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「長州ファイブ」
時代を駆け抜けた男たち 吉田松陰略伝 吉田松陰と門下生たち 天保元年(1830)下級武士杉家の次男に生まれた。5歳で叔父の吉田家を継ぐ。 幼いころから山鹿流の兵学を学び、11歳のとき藩主毛利敬親の前で講義を行い、19歳で 兵学教授、藩校明倫館で講義を行う秀才であった。 学識を深めた松陰は、安政元年(1854)アメリカのペリーが日米和親条約の締結を目 的に再度来航した時、軍艦に乗りこみ、海外への渡航を弟子の金子重輔とともに企てるが 失敗。幕府にとらわれ、萩の野山獄に送られる。在獄の後、実父の杉家に幽囚の身となる が、叔父の開いていた松下村塾を受け継ぐ。 松陰神社の境内にある松下村塾は、8畳の講義室・10畳半のひかえの間・1坪の土間の 簡素な平屋建ての建物である。杉家の幽囚室での講義を含めてわずか2年半の間に90余 名もの塾生達を教育し、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、久坂玄瑞などがやがて明治維新 の原動力となる人物を育てあげた。 安政5年(1858)安政の大獄が起り、幕府に反対する人々に圧力をかけていた老中間 部詮勝を要撃しようと計画をしたことで、野山獄に再入獄。その後、江戸に送られ、松陰 自身は新しい時代をみることなく、安政6年処刑され30歳の生涯を終えた。 激動の世に、先見性をもった思想と実行力も志なかばで終わったが、その志は門人たち の心の中に生き、明治の新しい時代をつくる礎となった。 いのうえ 井上 馨(1835~1915) 帰 国 後 、講 和 交 渉 で 通 訳 を 務 め た 後、外務大臣などを歴任。維新外交 の始祖となる。 近代日本を築いた 密航留学生 「長州ファイブ」 い とう 英国留学後、明治の新政府要職を歴 任し、1885年には初代内閣総理大臣 に就任する。 日本が欧米列強の植民地化の危機 いのうえ 井上 若者たち ― 伊藤博文・井上馨・井 上勝・山尾庸三・遠藤謹助 ―。 5人は英国で目にした近代文明・ 先進技術に衝撃を受け、欧米から大 えんどう きんすけ 遠藤 謹助(1836~1893) きく遅れをとった母国の状況に強い 帰国後、大阪造幣局長として造幣局 の整備に尽力。有名な「桜の通り抜 け」の考案者。 危機感を抱きました。しかし彼ら は、若さと情熱によって西洋文明を 自らの血肉と化し、帰国後はわが国 やま お よ うぞ う 山尾 庸三(1837~1917) の新しい時代を切り拓く先駆けとな りました。現在は英国でも彼らの功 (左上)遠藤 謹助 (右上)伊藤 博文 (中央)井上 勝 (左下)井上 馨 (右下)山尾 庸三 萩博物館蔵 2 まさる 勝(1843~1910) 英 国 で 土 木 や 鉱 山 学 を 学 び 、帰 国 後、工部大輔、鉄道庁長官を歴任。日 本初の鉄道開設に尽力する。 けで英国へ渡った長州出身の5人の して称えられています。 ひろぶみ 伊藤 博文(1841~1909) にあった幕末期、国禁を破って命が 績が評価され、「長州ファイブ」と かおる 日本の工業・工学発展の基礎を築き、 工部大学校(現在の東京大学工学部) を設立。また、聾盲唖教育の父でもあ り、明治13年(1880)楽善会訓聾 院を設立。 吉田松陰門下生 たかすぎ しんさく 高杉 晋作 (1839~1867) 高杉家の長男として菊屋横町に 生まれました。松下村塾に学び その才能を開花、久坂玄瑞とと もに松下村塾の双璧とうたわれ ました。文久3年(1863)松陰 の遺志を継いで奇兵隊を結成し 明治維新の中心的な役割を果た すことになります。しかし、維 新を目前にして27歳 8ヶ月で病 死しました。 く さか げんずい 久坂 玄瑞 (1840~1864) 藩医の息子として萩に生まれま した。松下村塾に学んだ彼は松 陰に「防長第一流の人物」と評 され、妹の文と結婚しました。 松陰亡き後は全国の志士の総司 令官的な存在になりましたが、 「禁門の変」に敗れて自刃、25 歳の生涯を終えました。 き ど たかよし 木戸 孝允 (1833~1877) 江戸屋横町に生まれました。吉 田松陰の門下であり、人間の洞 察力は常に的確であったといわ れています。危険を事前に察知 し、生涯敵と刃を交えることが ありませんでした。明治維新史 上、西郷隆盛・大久保利通とと もに、維新の三傑の一人です。 い とう ひろぶみ 伊藤 博文 (1841~1909) 明治の政治家。百姓・林十蔵の 一子として熊毛郡束荷村に生ま れました。両親とともに萩に移 り、松下村塾に学んで尊皇攘夷 運動に参加、維新後は新政府の 要人として活躍しました。内閣 制度創設とともに初代総理大臣 となった明治18年(1885)を はじめとし、 4度首相をつとめ ました。 やまがた ありとも 山縣 有朋 日本の工業化は、萩藩など九州・山口の雄藩が幕末に自力の近代化を 目指したモノづくりへの想いから始まった は ぎ は ん し ゃ ろ 国指定史跡 萩反射炉 反射炉は鉄製大砲の鋳造に必要な金属溶 解炉で、萩藩の軍事力強化の一環として 導入が試みられました。萩藩は安政2年 (1855)、反射炉の操業に成功していた 佐賀藩に藩士を派遣し、鉄製大砲の鋳造 法伝授を申し入れますが、拒絶され、反 射炉のスケッチのみを許されます。現在 残っている遺構は煙突にあたる部分で、 高さ11mの玄武岩積み(上方一部レンガ 積み)です。オランダの原書によると、反射炉の高さは16mですから約7割程度の規 模しかありません。また、萩藩の記録で確認できるのは、安政3年(1856)の一時期 に試験炉が操業されたということだけであることから、萩反射炉はこのスケッチをも とに設計・築造された試験炉であると考えられています。反射炉が現存するのは韮山 (静岡県)と萩の2か所だけであり、我が国の産業技術史上大変貴重な遺跡です。 え び す が は な ぞ う せ ん じ ょ あ と 恵美須ヶ鼻造船所跡 嘉永6年(1853)、幕府は各藩の軍備・海 防力の強化を目的に大船建造を解禁し、 のちに萩藩に対しても大船の建造を要請 しました。安政3年(1856)、萩藩は洋式 造船技術と運転技術習得のため、幕府が 西洋式帆船の君沢型(スクーナー船)を 製造した伊豆戸田村に船大工棟梁の尾崎 小右衛門を派遣します。尾崎は戸田村で スクーナー船建造にあたった高崎伝蔵ら とともに萩に帰り、近海を視察、小畑浦の恵美須ヶ鼻に軍艦製造所を建設することを決 定しました。同年12月には萩藩最初の洋式軍艦「丙辰丸」(全長25m、排水量47t、 スクーナー船)が、また万延元年(1860)には2隻目の洋式軍艦「庚申丸」(全長約 43m)が進水します。丙辰丸建造には、大板山たたらの鉄が使用されたことが確認さ れています。現在も当時の規模の大きな防波堤が残っています。 ぐ ん じ ちゅう ぞ う し ょ い こ う ひ ろ ば 郡司 鋳造所 遺構 広場 郡司家は萩藩お抱えの鋳物師で、鍋・犂・ 梵鐘のほか大砲などの兵器の鋳造を営ん でいました。嘉永6年(1853)のペリー来 航をきっかけとして幕府が公布した「洋式 砲術令」によって、同年11月、萩藩は郡司 鋳造所を藩営の大砲鋳造所に指定し、大 量の青銅製大砲を鋳造しました。ここで 鋳造された大砲は、江戸湾防備のため三 浦半島に設けられた萩藩の陣屋に運ば れ、また文久3年(1863)、下関海峡での外国船砲撃、元治元年(1864)、同海峡での 英・仏・蘭・米連合艦隊との戦争(下関戦争)にも使用されました。郡司鋳造所は在来技 術である「こしき炉」によって西洋式大砲を鋳しており、近代技術へと移行する過渡期を 物語る産業遺構として貴重なものです。 (1838~1922) 明 治 ・ 大 正 の 陸 軍 軍 人 、政 治 家。中間・山縣有稔の長男とし て萩城下川島に生まれました。 松下村塾に学び、奇兵隊軍監と して活躍。明治新政府でも要職 につき、日本陸軍の第一人者とし て軍制の確立、 明治22年 (1889) 、 内閣総理大臣になり、二度、首相 をつとめました。 やま だ あきよし 山田 顕義 (1844~1892) 藩士山田七兵衛の子として、中ノ 倉に生まれました。四境戦争(幕 長戦争)、戉辰戦争で活躍。明治 維新後は陸軍少将兼兵部大丞、東 京鎮台司令官、司法大輔などを歴 任。のちに日本大学、國學院大學 の前身校の創設に携わり、教育に も力を注ぎました。 3