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第11 章 欧米における近代国民国家の発展 3. 南北アメリカの発展 (1
第11 章 欧米における近代国民国家の発展 3. 南北アメリカの発展 (1)ラテンアメリカの独立 ① [ハイチ]の独立 a.イスパニョーラ島 17C 末西から仏領になり、18C からサトウキビやコーヒーを生産。労働力として黒人奴隷増加。 [トゥサン=ルヴェルチュール]を指導者に奴隷解放運動を開始(1791)。 サン=ドマングの地に初の黒人共和国ハイチ誕生(1804)。一連の流れを[ハイチ革命]と言う。 b.黒人奴隷制廃止の影響 英で福音主義者ウィルバーフォースらの努力により[奴隷貿易禁止]が決まり(1807)、 英植民地で[奴隷制廃止]が決定(1833)。奴隷制維持の米やブラジルに影響を与える。 ② [ラテンアメリカ諸国]の独立 a.背景 ナポレオン時代のスペイン本国の支配力低下。 b.運動の中心 大地主層である植民地生まれの白人(クリオーリョ)。 南米北部は[シモン=ボリバル]によって[コロンビア]・[ベネズエラ]・エクアドル・ボリビア独立。 コロンビア・ベネズエラ・エクアドルで大コロンビア共和国を作る(1819)が 30 年に瓦解。 南米南部は[サン=マルティン]によってチリ・ペルー独立。 メキシコでは、司祭[イダルゴ]の蜂起(1810)が起き、21 年に独立。23 年には共和国に。 [ブラジル]では、ポルトガル王子が皇帝を務め、帝国として独立(1822)。89 年には共和国に。 c.各人の呼称 白人はスペイン人とクリオーリョに分けられる。 先住民は[インディオ](先住民)と[メスティーソ](先住民+白人)に分けられる。 黒人はニグロ(黒人)とムラート(黒人+白人)に分けられる。 d.独立後 クリオーリョらの自由貿易政策によって、欧米諸国への原料・食糧の輸出地域へ。 ラテンアメリカ諸国の工業化は大幅遅れる。 (2)アメリカ合衆国の領土拡大 ① 1820 年代までのアメリカ合衆国 a.[トマス=ジェファソン]の治世(在位 1801~09) 欧のナポレオン戦争に対しては中立を維持。反連邦派を率いて、第 3 代大統領に就任(1800)。 自営農民を基礎とする民主主義を理想とし、工業育成には消極的だった。 仏から[ミシシッピ川以西のルイジアナ]を購入。(1803) b.[アメリカ=イギリス戦争](1812~1814) 英が海上封鎖で米の通商を妨害したことによって発生。 ナポレオンの没落とともに勝敗なしで終了。米の工業化と保護貿易が促進された。 c.[モンロー]時代(第 5 代大統領、在位 1817~25) 西からフロリダを購入(1819)。米、欧両大陸間の不干渉を表明し、ラテンアメリカ諸国の 独立を支持した[モンロー教書]を発表(1823)。 ② [ジャクソン]時代(第 7 代大統領、在位 1829~37) a.民主主義(ジャクソニアン=デモクラシー)の拡大 初の西部出身大統領として農民や都市下層民重視を掲げ、また、全白人に選挙権を与えた。 b.政党政治の基礎 南部基盤の[民主党]を結成。北部基盤のホイッグ党に対抗。 c.先住民政策 [先住民強制移住法](1830)などのミシシッピ川以西の[保留地]への強制移住。 [西漸運動](西部開拓)が加速し、「涙の旅路」と呼ばれる先住民の悲惨な移動などがあり、 先住民は強く抵抗した。 世界史Aプリント No.17 第11 章 欧米における近代国民国家の発展 3. 南北アメリカの発展(続き) (2)アメリカ合衆国の領土拡大 ③ 領土拡大と大陸国家の完成(1840 年代) a.「明白な天命」 白人の西部開拓を神が与えた使命と正当化する考え。1840 年代半ばから使われ始めた。 b.領土拡大 墨から独立した[テキサス]を併合(1845)。[アメリカ=メキシコ]戦争が勃発(1846~1848)。 英との共同管理地を交渉で分割し、オレゴンの南半分を獲得(1846)。 アメリカ=メキシコ戦争の結果、[カリフォルニア]、ニューメキシコを買い取り、獲得(1848)。 c.[ゴールドラッシュ] カリフォルニアで金鉱が発見。中国人など世界中から人が殺到。 (3)南北戦争とその結果 ① 南北戦争の背景 a.南北対立の背景 中心産業 奴隷制 貿易政策 政治形態 南部 綿花の大農園 賛成 自由貿易を主張 州の自由を主張 北部 商工業の発達 反対 保護関税を主張 連邦主義を主張 ※女性参政権運動は 1848 年に始まり、奴隷制廃止運動とも協力。 b.[奴隷制]を巡る動き [ミズーリ協定]が結ばれ(1820)、北緯 36 度 30 分以北の新州は自由州となった。 自由州・奴隷州を住民投票により決める[カンザス・ネブラスカ法]が定められた(1854)。 これにより、北部を中心とし、奴隷制反対を唱える[共和党]が成立した。 ② [南北戦争](1861~65) a.原因 大統領選挙では民主党が分裂し、[共和党]の[リンカン]が当選(1860)。 リンカンは穏健派であったが、南部諸州は連邦からの分離を決定。 南部が[アメリカ連合国]を形成(1861)。首都リッチモンド。大統領ジェファソン=デヴィス。 b.経過 開戦(1861)。リー将軍の活躍などで始め南軍が優勢。 リンカンが[奴隷解放宣言]を発表(1863)。奴隷制の無い英・仏など内外世論の支持を集める。 [ゲティスバーグの戦い](1863)で北軍勝利。以後グラント将軍率いる北軍が優勢へ。 リンカンは 11 月、ゲティスバーグにて[人民の、人民による、人民のための政治]と演説した。 c.結果 南部の首都リッチモンドが陥落し、南軍降伏。合衆国が再統一へ。 (4)アメリカ合衆国の重工業化と大国化 ① 南部の再建 共和党の主導で進められた。 a.奴隷制度廃止 憲法修正第13条により正式廃止(1865)。解放黒人に投票権を付与。 b.黒人の生活 多くは[シェアクロッパー](分益小作人)として収穫の1/2を地主に収める貧しい生活だった。 c.南部の反抗 1890 年頃から、南部諸州は違憲の州法(総称ジム・クロウ法)などで黒人への差別を進める。 南部の旧大農場主(プランター)・白人の小農民・新興産業資本家は共和党に対抗。 一部の白人は秘密結社[クー=クラックス=クラン](KKK)などの非合法的手段で黒人を迫害。 世界史Aプリント No.18 第11 章 欧米における近代国民国家の発展 3. 南北アメリカの発展(続き) (4)アメリカ合衆国の重工業化と大国化 ② [西部]の発展 a.入植者の増加 南北戦争中に成立した[ホームステッド法]により自営農民が増加。 ホームステッド法(1862) 160エーカー(約 65ha)の国有地を貸与されて、5年間耕作すると無償で与えられた。 b.鉱産資源の開発 1860 年頃からロッキー山脈周辺のネヴァダ・コロラドなどで金や銀の採掘がおこなわれた。 c.牧畜業・小麦生産の発達 グレートプレーンズ(ロッキー山脈東の大草原)で牧畜、プレーリー(ミシシッピ川西)で小麦が 生産され、西武が東部への牛肉や食料の供給地となる。 d.通信・交通機関の整備 モールス(モールス作)や電話(ベル作)などの有線電信の開通や、 最初の[大陸横断鉄道]が完成した(1869)。 e.結果 政府が[フロンティア](人口過疎の辺境地。開拓地と荒野の境界線)の消滅を宣言(1890)。 ③ 工業の発展 a.重工業の発達 南北戦争後、石炭・石油・鉄鋼などを利用する重工業が発展。19C末には世界一の[工業国]に。 これに伴い独占企業も成長し、独占企業や鉄道の高運賃に反対するポピュリズムなどの 農民運動や、アメリカ労働総同盟(AFL)結成などの労働運動が高まった。 b.[新移民]の増加 1880年代以降、東欧、北欧からの[移民]が労働力として使われたが、多くは低賃金の 不熟練労働者であり、のちに移民制限運動を招くことに。 ④ 太平洋への関心 a.カリフォルニア獲得後(1848~) 対中貿易の拡大などを背景に、太平洋への関心が拡大。 b.日本進出 ペリーが来航(1853)。[日米和親条約]の締結(1854)。日本が約200年ぶりに開国した。 c.[アラスカ] ロシアから買収(1867)。後に金が発見される。 世界史Aプリント No.19 第12 章 アジア諸地域の動揺 1. オスマン帝国支配の動揺と西アジア地域の変容 (1)オスマン帝国支配の動揺 ① オスマン帝国の領土縮小 a.[第2次ウィーン包囲](1863)の失敗 墺の都ウィーンを包囲するも、墺と波の連合軍が抵抗し失敗。オスマンの領土縮小の契機に。 b.[カルロヴィッツ条約](1699) オスマンが墺にハンガリーとトランシルヴァニア、他にも波、ヴェネツィアに領土を割譲。 東欧の覇権を失い、オスマン勢力は大きく後退した。 c.ロシアに敗北(18C後半) 黒海北岸(クリミア半島)を喪失。クリミア半島にあるクリム=ハン国はオスマンの属国で あったため、イスラームの守護者を自任するオスマンにとっては衝撃的だった。 d.ギリシア独立運動(1820 年代) 東方問題が始まり、オスマン支配下諸国の自立が始まる。帝国の領土は縮小の一途をたどる。 (2)アラブ民族の目覚め ① アラビア半島とシリアの動き a.[ワッハーブ派]の改革(ワッハーブ運動) [イヴン=アブドゥル=ワッハーブ]がアラビア半島でイスラーム改革運動を開始(18C半ば)。 神秘主義(スーフィズム)や聖者崇拝を堕落とみなし、「ムハンマドの教えに帰れ」と説く。 ワッハーブ派が豪族[サウード家]と結んで[ワッハーブ王国]を建国。首都リヤド。 メッカ、メディナを占領し。イスラームの中心国となる。 b.アラブ文化復興運動(19C初頭) シリア地方のアラブのキリスト教知識人が開始。アラビア語の再生を通じて アラブの民族意識を高める。19C末以降のアラブ民族運動につながる。 ② エジプトの改革と挫折 a.[ムハンマド=アリー] ナポレオンの[エジプト遠征]時、オスマン帝国からエジプトに派遣されたアルバニア人。 民衆の支持を得てエジプト総督になり、後に[ムハンマド=アリー朝](1805~1952)が成立。 b.富国強兵の改革 [マムルーク](軍人奴隷。オスマンが支配権を失ったエジプトを支配していた)を一掃。 仏の援助で殖産興業、近代的な陸海軍の創設、商品作物の奨励、教育改革など実施。 c.アラビア半島出兵 オスマン帝国の求めで、ワッハーブ王国を滅ぼす(1818) d.[エジプト=トルコ戦争](1831~33、1839~40) オスマン帝国にシリアの割譲を要求するも、拒否されたため発生。二回ともオスマンに勝利。 e.[ロンドン会議](1840) アリーはエジプト・スーダン総督の世襲権のみ認められ、シリア領有は実現せず。 f.莫大な債務と他国の介入 急速な近代化と戦争により多大な借金ができ、1860年代から英・仏の財務管理化へ。 英のディズレーリが[スエズ運河]会社株の4割を購入。エジプトへの介入を強める。 g.[ウラービーの反乱](1881~82) 「エジプト人のためのエジプト」をスローガンに、ウラービーが英に立憲制を求めて蜂起。 しかし英軍に鎮圧され、エジプトは事実上英の保護下に。ウラービーはセイロン島に流刑。 これは後の民族運動の原点となる。 世界史Aプリント No.20 第12 章 アジア諸地域の動揺 1. オスマン帝国支配の動揺と西アジア地域の変容(続き) (3)オスマン帝国の改革 ① タンジマートの実施(1839~76) a.19世紀初めの改革 オスマンでは[イェニチェリ軍団]の解体(1826)など、改革を進める。 b.[タンジマート]の実施 [アブデュルメジト1世]がトプカプ宮殿で[ギュルハネ勅令]を発布(1839)。 司法・行政・財政・軍事の大規模な西欧化改革。伝統的イスラーム国家から政治主義による 近代国家への転換。宗教の別を問わない法的な平等も認められた。 しかし、欧工業製品の流入により、地域産業の没落と外国資本への従属化が進んだ。 ② ミドハト憲法の発布と停止 [クリミア戦争]後、立憲制への要求が高まる。 a.発布と停止 大宰相[ミドハト=パシャ]の起草したアジア初の憲法、[ミドハト憲法]が発布される(1876)。 しかし、[ロシア=トルコ戦争](露土戦争)が発生(1877)し、 [アブデュルハミト2世]が戦争を口実に議会と憲法を停止(1878)。 b.ロシア=トルコ戦争の敗戦 ベルリン条約(1878)で欧側領土を大幅に失う。 (4)イラン・アフガニスタンの動向 ① 19世紀のイラン a.[カージャール朝](1796~1925) サファヴィー朝滅亡の後、テヘランを首都に成立したトルコ系王朝。 b.[トルコマンチャーイ条約](1828) 南下策を進めるロシアとの戦争(イラン=ロシア戦争)に敗れて締結。 治外法権の承認、関税自主権の放棄、[東アルメニア]の割譲が決められた。 c.[バーブ教徒の乱](1848~1850) 農民や商人、職人からなり、サイイド=アリー=ムハンマドが開祖の[バーブ教]の教徒が 社会改革を唱え蜂起するも、政府軍に鎮圧される。 ② アフガニスタン a.アフガン王国 18C後半から独立を維持していたが、19Cに北部の領有権を主張するカージャール朝が侵攻。 b.英の介入 露の南下を警戒し、アフガン王国の、イランからの独立を認めさせた。 c.[アフガン戦争](1838~42、78~80(、1919)) 露に対抗しながら印での権益を守るため、2度にわたりアフガニスタンを侵攻。 第2次で外交権を確保し、事実上の[保護国]とする(1880)。また、英領印との境界を定めた。 世界史Aプリント No.21 第12 章 アジア諸地域の動揺 2. 南アジア・東南アジアの植民地化 (1)西欧勢力の進出とインドの植民地化 ① 西欧勢力の進出と東インド社会 a.17~18Cのインド 各地で政治・経済活動が活発化。地方勢力が力をつける。 b.ヨーロッパ人の商業活動 ヨーロッパ各国の[東インド会社]は、インド各地に商館を置き、商業活動に従事した。 綿布が最も重要な商品であり、その購入のために印に大量の金銀を持ち込んだ。 これにより、農産物の現物分配で成り立つ社会に変化をもたらす。 c.各国の貿易拠点 オランダ…[バタヴィア]([ジャワ]、現ジャカルタ) フランス…[シャンデルナゴル]、[ポンディシェリ] イギリス…[ボンベイ]、[マドラス]、[カルカッタ] ② イギリス・フランスの植民地争い a.ムガル帝国(1526~1858) アウラングゼーブ帝の死後、各地の勢力が台頭。互いに軍事抗争を展開。 欧の商業勢力も巻き込まれ、18C半ばからは英・仏の東インド会社が自ら介入し、互いに対立。 b.カーナティック戦争(1744~61)と[プラッシーの戦い](1757) 英東インド会社が勝利し、パリ条約(1763)で英インド会社が印支配の優位を確定。 ③ イギリス東インド会社による植民地化 a.東部 [ベンガル]・ビハール両地域の[徴税権]([ディワーニー])を獲得(1765) b.南部 マイソール王国を4度にわたる[マイソール戦争]で征服(1767~69、80~84、90~92、99) c.西部 マラーター同盟との3度にわたる[マラーター戦争]に勝利(1775~82、1802~05、17~18)。 d.西北部 パンジャープ地方の[シク王国]と2度にわたる[シク戦争]に勝利(1845~46、48~49) e.統治方法 約 1/4 を[間接統治]の[藩王国]、他を直接統治の形で印全域を植民地化。 (2)植民地統治下のインド社会 ① 東インド会社による徴税制度と土地制度 a.植民地統治の目的 最大の収入源である[地税]の効率的な徴収。 b.導入された徴税制度と二つの土地制度 [ザミンダーリー制] ベンガル地方で実施。政府と農民の間に仲介者(ザミンダール)を置く。仲介者に 私的土地所有権を与えて徴税を任せる。 [ライヤットワーリー制] 南印とシンド地方で実施。国家が農民(ライヤット)に土地所有権を与えて徴税する。 ② インド社会の困窮化 a.従来のインド村落 耕作人をはじめ洗濯人や大工などのさまざまな仕事をする人々が、地域社会の総生産物の 一部を現物で得る権利を持ち、その獲得物で生活していた。 b.新制度の影響 一人だけが土地を所有しているため、従来からの他の人々の権益は無視される。 従来よりも重い税額と現金支払い設定により、人々は困窮。 世界史Aプリント No.22 第12 章 アジア諸地域の動揺 2. 南アジア・東南アジアの植民地化(続き) (2)植民地統治下のインド社会 ③ 貿易構造と経済体制の変化 a.イギリス製品の輸入 1810年代末から、印は英製綿織物の輸入国、原材料(綿花・藍)の輸出国へと転落。 b.多角的な貿易構造 中国のアヘン・綿花の輸出、東南アジアやアフリカへの綿製品輸出、英への一次産品輸出で 貿易赤字に対応。 c.東インド会社の変身 産業資本家が自由貿易を希望し、東インド会社を批判。英政府は東インド会社の[貿易独占権] を廃止(1813)、さらに茶と中国貿易独占権の廃止(1833)をした。これにより英東インド会社は [商業活動]を停止し、インド統治機関となった(1834)。 ① [インド大反乱](1857~59) a.背景 [藩王国]取り潰し政策で没落した旧支配層の不満や、軍事的な植民地獲得の完了で 解雇され始めた[シパーヒー](身分の高い印人傭兵)の不満などが原因。 英東インド会社が採用した新式銃弾薬包に豚や牛の油が使われているという噂により シパーヒーが大反乱を開始([シパーヒーの反乱])。 b.経過・結果 反乱軍が[デリー城]占拠後ムガル皇帝を擁立するも、指揮系統が混乱。 英がこれを鎮圧(1858)し、ムガル皇帝を流刑。したがって、[ムガル帝国]が滅亡した。 ② インド帝国の成立 a.[イギリス東インド会社]の解散 インド大反乱の責任から、英政府が東インド会社を解散し直接統治を始める。 英本国はインド省と大臣を設置し、印政庁は英人総督と参事会が統括。 b.[インド帝国](1877~1947)の成立 [ヴィクトリア女王]が[インド皇帝]に即位し、インド帝国が成立(1877)。 総督は副王を兼任し、藩王国を設置し、印人同士の対立をつくる[分割統治]を行った。 ③ 新体制下のインド a.司法体制の整備 統一的な刑法の制定や高等裁判所の設置を行った。 b.インド側の動き エリートが弁護士や官吏になった為、植民地統治制度の中で出世を図る人たちが現れる。 (4)東南アジアの植民地化 ① ヨーロッパ側の目的の変化 a.初期の目的(16C) 香辛料の獲得など商業権益の拡大を目指す。 b.目的の変化(17,18C) 領土獲得をめざし、獲得地で世界市場に直結した農産物や鉱産資源を開発。 世界史Aプリント No.23 第12 章 アジア諸地域の動揺 2. 南アジア・東南アジアの植民地化(続き) (4)東南アジアの植民地化 ② ジャワとオランダ a.ジャワの歴史 ヒンドゥー教王国である[マジャパヒト王国](1293~1520 頃)が滅んだ後、ジャワ島東部を [マタラム王国](16C 末~1755)、西部をバンテン王国(1526 頃~1813)が分割統治。 蘭船が来航し(1596)、[オランダ東インド会社]を設立(1602)。[バタヴィア]に拠点を置いた。 b.[アンボイナ事件](1623) モルッカ諸島のアンボン島で起こった蘭と英の紛争。蘭商館員が英商館員20名を虐殺。 英が印へ拠点を移す契機に。この事件後蘭はジャワでの領土獲得に取りかかった。 c.ジャワ島の領土拡大 マタラム王国の滅亡(1755)により蘭がジャワ島の大半を支配。 オランダ東インド会社が解散する(1799)と、19Cから蘭政庁が直接支配をはじめ、 商品作物(珈琲・サトウキビ・藍)の栽培を導入。作物と土地、生産量、労働者数などを指示。 d.[ジャワ戦争](1825~1830) 蘭の支配に対し、ジョクジャカルタの王族がおこした反乱。鎮圧されたが、政庁の財政が悪化。 e.[強制栽培制度]の導入(1830) 財政立て直しの為、商品作物を安い価格で買い上げた。蘭経済は回復。ジャワの農村では 飢饉が頻発したが、村落の編成の強化により大戦乱がなかったため、人口が増加した。 農民の反発が激しくなり、当局は1870年にこの制度を廃止した。 ③ マレー半島・ビルマとイギリス 1.)イギリスのマレー半島支配 a.18C末~19Cはじめ シンガポールなどマレー半島の港市獲得と、ナポレオン戦争に乗じて仏に占領されていた 蘭の領土であるジャワ占領(1811~16)。 b.イギリス=オランダ協定(1824) マラッカ海峡を境界線に決定し、東側を英、西側を蘭の領土とした。 c.[海峡植民地]の成立(1826) [ペナン・マラッカ・シンガポール]の3国からなる。 d.領域的支配の開始 中国人秘密結社やマレー人スルタンたちの[錫](缶詰や工業原料として使われる)を巡る 利権争いに介入。軍事と外交の巧妙な政策で支配領域を拡大。 e.[マレー連合州]の結成(1895) 英が間接統治した半島部の諸州と、北ボルネオ地域の諸州計4か国の支配を確立した。 f.[ゴム]のプランテーション 20Cにゴムが自動車生産につながる有力商品となり、ロンドンで調達される資本によって 南インドから大量の移民(タミル人)を導入して開発。 2.)イギリスのビルマ支配 a.18C以前のビルマ [パガン朝](1044~1299)が元軍の攻撃の影響で衰退、滅亡し、パガン朝に次ぐピルマ人王朝 である[タウングー朝](1531~1752)が成立した。中国人の反乱を機に崩壊。 b.[コンバウン朝](アラウンパヤー朝)(1752~1885) タウングー朝崩壊の後に成立。 c.3次の[ビルマ戦争](1824~86) コンバウン朝のアッサム進出で英と対立。英が勝利し、インド帝国が[ビルマ併合]を行った。 世界史Aプリント No.24 第12 章 アジア諸地域の動揺 2. 南アジア・東南アジアの植民地化(続き) (4)東南アジアの植民地化 ④ フィリピンとスペイン a.スペインの統治策 政教一致の体制を取り、住民を[カトリック]に強制改宗。地方の町や村の統治に、 フィリピン人を長とする行政組織を新設。欧米諸国に対しては排除政策(鎖国政策)を採用。 b.[マニラ]の開港(1834) 自由貿易を求める圧力を受けて、欧米諸国に対して開港。 c.商品作物生産 開港後、大農園で砂糖・[マニラ麻]・煙草などの生産が広がり、フィリピンが世界市場に入る。 d.大土地所有制の成立 商人・高利貸しの土地が集積し、プランテーション開発が進む。 ⑤ ベトナム・カンボジア・ラオスとフランス 1.)西山政権と阮朝の成立 a.西山政権(1778~1802) [西山の乱](1771)で黎朝下の南北両政権を打倒、統一。 b.[阮朝]の成立(1802~1945) [阮福暎]が仏人宣教師ピニョー、義勇兵、タイなどの援助で西山政権を打倒、統一を果たす。 清からベトナム(越南)国王に封ぜられる(1804)。清の制度を導入し、行政制度を整備。 2.)フランスのインドシナ植民地化(19C後半) a.フランス(ナポレオン3世)の軍事介入 西人カトリック教徒迫害を理由に西と共同で開戦(フランス=ベトナム戦争、1858~62)。 サイゴン条約(1862)でコーチシナ東部三省を手に入れる。[カンボジア]を保護国化(1863)。 さらにコーチシナ西部 3 省を領有し、コーチシナ全域を支配下においた(1867)。 仏の領土拡大に対して、[劉永福]が[黒旗軍]を組織してベトナム北部で抵抗(1873~85) b.ユエ条約(1883~84) 北部と中部を獲得。仏が保護国化を宣言。 c.[清仏戦争](1884~85) 清朝がベトナムへの宗主権を唱えて派兵。[天津条約](1885)で清が仏の保護権を承認。 d.[フランス領インドシナ連邦]成立(1887) ベトナムとカンボジアを合わせて成立。[ラオス]も編入(1899)。 (5)タイの情勢 ① 独立を維持したタイ a.[ラタナコーシン朝](チャクリ朝)(1782~) バンコクを首都に成立。19C前半は欧諸国に対して閉鎖的政策を行う。 b.ラーマ4世の政策転換(在位 1851~68) 欧の諸勢力からの門戸開放の圧力が強まり、王室の貿易独占体系を解除。 先進諸国と外交関係締結。自由貿易体制でタイ米が商品化され、デルタ地域の開発が進む。 c.[チュラロンコン](ラーマ5世)(在位 1868~1910) 英・仏との勢力均衡策を推進。行政、立法などの近代化に成功し、植民地化を回避。 世界史Aプリント No.25