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「中の家」の建物

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「中の家」の建物
「中の家」の建物
❶主屋
❷副屋
現在の主屋は、市郎により明治
28 年に上棟された。屋根に「煙出
し」と呼ばれる天窓のある典型的
な養蚕農家の形を残している。
奥の十畳の部屋は、帰郷する栄
一のために市郎が特に念入りに作
らせた、と伝えられる。
現在の副屋は、明治 44 年に上棟。
それ以前には藍玉の取引きに使わ
れたのか、
「お店」と呼ばれていた。
また、市郎が近隣の子供に漢学を
教えるために学者を住まわせてい
た時期もあるという。八基村農業
協同組合事務所として使われた時
期もある。
❸正門・❹東門
門はともに薬医門の造り。正門の扉
はケヤキの一枚板で作られているが、
これは市郎がこの地方の大木を探し求
め、時間をかけ一枚ずつ集めたものと
いう。
か
尾高惇忠生家
ん
下手計
渋沢栄一記念館
誠之堂・清風亭
正門
❺土蔵Ⅰ・❻土蔵Ⅱ
な
案内図
旧渋沢邸
「中の家」
ち
小山川
イパス
本庄
熊谷
深谷警察署
土蔵Ⅰは、内部には落とし板が使わ
れ、米蔵等だったと考えられる。
土蔵Ⅱは、大谷石を積んだ半地下室
を持ち、藍玉の製造・貯蔵場として使
用されていたと伝えられる。
大寄
福川
深谷市役所
深谷警察署入口
土蔵Ⅱ
深谷駅
高崎
JR高崎線
❼土蔵Ⅲ・❽土蔵Ⅳ
土蔵Ⅲは、道具蔵だったと考え
られる。
土蔵Ⅳは、1階を奥座敷、2階
を宝蔵に使ったと考えられる。
埼玉県指定旧跡「渋沢栄一生地」
埼玉県深谷市血洗島 247 番地1
土蔵Ⅳ
❾楷の木
孔子の墓所に生える樹の孫にあたる
もので、昭和 41 年、矢野一郎から渋
沢秀雄邸、飛鳥山庭園とともに血洗島
(中の家)に苗木が贈られた。この樹
にちなみ、雑誌「電気情報」に「楷の木」
と題する元治の伝記が連載された。
■
■休 館
■問合せ先
9
∼午後5時
渋沢栄一記念館 電話:048-587-1100
編集・発行/深谷市教育委員会
上野
「中の家」の歴史
「中の家」の渋沢家の人々
この屋敷は、渋沢家の住宅等とし
の形をよくとどめている。
て使われてきたもので、通称「中の
栄一は、多忙の合間も時間をつく
家(なかんち)
」と呼ばれている。
り年に数回はこの家に帰郷した。東
渋沢一族はこの地の開拓者のひと
京飛鳥山の栄一の私邸は、空襲に
つとされるが、分家して数々の家を
よって焼失したため、この家は現在
起こした。
「中の家」もその一つで、
残る栄一が親しく立ち寄った数少な
この呼び名は、各渋沢家の家の位置
い場所といえる。
市郎右衛門(文化6年頃∼明治4年、1809 頃− 1871)
え い(栄) (文化8年∼明治7年、1811 − 1874)
た。学問に長け、持ち前の勤勉律義さで、養蚕や藍玉づくりとその販売により財をなし、
一時期家運が傾いていたという中の家を再興した。
えいには、慈悲深い逸話が多く残され、愛情にあふれた人柄で知られる。
関係に由来するものである。代々当
また、中の家は、元治、治太郎た
主は、市郎右衛門を名乗っていたが、
ちの人材を輩出した。
古くは、新七郎(安邦)の名まで知
昭和 58 年からは「学校法人青淵
市郎右衛門・えいに生まれる。幼名は、市
られている。
塾渋沢国際学園」の学校施設として
三郎。後に日本近代資本主義の父と呼ばれる
中の家は、代々農業を営んでいた
使用され、多くの外国人留学生が学
が「名字帯刀」を許され、市郎右衛
んだ。平成 12 年、同法人の解散に
門(元助)のときには、養蚕や藍玉
伴い深谷市に帰属した。
づくりとその販売のほか、雑貨屋・
昭和 26 年、埼玉県指定史跡に指
質屋業も兼ねてたいへん裕福であっ
定。昭和 58 年、埼玉県指定旧跡「渋
混乱から文久3年(1863)に満 23 歳で中の
た。この家に、後に日本近代資本主
沢栄一生地」に指定替えがされた。
家を離れた。以後、活躍の場を移していった
義の父と呼ばれる栄一が生まれた。
平成 22 年、主屋を中心とした範囲
が、多忙の合間をぬって帰省することが大き
現 在 残 る 主 屋 は、 明 治 28 年
を深谷市指定史跡に指定。
な楽しみで、特に晩年、諏訪神社の祭礼の日
(1895)
、市郎により上棟されたもの
副屋の前には、渋沢家歴代の墓地
には、無理なやりくりをしても必ず帰郷した。
である。梁間5間、桁行9間の切妻
がある。屋敷外の北東には、栄一の
家業の藍の買付けに独りで出かけたこと、
造の2階建、西側に3間×3間の平
号「青淵」の由来となった池の跡に
血気盛んだったころのことなど、栄一は、こ
屋部分等を持つ。また、主屋を囲む
「青淵由来の碑」が建つ。南方 200
の地での出来事について、後に懐かしく語っ
ように副屋、土蔵、正門、東門が建ち、
mほどには、この地、血洗島の鎮守
当時の北武蔵における養蚕農家屋敷
である諏訪神社がある。
栄
一
篤
二
米
子
治
太
郎
活躍をするが、実業界に止まらず、生涯を通
じて社会福祉事業に尽力した。
亨
三
栄一は、幕末の青年期をこの家の長男とし
琴
子
歌
子
晴
子
孝
子
元
治
な
か
千
代
市
郎
︵右
敬衛
林門
︶
穂
積
陳
重
光
子
重
遠
多
歌
子
市
郎
︵右
元衛
助門
︶
え
い
て過ごした。尊王攘夷論に傾倒した栄一は、
高崎城乗取りを計画するが、その計画中止の
治太郎(明治 1 1 年∼昭和 1 7 年、1 8 7 8 − 1 9 4 2 )
市郎・ていの次男。兄の元治に代わり市郎夫妻を継いで
中の家を守った。
八基村会議員、埼玉県会議員、八基村長等を歴任。埼玉
県養蚕組合連合会等の設立、運営に参画した。また、耕地
整理組合、青淵図書館等を設立するなど、産業、経済、政治、
教育など多方面で郷土の発展に貢献した。
ている。
元治
(資料提供:渋沢史料館)
①主屋 ⑤土蔵Ⅰ
②副屋 ⑥土蔵Ⅱ
③正門 ⑦土蔵Ⅲ
④東門 ⑧土蔵Ⅳ
⑨楷の木
⑧
て
い
︵
貞
︶
栄 一 (天保 11 年∼昭和6年、1840 − 1931)
(右)昭和2年「中の家」にて
「中の家」配置図
⑦
市
郎
︵
才
三
郎
︶
市郎右衛門(元助)は、親戚の「東の家」から男子のいなかった中の家に婿入りし
市
郎
︵右
安衛
知門
︶
千代
歌 子 (文久3年∼昭和7年、1863−1932)
千代は、隣の下手計村の尾高惇忠の妹。栄一とはいとこ同士で安政5年(1858)
に 18 歳で結婚した。気丈で夫の留守宅をしっかりと守った。明治2年に栄一から静
岡へ呼び寄せられるまで中の家で過ごした。
歌子は、栄一・千代の長女。6歳まで中の家で過ごしたが、生まれて間もなく栄一
は京都やフランスへ発ったため、父親の顔を知らずに育った。後に歌人、国学研究な
(左)昭和 44 年移植後3年の楷の木と
どの世界で活躍する。また、栄一の晩年には同行して度々血洗島を訪れた。
市郎・ていの長男。東京帝国大学工科大学電気工学科卒業、ヨーロッパ等で学んだ後、
①
市 郎 (弘化4年∼大正6年、1847 − 1917)
⑤
業法の確立に貢献した。また、東京帝国大学教授、名古屋帝国大学の初代総長を歴任
ていは、市郎右衛門・えいの娘。明るく朗らか
④
でユーモアにあふれる人柄で知られる。栄一に代
わり、夫の市郎とともに中の家をよく守った。
市郎(才三郎)は、親戚の須永家から婿入り
⑥
した。勤勉誠実で知られる。明治 20 年頃、養
蚕を拡大するため中の家を建て直したが、明治
25 年に火災で焼失したため、現在の中の家を再
⑨
③
5分
逓信省の技術部門を歴任し、勃興期の電気事業において、民間事業者の指導、電気事
②
3分
するなど、教育界にも功績を残し、日本の電気工学の進展に大きく貢献した。
昭和 30 年、文化功労者に選ばれた。
明治 22 年、満 12 歳で進学のため上京するまで、中の家で過ごした。上京後も学
校の休みなどには必ず帰郷し、家業の養蚕や藍玉づくりなどを手伝った。また、退職
後の晩年は、中の家を守りながら郷里の教育の振興などに尽くした。
多歌子(明治 43 年∼平成元年、1910 ∼ 1989)
建した。材料を吟味し、特に奥の十畳の部屋は、
元治・孝子の長男亨三の妻。亨三は、元治の没後、中の家を社会に役立てることを
帰郷する栄一のために念入りに作らせたという。
決めたという。社会奉仕活動や青少年育成に尽力していた多歌子は、その遺志を継ぎ、
信望も厚く、八基村への合併の際には奔走し、
昭和 58 年(1983)に外国人留学生の日本語及び日本文化研修施設「学校法人青淵
2代目村長、県会議員を歴任し、小山川の治水
塾渋沢国際学園」を設立、同 60 年の開校とともに同学園理事長に就任した。
にも尽力した。また、農家の協力体制の必要性
渋沢国際学園では、平成 12 年(2000)の同法人の解散までに 43 か国、679 名
を唱え、明治 40 年、八基信用組合を設立した。
の留学生が学んだ。
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