを守ることができ、清朝が滅んでもまだ小さな独立国家
に等しかった。
このような学問寺はチベットでは先のデプン寺のほか、セラ寺、ガンデン寺、タシルンボ
寺をあげることができる。また青海省、甘粛省では西寧のクンブム(塔尓寺)、蘭州のラブ
ラン寺が名高い。また内モンゴルでは先の五当召、貝子廟、シラムレン廟をあげることがで
き、中国東北部ではハン廟が名高い。この学問寺の名称は出典である「蒙古学問寺」の著者・
長尾雅人氏の命名である。
田尻師の西北行
田尻師は西北行について、手記も書かず、周囲の人にも多くを語らなかった。当時、現地
で田尻師に会った人が二人いる。その人たちの声を聞いてみよう。
【証言その1】長尾雅人著「蒙古ラマ廟記」より
昭和十八年八月二十三日
田尻師はやっと夜の十時ごろ、夜闇をついて単身馬を馳せて帰ってきた。彼は高野山から
日本ラマとして派遣されている二十歳を少し過ぎたばかりの若者で、すでに四年間、この廟
とはもっとも馴染みが深い。その間諸方面の旅行に相当に足を延ばし、その得意な蒙古語を
以て深く甘粛方面まで旅行をしたことがあるようだ。持参のビールやウイスキーの栓を開け
て、深更までその旅行談や寺の事情などを聞く。多分に冒険を伴った、時には幾度か生命の
危険にさらされたその旅行談を聞きながら、若さの力のたぎるのを感じ、未知の土地の好奇
な物語に胸をとどろかし、またこうした奥地の旅の艱苦そのものを思う。
【証言その2】北原優樹氏の書簡より
小生、当時善隣協会の一職員として包頭の西、黄河を渡ったオルドス地区の一村落西展房
と言う所で情報蒐集のため派遣されておりました。そこは包頭特務機関の前線基地でもあり、
すぐ前方には傳作義軍が駐留しておりました。当時(終戦前一年くらい前)そこには先輩で
蒙古人として青海省の西寧まで行って来た福田(隆繁氏筆者注)という人もいました。丁度
そのころ田尻師が見えられました。私たちは田尻師を囲んで談笑した事を思い出します。
その時、田尻師はこれからオルドスを通ってチベットへ行きたいという事をわたしたちに
話し、そのためにここ西展房へ来たんだと言われました。その時は私たちは共に田尻さんの
健闘をお祈りし激励したものです。田尻さんのチベット行計画は今度は二度目とかで、一回
目はチベット、ラサまでは行き着かずに青海省のある地点から引き返して来られたのじゃあ
ないかと聞いておりました。
田尻さんはその後しばらくして、一人で敵地区に潜入して行かれたようです。その出発さ
れた時は、小生もう包頭に一時かえっておりましたので、行かれたときの様子は見ておりま
せん。その後、寧夏方面とオルドスを通って隊商を組んで商売をしていた中国人の話により
ますと、日本人が逮捕されたという事を聞きました。恐らく田尻さんじゃあないかと小生そ
の時思ったものです。しかし名前まで分からないので確認出来なかったのですが、恐らく蒙
古名を使っていたので、中国人にも日本名は分からなかったのでしょう。しかし、その後そ
の日本人がひどい仕打ちを受けたという情報はありませんでした。その後の消息は分かりま
せん。
田尻さんは平素はへりくだった、そして信念のある立派な人だったようです。総じて生死
を越えて敵地区に潜入するような人は頭の下る、人を引き付けるような何物かを持っている
人が多いようですね。西川氏もそうですが、当時のあの人たちの心は今もなお私の心に焼き
付いて終生忘れることがありません。生涯の励みにもなりました。
田尻師は第一回のチベット行を昭和十六年八月ころに出発した。甘粛省の辺りまで行って
引き返す。同年十月恩師高橋大善師が他界する。西北行から帰った彼は恩師の訃報を知り、
言葉をなくした。満足できる成果を得なかった田尻師は恩師の霊前で再度の挑戦を誓ったに
違いない。そして、再度のチャンスを待った。
昭和十八年(一九四三年)六月、五当召の第六世ドンコル活仏が天然痘で死亡する。同年
八月田尻師は長尾雅人氏と親交を結ぶ。昭和二十年に入ると、第六世活仏の転生者探しに五
当召の僧侶たちが青海省の塔尓寺に行く計画が持ち上がる。願ってもないチャンスである。
第二回の西北行は終戦の直前、一九四五年(昭和二十年)七月ころまでに始ったようだ。そ
して、不運は引き続いて起きた。オルドス地区を越えた辺りで、この地の国民党軍に捉えら
れ、監禁されたまま終戦を迎える。五当召の僧侶から恩赦の嘆願書が出されたかもしれない。
田尻師が解放されたとき、十支の指の一部は自由を欠いていたという。
田尻隆昭師
大正九年一月十四日、石川県鳳至郡南志見村の真言宗高野山派の寺の長男として生まれる。
石川県松任市の農業学校を卒業後、高野山勧学寮に入る。昭和十四年三月勧学寮卒業と同時
にモンゴル仏教研究生に応募。昭和十四年八月より包頭の五当召に入る。昭和十七年(二十
三歳)、二代モンゴル仏教研究本部長・竹本寛隆師の妹正子(留辺蘂景勝寺、二十歳)と結
婚。十八年長女綏江生まれる。昭和十九年末正子、綏江は帰国する。
昭和二十一年(一九四六)十月、田尻師は日本の土を踏んだ。まず生まれ故郷の石川県鳳
至郡に立ち寄る。一九四二年、蒙古へ連れていった妹の姿は無かった。今川師と結婚したが、
病のため現地で逝ったのだ。肌寒くなり始めた十一月二日、北海道留辺蘂の景勝寺に帰る。
妻正子は三歳になる綏江を抱いて迎えに出た。憔悴しきった夫の顔を見ながら、込み上げる
感情を無言のまま押さえていた。
田尻師は昭和十六年甘粛省近辺まで行った時、二、三の教典や教具を持ち帰り高野山に奉
納した。終戦直後、高野山はこれらを全て廃棄処分にしたという。後日、このことを知った
田尻師は以後五当召について話すことはなかった。その後、彼は町の人たちと交わり、家族
と過ごし、昭和五十三年十二月、静かに五十九歳の生涯を終えた。
バタガルのトフタン
田尻師はこの芍薬の寺、五当召でトフタンという蒙古名をもらっていた。若い蒙古ラマに
成り切った「バタガルのトフタン」は多くの人に親しまれていた。トフタンの意味は何であ
ろうか。モンゴル語に詳しい人に聞くと、よく似た語でモンゴル服のボタンのことをトルチ
という。また、宝石、無限といった意味もあるという。テゥルダンの語に近いとし、モンゴ
ル服の帯に用いる布のことであるという。どちらも身に付けるもので親しみやすい名詞であ
る。
ダライ・ラマ十三世の名はトプタン・ギャムツォであり、親しい人に自らの名を与えてい
た。たとえば、一九〇六年、塔尓寺にて十三世に謁見した寺本婉雅はトプタン・ゾパの名の
使用を許されている。青木文教と多田等観は一九一二年三月カリンポンで十三世に謁見し、
チベット入りの許可を得た。このときトプタン・タシ、トプタン・ゲンツェンの名をもらう。
私はこの話を知って、田尻師はトフタン即ち十三世の名、トプタンで呼ばれていたのだと思
っている。田尻師が十三世から直接もらった名ではないが、周囲の者たちが彼を親しみと尊
敬の念をこめてこのように呼んだとするのが自然だ。
若い旅人
小父チャンたちが五当召を訪ねる二年前、平成六年八月、五当召のバス・プールに一台の
バスが到着した。十五~六人の観光客が降り立った。その中に一人旅の日本人がいる。二十
歳過ぎのその女性はまるで見知った土地のように、入り口正面の蘇古沁殿(ツオクチェン・
ドゴン)の前の階段を上がる。殿内を一通り見て歩く。
彼女は入り口に来ると一冊の文庫本を取出し、ページを繰った。入り口の横で椅子に腰を
掛け一見時間をもてあまし気味に観光客を監視している老人に近づいた。
「お爺ちゃん、こんにちは」
流暢な中国語である。
「ああ・・」
そっけない老人の返事が返ってくる。
「お爺ちゃん、この写真に見覚えがある?」
老人はのぞき込む。しばらく返事がない。やがて驚いたように、
「この男は**じゃ、そして、この横の男は**じゃ」
「お爺ちゃん知っているのね」
「知っているさ、わしは六十五年もここにおるんじゃから」
「じゃあ、この人はだれ?」
文庫本を手にとって、のぞき込んだ老人の目が輝いた。
「これはタジリ・バクシじゃよ」
「覚えているのね」
「ああ、よく覚えているさ」
「私はこのタジリ・バクシの孫娘よ!」
老人はゆっくりと腰を回して、日本から来た若い娘の顔をのぞき込んだ。彼女の目が微笑
んでいる。老人は彼女の手を握り、椅子に座るようにと仕草で示す。驚いた目が言葉をさえ
ぎったのだ。彼女が椅子に腰掛けると、老人は急いで館のなかに入り、三人の老人をつれて
来た。
「この娘さんがタジリ・バクシの孫娘じゃ」
老人は得意げに日本から来た若い娘を紹介した。
「私はタジリ・バクシと何度も包頭まで馬で走ったよ」
「タジリ・バクシは青海省までいったこともあるんだよ」
「よくお酒をのんだよ、強かったよ」
老人は彼女に廟内の案内を買って出る。やがて時間が来た。彼女は停留場に引き返す。四
人の老人たちは別れがたいのか、彼女を見送りについて来た。
「元気でな!」
「道中気をつけて!」
かわす言葉は短い。お互いの思いはこれで充分伝わっている。にこやかに、老人たちは日本
から来た若い女性と握手をし、何度もうなづいている。
彼女の名前は鈴木公子。田尻隆昭師長女綏江の子で、隆昭師の孫娘である。北海道大学で
中国文学を専攻し、その後天津で学んでいた。時間の余裕があったので、フラッとお祖父さ
んが住んでいた五当召を訪ねた。
平成八年三月十八日
根本和昌師は白老町を後にし、留辺蘂に向かっていた。
「わしも連れていってくれ」
「どこへですか?」
「田尻のとこだよ」
「行きましょう、いやぜひお願いします」
「わしの書いた冊子『在蒙七年夢の如し』を持っていってくれ。田尻に見せるんだ」
「お父さん大丈夫?」
「どうってことないさ」
「毎日薬をいっぱい飲んでるんですよ」
「大丈夫だよ、遠くないさ」
「足も良くないのに」
・・・・・
「蒙古では一気飲みをしていたよ」
「腹の中がジィーンとするのがこたえられんよ」
「家じゃあ、ババァが飲ませてくれんのだ」
「近藤はよく飲んだ、あいつにはかなわなんだ」
「名和川は詩吟がうまかった。彼は良い声をしていたよ」
「彼の右に出るものはいなかった。宴会があるとお座敷がかかっていた」
「わしはスペイン語、ポルトガル語、ガラニー語、モンゴル語、中国語、何でも知ってい
るのさ」
「そうか! 北海道は広いか? こんなのは毎日見てたから何とも思わんよ。内地から来
ると、広く見えるのだろうな」
・・・・・
「パラグアイへはなぜ行ったのですか?」
「日本の中はこせこせして性に合わんのだよ」
「どんなきっかけで行ったのですか?」
「募集していたんだよ。わしはすぐ飛び付いたよ」
「二十町歩の土地を買ったよ。大変な土地でね」
「すぐ売り飛ばして、良い土地を買い替えたよ」
「野菜を作り、かつぎ屋に持たせた。夕方かつぎ屋が帰ってきて、金を払わせた」
「中には帰ってこないのもいた。しかたないさ」
「ずっと後で見付けたときには取り上げてやったさ」
・・・・・
「家内は若くして死んだ。たいへんだったよ、三人の子供を抱えて!」
「今の家内は四十九歳の時もらった。針・灸をやっていた。わしより二年早く来ていたよ」
「スペイン語は家内のほうがうまい。ガラニー語ならわしのほうが上だ」
白い舞妓の宴
十九日十三時半、北海道留辺蘂町。大粒の雪が降り続いている。景勝寺の墓園は白い雪で
化粧していた。雪の最盛期は過ぎたとはいえ、まだ寒く雪は参道に凍り付いている。しかし、
春の暖かさも感じられ、杉の木立の合間からは目に染みる緑の色が顔をのぞかせている。老
婆は根本和昌師の先に立ち、一つの墓の前に導いた。そして、ろうそくと線香をつけた。根
本師もろうそくと線香をつける。根本師は札幌の駅で時間待ちの間に買い求めたカップ酒を
鞄の中から取出し、真新しい墓石に注いだ。
「乾杯!」
一人つぶやいて、残りの半分をゆっくりと飲み干す。そして、歌い出した。
叫ぶ蒙彊
一 高原千里の蒙彊を
見知らぬ国と言うなかれ
雲より出でて雲に入る
萬里の長城越え行けば
果てなき大地限りなき
宝庫の扉は開けたり
二 緑は薫う地平線
蒙古、察南、普北の
契りは固し自治の旗
俊明さやかに翻る
防共、協和四つの文字
胸に刻みて立たんかな
三 猛や駒のたてがみに
渦巻襲う旋風
吼えるな嵐静まれと
黄塵万丈何のその
悠々たりや大黄河
一鞭あててパミールへ
四 光は昇る蒙彊に
命を受けし偉丈夫が
今こそ叫ぶ声を聞け
漢、回民よモンゴルよ
中央亜細亜の草拓き
楽土築かん永久に
蒙古聯合自治政府最高顧問
金井章次 作
声は静かに白い林のなかに溶け込んでゆく。何度か声がつまり歌は中断する。合掌した老
婆の細い指先で念珠が微かに震えている。風よけのガラスの箱の中で二本のローソクの炎が
静止し、紫の煙が上にむかって直線を引いている。根本師の胸には五当召で田尻師と高橋師
との三人で飲んだ最後の酒宴が蘇っている。
歌い終わると根本師は一息入れる。
「もう一曲歌ってください。モンゴルの歌を!」
「モンゴル語でやろう」
ジンギス・ハーンの歌
一 十万の兵を率い征きて
亜細亜の諸国を攻略せん
討ちに討て死をも越えたる同胞よ
国軍十万もて殺戦の戦せよ
二 二十万の兵を率い征きて
南北二国を攻略せん
ホンゴル、シフル、グチュン、
トグスの四将よ
精兵二十万もて速戦速攻せよ
白い舞妓たちは時にやさしく、時に艶やかに、根本師の身体と石の主人を包み込む。正座
した楽隊は無表情のまま音の無い伴奏を続ける。舞妓たちは急に激しく乱舞し始める。上に、
下に、逆巻くように、・・・・狂おしいばかりの躍動はあらゆる音をかき消し、視覚だけが
揺れている。そして、白衣が飛び散った。
「いい歌でしたねえ!」
「ムニャムニャやるよりいいだろう」
「・・・・・・」
老婆の声は聞こえない。
「一緒によく歌ったものだ」
石の主人をはさんで老婆と根本師はカメラにおさまった。立ち去りがたく、二度シャッター
を切る。雪は上がった。青い空さえ見え、日の光がまぶしい。
「もう、来れないねえ!」
根本師はつぶやく。
「四、五年もすれば田尻の所へ行くよ」
凍り付いた雪道を危なっかしげに歩みながら言葉を続ける。
「足が言うことをきかんのだ」
「ハダカ馬に乗って、よく落ちた。あれがたたっているなあ」
引き返す道中、陽光は根本師の姿を照らしだしていた。
翌朝、七時、留辺蘂のJR駅前に一人の老婆が立っていた。雪の朝は寒い。吐く息が白い。
和服で正装し、一.五キロの雪道を歩いて来たのだ。老婆は待っていた。
「お早ようございます。昨日は大変ご厄介になりました」
タクシーから降りて根本師は元気な声でお礼を述べる。
「・・・」
老婆の声は聞き取れない。老婆は白い封筒を手提げ袋から差し出す。
「これを・・・」
封筒の中の二枚の用紙には[北見新報]とある。
「お役に立つかと・・・」
受け取ると、何度もお礼を言い合い、そして記念の写真を撮る。改札を知らせる駅員の声
に急き立てられるように老婆と別れた。
老婆の名は田尻正子。大正十二年一月二十九日、景勝寺に生まれた。兄の竹本寛隆師とと
もに厚和の延寿寺に住み、兄の世話をしていた。兄の勧めもあって、昭和十七年、現地で田
尻隆昭師と結婚式を挙げる。モンゴル仏教研究生を始め多くの人たちが祝ってくれた。昭和
十八年長女の綏江を出産する。昭和十九年末、正子は兄や夫の指示で、まだ一歳の綏江を抱
いて一人で北海道に帰る。そして、昭和二十一年、夫を迎えるまで寡黙の日々がつづいた。
札幌へ引き返す列車の中で老婆がわざわざ駅までもってきてくれた「北見新報」を読んだ。
この地方の情報誌である。一九八九年七月二十三日と八月五日の二回にわたり、「景勝寺、
初・二代住職の足跡」と題してあった。初代竹本才順師の三つの古寺の復興の業績や、長男
竹本寛隆師がモンゴル仏教研究生の田尻隆昭師に妹正子を嫁がせた経緯や田尻師の五当召
での活躍が簡潔にまとめられている。二代に亘り、土地の人に親しまれた。
車窓を眺めていた根本師は七十五年の歳月を思い出すかのように、
「もう、来れないねえ!」
田尻師の墓参りはこれが最後になるという意味であろう。田尻師の墓前から引き返すとき
つぶやいた同じ言葉を繰り返した。
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